僕がいて、君がいて
 
第十三章「波乱の幕開けは桜とともに」
 
 一
 日本人にとって、桜の花ほど好まれている花はない。
 薄いピンクの可憐な花が枝いっぱいに咲き誇る様は、日本人ならずとも心動かされるだろう。事実、海外でも桜は人気がある。
 ただ、その思い入れは日本人がやはり世界一であろう。
 開花からおよそ一週間で満開を迎える。散るまでにおよそ十日から二週間。
 その短い間に、やれ花見だ、やれ桜鑑賞会だと、とにかくいろいろ行われる。
 桜祭りと称される祭りがどれだけこの日本にはあるだろうか。
 そんな桜の花が、その街でも開花した。もっとも、住民がそのことを知るのは、早くても昼のニュースである。遅ければ夜になってから。
「ああ、咲いたんだ」
 そんな感じになることもしばしばである。
 とにかく、新年度最初の日、つまり四月一日に桜は開花した。
 
 その日、圭太は久々に一日かけて柚紀とデートすることになっていた。
 というのも、その日は学校側の事情で校舎が使えず、部活ができないからだ。使えないことをエイプリルフールのネタだと言った者もいるが、別にネタでもなんでもなかった。
 そんなわけで、圭太は十一時前には待ち合わせ場所である駅前繁華街に到着していた。
 待ち合わせ場所に着き、時計を確認する。待ち合わせ時間は十一時である。
 まだ、あと十分近くある。
 圭太は、大きく息を吐き、空を見上げた。
 四月の空は、とても綺麗に澄んでいた。
 陽差しは春よりは少し強めだったが、こうしてどこかに出るにはちょうどいいくらいだった。
 風も穏やかで、咲いたばかりの桜の下で花見をするのにも、絶好の条件が整っていた。
「圭太、お待たせ」
 そこへ、春風のようなさわやかな笑みを浮かべた柚紀がやって来た。
 クリーム色のワンピースのスカートが、ふわふわと揺れる。
「丸一日デートに当てられるなんて、すっごく久しぶりだよね?」
「そうだね」
「というわけで、今日は今までの鬱憤を晴らすわよ」
 柚紀は、圭太の腕を取って、笑顔でそう言った。
「まずは、服を見に行こ」
 ふたりは、商店街の一角にある服飾店に入った。
「うわ〜、いいないいな」
 柚紀は、マネキンが身につけている服を見てそう言った。
「こういうシックなのもいいよね」
「柚紀なら、なにを着ても似合うと思うけどね」
「だといいけど……って、うわ、高っ」
 しかし、それもつけられている値札を見てすぐに変わった。
「ゼロが、一桁多いよ」
 さすがに客引き用の商品はなかなかの値段だった。高校生の柚紀には、少々どころか、かなり厳しいものだった。
「ま、いいや。安くてもいいものを見つけて、それを着こなす。それが醍醐味ってね」
 ふたりは、比較的リーズナブルな一角へと場所を移した。
「う〜ん、ねえ、圭太。私、こういうのって似合うと思う?」
 そう言って圭太に見せたのは、フリルのついたスカートだった。普通考えれば柚紀くらいの容姿なら、そういうのよりはシックな方が似合う。
 ただ逆に、そういうものでも着こなせるだろうことは、容易に想像できた。
「組み合わせ次第だと思うよ」
「そうだよねぇ。これにあわせるとなると、上もそういうのが必要だし」
 とりあえず、それのことは忘れることにする。
「ちょっと試着してもいいかな?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、行ってくるね」
 柚紀は、気に入ったのを三着ほど手にして、試着室に入った。
 ごそごそと試着室の中から音が聞こえる。
 圭太は、手持ちぶさたながら、それでも場所柄なにもできずにただ柚紀を待った。
「圭太」
「どうだった?」
「じゃん」
 柚紀はわざわざ擬音をつけてドアを開けた。
「どう?」
 柚紀が着ていたのは、ノースリーブのワンピース。しかも、スカートはかなりのミニ。
 健康的な太ももがあらわになり、それはそれでとても魅力的だった。
「うん、いいと思うよ」
「ホント?」
「うん。ただ、僕個人の意見としては、もう少しスカートは長い方が安心かな」
「ふふっ、圭太がそう言うなら、もう少し長いのにするね」
 圭太が素直な意見を言ってくれたのが嬉しいのか、柚紀は満面の笑みを浮かべた。
 それから柚紀は、ほかの二着もしっかり試着し、その中で気に入ったフレアスカートを買った。
「ちょっと早いけど、お昼にしようか?」
 服飾店を出た圭太は、時間を確認しそう言った。
「ん〜、そうだね。混むのもイヤだし、そうしよっか」
 昼食は、パスタ専門店でとることになった。
 圭太はナポリタン、柚紀はカルボナーラを頼んだ。
 正午前ということで、店内はまだ満席ということはなかった。ただ、その店は最近女性客に人気で、時間帯を誤れば待つこともざらである。
「春休みもあと四日しかないんだよね」
「うん、そうだね」
「ということは、私たちが一高に入学して、一年経ったってことだよね」
「早かった、のかな?」
「過ぎてみれば早かったと思うけど、私としてはすごく充実した一年だったから、ただ単に早かっただけじゃないよ」
 柚紀はそう言って笑顔を見せる。
「圭太と出会って一年。ホント、まさかここまでの関係になるとは思わなかったなぁ。確かに最初から、あっ、カッコイイな、とは思ってたけど」
「そうなの?」
「うん。だから、席が隣になれて、ちょっと嬉しかったんだ。でも、実際はそれどころじゃなくて、部活も一緒だったし」
「確かにね。でも、部活に関しては僕は入学前から決まってたようなものだから」
「そうだよね。圭太、すっかりとけ込んでたもの」
「そのおかげで、柚紀のことを任されて」
「歓迎会でキスさせられて」
「GWに買い物に行って」
「はじめてうちに来てもらった日に、恋人同士になった」
「うん」
 その頃のことを思い起こし、ふたりはどちらからともなく笑った。
 ちょうどそのタイミングで注文の品が運ばれてくる。
「去年はなんだかんだいっても、私たちの関係に問題はなかったけど」
 柚紀は、パスタを口に運びながら言った。
「今年は、もう少しちゃんとしないと、とんでもないことになりそ」
「どうして?」
「どうしてって、だって、祥子先輩、紗絵ちゃん、朱美ちゃん。三人もブラックリスト入りのメンバーがいるのに」
 それを言われては圭太はなにも言い返せない。
「三人だけなら、まあ、なんとかできるとは思うけど、万が一にもそれが増えるなんてことがあったら、いくら私でも対処しきれないから」
「それは、大丈夫だと思うけど」
「思う、じゃなくてそうしてほしいの。いい?」
「努力はするけど……」
 これまでのことを考えると、圭太はそう言うのが精一杯だった。
「はあ、ホント、モテる彼氏を持つと苦労するわ」
 柚紀の言葉は、実に重みのある言葉だった。
 
 昼食をとったあと、ふたりは特になにをするでもなく歩いた。
 たまに面白そうなものを見つけるとそれを見て、あ〜でもないこ〜でもないと話をする。
 何気ないことだが、ふたりにとっては特別なにかをするよりも、よほど充実していた。
 圭太は柚紀の笑顔が見たくて、柚紀は圭太に楽しんでもらいたくて。
 そんなお互いがお互いのことを本気で考えているからこそ、ふたりは素直な表情を浮かべていられるのだ。
「ん、冷たくて美味しい」
 柚紀は、チョコソフトを一口舐め、嬉しそうにそう言った。
 ふたりは、普段はあまり行かない駅の反対側に足を伸ばし、そこで見つけたソフトクリーム屋でそれを買った。
 ちなみに圭太はバニラである。
「こういう風に、のんびりするのもいいよね」
「そうだね」
 ふたりは、近くにある緑地公園にいた。
 学校などは休みなので、比較的家族連れが多かった。
「圭太に、一度訊いてみたいことがあるの」
「ん、なに?」
「圭太ってさ、私以外を抱く時って、どんなこと考えてるの?」
「それは……」
 いきなりな質問に、圭太は答えに窮する。
「別に怒らないから、正直に言って」
「……心のどこかで、柚紀のことは考えてるよ」
「そうなの?」
「うん。ただ、基本的には相手のことを考えてるかな。そうしないと、失礼だし」
「まあ、それはそうよね」
 圭太の答えに、柚紀は少し渋い表情をする。
「圭太はさ、私と一緒になっても、その人たちとの関係続けるの?」
「それは、その時になってみないとわからないかな。僕としては柚紀だけを見ていたいけど。でも、僕には理由はどうあれ抱いてしまった責任があるから。それを途中で投げ出すことはできないし」
「……はあ」
「ごめん……」
「別に謝る必要はないけど。ただ、今脳裏に何人もの『愛人』に囲まれてる圭太の姿が思い浮かんだだけ」
「…………」
「ほぉら、そこで黙らないの」
 そう言って柚紀は圭太のおでこを小突く。
「圭太は、私を幸せにしてくれるんでしょ?」
「うん」
「だったら、もう少し前向きに物事は考えるべきよ。そうでしょ?」
「そう、だね」
 圭太は、大きく息を吐き、そして笑った。
「ねえ、柚紀」
「ん、なぁに?」
「ちょっと、行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
「それは別に構わないけど、どこ行くの?」
「いいところ」
 
 圭太は、途中郵便局のATMに寄り、それから目的の場所へ柚紀を連れて行った。
「ここは……」
 店に入る時、柚紀はそう呟いていた。
 その店は、普段のふたりには、特に圭太には縁のない店だった。
 圭太はショーケースの中を見、品定めしている。
「……あれくらいならいいかな」
 そして、あるもので目を留めた。
「あの、すみません」
 すぐに店員を呼ぶ。
「はい、なんでしょうか?」
 営業スマイルを浮かべた女性店員がやって来る。
「その、上からふたつ目のもので、彼女にあうものを見せてもらえませんか?」
「かしこまいりました」
 店員は、いったんショーケースの裏側にまわった。
「サイズは、このあたりだと思いますが」
 そう言って数種のそれをふたりの前に出してくる。
「あ、あの、圭太……?」
 完全に困惑している柚紀。
 それもそのはずである。その店は宝飾店。柚紀の前に置かれているのは、指輪。
 突然こんなところへ連れてこられて、驚かない方が不思議である。
「ほら、柚紀」
 圭太は、いつもの笑みを浮かべ、柚紀を促す。
 柚紀も、それでようやくその中のひとつを手に取った。
 だが、今度はそれをどの指にはめるかで考える。
 柚紀としては左手の薬指にしたいのだが、果たして圭太はどうなのか。
「…………」
 そして、柚紀は──
 
