僕がいて、君がいて
第十六章「雨上がりの虹のように」
一「真辺紗絵」
今日から六月。旧暦で言うなら、水無月。今でこそ六月は梅雨の時期だけど、昔はちょうど夏で、日照りや干ばつなんかがよくあったみたい。だから、水無月なんて呼ばれていたらしい。
まあ、現代に生きている私たちにはあまり意味のない話かもしれないけど。
私は今日もいい天気だということを確認し、いったん部屋を出る。
一階の台所に顔を出す。台所ではお母さんが朝食の準備をしている。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、紗絵」
お母さんは声だけで私に答える。確かに火加減を見ながらだから、その方が私も安心できるけど。
それから洗面所で顔を洗う。これが冬なら水が冷たくて一苦労だけど、この時期ならそんなことはない。
顔を洗ってから、ブラシを手に取り、髪を梳く。一応毎日の手入れは欠かしてないから、これだけでも結構整う。もちろん、あとでちゃんとするけど。
私が台所へ戻ると、準備の方は佳境に入っていた。私はいつもと同じように食器を用意する。
「ねえ、お母さん。今度、私に料理教えてくれない?」
「あら、珍しいわね、紗絵からそんなこと言うなんて。どうしたの? 心境の変化?」
「うん、まあ、そんなところかな」
私は、お母さんの問いかけに、曖昧な笑みを返しただけだった。
一応これでも私は、料理はある程度はできる。家庭科の調理実習でも教わるよりも教えることの方が多い。
でも、それだけじゃダメ。上には上がいるから。
「好きな男の子にでも作ってあげるの?」
「ち、違うよっ」
私は、反射的にそう言っていた。それこそがそれがそうだと認めているのにほかならないんだけど……
「ふ〜ん、紗絵もそういう年頃なのね」
お母さんはそう言ってニヤニヤと笑った。
朝食を食べ、今度は学校へ行く準備。
制服を着て、今度はちゃんと髪を整える。前とか横の部分は念入りに。跳ねてたりしたら、かなりカッコワルイし。
そういう諸々のことを終えて、いつもと同じ時間に家を出る。
外は、六月になったといっても、すぐに梅雨に入るわけじゃないから、昨日と同じようにいい天気だった。
ただ、心持ち湿度が高いような気がする。
でも、今日から衣替えでブレザーは着なくてもいいから、ちょうどいいのかも。
学校への道を歩いていると、たまに知った顔を見かける。比較的早い時間に歩いているから、そうしょっちゅう見かけるわけじゃないけど。
今日は、学校の近くで詩織を見かけた。
詩織は同性の私から見ても綺麗な子だから、すごく目立つ。
「詩織、おはよう」
「おはよう、紗絵」
詩織は、ニコッと笑って挨拶を返した。
むぅ、この笑顔に圭太さんはやられたんだな。
確かに、惹かれる笑顔だとは思うけど。
「詩織は、上着着てきたんだね」
「うん、一応ね。ただ、これだけいい天気だと、いらなかったかも」
移行期間は、気温の低い日は女子なんかはたいてい上着を着てくる。今日もそれを心配して着てきている生徒もいるけど、たぶんそれは杞憂に終わる。
「今日から六月だけど、今月はいろいろ大変そうだよね」
「確かにね。テストはあるし、部活はコンサートに向けいっそう練習が厳しくなるし」
「コンサートはいいとしても、やっぱりテストが心配かな」
私は、偽らざる本音を漏らした。
別に点数がとれないとは思ってないけど、それでも一高に入ってから最初の定期テストだから、いろんな意味で考えてしまう。
「でも、紗絵は成績いいんだから、心配ないと思うけど」
「それはあくまでも入試の話だから。それに、実力テストだってその延長線上だし。加えて言うなら、詩織だって成績はいいでしょ?」
「うん、まあ、悪くはないと思うけど」
私と詩織は、だいたい同じような成績でこの一高に入学してきた。もちろんそれはあくまでも自己採点の点数でしかないけど、そのあとの実力テストでも同じくらいだったから、たぶん間違いない。
「先輩くらい成績が良ければ、心配することもないと思うけど」
「そうだね」
私が引き合いに出した先輩は、もちろん圭太さんのこと。でも、それが仮に柚紀先輩や祥子先輩に置き換わっても、それほど意味はない。三人とも成績優秀だから。
「まあでも、テストまではまだ二週間もあるし、今から悩んでてもしょうがないね」
「それを悩むくらいなら、ほかのことに頭を使った方がいいかもね」
そう言って私たちは笑った。
昼休み。私は少し用があって図書室へ行っていた。
まあ、その用自体はどうでもいいんだけど。
昼休みの図書室は結構混んでいる。だから、基本的には用が済めばさっさと出ることにしていた。
図書室を出てすぐのところで、私は偶然見かけた。
「先輩っ」
声をかけながら駆け寄る。
「やあ、紗絵。図書室に用でも?」
「はい。でも、すぐに済みましたから」
「そっか」
はあ、やっぱり圭太さんはカッコイイなぁ。こうやって話しているだけで、こう胸の奥がギュッと締め付けられる感じ。
「先輩は、なにか用事でもあったんですか?」
「まあね。でも、紗絵と一緒でもう済んだけどね」
「じゃあ、時間、ありますよね?」
「うん」
「それじゃあ、少しだけ私につきあってください」
私は、圭太さんと一緒に体育館への渡り廊下までやって来た。ここはあまり人が来ないから、ふたりきりになるにはちょうどいい。
「今日から衣替えで、学校の中が一気に明るくなった気がするよ」
「それは、上着を着てないからですか?」
「そうだね。男子はワイシャツ、女子はブラウス。どっちも白だから」
その気持ちはよくわかる。私も漠然とそんなことを感じていたから。
「あの、圭太さん」
「うん?」
「少しだけ、こうしていてもいいですか?」
そう言って私は、圭太さんにそっと抱きついた。
「紗絵は、甘えん坊だね」
「圭太さんにだけ、ですから……」
圭太さんは、私の髪を優しく撫でてくれる。
昔から頭や髪を撫でられるのは好きだけど、圭太さんに撫でてもらうのが一番好き。やっぱり、大好きな人だから。
胸一杯に圭太さんの匂いを吸い込む。私は、この匂いが大好き。
「圭太さん……」
私は、ちょっとだけ背伸びをして、圭太さんにキスをする。
「ん……」
目を閉じてしまうのはもったいないけど、でも、目を開けていたら止められなくなるから。
唇を通して、圭太さんの暖かな想いが伝わってくる。それだけで私は……
と、廊下の向こうから声が聞こえてくる。
私たちはそれにあわせて離れた。ちょっとだけ名残惜しいけど。
見ると、五時間目に体育でもあるのだろう。体操着に着替えた生徒たちが体育館へ向かっていた。
「それじゃあ、僕たちもそろそろ戻ろうか」
「はい」
夢のようなひとときは、やっぱり夢のようにはかない。
でも、私はそれでいいと思ってる。
だって、本来なら私のこの想いは圭太さんには届かない、ううん、届けちゃいけない想いだったんだから。
それを圭太さんはちゃんと真っ正面から受け止めてくれた。私を受け入れてくれた。
だから、そんなひとときが過ごせるだけで、私は幸せだから。
部活でパート練習がある時は、私の視線は譜面よりも圭太さんに向いていることが多い。本当はそんなことじゃいけないんだけど、でも、それは自分でもどうしようもできないことだった。
部活が終わって帰宅する時、私は一度だけ顔を背ける。それは、柚紀先輩がバスに乗り込む時。
圭太さんと柚紀先輩のキス。
わかってはいても、言いしれぬ想いに支配されてしまうから。そんな自分がイヤだから。
『桜亭』の近くで別れる時、圭太さんはいつもの笑顔を私に向けてくれる。
私は、そんな自分に都合のいいことだけ目に焼き付け、記憶に残す。
だけど……
「んっ、あんっ」
自分の指を圭太さんの指だと思い、アソコをいじる。
「圭太さんっ」
止まらない。止められない。
快感が、私を支配する。
「圭太さんっ、好きですっ」
左手で胸を揉みながら、右手でアソコをいじる。
すべてを圭太さんにしてもらっていると思って。
「んんっ、あああっ!」
そして、私はイってしまう。
「はあ、はあ……」
自分ので濡れた指を見ると、そんなことをしている自分に吐き気がした。
私は、圭太さんにいったいなにを求めているのだろう、と。
セックスを求めているのか。
違う。それは違う。私は、純粋に圭太さんに愛してもらいたいだけ。
じゃあ、なんで私はオナニーなんかしているんだろう。なんで自分の指を圭太さんのだと思ってしているんだろう。
矛盾している。そう、明らかにおかしい。
「私は……」
思考が泥沼にはまる直前で、私はそれをすべてリセットする。そうしないと、また明日、圭太さんの前で笑っていられなくなるから。
私には、圭太さんしかいないんだから。
こんな私を、圭太さんはカワイイと言ってくれたし、好きだと言ってくれた。
だから、私もそんな圭太さんのことだけを、考える。
「圭太さん……」
自分で自分の体を掻き抱き、思考を閉ざす。
明日のために──
二「吉沢朱美」
暦が六月になった。
私がこの高城家に居候するようになって、二ヶ月になる。つまり、圭兄と一緒に暮らすようになって二ヶ月ということ。
この二ヶ月の間にこの家での自分の役割はだいたいわかった。基本的にはなんでもこなせてしまう人ばかりだから、私の出番はそう多くはないけど。
朝起きて最初の仕事は、お店の準備。これはもともと圭兄と琴絵ちゃんがやっていたことだけど、受験生の琴絵ちゃんに代わって、私がすることになった。
少し薄暗い店内に入ると、調理場の奥の方で物音がする。
「圭兄、おはよう」
「ん、おはよう、朱美」
業務用冷蔵庫の前から声が返ってくる。
圭兄は今日一日で使うであろう食材を冷蔵庫から取り出している。
私の仕事はそれを洗い、皮を剥き、切ること。もちろんすべてを切るわけじゃない。切ってしまうと鮮度が落ちるものは洗うだけ。
今までそんなに包丁を握っていなかった私だけど、これをはじめてから自分でもわかるくらい、包丁さばきが上手くなった。
最初のうちは圭兄や琴絵ちゃんにかなり手伝ってもらっていたけど、今ではそれもだいぶ減らせていた。
「ねえ、圭兄」
「ん?」
「私がここへ来てから二ヶ月経つけど、圭兄はなにか変わったと思う?」
私は、そんなとりとめのない質問をしてみた。
「そうだなぁ、『家族』が増えて、家の中が明るく楽しくなったかな」
圭兄は、笑顔でそう言った。
……私はこの笑顔には絶対に勝てない。
「あとは、カワイイ従妹が一緒にいるのは、純粋に嬉しいよ」
はうっ、とどめの一撃。
圭兄にカワイイって言われるだけで、私の顔はカーッと熱くなる。
しかも、圭兄はそれをさらっと言うから、余計に恥ずかしい。
「ほらほら、手が止まってる」
「あ、うん」
私は、慌てて手を動かした。だから──
「痛っ」
包丁で指を切ってしまった。
「まったく、朱美も相変わらずだな」
圭兄はそう言って私の手を取った。
「ちょっとしみるから」
「うっ……」
水で傷口を洗う。
「消毒代わりに」
「あ……」
圭兄は、私の指を舐めた。
それだけで私は変な気分になってくる。
だいたい血が止まったところで、絆創膏を貼る。
「まあ、たいしたキズじゃないと思うけど、念のためにな」
「うん」
ちょっと痛かったけど、でも、いいこともあったから。
登校時間になって、私と圭兄は一緒に家を出る。
「ん〜、今日もいい天気だね」
空には雲ひとつなく、本当にいい天気だった。
こういう日に学校があるっていうのは、ちょっともったいない気がする。
圭兄と並んで学校へ行けるなんて、つい先日まではホントに思いも寄らなかった。でも、今こうして一緒に歩いている。
でも、そんな幸せな時間も長くは続かない。
「おはよ、圭太、朱美ちゃん」
大通りのバス停で、柚紀先輩と合流。
「あれ、朱美ちゃん。ケガしたの?」
「あっ、はい。ちょっと包丁で切ってしまったんです」
「そうなんだ。気をつけないとダメだよ」
「はい」
柚紀先輩は、そう言って私のことを心配してくれる。
柚紀先輩に対しては、私はふたつのイメージを持っている。
ひとつは、とっても優しくて思いやりのある素敵な先輩。
もうひとつは、圭兄をとってしまった女性。
前者についてはもう文句のつけようもないけど、後者についてはいろいろ思うところはある。
でも、それを今更言ったところで意味はないから。
楽しそうに話している圭兄と柚紀先輩を見ていると、心のどこかにすでにあきらめてしまっている私がいるから。
話しているのが柚紀先輩じゃなく私でも、圭兄はあんな笑顔を見せてくれるのか、わからないから。
休み時間、移動教室から教室に戻る途中。
「朱美」
「ん、紗絵かぁ」
紗絵に声をかけられた。
「紗絵かぁ、はないでしょ」
「ごめんごめん」
とはいえ、声をかけてくれたのが圭兄だったらって思ったのはあるけど。まあ、紗絵も声をかける相手が私じゃなくて、圭兄だったらって思ってるかもしれないけど。
「移動教室だったの?」
「うん、生物」
そう言って教科書を見せる。
「あれ、朱美、ケガしたの?」
「うん、ちょっとね。でも、たいしたことないから」
たぶん、今日はみんなにこれを言われるんだろうな。
「あっ、そうだ。ねえ、紗絵」
「ん、なに?」
「紗絵のクラスって、英語、どこまで進んだ?」
「どこまでって、どうしてそんなこと訊くの?」
「ん〜、ほら、うちのクラスよりも進んでるなら、予習の手間が省けるかなって」
「……それくらい自分でやりなさいよ」
「だってぇ……」
別に予習がイヤなわけじゃない。もちろん面倒だけど。
ただ、その時間をほかのことに使いたいから。
「そうねぇ、今度朱美が圭太さんとデートする時、そのデートを私に譲ってくれるなら、考えてもいいかな?」
「……じゃあね」
「ウソよ、ウソ。いくらなんでもそんなことはしないから」
「紗絵、いくらなんでもそれは冗談にはならないから」
「わかってるわよ」
そう言って紗絵は笑った。
ホントにわかってるのかな?
