僕がいて、君がいて
 
第二十七章「五月晴れの向こうに」
 
 一
 二年が修学旅行に出かけ、一高はだいぶ静かになっていた。二年の階を歩けば、その静けさが余計にわかる。
 とはいえ、二年がいないだけで学校の生活まで変わるわけではない。一年も三年もしっかり授業がある。
 どちらも、休み明けのたるんだ気持ちをしっかり引き締めるため、どの教師も気合いが入っていた。
 そんな中、三年はそろそろ模擬試験が本格化してくる。そういう時期になると、否応なく自分が受験生なのだと思い知らされる。大学受験する者にとっては避けては通れないことなので、大半があきらめ顔である。
 模擬試験が関係ないのは、大学受験しない者と就職する者だけである。
 圭太もそんな中のひとりである。
「ねえ、高城くん。一度、模擬試験受けてみない?」
 用があって職員室にやって来た圭太に、担任の優香はそう言ってきた。
「模擬試験ですか? それは別に構いませんけど、僕が受けることになにか意味でもあるんですか?」
「そうねぇ、強いて言えば、一高全体の順位が上がるかもしれない、というところかしらね。ほら、今はそういうのにすごく敏感だから。一高には全国レベルの生徒がいるんだってわかれば、少しは格好がつくでしょ?」
「はあ、それはそうですね」
 圭太は、話半分に頷いた。
「どう、一回くらい受けてみない?」
「模擬試験は、休日にあるんですよね?」
「基本的にはね。まれに、土曜日にあることもあるけど」
「とすると、やっぱり部活には出られませんよね?」
「丸一日ってわけじゃないけど、そうね、三科目だとしても午前か午後のどちらかはつぶれるわね」
「僕としては受けてもいいとは思ってます。ただ、僕にとってのメリットがあまりにも少ないので、辞退します」
 圭太は、きっぱりと言い切った。
「ま、無理強いすることでもないから、いいわよ、それで」
 優香はあっさりと引き下がった。やはり、圭太に関してはすでにあきらめているようである。
「高城くんの場合は、テストを少しくらい難しくしたところで全然意味がないから、困るのよね。普通の生徒ならそうやって『脅せ』ば言うこと聞いてくれるのに」
「あ、あの、先生……?」
「一高史上でもかなり優秀な部類に入る生徒なのにねぇ」
「え、えっと……」
「もったいないわぁ」
 わざとらしくそう言う優香。
 圭太は小さくため息をついた。
「わかりました。一回だけ、模擬試験を受けます。それでいいですか?」
「あら、別に無理しなくてもいいのよ。部活も忙しいだろうし」
「いえ、構いません。ただし」
「た、ただし……?」
「これが最初で最後、ということになりますから」
「え、ええ、わかったわ。じゃあ、今月末の模擬試験を受ける、ということで書類を準備するわね」
「お願いします」
 優香は、嬉々とした表情で書類を探している。
「あ、でも、高城くんが受けるということは、笹峰さんも受けるわよね?」
「……柚紀も巻き込むんですか?」
 それにはさすがの圭太も顔をしかめた。
「や、やあねぇ、私はあくまでもそうなるのかしら、って言っただけよ。なにも必ずそうなるわけじゃないわよ。なんたって、彼女も模擬試験は受けないんだから」
 それでもこの先生なら受けさせる。圭太はそう思っていた。
「まあいいわ。とりあえず、高城くんのことはそういうことで進めるから」
「はい」
 職員室を出ると、圭太はため息をついた。
 
 昼休み。天気がよかったので、屋上へとやって来た圭太。当然、柚紀と凛が一緒である。ついでに言うと、その日は琴絵も一緒である。
「模擬試験? 受けるの?」
 おにぎりを頬張りながら、柚紀は首を傾げた。
 圭太は小さく頷き、説明した。
「先生が一回だけ受けてくれって言うからね」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「そうなんだって、柚紀はどうするの? たぶん、今日かどうかはわからないけど、柚紀にも先生からオファーがあるはずだよ」
「ん〜、私は別に受けたくないから、断ると思うよ」
 柚紀は、おにぎりを食べ終え、お茶をすすった。
「だって、たとえ模擬でも試験は試験だし。それだけ長い時間拘束されるのは、やっぱりイヤだし」
 圭太としては、圭太が受けると言えば柚紀も受けると言い出すと思っていた。ところが、実際柚紀はそうは言わなかった。
「せっかく受験勉強から解放されてるんだから、そういう煩わしいのは極力避けたいのよね。無責任かもしれないけど」
 柚紀は、実に自分に正直だった。
「じゃあ、お兄ちゃん。試験の日は、部活休むかもしれないんだね」
「そういうことになるね。もともとこれからの時期は三年は模擬試験で休む場合が多いからね」
「ふ〜ん、けーちゃんは受けて、柚紀は受けないのね」
 凛は、ひとりなにやら納得している。
「なにひとりで納得してるの?」
「ううん、たいしたことじゃないわよ。柚紀はけーちゃんにべったりなのかと思ったら、意外にそうでもないんだなって思って」
「あら、私は圭太にべったりよ。ただ、今回は圭太と一緒にいるっていうメリットがほとんどないから。だって、テスト中は話せないでしょ?」
「まあね」
「それに、試験だから気持ちだってすさんでるだろうし。そんなんじゃ、圭太といてもあまり意味がないかなって思って」
「……すさんでるって、あんたねぇ……」
 模擬試験を受ける凛は、毎回気持ちがすさむことになる。
「ま、そういうわけだから、私は受けないわよ」
 そう言って柚紀はもうひとつおにぎりを頬張った。
 
 二年が修学旅行に行っているため、どの部活もいつもより静かだった。例年のことだが、二年がいないだけで開店休業状態になる部活もある。そういう部活は、本当にこの期間だけは部活を休んだりする。
 ただ、普通の部活はいつも通り活動している。
 吹奏楽部は、二年がいないからといって、別になにか変わっているわけではない。強いて言えば、二年がいないおかげで音楽室を広く使えることくらいだろう。
 合奏こそないが、パート練習はきっちり行われる。
 三年は、基本的に一年の指導に時間を費やしていた。自分たちの練習を二の次にしてでも、一年を鍛えなければコンサート、コンクールの成功はあり得ない部分もあるのだ。
 圭太は二年がいないことで指導ができないファゴットの一年、根本志保を指導していた。
「もう少し、リードをふるわせて。せっかく二枚リードの楽器なんだから、それを最大限使わないと」
 さすがにファゴットは専門外なので、圭太の指導も厳しくない。
 志保は、中学の時に一年間だけファゴットをやっていた。そのため、ある程度はできるのだが、まだまだ未熟な部分も多かった。
 基本的な練習が不足しているので、その部分を圭太が見ているのである。
「ん〜、悪くはないと思うんだけど、やっぱり、絶対的な練習時間が足りないのかな。今、どのくらい個人練習に時間を割いてるの?」
「個人練習がどのくらいあるかにもよりますけど、半分くらいは」
「半分か。なら、これからそれを少しだけ増やしてみたらいいよ。単調な練習だから大変で飽きるかもしれないけど、亜希に追いつくためにも、ひいてはそのあとのためにもなるわけだから」
「はい」
 志保は、大きく頷いた。
「じゃあ、今度は曲の練習をしようか」
 比較的和やかな雰囲気で練習している姿を、ほかのパートのメンバーは不思議なものを見るような感じで見ていた。
 最近では圭太=容赦ない指導というのが当たり前である。それは金管だけでなく、木管に対してもである。
 にも関わらず、今目の前の光景はそれとはかけ離れた光景なのである。
「ほらほら、あんたたちは真面目に練習する。圭太と志保の練習を見てても、まったく上達しないんだから」
 野次馬連中は、綾が蹴散らした。
 副部長は今は綾だけなので、一応締めるべきところは締めておこうということである。
「ま、連中の気持ちがわからないわけではないけどね」
 綾は、軽く肩をすくめて練習に戻った。
 それはなにより、真剣に練習している志保の姿を見たからである。しかも、その表情は真剣ではあったが、どこか楽しそうに見えた。
「そのあたりはもう少しテンポを落として練習した方がいいね。指を確実にしてから、徐々にテンポを上げて」
「はい」
「あとは……そうだね、できればで構わないんだけど、この曲の情景を思い浮かべてみるといいよ。そうすれば、このフォルテがどのくらいのものか、このデクレッシェンドがどこまでするべきものなのか、このスタッカートはどのくらいやればいいかとか、そういうのもなんとなくだけど想像できるかもしれないからね」
「先輩は、わかるんですか?」
「わからないよ。ただ、わからないで終わらせないで、わかろうと努力を続けてる。少しでもわかれば、もっともっといい演奏ができるだろうけど」
「先輩にもできないのに、あたしにできると思いますか?」
 志保は、当然の疑問を口にした。
「できるかできないかじゃなくて、できると思わなくちゃダメだよ。やる前からそれを放棄したら、絶対にできないから。それと、僕にもっていうのは間違いだよ。僕はまだまだ全然そういうことができてないから。そういうことは、ピアノを小さな頃からやってる人や、あとは先生なんかに聞いてみる方がよくわかると思う。体に染みついてるかもしれないからね」
 圭太は、穏やかな口調でそう言った。
「ただ、さっきも言ったけど、無理にやらなくてもいいよ。できればの話だから。少しだけ努力してみて、ああ、こんな感じなのか、ってわかってくれれば十分」
「わかりました。やってみます」
 志保は、はっきり頷いた。
「それじゃあ、もう一度やってみようか」
「はい」
 
 部活が終わると、いつもより早くメンバーは帰っていった。さすがに二年がいなければコンサートの準備も進まないのである。なんといっても、準備の中心にいるのはその二年なのだから。
 それでも、音楽室には圭太、柚紀、琴絵、綾が残っていた。いつもなら綾は帰っているところではあるが、この一週間ばかりは仕方がないのである。
「それにしても、圭太はどうしてああも上手く指導できるのかしらね」
 綾は、そう言ってため息をついた。
「あたしなんか、クラ以外だと全然なのに。木管なら多少はわかるけど、金管はもう全然ダメ。ねえ、なんかコツとかあるの?」
「別にコツなんかないよ。僕はいつもと同じようにやってるだけだから。僕だって木管のことはわからない。それでも、基本的な考えまで違うわけじゃないからね。だから指導できるんだよ」
「そりゃ、あたしもそれはわかるけど。でもさ、概念的なことだけじゃ済まないわけじゃない、指導してると」
「まあね」
「そういう時は?」
「持ってる知識をフル活用。これでもいろいろ見たり聞いたりしてるからね」
「なるほど。あたしと圭太の差はそこね。あたしには知識が足りないもの」
「でもさ、綾」
 と、柚紀が口を挟んできた。
「圭太と比べるのは間違ってるわよ。なんたって、圭太は『音楽バカ』だもの。ここまでストイックにできる人なんて、そうそういないから」
「ま、それはね。それでもさ、あたしはこれでもこの一高吹奏楽部の副部長なわけだから、もう少しなんとかできればとは思うわよ」
「だったら、勉強するしかないんじゃないの?」
 柚紀の意見が、まさにズバリだった。
「それを言ったら身も蓋もないじゃない」
 綾は、もう一度大きなため息をついた。
「綾はそんなに心配することはないよ。たでさえクラは人数多いんだから。僕としては、木管を見てくれるのもありがたいけど、クラを完璧にしてくれた方がもっとありがたいからね」
「うぐっ、さらっと痛いところを……」
「それは綾だけに思ってることじゃないよ。各パートリーダーに対して思ってることだからね」
 そう言って柚紀を見る。
「はいはいはい、わかってるから。私ももっと気合い入れて指導するから」
「柚紀ならそう言ってくれると思ったよ」
「……まったく調子いいんだから」
 柚紀は、苦笑した。
「琴絵も、綾の言うことを聞いてちゃんと練習してないと、コンクールのメンバーには残れないからな」
「むぅ、わかってるよ」
「そうね、今のままだとうちのパートの一年は、ひとりくらいしか出られないものね。基本的には金管に人数を割いちゃうから、木管は不利よね」
「金管だって実力が伴ってなければ出さないよ。これは経験者も例外なくね」
 圭太は、少しだけ真剣に言った。そういうところは実に真面目である。
「とりあえずは、コンサートを乗り切ってから考えることだから、それまでしっかり練習していれば可能性はあるってことだよ」
「んもう、お兄ちゃんのいぢわる……」
「あはは、こんなところで兄妹喧嘩しないでよ」
 それから音楽室を閉め、圭太たちも家路に就いた。
 五月とはいえ、外はだいぶ暗くなっていた。
「ホントにお兄ちゃんは容赦ないんだから」
「そりゃ、妹だからって手心は加えないよ。そんなことしたら、がんばってるほかの一年に申し訳ないじゃないか」
「それはそうかもしれないけど」
「まあまあ、ふたりとも、そこら辺にしておきなさいって。メンバーが決まるのはコンサートが終わってからなんだから。それこそ、うちは今年も県大会までシードなんだから、最悪そこまでメンバーが固定されないなんてこともあるかもしれないし。でしょ?」
「あえて否定はしないよ。ただ、柚紀はわかってるとは思うけど、最終的なメンバーを決めるのはあくまでも先生だからね。僕やパートリーダーの意見は聞きはするけど、それは参考意見だし。そうなると、コンサート後には固定されるよ」
「それを言っちゃ身も蓋もないじゃない」
 柚紀はやれやれと肩をすくめた。
「ホント、圭太はバカ正直というか、真面目すぎるんだから」
 