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
 女性店員に見送られ、ふたりは店を出た。
 柚紀の手には、小さな包み。それは、今圭太が柚紀に買ったものである。
 しばらくふたりはなにも言わずに歩いた。
 ただ、いつまでもそうしてはいられない。
 先に口を開いたのは、柚紀だった。
「……ねえ、圭太」
「うん?」
「いいの?」
「もちろん。ああ、そうそう。そのままだと格好がつかないか」
 そう言って圭太は柚紀が持っていた包みを受け取る。
 中から買ったばかりの指輪を取り出す。
「柚紀」
「は、はい」
 圭太は、柔和な笑みを浮かべ、柚紀の手を──左手を取った。
 そして、その指輪を、薬指にはめた。
「…………」
 柚紀は、自分の指にはまったその指輪を見た。
 高校生の圭太が贈れるものである。決していいものではないが、柚紀にとっては何カラットものダイヤの指輪より、ずっと価値のあるものだった。
「これで、少しは安心できるかな?」
「十分過ぎるよ……」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
 細めた瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「今度贈る時は、もっといいものを贈るよ。今は、それで精一杯」
「ううん、どんなに高価な指輪より、圭太の想いがこもってるこの指輪の方がいい」
「ありがとう、柚紀」
 圭太は、柚紀を抱きしめた。
 柚紀は、その圭太の胸の中で、泣いた。だが、別にそれは悲しいからではない。嬉しくて、嬉しすぎて止められないから泣いたのだ。
 そんな柚紀を、圭太は本当に愛おしそうに抱きしめていた。
 
「もう、私、幸せすぎて死んじゃいそう」
 柚紀は、さっきからずっとそんな調子だった。
「今度、ちゃんと挨拶というか、説明にも行かないといけないね」
「うち?」
「うん。だって、さすがに贈りっぱなしというわけにはいかないし」
「まあ、それは大丈夫だと思うけどね。お母さんもお姉ちゃんも、こうなるものだと最初から信じて疑ってなかったもの」
「それはそれで、恐いけど……」
 圭太はそう言って苦笑した。
 それはそうである。もし圭太がふたりの思惑通りに行動しなかったら、なにを言われ、なにをされるかわかったものではない。
「ただ、お父さんはなんて言うかな。それは、私にもちょっとわからないな」
「大丈夫だよ。僕が、ちゃんと話すから」
「うん、そうだね」
 柚紀は、圭太の横顔を見て、ぽっと頬を赤らめた。
 それほど今の圭太の姿は、頼もしく、凛々しく、格好良かった。
 それは、彼女である柚紀ですらほとんど見たことのない姿だった。
「とりあえず今日は、うちの母さんにだけ、話しておこう」
「うん」
 それからふたりは、歩いて『桜亭』まで戻ってきた。
 最初、そのまま店の方から入ろうとしたが、思い直し、玄関から入った。
「ちょっと待ってて」
 圭太は柚紀をリビングに待たせ、店の方に出た。
「あら、おかえり、圭太」
「ただいま、母さん」
 店内には、ふたりほど客がいたが、そのどちらにも注文の品は出ていた。
「母さん。大事な話があるんだけど、少しだけ時間、いいかな?」
「大事な話?」
「うん」
 真剣な圭太の顔を見て、琴美もなにかを感じ取ったようである。
「鈴奈ちゃん。少し任せてもいい?」
「あっ、はい。大丈夫ですよ」
「じゃあ、行きましょう」
 圭太は、琴美を連れてリビングに戻った。
「あら、柚紀さん」
「おじゃましてます」
 柚紀は、そう言って軽く頭を下げた。
「それで、大事な話って?」
 琴美は、ふたりの正面に座った。
「母さんは、僕が去年の夏に言ったこと、覚えてる?」
「去年の夏?」
「ほら、夏休み最後の日にいろいろ話したでしょ?」
「そういえば、いろいろ話したわね。でも、それが?」
「僕、柚紀と婚約した」
「えっ……?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
 だが、それも柚紀が恥ずかしそうに見せた指輪を見て、正確に理解できた。
「圭太。それがどういう意味か、もちろんわかってるわよね?」
「もちろん」
「それじゃあ、私が今更言うことはないわ。圭太は、私の息子は、そんな思慮の浅い子じゃないもの」
 そう言って琴美は微笑んだ。
「柚紀さん」
「はい」
「今は圭太がずいぶんとやきもきさせてるみたいだけど、どうか見捨てないでやってね。これでも本気で柚紀さんのことを考えているみたいだから」
「見捨てるなんて、そんなこと絶対にありません。私は、一生圭太についていくって決めましたから。私、これでも案外頑固なんですよ」
 そう言って笑う。
「まったく、この一年間で圭太にはずいぶんと驚かされたけど、今日のは極めつけね」
「別に驚かせるつもりはなかったんだけど」
「当たり前よ。親を驚かせようだなんて、そんなの十年も二十年も早いわ」
「そうだね」
 ようやく圭太の顔にも笑みが戻った。
「柚紀さんのご両親には?」
「土曜か日曜にでも」
「そうね、できるだけ早い方がいいわね。あと、圭太」
「うん?」
「祐太さんにも、ちゃんと報告するのよ」
「わかってるよ。母さんに報告したらするつもりだったから」
「それならいいわ」
 琴美は、息子と近い将来娘になるふたりを見て、目を細めた。
「そうそう。琴絵と朱美には、すぐに話さないのよ」
「どうして?」
「順番が違うでしょう?」
「そっか」
「あと、その時にどんなことが起こっても、私は関知しないからそのつもりで」
「そ、それは大丈夫だと思うけど……」
 いきなり弱気になる圭太。
「ほら、とりあえず報告してきなさい」
「あっ、うん。柚紀、行こう」
 圭太と柚紀は、そう言ってリビングを出て行った。
「圭太と柚紀さんが、ね」
 琴美は嬉しそうに微笑み、店に戻った。
 
 そして土曜日。
 圭太は、笹峰家に光夫と真紀を訪ねていた。
 おおよそのあらましは柚紀が説明したのだが、そこはやはり贈った張本人が説明する必要があった。
 笹峰家のリビングには、光夫、真紀、そして咲紀と勢揃いしていた。
「それで、話とは?」
 光夫は、わざとらしくそんな風に言った。
「はい。先日、といってもおとといですけど、僕は柚紀に指輪を贈りました」
「うむ……」
「その指輪に、今の僕のすべての想いを込めて贈りました」
「…………」
「僕は、柚紀とこれからもずっと一緒にいたいと思い、そのためになにができるか考えました。もちろん、言葉でそれを伝えることも忘れていません。ですが、それだけでは伝わりきらないものもあると思いました。それと、その言葉や想いが本物であることを常に理解してもらうために、指輪という形あるものを贈りました」
「それが、その指輪ね」
 そこで、真紀が口を挟んだ。
「はい」
「ファッションとして指輪をその指にすることはあるけど、この場合の意味は、そうではないわよね?」
「はい」
「では、その指輪は婚約指輪、と理解してもいいわね?」
「はい」
 圭太は、はっきりとそう言った。
「圭太くん」
「はい」
「君は、柚紀を幸せにしてくれるかね?」
「はい、必ず」
「そうか」
 光夫は、大きく頷いた。
「柚紀」
「はい」
「家のことは咲紀にすべて任せて、おまえは圭太くんと一緒にいなさい」
「お父さん……」
「私もお父さんも、圭太くんになら安心して柚紀を任せられるわ」
「ありがとうございます」
 そう言って圭太は深々と頭を下げた。
「はあ、いいわね、柚紀は」
「そんなこと言うなら、お姉ちゃんだって正久さんと一緒になればいいのに」
「ん〜、あたしと正久は、まだそこまで真剣に考えてないから。ほら、それにもしそうなるにしても、正久には相応の覚悟が必要でしょ?」
 咲紀はそう言って光夫を見た。
「ああ、うん、確かにそうかも」
 それに苦笑する柚紀。
「ふたりとも、余計なことを話してる暇があったら、台所の準備をしてきてちょうだい」
「うへぇ……」
「はぁい」
 真紀に言われ、柚紀と咲紀はリビングを出て行った。
「私も」
 そう言って光夫も席を立った。
「ごめんなさいね、圭太くん。あれでも、あの人も喜んでるのよ」
 一応真紀がフォローを入れる。
「それにしても、圭太くんも大胆ね」
「そうですか?」
「ええ。普通は高校生でそんなことしないわ。それとも、柚紀を縛っておきたい理由でもあったのかしら?」
 さすがは柚紀の母親である。そういう部分は鋭い。
 圭太も、それにはなにも言えなかった。
「どういう理由でも、柚紀が幸せなら私たちは構わないわ。親ってね、そういうものよ」
「はい……」
「そうそう。今度、圭太くんのお母さんにご挨拶に行きたいんだけど、いいかしら?」
「あ、はい、大丈夫ですよ。母さんは基本的には毎日店に出ていますから」
「そう。それじゃあ、近いうちにおじゃまするから、そう伝えておいてくれるかしら?」
「はい、わかりました」
 その日、圭太は笹峰家で夕食をごちそうになった。
 圭太を含めたその様は、近い将来を想像させるに十分だった。
 それは、圭太と柚紀はもちろん、光夫や真紀、咲紀の表情を見ていれば一目瞭然である。
 
 圭太と柚紀。
 ふたりの関係は、また一歩、確実に夢へと近づいた。
 
 二
 桜咲き誇る校門へ続く道を、真新しい制服に身を包んだ新入生が歩いていく。その顔には一様に希望があった。これからはじまる新しい生活への希望なのか、新しい出逢いへの希望なのか、それは定かではないが。
 門柱のところに、立て看板が設置されている。
『平成○○年度県立第一高等学校入学式』
 四月六日。
 その日は一高の入学式である。
 圭太たちが入学して、もう一年経ったことになる。
 今年は圭太たちが新入生を迎える立場である。
 圭太たち吹奏楽部は、在校生で唯一式に参加した。とはいえ、することは多くない。というか、ひとつしかない。校歌の時に伴奏するだけである。
 そんな退屈きわまりない入学式を終え、部員一同は音楽室に戻っていた。
「いい? 明日から勧誘活動も本格化させるから、気合いを入れるように」
『はいっ』
 祥子の言葉でその日の部活は終わった。とはいえ、練習したわけではない。
 もともとその日は基本的には部活は休みである。ただ、入学式に出るということで、そうやって集まったに過ぎない。
「圭くん」
「はい、なんですか?」
「今年の三中出身者は、みんな入ってくれるわよね?」
 やはり、祥子は部長として気になるようである。
「紗絵の話だと、大丈夫みたいですけど」
「そっか」
「今年は、紗絵と遥と浩章の三人ですから、僕も大丈夫だと思いますよ」
「う〜ん、でも、私としては入部届を出してくれるまで、安心できないかも」
 そう言って祥子はため息をつく。
「でも、遥は先輩の直接の後輩でもあるわけですから、心配ないんじゃないですか?」
「そうだといいけど」
 真面目すぎるのも考えものである。
「先輩。今はあれこれ心配するのはやめましょう」
「うん、そうだね。どうせ明日からで全部わかることだものね」
「圭太〜」
 そこへ、柚紀がやって来る。
「もう帰れる?」
「今日は大丈夫だよ。ですよね、先輩?」
「うん」
「じゃあ、帰ろ」
 そう言って柚紀は圭太の腕をがっちりとつかんだ。
 柚紀は、圭太と婚約して以来、部活でもその行動が大胆になっていた。もちろんあからさまなことはしないが、それでも以前よりはかなり大胆だった。
 そして、それにつられるようにというか、対抗するように、祥子まで大胆になってきていた。
「柚紀。圭くんを独り占めしようたって、そうはいかないわよ」
 そう言って祥子も圭太の腕をつかむ。
「……先輩。引き際は綺麗な方がいいと思いますけど」
「……誰も引くだなんて言ってないもの」
 ふたりの間で火花が散る。
 圭太は、そんなふたりを見てため息をつくしかなった。
 
