僕がいて、君がいて
 
第十二章「旅立ちの春、出逢いの春」
 
 一
 人間の一生には、何度か旅立ちという瞬間がある。
 保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校、大学。主に学校絡みだが、その中で高校はいろいろな意味で大きい意味を持つ。
 必ずしも全員が大学などへ進学するわけではない。従って、卒業後就職などして社会に出る者もいる。
 中学から高校では旅立ち、などと大げさなものではないが、高校はその言葉を当てはめても支障はないだろう。
 そんな人生の岐路に、彼、彼女たちは立つ。
 
 三月一日。
 その日は弥生三月にふさわしく、朝からとてもいい天気だった。
 雲ひとつない快晴の天気で、気温も高くなるという予報だった。
 その日、県立第一高等学校では、卒業式が執り行われる。学校では在校生と教職員が総出で最後の準備に追われていた。
 そんな中、三年の教室には生徒会が中心となって黒板におめでとうメッセージが書かれていた。色とりどりのチョークを使い、卒業生にメッセージを書く。
 それが終わる頃に卒業生が登校してくる。卒業生同士も会うのは久しぶりである。
 受験のことなど、話は尽きない。
 時間が来ると、一度生徒会役員が三年の教室をまわった。卒業生が胸につける花を渡すためである。
 制服である一高では、特別な格好はしないが、胸元には花をつける。
 それを終えると、いよいよ卒業式である。
 一組から順番に、父兄と在校生、教職員に来賓の待つ講堂へ。
 
 卒業式は、実に厳かに執り行われた。
 在校生の送辞も、卒業生の答辞も、それぞれに趣がありよかった。
 最後、校歌を歌う段になるとすすり泣く声も聞こえてきた。
 中にはもらい泣きしている在校生や父兄もいた。
 在校生たちは、卒業生を送るため全員校庭へと出てくる。ここで、最後のホームルームをしている卒業生を待つのである。
 部の先輩に渡すのだろう、花束などを持っている生徒も大勢見られる。
 しばらく待っていると、昇降口に近いあたりから歓声が起こった。卒業生が出てきたのである。
 在校生は目当ての卒業生を探し、お祝いの言葉をかける。
 それは、吹奏楽部でも同じだった。
「おっ、いたぞ」
 徹が指さした先には、大介の姿があった。
「大介先輩」
「おっ、おまえら、揃ってるな」
「先輩、卒業おめでとうございます」
 夏子は、持っていた花束を大介に渡す。
「なんか、改まってこういうことされると、照れるな」
「なに言ってるんですか。そんなの大介先輩らしくないじゃないですか」
「んだと、この野郎」
 笑顔があった。
「先輩。幸江先輩はまだですか?」
「ん、幸江のクラスももう終わってると思うけど」
「あれじゃないですか?」
 今度は圭太の指さした先に幸江の姿があった。同じクラスの女子と話している。
「ほれ、圭太。おまえ呼んでこい」
「あっ、はい」
 圭太は言われるまま、幸江を呼びに行く。
「幸江先輩」
「あっ、圭太」
「卒業おめでとうございます」
「うん、ありがと」
「なになに、幸江の後輩なの?」
「えっ、あ、うん」
「ふ〜ん、幸江にこんな後輩がいたんだ。ちょっとびっくり」
「な、なによ、その言いぐさは?」
「まあまあ、いいじゃない。それより、後輩くんはあんたを呼びに来たんでしょ」
「そうそう、さっさと行ってこい」
「わっ、わわっ」
 友人に背中を押され、幸江は前に突っかけた。
「大丈夫ですか、先輩?」
「え、ええ、大丈夫よ」
 幸江は、キッと後ろを振り返った。
「あとで覚えてなさいよ」
「ああ、はいはい。一応頭の片隅にとどめておくから」
 友人は笑いながら行ってしまった。
「まったくもう……」
「先輩も、大変ですね」
「まあね。それより、行きましょ」
 ふたりは、圭太が元いた場所へと戻る。
「幸江、また連中にからかわれたのか?」
「またって言い方、しないでよ」
「だって、事実だろ?」
「むぅ……」
「ま、まあ、ふたりとも今日はめでたい日ということで」
「そうですよ」
「ま、そういうことならしゃあないか」
「幸江先輩。改めて、卒業おめでとうございます」
 そう言って圭太は、花束を渡した。
「ありがとう、みんな」
「まあ、うちらは先輩ふたりに対して四人ですから、ましですよ」
「アホ、金の問題じゃないだろうが」
 広志にツッコミを入れる徹。
「先輩たちはこれから、謝恩会ですよね?」
「ああ、そうだな。PTA主催の謝恩会をやって、それからたいていクラスごとの卒業パーティーだな」
「大変ですね。じゃあ、今日は午前様ですか?」
「さて、それはわからんけどな」
「さすがにそこまでやるところはないと思うわよ。クラスの大半はまだ進路が確定してないし。後期日程のために勉強するって人もいるしね」
「ま、本格的にやるのはもう少しあとってことだ」
「でも、大介先輩には関係ないじゃないですか。もう大学決まってるんですから」
「ん、それはそうだけどな。まわりにあわせることも、必要なんだよ」
「あら、大介が珍しく殊勝なこと言ってる」
「んだと?」
「事実でしょ?」
「うぐっ……」
「大介先輩と幸江先輩だと、やっぱり幸江先輩の方が一枚上手ですね」
「当然でしょ?」
「くっそー」
「あはは」
 校庭に、笑い声が響いた。
 
 笑顔、泣き顔、澄まし顔。
 表情は実に様々。
 卒業生も在校生も、今という時を目一杯感じて。
 在校生は卒業生を気持ちよく送り出し、卒業生はそんな在校生に背中を押され、新しい一歩を踏み出す。
 
 二
 卒業式が終わり、一高でも確実に空気が変わった。
 三日から授業は再開されたが、またすぐに休みになる。今度は、高校受験である。
 今年の日程は三月九日ということで、前日から学校内は関係者以外立ち入り禁止となる。そのため授業は三日間だけ行われ、入試が終わったあと、また三日間だけ行われ、残りは休みとなる。
 学校側としても、授業だけをやっている場合ではないので、そういうことになっている。
 終了式自体は十八日に行われ、その後春休みに入る。
 
 三月六日。
 その日は朝から曇り空で、少し肌寒い日だった。
 圭太は朝からともみの家を訪ねていた。
 前日の夜、ともみから電話があり、部活が午後からということで合格発表につきあわされることになったのだ。
「おはよう、圭太」
「おはようございます、先輩」
「悪いわね、わざわざつきあわせちゃって」
「いえ、それは別に気にしてません」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 実際、圭太にしてみれば結果を早く知りたいと思っていたので、今回のことは願ったりかなったりだったのだ。
 発表は大学の方で、午前十一時に行われる。
 それまで少し時間があるため、ふたりはとりあえず駅前まで出ることにした。
 圭太の格好は制服である。時間によってはそのまま帰らずに部活に出なければならないからだ。
 ともみの方は、私服である。ライトグリーンのコートが、春らしくていい。
「先輩が合格すると、大学にふたりも知り合いができますね」
「ああ、そういえばそうね。鈴奈さんは、文学部だっけ?」
「はい、国文学です」
「とすると、私とは接点はないわね。私は法学部だし」
 ともみは、鈴奈が通っている地元の国立大学を受けていた。学部は法学部で、学科は法律学科である。
「でも、先輩には変わりないし、今度『桜亭』行ったら、ちゃんと挨拶しとかないと」
「そうですね」
 コーヒーショップで適当に時間をつぶし、ふたりは大学へ。
 大学のキャンパスでは、大勢の受験生が発表の時を待っていた。父兄の姿も結構見受けられる。
 そして、そんな受験生を遠巻きに見ているのが、大学の体育会系のサークルである。合格した受験生を胴上げしようと待ち構えているのである。
「……ねえ、圭太」
「なんですか?」
「手、握っててもいい?」
「いいですよ」
 さすがのともみも緊張している。
 その証拠に手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。
 少しすると、掲示板の近くがざわめいた。どうやら大学の職員が合格者の書かれた紙を持ってやって来たらしい。
 発表は学部、学科ごとで順番はわからない。
 午前十一時。
 ほぼ時間通りに合格者が発表される。
 同時に歓声が上がる。
 ともみは、圭太の手をしっかりと握りしめ、掲示板の前へ行った。
「…………」
 法学部法律学科。
 その合格者の番号が、大きな模造紙に記されている。
「……あ」
 番号を目で追っていたともみから、小さな声が漏れた。
「あった……」
 そして、それが歓喜の声に変わるのには、ほんの少しだけ時間がかかった。
「あったっ、合格っ、合格したっ」
「おめでとうございます、先輩」
「うんっ、ありがとう、圭太」
 ともみは、二度三度確認する。しかし、何度確認してもその番号はあった。
 圭太の手を取り、本当に嬉しそうに喜ぶともみ。
 そんなともみを見て、圭太もまた、嬉しそうだった。
 
