僕がいて、君がいて
 
第十五章「空と海と雲と太陽」
 
 一
 羽田空港から那覇空港まで、飛行機で約二時間半。
 そこは、青い海の広がる南の島。
 同じ日本でありながら、一年を通して暖かく、別天地である。
 県立第一高等学校二年生は、これから四泊五日の予定で修学旅行である。
 基本的には沖縄本島で過ごすのだが、そのうちの一日だけ、石垣島へ行く。
 一日目は、昼過ぎに那覇市街地に入った関係で、それほど自由な時間はなかった。
 コースとしては、首里城と守礼門などのある首里を巡るものとなっていた。
 首里城は、かつて琉球王国時代、尚巴志の頃より居城となった歴史のある城である。現在の首里城は復元されたものだが、尚氏の頃の栄華を思い起こすには十分なものである。
 守礼門は、首里城の門のひとつで、現在では首里城のシンボルのひとつとなっている。
 首里城公園の一角には、尚氏別邸跡に県立博物館が建てられている。
 首里という場所に来ると、沖縄の、特に琉球時代の沖縄のことがよくわかる。
 果たして一高生にそれがどのくらい伝わったかはわからないが、一日目はそこだけである。
 それからバスに乗り、市内にあるホテルに向かう。そこが、これから三日間泊まるホテルである。
 ホテルの部屋割りは、基本的にはツインの部屋に簡易ベッドを入れ、三人部屋にしている。もちろん人数に偏りが出てくるため、ふたりだけの部屋もある。
 圭太は、そんな中でふたり部屋に入っていた。
 部屋に荷物を置き、夕食までは自由時間である。
「はあ、結構疲れたな」
 そう言って、同室になった菅谷明夫はベッドに横になった。この明夫とは、一年の時、ずっと席が前と後ろだったのである。二年になっても同じクラスで、今回は同じ部屋を使う同士になっている。
「さすがに、移動しっぱなしだったからね。まともな休憩もしないですぐに首里に行って。疲れて当然だよ」
 圭太は、荷物を開けながらそう言う。
「しかし、気温的には少し高いくらいで、そう大差はないんだな」
「そうだね。まだこの時期だからだと思うけど、そう差はないね」
 五月のこの時期、沖縄と関東では気温にそう差はない。もちろん沖縄はコンスタントに二十度を越えているが。
「ところで、圭太」
「ん?」
「自由行動は、笹峰と一緒なんだよな?」
「うん、そうだけど」
 二年連続同じクラスになった明夫は、当然のことながら圭太と柚紀の関係は知っている。
「しかしさ、おまえらってホント、四六時中一緒にいるよな。さすがに飽きないか?」
「今のところはそんなことないけど。僕のことはどうかわからないけど、柚紀は、見ていて飽きないよ」
「へえへえ、それはようござんした」
 彼女のいない明夫にとっては、それは単なるのろけ話にしか聞こえないのである。
「明夫はどうなの? 彼女、作ろうとか思わないの?」
「ん〜、今のところはいいと思ってる」
「どうして?」
「部活に専念したいからな。今年はなにがなんでもレギュラーで総体を迎えなくちゃならんし」
「なるほど」
 明夫は男子バレー部に所属しており、レギュラー奪取を目指している。
「ま、そんなことはどうでもいいや。今は、修学旅行を楽しもうぜ」
「そうだね」
 六時過ぎに夕食となった。
 食事自体はオーソドックスなもので、ただ、数品沖縄料理が入っていた。
 食事が終わると、そのまま反省会と連絡事項の伝達である。
 それでも初日からは注意事項もほとんどなく、程なくしてそれは終わった。
 解散し、部屋に戻ろうという時。
「圭太。ちょっと待って」
 柚紀が圭太を呼び止めた。
「どうしたの?」
「時間、あるよね?」
「うん。消灯時間まではあるけど」
「じゃあさ、ちょっと部屋で話そ」
 そう言って柚紀は圭太を拉致、もとい、部屋へ連れて行った。
「さ、適当に座って」
 と言いながら、自分の隣に座るように暗に言っているのである。
「ひとり、じゃないよね?」
「うん。未来はちょっと『お出かけ』」
 もちろん、その『お出かけ』は柚紀が仕向けたことなのだが。
「ん〜、圭太」
 柚紀は、すりすりと圭太にすり寄る。
 圭太は、そんな柚紀の髪を優しく撫でる。
「圭太は、髪は長いのと短いの、どっちがいい?」
「特にどっちってのはないけど。そうだなぁ、強いて言えば、長い方が好きかな」
「じゃあ、私はこのまま髪、伸ばしていてもいいよね?」
「柚紀にとっては、この髪は宝物も同然でしょ?」
「うん、まあ、そうだけど。でも、圭太が切った方がいいって言えば、切るよ」
 そう言って柚紀は、自分の髪に触れた。
「僕は、そんなことは言わないよ。僕は、柚紀のこの髪も好きだから」
「ありがと、圭太」
 自分が大切にしているものを好きだと言われれば、やはり嬉しい。
 柚紀は、満面の笑みでそれに応えた。
「自由時間に泳げればよかったのにね」
「う〜ん、それはそうかもしれないけど、まだ本格的な海水浴シーズンじゃないからね。それに、それを許しちゃうと、みんなそれしかしないだろうし」
「ま、さすがにそれは問題よね」
 沖縄では五月であれば泳げる。ただ、本格的なシーズンは六月以降なので、少々時期外れな感もある。
「ねえ、圭太」
「なに?」
「ちょっと、手貸して」
「うん」
 圭太は、言われるまま手を出す。
 柚紀は、その圭太の手を取り、自分の胸に当てた。
「柚紀?」
「私の鼓動、感じる?」
「うん」
 手のひらを通して、柚紀の鼓動が伝わってくる。
「以前は圭太といるだけでドキドキしてたんだけど、今だと逆に落ち着くの。やっぱり、私たちの関係が変わったからかな?」
「そうだろうね。慣れた、というわけでもないと思うけど、柚紀が僕のことを理解しているからこそ、そうなるんだろうね」
「圭太もそう?」
「ん〜、残念ながら、僕はそういうのはないかな。いや、もちろん今は落ち着くよ。だけど、以前でも特にドキドキするようなことはなかったから」
「むぅ、どうして?」
 柚紀は、圭太のその感覚がお気に召さないらしい。
「まず、僕は女の人に対する免疫があったから。幸か不幸か、そういう環境で育ってきたからね」
「それは、まあ、わかるかな」
「次に、僕には『恋愛』というものに明確なイメージがなかったから」
「そっか、そうだよね。圭太は、誰ともつきあう気、なかったんだもんね」
 明快な答えを言われ、柚紀も納得している。
「理由はわかったけど、なんかそれって淋しいなぁ。私には女としての魅力がないって言われてるみたいで」
「そんなことないよ。柚紀は、十分魅力的だよ。それは、はじめて柚紀を見た時からそう思ってるし」
「そうなの?」
「うん。あっ、綺麗な子だなって、そう思ったよ」
「ふふっ、そっか」
 やはりそう言われて嬉しくない女性はいない。柚紀ももちろんそうである。
「私たちって、赤い糸で結ばれてたのかな?」
「今の状態を考えれば、そうも思えるよね」
 柚紀の言葉に圭太も頷く。
「はあ、やっぱりエッチしたいなぁ」
「さすがにそれはね」
「う〜う〜う〜、エッチしたいよぉ」
 柚紀は、そう言って駄々をこねる。
 とはいえ、さすがにそれは無理である。
「今は、これだけで我慢して」
 そう言って圭太は、キスをした。
「ん……」
「我慢、してくれる?」
「イヤ」
「柚紀ぃ……」
「冗談だよ。いくら私でも、時と場所くらいわきまえてるよ。ただし」
「ただし?」
「向こうに戻ったら、た〜っぷり抱いてもらうけどね」
「覚悟しておくよ」
 圭太は、もう一度キスをした。
 