 次の日は実力テストと対面式が行われた。
 入学二日目の新入生たちは、次から次へと行われる様々なことに四苦八苦している。それでもそれは新入生なら誰もが経験することである。
 従って、文句を言ったところで誰も助けてはくれない。
 そしてその日の放課後。
 各部活に見学者が来はじめる。もちろん中学から同じ部活に入ろうと決めている生徒は、見学ではなく仮入部という形で参加する者もいる。
 決めかねている者や、高校から新しい部活をはじめようという者は、見学して決める。
 一高は部活動も盛んなため、人気の部には見学者も多かった。
 吹奏楽部にも、見学者が来ていた。
 主に女子が多いが、中には男子もいた。
 そんな中、すでに入部を決めている者も、早速顔を出していた。
「真辺紗絵です。三中でトランペットをやっていました」
「えっと、吉沢朱美です。旭ヶ丘中でフルートをやっていました」
 その中には、このふたりもいた。
「なるほど、君が圭太期待の後輩か」
「で、あなたが圭太の従妹さんね」
 それぞれのパートリーダー、徹と裕美がそう言ってふたりを見る。
 ふたりとも圭太絡みということで、最初から非常に注目されていた。特に三年などはほとんどがふたりを『見物』しに来ていた。
「あの、裕美先輩」
「ん?」
「朱美に、いろいろ教えてもらえませんか?」
「それは別に構わないけど。圭太は?」
「僕は、勧誘の方に出ますから」
「ああ、そういえばそうだったわね」
「徹先輩も、紗絵のことをお願いしていいですか?」
「おう、任せとけ」
 圭太は、ふたりを先輩に任せ、勧誘活動に出た。
 一高で勧誘活動が公に認められているのは二日間のみだった。それ以外の期間は、基本的には公に勧誘してはいけない。もちろん、『黙認』というのはあるが。
 従って、チラシなどを配って勧誘できるのは二日間だけである。
 そんなこともあって、圭太は同じ二年で手分けして勧誘しているのである。
 チラシを配っていい場所も基本的には決まっている。さすがにどこでもというわけにはいかないからだ。
 校門、昇降口、一年教室前廊下。この三カ所は特におとがめなしになんでもできた。それ以外の場所でも勧誘自体はできたが、あまり大げさなことはできなかった。
 圭太の担当は、教室前廊下だった。
「吹奏楽部をよろしく」
 圭太はいつもの笑みを浮かべながらチラシを渡す。
 心なしか、女子が進んでもらいにきているようなところもあったが。まあ、そうなれば作戦勝ち、ということである。
 しばらく配っていると、次第に一年の姿がなくなってきた。それはそうである。放課後で、しかも時間が遅くなればなるほど、みんな帰宅する。
「そろそろかな」
 圭太はあたりを見回し、配る相手がいないことを確認する。
「あの……」
 戻ろうとしていた圭太に、遠慮がちに声がかかった。
 振り返ると、ひとりの女子生徒が立っていた。
 パッと見、とても綺麗な子で、圭太ですら一瞬言葉に詰まったほどである。
「えっと、どうかしたかな?」
「そのチラシ、いただけますか?」
「あ、うん」
 圭太は、その子にチラシを渡した。
「吹奏楽に、興味あるの?」
 まわりにほとんど誰もいないので、続けて声をかけた。それでこそ勧誘活動である。
「興味がある、というか、中学でやっていましたから……」
 その子からの返答は、聞いている分には素っ気ないものだった。
「そうなんだ。じゃあ、続けるかどうか迷ってる、というところだね」
「…………」
 人懐っこい笑みを浮かべる圭太に、その子は少し視線をそらした。ただ、よく見ると頬が少し赤らんでいる。
「だったら、一度見学してみたらどうかな? うちの部がどんな部か、それで少しはわかると思うけど」
「そう、ですね……」
「もちろん、それも無理強いはしないよ。君の好きなようにすればいいと思う。部活は、やっぱり自分から進んでやろうと思わないと楽しくないからね。でも、僕としてはできれば入ってもらえると、嬉しいかな」
「嬉しい、ですか……?」
「うん」
 圭太は、大きく頷いた。
「僕は、音楽が好きだからね。その好きな音楽を一緒に共有できたら、楽しいし、嬉しいよ」
「一緒に、共有……」
「入部届の締め切りは、金曜日だよね?」
「あ、はい」
「じゃあ、あと二日。よく考えてみて。見学は……明日までだけど、明日でもいいし。ゆっくり自分で納得できる道を選べばいいと思うよ。ただ、その中にうちの部があって、最終的にそれを選んでくれれば言うことないけどね」
 そう言って圭太は屈託のない笑みを浮かべた。もちろん、その笑みは本物である。営業スマイルではない。目の前の子のことを真剣に想い、答えた結果である。
 それが、圭太の圭太たるゆえんで、だからこそ多くの人に想われているのである。
「じゃあ、僕はそろそろ戻るから」
 圭太がきびすを返すと、後ろからそれを止める声がかかった。
「あのっ」
「うん?」
「名前を……名前を聞いてもいいですか?」
「僕の?」
「はい」
 その子は、小さく頷いた。
「僕は、吹奏楽部二年で副部長をしている高城圭太だよ」
「高城、圭太先輩、ですね」
「うん。それじゃあ」
 そして、今度こそ圭太は戻っていった。
「圭太、先輩……」
 残されたその子は、そう呟き、わずかに微笑んだ。
 
 その日の帰り道。
 いつものメンバーに紗絵と朱美を加え、少々大所帯となっていた。
「はあ、結構大変そうだったなぁ」
「なんだ、朱美、もう音を上げたのか?」
「そうじゃないけど。部活自体久しぶりだったから」
「それは、私もそうでした」
 朱美の意見に、紗絵も賛同する。
「確かに、受験から解放されて、本格的にするのはこれが最初だからね」
 一応祥子がふたりのフォローをする。
「でも、先輩。そんなことばかり言ってると、練習が本格的にはじまったら、すぐに音を上げてしまいますよ?」
「う〜ん、それもそうだね」
「先輩は、去年はどうだったんですか?」
 紗絵がそんなことを訊く。
「僕は、入学前からともみ先輩と祥子先輩に捕まってたから」
「むぅ、圭くん。その言い方はないと思うけど」
「まあ、それは半分冗談としても、何度か顔を出していたから、それほどでもなかったかな」
「そうですか。やっぱり私も出ておくべきでしたね」
「だけど、紗絵ちゃんも朱美ちゃんも経験者だし、大丈夫じゃない?」
 柚紀は、初心者だった視点からそう言う。
「慣れれば問題ないと思います」
 これは紗絵の答え。
「慣れるまでに時間がかかりそう……」
 これは朱美の答え。
 やはり出身中学の差は出てくる。全国レベルと地区レベル。その差は大きい。
「まあでも、今日の感じだと今年も新入部員は期待できそうな感じだし、私としてはひと安心かな」
 祥子は、そう言って微笑んだ。
 確かにその日の見学では結構経験者が顔を出し、紗絵や朱美のように仮入部した者もいた。
 初日でそれを考えれば、祥子の不安が払拭されてもおかしくない。
「先輩としては、遥が入ってくれたのが一番安心できたことじゃないですか?」
「うん、そうかも」
「遥なら、入学前からまた祥子先輩と一緒にできるって、嬉しそうに言ってましたから。心配の必要はなかったんですけどね」
 紗絵は、事実を伝える。
「ううぅ〜、でもでも、やっぱり入ってくれるまでは心配だし」
 幼児化してしまった祥子に、一同は苦笑するしかなかった。
 そうこうしているうちに、大通りまで出てきた。
 ちょうどいいタイミングで、バスが手前の信号で止まっていた。
「じゃあ、私はここで」
「柚紀先輩はバスなんですね」
「うん」
 柚紀のほかにも何人かバスに乗り込む人がいた。
「圭太」
 それでも柚紀は、ちゃんといつものは忘れない。
「ばいばい、圭太」
 バスは、低いエンジンを響かせ、走り去った。
「はあ……」
「ふう……」
「はあ……」
 振り返ると、三人揃ってため息をついていた。
 ため息の理由は、わかりきっていた。
「紗絵ちゃん、朱美ちゃん。圭くんと一緒に帰るとね、たいていこれを見ることになるから」
「つらいですね」
「うん、つらいつらい」
 圭太は、三人の視線が痛かった。
「でもね、これでくじけてたら、圭くんと一緒にはいられないからね。特に、今は柚紀との関係が進んでるからね」
「あの、祥子先輩。ふたりを煽るの、やめませんか?」
 圭太は、おずおずとそう言う。
「ん〜、やめてもいいけど、それは圭くん次第かな」
「僕次第、ですか?」
「うん。それがどういうことかは、圭くんが考えてね」
 そう言って祥子はにっこり笑った。
 その笑顔は鉄壁で、圭太はなにも言えなかった。
 
