僕がいて、君がいて
 
第二十九章「それぞれの夏へ」
 
 一
 中間テストが終わって一週間。最終日に行われた科目でもテストが返却された。
 全科目で結果が出たことによって、学年全体での順位も発表された。上位陣は安泰で、それ以下も五十位くらいまではほとんどいつもと同じ顔ぶれだった。
 そんな中、学年での順位よりも重要な勝負をしているふたりがいた。
「さあ、これが最後よ」
「ここまでの勝敗は、四勝四敗」
「これですべての勝敗が決まるわ」
 真剣な表情で対峙しているのは、もちろん柚紀と凛である。
『勝負』
 机の上に二枚の答案用紙が置かれた。
「……八十九点」
「……八十九点」
 見事に点数は同じだった。
「ちょっと、なんで同じなのよ」
「それはこっちのセリフよ。これじゃ勝敗が決まらないじゃない」
 九番勝負は、四勝四敗一引き分けということになった。
「どうする?」
「どうするって言われても、どうしようもないじゃない」
「いっそのこと、総点数で決める?」
「それじゃあ意味がないじゃない。それに、たぶん差が出てもほんの数点だろうし」
「確かにね」
 勝敗がついたほかの科目でも、その差はほんの数点で、しかもどれも同じくらいしか差がなかった。
「賞品は?」
「ふたりでけーちゃんとデートする?」
「ええ〜っ、凛とふたりでぇ?」
「それはこっちのセリフだって。なにを好きこのんで柚紀と一緒にいなくちゃいけないのよ」
「でも、デート以外に賞品を決めてないから、方法がないのも事実よね」
「そうね」
 ふたりは揃ってため息をついた。
 しばしお互いの顔色を窺いながら考える。
「はあ、しょうがない。凛、ふたりで圭太とデートしましょ」
「それしかないわね」
 どうやら、ふたりにはお流れにするという選択肢はないようである。
「というわけで、圭太。ふたりでってことになったんだけど、いい?」
「いいも悪いも、そう決めたんでしょ?」
 ふたりの様子を見ていた圭太は、あきらめきった顔でそう言った。
「よし、圭太の了解を得たから、今度はいつにするかってことね。凛はいつならいい?」
「いつって言われても、特になにもない時、としか言えないわよ」
「それっていつ?」
「とりあえず、夏休みにならないとダメだと思うわ。平日は毎日部活だし、休日もなんだかんだいって練習あるから」
「まあ、それは私たちも同じよ。コンサートが終わったらすぐにコンクールに向けて動き出すし」
「なら、とりあえず夏休みってことだけ決めて、詳細は後日にしない?」
「そうね。そうしましょうか」
 お互いにとりあえず納得した形で勝負は終了した。
「それにしても、結局私たちは圭太には勝てなかったわね」
「一矢報いることもできなかったものね」
 ふたりは、全科目で圭太に勝つことができなかった。惜しい科目もあったのだが、一点差だろうが五十点差だろうが、負け負けである。
 ようするに、ふたりとも圭太より要領が悪いということが、図らずも証明されたことになった。
「残り二回のテストで、勝てると思う?」
「全然」
「そうよねぇ」
 ふたりは揃ってため息をついた。
「圭太。いったいどうやったらそんなに点数取れるのよ?」
「いや、それを僕に聞かれても困るんだけど。僕は僕なりのやり方でやってるだけだし。そこに特別なやり方があるわけでもないし」
 圭太としても、それ以上は言いようがなかった。たとえやり方を教えたところで、圭太と同じだけの点数が取れるかと聞かれれば、それはノーと言わざるを得ない。結局は、個人の問題なのである。
「あ〜あ、一回くらい勝ちたいなぁ」
 圭太は、ただただ苦笑するしかなかった。
 
 その日の部活には、祥子たちOB・OGが来ていた。
 それも毎年のことで、コンサート当日のことについて打ち合わせするためである。
 これも毎年のことなのだが、卒業生が来た日には必ず合奏を聴かせる。それで感想を聞き、細かな修正を行うのである。
 合奏は菜穂子が行った。
 一部と三部の曲を通しで行う。その間、菜穂子はなにも言わなかった。
 合奏が終わると、早速感想を聞く。
「全体のできとしてはかなりいいと思います。ただ、たまに縦横のラインが乱れるところがあったのが気になりました」
「バランスはいいと思うんですけど、メリハリがもう少しあった方がいいと思います。音楽室は狭いのでよく聞こえますけど、本番は大きなホールですから」
「まだ基本的な部分ができていない人がいるみたいなので、本番までに少しでも修正した方がいいですね。あとは、できるだけ暗譜した方が、より演奏の幅が広がるような気がします」
 今年の感想は、例年に比べれば厳しいものは少なかった。それはとりもなおさず、演奏のレベルが例年以上だったからである。
 それでもどこか指摘できそうな部分を探し、あえて言うのは、少しでもいい演奏をしてほしいという、いわば親心から来る親切心の現れなのである。
「聞いてわかったと思うけど、まだまだ問題点はあるのよ。だから、残り二日間、明確な目的意識を持って練習に取り組みなさい。いいわね?」
『はい』
「それじゃあ、少し早いけど合奏は終わりにするわ」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 合奏が終わると、今度は打ち合わせである。
 卒業生もだいたい誰がなにをやるか決まっているので、それぞれに分かれて打ち合わせる。
「これが当日の大まかなスケジュールです」
 そう言って圭太は、スケジュール表を祥子に渡した。
「だいたいは去年と同じなので、それほど面倒なことはないと思いますけど。なにか不明な点はありますか?」
「とりあえずはないかな? 去年、私も同じようなのを作って、それで問題なかったからね」
「わかりました。じゃあ、当日はそんな感じで進めます」
 圭太と祥子の打ち合わせは、実に簡単に終わった。
「今年は早めに仕上がってるって圭くんに聞いてはいたけど、まさかここまで仕上がってるとは思わなかったなぁ」
「みんな、がんばってくれましたから」
「ふふっ、そう仕向けたのはほかならぬ圭くんでしょ?」
「そうかもしれませんけど、結局はみんながやらなくちゃ結果はついてきませんから」
「そういう謙虚なところは、圭くんらしいね」
 そう言って祥子は微笑んだ。
「そうだ。圭くん」
「なんですか?」
「ともみ先輩が、先輩たちの学年は五人手伝えるって」
「五人ですか。わかりました」
「これで私たちとあわせて二十人を越えるね」
「二十人いれば、問題なく準備もできますからね。本当に感謝しています」
「手伝うのは卒業生の義務だからね。その代わり、来年は圭くんたちがその役割を果たさなくちゃいけないんだから」
「そうですね」
 それからしばらくしてすべての打ち合わせが終わった。
 それ以降の変更は、よほどのことがない限りは当日の朝、調整を行う。
「みんなでこうして帰るの、すごく久しぶり」
 部活を終えると、いつものメンバーに祥子を加え、家路に就いていた。
「そんな感じがしないのは、やっぱり先輩とはしょっちゅう会ってるからですかね」
「そうだろうね。これはたぶん、圭くんと柚紀が引退しても言えることだと思うけどね」
「私は先輩とは会ってても、こうやって一緒に帰ることはなかったから、新鮮ですよ」
 そう言うのは琴絵である。
「ふふっ、そうだね」
「琴絵は相手が祥子先輩だから余計なんじゃないのか?」
「どうして?」
「それは、琴絵が先輩のことを単なる先輩以上に見てるからだよ。もはや憧れにも近いものがあるからね」
「う〜ん、そうなのかなぁ? 確かに先輩のことは好きだけど、そこまでっていうのは意識したことないなぁ」
 圭太の言葉に琴絵は首を傾げた。
「でも、相手が祥子先輩なら、誰でもそれに近い想いは持ってるんじゃない?」
「そうですね。先輩はみんなの憧れですから」
「柚紀も紗絵ちゃんも、そんなにおだててもなにも出ないよ?」
「別におだててませんよ。あくまでも今までの先輩を見てそう判断しただけですから。じゃなかったら、圭太にも特別扱いされないじゃないですか」
 と、矛先が圭太に向いた。
「えっと、それは遠回しに非難されてる?」
「さあ、どうかしらね?」
 柚紀は、しれっとそう言った。
「じゃあ、もっと圭くんに特別扱いしてもらおうかな」
「せ、先輩……」
 祥子はにこやかに微笑みながら、圭太の腕を取った。
「しょ、祥子先輩。それはいくらなんでもやりすぎじゃないですか?」
 柚紀も負けじと反対の腕を取る。
「だって、特別扱いでしょ?」
「そ、そうかもしれませんけど……」
「……うわぁ、柚紀さんが先輩に圧されてる」
「……祥子先輩も、意外に強いからね」
「……私としては、間に挟まれてる先輩が可哀想な気がするんだけど」
 その様子を見て、後輩たちはそんなことを言っていた。
「圭くんは、どっちがいい?」
「こ、この状況で選ぶんですか?」
「うん」
 圭太は、柚紀と祥子を見た。ふたりともこれでもかというほど、期待に満ちた目で圭太を見つめている。
「圭太……」
「圭くん……」
「え、えっと……」
「ここは、妹の私が勝負を預かります」
 と、そこへ琴絵が割って入ってきた。
「今日は、私がお兄ちゃんを独占します」
 そう言って圭太をふたりから引き離した。
 圭太を取られてしまった柚紀と祥子は、一瞬あっけにとられたが、すぐにお互い顔を見合わせ、笑った。
「琴絵ちゃんの勝ち」
「まさかそう来るとは思わなかったわ」
「えへへっ」
 琴絵のおかげでことなきを得た圭太は、琴絵の頭を優しく撫でた。
「ねえ、柚紀」
「なんですか?」
「柚紀の一番のライバルは、やっぱり琴絵ちゃんじゃないの?」
「かもしれません」
 柚紀は、嬉しそうな琴絵の姿を見て、素直に頷いた。
「でも、最終的に勝つのは、私ですけどね」
「ふふっ、それは最初から勝負になってないと思うけどね」
「そんなことないですよ。勝負になってると思ってるからこそ、私は言うんですから」
「じゃあ、その期待に応られるように、もっともっと圭くんに積極的にアピールしようかな」
「それは、ほどほどにしてください」
 ふたりは、改めて笑った。
 
 六月最後の日は、梅雨らしく雨が降っていた。
 吹奏楽部では二日後に迫ったコンサートに向けて、最後の仕上げを行っていた。とはいえ、特別なことをするわけではない。今までの確認を行い、その上で修正できそうな部分を修正する、というものである。
 この日は一部、三部だけでなく二部の仕上げも行わなくてはならないため、必然的にそれぞれに費やせる時間は少なくなった。
 ただ、毎年バタバタしていたことを考えれば、相当の進歩があったと言える。
 演奏の手応えは、指揮をしている菜穂子はもちろんのこと、演奏している部員たちも感じていた。演奏の手応えを感じられるというのは、そうあることではない。それを考えると、やはり早め早めにやっていたことが間違いではなかったとわかる。
「今日の合奏というより、本番前の練習はこれで終わりね」
 合奏が終わると、菜穂子がいつもより穏やかな表情で話をはじめた。
「いろいろ厳しいことを言ってきたけど、それにみんなが応えてくれたおかげで、例年になくいい演奏ができると断言するわ。もちろん、それをさらにいいものにできるかどうかは、本番でのみんなの気持ち次第だから。本番は、一曲一曲、気持ちを込めて演奏するのよ」
 今までの苦労をねぎらうように、菜穂子は穏やかに言う。
「ただし、それが最高の演奏ではないことを忘れないで。あくまでも、今現在の最高の演奏という意味だから。本当なら、もっともっと上を目指せるわけだからね。そして、コンサートで最高の演奏をして、そのままの勢いでコンクールに向けて、全員一丸となってがんばりましょう。それじゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 話が終わると、圭太が前に出る。
「明日は、楽器や道具の積み込み作業を行うから。予定では四時くらいにトラックが来ることになってるから、楽器を積み込むパートのメンバーは、特別な用事がない限りは、それまでに来ること。あと、二部に使うもので、当日運ぶのが面倒そうなものも、積み込めるだけ積み込むから、あれば持ってきて。それ以外でわからないことがあったら、僕や綾、紗絵に聞いて。じゃあ、今日はおつかれさま」
『おつかれさまでした』
 部活が終わると、部員たちはそれぞれの楽器を掃除したり手入れしたりしている。やはり、楽器がちゃんとしてなければ、いい演奏もできないからである。
「先輩」
 圭太が楽器を片づけていると、紗絵が声をかけてきた。
「コルネットの手入れはどうしますか?」
「僕がやっておくからいいよ。紗絵は、自分のをきちんと仕上げて」
「わかりました」
 コルネットとは、トランペットとほぼ同じ管楽器のことである。今回は、コルネットも使うために、紗絵はそんなことを言ったのである。
 それからしばらくして、皆家路に就いた。
「あと二日。もうそれしかないんだね」
「そうだね。でも、僕は楽しみだよ。今年はいったいどんな演奏ができるのかなってね」
「私も楽しみは楽しみだけど、圭太ほど楽観的にはなれないかな?」
「そんなものだと思うよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「じゃあ、どうして圭兄はそんなに楽観的なの?」
「さあ、どうしてかな? ひとつだけ言えるのは、今までの練習に悔いがないからかもしれないね」
「そっか。全力を出し切ったなら、そう思っててもおかしくないね」
「そういうところは、さすが先輩ですよね」
「今回のコンサートが、一高での最後のコンサートだからね。やっぱり悔いのないようにやりたいと思って。朱美も紗絵も、来年はそう思ってるかもしれないよ」
「私はできればそう思ってたいけど、紗絵は間違いなくそう思ってるね」
「どうして?」
「だって、来年は圭兄と同じ立場にいるだろうからね。部長としていろいろやって。私たちなんかより、思い入れは上だろうし」
「そうなんですか?」
 紗絵は、圭太に話を振った。
「思い入れはみんな同じだよ。部長だからとか、そうじゃないからとか、そんなの関係ないよ」
「そっか。じゃあ、私も来年はがんばらないと」
「その前に、今年をがんばるように」
「はぁい」
 
