僕がいて、君がいて
 
第四章「真夏の誘惑」
 
 一
 七月九日。その日は、琴絵の誕生日だった。十四歳の誕生日である。
 琴絵は朝からご機嫌だった。たとえ外が雨でも関係なかった。
 その理由はもちろん誕生日である。
 年に一度、この日だけは毎年楽しみにしていた。また一歩大人に近づいた、ということもあるだろう。だが、それだけでもない。
 やはり、圭太に理由がある。
 圭太は、シスコンである。それはもう重度のシスコンである。と、同時に琴絵もブラコンである。それも重度のブラコンである。
 となれば、もう決まっている。
 琴絵は毎年、圭太からもらえるプレゼントを楽しみにしていた。もちろんプレゼントだけではない。そこに圭太の想いがこもっていてこそ、楽しみなのだ。
 だから、ご機嫌だった。
 
「お兄ちゃん」
「ん?」
「今日、なんの日か覚えてる?」
 琴絵はわざとらしくそう言った。
 圭太は、少しだけ首を傾げた。
「今日は、七月九日……ああ、もちろん」
「うん、私もやっと十四歳だよ」
「おめでとう、琴絵」
「ありがと、お兄ちゃん」
 誕生会とまではいかないが、ささやかなお祝いは当然、夜に行う。だから今は言葉だけ。
「これでお兄ちゃんの誕生日までは、一歳しか違わないんだよね」
「うん、まあ」
「ふふっ、ちょっとだけ大人になった気分」
 そう言って琴絵は微笑んだ。というか、さっきからずっと笑っている。
「まあ、嬉しいのはわかるけど、あまり浮かれすぎないようにな」
「はぁい」
 
「ふ〜ん、琴絵ちゃん、今日が誕生日なんだ」
 昼休み。圭太と柚紀は、教室で弁当を食べていた。
 雨が降っているため、外で食べることはできない。普段外で食べている生徒も中で食べている。そのため、少しいつもより人口密度が高い。
「柚紀もどうかな、誕生会?」
「えっ、私もいいの?」
「うん。別に取り立ててなにかするわけじゃないけど。そういうのって、やっぱり大勢の方が楽しいと思うし」
 ひとりよりふたり、ふたりより三人、それは楽しいことをする際には当然のことである。
「琴絵も大勢の方が喜ぶし。それに、柚紀なら大歓迎だと思うよ」
「そう言われて悪い気はしないけどね」
 実際、柚紀は琴絵にかなり気に入られていた。先日柚紀が高城家に泊まった時も、琴絵にいろいろ融通してもらい、さらに一緒に寝ていたくらいだ。
 そんな柚紀が参加するとなれば、琴絵も喜ぶだろう。もっとも、微妙な乙女心を代弁するなら、圭太とふたりきり、がいいのかもしれないが。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん」
「あっ、でも、プレゼントとかなにもないよ」
「気持ちだけで十分だよ。それに、今日いきなりだったんだから、用意してる方がかえっておかしいって」
「それもそっか。ま、プレゼントはそのうち、なにかの機会に渡すよ」
「ありがとう、柚紀」
「ううん、いいの。それに、琴絵ちゃんは将来私の『義妹』になるかもしれないんだし」
「えっ……?」
「だってそうでしょ? 少なくとも今は、圭太以外とそういう関係になろうなんて思ってないし。だったら、そう考えていたっていいでしょ?」
 そこまで言い切れる柚紀もなかなかである。彼らはまだ高校一年なのだから。少なくとも圭太が十八歳にならない限り、結婚はできない。
 それでもそこまで言えるのだから。
「今のうちにしっかりい点数稼いでおかないとね」
 
 コンサート後の部活は、完全に戦闘モードとなっていた。コンサート自体もある意味では戦場だったが、そこには明確な評価は出ないし、悪かったとしても自分たちだけの問題である。
 しかし、コンクールは違う。順位も出るし、演奏が悪ければその上の大会へ進めない。だから、必然的に気合いも変わってくる。
 地区大会は七月の二十三日から行われる。いくらシードされるからといっても、やはり無様な演奏はできない。さらに、県大会はその約二週間後にある。たった二週間では大幅な変更は無理である。となると、そこまでに一定以上のレベルにまで仕上げる必要がある。
 だからこその戦闘モードである。
 コンクールで演奏するのは、課題曲と自由曲。あわせて審査される。どちらかだけでは意味がない。
 一高の場合は、自由曲はたいていの場合、コンサートで演奏される。そのため比較的仕上がりも早い。その一方で課題曲は曲の内容によってはコンサートの演目から外されてしまう。そして、今年はそうだった。
 従って、今重点的に行われているのは、課題曲の方だった。
 合奏こそないが、ほぼ毎日のようにセクション練習が行われている。
 最後のコンクールになる三年生は、特に気合いが入っていた。もうすぐ夏休みでそろそろ受験のことも考えないといけないのだが、それどころではなかった。今は部活に全勢力を傾ける。そんな感じだった。
 部活は、ほぼいつも通りの時間に終わった。そこはやはり徹底されている。
 圭太と柚紀は楽器を片づけ、すぐに学校を出た。帰り際にともみが用事を頼もうとしていたが、圭太は謝って断った。
 やはり、琴絵が優先されているようである。
「そういえば、圭太」
「ん?」
「圭太の誕生日って、いつ?」
 雨の中、少し早足で帰宅する。その途中で柚紀はそんなことを訊ねた。
「僕の誕生日は十一月十日だよ」
「十一月なんだ。じゃあ、私の方が早いね」
「柚紀は?」
「私は九月十六日。約二ヶ月、お姉さんだね」
 そう言って笑った。
「お互いの誕生日には、ちゃんとお祝いしないとね」
「ああ、うん、そうだね」
「どうしたの?」
 少し表情が曇った圭太。柚紀は首を傾げる。
「誕生日には、あまりいい想い出はないんだ」
「そうなの?」
「うん……」
 圭太の誕生日は、それはもうとにかくすごいことになった。それはとりもなおさず、圭太の人気のなせる業である。ともみや祥子はもちろん、圭太に想いを寄せ、比較的近い位置にいる女子がこぞってプレゼントを持参する。行動力のある者は、直接家にまで来る。
 真面目な圭太は、それにいちいち応える。だからこそいい想い出がないのだ。
 それを簡単に説明すると、さすがの柚紀も同情した。
「でも、今年は大丈夫なんでしょ? なんたって、私がいるんだから」
「……ん〜、柚紀には悪いけど、僕はそんなに楽観視してないんだ」
「……どうして?」
「だって、相手は『あの』ともみ先輩や祥子先輩なんだよ?」
「うぐっ、確かに……」
「まあ、そのほかの人たちは少なくなるとは思うけどね」
 そう言ってため息をついた。
 琴絵の誕生日で、これから誕生会なのに、ふたりの間にはどんよりとした空気が立ちこめていた。
 
「おじゃましま〜す」
 圭太と柚紀が家に着くと、すぐに奥から足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ただいま」
「あっ、柚紀さん、こんばんは」
「こんばんは、琴絵ちゃん」
「琴絵の誕生日を一緒に祝ってくれるって」
「ホントですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
 リビングはすでにあらかた準備が整っていた。
 圭太が着替えている間、琴絵が柚紀の相手をしている。
「あのぉ、柚紀さん」
「ん?」
「この前訊こうと思って訊けなかったこと、訊いてもいいですか?」
 お茶の入ったカップを置きながら、琴絵は言った。
 柚紀はとりあえずお茶を一口すすり、頷いた。
「柚紀さんは、その、お兄ちゃんを、どれくらい好きなんですか?」
「どれくらい、か」
 カップを置き、少しだけ視線を彷徨わせた。
「たぶんだけどね、世界中に圭太しかいなくてもいいって思えるくらい、好きだよ」
「……本気、なんですね」
「うん。琴絵ちゃんには悪いと思ってる」
「えっ、どうしてですか?」
 柚紀の言葉に、琴絵は意外そうに聞き返した。それはそうであろう。柚紀は琴絵に直接なにかしたわけでもないんだから。
「ほら、大好きなお兄ちゃんを取っちゃったからね」
 少しおどけて言う。
「……確かに、それはそうですね」
「あらら、やっぱりそう思う?」
「あ、いえ、責めてるわけじゃないんです。それに、お兄ちゃんには柚紀さんみたいな人が一番あってると思います。だから、それ自体は歓迎なんです」
「歓迎できない部分もある、ってことね」
「……ワガママだって言われるかもしれませんし、お兄ちゃん離れできてないって言われるかもしれませんけど、私にはまだまだお兄ちゃんが必要なんです。毎日毎朝、私の体調を気遣ってくれて、いつも私のことを見ていてくれて、いつも優しくて頼りになるお兄ちゃんが。お兄ちゃんの心が柚紀さんに向くのはいいんです。でも、今まで私に向けてくれていた分くらいは、やっぱり向けていてほしいんです」
 一気にそう言い、息をついた。
 柚紀は、黙って聞き、静かに息を吐いた。
「そっか、琴絵ちゃん、本当に圭太のことが好きなんだね。それこそあれかな。兄妹とかでも結婚できるとかって法律でもあったら、結婚したいくらい?」
「……はい」
 今の柚紀にとって、その琴絵の気持ちは痛いほどわかった。だが、わかることとそれをしてやれることとは、別である。
「ん〜、琴絵ちゃんにだから言うんだけどね」
「あ、はい」
「私ね、今すぐにでも圭太と一緒になりたいんだ」
「えっ……?」
「もちろん、一緒に住むとか、一緒にいるだけとか、そういう意味じゃないよ。結婚、って意味だからね」
「…………」
「本当は今日もそういうのの一環なんだ」
「……どういう意味ですか?」
「ほら、私と圭太が結婚したら、琴絵ちゃんは私の『義妹』になるでしょ? この高城家だと琴美さんよりも琴絵ちゃんの方が厳しそうだから。だから、今のうちから点数稼ぎ。わかる?」
「…………」
「ただ、ひとつだけ誤解しないでね。確かに私は圭太を独り占めしたいけど、でも、それがすべてでもないんだ。琴美さんや琴絵ちゃん、圭太と親しいすべての人たちと仲良くしたいし。それに、琴絵ちゃん。あの圭太が琴絵ちゃんのこと、放っておくと思う?」
「……いえ」
「でしょ? だから、そんなに心配することもないし、いざとなったら思い切り圭太を困らせちゃえばいんだよ。私と琴絵ちゃん、どっちを選ぶのってね」
「柚紀さん……」
「ま、そういうわけだから、安心して、とはとても言えないけど、気に病むことはないと思うな。圭太は圭太だし」
「はい、そうですね」
 ようやくいつもの笑みが戻ってきた。
 それから少しして圭太が戻ってきた。
 琴美がまだ店の方にいるので、雑談などして時間をつぶす。
 そして、いつもより少しだけ早い時間に琴美と鈴奈が上がってきた。
「じゃあ、はじめましょう」
 そう言って琴美は冷蔵庫からケーキを取り出してきた。ホールケーキではないが、琴美の手作りケーキである。
「みんな、飲み物は持った?」
 全員に飲み物を渡す。
「じゃあ、圭太。お願い」
「えっと、琴絵。十四歳の誕生日おめでとう」
「おめでとう、琴絵」
「おめでとう、琴絵ちゃん」
「おめでとう、琴絵ちゃん」
「うん、ありがとう」
「まあ、いろいろあるとは思うけど、琴絵は琴絵らしく、がんばって」
「うん」
「それじゃ、乾杯っ!」
『乾杯っ!』
 それからは四人で和気藹々と琴絵の誕生日を祝った。
 プレゼントは、圭太が麦わら帽子とサンダル、琴美がシステム手帳、鈴奈が口紅だった。
 プレゼントのない柚紀は申し訳なさそうにしていたが、琴絵はこう言った。
「さっき、たくさんもらったから」
 これには柚紀も首を傾げたが、結局琴絵は真相を話さなかった。
 誕生会はだいたい一時間ほど行われた。
 それから柚紀と鈴奈はそれぞれ家に帰っていった。
 片付けも終わり、風呂にも入り、あとは寝るだけ、という頃。
 圭太の部屋のドアがノックされた。
「お兄ちゃん、いいかな?」
 入ってきたのは、琴絵だった。
「どうした?」
 圭太は教科書から顔を上げ、琴絵の方を向いた。
「あ、うん、これといって用があるわけじゃないんだよね」
 そう言ってベッドに座った。
「あっ、そうだ。お兄ちゃん、プレゼントありがと」
「ああ、まあ、どういうのがいいかわからなかったんだけど、あれになったんだ」
「ううん、十分だよ。それに、お兄ちゃんからのプレゼントなら、なんでもいいの。お兄ちゃんにもらったってことが重要なんだから」
 無邪気にそう言う。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「さっきね、柚紀さんにいろいろ言われちゃった」
「柚紀に? なにを?」
「あ〜、うん、具体的に言うと、その、宣戦布告、かな?」
「宣戦布告?」
 不穏当な言葉に、圭太は眉根を寄せた。
「柚紀さん、お兄ちゃんとすぐにでも結婚したいって」
「えっ……?」
「まあ、詳しいことはお兄ちゃんの方がわかってると思うけど。それに関係していろいろ言われたの。それだけ」
 それだけ、と切る琴絵。
「…………」
 圭太は少し考え、そして腰を上げた。そのままベッドの琴絵の隣に座る。
「琴絵も、してほしいことがあったらちゃんと言わなくちゃダメだぞ」
「えっ……?」
「最近はなにかと忙しくて、なかなか構ってやれないから」
「そんなこと、ないよ」
「柚紀とつきあってから、それはますますだし」
「ううん、そんなことない。お兄ちゃんは、いつも私に優しいもん」
「優しいだけで、いいのか?」
「それは……」
「だからこそ、なんだ」
 そう言って圭太は、琴絵の肩を抱いた。
 細い肩。強く抱いたら、壊れてしまいそうである。
「琴絵は、妹なんだから、いいんだ。少しぐらいワガママ言っても」
「お兄ちゃん……」
「な?」
「うん……」
 小さく頷き、圭太に抱きついた。
 圭太は、優しく抱きしめてやる。
「……お兄ちゃん」
「うん?」
「今日、一緒に寝てもいい?」
「ここでか?」
「うん。ダメ、かな?」
「いや、いいよ。今日は特別」
「うん、ありがと、お兄ちゃん」
 琴絵は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「……いつまでも、私の、琴絵の大好きなお兄ちゃんでいてね」
 
