僕がいて、君がいて
 
第四十一章「初春の調べ」
 
 一
 日付が変わる前に家を出たメンバーは、歩いて神社へ向かっていた。
 外はかなり寒かったが、それでも雪が降るほどではなかった。
 神社が近づいてくると、圭太たちと同じく初詣に向かう人の流れができていた。
「結構いるんだね」
「まあね。うちみたいに、年明け直後に初詣するのを恒例にしてる人も結構いるだろうから」
「なるほどねぇ」
 境内に入ると、すでに拝殿からの列ができていた。
 圭太たちもその列の後ろに並んだ。
 時間はすでに午前0時をまわっている。ゆっくり歩いてきたので、途中で年が明けたのだ。
「ね、圭太。圭太はなにをお願いするの?」
 柚紀は、探るような眼差しでそう訊いた。
「ん、そんなの決まってるよ」
「決まってるの?」
「うん。今僕が神様にお願いしたいことなんて、柚紀と春に生まれてくる子供のことに決まってるよ」
「ああ、なるほど。確かに決まってるわね」
 柚紀もそれには納得したようだ。
「柚紀は?」
「私もひとつはこの子のこと」
 そう言って柚紀はお腹に触れた。
「とにかく元気に生まれてきてほしい。ただそれだけ」
「そうだね」
 ふたりにとって今一番大事なことは、春に生まれてくる子供のことである。それ以外に大事なことなどない。
「あとは、一日でも早く一緒に暮らせますように、かな」
 それについては、圭太はなにも言わなかった。それは、今なにか言っても、結局その時が来るまでどうにもならないからだ。
「凛ちゃんはどう?」
「えっ、あたし? あたしは、けーちゃんともっともっと深い仲になれますように、かな、やっぱり」
「……それ以上深い仲になって、なにをしようというのよ、あんたは」
「う〜ん、不倫からの略奪愛?」
 冗談で言ってはいるのだが、それでもかなり本気な部分も含まれているので、一笑に付すというわけにもいかなかった。
 とはいえ、そうしたいと思っているのは凛だけではないので、実現はまず無理である。
「冗談はそれくらいにして、本当になにをお願いするわけ?」
「別に冗談じゃないんだけど……」
「いいから」
「ま、妥当なところで大学に合格することでしょ。受験の結果が出ない限りはその先のこともわからないし」
「ふ〜ん、ありきたりね」
「だから、あんたはどうしてそういちいち突っかかってくるのよ。まったく……」
 それに巻き込まれてる圭太の方が、本当は迷惑なのだが、当事者である柚紀も凛も、そのあたりは二の次になっている。
 しばらくすると、ようやく圭太たちの番がまわってきた。
 それぞれにお賽銭を入れ、真剣な面持ちでお願いをする。
 全員が終わったところで、今度はおみくじに挑戦。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。どうだった?」
「ん、今年は中吉だったよ。ほら」
 確かに圭太のおみくじは中吉だった。
「ホントだ。私はね、大吉だったよ」
「そっか。じゃあ、今年も琴絵はいい年になりそうだな」
「うんっ」
 おみくじひとつで機嫌がよくなり、しかも前向きに生活できるのだから、安いものである。もっとも、そういう人間心理を巧みに利用してるからこそ、ここまでおみくじが発達したのであろう。
「圭太さん。圭太さんはどうでしたか?」
 そこへ、今度は紗絵と詩織がやって来た。
「ん、僕は中吉」
「あ、私と同じですね」
 詩織はそう言って嬉しそうに手を叩いた。
 結果としては大吉の方がいいのだが、こと圭太に関することなら、一緒の方がいいのである。
「むぅ、私は吉で、圭太さんとも一緒じゃないです……」
 一方、紗絵は吉という中途半端なもので、しかも圭太と一緒じゃないということで、落胆している。
「まあまあ、紗絵も落ち込まないで。ここで悪い運を使い果たしたとでも思っておけばいいんだから」
「はい、そうします」
 結果的に、圭太に慰めてもらって頭を撫でてもらえたので、紗絵としてはよかったのかもしれない。
「そういえば、柚紀先輩と凛先輩はどうしたんですか?」
「ああ、あのふたりなら……ほら」
 圭太が指さした先では、柚紀と凛がなにやら言い争っていた。
「なにが原因なんですか?」
「おみくじの結果だよ。ふたりとも同じ大吉だったんだけど、それぞれの内容がちょっと違っててね。それでどっちが上かであんな風になっちゃって」
「なるほど」
 ふたりらしいといえばそれまでだが、正月早々喧嘩というのはやはり問題がある。
「止めなくていいの?」
 琴絵は心配そうに言う。
「そうだね。そろそろ止めようか」
 圭太は小さく頷き、ふたりに近づいた。
「まったく、どうしてあんたは話がわかんないのよ」
「それはこっちのセリフ。そっくりそのまま返してあげるわ」
 一応ほかの初詣客の邪魔にはならないところでやってはいるが、見せ物状態なのは間違いない。
「ふたりとも、そのあたりにしておいたら?」
「圭太」
「けーちゃん」
「お互いの内容に言いたいことはあるかもしれないけど、それはそれぞれのものなんだからさ。それに対して横から口を挟んでもしょうがないよ」
 圭太は、穏やかな口調でふたりを諭す。
「圭太がそう言うなら──」
「しょうがないか」
 ふたりは渋々矛を収めた。
「それにしても、ふたりは会う度にそういうことやってるけど、疲れない?」
「疲れるわよ。ええ、それはもうとっても疲れるわ」
「それはこっちのセリフよ」
 言った側からこれである。
「やっぱりふたりは似てるからなのかな、そういう風にぶつかっちゃうのは」
 ふたりは顔を見合わせた。
「ああ、もちろん根本的な部分が似てるってわけじゃないよ。ただ、性格が結構近いところがあるから」
 それはふたりも自覚していた。だからこそ余計にぶつかってしまうのだ。
 ようするに、同族嫌悪というやつである。
「とにかく、僕としてはもう少し仲良くやってくれると嬉しいんだけどね。せっかくの同い年なんだから」
 圭太としては、それが一番重要なのである。
 自分の妻である柚紀と、ただひとりの幼なじみで同い年である凛には、もう少し仲良くしてもらいたいのである。もちろん、今の状況が悪いとも思っていない。そういう言い争いがコミュニケーションの方法のひとつであると考えれば、一概に否定もできない。
 とはいえ、年がら年中言い争いをされては、心中穏やかではないだろう。
「それに、今日は正月なんだしね」
 そこまで言われては、ふたりとも言うことを聞くしかない。
「わかったわよ。もうしないから」
「うん、あたしも」
「よかった。それじゃあみんなのところに戻ろうか」
 落ち着いたところで三人は揃ってさっきの場所に戻った。
 戻ってみると、ひとり足りなかった。
「あれ、琴絵。母さんは?」
「ん、お母さんならお守り買いに行ったよ」
「お守り?」
「うん。柚紀さんに渡すんだって」
「ああ、そういうことか」
 それを聞いて圭太は納得していた。
 少しして、琴美が戻ってきた。
「あら、みんな揃ったのね。ひょっとして、私を待ってたの?」
「そういうこと」
「ごめんなさいね。社務所の方が少し混んでいたものだから」
 確かに社務所の前では、お守りや破魔矢などを買い求めている初詣客が列を作っていた。
「で、ちゃんと買えたの?」
「ええ、買えたわ。それで、これは、柚紀さんにね。はい」
「ありがとうございます」
「別に今日じゃなくてもいいとは思ったんだけど、思い立ったが吉日って言うしね」
 中のお守りは、安産祈願のお守りだった。
「さて、そろそろ帰りましょうか。いくらそれぞれに許可をもらってるとはいっても、あまり遅くなるのも問題だろうし」
 というわけで、一行は神社をあとにした。
「あ、そうだ。圭太」
「ん、どうしたの?」
「鈴奈さんの問題はどうなったの? 鈴奈さん、実家に帰ってるでしょ」
「ああ、うん」
「連絡してないの?」
「実はね、鈴奈さんに言われたんだ。僕からは連絡しないようにって」
「そうなの?」
 圭太は大きく頷いた。
「これは鈴奈さんが言ったことなんだけど、僕が途中で連絡すると、僕を頼っちゃいそうになるから、ダメなんだってさ。今回のことは確かに僕と鈴奈さんの問題ではあるけど、最終的に説得する役目は鈴奈さんが背負わなくちゃいけないって」
「そっか」
「だから、連絡はしてないんだ」
 それは、ある意味では鈴奈らしい、圭太らしい行動だった。
「でも、心配でしょ?」
「それは、まあね。だけど、僕がどれだけ心配してももう結果は変わらないから。それならあとは鈴奈さんを信じて待ってるしかないからね」
 圭太にそれだけ信用されているのは、やはり鈴奈だからだろう。
 圭太がただひとり、甘えられる存在だから。
「それでも、早ければ今日、遅くても明日には鈴奈さんから連絡があると思うけど」
「その時に、どうなったかわかるというわけか」
 柚紀も、鈴奈のことは姉のように慕っているので、たとえ圭太との関係であっても気になる。もちろん、心境的には複雑なのだが、かといって不幸になってもらいたいわけではないので、なるべくなら上手くいってほしいと思っている。
「圭太は、あと何回そういう経験をするのかしらね」
「なるべくなら穏便に済ませたいけど、そうもいかないことだからね。僕はもう覚悟は決めてるよ」
「……その肝の据わり方は、さすがは圭太というところかしらね」
 柚紀は、そう言ってため息をついた。
「まあ、そういう機会はできればない方がいいけど、もし私になにかできることがあれば、遠慮なく言ってね」
「その時があったらそうするよ」
 圭太はそう言って微笑んだ。
 
 一年の最初の日を、どのような気持ちで迎えるかは、それぞれまったく違う。
 たとえば、去年いいことが多かった場合は、今年もそうあってほしいと願い、できるだけいいことを思い描いているおかげで、楽な、晴れやかな気持ちで迎えられるだろう。
 一方、人によっては去年が幸せな年だったから、今年はその反動で不幸なことが多いのではと思ってしまうと、憂鬱な気持ちで迎えることになるだろう。
 どちらも気の持ちようで変わるのだが、せめて一年の最初の日くらい、気持ちよく、晴れやかな気分で迎えたいものである。
 高城家では、そんな晴れやかな気分で元旦の目覚めを迎えている者が何人もいた。
 そう、何人も。
 なぜかというと、初詣のあと、それぞれを家に送ろうと圭太は言ったのだが、琴美がそれに待ったをかけた。
 当然のことながらかなり遅い時間だったので、無理に送るよりも泊まってもらって、朝に帰った方がいい、ということだった。
 そこにはもちろん、愛する息子に対する気配りも込められている。
 で、そういう風に誘われた三人は、当然のことながら断るはずもない。シチュエーション的には、ひとつ屋根の下でひと晩を過ごせるのだから、願ったりかなったりである。
 というわけで、三人は思いもかけず、とても嬉しい朝を迎えることになったのだ。
 遅くまで起きていたとはいえ、圭太は長年の習慣でそれなりに早い時間に目を覚ました。
 隣では、柚紀が気持ちよさそうに眠っている。
 そんな柚紀を起こさないようにベッドを出て、着替えて下に下りた。
 顔を洗う前に客間を覗く。
 客間には、凛、紗絵、詩織が寝ている。
 まだ起きていないことを確認してから、顔を洗い、いつもの三倍くらいある新聞を取り、リビングでひと息ついた。
 大量の折り込みチラシと格闘していると、まずは詩織が起きてきた。
「おはよう、詩織」
「おはようございます」
 多少眠そうではあるが、頭は働いているようである。
「ああ、そうそう。改めて、あけましておめでとう」
「あ、はい。あけましておめでとうございます」
 詩織は、そう言ってからクスッと笑った。
「なんか、すごく不思議な感じです」
「ん、なにが?」
「両親よりも先に圭太さんに新年の挨拶をしたことがです」
「ああ、なるほど。そうかもしれないね」
「でも、すごく嬉しいです。これで、今年一年がんばれそうなくらいです」
 多少大げさではあるが、詩織にとってはそれくらい大きい意味を持っていた。
「ところで、少しは眠れたかい?」
「はい」
「三人一緒だったから、あれこれ話なんかして、眠れてないんじゃないかと思ったよ」
「確かにいろいろ話はしてましたけど。でも、私も含めて途中でその気力もなくなってしまって。あとはそのまま夢の中です」
「そっか」
 共通の話題がある三人なので、話のネタは尽きない。ただ、それよりも先に体力が尽きてしまったのだ。
「えっと……」
 と、詩織はあたりを見回し、小さく頷くと、そのまま圭太の隣にぴったり寄り添うように座った。
「少しだけ、こうしていてもいいですか?」
「好きなように」
 圭太は、そのままチラシの整理に戻った。
 詩織は、その様子をなにも言わず、ただじっと見ている。
 なにも言わず、なにもしなくとも、そうやって一緒の時間を共有しているだけで、詩織はとても幸せだった。
 とはいえ、そういう時間はあまり長続きしないのが世の常である。
「おはよう」
 起きてきたのは、琴美だった。
「おはよう、母さん」
「おはようございます」
「起きてるのは、ふたりだけ?」
「そのはずだけど」
「そう。じゃあ、朝食はどうしようかしら」
 本来なら、揃ったところで改めて新年の挨拶をして、おせちを食べるのだが、さすがにそういうわけにもいかない状況である。
「あ、私、帰りますから」
「そう? 遠慮しないでいいのよ」
「いえ、さすがにお正月早々、これ以上家に帰らないわけにはいきませんから」
「それならしょうがないわね。あ、じゃあ、おうちの方へ連絡した方がいいわね。その時になにか言われたら、私が代わって説明するから」
「はい、ありがとうございます」
 詩織は早速家の方へ電話した。
 予定外に泊まることになってしまったことについては、詩織の説明だけで納得したようだった。ただ、それなりになにか言われたらしく、電話を終えたあと、少しだけうんざりとした顔をしていた。
「なにか言われた?」
「はい、いろいろと」
「それは、大丈夫なのかい?」
「ええ、大丈夫です。とりあえずお小言を、という感じでしたから」
「それならいいけど」
 不可抗力に近い状況とはいえ、帰れなかったわけではない。あれこれ言われても仕方のない状況である。
 それから詩織は帰り支度を済ませた。
「それじゃあ、圭太さん。帰ります」
「本当は送っていきたいところなんだけど、そういうわけにもいかない状況だから、ごめん」
「いえ、もう明るいですから、大丈夫ですよ」
 圭太の心情としては、やはり家まで送りたいのだが、まだ凛と紗絵が家にいる状況では、それは難しかった。
「次は、あさってかな」
「あの、もしよかったら、明日も来てもいいですか?」
「僕は構わないけど、詩織の方は大丈夫なのかい?」
「大丈夫です。新年の挨拶に来るわけですから」
 そう言って詩織は微笑んだ。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
「あ、詩織」
「はい」
 圭太は最後に詩織を呼び止めた。
「気をつけて」
「あ……ん……」
 そう言って圭太は詩織にキスした。
 それだけで詩織は、笑顔になった。
 詩織が帰ると、立て続けに凛と紗絵が起きてきた。どうやら一階で人が動き出したので、起きたようだ。
 ふたりも家の方に連絡し、それから程なくして帰宅した。
 ちょうどふたりとも帰ったタイミングで、今度は柚紀が起きてきた。
「おはよ〜、圭太」
「おはよう、柚紀。眠れた?」
「うん。とりあえず眠気は飛んだかな」
 確かに、見た目は眠そうには見えない。
「なんかバタバタしてたけど、凛たち帰ったの?」
「うん。三人とも帰ったよ」
「そっか」
 特に用事があったわけではないのだが、見送ってもよかったかなと柚紀は思っていた。
「おはよう、柚紀さん」
「おはようございます」
「起き抜けで悪いんだけど、朝食の準備を手伝ってもらえるかしら?」
「はい、わかりました」
 今までならそこまでのことは言わなかったのだが、もう柚紀は家族である。琴美もそのあたりをちゃんと考えて声をかけていた。
「圭太は、琴絵を起こしてきて」
「了解」
 圭太はそのまま二階へ上がった。
 琴絵の部屋のドアをノックするが、返事はない。
「やれやれ……」
 そっとドアを開けると、部屋の中はまだカーテンが引かれ、薄暗かった。
 ベッドでは琴絵が気持ちよさそうに眠っていた。
「琴絵。そろそろ起きて」
 兄としてはもう少し寝かせてあげたいという想いもあるのだが、そうも言っていられない。
「ほら、琴絵」
 軽く肩を揺すりながら声をかける。
「……ん……」
 眠りを邪魔され、眉間にしわを寄せる琴絵。
「琴絵」
「……ん、おにいちゃん……?」
「そうだよ」
「わあ、おにいちゃんだぁ」
 琴絵は、そう言って圭太にしがみついた。
「こら、琴絵」
「おにいちゃぁん」
 鼻にかかるような甘ったるい声。
「ほら、しゃんとする」
「あうっ」
 ピシッと額を叩く。
「ううぅ、お兄ちゃんのいぢわるぅ」
「いぢわるでいいよ。ほら、起きる」
「その前に、はい」
 琴絵は目を閉じて、なにかを待つ。
「しょうがないな」
 圭太はそれに応え、キスした。
「うん、これでよし」
 ようやく頭が働いてきたのか、表情もいつものものに戻ってきた。
「おはよ、お兄ちゃん」
「おはよう」
 圭太は、思い切りよくカーテンを開け放った。
「今日もいい天気だね」
「そうだよ。だから、琴絵もさっさと着替えて下に下りてくること」
「はぁい、わかりましたぁ」
 圭太が一階に戻ると、ダイニングのテーブルには、おせち料理が並んでいた。
「琴絵、起きてた?」
「いや。だから起こして、今は着替えてる」
「あの子、一番先に寝たのに、起きるのは最後なんてね」
 少し愚痴が出ている琴美に、圭太は苦笑するしかなかった。
 