 夕食を食べ、ともみと祥子を家まで送った圭太は、その足である場所へと向かった。
 もう何度となく訪れたその場所ではあるが、雨の中というのはそう多くなかった。
 階段を上がり、目的の部屋のチャイムを鳴らす。
「はい、どちらさまですか?」
「こんばんは、圭太です」
「圭くん? ちょっと待ってね」
 カチャカチャとチェーンを外す音がして、ドアが開いた。
「いらっしゃい、圭くん」
「夜分遅くにすみません、鈴奈さん」
「ううん、気にしないで。さ、上がって」
「はい」
 鈴奈は、圭太を部屋に上げた。
 部屋の中はお世辞にも綺麗とは言える状態ではなかった。ただ、汚いというわけではなく、なんとなく雑然としていた。
「仕事中だったんですか?」
 圭太は、テーブルの上を見てそう言った。
「あ、うん、指導計画を作ってたの。でも、ちょうど終わったところだから」
「そうですか」
 鈴奈はテーブルの上を片づけ、代わりにコーヒーを出した。
「仕事の方もだいぶペースがつかめるようになってきたから、少しずつ余裕が出てきたの。とはいえ、部屋の掃除なんかはおろそかになってるけど」
「半年くらいすれば、生活のリズムも落ち着いてくるんじゃないですか?」
「かもしれないね。そうしたら、圭くんとの時間ももう少し作れるようになるんだけどね」
 そう言って鈴奈は微笑んだ。
 圭太は、少し会話が途切れたところで、持っていた小さな包みを取り出した。
「お姉ちゃん。誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、圭くん」
「これ、プレゼントです」
「いいの?」
「はい。日頃からいろいろお世話になってますから」
「ありがと」
 鈴奈は、笑顔でそれを受け取った。
「開けてもいい?」
「ええ、いいですよ」
 包装を解き、中の箱を開けると──
「イヤリング」
 入っていたのは、三日月型の飾りのついたイヤリングだった。
「時間がなくて、いいのが選べなかったんです」
「ううん、これで十分だよ。圭くんにもらった、というのが大事なんだから」
 鈴奈はさっそくそのイヤリングをつけた。
「どう?」
「お姉ちゃんなら、なにをつけても似合いますよ」
「んもう、そうじゃないでしょ? そこは素直に、似合ってるって言うの」
「えっと、よく似合ってます」
「うんうん、よろしい」
 嬉しそうに笑う鈴奈を見て、圭太も嬉しそうに微笑んだ。
「これは、今度また圭くんとデートする時にでもつけるね」
「じゃあ、なんとしてもデートしなくちゃいけないですね」
「ふふっ、そうだね。これが、宝の持ち腐れにならないようにしないとね」
 それからしばらく、ふたりはとりとめのない話に花を咲かせた。
 お互いに話すことはいろいろあった。特に鈴奈の方は、二高でのことをたくさん圭太に話して聞かせた。ともすると鈴奈だけが話している、なんてこともあったが、圭太はしっかりと聞いていた。
「そうそう、金田昌美ちゃん情報」
「はい?」
「やっと彼女の口から圭くんのことを聞いたわよ」
「聞いたんですか?」
「話の自然な流れの中でね。それでね、彼女、未だに圭くんのこと好きみたい。もちろん、吹っ切れてはいるみたいだけど。話してる時の表情が全然違うもの。これがもし、同じ高校だったら、もっと大変なことになってたかもしれないわ」
「……一緒じゃなくてよかったです」
「そのあたりは私にはなんとも言えないけど。ただ、彼女は圭くんのいいところ、ちゃんと理解してたわ。見た目とか評判に囚われずに、ちゃんと内面を見て、その上で好きになってた。同じ人を好きになった者同士、彼女が二高を卒業するまで、仲良くやっていけると思うの。やっぱり、同じ場所に同じ話題を共有できる人がいた方がいいものね」
「はあ、そうかもしれませんね……」
 圭太としては、それで自分と鈴奈の関係を知られないかと、その方が心配だった。
「ねえ、圭くん」
「なんですか?」
「ひとつ、お願いがあるんだけど」
「お願い、ですか?」
 圭太は首を傾げた。
「あのね、今度、実家の方から姉さんが来ることになったの」
「お姉さんがですか?」
「うん。それで、その時に姉さんに会ってほしいの」
「えっ……?」
「いろいろ考えたんだけどね、姉さんにだけは本当のことを知っておいてもらおうと思って。兄さんは少し頭の固いところがあるから無理だけど、姉さんは話せばわかってくれる人だから。それに、私だけで会ったとしても、これをしてたら──」
 そう言って左手薬指にはまっている指輪を見る。
「絶対にあれこれ訊かれるから。だったら、ちゃんと話した方がいいと思って。もちろん、圭くんには迷惑のかからないようにするから。ダメ、かな?」
 圭太は、鈴奈の真剣な顔を見て、少し考えた。
 圭太としてもずっとこのままでいいとは思っていない。いつか、それぞれにこの状況を説明しなければと思っている。だが、祥子の時のように特殊な事情でもない限りは、そう簡単に割り切れない部分があった。
「わかりました。鈴奈さんの頼みですから」
「ホント? ありがとう、圭くん」
 それでも、圭太としては、この大事な『姉』のことを想えば、それを受けるのが最善だということくらい、理解していた。
「私ももう二十三だし、自分の進むべき道くらいは自分で切り開きたいから。だから、圭くんとのことも、ちゃんと向き合って考えたいと思ったの」
「そうですか」
「もちろん、そこにはちゃんと圭くんがいてくれないと、意味がないけどね」
 それが鈴奈にとって一番大事なことだった。
「大丈夫ですよ。僕は、ずっとお姉ちゃんの、鈴奈さんの側にいます。その証拠が、その指輪なんですから」
「うん、そうだね。これが、私と圭くんをつなぐ、大事な指輪……」
 鈴奈は、その指輪を本当に愛おしそうに見つめる。
「でも今は、目の前に圭くんがいるんだから、そういうことも全部忘れて、圭くんに愛してほしい」
 そう言って鈴奈は、圭太に寄り添った。
「ね、圭くん?」
「わかりました」
 圭太は鈴奈にそっとキスをした。
「ん、圭くん……」
 キスをしたまま、鈴奈を抱きしめる。
「圭くんのぬくもり……いつも私を優しく包んでくれるぬくもり……」
 鈴奈も圭太の背中に腕を回し、抱きしめる。
「この広い世界で、圭くんと巡り会えたこと、それが一番の幸せ……」
「鈴奈さん……」
「ずっと、ずっと、ずっと……一緒にいるからね……」
「はい」
 ふたりは、もう一度キスを交わした。
 圭太は鈴奈を抱きかかえ、ベッドに運んだ。
 部屋着であるワイシャツを脱がし、ジーパンも脱がす。
 ラベンダー色の下着姿の鈴奈が、せつなげな眼差しで圭太を見つめる。
 圭太は、そんな鈴奈の頬に手を添え、穏やかに微笑む。
「うん、ありがと、圭くん」
 それだけで鈴奈の表情はスーッと落ち着いてしまう。
 魔法の手、というわけでもないが、そんな感じである。
 それを確かめると、今度はその手を胸に持っていく。
 ブラジャー越しにふにふにと揉む。
「ん、あ……ん……」
 それだけで鈴奈は少しせつなげな声を上げる。
 ブラジャーを脱がすと、その大きな胸に顔を近づける。
 つんと上を向いた突起は、わずかに硬くなっていた。
 圭太は、その突起を指先で軽くこねた。
「んんっ」
 鈴奈は、体を浮かせるくらい敏感に反応した。
「あっ、んっ……あん……」
 それからその突起に舌をはわせ、ゆっくりと転がす。
「んあっ……あ、ん……気持ちいい……」
 ちゅっちゅっと赤ん坊が乳を吸うように何度も何度も吸う。
「はあ、ん……あん、圭くん……」
 もどかしそうに圭太の頭を押さえ、さらなる快感を得ようとする。
 圭太はそれに応えるように執拗なまでに突起を舐める。
「んっ、あんっ……あっ、んんっ」
 次第に体に力が入らなくなってくる。
 それを見て圭太は、今度は下半身に手を伸ばした。
「はあんっ」
 ショーツ越しに秘所に触れると、じわっと蜜があふれてきて、ショーツにシミを作った。
「んっ、圭くん……そのままじゃイヤなの……」
 鈴奈は、自分から直接触れるよう促す。
 圭太は小さく頷き、ショーツを脱がせた。
 一糸まとわぬ姿となった鈴奈は、恥ずかしそうに頬を染めた。
 何度抱き合っていても、その初々しさがあるからこそ、お互いに常に新鮮味を感じられるのかもしれない。
「そうだ。圭くんも脱いで」
「僕もですか?」
「うん。今日は、一緒に気持ちよくなろう」
 言われるまま圭太も服を脱ぎ、今度は圭太がベッドに横になった。
 その上に鈴奈がまたがる。
「圭くんの、もうこんなになってる……」
 愛おしそうにモノをつかみ、舌をはわせた。
「ん……」
 ちろちろと先端を舐め、そのまま根本の方まで口に含む。
「あ、む……は、ん、あ……」
 一心不乱にモノを舐める。
 それに対して圭太は、鈴奈の秘所を目の前に、まずは指を中に入れた。
「んんっ、はあ……」
 それだけで鈴奈はくわえていたモノを離してしまうほど感じた。
 ちゅぷちゅぷと音を立てながら指で中をかき回す。
「やっ、ダメっ……そんなにされると……んんっ」
 指を曲げ、感じる部分を集中的に擦る。
「ああっ、圭くんっ、そ、そんなにしないでっ」
 それでも圭太はやめない。
「ダメダメダメっ、そんなにされると、ああっ、イっちゃうっ」
 さらに速く出し入れする。
「んんっ、ダメっ、んんんんっ!」
 大量の蜜があふれ出し、鈴奈は達してしまった。
「はあ、はあ、圭くんの、いぢわる……」
 すっかり脱力してしまった鈴奈。
「そんなにされると、私が圭くんのをできないのに」
「なんとなく負けたくないなって思って」
「むぅ、いぢわるなんだから」
 頬を膨らませ、抗議の意を示す。
「圭くんがいぢわるするなら、私だって」
 そう言って鈴奈は体を起こし、改めて圭太のモノをつかんだ。
「今日は、私がするからね」
 そのままモノを秘所にあてがい、腰を落とす。
「んっ……」
 奥までモノが収まると、鈴奈は前に体を倒した。
「圭くん。キスして」
「はい」
 ふたりはキスを交わす。
 舌を絡め、お互いの口の中を蹂躙する。
「ん、はあ……もう、いいかな」
 鈴奈はそのままの体勢で腰を動かした。
「ん、あ、んんっ」
 上下ではなく前後に腰を動かす。
「圭くん、気持ちいい?」
「ええ、気持ちいいです」
「私も、気持ちいいの、あんっ」
 圭太は、動くのは鈴奈に任せ、その胸を揉んでいた。
「んあっ、あんっ、あんっ、はあ、んんっ」
 次第にその動きが速くなってくる。
「やっ、ダメっ、止まらないっ」
 もはや自分がどんなことをしているのかもわからない。
 圭太も無意識のうちに腰を動かし、モノを突き上げていた。
「ああっ、圭くんっ、私っ、またイっちゃうのっ……あんっ、あっ、あっ」
「鈴奈さんっ」
「やんっ、だ、ダメっ、んんっ……圭くんっ、圭くんっ、ああっ」
 鈴奈は、圭太にしっかり抱きつき、テコでも離れない感じである。
「ああっ、んあっ、んんくっ、んああああっ!」
「くっ!」
 そして、ふたりは同時に達した。
「ん、はあ、はあ、圭くん……」
「はぁ、鈴奈さん……」
「大好き……」
 
「……ん……」
 圭太は、傍らで気持ちよさそうに眠っている鈴奈の頭を撫でた。鈴奈もそれがわかったのか、さらに表情を緩める。
「鈴奈お姉ちゃん、か……」
 鈴奈が『桜亭』でバイトをはじめた頃から、鈴奈は圭太にとって『姉』のような存在だった。優しく、綺麗で、よく気が利いて。それで慕わない方がおかしい。
 その鈴奈が圭太のことをバイト先の男の子としてだけ見ていないことは、なんとなくわかっていた。それでも、大学生の鈴奈と自分とではそれ以上の関係になるなどとは露程も思っていなかった。
 ところが、柚紀とのことを契機に、鈴奈も秘めていた想いを打ち明け、そして、男女の仲になった。
 そのこと自体を後悔しているかいないかで聞かれれば、もちろん後悔などしていないと答えるだろう。だが、それは決して善悪とのイコールではない。
 本当は柚紀のこと、鈴奈のことを考えれば関係を持たない方がよかった。確かに一時的に鈴奈は傷ついてしまうかもしれないが、それもまた時間とともに癒される。そして新しい出会いをし、恋をし、愛を語らう。
 圭太はその機会を奪ってしまった。
 だからこそ圭太は、この優しく健気な『姉』を、一生守ろうと思っている。
「……ぅ、ん……」
 と、鈴奈が目を覚ました。
「あれ、私、寝ちゃったんだ」
「ええ、とても気持ちよさそうに眠ってましたよ」
「そっか……」
 鈴奈は軽く目を擦った。
「今、何時かな?」
「えっと……もう十一時になりますね」
「じゃあ、圭くんは帰らないと」
「いえ、今日は泊まっていきます」
「えっ……?」
 圭太の思いも寄らない言葉に、間抜けな声が漏れた。
「いいの?」
「最初からそのつもりでしたから。母さんにはちゃんと言ってあります」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「ここからうちまでは五分ですから、全然問題ないですよ」
「……ありがと、圭くん」
 鈴奈は、瞳を潤ませ、圭太に抱きついた。
「それに、鈴奈さん言ってたじゃないですか」
「なにを?」
「帰したくない、って」
「あ……」
「だから、今日は鈴奈さんの誕生日でもありますから、そうしようと思ったんです」
「覚えててくれたんだ」
「覚えてますよ。大事なお姉ちゃんの言ったことですから」
「うん……」
 鈴奈としても、まさか圭太がそのことを覚えているとは思っていなかった。だからこそ余計にその心遣いが嬉しかった。
「今日はこのまま寝てもいいよね……?」
「ええ」
「よかった……」
 それから程なくしてふたりとも眠りに落ちた。
 その顔には、とても穏やかで、幸せそうな笑みが浮かんでいた。
 
 二
 七月最初の日は、前日の雨がウソだったかのように、朝から綺麗な晴天だった。
 鈴奈は、いつもより若干早い時間に目を覚ました。
「う、ん〜……」
 目を擦り、隣を見ると──
「そっか。圭くんと一緒だったんだっけ……」
 圭太は、まだ穏やかな寝息を立て眠っていた。
 枕元の時計に目をやると、まだ時間は大丈夫だった。
「もう少し、このままでいようっと……」
 鈴奈はそう言って圭太の髪を撫でた。
「ふふっ、カワイイ寝顔」
 優しく髪を撫でていると、圭太の表情がさらに穏やかになった。
「これが、恋人の関係なんだろうなぁ。圭くんのおかげでそれもわかっちゃった。ホント、私には過ぎた『弟』くんだよ」
 いつまでもそうしていたくなるのをなんとか抑え、鈴奈は体を起こした。
「ん〜、今日はいい天気みたい」
 遮光カーテンの隙間からは、眩しい朝の光が漏れていた。
「よし、圭くんのために美味しい朝食用意しなくちゃ」
 そう自分に言い聞かせベッドを出る。
「っと、その前に、シャワー浴びないと」
 自分が裸で、しかもあのあとのままであることを思い出し、とりあえずバスルームへ。
 少し熱めのシャワーを浴びると、半分眠っていた頭もすっきり目覚める。
「……私、このまま圭くんの優しさに甘えていていいのかな……?」
 シャワーを浴びながら、ぽつりと呟く。
「いっそのこと、祥子ちゃんみたいに妊娠でもすれば、余計なこと考えなくても済むのかもしれないけど」
 でも、と言って頭を振る。
「そんなこと言っちゃダメだよね。全部わかってて圭くんとつきあってるんだから」
 シャワーを止め、タオルで体を拭く。
 バスタオルを巻き付け、部屋に戻る。
「鈴奈さん」
 と、圭太が目を覚ましていた。
「あ、圭くん、起きたの?」
「ええ。鈴奈さんは……シャワーを浴びてたんですね」
「あ、うん。圭くんも浴びる?」
「そうですね。そうさせてもらいます」
「うん。じゃあ、その間に朝食作っておくから、食べていってね」
「わかりました」
 それからバタバタと慌ただしく時間が過ぎていく。
 朝食を食べ、少し早めに部屋を出た。
「圭くん」
「なんですか?」
「昨日、今日と本当にありがとうね」
「別にたいしたことはしてませんよ」
「ううん。今までで最高の誕生日になったから」
 鈴奈は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「これでまたがんばれるよ。圭くんにいっぱい元気を分けてもらったからね」
 そんな鈴奈を見て圭太は──
「えっ……?」
 素早く抱きしめ、キスをした。
「僕も、お姉ちゃんから元気を分けてもらいました」
「圭くん……」
 圭太はにっこり笑った。
「じゃあ、圭くん」
「はい。いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
 鈴奈は、軽く手を振って仕事に出かけた。
「さてと、僕も用意して行かなくちゃ」
 空を見上げると、真っ青な空に真っ白な雲が浮かんでいた。
 
