僕がいて、君がいて
 
第三十五章「秋晴れの空に」
 
 一
 一高では、後期がはじまった。
 新学期とはいえ、あまりそれらしく感じないのは、普段の生活に変化がないせいだろう。
 世間が休みではないので、まわりが特別変わることはない。その中で数日間を過ごしてきても、あまり目新しさは感じないはずである。
 それでも短い休みであることに変わりはなく、久しぶりに会う仲間もいる。
「けーちゃん、会いたかったよぉ」
 教室に入るなりいきなりそう言ってきたのは、もちろん凛だ。
「こらこら、そこ。どさくさに紛れて圭太に抱きつこうとしない」
「……ちっ」
「舌打ちするな」
 凛の額を軽く小突き、柚紀はため息をついた。
「秋休みはどうだった?」
「ん、それなりに楽しめたかな。久しぶりに向こうの友達にも会えたし」
 凛は、秋休みに入るとすぐに、この春まで住んでいた街へ行っていた。前の学校も二期制だったために、完全ではないにしろ、休みが重なったのである。
 それもあって、凛は久しぶりにそちらへ行っていたのだ。
 もちろん、本当は圭太と一緒にいたかったのだろうが、圭太はあいにくと毎日部活があった。そうなると、なかなか時間は取りにくい。だからこそ、案外あっさりと決断できた。
「ずっと向こうにいればよかったのに」
「あによぉ、今日はやけに絡んでくるわね」
「別にそんなことないわよ。被害妄想ね、それは」
「けーちゃんからもなにか言ってよ」
「圭太は私の味方だもの。凛の味方なんてしないわ」
 ふたりの間で、圭太は困った笑みを浮かべている。
「ま、いつものことはそのくらいにして、けーちゃんたちはどうだったの?」
「いつもとあまり変わらない休みだったかな。部活も毎日あったし」
「そっか。全国って、今月だったよね?」
「うん。二十九日が高校の部」
「予定があえば応援に行くんだけどなぁ」
「無理しなくてもいいよ。会場だって遠いし」
「遠いって、どこでやるの?」
「東京の普門館ていうところ」
「普門館? それならよく知ってるよ。前の家からそんなに遠くなかったし」
「そうなの?」
 さすがは元東京人というところか。ずっとこっちにいたら遠いとしか感じない場所でも、その場所をよく知っていればそこまでは思わない。
「普門館なら、なんとかなるかな。向こうの友達に泊めてもらうこともできるし」
「別にそこまでしなくてもいいのに」
「いいじゃない、別に。それに、最後のコンクールなんだから、その姿をしっかりと目に焼き付けておかないと」
「ふ〜ん……」
 自分も参加する立場なので、柚紀にはそこまでしようと思う凛の気持ちを少しだけ測りかねていた。
 ただ、応援しに来てくれるという気持ちまではバカにすることはできないので、それ以上はなにも言わなかった。
「けーちゃんたちは、その全国大会で引退なんだよね?」
「うん、そうだよ。うちの部は伝統的に、全国大会に出られたらそこまで、出られなかったら文化祭まで。そう決まってるんだよ」
「それはそれで、結構自信たっぷりな伝統だよね」
「ん?」
「だってさ、普通は全国大会に出られない学校の方が多いわけでしょ? どれくらい参加してるのかはわからないけど。で、それでもなおそんな伝統を代々受け継いでるわけだから、すごい自信だなって思って」
 圭太と柚紀は、今まで考えもしなかったことを言われ、顔を見合わせた。
 だが、実際は凛の言う通りである。今でこそ全国大会の常連校になりつつある一高ではあるが、過去もそうだったかといえば、決してそうではない。かつては、関東大会ですら厳しい時代もあったのだ。
「それはたぶん、先輩たちの気持ちの表れだったのかもしれないよ」
「気持ちの?」
「そう。たとえ全国大会から遠のいていても、そういう伝統があるってことをみんなが考えてくれれば、それに向けて努力を続けてくれるって、そう考えてたのかも。今年は違うけど、年によっては全国大会の方が文化祭よりもあとの場合もあるし。一日でも長く部活を続けようと思ったら、やっぱり全国大会に出ないとダメだから」
「なるほど。そういう考え方もありか」
 凛は、得心という感じで頷く。
「ただ、実際のところはわからないよ。いつからの伝統なのかも定かではないし」
「部史、みたいなのはないの?」
「残念ながら。ただ、コンサートが今年で四十五回、つまり四十五年間続いてるわけだから、おそらくそれと同じくらいの歴史はあるんじゃないかな」
「約四半世紀か。ま、そこまで古いと最初の思惑もわからなくなるのも当然か」
「そうだね」
 理由はどうあれ、今現在部活に所属している圭太たち、さらには後輩たちがその伝統をどう捉えるかが問題なのである。
 そして、少なくとも圭太たちはその伝統をいい方に捉え、見事全国大会出場を果たしたのである。
「あ、そうだ。全然話は変わるんだけど、けーちゃん」
「ん、なに?」
「来週の月曜って、時間ある?」
「来週の月曜?」
 圭太は頭の中にカレンダーを思い浮かべる。
「十日……ああ、そうか。うん、今のところは部活以外はなにもないと思うよ」
「じゃあ、その部活が終わったあとでいいから、あたしにつきあってくれない?」
「ちょっとちょっと、凛。なに勝手なこと言ってるのよ」
 そこで、黙って聞いていた柚紀が口を出してきた。
「勝手って、わざわざあんたもいるところで約束しようと思ってるんだから、感謝してよね」
「なっ……なによ、その言い方」
「だって、あんたがいないところで約束したら、間違いなく『裏切りだーっ』とか、『抜け駆けだーっ』とか言うでしょ? だから、目の前で言ってるの」
「う……」
 そう言われてしまうと、さすがの柚紀も反論できない。
「そ、それはそれでわかったけど、だけど、なんで来週の月曜なのよ?」
「誕生日だから」
「誰の?」
「あたしの」
「…………」
 柚紀は、黙ったまま凛と圭太の顔を見る。
「……そうなの?」
「って、なんであたしがそうだって言ってるのに、けーちゃんにわざわざ確認するのよ」
「いや、なんとなく」
「まったく……」
「じゃあ、誕生日だからデートしようってこと?」
「別にデートじゃなくてもいいのよ。けーちゃんに祝ってもらいたいだけ」
 そう言ってにっこり笑う。
「ね、けーちゃん、いいでしょ?」
「僕は構わないよ」
 言いながらも、一応柚紀を気にする。
「……はいはい。いいわよ。好きにすれば」
 柚紀も、さすがにそれ以上駄々はこねられないと踏んで、素直に認めた。
「じゃあ、けーちゃん。詳しいことは今週末にでも決めようね」
「そうだね」
 凛は、スキップでもしそう勢いでいったん自分の席に戻った。
「まったく、あんなにはしゃがなくてもいいのに」
「まあまあ、柚紀も抑えて抑えて」
「わかってるわよ。でもさ、よく凛の誕生日、覚えてたわね」
「ああ、うん。それにはいろいろ理由があるんだけど、一番の理由はやっぱり十月十日だからかな。すごく覚えやすいし」
「なるほど」
 その『いろいろな理由』も気になった柚紀ではあるが、とりあえず今は訊かないことにした。
「あ〜あ、来週の月曜日はひとりかぁ。淋しいなぁ……」
「……あのさ、柚紀。わざとらしく言うの、やめない?」
「だってぇ……」
「……わかったよ。柚紀にはその代わりの穴埋めをなにか考えるから」
「ホント?」
「ホントだよ」
「あはっ、ありがと、圭太」
 現金な柚紀の姿を見て、圭太はただただ苦笑するしかなかった。
 
 新学期最初の日とはいえ、授業はほとんどいつも通り行われる。違うのは、朝一番に始業式があることくらいだ。
 授業が終わると、部活に所属している者は部活へ、それ以外の者はそれぞれの用事のために動く。ただ、その中でいつもと違うことをしている者がいる。それは、来月に迫った一高祭に向けて、準備を行っている者たちである。
 まだ一ヶ月も先じゃないか、とも思うのだが、実際一ヶ月などあっという間だ。早め早めに動かなければ、やりたいことはできなくなる。特に三年は予備校だの模試だのがあるから、余計である。
 圭太たちはその姿を横目に、いつも通り部活に向かった。
 吹奏楽部にとっては、前日にも部活があったので本当にいつも通りの部活である。
 合奏は菜穂子の都合で行われなかった。その代わり、パート練習がみっちりと行われ、むしろ合奏より大変だったかもしれない。
 トランペットでは、圭太が先頭に立って練習を行った。
 ただ、圭太自身も自由曲のソロなどそれぞれに練習したいところもあったために、はっきり言えばいつもよりは幾分楽な練習となった。
「ん〜、さすがに疲れたなぁ」
 夏子は、楽器を片づけながら首や肩をまわした。
「そんなに疲れた?」
「ほら、合奏だとほかのパートがやってる時には私たちはやらなくていいでしょ? でも、パー練の場合はそういうわけにはいかないから。吹いてる時間は確実に長くなるし」
「なるほどね。でも、緊張感という点で言えば、合奏の方が上だと思うけど」
「ああ、それは圭太は、でしょ。でもね、私たちは違うのよ。先生の指導も圭太の指導もどっちも大変だから。ね、紗絵?」
「えっ、わ、私ですか?」
 いきなり話を振られ、紗絵は慌てる。
「紗絵はそう思わない?」
「えっと……そのぉ……」
 正直に言えばそう思っているのだが、紗絵の心情としてはそれを正直に言うのははばかられるのである。
「和美や明雄なんて、終わった途端にぐったりしてたし」
「そんなに厳しくしてるつもりはないんだけどなぁ」
「ま、いつもよりは楽だったけどね。ただ、それは些細な差よ。集中砲火を浴びたあのふたりにとっては、あまり実感はなかったと思うわ」
 そう言って夏子は苦笑する。
「う〜ん、もう少し方法を考えた方がいいのかな?」
「別にそこまでする必要はないと思うわ。それに、あと少しなんだから今更よ」
「それもそうか」
「ただね、できればもう少しだけ厳しくしないであげると、多少はやる気も出てくるかもしれないわよ」
「難しいね、それは」
「あはは、かもね」
 圭太としてはできればそうしたいのだが、それをしたせいで後悔することになるのがイヤなのである。できることはすべてやって、その上で本番に臨みたい。
 特に今年は最後なので余計にそう思っていた。
「さてと、片付けも終わったし、私は先に帰るわね」
「おつかれ、夏子」
「おつかれさまです、夏子先輩」
「おつかれ」
 夏子が帰ると、圭太も楽器の手入れを終え、ケースにしまった。
「あの、先輩」
「ん?」
「私は別に、先輩の指導が厳しくてもいいですから」
「心配しなくても、必要以上に厳しくすることはないよ。それに、紗絵」
「はい」
「ちゃんと練習して、弱点や欠点をなくせば僕が指導することなんてなくなるんだから」
「……そういえば、そうですね」
「というわけだから、是非ともそうなってほしいよ」
「……はい、がんばります」
 紗絵としては、指導云々は正直言えばどうでもいいのである。圭太と一緒の時間を過ごし、圭太に見てもらえる。それが大事なのである。たとえ、自分にとってつらいことででもである。
「ほら、そんな顔しない。別に僕は怒ってるわけでも、叱ってるわけでもないんだから」
「あ、いえ、別に、そんな……」
「引退するまでに、あと何回指導できるかはわからない。だからこそ、ちょっとだけ僕の願望を口にしただけなんだよ」
 そう言って圭太は笑う。
 だが、紗絵は笑えなかった。考えないようにしていた事実を、突きつけられてしまったから。
 中学の時は違った。確かに引退した時は淋しかったが、同じ高校にさえ入れれば、また一緒にできるとわかっていた。だから、受験勉強もがんばれた。
 でも、今回は違う。圭太は、その先へは進まない。可能性はゼロではないが、一緒にできる機会はもうほとんどないだろう。
 それを考えただけで、胸が潰れそうになるくらいつらく、淋しかった。
「……本当に紗絵は、しょうがないな……」
 そんな紗絵の心の動きをどれだけ理解しているのかはわからないが、圭太は少しだけ真面目な表情で紗絵の頬に手を添えた。
「考えるな、とは言えないし、言わないよ。でも、今からそれを考えてどうにかなる問題かな? ならないよね? だったら、今できることを精一杯やって、それから先のことを考えてもいいと思うんだ。少なくとも僕たちには目標があるんだから」
「……はい」
「よし」
 にっこり微笑む。
「パパッと片づけて、音楽室も閉めて、帰ろう」
「はい」
 
 圭太たちが家に帰ると、リビングに見知った顔があった。
「おかえり」
 そこにいたのは、鈴奈だった。
 スーツ姿なので、仕事帰りに寄った、というところだろう。
「珍しいですね、月曜日にしかも仕事帰りにここへ寄るなんて」
「ん、ちょっとね」
 鈴奈は、曖昧に微笑んだ。
「とりあえずみんな、着替えてきたら?」
 というわけで、圭太たちは一度部屋に戻り、着替えた。
 最初に着替え終えた圭太は、リビングで少しだけふたりきりで話した。
「なにかあった、という感じですね」
「やっぱりわかる?」
「ええ。とても疲れてる感じがします」
「そっか。圭くんにはわかっちゃうか」
 修行が足りないね、と言って苦笑する。
「ね、圭くん。このあと、私につきあってくれる?」
「いいですよ。喜んで愚痴聞き係になります」
「ふふっ、ありがと」
 それからすぐに琴絵と朱美が下りてきた。
 なし崩し的にいろいろな話題が降って湧き、和やかな、いつもの光景となる。
「鈴奈さん」
「ん、なに?」
「鈴奈さんて、高校生の頃はどんな感じだったんですか?」
 不意に、琴絵がそんなことを訊いた。
「あ、私も興味ある」
「今の鈴奈さんを見てると、高校生の頃はどんな感じだったのか、想像しやすくもあり、想像しにくくもあるので」
「こら、ふたりとも。そんなことを言って鈴奈さんを困らせるんじゃない」
「お兄ちゃんは興味ないの?」
 鈴奈は、じっと圭太を見つめる。
「……ないこともないけど……」
「だよね?」
 鬼の首を取ったように喜ぶ琴絵。
「それで、どんな感じだったんですか?」
「ん、そうだなぁ……あまり面白みのない高校生、だったかな」
「面白みのない?」
 琴絵と朱美は首を傾げた。
「言い換えれば、つまらない平々凡々とした高校生、ってこと。特別勉強ができたわけでもなく、運動ができたわけでもなく、人を惹きつけるようななにかを持っていたわけでもなく。ただ受験して受かって、流れに逆らわず進級して、いつの間にか卒業して。まあ、ちょっと極端な言い方だとは思うけどね、それは」
「でも、それって大多数の高校生に言えることじゃないんですか?」
「うん、そうだと思う。誰から見ても『特別』な高校生なんて、ほんのひと握りだけだろうから。ただね、問題はそこから抜け出そうと努力したかどうか、だと思うの。なんのためでもいいから、ほんの少しでもいいから、努力したか。私はね、それをやってこなかった」
「…………」
「正直言うと、自分が嫌いだったのよ。そして、高校を卒業してまで嫌いだった自分のことを知ってる人が大勢いる向こうにいたくなかった。それだけは自覚してたの。だから、ここの大学を受けた。もちろん、合格できるかどうかはわからなかったけどね」
 鈴奈は、自嘲する。
「ただ、結果的にそのネガティブな行動が今を生み出してる。大学に入り、この『桜亭』でバイトをして、圭くんや琴絵ちゃんたちと出逢った。なにがどう転ぶかわからないとは言うけど、本当にその通りだと思うなぁ。高校時代を知ってる誰かが見たら、たぶんそう言うだろうし」
「あ、でもでも、鈴奈さんは高校生の頃から綺麗だったんじゃないですか? だったら、そういうことではそれなりにいろいろあったんじゃないかな、って思うんですけど」
 話が少し続けにくい方へ行き、琴絵は慌てて軌道修正する。
「ん〜、そんなことは全然なかったよ。私、本当に目立たない存在だったし」
「今の鈴奈さんからは、想像もつかないですね」
「今は、あの頃と違って自分に自信を持てるようになったからね。それにほら。好きな人ができると、いろいろ変わるでしょ?」
 そう言って圭太を見る。
「これはあくまでも私の主観なんだけど、今の琴絵ちゃんや朱美ちゃんと同い年だった頃を比べたら、間違いなくふたりの方が人目を惹きつけてるよ」
 そう言われて、ふたりは顔を見合わせる。
 それ自体は嬉しいのだろうけど、ただ、実際にその頃の鈴奈の姿を知らないふたりにとっては、手放しで喜べるほどではなかった。
「まあ、住んでる場所が違う、というのも理由のひとつではあるとは思うけどね」
「どういう意味ですか?」
「田舎は田舎、ということ。どうがんばってもね、都会の洗練された人にはかなわないの。もちろん、本当の意味でどっちがいいかはそれぞれだとは思うけど」
「なるほど」
 琴絵としてみれば、本当に軽い気持ちで訊ねたことではあったのだが、まさかここまでいろいろなことを聴けるとは思ってもいなかった。ただ、そのおかげで鈴奈の人となりをさらに知ることができた。
「あの、今の話を聞いてて思ったんですけど」
 と、それまでほとんど聞き役に徹していた朱美が発言した。
「鈴奈さんて、高校生の時に誰かとつきあったことはなかったんですか?」
「うん、全然」
「好きだった人もいなかったんですか?」
「ちょっといいな、と思う人はいたけど、その程度かな」
「じゃあ、本気で好きになった最初の人が、圭兄だったわけですか?」
「そうなるのかな。もっとも、そこには最初で最後、と付け加えるべきだろうけどね」
 そう言って笑う。
「……むぅ、やっぱり鈴奈さんは強敵だなぁ……」
「琴絵ちゃんに比べれば、全然たいしたことはないと思うけど」
「そんなことありませんよ。私はお兄ちゃんの『妹』だから、特別でいられるだけです。本当の意味でお兄ちゃんの特別なのは、彼女である柚紀さんを除けば、そう多くないはずですから」
 琴絵は、あえて明言を避けた。
「私、思ってたんです」
「なにを?」
「もし、鈴奈さんがお兄ちゃんのことを好きになったら、大変だなって。絶対にかなわないって」
「で、実際は?」
「ある意味では、鈴奈さんよりもやっかいな人がお兄ちゃんの彼女になっちゃいました」
「ふふっ、そうだね」
「でも、そのおかげで私は鈴奈さんのことを今でも『お姉ちゃん』として見ていられるんだと思います。私のまわりにはたくさんの年上の人がいますけど、鈴奈さんほど理想的な『お姉ちゃん』はいないと思いますから」
「そこまで言ってもらえるなんて、光栄だな。だけどね、琴絵ちゃん。私は『姉』という立場になったことがないから、本当にそれがいいのかはわからないの。姉さんはいるけど、姉さんが理想型かと問われると、正直悩んじゃうし。だから、私は『姉』とかそういうことはできるだけ考えないで、自然体で接していけばいいかなって思って。それでそのまま今に至ってるの」
「その自然体が、そのまま理想の『お姉ちゃん』なんですよ」
 本当の姉妹ではないから、ある意味では鈴奈は理想の姉なのだろう。
 だが、本当の姉というのは、決して良い面だけを見せてくれるわけではない。時には醜い面も見なければならない。
 もちろん、琴絵もそれは理解しているだろう。なんといっても、現実で妹をやっているのだから。理想だけでは語れないことなど、すでに理解している。
「あ、でも、私から見ると、祥子ちゃんなんかも理想的な『お姉ちゃん』に見えるけど」
 琴絵は顔の前で手をパタパタ振った。
「祥子先輩は、私の中では『憧れ』の先輩なんですよ、やっぱり。一緒に部活をやったことがないから余計にそう思っちゃうのかもしれませんけど。だから、それ以外で見ることがなかなかできなくて」
「なるほど、そういう理由もあるのか。ふむふむ」
 鈴奈はわざとらしく言う。
「ただ、客観的に見れば、確かに理想的な『お姉ちゃん』かもしれません」
「そうだよね、やっぱり」
 なにをもって『理想的』とするかは人それぞれだが、この場合はふたりがとてもよく似た雰囲気を持っている存在である、ということから考えるとわかりやすいかもしれない。
 圭太のまわりにいる琴絵より年上の存在を考えた場合、ともみや幸江も十分『理想的』な姉となるだろう。
 ただ、今の話はあくまでもひとつの『例』でしかないのだ。
「でもさ、琴絵ちゃん」
「ん?」
「琴絵ちゃんのまわりにいる人は、みんな年上でしょ? だったら、みんな『お姉ちゃん』になるんじゃないの?」
「うん、それはそうだよ。でも、ほら。基本的に先輩として見ている祥子先輩や紗絵先輩、詩織先輩はまだちょっと『お姉ちゃん』じゃないかな。それに、朱美ちゃんとは年上とか年下とか関係なく過ごしてきてるから」
「むぅ、私はダメか」
「みんなでなに話してるの?」
 と、そこへ、バイト上がりのともみと幸江がやって来た。
「いろいろですよ」
「そのいろいろを聞きたいんじゃないの」
 圭太は、苦笑しつつ、それまでの話をごく簡単に説明した。
「ふ〜ん、なるほど。鈴奈さんの高校時代の話は、個人的にかなり興味があるわ。そこから派生した『理想の姉』の話は、もう結論が出てるからどっちでもいいけど」
 実にともみらしい割り切り方だ。
「まあ実際、姉云々の話は言い出したらキリがないんじゃない。鈴奈さんを筆頭に、圭太のまわりにはタイプの違う年上がたくさんいるんだから」
「確かに」
「それに、あえて『姉』だとか言わなくても、自然とそういう風になっていくはずだから」
「それも確かに」
 圭太と関係を続けている限り、それはそうかもしれない。琴絵という妹がいる事実は、どうやっても変わらない。であるならば、年上の自分が琴絵の『姉』のような錯覚に陥っても仕方がない。
 それに、結局は琴絵がそう思っていなければ、あまり意味がないのである。
「とりあえず、琴絵ちゃんに姉以外の存在が現れないことを、私は祈るわ」
「…………」
 そして、時間が止まった。
 