 その日の夜。高城家に一本の電話がかかってきた。
 電話に出たのは、電話のすぐ側にいた琴絵だった。
「はい、高城です」
 リビングに居合わせたのは、当然圭太と琴美である。ふたりとも相手が誰なのか気になるようである。
「あっ、はい。ちょっと待ってください」
 琴絵は受話器を圭太に向けた。
「お兄ちゃん。柚紀さんから電話だよ」
「柚紀から?」
 圭太は首を傾げ、受話器を受け取った。
「もしもし?」
『あ、圭太。ごめんね、こんな時間に電話して』
「それは構わないけど、どうしたの? なにか急ぎの用事?」
『ああ、うん、私は別に明日学校ででも構わないと思ったんだけど。お父さんとお姉ちゃんが今すぐ直ちに電話しろってうるさくて』
「……なんか、あまりいいことじゃないみたいだね」
『ま、無理難題ってわけじゃないから』
 柚紀は電話口で苦笑した。
『あのさ、今度、うちの家族揃ってそっちに行きたいって言ってるんだけど』
「うちへ?」
『うん。で、もちろんうちはお父さんが仕事あるから、土日しかダメだから、今週以降の土日で都合のいい日を聞いておけって』
「なるほどね。それは確かに早めに聞いた方がいい話だ」
『ホント、ごめんね。うちのお父さんもお姉ちゃんもデリカシーの欠片も持ち合わせてないから』
「そ、そこまでのことはないと思うけど。じゃあ、ちょっと母さんに聞いてみるよ」
『お願い』
 圭太は保留ボタンを押し、振り返った。
「母さん。柚紀が、今度家族揃ってうちへ来たいって言ってるんだけど、いつなら大丈夫かな?」
「土日よね、来るとしたら」
「そうだね」
「いつでも構わないけど、そうね、今週は朱美が修学旅行から帰ってくるから、来週にしましょうか」
「来週のどっち?」
「いろいろ考えると、土曜の方がいいかしら?」
「じゃあ、来週の土曜、二十一日で言っておくよ?」
「ええ」
 カレンダーを確認し、圭太は保留ボタンを解除した。
「もしもし?」
『どう、決まった?』
「うん。来週の土曜、二十一日でどうかな?」
『二十一日ね。ちょっと確認するから』
 今度は柚紀の方が保留になった。
 だいたい三十秒ほどで保留は解除された。
『あ、もしもし?』
「なんだって?」
『それで構わないって。一応、細かな時間とかはって聞いてるけど、私も圭太も部活があるから、やっぱり午後からよね?』
「そうだね、そうしてくれるとありがたいかも」
『了解。じゃあ、二十一日の午後にそっちに行くから』
「うん、予定に入れておくよ」
『それにしてもさ、圭太』
「うん?」
『なんで私がこんなことしてるんだろうね』
「どういう意味?」
『だってさ、お母さんはまだしも、お父さんとお姉ちゃんは間違いなく迷惑かけるじゃない。それがわかっていながら、こうやって圭太に電話してるんだから』
「まあまあ、そう言わないで。お父さんだって咲紀さんだって今までずっとこっちに来るのを我慢してたと思うから」
『そりゃそうよ。こっちから行くとなると、『桜亭』だって休まなくちゃいけないでしょ? そうするとやっぱりそう簡単には行かせられないよ』
「柚紀らしいね」
『ま、いいや。とにかく、そういうことだから、よろしくね』
「うん」
『それじゃあ、おやすみ。また学校でね』
「おやすみ、柚紀」
 受話器を置く。
「柚紀さんたち来るんだね」
「来週だけどね」
「そっか。前に来た時は、私いなかったから、会うのははじめてだなぁ。ねえ、お母さん、柚紀さんの家族って、どんな感じだった?」
「どんなって、ご両親とも普通の方よ。お姉さんもそうだし」
「ふ〜ん、そうなんだ。で、お兄ちゃんの意見は?」
「別に変わったところはないよ。ただ、そうだね、柚紀のお姉さん、咲紀さんはちょっと要注意人物ではあると思うけど」
「そうなの?」
「琴絵は覚えてるかどうかわからないけど、凛ちゃんのお姉さん、蘭さんみたいな感じだよ」
「蘭お姉ちゃんかぁ。凛お姉ちゃんより印象薄いから、よくわかんないなぁ」
「あえて言えば、僕をおもちゃにすることに喜びを感じる人、かな」
「ああ、それならよくわかるよ」
 琴絵はなるほどと頷いた。
「ある意味では、ともみ先輩や幸江先輩みたいな感じだね」
「ま、当たらずとも遠からずかな」
「というか、圭太。あなたは本当に年上の人におもちゃにされるのね」
「……それは言わないでよ」
 そう言って圭太はため息をついた。
 
 二
 二年の修学旅行最終日、五月十三日。
 二年は確かに修学旅行最終日だが、実際学校に出てくるのは月曜からである。従って、その日までは静かな学校なのである。
 とはいえ、五日間二年がいないということで、慣れてしまったという部分もあった。
「けーちゃん」
 休み時間、圭太は凛に声をかけられた。
「ちょっといいかな?」
「いいけど」
 凛は圭太を教室から連れ出した。
「あのさ、けーちゃん。また今度、うちに遊びに来ない?」
「凛ちゃんのうちに? それは別に構わないけど、そろそろ部活の方も忙しくなってくるんじゃないの?」
「それはそうなんだけど……」
 凛は、奥歯に物が挟まったような言い方をする。
「……本音を言えばね、別にうちじゃなくてもいいの。ただ、けーちゃんとふたりきりでいろんな話がしたいだけだから」
「ん〜、話かぁ。時間が取れるなら、デートとかでもいいと思うけど」
「で、デート? あ、あたしとけーちゃんが?」
 いきなりのことに、凛は思わず声を裏返した。
「別にデートって言っても構えることはないよ。名前が『デート』っていうだけで、一緒に遊びに行くのとなんら変わらないんだから」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「デートっていう名前がイヤなら、そうは言わないけど。どうかな?」
「う、うん、あたし、けーちゃんとデートしたい」
「じゃあ、また時間が取れそうな時に言ってよ。僕も時間を見つけるから」
「うん、わかった」
 凛は、笑顔で頷いた。
 
 部活はいつも通り行われていた。
 木管は本当にいつも通りの練習だったが、金管は圭太の指示でセクション練習をしていた。二年がいないのに、とメンバーは首を傾げたが、圭太のやることなので異論は出なかった。
「今日は、ちょっと変わったことをやってみようと思うんだ」
「変わったこと?」
「金管は唇だけで音程を変えられるのが特長だけど、それを使ってちょっとね」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「じゃあ、ボン以外はピストンから手を離して。僕がこれから言う音を、すぐに出して。もちろん音程も気にして。いくよ? 最初は、B」
 言われるままメンバーは音を出す。
「切って。じゃあ、オクターブ上のB」
「次、F」
「次、オクターブ下のF」
 圭太の指示は次第に速くなってくる。
「次、ハイB」
 そこに至り、脱落者が出てくる。
 それでも圭太の指示は止まない。
「次、B、F、B、B」
 立て続けにそれだけさせられ、さすがのメンバーも疲れてきていた。
「最後、オクターブ上のB」
 圭太は、そう言って腕を降ろした。
「どう、疲れた?」
「そりゃ、これだけやれば疲れるって」
 翔は口を押さえながら言った。
「だけど、これが上手くできれば、だいぶ楽に音が出せるようになると思うよ。実際、僕はそうだから」
「って、圭太はこれやってるのか?」
「たまにだけどね。たぶん、僕のやってる練習方法はそのままだとみんなには向かないから、今回はこれくらいにしたんだけどね。僕の本来のやり方は、今のピストンを押さない、つまりゼロの状態から、一、二、三、すべてを使ってやってるから。さすがに終わった時は口が閉じられないくらいガクガクだけどね。あとは、通常のリップスラーの練習もだけどね」
 さらっと言う圭太に、メンバーは唖然とした。
「じゃあ、いつもの練習をしようか」
 少なくともこの場にいるメンバーは、圭太のすごさを改めて見せつけられた。
 
 部活が終わって家に帰ると──
「ただいま、圭兄っ」
 修学旅行から帰ってきた朱美が圭太に飛びついてきた。
「こら、朱美。いきなり飛びついてきたら危ないじゃないか」
「だってだってだって、丸四日間も会えなかったんだよ? 私、淋しくて淋しくて」
 よよよ、と泣き真似する。
「まったく……」
 それでも朱美を邪険に扱わないところが、圭太らしいところである。
「むぅ、朱美ちゃん。いつまでお兄ちゃんに抱きついてるつもりなの?」
 と、琴絵が朱美を引き剥がしにかかった。
「いやん、琴絵ちゃん引っ張らないでぇ」
 わざとらしく声を上げる。
「朱美。そろそろ離してほしいんだけど」
「んもう、しょうがないなぁ」
 朱美は、圭太から離れた。
「圭兄も琴絵ちゃんも、ちゃんとおみやげ買ってきたからね」
「僕には別によかったのに」
「ダ〜メ。圭兄にはいつももらってばかりだから、こういう時にでもちゃんと返しておかないと、大変なことになるから」
 そう言って朱美は笑った。
 圭太と琴絵が着替えて戻ってくると、リビングのテーブルにはおみやげが並んでいた。
「はい、これが圭兄の」
 圭太へのおみやげは、黒砂糖の塊。
「黒砂糖は健康にもいいし、甘いものは脳を活性化させるからね」
「あ、朱美ちゃん、それはさすがにどうかと思うんだけど……」
「まあまあ。で、これが琴絵ちゃんの」
 琴絵へのおみやげは、バチだった。
「これ、なんのバチ?」
「三線のだよ」
「なんでバチだけなの?」
「だって、まさか三線は買えないでしょ? だからせめてバチくらいと思って」
「そ、そうなんだ……」
 それには琴絵も苦笑するしかなかった。
「あと、みんなにちんすこうとサーターアンダギーを買ってきたよ」
 ほかは実にまともなのだが、なぜかふたりへのおみやげは普通じゃなかった。
「ところで、沖縄はどうだった?」
「とってもよかったよ。基本的に天気もよかったし。ただ、三日目は夕方から少し雨だったけど。キャンプも楽しかったし。私的には満足かな」
「それならよかった」
「ただ、ひとつだけ失敗したかなって思ったことがあって」
「失敗?」
「うん。自由時間、紗絵と詩織と一緒にまわって、キャンプも一緒で。なんか、いつも一緒にいるって感じで。さすがにキャンプくらいは別でもよかったかなって、そう思って」
「なるほど。でも、朱美は人見知りするから、紗絵や詩織みたいに気心の知れた相手の方がよかったんじゃないのか?」
「それは、まあ、そうかもしれないけど。それでも、クラスの子くらいならどうってことないし」
「だとしても、終わってしかも家に帰ってきてから言っても、なんの意味もないよ」
「ううぅ、そうかもしれないけど……」
「琴絵も、来年行く時は朱美みたいにならないように、よく考えていろいろ決めた方がいいぞ」
「うん、そうする」
「け、圭兄の、いぢわる〜」
「あはは」
 リビングに笑い声が響いた。
 