 おせちを食べて、のんびり過ごしているうちに、お昼をまわった。
 朝食自体遅めだったことと、おせちだったのでいつもより多めに食べていたので、昼食はなしにしようということになっていた。
 だから引き続きまったりしていると、玄関のインターフォンが鳴った。
「来たみたい」
 時計を確認して、柚紀はそう言った。
 応対に出たのは、圭太と柚紀。
「こういう時は時間通りなのね」
「開口一番がそれとは、やるわね、柚紀」
 やって来たのは、笹峰家の面々。
「圭太くん、あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます」
「今年もいろいろよろしくね」
「はい」
 咲紀は、圭太の前ではいつもにこやかで機嫌がいいが、今日はいつも以上だった。
「あ、車は止められましたか?」
「ええ、大丈夫よ。今、お父さんが車庫に入れてる」
 高城家に車はないが、かつて車があったので車庫がある。
「あ、ここではなんですから、上がってください」
「ありがと」
 圭太は、三人を客間に通した。
 お茶を出して、まずは新年の挨拶を交わす。
 それが本来の目的ではあるのだが、真紀は別としても、光夫と咲紀はそれ以外の方が目的のようである。
 琴美と光夫、真紀の間で大人の話が交わされている間、圭太たちはリビングに場所を移し、子供だけで話をしていた。
「どう、圭太くん。柚紀はちゃんと尽くしてくれてる?」
「ん、どうでしょうかね。特にそれまでと変わってないと思いますけど」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「私は、結婚前から圭太に尽くしてたんだから、変わるわけないでしょ?」
 柚紀は、なにを今更という感じでそう言う。
「でも、心境は違うでしょ?」
「それは当たり前よ。単なる彼女と妻では、大きな違いよ」
 実際のところ、まだ結婚して一週間しか経っていないので、そこまでの実感はない。それはとりもなおさず、柚紀がこの高城家に深く浸透していたからでもある。
 そこにいるのが当たり前の状況だったので、柚紀の立場が変わったとしても、心境的には大きな差はなかった。
「琴絵ちゃんは、柚紀がお義姉さんになって、どう?」
「えっと、単純に嬉しいです」
「へえ、そうなんだ。私はまた、大好きなお兄ちゃんを取られちゃったから、複雑な心境かと思ってたわ」
 なかなかに鋭い。
 琴絵の本心としては、まさにその通りである。
「お姉ちゃんはどうなの?」
「ん、なにが?」
「私がお嫁に行って、そりゃまだ家を出たわけじゃないけど、それでもそれに近い状況なわけでしょ。家にはお父さんたちと三人だけになって、お姉ちゃんも心境の変化はあったのかなって思って」
 柚紀の言ももっともである。彼氏もいない状況だったら別だが、咲紀には彼氏がいる。となれば、今すぐということはないにしても、多少の心境の変化はあるかもしれない。
「ま、柚紀の言いたいことはわかるけどね。でも、一週間やそこらでそんな簡単に考えは変わらないわよ。だって、柚紀は結婚前からしょっちゅう家にいなかったからね」
「そんなものなのかな。どう思う、圭太?」
「いや、それを僕に訊かれても困るんだけど」
「そうよ。圭太くんに訊いてもわかるわけないでしょ」
「そんなことないと思うけどなぁ……」
 柚紀は少し不満そうである。
「前から思ってたんだけど、なんで柚紀はそんなに私を結婚させたがるの?」
「そんなの決まってるじゃない。圭太に余計なちょっかい出さないようによ。いくらお姉ちゃんでも、人様の奥さんになったらさすがに余計なことしないと思って」
「……あんたは、自分の姉のことをなんだと思ってるのよ」
 呆れ顔の咲紀。
「だけど、理由はそれだけじゃなかったんだよ」
「そうなの?」
「まあ、今となってはその理由はよくなっちゃったんだけどね」
「それってなに?」
「ん、お姉ちゃんがさっさと結婚してくれれば、私がお父さんたちにあれこれ言われなくなると思って」
「ああ、そういうこと。なんだ、結局自分のことじゃない」
「当たり前よ。どうしてお姉ちゃんのことをそこで考えなくちゃいけないのよ。自分のことを最優先にするのは当然のことでしょ」
 なかなか厳しい意見である。
「まったく、どうしてあんたはそうひねくれてるのかしらね。我が妹ながら、本当に不思議だわ」
「お姉ちゃんほどじゃないけどね」
 柚紀と咲紀のこのようなやり取りは、圭太にとっては見慣れたものだが、琴絵にとってはそうではなかった。
「……ね、お兄ちゃん。いつもこんな感じなの?」
「……ん、まあ、そうだね。でも、これでもふたりはとても仲が良いんだよ。ちょっと素直になれてないだけでね」
「……ふ〜ん、そうなんだ」
 琴絵にとっても、咲紀とはこれから長いつきあいとなる。そのつきあいの上で、その人となりを知っておくのは、大事なことである。
「ところで、圭太くん」
「あ、はい、なんですか?」
「圭太くんは、お店の跡を継ごうと思ってるのよね?」
「はい、そのつもりです」
「じゃあ、柚紀はなにをどうするつもりなの?」
「どうするって、なにが?」
「だから、なにも考えずに、圭太くんと一緒にお店をやるのかってこと。もちろん、それはそれでいいと思うわよ。でもさ、それって流されただけじゃないのかなって思ったのよ。様々な選択肢が存在してたのかなってね」
「…………」
「圭太くんはきっと、いろいろ考えたんだと思うわ。圭太くんくらい優秀なら、まわりからもあれこれ言われただろうし。言われれば当然それがいいことなのか、悪いことなのか、後悔しないことなのか考えたと思う。じゃあ、柚紀はどうなのってこと。大学へ行かないというのは、まあいいわ。大学なんて確かにやりたいことがなければ行くだけ無駄だと思うから。だけど、それも基本的には圭太くんにあわせてのことでしょ。そこにあるあんたの意志は、圭太くんと同じ道を選んだ、ということだけ。これから先の長い人生、それで本当にいいかなって思って」
 咲紀の言葉には、とても重みがあった。それは、柚紀の姉として妹のことを本当によく考えている証拠でもあった。
「あ、別に今すぐどうこうしろってわけじゃないのよ。ただ、三月には高校も卒業するわけだし、もう一度くらいそういうことを考えてもいいんじゃないかと思っただけ」
 ちょっと余計なことだったかな、と言って咲紀は苦笑した。
 言われた柚紀は、少し俯き、考え込んでしまった。
「ねえ、琴絵ちゃん」
「あ、はい」
「ちょっと琴絵ちゃんに聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「別に構いませんけど」
 突然話題が変わり、しかも自分に振られたので、琴絵は少し面食らっている。
「そ。じゃあ、ちょっと場所変えようか。圭太くんのことだから」
 咲紀は、圭太に軽くウィンクした。
「それじゃあ、私の部屋に行きましょう」
「うん」
 琴絵と咲紀がリビングを出て行くと、圭太は早速柚紀に声をかけた。
「咲紀さんの言いたかったことは、わかる?」
「それはね。ようするに、お姉ちゃんの意見も考え方のひとつだってことでしょ。なにもその通りにすることはないけど、そうした方がいいかもしれない。ということ」
「さすがは柚紀だね。僕がフォローすることなんてないよ」
 咲紀は、圭太に柚紀のフォローを頼んだのである。まあ、琴絵にあれこれ訊きたいというのもウソではないのだろうが。
「でも、ちょっと痛いところを突かれちゃったかも。私ももう少しいろいろなことを真剣に考えないといけないね。圭太の妻になって、春には母親になって。流されるだけ流されてたら、後悔しないとは言い切れないから」
「それがわかってるなら大丈夫じゃないかな。僕はそう思うよ」
 そう言って圭太は、柚紀に微笑みかけた。
「あと、柚紀ならわかってるとは思うけど、ひとりで考えて詰まったら、いくらでも僕に訊いてくれていいんだからね。柚紀のやることは、僕にも関係あるんだから」
「うん、わかってる。そうなったら圭太を頼るよ」
 柚紀は頷いてから圭太に寄り添った。
「私のまわりにはどうしてこうもおせっかいで、しかも頭の回転の速い人ばかりいるのかしら。しょっちゅう痛いところを突かれちゃう」
「それは僕もそう思うよ。僕なんか、柚紀以上にそういうことが多いから」
「それだけ気にかけてもらってるってことなんだよね」
「うん。ありがたいと思わなくちゃ」
 いろいろ言ってもらえることは、本当にありがたいこと。それは、柚紀も十分理解していた。
「とりあえず、一緒に暮らせるようになったら、真剣に考えてみる」
「そうだね」
 これから先は線路が引かれていないからこそ、考えなければならない。
 圭太も柚紀も、そのことを改めて自覚していた。
 
 二
 一月二日は、前日と打って変わってどんよりとした低い雲に覆われていた。
 朝はその分厚い雲のおかげで気温が下がらなかったが、日中は逆に太陽が遮られて気温が上がらなかった。
 もっとも、初詣や年始の挨拶まわり、初売りにでも出かけなければ特に外に出る必要はないので、暖かい家にいればそれは関係なかった。
 高城家では、朝から前日以上にまったりとした時間を過ごしていた。
「はい、ココアよ」
「ありがとう」
 柚紀は、圭太の前にココアの入ったカップを置いた。
「琴絵ちゃんも、はい」
「ありがとうございます」
 琴絵の前にも置いて、最後に自分の分を置く。
 今、リビングにはその三人しかいなかった。琴美は、近所へ年始の挨拶に行っている。
「今日はなんかすごくのんびりしてるね」
「まあね。いくら正月でも、こういう日もないと」
 前日は笹峰家の面々がやって来ていたこともあって、それなりに慌ただしい元旦だった。さらに圭太は夕方に三ツ谷家にも出向いている。これは、祥子との約束を守ったものだった。
 だから、特に誰か来ると決まっているわけではないこの二日は、本当にのんびりしていた。
「でも、あれかしら」
「ん?」
「お昼を過ぎた頃から、みんな来るかな?」
 過去二年を見ると、確かに正月二日に高城家へやって来る圭太の関係者は多い。柚紀自身もそうだったのだから、余計にそう思っている。
「さあ、どうかな。こればかりはなんとも言えないよ。家の方でなにか予定があれば、無理だろうし」
 それぞれとしては、圭太のことを最優先にしたいのだが、さすがに正月くらいは家を優先しないと様々な問題が発生してしまう。そういう無用な争い、諍いを避けるためにも、なるべく家のことを優先してほしいと、圭太もそれぞれに言っていた。
「ん〜、まず間違いなく来るのは、ともみ先輩と幸江先輩。先輩たちは昨日の初詣に参加できなかったからね」
「その代わり、ということですか?」
「そういうこと。で、紗絵ちゃんと詩織もたぶん来る。紗絵ちゃんは確実かな。家も近いし」
「そうですね。先輩は去年も来てましたから」
「で、読めないのが凛よね。本人は是が非でも来たいはずなんだけど、家の状況がわからないということと、凛が受験生だということで、明日も出かけることを考えると、正直微妙な感じ」
「なるほど」
 柚紀の推理というか想像に、琴絵は感心したように頷いた。
「圭太はどう思う?」
「そうだね、たぶん柚紀の言う通りだと思うよ。凛ちゃん以外は来るんじゃないかな。ああ、祥子も来ないかもしれないけど」
「そうすると、午後は賑やかになりそうだね、お兄ちゃん」
 そして午後。
 午前中の予想通り、高城家には次々に来客があった。
 最初にやって来たのは、紗絵だった。そのすぐあとにやって来たのは、ともみ。ほぼ同時に詩織。幸江もやって来てこれで終わりかと思っていたら、凛もやって来た。
 そんなわけで、高城家は午前中とは正反対に、とても賑やかになっていた。
「祥子は来ないのね」
「たぶん、家から出られないんですよ」
「どうして?」
「昨日挨拶に行った時もそうだったんですけど、家族揃って琴子を構いたがっていて。今は休みなので、心おきなくできるじゃないですか」
「なるほどね。いくら圭太に会いたくても、まさか琴子ちゃんを置いてくるわけにもいかないからね」
 ともみは、祥子だけ来ていない理由に納得したようである。
「それにしても、もうこういう光景も普通になってきてるわよね」
「ただ単に集まってるだけならいいんだけど、集まってる理由が圭太だから」
「それでこれだけ和気藹々としてられるんだから、本当に不思議だわ」
 ともみと幸江は、しみじみとそう言う。
「そういえば、先輩たちは成人式ですよね、もうすぐ。やっぱり、振り袖とか着たりするんですか?」
「ああ、まあ、私は着せられることになってるわね」
 ともみはイヤそうに言う。
「イヤなんですか?」
「イヤ、というわけじゃないの。ただ、なんていうか、無理矢理感がイヤでね。私はほら、ひとりっ子だからとにかく両親がそういうことに関して過剰までに干渉してくるの。私だって綺麗な振り袖を着てみたいとは思うけど、それを無理矢理着せられるのは、さすがにちょっとね。なんか、小さい頃の七五三みたいな気がして」
「ともみ先輩らしい理由ですね」
 柚紀はなるほどと頷いた。
「幸江先輩はどうですか?」
「私も振り袖着るわよ。と言っても、私のじゃなくて親戚のを借りてなんだけどね」
「へえ、そうなんですか」
 やはり、成人式はそれぞれの中でも一大イベントのようである。
「あ、そっか。柚紀は成人式に振り袖着られないのよね」
「えっ? ああ、そうですね。厳密に言えばそういうことになりますね」
 振り袖は、基本的には未婚の女性が着るものである。すでに結婚している柚紀は、その定義から言えば着られないことになる。
「でも、着ちゃいけないってわけでもないですからね。その時になったら考えてみます」
 程度の差はあれ、世の女性にとっては振り袖のような綺麗な着物は、一度は着たいと思うだろう。ましてや、柚紀はそういう想いが強い方である。結婚したとはいえ、できれば着たいと思っているのも当然である。
「圭太はどう思う? 柚紀の振り袖姿、見てみたい?」
「そうですね。見たいですよ」
 柚紀の着物姿自体はすでに見たことのある圭太だが、そういう特別な時に着るとまた違う感慨がある。
「じゃあ、二年後に着ることは確定かしらね」
 そう言ってともみは笑った。
「ああ、そうだ。ひとつ忘れてました」
「ん、なにを忘れてたの?」
「甘いものを作ったんですけど、食べますか?」
「もちろん」
 圭太の言葉に、全員即座に頷いた。
「じゃあ、少し待っててください」
 圭太はそう言って席を立った。
「けーちゃん、なにを作ったの?」
「ん、ケーキよ、ケーキ。たぶんみんなが来るだろうからって、作ってたの」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「あまりの手際のよさに、私なんかなんにも手伝うことなかったけどね」
 柚紀は、それが不満なようだ。
「だけど、そういうのを思い立ってすぐに作れちゃうところが、けーちゃんのすごいところだよね。普通、女の子だってそう簡単には作れないと思うけど」
「まあね」
 それから少しして、圭太はトレイに切り分けたケーキを載せて戻ってきた。
 それぞれの前にケーキが置かれると、ケーキ作りを見ていた柚紀と琴絵以外から例外なくため息が漏れた。
 それは、そんなため息が漏れるほど完成度の高いケーキだったからである。果たしてこの中でそのケーキと同等のものを作れる者がどれだけいるか。
 ケーキは、パンプキンケーキだった。
 味の方は、それぞれの反応を見ればすぐにわかった。
「圭太がこうしてなんでも作れるのは、誰の影響なの?」
「別に影響ということはないですけど。でも、そうですね。父さんみたいになんでもできるようになりたいとは思ってましたし、今も思ってます」
 それは圭太の今を形作っている重要な要素だった。
 祐太が亡くなり、自分がその代わりをやらなければいけないという想い。もともとそういう素養もあったことも、よりいっそうそういう想いに拍車をかけたのかもしれない。
「今もそうですけど、喜ぶ顔が見たいんです。喜んでくれさえすれば、僕はそれでいいんです」
「ホント、欲がないわね」
 確かに、欲がない。
「だけど、そうすると柚紀は大変よね」
「なにがですか?」
「常にそんな圭太を目の当たりにしなくちゃいけないわけだから」
「そんなこと、もうずいぶん前にわかってますよ。そして、必要以上に意識しすぎてもダメだってこともわかってますから」
 柚紀も、圭太とのつきあいが長くなってきて、そういうこともいろいろと学んでいた。
 もし、今の柚紀の立場にこの場にいるメンバーがいたとしたら、果たしてどういう状況になっていたか、ということも興味がある。
 普通に考えれば、柚紀と同じように接するのはかなり難しいと言わざるを得ない。
 そういうことから考えても、圭太の彼女、妻は柚紀がベストということになる。
「それにしても、ホントに美味しいわ」
「いくらでも食べられる感じですよね」
「だからって食べ過ぎると、すぐに出てきちゃうから」
 ケーキひとつで和気藹々となれるなら安いものだと、圭太は改めて思っていた。
 もっとも、そこには多少の打算があるのも事実である。その打算とは、みんながケーキに夢中になって、圭太に対する意識が多少なりとも遠のけば、というものである。
 基本的には圭太を尊重してくれる面々ではあるが、ちょっと羽目を外すと途端に圭太をいぢりたがる面々である。それを圭太は警戒しているのである。
 それもある意味では愛情表現のひとつなので甘んじて受けてはいるのだが、できればあまりあってほしくないと考えていた。
 今のところ、その作戦は成功していた。
「ところで、今年もゲームでもしない?」
「ゲーム、ですか?」
「そ。圭太を賞品にしたゲーム」
 が、世の中はそこまで甘くなかったようである。
 結局、状況は去年と変わってないどころか、今年は人数が多いので悪化してるとも言えた。
 圭太はただただため息をつくしかなかった。
 
 その日の夜。
 ちょうど夕食が終わった頃に電話がかかってきた。
 電話の相手は、鈴奈だった。
 電話の内容がある程度わかっていたので、圭太は子機を持って自分の部屋に戻った。
 電話自体は前日にもあったのだが、その時には新年の挨拶だけに留めていた。
『いつも思うんだけどね、こうして顔を見ないで話してると、言いたいことが言える場合と言えない時があるんだよね』
「確かにそうかもしれませんね」
『今は、圭くんの顔を見て話したかったな』
 それは鈴奈の本心だった。
『ごめんね、いきなり愚痴っちゃって』
「いえ、気にしてませんから。それに、少しは鈴奈さんの気持ち、理解してるつもりです。それから考えれば、こうして顔の見えない状況で話すよりも、顔を見て話したくなるのは当然です」
『ありがと、圭くん』
 圭太の言葉を聞いて、鈴奈も少し落ち着いたようである。
『詳しいことは明日そっちに戻ってから話すけど、とりあえずは現状維持、という感じかな』
「現状維持、ですか。微妙な言い回しですね」
『母さんはね、姉さんのおかげである程度認めてくれたんだけど、父さんが頑なに認めてくれなくて。ただ、父さんの言い分も結構支離滅裂でね。結局母さんと兄さん、それに姉さんが間に入ってくれて、もうしばらく様子を見ようということになったの』
「なるほど、そういうことですか」
『父さんの気持ちもわかるんだけどね。ただ、やっぱり圭くんのことではどんな些細なことでも妥協したくないの。その些細な妥協のせいで後悔するかもしれないし』
 鈴奈にとっては、なにより大事なのが今の圭太との関係である。その関係を続けることを前提として、その後のことを考えている。だから、相手が自分の父親であっても、妥協できない、譲れないことがある。
『ね、圭くん』
「なんですか?」
『私、今のままでいいのかな?』
 それは、とても重い問いかけだった。
「……その質問に対する答えは、明日でもいいですか?」
『あ、うん、いいよ、それで。ごめんね、また余計なこと言っちゃって』
「いえ。僕にならいくらでも言ってください。そのために僕はいるんですから」
『うん、ありがと、圭くん』
 圭太の優しい言葉に、鈴奈の声も少しだけ震えていた。
『じゃあ、圭くん。あんまり話してるとますます切りづらくなっちゃうから、そろそろ切るね』
「はい」
『おやすみ、圭くん』
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
 電話を切ると、圭太は小さく息を吐いた。
 自分が引き起こした状況とはいえ、常に後悔しない選択をし続けることは難しい。
 圭太はそれを改めて思い知らされた。
 
