僕がいて、君がいて
 
第二十五章「桜散り、はじまる想い」
 
 一
 桜が咲いた。
 国花にもなっている桜である。桜が咲いているのを見て、心和まない日本人はそういないだろう。もちろん、好き嫌いはあるから嫌悪感を持つ者はいるだろう。
 だが、アンケートを採ってみればきっと、桜が好きな人の方が多いはずだ。
 
 朝、眩しい朝陽が部屋の中に降り注いでいた。
 圭太は幾分眠そうに目を擦りながら目覚めた。
 いつもより遅めの時間である。
 去年同様、四月一日は学校自体が休みのため、部活もできないのである。
 着替え、部屋を出ると、リビングに顔を出す。
「おはよう、母さん」
「おはよう、圭太。今日はゆっくりなのね」
「部活がないからね」
 顔を洗い、店の準備をして、朝食。
「お兄ちゃん、今日はなにをするの?」
「決めてはいないけど、柚紀とどこか行こうかと思ってるんだ」
「柚紀さんと?」
「琴絵は覚えてるかどうかわからないけど、今日は僕と柚紀が婚約してちょうど一年だから」
「そういえばそうね」
「そっか。そういうことじゃ、しょうがないね」
「もちろん、柚紀の都合がよければだけど」
 朝食が終わってしばらくした頃、圭太は笹峰家に電話をかけた。
『はい、もしもし、笹峰です』
「あ、おはようございます、高城圭太です」
『あら、圭太くん。久しぶりね。咲紀よ。わかる?』
「ええ、わかります」
 電話に出たのは咲紀だった。
『それで今日は、お姉さんとお話するために電話してきた、というわけじゃないわよね』
「それはそれで魅力的な申し出ですが、柚紀に用があって」
『ふふっ、了解。ちょっと待っててね』
 電話が保留中になる。
 軽快なオルゴールが流れる。
 切れると同時に、柚紀が出た。
『もしもし? 圭太?』
「あっ、柚紀?」
『うん。どうしたの?』
「今日って、時間ある?」
『時間? あるある。売るほどあるわよ』
「じゃあ、デートに行かない? ほら、今日はちょうど婚約一周年だし」
『覚えてたんだ』
「それはね。それに、忘れてたらとんでもないことになりそうだし」
『ふふっ、よくわかってるじゃない』
「それで、どうかな?」
『行くわよ。当然でしょ? それじゃあ、どうしよっか? 私がそっちに行く? それとも、駅前で待ち合わせる?』
「時間がもったいないから、駅前で待ち合わせようか?」
『うん、わかった』
 それから少し言葉を交わし、電話を切った。
「デート、行くんだね」
 後ろで聞き耳を立てていた琴絵がそう言った。
「ああ、うん」
「ね、お兄ちゃん」
「うん?」
「柚紀さん、大事にしないとダメだよ」
 琴絵は、少しだけ真剣な表情でそう言った。
「わかってるよ。大事にしないと、琴絵の『お義姉ちゃん』になってくれないかもしれないからな」
「うん」
 準備をして、少しゆっくりめに家を出る。
 と、家のすぐ側でバイトにやって来た祥子に会った。
「おはようございます」
「おはよう、圭くん。出かけるの?」
「はい。夕方までには帰ってくるとは思いますけど」
「そっか。じゃあ、いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
 祥子に見送られ、圭太は改めて駅へ向かった。
 
 駅前は、いつも通りだった。
 学生たちは休みだが、会社はある。しかも、新年度最初の日で、たいていの会社は社員総会や入社式をやっている。
 そんなわけで、特に人が多いとかそういうことはなかった。
 待ち合わせ時間よりも早くに着いていた圭太は、改札前で柚紀を待った。
 電車が到着する度に、改札口が若干混雑する。
 これが通勤時間帯なら、もっと混雑していただろう。さらに、その中にはまだまだスーツの似合わない新入社員の姿も見られただろう。
 それが四月一日でもあった。
 しばらくすると、柚紀がやって来た。
 ライトイエローのワンピースで、スカートはフレアスカートになっていた。
「お待たせ、圭太」
 太陽のように明るい笑顔を浮かべ、圭太のすぐ側にやって来る。
「どこに行こっか?」
「そうだね、これだけいい天気だから、のんびりできるところがいいかな?」
「とすると、あそこ?」
「そうしよっか?」
「よし、決まり」
 ふたりは切符を買い、電車に乗り込んだ。
 電車の中は、駅前同様それほど乗客はいなかった。
 ふたりは並んで座り、柚紀は圭太の肩に頭を預けた。
「柚紀」
「うん?」
「手、こうしていてもいいかな?」
 そう言って圭太は手を握った。
「それは構わないけど、どうしたの?」
「なんとなくだよ、なんとなく。こうしていた方が、柚紀をもっと近くに感じられるかなって」
「それはそうだと思うけど。変な圭太」
 と言いながら、柚紀は嬉しそうだった。
 電車を数駅乗り、目的地へ到着した。
 そこは、去年のGWにふたりで出かけたあの河川敷のある駅だった。
「ここへ来るのも、約一年ぶりだね」
「正確に言えば、十一ヶ月ぶりだよ」
「そうだね」
 ちらほらと桜の木が見える。
 どの木もまだ一分咲きから二分咲き程度。見頃にはまだまだである。
 それでも淡いピンク色の花が見える様は、とても綺麗だった。
 街中を子供たちが駆け抜けていく。
 しばらく歩くと、河川敷へと出た。
「う〜ん、いい風。やっぱりここはいいところだね」
 柚紀は、土手の上で大きく伸びをした。
「ゆっくりのんびり、本当に気持ちいい」
 ふたりは、比較的静かな場所に腰を下ろした。
「そうだ。今日は時間がなかったから、お弁当まともに作れなかったの」
「まともにって、あの短時間でなにか作ってきたの?」
「まあね。そこはほら、腕の見せどころってね。とはいえ、サンドウィッチなんだけどね。ホントはおにぎりにしようと思ったんだけど、ご飯がなくて」
 そう言って柚紀は苦笑した。
「いや、柚紀は本当にすごいね。お見それしました」
「ふふっ、当たり前でしょ? 私を誰だと思ってるのよ」
「そうだね」
 ふたりは声を上げて笑った。
 それからふたりはなにをするでもなく芝生に横になり、春の陽差しと川面を吹き抜ける風に身を任せた。
 少し向こうから、子供たちの歓声が聞こえてくる。ちょうど野球の試合をやっているようである。
 それでもそれは決して耳障りな音ではなかった。
 あたかも子守歌のような心地よさで、ふたりを眠りの世界へと誘う。
 うとうととしかけた時、柚紀の視界をなにかが横切った。
「な、なに……?」
 慌てて体を起こし、その正体を探る。
 すると、それはモンシロチョウだった。
 このところの陽気で、早くも出てきたようである。
「なんだ、チョウチョウか。びっくりした」
「珍しいね。この時期に出てくるなんて」
「うん。ま、この陽気だからね。きっと、早くに目覚めたんだよ」
 そう言って柚紀は、穏やかな表情でチョウを目で追った。
「ん〜、起きちゃったし、圭太。膝枕してあげる」
 柚紀は圭太の頭の真上に移動する。
「はい」
 足を揃え、圭太を促す。
 圭太は、素直にそれに従う。
 圭太の髪を撫でながら、柚紀は話し出した。
「圭太って、小学生の頃は、どんな子だったの?」
「小学生の頃?」
「うん。中学の頃の話は祥子先輩とか紗絵ちゃんなんかに聞いてるからわかるんだけど、小学生の頃のことは聞いたことないから」
「そういえばそうだね」
「だから、教えてよ」
 柚紀は好奇心に満ちた瞳で圭太を見つめる。
「う〜ん、そうだなぁ、どんな子だったかと訊かれても、僕としてはなかなか言いにくいよ」
「どうして?」
「だってさ、自分のことだから」
「客観的に見て、どうだった?」
「特別なことはなにもなかったよ。勉強よりも遊びの方が好きだったし。父さんが死ぬまでは店の手伝いだってそんなにしてなかったし」
「そうなの?」
「友達と遊ぶ方が楽しかったからね。僕が小学生だったから、父さんも母さんもなにも言わなかったし」
「そうなんだ。私はてっきり、昔からしっかり手伝いなんかしてたのかと思った」
 なるほどねと頷く。
「そういえば、小学校は先輩や紗絵ちゃんとは違ったの?」
「うん。三中は結構学区が広くて。というか、うちのあたりがちょうど境目なんだよ。あそこよりもっと中に入ってれば、同じ学校だったね」
「そっか。だから、小学生の時の話は出なかったんだね。なるほど。じゃあさ、その小学校で仲の良かった友達って、今でも仲良いの?」
「明典がそうだよ」
「ああ、彼か。なるほど、確かに仲良いわね。ほかは?」
「ほかは、まあまあかな。ただ、一高に来てるのはあとふたりしかいなくて。そのどちらとも顔見知り程度」
「ふ〜ん、そうなんだ。でも、一高以外ならいるんでしょ、仲良い人?」
「それはね。ただ、最近はお互いのことが忙しくなってきて、少しずつ疎遠になってきてるよ。しょうがないんだけどね」
 確かに高校まで来ると、小学校の友人とは距離が開いてくる。同じ学校ならそれも緩やかなのだろうが、違う学校だと少し早い。
「親友とか、幼なじみとかは?」
「一番の親友は明典だよ。あとは、普通の友人との中間くらい。幼なじみは、いたんだけどね。小五の時に転校したよ」
「連絡取ってないの?」
「中学の頃までは取ってたよ。ただ、高校に入ってからは年賀状くらい」
「そっか。って、その人って、男? 女?」
「気になる?」
 圭太は、少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「そりゃ、少しはね」
「ん〜、柚紀にとっては残念ながらになるのかな? 彼女、だよ」
「ふ、ふ〜ん、そうなんだ」
 柚紀は、少しだけ表情を変えた。さすがに気になるらしい。
「近所に住んでて、幼稚園から一緒だったんだ。すごく活発な子で、小学生の頃って男とか女って関係なかったでしょ? だから、ある意味では『ガキ大将』だったね、彼女は」
「そういう人だったんだ」
「口より先に手が出るタイプで、よくみんな叩かれてたよ」
「圭太は?」
「僕? 僕は全然。一応、僕は彼女の『お気に入り』だったからね」
「お気に入りって……」
「ようは、彼女がナンバーワンで、僕がナンバーツー。そういう構図」
「そういう意味ね」
「その彼女も小五で転校して、その頃に父さんが死んで。いろいろ変わったよ、立て続けにね」
 そう言った圭太の顔は、少しだけ淋しそうだった。
 柚紀もそれに気付いたが、あえてそれには触れなかった。
「今はどこに住んでるの?」
「東京だよ。世田谷。確か、結構有名な私立進学校に入学したはず」
「頭いいんだ」
「あと、運動神経もね。彼女、水泳部のエースなんだ。確か、インターハイにも出てたと思うけど」
「そ、それはまた、すごい人だね」
「まあ、今となってはそうやって噂みたいな感じで話すだけになっちゃったけどね。こっちへ戻ってくることは、ほとんど考えられないから。もしあるとすれば、彼女の父親が栄転でこっちに来た時くらいかな」
「なるほど。じゃあ、圭太が彼女と再会することは、ほとんどないわけか」
 それを聞き、柚紀はホッと胸をなで下ろした。
「そうだね、会えるとしたら、それこそ高校を卒業してからだと思うよ」
 圭太も柚紀を安心させようと、そう言った。
「じゃあ、逆に柚紀は小学生の頃はどうだったの?」
「私? 私は、とにかくお転婆だったよ。別に男の子たちとしょっちゅうつるんでたわけじゃないけど、それも楽しかった。ただ、私の家ってこっちに引っ越してきたから。で、それを機に私はイメチェンしようと思ったわけよ」
「イメチェン?」
「うん。もう少しおしとやかな女の子になろうってね。結構努力して、見た目的にはそう見えるようになったわ。ただ、根本的な部分までは変えられなくて。仲良くなってくると地が出てくるのよ。一高に入ったばかりの時、圭太もそう思ったでしょ?」
「ん〜、少しだけね」
 圭太は、素直に認めた。
「まあ、私はどうやっても祥子先輩みたいにはなれないみたい。でも、これはこれで好きなんだけどね。これが私だし」
「そうだね。柚紀は、そういうところが柚紀だと思うよ。だから、普段としおらしい時のギャップがいいんだよ」
「むっ、その発言はセクハラっぽい」
「そ、そうかな?」
「私以外には、あまり言わない方がいいかも」
「わ、わかったよ、気をつけるよ」
 圭太は慌てて頷いた。
「ま、そういうわけだから、私の小学生の頃は。中学の時もその延長だったし」
「よくわかったよ」
「っと、話してる間に、お昼近くになっちゃった」
 腕時計を確認し、そう言う。
「じゃあ、そろそろお昼にしよっか」
「そうだね」
 圭太は少し勢いをつけて起き上がった。
 柚紀は、バッグの中からサンドウィッチを取り出す。
「急ごしらえだけど、味は保証つきだから」
「うん。いただきます」
 おしぼりで手を拭き、早速ひとつ手に取った。
「どう?」
「うん、美味しいよ。さすがは柚紀だね」
「えへへ、そうでもあるけどね」
 柚紀は、嬉しそうに微笑んだ。
 
 午後は、さらにのんびりとした時間を過ごした。
 食後しばらくはその場でゆっくりし、それから河川敷を歩いた。
 午後になり、風も少し変わってきた。
 春ではあるが、まだまだ四月頭である。時間が遅くなってくると寒さが出てくる。
 それでも陽差しがあるうちはまだいい。日向さえ歩いていれば、それを忘れられるのだから。
 ふたりは手をつなぎ、本当にゆっくりと歩いていた。
「もうあれから一年経ったんだよね」
「そうだね」
「長いようで短かった一年だった気がするよ。それと、大変な一年だった。でも、それも今は楽しい想い出になってるけどね。なんといっても、去年よりもさらにみんなと仲良くなれたし」
「確かに、去年以上に団結力が上がってるよね」
「そうよ。だから、圭太が下手なことしても、全部私に筒抜けなんだから」
 そう言って柚紀は笑う。
「まあでも、圭太はウソをつくのが下手だし、行動にすぐ表れるから、私がすぐに見破るけどね」
「別にウソなんかつかないよ。柚紀にはウソは通用しないから」
「そうそう、よくわかってるじゃない。これからも、誠実一路でいてね」
「心得ました」
 圭太は、冗談めかしてそう言った。
 