「はあ、よかったぁ……」
 ともみはもう何度となくそう言っている。
「これで先輩も四月からは大学生ですね」
「そうよ。私も女子高校生から女子大生になるのよ」
 結局ともみは、圭太と一緒に一高へ行くことにした。
 家族には電話で合格を伝え、夜に合格祝いをすることも伝えられた。
 それと同じくらい伝えたいのは、やはり吹奏楽部の面々である。
「ねえ、圭太」
「はい」
「私、合格祝いがほしいんだけど」
「えっ……?」
 一高への途中、ともみはいきなりそんなことを言い出した。
「ああ、別にお祝い金とかお祝品がほしいわけじゃないわよ」
「じゃあ、なんですか?」
「うふふ、それはやっぱり、圭太自身、でしょ?」
 そう言ってともみは、あっという間にキスをした。
「今度、時間のある時でいいから、うちに来て。その時に、たっぷりとお祝いもらうから。いいでしょ?」
「……たっぷりというのが非常に気になりますけど、はい、わかりました」
「ん〜、やっぱり圭太は良い後輩だわ。ホント、惚れ直しちゃう」
「あ、あはは……」
 乾いた笑いを浮かべる圭太。
 だが、そんな表情とは裏腹に、心の中では本当にともみのことを喜んでいた。そして、自分にできる精一杯のことでともみを祝ってあげたいとも思っていた。
 たとえそれが、セックスという形であっても、それはそれでいいと思っていた。
 そう、ともみが笑顔でいられるのなら。
 
 三月七日。
 県立高校の入試を二日後に控えたこの日、吹奏楽部は午前中に軽く練習を行った。もっとも、練習中もそれぞれの先輩の話で持ちきりで、真面目にやっていた時間の方が少なかったが。
 圭太は部活が終わると真っ直ぐ家に帰った。いつもなら柚紀や祥子が一緒なのだが、その日はひとりだった。しかも、午後に予定もない。
 とはいえ、その分はしっかり次の日に予定されているのだが。
 日曜日ということで、お昼を過ぎても『桜亭』には何人かお客がいた。
 それでも圭太が手伝うほどではなく、結局は部屋でのんびりすることになった。
 圭太は、CDを流しながら音楽関係の雑誌に目を通していた。
 CDも三枚目になった頃、チャイムが鳴った。
 当然のごとく、圭太が応対に出る。
「はい、どなたですか?」
 インターホンで相手を確認する。
『あの、真辺です。真辺紗絵です』
 相手は、紗絵だった。
 圭太はドアを開け、紗絵を迎え入れた。
「紗絵、どうかしたの?」
 圭太も受験を二日後に控えた紗絵が、こんなところに来ることに少々違和感を覚えていた。
「あの、先輩……」
「うん?」
「私、怖いんです……」
 そう言って紗絵は、圭太に抱きついた。
 とりあえず圭太は、紗絵を自分の部屋へ連れて行った。
 そこで座らせ、とにかく落ち着かせる。
「怖いって、受験が?」
「はい。失敗したらどうしようって、そればかり考えてしまって……気がついたら、ここへ来ていました」
「そっか……」
 圭太としても、紗絵のその気持ちはよくわかった。
 普通に公立中学に通っている紗絵にとって、高校受験ははじめての大きな試験である。それに対するプレッシャーが、彼女を押しつぶそうとしているのだ。
 それは、去年圭太も程度の差はあれども、経験している。
「でも、勉強はしてるんだろ?」
「はい……」
「だったら、自分に自信を持って、全力でやればいいんだよ」
「でも……」
「コンクールの演奏と同じだよ。コンクールだって、本番前はいろいろ考えるだろ? でも、最後にはそれに打ち勝って、去年は全国で金賞も取った。それと同じだよ」
 圭太はできるだけ優しく、紗絵に話しかける。
 少しでも自分から前向きな考えを持つように、そんな風に話しかける。
「確かに、受験は怖いと思う。でも、紗絵なら大丈夫。ちゃんと勉強もしてる。成績だって悪くない。それに──」
 圭太は、真っ直ぐ紗絵を見つめる。
「僕と一緒に、一高へ行くんだろ?」
「あ、はい」
「だったら、あさっての受験なんかぱっぱと終わらせて、合格しないと」
「そう、ですね……」
 少しだけ、紗絵の顔にいつも感じが戻った。
「先輩……」
「なんだい?」
「私に、受験を乗り切るための勇気を、くれませんか?」
「うん、わかった……」
 
「ん、先輩……」
 圭太は、紗絵をベッドに横たわらせ、キスを繰り返した。
「今は、受験のことは忘れて……」
「はい……」
 紗絵は小さく頷いた。
 ブラウスを脱がせ、ブラジャーも外してしまう。
「んっ、あんっ」
 圭太は、紗絵の控えめな胸に舌をはわせた。
 つんと勃った突起を、舌先で転がす。
「んあっ、先輩っ」
 紗絵の体は相変わらず敏感だった。圭太が触れる度、舐める度に体がぴくんぴくんと反応していた。
 下半身に手を伸ばし、スカートの中に手を滑り込ませる。
「んっ」
 まだ慣れていないせいか、紗絵は一瞬それを拒もうとした。
「大丈夫」
 そんな紗絵に圭太は優しく声をかける。
 ショーツの上から秘所を撫でる。
「あんっ」
 同時に、じわっと圭太の指先に湿り気を感じる。
「せん、ぱい、私……」
 圭太は頷き、スカートもショーツも脱がせる。
 あらわになった秘所に、圭太は顔を近づけた。
「先輩、なにを……んあっ!」
 圭太は、秘所を少し押し開き、そこに舌を挿れた。
「やっ、やんっ、だ、ダメっ、です、先輩っ」
 拒む言葉とは裏腹に、紗絵の体は正直だった。
 艶めかしく動く舌にあわせ、次々に蜜をあふれ出させる。
 ぴちゃぴちゃという淫靡な音が紗絵の耳にも届く。
 それがいっそう紗絵の感覚を麻痺させる。
「んんっ、くはっ」
 あえぎ声も次第にエスカレートしてくる。
「はあ、はあ、先輩、私、もう……」
 圭太も服を脱ぐ。
 限界まで怒張したモノを秘所にあてがう。
「先輩、勇気を、ください……」
 そして、圭太は一気に紗絵の体奥を貫いた。
「ああっ」
 紗絵の中は、はじめての時と同じように圭太のモノをギュウギュウと締め付け、離そうとはしなかった。
 圭太は、その快感に抗いながら、腰を動かした。
「ああっ、んんっ、あんっ、んあっ」
 紗絵は、すべてを忘れるようにその快感に身を委ねた。
「先輩っ、先輩っ」
 ぎこちないながら、紗絵も自分から腰を動かす。
 ふたりの動きが次第にあってくると、お互いにより高い快感を得るようになる。
「あんっ、あっあっあっ、くふっ」
 圭太の動きも次第に速くなり、同時に限界も近づいていた。
「ああっ、先輩っ、私っ、もうっ」
 そして──
「んんんっ!」
「紗絵っ!」
 圭太は、寸前でモノを抜き、紗絵の腹部にその白濁液をほとばしらせた。
「はあ、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ、紗絵……」
 圭太は達したばかりの紗絵の髪を、優しく撫でる。
「はあ、はあ、先輩……」
 紗絵は、自分からキスをした。
「先輩……好きです……」
 
 後始末をし、身支度を調え、紗絵にもようやくいつもの笑みが戻っていた。
「先輩のおかげで、がんばれそうな気がしてきました」
「そっか」
「自分でもすごく現金だと思いますけど、でも、やっぱり先輩のおかげだって、そう思いたいんです。その方が、百倍も千倍もがんばれますから」
 そう言って紗絵は満面の笑みを浮かべた。
「……せっかくここまでがんばってきたんですから、やっぱり、四月から先輩と一緒に一高へ行きたいです」
「そうだね」
「だから、精一杯がんばります」
「うん、がんばって。紗絵なら絶対に合格できるから」
 圭太は笑顔でそう言い、紗絵の頭を撫でた。
 紗絵は、少しだけくすぐったそうに身をよじったが、あとは為すがまま。
「そうそう、合格発表の日は、僕たちも学校にいるからね」
「そうなんですか?」
「うん。部活があるっていうのもそうなんだけど、合格者発表の時、トランペットとトロンボーンでファンファーレを吹くんだよ。去年もそうだったから、今年もね」
「じゃあ、すぐに先輩に報告できますね」
「僕にはあとでもいいよ。先に伝えなくちゃいけない人がいるでしょ?」
「そうですけど……でも、先輩の姿を見かけたら、報告します」
「そうだね」
 紗絵の言葉に、圭太はただそれだけを言った。
「先輩」
「うん?」
「全部終わったら、また、抱いてくれますか?」
「合格したらね」
「はいっ、約束ですよ?」
 圭太は、頭の片隅で同じような約束を朱美ともしていたことを思い出し、苦笑した。
 ただ、そんな約束ひとつでこのカワイイ後輩の笑顔が見られるのなら、それでもいいかもしれないとも思っていた。
 