「まあでも、予習くらいちゃんと自分でやらないと、テストで痛い目に遭うわよ」
「ん、それもそっか」
「それに、自分のことは自分でできないと、圭太さんにどう思われるか」
「うぐっ、そ、それは痛いかも……」
さすが紗絵。ピンポイントで急所を攻めてくる。
「そういうわけだから、自分でがんばりなさいよ」
軽く私の肩を叩いて、紗絵は自分の教室へと戻っていった。
はあ、私って思慮が浅いのかな……
夜。すべてが終わってあとは寝るだけ。
私は、圭兄の部屋のドアをノックした。
「圭兄、起きてる?」
「ん、起きてるよ」
返事を確認して中に入る。
「どうしたんだ?」
「別にどうもしないけどね」
私はそう言って圭兄のベッドに座った。
圭兄は机に向かっていた。予習か復習かはわからないけど、とにかく勉強している。
勉強の邪魔をするつもりはないから、とりあえず黙っている。
静かな部屋の中に、圭兄が立てる教科書をめくる音とたまにシャーペンをノックする音だけが響いている。
「よし、これくらいかな」
しばらくすると、圭兄の勉強が終わった。
「なにしてたの?」
「予習だよ。明日は古文があるから」
「そうなんだ」
やっぱり圭兄は真面目だな。勉強もしっかりやって、部活もしっかりやって、家のことやお店のこともやって。
私には、ちょっと真似できないかも。
「ねえ、圭兄。エッチ、しちゃダメ?」
「ん、そうだなぁ」
圭兄は少し考える。
「カワイイ朱美のお願いだから」
「いいの?」
「まあね」
「あはっ、ありがとっ、圭兄」
私は、思わず圭兄に抱きついていた。
「ん……」
圭兄は、そんな私にキスしてくれる。
「ん、圭兄……」
圭兄の手が、私の胸に触れる。
「んっ……」
圭兄に触れられるだけで、私は感じてしまう。
ベッドに寝かされ、パジャマも下着も脱がされてしまう。
「あっ、んんっ」
圭兄の指が、私のアソコに入ってくる。
頭の中が真っ白になるくらい、気持ちいい。
「んっ、圭兄、ほしいよぉ……」
私は、圭兄をねだる。
「いくよ?」
「うん……」
圭兄のが、私の中に入ってくる。
「んあっ」
圭兄ので私の中がいっぱいになる。それだけで私は幸せな気持ちになれる。
「んっ、あんっ、あっ」
私の大好きな圭兄。
ずっと一緒にいたい。ずっと私を見ていてほしい。
「んんっ、ああっ、圭兄っ」
「朱美っ」
もう、私は圭兄しか好きになれないし、愛せないから。
「圭兄っ、離さないでっ」
私の大好きな、圭兄……
「圭兄っ!」
「くっ……」
ずっと、一緒に……
いてもいいよね、圭兄……
三「相原詩織」
六月も二日目。
天気予報だと今日も気温が高くなるみたいだから、今日は上着は置いていこう。昨日はさすがにちょっと暑かったから。
「いってきます」
カバンを持ち、家を出る。
いつもより若干早めの時間。
うちの近くには一高生はほとんどいないから、たいていは私だけ。
通学路の途中にある大きな銀杏の木。緑がいっそう濃くなった気がする。
もうすぐ梅雨だけど、風はまだまださわやかで気持ちいい。
こんな日は、どこかでのんびりしたい。できれば、圭太さんとふたりきりで。
そんなことを考えながら、学校の近くまでやってくる。
そこで、私は声をかけられた。
「詩織ちゃん、おはよ」
「あっ、おはようございます、祥子先輩」
声の主は、祥子先輩だった。
いつものように穏やかな笑みを浮かべ、本当に綺麗な人だと思う。
「詩織ちゃんは、いつもこの時間なの?」
「いえ、今日は少し早いです。先輩は、この時間ですか?」
「最近はそうかな。少し早めに来て、予習とかしてるの」
「予習、ですか」
さすがに受験生は違う。私にはそんなこと考えもつかないから。
「ただ単に、夜できないから朝学校でやってるだけなんだけどね」
そう言って先輩は笑う。
「ところで詩織ちゃんは、圭くんのこと、どれくらい好きかな?」
先輩は、唐突にそんなことを訊いてきた。
「もちろん、圭くんには柚紀がいるのに好きだって言って、その上抱かれたんだから並大抵のものじゃないのはわかるけどね」
「……そうですね、すべてを投げ出してしまってもいいくらい、好きです」
私は、いつも思っていることをそのまま口にした。
「そっか、詩織ちゃんも同じだね」
「同じって、先輩もですか?」
「うん。でもね、それは私だけじゃないよ。みんな、本気だから。圭くんもね、みんなが本気だってわかってるから、ちゃんとそれに応えてくれるの。だからね、もし本気じゃなくなったら、潔く圭くんのことはあきらめないと」
はあ、かなわないな。
私には、先輩ほど圭太さんのことはわからない。もちろんそれは今までの時間に差があったから、しょうがないことだけど。
でも、それでも、一番好きな人のことくらい、もっと知りたい。
「あの、先輩」
「うん?」
「今度、私に圭太先輩のことをいろいろ教えてもらえませんか?」
「圭くんのこと?」
「はい。私はまだまだ先輩のこと、知りませんから。一番大好きな人のことくらい、知っておきたいんです」
「詩織ちゃん……」
なりふり構わず、というわけでもないけど、でも、私は知りたかった。
「敵に塩を送ることになるけど、いいよ、教えてあげる」
「本当ですか?」
「うん。でも、そこにはかなり私の主観が入るからね」
「それはもう全然構いません」
「それなら、今度時間のある時にでもね」
「はい」
昼休み。
思い立って音楽室へ行くと、中からピアノの音が聞こえてきた。
曲は、ラフマニノフ。私も弾いたことがある。
誰が弾いているのか気になり、ドアを開けた。
すると──
「……柚紀先輩……」
ピアノを弾いていたのは、柚紀先輩だった。
いつも見る先輩とは違い、とても近寄りがたい雰囲気に包まれていた。
確かにピアノをやっていたというのは聞いていたけど、ここまでの演奏ができるとは思ってなかった。
心の奥の奥まで届く音。
技術的にはあまり練習していないせいか、たまにおかしなところもある。
だけど、それを補って余りあるくらい心のこもった演奏だった。
「ん、あれ、どうしたの?」
と、先輩が私に気づいた。
「いえ、ちょっと音楽室に寄っただけなんですけど」
「そうなんだ」
先輩は、ポロンと鍵盤を叩いた。
「先輩は、いつもピアノ弾いてるんですか?」
「ううん、今日はたまたま。圭太がさぁ、先生の用事で連れて行かれちゃったからね」
そう言ってちょっとむくれる。
その表情はいつもの柚紀先輩だった。
「ねえ、詩織はピアノをやってるんだよね?」
「あ、はい」
「ちょっと、弾いてみてよ。簡単なのでいいから」
先輩に言われるまま、私はピアノの前に座った。
「じゃあ……」
私は、簡単なエチュードを弾いた。
これは練習曲として昔からやっているから、目を閉じてでも弾ける。
「なるほどねぇ。これは圭太じゃなくても惹かれる演奏だ」
先輩は、そう言ってしみじみと頷いた。
「詩織は、ピアニストになるつもりはないの?」
「どうですかね。父はさせたがってますけど」
「それだけの演奏ができるんだから、ピアノだけを本気でやれば、なれると思うけど」
「先輩は、どうなんですか? もうピアノはやらないんですか?」
私は、そう訊ねていた。
別にそこに意味があったわけではない。ただ、なんとなく訊いておきたかっただけ。
「うん、もうやらないよ。これからは弾きたい時に弾くだけ。私の夢は、もうピアノにはないからね」
「先輩の夢、ですか?」
「聞きたい?」
先輩は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、そんなことを言う。
なんとなくその中身はわかるけど……
「なんですか?」
「幸せになること」
だけど、先輩の夢は私が思っていたものとは、若干違った。
「幸せになること、ですか?」
「うん。ひょっとして、圭太と一緒になることだと思った?」
「え、ええ……」
「まあ、それを夢だって言ってもいいんだけど、私にとっては限りなく現実に近い夢だからね」
左手の薬指に光る指輪。
それが先輩の言葉を証明している。
「だから私の夢は、これから先のことなの。それにほら、本当の意味で幸せになるのって難しいからね」
「そう、ですね」
「そういうわけだから、ピアノはいいの。もちろん嫌いになったわけじゃないから、これからも弾き続けるとは思うけどね」
そう言った先輩の顔には、その夢をかなえようという確かな意志があった。
やっぱり、私は先輩には勝てない。
もし仮に私が今の先輩と同じ立場にいて、今の先輩と同じことを考えられるかどうか。たぶん、無理だと思う。私には、そこまでの強さがないから。
「さてと、そろそろ私は戻るけど、詩織はどうするの?」
「私も戻ります」
私は鍵盤にフェルト地をかけ、ふたを閉じた。
「詩織が淋しそうな顔してるから、ひとつだけ教えてあげる」
「えっ……?」
「私の幸せはね、圭太が幸せでいてくれないと意味がないの。そして、その圭太が幸せであるにはなにが必要か。それを考えてみて」
先輩は、そう言って戻っていった。
「圭太さんが幸せであるために……」
部活が終わって家に帰る。
夕食の時。私はママに訊いてみた。
「ねえ、ママ」
「うん?」
「ママが幸せでいるためには、パパも幸せじゃないとダメだよね?」
「そうね。でも、どうしたの? いきなりそんなことを訊いてきて」
「ちょっと気になったから。それでね、そのパパが幸せであるために必要なことって、なんだと思う?」
「それは、ママや詩織ちゃんが幸せであることじゃないかしら。あとは、パパに近い人たちが等しく幸せであるとか」
ママは、そう言って微笑んだ。
「人の幸せって自分だけで作るものじゃないから。ほかの人が幸せだからこそ、自分も幸せだと感じられるのよ」
「そっか……」
なんとなく、柚紀先輩の言っていたことがわかったような気がする。
「ひょっとして、誰か好きな人でもできたの?」
「えっ……?」
「そういうことを考えるようになるのは、たいてい誰かを好きになった時だから。それで、どうなの?」
ママは、嬉しそうにそう言う。
「……うん、好きな人、いるよ」
だから私は、素直にそう答えた。
「そう。じゃあ、詩織ちゃんが幸せになるために、その人には幸せであってもらわないとね」
「うん」
「圭太さんの幸せ……」
柚紀先輩は、そのために必要なものはなにか考えてみてって言った。
きっとそれは、今の圭太さんに関わっているすべての人が幸せであること。
その中に、私も含まれているから、先輩はあんなことを言ったんだ。
「ふう……」
ベッドに体を投げ出す。
やっぱり、柚紀先輩にはかなわない。
自分の彼氏がほかの人と関係を持っていても、あれだけ毅然としてるなんて、私には無理だから。
それでも、私は圭太さんのことが好きだから。
これからも、ずっと一緒にいたいから。
だから、圭太さんが幸せであるように、私も、幸せでいよう……
四「佐山鈴奈」
枕元で目覚まし時計が鳴っている。
薄目を開け時計を確認する。
「……うあ、時間そのままだ……」
今日は講義がないのに、同じ時間にかけちゃった。
「どうしよ……?」
とはいえ、起きてしまったのだからこのまま二度寝するのはもったいない。
「よし、起きよう」
ひとり暮らしをはじめてからの癖だけど、どうもなにかする時にかけ声をかけてしまう。よくひとりごとが増えるって聞くけど、それは本当だと思う。現に私がそうだから。
ベッドから出て、コンロにヤカンをかける。
お湯が沸くまでにとりあえず顔を洗う。
「……ん〜、ちょっとまぶたがはれぼったいなぁ……」
ここ最近の寝不足がたたったみたい。でも、来週から教育実習だし、遊んでる暇はない。
いろいろ思うところはあるけど、とりあえず考えるのは後回し。
お湯が沸く前に、カップにスープの素を入れておく。
「さて……」
どうもなにかを作るという気分じゃないから、今日はフレーク。
お皿にフレークを入れ、冷蔵庫から牛乳を取り出す。微妙に少ないけど、なんとかなる。
牛乳をかけると、お湯が沸いた。ガスを止め、お湯を注ぐ。
スプーンでかき混ぜてそのまましばし。
その間に牛乳パックを洗っておく。さらにフレークとスープをテーブルに持っていく。
それから冷蔵庫を開け、なにか足しになるものを見繕う。
「……しかし」
フレーク、スープ、たくあん、佃煮。なんという取り合わせだろうか。
ううぅ、こんな姿、圭くんには見せられないなぁ。
半分泣きながらも、ちゃんと朝食はとる。
テレビではあまり面白いことはやっていなかった。というか、私はあまりテレビが好きじゃない。特にワイドショーの類は大嫌い。自然とチャンネルは公共放送になっていた。
三十分くらいかけて朝食を終える。
食器を片づけ、着替える。さすがにタンクトップとショーツだけではなにもできない。
ブラウスにジーンズという出で立ちで、部屋の掃除をする。こまめにしてるから、それほど大変ではない。
洗濯は夜することにしてるから、とりあえずなし。
諸々終えて時間を確認する。
「十時五十分」
そろそろ『桜亭』に行ってもいい時間になった。
戸締まりを確認し、『桜亭』へ向かう。
外は、六月になってもいい天気だった。さわやかな風が私の髪を揺らしていく。
こういう日は、どこか静かなところでのんびりと過ごしたい。できれば圭くんと一緒に。
ホント、私の思考も圭くん中心になっちゃったな。
圭くんは五つも年下なのに、私の心と体をすっかり虜にしてくれた。今の私には、圭くんのいない生活なんて考えられないし、考えたくもない。
それくらい私は圭くんが好き。
圭くんのことを考えただけで、顔の筋肉が緩んできちゃう。
そんなことを考えているうちに、『桜亭』に着いた。
この時間だから、家の方から入る。
「おはようございます」
返事が返ってくるかどうかは関係ない。こういうのは礼儀だから。
案の定返事は返ってこなかった。きっと琴美さんは店の方にいるからだ。
すぐに店の方に出る。
「おはようございます」
「おはよう、鈴奈ちゃん」
琴美さんは、ちょうど店を開けるところだった。
とはいえ、この時間帯からお客さんが来ることはほとんどない。
「今日は講義ないのね」
「ええ。本当は朝ゆっくり寝ていようと思ったんですけど、目覚ましをそのままにしていたので、早くに起こされてしまいました」
「あらあら、それは災難ね」
琴美さんは、たおやかに微笑んだ。