 鈴奈も高城家で夕食を食べ、その後一緒に鈴奈の部屋へ向かった。
 日中はまだまだ暖かいのだが、朝晩は少しずつ秋らしさが感じられるようになってくる。つまり、肌寒くなってきている。
 寒い、ということはないが、暖かな家を出た直後は少しだけ体を震わせてしまう。
「でも、ともみちゃんの言うことは、もっともだよね」
「なにがですか?」
「ん、ほら、琴絵ちゃんに姉以外の存在が現れないこと、って」
「……ああ、あれですか」
「だって、琴絵ちゃんに姉以外の存在──つまり妹のような存在が現れたとしたら、圭くんがそういう子と、そういう関係になったってことだからね。琴絵ちゃんにとっては、かなり由々しき問題だと思うよ」
「大丈夫ですよ。そんなこと、ありませんから」
「本当に?」
「本当に、です」
 圭太は、努めていつも通りを装っていたが、内心はそれほど平静ではいられなかった。もちろん、琴絵より年下とそういう関係になるなど想像もつかないことではあるのだが、可能性だけを論じるなら、あり得る話なのである。
「とりあえず、今はその言葉を信じるね」
「今だけじゃなくて、これから先も信じてほしいですけど」
「それは、これからの圭くんの行い次第、ということで」
 そう言って鈴奈は笑った。
 部屋の中は、ここのところずっとそうなのだが、ある意味では雑然としていた。特に汚いわけではない。むしろ、綺麗な方だろう。ただ、あちこちにしまい忘れたなにかが見えているのは、それだけほかに意識が向いているからである。
 鈴奈はスーツの上着を脱ぐ前にヤカンを火にかけた。
「実家からね、お菓子が送られてきたの」
 テーブルの上に、数種のお菓子を並べた。
 せんべいやまんじゅうもあれば、クッキーもある。どうやら、そのあたりのものを手当たり次第に詰め込んだようである。
「なんかね、近所で慶事があったんだって。それでいろいろもらったんで、私にもお裾分けってこと」
「これだけ送ってきたということは、かなりの量をもらったってことですね」
「田舎だからね。なんでも量が多いの。まあ、家族が多いからなんだろうけどね」
 話ながら、スーツから部屋着であるジーンズに着替える。
「圭くんは、どれが食べたい? それによって、用意するものが変わるけど」
「そうですね……じゃあ、これを」
「おまんじゅうね。だとしたら、やっぱり緑茶だよね」
 お湯が沸く前に、急須や茶葉、湯飲みを準備する。
「よし、準備完了」
 沸いたお湯をポットに注ぎ、そのままテーブルまで持ってくる。
 急須に茶葉を入れ、お湯を注ぐ。しばし蒸らし、湯飲みに淹れる。
「はい、圭くん」
「ありがとうございます」
 まず、お茶を一口。
「ね、圭くん。隣、いいかな?」
「いいですよ」
 鈴奈は圭太に体を預け、圭太もそんな鈴奈の肩を優しく抱いた。
「ふう……」
「少し、このままでいた方がいいですか?」
「あ、うん、そうだね。その方が気持ちが落ち着くかも」
 鈴奈は目を閉じた。
 ゆったりと時間が流れていく。
 このとても心地良い時間をいつまでも感じていたいと思うのは、無理からぬことである。
「やっぱり、圭くんの側が一番いいなぁ」
「光栄です」
「ん〜、ダメ。この欲求には勝てない」
 そう言って鈴奈は、圭太に抱きついた。
「先に話そうかと思ったけど、その前に──ん……」
 そのままキスをする。
「抱いて、くれる?」
「はい」
 圭太はもう一度キスしてから、鈴奈を抱きかかえた。
 お姫様抱っこの状態で、鈴奈は嬉しそうだ。
 隣の部屋のベッドに鈴奈を横たわらせる。
「今日は、どんな風に抱いてくれるのかな?」
「鈴奈さんの──お姉ちゃんの好きなように」
「そんな嬉しいこと言われると、帰したくなくなっちゃうよ」
「そうしましょうか?」
「……いいの?」
「僕も、お姉ちゃんの側にいたいですから」
 圭太は、にっこり笑った。
「圭くん、優しすぎだよ」
「イヤ、ですか?」
「ううん、嬉しい」
「それならよかったです」
 鈴奈はもちろんなのだが、圭太にとっても鈴奈と一緒にいるということは、ほかの誰とも違う時間を過ごせる貴重なものなのだ。それはとりもなおさず、圭太にとって鈴奈は甘えられる存在だからである。
「脱がしますね」
「うん」
 慣れた手付きでブラウスのボタンを外す。
 薄い緑のブラジャーをたくし上げる。
 胸に手を添え、突起を口に含む。
「ん……」
 軽く吸い上げ、舌で転がす。
「あん、気持ちいい」
 もう片方の胸は、指でいじる。
 突起が硬くなってきたところで、一度体を起こす。
 ジーパンを脱がし、一緒にショーツも脱がす。
「少し、足を開いてもらえますか?」
 鈴奈は素直に言うことを聞く。
 圭太はその間に体を移し、今度は秘所に顔を近づける。
 まずは指で秘唇をなぞる。
「んんっ」
 軽くなぞるだけで、鈴奈は敏感に反応する。
 次に指で秘唇を開く。
 ピンク色の秘所が露わになる。
「……あんまりじっと見ちゃダメ……」
「とても綺麗ですよ」
「ううぅ、いぢわるぅ……」
 鈴奈は手で顔を覆い、そっぽを向いてしまう。
 圭太はそんな鈴奈の様子を見て微笑み、それからさらに秘所に顔を近づけた。
 息がかかるだけで鈴奈の体はピクピク反応する。
 その秘所に舌をはわせる。
「あんっ」
 舌先を軽く動かすだけで、中から蜜があふれてきた。
「んっ、あっ、いいっ」
 舌先をとがらせ、秘所の中にまで潜り込ませる。
 緩急をつけながら、じっくりと秘所を攻める。
「ん……はあ、んんっ……」
 次第に鈴奈の息が上がってくる。
「圭くん……もう圭くんのがほしいの……」
「わかりました」
 圭太は、ズボンとトランクスを脱ぎ、屹立したモノを鈴奈の秘所にあてがった。
「いきますよ」
「うん、きて」
 そのままモノを突き挿れる。
「んあっ」
 一気に体奥を突かれ、鈴奈の体が一瞬跳ね上がった。
「大丈夫ですか?」
「う、うん、大丈夫。気持ちよかっただけだから」
「少し、このままでいた方がいいですか?」
「ううん、動いても大丈夫だよ。というか、動いてくれた方がいい」
「じゃあ、そうします」
 圭太は、ゆっくりと腰を動かした。
「んっ、あっ、んんっ」
 その動きにあわせて、鈴奈は嬌声を上げる。
「いいっ、気持ちいいっ」
 次第に動きが大きく、速くなってくる。
 すでに理性は半分くらい飛んでおり、ただひたすらに快感を求めている。
「ああっ、んっ、圭くんっ」
 圭太の首に腕をまわす。
「圭くんっ、好きっ、大好きっ」
「鈴奈さんっ」
「んっ、あああっ!」
「くっ!」
 鈴奈が達したのとほぼ同時に圭太はモノを引き抜き、鈴奈の下腹部に白濁液を飛ばした。
「ん……はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……鈴奈さん……」
「すごく、気持ちよかったよ……」
「はい……」
 
 圭太と鈴奈は、セックスのあとの心地良い余韻を楽しんだあと、ここへ来た本来の目的のために、部屋を移した。
 お茶を入れ直し、まんじゅうを食べながらである。
「あのね、圭くん。圭くんは、教師となったからには新任だろうがなんだろうが、生徒の期待に応えられなくちゃいけないと思う?」
 鈴奈は、まずそう言った。
「……そうですね。生徒にとってはベテランであるとか新米であるとか、そういうことは関係ないですからね。ある意味ではそれは正しいと思います」
「うん、そうだよね」
「ただですね、今はベテランの先生でも、昔は新米だったわけです。その頃からなんでもできたようなすごい先生は、ほとんどいないはずです。きっと、その当時のベテランの先生にあれこれ怒られ、注意され、諭され、それで一人前になったんだと思います。なんでも、一足飛びというのは難しいですから」
 圭太は、鈴奈がなにを言いたかったのか、ある程度理解した。そして、その上でそういうことを言ったのだ。
「今日ね、主任の先生に怒られちゃったの。もう少しはっきりとした目的意識を持って指導していかないと、生徒を正しく導けないばかりか、私自身も教師として間違った道を進んでしまいかねないって」
「結構、厳しい言い方ですね」
「うん。それを聞いてね、私、かなりへこんじゃって。今日もいろいろあったんだけど、それも上の空で。そんなことでいちいちへこんだり落ち込んだりしてちゃ、本当はダメなんだけどね」
 小さく息を吐き、お茶を飲んだ。
「もちろん、私が悪いのはわかってる。確かに、少し慣れてきたところでいろいろおろそかになってたから。それでもね、ちょっときつかったなぁって」
 慣れてきた頃が一番問題とはよく言うが、この場合もそうだ。
 慣れてくると、なんでもできるようになったと勘違いしてしまう。実際はようやくできはじめてきたばかりなのに、である。
「でも、その先生の言うことも理解できるわけですよね?」
「それはもちろん」
「それなら、鈴奈さんは問題ありませんよ。言われたことを理解して、これからはそのことに注意していけるはずですから」
「本当にそう思う?」
「思います。というか、僕にこうしてあれこれ話せているということは、もうすでに鈴奈さんの中で答えが出ているということですから。そうじゃないと、僕に話すこともできないですよ」
 圭太は、鈴奈を励ますように笑顔でそう言った。
「だから、鈴奈さんは大丈夫です」
「……ずるいなぁ、圭くんは。圭くんにそう言われたら、そう思っちゃうよ」
「今はその方がいいですよ。自信過剰になるのは問題ですけど、卑屈になりすぎるのも問題ですから。それなら、問題点を理解した上で、多少強引にでも前向きに行動するべきです。そうすることによって、自ずと結果がついてくると思います」
「うん、そうだね。反省しなくちゃいけないのは当然だけど、それだけでもダメなんだよね。問題は、そこからどの一歩を踏み出すか。前なのか、後ろなのか。ほんのわずかな一歩でもいいから、前に踏み出さないと」
「その意気です」
 成功から学べることは多くないが、失敗から学べることは多い。
 今回のこともそうで、鈴奈にとっては大きな一歩となるはずである。
「はあ、圭くんに話を聞いてもらったら、あっという間に解決しちゃった」
「それくらいには役に立てましたね」
「圭くんじゃなくちゃ、ダメなの。ほかの誰もダメなの」
 鈴奈は、真剣な表情で圭太を見つめる。
「本当はね、圭くんに話そうかどうかも迷ってたの」
「どうしてですか?」
「だって、私の都合だけで圭くんを振り回しちゃっていいのかなって」
「そんなこと気にしなくてもいいですよ。むしろ、振り回してください。僕からなにかをするというのはなかなか難しいですから、鈴奈さんから積極的にしてほしいんです」
「本当にそうした時に、後悔しない?」
「しないです」
 即答する圭太。
「私、末っ子だから基本的にものすごく甘えん坊だよ?」
「どんとこい、ですよ」
「限度を超えちゃうかもよ?」
「その限度を決めるのは、僕ですから」
「……ううぅ、私の負け」
「もう少し、やりたいことをやりたいようにやっても、誰も文句は言いませんよ」
「うん、そうだね」
 鈴奈としても、圭太に対するスタンスを変えずにいられるとは思ってはいなかった。自分の想いを偽り続けるのは、無理だとわかっていたからだ。ただ、自分は年上であるのだから、そういう想いはできるだけ表に出さないようにするのが、責務だとも思っていた。
 でも、そういうものはいつか破綻する。圭太は、そうなる前にその鍵を開け、枷を外し、想いを解き放ったのである。
「あ、そうだ。圭くん」
「なんですか?」
「今日は、本当に泊まっていってくれるの?」
「ええ、鈴奈さんがそれを望むなら」
「じゃあ、今日は泊まっていってくれる?」
「はい」
 なんの躊躇いもなく頷く圭太。
「あ、でも、急に泊まっちゃって、大丈夫?」
「そのあたりはなんとでもなりますから。鈴奈さんは心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうは言ってもなぁ、あとで琴絵ちゃんや朱美ちゃんに恨みがましい目で見られるのもイヤだし」
「それは、まあ、僕もないとは言い切れませんけど。ただ、ふたりとも基本的には僕の意志を尊重してくれますから、大丈夫ですよ」
「……そのあたりの自信は、ある意味ではやっかいかも」
 鈴奈は苦笑する。
「それでも、連絡だけはしておかないとダメだよ」
「ええ、それはもちろん」
 そう言って圭太は、携帯を取り出した。
「あ、携帯買ったんだ」
「はい。そういえば、鈴奈さんにはまだ教えてませんでしたね」
「私の方にかけてくれればいいよ。それで登録しちゃうから」
「わかりました」
 まずは鈴奈の携帯にかける。話すわけではないので、すぐに切った。
「これで……よしっと。これからはいつでも連絡とれるね」
「できれば、ほどほどに」
「どうしようかなぁ。私はそれこそ一日中でも話していたいから」
「それはさすがに……」
「なんてね。それは冗談だよ。もしそんなことしたら、私、ますますダメになっちゃうから。それこそ、一日でも圭くんに会えなかったり声を聴けなかったりしたら、ダメになっちゃう。さすがにそれはまずいからね」
 そこまでの依存になると、それはもはや病気かもしれない。それでは個々人の生活は間違いなく破綻する。もちろん、圭太も鈴奈もそうなってしまうとは思っていない。
 とはいえ、そこに多少の差があるのも事実だ。
 鈴奈は圭太とそうなっていいと思っているが、圭太はそこまでは思っていない。
 それは圭太には柚紀という彼女がいるからではあるのだが、根本的な考え方の違いにも起因している。
「あ、ごめんね。連絡するところだったのに」
「いえ、構いませんよ」
 圭太は改めて電話をかけた。
『はい、高城です』
「あ、琴絵か」
『あれ、お兄ちゃん。どうしたの?』
 電話に出たのは、琴絵だった。
「母さんは?」
『今、お風呂』
「そっか。じゃあ、琴絵でいいか」
『むぅ、その言い方はひどいよぉ』
「そういうところがあるから、そういう言い方になるんだ」
『……それで、なに?』
「あのさ、今日は鈴奈さんのところに泊まるから」
『ええーっ、泊まるの? ずるーい』
 電話の向こうで、琴絵は駄々をこねる。
『最近、私だってお兄ちゃんに可愛がってもらえてないのに』
「それはまた今度な。それと、文句と愚痴は帰ってから聞くから」
『……んもう、しょうがないなぁ』
 ただ、琴絵も圭太には弱い。そんな風に言われては、素直に言うことを聞くしかない。
『お母さんには私から言っておくよ』
「助かる」
『あ、その代わり、今週どこかで私を可愛がってね?』
「わかったよ。約束する」
『あはっ、ありがと』
 現金な琴絵に、圭太は苦笑するしかなかった。
「それじゃあ、朱美にもよろしく」
『うん。おやすみなさい、お兄ちゃん』
「おやすみ」
 携帯を切ると、鈴奈がニコニコと笑みを浮かべて圭太を見ていた。
「琴絵ちゃんだったんだ」
「ええ」
「なにか約束させられてたみたいだけど」
「それはまあ、問題ないです」
「ふふっ、優しいお兄ちゃんとしては、カワイイ妹の言うことはむげにはできない、と」
「そういうわけでもないですけど」
 とは言いつつ、圭太自身も琴絵にねだられると断れないことは自覚していた。
「私も妹だから、琴絵ちゃんの気持ちはよくわかるんだ。兄さんや姉さんと年も離れてるから余計にね。可愛がってくれるから、ついついワガママ言っちゃったり」
「今の鈴奈さんからは、想像もできないですね」
「そうかな? 私自身はそんなに変わってないと思うよ。だって、現に今だって圭くんにワガママ言ってるし」
「ワガママ言ってると自覚してる分だけ、まだましだと思います。もちろん、それを故意にされても困りますけど」
「圭くんには、ついつい言っちゃうんだよね。やっぱり、特別な存在だから」
 そう言われると、圭太としてもなにも言えない。
 もともと鈴奈には弱い圭太である。そこにそういう想いを付け加えられてしまったら、余計である。
「ね、圭くん。本当に甘えちゃっていいの?」
「いいですよ」
「……一晩中でも?」
「えっと……それでもいいですよ」
「んもう、そういう嬉しいこと言わないの。本気にしちゃうよ?」
「別に冗談で言ったつもりはないんですけど……」
「圭くんの悪いところ、とまでは言わないけど、少し直した方がいいところはね、そうやってなんでも簡単に与えちゃうところ。意地悪しろとは言わないけど、もう少しいろいろ考えてもいいと思うよ。じゃないと、私たちの感覚が麻痺しちゃう」
「麻痺、ですか?」
 圭太は首を傾げた。
「ある意味では麻薬と一緒。そうされることが快感だから、どんどん求めちゃう。そうすると、次第にその快感が普通になる。中毒状態と一緒だよね、それじゃあ。もし圭くんから優しくしてもらえなくなったら、禁断症状で大変なことになるかも」
 そういう言い方をされると、大変なことのように聞こえる。
 実際、圭太のまわりにいる女性陣にとってはそれは事実だろう。誰もが圭太に依存しているから。
「ね? そういうたとえを使うと、大変に聞こえるでしょ?」
「そう、ですね。でも、僕のこの性格はもう直らないと思いますよ。ずっとそうやって生きてきましたから」
「もちろん、無理に直すことはないよ。ただ、圭くんももう少し見返りを要求してもいいんじゃないかなって思ったの」
「見返り……」
「たとえばね、エッチのこと。たいていの場合は圭くんから求めないでしょ? それを圭くんのしたい時に求めちゃっても、きっと誰も文句言わないと思う」
「でも、それはそれだけを目的にしてるみたいで、あまり……」
「圭くんならそう言うとは思ったけど、一応たとえだから」
「はあ……」
「それ以外でもなんでもいいと思うよ。一方的に与えるだけじゃなくて、それに対する見返りを求める。それはある意味では当然の行動だから」
「僕としては、一緒にいられるだけでも十分な見返りだと思ってるんですけど」
「うん、それはそれで大事だと思うよ。ただ、さっき私にも言ってたけど、やりたいことをやりたいようにやっても、誰も文句は言わないよ」
 鈴奈は、あくまでも優しい口調で圭太を諭す。いや、諭すところまではいっていないかもしれない。圭太も、ある程度はそのことを自覚しているはずだからである。
「少しずつでいいから、そういうことも考えてみた方がいいかもね」
「わかりました。心に留めておきます」
「うん」
 鈴奈が圭太にあれこれ言うのは、圭太に対して不満があるからではない。それは鈴奈にとって圭太は、一番大切な人であると同時に、カワイイ『弟』でもあるからだ。
 姉としては、弟のことにあれこれ口を出したくなるのである。
「圭くん。お茶、まだ飲む?」
「いえ。これ以上飲むと、眠れなくなりますから」
「そっか。じゃあ、これは片づけるね」
 ポットや急須を持つと、いったん台所へ。
 と、その時、圭太の携帯が鳴った。
「もしもし?」
『あ、圭太』
 電話の相手は、柚紀だった。
『今、大丈夫?』
「あ、うん。そんなに長くなければ」
 鈴奈を気にしつつ、会話を続ける。
『じゃあ、先に用件から。今度の日曜って、なにか予定ある?』
「日曜? 今のところ部活以外はなにもないけど」
『だったら、うちに遊びに来ない?』
「柚紀の家に?」
『ちょうどね、お父さんが出張でいなくて、お姉ちゃんもいないっていうから』
 いつものことだが、柚紀は滅多なことでは両名がいる時に圭太を家に呼ぶことはない。
『ね、どうかな?』
 圭太は頭の中でこれからの一週間をシミュレートする。
 やるべきこと、やらなくてはならなくなること。様々なことを考える。
「いいよ」
 そして、今回は問題ないと結論が出た。
『ホント? もう予定入れちゃうよ?』
「柚紀との約束を破るわけないよ」
『そうだね。じゃあ、日曜はうちでイチャイチャしようね』
 いつの間にか、目的が変わっているが、これもいつものことなので圭太もいちいち突っ込まない。
「でも、そういう約束なら明日でもよかったのに」
『ダメよ、そんなの。思い立った時に約束しておかないと、なにがあるかわからないもん。圭太の側には琴絵ちゃんも朱美ちゃんもいるんだから。携帯を持ってだいぶ物理的な距離は克服できたけど、それでも一緒に住んでることにはかなわないから』
 そういう風に言われると、前科があるだけに圭太もなにも言えない。
「それでも僕は柚紀を優先するよ」
『それは当たり前よ。私は圭太の彼女であり、婚約者なんだから』
「そうだね」
 それから柚紀は、とりとめのない話をしばし続けた。
 圭太としては、柚紀の話を聞くのは好きなのでいいのだが、如何せん今は鈴奈と一緒にいるということが、いつもより相づちが適当になっていた理由である。
『じゃあ、圭太。約束忘れないでよ?』
「わかってるよ」
『うん。おやすみ、圭太』
「おやすみ、柚紀」
 携帯を切ると、鈴奈が戻っていた。
「柚紀ちゃん?」
「あ、はい」
「そうやっていつも電話かけてくるの?」
「いえ、これを買ってからまだ全然経ってませんから、今みたいなのははじめてです」
「そうなんだ。柚紀ちゃんなら、圭くんと一緒にいられない時は、いつでも電話かけてきそうなのに」
「柚紀はそうしたいみたいですけど」
「圭くんはそこまではしたくない、と」
 圭太は曖昧に微笑み、続ける。
「そこまでは思ってませんけど、そうですね、なんでもそうなんですけど、極端すぎるのはどうかと思うので」
「いつもの柚紀ちゃんの姿を見てると、圭くん絡みのことならいくらでも極端になれそうだものね」
「それ自体を否定するつもりはないんですけど、そのせいでいろいろなことに弊害が出てこないとは限らないじゃないですか。僕はそれが心配なんです」
「でも、柚紀ちゃんならそのあたりも織り込み済みじゃないの?」
「かもしれません。それでも、そうじゃない可能性があるわけですから、おいそれとはできません」
「ホント、圭くんは真面目だよね」
 優しい笑みを浮かべ、鈴奈は言う。
「だからこそ、みんな圭くんに対してあれこれ言うんだよ。たとえ多少脱線してしまっても、圭くんが元に戻してくれるってわかってるから」
「それって、喜ぶべきことなんでしょうか?」
「ふふっ、どうかな。ただね、それってお互いがお互いを心から信頼していなければ成り立たない関係だと思うから。それだけ圭くんとみんなの関係は、強いものだってこと」
「鈴奈さんもそうですか?」
「私? 私もそうだよ。圭くんのことを、男性としても、弟としても大好きだから」
 改めて聞かなくとも、圭太もそれはわかっていた。
 かつては女心や乙女心をまったく理解していなかった圭太ではあるが、柚紀をはじめとして何人もの女性とつきあうようになって、そのあたりのこともだいぶ理解できてきていた。
 自分に対する感情がどういうものであるか。そういう感情の時に発せられる言葉はどんなものであるか。
 それを学んでいる。
 だから、鈴奈に改めて聞く必要は、本当はないのである。
「そんな大好きな圭くんが泊まってくれるわけだから、私としてはあれこれしたくなっちゃうの。それはしょうがないことなんだよ」
「……えっと、その、あれこれ、というのはなんですか?」
「あれこれはあれこれだよ。ん〜、たとえば、このあと一緒にお風呂に入ったりとか」
 そういうところへ話を繋げてくるとは思っていなかった圭太は、苦笑するしかなかった。
「ね、お姉ちゃんと一緒にお風呂入ろ」
「わかりました」
 いろいろ思うことはあっても、そういうおねだりやお願いをむげにできないのも、圭太の圭太たるゆえんである。
 ただ、嬉しそうな鈴奈の顔を見ていると、これから先もそういう関係であり続けてもいいと思えてしまうのが、今の圭太の心境だった。
「ん、どうかした?」
「いえ、どうもしませんよ」
「そう?」
 お互いが幸せなら、それでいい。少なくとも今は。
 