 二
 チャイムが鳴った。
「じゃあ、今日はここまで」
 もうすぐ夏休み。各教科ではそろそろ夏休みの宿題が提示されていた。どの教科もなかなかに量が多く、手を抜けばとても終わりそうになかった。とはいえ、夏休み自体はどの生徒も楽しみなもので、学校全体に浮ついた感じが漂っていた。
 昼休みの話題も、そんな夏休みのことが多くなってきていた。
「ねえ、圭太。夏休みにどこか行く予定とかあるの?」
 弁当をつまみながら、柚紀は訊ねた。
「いや、特にはないかな。ほら、コンクールとか合宿とかいろいろあるし。それに、うちは店もあるから」
「そっか。ちょっと残念」
 そう言っておにぎりを頬張る。
「どこか行きたいの?」
「うん」
 圭太の問いかけに即答する。
「……じゃあ、そうだね、一応考えてみようか」
「えっ、いいの?」
「県大会から合宿まではだいたい一週間くらい間があるから、その間に二、三日なら大丈夫だと思うよ。ほら、ちょうどお盆の時期にも重なるし。その頃ってやっぱりあんまりお客は来ないからね」
「じゃあさじゃあさ、行きたいところ、ピックアップしてきてもいい?」
「うん。柚紀の好きにしていいよ」
「あはっ、ありがと、圭太」
 嬉しそうに微笑む柚紀。
「はぁ、いいわね、ラヴラヴカップルは……」
 一緒に弁当を食べていた美由紀が、嘆息混じりにそう言った。
「なんで私は当てられながら、昼食を食べてるのかしら?」
「だったらさ、美由紀も彼氏、作ればいいのに」
「あのねぇ、柚紀。そんなに簡単に見つかるわけないでしょ? 見つかってたら、今頃私だってラヴラヴしてるわよ」
 もう一度ため息をつく。
「柚紀はいいわよね、最高の相手がいてさ」
「ふふ〜ん、いいでしょ?」
「はいはい、ごちそうさま」
 
「最後に通しでやってみるわよ」
 そう言って菜穂子は指揮棒を上げた。
 その日は久しぶりに合奏が行われていた。最近は菜穂子自身も教師としての仕事が忙しく、なかなか合奏の時間を割けないでいた。しかし、仕事がひと段落し、こうして合奏が行われていた。
 久々の合奏で部員一同、だいぶ緊張していた。それは、とりもなおさずコンサート後、どれだけしっかり練習していたか、この合奏でわかってしまうからだ。
 メンバーは全部で五十人。これはコンクールの規定によるもので、実力の足りない一年が十人ほど外れている。
 ほぼ全員が揃った合奏は、思っていたほど厳しいものにはならなかった。もちろん菜穂子から厳しい指摘は飛んでいる。それでも、コンサート直前のようなことはなかった。
 ただ、それはあくまでも現段階の話で、菜穂子の頭の中には、夏休みに入ってからの算段がすでに整っていることだろう。
 そして、およそ十二分で課題曲、自由曲が終わった。これも規定で、十二分以内に終わらなければ時間超過で失格となる。
「まあ、課題曲の方はいいんだけど、自由曲の方が少し問題ね。もう少しメリハリをつけて、訴えかけるような演奏をしないと。県大会までそれほど時間があるわけじゃないんだから、個々がしっかりと課題を持って練習するのよ」
 その言葉で合奏は終わった。
 圭太は、楽器をそのままに楽譜に見入っている。楽譜はすでに真っ黒である。もっとも、この時期になればもう楽譜など見なくても演奏できるのだが。
 そんなことをしていると、幸江が声をかけてきた。
「どう、なんとかなりそう?」
「課題曲はだいたい。自由曲は、もう少しですかね」
「なるほどね。でも、セカンドやサードだと面白くないでしょ?」
「そんなことないですよ。セカンドやサードの方が面白い部分もありますし。ただ、メロディラインを吹けないのは、ちょっとだけ残念ですけどね」
 そう言って圭太は苦笑した。
 圭太は一年なので、ファーストはやらない。課題曲がセカンドで自由曲がサードだった。
「地区大会が二十五日。あと約十日。県大会が十三日。もうあまり時間がないからね」
「幸江先輩も、全国に行きたいですか?」
「それはもちろん。私は一昨年行っただけだから。去年は次点だったし」
「なになに、なにを話してるの?」
 そこへ、さとみが割り込んできた。
「圭太がね、全国に行きたいかって訊くから、行きたいって答えてたの」
「圭太は、去年も一昨年も全国行ってるのよね?」
「ええ」
「じゃあ、全国に関してはうちらよりも経験豊かなわけね」
「さあ、それはどうでしょうか。去年までは中学の部だったわけですから。高校の部はレベルが違いますよ」
 吹奏楽だけでなくなんでもそうだが、中学と高校ではそのレベルには大きな差がある。たった一年しか違わなくとも、それだけの差が出るのだから、面白い。
「ま、なんにしても、今年は全国行くわよ。普門館のステージに立つわよ」
 さとみは拳を突き上げ、そう言う。
「みんながみんな、さとみくらいの気合いがあれば、簡単に全国にも行けるのにね」
 苦笑する幸江であった。
 
 七月十七日。少し早めに校長講話が行われた。本来なら二十日がそうなのだが、海の日で祝日なので、少し早くなった。
 校長講話自体は実に退屈なもので、どの生徒もまともに聞いていなかった。
 そんな退屈な時間を乗り越え、ようやくホームルームを迎える。取り立ててなにをするということもないのだが、一応形式だけ夏休みの諸注意などが言い渡された。
 あとは大掃除をして終わり。
 一年一組でも大掃除がはじまり、終わったところから生徒が帰っていく。
 すべてが終わってもまだお昼前。たいていの部活は午後からしっかりある。それは吹奏楽部も同じである。
 圭太は掃除を終え、音楽室へ向かった。教室はまだ掃除をしていたためだ。
 音楽室は普段から吹奏楽部の面々も掃除しているために、それほど時間がかかっていなかった。
 圭太が顔を出した時にはすでに何人かの部員がいた。
「おはようございます」
 その何人かの中に、ともみの姿があった。
「あら、圭太。すいぶん早いのね」
「まあ、比較的楽な場所だったので」
「じゃあ、一緒にお昼食べない? それとも、柚紀を待つ?」
「あ〜、それは……」
「もう、そんなに悩まないの。別に無理しろって言ってるわけじゃないんだから」
 ともみは苦笑した。
「まあ、もう少し待ってれば柚紀も来るでしょ。それまで私につきあってて」
 そう言って有無を言わせず圭太を座らせる。
 ともみは柚紀に圭太を譲ったものの、そこはそれ。今でもやはり好きなことに変わりはなかった。
「ね、圭太。夏休み、どこか行くの?」
「えっと、今のところはないです」
「そうなの? 私はてっきり、柚紀とどこかへ行くのかと思ったけど」
「まあ、柚紀はどこか行きたいみたいですけど」
「ふ〜ん。じゃあ、ここは男の甲斐性を見せないと」
「甲斐性、ですか?」
 ともみの言葉に圭太は首を傾げた。
「ほら、柚紀に内緒でどこか決めて、直前に一緒に行こうとか言うのよ」
「ああ、そういうことですか」
「ん、なに、そういうの興味ない?」
「いえ、そういうわけでもないんですけど。ただ、少し余裕があることは柚紀に言ってあるので、行きたいところとか選んでるみたいなんですよ」
「そうなんだ。やっぱり柚紀は積極的ね。まあ、それくらいじゃなきゃ、圭太にはあわないか」
 うんうんと頷き、納得している。
「圭太はさ、柚紀を自分だけのものにしたいとか、思ってる?」
 少し声音を落とし、ともみは訊ねた。
「……正直に言えば、よくわからないんですよね。自分の中にそうしたいと思ってる部分もあるんですけど」
「まあ、圭太ならしょうがないか。今までそんなこと、考えたこともなかったでしょ?」
「はい」
「だからひとつだけ教えてあげる。これは別に男だとか女だとか関係なく、本当に相手を好きになったらね、自分だけのものにしたい、あの人だけのものになりたいって思うのよ。そりゃまあ、程度の差はあるけどね」
 圭太は神妙な面持ちで話を聞いている。
「柚紀だってそう思ってるはずよ。それは、わかるでしょ?」
「なんとなく」
「ま、私としては、ふたりが破局を迎えても全然構わないんだけどね」
 冗談めかしてそう言うともみ。
「さてと、そろそろお昼でも食べようかな」
 