私はエプロンをつけ、お客さんを待った。
「教育実習の準備は順調?」
「とりあえずやれることはやってるつもりですけど。ただ、実際には実習がはじまってから担当の先生と話をして方針を決めますから。なので、具体的なことはできないんです」
「そうなの。大変なのね」
「でも、人になにかを教えるわけですから、しょうがないですよ」
教職関係の講義でいろいろなことを聞かされてきた。頷けることもあったけど、納得できないこともあった。
だけど、私はその道を目指そうと決めたんだから、やれることはやる。
「鈴奈ちゃんの原動力は、いったいどこにあるのかしらね?」
「原動力ですか? それは、圭くんですよ」
「ふふっ、そういうことを臆面もなく言えるようになったのは、いいことなのか悪いことなのか、ちょっと判断できないわ」
確かにそれはそうだと思う。
でも、今はそれでいいと思ってる。
「ねえ、鈴奈ちゃん」
「はい」
「そんなに圭太のこと、好き?」
「はい」
圭くんのことを好きになったのは、アルバイトをはじめてまもなくのことだった。
あの頃はまだ中学生だった圭くんだけど、私にはとてもそんな印象はなかった。大人の男性とは言わないけど、少なくとも中学生以上に見えていた。
あどけなさは残っていたけどかっこよくて、頼りがいがあって、優しくて。
そんな圭くんが気になる存在になるのに、時間はかからなかった。
圭くんのことを好きだと思うようになったのは、いつのことかはわからない。気づいたらそう思うようになっていたから。
だから、そんな圭くんに彼女ができた時は、少なからずショックだった。
それでも年上の『お姉さん』としては『弟』の良き理解者であろうと思った。
でも、それは無理だった。
私の圭くんに対する想いは、もうあふれる寸前だったから。だから半ば強引に関係を迫り、抱いてもらった。
本来なら罵られてもおかしくないのに、圭くんはそんな私をも受け入れてくれた。
だから私は、自分の一生を圭くんに捧げてもいいと思うくらい、好きになってしまった。
「琴美さんは、どうあればいいと思いますか?」
「そうね。圭太の母親としての意見は、できればすっぱりとその関係を絶ってほしいわ」
「そう、ですよね」
「ただ、ずっと鈴奈ちゃんを見てきた私の意見としては、あまり無理強いはできないと思ってるわ」
「それは、どうしてですか?」
「鈴奈ちゃん、誰かを本気で好きになったの、はじめてでしょう?」
「えっ、あ、はい。そうです」
「そういう姿を見てるとね、昔の自分を思い出すのよ」
「昔の琴美さんですか?」
昔の琴美さん。今の姿からは、ちょっと想像できない。
「あの人を、祐太さんを好きになった時、私もそれがはじめての『本気』の恋だったのよ。それまでにもいいなと思う人はいたけど、本気にはなれなかったから。でも、祐太さんには本気になった。それこそ、まわりなんて見えなかったし、世の中に私と祐太さんしかいなくてもいいって思ったほどよ」
「それは、すごいですね」
「でも、本気の恋ってそういうものだと思うわ。鈴奈ちゃんも、ある程度はわかるでしょう?」
「ええ」
「だから、今の鈴奈ちゃんにはあまり言えないのよ」
そう言って琴美さんは笑った。
たぶん、それは本心だと思う。建前で話せる人じゃないから。
だとすると、私の責任は重大ということになる。
「それに、そういうことは男である圭太が決めることよ」
「えっ……?」
「鈴奈ちゃんは自分が年上だから、自分がなんとかしないといけないって思ってるみたいだけど、そんなの関係ないわ。こういう状況を作り出したのは、誰でもない圭太なのだから。その落とし前を自分でつけるのは当然のことよ。そうでしょう?」
そうでしょうと言われて、すぐには頷けない。
確かに琴美さんの言うこともよくわかる。だけど、やっぱり私にもその責任はある。
「まあ、この話は当事者同士で決めればいいわ。私は、圭太も鈴奈ちゃんも信じているから。後悔しないようにね」
「はい」
夕方。講義を終えたともみちゃんがバイトに出てきた。
ともみちゃんがバイトをするようになってから、ずいぶんと楽になった。もともと『桜亭』くらいの規模なら三人は必要ないから、当然といえば当然なんだけど。
「ありがとうございました」
お客さんがひとり帰っていった。
残っているのは、あとふたり。どちらもよく来てくれる人で、常連さんだ。
「鈴奈ちゃん。先に上がってもいいわよ? 今日はずっと出てくれたからね」
「わかりました」
残りの仕事を考えると、無理に残ってもしょうがないから。
私はエプロンを外し、奥へ。
リビングには、圭くんがいた。
「おつかれさまです、鈴奈さん」
どんなに疲れていても、圭くんのこの笑顔を見るとそんなものも吹っ飛んでしまう。
「今日は、午前中から出ていたんですか?」
「うん。今日は講義がなかったからね」
私は圭くんの隣に座った。
誰も見ていないのをいいことに、ちょっとだけ甘えてしまう。
「鈴奈さん」
「ん?」
「疲れてますか?」
「どうして?」
「いえ、誘おうかなと思ったので」
圭くんは、照れ笑いを浮かべながらそう言った。
「大丈夫だよ。それにね、圭くんに誘われたら、どんなに疲れてたって受けちゃうよ」
そう言って私は圭くんに寄り添った。
「んあっ、んんっ、圭くんっ」
「鈴奈さんっ」
圭くんのが、私の中で暴れている。
突かれる度に、私の頭の中から理性というものが飛んでいく。
「ああっ、圭くんっ、好きっ」
無意識のうちに圭くんを抱きしめる。
「圭くんっ、圭くんっ、圭くんっ」
「鈴奈さんっ」
そして、頭の中が真っ白になった。
「はあ、はあ、圭くん……」
「はぁ、はぁ、鈴奈さん……」
荒い息の中、キスを交わす。
「圭くん」
「なんですか?」
圭くんは、いつものように私を優しく抱きしめてくれる。
「今日は、中でも大丈夫だったよ」
「万が一ということもありますから」
「……万が一でもいいんだけどなぁ」
「れ、鈴奈さん……」
「ふふっ、冗談よ」
困った顔の圭くんは、ちょっとカワイイ。こんな時は私が年上ということを認識できる。
「今日ね、琴美さんといろいろ話したの」
「母さんとですか?」
「うん。そこでなにを話したかは、ちょっと内緒だけど。ただね、ひとつだけ圭くんにも言えることがあるの」
「それは、なんですか?」
「後悔しないように」
「えっ……?」
「琴美さんが言ったことだよ。私にも圭くんにも後悔しないでほしいって」
「母さんが……」
「だからね、私、後悔しないように全力で圭くんにぶつかっていくから」
「じゃあ、僕もそんな鈴奈さんを全力で受け止めないといけないですね」
「圭くん……」
圭くんの言葉に、涙が出そうになる。
だから、涙が見られないように、私は圭くんに抱きついた。
いつになるかはわからないけど、『お姉さん』になりきれるまでは、このままでいたいから……
五「三ツ谷祥子」
私は、自分の顔を見るのが好きな時と嫌いな時がある。具体的にどんな時が好きな時で、どんな時が嫌いな時なのかは、あまりはっきりとは言えない。それは、私の気分で変わるから。
「……はあ」
部屋にある鏡を前に、私はため息をついた。
私の顔には、微妙に影が落ちている気がする。今の気分を表しているんだろう。
別に月の日ってわけじゃない。私は軽い方だから、悩みというほどのものでもないし。
今の私の悩みは、やっぱり圭くんのこと。
いや、圭くん自体に問題があるわけではない。問題があるのは、むしろ私の方。うじうじと余計なことを考え、勝手に落ち込んでいる。
これは、私がはじめて圭くんに抱いてもらった時からずっと変わらない。
その度に自己嫌悪に陥っている。本当に、進歩のない私だ。
「祥子〜、なに暗い顔してるの〜?」
朝食の席。お姉さまがそんな風に訊いてきた。
「別に、暗い顔などしていません」
「あははっ、冗談上手いね〜。その顔を見て暗い顔じゃないって人がいたら、私はその人に特上天丼でもおごってあげるわ」
お姉さまは私の気も知らずに、そんなことを言う。
普段は優しいお姉さまだけど、こういう時はちょっと手に負えない。
「なになに? 悩みでもあるわけ? 受験? 成績? 部活? それとも、男?」
「…………」
最後の単語に、私はわずかに反応してしまった。
「ふ〜ん、祥子にも好きな男がいるんだ。なるほどね〜」
「……お姉さま、朝食くらい落ち着いてとりませんか?」
「私、これで終わりだし」
そう言ってお椀のおみそ汁を飲み干した。
確かに、それでお姉さまの朝食はなくなった。
「ね、祥子。祥子の好きな男って、あの後輩の子でしょ?」
「…………」
無視するつもりだったけど、微妙に反応してしまった。
「やっぱりね〜。祥子が家に連れてくる男って、彼だけだからね。それに、お母さまもそんなこと言ってたし」
「……お母さまが?」
「祥子さんは、圭太さんと一緒にいる時には母親の私にすら見せたことのない笑顔を見せている、ってね」
「…………」
まさか、お母さまがそんなことを言っていたなんて。
「で、実際どうなの?」
「どう、とは?」
「それはほら、告白したとか、振られたとか」
「……別に、どうもしていません」
「……ホント、祥子は昔からウソをつくのが下手なんだから」
お姉さまは、悪戯っぽい笑みを浮かべ、続けた。
「いいじゃない、別に。どうして無理に隠そうとするの? それって、内緒にしてなくちゃいけないことなの?」
「そんなことは……」
「ああ、ようはあれでしょ? お父さまの耳に入れたくないんでしょ? まあ、その気持ちはわかるけどね。でもね、祥子。それくらいでこそこそしてるくらいなら、その恋なんてウソよ。本気なら、そんなこと関係ないもの。違う?」
「……いえ、違いません」
「でしょでしょ? ん、まあ、今更姉貴面するつもりもないけど、祥子はこの三ツ谷家の末っ子なんだから、もう少し自由にやっていいのよ? 家のことは、仕事命の兄貴に任せてね」
お姉さまは、そう言っていつもの優しい笑みを浮かべた。
「それこそさ、その後輩くんが好きなら、駆け落ちするくらいの勢いでもいいし。もっとも、本当にそんなことしたらお父さまが血眼になって探すでしょうけど」
「……お姉さま」
「うん?」
「自分のことを好きでいてくれるけど、自分よりももっと好きな人がいる時は、どうしたらいいですか?」
「それって、祥子のことは好きだけど、祥子よりも好きな子がいるってこと?」
私は、小さく頷いた。
「それは、なかなか難しいわね。でも、祥子にその後輩くんをあきらめる気がないなら、全力でぶつかればいいと思うわよ。なにをするにしても、中途半端が一番よくないから。そうでしょ?」
「そうですね」
「ん〜、あれね。セックスでもして、その後輩くんの子供でも身ごもっちゃえば、強制的に振り向かせられるけど」
「お、お姉さま……」
「冗談よ、冗談。ただ、それくらいの勢いでいきなさいってこと。わかった?」
「わかりました」
私が頷くと、お姉さまは嬉しそうに笑ってくれた。
六月に入って運動部が忙しくなっていた。高総体があるからだけど、一高はどの部活も結構いい成績を残すから、余計かもしれない。
それと同時に、受験のための模擬試験もはじまる。早いところでは五月からはじまるけど、本格的にはじまるのは、やはり六月、七月。そこで道筋をつけ、夏休みに弱点補強を行う。
私もいろいろ考えてはいるけど、とりあえずは七月のコンサートに全力を傾けている。
昼休み。
廊下で圭くんを見かけた。
「圭くん」
「おはようございます、祥子先輩」
圭くんはいつもの笑みを浮かべ、挨拶を返した。
「どこかに用事?」
「音楽室にちょっと」
「そうなんだ。あっ、じゃあ、一緒に行ってもいい?」
「ええ、それは構いませんよ」
圭くんはふたつ返事で認めてくれた。
音楽室は、昼休みということで誰もいなかった。
圭くんは音楽準備室へ入り、用事を済ませている。
その間、私はなにをするでもなく圭くんを待つだけ。
「お待たせしました」
圭くんの手には、譜面の入ったファイリングケースがあった。
「楽譜、どうするの?」
「少し、気になるところがあったので、部活までにチェックしておこうと思ったんです」
う〜ん、圭くんは真面目だなぁ。
「来週には試験休みに入るじゃないですか。だから、余計に早めにしようと思って」
「そっか」
なんか、私よりも圭くんの方がよっぽど部長っぽい。
「そういえば、圭くん。来年はソロコン、出るんでしょ?」
「それは、アンコン次第だと思いますよ。今年みたいなことがあれば、練習の時間がないですから無理ですし」
ソロコンの県大会は、今週末に行われる。だけど、圭くんは参加していない。理由は、三月までアンコンの練習をしていたせいで、ソロコンの練習ができないから。
もちろんそれだけやればできたんだろうけど、コンサートに向けて練習している時に、ソロコンの練習だけしているわけにはいかない。
だから、今年もソロコンにはエントリーしなかった。
「なんか、残念だなぁ」
「そうですか?」
「うん。だって、せっかく圭くんの勇姿が見られると思ったのに」
「じゃあ、来年はもう少し考えてみますね」
そう言って圭くんは微笑んだ。
「……ねえ、圭くん。ちょっとだけ、いいかな?」
「先輩……」
私が圭くんに寄り添うと、圭くんは私を優しく抱きしめてくれる。
「圭くん……ん……」
最初は触れるだけ、次第に舌を絡めるようなキスになる。
「んっ、はぁんっ」
圭くんの手が、私の胸を揉む。
直に触れられているわけじゃないのに、感じてしまう。
「圭くん……」
「少し、持っていてください」
私は、圭くんに言われるまま、スカートの裾を持った。
「やんっ」
圭くんは、ショーツの上から指で擦りつける。
体の奥がカーッと熱くなる。同時に、濡れてくるのがわかる。
「祥子は、敏感ですね」
「んっ、あんっ」
圭くんの指が、直接私のイヤらしい部分に触れる。
「んくっ、圭くんっ」
立っているのがだんだんとつらくなってくる。
「圭くん、私もう……」
「わかりました」
圭くんは、私に手をつかせ、後ろを向かせた。
そのままの格好で私はショーツを脱がされる。
「いきますよ?」
「うん、きて……」
一気に圭くんのが私の中に入ってくる。
「んんあっ」
圭くんので私の中が満たされる。
「あっ、あんっ、あんんっ」
昼休みの音楽室で圭くんとセックスをしている。
