僕がいて、君がいて
 
第三十七章「初冬の夕べ」
 
 一「高城琴絵」
 明日は、お兄ちゃんの誕生日。
 普段から言葉では言い表せないくらいお世話になっているお兄ちゃんに対して、ほんの少しだけだけど、恩返しできる日。
 きっと、誕生日がなければ私はお兄ちゃんになにも返せない。だから、誕生日があって本当によかったと思ってる。
 誕生日プレゼントは、もうすでに用意してある。
 毎年プレゼントを考えるのがすごく楽しい。これを渡したらお兄ちゃんはどんな顔をするかな、とか、喜んでくれるかな、とか考える。
 もちろん、プレゼントを用意してからも楽しい。何日前に用意できるかはその年によって違うけど、少なくとも数日はある。その間、誕生日を指折り数えて心待ちにしている。はっきり言えば、自分の誕生日よりも待っている。
 たぶん、そういうことを友達なんかに言ったら、そこまでになるのはおかしいって言われると思う。
 それは私もわかってる。私の行動や思考はかなり極端だ。特に、お兄ちゃん絡みの時は。
 でも、それはもう今更なのだ。お兄ちゃんを私のお兄ちゃんだと認識して、好きになってからもうずいぶん経つ。その間ずっと、私の心の真ん中にはお兄ちゃんがいる。
 むしろ、世界の中心にお兄ちゃんがいるようなものだ。
 だから、行動や思考がお兄ちゃん中心になっていても、少しもおかしいことはない。だって、それがすべての基準になるんだから。
「っと、いけない」
 お兄ちゃんのことを考えていると、ほかにやるべきことをすべて忘れてしまう。
 私は改めて髪を整える。
 それから鏡で自分の顔を見る。
「よしっ」
 軽くリボンを直し、準備完了。
 カバンを持ち、部屋を出る。
 部屋を出て、すぐにお兄ちゃんの部屋のドアをノックする。
「お兄ちゃん」
「ん、どうした?」
 返事を確認してから中に入る。
 お兄ちゃんもすでに準備は終わっていた。
「もう準備終わったみたいだね」
「ああ。ちょうど出ようと思ってたところだよ」
「そっか」
 ブレザーをハンガーから手に取り、袖を通す。
「お兄ちゃん」
「どうした……って、まったく……」
 私は、そのままお兄ちゃんに抱きついた。
「今日はずいぶんと甘えたがるんだな」
「お兄ちゃんエナジーが足りなくなっちゃったからね。充電しないと」
 お兄ちゃんはなにも言わず、私の頭を、髪を撫でてくれる。
 それだけで私はなにも考えられなくなるくらい、気持ちがほわわんとなる。
 本当はずっとそうしていたいんだけど、そういうわけにもいかない。
「よし、充電完了」
 少しだけ残念だけど、お兄ちゃんから離れる。
「じゃあ、行こうか」
「うんっ」
 
 普段の学校での私は、みんなにどんな風に映っているのかは、正直言えばあまり興味がない。中学の頃は、優等生みたいに扱われてたけど、私自身はそんなことは全然思ってない。ただ単に、普通に生活してたら、そうなってしまっただけのこと。
 一高に入って、少なくとも成績に関しては似たような人がまわりにたくさんいるから、その面ではあれこれ言われなくなった。
 それでもやっぱり、私は優等生みたいに見られているのかもしれない。
「ね、琴絵」
「ん、どうしたの?」
 和美が、私に声をかけてきた。
 和美とは三中の時から一緒で、一高でも同じクラスになった。部活も一緒だから、声をかけてくることも多い。
「今日って、先輩は忙しいのかな?」
「ん〜、どうかな? 朝はなにも言ってなかったけど」
 この『先輩』というのは、もちろんお兄ちゃんのことだ。和美はお兄ちゃんと同じトランペットだから、結構気にしている。
「そっか」
「どうして?」
「ほら、テスト前の部活って、今日と明日だけでしょ? だから、その前に先輩の指導があるのかなぁって思って」
 お兄ちゃんは、金管セクションの指導を頼まれた。もともと頼まれなくてもやるつもりだったみたいだけど、頼まれたことによって俄然張り切っている。
 とはいえ、一高祭の時にそれが決まって、次の日が休み。で、今日までまだ二日しか経っていない。だから、まだお兄ちゃんの指導は行われていない。
「和美は、お兄ちゃんの指導、受けたいの?」
「まあ、先輩の指導は厳しいけど、その分だけ自分が上手くなったって実感できるから、やっぱり受けたいかな」
「そっか。でも、和美はお兄ちゃんより紗絵先輩の方がいいんじゃないの?」
「そんなことないって。そりゃ、三中の頃は紗絵先輩に教えてもらってたから、やりやすいというのはあるけど。ただ、三中に入ったばかりの頃は、先輩にもいろいろ教えてもらいたかったんだ」
「そうなの? はじめて聞いた」
「言うの、はじめてだもん」
 和美はさらっとそう言う。
「だってさ、先輩ってめっちゃカッコイイでしょ? それに、すっごく優しいし。だから、少しでもいいから教えてほしいなぁって、思ってた」
「……なるほど」
 その理由はとてもよくわかるけど、今の私の立場からは、あまり歓迎したくない。
「ただね、今となっては、あの頃は紗絵先輩でよかったのかなって思うんだ」
「なんで?」
「たぶん、あの頃に先輩に指導されてたら、続けられてたかどうかわからないし。先輩、普段はすっごく優しいけど、練習中はいっさい手を抜かないから。もちろん練習はきっちりやらなくちゃいけないんだけど、最初から厳しくされてたら、続いたかどうかわからなくて」
「あ〜、それだけどね、和美は勘違いしてるよ」
「勘違い?」
「うん。私ね、前に聞いたことがあるの。一高では未経験者が入ってきてもいろいろ教えてるのに、どうして三中の頃はあまりやってなかったのって」
「そしたら?」
「ひとつには、部長としてほかにやることが多かったから」
「うん、それはわかる」
「もうひとつが、甘やかしちゃうからなんだって」
「えっ……?」
「ほら、中学で入ってくる時って、よほどのことがない限りはみんな楽器なんかやってないでしょ。だけど、吹奏楽に興味を持って入ってきてくれた。だから、吹奏楽を好きになって、できればずっとやってほしい。そう思ってたんだって。で、ずっとやってほしいってことは、辞めてほしくないってことだよね」
「うん」
「だから、最初から厳しくしたら、それこそ和美じゃないけど、続くかどうかわからないでしょ。となると、どうするか。最低限のことはきっちりやるけど、最初のうちは甘やかして教えるんだって。そうすると、ちょっと誤解されちゃう可能性もあるけど、少なくともいきなり大変だって思わないし、なによりも楽しいんだってことを教えてたから、もっともっとやりたくなるでしょ?」
「ああ、うん」
「ということを、お兄ちゃんは二年生の時にやったみたいなんだけど、どうもね、それじゃあダメだって思ったみたい」
「どうして?」
「やっぱり、甘やかしすぎはよくないってこと。だって、合奏がはじまればあの佳奈子先生に厳しく言われるわけだから」
「そっか」
「で、三年生の時は、指導はほかの先輩とか紗絵先輩に任せてたみたい」
「なるほど。だから勘違いなのか」
「そういうこと」
 和美は、少しだけ複雑な表情をしている。それもわかるけど。
「となると、ますますあの頃に先輩の指導を受けたかったなぁ」
 ……やっぱり、和美に話さなかった方がよかったかも。
 
「……あ〜あ、失敗しちゃったなぁ……」
 私は誰もいない保健室でそう呟いた。
 なんで保健室にいるのかというと、貧血で倒れちゃったから。五時間目が体育で、体育館でバスケットだったんだけど、張り切りすぎてか、倒れてしまった。
 一高に入ってからは一度もなかったから、ちょっと油断してたのかも。私だって自分が体が丈夫じゃないことくらい理解している。だけど、お店の手伝いや部活をがんばってきてたおかげで、昔より確実に体力もついてるし、強くなった。
 だから、それまでのことをすっかり忘れてた。
 倒れると、一番心配かけたくない人に心配をかけてしまう。それが一番イヤ。
「はあ……」
 五時間目の終わり頃に倒れて、休み時間の間にここに連れてこられて、保健の先生は私をここへ寝かせたら用事があるとかで出かけてしまった。だから、ひとり。それと、もう六時間目がはじまっている。
 六時間目は数学だから、サボれることだけ考えればいいんだけど。
「失礼します」
 と、誰かが保健室に入ってきた。私しかいないのに。
 足音が近づき、カーテンが開かれた。
「大丈夫か?」
「お、お兄ちゃん……」
 そこにいたのは、紛れもなくお兄ちゃんだった。
「ど、どうしたの? 授業は?」
「自習。で、課題をさっさと片づけて、ここへ来た」
「で、でも、どうして私のことを?」
「佐藤先生が教えてくれたんだよ」
「あ……」
 佐藤先生とは、保健の先生のこと。そっか、用事ってお兄ちゃんに私のことを伝えることだったんだ。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん……」
「別に謝らなくてもいいよ。琴絵が悪いわけじゃないんだから」
「怒らない、の?」
「どうして怒るのさ。そりゃ、前みたいに無理して倒れたのなら怒るけど、今日はそうじゃないんだろ?」
「うん」
「だったら、怒らないよ」
 そう言ってお兄ちゃんは、私の頭を撫でてくれた。
「それで、気分はどうなんだ?」
「うん、もう大丈夫だよ。それに、倒れたって言っても、ちょっとふらついただけだから」
「そっか」
 お兄ちゃんは、優しい笑みを浮かべたまま、私の頭を撫で続けている。
「練習はどうする?」
「ちゃんと出るよ。これくらいのことでいちいち休んでたら、みんなに悪いもん」
「じゃあ、今日は僕も顔を出そう」
「えっ、お兄ちゃんも?」
「ああ。琴絵のことも心配だし、それにそろそろ最初の指導もした方がいいと思ってたからね。部活は明日までだから、やるなら今日か明日かなって」
 和美の言ってた通りだ。
「でも、琴絵」
「ん?」
「部活でも、無理はしないこと。これは絶対」
「うん、わかってる」
 わかってるに決まってる。私だって、これ以上お兄ちゃんに余計な心配、かけさせたくないから。
 でも、今はもう少しだけお兄ちゃんに撫でてもらっていたい。
 
 部活は、特になんの問題もなく終わった。
 私の体調も大丈夫だったし、お兄ちゃんの指導も問題なかった。
 あ、でも、お兄ちゃんに指導してもらってすっごく嬉しそうだった紗絵先輩には、ちょっとだけ嫉妬しちゃったけど。
 紗絵先輩、普段はキリッとしててとっても頼りになる先輩なんだけど、お兄ちゃんのことになると途端に『乙女』になっちゃうから。
 そんなこんなであっという間に夜になり──
「お兄ちゃん、好き〜♪」
 私は今、お兄ちゃんのベッドでお兄ちゃんと一緒に寝ている。ちなみにふたりとも裸だ。
 だって、お兄ちゃんとエッチしたんだもん。
「あ、そうだ。今、何時かな?」
「ん、もうすぐ十二時だな」
「日付が変わったら、誕生日だね、お兄ちゃん」
「そういえばそうだな。すっかり忘れてた」
 お兄ちゃんが誕生日のことを忘れていても、みんなが忘れてないから大丈夫。
「私も、ちゃんとプレゼント用意したからね。楽しみにしててね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
 お兄ちゃんは、そう言って微笑んでくれた。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「ずっと、ずっと琴絵だけのお兄ちゃんでいてね? 琴絵を、ひとりにしちゃイヤだからね」
「わかってるよ。琴絵は、ずっと僕だけの妹だよ。そして、そんな琴絵をひとりになんか絶対にしない。約束する」
「うん」
 もう何度も同じことを言ってもらったけど、何度聞いても漠然とした不安はぬぐい去れない。
 だから私は、同じことを繰り返す。
 私がどれだけお兄ちゃんのことが好きなのか、わかってもらうために。
 私がお兄ちゃんがいなければなにもできないことを、わかってもらうために。
 そして、お兄ちゃんが側にいてくれなければ、生きている意味がないことをわかってもらうために。
「大好きだよ……お兄ちゃん……」
 
 二「真辺紗絵」
 朝が来た。十一月九日の朝だ。
 つまり、明日は圭太さんの誕生日。一年の中で一番大切な日。
 プレゼントは、月曜日のうちに用意した。
 大好きな人の誕生日だからお祝いするのは当然だけど、こういう時でもないと私は圭太さんになにもしてあげられないから。
 私は圭太さんからもらってばかり。このままじゃいつか私の中であふれてしまう。
 だから、せめて誕生日くらいはその百分の一でもいいから、返していこうと思ってる。
「さてと」
 とまあ、それは今はいい。とりあえずは、学校に行かなくちゃ。
 
