僕がいて、君がいて
 
第四十二章「穏やかな冬の日」
 
 一
 冬休みが終わり、学校がはじまった。
 とはいえ、今年は暦の関係ですぐに三連休となった。そういうことなら休みを長くすれば、と大半の生徒は思っているのだが、そこまで甘くはない。私立ならある程度そういう融通は利くが、公立ではなかなか難しい。
 しかも、そのたった一日に実力テストがあれば、余計である。学校へはテストを受けに来て、宿題を提出するためだけに来ているようなものである。
 ただ、それさえ我慢すれば、また三日間の休みということなので、なんとか乗り切れた。
 一方、三年は実力テストも宿題もなく、ただひたすらに次週末に迫ったセンター試験に向けて、勉強するのみ。テストの代わりに授業が早速行われ、やはり休み前と比べて緊張感が増していた。
 とはいえ、その三年ももはや学校の授業はおまけ程度にしか考えておらず、気持ちはセンター試験に完全に移っていた。
 そんな冬休み明け初日を無事終え、二日間の休みも終えた三連休三日目。
 成人の日ということもあって、街の中は幾分華やかな感じである。
『桜亭』は、アルバイトのふたりが成人式に出席するため、臨時休業となった。
 無理をすれば開けられたのだが、圭太と琴絵の説得にあい、琴美もそれを渋々承知。
 年が明けてからまだ三日しか営業していないのだが、すぐに休みとなった。
 そんな一月九日の朝。
 琴絵と朱美が部活に出かけ、柚紀も一度家に帰るということで、家の中には圭太と琴美のふたりだけとなっていた。
 明け方は多少雲が多めだったのだが、時間が進むにつれて雲が取れ、青空が広がっていた。
 風が穏やかなせいか、屋内で陽差しに当たっているととても暖かい。
 圭太は、特になにをするでもなく、祝日のテレビを眺めていた。
「ねえ、圭太」
「ん、どうしたの?」
 ちょうどそこへ、台所の片付けを終えた琴美がやって来た。
「今日、暇なのよね?」
「ああ、まあ、暇だね。少なくとも午前中は」
 琴絵たちの部活は午前中だけで、柚紀もなるべく早めに戻ってくるということだったので、そういう言い方になっていた。
「じゃあ、せっかくだし、約束を果たしましょ」
「約束?」
 琴美の言葉に圭太は首を傾げた。
「あ、また忘れてる。もう三度目よ」
「……ん〜……ああ、ひょっとして、デートのこと?」
「そうよ。本当に忘れていたら、とんでもないことになるところだったわよ」
 その『とんでもないこと』がどんなことなのか、知りたくもあり、知りたくはない圭太であった。
「ね、そういうことだから、デートしましょ」
「……それはそれでいいけど、どこでなにをするの?」
「さあ、それは行き当たりばったりでもいいんじゃないかしら。予定を立てて、それを確実に消化するのもいいけど、行き当たりばったりの方が楽しい場合もあるし」
「母さんがそれでいいなら僕はいいけど」
「じゃあ、早速準備して、行きましょ」
 とても嬉しそうな琴美を尻目に、圭太は密かにため息をついた。
 それから三十分後。
 いつも比較的落ち着いた、ある意味年相応の格好をしている琴美が、明らかに気合いの入った格好で圭太の隣を歩いていた。
 いつもより少し若い感じの格好で、色も明るめ。さすがに冬なので大胆な格好ではないが、少なくとも実年齢より若く見えた。
 その姿を見た圭太は、微妙にめまいがしたのだが、なんとか気合いでそれをカバーした。
「こうしてデートとしてふたりきりで歩くのなんて、何年ぶりかしら。祐太さんが亡くなって、もう二度とこういう機会が訪れないと思っていたのに」
 琴美は、とても落ち着いた口調でそう言った。
「祐太さんと圭太は、背格好も同じくらいだから、違和感がないのよね。自分から言い出しておいてなんだけど、意外なほどすんなりとこの状況を受け入れてるわ」
「そっか」
 理由はどうあれ、琴美が喜んでくれているのだから、圭太としてはそれに意見するつもりは毛頭なかった。
 考えてみれば、もし祐太が現在も生きていたら、とても仲の良かったこの夫婦のことである。それこそ時間のある時は、結構デートを繰り返していたであろうことは、容易に想像できた。
 圭太もそれを理解していたので、あれこれ言うつもりはなかったのである。
 このデートがたとえ、自分を通して祐太を見ているデートだとしても、である。
「あのね、祐太さんは圭太と同じで背が高かったから、普段はとても歩くのが速かったのよ。つきあいはじめた頃なんて、しょっちゅう置いていかれたわ。でも、次第にデートの時には私の歩幅、スピードにあわせてくれてね。それがとっても嬉しかった。ああ、この人は今、私のことをちゃんと見て、考えていてくれてる、ってわかったから」
 普通、自分の親のそういう話などあまり聞いていたくないものだが、圭太は不思議とそういう気持ちにはならなかった。それはおそらく、琴美がその想い出を本当に幸せそうに話しているからだろう。
 もしそこに、一片でも淋しさなり、悲しさなりが含まれていたら、無理にでも話題を変えていたかもしれない。
「圭太は、どうだった?」
「さあ、よく覚えてないよ。ただ、柚紀からそういう苦情を受けたことはないから、ある程度できてたのかもしれない」
「そう。それはいいことよ。圭太にとっても、柚紀さんにとってもね」
 特にそういうことをしているという自覚のない圭太である。そう言われてもあまりピンと来なかった。
「母さんはさ、結局なにが決め手となって父さんと結婚したの?」
「ん、そうね。一番はやっぱり、私のことを本当に必要としてくれてた、ってこと。好きだとか愛してるだとか、言葉にするのは簡単だけど、それって表面だけのことかもしれないじゃない。もちろん、そうじゃないこともあるけど。でも、行動ってずっと見てるとなにを考えているのか、なにを思っているのか、わかるようになってくるのよ。それは圭太もわかるでしょ?」
「そうだね」
「で、一緒にいる時間が増えてきて、次第に私もわかってきたの。私は私で祐太さんにずっと側にいてほしいと思っていたけど、祐太さんもそう思っていてくれてるって。だから、祐太さんからプロポーズされた時も、特に考えもせず、即答したわ。だって、私の中にはそれ以外の選択肢なんて存在していなかったんだから」
「父さんは、どんな様子だったの?」
「断られるとは思ってなかったみたいだけど、まさか即答されるとは思ってなかったみたい。ちょっと拍子抜けな感じで、消化不良って感じだったわ」
 そう言って琴美は笑う。
「そういえば、いつ頃喫茶店をやろうって決めたわけ? せっかく大学まで行ったんだから、普通に就職することもできたはずなのに」
「それについてはね、いろいろあったのよ。もともと祐太さんにはそういう夢があったっていうのは、話したことあったわよね」
「うん」
「もちろん、卒業後すぐにどうこうというのは無理というのはわかってたの。ところが、運良くね、店を譲ってもいいという人が現れたの。祐太さんはその話に飛びついて、そのままトントン拍子に話は進み、最終的に『桜亭』を開くことができたわけ」
「そうだったんだ」
「まわりにはね、反対されたの。経営の経験もないのに、それだけで生活するなんてとうてい無理だって。でも、祐太さんは負けず嫌いでちょっとだけ性格がひねくれてるから、そういうことを言われると余計にやってやろうって気になって。まあ、最初の頃は全然ダメで、気合いだけが空回りしちゃって。だけど、あきらめずにいろいろなことに挑戦して、ようやくお客さんも来てくれるようになって」
 何事も最初からすべて上手くいくことなどほとんどない。成功から学ぶことよりも、失敗から学ぶことの方が多いのは自明の理で、それは未経験だったことならなおさらである。
 問題は、そこでさらに続けられるかどうかなのである。
「あとは、それまでの苦しい状況が一変して、なんとか今の『桜亭』を建てられるまでになったわけ」
「そっか」
「祐太さんね、よく言ってたの。圭太が大きくなって、もしお店を継いでくれるって言ってくれたら、これほど嬉しいことはないって。もちろん、そのことをこっちから言うつもりはなかったのよ。なにも言わずに、どうするかは圭太自身が決めて、その上でだから」
「あの店は、今はまだ、父さんと母さんの店だからね。確かに形としては継ぐ、ということになるんだろうけど。でもね、母さん。僕はただ単に店を継ぐつもりはないんだよ」
「どういう意味?」
「あの店の伝統とまでは言わないけど、こだわりの部分はそのまま受け継ぐつもりだけど、だけどそれじゃあ、僕はただ単に店を継いだ、というだけになってしまう。それじゃあ意味がないと思うんだ。同じ店を継ぐなら、その上で僕にしかできないことをやって、新しい『桜亭』を目指さなくちゃいけないと思うんだ。それが本当の意味での継ぐということだと思う。父さんもきっとそう思ってるはずだよ」
「……なるほどね」
 琴美は、少しだけ神妙な面持ちで頷いた。
「もっとも、今はそれがどういうことなのか、わからないけどね。これから少しずつ、どうしたいのか考えながら、どうするべきか考えるよ」
「そうね、それがいいわね」
「ただ、ひとつだけちょっと考えてることがあるんだ」
「それは?」
「うん。店をね、将来的にはもうひとつ、開けたらいいな、って」
「もうひとつ?」
「そう。今の店は、父さんと母さんの店。あそこには、僕や琴絵にとっても大切な想い出がある。だから、根本的にあれこれ変えたくないという想いが強いんだ。だけど、変えないという選択肢を選んだ場合、もし僕が変えなければできないことをやりたいと思ってしまったら、どうすればいいのか、ということになる。基本的な選択肢は三つ。変えないという意志を曲げる。意志を曲げずにそれそのものを断念する。そして──」
「やりたいことをやるための新しい店を開く、ということね」
「うん」
 圭太は小さく頷いた。
「母さんは、そういうのはどう思う?」
「圭太がそうしたいなら、私は止めるつもりはないわよ。それに、そういう風に考える要因となってるのが、あの店を守ろうという考えからなら、余計よ。やっぱり、どんな理由をつけてみたところで、あの店が──『桜亭』がなくなるとまでは言わなくても、私と祐太さんの記憶にあるものから大きく変わってしまったら、それは淋しいから」
 琴美にとっての『桜亭』は、ただ単に祐太との想い出の場所、というだけではない。誇張があるかもしれないが、生活する上で失ってはいけない大切な場所なのである。
 圭太も息子としてそのことを十二分に承知しているからこそ、そういうことを考えたのである。
「ただね、心のどこかではそこに固執しすぎてもいけないとは思ってるのよ。もし祐太さんがここにいて今の圭太の考えを聞いたら、たぶん、遠慮しないでどんどん変えてくれ、って言いそうだから」
「ああ、父さんなら言うかもしれないね」
 それには圭太も妙に納得した。
「だから、最終的な判断は圭太に任せるわ。私や祐太さんのことを考えるのは、二の次でいいから。とにかく、どうしたいのか、それを優先して。じゃないと、いつか後悔するかもしれないから」
「……その時が来たら、そうするよ。今はまだ、実現できるかどうかもわからない、夢物語でしかないから」
「でも、実現するつもりでいるんでしょ?」
「そりゃ、目標がないといろいろ困るから」
「なら、そのことも含めて、もう一度よく考えてみればいいわ。今、私から話を聞いて、また少し考えが変わったかまとまったかしたかもしれないから」
「そうだね、そうするよ」
 確かに、それは今すぐどうこうという問題ではない。
 ゆっくりと時間をかけて考え、その上で結論を出すべき問題である。
「さてと、そういう話はとりあえずこの辺にして、まずはどこから行きましょうか?」
「駅まで出て、それで決めてもいいんじゃない?」
「もちろん駅前には出るけど、最初くらい決めておいてもいいんじゃない?」
「まあ、母さんがそう言うならいいけど。で、母さんはなにか希望はあるの?」
「そうねぇ……」
 琴美はしばし考える。
「あ、そうだ。ひとつ、いいのがあったわ」
「なに?」
「それは、向こうに着くまで秘密よ」
 そう言って琴美は微笑んだ。
 
 駅前に出てくると、琴美は早速目的の場所へと圭太を連れて行った。
「なるほど」
 その目の前まで来ると、圭太はそう言って頷いた。
「デートの定番と言えば、やっぱり映画でしょ?」
 そう、琴美が選んだのは映画館だった。駅前にあるシネマコンプレックスである。
「まあ、それはそれでいいけど。で、母さんはなにをご所望なわけ?」
「そうね……」
 琴美は、現在上映されている作品を見回した。
 シネコンなので、実に様々な作品が上映されていた。
「圭太は、どんなのはイヤ?」
「どれがいいじゃなくて、どんなのがイヤときたか」
 その物言いに、圭太は苦笑した。
「別にどんなのでもいいけど、そうだなぁ、コテコテの恋愛モノはちょっと遠慮したいかも」
「ふふっ、それ、祐太さんと同じだわ」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。祐太さんもね、同じこと言ってたのよ。コテコテの恋愛モノを見るんだったら、俺は帰るって。最初はなに言ってるんだろうって思ったけど、どうも本気みたいでね。結局、一度も誰からも認められる恋愛モノは見なかったわ」
「そうだったんだ」
「じゃあ、そういうことで、あれにしましょうか」
 そう言って琴美が指さしたのは──
「……あのさ、母さん。それって、嫌がらせ?」
「あら、いいじゃない、たまには。別に見たら死ぬってわけじゃないんだから」
 それは、まさに今圭太が遠慮したいと言っていたコテコテの恋愛モノだった。
 日本の映画ではなく、フランス映画だった。
 特別大きな話題になっているわけではないが、そういう映画の好きな者にはそれなりに評価されていた。
「とりあえず、チケットを買いましょう」
 なにを言ってももう覆せないことは、長いつきあいの中で十分学んでいた。だから、圭太はもうなにも言うつもりはなかった。
 目当ての映画はちょうど上映中で、次の回までまだ四十分ほどあった。
 とりあえずチケットだけ買い、いったんシネコンを出ることにした。
「どこで時間をつぶす?」
「どこでもいいけど」
「どこでもと言われると困るわね」
「とは言ってもねぇ」
「食事には早いし、ゆっくり食べられないものね。買い物は、映画のあとにするから今はやめておいて」
「だったら、そこら辺の喫茶店にでも入る?」
「そうね。そうしましょう」
 というわけで、ふたりはシネコンのすぐ側にある喫茶店に入った。
 休日の午前中ということもあり、店内はとても空いていた。
「それにしても、圭太はどうして恋愛モノがイヤなの?」