 いつもより早めに部活がはじまったために、終わる時間も早かった。いくら夏でもあたりは暗い中帰るのが普通だったが、その日は違った。まだ陽は沈んではおらず、明るかった。
 圭太はいつもと同じように柚紀と一緒に帰っていた。もっとも、オマケとして祥子がついてきていたが。こういう時に真っ先にいそうなともみは、用事があるとかですぐに帰ってしまった。
「そういえば、先輩」
「ん、なぁに?」
「うちの高校って、コンクールの間は練習、あるんですか?」
「一応あるよ。ただ、圭くんも知ってると思うけど、高校は問答無用で手伝いにかり出されるから。だから、練習も中途半端にしかできないの」
 コンクールの運営は、基本的には吹奏楽連盟で行っている。しかし、その人数などたかが知れており、それをカバーするために主に高校生にボランティアを頼んでいる。行うことは様々で、男子はステージ設営や楽器の搬入、女子は誘導やお茶くみなど、本当に雑多な仕事をやる。
 その仕事はすべての高校に平等に割り当てられ、そこにはもちろん一高も入っている。さらに言うなら、各高校の顧問は強制的になんらかの仕事がある。従って、合奏などはそうそうできない。
「圭くんが気にしてるのは、琴絵ちゃんのことだよね?」
「はい」
 状況が飲み込めていない柚紀は、小首を傾げている。
「えっと、中学の部はいつだっけ?」
「最終日、二十六日です」
「だったら、大丈夫だと思うよ。確か、うちの当番が二十六日だから」
「そうなんですか?」
「うん。あっ、そっか。まだみんなには言ってないんだ。じゃあ、ついでだから、覚えておいてね」
 そう言って祥子は微笑んだ。
「ねえ、圭太。どういうこと?」
「ああ、うん。柚紀は知らないか。あのね、コンクールは基本的にそれに参加する人たちで作ってるんだ。その中心が高校の部に参加している各高校の生徒。それでコンクール四日間のうちで一日くらい、割り当てがされて仕事をするんだ。もちろんボランティアでね。だから、練習とかもなかなかできないんだ。あと、琴絵のことは、わかるかな?」
「ん〜、琴絵ちゃんの演奏ってこと、かな?」
「うん。琴絵も今回はシードだけど、一応は見ておきたいからね」
「なるほど」
 ようやく話がわかり、柚紀もひと安心という感じで頷いている。
「琴絵ちゃんもずいぶんと上手になったでしょ?」
「最近は聴いてないからわからないですけど、上手くなってるとは思いますよ。ただ、先輩には及ばないと思いますけどね」
「ふふっ、三年間の差があるんだから、そう簡単に追いつかれたら困るよ」
「あっ、そっか。琴絵ちゃんも祥子先輩と同じクラリネットでしたよね」
「うん。残念ながら一緒にやったことはないんだけどね。ただ、私も卒業してから何度か遊びに行ったこともあるから、それでどれくらいできるかは知ってるの」
「今のところ、琴絵の目標は先輩なんだ」
「ふ〜ん、そっか」
「目標になるほど、上手くはないけどね」
 圭太の言葉を受け、祥子はそう言って苦笑した。
「でも、そうすると琴絵の演奏は舞台袖で聴くことになるかもしれませんね」
「う〜ん、それはあるかもね。まあでも、最悪その時だけ客席の方にまわってもいいと思うけど」
「もしそうなるようだったら、先輩を頼りますから」
「うん、頼って頼って。なんだったら、ず〜っと頼ってくれてもいいんだけどね」
 祥子は、意味深な笑みを圭太と柚紀に向けた。
 それから少し歩き、柚紀はバスに乗って帰って行った。
「……ねえ、圭くん」
「なんですか?」
「少しだけ、『恋人ごっこ』、してもいいかな?」
「えっ……?」
 そう言うや否や、祥子は圭太の腕を取った。
「しょ、祥子先輩……?」
「少しの間だけ、だから。ね、いいでしょ?」
 少しだけ淋しそうに、祥子は微笑んだ。
「私だってね、圭くんのこと、好きなんだから。それは、今でもそう。圭くんが柚紀の彼氏になってもね。私はともみ先輩と違って、そうおおっぴらになんでもできないけど、圭くんへの想いだけは、負けてない」
 それは、真摯な想いだった。
 圭太と祥子の出逢いは、当然のことながら中学の頃である。その時、圭太は新一年、祥子は新二年。最初はそれほどつきあいがあったわけではない。楽器が違ったこともその一因だが、大きかったのは、祥子自身である。
 祥子は資産家の娘で、いわゆるお嬢様として育ってきた。公立の中学に通ってはいたが、そこに多少の意識があったのは否めない。
 そんなこともあり、祥子はほかの生徒と多少距離を置いていた。もちろん、先輩である三年生とはそういうことはなかったが。
 それでも、一年生が入ってきてそれも変わりはじめた。それを一番進めたのが誰あろう圭太だった。
 部員の間にも祥子がお嬢様であることは知られていた。露骨な態度こそ見せないが、多少意識している部員もいた。しかし、圭太はまったくそんなことは気にせず、普通に接していた。それが、祥子の心をも開いていった。
 祥子が圭太のことを異性として意識するのに、それほど時間はかからなかった。ただ、そういうことに人一倍奥手だった祥子はなにも言えず、そのまま卒業してしまった。
 もっとも、それは祥子だけではない。ともみもそうだし、多くの女子がそのままだった。
 圭太が一高に入るとわかり、少し関係を進めようとしたが、その前に柚紀が現れ、それがかなうことはなかった。
 ただ、圭太への想いが薄れたことはなく、おそらく、少なくとも一高を卒業するまでは圭太のことを想い続けるだろう。それが、もう三年以上想い続けてきた祥子の、一途な気持ちだと言える。
「……本当はね、このままずっと一緒にいたいの。でも、それは私にとっても圭くんにとっても、きっといい結果は生まないだろうから、我慢するけどね」
「先輩……」
「ともみ先輩じゃないけど、もう少し早く、なんとかしておくべきだったね。圭くんになら、私もなんでもしてあげられただろうし」
「…………」
「あ〜あ、これで恋愛するのが恐くなっちゃうね。初恋がこれだもの。でも、うちはそれでいいのかも。お父さまは私にはずっと家にいてほしいと思ってるみたいだから」
「……僕は」
「ううん、いいの、なにも言わないで。今なにかを言われたら、きっと、圭くんを困らせちゃうから。物わかりのいい先輩でいたいから」
 そう言ってまた、淋しそうに微笑む祥子。
「圭くん」
「はい」
「ずっと、好きでいてもいい、かな?」
「はい」
 圭太は、躊躇わず、そう言った。
「うん、ありがとう、圭くん……」
 今度は、心から嬉しそうに微笑んだ。
 それがうたかたの夢でも、祥子には大事な、大切な時間で、忘れないものになるだろうから。
 