 夕方、柚紀と一緒に家に帰ってきた圭太は、とりあえず店の方に顔を出した。
「ただいま、母さん」
「おかえりなさい。早かったのね」
「そう? 結構のんびりしてきたと思うんだけど」
「柚紀さんは?」
「リビング、というか、台所でお茶の準備」
「ふふっ、らしいわね。じゃあ、休憩でもしてもらおうかしらね」
 琴美はそう言って店内を見た。
 客はちらほらと見える。レジはともみがやっていた。
「祥子さん。少し休憩入っていいわよ」
 ちょうど手の空いていた祥子に声をかけた。
「わかりました」
 祥子は言われるまま、休憩のために居住部へ。
「おつかれさまです、先輩」
 リビングに入ったところで、ちょうど柚紀も顔を出した。
「今、お茶を淹れてるので、もう少しだけ待ってくださいね」
「うん、ありがと」
 祥子は、微笑んでソファに座った。
「今日はどこに行ってたの?」
「河原でのんびりとしてました。日がな一日、ボーっとするのも必要だと思って」
「ふふっ、圭くんには必要かもね」
 少しして、柚紀がお茶を淹れて持ってきた。
「どうぞ」
「ありがと、柚紀」
 祥子のカップは、ちゃんと専用のカップである。『桜亭』でバイトしていると、ここでの休憩が多いことから、自然とそうなっていた。もっとも、それを最初にやったのはもちろん鈴奈である。
 今では、鈴奈、ともみ、祥子と三つ並んでいた。もちろん、バイトはしていないが柚紀のもある。
「もう四月だね」
「ええ、そうですね」
「今年の一年生は、どのくらい入りそう?」
「先生の話だと、中学でやっていた人が二十人くらいいるみたいです」
「多いね」
「はい。とはいえ、全員が入ってくれるとは思いませんから、そこから最低でも二、三人抜いて、さらに未経験者が何人か、という感じじゃないですか」
「だとしても、今年は去年以上が期待できそうだね」
「それならいいんですけど」
「パート分けが大変なくらい入ってくれるといいんだけどね」
 やはり、前部長としては、それが一番気になることらしい。
「そうだ、圭くん」
「なんですか?」
「バイトが終わったら、少しだけ私に時間、くれるかな?」
「それは構いませんけど、今じゃダメなんですか?」
「ん、できれば、圭くんとふたりだけの方がいいから」
 祥子は、少しだけ柚紀に申し訳なさそうに言った。
「構いませんよ、少しくらいなら。私も鬼じゃないですから」
 と、柚紀が祥子の顔色を見て、フォローした。
「ごめんね、柚紀」
「いえ、いいですよ」
 柚紀は、なんでもないと首を振った。
 しかし、一方の祥子の表情は晴れなかった。
 
 圭太は、バイトを終えた祥子を家まで送っていた。
「陽が落ちると、まだ肌寒いですね」
「そうだね」
 祥子は、あまり積極的に話していなかった。
 特になにかったわけではない。それでも、いつもに比べて言葉数も少なかった。
「話が、あるんですよね」
「うん」
 祥子は、小さく頷いた。
「あのね、圭くん。もし、私が妊娠したって言ったら、どうする?」
「えっ……?」
 思いも寄らない話に、圭太は思わず立ち止まっていた。
「本当に、妊娠したんですか……?」
「三ヶ月、だって」
「…………」
 圭太は、なんとも言えない表情を浮かべた。
「たぶん、あれだね。十二月のあの時。三ヶ月だと、それしか考えられないし」
 祥子は、わざとそんな風に言った。
「そんな顔しないで、圭くん……」
「祥子……」
 祥子は、圭太に抱きついた。
「圭くんにそんな顔されたら、私、どうしたらいいかわからないよ」
「すみません……」
 今度は、圭太が祥子を抱きしめた。
「わかったのは、いつなんですか?」
「ついこの前。生理が来なくなったから、気になって病院に行ったの。そしたら──」
「三ヶ月だと」
「うん」
「間違いじゃ、ないですよね?」
「うん」
「……わかりました」
「圭くん……?」
 圭太は、表情を引き締めた。
「今日、家には誰がいますか?」
「えっ……?」
「黙っているわけにはいきませんから。正直に、話します」
「それは……」
「あとになればなるほど、話しにくくなると思いますよ?」
「でも、お父さまは……」
「僕が、話しますから、祥子は心配しないでください」
 それから圭太は、祥子と一緒に三ツ谷家に赴いた。
 時間が時間なだけに、三ツ谷家の面々は全員いた。
「お父さま、お母さま。少し、お話があります」
「話?」
 祥子の父、史雄は眉根を寄せて祥子を見た。
 その場には、史雄と朝子のふたりしかいない。兄の行雄と姉の陽子は自室である。
「お話というのは、圭太さんにも関係のあることですか?」
 一緒に圭太がいることで朝子はそう推理した。
「はい」
「聞こう」
 圭太と祥子は、ふたりの前に座った。
「それで、お話とは?」
 朝子が先を促した。
「その前に、お父さまは、私と圭……圭太くんとの関係を知っているんですか?」
「……ああ、朝子に聞いている。納得は、しかねるが」
 史雄は、渋々頷いた。
「単刀直入に言います。私、妊娠しました」
「は……?」
「祥子さん……?」
「これは、私の意志です。彼には、非はありません。そのことでなにか言うとか、するというのであれば、まずは私にしてください」
 ふたりが理解する前に、言うべきことを言う。
 先に理解したのは、やはり朝子だった。
「それは、本当のことですか?」
「はい。病院で診てもらいました」
「相手は……圭太さん以外には考えられませんね」
「はい」
「それで、どうするつもりなのですか?」
「もちろん、産んで育てます。堕ろすなど、考えられません」
「そうですね」
 朝子は、少しだけ難しい表情を見せた。
「しょ、祥子。それはいったい──」
「あなたは黙っていてください。お話がややこしくなります」
 ようやく理解した史雄を、朝子がぴしゃりと言いくるめた。
 途端、史雄は黙ってしまう。この家でも、女は強いらしい。
「圭太さん。あなたは、どう考えているのですか?」
「完全な形では応えられませんが、責任は取ります」
「いえ、責任の所在とかそういうことではなく、今回の妊娠をどう考えているのか、ということです」
「それは……最初は戸惑いました。でも、同時に嬉しくもありました。そういう行為をしていたわけですから、可能性はもちろん考えていました。それはもちろん、そうなってもいいと思っていたからにほかなりません。ですから、今回のことは、とても嬉しいです」
「圭くん……」
 隣の祥子の表情が、穏やかになる。
「わかりました。祥子さんももう大学生。いつまでも子供ではありません。ですから、今後どうするかは、圭太さんとよく話をして決めて構いません」
「あ、朝子、それは──」
「あなたは、黙っていてくださいと、言いましたよね?」
「す、すまん……」
 一瞬、穏和な朝子の顔が豹変した。
「あと、産んだあとのことも、それほど心配することはありません。どんな形であれ、初孫であることに間違いはないのですから。大切に、見守っていきます」
「お母さま……」
「いいですね、あなた?」
「う、うむ、朝子がそう言うなら、それで構わん……」
 史雄は、渋々どころか、強要されて頷いている感じもあった。
 とはいえ、朝子には逆らえないのか、それ以上なにも言わない。
 ちなみに、史雄は入り婿である。三ツ谷家の本筋は、朝子の方である。
「圭太さん。祥子さんと、その子供をよろしくお願いします」
「必ず」
 
「圭くん……」
「なんですか?」
 ふたりは、祥子の部屋にいた。
「私、産んでいいんだよね?」
「はい」
「全部、私が言っちゃったけど、あれでよかったんだよね?」
「はい」
 圭太は、祥子を抱きしめた。
「怖かった……圭くんに拒絶されてしまうんじゃないかって……」
「そんなことあるわけないじゃないですか。僕は、ずっと祥子の側にいるってあれだけ約束したはずです。信じていなかったんですか?」
「信じてる。信じてるけど、それでも私は、怖かったの……」
 祥子は頭を振る。
「だったら、最後まで信じていてください。そうしないと、僕も側にいられなくなりそうです」
「ごめん、なさい……」
「謝らないでください」
「……圭、くん……」
 ふたりは、そっとキスを交わした。
「柚紀に、言わなくちゃね……」
「それは、僕から──」
「ううん、私がちゃんと言うから。琴美さんにも」
「祥子……」
「それくらい、させてよ。子供ができたのだって、圭くんだけのせいじゃないんだから。両者合意のもとで、なんだから。それに、私の方が『お姉さん』なんだから」
「この場合は、そういうのは関係ないと思いますけど」
「ううん、いいの。ね、圭くん?」
「わかりました。全部、祥子に任せます」
 圭太は、そう言って頷いた。
「柚紀、なんて言うかな? 一発くらい、殴られるかな?」
「それは、ないとは言えませんけど、話せばわかってくれますから」
「そうだね」
 祥子は薄く微笑んだ。
「ずっと、離さないでね、圭くん……」
 
 次の日。
 部活を終えた圭太は、柚紀を家に連れてきた。
 休憩時間を利用し、まずは柚紀に話すことにした。
「あの、先輩、話ってなんですか?」
「柚紀。落ち着いて聞いてね」
「は、はい」
 祥子の真剣な表情に、柚紀も居住まいを正した。
「私、妊娠したの」
「えっ……?」
「圭くんとの子供、身ごもったの」
 柚紀は、驚きの表情のまま、祥子と圭太を代わる代わる見た。
「ほ、本当なんですか?」
「ウソじゃないよ。病院で診てもらったんだから。今、三ヶ月」
 祥子は、真っ直ぐな眼差しで柚紀を見た。
「…………」
 柚紀は、キュッと唇を噛みしめた。
「先輩」
「なに?」
「どうして、先輩なんですか?」
「えっ……?」
「どうして、それが私じゃなかったんですか? 私だって、圭太の子供、ほしいんです。エッチの時だって、ゴムしないでやってるのに。なのに、私は妊娠しないで。どうして先輩が……」
「柚紀……」
 祥子は、なにも言えなかった。
 今の柚紀の想いは、痛いほどわかった。だからこそ余計になにも言えなかった。
「はあ……」
 と、柚紀は大きく息を吐いた。
「私が先輩を罵ったところで、結果が変わるわけじゃないですからね。もう、言いません。でも、先輩。ひとつだけ、いいですか?」
「えっ、なに……?」
「これだけは、させてください」
 そう言って柚紀は──
「っ!」
 思い切り祥子の頬を張った。
 乾いた音が、部屋に響いた。
「それで、もういいです」
「……ごめん、柚紀……」
「謝らないでください。それに、先輩は圭太と謝らなくちゃいけないようなことを考えながらセックスしてたんですか? だったら、もう二、三発殴りますよ?」
「それは、ないよ……」
「だったら、謝らないでください。謝られたところで、私はどうすればいいんですか?」
「それは……」
「だから、もういいです。圭太」
「うん?」
「ちゃんと、先輩のフォローしてね。私、今日は帰るから」
「あ、うん」
 そう言って柚紀は部屋を出て行った。
 ドアが閉まると、部屋の中を、なんとも言えない雰囲気が覆った。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。これくらいで済んで、よかったよ。やっぱり、私は柚紀にはかなわないな。私が柚紀と同じ立場だったら、もっとひどいこと言って、もっとひどいことしてた」
「祥子……」
「でも、よかった。柚紀に、認めてもらえたから。もうこれで怖いものないよ」
 祥子は、涙で潤んだ目のまま、微笑んだ。
 それから店の様子を見つつ、今度は琴美に説明した。
「いつかはこうなるんじゃないかとは思っていたけど、まさかこうも早く……」
 琴美は、もはやなんと言っていいかわからないという感じだった。
「いい、圭太? ちゃんと、祥子さんを守りなさい。絶対よ?」
「わかってる」
「だったら、もうなにも言わないわ。というか、言う気力もないわ」
 そう言って琴美は、ため息をついた。
 結局、祥子の妊娠問題は、ふたりに委ねられることになった。
 それはある意味当たり前のことなのだが、それでも、まだ大学一年と高校三年のふたりである。しかも、ふたりが結ばれることは絶対にあり得ないのである。
 問題は、まだまだ山積だった。
 
 二
 四月四日。
 その日は、登校日だった。簡単な集会と、新学年でのクラス分けが発表されるのだ。
 圭太は、朱美と一緒に学校へ向かっていた。
「ん〜、今年は誰かと一緒になるかな?」
「さあ、それはわからないな」
「圭兄は、今年も柚紀先輩と一緒になるのかな?」
「それも運次第。でも、可能性は結構高いとは思うよ」
「どうして?」
「僕も柚紀も、進路が同じだから」
「ああ、そっか」
「ま、それも学校に行けばわかるよ」
 途中で柚紀と合流し、学校へ。
 学校には、新二年と三年が集まっていた。
 その日は教室へは入らず、直接講堂へ入る。
 その入り口でクラス分けのプリントを受け取るのである。
 プリントを受け取り、圭太と柚紀は、早速自分たちのクラスを確認した。
「あった。圭太は何組?」
「僕は一組だね。柚紀は?」
「えへへ〜、私も一組」
 今年もふたりは同じクラスだった。
 三年一組は、文系クラスである。基本的にあとは、地理歴史と理科系の科目でなにを選択しているかでクラスが分かれる。ふたりは全部同じため、三年連続同じになったのだ。
 集会は、始業式の簡単な説明と入学式のこと、次の日の実力テストのことだった。
 それが終わると、圭太たちは部活である。
 音楽室では、新しいクラスのことで話題は持ちきりだった。
「圭兄。圭兄はどうだった?」
「ん、今年も柚紀と一緒だよ」
「そっか」
「朱美はどうだったんだ?」
「ん〜、詩織と同じクラス。二年二組だよ」
 そこへ、件の詩織と紗絵もやって来る。
「紗絵だけ別のクラスになったんだね」
「ええ、そうです」
「紗絵は、何組?」
「七組です」
「そっか。覚えておくよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 その日は部活を終え、それですべて終わりだった。
 しかし、圭太はひとつだけ見落としていた。
 もう少しクラス分けのプリントをしっかりと見ておくべきだった。
 
 四月六日。
 とても天気のいい日だった。
 午後から入学式があることを考えると、とても縁起がよかった。
 とはいえ、二、三年にはあまり関係のないことだった。
 始業式をして、ホームルームを終えればその日は終わりである。入学式に参加する生徒はほとんどいないのだから、もはや最初から意識は放課後である。
 新クラスでの始業式は、実に滞りなく済んだ。
 あまりにも滞りなさすぎて、居眠り者が続出したくらいである。
 しかし、三年一組のホームルームはすぐにははじまらなかった。
 そろそろしびれを切らして騒ぎ出そうかという頃、ようやく担任がやって来た。
「じゃあ、はじめるわよ」
 入ってきたのは、やはりかなり因縁深い中村優香だった。圭太と柚紀は、三年連続の担任である。
 挨拶を終えると、優香はすぐに本題に入った。
「ええ、ではここで、転校生を紹介するわね」
 教室がどよめいた。
 それはそうである。もともと高校は転校生が少ない。それは、転入試験が難しいからである。特に、公立高校のトップ校は。
 さらに言うなら、三年になって転校してくるというのも、普通では考えられない。
「はいはい、静かにする。じゃあ、入って」
 優香は、廊下に声をかけた。
 ドアが開き、入ってきたのは──
『おお〜っ』
 思わず男子からそんな感嘆のため息が漏れるような女子だった。
 スラッと高い身長。メリハリのあるスタイル。肩より少し下くらいの髪。切れ長の瞳。整った顔立ち。美人と形容できる容姿だった。
「はい、静かに。彼女は、東京からの転校生で、河村凛さんよ」
「……えっ……?」
 声は、意外なところから上がった。声を上げたのは圭太だった。
 が、小さな声だったために、優香は気づかなかった。
「家の都合でこっちに来ることになって、それでうちへ転校してきたの。それじゃあ、河村さん」
「はい」
 彼女──河村凛は黒板に名前を書いた。
「河村凛です。東京から転校してきました。以前は私立に通っていたんですが、転校を機に公立に変えました。この時期の転校で少し不安な部分もありますが、なんとか早くこの学校に慣れて、受験を迎えたいと思います。よろしくお願いします」
「聞いての通り、彼女は元々私立に通っていたの。もちろん、うちよりも偏差値は上の高校よ。だからこそうちの転入試験に合格できたのだけどね。そういうわけだから、まず間違いなくあなたたちより頭はいいから、負けないように。それじゃあ、席は、この列の一番後ろね」
「はい、わかりました」
 凛は、軽く会釈してから教壇を降りた。
 そして言われた列の後ろへ来たところで、止まった。
「えっ……けーちゃん……?」
 その視線は隣の席にいる、圭太に向けられていた。
「河村さん? どうかした?」
「い、いえ、なんでもありません。すみません」
 優香に声をかけられ、慌てて席に着く。
「それじゃあ、まずは──」
 しかし、その視線はしっかりと圭太に向けられていた。
 