 三
 一月三日。
 今年もまたみんなで初詣に行くことになっていた。
 午前中にまず吉沢家の面々がやって来た。
 四日ぶりに圭太に会えた朱美は、圭太の顔を見るなりいきなり抱きついていた。それを淑美にたしなめられるといういつもの光景もそこにはあった。
 挨拶を終え、少しした頃に圭太たちは家を出た。
 まず向かったのは三ツ谷家である。
「そういえば、三人は行ったことあったっけ?」
「私はないけど」
「私はあるよ。一回だけだけど」
「私もないよ」
 三人の中では、琴絵だけが三ツ谷家に行ったことがあった。
「じゃあ、柚紀と朱美は見たら驚くかもね」
 三ツ谷家に着くと、圭太の言った通り、柚紀と朱美は驚いていた。
「ふえぇ、こんなに大きな家だったんだ」
「まあね。三ツ谷家と言えば、このあたりでは知らない人はいないくらいの名士だから」
「先輩って、正真正銘のお嬢様だったんだね」
 話としてはお嬢様だと理解していたふたりだったが、この大きな家を見て、改めて再確認していた。
 インターフォンを鳴らすと祥子本人が出た。
 すぐに用意して出てくるということだったので、四人は門のところで待つことにした。
 しばし待つと、祥子が琴子と一緒に出てきた。
「あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
「今年もいろいろよろしくね」
「はい」
 祥子は、圭太のために抱っこひもを用意していた。
 圭太はそれを借りて、早速琴子を抱っこした。
「あ〜、あ〜」
「こらこら、そんなに叩かない」
 琴子は、圭太に抱っこされた途端、それはもうご機嫌になった。すぐ側に圭太の顔があるので、その頬やあごをペチペチと叩いている。
「今日も琴子ちゃんは元気いっぱいだね」
「大好きなパパと一緒だから」
 普段は誰か特定の人物が圭太を独占しているとすぐ嫉妬する面々だが、琴子が相手ではさすがにそういうことはなかった。
 圭太たちは、そのまま大通りまで出て、そこからバスに乗った。
 バスで駅前に出る。
 駅前は、普段より人は少なめだが、初売り目当ての人が結構見受けられた。
 待ち合わせは改札前で、圭太たちが到着した時には、すでにともみと幸江、それに紗絵が来ていた。
 詩織と凛がまだ来ていなかったが、まだ時間前なので問題はなかった。
 しばらくしてふたりとも来たので、予定通りの電車に乗り込んだ。
 去年は電車の中で鈴奈と落ち合ったのだが、どこへ行くか決まっているなら先に行って待ってるということになり、今年は現地で会うことになっていた。
 電車の中では、とにかく琴子が元気いっぱいではしゃいでいた。大好きな圭太とあまり乗らない電車とに興奮していたようである。
 目的の駅に着くと、改札の外で鈴奈が待っていた。
 鈴奈はすでに荷物をコインロッカーに預けており、すぐに神社に迎える状況だった。
 時間がもったいないということもあって、それぞれの挨拶もそこそこに神社へ向かった。
 神社への道は、一行と同じように初詣に向かう人もちらほら見受けられた。とはいえ、それもそんなにいない。大半は駅前へ向かう人の流れである。
「電車は混んでましたか?」
「それなりかな。午前中だったからまだまし。これが午後だったらすごい混雑だっただろうけど」
「そうですか」
「こうしてみんなと初詣に行くって決めてなければ、午後から帰ることになってただろうから、私としてはすごく助かってるんだよ」
 そう言って鈴奈は微笑んだ。
「鈴奈さん。今年は雪はどうだったんですか?」
「今年は例年並みかな。特別多くもなく、少なくもなくって感じ。ただ、私がいた間はちょっと寒かったけどね」
「じゃあ、こっちと差があって大変だったんじゃないですか?」
「ちょっとだけね。まあ、向こうではほとんど家から出なかったから、あまり大きなことは言えないけど」
「なるほど」
 神社にはそれなりの初詣客がいた。やはり天気がいいからなのだろう。
 短いが、拝殿の前には列ができていた。
「圭兄は、なにをお願いするの?」
「そうだなぁ、とりあえず今年も一年間無事に過ごせますように、かな」
「それだけなの?」
「あとは、吹奏楽部のみんながいい演奏していい結果を残せますように、かな」
 基本的には自分のことよりも人のことを優先する圭太。そういうことを簡単に言え、できるのが圭太のよさでもある。
 順番がまわってきて、圭太たちもそれぞれにお参りする。
 圭太は、自分のお参りを済ませると、琴子にもお賽銭を持たせ、真似事ではあるが、お参りの格好だけはさせていた。
 琴子としては、もちろんなにをさせられているか理解していないのだが、圭太があれこれ構ってくれてとても楽しそうだった。
 全員が終わると、恒例のおみくじである。
 ここでも圭太は琴子におみくじを引かせた。
「お、琴子。大吉だぞ」
「あ〜」
「よかったわね、琴子」
 さすがに元旦の初詣の時みたいに、柚紀と凛は言い争いはしなかった。
 初詣を終えると、これからどうするかということで話し合いが持たれた。
「去年みたいに、駅前のどっかで適当に過ごす?」
「それはそれでいいと思うんですけどね」
「やっぱり問題は、正月の三日だとやってる店が少ないということですよ。どこかに行きたくてもやってない可能性がありますから」
「そうね」
「じゃあ、やっぱり去年と同じ?」
「それが無難かも」
 で、結局去年と同じように、駅前のファーストフード店で過ごすことになった。
 二階の一画を占拠し、まずは遅い昼食となった。
 ここで圭太の隣を巡ってそれなりに激しい戦いがあったのだが、結局柚紀と祥子が両隣となることで妥協された。
「さて、そろそろ恒例のやついきますか」
 食事もひと段落したところで、ともみがそう言った。
「今年はどんな目標を聞かせてもらえるのか、楽しみだわ」
「あんたも言うんだから、そんな上から目線で言うな」
「じゃあ、まずは順番を決めましょ」
「……さらっと無視してるし」
「ジャンケンだとほかの人の迷惑になりそうだから、クジにしましょ」
 そう言って持っていたペンで、トレイに載っていた紙の裏を使い、クジを作った。
「さ、恨みっこなしで」
 全員がそのひとつをつかむ。
「せーの……」
『せっ!』
 一斉にそれを引いた。
「それじゃあ、そのクジの順番通りに発表といきますか。一番は?」
「はい、私です」
 一番クジは、琴絵だった。
「じゃあ、まずは琴絵ちゃんから」
「はい。えっと、今年の目標は、勉強をもう少しがんばることと、部活で納得のできる結果を残すこと、それと、お義姉ちゃんになった柚紀さんにお兄ちゃんを独り占めされないようにすることです」
「おお、最後のはなかなかいい目標ね。是非とも達成してほしいわ」
「がんばります」
 二番は、祥子だった。
「私は、少し遅れ気味な勉強を巻き返しつつ、琴子の世話も両立させることですね。やっぱりそれができないと、意味がないですから」
「さすが、母親になると意気込みまで違うわね」
 三番は朱美。
「私の目標は、まずはとにかく全国大会に出ることです。今年は、最後の年ですから。あと、受験勉強も少しはがんばろうかな、と」
「少しじゃなくて、しっかりがんばらないとな」
「むぅ、圭兄は厳しすぎるの」
 四番はともみ。
「私は、成人したこともあって、もう少し先のことを見据えていろいろなことに取り組もうと思ってるわ。もちろん、圭太の側にいながら、というのが大前提にはなるけど」
「その前提をまずは外して考えた方がいいんじゃないの?」
「それじゃあ、私の存在意義がなくなってしまうもの」
 五番は紗絵。
「今年は、とにかく去年までの先輩たちの活躍に泥を塗らないように、でも、自分たちにできることを精一杯がんばりたいです」
「さすがは部長。言うことが違うわね」
 六番は幸江。
「今年は、そうね。とりあえず、いろいろなことに挑戦する一年にしたいわね」
「なんか、えらく広い目標ね」
「目標だから。結果がついてくるかどうかわからないけどね」
 七番は詩織。
「私は、まずは部活を精一杯がんばります。あと、少し気が早いかもしれませんけど、秋に引退したら、ピアノももう一度がんばろうと思ってます」
「お、またピアノに本腰入れるの?」
「はい」
 八番は凛。
「あたしは、とにもかくにも、大学合格。これだけ。それ以外の目標は、その目標が達成された暁に考えるということで」
「永久に達成されなかったりして」
「柚紀、あんたはいつもひと言多いのよ」
 九番は柚紀。
「今年の目標は、なんとかして結婚式を挙げることです。今のままだとかなり厳しいので、かなりの試行錯誤が必要だとは思いますけど」
「確かに、ジミ婚でもそれなりにかかるって聞くしね」
 十番は鈴奈。
「私は、もう少しいい先生になるために、努力を続けること。今年もまだ担任にはなれないから、その時間も使ってがんばらないと」
「鈴奈さんなら、絶対にいい先生になれますよ」
「ありがと」
 最後は、やはり圭太。というか、圭太の分のクジはなく、最後に言うことは最初から決まっていた。
「最後は僕ですね。そうですね、改めて目標と言われると今年は少し困りますね」
「そうなの?」
「今年の場合は、目標というよりも、絶対にクリアしなければいけないノルマみたいなものが多いですから」
「ノルマ?」
「ええ。近いところだと、一高を無事卒業しなければなりませんし」
「それは圭太なら皆無の問題でしょうが」
 確かにそうである。
「あとは、柚紀と春に生まれてくる子供、それと琴子のために、確実に次の一歩を踏み出さないといけないので。もちろん、焦って失敗することもあるので、じっくり考えてからにはなりますけど」
「そっか」
「まあ、そういうものをあえて抜かして考えるなら、目標は今年はみんなに心配をかけない、というのでどうでしょうか。去年は図らずもみんなに迷惑をかけてしまったので」
「それは、是非ともなんとかしてほしい目標ね」
「あの時は本当にこの世の終わりって感じでしたからね」
「ほかにもいくつか目標にできそうなことはありますけど、それは僕の中だけに留めておきます」
 そう言って圭太は締めくくった。
「さて、目標の発表も終わったし、次はどうしよっか?」
 それぞれもう食事もあらかた終わっている。時間もお昼をまわっているとはいえ、それほど遅いわけではない。
「そういや、祥子」
「はい、なんですか?」
「琴子ちゃんて、多少騒がしいのとかって平気?」
「程度にもよりますけど、問題はないと思いますよ。特に今は、圭くんが抱いてくれてますから」
「そっか。じゃあ、みんなでカラオケなんてどう?」
「あ、いいですね」
「新年早々、パーッと騒げるのはいいですね」
「よし、じゃあ、カラオケに決まり」
 というわけで、一行はファーストフード店を出て、いったん駅へ。
 時間を効率的に使おうということで、カラオケは地元に戻ってからということになった。
 地元に戻ってくると、早速駅前のカラオケ店に入った。
 新年早々ではあったけど、客の入りはまずまずのようだった。
 圭太たちは比較的大きめの部屋を用意してもらった。
「じゃあ、まずは、平等に一曲ずつ。一巡したら、あとは各自好きな歌を」
 和やかな雰囲気ではじまったのだが、一巡したあとは、それぞれが圭太とデュエットしようとして、それはもう大変だった。
 とはいえ、そこにいた全員がとても楽しそうだったので、よかったのかもしれない。
 笑う門には福来たる、ということで。
 
 暗くなる前にカラオケ店を出た一行は、そのまま駅で解散ということにした。
 とはいえ、基本的に向かう方向は同じなので、バスも途中までは一緒だった。
 今日は柚紀も一度家に帰ることになっており、かなり名残惜しそうに帰って行った。
 圭太たちも鈴奈と一緒に帰ってきた。
 客間では、吉沢家の面々と琴美がアルコールも入りながら、楽しそうに話していた。
 鈴奈は、新年の挨拶とおみやげを置いていったん自分の部屋に帰った。
 そして陽もとっぷりと暮れた頃、吉沢家の面々も朱美を残して帰ることになった。
「それじゃあ、朱美。いくら冬休みだからって、あまり遊びほうけてるんじゃないわよ。まだ宿題だって残ってるんだから」
「わかってるよ。それに、宿題はもう明日には終わるんだから」
「どうだかね」
 朱美と淑美は、最後の最後までそんなことを言っていた。
「じゃあ、姉さん。今度は姉さんたちがうちに来て」
「そうね。いろいろ落ち着いたらそうさせてもらうわ」
「その時は、うちの人を迎えに寄越すから」
 そう言って淑美は笑った。
 三人が帰ってしまうと、途端に家の中は静かになった。
「母さんもずいぶんと飲んだみたいだね」
 圭太は、後片づけを手伝いならそんなことを言った。
「久しぶりだったから、ついね」
「たまにはいいんじゃないかな。うちはみんな未成年で誰も母さんの相手ができないから。母さんだって、飲みたくなること、あるでしょ?」
「それは、たまにね」
「だったら、なおのことよかったんじゃないかな。ただ、母さんと淑美叔母さんの間に挟まれて、亮一叔父さんは大変だったろうけどね」
「あら、それはどういう意味かしら?」
「さて、どういう意味だろうね」
 そう言って圭太は笑った。
 それから夕食の支度をして、いつもより少しだけ遅めの夕食となった。
 食事の間中、朱美は家にいなかった間のことを圭太に聞かせていた。
 夕食後、まだ話し足りなそうな朱美をなんとかなだめて、圭太は家を出た。
 陽が落ちるとかなり寒く、さすがの圭太も若干背中が丸まっていた。
 歩くこと約五分。目的の場所へと到着した。
 マンションの三階へ上がり、目的の部屋のインターフォンを押した。
「いらっしゃい、圭くん」
 すぐに鈴奈が出迎えてくれた。
「寒かったでしょ。入って入って」
「おじゃまします」
 部屋の中はとても暖かかった。
「あ、これ、母さんからです」
「うわあ、ありがと」
「寒いからってふかし芋です。来る直前にふかしていたので、まだ温かいはずです」
「ホント、琴美さんてそういう気配りがすごいよね。私ももっと見習わなくちゃ」
 そう言って鈴奈は、早速タッパーを開けた。
 開けた途端、湯気がふわっと上がった。
「ん〜、これだと、お茶の方がいいかな。ちょっと待っててね」
 お湯は沸かしていたらしく、急須と湯飲み、茶葉を用意している。
「そうそう。そこにある袋の中に、実家からもらってきたお菓子が入ってるから、好きなのを食べていいよ」
 テーブルの脇には、確かに袋があった。中を見ると、せんべいやクッキーなどのお菓子がたくさん入っていた。
 あまりにもたくさんあったのでどれにしようか迷った圭太だったが、結局お茶にあうものということでせんべいを選んだ。
「お待たせ」
 熱いお茶が圭太の前に置かれた。
「じゃあ、早速いただきます」
 鈴奈は、まだ熱々の芋を手に取って頬張った。
「はふはふ……ん、甘くて美味しい」
 満面の笑みを浮かべる鈴奈を、圭太はとても優しい眼差しで見つめていた。
「ん、どうしたの?」
「いえ、たいしたことじゃないです」
「そういう風に言われると、余計に気になるよ」
「えっと、美味しそうに食べている鈴奈さんを見て、僕もとても穏やかな気持ちなれたので、改めて鈴奈さんの側にいると僕は安心できるんだと思っていたんです」
「そっか。うん、そっか」
 そういう風に言われれば、やはり嬉しい。鈴奈は、その嬉しさを隠しきれない様子で、芋を頬張った。
 芋とお菓子を食べながらお茶を飲み、しばしまったりと過ごす。
「じゃあ、どこから話したらいいかな?」
 鈴奈は、湯飲みをもてあそびながらそう言った。
「どこからでも、好きなところから話してください」
「そう言われちゃうと、困っちゃうんだけどなぁ」
「じゃあ、経過と結果を改めてお願いします」
「うん」
 鈴奈は小さく息を吐いた。
「私ね、帰ったその日のうちに、両親と話をしたの。どうせふたりとも私がそのために帰ってくることを知ってたわけだから、変に後回しにする方がお互いにメリットは少ないと思ってね。それで、とりあえずはどうなっているのかを説明して、その上で私がいかに圭くんのことを大事に想っているか、話したの。母さんは比較的好意的に受け取ってくれたんだけど、父さんはもう最初から否定する気でね。とにかく話は平行線だったわ」
 圭太も、そうなってしまう理由が理解できるので、なにも言えない。
「で、その日はそれ以上話しても無駄だろうってことになって、いったん棚上げ。改めて話したのは、次の日。今度は兄さんと姉さんも一緒にね。そこでも私は同じことを繰り返したの。だって、私にはそれがたったひとつの道なんだから。でも、父さんはやっぱり聴く耳を持ってくれなくて。結局、母さんたちがなんとか間を取り持ってくれて、それでかろうじて現状維持ということになったの」
「なるほど」
「父さんの気持ちももちろんわかるのよ。自分の娘が、父さんから見れば報われない恋をして、報われない状況にあるわけだから。それでそう簡単に認めてしまう方が、親としては問題だし。ただね、それでも話すら聞いてくれないというのは、さすがにどうかと思うのよ」
「それはそうですね」
「だからね、私、言っちゃったの」
「なんてですか?」
「会ったこともない人のことを否定できるくらい父さんは偉いの、って」
「それはまた……」
「そしたら、だったら今すぐここへ連れてこいだの、親に向かってその口の利き方はなんだとか、もうしっちゃかめっちゃかになっちゃって」
「それでもなんとか現状維持で落ち着いたんですね」
「そこだけは譲れなかったから。まあ、父さんも母さんもわかってはいたんだと思うの。私がどんなことを言われても自分の意志を曲げないって。だから、とりあえず形だけは反対したりして、最後は妥協点を探ってできるだけ向こうの望む形に近いところに着地させた。ということ」
「そこまで冷静に考えられるなんて、すごいですね」
 圭太は、心底そう思ってるようだ。
「ううん、すごくないよ。私がそう思えたのは、多少の冷却期間があったからだから。話したその日は、頭に血が上ってもう全然考えられなかったもの。でも、ひと晩寝て、ひとりで考えたら意外なほどすんなりとそういう考えが出てきたの」
「それでもやっぱりすごいですよ。普通はそこまで簡単には辿り着けませんから」
「ん〜、圭くんなら大丈夫な気もするけどね」
 そう言って鈴奈は微笑んだ。
「あ、それに関してなんだけど、夏の姉さんに続いて、今度は母さんがこっちへ来るって言い出したの」
「お母さんがですか?」
「うん。ま、ようするに、私を虜にして、姉さんも認めさせた圭くんに興味があるんだと思うよ」
「はあ……」
「心配しなくても大丈夫だよ。母さんは父さんみたいに話のわからない人じゃないから」
「それはそれでいいんですけど……」
「ほかになにか心配なことあるの?」
「……そうですね、ここはあえて鈴奈さんじゃなくて、お父さんやお母さんの立場から言えば、僕はそこに至った過程はどうあれ、鈴奈さんたちの仲をひっかきまわしてしまったわけじゃないですか。鈴奈さんを抱いたことは後悔してませんけど、それでも申し訳ないという気持ちはあるので」
「そっか……」
 鈴奈としても、圭太がそう思ってしまう気持ちは理解できた。
「でも、圭くん。それはもう今更だよ。私たちはもう戻れないところまで来てしまったんだから。ね?」
「そうですね。本当にそうですね」
 圭太も、納得して頷いた。
「ね、圭くん。以前にも訊いたことあったけど、こういう状況だから改めて訊いてみたいの」
「なにをですか?」
「私も圭くんとの子供がほしいって言ったら、どうする?」
「それは……」
「難しく考えないで。直感で」
「……そうですね。そういうことで言うなら、鈴奈さんとのそういう姿を、想像できます」
「本当に?」
「はい」
「そっか。よかった」
 鈴奈は、心から安心したというように、ホッと息をついた。
「圭くんがいいと思った時でいいんだけど、子供を作るために、エッチしてほしいの」
「…………」
「もちろん、それが簡単なことじゃないことくらい、私もわかってる。それでもね、圭くんとの確かな証がほしいの」
「……少しだけ、考える時間をください」
「うん、いいよ。今の圭くんは、柚紀ちゃんの旦那さまだからね。それは当然だよ」
 鈴奈も、今すぐにどうこうとは思っていない。ただ、同じことを繰り返して、本当に自分がそう思っているんだということを、より確かに圭太に知ってもらうために言ったのである。
「それじゃあ、圭くん。もうひとついいかな?」
「はい」
「これは、昨日からの宿題だけど。私、今のままでいいと思う?」
 その質問に対する答えは、圭太が保留していた。
 それを改めて訊いたのだ。
「そうですね。僕もいろいろ考えてみたんですけど、これはあくまでも僕だけの考えなんですけど」
「うん」
「僕は、今の鈴奈さんが好きなんです。だから、僕は今のままでいいと思います」
「本当にそう思ってる?」
「はい。ただですね、最終的にどうするかを決めるのは、やっぱり鈴奈さん自身です。今のままでいたいと思っても、それはそれでなかなか難しいのかもしれませんから」
 確かに、人は変わろうとするのも難しいが、まったく同じであろうとするのも難しい。
 それは、年齢に関係ない。子供であれば、成長がそれを邪魔するし、大人ならば様々な知識、情報がそれを邪魔するからである。
「どうなったとしても、僕が鈴奈さんを嫌いになることは、ありません」
「圭くん……」
 実際のところ、鈴奈にとって最も重要なのは、そのことだった。
 今のままでいいのかという質問も、結局は今のままの自分を圭太はずっと好きでいてくれるか、という言葉に置き換えられる。
「あ〜あ、本当に私っていつも圭くんに諭されちゃうなぁ。なんか、年上としての自信がなくなっちゃいそう」
「そこまで深く考えなくてもいいんじゃないですか。年上である。年下である。確かにつきあっていく上では重要なことかもしれませんけど、それも絶対のものではありませんから。それに、そういうことは僕だけが認識していればいいんじゃないかとも思うんです」
「どうして?」
「それは、鈴奈さんが僕にとって『お姉ちゃん』だからです。お姉ちゃんはやっぱり年上じゃないと格好がつきませんからね」
 本気なのか冗談なのかわからないが、圭太はそう言って笑った。
「本当に圭くんにはかなわないなぁ。私が難しく悩んでたことも、解決とはいかなくても、かなり気分を楽にしてくれる。頼りきっちゃいけないってわかってはいるんだけど、それでも頼っちゃう。これでもし、突然圭くんがいなくなったりしたら、私は死ぬしかないね」
「そ、それは大げさな気が……」
「全然大げさじゃないよ。至って真面目で、当然のことなの。もし疑うなら、柚紀ちゃんたちにも訊いてみるといいよ。同じ答えが必ず返ってくるから」
「…………」
 圭太の自分に対する価値観と、現在圭太のまわりにいる女性陣の価値観には、それこそ天と地ほどの隔たりがある。それは圭太が圭太である限り埋まらない溝である。
 もっとも、圭太もその溝を積極的に埋めようとは思っていないので、当分そのままの状況が続く。
「結婚したばかりの圭くんに訊くのもなんだけど、何十年も先のことになるけど、もし圭くんよりも柚紀ちゃんが先に亡くなってしまったら、どうする?」
「それは、どのくらいの時に死んでしまったのかにもよりますね。まだ若いと言える頃なら、途方に暮れて、悲嘆に暮れて。年を取ってからなら、それは運命だったんだって受け入れられると思います」
「簡単に受け入れられると思う?」
「……わかりません。ただ、そこで自暴自棄になったりしては、柚紀が悲しむだけですから。それだけはしないように心がけようとは思ってます」
「そっか。わかってはいたけど、圭くんと柚紀ちゃんの絆は、本当に深くて強いよね。だから結婚したんだろうけど」
 改めて確認するまでもないことではあったが、圭太の口から直接聞くと、余計にそう思ってしまう。
「っと、お茶、なくなっちゃってるね。今、新しいの淹れるから」
 鈴奈はそう言って湯飲みを持って立ち上がった。
 圭太はそんな鈴奈の後ろ姿を見つめ、なにか考えていた。
「はい、新しいの」
「ありがとうございます」
 淹れ立てのお茶を一口飲む。
「鈴奈さん。少し、待っててください」
「ん、うん」
 圭太は突然そう言って携帯を取り出した。
 電話帳から目的の番号を選び、そこにかけようとして、やめた。それから別の番号を選び、今度こそかけた。
『もしもし、圭太?』
「あ、母さん」
 電話の相手は、琴美だった。
『どうしたの、わざわざ携帯にかけてくるなんて』
「いや、家の方だとうるさくなりそうだったから」
『ふ〜ん。それで、どうしたの?』
「あのさ、今晩、鈴奈さんのところに泊まろうと思うんだけど」
「えっ……?」
 圭太の言葉に驚いたのは鈴奈である。
『なにかあったの?』
「そういうわけじゃないんだけど。強いて言えば、『姉孝行』かな」
『別に泊まるのは構わないけど、いいの、それで? 明日、柚紀さんと出かけるんでしょ?』
「朝には帰るから大丈夫だよ」
『じゃあ、私が言うことなんてなにもないわ。あなたももう十八でいろいろなことに責任を持って行動しなければいけないんだから』
「うん」
『それにしても、本当にあなたは鈴奈ちゃんに弱いのね』
「否定はしないよ」
『そんなに鈴奈ちゃんのことが大事?』
「大事だよ」
『……まあ、いいわ。あまり甘えすぎないのよ』
「わかってるよ」
 圭太が携帯を切ると──
「いいの、圭くん?」
 早速鈴奈が訊いてきた。
「もう少しお姉ちゃんと一緒にいたいので」
「んもう、そういう嬉しいこと言わないの」
 思わぬ圭太からの『プレゼント』に、鈴奈はとにかく嬉しそうである。
「圭くんは出逢った頃からずっと優しくて紳士的だけど、今は今まで以上に優しいよね。なにかこうしようとか、決めてることってあるの?」
「特にこれということはありませんけど。ただ、そうですね、あの頃と今とでは鈴奈さんに対する僕の想いが全然違いますから。だから、それが鈴奈さんから見ると今まで以上に優しいということになるのかもしれません」
「なるほど」
「あとは、今はとにかく鈴奈さんの笑顔が見たくて、あれこれ考えます。それが結果的にいい方向に進んでいるのかもしれません」
「それは大丈夫なんだけどなぁ」
「どうしてですか?」
「だって、私は圭くんの側にさえいられれば、笑顔でいられる自信があるもの。圭くんと想いを通わせてからは、本当にそうだからね」
 鈴奈がそう言い切れるのは、自分の想いに自信があるということと、圭太も自分のことを想ってくれているという確信があるからだ。それがなければ、さすがにそこまでは言えない。
「だから、圭くんの側にいられなくなったら、きっとダメになっちゃう。自分でもそんなことじゃいけないってわかってはいるんだけど、もうどうにもならないの」
「鈴奈さん」
 圭太は鈴奈の名を呼び、そのまま鈴奈を抱きしめた。
「そういう風に後ろ向きなことを言うの、やめませんか? 僕もそういうことを考えがちですから、気持ちはよくわかります。でも、だからこそ努めてそういうことを言わないようにしようと思ってます。後ろ向きなことを言っても、自分も相手もイヤな気持ちになるだけですから。そう考えてしまうのはしょうがないと思うので、せめて口に出す回数を減らそうと思ってます」
「……そうだね。そうやって少しずつ変わっていかないといけないね」
 鈴奈は圭太の胸の中で頷き、そのままその胸に頬を寄せた。
「私ももう少し年上らしくならないといけないなぁ」
「どうしてですか?」
「だって、このままだと私、年齢だけになりそうだから、年上って事実が」
「だからといって、すぐにどうこうできる問題でもないような気がしますけど」
「そう。そこが問題なのよね。このままだと私は、ますます圭くんの虜になっちゃって、ますます自分が年上であるということを忘れてしまう。そうなってからじゃ遅いと思うのよ。だから、今まだなんとかなるうちになんとかしたいの」
 それは、年上でしかも年の離れている鈴奈にとってはとても重要なことである。
 これがもし鈴奈が圭太の彼女であったなら、そこまでのことは思わなかったかもしれない。
「でも、実際どうするんですか?」
「ん〜、今すぐには思い浮かばないかな。ちょっと時間をかけて考えてみないと」
 確かに、すぐに思い浮かぶことなら、すでに実行していただろう。
「ただね、圭くん。今の状況がイヤなわけじゃないの。むしろ、ずっとこのままでいたいくらい。だって、圭くんよりずっと年上の私が、その年齢差を意識しないで済むんだから。そういうことって、望んだってそうそうないからね」
「そうかもしれませんね」
「それでも、たまには年上らしくありたいから、なにか考えないとね」
「それには僕の協力も必要ですよね」
「圭くんの? ん〜、まあ、そうかもしれないね。でも、圭くんの協力って、なにができるかな?」
「そうですね。たとえば、僕がもっと鈴奈さんを頼るとか。頼られれば、自分は年上なんだって実感できませんか?」
「それはそれであるかもね。だけど、圭くんがそんなに私を頼るようなこと、ある?」
 圭太は、しばし考えた。
 というより、わざわざ考えないと出てこないくらい、そういう状況が思い浮かばないらしい。
「……ううぅ、やっぱり私って年上って感じがしないんだぁ」
「あ、いえ、そんなことは……」
 見た目は年齢相応な鈴奈ではあるが、特に圭太の前ではそう見えにくくなる。それはとりもなおさず、鈴奈が圭太にどっぷりはまっているからである。
 圭太に傾倒すれば傾倒するほど、鈴奈は甘えてしまい、年上らしくなくなる。
「まあ、でもしょうがないね、それも。圭くんは私に頼るまでもなく、なんでもできちゃうから。誰かに頼る前に、自分で解決しちゃうんだよね」
「すみません……」
「ううん、いいの。私も圭くんのそういうところ、理解してるから」
 鈴奈はそう言って今度は自分から圭太を抱きしめた。
「ね、圭くん。一緒にお風呂入ろ」
「えっ……?」
「今日は、泊まっていってくれるんでしょ? だったら、普段できないことをやらないともったいないから」
 笑顔でそんなことを言われてしまうと、圭太に反論する余地や拒否する気持ちはなくなってしまう。
「ね、いいでしょ?」
「……わかりました」
 