 夏休みに入り、生活に変化が出てくる。それは、毎日のように早起きしたり、決まった時間に学校へ行かなくともよくなるからである。起床時間は日に日に遅くなり、だんだんと夜型の生活になってくる。それもお盆くらいまでなら別に構わないのだが、それがそれ以降も続くと、新学期に痛い目を見る。
 やれ海水浴だ、やれ登山だ、やれ避暑だと夏休みに入った途端にあちこちへ移動がはじまる。
 友達、彼氏、彼女、家族、誰とどこに行くのかはわからない。ひょっとしたら気楽なひとり旅かもしれない。そんなことができるのも、この夏休みである。
 しかし、そんな夏休みとは無縁の者もいる。
 一高吹奏楽部は、夏休みに入っても相変わらず連日部活だった。基本的には午前中なのだが、コンクール直前ということもあり、講堂を使っての練習も行われるようになった。
 講堂は基本的にバドミントン部が使用しているのだが、空き時間を借りてその練習をしている。従って、それが入っている日は、多少変則的な練習時間となっていた。
 ただ、練習の厳しさとうってかわって、それ以外の時間は開放感があった。そこはやはり夏休みという魔法のおかげだろうか。
「う〜、暑い〜」
 ともみはそう言ってスカートの中にばさばさと空気を送る。恥じらいなど微塵も見られない。もっとも、それもまわりが女子だけというのもあるが。
「ともみ先輩、いくらなんでもそれはやりすぎですよ」
 そうたしなめるのは、祥子である。こちらは見た目は何気ない風を装っているが、足下には水の入ったバケツがある。
「まあまあ、祥子もあんまり目くじら立てないで」
 そう言うのは、フルートのパートリーダー、高橋のぞみである。半袖のブラウスをさらにまくり上げ、首にはタオルを巻いている。
「でも、ともみのは少しやりすぎよね」
 祥子を弁護したのは、クラリネットのパートリーダー、村田優子。暑そうは暑そうだが、ほかの面々に比べるとましな格好である。
「そうそう、そんな姿を『彼』に見られたら、明日からショックで来なくなるかもよ」
 追い打ちをかけるのは、ホルンのパートリーダー、村岡美保。
 その言葉はさすがに効いたのか、ともみも少しだけおとなしくなる。
「確かにね。ともみも『彼』の前では結構ネコかぶってるし」
 続けざまに言うのは、ユーフォニウムのパートリーダー、加藤千里である。
「ホント、よくともみの『ガサツ』さがバレてないわよね」
 それに頷くのは、コントラバスのパートリーダー、瀬野尾美沙。
「ん〜、でも、案外それを知っても『彼』ならなにも言わないかもね」
 まだ続けるのは、さとみである。
「どう思う、幸江?」
「私に訊かれても困るんだけど」
「でも、パーリーとしてはやっぱり少しくらいはわかるんじゃないの?」
 そう言うのは、サックスの中村ひろ子。
「ちょっと難しいわね。なかなか『本音』を言ってくれないから」
「ちょっとあんたら、いつから私のつるし上げの時間になったのよ?」
 ともみは憤慨した様子で、少し声を荒げる。だが、そんなことをすれば当然暑くなるだけで。
 さて、なぜこんなに各パートのリーダーが、しかも女子ばかり集まっているのかというと、別に世間話をするためではない。直前に迫っているコンクールに向けて、部員の志気を高めるためになにかしようという、そのための話し合い、のはずなのだが。
 しかし、これだけ集まればかしましいどころではない。この中で二年は、祥子といつみだけである。あとは全員三年。
「でも、実際どうなのよ?」
「……なにが?」
「件の『彼』のこと。柚紀に獲られたままでいいの?」
「いいも悪いも、それを決めるのは私じゃないでしょうが。あのふたりは、合意の上でつきあってるんだから。私には口を挟む余地もないわよ」
 少し投げ遣りにそう言うともみ。
「祥子は?」
「えっ……?」
「祥子もでしょ、『彼』のこと」
「私は……一応言いたいことは全部言ってますから」
「ほぉ、それは初耳」
 その言葉に、直接のリーダーである優子が反応した。
「奥手で有名な祥子が、自分の想いを伝えてるなんてね。それって、いつのこと?」
「えっと……」
「はいはいはい、いい加減にしときなさいって。そういう話は合宿の時にでもゆっくりしてちょうだい。今は、別のことを話してるんだから」
 同じ境遇の祥子を不憫に思ったのか、ともみが救いの手を差しのべた。
「ま、それはそっか」
「あっ、でも、そうなると歓迎会の時のあたしの『命令』って、まったく意味なくなるじゃない」
 と、さとみが的はずれなことを言い出した。いや、まったく的はずれというわけでもないのだが。
「なんだっけ、『命令』って?」
 美保は、そう言って小首を傾げた。
「ほら、一番好きな異性は、ってやつ」
「ああ、そんなのもあったわね」
「でも、今それを訊いても、意味ないわね」
「確かに。だって、今の一番は柚紀に決まってるものね」
 なぜか、全員揃ってため息をつく。
「……ちょっと、なんであんたらまでため息つくのよ。私と祥子は、まあ、いいとしても、なんであんたらが?」
「いや、なんでと訊かれても──」
「困るんだけどね……」
 結局、程度の差こそあれ、ここにいる全員が件の『彼』こと、圭太に対してなんらかの想いを抱いていたことになる。
「特に、のぞみ、優子、千里。あんたらは彼氏いるでしょうが?」
「いや、それはそうなんだけどねぇ……」
「なんて言うの? 『彼』はカワイイ『弟』って感じかな?」
「ああ、うん、確かにそんな感じ。まあ、厳密に言うとちょっと違うと思うけど」
 彼氏持ちののぞみ、優子、千里は口々にそう言う。彼女たちの意見には納得できる部分もあるらしく、ともみもそれ以上なにも言わなかった。
 となると、矛先は決まってくる。
「明確な理由が、ほしいわね」
 ともみは、低い声音でそう言う。
「理由って言ってもねぇ……」
「あたしたちがそれを言う前に、ともみ、あんたはどうなのよ。なんでそんなにご執心なわけ?」
 と、今度は矛先がともみに向いた。
「なんでって、それは……」
 ともみは、少し俯き、言葉に詰まる。
「見た目? 性格? それともほかになにかあるの?」
「性格ってのはあると思うけど、でも、やっぱり、圭太が圭太だからだと思う」
「ん〜、哲学的ね」
「そんなこと、簡単に言い表せるわけないでしょ? 私にだっていつ好きになったのかさえわからないんだから」
「恋は理屈じゃないって? ま、それはそうなんだけどね」
 そこで一同に沈黙が訪れた。
 なんとなく微妙な空気が、教室に漂う。
「って、なんでこの話をいつまで続けてるのよ。ほら、さっさと本題に入るわよ」
 ようやく間違いに気付き、ともみは話を戻した。
 とはいえ、決めることなどそうそうない。結局、妙案が出ないまま、多少コンクール前に騒ごうみたいなことを決めた程度だった。
 それが終わり、一同がわらわらと帰っていく。残っているのは、ともみと祥子、それに幸江とさとみである。ちなみに、幸江とさとみは同じ中学出身である。
「まったく、さとみが余計なことを言うから悪いのよ」
「ま、確かにちょっと羽目を外しすぎたかもしれないけど。でも、まさかみんながみんな、なんらかの想いを持ってるとはね」
 驚いた、と言って笑うさとみ。
「それはあんたもでしょうが」
「そりゃあそうよ。『彼』ほどの逸材はそうそういないわよ。ともみや祥子にとっては、逃がした魚は大きい、ってところでしょ」
「うぐっ、痛いところを突いてくるわね……」
「まあまあ、ともみもさとみもその辺にして」
「幸江はいいわよね」
「えっ、なにが?」
「だって、同じパートだし。卒業したってそれを名目に近づくことだってできる」
「べ、別にそんなことしないわよ」
「どうだか。ま、でも、それをいくら言ったところで、なんにもならないのよね。少なくとも、現状では」
 四人揃ってため息をつく。
「よし、憂さ晴らしにカラオケでも行こう」
「カラオケ?」
「そ。思いっきり歌って、そういうこと、みんな忘れるの。どう?」
「ま、私はいいけど」
「さとみは言い出したらきかないし」
「祥子は?」
「えっと、お相伴にあずかります」
「じゃ、そういうことで、出発」
 
 七月二十三日。いよいよ吹奏楽コンクール地区大会がはじまった。
 部門としては、小学校、中学校、高等学校、大学、職場、一般という部門に分かれている。
 その中で参加数が多いのは、やはり中学と高校である。数が多いので、一日では終わらず、四日間に少しずつ振り分けて行われる。ただ、これはすべての地区大会に当てはまるわけではない。少ないところでは、二日間で終わるところもある。
 中学、高校はその中でさらに人数ごとにクラスが分かれている。二十五人以下の小編成の部、三十五人以下の中編成の部、そして、五十人以下の大編成の部である。大学以上ではこの人数が五十五人になるが、今は関係ない。
 このうち、全国大会が行われるのは、それぞれの大編成の部、のみである。それ以下の部は地方大会止まりである。
 一高は、高校大編成の部に出場する。ただ、今回はシードなので、必要以上の緊張感はない。
 県大会へ出場できるのは、各部門で金賞、もしくは銀賞を取った団体である。ただ、銀賞で行けるのは、枠があった場合のみである。
 各団体とも、十二分間にすべてを注ぐ。その都度その都度、最高の演奏を目指す。
 一高吹奏楽部では、連日軽い練習で終わっていた。顧問の菜穂子が、連盟にかり出されているからだ。
 ただ、直前になにかするようなこともないので、少なくとも経験者たちはそれを当然と受け止めていた。
 そして、二十五日。
 高校大編成の部は、その日の一番最後のプログラムになっていた。さらに、一高はシードのために、本当に一番最後の演奏である。一番最後の演奏は、もう夕方なので、学校を出るのも結構遅い時間になった。
 連盟が用意した車が到着し、大きな楽器や打楽器などを積み込む。それ以外の部員は、各自自分の楽器を持っていく。
 会場は、市民会館である。先のコンサートで使った県民会館より不便な場所にあるが、ホールの質自体はなかなかのホールだった。
 多目的スペースに置かれた控え所に全員が揃う。当然のことながら菜穂子も来ている。
 その時間帯には控え所にいる学校はそう多くない。
 各自楽器を取り出し、準備をする。
「いい? いくら参考演奏でも、無様な演奏をしたら許さないわよ。もしそんなことがあったら、あさってからの練習が地獄になるから、覚悟しなさい」
 菜穂子は、最後に全員の気持ちを引き締める。
 それから音出しができる部屋へ移り、チューニングをする。
 ここで曲の出だしだけ確認する。
 そこからいよいよステージ袖へ移る。
 楽屋前の廊下でもステージから音が聞こえてくる。それを聞くだけで、ボルテージと緊張感が高まってくる。
 圭太は、いつの間にか楽器をきつく握っていた。
 そして、演奏が終わった。拍手が沸き起こる。
 ステージ上では椅子や譜面台の移動が行われ、それと平行して部員がステージ上に出てくる。と、客席がざわつき出す。
 それも無理からぬこと。一高吹奏楽部は、去年こそ全国を逃したが、過去にも何度も全国出場を果たしている有名校。
 参考演奏とはいえ、その演奏を聴ける機会はそう多くない。従って、それを楽しみにここへ来ている人もいる。
 全員のセッティングが終わり、ステージ上には部員だけになる。
『参考演奏、第一高等学校。課題曲A、自由曲、レスピーギ作曲、交響詩『ローマの祭』より。指揮は、菊池菜穂子先生です』
 アナウンスが入り、客席のライトが落ち、ステージのライトが点く。
 菜穂子が出てくると、拍手が沸き起こる。指揮台の横でお辞儀をする。
 振り返り、目だけで全員に合図を送る。
 指揮棒が上がる。同時に、全員が構える。
 そして、指揮棒が下りた。
 
 演奏は、参加校中最高のものだった。当然、そこに明確な順位などはつかない。ただ、審査員が余談として付け加えたところから、それは判明した。
 もっとも、それは演奏直後の割れんばかりの拍手を聞けばすぐにわかったことだが。
 閉会式のために客席へとやって来た面々。すでにほかの学校が座席を確保しているために、座れそうなところはなかった。
 結局一高は、客席の隅にひとかたまりになっていた。
 審査結果を待つほかの学校は、一様に緊張していた。一高はそれはないが、これが県大会なら、同じ心境になるはずである。
 そして、閉会式がはじまった。審査員のひとりが代表して講評を述べた。その際、一高のことが取り上げられ、拍手を浴びた。
 それから結果発表。結果に一喜一憂し、最後に県大会出場を決めた学校が発表された。
 あとは閉会の挨拶ですべて終了。
 一高の面々は、楽器の片付けのために戻った何人かを除き、市民会館近くの広場に集まった。
「今日はおつかれさま。今日は演奏はなかなかのものだったわ」
 菜穂子は部員を前に、労を労った。
「だけど、今日のはまだ前哨戦よ。本番は県大会から。特に今年は混戦が予想されるから、今日以上の演奏を目指さないと、足下をすくわれるから。まあでも、今日明日はなにも考えないでゆっくり休むといいわ。そして、あさってからまた県大会へ向けてみっちりしごくから。いい?」
『はいっ』
「じゃあ、ともみ」
「おつかれさま。今、先生が言ったように、今日明日はしっかり休んで。と言っても、明日は手伝いを割り振られてるから、それだけはちゃんとやるように。時間は八時半に市民会館正面入り口よ。遅れないで」
 必要最低限のことだけを伝え、もう一度菜穂子を見る。菜穂子はともみに頷き返す。
「それじゃ、おつかれさまでした」
『おつかれさまでした』
 
