僕がいて、君がいて
 
第三十章「真夏の太陽と白い雲」
 
 一
 七月十九日。
 待ちに待った夏休みである。梅雨も明け、すっかり夏らしくなり、これでこそ夏休みという感じである。
 全国的に暑い日が続く中、一高吹奏楽部では直前に迫ったコンクール地区大会に向け、最終調整を行っていた。高校大編成の部は、三日目の二十五日。とはいえ、初日、二日目もほとんど練習はできない。そのため、練習ができるのは実質あと四日しかなかった。
「だいたいこのくらいかしらね」
 菜穂子は指揮棒を置いた。
 合奏は講堂で行われていた。窓は開いているが、じっとしていても汗が浮いてくるくらい暑い。
「正直言って、演奏自体は悪くはないわ。課題曲も自由曲も地区大会前ということを考えれば、できてる方だと思う。ただ、私はそれでも不満よ。今年はコンサートの段階でだいぶ仕上がりが早かったわけだから、コンクールに向けても早く仕上がってもいいはずなんだけど。でも、そこまでのできではない。だから不満なの。確かに地区大会も県大会もシードだからどんなことをしてもいいけど、でも、二、三年はわかると思うけど、去年の関東大会のレベルの高さ。あれは今年も続くと思うわ。その時、一歩でも二歩でも先んじておけるかどうかは、今頃の仕上がりにかかってるわ。だから、いい? 地区大会はこのままでいくけど、県大会まではさらに厳しくするから。覚悟しておくように。それじゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 挨拶が済むと、途端に緊張の糸が切れる。
 菜穂子は額の汗を拭きながらスコアを見ている。
「先生」
「ん、どうかした?」
 そんな菜穂子に声をかけたのは、圭太である。
「少しお話しがあるので、終わってからいいですか?」
「いいわよ」
 それからすぐに片づけをはじめ、音楽室へ戻る。
「じゃあ、今日合奏で指摘された部分はきっちり直して、次の合奏に臨むように。それじゃあ、おつかれさま」
『おつかれさまでした』
 ようやく練習が終わり、部員の間に安堵の表情が浮かぶ。夏休み初日からきつい練習をしていたのだから、それもある程度は仕方がない。
 そんな中、圭太は音楽室を出て、職員室へ。
「失礼します」
 職員室には、ほとんど教師はいなかった。夏休みということもあるし、世間は祝日ということもある。
「先生」
「終わった?」
「はい」
「そう。じゃあ、こっちで話しましょう」
 菜穂子は圭太を職員室内の休憩スペースに連れて行った。
「麦茶でも飲む?」
「いただきます」
 職員室にある冷蔵庫の中には、実に様々なものが入っていた。その中から麦茶のペットボトルを取り出し、コップに注ぐ。
「それで、改めて時間を取っての話って?」
 圭太の前にコップを置きながら訊ねる。
「地区大会が終わってからのことなんですけど、少しの間、合奏に出なくてもいいですか?」
「それは、どういう意味?」
「ここのところみんなの指導ばかりしていたせいで、自分の練習が追いついてないんです。ある程度の水準は保てていますけど、それもどこまで保つか。なので、まだ焦る必要のない県大会前に一度徹底的に練習したいと思ったんです。もちろん、部長としての仕事はします。それは義務ですから。ただ、合奏の方を少し休ませてもらいたいと思って」
「なるほどね」
 菜穂子は麦茶を飲み、頷いた。
「確かに最近圭太がみんなの指導で忙しそうにしてるのは知ってるわ。実際、忙しいんでしょうけど。でも、実際そこまでしなくちゃいけないほどなの?」
「自分で納得できないんです。コンクールは今年で最後ですから、やっぱり悔いのないようにやりたいんです。でも、今のままだと僕は必ず後悔します。だから、自分勝手な言い分だと十分理解していますけど、それでもあえてお願いしたいんです」
 いつも以上に真剣な圭太に、菜穂子は少し押し黙った。
 圭太は、菜穂子の言葉を待つ。
「少しの間というのは、具体的にはどれくらい?」
「最低三日くらいは」
「三日か。ん〜、結構痛いわね」
「すみません」
「でもまあ、県大会前なら、まだ取り戻す機会はあるわね。いいわ。特例として認めましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、次に合奏に出る時は十分納得できる状態で出て。それが条件」
「はい、それは必ず」
 圭太は大きく頷いた。
「話はそれだけ?」
「はい」
 それを聞き、菜穂子は小さく息を吐いた。
「まったく、真面目すぎるのも考えものね。圭太が合奏を抜けた時、誰がその穴を埋めるのかしら」
「それはそうですけど、でも、やっぱり納得できる演奏がしたいですから」
「そうね。その気持ちはよくわかるわ。ただ、私にとっては青天の霹靂だっただけ。今はもう納得してるわ。だから、あなたは納得できるまで練習すればいいわ」
「はい」
 百パーセントではないが、菜穂子に認めてもらい、圭太もひと安心という感じである。
「圭太は、今年のメンバーならどのくらいの確率で全国に行けると思ってる?」
「そうですね、関東大会のレベルが去年くらいと仮定すれば、七割くらいですかね」
「七割か。もし去年以上なら?」
「五割ですね」
「それでも五割か。じゃあ、今年のメンバーには相当期待してるということね」
「できるメンバーだと思ってますから。実際、コンサート前もあれだけやってちゃんとついてきてくれましたし。それに、みんな三年連続金賞という大きな目標を持ってますから」
「それが一番大きいかもしれないわね」
「ただ僕としては、もう少し確率を上げたいと思ってます。最低限の演奏でも、運が良ければ全国に行けるくらいになっている、というのが理想ですね」
「ふふっ、それはかなりすごい理想ね。そういうのは、五年連続金賞でも取ってるような常連校くらいにしかできないわ」
「簡単なことではないと思いますけど、やるからには志は高く、目標も高くですよ」
 圭太は穏やかな表情で言い切った。
「では、僕は一度音楽室に戻ります」
「練習のことは、地区大会が終わるまでみんなには言わない方がいいわね?」
「そうですね。余計なことを考えさせたくないですから」
「わかったわ」
 職員室を出て、音楽室に戻ると、ほとんどの部員は帰っていた。
 そんな中、いつもメンバーはピアノのまわりでなにやら話をしていた。
「なにしてるの?」
「ん、ああ圭太。戻ってきたんだ」
 圭太もその輪の中に加わる。
「今ね、みんなでプールにでも行こうかって話してたの」
「プール?」
「これだけ暑いと、プールや海に行きたくなるじゃない。だからよ」
「なるほど」
 確かに連日の真夏日では、プールに入りたくなる気持ちもわかる。
「それで、具体的に決まったの?」
「とりあえず地区大会が終わってからにしようって言ってるんだけど」
「先輩はどう思いますか?」
「いつでもいいと思うよ。部活が午前中の日に、午後から出れば十分泳げるだろうし」
「まあ、具体的な日取りは、天候にもよるから、とりあえず地区大会が終わってから決めましょ」
 それから少しして家路に就いた。
 その日は講堂を使う関係で午後からの練習だったため、陽は幾分西に傾いていた。
「そういえば、どこへなにしに行ってたの?」
「職員室で先生と話してたんだよ」
「先生と? なにかあったの?」
「ん、たいしたことじゃないよ。僕個人の問題だから」
「ふ〜ん……」
 柚紀としても、圭太個人の問題と言われてはあまり突っ込んだことは聞けなかった。
「今はとりあえず、地区大会に向けて全力を出さないといけないからね。僕だって余計なことを言ったりやったりしないよ」
「ならいいけど」
「圭兄の場合、なんでもかんでもひとりで抱え込んじゃうから」
「そうね。なにかある前に、話せることはちゃんと話してよ」
「了解」
 みんなの気遣いを嬉しく思いながらも、それを話すつもりは圭太にはなかった。
 
 七月二十三日。今年のコンクール地区大会がはじまった。
 初日は真夏の太陽が顔を覗かせていたのだが、二日目は一転曇り空となった。
 そして、高校大編成の部が行われる三日目。
「これは、移動するだけでもひと苦労だ」
 朝、圭太は窓の外を見てそう呟いた。
 窓の外は、朝だというのに暗く、猛烈な風が吹き荒れていた。
『──気象庁によりますと、台風五号は今日午後に関東地方を北上し、今夜半に三陸沖に抜ける模様です。台風の進路に当たります地域の方々は、十分な注意が必要です』
 テレビのニュースでは、そんなニュースが流れていた。
「なんか、最悪だね、お兄ちゃん」
「そうは思うけど、自然には勝てないから。あきらめるしかないよ」
 台風は太平洋上を北上し、関東地方上陸コースをたどっていた。
「台風だと中止とか延期とかないの?」
「さあ、そういう話は聞いたことないけど」
「でも、うちはまだいいよね。少なくとも演奏に必要以上のプレッシャーがかからないから」
「うん、そうだね。こんな天気でしかも演奏に対するプレッシャーまであったら、もう大変だよ」
 琴絵と朱美は、そんなことを言う。
「ふたりともそんな気持ちで演奏に臨むと、ろくな演奏ができないぞ」
「わかってるけど、でもやっぱりこういう日は憂鬱になるよ」
「そうだよ。圭兄だってそうでしょ?」
「それを最小限にとどめることが大事なんだよ。そんな天気にいちいち振り回されていたら、とても全国なんか行けないし」
 あくまでも圭太は厳しかった。
 それからいつもより遅い時間に家を出た。
 雨は降っていなかったが、風が強く、気を抜いて歩くと飛ばされそうだった。
 学校に着くと、いつもより早めに部員が集まっていた。やはり台風ということを鑑みての行動である。
 一高はプログラムの一番最後なので、時間に余裕があった。そのため午前中に軽くあわせてから会場である市民会館へ向かうことになっていた。
 十二時前に合奏を終え、昼食を挟んで学校を出発する。
 しかし、午後に入ると風だけでなく、雨まで降ってきた。
「楽器を積み込む三人を残して、あとは早めに会場に移動して。この天気だとなにがあるかわからないから」
 圭太はメンバーにそう声をかけた。
 それにあわせるようにしてメンバーたちも移動を開始する。
「じゃあ、健太郎。楽器の方は頼んだよ」
「ああ、任せておけ」
 楽器の積み込み係は、天候などを様々な不測の事態を考慮し、チューバの三人が選ばれていた。いつもなら一、二年だけなのだが、さすがにそれだと問題が起きた時には対処できないからである。
「なにもないとは思うけど、十分注意して」
「了解」
 圭太たちが学校を出る頃には、雨風ともに強くなっていた。
「わわわ、傘が飛ばされるぅ」
 折り畳み傘なら何分保つかわからないほど強い風が吹き、傘が飛ばされそうになる。
「とりあえず早めに大通りへ出て、バスに乗ろう」
 いつもならバスを使わずとも行けるのだが、このような天気では交通機関を使った方が安心できる部分もある。
 なんとかかんとか大通りまで出てくる。
 交通量は平日にも関わらず少なかった。やはり台風が近づいていることが影響しているようである。
 そのおかげか、バスは時刻表通り到着し、駅までもいつもより早く着いた。
 駅で切符を買い、電車に乗り込むと、ようやく少し落ち着いた。
「はあ、なんでこんな日に本番なんだろ」
 柚紀は風で乱れた髪を気にしながら言った。
「そうは言っても、日程も台風も僕たちにはどうすることもできないからね」
 圭太は比較的涼しい顔でそう言う。
「これだけ荒れた天気だと、遠くから来る学校は大変ね」
「そういうところは、早めに出てきてると思うよ。台風のことは知ってるだろうし」
「まあね。ただあれかな?」
「うん?」
「終わる頃にはもう台風も通り過ぎてるだろうから、それまでの辛抱とか思ってるのかも」
「かもしれないね。実際、僕らだってそうだし」
 電車を降りても、天気は相変わらずだった。
 市民会館の前には本来ならコンクールの立て看板が設置してあるのだが、この強風の影響で建物の中へと避難していた。
 集合場所であるロビーには結構な数の参加者が集まっていた。その中から一高のメンバーを探す。
「あ、あれじゃない?」
 皆似たような制服姿なので、見分けがつきにくいが、なんとか一団を発見する。
「綾。みんなだいたい揃ってる?」
「ん〜、あたしが把握してる限りでは、圭太たちが最後のはずよ。メンバーを外れてる一年はすでに中に入ってるし」
 先に到着していた綾に、メンバーの状況を確認する。
「じゃあ、あとは先生と楽器を待つだけか」
 ロビーの一角を占拠し、時間を待つ。
 しばらくまわりと話をしていると──
「高城くん」
 圭太に声がかかった。
 声のした方を見ると──
「ん、金田さん」
 二高吹奏楽部部長の金田昌美がいた。
「一高は今日が本番だよね?」
「今日の最後だよ。そうそう、二高、県大会出場おめでとう」
「ありがと。でも、一高に比べたら全然な演奏だったから。これから県大会までにどこまでレベルアップできるか、ちょっと頭が痛いわ」
 昌美はそう言って苦笑する。
「今日は二高も手伝いなんだね」
「まあね。うちらは初日に終わってるから、なにもすることがないのよ」
 高校中編成の部は、初日に終わっている。
「今年の調子はどう?」
「ここまではまあまあかな? ただ、実際はステージに上がってみないとわからないところもあるけど」
「今日聞きに来てる人たちのお目当ては、なんといっても一高の演奏だからね。みんな期待してるよ。もちろん、私もね」
「ははは、その期待に応えられるような演奏ができればいいけど」
「高城くんたちなら大丈夫よ」
「金田さんに太鼓判を押してもらえれば、そうかもね」
 ふたりは顔を見合わせ笑った。
「昌美〜、そろそろ行くわよ〜」
「あっ、うん。ちょっと待って」
 後ろから同じ二高の部員が声をかけてくる。
「じゃあ、高城くん。またね」
「今度は県大会だね」
「うん」
 昌美は嬉しそうに手を振り、戻っていった。
 しかし、圭太の方は幾分顔は引きつり気味だった。
「……ふ〜ん、圭太。ずいぶん、仲良さそうに話してたね」
 戻るなり、早速柚紀がジト目でそう言ってきた。
「あの人、二高の部長さんですよね?」
「ああ、うん、そうだよ」
「まさかとは思うけど、なにもないわよね?」
「あるわけないよ。というか、ありようがないよ。彼女と会う機会なんて、クリスマス演奏会から一度もなかったんだから」
「それはそうかもしれないけど。でもさぁ、圭太の場合、いつどこで誰とそんな関係になっちゃうかわからないから」
 柚紀も圭太の言っていることは信用しているのだが、これまでのことを考えるとすんなりとは認められないでいた。
「とりあえず、彼女とはなにもないから。っと、僕はちょっと先生を探してくるよ」
 そう言って圭太はそそくさとその場を離れていった。
「むぅ、逃げられたか」
「でも、今回は先輩の言うことは信じられそうですね」
「まあね。さすがに他校の生徒にはちょっかい出してないだろうし」
「それにしても、ほかの学校の人にまで想われちゃう圭兄って、やっぱりすごいなぁ」
「すごいはすごいけど、それって喜んでいいのかどうか、わからないでしょ?」
「うん、まあね。これ以上ライバルが増えるのは困るし」
 残った面々は、口々にそんなことを言った。
 しばらくすると、楽器が到着し、菜穂子もやって来た。
 楽器を控え室に運び込み、早速ケースから取り出す。
 控え室にはまだ演奏の終わっていない学校もいるが、たいていはもう終わった学校だった。そういうあまりピリピリしていない状況なので、メンバーも幾分気が楽だった。
「もうすぐ本番だけど、今日の演奏はここまでの総決算のつもりでやるように。もしまかり間違って気の抜けた演奏をしようものなら、あさってからの練習がどうなるか、よく考えること。たとえ審査されなくとも、ほかと同じように一回一回が勝負のつもりで演奏しなさい。いいわね?」
『はいっ』
 移動前に菜穂子から気を引き締めるような言葉があり、チューニング室に移動した。
 チューニングを済ませ、調子を見るように軽くあわせる。
 それから舞台袖まで移動し、順番を待つ。
 前の学校の演奏が、否応なく緊張感を高めていく。
 演奏が終わる。
 椅子や譜面台、打楽器を入れ替え、一高のためのステージができあがる。
 それぞれの場所を確認し、気持ちを落ち着ける。
 会場内は一高の登場にざわついている。
『続きまして、参考演奏、第一高等学校。課題曲C、自由曲、ドビュッシー作曲、交響詩『海』より風と海との対話。指揮は、菊池菜穂子先生です』
 アナウンスが入り、菜穂子が客席に向かって挨拶する。
 指揮台に上がり、一度全員を見回す。
 そして、指揮棒が上がった──
 
 演奏が終わると、休憩を挟んですぐに閉会式となる。
 一高は無理に閉会式に出る必要もないのだが、マナーとして全員参加していた。
『ええ、本日の演奏はどの団体とも非常にレベルが高く、審査にも時間がかかりました』
 ステージ上では、審査員のひとりが講評を述べている。
 会場にいる大半の者は、それよりも早く結果を発表しろと思っているのだが、その想いが伝わることはないのである。
『続きまして、今日行われました各部門の結果を発表します』
 ようやく結果発表となる。
 一高のメンバーはそれを人ごととして見ている。もちろん本当はそうあってはいけないのだが、なにも言われない状況では、そうなっても仕方がない。
『なお、県大会は八月十日から十三日まで、県民会館で行われます』
 閉会式は滞りなく進んで、ようやく終わりを迎えた。
 会場を出ると、雨はすでに上がっていた。ただ、台風からの吹き返しの風のせいで、相変わらず風は強かった。
 一高は会場前でミーティングである。
「今日の演奏はかろうじて合格点の演奏だったわ。私としてはもう少しいい演奏を期待していたんだけど、それは県大会まで取っておくわね。明日は大会運営の手伝いが割り当たっているから、それをしっかりやるように。そして、あさってからはまた県大会に向けてみっちりやるつもりだから、覚悟しておきなさい。それじゃあ、部長」
「今先生が言ったように、明日は最終日の手伝いに割り当たってるから、朝八時半にこの市民会館正面入り口に集合。遅れたら、一番きつい仕事をやってもらうから。じゃあ、今日はおつかれさま」
『おつかれさまでしたっ』
 ミーティングが終わると、三々五々家路に就く。
「圭太。帰ろ」
「ああ、ちょっとだけ待ってて」
 圭太は柚紀たちを待たせ、あるメンバーのもとへ。
「夏子」
「ん、どうかした?」
 夏子は圭太に声をかけられ、首を傾げた。
「どう? 実際にファーストで本番を迎えてみて」
「ああ、うん。そのことか。大丈夫。もうやれるよ。あの時はいろいろ不安というか、気ばかり焦っちゃって、今自分がなにをしたらいいのかわからなくなってたみたい。でも今はなにをしなくちゃいけないのかわかってるし、その上でその結果を見せればいいっていうのもわかってるから」
「そっか。じゃあ、もう悩みは解決という感じかな?」
「悩みなんて大げさなものじゃないけど、一応ね。圭太には余計な手間かけさせちゃって、ごめんね」
「いいよ。これもパートリーダーとしての役目だし、なにより、ずっと一緒にやってきた仲間のためでもあるからね。それに、今日みたいないい演奏をしてくれれば、多少面倒なことがあっても、全部吹き飛んじゃうから」
「ふふっ、じゃあ、これからもがんばらないといけないか」
「夏子には期待してるからさ」
「了解了解」
 それからひと言、二言言葉を交わし、夏子は帰っていった。
「夏子となに話してたの?」
「まあ、ちょっとね」
「なに? 内緒の話なの?」
 柚紀はジト目で圭太を見据えた。
「内緒ってほどのことでもないけど、夏子の名誉のために僕の中だけにしまっておくことにしたんだよ」
「ねえ、紗絵ちゃん。夏子がなにかあったか、知ってる?」
 圭太では埒があかないと判断したのか、矛先を転換してきた。
「いえ、私も知りません。夏子先輩も、いつも通りでしたし」
「ん〜、じゃあ、いったいなにがあったんだろ」
「ほらほら、そのことはもういいから。帰ろう。ふたりだけ置いていくよ」
「あっ、待ってよ。私も帰るから」
 柚紀と紗絵は慌てて追いかける。
「ねえ、圭太。なにがあったの? 教えてよぉ」
「だから、それはもういいから」
「ええ〜っ、ケチぃ」
 風は強いながら、澄んだ空に柚紀の情けない声が響いた。
 