 三
 三月九日。
 県内の公立高校で一斉に入試が行われた。
 倍率自体は、このところの少子化の影響を受け、特に郡部を中心に定員割れしている高校もあった。それでも、独自の特色を出している高校、レベルの高い高校はそれなりの倍率だった。
 一高は三百二十人の定員に対し、五百人あまりが受験していた。倍率一・五六という、比較的高い倍率だった。
 そんな試験に紗絵や朱美をはじめとして、多くの受験生が四月からの高校生活を夢見て問題に取り組んでいた。
 同じ頃、『桜亭』には娘を心配したひとりの母親が来ていた。
「淑美、あなたがそんなに心配しても、朱美の問題は簡単にはならないのよ?」
「それはわかってるんだけど、どうも落ち着かなくて」
 朱美の母、淑美である。
 娘のことが心配で、終わったあとに寄るであろうこの『桜亭』にやって来たのだ。
「姉さんは、去年はどうだったの?」
「私? 私は落ち着いてたわよ。圭太のことだもの、万が一にも落ちるなんてこと思ってなかったし」
「いいわね、優秀な息子で」
「あれ、母さん。僕の聞いた話と少し違うみたいだけど」
「そうなの、圭太くん?」
「ちょ、ちょっと、圭太……」
 そこへ、圭太がやって来る。
「ええ、聞いた話によると、仕事もまったく手につかないほどだったって。しょっちゅう店を抜けて表に出たり仏壇の前に座って父さんにお願いしたり」
「ふ〜ん、そうなんだ、姉さん」
 急に旗色が悪くなり、琴美は俯く。
「い、いいでしょ、それは。私だって息子の心配くらいするわよ」
「別に、悪いだなんて言ってないわよ。ただ、見栄なんか張らなくてもいいんじゃないかと思ってね」
 そう言って淑美は笑った。
「じゃあ、姉さんはまた来年、そうやって心配するのね?」
「どうして?」
「どうしてって、来年は琴絵ちゃんの受験でしょう?」
「ああ、そういえばそうね」
「そういえばって、自分の娘のことくらい気にかけときなさいって」
 呆れ顔の淑美。
「まあ、琴絵のことは私よりも圭太の方がよっぽどわかってるし」
「琴絵ちゃん、お兄ちゃん子だからね」
「ええ、それもかなり重度のね」
 そう言って琴美は意味深な視線を圭太に向けた。
「そういえば、淑美」
「うん?」
「朱美、合格したら、一高に通うのよね?」
「なにを当たり前のことを」
「そうじゃなくて、あなたたちの家から一高までは遠いでしょう? だからそれを心配してるの」
「そのことなら解決済みよ」
「そうなの?」
 淑美は、自信満々にそう言う。
 琴美は、半信半疑という感じで聞き返す。
「帰ってこられないような時間になったら、ここに泊めてもらうから」
「ここって、ここ?」
「ええ、そうよ。だから、姉さん。娘のことをよろしくお願いします」
 そう言って淑美は頭を下げた。
「それは別に構わないけど、朱美も吹奏楽部に入るなら、それももう少し考えておかないといけないわよ。ねえ、圭太?」
「確かにそうかもしれませんよ、叔母さん。うちの部は今の時期なんかだとほぼ時間通りに終わりますけど、六月くらいからは結構遅くまでやることもありますから」
「そっか。そうすると、いっそのこと、ここに居候させた方がいいかしら?」
「それでもいいけど、そういうの、本人抜きで決めていいの?」
「ああ、朱美なら大丈夫よ。圭太くんと一緒にいられるってわかれば、絶対に文句なんか言わないから」
「なるほどね」
 圭太と朱美のことを知っている琴美も、大きく頷いた。
「まあ、そういうことは合格が決まってから詳しく話しましょう」
「それもそうね。今はまだ、試験の最中だものね」
 そう言って時計を見る。
 試験はまだ半分といったところ。まだまだこれからである。
 
 時計の針が三時をまわった頃。
「こんにちわ〜」
『桜亭』のドアを開け、入ってきたのは──
「朱美っ」
「お母さん?」
 試験が終わったばかりの朱美だった。
 その朱美も、『桜亭』にいるのはずのない人物がいて驚いている。
「どうしたの、お母さん?」
「朱美が心配で、いてもたってもいられなくてうちに来たのよ」
 淑美が説明する前に、琴美が説明してしまう。
「こんにちは、琴美伯母さん」
「こんにちは。試験、終わったのよね?」
「はい。それで、圭兄にそれを知らせようと思って来たんですけど」
「そしたら、淑美がいた、と」
 琴美の言葉に、朱美は頷いた。
「それで、朱美。どうだったの?」
 淑美はそのことが一番気になるようである。
「一応、全科目全問埋めたけど」
「自分ではできたと思うの?」
「やれることはやったと思う」
「そう、それならいいわ」
 そう言って淑美はホッと息をついた。
「あの、圭兄は?」
「ああ、あの子なら部屋の方にいると思うわよ」
「わかりました。ちょっと行ってきます」
「ああ、朱美」
 駆け出そうとした朱美を、淑美が呼び止めた。
「あとで少し大事な話があるから、圭太くんと一緒に来て」
「圭兄と?」
「もちろん朱美のことよ。ただ、圭太くんにも少し関係するから」
「そうなんだ。うん、わかった」
 朱美は店を抜けて、住居部へ。
「まったく、あの子も……」
「昔の淑美を見ているみたいね」
「はいはい、どうせ私は吉沢家の面汚しでしたよ」
「別にそこまでは言ってないでしょう?」
「いいのいいの。私は優秀な姉さんといつも比較されてきた、哀れな妹なんだから」
「まったく、あなたは……」
 琴美は、呆れ顔でため息をついた。
 一方、朱美はすぐに二階の圭太の部屋の前へ。
 ドアを軽くノックする。
「圭兄、いる?」
「ああ、いるよ」
 中からはすぐに返事が返ってきた。
 朱美はそれを確かめ、部屋に入った。
「やあ、朱美。試験、終わったんだね?」
「うん」
「どうだった?」
「やれることはやったと思う」
「そっか。それなら大丈夫だね」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「私ね、圭兄と一緒に行きたいって、ずっとそれだけ考えてがんばったんだよ」
「理由はどうあれ、朱美ががんばれたなら、それでいいと思うよ」
「うん」
 朱美も嬉しそうに微笑む。
 一仕事終え、ようやくひと息。そんな感じである。
「ねえ、圭兄。約束、ちゃんと覚えてるよね?」
「ん、覚えてるよ」
「そっか、よかった。万が一でも忘れてたら、実力行使に出るところだったよ」
「じ、実力行使ね……」
「結果は来週。私、絶対合格するからね」
「うん」
 その後がどうであれ、圭太が朱美のことを心から想っていることには、なんら変わりはない。
「あっ、そうそう、圭兄」
「うん?」
「お母さんがね、私に話があるって言うんだけど、それに圭兄も関係あるから呼んでこいって」
「叔母さんが?」
「うん」
「そっか。じゃあ、行こうか」
 ふたりは揃って部屋を出た。
 と、リビングにさしかかったところでチャイムが鳴った。
「朱美。ちょっと待っててくれるかな?」
「いいよ」
 朱美をリビングに残し、圭太は玄関へ。
「はい、どなたですか?」
 ドアを開けると──
「先輩」
 おとといとはうってかわって笑顔の紗絵が立っていた。
「紗絵。どうしたの?」
「あっ、はい。試験が終わったんで、一応先輩に知らせようと思って」
「そっか。あっ、じゃあ、ここで話すのもなんだから、上がって」
「いいんですか?」
「うん。それに、ついでだから紗絵に紹介したい子がいるんだ」
「紹介したい子?」
 紗絵は、首を傾げながらも言う通りに上がった。
「圭兄。どうした……の?」
 朱美は、紗絵の存在に気づき、さすがに声音を落とした。
 圭太はふたりを見て微笑んだ。
「こっちが、僕の従妹で、吉沢朱美」
「ど、どうも……」
「こっちが、僕の中学の後輩で、真辺紗絵」
「ど、どうも……」
「ふたりとも、一高を受けたんだよ」
『えっ?』
 声が見事に重なった。
 朱美も紗絵も、お互いを上から下まで見定めている。
 そして、直感した。
 お互いに圭太のことを想っていることを。
「これから先、一高に入れば絶対に知り合うから、今のうちに知っておいてよ」
 圭太にそう言われては、朱美も紗絵も断る術を知らない。
「紗絵。朱美もね、中学で吹奏楽部に入っていたんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。朱美はフルートだよ。ね、朱美?」
「う、うん」
「で、紗絵は、本当に僕の直接の後輩なんだ」
「本当に?」
「紗絵はトランペットでしかも僕のあとに三中で部長をやってたからね」
「そうなんだ」
 お互いの素性がわかり、少しだけ緊張がほぐれた。
「圭兄」
「先輩」
 声は、またも同時に上がった。
「うん?」
「少し、ふたりだけで話してもいいかな?」
「ええ、私もそう言おうとしてました」
「それは別に構わないけど。じゃあ、僕は店の方にいるから」
「うん」
「わかりました」
 そう言い残し、圭太は店の方へ。
 そして、リビングにはふたりが残った。
 微妙な空気がふたりの間に流れる。
「まず最初に。同い年だから敬語はなし。それと、名字で呼ばれるのは好きじゃないから、名前で呼んでほしい」
 先制攻撃は朱美だった。
「じゃあ、私も名前でいいから」
 紗絵は、とりあえずそう返した。
「紗絵、さん。あなたも、圭兄のこと、好き、なんでしょ?」
「ええ。その想いは、朱美、さんにも負けてないと思うわ」
「…………」
「…………」
 一瞬、ふたりの視線がぶつかった。
 しかし、それも本当に一瞬だけだった。
「はあ、なんで圭兄の側にはこうも圭兄のことを好きな人が多いんだろ」
「それは、私のセリフ。先輩にあなたのような従妹がいるなんて、聞いてなかったわ」
 ふたりは、揃ってため息をついた。
「ああん、もう、なんかいろいろ考えるのイヤになっちゃった。ねえ、呼び捨てでいいかな?」
「もちろん。その変わり、私も呼び捨てにするから」
「紗絵。一高に合格したら、ライバルとして、同級生として、よろしく」
「こっちこそ」
 そう言ってふたりは握手を交わした。
「ねえ、訊いてもいい?」
「ん、なに?」
「紗絵って、圭兄とはどういう関係なの? 単なる後輩、ってわけじゃないでしょ? 単なる後輩だったら、わざわざ試験が終わったくらいで報告になんか来ないもん」
 また朱美からの攻撃。
「たぶん、今朱美が考えてる通りのことだと思うわ」
 紗絵は、すぐさまそう切り返す。
「じゃあ、圭兄とは、男女の関係、だってこと?」
「ええ」
 そういうことは恥じることではない、そんな感じで紗絵はなんの躊躇いもなく応える。
「じゃあ、逆に訊くけど、朱美はどうなの? 単なるいとこ同士の関係なの?」
「いとこ同士は、結婚できるから」
「……なるほどね」
 朱美の答えに、紗絵は小さくため息をついた。
「それにしても、私たちって似てるのかな?」
「どうして?」
「だって、一高を受けたのだって、その理由の大半が圭兄でしょ?」
「まあ、それは否定しないけど」
「受験勉強でがんばれたのだって、圭兄と一緒に一高に行きたいからでしょ?」
「うん、まあ……」
「そして、報われない恋だっていうのもわかってるんでしょ?」
「……ええ」
「だから、似てるって言ったの」
 そう言って朱美は笑った。その笑みは、少しだけ淋しそうだったが。
「はあ、なんか、一高に行くのがほんの少しだけイヤになったかも」
「それは、私も同じ」
「でも、圭兄と一緒にいたいから」
「うん、先輩と一緒にいたいから」
 朱美と紗絵は、そう言って笑った。
「ねえ、ちょっと相談があるんだけど、いいかな?」
「ん、なに?」
 