 湯船にお湯を張って、準備ができるまではとにかくべったりくっついていたふたり。
 帰省していた間は圭太に会えなかったので、その分を今補っているような感じだった。
 準備ができると、早速揃って風呂に入った。
「圭くん。背中流してあげるね」
 鈴奈はそう言って圭太を座らせた。
「んしょ」
 丁寧に背中を洗う。
「前の時にも思ったけど、やっぱり圭くんの背中って大きいよね。男の人の背中って感じがする」
「まあ、これでも一応男ですから」
「一応じゃないよ。圭くんはとっても男らしいよ」
 圭太は、見た目こそ優男っぽく見えるが、そうじゃないことは鈴奈をはじめてとしてまわりにいる女性陣は、全員理解していた。
「圭くんて、いつまで琴絵ちゃんと一緒にお風呂に入ってたの?」
「琴絵とですか? 確か、僕が中学に上がるまでですかね」
「やっぱりそれくらいなんだ」
「琴絵はずっと一緒に入っていたかったみたいですけどね。僕が入らないって言った時も、泣いて駄々こねてましたから」
「琴絵ちゃんは、特にお兄ちゃん子だから。でも、よく納得してくれたね」
「納得はしてませんでしたよ。ただ、そのうち琴絵もわかってきたみたいなんです。普通の家では、たとえ兄妹であっても一緒に入らなくなるって」
 それはあくまでも『普通』の家ではであって、琴絵はそれを自分たちに当てはめたくなかったのである。ただ、自分ひとりのせいで圭太や琴美に迷惑をかけたくもなかったので、おとなしくなった。
 それでも、なにかきっかけさえあればまた、とは思っていたはずである。
「じゃあ、琴絵ちゃんとしては、今の状況はまさに望んでいた状況なんだね」
「結果的にですけどね。正直言えば、僕も無理に一緒に入らなくてもとは思っていたんです。家族で一緒に入れるのは、僕か母さんしかいませんから。でも、母さんからあまり琴絵を甘やかすと後々大変だからと言われて、自粛するようにしたんです」
「そっか」
 その行為も、結局は圭太に柚紀という彼女ができてから、無駄になってしまったが。
「これでよし、と」
 鈴奈は洗い終えた背中をお湯で流した。
「ついでに、ほかもやってあげようか?」
「謹んで遠慮しておきます」
「むぅ、いぢわるぅ」
 圭太は、軽くいなして湯船に浸かった。
「ねえ、圭くん。圭くんは、春に子供が生まれたら、どうしようと思ってるの?」
 鈴奈は、自分の体を洗いながら、そう訊ねた。
「まだ、わかりません。子育てについては、僕ひとりの問題じゃないので」
「そっか。あ、じゃあ、琴子ちゃんのことは、ちゃんと祥子ちゃんと話し合って決めたんだ」
「はい。ただ、琴子は基本的にうちにいないので、その役割分担も簡単に決められましたけど」
「じゃあ、圭くんにとっての本格的な子育ては、今度の子ってことだね」
「そうなりますね」
「なるほどね」
 側にいなければ、やりたくてもやれない。
 圭太は、もちろん琴子の世話をしたいとは思っているのだが、状況が状況だけに、あまり多くを言わないようにしていた。だからこそ、琴子がいる時は積極的にコミュニケーションを取っているのである。
「だけど、圭くんは最初から苦労の連続になりそうだね」
「どういう意味ですか?」
「普通はさ、最初の子供が生まれてから次の子供までは、約一年くらいの時間があるわけでしょ。でも、今回は母親が違うせいで、たった半年しか違わない。それはつまり、大変な時期が重なっちゃうってこと。だから、圭くんは大変だなって」
 確かに、そういう風に並べて考えると、かなりの苦労を強いられそうな感じである。
 子供は、ひとりだけでもかなり大変なのに、それがふたりとなれば、その苦労は倍以上のものとなる。
「大変なのは、承知の上です。もし大変だからって手を抜いてしまっては、僕は父親としての責任を果たせなくなってしまいますから。そういうことだけは、絶対にしたくないんです」
 責任感の強い圭太ならではのセリフである。
「それに、僕はそういう苦労なら、本当はこっちから頭を下げてでもするべきだと思うんです。子供ひとり育てるのにどれだけの苦労がかかるか。それを知ることによって、自分もそれだけの苦労を両親にさせたんだってわかりますから。改めて感謝する上で、必要なことだと思います」
「そこまで考えてたんだ。そっか。さすが圭くんだね」
 鈴奈は、とても感心している。
「でも、圭くん。あまり難しく考えすぎないように、注意しなくちゃダメだよ。難しく考えすぎて、変な方向に進んでしまっては意味がないから」
「はい、わかってます」
「うん、それならいいの」
 ついつい考えすぎてしまうのが圭太の欠点というか悪いところでもあるので、誰かがそれを自覚させなければいけない。今回の場合は圭太がすでにそれを認識していたので問題なかったが、いつもそうとは限らない。
 だからこそ、鈴奈のような存在が重要になってくる。
「さてと、圭くん。ちょっとだけ詰めてくれる?」
「あ、はい」
 少し狭い浴槽に、鈴奈も体を滑り込ませた。
「ん〜、いい気持ち」
「えっと……あの、鈴奈さん」
「ん、どうしたの?」
「くっついてるのは、わざとですか?」
「うん」
 悪びれた様子もなく頷く。
 ある意味居直られてしまうと、圭太には返す言葉もない。
「イヤ?」
「いえ、そんなことはありませんけど」
「じゃあ、いいよね」
 そう言って鈴奈は、さらに体を密着させた。
「圭くんもさ、もう少し自分の欲求というか、欲望に忠実になってもいいと思うの」
「……そうですかね」
「みんなにも言われるでしょ?」
「ええ、まあ……」
「圭くんの性格を考えればそれが難しいのはわかるけど、でも、もう少し自由にやっても誰も文句は言わないと思うよ」
 そういう言葉も、もう何度も聞いてる圭太ではあるが、未だにそれを実践していない。
「それとも、圭くんは私たちに言わせたいのかな?」
「そういうわけでもないんですけど……」
「でも、多少はそういうところもある、と」
 圭太は否定しなかった。
 しかし、それはある意味では当然だし、仕方のないことでもあった。
 圭太の彼女は、あくまでも柚紀である。柚紀以外の女性に手を出すことは、柚紀に対する裏切り行為となる。だからこそ圭太は、自分から誰かに関係を迫ったことはないのである。もちろん、柚紀からすれば結果は同じなので、それ自体をやめてほしいと思っている。
 圭太としては、常にそういう意識が働いているので、セックスに関することは自ら口にすることはほとんどないのである。
 そしてもうひとつ。相手にそういうことを言わせれば、自分の罪悪感が多少なりとも薄らぐとも考えていた。それは所詮言い訳でしかないのだが、圭太の立場から見れば、ある意味当然の処世術とも言えた。
「圭くんだって、したい時はあるでしょ?」
「それは、まあ」
「そういう時ってどうしてるの?」
「基本的には我慢します。そういう感情って、一時的なものですから」
「そうなんだ。なんか、もったいないね、それって」
「もったいない、ですか?」
 思いもかけない言葉に、圭太は首を傾げた。
「うん。言い方は悪いかもしれないけど、圭くんのまわりにはそういうことを思った時にさせてくれる子がたくさんいるんだから、もう少し有効に利用すればいいのに。もし私がそういう立場だったら、そうすると思うよ」
「それだと、それだけが目的な気がして」
「どうして? それじゃダメなの?」
「えっ、でも……」
「あのね、圭くん。圭くんの奥さんは柚紀ちゃんでしょ? これはもう今更どうにかできることじゃない。じゃあ、私たちは圭くんとどういうつきあいをしたらいいかってこと。もちろん、恋人っぽいプラトニックな関係でもいいと思うよ。でも、私たちはみんな、それだけじゃ満足できなかった。そして、私たちはみんな、圭くんと男女の関係になった。そうなっちゃうと、もう普通のことではそう簡単に満足できなくなっちゃうの。それがいいか悪いかは別問題としてね。で、これはみんなにも当てはまると思うけど、恋人じゃない私たちが圭くんから求められてるって実感できる瞬間て、セックスの時なんだよ」
「…………」
「だから、それを目的にされても、怒ったりするどころか喜ぶと思うよ」
 鈴奈たちからすれば、それは当然の考えでもあった。
 圭太の性格を考えれば適当なことは絶対にしないだろうし、相手の気持ちを無視したようなことは絶対にしない。でも、それはあくまでも圭太の側から見た考えである。反対側から見れば、まったく違うということも結構ある。
 鈴奈はそれを圭太に説明したに過ぎない。
「まあ、すぐには変わらないと思うし、それを無理に変えてほしいとも言えないけど。ただ、もう少しだけみんなのそういう想い、気持ちを察してあげてもいいと思うよ」
「はい」
「うん、圭くんのそういう素直なところ、私大好きだな」
 そう言って鈴奈は笑った。
「じゃあ、圭くん。あとはもう言わなくてもわかってるよね」
「はい」
 圭太は頷き、鈴奈にキスした。
「ん……ん……」
 何度もキスを交わしているうちに、鈴奈の表情が変わってくる。
「圭くん……」
 圭太は、鈴奈の胸に触れた。
「ん、んふ……」
 お湯の中なので、いつも以上にすべすべで滑らかで触り心地抜群だった。
「圭くん……せつないよぉ……」
 潤んだ瞳で懇願する。
「少し、足を開いてください」
「うん……」
 鈴奈は言われた通り、足を少し開いた。
 その足の間に圭太は手を滑り込ませた。
「ん、あんっ」
 そのまま秘所に触れる。
「あっ、んっ、圭くん」
 お湯の影響もあるのだろうが、鈴奈の秘所はすでに濡れていた。
 圭太の指を難なく飲み込み、それでいて離そうとしない。
「んっ、やっ、ダメっ、そんなにしないでっ」
 いつもより少しだけ乱暴に圭太は鈴奈の秘所を指でいじる。
「ああっ、んっ、イヤっ、んんっ、イっちゃうっ」
 そしてそのまま──
「んんっ、イクっ!」
 鈴奈は達してしまった。
「ん、はあ、はあ……」
 圭太は、鈴奈を優しく抱きしめ、その髪を撫でている。
「圭くん、私だけ気持ちよくしちゃダメだよ」
 そう言いながら鈴奈は圭太のモノに触れた。
「今度は、私がしてあげる」
 圭太を浴槽の縁に座らせた。
「ふふっ、圭くんのもう大きくなってる」
 鈴奈はそのまま圭太のモノを舐めた。
「ん……ふ……」
 先の方から根本の方まで、まんべんなく舐めていく。
「鈴奈さん……」
「気持ちいい?」
「はい、すごく気持ちいいです」
「もっともっと気持ちよくなってね」
 舌先で先端を舐め、そのまま口に含んだ。
 頭を動かし、少しでも圭太に気持ちよくなってもらおうとする。
「ん、鈴奈さん、そろそろ……」
「いいよ、出しても」
 最後の仕上げとばかりに、さらに丹念にモノを攻める。
「ん、くっ、鈴奈さんっ」
「んんっ!」
 圭太は、そのまま鈴奈の口内に精液を放った。
「ん……んくっ」
 その精液を鈴奈はそのまま飲み込んだ。
「ん、いっぱい出たね」
「すごく気持ちよかったです」
 圭太は、少し呆けた表情でそう言う。
「してなかったの?」
「そんなこともないですけど」
「そっか。じゃあ、それだけ私が気持ちよくさせられたってことだね」
 鈴奈はとても嬉しそうに微笑む。
「じゃあ、今度は一緒に気持ちよくなろ」
「はい」
 圭太はそのまま座ったままで、鈴奈がその上にまたがる。
「挿れるね」
 そのまま腰を落とし──
「んっ……んあ……」
 圭太のモノをすべて飲み込んだ。
「圭くんの、やっぱりおっきい……」
 圭太に抱きつき、うっとりした表情でそう言う。
「動くね」
 鈴奈は、ゆっくりと動きはじめた。
「んっ……はっ……」
 ゆっくりながら、常に一番奥まで届いているので、鈴奈はかなり感じていた。
「圭くん、気持ちいい?」
「はい、気持ちいいです」
「私もね、気持ちいいよ」
 鈴奈は少しだけ動きを速くした。
「んっ、んっ、圭くんも、動いて」
「はい」
 圭太は、鈴奈の腰をつかみ、自らも下から突き上げる。
「んっ、あっ、いいっ、すごくいいっ」
「鈴奈さんっ」
 動きながら、キスを交わす。
「あっ、んっ、圭くんっ」
「鈴奈さん、このままだと」
「今日は、大丈夫だから、中にちょうだい」
「でも」
 圭太はなんとか止めようとするが、鈴奈がそれを許さなかった。
「んっ、くっ、イっちゃうっ」
「そんなに締め付けられると……くっ」
「圭くんっ、圭くんっ」
「くっ、ダメだ」
「んっ、ああっ!」
 鈴奈が達すると──
「あっ!」
 圭太は、そのまま鈴奈の中に精液を放っていた。
「はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「圭くん……」
 鈴奈は、圭太にキスをした。
 
 圭太は軽く落ち込んでいた。
 その原因は、風呂場でのセックスにあった。故意ではないとしても、ゴムをつけずにセックスしてしまい、その結果中出ししてしまったのである。いくら鈴奈が大丈夫だと言ってくれても、無責任な行動を取ってしまったと自分を責めていた。
 そんな圭太を見て、さすがに鈴奈も申し訳ないと思ったようだ。
「ね、圭くん。さっき、言ってくれたよね。私との子供、想像できるって」
「言いましたけど、それは──」
「うん、わかってる。それは今すぐってことじゃないことくらい、わかってるよ。でもね、圭くん。もしそれが今になったとしても、私は絶対に後悔しないよ。圭くんには納得できない部分が多いかもしれないけど、私は嬉しかったよ」
「…………」
「だって、あの時だって私の意志を無視すれば、私を突き飛ばすなりなんなりすれば、中に出さずに済んだかもしれないわけだから」
「でも、それは──」
「うん。そういうことを圭くんができないことも、わかってるよ。それはあくまでもたとえだから。選択肢はいくつかあったはずなのに、その中から圭くんは望んでいなかったはずの選択肢を選んだ。選ばざるを得なかったとも言えるけど、たとえそうだとしても、私はすごく嬉しい」
「…………」
「それにね、どっちにしても、それはそれだけ私のことを考えてくれてるってことだから、ますます嬉しいよ」
 そう言って鈴奈は微笑んだ。
 その微笑みは、心から圭太のことを考えている鈴奈だからこその微笑みだった。
 そんな風に言われてしまうと、圭太としてもいつまでも落ち込んでいるわけにはいかなかった。
「すみません。鈴奈さんにそこまで気を遣わせるつもりはなかったんですけど……」
「なに言ってるの。カワイイ弟のことをあれこれ心配して、慰めて、励ますのは姉としての当然の役目なのよ。だから、圭くんもそんなこと言わないの。いい?」
「わかりました」
「うん、わかればよろしい」
 鈴奈はそう言って笑い、圭太にキスした。
「ね、圭くん。変なこと訊いてもいい?」
「変なこと、ですか?」
「あのね、圭くんのって、ほかの人のより大きいのかな?」
「それって……」
 圭太は、視線を下半身に向けた。
「うん」
「あ、えっと、どうなんでしょうか。比べたことなんてありませんから」
「圭くんは、どう思ってるの?」
「わかりません」
 さすがにそういうことを自分から言うことはできない。
「私はね、圭くんのは大きいと思うよ。いろいろ話とか、私自身の知識とかを総合的に見て、そう思うの」
「…………」
「あ、信じてない顔」
「べ、別にそんなことはないですけど……」
 圭太としては、それ以前の問題として、どうして鈴奈がそんなことを言い出したのかが気になっていた。
「男の人って、そういうことを気にするって聞くけど、圭くんはどう?」
「僕は別に。誰かと比べるわけでもないですから」
「でもそれって、今圭くんのまわりにいるみんなが、圭くん以外に抱かれてないからだよね。もし誰かひとりでも圭くんがはじめての人じゃなければ、気にならない?」
「……そうですね。そういう風に言われると、少しは気になるかもしれません」
「それでも少しなんだ」
「どうしようもないことですからね。気にしてもしょうがないです」
「そんなものなんだ」
 鈴奈はなるほどと頷いた。
「どうしてそんなこと訊いたんですか?」
「単なる好奇心だよ。あと、女性だと自分の胸の大きさを気にする人が多いから、じゃあ男の人はどうなのかなって思って」
「ああ、なるほど」
 そういう風に言われて、圭太も少し納得したようだ。
「鈴奈さんも、気になりましたか?」
「ん〜、実を言うとね、私はそこまで気にしてなかったの」
「そうなんですか?」
「これを言うと怒る人は怒ると思うんだけど、私ね、中学の頃からそれなりに大きくなってきてたから。だから、特別気にすることはなかったの」
 確かに、それは胸の小さい女性が聞けば怒るかもしれない。
 ただ、女性の場合は小さくても気になるが、大きすぎても気になるものである。鈴奈の場合は、そのどちらにも当てはまっていないので、気にすることがなかったのかもしれない。
「でも、結局人は人、自分は自分なんだよね。ないものねだりしてもしょうがないし」
「そうですね。そう思います」
「ただ、私は圭くんのが大きくてよかったと思ってるよ。そのおかげでいつも気持ちよくなれてるからね」
 鈴奈としては、その話自体にそれほど大きな意味を持たせていたわけではない。そういう話をしてさっきのことを少しでも忘れてもらおうと思ったのである。
 圭太はそういうところが鋭いので当然気付いてはいるだろうが、鈴奈のそういう優しい心遣いに素直に感謝していた。
「ん、ふわぁ……」
「眠いですか?」
「ちょっとだけね。向こうから戻ってきて、そのまま初詣にも行ったから。私も年かな」
「そんな、まだまだ全然そんなことないですよ」
「ふふっ、ありがと」
 もし鈴奈が年だというなら、世の中の大半の人は年ということになる。もちろん、個人差はあるだろうが、さすがに二十三歳でそう言うのは問題があるだろう。
「圭くん。お願いがあるんだけど、いいかな?」
「なんですか?」
「ギュッと抱きしめてほしいの。あと、できればそのまま圭くんの腕の中で眠りたい」
「いいですよ」
 圭太は鈴奈を抱きしめた。
「ん……こうされるのが、一番落ち着く……」
「僕も、大好きなお姉ちゃんを感じられて、とても落ち着きます」
「圭くん……」
 鈴奈は、圭太にキスをした。
「おやすみ、圭くん」
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
 