 二
 十月九日。
 朝方は綺麗に晴れ渡っていた空も、昼前から急に雲に覆われてきた。
 幾分気温も下がり気味で、風が吹くと肌寒く感じる。
 圭太は、約束通り柚紀の家へ遊びに行った。
 部活が終わったあと、柚紀も一緒に家に帰り、すぐに着替えてから出かけた。
 朝からそうだったのだが、柚紀はとにかく機嫌がよかった。やはり圭太と一緒にいられるからである。柚紀のエネルギー源は、圭太だから当然とも言える。
 家に着くと、確かに母親の真紀しかいなかった。
「こんにちは」
「いらっしゃい、圭太くん」
 真紀は、笑顔で圭太を迎えてくれた。
「今日も柚紀のためにごめんね」
「お母さん、そういう言い方はないと思うけど」
「どうせまたワガママ言って来てもらったんでしょ? 母親としては、娘のダメな部分に対する責任があるのよ。だから謝ったの」
「ワガママなんて言ってないよ」
「本当?」
「えっと、そうですね。特にワガママではなかったです」
「ほら、圭太もこう言ってるんだから」
 圭太が自分の味方だとわかり、俄然勢いづく柚紀。
「圭太くんは優しいから、柚紀のダメな部分をフォローしてくれてるのよ。本当に圭太くんが彼氏でよかったわね」
 だが、母親である真紀の方が一枚上手だった。
「ところで、圭太くん。お昼はもう食べたの?」
「いえ、一度家に帰ってすぐに来ましたから」
「じゃあ、すぐに用意するから一緒に食べましょう」
「ありがとうございます」
 真紀が台所へ消えると、すぐに柚紀が不満を口にした。
「最近のお母さん、私に対してかなり攻撃的なんだよ。今のことだって、わざわざ言わなくてもいいことなのに」
「それだけ想われてるってことじゃないかな」
「かもしれないけど、私としてはいい迷惑」
 憤懣やるかたない感じの柚紀に、圭太はまあまあとなだめる。
「とりあえず柚紀。着替えた方がいいんじゃないかな」
「……わかってる。圭太も一緒に来て」
 二階へ上がり、柚紀の部屋へ。
「はあ、お母さんも圭太が来た時くらい、娘いぢりをやめてほしいのに」
「うちも、たまに母さんが琴絵にあれこれ言うことがあるよ。たぶん、自分が過去にされたことを今、自分がやってるんだろうね」
「それはそれで、やっぱりいい迷惑」
 ため息をつきつつ、制服を脱いでいく。
「ホント、今日はお父さんもお姉ちゃんもいなくてよかった。これであのふたりがいたら、とんでもないことになってたわ」
「まあまあ、そんなに目くじら立てないで」
「圭太は、琴美さんに言われることある?」
「僕? そうだなぁ、まったくないこともないけど、あまりないかな。やっぱりその矛先は琴絵の方に向いてるよ」
「そっか。息子と娘だと、違うんだ」
 柚紀はなるほどと頷き、スカートを穿く。
「なんか、損してる気がするぅ」
 そう言いながら、圭太にしなだれかかる。
「圭太には、傷心の私を慰めてもらわないと」
「傷心て……」
「いいの」
「しょうがないな……」
 圭太は柚紀を抱きしめ、髪を優しく撫でる。
 そうするだけで、柚紀の表情が穏やかになる。
「圭太の手って、魔法の手よね」
「魔法?」
「だって、ささくれだった私の心を、簡単に癒してくれるんだもん。圭太の手以外でこんんことできないから。だから魔法なの」
「ただ、それも柚紀限定だけどね」
「今は私限定だけど、ほかのみんなも同じことを思ってると思うよ。みんなにとっても、圭太の手は魔法の手」
 柚紀は気持ちよさそうに目を閉じ、圭太の為すがままである。
 これが普通の男子高校生なら、そこまで無防備な、とびっきりの女の子がいれば、自らの欲望をぶつけそうなものだが、圭太はそういうことはしない。性欲がないわけではない。人並みにある。それでも、相手をないがしろにした行動だけは取らない。
 それが圭太であることを、柚紀も十二分に理解している。ただ、たまにそういう『優等生』な部分を忘れてほしいと思うこともある。
 柚紀としては、常に圭太に求められていたいのだから。
「いつまでもこうしていたいけど、そうも言ってられないんだよね」
「しょうがないよ」
「ホント、タイミング悪いんだから」
 文句を言ったところでどうにもならないのだが、とりあえず言わずにはいられない。
 一階に戻ると、昼食の準備がだいぶ進んでいた。どうやら、事前にある程度の準備はしていたようである。
「あ、ちょうどよかった。柚紀。ちょっと手伝って」
「はぁい」
 柚紀が台所に立ってしまい、圭太はひとりやることがなくなってしまった。
 とりあえずダイニングの椅子に座り、柚紀と真紀の後ろ姿を眺める。
「ねえ、圭太くん。前から一度訊いてみたかったんだけど、正直に言って、柚紀に不満はない?」
「ちょっと、お母さん」
「柚紀だって聞いてみたいと思わない?」
「そりゃ、そうだけど……」
 相手を褒めるのは簡単だが、欠点や不満点を言うのはなかなか難しい。相手にとっても言った方がいいのだが、それもタイミング次第だ。
「どう?」
「……そうですね、ほんの些細な不満というか、直した方がいいと思うことはありますけど、基本的には不満はありません」
「それはそれで珍しいわ。たいていはなんらかの不満が出て然るべきなのに」
「たぶんですけど、僕は多くを求めていないからかもしれません」
「それはどういう意味?」
 真紀は、手を止め、振り返った。
「たとえば、相手が柚紀であっても、そうでなくても、基本的な部分で求めることは多くないんです。僕になにを与えてくれるか。それはプラスになることか。一緒にいて楽しいか。安らげるか。それくらいですから。それ以外のことは、人それぞれですから僕があれこれ言うことではないと思います」
「なるほど。そういう考え方を持っているなら、確かに不満はないのかもしれないわね」
「あと、相手が柚紀ならなおのこと不満なんてありません」
「だそうよ、柚紀」
「ううぅ……」
 裏表のない素直な言葉を聞いて、さすがの柚紀も照れている。
「も、もう、圭太もそんなにバカ正直に答えなくてもいいのに」
「その言い方はひどいんじゃないの、柚紀。そういうことだからこそ、圭太くんは真面目に答えてくれたんだから」
「それは……」
「そりゃね、柚紀。圭太くんの目の前で格好悪い姿を見られたくない気持ちはわかるわよ。私にもそういう経験はあるし。だからといって、それを圭太くんに言ってはダメよ。圭太くんはなにもしていないんだから」
「……わかってる」
「それならいいけど」
 柚紀としては、圭太の前で無様な格好は見せたくない。
 真紀としては、娘の彼氏のことをもっともっと知りたい。
 そのことが多少の温度差を生み出しているのだが、少なくとも今は真紀の言い分の方に分がある。
 それから少しして、昼食ができあがった。
 大きな油揚げの載ったうどんと、真紀お手製の煮物である。
「圭太くん。もうひとつ聞いてもいいかしら?」
「お母さん、まだあるの?」
「別にいいじゃない。私だって、圭太くんのこといろいろ知りたいんだから」
「私で答えられることなら、私に訊けばいいのに」
「あなたじゃ答えられないことだからよ」
 そう言われて、柚紀は黙ってしまう。
「圭太くんは、柚紀の見た目をどう思ってるの?」
「見た目、ですか?」
「……どうしてお母さんはそういう余計なことばかり……」
「正直に答えてね」
 真紀は、興味津々という表情で圭太を見ている。
「綺麗、だと思います」
「綺麗にもいろいろな意味があるけど、具体的には?」
「同学年の女子の中でも目立つくらい、です」
「なるほど。柚紀のことを綺麗だとは思ってる、と」
 大きく頷く。
「ほかには? 見た目って、顔だけじゃないでしょ?」
「えっと……」
「お母さんはなにを言わせたいの? 圭太が困ってるじゃない」
「だから、私は圭太くんの素直な考えを聞きたいの。せっかく自慢の娘のことを好きになってくれたんだから、その娘のどこをどんな風に見て、思っているのか知りたくなるの」
「……もっともらしい理由だけど、それってあまり説得力はないと思うよ」
「いいのよ、別に」
 当事者である圭太の意見はあまり反映されないような雰囲気である。もっとも、圭太としても、このふたりを相手にして自分の意見を押し通そうとは露程も思っていないのだが。
「スタイルなんかはどうかしら? 自慢ばかりするわけじゃないけど、うちは咲紀も柚紀もそれなりのスタイルだと思うのよ」
「……もう、お母さん」
「確かにスタイルもいいと思います」
「圭太くんは、そういうのは気にする方?」
「気にしません。ありきたりな言い方かもしれませんけど、見た目は結局見た目でしかありませんから。第一印象としてはもちろん重要ですけど、最終的には中身の問題です。そこが問題なければ、スタイルは特には」
「まあ、それはね。でも、スタイルがいいに越したことはないでしょ?」
「それは……まあ、そうかもしれませんけど……」
「んもう、お母さん。そこまでにして。本当に圭太が困ってるよ」
「はいはい」
「圭太も、そんなに真面目に考えて答えなくてもいいのに」
 柚紀は、少しだけきつい口調でそう言う。
「本当に柚紀は、圭太くんのことを独り占めしたいのね」
「当たり前じゃない。好きな人には自分だけを見ていてほしい。それは誰もが思ってることでしょ?」
「かもしれないけど、それは自分に縛り付けることと同義ではないわ」
「縛り付けてなんかいないわよ」
「そう思っていたいのなら、それでもいいけど。でもね、柚紀。自分の行動が人から見たらどう映っているか。よく考えてみた方がいいわよ」
「…………」
「圭太くん。おかわりいる? まだあるわよ」
「あ、いえ、大丈夫です」
「そう?」
 いつも通りの真紀に、圭太は多少戸惑い、隣の柚紀が考え込んでしまったことに、小さくため息をついた。
 