 二日目は、ひめゆりの塔など南部の方を中心にルートが組まれていた。
 南部は、太平洋戦争末期、沖縄上陸戦の激戦地となった場所である。そのあたりは、沖縄戦跡国定公園として現在まで保存されてきている。
 沖縄に修学旅行に来れば、たいていそのあたりは訪れる。
 それでも、場所が場所なだけに、自由行動はそれほどできないでいた。
 さらに言えば、バス移動が多いので、あまり面白くない一日となった。
 三日目は、市内で一日自由行動である。
 多少雲は多いものの、いい天気で、観光日和となった。
 圭太と柚紀は、揃って市内一の繁華街、国際通りへとやって来た。
 ちなみに、ふたりとも私服である。基本的に集団で動く時は制服だが、それ以外では私服が許されていた。
「なんか、日本とアメリカと琉球が同居してるところだよね」
「うん、そんな感じがする」
 横浜や神戸、函館、長崎のような異国情緒漂う街、というわけではないが、それなりにアメリカの影響やもともとの琉球の色が残っている。
 ふたりは、とりあえず街を歩くことにした。
 一応ある程度の下調べはしていたが、やはり実際に見てみないと話にならない。
「沖縄といえば、やっぱりシーサーだよね」
 そう言って柚紀は、シーサーの置物を手に取る。
「このくらいの大きさなら、十分おみやげにできるよね」
「そうだね。でも、買うんだったら、あとの方がいいよ。持って歩くの大変だし」
「なるほど、それはそうね。じゃ、おみやげは後回しということで」
 平和通りは、商店街である。ここは国際通りに比べると庶民的で、活気もある。
 もともと闇市からはじまった商店街なため、余計に活気がある。
 公設市場には、沖縄らしい食材も数多く見られる。
 豚は、耳もしっぽも売られ、いかに沖縄の食生活に豚は重要かを物語っている。
 野菜も、ゴーヤーやヘチマなど、本州では普段はあまり食べないような食材も普通に売られている。
 しかし、そこが南国だと認識できるのは、やはり極彩色の魚であろう。派手な色の魚は南の海特有で、見た目こそ違うが、魚の味の方はなかなかである。
 ふたりは、そんなところをまわりながら、沖縄を満喫する。
 昼食は琉球料理の店に入り、本格的な琉球料理を食べた。
 見た目はこってりしていても、どの料理も意外にあっさりしている。さらに、黒糖が使われているので、体にもいい。
 そんな料理に舌鼓を打った。
 午後も基本的にはそんな感じで市内を見てまわる。
「ふう、さすがにこれだけ歩くと疲れるね」
 適当な時間にふたりは休憩をとった。
「でも、やっぱり沖縄は違うよね。なんか、同じ日本だっていうのが信じられないくらいだもん」
「もともとは別の国だったからね。それだけ独自の文化が発達してるんだよ」
「こうやっていろいろ見てくると、沖縄も海や観光だけじゃないって思うよ」
 沖縄の代名詞は、なんといっても青い海である。
 それに続く観光資源は、やはり首里城や沖縄戦の跡地などである。
 しかし、実際にはそれだけではない。那覇市内にも見所は多い。
 もちろん那覇だけではない。沖縄本島だけでもいろいろ見所はある。そういう部分があまりクローズアップされていないだけである。
 だからこそ実際にそれを見て、経験をすると、柚紀のような感想を持つのである。
「こういうところに住めたら、それはそれでいいだろうね」
「住んでみたい?」
「ん〜、まだそこまでは思わないけど。選択肢には入れたくはなるよね」
 柚紀は、素直な意見を述べる。
「ま、私は圭太と一緒なら、どこでもいいけどね」
 結局はそういうことである。
 それから土産物屋などでおみやげを買い、ホテルに戻った。
 三日目は、おおむねそんな感じで過ぎていった。
 
 四日目は、朝から飛行機で石垣島へ。
 那覇からおよそ一時間で、石垣島に着く。船もあるが、時間がかかるため、飛行機になった。
 石垣島は、琉球諸島先島諸島八重山列島に属している。島の大きさとしては、沖縄本島、西表島に次いで大きい。
 観光が主な産業で、観光客も多い。
 そんな石垣島で行うのは、キャンプである。
 高校生にもなって今更キャンプとは思うが、これは学校の方針である。
 キャンプ場でテントを張り、寝床さえ確保すれば、あとは自由時間である。
 キャンプ場の近くには白い砂浜もあり、絶好のロケーションである。
 テントは比較的大きめなものを使い、ひとつに四人くらいが寝る計算だった。
 圭太たちもテントを張り終え、自由時間となっていた。
 そこへ、柚紀がやって来る。
「圭太。もうテントは張り終わったの?」
「うん」
「じゃあ、ちょっと私につきあって」
 そう言って柚紀は、圭太を砂浜へと連れて行った。
「泳げないけど、こうして海を眺めてるだけでも、落ち着くね」
「うん、そうだね」
 砂浜には、ふたりのほかにも何人も一高生がいる。
 中には海に入って水をかけあっている者もいる。
「圭太は、海と山、どっちが好き?」
「僕は、海の方が好きかな。もちろん山が嫌いなわけじゃないよ」
「私も海の方が好き。海を見ていると、なんていうのかな、心の底から安心できるっていうか。やっぱり、『母なる海』だからかな?」
「そうだね」
 すべての生物は、海の中で生まれた。だからこそ、人間も海を見ると落ち着くのである。
「それにしても、キャンプくらい好きな人たちと組ませてくれればいいのにね」
「一応、そうだと思うけど」
「それは、あくまでも男女別でしょ? 私が言ってるのは、男女一緒でってこと」
「さすがにそれは問題があるんじゃないかな?」
 圭太は、苦笑しつつそう言う。
「どうして? 別に間違いが起こったっていいじゃない。高二にもなって、それがどういうことかわからない人なんていないだろうし」
「それはそうかもしれないけど……」
「だってさ、どんなことしても、しちゃう人はしちゃうんだから」
 柚紀の言いたいことは、それである。
「ねえ、圭太。夜になんとか抜け出せないかな?」
「たぶん無理だと思うよ。先生たちも見回るだろうし」
「真夜中でも?」
「それはわからないけど」
「じゃあさ、二時くらいに出てみない?」
「う〜ん、いいけど、起きられるかな?」
「寝なければいいのよ」
 柚紀は、ビシッとそう言う。
「うん、決まり。二時にこの砂浜で。いい?」
「なんとかがんばってみるよ」
 
 夕食、キャンプファイヤーと終わり、就寝時間となる。
 とはいえ、それを素直に聞く生徒などそういない。たいていはテントの中で眠くなるまで話している。
 普段ならそういう話には加わらない圭太であったが、柚紀とのことがあり、眠気覚ましに加わっていた。
 それも日付が変わる頃には終わる。
 圭太は、そっと外の様子を伺う。
 ちらほらと明かりが見えるのは、先生たちの持っている明かりである。さすがにその時間では見回りがいる。
 圭太は、時計を確認しつつ、うつらうつらしていた。
 時計の長針が二度まわり、約束の二時になった。
 草木も眠る丑三つ時である。
 外を確認すると、明かりは見えなかった。どうやら、柚紀の勝ちのようである。
 圭太は、ほかの面々を起こさないようにテントを出た。
 外は、さすがに涼しかった。
 砂浜に出ると、耳に届くのは波の音だけ。
 空を見上げれば、降るような星空。
 そんな光景を見たら、圭太ならずとも見とれてしまうだろう。
「圭太?」
 そんな圭太に声がかかった。
「よかった。圭太で」
 暗いので、近くまで来ないと相手も確認できない。
「ねえ、圭太。少し向こうまで行こ」
 ふたりは、砂浜を歩いていく。
「いいよね、こういう雰囲気」
 柚紀は、嬉しそうに腕を組む。
「白い砂浜、聞こえてくるのは潮騒だけ。見上げれば満天の星空。すっごくムードがあるよね」
「そうだね」
「そうするとさ、こんな気分にならない?」
 そう言って柚紀は、圭太にキスをする。
「ね、しよ」
「ホントに?」
「うん」
 柚紀は、圭太の手を取り、自分の胸に当てる。
「ね、圭太?」
 圭太は、ため息をつきつつ、頷いた。
 ふたりはできるだけ離れた場所、気づかれない場所に移動する。
「ん……」
 抱き合い、キスを交わす。
 圭太は、ティシャツをたくし上げ、ブラジャーもたくし上げる。
 直接胸に触れ、ふにふにと揉む。
「あっ、んっ」
 柚紀は、それだけで敏感に反応する。
 円を描くように揉み、形が変わるくらい強く揉む。
「んあっ」
 手のひらや指が、突起に触れるといっそう声が上がる。
 圭太は、左手で胸をもてあそびながら、右手を下半身に伸ばす。
 スパッツの上から少し強めに撫でる。
「んっ」
 それだけではまだまだ快感は弱いのか、それほど敏感には反応しない。
「柚紀、そこに手をついて」
「こう?」
 柚紀は、木の幹に手をつき、後ろを向く。
 圭太は、スパッツとショーツを脱がせる。
 後ろから秘所に触れる。
「やんっ」
 つぷっと指が中に入る。
「んんっ、あんっ」
 シチュエーションのせいか、柚紀はすぐに濡れてきた。
「んっ、圭太、もう大丈夫だよ」
「うん」
 圭太はモノを取り出し、一気に突いた。
「んああっ」
 しっかり腰を押さえ、モノを突き立てる。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
 柚紀は、体が落ちないように必死に幹をつかむが、次第に力も入らなくなってくる。
「んんっ、んくっ、あんっ」
「んっ、柚紀っ」
「圭太っ、ああっ」
 がくがくと足が震えてくる。
「いいっ、もうっ、私っ」
 圭太もラストスパートと言わんばかりに、腰を打ち付ける。
「んくっ、ああああっ!」
「くっ……」
 ふたりは、同時に達した。
 圭太は、大量の白濁液を、地面に飛ばした。
「ん、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
 荒い息の中、圭太は柚紀を立たせ、抱きしめる。
「圭太……素敵だったよ……」
 柚紀は、そう言って微笑んだ。
 圭太は、なにも言わず、しばらくそうしていた。
 