そんな背徳感が、余計私を感じさせていた。
「んんっ、圭くんっ、いいのっ」
「祥子っ」
圭くんに名前を呼ばれ、いっそう私は感じてしまう。
「ああっ、あっ、あっ、あっ」
足がガクガクと震える。
もう、立っていられない。
「圭くんっ、圭くんっ、圭くんっ」
「祥子っ」
「ああああっ!」
「くっ……」
そして、私は達してしまった。
同時に圭くんの精液が私の中を満たす。
「はあ、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ、大丈夫ですか?」
「う、うん、大丈夫だよ」
圭くんは、私の手を取り、ちゃんと立たせてくれる。
ちょっとだけ中から圭くんのがあふれてきた。
「圭くん……」
「祥子……」
もう一度キスを交わす。
「ずっと、このままでいられたらいいのにね……」
午後の授業は、なにをやっていたのか、まったく頭に入らなかった。
髪に、唇に、胸に……
圭くんのぬくもりが残っていて、それどころではなかった。
気づくと圭くんのことばかり考えていた。
それは、部活の時も同じだった。
私の頭の中には、圭くんのことしかなかった。
ふと、お姉さまが言った言葉が思い出された。
「駆け落ちするくらいの勢いで」
今の私になら、それもできそうだった。
でも、それはできないし、やってはいけないこと。
圭くんには、柚紀がいる。
だから、私は引かなくちゃいけない。
大好きな圭くんのためにも。
だけど、今はまだ、それを先延ばしにしたい。
今はまだ、圭くんの側にいたいから……
六「高城琴絵」
「お兄ちゃん……」
まだ眠っているお兄ちゃん。
その寝顔は、とても穏やかだった。
私のお兄ちゃん。
私だけのお兄ちゃん。
大好きなお兄ちゃん。
優しいお兄ちゃん。
カッコイイお兄ちゃん。
「ん……」
その唇に、そっとキスをする。
あの日から、私とお兄ちゃんは単なる兄妹の関係じゃなくなっている。私はお兄ちゃんをお兄ちゃんとしてだけ見ていない。お兄ちゃんは私にとって、血の繋がった『兄』であるとともに、私のすべてを捧げるべき『男性』でもある。
お兄ちゃんも私のことを『妹』としてだけではなく、ひとりの『女の子』として見てくれている。
倫理観や世間体を考えれば、私たちの関係はとても認められるものではない。それは、私も十分に理解している。
でも、それでも、私はお兄ちゃんのことが好きで、お兄ちゃんとずっと一緒にいたくて、お兄ちゃんに私を見ていてほしくて。
だから、私はお兄ちゃんとセックスまでしたんだ。
その時のお兄ちゃんの顔は、今でも忘れられない。あんなお兄ちゃんの顔、はじめて見たから。
悲しそうで、淋しそうで、でも、それをどこか認めてしまっている自分が情けなくて、腹立たしくて。
そんな複雑そうな顔。
それをさせたのは、私。
それでも私は、やめなかった。想いを遂げたかった。
お兄ちゃんに、妹以上に見ていてほしかったから。
「……ん、琴絵か……」
いろいろ考えていたら、お兄ちゃんが目を覚ました。
「おはよ、お兄ちゃん」
「おはよう」
お兄ちゃんと交わす、おはようのキス。
「お兄ちゃん、今日もいい天気だよ」
そう言って私はカーテンを開け放った。
六月に入って今日で四日目だけど、とてももうすぐ梅雨が来るなんて思えない。この四日間とてもいい天気で、気持ちのいい日和が続いていた。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「今度、デートしよ」
「デート?」
「うん。ダメ?」
「時間さえとれれば、別に構わないけど」
「ホント? 今更取り消せないよ?」
「大丈夫だよ」
「あはっ、ありがと、お兄ちゃん」
私は、嬉しくてお兄ちゃんに抱きついた。
「ん〜、お兄ちゃん、大好き〜」
そんな私を、お兄ちゃんは優しく抱きしめてくれた。
これでも一応、私は受験生。だから、授業とかでも受験用の勉強とかもやっている。
進路指導は一度あったけど、私の進路はもう決まっているから。
先生に一高志望だって言っても、返事は素っ気ないものだった。どうやら、三年生の先生たちの間では、私の進路はそれしかないと思われていたらしい。
別にそう思われること自体は構わないんだけど。
私が一高を志望校にしているのは、別にお兄ちゃんがいるというだけじゃない。そのあとのこととかを考えれば、できるだけ上の高校に入ることは決して悪いことじゃない。むしろ、その方が選択肢が増えるから有利だし。
勉強の方はそんな感じだけど、部活の方はなかなか大変。
三中吹奏楽部部長としては、三年連続全国大会出場を目指して部をまとめないといけないから。
去年は全国金賞だったのに、今年は全国すら出られないなんてことになったら、卒業した先輩たちに申し訳ないから。
「琴絵、ちょっといい?」
「はい、なんですか?」
部活中、佳奈子先生に声をかけられた。
「地区大会まであと一ヶ月半くらいで、現状のレベルをどう思う?」
「去年に比べても悪いとは思いませんけど」
「けど?」
「ただ、なんとなくおごりって言うんですか? そういうのがあるような気がします。自分たちは二年連続全国大会出場したんだっていうのですね」
「なるほど」
私は、偽らざる本音を話した。
それは実際に思っていたことで、それをなんとかできないと、とても全国大会へは出場できない。
「それを打破するためにはなにが必要だと思う?」
「そうですね……危機感を与えることですか?」
「危機感ね。確かにそれでも打破できるかもしれないわね。ただ、それだと根本的な解決には繋がらないと思うわ」
「どうしてですか?」
「考えてもみなさい。そこで与える危機感なんて所詮は偽りの危機感でしかないんだから。それをそう判断されてしまったら、まったく意味がなくなるわ」
「そうですね」
「危機感を与えるにしても、より効果的で持続性のあるものを与えないと意味がないわ」
そう言って先生は小さく頷いた。
「先生には、なにか案があるんですか?」
「一度、すべてをリセットしようと思うの」
「すべてをリセット? どういうことですか?」
「今、二、三年は自分がそのパートにあってその楽譜を吹いていることになんの疑問も抱いていないでしょう? ましてや、それを奪われるなんて考えてない」
「それじゃあ、みんなをもう一度組み直すってことですか?」
「平たく言えばそういうことね。ただ、やりすぎても意味がないから、あまり大げさにはしないけど。少なくとも、天狗になっている状態をなんとかできるくらいにはね」
先生の話は、正直かなり微妙な話だと思う。
だけど、現状のままではどうにもなりそうにないなら、そういうことをしてみるのもひとつの方法かもしれない。
「それで、いつそれをするんですか?」
「そうね、近いうちにしようと思ってるわ。もちろん、抜き打ちでね」
どうやら、先生はかなりやる気らしい。
「琴絵は部長だし、緊張感を持って練習もできているから、特に問題ないんだけどね」
「ありがとうございます」
「そういう真面目なところは、圭太と同じよね。圭太は、自分におごることなんてなかったから」
「お兄ちゃんは、私の目標ですから」
「ふふっ、そうね。じゃあ、そういうわけだから、そういうことがあるってことだけ、頭に入れておいて」
「わかりました」
そう言って先生は音楽室を出て行った。
なんか、大変なことになりそうだけど、でも、それもしょうがない。これを乗り切って、全国大会へ行かないと。
「ただいまぁ」
部活を終え、家に帰る。
玄関の靴を見ると、お兄ちゃんと朱美ちゃんはまだ帰ってきていない。
いったん部屋に戻り、着替える。
それからお店の方に顔を出す。
「お母さん、ただいま」
「おかえり、琴絵」
お店には、まだお客さんが三人ほどいた。
それでも鈴奈さんとともみ先輩がすべて対応しているから、問題はなさそう。
鈴奈さんがバイトに入るのは、とりあえず明日までだから、それから二週間、ともみ先輩が中心になる。
だけど、ともみ先輩は一年生で講義もたくさんとっているから、なかなか時間が取りにくい。そうすると必然的にお母さんにしわ寄せがくるんだけど、今回は比較的運がよかった。
お兄ちゃんと朱美ちゃんが中間試験の関係で、部活も休みになるために結構お店に入れることになっていた。
もちろんテストのための休みだから、勉強を優先するんだけど。
それでもお兄ちゃんと朱美ちゃんが出られるということは、お母さんにとっても安心できる材料となっていた。
「琴絵。夕飯の準備、頼める?」
「うん、いいよ」
「下ごしらえはある程度終わってるから」
「了解」
私は、家の台所に立つ。
冷蔵庫の中には、確かに下ごしらえの終わった材料が入っていた。
ここまでしてあれば、そんなに面倒なことはない。
エプロンをつけ、早速調理開始。
夕食は、鈴奈さんとともみ先輩も一緒だった。
特にともみ先輩が一緒なのは珍しい。鈴奈さんはひとり暮らしだから比較的よく一緒に食べているけど、ともみ先輩は違う。
アルバイトをはじめてそんなに経ってないけど、それでも夕食をともにしたのは片手で数えられるだけ。
お兄ちゃんがふたりを家まで送る。
「朱美ちゃん」
「ん、どうしたの?」
片づけを終え、私は朱美ちゃんの部屋を訪ねた。
「朱美ちゃん、おととい、お兄ちゃんとエッチしてたでしょ?」
「ん〜、どうだったかなぁ?」
朱美ちゃんは、そう言って誤魔化す。
「朱美ちゃんも、あんまりお兄ちゃんを困らせない方がいいと思うけど」
「私もそうは思うんだけどね。でも、圭兄と一緒にいると、こうつい、ふらふら〜って」
朱美ちゃんの言いたいことはわかる。
私だってそうなんだから。
でも、お兄ちゃんには柚紀さんがいる。私たちは、あくまでもその次なんだから。
「朱美ちゃんは、お兄ちゃんが柚紀さんと一緒になったあとは、どうするの?」
「ん、まだ決めてない。たぶんね、その現実を突きつけられないと決断できないと思う」
「そっか……」
「琴絵ちゃんは、『妹』としてずっと一緒にいるの?」
「そうしたいけど、そうできるかどうかはわからないかな」
「まあ、確かにそうだよね」
私たちは揃ってため息をついた。
「だけどね、私はお兄ちゃんが私を必要としなくなるまでは、一緒にいようと思ってる。お兄ちゃんにすべてを委ねようと思ってる」
「そっか、琴絵ちゃんも結局そうするんだ」
「えっ、朱美ちゃんも?」
「うん。だって、私から離れるの、無理だと思うから。それだったら圭兄に決めてもらった方がいいと思うし」
朱美ちゃんは、微笑みながらそう言った。
「……お兄ちゃんは、優しすぎるからね」
「そこがいいところではあるんだけどね」
「うん」
私と朱美ちゃんは、いとこ同士という関係ではなく、お兄ちゃんのことを好きな女の子同士でそれを話していた。
「ねえ、朱美ちゃん」
「ん?」
「みんな、ずっと一緒にいる方法って、ないのかな?」
その問いかけに、朱美ちゃんは答えられなかった。
七「安田ともみ」
ここ最近、土日が妙に待ち遠しくなっている。まあ、その理由は、私自身が一番よくわかってるんだけど。
大学に入ってから、その生活リズムは大きく変化した。高校は決められた時間割をただ粛々とこなすだけ。でも、大学では自分でカリキュラムを決めなければならない。
その中には必修科目もあるけど、選択必修や選択科目なんかは、本当に自分で決めなくてはならない。まわりの反応や、先輩からの話を聞いて決める。
そういうわけだから、必ずしも朝一から行く必要はない。それに、終わる時間だって必ずしも五限後ではない。
そういうカリキュラムだから、生活リズムも大きく変化した。
そんなわけで、今日は土曜日。大学は休み。
でも、私は朝早くから起きている。
いや、正確に言えば、目が覚めてしまうのだ。月曜から金曜ならそんなことは絶対にないのにである。
「……うんうん」
鏡の前で、ニッと笑う。
たとえそれが作り笑いでも、接客業では必要なことである。
とはいえ、今日はわざわざ作る必要もない。自然と顔がにやけてくるのだから。
いやいや、にやけてはいけない。ぴしっとしないと。
時計を見ると、出かけるにはまだ早い時間だった。とりあえず部屋に鍵をかけ、居間の方に移る。
居間では、お母さんがお茶を飲みながらテレビを見ていた。
「もう出かけるの?」
「もうちょっとしたら」
私は短く答え、ソファに座った。
「バイト、慣れた?」
「だいたいは」
「いくら知ってる人だっていっても、最低限の礼節はわきまえておきなさいよ」
「大丈夫だって」
お母さんは、まったく私の方を見ていない。別に、見てほしいとは思ってないけど。
「そういえば、圭太くんは元気?」
「元気だけど、どうして圭太が出てくるの?」
「自分の娘が盲目的に好きになっている相手のことだもの、気になるのは当然でしょう?」
ぐぅの音も出なかった。
「彼ならともみを上手くコントロールできると思うんだけどね」
「……ちょっと、それど〜ゆ〜意味?」
「あら? ひょっとして自分のこと、品行方正な淑女だとでも思ってるの?」
「それは、ないけど……」
言い返せないのが悔しい。
「それに比べて彼は、あらゆる面で優れてるじゃない。だから、ともみの扱い方も当然上手いと思って」
「私、これでも圭太の先輩なんだけど」
「年なんて関係ないでしょうが。それともなに? あんたは年上で優位に立てるからって彼につきまとってるわけ?」
「そんなことあるわけないじゃないっ」
「だったら、先輩だとか後輩だなんて関係ないじゃない。違う?」
「…………」
屁理屈も出なかった。
「まったく、なにをこだわってるんだかしらないけど、実の母親にくらい本音で話せないのかしらね」
困ったわ、と言ってため息をつく。
ため息をつかれても、私と圭太の関係はそうそう話せるものじゃない。明らかに『間違った』関係なんだから。
そんなことを話していたら、いつの間にか時間になっていた。
「それじゃあ、そろそろ行ってくるから」
「いってらっしゃい」
お母さんの言葉に送られ、家を出た。
外は、少し曇っていたけど、雨は降りそうにはなかった。
本当ならもう少し晴れやかな気分で向かうんだけど、ついさっきのお母さんの言葉が頭に残っていた。
もし、お母さんに本当のことを話したら、どんな反応が返ってくるんだろうか。私にはまったく予想がつかない。