 コンサート前日だからといって、特に変わったことがあるわけではない。授業はいつも通り行われるし、部活がはじまる時間もいつもと同じである。
 それでも気持ちだけはすでに次の日に飛んでしまっているのは、ある意味では仕方のないことなのかもしれない。
 トラックに楽器を積み込む段になると、それはさらにである。
「ほらほら、どんどん積み込まないと間に合わないよ」
 陣頭指揮を執っているのは、圭太である。男子部員と楽器を積み込むパート担当者を使い、次から次へと楽器を積み込んでいく。
 大きな楽器を先に積み込み、それから少しずつ小さいのを積み込む。あとは、楽器は必ずしもバランスがとれているわけではないので、そのあたりも考慮しながらとなる。
「先輩。積み込む楽器は全部運びました。あと、道具が少し残ってますけど、それもすぐに持ってくるそうです」
「了解」
 紗絵からの報告を受け、最後の仕上げに取りかかる。
「手の空いた人は音楽室に戻って部室の掃除をして。それやらないと、今日は帰せないからそのつもりで」
 その指示を受けて、それぞれやるべきことやるために動き出す。
 次から次へと楽器が積み込まれ、準備が進む。
 しばらくして、すべての楽器、道具を積み込み終えた。
 トラックを見送ると、音楽室でミーティングが行われた。
「明日は県民会館前に八時半に集合。今日楽器を積み込んだパートと男子はそれより少し早く集合。とにかく明日が本番だから準備は怠りなく。怠って後悔するのは自分だからね。あとは、明日は全力でがんばれるようにゆっくり休んで。それじゃあ、おつかれさま」
『おつかれさまでした』
 部活が終わっても、部員はすぐには帰らない。本番に向けていろいろ打ち合わせを行うのである。
 そんな中圭太は、綾、紗絵とともに打ち合わせを行っていた。
「だいたいのことは祥子先輩に任せてあるから。僕たちは基本的にリハーサルに集中して、それ以外の時におのおのの仕事をこなす、という感じだね」
「なにか特別にやらなくちゃいけないこととかないの?」
「特にないよ。明日の僕たちは、部長、副部長というよりは、一部員という感じだからね」
「なるほどね」
「ただ、紗絵には重要な仕事があるけどね」
「重要な仕事ですか?」
 紗絵は首を傾げた。
「撤収作業の指揮だよ。僕も綾も表で観客を送らなくちゃいけないから。先輩たちは後片づけがあるし。そうすると、一、二年を統率するのは、副部長の紗絵の役目になるから」
「わかりました」
「あとは、不測の事態に備えて状況の把握を常に怠らないことかな。もちろん、それをするのは主に僕の役目なんだけど」
 そう言って圭太は苦笑した。
「ほかになにか聞きたいことは?」
「特にないわ」
「私もです」
「じゃあ、あとは明日。全力を出し切って悔いの残らないコンサートにしよう」
 
 七月二日。
 前日夜半から降り出した雨は、朝方には上がっていた。いい天気、とはいかなかったが、とりあえず雨が落ちてくる気配はなかった。
 圭太は、いつもより早い時間に起きた。
 カーテンを開けると雨が落ちていなかったので、まずはひと安心という感じだった。
 着替えて下に下りてくると、台所では琴美が朝食の準備をしていた。
「おはよう、母さん」
「あら、おはよう、圭太。ずいぶん早いのね」
「早めに行かなくちゃいけないからね」
「それにしては、早くない?」
 琴美は時計を見ながら聞いた。
「なんとなく早くに目が覚めちゃったんだよ」
「緊張感から? それとも、焦燥感から?」
「さあ、どうかな?」
 圭太は適当にはぐらかして洗面所へ。
 それからしばらくして、ちょうど朝食ができた頃に琴絵と朱美が立て続けに起きてきた。
「ふわぁ……」
「寝不足?」
「あ、ううん、そんなことないよ。ただ、ちょっと興奮して寝付きが悪かっただけ」
 琴絵はそう言ってそれを否定した。
「それならいいけど。あまり寝不足だと、みんなに迷惑がかかるから」
「大丈夫だよ。私だってそれくらいわかってるんだから」
「もしダメなようなら、僕がなんとかするよ」
「むぅ、お兄ちゃんまでそんなこと言ってぇ。私は大丈夫なの。寝付きが悪かっただけで、ちゃんと眠れたんだから」
「なら、今日は最高の演奏をしてくれる、というわけか」
「うっ……」
 圭太の見事な切り返しに、琴絵は言葉に詰まった。
「まあまあ、圭兄もそれくらいにして。あんまりいろいろ言うと、本番前にダウンしちゃうよ?」
 と、朱美がフォローを入れた。
「わかってるよ。別に僕は追い込むために言ってるんじゃないから。それに、琴絵がちゃんと演奏できないと、クラが困るからね」
「じゃあ、なんで?」
「ん? 少しでもいい演奏をしてもらいたいからだよ。いい演奏には適度なプレッシャーが必要だからね」
「……お兄ちゃんから言われると、すっごいプレッシャーになるよぉ……」
「あ、あはは……」
 朝食を食べ、用意をして、家を出る。
 外は、比較的明るい雲が覆っていた。
 大通りのバス停からバスに乗り、駅前に出る。
「雨、降らないかな?」
「大丈夫だと思いたい。やっぱり雨だと行こうっていう気をそいじゃうからね」
「そうだよね、やっぱり」
 土曜日とはいえ、朝のバスはそこそこ混んでいた。
 それは駅前でもわかる。バスを降りて駅構内に向かう勤め人の姿は、平日よりは少ないがそれなりの数になっていた。
 そんな駅改札前に着いた三人は、すでに待っていた紗絵と詩織と合流する。
「あとは、柚紀だけか」
 いつも柚紀が来る方を見ながら、柚紀を待つ。
 慌ただしく駅に入っていくサラリーマン。
 どこか旅行にでも行くのか、大きめのバッグを抱えた老夫婦。
 眠そうな目を擦りながら定期を改札に通す高校生。
 様々な人の姿がある。
 そんな人の流れの中に、柚紀の姿を見つけた。
「ごめん、ちょっとバスが遅れちゃって」
「大丈夫だよ。まだ待ち合わせ時間になってないから」
 軽く息を切らせて柚紀はやって来た。
「じゃあ、早速行こうか」
 全員揃ったところで早速電車に乗る。
 バス同様、電車もそこそこ混んでいた。
 圭太たちはドア近くに固まって立ち、電車に揺られていた。
「圭太……」
 柚紀は、わざとらしく圭太に密着し、頬をすり寄せていた。
 そんな柚紀の姿を、後輩四人は複雑な表情で見ていたのは、改めて言うまでもないだろう。
 駅に着くと、人の流れに乗り、構内を出る。
 県民会館への道を歩いていると、ほかの部員にも出会う。
 挨拶を交わし、一緒に目的地へ。
 正面玄関前には、すでに何人かの姿があった。
 圭太はその場を紗絵に任せ、会館の警備室に顔を出す。開館時間前は、そこがすべてを管理しているのである。
 そこで正面玄関の鍵を開けてもらい、その上で全員が揃うのを待つ。
 少し早めにやって来た男子とトラックに楽器を積み込んだパートを先に中に入れ、その後全員が揃ったところで、いよいよ準備開始である。
 
 いったん楽器を楽屋やステージ袖に運び込み、まずは会場設営である。
 正面玄関に受付を設けたり、舞台にひな壇を運び込んだり、椅子や譜面台を用意したり、看板を上げたり立てかけたり。
 それらを決められた人員で手際よく進めていく。
 一年以外はもう手慣れたもので、作業は淀みなく進む。
 ある程度準備が進んだところで、現役生は楽器を出してくる。これから一部と三部のリハーサルである。
 すべての曲をある程度演奏し、人の動きや椅子や譜面台の動かし方を確認する。
 その間にも卒業生は照明の業者と打ち合わせを行う。
 だいたいのリハーサルが終わったところで昼食休憩である。
 とはいえ、全員一緒にというわけにはいかない。特に、それぞれの持ち場の責任者は、入念に打ち合わせを行っておく必要がある。
 そんな中、菜穂子は卒業生と一緒に昼食をとっていた。
「どう? リハを聴いてみて?」
「かなりいいんじゃないですか? 少なくとも、私たちの時よりはいいと思いますよ」
 そう言うのはともみである。
「団結力って言うんでしょうかね。そういうのが今までにないくらい上がってると思いますよ。きっと、誰かさんのおかげなんでしょうけど」
「ふふっ、そうね。今年は例年になくまとまってるわね。その下地をほぼひとりで作ってしまった圭太は、やっぱりすごいと思うわ」
「先生がそこまで手放しで褒めるのは珍しいですね」
「実際できることを見せられたら、誰でもそうなるわよ。それに、彼はそこに満足してないところがまたすごいのよ。自分はまだまだだから、もっともっと努力しなくちゃいけない。そんな風に思ってる。それをまわりも見てるから、またがんばらなくちゃいけないって思って。それがいい連鎖を生み出してくれてるのよ」
「なるほど」
 その場にいる卒業生たちも、妙に納得している。
「私としても、ひょっとしたら今年が最後になるかもしれないし、どうせなら最高のものを創り上げたいから」
「えっ、先生、今年で終わりなんですか?」
「わからないけど、私も一高に来てもう六年だから。そろそろ異動があってもおかしくないと思って。私立ならそういうことはないけど、公立だと自分の意志で残ることはできないから」
「確かにそうですね」
「だからというわけじゃないけど、今年は私も気合いを入れてコンサートもコンクールもやるつもりだから」
「じゃあ、三年連続全国金賞も夢じゃないですね」
「もちろん、今年もそれを狙えるだけのメンバーが揃ってるから。どん欲に狙っていくわよ」
 菜穂子はそう言って微笑んだ。
 吹奏楽だけではないが、いわゆるチームでなんでも行うものついては、メンバーの実力はもちろんのこと、それを指導する者の実力も重要である。一高がこのところずっと高いレベルを維持できているひとつの要因は、やはり菜穂子の指導力というのもあった。
 指導実績自体はそれほどあるわけではないが、それを補えるだけの情熱との実力を持っていた。
 菜穂子としても、赴任当初は前任者がある程度作ったメンバーを新たに指導する、というところだったが、三年目以降は自分が一から作ってきたという想いがあった。もちろんそれはおごりではなく、純然たる事実としてである。だからこそ、このメンバーで演奏できることを喜び、さらなる高見を目指そうと思うのである。
「でもその前に、今日のコンサートを成功させないといけないけどね」
 全員が昼食を終えると、今度は二部のリハーサルである。とにかくこれに時間を割き、本番で失敗しないようにする。
 午後に入ると卒業生にすることはあまりなくなってくる。となれば、客席でリハーサルの様子を見ているということになる。
「どうしても、圭太を目で追っちゃうわね」
「それはしょうがないでしょ」
 客席真ん中後ろ目で見ているのは、ともみと幸江である。
「それに、圭太は見てて絵になるから」
「まあね」
 確かに圭太が演奏している姿は、絵になった。いつもの穏やかな表情ではなく、きりっと引き締まった凛々しい表情である。
「そういや、あんたが圭太に告白したのって、去年の今頃でしょ?」
「そうだけど、それが?」
「なんで圭太に告白しようと思ったの? 圭太には柚紀がいることも知っててさ」
「なんでって言われると困るけど。そうね、強いて言えば、大学にろくな男がいなかったから、かしら」
 幸江は、冗談めかしてそう言う。
「近くで圭太を見てしまうと、どうしてもほかの男が見劣っちゃうのよね。あらゆる面で圭太は上だから。だから、ダメ元で告白してみようと思って」
「で、それに圭太が応えてしまった、というわけか。やれやれ、圭太のそういうところも困ったものね」
「なに言ってんのよ。そのおかげでともみだって圭太とつきあえてるわけだし」
「そんなの言われなくてもわかってるわよ。ただ、ライバルが増えるのは歓迎すべきことじゃないから」
「それはそうだけど」
「私の予想では、あとひとりくらい増えそうな気がするのよね」
「心当たりでもあるの?」
「圭太の幼なじみ。この春にこっちに戻ってきて、一高に転校してきて、しかも同じクラス」
「はあ、そりゃ強敵だわ」
「柚紀なんかもうかなり警戒してるわよ。やっぱり、私たちのほとんど知らない圭太の過去を知ってるっていうのは、大きなアドバンテージだからね」
「なるほどね」
 ふたりは揃ってため息をついた。
 二部のリハーサルが終わると、改めて一部と三部のリハーサルである。ここで最終確認を行い、ステージも一部仕様にする。
 リハーサルを終えると、あとはもう待つだけである。
 現役生は控え室に戻り、休憩がてら、楽器の手入れなどをする。
 卒業生は観客を迎える準備をはじめる。
 四時半の開場を前に、卒業生が控え室をまわる。外の状況を伝えるためである。
 天気は午後から急速に快復し、綺麗に晴れ渡っていた。それに後押しされてか、会場前には結構な数の観客が集まっていた。
 開場時間の少し前に当日券の販売がはじまった。が、すぐに売り切れた。当日券は本当に少数しかなかったためそうなったのだが、それでも異常な早さだった。
 それからすぐに開場時間となった。
 待ちわびていた観客が次から次へと会場内に入っていく。
 控え室でモニターを見ているメンバーにも、会場内の様子はわかった。かなりのハイペースで席が埋まっていく様子を見ると、自然と頬が緩んでくる。
 しかし、そこでひとつの問題が発生していた。
 受付担当の責任者だった祥子が、控え室の圭太を訪ねてきた。
「圭くん。チケットを持ってない人たちがなんとか聴けないかって言ってるんだけど」
 問題とは、前売りでほぼ完売状態だったチケットの問題だった。聴きたいの聴けない。そういう熱心なお客が何人も受付に掛け合っていた。
「どのくらいいるんですか?」
「今の段階で十人くらい。これからどうなるかはわからないけど」
「十人ですか」
 圭太は腕を組み唸った。
「客席はまだ埋まってないんですよね?」
「と思うんだけど」
「わかりました。せっかくですからその人たちにも聴いてもらいましょう」
「いいの?」
「ええ。最悪立ち見になるということを説明した上でですけど」
「うん、わかった。じゃあ、開演時間ギリギリまで待って、その上で私が最終判断を下すから」
「お願いします」
 その問題があったため、舞台袖に移動するのが少し遅くなった。
 それでも五分前には全員が舞台袖に揃っていた。恒例の部長挨拶ができなくなってしまった代わりに、圭太は舞台の上手、下手、両方をまわり、声をかけた。
 舞台袖はかなりの緊張感に覆われていた。
 ホール内は開演時間を今か今かと待っている。
 そして、ブザーが鳴り、照明が落とされた。
『本日はお忙しい中、第一高等学校第四十五回定期演奏会にお越しいただき、ありがとうございます。開演前にお願いいたします。携帯電話等は電源をお切りいただくかマナーモード等に設定していただきますよう、お願いいたします』
 今年も放送部員がアナウンスを勤める。
『それでは第四十五回定期演奏会を開演いたします。皆様、最後までごゆっくりご鑑賞ください』
 同時に緞帳が上がる。
「一高吹奏楽部〜、いくぜーっ!」
『おーっ!』
 出る直前、気合いを入れる。
 そして、ステージへ。
 ステージ上から客席を見ると、ぎっしり埋まっているのがわかった。
 それだけでやらなくてはという気持ちになる。
 全員が持ち場に着くと、指揮をする菜穂子が入ってくる。クリーム色のドレスに身を包み、その表情は少し引き締まっていた。
 指揮台横で一度観客に一礼する。
 拍手の中指揮台に上がり、一度全員を見渡す。
 大きく頷き、指揮棒を上げる。
 そして演奏がはじまった。
 