 その日は、朱美の十六歳の誕生日である。
 夕食はそれもあってか、いつもより少しばかり豪勢だった。
 ただ、朱美にしてみればどんなに豪華な食事よりも、どんなに高価なプレゼントよりも、圭太に誕生日を祝ってもらえることの方が重要で、嬉しかった。
 そんなこともあり、朱美は圭太と一緒にいた。
「ねえ、圭兄」
「うん?」
「私も十六になったし、これで法律上は結婚できるんだよね?」
「まあ、確かに」
「でも、圭兄はまだ十八じゃないから、結婚はできないんだよね?」
「そうだね」
「ということは、逆転サヨナラ満塁ホームランの可能性もあるんだよね?」
 朱美は、嬉々とした表情でそう言う。
「さ、さあ、それは僕にはわからないな」
「むぅ、圭兄は、そんなに柚紀先輩がいいの?」
 圭太にしてみれば、いいからこそ婚約までしたのだが。
「そりゃ、確かに先輩に比べれば私はお子様だけど、でも、あと五年もすれば絶対にお買い得だと思うよ」
 自分で自分のことをそこまで言える朱美は、なかなか大物である。
 圭太もそう思ってか、苦笑している。
「はあ、やっぱりもっともっと女を磨かなくちゃいけないのかなぁ」
「朱美は、今のままでも十分だと思うけど」
「だったら、どうして圭兄は私を見てくれないの?」
 それは、かなり圭太に分の悪い質問だった。
「私はね、圭兄にさえ認めてもらえればいいの。ほかの人なんてどうでもいいの。だから、圭兄に認めてもらえないんだったら、やっぱり私はもっともっと努力しないといけないの。わかる?」
「な、なんとなく……」
 圭太としては、そうとしか言えなかった。
「んもう、ホントに圭兄は……」
 そう言いながら朱美は、圭太に抱きついてくる。
「今は、準備期間ということで、先輩に圭兄を任せておくけど、圭兄が先輩と一緒になる前には、必ず追いついてみせるから。だから、圭兄。その時に、もう一度訊くからね。私のことをどう思ってるかって」
「わかった、覚えておくよ……」
「うん……」
 ふたりはキスを交わした。
「ん、圭兄、抱いて……」
 そして、ふたりはそのままベッドに倒れ込み、愛し合った。
 
 四月九日。
 その日は朝から雨が降り、花散らしの雨となりそうだった。
 気温も幾分下がり、少し肌寒くも感じられた。
 授業も通常通りになり、学校内の雰囲気も落ち着いてきた。
「ねえ、圭太」
 昼休み。柚紀は圭太の正面に座り、ほおづえをついていた。
 二年になっても、幸か不幸か、ふたりは同じクラスだった。
「どれくらい入ってくると思う?」
「う〜ん、昨日までのことを考えると、僕たちと同じくらいは入るんじゃないかな」
「ということは、二十人くらい?」
「たぶんね」
 圭太は頷いた。
 その日は入部届提出の締め切り日である。吹奏楽部では、前日までにそれなりの見学者があり、また、仮入部もあった。
 圭太はそれから推測してそう言ったのである。
「そうすると、今年もうちの部は安泰ってことだね」
「うん。祥子先輩もとりあえず安心できるよ」
「ホント、祥子先輩、右往左往してたもんね」
「来年は、ひょっとしたら僕がそうなってるかも」
「あはは、そうだね」
 そして放課後。
 音楽室は、微妙に静まりかえっていた。
 今、音楽室には二、三年と新入部員、顧問の菜穂子がいる。
「おはようございます」
 まず、部長の祥子が前に立った。
「いろいろ説明する前に注意事項から。見学に来てくれた人たちはわかってると思うけど、うちの部ではその日一番最初に会った時は『おはようございます』、終わる時は『おつかれさまでした』と言うの。特に、『おはようございます』は、それがたとえ夜でもだから、よく覚えておいて」
 祥子は、部長らしくしっかりと説明する。
 一見、頼りなさげに見えるが、話し方もしっかりしていたし、その中身もしっかりしていた。
「以上でだいたいの説明は終わり。じゃあ、次は私たちのことね。私は部長の三ツ谷祥子。担当楽器はクラリネットだから」
「副部長の清水仁。担当はチューバ」
「二年の副部長の、高城圭太です。担当はトランペットです」
 首脳部がそれぞれ自己紹介する。
「それと、顧問の菊池菜穂子先生。選択音楽の人は知ってると思うけどね」
 菜穂子は、にこやかに微笑んだ。
「それじゃあ、とりあえず入部届を集めるから、裏でも表の空いているところでもいいから経験の有無と希望楽器を書いて、前に持ってきて」
 言われた通り、一年が祥子のところへ入部届を持っていく。
「ん〜と……全部で二十一人、っと」
 パッと祥子の顔が輝いた。
「じゃあ、今日は希望楽器の見学で、経験者以外のパート分けは明日までに決めておくから。うん、とりあえず解散」
 祥子のその言葉で、部員は一斉に動き出す。
「じゃあ、ペットは教室へ移動」
 圭太たちトランペットは、徹の指示で教室へと場所を変えた。
「さて、去年に引き続き、今年もうちのパートはすることがない」
 そう言って新入部員のふたりを見る。
 ひとりは紗絵。もうひとりは菊池満と言う。
 どちらも経験者で、やはり改めてすることなどなかった。
「ふたりともすでに吹いてもらってるから、ある程度実力もわかってるし」
「ホント、することないな」
 三年のふたりは、あまりやる気がないようである。
「んじゃま、とりあえず個人練して、あとでパー練するから」
 結局いつもと同じになった。
 
 練習が終わると、一年はだいたいはさっさと帰る。さすがに最初から順応できる者の方が少ないからだ。
 そんな中、紗絵や朱美以外にも残っている一年がいた。
「あの、先輩」
 準備室から出てきたところで、声がかかった。
「君は、あの時の」
「はい」
 その一年は、圭太が勧誘していた時に出会った一年だった。
「相原詩織です」
 その子──相原詩織は、そう言って頭を下げた。
「入ってくれて嬉しいよ」
「はい」
 詩織は、はじめて微笑んだ。
 元がいいので、笑顔ひとつとっても実に絵になる。
「楽器は?」
「オーボエです」
「オーボエか。そっか」
「あの、先輩」
「うん?」
「先輩のアドバイスで決めることができました。本当にありがとうございました」
「ううん。僕はきっかけを作ったにすぎないよ。決めたのは、詩織自身だから」
「あ、はい」
 詩織は、さすがにいきなり呼び捨てにされ、少し驚いている。とはいえ、それもこの部の伝統と説明されているので、不思議なことではない。
「これから、よろしくね」
「あっ、はい、こちらこそお願いします」
 詩織は、慌てて頭を下げる。
「圭くん。ちょっといいかな?」
 そこへ、祥子から声がかかった。
「あっ、はい」
「それじゃあ、私は帰ります」
「うん、おつかれさま」
「おつかれさまでした」
 詩織は、二度ほど圭太を振り返り、帰っていった。
「圭太」
「圭くん」
「圭兄」
「先輩」
 と、四人が揃いも揃って難しい顔をしている。
「ど、どうしたの?」
「ねえ、圭太。いつの間に仲良くなってたの?」
 微妙にトゲがある。
「そうだよね。あの子は、見学にも来てなかったし」
「圭兄って、やっぱり……」
「先輩、手が早すぎです」
 口々に言う。
「ちょ、ちょっと待って。別に僕はなにもしてないよ。ただ、彼女とは勧誘の時に少し話しただけで」
 圭太は、身の潔白を証明しようとする。
「でもねぇ、あの子の圭太を見る目、あれはかなり危なかったわよ」
「うん、私もそう思った」
「要注意人物、だね」
「ライバル出現です」
 しかし、四人はまったく取り合わない。
「うぐっ……」
「圭太。一応信じてるけど、必要以上に仲良くしないように」
 柚紀は、とどめとばかりにそう言った。さすがは、婚約者である。
 
「ただいま」
「おかえり」
 詩織が玄関を入って声をかけると、すぐに声が返ってきた。
 ここは、比較的新しいマンションにある相原家。十二階建てのマンションで、その九階に部屋はあった。
「詩織ちゃん」
 自分の部屋に入ろうとすると、詩織の母親、栄美子が声をかけた。
「どうしたの、ママ?」
「部活、決めたのね?」
「うん。やっぱり吹奏楽を続けることにしたの」
「そう」
「パパには、私がちゃんと言うから、ママは心配しないで」
「でも……」
「大丈夫」
 詩織は、そう言って自分の部屋に入った。
 カバンを机に置き、制服のままベッドに横になった。
「ふう……」
 額に手を当て、小さくため息をつく。
「圭太先輩、か……」
 そう呟き、体を起こす。
 ベッドから手の届くところに、雑誌が置いてある。そのどれもが吹奏楽の雑誌である。
 それだけでいかに詩織が吹奏楽に力を入れているかわかる。
 その一冊を手に取る。
 それは、二年前のものだった。その中の一ページで手が止まる。
 そこに書いてあったのは、ソロコンテスト全国大会の結果を伝えるものだった。
 その中に、ペンでチェックされた名前があった。
『銀賞 高城圭太』
 そう、圭太である。それは圭太がソロコンで銀賞を取った時のものであった。
 同じ県で同じ市に住んでいれば、気になるのはわかる。だが、詩織にとってはそれだけではないようであった。
「やっと、追いついた……」
 そう言って詩織は、目を閉じた。
 詩織の圭太に対する想いは、いったいどういうものであろうか。
 少なくとも、今はそこまではわからなかった。
 ただ、波乱は予想された。
 