予想がつかないことをあれこれ考えるのは、愚かなことだと思う。だって、予想がつかないことを考えられるはずもないんだから。
でも、私はいろいろ考えていた。意味もないのに。
だから、『桜亭』に着いたのもまったくわからなかった。
「ともみさん」
「なんですか?」
準備をしていると、琴美さんに声をかけられた。
「今日は、鈴奈ちゃんが基本的に中心でやるから」
「それって、明日から休むからですか?」
「ええ、そうよ。鈴奈ちゃん直々に頼まれたの。だから、今日はゆっくりめにやってくれればいいわ」
「わかりました」
鈴奈さんは、明日から丸二週間バイトを休む。教育実習があるからだ。
まあ、私がここで働くきっかけがそれだから、当然なんだけど。
明日からは、私が鈴奈さんに代わってしっかりやらなくちゃいけない。
だから、今日は最後の『研修日』みたいなものだ。
そうこうしているうちに、開店時間になる。鈴奈さんはまだ来ていない。今日は最後までだから、少し遅めなのだ。
「ともみさん、お願い」
「わかりました」
注文の品をテーブルまで運ぶ。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
こういう言葉もずいぶんとすんなり出てくるようになった。
日一日と自分がこのバイトに慣れていくのがわかる。だけど、必要以上に慣れてしまうのだけは避けたいと思う。そうしないと、適当にやってしまうからだ。
特に、ここでのバイトではそれだけは絶対にやってはいけない。
「おはようございます」
十二時になろうかという頃に、鈴奈さんがやってきた。
とはいえ、私もすぐには下がらない。この時間帯が一番忙しいからだ。
それでも、鈴奈さんは手際がいいから、私の仕事は必然的に減った。
ピークを過ぎたところで、私は休憩時間をもらった。
「ふう……」
リビングのソファに座ると、自然と息が漏れた。
別に疲れているわけじゃないけど。
「おつかれさま」
少し時間を置いて、琴美さんも休憩に入った。
「圭太たちは帰ってきたのかしら?」
「いえ、見てませんけど」
「じゃあ、まだ帰ってきてないのね」
「この時期はコンサートに向けて忙しいですからね」
去年までのことを思い出す。この中間テスト前の時期は、結構忙しい。テスト後だと最終調整しか行えないから、その前にある程度は完成させるのだ。
一部と三部は先生が指導してくれるけど、二部は基本的には自分たちでやらなくてはならない。午前中は前者を、午後は後者をやるのも結構ある。
「ともみさんは、圭太のこと、どのくらい好きなのかしら?」
それは、唐突な質問だった。でも、特におかしな質問ではなかった。
「そうですね、世界のすべてを敵にまわしてもいいくらい、ですか」
私は、本音で答えた。琴美さんは、私と圭太の関係を知っているから。
「あらあら、それはまた圭太もずいぶんと想われてるわね」
琴美さんは、わかっていながらそう言う。
「でも、ともみさんは、本当にそれでいいと思ってる?」
「どういう意味ですか?」
「圭太には、柚紀さんがいて、しかもふたりは婚約までしている。可能性はゼロではないとは思うけど、でも、圭太がともみさんを選ぶことはほとんどない。それでも、圭太を想い続けていくつもりなの?」
「……たぶんですけど、私は、別に圭太と結婚できなくてもいいんです。もちろん、そうなれればそれはそれでいいとは思いますけど。でも、私は圭太と『一緒』にいたいだけなんです。圭太が私の側にいてくれて、私が圭太の側にいられれば」
「そう……」
琴美さんは、なんともいえない表情で頷いた。
「圭太は、高校を卒業したら、どう整理をつけるつもりなのかしらね。このままの状況ではいられないわけだし、圭太自身もそれは無理だとわかっているはずかだら」
「私は、圭太の意志に従うつもりですから」
「そう、みんなともみさんと同じように思っているわ。だからこそ、私は心苦しいの」
「心苦しい、ですか?」
「ともみさん、このままだと一生誰も好きになれなくなるわ」
「…………」
「たとえ好きになれたとしても、常に圭太と比べてしまう。それを自覚した時、その関係は終わるわ」
琴美さんの言葉には、重みがあった。琴美さん自身がそういう経験をしているとは思えないけど。
それでも、人生の先輩の言は、やはり違った。
「と言っても、今更な気もするけどね。みんな、圭太の虜になってしまっているから。その状態から抜け出すのは、かなり難しいわ」
「それは、わかってます」
「日本が、一夫多妻制の国だったらよかったのにね」
琴美さんは、圭太と同じことを言う。やはり、親子だ。
「ともみさん」
「はい」
「圭太との恋は、楽しい?」
私は、なんの躊躇いもなく答えた。
「はい、楽しいです」
それを聞いて、琴美さんは嬉しそうに微笑んだ。
「圭くん、ともみちゃん」
鈴奈さんは、私たちの方を向いて、改めて言った。
「明日から二週間、『桜亭』のこと、頼んだからね。私は、実習の方で精一杯がんばるから」
「大丈夫ですよ。鈴奈さんが安心して実習に臨めるように、しっかりやりますから」
「ふふっ、頼もしい言葉だわ」
「店のことは、僕たちに任せておいてくれればいいですから。本当になにも心配はいりませんよ」
「うん」
私たちの言葉を聞き、鈴奈さんは穏やかな笑みを浮かべた。
それから鈴奈さんは自分のマンションへと入っていった。
そこからは、私と圭太のふたりだけ。
「ねえ、圭太」
「なんですか?」
「圭太は、私が今のままでもいいと思う?」
「それは、どういう意味ですか?」
さすがにそれだけではわからないか。
「つまり、柚紀という婚約者がいる圭太と恋人まがいの関係にあるという現状」
「……僕は、どちらとも言えません」
「どうして?」
「心のどこかでは柚紀のことを考え、そういう関係は断つべきだと思っています。でも、また心のどこかでは、本気でともみさんのことを考えていますから。だから、離れるとかそういうことは、考えていません」
「そっか……」
なんとなく、嬉しかった。
でも、それでも心のどこかでは、完全に否定されてもいいと思っていた。矛盾してるけど。
「圭太」
「はい」
「抱いてほしい」
圭太は、なにも言わず、私を抱きしめてくれた。
圭太とのセックスは、心と体が繋がるから気持ちいい。
セックスだけがすべてだとは思わないけど、私にとってそれはもうなくてはならないものになっていた。
圭太の下であえぐ私。
圭太の上であえぐ私。
自分だけ感じるのはイヤだから、自ら腰を動かして感じさせようとする。
そして、圭太は私の中にそのすべてを放つ。
その時だけは、本当になにも考えない。頭の中が真っ白になり、中が満たされていく感覚だけがある。
「……圭太。私を、離さないで」
「離しませんよ」
「ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、一緒にいたい……」
私は圭太の胸に抱かれ、目を閉じた。
圭太の鼓動を感じる。
願わくば、一年後も五年後も十年後も、この鼓動を感じたい。
それ以上は望まないから……
八「笹峰柚紀」
朝、目が覚めてから一番最初にすることは、左手の薬指を見ること。そこには、私の宝物があるから。
最愛の圭太からもらった、婚約指輪。
これを見ないと、一日がはじまるようには思えなくなっていた。
私と圭太を繋ぐ大切な指輪。これがあるおかげで私は安心できる。たとえ圭太が何人もに想われていても。
最後には必ず私を選んでくれる。そう信じられるから。
指輪を確認すると、ようやくベッドから出る。
圭太とつきあうようになり、セックスまでするようになってから、私は寝る時にパジャマを着なくなった。それは、セックスのあとは裸のまま寝ることが多いからだ。
さすがに普段から裸で寝てはいないけど、だいぶルーズな格好になったと思う。
だぶだぶのティシャツとショーツだけ。
そのティシャツは、私が圭太から強奪、もとい、譲ってもらったもの。ホントはワイシャツとかがよかったんだけど、着ているうちにくしゃくしゃになるから、こっちにした。
それはさておき、さすがにその格好のまま部屋から出るわけにはいかない。
ティシャツの上にパーカーを羽織り、下はスパッツをはく。まあ、誤魔化し程度だけど。
これで部屋を出る。とりあえず顔を洗って髪を整えて。
で、あとはその日によって変わる。なんにもない日は、そのままの格好で朝食を食べるけど、なにかある時は着替えてから。
今日は部活が午前中からあるから、着替える日。
部屋に戻り、パーカーもティシャツもスパッツも脱ぐ。
タンスの中からブラジャーを取り出し、つける。
この時だけ胸が大きくなったことを実感できる。普段はあまり変わらないから。
それからソックスをはき、ブラウスを着る。
天気予報では気温は高めということだったけど、外にはそう出ないから長袖を選択。
スカートをはいて、最後にリボンを結ぶ。
これで、一高生完了。
着替え終わると、朝食のためにダイニングへ。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、柚紀」
今日の朝食は、お母さんが作っている。
朝食は、私、お母さん、お姉ちゃんの三人が交代で作っている。とはいえ、基本的にはお母さんだけど。私もお姉ちゃんも学校があるから。
「今日は、遅くなるの?」
「ん〜、圭太のところに寄れば遅くなると思うけど」
「そう、わかったわ」
お母さんは、特になにも言わない。というか、言っても意味のないことを理解しているから。
いろいろあって圭太の部屋に泊まる回数は減ったけど、それでも私と圭太の関係まで変わったわけじゃないから。だから、お母さんもなにも言わない。だって、私たちのことを認めたんだから。
「そういえば、お姉ちゃんは?」
「朝早くから出かけたわよ」
「そうなの? ふ〜ん……」
お姉ちゃんが早くに出かけるのは、デートの時だけ。まあ、やっぱり私のお姉ちゃんということか。
比較的ゆっくり朝食をとり、いつもと同じ時間に家を出る。
私はバスだから、同じ時間じゃないと乗り遅れてしまう。それは非常に困るから、必然的に時間には厳しくなった。
日曜日のバスは、さすがに空いていた。私のほかには四人しか乗っていない。
昨日よりも雲が厚く、下手すると雨が降るかもしれない。
そんな空を見つつ、車窓を眺める。
いつもより少し早く停留所に着いた。
バスから降りると、いつもと同じように、圭太が待っていてくれる。
「おはよう、柚紀」
「おはよ、圭太」
「おはようございます、柚紀先輩」
「おはよ、朱美ちゃん」
朱美ちゃんは、いつも圭太と一緒に登校する。まあ、圭太のことが好きなんだから、当然の行動かもしれないけど。
このメンバーにたまに祥子先輩や紗絵ちゃんが加わることがある。とはいえ、こっちのメンバーは学校まで歩きだから、時間にズレが生じる。だから必ずというわけではない。
「ねえねえ、圭太」
「うん?」
「今日、空いてる?」
「特にないけど」
「じゃあ、部活終わったらね」
部活前にちゃんと約束しておかないと、すぐに予定が入ってしまう。なんたって、一緒に過ごしたいと思ってる人が、何人もいるんだから。
朱美ちゃんは一緒に暮らしてるからか、あまり言わないけど、祥子先輩、紗絵ちゃん、詩織は虎視眈々と隙を伺っている。
ま、今日はちゃんと約束したからいいけどね。
こういうことはたまにある。
今、高城家のリビングには、合計七人がいた。
まず、圭太と私、それに一緒に住んでる朱美ちゃんに、部活から帰っていた琴絵ちゃん。ここまでは別に問題はない。
さて、祥子先輩と紗絵ちゃん、詩織はなんでいるのだろうか。
さらに言うなら、ともみ先輩は『桜亭』の方にいるから、八人と言えなくもない。
はてさて、どうするべきか。
「とりあえず、こうしてるのはもったいないと思う次第なんですが」
私は、面々に話を振ることにした。
「なにかするべきではないでしょうか?」
「なにをするんですか?」
まず食いついてきたのは、琴絵ちゃんだった。う〜む、琴絵ちゃんじゃね。
「ん〜、なにがいいかな?」
「王様ゲーム」
そう言ったのは、朱美ちゃんだった。
「この人数だとそれが面白いと思うんですけど」
確かに面白いと思う。
だけど、朱美ちゃんの考えは読めている。
「私はいいけど、みんなは?」
私は一同を見回す。だけど、異論は出ない。
ふむ、どうやらまったく同じことを考えているらしい。
「じゃあ、王様ゲームに決まり。それで、王様はどうやって決めるの?」
王様ゲームで王様を決める方法はいろいろある。というか、決まりはない。どういう方法ででも王様を選んでしまえばいいんだから。
「トランプで決めるのはどうかな?」
祥子先輩がそう提案した。
「トランプを一枚配って、その数の一番大きい人が王様。同じ数だったら、マークで」
「いいんじゃないですか?」
そんなわけで、王様ゲームの開始。
まず、トランプを一枚ずつ配る。
私は、9だった。微妙な数。
「せーの、せっ」
一斉にめくる。
「あっ」
王様は、琴絵ちゃんだった。
しかし、この王様ゲームでは王様は不利である。なんといっても、自分が圭太となにかしたいのだから。命令する立場になると、それはかなわないのだ。
さらに言えば、それぞれに与えられている数字は、一回きりのもの。本来なら最後までずっとそのままだけど、それだと圭太がピンポイントで狙われる可能性があったから。
「さあ、琴絵ちゃん。命令して」
「じゃあ、二番の人が、五番の人をくすぐってください」
二番は紗絵ちゃん、五番は祥子先輩だった。
「え、えっと……」
さすがに先輩に対しては遠慮がある。しかし、王様の命令は絶対。
「す、すみません」
そう言って紗絵ちゃんは、祥子先輩をくすぐった。
だけど、祥子先輩はあまり大げさな反応は見せなかった。どうやらくすぐりには強いみたい。
出だしからなかなか微妙である。
ところが、みんなが考えていたことはなんの因果かわからないけど、一度も起きなかった。
王様の言う番号はことごとく圭太を外していた。加えて言うなら、圭太が王様になることもなかった。
すっかり興ざめしかかった時。
「私が王様ね」
祥子先輩が王様になった。
「三番の人と四番の人でにらめっこして、勝った人が負けた人になにかひとつだけ命令を下せるの」
番号を確認。
三番は、私。
四番は?