 琴美は、頼んだカフェオレを飲みながら訊ねた。
「まあ、理由はいろいろあるんだよ。あまり、深く追求しないでほしい」
 圭太も、ブレンドコーヒーを飲みながら答える。
「それって、自分のことと重ねあわせてしまうから?」
「それもあるかな」
「確かに、現状を考えれば、どんな恋愛モノを見ても、どこかに圭太が経験してきたことが出てくるだろうからね。身につまされる、という感じね」
 琴美は、なるほどと頷いた。
「でも、柚紀さんはそういう映画、見たいって言わない?」
「柚紀はそうでもないよ。映画を選ぶ時も、僕の趣味を考慮してくれるし」
「じゃあ、琴絵なんてダメね。あの子、そういうの大好きだから」
「まあね」
 以前、琴絵と映画を見た時も、恋愛モノだった。コテコテとまではいかなかったが、琴絵自身がそういうのが好きなのだというのは、すぐにわかった。
「母さんは?」
「私は、どっちでも、という感じね。見るのは問題ないけど、取り立てて好きってわけでもないし。ただ、たまに無性に見たくなることはあるけど」
「そっか」
「だから、今日はたまたまそういう日に当たってしまったと思って、あきらめなさい」
「もうすでにあきらめてるよ」
 そう言って圭太は小さくため息をついた。
「そんな顔しないの。せっかくの男前が台無しよ」
「……母さんのせいなんだけどね」
「はいはい」
 結局、うやむやというか、はぐらかされて終わるのはいつものことである。
「あ、そうそう。圭太の意見を聞いてみたかったことがあったの、すっかり忘れてたわ」
「ん、なに?」
「あのね、お店に制服ってわけじゃないけど、そういうものがあったらどうかと思って」
「それって、ここみたいに?」
「簡単に言えば」
 ふたりは、ちょうど入ってきたお客を案内しているウェイトレスを見た。
 この喫茶店はチェーン店なので、共通の制服がある。
「これという風に決めるつもりもないんだけど、普通の格好よりは見栄えするかな、って思ってね」
「そっか」
 固定観念というわけではないが、喫茶店=制服のある店、というイメージがある。特にそれが特徴的なデザインだったら、なおのことである。
「最近は、メイド喫茶とか執事喫茶とか、そういう趣味趣向の人のためのお店もあるくらいだからね。うちも、そういう流れに乗るのも悪くないと思うのよ」
 確かに、それ目当ての客がいるのは事実なので、そういうことをすれば客数が増える可能性はある。
「ほら、うちはみんな見た目抜群の子ばかりだから。きっと話題になると思うのよね。そうすれば、お店の経営状況だって多少は改善されるだろうし」
「それはそうかもしれないけど」
 圭太も、それ自体はそうだと思っていた。しかし、そう簡単に割り切れるものではない。
「だけど、それだけを目的にするのはどうかと思うよ、僕は。それに、なんかそれだと見せ物みたいだよ」
「まあ、それは否定できないわ。ただ、そういうのも選択肢のひとつだと思うのよ。現状では、お店の収支を劇的に改善する方法はないんだから。今はまだいいわよ。私たち家族だけが食べていければいいんだから。でも、将来に渡っても今のままというのは、さすがに問題でしょ?」
「それは、ね」
「春には家族が増えるわけだし、その後だってたぶん増えるでしょ? だとしたら、なんらかの方策を考えないと、どこかで行き詰まってしまうわ」
 そのことは、圭太も痛いほど理解していた。だからこそ、なんとかして店を稼げる店にしたいと思っているのである。
「将来的に、さっき圭太が言ってたようにお店をもうひとつ開くとしても、それまでは今のお店でなんとかしないといけないわけでしょ。そうしたら、やっぱりなにか打開策を探さないと、どうにもならないわ」
「うん、そうだね」
「それとね、圭太。ひとつだけ言っておくわ」
「なに?」
「商売ってね、綺麗事だけじゃやっていけないのよ。今は、私の道楽の延長線でやってるからいいけど、それだけで生計を立てていくなら、もっとシビアにならないとダメよ。それが、商売というものでもあるんだから」
「……うん」
 当然、圭太もそのことは理解していた。商売が、それほど甘くないことを。
 ただ、できればそういうことはあまり考えたくなかったのである。そういうことを避けて通れるなら、避けて通りたかったのである。
「だからね、圭太。卒業までに、ゆっくり時間をかけて、いろいろ考えてみなさい。これが正しい答えだ、というのはないんだから。ただ、なにをどうするにしても、後悔しない道さえ選べばいいわ。その結果、最悪お店が潰れてしまっても、それは仕方ないことよ。ようするに、商売に向いてなかったってことなんだから。なにかしてそうなるなら、なにもしてなくても遅かれ早かれそうなるわ」
「…………」
「とにかく、ゆっくりじっくりしっかり考えなさい。あ、もちろん、その時は柚紀さんと一緒にね。これからお店は、ふたりのお店になるんだから」
「わかったよ」
「圭太は、私と祐太さんの息子なんだから、きっと大丈夫よ」
 琴美は、そう言って微笑み、カフェオレを飲み干した。
 
 時間となり、ふたりは映画館に戻った。
 それほど人気のある作品ではないらしく、ホール内もそれほど埋まっていなかった。
 ふたりは真ん中後ろ寄りの位置に座った。
「寝ちゃダメよ?」
「わかってるよ」
 それから程なくして予告編がはじまり、いよいよ本編がはじまった。
 映画の舞台は、フランスのパリ。そこへやって来たひとりの女性と、ずっとパリで暮らしている男性との恋愛物語である。
 女性がパリへやって来たのは、音楽の勉強をするため。といっても音楽家になるためではなく、音楽雑誌のライターをやっているのだが、如何せん絶対的な知識が不足しており、パリへ修行へと出されたのである。
 不慣れな土地での生活に少しだけ疲れはじめた頃、その男性と出会う。
 男性は、パリの下町で雑貨屋を営んでいた。そこへたまたま立ち寄った女性が、男性と出会うことになる。
 店はとても小さく、だが、どこかとても落ち着く内装と雰囲気で、女性は時の経つのも忘れて見入ってしまう。そんな女性に声をかけた男性。特に変わったところのない当たり障りのない話だったが、男性の雰囲気がどこか女性のまわりにはないタイプだったので、女性はひとりでドキドキすることに。
 それから女性は、暇を見つけてはその雑貨屋に足を運ぶようになる。
 雑貨屋自体、あまり繁盛している様子はなく、男性も気軽に女性の相手をしていた。
 はじめて女性が店に来てから三ヶ月。季節がひとつ進もうかという頃、男性が女性に少しだけ真剣な表情で話をした。それは、雑貨屋を店じまいするかもしれない、というもの。
 繁盛していなければ当然売り上げも出ず、結果、仕入れの代金にも困るようになってきていた。もともと両親から押しつけられるような形で店を任されていた男性は、どこか区切りのいいところで店を辞めようと思っていた。
 そこへ来ての経営難で、いよいよ決心した、ということだった。
 本当はそういうことを客に話す必要はないのだが、熱心に来ていた女性にだけは、話してくれたのである。
 女性は、内心とてもショックだったのだが、修行というか、研修期間が終わればパリからいなくなってしまうことを思い出し、平静を装ってそれを受け止めた。
 ところが、女性は自分が思っていたよりもずっとそのことがショックだったようで、仕事中も些細なミスをすることが多くなる。それを取り返そうとなんとかがんばろうとするのだが、気合いだけが空回りしてしまい、結局余計に落ち込んでしまう。
 そんな時に決まって行くのは、あの雑貨屋。
 結局、資金繰りも上手く行かず、閉店が決まってしまった雑貨屋だったが、店を閉めるまではと思い、足を運んでいた。
 男性も店の品を少しずつ処分する傍ら、女性との時間を楽しんでいた。
 特別なことはなにもない、ごく普通の時間だったが、だからこそ余計にふたりにとってとても意義深い時間となっていた。
 やがて、雑貨屋の営業最終日。女性は特別ななにかをしようとは思っていても、自分にそこまでする義理や権利があるのかと思い悩み、結局なにもできずに当日を迎える。
 いつものように仕事を終えて雑貨屋へ向かうと、すでに店内の明かりは落ち、入り口も閉まっていた。
 閉店時間にはまだ早く、それを不思議に思っていると、入り口が開き、男性が出てきた。
 男性は、女性に店の中に入るよう言い、女性もそれに応じる。
 店に入ると男性は、商品の中からどれでも好きなものを持っていっていいと言う。それは、いつも通ってくれた女性へのささやかなお礼だった。
 しかし、女性はそれをすぐには受け入れなかった。それをしてしまったら、ここでの時間が、今までのことが、すべてなかったことになってしまうような気がしたから。
 その様子を見て、男性が動く。それは、デートの誘いだった。
 女性の仕事の休みの日に、どこかへ行こう、というもの。
 突然のことに戸惑いを隠せない女性だったが、結局それを受け入れる。
 そして、デート当日。
 女性は、男性の車でパリ郊外へと出かける。
 特別目的があったわけではないが、ふたりでどこかへ一緒に行くということが、ふたりにとってとても楽しいことだった。
 デートの最中、女性は男性の本音も少しだけ聞くことができた。それは、本当ならもっと早くに店を閉めてもいいと思っていたのだが、女性が足繁く通ってくれるのが嬉しくなり、思いもかけず先延ばししてしまったというもの。そして、最初は半分乗り気ではなかった雑貨屋経営も、もっと続けていたかった、というもの。
 デートの時間も終わりに近づき、郊外からパリへと戻る途中、それが起きる。
 すっかり暗くなり、さらに雨も降りはじめ、視界が悪くなっていたところで、いきなり反対車線から車が飛び出してくる。男性はそれをかわそうとするが、衝突。
 車はかろうじて大破は免れたが、運転席は潰れてしまい、男性は意識不明の重体に、女性も足と腕の骨を折る重傷だった。
 相手の車は大破し、運転者は死亡。大事故となった。
 そして時間が飛ぶ。
 大事故から一年。女性の怪我はすっかりよくなっていた。足の方は多少神経を傷つけていたこともあって後遺症もあったが、生活をするのにはなんの支障もなかった。
 女性は、まだパリにいた。研修期間はすでに終わっていたのだが、パリに残っていたのである。
 事故後、しばらくは仕事を続けていたのだが、ある理由により辞職。パリにそのまま残ってしまった。
 その理由とは、男性が事故直後からまったく意識が戻っていない、というもの。事故の影響で両足切断という大けがを負ったが、なんとか一命を取り留めていた。しかし、足以外の体が治っても意識だけはいつまで経っても戻らずにいた。
 女性はその責任を感じてというわけではないのだが、男性の側にいようと決意。仕事を辞めてまでパリに残ることにした。
 自分の怪我が治ってから、女性は男性の家族とも会った。年老いた両親だったが、男性と同じようにとても感じのいいふたりで、事情を聞いて逆に女性に謝罪してきたくらいであった。
 女性は当初、ただ単に男性の側にいるだけのつもりだったのだが、ある時、思い出したことがあった。それは、デートの時の男性の言葉であった。
 それからの女性は、病院で男性を世話をする傍らに、もうひとつ別のことをしていた。
 それは事故から一年経っても変わっていなかった。
 以前の仕事で貯めていたお金も底を突きかけ、さすがになにか仕事をしなくてはならなくなり、女性は市内のスーパーでパートとして働きはじめる。
 その中でできるだけ多くの自分だけの時間を持ち、あらゆることに精力的にがんばっていた。
 しかし、どれだけがんばってもその成果を見せたい相手はベッドの上。時々そのことに虚しさを覚えないでもなかったが、最後まであきらめないと自分で決めていたこともあり、なんとかその生活を続けていた。
 さらに時間が飛ぶ。
 事故から三年後。
 女性は、パリの一画にいた。
 そこは、あの男性が経営していた雑貨屋のあった場所。そして、そこにはもうなくなっていたはずのあの雑貨屋があった。
 女性は、男性の言葉を思い出して以来、なんとかもう一度雑貨屋をやりたい、やらせてあげたいと思っていた。そのためにお金も貯め、経営も学んだ。
 そのためにかなりの時間を要したが、なんとか再び雑貨屋をはじめられるまでになっていた。
 しかし、そこにいてほしい人はいない。
 それが女性にはとても悲しかった。
 そしてさらに時間は飛び──
 
 映画館を出てきた圭太と琴美は、暖房で少し火照った体を冷ますように外を歩いていた。
「……ダメね。年を取ると涙腺が緩みやすくなっちゃって」
 そう言って琴美は軽く目元を擦った。
「圭太はどうだった?」
「そうだなぁ、内容自体はありきたりだったけど、演出はよかったと思うよ。フランス映画だったからかどうかはわからないけど」
「相変わらずそういうところは辛口ね」
「そうかな?」
「そうよ。それに、そういうところも祐太さんそっくり」
 圭太としては特別辛口だとは思っていないのだが、それを言っても琴美はわかってくれない。だから、特に反論しなかった。
「母さんは、あの映画の内容、知ってたの?」
「知らなかったわ」
「じゃあ、ちょっとだけ驚いたんじゃない?」
「まあ、そうね。正直言えば、あの事故のシーンは見ていられなかったわ。いろいろなことを思い出してしまいそうで」
「そっか」
 圭太は、それ以上なにも言わなかった。
「ねえ、圭太。どこかのんびりできるところはないかしら?」
「のんびりできるところ、か。そうだなぁ……」
「少しくらい寒くてもいいわ」
「わかったよ」
 そう言われて圭太が選んだのは、駅向こうの公園だった。
 雲がなく、風も穏やかだったので、日向にさえいればそれなりに暖かかった。
 途中のコンビニでカイロと温かな飲み物を買い、公園内のベンチに陣取った。
「ふう……」
「疲れた?」
「ん、大丈夫よ。いくらなんでも、このくらいでは疲れないわ」
「それならいいけど」
「圭太って、かなり心配性よね」
「そりゃ、心配性にもなるよ。特に母さんと琴絵のことはね」
「そうね」
 そう言われてしまうと、琴美もなにも言えなくなってしまう。それは、それだけ圭太に心配をかけているという自覚があるからだ。
「昔ね、祐太さんに言われたことがあるの。琴美は、普段はしっかりしてるけど肝心なところで抜けてるところがあるから、いつも見てないと心配だって。そういう自覚がなかったからちょっとショックだったんだけどね。でも、よくよく考えてみると、その通りだったの。だから、私もできるだけ心配かけないようにと思ってたんだけど、実際どれくらいそれができてたのかなって思ってね」
「これはあくまでも僕の意見だけど」
