僕がいて、君がいて
 
第四十章「年の瀬の詩」
 
 一
 それはきっと、幸せなことだ。
 朝、目が覚めた時に、自分の大切な人の姿があったなら、それはきっと、幸せなことだ。
 普段の生活の中で、本当の意味で幸せを感じられる機会は、そうそうない。小さな幸せなら、たとえばなにかをオマケしてもらったり、百円拾ったり、テレビや雑誌の占いの良いことが当たったりした時に感じられるだろう。
 しかし、心の底から、考えてから幸せだと思うのではなく、もう本能で今が幸せだと実感できる機会は、やはりそれほどあるとは思えない。
 柚紀は、自分が今、本当に幸せなんだと、心の底から思っていた。
 もちろん、自分の心の中すべてが幸せ色に染まっているわけではない。自分の置かれている状況を、客観的かつ冷静に見ている部分も残っている。そして、そこにある感情は、とても複雑である。
 ただ、今の柚紀は、その感情となんとか折り合いをつけている。ともすればその感情から、どす黒い感情が沸き起こりかねない状況だが、もしそうなってしまったら、今自分が手にしているすべての幸せが逃げてしまうことを、理解していた。
 もっとも、今の柚紀にとっては、目の前の幸せの方が大きくて、それ以外は本当に些細なものでしかないのかもしれない。
「新しい一日、って感じかな」
 柚紀は、傍らで眠っている圭太の髪を撫でながら、呟いた。
「今日から私の世界は一変するんだ」
 正確に言うなら、日付が変わった直後からなのだが、感覚的には寝て起きてから、という感じが強い。
「今まで以上にがんばらないと」
 彼氏、いや、もう間もなくしたら夫となる圭太は、普通にがんばっているだけでは絶対に追いつけない相手である。柚紀もかなりの努力をしてきてる方なのだが、それでも圭太にはなかなか追いつけない。
 圭太はそういうことを気にするタイプではないので、特になにも言わないだろうが、柚紀はそういうことを人一倍気にするタイプである。
 決意も新たに、これまで以上に圭太に尽すだろう。
「っと、今日はあまりのんびりできないんだった」
 枕元に置いてあるエアコンのリモコンを手に取り、まずは暖房を入れる。
 今は布団にくるまっているから問題はないが、一歩でも出たら寒くて風邪を引いてしまう。
 エアコンが低い唸りを上げ、次第に室温を上げていく。
 ある程度暖かくなったところで、柚紀は少し体を起こした。
「圭太。朝だよ」
 圭太の肩を軽く揺すり、起こす。
 しかし、いつもならそれほどしなくても起きる圭太が、今日はなかなか起きない。
「ほら、圭太。起きないと、市役所に行けなくなっちゃうよ」
 少し強めに揺するが、反応はない。
 圭太が起きない理由に、柚紀はひとつだけ心当たりがあった。それは──
「……求めすぎちゃったから、かな」
 セックスのことである。
 圭太は前日は早朝から起き出し、遠出している。
 それに加えて、柚紀とデートし、なおかつ夜に何度もセックスした。
 そうすれば、いくら体力のある圭太でも、疲れてなかなか起きられない。
「……ちょっと、反省しないと」
 無理に欲求を抑え込む必要はないのだが、それでも限度というものがある。最近の柚紀は、その限度を軽く超えてしまうところがある。それを本人もわかっているからこそ、ちゃんと反省しないといけない。
「ね、圭太。朝だよ。起きようよ」
 反省はもちろんするつもりだが、とりあえず今は圭太を起こすのを優先する。
「ん〜……あなた、朝よ」
 柚紀は、少しだけ照れた表情でそう言った。
「むぅ……起きてよぉ」
 だが、なかなか起きない圭太に、次第に機嫌が悪くなってくる。
「起きないと、襲っちゃうぞ」
 いつもならこのあたりでさすがに反応があるのだが、今日はない。
「……はあ……なにやってんだろ、私……」
 以前からなにかあったら『襲う』などと言っている柚紀だが、本当にそうするだけの勇気は持っていなかった。いや、正確に言うならば、そうしてもいいと心の中では思っているのだが、それ以上にそれをしてしまったら圭太に嫌われてしまうのではないか、という今一番考えたくないことが心の中にあるせいで、それができなかった。
 今柚紀が一番恐いのは、圭太に嫌われてしまうこと。もしそんなことになったら、直ちに命を絶ってしまうかもしれない。冗談だと言われるかもしれないが、それくらい柚紀は圭太のことを深く深く愛していた。
 誰しも多かれ少なかれ不安を持ったまま生活しているのだが、柚紀の場合はその不安を圭太の側にいることで誤魔化している。ずっと誤魔化しきれるものでもないことではあるのだが、できるだけ考えないようにしている。
 もしそのことを本気で考えてしまったら、圭太の前でも笑顔でいられないような気がしていた。それくらい柚紀の圭太との関係においての不安は大きい。
 それはある意味では当然だった。幸せが大きければ大きいほど、それを失った時の反動は大きい。それがそのまま不安に繋がっている。
 だから、普段からそのことをできるだけ考えないようにして、なおかつ絶対に圭太に嫌われないように行動している。
「こういうところ、直さないといけないのになぁ……」
 人からはよく柚紀は明るくて前向きだと言われるが、本人はそこまでだとは思っていない。人前では確かに明るく振る舞ってはいるが、前向きかどうかは疑問符がつく。
 誰しもあることかもしれないが、ひとりきりになった時、あれこれうじうじと考えてしまう。本当はそこまで考えること自体意味がないのかもしれないが、ずっとそうやってきているので、今更なのである。
「……私って、本当に圭太に相応しいのかな……」
 圭太の前では、よほどの自信家でもない限り、ほぼ間違いなく気後れしてしまう。
 本人の思惑は別として、他人の目から見れば、圭太は間違いなく完璧に映る。
 性格もよく、勉強もできるし運動もできる。芸術にも造詣があり、本当に文武両道である。さらに、家庭環境の影響で、家事全般のエキスパートでもある。
 そんな圭太を見ていれば、自分が圭太に相応しいのかどうか、思い悩んでしまうのも致し方がない。
 ただ、それは本当は意味のない話である。相応しいかどうかを決めるのは、本人ではなくあくまでも相手である。圭太が柚紀のことを認めさえすれば、ほかのことなどどうでもいいのである。
 そのことも柚紀は理解しているのだが、それでも考えてしまうのだ。
「……こんないい日なのに、すごくイヤなことばかり考えてる……」
 考えなければいいのに、それでも考えてしまう。
 誰が悪いわけではないのだが、その悪循環は少なくとも圭太が目覚めるまでは止められそうにない。
 柚紀は、二度三度頭を振って、イヤなことを頭から振り払おうとする。
「ほら、圭太。もう朝だよ」
 改めて圭太の肩を揺すり、起こす。
「……ん……ん〜……」
 と、ようやく圭太に反応があった。
「……ゆき……」
「おはよ、圭太」
「……ん〜……おはよう……」
 まだまだ眠そうな圭太。こんな圭太の姿は、そう滅多に見られるものではない。
「眠い?」
「……うん」
「大丈夫?」
「ん、大丈夫だよ」
 ようやく少し脳に空気がまわったらしく、意識がはっきりしてきた。
「それならいいけど。あ、ほら、今日はあんまりのんびりできないんだから、着替えて着替えて」
「了解……って、柚紀だってまだ服着てないと思うけど?」
「すぐに着られるから大丈夫。ほら、早く早く」
 それまでの不安を振り払うかのような明るい表情、声で圭太を追い立てる。
「そういえば──」
 圭太は服を着ながら言った。
「柚紀、なにか言ってなかった?」
「なにかって?」
「いや、それがわからないから訊いてるんだけど……」
「……なにも言ってないわよ。ただ、圭太がなかなか起きないから、文句言ってただけ」
 思わず本当のことを口走りそうになったが、それは飲み込んだ。そのことを圭太に言っても、本当の意味での解決は図れないからである。
「そう?」
 圭太は、それ以上はなにも訊かなかった。
 着替え終わると──
「圭太。ちょっといい?」
「ん、どうしたの?」
「いいから」
 柚紀は有無を言わせず、圭太に抱きついた。
 そのこと自体はいつものことなので、圭太はいつものように柚紀を抱きしめる。
 いつものことだが、柚紀の体は見た目よりずっと華奢である。こうして抱きしめていると、それを実感できる。だからこそ余計に守らなくてはと思う。
 そして、今日からはそれをよりいっそう心に留めておかなくてはならない。
 なんといっても、柚紀は彼女ではなく、妻になるのだから。
「よし、充電完了。さ、朝ご飯食べちゃお」
 圭太から離れ、笑顔でそう言った。
 下に下りると、台所では琴美が朝食の準備をしていた。
「母さん、おはよう」
「おはようございます」
「ふたりとも、おはよう」
 まずはそのまま洗面所へ。
 顔を洗い、再び台所へ戻る。
「あの、琴美さん。手伝いましょうか?」
「もう終わりだから、大丈夫よ」
「じゃあ、お皿とか用意しますね」
 柚紀は、棚から皿や茶碗を取り出し、すぐに盛れるようにする。
「そうだ。母さん。パーティーの前に、少し時間をもらえるかな?」
「別に構わないけど、なに?」
「父さんと母さんに、ちゃんと報告しないといけないから」
「ああ、そういうこと。わかったわ。ちゃんと時間を空けておくから」
「よろしく頼むよ」
 圭太と柚紀にとっては、婚姻届を提出するのと同じくらい大事なことが、それぞれの親への挨拶である。
 今更、と思うかもしれないが、今更だからこそ大事なことなのである。特に、つきあいはじめて、婚約してからそれなりの時間が経っているから、なんとなくもうすべて終わってるような印象を与えている。でも実際はまだこれからなわけである。
 その再確認という意味合いもある。
「でも、もう結婚してしまうのよね」
 朝食の準備も終わり、揃っての朝食。
「もう、なの?」
「もう、よ。そりゃ、ふたりが婚約してからは一年以上経ってるけど、まだ十八なんだから」
「でもさ、母さんだって僕たちほどじゃなくても、早くに結婚してると思うけど」
「そうは言うけど、私は少なくとも成人してたわよ」
「それほどの差はないと思うけどね、実際は」
 琴美は二十歳の時に結婚、出産している。確かにそれを考えれば、十八歳の圭太と差は大きくはない。
 ただ、そのくらいの年の二年は大きくもある。
「そうそう。柚紀さん」
「あ、はい」
「時間はいつでもいいんだけど、ふたりだけで少し話したいことがあるの」
「話したいこと、ですか?」
「堅苦しいことじゃないわ。だから、気楽にね」
「わかりました。時間ができた時に声をかけますね」
「ええ、そうしてね」
 なにを話すのか気になった圭太だったが、とりあえずはなにも訊かなかった。訊いたとしても、適当にはぐらかされただろうが。
 朝食が終わると、早速出かける準備をする。
「準備できた?」
「できたよ」
「じゃあ、行こ」
 
 市役所は、街の中でも比較的古い地区にある。
 もともとはこの地域のいくつかの町や村が合併してできた市である。その中でも面積も大きく、人口も多かった町がそのまま中心となり、町役場が市役所となった。
 庁舎自体は十年前に建て替えられ、特にみすぼらしい感じは与えない。
 いわゆる官庁街という場所が形成できない理由は、県庁が別な場所にあるからだ。
 同じ市内にあるのだが、場所が離れているために、官庁街を形成できていない。
 県庁の側には、県警本部と消防本部、地方裁判所まであり、こちらはいわゆる官庁街だった。
 もっとも、両方を同時に利用する県民や市民などほとんどいないので、支障は出ていない。
 市役所へは、近くに住んでいなければバスで向かうのが一番楽である。市役所の目の前にバス停があり、またバスの本数も多い。
 それは土日も同じで、そこが駅と駅を結ぶ幹線道路に面しているからである。
 圭太と柚紀も、駅前でバスを乗り継ぎ、市役所へとやって来た。
 日曜である今日は、当然のことながら正面玄関は開いていない。夜間休日用の玄関にまわる必要がある。
 その玄関は庁舎を正面から見ると右側にある。
 自動ドアをくぐり、庁舎内へ。
 平日ならそれなりに賑わっている市役所も、日曜ともなると実に閑散としていた。
 廊下を少し進むと、カウンターがある。そこで夜間休日は一括して市民の対応をする。
 ふたりもそこで所定の手続きを行う。
 特に面倒なことがあるわけではない。必要な書類に必要事項を明記し、それに不備がなければ受理される。ただそれだけである。
 手続きは、あっという間に終わった。
 庁舎から出ると──
「はあ……」
「ふう……」
 ふたりとも、自然と息が漏れた。
「なんとなく、不思議な感じ。書類が受理された段階で、私たちは正式な夫婦になったはずなのに、全然そんな感じがしないんだもん」
「それはしょうがないんじゃないかな。それこそ、さっきまではまだ他人だったのが、いきなり夫婦になったわけだから。それに、あなたたちは今日から夫婦ですよ、という証明書があるわけでもないし」
「そうだよね。形あるものでそれが示されてないから、不思議な感じがするんだよね」
 おそらくそれは、大半の夫婦が感じることだろう。
「ま、いいや。そのうち実感できるようになるよ。今はとりあえず、慣れるまでの我慢ということで」
「そうだね」
 手続きを終えたふたりは、そのまま駅前に戻り、さらにバスを乗り継いだ。
 今度は、笹峰家へ挨拶しに行く。
 日曜のバスは、駅前からのバスということもあり、とても空いていた。
 途中の停留所での乗り降りもそれほどなく、平日の半分ほどの時間で到着した。
 バスを降りると、冷たい風が少し身に染みた。
 それでも、今日はこのところの寒さも一段落という日和なので、まだましである。
「さすがに今日は、お父さんもお姉ちゃんも余計なことは言わないと思うけど。でももしなにか余計なことを言ったら、完全に無視していいからね」
 道すがら、柚紀はそんなことを言う。
 しかし、圭太としては完全に無視などできる状況ではない。もともとそういう性格ではないということもあるが、今日から正式に『義父』と『義姉』になったのだから、余計である。
「ま、お母さんがちゃんと目を光らせてるから、大丈夫だとは思うけどね」
 笹峰家へ到着すると、早速リビングへ通された。
 このくらいの時間に着くということは、柚紀が知らせていたので、お茶の準備などはできていた。
 リビングには、笹峰家の全員が揃っている。
「まずは、柚紀から」
 光夫は、自分の愛娘を促した。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん。私は今日から、圭太の妻になりました」
 そこまで言って、一度圭太を見た。
「お父さんとお母さんの娘としてこの世に生まれたからこそ、私は圭太に出逢えた。私は、ふたりの子供であるということを、心から感謝してる。だって、そうじゃなかったら、今までも幸せだったかどうかわからないし、なによりこれからの幸せを手に入れられていなかったかもしれないから。だから……本当にありがとう」
 少し鼻にかかる声で、はっきりそう言った。
「私は圭太のもとへお嫁に行ってしまうけど、この家の娘であるということに変わりはないから。だから、これまでの十八年間と同様に、たくさんのことを私に教えてほしい」
「それは当たり前だ。おまえは、大事な娘なのだから」
「ありがとう、お父さん」
 柚紀は、本当に心からの笑顔で感謝の想いを伝えた。
「圭太くん」
「はい」
「まだまだ至らないところは多々あると思うが、どうかせめてこれまでと同じくらいには柚紀のことを大事にしてほしい」
「はい。必ず」
 圭太は大きく頷いた。
「それと、今日からは圭太くんもこの笹峰家の『家族』なのだから、いろいろなことに遠慮する必要はないのよ。遠慮してると、この人や咲紀にいいようにされるだけだから」
「そうそう。ちゃんと主張するべき時は、主張しないとダメなんだから」
 真紀と柚紀にそう言われ、圭太は苦笑するしかない。
「ちょっとちょっと、いきなりそれはないんじゃないの? あたしはそこまでひどくないわよ。そりゃ、お父さんはちょっと……だけどね」
「おいおい……」
「お姉ちゃんだって同じよ。すぐ圭太のことオモチャにしたがるんだもん。それに、お姉ちゃんには正久さんがいるんだから、なにかするならそっちにしてよ」
「正久はさ、いぢっても面白くないのよねぇ。なんか、適当に流されてるって感じ。それに比べて圭太くんは面白い。もうずっと手元に置いておきたいくらい」
「だからぁ、そういうのは正久さんに求めてよぉ。圭太は、私の旦那さまなんだから」
「ホント、ケチねぇ……」
「ケチじゃない」
 柚紀と咲紀のいつものやり取り。それを見ているだけで、圭太はとても楽しい気分になれた。もちろん、自分のことでそれが為されているのは理解していた。それでも、こういうやり取りができるふたりが、家族なのである。
 それが、とても嬉しかった。
「あ、そうだ。ひとつ忘れてたわ」
「どうしたの、お母さん?」
「ちょっと待っててね」
 真紀はそう言い残して、リビングを出て行った。
「どうしたんだろ」
「さあ、お母さんもたまにわからない行動をとるからね」
「お母さんに聞こえたら、お姉ちゃん、お小遣いなくなるよ?」
「…………」
 慌ててあたりを見回す。
「……よかった」
「なにがよかったの?」
「っ!」
 そこへ、真紀が戻ってきた。手には、なにか持っている。
「な、なんでもない、なんでも」
「そう?」
 真紀は、特に気にした様子もなく、手にしていたものを柚紀に渡した。
「これは?」
「それはね、私が結婚する時にもらったものなの」
 それは、とても綺麗な布地に包まれていた。
「見てもいい?」
「いいわよ」
 布地を開き、中を見る。
「あ、これ……」
 そこにあったのは、櫛だった。
 細かい装飾が施された、ベッコウの櫛。
「それはね、私のおばあちゃんのお母さん、つまり私のひいおばあちゃんから代々受け継がれてる櫛なの」
「お母さんのひいおばあちゃん……ということは、私のひいひいおばあちゃん?」
「そうね。だから、ずいぶんと古いものなのよ」
 古いものに間違いはないが、その状態はとてもよかった。
「特になにか決まりがあるわけじゃないんだけど、いつの間にか娘が結婚する時に、それを譲り渡すようになったらしいわ。まあ、本来は咲紀に渡すべきなんでしょうけど、柚紀の方が早く結婚しちゃったから、柚紀に渡そうと思ってね」
「そっか」
 柚紀は、その櫛をじっと見つめている。
「お母さんは、これ、使ったことあるの?」
「ええ、一度だけ」
「それっていつ?」
「結婚式の時にね、打ち掛けを着て、その時にそれを使ったの」
「なるほど」
「私も誰に言われたわけでもないのよ。ただ、そうした方がいいのかな、って思って」
「でも、お母さん。これ、私でいいの? 私、この家から出ちゃうんだよ?」
「なに言ってるの。それを言うなら、私だって家を出てこの人と一緒になったんじゃない。ようするに、家は関係ないの。それを誰に、どんな想いで渡したかが重要なの」
「そっか。そうだよね」
 親から子へ。子から孫へ。
 そこに込められた想いに多少の差はあれども、その根底にあるものだけはいつの時代も変わらない。
 娘の、変わらぬ幸せをただただ願うだけ。
「それに、咲紀にはまた別のものを渡すから大丈夫よ。もっとも、それもいつのことになるのかわからないけど」
「はいはい、全然わかりませんよ」
「だから、それは柚紀に渡すの」
「うん、わかった。ありがとう、お母さん」
 柚紀は櫛を握り締め、大きく頷いた。
「さてと、そろそろお昼の準備でもしようかしら。咲紀、手伝って」
「はぁい」
 真紀と咲紀が席を立つと、柚紀は改めて光夫に向き直った。
「お父さん」
「ん?」
「いろいろごめんなさい」
「なにを謝ってるんだ?」
「本当にいろいろだよ」
「別に、そんなことで謝る必要なんてない。子供が親に迷惑をかけるのは、当たり前のことなんだから」
「でも、やっぱり礼儀として謝っておかないと」
「まあ、それならそれで、一応受け取ってはおくが」
 圭太は、そんなふたりのやり取りを、ほんの少しだけ羨ましそうな顔で見ていた。
 もし、祐太が生きていたら、自分ともこんなやり取りがあったのだろうか、と。
 考えても仕方のないことなのだが、考えてしまう。
 そして、もし本当にそうなっていたら、果たして柚紀と結婚していたのだろうか、とも。
 