 二
 地区大会も終わった七月二十七日。
 前日は台風一過で綺麗に晴れ渡っていたが、また空にはどんよりとした雲が居座っていた。とはいえ、降り出すわけでもなく、ただただ湿度を上げるだけだった。
 練習前、圭太はその日の予定を話していた。
「今日の練習は、個人練のあとに合奏だから。合奏は十時半から。今日のポイントは、県大会までの課題を個々人に出すことだって先生は言ってたから、合奏までに不安のある部分はしっかり練習するように。それじゃあ、練習開始」
 それぞれが練習場所へ移動していく。
 そんな中、圭太も楽器と楽譜、チューナーとメトロノームを持って音楽室を出た。
 どこで練習しようか思案し、結局気兼ねなく練習できる屋上へとやって来た。
 空は相も変わらず曇っており、陽差しの暑さはなかったが、湿度が高いせいで蒸し暑くなっていた。
 楽器以外を置き、練習を開始する。
 一所懸命に練習する様は、本当に真剣で、声をかけるのも躊躇われるほどである。
 圭太はコンクール前に菜穂子に言った通り、今日から三日間、合奏に出るつもりはなかった。その間にしっかり練習し、四日後の練習には最高の状態で合流しようと考えていた。
 だからこそ練習にもいつも以上に熱が入っていた。
 
 十時半の少し前に、菜穂子が音楽室に現れた。
 メンバーも集まってくる。
 しかし、その場にいつもなら早くに戻ってきて準備をしている圭太の姿がなかった。
 ほかのメンバーはそれをいぶかしく思いながらも、あっという間に合奏の時間となった。
「はじめる前にひとつだけ。今日から三日間の合奏には、圭太は参加しないから」
 菜穂子の言葉を、その場にいた誰もがすぐには理解できなかった。
「本人からの要望でね、コンクール前に個人練やパー練、セク練でみんなの指導ばかりしていて自分の練習がおろそかになったって。今のままだと圭太自身が納得して演奏できないから、この三日間できっちり練習して、それでまた一緒に合奏に臨むそうよ」
 その理由を聞き、メンバーの間では様々な憶測が飛ぶ。
「いい? もしそれをあなたたちのせいだとかなんだとか思ってるなら、それは違うわよ。彼は彼なりに考えてあなたたちを指導し、その上で自分の練習もできると思っていた。でも実際はそこまで甘くはなかった。自分の求めるレベルにまで達するためにどれだけ練習しなければならないか、そこにちょっとした計算ミスが出たのよ。もちろん、あなたたちの指導時間を減らせればそれもなかったのかもしれない。だけど、合奏はその名の通り、合わせて奏でるのよ。圭太ひとりだけでもダメ。あなたたちと一緒に最高の演奏をしなければ意味がないの。だから一生懸命指導した。結果として彼の練習時間を削ることになってしまったけど、それに対して後悔はしてないはずよ。だから、もし申し訳なく思ってるなら、最高の演奏をすることで恩を返しなさい。いいわね?」
『はい』
「じゃあ、課題曲から」
 その日の合奏は、それこそ全国大会直前かと思うほど気合いの入ったものとなった。結果的に、圭太の行動がメンバーのやる気に火を点けた形となった。
 菜穂子はそんなメンバーの心意気を嬉しく思いながらも、指導の方にはいっさい手を抜かなかった。
 
 合奏が終わると、副部長である綾が圭太を呼びに行った。
「圭太。合奏終わったわよ」
「ん、ああ、終わったんだ」
 圭太は汗を拭きながら振り返った。
「どう? 合奏を休んでまで練習して、その成果はあった?」
「まだなんとも言えないけど、とりあえず、なにも考えずに練習に打ち込める状況はプラスに働いてると思うよ」
「そっか」
 楽譜とチューナー、メトロノームを持つ。
「ホントに圭太は後悔したくないんだね」
「まあね。今年のコンクールは今年だけのものだし。なにより、今のメンバーで本当に最高の演奏をしたいから。そのためにやらなくちゃいけないことは、たくさんあるよ」
「それはそれでわかるけど、ちょっとやりすぎかなってあたし自身は思うわよ。今回は先生がちゃんとフォローしてくれたからいいけど、それがなかったらどうなってたかわからないし。真剣にやりたいのもわかるし、後悔したくないのもわかる。でもね、みんながみんな、圭太みたいにできないのも事実だから。そのあたりはもう少しよく考えて行動した方が、あたしはいいと思うわ」
「……そうだね。もし明日の練習で納得できれば、あさっての合奏には参加するよ。みんなにあまり迷惑かけるわけにもいかないし」
「その方がいいわね」
 ふたりが音楽室に戻ってくると、ちょうど菜穂子の話も終わったところだった。
「圭太。あとはお願いね」
「わかりました」
 それから簡単に練習を締めくくった。
 練習が終わると、早速圭太のもとに何人ものメンバーが集まってきた。
「ああ、まあ、言いたいこととか聞きたいことはたくさんあるんだろうけど、とりあえず僕が合奏に戻ってからにしてくれないかな。おおよその理由は先生から聞いたみたいだけど」
 圭太は機先を制し、そう言った。
 先にそう言われては、誰もなにも言えなかった。
 パラパラとばらけていくが、もちろんそれでも残っている者はいた。
「まさか、私にもなにも言わないだなんてこと、ないわよね?」
 もちろん柚紀である。
「ああ、うん、ちゃんと説明するよ。でもその前に、音楽室を閉めないと」
 そう言って圭太は苦笑した。
 
 帰り道、圭太は柚紀たちに簡単に事情を説明した。それ自体は菜穂子がした説明と大差はなかったが、実際に圭太の口からそれを聞き、柚紀たちもある程度納得したようである。
「先輩。今回のことって、結局先生にしか話してなかったんですか?」
「うん、そうだよ。話す機会がコンクール前だったというのもあるけど。本番前に余計なことを言う必要もないかと思って」
「余計なことだとは思いませんけど……」
 紗絵は、副部長という立場にあってそのような大事なことを聞かされていなかったことに、多少の淋しさと不甲斐なさを感じていた。
「理由はどうあれ、圭太は部長としての責務をちゃんと果たさなくちゃダメよね」
「責務?」
「だってさ、先生がフォローしてくれたとはいえ、誰もが思ったはずよ。自分たちのせいで圭太が練習できなくなったんだって。私だって少しそう思ったくらいだもの。普段から目をつけられてるパートの連中なんて、もっとだと思う。だから、そういうところを部長としてちゃんと改めてフォローする必要があるってこと。OK?」
「そうだね。ちゃんとフォローするよ。もっとも、そのフォロー方法は今までより厳しい指導ということに置き換わるかもしれないけどね」
 そう言って圭太は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それはそれでイヤだけど……」
 柚紀だけでなく、皆一様に顔をしかめている。
「まあいいや。その話はもうおしまい。これ以上話しても意味ないし。それより、これからのことを話そ」
「これからのこと?」
「圭太は今日、なにか予定ある?」
「特にないけど」
「じゃあ、一緒に買い物に行こ」
「別にいいけど、なにを買うの?」
「いろいろ」
 そう言って柚紀は笑った。
 
 圭太と柚紀は、軽く昼食食べてから駅前に出かけた。
 圭太はティシャツにジーパン、柚紀はタンクトップにミニスカートという格好である。
「それで、まずはどこへ?」
「とりあえず、目的を果たそうかな」
 柚紀は、圭太を連れてとある店に入った。
 店内はクーラーが効いていて、とても快適だった。
 並んでいる商品は基本的には夏物だが、一角には秋物も並んでいる。やはりファッションは季節を先取りするようである。
 そんな中、ふたりは、あるコーナーへとやって来た。
「ここは……」
 そこは、つい二週間前にも来た水着コーナーだった。
「ほら、琴絵ちゃんの誕生日に圭太がつきあってあげたんでしょ? だから、私にもつきあってほしいなって思って」
 柚紀はそう言いながら早速よさそうな水着を物色しはじめた。
 こうなるともはや圭太にはすることはない。
「ん〜、これくらい大胆な方がいいかなぁ。それとも、今年はおとなしめなのでいこうかなぁ」
 両手にいろいろ持って思案する。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「圭太は、ワンピースとビキニ、どっちが好き? どっちもなんて答えは聞きたくないからね」
「…………」
 圭太の答えをあらかじめ読み、そう機先を制した。
「……柚紀なら、ビキニの方がいいよ」
「なるほど、ビキニね」
 柚紀は大きく頷き、ワンピースを戻した。
「やっぱり圭太もそっちが好きなんだ」
「別にビキニがどうってわけじゃないよ。柚紀ならそっちの方が似合うと思っただけ。ワンピースの方が似合う人だっているだろうし」
「たとえば?」
「…………」
 圭太は、無意識のうちに視線をそらしていた。
「ちゃんと、頭の中に思い浮かんでるんでしょ?」
「いや、まあ、そうだけど」
「ほらほら、吐いちゃいなさいよ」
「ゆ、柚紀……」
「別に怒らないわよ。だって、圭太がそう思ってるってことは、私が見てもたぶん似合ってるってことだし」
 そう言われては、圭太も黙ってる理由はない。
「……祥子先輩だよ」
「なるほど、やっぱりか。確かに先輩はビキニよりもワンピースの方がしっくりくるわね。もちろん、スタイルいいからビキニも似合うと思うけど」
「わかってるなら、聞かなくてもいいのに」
「それは違うわよ。聞かなくちゃ、正しいかどうかわからないじゃない。十中八九そうだってわかってても、確率としては外れる確率もあるんだから」
 柚紀は、やれやれと肩をすくめた。
 圭太としてはそこまで言われる問題だろうかと首を傾げたが、とりあえずなにも言わないでおいた。
 それから柚紀は気に入った水着を三着ばかり選び、試着室に。
 柚紀が試着室に入ってしまうと、圭太はさらにすることがなくなる。
 と、その時。
「圭兄」
 圭太に声がかかった。
「朱美? それに紗絵に詩織まで」
 振り返ると、そこには二年トリオが満面の笑みを浮かべていた。
「三人してどうしたんだい?」
「ん、ほら、柚紀先輩と買い物に行くって言ってたでしょ? デート、って言わなかったから、密かにあとをつけてきちゃった」
「……呆れてますか?」
「そんなことはないよ。ただ、らしいなって」
 圭太は苦笑した。
「私は呆れてるわよ」
 と、試着室の扉が開き、柚紀が顔を覗かせた。
「三人とも、いくら私がデートだって言わなかったからって、つけてくることないじゃない」
「でも、デートじゃないんですよね?」
「うっ、ま、まあ、そうかもしれないけど」
「だったら、私たちも、一緒に水着選びます」
 というわけで、ふたりきりの買い物は、五人での買い物となった。
「ねえねえ、圭兄。これどうかな?」
「先輩。これとこれ、どっちの方がいいと思いますか?」
「私はこっちの方がいいと思うんですけど、先輩はどうですか?」
 次から次へと意見を求められ、圭太ですらたじたじな状態だった。
 しかし、そんな状況になると面白くないのが、柚紀である。
「むぅ……」
 つまらなそうにその様子を見つつ、だからと言って今更前言撤回できるわけもなく。微妙な心境だった。
 そんな柚紀の心境を察してか、圭太はなるべく早くその場を離れようと三人を促した。
 結局、四人とも気に入った水着を買い、店を出た。
「はあ、どうしてこうなっちゃったんだろ……」
 柚紀は小さく溜息をついた。
「まあ、朱美たちも悪気があってやったわけじゃないから」
「悪気がない? そんなわけないじゃない。私たちがふたりきりになるのを邪魔するのが目的だもの」
 そう言われては圭太もなにも言い返せなかった。
「そりゃね、デートだって言わなかった私が悪いって言われればそれまでなんだけど。でも、そのあたりは彼女である私に譲って然るべきだと思わない?」
「そ、そうだね」
「はあ……」
 すっかり暗くなってしまった柚紀とは裏腹に、二年トリオは実に楽しそうだった。
「一矢報いたって感じかな?」
「そこまで大げさなものじゃないとは思うけど」
「このまま負け続け、というのもイヤだし、たまにはこういうのもいいかもね」
 三人それぞれに結果には満足しているようである。
「ところで、ふたりとも」
 朱美は、少しだけ声を潜め、言った。
「今年はずいぶん大胆な水着を買ったんだね」
「えっと……」
「それは……」
「確か、去年はふたりともワンピだったと思うけど。で、今年はいったいどういう心境の変化なの?」
 答えはわかっているのだが、あえて訊ねる。
「そ、そう言う朱美だって、去年よりずいぶん大胆な水着買ったじゃない」
「そうよ。今年の夏は、しっかり自己主張するんだから。今年の夏は、一回しかないし」
 紗絵の切り返しにも、朱美は臆することなく答える。
「ほかの人なんてどうでもいいけど、やっぱり圭兄にだけはちゃんと見ていてほしいから。そして、同じ見てもらうなら少しでもよくみてほしいし。だから、水着だってカットの大胆なビキニにしたんだし」
「朱美の気持ちは痛いほどわかるけど、あまりやりすぎると、先輩にどう思われるかわからないわよ?」
「そうかもしれないけど、でも、後悔だけはしたくないから。だって、こうやってなんでも言える夏は、ひょっとしたら今年が最後かもしれないし」
 朱美を突き動かしていたのは、そのことだった。圭太と柚紀が今年中に一緒になるということはもちろん知っている。となれば、いくら圭太が側にいていいと言ってくれても、あまりあからさまなことはしにくくなる。だからこそ、なのである。
「紗絵だって詩織だって、後悔したくないでしょ?」
「……うん」
「……それはね」
 紗絵も詩織も頷く。
「そういうわけだから、やれることはなんでもやりたいの。もちろん、あまりにもあからさまなことはしないよ。それは、圭兄も望んでないし」
「まあ、そういうことならね」
「うん。それに、私たちだってこうして朱美についてきたわけだし」
「そうそう。物事はもっと前向きに考えないと。というわけで……圭兄〜」
 言うや否や、朱美は圭太のもとへ。
「おっと」
 朱美は、圭太の腕につかまった。
「えへへ」
「朱美〜、ひとりだけずるいわよ」
「そうよ。先輩の腕は二本しかないんだから」
 と言ってもう片方を狙おうとするが──
「少しは遠慮しなさい」
 柚紀がすかさず腕を絡めていた。
「いくらデートじゃないっていっても、ここは、私の位置なの」
 そんな四人を見て、圭太は苦笑するしかなかった。
 
 圭太たちは、適当にウィンドウショッピングをして、ファミレスに入った。
 夏休みとはいえ、平日の昼下がりである。いくら駅前のファミレスでも混雑している、というほどには混雑していなかった。
 ウェイトレスに案内され窓際の席に着いた五人は、めいめい好きなものを頼んだ。
「そういえば、朱美」
「うん?」
「琴絵はどうしたんだ?」
「ああ、琴絵ちゃんなら三中の同級生から電話があって、遊びに行ったよ」
 朱美は、出されたお冷やを飲みながら答えた。
「ホントは、こっちに来たかったみたいだけどね」
「なるほど」
 琴絵にしてみれば圭太とのことはなによりも優先すべきことではあるが、中学時代の同級生との関係もおろそかにしたくないと考え、今日のところはそちらを優先したのである。
「柚紀先輩」
 と、紗絵が柚紀に声をかけた。
「いい機会ですから、決めませんか?」
「決めるって、なにを?」
「プールに行く日ですよ」
「ああ、うん、なるほど、それも手か」
 あまり乗り気じゃなかった柚紀も、ようやく気持ちが切り替わったのか、笑顔が戻ってきた。
「えっと、今日は二十七日でしょ。土日はやっぱり避けるとして、行けそうな日って言ったら、二十八、二十九と来月の一日から五日くらいかしらね。さすがに県大会直前というわけにはいかないだろうし」
「そうですね」
「行くメンバーは、この五人に琴絵ちゃんを加えた六人ですか?」
「別にメンバーは固定しなくてもいいと思うわよ。いつ行くか決めて、都合の空いてる誰かを誘ってもいいし。それに、いつ誰が突然の用事で行けなくなるかわからないし」
「確かに」
「というわけで、何日がいい?」
「私は来週の火曜日、二日がいいと思います」
 まず朱美が意見を述べる。
「それはどうして?」
「明日とかあさってでもいいとは思いますけど、天気よくないじゃないですか。確か、週間天気予報だと来週の方が天気もよかったので」
「ふむふむ、確かにね。悪天候の日に泳ぎたくはないわね」
「私は一日がいいと思います」
 次に、詩織が意見を述べる。
「どうして?」
「土日は混むじゃないですか。でも、月曜日なら少なくとも家族連れは少ないと思うんですよ。たとえば、土日に両親と子供がプールに行きます。月曜なので父親はたいてい仕事です。でも母親も前日にプールで泳いで疲れてたりします。子供だけでも行けるプールなら別ですけど、ちょっと大きめのところなら、子供だけでというのはほとんどないですから」
「それももっともだわ。で、紗絵ちゃんは?」
「私はいつでもいいです。それに、必ずしも一回だけじゃなくてもいいと思いますから。夏休みは八月いっぱいあるわけですから、機会があればまた行けばいいんですよ」
「なるほど。それも実に正論だわ。で、圭太は?」
「僕はみんなが決めたことに従うよ。もっとも、ほかに用事があるかどうかは、今の段階ではわからないけど。でも、早めに決めてくれれば、それを優先するし」
「じゃあ、私が決めちゃってもいい?」
 誰からも異論は出ない。
「それじゃあ、来週の月曜日、一日の日にしましょ。一日の午後」
「了解」
「あとは、どこに行くかですね」
「市民プールは却下ね」
「比較的近場でってことですよね。う〜ん……」
「確か、グリーンピアにプールありませんでしたか?」
「そういえば、あったような気がするわね」
 グリーンピアとは、いわゆる複合レジャー施設である。ただ、古いタイプの施設なので、最近は新興勢力に圧され気味である。
「グリーンピアなら、駅からバスに乗ってそれほど時間もかからないし、ちょうどいいかもね」
「じゃあ、行くのはグリーンピアということで、決定ですね?」
 ちょうど話がまとまったところで注文していた品物が運ばれてきた。
 ちなみに、圭太はアイスコーヒー、柚紀はフローズンヨーグルト、朱美はアイスフロート、紗絵はミニパフェ、詩織はストロベリーシャーベットである。
「決まったのはいいけど、三人は誰か誘った方がいいと思う人、いる?」
「そうですねぇ……」
「すぐには思い浮かびません」
「やっぱり平日ですからね」
「圭太は?」
「僕も特には。先輩たちでもいいと思うけど、店の方もあるし」
「そっか。となると、必然的に今のメンバーに琴絵ちゃんを加えた六人でって可能性が濃厚か」
「とりあえず今回は六人で行って、また機会があれば誘えばいいじゃないですか」
「そうね。それが一番いいわ。いろいろとね」
 柚紀としては、ライバルがあまり多いと圭太と一緒にいられる時間が少なくなると懸念していた。だからこそ、六人でというのはそれほど悪いことではなかった。
「そういや、予定とかで思い出したけど、お盆とかってなんか予定ある?」
「今のところなにもないですけど」
「私もです。部活を優先してますから」
「私もないですね」
「なんだ、みんななにもないんだ」
「先輩はあるんですか?」
「私もないわよ。ああ、まあ、完全にないわけでもないけど。それはまだ暫定的なものだし」
「今年はみんなでどこかへ、ということはしないんですか?」
「どうなの?」
 柚紀は、隣の圭太に振る。
「僕としては考えてないよ。ああ、もちろん泊まりがけという意味だけどね。みんなでなにかをする、くらいなら構わないと思うけど」
「それって、やっぱり祥子先輩のことがあるからですか?」
「うん。先輩は別にいいって言ってくれたけど、それじゃあ『みんな』でっていうことにならないから」
「ということは、今年のお盆は、個別に予定を立てる必要があるわね。期間は八月十四日から、えっと、十九日までよね」
 途端、圭太を除く四人の表情が真剣になる。おそらく、頭の中ではどうやって圭太とデートするとか、そんなことを考えているに違いない。
「ああ、あらかじめ言っておくけど、お盆のうちのどこか一日は、すでに予約済みだからね」
「そうなんですか?」
「ほら、私たちと同じクラスの凛てのがいるでしょ? その凛と私と圭太で、ちょっとあるのよ。いつってのはまだ決めてないけど」
 ね、と言って圭太を見る。
 圭太は小さく頷いた。
「そうだ。お盆のことで思い出したけど、琴絵から一日空けておいてくれって言われてたんだ」
 柚紀以外の三人の表情が微妙に引きつる。
 それはそうである。お盆休みは六日間しかない。そのうちの二日間はすでにリザーブ済みである。残り四日間を狙っているのはその場にいる三人だけではない。七人で四日間を争う形となる。いや、下手をすれば柚紀が彼女という立場を活かしてもう一日使うかもしれない。さらに、祥子が妊娠していることを考えれば、一日はその祥子のために使うかもしれない。
 となると、たった二日間に六人である。
「ま、まあ、三人ともそんなに怖い顔しないで。時間があればお盆以外でもつきあうからさ」
 一応圭太がそうフォローする。
 しかし、それは暗に三人にはお盆は遠慮してほしいと言っているようなものである。すんなりとは受け入れられない言葉であった。
「どんな夏休みになるのかしらね」
 柚紀は二年トリオの苦悩を知ってか知らずか、呑気にそう言った。
 