「紗絵」
 振り返ると、遥がいた。
「どしたの?」
「ん、紗絵を見かけたから、声かけたの」
 そう言って私の隣に並ぶ。
「部活って、明日までだよね?」
「そうよ。もう忘れたの?」
「違うって。確認しただけ」
 遥は苦笑いしながら否定する。
「でも、私たちには関係ないでしょ?」
「まあね。さすがにアンコン直前で休むわけにはいかないし」
 そう。ほかの部員たちは明日でいったん休みに入るのだが、アンコンに出場する私や遥なんかは、アンコンが終わるまで休めない。
「紗絵、すっごく気合い入ってるよね。それってやっぱり、去年の先輩たちに負けたくないから?」
「う〜ん、最初はそうだったんだけどね。ほら、去年は全国金賞で、今年は全然ダメだなんて言われたら、悔しいじゃない」
「そうね」
「だけど、先輩に言われたんだ。ただがむしゃらに去年の先輩たちに追いつこうとしても、絶対に失敗するって。確かにその通りなんだよね。去年は去年。今年は今年なんだから。メンバーも曲も、出てくる人たちも全然違う。それなのに、去年の先輩たちばかり追いかけても、なんにもならない。だから、とりあえず今は、自分たちにできることをできる範囲内でがんばることにしたの」
「ふ〜ん」
「もちろん、最終的な目標は去年と同じところにあるわよ。というか、最低限の目標が全国だから」
「そりゃまたずいぶんと大きく出たね。少なくとも今は無理でしょ?」
「それはわかってる」
 言われなくても私が一番わかってる。
「でも、せっかく出るんだから、それくらいの目標があった方がいいと思うのよ」
「確かにね」
「遥もさ、目指してみたら? 上を」
 人に偉そうなことを言えるほどではないけど、それでも今は言いたかった。
「あれ、紗絵には言わなかったっけ?」
「なにを?」
「私たち木管の目標を」
「聞いてないわよ」
 うん、一度も聞いた覚えがない。
「私たちの目標は、去年のクラが超えられなかったところ」
「それって、全国ってこと?」
「平たく言えば」
 そう言って遥は笑った。
 なんだ。遥もやっぱり同じだ。
 そりゃそうか。私も遥も、あの三中出身で、圭太さんにいろいろ教えてもらってきたんだから。
「で、紗絵は全国に出られたら先輩に言うわけか」
「なにを?」
「『紗絵は、こんなにがんばりました。だから先輩、今日は……』」
「……あのさ、遥」
「ん、なに?」
「その発想はどこから来るの?」
「いや、なんとなく。でもさ、紗絵は常に先輩のこと考えてるわけでしょ? 頭の中の半分以上は先輩のことでしょ?」
 反論できない。
「そしたら、そんな風に考えない?」
「いや、だからどうしてそうなるの?」
「先輩のこと、好きなんでしょ?」
「そ、そりゃそうだけど……」
「で、本人は隠してるつもりかもしれないけど、紗絵が先輩とただならぬ関係だっていうのは、吹奏楽部では周知の事実なんだよね」
「…………」
「ま、それの真実は今はどうでもいいの。ようは、それくらい先輩が好きってことは、先輩とそういうこともしたいってことだから」
 断定されてしまった。
「だから、さっきのことを言ったの」
 なんか、もうどうでもよくなっちゃった。
「なによぉ、そんなに呆れなくてもいいじゃない。彼氏のいない者のひがみだと思って聞き流せばいいじゃない」
「はいはい、聞き流しておきますよ」
「で、紗絵。実際のところ、先輩とはどこまでいってるの?」
 これも聞き流していいのかな?
 
 放課後。
 いつもより少しだけ遅く音楽室へ。
 すると、いつもと違う音が聞こえた。いや、違う。少し前まではいつも聞こえていた音だ。
「あ……」
 開いていたドアの向こうに、圭太さんがいた。
 いつもならまずは準備室へ入るのだが、足が勝手に圭太さんの元へ向いていた。
「先輩」
「やあ、紗絵」
 圭太さんは、いつもと同じ柔和な笑みを浮かべて私に応えてくれた。
「あの、今日は?」
「テスト前に、一回くらい指導しておこうと思ってね。それに何人かに声をかけてあるから、もう少ししたら来ると思うよ」
 圭太さんがここへ顔を出す理由など、聞かなくてもわかっていた。それでも、なぜか聞かなくてはいけないと思った。だから聞いたんだ。
「どうかしたかい?」
「あ、い、いえ……が、楽器を取ってきます」
 言いたいこと、話したいことはたくさんあるはずなのに、なにも言えなかった。
 準備室に逃げ込み、呼吸を整える。
「先輩、なにしてるんですか?」
 そこへ、琴絵がやって来た。
「別に、なにもしてないわよ」
「そうですか? ん〜、それならそれでいいんですけど」
 琴絵は、それ以上追求せずに楽器を手に取った。
「そういえば、琴絵」
「なんですか?」
「今日先輩が来ること、知ってたの?」
「いえ、今朝はなにも言ってませんでしたから」
「そうなんだ」
 じゃあ、突然決めたのかな?
「あ、でもですね、来た理由は知ってます」
「なんで?」
「えっと、ひとつは指導のためです。テスト前に一回はやった方がいいって」
「うん、それは私も聞いた」
「もうひとつが、私のため、なんです」
「琴絵の?」
 琴絵は、いったいなにを言ってるんだろう。
 圭太さんが、琴絵のために部活へ来た?
「私、今日の体育で倒れちゃったんですよ。あ、軽い貧血だったんですけどね。こうして部活に出られるくらいに大丈夫なんですけど、お兄ちゃん、心配してくれて、部活に出るって」
「……なるほど」
 羨ましい、と思っちゃいけないのだろうか。
 琴絵の体が丈夫じゃないことは、三中の頃からよく知ってる。そのことに対して圭太さんが人一倍気にしているのも知ってる。だから、今日の行動だってそれまでと同じだ。
 だけど、やっぱり羨ましい。
 もし、倒れたのが私でも、圭太さんはそこまで心配してくれるだろうか。
「あ、もちろん私の理由は後付ですよ。お兄ちゃん、もともと今日か明日には指導に来るつもりだったみたいですから」
「うん、わかってる」
 そうだ。それはわかってる。あの圭太さんが、たとえ琴絵のことでも結果的にそう見えたとしても、それをすべてに優先させることはない。
 それでも……
「紗絵。圭太先輩が呼んでるよ」
「あ、うん。今行くよ」
 今はとりあえず、練習のことだけを考えよう。
 そうしないと、ますます自分が嫌いになりそうだから。
 
 圭太さんによる指導は、やっぱり全然違う。
 私たちの弱点を的確に指摘し、改善点を教えてくれる。こういうことができるのは、先生か圭太さんしかいない。
 指導を受けているみんなの目も、いつも以上に真剣だった。少なくとも現段階では、圭太さんによる指導は、好影響を与えている。
 それでも、これが毎日続くとみんなダメになるだろうことも、容易に想像できた。だから、やはり適度に間を開けて行ってもらった方がいい。
 頭の片隅でそんなことを考えながら指導を受けていたら、いつの間にか休憩時間になっていた。
「紗絵。ちょっといいかい?」
「あ、はい」
 圭太さんに声をかけられた。
 音楽室を出て、廊下へ。
 圭太さんは廊下の窓を少しだけ開けた。少し冷たい風が、廊下に入ってくる。
「心ここにあらず、という感じだね、今日の紗絵は」
「えっ……?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「いつもより全然集中できてない。正直言えば、今日の紗絵にはなにを教えても意味がない」
 いつもより、厳しい声だった。
 怒られた子供のように、私はなにも言えない。いや、その子供か、私は。
「なにかあったのかい?」
 だけど、次の言葉は、声はいつもと同じだった。
「ここじゃ、話しづらいこと?」
 そう言って、後ろで気にしている面々を振り返る。
「なら、もうちょっと場所を変えようか」
 窓を閉め、さらに廊下を歩く。
 階段を上り、屋上へのドアの前まで来た。
「ここならいいかな」
 圭太さんは、階段の一番上に座った。
「で、どうしたの?」
「……圭太さんが部活に来てくれたので、いろいろ考えてしまったんです」
「いろいろ?」
「はい、いろいろです。大事なことから、些細なこと、くだらないことまで」
「そのせいで集中力を欠いていたと?」
 違う。それは違う。
 私が集中力を欠いていた本当の理由は、それじゃない。
「今日は、どうして指導に来てくれたんですか?」
「説明しなかった?」
「いえ、聞きました。でも、もうひとつ理由があると、聞きました」
 圭太さんは、一瞬なんのことかわからないような顔をしたが、すぐにわかったようだ。
 小さく頷き、そして大きく頷いた。
「なるほど。そういうことか」
「えっ、なにも聞かなくてもわかったんですか?」
「そりゃ、わかるよ。紗絵とのつきあいも長いからね」
 そう言って微笑む。
「つまり、僕が琴絵のために部活に出てきたことについて、あれこれ考えてたんだよね。たとえば、もしそれが琴絵じゃなくて紗絵だったら、とか」
「…………」
 ズバリその通りだった。
「簡単に言うと、琴絵に嫉妬した。で、そんな自分がイヤだった。違うかな?」
「……いえ、その通りです」
 まさか、圭太さんにそこまで言い当てられるとは思っていなかった。
「うん、そうだね。確かに今日は琴絵のことが心配だったから、最終的に今日にしようと思ったよ。それは否定しない。だけど、それは別に琴絵に対してだけに当てはまることじゃないよ。みんなに当てはまること。当然、紗絵にもね」
「……本当、ですか?」
「本当だよ。僕にとって紗絵は、カワイイ後輩というだけでなく、大事な女の子なんだから。その大事な女の子になにかあったら、心配するよ」
 私は、なにをひとりで空回っていたんだろう。
 どうして圭太さんならそういう風に考えているって、わからなかったんだろう。
 本当に私は、バカだ。
「紗絵、おいで」
 私は、圭太さんの隣に座った。
 すると、そのまますぐに抱きしめられた。
「少し、このままでいようか」
「はい……」
 圭太さんの腕に、胸に抱かれていると、胸の中がポッと暖かくなる。
 それだけで私はここにいていいんだって思える。
 大きな手で、頭を、髪を撫でられるだけで、気持ちよくなれる。
「……私、ダメですね」
「ん、なんでだい?」
「全然圭太さんの気持ち、わかってませんでしたから」
「そんなことないよ。相手のことをすべてわかろうだなんて、どだい無理なことなんだから。いろいろ考え、間違え、また考え、ようやく相手の気持ちに近づける。だから、心配することはないよ」
「はい……」
 そう言ってもらえるのはとてもありがたいけど、やっぱり私はもっともっと努力しなければならない。
「さて、そろそろ休憩時間も終わりかな」
「あの、圭太さん」
「ん?」
「キス、してもいいですか?」
「いいよ」
 そっと目を閉じ、圭太さんとキスをした。
 キスしただけで、気持ちが軽くなった。
「さて、行こうか」
「はいっ」
 圭太さんの気持ちを裏切らないように、もっともっとがんばらないと。
 