「圭兄」
「先輩」
 少しすると、朱美と紗絵のふたりは店の方に出てきた。
「もう終わったの?」
「うん。すっかり意気投合。ね?」
「ええ」
 確かにふたりは、何年来の友人のように意気が合っている。
「あの、先輩。私はそろそろ帰ります」
「そう?」
「はい。今度は、合格発表の時になると思いますけど」
「うん、わかった。じゃあ、玄関まで送るよ」
 圭太は紗絵を伴って玄関へ。
「先輩」
「ん?」
「先輩のおかげで、今日はがんばれました。本当にありがとうございます」
「僕はなにもしてないよ。したとしても、ほんの少し紗絵の背中を押した程度」
「それだけでも、私にはとても重要なことでした。合格できたら、まとめて先輩に恩返ししますから」
「いいよ、そんなの。別に僕は見返りを求めてしてるわけじゃないし」
 圭太は、律儀にそう言う。
 しかし、紗絵は首を振って言う。
「たとえ先輩がそう思っていても、なにかしないと私の気が済まないんです。ですから、させてください。絶対に、迷惑はかけませんから」
 真摯な瞳で圭太を見つめる。
「……そうだね。じゃあ、紗絵の気の済むようにしてくれていいよ」
「ホントですか?」
「うん」
「あはっ、ありがとうございますっ」
 まだ合格したわけではないのだが、紗絵の勢いはそんな感じだった。
「それじゃあ、先輩。今日は失礼しました」
「ううん」
 圭太は、紗絵の唇に、そっとキスをした。
「ん、先輩……」
「じゃあ、また合格発表の日に」
「はいっ」
 紗絵は、笑顔で帰っていった。
 それを見送り、圭太は店に戻った。
「圭太くん。もういい?」
「あっ、はい。すみません、お待たせして」
「ううん、それはいいの」
 淑美は紅茶を飲みながら頭を振った。
「それで、お母さん、話って?」
「これはあくまでも朱美が一高に合格した時の話よ」
 淑美は、そう前置きして話し出した。
「今日、あなたが試験を受けてる時にね、姉さんや圭太くんといろいろ話したの」
「なんの話?」
「あなたの通学に関して」
「通学? 別に、今更話すことなんてあるの?」
 朱美は、そう言って首を傾げる。
「朱美は、一高に行っても吹奏楽を続けるのでしょう?」
「うん、そのつもりだよ」
「そうすると、今の時期はいいけど、いろいろ忙しい時期になると、結構遅くまで練習があるそうなの。ねえ、圭太くん?」
「ええ」
 頷く圭太。
「それで、当初の予定だと帰ってこられそうにない時だけここに泊めてもらうってことだったけど、いっそのこと、ここに居候させようかって、そう話してたの」
「居候? 私が?」
 さすがの話に、朱美も驚いている。
「姉さんは別に構わないって言ってくれてるし、圭太くんも認めてくれてる。あとは、朱美がどうしたいかなんだけど。どうする? もちろん、合格してから決めてもいいわよ。時間はあるのだから。それと、お父さんのことは心配しなくてもいいわ。いざとなったら私が『説得』するから」
 微妙に『説得』という言葉に力がこもっていた。
 朱美は、淑美を見て、圭太を見て、少し考える。
「……少し、考えてみる」
「そうね。その方がいいわね。それに、万が一にも落ちてたら、それどころじゃないものね」
「うん……」
 
 三月十一日。
 その日、吹奏楽部ではコンサートの曲の選考が行われた。
 四十人全員が出したわけではないが、それでも結構な数の中から選ぶのはそれなりに大変だった。
 その結果、一部、三部とも例年通り三曲ずつ選ばれた。二部については改めて選曲が行われる。
 曲のレベル的には、去年とほぼ同レベルだった。
 曲が決まったことにより、いよいよコンサートに向けて始動する。ただ、本格的にはじまるのはやはり新入生が入ってきてからである。
 
 三月十四日。
 ホワイトデーのその日は、例の演奏会が行われた。
 一年、二年ともにこの日のためにそれなりに練習を重ねてきた。演奏は校歌ということで派手さも格好良さもないが、それでも部員ひとりひとりのやる気というものは感じられた。
 結果としては、実力通り、二年が勝利した。二年には特別な賞品などはないが、一年には新入生勧誘の重要な任務が課せられた。
 ただ、毎年そうなのだが、新入部員の大半は中学から引き続きなので、勧誘しなくとも入ってくる。勧誘が必要なのは、流動的な生徒に対してである。
 アピールの場は結構あり、まずは合格発表の日。それから入学式。対面式後に行われる部活紹介。明らかにほかの部より優遇されている。
 そのほかに合格者説明会などで軽く勧誘活動をする。
 ここ数年は二十人前後をコンスタントに獲得しているために、今年もそれが求められていた。
 もっとも、一年がその中心となるが、部全体のことなので、二年ももちろん参加する。
 とはいえ、それも合格発表が終わってからの話である。
 その日、圭太はヴァレンタインにチョコをもらった女性陣にお返しをしていた。
 基本的には相手の負担にならない程度を心がけ、結局は定番のお菓子とメッセージカードだった。とはいえ、そのお菓子は圭太の手作りであった。
 朱美以外は直接圭太から手渡され、それぞれに喜んでいた。
 中にはそのままコトに及ぼうとした者もいたが、とりあえずそれは回避できた。
 そして、残した時間は、柚紀のために使われた。
「圭太って、絶対に反則」
 柚紀は、圭太からお返しをもらい、そんなことを言った。
「どうして?」
「だって、これだけのお菓子が作れるんだもん。これじゃあ、万が一彼女が料理下手だったら、泣いちゃうよ」
「でも、柚紀は僕より料理が上手でしょ?」
「まあね。だからいいんだけど、でも、なんかやっぱり反則」
 よくわからない理屈でそう言う柚紀。
 圭太は、苦笑するしかなかった。
「圭太はさ、どうして家事をやろうと思ったの?」
「どうしてかな? 最初は母さんに言われてだったと思うけど、そのうち自分からやるようになったんだ。別に料理も掃除も洗濯も嫌いじゃなかったからね。ただ、本格的にやらなくちゃいけないって思ったのは、やっぱり父さんが死んだ時だね。手伝いをして少しでも母さんの負担を減らしたかったから。だから、ある意味では必要に迫られて上達したと思うよ」
「そっか。でもね、圭太。これは私だけかもしれないけど、女としてはちょっとだけ悲しいかも」
「悲しい?」
「うん。彼氏、まあ、この場合は旦那さんと置き換えてもいいと思うけど、その人が自分よりなんでもできちゃうんだから、奥さんの立場はないでしょ? そりゃ、共働きとか事情があれば別かもしれないけど」
「僕としては、家事は分担してやるものだと思うけど」
「ん〜、それはそれでいいんだけどね」
 柚紀としては、女は女らしく、妻は妻らしく、そうありたいと思っているのだ。たとえそれが古い考えでも。
「ねえ、圭太。私は、ちゃんと家事やるからね。というか、やらせて。それくらいしないと、私にはなにもすることがなくなっちゃう」
 確かに、圭太相手ならその可能性もなくはないだろう。
 とはいえ、すぐにそんな発想が出てくる柚紀は、すでに圭太の『奥さん』である。
「私の夢は、貞淑な妻、だから。常に一歩引いて、旦那さまを立てる。ちょっと前時代的な考え方かもしれないけど、それが私の理想だから」
「それは、いいと思うよ」
「ホント?」
「うん」
「そっか、よかった。うん、やっぱり私は圭太としか一緒にはなれないね。今の私の考えを認めてくれる人なんて、そうそういないもの」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「はあ、早く圭太と一緒になりたいな〜」
 柚紀のその発言に、やはり圭太は苦笑するしかなかった。
 