 笹峰家で昼食を食べ、圭太と柚紀は、高城家へと戻ってきた。
 ふたりが戻る前に、すでに琴絵と朱美は帰ってきていた。一緒に紗絵と詩織も来ていた。
 さらに、休日ということもあって、鈴奈も昼にはやって来ていたらしく、その四人と一緒にパーティーの準備をしていた。
 圭太は、中に入るなり早速琴美に声をかけた。
「母さん。ちょっといいかな?」
 いつもならリビングで話をするのだが、今日は仏間になった。
「それで、ちゃんと提出してきたの?」
「ちゃんと提出して、受理されたよ。だから、僕と柚紀は、正式な夫婦」
「そう。じゃあ、私はいいから、まずは祐太さんに報告しなさい」
「うん」
 ふたりは、揃って仏壇の前に座った。
 ロウソクに火をともし、線香に火を点ける。
「父さん。今日、僕は柚紀と夫婦になったよ。僕がそうなりたいと思ってからそれなりに時間が経ったけど、今でもあの時の気持ちだけは忘れてない」
 圭太は、静かな口調で続ける。
「父さんが母さんを愛し続けたように、僕も柚紀を愛し続ける。だけど、もしかしたら僕はその最初の想いを忘れてしまうかもしれない。父さんにはそんなことがないように、ずっと見守っていてほしい」
 自分の言いたいことを言い終え、柚紀を促す。
「こうして改めて挨拶するのは、久しぶりな気がします。今圭太が言ったように、私たちは夫婦になりました。最初はただ嬉しいだけで、舞い上がってました。でも、次第に冷静になり、そうするとあれこれ考えるようになりました。本当に私は圭太と一緒になるのに相応しいのか、とか」
 柚紀は、圭太の手を握った。
「だけど、そんなのわからないんですよね。相応しいか相応しくないか。それは、たいていまわりが見ての評価なんですけど、結局は自分たちがお互いにとって相応しいと思えていればいいんです。そして、それを判断するのは今ではなくて、もっとずっと先のことです。夫婦として生活して、お互いのことを今以上に理解して。その上ではじめて改めて考えてみるのが一番のはずなんです。だから、今はまだ私が圭太にとって相応しい妻かどうかはわかりませんけど、少しでもその理想に近づけるようにがんばります。お義父さんにはそれを天から見守っていてほしいです。お願いします」
 柚紀の言葉を、圭太は果たして予想できていただろうか。
 その表情からはそれは読み取れない。だが、多少驚きはしても、困惑した様子などは見られない。むしろ、笑みさえ浮かんでいる。
「これからも、よろしくお願いします」
 ふたり揃って頭を下げ、報告は終わった。
「あ、そうだ。琴美さん」
「ん、どうしたの?」
「えっと、今日から琴美さんのことを『お義母さん』と呼んでもいいですか?」
「ふふっ、いいわよ。好きなように呼んでちょうだい」
「はい」
 琴美にとっては、そう呼ばれること自体に抵抗はなかった。
 圭太が柚紀のことを彼女だと紹介してから、琴美は柚紀のことをもうひとりの娘のごとく、可愛がっていた。それは、実の娘である琴絵や姪である朱美に向ける愛情とは違うものだった。もちろん、鈴奈に対するものとも違う。
 とにかく琴美は、柚紀のような彼女がそのまま圭太の結婚相手になってくれればと、当初からずっと考えていた。
 そのことはふたりが高二になった年に、婚約という形で現実へ一歩近づいた。
 琴美がなぜそこまで先を急ぐかのような考えを持っていたのかといえば、それは家庭環境が一番の理由である。
 不幸にして母子家庭となってしまった高城家。
 そこに足りないものは、父親と母親が揃っていることである。
 琴美自身に再婚の意志がないので、それを実現できるのは、息子である圭太と娘である琴絵だけである。
 だが、ここも不幸にしてと言うべきか、琴絵は他人など目の隅にも入らないくらい、兄である圭太のことを一途に想っていた。琴美もそのことにはだいぶ早くに気付いていたのだが、結局、それはもはや取り返しのつかないところまできてしまった。
 残るは圭太だけで、幸いにして圭太は高校入学直後に彼女を見つけた。
 だからこそ、琴美は圭太に自分の願いをすべて託した。
 そして今日、それが名実ともに現実のものとなった。
 そういう理由もあって、琴美は柚紀に『お義母さん』と呼ばれることに、なんの抵抗もなかった。むしろ、もっと早くにそう呼ばれていてもなにも言わなかっただろう。
「そうそう。ふたりに確認したいことがあったのよ」
「ん、なに?」
「結婚式、どうするの?」
 ふたりは、顔を見合わせた。
「無理してやる必要はないとは思うけど、やっぱりやった方がいい想い出にもなるし」
「僕たちもしたいとは思ってるけど、さすがにすぐにというわけにはいかないから。それはお金の問題もだし、春には柚紀の出産もあるから」
「そうね。確かにそういう問題もあるわね」
「ただ、来年中にはなんとかしたいとは思ってる」
「そう」
 琴美はふたりの意志を確認し、少し押し黙った。
「これは私からの提案なんだけど、記念写真だけでも撮らない?」
「記念写真?」
「そう。圭太はタキシードでも紋付きでもいいし、柚紀さんはドレスでも打ち掛けでもいい。結婚式自体はそのうちにするとしても、やっぱりなにか形として残るものがあった方がいいと思うのよ。だからね」
 それはそれで圭太も考えないではなかった。だが、それをしてしまうとそれだけで満足してしまうのではないかと考え、柚紀にはなにも言わなかったのである。
「まあ、僕はいいと思うけど、柚紀はどう思う?」
「私もいいと思うよ」
「じゃあ、詳しいことは私が決めてもいい? 手配なんかも全部済ませておくから」
「わかった。母さんに任せる」
 本当はそこまでとも思った圭太なのだが、琴美の心境も理解できるだけに、素直に頷くことにした。
「さてと、とりあえずこんなところかしら?」
「そうだね」
「じゃあ、琴絵たちの手伝いをしないと。ふたりも、なにもすることがなければ、手伝ってあげて」
「了解」
「はい、わかりました」
 琴美が部屋を出ると、柚紀は少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「なんとなくなんだけど、私たちに対してなにかしなくちゃいけないと思ってるのかもしれないね」
「そうかもしれないね。だけど、それもある意味ではしょうがないと思うんだ」
「どうして?」
「母さんの心境としては、僕たちにすぐに結婚式を挙げさせられないという想いがあるはずなんだ」
「でもそれは……」
「うん。お金だけじゃなくて、時間の問題もあるからね。しょうがないんだよ。でもさ、ここにもし父さんがいれば、それも変わってたかもしれない、って考えちゃうんだ」
「そっか……」
「だからこそ、余計になにかしたいんだよ。できたかもしれないなにかの代わりとして」
 それを聞くと、いかにこの家の中で祐太の存在が大きくて、大きかったかを再認識できる。柚紀も圭太から話には聞いていたが、ここまでだとは思わなかった。
「だけど、いいのかな、そこまで甘えちゃって?」
「いいんだよ。それに、ここでもしやっぱりやらなくていい、なんて言ったら、母さん、拗ねちゃって大変だから」
「拗ねるの? 怒るんじゃなくて?」
「そう、拗ねるの。母さんて、見た目からそういうところあまりないように見られがちなんだけど、結構子供っぽいところあるんだ」
「へえ、そうなんだ」
「柚紀も、これから母さんと接する時間が増えるから、そういう一面も見るようになるはずだよ。まあ、すぐに柚紀の前で見せるとは思えないけど」
 普段見られないような姿を見られるようになると、本当の家族になれた気がする。もちろんそれは必ずではないのだが、なんとなく近づけた気がして嬉しい。
「よし、僕たちも準備を手伝おう」
「あ、圭太」
「ん?」
「ずっと言い忘れてたから」
 柚紀は、居住まいを正し──
「ふつつか者ですが、これからもよろしくお願いします」
 そう言って、頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 少しだけ真剣に、丁寧に言葉を交わす。
 それがこれからのはじまりの合図であるかのごとくに。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
 
 二時過ぎにクリスマスパーティーははじまった。
 今年のパーティーは去年以上に賑やかになった。なんといっても、メンバーがふたりも増えている。もっとも、そのうちのひとりは、今なにをやってるのかも理解できていないのかもしれないが。
 その新入りは今、圭太の腕の中ですこぶるご機嫌だった。
「ほら、琴子」
「あ〜」
 圭太は、琴子お気に入りのおもちゃを目の前で動かす。琴子はそれをつかもうと手をバタバタと動かす。
「琴子ちゃんて、本当にカワイイですよね。赤ちゃんは天使だなんてよく言いますけど、本当にそう思います」
 そんな琴子をキラキラした目で見ているのは、詩織だった。
「詩織は、子供は好きなのかい?」
「ん〜、どうですかね。自分でもよくわかりません。ただ、こうして圭太さんと琴子ちゃんの姿を見ていると、好きなのかもしれないって思います」
「なるほどね」
「こらー、詩織。抜け駆けはよくないわよ」
 そこへ、朱美がやって来た。
「別に抜け駆けなんてしてないでしょ? みんなすぐ側にいるんだから」
 確かに店の中なのでそれほど広いわけではない。端と端でもなにをしているかすぐにわかる程度である。
「そうだとしても、十分抜け駆けよ。私なんて、この三日間、ほとんど圭兄と話せなくて、それはもういろいろ溜まってるんだから」
「それは朱美が悪いんだから、しょうがないじゃない。そのことに関しては、誰も同情してくれないわよ」
 本来なら誰かしら同情してくれるのだろうが、圭太絡みの時は一変する。
 もし仮に自分がその立場だったら。そういう風に考えてしまうからである。
 もっとも、罰を受ける方の立場には立ちたくないので、そのあたりのことは考えないようにしている。
「まあまあ、詩織もそこまでにして。別にそのことを今言わなくてもいいんだから」
「それはそうですけど……」
「それに、さすがに今回のことで朱美も十分反省しただろうからね。もうこういうことはないよ。ただ、今は少しだけ虫の居所が悪いだけだよ」
「うっ……」
 圭太にそんな風に言われてしまうと、朱美も自分の行動が大人げなかったと思ってしまう。
「お兄ちゃんっ」
 そこへ、琴絵がやって来た。
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん」
「……連呼するな」
「ええーっ、全然言い足りないよぉ。昨日も一昨日もお兄ちゃんとまともに話せてないんだから」
「だからって……」
 圭太も言っても無駄なことは理解していた。琴絵はなんといっても、圭太の妹である。頑固なところはとてもよく似ている。
「……もういいから、あまり騒ぐな。琴子が不思議そうな顔してる」
「はぁい」
 琴絵は、素直に頷き、そのまま側にとどまった。
「ほら、琴子。琴絵『叔母さん』だぞ」
「むぅ、お兄ちゃん。それはひどいよぉ」
「ひどいって、事実だろ?」
「そうなんだけどぉ……」
 事実は事実なのだが、さすがにそう呼ばれることにはかなりの抵抗があった。
 これは柚紀が春に出産したあとにも同じようなことが起きそうである。
「そういえば、圭兄。圭兄の部屋にあるツリーって、うちの?」
「ん、そうだよ。昨日、取りに行ったんだ」
「それって、先輩のため?」
「うん」
 即答。
 わかってはいたことだし、それ以外の答えがないのも理解していたが、やはり胸の奥がズキンと痛む。
「昨日のことは、すべて柚紀のためにしたことだから。僕にはそれくらいのことしかできない、というのもあるんだけどね」
 なにをするかではなく、誰が誰のためにどれだけの想いを込めてそれをしたかが問題なのである。だから、たとえ昨日のことがたいしたことないものでも、柚紀は喜んだだろう。それが圭太が柚紀のためだけに、柚紀に対するすべての想いを込めてやったことだからである。
 圭太もそのことはある程度理解しているのだが、目の前の三人ほどは理解していないかもしれない。
「……お兄ちゃん、本当に柚紀さんのこと、好きなんだね」
「そうだなぁ、もし誰かひとりだけしか好きになってはいけないって言われたら、迷わず柚紀を選ぶね」
「そっか……」
 それもわかっていたことだ。あれだけ頑なだった兄の心を開き、なおかつ虜にしてしまったのだから。それくらい想われていても、おかしな話ではない。
「なになに、みんなしてなに話してんの?」
「ともみ先輩」
 ジュース片手に、ともみがやって来た。
「特にこれといったことは話してないですよ」
「そなの? なんか、圭太以外やけに深刻そうな顔してたから、すごいことでも話してたのかと思った」
 なかなか鋭い。
「あ、そうそう。圭太」
「なんですか?」
「少し、時間いい? ほんの少しだけでいいんだけど」
「別にいいですよ」
 ふたりは、店の方から家の方へ場所を移した。ちなみに、琴子はずっと圭太の腕の中である。
「ホント、琴子ちゃんはパパが大好きなんだね」
「……嫌われるよりはいいと思いますけど」
 もう何度も言われているので、圭太も投げ遣りである。
「拗ねないの。悪いなんて言ってないんだから」
「わかってますよ」
 圭太はソファに座り、小さく息を吐いた。
「わざわざ時間を取ったのは、誕生日のことですか?」
「そ。さすがは圭太ね。話が早くて助かるわ」
「どうしますか? 僕はともみさんにあわせますけど」
「ん〜、そうだなぁ。私としては、圭太と一日一緒にいられればそれでいいんだけど。それでも、デートはしたいわね」
「どこか行きたいところとかありますか?」
「遠出したい」
「遠出、ですか」
「うん。知り合いの誰にも会わないような、遠いところ」
 なぜともみがそんなことを言い出したのかは、圭太にもわからなかった。ただ、そういうことを考えてしまう気持ちはわかった。
「具体的にどこでなにがしたいとかありますか?」
「そこまではないかな。あ、そうだなぁ、もし可能なら、温泉なんかいいかも」
「温泉、ですか。なるほど。この時期ですからね」
「ただ、問題なのは年末だってこと。混みはじめる頃だからね、私の誕生日くらいから」
「日帰りなら、多少混んでいても大丈夫じゃないですか?」
「……泊まりはダメ?」
「それはさすがに……」
 それこそ年末にそんなことをすれば、黙っていない者が多すぎた。特に柚紀にとっては、夫婦になってはじめての年末ということで、いろいろ期待しているだろう。誕生日こそ特には言わないだろうが、それが泊まりになればなにを言われ、なにをされるかわかったものではない。
 圭太としては、ともみの願いもかなえてあげたいのだが、そのせいで必要以上の波風が立つのも控えたいのである。
「冗談よ、冗談。さすがにそこまではね。誕生日は誕生日だけ、だから」
 ともみはそう言って笑った。
「わかりました」
「えっ、なにがわかったの?」
「温泉に行きましょう。日帰りにはなりますけど」
「別に無理しなくてもいいのよ? 私は圭太に誕生日を祝ってもらえるだけで幸せなんだから」
「無理かそうじゃないかを決めるのは、僕ですから」
 笑顔でそう言われてしまうと、ともみもなにも言い返せない。
「詳しい話は、明日で構いませんか?」
「もちろん」
「じゃあ、ある程度僕の方でも調べてみますので、決めるのはともみさんがバイトでうちへ来た時にでも」
「そうね。それでいいわ。あ、私の方でも候補は挙げておくわね。その方が効率的だし、穴場が見つかるかもしれないから」
「わかりました」
 泊まりという願いはかなえられなかったが、それ以外はほとんどともみの望み通りになり、とても嬉しそうである。
「圭くん」
 とちょうどそこへ、祥子がやって来た。
「どしたの、祥子?」
「いえ、そろそろ琴子のおっぱいの時間なので」
「ああ、なるほどね」
 祥子は圭太から琴子を受け取り、ソファに座った。
「もう目をつぶってでもできるでしょ?」
「そうですね。最初の頃よりはかなり慣れました」
「やっぱり、自然に慣れるもの?」
「ほかの人はどうかはわかりませんけど、私の場合はそうですね。母親になって、元から理解していた部分もあったんですけど、それでも実際にやってみないとわからない部分というのも結構ありますから」
「ふ〜ん、なるほど」
 琴子は、一心不乱におっぱいに吸い付いている。
「先輩も、子供がほしかったりしますか?」
「ほしいわよ。最近は前よりそう思ってる。やっぱり、祥子と琴子ちゃんの姿を見てるからかな」
 それを聞いても、祥子は特に表情を変えない。
「みんな、そう思ってるんですかね?」
「さあ、どうなんだろ? そればっかりは私にもわからないわ」
「……もしみんながみんな、圭くんとの子供がほしいと思っていたとしたら、それってやっぱり、見える絆がほしい、ということなんでしょうか?」
「それもわからない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「先輩は、どうですか?」
「さあ、どっちかしら?」
 ともみは、適当にはぐらかした。
「ただ、人間という生き物は、ひとつの欲望がかなえられると、また違う欲望を抱くようになるのは事実よ。たとえば、誰かを好きになって、その想いが遂げられて。でも、心の中ではさらなるものを渇望している。それが、子供かもしれない」
「…………」
「そういう可能性がある、ってこと。もちろん、それだけじゃないと思うわよ。限りなくゼロに近いかもしれないけど、本当に純粋に側にいたいだけ、という人もいるかもしれない」
「そうですね」
「まあ、どちらにしろ、相手にもよると思うわよ、私は」
 そう言って圭太を見た。
「んじゃ、私は戻るわね。圭太、例の件、よろしくね」
「わかりました」
 ともみが店に戻っても、ふたりはすぐには口を開かなかった。
 琴子がおっぱいを飲んで満足したところで、はじめて口を開いた。
「なんとなくなんだけどね、ともみ先輩、なにかを決めたのかな、って思うの」
「なにかを決めた、ですか」
「具体的になにとは言えないけど、なんとなくそんな感じがする」
 女の勘だよ、と言って笑う。
「さてと、圭くん。琴子、どうする? 私が見てようか?」
「いえ、いいですよ。僕が見てた方が、祥子も安心でしょうから」
「ん、それじゃあ、そうするね」
 琴子は圭太の腕に収まると、途端にきゃっきゃと声を上げた。
「なんかね、琴子を見てると少しだけ心配になるの」
「心配、ですか?」
 今の琴子からは一番遠い言葉に、圭太は首を傾げた。
「琴子が、パパのことを誰よりも大好きになっちゃったらどうしよう、って。好きになること自体は構わないよ。その方が絶対にいいから。でもね、父娘の関係を越えてしまうのはさすがにね」
 祥子にとっては、それは妄想でもなんでもない。現実に、圭太は実の妹である琴絵と関係を保っている。それを見ているだけに、実の父娘であろうとそうなる可能性を否定しきれないのである。
「そのあたりは、祥子次第、というところもあるんじゃないですかね」
「私次第?」
「僕が琴子の側にいない時、僕のことを琴子に話すのは祥子ですから。そこで必要以上のことを言ってしまうと、感情も偏ってしまうかもしれません」
「そっか……」
 確かに、知らないことを知る場合、誰に影響を受けるのかを考えれば、その意見も頷けた。ただ、圭太はひとつ失念している。圭太や祥子のまわりには、圭太のことを必要以上に言う者が圧倒的に多いことを。
「ま、いいや。今からそのことを心配してもしょうがないしね」
「そうですね」
 店の方に戻ろうとしたところで、インターフォンが鳴った。
「あ、祥子は先に戻っててください。僕が出ますから」
「うん」
 圭太は、琴子をいったんベビーベッドに寝かせ、玄関へ。
 ドアを開けると、宅配便だった。ハンコを押して、荷物を受け取る。
「あれ、叔母さんからだ」
 差出人は、淑美になっていた。食料品となっていたので、どうやらこのクリスマスにあわせてのものらしい。
 圭太はその荷物を持ったまま、店にいる琴美に声をかけた。
「母さん。淑美叔母さんから荷物が届いたよ」
「淑美から?」
 淑美の名前が出て、朱美も近寄ってきた。
「これ」
 荷物を渡す。
 琴美はそれを早速開けてみた。すると──
「まあ、お菓子だわ」
 中身は、チョコレートのお菓子詰め合わせだった。
 それほど大きなものではないが、何種類ものチョコのお菓子が入っており、確かに贈答用にはもってこいの内容だった。
「朱美。淑美からなにか聞いてる?」
「特になにも」
「圭太もなにも聞いてないわよね?」
「昨日もなにも言ってなかったよ」
「まったく、突然送ってくるなんて」
 この家からクリスマスに誰もいなくなることがないと予想してのことだろうが、やはり事前の連絡はほしかったところ。
「このタイミングで来たわけだから、みんなで食べましょう。琴絵。お皿を用意して」
「はぁい」
 琴絵は少し大きめの皿をふたつ用意した。そこへお菓子を出し、ふたつのテーブルに置く。
「さ、遠慮しないで食べて」
 圭太以外は全員女性ということで、甘いものには目がない。
 お菓子は、あっという間にそれぞれに行き渡った。
「圭太はいいの?」
「ん、とりあえず琴子を連れてくる。ひとりにしておけないから」
 圭太は、そう言い置いてリビングへ戻った。
 ベビーベッドの中では、琴子が眠そうに目を擦っていた。
「お腹いっぱいになって、眠くなったか、琴子」
 頬をつつきながら、声をかける。
「なあ、琴子。琴子は、弟や妹がたくさんいた方がいいか?」
「う〜」
「まだわからないか。そうだよな」
 琴子を抱き上げ、顔の目の前に持ってくる。
「よし、みんなのところへ戻ろう」
「あ〜、う〜」
 考えなければならないことはいろいろあるが、とりあえず今はクリスマスパーティーを楽しもうと、気持ちを切り替えた。
 