 三
 桜の花もだいぶ散ってきて、道路の隅に花びらが溜まっている。
 風が吹いたり車が通ったりすると、それがふわりと舞い上がる。
 暖かな春の陽差しに、思わず大きく伸びをしたくなるような、そんな日だった。
 圭太は、個人練習のために屋上に出ていた。
 屋上から見える景色も、つい数日前までとは色が違った。桜色から朱色へ。花の額の部分が濃さを表し、すぐ次に来る若葉の緑をも助長していた。
 そんな景色を視界の端に入れながら、圭太は練習していた。
 足下にはメトロノーム。今はだいぶゆっくりなテンポで動いていた。
 圭太は、ひとつひとつの音を確かめるように吹いていく。綺麗な高音が、屋上から響いていく。
 そんな屋上に、もうひとり上がってきた。
 詩織である。
 圭太は集中していて、詩織が来たことには気づかなかった。
 詩織はそんな圭太を邪魔しないように、その様子を見つめていた。
 空には薄雲が出ていて、いかにも春の空だった。
 穏やかな風が、詩織の髪やスカートを撫でていく。
 圭太が詩織に気づいたのは、メトロノームのテンポを上げようとした時だった。
「いつからいたの?」
「少し前です。邪魔するのは悪いと思って、黙っていました」
 詩織は、そう言って微笑んだ。
 その様は、初対面の時の詩織とはとても似ても似つかない、穏やかで優しい表情だった。
 おそらく、これが本来の詩織なのだろう。
「それで、僕に用があるのかな?」
「はい。少し聞いてもらいたいことがあるんです」
「聞いてもらいたいこと?」
 圭太は、改めて詩織に向き直った。
「先輩は、二年前のソロコンテストの全国大会で、銀賞を受賞しましたよね?」
「うん」
「私、その時に先輩のことを知りました」
 圭太としても、そのこと自体はなんとも思わなかった。
 実際、去年もそのことを言われたのだから。
「雑誌には結果と名前しかありませんでした。だから、私はいろいろと想像しました。全国大会で銀賞を取るような人は、どんな人なんだろうって。きっと、四六時中音楽のことばかりしている人なんじゃないかとか、有名な先生に教わっているような人じゃないかとか。本当にいろいろ想像しました。でも、それはあくまでも想像にすぎませんでした」
 詩織はそこで一度言葉を切った。
「去年、コンサートではじめて実物の先輩を見ました。もちろん客席からですから、その人となりまではわかりません。でも、ひとつだけわかったことがありました」
「それは?」
「先輩は、本当に音楽が好きなんだということです。耳に届く音に乗って、そういう想いが伝わってきましたから。それからです。先輩のことを追いかけるようになったのは。コンクールもさすがに全国大会は無理でしたけど、関東大会も聴きに行きました。アンサンブルコンテストも県大会までは聴きに行きました。そして、ますます先輩への想いは募っていきました。それと同時に、本当の先輩はどんな人なんだろうって、そればかり考えるようになりました」
 少しだけ俯き、続ける。
「だから、志望校も一高にしました。両親には、私立を受けた方がいいと言われていたんですけど、でも、先輩に会いたくて」
「…………」
「そして、ようやく先輩に会えました。追いつけました。はじめて話した時、私の中に衝撃が走りました。先輩は、美化された私の想像よりも、ずっと素敵な人でした」
「僕は、そんなにすごい人じゃないよ」
 圭太は、やんわりと詩織の言葉を否定した。
「僕は、人よりなんでもできなかったから、それを補うために必死だっただけだよ。それがたまたま身になっただけ」
「たとえそうだとしても、それはそれでいいんです。今一番重要なことは、私の目の前に先輩がいるということですから」
 そう言って詩織は、持っていたオーボエをギュッと握った。
「圭太先輩。私、先輩のことが好きです」
 詩織は、一気にそれを言った。
 心持ち声が震えていた。
「先輩には、柚紀先輩がいるのは知っています。おふたりの関係も知っています。でも、私は自分の中の想いを先輩に伝えなくちゃいけないと思いました。そうしないと、ここまで来た意味がなくなってしまいますから」
「……僕は、その想いに応えてあげることはできない」
「はい、それもわかっています」
「だけど、その想いをわかってあげることくらいはできるよ」
「先輩……?」
 圭太は、穏やかな笑みを浮かべ、言った。
「自分で言うのもおかしいけど、僕は、分不相応にいろいろな人に想いをぶつけられてきたからね。その想いの行き着くところは同じでも、きっかけや想いの育み方は違うから。だから、僕はまだまだ詩織のことはわからないけど、その想いが本物であることはわかるよ。これから先、詩織のことを知っていけば、僕の詩織に対する想いも詩織に伝わると思う」
「先輩の、私に対する想い……」
「今は、一方通行でしょ? それが双方向になったらどうなるか。もちろん僕にはわからない。たぶん、詩織にもわからないだろうね」
「はい……」
「だから、そこからはじめてもいいかな? 僕は、詩織のその真摯な想いに、僕のできる範囲内で応えてあげたいから」
「先輩……」
「ただ、あらかじめ言っておくけど、最終的な結果だけは、変わらないと思って。僕は、柚紀のことだけは本気だから。これは、誰にも譲れない」
 確かに、圭太の顔のはそれだけの決意が見て取れた。
「それでもいい?」
「はい。今は、先輩の側にいられるだけで……」
 そう言って詩織は微笑んだ。
 少し目が潤んでいたが、それがなんのためかは、わからない。
「先輩」
「うん?」
「私、一高に入って、吹奏楽部に入って、本当によかったです」
 そう言う詩織に、圭太はなにも言わず、微笑み返すだけだった。
 
 高城家のリビングに、鈴奈を除く圭太を想う女性陣が集まっていた。
「相原詩織。市立南中学校出身。担当オーボエ。容姿端麗。スタイル抜群」
 議題は、新たなライバル、詩織のことだった。
「オーボエということで、ともみ先輩がにらみをきかせるのはどうですか?」
 たまたま遊びに来てその話に加わったともみに、柚紀がそう提案した。
「そりゃ、できないことはないけど、でも、所詮私はOGだし」
「朱美ちゃん。その詩織さんて、そんなに綺麗な人なの?」
「うん。神様なんていないってくらい。どうして同い年なのにこんなに違うのって感じ」
 朱美の説明に、紗絵も頷いている。
「背も高いし、モデルでもできそうな感じかな」
「う〜ん、そっか」
 琴絵は、腕を組んで唸った。
「ただ、今はまだ憧れてるって感じなのが、救いかもしれないね」
 祥子はそう言うが、この場にいる誰もが事実を知らない。すでに、告白済みであることを。
「圭太はなんて言ってるわけ?」
「特には。無理に否定しても私たちが信じないってわかってるみたいです」
「ん〜、それじゃあ本人に訊いてみても……そうよ。本人に訊けばいいのよ」
 ぽんと手を合わせ、ともみは微笑んだ。
「本人て、まさか相原詩織本人ってことですか?」
「そうよ。圭太じゃラチがあかないし、だったら騒動の元に直接訊けばいいのよ」
「ともみ先輩。そういうのはやめてください」
 そこへ、店を手伝っていた圭太が戻ってきた。
「ありゃ、聞かれたか」
「やめてって、訊かれちゃまずいことでもあるの?」
 少し、言葉に怒気がこもっている。
「それはないけど。でも、入学して入部したばかりで、いきなりそんなことされて、普通はどう思う?」
「うっ、それは……」
「とりあえず今はなにも起こってないんだから、それでいいと思うけど」
 そう言って圭太は微妙に話題をそらそうとする。
「起こってからじゃ困るんだけど……」
 とはいえ、柚紀も強くは言えなかった。確かに『まだ』起こっていない状況で行動を起こすのは、新入生である詩織を傷つける可能性がある。柚紀としてもそれは本意ではない。
「ま、とりあえず圭太の言うことを尊重しましょ。柚紀だって、ちゃんと目を光らせてるんでしょ?」
「それはもちろん」
「だったら、今はそれでいいじゃない。なにか起こったら……ちょっと困るけど、ま、それはそれで面白いかもしれないし」
「面白くなくていいですっ」
「ゆ、柚紀、少し落ちついて」
「だって、今更じゃない。柚紀だって、今ここにいる面々のこと、知ってるわけでしょ?」
「それは、そうですけど……」
 口でともみに勝てそうなのは、とりあえずこの中にはいなかった。
「それに、ようは圭太次第でしょ? その子の誘いに乗らなければいいだけだし。ねえ、圭太?」
「そ、そうですね……」
「弱気ねぇ。どうしてそこで、大丈夫です、任せてください、くらい言えないの?」
 圭太としては、そこまでのことはさすがに言えなかった。
「まあ、いいわ。とりあえず、この話はここで終わり。額をつきあわせて机上の空論ばかり論じてもしょうがないし」
「そうですね」
 ようやく話題がそれ、圭太はホッと一息ついた。
「圭太。ちょっと手伝ってくれる?」
 そこへ、琴美が声をかけてくる。
「うん、今行くよ」
 圭太はそれを天の助けとばかりにそそくさとリビングをあとにした。
「ちっ、逃げられたか」
 ともみはそう言って舌打ちした。
「それじゃあ、どうしますか?」
「う〜ん、圭太もいなくなったし」
「圭くんがいたら、なにをするつもりだったんですか?」
「ん、そんなの決まってるじゃない。イケナイことよ」
「ともみ先輩っ!」
「あはは、冗談よ、冗談」
「んもう……」
 結局、適当な話でなんとなく盛り上がり、それは夕方くらいまで続いた。
 