 最終日。
 その日はもう地元へ帰るだけである。
 そんな中、圭太と柚紀は、飛行機の中では爆睡だった。さすがに夜中にあれだけのことをしていれば、そうもなるだろう。
 地元へと帰り着いたのは、もう夕方になってからだった。大きな荷物は宅配便で送っているためそれほど荷物はないが、それでもその段階になると旅行中の疲れが一気に出てくる。
 家に帰るのも一苦労である。
 その日ばかりは圭太もバスで帰った。
 そして、家では夕食後、いつもより早めに寝た。
 こうして修学旅行は幕を閉じた。
 
 二
 修学旅行明けの五月十二日。
 圭太は、珍しく十時くらいまで寝ていた。さすがに一気に疲れが出たのだろう。学校も部活も休みのため、特に早く起きる必要もない。だから、琴美も琴絵も朱美も起こさなかったのである。
 朝食を軽く食べ、しばらくリビングでのんびりする。
 昼頃、店の方に顔を出す。
「母さん。手伝おうか?」
「そうしてくれる?」
 鈴奈は大学のため、琴美ひとりだった。
 一応昼時はそれなりに人が入るから、ひとりではなかなか大変である。
 圭太は、ウェイターとして店を手伝う。
 さすがは跡取り息子という感じで、すべてにおいて手慣れていた。
 それなりの格好をして毎日店に出ていれば、きっと女性客が増えるだろう。
 現在の『桜亭』の客の男女比は、圧倒的に男性客が多い。それは当然のことながら、看板娘であるところの鈴奈目当ての客である。さらに言えば、琴美も密かに人気がある。とても二児の母親とは思えない若さが、その理由である。
 そこに女性客を取り込むには、やはり圭太の力が必要不可欠である。
 そのことを圭太はどのくらい理解しているかは、定かではない。
 二時近くになり、客の入りも落ち着いてきた。
「どう、久々にこの時間帯に手伝ってみて?」
「大丈夫。勘は鈍ってないよ」
「あら、そうなの? じゃあ、すぐにでもここで働けるわね」
「必要ならそうするよ」
 圭太は、真面目にそう言った。
「そういえば、母さん」
「ん、なに?」
「鈴奈さんが教育実習の間、店の方はどうするの? さすがに二週間はきついと思うけど」
「そうね。そのことも少し考えないといけないわね」
 琴美は、困ったわ、と言っておとがいに指を当てた。
「いっそのこと、新しいバイト、雇おうかしら?」
「いるの、いい人?」
「一応心当たりがひとり」
「母さんがいいと思うなら、そうすればいいよ。それについては、僕も琴絵も発言権は持ってないし」
「そう? じゃあ、今度打診してみるわね。どうなるかはわからないけど」
 そう言って琴美は微笑んだ。見ようによっては、なにか企んでいるようにも見える。
 というか、実際企んでいるのだが。
 圭太は、そんなことは露程も思っていなかった。
 
 夕方前に、鈴奈がバイトに入った。
 同時に圭太は手伝う必要がなくなった。
 部屋に戻ってくつろいでいると──
「しまった……」
 カレンダーを見て、圭太はそう呟いた。
「確か昨日は、紗絵の……」
 圭太はそう言うや否や、財布をひっつかみ、部屋を家を出た。
 自転車に乗り、全速力で駅前へ向かう。
 商店街の一角に自転車を止め、急いでなにかを物色する。
 舐めるように店頭を見て、とある店に入った。
 
「ただいまぁ」
 七時前に、朱美が帰ってきた。
「おかえり、朱美」
「ただいま、圭兄」
「今日も紗絵と一緒に帰ってきたか?」
「うん、そこまでね」
「ちょっと出かけてくるから。そんなに時間はかからないと思うけど」
「あ、うん、いってらっしゃい」
 圭太は、あっという間に出て行ってしまった。
 家を出てから走る走る。
 全力というわけではないが、それでも走る。
 と、前方に人影を発見する。
 見慣れた人影である。
「紗絵」
 圭太は、駆け寄りながら声をかけた。
「あっ、先輩」
 振り返ったのは、紗絵である。
 突然のことに驚いている。ふたりきりの時の呼び方まで戻っているくらいである。
「どうしたんですか?」
「紗絵に渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの、ですか?」
 そう言って圭太は、持っていた紙袋を渡す。
「えっと、これは……?」
「昨日は、紗絵の誕生日だったから。一日遅れで悪いけど、誕生日プレゼント」
「えっ、覚えていてくれたんですか?」
「まあね」
「……ありがとうございます」
 紗絵は、それを大事そうに抱え、ぺこっと頭を下げた。
「気に入ってもらえるかどうかはわからないけどね」
「いえ、どんなものでも、圭太さんからもらったということが大事なんです」
「でも、開けてみてがっかりしないでよ」
「大丈夫です」
 そう言って紗絵は微笑んだ。
「じゃあ、僕はそろそろ戻るから」
「あの、圭太さん」
「うん?」
「今度、このお礼がしたいので、うちに呼んでもいいですか?」
「別にお礼なんて必要ないけど、まあ、行くのはいいよ」
「わかりました。今度、都合がついた時に呼びますね」
「うん。それじゃあ」
「はい。ありがとうございました」
 圭太は、紗絵の笑顔に見送られ、家に戻った。
 
 五月も半ばとなり、学校生活にも落ち着きが出てきていた。特に一年はそうで、慣れが出てくる頃でもある。
 二、三年は相変わらずだが、学校内には活気があった。
 運動部は、六月の高校総体に向けて、猛練習の最中である。
 吹奏楽部でも、コンサートに向けての練習がかなり本格化し、細かな部分にまで注意が飛ぶようになった。
 同時にコンサート自体の準備も進み、特に第二部の原案はそろそろ佳境に入っていた。
 
 五月十六日。
 その日、部活は午前中で、午後はなにもなかった。
 家に帰った圭太に、琴美が声をかけてきた。
「圭太。この前新しいバイト云々の話、してたでしょ?」
「うん」
「それで、今日、その人が来るのよ」
「そうなの? 急だね」
「鈴奈ちゃんが入れなくなってから教えていては、間に合わないでしょう? だからよ」
「そっか」
「それで、圭太にも同席してもらいたいんだけど、いいかしら?」
「それは構わないよ」
「じゃあ、来たら呼ぶから」
「わかった」
 圭太は、一度部屋に戻った。
 少しすると、朱美が訪ねてきた。
「圭兄。教えてほしいことがあるんだけど」
 そう言って持ってきたのは、数学の教科書だった。
「ここの応用問題がどうしてもわからなくて」
「これは、この公式を当てはめると簡単に解けるよ」
 しかし、圭太はそれをあっさりと解決する。
「……ん〜、あっ、なるほど」
 朱美も圭太のそのヒントで、どうやら理解できたらしい。
「やっぱり圭兄は頭いいね」
「そんなことないよ。僕より頭のいい人はたくさんいるから」
 あくまでも謙遜する圭太。
「よし、このまま宿題終わらせなくちゃ」
 そう言って朱美は自分の部屋へ戻った。
 それと入れ替わりに、琴美がやって来る。
「圭太、来たからお願い」
「うん」
 圭太が店に出るとそこには──
「と、ともみ先輩?」
「やっほ」
 紛れもなく安田ともみ本人がいた。
「ほら、とりあえず座りなさい」
 訊く前に、座らされた。
「実はね、ともみさんが大学に合格したと聞いてから、鈴奈ちゃんの次のバイトにどうかしらって思ってたのよ」
 琴美はごく簡単に経緯を説明する。
「それで、今回のことを話したら、やってもいいってことだったから」
「そうなんですか?」
「ええ、言ったわよ」
「それじゃあ、ともみさん。改めて確認するわね」
「はい」
「バイトは、大学の講義がない時、最初はウェイトレスの仕事のみ、土日はできれば入ってほしい。こんなところかしら。どう、それでもやるかしら?」
 琴美は、最終確認をする。
「やります。やらせてください」
 ともみは、間髪入れずにそう言った。
「そう、わかったわ。圭太はどう?」
「僕は、いいと思うよ。ただ」
「ただ?」
「よりにもよって、どうして先輩なのかと思って」
「知ってる人の方がいいに決まっているもの」
「……なるほど」
 明瞭な答えの前に、圭太は為す術もなかった。
「それじゃあ、ともみさん。バイトの方は、少しずつでいいから、入ってね」
「わかりました」
 