 四
 三月十六日。
 朝から春の陽差しが暖かなその日。
 県内の公立高校では、入試の合格者が発表される。
 発表時間はどの高校も午後一時。場所はそれぞれの高校で。
 一高にも、十二時半くらいから受験生やその親が集まりはじめていた。
 発表場所は校舎前。すでに即席の掲示板が立てられている。ここに合格者の記された紙が貼られるのだ。
 そんな中、圭太たち吹奏楽部でも動いていた。
 合格発表にあわせてファンファーレを吹くためである。
 トランペットとトロンボーンのあわせて八人が楽器を持ち、ちょうど掲示板の真上になる二階の教室に陣取った。
 窓を開け、校庭を見ると、受験生の姿がだいぶ多くなっていた。
 圭太たち一年にとっては、その光景は一年前の自分たちを思い起こさせる。
 掲示板のところには、祥子のほか、何人かの部員がいる。祥子は、ファンファーレのタイミングを計るためにそこにいるのだが、ほかは単なる野次馬である。
「どうした、圭太?」
 少しボーっとしていると、徹に声をかけられた。
「いえ、去年は僕たちがあそこにいたんだと思って」
「そうだな。でも、圭太の場合はもう合格は保証されてたようなもんだろ?」
「そんなことはありませんよ。勝負は、下駄を履くまでわかりませんから」
「ま、一応そういうことにしておくか。そろそろはじまるみたいだし」
 窓の外では、祥子が八人に向かって準備の合図を送っている。
 八人は窓際に立ち、その時に備える。
 午後一時。
 職員玄関から入試担当の事務員と教師が大きな模造紙を抱えて出てきた。
 それを掲示板に貼る瞬間。
 校庭にファンファーレが鳴り響いた。
 在校生にとっては周知のことだが、受験生にとっては未知のこと。やはり驚いている。
 そのファンファーレにあわせ、合格者は発表された。
 掲示板の前が、あっという間に黒山の人だかりになる。
 圭太たちは、二階からその様子を眺める。
 見事合格を果たした者は、喜びを爆発させる。
 それは、今までの大変だった受験勉強に対する褒美である。
 歓声が聞こえる中、圭太は楽器を持ったまま校庭へと出た。
「圭くん」
 すぐに祥子が圭太に気づいた。
「タイミング、完璧だったね」
「徹先輩が一拍置くといいってアドバイスしてくれたおかげです」
「そうなんだ」
 圭太は祥子と話ながら、ふたりの後輩の姿を探していた。
 ふたりとも間違いなく来ているはずなのだが。
「あっ、圭くん。あれ、紗絵ちゃんじゃないかな?」
 そう言って祥子が指さした先には、確かに紗絵がいた。
 ただ、その表情からは合格したのかダメだったのかはわからない。
 と、紗絵がふたりに気づいた。
「紗絵?」
 ふたりのところまでやってきた紗絵に、圭太が訊ねた。
「圭太先輩、祥子先輩」
 紗絵は、ふたりの顔を見て、言った。
「四月から、よろしくお願いします」
「じゃあ、合格したんだね?」
「はいっ」
 そう言って紗絵は、満面の笑みを浮かべた。
「おめでとう、紗絵ちゃん」
「ありがとうございますっ」
「紗絵なら大丈夫だとは思っていたけど、やっぱり結果を見るまでは心配だったよ」
「私が合格できた何割かは、先輩のおかげですから」
 そう言う紗絵に、圭太はただ笑みを返すだけだった。
「あっ、いたっ」
 そこへ、もうひとりの声が響いた。
「圭兄っ!」
 あっという間に圭太に飛びついてきたのは──
「圭兄っ、合格したよっ!」
 朱美である。
「おめでとう、朱美」
「うんっ!」
 こちらも紗絵に負けないくらいの笑みを浮かべている。
 この中で朱美のことを知らないのは、祥子だけである。突然わいて出てきた女の子に、祥子は少しだけ怪訝な表情を浮かべていた。
 それに気づいたのか、圭太はとりあえず朱美を引きはがし、説明した。
「先輩。僕の従妹で、吉沢朱美です」
「はじめまして。吉沢朱美です」
「従妹、なの?」
「はい。今年受験で、まあ、結果は見ての通りということで」
 圭太はそう言って微笑む。
「それで朱美。この人が部長の三ツ谷祥子先輩だよ」
「あの、私も吹奏楽をやっていたので、四月からよろしくお願いします」
「あっ、うん、こちらこそ」
 ふたりは揃って頭を下げる。
「でも、紗絵ちゃんは知っていたの?」
「ええ。入試の日に、たまたま先輩の家で会って、そこで」
「そうなんだ」
 祥子は頷き、朱美を見た。
「ふたりはこれから中学校へ戻るんだっけ?」
「はい、そうです。そこで書類なんかをもらいます」
「それじゃあ、卒業祝いと合格祝いは、後日にやろうか」
「いいんですか?」
「ホント、圭兄?」
「がんばったからには、やっぱりご褒美がないとね」
「ありがとうございますっ、先輩」
「ありがとっ、圭兄」
 笑顔のふたりに、圭太は優しく微笑み返した。
 それからすぐに、ふたりは中学校へ戻っていった。
「……圭くん」
「なんですか?」
「あの、朱美ちゃん、だっけ?」
「はい」
「朱美ちゃんとも、ずいぶん仲が良いんだね」
 祥子は、ちょっとだけ面白くなさそうにそう言う。
「まあ、数少ないいとこ同士ですから。それに、僕と朱美は、昔は兄妹みたいな関係でしたから。だから今でも『圭兄』って呼ぶんです」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 説明を受けても、祥子の表情はなかなか晴れない。
「……あの、先輩。ひょっとして、怒ってますか?」
「……どうして?」
「いえ、なんとなくそう思って……」
「別に怒ってはいないけど、ただ、ちょっと──」
「ちょっと?」
「嫉妬、してるかも」
 そう言って祥子は校舎の中へ歩いていく。
「あっ、先輩」
 それを慌てて追いかける圭太。
「先輩、待ってください」
「圭くん」
「は、はい」
「私、負けないからね」
「えっ……?」
「紗絵ちゃんにも朱美ちゃんにも負けないからね。私が負けてもいいと思ってるのは、柚紀だけ、なんだから」
「先輩……」
 そう言った祥子の顔には、もう笑顔があった。
「ほらほら、圭くん。音楽室に戻って、練習だよ」
「あっ、はい」
 
 その日の夜。
「ええ、わかったわ。それじゃ」
 琴美は受話器を置いた。
「淑美叔母さん、なんだって?」
「来週中には結論を出すからって」
「そっか」
 琴美の言葉に、圭太は小さく頷いた。
「朱美ちゃん、どうするのかな?」
「たぶん、ここに来ることになるんじゃないかしら。その方が少なくとも淑美は安心できるだろうし。ただ、亮一さんはどうかはわからないけど」
「朱美ちゃんが来れば、楽しくなるね」
 琴絵は、無邪気にそんなことを言う。
「あら、琴絵。本当にそれでいいの?」
「えっ、どういうこと?」
「だって、圭太を取られるかもしれないわよ?」
「あうっ」
 それを言われては琴絵はなにも言い返せない。
「母さんも、そうやって琴絵を煽るようなこと、言わないでよ」
「今更じゃない。ねえ、琴絵?」
「えっ、あ、うん」
 思わず素直に頷いてしまう琴絵。
 圭太はただただ苦笑するしかなかった。
「まったく……」
 