 昼食後、圭太は柚紀の部屋にいた。
「はあ……」
 部屋の主である柚紀は、圭太の隣で深いため息をついている。
「そりゃね、私だってわかってはいるのよ。好きな人だからって、なにをしても許されるわけじゃないってことくらい」
「それがわかってるなら大丈夫だと思うけど」
「本当にそう思う?」
 圭太の方は見ずに、問い返す。
「思うよ。だって、それってまだ客観的に物事を見られてるってことだよね。それなら、たとえどこかで道を踏み外しそうになっても、元の道に戻ることはできるよ」
「……そうかな?」
「そうだよ。それに、そういうことを抜きにしても柚紀はそういうことにはならないよ。だって、真紀さんの話を聞く耳を持ってるし、今みたいに考えようと努力もしてるから」
 そう言いながら、圭太は柚紀の髪を撫でた。
「……これは完全に愚痴になっちゃうんだけど、私が圭太を独り占めしたい理由のひとつには、圭太のまわりにはたくさんの魅力的な人がいるからでもあるんだよ。私は圭太の彼女で、婚約者でもあるけど、いつもいつでも不安にさいなまれてる。もちろん、圭太にそんな人たちがいなくても不安にはなるだろうから、完全に後付の理由ではあるけど」
「…………」
「そんな不安を払拭することはできないかもしれないけど、少しでも軽減できれば私の考えや行動も変わると思うから」
「それは、僕の役目だね」
「うん」
 圭太も柚紀も、それが口だけの約束になっても構わないと思っている。実際にそれをするのはとても難しいから、というのがその理由だ。
 普通に生活していれば、ひとつのことだけにかまけていられないのは当然である。社会人より時間は融通が利く学生ではあるが、そこにも限界はある。
 ただ、なにも言わずに流されるままに過ごしていたのでは、懸念は現実のものとなってしまう。
 ふたりは、そうなることだけは避けたいのだ。
 だから、たとえ口だけの約束ではあっても、たまにそれを確認するだけで、頭のどこかでそれを考える部分が生まれる。それが結果的に最悪な事態を避けさせることに繋がるのである。
「とはいえ、圭太だけになんでも背負わせるのは、私としても本意じゃないから。少しでも圭太に見ていてもらえるように、私も努力し続けるよ」
「努力って、どんなことを?」
「ん、たとえばねぇ……」
 柚紀は圭太の側を離れ、クローゼットを開けた。
「こういう服を着るのはどうかな?」
「それって……」
 柚紀が手に取ったのは、どこで手に入れたのか、チャイナ服だった。
「お姉ちゃんにもらったんだ。これがイヤなら、ほかにもあるよ」
 次から次へと出てくる衣装。
 フライトアテンダントの制服、ナース服、巫女服、メイド服など。
「どれも着られるから、好きなのでいいよ」
「……あのさ、柚紀」
「うん?」
「これって、どんな努力なの?」
「飽きない、飽きさせないための努力に決まってるじゃない」
 チャイナ服を当てながら──
「圭太も、たまには違う刺激がほしくなるでしょ? でも、やれることなんてそうたくさんあるわけじゃない。もちろん、お金や手間をかければいくらでもあるだろうけど。そこまでのことはできないしね。で、比較的簡単にできることのひとつが、普段はまず着ないような服を着て、エッチすることかなって思って」
 にっこり笑う。
「圭太自身はあまりこういうのに興味ないかもしれないけど、それでもいつもと違うというのは気分や雰囲気を変えてくれると思うの」
「それは、そうかもしれないけど」
「それにね、圭太にだってそういうのが好きかもっていう兆候はあるんだよ」
「僕に?」
 圭太は首を傾げた。
「ほら、たまに制服のままエッチするでしょ。その時っていつもより積極的だったり、激しかったりするもん。それって、知らず知らずのうちにいつも以上に興奮してるってことだよね」
「…………」
「黙ってもダメだよ。だって、エッチしてる時に私がそう感じてるんだもん。これって、誰よりも確かな証言でしょ?」
 そんな風に言われてしまうと、圭太はなにも言い返せない。
「とりあえず、これ着てみようか?」
「柚紀に任せるよ」
 圭太の言葉に、柚紀は嬉しそうに頷いた。
 いそいそと服を脱ぎ、下着姿になる。
「ね、圭太」
「ん?」
「私以外と、いわゆるコスプレエッチしたことある?」
「えっ……?」
「あ、制服はカウントしないでいいよ」
「いや、そうじゃなくて……」
「その慌てた様子を見ると、したことあるんだね」
 さすがに柚紀には隠し事はできない。というか、圭太が素直すぎる。
「誰と? どんな格好で?」
「……黙秘します」
「黙秘権は存在しません」
「…………」
「別に聞いたからって、なにかするわけじゃないんだから、正直に言っちゃえばいいの」
「……なにかするわけじゃないって、柚紀のことだから、同じ格好で、とか言うよ」
「……ん〜、なんのことかなぁ」
 あからさまに視線を逸らす。
「まあ、それはそれとして、実際どうなの?」
「……服は、それだよ」
「それって……これ?」
 圭太が指さしたのは、メイド服。
「メイド服か。案外普通のなんだ。で、これを誰と?」
「……祥子先輩」
「祥子先輩?」
 柚紀としては、祥子はそういうことはしないと思っていたのだろう。かなり意外そうである。
「……確かに、祥子先輩ならこういう服なんかも簡単に手に入るだろうけど、まさか先輩がねぇ」
「一応言っておくと、先輩も自分で用意したわけじゃないよ」
「そうなの?」
「先輩のお父さんが、仕事の関係で持ってきたものを先輩がもらったんだって」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 そのこと自体にはそれほど興味はないようである。
「祥子先輩はなにを着ても似合うから、圭太としても嬉しかったでしょ?」
「……僕はなんて答えればいいわけ?」
「率直な意見を聞かせてくれればいいわよ」
「……嬉しいとかそういうのはあまりなかったけど、いつもと違う感じはしたよ」
「興奮したってこと?」
「さあ、どうかな」
 いつもと違うということは、イヤじゃなければ、よかったということになる。それは詰まるところ、セックスということでいうなら、興奮していたということになる。
「んしょ……っと……あとは、髪をアップにして……」
 話ながら、柚紀はチャイナ服を着て、髪もまとめてアップにしている。
「んふふ、どう?」
 際どいスリットを強調するように、健康的な太股を見せる。
「ちょっと胸がきつめなんだけど、そのおかげでかなり強調されてるんだけどね」
 確かに、胸の部分がきつめのようで、強調されている。
「触ってみたい?」
「触ってみたい、じゃなくて、触って、じゃないの?」
「んもう、細かいことは気にしないの。それに、本当に触ってみたくないの?」
「そりゃ、触ってみたいよ」
「だったら、素直に行動すればいいのよ」
 そう言ってにっこり笑う。
「ね、触って?」
「うん」
 圭太は、柚紀の胸に手を添えた。
 きついせいで布地が張っているので、いつもよりその柔らかさは伝わってこない。
「足もいい?」
「いいよ、好きにして」
 スリットの間から手を滑り込ませ、その絹のように滑らかな感触の足に触れる。
「ん……」
 何度も手のひらを滑らせる。
「足を触られてるだけなのに、感じてきちゃった」
「柚紀も、感じやすくなってるんだね」
「だって、いつもと違うもん」
「じゃあ、もっともっと感じさせてあげないといけないね」
 手を足から足の付け根へと持って行く。
 そのままショーツの上から秘所に触れる。
「あ、ん……」
「本当に感じてたんだね。少し、濡れてる」
「いちいち言わなくていいの」
「そうだね」
「あっ……」
 圭太は、柚紀を自分の方へ引っ張り、後ろ向きに前に座らせた。
 そして間髪入れずにショーツの中へ手を入れた。
「やっ、あ、そんな、いきなり……んんっ」
 わずかに抵抗する柚紀。だが、その抵抗も反射的なものである。
 本当は多少強引にでも圭太に抱いてほしいのである。いつも比較的おとなしい圭太を相手にしていると、たまにはそういうこともされたいと思ってしまうのもしょうがない。
「もう僕の指が濡れちゃってるよ」
「ん、だって、気持ちいいんだもん……」
「その格好は、僕のためというよりは柚紀のためになってるね」
「エッチはひとりでするわけじゃないんだから、それでいいの。それに、今日は圭太もいつも以上に積極的だから、ちゃんと目的は達成できてるよ」
「そっか。じゃあ、もっとその期待に応えないと」
「えっ、きゃっ!」
 圭太は、柚紀の足を膝の裏から抱え上げた。
「脱がせちゃうね」
 そのままショーツを脱がせる。
「このまましてもいいかな?」
「う、うん。圭太の好きにしていいよ」
「じゃあ……」
 器用にズボンとトランクスを下ろし──
「いくよ」
「うん……」
 すでに大きくなっていたモノを、柚紀の秘所に挿れた。
「んんっ」
 自重で圭太のモノが奥まで届き、柚紀の体が一瞬跳ねた。
「少し体を倒すよ」
 そのままでは動きづらいので、圭太は体を後ろへ倒した。
 体勢を変え、ゆっくりと動く。
「あっ、んっ」
 多少緩慢な動きにも関わらず、柚紀は十分感じているようである。
 それは、いつもと違う格好のおかげなのか、圭太がいつも以上に積極的なせいなのかはわからない。
「圭太、気持ちいいよ」
「もっともっと気持ちよくなって」
「ああっ!」
 圭太は片手を柚紀の最も敏感な突起へと伸ばした。
「やっ、ダメっ……そんなにされたら、私っ」
「柚紀、すごい締め付けだよ」
「だ、だって、んんっ、気持ちよすぎなんだもんっ」
 二カ所を同時に攻められ、柚紀も次第に感覚が麻痺してくる。
「あ、やっ、私、もう……」
 そろそろ、というところで圭太は一度動きを止めた。
「はぁ、はぁ……どうしたの?」
「最後は、柚紀の顔を見ながらの方がいいと思って」
「……んもう、そんなに嬉しいこと言わないの」
 とは言いつつも、柚紀はとても嬉しそうである。
 圭太は柚紀をベッドに横たわらせ、その上に覆い被さった。
「圭太」
「ん?」
「キス、して」
「うん」
 言われるままにキスをする。
 それからもう一度モノを柚紀の中に挿れる。
「んっ、あっ」
 今度は最初からスピードを上げて、腰を動かす。
「やっ、すごいっ、気持ち、いいっ」
「柚紀っ」
 柚紀は、圭太の首に腕を巻き付け、快感に流されまいとする。
「ダメっ、イっちゃうっ、イっちゃうよぉっ」
 だが、快感に抗う術はなく──
「イ……くぅっ!」
「柚紀っ」
 そのままふたりは達した。
「ん、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「大好き……圭太……」
 
 結局、チャイナ服だけでは飽きたらず、ナース服と巫女服でさらに二度ほどセックスをしたふたり。
 柚紀は常に積極的だが、圭太もそういうシチュエーションだったからなのか、かなり積極的だった。
「今日はいっぱい可愛がってもらえて、とっても幸せ」
 ニコニコとこぼれ落ちそうなほどの笑みを浮かべ、柚紀は言う。
「やっぱり、衣装の威力は絶大だね」
「そうかもしれないけど、それを柚紀が着てることに意味があるんだと思うよ。ただ単にそれを着てるだけじゃ、意味はないだろうし」
「ふふっ、そう言ってもらえると、用意した甲斐があったっていうものよ。本当のことを言うとね、ちょっとだけ不安だったんだ」
「どうして?」
「だって、圭太がコスプレエッチにものすごく嫌悪感とか持ってたら、すごく気まずくなっちゃうでしょ。だから、ある意味では賭だったの」
「じゃあ、その賭には勝ったわけだ」
「うん」
 とはいえ、柚紀としても勝算のない賭に打って出たわけではない。今までの経験から、コスプレエッチとまでいかなくても、いつもとは違う格好でのセックスを圭太は認めてきていた。だから、今回のことにも勝算はあったのだ。
「ん〜、本当はいろいろやりたいことがあったんだけど、なんか、今日はこのままのんびりしたくなっちゃった」
「たまにはそういうのもいいんじゃないかな」
「あ、でも、もしまたしたくなっちゃったら、しちゃってもいい?」
「えっと、それは、まあ……うん、いいよ」
「あはっ、ありがと、圭太」
 鈴奈や祥子にも甘い圭太ではあるが、やはり柚紀にはとことん甘い。それは裏を返せば、それだけ柚紀のためになんでもしたいということの表れなのだが、本人も多少改善の余地ありと認識していた。
「あ、そうだ。圭太に訊きたいことがあったんだ」
「ん、なに?」
「これは圭太の性格上、あまりないとは思うんだけど、エッチしてる時に私も含めてこう、めちゃくちゃにしたいとか、思ったことある?」
「めちゃくちゃに?」
 思いも寄らない問いかけに、圭太の声は若干裏返っていた。
「人間には多かれ少なかれ、破壊衝動みたいなのがあるはずなんだよね。私だって、むしゃくしゃした時に、なにかに八つ当たりしたくなるもん」
「それ自体はわかるけど……」
「ほら、そういうビデオとかにあるでしょ? ああいうのが結構あるってことは、そういうのが好きな人が結構いるってことだから。圭太はそうじゃないとは思うけど、多少なりともそういうことを思ったりしてるのかな、って気になって」
「……そうだなぁ、そういう気持ちがまったくないわけじゃないよ」
「やっぱり?」
「ごくまれにだけど、理性が飛んでめちゃくちゃにしてみたくなることはあるから。ただ、それも本当にごくまれにだけどね」
「そっか、圭太にもそういうことはあるんだね」
「でも、どうしてそんなことを?」
 圭太としては、それを訊かれたことよりも、それ自体を気にしたことが、どうしてもわからなかった。
「原因はお姉ちゃんなの」
「咲紀さん?」
「お姉ちゃんと話をしていた時に、たまたまお互いの彼氏のことになって。最初はお互いののろけ話だったんだけど、次第に質問合戦になって。そこで出てきたのが、今のことなの。その時はなにも答えられなくて。で、お姉ちゃんに圭太にもそういうところはあるはずだから、訊いてみたらって言われて」
「……なるほど」
 そこにいなくともいろいろ話題を提供してくれる咲紀に、圭太は苦笑を禁じ得なかった。
 もっとも、咲紀も圭太を困らせることは本意ではない。
 同じ姉でも、凛の姉の蘭に比べればましである。蘭は、圭太の小さい頃を知っているから、故意に困らせたりする。
 そういう経験がある圭太にしてみれば、咲紀のそういう行動はまだ予想の範囲内で、対処できることであった。
「ね、圭太。もしそういうことをしてみたくなったら、ちゃんと言ってね。その、痛いのはちょっとイヤだけど、できるだけそれに応えるから」
「心配しなくても、そういうことはしないよ。たとえウソだとしても、柚紀にそんなことはできないから」
「そうされた方が、より感じても?」
「うん」
「やっぱり、圭太は圭太だね」
 柚紀は、安心したように、でも、ほんの少しだけ残念そうにそう言った。
 されるのはイヤでも、心のどこかにはそれ自体に対する興味もあるのだろう。
「ま、私も圭太には優しくされた方がいいから、それでいいけどね」
 そう言いながら、柚紀は圭太の腰のあたりに抱きつく。
「たまにね、犬や猫みたいに好きなだけご主人様に甘えたくなるんだ」
「柚紀は、犬と猫、どっち?」
「ん〜、そうだなぁ……どっちかといえば、犬に近いかも。だって、大好きなご主人様に全力で甘えちゃうから。猫も甘えるけど、犬ほど過度な甘え方はしないから」
「なるほどね。確かに、そう考えると柚紀は犬かもね」
「というわけで、犬である私は、大好きな圭太に目一杯甘えちゃうんだ」
 圭太じゃなくとも、柚紀ほどの女の子に甘えられれば、それを許してしまうだろう。
 柚紀の頭を撫でながら、圭太もまた嬉しそうだった。
 