 次の日。
 いつも通りの土曜の部活である。一、三年だけでの部活はその日までで、二年も次の日からは戻ってくる。
 だが、いないはずの二年が吹奏楽部にいた。
「紗絵が練習熱心で、部活のことを考えてるのはわかるけど、休みの日にわざわざ出てくるのはどうかと思うよ」
 そう言って圭太は目の前にいる後輩──紗絵を見た。
「六日間練習してませんでしたから、一日でも早くそれを取り戻そうと思って」
「それはわかるけど、やっぱり休みの日には休むべきだと僕は思うよ」
「でも、もうこうして学校に来てしまったわけですから、しょうがないですよね」
 紗絵は、あっけらかんとそう言った。
「まったく……」
 圭太は渋々頷いた。
「練習するのは構わないけど、今日は二年はいないことになってるわけだから、基本的にはずっと個人練習をしてもらうよ」
「はい、それで構いません。どうせすぐには先輩の指導についていけませんから」
「そこまでわかってるなら、なんでわざわざ……」
「それは、先輩に一分一秒でも早く会いたかったからです」
 真っ直ぐな瞳でそう言われては、圭太も押し黙るしかない。
「って、目をそらさないでくださいよぉ」
「ごめんごめん。ついね」
「んもう……」
「ま、それはいいや。とりあえず、しっかり練習して。明日からはビシビシいくから」
「はい、わかりました」
 練習は、個人練習が中心だった。これは圭太が決めたことで、個人練習の間に各パートリーダーがメンバーの練習を個別に見ていくためだった。
 パート練習の時にそれをやってもいいのだが、時にはマンツーマンの方がいい場合もある。
 圭太も紗絵を除いた三人の練習を見ている。
「夏子の場合は、低音が弱いってことだね。もう少し意識すれば、変わると思うよ」
「低音ねぇ。ロングトーンとかやってはいるんだけど、なかなか難しくて」
「それはわかるよ。もともとトランペットは高音を吹くための楽器だからね。出にくいしやりにくい。ただ、楽譜にその音があるからには、やらなくちゃいけない」
「そうね。でも、低音の音が抜けてないわけじゃないのよね」
「抜けてるとは思うけど、試してみようか?」
 圭太は夏子から楽器を借り、自分のマウスピースで吹いてみた。
 圭太が吹くと、同じ楽器とは思えないくらい音がポーンと抜けた。
「はあ、ここまで差があるとはね」
 それには夏子も苦笑するしかない。
 そして、問題の低音を吹いてみる。高音ほど音が抜けなかったが、それでも夏子の時よりはいい音が出ていた。
「こんな感じだけど、どうかな?」
「やっぱり、私の練習不足ね。圭太が吹いたらちゃんと出てるから」
「練習不足かどうかはわからないけど、少し意識的にやってみた方がいいかもね。これだけ鳴る楽器を使ってるんだから」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「和美は、小手先だけでやろうとしちゃダメだよ。楽譜通り演奏できるというのは大切なことではあるけど、それだけで終わっちゃダメだ。もう少し自分に謙虚になって、もっと努力しないと。どうも三中出身者はそういう傾向が強いね」
 和美は、圭太の厳しい言葉になにも言い返せない。
「いいかい? 僕は三中だからとか、そういうのでは絶対にひいきしないからね。平等に見て、使える人しか先生に推薦しない」
「はい」
「せっかく和美はいいセンスを持ってるんだから、がんばればもっともっと上手になれるよ。基礎練習は大変でつまらないとは思うけど、それもこれからの自分のためだと思って、もう少しだけがんばってみよう」
「わかりました」
 それでも圭太は、叱るだけでは終わらせない。次に向けてやる気を出させるようにちゃんと声をかける。
「明雄は、だいぶ音がよくなってきてるから、この調子で練習を続ければいいと思う。ただ、タンギングに不明瞭な部分があったり、テンポの速い曲で指がまわらなかったりしてるから、そのあたりはもう少しがんばらないと」
「やってはいるんですけど、なかなかできなくて」
「タンギングに関してはもうこれは練習するしかないから、僕もアドバイスはできない。指に関しては、反復練習で覚えてしまうというのもひとつの手だけど、それだとあまり意味がないから、普段から指をまわす練習をするといいよ。適当に音符を並べてそれをスタッカートやスラーでやってみたりね」
「先輩は、そうやってできるようになったんですか?」
「それもあるかな。あとは、ピアノだね」
「ピアノ、ですか?」
 明雄は首を傾げた。
「ピアノをやってると、どうしても指を使うからね。って、別に僕はピアノを習ってたわけじゃないよ。趣味でちょっとやってただけだから」
「なるほど。そういう方法もあるんですね」
「練習方法は人それぞれだから、今の自分にあった方法を見つければいいよ」
「はい、わかりました」
 ペットの三人を見たあと、圭太はほかのパートの様子を見に行った。
 各パートともそれぞれにメンバーを指導している。
 その様子だけ見ていれば特に問題はなさそうだった。
 ただ、人数の多いパートは指導時間が短く、少々苦戦していた。
 そのひとつがクラリネットである。
「なかなか大変そうだね」
 圭太は、綾に声をかけた。
「まあね。二年がいないといっても、七人もいるから、大変よ」
「手伝おうか?」
「う〜ん、なんて魅力的な申し出かしら。じゃあ、お言葉に甘えて、お姫様を圭太に任せようかしらね」
「お姫様?」
「そ、高城家のお姫様よ」
 綾が圭太に指導を頼んだのは、琴絵だった。
「お兄ちゃんがやるの?」
 まわりに誰もいないため、琴絵は圭太のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ。
「綾に頼まれたからね。じゃあ、早速はじめようか。いっさい容赦しないから、そのつもりで」
「は〜い」
 琴絵の腕前は、実を言えばクラの一年の中ではダントツである。細かな指導はほとんど必要ないのだが、やはり形だけでもしっかりやらなければならないのである。
 圭太も琴絵がクラリネットということで、クラリネットのことはいろいろと知っていた。そのため、ほかの木管に比べれば、はるかに指導できるのである。
「そうだなぁ、取り立てて悪いところはないと思うけど、もう少しメリハリの利いた演奏ができるともっとよくなるかも」
「メリハリかぁ」
「三中でも佳奈子先生によく言われただろ?」
「うん」
「琴絵の欠点は、とりあえずそのあたりだからもう少し意識してやった方がいい」
「うん、そうする」
「あとは、指がまわらないからって、誤魔化さない。ほかの人は誤魔化せても、少なくともちゃんと見ている人には無理だから」
「はぁい、ちゃんと練習しま〜す」
「あと、音程が悪いところが多々あるから、チューナーを使って確認して」
 悪いところはないと言いながらも、あとからあとから問題点を指摘する圭太。そこはさすがというところである。
「ま、そんな感じかな。あとは、パート内でしっかりまとまって演奏して、その上ほかのパートと上手くあわせられれば問題はないよ」
「それが一番難しいと思うんだけど」
「難しいからこそ、やるんだよ」
「そうだね。私ももっとがんばるよ」
 琴絵の指導が終わると、ようやく自分の練習である。
 圭太はたとえ短い練習でもまったく手を抜かない。その姿は真剣で、人を寄せ付けない雰囲気すらある。
 圭太が練習をはじめると、ほかの部員たちが集まってくる。とはいえ、すぐに近くにというわけではない。遠巻きに見ているのである。
 大半はあっけにとられてるのだが、女子部員の中にはその姿に見とれている者もいた。
 たとえ圭太には柚紀という彼女がいても、女子には圧倒的な人気があるのである。
 部活が終わると、皆三々五々帰っていく。
 そんな中、紗絵は圭太に午後の予定を訊ねていた。
「先輩。午後はなにか予定がありますか?」
「午後? 別に予定はないけど」
「あ、じゃあ、うちに来ませんか?」
「いいよ」
 圭太はあっさりと頷いた。
「ああ、でも、行く前に一度家に寄ってもいいかな?」
「それは全然。どうせうちの方が先輩の家よりも遠いですから」
 そう言って紗絵は笑った。
「にしても、紗絵ちゃんには困ったものよねぇ」
「な、なんですか?」
「だってさぁ、二年は今日まで休みなのに、圭太に会いたいがためだけにわざわざ出てきて」
「だけってわけじゃないですよ。練習も目的の何割かですから」
「何割かねぇ。それって、八割圭太で二割練習?」
「……そ、そんなわけないじゃないですか」
「視線をそらしながら否定しても、全然説得力ないけどね」
 そう言って柚紀は苦笑した。
「でも、そういう気持ちがわからないわけじゃないわよ。だ・け・ど、そういうのは圭太以外にしてほしかったわね」
「それは無理ですよ。こんなことできるのは、先輩絡みのことじゃないと無理ですから」
「なるほどね」
 紗絵も一緒に家に戻り、圭太は部屋で着替える。
 リビングで待っている間、朱美が紗絵の相手をしていた。
「紗絵〜、抜け駆けはずるいわよ〜」
「そんなこと言ったって、もう終わったことなんだからいいじゃない。それに、朱美は一緒に住んでるわけだから、私みたいには思わないでしょ?」
「それはそうかもしれないけど。あれ? でもさ、紗絵」
「うん?」
「確か、修学旅行から帰ってきたら誕生日を圭兄に祝ってもらうって。ひょっとして、そのために行ったの?」
「……さあ、なんのことやら」
「ホント、紗絵は計算高いんだから」
「いいじゃない、少しくらい。そうでもしなくちゃ、一緒の時間、なかなか持てないし」
「それはわかるけど、だけど行くなら私にも声かけてくれればよかったのに」
「じゃあ、今度そういう機会があったらそうするから」
 紗絵は、そう言って微笑んだ。
 圭太が着替えて下りてくる。
「紗絵、もういいよ」
「あ、じゃあ、行きましょう」
「圭兄」
 行こうとした圭太を、朱美が呼び止めた。
「ちゃんと、帰ってこないとダメだよ?」
「わかってるよ」
「前科があるから信用できないけど、とりあえず信じてあげる」
 圭太は乾いた笑いを浮かべながら紗絵と一緒に家を出た。
「圭太さん。前科ってなんですか?」
 と、いきなり紗絵がそれを追求してきた。
「前科は前科だよ。この前、祥子先輩の家に泊まって。朱美はそのことを言ってるんだ」
「祥子先輩の家に、泊まったんですか?」
 あまりのことに、紗絵は驚いている。
「いろいろあったからね」
 圭太はあえて多くは語らなかった。
 紗絵もさすがにそれ以上は訊けないらしく、家に着くまでなにも言わなかった。
 真辺家には誰もいなかった。
「娘が帰ってきた途端、夫婦揃って出かけちゃいました」
 そう言って紗絵は苦笑した。
 先に圭太を自分の部屋に通し、台所にお茶を淹れに行く。
 甘いお菓子をいくつか用意していたので、コーヒーを入れた。
「お待たせしました」
 コーヒーとお菓子を持って部屋に戻る。
「コーヒーでよかったですか?」
「うん、なんでもいいよ」
 圭太の前にコーヒーを置き、真ん中にお菓子を置いた。
「そうだ。先にこれを渡しておくよ」
 そう言って圭太は持っていた包みを渡した。
「三日遅れだけど、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
 紗絵は、それを大事そうに受け取った。
「開けてもいいですか?」
「いいよ」
 がさがさと包装紙を開けると──
「カーディガンですね」
 入っていたのは、空色のカーディガンだった。
「なににしようか迷ったんだけど、実用性のあるものがいいかなって思って」
「ありがとうございます。大事に使いますね」
 紗絵は満面の笑顔で答えた。
「でも、圭太さん」
「うん?」
「みんなの誕生日の度にこうやってプレゼントを贈っていたら、大変じゃないですか?」
「大変だとは思ってないよ。多少お金はかかるけど、言葉や態度では表せない日頃の感謝をプレゼントに込められるからね。僕にとっては、むしろありがたい存在だよ」
「そうですか。でも、大変なら無理しなくてもいいと思いますよ。私だけじゃなくて、みんなもこうやって圭太さんに祝ってもらえるだけで十分なんですから」
「ま、それは今後そういうことがあったら考えるよ。今は、素直にそれを受け取ってくれればいいから」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「そうそう、沖縄はどうだった? 昨日朱美にも聞いたんだけど。朱美は満足したけど、紗絵や詩織とずっと一緒で失敗したって言ってた」
「そんなこと言ったんですか? まったく、朱美は……」
「朱美のことだから、それは口だけだよ。本当はそんなこと考えてないから。もし本当にイヤだったら、ふたりと一緒に行動はしなかっただろうし、途中でイヤになったら必ず文句を言うだろうし」
「確かにそうですね」
 紗絵はくすくす笑った。
「それで、紗絵はどうだった?」
「私も、楽しかったですよ。沖縄は日本でありながらそうじゃなくて。珍しいものとかいろいろありましたし。なによりも空や海が青かったです。あれが一番印象に残ってます」
「確かにね。飛行機で沖縄上空に来ると、わかるからね。海の色が全然違うから」
「楽しかったことは楽しかったですけど、やっぱりあの場所を圭太さんと一緒に歩きたかったです」
「それは朱美にも言われたよ。この分じゃ、詩織にも言われるかもしれないな」
「それはしょうがないですよ。キャンプでも私たちは一緒だったんですけど、夜の話はずっと圭太さんのことでしたから」
「そんなに話すことあった?」
「ありますよ。私たちは圭太さんのことだけで軽く徹夜できますから」
 大げさに聞こえるが、それはかなり事実に近かった。修学旅行ではさすがに徹夜はしなかったが、それでも結構遅くまで圭太の話題だけだったのだから。
 圭太も、紗絵の真剣さからそれを感じ取った。
「でも、どうして旅行の時って何気ない話題で盛り上がれるんでしょうね。いつも不思議なんですよ」
「それはあるね。あれはきっと、興奮してるからだろうね。ほら、アルコールが入ると面白くないことでも面白いと感じたりするっていうし」
「ん〜、それはあるかもしれませんね」
「それに、みんながいると、話題を切りたくなくていろんな話を振るからね。ずっと話していたいって」
「それもあるかもしませんね。そうすると、私はますます圭太さんと一緒にどこか行きたくなりました」
「それは、遠回しに旅行に行きませんかって言ってるの?」
「ふふっ、そうかもしません」
「まあ、ふたりでっていうのは無理かもしれないけど、去年みたいにみんなでっていうのは、なんとかなるかもしれないよ」
「ホントですか?」
「もちろん、みんなの都合次第だけどね」
「そんなの大丈夫ですよ。圭太さんと一緒に旅行に行けるってわかれば、なにをおいてでもそれを優先しますから」
「そ、そうかな?」
「そうです」
 紗絵ははっきりと言い切った。
「まあ、旅行のことは、また夏休みになったら考えればいいよ」
「そうですね」
「その前にやらなくちゃいけないことが多いからね」
「まずは、コンサートですね」
「そう。コンサートが終わったら、もう紗絵にバトンタッチして、僕は悠々自適に部活に参加するから」
「ちょ、ちょっと待ってください。いきなりそうなんですか?」
「去年だって、コンサートが終わったら実質僕に移ってきたからね。今年もそうしようかなって」
「ううぅ、やっぱりやるんですか」
「早い方がいいと思うよ。どうせ最初のうちは名前だけなんだから。それとも、ギリギリまで僕がやってようか? それで、引退したら紗絵がやって」
「そ、それはそれで……」
「まあ、そういうのもコンサートが終わってから決めるよ。二年の副部長のこともあるからね」
「そ、そうですね。この話題はこのくらいにしておきましょう」
 紗絵はそう言ってその話題を終わらせた。
 
 それからふたりは、とりとめのない話に花を咲かせた。
 三中、一高と結構な時間を共有しているふたりである。話題はたくさんあった。主に紗絵が話題を振るのだが、時折圭太が鋭い突っ込みを入れては紗絵を困らせていた。
 コーヒーもお菓子もなくなり、不意に話題が途切れた。
 なんとも言えない緩やかな時間がふたりの間には流れていた。
「圭太さん」
「うん?」
「誕生日のお願いがあるんですけど、いいですか?」
「なんだい?」
 圭太は、穏やかな笑みをたたえたまま聞き返した。
「抱いて、ください」
 紗絵は真っ直ぐな瞳でそう言った。
「ダメ、ですか?」
「いや、そんなことないよ」
 紗絵は、嬉しそうに微笑み、圭太の側に寄った。
 圭太は紗絵を抱きしめ、キスをした。
 キスを交わしながら、優しく髪を撫でる。
「ん、はあ……」
「カワイイよ、紗絵」
 圭太は、紗絵の頬に手を添え、微笑んだ。
 紗絵はその圭太の手に自分の手を重ねる。
「ずっと、圭太さんに見つめていてほしいです」
 潤んだ瞳には、圭太の顔が映っていた。
 圭太はそれには答えず、もう一度キスをした。
 そのままブラウスのボタンを外す。
 紗絵はまだ制服姿である。上着は着ていないし、リボンもしていないが、それでもいつものブラウスにスカートという格好は、どこかいつもとは違う感覚を与えていた。
 ボタンを外すと、白のブラジャーがあらわになった。
「この格好でしていると、変な気分になりますね」
「そう?」
「はい。圭太さんもこれで制服だったら、もっとそうだったかもしれません」
 圭太にしてみれば、制服姿というのは何度もあったことなので、紗絵ほど感慨はない。
「ん、圭太さん……」
 圭太は、やわやわと胸を揉む。
 紗絵はベッドに背を預け、力を抜いていく。
「ん、や、ん……」
 圭太は、スカートの中に手を滑り込ませる。
 太腿を撫で、そのままショーツ越しに秘所に触れる。
「んっ」
 少し強めに擦ると、紗絵は体をのけぞらせ反応した。
「ダメ、です、そんなにしたら」
 少しずつショーツが湿ってくる。
「け、圭太さん……」
 紗絵は泣きそうな顔で懇願する。
 圭太は、ショーツを脱がせ、直接秘所に触れた。
「やっ、んんっ、あんっ」
 紗絵の秘所はすでにかなり濡れており、圭太を受け入れる準備は整っていた。
「あんっ」
 圭太は、執拗に秘所を攻める。
「んあっ、ああっ、んんっ」
 圭太の指はすでに根本まですっかり濡れていた。
「ん、はあ、圭太さん、もう私……」
 圭太はベッドに座り、その上に紗絵をまたがらせた。
「そのまま、腰を落として」
「んっ、あああ……」
 圭太のモノが、紗絵の中に収まった。
「はあ、圭太さんのが、奥まで届いてます……」
 圭太は、紗絵の髪を掻き上げ、キスをした。
「動いても、いいですか?」
「紗絵のいいように」
「はい……」
 紗絵は圭太の肩に手を載せ、ゆっくりと動いた。
「んっ、あっ」
 ゆっくりとだが、確実に感じるように。
 圭太は、スカートが汚れないように押さえている。
「やんっ、んんっ、んっ、ああっ」
 少しずつその動きにも慣れ、紗絵の動きが速くなってくる。
「んんっ、圭太さんっ、止まらないですっ」
 紗絵は、圭太にしっかり抱きつき、腰を動かす。
「あっ、あっ、あんっ、んんっ」
 次第に快感が強くなってくる。
「圭太さん、私っ、もうっ」
 紗絵はいつも以上に乱れ、すぐにでも達してしまいそうだった。
「圭太さんっ、圭太さんっ、圭太さんっ」
 圭太も紗絵の動きにあわせ、腰を動かす。
「んんっ、あんっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
 そして──
「んんっ、あああああっ!」
 紗絵は達した。
「はあ、はあ……」
 圭太に抱きついたまま、紗絵は息も絶え絶えに微笑む。
「圭太さんは、まだですね……」
 そう言って圭太の上から下りる。
 そのまま圭太の前にひざまずき、まだ大きいままのモノを愛おしそうに見つめる。
「んっ……」
 それをそのまま口に含む。
「ん、は、む……」
 紗絵は、舌を使い敏感な部分を舐める。
 舐めたあとは、手でしごく。
「うっ……」
 さらなる刺激に、圭太の方も限界が近かった。
「いいですよ、出しても」
 紗絵は、扇情的な表情で圭太のモノを舐める。
「んちゅ、はあ……んん……」
「紗絵、もう……」
 紗絵は、敏感な部分を集中的に刺激する。
「くっ!」
「っ!」
 そして、圭太は紗絵の口内に白濁液を放った。
「んっ……」
 結構な量だったが、紗絵はそれを少しずつ飲み下す。
「ん、はあ、圭太さん……」
「無理しなくてもよかったのに」
「いいんです。圭太さんのですから」
 そう言って紗絵は微笑んだ。
 