 週が明け、一段と学校内に落ち着きが戻ってきていた。
 それでも一年はまだまだ中学生気分が抜け切れておらず、戸惑う場面もあった。
 一方、二年の間では五月に行われる修学旅行のことが話題になっていた。
 行き先は例年通り沖縄で、四泊五日、五月七日からとなっていた。ただ小学校や中学校のように必要以上に事前になにかをするということはない。準備も粛々と進められていた。
 そんな日の昼休み。
 圭太はお昼を食べてから担任に呼ばれ、職員室に赴いていた。とはいえ、その中身はたいしたことではない。
 用事もすぐに済み、教室へ戻ろうという時。
「圭太先輩」
 廊下で声がかかった。
「やあ、詩織」
「職員室に用だったんですか?」
「うん、ちょっと頼まれごとがあってね。すぐに終わったけど。詩織は?」
「私は通りかかっただけです」
 詩織はそう言って微笑んだ。
「あの、先輩」
「うん?」
「少しだけ、お話してもいいですか?」
「それは構わないけど。じゃあ、場所を変えようか」
「はい」
 ふたりは、職員室前から屋上まで移動した。
「ん〜、いい天気だね」
 外は、春らしいいい天気だった。ただ、ちょっと風が強めで、これでわずかに残っていた桜も完全に散ってしまいそうだった。
 詩織は、髪を押さえながら、空を見上げた。
「詩織は、春は好きかな?」
「えっ、あ、はい。好きです」
「僕はね、桜の花が大好きなんだ。日本人ならたいていの人はそうだと思うけどね」
「そうですね」
「咲いている期間は短いけど、でも、だからこそ綺麗だと思えるんだ。一生懸命綺麗に咲き誇って、あっという間に散ってしまう。はかないけど、それでもまた来年、綺麗な花を咲かせてくれることを期待して」
 圭太は、そう言って微笑んだ。
「ごめん、変な話をしたね」
「いえ、そんなことありません」
 詩織は頭を振って、それを否定した。
「それで、話って?」
「あ、はい、特にこれといってないんですけど、ただ、先輩とお話したいなって、そう思ったんです」
 少しだけ恥ずかしそうにそう言う。
「詩織は、どうして吹奏楽をはじめたの?」
「それは……」
 途端に顔が曇った。
「あっ、訊いちゃいけないことだったかな?」
「い、いえ、そんなことはありません。私がはじめた理由は、簡単な理由です。私、子供の頃からピアノを習っているんです。それで、中学に入った時、どの部活にしようかって思ったんです。ピアノだけができる部活はありませんでしたから、それで、同じ音楽ということで、吹奏楽をはじめました」
「そっか」
「ただ、それはあまり望まれていないことでした」
「望まれていないこと?」
「はい。私の両親、特に父の方が私にはピアニストなってほしいと思っていましたから。吹奏楽部が想像以上にしっかりした部活だと知って、私にやめるように言いました。でも、途中で投げ出すのはイヤだったので、少なくとも中学の間だけは続けさせてほしいってお願いしました」
「それじゃあ、今は……」
「いえ、いいんです。私が私の意志で決めたことですから。ピアノは今でも好きですけど、同じくらい吹奏楽も好きですから。それに、私は出会ってしまいましたから」
「出会った?」
「私を吹奏楽に引き込んでしまった人に」
 そう言って詩織は圭太を見つめた。
「先輩。私、先輩には私のこと、もっともっと知ってほしいと思っています。だから、今のこともお話しました。誰かに話したのは、はじめてです。でも、先輩には知っておいてほしいと思いました」
「…………」
「だから、先輩が知りたいと思ったことは、なんでも訊いてください。私も、先輩のこと、いろいろ訊きますから」
「詩織……」
 圭太は、詩織の想いが自分の予想以上に強いことに驚いていた。同時に、柚紀たちが一番懸念したことが現実のものとなりそうで、恐かった。
 そう、すでに圭太はこの後輩の女の子に、魅入られていた。
「先輩に聞いてもらえて、少し気持ちが軽くなりました」
 詩織は、ふっと今まで見せたことのない、心からの笑みを見せた。
 その時、強い風が屋上を吹き抜けた。
「きゃっ」
 その風は、詩織の髪とスカートを大きくはためかせた。
「…………」
 圭太は、無意識のうちに視線をそらしていた。
「……先輩、ひょっとして、見えましたか?」
「いや……」
 しかし、今更否定しても圭太のその行動がすべてを如実に物語っていた。
「……先輩」
「な、なにかな?」
「過ぎてしまったことはもういいです。でも、ひとつだけいいですか?」
「うん?」
「少しだけ、目を閉じていてください」
「う、うん」
 圭太は、言われるまま目を閉じた。
 詩織は、小さく頷き、圭太に近寄った。
 そして──
「ん……」
 背伸びをし、圭太にキスをした。
「し、おり……」
「私、本気ですから」
 詩織は、真っ直ぐな瞳で圭太を見つめた。
 気丈にそうしているが、顔は真っ赤になっている。
「……たとえ本気でも、そういうことは軽々しくしちゃいけないよ」
「軽々しくなんかしていません。本当に私は──」
「わかってるよ」
「あ……」
 圭太は、詩織を優しく抱きしめた。
「せ、先輩……?」
 詩織は、圭太の腕の中で困惑した表情を浮かべている。
「い、いいんですか、こんなこと、しても……?」
「どう思う?」
「私は……もう少し、このままでいたいです……」
 そう言って圭太の背中に腕をまわした。
「……先輩って、意外に手が早いんですね」
「そうかな?」
「はい。でも、相手が先輩なら、私はなにも言うことはありません。いっそこのまま、先輩のものにしてくれても、構わないくらいです……」
「……それは、まだ早いよ。僕は、詩織のことをほとんど知らないんだから」
「そう、ですね」
 腕の中で目を閉じ、小さく頷いた。
「……先輩」
「ん?」
「……こんなことされたら、私、先輩のことあきらめられなくなっちゃいますよ?」
「そうなったらそうなったで、その時に考えるよ。もっとも、すでに考えなくちゃいけないことはたくさんあるんだけどね」
「ふふっ、先輩らしいですね」
「そうかな?」
「はい」
「じゃあ、そうかもしれないね」
 そう言って圭太は笑った。
「詩織。そろそろいいかな?」
「あ、はい」
 詩織は、ほんの少しだけ名残惜しそうに圭太から離れた。
「さてと、もう戻らないと授業がはじまるね」
「あの、先輩」
「うん?」
「先輩は、私のはじめてをふたつもとっちゃいましたから、その責任は、ちゃんととってもらいますからね」
「善処するよ」
「はいっ」
 嬉しそうに笑う詩織を見て、圭太もまた嬉しそうだった。
 
「じゃあ、Fから金管だけ」
 その日の部活は、新入部員が入ってからはじめて合奏が行われた。
 基本的には一年は聴いているだけである。経験者といえども、まだ合奏ができるレベルにはなっていないからだ。
 とはいえ、最初の合奏はその厳しさを知ってもらうことが重要なので、その場にいることが重要だった。
 普段とは違う菜穂子の気迫に、一年は圧倒されていた。
 合奏はみっちり六時まで行われた。
「今日はここまで。指摘した箇所は次までに直しておくように。それと、一年生。これがうちの部の合奏だから、よく覚えておくように。今はまだ自分たちのことじゃないけど、すぐに合奏に出ることになるんだからね」
『はいっ』
「それじゃあ、終わり」
「起立、礼」
『ありがとうございましたっ』
 一気に緊張感から解放される。
「ああ、そうそう。ひとつ言い忘れてたわ」
 菜穂子の声に、ピタッと喧噪がやむ。
「各パートのリーダーは、今週中に一年生のパートを決めておくように。できるできないは二の次よ」
 再び喧噪が戻る。
「圭太」
「はい」
「一年のふたり、どうしたらいいと思う?」
 声をかけてきたのは、徹である。
「そうですね、とりあえずは基本はサードで、曲によってセカンドを担当させればいいと思いますけど」
「ま、それが妥当か」
「二部の曲なんか、ファーストでもできないか?」
 横から口を挟んだのは広志である。
「まあ、できないことはないだろうな」
「ソロのある曲とか、難しめのやつ以外で検討してみたらどうだ?」
「そうだな。そうしてみるか。夏子もそれでいいか?」
「ええ、いいと思いますよ」
「んじゃ、二、三年の総意としてペットはそういうことにするわ」
 徹は何度も頷き戻っていった。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「圭太って、紗絵の練習とか見てたことあるの?」
「紗絵が三中に入ってきたばかりの時にね。あとは、ほとんど見てないかな」
「そうなの? なんか意外だな」
 夏子はそう言って首を傾げる。
「うちの中学は、個人練よりもパー練とかを重視してたからね。だから、個人的にっていうのはあまりないんだよ」
「なるほど。それなら納得」
「圭太、ちょっといいか?」
 そこへ、仁が声をかけてきた。
「なんですか?」
「土曜のことなんだけど」
「ああ、はい、歓迎会ですね」
「それで少し確認したいことがあるんだが、時間はいいか?」
「はい」
 仁は圭太を連れてどこかへ行ってしまった。
「ホント、圭太も忙しいんだから」
 残された夏子は、そう言って苦笑した。
 
「最近、夜でもずいぶん暖かくなったよね」
 鈴奈は、大きく伸びをした。
「暖かくなるのはいいですけど、そうすると、変な人も増えてきますから。僕は気が気じゃないですよ」
「ふふっ、私には、守ってくれる『ナイト』がいるから大丈夫」
 そう言って圭太の腕を取った。
「あっ、そうそう。すっかり忘れてたけど、教育実習、決まったよ」
「ホントですか?」
「うん。一高の地元枠でね。期間は確か、六月七日から二週間だったかな? ちょっとうろ覚えだけど」
「そうですか。じゃあ、本当に鈴奈さんに教えてもらうかもしれませんね」
「圭くんに教えるかどうかは、もう少し先じゃないとわからないけどね」
 そんなことを話しているうちに、マンションに着いてしまった。
「それじゃあ、圭くん。送ってくれてありがとうね」
「いえ。当然のことですから」
 別れ際、ふたりは抱き合い、キスを交わした。
「また、明日ね、圭くん」
「はい」
 鈴奈を見送り、圭太はきびすを返した。
 空を見上げると、星が見えた。
 若干雲は出ていたが、綺麗な夜空と言って差し支えないだろう。
「ふう……」
 圭太は、息をつき、頬を張った。
「よしっ」
 なんのために気合いを入れ直したのか、それはわからない。ただ、圭太はそうすることになんらかの意味を見いだしていたことは、確かだった。
 
 四
 圭太と柚紀にとっては、そのつきあうきっかけとなった新入部員歓迎会の日。
 その日は朝方は少し雲が出ていたが、時間が経つにつれて少しずつ天気もよくなってきていた。
 午前中に部活を行い、例年通り午後から歓迎会である。
 仁を中心に男子部員が買い出しを、女子部員は先に会場である市立公園で場所の確保を。
 このあたりの手際はさすがで、部員全員が座れる場所を確保し、買い出し部隊を待つ。
 買い出し部隊が到着し、食べ物や飲み物が全員に配られる。
「みんな、自分の分はある?」
 祥子はそう言って部員を見回す。
「それじゃあ、これから一高吹奏楽部、新入部員歓迎会をはじめます」
「いよっ、待ってましたっ」
「最初に私から。まずは新入部員のみんな、数ある部活の中から吹奏楽部を選んでくれてありがとう。今年もみんなのおかげで大台である二十人を確保でき、部員の面ではなんの問題もないわ。あとは、二年連続全国大会進出と金賞を目指してがんばるのみ」
 さすがに去年のともみほどの迫力はない。それでも祥子は祥子なりに話した。
「まあ、そういうことはこれからのことだから」
 祥子が合図すると、二、三年は一斉に立ち上がる。
 去年もそうだったが、一年にはなにが起こったのかわからない。
「ようこそ、一高吹奏楽部へっ」
『ようこそっ!』
 歓迎の言葉が、高らかに響いた。
「さあ、あとは好きにやっていいわよ。私たちも好き勝手やるから」
 それからは食べて飲んで騒いで。
「先輩。どうぞ」
「ん、ありがとう」
 紗絵は、同じパートであることを最大限に活かし、ここぞとばかりに張り切っていた。
 基本的にはパートごとに座っているため、いつもは障害となっている柚紀は少し離れたところにいる。
「これが歓迎会なんですね」
「うん、まあね」
 圭太は、曖昧に笑った。
 歓迎会の本番は、これからであることを一年は知らないからだ。
「圭兄」
 そこへ、朱美が出張してきた。
「朱美。無理に僕のところへ来なくてもいいんだぞ」
「無理なんかしてないよ。はい、圭兄」
 そう言って紗絵の前にあったペットボトルのジュースを注ぐ。
「おっと、残念だったな、おふたりさん」
「仁先輩」
「圭太はこれから少々やることがあるから、借りていくから」
「えっ……?」
「あっ、圭兄」
「ちょっと行ってくるから」
 圭太は、仁と一緒に席を立った。
「まったく、圭太は相変わらずだな」
「ふたりのことですか?」
「ああ。もう少しケジメをつけないと、とんでもないことにならないか?」
「……もうなってるって話もありますけどね」
 圭太は、そう言って苦笑した。
「ま、それはおまえたちの問題だからいいけどな。それより、今はこのあとのことを成功させないとな」
「そうですね」
 