 毎年のように聴きに来ている観客や吹奏楽ファンには、今年の演奏のできがいかに高いかがわかった。妥協を許さない練習の成果が出たわけだが、観客の反応からもそれがわかった。
 演奏は順調に進み、演奏しているメンバーたちもその手応えを感じていた。
 それはもちろん指揮をしている菜穂子も感じており、自然とその表情も和らいでいた。
 調子がいいと時間の経過も早く感じる。
 練習の時にはまだ終わらないのかと思っていた三曲の演奏が、本当にあっという間だった。
 指揮棒を下ろした菜穂子は、満足そうな表情でメンバーを見渡した。
 割れんばかりの拍手に送られ、緞帳が下ろされる。
 ホール内は演奏に対する様々な意見が飛び交い、まさに興奮冷めやらぬという感じだった。
 メンバーたちも観客と同じなのだが、余韻に浸っている余裕などなかった。
 十五分間の休憩時間内に、二部の準備を終えねばならないのである。
 制服からそれぞれの衣装に着替える。
 こうなると控え室はてんやわんやである。
 着替え終わった者から舞台袖に移動。本番に備える。
 舞台上でも二部最初の曲のために位置替えが行われる。
 舞台袖には大道具なども揃えられ、いよいよ二部のスタートである。
 
 緞帳が下ろされたステージ上に、司会が登場する。
「お待たせしました。これより第二部を開演します。司会は私、実森麻衣子と──」
「高田浩章でお送りします」
 麻衣子と浩章は、それぞれナース服と作務衣という格好だった。
「さてさて、まずは一曲目ですが、浩章くん。一曲目はどんな曲がふさわしいと思いますか?」
「それはやっぱり、これからはじまるぞ、という感じの軽快な曲がいいと思いますけど。麻衣子さんは違うと?」
「いえいえ、私もそう思ってます。ですが、今回はあえてその予想を裏切る曲を一曲目に持ってきました」
「それが吉と出るか凶と出るか。それは今ここでわかります」
「では、一曲目、映画『ローマの休日』よりメインテーマです」
 緞帳が上がり、曲がはじまった。
 実にしっとりとしたはじまり方で、観客にしてみれば肩すかしを食らったような感じもある。
 ただ、その演奏のレベルは相当のもので、それによるため息が漏れた。
 観客の反応は、おおむね良好だった。
「さて、いかがでしたでしょうか。今の反応を見ていると、少なくとも凶という結果ではなかったようで、ひと安心です」
「ところで麻衣子さん。なぜナース服なのですか?」
「よくぞ聞いてくれました。私は今回のコンサートにひとつのテーマを掲げてみました」
「ほお、テーマですか」
「今回のテーマは、癒しです」
「癒しですか。なるほど、それはなかなか素晴らしいテーマですね」
「ですが、どうすれば癒しになるか、それを考えるに至り、苦心惨憺しました。そこで単純に連想ゲームをしてみました」
「ひとり連想ゲームですね」
「癒しといえば、穏やかさ、優しさ。ではそれを普段から感じられるものとはいったいなにか、ということで病院の天使、看護師ということに思い至りました」
「なるほどなるほど。確かに看護師さんは、患者さんにとっては天使、まさに癒しの象徴ですね」
「ええ。というわけで、今回このようなナース服を用意したのです」
 麻衣子は、ニコッと微笑んだ。
「そういう点で言えば、僕の格好も癒しですね」
「作務衣がですか?」
「ええ。これを着ていると、気持ちが落ち着きますから」
「ああ、なるほど。着ている本人にとっての癒し、というわけですね」
「まあ、見ている方にはどうでもいいことなのでしょうけど」
「それを言ったら、身も蓋もないじゃないですか」
 ふたりが話をしている間に、ステージ上では準備を進める。
「おや、そろそろ準備が整ったようですね」
「では、続いていきましょう。次は、二曲続けて聴いていただきます」
「まずは景気よく『テキーラ』を」
「続いて、ご存知の方はいるでしょうか? あの人気者、『ピンクパンサー』のメインテーマ曲です」
「それでは、どうぞ」
 二部の演奏は、とにかく賑やかに、楽しく進んでいった。
 恒例の寸劇は、『一高吹奏楽部版鶴の恩返し・鶴が来た本当の目的は? 秘密を知られた鶴が取った行動とは……?』で、内容は相変わらずどうしようもなかった。
 二部の演奏中、観客席が大いに盛り上がった場面が何回かあった。
 それらすべてに圭太が絡んでいたことは、改めて言うまでもないだろう。
 盛り上がった理由は、まずはその演奏である。圭太は三年ということで、当然ソロを担当している。その演奏がとても素晴らしく、観客の注目を集めた。
 そして、もうひとつ盛り上がったというか、悲鳴が上がったのは、例の綾とのダンスシーンである。
 イブニングドレス姿の綾と、タキシード姿の圭太がムーディーな曲にあわせ、華麗にダンスを披露する。もちろん、見る者が見ればとんでもなくでたらめなダンスだとわかるのだが、それ以上にふたりのダンスは様になっていた。
 このことを知っていたのは、会場内でもごく少数で、演奏していたメンバーでさえ危うく楽器を落としてしまいそうなほどだった。
「……ねえ、圭太」
「……うん?」
「……今、この姿って、みんなにはどういう風に映ってるのかな?」
「……そうだね。一見ダンスの上手そうなカップル、じゃないかな」
「……ふふっ、一見ね。ふたりとも、ステップすらまともに踏めないド素人なのに」
「……あと、もうひとつ」
「……もうひとつ?」
「……今日の綾が、すごく綺麗だからみんな見とれてるんだよ」
「……それだけはないと思うけどね。でも、そう言ってくれて、嬉しい」
 最も悲鳴が上がったのは、曲の最後、つまりダンスの最後である。
 しっとりとした曲だったので、ラストは消えるように終わるパターンだった。ダンスもそれにあわせて静かに終わり、ふたりが抱き合う格好になった。ここでも悲鳴が上がったのだが、そのあとに取った行動がさらに悲鳴を誘った。
 抱き合っていた綾が潤んだ瞳で圭太を見つめ、目を閉じる。
 その綾の肩をつかみ、そっとキスを──したふりをした。
 近くで見ていればわかったのだが、遠くで見ているとふたりがキスしたと見えたかもしれない。
 だからこそ悲鳴が上がったのである。
 そんなこともありつつ、二部もいよいよ最後を迎えた。
「いよいよ第二部も次の曲で最後となりました。少しでも楽しんでいただけるよう、部員一同ない知恵を振り絞り創り上げた舞台でしたが、いかがでしたでしょうか」
「少しでもみなさんに楽しんでいただけたなら、本当に嬉しい限りです」
「ここまで私たちのつたない司会におつきあいいただき、本当にありがとうございました。司会は私、実森麻衣子と──」
「高田浩章でした」
「それでは、最後の曲、『イッツ・ア・スモールワールド』です」
「どうぞ」
 
 二部が終わると、舞台裏の一部は騒然となっていた。
「聞いてない聞いてない聞いてない。あんなの聞いてない」
 喚いているのは、もちろん柚紀である。
「そりゃ、言ってないからね」
 責められているはずの綾は、どこ吹く風である。
「柚紀に言ったら、絶対止めてたでしょ?」
「当たり前よ。いくら部活のためとはいえ、あんなことさせないわ」
「だからこそ言わなかったの。こうなることわかってたし」
「じゃあ、圭太も知ってたの?」
「当たり前じゃない。事前に練習もしたし」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
 柚紀としても、綾が悪いことをしていないことくらいわかっていた。だからこそ必要以上に言うこともできなかった。
「ま、言いたいことがあるなら打ち上げの時に聞くからさ。今は次のことを考えなさいって」
「……わかってるわよ」
 柚紀は、渋々引き下がった。
 柚紀と綾がやりあったことは、もちろん圭太の耳にも入っていた。とはいえ、こちらはその対応に慣れたもので、さらっと流し、今は三部のことに集中していた。
 ステージの準備が終わり、メンバーが先に位置に着く。
 ブザーが鳴り、緞帳が上がる。
『大変お待たせいたしました。第三部の開演でございます。指揮は、第一部に引き続きまして当部顧問、菊池菜穂子です』
 二部の興奮が収まっていないホールに、静寂が訪れる。
 菜穂子は、一部と同じように一礼して指揮台に上がった。
 泣いても笑っても残りはこの三部だけ。
 菜穂子は全員を見渡し、指揮棒を上げた。
 
『ここで当部部長、高城圭太より皆様にご挨拶があります』
 三部も残り一曲というところで、そういうアナウンスが入った。
 圭太は楽器を置き、マイクのある舞台手前に出てきた。
『みなさん、今日はお忙しい中お越しいただき、本当にありがとうございます。ここまでの私たちの演奏はいかがでしたでしょうか? 少しでも喜んでいただけたなら、私たちにとってもそれは嬉しいことです。さて、例年このような挨拶の機会は設けていないのですが、今年は無理を言って設けさせていただきました。少しの間、おつきあいください』
 圭太は軽く頭を下げた。
『今日は、これだけ多くの方にお越しいただけて、私たちもとても喜んでいます。四十五回の演奏会の中で、ここまで恵まれた演奏会ははじめてかもしれません。ここにお越しいただいた理由は様々だと思いますが、かなうことなら来年以降もお引き立ていただければ、嬉しい限りです。もちろん、そのために後輩たちも最高の演奏会を創り上げてくれるものと信じています』
 一度後ろを振り返る。
『この演奏会が終わると、今度は吹奏楽コンクールがはじまります。私たちはこの二年、全国大会において金賞を受賞できました。今年ももちろん、全国大会出場、さらに金賞を目指して努力を続けていきます。ですから、もしその時に私たちのことを覚えていただければ、ささやかなもので構いません。応援していただけると、さらにがんばれると思いますので。なにとぞよろしくお願いします』
 もう一度頭を下げる。
『あまり長く話していると時間がなくなりますので、そろそろ終わりにしたいと思います。ですがその前に、感謝があります。お越しいただいたみなさんに対する感謝はもちろんのことですが、この演奏会を支えていただいた大勢の関係者にこの場を借りて感謝の言葉を述べたいと思います。本当にありがとうございました。それと、ここまで私たちを指導してくださった顧問の菊池菜穂子先生にも、感謝しています』
 そこで、一度下がっていた菜穂子と花束を持った綾が出てくる。
「先生、ありがとうございました。コンクールも、よろしくお願いします」
 舞台中央で花束が渡された。
『私たちがここまでの演奏ができるのも、ひとえに先生のおかげです。本当にありがとうございました』
 圭太は菜穂子に向かって頭を下げた。
 舞台上の部員たちは、足を踏み鳴らし感謝の意を示す。
 綾が席に戻り、菜穂子もいったん下がる。
『最後に改めて。今日はお越しいただき、本当にありがとうございました。残りわずかな時間ですが、ごゆっくりお聞きください』
 圭太が席に戻ると、菜穂子が出てくる。
 改めて観客に応え、いよいよ最後の曲である。
 
『本日は第一高等学校第四十五回定期演奏会にお越しいただきまして、ありがとうございました。これにて本日のプログラムはすべて終了です。お帰りの際にはまわりを今一度お確かめの上、お帰りくださいますようお願い申し上げます。本日はありがとうございました』
 アナウンスが流れ、ホールの照明が点けられた。
 観客が出口に向かう中、ステージ上でも三年が大急ぎで正面玄関に向かっていた。
「ありがとうございました」
 正面玄関に三年が並び、観客を見送る。
 その間に一、二年と卒業生とで片づけを行う。とにかく時間までに撤収作業を終えなくてはならないため、忙しい。
 三年もそれはわかっているのだが、そのことはあえて考えないようにする。
「圭太」
 だいぶ人が減ったところで、圭太に声がかかった。
「演奏、よかったわよ」
 声をかけてきたのは、琴美である。
 琴美と一緒にいるのは鈴奈と吉沢家の面々だった。
「圭太くん。最後のコンサートはどうだった?」
「とりあえず、悔いのない演奏はできたと思います」
「そう、よかったわね」
「淑美ったら、自分の娘のことよりも圭太のことばかりあれこれ言ってたのよ」
「いいじゃない、別に。朱美はまだ来年もあるんだから」
「別に悪いとは言ってないわよ。ただ、少しくらい朱美を話題にすればいいと思ってね」
 圭太は姉妹のやりとりを苦笑しながら見ていた。
「圭くん」
「鈴奈さんはどうでしたか?」
「すごくよかったよ」
「そうですか。せめてチケット代くらいは、と思ってがんばったかいがありましたかね」
「ふふっ、お釣りがくるくらいの演奏だったよ」
「鈴奈さんにも認めてもらえましたし、僕的には大成功です」
「こら、嬉しいこと言わないの」
 最後のお客が帰ると、さらに慌ただしく片づけを行う。
「とりあえず打楽器と大きな楽器は先に積み込んで。あと、忘れ物にも注意して」
 鋭い指示が飛び、それに従って部員たちが動く。
 ステージ上もすっかり綺麗に片づき、先ほどまで演奏が行われていたとは思えないほどだった。
 楽器をすべてトラックに積み込み、控え室の忘れ物を確認して、ようやく終了である。
「おつかれさま。成功を早く祝いたいとは思うけど、もう少しだけ待って。とりあえず、明日は休みだから今日の疲れをしっかりとって。月曜日は部室の掃除とコンサートの反省会を行うから。あと、来週中にコンクールのメンバーも発表されるから、また気持ちも新たにがんばって。それじゃあ、打ち上げ会場に移動しようか」
『おーっ!』
 