 三
 結局、二十九日の部活から圭太は合奏に合流した。当初の予定より一日早いのだが、圭太自身にとっては、それなりに満足できた内容だった。
 圭太が合奏に戻ると、演奏自体が引き締まった感じがした。そこはやはり一高吹奏楽部の大黒柱だからだろう。精神的支柱がいるのといないのとでは、まわりの心境はまったく違ってくる。
 メンバーそれぞれが圭太という存在の大きさを改めて思い知り、同時に圭太がいるからこそしっかりやれるという部分も感じ取っていた。
 とはいえ、しっかり演奏できたからといって合奏での菜穂子の指示が減るわけでも、指導が優しくなるわけでもない。県大会に向け、厳しい声がやむことはなかった。
 七月三十日の合奏もそんな感じだったが、全体的なレベルは確実に上がっているため、数回言われればたいていの箇所は直っていた。
 部活を終えて家に帰ると、店の方に来客があった。
「『桜亭』にお客で来ることってほとんどないから、新鮮かも」
 そう言って笑うのは、鈴奈である。
 鈴奈も学校が夏休みに入り、普段よりは多少の余裕があった。とはいえ、部活の指導や教科の研修などやるべきことはいろいろある。
 それでも、毎日の授業がないというのはかなりの余裕を生み出していた。
 その鈴奈がやって来た理由は、もちろん圭太である。
 圭太は鈴奈を部屋に招いた。
「圭くんの部屋に入るの、久しぶり」
 鈴奈は嬉しそうにベッドに座った。圭太もその隣に座る。
「バイトしてた時もそんなに入ってたわけじゃないけど、辞めてからはますますだよね」
「そうですね。でも、僕の部屋でよければいつでも来てください」
「ふふっ、ありがと」
 クーラーの鈍い駆動音が部屋に響く。
「今日来たのは、姉さんのことなの」
 鈴奈は、穏やかな表情で話しはじめた。
「以前来るっていうのは言ってたと思うけど、姉さん、お盆前にこっちに来ることになったの」
「お盆前ですか」
「お盆でもよかったみたいなんだけど、姉さんは姉さんで都合があるみたい。それで、一応来月七日に来て、十日に帰る予定。だから、圭くん。七日の日に姉さんに会ってほしいの。いいかな?」
「ええ、いいですよ。ちゃんとお姉さんに説明しないといけないですからね」
「うん、ありがと。それでね、できればその日は夕食まで一緒にいてほしいの。姉さんがこっちに着くのはお昼過ぎだから。それも大丈夫?」
「ええ、問題ないです」
「そっか、よかった」
 ホッと息をつく。
「お姉さんにはまだまったくなにも言ってないんですか?」
「まったくってことはないよ。向こうに帰った時とかに『桜亭』のことも話すから、それに絡めて圭くんのことも話したことあるから。だから、会えば姉さんの方は、ああって顔すると思う」
「なるほど」
「ただ、本当のことを言った時にどんな反応が返ってくるのかは、私にもまったくわからないけど」
「それは、どんな反応でも甘んじて受け入れますよ。後悔はしてませんけど、世間的には認められることではないですから」
「うん、そうだよね。でも、できる限りのことはして、言って、わかってもらいたい。私がどれだけ圭くんのことを大事に想って、愛しているかって」
 そう言って鈴奈は圭太に寄り添った。
「こうして一緒にいるだけで幸せな気持ちになれるのは、この世でただひとり、圭くんだけなんだから。圭くんのいない生活なんて考えられないし、考えたくもない。私が生きている目的の何割かは、圭くんと一緒にいるってことなんだから」
 言い方は大げさだが、それは確実に鈴奈の本心だった。
「私は圭くんの一番にはなれないけど、圭くんは私の一番だから」
「鈴奈さん……」
 圭太は、鈴奈を抱きしめ、キスをした。
「そんなに優しくされると、離れたくなくなっちゃう……」
 鈴奈も圭太の背中に腕をまわす。
「……ね、圭くん」
「なんですか?」
「……ううん、やっぱりいい。これを言うのは、反則だと思うから」
「それは、言ってみないとわかりませんよ」
「でも、きっと圭くんを困らせる」
「困るか困らないかは、言ってみないとわかりません」
 いつになく退かない圭太。
 それは、鈴奈がとても淋しそうな表情をしていたからである。今、自分の腕の中にいる大事な『姉』のそんな顔は見たくないからである。
「……私ね、圭くんとの子供がほしい」
 だからこそ鈴奈は、あえてそれを口にした。本当なら言わずにおきたかった言葉を。
「最初はね、確かに妊娠しちゃえばもういろいろ悩まなくて済む、なんて考えてた。でも、それって産まれてくる子供をないがしろにした考えだった。私が圭くんの側にいていい、その証のためだけに子供を作って、産んで。そんなのやっぱりおかしいから。だから、いろいろ考えたの。圭くんとの子供できたらどうなるんだろうって」
 鈴奈は、薄く微笑み、続けた。
「そしたらね、次から次へといろんなことが思い浮かんでくるの。柚紀ちゃんや祥子ちゃんの子供と一緒に遊んで、それを私たちは見ていたり。男の子でも女の子でも、圭くんがどれだけ私にとって大切な存在か教えてあげたり。変だよね。最初は全然そんなこと考えてなかったのに。ちゃんと考えたら、そんな楽しいことばかり思い浮かんでくるの。もちろん、子供を育てるのは大変なことだとは思うけど。それでも私は、圭くんとの子供がほしい。もちろん、それは圭くんに私が少しでも愛されてるっていう証でもあるし」
 鈴奈がいかに真剣に考えていたか。その短い言葉の中だけでも十分わかった。
 だからこそ圭太は、すぐにはなにも言えなかった。
 人の命である。
 作りましょう。はい、そうですね。とは決められないのである。
 ましてや、今の圭太には祥子がいる。まずは祥子のことを考えてからでないと、まともな答えは出せそうにもなかった。
「答えは今すぐじゃなくてもいいよ。ただ、私はそう思ってるってことだけ知っておいてほしかったから。だからもし、私との間に子供を作ってもいいと思ったら、そうしてくれると嬉しいかな」
「……わかりました。僕も、もう一回ちゃんと考えてみます」
「うん」
 すべてを吐き出し、鈴奈から淋しそうな表情が消えた。
 どうなるかはわからないが、自分の言いたいことは全部言えたという満足感がそこにはあった。
 しかし、圭太は改めて考えなくてはならなかった。
 皆の想いを受け止めることの、大変さ、重大さを。
 
 八月に入っても、相変わらずの暑さが続いていた。
 部活の方は、県大会まであとわずかとなり、練習はますます厳しくなっていた。
 そんな中、圭太たちは夏を満喫するために、プールへとやって来た。
 駅からいつもとは反対方向へ向かうバスに乗り、揺られること二十分。
 フィットネスクラブ、プール、スケートリンク、ボーリング場、ゴルフ練習場、各武道場を備え、なおかつレジャー施設としてレストランやゲームセンターのような施設まで備えているのが、グリーンピアである。
 とはいえ、このあたりでは古参の施設である。最新の設備を備えた後発組にだいぶ後れを取っているのは間違いなかった。
 それでもプールなどはそれほど新しい、古いは関係ないので、そこそこの人出があった。
「じゃあ、とりあえず着替えたら出口のところで待ってて」
 柚紀たち女子五人は女子更衣室へ。
 圭太はひとり男子更衣室へ。
 更衣室の中は、時間帯のせいもあるのか、ほとんど人がいなかった。圭太は適当なロッカーを決め、着替える。
 すぐに着替え終わると、ロッカーの鍵をかけてプールの方へ。
 グリーンピアのプールは、二十五メートルプールと五十メートルプール、さらに飛び込み用のプールがあった。以前はウォータースライダーもあったのだが、維持費の関係で撤去されていた。
 プールサイドに出ると、やはり賑やかだった。
 真夏の太陽が降り注ぐ中、子供から大人まで、涼を求めて水とたわむれていた。
 中にはプールサイドで肌を焼いている人もいる。
 そういう姿を見ると、夏のプールに来たという感じがする。
「お待たせ」
 と、柚紀たちが着替えて出てきた。
 五人とも、買ったばかりの水着を着て、少しだけ恥ずかしそうに、でも、圭太にはちゃんと見てもらいたいという顔をしていた。
 柚紀は、パールピンクのビキニ。去年のビキニより若干カットがきわどい。
 琴絵は白のセパレートタイプ。去年まではワンピースタイプだったことを考えると、大胆な水着である。
 朱美は、ライトグリーンとライトイエローの二色を使ったビキニ。自分のスタイルを考慮してか、最後の一線だけは守っていた。
 紗絵は、紫というよりは、ラベンダー色のセパレートタイプ。とはいえ、カットはそれなりに大胆である。
 詩織は、ライトブルーのビキニ。朱美ほどカットは大胆ではないが、それでも詩織にしてみればかなりの冒険をしている。
 五人とも並以上の容姿なので、いやが上でも目立った。
「じゃあ、早速泳ぎましょ」
 軽く準備運動をして、早速水に入る。
 陽に当たっているせいか、それほど冷たいと感じることはなかった。
「う〜ん、やっぱり暑い日はプールね。生き返るわ」
 柚紀は、入るなりそう言った。
「それにしても、四人とも結構がんばったわね」
「えっ……?」
「だって、その水着、というか、水着姿か。圭太に見てほしくてそれを選んだんでしょ? 動機はわかるし、そうしたいのもよくわかるから、がんばったわねって言ったの」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「で、圭太はどう? カワイイ妹と後輩たちが、圭太のために冒険したんだから」
「どうかと聞かれても、似合ってるとしか言いようがないけど」
「はあ、これだからダメなのよね。もう少しちゃんと言ってあげないと」
 圭太としては、ダメと言われても、というところだった。
 とはいえ、ここでちゃんと言わなければ、柚紀にあれこれ言われるのは火を見るよりも明らかである。
「まあ、その、僕のためにっていうのは嬉しいんだけど、結局は自分の気に入ったのにするのが一番だと思うよ」
 それでも圭太は圭太だった。
「ま、圭太だとそうなっちゃうか」
 柚紀は、やれやれと肩をすくめた。
 
 五十メートルプールは、その真ん中のあたりは水深が深くなっている。プールの大きさによって差はあるが、一メートル五十くらいはある。背の高い男性なら足も届くのだが、背の低い女性では、足をつけようとすると頭まで水の中、ということもある。
 ただ、逆に言えば、競技で使わない時はそのあたりは比較的人がいないということでもある。たいていの人は、泳ぐ、というよりは水で遊ぶ、という感覚が強い。だから、のんびりしたいなら、五十メートルプールでなら、端の方にいる。
 そんなこともあって、圭太たちはあえてその深い場所にいた。
「この辺なら確かにあまり人はいないけど……」
 柚紀は、小さくため息をついた。
 目の前では、六人の中で一番背の低い朱美と二番目に低い琴絵が、圭太にしがみついていた。そうしなければ常に浮かんでいなければならないわけだが、柚紀としては非常に面白くなかった。
 柚紀たちは、プールサイドに手をかけ、体を浮かせている。
「ふたりとももう少し自分でなんとかしてほしいんだけど」
 圭太は、やんわりとふたりに注意する。
「ええ〜っ、だって離しちゃったら足つかないもん」
「そうだよ。だからこうして圭兄に抱きついてるんだから」
 そう言ってふたりは、さらに体を密着させてきた。
 当然のことながら、水着しか身につけていないわけで、その柔らかな肢体の感覚はもろに感じられた。
「どう思う、あれ?」
 柚紀は、紗絵と詩織に話を振った。
「琴絵はまあ、ある程度は許せますけど、朱美は許せません」
 紗絵は、多少怒ってはいるようだが、それよりもなによりも羨ましいという想いの方が強かった。
「……私もしたいです」
 詩織は、実に素直だった。
「いや、まあ、それは私もそう思うけど」
 結局、柚紀たちもふたりと同じことをしたいだけなのである。
「ま、今日は特別に許してあげるわ。また来ればいいだけだし」
 柚紀はふたりにというよりは、自分にそう言い聞かせるように言った。
「ところでふたりとも」
「なんですか?」
「もう八月になったわけだけど、残り一ヶ月。どう過ごそうと思ってるの?」
「どう、とは?」
「ん、なんていうのかな、目標みたいなもの? そういうの」
 ふたりは小首を傾げた。
「私は、とりあえず部活をがんばることが第一ですけど」
「私もですね」
「ん〜、じゃあ、部活以外」
 そう言った途端、ふたりの視線が圭太に向いた。
 それだけでどんな夏休みにしたいかわかる。
「ああまあ、予想通りではあるけどね」
 柚紀は、そう言って苦笑した。
「そう言う柚紀先輩はどうなんですか?」
「私? 私は決まってるわよ。圭太との時間をできるだけ多く持つってこと。せっかくの夏休みなんだし、当然でしょ?」
 彼女である柚紀にそう言われては、ふたりにはなにも言えなかった。
「三人でなにを話してるの?」
 とそこへ、圭太が戻ってきた。琴絵と朱美を半ば無理矢理引きはがし、自分もプールサイドに手をかける。
「ん、どうやって圭太といちゃつこうかって話してたの」
「えっ……?」
 圭太は、スーッとその場から離れようとする。
「ああ、ウソウソ、冗談だから」
 そんな圭太を、柚紀は慌てて止める。
「ホントは、どんな風に残りの夏休みを過ごしたいかって聞いてたの」
「なんだ。びっくりしたよ」
「なにもそんなにびっくりすることないじゃない。それともなに? 私といちゃつくのイヤなの?」
「そ、そんなことはないけど」
「じゃあ、そんなに驚かないの」
 そう言って柚紀はちょんと額を小突いた。
「あ、そうだ。ねえ、みんな。最後に競争しない?」
「競争ですか?」
「そ。五十メートルを一番早く泳いだ人に、みんながなにかおごるの。どう?」
「それは構いませんけど、それだとお兄ちゃんがどうしても勝っちゃうと思うんですけど」
「それはもちろんハンデをつけるに決まってるわよ。まともにやって圭太に勝てるわけないもん。それに私たち五人の中でも、運動の得手不得手はあるだろうし」
 圭太以外の五人の中で、運動が得意なのは柚紀である。琴絵は運動音痴なので特にハンデが必要だが、二年トリオはほぼ同じくらいの運動神経の持ち主だった。若干、詩織がいいくらいである。
「普通に考えれば、琴絵ちゃんが一番ハンデを必要としてるわよね」
「えっと、まあ……」
「じゃあ、こうしましょ。圭太は五十メートル全部泳ぐ。私は四十メートルくらい。琴絵ちゃんは半分の二十五メートル。紗絵ちゃんたちは、私と琴絵ちゃんの真ん中くらいから。それでどう?」
「いくらなんでも、五十メートルと二十五メートルとじゃ、勝負にならないと思うけど」
「大丈夫大丈夫。それでいい勝負になるから」
 そして、そのまま競争が行われることとなった。
 それぞれが位置につき──
「よーい……どんっ!」
 柚紀の合図で、一斉に泳ぎ出す。
 スタートダッシュは、壁を背にしている圭太に軍配が上がった。あっという間に柚紀に追いつく。
 二年トリオはほぼ同じくらいのペース。琴絵はなんとか一位を守っていた。
 しかし、運動神経の差は大きかった。
 後ろから圭太と柚紀が猛然と追い上げてくる。琴絵は泳ぐことに必死で気付いていないが、距離はどんどん縮まっていた。
 圭太は、柚紀をかわし、二年トリオをかわし、あとは琴絵だけだった。
 それでも、残りはわずかしかない。
 そして──
「はあ、はあ……」
 最初に泳ぎ切ったのは、やはり圭太だった。琴絵とは僅差ではあったが、判定するのが難しいほどの僅差ではなかった。誰が見ても、圭太の勝ちだった。
 それからすぐに柚紀たちも泳いでくる。
「これだけハンデを設けても、やっぱり圭太の勝ちか。残念残念」
 柚紀は、口で言うほど残念だとは思っていなかった。
「じゃあ、みんな圭太になにかおごるのよ?」
 