 だいぶ陽が傾いてきた頃。
 圭太は、いつの間にか眠ってしまった柚紀の頭を、心から愛おしそうに撫でていた。
 なにもしていなくとも、その穏やかな寝顔さえ見られれば、心底満足という感じである。
「こんな時間がいつまでも続けばいいのに……」
 それははかない夢だとわかっていても、ついつい口にしてしまう。
 と、そんな時にドアがノックされた。
 あいにくと部屋の主たる柚紀は寝ている。
「あ、はい」
 返事をすると、入ってきたのは外出していた咲紀だった。
「おじゃましてます」
「ふふっ、堅苦しい挨拶なんていいわよ。圭太くんは、あたしにとってはもう『弟』も同然なんだから」
 そう言いながら、圭太の隣に座る。
「柚紀、寝てるんだ」
「ええ。そんなに長くは寝てませんけど」
「圭太くんの側だから、安心しきってるのね」
 いつもは憎まれ口の方が先に出てくるこのふたりだが、こういう時は実に素直な言葉が出てくる。
「圭太くんには本当に感謝してるわ。この子がこれだけ楽しそうに生活できているのは、圭太くんのおかげだから。もちろん、圭太くんとつきあっていなかったとしても、それなりの生活を送ってはいたと思うけどね」
「それは僕も同じですよ。柚紀がいてくれるからこそ、毎日に張りがあるんです」
「本当に圭太くんは良い子ね」
 咲紀はそう言って微笑む。
「あたしね、柚紀には悪いけど、柚紀と釣り合う男の子はそうそういないと思ってたの。妹だからってわけじゃないけど、柚紀、かなりのレベルにいると思っててね。いや、今も思ってるけどね。だから、そんな柚紀と釣り合う男の子はなかなかいないだろうなって」
「…………」
「中学の時はあたしの考えを裏付けるように、浮いた話のひとつも出なかった。そのままの流れを考えれば、高校に入ってもそれは変わらないと思ってた。だけど、それは間違いだった。だって、入学してたった一ヶ月で最高の彼氏を見つけたんだから」
 咲紀は、柚紀の前髪を軽くよけてやる。
「たぶんね、柚紀にとって圭太くん以上の男の子はいないと思うの。ふたりは本当にパズルのピースのようにぴったりだから」
「そうでしょうか?」
「そうよ。ふたりの仲の良さは、誰が見てもわかるからね。しかも、ただ単に仲が良いだけじゃなくて、お互いにわかりあえてる。そういうのって、本当に難しいから」
 自分も彼氏がいる咲紀にとって、圭太と柚紀の関係はある意味では理想なのかもしれない。当然のことながら、個々人の性格は全然違うので、そっくりそのままの理想とはなり得ない。ただ、ふたりのようになれるならなりたい、とは思っているはずである。
「圭太くんは覚えてるかな。圭太くんが一番最初にうちへ来た時のこと」
「はい、覚えてます」
「あの時、柚紀が圭太くんを呼んだ理由も聞いてる?」
「ええ」
「まあ、売り言葉に買い言葉みたいに柚紀は意地張って圭太くんを呼んだけど、あたしも半信半疑だったのよ。高校に入っていろいろ変わってくるのはわかる。中学生から高校生になって、自らも変わろうとするからね。でも、柚紀の場合はそれ以上だった」
「柚紀、わかりやすいですからね」
「ふふっ、そうね。で、なにがそんなに柚紀を変えたのかと考えたところで思い浮かんだのが、好きな人ができた、ってこと。そしたら、姉として当然興味を持つじゃない。あれこれ聞くんだけど、柚紀は頑として教えてくれなくて。そこにお父さんまで加わって、最後には売り言葉に買い言葉になって、じゃあ、その人を連れてくるから、ってことになったの」
「なるほど。そういうことだったんですね」
 圭太も簡単な経緯は聞いていたが、それはあくまでも柚紀の側からの経緯である。もう一方の当事者である咲紀からの説明は、わからなかった部分を補ってくれた。
「それでね、連れてくるのはいいけど、柚紀が認めた男の子ってどんな子なのかって、楽しみな反面、不安もあったの。それこそ、ろくでもない子だったらいぢめてやるとまで思っててね」
「そ、それはまた……」
「ところが、当日にやって来たのが圭太くんだったわけ。それはもう驚いちゃった。あの時にも言ったけど、柚紀にこれだけの心眼があったなんて思わなかったくらいにね。というか、圭太くんみたいな子がいるんだって驚いたかな」
「そんなに珍しいですか?」
「うん、珍しい。あ、それはいい意味でだからね。だから、柚紀の彼氏ということですぐに認められたの」
「そうですか」
「ね、圭太くん。あの時って、ふたりは本当に彼氏彼女の関係だったの?」
「えっ?」
「ん、今更言うのもなんだけど、あの時のふたりってまだその関係になかったんじゃないかなって。確信はないんだけどね」
 圭太は、咲紀の人を見る目に驚いていた。あの時、真紀にはすぐに見破られたわけだが、咲紀には見破られていないと思っていたからだ。
「どうかな?」
「ええ、その通りです。柚紀に頼まれたんです。彼氏役をやってくれないかって」
「やっぱりそうだったか。ちょっとしたことだったんだけどね、あたしが気付いた理由は」
「実はですね、真紀さんにはすぐにバレてたんです」
「ああ、お母さんならそうかも。うちの中では一番人を見る目があるから」
「そうかもしれませんね」
「で、本当の彼氏彼女の関係になったのって、いつなの?」
「その日のうちです」
「は? ホント?」
 さすがの咲紀も、それは予想外だったらしい。思わず間抜けな声を上げていた。
「真似事ではありましたけど、そういう関係になってみて本当にそうなってもいいと思ったんです」
「なにが圭太くんの気持ちを動かしたの?」
「ひとつではない、と思います。それまでに柚紀のことが確実に好きになっていたことと、咲紀さんを含めてこの笹峰家の人たちといろいろ話したことも、要因だと思います」
「決定的な要因は?」
「これだ、というのはありません。確かにその日のうちにそういう関係にはなりましたけど、僕の中ではそれほど大きく変わったとは思ってませんでしたから」
 圭太はそう言って柚紀の髪を撫でた。
「でも、それは間違いでした。というか、知らなかっただけなんです。彼女がいるということが、どれだけ大きいことか。同時に、僕の彼女が柚紀でよかったと心から思いました。もっとも、柚紀以外なら彼女にしたいとは思わなかったかもしれませんけど」
「それだけ柚紀が特別だったってこと?」
「ええ、そうだと思います」
「そっか。圭太くんにそこまで想われてる柚紀は、本当に幸せね」
「ずっと、幸せなままでいてほしいです。そのためにできることはなんでもしますから」
「大丈夫よ。この子にとっての幸せは、圭太くんの側にいることなんだから。側にいること、つまりずっと一緒にいるってこと。それを望んでるはずだから」
 相手に望むことはいろいろあるかもしれないが、本当に望んでいることはそう多くない。
 側にいること。
 これは簡単なようで難しい。だからこそ、望むのである。
「つきあうようになってからは、どんな感じだったの?」
「以前に誰かとつきあったことはありませんでしたから、それ自体を比べることはできませんし、どういうものなのかもわかってはいませんでしたけど、たぶん、柚紀はとても積極的な方だったと思います」
「あはは、そうかも。この子ね、昔からそうなのよ。本当に好きになった相手には、自分ができることをなんでもやろうとする。彼氏なんかいなかった時ですらそうだったわけだから、圭太くんという彼氏ができてからは余計だったはず。なんたって、好きになったのは柚紀の方からだったわけだし」
 咲紀も長年柚紀の姉をやっているだけあって、そのあたりの状況については、見ていたかのように理解している。
「これは無理に答えなくてもいいんだけど、柚紀からエッチしたいって言われた時、正直どう思った?」
「……そうですね、最初は驚きました。まさか柚紀からそんなことを言われるとは、って。でも、同時に思いました。僕はそれだけ柚紀から想われてるんだって。だから、戸惑いはしましたけど、それに応えてあげたいとも思いました」
「だから、夏休みに旅行に行ったんだ」
「はい。別に旅行じゃなくてもよかったんだとは思います。ただ、どうせならそれ以外の想い出も作りたいと思ったんです」
「なるほど」
 その想い出は結局、柚紀だけのものではなくて、圭太の想い出にもなる。
 彼氏彼女の関係になってまだそれほど経っていなかった当時、共通の想い出というものが必要だと圭太は考えていたのだろう。
「圭太くんとつきあうようになって、しかも心も体も受け入れてもらえて、柚紀は本当に毎日が楽しそうだったわ。見ているこっちまで楽しくなるくらいね」
「柚紀、気持ちがすぐに表情や行動に出ますからね」
「ふふっ、そうね。でも、そういうおかげであたしたちまで毎日が楽しく思えたこともあったの。家族だから、多少なりとも影響を受けるのよ」
「僕も、多少はお役に立てたということですね」
 圭太は冗談めかしてそう言う。
「そんな圭太くんが柚紀の婚約者になってくれて、しかも、来年の春には子供まで生まれて。柚紀にとっても、この笹峰の家にとっても、本当によかったと思ってるわ」
「ありがとうございます、というのは変でしょうか」
「ううん、そんなことないわ」
「じゃあ、改めて、ありがとうございます」
「うん」
 ふたりは笑い合う。
「さてと、あたしはそろそろ行くわね。いろいろ話せてよかったわ」
「僕もです」
「あ、そうだ。今日は夕飯は?」
「えっと、まだわかりませんけど」
「ま、お母さんのことだから用意してるとは思うけどね。もし食べていくようだったら、またその時にでも話しましょ。もちろん、今からあたしの部屋で話してもいいけど」
 悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言う。
「それはまたの機会、ということで」
「そうね」
 咲紀が部屋を出て行くと、ほぼ同時に柚紀が起きた。
「むぅ、圭太もお姉ちゃんも、好き勝手言い過ぎ」
「やっぱり起きてたんだね」
「気付いてたなら、あんなこと言わなくてもいいのに」
 むくれる柚紀に、圭太は穏やかな笑みを浮かべた。
「気付いてたからこそ、言ったんだけどね」
「どうして?」
「だって、普段はなかなか言えないことだから」
「それはそれでわかるけど……でも──」
「僕や咲紀さんの本心がわかってよかったんじゃないの?」
「圭太はいいけど、お姉ちゃんは複雑。バカ言えなくなっちゃう」
「でも、たまにはいいんじゃないかな。わかってはいても、ということはあるはずだから。咲紀さんもきっと、普段はなかなか言えないことを言えて、よかったと思ってるはずだよ」
「そうかなぁ……」
「そうだよ」
 そう言って圭太は、柚紀にキスをした。
「ずるいなぁ、圭太は。そんなことされたらなにも言えなくなっちゃう」
 それでも柚紀は嬉しそうである。
「しょうがない。今日は圭太に免じて許してあげる」
「ありがとう」
「でも、できればこれからは本当に私がいない時にしてね。じゃないと、ますますお姉ちゃんになにも言えなくなっちゃうから」
「わかったよ」
 圭太としても、そういうことはあまり言い過ぎてもとは思っているので、言われなくてもそうしていただろう。
 もっとも、圭太は普段から柚紀に対して自分の想いを伝えている。それが圭太の圭太たるゆえんでもあるので、柚紀もそこまでは言わない。
「あ、そうだ。圭太」
「ん?」
「今日はちゃんと夕飯も食べていってね。お母さんにはもう頼んであるから」
「いいの?」
「私がそうしてほしいの。だからいいに決まってるの。わかった?」
「了解」
「ん、よろしい」
 
 夕飯も笹峰家で食べた圭太は、それなりに遅い時間まで柚紀たちに引き留められていた。
 真紀も咲紀も、圭太に泊まっていくように勧めたのだが、次の日に用事のある圭太はそれを固辞した。
 そして今、バス停まで柚紀と一緒に歩いている。
「あ〜あ、楽しい時間はもう終わり。明日は鬱々とした日になるんだ」
「……責められてる?」
「だって、明日は凛と一緒でしょ?」
「そうだけど……」
「そしたら、やっぱり私は鬱々とした日になるよ」
 柚紀は盛大なため息をついた。
「でも、あまりワガママも言っちゃダメだよね。今日はその穴埋めの意味も込めてだったんだから」
「柚紀……」
「んもう、そんな顔しないの。ちょっと愚痴ってみただけなんだから。私の中ではちゃんと納得できてるから大丈夫。みんなの誕生日は許して、凛だけ許さないわけにはいかないし。それに、凛とは長いつきあいになりそうだから、こうやって恩を売っておかないと。そのうちまとめて返してもらうんだ」
 とても柚紀らしい物言いに、圭太は溜めていた息を吐き出し、微笑んだ。
 やがて、バス停が見えてきた。
 バスは、圭太が乗ろうとしているあとには一本しかない。
 ほとんど車の通っていない幹線道路。
 少し離れた場所にある信号が青から黄色、赤に変わった。
「ね、圭太」
「なに?」
「最後に、もうひとつだけワガママ言っていい?」
「いいよ」
「ギュッと抱きしめてほしいの」
「うん」
 往来にも関わらず、圭太は柚紀を抱きしめた。
「……私を置いてかないでね?」
「置いてくわけなんかないよ」
「うん……」
 ふたりは、バスが来るまで抱き合っていた。
 