 三
 地区大会も終わり、暦も八月に変わった。
 日中は連日の真夏日で、下手をすると三十五度以上の酷暑などという日もある。夜は夜で、連日の真夏日。クーラーなどの空調が欠かせない日々になっていた。
 一高吹奏楽部では、地区大会以後、よりレベルの高い練習が行われていた。ただ、本番まであとわずかとなっては、大きな変更はできず、結局は細かな部分を修正しつつ、全体を整えていく感じとなった。
 そんな中でも、彼らは夏休みを楽しむということは忘れていなかった。練習が午前中だけの日は、午後からこぞってプールへ出かけたり、午後からの練習の日は、合間にスイカを食べたり。
 今年の夏は、今年だけ。それをしっかり感じ、過ごしていた。
 それは、圭太と柚紀も同じだった。
「ん〜……」
 柚紀は、問題集を前に唸っていた。
 ここは圭太の部屋。部活は午前中だけで、午後からふたりで宿題をやっていた。
 一高は進学校なので、宿題の量もそれなりに多かった。手を抜けばかなりの高確率で追えるのは不可能なくらいの量だった。
 圭太と柚紀は、その宿題をある程度分担して行っていた。本来ならそうする必要もないふたりなのだが、柚紀が時間がもったいないからと、そうすることになった。
 クーラーの効いた部屋は、外の暑さがウソのような別世界だった。
 圭太は制服からハーフパンツにティシャツというラフな格好だった。そんな格好をしていても、くたびれて見えないのは、元がいいせいだろうか。
 一方、柚紀は制服のままだが、リボンを外し、ブラウスの上のボタンを外している。さすがにそのままでは暑いらしい。
 ただ、その姿はなかなか微妙な格好で、相手が圭太でなければ間違いが起こりそうな格好だった。
「ううぅ〜……」
 と、柚紀が突然唸り出した。
「どうしたの、柚紀?」
「ダメ、集中力が続かない」
 そう言ってバタンと後ろに倒れた。
「圭太はよく続くね?」
「まあ、これくらいの時間はだいたいいつもやってるからね。慣れだよ、慣れ」
「私はダメ。もう少し細かく休憩しないと続かない」
 そう言ってため息をついた。
「じゃあ、休憩にしようか?」
「うんっ」
 圭太もペンを置いた。
「ちょっと待ってて。なにか持ってくるから」
「あっ、私も行くよ」
「そう?」
 ふたりは部屋を出て、台所まで来る。
 冷蔵庫を開けると、ひんやりとした冷気が流れ出てくる。しかし、そこにはあまりよさそうなものはなかった。
「どうしようか、店の方でなにか頼む?」
「あっ、うん、それもいいね」
『桜亭』には、それなりに客がいた。ただ、別に混んでいるわけではない。
「あら、どうしたの?」
「なにか冷たいものをと思ってね」
「そうなの? じゃあ、適当に見て運んであげるわ」
「うん」
 ふたりは、比較的邪魔にならない場所に座った。
「ここはいつ来てもいい雰囲気だよね」
「ありがとう。この内装とか雰囲気とかは、父さんが一生懸命考えて作ったものだからね。褒めてもらえると嬉しいよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「そういえば、圭太のお父さんて、どんな人だったの?」
「う〜ん、そうだね。ひと言で言えば、大きな子供、かな?」
「大きな子供?」
 柚紀は小首を傾げた。
「いつもね、なにか楽しいことを探してた。別にそれがくだらないことでもよかったんだ。父さんがそれを楽しいと思えれば。もちろん、ちゃんとほかのこともしてたけどね」
「そっか」
「母さんは、そんな父さんの純真さに惹かれて結婚したんだってよく言ってた」
「あら、私の話を私抜きでしてるの?」
 そこへ、アイスティーとケーキを持った琴美がやって来た。
「母さん抜きって、母さんはよくこの話を人に聞かせてるでしょ?」
「そうよ。悪い?」
「悪いとか悪くないとか、そういう問題じゃないと思うけど……」
 圭太は嘆息混じりにそう言った。
「あの、琴美さん」
「なにかしら?」
「旦那さんは、圭太に似てましたか?」
「そうねぇ……」
 琴美は目を細め、圭太を見る。
「あの人の方が、もう少しだけ頼りになったわね。あとは、もう少し考え方が柔らかかったわね」
「……はいはい、似てなくてすみません」
「ただ、それ以外はそっくりよ。責任感の強さとか、誰に対しても優しいところとか」
「なるほど」
 柚紀は、大きく頷いた。
「だけどね、柚紀さん」
「はい」
「誰にでも優しい人を相手にすると、すごく大変よ」
「ええ、それはもうイヤというほどわかってます」
「ふふっ、それなら大丈夫ね」
 琴美は、ゆっくりしていってね、と言い残し、戻っていった。
「圭太は自覚してるの、お父さんに似てるのを」
「多少はね。ただ、まだまだ遠く及ばないよ。父さんは……本当にすごい人だったから。母さんや琴絵、そして僕に惜しみない愛情を注ぎながら、それでもなおほかの人を想っていられた。今の僕には無理だよ」
 そう言って圭太は、紅茶を飲んだ。冷たい紅茶が、のどを通りすぎていく。
「今は、柚紀だけで手一杯」
「それで、いいんじゃないかな」
「どういうこと?」
「だって、圭太のお父さんだって最初からなんでもできたとは思えないもの。いろんな人に出会って、本当に守りたい人に出逢って、愛する人を得て、それでできるようになったんだと思うの」
 柚紀は、そう言ってたおやかに微笑んだ。
「だから、今はそれでいいと思うの。ね?」
「……うん、そうだね。今は、自分にできることだけを精一杯がんばってみるよ」
「そうそう、その意気」
 きっと、それは圭太としてもわかっていたことだと思う。だが、それをどこかで実践できずにいた。
 そこにどれだけの葛藤があったかはわからない。ただ、それは案外単純なことかもしれない。
 少なくとも、今の圭太にとっては。
 
 再び部屋に戻り、宿題を再開。
 休憩が功を奏したのか、柚紀もだいぶ集中力が戻っていた。黙々と宿題を進める。
 そろそろ夕方という時間帯。それでもまだ外は暑い。あまりの暑さに蝉も鳴いていない。
 夕立のひとつでもあればいいのだろうが、雲行きを見る限り、それは期待できそうもなかった。
「はあ……」
 と、柚紀がため息をついた。
「ん、どうしたの?」
「うん、なんかね、私ってどうなのかなって」
「どういうこと?」
 柚紀の意味深な物言いに、圭太もペンを止めた。
「ねえ、圭太」
「ん?」
「私って、そんなに魅力ないかな?」
「えっ……?」
「ほら、今はふたりきりでしょ? それに、私はこんな格好だし。なのに、圭太はまったく動じないし。なんか、女としてどうなのかなって」
 そう言ってまた深いため息をつく。
「そりゃ、あまりにもあからさまなのもイヤだけど。なんとなく、ね」
 曖昧に微笑む。
「ねえ、圭太。そんなに私って魅力ない?」
 少しだけ淋しそうに、そう言う。
「……そんなことないよ。柚紀は、十分魅力的だよ」
「ホント?」
「うん」
「じゃあ、今、ここで、私を抱ける?」
「それは……」
 圭太は、本気で困った顔を見せる。
 柚紀は、真剣な眼差しで圭太を見つめる。
「……ごめん。今は、できないよ」
 迷いに迷ったあげく、圭太はそう答えた。
「そっか、やっぱりね……」
 意外にも、柚紀は笑っていた。
「ごめん、私こそ意地悪なこと聞いちゃったね。別に、本当に今ここで抱いてほしかったわけじゃないの。ただ、圭太の気持ちが知りたかっただけ」
「いや、柚紀は悪くないよ。僕が、はっきりしないから……」
「そんなことないけど……じゃあ、こうしよう」
 そう言って柚紀は、圭太の隣に移ってきた。
 そして、その手を取り、自分の胸に持っていく。
「県大会が終わったら、ふたりだけで旅行に行くの。そこで、私を抱いて」
 柚紀は、精一杯の勇気を振り絞り、そう言った。たとえ柚紀でも、そう言うには勇気も必要だし、恥じらいもある。だが、それ以上に圭太を想う気持ちが大きかった。
「ね?」
「……わかったよ。柚紀に、女の子にそこまで言わせてなにもできないようじゃ、僕も男として問題だと思うから」
「うん、そうだね」
 柚紀は笑ってそう言い、圭太にキスをした。
 圭太は、そのまま柚紀を抱きしめ、優しく慈しむようにその髪を撫でる。
「私ね、圭太を好きになれて本当によかった。だって、圭太は本当に私のことを大事に、大切に想ってくれてるから。ちょっとだけ、積極性が足りないけどね。でも、それを補って余りあるくらい私にいろんなものを与えてくれる。だからこそ不安にもなるけど。圭太は私にこれだけ優しいしいろんなものを与えてくれる。だけど私は、私は圭太になにをしてあげられているだろう、って」
「柚紀からだって、いろんなものをもらってるよ。だから、心配する必要なんてない」
「うん、そうだね。だけどね、圭太。私だって健康な一女子なんだから。そういうことに興味もあるし、したいとも思ってる。そのせいで圭太にワガママ言うかもしれない。それだけは覚えておいてね」
「肝に銘じておくよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「あ、それともうひとつ」
「ん?」
「さっきは抱いてほしいわけじゃないなんて言ったけど、抱かれても文句は言わないよ。というか、それはそれで望むところだから」
「柚紀……」
「私の心も体も、もう圭太だけのものなんだから」
 穏やかに微笑む柚紀。
 そんな柚紀に、今度は圭太からキスをした。
「じゃあ、続き、やろうか?」
「うん。っと、その前に」
 柚紀は、そう言ってカバンを開けた。
 取り出したのは、数冊のパンフレットだった。
「前に言ったよね、いくつかピックアップしておくって。それで、自分なりにいくつか決めてみたんだけど」
 圭太にパンフレット見せる。
 柚紀が選んでいたのは、近場で、それでいて夏を満喫できそうな場所だった。本来なら南の島、とか言いたかったのだろうが、所詮高一のふたりにはそこまでの財力はない。
「私としては、海か山は外せなくて。それでこんな感じになったんだけど。どうかな?」
「いいんじゃないかな。場所もそんなに遠くないし。二、三日行くならちょうどいいと思うよ」
「ホント? じゃあ、具体的にどこがいいと思う?」
 それからふたりは宿題そっちのけで、旅行のことを話していた。結局は柚紀が全部決めてしまったが、それはそれでふたりの形だと思う。
 