 グリーンピアをあとにした圭太たちは、とりあえず駅前に戻ってきた。
 時刻はすでに夕方という頃。
「これからどうする?」
 夏休みなのでそれほど時間に神経質にならなくてもいいが、それでも部活は次の日もあるので、あまりいつまでも、というわけにはいかない。
「とりあえず、今日はもういいんじゃないかな? 時間も時間だし」
「そうね。圭太になにかおごるにしても、別に今日じゃなくてもいいわけだし」
「それは別にどっちでも構わないけど」
「じゃあ、ここで解散にする?」
 誰からも異論は出ない。
「それじゃあ、今日はここで」
 と言っても、すぐには誰も行かない。
 というより、柚紀と詩織も途中までは同じ方向へ帰るのである。
「しょうがない。とりあえず行こうか」
 圭太はそう言って先に立って歩き出した。
 全員一緒に同じ方向へ帰る。
「そうだ。忘れてた」
 商店街を抜けたあたりで、柚紀が声を上げた。
「ねえ、今度みんなで花火でもやらない?」
「花火?」
「夏だし、せっかくだから。それに、今日のプールみたいに特別どこかに行かなくてもできるじゃない。時間だってそんなにとらないし。みんなが参加するにはちょうどいいかなって思って」
「うん、いいんじゃないかな。僕は賛成だよ」
「みんなは?」
「お兄ちゃんが賛成なら、私も賛成です」
「反対する理由、ないですから」
「みんなでわいわいやるのはいいと思いますよ」
「私も大賛成です」
 口々に賛同する。
「じゃあ、近いうちにいつ、どこでやるか決めないとね。と言っても、たぶん圭太の家でやる可能性が一番高いと思うけどね」
「うちは構わないよ。母さんもそういうの好きだし」
「ま、詳しいことはまた今度ってことで」
 それからしばらくして、高城家へと戻ってきた。
「それじゃあ、私は帰るわね」
 さすがにそこまで来ては、それぞれ家路に就く。
「圭太、琴絵ちゃん、朱美ちゃん。また明日」
「うん、また明日」
 柚紀に続いて紗絵と詩織も帰っていく。
「さてと、僕たちも入ろうか」
 三人が家に入ると、リビングから話し声が聞こえてきた。
「誰か来てるのかな?」
 琴絵が首を傾げる。
 リビングに顔を出すと、祥子が幸江と話をしていた。
「あ、おかえりなさい」
「おじゃましてるわよ」
 三人に気付いたふたりが声をかけてくる。
「幸江先輩、来てたんですね」
「まあね。ちょっと顔出しに来たんだけど、あいにくと圭太はいないし。で、ともみと祥子に話し相手になってもらってたの」
「そうですか」
 用事は圭太だとわかり、琴絵と朱美はとりあえず自分の部屋に戻っていった。
「プール行ってたんだって?」
「ええ、これだけ暑いですから、ちょうどいいと思って」
「確かにね、こう毎日毎日うだるような暑さが続くと、プールにも行きたくなるわね。祥子もそう思うでしょ?」
「そうですね。私もプールに行きたいです」
「じゃあ、今度行く? あ、でも、祥子は大丈夫?」
「適度な運動はむしろした方がいいんですよ」
 そう言って祥子は微笑んだ。
 お腹の方はもうだいぶ目立つようになっており、着ている服もマタニティ用である。
「そういうことならいいけど。圭太もいいわよね?」
「僕も一緒なんですか?」
「当たり前でしょ? 圭太が行かないのに行く意味なんてないもの」
 なにを当たり前のことを、という感じで幸江は言う。
「祥子だって、圭太が一緒じゃなけりゃ、イヤよね?」
「ふふっ、そうですね。圭くんが一緒の方が、楽しみが増えますから」
「というわけよ」
「わかりました」
 圭太は苦笑しつつ頷いた。
「あっ、そうだ。先輩。柚紀がですね、今度みんなで花火をしないかって言ってるんですよ」
「花火? いいわね」
「うん、みんなでやったら楽しそう」
「いつやるとかはまだ決めてないんですけど、大丈夫ですか?」
「全然問題ないわよ。別にそれで丸一日拘束されるわけでもないんだし」
「うん、私も問題ないよ。あと、ともみ先輩も問題ないと思うし」
「じゃあ、先輩たちも問題なしということを伝えておきます」
「それにしても、圭太たちはホントに夏を満喫してるわね」
「それもこれも、みんな柚紀のおかげですけどね。僕だけなら、そこまでしてないと思いますよ」
 そう言って微笑む。
「柚紀には本当に感謝してます」
「柚紀としては、圭くんとのいろんな想い出を作りたいから積極的になんでもしてるんだろうね」
「とは思いますけどね」
「でも、その想いは柚紀だけじゃないわよ。私だって圭太との想い出、たくさん作りたいし」
 幸江の言葉に、祥子も頷く。
「ま、八月もはじまったばかりだし、これからいろいろできるわよね」
 確かに、八月ははじまったばかりだった。
 
 四
 八月三日。
 一週間後からコンクールの県大会がはじまる。一高の出番は県大会の最終日ではあるが、コンクールがはじまれば、否応なく緊張感も高まってくる。
 合奏は毎日行われ、毎日違う指示が出ていた。それを次の合奏までに直さなければならないのだから、メンバーは大変である。とはいえ、そういうことをしているのはなにも一高だけではない。ほかの高校でも同じである。だからこそ多少文句を言いながらも、ちゃんとやっているのである。
 そんな練習が終わると、メンバーは放心状態である。見方によっては、そこまで気合いを入れて練習できていた、ということも言える。
「今日も疲れたわ〜」
 圭太が楽器の手入れをしていると、その肩に柚紀がくた〜っともたれかかってきた。
「疲れるほど練習に集中できていたんならいいんじゃないの?」
「それはそうかもしれないけどさ〜」
 柚紀は、深いため息をつく。
「とりあえず、圭太に抱きついて元気補充〜」
 ぎゅ〜っという感じで圭太に抱きつく。
 そうなってしまった柚紀にはなにを言っても無駄なことを、圭太は学んでいた。だからあえてなにも言わなかった。
 それからしばらくして圭太たちは音楽室を出た。
 圭太が職員室に鍵を返しに行ってる間に、柚紀たちは先に昇降口へ。
 と、その昇降口に見知った顔があった。
「あれ、凛?」
 三年一組の下駄箱のところにいたのは、凛だった。
「ん、柚紀か。練習終わったの?」
「ああ、うん、終わったけど。凛は?」
「うちも今日は終わり。最近ちょっとがんばったから、休養日みたいなものよ」
「ふ〜ん……」
 柚紀は、適当に返事しながら靴を履き替える。
「けーちゃんは?」
「職員室に鍵を返しに行ってる。すぐに来ると思うけど」
「そっか」
「なに? 圭太に用があるの?」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
 凛は、曖昧に微笑んだ。
「あっ、凛お姉ちゃん」
 そこへ、圭太より先に琴絵たちがやって来た。
「凛お姉ちゃん、部活は?」
「今日はもう終わり」
「そうなんだ。あっ、じゃあ、ひょっとして、ここでお兄ちゃんを待ってたとか?」
 琴絵の鋭い、というか、あまりにもわかりすぎる質問に、凛は苦笑混じりに頷いた。
「みんなでなにしてるの?」
 と、今度こそ圭太がやって来た。
「あれ、凛ちゃん。もう練習終わったの?」
「うん」
 同じ質問でも、圭太がすると凛も嬉々とした表情で答える。
「ひょっとして、待っててくれたの?」
「あ、あはは、うん」
「そっか。なんだったら、音楽室まで来てくれてもよかったのに。だいたい十二時過ぎには終わってるからさ」
 圭太は、そう言って微笑む。
 圭太も靴を履き替え、揃って校舎を出る。
「けーちゃん。ちょっとだけ話があるんだけど、いいかな?」
「話? いいけど」
「できれば、ふたりだけで話したいんだけど」
 凛は、柚紀を見る。
「ああ、はいはい、私たちは先行ってるわよ」
 柚紀は、特になにも言わずみんなと一緒に先に行った。
「それで、話って?」
「あのさ、けーちゃん。前に言ってくれたよね? あたしと、デートしてくれるって」
「うん、言ったね」
「それで、その、えっと……」
「今日、時間あるの?」
「あ、うん」
「じゃあ、デートしようか?」
「いいの?」
「約束だし。それに、僕も午後は特に用事がないからね」
「じゃ、じゃあ、デートしよ」
「うん。それで、どうしようか? 一度家に帰るでしょ? 僕が迎えに行こうか? それとも、駅前かどこかで待ち合わせにする?」
「えっと、じゃあ、駅前で待ち合わせにしようよ。その方がデートらしいから」
 凛のデートに対するイメージは、実に純なものだった。
「時間は、今からだと、二時くらいかな?」
「そうだね。二時なら十分だね」
「じゃあ、二時に駅前、いや、駅改札前にしようか。その方がわかりやすいし」
「うん」
 凛は、弾けんばかりの笑顔で頷いた。
 
 圭太は、二時という時間に待ち合わせをしたことを少しだけ後悔していた。
 それは、真夏の二時という時間帯は、一日のうちで最も暑い時間帯だからである。
 日向にいようものなら、数分で日焼けできる。たとえ日陰にいても、吹き抜ける風は生ぬるく、下手すれば吐き気すら覚えるくらいである。
「ふう……」
 額に浮いた汗を拭い、圭太は息を吐いた。
 時計は一時四十六分。待ち合わせまではまだ少しある。
 暑いからか、外を歩いている人は少ない。皆、できるだけ日陰を歩いている。
 見上げれば真夏の太陽。
 空は青く、雲は白い。
 これで湿度が低く、気温が常識の範囲内なら、快適な夏なのだが。
 そんなことを考えても詮無きこと。
 圭太は、小さく頭を振った。
「けーちゃん」
 と、いつの間にか凛が来ていた。
「お待たせ」
 凛は、キャミソールに七分丈のジーンズ、足下はサンダルだった。
「それにしても暑いね。ここに来るだけで汗かいちゃった」
 そう言って凛は、額の汗を拭いた。
「どこ行こうか?」
「う〜ん、涼しいところがいいかな」
「涼しいところかぁ。じゃあ、映画とか?」
「うん、いいかも」
 ふたりは、駅前の映画館へ向かった。
「けーちゃん、ずいぶん早く来てたんだね」
「ずいぶんてほど早くはないよ。二十分前だし、着いたのは」
「そっか。あたしはちょっと準備に時間がかかっちゃって」
「慌てなくても僕は逃げないから、ゆっくり準備してくればよかったのに」
「そんなのイヤだよ。だって、せっかくけーちゃんとのデートなのに。一分一秒でも長く一緒にいたいから」
 凛は、少しだけ照れながらそう言う。
「ただ、そんな想いとは裏腹に、準備には手間取っちゃったけどね。なかなか上手くいかないね」
 駅前のシネコンは、ふたりと同じように涼を求めてそれなりの人がいた。
「なに観ようか?」
 上映中の作品は、有名作品からリバイバル作品まで様々だった。
 夏休みロードショウの作品が人気を占めており、使っているホールも複数だった。
「けーちゃんはなにか観たいのある?」
「僕は特には。凛ちゃんは?」
「あたしは……あれがいいかな」
 それは、少し前から上映されていた作品だった。
 取り立てて話題になっている作品ではないが、根強い人気があるのか、未だに上映されていた。
 内容は、二十代前半女性の本気の恋を描いた作品である。
「次は、二時二十分だね」
「いいの?」
「いいよ。僕は特に観たいものもないし、だったら凛ちゃんの観たいものを観た方がいいでしょ?」
「そうだね」
 チケットを買い、ホールに入る。
 観客は、あまりいなかった。ただ、恋愛モノということで、カップルがちらほら見受けられた。
 若干小さなホールのため、スクリーンも小さめである。
 空調の真下を避け、なおかつ観やすい席に座る。
「けーちゃんとこうして一緒に映画を観られるなんて、夢みたい」
「そんな大げさなことはないと思うけど」
「ううん。ずっとこうしたかったんだから。向こうに行ってからも、いつかけーちゃんと想いを通わせられたらって思ってね。残念ながら、まだそこまでには至ってないけど、でも、こうやってデートはできたし、一緒に映画も観られる。だからとりあえず満足」
 そう言って凛は微笑んだ。
 それから程なくして、予告編がはじまった。
 
 映画は、不器用なくらい一途で純粋な女性の話だった。好きになった男性は、名前も知らない年上の男性。電車の中で見かけて以来、同じ時間、同じ電車に乗り追い続けた。
 想いは募るが、なんの接点もない自分には声もかけることもできない。
 最初は見ているだけでいいと思った。それだけで心が幸せになれた。でも、いつしかそれだけでは我慢できなくなる。
 名前を知りたい。話をしたい。自分の名前を呼んでほしい。
 そんな想いが通じたのか、話をする機会が訪れた。
 それは、大事な定期入れを落としてしまったことからはじまった。どこに落としたのかと探し、駅員にそれを告げた。そこへ定期を拾ったと言ってやって来たのは、その男性だった。
 お礼を兼ねて、名前を聞き、連絡先も聞いた。
 しかし、それでも女性はなにもできなかった。あれほど恋い焦がれていた男性の名前を知って、連絡先も知ったというのに。
 不甲斐ない自分を半ばののしりながらも、自分にはそれが一番あっているのかもしれないと思いはじめる。
 ところが、運命の悪戯か、再び男性と話す機会を得る。それは、出先での昼休みのことだった。オフィスの近くに大きな公園があり、天気もよかったのでそこで昼食を、と思っていた。そこへ、男性がやって来たのである。
 聞くと、男性のオフィスはその公園から近いところにあり、よく来ているということだった。女性は偶然であってもそれを嬉しく思い、短い時間ながら、いろいろ話した。
 そして、女性は思いきって男性を別な日に、プライベートで会えないかと言った。
 男性も予想しなかった展開に驚きを隠せなかったが、それでも女性の想いを無為にはしなかった。
 それからしばらくは、夢のような日々だった。
 寝ても覚めても男性のことを考え、休みの日には揃って買い物になど出かけていた。まだ自分の想いは伝えてはいないが、それだけでも幸せだった。
 ところが、夢のような、幸せな日々は長くは続かなかった。
 男性が仕事の関係で遠くへ行ってしまうことになったのである。年上とはいえ、まだ年若い男性にとってもその話は悪いものではなく、将来を考えれば受けるべき話だった。
 男性は女性にことの次第を話した。それを聞いた女性は、自分も仕事を辞めてでもついていくと言い出す。同時に、男性は女性がいかに自分のことを想っていたかを知る。
 しかし、女性の訴えは男性に拒否された。それは、女性が今の仕事がとても好きなことを知っていたからである。自分のせいで女性の未来を閉ざしてしまうことはできない。そう考えた。
 ただ、少なからず女性に好意を抱いていた男性は、こうも言った。
 もし、五年経ってもお互いの想いが変わっていなければ、その時にこそ、と。
 そして男性はその街を離れ、女性はひとり、残った。
 
 八十分の上映時間は、そういう映画が好きな者にはとても短く感じられただろう。恋愛モノが嫌いな者にとっては、格好の睡眠時間を提供した。
 凛は、前者だった。
「けーちゃんは、あのラスト、どう思った?」
 凛は、圭太に感想を訊ねた。
「どちらの気持ちもわかるかな」
「そっか。あたしは、女性の気持ちがよくわかったよ。なんとなく、あたしに近いところがあったし」
 そう言って穏やかに微笑む。
「やっぱり、五年て時間は長いんだね。女性の想いは変わらなかったけど、男性の方は想い続けることに疲れてしまって、別の女性と一緒になって。もちろん、すべてが映画みたいになるとは思ってないけど」
「想いの力って、大きいからね。生きる力を与えてもくれるけど、同時に精神を削ってしまうこともあるから」
「人の心は、強いけど儚いからね」
 凛は、圭太と七年もの長い間離れていた。その間に折れそうになったこともあるだろう。それでも一途に圭太のことだけを想い続け、今、あと一歩のところまで来ている。
 だからこそ、女性の気持ちがよくわかった。同時に、男性の気持ちもわかっていたかもしれない。
「凛ちゃんは、あの女性以上だから、もっと心が強いってことだよね」
「そうかもしれないけど、でもそれは、あたしがまだまだ子供だからだよ。小学校、中学校、高校とあまり余計なことを考えずに生活できていたから。これがもし社会人だったら、きっと違ってた。想うことに疲れて、けーちゃんのこともいい想い出にしてしまうかもしれない。もちろん、そうならない可能性もあるけどね」
「そっか」
「でも、今はそんな心配しなくてもいいから。けーちゃんは、こんなに側にいてくれるから」
 圭太は、それに応えるように、そっと凛の手を握った。
 映画館を出たふたりは、特に目的もなく商店街を歩いた。
 それでも凛は終始ニコニコと楽しそうだった。
 しばらく歩いていると、通りの一角に人だかりができていた。
「なんだろ、あれ?」
「さあ? ちょっと見てみようか?」
 気になったふたりは、その人だかりのもとへ。
 見ると、大道芸人が見事な芸を披露していた。
 ジャグリングや一輪車に乗っての様々な芸。息もつかせぬ展開で、見ている者を引き込んでいく。
「では、ここでみなさんに協力してもらいたいと思います」
 三十になるかならないかの芸人は、そう言ってその場にいた者を見回した。
「やってもらうのは実に簡単なことです。ここにある輪っかを私に向かって投げてくれるだけです。あまり見当違いな場所に投げられては困りますが、少し難しいかな、と思うような場所になら投げていただいて結構です。それを私が一輪車に乗ったまま、キャッチします。それでは……」
 手にしている輪っかの数は五。
 芸人は、手前から一本ずつ輪っかを渡していく。
 残り一本になったところで、不意にその目が圭太たちのところに向いた。
「最後は、お姉さんにしましょう」
 最後の一本は、凛の手に。
「では、私が合図しましたら、ひとりずつ順番にお願いします」
 まずは一輪車に乗る。もちろん、その一輪車は普通のものより大きい。
「では、まずは手前の僕」
 最初に指名されたのは、最前列で見ていた小学生くらいの男の子だった。
 えいっ、という感じで投げられた輪っかは、少し低めだったが、見事芸人の足にかかった。
 それを器用に手に持ち替え、次へ。
 一本だけ見当違いな場所へ投げられてしまったが、三本は見事に芸人の手に戻った。
「最後に、お姉さん。お願いします」
 凛は、少しだけ緊張した面持ちで輪っかを持ち、構えた。
 狙いを定め、投げる。
 高く投げられた輪っかは、綺麗な弧を描き──
『おおーっ!』
 芸人の首にかかった。
「協力していただいた五人の方に感謝いたします。ありがとうございました」
 芸人は、一輪車から降り、お辞儀した。
 置いてあったシルクハットに、お金が入れられる。
 ふたりも、幾ばくかのお金を入れた。
 その場を離れたふたりは、特に凛は楽しそうだった。
「ああなったのは偶然だよね?」
「うん。ちょっと高く投げちゃったかなと思ったんだけど、あの人、上手く首にかけてくれて」
「期せずして、最高の形で終われたわけだね」
 芸人としても、打ち合わせていたわけではないので、最後に拍手を望める形で終われて満足しているはずである。
「でも、なんであたしだったんだろ?」
「それは、凛ちゃんが目についたからだよ。背も高いし、綺麗だし」
「ううぅ……」
 面と向かって綺麗と言われて、凛は真っ赤になる。
「け、けーちゃん。そういうこと、さらっと言わないでよ」
「ごめんごめん。でも、凛ちゃんが綺麗だっていうのは、みんなが意見を同じくするところだと思うよ」
「ううぅ〜、けーちゃんのいぢわる」
 凛は、涙目で訴える。
「あはは、じゃあ、お詫びにアイスでもおごるよ」
 圭太は、途中でアイスを買い、凛に渡した。
「けーちゃんはいいの?」
「うん。だから遠慮しないで」
 凛は少しだけ遠慮がちにバニラアイスを舐めた。
 甘さと冷たさが、スーッと溶けていく。
「美味しい」
「よかった」
 圭太は、自分のことのように喜んだ。
 