 ホームルームが終わると、凛はすぐに圭太に声をかけた。
「ちょっと、いいかな?」
 そう言って圭太を廊下へ連れ出した。
 一組は一番端なので、スペース的には結構ある。
「間違ってたらごめんなさいなんだけど、ひょっとして、けーちゃん?」
 凛は、探るような眼差しで圭太を見つめた。
「その呼ばれ方、懐かしいよ、凛ちゃん」
 それに対して圭太は、笑顔でそう答えた。
「やっぱり、やっぱりけーちゃんだ」
 途端、凛は破顔した。
「あはっ、何年ぶりかな?」
「直接会うのは、七年ぶりかな?」
「そうだね。もうそんなになるね」
 凛は、本当に嬉しそうに微笑んでいる。
「だけど、よく僕だってわかったね?」
「そりゃ、わかるよ。だって、けーちゃんはあたしの幼なじみだから。けーちゃんは、わからなかった?」
「別人かと思ったよ。背だってずいぶん大きくなったし、なにより、綺麗になってたから」
「も、もう、そんな恥ずかしいこと、真顔で言わないでよ」
「あはは、ごめんごめん。でも、本当に見違えちゃったよ、凛ちゃん」
「引っ越してから、ずいぶんと長かったからね」
 当時を思い出すように、凛は言う。
「でも、凛ちゃん。いつこっちに?」
「引っ越してきたのは、もう三月末。こっちへ戻ることが決まったのは、今年に入ってから。結構急だったから、大変だったよ」
「そうだろうね。ああ、でも、どうして凛ちゃんまでこっちに? 卒業まで残ってもよかったんじゃないの?」
「それも考えたんだけど、一年あるし、ここでもう一度しきり直しでもいいかなって。それに、ここは結構勉強にも部活にも力入れてるみたいだから、ちょうどいいと思って」
「なるほどね。じゃあ、最初から一高に?」
「まあね。さすがに転入試験は難しかったけど。あれなら、向こうの入試の方が簡単かもしれない」
「それでもそれに合格したんだから、すごいよ」
「まぐれよ、まぐれ」
「まぐれではないと思うけど。っと、そうだ。ごめん、凛ちゃん」
「ん、どうしたの?」
「僕、これから入学式の準備をしなくちゃいけないんだ」
「準備?」
「ほら、僕、吹奏楽部だから」
「ああ、そっか。じゃあ、しょうがないね」
「うん。だから、話の続きはまた明日でいいかな?」
「それはもう全然構わないから」
 凛は、ぶんぶんと首を振った。
「じゃあ、凛ちゃん。僕は行くから」
「おつとめ、がんばって」
 一度教室へ戻ろうとしたところで、圭太は立ち止まった。
「ん、どうかした?」
「凛ちゃん。おかえり」
「けーちゃん……うん、ただいま」
 それに対しては凛は、心からの笑顔で応えた。
 
「圭太。ちょっと」
 音楽室へ向かう途中、圭太は早速柚紀から尋問を受けた。
「ねえ、あの子、誰なの?」
「あの子って……ああ、凛ちゃんのこと?」
「凛ちゃん?」
 柚紀は、あからさまに顔をしかめた。
「彼女だよ、例の幼なじみっていうのは」
「えっ、あの子が?」
「うん。ああ、それと、凛ちゃんって呼び方は昔のままで、そのうち変わるかもしれないけどね」
「ふ〜ん、そうなんだ……」
 柚紀は、さすがに面白くなさそうである。
 つい先日、祥子の妊娠騒動があったばかりである。
 そこへ来て今回の幼なじみの登場。
 面白いはずもない。
「まあ、凛ちゃんのことは追々話すから、今はとりあえず入学式の準備をしないと」
 結局、その場はそのままうやむやになった。
 
 入学式は、実に厳かに行われた。
 新入生一同は、一様に緊張した面持ちで、これからの高校生活に思いをはせていた。
 入学式が終わると、圭太たち吹奏楽部も終わりである。その日は部活はない。
 柚紀も、慌ただしさのせいか、必要以上に凛のことを訊けず、その日はそのままだった。
 
「やっぱり、けーちゃんだった……」
 凛は、自分の部屋でベッドに寝ころび、クラス分けのプリントを見ていた。
 そこには確かに『河村凛』と書いてある。が、転校生ということで、出席番号は一番最後。注意深く見なければ見落とすだろう。
 しかし、凛は転校生としてそれをしっかり見ていた。そして見つけた圭太の名前。
 圭太が一高に入っていることは知っていた。だから、『高城圭太』という名前が圭太のものであることもわかっていた。
 とはいえ、実物は見ないとわからない。
 そういうこともあってのホームルームの反応だったのである。
「けーちゃん、すっかりかっこよくなっちゃった」
 思い出す度に頬が緩んだ。
「でも、仕草とかは昔のまま」
 だからこそ圭太だと気づいたのだ。
 いや、それがなくても凛は圭太だとわかっただろう。
 なぜなら──
「やっと、あの時言えなかったあたしの想い、伝えられる……」
 凛は、目を閉じた。
「あたしの、素直な想いを……」
 
 四月七日。
 新学期がはじまって二日目。
 一高では実力テストが行われた。一年にとってはいきなりのテストで辟易しているところだが、これをやるのとやらないのとでは、教師陣にとっては大きく違うのである。
 ここで現状の実力を見ておいた方がこれからの指導に役立てられるからである。
 午前中、実力テストを終えた生徒たちは、昼休みを挟んで対面式となる。
 その昼休み。
「けーちゃん」
 テストが終わると、早速凛が圭太に声をかけてきた。
「お昼、どうするの?」
「ああ、うん、お昼は──」
「圭太」
 そこへ、柚紀もやって来た。
 一瞬、柚紀と凛の視線がぶつかった。
「お昼、食べよ」
「そうだね。凛ちゃんはお昼、持ってきてる?」
「えっ、あ、うん。一応……」
「じゃあ、ちょうどいいから、三人で食べよう」
 圭太は、ふたりの意見を聞かずに、さっさと教室を出て行った。
 柚紀と凛は一瞬顔を見合わせ、少し遅れてついていった。
 圭太が向かったのは、だいぶ過ごしやすくなってきた屋上だった。
「ん〜、いい気持ちだね」
 大きく伸びをする。
 一方、柚紀と凛は、お互いにお互いを警戒している。
「どっちから紹介しようか」
 さすがにそのままはまずいと思い、まずはお互いの紹介からはじめた。
「凛ちゃん。彼女は、笹峰柚紀。僕の彼女だよ」
「えっ……?」
「それで、彼女が河村凛ちゃん。まあ、昨日自己紹介してるからわかってると思うけど」
「うん、まあね」
 柚紀は、渋々頷いた。
「凛ちゃん?」
「……けーちゃん、彼女、いたんだね」
「うん。柚紀と知り合ったのは、ここに入ってからだよ」
「そっか……」
 凛は、淋しそうに頷いた。
「さ、とりあえずお昼を食べよう。時間だってそんなにあるわけじゃないしね」
 柚紀は、そんな凛を少しだけ複雑そうな表情で見つめていた。
 
 放課後。
 柚紀が荷物を片づけていると、凛が寄ってきた。
「笹峰さん。ちょっと、いいかな?」
「河村さん……?」
「少し、話がしたいの。時間、ある?」
「まあ、少しなら」
 ふたりは、教室を出た。
 廊下は、比較的静かだった。
 放課後といっても、いつもの放課後とは違う。
 その日から各部活では新入生の勧誘活動がはじまる。それに向けて各部活とも準備に余念がないのだ。
 そんな廊下で、柚紀と凛は話をしていた。
「話って?」
「うん、まあ、確認なのかな」
「確認?」
 凛の物言いに、柚紀は首を傾げた。
「あなたが、けーちゃんの彼女だっていう、確認」
「……それって、どういう意味?」
「別に意味はないけど。ただ、確認したかったの。それだけ」
「……わけわかんない。それに、どんな意味があるっていうの?」
「だから、意味なんかないって。それでも意味がほしいって言うなら、そうね、それはあたしにとって青天の霹靂だったから」
 凛は、真っ直ぐ柚紀を見つめた。
「それって、つまり、あなたも圭太のことが好きだったってこと?」
「違うわ」
「違う?」
「今も好きなの。勝手に過去形にしないで」
「…………」
 強い口調に、柚紀は凛の想いを感じ取った。
「でも、言わせてもらえば、あなたが好きな圭太は、小学校の時のままなのよ。あなたは、今の圭太を知らない、見てない、わかってない。なのに、好きだなんて。おかしいわ」
 自然、柚紀の口調も強くなった。
「そんなの、あなたに言われなくても十分わかってるわ。だけど、離れていたんだからどうしようもない。あなたみたいに、ここに入ってからずっとけーちゃんと一緒にいる人には、絶対にわからない」
「ええ、わからないわ。わかりたくもないもの」
「それでも、あたしはけーちゃんのことだけを考えてきた。中学の時も、向こうの高校にいる時も、誰に告白されても首を縦に振らなかった」
 凛は、柚紀に背を向けた。
「想像の中だけで、あたしはけーちゃんを想い続けてきた。中学、高校とけーちゃんがどんな風に成長したか、あたしなりにいろいろ想像した。でも、これだけは言える。その想像は、決して的外れじゃないって。これでもね、あたしはけーちゃんの幼なじみなの。だてに幼稚園の頃から一緒にいたわけじゃない。あなたの言う通り、あたしは今のけーちゃんを知らないし、離れていた間のけーちゃんを知らない。でも、それを想像することはできるし、それはおそらく現実に近いと確信してる」
「…………」
 凛の言葉には、確かな意志があった。それは、柚紀にすら反論を許さないだけの強さだった。
「ねえ、その指輪、けーちゃんにもらったんでしょ?」
 凛は振り返り、柚紀の手を見た。
「えっ、あ、うん」
「婚約指輪?」
「うん」
「そうだよね。あのけーちゃんがなんの考えもなしに指輪なんて贈るはずないものね」
 そう言って凛は大きく息を吐いた。
「ごめん。別に、あなたを責めるつもりはなかったの。最初に言ったように、ただ確認したかっただけだから。あたし個人としては、あのけーちゃんが選んだ人だから、いい人だって思うから、仲良くしたいとも思ってる。ただ、その前にしておかなくちゃならないことがあったから」
「しておかなくちゃならないこと?」
「まあね。でも、これで決心もついた。まだ、少しだけやめようかなって思ってたんだけど、あなたのおかげで踏ん切りもついたし」
 ひとりで自己完結してしまった凛に、柚紀はあからさまに顔をしかめた。
「なにそれ? 勝手に私を使わないでよ」
「だから、それに関しては謝るわ。でも、そう思わせるようなことを言ったのは、あなたよ。あたしは、その前に終わらせるつもりだったんだから」
「それは……」
 確かに、柚紀が話を延ばした。その言葉がなければ、凛の決意も変わっていたかもしれない。
「それで、おあいこ」
 そう言って凛は微笑んだ。
「じゃあ、あたしは行くから。水泳部の方に顔も出したいし」
「待って」
 行こうとする凛を、柚紀が呼び止めた。
「なに?」
「あなたがなにをしても私に関係ないけど、でも、ひとつだけ言わせて」
「…………」
「圭太を、惑わすようなことだけは言わないで。あなた、圭太に自分の想いを伝えるつもりでしょ?」
「…………」
「圭太はね、あなたが思っているよりもずっと人のことがわかるの。だから、下手するとあなたの想いを受け入れてしまうかもしれない。あなたはそれでいいかもしれない。でも、よく考えてみて。それが圭太にとっても、いいことなのかを」
 柚紀は、先ほどとはうってかわって、落ち着いた口調でそう言った。
「私が言いたいのは、それだけ」
 そう言って今度は柚紀がきびすを返した。
 残される形となった凛は、ぽつりと呟いた。
「……そんなこと、言われなくてもわかってるわよ……」
 
 音楽室には、ちらほらと部活見学の新入生が来ていた。
 やはり、部活紹介を圭太が行った成果が出ているようである。
 そんな中にはすでに入部を決めている者もいる。
 そのひとりが、琴絵である。
「高城琴絵です。三中でクラリネットをやっていました。よろしくお願いします」
 琴絵のまわりには、圭太の妹を見ようと多くの部員が集まっていた。
「う〜ん、あの兄にしてこの妹あり、って感じよね」
「ホント。さすがは兄妹だわ」
 わいわいと琴絵をネタに盛り上がる。
「ほらほら、あんたらさっさと練習する。そろそろ抜き打ちで合奏があるかもしれないんだから」
 と、綾が副部長らしく部員を追い払った。
「まったく、見せ物じゃないんだから」
 やれやれとため息をつく。
「さてと、改めて一高吹奏楽部へようこそ。あたしが、副部長でクラのパートリーダーの北条綾。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「圭太からうちの部のことは聞いてる?」
「えっと、だいたいは。挨拶は『おはようございます』『おつかれさまでした』で、呼ぶ時は名字じゃなくて名前で。確か、そうですよね?」
「その通り。だから、あたしのことも名前でね。あたしも、名前で呼ばせてもらうし。まあ、もっとも、名字で呼んだら、どっちを呼んでるのかわからなくなるけどね」
 そう言って綾は笑った。
「ところで、今日は楽器、持ってる?」
「はい、一応持ってきました」
「そう、じゃあ、早速練習に混ざってもらおうかしら。っと、その前に、みんなに紹介もしなくちゃいけないけどね」
 琴絵のほかには、こんな新入部員がいた。
「井上和美です。三中でトランペットをやっていました」
 井上和美は、この春卒業した裕美の妹である。
 つまり、姉妹揃って一高で、さらにトランペットは三年連続で三中出身者が入ってきたのである。
「あなたが裕美先輩の妹さんね」
「はい」
「私は有馬夏子。本当はリーダーの圭太が応対すべきなんだけど、ちょっと先生に呼ばれてていないのよ。代役でごめんね」
「いえ、とんでもないです」
 和美は頭を振った。
「まあ、うちのパートには圭太のほかにも紗絵がいるから、溶け込みやすいとは思うけどね」
「そうかもしれません」
「なにはともあれ、これからよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
 件の紗絵は、勧誘活動のために出払っていた。
 なにはともあれ、吹奏楽部の方は出だしは順調だった。
 