 三「安田ともみ」
 正直言って、今日は講義どころじゃない。いや、正確には明日もか。
 たとえ、レポートの提出期限であっても、出席しなくちゃ単位がヤバくなる必修科目があったとしても、そんなものはどうでもいい。
 今の私にとって、それよりもなによりも大切なのは、この世で一番大好きな人の誕生日を祝ってあげることだから。
「──なんて言いながら」
 ちゃんと大学に来てるところが、私の律儀なところだ。我ながら呆れる。
 しかも、今日は一限から四限まであって、正直だるいのにだ。
 このあたりの精神状況は、自分自身、とても興味がある。
 などと余計なこと──圭太の誕生日のこと以外──を考えてる暇あったら、講義内容を聞いておけと言われそうな気がする。
 ま、その通りなんだけど。
 だけど、今の私にはそれは無理。だって、寝ても覚めても圭太のことばかり考えているのに、その圭太の誕生日が明日なんだから、いつも以上にあれこれ考えるのは自然の流れだ。
 おっと、そうこうしているうちに、講義が終わった。
 やっとお昼だ。
 今日はなにも持ってきてないし、なにも買ってきてないから、学食だ。
 教室から学食のある建物へ移動。
「危険人物発見」
 その途中。
「──そっくりそのままあんたに返すわ」
 私の少し前を歩いていたのは、幸江だった。
 そういや、今日は幸江も三限まであるって言ってたっけ。
「学食?」
「あんたも?」
 というわけで、私たちはお昼を一緒に食べることにした。
 まあ、口ではあれこれ言ってる私たちだけど、仲が悪いわけじゃない。むしろ、良い方だと思う。
 今は『圭太』という共通言語があるからなおさらだ。
 私はオムライスを、幸江はC定食を頼んで席に着いた。
「ね、もう準備はした?」
「当たり前じゃない。講義よりもなによりも先に終えてるわ」
 幸江は、味噌汁を飲みながら言う。
「あんたは?」
「ちゃんと準備してるわよ。忘れるわけないじゃない」
 そうだ。忘れるわけがない。忘れていいわけがない。
「あのさ、ともみ」
「ん?」
「ともみの親は、圭太とのことについて、今はなにか言ってたりする?」
「別になにも言わないわよ。もともと、それを話した時にとりあえずはなにも言わないってことだったから。一応、そのあたりは守ってくれてるわ」
「なるほどね」
 なんで幸江がその話をはじめたのかは、わからない。
 私たちの会話の大半は圭太絡みのことだから、それが引き金になっているわけではない。
「でも、なんで?」
「ん、ほら、圭太も明日で十八でしょ? ということは、結婚もできる年齢ということよ。それはようするに、様々なものに責任が生じてくる年齢ってことよね。そうすると、私のこともどこかでケリつけなくちゃいけなくなるな、って思って」
 なるほど、そういうことか。
 確かに、十八になる圭太なら、ある意味ではそういう責任を果たしてくれそうな気がする。そうすると、幸江みたいに考えてもおかしくはない。
「もちろん、私と圭太の間ではずいぶん前に結論は出てるんだけどさ。いつまでも私たちだけで終わらせるわけにもいかないし」
「あんたの親って、どうなの、そういうことに関しては?」
「ん〜、どうなんだろ。まだわからない」
「なんで?」
「だって、私は過去につきあったことは一度しかなくて、その時は親にはちゃんとは言ってなかったから。で、弟も妹もそういう話はないみたいだし。だから、どういう風に考えてるのかわからない」
「それでもさ、ある程度はわかるんじゃないの? そういうことに対する基本的な考え方とかはさ」
「たぶん、ちゃんと話せばわかってくれるとは思うけどね。ふたりともそこまで頭が固いわけじゃないし。それに、うちは私よりも下のふたりの方が、親には可愛がられてるから。どっちかでそういうことがあったら、さすがにとんでもないことになったかも」
「じゃあ、それこそ圭太が一高を卒業したら、話せばいいんじゃない? タイミング的にもベストに近いと思うわよ」
 もし、高校生云々という話になっても、卒業してるわけだから、問題ない。
「私もそのくらいがいいとは思うけど、それ以前の問題として、どれだけ圭太のことを事前に理解してもらうかなのよね。それがあるのとないのとでは、雲泥の差だから」
「確かに」
 うちや祥子のところは、圭太のことを親が知ってたからある意味では助かった。
 それに、鈴奈さんも実家に帰った時によく話をしていたおかげで、比較的スムーズに話が進んだって聞いた。
 そうすると、幸江にもそういうのは必要なはずだ。
「ま、最終的にそうなることもわかってて、なおかつ圭太に告白したわけだから、最善は尽くすわ。そうしないと、自分で自分が嫌いになるから」
「直接手伝うのは無理だけど、こうやって話くらいは聞いてあげるわよ」
「それだけで十分よ」
 そう言って幸江は笑った。
 
 講義が終わって、すぐに大学をあとにした。
 本当はサークルなんかに入ってもよかったんだけど、なんとなく決めきれずにいたら、『桜亭』でのバイトの話が来て、結局なにもやっていない。
 でも、今はそれでよかったと思ってる。だって、サークル活動では得られないものを私は得ているのだから。
 もちろん、サークル活動でもそういうものはあるはずだ。
 だけど、私の中のウェイトとしては、バイトの方がはるかに比重が大きい。
 圭太がいるからというだけじゃなく、琴美さんや琴絵ちゃんも本当の家族のように私を扱ってくれる。それがとてもいい。
『桜亭』は小さな喫茶店だから、雇用主と雇用者という厳格な分け方ははっきり言えばない方が効率的になる。なにをするにしても個人の判断に任される場面が多いから、当然ではあるんだけど。
 大学からは、ほとんど直接『桜亭』へ向かってしまう。よほど時間のある時は別だけど、家に帰ることはない。
「こんにちは〜」
 バイトの時、お店の方から入ることはない。家の方の玄関から中に入る。
 荷物をリビングに置き、上着を着ている時期は、上着もそこへ脱いでおく。
 お店への入り口に小さなタンスがあり、その中にエプロンが入っている。
 そのエプロンを身につけ、お店の中へ。
「琴美さん、こんにちは」
「こんにちは」
 ちょうどカウンターの内側にいた琴美さんに声をかける。
 表では、幸江がテーブルを片づけていた。
「今日は、どうでしたか?」
「今日は少し忙しかったわね。まあでも、さばけないほどではなかったから」
 私が確認しているのは、お昼のこと。
 鈴奈さんがバイトを辞めてから、お昼はたいてい琴美さんひとりになってしまった。私と祥子の時も、今の幸江の時もそうだ。
 入れる日はもちろん入るのだが、やはり講義を優先してしまうと入れないことの方が圧倒的に多い。
 だから、せめて入れない日でもどうだったかだけは確認するようにしている。忙しかった日は、私たちが入っている時間はできるだけ琴美さんに負担をかけないようにしようと、私と幸江とで決めたことだ。
 やはり、あの倒れたことが要因となっている。本当は、ああいうことになる前にこうしていればよかったんだろうけど、起きてしまったことを今更あれこれ言ってもはじまらないので、言わない。
「あれ、ともみ。もう来たんだ」
「もうって、四限終わって結構経ってると思うけど?」
「ああ、それもそうね」
 冗談なのか本気なのかわからないことを平気で言うからなぁ、幸江は。
 食器を流しに置く。忙しい時はまとめ洗いするんだけど、余裕のある時はその都度洗っている。その方が急になにかあった時に対処できるからだ。
 ちなみに、食器洗いは担当は決まっていない。その都度手の空いている誰かがやる。基本的には持ってきた本人がやることが多いけど。
 で、幸江が食器を洗ってる間、私はカウンターの表にまわってお客さんの様子を確認。
 とりあえず、今すぐどうこうというのはなさそうだ。
「幸江さん、終わった?」
「はい、終わりました」
「じゃあ、続けましょうか」
 と、カウンターの向こうで、琴美さんと幸江がなにやらやっている。
「なにしてるの?」
「ん、ああ、これ?」
 見ると、そこには小麦粉やらベーキングパウダーやらクリームやら、明らかにケーキの類を作る材料が並べられていた。
「ほら、明日は圭太の誕生日でしょ? で、琴美さんにケーキの作り方を教わってるの」
「でも、準備はできてるって言ってたじゃない」
「できてるわよ。このケーキは、上手くできた場合にのみ、圭太にあげるの」
 なるほど、そういうことか。
 しかし、幸江の思考回路も完全に『乙女』のそれだ。まあ、私も人のことは言えないけど。
「私さ、普通の料理はある程度はできるんだけど、お菓子作りはどうも苦手で。以前にケーキも作ったことはあるんだけど、どうもいまいちで。で、せっかくここでバイトしてるんだから、琴美さんに美味しいケーキの作り方を教わろうと思ってね」
 なんか、すごく前向きな発言だ。
 むぅ、私ももう少し挑戦した方がいいのかもしれない。
「ともみさんは、ケーキは作れるの?」
「簡単なものはある程度は」
「そう。それなら、すぐに上達するわ。ケーキは、単純な、簡単なものができれば、あとは基本的には応用だから。もちろん、プロのパティシエが作るような特別な技術が必要なものは別だけど」
「琴美さんは、どうだったんですか?」
「私? 私は、料理が趣味だったのよ。小学校の頃から家でもよく作ってたし。だから、喫茶店をはじめたの」
 あ、そういうことか。
 確かに、喫茶店をはじめるにしても、コーヒーや紅茶だけ出していてもあまり売り上げに貢献できない。そうすると、どうしてもなにか食べるものが必要になる。
 だけど、その時に料理ができる人がいなければ、それも無理だ。
 きっと、この『桜亭』をはじめる時には、そういういろいろな要因が上手く重なって、はじめられたんだろう。
「ただね、ここをはじめた当初は結構大変だったの」
「どうしてですか?」
「ん、私の料理ね、完全に祐太さん好みの料理になってたから。それをほかの人たちにも普通に食べてもらえるように直さなくちゃいけなくて」
 のろけだ。
「でもね、ともみさん、幸江さん。確かに私は料理が好きで、いろいろ作れたし、ケーキなんかもある程度は作れたわ。だけどね、お店をやっていくにはそれだけじゃダメなの。自己満足で終わってるうちは、お店で料理なんて出せない。だから私は、ここをはじめてからもいろいろ勉強したわ。基本的な料理も、お菓子の作り方もね。そのおかげで、今の私があるの」
「…………」
「もっとも、あの頃はこのお店を私のせいでつぶしたくない、という想いが強かったんだけど。大好きな人との、夢がたくさん詰まってるお店だから」
 そう言った琴美さんの表情は、とても穏やかで、優しかった。
「あの、琴美さん。私にも、ケーキの作り方、教えてもらえますか?」
「ええ、いいわよ」
 私になにができるかは、わからない。だけど、突然私がしたいと思ったことをその時にできるように、なんでも吸収しておくべきだ。
 なんたって、相手は完全無欠の超優等生だから。
 圭太の夢のために私になにができるかはわからないけど、できることはなんでもしてあげたいと思うから。
 それが、私なりの圭太に対する想いの伝え方でもあるから。
 
 私は時計を見た。
 もう夕方だ。で、なにもなければ、終わってる頃なのだが。
「あの、琴美さん」
「うん?」
「今日は、なにかあるって言ってましたか?」
「ああ、圭太なら部活に出てから帰ってくるってメールがあったわ」
「あ、そうですか」
 なんだ、残念。せっかく少しは一緒にいられるかと思ったのに。
 でも、部活ならしょうがない。
 ここはちゃんと切り替えなくちゃ。
「いらっしゃいませ」
 と、お客が来た。
「あれ?」
 来たのは、圭太の幼なじみの河村凛。圭太が唯一呼び捨てにしてない子だ。
 制服のままだから、学校からそのまま来たわけか。
「どうも、こんにちは」
「こんにちは。今日は、ひとり?」
「ええ、はい」
「あら、凛ちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは、小母さん」
「今日はどうしたの?」
「えっと、実はお願いしたいことがあって来ました」
「お願い?」
 琴美さんは首を傾げた。
 で、そのお願いというのは、なんと、私や幸江と同じものだった。明日の圭太の誕生日に、手作りケーキを渡したいから、琴美さんに教わりたい。
 なんというか、恋をするとみんなこうなるのかな?
 琴美さんは、当然彼女の申し出も受けた。断る理由もないしね。
 ただ、これからの時間は忙しくなってくるから、お店が終わってから、ということになったけど。
 そんなわけで、彼女は一度家に帰り、それで時間を見て改めて来ることになった。
 そうこうしているうちに、圭太たちが帰ってきた。今日は柚紀は一緒じゃない。たぶん、明日泊まるからだろう。ちょっと羨ましい。
 で、ひとつ気付いたんだけど、琴絵ちゃんがやたら機嫌がいい。いったいなにがあったのだろう、と勘繰ってしまうのは私だけ?
『桜亭』の営業時間は決まってないから、お客の入りで閉店時間が変わる。
 今日は、お客は多かったけど、最後のお客は比較的早くに帰った。だから、閉店時間はいつもより早めだった。
 お店を閉めたあと、私たちは琴美さんにケーキ作りを教わった。生徒は、私、幸江、凛となぜか琴絵ちゃんと朱美。どうやら、そういう機会はできるだけ逃したくないようだ。
 即席のケーキ教室は、とても充実していた。琴美さんの教え方はとても丁寧で、とてもわかりやすい。それに、お店で作るためのケーキは、ある程度の数が必要になるから、手際もとても大事になる。だから、ケーキ作りの本なんかにある作り方よりも行程を省きつつも、やるべきことはやっているものだった。
 焼き上がりを待つ間、私は琴絵ちゃんに話しかけた。
「琴絵ちゃん」
「あ、はい、なんですか?」
「なんか機嫌いいみたいだけど、なにかあったの?」
「えっ、そう見えますか?」
「うん、見える。というか、そうとしか見えない」
「あはは、そうですか」
 琴絵ちゃんはそう言って笑う。
「えっとですね、今日学校で久々に倒れちゃったんです。あ、軽い貧血だったんですけどね。その時にお兄ちゃんが心配して来てくれたんです。それで……」
「なるほどね。大好きなお兄ちゃんに心配してもらって、しかも優しくしてもらったから、嬉しかったと」
「はい」
 ホント、琴絵ちゃんはどこまで行っても素直だ。特に、圭太に対する想いは素直だ。
 妹だからなんだろうけど、私ももう少しだけ琴絵ちゃんみたいに素直になってもいいのかもしれないと、たまに思う。
「私も、琴絵ちゃんみたいに心配してもらいたいなぁ」
「ともみ先輩がですか?」
「うん。そしたらさ、普段からもう少しだけ素直でいられる気がするんだ。なんとなくだけど」
「……えっと、これは私の考えなんですけど、お兄ちゃんはともみ先輩には今のままでいてほしいと思ってるはずです」
「どうして?」
「上手く言えないですけど、お兄ちゃんの好きになったともみ先輩は、今のともみ先輩だからです。もちろん、素直になるな、ということではないんですけど」
 こういう一生懸命なことは、本当に兄妹そっくりだ。それに、相手が誰であろうと真剣になれるところもだ。
「そうね。私もここでいきなり自分を変えるのは難しいから、やっぱり今まで通りでいくわ」
「はい」
 私は私の思うままに、圭太に相対すればいい。琴絵ちゃんの真似じゃなく、私だけの、私なりの方法で。
 そうしないと、私の本当の想いは圭太には伝わらないから。
 今度は琴絵ちゃんに諭されないように、がんばらないと。
 