 あっという間に時は過ぎ、吹奏楽コンクール県大会がはじまった。
 日程としては地区大会と同じように四日間だが、その規模は大きくなっている。さらに言うならそのレベルも格段に上がっている。
 県大会から上の地方大会へ出場するには、それぞれの部門で金賞を取らなければならない。それが最低条件で、仮に取っても枠は多くないために出場できない可能性もある。
 そんな県大会だが、圭太の出身中学、つまり現在琴絵が通っている中学は、前年度全国大会出場を果たしているために、県大会までシード扱いになる。中学大編成の部は二日目の十一日に行われた。
 琴絵たちの実力は、過去最高とまで言われた前年以上のものがあった。それは、演奏を聴いた圭太ですらそう思ったくらいである。
 あらゆる面で群を抜いており、よほどのことがない限り、全国出場は堅いと思われている。
 琴絵たちの演奏に触発されてか、圭太たちも気合いが入っていた。地区大会から約二週間。その間にもしっかり練習をしてきた。その完成度は地区大会とは比べものにならない。
 そんな自信を胸に、本番当日を迎えた。
 高校大編成の部は、やはりその日の最後のプログラムに組まれていた。一高の順番は、最後から二番目。その順番はあくまでもクジによって公平に決められたもの。さらに言えば、どこがいいということはない。
 ただ、実力校の次は多少やりにくいというくらいである。
 現段階で県内に一高以上の実力校はないと判断されていた。ただ、それも蓋を開けてみなければわからない。菜穂子はそれを最後の最後まで言い聞かせていた。
 そして、一高の順番がまわってきた。
 県民会館の客席は、満席となっていた。立ち見すら出ている。もちろん全員が演奏を楽しみにしているわけではない。それでも、一高は注目されていた。
 アナウンスが入り、菜穂子が出てくる。
 いつも通り、それが菜穂子の最後の注意だった。
 
『これより、閉会式を行います』
 アナウンスが入ると、会場から歓声が沸き起こった。
 最初に講評があり、それから結果発表。その日に行われたすべての部門について結果が発表されていく。
 一喜一憂する姿があちこちで見られる。
 それでも、司会は淡々と進めていく。
 順番は、一高まで来た。
『第一高等学校。金賞』
 同時に歓声とざわめきが起こった。
 そして、最後に関東大会進出団体が発表される。これは小編成から大編成まですべてで、それぞれがたいだい二から三団体ほど選ばれる。
 選ばれた団体からは歓声が上がっている。見ると、泣いている者もいる。
 最後の最後に、高校大編成の部の発表があった。
『──以上、三団体が関東大会出場となります。代表として、第一高等学校の方、ステージへ』
 
「まずはみんな、おめでとう」
 菜穂子も幾分興奮していた。手には、受け取ったばかりの賞状とトロフィーがある。
「これでようやく去年と同じ舞台に立てるわ。だけど、そこから先へ行くには、これからの一ヶ月にかかってるから。今回は一位という結果だったけど、それにおごることなく、関東大会でも同じ結果が得られるように、努力するように」
『はいっ!』
「ま、でも、明日からはしばらくゆっくり休んで、それで合宿を迎えましょう」
 菜穂子は笑顔でそう締めくくった。
「一応確認しておくけど、今日楽器を送った人たちは明日、部室の方でちゃんと片付けをするように。あと、合宿のことだけど、当日は朝七時に学校集合だからね。遅れないように。遅れても、待たないからそのつもりで。じゃあ、今日は本当におつかれさま」
 いつものようにともみの言葉でその場は解散となった。
 しかし、誰ひとりすぐには帰らない。そこかしこで関東大会出場を喜んでいる。
 特に三年はその喜びも大きい。
 圭太も何人かとその喜びを分かち合っている。
「お兄ちゃん」
 そんな圭太に声がかかった。
「ん、琴絵か」
「おめでと、お兄ちゃん」
「おめでとうございます、先輩」
 見ると、琴絵のほかに何人も同じ制服を着た連中がいる。どうやら圭太の後輩たちのようだ。
「ありがとう。とは言っても、琴絵たちだって出場権は持ってるわけだし」
「先輩。それは違いますよ。私たちのは去年先輩たちががんばったおかげでもらえてるものですから」
「ははっ、紗絵は相変わらず厳しいな」
「先輩仕込みですから」
 そう言って第三中学吹奏楽部部長、真辺紗絵は笑った。
「あらら、あんたたち来てたんだ」
 そこへともみや祥子など、卒業生がやって来る。
「おめでとうございます」
「ありがと」
 しばし、後輩たちと喜びを分かち合う。
「あの、圭太先輩」
「ん?」
 少し輪から外れて、紗絵が圭太に声をかけた。
「琴絵から聞いたんですけど、今、彼女がいるって本当ですか?」
 少しだけ、紗絵の表情が硬い。どうやら、彼女も圭太に想いを寄せているらしい。
「ああ、まあ、いるよ」
「はあ、やっぱりそうなんですね。ちょっと、残念です。先輩なら、もう二年くらいは大丈夫だと思ったんですけど。甘かったですね」
 そう言って笑う。
「それで、どういう人なんですか?」
「えっと、ほら、そこにいるよ」
「ん〜……あの髪の長い人ですか?」
「うん」
「はあ、綺麗な人ですね。なんか、あの人なら負けてもしょうがないかなって思います。もちろん、残念は残念ですけど」
「ちょっとちょっと、ふたりだけでなに話してるのよ」
 そんなふたりのところへ、ともみと祥子、それに琴絵が近寄ってきた。
「紗絵ちゃん、正直に言ってごらん。なにを話してたの?」
 ともみは、にこやかな笑みを浮かべ、詰め寄る。微妙に目が笑ってない。
「たった今、失恋したところです」
「ああ、なるほど、その話か」
 ともみも祥子も、うんうんと頷いている。
「なんか、それだと僕が悪者みたいですね?」
「そうよ、圭太が全部悪い」
「うん、圭くんが悪い」
「圭太先輩が悪いんです」
 三人がそれぞれ頷いている。それを見ている琴絵は、もう苦笑するしかない。
「まあでも、紗絵。あの柚紀に勝つのは至難の業よ。なんたって、見た目抜群、成績優秀、なんでもこなせるスーパーレディだし」
「そうなんですか?」
「吹奏楽をはじめたのだってこの春なのに、今ではかなりの部分を任せられるほどになってるし」
「ふわ〜、それは本当にすごいですね」
「だから、ま、今はおとなしく引き下がって、いつかそのうち、ふたりが破局を迎えるのを待ちましょ」
「そうですね」
 圭太は苦笑するしかなかった。
「あっ、そうでした。圭太先輩にお願いがあったんです」
「お願い?」
「はい。夏休み中に一度、指導に来てほしいんです」
「指導、ね」
「先生も先輩ならいいんじゃないかって言ってますし。ダメでしょうか?」
「やってあげれば? カワイイ後輩の頼みなんだし」
「そうだよ、圭くん」
「お兄ちゃん」
「……じゃあ、少しだけなら」
 結局、圭太はそのお願いを聞き入れた。
「ありがとうございます、先輩。じゃあ、詳しいことは追って琴絵を通してお伝えしますから」
「うん、わかった」
 それから少しして、琴絵たちは帰って行った。
「相変わらずモテモテね、圭太は」
「そんなことないですよ。紗絵は……ちょっと特別なだけです」
「そうかしら? ま、圭太がそう思いたいなら、それでもいいんだけどね」
 ともみはそう言って笑った。
「さて、私たちもそろそろ引き上げますか。ここにいつまでもたむろっててもしょうがないし」
「そうですね」
 こうして、県大会は幕を閉じた。
 
 四
 八月十五日、終戦記念日。
 その日も朝から真夏の太陽が燦々と降り注いでいた。
 圭太は少し大きめのバッグを確認する。
 圭太と柚紀は、二泊三日の旅行へ出かける。行き先は房総半島安房館山。特別遠いわけではないが、それなりの距離がある。
 旅費は当然のことながら折半。それぞれの貯金と、それぞれの『財務省』から資金援助を受け、それを当てている。
 圭太はバッグを抱え、家を出た。
 外は相変わらずの暑さで、週間天気を見ても三日間ともに快晴、真夏日の予報だった。
 駅まではバスで向かった。さすがにこれからの旅程を考えると、徒歩で行く気にはならなかったようである。
 バスで十分ほどで駅前に着いた。
 駅前は時間が早いせいか、それほど人はいなかった。もっとも、お盆真っ最中なので観光地などはそれなりに人がいるはずである。
 待ち合わせ場所は、改札前。見ると、同じように待ち合わせをしている人がいる。
 圭太は一度あたりを見回し、柚紀がいないことを確認した。比較的わかりやすいところで柚紀を待つ。
 見上げると、真っ青な真夏の空。
 夏のこの時期に旅行に出かけるのは、父親である祐太が生きていた頃以来である。祐太が死んでからは、まともに旅行すら行っていない。圭太の旅行といえば、それはすべて学校絡みのものだった。林間学校に修学旅行、今では合宿もそうかもしれない。
 従って、誰かと純粋に旅行だけを楽しむのは、久しぶりである。
 そんなことを考えていたかどうかはわからないが、圭太は柚紀を待った。
 それから少しして、柚紀がやって来た。薄い青のワンピースに真っ白な大きなひさしの帽子をかぶっている。
「おはよ、圭太」
「おはよう、柚紀」
 柚紀は朝からずっとニコニコと、本当に嬉しそうである。
「昨日は興奮してちゃんと眠れなかったよ」
「遠足前みたいだね」
「うん。それに、この旅行はとっても大切な旅行になりそうだし」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「あっ、そうだ。このワンピースね、ほら、GWの時に圭太がいいんじゃないかって言ってくれたのと同じなの」
 スカートの裾をちょこっとつまみ、そう言う。
「まあ、あの店で買ったわけじゃないんだけどね。もう少しいいのを探して、それで買ったの。どうかな?」
「うん、すごくよく似合ってる。一瞬、どこかのお嬢様かと思ったよ」
「あはは、それは言い過ぎ。でも、そう言われて悪い気はしないけどね」
 そこから切符を買い、改札をくぐる。
 ここから目的地までおよそ四時間かかる。それなりの時間だが、圭太も柚紀もそれは気にしていなかった。
 電車が来るまでホームで待つ。よく使うホームとは反対側のホーム。
「……圭太」
「ん?」
「私、後悔したくないから」
 それが、その言葉がこの旅行に対する柚紀のすべての想いだった。
 圭太はそれに応えるように、その手を握った。
 