 パーティーは、夕方過ぎまで続いた。
 参加者全員がその雰囲気を楽しんでいた。
 パーティーで人気だったのは、圭太はもちろんのこと、琴子もだった。抱いていたのはずっと圭太だったのだが、入れ替わり立ち替わり、誰かしらやって来ては構っていった。
 琴子は圭太が抱いている限り、泣きもしなければぐずりもしない。だから、誰がなにをしても動じていなかった。
 パーティーが終わっても、すぐには誰も帰らなかった。
「鈴奈さんは、三日に帰ってくる予定なんですよね?」
「一応そのつもり。年明けもすぐに仕事があるからね」
「じゃあ、今年みたいにその日にみんなで初詣ってできますから?」
「たぶん大丈夫だと思うけど。ただ、ちゃんとは約束できないかな。だから、前日でもいいかな、詳細については」
「そうですね。それでいいです。詳細は圭太に伝えておきますから、圭太から確認してください」
「うん、了解」
 店の片付けを終え、紅茶を飲みつつ、しばしのんびりする。
 その中で、今年もまた来年の初詣の話になっていた。
 今年から来年にかけてのいわゆる年末年始の休みは、暦の関係で長期の休暇は取りにくくなっていた。そのため、今年もまた、鈴奈以外はどこへ行く予定もなかった。
 初詣の予定が決まると、さすがにお開きである。
 本当は全員を送っていきたいくらいの圭太ではあるが、さすがにそれは無理である。というわけで、比較的遠いふたり──凛と詩織を送ることにした。
 方向は少し違うのだが、途中までは道も同じなので、一緒なのである。
「いつも思うんだけど、みんなすごく仲良いよね」
「そうだね。仲が良すぎて困ることもあるくらいだよ」
 それがなんのことを言っているのかは定かではないが、思い当たる節はたくさんあった。
「向こうが女子校だったから、こういうのは好きなんだけどね」
「女子校ってやっぱり違うものですか?」
「ん〜、違うといえば違うかな。まわりに異性の目がないから、好き勝手にやってるし」
「いろいろ話には聞きますけど、カルチャーショックみたいなのはありますか?」
「あたしは両方を知ってるから、それがカルチャーショックになるかどうかわかるけど、最初から女子校だったら、わからないかもね。それが当たり前、みたいな感じ」
「なるほど」
「まあ、今はこうして共学に通えてよかったと思ってる。じゃなかったら、けーちゃんとも再会できなかったしね」
 そう言って凛は、にっこり笑った。
「詩織ちゃんは、女子校に行こうと思ったことはないの?」
「中学に入った頃は、少しだけそう思ってました。両親もできればそうしてほしかったみたいです」
「じゃあ、どうして一高に?」
「それはやっぱり、先輩がいましたから」
「それが理由か、やっぱり」
「もちろん、それだけではないですよ。一高は仮にも県内トップの進学校ですし」
「確かにね。その理由があれば、反対している人を説得しやすいもの」
 詩織は、凛に自分のことを事細かに話したことはない。それでもある程度の事情を知っているのは、やはり心境が自分と似ているせいで、察しやすかったからだろう。
「凛先輩は、引っ越す時に一高を転校先に選んで、なにも言われませんでしたか?」
「特になにも言われなかったかな。あ、でも、公立の転入試験は難しいとは言われたっけ」
「その転入試験を難なく乗り切ってしまったんだから、凛ちゃんは頭が良いってこと」
「けーちゃんに言われても、全然嬉しくない」
「そう?」
「うん」
 ふたりのやり取りを見て、詩織はこれが幼なじみなのだと、改めて実感していた。
 男女の関係でもなく、クラスメイトという関係でもなく、いろいろなことを理解しあえている関係。
 それは、時間でしか作ることのできない関係。
 今から望んでも、もう誰もそうなることはできない。
 そうこうしているうちに、まずは凛のマンションに着いた。
「けーちゃん、けーちゃん」
「ん、どうしたの?」
 凛は、声を潜め──
「詩織ちゃんを送るのに、必要以上のことはしなくていいんだからね」
「そんなに信用ないかな?」
「いろいろな前科の話は聞いてるからね、これでも」
 そう言われてしまうと、圭太としては反論できない。事実、詩織を送っていって、そのまま、ということもあった。
「あ、それと、大晦日なんだけど、けーちゃんは日付が変わると同時に初詣に行ったりするの?」
「その時によりけりかな。今年はまだわからない」
「ん、じゃあ、もしよかったら、一緒に行かない? あ、柚紀も一緒でもいいよ」
「そうだね。一応考えておくよ。もし行けそうだったら、連絡するから」
「うん、よろしくね」
 凛がマンションの中に消えると、詩織は早速腕を組んできた。
「凛先輩と、なにを話してたんですか?」
「たいしたことじゃないよ」
「むぅ、私には内緒なんですか?」
 内緒だからこそ、声を潜めて話していたのだが。
「……詩織を送る時に、必要以上のことはしなくていいって話だよ」
「必要以上のことって……」
 その内容を理解し、詩織は頬を赤らめた。
「……ダメ、ですか?」
「さすがにね。それに、この時期だし」
「私は気にしません」
「気にしなくちゃダメだよ。女の子なんだから」
 そういう風に言われると、無茶は言えなくなる。
「……わかりました。今日は我慢します」
「また、そのうちにね」
「はい」
 そういう風についつい甘やかしてしまうところが圭太の欠点なのだが、これはもはや直らない。
「あの、圭太さん。圭太さんは柚紀先輩と結婚して、なにか変わると思いますから?」
 何気ない質問だった。しかし、それは言葉以上に深い意味を持っていた。
「そうだなぁ……すぐには変わらないと思うよ。僕も、柚紀も。ただ、少しずつ確実に変わっていくだろうね」
「私たちとの関係は、どうですか?」
「……それは正直わからない。もちろん、みんなともずっと一緒にいたいと思ってる。でも、どうにもならないこともこれから先は起きるだろうから。そうなった時に、果たして僕になにができるかどうか。こう言うと悪いけど、もしその時に柚紀と誰かを天秤にかけなくちゃいけなくなったら、僕は柚紀を選ぶから。これだけは、誰になにを言われても覆さない」
 確固たる意志だった。
 詩織もその考えはある程度理解できた。だが、自分が当事者になった時、果たしてそれを甘受できるかどうか、わからなかった。
「とまあ、そういう想いは確かにあるけど、みんなに対して無責任なことはしないよ。こんな僕のことを本気で好きになってくれたわけだからね。ないがしろにしたら、罰が当たるよ」
「……私は、どんなことがあっても圭太さんの側を離れません」
「うん。それでいいと思うよ。僕だって、詩織を手放すつもりなんかさらさらないんだから。だってさ、想像したくないんだよ。詩織がほかの誰とも知らない男に抱かれてる様をさ」
「私だってイヤです。私に触っていいのは、もう圭太さんだけなんですから」
「だから、とりあえず余計なことは考えなくても大丈夫だよ。僕も詩織も、考えは同じなんだから」
「はい」
 それは所詮、結論の先送りでしかないのだが、今はそれしか方法がなかった。少なくとも今は、それで大きな問題が起きているわけではない。起きるとすれば、これからである。その時に際し、どう考え、どう行動するか。それが問題なのである。
「ああ、そうだ。詩織」
「はい、なんですか?」
「余裕があればでいいんだけど、ひょっとしたら大晦日から元旦にかけて、初詣に行くかもしれないんだ」
「それって、夜の間に、ってことですか?」
「うん。夜のことだから、許可がないと出てこられないかもしれないけど、もしよかったらってことで」
「わかりました。覚えておきます。あ、もし行けるようなら、どうしたらいいですか?」
「当日の夕方くらいまでに一度、こっちから連絡するよ。その時に返事してくれればいいから」
「夕方ですね」
 詩織はもうすでに、どうやって両親を説得するか、それを考えていた。
 やがて、マンションに到着した。
「じゃあ、詩織」
「圭太さん」
 詩織は、目を閉じ、少しだけ背伸びをする。
 圭太はそれに応え、詩織にキスをした。
「おやすみ、詩織」
「おやすみなさい、圭太さん」
 詩織の姿が見えなくなるまで見送り、それからマンションをあとにした。
 途中、携帯を取り出し、電話した。
「あ、柚紀。これから帰るから」
 柚紀に連絡し、ひと息つく。
「さてと」
 まだ夜は明けていないが、これで長かったクリスマスもようやく終わりである。
 今年のクリスマスは、一生の想い出として圭太と柚紀の中で生き続けていくだろう。
 
 二
 十二月二十六日。
 クリスマスも終わり、世の中は完全に年末モードである。
 前日までのクリスマス用のディスプレイから一転、正月用のディスプレイになっている。
 食料品を扱っている店の店先では、おせち料理の予約を行っており、どこからでも威勢の良い声が飛んでくる。
 スーパーなどでは、大掃除用の様々な商品が並べられ、あたかも大掃除しろと言われているみたいである。
 世の中は慌ただしいが、高城家はいつも通りだった。
 朝食後、琴絵と朱美が部活に出て、柚紀もいったん家に帰ることになった。
 柚紀としてはもうずっとこちらにいたいのだが、そこまで世の中甘くはない。
 柚紀が家に帰ると、家の中は静かになった。
 とはいえ、すぐに店を開けなければならない。今日の早番は幸江である。
「柚紀、帰ったんだね」
「ええ。冬休みに入ってから、ほんの少ししか帰ってませんでしたから」
「なるほどね」
 店を開けても、すぐにはお客は来ない。
 圭太は、幸江の話し相手として店にいた。
「なんか、あまり差はないよね」
「なにがですか?」
 唐突な言葉に、圭太は首を傾げた。
「圭太と柚紀が結婚しても、ってこと。まあ、一緒に住むようになったわけでもないし、今までの生活パターンをいきなり変えたわけでもないからなんだろうけどね」
「さすがにすぐには変わりませんよ。変わるとしたら、年が明けて、まわりが受験で忙しくなってきてからじゃないですかね」
「昨日も柚紀には聞いたけど、すぐには一緒に住まないのよね?」
「ええ。仮にも僕たちは高校生ですから。いくらもう授業もほとんどないといっても、卒業するまではあまり好き勝手にはできませんから」
「ふふっ、ふたりはもう十分好き勝手にやってると思うけどね、私は」
 幸江はそう言って笑った。
「ね、圭太。圭太はさ、どんな家庭を作ろうと思ってるの?」
「そうですね……とりあえずはなんでも言い合えるのがいいと思います。親が子に言うだけじゃなくて、子が親に言う環境も必要だと思いますから」
「なるほど」
「あとは、みんなが元気に過ごしてくれれば、特になにも言うことはありません」
「柚紀や生まれてくる子供に、こうしてほしいとか、ああしてほしいとかいうのは?」
「それはそれこそ一緒に暮らしてみないとわかりません。今以上に一緒にいるようになって、そこではじめて見えてくることもあるはずですから」
「そのあたりはちゃんと現実を見てるのね」
「恋人同士でも、夫婦でも、元は他人ですからね。家族とは違ってわからないことが多いです。そのあたりを冷静に見極められないと、いらぬ衝突を生みますから」
 そこまで達観しているとまわりからすれば冷めているとも見られるのだが、圭太に限ってはそういうことはない。
「じゃあさ、私たちのことは、どうするの?」
「それは、全員の答えを出してから、ということで」
「まだおあずけなのね」
「すみません」
「別に謝ることはないけどね」
 幸江としても今すぐに聞きたいという想いと、まだ先延ばしにしてほしいという想いのふたつがあった。
 わかればわかったで行動しやすくなるのだが、もしそれが期待外れの内容だったら、と思うとそれ以上は突っ込めない。
「圭太の今日の予定は?」
「午前中は店の手伝いをします。午後は未定です」
「そっか。じゃあ、午前中は気合い入れてがんばらないと」
 それからすぐに、最初のお客がやって来た。お客がやって来ると、さすがに話しているわけにはいかない。
 圭太も幸江も、仕事に専念した。
 一時前に、琴絵と朱美が帰ってきた。今年の練習も残り少ないので、それなりに絞られたようである。
 圭太特製のカレーうどんを食べたあと、琴絵は用事があると言って出かけた。
 で、残ったのは圭太と朱美である。
「ねえねえ、圭兄。デートしようよ、デート」
 朱美は、圭太のベッドの上で、そんなことを言っている。
「……デートはいいけど、宿題は?」
「半分くらい。今回は出たのが早かったから、早めに手をつけられたんだ」
 冬休みがはじまって数日であることを考えれば、十二分な成果と言えよう。そうなると、圭太としても文句も言えない。
「ね、圭兄。デート」
「わかったよ。行くから」
「あはっ、ありがと」
 朱美は早速部屋に戻り、着替えと出かける準備をする。
 圭太は特に準備することもないので、リビングに下りて待っていた。
「あら、どうしたの?」
 そこへ、休憩に入った琴美が顔を出した。
「朱美がデートしてくれって言うから、ちょっとね」
「そうなの。肝心の朱美は、まだ準備中?」
「まあね。ただ、そんなに時間があるわけじゃないから、すぐに下りてくると思うけど」
 その言葉が聞こえたのか、すぐに朱美が下りてきた。
「圭兄、準備できたよ」
 朱美は、この冬に買ったばかりの薄いピンクのコートを着て、今にも駆け出さんばかりの感じだった。
「朱美、あまりはしゃぎすぎないのよ」
「はぁい」
 生返事をして、圭太の手を引っ張る。
「じゃあ、いってくるよ」
「あまり遅くならないうちに帰ってきなさいね」
「了解」
 外に出ると、冬の陽差しは雲の中に隠れていた。北風がとても冷たい。
「で、どこか行きたいところは?」
「とりあえず、駅前に出よ。そこで決める」
 というわけで、ふたりは駅前まで出てきた。
 学校は冬休みでも世間はまだ休暇前の平日である。駅前も休日に比べるとずいぶんと人が少なかった。
 それでも商店街のあちこちからは威勢の良い掛け声が聞こえてくる。
 終わりよければすべてよし、というわけでもないのだろうが、せめてこの時期くらいは儲けようというのだろう。
 商店街を歩いていると──
「あ、圭兄。ちょっと本屋に寄ってもいい?」
 本屋が見えたところで朱美がそう言った。
 圭太も特に断る理由がなかったので、まずは本屋に入った。
 圭太に比べると本を読まない朱美である。向かった先は、マンガコーナーだった。
「そろそろ新刊が出てるはずなんだけど……」
 どうやら好きなマンガの新刊を見に来たらしい。
「あ、あった」
 それはすぐに見つかった。
 女子中高生の間でとても人気のある少女マンガで、たとえそれを読んだことがなくともタイトルくらいは知っているとされているものだった。
「ほかには、と」
 さらにざっとコーナーを見て回る。
「こんなものかな」
 で、結局その一冊だけしか出ていなかったようである。
「圭兄はなにかほしいのないの?」
「特にはないね。この前買い物に来た時に、めぼしいのは買っちゃったし」
「そっか」
 そのマンガを買い、ふたりは本屋をあとにした。
「圭兄とこうしてふたりきりで過ごすの、久しぶりだよね」
「ん、そうだったかな?」
「そうだよぉ。このところクリスマスコンサートの練習なんかもあって、休みの日もなかなか時間が取れなかったから」
「そういえばそうか」
「……なんか、圭兄冷たくなったよね」
 朱美は、真面目な表情でそう言った。
「それは、朱美から見たらそう見えるのかもしれない」
 しかし、圭太はそれをあえて否定しなかった。
「それって、わざとそうしてるってこと?」
「特別なことはなにもしてないけど、ただ、これからもずっと今までと同じスタンスではいられないのは事実だから」
 それが柚紀との関係に起因していることは、朱美にも理解できた。同時に、それに対して文句を言う権利を、自分は持っていないことも理解していた。
 それでも、今だけでもいいからそのことはなしにしてほしかったのである。
「はあ……」
「朱美に対してそうしているのには、もうひとつだけ別の理由もあるんだ」
「別の理由?」
「まあ、正直言えばそれは僕の中での問題なのかもしれないけど」
 商店街を抜けた。
 まわりに遮るものがなくなり、寒風が身に染みる。
「朱美はさ、僕の従妹なわけだろ?」
「うん」
「それはつまり、それだけ僕は朱美のことを知ってることになる。長所も短所もね。そして、琴絵を除くとそういう存在は朱美だけなんだ。それって、ただそれだけでものすごいアドバンテージになるわけだ」
「……あまりアドバンテージにはならなかったけど……」
「だから、みんな同じように接していても、きっと僕は朱美を優遇してしまう。もちろんそれはある意味では仕方がないことなんだけど、明確な答えを出していない今は、極力そうするべきではないと思うんだ」
「そっか……」
 朱美も、理性ではそのことはちゃんと理解していた。
 仮にも彼女がいると知った上で、圭太と関係を保ったわけではある。たとえその時はまだ中学生だったとしても、理解できないはずがない。
 ただ、理性で常に自分を納得させられるわけではない。時として、感情が先走り、想いを抑えきれなくなることもある。
「じゃあさ、圭兄。明確な答えが出たら、どうするの?」
「それは、どんな答えを出したかで変わるだろ」
「たとえどんな答えが出たとしても、私の想い、気持ちは変わらないよ?」
「朱美としてはそれでいいと思うよ。そうじゃなかったら、僕が答えを出す必要がなくなるわけだから」
「ん、そうだね」
「それに、どんな状況になっても、僕と朱美がいとこであるというのは変わらないから。だから、安心してとは言えないけど、少なくともそういう面ではずっと関係は続くよ」
 今はそうとしか言えなかった。少なくともそれぞれとの答えが出るまでは、勝手なことは言えない。
「やっぱりさ、私ってタイミングが悪かったのかな?」
「タイミング? なんの?」
「圭兄に告白したタイミング。私だって、子供の頃から圭兄のこと、ずっと好きだったんだから。でも、圭兄が従兄だってことに甘えて、告白しなかった。それに、そういうのはタイミングが大事だって勝手に思い込んで。それで、中学を卒業したらとか思ってた」
 普通はそういう風に考えるだろう。そのこと自体が間違っているわけではない。
 ただ、そのせいで逆にタイミングを逸してしまう可能性も大いにある。
「本当は、好きになった時に想いは伝えないとダメなんだよね。それを受け入れてもらえるかどうかなんて、あとで考えればいいの」
 それ自体が正しいかどうかわからないが、先制攻撃という意味は大きいかもしれない。
 その時は好きではなかったとしても、告白されたことによって気になる存在になるかもしれない。
「そう考えると、やっぱり私はタイミングが悪かったんだよ」
 もし当時に圭太が朱美から告白されていたら、どうなっていただろうか。
 最初はカワイイ従妹が自分を慕ってくれている、くらいにしか思わないかもしれない。でも、それが続けば次第に見方が変わってくるかもしれない。
 そのまま恋人同士になれるかどうかは定かではないが、ライバルがあまりいない状況なら、可能性はあったはずだ。
「これでもね、中学の頃は何度か告白されたこともあるんだよ。だけど、それを全部断って圭兄への想いを貫いて。それなのに待っていたのは、私が一番なってほしくなかった結果」
 朱美は、乾いた笑みを浮かべた。
「最初はどうしてそうなっちゃったのかいろいろ考えたけど、結局は私がなにもしてなかったからなんだよね。なにもしてないのに、文句だけ言うのは一番やっちゃいけないこと。それも冷静になってから気付いたことだけどね」
「じゃあ、そこで僕じゃなくてもっとまわりに目を向けられていたら、朱美はきっと、誰からも言い寄られるような『いい女』になってたかもね」
「むぅ、私はどんな結果になっても圭兄だけが好きなの。ほかの人なんてどうでもいいの。それに、まわりに目を向けなくても、ちゃんと『いい女』になってるもん」
 そう言って頬を膨らませる。
 そういうところがまだまだだと圭太は思っているのだが、口には出さない。
「ね、圭兄。少しくらい遅くなってもいいよね?」
「遅くって、夕飯までには戻った方がいいと思うけど」
「ん、じゃあ、すぐに行こう」
「どこへ?」
「いいところ」
 