 四「河村凛」
 朝食を食べていたら、電話がかかってきた。
 電話の相手は、河村蘭──お姉ちゃんだ。
「凛。蘭が話したいことがあるって」
 お母さんから受話器を受け取り、電話に出る。
『もしもし、凛?』
「……こんな朝っぱらから、なんの用なの?」
『なによぉ、せっかく朝から愛しのお姉さまの声が聴けたのに、その言い草はないでしょうが』
「……切るよ?」
 まったく、相変わらずだ、こういうところは。
『あのさ、明日って圭太ちゃんの誕生日でしょ?』
「あ、うん、そうだけど、それが?」
『あんた、プレゼント渡すわよね?』
「そりゃ、まあね」
『なら、一緒に私の分も渡しておいてくれない?』
「お姉ちゃんの分も?」
『そ。プレゼントは、今日中にそっちへ届くように手配してあるから。それを明日、圭太ちゃんに渡してほしいの』
「……なんであたしがそんなことを……」
『別にいいでしょ、それくらいしてくれたって』
 朝からなにかと思えば、使い走りのお願いか。でも、一応こうして頼んでるわけだから、むげに断るのも気が引ける。
「んもう、わかったわよ。で、肝心のプレゼントはなんなの? あんまり大きいものとかだと、持って行くのイヤなんだけど」
『あ、それは大丈夫よ。たいした大きさじゃないから』
「大きさはわかったけど、中身は? 一応確認しておきたいんだけど」
『圭太ちゃんに言わないと約束するなら、教えてあげるわよ』
「約束する」
『送ったものは、三つ。ひとつは靴。革靴なんだけど、すごくいいのがあって、ついつい衝動買いしちゃった』
「衝動買いって、サイズは大丈夫なの?」
『もちろん。そのあたりにぬかりなし。圭太ちゃんのサイズは、春に家に来た時にちゃんとメモしてあったから』
 抜け目がない。さすがはお姉ちゃん。
『ふたつ目はネクタイとタイピン。ちょっと早いかもしれないけど、そのうち使えるだろうからね』
「もうひとつは?」
『ん〜、これは是非ともサプライズにしたいところなんだけど』
「……そのサプライズのせいで、あたしが恥をかくのはイヤなんだけど」
『しょうがない。特別に教えてあげるわ。三つ目は、コンドーム』
「こっ……!」
『誰とのために使え、とはあえて言わないけどね。あって困るもんじゃないし』
「お、お姉ちゃんっ!」
 い、いきなりなにを言い出すのかと思えば、こ、コンドームだなんて……
 そ、そりゃ、あって困るものじゃないし、そういうことをする時には必要だけど……
『怒鳴らなくても聞こえてるわよ。ま、それをどうするかは、あんたに任せる。渡しても渡さなくてもどっちでもいい』
 そんな風に言われると、渡さなかったらあたしひとり悪者になる。
 だけど、渡したら渡したで、そんなものを選んだ妹だと思われる。
『というわけで、頼んだわよ』
「あ、ちょっと、おねえちゃ──切れた」
 受話器を戻す。
「蘭、なんだったの?」
「……今日、お姉ちゃんから荷物が届くから」
「荷物? なんの?」
「明日、けーちゃんの誕生日だから、そのプレゼント」
「へえ、あの蘭が圭太くんのためにわざわざプレゼントをね」
 お母さんは単純に感心してるだけだけど、わかってない。お姉ちゃんがなんのためにわざわざそうしたかを。
 ホント、もうイヤになる。
 
 いつもより少しだけ早く学校に着いた。ほんの少しだけ早いだけなのに、教室にいるメンバーが違うのは、なんか新鮮だ。
 カバンから教科書やノートを取り出し、机にしまう。
 あとは、いつものように窓際へ。
 そこから外を眺めるのが私の朝の日課になっている。
 天気のいい日は、窓を開けて風を受ける。それがとても気持ちいい。
 だけど、こうして窓を開けられるのは、あともう少しだけ。寒くなるとみんなに迷惑かかるから。
「あ」
 ほぼ、いつもと同じ時間。校門からやって来る人影。
 けーちゃんだ。
 当然のごとく、けーちゃんの隣には柚紀がいる。あとは、琴絵ちゃんと朱美ちゃん。
 それもいつもと同じだ。
 だけど、正直言えば、すごく羨ましい。
 あたしがまだこっちにいた頃は、毎日のように一緒に学校へ行っていた。けーちゃんと一緒にいられるだけで、すごく楽しかった。そんな毎日が、ずっと続くと思ってた。
 引っ越した直後は忙しさで忘れていたのだが、次第にこっちのことを思い出し、何度も泣いた。
 だけど、それもいつしか薄れ、ある意味慣れてしまった。
 それがイヤだった。一番大切で、大事で、大好きだったけーちゃんとのことを、ほんの些細なことでも忘れてしまう自分がイヤだった。
 それでも、もう一度けーちゃんに会えるとわかった時、神様がチャンスを与えてくれたんだと、もう一度だけがんばろうと思った。あの時に言えなかったこと言って、後悔しないようにしようと思った。
 でも──
「おはよう、凛ちゃん」
「おはよ、凛」
 けーちゃんと柚紀が教室へ入ってきた。
「おはよ、ふたりとも」
 あたしは、いつもと同じようにふたりに声をかける。
「けーちゃん、ちょっと時間、いいかな?」
「別にいいけど」
 柚紀はあからさまに顔をしかめたけど、無視無視。
 あたしは、けーちゃんと一緒に教室を出た。
 廊下には、さっきよりも生徒の数が多くなっている。
 廊下から階段を上がり、屋上への扉の前まで来た。
 ここは、昼休みなんかはたまに人がいるけど、こういう時には誰もいないし、誰も来ない。
「けーちゃん」
「っと」
 あたしは、すぐにけーちゃんに抱きついた。
「けーちゃん……」
 けーちゃんを真っ直ぐ見つめ、目を閉じる。
「ん……」
 けーちゃんは、あたしの意図を汲んでくれて、キスしてくれた。
「今日は、朝からずいぶんと積極的だね」
「ん、そうかな?」
「そうだよ。でも、たまにはいいんじゃないかな、そういうのも」
 そう言ってけーちゃんは微笑んだ。
 本当にけーちゃんはカッコイイ。普段のキリッとした顔も、こういう笑顔も、絵になる。
 もちろん、あたしはけーちゃんが見た目だけじゃないことをよく知ってる。だからこそ、外見に中身が伴ってるからけーちゃんはみんなから人気があるんだ。
「ね、けーちゃん。今日の昼休みって、なにか用事ある?」
「昼休み? 今のところはなにもないよ。まだホームルームも終わってないからね」
「じゃあ、お昼食べたら、あたしにつきあってくれるかな?」
「別にいいけど、今とかじゃダメなの?」
「ちょっと、時間がかかるから」
「そういうことなら仕方ないね」
 けーちゃんは、疑うことなく頷いた。
 なんか、少しだけ罪悪感があるけど、でも、これも自分のためだ。
 
 昼休み。
 朝の約束通り、お昼を食べたあと、あたしはけーちゃんと一緒にいた。
 やっぱり柚紀はかなり不機嫌だったけど、あたしを止める決定的な理由がなかったせいで、最終的には渋々けーちゃんを送り出していた。
 けーちゃんは、特になにも言わずにあたしのあとをついてくる。
 階段を下り、廊下を進み、体育館への渡り廊下を進み、プールの隣にある部室棟へとやって来た。
 たった五ヶ月だけだったけど、ほぼ毎日のように通った部室だ。
 あたしはポケットから鍵を取り出し、部室を開けた。
「さ、入って」
「おじゃまします」
 この時期の水泳部は、屋内プールを持ってない限りは、筋力トレーニングなどを行う。だから、部室の中も夏の頃みたいに水着が無造作に置かれてたりはしない。
「はじめて入ったよ、この部室棟」
「まあ、普通は用がなければ、絶対に入らないところだからね。特に、女子水泳部の部室なんて」
 ここに入る用のある男子は、男子水泳部か生徒会役員くらいじゃないかな。もちろん、どっちもごくまれにだけど。
「ここが、あたしのロッカー」
 もう引退してるんだけど、ロッカーはまだある。ま、新入部員が入ってくるのは四月だからなんだけど。
「もうほとんど中身はないんだけどね」
 入っているのは、以前に使っていたゴーグルと、トレーニング用のダンベル。
「それで、凛ちゃん。どうして僕をここへ連れてきたの?」
「あ、うん、それなんだけど……」
 どうしよう。今、あたしが思ってることを言っても、けーちゃんは軽蔑しないかな?
 わからない。わからないけど、あたしはもう少しだけ自分に素直になりたい。
「あの、ね、けーちゃん……あたし、自分が抑えられないの……勉強してても、いつもけーちゃんのことばかり考えて……気付くと、その……ひとりでしちゃってる……」
「凛ちゃん……」
「けーちゃんに抱いてもらうために好きになったわけでも、告白したわけでもないのに、ダメなの。最初はね、無理に抑え込もうとしてたんだけど、やっぱりダメだった。だからね、少しだけ考えを変えたの。無理矢理抑え込んでも結局どこかでおかしくなっちゃう。だったら、もう少しだけ自分に素直になって、けーちゃんに抱いてもらいたいって」
 これが今の、素直な気持ちだ。
 あとは、けーちゃん次第。
「……ねえ、凛ちゃん。凛ちゃんは、自分のことがイヤになること、ある?」
「えっ、あ、うん、あるよ。今だってそう」
「僕もね、しょっちゅう自分のことがイヤになるよ。特に、ある意味では柚紀を裏切ってしまう時にね」
「それは……」
「今もね、そうだよ。今は、凛ちゃんがとても愛おしくて、今すぐにでも抱きしめ、抱いてしまいたいと思ってる。でも、そんな風に思ってしまう自分がイヤな自分もいる」
 それは、けーちゃんの本音だ。自分の内にある汚い部分をさらけ出している。
 あたしのために、とは言わない。
「だけどね、僕も自分に素直であるべきだと思ってる。そうしないと、あとで取り返しのつかないことになるから」
「じゃあ、けーちゃん……」
「うん」
 あたしは、弾かれるようにけーちゃんに抱きついた。
「好き、大好き、けーちゃん」
 