 三
 十月十日。
 かつてはこの日が体育の日だったのだが、今では法律によってそうじゃないことの方が多い。ただ、今年は十日が体育の日だった。
 そんな十日。
 圭太はいつも通りに部活をこなし、いつも通りに家に帰ってきた。
 琴絵と朱美が一緒なのはいつも通りというか、住んでいるから当たり前なのだが、今日は柚紀も一緒だった。
 柚紀曰く──
「圭太に対する愚痴をちゃんと聞いてくれて、なおかつその話を膨らませられる相手は、琴絵ちゃんと朱美ちゃんくらいだから」
 ということらしい。
 そんな柚紀を家に残して、圭太は出かけた。
 徒歩で駅前まで出る。
 晴れの特異日ということもあって、朝からとてもいい天気である。気温もずいぶんと上がっている。十月ということを考えると、かなり高めと言えるだろう。
 そんな中を駅前で歩けば、それなりに汗もかく。
 駅前に着き、ひと息ついたところで額に浮かんだ汗を拭いた。
 待ち合わせ時間までにはまだ少しある。
 待ち合わせ場所は、駅前の広場。待ち合わせのメッカだ。
 上着もいらないくらいの快適な日和なので、当然ながら人も多い。そして、待ち合わせの人もそれなりに多い。
 圭太はそんな中のひとりになっていた。
 携帯電話という便利なものがあって、どこにいるのかわかるようになっても、待ち合わせ自体がなくなるわけではない。
 というわけで、待ち合わせの人が多いのである。
 時計を確認し、空を見上げると、携帯が鳴った。
 携帯を取り出し、ディスプレイを見ると──
「柚紀……?」
 柚紀からだった。
「もしもし?」
『あ、圭太? 今、大丈夫?』
「うん、大丈夫だけど、なにかあった?」
 ついさっきまで一緒にいたのだから、そういう風に聞いてもおかしなことはない。
『もう凛は来た?』
「ううん、まだ。時間まで少しあるし」
『よかった』
 柚紀は、電話口であからさまにホッとしていた。
「そんなに心配?」
『心配、というわけでもなくて、なんて言ったらいいのかな。気になるんだよね』
「それは、世間一般では心配って言わないかな?」
『あれ? そうかな? あはは』
「まあでも、その心配の原因は僕なわけだから、柚紀のことをとやかく言えないね」
『それはそうだけど、別に圭太を責めてるわけでも、責めようと思ってるわけでもないの。ただ、なんとなく……そう、なんとなく声が聞きたくなって』
 無理をしている、という感じはしないが、それでも圭太はいつものようには声をかけられなかった。少なくとも、今柚紀が心配している原因を自分が作ってしまっているのだから、それはある意味しょうがないのだが。
『ね、圭太。今日は、何時頃には帰ってこられると思う?』
「そうだなぁ……もし夕飯を食べたとしても、そんなに遅くない時間には帰れると思うけど」
『ん、わかった。今日は、そのくらいの時間まではこっちにいるから』
「それはいいけど、いいの?」
『大丈夫大丈夫。琴絵ちゃんと朱美ちゃんもいるし。それに、お店の方には先輩たちもいるから』
 確かに話し相手に事欠かない。
「わかったよ。凛ちゃん次第ではあるけど、なるべく常識的な時間に帰れるように努力するから」
『ありがと、圭太』
「ほかになにかある?」
『ううん、大丈夫。ごめんね、こんな時に』
「気にしなくていいよ。ほかならぬ柚紀のことだから」
『そんなこと言われちゃうと、またかけちゃうよ?』
「今日以外なら」
『ふふっ、了解。じゃあ、凛によろしくね』
「うん」
 携帯を切ると──
「けーちゃん」
 いつの間にか、凛が来ていた。
 さすがの圭太も少し驚いていたが、強靱な精神力で持ち堪え、いつも通りに声をかけた。
「やあ、凛ちゃん」
「結構待った?」
「ううん、そんなことないよ」
「そっか、よかった」
 凛はそれを確認し、圭太の腕を取った。
「いいよね?」
 取ってからそれを確認するところは、凛らしいと言える。
「いいよ」
「ありがと、けーちゃん」
 嬉しそうににっこり笑う。
 待ち合わせ場所から、とりあえず移動する。
「そういえば──」
 圭太が少し足を緩めた。
「今日は、いつもとずいぶんと違う格好にしたんだね」
「えっ、あ、うん」
 今日の凛は、いつものジーンズではなく、ワンピース姿だった。
 以前のデートで試着したようなフリルがあしらわれたものではないが、それでもそれなりにひらひらした裾になっている。
「……あのね、けーちゃんには少しでもカワイイ私を見てほしくて……」
 言ってる本人はすでに顔が真っ赤である。
「凛ちゃんはいつもカワイイよ」
「も、もう、そういうことを真顔で言わないの」
「真顔じゃなかったらいいの?」
「うっ……そ、そうじゃなくて……」
 半分からかわれているのだが、とても冷静ではない凛にはそこまで頭がまわっていなかった。
「け、けーちゃん、いぢわるだよぉ……」
 泣きそうな顔で抗議する。
「別にいぢわるで言ってるわけじゃないんだけどね。僕は本当にそう思ってるだけで」
「そ、そりゃ、けーちゃんがウソを言ってるとは思わないけど……」
 そういう風に言われてしまうと、凛としても言いたいことが言えなくなってしまう。夏以降、圭太に対してそういうところが多くなってきた凛だから、余計である。
「でも、凛ちゃんを困らせたいわけじゃないから、極力言わないよ」
「あ……」
 だが、言わないと言われてしまうと、乙女心は複雑である。大好きな人から褒められれば嬉しい。どんな些細なことでもだ。
 それが少しばかり凛には刺激が強すぎただけで、まったくなくなってしまうとなると、やはり淋しい。
「あ、あのね、けーちゃん」
「ん?」
「その……えっと……言わないでほしいわけじゃないの。けーちゃんに褒められるのは、嬉しいから」
「うん」
「ただね……あたし、褒められ慣れてないから」
「適度に、ってことかな?」
「もし褒めてくれるなら、うん、そうしてくれた方がいい」
「わかったよ」
 圭太は笑顔で頷いた。
 ようやくふたりの雰囲気がいつもに戻り、凛も笑顔を見せた。
「それで、今日はどうしようか? できるだけ凛ちゃんの希望通りにするよ」
「あたしとしては、けーちゃんと一緒にいられるだけで十分なんだけどね」
「じゃあ、どこかでのんびりする?」
「そういう場所、知ってる?」
「まあ、多少は」
 圭太ももう何度もデートをしている。同じデートではお互いに飽きてしまうので、様々なことをしてきている。その中には、特になにもしない、という選択肢もある。
 その時の経験をフル活用すれば、たいていの要望には応えられる。
「あたしは、それでいいよ」
「それじゃあ、そうしようか」
 というわけで、方針が決まった。
 まだそれほど歩いていなかったので、すぐに方向転換。
「そこって、遠いの?」
「ううん。歩いても三、四十分くらいだよ。ただ、時間がもったいないから、今日はバスで行こうと思うんだ」
「そっか」
 バスターミナルで時刻表を確認。目的のバスの時間まで、若干の余裕があった。
 休日の昼下がり。そのバスを利用する人はふたりのほかにはいないらしく、バス停には誰もいない。
「そういえば、凛ちゃん」
「どうしたの?」
「今日は、小父さんと小母さんの方はいいの? ふたりだって、凛ちゃんのこと祝ってくれるでしょ?」
「ああ、いいのいいの。だって、今日だって娘のあたしより、ふたりで出かける方が大事なんだもん」
 ちょっとだけ呆れ気味に言う。
「じゃあ、今日は誰もいないの?」
「ううん。お姉ちゃんが帰ってきてる」
「蘭さんが?」
「ちょっとお父さんに用があってね。電話じゃなくて直接話したいからって。大学は高校と違って、それなりに時間に融通が利くから」
「そっか」
「あたしとしては、お姉ちゃんがいなければうちに来てもらいたかったんだ。そうすれば誰に遠慮することなく、ふたりきりになれたから」
 外で本当の意味でふたりきりになるのは、なかなか難しい。それを考えれば、凛の言うこともよくわかる。
「それに、今日もけーちゃんとデートだって知って、昨日からずっとうるさくてうるさくて。挙げ句の果てにはついてくるなんて言うんだよ? さすがにそれはさせなかったけど、もうそれだけ精神的に疲れちゃって」
 深いため息をつく。
「ホント、お姉ちゃんが帰ってくると、あたしばかり疲れる」
「まあまあ、凛ちゃんもそんなに言わないで。蘭さんも、たまにみんなに会えて嬉しいんだよ。向こうではひとり暮らしなわけでしょ? そうすると、部屋では話し相手もいないわけだし」
「そのこと自体はあたしもわかってるの。だから、たまに帰ってきたら話し相手にもなってるし。でもね、お姉ちゃんはやり過ぎ」
 そこまで徹底的に言われてしまうと、当事者ではない圭太としてはなにも言えない。
 ただ、それでも凛が蘭の相手をしているのだから、ふたりの仲は悪くないということだ。
 そうこうしているうちに、バスがやって来た。
 回送車ではなかったので、何人かの乗客が降りてきた。
 入れ替わりで、ふたりが乗り込む。
 しばらくして、発車時刻になり、バスが動き出した。
 結局、バスにはふたりしか乗っていない。
 そのバスは、駅前から中心部を抜け、郊外にある企業の工場まで走っている。なので、工場が稼働していない休日にはほとんど利用客がいない。その分だけバスの本数も少ないのだが、それでもあまり乗っている姿は見ない。
 圭太はそれをよく知っているため特に感慨はなさそうだが、凛は少しだけ落ち着かない感じだ。
 バスは中心部を抜け、郊外へ。
 休日ということで、道路は空いていた。平日の朝夕ならかなり時間のかかる経路なのだが、途中で信号に三回ほど引っかかっただけで、あっという間に目的の停留所に到着した。
「ん〜っ」
 バスから降りると、凛は大きく伸びをした。
 十五分ほどの道のりだったのだが、微妙な緊張感があったのかもしれない。
「ここからどれくらいなの?」
「すぐそこだよ」
 そう言って向こうを指さす。
 そこに広がっているのは、貯水池だった。
 凛は首を傾げたが、とりあえず圭太についていくことにした。
 圭太は、特に迷う様子もなく、真っ直ぐに歩いていく。
 やがて、少し開けた場所に出た。
「わあ……」
「どう?」
「すごいよ、けーちゃん」
 そこは、まさに憩いの公園だった。
 貯水池の真ん中には噴水があり、一定の間隔で水が噴き上がっている。
 だが、それだけではない。ちょうど今ふたりがいる場所だけが、少し出っ張った場所になっており、池の中心に近い。そこからまわりを見渡すと、そこが木々に囲まれた場所であることがわかる。
 木があり水があれば、当然動物たちが集まってくる。
 池には水鳥が浮かび、優雅に泳いでいる。
 池を覗けば、魚の姿も見られる。
 しかも、歩道脇にはそれほどの規模ではないが、花壇もある。秋のこの時期、色とりどりの花が咲いている。
 世間一般のイメージとして、貯水池にはなにもないと考えていた凛にとって、これは驚きだった。もちろん、これを公園として捉えればさほど驚きはしなかったのだろうが。
「どうしてこんなところを知ってるの?」
「日頃のたゆまぬ努力の成果、と言いたいところだけど、実は情報源があるんだ」
「情報源?」
「凛ちゃんのところにも入ってきてると思うけど、地元のタウン誌があるでしょ?」
「うん」
「あれにここのことが載ってたんだ。本当に小さな記事だったんだけどね。それで実際にここへ来て、それでこんなに立派だったことを知って、それから何度かここへ来ているというわけ」
「なるほど。でも、けーちゃんらしいね。あのタウン誌、普段はあまり面白い情報が載ってないって、うちのお母さんですらあまり目を通してないのに。そんなところから情報を得て、しかも役立ててる」
「僕だって毎号見てるわけじゃないよ。たまたまちゃんと目を通してた中に、ここのことがあっただけ。偶然だよ」
 謙遜して笑うが、家計を預かる主婦ですらあまり気にしていないタウン誌を、高校生である圭太が目を通していること自体珍しいと言える。
 その段階で凛としては賞賛に値するのである。
「ま、そういうことはどうでもいいよ。とりあえず、ここならあまり人も来ないし、のんびりできるから」
「うん、そうだね」
 ふたりは、そのすぐ側にあるベンチに腰掛けた。
 時折吹き抜ける風は、水面を抜けてくるからか、とても心地良かった。
 凛はなにも言わず、圭太の肩に頭をもたれさせる。
「まだ半年しか経ってないんだよね」
「なにが?」
「あたしがこっちへ帰ってきてから」
「ああ、うん、そうだね。凛ちゃんといることが自然だったから、全然そんなこと気付かなかったよ」
「あはは、ありがと。あたしもね、実を言うとそうなの。本当は七年ていうブランクがあるはずなのに、実際はそんなもの全然感じない。もちろん、去年のこととか話題に上ればあたしにはわからないけど、それでも、違和感なくみんなと一緒にいられる」
「そうだね。クラスのみんなも、自然な形で凛ちゃんと接してるからね」
「そのことについては、けーちゃんと柚紀のおかげだと思ってる。ふたりが本当に普通に接してくれてるから、みんなも気兼ねなく接してくれてる。ふたりがいなかったら、うち解けるまでにもう少し時間がかかったかもしれない」
 高校三年生という微妙な時期に転校してきた凛にとって、友人関係というのは非常に重要である。学校生活において、友人は必要な存在である。その関係をいかに早く構築できるかで、本人の精神的な支柱が変わってくる。
 凛の場合、その支柱を本当にあっという間に得られたのだから、相当運が良い。
「たった半年しか経ってないのに、あたしの長年の夢と想いが、いくつもかなっちゃった。あたしにとっては、それが一番大きいし、嬉しい」
「そっか」
「ずっと大好きだったけーちゃんに再会できたこと。ずっと大好きだったけーちゃんに告白できたこと。ずっと大好きだったけーちゃんに受け入れてもらえたこと。ずっと大好きだったけーちゃんとデートできたこと。ずっと大好きだったけーちゃんとキスできたこと。ずっと大好きだったけーちゃんに抱いてもらえたこと」
 ひとつひとつのことを確かめるように口に出す。
「でもね、本当の意味で一番嬉しかったのは、またけーちゃんと一緒にいられること。向こうにいた時が充実してなかったわけじゃないけど、こっちでの充実感とは比べられないかな、やっぱり」
 そう言ってクスクス笑う。
「けーちゃんはどう?」
「そうだなぁ、僕としては、同い年のなんでも言い合える仲間が増えてよかったかな」
「それって、けーちゃんのまわりには年上か年下しかいなかったから?」
「うん。なぜかはわからないけど、同い年は柚紀だけだったから」
「なるほどね。でも、それだけ?」
 凛は、上目遣いに訊ねる。
「あとは、凛ちゃんがすごく綺麗になってたから、嬉しかったよ」
「どう嬉しかったの?」
「だって、みんなに自慢できるからさ。僕の幼なじみはこんなに綺麗だって」
「…………」
 面と向かってそう言われると、やっぱり凛は照れてしまった。
 凛は、ある意味では圭太のまわりにいる誰よりも純である。そんなところもまた、圭太は好ましく思っているのだが。
「ね、ねえ、けーちゃん」
「ん?」
「けーちゃんはよく、あたしのことを、その、綺麗だって言ってくれるけど、本当にそう思う?」
「思ってるよ」
 圭太は即答した。
「だって、凛ちゃんほどの綺麗な子を探そうと思ったって、そうそういないよ。それに、ただ綺麗なだけじゃなくて、勉強もできるし運動もできる。おまけに性格だっていい。これなら僕が幼なじみじゃなかったとしても、みんなに自慢しちゃうよ」
「…………」
 次から次へと恥ずかしいことを言われ、ますますなにも言えなくなってしまう凛。
「これを言うと凛ちゃんはどう思うかわからないけど、今、こうしてる間もずっと、凛ちゃんをすぐ側に感じて、今すぐにでも抱きたいという感情があるんだ」
「けーちゃん……」
「僕はね、全然すごくないし、特別でもない。みんな、僕のことをそんな風に言うけどね。勉強だってなんだって、サボりたい時もあるし、実際そうしたこともある。面倒なことを適当にやっちゃうことだってある。そりゃ、基本的にはそういうことはしないようにはしてるよ。そんなことしても、自分のためにならないから。それに、僕をここまで育ててくれた母さんに申し訳ないし」
 圭太は、真っ直ぐ前を見て、穏やかな表情で言葉を紡ぐ。
 凛は、そんな圭太の横顔を、ただ黙って見ているしかできなかった。
「ただね、これだけは絶対に思わないよう、考えないようにしてるんだ」
「……それって?」
「柚紀や凛ちゃん、それにみんながどうして僕『なんか』を選んでくれたのか、って」
「……あ……」
「最初はね、思ってた。なんで僕なんかのことをそこまで想ってくれるのかなって。僕なんてなんの面白みもない、はっきり言えばつまらない人間なのに。でも、そうじゃないんだよね。僕自身はそう思っていても、みんなはそう思ってない。むしろ、そうやって僕が僕自身を貶めてほしくないって思ってる。自分たちが好きになった人が、そんな風に思っていたら、やっぱりイヤだから」
 ふっと微笑み、言葉を続ける。
「僕だってそうだよ。柚紀や凛ちゃん、みんなが自分のことを必要以上に貶めていたら、きっとイヤだ。僕が好きになった人は、そんな人じゃないって」
「…………」
「まあ、だからというわけじゃないけど、僕はできるだけ褒めるというのとは違うけど、僕がいいと思ってることを口にすることにしてるんだ。だから、僕は凛ちゃんのことが綺麗だと思ってるから、綺麗だって言うわけ」
 そこで、ようやく圭太は凛の方を見た。
 真っ直ぐな瞳で、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ、だが、その表情はとても凛々しくて。
 きっと、凛でなくてもそんな圭太を見たら、頬を赤らめてしまうだろう。
「って、ごめんね。変な話して」
「ううん、そんなことないよ。けーちゃんがどんなことを考えて行動してたのか、わかっただけでもあたしはよかったと思ってる」
「そっか。今の話、柚紀にもしたことなかったんだけど、そう言ってもらえると僕も安心できるよ」
「えっ、柚紀にも?」
「うん。凛ちゃんの前で言うのもなんだけど、柚紀はさ、自分自身に自信を持ってるからね。だから、自分のことを貶めることがない。もちろん、上辺だけで心の中では思ってるのかもしれないけどね。それでも、僕の前ではそういうこと言わないから、僕も言わないんだ」
「……そっか……」
 それが、凛と柚紀の違いでもある。
 むやみやたらに自信を持てばいいわけではないが、変に卑屈になるよりはずっといい。
 圭太としても、別に凛にそうなってほしいわけではないのだが、少なくとも自分のことを変に貶めてほしくないだけなのだ。
 性格などは実際に話してみたり、一緒に行動してみなければわからないが、少なくとも見た目に関しては、凛に関して言えば、圭太の意見がほぼ万人の意見といえる。
「……前にね、お姉ちゃんに言われたことがあるんだ」
「蘭さんに?」
「どうして凛は、そんなに自分のことを低く見せようとするの。それって、知らない人が見たり聞いたりしたら、ある意味ではバカにされてるって思うかもしれない、って」
「……なるほど」
「お姉ちゃんは自意識過剰なところもあるけど、確かに卑屈になったりはしてない。自分のよさを最大限アピールして、少しでもよく見てもらおうと努力してる。ずっと側で見てきたから、それがよくわかるの。でも、あたしは違った。もちろん、人をバカにしたような言い方はしたことないけど、自分に自信を持って発言したことは、あまりなかったから」
 そう言って凛は、小さく笑った。
「お姉ちゃんに比べて背も高いし、スタイルだって昔はよくなかった。それに、水泳をやってるから、普通の子より筋肉質だったのも微妙にコンプレックスだったし。だから、余計だったのかも」
「でも、今は違うよね?」
「まだ若干引きずってるけど、うん、前とは違うよ。だって、あたしは世界で一番認めてもらいたい人に、認めてもらってるんだから。だから、お姉ちゃんや柚紀みたいにいきなり自信を持つところまではいけないけど、少しだけ自分に自信を持つよ」
 そう言った凛の顔には、とてもいい笑顔が浮かんでいた。それはきっと、圭太が好きになった、本当の凛の笑顔なのかもしれない。
「今の凛ちゃん、すごくいい顔してるよ」
「えっ……?」
「思わず、キスしたくなるくらいにね」
 言うや否や──
「ん……」
 圭太は凛にキスしていた。
「も、もう、けーちゃんっ」
 顔を真っ赤にして怒るが、それも本気ではない。
「そ、そんなことされると……その……もっとしたくなっちゃう……」
「キス? それとも、違うこと?」
「ち、違うことって……そんな……あたしは……」
 もじもじと俯いてしまう凛。
 その姿は本当に初々しくて、可愛らしい。
「ごめん、凛ちゃん。別にからかうつもりはなかったんだけど」
「……ううぅ、けーちゃんのいぢわるぅ……」
「ごめんごめん」
 圭太は凛を抱きしめ、優しくその頭を撫でてやる。
 凛は、圭太に抱きつき、その胸に頬を寄せている。
「……ね、けーちゃん」
「ん?」
「……えっと……キス、以外のことでも、いい……?」
「キス以外のことって?」
「……え、エッチ、とか……」
 これ以上真っ赤にはなれないのでは、と思うほど凛は真っ赤になっている。
「したい?」
「……う、うん……」
「じゃあ、それも凛ちゃんへの誕生日プレゼントということで」
 そう言いながら、圭太はカバンを手元に寄せた。
 そこから小さな箱を取り出した。
「はい、凛ちゃん。誕生日プレゼント」
「いいの?」
「もちろん」
 凛は、おそるおそるという感じでそれを受け取る。
「開けてもいいかな?」
「それはもう凛ちゃんのものだからね」
「うん」
 箱を開けると──
「わあ……」
 イヤリングとネックレス、それにブレスレットが入っていた。
「いいの、本当に?」
「もちろんだよ。僕にはそれくらいしかできないから」
「それくらいって、これだけのことをしてくれたら十分だよ」
「喜んでくれたなら僕も嬉しいよ」
「本当にありがとう、けーちゃん」
 圭太としては、凛の喜ぶ顔さえ見られればそれでいいのである。だからこそ、それなりに大変なのにそれぞれにプレゼントを贈っているのである。
「今日はけーちゃんが一緒にいてくれるだけで最高の誕生日だったのに、こうしてプレゼントまでもらえて、これ以上ないくらいの誕生日になっちゃった」
「今日は、まだ終わってないよ」
「えっ……?」
「今日はまだ、終わってないよ」
「……うん、そうだね」
 圭太の言葉に、凛は大きく頷いた。
 