「僕が四番」
圭太だった。
みんなの間に戦慄が走った。
「私が三番」
同時にため息が漏れた。
「じゃあ、圭くんと柚紀でにらめっこ」
私と圭太は向かい合い、体勢を整える。
「いくよ? にらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」
私は、なりふり構わず笑える顔をした。
だって、勝てば私が圭太に命令できるんだから。
しかし、圭太は強敵だった。
普段とはまったく違う顔だから、余計にそう見えた。
少しずつマイナーチェンジしながら、笑いのツボを探す。
みんなはとっくに笑ってるのに、圭太はなかなか笑わない。というか、私がやばい。
たまに表情を変える仕草が、なんとも笑いを誘う。
こうなったら、最終手段。
私は、手や指を使って、こんな時以外は死んでも見せたくない顔を作る。
と。
「……ぷっ」
圭太が笑った。
「やったっ、私の勝ちっ」
私は思わず声を上げていた。
ふふふ、面白い顔をしたかいはあった。
「それじゃあ、柚紀が圭くんに命令して」
私は、最初から決めていた命令を言った。
そろそろ日が沈む頃。
「んっ、圭太っ」
私は、圭太とセックスしていた。
「いいっ、もっとっ、もっとっ」
私の命令は、実に単純明快だった。
それは、私がいいって言うまで私の言うことを聞く、というもの。ちょっと反則気味だけど、そういうのを禁止したわけじゃないから。
そんなわけで、みなさんにはご退場願って、私たちはふたりきりの時間を作った。
「あんっ、ああっ」
ほんの少しの罪悪感と、結構多くの優越感と、かなり多くの幸福感。
「んあっ、あんっ、あっ、あっ」
圭太が私を突く度に、そんな感覚は薄れていく。
ただひたすらに圭太を感じていたかった。
「圭太っ、もうイっちゃうっ」
「僕もだよっ」
「一緒にっ、あっ、んんっ、イこうっ」
圭太の動きがますます速くなる。
私ももう限界。
「んんっ、ああああっ!」
「くっ、柚紀っ」
頭が真っ白になった瞬間、私のお腹に、熱い圭太のがかかった。
「はあ、はあ、圭太……」
「はぁ、はぁ、柚紀……」
そして、私たちはキスを交わした。
「幸せ〜」
私は、圭太に抱かれながら、そんなことを言った。
「毎日こうしていられたら、もっと幸せだよね」
「うん、そうだね」
「やっぱり、早く一緒になりたいな」
最近、特にそう思う。もはや私には圭太のいない生活は考えられない。
私は圭太がいることによって、その本来の私を表現することができる。いない時の私は、偽りの私。
「一緒になったら、圭太は今よりもうちょっと自己主張してね」
「どうして?」
「だって、前に言ったでしょ? 私は、夫を立てて、一歩引いている妻が理想なの。亭主関白とまでは言わないけど、縁の下の力持ちでありたいから」
考え方は古いかもしれないけど、それが私の理想だから。
「それでね、私は毎日圭太を起こすの。あなた、朝よって。圭太が会社勤めでもすれば、帰りは三つ指ついてお出迎え」
「柚紀らしいね、そういうところ」
「そうかな?」
「うん」
圭太は、はっきりと頷いた。
「でも、そんな柚紀も好きだよ」
「んもう、そんなのわかってるよ」
そう、私たちは相思相愛なんだから。
誰も、私たちの間に入ることはできないんだから。
「だけど、そうやって言葉にしてくれるの、すっごく嬉しい」
だから、もっと言ってほしい。
そのひとつひとつが、私と圭太をつなぐ言葉になるから。
大切な、証となるから。
九
六月七日は、梅雨入り前最後の快晴かもしれなかった。
週間天気予報では、九日から傘マークが出ていた。そのあたりに梅雨入りだろう。結局は平年並みの梅雨入り。
まあ、入りはあまり関係ない。多くの人の関心事は、いつ明けるかということなのだから。
その日、一高では臨時の全校集会が行われた。理由は、教育実習がはじまるからである。
今年の教育実習は、全部で八人。そのうち五人が一高の卒業生。
教育実習には基本的に三年は関係ない。実習生の未熟な指導で受験勉強に悪影響が及ぶといけないからである。
従って、どんな実習生なのか興味津々なのは、一、二年である。
そんな中、圭太はただひとりのことを見ていた。
教室に戻り、朝のホームルームとなる。
担任の──圭太にとっては二年連続──優香が入ってくる。
「じゃあ、二週間の間、このクラスを見てもらう実習生を紹介するわね」
入ってきたのは──
「可能性はあるとは思ってましたけど、まさか本当になるとは思ってませんでした」
そう言って圭太は笑った。
「実はね、知ってたんだよ、圭くんのクラスだってこと。私の担当が中村先生になって、その時に担当クラスの名簿も見せてもらってたから。だけど、そのまま話しちゃうのはもったいないと思って、内緒にしてたんだ」
鈴奈は、嬉しそうに微笑む。
国文学を専攻している鈴奈は、当然のことながら国語科お預かりとなった。その中でたまたま担当が優香になったのである。
確率はそう低かったわけではないが、偶然にしてはできすぎている感もある。
「これからは、朝と帰りのホームルームは私が担当するから。お手柔らかにね」
「僕としては、現代文の授業で手加減してもらえればなにも言うことはありません」
「さて、それはどうしよっかな」
「じゃあ、僕はひねくれ生徒役ということで」
「ああ、ウソ、冗談、本気にしないで。大丈夫だよ。現代文で厳しい授業なんてそうそうできないんだから」
鈴奈としては顔見知りの圭太がクラスにいることは非常にプラスに作用する。これは、特に外部から来ている実習生には大きい。
もともと慣れないことをしなければならないわけで、その緊張感はすごいものがある。下手をすれば生徒から嫌味を言われ、担当教師から嫌味を言われることになる。
そうなったらもう地獄である。
だからこそ、ひとりでも自分のことを理解してくれている者がいるというのは、大きいのである。
「ああ、鈴奈さん」
「うん、なに?」
「僕のこと、授業中はちゃんと『名前』で呼んでくださいね。さすがにいつもと同じというわけには」
「そうだね。でも、今更だよね、『高城くん』なんて呼ぶの」
「まあ、しょうがないですよ。学校にいる間だけですから」
「うん。あっ、そうすると、圭くんも私のこともそれなりに呼ばないとね」
「ええ、わかってますよ、『鈴奈先生』」
圭太がそう言うと、鈴奈はくすぐったそうな表情になる。
「やっぱり慣れない呼び方は、こう背筋のところがむずがゆくなるね」
「そうですね」
そう言ってふたりは笑った。
その日の昼休み。
「鈴奈さんは、お弁当じゃないんですね」
「うん。今日は初日でバタバタしてたから、作ってる暇がなくて」
圭太は、柚紀と一緒に鈴奈を誘ってお昼にしていた。
そこに多少の配慮があったことは、鈴奈にもわかっていた。初日はなにかとピリピリしているから、その緊張感を少しでも和らげたい、そんな配慮である。
「でも、担当のクラスにふたりも知ってる生徒がいて、私はかなりラッキーよね」
鈴奈は、コンビニで買ってきたサンドウィッチを頬張る。
「やっぱり、違いますか?」
「全然違うと思うよ。誰も知らないところにひとり放り出されると、途方に暮れてしまうでしょう?」
「はい」
「そんな感じを、ほかの実習生は味わってると思うの。でも、私はそれはない。圭くんと柚紀ちゃんがいたからね」
「確かにそうですね」
柚紀も、なるほどと頷く。
「でも、鈴奈さん。それはいいことなのか悪いことなのかは、わかりませんよね?」
「どうして、圭太?」
鈴奈よりも柚紀が先に聞き返した。
「だって、実際に教壇に立つ時は僕たちはいないんだよ? 本番のことを考えると、リハーサルからそういうつもりでやらないと」
「そういう考え方もあるのか。なるほど」
「ただ、僕としてはどちらでもいいと思いますよ。自分の力を思う存分発揮できさえすれば」
そう言って圭太は微笑む。
「ホント、圭太は身内には厳しいね」
「そうかな?」
「そうですよね?」
「愛の鞭だと思ってがんばらないと」
「あ、愛の鞭ですか……」
「圭くんは必要ないこと言わないからね。私としては、それを信用して、なおかつ自分の考えと総合的に判断して、自分の行動を決めるから。で、今回は圭くんの意見に全面的に従ってみようと思って」
「そうすると、なにかあった場合は、圭太の責任、ということですね」
「えっ……?」
それにはさすがに圭太も声を上げた。
「ふふっ、大丈夫だよ、圭くん。なにがあっても圭くんのせいになんてしないから」
笑う鈴奈につられて、圭太も柚紀も笑った。
教育実習がはじまっても、実習生はすぐには授業を担当させてもらえない。まずは担当教師の授業を見学し、それを参考にした上で授業計画を作成する。
計画書を担当に提出し、チェックを受けて合格した段階ではじめて授業をさせてもらえるのである。
短い実習期間だが、なにもできませんでしたでは済まないので、どの実習生も気合い十分だった。
実習生の控え室には、微妙な緊張感が漂っていた。
その緊張感の理由は、授業に対する不安と焦りが主な原因である。いつ授業をするかは決まっていない。だからこそ、一日でも一時間でも早く授業をしたい。そう思っている。だが、実際の授業をつつがなく終えられるのか、それもわからない。
滅多なことは言わないが、雰囲気だけでもそれがわかった。
そんな中、やはり鈴奈は幾分落ち着いていた。
「佐山さんは、ずいぶん落ち着いてるわね」
八人の実習生のうち、女性は鈴奈を含めて三人。そのうちのひとりが声をかけてきた。
「なにか秘訣でもあるの?」
「別にこれといったものはないけど。強いて言えば、ズルをしてるからかな」
「ズル?」
「私のクラスには、知り合いがふたりもいるの。だから、ホームルームとかでも普通にできてるし」
「なるほど、そういう理由か。でも、佐山さんは地元じゃないでしょ? どうして知り合いがいるわけ?」
「バイト先の息子さんとその彼女さんだから」
「なるほどなるほど。すごい偶然ね」
相手は、しきりに感心している。
「この調子でいければ、かなりの結果が残せるかもしれないわね」
「だといいけど」
教育実習二日目の帰りのホームルーム。
「今日は特に連絡事項はありません。それでは今日は終わりにします」
二日目もつつがなく過ぎていった。
教室では掃除当番が掃除を開始する。鈴奈もその手伝いである。
「鈴奈先生」
そんな鈴奈に、後ろから声がかかった。
「えっと、なにかな、高城くん?」
一瞬、『圭くん』と呼びそうになり、慌てて言い直す。
「少しだけ、いいですか?」
「ええ」
圭太は、鈴奈と一緒に廊下へ出る。
廊下は、放課後のラッシュの時間である。生徒がひっきりなしに行き交う。
「今日は、遅くなりますか?」
「どうかな、たぶん昨日とそう変わらないと思うけど。でも、どうして?」
「部活が終わるよりも早く終わるならいいんですけど、もしそれより遅くなるなら、一緒に帰るか、迎えに来ようかと思ったんです」
「えっ、そうなの?」
「うちとマンションのような距離じゃないですから、こことマンションでは」
「確かにそうだけど」
「もし迷惑なら、いいんですけど」
「め、迷惑だなんてことないよ。ただ、いいのかなって」
「僕が決めたことですから」
そう言って圭太は笑った。
「じゃあ、お願いしようかな」
「わかりました。じゃあ、部活が終わったら確認しますから」
「うん」
「じゃあ、今日はこれで終わり。おつかれさま」
『おつかれさまでした』
もうすぐ六時半という頃、その日の部活が終わった。
部活は、とりあえず九日までしかできないので、できることはその前にやってしまおうということだった。そのため、いつもなら六時で終わるところが、三十分近くも延長されていた。
そんな部活も終わり、圭太は楽器を片づけ、音楽室を出た。
校舎二階にある実習生控え室の前。
中からは明かりが漏れている。まだ誰かいる証拠である。
圭太は、ノックをして中に入った。
すると中には──
「あれ、鈴奈さんだけなんですか?」
鈴奈がひとりで待っていた。
「うん。ほかの人たちは六時までにみんな帰ったから」
そう言って鈴奈は微笑んだ。
「別に、わざわざ待ってなくてもよかったんですよ?」
「せっかくだし、圭くんと一緒に帰ろうと思って」
「……わかりました。じゃあ、昇降口のところで待っててもらえますか? 片づけの確認と荷物を取ってきますから」
「うん、先に行ってるね」
それから圭太はもう一度音楽室に戻った。
それほど時間が経っていないにも関わらず、部員は大部分が帰っていた。
「圭太。どこ行ってたの?」
早速柚紀が理由を訊ねる。
「うん、ちょっとね」
しかし、圭太は微妙に誤魔化した。
「先輩。日誌は終わりましたか?」
「もうちょっと」
「じゃあ、戸締まりの確認だけしておきますね」
「うん、お願い」
そのこと自体はいつもと変わらない。準備室を確認し、音楽室の窓を確認する。
それが終わる頃には、祥子も活動日誌を書き終わっていた。
いつものメンバーで音楽室を出る。
祥子は鍵を職員室に返しに行く。
圭太たちは、その間に昇降口で靴を履き替える。
時間も時間なので、校舎内は妙に静まりかえっている。