「まさか先輩とは思いませんでした」
 圭太はそう言ってため息をついた。
「驚いたでしょ?」
「ええ、これ以上ないくらいに驚きました」
「ま、それが琴美さんの目的だったみたいだし」
 ともみは、笑ってそう言う。
「母さんも息子をからかってどこが楽しいのか……」
「それだけ想われてるってことでしょ?」
 それは圭太にもわかっていた。とはいえ、さすがに今回のことは意外を通り越していたために、愚痴がこぼれたのだ。
「私としては、喜んでほしかったんだけどね」
「えっ……?」
「だって、これで一緒にいられる時間が増えるでしょ?」
 ともみは、そっと圭太に寄り添った。
「圭太は、私と一緒にいるの、イヤ?」
「そ、そんなことないですよ」
「じゃあ、いいでしょ?」
「……別に、認めてないわけじゃないんですよ。ただ、事前に話してほしかっただけです。まったく知らない人だったら、確かに母さんが独断で決めても文句は言いません。でも、先輩は知らない人じゃないですから」
 少し真剣な表情でそう言う。
「ホント、圭太は真面目よね。それに頑固。まあでも、今回はちょっとだけ悪かったとは思ってるわ。だから、これで許して」
 そう言ってともみは圭太にキスをした。
「ね、圭太?」
「先輩もずるいですよ」
「なにが?」
「先輩にそう言われて、僕が許さないわけないじゃないですか」
「ふふっ、そう?」
「はい、そうです」
 今度は圭太からキスをした。
「先輩。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 
「圭太先輩」
 週の半ば。
 昼休みに所用で社会科教員室に行っていた圭太。その圭太に廊下で声がかかった。
 声をかけたのは、詩織で、一緒に紗絵もいた。
 少し前までなら珍しい組み合わせである。
「社会科室に用だったんですか?」
「ちょっとね。ふたりは?」
「別にこれといって用があるわけじゃないんですけど」
「そっか」
「先輩、時間はありますか?」
「うん、もう用事はないからね」
「それじゃあ、少しつきあってもらえますか?」
 圭太は、ふたりに誘われて屋上へと上がった。
 屋上は初夏の風が吹き抜ける絶好の場所となっていた。
 陽気のせいか、普段はほとんど誰もいない屋上に、ちらほらと生徒の姿がある。
「先輩に訊きたいことがあるんですけど」
「ん、なに?」
「ここで私と詩織が先輩に膝枕しますって言ったら、どっちを選びますか?」
 紗絵は、少し真剣な表情でそう言う。
 詩織も期待に満ちた目で圭太を見つめている。
 究極の選択というわけではないだろうが、あまり積極的には答えられそうにない質問だった。
「そうだなぁ、僕としては柚紀にしてもらうのが一番いいんだけどね」
 珍しく皮肉を込めて答えた。
「柚紀先輩と比べられたら、勝てるわけないじゃないですか」
 さすがに紗絵も非難の声を上げる。
「先輩もいぢわるなこと言うんですね」
「たまにはね。それに、膝枕なんて誰かがいるところでは普通はしないからね。そういういぢわるな質問に、いぢわるな答えを返してみたんだけどね」
 そう言って圭太は笑った。
「紗絵も詩織も、ほかを気にしすぎだと思うよ」
「気にもなりますよ。先輩のまわりにいる人たちは、みんな魅力的なんですから」
「そうですよ。特に私なんて出遅れてますから、余計に気になります」
「あ、あはは……」
 紗絵も詩織も一歩も引く気はないらしい。
『先輩』
 ふたりの声が見事に重なった。
「まあまあ、ふたりとももう少し落ち着いて」
 一瞬緊張感が走ったふたりを、圭太はそう言ってなだめる。
 圭太にしてみれば、カワイイ後輩にはもう少し仲良くしてもらいたいと、そんなことを言える立場ではないにも関わらず、思っていた。
「僕は、ふたりに優劣なんてつけてないんだから。そうやって意識するのは、あまり意味はないよ」
 圭太は、ふたりの頭を撫でた。
「……微妙に誤魔化されたような気がします」
「……私も」
 とはいえ、ふたりとも圭太に頭を撫でられ、嬉しそうだった。
 
 その日の部活では、ウォーミングアップの練習以外は、ずっと合奏が行われていた。
 音楽室からは、第一部で演奏する曲が聞こえてくる。
 コンサートまで一ヶ月半となり、間に中間テストを挟むことも考え、急ピッチで仕上げが行われていた。
 一年も入部から一ヶ月以上が経ち、合奏に参加している者もいる。それでも上級生との差はなかなか埋めがたく、合奏でもよく注意されていた。
 合奏は全体的なレベルアップが目的とされ、個人に対する指摘よりもパートに対する指摘が多かった。
 そんな中で、トランペットもなかなか多くの指摘をされていた。ただ、その指摘に対してペット以外の部員は、それがある人物以外に出されていることを理解していた。
 圭太も逐次指摘されたことを譜面に書き込んでいる。しかし、その指摘は圭太の演奏にはあまり当てはまらない指摘だった。
 圭太としても、そのすべてが自分に対するものではないとわかっていても、パート全体のレベルアップのためには、そういう指摘をきちんと共有している必要がある。
 とはいえ、その指摘を生み出す演奏をしているほかのメンバーとしては、少々心苦しいものがあった。
 合奏は六時過ぎまで行われた。
「コンサートまでまだ時間があるから安心してるのかもしれないけど、今のままだととてもいい演奏なんてできないわよ」
 菜穂子は、一同を見回しながら続ける。
「個人としてもパートとしても、緊張感が足りないわ。こんなことでは、コンクールだってどうなることか。いい? これから中間テストまでの約一ヶ月、一週間に二回は合奏をするから。その都度指摘した部分が改善されていなければ、それ相応の課題を与えるつもりでいるから」
 いつになく厳しい菜穂子の言葉に、音楽室はシンと静まりかえっている。
「各パートのリーダーは、メンバーの状況をその都度確認すること。必要なら、指導を行い改善すること。できないのは、パート全体の責任だと思って。いいわね?」
『はいっ』
「それと、祥子、仁、圭太。三人にはそれぞれのパートを統括してもらうわ。さぼってるパートがあったら、遠慮なく指導すること。どうもあなたたちは責任の所在を明確にしないとやる気を出さないみたいだから」
 そして、黒板になにかを書く。
「ひとりは万人のために、万人はひとりのために。本来の意味とは違うけど、今あなたたちに必要なのは、そういう気持ちだと思うから。しっかり練習すること。いいわね?」
『はいっ』
「次の合奏は、日曜日に行うから。それじゃあ、今日は終わり」
「ありがとうございました」
『ありがとうございましたっ』
 緊張の糸が切れ、音楽室に喧噪が戻った。
 菜穂子はスコアをそのままに、ある場所へとやって来る。
「圭太。少し話があるの。いい?」
「わかりました」
 菜穂子は圭太をピアノのところへと連れて行く。
「今日の演奏、どう思った?」
「そうですね、先生が指摘した通りだと思います。まだまだレベル的には低いですね」
 圭太は、自分たちの演奏を、客観的に分析しそう言った。
「そうよね。だからさっきみたいなことを言ったのよ」
 菜穂子はふうとため息をついた。
「それで、少し考えたのよ。圭太、あなた、みんなを指導して」
「えっ、僕がですか?」
「ええ。少なくとも圭太は『演奏できてる』から。みんなをその位置まで持ってこいとは言わないけど、できるだけ近づけるようにしてほしいの。できる?」
「……先生が僕のことを評価しているのはわかります。ですが、僕にそこまでのことができるかどうかは、わかりません」
 圭太は、暗にその申し出を断った。
「じゃあ、こうしましょう。今度の合奏、あなたが指揮をして。私はその間にみんなを見ていくから。それくらいならできるわよね?」
「それくらいなら」
「さっきのパートの統括については、二年のあなたにはちょっと難しいと思ったから、こうやってほかのことを言ってるのよ。だから、与えられた仕事だと思ってがんばって」
「はい、わかりました」
 菜穂子は圭太の肩を軽く叩いて激励した。
「ああ、そうそう。圭太にひとつだけ」
「なんですか?」
「高音がたまにうわずることがあるから、気をつけて」
「はい」
 それから楽器を片づけ、副部長としての仕事をこなし、いつものメンバーと学校を出た。
「圭くんは、先生のお気に入りだね」
「そうでしょうかね。ただ単に僕は使いやすいからじゃないですか?」
「そんなことないよ。あの菜穂子先生がここまで誰かひとりにいろんなことを頼むなんて、少なくとも私の知る限りではないから。もちろん、部長とかそういう役に就いている人たちは別だよ」
 祥子は薄く微笑みながらそう言う。
「だけど、圭太が指導すると、厳しくなりそ」
「そうですね。先輩は練習では絶対に妥協しませんからね」
 圭太の指導をよく知っている紗絵が、柚紀の言葉に同意する。
「別に僕は指導はしないよ。その手伝いをするだけ。直接行うのは先生だから」
 一応圭太は間違いを指摘する。
 だが、そんなことは些細なことだと言わんばかりに、柚紀は言った。
「いくらそうだとしても、圭太『も』することに変わりないでしょ?」
「まあ、それはそうだけど……」
「でも、圭兄になら、いろいろ指導してもらいたいな」
 微妙に『いろいろ』という部分が強調されていた。
 圭太もそれに気づいていたが、あえてなにも言わなかった。
「理由はどうあれ、私たちのレベルが低いわけだから、もっとしっかり練習しないと、ますます先生と圭くんの仕事が増えちゃう」
「そうですね。明日からは気合い入れ直してがんばらないと」
 とりあえず、部員の士気は高まりそうだった。
 