「それでは、コンサートの大成功を祝して、乾杯っ!」
『かんぱ〜いっ!』
 いつもの居酒屋で打ち上げがはじまった。
 大勢での打ち上げは、とても賑やかで楽しい。
「で、綾。なんで圭太を相手にしたわけ?」
「なんでって、やっぱり圭太の方が見た目的にいいじゃない」
 柚紀は、早速綾にくだを巻いていた。
「まあ、見た目がいいっていうのは当然だけど、でもだからって、なんで人の彼氏を相手にするのよ」
「いいじゃない、別に。それで柚紀に不都合が生じたわけじゃないんだからさ」
「それはそうかもしれないけど。なんか納得いかないのよね」
「だったら、柚紀もなにかすればよかったのよ。寸劇以外はある程度自由でできたんだからさ」
「そんなの、今更でしょ?」
「ま、そうなんだけどね」
 ふたりの、というよりは柚紀のただならぬ勢いに圧されて、ふたりの側にはほとんど誰も近づかなかった。
「で、綾」
「うん?」
「圭太に手、出してないでしょうね?」
「出してるわけないじゃない。そりゃ、ちょっとコロッといっちゃいそうにはなったけどね」
「ううぅ〜……」
 そう言いながら綾は、柚紀にわからないように唇に触れた。
「だけどさ、柚紀」
「なに?」
「よく圭太の彼女、やってられるわね」
「どういう意味?」
「ほら、あれだけ見た目もかっこよくていろいろ気が付くし、優しいし。そんな圭太とずっと一緒にいると、自分と比べたりしない?」
「まあ、そういうことがないこともないけど。でも、それ以上に私は圭太のことが好きだからね。そんなことは些細なことなのよ」
「なるほどね。そういう考えを持ってる柚紀だからこそ、逆に圭太の彼女をやってられるのね。納得納得」
 綾は大きく頷いた。
 その話題の圭太は、まずはともみ、幸江、祥子の三人に囲まれていた。
「これでまた、圭太のファンが増えるわね」
「ホント、着実に地元の人気者の階段を上ってるわ」
「いいことなのか、悪いことなのか、わかりませんね」
 年上の三人は、ため息ともなんともつかない息を漏らし、苦笑した。
「ところで圭太。どうして挨拶なんかしようと思ったわけ?」
「別に挨拶はどうでもよかったんですよ」
「そうなの?」
「本当は先生に花束を渡すだけでよかったんですけど、ただ渡すだけだと唐突ですし、面白くないので、じゃあ、いっそのこと挨拶でもしようと思って」
「ふ〜ん」
「でも、圭くんらしいね、その考え方」
「先生には本当にいろいろ迷惑をかけてますから。今回は特に一部でも指揮を頼みましたし。その罪滅ぼしってわけじゃないですけど、なにか形にしたいと思って」
「なるほどね」
「でも、あれだけ大勢の前でコンクールの目標まで言って。あれってつまり、もう後戻りできなくするためなの?」
「それもあります。普通に参加するだけでもうちは注目されるとは思いますけど、ああ言えばさらに注目されるじゃないですか。そうすると、こっちも一生懸命がんばらないといけないって思えますし」
「つまり、あの挨拶さえもだしに使われたわけね」
「圭太も案外えげつないことするわね」
 ともみと幸江の言葉に、圭太はただ微笑むだけだった。
 次に圭太を囲んだのは、紗絵、朱美、詩織の二年トリオである。
「これで僕の肩の荷も少し下りたかな。あとは、紗絵ががんばってくれるだろうし」
「わ、私ですか?」
「そうだよ。コンクールは別に僕が部長じゃなくても十分やれるからね」
「そっか。もう紗絵が部長になるんだ」
「朱美まで……」
「でも、紗絵だって部長になる気はあるんでしょ?」
「うん、まあ、それはね」
「だったら覚悟を決めないと」
 詩織はそう言って笑った。
「心配しなくても、少なくとも合宿までは僕が主導権を握ってるよ。そのあとは、紗絵に任せるけど」
「ううぅ、わかりました。覚悟を決めておきます」
「がんばって。期待してるから」
 圭太に期待してると言われては、紗絵も応えないわけにはいかなかった。
 次に圭太の側にいたのは、琴絵だった。
「コンサートの感想は?」
「大変だったけど、楽しかったよ。みんなが一生懸命になってる理由が、よくわかった気がする」
「それがわかれば、来年もしっかりやれるな」
「そのつもりではやるけどね」
「じゃあ、来年のコンサートも楽しみだ」
「お兄ちゃんに認めてもらうのは、かなり大変そうだけどね」
 そう言って琴絵は笑った。
「それはそうと、お兄ちゃん」
「うん?」
「綾先輩とはなにもない?」
「綾と? あるわけないじゃないか」
「でも、踊ってる時の先輩の顔、とってもいい顔だったから。お兄ちゃんとなにかあったのかなって思って」
「そりゃ、綾は魅力的だとは思うけど、僕と彼女とは、親友っていう関係が一番あってるんだよ」
「親友、か」
「男と女に友情は芽生えないと思ってるのか?」
「そんなことはないけど。うん、まあ、お兄ちゃんがそう言うならそうなんだろうね。今までみたいなことがなければ」
 圭太のことを信じながらも、苦言を呈すことも忘れない。そこはさすがは妹である。
「でも、お兄ちゃん。あとで柚紀さんにいろいろ言われるんじゃないの?」
「たぶんね。でも、僕より先に綾にいろいろ言ってるみたいだから、被害は最小限に食い止められると思うけどね」
「ホント、お兄ちゃん、柚紀さんに影響受けまくりだね。性格、結構似てきたもん」
「ずっと一緒にいれば、少しくらいは影響も受けるよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 最後はやはり、柚紀である。
「はあ……」
「いや、いきなりため息をつかれても困るんだけど」
「かっこよくて優しすぎる彼氏を持ってるのも、大変だと思ってね」
「綾になにを言ったの?」
「文句。なんで人の彼氏をわざわざ相手に選んだのかって。まあでも、一応納得したから、喧嘩別れしたわけじゃないわよ」
「だろうね」
 圭太は苦笑した。
「で、圭太。ホントに綾とはなにもなかったの?」
「なにもないよ。ちょっと練習して、あとは本番だったし」
「それならいいけど。もしなにかあったら、さすがの私も今回ばかりはどう出るかわからないからね」
「肝に銘じておくよ」
「ただでさえ今は凛という危険人物がいるんだから」
 柚紀は、やれやれと肩をすくめた。
「……圭太、凛に迫られたら、断れないでしょ?」
「どうだろう? 今はまだ大丈夫だと思うけど、これから先は、情けないけど断言はできないかな」
「はあ、そうよね。それは私もわかってるのよ。凛も本気だし。そういう本気な想いをむげにできないのが、圭太のいいところでもあるからね。だからこそ、綾とそういうことがないようにって言ってるの。わかる?」
「わかってるよ。それに、本当に綾とはなんにもなかったから」
「まあ、今回は圭太を信じましょ。それも、彼女の役目だろうし」
「ありがとう、柚紀」
 打ち上げは、とても和やかな、でも賑やかな中、過ぎていった。
 
 打ち上げが終わると、三々五々家路に就く。
「これで次は、コンクールね。コンクールに向けてはどう?」
「やれることはすべてやりますよ。コンサートの終盤の練習で結構きつい練習もやりましたから、少しくらいの練習には耐えられると思いますし。だから、県大会にみっちりやってもらうつもりです。あと、僕もやりますし」
 それを聞いた柚紀、琴絵、朱美、紗絵はあからさまに顔をしかめた。
「あははは、圭太に本気で指導されたら、何人残れるのかしら」
「そうですね。でも、それに耐えられたら相当のレベルになれるのは、間違いないですよね」
「だよね。となれば、全国で金賞どころか、一位も夢じゃないわ。もちろん、それはあくまでも圭太の指導に耐えられたら、の話だけど」
「あの、ともみ先輩に祥子先輩。人ごとだと思って好き勝手に言ってませんか?」
「あ、やっぱわかる? そりゃそうよ。私だって圭太の指導に耐えられるかどうかなんてわからないし」
「私も微妙かな。圭くんの指導はほかとは違うから」
 ともみと祥子は、そう言って微笑んだ。
「でも、みんなだって全国で金賞取りたいって思ってるわけでしょ? だったら、少しくらい大変なことも我慢しないと。それに、全国常連校はうちなんかよりもはるかにきつい練習してるところもあるんだから」
「まあ、そうですけど……」
「ま、その辺のさじ加減は圭太次第でしょ。ね、圭太?」
「びしびしいきますよ」
「だそうよ」
 夜空に、それぞれの笑い声が響いた。
 こうして、圭太にとっては最後のコンサートも大成功で終わった。
 
 三
 七月三日はまたも雨となった。
 前日がコンサートだった吹奏楽部員にとってはちょうどいい雨だったかもしれないが、世の中の大半の者にとっては、憂鬱な雨となった。
 柚紀は、去年と同じように高城家に泊まっていた。
 朝、目が覚めるとすでに隣に圭太の姿はなかった。
「ん〜、圭太、もう起きちゃったのか……」
 柚紀は、目を擦って時計を見た。
「……って、もうこんな時間なの?」
 時計は、すでに十時をまわっていた。
「うわ、やばい。泊めてもらったのにこんなに寝ちゃって」
 慌てて飛び起き、着替える。
 着替え終わると、すぐに下に下りる。
「おはよう」
 リビングには、圭太の姿があった。
「おはよ、圭太」
「よく眠れた?」
「眠れたけど、ちょっと寝過ぎ。さすがにこんなに寝るとは思わなかった」
 髪を気にしながら嘆息混じりに言う。
「朝食どうする? あと二時間もすれば昼食だけど。なにか軽いものでも食べる?」
「ん〜、少しだけなら」
「了解。柚紀はその間に、髪、整えてきたら」
「うん」
 圭太は柚紀にそう言ってから台所へ。
 一方柚紀は、圭太に言われるまま洗面所へ。
「はあ、圭太にあそこまでさせちゃ、彼女としてはダメよね」
 顔を洗い、ため息をついた。
「ホント、できた彼氏を持つと大変だわ」
 髪を整えながら苦笑する。
 顔を洗って目を覚まし、髪を整えてようやくいつもの柚紀に戻った。
 台所に顔を出すと、圭太はちょうどフレンチトーストを作っているところだった。
「どうして起こしてくれなかったの?」
「うん? いや、すごくよく眠ってたから起こすのも悪いと思って」
「別に起こしてくれてもよかったのに」
「それに、柚紀の寝顔を見ていたかったからね」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「柚紀のあどけない表情を見られるのは、寝ている時だけだからね」
「それって、喜んでいいの?」
「さあ、僕にはわからないけど。ただ、僕は柚紀の寝顔を見るの、好きだからね。その機会を失うようなこと、そうそうしないよ」
「むぅ、そんなこと言われたら、なにも言えないじゃない……」
 そう言いながらも、まんざらでもない様子である。
 すぐにトーストができ、紅茶と一緒にテーブルに並んだ。
「そういえば、琴絵ちゃんと朱美ちゃんは?」
「琴絵は店の方に。朱美は部屋にこもってなにかやってるよ」
「そっか」
 トーストを食べながら頷いた。
「今日は、別になにも予定はないのよね?」
「まあね。ただ、午前中は店の手伝いをしようと思ってるけど」
「なんで?」
「ともみ先輩も祥子先輩も午後からだから」
「ああ、なるほど」
「でも、柚紀がつきあってほしいって言うなら、別にいいよ。うちには朱美もいるし」
「ん〜、そこまでしなくてもいいよ。どうせ午後は大丈夫なんでしょ?」
「まあね」
「だったら、午前中は私もお店を手伝うから」
「わかったよ」
 柚紀が朝食を食べ終えると、ふたり揃って店の方に出る。
「おはようございます、琴美さん」
「おはよう、柚紀さん。ゆっくり休めた?」
「はい。あまりにゆっくり休みすぎて、寝坊しましたけど」
「ふふっ、今日は休みなんだから気にしなくてもいいのに」
「そういうわけにはいきませんよ。私はお客じゃないんですから」
「そうね。じゃあ、今度そういうことがあったら、遠慮なく起こすわね」
「はい」
 こういう会話は、本当に『親子』のものである。
 それから午前中の間、圭太と柚紀は『桜亭』の手伝いをした。
 とはいえ、雨の日はお客が少ないので、それほどすることなどなかった。
 そろそろ昼という頃、ともみがやって来た。
「あら、今日は柚紀も手伝ってるんだ」
「ええ。別に私はお客として泊まったわけじゃないですから」
「なるほどね」
 ともみは得心という感じで頷いた。
「じゃあ、これで柚紀もこれでお役ご免ね」
「そうですね。これでやっと圭太とゆっくりできます」
「まったく、いちいち言わなくていいのよ」
 ともみは肩をすくめた。
 昼食は、琴絵が作った五目チャーハンだった。このあたりの料理を苦もなく作れてしまうところは、琴絵のすごいところである。
 昼食を終えると、ようやく休日の午後という感じになった。
「なにしてるの?」
「ん、コンクールのメンバーを決めてるんだよ。明日、先生に提出だから」
「そっか」
 圭太の前には、この前のようなノートではなく、ちゃんとした用紙が置かれ、そこにとりあえず決まっているメンバーが書かれていた。
「圭太としては、誰をメンバーに入れようと思ってるの?」
「とりあえず、ホルン、ペット、ボンの一年六人。クラとサックスでふたり、もしくは三人。ふたりの場合はユーフォかな」
「なるほど。それが妥当な線か」
「本当はね、木管ももう少し増やしたいんだけど、もともと人数がいるからね」
「まあ、五十人ていう決まりがあるんだからしょうがないでしょ。圭太みたいにもっと入れたいっていう学校はたくさんあるだろうし」
「そうだろうね。人数が多くなるとあわせるのは大変だけど、ちゃんと決まった時の音の厚さは魅力的だからね」
 話をしながらも圭太は着々とメンバーを決めていく。
「……こんなもんかな」
「どれどれ?」
 柚紀は、決まったばかりのメンバー表を手に取った。
「クラは、琴絵ちゃんにしたんだ」
「私情は挟んでないよ。ただ単に、五人の一年の中で琴絵が一番使えると思っただけ」
「わかってるって。圭太は絶対に私情を挟まないからね、こういうことには」
 圭太の最終案では、クラ一、サックス二、ホルン二、トランペット二、トロンボーン二ということになっていた。
「あとは、先生がどういう判断を下すかだね。特にサックスのふたりは、微妙だし。一年の三人はほぼ同じくらいの実力だから」
「でも、それ以外はこれで決まりでしょ?」
「よほどのことがない限りはね」
「じゃあ、琴絵ちゃんに──」
「それは先生から直接発表してもらうまで待って。これはあくまでも案でしかないんだから。あくまでも決めるのは先生だから」
「まったく、真面目なんだから。ま、いいわ。圭太の意見を尊重しましょ」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「ところで圭太」
「うん?」
「それでもう、なにもすることないんでしょ?」
「そうだね。とりあえずはなにもないよ」
「だったら、いちゃいちゃしよ」
「へ……?」
「ほぉら、こっち」
 柚紀は、圭太を強引にベッドに引っ張り込んだ。
「圭太はここ。で、私はここ」
 圭太を壁を背に座らせ、自分はその前にやはり圭太を背に座る。
「ん〜、こうしてると、圭太に包み込んでもらってるって感じがする」
 圭太に体を預け、柚紀は心地よさそうに言う。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「圭太にとって、結婚、てどういう意味を持ってるの?」
「また唐突だね」
 圭太は柚紀の髪を梳きながら苦笑した。
「ほら、圭太が先に言い出したじゃない、一緒になろうって。だから、圭太にとって結婚てどんな意味を持ってるのかなって」
「そうだね。僕にとって結婚は、本当の家族になるために必要な条件だと以前は思ってた」
「以前は? じゃあ、今は違うの?」
「もちろんそれを全否定してるわけじゃないけど、別に結婚しなくても本当の家族になることは可能だって、わかったから。だから、今の僕にとっての結婚は、大事な人を手元に置いておくための、いわば戒めみたいなものだね。結婚すれば、誰かに取られる可能性がぐっと低くなるから」
「なるほどね」
「そう言う柚紀は?」
「私? 私は、やっぱり家族になるために必要なことかな。それと、結婚自体に憧れてるっていうのもあるし。まあ、正確に言えば、綺麗な花嫁さん、なんだけどね」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「柚紀なら、誰もが認める綺麗な花嫁になれるよ」
「ありがと。でも、圭太との結婚は、普通の結婚とは違って安穏とはしてられないって、最近思うんだ。圭太のまわりには、あまりにも本気で圭太を想ってる人が多いから。なんたって、妹の琴絵ちゃんからしてもう最強のライバルだから」
「まあ、そうかもしれないけど」
 圭太もあえてそれを否定しなかった。
「だから、今の私にとって結婚は、新たな戦いのはじまりだと思ってるんだ」
「新たな戦い?」
「そう。いかに圭太の一番であり続けるか。いかにみんなに勝ち続けるか。そうじゃないと、全然意味がないから」
「……なるほど」
「言い方は悪いかもしれないけど、圭太には私だけじゃなくみんながいるけど、私には圭太しかいないんだから。そして、今こうしていられるのは、圭太の一番だって思えてるから。それがなくなっちゃったら、私はどうしたらいいかわからない」
 柚紀は、少しだけ泣きそうな顔で言う。
 そんな柚紀を圭太は、後ろから優しく抱きしめた。
「大丈夫だよ。どんなことがあっても、僕の柚紀に対する想いだけは変わらないから。最初に僕が好きになったのは、ほかならぬ柚紀なんだから。僕のことを一途に真っ直ぐ見つめてくれる柚紀を好きになって、そして一緒になりたいと思ったんだから」
「……うん、そうだね」
「だから、そんな顔しないで」
 圭太は、柚紀にキスをした。
「ん、あ……」
 そのまま舌を絡め、唇をむさぼる。
「ん、ん……はあ……」
 唇を離すと、唾液がスーッと糸を引いた。
「圭太……しよ……」
 圭太は小さく頷き、改めてキスをした。
「ん、ん、あ……ん……」
 ついばむようにキスを繰り返し、柚紀をベッドに押し倒す。
 押し倒してからもキスをし、その間にワンピースの前ボタンを外していく。
 白のブラジャーがあらわになると、今度はそこにキスをする。
「んっ」
 一瞬の鋭い快感に、柚紀は体をびくっとさせた。
 ブラジャーをたくし上げ、少し硬くなっている突起を口に含む。
「や、ん……」
 吸い上げ、舌で転がし、甘噛みする。
「んっ、あんっ」
 すっかり硬くなった突起を執拗に攻める。
「やんっ、圭太、気持ちいいの」
 肌が少しずつピンク色に染まってくる。
「ん、はあ、圭太……胸だけじゃなくて、下もして……」
「わかってるよ」
 圭太はスカートをまくり、ショーツの上から秘所に触れた。
「あんっ」
 スリットに沿って指を動かし、わずかに指を押し込む。
「んんっ、ああっ」
 途端、じわっと蜜があふれてくる。
「もうこんなに濡れてるよ」
「圭太がいっぱい感じさせたからだよ」
「じゃあ、やめる?」
「やめない」
 即答だった。
 圭太は苦笑しつつ、ショーツを脱がせた。
 足を広げさせ、まずは指を入れる。
「んんっ、あんっ、んあっ」
 指で中をかき混ぜる。
「んくっ、んはあっ、あんっ」
 くちゅくちゅと淫靡な音を立て、蜜がどんどんあふれてくる。
「指が、私の中を……んんくっ、気持ちいいっ」
 右手で中をかき混ぜながら、左手で敏感な突起を擦る。
「やっ、あんっ、ああっ、ダメっ」
 無意識のうちに足を閉じようとするが、もちろん圭太はそれを許さない。
 指を抜くと、蜜でびしょびしょになっており、柚紀がすでに準備万端であることがわかった。
「ねえ、圭太ぁ……ほしいよぉ……」
 柚紀はとろんとした表情で圭太をねだる。
「じゃあ、柚紀。後ろ向いて」
「うん」
 言われるまま後ろを向く。
「ちょっとだけ声抑えてよ」
「うん、わかってる」
 そう言って柚紀は、枕に顔を埋めた。
「いくよ?」
「うん、きて」
 圭太は、怒張したモノを後ろから突き入れた。
「んんっ!」
 それだけで柚紀は軽く達してしまったようである。
「ん、はあ、圭太のが、奥まで届いてる……」
 ゆっくりとモノを抜き、また押し込む。
「んんっ、もっと激しく突いてっ」
 緩やかな快感にもどかしさを感じ、柚紀は圭太に催促する。
 圭太は、少しだけ強く、速く腰を動かした。
「あんっ、んんくっ、奥に当たってるっ」
「柚紀の中、すごく気持ちいいよ」
「私も、圭太のすごく、んんっ、気持ちいい」
 圭太も少しずつ感覚が麻痺してくる。
 より激しく、より速く、より大きく。
 圭太は腰を打ち付け、モノを突き入れる。
「あんっ、ああっ、あああっ、あっ、あっ、あっ、んんんっ」
 もはや声を抑えるなどということは頭の片隅にもなかった。
「圭太っ、気持ちいいっ、もっと、もっとっ」
 柚紀は、嬌声を上げながら、自ら胸をいじっている。
「んああっ、はあんっ、あんっ、ああっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
 さらに増す締め付けに、圭太は堪えるので精一杯だった。
「ダメっ、私、イっちゃうっ」
「僕もだよ」
「ああっ、一緒にっ、一緒にイってっ」
 じゅぷじゅぷと蜜がかき混ぜられ、淫靡な音が耳に届く。
「圭太っ、圭太っ、あんっ、ああっ、ああっ、んはあっ、んんああああっ!」
「柚紀っ!」
 圭太は、柚紀の最奥に白濁液を放った。
「ん、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「声、出ちゃったね」
「そういえば、そうだね」
「でも、気持ちよかったから、いっか」
 柚紀はにっこり笑った。
 そんな柚紀に圭太は、キスをした。
 