「さて、宴もたけなわではありますが、ここでちょっとしたゲームをやろうと思います」
 仁は、なぜかシルクハットをかぶり、前に出た。
「いよっ、待ってましたっ!」
「例年この歓迎会では王様ゲームをやってきました。もちろんそれ自体は面白くていいのですが、それだけでは能がないと考えた次第であります」
 そこへ、ネクタイを蝶ネクタイに替えた圭太が出てくる。
「そこで、今年は少々違うゲームをしようと思います」
「なにするんだ〜?」
「鬼ごっこです」
 一瞬、シンと静まった。
「おいおいおい、鬼ごっこでなにしようって言うんだ?」
 早速信一郎からブーイングが上がった。
「まあまあ、話は最後まで聞いてください。もちろんただ普通に鬼を決めて逃げるのでは面白くありません。それに、この人数では普通のやり方では無理があります。そこで考えたのが、チーム対抗戦です。ここに六十人分のクジがあります。ひとり分少ないのは、監視役です。これは僭越ながら、私がつとめます」
「卑怯だぞ〜」
「静粛に。チームは三人一組で全二十チームです。まずは半分の十チームが鬼となり、残りの十チームを追いかけ捕まえます。制限時間は十分間。場所はこの公園内のみ。一歩でも外に出てはいけません。鬼は制限時間内に相手チームを捕まえれば勝ちです。逃げているチームは、捕まらなければ勝ちです。ただしその際は、必ず三人一緒に行動してください。鬼は三人で別々に行動して挟み撃ち、などというのは反則になりますから」
 仁は淡々と説明を続ける。
「勝ったチームは、負けたチームに対しての命令権を得ます。ここは去年の王様ゲームに近いですね。ただし、命令できることはひとつのチームにつき、ひとつだけです。それと、十チームの中で、指名できるのは一回のみです。さすがに十回連続ということはないと思いますが、万が一を考え、そうします。勝ち残った十チームは、今度は五チームごとに分かれ、また同じことを繰り返します。勝ち負けの判定も同じです」
「五チームだと、半端じゃないか?」
「ええ、それはそうです。ですが、それは致し方がありません。残った五チームを二チームと三チームに分け、どちらかを担当してもらいます。そして、一対一になるまでそれを続けます。最終的に勝ち残ったチームには、賞品を用意しました」
「賞品ってなんだ?」
「ここにいる高城圭太くんの実家が喫茶店をやっていることは、二、三年は周知のことと思います。今回はその『桜亭』のご協力により、ケーキセットをご提供いただきました。ちなみに、ケーキのおかわりは常識の範囲内でならオーケーとのことです」
「おいおい、大丈夫なのか、圭太?」
「まあ、なんとかなると思います」
 圭太は、そう言って苦笑した。
「それでは、早速クジを引いていただきます。クジにはアルファベットが書いてありますので、同じアルファベットの人で集まってください」
 仁はクジの入った箱を持ち、みんなの間をまわる。
 さすがに六十人をまわるのは時間がかかった。
 クジが行き渡り、三人ずつで集まる。
 圭太は、『G』のクジを引いていた。
「この組み合わせとはね」
 葵はそう言って笑った。
『G』は、圭太、葵、そして詩織の三人だった。
「ええ、全員分かれましたでしょうか?」
 仁は一同を見る。
「次に、AからJのチームとKからTのチームに分かれてください」
 ぞろぞろとふた手に分かれる。
「AとKからひとり、前へどうぞ」
 ふたりが前に出る。
「ジャンケンで鬼を決めてください」
「ジャンケン……ポンっ」
「では、AからJの十チームが鬼となります。KからTのチームはこれから三十秒数えますので、その間に逃げてください。いきますよ?」
 そして、鬼ごっこがはじまった。
 
 さすがに六十人参加の鬼ごっこは、なかなか大変だった。
 とはいえ、公園はそれほど隠れる場所があるわけではない。しかも、徒党を組んで追われては、厳しいものがあった。
 結果、制限時間を二分も残して鬼チームの勝利となった。
「それでは、勝利したAからJチームで、命令する順番を決めてください」
 当然のように十人でジャンケンが行われた。
「よしっ」
 勝ったのは、『G』の葵だった。
「では、まずは『G』チームからどうぞ」
「どうする?」
「どうしましょう?」
 葵が中心となり、どのチームにどんな命令をするか話し合う。
「まずは、命令するチームを決めた方がいいわね。ふたりは、どこってのはある?」
「僕はどこでも」
「私もです」
「じゃあ、私が決めるわね」
 そう言って葵はニヤッと笑った。
 葵の視線の先には、『O』チームがあった。
「命令するのは、『O』チーム」
「うげっ!」
 声を上げたのは、『O』チームにいた徹である。ちなみに、ほかのふたりは美里と一年の森内香奈だった。このふたりはいい迷惑である。
「で、なにを命令する?」
「そうですねぇ……」
 圭太は、腕を組んで考える。意外に楽しんでいるようである。
「先輩としてはなにをさせたいんですか?」
「私? 私は徹をピンポイント攻撃できればなんでもいいわよ」
 やはり、ターゲットは徹であった。
「それじゃあ、先輩が決めてください。詩織もそれでいいよね?」
「はい」
「そう? 悪いわね」
 と言いつつ、葵はすでにやる気満々だった。
「『O』チームの三年に命令するわ」
「をい、ちょっと待て。三年て俺じゃないか」
「うるさい。こっちは勝者なのよ? 文句あるわけ?」
「……いえ、ないです」
「じゃあ、向こう一週間、私たち三人の下僕ってことで」
「ふ、ふざけんなって。そんなバカな話──」
「あるわよね?」
 葵は、笑顔でそう言った。
「……はい、あります」
 葵は、強かった。
 それから順に命令が下されていく。
「それでは、二回戦です」
 
 二回戦からは、負けたチームが監視役になり、さらに勝負はシビアになった。
 圭太たち『G』チームは、またも鬼チームとなった。結果は、またもや勝利。
 命令は詩織に譲り、なあなあで済ませる。
「それでは、三回戦です。現在残っている、A、C、E、G、Iチームをふたつに分けます」
 チームは、A、E、IとC、Gとに分けられた。
「鬼は、C、Gチームとなりました。ですが、この人数ですとこの公園は広すぎますので、少々場所を狭めたいと思います。基本的にはこの公園の半分です。分ける場所には、監視役を立たせていますから、そこより遠い場所へは逃げないでください。それでははじめます」
 
 鬼となった『C』チームには、柚紀、彩子、冴子という三人がいた。
 二チームは話し合い、各個撃破という作戦をとった。
 両チームとも運動神経のいい者が揃っていたおかげで、五分足らずでAとIを捕まえた。
 しかし、ここからが大変だった。残る『E』チームには、功二と健介がおり、男女の体力差を考えると、なかなか微妙だった。残るひとりが一年の西尾雅美ということを差し引いても、なかなか強力な戦力だった。
 ただ、それでも多勢に無勢であった。敵は、追いかけている二チームだけではなかった。監視役が場所を教えるため、すぐに追いつかれる。さすがに捕まえるのまで手助けしなかったが。
「圭太っ、正面っ」
 葵の指示が飛ぶ。
 三人一緒がルールだが、足の速さに差があるため、ある程度は単独行動も許容されていた。それを最大限に活かし、圭太は相手のアキレス腱である雅美を捕まえた。
 ひとりでも捕まえれば、そのチームは終わりである。
「それでは、勝利したCとGチームは、敗者に命令してください」
 それぞれ三回目の命令となり、そろそろネタも尽きてくる。
 結局、お茶を濁すような形で終わってしまった。
「それでは、決勝です。決勝は、特別ルールを採用します。さすがにチーム同士では厳しいですから。そこで、決勝では相手チーム全員を捕まえた段階で勝利とします。ですから、逃げるチームは単独行動も認めます。ただし、鬼チームは認めません。それと、場所もまた少々狭めますので。では、鬼と逃げる方を決めてください」
 両チームから三年が出てジャンケンする。
 勝ったのは葵だった。
「『G』チーム、どちらにしますか?」
「どうする?」
「これまでのことを考えると、鬼の方が勝てる確率が高いとは思いますが」
「でも、今回は別々に逃げていいのよね」
「そうですね。そうすると、逃げる方がいいですかね?」
「向こうには彩子と柚紀がいるからね。やっかいだわ」
「あの、私は逃げた方がいいと思います」
 そこで、詩織が意見を述べた。
「どうして?」
「六人の中で一番足の速いのは、圭太先輩ですから。最悪私と葵先輩が捕まっても、圭太先輩が逃げ切れば私たちの勝ちです」
「なるほど。そういう方法もあるわね。どう、圭太?」
「いいと思いますよ。ただ、十分間は結構長いですけど」
「よし、それでいきましょ」
「決まりましたか?」
「私たちが逃げるわ」
「それでは、三十秒後に鬼がスタートしますので」
 
 圭太たちは、とりあえず三人一緒に逃げた。スタート地点から一番遠い場所まで逃げる。当然まわりには監視役がいる。
「いい? 鬼が来たら一斉に散開するわよ?」
 すぐに鬼が追いかけてくる。
「圭太、頼んだわよ」
 三人はそれぞれ別の方向へ逃げる。
 鬼の三人は、足の速い圭太を後回しにし、葵と詩織を追いかけた。
 最初にターゲットにされたのは、葵だった。
「ちっ、私からか」
 葵は逃げながらあたりの様子を伺う。
 とにかく少しでも時間を稼がねばならず、そうしたのだ。
 追ってくる三人に比べると、葵は少々足が遅い。そのため、徐々に差が縮まってくる。
「柚紀っ、冴子っ、まわってっ」
 彩子の指示で、後輩ふたりが葵の横へ動く。
 そして──
「くっそー、もう捕まったわ」
 葵はあえなく捕まってしまった。
「ふたりとも、次行くわよ」
 しかし、三人はすぐに、今度は詩織を追った。
 詩織は、葵とは正反対の場所へ逃げていた。
 とはいえ、監視役によってすぐにどこにいるかわかってしまう。
 この段階で残り時間は五分。
 詩織は、とにかく時間を稼ぐことだけを考え、あえて自分から三人の前に出た。
「冴子、私と柚紀が押さえるから、逃げ道を塞いで」
 足の速いふたりが詩織に迫った。
 ところが、詩織は逃げるどころか逆に迫ってきた。
「しまったっ」
 それは裏をついた作戦だった。走ってくる相手を走りながら捕まえるのは難しい。
 詩織はそれを利用していったん三人の手をかいくぐった。
 だが、身体能力に差があった。
 三年でも一、二を争う俊足の持ち主彩子と、同じく二年で俊足の柚紀が相手では分が悪かった。
「はあ、はあ、降参です」
 結局、詩織は健闘虚しく捕まってしまった。
 ただ、詩織の役目は十分果たしていた。
「くっ、残り二分ちょっと」
 その時間で部内最速と言われる圭太を捕まえるのは厳しかった。
「とにかく、行くわよ」
 それでも最後の一秒まで追いかけるべく、三人は圭太を追った。
 圭太は、実は様子を見つつ逃げていた。そのため、詩織が捕まった段階でそこから一番遠い場所へ一直線で逃げられた。
 この段階で残り時間は二分を切っていた。
 追う三人にも圭太の姿は捉えられていた。
 圭太は外周で三人を待ち構えていた。
 刻一刻と過ぎる時間。
「とにかく、少しでも逃げ道をつぶさないと」
 三人は微妙な距離を取り、圭太を追いつめていく。
 圭太は、三人を見てにっこり笑った。
 同時に一気に駆け出す。
 それが最後だった。
 