「……ん……」
 紗絵が目を覚ますと、圭太が穏やかな表情でその髪を撫でていた。
「よく眠れたかい?」
「はい。圭太さんがずっと側にいてくれましたから」
 にっこり微笑んだ。
「あの、今何時ですか?」
「もうすぐ六時だね」
「あ〜、そろそろ帰ってきますね」
 残念そうに言う。
「たまには紗絵のご両親に挨拶しておこうか?」
「い、いいですよ、そんなこと。お父さんはまだしも、お母さんは調子に乗ると手がつけられませんから」
「そうかい? でも、お母さんの方は知らないわけじゃないし、いいと思うんだけどね」
「だから余計ですよ。って、こんなこと言い合ってる場合じゃないですね」
 そう言って紗絵はベッドから出た。
「あ、あの、圭太さん」
「うん?」
「その、あんまりじっと見られると、恥ずかしいんですけど……」
「いや、見てた方がいいかなって」
 圭太は冗談混じりにそう言った。
「ううぅ、いぢわるですね」
 とはいえ、あまりのんびりもしていられないため、紗絵はこそこそと着替える。
 服を着ると、ようやく落ち着いたのか、表情も穏やかになった。
「それじゃあ、あまり長居すると紗絵に迷惑がかかりそうだから、そろそろ帰るよ」
「別に迷惑というわけじゃないんですけど……」
 紗絵は不服そうに言う。
 ふたりが下に下りてくると、ちょうど玄関が開いた。
「ただいま」
 帰ってきたのは、紗絵の両親である。
 それを見た紗絵は、思わず天を仰いだ。
「あら、紗絵」
 真辺家の階段は、玄関から一番よく見える場所にあった。
「どうも、ご無沙汰していました」
 圭太は、両親に挨拶する。
「まあまあ、お久しぶりですね。あなた、紗絵の部活の先輩で、高城圭太さんよ」
 紗絵の母親、美津恵は父親の荘治に圭太を紹介する。
「いつも娘がお世話になっています」
 荘治は、穏和な笑みを浮かべ、頭を下げた。
「もうお帰りですか?」
「ええ、そろそろいい時間ですから」
「そうですか。今度は是非、私たちがいる時に来てくださいね」
「はい」
 隣では紗絵が思い切りイヤそうな顔をしていたのは、言うまでもないだろう。
「じゃあ、ちょっとそこまで送ってくるから」
 紗絵は早々に会話を終わらせ、圭太を外に出した。
「はあ、びっくりしました」
「そんなに驚いた?」
「驚きましたよ。あとでいろいろ言われます」
「別に困るようなことは聞かれないと思うけど」
「聞かれたら困ります。言えるわけないですから」
「確かにね」
 困るとは言っても、いつか言わなくてはならないことではある。
「あの、圭太さん」
「なんだい?」
「私たちの関係って、やっぱり認められない関係なんでしょうか?」
「それは一概には言えないけど、一般的には認められないだろうね」
「そうですよね、やっぱり」
 紗絵は、少しだけ俯いた。
「ただ、世の中は広いからね。本当にいろいろな人がいるよ」
「それは、どういう意味ですか?」
「ほら、祥子先輩のことだよ」
「ああ、確かにそうですね」
「百パーセントは認めてもらえてないだろうけど、先輩のご両親には認めてもらえたよ。もっとも、積極的に認めてくれたのは、先輩のお母さんの方だけどね」
「そうなんですか?」
「先輩曰く、僕はものすごく買ってもらってるらしいから。たとえ僕と一緒になれなくとも、僕が側にいれば不幸になることはない、とまで言われたし」
「そ、そこまでですか。それはすごいですね」
「それはね。だけど、そういうこともまれにあるから、悲観しすぎるのもどうかと思うから」
「うちも、お母さんは認めてくれるかもしれませんね。お母さん、圭太さんのことベタ褒めですから。三中の頃から、彼が紗絵の彼氏になってくれればいいのにねぇ、って言われてきましたから」
「ははは、どこの家も同じなんだね」
「いずれにしても、その問題は解決しなくちゃいけないことですからね」
「そうだね。その時は、僕も一緒になって考えるよ」
「はい」
 ちょうど中間あたりに来たところで、圭太は立ち止まった。
「これ以上行くと、本末転倒になっちゃうから、ここまででいいよ」
「わかりました」
 圭太はそっと紗絵を抱きしめ、キスをした。
「ん……」
 紗絵は、圭太の背中に腕をまわし、一秒でも長くそのぬくもりを感じていようとする。
「じゃあ、また明日」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
「うん」
 笑顔の紗絵に見送られ、圭太は家路に就いた。
 
 三
 週が明け、一高もいつも通りの姿に戻った。
 各階に活気が戻り、ようやく再スタートという感じである。
 三年の授業は今はまだ教科書中心だが、夏休み明けには受験に向けた特別体制となる。早めに教科書を終わらせ、受験に役立ちそうな問題を解かせたりするのである。
 五月の段階でそういうことはさすがにしないが、授業中もしばしば受験に向けたアドバイスが飛ぶ。
 就職組の少ない一高では、やはり受験に対するウェイトは大きい。少しずつ受験に向けて動き出す。
 勉強だけでなく、部活の方も特に運動部は重要な季節を迎える。総体が間近に控えているのである。ここで好成績を収めれば、県大会に出場でき、さらにはインターハイへの道も見えてくる。
 そういうわけで、一高はなかなか活気があった。もちろん、五月病を発症しだらけている生徒もいるが。
 圭太のいる三年一組でも、話題はもっぱらそれに絡んだことだった。
「ふ〜ん、そうなんだ」
「そうなんだ、って、ずいぶんと素っ気ない返事ね」
「そりゃそうよ。言葉だけで言われても、全然実感ないもの。ねえ、圭太?」
 柚紀は、隣の圭太に話を振った。
「確かに実感はないかもしれないけど、凛ちゃんがすごいっていうのは、紛れもない事実だよ」
「ううぅ〜、やっぱりけーちゃんだけだよ、あたしのことを認めてくれるのは」
 よよよ、といって泣き真似をする凛。
「まったく、なにを言ってるんだか、この娘っ子は」
 柚紀は呆れ顔で肩をすくめた。
「それはさておき、今年はインハイ、出られるの?」
「さあ、どうかな。それはあたしにもわからないわ。去年までのこの県のタイムなら、出られるはずだけど。一年経てば新たな記録が生まれる可能性もあるし」
「なるほどね」
「もちろん、あたしも全力で挑むけど。ようは、結果は誰にもわからない、ってことよ」
 そう言って凛は笑った。
「でもさ、凛は去年、インハイに出場したんでしょ?」
「まあね」
「だったら、今年だって行ける可能性は高いんじゃないの?」
「可能性だけで勝負は語れないわよ。それに、ただ単に可能性だけを論じるなら、あたしが負ける可能性だってあるんだから」
「それはそうかもしれないけど」
「まあまあ、柚紀も凛ちゃんもそれくらいにして。本番まではまだ時間があるんだから」
 圭太がふたりの間に割って入る。
「とにかく、悔いの残らないよう、全力でやればいいんだよ」
「ま、最後はそういう結論に達するわね」
 柚紀は、小さく頷いた。
「せいぜい、インハイ出場選手の名に恥じない泳ぎをすることね」
「柚紀に言われなくともわかってるわよ」
 端から見れば喧嘩腰にも見えるが、これがこのふたりのお互いに対する励まし方でもあった。
 圭太は、そんなふたりを見て、穏やかに微笑んでいた。
 
 吹奏楽部では、相変わらず厳しい練習が続いていた。特に二年は一週間のブランクがあるために、勘を取り戻すのに必死だった。
 とはいえ、一高吹奏楽部の伝統として、厳しさの中にもちゃんと部員たちにやる気を起こさせるようなことはしている。
 たとえば、それが息抜きの慰労会みたいなものだったり、目標達成の暁にはご褒美がもらえるとか。非常に単純なことではあるが、そういうものが重要だったりする。
 ただ、今年の吹奏楽部は、例年以上に真剣に練習していた。それはとりもなおさず、部長が誰よりも真剣に練習しているからである。その部長に指示されては、誰も言い返せないのである。
 その部長はといえば、相変わらず進行状況について悩んでいた。
 ここまでやればいい、というものがなかなか見えないためそういう状況になっているのだが、そこに真面目すぎる性格というのも原因のひとつに上げてもいいだろう。
「…………」
 圭太は、スコアとにらめっこしていた。
 あまりの真剣さに、誰も近寄れない。遠巻きにそれを見ているだけである。
「……ここは」
 気になる部分は徹底的に吟味していく。
 そういうことを自分の練習時間外にやっているのだから、頭が下がるというものである。
「圭太。そろそろ音楽室閉めない?」
 意を決して声をかけたのは、柚紀である。
「ん、ああ、そうだね。そろそろ閉めようか」
 圭太は時計を確認し、スコアを閉じた。
「準備室の戸締まりは?」
「完璧です」
「じゃあ、音楽室の方は──」
「もうやってあるわよ」
「そっか。じゃあ、本当に閉めるだけか」
 そう言って圭太は苦笑した。
 残っていたメンバーを音楽室から追い出し、鍵をかける。
「じゃあ、職員室に日誌と鍵を置いてくるから」
「あっ、先輩。私も行きます」
 と、紗絵が日誌を持った。
「私たちは先に行ってるわね」
 途中で柚紀たちと別れる。
「日誌くらい、僕が持って行くのに」
「いいんです。先輩はなんでもすぐに背負いすぎちゃいますから。もう少し私や綾先輩を使ってください」
「ははっ、そうだったね。じゃあ、もう少し紗絵にいろいろやってもらおうか」
「はい、そうしてください」
 紗絵は、にっこり笑った。
 職員室には菜穂子の姿はなかった。日誌を机の上に置き、鍵は鍵かけにかける。
 時間も時間なので、圭太を呼び止めるような教師はほとんどいない。これが昼間ならひとりくらいいたかもしれないが。
「あの、圭太さん」
「うん?」
 紗絵の圭太の呼び方が、『圭太さん』に変わった。
「先週の土曜日のこと、覚えてますか?」
「覚えてるよ。紗絵の家に行ったことだよね」
「はい。その時にうちの両親に会ったじゃないですか」
「うん」
「あのあと、やっぱりいろいろ聞かれました。どうして圭太さんがうちに来てたのか、なにをしてたのか、とか」
「普通は聞くだろうね。僕だって、琴絵の友達が来てたってなにしに来たかくらい聞くから」
「とりあえず、私の誕生日を祝ってもらったって言ったんです」
「その通りだね」
「そしたら、それだけだったのかってしつこく聞かれて」
「それで?」
「もちろん、本当のことなんて話してませんけど、特にお母さんの方は、圭太さんとの仲をかなりあやしんでます」
 紗絵は、そう言って少し俯いた。
「どうしたらいいと思いますか?」
「別に、今のままでいいんじゃないかな? 特に困るようなことが起きたわけじゃないんだから。それに、お母さんだって本気で困らせようだなんて思ってないよ」
「そうでしょうか?」
「うん。それに、もしなにかあったら、ちゃんと僕も話すから。紗絵は心配しなくていいよ」
 圭太は紗絵の頭を撫でた。
 そこでようやく紗絵も落ち着いたようである。
「わかりました。私もあまり気にしないようにします」
「それがいいよ」
 紗絵の笑みを見て、圭太も微笑んだ。
 
 五月二十一日はとてもいい天気だった。五月晴れの上に気温も高く、動くと汗ばむほどだった。
 その日、笹峰家ではちょっとした『騒ぎ』が起きていた。
「ねえ、柚紀。これでいいと思う?」
 朝っぱらから咲紀が柚紀の部屋を襲撃。
「そんなの、お姉ちゃんが決めればいいじゃない。なんで私が決めなくちゃいけないのよ」
 柚紀は憮然とした表情で髪を梳かしている。
「なんでって、彼氏の家に行くんだから、その彼女に聞いた方がいいじゃない」
「……お姉ちゃんが主役じゃないでしょ?」
「それはそうだけど。だからってみっともない格好では行けないでしょ?」
「それはそうかもしれないけど」
 柚紀としても、姉がみっともない格好をしていては、恥ずかしい思いをする。
 だが、あの高城家の面々がそういうことを言うとはとうてい思えないのも事実であった。
「いつも圭太がうちに来てる時に着てたのでいいんじゃないの?」
「あれは部屋着よ。今日のは、ちゃんと外出着なんだから」
 咲紀は、あれやこれやと服を見繕う。
「そういや、柚紀」
「なに?」
「圭太くんの家って、お父さんがいないのよね?」
「うん。今は、母親の琴美さんと妹の琴絵ちゃん、それと、居候してる従妹の朱美ちゃんと四人暮らし」
「なるほどなるほど」
「なんでそんなこと聞くの?」
「いやほら、余計なこと言わないようにね。言っていいことと悪いことがあるから」
「ふ〜ん、お姉ちゃんでも気にするんだね」
「あら、失礼な言いぐさね。これでもあたしはガラスのように繊細な心を持ってるのよ」
「……厚さ一メートルくらいのガラスね」
 柚紀は、ぼそっと呟いた。
「そういうことを言う口は、どの口よ」
「あひゃひゃ、いひゃいひゃい」
 咲紀は、後ろから柚紀の口を引っ張った。
「お姉さまに逆らおうだなんて、十年早いのよ」
「いひゃい、はにゃひてひょ」
「ごめんなさいは?」
「ごめんなひゃい」
「うむ、よろしい」
 咲紀は満足そうに頷き、手を離した。
「……まったく、お姉ちゃんは相変わらず加減を知らないんだから」
「あんたが余計なことを言うからよ」
 頬をさすりながら柚紀は恨めしそうに咲紀をにらむ。
「っと、さっさと服を選ばないと」
 咲紀は、自分の部屋に戻っていった。
「ホント、お姉ちゃんを連れていっていいのかな?」
 不安しかない柚紀であった。
 