 その日は、ともみの初バイトの日だった。
「鈴奈さん」
 圭太は、影から鈴奈を手招きで呼ぶ。
「どうしたの、圭くん?」
「ともみ先輩は、どうですか?」
「うん、特に問題はなかったよ。とはいっても、仕事自体難しいことはないんだけどね」
「そうですか」
 圭太は、まるで自分のことのようにホッとする。
「ふふっ、やっぱり心配だった?」
「それはまあ」
「大丈夫だよ。ともみちゃんは仕事を覚えるのも早いし、こういう人を相手にする仕事にはうってつけの笑顔も持ってるし」
「鈴奈さんがそう言うなら、大丈夫ですね」
 ともみは、違和感なく『桜亭』で働いていた。とてもはじめてバイトするとは思えない様である。
「そろそろ終わりだから、呼んでこようか?」
「いえ、終わってからにします」
「そっか。じゃあ、もう少しだけ待っててね」
 それからしばらくして、『桜亭』は閉店の時間を迎えた。
「はふ〜」
「おつかれさまです」
「うん、結構おつかれかも」
 ともみはそう言って苦笑した。
「鈴奈さんに聞きましたよ。特に問題もなくできていたって」
「まあ、確かに今日は特に問題はなかったけどね」
 それでもはじめてのバイトで、しかも初日ということで、精神的な疲労が強いようである。
「この調子なら、鈴奈さんが入れない間も大丈夫ですね」
「それは、これから次第よ」
「大丈夫ですよ。僕もともみ先輩なら大丈夫だと思ってますから」
「ふふっ、その期待に応えられるようにがんばってみるわ」
 
 五月二十二日は、朝から強い雨が降っていた。
 圭太は窓を叩く雨音で目が覚めたくらいである。
 低くたれ込めた雲から、大粒の雨が間断なく降ってくる。
 朝の天気予報では、雨が上がるのは今夜半になってからということだった。
 そんな日は、基本的に気分は落ちてくるものである。
「はあ……」
 朝食を食べながら、琴絵はため息をついた。
「どうしたの?」
「せっかくの土曜日なのに、雨が降ってるから」
 レイニーブルーという感じだろうか。
 それは琴絵ならずとも一度くらいは経験したことはあるだろう。
「そうはいっても、雨まではどうすることもできないでしょ?」
「ん〜、そうなんだけどね」
「琴絵ちゃんは、雨嫌いなんだ」
「嫌いってわけじゃないけど、休みの日に降る雨は嫌い」
「それは贅沢だろ」
 圭太は、お茶をすすりながらスッパリ切り捨てる。
「じゃあ、お兄ちゃんは雨でもいいの?」
「いいとか悪いとか、そんな問題か?」
「ううぅ〜……」
「はは、圭兄も厳しいね」
 朱美は、この兄妹のやりとりを苦笑しつつ見ている。
「なんか、お兄ちゃんの性格、変わってきてるよね」
「そうか?」
「うん。やっぱり、柚紀さんの影響かな?」
「よく夫婦は似てくるって言うから、それと同じなのよ」
 琴美は、さらっとそう言った。
 しかし、そこにいる約二名にはさらっと流せない単語が入っていた。
「母さんもそうだったの?」
「そうねぇ、私も少しは影響されたと思うし、影響したと思うわよ」
「なるほどね。今の母さんの性格を形作ってるのは、父さんの影響が大きいわけか」
「あら、ずいぶんと含んだ言い方ね」
 圭太の物言いに、琴美は少しだけ視線を強め、言った。
「そんな顔しても、そんな風に言ってもダメだよ。昔の母さんの性格なんて、淑美叔母さんにでも聞けばわかるんだから」
 だが、圭太もなかなかのものである。そんな切り返しを用意していた。
「……淑美を口止めしとこうかしら」
 琴美は、少しだけ真剣にそう言う。
 高城家は朝から賑やかだった。
 
 外は大雨。それでも部活は行われる。
 各教室ではパート練習が行われている。基本的には前回の合奏で菜穂子から指摘された部分の修正である。
 ほかには修正した方がいいと思われる箇所を、それぞれに修正したりしている。
 そんなパート練習を祥子と圭太は見て回っていた。仁が一緒ではないのは、チューバはもともと人数が少ないという理由からである。
 最初にチェックしたのは、音楽室で練習しているパーカッションである。
 パーカッションは、リズムの縦のラインを揃えることに重点を置いていた。
「どう、聴いてみて?」
 リーダーの純子は、ふたりに意見を求めた。
「ブレスのタイミングであわせた方がいいですね。今のではパーカス内ではあってるかもしれませんけど、ほかとあわせる時どうかと思いますから」
「なるほど。祥子は?」
「もう少し大胆にやってもいいと思うけど。どこかあわせることに意識を傾けすぎている気がするの」
「そうですね。それは僕も思いました」
「わかったわ」
 次は音楽室から一番近い教室で練習しているトロンボーンである。
「さあ、ガツンと意見を述べてくれ」
「隣の人を感じて演奏してないと思うわ。合奏は隣の人の動きや息づかいを感じて、その上で全体であわせるものだから」
「ふむふむ」
「基本的なことなんですが、まだ譜面を追っているような気がします。それでは次になにをしたらいいかとか、注意されたことをすぐに実践できないと思うんです」
「確かに」
「あと、全体的に音程が不安定でした。もう少し音程を意識した方がいいですね」
 次はサックスとローウッド。
「指がまわってないところがありますね。あと、フォルテシモの時、音が割れているところがありました。そういうのはもう少し意識を高めればなくなると思いますので」
「悪くはないと思うけど、フォルテシモとピアニッシモの幅が狭いような気がしたから」
 次はフルート。
「ピッコロは音が高い分目立つから、もう少しきっちり仕上げないと。あと、タンギングが不明瞭な部分が多かった気がするわ」
「錯覚かもしれないんですけど、全体的に三十二分音符分くらい遅れるところがありました。特に速いところではもう少しテンポを意識して、次を意識する必要があると思います」
 次はユーフォニウム、チューバ、コントラバス。
「重いですね。もう少し軽くしないと、曲全体が重くなります。それと、低音部が不安定なので、もう少しロングトーンの練習が必要だと思います」
「もう少しメリハリがあるといいかも。あとは、曲全体を支えられるようにがんばるだけかな」
 次はホルン。
「音符の長さに対する意識がバラバラですね。四分音符はこれだけ、八分音符はこれだけと、パート内でもう少し徹底した方がいいですね」
「音の揺れが気になったかな。あとは、タンギング。特にスタッカートの時にばらつくから」
 次はクラリネット。
 ここで問題発生。
「先輩。正直に言ってもいいですか?」
 圭太はわざわざ祥子にそんなことを言った。
「ええ、もちろん」
 祥子も自分のパートのことなので、謙虚に聞く。
「現段階では、クラが一番問題が多いです。指がまわってない、譜面を追いすぎる、縦のラインと横のラインが揃っていない。あとは、基本的に練習不足な気がします」
 圭太の意見は、かなり厳しかった。
 それを聞き、さすがに祥子もショックを隠せなかった。
「クラは人数が多いですから、あわせるのは大変だと思いますけど。やればできるはずですから」
 一応フォローはしておく。
 次はトランペット。
「音の不安定さが目立つかな。ぽーんと抜けるような音があるといいんだけど」
「やっぱり、もう少しラインをあわせないとダメですね」
 最後はオーボエ。
「それほど大きな問題はないと思います。あとは、フルートやクラなんかとどれだけあわせられるかですね」
「曲のイメージをもう少し高められると、音に幅が出てくると思うわ」
 すべてをチェックし終わったのは、もうそろそろ部活も終わろうかという時間だった。
「やっぱり、圭くんのチェックは厳しいね」
「そうですか? 僕はそんなことないと思うんですけど」
「まあ、それだけ厳しくできるから、圭くんは上手なんだよ」
 そう言って祥子は微笑んだ。
 ミーティング後、各パートのリーダーが集められた。
「一応全部見て、指摘できるところは指摘したけど、それでもまだまだ足りないと思うから。それぞれもう少し意識を高く持って」
 意識の高揚を喚起する。
「明日は合奏があるけど、とにかくがんばって」
 実際は、そう言っている祥子のクラリネットが一番問題なのだが。
 もっとも、それは祥子も十分承知していることで、なんとかしないといけないと考えていることだろう。
 すべてを終え、音楽室にはいつものメンバーが残っていた。
「はあ、どうしよ〜……」
「そんなにクラはまずいんですか?」
「圭くんにかなり言われちゃったから」
 圭太に注目が集まる。
「まあ、誤魔化してもしょうがないから、率直な意見を言ったんだけどね」
「先輩は、本当にそういうところ、厳しいですよね」
「でも、今日のはパート全体に対する意見だったから、まだよかったのかも。個人単位で言われたら、かなりへこむかも」
 私もね、と言って柚紀は苦笑する。
「そんな圭くんをしても、ほとんど意見が出なかったのが──」
 そこで、詩織を見る祥子。
「オーボエなの」
「そうなんですか?」
「一番まとまっていたから、いいと思って。言おうと思えば言えたことはあったけど、そういうのは合奏とかで指摘されると思ったから」
「でも、圭太先輩にそこまで言わせなかったっていうのは、すごいですね」
「練習熱心な三人だからね」
「いえ、そんなことは……」
 褒められ、詩織は恥ずかしそうに俯いた。
「私ももっと練習しないとダメかぁ」
「朱美の場合は、もっともっとかな?」
「うっ、圭兄、それはひどいよぉ」
 半泣きで抗議する朱美。
 音楽室に楽しそうな笑い声が響いた。
 