 四
 一月四日。
 夜それなりに遅かった割には、圭太は朝早くに目を覚ました。
「ん……朝か……」
 カーテンの外が少し明るくなっている。
 枕元の時計を見ると、まだ六時半前だった。ということは、まだ陽は昇っていない。白んできたくらいだろう。
 圭太の隣では鈴奈が気持ちよさそうに眠っていた。
「……本当に、不思議だよな」
 圭太はそう呟きながら、鈴奈の髪を撫でた。
「……こんな僕が、なんて言ったらみんなに怒られるだろうけど、それでもこんな僕が鈴奈さんみたいな人にここまで好きになってもらえたんだから」
 よほどのナルシストでもない限り、自分のことを自分自身で評価できる者などそうそういるものではない。圭太もその例外ではなく、むしろ、人よりもずっと自分のことを低く見ている。
 圭太とすれば、柚紀という彼女ができて、よりその絆を深め、婚約し、結婚できたことですら、ひょっとしたら分不相応であると思っている。
 それが、柚紀だけではなく鈴奈をはじめとした多くの女性から想われている。
 そのことを以前に比べればはるかに受け入れてはいるが、ふとした時にはそれを思い返し、自問自答するのである。
 本当に、これでよかったのか、と。
 柚紀は彼女であり、今は圭太の妻となっている。だから、柚紀のことをどうこう言うことはない。問題は、柚紀以外である。
 確かに圭太はみんなのことを本気で想っているのだが、それは、それぞれにあったはずの幸せを奪い取ってまで手に入れなければいけなかったものだったかどうか。それを常に考えている。
 それぞれに訊けば、異口同音に百パーセントの納得はできていないが、現状にかなり満足していると答えるだろう。それももちろんウソではなくて、それぞれの本音である。
 そのことに関して圭太も今更あれこれ言うつもりはない。それに、今更言ってももはやどうにもならないところまで来ているのである。
 遅きに失した、とは言わないまでも、なんとかする気があったなら、もう少し早くにするべきだった。
 圭太もそれを十分理解している。
 だからこそ──
「……ん……けいくん……?」
「はい。おはようございます」
 圭太は、一瞬でそれまでの表情を消し、いつもの柔和な笑みを浮かべ、鈴奈に挨拶した。
「……ん〜……おはよ、圭くん」
 鈴奈は軽く伸びをして、改めて多少はっきりした口調でそう言った。
「早いね。よく眠れなかった?」
「そんなことありませんよ。ちゃんと眠れました」
「そっか、それならよかった」
「それは心配するだけ無駄ですよ。鈴奈さんの──大好きなお姉ちゃんの隣で眠って、ちゃんと眠れないわけがないんですから」
「ふふっ、ありがと。私もね、大好きな弟の隣で眠れたおかげで、ぐっすり眠れたよ」
 そんなことをわざわざ言う必要もないのだが、この場合はしょうがない。
「そういえば、今日は柚紀ちゃんと出かけるんだっけ?」
「はい。温泉に行きます」
「温泉かぁ。いいなぁ。私も授業の準備とか、いろいろなければ行きたかったなぁ」
 普段は年相応に落ち着いている鈴奈ではあるが、圭太の前ではことあるごとにこんな姿を見せる。そして、そういう時はたいてい圭太にねだってる時である。
「えっと、じゃあ、もし僕も鈴奈さんも都合があえば、行きますか?」
「ホント? いいの?」
「はい」
「やったっ」
 鈴奈は心の底から嬉しそうに笑った。
「じゃあ、近いうちに私の都合のいい日を教えるから、圭くんも少し検討してみてね」
「わかりました」
 圭太としても鈴奈に喜んでもらえるなら温泉くらい行ってもいいと思ってはいるのだが、それが誰かの耳に入るとまたやっかいなことになるとも思っていた。
「ところで、圭くん」
「なんですか?」
「もう少しだけ時間は大丈夫?」
「それはまあ、大丈夫ですけど」
「じゃあ、一緒にシャワー浴びよ」
「へ……?」
 思いもかけない誘いに、圭太は間抜けな声を上げた。
「だって、昨夜してからシャワー浴びてないでしょ?」
「それはそうですけど……」
 ふたりは、風呂場でのあとに、ベッドでも二度ほどしていた。で、そのまま眠ってしまったので、それを鈴奈は言っているのである。
「だからね?」
「……わかりました」
 圭太も家に帰ってシャワーを浴びるつもりだったので、それ自体は反対ではなかった。ただ問題なのは、その時に起こるであろう鈴奈からの『攻撃』である。
 もっとも、それを今更言ってもどうしようもないのであるが。
 それから数分後。
「ほら、圭くんもちゃんと浴びないと」
 そう言って鈴奈は圭太にシャワーをかけた。
「あ〜あ、もう楽しい時間は終わっちゃうんだね。残念だな」
「…………」
「しょうがないことではあるんだけどね。でも、どうしてもそんな風に思っちゃって。それまでの時間が楽しければ楽しいほど、その反動が大きくて」
「その気持ちはよくわかります」
「そっか。それならよかった」
 鈴奈は、穏やかに微笑んだ。
「ね、圭くん。ひとつ、とっても大事なお願いをしてもいいかな?」
「大事な?」
「うん」
 そう言って鈴奈は、そっと圭太に抱きついた。
「圭くんは、私にとって一番大切な人で、しかもカワイイ弟というのはいいよね」
「はい」
「それでね、できればこれから先、こうして圭くんとふたりきりになれる時は、もうひとつだけ、別の立場というか、役割というか、呼び方というか、そういうのを付け加えてもいいかな」
「それは、内容にもよりますけど」
「そうだね。それはね、ふたりきりの時は、圭くんは私の『旦那さま』でいてほしいの」
「えっ……?」
 圭太も、それだけは思い浮かばなかったようだ。とても驚いた顔で、まじまじと鈴奈を見ている。
「圭くんが柚紀ちゃんの旦那さまであることは、うん、もう十分理解してる。それでも、その上であえて言ってるの。もちろん、実際そうなるわけじゃないから、あくまでも気持ちの問題なんだけどね。それって、ダメ、かな?」
「…………」
 圭太としては、本当は即座にダメと言いたいところだった。
 これまでも幾度となく柚紀を裏切ってきたが、最後の一線だけは常に守ってきた。
 それは、柚紀が圭太の彼女であり、現在は妻であるという事実。それを、ほかの誰にも当てはめないということ。
 そのことを鈴奈は、破ってくれと言ってるようなものである。
 本来なら断るべきことなのだが、圭太としても鈴奈のこれからを預かるとまでは思っていなくとも、その大部分に関わってしまうのは間違いないので、すぐに返事ができなかった。
 端から見れば、それはまさに鈴奈の望むような形であるはずだから。
「あの、少し、考えさせてもらってもいいですか? 今は、考えが上手くまとまらないので」
「うん、いいよ。私も突然言っちゃったからね。それくらいは待たないと」
「すみません」
 圭太としてはそう言うのが精一杯だった。
「でも、どうしてそう思ったんですか? ある意味では、一足飛びな気もしますし」
「そんなことはないよ。だって、今の状況はある意味では『彼氏彼女』の関係とも言えるわけだから」
「……そういえばそうですね」
 そんなことは失念していたとばかりの言いようである。
 だが、それは仕方のないことでもある。確かに圭太は柚紀以外も、それぞれとふたりきりの時には『恋人』のように接してはいるが、常にそういう意識があるかどうかは正直わからない。
 だから、改めて言われてようやく気付いたのである。
「どうしてそう思ったのかというと、やっぱり柚紀ちゃんが羨ましいから、かな。まあ、まだ具体的に変わったところはないけど、でも、徐々に変わってくるはずだから。そういう風に変われるのが、羨ましい」
「…………」
 おそらく、圭太にはその気持ちは理解できないだろう。なんといっても、圭太自身が直接なにかをするわけではないのだから。
「もちろん、圭くんはそこまで考えなくてもいいんだよ。許容できるかできないか、それだけなんだから」
「はい」
「よし。パッとシャワーを浴びて、圭くんは帰らないとね」
 鈴奈は、あえて自分からそう言い、気持ちを切り替えた。そうでもしなければ、この場の雰囲気を変えることはできそうになかったし、なにより鈴奈自身が圭太ともっと一緒にいたいと思ってしまうからである。
 そこが年上の鈴奈の分別とも言えるのだが、反面そういうのをすべてうっちゃって、もう少しだけ自分の欲望に忠実になれれば、とも思っていた。
 
 家に帰った圭太は、琴絵と朱美にたっぷり文句を言われながら、朝食を済ませた。
 朝食のあとは、出かける準備である。温泉へは、一応日帰りでということにしているのだが、場合によっては泊まりでもいいと思っていた。だから、荷物もそれに対応したものを用意する。
 用意を済ませ、荷物を持ってリビングへ下りた。
「いいなぁ、お兄ちゃん。羨ましいなぁ」
「ホント、いいなぁ。圭兄、いいなぁ」
 妹と従妹は、言葉で圭太をちくちくと攻める。
「私も温泉行きたいなぁ」
「私も行きたいなぁ」
「ふたりとも、そのくらいにしておきなさい」
 そこへ、呆れ顔の琴美が顔を出した。
「だってぇ……」
「圭太たちと一緒に行ったら、宿題終わらないでしょ? それでもいいの?」
「ううぅ……」
 実は、当初は圭太と柚紀のふたりだけで行く予定だったのだが、もし琴絵か朱美が行きたいというのなら、一緒に行ってもいいということにしていた。
 ところが、ふたりともまだ宿題が終わっておらず、ここで遊びほうけてしまうと、大変なことになると判断。結局当初の予定通りとなった。
「琴絵はともかくとして、まさか朱美まで終わってなかったとは思ってなかったけど」
「ちょっと途中から予定が狂ってしまって」
「いずれにしても、冬休みは明日までしかないんだから、宿題は今日中にはなんとかしなさいね」
『はぁい』
 ふたりは、素直に頷いた。
「母さん」
「ん、どうしたの?」
「今日から準備をするのはいいけど、無理だけはしないように。母さんはすぐ無理しようとするから」
「余計なお世話よ」
 そう言って琴美はニッと笑った。
「それに、そういうことをあなたにだけは言われたくないわ。柚紀さんの前で同じことを言ってみなさい。自分のことを棚に上げて、って言われるわ」
「…………」
 圭太はぐうの音も出なかった。
「まあでも、心配してくれてありがとう。私も前みたいなことにならないように、気をつけてはいるんだから、同じようなことはそうそう起きないわ」
「うん、それならいいよ。僕はただ、母さんの体が心配なだけだから」
 二度とあのようなことを起こさせはしない。それが圭太の決意であり、誓いであった。
「むぅ、お兄ちゃん。最近お母さんにずいぶんと優しいよね」
「そうか?」
「そうだよぉ。そりゃ、お兄ちゃんは昔からお母さんや私に優しいけど、でも、最近は特にお母さんに優しい。どうして?」
「どうしてって言われてもなぁ。別に自分自身ではそう思ってないから」
「だったら余計にタチが悪いよぉ」
 琴絵は半泣き状態で文句を言う。
 しかし、圭太はもともとそういうことにとても鈍感である。今でこそ柚紀のおかげでだいぶわかるようになってきたが、それでも基本的な部分は変わっていない。
 琴絵は妹としてそういう圭太をずっと見てきた。柚紀という彼女がいない時は、それでもよかった。鈍感であるがゆえに、琴絵だけの圭太であったから。
 でも、状況は一変し、現状では自分だけが、と主張することもままならなくなってしまった。
 だからこそ、たとえ自分の母親であっても、必要以上に大事にされている姿を見ると、嫉妬してしまうのである。
「お母さんもだよ」
「なにが?」
「最近、なにかというとお兄ちゃんを頼って。前はそこまでじゃなかったのに。そりゃ、倒れたことを考えればそうしなくちゃいけないというのはわかるけど、それともちょっと違う気がするし」
「……ようするに、なにが言いたいの?」
「お母さんさ、お兄ちゃんのこと、どんな風に見てるの?」
「…………」
 琴美は、すぐには答えなかった。
「お兄ちゃんは、お父さんじゃないんだよ。お父さんの代わりはしてくれるけど、お父さんじゃない。だから──」
「そんなこと、わかってるわ。祐太さんは祐太さん。圭太は圭太だもの」
 琴絵の言葉に対し、琴美は幾分語調を強めて反論した。
「わかってるけど……」
 そして、途端に弱々しい声になり、項垂れた。
「琴絵。その辺にしておけ。母さんも、もういいから」
 さすがにそれ以上はマズイと思ったらしく、圭太が仲裁に入った。
「……私、部屋に戻る」
 琴絵は、まだ少しだけ言い足りなそうだったが、なにも言わずにリビングを出て行った。
「朱美。琴絵のことを頼むよ」
「うん」
 朱美もすぐにあとを追いかけた。
「母さんも、琴絵相手にあそこまでムキにならなくてもいいのに」
「わかってるわ。でも、琴絵だからこそ、ムキになってしまったのよ。娘であり、母である関係だからこそ、ね」
 そう言って琴美は自嘲した。
「圭太は、どう思ってるの?」
「僕の口からはなんとも。ただ、母さんも琴絵も、そういうことで変に気を遣ったり、言い争ったりしないでほしい。意味がないとは言わないけど、生産的ではないし、母娘の関係には必ずしも必要だとは思えないから」
「そうね」
 自分が原因で起きたことだからこそ、圭太は余計にそう思っていた。
「ねえ、圭太。確か、学校はセンター試験まで行けばいいのよね」
「ん、基本的にはね。センターが終わっちゃうと、もうそれぞれバラバラだから。でも、なんで?」
「ということは、圭太は自由になる時間が増える、ということよね?」
「まあ、そうなるね。受験するわけでもないし」
「じゃあ、その時にこの前の約束を果たしましょ」
「約束? この前?」
 圭太は首を傾げた。
「あ、もう忘れたの? ひどいわね」
「いや、そんなこと言われても……」
「ほら、この前約束したでしょ。今度、デートするって」
「……ああ、そういえばそんなことを約束させられた気もする」
「気もする、じゃなくて約束したのよ。いくら母親とのデートだからって、そんなにぞんざいに扱わなくてもいいじゃない」
 琴美は、少し拗ねて見せる。そういう仕草は、とても二児の母親とは思えない。
「いい? ちゃんと時間を作るのよ? そうしないと、大変なことが起きるかもしれないから」
「……それって脅しだと思うんだけど……」
「いいから」
「はいはい。わかったよ」
 もともと最初に約束した時点で断り切れないことはわかっていたので、今更反故にするつもりなどなかった。ただ、心のどこかでは母親とのデートというものに対して、若干の抵抗感がないわけでもなかった。
「さてと、そろそろ時間だから出かけるよ」
「夕方前にはちゃんと連絡しなさいね」
「わかってるよ」
 圭太は上着と荷物を持ってリビングを出た。
「あ、そうだ。母さん。僕が帰ってくるまでには、ちゃんと琴絵と和解しててよ。僕も朱美もそうしょっちゅうフォローはできないんだから」
「わかってるわよ。心配しなくても大丈夫」
「それならいいけど……よっと」
 靴を履き、立ち上がる。
「なんかよさそうなものがあったらおみやげに買ってくるよ」
「それが目的じゃないんだから、無理しなくていいわよ」
「了解。いってきます」
「いってらっしゃい」
 外に出ると、とてもいい天気だった。ただ、朝から晴れているせいで、とても気温が低い。乾燥しているので息こそ白くならないが、家を出たばかりの体には結構堪える寒さだった。
 圭太は、バスに乗って駅に向かった。
 バスの中は、まだ朝早い時間ということもあって、圭太のほかはふたりしか乗っていなかった。
 誰も降りず、誰も乗ってこなかったので、あっという間に駅前に到着した。
 圭太は待ち合わせ場所である改札前へ向かった。
 改札前には、まだ柚紀は来ていなかった。
 時間を確認すると、待ち合わせ時間までまだ十五分あった。
 いくら柚紀も早めに来るとはいっても、さすがにまだ来ていなかった。
 荷物を足下に置き、大きく伸びをした。
「今年は、どんな年になるんだろう」
 口をついて出てきたのは、そんな言葉だった。
 それはまさに圭太が最も気になっていることだった。
 明らかな変化は、高校を卒業するということと、柚紀との間に子供が生まれるということ。それ以外のことは、まだわからない。だからこその言葉だ。
 高校に入学してから、穏やかだった年は一回もない。この三年間、どれも圭太の予想をはるかに上回る内容だった。
 ほとんどのことに後悔はしていないが、多少の後悔はもちろんあった。
 だが、それを今更言ってもしょうがないし、そういうことばかり考えていると、どんどんネガティブになりそうだったので、圭太はそれを自粛していた。
 もともとそれほどポジティブな性格ではない圭太にとっては、それはとても画期的なことでもあった。
 しかし、そうしなければ柚紀と一緒にいる資格を失うとばかりに、そうしていた。
 とにかく圭太の中では柚紀の存在は大きかった。
 柚紀をはじめとして圭太のまわりにいる女性陣は、よく圭太が死んだら自分も死ぬみたいなことを言っているが、それは圭太にも当てはまった。圭太にとってはその対象は柚紀である。もし、若くして亡くなるようなことがあれば、圭太は後を追いかねない。
 それくらい柚紀のことを想っていた。
 だからこそ、多少甘いと自覚しつつも、柚紀の望みをかなえようとしているのである。
 それは、夫婦となった今は余計である。
「……今年は、今まで以上に柚紀のことを大事にしないと」
 実は、そのことは初詣の時にも思っていたことだった。ただ、なにをお願いしたのか訊かれた時にも誰にも言わなかっただけである。
 それだけは、圭太の中で留めておいて、不言実行したかったのである。
「圭太、お待たせ」
 と、そこへ柚紀がやって来た。
 それなりにお腹も目立つようになってきてるので、さすがに走ってはこなかった。
「早いね。ずいぶん待った?」
「そんなことないよ。五分かそこらだよ」
「そっか、よかった」
 柚紀は、ほわっと笑った。
「じゃ、行こ」
「うん」
 