一足先に靴を履き替え、圭太は外に出る。
「お待たせしました」
そこで、待っていた鈴奈に声をかける。
「あれ、鈴奈さん。帰ってなかったんですか?」
「うん。一緒に帰ろうと思ってね」
柚紀の問いかけに、鈴奈は笑顔で答えた。
「ふ〜ん、なるほどね。圭太がいなかった理由は、これでしょ?」
「まあね。ほら、うちからマンションは近いからいいけど、学校からマンションは遠いから。時間によっては送ろうと思って声をかけておいたんだ」
圭太は、あっさりと真相を説明した。
祥子が戻ってきて、ようやく家路に就く。
いつもよりひとり多い六人という数。さすがに少々歩きづらい。
「どうですか、二日間終えての感想は?」
「まだ授業をしてないからそんなに大変じゃないかな?」
「先生は、いつ頃授業をさせようと思ってるんですか?」
「木曜日からだって。今年は中間試験と日程が重なってる関係で、授業時間が少ないから、早め早めにしないといけないみたい」
四年制大学からの実習生は、基本的には二週間が実習期間である。教育大学や教育学部からの実習生は、さらに一週間から二週間長く行うが。
そういう短い時間で必要なことをすべてこなさなければならず、日程としてもかなり微妙だった。
さらに今年の日程は、中間テストの最初二日間とかぶっているため、余計である。
「じゃあ、今は授業計画とか立てるのに忙しいんじゃないですか?」
「多少はね。でも、現代文はほかの科目に比べればまだまだましだよ。こうしなくちゃいけないっていうのは、少ないから」
現代文の授業には、解き方のコツはあっても、こうしなくちゃいけないというものは少ない。解釈は人それぞれとなるため、強制できないのである。
従って、実習もそれをふまえなければならない。
「鈴奈さんは、二日間でうちのクラスの心をつかんでますから、授業も大丈夫ですよ」
「そうかな?」
「落ち着いてやれば大丈夫ですよ。ね、圭太?」
「そうですよ。ある程度の形はあると思いますけど、結局は鈴奈さんのやりやすいように進めればいいと思いますけど」
圭太は、そう言って微笑んだ。
「圭くんにそう言われると、そんな気になってくるから不思議」
「僕なんかでお役に立てるなら、いくらでも」
そう言った圭太に対して、鈴奈は笑顔で応えた。
六月九日。
気象庁は、関東以西が梅雨入りしたとみられると発表した。
梅雨に入ったから突然雨が降るというわけではないが、それでもその日は雨だった。
少し強めの雨が朝から降り続き、梅雨らしかった。
一高では、まもなくに迫った中間テストに向け、どの授業も気の抜けない状況になっていた。
特に三年で推薦を狙っている生徒にとっては、今回と期末テストまでが反映されるということで、気合いの入り方も違う。
そんな中、教育実習も三日目となり、実習生の間にはわずかだが慣れが出ていた。
廊下などですれ違っても、がちがちに緊張しているようなことはなくなった。まあ、これが授業になればまた話は変わるのだろうが。
昼休み。
鈴奈は空き時間を利用して買っておいた昼食を片手に、食べる場所を探していた。
晴れていれば外でよかったのだが、あいにくと雨が降っているため、それはできない。
そんな時、廊下の向こうに顔見知りを発見した。
圭太と柚紀である。
ふたりは、なにやら大きな荷物を持ち、とある場所へと入っていった。
まだ校舎内を完全には把握できていない鈴奈は、そこがどこかわからなかった。とはいえ、そのまま気にかけないでいることもできず、その場所へと向かった。
そこは、教材保管室だった。これまでの教科書や参考書、授業用の様々な教材が保管してある。
授業でそれを使うことは滅多にないが、そこにはOHPの本体なども置いてあるため、年に何回かは使われていた。
鈴奈は、音を立てず中に入った。
蛍光灯が点っている室内は、それでも薄暗かった。
一高の歴史分の教材があるわけではないが、それでもその量は圧巻だった。
鈴奈は一瞬気圧されたが、すぐに気を取り直した。
と、鈴奈の耳に、くぐもった声が聞こえてきた。
「……ん……」
今、そこにいるのは鈴奈のほかは、先に入った圭太と柚紀だけ。つまり、その声は圭太か柚紀の声である。
その声が気になり、鈴奈は奥の方をそっと覗いた。
すると──
「っ!」
圭太と柚紀は、抱き合いキスを交わしていた。
たとえふたりがそういう関係であると知っていても、その様子は衝撃だった。
つい前日に見た別れ際の軽いキスとはまったく異質のキス。
「ん、はあ、圭太、私、我慢できなくなっちゃった……」
「最初からそれが目的だったんじゃないの?」
「ふふっ、さあどうかな?」
「しょうがない」
圭太はもう一度キスをし、柚紀の胸に手を当てた。
「ん、あ……」
外側から内側へ。円を描くように揉む。
「んっ、やん」
圭太の手が、スカートの中に伸びた。
軽くショーツの上から擦ると、柚紀からふっと力が抜けた。
「ん、圭太、ダメだよ。汚れちゃうから」
「ごめん」
謝り、圭太はショーツを脱がせた。
「あ、んっ」
今度は直接指で秘所をいじる。
秘唇をなぞり、中に指を挿れる。
「んんっ」
柚紀の中は、濡れていた。
「んっ、あんっ、圭太っ」
柚紀は、スカートの裾を持ち、足から崩れ落ちないように耐えている。
「はあ、圭太、もうちょうだい……」
圭太は、ズボンとトランクスを下ろし、モノを取り出す。
「いくよ?」
「うん、きて」
圭太は、下からモノを突き立てた。
「んんあっ」
あとはもう本能の赴くまま。
柚紀は、必要以上に声が出ないように手で口を押さえている。
室内に、ふたりの荒い息づかいと、湿った淫靡な音が響く。
「んっ、圭太っ、圭太っ」
「柚紀っ」
とどめとばかり腰を打ち付ける。
「んんっ、あああっ!」
と、それが引き金となり、ふたりは同時に達していた。
「はあ、はあ、圭太……」
「はぁ、はぁ、柚紀……」
ふたりは、繋がったままキスを交わす。
ふたりの情事を見てしまった鈴奈は、幾分紅潮した様子で、そこを出た。
「はあ、圭くん……」
その表情は、複雑だった。
その日の夜。
圭太は、鈴奈に呼ばれ、その部屋を訪ねていた。
「紅茶でいいかな?」
「はい」
鈴奈は、慣れた手つきで紅茶を淹れる。
しばらくして、圭太の前に紅茶が置かれた。
「ねえ、圭くん」
「なんですか?」
「私ね、思うんだけど、学校でしちゃうのはどうかなって」
「えっ……?」
さすがに圭太の動きが止まった。
「今日ね、見ちゃったの。圭くんと柚紀ちゃんが、エッチしてるの」
「…………」
「偶然だったんだけどね。でも、ああいうのはやめておいた方がいいと思うよ。今までは見つからなかったのかもしれないけど、今日は私が見ちゃったわけだし」
鈴奈は、落ち着いた口調でそう諭す。
「ね、圭くん?」
「すみませんでした」
「ううん、別に謝ることなんてないよ。それに、私は誰かに言うつもりもないし。ただ、もう少し常識的な範囲内でした方がいいと思っただけ」
「そう、ですね。僕もどこかで高をくくっていたのかもしれません。明日、柚紀にも言っておきます」
「うん、そうだね」
圭太が素直に行いを改めると言ったことで、鈴奈も笑顔になった。
「ただ、ね」
「はい?」
「その、圭くんと柚紀ちゃんのを見て、すごく、こう、感じちゃったっていうか、その……」
「鈴奈さん……」
圭太は、ふっと微笑み、鈴奈を抱きしめた。
「圭くん……」
「こう言うと鈴奈さんは怒るかもしれませんけど、すごく、カワイイです」
「ん……」
鈴奈がなにか言う前に、キスで唇を塞ぐ。
「んもう、圭くん、最近どんどんいぢわるになってく」
「じゃあ、やめますか?」
「イヤ、やめない。今日は、たっぷり可愛がってもらうんだから」
そう言って今度は鈴奈からキスをした。
「圭くん、好きだよ……」
十
梅雨入りしてから毎日雨が降っていた。特別強く降るわけではないが、しとしとと降っていた。
体育の授業は当然体育館で行われている。気温が低い時はいいが、高い日などはサウナと化す。湿度九十パーセントは確実じゃないかという感じである。
生徒たちに、特に運動部の生徒たちとっては、試験前休みというのが救いであろう。そうじゃなければ、最悪一日に二回も汗だくになっていたのだから。
そんな天候でも、授業はいつも通り行われていた。
授業ではそれぞれにテストに向けて範囲を終わらせたり、終わっていれば傾向と対策と称した中身をやっていた。
ただ、科目によっては実習生がいるため、そういうのをある程度無視して進められていた。
その日は、圭太たちのクラスで鈴奈が授業を行っていた。
「基本的にこの部分は、先述の部分を受けての否定部です。逆接詞からはじまってませんけど、中身を読めばそれは一目瞭然です。それと、次の段落の主語は省略されています」
鈴奈の授業は、ものすごく丁寧な授業だった。
高校生相手にそこまで丁寧な授業は必要なのかと思うほどだった。
案外アバウトなところのある優香と比べると、それが際立った。ただ、それを是とする生徒と否とする生徒は当然いる。
もちろん、百パーセントを望むことはできない。だが、それでもそれに近づける努力はしなくてはならない。
そこではじめて『授業』というものの本来の意味が成り立つ。
その点で言えば、鈴奈の授業は可もなく不可もなしという感じであった。
チャイムが鳴る。
「それじゃあ、今日はここまでにします」
挨拶で授業は締めくくられた。
鈴奈は、大きく息を吐いた。
「おつかれさまです」
そこへ、圭太が声をかける。
「どうだったかな?」
「丁寧でわかりやすかったですよ。ただ、ちょっと丁寧すぎかなとも思いましたけど」
「そっか、やっぱりね」
教科書と資料を片づけながら、鈴奈は頷く。
「そのあたりは中村先生にも言われたのよね」
「じゃあ、それを改善できれば、とりあえずはいいということですね」
「うん、まあ、そうなるのかな」
「佐山先生。次の授業、行きましょう」
「あっ、はい」
鈴奈は、優香と一緒に教室を出て行った。
「圭太も心配性だね」
「ん、どうして?」
「だってさ、うちのクラスでの授業ははじめてかもしれないけど、もう授業自体はやってるんだから、多少はましでしょ」
そう言う柚紀に、圭太は少し首を傾げた。
「どうかな、それは」
「なんで?」
「だってさ、この教室には僕と柚紀がいるんだよ? やっぱり、知ってる人がいると必要以上に緊張すると思うんだ。もちろん、ホームルームとかは逆にいる方が緊張しないと思うけど」
「ん〜、そういう考え方もあるか」
柚紀は、なるほどと頷く。
「まあでもさ、私はこう思うのよね。鈴奈さんは、このクラス、というよりは、圭太だけにはいいところを見せたい、そう思ってると思うの」
「…………」
「やっぱりさ、好きな人の前では無様な格好はできないじゃない?」
「そう、かな?」
「うん、少なくとも私はそうだし。もっとも、私は結構無様な姿を見せてるけどね」
そう言って柚紀は笑う。
「ま、いずれにしても、圭太はあまり手も口も出さない方がいいよ。そうしないと、鈴奈さんのためにならないから。本気で教師を目指すなら、なれた時にはもう圭太はいないんだから。そうでしょ?」
「そうだね」
「だから、見守るのが一番なの。わかった?」
「うん」
圭太は小さく頷いた。
とはいえ、柚紀も圭太が本当に見守るだけでいるとは思っていない。圭太の圭太たるゆえんは、その優しさと人を思いやれる心なのだから。
放課後。
「先輩」
圭太は、柚紀と一緒に帰ろうとしていたところで、声をかけられた。
「やあ、詩織」
声をかけてきたのは、詩織だった。
「先輩たちも、今帰りですか?」
「そうだよ。詩織は?」
「私も帰るところです」
確かに詩織の手にはカバンがある。
「あの、先輩。もしなにもないなら、これから、先輩の家に行ってもいいですか?」
「ダメ」
「柚紀せんぱ〜い、なにも即答することないじゃないですか〜」
「だって、詩織は私の中ではかなり高位の要注意人物だから。用心するに越したことはないでしょ?」
「僕は別にいいよ」
と、珍しく圭太が柚紀の意見を尊重しなかった。
「ちょ、ちょっと、圭太」
「ホントですか?」
「うん。もともと今日は、朱美の勉強を見ることになってからね。そのついでというわけじゃないけど、それでもいいならの話だけど」
「もう全然構いません」
詩織は、嬉しそうにコクコクと頷く。
ようは、圭太と一緒にいられればいいのである。
「というわけだから」
「んもう、ホント圭太は、甘いよね」
柚紀は、あきらめたようにため息をついた。
「ま、でも、それも圭太だし、そんな圭太が、私は好きなんだし。しょうがないね」
「さすが柚紀先輩。話がわかります」
「こぉら、詩織。調子に乗らない」
「ふふっ、すみません」
「まったく……」
高城家、圭太の部屋。
テーブルを囲んで、圭太、柚紀、朱美、詩織の四人が試験勉強をしている。
勉強の中身は学年が違うのでそれぞれだが、朱美と詩織はそんなことそっちのけで圭太とのコミュニケーションを望んでいた。
「圭兄。これってどうなの?」
「ん、ああ、これはね」
圭太は、丁寧にその解法を教える。