「……なるほど。朱美にとっては、いいところかもしれない」
 圭太は、その建物を見て嘆息混じりに言った。
 そこは、ラブホテルだった。
 平日のまだ陽のある時間。その界隈はまだ妖艶な雰囲気をまとっていない。
 むしろ、昼間はそこを通ると近道になる近隣の住民の姿をよく見かける。
 その中を歩くのは少々勇気というか、度胸が必要なのだが、朱美はそんなことはまったく気にした様子もなく、さっさと中に入った。
 部屋に入ると、若干落とされた照明が、ここがそういう場所なのだということを表していた。
「一度ね、誰にも気兼ねなく圭兄に抱いてほしかったんだ」
「気兼ねなくって、家でも気兼ねなんてしてないと思うけど」
「してるよぉ。琴絵ちゃんに気付かれないようにとか。まあ、してる最中はそんなこと忘れちゃうけど」
「それじゃあ、まったく意味がないじゃないか……」
 呆れ顔で言う。
「だから、ここなら本当に気兼ねなくできるから。それに、普段できないこともできそうだし」
 普段できないこととはどんなことかとは、圭太は訊ねなかった。もし訊ねていれば、それをしなくてはならないからだ。
「というわけで、圭兄。まずは、一緒にシャワー浴びよ」
 ここまで来て拒むようなことはない。拒むなら、ここへは来ていない。
 ふたりは服を脱ぎ、浴室へ入った。
「んしょ」
 コックを捻り、お湯を出す。ちょうどいい加減になったところで──
「えいっ」
「うわっ」
 お湯を圭太にかけた。
「あはは、油断大敵だよ」
「…………」
「あ、えっと……圭兄、怒ってる?」
「別に怒ってないよ。ただ、ちょっとだけいぢわるしたくなってるだけ」
「えっ……?」
 圭太は、にっこり笑って朱美に近づく。
 朱美はジリジリと後ずさるが、不幸にもここは浴室。浴槽があるので、逃げられる場所などほとんどない。
 すぐに逃げられなくなる。
「あ、えっと、圭兄……目が笑ってないよ?」
「そうかい?」
「ううぅ……」
 まずはシャワーを奪い取る。
「さて、まずはどうしようかな」
「ごめんなさい、圭兄。謝るから、許して」
「別に怒ってないんだから、許すも許さないもないよ」
「ううぅ……」
 圭太は、朱美をそのまま抱きしめた。
「だから、本当に怒ってないよ。ただ、朱美も今度の春には高三になって、十八になるわけだ。そしたら、もうそろそろそういうことはやめた方がいいと思っただけ」
「うん」
「僕の前でだけならいいけど、そういうことって案外意外なところでポロッと出るからね。その時に困るのは僕じゃなくて朱美だから」
「うん、わかった」
「わかってくれたならいいよ」
 そう言って圭太は、朱美にキスをした。
「ん、圭兄……」
 今度は朱美からキスをする。
 そのまま圭太のモノに触れる。
「圭兄、そこに座って」
 言われるまま、圭太は浴槽の縁に座った。
「圭兄の、久しぶり……」
 うっとりとした表情でモノに口をつけた。
 舌先で先端を舐める。
「うっ……」
 鋭い刺激に、圭太は声を上げた。
 モノは、刺激を受けて大きく硬くなった。
「圭兄、気持ちいい?」
「気持ちいいよ」
「我慢できなくなったら、いつでもいいからね」
 朱美は、一心不乱にモノを舐める。
 舌で舐め、口に頬張る。
 最初に比べればだいぶ慣れてきてはいるのだが、そこはまだまだその行為の回数が少ないので、稚拙なところが多々ある。
 まあ、圭太にしてみればAV女優やソープ嬢みたいに上手くなられても困るという想いもあるのだろうが。
「ん……んちゅ……」
 朱美はすでに自分の世界に入っている。普段の朱美の姿しか知らない者が見たら、とても信じられない光景だろう。
 普段の朱美はうち解ければ明るく接するが、決して積極的な方ではない。むしろ、引っ込み思案なところがある。それは人見知りしやすい性格から来ているのだが、そういう面を知っていると余計に信じられないだろう。
 だが、それも所詮朱美の一面でしかないのである。
 大好きな人のためなら、どんなことでもする。そんな面も朱美は持っている。
 その一途で健気なところが、圭太も従妹という関係を抜きにしても、邪険に扱えない理由になっている。
「朱美」
「ん……なに?」
「一緒に気持ちよくなった方がよくないか?」
「そうだけど、とりあえず私が圭兄にしてあげたいの」
「僕は朱美にしてあげたいけど」
「むぅ……」
 そういう風に言われると、さすがに考えてしまう。
「ね、圭兄。ひとつ、お願いしてもいい?」
「なんだい?」
「えっとね、今日は、そのままでしてほしい。圭兄をそのまま感じたい」
「そのままって……さすがにそれは……」
「どうしても、ダメ?」
 いつもより少しだけ真剣な表情で圭太を見つめる。
「するしないは別として、どうしてそうしてほしいんだい?」
「……私ね、イヤなことばかり考えてるの。そんなこと絶対ないって思ってる部分が大半なんだけど、それでも心のどこかでそうなってしまうんじゃないかって、そんな風に考えてる」
「…………」
「圭兄と柚紀先輩が結婚して、なにもかもが変わるわけがないのに、ひとりで勝手にどんどん悪い方向へ考えてしまって。もし今ここで圭兄に見捨てられたら、そんな風にね」
 それは人間誰しもが抱く不安だった。
 現状が幸せであればあるほど、そこから突き落とされた時のショックは大きい。
 幸福と不幸は、反比例しているようで、実は比例している。もちろん、普段からどちらもが表に出ているわけではない。ただ、些細なことでボタンをひとつかけ間違っただけで、幸福が不幸にひっくり返ってしまう。
「だからね、一時的な誤魔化しでもいいの。私は圭兄の側にいていいんだって思い込みたいの。そして、そう感じられる最も簡単かつ確実な方法が、エッチの時にゴムをつけないことだと思ったの」
「…………」
「短絡的だと自分でも思うよ。でもね、もし万が一にでもそれで妊娠したら、私は逆にすごく喜ぶ。だって、どんな理由であろうとも、圭兄の側にいられる権利を得られるんだから」
 朱美も、決して自棄になっているわけではない。比較的冷静に考えてもなお、そんな考えに到達してしまったのである。
「それが、理由かな」
 それを聞いた圭太は、少し押し黙った。
「朱美の考えはよくわかった」
「うん」
「僕もできるならその想いに応えてあげたい」
「だったら──」
「でも、今の僕はこれまで以上に無責任なことはできないんだよ。それは朱美もわかるだろ?」
「……うん」
「だから、朱美にはわかってほしい」
 圭太の立場からすれば、そうとしか言えない。今までも無責任なことはしないようにしてきたが、柚紀と結婚してさらにそうしないようにしなければならない立場になった。
 心情的には朱美に応えてやりたいのだが、安易な気持ちでそれをしてしまったがために、望まない結果になってしまったら、それこそ意味がない。
「それに、朱美は妊娠してもいいって言うけど、さすがにそれは問題があると思う」
「どうして?」
「朱美には、まだあと一年、高校生活が残ってる。もし妊娠なんかしたら、それを半分くらい棒に振ることになるから」
「それはわかってる。それでもなお私は──」
「それに、妊娠そのものについて、どう説明するつもりだい? 部活のみんなはある程度察してると思うけど、それ以外の人たちはまったく知らないんだからさ」
 柚紀の場合は、圭太の彼女であり婚約者でもあったので、説明はとても楽だった。
 祥子の場合は、大学という場所柄、しつこく訊ねられることもなかったし、説明する必要もなかった。
 しかし、もし朱美がここで妊娠した場合、どう説明するべきか。
 圭太との関係を知っている者になら説明は簡単だが、そうでない者に対しては、かなりの労力を必要とするだろう。
「な、朱美?」
 圭太は、朱美をギュッと抱きしめた。
 朱美は唇をわずかに噛みしめ、小さく頷いた。
「その代わり、今日は朱美をたくさん可愛がるから」
「ホント?」
「ああ、本当だよ」
「……ん、わかった」
 思うところはあるのだろうが、朱美はそれを口にすることはなかった。
 やはり、そこまでワガママにはなりきれないのだろう。
「じゃあ、とりあえず、シャワー浴び直さないと。このままじゃ風邪引いちゃう」
「確かに」
 今度は仲良くシャワーを浴びた。
「ね、圭兄」
「ん?」
「ごめんね」
「いいよ。気にしてない」
「うん」
 
 ホテルを出た時には、すでに陽は沈んでいた。
「大丈夫かい、朱美?」
「大丈夫大丈夫。全然平気だよ」
 そう言って朱美はにっこり笑った。
 だが、多少足がふらついている。まともに歩けないほどではないが、見ていないと心配になるくらいではあった。
「私、すごく嬉しいんだよ。圭兄にいっぱい可愛がってもらえたから。だからね、少しくらいふらついたって、全然平気なの」
「そっか」
 圭太は頷き、それ以上言わなかった。
「私は、柚紀先輩に対してどんな風に接すればいいのかな?」
「どういう意味?」
「今はさ、圭兄の彼女というよりは、部活の先輩として接してる部分が大きいんだ。でも、これからはそういうわけにはいかない。部活も引退してるし、なによりも圭兄と結婚して柚紀先輩は、私にとっても『家族』になったから」
「なるほど、そういう意味か」
「このことは圭兄に訊いても意味はないのかもしれないけど、一応ね」
「まあ、結局は慣れるしかないんじゃないかな。それ以外のどんな方法を試してみても、大差はないだろうし」
 人と人との関係は、時間の中で育まれていく。だから、今までと違う関係になるのにも、同様に時間が必要である。
「うん、それはそうだと思うよ。でもさ、心構えみたいなものはあると思うんだ」
「それはやっぱり、柚紀のことを先輩ではなく、僕の妻、もしくは家族の一員として見ればいいと思うよ。そうすれば、自ずと心構えも変わるだろうし」
「そういう心構えしかないのか」
 朱美としては、その部分が一番受け入れがたい部分なのだが、こればかりは仕方がない。圭太と柚紀は、もう結婚してしまったのだから。
「朱美は、柚紀のことが嫌いかい?」
「ううん、そんなことないよ。そりゃ、大好きな圭兄を奪われちゃった恨みみたいなものはあるけど。だけど、柚紀先輩個人に対しては、そんなマイナスのイメージはないよ」
 確かに、柚紀の普段の性格を考えれば、嫌いになる方が少ないだろう。もちろん、その明るさや人当たりの良さを妬んで、という者はいるかもしれない。
 しかし、朱美のように部活だけでなく、学校以外での姿も見ていれば、とても嫌いになどなれない。
「柚紀先輩は、圭兄のお嫁さんで、圭兄は私にとって『お兄ちゃん』だから、柚紀先輩は私にとって『お姉ちゃん』になるのかな」
「位置づけとしては、そうなるだろうね」
「結局、そういう感じで接するしかないのかな、やっぱり」
 もともと考えるまでもない問題なので、朱美の中でもすでに答えは出ていた。ただそれを圭太に訊いて、意見を聞きたかっただけなのである。
「柚紀先輩から見れば、私も琴絵ちゃんと同じように、もうひとりの『妹』なんだろうな。仕方がないけど」
「妹はイヤかい?」
「ううん、それも構わないよ。妹というのは、圭兄で慣れてるし」
 心情的にはとても複雑だとしても、基本的なスタンスが変わらないのであれば、戸惑うことは少ないかもしれない。
 問題は、柚紀との関係というよりは、柚紀も含めた圭太との関係かもしれない。
「ま、なるようにしかならないよね。それに、これから長くつきあっていくわけだから、その間にいろいろ変わるかもしれない。なのに、最初の段階であれこれ悩んでたら、あとが大変そう」
「その件に関しては、僕は口は出せないから。朱美と柚紀の間で上手くやってくれ、としか言いようがない」
「大丈夫大丈夫。もしなにかあったら、従妹の私よりも先に、実の妹である琴絵ちゃんの方が行動を起こすだろうから」
「……ああ、なるほど」
「琴絵ちゃんは、そういう変化に敏感だからね。もし納得できないなにかが起きたら、圭兄といえどもかなり苦労するはず」
「そうならないように祈ってるよ」
 将来に渡って人間関係がどうなっているかは、圭太も朱美も想像がつかない。
 基本的な部分は変わらないだろうが、学校を卒業し、社会に出ていろいろなことを学び、さらに年を重ねれば、様々なことが変わるはずである。その時にも今と同じような関係でいられるかどうか。それは誰にもわからない。
「とりあえず私としては、もっともっと圭兄と親密な関係になってるよう、努力しなくちゃね」
 そう言って朱美はにっこり笑った。
 