「ん〜、圭太♪」
 柚紀は、ニコニコと笑顔を浮かべ、圭太にすり寄っている。
「好き〜、大好き〜♪」
 それに対して圭太は、少しだけ困った顔で柚紀の為すがままになっている。
「はあ、ずっとこうやって圭太といちゃいちゃしてたいなぁ」
「さすがにそれは……」
「わかってるけど、できるだけそうしたいなって意味」
「それならできるとは思うけど」
 と、その時、ドアがノックされた。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
「ん、いいよ」
 入ってきたのは琴絵である。
「はろ〜、琴絵ちゃん」
 すこぶる機嫌のいい柚紀は、そう言って琴絵を迎えた。
 一瞬、琴絵の表情が引きつったが、それでも取り乱さなかったのはさすがである。
「あのね、お兄ちゃん。ちょっと教えてほしいことがあるんだけど」
「教えてほしいこと?」
「うん。だから、部屋に来てくれるかな?」
「まあ、いいけど」
 隣の柚紀を見る。
「別にいいわよ。だって、私も一緒に行くから」
 琴絵は、ふたりを連れて自分の部屋に戻った。
 机の上には、数学の教科書とノートが広げられていた。
「この問題なんだけど」
 圭太は、さっとその問題を見る。
「ああ、これは──」
 圭太はその問題の解き方だけを教える。決して答えは教えない。
「この公式を当てはめればすぐわかるよ」
「ちょっとやってみるね」
 ペンを持ち、実際に問題を解く。
 それまで解けなかった問題が、なんの苦もなく解けた。
「ホントだ。簡単に解けたよ」
「これは一見するとこの公式を使わないように見えるんだけど、実際はこれが一番簡単に解けるんだよ。試験なんかにも結構出るから、覚えておくといいよ」
「うん、そうする」
「ねえ、琴絵ちゃん」
「はい、なんですか?」
「琴絵ちゃんて、いつも圭太に勉強教えてもらってるの?」
「いつもってわけじゃないですけど、結構教えてもらってます。あと、鈴奈さんがいた時は鈴奈さんに教えてもらったこともあります」
「ふ〜ん、そっか」
「あの、それが?」
 琴絵は首を傾げた。
「ああ、うん、たいしたことじゃないの。そういうのがやっぱり普通なのかなって思って」
「どういう意味ですか?」
「私はお姉ちゃんにそんなに教えてもらうことなかったなって思って。基本的に自分でやってたから」
「それは、柚紀さんが頭がいいからですよ。私だってもう少し頭がよかったらお兄ちゃんや鈴奈さんのお世話にはなってなかったかもしれませんし」
「そういうもんかなぁ」
 今度は柚紀が首を傾げた。
「圭太は、誰かに聞いたりしてた?」
「どうしてもわからないところは鈴奈さんに聞いてたけど」
「圭太ですら聞いてたわけよね。う〜ん、やっぱり私が変なのか」
「そんなことないよ。勉強方法なんて人それぞれなんだから。柚紀は誰にも聞かないという方法をとり、琴絵は聞くという方法をとった。それだけだよ。どっちにしなくちゃいけないってことはないんだから」
「うん、まあ、そうね。今更お姉ちゃんに聞くようなことないし」
 さらっとひどいことを言う柚紀。
「ところで琴絵ちゃん」
「はい」
「やっぱりさっき、聞こえてた?」
「な、なにがですか?」
 琴絵は、頬を赤らめ視線をそらした。
「私と圭太が、してる声」
「え、えっと……」
「柚紀。わざわざ聞かなくてもいいじゃないか」
「一応確認しておきたくて。今後の参考にもなるし」
「今後の参考?」
「ほら、どのくらいの声なら聞こえないのかなって」
 にこやかに言う柚紀に、圭太と琴絵はさすがに呆れ気味である。
「でも、してると抑えられなくなっちゃうから、意味ないか」
「あうぅ〜……」
「柚紀。もうその辺にして」
「ふふっ、照れてる琴絵ちゃん、カワイイ」
「あ、あうぅ〜」
 柚紀は、琴絵をギュッと抱きしめた。
「私もお姉ちゃんじゃなくて、琴絵ちゃんみたいな妹がほしかったなぁ」
「そんなこと言うと、咲紀さんに悪いよ」
「いいの。どうせお姉ちゃんは自分のことしか考えてないんだから」
 圭太はやれやれと肩をすくめた。
「お、お兄ちゃ〜ん」
「柚紀。もうその辺で琴絵を離してあげてよ」
「むぅ、まだギュッとし足りないんだけどなぁ」
「それはまた今度に」
「しょうがない」
 圭太に言われ、渋々離した。
「そうだ、琴絵ちゃん」
「な、なんですか?」
 一瞬琴絵が逃げの体勢に入った。
「やだなぁ、もうしないって」
「す、すみません……」
「あのさ、今度私が泊まった時、一緒に寝よう」
「はい?」
「いや、圭太と寝るのはそれはそれでやめられないんだけど、たまには琴絵ちゃんとも寝たいなぁって」
「え、えっと……」
 琴絵は、圭太に助けを求める。
 しかし、圭太は力なく首を振るだけだった。
「……わかりました」
「ホント? よかった。私、琴絵ちゃんと話したいこと、たくさんあって。それこそそれだけで徹夜できるかも」
 冗談めかしてそう言うが、半分くらいは本気である。
「じゃあ、琴絵ちゃん。約束だからね」
「はい」
 ようやく柚紀から解放され、琴絵もホッと胸を撫で下ろした。
「それで、ほかに聞きたいことは?」
「あ、うん。とりあえずはないよ。ごめんね、お兄ちゃん」
「いや、いいよ。わからないのをわからないままにしてるよりはよっぽどね」
「うん、ありがとう」
「じゃあ、僕たちは部屋に戻るから」
「うん」
 ふたりは琴絵の部屋を出て、圭太の部屋に戻った。
「ちょっとやりすぎたかな?」
 部屋に入るなり柚紀はそう言った。
「別に怒ってたわけじゃないけど、もう少し考えてやった方がよかったかも」
「琴絵ちゃんカワイイから、ついつい過激になっちゃうのよ」
「まあ、次からもう少し考えてくれればいいよ」
「わかってるって。琴絵ちゃんは近い将来、私の『義妹』になるんだから。大切にするわよ」
「そういう問題なのかなぁ……?」
 圭太は首を傾げた。
「そんなことより圭太」
「ん?」
「今日は、もっともっといちゃいちゃしよ」
 そう言って柚紀は満面の笑みを浮かべた。
 
 四
 七月四日。
 その日、吹奏楽部では二日前のコンサートの反省会とコンクールのメンバー発表が行われた。
「まず、今回のコンサートの総括を先生にお願いします」
「今回のコンサートは、例年になく仕上がりが早かったおかげか、とてもいいできだったわ。特に、一年生の伸びには目を見張るものがあったわね。GWの時にはどうなるかと思ったけど、あそこまでの演奏ができたんだから、あなたたちの努力を認めないわけにはいかないわ。このあとコンクールのメンバーを発表するけど、それに選ばれた一年生は、今回と同じようにしっかり練習して、本番に臨んで。それぞれの演奏についてはもちろん完璧とはいかなかったけど、すべてがまあまあ以上の評価だったわ。二部に関しては私は関知してないけど、それもなかなかの演奏だったし。今回のことでよくわかったと思うけど、やればやった分だけ結果に表れるのよ。私や圭太が合奏で厳しく指摘したことも、本番にはちゃんと活きてたから。厳しいのはあなたたちにとってはイヤなことで、できればやめてほしいと思ってるだろうけど、それは私や圭太も同じよ。厳しくしないでできるなら、それが一番いいの。でも、それじゃあできないから、しょうがなくそうしてるんだから、そのあたりのことは勘違いしないで。だから、コンクールに向けての練習でも、なるべく厳しくさせないよう、不断の努力をするように。なにはともあれ、コンサートは大成功だから、それはそれで誇りに思っていいわ」
 菜穂子は、笑顔で締めくくった。
「ありがとうございます。じゃあ、次に、コンサートでの問題点を──」
 それからそれぞれが気付いた問題点を上げてもらい、それがどうして起きたのか、防げなかったのか、もし次に起きたらどうするのか、などの意見を出しあう。
 大成功に終わったコンサートであっても、問題点は様々あった。
 今回の最大の問題は、チケット問題だった。前売りでほぼ完売していまい当日券がほとんど出なかった。そのため、聴きたいと思ってる人に聴いてもらえなかった。もちろん圭太の判断で何人かはお金をもらって中に入れたが、やはりそれは応急措置である。
 解決策としては、各部員の割り当て分を無理に売り切らず、残ったらそれを当日分にまわす。招待券の配り方を考える。というものが上がった。
 もちろん、それらを実行に移すかどうかは、一、二年に任せられた。次のコンサートの主役は、圭太たち三年ではないのだから当然である。
「だいたいこんなところかな? ほかにはないね?」
 圭太は一同を見渡す。
「じゃあ、先生。メンバーの発表をお願いします」
「一年生でも吹奏楽経験者は知ってると思うけど、大編成の部は五十人までと決まってるから、全員は出られないの。今年は全員で六十六人いるから、十六人がメンバーから漏れることになるけど、そうなってしまったメンバーも、演奏するメンバーと同じように、気持ちをひとつにしてこれからの練習に臨んで。ここできっちり練習しておかないと、コンクールが終わったあと、苦労するから。もちろん、私も容赦なく指導するけど」
 菜穂子は、少し厳しい表情で言った。
「じゃあ、メンバーを発表するわね。メンバーは、まず二、三年生の全員。それと、一年生が九人の合計五十人。個別に発表するわね。クラから、高城琴絵。サックスから、橋本千鶴、五十嵐靖。ホルンから、村越いずみ、氷室茜。トランペットから、井上和美、野中明雄。トロンボーンから、須藤修一、安西大志。以上の九人。選ばれた九人は、ほかのメンバー同様、これからコンクールまでみっちりしごくから、そのつもりで。ただし、途中で使えないと判断したら、遠慮なくほかのメンバーと交代させるからそのつもりで」
「先生、ありがとうございました。各パートリーダーは、コンサートとはパート内パートを変える必要があるかもしれないから、それはできるだけ早めに。今週中にはコンクールのメンバーでの合奏をはじめるから。地区大会本番まであと三週間。県大会までは一ヶ月ちょっと。たったそれだけととるか、まだそんなにあるととるかは、それぞれの自由だけど、少なくとも僕は後悔するような演奏をするつもりはさらさらないから。だから、後悔しないだけの練習をして、合奏をして、本番を迎えたいと思ってる。あくまでも目標は、三年連続全国金賞だから。その目標を達成するにはどうすればいいか。各自よく考えて練習してみて。それじゃあ、反省会とメンバー発表は終わり。時間まで練習」
 それぞれ楽器を持ち出し、練習をはじめる。
 基本的にはパート練習が行われ、早速コンクールに向けての練習に入っていた。
 トランペットもそうで、コンクールに向けての練習方針を説明していた。
「うちはコンサートとメンバーが変わらないから、練習についてもそれほど変えるつもりはないよ。ただ、コンクールは課題曲と自由曲の二曲だけだから今まで以上に濃い練習を行わないと、レベルの高い演奏はできないから。僕もできるだけパー練を行うから、個人練の時に目的意識をしっかり持って練習して。じゃないと、厳しくしないといけなくなるから」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「基本的な練習の方法は、紗絵と満はそれぞれ個人で。和美と明雄の指導を僕と夏子とでやるから。もちろん、紗絵も満も僕たちにいろいろ聞いてもらって構わないよ。なにも聞かないでいるよりは、聞いてもらった方がよっぽどいいからね。あとは……僕からは特にないかな。夏子はなにかある?」
「私も特には」
 夏子は首を振った。
「みんなは?」
 誰からも声は上がらなかった。
「じゃあ、今日はもう時間も少ないから、個人練にするから」
 その言葉で練習がはじまった。
 圭太は曲の練習はいっさいせず、基本練習に時間を費やした。それは時間が少ないというのもあったが、前日が休みだったということもある。一日練習しないと、それを取り戻すのにそれなりの時間を要するのである。
「圭太」
 そんな練習をしていると、夏子が声をかけてきた。
「ん、どうかした?」
「あ、うん。ちょっと相談があるの」
「相談?」
「あのさ、課題曲、私がファーストでしょ? それ、替えた方がいいんじゃないかって思って」
「誰に替えるの?」
「圭太に」
「……悪いけど、そのつもりはないよ」
「……どうして?」
「ただ不安なだけでパートを変更するわけにはいかないからね。それに、今のパート分けはそれぞれの実力を考えた上でのものだから。僕は、夏子ならちゃんとファーストをこなせると思ってる」
 夏子は、わずかに視線をそらした。
「不安になるのはわかるよ。僕だって自由曲のファーストが上手くできるかどうか今から不安だからね。でも、そうとばかりは言っていられないんだよ。やらなくちゃいけないんだから」
「それはそうだけど……」
「大丈夫だよ。同じファーストで紗絵もフォローするし、なによりも曲はひとりで創り上げるものじゃないからね。みんなでひとつの音に仕上げるわけだから、少しくらい失敗しても、必ずどこかで取り戻せる。そういう風に考えれば、幾分気持ちも楽になると思うけど」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「とりあえず、もう少しがんばってみよう。それでもなお不安だっていうなら、またその時に考えるよ」
「……ごめん、圭太。余計なこと言って」
「いいよ。夏子の気持ちも十分わかるから。ただ、できればもうその話題は終わりにしてほしいけどね」
「そのあたりは、要努力ということで」
「了解」
 ようやく夏子にも笑みが戻り、圭太も穏やかに微笑み返した。
「さてと、もう少し練習しないと」
 練習を繰り返すということが、不安を払拭するための近道なのである。
 