 電車を乗り継いで約二時間。
 ふたりは山間にある温泉街へとやって来た。
 そこは、それほど大きな温泉街ではないが、それなりに名の知れた温泉街だった。
 車で来ると少々不便だが、電車なら温泉街の真ん中に駅があるのでとても便利だった。
 そこを選んだ理由は、ただひとつ。混浴の温泉があるからにほかならない。
 といっても、それをまともに利用するつもりもなかった。ようは、そういう場所であるということが重要だったのである。
「やっぱり山の方は寒いね」
 柚紀は、マフラーを口元まで引き上げ、そう言う。
「まあね。それに、ここは川も近いから余計だね」
 川沿いに風が吹き抜けていくので、じっとしていると確かに寒いかもしれない。
「とりあえず、早いところ温泉に入ろ」
 ふたりが利用する温泉宿は、駅から歩いて十分弱の場所にあった。
 古めかしい、とまでは言わないまでも、それなりに年季の入った建物。
 建物の裏手からは、温泉のものと思われる湯気も上がっていた。
 フロントで手続きを済ませ、部屋へと案内された。
 本当は日帰りの予定だったのだが、来る電車の中で泊まりにしようということになっていた。
 部屋は、川の見える最高のロケーションだった。
「うわあ、いい景色」
 柚紀は、荷物をその場に置くと、すぐに窓際に寄った。
「こうして見ていると、なにも景色は春や秋だけじゃないってわかるよね」
「そうだね。冬には冬の趣があって、それを素直にいいと受け入れられる」
「うん。まあでも、私にとっては、ここに圭太がいてくれるから、でもあるんだけどね。ひとりだったら、そこまで思えないかも」
 そう言って柚紀は、圭太に寄り添った。
「とりあえず、荷物を整理しようか」
「うん」
 荷物を整理し、お茶を飲んでしばしのんびりする。
 耳に届くのは、川の流れる音のみ。
 時折聞こえる廊下を歩く音が、微妙なアクセントになっている。
「ねえ、圭太。これって、新婚旅行になるのかな?」
 お茶請けの温泉まんじゅうを頬張りながら、柚紀は訊いた。
「ああ、そうかもしれないね。そういう位置付けのつもりはなかったけど、結果的にはそういうことになるかも」
「そっか」
「柚紀は、どこか海外とかの方がよかった?」
「ううん。あ、もちろん、それはそれでいいだろうけど。でも、圭太と一緒で、それがいい想い出になるなら、どこでもいいの」
「そっか、なるほどね」
 それを聞いた圭太は、小さく頷いた。
「じゃあ、柚紀。そういう旅行は、子供が生まれてからにしよう」
「えっ……?」
「今日のは今日ので新婚旅行でいいけど、もっと綿密に計画を練って、その上でもっともっと楽しくて、想い出に残る旅行もあった方がいいだろうからね」
「……いいの?」
「当たり前だよ。それに、その旅行は柚紀ひとりだけのためのものじゃないんだから。全部が全部、柚紀の思い通りにはならないよ」
 そう言って圭太は笑う。
「そっか。うん、そうだね。そういうのは、また別でいいんだよね」
「そうそう。今日のは、イレギュラーで起きた、まあ、宝くじの当たりみたいなものかな。しかも、三等とか四等くらいのね」
「あはは、そうかも」
「だから、遠慮することなんてないんだから」
「わかってるよ。それに、私は最初から遠慮するつもりなんてないんだから」
「それもそうだね」
「なにおう」
 ふたりは、本当に楽しそうに笑った。
「あ、そうだ」
 ひとしきり笑ったあと、柚紀がふと視線を落として言った。
「こういうのは今訊くことじゃないと思うんだけど、昨日、どうだったの?」
 柚紀の言う『昨日』というのは、もちろん鈴奈とのことである。
「ああ、うん。とりあえず、現状維持の様子見、ってところかな」
「そうなんだ。じゃあ、結局結論は出なかったってこと?」
「ある意味ではね。ただ、鈴奈さんの話だと、もう結論は出てるみたいだけど、まだそこに着地したくないだけみたい。だから、妥協点として、現状維持ってなったみたいだよ」
「なるほどね。そりゃ、大切な娘を親から見れば『奪われた』わけだから、そう簡単に認められないよね、普通は」
 柚紀は頷く。
「ね、圭太。これは前にも訊いたかもしれないけど、やっぱり圭太にとって鈴奈さんて特別な存在?」
「ん、そうだね。特別な存在だよ。間違いなく」
 圭太は、躊躇いもなく答えた。
「どうして?」
「まずは、鈴奈さんが僕たちの家族の一員だからだよ。鈴奈さんがバイトしてた時は、下手するとその辺の本物の家族以上に長い時間を一緒に過ごしてたからね」
「うん、そうかも」
「家族扱いして、本当の家族のようになって。そうしたら、自然と鈴奈さんのことを大切に思うようになってたよ」
「そっか」
「柚紀もわかると思うけど、鈴奈さんて人に対して壁を作らない人だから、いつの間にか巻き込み、巻き込まれてる感じかな」
「なるほど」
「あとは……」
 少し考える素振りを見せる。
「鈴奈さんは僕にとって、姉という存在だからだね」
「圭太って、上の兄姉がほしかったの?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、鈴奈さんは理想の『お姉さん』像にぴったりだから」
「ああ、それはよくわかるかも。確かに、うちのお姉ちゃんより鈴奈さんの方が、理想的だもの」
 それにはさすがの圭太も頷けなかった。
「圭太にとっては、『お姉さん』なの? それとも『お姉ちゃん』なの?」
「……その違いはなに?」
「ん〜、私もよくわからない」
 そう言って柚紀は笑った。
「あ、でもさ、ニュアンスの違いはなんとなくわからない?」
「まあ、それはわからないでもないけど」
「だとしたら、鈴奈さんはどっち?」
「……お姉ちゃん、かな」
「やっぱりね。そうじゃないかと思った」
「……わかってるなら訊かなければいいのに」
「まあまあ。それでも一応ね」
 店での様子だけではさすがにわからないが、それ以外の場面でふたりの様子を見ていれば、その答えは自ずと見えてくる。
 圭太の場合は、鈴奈に対して甘えたいというところがあるので、そういう答えになるのだ。
「鈴奈さんを『お姉ちゃん』と見てる理由は、やっぱり甘えたいから?」
「う〜ん、そうなるのかな、やっぱり」
「ま、私も鈴奈さんになら甘えたくなるけどね」
「咲紀さんじゃダメなの?」
「お姉ちゃんは、ダメよ。そんなことしたら、それが私の『弱味』になっちゃうもの。それを盾にあ〜だこ〜だ言われたら、とてもやっていけないわ」
「……な、なるほどね」
 実に柚紀らしい理由である。
「鈴奈さんも、自分が妹だから、余計にそういう立場に立ちたかったのかもしれないね」
「ああ、それもあるかも」
「でもさ、圭太も鈴奈さんも、そのあたり、よく割り切れてるね」
「どういう意味?」
「いや、実の姉弟ならまだしも、そうじゃないわけだから、お互いを男女と見てるとわかった段階で、そういう姉弟の意識って薄れちゃうんじゃないかなって」
「ん〜、どうなんだろう。それが普通なのかどうかはわからないけど、少なくとも僕は鈴奈さんに対してそういうふたつのイメージを持ったままだから」
「鈴奈さんも、見た感じは圭太と同じってことよね?」
「そうだね。本当のところはわからないけど」
 鈴奈も確かに姉弟という関係と男女の関係と、ふたつの関係を使い分けている。ただ、そこにはもう圭太は絶対に自分だけのものにならないという、あきらめにも似た感情があるからというのもある。もし自分だけのものにできたなら、前者はもっと早くに消えていただろう。
「柚紀は、どうなの?」
「鈴奈さんのこと?」
 頷く圭太。
「純粋に好きよ。鈴奈さんの人となりを知って、嫌いになれる人なんていないと思う」
「そうだね」
「ただ、私がひとつだけ、たぶん、ずっと許せないことがあるの。わかる?」
「……柚紀の次、だったこと?」
「そう。もしもの話をしてももう今更だけど、あの時に鈴奈さんと関係を保たなければ、状況は大きく変わってたかもしれないから」
「…………」
 その時の答えは、きっと死ぬまで正解がわからないだろう。もちろん、柚紀からすれば不正解であるべきなのだが、一概にそう言い切れないところもあった。
「それ以外では、本当に心から好きだと言えるわ。それこそ、お姉ちゃん以上に『お姉ちゃん』だと思ってる部分もないこともないからね」
 そう言って柚紀は笑う。
「でもさ、今でも不思議なんだけど、どうして鈴奈さんほどの人が、誰ともつきあってこなかったのかな。これが高校だったらまだわかるけど、大学生で、高校だって共学だったわけだから」
「それについては、僕もずっとそう思ってたよ。でも、いくら考えてもわからないから。鈴奈さんにしかわからないことだから」
「まあね。そのことについて、訊いてみたことはあるの?」
「ううん。ただ、機会がなかっただけ、みたいなことは言ってたけどね」
「う〜ん、それも本当かどうか。それでも、鈴奈さんが恋愛に奥手なタイプだというのは、見てればわかるけどね」
「そうなの?」
「なんとなくね、いつも手探りな感じがするのよ。圭太に喜んでもらいたいんだけど、じゃあどうしたらいいんだろう、って考えちゃってね。そこでいくつかの案は浮かんで、それを実行する時に本当にいいのか悩んじゃう」
「なるほど」
「ま、圭太の前ではできるだけそういう姿を見せないように、努力してるとは思うけどね。人生の先輩として、姉としてね」
 そういう心理は、さすがに同性の柚紀の方がよくわかっている。
 というか、柚紀もそういうところがないわけではないので、自分のことに照らし合わせているだけなのだが。
「だから、そういう鈴奈さんが私が彼女になった時に、あそこまで大胆な行動に出られたのが、本当に不思議なの。普通は、そういう人なら尻込みしちゃってそのまま終わると思うんだけどね。ところが、現実はそうではなくて、想像をはるかに超えた勇気を出して、圭太に迫った」
「…………」
「それだけ圭太のことが好きだった、と言ってしまえばそれまでだけどね。私個人としては、それだけじゃないような気がして。だから、今度機会があったら鈴奈さんとじっくり話してみようと思ってるの。私が疑問に思ってること、いろいろとね」
「その時は、お手柔らかに頼むよ」
「わかってるって」
 圭太としては、柚紀のそういう行動を止める気は毛頭ない。
 いつもは自分が間に入って意思の疎通を行っているが、そうすることによって起きるであろう些細な誤解は、本人同士が直接話すことでしか解決できないからである。
 今回はそういう趣旨ではないが、それでも直接話すことの重要性を、圭太も十分認識していた。
「さて、そろそろここへ来た目的を果たさない?」
「そうだね」
「じゃあ、いざ、温泉へ」
 
 時間が早かったせいか、男女どちらにもほとんど客はいなかった。
 ふたりともそれぞれに今年初の温泉を堪能した。
 部屋に戻ってくると、柚紀はぴったりと圭太にくっつき、離れようとしなかった。
「そういえば、柚紀。制服、どうするの?」
「どうするって、どうしようもないわよ。だって、今更あと何回かしかない登校日のために買い換えるわけにもいかないし」
「そうだよね」
 圭太が言っているのは、柚紀の制服のことである。
 今まではなんとかなっていたのだが、これからさらにお腹が目立ってくると、今の制服はとても着られない。
 しかし、圭太と柚紀は受験しないので、制服を着る機会はかなり少ない。そのためだけに新しい制服を、しかもほかの誰も着られないような制服を買うのはナンセンスである。
「まあ、一応方法は考えてるから、大丈夫だとは思うけどね」
「どんな方法?」
「新しいのを買うのはもったいけど、古着だったらまだいいかなってこと」
「ああ、なるほど。古着か」
「さすがにうちの高校のはないだろうけど、似たような色の似たようなデザインのスカートなんかは探せばあるだろうから。それを上手く利用して、最後を乗り切ろうと思って」
「そっか」
「自分のことだからね。さすがに考えてるわよ」
 確かに、体型が変わってきてるのは、本人が一番よくわかってるはずである。
「ただ、一応先生の許可は取っておかなくちゃいけないとは思うけどね。ある意味では、改造制服なわけだから」
「そうだね。でも、先生なら理由を聞いたらすぐに認めてくれそうだけど」
「ま、確かに」
 三年間同じ担任だったわけで、さすがにそのあたりの性格はよく理解している。
 特に優香は裏表のない性格なので、よりわかりやすい。
「だけど、また先生にあれこれ言われちゃうなぁ。妊娠してることを話した時も、言われたし」
「しょうがないよ」
「先生も、生徒に愚痴る前にいい人見つければいいのにね」
「それができてたら、僕たちに愚痴らないよ」
「それもそっか」
 未婚の優香は、適齢期ということもあってかなり意識が強い。
 冬休み前はまだ柚紀も結婚していなかったが、それ自体秒読みだったので、差し障りのない場所ではそれなりにいろいろ言っていた。
 もちろん、それは半分くらいは冗談なのだが、半分くらい本気なところもあるので、なかなか対処に困る。
「でも、どうして先生にはそういう人がいないのかしらね。先生美人だし、教師なんてやってるから面倒見もいいのに」
「さあ、それは僕にもわからないよ」
「やっぱり、出逢いがないからなのかな?」
「どうなんだろうね、それは。菜穂子先生はそんなこと全然なく、結婚してお子さんまでいるわけだし」
「あ、そっか。となると、出逢える可能性はあるわけか。じゃあ、先生は単にそういう運に見放されてる、ってことか」
 言葉にすると、なかなか虚しい。もしそれを優香の前で言ったら、キレるか泣かれそうである。
「誰かいい人がいたら、紹介してあげた方がいいのかな?」
「それもどうかな。本音はどうあれ、自分の教え子からそんなことはされたくないと思うけど」
「そっか。難しいね、そういうのって」
 自分はすでに人妻なので、人ごとである。
「ところで、圭太。いい機会だからいくつか確認したいことがあるんだけど」
「確認したいこと?」
 柚紀は少し神妙な面持ちで頷いた。
「まずは簡単なことから。冬休みが終わって、センター試験が終わったら、圭太は学校はどうするの? 登校日は別としてね」
「どうするって、なにもなければ行くつもりはないよ。ただ、部活の練習には顔を出すつもりではいるけど」
「それそれ。それが問題なのよ」
「なにが問題なの?」
「練習へ、どのくらい顔出すつもりなの?」
「ん〜、まだちゃんと紗絵や先生と話してないからわからないけど、週に二回くらいかな、たぶん」
「二回かぁ……」
 それを聞いた柚紀は、おとがいに指を当て少し考えた。
「二回くらいなら、まあいいかなぁ」
「どうしたの?」
「ん、圭太が部活に行っちゃうと、どうしたって一緒にいられなくなるから。だけど、部活に行くこと自体を止められないから、じゃあどうしようかなって思ってたの。でも、週二回くらいなら、まだ許容範囲かなって思ってね」
「そういうことか」
 実に柚紀らしい考えだった。もっとも、それは柚紀だけでなく、とにかく相手と一緒にいたがる誰にも当てはまることである。
「強制はできないけど、できるだけ二回くらいにしてね」
「わかってるよ。僕だって柚紀との時間をもっと増やさなくちゃいけないと思ってたんだから」
「そうなの?」
「それはそうだよ。僕と柚紀は夫婦になったんだから。それに、これからの時期こそ僕が側にいなくちゃいけないんだし」
「そっか。うん、そうだね」
 圭太がそんな風に考えていたということが、柚紀にとってはとても嬉しかった。
「じゃあ、次。これも簡単よ。いつから専門学校へ行くつもりなの? 前はいろいろ考えてみたいなことを言ってたけど」
「そのことか」
「そのことかって、とっても重要なことだよ」
 圭太の物言いが気に障ったらしく、柚紀は眉をしかめた。
「これはそろそろ母さんにも話そうと思ってたんだけど、来年の春から行こうかと思ってるんだ」
「来年か。どうしてそうしようと思ったの?」
「理由は簡単だよ。時間がほしかったから」
「時間? なんの?」
「柚紀と子供と一緒にいる時間と、お金を稼ぐための時間」
 意外な答えに、柚紀は一瞬言葉に詰まった。
 前者は簡単に理解できる。しかし、後者はいったい。
「なんのためのお金?」
「専門学校へ行くためのお金だよ。柚紀も知っての通り、うちはいつもギリギリの生活だからね」
 圭太は以前、柚紀に高城家の経済状況を話したことがあった。
「母さんはそういう心配はするなって言うけど、それをそのまま受け取るわけにもいかないんだよ、僕は」
「それって、琴絵ちゃんのため?」
「それだけじゃないけど、まあ、主な理由はそうだね。琴絵が将来なにをやりたいのかはわからないけど、今のところは大学へ行くつもりではあるみたいだから。そうするとどうしたってお金がかかるからね。たとえ地元の大学でも。それに、なにが起こるかもわからないし、だったら少しでも多くのお金を琴絵のために残しておいた方がいいと思って」
「そっか。圭太らしいね、それ」
 柚紀はそう言って微笑んだ。嫌味でもなんでもなく、本当にそう思っているのだ。
 圭太の琴絵に対する様々な行動、言動は、本当に琴絵のためを思ってのことである。そこには裏表などまるでなく、常に真っ直ぐで自分のことは後回しにした、妹想いの兄の真摯な想いが込められていた。
 そのことを柚紀も十分理解していた。
「でも、どうやってお金稼ぐの? バイト?」
「うん、そのつもり」
「ええーっ、バイトするの? そしたら、私との時間、少なくなっちゃうよ」
「そのことも考えてるよ」
「えっ、そうなの?」
「今のところ考えてるのは、新聞配達だよ。新聞配達なら朝早いから、日中は時間が自由になるし」
「新聞配達かぁ。それは確かに時間はできそうだけど……」
「なにかマズイことある?」
「圭太、無理しそうで恐い」
「…………」
「確かにそれなら時間はできると思う。でも、人間て一日に動ける時間が決まってるからね。新聞配達なら、朝はかなり早くなるよね。で、睡眠時間を確保するために夜は早くに寝る」
「そうだね」
「だけど、圭太は私たち家族になにかあれば、それを簡単に崩しちゃう。それがどれだけ続いてもね」
「…………」
「もちろん、そんなことはそうそうないだろうけどね。でも、圭太はそういうことをなんの躊躇いもなくやっちゃう人だから。それが恐いの」
 圭太も、それをすぐには否定できなかった。もちろん、そうならないように努力はするつもりでいた。だけど、実際そうなったら、今柚紀が言ったようなことになるだろう。
 それが圭太らしいとも言えるが、柚紀の立場から言えば、それだけはしてほしくないことだった。
「うん、でも、今はそれでいいよ。ここでどうこう言っても、すぐにどうにかなる問題でもないからね。私も確認しておきたかっただけだから」
 柚紀は、自分に言い聞かせるように、あえてそんな風に言った。
「じゃあ、次。これも簡単ね。圭太は、卒業後も音楽続けるの?」
「それが今一番悩んでることなんだよ」
「悩んでるんだ。圭太のことだから、それはすぐに決めてたと思ってた」
「そんなことないよ。だって、音楽で食べていくわけじゃないんだから、どうしたって趣味になるわけでしょ? そしたら、その趣味のためにどれだけ時間を割けるのかなって思ってね。まあ、どのくらい真剣にやるかも問題だとは思うけど。そうすると、あれこれ悩んじゃって」
「そっかぁ」
 それも柚紀には意外だったようである。
 圭太の部活に対する真剣さを考えれば、確かに意外な感じもする。
「続けたいのよね?」
「それはね。ここまでやってきたことを無駄にしたくないし」
「だったら、続ければ? 趣味としてやるなら、難しく考えずにできるはずよ。それに、多少真剣にやってもそれでなにかするわけじゃないんだから、それほど問題はないと思うよ」
「難しく考えすぎかな?」
「そうかもね」
 柚紀にそう言われ、圭太ももう少し単純に考えてみようと思った。
「それじゃあ、次ね。ここからが本番かな」
「うん」
「まず、祥子先輩のこと。圭太はさ、祥子先輩との間に、まだ子供がほしいと思ってるの?」
「……柚紀の手前、正直に言うのは非常に心苦しいけど、そうだね、思ってるよ」
「……どうして?」
「それはやっぱり、自分の子供はカワイイと思えるから、かな。琴子が生まれて、父親になって、いろいろ大変なこともあるけど、少しずつでも成長している姿を見ていると、本当にカワイイと思う。ひとりでもあれだけカワイイのだから、これがもしもうひとり、ふたりいたらどれだけすごいことだろうかって、考えてしまう」
「…………」
「それはきっと、相手が祥子だから、でもあるんだろうね」
 それを聞いた柚紀は、さすがに落胆の表情を浮かべた。
 たとえそれが柚紀の想像通りだったとしても、直接圭太から聞かされれば、そのショックも大きい。
「ただ、実際どうするかはまだわからないよ。無責任なことはできないからね」
「当たり前よ。それと、改めて言うまでもないと思うけど、私の立場から言わせてもらうと、私以外との子供は琴子ちゃんが最初で最後にしてほしいのよ。わかってる?」
「わかってるよ」
「わかってるならいいけど」
 納得はしてないのだろうけど、ここで駄々をこねても話が進まない。だからとりあえずはそれで話を収めたのだ。
「次は、琴絵ちゃんのこと」
「琴絵のこと?」
 それは圭太には予想外の話だったらしい。
「琴絵ちゃんの名前が出て、そんなに意外?」
「うん、まあ、意外だね。柚紀のことだから、鈴奈さんや詩織のことを言うのかと思ってたよ」
「それはそれで心配だし、確認したいことはあるわよ。でも、そのふたりに関してはまだそこまで心配してないから。それよりも私にとっては琴絵ちゃんの方が心配なの」
「ふ〜ん……」
 その説明だけではとても理解はできないだろうが、圭太もそれ以上はなにも言わなかった。
「それで、琴絵のなにが心配なわけ?」
「それはやっぱり、圭太の実の妹ってこと。まあ、今は私の義理の妹でもあるんだけど。圭太は、琴絵ちゃんとの関係を、どうするつもりなの?」
「どうするって、どうもしないよ。兄妹であることは変わらないんだから」
「そうじゃなくて、男女の関係を、よ」
「ああ、そっちか。それなら少なくとも僕の中では結論が出てるよ」
「へえ、そうなんだ。ちょっと意外」
「どうして柚紀が意外に思ったのかは訊かないでおくよ」
「ありがと」
「で、どういう結論かというと、僕と柚紀が結婚したらその関係は終わりにするってものだよ。言い方が正しいかはわからないけど、今までは結婚してなかったからかろうじて続けてこれた関係だった。だから、結婚した今それを続ける理由がなくなったわけ」
 それはある意味、圭太らしい考え方だった。
 普段の圭太の言動を見ているととても思慮深く、相手のことを思いやっているが、実はとても冷静に物事を判断し、時には冷たいとも受け取れる選択を平然とやる。
「琴絵ちゃんは、それを納得してるの?」
「さあ、どうかな。ただ、一応それに反対はしてなかったよ。まあ、結構前に言ったことだから、今現在どう思ってるのかはわからないけど」
「そっか……」
 柚紀は少し考えた。
「じゃあさ、圭太。琴絵ちゃんに確認してみようよ」
「えっ……?」
 そう言って柚紀は携帯を手に取った。
「もう宿題は終わってるかな?」
 圭太が唖然としてる間に、琴絵に電話をかけた。
『はい、もしもし』
「あ、琴絵ちゃん? 今、平気?」
『はい、大丈夫ですけど』
 柚紀からの突然の電話に、琴絵は多少困惑気味である。
「宿題は終わった?」
『えっと、あと少しで終わります。夜の間には終わると思いますけど』
「そっか。もし終わらなかったら、私が手伝ってあげるよ」
『えっ、いいですよ、そんなこと』
「いいのいいの。まあ、私にできることはそう多くないだろうから、せめてそれくらいはね」
 柚紀の真意を測りかねているのか、琴絵の反応は鈍い。
「あ、それで突然電話したのはね、琴絵ちゃんに確認したいことがあったからなの」
『確認したいこと、ですか?』
「うん。私と琴絵ちゃんと圭太のためにね」
『お兄ちゃんも、ですか』
 そこでようやく琴絵も話が飲み込めてきたようである。
「あのさ、琴絵ちゃん。琴絵ちゃんは、圭太とずっと一緒にいようと思ってるんだよね」
『あ、はい。そうですね。よほどなにかない限りは、ずっと一緒にいるつもりです』
「それって、妹としてだよね?」
『はい』
「じゃあさ、圭太との関係は、どうあろうと思ってるの?」
『……私は……』
「圭太の話だと、圭太と私が結婚したら、今までみたいな関係は終わりにするってことだけど、どうなのかな?」
『……そのつもりではいます。いますけど……』
「そこまで簡単には割り切れない、と」
『はい……』
 柚紀も責めるつもりはないのだが、圭太とのことなので、どうしても少しきつい言い方になってしまう。
「琴絵ちゃんはさ、どうあればいいと思ってるのかな? 今の状況は明らかにおかしいわけでしょ?」
『……正直言えば、私もわかりません。私はお兄ちゃんのことが大好きです。それは、妹としてもですし、女の子としてもです。だからこそ、私は自分の想いを抑えきれずに、お兄ちゃんに抱いてほしいと思い、実際そうしてもらいました』
「うん、それはよくわかってるよ。琴絵ちゃんの圭太に対する想いは、私に勝ってるかどうかはわからないけど、決して負けてるとは思ってないからね。でも、実の兄妹なんだからいつまでも今のままというわけにはいかないのも、事実だよね」
『はい』
「私は、琴絵ちゃんとはもっともっと仲良くなりたいの。義理の姉妹でしかないけど、実の姉妹にも負けないくらい、お互いを理解し合いたいの。でも、今のままだとそれもどこかで難しくなってしまう。理由は、わかるよね?」
『はい』
「だからね、琴絵ちゃん。圭太とは単なる兄妹の関係に戻ってほしいの」
『…………』
「この場で答えてくれなくてもいいよ。でも、できるだけ早く答えてほしいな。その方がお互いのためだろうし」
『……わかりました』
「うん、ありがと」
 柚紀は、琴絵の想いも理解しているので、とりあえずこの場での結論を避けた。
「琴絵ちゃん。圭太と話をする?」
『……いえ、いいです。今お兄ちゃんと話しちゃうと、弱音を吐いちゃいそうなので』
「そっか。強いね、琴絵ちゃんは」
『そんなことないですよ。ただ、お兄ちゃんとのことなので、そう簡単に退けないだけです』
「それでもだよ」
 柚紀は心の底からそう思っていた。もし自分が今の琴絵と同じ立場にいたら、果たしてそんな風に言えたかどうか。
 ただ、それは琴絵にも言えた。もし自分が今の柚紀と同じ立場にいたら、同じことができていたかどうか。
 そういうことを考えると、案外似た者同士かもしれない。
「じゃあ、突然電話しちゃってごめんね」
『いえ』
「宿題、がんばってね」
『はい』
 携帯を切ると、柚紀は小さく息を吐いた。
「なんか、このままだと琴絵ちゃんに嫌われちゃいそう」
「それはないと思うけど」
「でも、いちいち痛いことばかり言ってくる相手を、いつまでも好きでいられる?」
「まあ、それは人それぞれだとは思うけど」
「私もわかってはいるんだけど、言わないで面倒なことになるくらいなら、言って面倒なことになった方がいいって思うから、ついつい言っちゃうんだよね」
 柚紀の性格を考えれば、そういう風に考えて、行動してしまうのもしょうがない。それが柚紀らしさとも言える。
「琴絵の兄として言うなら、琴絵には柚紀みたいな存在が絶対に必要なんだ」
「どうして?」
「家族からあれこれ言われても、これまでのことがあるから、素直に受け取れなかったり、またか、みたいに適当に扱う可能性もある。でも、それが家族以外から言われると、また違う反応になるはずだから」
「そういうものかな?」
「特に琴絵に対しては、母さんはある程度厳しく言うけど、僕はどうしても甘やかすことが多くなってるから。だから、柚紀みたいにはっきり言ってくれる存在は、とても貴重で大事だと思うよ」
「そっか」
「それに、それは家族になった今は余計だと思う」
 確かに、一面から見れば、圭太みたいな考え方もできるかもしれない。
 ただ、そうだとしてもそれを柚紀がどう捉えるかが問題である。
「琴絵のことに関しては、僕ももう一度琴絵としっかり話をするよ。その上で百パーセントの納得は得られないと思うけど、できるだけ納得できるような方向で決着できるように話してみる」
「うん」
 柚紀としては、今回はあくまでもそれぞれの確認さえできれば問題なかったのだが、思わぬところでそれ以上のことを引き出せた。もっとも、柚紀自身にとっては少々想いの残る結果ではあったが。
「次は?」
「ん〜、次は今日はもういいや」
「いいの?」
「うん。なんか、これ以上話しても私にとってはそれほど意味のある結果は得られないような気がしてね。確認すること自体は必要だと思うけど、じゃあ、それに対してどんなことをすればいいのかがわからないから。そこまで考えた上でなら、とっても有意義だと思うけど」
「柚紀がいいなら僕はなにも言わないよ。ただ、柚紀が次に確認しようと思う時までに、もう少しだけ決着をつけておけるように、努力はするから」
「うん」
 それがいつまでのことなのかは、圭太も柚紀もわからない。
 ただ、少なくとも三月の卒業までには、全員に対してなんらかの結論が出ているのは、間違いないことであった。
 それを前倒しできるかどうかは、圭太次第である。
「あれこれ考えて、少し疲れちゃった」
「大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。でも、大丈夫だけど、圭太からパワーをもらいたい」
 そう言って柚紀は、圭太に抱きついた。
「しばらく、このままでいさせてね」
「いいよ」
 目を閉じ圭太に身を任せる柚紀。
 そんな柚紀を、圭太は優しく抱きしめていた。
 