頭の良い圭太は教えるのも上手かった。だから、たとえ朱美と詩織の目的が圭太とのコミュニケーションにあるとしても、本気で勉強を見てもらいたいと思ってもある意味仕方がない。
とはいえ、後輩ふたりが積極的に圭太にアプローチしているのは、柚紀としては面白くない。
ただ、名目上勉強をしているので、強く言えないのも事実だった。
そうこうしているうちに、陽も暮れ、外は闇に包まれた。雨は、まだ降っている。
圭太は、柚紀をバス停まで、詩織を家まで送ることにした。
「はあ……」
「どうしたの、ため息なんかついて」
「だってさぁ、最近みんなして私のこと、目の敵にしてるから。ねえ、詩織?」
「別に目の敵になんてしていませんよ。ただ、自分の想いに素直になると、自然とそういう風に見えるだけです」
詩織は、平然とそう言い放つ。
それは正論であり、なかなか言い返せないものだった。
「それに、私たちがどんなにアプローチをかけても、先輩は動じませんから」
「まあね。それでいちいち動じてたら、今頃圭太を殺して私も死んでるわ」
「…………」
かなり危険な発言に、圭太は微妙に距離を開けた。
すぐにバス停までやって来る。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「日曜日の約束、忘れないでよ」
「大丈夫、忘れてないよ」
「うんうん、それならよろしい」
やって来たバスは、いつもより若干混んでいた。
「バイバイ、圭太」
いつものようにキスをして、柚紀はバスに乗り込んだ。
バスを見送り、圭太と詩織は歩き出す。
「圭太さんと柚紀先輩って、やっぱりお似合いですよね」
「そう?」
「はい。ちょっとだけ悔しいですけど、なんとなくあきらめられます」
そう言って詩織は微笑んだ。
「圭太さんは、柚紀先輩のどこに惹かれたんですか?」
「さあ、それは僕自身が一番わかってないのかもしれないよ」
「どうしてですか?」
「気づいたら、柚紀を意識してたからね。だから、きっかけはあったにしろ、どこというのはないよ」
圭太は、穏やかな表情で話す。
「きっかけって、なんですか?」
「新入部員歓迎会の時に、王様ゲームでさせられたキス」
「き、キスですか?」
「うちの部の伝統なんだって。王様ゲームでふたりが残り、しかもそれが男女だった場合のね」
「今年は、しませんでしたよね?」
「うん。例年だと一年生だけが被害を受けるからね。今年はそれをなくそうと思って」
「……私は、今年のでよかったです」
詩織は、少しだけ熱っぽい表情でそう言う。
「そのおかげで、私は圭太さんと結ばれたんですから」
「ん、そうだね」
詩織は、自分の傘を閉じ、圭太の方へと入った。
「家に着くまで、こうしていても、いいですか?」
「いいよ」
雨に濡れないように、というよりは寄り添いたいから、ぴったりとくっついていた。
「……あの、圭太さん」
「ん?」
「もし、私の存在が邪魔なら、ちゃんと言ってくださいね。私、おふたりの邪魔だけはしたくないですから」
「詩織……」
傘を叩く雨粒の音が、耳につく。
「大丈夫だよ。僕も柚紀も、詩織のことを邪魔だなんて思ってないから」
「本当ですか?」
「うん。柚紀もね、なんだかんだいっても詩織のことも認めてるし。一度認めた相手のことは、邪険には扱わないよ」
圭太にそう言われ、詩織の表情も幾分和らいだ。
雨の中、ゆっくりと歩いていく。
天候と時間のためか、人通りはあまりない。
もう少しで詩織のマンションというところ。
「もう少しだけ、一緒にいてもいいですか?」
そう言って詩織は、マンションの少し先にある公園まで圭太を連れて行った。
そこは、比較的大きな公園で、遊具などはないが、運動公園として広場は充実していた。
ふたりは、その中程にある東屋までやって来た。
「圭太さん……」
「ん……」
詩織は、すぐに圭太にキスをした。
「エッチな私は、嫌いですか?」
「そんなことないよ。詩織は、詩織だよ」
そう言って圭太は詩織を抱きしめた。
キスを交わし、胸を揉む。
「ん、あ……」
詩織は、かすかに甘い声を漏らす。
圭太は、リボンも解かず、ブラウスのボタンを外し、ブラジャーをたくし上げる。
「んんっ、圭太さん……」
綺麗な双丘に舌をはわせる。
つんとふくらんだ突起を、その舌先で転がす。
「あんっ、んっ」
雨音に混じる甘い吐息。
圭太は、スカートの中に手を入れ、ショーツの上から秘所を擦る。
「んあっ」
かくっと詩織の力が抜けた。
圭太は、詩織をベンチに座らせた。
ショーツを脱がせ、直接触れる。
「やんっ、んんっ、圭太さんっ」
すぐに濡れてくる。
指の代わりに舌をはわせ、わざと音を立てて舐める。
「ああっ、圭太さんっ、感じちゃいますっ」
止めどなく押し寄せる快感に、詩織はまったく抗わない。
「いくよ?」
「はい……」
圭太は、詩織に後ろを向かせ、そのまま貫いた。
「んんあっ」
一気に体奥を突かれ、詩織は声を上げた。
「んあっ、あっ、あっ、あっ」
淫靡な音も雨音にかき消される。
「圭太さんっ、圭太さんっ」
どん欲に圭太を求める。
「んくっ、圭太さんっ、今日は、あんっ、中にくださいっ」
次第に速くなる腰の動きに、限界も近い。
「あんっ、あっ、あっ、あっ」
「詩織っ」
「圭太さんっ、圭太さんっ、んくっ、ああああっ!」
詩織が達すると、詩織の中がギュッと圭太のモノを締め付けた。
同時に圭太は詩織の中に白濁液を放っていた。
「ん、はあ、はあ、圭太さん……」
「はぁ、はぁ、詩織……」
荒い息の中、ふたりはキスを交わした。
「私の中で、圭太さんがどんどん大きくなっていくのがわかります」
詩織は、そう言って薄く微笑んだ。
「頭の中をもし色分けできたら、たぶん、八割以上は圭太さんのことだと思います」
「光栄だね」
「でも、圭太さんの頭の中では、そうではないですよね? やっぱり、柚紀先輩が一番ですか?」
「それは、ね。もちろんそこには明確な差があるからね。ただ、別に詩織のことを考えてないわけじゃないし」
圭太は、珍しく必死っぽく言い訳する。
「それに、なにも考えてない相手を、抱けると思う?」
「男の人なら、抱けるかもしれませんよ」
「…………」
「ああ、ウソです、冗談です。圭太さんはそんなことないです」
圭太が黙り込んでしまったので、詩織は慌ててフォローする。
「あの、圭太さん」
「ん?」
「どうして、ここで私を抱いてくれたんですか? 雨で人が来ないっていっても、ここは公共の場ですから」
「明確な理由は、ないかな」
「そうなんですか?」
「うん。強いて言えば、一緒にいた相手が詩織だったから」
圭太は、あっけらかんとそう言い放つ。
「それに詩織がすごく魅力的だから」
「圭太さん……」
詩織は、ぴとっと圭太に寄り添い、テコでも動かない構えである。
「圭太さん。私、まだドキドキしてます」
詩織は、そう言って自分の胸に圭太の手を添えた。
「圭太さんとエッチしたあとは、いつもそうです」
「詩織……」
「ん……」
圭太は、詩織にキスをした。
「ん、圭太さん、また、体がうずいてきます」
「する?」
「……はい」
詩織は、小さく、だがしっかりと頷いた。
「圭太さん、愛してます……」
「ただいまぁ」
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
圭太が家に帰り着いたのは、もうそれなりの時間になってからだった。
「ずいぶんと、遅かったんだね」
微妙に琴絵の言葉には刺が含まれている。
「ん、まあ、ね」
さすがに公園でエッチしてました、とは言えない。
「……ふ〜ん、なるほどね〜」
珍しく誤魔化す圭太に、琴絵もピンと来たらしい。そこはさすがに兄妹である。
「お兄ちゃん。これは、お兄ちゃん想いの妹からの忠告。柚紀さんを泣かせたらダメだよ。お兄ちゃんを想ってくれてる人は多いし、お兄ちゃんはその人たちの想いに応えたいっていうのはわかるけどね。でも、柚紀さんにはお兄ちゃんしかいないんだから」
「……それは、わかってるけど」
圭太は、リビングに入りながらそう言う。
「けど、なんて言い訳しちゃダメ。そりゃ、私にはそういうことを言う権利はないかもしれないけど。でもね、柚紀さんは、近い将来に私の『お義姉さん』になる人なんだから、その人が不幸なところ、見たくないもん」
「琴絵……」
「いい?」
「わかったよ。もう少し気をつけるよ」
圭太は、そう言って琴絵の頭を撫でた。
「最近のお兄ちゃん、ちょっと甘すぎだよ。節操なし、とは言わないけどね」
「うぐっ……」
「ねえ、お兄ちゃん。私、思うんだけど、みんなの想いに応えるための方法って、エッチすることだけなのかな? そりゃ、それが一番手っ取り早いとか、確実だっていうのはわかるけどね」
琴絵は、おとがいに手を当て、続ける。
「お話しするとか、一緒にいるとか。それだけでも十分な場合もあると思うけど」
「琴絵の言いたいことはわかるし、それがいいこともわかってる。今の僕には耳に痛いことだし。だけど、琴絵」
「ん?」
「僕はね、決めてるんだ」
「決めてる? なにを?」
「なにをするにしても、中途半端なことだけはしないって」
「お兄ちゃん……」
「もちろん、それがいいことじゃないのもわかるよ。だけど、僕は、僕のことを想って、好きでいてくれるみんなには全力で応えてあげたいんだ」
そう言った圭太の顔には、迷いなど微塵もなかった。
「そうすることで柚紀がどんな想いをするのかも、わかってる。でも、その償いは、これから先、一生をかけて行うから」
「……バカ」
「ん?」
「お兄ちゃん、バカだよ。なんでそんなにみんなことばかり考えてるの? どうして自分のことと、自分のことを世界で一番好きでいてくれる人のことだけ、考えないの?」
「まあ、そういう性分らしいから」
圭太は、笑う。
「ホント、バカだよ……」
「そんな『バカ』な圭兄のことが、好きなんでしょ?」
「朱美ちゃん」
そこへ朱美がやって来る。
「話、だいたい聞いてたから。琴絵ちゃんの言い分は、あくまでも『妹』としてのもの。じゃあ、それが圭兄のことが好きなひとりの女の子としてだったら?」
「…………」
「みんな、圭兄がそういう人だってこと、わかってるよ。それに、それを一番理解してるのは、柚紀先輩だと思うよ。それでも私たちにおとがめなしなんだから、柚紀先輩はそれだけ圭兄のことを信じてるってこと。ね、圭兄?」
「そうだね。僕には本当に過ぎた彼女だと思う」
「そういうわけだから、琴絵ちゃんももう少し長い目で見てあげたら?」
ポンポンとその肩を叩く。
「それに、いいの?」
「なにが?」
「もし今琴絵ちゃんが言ったことを、ホントに圭兄が実行したら、もう圭兄に抱いてもらえなくなるんだよ? 少なくとも、私はイヤ。圭兄が柚紀先輩と一緒になるまではね」
「私は……」
「だから〜、そんなに難しく考えない考えない。本能の赴くままに、というわけにはいかないけど、もう少し自由でもいいと思うけどね」
「そうそう、その意見には私も賛成だわ」
そこへ、バイトを終えたともみがやって来る。
「だけど、私がその意見を指示する理由はね、もうひとつあるわ」
「もうひとつ、ですか?」
「そういうことは、圭太が決めること。というか、圭太が決めない限り、関係を断てる自信ある?」
「……ないかも、しれないです」
「でしょ? だからよ。ね、圭太?」
「えっと、僕はどう答えればいいんですか?」
さすがの圭太も返答に困っている。
「あはは、別に無理に答えなくてもいいわよ。少なくとも私はちゃんと理解してるから。前にも圭太の決意のほどは聞いてるしね」
「すみません」
「だからぁ、別に謝ることないわよ」
「そうですね」
「そんなわけだから、お兄ちゃん想いの妹もいいけど、もう少し自分の想いに素直になってみたらどうかな、琴絵ちゃん?」
「そう、ですね」
琴絵は、小さく頷いた。
「さてと、私はそろそろ帰るわね」
「あっ、じゃあ──」
「今日はいいわ。それより、今日は妹孝行でもしなさい。いいわね?」
「わかりました」
「雨、やまないね」
「ん、そうだな」
夜。圭太は、琴絵と一緒にベッドに入っていた。
とはいえ、別にエッチはしていない。
「……ごめんね、お兄ちゃん」
「別にいいよ。琴絵は、柚紀のことを想って言ったわけだし」
「でもね、やっぱり──」
「琴絵に言われて、改めて思った」
「? なにを?」
「琴絵は、やっぱりもったいないくらいの妹だって」
「お兄ちゃん……」
「それに、僕が考えてた以上に、いろんなことを考えて、理解してるってこともわかったし」
圭太は、そっと琴絵の肩を抱いた。
「本来なら、謝るのは僕だと思う。だけど、今はまだ謝らない。まだ、終わってないからね」
「うん……」
「大丈夫。明けない夜はないし、やまない雨はない。夜が明ければ太陽が昇るし、雨が上がれば虹が出る。そういう風な答えを、きっと出すから」
「うん……」
「頼りない『お兄ちゃん』かもしれないけど、もう少しだけ、見ていてくれないか?」
「うん……」
「ありがとう、琴絵……」
雨は、まだ降っていたが、明日には上がりそうな感じだった。
陽が昇れば、虹が出るかもしれない。