 午後の授業は、まったく集中できなかった。
 だって、体にはけーちゃんの感触が残ってたから。
 学校で、しかも部室でということで、以前にも増して感じてしまった。声が大きく出てしまい、我に返った時に焦ったけど、それも今更だ。
 六時間目が自習になってしまったせいで、余計にあれこれ思い出してしまった。
「ちょっと、凛。なにボーッとしてるのよ」
「……えっ、あ、別にボーッとしてないわよ」
「……まったく、ウソつけないくせに、ウソつこうとするんだから」
 柚紀は、そう言ってため息をついた。
「ちょっと、外出ましょ」
 あたしは、柚紀について教室を出た。
 ちなみに、自習の課題はもう終わってたし、けーちゃんは保健の先生になにか言われて、ずいぶん前に教室から出ていた。
 柚紀は、階段を上がり、屋上への扉を開け、屋上へ出た。
「ん、少し寒いわね」
 天気はいいから、陽に当たっていればそれほどではないけど、日陰は少し肌寒い。
「ねえ、凛。あんた、昼休みに圭太となにしてたの?」
「……別に、なにも」
「だからさぁ、あんたはウソつけないんだって。すぐ顔に出るの」
 柚紀は肩をすくめ、薄く笑った。
「まあ、私も人のことは言えないんだけどね。ウソ、つけないし。お姉ちゃんには、すぐにバレるし」
 あたしも似たようなことがある。お姉ちゃんにはウソはすぐにバレてしまう。
「で、なにしてたの?」
「……言いたくない」
「言えないようなこと、してたの?」
「…………」
「セックス、したんでしょ?」
「…………」
「わかるのよね、そういうの。圭太を見ててもあまりわからないんだけど、その相手を見てるとだいたいわかるの。凛なんて、その中でも特にわかりやすい方ね」
「……なんで──」
「ん?」
「なんでそんなに平然としてられるの?」
「平然? まさか? 正直、この場であんたを殴ってやりたいくらい、ムカついてるわよ。でもね、私はそれだけはしないって決めてるの。だって、私がそんなことしたって、なにひとつ解決しないから。私も相手も、無駄に傷つくだけだから」
 ああ、あたしはやっぱり柚紀にはかなわない。
 けーちゃんも、柚紀がこんなだから選んだんだ。それが理解できるだけに、悔しい。
「なんでなのかな。なんで圭太は、私だけを見てくれないのかな。私は圭太を好きになってからずっと、圭太だけを見てるのに」
 柚紀は、フェンス際に寄り、空を見上げた。
「そりゃ、今のみんなとの関係は楽しいわよ。圭太がいなかったら、たとえ知り合いになってたとしても、今みたいな関係にはなってなかっただろうし。でも、同時に思うんだ。私と圭太、ふたりだけだったら今頃どんな関係になってたんだろうって。正直に言えば、全然想像できない。変な話だけどね。今の状況に慣れすぎてるせいなのかどうかはわからないけど、全然想像できないんだ」
「…………」
「ホント、我ながらわけわかんない」
 そう言って苦笑する。
「とまあ、私の愚痴はどうでもいいのよ。そのあたりのことは、私の中ではある程度結論が出てるから」
「そうなの?」
「そりゃそうよ。いったいどれくらいこの状態にいると思ってるの?」
「それもそっか」
 じゃあ、なんで柚紀はあたしを誘ったわけ?
 愚痴りたかったわけでもなさそうだし。
「なんであたしを誘ったの?」
「圭太がいないから。というか、悔しいから」
「悔しい? なんで?」
「圭太がどこへ行ったか、知ってる?」
「ううん。なにも言わないで行っちゃったから」
「保健室」
「えっ?」
「保健室に行ったの。琴絵ちゃんが体育の時間に倒れちゃったんだって」
「そうなの?」
 そういうことなら、けーちゃんが行ってしまったのもわかる。けーちゃんの琴絵ちゃんに対する想いは、相当のものだから。
「なんかさ、琴絵ちゃんに負けたみたいな気がして、悔しくて。で、手近なところにいぢりがいのある、おあつらえ向きなオモチャがあったから」
「……オモチャってなによ、オモチャって」
「ま、そういうわけだからさ、振られた者同士、仲良くしましょ」
 本当に柚紀はわからない。
 だけど、ひとつだけわかってることがある。
 それは、けーちゃんの彼女は柚紀だからこそ、けーちゃんはいつも笑顔でいられるんだということ。柚紀じゃなければ、ダメなんだ。
 最終的に負けを認める、というわけでもないけど、少なくとも今はあたしの負けだ。
 だからこそ、あたしはもっともっと努力しないといけない。
 けーちゃんを好きになることも、自分を好きになることも。
 今はまだ柚紀の背中は遠いけど、少しでも追いつき、できれば追い越せるように。
 
 五
 今年の十一月十日は、朝からあいにくの雨模様だった。
 しとしとと雨が降り、気温も低かった。寒さで目が覚めた者もいたかもしれない。
 ただ、ある者たちにとっては、少々恨めしい天気だったかもしれない。まあ、それも大多数の者に比べるべくもないくらい、少人数なのだが。
 
 朝、圭太はほぼいつもと同じ時間に目を覚ました。特に寒さで目が覚めたわけでも、雨音で目が覚めたわけでもない。
「すぅー……すぅー……」
 傍らでは、琴絵がまだ穏やかな寝息を立てている。
 カワイイ妹の姿に、ついつい頬も緩む。
「さてと」
 本当はいつまでもその穏やかな時間を楽しんでいたいのだが、朝は時間がない。誘惑を振り払うように、圭太はベッドから出た。
 裸のままだったので、下着を着てから制服を着る。ワイシャツまで着たところで、とりあえずは部屋を出る。
「……っと」
 階段を下りる時、一瞬足がもつれた。それでも、持ち前の運動神経ですぐに立て直す。
 そのままリビングから台所に顔を出す。
「おはよう、母さん」
「おはよう」
「今日は雨だね」
「そうね。せっかくの誕生日なのに、残念ね」
「僕はどうということはないけど」
「みんなは残念がるわね」
 そう言って琴美は微笑んだ。
「あ、そうだ。圭太」
「ん?」
「ちょっと待ってて」
 琴美は、火を止めて台所を離れた。
 圭太はなにごとかと首を傾げたが、琴美はすぐに戻ってきた。
「はい、誕生日プレゼント」
 そう言って渡してきたのは、少し大きめの箱と紙袋だった。
「夜のパーティーの時でもいいと思ったんだけど、今年は少しだけ奮発したから、琴絵や朱美にあれこれ言われたくなくてね」
 その理由は、母親のものというよりは、恋人のそれに近い。
「奮発したって、中身はなに?」
「靴とカバンよ」
「靴とカバンて……母さん、それはさすがにどうかと思うよ」
「いいのよ。今年はあなたになんでもしてあげたい気分なの」
「……そこまで言うなら、ありがたく受け取るけど」
「あ、それとね、その袋の中にもうひとつ袋が入ってるから」
「もうひとつ?」
 袋を開けると、確かにもうひとつ袋が入っていた。それほど大きくない袋だ。
「それね、祐太さんが使っていたネクタイなの」
「えっ……?」
「来年の春には高校も卒業するわけだし、普通にネクタイをする機会もあるでしょ。その時にでも、してくれればいいの」
「でも、どうして?」
「そうね……私もそろそろ、祐太さんへの想いを少しずつ変えていこうと思って。もちろん、今でも祐太さんを愛しているけど、その祐太さんはもういない。だから、今一番愛している圭太に私の大切なものを譲ろうと思って」
「母さん……」
 それは、ある意味ではこだわりなのかもしれない。そのままにしておくには想い出が多すぎ、だけど、ほかの誰かに渡すには忍びない。それなら、ずっと祐太の代わりに琴美を支えてきた圭太にそれを譲るのが、次への一歩になる。
 琴美はそう考えたのかもしれない。
「わかったよ。母さんがそこまで考えてるなら、僕はなにも言わない」
「ありがとう」
「でも、母さん。ひとつだけ」
「なにかしら?」
「琴絵や朱美の前で、あまりあからさまなことはしないでよ。母さんもたまにそういうのを忘れるから」
「わかってるわよ。私だって、みすみす圭太との時間をつぶしたくないもの」
 そう言って笑う。
「じゃあ、圭太。改めて、誕生日おめでとう」
「ありがとう、母さん」
 圭太も最後には笑顔で琴美の想いに応えた。
 もっとも、今日はまだはじまったばかりなのだが。
 
 雨の学校は、錯覚かもしれないが幾分空気が淀んでいる。それに、雰囲気も暗い。
 それもわからないではない。よほど雨の日が好きな人以外は、たいてい晴れの日が好きである。そうすると、雨が降っているだけで気分が落ちてしまう。そういうものがいくつも重なって、学校全体の雰囲気になっている。
 だが、一部の生徒にとってはそんなことは些細なことだった。
「ねえ、圭太。なにかしてほしいことある?」
「してほしいこと?」
「うん。私にできることなら、なんでもいいよ」
「誕生日だから?」
「そういうわけでもないんだけど、まあ、確かにきっかけではあるかも」
 柚紀は大きく頷いた。
「ね、なにかない?」
「ん〜、取り立ててないかな。困ってることもないし」
「そんなこと言わないでさぁ、なにかないの?」
「とは言っても……」
 いきなり言われても、圭太の言うように特に困ったことでもなければ、そうそう出てくるものではない。
「むぅ、ホントになんでもいいんだよ? 普段は私に頼みにくいことでも、なんでも」
「だったら、柚紀が僕にしたいことをしてくれればいいよ」
「それだといつもと一緒じゃない」
 柚紀は、かなり不満そうである。だが、それもかなりワガママな言い分ではある。
「なにもめてるの?」
「凛には関係ないわ」
 いきなり噛み付く柚紀に、凛はなにごとかと首を傾げる。
「なにがあったの、けーちゃん?」
「柚紀がね、僕になにかしてほしいことはないかって。僕としては特にないから、そう言ったんだけど」
「なるほど。また柚紀の暴走か」
「ちょっと、またってなによ、またって」
「事実でしょ? あたしが一高に転校してきて、あんたと知り合って、その間に何回あったか」
「…………」
 多少は自覚があるらしく、柚紀は黙り込んでしまった。
「まあまあ、凛ちゃんもそんなに言わないで。柚紀は、今日が僕の誕生日だから、特に言ってるんだよ」
「それはそれでわかるけど、無理強いするのはやっぱり違うと思うよ」
 確かに、親切の押し売りはするべきではない。たとえ相手がとてもいい人でもだ。
「でもさ、凛。凛だってそんなこと思ったりしない?」
「思うわよ。けーちゃんのためならなんでもしてあげたい。だけど、無理強いして、親切を押しつけても意味ないし」
「……ああんもう、わかったわよ。全部私が悪かったわ。だから、これでこの話は終わり」
 先に折れたのは柚紀の方だった。というか、柚紀が折れる以外にこの話は終わらなかったのだが。
「ところで、今日って時間よりも早く行ってもいいんだよね?」
「それは構わないわよ。というか、早く来た人が準備するのよ」
「なるほど」
「言っとくけど、早く来たからって圭太と一緒にいられるわけじゃないからね」
「別に、そんなことは思ってないわよ」
「どうだか」
 凛としても、圭太と一緒にいることを考えないでもなかったのだろうが、やはり今日は自分のことだけを優先することはできない。なんといっても、パーティーはみんなで行うのだから。
「そういえば、去年までの誕生日はどんな感じだったの?」
「どんな感じって、特別なことはなにもないよ。みんなが集まって、祝ってくれる。それだけ」
「ただし、集まってくるのは全員、圭太と関係のある人だけど」
 少しだけトゲがある。
「メンバーって、あの花火の時と同じよね?」
「うん、そうだよ。厳密に言えば、琴子も一緒だけど」
「あはは、そうだね。琴子ちゃんもだね」
「だから、凛ちゃんも普段通りで全然問題ないから」
「うん」
 凛も、普段あまり接点のない者が相手でも、圭太絡みのことならば臆することはない。やはり、圭太のことはすべてに優先されているからだ。
 もっとも、それは凛だけのことではないのだが。
 