「それじゃあ、おつかれさまでした」
『おつかれさまでした』
 部活が終わった。
 最後まで残っていた一年はほとんどいない。それでも、琴絵や和美のようにすでに溶け込んでいる者もいた。
 圭太は、ピアノのところで日誌を書いている。
「おに……じゃなかった、先輩」
「ん、なにかあったか、琴絵?」
「ううん、特に用はないんだけど、なにをしてるのかなって」
「ああ、これは活動日誌だよ。ほら、先生は毎日ここへ来るわけじゃないから、その日どんなことをやったか簡単に書いて、それを先生に提出するんだ」
「ふ〜ん、なるほどね」
 琴絵は、そう言って圭太の手元を覗き込んだ。
「そういえば、僕のこと、『先輩』って呼ぶことにしたんだな」
「あ、うん。ほら、三中の時もそうしてたし。あんまり『お兄ちゃん』て呼ぶの、よくないかなって」
「程度の問題だとは思うけど、そうした方が示しはつくかな」
「だから、これからは『圭太先輩』だよ」
「了解」
 日誌を書き終え、音楽室を閉める。
 いつものメンバーに琴絵を加え、家路に就いた。
 が、柚紀はすこぶる機嫌が悪かった。
「なにかあった、柚紀?」
「……ううん、別に、たいしたことじゃないよ。ちょっと微妙なことがあっただけ」
「微妙なこと?」
「まあ、今日はまだいいけど、たぶん、明日くらいにはもっと不機嫌になってるかも」
 そう言って柚紀はため息をついた。
 しかし、圭太にはなんのことかさっぱりわからなかった。
「そういえば、お兄ちゃん」
「うん?」
「凛お姉ちゃん、戻ってきたんだよね?」
 凛の名前が出てきて、柚紀は敏感に反応した。
「凛お姉ちゃん、ずいぶん変わってたでしょ?」
「確かに。最初は別人かと思ったよ」
「ふ〜ん、そんなに変わってたんだ。あっ、今はどこに住んでるのかな? 昔みたいに、うちの近くなのかな?」
「それは聞いてないけど、近くで引っ越しがあったとは聞いてないから、たぶん、あのあたりじゃないんだと思う」
「そっか。ちょっと残念だな」
「ま、そのうち琴絵も会うだろ」
「うん、そうだね」
 凛は、琴絵にとっては『姉』にも等しい存在だった。家が喫茶店だったために、凛も家に遊びに来ることが結構あったからだ。
 面倒見のいい凛は、琴絵の面倒もよく見ていた。琴絵も凛に懐き、仲も良かった。
「圭太」
「ん?」
「……なんでもない」
「柚紀?」
 柚紀は、なにか言いたげだったが、結局なにも言わなかった。
 
 夕食後、圭太が部屋でのんびりしていると、ドアがノックされた。
「圭兄。ちょっといいかな?」
「開いてるよ」
 入ってきたのは、朱美だった。
「圭兄。今日はプレゼント、ありがと」
「ん、別に改めて言わなくていいよ。夕食の時にも聞いたし」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 四月七日は、朱美の誕生日である。
「それでね、圭兄。今日は、一緒にいても、いいかな?」
 上目遣いにねだる。
「構わないよ。今日は、朱美の誕生日だし」
「あはっ、ありがと、圭兄」
「おいおい……」
 朱美は、早速圭太に抱きついた。
「ん〜、圭兄、好き〜……」
 すりすりと頬をすり寄せ、ネコのようである。
 圭太は、そんな朱美を優しく抱きしめる。
「ねえ、圭兄」
「うん?」
「琴絵ちゃんが言ってた、『凛お姉ちゃん』て、どんな人なの?」
「う〜ん、どんな人か。凛ちゃんは、柚紀とはちょっと違う意味で人を引っ張っていけるくらい、元気で明るくて魅力的な人だよ」
「圭兄がそこまで言うんだから、よっぽどなんだね」
「多少、色眼鏡がかかってるとは思うよ。幼なじみだし」
「ふ〜ん、そうなんだ。でも、そうすると、柚紀先輩は心中穏やかじゃないね」
「柚紀が?」
「うん。だって、圭兄の昔を知ってる人なんだよ? 今、圭兄の側にいてその頃のことを知ってるのは、その人と琴絵ちゃんだけだし。自分の知らないことを知ってる人が側にいたら、普通は嫉妬しちゃうよ。それが、圭兄のことだったらなおのこと」
「……そっか」
 圭太は、神妙な面持ちで頷いた。
「……だからか、柚紀が不機嫌だったのは……」
「圭兄?」
「朱美もだけど、余計な心配をすることはないよ」
「えっ……?」
「確かに凛ちゃんは僕の幼なじみだけど、それ以上の関係にはならないから。僕と凛ちゃんは、どちらかといえば『姉弟』みたいなものだし」
「そうなの?」
 意外な物言いに、朱美は首を傾げた。
「確かに、凛ちゃんは僕に特別な感情を持ってるのかもしれない。でも、もう凛ちゃんには柚紀のことは話してあるから」
「それって、あんまり関係ないと思うけど。だって、今圭兄の側にいる人たちは、みんな柚紀先輩との関係を知っての上で一緒にいるんだから」
「…………」
「そりゃ、圭兄には柚紀先輩がいるって知ったくらいで引くようなら、そこで終わりだとは思うけど。そうじゃなかったら、どうなるのかな?」
「……まさか、柚紀はそれを凛ちゃんから聞いて……」
「可能性はあるかもね。柚紀先輩、新年度で圭兄に新しい誰かが出てくるのにすっごく神経尖らせてるから」
「明日、柚紀と凛ちゃんに確認しておかないと」
「ホント、圭兄はモテるからね」
 朱美は、少しだけつまらなそうに言った。
「ああ、もう、ホントにどうして私はもっと早くに圭兄に告白しなかったんだろ」
「朱美……?」
「もし私がもっと早くに告白してたら、圭兄は受けてくれた?」
「それは、いつかにもよると思うよ。ただ、たぶん受けなかっただろうね」
「どうして?」
「やっぱり朱美は、『妹』だったから」
「やっぱりね。ホント、私はいつまで経っても圭兄の『妹』からは抜け出せないんだ。嬉しいことなのか、悲しいことなのか、わからないけどね」
 泣き笑いの顔でそう言う。
「ま、いいや。今はこうして圭兄と一緒にいられるだけで私は幸せだもん。たとえこれから先も『妹』だとしても、だからこそずっと側にいていいんだって思えるし。それに」
 朱美は、圭太にキスをした。
「こうやってキスもできるし。あと、抱いてもらえるし。ね、圭兄?」
 朱美は圭太の手を自分の胸に導く。
「抱いて、圭兄……」
 圭太は朱美を抱きかかえ、ベッドに横たわらせた。
 もう一度キスをし、頬に手を添えた。
「ん、圭兄の手、気持ちいい……」
 その手に頬をすり寄せる。
「でも、もっともっと気持ちよくなりたいよ……」
 熱っぽい視線を向ける。
 圭太は、服の上から胸を揉む。
「ん、あ……」
 まだまだ鈍い刺激ながら、朱美は敏感に反応する。
 長袖ティシャツをたくし上げ、今度はブラジャー越しに。
「んん、圭兄、もどかしいよぉ……」
 わずかに体をよじる。
 圭太は、それに応え、ブラジャーもたくし上げる。
「んあっ」
 ピンと勃った突起と指で弾くと、朱美はさらに敏感に反応した。
 指から舌に変え、突起をいじる。
「あん、んんっ、あふっ」
 舐める度に、朱美はぴくんぴくんと反応する。
「や、ん、圭兄……」
 トロンとした表情で圭太を見つめる。
 今度はジーンズを脱がせる。
 朱美ももどかしいのか、積極的に脱ぐのを手伝っている。
 ジーンズを脱がすと、ショーツにはすでにシミができていた。
「圭兄が、気持ちよくするから、私、濡れちゃったよ……」
「じゃあ、もうやめようか?」
「ううん、もっともっと気持ちよくなりたい」
 圭太は小さく頷き、ショーツの中に手を入れた。
「あんっ」
 指が、すんなりと中に入った。
 絡みついてくる朱美の中。熱いくらいの蜜が、奥から止めどなくあふれてくる。
 圭太は、指を出し入れし、朱美を感じさせる。
「んんっ、あんっ、んあっ、んくっ」
 朱美の嬌声が部屋に響く。
「圭兄、もう我慢できないよぉ……」
 指を抜くと、指は蜜でしとどに濡れていた。
 ショーツを脱がせ、自分もズボンとトランクスを脱ぐ。
「いくよ?」
「うん……」
 屹立したモノを、ゆっくりと沈めていく。
「ん、ああ……」
 朱美は、一瞬体をのけぞらせた。
「ん、圭兄」
「うん?」
「私、幸せだよ」
 そう言って朱美は、本当に幸せそうな笑みを浮かべた。
 圭太は、ゆっくりと腰を引いた。
「んっ、あんっ」
 それをまたゆっくりと挿れる。
「んんっ、んくっ」
 最初はゆっくりと、次第に速く。
 圭太は、朱美の負担にならないように腰を動かす。
「あんっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
 朱美の足を持ち上げ、さらに深く入るようにする。
「圭兄っ、気持ちいいよっ、ああっ、私っ、もうっ」
 シーツをつかみ、でも、快感には抗わない。
「ああっ、んんっ、圭兄っ、圭兄っ、圭兄っ」
「朱美っ」
「んあっ、あんっ、ああっ」
 湿った淫靡な音が、ふたりの感覚を麻痺させていく。
「ダメっ、イくっ、イっちゃうっ、んんっ、ああああっ!」
 朱美の中がキュッと締まり、朱美は達した。
「くっ!」
 圭太はそれになんとか耐え、外に放った。
「ん、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「はあ、圭兄……中で、出してくれなかったんだ……」
 朱美は、腹部に飛んだ精液を指ですくい、少しだけ残念そうに言った。
 
「ねえ、圭兄」
「うん?」
「もし今圭兄と関係を保ってるみんなが、圭兄の子供がほしいって言ったら、どうするつもりなの?」
「それは、どうするかな? ちょっとわからないな」
「どうして?」
「子供を育てるのは、大変だからね。それに、たとえ結婚できなくても、僕の子なら責任を負わなくちゃいけない。今の僕にはそれができるだけの自信がないから」
 そう言って圭太は、苦笑した。
「じゃあ、祥子先輩は特別なの?」
「特別とかそういうことじゃないよ。もちろん僕としても子供ができてもいいとは思ってたから、それ自体をどうこう言うつもりはないし。ただ、そういう現実をまだ突きつけられてなかったから、認識ができていなかったんだ。でも、今回のことで僕の立場はより明確になった。僕は、先輩と産まれてくる子供を守らなくちゃいけないんだって」
「…………」
「先輩以外でもそうなっていいとは思ってる。朱美とだってそうだ。だけど、これからはできるだけそうならないようにしようと思う」
「……どうして?」
「今の僕には、それを背負えないから。だから、朱美が望んでも、そうしてあげられないんだ」
「そっか……」
 朱美は、淋しそうに頷いた。
「でも、しょうがないよね。親のエゴだけで子供を作っちゃうのは、よくないもんね。育てていけなければ、意味がないから」
「だから朱美」
「ん?」
「もう少しだけ待ってほしい。僕という人間が、本当にどのくらいほかの人を背負えるか、わかるまでは」
 圭太は、真剣な表情でそう言った。
 それに対して朱美は、ふっと微笑んだ。
「わかってるよ。圭兄、真面目だからね。私はそんな圭兄を好きになったんだし。それに、もし今私が妊娠したら、お父さん、卒倒しちゃうよ。お母さんは呆れるだけだろうけどね。だから少なくともあと二年。今のままでいるから」
「ありがとう、朱美」
「ううん、それは私のためでもあるから。大好きな圭兄の側にいるためのね」
「朱美……」
「ずっと、ずっと側にいるからね、圭兄……」
 