 午前中は部活である。柚紀としては部活どころではないのだが、だからといって練習をおろそかにするわけにもいかない。
 どことなく上の空なまま練習をし、ようやく部活が終わった。
「柚紀さん」
 ピアノ椅子に座り、ぐてーっとしていると、声がかかった。吹奏楽部の中で柚紀のことを『さん』付けで呼ぶのはひとりしかいない。
「ん、どうしたの、琴絵ちゃん?」
 柚紀は、首だけ琴絵に向け、聞き返した。
「ああ、いえ、たいしたことじゃないんですけど」
「うんうん」
「今日は、柚紀さんはどうするのかなって、そう思ったんです」
「どうするって、なにを?」
「泊まっていくのかなって、そう思ったんです」
「ああ、そのことか。う〜ん、私としては一分一秒でも圭太と一緒にいたいんだけど、さすがに今日は無理じゃないかな。ま、私が押し通せばできないこともないけど」
 何気にさらっと危険なことを言う。
「琴絵ちゃんは、どうしたらいいと思う?」
 ニコニコと笑みを絶やさず、訊く。
「え、えっと、私はその……」
「ふふっ、冗談だよ。それに、そういうのはその場の雰囲気とかいろいろあるから」
「そういうものですか」
 琴絵はなるほどと頷いた。
「琴絵ちゃんも彼氏ができれば、そういうのもわかると思うけど。今のままじゃ、それは無理だね」
「あ、あはは……」
 音楽室を閉め、学校を出たのは、いつもの土曜日とほぼ同じ時間だった。
「はあ、なんか心配だなぁ」
「心配って、なにが?」
 圭太は柚紀に聞き返した。
「まあ、お父さんとお母さんはいいんだけど、やっぱりお姉ちゃんがね。今朝だって私の部屋であ〜でもないこ〜でもないってうるさくて」
「ま、まあ、いくら咲紀さんでも、暴走することはないと思うけど」
「だといいけど」
『桜亭』は臨時休業である。さすがに笹峰家の相手をしながら店を開けるのは難しい。
 そういうわけで、バイトのともみと祥子は休みをもらっている。
「もう来てると思うけど」
 玄関から家に上がる。
「ただいま」
「おじゃまします」
 圭太たちがリビングに顔を出すと、すでに笹峰家の面々が来ていた。
「あら、おかえり」
「こんにちは、圭太くん」
「お久しぶりです」
「圭太。とりあえず着替えてきなさい。それと、琴絵と朱美も一緒にね」
「了解」
「私も一緒に行くわ」
「あら、柚紀は一緒に行く必要ないじゃない」
 早速咲紀からクレームが飛んだ。
「じゃあ、私だけ制服でいろって言うの?」
「いいじゃない、別に。ねえ、圭太くん?」
「は、はあ……」
「お姉ちゃんは黙ってて。ほら、圭太、行こう」
 柚紀は、さっさとリビングを出て行った。
「まったく、生意気なんだから」
 咲紀はやれやれとため息をついた。
 圭太は苦笑しつつ、二階の自分の部屋へ。
 部屋の中では、柚紀が渋い顔でベッドに座っていた。
「ホント、お姉ちゃんは余計なことしか言わないんだから」
「でも、それも柚紀にだけだと思うけど」
「それはそれで問題だと思うけど」
「たぶん、咲紀さんは柚紀のことが可愛くて仕方がないんだよ」
「お姉ちゃんが?」
 柚紀は、思いもかけないことを言われ、多少声が裏返っていた。
「うん。そういう気持ちをなかなか素直に表せないから、たまにいぢわるなこととかしちゃうんじゃないかな」
「そうなのかなぁ。そりゃ、私たちは仲は悪くないけど、圭太と琴絵ちゃんほどじゃないし」
「僕にもそれはわからないけどね。なんだったら、僕が訊いてみようか?」
「ああ、いいよいいよ。もし圭太が言ったことが本当なら、今までみたいにお姉ちゃんとバカやれなくなっちゃうから」
「それならいいけど」
 なんだかんだ言いながら、柚紀も咲紀のやることは理解しているのである。そうじゃなければ、そんなこと言えない。
「さてと、さっさと着替えないとまた文句言われるわね」
 柚紀は、部屋に置いている自分の服を取り出す。
「出てようか?」
「んもう、今更そんなことを気にすることないじゃない。なんだったら、裸になっちゃおうか?」
「はいはい。そういうのはまたの機会に」
「むぅ、圭太が冷たいよぉ」
 柚紀は泣き真似しながらも制服を脱ぐ。
「ね、圭太」
「うん?」
「私、スタイル変わったと思う?」
 下着姿になり、そう訊ねる。
「特に変わったとは思わないけど、気になるの?」
「ん〜、そういうわけじゃないんだけどね。ほら、自分の体って毎日自分で見てるけど、ほかの人からの見た目ってわからないじゃない」
「そうかもしれないけど。でも、僕は特に変わったとは思わないよ」
「そっか、ならいいや。ごめんね、変なこと聞いて」
 柚紀はにっこり笑ってシャツを着てスカートをはいた。
 圭太も制服から着替える。
「じゃあ、戻ろうか」
「うん」
 言われた通り、琴絵と朱美を呼んでふたりはリビングに戻った。
「母さん、連れてきたよ」
「ありがとう」
 三対の目が琴絵と朱美に注がれる。
「圭太の妹の琴絵と、今うちに居候している従妹の吉沢朱美です」
「はじめまして」
「こんにちは」
 ふたりとも三人に挨拶する。
「ふたりのことは、よく柚紀から聞いているわ」
 ふたりはどんな顔をしていいかわからないという感じで苦笑した。
「じゃあ、少し遅くなりましたけど、お昼にしましょう。ふたりとも、手伝って」
「うん」
「はい」
 琴美は、琴絵と朱美を連れて台所へ。
「お父さん、お姉ちゃん、余計なこと言ってなかった?」
「おいおい、いきなりそれはひどいんじゃないか」
「そうよ。お姉さまのことをなんだと思ってるのよ」
「そういうことはね、普段からまともな言動をとってる人が言えるセリフなの。お父さんとお姉ちゃんにはその資格はなし」
 ばっさりと切り捨てる。
「別に今日はおとなしくしてたわよ」
「そう? ならいいけど。恥をかくのは私なんだから、くれぐれも気をつけてよ」
 柚紀は、改めてそう言った。
「ま、それはさておき、ホントに久しぶりだね、圭太くん」
 すすすっと咲紀は圭太の側に寄ってくる。
「お姉ちゃん、教育的指導。そんなに圭太に近寄らないこと」
「なによぉ、別にいいじゃない。あんたはいつもべったりなんだから。たまにはあたしだって『義弟』くんとスキンシップしたいもの」
 言いながら圭太にすり寄る。
「え、えっと……」
 圭太としてはむげに扱うことはできない。
「ん〜、いいなぁ」
「だから、お姉ちゃん。私が言ったこと、聞いてなかったの?」
「んもう、独り占めなんてずるいわよ」
「あのねぇ、圭太は私の彼氏なの。お姉ちゃんの彼氏じゃないんだから」
「まったく、独占欲の強い妹さまだことで」
 咲紀はため息をつきつつ圭太から離れた。
「圭太くん。最近はどうだい? 部活や勉強の方はがんばっているかな?」
「はい。部活の方は七月のコンサートに向けてがんばっています。勉強の方は、今まで通りですね」
「そうかい」
「柚紀は迷惑かけてない?」
「ちょっとお母さん。それってどういう意味よ」
「あら、自覚ないの?」
「うぐっ……」
 そう言われて口ごもっては意味がない。
「柚紀もよくやってくれてますよ。パーカッションは人数も多いので大変だとは思いますけど」
「そう、そうならいいのよ」
「……まったく、どうして自分の娘を信用できないのかしら」
 柚紀はため息をついた。
 
 遅めの昼食を食べたあと、とりあえず大人は大人同士、学生は学生同士という感じでおのおの分かれた。
「──で、お姉さまに是非ともお伺いしたいのですが」
「なに?」
「どうしてここにいらっしゃるのでしょうか?」
「だってさぁ、大人同士の会話に入っても面白くないじゃない。そりゃ、精神年齢でいうならあたしもあっちサイドに近いとは思うけど。でも、今日ここへ来た理由の大半は、圭太くんに会うためなんだから」
 そう言って咲紀は、圭太に抱きついた。
「お、お姉ちゃんっ!」
「んもう、いちいち目くじら立てないの。別にカワイイカワイイ圭太くんをとって食おうだなんて思ってないから」
「当たり前よっ! お姉ちゃんには正久さんがいるんだから」
「正久がいたって、あたしは圭太くんともっと仲良くなりたいの」
「別に仲良くなるな、とは言わないわよ。だけど、物事には限度ってものがあるでしょうが。大学生のくせにそんなこともわからないの?」
「言うに事欠いて、なんてこと言うのよ、この色ボケ妹は」
「ええ、ええ、色ボケで結構ですよぉだ。だから、さっさと圭太から離れて」
「イヤよ」
 咲紀は、ギュッと圭太を抱きしめた。
「お、おおお、お姉ちゃんっ!」
 柚紀は、強引に咲紀を引きはがそうとする。
「いやん、柚紀のバカ」
「そういうことは、圭太から離れてから言ってよ」
 姉妹の間に挟まれ、圭太はまったく身動きが取れなかった。
「むぅ……」
「むむむ……」
「あ、あの、少々落ち着いて状況を整理しませんか?」
「落ち着かなくても、お姉ちゃんが圭太から離れれば万事丸く収まるのよ」
「はあ、しょうがないなぁ、ここはカワイイ妹のために、涙を呑んでその提案を受け入れましょう」
 咲紀は、そう言ってようやく圭太から離れた。
「ホント、油断も隙もないんだから」
 代わって、柚紀が圭太を抱きしめる。
「圭太は、私のものなんだから」
「はいはい、わかってるから。そろそろ圭太くんを解放してあげなさいって」
「ううぅ……」
 そこで、ようやく姉妹から解放された。
「でもさ、圭太くん」
「なんですか?」
「よくこんなワガママ娘の相手、そんなにできるわよね」
「僕はそんな風には思ってませんよ」
「そうなの?」
「ええ。それに、少しくらいワガママ言ってくれる方がいいと思いますし」
「ふ〜ん、そっか。圭太くんはそういう考えの持ち主なんだ。なるほどねぇ」
「なにが言いたいの、お姉ちゃんは?」
「いや、だからこそ柚紀と圭太くんは上手くいってるのかなって、そう思っただけ」
 咲紀は、得心という感じで頷いた。
「咲紀さんは、違うんですか?」
「あたし? そうね、あたしは相手に求めてるものが柚紀とは違うから」
「お姉ちゃんは、必要以上に深い関係を嫌うからね」
「そうよ。たとえ一緒になっても、自分てものをちゃんと持ってたいからね。だからこそそういうのを認めてくれる人を探したの」
「で、正久さんはそのお眼鏡にかなった、と」
「まあね。でも、今のふたりみたいな関係も、それはそれでいいのかなって、そう思うわよ」
 穏やかに微笑む咲紀を見て、柚紀はなにも言えなくなった。
「そういや、ふたりって、いつ一緒になるの? やっぱり、当初の予定通り卒業後?」
「最初はそう思っていたんですけど、入籍だけは今年中にしようかって」
「ああ、そっか。圭太くんが十八にならないと一緒になれないからね」
「はい。それでも一応、今年という枠には収まっているので」
「ふ〜ん、なるほど。だけど、前倒しする理由とかってあるの?」
「それは、ですね……」
 それはさすがに圭太もすんなりとは話せない。やはり、ふたりの問題、という気持ちが強いからである。
「別に無理に聞こうとは思ってないけど」
「理由のひとつとしては、柚紀を早く安心させてあげたいんです」
「安心?」
「はい。僕は柚紀に迷惑ばかりかけてますから」
「そんなまさか? 圭太くんが柚紀に迷惑を? だったら、柚紀なんて銃殺刑か絞首刑か電気椅子送りじゃない」
「……お姉ちゃん、言い過ぎ」
「そのあたりのことは詳しくは言えませんけど、とにかく、そういうことも前倒しの理由のひとつです」
「そっか。ま、なんにせよ、ふたりがいいならあたしはなにも言わないけどね」
「当然よ。これは、私と圭太の問題なんだから」
「はいはい。わかってるから」
「そう言うお姉ちゃんはどうなの? 正久さんと、関係を進展させる気はないの?」
「さあ、あたしたちの場合は、もはや成り行き任せみたいなものだから。それこそ、まかり間違って妊娠でもしない限り、そう簡単には進まないと思うわよ。あたしも正久も、今の関係に満足してるし」
 咲紀は、少しだけ真面目に答えた。
「ま、あたしのことはどうでもいいじゃない。今は、圭太くんで遊ぶことの方が重要よ」
「えっと、それはさすがに……」
「あはは、冗談よ、冗談」
「……お姉ちゃんの場合、半分以上は本気だから」
「なにか言ったかしら?」
「いいえぇ、別にぃ」
「ホント、生意気なんだから」
「これもひとえに、お姉さまのおかげですわ。おほほほ」
「まったく……」
 圭太は、ふたりのやりとりを少しだけハラハラしながら見ていた。もっとも、姉妹の関係など、このようなものかもしれないとも、思っていたが。
 
 夕方になり、台所からはいい匂いが漂ってきていた。
 琴美が是非にと言って笹峰家の面々を夕食に招待したのだ。最初はそこまでは、と言って断っていたのだが、結局は押される形となった。
 もっとも、柚紀と咲紀はその方がよかったのかもしれないが。
「圭太くん」
「なんですか?」
「圭太くんは、このまま柚紀と一緒にいることに、不満とか不安とかないの?」
「いえ、特にはないですけど」
「そっか。じゃあ、圭太くんはそこまで柚紀のことを信頼してるんだね。普通は家族以外の第三者とずっといるのって、不安になったり不満があったりするものなんだけどね」
 そう言って咲紀は腕を組んだ。
「咲紀さんもそうなんですか?」
「あたし? そうねぇ、少しはそういうの、あるかもね。ただ、あたしは今の柚紀と圭太くんみたいな関係になってないから、そこまでのことはまだ考えてないかな」
「そうですか」
「まあでもさ、柚紀の姉としては、そう言ってくれるのは、嬉しいよ。なんだかんだ言っても、柚紀はこの世でたったひとりの妹だからね。その妹が幸せになれるなら、不肖の姉としても嬉しいし、喜ばないとね」
 それはきっと、咲紀の本音である。柚紀の前ではなかなか言わないが、普段からそういうことを考えているのだろう。
 ふたりきりの姉妹である。殺したいほど憎んでいることなど、そうはないのだから。
「あっ、今の話、柚紀には内緒ね。こんなことあたしが言ったなんて知ったら、調子に乗るから」
「はい、わかりました」
「うんうん、素直でよろしい」
 咲紀はにっこり微笑んだ。
「お姉ちゃん。なにしてるの?」
 そこへ、エプロン姿の柚紀がやって来た。
「なにって、『義弟』くんと話をしてただけよ。別にあ〜んなことやこ〜んなことなんかしてないから安心して」
「当たり前よ。まったく……」
「で、なにしに来たの? まだ終わってないでしょ?」
「ああ、うん。お姉ちゃん、エビフライ何本食べる?」
「何本でも構わないけど。どうせだったら、つまめるように大皿にでも盛れば?」
「それも考えたんだけど、人数が多いから、少なくともふたつにしなくちゃいけないし。かと言っても、一応みんながどのくらい食べるのか聞いておかないと、無駄になっちゃうし」
「ふ〜ん。じゃあ、あたしは四本。そんなに大きくないんでしょ?」
「うん。ごく普通のブラックタイガー」
「じゃ、それでいいわ。圭太くんは?」
「ああ、いいの。圭太の分は私がちゃんと把握してるから」
「あら、なに、もう奥さん気取り?」
「気取りじゃなくて、そうなの。アンダスタン?」
「はいはい、ごちそうさま」
 柚紀は、機嫌良く台所に戻った。
「あたしがこんなこと言う必要もないと思うけど」
「はい」
「柚紀のこと、お願いね」
「はい」
 
 夕食後、圭太は少しだけ柚紀とふたりだけの時間を作った。
「とりあえず、何事もなく終わったからよかったわ」
「そんなに心配だった?」
「心配というか、恥をかかせないでほしかっただけよ。ま、お父さんもお姉ちゃんも人の家では人並みの羞恥心は持ってたみたいだけどね」
「あ、あはは」
 柚紀の歯に衣着せぬ物言いに、圭太は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「圭太はどうだった?」
「僕が、というよりもうちはあまりお客が来ないから、たまに来てくれると母さんも喜んでくれるよ。基本的に社交的な性格だからね」
「そっか」
「今日だって楽しそうだったし」
「ま、それくらいは役に立ってもらわないとね」
 そう言って息をついた。
「本当は今日も泊まっていきたいんだけど、うるさいのがいるから、帰るね」
「うん。うちにはいつでも来られるんだから、今日くらいはね」
「ホント、圭太の懐の深さをうちのお父さんにも見習ってほしいわ」
「そんなことはないと思うけど」
「ま、いいわ」
 柚紀はそっと圭太に寄り添った。
「今日はありがとね、圭太」
 そして、ゆっくりとキスをした。
「さてと、そろそろ行くね」
「バス停まで送るよ」
 リビングに戻ると、こちらも帰る準備をしていた。
「準備できた?」
「柚紀の方こそ、もういいの?」
「いいから下りてきたの」
 玄関口で挨拶する。
「今日は長々とおじゃまして、ありがとうございました」
「いえ、またいつでもいらしてください」
「はい、またそのうちにでも」
「じゃあ、母さん。バス停まで送ってくるよ」
「ええ、お願いね」
 笹峰家の四人と圭太は大通りまで出る。
「圭太くん。今日はいろいろ話ができてとてもよかったよ」
「僕もそう思っています」
「そうか。今度は、うちで話をしようじゃないか」
「そうですね。また機会を見て伺います」
「その時はお姉ちゃんがいない日がいいわね」
「あら、なにを言ってるのかしら、このバカ妹は」
「だって、お姉ちゃんがいると私が余計に疲れるだもん。いなければ、お父さんひとりに目を光らせてればいいわけだし」
「ホント、減らず口ばかり叩くんだから」
 そう言って咲紀は柚紀の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「や、やめてよ、髪が乱れるから」
「愛情表現よ、愛情表現」
「ほら、ふたりとも、公道でじゃれないの。圭太くんが呆れてるでしょ」
「私のせいじゃないのに……」
 少しして、バスがやって来た。
「それじゃあ、お母さんによろしく言っておいてね」
「はい」
「圭太、また明日ね」
「うん」
 圧縮空気の力でドアが閉まり、バスは重いエンジン音を響かせて動き出した。
 窓際の席に座った柚紀がバイバイと手を振るのを、圭太は笑みを浮かべて見送っていた。
 