 それは、それぞれの前日のことである。
 圭太は、部屋に琴絵を呼んでいた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「琴絵は、柚紀のこと、どう思ってる?」
「えっ、柚紀さんのこと? そうだなぁ……」
 琴絵はそう言って少し考えた。
「上手くやっていけると思うよ。柚紀さんは、お兄ちゃんと一緒で人のことを一番に考えられる人だから。それに、お兄ちゃんの彼女だよ? 私に不満なんてないよ。それどころか、あれだけ頑なだったお兄ちゃんの心をここまで開いてくれたんだから、感謝してるくらい」
「そうか……」
「でも、それがどうかしたの?」
 今度は琴絵が圭太に訊ねた。圭太は少しだけ迷い、それで本当のことを話した。
 琴絵は、なにも言わずにそれを聞いていた。
「そっか、そんなことがあったんだ。なるほどね」
「こんなことを琴絵に訊くのもどうかと思うんだけど、ほかに訊けそうな相手もいないから」
「確かに、今のお兄ちゃんのまわりには、いないよね」
 苦笑する琴絵。
「でも、お兄ちゃん。それは私に訊いても同じだよ。私にだってどうすればいいかなんてわからない。やっぱり、今お兄ちゃんが思っている通りにするのが一番だと思う。そうすれば、少なくとも後悔だけはしないと思うから」
「……そう、だな」
「それにほら、柚紀さんならなんでもお見通しだよ。なんたって、お兄ちゃんの彼女なんだから」
「どういう理屈かはわからないけど……」
「いいの。だからね、お兄ちゃん。思った通りに、自分に素直に行動するのが一番だよ。結果は自ずとついてくるだろうし」
 そう言って琴絵は笑った。
「はあ、でも、ちょっとだけ淋しいなぁ」
「ん?」
「だって、お兄ちゃんが本当に柚紀さん『だけ』のお兄ちゃんになっちゃうんだもん」
「そんなことは──」
「ううん、絶対そうなる。でも、それもしょうがないよね。私とお兄ちゃんは兄妹なんだし。妹としては、お兄ちゃんの幸せを願ってるわけだし」
 そして、琴絵は圭太に笑顔でこう言った。
「がんばってね、お兄ちゃん」
 同じようなことは、笹峰家でもあった。
 とはいえ、こちらは柚紀が咲紀を呼んだわけではない。
「いよいよあんたもロストバージンか」
「……ちょっとお姉ちゃん。そういう直接的な言い方、しないでよ」
「でも、その気なんでしょ?」
「それは、まあ……」
 柚紀は、準備しながらそう答える。
「しかし、よくあの彼をそこまで焚きつけたわね。あたしはてっきり、もう半年はかかるかと思ったけど」
「焚きつけた、わけじゃないけど……なんとなく、そんな話で」
「いずれにしても、全部あんたから動いたわけでしょ? だったら焚きつけたってことじゃない」
「……それはそうなんだけど」
「ま、なんでもいいんだけどね」
 そう言って咲紀は微笑んだ。
「でもさ、柚紀。なんでそんなに焦ってるの? そんなに心配?」
「心配は、心配かも。圭太のまわりには本当にたくさん、圭太を想ってる人がいるから」
「そんなにモテモテなの?」
「うん……」
「なるほどね。まあでも、あたしに言わせればそれは贅沢よ」
「どうして?」
「そんなモテモテの彼に選ばれたわけでしょ、あんたは。ほかの誰でもなく、笹峰柚紀をね。だったら、もう少し堂々としててもいいと思う。それに、もう少し彼のことを信じてあげてもいいと思う。今の柚紀の理論は、彼を完全には信用しきれてない部分からはじまってるから」
 ズバリなことを言われ、柚紀は押し黙るしかなかった。
「だけどね、柚紀。あたしはそれがダメだって言ってるんじゃないの。柚紀にとってはこれが本当の意味で最初の恋愛だと思うから。だから、いろんなことを考えて、少しずついろんなことを学んでいけばいいのよ」
「お姉ちゃんもそうだったの?」
「そりゃね。あのお母さんにだってそういう頃はあっただろうし」
「そっか……」
「だからって、なんでもかんでも直接試せばいいってもんじゃないわよ。わからないことがあれば、そういう面の先輩に訊くこともできるし」
「お姉ちゃんとか?」
「あたしはどっちでもいいけど。とにかく、そうして少しずつ変わっていけばいいのよ」
「うん、そうだね」
 咲紀の言葉に、柚紀も笑顔で応える。
「ああ、そうそう、柚紀」
「ん?」
「避妊だけは、ちゃんとしないとダメよ」
 
 東京駅で特急電車に乗り換え、房総へ。電車でだいたい二時間弱である。
「はい、圭太」
「ありがとう」
 柚紀は、持ってきたお菓子を圭太に渡した。
「ねえねえ、圭太。私たちってまわりから見たら、どんな風に見えるのかな?」
「どんな風って、恋人同士じゃないの?」
「ん〜、それはそうなんだけど。ほら、なんていうのかな、雰囲気とかでいろいろあるじゃない。夫婦でもほら、恋人みたいな雰囲気の夫婦とか、若いのに熟年カップルみたいな感じとか」
「柚紀の言いたいことはわかるけど、でも、それは僕たちにはわからないよ。そういうのはあくまでもまわりから見た感じなんだから」
 そう圭太は冷静に答える。
「柚紀は、どんな風に見られたい?」
「う〜ん、改まって訊かれるとちょっと困るけど。そうだねぇ、見ている人が思わず怒っちゃうくらい仲の良いカップル、かな?」
 そう言って柚紀は、圭太の方に寄りかかった。
「こうしてれば、そう見えるかな?」
「さあ、どうかな?」
「ふふっ」
 電車は東京湾を南へと向かう。
 木更津、君津、富津を抜けると、車窓に海が多くなってくる。
 海水浴場には大勢の人が出ている。どこもかしこも、同じである。
 そんな風景が続き、電車は館山駅へと到着した。
 
 ふたりが泊まるのは、民宿と呼ぶには少々立派な民宿だった。観光客を呼ぶためか、最近リフォームしたその建物は、とてもオシャレでなかなか受けそうな感じだった。
 この民宿は、この一番のかき入れ時にあえて格安で泊まれるようにしていた。そのおかげか、比較的部屋の回転率もよかった。ただ、満室ということではなかったが。
 ふたりの部屋は、三階にあった。部屋の間取りは、八畳間とユニットバスという、まあ比較的普通の間取りだった。
「ん〜、いい風……」
 柚紀は、窓を全開にし、風に身を任せている。
 長い髪が、潮風に揺れる。
「ねえ、圭太。もう少し涼しくなったら外、歩こうよ」
「うん、そうだね」
「で、それまでは……」
 柚紀はにっこり微笑み、圭太の側まで来る。
「ん?」
「こうしててもいいよね?」
 そして、圭太に寄りかかる。
 幸せそうな顔を見れば、圭太でなくともなにも言えないだろう。
「ん〜、幸せだな〜」
「そう?」
「うん。だって、なんにもしなくても、こんなに充実してるんだもん」
「安上がりだね」
「そうよ。私は安上がりな女なの」
 そう言って柚紀は笑った。
 それからしばらくして、風が少しだけ涼しくなってきた。それを見計らって、ふたりは外へ出た。
 陽は西に傾いているために、柚紀も帽子をかぶっていない。
 ふたりは、手を繋いで歩いていた。
「私たちが出逢ってから、まだ四ヶ月しか経ってないんだよね」
「そうだね」
「でも、私は圭太を好きになって──」
「僕も柚紀を好きになった」
「正直に言うと、今まで誰かを本気で好きになったこと、なかったの。だから、どうしたらいいかもわからなかったし。そのせいでひとりで空回りしたこともあったし。でも、それも今ではいい想い出だよ」
 キュッと、握った手に力がこもる。
「人って不思議だよね。ひとりでは絶対に生きていけないけど、だからってすぐに必要な人が見つかる、あるいは現れるわけじゃない。私は、そういう点では幸運なんだろうね」
「それは、僕にも言えるよ。柚紀に出逢って、好きになってなければ、今までと同じままだったろうし」
 圭太は大きく息を吐き、続けた。
「本当はね、少なくとも高校を卒業するまでは、誰かとつきあう気はなかったんだ」
「そうなの?」
「うん。理由は、前にも言ったと思うけど、いろいろあったからね。だけど、そんな僕の思惑を無視して、母さんも琴絵も手加減なく背中を押すから」
 圭太は、そう言って苦笑した。
「今は……柚紀とつきあえて、本当によかったと思ってる」
「ホントに?」
「うん」
「そっか……」
 柚紀は嬉しそうに微笑み、握っていた手を放し、今度は腕を組んだ。
「圭太を好きになれて、本当によかった……」
 
 夕食は、海の幸の盛り合わせなど、海辺ならではのものだった。取り立てて豪華なわけではないが、それでも満足できる内容だった。
 夕食後。
「お風呂、どうしよっか?」
 この民宿にはそれぞれの部屋にユニットバスがついているが、そのほかにも大浴場があった。場所があまりよくなかったせいで温泉ではないが。
「僕はどっちでもいいけど、柚紀は?」
「私は、大きい方がいいかな?」
 結局、ふたりとも大浴場になった。
 大浴場は、ごくごく普通の風呂場だったが、素っ気ないタイル張りではなかった。浴槽は男湯も女湯もほぼ同じで、最近の傾向に倣っていた。
 三十分ほど風呂に入り、ふたりは部屋に戻った。
「ふう……」
 部屋に戻ると、そこにはすでに布団が敷かれていた。
 なんとなく、ふたりの間に微妙な空気が流れる。
 時間は、まだ宵の口である。
 
 圭太は窓際の椅子に座り、本を読んでいる。
 柚紀はなんとなくテレビを見ている。
 ふたりの間に、会話はほとんどなかった。
 意識しないようにすれば、それが逆に意識に繋がっている。
 そんな微妙な状況が、それなりの時間、続いた。
 最初にその状況を打ち破ったのは、意外にも圭太だった。
「柚紀」
 圭太は、読んでいた文庫本を置き、柚紀の方を見ていた。
「……どうしたの?」
 柚紀の声は、少し裏返っていた。
「そろそろ寝た方がいいんじゃないかな。明日は泳ぐんだし」
 時計を見ると、十一時をまわっていた。別に早い時間でもないが、普段を考えると少し早い時間かもしれない。
「うん、そうだね」
 柚紀もテレビを消す。
 部屋に、微妙な静けさが訪れる。
 圭太は、開けていた窓を閉める。代わりに空調をかける。さすがに夜、開け放っておくわけにはいかない。
 本をしまうためバッグの前にしゃがむと──
「……柚紀」
 柚紀が、その背中に寄り添った。
「約束、だから……」
 柚紀の決意が、圭太にも伝わった。
 圭太は小さく頷き、柚紀を抱きしめた。
 