 多少じゃれ合いながら、ふたりはのんびりとした時間を過ごした。
 凛は、何度か圭太にからかわれ、その度に顔を真っ赤にしていた。もっとも、圭太がそこまで誰かをからかうこと自体珍しい。それはつまり、それだけ凛のことを心やすい相手と考えているということになる。
 からかわれたことに関しては多少不満もあった凛ではあるが、大好きな圭太と一緒にいられる喜びに比べれば、微々たるものだった。
 その証拠に、凛はほとんどずっと、笑顔だった。
 ふたりがそこを離れたのは、少し風が冷たくなってきた頃だった。
 バスの本数が少ないので一度バス停に戻り、時刻を確認。案の定、次のバスまで三十分もあった。バス停にはベンチもなにもないので、結局時間まで貯水池で過ごした。
 帰りのバスも、ふたりの貸し切り状態だった。
 中心部に近づいても誰も乗ってこず、結局そのまま駅前に着いた。
「さて、これからどうしようか」
 陽は西に傾いてきているが、まだ夕方と称すには微妙な時間。一分一秒でも長くいたい凛にとっては、これからの選択はかなり重要となる。
「どこか行きたいところは、って、それを最初に聞いて、さっきの場所へ行ってたんだっけ」
 そう言って圭太は苦笑した。
「そうだなぁ……とりあえず、どこかでお茶でも飲もうか」
「けーちゃんに任せるよ」
 というわけで、圭太は駅前商店街へ足を向けた。
 休日ということもあって、家族連れが多い。
 いつも以上に活気に満ち溢れた商店街の一角。小洒落た喫茶店。
「いらっしゃいませ」
 その店内に、渋い声が響いた。
「こんにちは」
「おや、圭太くんじゃないか」
『もみの木』のマスターは、入ってきたのが圭太だとわかり、柔和な笑みを浮かべた。
 店内には、ちらほらと客がいた。休日でも、この空間はさほど変化がない。
「久しぶりにマスターのコーヒーを飲みたくなって」
「ずいぶんと嬉しいことを言ってくれるね」
「というわけで、コーヒーをお願いします」
「わかった。席は、どこでも適当に」
 空いていた窓際の席に、ふたりは座った。
「けーちゃんの知り合いなの?」
「ん、僕というよりは、父さんのだね」
「あ、小父さんのなんだ」
「昔からよくしてくれた人で、今でもなにかと気遣ってくれて」
「そっか」
 凛は、もう一度店内を見回した。
 落ち着いた佇まいは、確かに『桜亭』と似ている。こぢんまりとしたところもそうだ。
 この店のマスターなら、圭太の父──祐太とも気が合っただろうと、凛は納得した。
 少しして、コーヒーが運ばれてきた。
「今日は、デートかい?」
「ええ、まあ」
「圭太くんも隅に置けないね。まあ、あの祐太の息子だから、少なからずそういうところはあるんだろうけど」
「結婚しててもそうだったんですか?」
「詳細については、祐太の名誉のために言わないが、そうだね、琴美さんは結構ハラハラしてたと思うよ」
「そうですか」
 それを聞いた圭太は、少しだけ安心していた。
「おっと、あまり邪魔をしても悪いね。ゆっくりしていってくれよ」
「はい」
 そう言ってマスターはカウンターの向こうへ戻った。
「ここのコーヒーは、とても美味しいよ」
「けーちゃんが美味しいって言うんだから、本当に美味しいんだろうね」
 凛は、砂糖とミルクを入れて、コーヒーを飲んだ。
「あ、ホントだ。すっごくすっきりしてる」
「いい豆を使って、きちんとした方法で焙煎して、最良の方法でコーヒーを淹れてるからこれだけの味が出せるんだよ」
「なるほど」
「普通の店だとここまでやってしまうと、手間がかかりすぎてとても経営が成り立たないけど、この店くらいの規模でやってる分には、なんとかなるんだ」
「『桜亭』ではどうしてるの?」
「うちは、ここまでできる人が誰もいないから。昔は父さんができてたんだけど、今はね。だから、できる範囲内のことをやってるよ」
 小回りの利く小さな店で、ほぼ趣味のようにやっているならいくらでもこだわれる。だが、大きな店になり、客数も増えればそこまでこだわると経営できなくなる。
 そのどちらに重点を置いて、どちらを妥協するか。それが問題となる。
 そして、そういう分け方で言えば『桜亭』は経営を、『もみの木』はこだわりを選んでいる。
「とりあえず、うちのコーヒーで満足できなくなったら、ここへ来るといいと思うよ」
「ふふっ、そうするね」
 凛は微笑んで、もう一口コーヒーを含んだ。
「ね、けーちゃん」
「ん?」
「けーちゃんは、部活を引退したら具体的にはどうするつもりなの?」
「まだちゃんとは決めてないけど、基本的にしようと思ってることはあるよ」
「それってどんなこと?」
「僕は受験は関係ないから、とりあえずは部活に顔を出し続けるよ」
「それって、今までと変わらずにってこと?」
「さすがに毎日は出ないよ。僕がいることでプラスになることもあるだろうけど、マイナスになることもあるはずだから」
「そっか」
 圭太がいれば的確な指導をしてくれるだろうが、それでは現役二年のそういう機会を奪ってしまうことになる。もちろん、最初からできるわけではないのだから、まずは圭太に教えを請うのはいいことではある。
 ただ、それもいつまでもというわけにはいかない。
「あとは、今までできなかったことをやりたいかな」
「できなかったこと?」
 凛は首を傾げた。
「高校に入ってから今まで、その中心にあったのは部活だったから。部活をやっていたらできないことを、少しでもいいからやってみようと思って」
「なるほどね。ようするに、けーちゃんの第二の高校生活がはじまるって感じかな?」
「そうかもしれないね」
 凛の言葉に、圭太は微笑んだ。
「ああでも、そうすると惜しいなぁ」
「ん、なにが?」
「だって、せっかくけーちゃんが第二の高校生活をはじめるのに、あたしは受験勉強があるんだもん。タイミング悪すぎ」
 そう言ってため息をつく。
「まあまあ、そう言わないで。凛ちゃんとはクラスも同じなんだし、融通は利くよ」
「そうなんだけどね。でもさ、けーちゃん。できなかったことをいろいろやるのはいいと思うけど、本当にけーちゃんがやりたいことってなんなの? 卒業したら調理師の免許を取るみたいなことは前に聞いたけど」
「本当にやりたいこと、か。うん、そうだね。正直言うとね、そこがまだわからないんだ。今は部活で手一杯ということもあるんだけど、部活をしていない自分自身をあまり上手く想像できなくて」
「そっか」
 凛も、そんな圭太の気持ちがよく理解できた。
 凛自身も、水泳部を引退してからそういう風に考えたことがあったからだ。
 ひとつのことに邁進している時はいい。それだけのことを考えていればいいのだから。だが、たとえ一時的なものだとしても、そこから離れた時に自分はどうすればいいのか。それはすぐにはわからないかもしれない。
「ただ、僕には柚紀がいるから、あまり心配もしてないんだ。柚紀なら、僕が望まなくてもあれこれやってくれそうだし」
 そう言って笑う。
「確かに、柚紀ならあれこれけーちゃんを引っ張り回しそう」
 凛も苦笑する。
「凛ちゃんも、受験勉強の息抜きに僕につきあってくれると、嬉しいかな」
「それはあたしの方からお願いしたいことだよ」
「じゃあ、お互いの思惑が合致したということで」
「うん」
 ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 
『もみの木』をあとにしたふたりは、商店街を歩いていた。
 心なしか、凛の言葉数が少なくなっていた。
 そんな凛を気遣って、圭太はあえて特に声をかけなかった。
 しばらく歩くと、街の風景、雰囲気が一変する。
 歓楽街と言えば聞こえはいいかもしれないが、ようするに人間の欲望を満たすために作られた場所だ。
 ふたりは、そんな街の一角にあるホテルに足を踏み入れた。
 圭太はある意味では慣れたもので、表情だけ見ていると特に変わった様子はない。
 凛はかなり緊張しているようで、少し挙動不審気味だ。
 部屋に入っても、凛の緊張はまったく解けておらず、圭太も少しだけ困った顔をしていた。とはいえ、凛にとってはまだ二回目である。それで平然としていたら、それはそれで微妙である。
「あ、あはは、やっぱりまだダメだね。すごく緊張しちゃってる」
「それが普通だよ。二度目で堂々としてたら、さすがに引いちゃうよ」
「そ、そうだよね」
「だから、あまり心配しないでいいよ」
「うん」
 圭太が自分の気持ちを理解してくれているということが、凛にとってとても大きなことだった。それだけで緊張感がなくなるわけではないが、多少は薄らいだのも事実である。
「凛ちゃん」
「……うん」
 圭太は、凛を抱きしめ、ベッドに横たわらせた。
「ん……」
 キスをする。
 それだけで凛の緊張感がさらに消えた。
「けーちゃんとのキスは、すごく気持ちいいから、好き」
「じゃあ、もっとしよう」
 ついばむように、何度もキスを交わす。
 まだキスにも慣れていない凛は、少しでも圭太に応えようと必死である。
 息を継ぐのも忘れ、キスを繰り返す。
「けーちゃん……」
 潤んだ瞳で圭太を見つめる。
「いいかな?」
「うん……」
 凛は小さく頷いた。
 一度凛を起こし、ワンピースを脱がす。
 薄いピンクの可愛らしい下着姿に、圭太は思わず微笑んだ。
「えっ、ど、どこかおかしいかな?」
「ううん。おかしいところなんてないよ。凛ちゃんがすごく可愛かったから、ついつい頬が緩んじゃっただけ」
「も、もう……けーちゃん……」
「凛ちゃんは、本当に綺麗でカワイイよ」
「……自惚れない程度に、そう思っておくよ」
「うん」
 圭太は、もう一度キスをした。
 キスをしながら、胸に手を伸ばす。
「あ、ん……」
 ブラジャー越しに胸を揉む。
 力を込めたり、緩めたり。凛の胸はとても柔らかく、圭太の動きにあわせて形を変える。
 ブラジャーをずらし、胸を露わにする。
 直に触れると、さらにその柔らかさを実感できる。
「っ、あ……」
 少しずつ高まってくる快感に、凛は声を押し殺す。
 包み込むように胸を揉み、今度は突起を指でこねる。
「んっ」
 より強い快感に、声が出た。
 硬く凝ってきた突起を指でこねながら、顔を近づける。
「や、あ……ん」
 舌で軽く舐めただけで、凛の体がビクッと反応した。
 舌先で何度も何度も転がし、時折押し込んだりする。
 次第に凛の息が上がってくる。
 上気した頬に、潤んだ瞳。
「ん、やん……けーちゃん……」
「気持ちいい?」
「う、うん、すごく気持ちいい」
「でも、僕としてはもっと気持ちよくなってほしいんだ」
「えっ……?」
 圭太は間髪入れずに凛の下半身に手を伸ばした。
「や、ダメ……んんっ」
 いきなり直接秘所を触られ、さすがの凛も抵抗する。
 だが、圭太もそれを逃さない。
「もう濡れてるよ」
「だ、だって……すごく気持ちよかったし……」
「嬉しいよ。凛ちゃんがこれだけ感じてくれて」
「けーちゃん……」
 安心させるようにキスをする。
「ん……」
 唇を離すと、凛はわずかに微笑んだ。
「けーちゃんがせっかく安心できるように努力してくれてるんだから、あたしもそれに応えなくちゃいけないね」
「無理はしなくていいよ。少しずつでいいんだから」
「うん」
 もう一度キスをする。
「じゃあ、もう少し凛ちゃんに触れてもいいかな?」
「あ、うん」
 凛の了解を得て、今度はショーツを脱がせた。
 足の間に体を入れ、直接秘所に触る。
「んんっ」
 圭太の言った通り、凛の秘所はすでに濡れていた。
 指をほんの少し中に挿れるだけで、蜜があふれてくる。
 ちゅくちゅくと淫靡な音が神経を痺れさせていく。
「や、やっぱり、けーちゃんの手の方が、気持ちいいよぉ」
「もっと気持ちよくなっていいんだよ」
 圭太は、最も敏感な突起を軽く擦った。
「ひゃんっ!」
 唐突な快感に、凛の体が大きく跳ねた。
 そのまま立て続けに何回か擦る。
「やっ、そ、そんなにされると……んんっ、イっちゃうよぉっ」
 敏感な凛は、泣きそうな声で訴えるが、圭太もやめる気はないらしい。
「ダメっ、あっ……んっく……いっ!」
 そして、凛は軽く達してしまった。
「はあ、はあ……けーちゃんの、いぢわるぅ……」
「ごめんごめん」
「でも……すごく気持ちよかった……」
「今日は、僕だけじゃなくて、凛ちゃんにもちゃんと気持ちよくなってほしいから」
 はじめての時はそこまでの余裕はなかった凛に対する、圭太なりの配慮である。
 それを感じ取ってか、凛もそれ以上は特になにも言わなかった。
「そろそろいいかな?」
「うん、いいよ」
 圭太も服を脱ぐ。
「いくよ」
「うん」
 モノを秘所にあてがい、一気に突き挿れた。
「んああっ」
 達して間もないことと、まだそれ自体に慣れていないことから、嬌声とも悲鳴ともとれる声が上がった。
 一番奥まで入ったところで、圭太は動きを止めた。
「大丈夫、凛ちゃん?」
「う、うん、大丈夫。ちゃんと、けーちゃんのをあたしの中で感じてる」
「よかった」
「けーちゃんの大きくてあたしの中、いっぱいだけど、それに比例してすごく満ち足りてる」
「凛ちゃん……」
「でも、もっともっとけーちゃんを感じたいから、けーちゃんの好きなように動いてほしいな」
「うん、わかったよ」
 圭太は、ゆっくりと腰を動かした。
「んっ、あっ」
 その行為自体にまだ慣れていない凛ではあるが、感情の高ぶりのせいなのか、戸惑いなどはいっさいないように見受けられる。
 自然にその行為を受け入れ、圭太を体全体で感じようとしている。
「けーちゃんっ」
「凛ちゃんの中、すごく気持ちいい」
「あたしも、気持ちいいよ」
 二回目ということで多少気を遣っていた圭太だったが、その気遣いをする余裕もなくなってきた。
 凛の中はまるでそれだけで別の生き物のように、圭太のモノを時に優しく、時に激しく締め付けてくる。
 セックスということ自体にはかなり慣れている圭太でも、気を抜けばすぐに果ててしまいそうな感じだった。
「んんっ……あんっ」
 次第に凛の声も大きくなってくる。
 と、圭太が唐突に動きを止めた。
「けーちゃん……?」
「ちょっとごめんね」
 そう言って圭太は凛を抱きかかえ──
「えっ、け、けーちゃん……?」
 今度は自分がベッドに横になり、凛が圭太の上になった。
「凛ちゃんが好きなように動いていいよ」
「で、でも……」
「大丈夫。なにも恐いことなんてないんだから」
「……うん」
 凛は、意を決して圭太のモノをつかんだ。
「そのまま腰を落として」
「こ、こう、かな……」
 圭太のモノは、なんの抵抗もなく凛の中に入った。
「んっ……けーちゃんのが、一番奥まで……」
 先ほどまでとは違う感覚に、凛はわずかに戸惑った。
「あとは、凛ちゃんの動きやすいように動いて」
「う、うん」
 圭太に言われるままに、凛はぎこちなく腰を浮かせ、また落とす。
 かなり緩慢な動きではあるが、今の凛には精一杯だった。
 圭太もそれがわかるだけに、特になにも言わず、ただ凛のしたいようにさせていた。
「けーちゃん……気持ちいい?」
「気持ちいいよ」
「……本当に?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「だって、男の人ってもっと、その、激しい動きの方が気持ちいいんでしょ?」
「それは……」
 ないとは言えなかった。
 実際、今のような動きのままでは、圭太も達したかどうか。
「だからね、けーちゃん。無理しないでいいんだよ」
「……じゃあ、こうしようか」
「どうするの?」
「凛ちゃん、僕の方に体を倒してくれるかな?」
「うん」
 そのまま凛は体を圭太の方に倒した。
「ふふっ、けーちゃんの顔がすぐに近くにあるよ」
「じゃあ、キスしようか」
「うん」
 まずはキスをする。
「あとは、どうすればいいの?」
「僕も一緒に動くから、凛ちゃんはそれにあわせて」
「うん」
「じゃあ、いくよ」
 圭太は凛の腰をつかみ、下から突き上げた。
「あっ!」
 突然のことに凛はわずかに戸惑ったが、すぐに自分がなにをすればいいのかわかったらしい。
 圭太の動きにあわせて凛も動く。
「んっ、けーちゃんっ」
「凛ちゃんっ」
 慣れてくると、次第に動きも速くなる。
「けーちゃんっ、けーちゃんっ」
 凛は、圭太に抱きつく。
「あっ、んっ、いいっ」
 次第にふたりも高まってくる。
「けーちゃん、あたしっ」
「僕もそろそろ」
「一緒に、けーちゃん、一緒にっ」
 最後にこれでもかと大きく、深く突く。
「んっ、いっくぅっ!」
「くっ!」
 そして、ふたりはほぼ同時に達した。
「はあ、はあ……」
 凛は、すべての力が抜けたように、圭太に倒れ込む。
「はぁ、はぁ……凛ちゃん……」
「大好き……けーちゃん……」
 
「ううぅ……」
 凛はひたすら照れていた。
「まだ二回目なのに、あんなに感じちゃった……」
「僕は嬉しいよ。僕だけっていうのは、やっぱり心苦しいし」
「……ホント?」
「うん」
「……そっか」
 そういう風に言われて、凛も嬉しそうに微笑む。
「そういえば、凛ちゃん」
「ん?」
「さっき、言ってたよね」
「なにを?」
「僕が凛ちゃんに触ったら、僕の手の方が、って」
「あ……あ、あれは、その……」
 普段はそういうことをあげつらう圭太ではないのだが、今日は少しだけいぢわるだった。
「……だ、だって、あの日のことを思い出しちゃうと、我慢できなくなっちゃうんだもん……」
「本当に我慢できなくなったら、言ってくれればいいのに」
「でも、あたしはけーちゃんの彼女じゃないし……」
 少しだけ淋しそうにそう言う。
「バカだなぁ、凛ちゃんは」
「えっ……?」
 圭太は凛を抱きしめ、続ける。
「そんなこと気にしなくていいんだよ。そりゃ、あからさまに柚紀を無視するようなやり方は問題だけど、でもね、凛ちゃん。こう言ったらあれだけど、今こうしてる時は、凛ちゃんが僕の『彼女』なんだよ。その『彼女』の頼みなら、僕はなんでもかなえてあげたいって思ってる」
「……いいの、それで?」
「僕もそうだけど、凛ちゃんだって健康な女の子だからね。したくなって当然だよ。そこで無理しちゃう方がよくないし」
「うん……」
「それに、そうしたくなるようにしちゃったのは、僕なんだから。その責任というわけでもないけど、アフターケアも僕の役目だよ」
「……そんな風に言われちゃうと、歯止め効かなくなっちゃうよ?」
「カワイイ凛ちゃんのためなら、少しくらい無茶できるよ」
「……んもう、けーちゃんのバカ」
 言葉とは裏腹に、凛は本当に嬉しそうだった。
「でも、そんなけーちゃんを好きになれて、本当によかった……」
「僕も、凛ちゃんに好きになってもらえてよかったよ」
「うん……」
 
 ホテルを出て駅前まで戻ってきたところで、凛の携帯が鳴った。
「もしもし?」
『あ、凛? 今大丈夫?』
「んもう、どうしたの、お姉ちゃん?」
 電話の相手は、凛の姉、蘭だった。
『まだ圭太ちゃんと一緒なの?』
「……そうだけど、それがなにか?」
 せっかくふたりきりでいい雰囲気だったのに、それをぶち壊されて凛は少しばかり機嫌が悪くなっていた。
『今、どこにいるの?』
「駅前」
『じゃあ、もうしちゃったあとか』
「お、お姉ちゃんっ!」
『冗談よ、冗談。駅前なら、すぐね』
「すぐって……まさか、お姉ちゃん、こっちにいるの?」
『あら、凛にしては珍しく頭が働いてるじゃない』
「……そんなことに頭を使いたくない……」
『というわけで、落ち合いましょ』
「イヤ」
『なんでよ。もうデートも十分でしょ? それに、私はあんたに用があるわけじゃないの。圭太ちゃんに用があるの』
「けーちゃんに?」
『そ。圭太ちゃんとは本当にたまにしか会えないんだから、少しくらい融通しなさいって』
 そんな風に言われてしまうと、凛としても強くは言えない。
「……で、お姉ちゃんはどこにいるの?」
 それから落ち合う場所を決め、凛は携帯を切った。
「蘭さん?」
「うん。けーちゃんに用があるんだって」
「僕に?」
 さすがに圭太も首を傾げるしかなかった。
 そんなわけで、ふたりは蘭と落ち合うべく場所を移動した。
 で、蘭はすぐに見つかった。
「圭太ちゃん」
 蘭は、すぐさま圭太の腕を取り、その場所を確保した。
「お、お姉ちゃんっ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。私だって久しぶりなんだから。ね、圭太ちゃん」
 正真正銘の美人である蘭ににっこり微笑みかけられれば、圭太でなくともなにも言えなくなる。
「あ、あの、蘭ちゃん?」
「うん、どうしたの?」
「僕になにか用があるって聞いたんですけど」
「うん、あるよ。でも、そのためには凛が邪魔なのよねぇ」
「じゃ、邪魔ってなによ」
「というわけで、凛。あんたちょっと席外しなさい」
「どうしてあたしが?」
「すぐに終わるから」
 いつもより少しだけ真剣な蘭に、凛の方が折れた。
「……じゃあ、なにか飲み物でも買ってくるから、その間に終わらせといてよ」
「了解」
 凛は、そう言って向こうへ消えた。
「さてと、圭太ちゃん。少しだけ、私につきあってね」
「はい」
 ふたりは、その場を離れ、歩き出した。
「どう、凛、喜んでた?」
「ええ、すごく喜んでくれました」
「でもさ、圭太ちゃん。いいの? 圭太ちゃんには彼女がいるんでしょ? そりゃ、私としてはカワイイ妹を選んでくれるなら嬉しいけど」
「そのあたりは、いろいろあるんです」
「いろいろって?」
 圭太は、今自分が置かれている状況をごく簡単に説明した。
 本当は話さなくてもよかったことなのかもしれないが、家族にとっては不本意な形にしてしまったことに対しての、せめてもの償いなのかもしれない。
「……なるほどね。そういうことだったんだ」
 それを聞き、蘭は小さく息を吐いた。
「人を好きになるって、本当に大変なことだからね。それ自体をどうこう言うつもりはないわ。それに、凛だってもう十八なんだから、そのあたりのことも理解してるだろうし」
「はい」
「ただね、圭太ちゃん。できればそういうことはやめた方がいいと思うよ。一応、人生の先輩からの忠告」
 少しだけ真剣な表情で蘭は言う。
「と言っても、もう今更なんだろうけどね。じゃなかったら、圭太ちゃんのことだから、ここまでのことになってなかったよね」
「……それはわかりませんけど」
「でも、そっか。圭太ちゃんは思っていたよりもずっと『男性』になってたんだね。確かに、GWに再会した時にずいぶん変わったなぁ、とは思ってたんだけどね」
 そう言ってクスクス笑う。
「ね、圭太ちゃん。凛のこと、本当によろしくね。あれでも私のたったひとりの妹だから、カワイイのよ。普段は言えないけど、凛がいてくれて私は本当によかったと思ってる。だからね、そんな自慢の妹を好きになってくれて、私も嬉しいの。特に、圭太ちゃんが好きになってくれたってことが、余計に嬉しい。圭太ちゃんは、私にとっては『弟』も同然だから」
「はい」
「だからね、圭太ちゃん。凛のこと、お願いね。泣かせないでくれ、とまでは言わないけど、少しでも凛のことをカワイイと思ってくれてる間は、圭太ちゃんの側にいさせてあげてほしいの」
「はい」
「うん、いい顔してる。凛じゃなくても、惚れちゃいそう」
 蘭は、改めて圭太の腕を取った。
「本当はね、違うことを圭太ちゃんに言おうと思ってたの。でも、それはどうでもよくなっちゃった。それよりももっと大事なこと言えたし」
「そうですね。僕も蘭ちゃんにそう言ってもらえて、よかったです」
「ふふっ、それならよかった。余計なこと言って、ウザイとか思われたらちょっとショックだったし」
「それはないですよ。だって、僕は蘭ちゃんのこと、大好きですから」
「ん〜、もう、圭太ちゃんカワイイ」
 ここが往来でなければ、蘭は圭太に抱きついていたかもしれない。それくらい蘭は喜んでいた。
「そんなカワイイ圭太ちゃんをあの凛に返さなくちゃいけないのは、すごく残念だけど、しょうがないね」
 そう言って蘭は、携帯を取り出した。
「あ、凛? 話、終わったわよ」
 それからすぐに凛が合流した。
「けーちゃん。お姉ちゃんに変なことされなかった?」
「ちょっと、凛。いきなりそれはないんじゃない?」
「いいの。お姉ちゃんはそれくらい要注意人物なんだから」
「まったく……」
 言い争うふたりではあるが、その実とても仲の良いふたりでもある。
「さてと、圭太ちゃんはこれからどうするの? もうそろそろいい時間になるけど」
 圭太は、凛を見る。
 今日の主役はあくまでも凛である。その凛が頷かなければ、今日は終わらない。
「けーちゃん。今日は本当にありがとう。今年の誕生日は、今までで一番嬉しい誕生日になったよ」
「凛ちゃんに喜んでもらえて、僕も嬉しいよ」
「本当はもっともっとけーちゃんと一緒にいたいけど、それはさすがにねだりすぎだよね」
 そう言って笑う。
「それに、また学校で会えるし。だから、今日はここまでにしよ」
「凛ちゃんがそれでいいなら」
「うん」
 言い出せばキリがないのは、圭太も凛もよくわかっていた。楽しい時間にどこで幕を引くか。それが一番難しい。だから、今がそのタイミングかもしれない。
「じゃあ、圭太ちゃん。またね」
「はい」
「けーちゃん、バイバイ」
「うん」
 あまり余韻は残さずに。
 それが次に会うためのコツかもしれない。
 