「あの、先輩」
「ん?」
 帰り際。
「午後は、なにか予定がありますか?」
「特にはないけど」
「それじゃあ、あの、この前のお礼がしたいので、うちに来てもらってもいいですか?」
 詩織は、頬を赤く染め、そう言った。
「いいよ。約束だし」
 と、こんなやりとりがあった。
 圭太は一度家に帰り、着替え、昼食を食べてから再び家を出た。
 雨は幾分弱まっていたが、それでもやむ気配はなかった。
 気温が高めなせいか、少しじめじめしていた。
 足下に注意しながら、少し時間をかけて詩織のマンションまでやって来た。
 エントランスで部屋番号を押し、呼び出す。
 詩織はすぐに入り口を開けた。
 エレベーターで九階へ上がる。
 そして、すぐに相原家の前に立った。
 インターホンを鳴らすと、今度もすぐに出てきた。
「まだ、結構降ってるみたいですね」
 リビングに通しながら、詩織はそう訊ねた。
「少し弱くなったけど、天気予報通り、夜までやみそうにないよ」
「そうですか」
 リビングに通された圭太は、前回と同じようにソファに座った。
「ひとりなの?」
「はい。両親ともに、出かけています。なにもこんな雨の日に、とも思うんですけどね」
 詩織は、お茶の準備をしながら答える。
「詩織のご両親は、趣味人なの?」
「どうですかね。いろいろやってはいるみたいですけど。私から見ると、手当たり次第という感じもありますけど」
「ははっ、なるほどね」
「どうぞ」
 お茶とお菓子をテーブルに並べる。
「そういえば、詩織はピアノもやっていたんだよね?」
「はい。以前に比べるとレッスンの時間も回数も減らしてはいますけど」
「ちょっと、聴いてみたいんだけど、いいかな?」
「ええ、いいですよ」
 詩織は、リビングにあるピアノの前に座った。
 鍵盤の上に手を置き、一度息を吐き出す。
 流麗なメロディー。
 音が、スーッと耳に届いた。
 それだけで詩織がかなりの実力の持ち主だとわかる。
 腕だけでいえば、柚紀に匹敵するか、それ以上かもしれない。
 短めの曲を弾き終わる。
「すごいよ。これだけ弾けるなら、コンクールなんかでも上位に入っていたんじゃないかな」
「何度か入賞したことはあります」
「やっぱり」
 素直に詩織の腕を誉める圭太。
 詩織は、それを嬉しそうに聞いていた。
 それからとりとめのない話をしつつ、お茶を楽しんだ。
「圭太さん」
「うん?」
「あの、ひとつ、いいですか?」
「なんだい?」
「また、抱いてくれますか?」
「抱いてほしいの?」
「……はい」
 
「ん……」
 キスをすると、詩織はほわわ〜んとした表情になる。
「ん、はあ……」
「カワイイよ、詩織」
 そう言って圭太は、もう一度キスをする。
「圭太さん、今日は、私にさせてもらえますか?」
「いいよ」
 詩織は、圭太をベッドに横たわらせ、そのズボンに手をかけた。
 ぎこちない手つきで、ズボンを脱がせる。
「…………」
 一瞬のためらいがあったが、トランクスに手をかけ、脱がせる。
 萎縮しているモノにそっと触れる。
「圭太さん……」
 そのままモノに口をつける。
 舌を使い、ちろちろと舐める。
 それにあわせ、次第にモノも大きくなる。
「ん、む……」
 モノを口に含み、舐める。
 必死さの中に、淫靡な妖しさがある。
 詩織くらい容姿の整った女の子がモノを舐めている様は、やはりどこか現実感に乏しい。
「んっ、詩織……」
「いいですよ、出しても」
 妖しく微笑み、先端をちゅっと吸う。
「うっ……」
 それに触発され、圭太は詩織の口内に白濁液を放った。
「んっ!」
 わかってはいても、詩織は思わず口を離そうとした。だが、なんとか思いとどまり、それをすべて受け入れる。
「んっ……ん……」
 少しずつそれを飲み下す。
「んっ、けほっ、けほっ」
「無理しなくてもいいのに」
「だ、大丈夫です。圭太さんのですから」
 そう言って微笑む。
「今度は僕がしてあげるから」
 圭太は体を起こし、詩織に触れた。
「んっ」
 服の上から胸を揉む。
 すぐにスカートの中に手を入れる。
「んっ、あんっ」
 ショーツの上から秘所に触れると、そこはしっとりと濡れていた。
「感じてたんだね」
「は、はい……」
 ショーツの中に手を入れ、指を挿れる。
「んんっ、あっ」
 同時に詩織は甘い吐息を漏らす。
「気持ち、いいです……」
「もっともっと気持ちよくなって」
 圭太はショーツを脱がせ、口をつける。
「やんっ、そんなっ……んあっ」
 ぴちゃぴちゃと音を立て、秘所を舐め上げる。
 止めどなくあふれてくる蜜で、圭太の口はすっかり濡れていた。
「圭太さん、私、もう……」
 熱に浮かされた表情で、圭太を求める。
 圭太は、モノを詩織の秘所にあてがった。
「いくよ?」
「はい……」
 そのまま腰を落とす。
「んあっ」
 一気に体奥を突く。
 詩織の中は、圭太のモノにしっかりと絡みつき、離そうとしない。
「んっ、あんっ」
 腰を動かすと、詩織は目を閉じ、その快感に身を委ねる。
「んくっ、ああっ」
 圭太は、ぷっくりとふくらんだ最も敏感な部分を指で触れる。
「やっ、やんっ、だ、ダメですっ」
 さらなる快感に、詩織の感覚は麻痺寸前だった。
「け、圭太さんっ」
 肌と肌がぶつかる。
「んああっ、も、もうっ」
「詩織っ」
「圭太さんっ、圭太さんっ」
 詩織は、圭太を抱きしめる。
 そして──
「んんっ、あああっ!」
「くっ」
 詩織は絶頂を迎えた。
 ほぼ同時に圭太も白濁液をその中に放っていた。
「はあ、はあ、圭太さん……」
「ん、詩織……」
 キスを交わす。
「このまま、もう一度、いいですか?」
「詩織姫のお好きなように」
「ふふっ、はい」
 