 三月十八日。
 桜のつぼみも少しずつふくらみはじめる頃。
 その日、一高では終了式が行われた。
 これで、ようやく一年が終わるのである。
 終了式後のホームルームでは、成績表が渡され、あちこちで一喜一憂していた。その際、赤い字がある生徒は、オマケがある。
 ホームルームは、思っていたよりもあっさりと終わった。基本的には春休みから新年度の連絡事項が主だった。
 ホームルーム、清掃も終わると、いつものように部活がある。
 圭太は、このところずっとアンコンの練習をしていた。本番は三月二十二日、アンコン全国大会の二日目である。広島入りするのは前日と決まっていた。
 それに伴い、部活は二十一日からの三日間、休みとなる。
 一方、ほかの部員たちはコンサート用の曲は少しずつ練習しはじめていた。もっとも、現在のパート分けは暫定のもので、あくまでも曲のイメージをつかむことに力点が置かれていた。
 全体の雰囲気としては少々停滞気味だが、それもあと半月の辛抱だった。
 部活からの帰り道。
「すっかりあったかくなってきたよね」
「そうだね。もうそろそろ冬のコートもいらなくなるね」
「広島は、もっとあったかいのかな?」
「どうかな。意外にこっちの方が上かも」
「でも、柚紀もすごいよね」
「なにがですか?」
 祥子の言葉に、柚紀は首を傾げた。
「だって、結局広島行き、認めさせちゃったんでしょ?」
 そうなのである。柚紀は親を口説き落として、というか脅して広島行きの許可を得、さらにその費用も出させたのである。
 もっとも、母親の真紀は結構乗り気だったため、父親の光夫を説き伏せただけなのであるが。
 柚紀が一緒に行くということは部員の間にも広まり、ああやっぱり、という反応と、そこまでするか、という反応が返ってきた。
 とはいえ、本人はまったくどこ吹く風で、気にしていなかった。
「私の性格上、こっちでただ黙って待ってるのは性に合わないんですよ。それに、こういう機会でもないと、広島なんて行けないかもしれないじゃないですか」
「ホント、柚紀のそういうとこ、私も見習いたい」
 そう言って祥子はため息をついた。
「でも、先輩。私が是が非でも行こうとしたのには、もうひとつ理由があるんですよ」
「もうひとつの理由?」
「圭太と先輩のこと、です」
「ああ、そっか。そういえばそうだね。すっかり忘れてたなぁ」
 祥子はなるほどと頷く。
「じゃあ、部長権限で柚紀は居残りってことにしようか?」
「そんなの権力の横暴じゃないですかぁ」
「ふふっ、でも、圭くんとふたりきりになれるんだったら、それもいいかも」
「ちょ、ちょっと、先輩、冗談はやめてくださいよ」
 話があらぬ方向へ進みそうになり、さすがに圭太が止めに入る。
「半分くらいは本気なんだけどね」
 そう言って祥子は笑った。
 圭太と柚紀は、顔を見合わせ、ため息をついた。
 
「んっ、あんっ、圭くんっ」
 鈴奈の部屋に、艶めかしいあえぎ声が響く。
「んんっ、圭くんっ、気持ちいいのっ」
 圭太は、鈴奈を後ろから貫いていた。
「んんっ、あっあっあっあっ」
 快感に、鈴奈は抗いもしない。
「圭くんっ、私っ、もうっ」
 キュッと鈴奈の中が締まる。
 同時に──
「ああああっ!」
 鈴奈は達していた。
 しかし、圭太の方はまだである。
「ん、はあ、はあ、私が、してあげるね」
 鈴奈はそう言って、圭太のモノを舐めた。
「んっ」
 すでに少し感覚が麻痺しているせいか、鈴奈はいつも以上に大胆だった。
 ぴちゃぴちゃと音を立て、圭太のモノを舐め上げる。
 もともとそれなりに感じていた圭太も、それですぐに限界が来る。
「んっ、鈴奈さんっ」
「っ!」
 圭太は、鈴奈の口内にすべてをほとばしらせた。
「ん……ん……」
 鈴奈は、それを少しずつ飲み下す。
「ん、はあ、圭くんの、飲んじゃった」
 そう言って、妖艶な笑みを浮かべた。
 
「でも、圭くんから誘ってくれるのって、やっぱり嬉しいね」
「そうですか?」
「なんか、セックスしても、ああ、圭くんから求められてるんだって、そう思えた」
 鈴奈は、圭太の胸の中で、そう言う。
「私、圭くんと一緒にいると、今まで知らなかった私が見えてくるの」
「たとえば、なんですか?」
「そうだなぁ、私って、案外エッチだったんだなって。相手が圭くんだからかもしれないけど、セックスするのが全然イヤじゃないし、圭くんのためだったらどんな格好でもするし、どんなことでもしてあげたいって思う」
「……なるほど」
 圭太は、内心苦笑しながら頷いた。
「私、このまま圭くんの『愛人』になっちゃおうかな?」
「えっ……?」
「圭くんの『奥さん』になるのはちょっと無理そうだから、やっぱり『愛人』よね」
「ちょ、ちょっと、鈴奈さん」
 冗談とも本気ともつかない鈴奈の発言。
「圭くん」
「は、はい」
「今日は、このまま一緒に眠っちゃ、ダメ、かな?」
 少しだけねだるようにそう言う。
 圭太は、少し考え、答えた。
「わかりました。ただ、その前に母さんに連絡だけさせてください」
「うん、ありがと、圭くん」
 圭太は、『お姉さん』の笑顔を見て、『弟』として純粋に嬉しかった。
 
 三月十九日。
 その日から一高でも春休みに入った。取り立てて大変な宿題が出ているわけではない。生徒にとっては気楽な休暇である。
 そんな生徒たちとは対照的に、教師一同は今年度のまとめと、新年度に向けての準備とに追われている。この春休み中にすべてを終わらせなければ、新年度は迎えられないのである。
 吹奏楽部では、春休みは基本的に午前中に部活が行われることになった。そこに明確な理由はないが、なんとなくそう決まった。
 そんなこともあり、その日も午前中に練習が行われていた。
 圭太たち金管五重奏は、本番を三日後に控え、最後の調整に追われていた。そのため、練習も合奏はなく、基本的にはパート練習までだった。もちろん、その中には金管の五人は含まれない。
 金管の練習には、菜穂子がつきっきりで指導を行っていた。
 そんな金管をよそに、ほかの部員たちは比較的のんびりゆったりと練習していた。
「……よしっ」
 柚紀は、スネアの前にメトロノームを置き、リズムの練習をしていた。
 いくらピアノをやっているとはいえ、鍵盤を叩くのとスティックで叩くのとではだいぶ感覚が違う。もともと吹奏楽をやっていなかった柚紀は、基礎練習に追われる毎日だった。
「どう、調子は?」
 そこへ、スティックを回しながら、葵がやって来た。
「まあまあ、だと思います」
「そう? 今は……百三十二か。もう少しテンポ上げられない?」
「できないことはないですけど、途中でずれてしまうこともあって」
 言いながら、柚紀はメトロノームの速さを調節する。
 そしてリズムを叩く。最初は心地よいリズムだが、次第に右手と左手に微妙な差が出てくる。それを修正しようとしてまたずれる。
 結局、最後にはばらばらになってしまった。
「悪くはないけど、もう少し体全体でリズムを取ったら? こんな風に」
 そう言って葵は、お手本を見せる。
 さすがに中学からずっとやっているだけはあって、そのテクニックもなかなかのものである。
 柚紀と同じ速さ、同じくらいの時間を叩いても、まったくずれない。
「体を揺らせとか、足でテンポを取れとか言わないけど、もう少し体を使って全体でリズムを取る方がいいわ」
「今の先輩のだと、膝を使ってましたね」
「私はね。それがすべてってわけじゃないから、柚紀のやりやすいようにやればいいのよ。人によっては、直立不動でだってできる人もいるんだから」
「そうですね、わかりました」
 なんとなくそれを頭にイメージし、実際にやってみる。
 すると、先ほどよりは多少はましなリズムになった。
「うん、そんな感じ。あとはそれを徹底的に繰り返して自分のものにすればいいだけ。ま、ようは慣れよ」
「習うより慣れろ、ですね」
「そうそう、わかってるじゃない」
 葵は、自分の言ったことが伝わり、さらにそれがいい方向に向かったことで嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、もう広島に行く準備とかはしたの?」
「だいたいはしました」
「しっかし、柚紀も大胆よね」
「そうですか? 私は、ただ単に自分の想いに忠実なだけですよ」
 あっけらかんとそう言う柚紀。
「私なら、さすがにそこまではしないわね」
「あと、私が一緒に行くのには、もうひとつ理由があるんです」
「そうなの?」
「祥子先輩のことです」
「祥子? なんで祥子が……って、ああ、そういうことか」
 葵は、柚紀に説明される前に自分で納得した。
「でも、別にそこまでしなくてもいいんじゃないの? どう見たって柚紀と祥子じゃ、柚紀の勝ちじゃない」
「それはもちろんわかってます」
「……はは、言い切ったね、この子は」
「ただ、祥子先輩はああ見えても圭太に対してだけは、積極的なんです」
「積極的って、別にそのまま襲いかかるわけでもないでしょ?」
「…………」
「……まさかとは思うけど、祥子って、圭太と、そういう関係なの?」
 葵は、おそるおそる訊ねる。
「さあ、それは私の口からはなんとも言えません」
 とはいえ、そこまで言ってしまえば、もう葵の想像を肯定しているようなものである。
「はあ、あの祥子がね……って、ちょっと待って」
「はい、なんですか?」
「それって、つまり、圭太はふた股?」
「いえ、それはないです」
「どうして?」
「圭太の彼女は、私ですから」
 またも言い切る柚紀。
「……柚紀のその絶対の自信は、どこから来るの?」
「そんなの決まってるじゃないですか。私が一番、圭太に愛されてるからです」
「ふぇ〜……」
 さらに言い切る柚紀。それに対して葵はただただ呆れるしかなかった。
「なんとなく、柚紀と圭太が上手くいってる理由がわかったわ」
「そうですか?」
「圭太みたいなのには、柚紀みたいなのが必要だわ」
「そうですよね? 私もそう思います」
「はあ、その思考ロジック、私もほしいわ……」
 葵は、ただただ呆れ、ため息をつくしかなった。
 