 四
 十月十四日。
 今年もまた、この日がやって来た。
 だが、今年は去年までと少し違う。なんといっても、今年は七回忌である。
 あまり大げさなことはしないが、それでも親戚が集まってくる。そのため、今年は圭太たちは学校を休むことになっていた。
 法事自体はそれほど時間はかからないのだが、その前とそのあとにいろいろあるからである。
 圭太としては、二日前に入院した祥子のことも気になっていたのだが、さすがに法事をサボるわけにはいかなかった。
 法事は、霊園からそれほど離れていない場所にある葬祭場で行われる。
 圭太も琴美もそれぞれに忙しく、結果的に琴絵はあまりやることがなかった。
「伯母さんも圭兄も、忙しそうだね」
「うん」
 同じく法事に参列する朱美が琴絵に声をかけた。
「でもね、お母さんもお兄ちゃんもああやって忙しくしてた方がいいのかも」
「いろいろ考えちゃうから?」
「うん」
 琴絵は、葬祭場のスタッフと話をしているふたりから視線を逸らし、頷いた。
「私もお父さんの想い出はいろいろあるけど、お母さんとお兄ちゃんはそれ以上だから」
「そうだね」
「それでも、ここ何年かでふたりともずいぶんと変わったと思うよ。特にお母さんは。それもこれも、全部お兄ちゃんのおかげなんだけどね」
「圭兄、だんだんと伯父さんに似てきてるから。伯父さんと圭兄は違うってわかってはいても、重ねちゃうんだろうね」
「うん。お母さん、たまに言うんだ。お兄ちゃんのことを『祐太さん』て呼んじゃいそうになるって」
「そこまでなんだ」
 さすがにそこまでとは思っていなかった朱美は、驚きを隠せない。
「私はそこまでのことはないけど、お母さんの気持ちもわかるの。だって、お兄ちゃんがいなかったら、私もお母さんもダメになってた。そのお兄ちゃんがお父さんに似てきて。お母さんが誰よりも愛してたお父さんに似てくるお兄ちゃんに、あれこれ重ねて、いろいろ思ってしまうのはしょうがないと思う」
「圭兄はどう思ってるのかな?」
「ん、そのことをってこと?」
「うん」
「お兄ちゃんは、すべて受け入れてるよ。お母さんがどんな目でお兄ちゃんを見ているのかもわかってる。お母さんがお兄ちゃんにお父さんを重ねているのもわかってる。そして、お兄ちゃんがいなくなったらお母さんがダメになってしまうのも、わかってる」
「まあ、圭兄なら気付いてるか。それもそうだよね」
 朱美は小さく頷いた。
「改めて思ったけど、やっぱり圭兄ってすごいね」
「うん、すごいよ。だって、私の自慢のお兄ちゃんだもん」
 そう言って琴絵は微笑む。
 それから少しして、打ち合わせを終えた圭太と琴美がやって来た。
「とりあえず、あとは時間まで待つだけね」
 それから時間までは、実に淡々と進んでいった。
 いや、時間が来て、七回忌法要がはじまってからもそうだった。
 淡々と、ただひたすらに淡々と時間が進んだ。
 感慨にふけっている時間など、あまりなかったかもしれない。
 それでも、すべてが終わった時には、脱力して立てなくなるほどに疲れていた。
 圭太は、親戚の集まりを中座し、葬祭場の外へ出てきた。
 携帯を取り出し、メールを打つ。
 文面を考え、送信。
「ふう……」
「おつかれさま、お兄ちゃん」
 そこへ、琴絵が出てきた。
「なんだ、琴絵まで出てきたのか」
「うん。なんか難しい話してたから」
「そうか」
 琴絵は圭太の隣に並び、大きく伸びをした。
「これで、しばらくは落ち着くのかな?」
「そうだなぁ、次の十三回忌までは落ち着くと思うよ。あとは、家族の間だけで、という感じかな」
「そっか。でも、お母さんはその方がいいのかもしれないね。今日みたいに親戚が集まっちゃうと、思い出したくもないことも思い出さなくちゃいけなくなるから」
「確かに。母さんには、もう思い出したくもないことは思い出さないでほしいから」
「せっかくお兄ちゃんがお母さんの心の隙間を埋めてきてるのにね」
「それはあまり関係ないけど」
 そう言って圭太は苦笑した。
 と、そこで圭太の携帯が鳴った。
「誰?」
「ん、祥子先輩」
 圭太は、早速電話に出る。
『もしもし、圭くん』
「はい」
『今は大丈夫なんだよね?』
「ええ。メールした通りです。あ、でも、今は琴絵がすぐ側にいます」
『ふふっ、琴絵ちゃんならいいよ』
 電話の向こうの祥子は、とても落ち着いた感じがした。
 まさか、明日に出産を控えているとは誰も思わないくらいである。
「それで、どうですか」
『私はなにも変わらないよ。むしろ、お母さまやお姉さまの方があたふたしてる』
「その姿が想像できないので、見てみたいです」
『たぶん、明日になったらいつも通りだろうね。ふたりとも、そのあたりの適応力は抜群だから』
 そう言って笑う。
『明日は、結局どうすることにしたの?』
「明日まで休むことにしました。といっても、ずっと楽器に触っていないのも不安なので、楽器だけは朱美に頼もうと思ってます」
『そっか』
「僕にできることは少ないかもしれませんけど、それでもできることをして、少しでも祥子の力になりたいですから」
『圭くんが側にいてくれれば、それだけで私はなんでもできちゃうよ』
 もともと土曜日で学校は休みなのだが、コンクールが近い吹奏楽部は、当然部活がある。しかし、それに出ていては祥子の出産に立ち会うことはできない。
 天秤にかけるのははばかられたのだが、それでも圭太は祥子を選んだ。
「明日は朝からそっちへ行きますから」
『うん、待ってるね』
 と、琴絵が圭太の袖を引っ張った。
「どうした?」
「私も先輩と話したい」
「わかったよ……あ、祥子。琴絵が少し話したいというので」
『琴絵ちゃん? うん、いいよ』
「ほら」
「ありがと」
 琴絵は携帯を受け取った。
「先輩。琴絵です」
『どうしたの、わざわざ圭くんに頼んで』
「私は明日、行くことができませんから、その前に話しておきたくて」
『そっか』
「先輩。がんばってください」
『うん、がんばる』
「無事生まれたら、私にも抱かせてくださいね」
『うん』
「えっと……クラのみんなも無事生まれるよう、祈って、応援してますから」
『うん』
「えっと……いろいろ言いたいことはあったんですけど、全部忘れました」
『ふふっ、ありがとう、琴絵ちゃん。すごく心強いよ』
「とにかく、がんばってください」
『うん』
「じゃあ、お兄ちゃんに替わります」
 再び携帯を手にする。
『本当に琴絵ちゃんは良い子だね。私、ちょっとだけ泣いちゃった』
「それは黙ってましょうか?」
『そうだね。そうしてくれるとありがたいかな』
 電話の向こうで、祥子は少しだけ鼻をすすった。
「それじゃあ、祥子。今日はゆっくり休んでください」
『うん』
「また明日」
『うん、また明日』
 携帯を切る。
「先輩、落ち着いてたね」
「ここまで来たら、ジタバタしてもしょうがないから」
「そうだね。あとは明日、無事に生まれれば」
「大丈夫だよ。絶対に大丈夫」
 圭太は自分に言い聞かせるように、繰り返した。
「実は、父さんにも密かにお願いしてあるから、本当に大丈夫」
「あ、私もお父さんにお願いしたよ」
「じゃあ、ますます大丈夫だ」
「うん」
 不安が完全に消えたわけではない。
 それでも、大丈夫と信じていれば、きっと大丈夫である。
 圭太も琴絵も、そう信じていた。
「さてと、そろそろ戻ろうか。あまり母さんにだけみんなの相手をさせるのも悪いし」
「うん」
 
 圭太にとって、祐太の命日は新たに生まれてくる命を確認するためにも、これから先とても大きい意味を持つ。
 今はまだその実感はないかもしれないが、五年、十年経てば、必ずそうなる。
 その時、そのふたつをどう捉えるかは、わからない。
 ただ、それを無為なものにだけはしないだろうことは、容易に想像できる。
 それが、圭太の圭太たるゆえんでもあるからだ。
 
 十月十五日。
 その日は朝からよく晴れていた。まさに秋晴れという日だった。
 圭太は朝からそわそわしていた。
 普段から年齢不相応に泰然自若としている圭太にしては、極めて珍しいことであった。
 だが、家族の誰もが圭太がそうなる理由を理解していたので、なにも言わなかった。
 朝食後、圭太は出かける準備を整えた。
「母さん。準備できた?」
「もう少しだけ待って」
 琴美に声をかけ、一度リビングへ。
 リビングでは、琴絵と朱美が揃ってテレビを見ていた。
「じゃあ、ふたりとも。部活の方は頼んだよ」
「うん。ちゃんと先輩に言っておくから」
「楽器は、そのまま持ってくればいいんだよね?」
「ああ、そのままで大丈夫だよ」
 ふたりは、さすがに部活に参加する。圭太としては自分が参加できない分だけ、このふたりにはしっかりやってもらいたかったのだ。
「ホントは私も行きたかったんだけどなぁ」
「それはもう言わない約束だろ?」
「わかってるよ。ちょっと言ってみただけ」
 そう言って琴絵は笑った。
「でも、お兄ちゃん。ちゃんと連絡してね。連絡を待ってるのは、私たちだけじゃないんだから」
「わかってる。ちゃんと連絡するよ」
「圭太。準備できたわよ」
 そこへ、出かける準備を終えた琴美が入ってきた。
「じゃあ、行こうか」
 
 病院は、一度駅前まで出てからバスを乗り換えてようやく、という場所にあった。
 車でも運転できればそれほどかからない距離ではあるのだが、できないことをやろうと思っても仕方がない。
 バスを乗り換え、病院に到着したのは、家を出てから一時間後だった。
 病室はすでに教えられていたので、真っ直ぐ向かうことができた。
 病室は個室らしく、札は一枚しか出ていなかった。
 軽くノックする。
「どうぞ」
 横開きのドアを開け、中に入る。
「あ、圭くん」
 病室には、祥子と朝子、それに陽子がいた。
「ご無沙汰してます」
 琴美は、早速朝子に挨拶する。
「どうですか、気分は?」
「うん、全然問題ないよ」
 そう言って祥子は微笑む。
「でもね、圭太くん。圭太くんが来るまでは、ずいぶんと落ち着かない感じだったわよ」
「も、もう、お姉さま」
「ただ、それでいいと思うのよ。だって、そんな祥子のために、圭太くんは来てくれたわけだから」
 にっこり笑う陽子に、祥子はなにも言えなかった。
「ま、そういう理由はどうでもいいんだろうけどね、実際は。祥子は圭太くんに側にいてほしい。圭太くんは祥子の側にいてあげたい。それだけが事実だから」
「そうね。あとは陽子さんが余計なことを言わなければ、問題はないと思うわ」
「あらら……」
 朝子にたしなめられ、陽子はペロッと舌を出した。
「圭太さん。祥子さんのためにわざわざ来てくれてありがとうございます」
「いえ、ひとりだけのことではありませんから、当然のことです」
「ふふっ、本当に圭太さんが側にいてくれれば、祥子さんにはなんの不安もないようですね」
「お、お母さままで……」
 朝子は意味深な笑みを浮かべ、圭太と祥子を見ている。
「祥子さん。なにかあったら、遠慮なく圭太に言っていいのよ」
「いえ、大丈夫ですよ、琴美さん。本当に圭くんには、側にいてもらえるだけで百人力ですから」
「それならいいけど。私はあまり役に立ちそうにないから、せめて圭太くらいはと思ってね」
「そんなことないですよ。琴美さんにも来てもらえて、心強いです」
「そう?」
 そう言われて、琴美は嬉しそうである。
「ところで、祥子さん」
「なんですか?」
「少し、圭太さんとふたりきりにした方がいい?」
「えっ……?」
「圭太さんも、その方がゆっくり話ができるでしょう?」
「そうですね。そうしていただけるのであれば、少しだけでもそうしたいです」
「わかりました」
 というわけで、朝子と陽子、それに琴美は病室をいったん出て行った。
「気を遣われちゃったね」
「ですね」
 ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 圭太は、椅子からベッドに座り直し、祥子の手を握った。
「正直、どうですか?」
「……うん、やっぱり不安はあるよ。いろいろ考えちゃうし」
 圭太の手を握り返し、呟くように言う。
「先生もみんなも、絶対に大丈夫だって言ってくれるけど、なにがあるかわからないのも事実だから」
「そうですね。すべて楽観視しても、ほんのわずかな確率であってもなにが起こるかわかりませんから。ないと信じつつも、そのことを考えておくべきでしょうね」
 圭太も、この期に及んで必要以上の気休めは言わない。事実は事実として受け止めなければ、本当になにが起こるかわからないからだ。
「僕が側にいることで、祥子のその不安を少しでも消せればいいんですけど」
「それは大丈夫だよ。さっきも言ったけど、圭くんに側にいてもらえるだけで、百人力なんだから」
「それならいいですけど」
「ただね、少しだけ、圭くんに甘えたいな。ダメ?」
「いいですよ。それに、少しと言わず、祥子の気の済むまで甘えてください」
「うん」
 祥子は圭太に体を預ける。
「やっぱり、圭くんを側に感じられるだけで、心が落ち着く……」
「ほかにしてほしいことはありますか?」
「えっと、キス、してほしいな」
「はい」
 そっとキスし、もう一度キスする。
「あとは、ありますか?」
「頭を撫でてほしいな」
「はい」
 ゆっくり、優しく頭を撫でる。
 祥子は目を閉じ、その感触を確かめる。
「大丈夫ですから。僕が側にいますから」
「うん」
「だから、祥子もがんばってください」
「うん、がんばるよ」
 ふたりは、もう一度キスを交わした。
 
 昼前に本格的な陣痛がはじまり、祥子は分娩室へと運ばれた。
 分娩室に一緒に入ったのは、圭太だけである。ほかの三人は、外で待っている。
 分娩室の中では、医師や看護師が準備を進めていて、とても慌ただしい。
 そんな中、圭太は祥子の側で祥子の手を握っている。
「大丈夫ですよ」
 圭太も緊張で落ち着かないのだが、それを感じさせないように、祥子を励ます。
 祥子もそんな圭太に微笑み返す。
 一方、分娩室の外では、もうすぐ『祖母』と『伯母』になる三人が微妙な緊張感の中、話をしていた。
「本当に三ツ谷さんには、ご迷惑ばかりかけてしまって」
「いいえ、そんなことはありません。形はどうあれ、祥子さんが幸せであれば、親としては嬉しいですから」
 朝子は、たおやかに微笑みながらそう答える。
「むしろ、こちらの方こそご迷惑をおかけしていないかと心配しているくらいです」
「迷惑、ということはないですけど、そうですね、今でも順番をどうにかできればとは思ってはいます」
 この場合の順番とは、祥子と柚紀の妊娠の順番のことである。
 朝子も陽子も、そのことはすでに聞かされている。
「ただ、それも圭太だけでも、祥子さんだけでもどうにかできることはではありませんから。今はただ、どちらも無事に済めばと思っています」
「そうですね」
 朝子も頷く。
「陽子さんには、そういうお話はないんですか?」
「いえ、陽子さんは全然なんです。順番としては、陽子さんの方が早くて然るべきなんですが」
 そう言って朝子は陽子を見る。
「私もうちの人も、楽しみにしているんです。陽子さんがどのような男性と出逢うのかを」
「……お母さまも、そうやってちくちく責めるのやめればいいのに……」
「あら? では、毎朝出がけにそう言った方がいい?」
「……そんなことされたら、先に精神が参っちゃうわよ」
「では、圭太さんに負けないような男性を私たちの前に連れてくれば、すべて終わるわよ」
 さすがの陽子も朝子相手では分が悪い。
「はいはい。なるべく早くそうなるように、努力します」
 とりあえず、そう言って矛を収める。
「今は、祥子のことでしょ?」
「ええ、そうね」
 三人は、揃って分娩室を見た。
 それから三十分後。
 陣痛の間隔が短くなり、いよいよその時が来た。
 圭太はただただ祥子の手を握り、時折額の汗を拭くだけ。
 祥子は、医師と看護師の声にあわせて、呼吸を整えたり、力んだり。
 そして、分娩室に入ってから一時間を超えた時。
「はい、頭が出てきましたよ」
「もうちょっとです。がんばってください」
「そう……そこで力んで」
「はい……そう……もう少し」
「……よし」
 医師と看護師の声に混ざり──
「……ぁ……ぉぎゃぁ、おぎゃあ」
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
 新たな命が生まれた。
「祥子……おつかれさま」
 圭太は、少し目を潤ませながら、祥子にねぎらいの声をかける。
「本当に、おつかれさま」
「うん……」
 少し呼吸を落ち着けた祥子も、小さく頷き、それに応えた。
 
 十月十五日午後一時十七分。
 ふたりの子供は、二九一七グラムの元気な女の子だった。
 看護師が『元気』と形容したように、とても元気良く産声を上げ、その声は分娩室の外にまで聞こえたほどだった。
 それを聞いたふたりの『祖母』は、手を叩き、その喜びを全身で表現した。
 比較的冷静だった『伯母』も、やはり声は上擦っていた。
 母子の出産後の検査も無事済み、祥子は病室に、子供は新生児室に移った。
「肩の荷が下りた、って感じかな」
 病室に戻り、だいぶ落ち着いた祥子は、まずそう言った。
「いろいろあったけど、今はただ、無事に生まれてきてくれて、本当によかった」
「祥子のがんばりのおかげですよ」
「ううん、圭くんがいてくれたからだよ。私ひとりだったら、きっとダメになってた」
「じゃあ、ふたりのおかげ、ということで」
「うん」
 圭太も、出産が無事に済み、安堵の表情を浮かべている。
「お母さまと琴美さんは、まだ向こうなの?」
「ええ、まったく動く気配がなかったです」
 今、病室には圭太と祥子のふたりしかいない。
 琴美と朝子は、揃って新生児室前におり、ずっと子供を見ていた。
 陽子は、とりあえず三ツ谷家の関係各所に連絡のために席を外している。
「嬉しいのはわかるけど、私だってまだちゃんと見られてないのに」
「そうですね。でも、今日はしょうがないですよ」
「お父さまも同じになるかも」
 そう言って祥子は笑った。
「ね、圭くん。早速だけど、名前、どうしようか?」
「女の子ですからね。祥子としては、以前言ってた名前がいいですか?」
「圭くんがそれでもいいって言ってくれるなら、私はそうしたいけど」
「僕としては、あの名前に異論はないですよ。母さんや琴絵に話したら、きっと喜んでくれると思いますし」
「うちも、お母さまもそれなら簡単に認めてくれると思うから」
「では、決めますか?」
「決めよっか?」
 圭太は、一枚の紙を取り出し、ペンを持った。
「あの子は、私と圭くんの子だからね。ふたつの家の子供だという意味も込めて」
 大きく、しっかりとした文字を書く。
 そこに書かれたのは──
『琴子』
「琴子、か」
「ええ、琴子です」
「ふふっ、すごく嬉しい」
 祥子は、満面の笑みを浮かべ、その名前を繰り返した。
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