 四
 五月に入ってからほとんど雨も降らずに下旬に突入。どのみちあと半月足らずで梅雨に入るのだが、それでも天気がいいと人間は気持ちまで晴れやかになる。
 五月病が出ていた生徒もそろそろ復活しはじめる頃。
 圭太は、次の時間の用意をしていると、クラスメイトに声をかけられた。
「おい、高城。後輩が来てるぞ」
「後輩?」
 入り口の方を見ると、朱美と詩織がちょこっと頭を下げた。
 圭太が教室から出ると、朱美が早速用件を伝えてきた。
「ねえ、圭兄。今日のお昼、少しだけ教室で待っててくれないかな」
「それは構わないけど、なにかあるわけ?」
「次の時間、調理実習なんです。それで先輩にも食べてもらおうって朱美と話して」
「なるほど、そういうことか」
「そんなにたいしたもの作るわけじゃないから、心配しなくていいよ」
「別に心配はしてないよ。ふたりとも、料理の腕は確かだからね」
「そういう意味じゃなくて、お弁当には影響ないよってこと」
「ああ、そっちか。なるほど、そっちの方が重要かもしれないな」
 そう言って圭太は笑った。
「それじゃあ、昼休みになったらこちらに来ますから」
「うん、了解」
「じゃあね、圭兄」
 ふたりは階段を下りていった。
 圭太が自分の席に戻ると、早速柚紀と凛がやって来た。
「いったいなんの用だったの?」
「たいしたことじゃないよ。次の時間調理実習でなにか作るんだって。で、それを僕に食べてほしいって」
「ふ〜ん、調理実習ね」
「次の時間ってことは、昼休みにけーちゃんのところへ持ってくるってこと?」
「うん」
「はあ、あのふたりもマメね」
 柚紀はやれやれとため息をついた。
「ということは、今日のお昼は大人数になるかもしれないわね」
「そうだね。まあ、食事は大勢の方が楽しいし、僕は好きだよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 
 昼休み。
 先の休み時間に言われた通り、圭太は授業が終わってもしばらく教室で待っていた。
 教室の中は、生徒の数は半分くらいで、だいぶ静かだった。
 廊下の喧噪が耳に飛び込んでくるが、それでもそれはやかましいほどではなかった。
「お兄ちゃん」
 そこへ、琴絵と紗絵がやって来た。
「今日はまだ教室にいたんだね」
「朱美と詩織にいるようにって釘をさされたんだ」
「朱美と詩織にですか?」
「ふたりのクラスが調理実習で、そのできたものを僕に食べてほしいんだって」
「なるほど、そういうことですか」
 紗絵はうんうんと頷いた。
「そろそろ来ると思うんだけど──」
「ごめん、圭兄、遅くなっちゃった」
 ちょうどそこへ、朱美と詩織がやって来た。手には調理実習で作ったと思われる料理があった。
「あれ、琴絵ちゃんと紗絵もいるんだ」
「うん。いい天気だから、一緒に食べようと思って」
「時間がもったいないから、お昼にしようか。って、この人数で教室だと邪魔になるね」
「屋上でいいんじゃないの? 人がいたって、満杯ってことはないだろうし」
「そうだね。それじゃあ、屋上に行こうか」
 圭太たちは、ぞろぞろと教室から屋上へと移動する。
 屋上へのドアを開けると、初夏の陽差しが痛いくらいに飛び込んできた。
 吹く風はさわやかで、本当に気持ちのいい日だった。
 屋上にはそれなりの数の生徒がいた。
 圭太たちはその一角に陣取った。
「はい、圭兄」
 早速朱美が自分の作ったものを渡す。
 タッパーの中に入っていたのは、鳥の治部煮だった。
「ずいぶんと渋いものを作ったのね」
「今日の課題は、煮物だったんです」
「詩織は?」
「私はこれです」
 詩織の方は、ブリ大根だった。
「うわ、これまた渋い。というか、ブリ大根なんてよく作ろうと思ったわね」
「圧力鍋を使ったので、それほど時間もかかりませんでしたし。それに、たまには変わったものを作った方がいいと思って」
「ふ〜ん、なるほどね」
「それじゃあ、食べさせてもらうよ」
 圭太は箸を持ち、まずは朱美の鳥の治部煮を食べた。
「どう、かな?」
「うん、いい味が出てるよ。授業中だけで作ったにしては、上出来だと思う」
「はあ、よかった」
「どれどれ、私も」
 柚紀も箸をつける。
「ん〜、ホントだ。いい味出てる」
「じゃあ、今度は詩織の」
 圭太は詩織のブリ大根に箸をつけた。
 詩織は、心配そうに圭太を見つめる。
「このブリは?」
「家で下ごしらえしてきたんです。さすがにすべてってわけにはいかないので」
「なるほどね。うん、美味しいよ。大根にもよく味が染みこんでるし」
「本当は時間をかけてじっくり染みこませた方が美味しいんでしょうけど、時間がなかったので」
「これだけできてれば十分だよ。今時、これだけのものを作れる高校生はそういないからね」
「ありがとうございます」
 詩織は、少し照れながら微笑んだ。
「それにしても、けーちゃんのまわりには料理の上手な子ばかりいるわね」
「あら、凛。それはひがみ?」
 柚紀が、にやにやといぢわるな笑みを浮かべて訊ねる。
「おあいにくさま。あたしだって人並みに料理はできるわよ」
「人並みにね。その人並みは、せめて圭太レベルじゃないと、泣きを見るわよ。圭太の料理の腕は、反則ってくらい上手いんだから」
「……そうなの?」
「そこら辺の男子よりははるかに上よ。普通の料理もできるし、お菓子だって作れる。ホワイトデーのお返しは、手作りのお菓子だったし」
「…………」
「凛ちゃんが心配することないよ。それに、僕はそんなにたいしたものは作れないし」
「とは言ってもね」
 そこはやはり、乙女心というものだろう。好きな人には、できれば美味しいものを作って食べさせたい。みんながみんなそう思ってるわけではないだろうが、ここにいる面々はそう思っている。当然、凛もである。
「まあまあ、それより今は、お昼を食べよう。時間だって無限にあるわけじゃないんだから」
「あ、うん、そうだね」
 それぞれに弁当を広げ、朱美と詩織の料理を真ん中に置き、昼食にする。
 七人での食事はなかなかにぎにぎしい。
 誰が中心というわけでもなく、それぞれに話に花を咲かせている。
「このまま授業、さぼりたくなるくらいいい天気ね」
「まあね」
「どうしてこういう日に授業なんてあるんだろ」
「それは言っても詮無いことだと思うけど」
「どうせこういう日の午後は、居眠り者続出なんだから、あまり意味ないと思うんだけどなぁ」
「意味がなくても、授業は授業だからね」
「はあ、ホント、さぼりたいなぁ」
 青い空を見上げて、柚紀はため息をついた。
 
 二年が修学旅行から戻ってきて一週間以上が経ち、菜穂子による合奏も行われるようになっていた。
 五月も下旬である。実質コンサートまで一ヶ月しかなく、練習にも熱が入るのは当然と言えた。
 その日の合奏は、比較的静かに行われていた。菜穂子も特にあれやこれやと注文はつけず、とりあえずはそのまま最後まで流していた。
 一部の曲が終わったところで、ようやく菜穂子は口を開いた。
「そうね、GW最後の合奏に比べればよくなってるわね。正直に言えば、もう少しよくなっててくれた方がよかったんだけど、まあ、二年が修学旅行に行ったりしてたから、しょうがないわね」
 意外にも、菜穂子からは厳しい言葉はなかった。
「ただ、だからって安心しないで。私としてはここがスタートラインだと思ってるから。これでようやくお金を出して聴かせられるレベルまで持って行けると思ってるから」
 当然のごとく、苦言がないはずはなかった。
「じゃあ、早速細かくいくわよ。しっかりついてきて」
 それからの合奏は、いつも以上の厳しさで行われた。
 前半の静かさがウソのような感じだった。
 菜穂子からの指示もそれまでとは違い、よりレベルの高いものに変わった。
 合奏慣れしていない一年はその指示に戸惑っていた。
 それでもその指示に応えられなければ、先へは進めないのである。
「もっと集中しなさい。適当な気持ちでやってると、音にまでその気持ちが表れるのよ」
 指揮棒を振りながらも指示が飛ぶ。
「ほら、縦のラインが全然揃ってない」
「もっと音程にも気を遣いなさい」
「フォルテとフォルテシモの差が全然ないわよ。メリハリをつけて」
 指揮棒が下りてからも、指示は続く。
「Cから、木管が全然ダメ。縦も横もバラバラ。もっと隣やほかのパートのことも気にしなさい」
「Pからはホルンとユーフォが壊滅的ね。今更注意することなんてないから、次の合奏までにせめて聴けるくらいにして」
「コーダからは、全体的にダメ。特にパーカス、もっと支えて。リズムがバラバラでは話にならないわ」
 厳しい指示がなければ菜穂子の合奏という感じはしないが、それでも厳しすぎるのはメンバーにはきついことでもあった。
「いい? 次の合奏までに今日指摘されたことは直しておくこと。それと、三部の方も次はやるから、同じく練習しておいて。それじゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 合奏が終わり、緊張感から解放される。
 菜穂子はピアノ椅子に座り、スコアを見ている。
「今日の部活はここまでにするけど、今週の土曜日、合奏をやるから」
「合奏? 誰が?」
「僕が」
 途端にメンバーの間からため息が漏れた。
「ああ、心配しなくても一部と三部の合奏じゃないから。今週から二部の方もはじめるから、それでだよ」
「どっちでも同じよ」
「一部、三部の練習で大変だとは思うけど、二部の練習もしっかりしておいて。当然、最初からビシビシいくから、覚悟しておいて。それじゃあ、今日はおつかれさま」
『おつかれさまでした』
 挨拶を終えると、さらにメンバーからため息が漏れた。
「ふふっ、なかなか圭太も厳しいわね」
「そうですか? このくらいのペースでやらないともう間に合わないですから」
「そうね。あまりのんびりはしてられないわね」
「今年はせっかく先生に一部、三部とも指揮をしていただくわけですから、二部もしっかりやらないといけませんから」
「しっかりやるのはいいけど、みんなのやる気を殺ぐのダメよ。適度にアメとムチを使い分けないと」
「わかりました」
 圭太は笑顔で頷いた。
 部活が終わって学校を出てから、早速柚紀たちから非難の声が上がった。
「どうして圭太はそうやって出鼻をくじくようなことをするのかしら」
「そうですよね。もう少しお手柔らかにしてくれてもいいと思います」
「じゃあ、柚紀や琴絵が合奏をするかい?」
「それは、ちょっと無理だけど」
「遅かれ早かれやらなくちゃいけないんだから」
「それはそうだけど」
「もう少し心の準備ができればよかったんですけど」
「そうそう。土曜日って言ったら、四日しかないんだよ? それはやっぱり鬼だよ、圭兄」
「心配しなくても、二部の練習はコンサート直前まできっちりやるから。だから、土曜日にすぐに細かいことまでは言わないよ」
「だといいけど」
 圭太以外は、半信半疑の様子だった。
「そういえば、先輩」
「ん?」
「日曜日は、部活、休むんですよね?」
「ああ、うん。模擬試験があるからね。練習は先生に頼んであるから心配することはないけど」
「模擬試験は、午後までありますよね」
「そうだね」
 紗絵はそれを確認すると、神妙に頷いた。
「どうしたの、紗絵?」
「ううん、別になんでもないよ。ただ確認しただけだから」
「そう?」
 朱美もそれ以上は突っ込まなかった。
「はあ、明日からもっとがんばらないと」
「そうだね、がんばってくれれば、僕もいちいち言わなくてすむから」
「……本気でがんばらないと」
 そう言って柚紀はため息をついた。
 
 金曜日の夜。高城家の夕食に鈴奈の姿があった。久々に顔を出した鈴奈を、琴美が夕食に誘ったのである。
「どう、先生という仕事は?」
「大変ですけど、やりがいはありますね」
「去年、一高で教育実習した時と違う?」
「それはもう、全然違いますよ。実習生だと責任を負う必要はありませんけど、教師となったからにはそういうものもありますから」
「なるほどね。じゃあ、一高と二高、どちらの方が教えやすい?」
「それは、一概には言えませんね。というよりも、まだひよっこですから、比べるまでにも至ってませんよ」
 鈴奈は、少しだけ真剣にそう言った。
「二高でよかったと思う?」
「そうですね。結果的にはそれでよかったと思ってます。確かに一高なら圭くんたちがいますけど、それだと自分のためにならないと思いますから。これからのことを考えるとやっぱり今の方がいいですね」
「そこまでちゃんと考えているなら、心配ないわよ。ねえ、圭太?」
「僕は最初から心配なんかしてないよ。鈴奈さんならどこへ行っても立派に先生やれると思ってたし」
「あらあら、ずいぶんと信頼してるのね」
「そりゃそうだよ。鈴奈さんは僕にとっては『姉』みたいなものなんだから。『弟』が『姉』を信頼してるのは当然だと思うけど」
「まあ、それは確かにね」
 琴美は小さく頷いた。
「本当はもう少し頻繁にこうして夕食とか一緒にできればいいんだけど、仕事に慣れるまでは厳しいわよね」
「私もそうしたいところですけど、さすがに厳しいですね。夏を過ぎれば多少は変わってくるかもしれませんけど」
「慌てることはないわよ。私たちはずっとここにいるつもりだし。それに『家族』を待つのは当たり前のことなんだから」
「ありがとうございます」
 夕食後、圭太が食器を台所に運んでいると、琴美がそっと訊ねてきた。
「圭太。鈴奈ちゃんがしてる指輪、あれ、あなたが贈ったの?」
「ああ、うん、そうだけど」
「エンゲージ、というわけではないわよね?」
「まあね。エンゲージというよりは、プロミスという意味合いが強いから」
「プロミス?」
 琴美は首を傾げた。
「ずっと鈴奈さんと一緒にいるっていう約束だよ」
「ずっと、ね」
 さすがのことに、琴美もあまりいい顔はしなかった。
「まあ、あなたも鈴奈ちゃんもいろいろ考えているだろうから、私はなにも言わないけど。でも、指輪のことをほかのみんなから聞かれたらなんて答えるの?」
「正直に言うよ。隠すようなことでもないし」
「そう。その時どんなことになっても、私は手を貸さないからね」
「わかってるよ。母さんに迷惑はかけないから」
「ならいいわ」
 琴美はそれきりなにも言わなかった。
 それから当然のごとく、圭太が鈴奈を家まで送ることになった。
「夜になってもずいぶんと暖かくなったよね」
「そうですね。部活が終わってから帰ってくる時も、楽になりました」
「でも、あんまり暖かくなると、こうやる理由がなくなっちゃうね」
 そう言って鈴奈は、腕を組んだ。
「別に理由なんかいりませんよ。鈴奈さんがしたいと思えば、していいんですから」
「うん、ありがと」
 鈴奈は、ニコニコと嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、圭くん」
「なんですか?」
「これのこと、よく聞かれるんだけど」
 鈴奈は左手薬指にはまっている指輪を見せた。
「なんて答えてるんですか?」
「適当にはぐらかしてるけど、そのうちそれも通じなくなりそう」
「そうかもしれませんね」
「なんて言えばいいかな? いっそのこと、これと──」
 財布を取り出し、圭太の写真を見せる。
「一緒に説明した方がいいかな?」
「僕の写真はいりませんよ。というか、そんなことしたら、話が大きくなります」
「あはは、そうだね。でも、婚約指輪ってわけでもないから、説明が難しいんだよね」
「そのあたりは、鈴奈さんに任せますよ。プロミスリングとして、きっちり説明してもいいですし」
「う〜ん、そうすると、やっぱりこれがいるような気がするけど」
「それは勘弁してください」
 圭太は苦笑した。
「そうだ。圭くん」
「なんですか?」
「吹奏楽部の部長さんと知り合いになったよ」
「えっ……?」
「金田昌美ちゃん。カワイイ子だったわ」
「えっと、なにか聞きましたか?」
「ううん。私と圭くんが知り合いだってことは、教えてないから。ただ、彼女も三年生だからあまりいろいろと詮索するのは無理だと思うけどね」
「しないでください」
「でも気になるでしょ? 一度は圭くんに告白した子なんだから」
「それはそうかもしれませんけど、できればあまり深入りしてほしくないですね」
「ふふっ、どうしよっかなぁ」
 鈴奈は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「鈴奈さんが個人的に彼女と仲良くなるのは全然構わないんですけど、僕のことはできればこのまま黙っててください」
「う〜ん、とりあえずはそうしておくから。ただ、なにかの拍子でぽろっとしゃべっちゃうかもしれないけど」
「れ、鈴奈さん」
「ふふっ」
 やはり圭太は、基本的に年上の女性にはおもちゃにされるようである。
 