 三
 四月八日。
 実力テストも対面式も終わり、少なくとも二、三年は通常の生活に戻った。とはいえ、まだまだ細かなことは残っている。それでも、一年に比べればそういうものも少ない。
 学校内は、まだふわふわとした感じが漂っている。それもこれも、まだ全校生徒が自分の位置を明確に把握できていないからだろう。
 三年は最高学年という立場を、二年は後輩が入ってくるという立場を、一年は高校という新しい舞台を。
 それでも、時間は過ぎるし、誰も待ってはくれないのである。
 三年は、授業も完全に受験を意識したものになってくる。早めに教科書の範囲を終わらせ、受験対策を行うのだ。
 一高は県下でもトップの高校である。当然その授業進度も速く、普通の高校ではとても終わらないところまで終わってしまうのである。
 だからこそ、生徒たちは一生懸命授業についていかないと、すぐに置いていかれるのである。
 とはいえ、まだ四月の新学期がはじまったばかりである。教える側もまだ本調子ではない。どの程度までやるかは、授業をやりながら判断するというのが大半だった。
 そんな中、圭太は少々微妙な関係にいた。
 それは、柚紀と凛とのことである。
 三角関係など鼻で笑えるくらいの関係を保っている圭太である。しかし、彼女である柚紀とほかの女性陣との仲は良好である。そこに、三角関係のようなぎくしゃくとしたものはほとんど存在しない。
 だが、今回は違った。
 圭太を巡り、柚紀と凛がまさに三角関係を作ろうとしていた。
「けーちゃん。少し、話があるの」
 凛は、柚紀の目を盗み、圭太を教室から連れ出した。
 できるだけ目立たない、柚紀に見つからない場所に移動し、それでもあたりを警戒する。
「そんなに警戒しなくても、柚紀は来ないよ」
「えっ……?」
「柚紀はね、口でいろいろ言っていても、相手のことをちゃんと考えて行動してるから。だから、今回は凛ちゃんに『機会』をくれたんだと僕は思うよ」
「機会、を……」
 凛は、なんとも言えない表情で俯いた。
「それで、話って?」
「ああ、うん、けーちゃんのその様子だと薄々気づいてると思うけど、あたし、これから大事なことを言うから」
 凛は、真っ直ぐ圭太を見つめた。
 圭太もその視線をしっかり受け止める。
「あたし、東京に転校するずっと前から、けーちゃんのこと、好きだった。男勝りだったあたしに気後れすることなく接してくれたのはけーちゃんだけだったし、そのけーちゃんのおかげでほかのみんなとも仲良くなれた。だから、あの頃はけーちゃんがあたしのすべてだった。でも、そんな生活も長くは続かず、あたしは東京へ引っ越さなければならなくなった。本当はね、その時にけーちゃんに告白しようと思ってた。だけど」
 わずかに視線をそらした。
「あたしは、自信がなかった。遠距離恋愛ってほどじゃないかもしれないけど、離れた場所で少なくとも電話じゃなければお互いの声を聞くこともできない。そんな状況であたしはけーちゃんを想い続けていけるのかって。同時に、けーちゃんはあたしだけを想い続けてくれるのかって。一度そう考えちゃったら、告白するのが怖くなって。結局、なにも言い出せなかった」
 圭太は、黙って凛の話に耳を傾ける。
「あたしが引っ越したその年に、けーちゃんのお父さんが亡くなって。あたしは、ますますなにも言えなくなった。だって、つらさにつけこむように告白したってきっとあとで後悔すると思ったから。そのまま時は流れて、結局、高校生になって。その間は手紙やはがき程度のやりとりで、高校に入ってからは年賀状程度。あたしの想いは、ずっとしまっておくつもりだった。なのに、またこの街へ戻ってきた。けーちゃんの住むこの街へ。それと同時に、あたしの中のけーちゃんに対する想いが、日に日に強くなった。一高に入ってけーちゃんと再会したら、今度こそあの時に言えなかったことを言おう、そう思ってた。だけど──」
「僕に彼女がいた」
「うん。昨日それを聞いた時、あたしの中にはふたつの想いがあった。なにかわかる?」
「ううん」
「ひとつは、悔しいって想い。どうしてけーちゃんに彼女ができちゃったのって。でも、もうひとつはそれとは正反対。やっぱりそうだよね、っていうあきらめみたいな想い。あたしがずっと好きだったけーちゃんだから、ほかの人が好きになって、その中にけーちゃんも好きになれる人がいて。だからふたりは恋人同士で。そんなの、当たり前のことでしょ? だから、あたしもそう思った。ただ、本当はそう思っちゃった段階であたしの負けなのかもしれない。でもあたしは、二度と後悔したくないから。あの時みたいに、後悔したくないから。だから、言うの」
 もう一度、真っ直ぐに圭太を見つめた。
 凛は、小さく息を吐き、言った。
「好きです。あなたが大好きです」
 校舎内の雑踏に負けないくらい、凛とした声だった。
「ありがとう、凛ちゃん」
 それに対して圭太は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「凛ちゃんが本音をぶつけてくれて、なおかつ僕のことを好きだと言ってくれて、本当に嬉しいよ。僕も、凛ちゃんのことは好きだから」
「けーちゃん……」
「だけどね、凛ちゃん。今の僕の『好き』っていう感情は、あの頃のままなんだ。あの、凛ちゃんのあとを追いかけていた小学生の頃の。あの頃は、凛ちゃんは僕にとって『姉』にも等しい存在だったから。だから、僕の『好き』っていう感情は、『弟』が『姉』に向ける『姉弟』間の感情なんだ」
「そっか……」
「今のままだと、僕は凛ちゃんを受け入れられない。たとえ受け入れたとしても、それは凛ちゃんが望むような関係にはならない」
「それは、しょうがないね」
「それでも凛ちゃんは、僕のことを好きだと言ってくれる?」
「もちろん。そんなすぐにけーちゃんのことを忘れるだなんてできないし、ここまで育んできた初恋を、簡単に捨てることもできないから」
「だったら、凛ちゃん」
「うん?」
「今は、その想いは受け取れないけど、しばらくしてから、今の凛ちゃんを知ってからもう一度言ってほしい。その時、僕の想いに変化がなければ改めてあきらめてほしい。もし変化があるなら、今度は僕が考えるよ、凛ちゃんのことを。それで、いいかな?」
「あたしはそれで構わないけど、でも、いいの、それで? だって、けーちゃんには彼女がいるのに」
「たぶん、今の僕の本当の姿を知ったら、凛ちゃんでも驚くと思うよ」
「それって、どういう意味?」
「まあ、詳しいことは追々話すけど、柚紀に言わせると、僕は『節操なし』らしいから」
「えっ……?」
 その言葉は圭太には不似合いだと思ったのだろう。凛は、かなり意外そうな顔を見せた。
「どうしようか、凛ちゃん?」
「そんなの……決まってるよ。あたしは、けーちゃんのことが好きなんだから」
 そう言って凛は微笑んだ。
 その笑顔は、再会後、最も綺麗で清々しい笑顔だった。
「ごめんね、けーちゃん。惑わすようなこと言って」
「それは構わないよ。言いたいことが言えない方が、つらいからね」
「ホント、けーちゃんにはかなわないな」
 なにもかもわかっていて、圭太はあえて提案したのである。
 凛も、それに気づいた。だからこそ、今は圭太を信じ、提案を受け入れたのである。
「じゃあ、あたしは先に戻ってるから」
 そう言って凛は一足先に教室に戻った。
「柚紀、聞いてたんだろ?」
 と、圭太は廊下の反対側に声をかけた。
「あはは、やっぱ、バレてた?」
「わかるよ、柚紀の考えそうなことくらい」
 圭太はやれやれと肩をすくめた。
「とりあえず、凛ちゃんにはああ言ったんだけど、柚紀としてはどう思う?」
「それ自体に口を出す権利はないけど、それでも言わせてもらうなら、やっぱり圭太は圭太ってこと。ホント、甘いんだから」
 柚紀は、苦笑しつつも、怒っているような感じはない。
「彼女、ある意味では私の最強の『ライバル』になりそう」
「どうして?」
「だって、圭太の小学生時代を知ってる唯一の人だから。圭太だって彼女のこと、よく知ってるわけだし。それになによりも、彼女、すごく綺麗だから。背も高いし、水泳やってるから体も引き締まってるし。彼女は、私の持ってないものを持ってるから。だから、最強の『ライバル』になるかもって思ったの」
「なるほどね。でも、僕は柚紀なら凛ちゃんと仲良くできると思ってるんだけど」
「まあ、結構似たもの同士だからね。どんなことを考えてるのか、わかるのよね。そうすると、口では文句言いながらもいつも一緒にいる、そんな関係になるのかも」
「なにはともあれ、凛ちゃんのことは、もう少し長い目で見てあげてよ」
「しょうがない。今回も私の海よりも深くて広い心で、特別にそうしてあげるから」
「ありがとう、柚紀」
「ただし、ひとつだけ守って。これはいつも言ってることだけど、どんなことがあっても必ず私のところへ戻ってきて。私には圭太しかいないんだから。いい?」
「大丈夫。それだけはどんなことがあっても守るから。僕にとって一番大切なのは、柚紀なんだから」
「そう思ってくれてるなら、いいよ」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「むしろ、私たちの仲の良さを凛に見せつけてやるんだから」
「あ、あはは……」
 柚紀は、凛のことを『凛』と呼び捨てにした。それはとりもなおさず、凛のことを認めたからにほかならない。
「じゃあ、圭太。教室に戻ろ」
「うん、そうだね」
 
 放課後。
 今年は暦の関係上、新入生の入部届締め切りも早くなった。入学式から三日しかなく、各部活でも勧誘活動は十分ではなかったが、文句を言ったところで暦は変わらないのである。
 吹奏楽部でも、新入生を含めたミーティングが行われていた。
「おはようございます」
 部長である圭太が前に立つ。
「まず最初にいくつか注意点を。昨日、部活見学に来た人は聞いたと思うけど、うちの部ではあいさつは、その日最初に会ったら『おはようございます』、終わる時は『おつかれさまでした』と言うから。特に忘れがちなのが、『おはようございます』。これは、たとえ夜でもそういう風に言うから、よく覚えておいてほしい」
 新入部員ひとりひとりの顔を確かめながら、話を進める。
「活動時間は、放課後は授業が終わってから基本的に六時まで。季節とかなにをやってるかによって多少の差はあるけど。土日祝日も基本的に部活はあって、午前中か午後のどちらか。一日やることは、ほとんどないから。あくまでも部活動でしかないから、なにを置いてでも、というわけじゃないから、大事な用事がある時は連絡さえしてくれれば休むことに差し支えはないから。あと、基本的な練習については、追々教えていくから。じゃあ、次に僕たちのことだね。部活紹介の時に一度見てると思うけど、僕はこの吹奏楽部の部長で高城圭太。担当楽器はトランペット。一応、トランペットのリーダーもやってるから、覚えておいて」
「あたしは副部長の北条綾。担当はクラリネットよ」
「二年の副部長、真辺紗絵です。担当はトランペットです」
「それと、顧問の菊池菜穂子先生。担当が音楽の人は、知ってると思うけど」
 紹介され、菜穂子はにこやかに微笑んだ。
「それじゃあ、早速入部届を集めるから。記載漏れがないか確認して。あと、表でも裏でも構わないけど、中学の時に吹奏楽や音楽をやっていたか、やっていたらなにをやっていた書いて。なにもない人は、やってみたい楽器を書いて前に持ってきて」
 言われた通り、一年は入部届に必要事項を書いて、圭太の元へ持って行く。
「……二十五人、と」
『おお〜っ』
 二、三年から声が上がった。
「パッと見た感じ、経験者が多いみたいだから、期待してもいいみたいだね」
 圭太は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、早速パートごとに練習を開始して。経験者も含めて今年は人数が多いから、ひょっとしたらパートも希望パートにならないかもしれないけど、それだけは了解してほしい。パート分けは、明日までに決めておくから。それじゃあ、解散」
 圭太の言葉で、部員たちは一斉に動き出す。
 圭太たちトランペットパートも場所を移動する。
「とりあえず、今年のペットはこのメンバーになる可能性が高いね」
 そう言って一年のふたり──和美と野中明雄を含めたメンバーを見た。
「それにしても、うちのパートは今年も先生のターゲットになりそうね」
「たぶん、なるだろうね」
「なんたって、三中出身者が三人もいるんだから」
「三中だと、ターゲットになるんですか?」
 そのことを知らない和美が訊ねた。
「三中だから、というわけじゃないんだけどね。たまたま三中出身者は先生の指示に対するレスポンスがいいから、先生もどんどん言ってくるのよ。ほら、ここにその親玉がいるでしょ?」
 圭太の肩を叩き、笑う。
「そういうわけだから、ふたりもがんばって練習しないと、ますます目をつけられるからね」
「夏子も、そうやってふたりを煽らない」
「あはは、ごめんごめん」
 
「それで、圭太。パート分けはどうするつもり?」
 部活が終わって、ほとんどの部員が帰っても、首脳部をはじめ、何人かのパートリーダーが残っていた。
 ピアノの上には入部届が広がっている。
「とりあえず、希望パートに分けてみないと話ははじまらないから」
 経験者を中心に、パートごとに分けていく。
 入れられる人数は決まっているために、希望通りにはならない。それでも、できるだけ希望を通すために頭を悩ます。
「こんな感じかな?」
 二十五人分の入部届を振り分け、改めて確認する。
「さすがに未経験者は、目立つ楽器を希望してるわね」
「それはしょうがないと思うよ。初心者は、楽器すら知らない可能性もあるし」
「まあね」
 今度は、現実的な人数に振り分けていく。その際、希望楽器にできるだけ近い楽器を選ぶことも忘れない。
「クラとパーカスが人数多くなるけど、構わないかな?」
「うちは全然問題ないわよ。やる楽器なんていくらでもあるし」
 そう言って柚紀は、それを認めた。
「綾は?」
「ま、しょうがないでしょ。いざとなれば、誰かにバスクラ専任になってもらってもいいし」
「じゃあ、各パートはこれでいいかな?」
 その場にいるリーダーに確認を取る。
 誰からも特に異論は出ない。
「それじゃあ、明日、これをみんなに伝えるから。初心者の指導は各パートに任せるし、それ以外の一年についても、必要なら指導を行って。とりあえずの目標は、五月中に一年も参加して合奏ができるようになっておきたいから」
 それで話は終わった。
 音楽室を閉め、いつものメンバーで家路に就く。
「パート分けも決まったし、紗絵も朱美も、一年の見本となるようにがんばらないとな」
「圭兄はそうやってすぐ焦らせるんだから」
「でも、ふたりにも後輩ができるわけだから、ちゃんとできないと恥ずかしいだけだと思うけど」
「それはそうかもしれないけど……」
 朱美はちょっとだけ面白くなさそうに嘆息した。
「柚紀はちょっと大変だと思うけど、がんばって」
「ま、指導は私ひとりでやるわけじゃないし、大丈夫でしょ」
 柚紀は、あっけらかんとそう言い放つ。
「トランペットは、お兄ちゃんが指導するの?」
「基本的には夏子に任せるよ。僕は、パートだけじゃなく全体を見なければならないから」
「そっか」
「まあでも、パー練の時は僕がやるから、結果的には僕が指導してるってことになるのかもしれないけどね」
「圭太の指導はとにかく厳しいから、それで一年生が逃げ出さなければいいけどね」
「そんなに厳しいかな?」
「ちゃんとやってればどうってことないだろうけど、適当にしかやってないと、かなりきついかも」
「それは僕のせいじゃないような……」
「そういや、琴絵ちゃんは三中の時、圭太からそうやって指導受けたことはあるの?」
「いえ、個人的にはないです。基本的にはクラの先輩が教えてくれましたから」
「なるほど。でも、圭太なら琴絵ちゃんでも容赦なく指導するわね」
「もちろんそうだよ。練習には私情は挟まないからね」
「というわけだから、琴絵ちゃんも十分気をつけて練習した方がいいよ」
 そう言って柚紀は笑った。
 
 四月九日。
 その日、午前中の部活で、早速一年にパートが発表された。
 基本的には希望を考慮していたために、特に異論は出なかった。
 あとは、パートごとに練習である。
 各パートとも、一年を中心に練習メニューを組んだ。
 初心者のいるパートでは、楽器の説明や吹き方などを教え、一日でも早く楽器を扱えるようにがんばっていた。
 経験者のいるパートでは、コンサートの曲を一年にも渡し、その練習もさせた。
 部全体としては、コンサート二部の曲決めも行われ、いよいよコンサートに向けて本格的に動き出す。
 部活が終わり、家に帰ると、『桜亭』の方に鈴奈が顔を出していた。
 圭太たちが帰ってきたということで、場所を家の方に移した。
「どうですか、学校の先生は?」
「う〜ん、どうなのかな、私にもまだわからないなぁ。今年は担任にはならなかったから、比較的授業に専念できるけど」
「部活の顧問とかはやってないんですか?」
「一応やってるよ。私、高校の時は写真部だったから、二高でも写真部顧問。とはいえ、もともと顧問の先生はいるから、私はそっちでも補佐役でしかないけどね」
「じゃあ、今年一年は、諸々の研修期間みたいなものですね」
「そうなるのかな? とにかく、実際いろいろやってみないと、わからないことが多いからね」
 そう言って鈴奈は微笑んだ。
「鈴奈さんなら、どんなことでも大丈夫だと思いますよ」
「ふふっ、ありがと、圭くん」
「お待たせ」
 そこへ、琴絵がお茶を運んできた。
「はい、鈴奈さん」
「ありがと」
「はい、お兄ちゃん」
 ふたりの前にカップを置く。
「琴絵ちゃんは、高校生活はどう?」
「そうですね、まだはじまったばかりなのでなんとも言えないですけど。ただ、朝とか帰りとかにお兄ちゃんと一緒なのは、嬉しいです」
「ふふっ、琴絵ちゃんらしいわね。だけど、一高は授業進度も速いから、授業もしっかり受けないと、あっという間に大変なことになっちゃうかもね」
「そうならないようにがんばります」
 琴絵は笑顔で頷いた。
「そうそう、圭くん」
「なんですか?」
「同僚の先生に、早速訊かれちゃった。あの写真のこと」
「写真? ああ、あの写真ですか。それで、なんて答えたんですか?」
「えっとね、私の『大切な人』って」
「…………」
 圭太は、思わず眉間を押さえた。
「だって、やっぱり『弟』って説明するのには無理があるから」
「まあ、僕に直接影響は出ないから構わないですけど……って、ちょっと待ってください」
「えっ、なに?」
「その話、まだ同僚の先生にしか話していませんよね?」
「う、うん」
「じゃあ、その話、生徒、特に吹奏楽部の部員には話さないでください。こっちにまで話が流れてきますから」
「あっ、そっか。二高は、一高と一緒に演奏してたんだよね。なるほど、じゃあ、そのあたりは気をつけるよ」
「お願いします」
 自らまいた種とはいえ、いろいろ上手く立ち回らなければならないのは、さすがに大変だった。
「でも、お兄ちゃん」
「うん?」
「考えようによっては、そういう説明の方がいいかもしれないよ」
「どうしてだ?」
「だって、そうすれば鈴奈さんに言い寄ってくる人、いないと思うし」
 琴絵は、ニコニコとそう言う。
「確かにそうかもしれないけど……」
 琴絵の意見はまさにその通りだった。
 圭太にとって鈴奈は特別な存在である。エゴと言われたとしても、誰にも渡したくないと思っている。
「鈴奈さん、綺麗だから、きっといろんな人に言い寄ってこられると思うよ〜」
「…………」
「ふふっ、ありがと、琴絵ちゃん。でも、大丈夫だよ。私はね、圭くんひと筋なんだから。ほかの人なんて、目にも入らないもの」
「ほら、お兄ちゃん。鈴奈さんもそう言ってくれてるんだから」
「……まったく、琴絵はだんだん母さんに似てくる」
「だって、お母さんの娘だもん」
 まったく悪びれた様子もない。
「まあ、その問題は鈴奈さんの思うようにしてください。どう説明しても、文句は言いませんから。あと」
「あと?」
「……いえ、やっぱりいいです」
「んもう、そこでやめちゃうのは反則だよ。最後まで言ってくれないと」
「じゃあ、鈴奈さんにだけ」
 そう言って圭太は、鈴奈の耳元でささやいた。
「ずっと、僕だけの『お姉ちゃん』でいてください」
 それを聞いた鈴奈は、嬉しそうに微笑んだ。
 