「うん」
「別に心配かけられても、父さんは特になんとも思ってなかったと思うよ。むしろ、心配かけてくれてない方が淋しかったかも」
「そういうもの?」
「僕はそう思うよ」
「圭太もそう?」
「うん、そうだよ。そりゃ、かけられすぎるのは問題だけど、程度の問題だから。心配かけられて、しょうがないなぁ、って心配してなんとかするのが、まあ、役目みたいなものだし」
「そういうものなのね」
 琴美は感慨深そうに頷いた。
 本当はそういうことは夫である祐太に訊くべきことなのだが、それはもうできない。だから、祐太の息子でありその祐太に似ている圭太の意見なら、そうなのだと思えた。
「圭太にとって、私も琴絵も、やっぱり守るべき存在なの?」
「琴絵は間違いなくそうだよ。父さんがいない今、琴絵を守ってあげられるのは家族である僕と母さんしかいないわけだから。そして、琴絵自身がなにを望んでいるかを考えれば、その役目を主に誰が担うかは、自ずとわかるよ」
「琴絵は、そうね。あの子は祐太さんが生きていた頃から、圭太にべったりだったものね。祐太さんとも冗談で言ってたことあるのよ」
「なんて?」
「兄妹で結婚していいって言ったら、琴絵は躊躇なく結婚しちゃうだろう、って」
「……父さんまでそう思ってたのか」
「それで、私は?」
「母さんは、父さんの代わりをしなくちゃいけないって、半ば無理矢理そういう存在になったって感じかな。愚痴るつもりはないけど、本来ならその役目は父さんが担い続けるものだったから。本当は僕も、もう少しだけ逆の立場でいたかったんだけどね」
「……そうね」
「でも、今は母さんを守ろうと思ったあの時の決意、誓いが間違いじゃなかったって胸を張って言えるよ。もしあの時僕がそれをしていなかったら、絶対に後悔してたから」
 それは、ある意味では今だからこそ言える言葉だった。
 悲しみが百パーセント癒えたわけではないが、それでも常に悲しむことがなくなったのは、やはり圭太のおかげである。
 もし圭太まで祐太の死を前に途方に暮れていたら、今の状況はなかっただろう。
 それを圭太も琴美も十分すぎるほど理解している。
「父さんとの約束があったから母さんも琴絵も守らなくちゃいけないとは思ったけど、それだけじゃないよ。僕自身も、大好きな母さんと琴絵を絶対に守らなくちゃいけないって、心の底から思ったから」
「そのおかげで、私は今、こうしていられるのよね。本当に、いくら感謝しても感謝しきれないわ」
「別に感謝なんていいよ。僕は僕のできること以上のことは、なにひとつしてないんだから。そして、それをするのは当たり前のことなんだから」
「そうだとしても、なにも言わないというのはね。それに、こうやって改めて言わないと、なかなか言う機会もないし」
「まあ、そこまで言うなら僕はなにも言わないけど」
 圭太としても、別に謝意を受けたくないわけではない。ただ、改めて言われると恥ずかしいというか、むずがゆいのである。
「さてと、そろそろお腹も空いてきたわね。なにか食べに行きましょう」
「そうだね」
「食べたいものある?」
「ん、そうだなぁ……たまには店のカレーなんか、いいんじゃないかな」
「カレーかぁ……そうね、それもよさそうね。じゃあ、どこかでカレーを食べましょう」
 琴美は、少し勢いをつけて立ち上がった。
 圭太も遅れて立ち上がる。
「じゃあ、行きましょう」
「って、母さん。なんで腕組むの?」
「いいじゃない。減るもんじゃないんだし。それに、これはデートなのよ。だったら、腕くらい組んだって問題ないはずよ」
「……わかったよ」
 とても嬉しそうに、楽しそうに言われては、圭太も認めざるを得ない。
 ちょっとだけくすぐったい気持ちを感じながら、圭太は琴美にあわせて歩き出した。
 
 駅前商店街で美味しいと評判のカレー専門店でカレーを食べたあと、今度はウィンドウショッピングすることになった。
 琴美はとにかくご機嫌で、息子の圭太もそこまで機嫌のいい琴美を見たのは久しぶりだった。その一因を自分が作っていること自体は嬉しかったのだが、その理由が少々複雑だったので、心から喜べる、とまではいかなかった。
 アクセサリーや小物、靴やカバンなどを見てまわり、ようやく本命とも言える洋服へ。
 その間琴美はずっと圭太と腕を組み、パッと見では親子には見えない状況だった。
「もう春物が多くなってきたわね」
 売り場の半分ほどは、春物が占めていた。
 春らしい明るい色が目に飛び込んでくるだけで、気分までそういう感じになる。
「今年はパステルカラーが流行りだって聞いてたけど、本当にそういう色が多いわ」
「春らしくていいんじゃない?」
「そうね」
 まだ冬真っ直中なので、売り場にもそれほど人はいないが、それでもちらほらと物色している人を見かける。
「そういえば、母さんはあまり流行を追わないよね。なにか理由でもあるの?」
「特にないけど、なんとなく流されるのがイヤなのよ。流行って、結局まわりの人たちと同じってことじゃない。なんか、それだと自分らしくない気がしてね。もちろん、あまりにも流行とかけ離れてるのも問題ではあるけど」
「こだわり、ってところ?」
「そうなるのかしらね」
 圭太は、人のファッションセンスをとやかく言えるほど、そのセンスが優れているわけではない。ただ、それでも人並みには意見を言えるくらいのセンスは持っているので、そのセンスから見ても、琴美のセンスが悪いとは思っていなかった。
 むしろ、同年代の女性の中でも、引けを取っていないとさえ思っていた。
 それはもちろん、素材がいいというのも理由のひとつである。
 様々な苦労の連続で、かつてほどの光るものはないが、それでもとても二児の母親とは思えない若さと美貌を未だに有している。
 少し前までは多少、抵抗しているくらいだったのだが、圭太を息子以上の存在として意識するようになってからは、現状維持以上を目標に努力していた。
 圭太としても、自分の母親が若くて綺麗というのは自慢できることではあるのだが、そうさせている理由が自分であるというのは、やはり複雑な心境だった。
「圭太は、柚紀さんにこんな服を着てもらいたいとか、そういうのはある?」
「ん〜、別にないよ。もちろん、意見を聞かれれば答えはするけどね。それに、柚紀なら僕が言うよりもよっぽど自分にあった服をちゃんと選べるしね」
「それはそうかもしれないけど、たまには圭太の方から積極的にそういうことを言ってもいいと思うわ。そう言われると、やっぱり嬉しいし」
「母さんもそうだった?」
「ええ、そうよ。だから、そういう風に言ってもらって買った服は、未だに大事に取ってあるわ」
 そういう風に言われると、圭太も多少は考えを改めた方がいいのかもしれないと思ってしまう。
「圭太も、もう少し積極的に柚紀さんに自分の考えてること、希望なんかを話した方がいいと思うわ。柚紀さんは、とにかく圭太に求められたくて仕方がない性格だから」
「まあ、ね」
 圭太に比べて接している時間が圧倒的に少ない琴美ですら、柚紀のそういう性格は理解していた。それほど柚紀の性格はわかりやすいのである。
 しかし、わかりやすいということは、圭太がそれに対してちゃんと応対していなければ、そのことをあれこれ言われる可能性もあるということになる。
「私ね、柚紀さんのそういうところ、よくわかるのよ」
「そうなの?」
「圭太がどう思うかはわからないけど、私と柚紀さん、結構似てるところがあるから」
「……そうかなぁ?」
「ふふっ、認めたくない?」
「そんなことはないけど……」
 実は、圭太もそのことは理解していた。すべてではないにしても、柚紀と琴美はどこか似ているところが多い。
「よく言うものね。男の人は、自分の母親に似たような女性を好きになるって」
「…………」
「それも、認めたくない?」
「さあ、どうかな」
「ふふっ」
 興味なさそうにそっぽを向く圭太に、琴美は嬉しそうに微笑みかけた。
「さ、そろそろ行きましょう」
 その店を出ると、時間としてはそろそろ夕方にかかろうかという頃だった。
「もうこんな時間だけど、どうする?」
「そうねぇ、あまり遅くなると琴絵と朱美がうるさいだろうし。夕飯の買い物でもして帰りましょうか?」
「そうだね」
 そういうわけでは、ふたりは商店街から駅前にあるスーパーに向かった。
 ほかでも食料品は買えるのだが、品揃えや値段を考えると、やはりスーパーという結論に至った。
 スーパーは正月気分もすっかり抜け、少々淋しい感じさえした。
「なに食べたい?」
「なんでもいいけど……あ、そうだ。久しぶりに母さんの得意料理が食べたいかな」
「得意料理、ねぇ……」
 琴美は少し考え、なににするか決めたようである。
「じゃあ、今日は肉じゃがにしましょう。まだジャガイモは残ってたはずだし」
「いいね」
 ふたりはカゴを持ち、食材を吟味していく。
「こうしてふたりでいると、私たちってどんな風に見えてるのかしらね?」
「普通に親子じゃないの?」
「年の差カップルには見えない?」
「見えてほしいの?」
「ふふっ、どうかしら」
 琴美ははぐらかすように笑った。
 それから手際よく買い物を済ませ、ふたりは家路に就いた。
 圭太はバスで帰ることを提案したのだが、琴美がそれを拒否した。
 だから、ふたりは歩いて帰っていた。
「今日は、とっても楽しかったわ。久しぶりにデート気分も味わえたし」
「それはよかった」
「そこで、ついでと言ったらなんだけど、たまにこうしてデートしない?」
「母さんと?」
「ええ。本当にたまにでいいのよ。圭太は、デートしなくちゃいけない子がたくさんいるからね」
「まあ、それくらいならいいよ。それに、どうせ断っても忘れてデートにつきあわされるんだろうし」
「そんなことしないわよ。それに、母親想いの優しい優しい圭太がそんなことするわけないもの」
「……はいはい」
 圭太も、デートという言い方は別としても、琴美につきあうこと自体は別に構わないと思っていた。
 店をやっている関係もあって、なかなかどこかへ出かける機会の少ない琴美である。たまにでも一緒に出かけることでストレスを解消できるなら、安いものである。
「ねえ、圭太」
「ん?」
「今度は柚紀さんも一緒にどこかへ行きましょう」
「ん、そうだね」
 圭太は小さく頷いた。
 本当はもっと別に言いたいことはあったのかもしれない。だけど、実の親子であるふたりには、それは言ってはいけないことだった。それを言ってしまったら、本当にもう戻れないところまで行ってしまいそうだったから。
 ただ、家に着くまでの残りの時間だけは、その気持ちを持ち続けていようと思っていた。
 
 二
 一月十三日。
 センター試験を翌日に控えたその日、学校内の緊張感はピークに達しようとしていた。
 授業は午前中で終わり、午後からは校舎内、敷地内含めてすべて立ち入り禁止となる。
 教職員と一、二年にとってはいい迷惑だが、三年にとっては自分たちのことなので、正直言えばどうでもいいのである。
 放課後、圭太は柚紀と凛と一緒にいた。
「はあ……」
「さすがの凛ちゃんも、緊張してるみたいだね」
「それはそうよぉ。ここですべてが決まるとまでは言わないけど、それに近いものはあるんだから」
 そう言って凛は、再びため息をついた。
「でもさぁ、凛。なんで企業からの誘いや体育系の大学からの誘いを断ったの? そっちを選んでれば、こんな苦労しなくてもよかったのに」
「そんなの決まってるでしょ? あたしはね、どうやったらけーちゃんの側でできるだけ自分のやりたいことをやれるか考えたの。そりゃ、誘ってくれた企業や大学に入れば話は簡単かもしれないけど、それじゃあここからまた出て行かないといけないから。それだけはイヤだったの」
「そういう理由で決めるのもどうかと思うけどね、実際は」
 柚紀は、少し意地悪くそう言った。
「いいのよ。決めるのも自分なら、それに対する結果に責任を持つのも自分なんだから」
「さすがだね。そこまで考えてるなんて。普通はそういうことはわかっていても、実際にはなかなかできないよ」
「まあ、あたしも結果が出てない今だからこそ言えてる、ってのはあるんだけどね」
 苦笑する凛。
「それにしても、最終確認もしないでこうしてここにいるってことは、よほど自信があるってことよね?」
「だからぁ、今更あがいたところでどうにもならないのよ。そりゃ、帰ったらちゃんと確認はするけど。それより今大事なのは、明日の本番で平常心で臨めるかなのよ。そのためには、やっぱりけーちゃんの力が必要だし」
 三人は今、高城家の圭太の部屋にいた。そこでテーブルを囲み、話をしている。
「なんか、取って付けたような理由ね」
「まあまあ、柚紀もそのくらいにして。僕とこうして話したくらいで試験の点数がよくなるなら、それに越したことはないよ」
「やっぱりけーちゃんは優しいなぁ。どこかの誰かさんとは大違い」
「私は最初から優しくするつもりなんかないもの。当然じゃない」
 なにかにつけ言い争うふたりだが、今日ばかりはそういう普段通りのやり取りがとても心地良かった。
 だから、いつもならもう少し早めになんとかしようとする圭太も、様子を見ていることが多い。
「で、実際のところ、どれくらい自信あるの?」
「さあ、正直なんとも言えないわね。過去問や模試だけを見れば、とりあえずボーダー以上は確保してるけど」
「出たとこ勝負、って感じか」
「それはどんな試験でもそうでしょ?」
「まあね」
「ただまあ、やれることはやったと思ってるから、大丈夫でしょ」
 そういう風に言えるということは、それなりに自信があるということだ。
「あ、そうだ。凛ちゃん」
「ん、どうしたの?」
「ちょっと待ってて」
 そう言って圭太は、机の引き出しを物色しはじめた。
「ん〜……この辺に確か……お、あった」
「なにがあったの?」
「これだよ」
 圭太が探していたのは、お守りだった。
「それは?」
「これは僕が一高を受ける時に母さんにもらったお守りだよ。もう僕にはこれは必要ないから。凛ちゃんにあげるよ」
「いいの、本当に?」
「気休めにしかならないけど、少なくとも僕には御利益があったから。それを凛ちゃんにも分けてあげられたらと思ってだから。遠慮することないよ」
 凛はそれを受け取った。
「ありがと、けーちゃん」
 凛は、ただ圭太にがんばれと言ってもらえるだけで百人力だったのだが、予想外の展開でお守りまでもらってしまった。それは、理由も根拠もなくセンター試験は大丈夫だと思ってしまえるほど、嬉しくて心強いものだった。
「ホント、圭太って誰に対してもどうしようもないくらい優しいよね。もう少し厳しくしようとは思わないの?」
「別に僕は特別優しくしてるっていう意識がないから、そう言われても困るよ」