「圭太さんの背中って、大きいですよね」
 詩織は、圭太の背中を流しながらそう言う。
 ふたりは、三度ほど愛し合ったあと、こうして一緒に風呂に入っていた。
「大きくて、暖かくて、とても頼りになる背中です」
「詩織にそう言ってもらえるなんて、光栄だね」
「からかわないでください。私は、本当にそう思ってるんですから」
 ぷうと頬を膨らませ、抗議する。
「わかってるよ。詩織は、いつでも僕に対しては本音をぶつけてくれるから。だから、それがウソかどうかなんて、すぐにわかる」
「…………」
「それに、僕は詩織のことが好きだからね。好きな子のことくらいわからなくて、どうして好きだって言えると思う?」
「圭太さん……」
 詩織は、潤んだ瞳で背中越しに圭太を見つめる。圭太は詩織の方を見ているわけではないが、それでも今詩織がどんな表情で、どんなことをしているかくらいは、わかった。
「……圭太さん」
「ん?」
「私を、もらってください」
「えっ……?」
 圭太は、思わず振り返っていた。
「私、もう圭太さん以外の人を、好きになれないと思います。これを言えば圭太さんが困ってしまうのもわかっています。でも、私は……」
 真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐに圭太を見つめ、まったく視線をそらさずに、そう言った。
 それに対し、圭太はわずかに逡巡したが、いつもの笑みを浮かべ、答えた。
「僕も男だからね、詩織みたいな子にそう言ってもらえるのは嬉しい。できれば、それに応えてあげたい。だけど、それだけは、できない」
 圭太は、きっぱりと詩織の言葉を否定した。
「ただ、ひとつだけ誤解しないでほしいことがあるんだ」
「なんですか?」
「それは、あくまでも『僕が』応えてあげられないってこと。詩織が『勝手に』することには、僕もあまり言えないからね」
「それって……」
「柚紀には、内緒だよ?」
「は、はいっ!」
 詩織は、満面の笑みを浮かべた。
 そんな詩織を見て、圭太も自然と笑みがこぼれていた。
「圭太さん。私、幸せです」
「ダメだよ、そんなことくらいで幸せなんて言ったら。世の中には、もっといろんなことがあるんだし。それに、詩織の人生はまだまだこれからなんだから」
「ふふっ、そうですね。でも、そのこれから先の幸せは、圭太さんと一緒に見つけていきたいです」
「僕でいいの?」
「圭太さんじゃなきゃダメなんです」
「そういうことなら、できる限りがんばるよ」
「ありがとうございます」
 そう言って詩織は、圭太に抱きついた。
「詩織は、案外甘えん坊なのかな?」
「ん〜、どうですかね? でも、圭太さんになら、たくさん甘えたいです」
 ニコッと笑い、ネコのようにじゃれつく。
 しかし、裸のままそんなことをすれば、男の圭太は、反応してしまう。
「圭太さん?」
「詩織があまりにもカワイイからね」
 そう言って苦笑する。
「いいですよ、私は。いっぱい、愛してください」
 
 三
 五月もそろそろ終わろうという頃。
 テレビではそろそろ梅雨の話題が出はじめている。気象庁によると、梅雨入りは全国的に平年並みという予想だった。
 雨量に関しては、梅雨入り直後は少なく、六月末くらいから多くなるということだった。
 梅雨明けは、平年より若干早いということだった。
 新聞の折り込み広告にも、除湿器や乾燥機など、湿度の高い時期を狙った商品が目玉に取り上げられていた。
 さらに、部屋や風呂場のカビ対策、雨の日グッズなど、とにかく便乗商法が多かった。
 とはいえ、梅雨はまだ少し先のことである。
 その日は、五月晴れのお手本のような天気だった。
 柚紀は、珍しく祥子と一緒に屋上にいた。
 昼休みの屋上には、ちらほらと生徒の姿があった。
「いい天気だね」
「そうですね」
 ふたりは、フェンス際で風にその身を任せていた。
 すこぶるつきの美少女がふたり並んでそうしている様は、どこか現実感に乏しかった。
「たまに、思うんです」
「なにを?」
「どうして私は圭太と一緒にいるのかな、って」
 柚紀は、あまり感情を込めず、そう呟いた。
「先輩には今更だとは思うんですけど、圭太って、ホントに『完璧』じゃないですか」
「うん、そうだね」
「そんな圭太と欠点だらけの私が、どうして一緒にいるのかなって。ホントに突拍子もないことなんですけど、そう思うことがあるんです」
「それは、柚紀だけじゃないと思うな」
「先輩もそうですか?」
「うん」
 祥子は、フェンスに背を預け、続ける。
「圭くんと一緒にいると、今まで見えなかった、知らなかった自分が見え、わかるの。その度に一喜一憂することはないけど、でも、たまにショックなこともあって。圭くんは、鏡みたいな存在なのかな。そこに圭くんはいて、ちゃんと自己主張してるけど、それでも一緒に相手をも映し出してしまう。だから、自分に自信がないとそんなネガティブなことを思い、考えてしまうんだろうね」
 祥子の言葉には、さすがの重みがあった。
 中学の頃からずっと圭太のことを想い続け、今でも想っている祥子。そんな祥子だからこそ、そういう部分を的確に言えるのだ。
「でも、私は柚紀が羨ましい」
「羨ましい、ですか?」
「うん。なんだかんだいっても、圭くんが一番考えてるのは、やっぱり柚紀だから。たとえ私たちのことを考えてくれてても、それは、柚紀には及ばないし」
 少しだけ淋しそうな顔を見せる。
 しかし、それに対して柚紀は、なにも言わない。
「うぬぼれかもしれないけど、私は圭くんにともみ先輩や紗絵ちゃんたちより、ほんの少し多く想われてるって、そう思ってる」
「それは、私もそう思います。圭太は口ではみんな一緒だって言ってますけど、でも、多少の差があると思います。妹の琴絵ちゃんは別として、やっぱり祥子先輩はほかの人たちに比べて、大切に想われてると思います」
「ありがと。でもね、だからこそ柚紀が言ったみたいなこと、しょっちゅう思うの。私なんかと一緒にいて、圭くんはいいのかなって」
 結局、話はそこへ戻ってきた。
 だが、その答えはすでにふたりは持っている。それでもなんとなく愚痴、というわけではないが、同じ想いを持っている柚紀や祥子に聞いてほしかったのだ。
「先輩は、圭太との関係、どう続けていくつもりなんですか?」
「まだ、はっきりとは決めてないかな。ただ、圭くんの側から離れるつもりはないけど」
「私が圭太と一緒になってもですか?」
「うん」
 即答する。
「そうなるかどうかはわからないけど、それこそ『愛人』でもなんでもいいと思ってる」
「愛人、ですか……」
「圭くんの側にいて、圭くんを感じられればそれでいいの」
「でも、先輩は家のことがあるんじゃないですか?」
「家のことは関係ないよ。それこそ私は末っ子なんだから、好き勝手にやるつもり」
 そう言う祥子の顔には、はっきりとした意志を見て取れた。
 柚紀もそれを感じ取ってか、一瞬気圧された。
 だが、『正妻』の柚紀がそう簡単に引き下がるはずもない。
「今は先輩たちのこと認めてますけど、一緒になっても同じとは限りませんよ」
「じゃあ、逆に訊くけど、柚紀にあの圭くんの愛情を独り占めすること、できる?」
「それは……」
 絶妙な切り返しに、思わず答えに窮する。
「圭くんの愛情は、ひとりだけで収まるものじゃないからね。それは、柚紀もわかってるでしょ?」
「はい」
「まあ、私がこういうことを言う資格があるかどうかはわからないけど、それを決めるのは、結局は圭くんだと思うの」
 それも、わかっていたことだった。
 確かに圭太は柚紀の言うことは聞く。だが、それはあくまでも柚紀の言い分が自分の言い分と同じか、正しい時である。
 それがもし間違っていたり、引けないことならば自分の意見を通す強さも持っている。
 圭太は、自分の責任で祥子たちを抱いてきた。だからこそ、それをどう終わらせるかも、圭太自身が決めるはずである。そこに、柚紀の意見はほとんど反映されないだろう。
「だからね、私は圭くんが言うまでは、今と同じ関係でいようと思うの」
「……そうですか」
「ただ、ひとつだけ勘違いしないでね。別に私は圭くんとの仲を認めないわけじゃないし、邪魔しようと思ってるわけでもないの。圭くんが本当に幸せになれるなら、それが最善だと思うし。あくまでもそれがあってのことだから。優先順位は、私の方が下なの」
 祥子は、穏やかな笑みを浮かべ、そう言った。
「やっぱり、最大のライバルは、先輩です」
「そう?」
「はい。今の話を聞いて、改めてそう思いました」
「そっか。じゃあ、ライバルはライバルらしく、本命さんを焦らせないといけないかな」
「無理しなくてもいいですよ」
「無理なんてしないよ。ただ、ちょっとお父さまの力を借りて、圭くんをどこかへ連れて行くとか、そんな程度だから」
「……それは、犯罪です」
 柚紀は、半眼でそう言った。
「まあ、冗談はさておき、個人的には柚紀には負けたくないから。これからも全力で圭くんにぶつかっていくからね」
「お手柔らかにお願いします」
 そう言ってふたりは笑った。
 