 三
 十二月二十八日。
 ようやく一年の仕事納めを迎え、世の中は一気に年末年始の独特の雰囲気に包まれる。
 年末セールも佳境を迎え、店はどこも気合いが入る。
 このところ寒い日が続いており、しかし、天気だけはよかった。
 それでも大晦日から正月三が日は暖かい日を予想しており、初詣にはもってこいの日和になりそうだった。
 もっとも、初日の出が拝めるのは、一部の地域だけになりそうだと予想していた。
 世の中がさらに慌ただしくなる中、いつもとさほど変わらない光景が高城家にはあった。
『桜亭』は例年通り、二十九日まで営業する。もう少し早めに閉めては、という案も出たのだが、手持ち無沙汰になるのがイヤだと、琴美が反対したのだ。
 琴絵と朱美は、今日まで部活である。
 その一方、圭太は朝から駅前にいた。
 いつもより少し大きめの荷物を持ち、改札前の比較的見通しの利く場所にいた。
 改札の中へ消えていく人々も、どことなくいつもと雰囲気が違う。
 大きな荷物を持ち、これから帰省か旅行にでも行くのだろう。そのような人々も多い。
 そのような年末恒例の光景を横目に、圭太は待っていた。
「それにしても……」
 圭太は小さくため息をついた。
 なぜため息をついたかといえば、前日の夜のことを思い出したからである。
 前日の夜。夕食後に揃ってリビングでのんびりしていた時。
「むぅ、私の旦那さまは、妻の私よりも大事なことがあるんだね」
 クリスマスのあと、一度家に帰っていた柚紀も、その日の昼過ぎにまた戻ってきていた。
 その柚紀が圭太の隣でとてもむくれていた。
「いや、まあ、そう言われるとなにも言えないけど……」
「そりゃ、誕生日だから祝うなとは言えないけど、だからって日帰りとはいえ、先輩とふたりきりで温泉に行くなんて」
 十二月二十八日がともみの誕生日で、それを圭太が祝うことは柚紀も納得していた。しかし、それもやはり普通に祝うというレベルの話である。
 今回のように、たとえ日帰りでもふたりきりで温泉に、というのは妻となった柚紀としてはさすがに許容の範囲を超えていた。
 とはいえ、すでに決まってしまったことをなしにしろとは言えなかった。
「……あ、えっとさ、柚紀」
「なに?」
「この冬休みの間に、ふたりで温泉、行く?」
「いいの?」
「うん、いいよ」
 本当はそういうやり方は取りたくないのだろうが、ここで柚紀にへそを曲げられるのも圭太としては避けたいところだった。
 そうなると、なにかでつったとしても、なんとか機嫌を直してもらいたかった。
「あはっ、ありがと、圭太」
 とまあ、そういうやり取りがあったからこそ、ため息をついたのである。
 もちろん、圭太が悩んでいるのは柚紀のことだけではない。同じ家には琴絵も朱美も一緒にいるわけである。となれば、このふたりからもなにか言われることを覚悟しなければならない。
 そういう諸々の事情があってのため息である。
「こぉら、なに暗い顔してるのよ」
 そこへ、待ち人であるともみがやって来た。
「あ、ともみさん」
「おはよ、圭太」
 圭太といる時はいつも機嫌のいいともみだが、今日はいつも以上に機嫌がよかった。
「おはようございます」
「どしたの、本当に?」
 少しだけ心配そうに訊ねる。
「いえ、たいしたことではないんですよ。いつものことです」
 そう前置きして、圭太は事情を説明した。
 その事情を聞いたともみは、なるほどと大きく頷いた。
「確かに、それは暗い顔にもなるわね」
「すみません。朝から」
「ううん、気にしてないわ。それに、これは圭太に関わっていたら必ず起きることだから。それに対していちいち思い悩んでたら、精神的に病んじゃうわ」
 そう言って笑った。
「それよりも、今日は一日、目一杯楽しみましょ」
「はい」
 
 電車に乗り込んだふたりは、いったん都心方面に向かった。ターミナル駅で乗り換え、今度は郊外へ向かう。
 電車に揺られている時間は、あわせて一時間半だった。
「ん、ん〜」
 駅舎から出てくると、ともみは大きく伸びをした。
「そんなに変わらないはずなのに、なんかずいぶんと遠くへ来た気がするわね」
「それなりの時間、電車に乗ってましたからね。そういう感覚になるんじゃないですか」
「そうかもね」
 駅からは歩きだった。
 ひなびた商店街を通り抜け、こぢんまりとした温泉街へと出てくる。
 ふたりが降りた駅のふたつ先に、この近辺だけでなく、周辺にもそれなりに知られた温泉街がある。この温泉街は、その温泉街の成功を見て温泉を掘り当てたことからはじまったのである。
 とはいえ、知名度の低さはいかんともしがたく、結果的に大きな温泉街のオマケのような存在となっていた。
 しかし、逆に言えば、そのおかげでゆっくりのんびりできる。
 ここを選んだのはともみで、選んだ理由のひとつは先の理由である。だが、それだけで選んだわけではない。それ以上に重要なことがあった。
「ここね」
 駅から十五分ほど歩き、目的の温泉宿に到着した。
 ごくごく普通の温泉宿で、特別大きいわけでも小さいわけでもない。
 そこは当然のことながら宿泊がメインなのだが、日中は日帰り客にも温泉を開放していた。
 この時期に特に問題なく温泉に入れるのは、その宿がいわば流行から取り残されていたからである。ほかの宿やホテルが次々にニーズにあわせて改装する中、もともと資金繰りが厳しかったこともあり、先延ばしにしていた。その結果、負のスパイラルとでも言えばいいのだろうか、客足も鈍り、ますます経営は厳しくなった。
 そこでようやく重い腰を上げ、来春に大規模改装工事を予定していた。
 そのため、それが上手くいけば、こうしてのんびりできるのは今年が最後のはずだった。
 ふたりは客室に案内された。
 客室は八畳間のごく普通の部屋。申し訳程度に板間がついており、華美なものを求めないのであれば、十分な設備だった。
「で、ここにあるのが──」
 ともみは、部屋に入るなり、早速目的のものを確認した。
「この部屋専用のお風呂、と」
 そういう普通の部屋ながら、小さいながらも専用風呂がついていた。もちろん温泉が引いてあり、大浴場に行かなくとも温泉が楽しめた。
「どうする? すぐに入る?」
「少し休みませんか?」
「ん、じゃあ、そうしよっか」
 荷物を置き、まずはお茶を淹れる。
「はい、圭太」
「ありがとうございます」
 お茶請けには、定番の温泉まんじゅうが置いてあった。
「はあ……」
 お茶を一口飲み、ともみは息を吐いた。
「ごめんね、圭太」
「はい?」
 圭太は一瞬なにを言われたのかわからなかった。
「いくら誕生日とはいえ、ここまでさせちゃってさ」
「全然気にしてませんよ。このくらいのことで喜んでもらえるなら、本当に」
 圭太ならそう言うこともわかっていたともみだが、年上でもある自分が礼儀として言っておかなければならなかった。
「圭太はさ、自分が優しいって思う?」
「さあ、どうですかね。冷たい、とは思ってませんけど、人に誇れるほど優しいかどうかはわかりません」
「なるほど」
 普通はそう答えるだろう。
 もちろん、特別冷たいとか、特別優しいとか、そういう自覚があれば別である。
「これはあくまでも私の意見なんだけど、圭太はね、ほかの人よりずっとずっと優しいと思う。あ、もちろん、ダダ甘ってことじゃないよ。適度に厳しさを持ってるから」
 他人から見れば、それが一番適当な意見だろう。圭太本人には、わからないことかもしれない。
「でもね、たまに客観的に見ると思うんだ。圭太はもう少し厳しくできないと困るかもしれないって。あ、それはどうでもいい人に対してのことじゃないよ。私も含めて、圭太に近しい人たちに対してってこと」
「……そうですかね?」
「圭太はね、みんなに与えすぎなの。人のことは言えないけど、圭太に優しくされると、また優しくしてほしくていろいろ言っちゃうしやっちゃう。で、圭太はたいていそれに応えてくれる。あとはそれの繰り返し」
 圭太は思い返してみた。
 なるほど。そういうところはあったかもしれない。だが、だからといって、今までのことをなしにできるわけでもないし、今すぐに態度を改められるわけでもない。
「どうして優しくしてくれるの?」
「どうして、と言われても返答に困りますね」
 苦笑する。
「逆に訊きますけど、優しくすることになにか理由が必要ですか?」
「ま、そうね。理由がある方が逆に下心ありってことになるものね。でも、そうすると圭太のそれは、筋金入りってことになるわね。もう死ぬまで直らないかも」
「困りますかね?」
「うん、困る。というか、今、困ってない?」
「……それは、ともみさんも含めて僕の置かれた状況という意味ですか?」
「そうね。そうなる」
 ともみは特に表情を変えることなく頷いた。ついでにお茶を淹れ直す。
「普通の考え方からすればとても贅沢なのかもしれませんけど、僕は僕に関わっている全員が幸せであってほしいんですよね。だからかもしれません。必要以上に優しくしてしまうのは」
「その気持ちはよくわかるけど、そのせいで余計に不幸になるかもしれないとは、考えないの?」
「考えました。答えは出ませんでした」
「……そっか」
 お茶を飲み、また息を吐いた。
「あ、別に圭太を責めたいわけじゃないの。ただちょっと、なんていうのかな、愚痴みたいなものかな」
「愚痴、ですか?」
「最近、なかなか時間が取れなかったからね」
 お茶請けの温泉まんじゅうを手に取り、ビニールをはいだ。
「人数が多いとさ、どうしてもひとりひとりの時間が少なくなっちゃうから。しかも圭太は柚紀と結婚しちゃって、ますますだし」
「だから愚痴なんですね」
「うん、そゆこと」
 意図が正しく伝わり、ともみは笑顔になった。
「圭太もさ、大変だと思うよ。柚紀を大事にしつつ、祥子や琴子ちゃんも気にかけなくちゃいけない。さらに、私たちもいるからね」
「それは、僕の責任ですから」
「だけどさ、圭太は誰かを突き放そうとか思わないわけ? 私たちから離れない限り、ずっと一緒にいるの?」
「……結局、その人の幸せって、わからないんですよね。だから恐いんです。僕の独りよがりになるかもしれないって」
「そのせいで圭太からはなかなか動けない、ということ?」
「現状はそうですね。ただ、それも所詮は言い訳でしかないんです。どんなことをするにしても、必ず不安や恐怖はつきますから。それを恋愛だけ棚上げにしてるに過ぎません。一番、いけないことだと思います」
「なるほどね」
 ともみも、圭太の心情は痛いほど理解できた。しかも、圭太の性格を考えれば、絶対に適当なことはできない。だからこそ余計にもう一歩が踏み出せないのである。
「僕にどれだけの時間が与えられてるのかはわかりません。でももし、それを時間ギリギリまで使っていいのであれば、本当にそのギリギリまで考え続けたいと思います」
「ホント、圭太らしいわ、その考え方」
「基本的に、不器用なので」
「かもしれないわね」
 温泉まんじゅうを頬張り、お茶を飲んだ。
「ね、圭太。早速温泉に入りましょ。今日は泊まりじゃないんだから、時間は有効に使わないと」
「入るのはいいんですけど、どっちにですか?」
「んふふ、どっちがいい?」
「えっと……」
「私は、是非ともこっちがいいんだけど」
 
 浴槽はそれほど大きくなかった。
 大人がふたりも入ればかなり密着してしまう。
 で、圭太とともみも、かなり密着していた。
「はあ、いい気持ち……」
 ともみは、後ろから圭太に抱いてもらい、とてもご満悦だった。
「そういや、最近、学校で告白とかされる?」
「最近はないですね。一高祭の直後は少しありましたけど」
「ようやくあきらめたのかしらね」
「どうですかね。柚紀に言わせると、これは一時的なものじゃないかって」
「なんで?」
「一応、僕も三年ですから。受験生ということで、遠慮してるのかもしれません」
「受験しないのにね」
 普通に考えれば、受験勉強真っ最中の先輩に告白しようとは思わないはずである。そのせいで受験に失敗したとなれば、悔やんでも悔やみきれない。
「でも、卒業式の頃にはそれも関係なくなってるから、増えるだろうって」
「ああ、なるほど。それは柚紀の言う通りだわ」
「……僕としては、あまり嬉しくないんですけどね」
「贅沢な悩みよ、それは」
 確かに、在校中に一度も告白されない生徒からすれば、とても贅沢な悩みである。
「ま、でも、私としてもこれ以上圭太がモテちゃうのは、正直勘弁してほしいから、できるだけ告白はない方がいいけどね」
「ともみさんはどうなんですか?」
「ん、なにが?」
「告白です」
 ともみは、少しだけ意外そうな顔を見せた。
「告白なんてないわよ」
「そうなんですか?」
「意外?」
「意外です」
「まあ、私の場合は、結局サークルにも入ってないからなのよ。サークルにも入ってない、合コンにも参加しない。これじゃ、知り合う機会もないでしょ?」
「そうですね」
「もっとも、たとえ告白されても結果は同じなんだけどね」
「一高の時もそうだったんですか?」
「ん〜、一高の時は何度か告白されたけどね。もちろん、全部その場で断ったけど」
 さも当然のように言う。
「ちょっとくらいつきあってもいいかな、と思える人はいなかったんですか?」
「なによぉ、圭太への想いを疑ってるわけ?」
「ち、違いますよ。純粋に気になるだけです」
「まあ、はっきり言えば、わずかも心は揺れなかったのよね。これは自分自身かなり驚いてるんだけどね。圭太への想いだけじゃなくて、たぶんだけど、もう相手のことをそういう対象として見られなかったからなんだと思う」
「……なるほど」
 それは、相手にとってはかなり厳しい条件である。ようするに、恋愛対象以前の問題なのだから。
「だから、もしこれから先に誰かに告白されたとしても、結果は変わらない。絶対にね」
「それだけ僕の責任が重要、ということですか」
「そうよ。私は身も心も圭太の虜なんだから、圭太がちゃんと責任取ってくれないと、困るの」
 言い方はとても軽いが、内容はとても重い。
「と、本当は言いたいところなんだけど、そこまで気負う必要はないわよ。もう何度も言ってるけどさ。私は圭太より年上だし、現状を後輩三人よりは正確に把握してるし」
「そのことに甘えすぎない程度には、僕も責任を全うします」
「肩肘張らない程度にね」
「はい」
 本当は自分のことを一番に考えてもらいたいのだが、立場上それは言えない。
 だからこそ、年上としての発言をしたのである。
「さて、話もまとまったところで、もっともっと楽しまないとね」
「えっと……」
「圭太ってさ、未だにそういうところ、奥手よね」
「……たぶん、これはもうずっと変わりません」
「するまでは奥手なんだけど、はじまっちゃうと積極的。ホント、不思議」
 ともみの表情はあくまでも穏やかである。
「がっつかれるのもイヤだけど、もう少し圭太がリードしてくれてもいいと思うんだけどなぁ」
「正直に言えば、理性よりも先に体が動いてしまいそうになることはあるんです。でも、もしそれが望まれていないことだったらどうしようと考えてしまって。それが結果的にともみさんの望まない形になってるんです」
「その気持ちもわからないでもないけどさ。でも、圭太のまわりにいる誰もが、圭太に求められたいって思ってるはずよ。そしたら、よほどタイミングがマズイとかでもない限りは、絶対に大丈夫」
「……そうですかね?」
「そうよ。現に、私はそうだもの。できることなら、いついかなる時でも応えてあげたいと思ってる。もちろん、現実には難しいけどね」
 圭太も、自分に都合良く考えれば、そういうこともあるだろうとは思っていた。だが、性格上そこまで楽観的にはなれず、誰に対しても基本的な接し方は変わっていない。
 もし、ともみの意見が正しいとすれば、圭太が求めれば基本的にいつでもできてしまう、ということになる。
 果たして、それがいいのか悪いのか。
「もし私の言葉だけで心配なら、みんなにも訊いてみれば? きっと、みんな異口同音だと思うけどね」
 実際、訊かなくてもわかっていることでもあった。柚紀からは何度も言われているし、ほかにもそういうことを口にした者はいた。
 それを考えれば、ともみの意見が正しいのは明白だった。
「というわけで、圭太。しましょ?」
「はい」
 圭太が素直に頷いてくれたことが、ともみにはとても嬉しかった。
 ともみは体をひねり、圭太にキスをした。
「ん……もっとしましょ」
 息が続かなくなるまでキスをし、それを繰り返す。
「圭太とキスするとね、胸の奥が熱くなって、キューッと締め付けられる感じがするの。もう数え切れないくらいのキスをしてるのにね」
「いつまでも最初の頃の気持ちを持ち続けているのは、いいことだと思いますよ」
「そうね。私もそう思うわ。圭太に抱かれる時は、いつでもあの最初の時と同じ気持ちでいたい」
「僕も、そうありたいです」
 今度は圭太からキスをする。
「このまま触ってもいいですか?」
「いいよ」
 後ろから胸に触れる。
「ん……」
 温泉の効能か、ともみの肌はいつも以上に滑らかだった。
「あ、ん……ん……」
 少しずつ気持ちが高まってくる。それにあわせてともみの声にも艶が出てくる。
「私も、するわね」
 されるばかりでは収まらないのか、ともみは後ろ手に圭太のモノに触れた。
「ん、もうこんなに硬くなってる」
 お湯の中でしごく。
 少し動きは緩慢だが、それでも感じさせるには十分だった。
「じゃあ、僕もこっちを」
 左手で胸を揉みながら、右手は秘所へ。
「あっ」
 指が秘所に入ると、ともみの体がビクンと跳ねた。
「お湯まで一緒に入ってきちゃった」
「イヤですか?」
「ううん、そうじゃないの。ちょっと変な感じがしただけ。いいよ、続けて」
 再び指を動かす。
 入り口付近で細かく指を動かす。
「ん、や、んん……」
 快感が高まり、圭太のモノをしごいていた手が止まる。
「もう少しだけ、強めにいきますね」
「う、うん」
 左手で秘唇を広げ、最も敏感な突起を指でこねる。
「んあっ」
 さらに強い快感に、勝手に足が閉じそうになるが、圭太はそれを押しとどめた。
「ん、ああ、気持ちいいっ」
 口も閉じていることができない。
「圭太、圭太ぁ……」
 体の力が抜け、さらに圭太にもたれかかる。
「ん、ダメ、もう我慢できない……これがほしいの……」
「わかりました」
 圭太はともみを浴槽の縁に座らせた。
「あ、ともみさん。少しだけ待ってもらえますか?」
「ん、どうしたの?」
「あれを持ってきますから」
「あれ? ああ、ゴムのこと。私はそのままでもいいけど」
「さすがにそれは……」
「というか、久しぶりにそのままでしない? 中に出さなければいいだけなんだからさ」
 甘い言葉で誘惑するが、圭太はそう簡単には流されない。
「取ってきます」
「んもう、ケチなんだから」
 口をとがらせ、抗議の意を示すが、圭太は取り合わない。
 このあたりの対応は慣れたものである。
「一応、私も主張させてもらうけど──」
 圭太が戻ってくるなり、ともみはそう言った。
「私だって、圭太の子供、ほしいんだからね」
「……それは、知ってます。でも、だからこそちゃんとした方がいいと思うんです」
「わかってるならいいよ。ごめんね、余計なこと言って」
「いえ」
 圭太は、軽くキスをした。
「じゃあ、いきますよ?」
「うん、きて」
 怒張したモノを秘所に押し当て、そのまま一気に差し挿れた。
「んんっ、ああっ」
 最奥に達すると、ともみは一段高い嬌声を上げた。
「ん、圭太のやっぱり気持ちいい」
 圭太もすぐには動かず、しばしじっとしている。
「一番奥まで届いて、しかも気持ちのいいところを擦って。私ね、自分でわかるの」
「なにがですか?」
「私の中は、もう圭太を受け入れるためだけになってるって」
「ともみさん……」
「だからね、圭太。圭太は、私の生涯でただひとりの男性でいてほしいの。奥さんまでいる圭太にこんなことを頼むのは、本来違うのかもしれない。でもね、これは紛れもなく私の本心、本音なの。別に恋人みたいにしてくれなくてもいい。ただ、側にいて圭太を感じられたら、私は満足だから」
 ともみは、優しく包み込むように、圭太の頬に手を当てた。
「求めようと思えばいくらでも求められる。だけど、それはしない。だって、それをしたって、私はきっと、幸せにはなれないから。だから、一番譲れない大事なことだけを求めるの」
「じゃあ、僕は僕にできることを精一杯やります。それで少しでもともみさんが幸せになってくれるなら」
「うん、ありがと」
 心からの笑みを浮かべるともみに、圭太はキスをした。
「動きますね」
「うん」
 腰を引き、モノが抜けそうになるとまた押し戻す。
「んんっ、くっ、あっ」
 その度にともみからは嬌声が漏れる。
 ともみの中は、圭太のモノにしっかりと絡みつき、離そうとしない。
「あっ、んっ、いいっ、気持ちいいっ」
「ともみさんっ」
 圭太だけでなく、ともみもいつも以上に感じていた。
「やっ、ダメっ、私、もうイっちゃうっ」
 ともみは、圭太の首に腕をまわし、しっかりとしがみつく。
「んっ、くっ、んんっ!」
 キュッと中が締まり、ともみは達してしまった。
「はあ、はあ……イっちゃった……」
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。気分が高まってたせいか、いつもより感じちゃった」
 少しだけ焦点のあっていない目で、圭太を見つめる。
「圭太はまだだよね。いいよ、このまま続けて。私のことは気にしないで」
「でも……」
「大丈夫だから。ね?」
「……わかりました」
 圭太はともみの頬を軽く撫で、ゆっくりと腰を動かしはじめた。
「あっ、んっ」
 大丈夫と言っていたともみだが、達したばかりでまだまだ敏感なところに、再びの快感である。すぐに高まってしまう。
「圭太っ、強く抱きしめてっ」
 圭太はともみの言う通りに、ともみを強く抱きしめた。
「んんっ、圭太っ」
 抱きついたせいで、圭太のモノがより深い場所まで突き入れられる。
「あっ、んんっ、やっ、またっ」
「ともみさんっ」
 今度は、圭太の方も限界を迎えそうだった。
「イクっ、またイっちゃうっ」
「僕ももう」
「うん、一緒に、一緒にイっちゃおうっ」
 そして──
「んんっ、イっくぅっ!」
「くあっ」
 圭太が一番奥を突いたところで、ふたりは達した。
「はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「愛してるよ……圭太……」
「はい……」
 ふたりは、荒い息のまま、キスを交わした。
 