「無意識っていうのが最も困るのよね」
 そう言って柚紀はため息をついた。
「けーちゃんの優しさの独り占めはよくないわ」
「いいのよ。この世の中で私だけがそれを言っていいんだから」
 それに対しては凛も反論できない。
「だけど、凛。圭太って、昔からこんな性格だったんでしょ?」
「うん、まあ、基本的には変わってないわね。なんで?」
「今まで結構不思議だったのよ。そういう性格が変わってなかったのなら、どうしてまわりは放っておいたのかしら、って。そりゃ、お義父さんが亡くなってからは仕方がないと思うけど。それ以前なら、男女のそういうことがいくら恥ずかしい頃だっていっても、中には積極的にアプローチする子がいてもおかしくないのに」
 柚紀の意見はもっともだった。
 小学校の頃は、誰かが好きというのはあまりおおっぴらにしたくないことではあるが、彼氏彼女という関係にはならなくとも、それに近い関係になることはある。
 柚紀は、圭太が相手なら余計そういう確率が高かったはずなのに、ということを言いたいのである。
「あ〜、それはたぶんなんだけど、いつもあたしと一緒にいたからだと思う。面と向かって言ってくることはなかったけど、あたしとけーちゃんがそういう関係なんじゃないかって思ってたはず。だから、積極的なアプローチがなかったんだと思う」
「なるほどね。じゃあ、あんたにとっては願ったりかなったりの状況だったわけか」
「結果的にはね。ただ、あの頃からけーちゃんが人気者だったのは間違いないわ。あたしが知ってる限りでも、それなりの数の女子がけーちゃんのことを狙ってたし」
「ねえ、圭太。もしその頃に誰かに好きとか言われたら、どうしてたと思う?」
「どうって、そうだなぁ……たぶん、よくわからなくて曖昧なことしか言えなかったかもしれないね。あの頃の僕は、家族以外を好きになるというのは、その家族に対するものの延長線上にあるとしか考えてなかったから。男女のそれだなんて、全然思ってなかった」
「そっか。じゃあ、どっちみちその頃は安心だったわけか」
 もう過去の話ではあるが、やはり柚紀としては気になる問題である。
「まあ、その中で唯一の例外が凛ちゃんだったんだけどね」
「どういう意味?」
「なんていうのかな。特になにもなければ、僕は凛ちゃんとずっと一緒にいるもんだと思ってたから。凛ちゃんと一緒にいるのが当たり前で、それが変わるなんて思ってなかったからね」
「ふ〜ん、そこまで特別だったんだ。なるほどねぇ」
 柚紀は、少しにやついた顔で凛を見る。
「普通はそこまで特別な関係だったら、その先の関係に簡単になれると思うのに。なのに、そのチャンスをみすみす逃すなんてね」
「……そんなのあんたに言われなくても十分わかってるわよ。そのことをどれだけ後悔したか」
 凛は、自嘲気味にそう言う。
「ただ、あたしが引っ越してけーちゃんと会えなくなっても、けーちゃんが変わってしまうとは思わなかったの。もちろん、時間と比例して精神的に成長はしてるとは思ったけどね。それでも基本的なところまで変わってるとは思わなかったわ」
「だから、もしもう一度会えたら告白しようと思ったわけ?」
「結果的にはね」
 凛もそのこと自体は割り切っているのか、案外さっぱりしたものである。
「ま、私はそのおかげもあって無事圭太を振り向かせられたわけよ。だから、そういう意味では凛にとっても感謝してるわ」
「そういうことで感謝されても、ちっとも嬉しくないわ」
「まあまあ、ふたりとも。それくらいにして」
 と、圭太がふたりの間に割って入った。
「そろそろ三時だから、なにか持ってくるよ」
「あ、それなら私が──」
「いいからいいから。柚紀も待ってて」
 圭太は、わざわざ柚紀を制して部屋を出て行った。
「今日の圭太は、気遣いモードね。できるだけあんたに負担をかけないよう、できるだけその緊張感を緩和できるよう、あれこれ気遣ってる」
「けーちゃんは、普段から気遣い上手だけど、今日は確かにいつも以上だからね」
「あの性格は、もう死ぬまで直らないわ。そのせいでこれから先、どれくらいやきもきさせられるのやら」
「いいじゃない、柚紀は。そうやってけーちゃんのお嫁さんになれたんだから」
「だからって、いつもいつもやきもきさせられてたら、身が保たないわ」
「贅沢な悩みね」
 凛は呆れ顔でそう言った。
「ねえ、柚紀。あんたはどうしてそんなに早く結婚しようと思ったの? 別に卒業後でもいいと思うんだけど」
「なによ、いきなり?」
「いや、なんとなく気になって」
「……まあ、別に隠しておくほどの理由はないけど」
 柚紀は、残っていた紅茶を飲み干した。
「まずは、やっぱり圭太と一緒にいてもいいっていう、許しっていうか、まあ、そういう目に見えるものがほしかったからよ。確かに圭太は私のことを好きだって言ってくれるけど、それでも心配だったのよ。圭太のまわりには、あまりにも真剣に圭太のことを想ってる人がたくさんいたから。その中から私が選ばれたわけだけど、それもいつなかったことになるかもわからなかったし」
「ふ〜ん……」
「あとは、単純にお嫁さんというものに憧れてたから」
「ひょっとして、柚紀の夢って、それ?」
「それも、かな」
 そう言って笑う。
「だけど、凛だってきっと私と同じように考えたと思うわよ」
「それは否定しないけど」
「たぶん、圭太のことを好きな誰もがそう考えちゃうはずよ。圭太と一緒にいることがどれだけ心地良いか、それがわかったらもうそれなしでは生きていけないくらいになっちゃうから。そしたら、単純すぎるかもしれないけど、ずっと一緒にいる方法=結婚ということを考えるはず」
「柚紀は、それに忠実に従ったと」
「まあね」
 常に不安にさいなまれていた柚紀にとって、結婚というのは唯一の希望であり、絶対の目標だった。もし、それがなければもっと前に取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
「結婚して、よかった?」
「よかった、と言いたいところだけど、まだ正直実感がないわ。まあ、婚姻届を出しただけで、それまでとそう変わらない生活を送ってるからね」
「そんなもんか」
「とはいえ、圭太との結婚生活が悪いなんてこと、万にひとつもないわ。だから、心配しなくていいわよ」
「誰も心配なんてしてないわよ。むしろ、その生活が破局してくれて構わないんだから」
「それも絶対ないわね」
 そう言い切れるのも、柚紀の想いの強さがあるからである。
「お待たせ」
 そこへ圭太が戻ってきた。
 持ってきたのは、チーズケーキだった。
「ふたりでなにを話してたの?」
「ん、たいしたことじゃないわ。ね、凛?」
「まあ、そうね」
 ふたりの話すことなど圭太絡みのことしかないのだが、あえてそれを圭太に言う必要もなかった。もっとも、圭太もそれくらいのことは当然想像できているだろうが。
「そういえば、今日は琴絵ちゃんたちは?」
「練習だよ。本番まで時間がないから場所を借りてね」
「そっか。ほかはみんな休みなのに、大変だね」
「まあ、それもしょうがないよ。今年はそういう日程になっちゃってるんだから。それに、これはほとんどの高校が同じだけのハンデをもらってるわけだから、特にうちだけきついわけでもないし」
「けーちゃんは、当日は応援に行くの?」
「一応ね。ただ、正直言えば、そろそろそういうのもやめる時期なのかな、って思ってるんだ」
「なんで?」
 圭太らしからぬ意外な言葉に、ふたりは首を傾げた。
「今はまだ卒業前だからいいけど、卒業したら僕はあくまでもOBでしかない。となると、そうそっちゅう顔を出せるわけでもないし、いつまでも頼りにされても困るんだよね。もちろん、がんばってもらいたいから僕もできるだけのことはやるつもりではいるけど」
「ようするに、後輩たちに圭太離れしてもらいたいってこと?」
「そういうこと。僕としても、みんながどれだけがんばれるのか、見たいという気持ちもあるから」
「だけど、そうするとみんながっかりしない?」
「そうも言ってられなくなるから、大丈夫だよ。春には新入生も入ってくるわけだし。自分たちでがんばらなくちゃいけない、という想い、気持ちは確実に強くなる。そこに、いつまでも僕がいたら、みんなの成長の邪魔になるだけだから」
 圭太は圭太で、部の後輩たちのことを考えている。どうすれば自分たちの時よりもまとまってくれるか。
 答えはひとつではないだろうが、圭太の考え方もひとつの方法ではある。
「中学の時はどうしてたの?」
「あの時は、二学期の間は顔出してたよ。ただ、年が明けてからはほとんど行かなかったかな。まあ、たまに紗絵や琴絵が強引に連行したこともあったけど」
「じゃあ、少なくともそのふたりは圭太がそういう風にしても、ある程度は納得するってことか」
「たぶんね」
 実際問題、部長である紗絵と副部長である琴絵が納得すれば、大きな混乱が生じることはない。圭太も、ある程度はそのことも念頭に置いての言葉である。
「ところで話はまったく変わるけど、凛ちゃんはいくつくらい私立を受けるの?」
「ん〜、全部で三つだよ。で、直接試験を受けに行くのは、ひとつだけ。残りふたつはセンター受験にしたから」
「三つか。でも、凛ちゃんのレベルに見合う大学だと、ここだけというわけにはいかないんじゃない?」
「あたしの実力がどうかは別として、うん。そのセンター受験のふたつは、東京の大学だよ」
「あ、じゃあ、万が一ってことになったら、東京戻るの?」
「万が一なんてないわよ。おあいにくさま」
「別にいいじゃない、東京でも」
「東京がどうとか、そういう問題じゃないの。そこにけーちゃんがいるかいないかなんだから」
「……さっさとそのこだわりを捨てればいいのに」
 柚紀は、ボソッとそう言った。
「あのねぇ、それをなくしてしまったら、生きてる意味がないじゃない」
「まあまあ、柚紀もそのくらいにして」
 圭太は、柚紀が言い返す前に口を挟んだ。さすがに今日は柚紀よりも凛の味方のようである。
「凛ちゃんは、センターが終わったら、学校はどうするの?」
「結果にもよるけど、今のところは講習を受けようかな、って思ってるよ。苦手科目だけでもやっておけば、多少は楽になると思って」
「なるほど。家でひとりでやるよりは、そうやって外でやった方が効率的かもしれないね」
「ひとりだと、どうしても集中力が続かないから。講習なら、イヤでも集中できるし」
「そうだね」
 もちろん、それは人それぞれではあるが、他人の目、というのは案外そういう時には役に立つものである。
「けーちゃんは、基本的には家にいるの?」
「なるべくそうしようとは思ってるよ。ただ、予想もしない予定が入る可能性はまったく否定できないから」
「けーちゃん、人気者だからね」
 人気者、というひと言で片づけてしまうのも問題だが、間違いではない。
「もし、凛ちゃんも息抜きが必要だなって思ったら、遠慮なく連絡してくれていいよ。代わりに受験することはできないけど、息抜きにつきあうことくらいできるから」
「ありがと。あまり頻繁にならない程度に、声かけるね」
「別に無理して声をかける必要はないのよ」
「あんたはいつもひと言余計なのよ」
 そう言って凛は舌を出した。
 
 陽が落ちる前に、圭太は凛を家まで送ることにした。
 出る前に柚紀が散々文句を言っていたが、圭太はそれを進んで無視したわけではないが、結果的に無視して出てきた。
「ね、けーちゃん」
「ん?」
「合格したら、なにかご褒美ってわけじゃないけど、なにかあるといいなぁ」
「ニンジンをぶら下げておくの?」
「まあ、そういう感じかな」
 人間の原動力など、複雑なようで実は単純である。特に、それが精神的なものならなおさらである。
 凛だけではないが、圭太に関わっている全員にとって、なにかを達成したら圭太がなにかしてくれると約束してくれれば、それだけでやる気が変わるはずだ。
「どうかな?」
「そうだなぁ……デート、じゃダメ?」
「それはそれでいいけど、もう少しなにかあると嬉しいかも」
「もう少しか……」
 圭太としては、凛のためならなんでもしてあげたいとは思っているのだが、如何せん柚紀の手前、あまり好き勝手もできないのが悩みの種だった。
 それと、合格発表が行われる三月は、できるだけ柚紀の側にいようと前々から考えていたので、長時間離れるという選択肢はできるだけ排除したかった。
「じゃあ、そのデートの時に凛ちゃんのお願いを聞いてあげる、というのはどう?」
「なんでも?」
「常識の範囲内ということと、柚紀を刺激しない範囲内で」
「……まあ、しょうがないか。うん、いいよ。というか、あたしがお願いしてるんだから、文句言える立場じゃないね」
「そこまで堅苦しく考えることはないけど」
「ううん。そういうところはちゃんとしておかないと、どんどんけーちゃんに甘えちゃうから。けーちゃん優しいから、なるべくこっちの意見を通そうとするし」
 それは明らかに事実なので、圭太もなにも言えない。
「それじゃあ、合格したらデートということで」
「うん」
 約束を取り付けた凛は嬉しそうだが、圭太としてはそんな約束がなくても一日くらいつきあうつもりでいた。それをより確実な形にしただけである。
「けーちゃんはさ、どうしてみんなに優しくできるの?」
 それは唐突な質問だった。
「あたしね、今もそうだけど、ずっと不思議だったんだ。けーちゃんは、どうしてそこまでみんなに優しくできるのかな、って。普通は、ある一定ライン以上の人にしか優しくはできないと思うの。誰も彼もなんて言ってたら、大変なことになるし。でも、けーちゃんはそれをちゃんとやれてる。だから、なにか秘訣とか心構えとか理由とかあるのかな、って思ってね」
「……そうだなぁ、正直言えば、基本的にはそういうものはないよ」
「ないの?」
「うん。普段は特別優しくしようとか思ってないし」
「そうなんだ」
 あまりにもあっけない回答に、凛は少々肩すかし気味である。
「ただ、時々人を見て優しくした方がいいかな、って思うことはあるよ」
「それって、どんな時に?」
「具体例を挙げるのは難しいけど、そうだなぁ……たとえば、柚紀の機嫌がすこぶる悪い時とか」
「あはは、なるほど。それはそうした方がいいかもね」
「僕は別に神様じゃないから、できることとできないことが当然ある。そして、時には僕自身が虫の居所が悪いこともある。そういう時は、ひょっとしたらみんなの期待には応えきれてないかもしれない」
「それでいいと思うけどね。そのことで誰もけーちゃんを責められないし」
「うん、そうだね。それでも、できればそうならないように、ほんの少しだけいつも意識するようにはしてるよ。それがひょっとしたら、凛ちゃんの言うことにつながってるのかもしれない」