「なんだかすごく嬉しそうですね」
 声がして振り返ると──
「金田さん」
「ひとりでお昼ですか、先生?」
「うん」
 ここは県立第二高等学校の食堂。
 ちょうど昼休みで、生徒たちでごった返している。
 その中で食事をしていた鈴奈に声をかけてきたのが、二高吹奏楽部の前部長である金田昌美だった。
 手にはトレイに載ったそばがあった。
「一緒に食べてもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
 昌美は鈴奈の正面に座った。
 ちなみに、鈴奈はカレーを食べている。
「それで、なにかあったんですか? すごく嬉しそうですけど」
「そんなに嬉しそうに見える?」
「はい。ついつい頬が緩んでしまう、みたいな感じです」
「そっか」
 鈴奈は、あえてそれは否定しなかった。
「実はね、今日、私の知り合いの子の誕生日なの。すごくお世話になってる子だし、私も好きな子だから、いろいろ準備もしてきてて。それで、その子が喜んでくれればいいなって、そんなことばかり考えてたから」
「その子、って、女の子、ではないですよね?」
 昌美は、ちらっと鈴奈の指にある指輪を見た。
「うん、男の子だよ。私の、大好きな子」
「先生に好きになってもらえる男の子って、幸せですね」
「どうして?」
「だって、先生ってとっても綺麗ですし。それに、面と向かって言うのはあれですけど、性格だってすごくいいと思いますから」
「ありがと。でも、私はそんなにたいそうな人間じゃないよ。それは、私が一番わかってるから」
 そう言って鈴奈は微笑んだ。
「先生は、その男の子のどこが好きなんですか? 男の子、と言うからには年下なんだと思いますけど」
「そうだなぁ……一番好きなところは、その年の差を感じさせないところかな。大学の頃に知り合ったんだけど、その頃からもう同い年くらいの感じだったし。あとは、人を思いやれて、なおかつ優しくも厳しくもできるところ。あ、カッコイイところも好き」
「本当に好きなんですね。でも、そんな完璧に近い人なら私も会ってみたいです」
「あはは、機会があればね」
 とはいえ、まさか鈴奈の好きな人が圭太だとは、口が裂けても言えない。
「でも、金田さんの好きな彼だって、結構そういう感じじゃないの?」
「えっ? ん〜、まあ、そうかもしれませんね。彼とは部活の関係で少ししか話したことも、一緒にいたこともありませんけど」
「それでも好きになっちゃうんだから、よほどなにか特別なものを感じたのかもね」
「そうかもしれません」
 一応、鈴奈は昌美から、昌美が圭太のことを好きであることは聞いている。
 当然のことながら、鈴奈が圭太と知り合いであることは昌美は知らない。
「なんて言うんですかね。最初はカッコイイな、くらいだったんです。でも、何回か練習で顔をあわせているうちに、自然と目で追ってる私がいたんです。カッコイイのは見ていればわかるんですけど、それだけじゃなくて、一高吹奏楽部の部員全員から信頼されていて。私も部長でしたからわかるんです。全員からの信頼を得ることがどれだけ大変なことかって。一高はうちよりも部員数が多いですし。だから、性格やなんかも、自ずとわかったんです」
「だから、最初気になる存在だった彼のことが、好きになった、ということね」
「はい」
 昌美ははっきり頷いた。
「金田さんは、今でも彼のことが好きなの?」
「そうですね、好きです。でも、ちゃんと私の中では整理はついてますから」
「そっか、偉いのね」
「偉い、ですか?」
「そうやってちゃんと自分で気持ちに整理がつけられるのは、偉いと思うわ。私は……きっとダメだから」
 そう言って鈴奈は苦笑した。その手は、指輪に触れていた。
 昌美もそれには気付いていたのだが、あえてなにも言わなかった。
「そういえば、先生。話はまったく変わるんですけど、先生って教育実習はどこだったんですか? 大学はこっちだってことですから、こっちの高校だったんですか?」
「あれ、話してなかったっけ?」
「はい、全然」
「ん〜……実はね、一高だったんだ」
「えっ……?」
 それを聞いた昌美は、それはもうかなり驚いていた。
「え、あ、じゃあ、先生。ひょっとして、会ったことありますか?」
「その彼に、ってこと?」
「はい。名前は、高城圭太くんて言うんですけど」
 鈴奈は一瞬考え──
「ごめんなさい。私の担当のクラスにはいなかったわ」
「あ、そうですか。そうですよね。いくらなんでもそこまでの偶然が重なるわけはないですよね」
 本当は重なっていたのだが、鈴奈は言わなかった。
「あ、でもね、名前は聞いた覚えがあるよ。とっても優秀な生徒だって。なんでも、一高はじまって以来の優等生だって」
「そうなんですか。なんか、私の想像通り」
 昌美はクスクス笑った。
「でも、そうすると惜しかったなぁ。金田さんの好きな人を、この目で見ておくべきだった」
「も、もういいじゃないですか、それは」
「ふふっ、そうね」
 鈴奈としても、これ以上圭太の話を続けていると、どこかでボロが出そうな気がして、話を打ち切った。
「あ、そうだ。先生。なにか受験勉強の役に立ちそうな参考書ってありませんか?」
「世界史の?」
「世界史だけじゃなくてもいいんですけど」
「そうねぇ……明日まで待ってくれるなら、ある程度リストにしてくるけど」
「はい、全然待ちます」
「そ。じゃあ、明日までにまとめてくるわね」
「はい、ありがとうございます」
 鈴奈としては、たったひとりでも圭太のことを話せる相手がいて嬉しいのだが、状況が状況だけに、素直には喜べなかった。
 それに、昌美に対してウソをついているという負い目もあった。だからこそ、多少は面倒なことでもやってあげようという気になったのである。
 もちろん、もともとの鈴奈の性格を考えれば、とてもむげには扱えないわけなのだが。
 
 昼のピークが過ぎた頃。
『桜亭』のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
 ちょうどテーブルを拭いていたともみがすぐに声を返す。
「こんにちは」
「あれ、祥子」
 やって来たのは、祥子だった。琴子も一緒である。
「ずいぶん早く来たのね」
「今日は午後の講義が休講になったんですよ。それで、早めに家に帰れたので、来ちゃいました」
「なるほど」
「あの、琴美さんは?」
「琴美さんなら、奥で休憩中」
 それを聞き、祥子は店の奥──住居部へ。
「こんにちは」
「あら、祥子さん。それに、琴子ちゃんも」
「予定よりずいぶん早いんですけど、来ちゃいました」
「休講にでもなったの?」
「ええ、午後丸々」
 祥子は説明しながら、まずは琴子をベビーベッドに寝かせた。
 そこで着させていた上着を脱がせる。ついでに自分も上着を脱ぐ。
「祥子さん。琴子ちゃん、いい?」
「はい」
 もう一度琴子を抱きかかえ、そのまま琴美に渡す。
「ほぉら、琴子ちゃん。おばあちゃんですよぉ」
「ふふっ」
「なんか、私もすっかり『おばあちゃん』になってしまったわ。琴子ちゃんが生まれるまでは、多少抵抗もあったのに」
「そういうものじゃないんですか? うちもそんな感じですから」
「そうね。でも、今はそれをごく自然に受け入れて、なかおつ喜んでる。だって、こんなにカワイイ孫がいるんだもの」
 琴美は、そう言って笑う。
「だけど、最初に琴子ちゃんの名前を聞いた時、正直驚いたの」
「どうしてですか?」
「いくら圭太と祥子さんの子供だって言っても、やっぱり祥子さん、というよりは三ツ谷家に寄るんじゃないかって思ってたから。ところが、実際は全然そんなことなくて、ちゃんとふたつの家、そして、ふたりの子供だってことを名前だけで証明してくれてたから」
「私が最初にそう思ったのは、感謝の気持ちがあったからなんです」
「感謝の気持ち?」
「はい。圭くんという、かけがえのない存在をこの世に与えてくれた、琴美さんに」
「なるほど、そういう感謝ね」
「それに、うちの方は女の子に『子』をつけるというだけで、あとは特にこれというのはありませんでしたから。それならば、というところもありました」
「そういう諸々の理由はあったとしても、私はとても嬉しいわ」
「琴美さんにそうやって認めてもらえると、私も嬉しいです」
 祥子も微笑む。
「あ、でも、祥子さん」
「はい、なんですか?」
「琴子ちゃんが大きくなった時には、どんな説明をするの? そりゃ、圭太と祥子さんの間では問題はほぼ解決しているのかもしれないけど、琴子ちゃんにとってはこれからの問題だから」
「正直に、包み隠さずに話します。私は圭くんと一緒にはなれませんけど、それでも、私と圭くんが愛し合って、愛し合った結果が琴子ですから。それだけは、琴子にもわかってほしいんです」
「そうね。わかってくれるかどうかはそれこそわからないけど、でも、ウソをつくとどこかで綻びが生じるから、それなら正直に話した方がいいわね」
「はい」
 片親であると、なにかといらぬ心配をしなければならない。だが、琴子の場合は片親というわけでも、シングルマザーというわけでもない。それでも、世間はそうは見てくれないのである。
 大きくなって、親のことを理解できるようになった琴子が、そのことをどう考えるかは、まだわからない。
 それでも、圭太も祥子もできる限りのことをしようとは思っていた。
 それが親としての義務でもあるから。
 
 放課後。
 一、二年の吹奏楽部員は、当然のことながら部活がある。休みになるのは次の日からだ。
 とはいえ、特に合奏があるわけではない。とりあえずやるべきことは、アンコン参加メンバーはアンコンのための練習、それ以外の部員は自らの技術の底上げである。
 だからというわけではないが、多少緊張感に欠けた練習になっていた。
 まあ、ごく一部の部員にとっては、たとえ合奏があったとしても、それどころではなかったのだろうが。
 その一部の部員とは、現部長に現副部長、それとふたりのパートリーダーである。
 役職に就いている者がそれでは示しがつかないのだが、年に数回しかないことなので、大目に見るべきだろう。
「なんかさぁ、ものすごく焦れったく感じるのは、私だけ?」
「その気持ち、わかるけどね」
 木管の練習の休憩中、朱美と詩織はそんなことを言っていた。
「だけど、練習をおろそかにして駆けつけたんじゃ、揃ってるメンバーになにを言われるかわかったもんじゃないし」
「まあね。その筆頭にいるのが、先輩だっていうのもまた問題でもあるわけだし」
「圭兄もね、せめてそのあたりの融通をもう少しだけ利かせてくれると、私たちもいろいろ助かるんだけど」
 そう言ってため息をつく。
「そういや、来年はどうなるんだろ」
「なにが?」
「圭兄の誕生日。今年はまだ高校生だからパーティーとかやっても違和感ないけど、卒業しちゃうと、なんか違うかなって」
「そんなことないんじゃないの? 何歳になったって、どんな立場だって、やっちゃいけないという決まりはないんだから」
「そうだとは思うけどさぁ」
「朱美は祝ってあげようとは思わないの?」
「それはない。むしろ、いつまででも祝ってあげたい」
「だったら、そうすればいいのに。私は、たとえパーティーはやらなくても、そのつもりだったけどね」
「それはそうだけどぉ」
 なにを言いたいのかいまいち要領を得ない朱美に、詩織はため息をついた。
「結局、朱美はなにが言いたいの?」
「別に。ただ、ちょっと気になっただけ。まあ、でも、圭兄の彼女が柚紀先輩という時点で、来年以降もなにかしらやることは確定というのが、事実なんだけど」
「それならそれでいいじゃない。どのみち、柚紀先輩が動かなければ、卒業後はそう簡単に物事を進められないはずだから」
「あ〜あ、ホント、どうして圭兄の彼女が私じゃないんだろ」
 言っても詮無きことを、あまり感情を込めずに言う。
「そんなこと、今更言ってもしょうがないでしょ。それに、いろいろな話を聞いてる限りでは、柚紀先輩以外だったら、先輩は未だに誰ともつきあってなかった可能性もあったみたいだし」
「そうなんだよね。そこが問題なんだよ。結局、圭兄を変えられたのは、柚紀先輩だけだった。だから、圭兄は柚紀先輩のことを受け入れた」
「もし仮にそれ以外の別の答えがあったとしても、少なくとも今みたいな状況にはなってないのは間違いないわね」
「それを考えちゃうと、また微妙。もし、私が圭兄の彼女になれてればいいけど、そうじゃなかったら、想いを遂げることはできなかった、という可能性が高いわけだから」
「私なんて、もっとよ。みんなよりもかなり後れを取ってたんだから」
「だからこそ、圭兄の彼女は柚紀先輩でよかったんだろうけど、複雑な心境」
 ふたりは揃ってため息をついた。
「朱美、詩織。そろそろ再開しましょ」
「了解」
 