「あ〜ん」
「あ〜ん」
「どう?」
「美味しいですよ」
 温泉に入って図らずも性欲を満たしたふたりは、今度は食欲を満たしていた。
 この宿の日帰りコースには、昼食もセットとなっていた。
 旬のもの、というのは季節柄なかなか難しいが、それでも値段の割には豪華な昼食が用意された。
 で、今はともみが嬉々とした表情で圭太に食べさせていた。
「なんか、これだけのんびりしちゃうと、帰りたくなくなるよねぇ」
「そうですね。でも、あまりどっぷり浸かりすぎると、戻るのがつらくなりますから」
「それがつらいところよね。ホント、つらいつらい」
 ともみとしては、のんびりできなくなることより、圭太と一緒にいられなくなることの方がつらいのだが、とりあえずそれは口にはしない。
「まあ、いいや。それも最初からわかってたことなんだから」
 すぐに気持ちを切り替え、ともみは笑顔で頷いた。
 食事を終え、食器が下げられると、ふたりは特になにをするでもなくのんびりしていた。
「ねえ、圭太」
「なんですか?」
「圭太にはさ、話したことあったっけ?」
「なにをですか?」
「どうして私が圭太のことを好きになったかって」
 圭太は少し考え──
「いえ、ないと思います」
 小さく頭を振った。
「そっか。なかったか」
 それを確認すると、ともみは小さく息を吐いた。
「圭太と最初に顔を合わせたのって、三中の吹奏楽部でよね」
「ともみさんを見たのは部活紹介の時が最初ですけど、ちゃんと顔を合わせたのは最初の部活の時ですね」
「最初に圭太を見た時、私の中でなにかが弾けたみたいな感覚があったの。あの頃の圭太って、どこか人を寄せ付けない雰囲気があったでしょ? それが余計に私の目を引いたのよ。で、気付いたら部活中はいつも目で追うようになってた」
 ともみは、当時を思い出しながら、楽しそうに話す。
「圭太ってさ、あの頃から同年代の男子より大人びたところもあったし、だけど、年相応にカワイイところもあって、余計に気になる存在になっちゃったのよね。でもね、それは気になる存在止まりだったのよ。本格的に好きになる一歩手前。まあ、結局は私の中で圭太とはどこかで一線を画そうとしていたのよね。私は三年で先輩、圭太は一年で後輩。どうやっても一緒にいられる時間は短くなるから」
「…………」
「だけどね、気付いちゃったのよ。圭太がみんなと話してる時も、心から笑ってないって。なにか理由があるんだろうとは思ってたけど、それを訊く勇気もなくて。それでも、なんとかしてあげたいって思うようになった。最初は、カワイイ後輩をなんとかしたいという、まあ、先輩としての親心だったと思う。それがいつの間にかそんな理由があったことも忘れて、圭太のことばかり考えるようになった。純粋に圭太のことをもっともっと知りたくなったの。どんなことが好きで、なにが嫌いで。そんな些細なこともね」
 それはまさに、人を好きになる最初の一歩である。
「ただ、やっぱりというか当然の結果なんだけど、私はすぐに部活を引退しちゃって、圭太との接点が極端に減っちゃったわけ。もちろん、OGとして何度も三中に足を運んだし、圭太とも話もしたけどね。これは今だから言えることなんだけど、やっぱりね、実際に会って話をしたりするのって、すごく大事なのよ。それがないと、自分の中だけで変な風に想像というか、妄想というか、そういうのが広がっちゃってね。だから、私の場合はたまにでも圭太に会えてたのがよかったのかも」
「なるほど」
「で、冷静になって客観的にいろいろ考えてみると、どう考えても私は圭太のことが好きだという結論しか出なかったの。最初はカワイイ後輩に対するちょっとした特別な感情かな、とも思ったけど、そうじゃない。圭太のことを考えるだけで、幸せな気持ちになって、せつない気持ちになって。それが本気の恋だって気付かされたのは、一高に入学してから何度か告白された時ね。確かに、パッと見いいなって思えた人はいたけど、どうがんばっても圭太以上には見えなかったし、思えなかった。どうしてそんなに圭太のことを意識してるんだろうって考えたら、それはもう恋してるとしか考えられないのよ。理屈じゃなくね。ただ、それでも私はどうして圭太を好きになったのか考えたの」
「それで、どうしてだったんですか?」
「これが本当の答えかはどうかはわからないけど、私なりの答えとしては、圭太に女の子らしい扱いを受けたからなの」
「女の子らしい扱い、ですか?」
 それを聞いても、圭太はその意味を理解できなかった。
「そりゃ、私は生まれた時から女だけど、どうも人より気が強いところがあって、どこか男勝りな感じがあったのよ。だからか、中学の頃は男子からもそういう対象としてあまり見られなかったの。もちろん、私もそれはそれでいいと思ってたから、誰にも文句は言えないんだけどね。それで、圭太が入学して、入部して、私のことを先輩ではあるけど、ちゃんとひとりの女の子として扱ってくれたことが、すごく嬉しかったわけ。だから、圭太は私のことをちゃんと女の子として見てくれてるんだって思って。そしたら、もう圭太のことしか考えられなくなった」
「そういう意味ですか。でも、ともみさんは三中の頃から普通に女の子らしい女の子だったと思いますけど」
「それは、圭太だからそう思ってただけなの。ほかの連中の態度を見れば、そうじゃなかったことは一目瞭然なんだから」
「……ん〜……」
「ま、それを圭太が理解できる日は、永久に来ないだろうけどね」
 確かに、当時に戻れるなら話は別だが、それは無理な話である。となると、圭太がそれを理解することは永遠にない。
「圭太のことしか考えられなくなると、今度はどうやって自分の想いを伝えようかを考えるようになったわ。だけど、それにもひとつの問題があった。それは、圭太が私のことを数多くいる先輩のうちのひとりとしてしか見てなかったってこと。そりゃ、二代前の部長として多少は違う位置にはいたかもしれないけど、それでもそれこそその他大勢と大差はないの。一高に圭太が入ってきて、吹奏楽部に入部して、さあ、これからという時に現れたのが、柚紀。最初はあとから出てきてなんだ、と思ったけど、でもさ、それは違うんだよね。恋愛に、遅いも早いもないの。好きになって、自分の想いを伝えた人にだけ、その先に進めるチャンスが与えられるんだから。私はそれができなくて、柚紀にはできた。ただそれだけ」
「ともみさん……」
「そのことを今更言ってもしょうがないし、自分が虚しくなるだけだから言わないけど」
 それでも多少の後悔の念があることは、その表情を見ればすぐにわかる。
 圭太もそれがわかるだけに、なにも言えなかった。
「ま、私が圭太を意識するようになって、好きになった理由はそんな感じ。たぶん、普通の人と変わらないわ。特別なことなんてなにもなし」
 誰かを好きになること自体は、特別なことではない。問題はそこからなのである。好きになってからどのような行動を取るか。そこでその後が変わってくる。
「でも、どうしてそれを今、話したんですか?」
「さあ、どうしてかな。なんとなく、話したくなったの。圭太にはすべてを知っておいてほしいから。あ、なんだったら生理周期とか基礎体温とか、全部教えるわよ?」
「……えっと、それは遠慮しておきます」
「ふふっ、冗談よ、冗談」
 半分以上本気の申し出だったのだが、冗談と笑うしかない。
「さてと、もう一回温泉入りましょ。時間もあまりないし」
「温泉に入るだけ、ですか?」
「それだけで済むと思う?」
「……いえ、思いません」
「わかってるならいいの。さ、入りましょ」
 圭太としても、ともみが喜んでくれるなら自分にできることはなんでもしたいとは思っているのだが、正直複雑な心境だった。
 なんとなく、セックス自体が目的になってるような気がするからである。
「ほぉら、早く早く」
「わかりました」
 ただ、そのような気持ちも、ともみが笑顔でいてくれるなら封印してしまってもいいと思ってもいた。
 それが、圭太の圭太たるゆえんでもある。
 
「ん……」
 圭太は、隣で気持ちよさそうに眠っているともみの前髪を軽く避けた。
 時間が来て温泉宿をあとにしたふたりは、駅前でおみやげを買い込み、電車に乗った。
 電車を乗り換える頃までは起きていたともみだったが、乗り換えてしばらくすると、眠ってしまった。
 圭太にもたれかかり、本当に穏やかな表情で眠っている。
 電車の中は、ともみのように彼氏や親に寄りかかり眠っている乗客の姿もちらほら見られる。
 年末なので、たくさんの荷物を抱えている人もいる。
「ん?」
 と、マナーモードにしていた携帯が震えた。
 取り出し、見てみると──
「琴絵からか」
 琴絵からのメールだった。
『何時頃に帰ってくるの? あんまり遅いと、柚紀さんがキレちゃうよ』
 あまりシャレにならない内容だった。
 すぐさま電車の到着時刻から、帰宅時間を割り出し、メールする。
 すると、すぐに反応があった。
 今度は朱美からだった。
『おみやげあるの?』
 それにもすぐに返信する。
 さらにメール。
『先輩とふたりきりで、楽しかった?』
 これは柚紀からである。
 これにはどう答えるべきか少し悩んだが、ウソを言っても仕方がないので、本当のことをメールした。
『……よかったね』
 その短いメールに一瞬寒気したが、今はどうにもならない。
 今はとにかく、家にいる三人をなだめつつ、帰るしかないのである。
 しばらくすると、ともみが目を覚ました。
「ん、ん〜、よく寝た」
「もうそれほどしないで着きますよ」
「じゃあ、ちょうどよかったわけね」
 目を擦り、少し伸びをする。
「そういや、今日は柚紀はどうしてるの?」
「うちにいますよ。なにをしてたのかはわかりませんけど」
「ふ〜ん。じゃあ、早く帰らないと、拗ねるわね」
「ええ、それはもう」
 圭太は大きく頷いた。
「でも、そういうのを聞いちゃうと、すぐには帰したくなくなっちゃうんだよねぇ」
「さ、さすがにそれは……」
「ふふっ、冗談よ。今日は一日つきあってもらって、満足してるから」
 ともみは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。ともみさん」
「ん?」
「少しだけ、目を閉じてもらえますか?」
「目を?」
「はい」
「襲われちゃうの?」
「……襲いません」
「残念」
 笑いながら、目を閉じる。
 圭太は荷物の中から小さな包みを取り出した。
 それを開け、中からあるものを取り出した。
「これで……よし、っと」
「これは……」
「どのタイミングで渡そうかと思っていたんですけど、誕生日プレゼントです」
 ともみの首には、今圭太からかけられたばかりのネックレスが光っていた。
 小さな宝石が光る、それなりにしそうなネックレスだった。
「んもう、わざわざ用意してくれなくてもよかったのに」
「そういうわけにはいきません。ともみさんには、そんなものではとても間に合わないくらいのたくさんの想いを伝えたいんですから」
「……うん」
 ともみは、そのネックレスにとても大事そうに触れた。
「ありがと、圭太」
 圭太にとっては、その言葉と圭太に向けられる笑顔さえあれば、十分であった。
「今度は私のおごりでどこか行きましょ」
「おごり、ですか?」
「そ。たまにはお姉さんらしいところを見せないとね」
 そう言って笑うともみに、圭太も笑みを返した。
「今年も、とっても楽しい誕生日をありがとね、圭太」
 
 四
 十二月三十一日。大晦日。
 今年も残すところ一日となった。
 さすがに大晦日になると、それまでの慌ただしさから多少なりとも解放される。
 世の中の雰囲気も、ひと息ついた感じがする。
 あとは最後にやるべきことをやって、心穏やかに年越しを迎える、というわけである。
 世の中はそんな感じであるが、高城家はまだまだ慌ただしかった。
 毎年恒例の大掃除が残っているからである。
 今年は新たな家族が増えたおかげで、いつもの年よりもずいぶんと楽になっていた。
「お義母さん」
「ん、どうしたの?」
「どうして大晦日に大掃除をするんですか? 無理に大晦日じゃなくても、全然問題ないと思うんですけど」
 シンクの汚れを落としながら、柚紀は訊ねた。
「ああ、これはね、もう癖みたいなものなのよ」
「癖、ですか?」
「祐太さんがまだ生きていた頃、お店は三十日まで基本的にやってたのよ。そうすると、大掃除の機会は大晦日にしかないでしょ? で、それがしばらく続いてたから、私だけじゃなくて、圭太も琴絵もそれに慣れてるところがあるの」
「だから未だに大晦日なんですね。なるほど」
「でも、最近は少なくとも三十日も休むから、無理に大晦日にする必要はないのよね。来年からは、少し考えるわ」
 琴美は、ガスコンロを拭きながらそう言った。
「それにしても、今年は柚紀さんがいるおかげで、とても賑やかな、楽しい年越しになりそうだわ」
「去年までは、そうじゃなかったんですか?」
「ほら、うちはお店をやってるせいで、人の出入りが多いでしょ? だから、普段からとても賑やか。だけど、さすがに年末年始はそういうこともなくなるから。そうすると、さすがに親子三人だけだと、どうしても静かになっちゃってね」
 柚紀は、それを聞いて少しだけ安心した。その静かになってしまった原因が、淋しさからではなかったとわかったからである。
 圭太と過ごす時間が増えて、この高城家のこともだいぶ理解してきたのだが、それでもまだまだ理解不足の部分もある。
 些細なことなら悩むこともないのだが、デリケートな問題に関しては、やはり悩んでしまう。特に、今は亡き祐太絡みのことは、である。
「柚紀さんも知っての通り、圭太は自分から賑やかにしてやろう、とか考えないから、余計ね。私は基本的には賑やかな方が好きだから、柚紀さんがいてくれて本当に嬉しいわ」
「賑やかを通り越さないように気をつけます」
「ふふっ、それは大丈夫でしょ。その時は逆に圭太が止めに入るはずだから」
「なるほど」
 ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 一方、圭太は琴絵とふたりで店の方を掃除していた。
 店は普段からきっちり掃除しているので、大掃除だからといって、特別なにかをするわけではない。強いて言えば、いつもより少しだけ丁寧にやるくらいである。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんは来年は、どんな年にしたいと思ってるの?」
 避けていたテーブルを戻し、天板を拭きながら琴絵は訊ねた。
「そうだなぁ……とりあえずは、平和に過ごしたいかな」
「平和って、なぁに、その事なかれ的な希望は?」
「平和が一番なんだよ。予想もつかないことがしょっちゅう起きてたら、気の休まる時がないから」
「そうかもしれないけど、さすがにそれはどうかと思うよ」
「じゃあ、琴絵はどんな年にしたいんだい?」
 とりあえず自分のことは棚上げにして、琴絵に訊ねた。
「そんなの決まってるよ。もっともっとお兄ちゃんと一緒の時間を増やす」
「ただ一緒にいるだけなら、特に問題はないと思うけど」
「一緒の時は、私をちゃんと女の子として扱ってくれなくちゃダメ」
「……贅沢だな」
「贅沢じゃないもん。恋する女の子なら誰でも思うことだもん」
「はいはい」
 圭太としても、その気持ちは理解できるのだが、琴絵が妹であっても、すでに妻のいる身である。これまで以上に軽はずみな行動はできないのである。
「まあでも、実際、来年はいろいろ大変な年になると思うよ」
「どうして?」
「そりゃ、僕は一高を卒業するし、春には子供も生まれる。遅くとも夏くらいまでには柚紀もこっちで一緒に住むようになるだろうし」
 そうやって列挙すると、確かにいろいろありそうである。
「そっか」
「だからこそ、ある意味では今までと同じという意味を込めて、平和でって言ったんだよ」
「それならそうと、最初から言ってくれればいいのに」
「言う前に、琴絵が口を挟んだんじゃないか」
「あれ、そうだっけ?」
「まったく……」
 圭太は呆れ顔でため息をついた。
「だけど、お兄ちゃん」
「ん?」
「卒業したら専門学校に行くって言ってるけど、本当にすぐに行くの?」
「そのあたりの細かいことは、年明けに決める予定。ただ、今の状況を考えると、春からというのは難しいかもしれない。春から忙しくなるからね。だから、一年待つか、秋からの入学でもいいところにするか、そのあたりも含めてちゃんと決めないといけない」
「そこまで考えてたんだ。やっぱりお兄ちゃんだね。でもさ、お兄ちゃん。私、思うんだけど、お兄ちゃんと柚紀さんがお店を続けていくなら、別にどちらかだけでもいいんじゃないの? そりゃ、ないよりはあった方がいいとは思うけど」
「まあ、それはその通りだと思うよ。それでも、そういうところでしっかりと学ぶということも、大事なことだと思うから。独学でできればそれはそれでいいけど、しっかりとした理論に基づいて教われば、自分の幅も広がるだろうし」
「ふ〜ん……」
 琴絵としては、そこまで難しく考えなくてもいいのでは、という考えだった。
 もう少し単純に、やりたいからやる、という理由でも誰もなにも言わない。
 ただ、そういう考えに基づいて行動できないのが、圭太である。
「とにかく、春からのことは、年が明けてから本格的に考えるよ」
 結局は圭太のことなので、琴絵にはそれ以上は突っ込めなかった。
「圭太、琴絵ちゃん、終わった?」
 そこへ、柚紀が顔を出した。
「ん、あと少しで終わるよ」
「じゃあ、それが終わったらお茶にしよ。準備しておくから」
「了解」
 柚紀の姿が見えなくなると、琴絵はため息をついた。
「どうした?」
「お兄ちゃんと柚紀さんて、たった二年半ちょっとで、もうなんでもわかりあえる仲になっちゃったんだな、って。私なんて、ずっとお兄ちゃんの妹やってて、それでもそこまでになれてるかどうかわからないのに」
「ん……」
 圭太はそれにはすぐには答えなかった。
 テーブルと椅子を元に戻し、店の中をざっと見渡す。
「琴絵はさ、柚紀とは違うんだよ」
「違う?」
「そう。柚紀は、最初は単なるクラスメイトだった。そこから友達になって、親友になって、彼女になって、婚約者になって、妻になった」
「うん」
「他人と仲良くなろうと思ったら、その人のことを知らないことにははじまらないだろ。だから、柚紀は僕のことをなんでも知ろうとした。どんな些細なことでもね。もちろん、それをしただけで相手のことを理解できるとは限らない。そこには多少の相性と運があると思う。そして、柚紀の場合はそれがどちらもあった」
「…………」
「一方、琴絵はどうかといえば、確かに琴絵は僕のことが昔から好きだったのかもしれない。その想いは今は男女のそれになってるけど、最初からそうだったかい?」
「ううん、最初は違う。最初は、お兄ちゃんとして好きだった」
「そこだよ。そこが柚紀との決定的な差。柚紀は、僕のことを友達とはいえ、最初から異性として見ていた。琴絵は、最初は異性など関係ない兄としてだけ見ていた。そして、そのまま時間が流れた」
「……それが、私と柚紀さんの、決定的な差……」
「だけど、柚紀から見たら、逆に琴絵のことが羨ましいと見えるかもしれないよ」
「どうして?」
「柚紀は、どうがんばっても僕の妹にはなれないからね。そして、妹でなければわからないことは、わからない」
「そっか……」
 そういう風に言われると、そうなのかと思ってしまう。
 ようするに、隣の芝生は青い、ということである。
「さ、お茶にしよう」
「うん」
 