「そっか。やっぱりけーちゃんはすごいね。普通はそういうことがいいことだとわかっていても、なかなかできないものだから」
 自分の考えていることがすべて実行できれば、誰も苦労はしない。実行できないからこそ、あれこれ苦労してなんとかがんばろうと努力するのである。
 圭太は、対人関係においては、人より少しだけそういうことができるというだけのことである。
「でも、けーちゃんのその優しさは、これから先は少し考えないといけないかもね」
「どうして?」
「だって、柚紀と結婚したんだから、その優しさのせいでいらぬ期待を持たせるわけにはいかないでしょ? 特にけーちゃんのことを理解しちゃってる相手なら、なおのこと。自分にもまだチャンスが残されてるんじゃないかって、ありもしない期待を抱いちゃう」
「……そっか」
「ああ、もちろん、実際にそれができるかどうかは別問題だよ。だって、少なくともあたしには、そのけーちゃんの優しさは計算されたものじゃなくて、自然と出てきてるものだって思えるから。そしたら、それを変えるのは相当難しいはず。ただ、さっきけーちゃんが言ったように、ほんの少しだけ意識すればいいと思うの。余計な期待を抱かせない程度にね」
 凛にしてみれば、それはふたつの意味を持つ忠告だった。
 ひとつは、今言ったような理由。もうひとつは、これ以上ライバルが増えてほしくないという理由。
 正直言えば、柚紀と結婚してもうそういうことはないと思っているのだが、人間関係だけはどうなるかわからない。そのことを身をもって体験しているからこそ、余計に圭太に言いたくなったのだ。
「少しだけ、考えてみた方がいいかもね。けーちゃんと、みんなのためにも」
「うん、そうだね」
 圭太としては、特別なことをしているわけではないので、すぐに変えられることではない。ただ、やはりこれからのことを考えるならば、今と同じ、というわけにはいかない。
 そのことは、圭太も漠然とは考えていた。まわりの意見は別として、圭太自身は自分が不甲斐ないせいで柚紀に余計な苦労をさせている、と思っているから。だから、これ以上そういうことが起きないように、どうすればいいのか。それを考えていた。
 正しい答えは、見つからないのかもしれないけど、それでも考えることを放棄するつもりもなかった。自己満足、と言われてしまえばそれまでだが、たとえそれがある程度事実だとしても、圭太にはそうするしか方法がなかった。
 もう、すべては起きてしまったのだから。坂を転がり落ちたボールが、自分の力だけで元に戻れないのと同じように。
「あたしね、最近よく考えるんだ」
「ん、なにを?」
「どうしてけーちゃんは、ずっとあたしにつきあってくれてたのかな、って」
 凛は、真っ直ぐ前を向いたまま、そう言った。
「それって、昔のこと?」
「うん、そう。子供の頃は、男の子とか女の子とかあまり関係はないけど、それでもどちらかといえば男女は別々というのが多いでしょ?」
「そうだね」
「なのに、けーちゃんはその大部分の時間をあたしと過ごしてくれた。それはどうしてなのかな、って考えるの。まあ、あたしはけーちゃんじゃないから答えはわからないままなんだけどね」
「凛ちゃんと一緒にいた理由、か」
 圭太は、そう言われて改めて考えてみた。
「僕もはっきりとしたことは覚えてないけど、ある程度の理由とおそらくこうだったんじゃないか、というのはわかるよ」
「それって?」
「まずは、これを言うと凛ちゃん怒るかもしれないけど、あの頃の凛ちゃんは、僕たち男子以上に男子っぽかったからね。ままごと遊びよりも、鬼ごっこやかくれんぼ、サッカーや野球なんかの方が多かったし」
「あはは、確かにね」
「今だから言えるけど、いくら琴絵のためとはいえ、家の中だけで遊んでるのは、やっぱりつらかったんだよね。みんなは外で遊んでるのに、僕だけ家の中。だからこそ、凛ちゃんと一緒にいて、外でいろいろ遊べて楽しかったし嬉しかった」
「なるほど」
 もちろん、当時の圭太がそこまで考えていたとは思えない。今、多少なりともいろいろなことを学び、分析する力を得たからこそ、そう言えるのである。
「あとは、琴絵が凛ちゃんのこと、好きだったからかな」
「琴絵ちゃん?」
「琴絵はさ、体が弱かったせいで、昔は相当の人見知りだったから。まず初対面の相手とは会話もまともに成立しなかったし。だけど、その琴絵でも凛ちゃんとは最初の頃から結構仲良くやれてた。だから、僕も凛ちゃんとなら一緒にいてもいいって思えたんだ」
「そっか。琴絵ちゃんのおかげでもあるんだ」
「おかげ、という言い方が正しいかどうかはわからないけどね」
 そう言って圭太は苦笑した。
「そう言う凛ちゃんはどうなの?」
「あたし? あたしは……正直言うとね、だんだんと変わっていったんだ。最初は、遊び相手のひとり、くらいにしか思ってなかった。たまたま家が近くて、たまたま同じ学校で。でも、それも次第に変わっていったの。ほら、あたしって自他共に認める女の子っぽくない女の子だったから。お姉ちゃんは結構女の子っぽい性格だったから、余計に目立っちゃってね。最初の頃はそんなこと気にも留めてなかっただけど、ほら、次第にいろいろなことを知るようになるでしょ」
「うん」
「その時に、やっぱり女の子は女の子らしくないとダメなのかも、って思っちゃったの。ただ、そう思ったところで実際どうすればいいのかもわからなかったから、とりあえずはそれまでのままだったけどね。そんな時かな。けーちゃんがあたしのことを女の子として扱ってくれるようになってきたのは」
 凛は、本当に嬉しそうに続ける。
「すごく嬉しかったんだ。けーちゃんにとっては些細な、もう忘れてることだと思うけど、あたしにとってはそのすべてを思い出せるくらい、大事なことだった。それからは、もうけーちゃんのいない生活なんて考えられなかった。ほかの誰もいなくても、けーちゃんさえいてくれればよかった」
「…………」
「あたしも単純だったから、それであっという間にけーちゃんのこと、好きになっちゃったの。けーちゃんの前ではできるだけそういう素振りは見せないようにしてたけど、家でひとりきりの時なんかは、あれこれ考えてたよ。女の子ってさ、耳年増だったりするから、もう想像というか妄想というか、本当にあれこれね。なのに、肝心なことは結局なにひとつ言えないまま、後悔することになったわけ」
「凛ちゃん……」
「あの時に、たったひと言、好き、って言えてれば、きっといろいろ変わってたはずなのにね」
 それはもう、絶対にあり得ない話でしかない。過去のことを今悔やむからこそ、後悔と言うのである。
「……もし、凛ちゃんがあのまま転校しないでずっとこっちにいたら、きっと僕は凛ちゃんに頼りっぱなしになってたと思うんだ」
「どういうこと?」
「あくまでも仮定の話だけど、凛ちゃんは転校せず、父さんが死んだという事実は変わらなければ、僕は凛ちゃんにすがりついていたかもしれないってこと。母さんや琴絵の前では父さんの代わりをしなくちゃいけないと思いつつも、僕自身の逃げ場所として凛ちゃんを選んでたと思うんだ」
「そういうことか」
「どっちがいいかはわからないけどね」
 まだ小学生だった圭太にとっては、確かにどっちがよかったかはわからない。現実ではそのことが圭太を人よりかなり早く大人にしてしまった。もしそこに凛がいたなら、もう少しだけそれが遅くなっていたかもしれない。それもまた事実だろう。
「あの頃の僕にとって、凛ちゃんは家族や親戚を除いて一番信頼できる相手だったから」
「そのことをもう少し早くあたしも察知できていれば、きっといろいろ変わってたはずなんだけどね」
「まあ、そうかもね」
 圭太としても、それを否定するつもりはなかった。
「って、もうそういうこと言うのやめようと思ってたのに。ついつい愚痴っちゃうんだよね。あたしもまだまだだなぁ」
「いいよ、僕にだったらどれだけ愚痴っても」
「……うん、ありがと、けーちゃん」
 凛は、笑顔で頷いた。
 しばらく行くと、凛の住むマンションが見えてきた。
「そういえば、凛ちゃん。蘭さんて、この正月に戻ってきてたの?」
「ううん。なんか、年末年始に稼げるバイトがあるって言って、向こうに残ってた。お父さんもお母さんも家族よりもお金が大事なのかって怒ってたんだけどね」
「なるほど」
「で、お姉ちゃんもさすがにそのままだと仕送りがヤバイと思ったらしく、年が明けてから必ず帰るって約束してね。それがちょうど──」
「ちょうど今日なのよね」
 そこへ、件の蘭が顔を出した。
「ちょ、お姉ちゃん。どこから湧いて出てきたの?」
「失礼なこと言うバカ妹ね」
「いひゃいいひゃい」
 蘭は、凛の頬を思い切り引っ張った。
「ちょっと買い物を頼まれて出てただけよ。ほら」
 確かに、手には近くのスーパーで買ったと思われる品々を持っていた。
「そんなことより、お久しぶり、圭太ちゃん。あ、あけましておめでとうというのが正しいのかな?」
「そうですね。あけましておめでとうございます」
「うん」
 蘭は圭太と凛の間に割り込む。
「なに、圭太ちゃん。このバカ妹をわざわざ送ってくれたの?」
「ええ、まあ」
「ごめんね、わざわざ。あ、せっかくだからちょっと寄っていってよ」
「えっ、でも……」
「いいからいいから」
 圭太は、半ば強引に蘭に引っ張られ、河村家に寄ることになった。
 突然の来訪にも関わらず、両親は諸手を挙げて圭太を歓迎した。
 ただひとり、凛だけは圭太を余計なことに巻き込んでしまい、申し訳なさそうにしていたが。
「はい、圭太くん」
「すみません」
 圭太の前に、温かい紅茶が置かれた。
「凛。あんたはここにいなくていいわよ」
「……あたしがいなくなったらお姉ちゃんが余計なことするでしょうが」
「しないわよ、そんなこと。ね、圭太ちゃん?」
「はあ……」
 柚紀と咲紀の姉妹もそうだが、この凛と蘭の姉妹も圭太の意志を無視して話を進めがちである。
「それにしても、圭太くんはマメよね。わざわざここまで送ってくるんだから」
 母親の美紀子はそんなことを言う。
「そこがけーちゃんのいいところなの」
「それはそうだと思うけど、だとすると凛にはやっぱりもったいないわね」
「ふんだ……」
 圭太としては、凛を弁護したいのだが、それをすれば当然あれこれ言われるので、難しい立場だった。
「そうそう。圭太くんは受験しないんだってね」
「ええ。大学へ行く必要性を感じなかったので」
「決める時に、悩まなかったの?」
「多少は悩みました。大学へ行った方が選択肢は多いかもしれないって。でも、冷静になって自分はなにがしたいのかを考えたら、自然と進学という考えはなくなってました」
「偉いわね。普通はそこまでの決断はそう簡単にできないわ」
「そうね。私だってそこまでは無理ね」
 美紀子も蘭も、しきりに圭太を褒める。
 とはいえ、圭太としては褒められるようなことはなにひとつしていないので、反応に困っていた。
「となると、凛は是が非でもこっちの大学に合格しないといけないのね」
「そうよね。じゃないと、せっかくまた一緒になれたのに、別々になるものね」
「だからがんばってるんじゃない」
「ま、結果はまだわからないから、いくらでも言えるけどね」
「……お姉ちゃんはひと言余計なのよ」
 凛は、さっきからずっと不機嫌そうな顔のままで、だからといってその場から離れるつもりもないようである。
「あ、そうだ。圭太ちゃん」
「なんですか?」
「ん〜……ちょっとこっち来て」
 蘭はそう言って圭太の手を取った。
「ちょっと、お姉ちゃん」
「凛。あんたはそこにいな」
「なっ……」
 蘭が圭太を連れて行ったのは、凛の部屋だった。ドアに丁寧に鍵もかけた。
「あの、蘭ちゃん……?」
「ごめんね、圭太ちゃん。ちょっと確認したいことがあってね」
「確認にしたいこと、ですか?」
「うん。まあ、大部分は私の好奇心を満たすためなんだけど、何割かは凛のためでもあるから」
 そう言われてしまうと、圭太としても断れない。
「圭太ちゃんて、彼女がいるんだよね?」
「はい。今は妻になってますけど」
「えっ、もう結婚してるの?」
「はい。結婚式は挙げてませんけど、婚姻届だけは出しました」
「そっか。そうなんだ」
 蘭は、少しだけ真剣な顔で頷いた。
「あのね、圭太ちゃん。圭太ちゃんと凛て、普通の幼なじみの関係? それとも、それ以上の関係?」
「…………」
「正直に答えてね。あ、別にそれを聞いたからってどうこう言うつもりもないし、なにかするつもりもないから。そこは安心してね」
「……たぶん、蘭ちゃんの想像通りの関係だと思います」
「つまり、男女の関係、ということ?」
「はい」
「そっか」
 蘭は、別段驚いた様子もない。
「まあ、なんとなくわかってはいたの。私もずっとこっちにいるわけじゃないから、確信というところまでは至ってなかったけど。あの子もね、結構顔に出るタイプだから」
 そう言う蘭の顔には、凛の姉としての優しい笑みが浮かんでいた。
「いつ頃から?」
「夏休みですね」
「そっか。もうそんなになるのか。それはちょっと予想外。あの子、そういうことに関してはとことん奥手だから、もっと最近だと思ってた。でも、なるほどね」
 圭太としては、蘭の真意を測りかねていた。
 それは、圭太が蘭のことをそれなりに理解しているからこそでもあった。
「その関係について私があれこれ言うつもりは毛頭ないわ。圭太ちゃんだってあの子だって、なにも考えずにそういうことになったわけではないだろうし。だから、その結果がどうなっても私は構わないと思ってる」
「…………」
「ただ、あの子の姉として言わせてもらうなら、できれば、泣かせないでね。世間一般的に見れば、不倫なんていう関係になるわけだから、泣かないで済む確率の方が低いのかもしれないけど。でも、できることなら泣かせないでほしいの。こんなこと、相手が圭太ちゃんじゃなければ言えないと思ってる。圭太ちゃんだからこそ、それができると思ってる。とっても難しいことかもしれないけどね」
「できる限りのことはします。僕も、凛ちゃんの想いを無にするつもりはありませんから」
「うん。ありがと、圭太ちゃん」
 蘭の本心としては、多少割り切れない部分はあるのかもしれない。だが、かつての圭太と今の圭太を知っている身としては、間違っても最悪の事態にはならないであろうことは、容易に想像できた。だからこそ、本当はそのような言い方はしてはいけないのかもしれないが、圭太に任せるような言い方をしたのである。
「でも、そっか。あの圭太ちゃんがね」
 蘭は、圭太の覚えていないような昔のことも覚えていることもある。圭太にとっては、年上の相手では家族以外では一番やっかいな相手と言えた。