 四
 新学期がはじまってそろそろ一週間。
 桜の花もすっかり散り、花びらが道路の片隅に積もっている。
 あれだけにぎやかだった枝は、すっかり淋しくなった。だが、もうすでに新芽が出ていて、あと数週間もすれば青葉に覆われるだろう。
 一年もそろそろ一高という学校を理解しはじめる頃でもある。
 そんな中、あの一件以来柚紀と凛の関係はだいぶ変わっていた。
「ちょっと、柚紀。なに勝手なことしてるのよ」
「勝手なことって、別になにもしてないでしょ?」
 もともと同級生である。腹を割って話して、お互いを理解できれば、気兼ねなく話せる友人となる。
 ふたりもすっかりそんな友人となっていた。
 特に柚紀は、圭太を巡る女性陣の中で、はじめて同い年のライバルが現れたわけである。
 年上を持ち上げたり、年下に気を遣ったり、そういうことがいっさいいらない同級生である。
 今までとは明らかにその態度が違った。
「凛こそ、なによそれ?」
「いいでしょ、そんなの」
 そんなふたりを見て圭太は、いい傾向だと思っていた。
 とはいえ、それはあくまでも自分にとばっちりがこない場合である。このふたりの場合は、ほとんどが圭太にまで被害が及ぶようなことをする。
「圭太。幼なじみだけは選びなさい」
「けーちゃん。彼女はもっとよく選んだ方がいいよ」
 とまあ、仲が良いのか悪いのか、よくわからない関係でもあった。
 ただ、圭太や柚紀と一緒にいることから、凛はすんなりと一高に溶け込むことができた。特に以前は私立進学校だったために、多少変な目で見られていた部分もあった。
 それも、学年はおろか、校内一人気のある圭太とそれに匹敵するくらい人気のある柚紀と一緒にいることで、完全に払拭されていた。
 勉強の方はさすがの一言で、実力テストではいきなりひと桁に食い込んだ。
 部活の方は以前と同じ水泳部に入部し、さっそくその実力を見せつけていた。とはいえ、一高水泳部は男子は強いのだが、女子はそこまでではなかった。凛の入部は、その女子水泳部の活性化にもひと役買いそうだった。
 勉強もできて運動もできて、しかも性格は明るく元気で人当たりもいい。さらに一見すれば高校生に見えない抜群の容姿で、凛はあっという間に一高女子の人気ランキング上位にランキングされた。
 まあ、凛にとってはそのようなことはどうでもよく、見てくれるのは圭太ひとりで十分だし、まわりの男も圭太ひとりで十分というところだった。
 凛は非常に積極的で、あの告白後も圭太にどんどんと迫っていた。
 それに対して柚紀は、新たなライバルの出現に久々に燃えていた。やはり、障害は大きい方が燃えるらしい。
 そんな柚紀と凛のやりとりは、三年一組では日常と化していた。それが三年の、さらに学校の日常と化すのにも、そう時間はかからないかもしれない。
「ねえ、けーちゃん。今度、『桜亭』に行ってもいいかな?」
「それは構わないよ。母さんも凛ちゃんに会いたいって言ってたし」
「そうなんだ。じゃあ、今週末、日曜くらいにでも行くから」
「うん、わかったよ」
「……店に行くついでに、圭太の部屋に上がり込もうって魂胆でしょ?」
「うぐっ、な、なにを根拠にそんなこと言うのよ?」
「あら〜? 微妙に頬のあたりがひくついてるような気がするんだけど」
「き、気のせいよ」
「そう? ま、気のせいでもいいけどね。ああ、そうそう。日曜、私も圭太の家にいると思うから」
「柚紀が?」
「そうよ。悪い?」
「……悪い」
「…………」
「…………」
 バチバチと火花が飛び散る。
「ま、まあまあ、ふたりとも落ち着いて」
 圭太は、肩をすくめながら一応形だけふたりの間に立つ。
 そうしないとどちらも怒るからである。もっとも、間に立って中立を謳ったとしてもあまり意味はないが。
 ある意味では、とても平和な三人だった。
 
「ダメ、全然ダメ。もっとしっかり楽譜を読みなさい」
 その日、吹奏楽部では新学期最初の合奏が行われていた。
 例年通り、新入部員は全員、見学である。
 いつもとは違う菜穂子の厳しさと、合奏中の緊張感に戸惑いを見せる新入部員もいる。
「じゃあ、Gから」
 指示に従って二、三年は演奏を続ける。
 合奏は、それでもいつもより早めに終わった。
「いい? もう少し気合いを入れて練習しないと、とてもコンサートの曲、全部なんてできないわよ。特に二年生。去年までとは立場が違うんだから、もっと意識を変えて。やる気がないなら、辞めてもらって構わないから。いいわね?」
『はいっ』
「それで、一年。これがうちの部の合奏よ。これを厳しいと見るか当然と見るかは、あなたたちひとりひとり違うと思うけど。あなたたちも合奏に入れるくらいの実力になったら、今と同じようなことをやるし、言われると思うから。だからこそ、普段の練習もしっかりやるように。全力を出してがんばった者にだけ、最高の結果がついてくるんだから。いいわね?」
『はいっ』
「それじゃあ、今日の合奏はこれで終わり。次の合奏までに今日指摘した部分は直しておくこと」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 合奏が終わると、一気に緊張感が緩んだ。
「ああ、そうそう。一年にひとつ言い忘れていたわ。今年はGWに一年だけの合奏を考えているから。特別、曲をやろうとかそういうのじゃなく、私自身があなたたちの実力を知るための合奏だと思ってもらって構わないわ。詳しいことは今月末にでも話すから、一応覚えておいて」
 一年の間に、なんとも言えない雰囲気が漂った。
 それから終わりのミーティングをして、部活は終わった。
「一年だけの合奏かぁ……」
 帰り道、琴絵は深いため息をついた。
「どんなことするんだろ……?」
「たぶん、ロングトーンやタンギング、簡単な曲だろうね。実力を見るって言ってたし」
「去年まではそんなことしてたの?」
「去年も一昨年もなかったよ。その前は聞いてないからわからないけど」
「ううぅ、どうして今年だけあるんだろ」
「それは、人数が多いからじゃないかな。各パートを見ていたら時間がかかるし。なら、合奏で全員を見た方が早いし」
「それはそうかもしれないけど……」
 琴絵のように、三中で佳奈子の厳しい指導を受けてきていても、やはりそういうのは歓迎したくないらしい。
「まあ、あきらめてしっかり練習してくれってことだよ」
 圭太はそう言って琴絵の頭を撫でた。
「はうぅ〜、がんばって練習しないと……」
 
 四月十六日。
 ぽかぽかととても穏やかな陽差しが、春を感じさせるその日。一高吹奏楽部では、恒例の新入部員歓迎会が行われる。
 午前中に部活を終え、午後から市立公園で歓迎会である。
 今年は例年より人数が多いため、買い出し部隊にも女子が参加していた。とはいえ、主力が男子であることに変わりはない。
 残りの女子部員は公園で場所の確保。ブルーシートを広げ、準備を進める。
 買い出し部隊が戻ってきて食べ物や飲み物がまわると、歓迎会のはじまりである。
「全員、行き渡った?」
 部員を前に、圭太が確認する。
「それじゃあ、一高吹奏楽部、新入部員歓迎会をはじめます」
「待ってましたっ」
「まず最初に、僕から。新入部員のみんな、一高の数ある部活の中からこの吹奏楽部を選んでくれてありがとう。今年は二十五人という例年以上の人数で、部全体でも六十六人という大所帯となった。予想より多くて、こちらとしては嬉しい悲鳴を上げたいところかな。これからは部員全員で目標にむかって全力でがんばるのみ。さしあたっては、七月のコンサートを成功させること。ここで勢いをつけて、今年もコンクール全国大会出場、そして三年連続金賞を目指す。そのためには、新入部員のみんなの力も必要となるから、しっかり練習して、一日も早く戦力となってほしい。とまあ、堅い話はこのくらいにして」
 圭太は、二、三年に合図を出す。
 それに従い、二、三年は一斉に立ち上がる。一年はなにが起こったかわからない。
「ようこそ、一高吹奏楽部へっ!」
『ようこそっ!』
 公園に、歓迎の言葉が響いた。
「じゃあ、あとはもう好きにやって構わないよ」
 あとは、飲んで食べて騒いで。
 基本的にパートごとに座っているため、最初はパート内で騒いでいる。
「ほらほら、今日は一年が主役なんだから、もっと飲んで食べてよ」
 圭太は、和美や明雄にどんどん勧める。
「えっと、とりあえずこれだけあれば十分なんですけど……」
「遠慮しない」
「は、はい」
 しばらくすると、場所を自由に移動しはじめ、騒ぎは加速度的に大きくなる。
「先輩」
「ん?」
 圭太が振り返ると、ペットボトルを携えた琴絵がいた。
「どうした?」
「先輩のことだから、自分を置いてみんなのことばかり構ってると思って。はい」
 そう言って琴絵は、圭太のコップにジュースを注いだ。
「会費はみんな平等に払ってるんだから、飲まないと損だよ」
「それはそうだけど。ま、いいか」
 圭太は、素直にそのジュースを飲んだ。
「圭太。そろそろ準備、いい?」
 そこへ、綾がやって来た。
「ああ、うん、いつでもいいよ」
「じゃ、そろそろはじめましょ」
「はじめる? なにを?」
「歓迎会の本番を」
 そう言って圭太は笑った。
「はい、注目」
 手を叩き、綾が前に立った。
「これから、歓迎会恒例のレクリエーションタイムをはじめるわよ」
「いよっ、待ってましたっ」
「今年は、いろいろなものを用意したわ。それがなにかは、その都度説明するから、早速最初のをはじめましょ。最初は、ものまねジャンケンよ。簡単に言えば、あっちむいてほいをいじったやつ。ジャンケンで勝った相手がやったことを、どんなことでも必ず真似なくちゃダメ。できなかったら負けで、できたらまたジャンケン。できるだけ相手に真似されにくいことをやれば、簡単に勝てるわ。で、これは一年のみの参加。もちろん、不参加は認めないわ。じゃあ、一年は全員前に出てきて」
 言われるまま一年が前に出てくる。
「そこで横一列に並ぶ。順番はどうでもいいわ」
 二十五人がずらっと並ぶ。
「じゃあ、奇数番目に並んでる人の右隣が最初の対戦相手。で、二十五人だからひとり余ってるでしょ? その相手は、部長である圭太がやるから」
 圭太が列の一番端に並んだ。
「それじゃあ、お互い向き合って。いくわよ? 最初はグー、ジャンケン、ポンっ」
 ジャンケンで勝ったペアは、早速勝負開始。
 歌手や俳優のものまね、歌を歌う者、変な格好をする者。
 いろいろいた。
 判定は二、三年が行う。
「あはは、それ違うって」
「おっ、いい勝負」
 勝ち残りで、最後のふたりになるまで行う。
 ちなみに、どうやっても奇数人になるので、その都度圭太が入っていた。
「はい、最初の優勝者は、サックスの橋本千鶴に決定。拍手〜」
 拍手が起こる。
「千鶴には、おみやげがあるわ」
「おみやげ、ですか?」
「学食のA定食券三枚」
「せこいぞ〜」
「これで三日間は食費が浮くわよ」
『おみやげ』の食券が渡された。
「じゃあ、次──」
 
 早食い&大食いバトル、記憶力テスト、音感テスト……
 とにかく今回はバリエーション豊かだった。
 各レクリエーションで優勝者を決め、その優勝者に『おみやげ』を渡す。それが続いた。
「じゃあ、最後。これは全員参加だから。もちろん、三年もね」
 長かったレクリエーションタイムもようやく終了となる。
「最後は、クイズよ」
「クイズ?」
「ええ、この北条綾が一週間かけて調べ上げた超難問クイズ。答えるのは無理だから、○×にしたけどね。というわけで、全員起立」
 全員をその場に立たせる。
「問題の関係上、あたしと圭太は不参加だから」
「なんで圭太が不参加なの?」
「問題提供者だから」
 簡潔な答えだった。
「あたしから見て右側が○、左側が×。シンキングタイムは十秒。以降の移動はいっさい認めないから。なお、優勝者には『素敵』なものを用意してるから。じゃあ、早速いくわよ」
 どこから取り出したのか、問題を取り出す。
「第一問。日本の国旗はもともと日章旗ではなかった?」
 部員たちが一斉に動き出す。
 時計で時間を計り、十秒。
「そこまで。答えは……○。もともと日本には国旗自体なかったから。日章旗は明治維新の頃にできたもの。じゃあ、×にいる連中は即刻退場」
 ×の部員は、そう多くなかった。
「第二問──」
 
「第二十五問。菜穂子先生の娘さんは、今年で五歳である?」
 問題は非常に多岐にわたっていた。
 一般常識、学校のテストの問題、吹奏楽関連の問題、部関連の問題。
 答えがわからずとも、確率は二分の一である。
 それでもそこまでに大多数の部員は退場を命じられていた。
「そこまで。答えは……×。娘さんは、今年で四歳。○にいる連中は即刻退場」
 ぱらぱらと部員が退場する。
「ふむふむ、残るはふたりか」
 残ったのは、三年からフルートのめぐみ、二年からクラの遥となった。
「じゃあ、次が最後になるかもしれない、第二十六問。1+1=1である?」
 ふたりは、めぐみが○、遥が×に移動した。
「これで優勝が決まるわね。答えは……×。単純に数字だけの問題なら、2になるのわけだから。めぐみはちょっと深読みしすぎ」
「まったく、最後の最後でそういう問題出すんだから」
「というわけで、クイズの優勝者は、遥に決定。拍手〜」
 拍手が起こる。
「では、優勝者である遥には、『素敵』なものをプレゼントするわね」
 綾は、『プレゼント』と書かれた封筒を渡した。
「中身は豪華よ。まず、学食B定食券五枚。夏の合宿での特別審査員権。そして、部員全員を対象とし、半日なんでも言うことを聞かせられる権。ただし、それは部活中に限り、公序良俗に反することは不可だけど。ようは、ムカツク先輩をアゴで使うことも可能だっていう権利よ。どう、豪華でしょ?」
「え、ええ、豪華ですね」
 遥は、曖昧に頷いた。
「それじゃあ、これにてレクリエーションタイムは終了。あとは、時間まで好きにしていいから」
 ようやくレクリエーションタイムが終わった。
「ねえ、圭太。あの賞品、綾が考えたの?」
 圭太が戻ってくると、早速柚紀が近づいてきて真相を訊ねた。
「まあね。僕はあくまでも問題を提供しただけだから」
「ふ〜ん、なるほどね。でも、あの命令権はほしかったなぁ」
「どうして?」
「だって、そうしたら部活中も圭太を独占できるじゃない」
「……そういうことか」
「まあ、優勝者が遥でよかったかな。これが紗絵ちゃんや朱美ちゃん、詩織に琴絵ちゃんだったら、間違いなく圭太絡みのことだったろうし」
「だけど、僕にそれを使っても、できることは限られてると思うけど。部活中にしか使えないわけだし」
「そこはそれよ。ようは、圭太と一緒にいられればいいんだから」
「なるほど」
 それから少しして、歓迎会は幕を閉じた。
 