 壮大な鬼ごっこも、ようやく終わった。
「勝者は、『G』チームです」
 圭太たちは、みんなの前に出る。
「さて、まずは敗者に命令をどうぞ」
「ここはあれよね、勝利の立役者に譲るわ」
「そうですね」
 命令は、必然的に圭太が出すことになった。
「じゃあ、三人でなにかをしてください」
 圭太の命令は、比較的ポピュラーだった。
 負けた三人は、ひそひそと作戦会議中。
「じゃあ、それぞれ一発芸を」
 そう言ってまずは彩子。
「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ──」
 次に冴子。
「ものまねです──」
 最後は柚紀。
「寸劇を──」
 とまあ、微妙な内容ではあったが、とりあえず認められた。
「それでは賞品の授与です。どうぞ」
 仁から葵に封筒が手渡された。
 中に入っているのは、もちろんケーキセット券である。スポンサーの息子がそれをもらっても、という当然の疑問はあったが、それはルールである。
「ええ、みなさん。長い間おつかれさまでした。これにて鬼ごっこは終了です。来年はおそらく、これはやらないでしょう。面倒ですから。では」
 仁は、シルクハットを取り、深々とお辞儀をした。
 
 歓迎会が終わって。
「ねえ、圭太」
「はい、なんですか?」
「これって、いつ使えばいいの?」
 葵はそう言って封筒をひらひらと振った。
「いつでもいいですよ。まあ、できれば僕がいる時の方がいいですけど」
「そっか。じゃあ、明日の午後とかでも大丈夫?」
「ええ、それは」
「詩織はどう? 都合が悪いならほかの日でもいいけど」
「私も明日で構いませんよ」
「そう? なら、圭太。明日、部活が終わったら行くから」
「わかりました」
 そんなわけで、葵と詩織は『桜亭』へ行くことになった。
 
「んもう、圭太、全然手加減してくれないんだもん」
 柚紀はそう言ってむくれた。
「そんなこと言われても、チーム戦だったからね」
 圭太は一応正論を返した。
「それは、そうだけど。でもぉ、なんか納得いかない〜」
 駄々をこねる柚紀。
「でも、さすが先輩ですね。最後は余裕で逃げ切ってましたから」
「うんうん。圭兄は運動神経も抜群だからね」
 早々に負けていた朱美と紗絵は、とりあえず圭太のことをはやし立てる。
「圭くんが相手になった段階で、柚紀たちの負けは決まっちゃったようなものだよね」
 祥子もそう言う。
「ううぅ〜、『桜亭』の食べ放題が〜」
「……食べ放題じゃないんだけど」
「そういえば、先輩。先輩の分はどうするんですか?」
「僕の分は使わないよ。なるべく負担は減らしたいからね」
「そうですか」
 若干部費から補助が出ているとはいえ、さすがに圭太まで使えば赤字が多くなる。それは息子としてはやはりできないことだった。
「圭くん。葵たちはいつ行くって?」
「一応、明日来るって言ってました」
「そっか」
 それを聞き、祥子はなにやら考えている。
 しかし、結局最後までなにを考えていたのかはわからなかった。
 
 次の日の午後。
 圭太は、葵と詩織を『桜亭』へ招待した。
 詩織は当然だが、葵も『桜亭』ははじめてだった。
「はい、お待たせ」
 ふたりの前に、ケーキと紅茶が置かれた。
「うわ〜、美味しそう」
「ふふっ、ありがとう」
 ふたりは、早速ケーキを一口。
「ん〜〜〜、おいひい」
「ホント、美味しいです」
「よかったわ、お口にあって」
「これならいくらでも食べられそうです」
「先輩。常識の範囲内でお願いします」
「わかってるって。それくらい美味しいってことよ」
 ふたりは、本当に美味しそうにケーキを食べていた。
「圭太。あなたもなにか食べる?」
「僕はいいよ。その分を、先輩と詩織に分けてくれればね」
「そう?」
 琴美はなにか言いたげだったが、結局なにも言わなかった。
 それから葵はケーキを三つ、詩織はふたつほどおかわりした。
 もともと三人だったことを考えれば、十分常識の範囲内と言えるだろう。
「じゃあ、私はそろそろ帰るわね。詩織はどうするの?」
「えっと、私は……」
 詩織は、なにか言いたげに圭太を見た。
「別に無理して私と一緒じゃなくてもいいのよ。せっかくだから、もっとゆっくりしていけばいいわ。ねえ、圭太?」
「それは別に構いませんけど」
「じゃ、そういうわけで。ごちそうさまでした」
「また来てね。今度は、お客さんとして」
「ええ、きっと」
 そう言って葵は帰っていった。
「それじゃあ、ここじゃなんだから。場所を変えようか」
 圭太は、詩織を家のリビングへと通した。
「まさか──」
「うん?」
「まさか、こんなに早く先輩のおうちに来られるとは思ってもいませんでした」
「そうだね」
 詩織の言葉に、圭太は小さく頷いた。
 詩織は、感慨深そうに部屋を見回す。
「珍しい?」
「あっ、いえ」
 慌てて頭を振る。
「私、男の人の家に来たの、はじめてなんです。だから、その……」
「そっか。でも、うちは男女比で言うと圧倒的に女が優位だから」
「そうなんですか?」
「うん。男は僕だけ」
「えっ……?」
 それにはさすがに声を上げた。
「僕の父さんはね、僕が小五の時に事故で死んだんだ。それからこの家に男は僕だけ」
「あ、あの、すみません……私、余計なことを……」
「ううん、気にしなくていいよ。もう過ぎたことだし。それに、僕につきあってると遅かれ早かれ知ることになったと思うし」
 圭太は、あっけらかんとそう言う。
 しかし、詩織は事情が事情なだけに、申し訳なさそうに俯いている。
「あとは、母さんと妹の琴絵、それと今はうちに居候してる従妹の朱美。ね、女が優位でしょ?」
「そう、ですね……」
 圭太は話題を戻そうとするが、詩織の表情は晴れない。
「別に詩織はなにも悪いことは言ってないよ。だから、そんなに気に病まないで」
 優しく言い諭す。
「……はい、わかりました」
 それでようやく、少しだけいつもの詩織に戻る。
「どうせだから、僕の部屋も見てみる?」
「えっ、いいんですか?」
「うん。どうせなにもないから」
 そう言って笑う。
 圭太は先に立って、詩織を自分の部屋へと案内する。
「ここが僕の部屋だよ」
「ここが……」
 詩織は、ドアのところに立ったまま、部屋を見回した。
 圭太の部屋は、常に整理整頓されているので、よく耳にするような、男の部屋は汚い、というのとはまったく違う空間である。
「ほら、そんなところに立ってないで、座って」
「あ、はい」
 勧められるまま、詩織は座った。
「……あの、先輩。ひとつ、訊いてもいいですか?」
「なにかな?」
「先輩は、はじめて訪れた子を、必ず部屋に案内するんですか?」
「さあ、それは状況次第かな。たとえば、なにか話し合いをするとかいう場合なら、通すこともあるし。でも、そうだね、基本的にはすぐには通さないかな」
「じゃあ、私は、例外、ということですか?」
「そうかもね」
「そうですか……」
 詩織は、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。圭太に特別扱いしてもらえたことが嬉しいようである。
「詩織の家は、一軒家? それともマンション?」
「うちは、マンションです。家族も三人だけですから、一軒家だと大きくて」
「詩織ってひとりっ子なんだ」
「あ、はい。言ってませんでしたね」
「そうか、ひとりっ子か。そうすると、ずいぶんと可愛がられて育てられてきたんじゃないかな」
「そうだと思います。本当に小さい頃のことは覚えてませんけど、ある程度より上のことなら覚えてますから。両親ともに、溺愛してると言っても過言じゃないくらい、可愛がってくれました」
 昔を懐かしむようにそう言う詩織。
「ただ、私はそれだけの生活に満足できなくなっていたんだと思います」
「どういうこと?」
「両親が用意してくれた道を進み、与えてくれたものだけで生活する。そこに私の意志はありませんから。だからこそ、父の反対を押し切ってまで中学で吹奏楽をはじめ、一高でも入りました。それは、両方とも私が決めたことです。それが、私にとっては重要だったんです」
 その想いは、すべてではないにしろ、ほとんどを自分自身で決めてきた圭太にはわからない想いである。
 だからこそ圭太は、あえてなにも言わなかった。
「そして、私はもうひとつ自分で決めたことがあります」
「それは?」
「はい、私の、好きな人です」
「……なるほど」
 その答えに、圭太は苦笑した。
「あのままだったら、きっと私は、父や母が連れてくる見知らぬ人とつきあわされたかもしれません。それを考えると、今がどれだけ幸せか、わかりません……」
 そう言って胸の前で手を組む。
「先輩を知って、先輩と出会えて、そして、先輩を好きになれて、本当によかったです」
 詩織は、以前よりもずっと自分の想いを込め、そう言った。
 やはり圭太はなにも言わず、穏やかに微笑み返すだけだった。
 
「先輩」
「うん?」
 帰り際。
「また、おじゃましてもいいですか?」
「いいよ。都合がつけば、いつでもおいで」
「はい、ありがとうございます」
 詩織は、笑顔で挨拶をし、帰っていった。
 詩織を見送り、部屋に戻ろうと振り返るとそこには──
「な、なんで柚紀たちが……」
 笑顔ながら目がまったく笑っていない、柚紀、祥子、朱美、紗絵の四人がいた。
「さて、圭太。い・ろ・い・ろ、訊きたいことがあるんだけど、いいわよね?」
 柚紀は、笑顔を張り付かせたままそう言った。
 圭太は、降参の意を込めて、がくっと頷いた。
 結局圭太は、四人に詩織とのことをほとんど話した。ただ、圭太にしては珍しく、キスのことだけは頑なに言わなかったが。
 柚紀たちにしても、その兆候は最初から見られていたので、必要以上に驚くことはなかった。
 それでも、自分たちの知らない間に圭太と詩織の関係がだいぶ近づいていたことに、少なからずショックを受けていたようである。
 特に同い年である朱美と紗絵は、超強力なライバルの出現に、本気で焦っていた。
 しかし、それでも最後は圭太を許してしまうのは、四人が本当に圭太のことが好きで、なおかつ圭太のことを理解しているからであろう。
 そうでなければ、今頃す巻きにされて、埋められている。
 圭太自身もそれがわかるだけに、素直に反省していた。
 
 だが、はじまってしまったものを止めることは、簡単なことではない。
 特に、恋、というものに関しては。
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