 五
 土曜日。
 吹奏楽部では、宣言通り圭太による合奏が行われていた。
 二部の曲はクラシックではないが、その厳しさはほかとなんら変わらなかった。
 二部の指揮は、基本的に誰というものはない。三年も二年もやる。ただ、曲によって楽器の重要度が違うので、それを上手く調整して行うのである。
 当然、圭太も指揮はするのだが、圭太にはそれ以上に重要な役目もあった。それは、ソロである。
 圭太が一高に入って三年目。圭太を見たいがためにコンサートに足を運ぶ者もいるとかいないとか。そんな噂すらあるので、圭太がソロをやらないわけにはいかないのである。
 ソロ演奏をしながら指揮をすることも可能だが、できればどちらかに専念した方がいい。
 というわけで、圭太は二部の七曲中、一曲のみしか指揮をしない。
 その代わり、トランペットソロが七曲中、三曲あり、そのうちの二曲を圭太が担当することになっていた。
 とまあ、そういう内情もあるのだが、今はまだ練習の段階なのでそこまで考える必要はなかった。それも、二部の本格的な合奏はこれがはじめてだからである。
 そんな中、圭太の注文は、実に単純明快だった。
「二部の目的は、とにかく肩の力を抜いて聴いてもらえる演奏をすることだから。演奏してるみんながガチガチだと、全然意味がない。だから、明るい曲はもっと明るく、しっとりとした曲は落ち着いて。一部や三部ほど技術的なことは求めないから、せめて気持ちだけでも表に出して」
 いつもの注文に比べれば天と地ほどの差があった。
 とはいえ、それが簡単な注文とはいえない。技術的な問題は問わないが、感情は込めて演奏しろ。そう言ってるわけだからである。
 感情を込めて演奏するというのは、かなり難しい。
 圭太もそれはわかっているのだが、一応言うべきことは言っておかなくてはならなかった。
「まあ、現状としてはいい方だと思うよ。ただ、いつも合奏で言われてることをもう少し守ってほしい。じゃないと、僕から嬉しい『宿題』をあげなくちゃいけなくなるから。ただでさえ先生の合奏でいっぱいいっぱいだと思うから、僕だってそういうことしたくないし。だから、もう少し集中してがんばって」
 アメとムチ、というわけでもないだろうが、圭太の言葉には自然とそういう言葉が含まれていた。
 メンバーのレベルとしては例年とそれほど変わりない。ということは、やる気さえ起こさせればかなりの演奏が望めるのである。
 圭太としては、早い時期から合奏を行うことで、少しでもいい演奏をしてもらおうと考えているのである。
「じゃあ、次は僕も演奏に入るから。一応指揮はするけど、基本的にはまわりとあわせて演奏して」
 圭太は楽器を持ちながら指揮をする。
 その曲は圭太のソロがある曲で、ジャズの有名なナンバーだった。
 ソロを前に、圭太は小さく頷いた。
 ソロがはじまると、一瞬音が途切れそうになるほど驚きが走った。
 圭太のソロは、楽譜通りではなかったからだ。ソロとはもちろんある程度は楽譜通りにやるのだが、プロなどはアドリブでさらに素晴らしいものに変えてしまう。
 高校生でもそれはできなくはないが、無理にやると曲調とまったく違うものになりかねない。従って、基本的には楽譜に書いてあるのを少し変える程度なのである。
 しかし、圭太のは少しというレベルではなかった。
 これだけの演奏ができるのは、やはり一高でも圭太しかいない。
 これがステージ上でスポットライトに照らし出された中での演奏なら、スタンディングオベーションで迎えられたかもしれない。
 圭太のソロが終わっても、別に曲が終わったわけではない。
 圭太は指揮をしながら続ける。
 五分ほどの曲が終わると、音楽室になんとも言えない空気が流れた。
「うん、まあ、こんな感じだろうね」
「って、さらっと流すか?」
 と、翔が突っ込んだ。
「なにが?」
「なにがって、ソロだよ、ソロ。いきなりさらっととんでもないことしやがって」
「そうかな? 僕個人としてはまだまだだと思うんだけど」
「あれでまだまだ?」
 どよめきが起こる。
「おいおいおい、おまえはいったい本番でどんな演奏をするつもりなんだ?」
「そうだね、ソロが終わったら倒れるくらいの演奏かな」
「……おい、パンフ係。今から曲の順番変更できるか? 圭太のソロをラストに持ってこないと、ほかのソロができなくなる」
 翔はかなり本気でそう言った。
「さすがに今からの変更は無理よ」
「くっそー」
「大丈夫だよ。ソロはソロとしてみんな聴いてくれるから。それに、まだ時間はあるし」
 そう言って圭太は笑った。それはつまり、ソロがある者は本番までにレベルアップしてくれ、ということである。
 それを聞いたソロがある三年は、恨めしそうにため息をつくしかなかった。
 
 部活が終わっても、結構な数の部員が残っていた。二部の練習も本格化したことで、準備の方も急ピッチで進めなくてはならないからである。
 ただ、おおまかなことはほとんど済んでいるので、あとは細かなことである。これは部員間の連携が上手く取れればさほど苦もなく進められる。
 そんな準備の監督を綾と紗絵に任せ、圭太はひとり屋上で練習していた。
 練習している理由は、ひとつには合奏で満足な演奏ができなかったからである。圭太は他人に厳しく、自分にはもっと厳しい。妥協点を見出すまでは、徹底的にやるのである。
 理由のふたつ目は、次の日に練習できないから、というのがある。
 日曜は三年は模擬試験のため、部活に出られない。もちろん、試験後にやるというのもひとつの手ではあるが、時間の制約が大きい。
 だからこそ、誰にも邪魔されないうちに練習しているのである。
 メトロノームとチューナー、楽譜を前に、圭太は納得できない部分を中心に練習している。
「……ダメだな」
 何度か同じところを吹き、圭太は首を振った。
「……こんなことじゃ、みんなにいろいろ言えないよ」
 圭太としては、それが一番心苦しいことだった。
 立場上、合奏を指揮しているが、本当はもう少し個人の練習時間を持ちたいと思っている。そこでちゃんと練習して、その上でみんなに対して意見を言う。それが理想型だった。
 ただ、私立でもない高校では、部活だけに割ける時間など限られている。
 限られた時間であれもこれもとやれば、どこかに綻びが生じるのは当たり前である。
 圭太の場合は、自分のレベルアップというものを犠牲にして、指導しているのである。
 それでも圭太は、そうやって空き時間を見つけてはコツコツと練習してきた。だからこそ、部内で絶大な信頼を勝ち得ているのである。
 みんな、圭太が練習していることは、知っているのである。
「ふう……」
 三曲ほどやったところで、圭太は大きく息を吐いた。
 フェンスに寄り、遠くに目を向ける。
 見える山並みも並木も、深い緑に変わっている。
 空の青とのコントラストが絶妙である。
「はあ……ふう……」
 一度、大きく深呼吸し、圭太は練習に戻る。
 と、背後に視線を感じた。振り返ると──
「コソコソ見てないで、出てくればいいじゃないか」
 入り口から様子を窺っていたのは、琴絵と朱美だった。
「あ、あはは、やっぱりバレちゃったね」
「まあ、ちゃんと隠れてたわけじゃないし」
「ふたりは、作業の方は?」
「特にないから」
「だからこうして圭兄の練習を見に来たの」
「なるほどね」
「あ、お兄ちゃん。私たちはただ見に来ただけだから、気にしないで練習続けていいよ」
「そうそう。別に邪魔しに来たわけじゃないし」
 ふたりは、そう言って圭太を促した。
「もう少し練習したら終わりにするから」
 圭太は時計を確認し、練習に戻った。
 ふたりが見ているからと言って、練習内容や方法が変わるわけではない。その厳しさは、ふたりが言葉を失うほどである。
 もっとも、琴絵にしてみればそれは三中の頃からの光景なのだが。
 あまりの真剣さに、ふたりはひと言も発せなかった。
 練習再開から十五分ほどで、ようやく練習が終わった。
「……終わり?」
「時間だけ長くやっても上手くはならないからね。今日はここまでだよ」
 圭太は楽譜を閉じた。
「さてと、下の様子も確認しないと」
「あ、私がそれ持ってあげる」
 すかさず琴絵がメトロノームとチューナーを持った。
 朱美は琴絵に先を越され、なにもすることがなくなってしまった。
 三人が音楽室に戻ってくると、さすがに人の数は減っていた。
 それでも道具を作る美術係や二部の演出担当は残っていた。
「あら、もう練習はいいの?」
「今日はね。明日の分、とまではいかなかったけど、そこそこ練習できたし」
「そ。じゃあ、あたしの役目もここまでね」
「ありがとう。あとは僕がやるよ」
「了解。あたしは帰って模擬試験対策でもするわ」
「がんばって」
「じゃ、おつかれさま」
 綾はカバンを持ち、音楽室をあとにした。
「あ、先輩。戻ってきたんですね」
 一緒になって額をつきあわせていた紗絵が、圭太に気づいた。
「どう、調子は?」
「そこそこです。来月のテスト明けくらいに終わるペースでは進めていますけど」
「まあ、直前まで細かい変更があるから、それくらいを目標にできればいいと思うよ」
「そうですね」
 少しの間、圭太も作業の様子を見ていた。
 だいたい二時前にはそれも終わり、各自家路に就いていた。
「それにしても、圭太は相変わらずよね」
 柚紀は、渋い顔でそう言った。
「相変わらずって、なにが?」
 圭太は首を傾げた。
「みんなの煽り方。もう少し穏便に済ませればいいのに、どうしてああも挑戦的になるのか、不思議だわ」
「別に僕は挑戦しようとは思ってないよ。ただ、普通に言っても危機感を持ってくれないだろうから、少しだけ工夫してるだけだよ」
「少しだけねぇ」
 柚紀は半信半疑という様子。
「ま、確かに、あれだけのことをされては、やらないわけにはいかないけど。でも、それって一歩間違えば、反感を買う可能性もあるわけじゃない。そのあたりはどう思ってるわけ?」
「それならそれで仕方がないよ。僕の方にも非があるわけだし。ただ、僕の立場は一高吹奏楽部の部長というものだからね。部長になる時も誰からも異議はなかったし。とすれば、少なくとも多少の無茶は認めてくれると思うから」
「なるほどね。それも言えてるとは思う。でも、もう少しやり方があるような気もするけど」
「そうだね。そのあたりは、残り少ない部長任期の間に見つけてみるよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 
 日曜日。
 その日、一高では三年の模擬試験が行われていた。
 各教室は通常の試験と変わらない緊張感が漂い、生徒ひとりひとりの受験に対する想いを感じることができた。
 この時期の模擬試験は、基本的に学力診断テストみたいなものである。現在の自分の位置はどこか。それを知るためのものである。
 従って、試験科目は国語、英語、数学の三科目である。これが秋以降になれば、理科や地歴などが入ってくる。
 ペンと紙がこすれる音と、時折問題用紙や解答用紙をめくる音、そしてため息が聞こえてくる。
 そんな中、圭太は比較的余裕の表情で試験に臨んでいた。
 もともと試験など受ける必要がなかったということもあるが、圭太にとってはそれほど難しい問題ではなかった、ということもあった。そこは一高はじまって以来の優秀な生徒だからである。
 早めに問題を解いてしまった圭太は、解答を確認し、窓の外を見た。
 とてもいい天気で、ピクニックやなんかに出かけたくなるほどである。
 それでも今は試験中で、しかも、講堂の方では吹奏楽部も部活中である。
 なぜ講堂なのかといえば、試験の邪魔にならないようにである。講堂を閉め切ってしまえば、三年の教室まで音が届くことはそうそうない。
「あと五分」
 試験監督の教師が時計を確認し告げた。
 教室内に焦燥感が広がる。
 焦っても問題は解けないのだが、やっている本人はそう思っていない。
 刻一刻と過ぎていく時間。
「そこまで。解答用紙を後ろから送って」
 試験の緊張感から解放され、教室には安堵のため息が漏れた。
 解答用紙が集められ、試験監督が確認する。
「じゃあ、午前中の試験はここまで。一時間の休憩のあと、最後、国語の試験を行うからな」
 英語、数学と試験が終わり、昼休みとなった。と言っても、普段の昼休みより早めである。
「けーちゃん」
 筆記用具を片づけていると、声がかかった。
「お昼、一緒に食べよ」
「いいよ」
 圭太は、声をかけてきた凛に笑顔で答えた。
 もともと休日でさらに模擬試験があるために、屋上は使えなかった。
 そんなこともありふたりは、あちこち探しまわるのを最初から断念し、教室で昼食をとることにした。
「調子はどう?」
「ん〜、悪くはないと思うんだけど、なんていうのか、こう雲をつかんでるみたいに結果が見えてこないんだよね」
「手応えとかは?」
「それは多少は」
「なら大丈夫だよ。凛ちゃん、頭いいんだから」
「そんなことはないけど」
 実力テストでひと桁に入っている凛がそういうことを言っては、それ以下の者は立場がない。
「けーちゃんは?」
「僕は、いつも通りだよ」
「ということは、少なくともうちではひと桁に入るってことだよね」
「そうと決まったわけじゃないよ。とりあえず解答用紙は埋めたってだけだから」
「結果が来ればわかるよ。たぶん、全国でも上位にいるはずだから」
 凛は、そう言って頷いた。
「そういえば、凛ちゃん」
「うん?」
「総体の方はどう?」
「調子は悪くないよ。あとは、本番までにテンションを上げて、体調管理をしっかり行って」
「そっか。でも、これからの時期って、一番大変なんじゃないの?」
「ほかと比べればね。一応、ケガとか気にしなくちゃいけないから。それでも、あたしも総体ははじめてってわけじゃないし、大丈夫だよ」
「じゃあ、今年もインターハイは堅いかな?」
「そればかりはわからないけど。最善は尽くすよ」
「応援に行ければ応援に行くんだけど、まだわからないからね」
「無理はしなくていいよ。こうやっていろいろ話して、励ましてくれるだけであたしは十分だから」
 凛は、にっこり微笑んだ。
「けーちゃんだって、部活の方が忙しいでしょ?」
「忙しいか忙しくないかで聞かれれば、確かに忙しいけど。でも、時間は作ろうと思えば作れるから」
「それはね。まあでも、あたしとしては、地区総体の姿よりも、その上の大会の姿を見てもらった方がいいから」
「それもそうだね。じゃあ、県大会とかになったら、また改めて考えるよ」
「うん」
 