「圭太。ちょっといいかな?」
 部屋にやって来たのは、パーティーの準備をしていたはずの柚紀だった。
「どうしたの?」
 圭太は、ここ二年と同じように、部屋で邪魔にならないようにしていた。
「パーティーの前に、少し話したいことがあって」
「話したいこと?」
「うん」
 柚紀は、スカートを翻らせながら、ベッドに座った。
「圭太もさ、今日で十八になったわけでしょ? ということは、そろそろあのことを考えてもいいのかな、って思って」
「あのこと?」
「ほら、籍を入れるって話」
「ああ、そのことか。うん、そうだね。もう考えないといけないね」
「それで、具体的にどうしようか?」
「籍を入れるだけなら、実に簡単なんだけどね。僕たちは未成年だから、親の同意書さえあれば、あとは書類を書くだけだから」
 結婚式をしようとすれば大変だが、籍を入れるだけなら、本当に簡単である。
「柚紀の希望としては、いつがいいの?」
「ん〜、いろいろ考えてはいるんだけど、やっぱりクリスマスかなぁって。覚えやすいし、なによりも特別な日だから」
 確かに、クリスマスが入籍日なら、忘れにくいだろう。
「圭太は? 特にこの日がいい、っていうのはない?」
「僕としては特にないよ」
「じゃあ、クリスマスを軸にもう少し詰めてみようか?」
「そうだね。必要な書類も揃えないといけないし」
 今日決めたから、明日、というわけにはいかない問題でもある。
 もっとも、このふたりにとっては何度も話してきていることなので、難しいことはなにもない。
「ね、入籍したら、私はどうしたらいいと思う?」
「どうしたらって、なにを?」
「まずは、名前。私は名字を変えることに、全然抵抗ないから」
「それは、柚紀のいいように決めてくれていいよ」
「そう言われてもねぇ、私もどっちでもいいんだけど」
「じゃあ、とりあえず、しばらくの間は今のままでいたらいいんじゃないかな。まわりもいきなり変えられても困ることの方が多いだろうし」
「やっぱりそうなるのかな。そうすると、卒業までは『笹峰』かな」
 大々的に結婚式を挙げたのならまだしも、入籍だけで、しかもまだ高校生である。そうすると、たとえ戸籍上は名前が変わったとしても、それまで通りでいた方がまわりのためでもある。
「それで、名前のほかは?」
「それはやっぱり、私はどっちに住むべきなのかな、って」
「それって、この前決めなかったっけ?」
「あれはあくまでも入籍する前までのこと。入籍したら、私はこの高城家の家族になるんだから。基本的には誰に遠慮することもないはずよね」
「まあ、そうだね」
「ただ、やっぱりいろいろ事情があるから、そのあたりもじっくり決めないといけないなぁって」
「そこまで決めてるなら、あえて僕に確認しなくてもいいんじゃないの?」
「それはダメよ」
 柚紀は、身を乗り出して否定する。
「だって、これは私と圭太、ふたりの問題なんだから」
「ごめん。そうだね」
「わかればいいの」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「あ、そうだ。圭太」
「ん?」
「ちょっとここへ」
 ポンポンと自分の隣を叩く。
 圭太は、一瞬なにかを考えたが、特に逆らうこともなくそれに従った。
「えいっ」
「おっと」
 柚紀は、圭太を後ろへ倒し、自分もその横へ。
「少しだけ、こうしててもいい?」
「いいよ」
「ありがと」
 
 夕方になり、まずは凛がやって来た。特にやるべきこともなかったので、当然といえば当然だった。
 それからしばらくして、部活を終えた琴絵と朱美が帰ってきた。紗絵と詩織が一緒ではないのは、ふたりは家に帰って着替えて、プレゼントを持ってやって来るからである。
 家が近い紗絵がそれからやって来て、そのあとに詩織がやって来た。
 最後になったのは、やはり鈴奈だった。
 そして、今年もまた圭太の誕生日を祝うパーティーがはじまった。
「ええ、それでは、これからお兄ちゃんの誕生日会をはじめたいと思います」
 司会は今年も琴絵である。この役目だけは、たとえ相手が柚紀であっても譲る気はないらしい。
「まず最初にロウソクの火を消してもらいます」
 今年のケーキは、柚紀と琴絵の合作である。去年より大きく、凝ったものに仕上がっている。もちろん、味の方は保証付き。
 ケーキの上には十八本のロウソクが立てられ、赤々と燃えている。
 圭太は、大きく息を吸い込み──
「ふうーっ」
 一気に吹き消した。
「おめでとう、圭太」
「お兄ちゃん、おめでとう」
「おめでとうございます、先輩」
 口々にお祝いの言葉を述べる。
 圭太はそのどれもに律儀に応えている。
 ケーキを切り分け、ジュースを飲み、料理を食べ、雰囲気を楽しむ。
 今、この場にいる誰もが圭太の誕生日を心から祝っている。誰ひとりとして、上辺だけで祝っている者はいない。だからこそ、その場の雰囲気はとてもよいものとなっていた。
 主賓である圭太の側には、必ず誰かがいる。
 とはいえ、ずっと一緒というわけでもない。そのあたりの関係は、実にきっちりしているのが、この圭太と女性陣の関係である。
 ただ、今年は例外的に琴子だけはずっと圭太と一緒だった。その理由は、圭太が琴子を抱いている限り、絶対にぐずらないからである。
 もっとも、琴子としては大好きな父に抱かれて、いつも以上にご機嫌だっただけなのだが。
 圭太が全員と一回以上話したところで、琴絵が再び前に出た。
「えっと、このあたりでプレゼント贈呈です」
 それぞれ、自分のカバンやバッグの中からプレゼントを用意する。
 いつもならまずは琴美から渡すのだが、今年はあいにくとすでに渡しているので、それはなしになった。
「去年は年功序列で、ということだったので、今年は逆からにします。というわけで、はい、お兄ちゃん。私からのプレゼント」
 琴絵は、小さな封筒と少し大きめの紙袋を渡した。
「開けてもいいかい?」
「うん、いいよ」
 まず封筒を開けると──
「お役立ち券3?」
「ほら、去年は2だったから、今年は3なの。去年以上になんでもするから、遠慮なく使ってね」
 琴絵の性格を考えれば、とにかくこの大好きな兄のために、どんな些細なことででも役に立ちたいと思っているので、ある意味ではそのプレゼントは当然のものと言えた。
 もうひとつの紙袋を開けると、健康リフレッシュセットなるものが入っていた。
 どうやら、様々な健康グッズの詰め合わせのようである。
「次は、私ですね」
 二年トリオの最初は、詩織である。
 詩織のそれは、それほど大きくない袋に入っており、とても柔らかかった。
 中身は、手編みのマフラーと手袋だった。どちらもしっかりと編み込まれていて、詩織の丁寧な仕事がパッと見だけでわかった。
 すでにいくつも手編みのものを持っている圭太も、その出来映えにはなかなか驚かされた。
「次は私です」
 次は、紗絵。
 紗絵のは、やはりそれほど大きくない袋に入っており、中には箱が入っていた。
 その箱を開けると、時計が入っていた。しかし、それは普通の時計ではない。時計の大部分がおもちゃのプラネタリウムの投影機みたいなものになっていた。
 本物には遠く及ばないが、それでも疑似体験だけはできる。
「じゃあ、次は私。はい、圭兄」
 朱美のは、小さな袋がふたつと、それより少し大きな袋がひとつだった。
 小さな袋には、携帯のストラップとお守りのようなものが入っていた。お守りは特にどこかの神社のものではなく、朱美手作りらしい。
 少し大きな袋には、それなりに値段の張りそうな財布が入っていた。
「えっと、次はあたしになるのかな?」
「そうよ」
「じゃあ、はい、けーちゃん」
 次は凛。
「見劣りしてないといいけど」
 凛のプレゼントは、ふたつ。ひとつはそれほど大きくない包み。
 その中には、CDが入っていた。クラシックのCDだ。
「あ、これ」
「前にけーちゃんがまだ持ってないって言ってたやつだよ」
「よく覚えてたね」
「そりゃ、けーちゃんのことだし」
 もうひとつは、男性用の化粧品だった。最近は数もずいぶんと増え、また買える場所も増えているので、かなりポピュラーになっているが、さすがに圭太は持っていない。
「それと、こっちはお姉ちゃんから」
「蘭さんから?」
「うん。なんか、どうしてもけーちゃんに渡してほしいって」
「そっか。じゃあ、ありがたくちょうだいするよ」
 結局、文句を言いながらも蘭からのプレゼントを律儀に渡すところは、凛らしいところであった。
「次は私ね。はい、圭太。誕生日おめでとう」
 次は、大本命の柚紀。
 柚紀のプレゼントは、それを見ただけでどのようなものかわかるものだった。それは、これからの時期でも着られるジャケットと、それにあわせたシャツだった。どちらもなかなかのもので、かなり奮発したことが容易にわかった。
「本当はね、今年もなにか自分で作ろうかなって思ってたんだけど、毎年いくつも渡してるとそのうちネタ切れになりそうだったから、今年はそれにしたの」
 理由はそういうことである。
「じゃあ、次は私と琴子から」
 祥子からもひとつではなかった。
「これは……琴子の手形?」
「うん。琴子はまだなにもできないから、せめて手形くらいはと思って。コメントはもちろん私が書いたんだけどね」
 色紙に琴子の小さな手形が押され、それを飾るように祥子が圭太にコメントを書いていた。
 琴子が成長した時にその色紙を見れば、どれくらい大きくなったかわかるだろう。
「琴子。ありがとう」
 圭太がそう言って琴子の頭を撫でると、琴子は嬉しそうに手足を動かした。
 もうひとつは、ティーカップのセットだった。とてもシックなデザインで、選んだ祥子のセンスの良さがよくわかった。
「えっと、次は私だね」
 次は幸江。
 プレゼントは、スニーカーとティシャツだった。スニーカーはごく普通のものだったが、ティシャツのデザインは、なかなか個性的だった。
 夏にそれだけで着るかどうかは、かなり悩みそうである。
「そんじゃ、次は私。はい、圭太」
 ともみのプレゼントは、ジーパンとそれにあわせたシャツ、それとアクセサリーだった。
 どうやら、それを着て、身に付けて、デートに誘ってほしいらしい。
 誰もが少なくともそう思っているので、特に誰もなにも言わない。
「最後は、私だね。はい、圭くん」
 鈴奈のプレゼントは、結構大きな袋に入っていた。中には、明らかに手作りと思われる半纏が入っていた。
 手編みのセーターも大変ではあるが、こういう半纏もかなり大変である。
 相当の準備期間を設けていなければ、できないだろう。
 なにはともあれ、全員圭太にプレゼントを渡し終え、とりあえずひと安心というところだ。
 今年もかなり気合いの入ったプレゼントだっただけに、圭太としてはいかにしてお返しをするか、悩むところである。
 もちろん、あくまでもそれは気持ちの問題でしかないのだが、生真面目な圭太としては、とことん真剣に考えてしまうのである。
「ええ、では、残りの時間は特にこれと決めずに、自由に過ごしてください」
 
 パーティーが終わり、それぞれが家路に就き、高城家には家族プラス柚紀だけとなっていた。
 琴絵と朱美は、学校と部活、さらにはパーティーと立て続けだったために、いつもより若干早い時間に寝てしまった。
 琴美も今日は早めに休むと言って、先のふたりが寝た直後くらいに部屋に戻ってしまった。
 結局、まだ起きているのは圭太と柚紀だけだった。
「疲れた?」
「どうして?」
「なんか、ボーッとしてるから。圭太がそんな状態なのは珍しい」
「僕としては、そんなことはないんだけど」
 そうは言いながら、圭太はベッドに横たわっていた。
「風邪?」
 柚紀は、少しだけ心配そうに圭太の額に手を当てた。
「ん〜、特に熱があるとか、そういうことじゃないわね。体がだるいとかは?」
「特には。ちょっと気怠いくらい」
「それは、この時間だもんね。じゃあ、本当になんでもないのか」
 ある程度納得はしたようだが、まだ完全にとはいかないようである。
「お祝いの日に言うのもなんだけど、いきなり倒れたりしないでね。圭太の場合、本当にギリギリまで誰にもわからせないようにしようとするから」
「大丈夫だよ。今日はみんなが祝ってくれたことも重なって、ちょっと熱に浮かされてるだけだから」
「それならいいけど」
 柚紀も信用していないわけではない。ただ、つい先日に琴美が倒れたばかりで、今度は圭太が、となったらいったいどうなるのか。考えたくもないことなのだが、考えてしまう。
「それでもまだ心配なら、そうだね。僕が寝るまで、抱きしめてくれると嬉しいかな」
「それくらいならいくらでもしてあげるよ」
「ありがとう、柚紀」
 圭太は、そう言ってにっこり笑った。
 