「ねえ、けーちゃん」
 凛は、静かに言った。
 ふたりは今、商店街から歩いて帰っていた。
 陽はだいぶ西に傾いていたが、まだまだ暑かった。
「前から訊こうと思ってたんだけど、けーちゃんとけーちゃんのまわりに人たちって、その、普通の関係じゃないの?」
 凛は、真っ直ぐ前を向いたまま訊ねる。
 それに対して圭太は、特に驚いた様子もなく、小さく頷いた。
「凛ちゃんがどう思うかわからないけど、僕はみんなと関係を保ってるよ。それもこれも、みんな僕がしっかりしてなかったせいだとは思うけどね」
「そっか。薄々そうなんじゃないかって思ってたけど、やっぱりそうなんだ。でも、どうして? けーちゃんには柚紀っていう彼女までいるのに」
 凛には、圭太がそうした真意がわからなかった。凛が知っている圭太なら、そんなことはしないはずだと思っていたからである。
「どう言っても言い訳にしかならないけど、それでもあえて言えば、僕はみんなの想いに応えたかったんだ。こんな僕を本気で想ってくれてるみんなにね。結果的に今みたいな状態になってるけど、それはそれで後悔はしてないよ。柚紀のことは本当に好きだし、ずっとこの気持ちは変わらない。それでもなお、僕はみんなのことも好きだから。一生は無理かもしれないけど、できる限り、その想いに応え続けていきたいと思ってる」
 それを聞いた凛は、小さく息を吐いた。
「確かに、柚紀の立場で言えば、節操なしって感じだね」
「言い訳もできないよ」
「でも、それでもそれができるのは、けーちゃんだけだと思う。それを、こっちに戻ってきてから実感してるから。だって、けーちゃんと一緒にいる時のみんなの顔を見ていたら、本当にみんな楽しそうにしてるからそう思えたの。そして同時に思ったの。あたしも、そうなれるのかな、って」
 そこではじめて凛は圭太の方を振り返った。
「まだ、ダメなのかな? まだあたしは待ってなくちゃいけないのかな?」
「凛ちゃん……」
「あたしの想いは募るばかり。けーちゃんと一緒にいるだけで胸が張り裂けそうになる。けーちゃんに優しくされるだけでもっともっとと求めてしまう。もうこの想い、抑えられないの」
 胸に手を当て、訴える。
「お願い、けーちゃん。答えて」
 ふたりの間を、風が吹き抜けた。
「正直に言えば、もう凛ちゃんに対する僕の想いは、『姉弟』のそれじゃなくなってる。いつの間にか、凛ちゃんを幼なじみ以上に見ていた。それでも僕はいろいろな理由をつけてあえてそれに気付かないようにしてた。もちろん、柚紀がいるっていうのも理由のひとつではあるけど。四月に再会して、普段の学校で話したり、凛ちゃんの家に行って小父さんや小母さん、それに蘭さんと話したり。河村凛、という女の子のことをより深く知れば知るほど、僕は惹かれていった。それに、一途に僕のことを想ってくれているその想いを、僕は無視できないよ。だから、意識すればするほど、僕は凛ちゃんのことを好きになっていった」
「じゃあ……?」
「最後にもう一度だけ確認するよ。ここで凛ちゃんの想いに応えても、最後の最後だけは絶対に変わらないよ。どうあっても僕の中の一番は、柚紀だから。それでもいい?」
 今度は凛が答える番だった。
 しかし、凛はまったく迷わなかった。
「いいよ。あたしだってずっと考えてきたんだから。けーちゃんのことを想い続けるか、潔くあきらめるか。続けてもあたしの最終的に望む形には絶対にならない。それもわかってる。それでもあたしは、けーちゃんが好きなの。大好きなの。ずっと、ずっと側にいてほしいの。けーちゃんさえ側にいてくれれば、あたしに怖いものなんてなにもない。誰になにを言われても、大丈夫。そう思えたから」
 そこにあったのは、とても綺麗な笑顔だった。
 わずかなりとも迷っている感じはない。
「そっか。じゃあ、僕が改めて言うことはなにもないよ。むしろ、言う方が凛ちゃんに失礼だろうし」
「けーちゃん……」
 凛は、そっと圭太に抱きついた。
「いいんだよね? もう、無理しなくていいんだよね?」
「うん」
「嬉しい……」
 潤んだ瞳で圭太を見つめる。
 圭太はそのおとがいにそっと手を添え──
「ん……」
 キスをした。
 凛の顔には、想いが通じたという、本当に満足げな、そして嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「ね、けーちゃん」
「うん?」
「このまま、最後までしてくれてもいいんだよ?」
「それは、今日はやめておくよ」
「どうして?」
「だって、凛ちゃん、インターハイが近いからね。そのせいで体調がおかしくなったりしたら、僕が悔やんでも悔やみきれないから」
「そっか」
「だから、そういうのは、インハイが終わってからにしよう。それでもまだ夏休みは残ってるでしょ?」
「うん」
「その残りの休みの間には必ず、ね」
 もう一度しっかり抱きしめる。
「じゃあ、もう少しだけ待ってるね」
「そんなに長くは待たせないから」
 お互いの想いを確かめるようにキスを交わす。
「けーちゃん」
「ん?」
「ずっと、一緒だよ」
 七年もの間、ずっと心に秘めてきた想いが、今、通じた。
 それがどんなにつらいことだったとしても、今、この時の喜びがすべてを帳消しにしてくれる。
 凛は、圭太に抱きしめられながら、改めて自分の想いを確認した。
 自分は、本当に圭太が好きなんだと。
 そして、ずっと、一緒にいよう、と。
 
 五
 八月六日。
 県大会本番まで一週間となった。
 前日まで練習はできるが、十日に県大会がはじまるとどうしても練習時間は削られてしまう。県大会までにきっちり仕上げるには、そろそろなんとかしなければならないのである。
 それを菜穂子も理解しているために、練習も厳しくなっていた。
「何度言えばわかるの? そこはもっと縦のラインに気をつけて演奏しなさい。今度同じことを言わせたら、メンバーから外すわよ」
 指示の言葉は、いつも以上に厳しい。
 ただ、演奏のレベル的には、地区大会以上に仕上がっていた。
 メンバーも、自分たちが二年連続全国大会金賞を取ったという自覚があった。だからこそ、三年目の今年、たとえシードであっても無様な演奏はできないと考えていた。どんな演奏をしても上には行けるのだが、それでは自分たちが納得できなかった。だからこそ、きつい練習にもしっかりついてきていた。
「譜面を追わない。指揮を見なさい、指揮を」
「ほら、指が追いついてない。できないからって誤魔化さない」
「フォルテとフォルテシモの差がまだまだ甘いわよ。もっとメリハリをつけて」
「気を抜くとすぐに音程がずれるから、もっと耳を使いなさい」
 二時間の合奏中、指示が出なかったのはその何割だろうか。それを計算するのも躊躇われるほどである。
「今日はここまでにするわ。あと三日でとりあえずの形に仕上げるつもりだから、しっかりついてきて」
『はい』
「いろいろ言ってるけど、あなたたちならできると思ってるから言ってるということを忘れないで。私もできもしないことを言ったりしないわ。合奏の時間を増やしてるからどうしても個人やパートでの練習が少なくなるけど、そのあたりは短時間に集中してやってみて。今までの積み重ねという部分も多々あると思うし。目標はあくまでも、県大会で一高に敵なし、と思わせることだから。いいわね?」
『はいっ』
「それじゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 菜穂子が指揮台から降りると、代わって圭太が前に出る。
「今日先生に指摘された部分については、明日の練習できっちり直しておくように。今日これから直したい、という人もいるかもしれないけど、これだけ暑いから体調の管理には十分注意する意味も込めて、基本的に練習は認めないから。ただ、楽器を家に持ち帰って個人的にやることまでは止めないけど。ただ、疲れてる時に無理にやっても身にはならないと思うけどね。じゃあ、いつも通り、楽器を片づけて、メンバー以外の一年生は椅子の片づけと掃除を。それじゃあ、おつかれさま」
『おつかれさまでした』
 講堂での合奏なので、片づけにも時間がかかる。
 それぞれが手際よくやるべきことをやっていく。
「圭太。ちょっといい?」
 と、圭太に声がかかった。
「あ、はい、なんですか?」
 声をかけたのは菜穂子だった。
「あなたにひとつお願いがあるの。県大会が終わって合宿までに、合宿での練習プランを立ててきてほしいのよ」
「練習プランですか。なにか特にしなくちゃいけないこととかありますか?」
「それは県大会の演奏次第ね。いい演奏ができればできたで関東大会に向けてやることが見えてくるだろうし、万が一にも不甲斐ない演奏となれば、それこそ徹底的にやらなくちゃいけないし」
「そうですね。わかりました。少し考えてみます」
「お願いね」
 菜穂子が職員室に戻ると、改めて片づけている部員にはっぱをかける。
「テキパキやらないと、午後の時間が短くなるだけだから」
 いったん楽器を音楽室に置き、再び講堂に戻ってくる。
 講堂では一年が中心となって、モップを使って掃除をしていた。
 圭太はその間に忘れ物がないか、余計なことはしてないかなど、講堂内を見てまわる。
 それを確認して、ようやく戸締まりができる。
 講堂を閉めると、今度は音楽室である。
 音楽室にはクーラーがついているため、多くの部員がクーラーの前で涼んでいる。
「あまりクーラーの設定温度を下げないように。ここで涼みすぎると、外に出た時つらいよ」
 圭太も鬼ではないので、暑いのもわかっている。だからこそその程度の注意にとどめていた。
「先輩」
 と、詩織が声をかけてきた。
「あの、私、先に帰ってますから」
「ああ、うん。僕も準備でき次第、すぐに行くよ」
「はい、待ってます」
 詩織は、ニコッと笑い、音楽室を出て行った。
「はい、待ってます、か。ずいぶんカワイイこと言うわね」
 と、今度は柚紀がやって来た。
「柚紀。その言い方は鬼姑みたいだよ」
「いいのよ。それを言えるのは私の特権なんだから」
「なるほどね」
 圭太は苦笑した。
「で、圭太はそんな詩織に優しくするのよね」
「否定はしないよ」
「少しくらい否定してくれてもいいのに」
 柚紀はぷうと頬を膨らませた。
 
 一度家に帰った圭太は、カバンを持って家を出た。
 途中、スーパーで買い物をし、目的地へ。
 エントランスで部屋番号を押し、相手を呼び出す。
『はい、どちらさまですか?』
「高城圭太だよ」
『あっ、圭太さん。今開けます』
 すぐにドアが開く。
 中に入り、エレベーターで九階へ。
 エレベーターを降りると、すぐに相原家である。
 インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「お待たせ」
「暑くないですか?」
「かなりね。だから今年も、ほら」
 そう言って途中で買ってきたものを見せる。
「やっぱり暑い時には、冷たいアイスだよね」
「ふふっ、そうですね」
 場所をリビングに移し、まずはやるべきことをやる。
「詩織。誕生日おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
 詩織は、嬉しそうに微笑んだ。
「で、これがプレゼント」
「すみません」
「今年は選ぶのに時間がかかっちゃって」
「そうなんですか?」
「まあ、気に入ってもらえればいいんだけど」
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
 丁寧にラッピングを外し──
「あっ……」
 出てきたのは、淡いクリーム色のパンプスだった。
「い、いいんですか、こんなものをもらっても?」
「いいよ。僕の気持ちだからね。それに、詩織ならこれが似合うかなって、そう思いながら選んだから、是非とも履いてもらいたいんだ」
「本当にありがとうございます。今度圭太さんとデートする時は、これ、履いて行きますね」
「うん」
 詩織は、そのオシャレなパンプスを大事そうに箱に戻した。
「そういえば、今日もひとりなんだね」
「あ、はい。両親揃って、私の誕生日プレゼントを買いに行きました。本人たちはバレてないと思ってるみたいですけどね」
「なるほど。詩織は気付かないふりをしてあげてるわけか」
 圭太は小さく頷いた。
「今年は誕生日が土曜日じゃないですか。だからパパが余計に張り切ってて。平日なら仕事が終わってからか、もしくは別の日にということになるんですけど」
「それだけ詩織が大事にされてるってことだよ」
「はい。そのことには素直に感謝しています」
 人に対する感謝の気持ちを素直に言える。それが人間として大事なことでもある。
 それが普通にできている詩織は、やはり大切に育てられただけでなく、きちんとしつけもされてきたということがわかる。
「そうそう。せっかく買ってきたんだから、アイスを食べよう」
「そうですね」
「イチゴとチョコ、どちらでも好きなのを選んでいいよ」
「じゃあ……イチゴを」
 アイスは、多少溶けても大丈夫なように、モナカアイスだった。
「詩織は、イチゴが好きなの?」
「そうですね、どちらかといえば好きですね。今みたいに片方にイチゴがあれば、たいてい選んでます」
「そっか。じゃあ、今度からケーキとかアイスとか、そういうのを食べてもらう時は、少し考慮するよ」
「別にそこまでしなくてもいいですよ。基本的にはなんでも食べられますし」
「ま、そのあたりは折をみてね」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 それからしばし、アイスを食べながら他愛ない話に花を咲かせる。
 詩織は、本当にころころと表情を変え、心から楽しんでいるのがわかった。
 そんな詩織を見て、圭太もまた楽しそうだった。
「そうだ。詩織」
「なんですか?」
「ピアノ、聴かせてくれるかな?」
「わかりました」
 頷き、詩織はピアノの前に座った。
 鍵盤に手を載せ、軽く息を吐く。
 そして──
 ゆったりとした、とても穏やかな旋律の曲が、その指から奏でられた。
 詩織は楽譜を見ることもなく、実に楽しそうに弾いている。
 今、この時だけは、圭太のためのプライベートコンサートである。
 演奏のできも大事だが、やはり想いを込めて演奏しなければ意味がない。
 そんなことを考えながら、今の想いを音に載せ、曲を奏でる。
 聴いている圭太も、目を閉じ、音の流れに身を任せている。
 窓の外は真夏だが、部屋の中だけは、初夏のさわやかさに包まれている感じがした。
「…………」
 最後の音を弾き、音の長さ分でペダルを離す。
「やっぱり詩織のピアノはいいね。何度聴いても、また聴きたくなる」
「ありがとうございます。圭太さんにそう言ってもらえれば、弾いたかいもあります」
 詩織は、ゆったりと微笑んだ。
「詩織は、本当にピアノが好きなんだね」
「あまり意識したことはないですけど、そうですね。好きだと思います」
「やっぱり、小さい頃からずっとやってるから?」
「それもあると思います。でも、一番の理由は、曲を上手く弾けるようになった時の喜びを知ってしまったからだと思います。レッスンは大変ですけど、自分の思った通りに曲を弾けた時の喜びは、なにものにも代え難いです」
「その気持ち、わかるよ。僕が部活をやってる理由のひとつは、それだからね」
「でも最近は、それだけじゃないんです」
「そうなの?」
「はい。なにかわかりますか?」
 詩織は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、訊ねる。
「ん〜、ちょっとわからないかな」
「それは、圭太さんに聴いてもらえるからです。圭太さんに聴いてもらう時は、技術もですけど、まずは気持ちを込めて演奏することにしてますから。そうすると自ずと楽しくなりますし、なによりもまた圭太さんのために弾きたい、そう思えるんです」
「そっか。じゃあ、僕は詩織の役に立ててるのかな?」
「はい、それはもちろん」
 大きく頷く。
「たぶん、これから私がピアノを弾くのは、その大半が圭太さんのためだと思います。だから、圭太さんにはいつまでも私の側にいてほしいんです」
「そうだね。詩織のピアノを聴くためにも、側にいないとね」
 圭太に認められ、詩織は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、詩織は卒業したらどうするつもりなの?」
「卒業後ですか? まだちゃんとは決めてませんけど、ピアノも続けたいので、音楽の先生がいいかなって思ってるんです。さすがにプロの音楽家になれるほどの実力はありませんし、特になるつもりもないですから。それでもピアノを趣味以外でもやりたいので。そうすると、音楽の先生が一番いいかなって思って」
「確かにそうかもしれないね。だとすると、聞けるうちに先生にいろいろ聞いておくのもひとつの方法だと思うよ。音楽の先生になる方法もひとつじゃないし」
「それは、コンクールが終わってからにします」
「あはは、確かにそうだね。それを終わらせないと、ほかのことに集中できないから」
 そう言って圭太は笑った。
「でも、そっか。詩織は音楽教師を目指すのか」
「今のところは、ですけど」
「うん、いいと思うよ。自分のやりたいことをやる。それが一番だと思うし」
「でも、圭太さん」
「ん?」
「もし、先生になるためにここから離れなくちゃいけないってなった時は、私、すぐにやめますから。私にとってはやっぱり、先生になることよりも圭太さんの側にいることの方が、ずっと大事ですから」
 それは、決して冗談ではなかった。そして、詩織だけではなく、ほかの全員もそう思っている。
「それこそ先生になる方法はいろいろありますけど、圭太さんの側にいる方法は、ひとつしかないですから」
 そう言われては、圭太もなにも言えなかった。
「とりあえず、もう一曲、聴かせてくれるかな?」
「はい」
 
 ピアノを聴き、今度は温かい紅茶でお菓子を食べる。
「あの、圭太さん」
「うん?」
「その、催促してるみたいで言いづらいんですけど……」
「うん」
「えっと、あまり遅くなると両親が帰ってきてしまうので、その……」
 詩織は、少し言いよどむ。
「抱いて、ほしいです……」
「本当に?」
「は、はい」
「じゃあ──」
「あっ、で、でも、ちょっとだけ待ってください」
「ん?」
「その、汗、かいてますから、シャワー浴びてきますから……」
 詩織は、頬を染め、呟いた。
「別に気にしなくてもいいのに。汗なら僕だってかいてるし」
「……じゃあ、一緒に、シャワー浴びますか?」
 そして──
「ん……」
 ふたりは、風呂場で抱き合っていた。
「圭太さん……」
「カワイイよ、詩織」
 シャワーを流したまま、濡れるのもお構いなしに、抱き合い、キスを交わす。
「ん、あ……ん……」
 圭太はキスをしながら、胸を揉む。
 最初は少し弱めに。
 だんだんと力を入れて。
「や、ん……あん……」
 風呂場に、次第に詩織の艶っぽい声が響いてくる。
 それが自分の耳にも届くと、さらに羞恥心をあおる。それがさらなる快感を引き出す。
「んん、あっ、ん……あふぅ……」
 音を立てるくらいしっかりと先端の突起を舐める。
「んっ、あっ、気持ちいいです」
 硬く凝った突起を舌先で転がす。
「ああっ、んんっ……あん……んくっ」
 触れる度、舐める度に体がぴくんぴくんと反応する。
「ん、はあ、圭太さん……私、もう立っていられません……」
 そう言って詩織は、腰が抜けたようにしゃがみ込んでしまう。
 そんな詩織を浴槽の縁に座らせる。
「ちょっと足開いて」
 言われるまま足を開く。
 圭太は、秘所のまわりを軽くなぞる。
「ふわぁぁ……」
 ぴくぴくっと反応する詩織。
 それからおもむろに指を挿れる。
「あっ、んんっ」
 指を曲げ、中の敏感な部分を擦るように出し入れする。
「んんっ、あんっ、はあっ、んっ、んくっ」
 詩織は体をのけぞらせ、快感に耐えている。
「そ、そんなにされると……ああっ、んんっ……私っ」
 右手で秘所をいじりながら、左手で胸を揉む。
「やんっ、圭太さんっ、感じすぎちゃいますっ」
 次第に、蜜があふれてきて、くちゅくちゅと音を立てるようになる。
「ダメっ、あんっ、そんなにっ、んんっ」
 速く擦ると──
「いっ、んんっ、ああああっ!」
 詩織は、体を大きくのけぞらせ、達してしまった。
 絶頂を迎え、体がぴくんぴくんと痙攣している。
「大丈夫?」
「ん、はあ、なんとか、大丈夫です……」
 詩織は、少し虚ろな目で答える。
「でも、圭太さん、ひどいです。私だけ気持ちよくさせてしまうんですから」
「ちゃんと感じてほしかったから」
「今度は、圭太さんも気持ちよくなってください」
 蠱惑的な笑みを浮かべる詩織。
 今度は圭太が浴槽の縁に座り、その上に詩織がまたがる。
「このまま、入れちゃいます、ね……」
 圭太のモノをつかみ、自分の秘所にあてがう。そして、そのまま体を落とす。
「んんっ……ああ……」
 すっかり圭太のモノが収まる。
「んっ、圭太さんので、私の中がいっぱいになってます……」
 圭太の首に腕をまわし、キスをねだる。
「んっ、ん……ん……」
 舌を絡め、息を継ぐのも忘れて唇をむさぼる。
「ん……あっ、んんっ」
 と、いきなり圭太が腰を動かした。
「やっ、あんっ、そんなっ、いきなりっ」
 詩織の腰をつかみ、少しだけ強引に動かす。
「ああっ、んあっ、圭太さんっ」
 次第に、詩織自ら腰を動かすようになる。
「圭太さんのが、奥に当たってっ、んんっ、気持ちいいですっ」
 揺れる胸に手を添え、優しく揉む。
「んんっ、はあんっ……圭太さんっ、気持ちよすぎですっ」
「もっともっと気持ちよくなって。でも、その前に」
 圭太は、動くのやめた。
「圭太さん……?」
「ちょっとだけごめん」
 一度詩織にどいてもらい、今度は後ろ向きにする。
「このままいくよ?」
「はい」
 圭太は、一気に体奥を突いた。
「あああっ!」
 いきなり敏感なところを突かれ、詩織はひときわ大きく嬌声を上げた。
「ああんっ、ダメっ、んんっ、圭太さんっ、圭太さんっ」
 さっきよりもより速く、より大きく動く。
「あくっ、んんっ、圭太さんっ、私っ、もうっ」
 シャワーの流れる音に混じって、肌を打ち付ける音と、圭太の荒い息、そして詩織の嬌声が響く。
「あんっ、ああっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
「僕ももうすぐだから」
「じゃ、じゃあ、一緒にっ、一緒にイってくださいっ」
 圭太は、ラストスパートという感じでさらに激しく打ち付ける。
「ああっ、んんっ、圭太さんっ」
「詩織っ」
「んあっ、ああっ、んんっ、んああああっ!」
「くっ!」
 そして、詩織が達するのとほぼ同時に、圭太は詩織の背中に白濁液を飛ばしていた。
「はあ、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「圭太さん……すごく、気持ちよかったです……」
 圭太は、濡れて張り付いてしまった前髪をよけながら、優しくキスをした。
 