「圭太ちゃんは覚えてるかわからないけど、昔ね、まだ私たちがこっちにいた頃。圭太ちゃんは同年代の男の子よりもちょっとだけ大人っぽいところがあったけど、恋愛に関してはまだまだ全然だったからね。なんたって、あれだけ凛が『けーちゃん好き好きオーラ』を発してるのに、まったく気付かないんだもん。あれは、さすがに凛に同情したわ」
 端から見れば確かにそうかもしれないが、まだ小学校中学年だった圭太には酷な話である。特に、その頃の男子はそういうことに疎い。圭太はそれに輪をかけてなので、余計である。
「これは覚えてるかな。私がね、からかい半分で圭太ちゃんに私と結婚するって訊いたことがあったの。そしたら圭太ちゃん、蘭ちゃんとなら結婚してもいい、って言ったの。それを聞いてた凛はもう怒るやら泣き出すやらで、大変だったんだから」
 それはすべて蘭が余計なことを聞いたことからはじまっているのだが、そこは棚上げしている。
「そんな圭太ちゃんが、もう人様の旦那さまなのね。ホント、時間の流れって早いわね」
「そうですね」
 圭太にとっても、目の前にいる蘭の姿を見れば、そのことを実感できる。
「ね、圭太ちゃん。もし私たちが引っ越さなかったら、凛とつきあってたと思う?」
「百パーセントではないと思いますけど、その可能性は限りなく高かったと思います」
「となると、凛にとっては運が悪いどころの話じゃなかったってことよね。結論から考えると」
「まあ、そうなりますかね」
 そういう話はすべて今更なのだが、圭太自身はそう思っていても、まわりはそれに関係なくそういう話を振ってくる。特に、これからはますます増えるはずである。
「あ、そうそう。たぶんだけどね、うちのお母さん、なんらかのことがあったとは気付いてると思うよ。具体的になにが、とまではいかないかもしれないけど。今はお互い高校生だから特になにも言ってないだけかもね」
「……わかりました」
「そんなに深刻そうな顔しないの。うちの面倒ごとは全部私が引き受けることになってるんだから、あの子にそこまでいろいろ求めることはないはずよ。だから、圭太ちゃんは後悔しない選択をして。それが、私からのお願い」
「はい」
 もちろん、蘭に言われずとも後悔しない選択をするつもりでいた。しかし、こうして改めて実の姉である蘭に言われ、その想いをよりいっそう強くした。
「さて、じゃあ、最後に個人的なお願いをしようかな」
「個人的なお願い?」
「圭太ちゃん。私をギュッと抱きしめて」
「えっ、でも……」
「大丈夫よ。別に襲ったりしないから」
「はあ……じゃあ……」
 圭太は、おそるおそるという感じで蘭を抱きしめた。
 凛の姉である蘭ではあるが、凛のように水泳をやっていたわけではないので、年相応の女性の体つきだった。
「やっぱり、圭太ちゃんも男の子だよね。とっても力強くて、とっても安心できる」
 蘭も圭太の背中に腕をまわす。
「弟だ弟だと思ってきたけど、こういう圭太ちゃんを知っちゃうともうそういう風には思えなくなっちゃうかも。そういう風になったら、圭太ちゃんは困る?」
「困りはしませんけど……僕も蘭ちゃんと同じで、蘭ちゃんのことは『お姉ちゃん』だと思ってますから。少し複雑ですね」
「ま、普通はそうだよね。だけど、そういう関係から恋愛感情が沸き起こってくる可能性もあるわけだし」
「それはそれということで」
「棚上げしちゃうの?」
 もったいない、そう言って蘭は笑った。
「とにかく、圭太ちゃん。凛のこと、よろしくね」
「はい」
 
「ね、けーちゃん。お姉ちゃんとなんの話をしてたの?」
 蘭から解放された圭太は、今度は凛に途中まで送ってもらっていた。
 もともとは圭太が凛を送ってきたのだから、本末転倒なのだが、しょうがない。
「ん、まあ、いろいろとね」
「内緒の話?」
「内緒というか、主に凛ちゃんのことだから」
「あたしの?」
 首を傾げた凛に、圭太は頷きかけた。
「それって、けーちゃんとのこと、だよね?」
「うん」
「そっか、お姉ちゃんも気付いちゃったのか」
「意外?」
「ん〜、そこまでは。ただ、ほとんどこっちにいないのに気付いちゃうところは、さすがかなって思うよ。あんなお姉ちゃんだけどね、やっぱりあたしよりもいろいろなことを知ってるし、経験してるから。だから、あたしのほんの些細な違いとか、気付いたのかも」
 圭太も、そういうのはよく理解できた。
 圭太のそういう相手は、もちろん琴絵である。昔から体の弱かった琴絵に対し、圭太は兄として常にその行動や仕草、些細なことにまで気を配ってきた。男女差があるので完璧とまでは言えなかったが、それでもちょっとしたことなら理解できるまでになっている。
「あれ、でも、凛ちゃん。今、お姉ちゃんも、って?」
「ああ、うん。そのことか。実はね、お母さんにも言われたの。お母さんはお姉ちゃんと違って毎日顔をあわせてるわけだし、なによりも自分の娘のことだからね。結構前に気付いてたみたい。ただ、確信が持ててなかったからしばらく黙ってて、で、あたしとけーちゃんが一緒にいる時に、それが確信に変わったみたいだね」
「そっか。それで、なんて?」
「特には。お母さんとしては、ある意味では一過性のものとして捉えてるみたい。あたしの初恋の相手がけーちゃんだってことも知ってるし、今も好きなのがけーちゃんだってことも知ってるから。だから、そんなけーちゃんが相手だからこそ、みたいに思ってる感じ」
「だとしたら、これから先は難しいかもね」
「普通に考えればね。だけど、そんなことくらいであたしはあきらめたりしないから。もう二度と、あの時と同じことは繰り返さないって誓ったんだから」
 そう言った凛の顔には、確かな決意があった。
「もし、あたしがけーちゃんのことをあきらめるとしたら、それはけーちゃんからあたしのことを嫌いになった、とでも言われない限りはないよ。けーちゃんにそんなこと言われたら、さすがに引かないわけにはいかないし」
「……凛ちゃんも、僕がそんなこと言わないってわかってて言ってるでしょ?」
「ふふっ、そうかもね」
 圭太の性格を考えれば、すでに男女の関係にまでなった相手に、そういうことを言えるとは思えない。仮にそうした方がいいとわかっていても、その気持ちを押し殺し、望むままの関係でいようとするだろう。
 それが圭太の圭太たるゆえんでもある。
 凛としては、そういう圭太につけ込んだわけではないのだが、結果的にはそういうことになっている。
「さて、この辺までかな」
 そう言って凛は立ち止まった。
「けーちゃん。今日は一緒にいてくれて、本当にありがとうね」
「ううん。僕にはこれくらいのことしかできないから」
「十分だよ。これで、明日の本番をリラックスして迎えられる」
「それならよかった」
 圭太としては、今はとにかく凛の試験が無事に終わってくれること、ただそれだけを望んでいた。
「そうだ。もし迷惑じゃなかったら、明日の試験前にメールでも送ろうか?」
「いいの?」
「それくらいなら、全然問題ないよ」
「うん。ありがと、けーちゃん」
 そこまでされると余計にプレッシャーになりかねないのだが、凛にとっては言葉通り、嬉しいことだった。むしろ、それがあるおかげでいつも以上の力が出せるかもしれない。
 圭太の言葉は、凛にとっては魔法の言葉なのである。
「それじゃあ、けーちゃん」
「うん、おやすみ、凛ちゃん。それと、がんばって」
「うんっ」
 
 三
 一月十四日。
 センター試験第一日目。
 世間的には朝のニュースでもトップで扱われるほど、大きな出来事である。
 圭太は、朝起きて朝食を済ませると、携帯を持ち出し、なにやらやっていた。
「なにしてるの?」
 その様子を、柚紀は不思議そうに見ている。
「ん、全員というわけにはいかないけど、何人かに本番前にメールを送ろうと思ってね」
「ああ、がんばれメールか。圭太もマメだね」
「僕にはこのくらいしかできないからね」
 話しながらもメールを打っていく。
「具体的にはどのあたりに出すの?」
「部の三年には極力出すつもりではいるけど、アドレスを知らないのもいるから。あとは、凛ちゃんと明典かな」
「まあ、そんなものか」
 実は、もうひとり出す予定があるのだが、それを口にすると話がこじれるので、あえて黙っていた。
 その相手とは、二高の金田昌美である。せっかくアドレスも知っているのだから、出さないのも悪いと思っていた。
「だけど、今日のセンターを皮切りにいよいよ受験シーズン本番なのよね」
「そうだね。僕たちは受験しないからのんびり構えてられるけど、普通はこうはいかないからね」
「高校受験の時は、なんかあっという間に終わっちゃった気がするけど、大学受験もそうなのかな?」
「ん〜、やってる最中はそうでもないと思うけど、終わってから考えると、あっという間だったって感じるのかも」
「そっか。まあ、それが普通かもね」
 それは別に受験だけではない。ただ、センター試験がはじまって国公立大学の合格発表が行われるまで、約二ヶ月。それまでの長い勉強期間を考えれば、確かにあっという間かもしれない。
「ま、いいや。私たちがあれこれ考えてもしょうがないんだし」
「そうだね。僕たちがあれこれ考えて、問題が少しでも簡単になるなら、いくらでも考えるけど」
「あはは、それは絶対にないもんね」
 柚紀はそう言って笑う。
「そういえば、前から結構不思議に思ってたんだけど」
「うん」
「圭太ってさ、みんなの誕生日とか重要なイベントなんか、よく覚えてるよね」
「ああ、うん、そうだね」
「覚えるの、大変じゃない?」
「ん〜、それぞれをずっと覚えてる必要はないから、大丈夫だよ。特に誕生日は一年に一度だけだし」
「そういう考え方もあるか。なるほど」
「ただ、それもどこまで続けられるかは、僕も正直自信がないけど」
「どうして?」
「だってさ、これから先、間違いなく今まで以上に覚えるべきことが増えるわけだし」
「ああ、そういえばそうか」
「幸いにして今は誕生日がほぼバラバラだからいいけど、重なってきたらちょっと困るかなって思ってる」
「誰でも自分のはちゃんと覚えていてほしいものね」
 普通ならそこまでの苦労はしなくてもいいのだが、圭太の場合は致し方のない状況である。もし柚紀とだけの関係だったなら、そこまで覚えていなくてもよかったはずである。
「ま、できる限りのことはするつもりだけど、万が一忘れたら、そこは柚紀にフォローしてもらいたいね」
「私絡みのことならいくらでもフォローするけど、みんなのことは無理よ?」
「さすがにそこまでは頼まないよ」
「そ、ならいいや」
 圭太としても、ある程度慣例化させられれば問題はないと思っているのだが、そこに至るまでが問題だと考えていた。
 ある意味自業自得なので、誰も同情してくれないが。
「よし……これで終了、っと」
「終わった?」
「終わったよ」
 圭太は携帯を閉じ、いったんテーブルの上に置いた。
「何時頃行くの?」
「そうだねぇ……少しくらいはほかの演奏を聴いてみたいから、早めに行こうか」
「うん、いいよ」
 どこへ行くのかというと、今日はアンサンブルコンテストの県大会なので、県民会館へである。一日目に高校の部があるので、圭太と柚紀も応援も兼ねて行くのである。
 琴絵と朱美は、すでに会場へ行っている。
 それからしばらくして、ふたりは家を出た。
 特に急いでいるわけではないのだが、少しだけ早めに出発していた。
「そろそろ歩きにくくなってきてる?」
「そこまでじゃないけど、なるべくゆっくりとしっかり歩くようにはしてるよ」
「そっか」
「でも、こうして圭太が一緒の時は、いつもより安心かな」
「どうして?」
「だって、圭太が守ってくれるでしょ?」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
 バスと電車を乗り継ぎ、県民会館までやって来た。
 さすがに夏のコンクールほどの人出はないが、それなりに賑わいを見せている。
 ふたりはホールに入り、空いていた真ん中少し前寄りの席に座った。
 演奏は、そろそろ打楽器から金管へ変わるところだった。
 今年の一高は金管と木管、それとサックスが出場しているので、このあたりから聴ければ十分なのである。
 いくつか聴いたところで、柚紀が口を開いた。
「どう?」
「そうだね。今のところは去年とさほど変わらない感じだね」
「みんなは上に行けそう?」
「さあ、そればかりはなんとも。ただ、みんなのいつも通りの実力が発揮できれば、結果はついてくると思うよ」
「そうだよね」
 その三つあとに、一高の金管八重奏の出番がまわってきた。
 メンバーは金管の二年。当然、紗絵がトランペットのファーストをやっている。
 圭太も多少は指導していたので、真剣な表情で演奏を聴いている。
 演奏時間は、あっという間に過ぎた。
「どうだった?」
「ちょっと硬かったかな。出だしで少しテンポにばらつきがあった。ただ、中盤以降は持ち直したから、まずまずの演奏だと思うよ」
「圭太がそう言うってことは、かなりよかったってことだね」
 柚紀は圭太の言葉の裏を読み取り、そう言ってホッと息をついた。
「紗絵ちゃん、圭太たちに負けないようにって、ホントにがんばってたからね」
「まあ、それはね」
「その成果の何分の一かでもここで発揮できたなら、とりあえずはいいんじゃないかな。常に百パーセントを出すのは不可能なんだから。多少悪いところがあっても、それを立て直してそれを補って余りあるくらいの演奏ができれば、誰も文句は言わないし。紗絵ちゃんたちは、それができてたと私は思うよ」
「そうだね」
 圭太も、素直に頷いた。
 金管が終わると、それほど長くはないが、休憩に入った。
 圭太たちは、ホールを出てロビーへ。
 一応紗絵たちにメールを打って、ロビーで落ち合う約束していた。
「あ、先輩」
 と、ふたりよりも早く紗絵たちが気付いた。
 今日はアンコンなので、部員も全員来ているわけではない。三つのメンバーと琴絵のように聴きに来ている部員が何人かという程度である。
 その中でその場にいたのは、演奏の終わった金管のメンバーといつもの面々だった。
「演奏、どうでしたか?」
「大絶賛、とまではいかないけど、悪くはなかったよ」
「そうですよね、やっぱり。最初がダメでしたから」
「ダメとまでは言わないけど、減点対象ではあるだろうね」
 緊張していたメンバーを気遣ってか、圭太も直接的な批判はしない。
「それでも、少なくとも僕が聴いた限りでは、金管の中ではトップの演奏だと思うよ」
「ありがとうございます」
 それは確かにそうだった。どこもレベルとしては似たり寄ったりで、その中で一高の演奏は頭ひとつかふたつ、抜けていた。
「ところで、紗絵たちはこれからどうする?」
「どこかでお昼をと思ってますけど」