 夕食を食べたあとも、ふたりはただただのんびりと過ごしていた。
 外は寒いが、部屋の中はとても暖かい。それもあって、余計にのんびりしたくなるのである。
「ねえ、圭太」
「ん?」
 柚紀は、圭太を膝枕しながら、優しく髪を撫でながら言った。
「私もさ、圭太の呼び方、変えた方がいいかな?」
「どうして?」
「なんとなくそう思ったの」
「別に僕は今のままでいいと思うけど。もちろん、変えることに異論はないよ。柚紀の好きなように呼んでくれて構わないよ」
「そう言われちゃうと、すぐには変えられないけど。でも、なんとなく夫婦になったら、ずっと今のままというわけにもいかないのかな、って思ってね」
「それはそれこそ人それぞれだと思うけど」
「お義母さん──琴美さんは、ずっと変わってないの?」
「そうだね。母さんは少なくとも僕が覚えてる限りにおいては、父さんのことをずっと前から『祐太さん』て呼んでたね。それ以外で呼んでるのは、聞いたことがないよ」
「そっか。うちは、気付いたら呼び方は『あなた』になってたからなぁ」
 呼び方に決まりはないので、どうしてもそういう風になる。
 もっとも、夫婦が名前を呼ばなくなってくるのは、面倒になるということと、今更照れくさいというふたつの理由があると考えられる。
「琴絵ちゃんは『お兄ちゃん』、朱美ちゃんは『圭兄』、鈴奈さんと祥子先輩は『圭くん』、紗絵ちゃんと詩織は『圭太さん』、凛は『けーちゃん』。呼び捨てなのは、私とともみ先輩、幸江先輩」
「なんか、そうやって並べられると、変な感じだね」
「およそ呼べるほとんどの呼び方じゃない?」
「そうかもしれないね」
 ほかには、年上からは『圭太くん』と呼ばれたり、よく知ってる親しい人からは『圭太ちゃん』と呼ばれたりもしている。
「むぅ、そうすると無理に変える必要もないのか」
「別に、今すぐに決めなくてもいいと思うけど」
「まあ、そうだね。もう少しゆっくり考えてみるよ」
「逆に、僕が柚紀の呼び方を変えてみようか?」
「えっ、圭太が?」
「うん」
 思わぬ提案に、柚紀もさすがに驚いている。
「ああ、でも、柚紀の名前って、なかなかほかに呼びようがないんだよね、実際」
「まあ、そうかな」
「今は、呼び捨てか、さん付けか、ちゃん付けでしょ?」
「そうだね」
「子供の頃はどうだったの?」
「ん〜、今とそんなに変わらなかったかな。あ、でも、漢字の読みで『ゆず』って読めるから、柚ちゃんとか呼ばれたことはあったかな」
「そっか。う〜ん、結構いいアイデアだと思ったんだけどな。ダメか」
「圭太はそのまま呼び捨てにしてくれればいいの。私は、そう呼ばれたいんだから」
「わかったよ」
 どうやら、柚紀には柚紀のこだわりがあるらしい。
「あ、圭太。今何時?」
「ん、そろそろ九時になるね」
「よし、時間ね」
「時間?」
 突然気合いを入れはじめた柚紀に、圭太は首を傾げた。
「夕食の前にね、プライベート風呂の予約をしてきたの。それが九時から十時までの一時間」
「……いつの間にそんなこと……」
「ほらほら、時間がもったいないから、圭太も準備して」
「はいはい、わかったよ」
 特に反対する気はなかったので、圭太は素直に言うことを聞いた。
 すぐに準備を済ませ、部屋を出た。
 正月三が日を外しているとはいっても、それなりに宿泊客は多いらしく、九時という時間でもあちこちから声が聞こえてきた。
 ふたりが向かった温泉は、大浴場とはまた別のもので、比較的最近作られたものだった。
 カップルや仲間同士、家族だけの時間を有効に使える空間として、それなりの人気を博していた。
 閑散期なら一時間以上の予約も可能なのだが、繁忙期は一時間と決められていた。
 ふたりがその温泉の前まで来ると、中から家族連れが出てきた。
 夫婦と小学生くらいの女の子、それとまだ小さい赤ん坊の四人家族だ。
 軽く会釈して廊下を行きすぎる。
「いいね、ああいうの」
「僕たちは、そのうちにね」
「うん」
 脱衣所に入る前に、予約使用中の札を出しておく。それをしなければ、勝手に使われてしまうからだ。
 脱衣所はそれほど広くはなかった。大人数での使用を目的としていないからだろう。
 それぞれ浴衣を脱ぎ、手ぬぐいだけ持って浴室へ。
 こちらは、意外に広かった。
 窓ガラスの向こうは、宿の裏手の山。さすがに夜なのでその風景を楽しむことはできないが、それでもなんとなく開放感がある景色だった。
「ん、ん〜……」
 かけ湯をして湯船に浸かる。
「いい気持ち……」
 大浴場ほどの広さはもちろんないが、十二分に手足は伸ばせるので、窮屈さはない。
 圭太も、柚紀の隣に入り、手足を伸ばした。
「こうして一緒にお風呂や温泉に入るのも、当たり前になっちゃったね」
「そうだね」
「よくよく考えてみれば、私たちがつきあってから、まだ三年も経ってないのにね。でも、そんな時間とは関係なく、とても充実してたと思う。私の感じだと、三年弱の時間は、その倍にも感じられるもの」
「確かに」
「充実した時間はあっという間に過ぎるって言うけど、それはそれで、うん、納得できる。でも、充実した時間は、あとで思い返した時には、実際の時間の何倍もの時間に感じられるんだね」
「それこそが、充実してる証拠かもしれないね」
 圭太も柚紀も、お互いがお互いにそう考えていた。
 それはもちろん、その時々の行動それそのものが充実していたからでもあるのだが、それ以上にお互いが不器用だと自覚していたので、ひとつひとつをとても大切にしようと常々思っていたからでもあった。
「高校に入って圭太と出逢えて、私は本当に幸運だったと思ってる。一生の中でどれだけ運命的な出逢いというものがあるのかはわからないけど、ほとんどの人はそれをそういうものだと自覚できずに終わってるんだと、私は思うの。じゃなかったら、世の中はもっとよくなってると思うし」
「なるほど」
「で、私はその運命的な出逢いをして、それを自覚できた。だから今、幸せなの。もちろん、今以上に幸せになれる自信はあるけどね」
「柚紀のそういう前向きなところ、好きだよ」
「ありがと」
 あまりにも似すぎていると上手くいかないが、このふたりの場合は、基本的な性格が正反対とまでは言わないまでも、だいぶ違う。だからこそ、とても上手くいっているのである。
「そういえば、ひとつ訊きたいことがあったんだ」
「ん、なに?」
「うん、お店のことなんだけどね。今って、ともみ先輩と幸江先輩がバイトとして手伝ってくれてるでしょ。幸江先輩は祥子先輩の代役ではあるけど、それにしても、ふたりいるという状況は変わらないのよね」
「そうだね」
「で、バイトを雇ってる理由って、琴美さんの負担を軽減するためだから、それをバイトじゃない誰かが補っても構わないということになるわよね、当然」
「まあ、そうだね」
「なにが言いたいのかというと、結局、私が手伝えばいいだけなんじゃないかなって、思ったのよ。私、圭太と結婚して高城家に入ったんだし。家族なら、特にバイト代を払う必要もないし、バイト以上に無茶なこともさせられるし」
 確かにそうである。今までは家族である圭太も琴絵も学校があったので、バイトを雇って手伝っていた。しかし、柚紀が高城家に入った今となっては、それをしなければいけない理由が消滅したのである。
「お義母さんは、そのあたりをどう考えてるのかな?」
「さあ、どうかな。僕も訊いたことないから。ただ、今柚紀が言ったことは、おそらく母さんもわかってると思うんだ。実際働いてるのは母さんだし、雇ってるのも母さんだからね。だから、遠からずなんらかの方針を示すと思うよ」
「そっか。そうだね」
「だけど、実際柚紀が手伝えるのは、とりあえずは三月くらいまでだよね。その先は、しばらく無理だろうから」
「そうなんだよね。そこがまた問題なのよ。だから私もどの程度関わるべきか、悩んでたの。普通に考えれば、私が入ることでともみ先輩か幸江先輩、ま、祥子先輩と置き換えてもいいけど、どちらかが辞めてもなんら問題はないわけでしょ。というか、バイト自体いらないかもしれない。で、その考えに基づいて辞めてもらうと、春から困ることになっちゃうから」
「基本的には、柚紀がうちで正式に暮らすようになってからでいいんじゃないかな。僕はそう思うけど」
「やっぱりそうなるのかな。私もそれが一番無難かな、って思ってたけど」
「柚紀の件も先輩たちのバイトの件も、全部母さんに確認してみないことにははじまらないけどね」
 とはいえ、選択肢はそう多いわけではない。
 今は出なかったが、ふたりは専門学校に行こうとしてるわけである。その期間のことも考える必要がある。
「ほかの人たちって、結婚する時ってどうなんだろうね」
「なにが?」
「ほら、そういう相手の家の事情にどこまであわせるのかってこと。事前に考える時間があった私ですらこういう状況なのに、そうじゃない人なんて、どうしてるのかなって思ってね」
「それは、なるようにしかならない、ってことじゃないかな。無理矢理あわせても絶対にいいことはないけど、だからって全部無視するわけにもいかないし。だから、実際に生活してみて、成功や失敗を繰り返して学んでいくんじゃないかな、たぶん」
 圭太の意見も、正しい。ただ、それはあくまでもひとつの意見に過ぎない。必ずしも全員に当てはまることではない。
「私は、その点でもきっと運が良いのかもしれないね」
「どうして?」
「だって、私はもう三年近くも圭太たちと一緒にいたわけでしょ? もちろん、その間は圭太の彼女という立場だったから、お客さんみたいな扱いだったかもしれないけど。それでもこの目で見て、耳で聴いて、いろいろ体験してるから。だから、高城家での私の立ち位置が、なんとなく想像できたんだよね」
「そういうことか。そうだね。そういう風に考えると、柚紀は運が良いのかもしれない」
「それに、お義母さんも琴絵ちゃんも、私のことをとても自然に受け入れてくれてるのも、大きいかも」
「それは、柚紀の人柄のおかげもあると思うよ」
「そうだといいけど」
 確かに柚紀の人柄もあるのだろうけど、高城家において最も重要なのは、圭太がそれを認めているかどうかなのである。
 琴美も琴絵も当然、自分の価値観というものを持っている。
 しかし、それを簡単に覆らせてしまうほどの影響を持っているのが、圭太である。それは、ふたりがそれだけ圭太に依存している証拠でもあるのだが、とりあえずそういう構図が成り立っている。
 だからこそ、圭太が認めた柚紀を、ふたりとも自分の価値観で認めた上で、あっさりと受け入れたのである。
「柚紀は、うちでどんな立場というか、位置にいたいと思ってるの?」
「ん〜、基本的には、私は圭太の妻だから、多少引いた位置にいると思うけど。でも、家族ということを考えれば、遠慮なんてしない対等な立場でいたいと思ってるよ」
「それがいいよ。母さんも琴絵も、結構自己主張するから、黙ってると自分のやりたいことがやれなくなる」
「圭太でもそうなの?」
「僕の場合は、無駄な争いは最初からしないように心がけてたからね。よほど理不尽なことでもない限りは、手も口も出さなかったよ」
「それはそれでどうかと思うけど……」
 処世術のひとつだとは思うが、確かに少々冷めすぎている気もする。
「まあ、もしなにかあった時は、はじめのうちは僕に言ってくれればフォローするよ。もちろん、ずっとそういうわけにはいかないけどね。柚紀ばかりフォローしてると、あのふたりはかなりうるさいだろうから」
「どうしてもという時は、頼るよ」
 高城家でもし嫁姑、嫁小姑の間で問題が起きたら、それはほぼ間違いなく圭太絡みのことである。柚紀もそのことは十二分に承知しているので、かえって気が楽だった。
 どういう態度に出るかはわからなくとも、どういうことが原因になるかがわかれば、ある程度の対策は練れるのである。
「さてと、圭太、背中流してあげる」
「そう?」
「本当はね、ここで抱いてほしかったんだけど、そういういかがわしいことはしないでくれって言われてね」
「カップルだけのお風呂じゃないからね、ここは」
「うん。だから、いつも以上に圭太のためになにかしたくて」
「そこまで気負わなくてもいいと思うけど。でも、お言葉に甘えるよ」
「うん」
 いったん湯船から上がり、柚紀は圭太の背中を流す。
「圭太はさ、私と結婚してなにか変わった?」
「ん、変わったって、なにが?」
「なんでもいいの。なにか変わったことある?」
 圭太は、少し考えた。
「正直言えば、それほど大きく変わったことはまだないよ。でも、これはある意味仕方がないんじゃないかな。結婚したからって、すべてが劇的に変わるわけでもないんだから」
「そうね」
「ただ、僕の中で確実に変わって、それを自覚していることがひとつあるよ」
「それって?」
「柚紀のことが、もっともっと好きになったってこと。それまででもうこれ以上好きにはなれないと思ったりもしたけど、全然そんなことなかった。それこそ、天井知らずで好きになり続けてる」
 言ってから圭太は、恥ずかしいこと言ってるね、と笑った。
「柚紀はどう?」
「私も、基本的には圭太と同じかな。憧れてた結婚だけど、すぐになんでも変わるわけじゃないからね。で、私も、結婚してからますます圭太のこと、好きになってる。このまま好きになり続けたら、年を取った時、どうなっちゃうんだろうってくらいにね」
「ふたりともそうなら、問題ないんじゃないかな。そこに温度差は発生しないだろうし」
「そうかもね」
 シャワーで背中を流す。
「圭太ってさ、私に対してあれこれ言わないけど、これから先もそうするつもりなの?」
「いや、そんなことはないよ。これからは思うところがあれば遠慮なく言うつもり。今までは彼女、婚約者だったからそこまで突っ込む必要性を感じてなかったけど、結婚して家族なったからには、言うべきことは言わなくちゃいけないからね」
「じゃあ、思うところはあるってことか」
 圭太は否定しなかった。
 もちろん、柚紀も自分が完璧な人間でないことはわかっていた。むしろ、人よりも直さなくちゃいけないところが多いとさえ思っていた。しかし、圭太はそんなことをほとんど言わずに今までやってきた。だから、圭太はあまりそういうことを思っていないのかと勘違いしていた部分がないこともなかった。
「でも、それはおいおい言っていくよ。まとめては無理だろうしね」
 圭太からの要求がどの程度のものになるのか見当もつかない柚紀は、多少の不安感を覚えないでもなかった。
「今度は僕が背中を流してあげるよ」
 攻守交代。
「そういえば、柚紀にひとつだけくだらないことを訊いてもいいかな?」
「ん、なに?」
「もしさ、僕がつきあおうと思わなかったら、どうしてた?」
「えっ?」
「はじめて柚紀の家に行った日に、僕が柚紀とつきあいたいと思ってなかったら、柚紀はどうしてたのかな、って」
「……あり得ない話をしてもあまり意味はないけど、そうね……きっと私はあきらめなかったと思うな。あの頃にはもう圭太のこと好きになってたし。それに、あの時は正直言えばあそこまでの展開は期待してなかったの。多少圭太の考え方に一石を投じられればとは思ったけど、すぐに結果が出るとは思ってなかったから」
「そっか」
 それは柚紀の言う通りだろう。
 心のどこかでは期待していたとは思うが、そこまで物事が上手く進むとは、さすがに思えない。ましてや、柚紀は圭太の性格をそこまでにある程度理解していた。だからこそ余計にそう思っていた。
「ただ、私としては、夏休みまでには決着をつけたかったから、そこまでにはどうにかなってたと思うよ」
「どうして夏休みだったの?」
「そんなの決まってるでしょ? 夏休みをひとりで過ごすか、ふたりで過ごすか。この差はとっても大きいもの」
「なるほど」
 圭太は、それはとても柚紀らしいと思った。
「これは逆に私から訊きたいんだけど、もしそういう状況で、私が迫り続けてたら、圭太はどうしてた?」
「そうだなぁ……今なら柚紀のことを理解してるからどうとでも対応できるけど、あの頃ならイヤになって逃げ出すか、どこかで屈してたかもしれないね」
「どっちも後ろ向きね」
「それはしょうがないよ。僕の性格だから」
「まあ、そうなるか、やっぱり。となると、あの時に圭太が決断してくれて、本当によかったってことよね」
「今となってはそうだね。僕もそう思うよ」
 もしふたりがつきあいはじめた時期がずれていたら、可能性のひとつとして、今のような状況になっていなかったかもしれない。それはある意味では柚紀にとっていいことも含まれている。
 しかし、そのせいで今の幸せな状況までなしになっている可能性もある。
 それを考えると、現状をよしとするのは正しいのかもしれない。
「よくよく考えると、恋愛って、奇跡みたいな行動や結果が積み重なって成り立ってるのよね。あの時違う行動を取っていたら、まったく違う結果になっていた、なんてこと、たくさんあるし」
「そうだね」
「だけど、あとになってあれこれ言うのは、よくないことでもあるんだよね。あとから考えれば奇跡みたいなことかもしれないけど、その時その時はそんなこと全然考えてないわけだから」
「まあ、あくまでも仮定の話でしかないからね。タイムマシンで過去に戻ってやり直せるわけでもないし」
「本当にそうよね」
 それが後悔することだとしても、もう過去の事象をやり直すことはできない。
 後ろを向くことはできても、前に進むことをやめられはしないのである。
「はい、終わったよ」
「ありがと」
 それからもう一度湯船に浸かる。
「ん〜、なんかずっとこうしてたいね」
「そうだね。学校さえなければ、湯治したいくらいだね」
「いっそのこと、学校さぼっちゃおうか?」
「ま、そうしたいのはやまやまだけどね」
 そう言って圭太は笑った。
「圭太と一緒にいる時間が増えて、圭太と私の価値観も近いものになってきたよね」
「そうかな?」
「そうだよ。つきあいはじめた頃はいろいろギャップを感じてたけど、最近は少なくなったもん」
「それって、喜んでいいのかな?」
「イヤなの?」
「そうじゃないけど」
「だったら、素直に喜べばいいの」
 夫婦は似てくる、とはよく言うが、このふたりの場合もそうなのかもしれない。というよりも、圭太が柚紀の影響を多大に受けている。
「さて、時間はまだ大丈夫だと思うけど、どうする?」
「柚紀がいいなら僕もいいよ」
「むぅ、圭太はそうやってすぐ私に決めさせる。ま、でも、今日はいいや。じゃあ、上がろう。あんまりお湯に浸かってると、のぼせちゃいそう」
「うん」
 温泉から上がり、浴衣を着て部屋に戻る。
 時間も少し遅めの時間帯に入ってきて、廊下を擦れ違う泊まり客の姿が少なくなっていた。
 そういうわけだから、柚紀は人目もはばからず、圭太にぴったりとくっついていた。
 部屋に戻るとすでに布団が敷かれていた。
「こういうのってさ、こうしてふたつ敷かれてるのと、ひとつしか敷かれてないのと、どっちが恥ずかしいと思う?」
「どっちもどっちじゃないかな。直接的なものと、直接的ではないけど、そういう意味合いのものと」
「圭太は、どっちの方がいい?」
「今となっては、どっちでもいいよ。ほら、僕たちは最初からひとつの布団を使ってたわけだし」
「まあ、それもそっか」
 ふたりがはじめてふたりだけで旅行に行った時も、結局は布団はひとつだけしか使わなかった。もちろん、布団は二組敷かれていたのだけど、ひとつは使わなかった。
「だけど、あの時は結構恥ずかしかったなぁ。なんか、これからエッチなことするんだって意識させられて」
「そうだね。宿の人に見透かされてた気がしたよ」
「あの時のことは、今でも昨日のことのように思い出せるよ。たぶん、一生今のように思い出せると思う」
「はじめてのことを思い出せるというのは、いいことだと思うよ。それって、大事なことを思い出せるのと同じだからね」
「うん」
 すべてではないが、往々にして大事なこと、大切なことは一番最初にあるものである。
 はじめてだからこそ、それがどういうものかわからないからこそ、大事なことが内在している。
「よっと……」
 柚紀は、布団の上に寝転んだ。
「もううつぶせに寝にくいのよね」
「寝返りなんか大丈夫?」
「今のところはね。ただ、先生の話だとよほどのことがない限りは大丈夫らしいけどね。別に私はうつぶせで寝る習慣もないし」
「やっぱり、いろいろあるんだね」
「圭太も、祥子先輩から聞いてないの?」
「そういうことは聞いてないなぁ。でも、少し考えれば当然のことだね。思い至らなかった僕に自覚がなかったんだよ」
 自嘲する。
「ずっと側にいられれば気付いたんだろうけど、それができなかった。祥子もできるだけ僕の手を煩わせないようにしてたから、余計だね」
「後悔してる?」
「どうかな。さすがにそこまでは思ってないけど。ただ、これからはそういう細かいことにもできるだけ気付けるようにしたいと思ってるよ」
「そうだね。そういう風に前向きに考えた方がいいよ」
「もし後ろ向きになったら、遠慮なく言ってくれていいよ」
「任されました」
 そう言ってふたりは笑った。
「じゃあ、湯冷めしないうちに……ん、携帯が」
 と、ふとテーブルの上に置いたままの携帯を見ると、着信を知らせる明かりが点いていた。
「誰から?」
「琴絵からのメールだ」
 圭太はメールを柚紀に見せた。
「えっと……温泉はどう? 楽しんでる? 今度は私も連れてってね、か。琴絵ちゃんらしいメールね」
「たまに、琴絵のこういうところが羨ましくなるよ」
「特に、大好きなお兄ちゃん絡みのこととなると、途端に積極的になるからね」
「否定はしないよ」
「でもさ、琴絵ちゃんて本当にもったいないよね」
「なにが?」
「だって、あれだけ可愛くて勉強もできて、運動はちょっと苦手だけど、人望だってあるし。なのに、その目は常に内側へ内側へ向いてるわけだから」
「それを僕に言われても困るんだけど。それに、僕はずっと前からそう思ってたよ。僕なんかよりも、ずっと琴絵に相応しい人はいるって」
 だが、それを決めるのはあくまでも琴絵自身である。そして、琴絵は生まれてからずっと、兄である圭太以外の選択肢を消している。
「琴絵ちゃんの圭太に対する想いは、正直言えば私以上のものがあると思ってる」
 それは、意外な言葉だった。
 柚紀は、いつも自分の圭太に対する想いは誰にも負けないと公言してきた。それを、あっさりと翻したのである。
「たまに考えるの。もし私が琴絵ちゃんの立場だったら、どうしてただろうって。たぶん、私も圭太のことを好きになってたと思う。だって、圭太はどう考えたって理想の『お兄ちゃん』だからね。ただ、問題はそこから先なんだよね。果たして私は琴絵ちゃんみたいに、実の兄とか妹とか、そういうことをすべて越えた想いを持てるのかな、って」
「…………」
「私には想像することしかできないんだけど、きっと琴絵ちゃんも苦しかったと思うよ。どんなに好きでも、相手は実の兄である圭太なんだもん。聡明な琴絵ちゃんのことだから、それがどれだけいけないことなのか、すぐに気付いたと思うよ。だけど、そんな世間一般の倫理観では抑え込めないほど圭太のことが好きだった。もちろん、冗談みたいに圭太に好きだって言うことはあっても、本気の告白はできなかったと思うけどね」
「……そうだね」
「それと、圭太が自分だけの圭太じゃなくなることもわかってたと思う。できるだけそうなるのが遅くなるように祈ってたかもしれないけどね。でも、現実は琴絵ちゃんの想像以上だった。だから、余計に自分の想いを抑え込めなくなった」
「…………」
「考え方の問題でもあるんだけど、そこで抑え込んでしまうのも強さ、さらに苦しむのを理解していながらも進むのも強さだと思う。どちらの選択肢を選んでいたとしても、琴絵ちゃんは強いってこと。それを私ならできたかなって」
 そういう風に考えると確かに強いかもしれない。ただ、それもやはり考え方次第だ。
 人によっては、それは心が弱いから、と言う者もいるだろう。
「だから、琴絵ちゃんは私以上かなって思ったの」
「そっか。でも、柚紀がそこまで言うのは珍しいね」
「ここに圭太しかいないからよ。ほかに誰かいたら、絶対に言わない」
「ははっ、柚紀らしい」
「それと、相手が琴絵ちゃんだから、というのもあるかも」
「そうなの?」
「ほら、琴絵ちゃんは私の『義妹』だから。姉妹になったから、認めるべきところは認めないといけないかなって」
「なるほどね」
 柚紀のそういう考え方は、圭太にとっては本当に羨ましいくらいだった。
「あ、でも、圭太。圭太はうちのお姉ちゃんとそういうことはしなくていいんだからね。あのお姉ちゃんは、圭太が隙を見せたらどんどんつけ込んでくるから」
「覚えておくよ」
 実際は圭太が気をつけていても、相手の方からどんどん攻め込んでくるはずである。なんといっても、相手は柚紀の姉、なのだから。
 柚紀は怒るだろうが、やはり姉妹、そういうところはとてもよく似ている。
「それより、琴絵ちゃんにメール返さなくていいの?」
「ああ、うん、今やるよ」
 圭太は、少し考えつつ、メールを打つ。
「これでよし、と」
「なんて返したの?」
「おみやげ買って帰るって」
「普通過ぎる。もっとユーモアたっぷりの内容にすればいいのに」
「……いや、そんなところでユーモアを込めなくても……」
「私も寝る前にメール打っとこうかしら」
 そう言いながら、柚紀は携帯を手に取った。
「一応、改めてさっきのフォローもしておきたいし」
 そういう細やかな気遣いができるところは、柚紀の長所でもある。
「ん〜、なんて打とうかなぁ……」
「ユーモアたっぷりじゃないの?」
「フォローするのにユーモアなんて必要ないでしょ?」
「…………」
 圭太は思わずなにか言い返そうと思ったが、十倍になって返ってくるのは目に見えていたので、思いとどまった。
「……よし、こんなところかな……送信、っと」
「送ったの?」
「うん。フォローも完璧よ」
 そう言って柚紀はにっこり笑う。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
「ええーっ、そのまま寝ちゃうの?」
「寝ちゃうのって、寝ないでどうするの?」
「そんなの、決まってるでしょ?」
「……あ〜、決まってるんだ」
「当たり前よ」
 柚紀は、実に楽しそうに、満足そうに笑った。
「さ、圭太」
 もっとも、圭太もこの展開は予想していたので、それほど気にしていなかった。この程度のことで気にしているようでは、とても柚紀とはつきあっていけない。
「せっかくの旅行なんだから、目一杯楽しまないとね」
 