 四人でお茶を飲んでのんびりしていると──
「あら、誰かしら?」
 インターフォンが鳴った。
「ああ、いいよ。僕が出るから」
 すぐに腰を浮かせたのは、圭太だった。
 玄関に出て、ドアを開けた。すると──
「や、圭くん」
「あ〜」
 やって来たのは、祥子と琴子だった。
「どうしたんですか?」
「ん、ほら、今年最後の挨拶をしておこうと思って。ね、琴子?」
「う〜」
 琴子は必死に手を伸ばし、圭太に触れようとする。
「はいはい。琴子はパパの方がいいのよね」
 祥子は、圭太に琴子を抱かせた。
「みんないるの?」
「ええ、いますよ。大掃除が終わって、ひと息ついてるところです」
「そっか。タイミングとしてはちょうどよかったわけだ」
 玄関で話しているのもなんなので、リビングに移動する。
「あ、祥子先輩」
「こんにちは」
「琴子ちゃんも一緒だ」
 祥子と琴子も話の輪に加わる。
「今日は、おうちの方は大丈夫なの?」
「ええ。母がだいぶ前から進めていましたから、特に問題もなく。なので、こうして今年最後の挨拶に来ました」
「そう」
「先輩の家って、なにか特別なこと、するんですか?」
 琴絵が興味津々な表情で訊ねる。
「特になにもしないよ。普通に大晦日を過ごして、年が明けて、普通に三が日を過ごして。まあ、親戚やお父さまの仕事関係の人たちが結構挨拶に来るけど。そのくらいかな」
「なるほど」
「ただ、今年は琴子がいるから、できるだけ家に来てほしくないみたいだけどね。誰か来ると、その相手をしなくちゃいけないから」
「大変ですね」
 完全に人ごとな琴絵は、そのこと自体は興味なさそうに言う。
「柚紀は、帰らないの?」
「ええ、帰るつもりはないですよ」
「でも、さすがにお正月くらいご両親に挨拶しないと」
「ああ、それなら問題ありません」
「なんで?」
「明日、揃ってここへ来ますから」
「……なるほど、そういうことか」
 最初、柚紀が家に帰らないと言った時には、いろいろあった。
 しかし、それをなんとかなだめ、譲って、そういうことにした。
 もっとも、笹峰家の面々にとっても、それは悪い話ではなかった。特に光夫は、大手を振ってやって来られるわけである。
「ねえねえ、お兄ちゃん」
「ん、どうした?」
「琴子ちゃん、抱かせて」
「ああ、いいよ」
 が、圭太が琴子を琴絵に抱かせようとすると──
「う〜、う〜」
 琴子がそれを嫌がった。
「あらあら、パパから離れたくないのね」
「ううぅ、琴子ちゃんに嫌われちゃった……」
「別に嫌われたわけじゃないだろ」
 琴子は、圭太の頬をペチペチ叩き、ご満悦の様子。
「でも、すごく不思議よね。本能みたいなもので圭太のことをパパだと理解してるんだろうけど、それ以外の人はちゃんとそうじゃないとも理解してるんだから」
「それが親子というものだと思うよ。柚紀も、春になればわかるよ」
「そうですね」
「琴子ちゃん……」
「ほら、そんな顔しない」
 圭太は、まだ少し嫌がっている琴子を、半ば無理矢理琴絵に抱かせた。
「腕に収まると、案外大丈夫ね」
「よかった。琴子ちゃんに嫌われたのかと思っちゃった」
 琴絵は嬉しそうに琴子に頬を寄せた。
「あ、そうだ。圭くん」
「なんですか?」
「明日、少し時間あるかな?」
「明日ですか? そうですね、短時間なら大丈夫だと思いますけど」
「じゃあ、その時間にうちに来てくれる? お母さまがね、圭くんを連れてこいって言うから」
「わかりました。時間が空いたら、先に連絡しますね」
「うん、お願い」
 もともと圭太も挨拶に行かなくてはと思っていたのだが、先方から誘いを受けたので、より気楽に行くことができる。
「あ、もうひとつあったんだ。あのね、圭くん。みんなで行く初詣なんだけど、琴子も一緒でいいかな?」
「琴子もですか? 大丈夫だとは思いますけど。でも、そうすると祥子の負担が増えませんか?」
「私は大丈夫だよ。むしろ、圭くんの負担が増えると思うけど」
 確かに、今までのことを考えれば、人が多い時はたいてい圭太が琴子の面倒を見ている。その方が琴子は機嫌がいいし、ぐずらないからである。
 しかし、そうすると圭太はほとんどずっと、つきっきりでいなくてはならないことになる。祥子は、それを言っているのである。
「まあ、別に丸一日初詣に出てるわけじゃないですから、大丈夫ですよ」
「そう? それならいいけど」
「だけど、どうして琴子ちゃんを一緒に連れていこうと思ったんですか?」
 柚紀が当然の疑問を口にする。
「ん、そんなの決まってるよ。親子は一緒にいるのが当然なんだから。私たちは特殊な事情で常に一緒にいることはできないけど、一緒にいられる機会が少しでもあるなら、できるだけ長く一緒にいた方がいいから」
「なるほど」
「まあ、柚紀がもう少し圭くんを私に貸してくれるなら、そこまで躍起になることはないけどね」
「それは丁重にお断りします」
 そう言って笑う柚紀だが、目は笑っていなかった。
「祥子さん」
「はい」
「お昼、どうする? もうそろそろそんな時間だから」
「あ、そうですね」
「先輩も一緒に食べていってくださいよ」
「ん〜、じゃあ、お言葉に甘えて」
「やった」
「琴絵は、喜ぶだけじゃなくて、ちゃんと手伝うのよ」
「はぁい」
 
 昼食を食べたあと、琴子は夢の世界へ旅立った。
「やっぱり、いいですね、子供って」
 柚紀は、そんな琴子の頬をつつきながら、しみじみと言う。
「そうだね。私もいつもそう思ってるよ。確かに子育ては大変なことが多いけど、それでも得られる喜びはもっと多いから」
「生き甲斐、ですか?」
「うん、生き甲斐。琴子のためになんでも一生懸命がんばろうって思えるからね。それに、親の勝手なエゴのせいで、迷惑かけたくないから」
「迷惑、ですか?」
 思いもかけない言葉に、柚紀は首を傾げた。
「だって、私は確かに子供を望んでいたけど、圭くんは少なくともそうじゃなかったわけだから。それに、ちゃんと父親であることを認めていろいろがんばってくれてるけど、それでも事実上のシングルマザーであることに変わりはないから」
「…………」
「琴子にはちゃんとすべてを話してできれば理解してほしいけど、ひょっとしたら理解してくれないかもしれない。その時に嫌われてしまうのはもう仕方がないけど、それでもできるだけ迷惑をかけたくないから。だから、私は私にできることをなんでも精一杯がんばろうと思ってる。それが結果的に、私たち母娘のためでもあるからね」
 祥子の表情には、一片の迷いもなかった。
 柚紀は、それが母親の強さなのだと、改めて思った。
 もしも、自分が今の祥子と同じ立場だったら、果たして同じことが言えたであろうか。ひょっとしたら……と思ってしまう。
「本当はこういうことを柚紀に言うのは筋違いなのかもしれないけど」
「はい」
「だからね、圭くんの奥さんになった柚紀には、本当に心から幸せであってほしいの。もちろん、春に生まれる子供も一緒にね。そうじゃなかったら、言い方は悪いかもしれないけど、なんのために圭くんのことをあきらめたのか、わからないから」
「それは、大丈夫です。先輩たちのためじゃなく、自分のために、それだけは絶対に守り抜きますから」
「うん、それならいいの」
 祥子にとっての幸せは、圭太がいつまでも幸せであること。そして、今現在、圭太を本当の意味で幸せにできるのは、妻である柚紀だけなのである。そのことをイヤというほど理解しているからこその、言葉である。
「あ、でもね、柚紀。これだけは覚えておいてね」
「なんですか?」
「もし圭くんが誰の目から見ても幸せじゃないと思ったら、どんな手段を用いてでも圭くんを柚紀のもとから奪うからね。これはきっと、私だけの考えじゃないはず」
「それだけは絶対にないですから、最初から心配するだけ無駄ですよ」
「ふふっ、だといいけどね」
 ふたりとも、本当に心の底から圭太のことを幸せにしたいと思っているからこその、今のやり取りである。
 自分だけが幸せであればいいなどという狭量な考えは、誰も持っていない。自分が幸せであるのと同時に、その幸せを与えてくれる圭太も幸せでなければ、意味がない。
 それが、柚紀や祥子だけでなく、圭太を本気で好きになっている者、全員共通の想いである。
「あら、ふたりでなにを話しているの?」
 そこへ、部屋の片付けを終えた琴美が戻ってきた。
「いろいろと大事なことを話してました」
「大事なこと?」
「心構えというか、まあ、いろいろです」
「そうなの」
 琴美は、多少興味を惹かれたようではあったが、それ以上追求しなかった。
「本当によく眠ってるわね。家でもこんな感じなの?」
「そうですね。基本的にはこんな感じです」
「じゃあ、ずいぶんと手間がかからなくて楽でしょ?」
「ええ、お母さまもそう言ってます。ここまでおとなしいというか、動じない赤ん坊は珍しいって」
「それはきっと、圭太の血を濃く受け継いでるからね」
「そうなんですか?」
「琴絵はそうでもなかったんだけど、圭太はね、たぶん、ほかの子の数分の一くらいしか手間のかからない子だったの。もちろん、泣き叫んで大変だったことはあるけどね。それでも、あまりぐずらないし、寝ている時もおとなしいし、はじめての子供としてはずいぶんと楽だったわ」
「へえ……」
 自分たちの知らない圭太の話なので、ふたりとも興味津々である。
「でも、小学校の頃は人並みにワンパクというか、小学生らしい小学生だったんですよね?」
「ええ、あの頃はね。ただ、それでもどこか達観してるというか、妙に大人びたところがあって、私も祐太さんも、苦労らしい苦労はしなかったわ」
「じゃあ、琴子ちゃんは、そんな圭太の性格を受け継いだということですね」
「たぶんね」
 人の性格というものは、そう簡単に変わるものではない。しかも、子供の頃の性格は成長してからもそれなりに受け継いでいる。
 圭太の場合は、それが顕著な例である。
「ただ、琴子ちゃんは最終的にどんな性格になるかは、まだわからないわ。物心つく前の性格は、確かにその後の性格形成に多大な影響を及ぼすけど、それも絶対じゃないから。むしろ、その頃からの生活環境の方が、本当は影響が大きいかもしれないわ。圭太を見ていると、ますますそう思うの」
「それはどういう意味ですか?」
 琴美は、柚紀と祥子を見て、視線を外した。
「圭太の場合は物心つく前ではないけど、それでも性格を形成する上で重要な時期だったのは間違いないわね」
「それって……」
 その話の流れから、柚紀はなにを言いたいのか察したようである。
「多感な時期に父親である祐太さんが亡くなってしまい、本当ならそんな苦労する必要もなかったのに、私や琴絵の分までひとりで背負ってしまった。そうあるために、圭太は子供でいられないことを悟ってしまい、結果的に人よりもずっと早く、精神的に大人になってしまった。そういうこと」
「…………」
「圭太のおかげで立ち直れた私には言う権利はないのかもしれないけど、でも、圭太にはそういう経験をせずに、人と同じようにゆっくりと大人になってほしかった」
 それは、本当に今更な話である。だが、母親としては、そう思わずにはいられないのである。
「ああ、ごめんね。別に場の雰囲気を重くするつもりはなかったの。ダメね、一年の終わりにこんなことじゃ」
 そう言って琴美は苦笑する。
「ただね、ひとつだけ誤解してほしくないことがあるの。確かに私はそう思っているけど、そのことを後悔してるわけじゃないの。それこそどうにもならない状況の中では、おそらく最善の変化だったはずだから。それにね、圭太が今みたいな性格じゃなかったら、柚紀さんとも祥子さんとも、その関係はなかったかもしれないから」
「……ああ、それはそうですね」
「そう考えると、すごく複雑な感じですね」
「もっとも、人よりずいぶんと甲斐性のある子に育ってしまったのは、予想外だったけどね」
 甲斐性はないよりあるに越したことはないが、やはりありすぎるのはいろいろ問題がある。
「柚紀さんには、これから先もかなり多くの苦労をかけると思うから、あの子の母親として今のうちから謝っておくわね」
「そんな、お義母さんが謝るべきことじゃないですよ。それに、私は信じてますから。圭太は、その苦労を打ち消してもなお余りあるくらい、私を幸せにしてくれる、って」
「ふふっ、そういうとっても前向きなところは、私も見習いたいくらいだわ。でも、だからこそ圭太は柚紀さんを選んだのよね。自分にはないものを持っている柚紀さんを」
 人が惹かれる部分には、大まかに分けてふたつの部分がある。
 ひとつは、自分と似たような部分。これは共感とでも呼べばいいのだろうか。仲間意識が芽生え、そこからさらに発展する、という感じである。
 もうひとつが、自分にはない部分。これは羨望や憧れだろう。人によって感じ方は違うだろうが、中には自分にないものを持ってる者が側にいるだけで、自分もそれを持っているかのような、錯覚を感じたいと思っている者もいるはずである。
「私はね、本音を言えば、今の状況もそれなりには楽しんでいるのよ。もちろん、手放しで喜べる状況じゃないことくらい、百も承知だけど。それでも、圭太が普通に恋愛をしていたなら、とても経験できないようなことも経験できてるし」
 とても経験できないようなことではあるが、できれば経験しなくてもいいことでもある。
 ただ、その考え方が硬直的だと言われてしまえばそれまでである。
 まだ先がちゃんとは固まっていない状況なのだから、経験できることはできるだけ多く経験した方が、それからの人生に役立つと考えることもできる。
「お義母さんは、圭太の大切な人への想いを、誰かひとりだけで受け止められると思いますか?」
「そうね……微妙なところね。安易な気持ちでつきあってるなら、きっと押しつぶされてしまう。でも、それこそ死ぬ気でその人も圭太のことを想っているなら、受け止められる可能性はある。私はそう思うわ」
 琴美はそう答えながらも、すぐにそれを否定した。
「だけど、現実にはかなり難しいとも思う。あの子は、とにかくすべてのことに対して、出し惜しみということをしない子だから。常に全力でぶつかられてしまったら、休む暇もない」
「…………」
 柚紀は、それを聞きながら、自分の場合はどうだったか、改めて考えている。
「そういうことから考えると、ある程度想いを分散できる、今みたいな方がいいのかもしれないわね」
 理想論で言えば、確かにそうなるのだろう。だが、世間一般的な考え方からすれば、誰かひとりを想い、愛し続ける方が『普通』なのである。
「どこでボタンをかけ間違えたのかは、私にもわからないわ。ひょっとしたら、柚紀さんとの関係があったからこそ、そうなった可能性もあるし」
「それは、どういう意味ですか?」
「柚紀さんも祥子さんも知っての通り、あの子は恋愛に関してはとても疎くて、奥手な子だったから。だから、柚紀さんと恋人という関係になって、そのままプラトニックな関係であり続けていれば、きっと、その後のことはなかったと思うの。柚紀さんを目の前にして言うのは正直はばかられるんだけど、圭太はどこかで恋愛に対する枷を外してしまったのかもしれない」
「…………」
「それまではただひたすらに頑なに拒み続けていたのに、柚紀さんを受け入れて、その結果があの子の想像以上のものだったのだと思う。だから、頭では浮気はダメだと理解していながらも、相手が本気だと拒みきれなくなってしまった」
「……なるほど」
「それと、これは直接柚紀さんとは関係のないことだけど、柚紀さんの次が、鈴奈ちゃんだったのも、問題だったのかもしれない」
「鈴奈さんが問題なんですか?」
「ん〜、鈴奈ちゃん自身に問題があるわけじゃないの。問題なのは、圭太と鈴奈ちゃんの関係」
 そう言って琴美は、ふたりに少し考えてみるように促した。
 しかし、どちらのことも知っているふたりでも、琴美の言いたいことはわからないようである。
「ふたりの関係は、雇い主の息子とアルバイトという誰が見てもわかる関係だった。その関係は程なく姉弟の関係となった。ここまでは問題ないわね?」
 頷くふたり。
「圭太はあの通りの性格だから、基本的には鈴奈ちゃんのことをひとりの女性としては見ていなかった。一方、鈴奈ちゃんはそれなりに早い時期から圭太のことを年下ではあるけど、男性として見るようになった。圭太も薄々それを感じてはいたのかもしれないけど、自分からなにかしようとは思わなかった。まあ、鈴奈ちゃんも関係を壊したくないという想いから、積極的に動くことはなかった。ところが、その微妙なバランスが崩れてしまった」
「私が圭太の彼女になったから、ですね」
「ええ。ふたりの仲が親密になればなるほど、鈴奈ちゃんはある意味では追い詰められていったのかもしれないわ。で、ここが問題。祥子さんは多少思い当たるところがあるかもしれないけど、あの子は年上の女性に弱いところがあってね。鈴奈ちゃんに迫られ、求められてしまい、結果、そのまま関係を保ってしまった」
「でも、それなら別に鈴奈さんじゃなくても同じことになったんじゃないですか? 祥子先輩やともみ先輩もいたわけですし」
「確かに一面ではそうも言えるわ。でも、私は鈴奈ちゃんだったからこそ、だと思ってる。それはね、圭太がある意味では年上の祥子さんたち以上に、鈴奈ちゃんのことを大切に想っていたからなのよ。そんな鈴奈ちゃんに求められたら、あの子の性格を考えると拒みきれない」
「なるほど」
「もちろん、実際はまったく違う理由だったかもしれないわよ。圭太に訊いたわけじゃないから。でも、当たらずとも遠からずだと思ってる。そして、柚紀さん、鈴奈ちゃんと受け入れて、そのあとはズルズルと、という感じかしらね」
 そういう風に説明されると、なるほどと頷ける。確かに圭太の性格を考えれば、なにかのきっかけがなければ、一般常識や倫理観に反することをそう簡単にするわけがない。
「それでも、さすがにこれ以上はないと思うわ。今は、柚紀さんというれっきとした奥さんがいるんだから」
「そうだといいんですけど」
 柚紀は、苦笑した。
「さて、そろそろふたりも帰ってくるかしらね」
「そうですね」
 今、圭太と琴絵は買い物に出ていた。
「祥子さんは、圭太が帰ってきたら、帰る?」
「本当はずっといたいんですけど、しょうがないですね」
「ふふっ、うちは近いんだから、遠慮なく訪ねてきていいのよ」
「じゃあ、今度からは三日と置かずに来ますね」
 そう言って祥子は笑った。
 それから少しして圭太と琴絵が帰ってきた。
「ううぅ、寒かったぁ」
「寒かったって、バスで移動してたんだから、そこまでじゃなかったでしょ?」
「そんなの関係ないの。寒いものは寒いんだから」
 荷物を置くなり、琴絵はストーブの前から動かなくなった。
「あ、そうそう。圭太」
「ん、なに?」
「そろそろ祥子さん、帰るっていうから、送っていきなさい」
「了解」
 で、圭太は琴子を抱き、祥子を家まで送ることになった。
「もう今年も終わるんだね」
「ええ、早いですね」
「今年はいろいろなことがあったから、すごくあっという間だった気がする。圭くんはどう?」
「僕もそうですね。すごく早かったです」
「でも、それって充実してたからでもあるんだよね?」
「ええ。無駄に、無為に過ごしていたら、大晦日にこんな感想は抱けませんから」
「じゃあ、圭くんにとって、今年はどんなことが印象に残ってる?」
「いろいろありますね。本当にいろいろ」
 圭太は、今年あったことを順に思い出していく。
 それはもちろん、主に部活絡みのことなのだが、それ以外にも柚紀や祥子たちとの間でもいろいろあった。
「祥子とのことだと、やっぱり琴子のことですね」
 そう言って眠っている琴子に視線を落とす。
「今だから正直に言いますけど、春に祥子から妊娠したことを聞いても、すぐには自分が父親になることに実感が持てなかったんです。もちろん、子供を作る行為をしていたわけですから、まったく意識がなかったわけではありません。でも、実際にその立場になって、次第にそれを受け止めていけるようになりました。そして、琴子が生まれて、僕は本当の意味で父親になれた気がします」
「そっか」
「僕は、祥子と琴子のために、できることはなんでもします。これは別に義務感とかそういうものではなくて、僕がそうしたいからです。柚紀とは比べられませんけど、それでも祥子と琴子は、僕にとってかけがえのない存在ですから」
「うん、ありがと、圭くん。圭くんがそう思っていてくれるだけで、私も琴子も安心して過ごせるよ」
 そのような会話は、もう何度も繰り返されてきた。それは、圭太の彼女にも妻にもなれないとわかりきっているからこそ、何度も繰り返されてきた。
「ん……う〜……」
「あれ、琴子、起きちゃった?」
「どうやらそうみたいですね」
 琴子は、つぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせ、軽くあくびをした。
「どうした、琴子?」
「あ〜、う〜」
 起きてすぐに圭太の顔が目の前にあったので、琴子はいつも以上にご機嫌だった。
「こらこら、そんなに叩くな」
「琴子って、ほかの子に比べて感情表現が豊かなんだって」
「そうなんですか?」
「私もどれくらい豊かなのかはわからないけど、定期検診に行った時に先生や看護師さんに言われたの」
「でも、それっていいことですよね?」
「うん。感情が乏しい子よりも豊かな子の方が、成長も早いって言ってた」
「じゃあ、琴子は僕たちが思っている以上に、早く成長してしまうかもしれませんね」
「ふふっ、そうだね」
 子供が生まれてからの幸せといえば、その子供が成長してくれることである。
 赤ん坊の頃、こんな大人になってほしい、こんな風に成長してほしいと、未来をあれこれ夢想するだけで、幸せであると感じる。
 それは圭太と祥子も同じで、琴子のことを話している時は、いつも笑顔が絶えない。
「ねえ、圭くん」
「はい」
「来年も、いろいろ無茶なことを言っちゃうかもしれないけど、呆れずにつきあってね」
「祥子の言う無茶なことなら、全然大丈夫ですよ。むしろ、祥子は無茶なことは言わない方ですから」
「じゃあ、来年は圭くんが困っちゃうくらいのことをどんどん言っちゃうよ?」
「ええ、覚悟しておきます」
 やがて、三ツ谷家の大きな門が見えてきた。
「ほら、琴子。今度はママが抱っこするから」
「うう〜」
 琴子は、手足をばたつかせ、軽い抵抗を見せる。
「んもう、パパとはまた明日会えるんだから、我慢して」
 半ば強引に抱きかかえた。
「じゃあ、圭くん」
「はい。よいお年を」
「うん、よいお年を」
「琴子もね」
「あ〜」
 