「今日も圭太さんにいっぱい愛してもらえて、私は幸せです」
 詩織は、そう言って満面の笑みを浮かべた。
 ふたりは、部屋に移ってからもう二度ほど愛し合った。
「言い方は悪いかもしれませんけど、圭太さんに抱かれている時にこそ、私は圭太さんに愛されてる、必要とされてるって思えるんです。いつもは、漠然とした不安が心のどこかにありますから」
 服を着て落ち着きを取り戻した詩織は、穏やかな表情でそう言う。
「圭太さんはあまり歓迎しないかもしれませんが、時々圭太さんに抱いてもらうことで、私はその不安を一瞬でも拭い去ることができるんです」
 そんな詩織を、圭太は優しく抱きしめる。
「圭太さん。私は、今のままでいいと思いますか?」
「それを判断するのは僕じゃないよ。それは、あくまでも詩織が自分で判断しないと」
「私が、ですか」
「ただ、ひとつだけ言わせてもらえれば、勝手に僕の側からいなくならないでほしいっていうことだけ」
「それは、絶対に大丈夫です。私は、死んでからも圭太さんの側にいますから」
「そっか」
 少しだけ強めに抱きしめる。
「……圭太さんの匂い……」
 胸に抱かれた詩織は、少し汗を含んだシャツの匂いを、大きく吸い込む。
「私の大好きな圭太さんの匂いです……」
 その姿は、本当に幸せそうだった。
「圭太さん」
「なんだい?」
「今年も、素敵な誕生日をありがとうございました」
「気にしなくてもいいよ。僕が好きでやってることなんだから」
「そうだとしても、お礼くらい言わせてください。本当に、感激しているんですから」
「わかったよ」
 その薄い唇に、キスをする。
「それじゃあ、そろそろ僕は行くよ」
「あ、はい」
 時計を見ると、そろそろ夕方という時間。詩織の両親がいつ帰ってきてもおかしくない時間である。
「今日はここでいいから」
「でも……」
「いつ帰ってくるかわからないだろ?」
「はい……」
 今日は、玄関先で別れる。
「じゃあ、詩織。また明日、学校で」
「はい。また明日」
 圭太は、いつもの柔和な笑みを浮かべたまま、エレベーターに乗り込んだ。
「また、明日です、圭太さん……」
 詩織はそう呟き、小さく頷いた。
 
 六
 八月七日。
 その日は前日までの天気がウソのように朝から雨が降っていた。
 ずっと真夏日が続いていたので、雨はまさに恵みの雨となった。朝方こそ気温は高めだったが、日中はそれほど気温は上がらなかった。
 気温がバカみたいに上がらないと、部活をしていても調子がよくなったような気がする。あくまでも気がするだけなのだが、人間、気の保ちようでどうとでもなる部分が多い。
 本番まであとわずかしかない吹奏楽部にとって、その気持ちの変化は大きかった。
 とにかく練習を前向きにできることがよかった。前日までに指摘された部分を重点的に練習し、合奏を迎える。
 もちろん、すべてを完璧に直せたわけではないが、いつも以上にできたような気になっていた。楽器を演奏する時は、その時の気分も大きく影響するので、指揮をする菜穂子にとってはいいことだった。
「今日の演奏はまあまあね。今日は幾分涼しいから集中できてるのかしら」
 菜穂子は、幾分穏やかな表情で話す。
「でも、それは裏を返せば普段もこれくらい集中できれば今日くらいの演奏ができるということよ。それを図らずも証明してしまったのだから、明日からの練習、期待してるわね」
 もちろん、苦言を呈すことも忘れない。
「それじゃあ、最後に課題曲、自由曲通してやるわよ。時間も計ってやるから、移動も迅速に」
 合奏の最後に、本番と同じように演奏する。
 本番もそうなのだが、演奏の機会は一回しかない。どれだけその一回に集中できるか、それが演奏の成否にも大きく関わってくる。
 十二分間という時間が長いか短いかはわからないが、その間ずっと集中していなければならない。今までやってきたことを思い出し、自分の持てる力を最大限以上出す。その時はじめて最高の演奏ができるのである。
 今は練習中の合奏だが、気持ちだけは常に本番と同じように考えていないと、本番に考えられないようなミスをする可能性がある。
 だからこそ反復練習によって、その可能性を少しでも減らすのである。
 合奏が終わると、皆、疲れきった顔をしている。
「本番まであと六日。練習はあと五日間できるけど、最後まで気合いを入れてやるように。無様な演奏をしたら、合宿がどうなるか、わかってるわね?」
 部活が終わってもまだ雨は上がらなかった。
 土砂降りというほどではないが、結構強く降っている。
 講堂を閉め、音楽室に戻ってきた圭太は、窓の外を見て小さく息を吐いた。
「どうかしたんですか?」
「いや、特には。まだ雨が降ってるなぁと思って」
 圭太と同じように紗絵も窓の外を見る。
「でも、雨のおかげで涼しくなりましたから」
「それはね」
「たまにはこういう日もないと、体にもよくないですよね」
「ひょっとして、夏バテとか?」
「あ、いえ、そんなことないですよ。私は元気です」
 そう言って紗絵は笑って見せる。
「先輩の方こそ、大丈夫ですか?」
「僕も大丈夫だよ。それに、夏バテになんかなってる暇ないよ」
 暇がないからこそ、夏バテになる可能性もあるのだが、とりあえず圭太にはその理由は通用しないようである。
 音楽室を閉め、傘を差して家路に就く。
「ねえ、圭太。今日ってなにか予定あるの?」
「今日はどうしても外せない用があるんだ」
「どうしても外せない用?」
「これからのことに関わることだから。だから、悪いんだけど今日は、ね」
「はあ、しょうがない。そこまで言われたら認めないわけにはいかないでしょ。でも、これからのことにも関わることって、なに?」
「それは、明日にでも説明するからさ」
 そう言って圭太はお茶を濁した。
 雨は、午後に入ってもいっこうにやむ気配がなかった。
 音のない部屋でじっとしていると、雨粒が気になるほどである。
 圭太は、昼食を食べたあと、リビングでゆっくりしていた。
 琴絵と朱美は夏休みの宿題と格闘中である。
 そろそろ二時半になろうかという頃。
「圭太。ちょっと琴絵と朱美を呼んできて」
 琴美がリビングに顔を出し、圭太にそう言った。
 圭太は言われるままふたりを呼んでくる。
「母さん、呼んできたよ」
 店に出ると、琴美が見知らぬ女性と話をしていた。
「ああ、ありがとう」
 見ると、店の方には鈴奈もいる。
「三人とも。こちらが鈴奈ちゃんのお姉さん、明奈さんよ」
 そう言って琴美はその女性──佐山明奈を紹介した。
 ショートカットの髪に少しふっくらした顔。それでも鈴奈に似ているところがあるのは、姉妹だからだろう。
「はじめまして。鈴奈の姉の、明奈です」
 明奈は、年相応の落ち着いた笑みを浮かべ、会釈した。
「明奈さん。息子の圭太と娘の琴絵、それに今うちに居候している姪の朱美です」
 三人も揃って会釈する。
「三人のことは鈴奈からもいろいろ聞いています。会えてとても嬉しいですよ」
 それから宿題が途中の琴絵と朱美はその場を辞し、圭太だけが残る。
「あなたが圭太くんね。なるほど、鈴奈から聞いていた通りの男の子だわ」
 明奈は、少し砕けた口調でそう言う。
「ね、姉さん。あまり余計なことは言わないでよ」
「あら、言われて困るようなこと、話してたの?」
「そんなことないけど……」
「だったらいいじゃない」
 どこの家でもそうなのかもしれないが、基本的には姉の方が妹より強いようである。
「鈴奈が帰ってくる度に、必ずあなたのことが話題に上るの。だから、一度も会ったことはなかったけど、私の中ではこんな感じの子かな、というのはあったわ。そして、それはその通りだった、と」
 にこやかにそう言う明奈に、圭太はどう答えていいものか迷う。
 鈴奈は明奈の隣で申し訳なさそうに俯いている。
「こっちにはいつまでの予定で?」
「十日には戻る予定です。向こうもいろいろありますから。それに、子供たちのことを両親に任せてきてますから。いくら夏休みとはいっても、一日中ちびっ子ギャングの相手をしていては、両親も大変ですから」
「ふふっ、そうかもしれませんね」
 明奈は、今年で三十二になる。二十一の時に結婚し、今はふたりの子供がいる。長男が小学校四年生で、長女が小学校一年生である。夏休みということで普段より手間がかからないこともあって、この時期にこっちへやって来たのである。
 それから少しの間、いろいろなことを話す。基本的には明奈が話し、それに圭太なり琴美なりが答えていく、という感じだった。時折鈴奈が明奈を止めようとしたが、あえなく返り討ちに遭っていた。
「それではまた、帰る日にでもご挨拶に伺いますので」
「はい」
 琴美と明奈が挨拶を交わしてる側で、鈴奈はもう一度圭太に確認していた。
「……圭くん。お願いね」
「……はい」
 ふたりにとっては、これからが本番だった。
 
 鈴奈の部屋に場所を移した圭太たちには、微妙に会話が少なかった。
 詳細な事情を知らない明奈も、自分の妹のことでなにか大事なことがあることを感じ取っているようである。
 鈴奈はとりあえずお茶を淹れる。
「圭太くん」
「なんですか?」
「圭太くんは、鈴奈とのことでいろいろあったのよね?」
 事情を説明する前に、明奈はそう言って圭太に訊ねる。
「はい、ありました」
 もともと話すつもりだったので、圭太も素直に頷く。
「そのことについて、これから話してくれるのよね?」
「はい」
「わかったわ」
 明奈は、特に表情を変えずに頷いた。
 それぞれの前にお茶が並ぶ。
 鈴奈は、あえて圭太の隣に座った。
「それで、改まっての話って?」
「姉さんももう気付いてると思うけど、私と圭くんは、男女の関係にあるの」
「…………」
「そういう関係になってもうすぐ二年になる。私は本当に圭くんのことが好きだから、だからそういう関係になったの」
 静かだが、想いのこもった言葉で鈴奈は言う。
「鈴奈ももう二十三にもなったわけだから、私がとやかく言うことはないわ。恋愛は、自由にすればいいわ。でも、今回のことはそう簡単なことではないのよね?」
「うん。圭くんには、正式な彼女がいるの。婚約までしてるね」
「えっ……?」
 さすがにそこまでとは予想できなかった明奈は、一瞬言葉に詰まった。
「それは、本当なの?」
「はい。僕には婚約までしている彼女がいます」
 圭太は、臆することなく答える。その堂々とした姿を見せられると、明奈としてもなんと言っていいのかわからなかった。
「つまり、鈴奈が圭太くんを寝取ったわけ?」
「寝取ったって、いやまあ、結果を見ればそうなのかもしれないけど。でも、それともちょっと違うの」
「じゃあ、どういうことなの?」
 さすがの明奈も、それ以上のことは想像もできないらしい。お手上げという感じで聞き返す。
「圭くんは、今でもその彼女のことが一番なの。それでも圭くんは私のことも見ていてくれてるの」
「二股ってこと?」
「イメージ的にはそうかもしれない」
 明奈は、まじまじと圭太を見る。
 明奈のイメージでは、どう考えてもそういう感じはないのである。
「まあ、状況はわかった。ちょっと混乱してるけど。それで、結局なにが言いたいの?」
「世間的に認められない関係だってわかってるけど、私は、ずっと圭くんと一緒にいたいの。今の私にとって、圭くんのいない生活なんて考えられないから。教員試験を受ける時にこっちに決めたのだって、その理由の何割かは圭くんがこっちにいたからだし。すべてを認めてもらえるだなんて思ってないけど、少しでも私の本当の気持ちを知っていてほしかったの」
 言い終わった鈴奈の手を、圭太はしっかりと握った。
「ふう……」
 それを聞いた明奈は、ため息をついた。
 わずかな沈黙が、今の鈴奈には怖かった。
「なるほどね。こんなこと、私以外には言えないわね。お父さんやお母さんに行ったら、下手すれば勘当されるわね」
 鈴奈は末っ子ということで家族全員から可愛がられている。両親はもちろんのこと、年の離れた兄もそうだった。だからこそ、その鈴奈が世間様に知られたらなんと言われるかわからないような状況にいると知れば、よくて実家への強制送還、悪くて本当に勘当されかねない。
「圭太くんは、どう思ってるの?」
 明奈は、もうひとりの当事者、圭太に話を振った。
「僕にとっての鈴奈さんは、最初は年上の『お姉さん』でした。うちの店にバイトに来た当初からずっとそうでした。だから、鈴奈さんに告白された時は驚きました。まさか、という感じでしたから。でも、それだけではありませんでした。確信は持てていませんでしたけど、鈴奈さんが僕のことをどんな目で見ていたか、知っていましたから。それでもそんなことはないだろうと勝手に結論づけていただけなんです。それは同時に、僕の中にある鈴奈さんに対する憧れの気持ちを抑えておくためでもありました。綺麗で優しくて頼りになって、そんな人を好きにならないはずがありませんから。だから、告白された時は、驚いたのと同時に、嬉しくもありました」
「でも、彼女がいるのよね?」
「それについては、完全に僕の責任です。でも、鈴奈さんの真摯な想いに応えたかったんです。とてもワガママで無責任な言い分だと思いますけど」
「断った方が鈴奈のためになるとは思わなかったの?」
「思いました。僕なんかよりもよっぽどいい人はいるだろうと」
「じゃあ、どうして?」
「それはやっぱり、僕も鈴奈さんのことが好きだからです。理屈じゃなかったんです。理屈で行動していたら、きっと違う結果になっていたと思います」
「なるほどね。それはそれで一理あるわ」
 明奈は頷き、お茶を一口飲んだ。
「私個人としては、鈴奈の決めたことだから、認めてあげてもいいと思ってるの」
「姉さん……」
「でも、私がここへ来たのはあくまでもお父さんやお母さんに鈴奈がどんな風に生活してるか見て、伝えるためなの。つまり、私は佐山家の代表として来てるの。わかる?」
 鈴奈は小さく頷く。
「鈴奈は、私にだけ話そうと思ったんでしょ?」
「うん」
「今までの私なら、確かにそれで終わってたわね。でも、今はふたりの子供の親でもあるからね。親が子供のことをあれこれ考え、心配するのは当然のことよ。そして、どんな認められないことであっても、ちゃんと話してほしいと思ってる」
「父さんと母さんに、話せってこと?」
「そうよ。それが、今まで育ててもらったふたりへの、最低限の礼儀だと思わない?」
 そのように言われてしまっては、鈴奈にはなにも言い返せなかった。
 それはとりもなおさず、明奈の言っていることが正しいからである。
「その指輪。圭太くんが贈ったの?」
「あ、はい」
「そう。本当に鈴奈のことが好きなのね」
 明奈は、厳しい表情から一転、穏やかな表情で言う。
「そんなに鈴奈のこと、好き?」
「はい。僕が寄りかかれるのは、鈴奈さんだけだと思っていますから」
「そこまで想ってるのね」
 それを聞いた明奈は、改めて少し考える。
「いいわ」
「えっ……?」
「とりあえず、私がお父さんたちを説得してみるから」
「姉さん?」
「でも、それで終わりだとは思わないのよ。今回のことを言えば、ふたりがどういう反応を示すかわかってるでしょ? 最終的には、自分で説明するのよ。いいわね?」
「ありがとう、姉さん」
 鈴奈は、目を潤ませ大きく頷いた。
「まったく、あの家には私しかいないんだから、ふたりの相手をするのは大変なのよ。兄さんがいれば多少は違うかもしれないけど、仕事の人だし」
「ごめんなさい」
「そこで謝らないの。後悔はしてないんでしょ?」
「それはもちろん」
「まあ、それは圭太くんの話をする時のあなたの顔を見ていればわかるわ。本当に嬉しそうに楽しそうに、幸せそうに話しているもの。私も人妻だから、誰かを本気で好きになるということがどういうことなのか、よくわかるわ」
 そう言って微笑む。
「それにしても、鈴奈がバイトをはじめて、帰ってくる度に綺麗になってるからきっと誰かいるんだろうとは思っていたけど、まさかこんなことになっていたとはね。そういえば、さっき圭太くん言ってたわね。鈴奈から告白された、って」
「あ、はい」
「じゃあ、なに? 鈴奈が気持ちを抑えきれずに迫ったの?」
「うっ、ま、まあ、そうなんだけど……」
「それじゃあ圭太くんに拒む術はほとんどないわけね。圭太くん、年上に強く言われると断れないでしょ?」
「え、まあ……」
「なるほどね。鈴奈はそういう圭太くんの『弱点』も見越していたわけか」
「そ、そんなことないって。あの時は自分の想いを伝えることだけでいっぱいいっぱいだったんだから」
「そういえば、あなたは昔から奥手だったものね。高校の時なんか、浮いた話のひとつも出なかったし。それがよく自分から告白しようと思ったものだわ。本気の恋は、心まで強くするのね」
 なるほどと頷く。
 しかし、言われている鈴奈は、恥ずかしさで顔が真っ赤になっている。
「最後にもう一度だけ確認したいんだけど」
「あ、うん」
「後悔はしてないのね?」
「うん」
「そして、今の選択をして後悔することはないわね?」
「もちろん」
「じゃあ、いいわ。この話はもう終わりにしましょ。私もこっちに来たばかりだから、それなりに疲れてるのよ」
 そう言って明奈はグーッと脱力した。
「あ、じゃあ、私、夕飯の支度をするから」
「お願い。なにかあったら手伝うから」
「姉さんは休んでて」
 鈴奈は、そう言い置いて台所へ。
「圭太くん」
「はい」
「鈴奈のこと、よろしくお願いね。あれでも私のカワイイ妹だから」
「はい、それはもちろん」
「そのうち機会があったら、うちの方にも来てね。その時には、家族総出で歓迎するから」
「は、はい」
 まだ問題が解決したわけではないが、とりあえず第一関門をクリアした圭太と鈴奈。
 ただ、先行きは決して暗くない。
 それはなによりも、ふたりの想いが『ウソ』ではないからだ。本当の想いは、誰であってもそう簡単に否定できない。
 だからこそ圭太は、改めて心に誓った。
 この、大切な『姉』を本気で守り続けよう、と。
 