 六
 アンコンの地区大会も終わり、一高では後期中間テストがはじまっていた。
 アンコンの結果は、出場した三つとも県大会出場を決めた。やはり、地区大会レベルなら問題はないようである。ただ、その先はまだわからない。
 どのみち県大会まではまだ時間があるので、それまでになんとかするしかない。
 テストはすでに前半二日間が終わっていた。今回は暦の関係上、休みが三日もあるので、勉強はとてもしやすい。もっとも、生徒たちにとっては、一刻も早く終わらせたいという気持ちの方がはるかに強いのかもしれないが。
 そんな中間テスト三日目の十一月二十二日。
 その日は、朝からとても寒かった。この秋はじめて天気予報でも寒い一日になると予報していたくらいだ。
 天気はとてもいいのだが、冷たい北風が強く吹いており、道行く人々も自然と背中が丸まっていた。
 そんな外の世界とは無縁な学校という小さな世界では、生徒たちが目の前にある問題と格闘していた。
 その日の最後の科目で、それが終わればとりあえず一時的に苦痛から解放される。
 チャイムが鳴り、テストが終わった。
 答案を提出して、ようやくテストから解放される。
「圭太。帰ろ」
「うん」
 テスト期間中は、生徒の流れは二種類に分かれる。
 ひとつは、真っ直ぐに帰宅する者。もうひとつは、学校に残る者。
 どちらにしても勉強するのだが、方法は人それぞれである。
 圭太と柚紀は、前者である。もちろん、教室なり図書館なりで居残りで勉強してもいいのだが、やはり慣れた方法がいいようである。
「今日はどうだった?」
「悪くはないね」
「そっか。じゃあ、今回もまた、圭太に勝てないのかぁ」
 前々から一度は圭太に勝ちたいと言っていた柚紀だが、未だに一度も勝てていなかった。定期テストは今回が最後となるので、ここで勝てなければもう永遠に勝てないわけである。
「どうやったら、圭太みたいに効率的に勉強できるんだろ」
「さあ、それを僕に訊かれても困るよ。僕だってわからないんだから」
「それはそうなんだけどね」
 柚紀としても、それは十分わかっていた。それに、たとえ圭太と同じ方法で勉強したとしても、圭太と同じ点数を取れるかどうかはわからないのである。
「まあ、いいや。それよりも、今日は少しくらい勉強を忘れて、のんびりしないと。明日はせっかく休みなんだから」
 テスト最終日は、あさってである。間に祝日があるので、確かに勉強も根を詰めてやる必要はないのかもしれない。
 学校からいつもの道を歩き、大通りまで出てきた。あとは横断歩道を渡って帰るだけ。
 信号が青になり、ふたりは横断歩道を歩き出した。
 と──
「あっ……」
 圭太が、なにもない横断歩道で、躓いた。
「大丈夫、圭太?」
「あ、うん、大丈夫。ちょっと足がもつれただけだから」
 すぐにいつも通りに歩き出す。
 だが、足腰の不自由な年寄りや、どこか怪我している者ならわかるが、圭太のように健康で運動神経もいい者が、なにもない平坦な道で躓くのは、あまりないことである。
 柚紀は、そのことを少しだけ気にしながらも、それがなにかに繋がるとは考えていなかった。
 家に帰ると、琴絵と朱美はまだ帰っていなかった。テストは同じ時間に終わっているので、もうそれほどしないで帰ってくるはずだ。
 店の方には、幸江が入っていた。ともみは講義があるため、遅番のようである。
 とりあえず制服から着替え、それから昼食の準備をする。
 簡単な準備は琴美がしていたので、圭太たちがすることはそれほど多くなかった。
 準備をしている最中に、琴絵と朱美が帰ってきた。一緒に帰ってきたので、どうやらどこかで一緒になったようである。
 準備を終え、琴美たちにも声をかける。先に昼食を取るのは、幸江のようである。
「お兄ちゃん。午後はどうするの?」
「ん、とりあえずのんびりしようとは思ってるよ。明日はテストないから」
「当然、柚紀さんも一緒なんですよね?」
「うん。それこそ明日は休みだからね」
 そう言って柚紀は微笑む。
「あ、そういえば、圭太」
「なんですか?」
「祥子からメールがあって、午後に遊びに来るってさ。なんか、午後の講義が休講になったって」
「わかりました」
「ちっ、祥子先輩来るんだ」
「あのさ、柚紀。さすがにそれはどうかと思うわよ」
「あはは、本気で言ってるわけじゃないですから」
「……本気だったら、さすがにイヤよ」
 昼食後、琴絵と朱美は勉強のために部屋にこもった。
 圭太と柚紀は、リビングに残ってのんびりしていた。
「ね、圭太」
「ん?」
「今年のクリスマスは、どうするつもりなの?」
「どうするって、柚紀と過ごすつもりだけど」
「ああ、うん、イヴじゃなくて、当日のこと。またパーティーやるのかなって思って」
「そっちのことか。そうだね、みんながやりたいと思ってるなら、やってもいいと思うけど」
「やりたいと思ってるに決まってるじゃない。みんな、一分一秒でも長く、圭太と一緒にいたいと思ってるんだから」
 なにを当然のことを、という感じで柚紀。
「じゃあ、みんなに確認してみるよ。それから具体的なことを決めよう」
「そうだね。それがいいかも」
 クリスマスまであと一ヶ月。そろそろ具体的な計画を立てはじめても、早すぎるということはないだろう。街も、次第にクリスマス色に染まってくるわけだから。
「ん……ふわぁ……」
「眠いの?」
「あ、別にそんなことはないんだけど……」
 圭太は、苦笑混じりに言う。
「膝枕、してあげる」
 ソファの上で、圭太は柚紀に膝枕をしてもらう。
「ねえ、圭太。本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ。今はテスト中だから、少し寝不足なだけ。心配することはないよ」
「それならいいけど。万が一にも倒れたら、許さないんだからね」
「肝に銘じておくよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 
 その日の夜。
 昼過ぎに祥子がやって来て、夕方前にはともみがバイトでやって来た。夕食はそのふたりも加わっての、賑やかなものとなった。
 夕食を作ったのは、柚紀だった。途中で琴絵と朱美が手伝いを申し出たのだが、柚紀はそれを断った。やはり、妙な使命感に燃えているようである。
 夕食後、圭太はともみたちをそれぞれ送っていくことにした。ちなみに、柚紀も一緒である。
「それにしても、最近の柚紀は、本当に圭太と一緒にいるわね。なにか心境の変化でもあったの?」
「別にそういうわけじゃないんですけど。ただ、部活も引退して、せっかく時間ができたわけですから、それを有効に使おうと思って」
「なるほどね」
「そういうことを自然にできる柚紀が、ちょっと羨ましいなぁ」
「これが、彼女の特権ですから」
 柚紀は、わざとらしく圭太の腕を取る。
「明日は、どうするつもりなの?」
「僕は、特には。とりあえず、あさっての分の勉強はしないといけないですけど」
「柚紀は?」
「私も、勉強はしますよ。なにもしないでいい点数を取れるほど、頭良くないですから」
「でも、それだけじゃない、と」
「それはもちろん。先輩だって、私と同じ立場だったらそうすると思いますよ」
「それを言われると、なにも言い返せないわね」
 ともみも祥子も苦笑する。
「このテストが終わったら、もう学校の行事はほとんどないのよね」
「そうですね。あとは、卒業式くらいです」
「本当は入試があるんだけど、ふたりには関係ないし」
「関係はありませんけど、その分いろいろ考えなければなりませんから」
「なるほどね。それはそれで、ふたりに与えられた責任というわけか」
「はい」
 なにもしないでいられるわけではない。
 やることが違うだけで、やらなければならないことはある。
「それを理解している圭くんと柚紀は、ちゃんとこれからも目的を持って進んでいけるよ。道は、ひとつじゃないんだから」
「そうだといいんですけど」
 それから少しして、まずは三ツ谷家に到着した。
「じゃあ、またね」
「バイバイ、琴子ちゃん」
 祥子と琴子を送り、今度は安田家へ向かう。
「柚紀はさ、卒業したらみんなの関係はどうなると思ってるの?」
「ん〜、とりあえずは変わらないんじゃないですか? すぐにどうこうなるほど、先輩も含めてみんなの想いは柔なものじゃないですから」
「でも、それは本意ではないでしょ?」
「そうですけど、でも、私だけがそう思っていてもダメですから。圭太と、それぞれが納得できない限りは、変わりません」
「結婚式は、やるの?」
「それはまだ決めてません。できればやりたいですけど、高校卒業したばかりの私たちには、先立つものがありませんから」
 現実を見据えれば、当然そうなる。
 その問題をどうにかできなければ、結婚式など無理である。
「いずれにしても、来年の春には、いろいろ変わるわね」
「変わるとは思いますけど、根本的なことは変わりませんよ。圭太が、変わらないと思いますから」
「あはは、それはそうね。圭太が変わらない限り、私たちも変わらないものね」
「私としては、なんとか圭太を変えようと思ってるんですけどね。私だけを見てくれるように」
「そうなるかどうかは、すべて圭太次第、というわけか」
 今の状況を作り出してるのが圭太ならば、それを変えるのもやはり圭太である。
 それは、柚紀とともみだけでなく、全員が理解している。
「圭太としては、来年の春はどんな春になると思ってるの?」
「今のところは、想像もつかないですね。明らかに今年とは違いますから」
「じゃあ、こうありたい、とかいうのはある?」
「そうですね……柚紀をはじめとして、僕に関わっている全員が、少しでも幸せであると感じてくれてればいいですね」
「幸せ、か」
「なにをもって幸せであるかは、僕にもわかりません。だから、きっと目には見えないとは思いますけど、僕が見て勘違いでもいいので、今が幸せなんだなって思えるように、僕もがんばろうと思ってます」
「それは違うわよ、圭太」
「違いますか?」
「そう。圭太はね、がんばる必要はないの。がんばってやったことなんて、所詮普段のこととは違うんだから。いつもと同じように過ごして、その中で圭太が望んでいる形になるように、ほんの少しだけ行動すればいいの。もちろん、がんばる必要はないわよ」
 ともみは、とても優しい笑顔でそう言う。
「圭太はね、がんばりすぎ。がんばりすぎて、みんな心配しちゃうくらいなの」
「それはそうですね。私もそう思います。もう少し私たちを頼ってくれてもいいんですけどね」
「それが簡単にできないのもわかるけど、もう少し変わらなくちゃ。ね?」
「……はい」
 圭太は、しっかりと頷いた。
 ともみが家の中に消えると、圭太と柚紀はふたりだけとなった。
 もう十一月も下旬である。
 陽が落ちてしまったこの時間では、だいぶ寒くなっている。
 ふたりともコートを着込み、しっかり防寒対策を取っている。
「今年の冬は、寒いのかな? あったかいのかな?」
「さあ、どうなんだろうね。個人的には、冬は冬らしい方がいいんだけど」
「でも、寒すぎるのはイヤだしなぁ」
「寒くないと、冬らしくないと思うよ」
「まあね。確かに、寒ければ堂々とくっついて歩けるし」
 そう言って圭太の腕を取る。
「あれ?」
「どうしたの?」
「圭太、顔赤くない?」
「そうかな?」
「というか、熱あるんじゃない?」
 柚紀は、すぐに手袋を外し、圭太の頬に触れた。
「ん〜、熱があるほどじゃないか。でも、少し熱いかな」
「別になんともないんだけどね」
「ダメダメ。そういう自覚症状のないのが一番問題なんだから。ほら、早く帰ろう。それで、今日はもう休むの」
「わかったよ」
 柚紀に引っ張られ、圭太は家路を急ぐ。
 家に帰ると、直ちに風呂に入り、休むことを強要された。
「ほら、圭太はもう寝る」
「わかったから」
 柚紀の有無を言わせない行動に、圭太は苦笑混じりに従う。
「今日はゆっくり休んでね」
「ありがとう、柚紀」
「うん」
 圭太が目を閉じ、おとなしくなったところで、柚紀は一度部屋を出た。
「……なにも、ないよね……本当に……」
 だが、その表情はまったく晴れていなかった。
 
 七「高城圭太」
 珍しく、夜中に目が覚めた。
 やっぱり、柚紀に早めに寝かされたからかな。
 その柚紀は、今日は僕の隣にはいない。あれだけ僕のことを心配していたわけだから、一緒に寝るのははばかられたんだろう。たぶん、琴絵と一緒に寝てるはず。
「だけど……」
 頭が重い。柚紀じゃないけど、自覚症状がなかっただけなのかもしれない。
 確かに、少し前から体調が微妙だったけど、それが一気に出てきた感じがする。
 汗も掻いてる。
「……のど、乾いたな」
 あまり起き上がりたくはなかったけど、あまりののどの渇きに、水を飲もうと思った。
 もうみんな寝静まってる時間だから、必要最低限の電気だけ点けて、静かに台所へ。
 コップに水を注ぎ、一気に飲み干す。
「ふう……」
 冷たい水が、全身に染み渡る。
 少しだけすっきりした感じがする。
 コップを戻し、台所の電気を消す。
 このままなら、今夜一晩しっかり休めば、明日には治ってるはずだ。
 僕が倒れると、本当に大勢に迷惑をかけるから。
 僕も、そのことをもう少ししっかり自覚しないといけないな。まだまだ僕に課されている責任の重さを、理解できていないのかもしれない。
 こんなことじゃいけないのに。
 僕には守るべきものがたくさんある。
 だから──
「え……?」
 不意に、足に力が入らなくなった。
 音が消え、すべての感覚が消えていく。
 ヤバイ。
 そう思ったけど──
「っ!」
 僕の意識は、そこで途切れてしまった。
inserted by FC2 system