 その日の午後。
 部活が終わってから、圭太は柚紀と一緒に帰ってきた。柚紀は一時間ほど『桜亭』で過ごし、用事があるということで帰っていった。
 ただ、相変わらず未練たらたらで、圭太がなんとかなだめすかしてようやくである。
 柚紀が帰ったあと、圭太は思い立って出かけた。
 弥生三月も半ばを過ぎ、冬の厚いコートは必要なくなっていた。
 圭太も薄手のスプリングコートを着込み、出かけていた。
 街路樹や家々に植わっている木々も、少しずつ春の装いになってくる。特に桜の木には、明確な変化が現れてくる。ただ、このあたりで桜が咲くのは、まだ十日以上先のことである。
 なんとなく明るい気分で圭太は目的地に到着した。
 インターホンを鳴らす。
『はい、どちらさまですか?』
「あの、ともみさんの後輩の、高城圭太ですけど。ともみさんはご在宅でしょうか?」
『あらあら、圭太くんなのね。ちょっと待ってて。今開けるから』
 圭太の問いかけは、とりあえず無視された。
 すぐに玄関が開いた。
「いらっしゃい、圭太くん」
 出てきたのは、ともみの母親でかなみである。
「こんにちは。あの、先輩は?」
「ともみなら、居間でテレビ見てるわよ。まったく、あの子も大学に合格したと思ったらすぐグータラ生活に突入だもの」
「あ、あはは……」
「ああ、ほら、上がって上がって」
「あ、はい、おじゃまします」
 圭太は、そう言って安田家に上がった。
「ともみ、お客さんよ」
 かなみは、居間に入るなりそう言った。
「お客? 誰……って、圭太っ」
 それまでソファに横になり、昼のワイドショーを見ていたともみだったが、相手が圭太だとわかるや否や、コンマ一秒ほどで居住まいを正した。
「お、お母さん。圭太なら圭太だって言ってよ」
「あら、別にあたしは悪いことはしてないわよ。そんな中年オバサンみたいな格好してた、あんたが悪いんでしょうが」
「うぐっ……」
 事実なだけにさすがのともみも言い返せない。
「それよりも、いいの?」
「えっ、あっ、ご、ごめん、圭太」
「い、いえ……」
 安田家の母娘はとてもパワフルである。言いたいことを言い合える仲なのだが、たまに誰がいてもそうしてしまうのは、玉に瑕である。
「ほ、ほら、部屋に行こう、部屋に」
「あとでなにか持っていく?」
「いいっ。全部私がするから」
「そう?」
 かなみの申し出をきっぱり断り、ともみは圭太を自分の部屋へ連行した。
「はあ、よりにもよって圭太にあの姿を見られるとは。かなりショック……」
 部屋に入るなり、ともみはそう言って深々とため息をついた。
「でもまあ、過ぎてしまったことをとやかく言っても仕方がないし」
 しかし、すぐに立ち直るともみ。
「ねえ、圭太。今日は、その気でここへ来たのよね?」
「まあ、結果的にはそうなるのでは、と」
「じゃあさ、そういうのも含めて、ちょっとだけ私の言うこと、聞いてくれる?」
「無理なことじゃなければ、いいですけど」
 圭太は、内心多少おびえながらそう言った。
「大丈夫大丈夫。全然普通のことだから」
 そう言ってともみは、直接床に座った。そこで横座り、いわゆる女の子座りをする。
「はい、圭太」
「あの……」
 ともみは、自分の足を叩いて、合図する。
「念のために訊くんですけど」
「うん」
「それはつまり、先輩が僕に膝枕をしてくれる、ということですか?」
「そうよ。ほら」
 嬉々として言うともみ対して、圭太はあらがう術がなかった。
 圭太は言う通りにともみに膝枕をしてもらった。
「どう? 気持ちいい?」
「はい、気持ちいいです」
 ともみは、慈しむように圭太の髪を撫でる。
「よくドラマとかマンガとかでこういうのあるけど、今まではなんでそんなことするんだろうって思ってたわ。でも、今は違う。そうしたいって思う気持ちが、わかったから。こうしてると、私まで暖かな気持ちになれるし」
 その言葉にはウソ偽りはなかった。
 本当にともみはそういう感じだった。
「……圭太はさ」
「はい」
「なんでこんなに私に優しくしてくれるの? それって、私のことを好きだっていうだけの理由なの?」
「別に、取り立てて優しくしているつもりはないんですけどね。ただ、もしそうなら、やっぱり相手が先輩だからだと思います」
「そっか……」
 圭太の言葉に、ともみは少しだけ俯いた。なにやら考えているようである。
「よし、圭太。セックスしましょ」
 そして、いきなりそう言い出した。
「今日は、圭太にたっぷりと可愛がってもらうんだから」
 
「んんっ、あんっ、圭太っ」
 ともみは、騎乗位の格好で腰を動かしている。
 圭太は、そんなともみの胸に手を当て、揉んでいる。
「圭太っ、もっとっ、もっとっ突いてっ」
 どん欲に快感を求める。
 それに応え、圭太も下から突き上げる。
「ああっ、いいっ、すごくいいわっ」
 ともみは軽く体をのけぞらせながら、自分が一番感じる場所を探す。
「んあっ、あっ、あっ」
 と、圭太がいったん動くのやめた。
「ど、どうしたの?」
「ともみさんを抱きしめたいので」
 そう言って圭太は繋がったまま体を起こした。
 ともみを抱きしめ、いわゆる座位の格好になる。
「ん、あ、はむ……」
 そこでキスを交わす。
「んっ、あんっ」
 また、ともみから動く。その格好では圭太から動くのはかなり難しい。
 それでも圭太もできる範囲内で動き、少しでもともみを気持ちよくする。
「んっ、圭太っ、私っ、イっちゃうっ」
 ともみは圭太にしがみつき、そして──
「んんっ、あああっ!」
 絶頂を迎えた。
 同時に圭太も二度目ながら大量の白濁液を放っていた。
「ん、はあ、圭太……」
「ともみさん……」
 ふたりは、そのままの格好でキスを交わす。
 ともみの顔には、なんとも言えない満足そうな笑みがあった。
 