 同じ日の同じ昼休み。
 後輩三人も一緒にいた。
 最近ではすっかりこの三人もうち解け、一緒にいることも多くなった。もちろん、圭太に対する想いは、誰にも負けていないという自負は持っているが。
「はあ、最近圭兄も忙しいから、なかなか構ってもらえないなぁ」
「朱美はいいじゃない、一緒に住んでるんだから」
「うん、そう思う。私も紗絵も、そういう面でかなりアドバンテージを取られてるんだから」
「とはいってもねぇ」
 朱美は、ため息をつく。
「圭兄は、家の要だから、私だけを相手にできるわけじゃないし。そんな圭兄を見てると、無理なことも言えないし」
「私たちって、損な役回りなのかな?」
「どうして?」
「だって、同じ学年じゃないから、そういうところでの交流はないし。それに、一見するとすぐに『妹』みたいに思われるし」
 紗絵は、そう言ってため息をついた。
「まあ、多少はあるかも」
 詩織もそれを認める。
「でもさ、だからって今の自分たちの立場を変えることなんてできないんだから、しょうがないでしょ」
 一応朱美はその意見を否定する。だが、それもあまり前向きではない。
「ねえ、ひとつ訊いてもいい?」
 朱美は、そう言い置いて訊ねた。
「ふたりは、はじめて圭兄に抱いてもらった時、どんな感じだった?」
「どんな感じって……」
「それは……」
 さすがの内容に、紗絵も詩織も言い淀んでいる。
「私たちが言う前に、朱美はどうだったの?」
「うん、人に訊ねる前に、自分のことを言わないと」
「私? 私は、想像以上だったかな」
「想像以上? なにが?」
「すべてが。圭兄に触れられた時の感じ方とか、ロストバージンした時の痛みとか、イっちゃう時の快感とか」
 朱美は、拍子抜けするほどあっさりとそう言った。
 これには聞いているふたりの方が照れているくらいだった。
「でも、圭兄に抱いてもらったってことが一番嬉しかったな。昔からの夢だったから。確かに小学校の頃は、カッコイイ従兄のお兄ちゃん、だったけどね。でも、それも次第に変わってきて。それに、いとこ同士は結婚できるって知ったから」
「だから、抱いてもらったの?」
「それは重要じゃないけどね。そういういとことかは関係なしに、圭兄のことは好きだったし、じゃあ、それをもっとちゃんと知ってもらうにはどうしたらいいかって、そう考えたの。その答えが、セックスだっただけ」
 朱美の話には、説得力があった。もちろん、その考え方が正しいかどうかは別である。
 ただ、少なくとも同じ圭太を想っている紗絵と詩織には、十分共感できる話だった。
「私はこんな感じだけど、ふたりは?」
「私は、ある意味では自分の想いを先輩に押しつけてしまったようなものだから」
 今度は、紗絵が話をする。
「全国大会で金賞が取れたら、抱いてください、そう言ったの」
「じゃあ、もし取り逃がしていたら、どうするつもりだったの?」
「潔くあきらめようと思ってた。でも、金賞は取れた。だから、私は自分の想いに素直になって、自分の想いを遂げようとしたの」
「そっか」
「ただ、私の場合は朱美と違って、焦りがあったと思うの」
「焦り? なにに対して?」
「去年の八月に、はじめて柚紀先輩を見た時、勝てない、そう思ったの。ホントは、その時点で私の負けなんだけどね。でも、そのままあきらめるのがイヤだったから、さっきの約束をして。柚紀先輩と同じところに立てるとは思ってなかったけど、それでも先輩とセックスすることで、少しでも追いつけるかもしれないって思って」
 紗絵は、淡々と話す。
「セックス自体は、まあ、朱美と同じような感想かな。ただ、終わっても柚紀先輩に追いつけそうな気が全然しなかった。先輩は確かに私を見ているのに、でも、その視線の先には私はいない。そう思えて。だから、いろんな意味で忘れられない想い出かな」
「なるほどね」
 それを聞き、朱美は大きく頷いた。
「じゃあ、最後は詩織」
「私は、ふたりに比べるともっと単純かも」
「単純?」
「うん。先輩のことが好きで、私は先輩のことをもっと知りたかったし、先輩にはもっと私のことを知ってもらいたかった。もちろんそこに出遅れを挽回しようって考えがなかったわけじゃないけど。そういうことの手段として、セックスがあったから」
「確かに、一番シンプルな理由かも」
「でも、さすがにいきなりセックスっていうのもどうかと思うけど」
 紗絵は、遠慮がちにそう言う。
「それを決意させたのは、ふたりだよ」
「私たち?」
「ほら、ふたりで私に言ってきたでしょ? 先輩とは男女の関係にあるんだって」
「……言ったわね」
「それがきっかけになってるの」
「…………」
 朱美も紗絵も、まさか自分たちが引き金になっていようとは思っていなかったようである。
「セックス自体は、想像以上に気持ちよかったかな。もちろん、最初は痛かったけど。でも、想いが通じてると、そういうのも忘れられたから」
「詩織は、強いね」
「どうして?」
「もし私が詩織と同じ立場だったら、そこまでのことできないもの。でも、詩織はそれをやってのけた。だから強いって言ったの」
 紗絵は、感心したように言う。
「紗絵も詩織も、いろいろなことを考えて抱かれたんだね」
「それはね。やっぱり、先輩には柚紀先輩という彼女がいるわけだから。なんの考えもなしにそういうことはできないから」
「そうだね」
 三人は、揃ってため息をつく。
「なんか、圭兄の話してたら、圭兄に会いたくなっちゃった」
「確かに」
「会いに行く?」
「そうしよっか?」
「そうね」
「行きましょう」
 そして、三人は揃って圭太に会いに行った。
 
 同じ日の同じ頃。
 四年になり一週間の講義の数が少なくなった鈴奈ではあるが、その日は必修科目があり出てきていた。
 少し時間をずらし学食へとやって来た鈴奈。
 ピークは過ぎていても、あちこちにまだ学生の姿はあった。
 B定食を頼み、席を探す。
 と、見知った顔を見つけた。
「こんにちは、ともみちゃん」
「鈴奈さん。こんにちは」
 それは、ともみだった。
「この時間にお昼なんだ」
「ええ。ちょうど休講になったのでずらしたんです」
「なるほど」
 鈴奈はなるほどと頷き、ともみの正面に座った。
「ここでこうして話すの、はじめてだね」
「そうですね。やっぱり、講義の数が違いますからね」
「ともみちゃんは毎日?」
「制限単位ギリギリまで採りました」
「みんな考えることは同じか。私も一年の時はそうしたし」
 B定食の主食であるスパゲティを口に運ぶ。
「岩手の田舎から出てきて、はじめてのひとり暮らしで、あの頃はホントに余裕がなかったからね」
「どうして『桜亭』でバイトを?」
「一番の理由は、大学以外のなにかをしていたかったから。それだけで終わるのって、ちょっと淋しいでしょ? そんなことを考えていた時、たまたま『桜亭』でバイトを募集しててね。うちからも近かったし、それでとりあえず申し込んでみたの。そして、今の私がいるんだけどね」
 そう言って微笑む。
「私にとって『桜亭』というか高城家は、もうひとつの実家みたいなものにまでなったしね。たぶん、『桜亭』以外でバイトしてたら、ここまで続かなかったと思うの。不規則な大学の講義にあわせてバイトするのはなかなか大変だし。だから、私は『桜亭』で働けて本当によかったと思ってる」
「それは、バイト中の鈴奈さんの姿を見ていると、よくわかります。本当に楽しそうに、生き生きと働いてますからね」
「ふふっ、そうかな?」
「はい。でも、楽しそうという部分の何割かは、圭太がいるからですよね?」
 ともみは、ちょっとだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ言った。
「そうだね。圭くんがいるっていうのは、大きいかもね」
 それに対し、鈴奈も笑顔でそう答える。
「琴美さんもいろいろ気にかけてくれてるけど、圭くんはこっちから頼っちゃってもいいかなって思えるくらい、本当にいろいろ気にかけてくれたから」
「それは、わかります」
「でもね、圭くんはずるいよね」
「なにがですか?」
「だって、私よりもずっと年下なのに、まるで年上の男の人みたいに居心地がいいから。見えないなにかで暖かく包み込んでくれるような感じ。そんな圭くんと一緒にいれば、好きになるのもある意味当然かなって思うの」
 そう言って鈴奈は、少しだけ俯いた。
「私はね、そんな圭くんの優しさにつけこむように関係を迫ったから。最初はずっと圭くんの『お姉さん』でもいいと思ってた。でも、魔が差したってわけじゃないけど、そんな関係に満足できなくなって」
「やっぱり、柚紀の存在が大きいですか?」
「間違いなく。心のどこかに、圭くんはまだ誰ともつきあうはずないって思ってたから。柚紀ちゃんとつきあってるって知って、少なからずショックだったし」
 鈴奈は、再び笑顔で言った。
「だけどね、今の状況はそれはそれで楽しいからいいの。完全ではないにしろ、私の想いはちゃんと遂げられたし。それに、なによりも圭くんが私のことを単なる『お姉さん』じゃなく、ひとりの女として見てくれていることが嬉しいから」
「でも、そうやって一歩引いているところは、やっぱり『お姉さん』てことですよね?」
「ふふっ、そうかもね。でも、それはともみちゃんも同じでしょ?」
「まさにその通りです」
 ともみは笑顔で答える。
「私も、結局は『お姉さん』の域を完全には抜けられないんだなって、最近思ってます。同じ年上である祥子はそんなことないんですけどね」
「祥子ちゃんは、まあ、ちょっと特殊かな。男の人は、ああいうタイプには総じて弱いからね」
「世の中って、不公平ですよね」
「ホントに」
 ふたりはそう言って笑いあった。
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