「とりあえず琴絵ちゃんは順当にメンバーに選ばれたわけだけど、どう?」
「えと、とりあえずがんばらなくちゃいけないとは思いました」
 その日の帰り道。
 話題は琴絵がコンクールのメンバーに選ばれたことだった。
「琴絵ちゃんは三中で厳しい練習に耐えてきたわけだから、少しくらいの練習は大丈夫よね」
「そんなことないですよ。三中と一高とでは練習の仕方が違いますから」
「でも、去年は紗絵ちゃんだって大丈夫だったし、基本的に三中出身者は大丈夫みたいよ」
「だといいんですけど」
 琴絵はそう言って薄く微笑んだ。
「じゃあ、まずは先輩として、紗絵ちゃんはどう思う?」
「そうですね。琴絵はちゃんと練習してますから、たぶん大丈夫だと思いますよ」
「うんうん、なるほど。朱美ちゃんは?」
「私も大丈夫だと思います。練習も私なんかよりもよっぽど熱心ですし」
「それはそれで問題があると思うけど」
 ぼそっと圭太が突っ込む。
「圭太は?」
「もちろん大丈夫だと思ったからこそ候補に選んだんだよ。少なくとも、三中でやってたくらいちゃんとやれれば、うちでも問題はないと思うよ」
「というわけで、琴絵ちゃんは大丈夫ということに決まりました」
「ただ──」
 柚紀が高らかにそう宣言したところで、圭太が言葉を挟んだ。
「やることをやらないと、後ろでその座を窺ってるのが四人もいるってことだけは、ちゃんと念頭に置いておかないと」
「ま、それはそうかもね。コンクールに出たいのは、なにも琴絵ちゃんだけじゃないものね。ほかの一年だってみんな出たいわけだし」
「ようするに、手を抜かないでしっかり練習しろ、ということだよ」
「はぁい」
 圭太と柚紀にそう言われ、琴絵も少しだけ神妙な面持ちで頷いた。
「メンバーも決まったことだし、あとはホントに本番に向けてがんばるだけね」
「そうだね」
 コンサートも終わり、メンバーも決まり、いよいよコンクールに向けての火ぶたは切って落とされた。
 
 同じ梅雨の時期でも、六月と七月とでは多少の違いがあった。雨量はそれほど変わらないが、気温が違った。六月の段階でもそれなりに気温が高く、蒸し暑いのだが、七月はそれ以上である。特に、雨が続くとそれが如実に表れる。
 七月七日はそんな雨の日だった。しかも三日連続である。
 当然のことながら天の川など拝めるはずもなく、ほぼいつも通りの七夕となりそうだった。
「こう蒸し暑いと、勉強する気もなくなるわね」
 柚紀は、下敷きで風を送りながら呟いた。というより、顔には覇気が見られない。
「同感。日本は夏休みだけじゃなく、梅雨休みを設けるべきよ」
 同じく凛も、下敷きで風を送りながら気怠そうに呟いた。
「梅雨休みは魅力的だけど、そうするとほかのあたりにしわ寄せが来るわね。夏休みが短くなったり、冬休みが短くなったり、春休みが短くなったり」
「それはそれで問題ね。学生の最大の特権は、長期の休みがあるってことだから」
「となると、必然的にこの不快さに耐えなくてはならないということになるわね」
「それしかないのね」
 ふたりは揃ってため息をついた。
「ところで、凛」
「ん?」
「夏休みの予定って、いつ頃わかるの?」
「ん〜、あたしも詳しくは知らないけど、来週中にはわかるんじゃない。大会の日程は決まってるわけだし、あとはいつ学校で練習するかだけだから」
「なるほど」
「一応プールは開放日があるから、その日を上手く調整しないといけないし」
「案外面倒なのね」
「別に水泳部だけじゃないわよ。グラウンドを使う部だって体育館を使う部だって、いろいろやりくりしてるんだから」
「そういえばそうね。うちも、講堂を使う時はバドミントン部が使ってない日、もしくは練習時間外にやってるわ」
「まあ、調整さえ済んでしまえばあとはなにも考えることなんてないけど」
「とすると……」
 柚紀はおとがいに指を当て、唸った。
「どうかした?」
「ん、ほら、夏休み中にデートするって決めたじゃない。だから、一応それも念頭に置いていろいろ考えなくちゃいけないと思って」
「柚紀たちはいつ休みなの?」
「県大会が終わったあと。ちょうどお盆の頃よ」
「お盆か。その頃ならうちも休みよ、たぶん。お盆期間中は学校が完全に閉まっちゃうでしょ? そうすると練習もできないし」
「じゃあ、その頃って考えておけばいい?」
「いいんじゃない? もちろん、けーちゃんも同意すればの話だけど」
「圭太も大丈夫よ。去年も一昨年も大丈夫だったし」
「よく知ってるわね」
「当然じゃない。去年はみんなで旅行に行ったし、一昨年はふたりで旅行に行ったし」
 そのふたりきりの旅行のことを思い出し、少しだけ頬を赤らめる。
「まあ、いずれにしても、早く梅雨が明けて、夏休みにならないことにはなにも考える気も起きないわ」
「そうね」
「あ〜あ、早く夏休みにならないかな」
 
 七月九日は、久々に晴れ間が広がった。
 前日までの雨がウソのように朝から綺麗に晴れ渡り、午後には湿度もだいぶ下がりそうな感じだった。
 そんな空模様と同じくらい晴れ晴れとしているのは、琴絵である。
「お兄ちゃん♪」
 朝、圭太が店の方で準備をしていると、それはもうニコニコとこぼれ落ちそうなほどの笑みを浮かべた琴絵が声をかけてきた。
「ん、どうかしたか?」
「ううん、特になにかあったわけじゃないんだけど」
 期待した言葉が返ってこなくて、琴絵は一瞬ひるんだ。しかし、そのくらいであきらめることはない。
「今日はとってもいい天気だね」
「ああ、昨日までの雨がウソみたいだ」
「こういう日は、どこかに遊びに行きたいよね」
「部活がなければそうかもしれないな」
「……むぅ、手強い」
 琴絵はそう呟き、少し考えた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「部活、午前中だけだよね?」
「ああ、そうだけど、それが?」
「午後は、時間があるってことだよね?」
「まあ、そうなるのかな」
「あのね、お兄ちゃん。私──」
「うわ〜、寝坊しちゃった」
 琴絵がなにか言おうとしたところへ、大慌ての朱美がやって来た。
「圭兄、おはよ」
「おはよう」
「琴絵ちゃんもおはよ。って、どうしたの?」
「……なんでもないよ」
 気勢をそがれ、琴絵は頬を膨らませその場をあとにした。
「んもう、お兄ちゃんのバカ……」
 少々波乱気味な誕生日の朝であった。
 
 その日の部活では、コンサート後最初の合奏が行われた。
「じゃあ、Eから」
 合奏は課題曲が中心だった。自由曲である『海』はコンサートに向けてかなりきっちりやったので、すぐにやらなければならないのは課題曲の方だった。
 それでも課題曲も少しはやってきているため、それほどひどい合奏にはならなかった。
「Fから木管だけ」
 とはいえ、指摘の回数が減るわけではない。菜穂子にしてみれば、直したいところは山とあり、いくら時間があっても足りないくらいだった。その中で地区大会までこのくらいという目標を定め、それを達成できるように指導している。だから、指摘のレベル的には決して高いものではなかった。
「まあ、今日はこのくらいにしておくわ。来週、また合奏をやるけど、それまでに課題曲を暗譜しておくこと」
 合奏の最後に、一番きつい指示が出た。
「楽譜を見ながらだと指揮を見ないから。なにも自由曲まで暗譜しろと言ってるわけじゃないんだから、しっかり暗譜しなさい。もちろん、その上で今日指摘したことも直しておくのよ。地区大会はシードされるから安心してるのかもしれないけど、私は審査されるのと同じ気持ちであなたたちを指導するから、そのつもりで。じゃあ、今日は終わり」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 合奏が終わると、一気に緊張感から解放される。
 合奏中、教室やなんかで練習していた一年を呼び入れ、ミーティングである。
「連絡事項がひとつ。来週の土曜日から講堂での練習をはじめるから。メンバーじゃない一年は、その時に打楽器の移動を手伝うように。あと、講堂の椅子並べも。音楽室と違って講堂は使える時間が限られてるから、準備は素早く。あともうひとつ。これは連絡事項というほどのものじゃないんだけど、先生が合奏できない時はまた僕が基本的に合奏するというのは、わかってるよね。で、その時は全員、合奏に出て。全員ていうのは、もちろんメンバー以外の一年もだよ。その時にいかにちゃんと練習をしてるかどうか見極めるから。いいね?」
『はい』
「それじゃあ、今日はここまで。おつかれさま」
『おつかれさまでした』
 ミーティングが終わると、ようやくそれぞれの顔に安堵の表情が浮かぶ。もっとも、メンバー以外の一年は思わぬことを言われ、困惑気味ではあった。
 そんな中、琴絵は気合いの入った表情で圭太に声をかけた。
「先輩」
「ん?」
「ちょっといいかな?」
 圭太を音楽室から連れ出す。
 まわりに誰もいないことを確認する。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「午後、私につきあってほしいの」
「つきあうって、デートか?」
「あ、うん」
 拍子抜けするほどあっけなくその言葉が出てきた。
「いいよ、別に。今日は琴絵の誕生日だし」
「じゃあ、なんで朝、私がいろいろ言ってた時に誘ってくれなかったの?」
「ん、とりあえずパーティーだけでいいかと思って。それに、デートしたいならしたいって言えば、僕だって断らないよ。それを遠回しに言うから」
「それはそうだけど。でも、自分の誕生日にプレゼントをおねだりしてるみたいで言いづらくて」
 琴絵は俯き加減に答える。
 圭太は、そんな琴絵の頭を優しく撫でた。
「少しくらいのおねだりなら僕だってちゃんと応えるよ。だから、次からはしてほしいことはちゃんと言うんだぞ?」
「うんっ」
 ようやく琴絵に朝の笑顔が戻った。
「お兄ちゃん。ありがと」
 