 陽が暮れて、北風がよりいっそう身に染みる夜。
 今年が終わり、来年になるまであと数時間。
 高城家では、早めに夕食を済ませ、大晦日をのんびりと過ごしていた。
「今年もあとちょっとで終わりかぁ。ね、圭太。今年はどんな一年だった?」
 圭太の隣でぴったりとくっついている柚紀が、上目遣いに訊ねた。
「ん、そうだなぁ……とにかくいろいろあった年、かな」
「いろいろ、ね」
 その言い草がおかしかったのか、柚紀はクスクス笑った。
「でもさぁ、基本的には圭太がなにかした側、なんだよね」
「そうかな?」
「そうよ。だって、祥子先輩のことだってそうだし、凛のことだってそう。そりゃ、圭太だけではどうにもならないことではあるけどさ」
 今度は少し不満げな表情を見せる。
「それでも、それがなかったら、そこまでいろいろはなかったんじゃない?」
「そんなことはないよ。僕が言った『いろいろ』の大半は、柚紀とのことなんだから」
「そうなの?」
「当たり前だよ。改めて言うまでもないと思うけど、今の僕の生活は、確実に柚紀を中心にまわってるんだから。そうしたら、必然的に柚紀とのことが印象にも残るはずだよ」
「そっか」
 それを聞いて、今度は満面の笑みを浮かべた。
「いちいち列挙する必要はないと思うけど、それでもどうしてもと言うなら、やっぱり柚紀の妊娠と、結婚かな」
「うん、私もそうだよ」
 そう言って柚紀は、自分のお腹に触れた。
「圭太と出逢ってから、本当にたくさんの忘れられない出来事があったけど、今年はその中でも特にいろいろあったから」
「そうだね」
 ふたりは、しばし話すのをやめ、それぞれに思い返す。
「ね、琴絵ちゃん」
「あ、はい」
 ふたりの様子を羨ましそうに見ていた琴絵は、いきなり声をかけられ、慌てて返事をした。
「琴絵ちゃんはどんな一年だった?」
「私ですか? そうですね……やっぱりいろいろあった年でした。中学を卒業して、高校に入学して。それだけでも劇的な変化ですけど、高校でまたお兄ちゃんと一緒になれたのが一番嬉しかったです」
「ふふっ、琴絵ちゃんもやっぱり、圭太とのことが一番なんだね」
「はい。あ、でも、それは今にはじまったことじゃないんですよ。私が物心ついた頃から、もうずっとそうなんですから」
 琴絵は、少しだけ遠い目をして、続ける。
「私の生活の中心には、いつもお兄ちゃんがいました。お父さんもお母さんも大好きですけど、お兄ちゃんはそれ以上に本当に心の底から大好きでしたから。お兄ちゃんさえ側にいてくれれば、どんなところにいても平気でした。たとえ、体の調子が悪くて学校を休んでしまっても、学校から帰ってきたお兄ちゃんが側にいてくれただけで、私の心は軽くなり、明日はお兄ちゃんと一緒に学校に行こうと思いました」
「琴絵ちゃんが圭太をそういう存在だと認識したきっかけみたいなことはあるの?」
「きっかけですか? ん〜、そうですねぇ……たぶんですけど、ないと思います」
「ないの?」
 柚紀は、意外そうな顔で問い返す。
「はい。私は、自分でも不思議に思うくらい、お兄ちゃんという存在を簡単に受け入れ、なおかつとても大事な存在だと認識していたんです。だから、改めてのきっかけというのはないと思います」
「そっか」
「でも、強いて言うなら、お兄ちゃんはいつもいつでも私の側にいてくれたから、だと思います。お兄ちゃんは、妹である私に対して、いつも無条件で優しくしてくれました。それはきっと、お兄ちゃんも意識してなかったと思います。だからこそ私は、どんどんお兄ちゃんに惹かれていきました」
「なるほどね。もともと兄妹というだけで絆は深いのに、それをよりいっそう深めるようなことが、今までずっと続いてきた、ということか」
 琴絵の圭太への想いが尋常ではないことくらい、柚紀も理解していた。
 それは、今の柚紀には覆すことのできない『時間』という要因をも伴っている。
 琴絵がこの世に生を受け、圭太を兄であると認識してからずっと。
 そんな中、琴絵の圭太への想いは、少しずつ育まれ、やがて妹の兄に対する思慕の情から、ひとりの女の子の大好きな男性への想いへと変わっていった。
「これはないかもしれないんだけど、琴絵ちゃんは一度でも圭太のことを嫌いになったことってある?」
「どうですかね。少なくとも私の記憶にある中では、そういうことは一度もないです。口喧嘩して『嫌い』とか言っちゃったことはありますけど、それも全然本気じゃなかったですし。それに、私にはお兄ちゃんを嫌いになる理由がありませんから」
「それもそっか」
「もし、なにかの理由で嫌いになりかけたとしても、きっと私は、全力を尽くして嫌いにならないように努力します」
「だってさ、圭太」
 圭太は嘆息混じりに言った。
「そういう話は、僕のいない時にふたりだけでしてほしかったな」
「それじゃあ、面白くないじゃない。琴絵ちゃんの話に対する圭太の反応を見るのが、楽しいんだから」
 どうやら、そちらが本命のようである。
「それに、気になるでしょ? カワイイ妹が自分のことをどんな風に見て、思ってるか」
「そりゃ、気にはなるけど、だけど、琴絵はことあるごとに言ってるからね、自分の想いや考えを。それに、行動を見ていればある程度のことはわかるし」
「だから、改めて聞く必要はない、と?」
「そうだね」
「それはそれで、琴絵ちゃんに失礼じゃない?」
「どうして?」
「改めて言葉にしなくてもわかる、だなんて言い分は、傲慢だってこと。確かに、言葉にするよりも雄弁な行動はあるかもしれない。でも、それがそうだとどうして言い切れるわけ? ひょっとしたら、正反対のことを考えてるかもしれないんだよ。そしたら、やっぱり直接確認しなくちゃ」
 確かに、柚紀の言うことにも一理ある。
 どんなにわかりあえてると思っていても、間違っている可能性はある。それが些細なことなら問題ないが、もしふたりの関係をも壊しかねないことなら、とんでもないことになる。
 あの時にひと言聞いておけばよかった、と後悔しても遅いのである。
「あ、あの、柚紀さん。そこまで言わなくてもいいですから」
「ダメよ。こういうことは、ちゃんと言っておかないと必ず後悔することになるんだから。だって、たったひと言だけで済むことのせいで、その関係が壊れちゃってもいいの?」
 琴絵はふるふると頭を振る。
「でしょ? だから、言うべき時にちゃんと言って、少なくとも自分はこう思ってるんだって知っておいてもらわなくちゃ。もちろん、その後の行動についてまでは保証できないけど」
「お母さんはどう思うの?」
 と、琴絵はいったん自分で考えることを放棄し、琴美に訊ねた。
「そうねぇ……基本的には柚紀さんの考え方に賛成だわ。もしその時に行き違いがあったとしても、そうやって直接訊ねたことによって、深刻化する前に解決できるかもしれないから」
「そっか」
「ただ、それもちゃんとタイミングを見てやらないと、逆にこじれてしまう可能性があるわ。相手が頑固で意固地で人の話に耳を傾けないようだったら、火に油を注ぐ行為になるわけだし。だから、琴絵もなんでもかんでも圭太に訊けばいいというわけではないのよ。それに、知って後悔することだって、あるかもしれないし」
 琴美は、とても冷静な意見を述べた。
 柚紀の意見は、もちろん正しい。だが、琴美が言ったように、ある種の危険要素を含んでいるのも事実である。
 一歩間違えれば、それこそ取り返しのつかない状況に陥ることも、考えられる。
「まあ、もっとも、圭太相手にはそこまで深く考える必要はないと思うわ」
「どうして?」
「だって、圭太は自分の想いをそう簡単に口にしない代わりに、行動で示してくれるから。たいていの場合は、それで満足してしまうだろうし」
「うん、そうだね」
「ああ、柚紀さんは今のままでいいと思うわ」
「そうですか?」
「ええ。これまでの恋人という関係なら、深入りしすぎない方がいいと思うけど、夫婦は違うから。恋人はまだ他人だけど、夫婦は家族。これからの長い人生をともに歩んでいくわけだから、できることなら本当に些細なことまで理解していた方が後々のためだから」
「なるほど、そういう考え方もできますね」
 柚紀は、大きく頷いた。
「というわけで、お義母さんのお墨付きももらったから、これからバシバシ聞きたいことを聞いていくからね、圭太」
「……お手柔らかに」
 もはや反論してもどうにもならないと判断し、圭太は渋々頷いた。
「そういえば、柚紀さんは大晦日から元旦にかけては、いつもはどうやって過ごしてたの?」
「その年によって違いました。おじいちゃんやおばあちゃんの家に帰省したり、家にいてのんびり過ごすこともありましたし」
「初詣は?」
「たいていは陽が昇ってからですね。そこまでこだわりがなかったので」
「なるほど」
「今年は夜中のうちの初詣なので、楽しみです」
「でも、寒いから覚悟しておいた方がいいわよ」
「はい」
 それからしばらくして、初詣に参加するメンバーが集まってきた。
 参加メンバーは、柚紀を含めた高城家の面々と凛、紗絵、詩織である。
 関係者にはもちろん連絡はしたのだが、ともみと幸江は諸般の事情から参加できなくなってしまった。
 それぞれ予定の時間よりも早くに来たため、時間が余ってしまった。
「だけど、紗絵と詩織はよく許可してもらえたね。なにも言われなかった?」
「私は特に。一緒に行くのが先輩だって話したら、だったら大丈夫ね、です」
 紗絵は、そう答えた。
「うちの両親は、先輩に絶大な信頼を寄せてますから」
 紗絵の両親は、中学の頃から圭太のことを知っているので、そのあたりは話が早い。
「私は、今までそういうことを言ってませんでしたから、たまにはということで許してもらえました。まあ、ちょっとだけ引き留められそうになりましたけど」
 そう言って詩織は苦笑する。
「けーちゃん、あたしには訊かないの?」
 と、ひとりだけ訊かれなかった凛が、不満顔で言う。
「いや、だって凛ちゃんは、凛ちゃんから初詣に行こうって誘ってきたくらいだから、改めて訊くこともないかな、って」
「むぅ、差別だ」
「差別って……」
 そういう風に言われてしまうと、圭太はなにも言えない。
「あんたはなにバカなこと言ってんのよ」
「あいたっ」
 と、柚紀が後ろから凛の頭を小突いた。
「変な因縁つけて、人の旦那さまを困らせない」
「誰が因縁つけてるって?」
「あんた」
「むきーっ」
「なによ? 事実でしょ?」
「事実じゃない。ねつ造するな」
 柚紀と凛は、威嚇しあう。
 それを見ているほかのメンバーは、またやってるとしか思っていない。
 それはつまり、これがもう日常になっている、ということである。
「やれやれ……」
 圭太は小さく息を吐き、笑った。
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