 次の日の朝。
 圭太はいつもとは違う寒さで目を覚ました。
「……ああ、そうか」
 ここが山間の温泉宿であることを思い出し、寒さの質が違うことに納得していた。
 すぐ隣では、柚紀がまだ気持ちよさそうに眠っている。
 いつもなら裸のままなのだが、今は冬ということとここが山間にあるということで浴衣を着ている。
 本当は柚紀は着たくないと言ったのだが、圭太が柚紀の体調を心配して無理矢理着させたのである。
 圭太は暖かな布団からなんとか抜け出し、部屋の暖房を強くした。
 窓の障子を開けると、外は霧に覆われていた。
 視界はゼロに近い状態で、それでも暗くないところを見ると特に天気が悪いわけではないようである。
 部屋にある洗面台で顔を洗う。かなり冷たい水で、一瞬で頭の中がすっきりした。
 顔を洗った圭太は、テレビを点けた。ちょうど朝のニュース番組をやっており、ボリュームを抑えてそれを見ていた。
 しばらくすると、柚紀がもぞもぞと起き出した。
「……ん〜……けいた……?」
「おはよう、柚紀」
「おはよ〜……」
 眠い目を擦りながら、柚紀は体を起こした。
「早いね。今何時?」
「もうすぐ七時だよ」
「そっか」
 朝食は七時半ということなので、まだ時間に余裕はある。
「わ、すごい霧だね」
「ずっとこんな感じだよ。でも、今日は天気はいいみたいだから、そのうち霧も晴れてくるよ」
「ふ〜ん、そうなんだ。だけど、今日は別にどこへ行くわけでもないから、別にいいか」
 もともと日帰りか泊まりか半々くらいの気持ちで来ていたので、特にどこへ行くという予定もなかった。
「圭太、ちょっと」
「ん、どうしたの?」
 圭太は柚紀に手招きされ、すぐ側に寄った。
「はい、ここに座って」
「うん」
「で、私はここに」
 柚紀は、そのまま圭太の足を枕に寝転がった。
「たまには逆もいいでしょ?」
「ダメだって言っても続けるくせに」
「わかってるならいいじゃない」
 圭太は軽く肩をすくめ、柚紀の髪を撫でた。
「冬休みも今日で終わりなのよね。本当に早いなぁ」
「この冬休みが僕たち高三にとってはほぼ最後の長い休みだからね。春休みもあるけど、それは卒業後になっちゃうし」
「そうだね。なんとなく、そんな気がしないけど、でも、現実はそうなんだもんね」
「でも、僕たちにとってはすぐに休みになっちゃうけど」
「そう。そこがまた微妙なのよね。今までこれだけ立て続けに長期の休みがあったことなんてないから」
「その時間をどう使うかが、これから大きく影響しそうな気もするけどね」
「まあね」
 普通の高校三年生なら、この一月からの時間は、次への重要な準備期間となる。
 受験生なら受験勉強、就職組なら就職のための準備。
 圭太と柚紀は、そういう明確な目的がとりあえずは存在しない。だからこそ余計にどのように過ごすかが重要になってくる。
「ま、今はそのことはいいよ。明日学校へ行って、それから考えてからでも遅くはないだろうし」
「そうだね」
 別に結論の先延ばしというわけではない。圭太も柚紀も、そのさらに先のことまで考えているので、それほど焦る必要がないのである。
「とりあえず、朝食までこうしてるね」
「ご自由に」
 
 朝食を終え、着替えてチェックアウトする。
「ん〜、とってもいい旅行だったなぁ」
「そう?」
「そうだよ。だって、誰はばかることなく圭太と一緒にいられたんだから。圭太はそうじゃなかったの?」
 少し探るような眼差しで問いかける。
「柚紀ってさ、案外心配性だよね」
「む、それは圭太のせいよ。圭太が私に心配ばかりかけさせるから、そうなっちゃったの。もともとはそうじゃなかったんだから」
「まあ、真偽のほどは追求しないけど──」
「むぅ、いぢわるぅ」
 実際は、柚紀は結構な心配性である。普段はそんな風に見せていないだけで、それ以外の場所では常にあれこれ考えている。
 もちろん、圭太とつきあうようになってからそれがよりいっそう強くなったのは間違いない。特に、圭太が柚紀以外とも関係を保つようになってからは、さらにである。
「心配しなくても、僕にとってもいい旅行だったよ。もちろん、柚紀と一緒だったからだけどね」
「なんか、とってつけたような言い方」
「まあまあ、そう目くじら立てないで」
「扱いがぞんざいだなぁ」
 不満顔の柚紀。
「これからどうしようか」
「ん〜、まずはおみやげ買って、あとは時間次第かな。帰るのにも時間がかかるし」
「そうだね。じゃあ、駅までの間にあるおみやげ屋さんに寄ろうか」
「うん」
 駅までの間には、当然ながら土産物店が何軒かあった。
 そのうちのひとつに足を踏み入れたふたりは、早速おみやげを物色する。
 とはいえ、それほど多くの選択肢があるわけでもない。食べ物かそうでないものか。そのふたつに分けて考えても、どちらもそれほどたくさんあるわけではない。
 全国的に有名な温泉街ならまだしも、そこまで有名な場所とは言えないこの温泉街では、おみやげなど想像の範囲を超えることはない。
「なにかいいものあった?」
「まあ、定番ものかな」
 そう言って見せたのは、温泉のおみやげといえば真っ先に思い浮かぶもの、温泉まんじゅうだった。
「これは結構数も入ってるから、便利かなって」
「なるほど。じゃあ、それとこれにしない?」
 柚紀が見ていたのは、湯の花だった。といってもおそらく本物の湯の花ではなく、入浴剤をそれ風に見せているものである。
「今は冬だし、お風呂に入れればいいかなって」
「いいね。じゃあ、これとそれにしようか」
「そうね」
 おみやげを買うと、あとは帰るだけ。
「次の電車って、何時かな?」
 駅まで来たところで、まずは時刻表を確認する。
「……お、意外に待ち時間が少ない。次は三十分後だね」
「三十分か。まあ、しょうがないね」
 都心では電車の時間は過密だが、田舎では圧倒的に少ない。
 一時間に一本など当たり前である。それを考えれば、三十分というのは確かに短いと言えよう。
「どうする? どこで待ってる?」
「ここでいいんじゃない?」
 そこは待合室になっている。外は寒いが、待合室には暖房がついていた。
 荷物を置き、ベンチに座った。
「帰ったらどうする?」
「とりあえずゆっくりしたいね。のんびりするために温泉に来て言うセリフじゃないかもしれないけど」
「ふふっ、それは私も同じ。ま、でも、帰るための移動距離、時間を考えればしょうがないと思うけどね」
 普段の生活を考えれば、移動時間が二時間ともなれば、さすがに疲れもする。疲れを癒すために温泉に来ていたとしても、多少それがないことになってしまうのも致し方がない。
 特に圭太は電車もバスも使わない生活を送っているのである。たまに電車に乗っただけで気疲れしてしまう。
「柚紀は、次はいつ家に帰るつもりなの?」
「ん〜、今のところは月曜日には一度帰ろうかなって思ってるけど。その週の授業さえ終われば授業もないからね」
「そっか」
 柚紀は、なにかあってもいいように必要そうなものは高城家に持ち込んでいた。だから、特に家に帰らずとも生活自体はできた。ただ、結婚したとはいえ、まだ正式に高城家で暮らすように準備していないので、たまに家に帰らなければならない。
「なになに? 私が帰っちゃうと淋しい?」
「それもあるけど」
「あるんだ」
 冗談で言ったつもりだったのだが、予想外に認めてもらえて、柚紀はとても嬉しそうである。
「今は柚紀もほとんどうちにいるわけだから、その予定くらい把握しておかないといけないと思ってさ」
「なるほどね。あ、じゃあさ、圭太。これからは大まかな予定はあらかじめ圭太に渡しておこうか? なにかスケジュール帳みたいなのを作ってさ」
「どっちでもいいよ。だって、柚紀としてはうちにいる割合の方が大きいでしょ?」
「そうね」
「だとしたら、向こうに帰るのはたまにということになるわけだから、その前にさえわかってれば問題ないわけだし」
「まあ、そうなるかな。あ、じゃあさ、圭太の部屋のカレンダーに記しをつけておくよ。それならいいでしょ?」
「うん、いいよ」
 冬休みが終わり、ますます生活のリズムが通常のリズムになってくる。
 ふたりは今までもかなり長い時間を一緒に過ごしてきたが、それでもこれからはその意味合いが変わってくる。だからこそ、お互いの行動をこれまで以上に把握しておきたいのである。
「圭太と一緒だと退屈しないけど、これから先はますます退屈しないで済みそう」
「それは光栄だね」
「茶化さないの」
「ごめんごめん」
「これからは、圭太だけじゃなくて、私もそういう存在にならないとね」
「柚紀は、もうそういう存在だよ。それは僕にとってだけじゃなくて、母さんや琴絵、朱美にとってもね」
「それならいいけど。でも、一日でも早く本当の家族になりたいから、これからも努力は続けるよ」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「そのためには、旦那さまである圭太の協力も欠かせないんだからね」
「がんばるよ」
 これから先、すべてが順調にいくとは思えないが、その前向きな姿勢があれば、必ず乗り越えられる。
 時に圭太が引っ張り、時に柚紀が引っ張る。
 それがこれからのふたりの形である。
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