「暑いね」
 琴絵は手でひさしを作り、空を見上げた。
 家に帰った圭太と琴絵は、パーティーの準備を柚紀と朱美に任せ、早速デートに出かけた。
 突然のデートだったからどこに行くとか決めてなく、なんとなく駅前に出てきていた。
 土曜の昼下がり、駅前は大勢の人であふれていた。特に、天気がよくなったことで外出しようという気になったらしく、いつも以上に多かった。
「こういう陽差しを見ると、もう夏なんだって思えるね」
「そうだな。これからだんだんとこういう日が多くなるよ。今年の梅雨は少し早めに明けるかもしれないって言ってたし」
「そしたら、夏休みだね。今年はどこかへ行くの?」
「まだわからないよ。今年は祥子先輩のことがあるから」
「あ、そっか。先輩、八ヶ月になるんだよね。とすると、みんなでっていうのは無理か」
 琴絵はなるほどと頷いた。
「県大会って、いつなの?」
「大会自体は十日から十三日まで。高校大編成の部は、最終日の十三日」
「ということは、きっかり合宿までの間だけなんだ、休みは」
「そうなるね。まあ、それもいつものことだから、みんなそれほどの感慨はないだろうけど」
「えっと、合宿っていつからだっけ?」
「二十日からだよ」
「じゃあ、六日間あるんだ。そっか」
 指折り数え、頷く。
「ねえ、お兄ちゃん。六日間あるなら、一日くらい時間あるよね?」
「まあ、それは大丈夫だと思うけど」
「よかった」
 琴絵は何事か思いついたらしく、嬉しそうに微笑んだ。
「というわけでお兄ちゃん。ちょっと私につきあってね」
 なにが、というわけなのかはわからないが、琴絵は圭太をある店へと連れて行った。
 そこは、今が夏であるといやが上でもわかる場所だった。
「水着か」
 そこには色とりどり、デザインも様々な水着があった。もちろん女性用である。
「お兄ちゃんは、どんな水着がいい?」
「どんなって、着るのは僕じゃなくて琴絵だろ?」
「だって、見せたいのはお兄ちゃんだもん。だったら、お兄ちゃんの好みの水着の方がいいと思って」
「別に僕はどんなのでもいいけど」
「どんなのって、こんなのでも?」
 琴絵が手に取ったのは、布の面積がほとんどないようなハイレグビキニだった。
「別にいいけど、琴絵にそれを着る勇気はあるのかい?」
「うっ……それはないかも……」
「だったら、もう少し常識的なのを選べばいいよ」
「それしかないのかな」
 小さくため息をつき、改めて選びはじめた。
 色もデザインも様々なので、本気で選ぼうと思ったら相当時間がかかる。圭太としてはできるだけ早く決めてほしいと思っていた。さすがに女性用の水着売り場に男の姿があると、奇異な目で見られるのである。
「う〜ん、今年はちょっと冒険してみようかなぁ」
 手に持っているのは、ワンピースタイプとビキニタイプの二種類。今までの琴絵ならば、当然ワンピースを選んでいた。
「ねえ、お兄ちゃん。私がこれを着たら、似合うかな?」
 琴絵は、ライトグリーンのビキニをあてがい訊ねた。
「似合うと思うよ」
「う〜ん……ちょっと試着してみようかな」
 いくつか水着を持ち、試着室に入った。
 琴絵が試着室に入ってしまうと、圭太はさらにすることがなくなってしまう。水着を見ているのもおかしいし、かと言ってお客や店員を見ているのもおかしい。自然と視線は宙をさまよい、不審な行動に見えてしまう。
 一刻も早くその状況から抜け出したいのだが、まさか琴絵ひとりを置いて行くわけにいかなかった。
「お兄ちゃん」
 と、琴絵が顔を覗かせた。
「どうかな?」
 圭太も試着室の中を覗き込む。
 琴絵は、さっきのビキニを着ていた。
「うん、よく似合ってる」
「ホント? ホントに似合ってる?」
「ああ、似合ってるよ。自分の妹に言うのは変だけど、琴絵は基本的になにを着ても似合うから、それも似合って当然だよ」
「そっか」
 圭太にそう言われ、琴絵は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、ビキニを着るならもうちょっとこのあたりがある方がいいよね」
 そう言って見たのは、胸だった。
「さあ、それはなんとも。ようは琴絵がそれを認められるか、それが気に入ったか。それだけだと思うけど」
 あえてスタイルのことには触れず、圭太はそう答えた。
「うん、そうだね」
 その一言でようやく決まったようである。
「ありがとうございました」
 それから少しして、琴絵はそのライトグリーンのビキニを買った。
「お兄ちゃん。せっかく水着を買ったんだから、海かプールに連れて行ってね」
「了解」
 圭太としても琴絵が水着売り場に来た段階でそう言われるのはわかっていた。だからこそ、多少苦笑しつつ頷いたのである。
「ほかに行きたいところは?」
「特にないよ」
「じゃあ、ちょっと休憩しようか」
 ふたりは商店街の一角にある、小洒落た喫茶店に入った。
 カランカランとドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「おやおや、誰かと思ったら、圭太くんに琴絵ちゃんじゃないか」
『もみの木』のマスターは、柔和な笑みを浮かべふたりを迎えた。
「今日は兄妹揃って買い物かい?」
「今日は琴絵の誕生日なんですよ。それで、プレゼントのひとつとしてデートです」
「ほお、誕生日なのか。じゃあ、今日はそれ相応のものを出してあげよう」
「すみません」
 少し奥目の席に座ると、ようやく少し落ち着く。
「お兄ちゃんは、ここに来てるの?」
「来てる、と言えるほどは来てないよ。でも、琴絵よりは来てるとは思うけど」
「うん、そうだね。私、来るのものすごく久しぶりだもん」
 土曜の午後。店内には落ち着いた雰囲気でコーヒーを楽しもうという客が数人いた。
「お母さんは来てるのかな?」
「さあ、わからないけど、機会があれば顔くらいは出してるんじゃないかな。マスターにはなにかとお世話になってるし」
「そうかもね」
 少しすると、マスターが品を持ってきた。
「これは、私からの誕生日プレゼントだよ」
 そう言って琴絵の前に置いたのは、大きなパフェだった。
 フルーツやウェハース、アイスクリームの乗ったオーソドックスなパフェだったが、普通のより豪華に見えた。
「ちょっとだけ奮発しておいたから」
「わざわざすみません」
「気にしなくてもいいから。祐太が祝えない分、私が祝ったと思って」
「ありがとうございます」
 圭太にはアイスコーヒーを出し、マスターはカウンターの奥に消えた。
「いいのかな?」
「遠慮する方が失礼だから」
「うん」
 琴絵は、嬉しそうにパフェを頬張った。
 
 夕方、ふたりが家に帰ってくると、すっかりパーティーの準備は整っていた。
 とはいえ、すぐにパーティーをはじめるわけではない。あくまでも『桜亭』の営業が終わってからである。
「どこ行ってきたの?」
「駅前をブラブラしてました」
「ふ〜ん、そっか。でも、なにか買ってきたみたいだけど、あれは?」
「水着です。せっかくの夏ですから、新しいのを買おうと思って。それでお兄ちゃんにもいろいろ見てもらって買いました」
「ふ〜ん、圭太に見てもらってねぇ」
 柚紀は、それを聞き、なにやら考えている。
「いいなぁ、琴絵ちゃん。私も圭兄に選んでもらって、新しい水着買おうかなぁ」
「あ、別にお兄ちゃんに選んでもらったわけじゃないよ」
「そうなの?」
「私が選んだのをお兄ちゃんに見てもらって、それで買ったの」
「確かに圭太ならそうするわね。あれでしょ? 琴絵ちゃんならなにを着ても似合うとかなんとか言って」
「よくわかりましたね」
「そりゃ、圭太の彼女を二年以上やってればわかるわよ。自分から進んで買おうって決めてる時はいいんだけど、誰かの付き添いの場合はあまり積極的に選んでくれないから」
 柚紀自身もその経験があるため、よく知っていた。
「でも、琴絵ちゃん」
「なんですか?」
「わざわざ圭太と一緒の時に水着を買ったってことは、夏休み中に海かプールにでも連れてってもらおうと思ってるんでしょ?」
「あ、あはは、やっぱりわかりますか?」
「もちろん。その方がついでを装って、しかもほぼ確実に約束させられるからね」
「むぅ、琴絵ちゃんばっかりずるいなぁ」
「まあ、それもしょうがないわよ。今日は誕生日だし」
「でも、柚紀先輩も圭兄と海とかプール、行きたいですよね?」
「そりゃ行きたいわよ。というか、是が非でも行くわよ。じゃないと、夏の意味がないし」
 さすがに海やプールに行かなかったくらいで夏の意味がなくなると言われては、夏も立つ瀬がない。
「まあ、夏休みのことは追々決まるでしょ。とりあえずまだ夏休みにもなってないんだから」
「そうですね」
 陽が暮れて、少し早めに店を閉め、ようやくパーティーがはじまった。
「それじゃあ、琴絵。十六歳の誕生日おめでとう。乾杯っ」
『乾杯っ!』
 パーティーの参加者は、主役の琴絵、圭太、琴美、朱美の高城家の面々と、柚紀、ともみ、祥子、それと時間の空いていた鈴奈である。
 規模的にはささやかなものだが、並んでいる食事やなんかを見ると、とてもそうは思えなかった。それもこれも、主に作っていたのが柚紀だということに原因があった。なんとなくあれもこれもと作っていたら、結構な量になったというわけである。
「ええ、ではここで、琴絵ちゃんに十六歳になった抱負を述べてもらいましょう」
「ほ、抱負ですか?」
 思いも寄らない展開に、琴絵は一瞬目を白黒させた。
「えっと、十六歳になったので、法律上は結婚できるようになりました。私は結婚するつもりはないですけど、認められた権利分だけ大人になれるようがんばりたいです」
 そう言ってぺこりと頭を下げた。
「なるほどね。しっかりものの琴絵ちゃんらしい抱負だわ。そう思わない、圭太?」
「とりあえずは頷いておきます」
「こちらは厳しいお兄ちゃんだことで」
 ともみは苦笑した。
 それからしばらく、和気藹々という感じで盛り上がった。
 琴絵としては、圭太に祝ってもらうことも嬉しいのだが、こうしてみんなに祝ってもらうことも嬉しかった。特に、自分の親しい人たちが祝ってくれるからなおさらである。
 だから、琴絵は終始ご機嫌だった。
 もっとも、ご機嫌だった理由のひとつは、このあとのことにも影響あるのだろうが。
 
 その日の夜。
 圭太と琴絵は、一緒に風呂に入っていた。
「やっぱりお兄ちゃんの背中って大きくて広いよね」
 背中を流しながらそんなことを言う。
「ずっとこの背中を見て、追い続けてきて。これからもずっと変わらないのかな?」
「どうかな。それは琴絵次第だと思うけど。少なくとも僕の方からそれを変えようとは思ってないから」
「じゃあ、大丈夫だよ。私も、お兄ちゃんとの関係を変えようとは思ってないから。この背中を追える位置にいられるのは、私だけだから。誰にも渡さないよ」
 お湯で石けんを洗い流す。
「私は、死ぬまでずっとお兄ちゃんの妹なんだから」
 その言葉には、琴絵の様々な想いが込められていた。もちろんそれを簡単に言い表すことなどできない。そこには妹としての想い、ひとりの女の子としての想い。本当に様々なものが内包されている。おそらく、それは琴絵自身もわかっていない。自分の想いをすべて理解できる者など、いないのである。
「ずっと、ずっと、お兄ちゃんのこと、大好きなままだから」
 そう言って琴絵は圭太の背中に体を寄せた。
 柔らかな肢体の感触が、背中越しに伝わってくる。
「お兄ちゃん……」
「琴絵……」
 圭太は、琴絵を自分の正面に抱き、キスをした。
「続きは、部屋でしよ……」
 
「ん、んふ……あ、んん……」
 薄暗い部屋のベッドの上。
 圭太も琴絵も一糸まとわぬ格好で抱き合い、キスをしていた。
「は、ん……あぅ……ん……」
 何度もキスを繰り返し、お互いの唾も飲んでいた。
「ん、はあ、お兄ちゃん……」
 そっと琴絵を押し倒す。
「ん、あん……」
 そのまま丁寧に胸を揉む。
 桜色に染まった肌は、まだ熱を帯びていて、触れているだけでそれを感じ取れた。
「あ、んん……んんふぅ……」
 包み込むように揉む。
「お兄ちゃん、気持ちいいよ……」
 圭太は、穏やかに微笑みそれに応える。
「あ、んっ、んん……んあ……」
 硬く凝ってきた突起を指で弾く。
「んあっ!」
 片方を指でいじりながら、もう片方に舌をはわせる。
 小刻みに刺激すると、琴絵はそれにものすごく敏感に反応した。
「や、んん、ダメぇ……あんっ、あふぅ……」
 ピクピクと体を反応させる。
「ん、お兄ちゃん……我慢できないよぉ……」
 しきりに太股を擦りあわせ、圭太をねだる。
 それでも圭太はすぐにはそれに応えない。
 足を開き、今度は秘所に舌をはわせた。
「ひゃうっ!」
 ペロッと舐めただけで琴絵は敏感に反応する。
「あっ、やっ、んんっ……んあっ、あんっ」
 ぴちゃぴちゃとわざと音を立て舐める。
 琴絵は口元に手をあて声を抑えようとするが、それもままならない。
「お兄ちゃん、気持ちいいよぉっ……お兄ちゃんに舐められて、すごく気持ちいいのっ」
 止めどなくあふれてくる蜜に、圭太の口元も濡れてくる。
「ああっ、んああっ……はぁんっ、ダメぇっ、そんなにされると、イっちゃうよぉっ」
 圭太は琴絵の体が強ばってきたところで舐めるのをやめた。
「ん、はあ、お兄ちゃん……」
 せつなげな眼差しで圭太を見つめる琴絵。
 圭太は、モノにコンドームを装着する。
「いくよ?」
「うん」
 圭太は、そのままモノを突き入れた。
「んっ、ああ……」
 ほとんど抵抗なくモノが収まる。
「お兄ちゃん……」
 そのままの体勢でキスを交わす。
「お兄ちゃんの、琴絵の中でまだ大きくなってる……」
「琴絵の中が気持ちいいからだよ」
「うん、琴絵も気持ちいいよ……」
 そう言う表情は、やはりひとりの女としての表情だった。
「動いていいよ」
「わかった」
 圭太はゆっくりと腰を動かした。
「あ、んんっ、あんっ……ああっ、んんっ」
 動く度にベッドがキシキシときしむ。
「やっ、んっ、激しいよっ、お兄ちゃんっ」
 圭太は腰をつかみ、激しくモノを突き入れた。
「ダメっ、お兄ちゃんっ、私っ、気持ちよすぎてっ」
 途切れ途切れにあえぐ。
「ああっ、あっ、あっ、あっ、あっ、んんくっ」
 さらに速く動く。
「ダメダメダメっ、イっちゃうよぉっ、お兄ちゃんっ」
「僕もだから」
「一緒にっ、一緒にイって、お兄ちゃんっ」
 部屋の中に、琴絵の嬌声と圭太の荒い息、それと蜜が圭太のモノでかき混ぜられる淫靡な音が響いていた。
「ああっ、んああっ、お兄ちゃんっ、あああああっ!」
「くっ!」
 ふたりはほぼ同時に達した。
「はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「すごく、気持ちよかったよ、お兄ちゃん……」
「ああ……」
 圭太は、優しく琴絵の髪を撫でた。
 
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
 琴絵は、圭太の胸に抱かれたまま声を上げた。
「お兄ちゃんは、子供はほしいの?」
「ほしいかほしくないかで聞かれれば、ほしいって答えるよ」
「それは、相手が柚紀さんじゃなくても?」
「……かもしれない」
 圭太は正直に答えた。
「じゃあ、あれだね。異母兄弟が何人もできるかもしれないね」
「否定はしないよ。ただ、それはあくまでも相手との合意があってはじめて成立することだから」
「でも、祥子先輩とはそういうの、なかったんでしょ?」
「そうだけど」
「あ、別に私はそれを責めてるわけじゃないよ。今の先輩を見てると、お兄ちゃんとの子供を授かって、とっても幸せそうだから。ただ、やっぱり柚紀さんのことを考えるとちょっと複雑かなって」
 琴絵は、言葉通り、複雑な表情でそう言った。
「私としては、あんまりお兄ちゃんに子供が多いと、みんなから『叔母さん』て呼ばれるのかと思うとちょっとね」
 冗談めかして言う。
「結局私はなにが言いたいのかというと、後悔だけはしないでね、ということなの。私だってお兄ちゃんとのことは後悔したくないもん。だから、実の兄妹だってわかっててもセックスしたかったし、実際そうした。お兄ちゃんも、柚紀さんだけじゃなくみんなの想いを受け止めたんだから、もうあとは後悔しないようにするだけだよ。ね?」
「ああ、そうだな……」
「もう、そんな顔しないの。せっかくのカッコイイ顔が台無しだよ」
 そう言ってキスをする。
「どんなことがあっても、私だけはお兄ちゃんの味方だからね」
 圭太は、なにも言わず、琴絵を抱きしめた。
 
 五
 七月十七日。気象庁は関東以西で梅雨明けしたとみられると発表した。平年より若干早い梅雨明けだった。
 梅雨が明けた途端、週間天気予報には晴れマークが並んだ。気温も連日の真夏日、連夜の熱帯夜である。
 暑くなければ夏ではないが、あまりにも急激に真夏がやって来るのも、なかなか微妙である。
 見上げた空には、真夏の太陽と真っ白な雲があった。
 夏は、これからである。
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