 午後の試験がはじまった。
 残りは国語だけなので、受けている生徒も幾分気が楽そうである。
 大半の者は、テストが終わったらどうしようか、などと考えているかもしれない。
 同じ頃、音楽室では何人かの部員が残って話をしていた。部活自体は、もう終わっている。
「それにしても、紗絵もマメよね」
 そう言うのは、遥である。
「どうして?」
「だってさ、会えるかどうかわからないのにわざわざ残ってさ」
「確かにね」
 うんうんと頷いているのは、留美である。
「別に私はマメだとは思ってないけど」
「どうして? だってさ、柚紀先輩でさえもう帰ったっていうのに、紗絵は残ってる」
 同じパーカスの由梨加が事実を指摘する。
「それに、今日は朱美も詩織もいないし」
「ふたりとも用事があったんだから当然でしょ」
「琴絵だっていないし」
「そりゃ、紗絵と圭太先輩の間がただならぬ関係だっていうのは、周知の事実だけど。それにしては、ちょっとアレじゃない?」
 留美は意味深な笑みを浮かべる。
「なんか期待してるの?」
「別に期待なんか……」
「『先輩、おつかれさまです』」
「『あれ、紗絵、残ってたのかい?』」
「『はい。先輩を待ってたんです』」
「『そうか』」
「『あの、先輩、一緒に帰りませんか?』」
「『帰るだけでいいのかい?』」
「『えっと……できればそれ以外も……』」
「こらこら、遥も由梨加も変な妄想しない」
 さすがのことに、紗絵も呆れ顔である。
「でもさ、そんな展開を、少しは期待してるんでしょ?」
「うっ……ないと言えばウソになるけど……」
「ほぉらね」
「だけどさ」
 由梨加が少しだけ真面目に言う。
「圭太先輩って、ホントに年上年下関係なくモテるよね」
「ま、あれだけ完璧な人はいないから。成績優秀、スポーツ万能、眉目秀麗、家事万能。おまけに性格もいいし。これでモテない方がおかしいわよ」
「あれでしょ? それって三中の頃から変わってないんでしょ?」
「変わってないどころか、一高に入ってますます加速してる感じ。ほら、中学の頃ってまだ好きとか嫌いとか、幻想だけ追いかけてるところがあるじゃない。高校生になって、多少は本当のところがわかるようになり、改めて先輩を見たら、って感じでしょ」
「なるほどね」
「遥はどうだったの? 紗絵と一緒で三中から一緒なんだからさ」
「ん〜、そりゃ先輩はカッコイイし彼氏になってくれたらいいとは思うけど、でも、どうしても自分に引け目を感じちゃって」
「釣り合わないって?」
「そう。それに、留美と由梨加は知らないと思うけど、先輩ね、三中の頃はそういう彼女とか作ろうだなんて雰囲気、全然なかったんだから」
「そうなの?」
「意外だなぁ」
「むしろ、故意に人を避けてるって感じだった。ああ、もちろん避けてるって言っても色恋沙汰に関してよ」
「へぇ、そうだったんだ」
「紗絵は知ってたの?」
「うん。その理由も今は知ってる」
「なになに、その理由って?」
「言えるわけないじゃない。かなりプライベート、というか、デリケートなことだから」
「ん〜、惜しいなぁ」
「まあ、そういうわけだから、私の場合は憧れ程度だったのよ」
「なるほどねぇ」
「男子側から見た先輩のことが知りたければ、浩章にでも聞いてみればいいわ。男子の中にも『高城圭太信者』は大勢いるから」
「それは機会があったらね」
 そうこうしているうちに、廊下が騒がしくなってきた。
「どうやら終わったみたいね」
「じゃあ、あたしたちは帰ろっか」
「そうね。紗絵の邪魔しちゃ悪いし」
「別に邪魔だなんて思ってないわよ」
「まあまあ、いいじゃない」
 そう言いながら、三人は帰り支度を済ませる。
「じゃ、また明日ね」
「がんばれ〜」
「結果報告してよ」
 三人を見送り、紗絵はため息をついた。
「ま、いっか……」
 
 テストが終わり、教室内に安堵感が広がる。
 模擬試験だけなので、特にホームルームとかがあるわけではない。解答用紙を回収したら順次解散である。
「けーちゃん。一緒に帰らない?」
「あ、うん。それはいいんだけど。ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」
「別にいいよ。このあとなにもないし」
 ふたりは荷物を持って教室を出た。
「寄りたいところって、どこ?」
「ん、音楽室だよ。一応確認だけしておかないとね。これでも部長だし」
「はあ、やっぱりけーちゃんは真面目だね」
 音楽室に着いたところで、ちょうどドアが開いた。
「あれ、紗絵。まだ残ってたのか?」
「あ、はい」
 出てきたのは、紗絵だった。
「あ、なにか音楽室でしますか? するなら、鍵は閉めませんけど」
「いいよ。みんな帰ったかどうか確かめに来ただけだから」
「そうですか」
 紗絵は、圭太の後ろに凛がいるのを確認し、小さくため息をついた。
 世の中、そんなに上手くはいかないのである。
「じゃあ、私は鍵を職員室に返してきます」
「ごくろうさま」
 圭太と凛は紗絵を見送り、昇降口へ。
「紗絵ちゃん、けーちゃんのこと待ってたんだね」
「たぶんね」
「わかってて、なおああいうやりとりなの?」
「凛ちゃんもいるし」
 圭太は笑った。
 昇降口で靴を履き替え、外に出る。
「そうだ、凛ちゃん。凛ちゃんさえよければ、紗絵も一緒にうちでお茶でも飲んでいかない?」
「けーちゃんの家で?」
「うん。もうこれだけのんびりできるの機会は少ないだろうからね」
「言われてみれば、そうだね」
「だからどうかなって」
「あたしはいいけど、紗絵ちゃんは?」
「それは、聞いてみないとわからないけどね」
 聞いてみなくてもわかっていた。
「いいですよ」
 昇降口から出てきた紗絵を捕まえて、早速聞いてみると、一も二もなく了承した。
 そんなわけで、いつもとはだいぶ異色な組み合わせで高城家へ向かうことになった。
「紗絵ちゃん」
「なんですか?」
「紗絵ちゃんは、けーちゃんを待ってたんでしょ?」
「えっと、まあ、そうですけど」
 紗絵は、圭太の表情を盗み見ながら答える。
「ほら、けーちゃん、予想通りだったでしょ?」
「まあね」
「なのに、けーちゃんの態度は冷たいし。さすがにがくっとなったでしょ?」
「それはなかったですけど……」
「そう? あたしならなるけどなぁ」
 凛はおとがいに指を当て唸る。
 紗絵としては、圭太の態度云々ではなく、凛がいたことにがくっとなったのだが。
 高城家に着くと、リビングでは琴絵がテレビを見ていた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
「こんにちは、琴絵ちゃん」
「おじゃまします」
「あれ、凛お姉ちゃんに紗絵先輩」
「ちょっとお茶会と洒落込もうと思ってね」
「そうなんだ。あ、じゃあ、私が用意しておくから、お兄ちゃんは着替えてくれば?」
「わかった」
 圭太が一度部屋に戻ると、琴絵は早速台所に立ち、お茶の準備をはじめる。
 凛と紗絵はその間リビングで待つわけであるが、積極的な会話は成立しなかった。
「水泳部の方は、これから忙しくなるんですよね?」
「ああ、うん、そうだね。すぐに総体もあるし」
 会話終了。
 微妙な空気が流れる。
「とりあえず、買い置きのお菓子を持ってきました」
 そこへ琴絵がお菓子を持ってきた。
「お茶は、コーヒーがいいですか? 紅茶がいいですか?」
「あたしはコーヒー」
「私は紅茶を」
「わかりました」
 飲み物を確認し、また台所に戻る。
 またも沈黙。
「お待たせ」
 今度は着替えた圭太が戻ってきた。
「先に食べててもよかったのに」
「お茶会なら、お茶がないと」
「それもそうだね。って、お菓子、これだけで足りる? 足りなかったら、店の方からケーキかなんか持ってくるけど」
「大丈夫。これで十分よ」
「はい」
「そう?」
 圭太もソファに座る。
「お兄ちゃ〜ん。コーヒーと紅茶、どっち?」
 と、台所から声が飛んできた。
「コーヒー」
「了解〜」
 カチャカチャとカップやスプーンを用意する音が聞こえてくる。
「お待たせ〜」
 お盆に四人分のカップなどを乗せ、琴絵が戻ってきた。
「凛お姉ちゃんはコーヒー」
「ありがと」
「紗絵先輩は紅茶」
「ありがとう」
「で、お兄ちゃんがコーヒーで、私は紅茶と」
 見事に分かれている。
「砂糖とかミルクは好みで入れてください」
 これでようやくお茶会のスタートである。
「先輩たちは、試験の方はどうだったんですか?」
「僕はいつも通りだよ。特になにか目標があってやったわけじゃないし」
「あたしは、まあ、いつも通りの部類に入るのかな?」
「いつも通りってことは、手応えがあったってことですか?」
「学校のテストじゃないから微妙だけど、そうかな?」
「はあ、やっぱり先輩はすごいですね」
 紗絵は、感心したようにため息をついた。
「これで大学へ行かないって言うんですから、ほかの人たちに悪いですよ」
「ははっ、こればっかりは僕にもどうすることもできないからね」
「凛お姉ちゃんは、やっぱり大学へ行くんだよね?」
「今のところはその予定だけど」
「水泳は?」
「それはまだ全然。社会人として続ける方法もあるし、大学で続ける方法もあるし。いろいろ選択肢があるから。ただ、それもこれも、引退するまで考えないようにはするけど。余計なことを考えると泳ぎにも影響するから」
「そっか」
「凛ちゃんなら、どこへ行っても通用するよ」
「あはは、高校から上はそんなに甘くないよ。あたしくらいの選手なんてたくさんいるし」
 そう言って凛は笑った。
「そうそう、今日の部活はどんな感じだった?」
「今日は、個人練習を中心にやりました」
「パー練は?」
「それは各パートに任せました。ちなみに、ペットはやってません」
「なるほどね。クラは?」
「一応パー練もやったよ」
「私が見たところでは、人数の多いパートはやってたみたいです」
「そっか。ま、詳しいことは明日、確認してみるよ」
 圭太はコーヒーを飲みながら頷いた。
「あ、そうだ。先輩」
「ん?」
「今、ちょっと考えてることがあるんですけど」
「考えてること?」
 圭太は首を傾げた。
「はい。うちの部って、ここ最近はずっと部員が多いじゃないですか」
「そうだね。僕の知る限りだと、ほぼ二十人くらいずついるね」
「ということは、それだけOBやOGが多いってことですよね」
「必然的にね」
「そこで、もし可能なら、そういうOB、OGの方たちと演奏会みたいなのをできないかなって考えたんです」
「OBとの演奏会か。なるほど」
「ただ、それをやるにしても場所とか時期とか、なによりOBの方たちが参加してくれるかわからなくて。それでちょっと先輩の意見を聞いてみようと思ったんです」
「なるほどね」
 圭太は大きく頷いた。
「紗絵の考えはよくわかったよ。実はね、僕も去年、同じようなことを考えたことがあったんだ」
「そうなんですか?」
「ただ、その時は妙案が思い浮かばなくてご破算にしたけど。一番の問題は、やっぱりOBの参加なんだ。そういう名目でやるなら、ある程度の人数が出ないと意味がないから」
「そうですよね」
 紗絵は神妙に頷く。
「で、仮に人数の面がクリアできたとして、いつ、どこでやるかなんだけど、これも結構問題なんだ。そこそこの人数がいるから、ステージが狭いところでは難しい。かといって定演とは違うから、そこまでお客さんが入ってくれるとは思えないし。そういうところはなかなか少なくて。場所が見つかったとして、いつやるかってことなんだけど、候補としては一月か三月だと思うんだ」
「一月か三月ですか? どうしてですか?」
「いろいろな行事のこととかを考えると、それくらいしかないよ。もちろん、ちょっと無理すれば四月とか五月にもできるけど。ただ、それをしてしまうと定演に影響が出るし。コンクールとかの影響を考えるなら、一月か三月がベストに近いと思う」
「言われてみれば、そうかもしれません」
「だけど、それでもまだ問題があるんだ。それは、三年の問題。その時期は、まあ、三月は別として一月はとても無理だから。となると、現役生は一、二年だけでということも考えられる。というか、むしろその方がいいかもしれない。可能な限り、手間や影響を最小限にしなくちゃいけないから」
 圭太から出てくるのは、とにかく問題ばかりだった。これでは紗絵もなにも言えない。
「そこで、僕はもうひとつ考えたんだ」
「もうひとつですか?」
「そう。OBやOGの参加は自由にして、基本的に一、二年によるミニコンサートにしたらどうだろうって」
「ミニコンサートですか。なるほど、それならいいかもしれませんね」
「県民会館の小ホールくらいを借りて、合奏とアンサンブルを織り交ぜてね」
「あ、でも、そうすると三年の先輩たちはどうなるんですか?」
「だから、OBやOGの参加は自由だって。三年だって、引退したらOBやOGなんだから」
「あっ、そうでした」
 紗絵はコツンと頭を叩いた。
「いずれにしても、それをやるかどうかは一、二年の間でよく話し合ってからにした方がいいよ。全国まで行けるかどうかはわからないけど、コンクールが終わるのが十月として、そのあとにはアンコンもあるし、クリスマス演奏会もあるからね。あと、先生にも当然話をつけなくちゃいけないし」
「そうですね。もう少しいろいろ検討してみます」
 そう言って紗絵は頷いた。
 
 夕方、圭太は凛を途中まで送っていった。
「いいね、吹奏楽部は部員が多くて」
「ん、コンサートのこと?」
「うん。うちはそんなに多くないから、そういうのもなかなかね」
「多ければいいってものじゃないよ。少なければ少ないなりに、一体感が増すだろうし」
「それは確かにね。なんていうのかな、家族感覚というか、そういう感じ」
 凛は、笑顔で言った。
「ま、人数が少なかったからこそ、あたしもすぐに受け入れてもらえたんだろうけどね」
「ようするに、一長一短てことだよ」
「そうだね」
 長い影が、道路に伸びる。
「ね、けーちゃん」
「うん?」
「あたしも柚紀や琴絵ちゃんたちみたいに、けーちゃんとの共通の想い出、作れるのかな?」
「作れるよ。別に、部活が違ったって、それはそれでしかないんだから」
「そうだね」
「その証拠に、今こうやって一緒にいるんだから」
「うん、そうだね。ごめんね、余計なこと言って」
「ううん、気にしないでいいよ」
 凛の家までちょうど半分というところでふたりは立ち止まった。
「じゃあ、けーちゃん。今日はありがと」
「今度は、デートだね」
「あ、うん、そうだね」
 凛は、笑顔で頷いた。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
 ふたりは、軽く触れあうくらいのキスを交わした。
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