 五
 四月十七日。
 日曜日である。前日ほどいい天気ではなかったが、気温は高めで、春の装いで出かけられる日だった。
 河村家では、凛が鏡の前で服を選んでいた。
「う〜ん、これ……は、いまいちか」
 この時期に着られそうな服を全部引っ張り出し、片っ端からあてている。
 とはいえ、しっくりくるものはなさそうである。
「ああん、もう、なんでもっとちゃんとしたの持ってないんだろ」
 全部自分で選んで買っておきながら、自分勝手な言い分ではある。それでも、恋する乙女にとってはそういうことも重要なのである。
 凛が『桜亭』に行くのは、午後になってからである。午前中は圭太が部活なので、それは致し方がない。
 水泳部はこの時期はオフなので、平日にしっかりトレーニングする程度である。もちろん、個人的にスイミングジムなどで練習するのはやぶさかではない。
 インターハイレベルの凛としてもそれは望むところなのだが、とりあえずは部活よりも恋を優先したいらしい。
「……やっぱり、これかな?」
 そう言って手に取ったのは、背の高い凛にはとても似合っているジーンズとシャツだった。足が長いので、ジーンズを穿くとよりそう見える。
 ただ、そうすると綺麗とかカワイイとか、そういう感想からは離れてしまうために、敬遠したかったのだが。
「しょうがない」
 結局、それにすることになった。
「あとは……」
 時計を見て、小さく頷いた。
 
「圭太」
 部活が終わると、柚紀はいつもより少しだけ真剣な表情で圭太に声をかけた。
「ん、どうかした?」
「どうかしたって、今日でしょ、凛が来るの?」
「ん、そうだね、確か。午後から来るって言ってたけど」
「それを約束した日にも言ったと思うけど、私も行くから。いい?」
「別に構わないよ。断る理由もないし」
 圭太はこともなげにそう言う。
「なんか、余裕だね、圭太」
「余裕? どういう意味?」
「だってさ、凛は圭太のことが好きなんだよ? で、私はそんな凛と圭太の仲を邪魔しようと思ってる。なのに圭太は全然動じてない。だからなの」
 少しだけ面白くなさそうである。
 とはいえ、面白ければそれはそれで大変なのだが。
「それって、凛のことはどうとも思ってないってこと?」
「そういうわけじゃないけど……まあ、その話はまたあとにしよう。とりあえず音楽室を閉めなくちゃいけないから」
 圭太はとりあえず仕事を優先した。
 音楽室を閉め、いつものメンバーで家路に就く。
 帰り道にも柚紀は圭太に訊ねたが、適当にはぐらかすだけで、真相は語らなかった。
 家に着くと、まずは凛が来ているか確認した。
 しかして凛は、まだ来ていなかった。
 そういうわけで圭太たちは、とりあえず昼食をとった。
 食事を終えると、琴絵と朱美は揃って出かけた。どうやら、紗絵、詩織と一緒に買い物に行くらしい。
 まあ、そこには家にいてもあまり構ってもらえないから、という心理が働いているのだろうが。
 というわけで、ふたりだけとなった。
「ねえ、圭太。答えてよ。凛のこと、どう思ってるの?」
「前に聞いてると思うけど、今の僕の凛ちゃんに対する感情は、やっぱり『姉』に対する『弟』のものだよ。もちろん、好きだよ。嫌いになる理由もないし」
「それはまあ、わかるけど。でも、ホントにそれだけなの? 特別な感情、持ってたりしない?」
「特別な感情、ねぇ……」
 圭太はアゴに手を当て、考える。
「凛ちゃんは綺麗だし、惹かれるところはたくさんあるけど、でも、まだそれ以上にはなってないかな。もちろん、それを特別な感情だって言ってしまえばそれまでだけど」
「……むぅ」
 柚紀は、面白くなさそうである。
「柚紀はさ、どうあってほしいの? なんか、僕が凛ちゃんに特別な感情を持っていてほしい、みたいに感じるんだけど」
「それはないけど。たださ、今は凛とは友達になったわけじゃない? とすると、少しは凛のことを考えてもいいと思って」
「そういうことか。柚紀らしいね、そういうの」
 そう言って圭太は笑った。
「七年だっけ? その間ずっと圭太のことだけ想い続けてきたわけでしょ? それって、やっぱり並大抵のことじゃないし。同じ女で、同じ人を好きになって、本気で人を愛することの大変さも知ってるから、多少は同情的なのかもしれない」
「想い続けてたのは、なにも凛ちゃんだけじゃないよ。琴絵だって朱美だってそうだし。まあ、琴絵はちょっと意味合いが違うかもしれないけど。朱美なんか、今僕に関わってる中では一番だよ、想い続けてた期間は」
「それは、ね。でも、朱美ちゃんと凛の違いは、やっぱり会おうと思えば会えたか、ずっと会えなかったかだと思うから」
 柚紀は、少しだけ俯いた。
「会えない相手を想い続けるのって、つらいと思うんだ。たとえ再会できたとしても、空白の時間を埋めなくちゃいけないし。不安で不安で、押し潰されちゃうと思う。私ならそれに、耐えられるかどうかわからない。そう思うと余計に……」
 そう言って柚紀は自分の体を掻き抱いた。
「じゃあ、どうあればいいの?」
「だから、わからないの。これ以上圭太と関係を保つ人が増えるのはイヤ。だけど、凛のことはそういうのを抜きにしても、なんとかしてあげたいって思う」
「柚紀は悩みすぎだよ」
「圭太……」
「僕と凛ちゃんが再会してまだ十日しか経ってないんだよ? 僕も凛ちゃんもまだまだ手探り状態だよ。そこを抜け出した時に改めて考えればいいんだ。僕だって凛ちゃんだって、昔の幻想を追いかけたいわけじゃないし。今の僕を好きになってくれるなら、それはそれで嬉しい。僕だって今の凛ちゃんを好きになるかもしれない。そして、もっともっと凛ちゃんを知りたいと思うかもしれない。だけど、それはまだ先のことだし。その時に考えるというのじゃ、ダメかな?」
 圭太は、凛に言ったのとほぼ同じことを柚紀にも言った。
 柚紀はそれを聞き、一瞬なにか言いかけた。
「あとね、今の柚紀の言動を凛ちゃんが知ったら、どう思うかな? たぶん、同情されたって思うよね。それって、カッコワルイと思う。それに、それが柚紀だったらなおさらだと思うよ。柚紀も言ってたけど、凛ちゃんにとって柚紀は最強の『ライバル』なんだよ? その柚紀から同情されたとあっては、凛ちゃんだって立つ瀬がないよ」
「……そうね。確かに圭太の言う通りだわ」
 柚紀は、パッと顔を上げた。
「いいわ。今の発言全部忘れて。私もどうかしてた」
「そうだね」
「とりあえずは、ふたりのことはふたりに任せる。私は口出さない」
「ありがとう」
「ただし、それは決して凛に対してなにをしてもいいってことじゃないからね」
「わかってるよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 それから少しして、凛が『桜亭』にやって来た。
「小母さん、ご無沙汰していました」
「まあ、すっかり大人びちゃって。見違えちゃったわね。もう七年になるのかしら」
「はい」
 凛の訪問に琴美は昔を懐かしんでいる。
「こっちへは、またお仕事の都合で?」
「はい。父がこっちの支社長になったので。ほぼ栄転みたいなものですね」
「そうなの。じゃあ、今度はずっとここにいるの?」
「おそらくは。今は賃貸マンションですけど、そのうち家でも買おうかと話していますから」
「そう。でも、今度の家はこの近くじゃないのよね?」
「このあたりはマンションが少なくて。両親とも本当はこの辺にしたかったみたいなんですけど、仕方なく」
「確かに、この辺は一戸建ての方が多いから」
「それでも、ここまでは自転車で十五分もかかりませんから、そんなに遠くありません」
「それじゃあ、また昔みたいに遊びに来られるわね」
「はい」
 そんなふたりの様子を、ともみと祥子は複雑な表情で見ていた。
「ふ〜ん、あの子が圭太の幼なじみか」
「綺麗な子だね」
 微妙にトゲが含まれているあたりに、心中を察することができる。というより、それは女の勘というやつだろう。
「あんな幼なじみがいるとは知らなかったわ」
「また、ライバルが増えるの?」
 ふたりの言葉に、圭太はただ曖昧に微笑むしかなかった。
 だいたい琴美と話し終わったところで、凛はようやく圭太の元へやって来た。
「ごめん、凛ちゃん。母さん、久しぶりで話が長くなって」
「ううん、気にしてないから。それに、あたしも小母さんと話ができてよかったし」
 そう言って凛は微笑む。
「じゃあ、凛ちゃん。今度は家の方に上がってよ」
「うん、そうさせてもらうよ」
 圭太は凛を連れて家の方へ。
「あんまり、変わってないね」
 リビングを見回し、凛は言った。
「まあね。変える必要性がなかった、ということもあるけど」
「そうだ。ひとつ、いいかな?」
「うん?」
「小父さんに、挨拶したいの」
 凛は、真剣な表情でそう言った。
 
 凛は、仏壇の前で真剣に拝んでいた。
 今、圭太と関係を保っている中で、祐太のことを知っているのは、妹の琴絵、従妹の朱美、そして幼なじみの凛しかいないのである。
 それを考えると、圭太は複雑な想いに囚われた。
 自分が一番大事に想っている柚紀は祐太のことを知らない。話に聞いて、写真でどんな人か知っている程度である。
 だが、凛は打てば響くようにちゃんとした記憶として祐太のことを知っている。
「ありがと、けーちゃん」
 ボーっとしていると、凛が振り返っていた。
「小父さん、あたしのこと、覚えてるかな?」
「覚えてるよ。父さん、記憶力はよかったから。それに、あの頃凛ちゃん、よくうちに遊びに来てたし」
「そうだね」
 凛は小さく頷いた。
「じゃあ、僕の部屋に行こうか」
「うん」
 ふたりは、二階の圭太の部屋に移動する。
「遅い」
 部屋の中では、柚紀がつまらなそうにふてくされていた。
「別に、柚紀にあわせて行動してるわけじゃないからね」
「凛は、一言も二言も多いのよ」
 部屋に入っていきなりこれである。
「まあまあ、ふたりとも。凛ちゃんも、とりあえず座ってよ」
 凛は、柚紀のちょうど正反対に座った。
 自然と、圭太はそのふたりの真ん中あたりである。もちろん、テーブルを挟んでであるが。
「ん?」
 と、凛の顔を見て柚紀が首を傾げた。
「な、なによ?」
「ふ〜ん、凛もお化粧するんだ」
 確かに、よく見ると薄化粧だが、口紅も引かれていた。
「い、いいでしょ? あたしだって、今年で十八なんだから。お化粧のひとつくらいするわよ」
「別に悪いだなんて言ってないじゃない。ただ、気合いが入ってるなって、そう思っただけだから」
 そう言って柚紀は意味深な笑みを浮かべた。
 凛はそれを無視する。
「そういえば、けーちゃん」
「うん?」
「琴絵ちゃんは?」
「ああ、うん、琴絵なら出かけたよ。凛ちゃんが来るって知ってはいたんだけど。たぶん、夕方までには帰ってくるから、それまでうちにいれば会えるよ」
「そっか」
「……ねえ、凛」
「なによ?」
「どうして圭太のこと、『けーちゃん』て呼ぶわけ?」
「どうしてって、昔からずっとそう呼んできたからよ。あたしにとっては、昔も今も、これからもけーちゃんはずっとけーちゃんだから」
 凛は、まったく臆することなくそう説明した。
「でも、さすがに高校三年にもなって、それはどうかと思わない?」
「別に、全然」
「うぐっ……」
 即答である。
「悔しかったら、柚紀もけーちゃんのこと、愛称で呼べば?」
「私はいいの。呼び捨てにしてることが、愛称みたいなものだから。それに、この呼び方だっていつまでできるかわからないし」
「どうして?」
「だって、ほら」
 柚紀は、左手の指輪を見せた。
「一緒になったら、しばらくはいいかもしれないけど、そのうち変わるかなって」
「…………」
「そういうことなの。わかった?」
 勝ち誇った顔でそう言う。
 それを言われては、凛でもなにも言えない。
「ふたりとも、もう少し穏やかにいこうよ。どうも刺々しくて、見ているこっちが冷や冷やするよ」
 さすがに圭太が割って入った。
「ふう、しょうがない。圭太にそう言われたら、表面上は仲良くしないとね」
「そうね。あくまでも表面上はね」
 にこやかに笑うふたり。
「まったく……」
 圭太は苦笑するしかなかった。
「そういえば、凛ちゃん」
「うん?」
「蘭さんは、こっちには戻ってきてないの?」
「お姉ちゃん? うん、戻ってきてない。さすがに、大学は向こうだし」
「凛て、お姉さんいたんだ」
「まあね。三つ上で、この春から大学三年」
「うちと同じか」
「柚紀もいるの?」
「うん。うちもお姉ちゃんがいるの」
「そうなると、ふたりは結構似た家庭環境かもね」
 圭太は、そう言って笑った。
「蘭さんも咲紀さんも、結構強烈な個性の持ち主だし」
 柚紀と凛は、無言で顔を見合わせた。
 苦労している妹の悲哀とでもいうのだろうか、それを感じ取っていた。
「一度くらい蘭さんにも挨拶したかったけど、しょうがないね」
「お姉ちゃんなら、こっちがなにも言わなくてもふらっと戻ってくるよ。何日かこっちにいそうだったら、けーちゃんにも連絡してあげるから」
「お願いするよ」
 それから三人は、特に問題もなく、比較的穏やかに話をしていた。
 もちろん、すぐに柚紀と凛が一触即発の状況になっていたが。
 夕方、琴絵と朱美が帰ってきた。
「琴絵ちゃん、久しぶり」
「うわ〜、凛お姉ちゃん、見違えちゃった〜」
「ふふっ、ありがと」
 久しぶりの再会に、ふたりとも笑顔である。
「凛ちゃん。こっちが従妹の朱美。今、うちに居候してるんだ」
「吉沢朱美です」
「あたしは、河村凛。よろしくね」
「あ、はい」
 朱美は、慌てて頭を下げた。
「ん〜、やっぱり従姉妹同士ってことで、琴絵ちゃんも朱美ちゃんも、どことなく似てるよね」
 ふたりを見比べ、凛はそう言った。
 それから少しして、柚紀も凛も家に帰ることになった。
「柚紀は、よくけーちゃんの部屋に行くの?」
「ん、まあ、その時次第かな。本当は、毎日でも一緒にいたいんだけど。ま、でも、私は圭太の部屋に行くのも、泊まるのも、なにも言われないから。親の了解はもらってるし」
「そう、なんだ」
「とはいえ、家の方にも帰らないといろいろ言われるから、しょっちゅうってわけじゃないんだけどね」
 柚紀はそう言って苦笑した。
 大通りのバス停で、柚紀はバスに乗る。
「じゃあ、圭太、凛。また、明日」
「うん、また明日」
「じゃあね」
 低いエンジン音を残し、バスは走り去った。
「じゃあ、凛ちゃん。行こうか」
「うん」
 ふたりは、歩き出した。
「ねえ、けーちゃん」
「うん?」
「あたしと柚紀との差って、なんなのかな?」
「凛ちゃんと柚紀の差?」
「うん」
 凛は、小さく頷いた。
「ん〜、取り立ててないと思うよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。僕にとっては、ふたりは河村凛であり、笹峰柚紀だからね。優劣をつけたりはしないよ」
「でも、差があるから、けーちゃんは柚紀を選んだんでしょ?」
「違うよ。柚紀と凛ちゃんとの差はないよ。差はないけど、僕にとって必要だと思って一緒にいたいと思ったのが柚紀だったから。それに、これを言うと凛ちゃんには不利だと思うけど、その時には凛ちゃんはいなかったから」
「それって、純粋に柚紀という人間を見て決めたってこと?」
「そうなるね」
「そっか……」
 凛は、なんとも言えない表情で俯いた。
「凛ちゃん」
「ん?」
「これは柚紀には黙っていてほしいんだけど」
「なに?」
「柚紀ね、凛ちゃんのこと、すごく気にかけてた」
「柚紀が?」
「うん。凛ちゃんが僕のことをどう思ってるかももちろん理解してるし、ずっとその想いを持ち続けてきたことも理解してるから」
「それって、同情?」
「かもしれない。でもね、悪い意味での同情ではないよ。柚紀、言ってたから。ずっと想い続けるのって大変だし、その想いは並大抵のものじゃないって」
「…………」
「柚紀はね、口ではいろいろ言うけど、本当に凛ちゃんのこと、認めてるから。だから、凛ちゃんもあまり柚紀と比べたりしない方がいいよ」
 圭太は、穏やかな口調でそう言った。
「それは、わかるけど。でも、あたしは、柚紀に勝てないとけーちゃんの隣にいられないから。確かにあたしは待つって言った。でもね、本当は今すぐにでもけーちゃんと想いを通わせたいの。だから……」
 凛は、真っ直ぐな瞳で圭太を見つめた。
「凛ちゃん……」
「けーちゃん……」
 すっと目を閉じる。
 圭太は、一瞬だけ躊躇い、凛の肩に手を置いた。
 そして──
「ん……」
 触れるだけの、キスをした。
「大好き、けーちゃん……」
 