 そう言いながらも、できれば圭太と一緒がいいと、その目が物語っていた。
「一緒に食べるかい?」
「はい、是非」
 そんなわけで、圭太たちは県民会館を出た。
 とはいえ、これだけの大人数となると、普通の店にはなかなか入れない。
 季節的に外で食べるというのも厳しいので、結果的に大人数でもそれほど問題なさそうなファーストフード店に落ち着いた。
 それでも全員が揃って食べられるほどの席は確保できなかったので、ある程度分散してしまった。
「はあ……」
 紗絵は、ポテトを食べながらため息をついた。
「なにため息なんかついてるの?」
「いえ、たいしたことじゃないんですけど」
「その割には、ずいぶんと深刻そうなため息だったけど」
 柚紀は、ハンバーガーを頬張りながら言う。
「……ちょっと自分が情けなくて」
「情けない? 紗絵ちゃんが?」
 紗絵の言葉に、柚紀をはじめとしてその場の誰もが首を傾げた。
「今日の演奏も、本当は私がもっとしっかりしていれば、もっと早くに立て直せたはずなんです。ペットのファーストがテンポを作るわけですから。でも、私自身も思っていたよりもダメな状況に混乱しちゃって、それで立て直すのに時間がかかりました」
「…………」
「……意味のないことだってわかってはいるんですけど、これがもし先輩だったらきっとこんなことにはなってなかったんだろうって思うと、自分が情けなくて」
「紗絵」
 と、この場を収められる唯一の存在、圭太が声をかけた。
「反省するのはいいけど、それを引きずったらダメだよ。それに、まだ結果は出てないんだから」
「はい」
「あと、ここにいる誰もが紗絵のことを情けないだなんて思ってないんだから。あまりそういうことばかり考えてると、僕みたいにあれこれ言われるよ」
「そうそう。圭太はよく先輩たちに言われてたからね。紗絵ちゃんも、圭太のそんなところまで見習わなくていいんだからね」
「はい、わかりました」
 紗絵も、自分が意味のないことを言っているのは十分わかっていた。それでも、圭太を前にしてつい愚痴ってしまったのである。
「今年もまた、三つとも関東大会へ出られるといいんだけど。部長の紗絵ちゃんとしては、どう?」
「よほどのことがない限りは、大丈夫だと思います」
「おお、すごい自信だ」
「それくらい練習しましたから」
「なるほどね」
「それもこれも、紗絵がものすごく気合いが入ってたからなんですけどね」
 と、詩織がそんなことを言う。
「そうそう。紗絵が気合い入ってるから、私たちもやらなくちゃいけないって感じになって」
 朱美も同調する。
「気合い入るのは当然でしょ? ここで気合いを入れずに、どこで気合いを入れるっていうのよ」
「それはわかるんだけどね。ただ、紗絵の場合は鬼気迫る感じっていうのかな。それが尋常じゃない感じで」
「そうだよね。一年生なんて、その気合いの入りように引き気味だったし」
「…………」
「まあまあ、ふたりともそのくらいにして。それに、ふたりがもし今の紗絵と同じ立場だったら、きっと同じことになってたと僕は思うよ」
「まあ、それは否定しないけど」
「だから、それくらいにして」
「はぁい」
 昼食を終えると、再び県民会館に戻った。
 これから演奏のあるメンバーを除いて、適当にバラけて席についた。
 午後の演奏も午前中とさほど変わらない感じで進んでいった。
 演奏のレベルとして去年と差はなく、ある意味ではこれくらいが県のレベルという感じもした。
 一高の次の演奏は、サックス四重奏。二年と一年がふたりずつのアンサンブルである。
 圭太も何度か練習を見ていたが、本番の演奏は練習時よりはるかによくなっていた。
 そのあたりは気合いの差かもしれない。
「今年、一年のふたりが演奏に出られたというのは、大きな財産になるね」
「そうですね。この経験を活かせれば、来年もいい結果が残せると思います」
 どうしてもアンサンブルのように個人の能力に依存する場合は、キャリアの長い者が有利である。従って、たとえ一高であってもそのメンバーのほとんどは二年で占められていた。
 だからこそ、一年で出られるというのは大きな意味を持つ。
 圭太の時もそうである。実力から考えれば圭太が選ばれてもなんらおかしなところはなかったのも事実だが、圭太もまだ一年であった。つまり、そこには上級生との一年間という大きなキャリアの差が生じている。
 それを補うとても効果的な場が、一年の時のアンコンだったわけである。
 結果から見れば、その時の経験が次の年の全国金賞に繋がったのである。
 サックスが終わると、残りの木管の演奏がはじまる。
 一高は木管八重奏なので、比較的早めの出番となった。
 ここに出ているのが、朱美と詩織である。
 曲は、とても落ち着いた曲である。
 テンポが速く、賑やかな曲の場合は、指使いやタンギングなど、細かな技量が必要となるが、緩やかな曲の場合は、さらに高度な技量を要求される。
 音の聴かせ方とでも言えばいいのだろうか。ひとりひとりがそれをどれだけ考え、なおかつ全員でどれだけ統一できているか。それがとても難しい。
 八人は、明らかに緊張した様子だったが、曲が進むにつれて少しずつよさを取り戻し、最後には観客を魅了する演奏をしてのけた。
「どうだった?」
「よかったと思うよ。最初は少し不安感の見えた演奏だったけど、そのうちそれも吹っ切れたみたいだし」
「確かに、表情からして硬かったもんね」
「欲を言えば、もう少しメリハリがあるとなおよかったかな」
「それは、次への課題ということでいいんじゃないの?」
「そうだね」
 すべての演奏が終わったところで、圭太と柚紀は先に帰ることにした。
 紗絵たちは閉会式まで残っていてほしいようだったが、無理も言えなかった。
「圭太も、これで少しは安心できたんじゃない?」
「ん、どういう意味?」
 帰りの電車の中。柚紀がそんなことを言い出した。
「引退して、その後の吹奏楽部がどうなるか心配だっただろうから。それが、アンコンの地区大会、県大会、それとクリスマスコンサートとちゃんと結果を残してきてるから。今までよりは安心して、後輩たちにあとのことを任せられると思ってね」
「そういう意味か。ま、確かにそれは言えるね。なんだかんだ言っても、目に見える結果が出ないと、安心できないからね。そういう意味で言えば、今日の演奏はよかったと思うよ」
 前部長であり、責任感の強い圭太としては、誰よりもそういう風に思っていたはずである。
「ま、正直言えば、今日の演奏はよくても悪くてもどっちでもよかったと思ってるんだ」
「どうして?」
「よければ僕たちが引退してからの練習が間違ってなかったってことになるし、悪かったなら改善点を見つけて改善すればいいだけのことだから。コンサートとコンクールまではまだまだたっぷり時間があるわけだし、いくらでも修正できるよ」
「なるほどね。そう考えると、どっちでもよかったのかもしれないわね」
 柚紀は大きく頷いた。
「県大会が終わったわけだから、これからいよいよ本格的に一年の底上げに入るわけね」
「うん。そのあたりでは、紗絵たち二年の様々な技量が問われるからね。楽しみだよ」
「圭太はどの程度まで見るつもりなの?」
「基本的にはセク練かな。個人やパートだと、いくら時間があっても足りないから。それに、そこまで僕がやると今の二年が伸びなくなる恐れもあるし」
「そっか」
 圭太が一から十まで指導するなら話は別だが、それは無理な話である。そうすると、どの程度までやるかはあらかじめ決めておかないと、ズルズルと行ってしまう。
「ま、僕も少し離れた場所から後輩たちのお手並み拝見、というところかな」
 そう言って圭太は笑った。
 
 四
 一月もそろそろ終わりが見えてきた平日のこと。
「暇ねぇ……」
「そうだね」
『桜亭』では、圭太と琴美の親子が暇を持て余していた。
 一月から二月は一年で最も寒い時期である。つい先日までは比較的暖かな日が続いていたのだが、ここに来てこの冬一番の寒気が流れ込んできていた。そのせいで朝晩だけでなく、日中もかなり寒くなっていた。
 加えて、朝からどんよりとした雲が空を覆っているとなると、特に用事でもない限りは外に出ようとは思わない状況となっていた。
 そうなると、住宅街の真ん中にある『桜亭』には、お客など来ない。
 したがって、ふたりは暇を持て余していた。
 アルバイトのふたり──ともみと幸江は、大学がちょうど試験の時期なので、なるべく圭太がフォローに入っていた。
 さらに、柚紀は検診があるために朝から病院へ行っていた。
「ここまで暇なのは、久しぶりな気がするわ」
「今日はこのまま暇なままかな?」
「さあ、どうかしら。お昼をまわれば少しはましになると思うけど」
 琴美はそう言って微笑んだ。
「圭太は、平日に家にいることに慣れてきた?」
「ん〜、まだかな。朝起きて、そのまま家に残るのがまだ不思議な感じがするよ」
「じゃあ、卒業までに間に、少しずつでも慣れていかないとね」
「慣れすぎてダレないように気をつけるよ」
 圭太だけではないが、高校生にとっては、長期の休み以外では平日は学校にいるのが当たり前である。その当たり前がなくなってしまえば、戸惑うのも当然と言えよう。
「ねえ、圭太」
「ん?」
「ひとつ、あまり意味のないことを訊いてもいい?」
「意味のないこと? 別にいいけど、なに?」
「あのね、もし今でも祐太さんが生きていたなら、圭太のやりたいことって変わっていたと思う?」
「そういうことか。そうだなぁ……」
 圭太は少し考え込む。
「たぶんだけど、変わってたかもしれない」
「それはどうして?」
「父さんとずっと一緒に生活していたなら、父さんはきっと、僕にいろいろなことを教え、やらせたと思うんだ。もちろん、その中には店のことも入ってると思う。でも、それ以外のことの方がはるかに多いだろうし、魅力的に映ったと思うんだ」
「まあ、そうかもしれないわね」
「そうすると、その中から僕は自分のやりたいことを見つけて、やろうとした可能性の方が高いと思うよ」
 確かにそれはそうかもしれない。
 祐太が亡くなったのは、圭太がまだ多感な頃である。現実ではその多感な頃に様々あったはずの可能性がかなり限定されてしまい、今に至っている。
 だから、もし祐太の事故死がなかったなら、その後のことが変わっていた可能性の方がはるかに高い。
「母さんは、どっちの方がよかった?」
「私はどちらでも構わないわ。圭太のやりたいことを、やりたいようにやってくれればそれでいいの。だから、今でも圭太が心変わりしてお店を継がないと言い出しても、反対しないつもりでいるのよ」
 それも本心だろう。
 なにが幸せかは、その本人にしかわからない。だから、琴美も自分の希望だけを圭太に押しつけることはできないのである。
「まあ、今となってはもう遅いのかもしれないけど」
「早いとか遅いとか、そういうことじゃないと思うけど」
「まあね。ただ、私としては、圭太にしても琴絵にしても、なにをしていてもとにかく幸せであってくれればそれでいいの。たぶん、幸せで居続けることが、一番難しいと思うから」
 それは、一度幸せを手放してしまった琴美ならではの、とても重い言葉だった。
 圭太もそのことは十分に理解しているので、神妙な面持ちで頷いた。
「あ、そうそう。まったく話は変わるんだけど、ついこの前のことなんだけど、柚紀さんといろいろ話をしてね──」
 
 それは夜のことだった。
 リビングでひとりテレビを見ていた柚紀のもとへ、琴美がやって来た。
「はい、柚紀さん」
 琴美は柚紀の前にホットココアを置いた。
「あ、すみません」
「面白い番組でもやってるの?」
「いえ。ドキュメンタリーですよ。なんとなく見ていたら、やめられなくなっちゃって」
「ふふっ、そうなの」
 自分の分のココアを飲みながら、テレビを見る。
「そういえば、前から気になっていたんだけど」
「はい、なんですか?」
「柚紀さん、寝る時窮屈じゃない?」
「えっと、なにがですか?」
「今、圭太のベッドでふたりで寝てるでしょ? でも、あの子のベッドはシングルだからふたりだと窮屈じゃないかなって」
「そのことですか」
 柚紀も状況が飲み込め、なるほどと頷いた。
「そうですね。正直言えば少し窮屈ですけど、特別不自由は感じてません」
「そうなの?」
「ええ。むしろ、堂々と圭太に抱きついて眠れますから、いいことの方が多いです」
「ふふっ、それが重要なのね」
「ただ、さすがにずっと今のまま、というわけにはいかないとは思ってますけど」
 確かに、様々なことを考えると今のままというわけにはいかないだろう。
「でも、あの部屋だとベッドをふたつ入れるわけにもいかないわね。そうすると、セミダブルくらいの少し大きめのベッドを入れることくらいかしら」
「そうですね」
「あとは、私の部屋を明け渡すか」
「えっ?」
 それはさすがに予想外だったらしく、柚紀は間抜けな声を上げた。
「私の部屋は、元々祐太さんとふたりの部屋だから、広いのよ。だから、ふたりと私が入れ替わればいろいろ問題は解決かな、って」
「そうかもしれませんけど……」
「まあ、このことは圭太も交えてゆっくりと決めましょ。今すぐどうこうという問題でもないわけだから」
「わかりました」
 柚紀が本格的に高城家で生活をはじめるであろう夏までには解決しなければならない問題である。ただ、すぐにどうにかなる問題でもない。
「あ、そうだ。お義母さん。ひとつ、変なことを訊いてもいいですか?」
「あら、なにかしら?」
「あの、お義母さんは妊娠中の、その、性欲と言いますか、そういうのはどうしてましたか?」
「性欲、ね。そうねぇ、それは結構私も悩んだ覚えがあるわ。初期の頃は普通にセックスで解消できるけど、臨月間近になるとさすがにそういうわけにもいかないしね」
 たとえ妊娠中であっても、性欲がなくなるわけではない。多少抑えられるとはいうが、それも人それぞれである。変わらない人もいれば、減る人もいる。逆に増える人もいるだろう。
 そういうことを経験者に訊くことは大切なことである。
「柚紀さんは、どうしようと思ってたの?」
「私は、セックスができなくても、圭太と一緒にしたいとは思ってました」
「なるほど。それはそれでとてもいい考えね。妊娠は母親だけのことではないものね。夫婦ふたりの問題だから、それに付随する問題についてもふたりで解決するのは当然のことね」
「はい。でも、それ以外になにかいい方法があれば、とは思うんですけど」
「方法といっても、あとは自分でするくらいしかないわね。私は、半々くらいだったかしら。極力我慢して、どうしても我慢できない時には自分でして。それでもダメな時は祐太さんにお願いして」
「やっぱり、それしかないですかね」