 その日の夜。
「母さん」
「ん、どうしたの?」
「ちょっと、話があるんだけど」
 そう言って圭太はソファに座った。
「話って?」
「今日、鈴奈さんのお姉さんが来たでしょ。それで、いろいろと話をしてきたんだ」
「話って、鈴奈ちゃんとのこと?」
「そう。鈴奈さんが、話した方がいいからって」
「なるほどね」
 琴美は、頷いた。
「それで、なんて言われたの?」
「とりあえずお姉さんにはわかってもらえたよ。ただ、それで終わりじゃないから」
「そうね。鈴奈ちゃんのご両親にも話さないといけないことだし」
「でも、鈴奈さんにとっては大きな一歩だったよ。問題が解決したわけじゃないけど、今までは家族の誰にも理解されなかったらっていう不安があったみたいだから。それが、少なくともお姉さんだけでもわかってくれて」
「そういう状況に追い込んだのは、ほかならぬあなたでしょうが」
「それを言われるとなにも言えないけど」
「それでも、大きな一歩、確かな一歩を踏み出せたのは、よかったわ。なんだかんだ言いながら、自分の息子を好きになってくれた子のことだから」
 そう言って微笑む。
「これで終わりではないけど、ふたりにとっては、ひと区切りかしら?」
「そうだね」
「じゃあ、この調子で、というわけにはいかないかもしれないけど、ほかの人たちのこともちゃんと考えなさいね。まだ、祥子さんのことしか考えてないんでしょ?」
「まったく、ってことはないけど、結論は出てないかな」
「朱美のことは身内ということで後回しでもいいけど、少なくとも年上のふたりのことは、ちゃんと考えなさいね。自由に考え、行動できる時間は、それほど多くないんだから」
「わかってるよ」
 圭太は、少しだけ真剣な表情で頷いた。
「まったく、本当にどこで育て方を間違えたのかしら。そりゃ、祐太さんの息子だから多少そういうところはあるかも、とは思ってはいたけど。今の状況は、どう考えても常識の範囲を超えてるもの」
 愚痴りモードに入った琴美に、圭太は改めて言った。
「母さん。まだまだ迷惑かけるけど、もう少しだけ、長い目で見てて」
「いいわよ、改めてそんなこと言わなくても。圭太との関係は別にしても、みんなが揃ってわいわいやったりするのは、私も見ていて楽しいし。そういうのもたぶん、今みたいな状況じゃないと無理だっただろうから。ただ、ひとつだけ」
「なに?」
「三十代で何人も孫がいるような状況だけは、できるだけよしてよ。自分が年を取ったって自覚しちゃうから」
「り、了解」
「あとは、特になにも言わないわ。言っても無駄だろうし。だから、相手とよく話し合って、後悔しない選択肢を選びなさい」
「うん」
 
 同じ頃。
「世が世なら、大変なことになってたわね」
 明奈は、グラスを傾けながらため息をついた。
「もう、それは十分わかってるから」
 鈴奈は、そんな明奈のグラスにお酒を注ぐ。
「でも、とっても良い子ね、圭太くん。真っ直ぐで、真剣で、人の心を思いやれて。人の彼氏を寝取ってしまったことを除けば、最高の選択をしたと思うわ」
「……圭くんは、私にはもったいないくらい素晴らしい人なの。私の方が五つも年上なのに、彼の方が全然年上みたいに思えるし。だから、年下を好きになったっていう感覚はなかったの。ただ単に、男の人を好きになった、そうとしか思ってなかった」
「普段そう思ってるからこそ、彼が年相応の姿を見せると、母性本能をくすぐられちゃうのね」
「うん。こうなんて言うのかな。ギュッと抱きしめてあげたくなるの。体だってずっと大きいのに、そういう時だけ子供みたいに思えるし」
「そういうものよ」
 そう言って明奈は微笑んだ。
「姉さんは、邦和さんとはどんな感じだったの?」
「私たち? そうねぇ、私たちは高校からずっと一緒だったから、今の鈴奈みたいにあれこれと感動してなかったわね。つきあったのだって、なんとなく一緒にいるのが当たり前、みたいに思ってたからだし。ただ、時々思ったわよ。ああ、やっぱり私はこいつのことが好きなんだって。なんの前触れもなく、そう思うの。もっとも、邦和もそう思ってたかどうかは知らないわよ。高校卒業前後の頃なんて、私の顔見る度にエッチしようだから。私はあんたの性処理機かって、本気で思ったこともあったし」
「そ、そうなんだ……」
「ただ、それでも嫌いにはなれなかった。むしろ、もっと好きになった気がする」
「そんなことがあったのに?」
「私の都合のいい解釈かもしれないけど、それって、それだけ私を欲してくれてるってことでしょ? 人ってね、どんな理由ででも誰かに求められると嬉しいものなのよ。それが、自分の好きな相手からのだと余計にね。だから私も、十回に一回くらいはちゃんとエッチしてあげたし」
「十回に、一回……」
 その回数に、鈴奈は微妙に苦笑した。
「あとは、なんとなく結婚しようか、じゃあ、うちに婿に来てよ、いいよ。みたいな感じで来たし」
「そ、そんなに簡単に決めたんだ」
「簡単て言っても、高校卒業してから三年あったわけだから、それなりには考えたわよ。ただ、私の中で邦和以外と一緒になってる姿が思い浮かばなかったのよ。だから、結婚したの。それはわかるでしょ?」
「うん」
「いずれにしても、もう結婚して十年、いや、十一年か、になるのに愛想も尽かしてないし、別れてもいない。ということは、私たちは今でもお互いを好きで一緒にいたいと思ってるってことなのよ」
「そうだね。姉さんと邦和さん、しょっちゅう喧嘩してるけど、仲直りも早いし。そういうのを見てると、このふたり結局仲が良いんだってわかる」
「まあ、私たちのことはどうでもいいのよ」
 明奈は、グラスのお酒を飲み干した。
「鈴奈も、彼と、後悔のないような人生を送りなさいね」
「もちろん」
「彼なら、鈴奈を泣かせるような真似だけはしないとは思うけど」
「それは、無用の心配だって」
「そうね。ただ、ひとつだけ心配なことは」
「心配なことは?」
「お父さんたちに説明する前に、子供ができちゃうことくらいかな」
「だ、大丈夫だって。近いうちにちゃんと説明するから」
「だといいけどね。それなりにしてるんでしょ?」
「し、してるって、なにを……?」
 鈴奈は、若干引き気味に訊ねる。
「そんなの決まってるじゃない。エッチよ、エッチ。それとも、セックスって直接言った方がいい?」
「ど、どっちも同じよ」
「で、どうなの?」
「……し、してるけど」
「なら、やっぱり気をつけないとね」
 そう言って明奈は笑った。
「そうそう。あなたが迫った時って、お互いにはじめてだったの?」
「な、なんでそんなことまで言わなくちゃいけないの?」
「やっぱりカワイイ妹のことだもの、いろいろ知りたいのよ」
「だ、だからって……」
「ね、どうだったの?」
 結局、明奈の追求は眠りにつくまで続いたのであった。
 
 七
 八月九日。
 二日間降り続いた雨も上がり、朝から早速真夏の陽差しがジリジリと地表を焼いていた。
 二日間の雨のせいでかなり湿度が高くなり、それに加えての太陽である。少なくとも午前中は地獄のような蒸し暑さに耐えなければならなかった。
 吹奏楽部でもそのあたりが考慮され、講堂での合奏を急遽音楽室に変えた。さすがに本番直前に体調を崩されてはかなわない、というところである。もっとも、菜穂子も人間である。尋常ではない暑さは、嫌いなのである。
 クーラーの効いた音楽室での合奏は、環境面では確かによかった。しかし、あまりに環境がよすぎてそれがかえってメンバーにだらけた気持ちを植え付けてしまった。
 となれば当然、菜穂子から苦言が飛ぶ。
「せっかく涼しいところでやってるんだから、もっと気合いを入れてやりなさい。あまり腑抜けた演奏をするようなら、クーラー、止めるわよ」
 そう言われてはやるしかなかった。
 それが功を奏したのか、それ以降は比較的いい演奏だった。
 それはもちろん、本番まであと四日しかないということも関係していた。本番が近くなると、自然とやる気になってくるのである。
「本番は四日後よ。明日からは県大会もはじまるし。もし余裕があれば、明日から三日間のどれかの演奏を聴きに行ってみるのもいいと思うわ。そうすれば、否応なく本番だと自覚できるだろうから。ここまで来たら、あとはやるだけよ。残り三日間の練習では、今までのチェックを中心に行うからそのつもりで。それじゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 合奏が終わると、菜穂子に代わって圭太が前に出る。
「今先生が言ったように、明日から県大会がはじまるから、それぞれ準備を整えておいて。それと、一、二年は余裕があれば、あさって二日目の高校中編成の部を聴きに行ってみるといいよ。今年もたぶん、クリスマス演奏会は二高、三高とだろうから。その両校がどんな演奏をするのか、知っておくいい機会だと思うから。とりあえずそれだけかな。じゃあ、おつかれさま」
『おつかれさまでした』
 部活が終わると、めいめい楽器を片づける。
 誰かが音楽室のドアを開けると、熱波が入り込んでくる。
「うわ〜、暑い……」
 天国のような室内から、地獄のような外へ。
 なかなか一歩が踏み出せなかった。
 それでもいつまでもそこにいられるわけでもないので、半ばあきらめ気味で家路に就いていく。
 圭太たちも、戸締まりを確認してから音楽室を出る。
「うぅ、ホントに暑い……」
 一歩外に出ただけで、気持ち悪くなるくらい暑かった。
「こんな日は、クーラーの効いた部屋でのんびりするに限るわね」
 そう言って柚紀は、ブラウスの中に風を送る。もっとも、その風も生ぬるいのだが。
「ねえ、圭太。ある程度涼しくなるまで、圭太の部屋にいていい?」
「それは構わないけど。バスはどうせ冷房してあるんだから、さっさと帰って自分の部屋で涼んだ方がよくない?」
「いいの。圭太の部屋で涼んだ方が、圭太と一緒にいられるし一石二鳥なんだから」
「……なるほどね」
 圭太は苦笑した。
 玄関から表に出ると、さらなる地獄が待ち構えていた。
 だいぶ湿度は下がってきたが、湿度に助けられて気温は鰻登り。ただそこにいるだけで汗が噴き出てくるくらいだった。
「お兄ちゃ〜ん、暑いよ〜」
「日傘でもあれば多少はましなんだろうけど」
 琴絵は、付け焼き刃的に頭にハンカチを広げて載せている。とはいえ、薄いハンカチでは真夏の太陽の威力を弱めることはできなかった。
「気分が悪くなったらすぐに言うんだぞ」
「うん、わかってる」
 それほど体が丈夫ではない琴絵は、こういう無茶苦茶な暑さでも体調を崩すことがある。圭太は、それを心配しているのである。
「ねえ、紗絵〜」
「ん、なに?」
「これからしばらく、雨降らないんだっけ?」
「週間予報ではそうなってたけど。でも、南海上の台風の進路次第で、変わる可能性もあるみたい」
「そっか〜。じゃあ、台風にがんばってもらわないと」
 虚しい望みではあるが、朱美の気持ちもよくわかった。
 家に着くと、四人はリビングに駆け込む。クーラーをつけ、それでようやく落ち着く。
「はあ、生き返る〜」
 もはや恥じらう様子もなく、女子高生三人はだらしなくソファに倒れ込む。
「三人とも、倒れるのもせめて着替えてからにしたらどうだい? スカートがシワになるよ」
 圭太は、そんな三人をやんわりと注意する。
「着替えるのはいいけど、二階はものすごく暑くなってるよ。今あの部屋に入ったら、間違いなく倒れちゃう」
 琴絵の言い分ももっともだった。
 一戸建ての場合、屋根に近い部屋は、太陽によって屋根が熱せられ、その熱がほぼダイレクトに部屋に伝わるのである。当然、クーラーの効きも悪い。
 いろいろなことを考えると、しばらくリビングにいる方が、利口なのである。
「だったら、せめてもう少し普通の格好をしてくれよ。僕しかいないからって、足まで広げて」
 柚紀たちにしてみれば、広げて、ではなく、広がった、なのである。無意識のうちに熱を逃がそうと、そんな格好になったのである。
 とはいえ、ショーツが見えるのもまったく気にしないというのも、考えものだった。
「んもう、圭太はいちいち細かいんだから」
「そうは言うけど、揃いも揃ってそんな格好されると、こっちが困るんだけど」
「はいはい、わかりました。普通にしてます」
 柚紀たちは渋々普通にソファに座り直した。
「でもさ、圭太」
「うん?」
「そういうのにかこつけて、いろいろしちゃおう、とか思わないの?」
「いろいろって?」
「触ったりとか、とにかくいろいろ」
「別に思わないけど」
「どうして? こんなにカワイイ女子高生が三人もいるのに」
「いや、そんなこと言われても困るんだけど」
 なかなか理不尽な質問に、圭太は苦笑する。
「じゃあ、ふたりきりだったら、しようと思う?」
「それはどうかな。たぶん、それでもしないと思うよ」
「なんでぇ?」
「なんかそれだと、体だけが目当てみたいに思えるからさ」
「むぅ、圭太は真面目すぎ」
 柚紀の物言いに、琴絵と朱美も苦笑している。
「はいはい、真面目ですみません。じゃあ、僕は部屋で着替えてくるから」
「あ、部屋に行くなら、ついでに私の服も持ってきてくれるとありがたいんだけど」
「いいけど、どれを持ってくる?」
「ん〜、ノースリーブのワンピでいいよ」
「了解」
 圭太がリビングを出て行くと、柚紀はため息をついた。
「ホント、圭太は真面目よね」
「それがお兄ちゃんらしくもありますけど」
「それはそうなんだけどね。ただなんていうのかな、もうちょっと違った刺激があってもいいかなって思うの」
「それが、さっき言ったことですか?」
「うん。ま、でも、今の圭太には無理かな。もう少し、こっちからいろいろ言ってやってもらってからじゃないと」
 そう言って柚紀は笑った。
 