 六
 もうすぐGWである。
 今年は暦の関係で、飛び石となっている。しかも、一高は五月一日が開校記念日なのだが、あいにくと日曜日だった。
 とはいえ、二十九、三十、一日の三連休、三、四、五日の三連休、七、八日の連休と休み自体は多かった。
 それでも一高は県立高校である。休みは、暦通りである。
 そんなこともあり、学校内でもどこかへ行くという話はあまり出ていなかった。もっとも、三年はそろそろ模擬試験がはじまってくる時期にもなる。そうすると、遊びほうけている余裕はなかった。
 そんなGWを前にして、圭太はGW中の予定を立てるのに右往左往していた。
 とりあえず、五月一日は開校記念日ということで部活も休み。丸一日時間があるので、去年同様、柚紀との時間に当てることになった。
 休み中は、どの日も午前中に部活がある。
 デートなりなんなりするのは、やはり午後ということになる。
 昼休み。
 圭太が図書室から教室へと歩いていると、前から二年トリオが歩いてきた。
「先輩」
 最初に声をかけたのは、紗絵だった。
「やあ。三人揃ってどこへ行くんだい?」
「図書室に行こうと思ってたんだけど」
「図書室か。今日は比較的空いてたよ」
「先輩も、図書室に用があったんですか?」
「借りてた本を返しただけだよ。三人は?」
「もうすぐ修学旅行じゃないですか。それで、沖縄のことをもう少し調べておきたいと思って」
「なるほど。確かに、あらかじめ知ってるのとそうでないのとでは、楽しみ方も変わってくるからね」
 圭太は大きく頷いた。
「じゃあ、邪魔しちゃ悪いから、僕は行くよ」
「あっ、圭兄」
「うん?」
「教室に戻る前に、時間ある?」
 朱美が圭太を呼び止めた。
「時間? まあ、あるけど」
 頭の片隅で柚紀と凛が一悶着起こしてないか、心配しながらも頷いた。
「じゃあさ、ちょっとつきあってよ。去年実際に行った人の意見も聞いてみたいから」
 圭太は、三人に連れられ、図書室に戻った。
 開架図書コーナーから沖縄関係の本を数冊選んで、テーブルに陣取った。
「先輩は、自由行動にはどこへ行ったんですか?」
「国際通りから平和通り、公設市場とか、まあ、那覇市内中心部をぐるぐると」
「ん〜と、このあたりか」
 地図の載っている本を広げる。
「いろんな店があるから、一日でも楽しめると思うよ」
「去年は、柚紀先輩とまわったんですよね?」
「そうだよ」
「どこに行こうとか、決めてたんですか?」
「ううん。適当にぶらぶらと。もちろん、どのあたりになにがあるかは見て行ったよ。だけど、それもおおざっぱにだし」
「なるほど〜」
 三人は圭太の話に耳を傾けつつ、本にも目を落としている。
「向こうでは、三人でまわるの?」
「ううん。うちの部の二年女子の大半と。大勢の方が楽しそうだし」
「高校時代にたった一回の修学旅行ですから」
「目一杯楽しもうってことになったんです」
「そうだね。その方がいいかもしれないね」
「ただね、圭兄」
「うん?」
「そこに圭兄がいればもう文句なしだったんだけどね」
「それは無茶な話だよ。学年が違うんだから」
 圭太はそう言って苦笑した。
「まあね。だから、それを抜かした最善の方法を選んだの」
「先輩。向こうに行ったら、これだけはしておいた方がいいとか、ここだけは見ておいた方がいいとか、そういうのありますか?」
「ん〜、改めて言われるとなかなか困るけど。そうだね、沖縄という日本とアメリカと琉球の文化が混ざり合った場所を、思い切り堪能するのがいいと思うよ。人、文化、食べ物、すべてがこっちとは異質だから」
「沖縄を堪能、ですか」
「それはようするに、あまり難しいことを考えずに、見るもの聞くもの、すべてを素直に受け入れろ、ということですか?」
「それがいいかもね。なにをしなくちゃいけないわけでもないし、どこに行かなくちゃいけないわけでもない。だからこそ、すべてを自然に受け入れると本来の姿がわかるかもしれないしね」
「なるほど、よくわかりました」
 三人はなるほどと頷いた。
 しばし沖縄の本を見ながら、ここへ行くとか、ここはやめようとか、話に花を咲かせる。
 それから図書室を出た四人は、教室へと戻る。
 その途中。
「そういえば、先輩」
「うん?」
「GWの予定は決まってますか?」
 GWという単語に、ほかのふたりも敏感に反応した。
「まだ、特には決まってないよ。基本的にGWは部活もあるし」
『…………』
 三人の顔が同じように輝いた。
「先輩、デートしましょう」
「先輩、私とつきあってください」
「圭兄、デートしよ、デート」
 三人は、ほぼ同時にそう言った。
 圭太もそれを予想してたのか、特に驚いた様子もない。
「う〜ん、デートするのは構わないんだけど」
「けど?」
「GW中、二日間はもう決まってるんだ」
「二日間?」
「まあ、正確に言えば、一日はちゃんと約束して、もう一日はこれから約束する、というところなんだけど」
「それって、ひとつは柚紀先輩ですよね?」
「うん」
「もうひとつ? 誰?」
 三人は首を傾げる。
「祥子先輩だよ」
「あ、なるほど……」
「一日は先輩の側にいたいと思って。もっとも、それもまだ約束してないけど」
「先輩が断るなんてあり得ません」
「まあ、そういうわけだから、そのあたりを考慮してくれると助かるよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「作戦タ〜イム」
 朱美はそう言ってふたりを圭太から少し引き離した。
「なによ、朱美?」
「作戦て?」
「圭兄がわざわざあんなこと言うってことは、GWのすべてを費やしたくはないってことよ。今圭兄と関係してるのは、凛先輩も含めて十人。だけど、休みは八日間。そのうち二日はすでに決定済み。人数は八人。期間は六日。これがどういうことかわかる?」
「普通に考えれば、ふたり、余る」
「そういうこと。で、さらに考えると普段あまり会えていない鈴奈さんや幸江先輩は優先すると思うのよ」
「まあ、それはね」
「となると、あぶれる可能性が一番高いのって、私たち三人の可能性が高いと思わない?」
 紗絵と詩織は顔を見合わせた。
「まあ、あまり認めたくはないけど」
「それは言えてるかも」
「そこで提案。私たちはGW直後に修学旅行もあるし、それを理由にして、三人で圭兄とデートするっていうのはどう?」
「三人で?」
「デート?」
「そ。それなら、残りのGWを上手く使えるだろうし」
「そりゃ、デートできないよりはその方がいいだろうけど」
「さすがに三人だと、メリットが薄れそう」
 朱美の提案に、ふたりは難色を示した。
「じゃあ、どうするの? ここで強引に決めちゃう? それならそれでもいいけどね」
 そこまで言われると、さすがに無理を押し通そうとは思わないふたりでもあった。
 デートはしたい。だけど、圭太に迷惑がかかるようなことは絶対にしたくない。
 一概に天秤にかけるわけにはいかないが、それでもかけるなら、きっと後者の方が優先されるだろう。
「仮に私たちはそれでいいとして、先輩はいいって言うと思う?」
「圭兄なら大丈夫。少なくとも、私と紗絵との三人でのデートはしてるから。ね、紗絵」
「それは、そうだけど」
「朱美は、いったいなにを企んでるの? 先輩のことを考えれば確かにそれがいいのかもしれないけど、私たちがそれぞれ一日ずつデートしちゃいけないわけでもないのに」
「別に企んでなんかないよ。ただ、限られた時間を有効に使うにはどうしたらいいか、それを考えただけ」
 そう言って朱美は微笑んだ。
「三人とも、そろそろ決まった? もう昼休みも残り少ないんだけど」
 と、圭太が声をかけてきた。
「あっ、うん、あと少しだけ待って。もうまとまるから」
 朱美は慌てて振り返った。
「で、どうするの?」
「ん〜、私としては、できれば単独がいいけど……」
 そう主張するのは紗絵。
「詩織は?」
「私は……まあ、どちらでも構わないかな。みんなで、というのもそれはそれで楽しいだろうし」
「じゃあ、多数決で、三人で、ということでいい?」
「はあ、しょうがない。今回は朱美の言うことを聞くわ」
 ようやく意見がまとまった。
「圭兄、決まったよ」
「そうかい? それで、いったいなにを決めてたんだ?」
「えっとね、圭兄、私たち三人とデートして」
「いや、それはいいって──」
「ああ、ううん、違うの。三人一緒にってこと」
「は? 三人一緒?」
 さすがの圭太も、少々驚いている。
「ほら、私たちは修学旅行もあるから、まとめてでいいかなって」
「あまり理由になってないような気もするけど」
「いいの、細かいことは。ね、どうかな?」
「いや、三人がそれで構わないなら、僕もいいけど」
「じゃあ、それで決まり。あとは、いつかだけど。圭兄、柚紀先輩とのデートはいつ?」
「五月一日だよ。丸一日休みだから」
「う〜ん、やっぱり。となると、修学旅行前日の八日は避けて……うん、五日はどう?」
「予定は入ってないから、それで構わないよ」
「それじゃあ、五日の日に、私たち三人とデートだからね。忘れないでね」
「ああ、大丈夫だよ」
 朱美は何度も念を押した。
 とまあ、二年トリオはそんな感じでGWのデートをゲットした。
 残りは、というと──
「けーちゃん、三日の日って、時間ある?」
「時間? あるけど」
「じゃあさ、うちに来ない? お姉ちゃんもGWにこっちに来るって言ってるから」
「いいよ」
「ホント? あはっ、ありがと、けーちゃん」
 まず、その日のうちに凛が三日をゲット。
「圭太。ちょっと聞きたいんだけど、三十日って、予定入ってる?」
「いえ、入ってませんけど」
「そっか。なら、私と幸江につきあってくれない?」
「ともみ先輩と幸江先輩にですか?」
「そ。たまにはそういうのもいいでしょ? どう?」
「はあ、それは構いませんが。なににつきあうんですか?」
「ふふ〜ん、それは、内緒」
 次に、ともみと幸江が三十日をゲット。
「お兄ちゃん。もうGWの予定って、決まった?」
「ん〜、だいぶ決まってきたかな」
「私の分は、あるかな?」
「ない」
「ええ〜っ?」
「というのは冗談で──」
「ううぅ〜、お兄ちゃんのいぢわる〜」
「ははは、ごめんごめん。お詫びの意味も込めて、琴絵につきあうから」
「ホント? じゃあねじゃあね、GW初日、二十九日って空いてる?」
「大丈夫だよ」
「じゃあ、その日に、お兄ちゃんとデート」
「了解」
 次に、琴絵が二十九日をゲット。
「祥子」
「うん、どうかした、圭くん?」
「あの、GWはなにか予定とかありますか?」
「GW? 特にはないけど。もしかして、デートのお誘いとか?」
「デートというか、祥子と一緒にいたいと思って」
「ホント? 嬉しいなぁ。圭くんにそう思ってもらえるだけで、私は幸せだよ」
「それで、いつというのはありますか?」
「ん〜、できれば混雑を避けたいから……」
「七日、とかですか?」
「ああ、うん、そうだね。七日なら、本来はGWじゃないし、多少はましかな?」
「じゃあ、七日ということでいいですか?」
「うん、全然オッケーだよ」
 次に、祥子と七日に約束。
「どうしたの、圭くん? わざわざ訪ねてくるなんて、珍しいね」
「少しだけ、用があったので」
「用? どんな?」
「あの、鈴奈さん。GW中は、仕事はあるんですか?」
「GW? ん〜、前半三日は写真部に付き添ってあちこちまわることになってるけど、後半はまったくなんにもないよ。学校も基本的に休みだから。あ、ひょっとして、私のこと、誘ってくれるの?」
「まあ、都合がつけば、ですけど」
「大丈夫。圭くんとの都合なら、なにをおいてでもつけるから」
「そ、そこまでしなくても……」
「ううん、私にとっては、そこまでする問題なの」
「そ、そうですか……」
「で、私ならさっきも言ったけど、前半三日以外なら、いつでも大丈夫よ」
「それじゃあ、四日でどうですか?」
「四日? うん、いいよ。圭くんは午前中は部活だから、午後からだね」
「はい」
「う〜ん、楽しみだなぁ。うん、その楽しみを糧に、GWまでの仕事をがんばらないと」
 というわけで、鈴奈が四日となった。
 よくよく考えると、なにもGWだからといって、全員とデートする必要はないのだが、それを律儀にしてしまうところが、圭太なのである。
 そして、いよいよ待ちに待ったGW本番を迎える。
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