 薄暗い部屋の中。
 柚紀は、布団の上に横たわっている。着ている浴衣が、少し乱れている。
 長い髪が、その布団に広がっている。
「圭太。ひとつだけ、お願いがあるの」
「お願い?」
「私がどんなに痛がっても、絶対に途中でやめないで。最後まで、続けて」
「……うん、わかったよ」
 圭太は、柚紀にキスをした。
 ついばむように何度もキスをし、息を継ぐのも忘れるほどである。
 右手を柚紀の胸に当てる。
「ん……」
 弾力のあるその胸は、やはりとても高一のそれとは思えないボリュームだった。
 ゆっくりと壊れ物を扱うように揉む。
 その度に柚紀は、押し殺したような吐息を漏らす。
 ある程度それを続け、今度は浴衣の中へ手を入れた。
「あ……」
 柚紀は、ブラジャーをしていなかった。圭太の手が、直接その胸に触れる。
 と、柚紀がその手を止めた。
「柚紀?」
「胸が、ドキドキしてるの、わかる?」
「うん、わかるよ……」
 手のひらを通じ、柚紀の鼓動が圭太に伝わってくる。
「もっともっと、ドキドキしたいから……」
 そう言って柚紀は薄く微笑んだ。
 圭太は、浴衣をはだけさせる。
 薄暗い部屋の中でもはっきりわかるくらい柚紀の肌は白く、綺麗だった。
 柚紀は恥ずかしさを懸命に堪え、圭太を見つめている。
 そんな柚紀に圭太は時折微笑みかけていた。圭太は、どこまでいっても圭太であった。
「私の胸ね、ほかのみんなより少し大きいんだよ」
「そうなの?」
「うん。ちょっと、自慢なんだ」
 恥ずかしさを隠すように、努めて明るく言う。
 そんな胸を圭太は優しく揉みしだく。
 少しくらい力を込めてもその形は崩れない。
 柚紀の胸は、形、張りともに申し分なく、大胸筋さえ鍛えておけば、生涯垂れる心配はないだろう。
 少しずつ柚紀の反応が大きく、また敏感になってきた。
 それと呼応するように、胸の先端が硬く凝ってきた。
 あまりそういう知識を持たない圭太でも、それがどうしてなったのかくらいは理解していた。そして、そこをいじればさらに気持ちよくさせられることも理解していた。
 圭太は、その突起を手のひらで撫でる。
「んあ……ん……」
 微妙な快感が柚紀の体を駆けめぐる。
 手のひらから指に変え、さらに刺激を加える。
「あふ……ん、あん……」
 次第に、吐息も荒くなってくる。
 そして、それは体のほかの部分にも影響を及ぼす。少し前から柚紀は、しきりに足をあわせている。
「ね、ねえ、圭太。私、せつないよ……」
 柚紀は、そう懇願した。
「いいの?」
「うん……」
 一度だけ確認し、圭太は柚紀の帯を解き、完全に浴衣をはだけさせた。
 下腹部を覆っている小さなショーツに手をかけ、少しだけ躊躇いがちに脱がせた。
 そこに、生まれたままの姿で、柚紀は横たわっていた。
「私のすべてを見てもいいのは、圭太だけ、なんだから……」
 そう言って柚紀はキスをせがんだ。
 それに応え、圭太はキスをする。
 柚紀の方から舌を絡め、息を継ぐのも忘れてキスをむさぼる。
 その最中に、今度は柚紀が圭太の浴衣を脱がせた。
 特別筋肉質というわけではないが、圭太の体は無駄なところがなく、結構しっかりとしていた。
 唯一残っているトランクスの下で、圭太のモノが大きくなっているのがわかる。
 キスを終えると、圭太は少し体を下の方へずらした。
 その目の前には、柚紀の秘所がある。
 わずかに濡れているのが、光の加減でよくわかる。
 一瞬躊躇いを見せた圭太だが、気を取り直し、そこに手を添えた。
「んっ……」
 さすがにそれには柚紀もわずかに抵抗を見せた。だが、それもほんのわずかで、なんとか踏みとどまった。
 薄い恥毛の先、わずかに開いた秘所に指を添え、軽くなぞる。
「ぁ、いや……」
 それまでとは比べものにならない快感が、柚紀の全身を駆けめぐった。
 そのまま指を秘所の中へ挿れる。
「んあっ!」
 途端に柚紀の体がビクッと跳ねた。
「ゆ、柚紀?」
「だ、大丈夫、ちょっとびっくりしただけだから、続けて……」
 柚紀は息を整え、そう言う。
 柚紀の中はとても狭く、圭太の指をギュウギュウと締め付けていた。これではとても圭太のモノなど入らない。
 それを感じ取ってか、圭太は丁寧にそこをほぐしはじめた。
 柚紀が痛がらない程度に力を込め、そこを広げていく。
「ん、あん、あっ……」
 立て続けの快感に、柚紀の感覚は麻痺してきた。
 押さえ込んでいた声が、次第に大きくなってくる。
 次第に、柚紀の中から蜜があふれてくる。すでに圭太の指はそれでびしょびしょだった。
「圭太、もう、大丈夫だから……」
「うん……」
 圭太は小さく頷き、残っていたトランクスを脱いだ。
 圭太のモノはすでに硬くそそり勃っていた。
 一瞬柚紀が息を呑んだ。それはそうだろう。普通の状態の男性器ですらお目にかかることはないのに、こんな状態のを目にしたのだから。
「圭太、もう一度キスして」
 圭太は、もう一度キスをした。今度は少し軽めのキス。
「いくよ、柚紀?」
「うん……」
 柚紀を下に、圭太はモノを柚紀の秘所にあてがった。
 しかし、それはなかなか収まらない。
 が、それは唐突に中に入った。
「いたっ……!」
 柚紀の顔が苦痛で歪む。
 圭太は一瞬腰を引きそうになったが、柚紀との約束を思い出し、とどまった。
「だい、じょうぶだから……続けて……お願い……」
 懇願する柚紀に応えるように、圭太は一気に腰を落とした。
「んああっ!」
 ぶちぶちっとなにかが破れるような感覚とともみ、圭太のモノは柚紀の中深くに入っていた。
「はあ、はあ……圭太を、私の中で感じるよ……」
 痛みに耐えながら、柚紀は笑顔でそう言った。
「柚紀……」
「圭太……」
 もう一度キスを交わす。
「これで、私は圭太だけのものになったんだね……」
「うん……」
「嬉しい……」
 涙が、流れた。
「もう、大丈夫だから、動いていいよ」
 それを合図に圭太は少しずつ腰を動かした。
 柚紀の中は、圭太のモノを離すまいと収縮し、それが圭太に快感を与えていた。
 止めどなく押し寄せる快感の波に抗いながら、圭太は腰を動かした。
「んっ、あっ、あっ……」
 次第に滑りがよくなってくると、今度は柚紀にも変化が現れた。
 破瓜の痛みから少しずつ解放され、今度は快感が柚紀を襲っていた。
 ふたりの感覚が麻痺してくる。
 ただ、本能のままに快感をむさぼる。
 そして、圭太は限界を迎えた。
「くっ……」
「ダメっ、抜かないでっ」
 柚紀は、モノを抜こうとした圭太を止めた。
「中で、圭太を感じたいから」
 程なくして圭太は柚紀の中で果てた。
 大量の精が柚紀の中に注ぎ込まれる。
「はあ……熱い……」
 柚紀は、それを全身で感じていた。
 圭太は、力尽きたように柚紀の方に倒れ込んだ。
 モノが抜け、中から白濁液とそれに混じって赤いのが見えた。
「……本当に、よかったの?」
 息を整えながら、圭太は訊いた。
「うん、いいの。だって、はじめてくらいちゃんとやりたかったし。それに、もし万が一にもそういうことになっても、私は後悔なんかしないから。だって、圭太との子供だもん。後悔なんかするはずない」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「でも、さすがにちょっと痛かったかな。でも、これがないと本当に抱かれたって気にならないだろうし。一長一短だね」
「柚紀……」
「身も心も圭太に捧げて、あとは、いつ圭太が私をもらってくれるかだけ、だね」
 おどけてそう言う柚紀。
 圭太は、そんな柚紀の顔を胸元に抱いた。
「僕は、本当に幸せだよ。柚紀が彼女で」
「うん」
「だから、僕は決めたよ」
「決めた? なにを?」
「一高を卒業したら、一緒になろう」
「えっ……?」
「柚紀は十六になれば結婚できるけど、僕は十八にならないとできないから。だから、卒業してから。僕は、ずっと柚紀と一緒にいたいから」
「圭太……」
「それまで、待っていてほしい」
「うん……はい、待ってます」
 柚紀は、涙声でそう答えた。
 もう、ふたりには迷いなどなかった。
 それが、自分たちのためだと信じ。
 
 次の日。
 朝、目を覚ました圭太の前に飛び込んできたのは、全裸の柚紀だった。
「……そっか、あのまま眠ったんだっけ」
 額に手を当て、目を閉じる。
 それからもう一度傍らの柚紀を見る。
 柚紀は、穏やかな顔で静かに寝息を立てていた。
 時間は朝七時をまわったところ。朝食は八時からだった。
「柚紀……」
 名前を呟き、少し乱れた前髪を整える。
 くすぐったいのか、柚紀は少しだけ身をよじった。
 明るい中、改めて見る柚紀の肢体は、とても魅力的だった。今は、このすべてが圭太のものなのである。それを考えると嬉しい反面、恐くもあった。
 だが、そんな迷いなどすぐに消えた。そう、圭太はもう迷わないと決めたのだ。
 この自分のことを一生懸命に想ってくれる大切な女性を、一生守ろうと。
「……ん……」
 と、眠り姫が目を覚ました。
「……ん、おはよ、圭太」
「おはよう、柚紀」
 寝ぼけ眼で圭太を見る。当然圭太もまだ、全裸である。
 途端に柚紀の顔が赤くなった。
「わ、わ、わ」
 自分の体を隠そうと布団を探すが、掛け布団などなかった。
「う、うぅ〜、恥ずかしい……」
 そう言って小さくなる柚紀は、可愛かった。
「はい、柚紀。浴衣」
「あ、ありがとう」
 柚紀は圭太から渡された浴衣を羽織る。
「や、やっぱりまだ慣れないね」
「昨日の今日で慣れてたら、それはそれでイヤだよ」
「まあ、それはそうなんだけどね」
 体を起こし、圭太に正対する。
「えっと、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
 そう言ってぺこっと頭を下げた。
「順番、逆になっちゃったけど、いいよね?」
「うん」
 圭太も嬉しそうに微笑んだ。そんな素直な笑みが見られて、柚紀も嬉しそうである。
 それから布団を畳み、身支度を調える。
「体の方は大丈夫?」
「あ、うん、とりあえずは。でも、ちょっとだけ歩きにくいかな?」
「じゃあ、泳ぐのやめる?」
「あ〜、うん、どうしようかな」
 柚紀は少しだけ考える。
「さすがにここまで来てなにかあったら困るから、うん、今回は我慢するよ」
「そうだね、その方がいいかも」
「で・も、その代わり、ずっとベタベタしてるから」
「あ、あはは、そ、そうだね」
 結局、ふたりは旅行が終わるまでずっとベタベタイチャイチャしていたのだが。
 まあ、それも本当に心が通い合った証拠だと思えば、いいのかもしれないが。
 ちなみに、ふたりは次の日もエッチをした。戻ってしまうとなかなかできないからという、柚紀たってのお願いだったのだが。
 今からこれだけ柚紀に甘い圭太は、先が思いやられそうである。
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