 ようやく二階の部屋も人がいられるくらいになり、場所を移す。
 琴絵と朱美は、相変わらず終わらない、減らない宿題と格闘中である。
 圭太と柚紀も本来なら受験勉強に明け暮れていなければならないのだが、受験しないふたりにとっては関係なかった。
「あ、そうそう。圭太」
「うん?」
「昨日の夜、凛に電話したのよ」
「凛ちゃんに?」
「うん。ほら、デートのこと話してたでしょ? もうすぐお盆だし、そろそろ決めないといけないかなって思って。で、いつにするか決めたの。私たちは合宿までなにもないからいいけど、凛の方はお盆でも部活はないけどある程度トレーニングとかしたいからって。結局お盆の真ん中、十五日にしようってことになったの。大丈夫?」
「十五日? うん、特に問題ないよ。まだ誰とも約束はしてないし」
「じゃあ、十五日に私と凛とデートってことでいいわね?」
「覚えておくよ」
 早速圭太は、カレンダーに印をつける。
「でさ、もうひとつあるんだけど」
「なに?」
「ふたりだけでデートしたいなぁって。今年はみんなで出かけるってことがないから、だったらふたりきりでって思って。ダメかな?」
 柚紀は、期待に満ちた目でそう言う。
「別に構わないよ。いつがいいかな?」
「えっとねぇ、十七日でどう?」
「十七日ね。いいよ。どこに行きたいとかある?」
「海っ」
 即答だった。
「夏だもの、やっぱり一度くらいは海で泳がなくちゃ。お盆過ぎるとクラゲが心配だけど、まあ、たぶん大丈夫よ」
「了解。そのあたりの細かいことは柚紀に任せるよ」
「オッケー。完璧なデートプランを作ってくるわ」
 そう言って柚紀は笑った。
 と、その時。
「お兄ちゃん。ちょっといいかな?」
 ドアがノックされた。
「ん、どうした?」
 返事をすると琴絵が入ってきた。
「ちょっとわからないところがあるんだけど」
 手には、夏休みの宿題として出された、数学の問題集があった。
「この問題なんだけど」
「ん〜、この問題は……」
 圭太は少し考え、答えを導き出す。
「ああ、これはこっちの問題──」
 そう言って三つ前の問題を指さす。
「これと同じように考えればいいんだよ」
「そうなの? 形が違うからそうじゃないと思った」
「応用問題だから、ひらめきも多少は必要なんだよ」
「そっか」
 早速琴絵はその場で問題を解く。少しつまづいたが、それでもなんとか解いた。
「あ、ホントだ」
「もう少し落ち着いて考えてみれば、その解き方もわかったかもしれないな」
「うん、そうだね」
 琴絵は問題を見直し、なるほどと頷く。
「一年生の問題を苦もなく解いてしまう圭太もすごいけど、それだけのヒントで難なく解いてしまう琴絵ちゃんも、やっぱりすごいわね」
「そ、そうですか?」
「琴絵ちゃんて、数学得意なの?」
「特別得意ってことはないですけど、苦手でもないです」
「そっか。苦手意識がないから、できるんだ」
「柚紀さんは苦手なんですか?」
「ん〜、どちらかと言えばね。私は典型的な文系だから。国語や英語は得意なんだけど、数学や理科はちゃんとやらないとダメね」
「そうなんですか」
「まあ、それでも、得意な国語や英語でもなかなか圭太には勝てないんだけどね」
「別に勝ち負けで勉強するわけじゃないと思うんだけど」
「それはそうかもしれないけど、でも、点数が出るわけだから、人間心理として比べたくなるじゃない。琴絵ちゃんもそう思うでしょ?」
「えっと、そうかもしれません」
「ほらね」
 琴絵に支持してもらい、柚紀は得意顔で言う。
 圭太としてはそれは本当にどうでもいいのだが、柚紀の手前、とりあえずなにも言わないでおくことを選んだ。
「お兄ちゃんたちはなにしてたの?」
「なにかしてたわけじゃないよ。なんとなく話を」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「今は、デートのことを話してたの」
「デート、ですか」
 琴絵の頬がわずかに反応した。
「確か、琴絵ちゃんもするんでしょ? なんか、圭太がそう言ってたけど」
「あ、はい。お盆に一日もらったんです。でも、まだいつというのは決めてないですけど」
「だったら、早めに決めた方がいいわね。圭太のお盆を狙ってるのは、琴絵ちゃんだけじゃないから」
「柚紀。そんなに煽らない」
「別に煽ってないわよ」
 まったく悪びれた様子もなくそう言う。
「えっと、柚紀さんはいつデートするんですか?」
「私とは、十七日。で、凛と一緒にっていうのが、十五日」
「えっ、凛お姉ちゃんともですか?」
「ああ、うん。そこに至るまでにはいろいろあったのよ」
 苦笑する柚紀。
「中間テストでちょっとした勝負をしたのよ。で、その結果が引き分け。ホントは勝った方が圭太とデートするってことだったんだけどね。引き分けだったから、仕方なくふたりでってことになったの」
「なるほど、そういうことですか」
「そういうわけだから、琴絵ちゃんも早めに決めないと、デートし損なうかもしれないわよ」
「そうですね。というわけで、お兄ちゃん。デート、いつにしようか?」
 琴絵は、キラキラと瞳を輝かせ、訊ねる。
「僕はいつでもいいよ」
「じゃあ……」
 琴絵はカレンダーを見る。
「十九日にしよ」
「十九日ね。了解。どこに行きたいとかあるのか?」
「う〜ん、それはまだ決めてないけど。大丈夫、前日までにはちゃんと決めておくから」
「わかったよ」
 圭太とのデートを確定させ、琴絵は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、私は宿題に戻るね」
 琴絵が意気揚々と部屋に戻ると──
「ホント、琴絵ちゃんは圭太のことが好きなのね」
 柚紀が呆れ半分でそう言った。
「で、これでお盆休み六日間のうち三日間の予定が埋まったわけだけど、残りもすぐに埋まりそう?」
「さあ、そればかりはなんとも。ただ、そのうちの一日は祥子先輩のために使おうとは思ってるけど」
「そっか。祥子先輩って、もうすぐ八ヶ月だっけ?」
「うん、そうだね」
「もう胎動とかあるのかな?」
「さあ、それは聞いてないけど、あるかもね」
「先輩の場合はつわりはそんなにきつくなかったみたいだけど、そういうことひとつひとつを経験していくからこそ、母親になるんだって思えるんだろうね」
「かもしれないね」
「私も、早くそうなりたいな。あ、でもね、生理、ちょっと遅れてるんだ」
「そうなの?」
「うん。もう少し様子を見てそれでも来なかったら、病院に行ってみる。その時は、圭太も一緒に来てよ」
「僕も行くの?」
「当然でしょ? 誰の子供よ」
「まあ、そうかもしれないけど」
 圭太としても行くのがイヤなわけではなかった。ただ、そういう経験がないだけに、多少の戸惑いがあった。
 やはり、誰も彼も、柚紀みたいにはいかないのである。
「そのことはまた今度ね。今はとりあえず……そうそう、花火だ。花火のこと、ある程度決めておかないと」
「そういえば、花火するって言ってたね」
「基本的に全員参加ってことにしようと思うんだけど、大丈夫だと思う?」
「都合さえあえば大丈夫じゃないかな」
「となると、一番の問題は凛か。確か、下旬にインハイがあるでしょ? それを外さなくちゃいけないから」
「でも、その直前は僕たちが合宿だよ」
「そっか。となると、いっそのこと夏休みの最後とかの方がいいかもね。先輩たちは夏休みだから大丈夫だろうし、鈴奈さんも夜なら大丈夫よね?」
「たぶんね」
「じゃあ、夏休みの終わりってことで、考えてみるわ」
 柚紀の頭の中では、残りの夏休みの計画が次から次へと決まっていく。もちろん、その中心にあるのはあくまでも圭太である。その次に部活。そういう状況でも少しでもいろいろしようとするのは、たくさんの想い出を作りたいからである。
 今年の夏は、一回しかないのである。
「ね、圭太」
 と、柚紀が圭太に寄りかかった。
「ほかの三年はみんな必死に勉強してるのに、私たちだけなにもしてないっていうのは、いいのかな?」
「別にいいんじゃないかな。みんなとは目標が違うんだから。なにも、右へならえでやらなくちゃいけないわけじゃないんだからさ」
「うん、まあ、そうだね」
「柚紀は、後ろめたく思ってるの?」
「そうじゃないけど。ただなんて言うのかな、ちょっと間が開いちゃったような気がして。今まではずっと一緒だったでしょ、目標が。でも、卒業まであと九ヶ月ちょっと。その先はみんながみんな、一緒じゃないんだなって」
「確かにそうかもしれないね。中学卒業の時はたいていみんな高校に進学するけど、高校卒業の場合は必ずしも大学進学じゃないからね」
「圭太は私よりも明確な目標があるから特に感じてないのかもしれないけど、私は圭太についていくことを選んだから、多少傍観者の視点で見ちゃうんだよね」
「じゃあ、柚紀も明確な目標を持ってみたら?」
「うん。だからね、今ひとつ考えてるの。前に琴美さんに言われたことがあったんだけど、圭太は『桜亭』を継ごうと思ってるでしょ? このままの『桜亭』で行くかはわからないけど、しばらくはこのままだろうし。となると、今と同じようにコーヒーや紅茶、ケーキのほかに軽食も出すわよね。その時に、私が調理師免許を持ってるとなにかと便利じゃないかって」
「調理師免許か」
「うん。だからね、まだ完全に決めたわけじゃないけど、私、卒業したら専門学校に行こうかなって思ってるの。専門学校なら、長くて二年くらいだし。どう思う?」
「うん、いいと思うよ。そっか、調理師免許か……」
 それを聞いた圭太は、なにやら考え込んでしまう。
「圭太?」
「ん、ああ、ごめん」
「なに考えてたの?」
「いや、僕も調理師免許取った方がいいのかなって」
「圭太も?」
「うん。あった方がなにかと便利だし。それに、ないと困る場面はあるだろうけど、あっても困ることはないだろうからね。母さんだってすぐに店に出るのはやめないだろうから、余裕のあるうちになら取れるかなって」
「そうだね。あ、じゃあ、一緒に考えてみる?」
「コンクールが終わって、部活を引退したら考えてみよう」
 自分たちの未来である。いろいろ考えて、考えて、結論を出せばいいのである。
 一度くらい失敗したところでなにかあるわけでもない。
 真に後悔しないためにも、最善と思われることをやればいいのである。
「ところで、圭太」
「ん?」
「こんな格好のカワイイ女の子が、こんな無防備な格好してるのに、なんとも思わないの?」
「それってつまり、襲ってくれってこと?」
「うん♪」
 一にも二もなく頷く柚紀に、圭太は苦笑するしかなかった。
 
「ん……あ……」
 キスをしながらワンピースを脱がす。
「あ、圭太」
「ん?」
「その、汗くさくない?」
「ううん、そんなことないよ。いつもの柚紀だよ」
「んあっ」
 そう言って圭太は、首筋にキスをした。
「も、もう、いきなりなんだから」
「イヤだった?」
「そんなことないけど」
「だったら、いいよね?」
 圭太は首筋にキスを繰り返し、だんだんと下へ移っていく。
「あ、ん……や……」
 ブラジャーを外し、直接触れる。
「んあ……やん……」
 下から包み込むように揉む。
 少し硬くなっている突起を、指の腹でこねる。
「んくっ、圭太、気持ちいい……」
 柚紀は、圭太の頭をかかえるようにもだえる。
「あ、んんぅ……」
 すっかり硬くなったところで、今度は舌をはわせる。
「あふぅん……あっ、んんっ」
 わざと音を立てて突起を舐める。
「んん、圭太……胸だけじゃ、イヤなの……」
 しきりに体を寄せてくる。
 しかし、圭太はそれには応えない。
「ね、ねえ、圭太ぁ、お願いぃ……」
「どうしてほしいの?」
「あ、えと……その、私の……を、いじってほしいの……」
「ホントに?」
「ほ、ホントよ」
「ホントにホント?」
「ホントにホントよ。ううぅ〜、圭太のいぢわる〜」
 柚紀は、半泣き状態である。
「ははっ、ごめん。ちゃんとするよ」
 圭太は、素早くショーツの中に手を入れた。
「あんっ!」
 わずかに指が入るだけで、蜜があふれてくる。
「んんっ、あんっ、もっと、もっといじって」
 ショーツを脱がし、足を開かせ、さらに秘所をいじる。
 右手の指で中をいじりながら、左手で最も敏感な突起を擦る。
「ああっ、ダメっ、やっ、んんっ、気持ちよすぎっ」
 柚紀は、体をのけぞらせるほど感じている。
「あんっ、ああっ、圭太っ、いいのっ」
 圭太は、指を一本から二本に増やし、さらに攻める。
「んくっ、ダメっ、ダメっ、イっちゃうっ」
 湿った音が、部屋の中に響く。
「んんっ、ああああっ!」
 そして柚紀は達してしまった。
「はあ、はあ……」
 虚ろな瞳で圭太を見る。
「はあ、はあ、今日の圭太、すっごくいぢわる……」
「そうかな?」
「絶対そうなの。そりゃ、優しいだけじゃ物足りなく思うこともあるけど、あんまりいぢわるだと、ちょっと悲しくなっちゃう」
「そっか。じゃあ、もっと優しくするよ」
「ん……」
 そう言って圭太はキスをした。
「もう私は大丈夫だから、圭太の、ちょうだい……」
「わかったよ」
 圭太はズボンとトランクスを脱ぐ。
「いくよ?」
「うん、きて……」
 圭太は、モノを柚紀の秘所にあてがい、そのまま押し込んだ。
「んっ、ああ……」
「ん……」
 いつも締め付けのきつい柚紀の中が、今日はいつも以上だった。
「ゆ、柚紀、そんなにされると、すぐに……」
「わ、私なにもしてない……んっ」
 無意識のうちにそれをしてるとすれば、圭太には非常にやっかいだった。
 圭太はなんとか気持ちを抑え、ゆっくりと動いた。
「んっ、あんっ、あっ」
 抜ける直前でまた押し戻す。
 ゆっくりとだが、その動きは大きい。
「あっ、んんっ、奥に当たってるのっ……ああっ」
 圭太は、柚紀の足を持ち、さらに激しく腰を打ちつける。
「んんっ、圭太っ、いいっ、いいのっ」
「柚紀っ」
「もっとっ、もっと突いてっ、ああっ」
 クーラーの効いている部屋ではあるが、ふたりとも汗をかいている。
「圭太っ、圭太っ、んあっ、あっ、あっ、あっ」
 柚紀は、圭太にしがみつく。
「あんっ、んんっ……はぁんっ、あっ、いいっ」
 動きにくい格好ながら、圭太はなるべく大きく速く動く。
「あふぅんっ、ダメっ、私っ、またイっちゃうっ」
 今が昼日中で、しかも二階には琴絵も朱美もいることなど、もう頭の片隅にもない。
「んんっ、圭太っ、イクっ、イっちゃうっ……んあっ、んんんんっ!」
「柚紀っ!」
 柚紀が達するのとほぼ同時に、圭太は柚紀の最奥にすべてを放った。
「はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「はあ、はあ、圭太……好き……」
 圭太は微笑み、キスをした。
 
「ねえ、圭太」
「うん?」
「どうして今日はあんなにいぢわるだったの?」
「ん〜、どうしてって言われると困るけど。強いて言えば、たまにはいいかなって」
 ふたりは、裸のままベッドに横たわっていた。さすがに、すぐあとに服を着られるほど夏という季節は甘くなかった。
「柚紀、よく言ってるでしょ? たまには違うのもいいかもしれない、って」
「言ってるけど、今日のはちょっとやりすぎ。本気で悲しくなっちゃうところだったんだから」
「ごめん」
 そう言って圭太は柚紀を抱きしめた。
「そんな想いをさせるつもりはなかったんだよ」
「わかってるよ」
 柚紀は、圭太の胸に頬を寄せた。
「今日のでわかったけど、やっぱり圭太は優しい方がいい。私は圭太に優しくされるとすごく感じちゃうの。大事にしてくれてるってわかるから」
「そっか」
「だから、これからは今まで通りでお願い」
「わかったよ。柚紀に悲しい想いをさせたくないからね」
「うん……」
 圭太は、優しく柚紀の髪を撫でる。
 それだけで柚紀の表情が穏やかになる。
「あっ」
「どうしたの?」
「琴絵ちゃんと朱美ちゃん、部屋にいたんだよね?」
「あ〜……そういえば、そうだね」
「あ、あはは、ちょっと、声大きかったかな?」
「たぶんね」
「あとで謝っておかないと」
 そう言って柚紀は、ペロッと舌を出した。
「まあでも、ふたりともわかってくれるよね?」
「柚紀の前ではそうだと思うけど、柚紀が帰ったあとに、いろいろ言われるよ」
「ふふっ、優しいお兄ちゃんとして、ちゃんとフォローしといてね」
「はいはい、了解しました、お姫様」
 ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 
 八
 八月十日にコンクール県大会がはじまった。
 今年のコンクールは初日に中学校大編成の部があるため、人の入りもなかなかよかった。
 関東大会の常連となった三中は今年もシードのため演奏自体が問われることはない。だが、そこはやはり全国大会出場の意地がある。無様な演奏はしないように、きっちり仕上げている。当然、その演奏は他を寄せ付けないものだった。やはり、去年全国で銀賞だったことがメンバーのやる気に繋がっているようである。
 二日目は、高校の中編成、小編成の部を中心に行われた。一高と関係の深い二高と三高は、どちらもいい演奏だったのだが、二高が金賞ながら関東大会出場はならず、三高は銀賞に終わった。
 三日目は、中学校の中編成、小編成の部を中心に、さらに職場・一般の部が行われた。この日のお目当ては、やはり一般の部である。ここにも全国大会に出たことのある実力のある団体が出ており、その演奏を聴くためだけに来ている人もいるくらいである。
 そして最終日、八月十三日。
 その日は地区大会の時と違い、朝から夏らしい天気だった。
 一高の演奏はやはり最後のため、時間には余裕があった。圭太は菜穂子と話し、その日はほとんど練習せずに会場に向かうことにした。それにも理由がある。それは、今年のコンクール関東大会は、神奈川で行われることになっていた。会場は横浜だが、横浜は去年の千葉よりも遠いので、移動やなんかのことを考えると、前日はまったく練習できないということになる。そういう状況でも焦らないでできるように、あえてこの県大会に当日練習をしないということにした。本当は前日にそれをやればよかったのだが、そこはまだ県大会なので、一高の演奏自体もできあがっていない。まずは仕上げるのが先なので、前日というのはやめたのである。
 練習をほとんどしないということで、集合時間は午後になり、学校に来ても軽く調子を確認した程度で、すぐに会場へ向かった。
 会場である県民会館には、大勢の人が集まっていた。
 圭太たちは、早めに会場に入り、演奏を聴くことにした。
 ホール内は、ほぼ満席だった。
「うわ〜、相変わらず多いわね」
 柚紀がそう言うくらいの数だった。
 圭太たちは仕方なく、観客席の一番後ろに立って聴くことにした。
 演奏は、高校大編成の部の最初の方だった。
 県大会となると、各地区の代表が出てくるので、ある程度の演奏が保証されている。
 圭太も真剣な表情で演奏しているメンバーを見て、耳を傾けていた。
「今の演奏、どう思った?」
 演奏が終わると、隣の柚紀が必ず圭太に訊いてきた。
「そうだね、まとまりはよかったけど、曲全体のメリハリがいまいちだったかな。あと、乱れちゃいけないところで乱れてしまった。それが一番問題だね」
「なるほど」
「ただ、アルトサックスのファーストの子が、結構いい演奏してたと思うよ」
「ふ〜ん、なるほどねぇ」
 柚紀は、それには少々半眼で頷く。なぜなら、そのアルトサックスを吹いていたのは女子で、柚紀の目から見てもなかなかカワイイ子だったからである。もちろん、圭太は純粋に演奏のことを言っているのだが、どうしてもそんな反応をしてしまう。
 時間が来てホールから控え室に移動する。
 控え室にいるどの学校も、一高がやって来たことに気付いた。もう演奏の終わっている学校は、半分ミーハー気分で見ている。まだ演奏の終わっていない学校は、それどころではない。
 そんな微妙な空気の中で、一高も準備する。
「圭太。今日のソロ、今までよりも思い切ってやってみたらどう?」
 準備中、菜穂子がそんなことを言ってきた。
「思い切って、ですか?」
「地区大会の時は、少し抑えたでしょ? 確かに音程を安定させるためには冒険しない方がいいとは思うけど、幸いにしてシード演奏なんだから、もう少し冒険してもいいと思うわよ。それで成功すれば、関東大会に向けての収穫になるし」
「そうですね。今日はもう少し思い切ってやってみます」
 チューニング室に移動し、今日はじめて少しあわせる。
 簡単に今までの注意を繰り返し、楽屋前廊下を通り、舞台裏へと移動する。
 舞台袖には、まだひとつ前に演奏する学校が待っている。
「先輩」
「ん?」
 順番を待っていると、紗絵が隣に来て声をかけてきた。
「控え室で先生になにを言われてたんですか?」
「ああ、あれはソロのことだよ。ちょっとしたアドバイス」
「そうですか。特に問題のあることじゃないんですね」
「心配してくれてありがとう」
「い、いえ」
 圭太にそう言われ、紗絵はぽっと頬を赤らめた。
 それからまず、前の学校がステージに出る。楽器を入れたり、椅子や譜面台を並べたり。それが終わり、演奏がはじまったところではじめて一高も舞台袖に移れる。
 課題曲、自由曲と進み、あっという間に十二分間が終わってしまう。
 係員に合図され、ようやくステージへ。
 ステージ上からホールを見ると、先ほどよりさらに人が増えていた。
 去年は例年になくハイレベルな争いが繰り広げられた県大会であったが、今年は去年と同じ学校でほぼ決まりだろうという意見が多かった。そのため、去年ほど異様な雰囲気の中での演奏とはならなかった。
 椅子や譜面台が並び、打楽器も運び込まれる。
 メンバーも自分の位置を確認し、指揮台が見えるように移動する。
 係員が合図し、ステージ上の照明が上げられ、ホール内の照明が落とされる。
『続きまして、参考演奏、第一高等学校。課題曲C、自由曲、ドビュッシー作曲、交響詩『海』より風と海との対話。指揮は、菊池菜穂子先生です』
 アナウンスが入り、菜穂子が挨拶する。
 拍手がやむと、指揮台に上がり、一度メンバーを見回す。
 そして、指揮棒が上がった。
 
 審査員曰く、今回の一高の演奏は、県大会レベルの演奏としてはもはや文句のつけようもないものだった。参考演奏ということで多少甘めの審査ではあったが、それでもいい演奏に対しては、きっちりと耳を傾け、その上で評価を下していた。
 一高とともに関東大会進出を決めた学校も、一高とのレベルの違いに半ばあきれていた。それほど一高の演奏は群を抜いていた。
 ただ、そんな演奏にも問題がないこともなかった。それは完成度であったり細かなミスがあったりと、時間的な問題でクリアできなかった問題もある。菜穂子もそれは十分理解しており、そのことはあえて触れなかった。
 一番の問題は、最も問題がないと思われていた圭太だった。もちろん、基本的な演奏には文句のつけようもなかった。それは菜穂子も認めるところだった。しかし、自由曲のソロに問題があった。
 演奏前に菜穂子に言われた通り地区大会より思い切って演奏した。今回だけしか聴いていない者なら、それが問題だとはなかなか思えなかったかもしれない。決定的なミスをしたわけではないが、全体として納得のできる演奏ではなかった。
 演奏後、菜穂子は圭太に、関東大会前に失敗してよかったと言った。それはその通りで、この演奏を関東大会でしていたら、全国大会進出を逃していたかもしれない。そういう点では運がよかった。
 圭太は、不甲斐ない演奏をしたことに腹を立てていた。自分自身のことなので余計なのかもしれない。これについては、誰もなにも言えなかった。失敗した部分がソロだったというのもその理由ではあった。さらに言えば、圭太は誰よりも練習をしている。誰かに言葉だけで慰められたところで、実際の演奏で結果を残さなければ結局納得できないことも理解していた。だからこそなにも言わなかった。
 いずれにしても県大会は終わり、今度の舞台は関東大会へ移る。
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