「まあ、誰とでもできることではないし、なにをしてでもできることではないから。自然と方法は限られてしまうわ」
 確かに、性欲の処理など誰にでも話せることではないし、誰にでも頼めることではない。
「そのことは、圭太とよく話し合って決めればいいと思うわ」
「はい、そうします」
 すべてが解決できたわけではないが、琴美に話を聞いてもらって、柚紀も多少は安心したようだ。
「だけど、そういう話が出てくるというのは、柚紀さんだからなのかしらね」
「そうですか?」
「少なくとも祥子さんからそういう話を受けたことはないし、もうずっと以前のことになるけど、妹の淑美からもそういう話は聞いてないもの。もちろん、どっちがどうという問題でもないから、どっちでもいいんだけどね」
「……私はたぶん、とにかく圭太に求められたくて、それがそのまま性欲に繋がってるんだと思います。普段の生活では目に見える形で求められることってそうそうないじゃないですか。でも、セックスの最中にはそれがよくわかるので」
「それは、ある意味ではとても大切なことだと思うわ。求める、求められるというのは、相手に興味がなければ絶対に成立しないことだから。恋人、夫婦の間でそれがなくなったら、別れるしかないもの」
「そうですね。そういう風に考えると、少し気が楽になります」
 自分は単に人より性欲が強いと考えてしまうと、さすがに気が滅入ってしまう。
 そういう時に、琴美のような考えを持てていれば、気休めかもしれないが、少しはましになるかもしれない。
「あの、お義母さんはそういうのはどうだったんですか?」
「私? 私は、人並みだったんじゃないかと思ってるけど、実際のところはわからないわ。比べたこともないし」
「そういえばそうですね」
「それでも、はじめて祐太さんに抱かれたあとは、四六時中そのことばかり考えてたこともあったわね。あ、ちなみに、私の相手は生涯祐太さんただひとりよ」
「私もそのつもりです」
 そう言ってふたりは笑った。
「まあ、柚紀さんもそれでなにか問題が起きてるわけじゃないんだから、あまり気にしない方がいいわ。それに、圭太だっていろいろ考えてくれるだろうし」
「そうですね。できるだけあまり深く考えないようにします」
 
「──とまあ、そういうことを話したのよ」
 大まかな話を聞いた圭太は、さすがに微妙な表情を見せていた。
「それ自体はわかったけど、それをどうして僕に話したの? 柚紀はわざわざ母さんとふたりの時に訊いてるのに」
「だって、それを私だけが知ってても意味がないじゃない。それを解決できるのは、結局は圭太と柚紀さんだけなんだから」
 そういう風に言われてしまうと、圭太もなにも言えない。
「ま、そのことは今度柚紀さんとちゃんと話してみなさい。いずれどうにかしなくちゃいけない問題なんだから」
「わかったよ」
 圭太としても、琴美の話を聞いてそういう問題もあるのかと理解したところはあるので、素直に頷いた。
「だけど、柚紀さんて本当に心の底から圭太のことが好きなのね」
「どうして?」
「圭太とのことを話す時は、いつも真剣だから。母親である私や、妹である琴絵が圭太のことを理解してるのは当然だけど、柚紀さんは元は他人だったわけでしょ。それが、たった三年弱の間に下手をすれば私たち以上に圭太のことを理解して、なおかつ未だにより理解しようと努力し続けてる。それって、圭太のことが好きじゃなければとてもできないことよ。そういうところは、尊敬に値するわ」
 同じように、たったひとりの相手を一途に愛し続けている琴美だからこそ、言える言葉である。
 圭太もその気持ちは理解できるのだが、琴美ほどの重みを持った言葉を発するまでには至っていない。
「なんか、このままだとますます圭太を柚紀さんに取られちゃいそう」
「は?」
「柚紀さんとつきあう前は、圭太の目は私と琴絵にしか向いてなかったのに、それが今じゃその大部分が柚紀さんに向いてるものね。嫉妬しちゃうわ」
 そう言ってぷいと拗ねる。
 これが実年齢相応の見た目の持ち主がやったことなら笑って茶化せるのだが、琴美ほどの容姿の持ち主がやると実に様になっているので、反応に困った。
「そりゃ、柚紀さんは圭太のお嫁さんだから、ある程度はしょうがないと思うけど、でも、もう少しくらい私のことも気にかけてほしいわ」
「……わかったよ。わかったから、拗ねないでよ」
 圭太としては、ここは素直に受け入れ、やり過ごすしかない。まともにやりあったところで、勝てる確率は皆無に等しいのだから。
 と、ちょうどその時、お客がやって来た。
「いらっしゃいませ」
 同時に、ふたりとも仕事モードになる。
 もっとも、琴美は少し言い足りなそう感じではあったが。
 
 さて、実は柚紀と琴美の話には続きがあった。
 それを圭太に話さなかったのは、圭太には話せない内容だったからである。
「柚紀さん」
「はい」
「もう何度も言ってることだけど、本当に圭太のこと、よろしくお願いね」
「それは、はい」
「今の私にとって、もちろん琴絵もそうだけど、なによりも誰よりも圭太がいなければ生きていけないと思っているから。私は、あの子の母親としてできる限りのことはしてきたし、これからもするつもりでいるわ。でも、当然のことではあるけど、それには限度がある。理由は様々だけど、中には私があの子の母親だから、というのもあると思うの」
「…………」
「その世界で一番大切な圭太をお願いできるのは、柚紀さん、あなた以外にいないわ」
 そのような話は、確かにもう何度かされていた。その度に琴美がどれだけ圭太のことを想っているのか再認識させられていた。と同時に、だからこそ自分はその期待に応えなければいけないとも思っていた。
 もっとも、頼まれずとも柚紀としては、自分にできることはなんでもやるつもりでいるので、それ自体を再確認することにもなっていた。
「私はね、自分でもわかっているの。自分の存在がどれだけあの子たちの枷になっているかって」
「そんなこと……」
「ううん。少なくとも、圭太にとっては間違いなく枷よ。だって、もし私のことをもっと適当に放っておけていたら、きっと違う成長の仕方をしていたはずだから」
「…………」
「それでも、わかっていてもなお、私は圭太を手放すことができないの。もしもあの子が私の手の届かない遠くへ行ってしまったら、きっと私は気が狂ってしまうか命を絶ってしまうわね。手の届くところにいて、あの子を感じられるから、私は安心していられる。祐太さんが亡くなってから、もうずっとそうやって生活してきたから」
 不可抗力ではあっただろう。そうしなければ、もっと早くに琴美はダメになっていたはずである。
 しかし、結果的にそれがある種の中毒症状のようなものを生み出してしまったのである。
「柚紀さんになら、あの子のことを安心してお願いできる。これは間違いないわ。想いの強さを比べるのはとても難しいけど、それでもあえて比べるなら、やっぱり柚紀さんの想いがほかの誰よりも勝っていると思うの。それに、あの圭太が選んだ相手だもの。そのくらいの期待には、応えてくれると思ってるわ」
「できるだけその期待に応えられるよう、がんばります」
 柚紀は、確かに圭太のことが好きで、だからこそ結婚した。だが、結婚は相手のことだけを考えてするものではない。自分、相手、自分の家族、相手の家族、周囲。実に様々な状況を考えてするものである。
 もちろん、それだけでは割り切れないものはある。しかし、たいていの場合はそれを考慮した上で、はじめて決断する。
 柚紀自身は、圭太と結婚したいと思うようになったのはそういう諸々のことを考える前ではあった。それでも、様々なことを見て、聞いて、感じていくうちに、自分の選択は間違っていなかったと確信していた。
 その中には、琴美とのことも当然含まれている。
 琴美が義理の母親になるのなら、きっと高城家での生活も問題ないと、これまでのことで認識していた。
 ただ、柚紀がひとつだけ懸念していたのは、琴美の中にあるどうしても拭いきれない過去の記憶のことであった。
 普段はそんなことを微塵も感じさせないが、不意にそれが表に出てくる。
 その時に自分はなにができるのか。
 それを考えたこともあった。
 しかし、答えは出なかった。というよりも、そのことに関する情報がかなり不足していたので、判断できなかったのである。
 それでも、最も大切なことだけは理解しているつもりだった。
 それは、琴美にとって圭太の存在は、決して欠けてはいけないものだということ。
 その圭太と結婚したのだから、これまで以上にそのことに留意しなければならない。
 それが、高城家へ嫁いできた、自分の役目であると思っていた。
「柚紀さんはどう思ってるかはわからないけど、私はね、柚紀さんと私は似てるところが多いと思ってるの」
「そうですか?」
「圭太もね、そのあたりは認めてるわ。ただ、あまり積極的に認めたくないだけ」
「どうしてですか?」
「ほら、よく言うでしょ? 男の人は自分の母親に似てる人を好きになる、って」
「ああ、なるほど」
「その理由自体がイヤなわけでもないんだろうけど、やっぱり積極的には認めたくないということみたい」
「複雑な心境なんでしょうね」
「そうね。で、話を戻すと、私と柚紀さんは似てるところが多いから、なんとなくだけど考え方とか理解できるのよ。もちろん、細かなところまでは無理よ。育ってきた、生きてきた環境が全然違うわけだから」
 そこまで正確にトレースできたなら、それは超能力である。
「私自身もそうなんだけど、まわりには器用そうに見せて、実際は不器用なところが多いの。特に、恋愛に関してはね。だから私は、祐太さん以外とはつきあったことはなかったし、ほかの誰も本気で好きになったことはなかった」
「それは、少なくとも今の私もそうです」
「そういうことを理解しているからこそ、なおのこと柚紀さんにならあの子を任せられると思ってるのよ」
 自分がかつてそうだったから、自分と似ている柚紀もそうあってほしい。
 あくまでも願望でしかないのだが、それを言葉にすることによって柚紀に意識させている。そのあたりは、人生の先輩ならではの技だ。
「ただね、あまり圭太を取らないでね。ふたりは夫婦だから一緒にいる時間が長くなるのは当然だけど、たまには私も圭太とのスキンシップを取りたいし」
「そのことは、私がなにもしなくても圭太がわかってると思いますよ。圭太にとって、お義母さんは本当に大切な存在ですから」
「それならいいんだけど」
 柚紀も、もし現在のようなまわりの状況になってなかったとしても、圭太の想いがすべて自分に向いていたとは思っていない。
 それは、圭太にとって琴美と琴絵の存在が、とても大きいからにほかならない。
 そのことを柚紀は、十二分に承知していた。
「そういえば、柚紀さん。私、柚紀さん自身のことを話したことってあったかしら?」
「私自身のこと、ですか? どうですかね。あったような、なかったような」
「じゃあ、ちょうどいい機会だし、少しだけ聞いてもらおうかしら」
 琴美はココアを飲み干した。
「今、こんなことを言うと信じてもらえないかもしれないけど、私ね、柚紀さんが一番最初にうちへ来た時に、こう思ってたのよ。こんな子が圭太の彼女になってくれたら、きっといろいろ変わるのに、ってね」
「そうだったんですか?」
 予想外のことに、柚紀も驚いている。
「あの子が女の子を連れて来ること自体は、別に珍しいことじゃなかったの。部活の関係上、男の子より女の子の方がつきあってる人数は多いから。だけど、その中で初対面で同じようなことを思ったことは一度もなかったわ。もちろん、つきあいが深くなれば話は別だけど」
 確かに、それはにわかには信じられないことだった。
 いきなりやってきた相手に対して、そんな将来をも左右しかねないことを感じるというのは、普通はあり得ない。
「私がそう思った一番の理由はね、圭太の態度だったのよ。見た感じはいつもとさほど変わらない感じだったんだけど、なんていうのかしら。母親だからこそわかるほんのわずかな違いみたいなのがね、柚紀さんと話してる時にはあったのよ。その時に、あの子にとって柚紀さんは明らかに今までの女の子とは違うんだって思ったのよ」
「でも、それは必ずしもいいこととは限りませんよね?」
「そうね。場合によっては、悪い方向へ変わってしまう可能性もあったはず。だけど、不思議とそういうことはまったく思わなかったわ」
「…………」
「だからね、あの子が柚紀さんとつきあうことになったって報告してくれた時、すごく嬉しかったの。あんなに頑なだったあの子の心を、あれだけの期間で解きほぐしてくれた。柚紀さんと一緒なら、あの子は今まで故意に避けてきたことをやれるんじゃないか。そう思ったの」
 琴美にとって、圭太が大切な存在であればあるほど、幸せになってほしいという想いも強い。
 だから、人並みの幸せをつかもうともしていなかった圭太が、ようやくそこへ向かって一歩を踏み出したことが、嬉しかったのである。
「そして今、あの時の私の考えは正しかったことが証明されたわ。まあ、結果論であることは間違いないけど」
「もし、私が圭太とつきあっていなかったら、どうなっていたと思いますか?」
「そうね……たぶん、遅かれ早かれ、誰かとつきあうことにはなっていたと思うわ。それが今あの子のまわりにいる誰かなのか、はたまた全然別の誰かなのかはわからないけど。いくら本人にその気がなくても、まわりからそういう話は入ってくるし、なによりも私も琴絵もそのことを心配していたから。否応なく背中を押していたはずよ」
「なるほど」
「私個人の意見を言わせてもらえば、少なくとも今あの子のまわりにいる子たちなら、誰が彼女になってもいいと思うわ。それぞれにいいところもあるし、なによりも本気で圭太のことを好きでいてくれるから。大事な息子を任せる立場としては、それだけは譲れないのよ」
 仮定の話とはいえ、やはり圭太のまわりにいる柚紀以外の誰もが、それぞれに家族である琴美のお眼鏡にかなう逸材なのである。
 そのことを考えると、柚紀としてはラッキーと思わずとも、自分に多少の運が向いていたとは思っているはずである。
「まあ、いずれにしても、圭太のお嫁さんが柚紀さんで本当によかったわ」
 このようなことをその夜に話していたのである。
 この内容はさすがに圭太に話すわけにもいかず、琴美も黙っていた。
 仮にこれを圭太が聞いたとしても、だからなんだということにしかならない。この話は、あくまでも柚紀と琴美の、ふたりの話なのである。
 こういう会話の機会が増えれば増えるほど、ふたりはより確かな『親子』関係になれるのである。
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