「今更なんだけどさ」
 ともみは、圭太に腕枕をしてもらいながら言った。
「やっぱり、ゴムつけてするのって、味気ないわ」
 そう言ってため息をつく。
「そりゃ、中で出されて万が一のことが起こったら大変だけど、でも、なんか違う気がするのよね」
 ともみの言葉を、圭太はただ黙って聞いている。
「圭太は、どう思う?」
「僕は、どちらでもいいと思いますけど。ただ、僕としては相手の意見を尊重したいと思ってます」
「じゃあ、危ない日に中で出してって言われたら、そうするの?」
「状況によっては」
「ん〜、それはそれで問題あると思うけどねぇ。相手が柚紀ならそれでもいいかもしれないけど、ほかの連中にそれはまずいでしょ」
「ええ。だから基本的にはそうしませんよ。あくまでも相手に『意志』があった場合ですから。僕に選択の余地があれば、そうしません」
 圭太は冷静に自分の考えを述べる。
 それに対してともみは、なにやら考え込んでいる。
「僕は、セックスというものに対して、単なる性行為という意味以上のものを感じています」
「そうなの?」
「臭い言い方になるかもしれませんけど、相手の本当の想いを知るため、自分の本当の想いを知ってもらうため、そのためにセックスをしてもいいと思うんです。もちろん、誰でもというわけではないですけど」
「じゃあ、私の本当の想いは、圭太に伝わってる?」
「はい」
 圭太は、臆面もなく即答した。
「これを柚紀に聞かれると怒られると思うんですけど」
「うん」
「それこそ倫理や法律さえ許してくれるなら、僕は僕のことを想ってくれている僕の大切な人たちとずっと一緒にいたいと思っています。ただ、それは今の日本、というよりは大多数の国では倫理的にも法律的にも認められていませんからね。もし本当にそうしたかったら、中東あたりにでも行かないと」
 そう言って圭太は苦笑した。
「僕の中で一番は柚紀です。でも、その次は誰というのはないんです。ただ、一歩抜け出しているのが柚紀というだけなんです」
「……圭太は、強いわね」
 ともみは、ぽつりと呟いた。
「強い、ですか?」
「ええ、強いわ。何人もの人に本気で想われながら、ちゃんと自分の意志を貫けてる。自分の中でなにが大切なことかわかってる。だから、強いの」
「そう、ですかね……僕は、そうは思えません。弱いからこそ、選べていないんだと思うんです。本当だったら、柚紀が僕の彼女になった時点で、ほかの人との関係は作っちゃいけないはずなんです。どんな理由をつけたところでそれは、柚紀の想いに対する裏切りでしかないですから」
 圭太は、できるだけ感情を押し殺しながら続ける。
「それでも、僕は怖かったんです。柚紀と一緒にいると、僕は本当に心が穏やかになって、幸せになれて。それを失ったらどうしようって。そんなことを考えて。だから、逃げ場がほしかったんだと思います。万が一、柚紀を失った場合の逃げ場が」
「逃げ場、ね」
 ともみは、少し自嘲気味に呟いた。
「でも、今はそうは思っていません。僕を想ってくれている人の、僕に対する想いを知りましたから。そんな中途半端な、後ろ向きな考えではとても向き合っていけません。だから、僕はその人たちに全力で僕の想いをぶつけようと思いました。そのひとつの方法がセックスであると、僕も自覚しています」
「そっか」
「僕のこの考え方は、すごく自分勝手だと思います。だから、もしともみさんがそういう僕の考えに賛同できなければ、遠慮なく言ってください。僕は、できる限りその想いに応えていきますから」
「ううん、その考えでいいと思う」
 ともみは小さく頭を振り、優しい口調で言った。
「圭太が、本当に真剣に私やほかの人のことを考えてるって、わかったから。それだけで十分。だってそうでしょ? みんな、圭太には柚紀っていう彼女がいることを知った上で関係を求めたんだから。それ以上を求めたら、絶対に手痛いしっぺ返しを食らうわ。だから、それだけで十分よ」
「……ありがとうございます」
 圭太は、ともみをギュッと抱きしめた。
「私だけじゃないと思うけど、本当に圭太を好きになれてよかった。ほかの人だったら、こんな充実感、味わえたかどうかわからないわ」
「買いかぶりすぎですよ」
「なに言ってるのよ。私を身も心も虜にしておきながら」
 そう言ってともみはキスをした。
「これから先、ほかの誰かとつきあうかどうかもわからないけど、たとえそうなったとしても、本気で好きになれたのが圭太だったことは、本当に幸せなことだと思う。これだけは、五十年後の私に訊いてみてもきっと同じことを言うと思う」
「ともみさん……」
「だからね、圭太。少なくとも圭太が私との関係に区切りをつけたいって思うまで、私を好きでいてほしい」
「はい。約束します」
「ありがとう、圭太。その言葉だけで嬉しいわ」
「言葉だけじゃありません。ちゃんと、行動でも示します」
「うん……」
 そしてふたりは、まるではじめてキスをした時のように、穏やかな、想いのこもったキスを交わした。
 
 五
 春分の日。
 一年の中で昼と夜の時間が同じになる日。また、彼岸の中日でもある。
 その日は、暑さ寒さも彼岸まで、という言葉の通り、とても穏やかで暖かな日だった。
 圭太たち金管五重奏の五人と、菜穂子、祥子、さらに柚紀を加えた八人は、アンサンブルコンテスト全国大会のために、広島へと出発した。
 広島までは新幹線で向かう。約四時間の旅である。
 座席はふたり掛けの席を四列だった。圭太の隣には、当然のように柚紀が座っていた。
「圭太は、広島には行ったことあるの?」
「ううん、ないよ。西は、中学の修学旅行で行った京都、大阪までだから」
「そっか。私は福岡には行ったことあるけど、広島ははじめてなのよね」
「これが全国大会じゃなければ、ゆっくり観光もできたんだろうけどね」
「まあ、そうだけど。全国大会だからこそ、行けるって思わなきゃ」
 柚紀は、前向きにそう言う。
 電車は、順調に旅程を消化していく。
 最初の頃は車窓を流れる景色に一喜一憂していた柚紀も、朝早かったためか京都手前くらいから眠ってしまった。
 柚紀の穏やかな寝顔を見て、圭太も穏やかな笑みを浮かべた。
 
 アンサンブルコンテスト全国大会は、広島市内にあるアステールプラザで行われる。ホールとしての規模は中規模だった。場所は市内の中心部で、交通の便はよかった。
 一行はとりあえず一度会場を見に行った。その日は一日目の演奏が行われている。
「結構立派なホールね」
 菜穂子の感想である。
「明日は、ここで演奏をするのよ」
 一同は、幾分緊張気味にその建物を見上げた。
「さてと、これからどうする? ホテルにチェックインしてもいいけど」
「先生。小腹が空いたので、お好み焼きでも食べに行きませんか?」
 そう提案したのは、信一郎である。
「そうね、せっかくだから行きましょうか」
 菜穂子も快諾し、一行はお好み焼き屋へ。
 広島のお好み焼きは、大阪のお好み焼きと並んで有名である。大阪のが材料を混ぜて作るのに対し、広島のはそれぞれを順に載せて作る。
 中にそばを入れるモダン焼きも有名である。
 一行は地元で人気のお好み焼き屋で、ふたりで一枚という数で注文した。
 関東にも東京のお好み焼きやもんじゃ焼きがあるが、広島のお好み焼きはまた格別だった。
 中途半端な時間だったために半分ずつにしたのだが、あっという間に平らげてしまったほどである。
 それから一行は二日間泊まるホテルにチェックインした。
「じゃあ、部屋割りは今言った通りでいいわね」
 部屋は、ツインの部屋を四部屋取っていた。もともとはツイン三部屋のシングルひと部屋だったのだが、柚紀が一緒に行くことになって、ツインに変更したのだ。
 部屋割りは、仁と信一郎、久美子と真琴、祥子と菜穂子、そして圭太と柚紀という風になった。
 圭太と柚紀の関係は菜穂子も知っているため、特になにも言わなかった。ただ、祥子だけは少々残念そうにしていたが。
「ん〜、やっぱり街中のホテルだと、こんなものかな」
 柚紀は部屋に入るなりそう言った。
 部屋は、ホテルのちょうど真ん中くらいの階で、眺めはまあまあだった。
「はあ、結構疲れたね」
「そうだね。あれだけ長時間電車に乗ることなんてそうないからね」
 圭太はそう言ってベッドに腰を下ろした。
「でも、圭太と一緒の部屋でよかった。最悪シングルでひとりだったかもしれなかったからね」
「先生が気を遣ってくれたからね」
「うん。すっごく感謝してる」
 柚紀も嬉しそうに微笑み、圭太の隣に座った。
「でも、さすがにここでエッチはやめた方がいいよね?」
「まあ、そうだね」
「ちょっと残念だけど、圭太には明日の本番でがんばってもらわなくちゃいけないから、我慢我慢」
 以前の柚紀からではとても想像できないような物わかりの良さである。
「う〜ん……」
 柚紀は、そのまま後ろに倒れる。
「夕食までちょっとひと休み」
「寝ててもいいよ。起こしてあげるから」
「ううん、横になってるだけだから。それに、新幹線の中で結構眠ったし」
「そうだね」
 結局、柚紀は岡山を過ぎるまで起きなかったのだ。結構な時間、寝ていたことになる。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「圭太、はじめての夜に言ってくれたよね。卒業したら一緒になろうって」
「うん」
「それと、圭太は卒業しても大学に行くかどうかはわからないんだよね?」
「うん」
「それでね、私いろいろ考えたの」
 そう言って柚紀は起きあがった。
「私は、圭太と同じ道に進もうって。圭太が大学へ行くなら私も行くし、『桜亭』を継ぐなら私も一緒にやりたいし」
「柚紀は、それでいいの? 大学とかでやりたいこととかないの?」
「少なくとも今のところはないよ。私にとっては大学に行くことよりも圭太と一緒にいる方がよっぽど充実してるし」
 そう言った柚紀の顔には、確かな決意が見て取れた。
「だからね、圭太。私に遠慮しないで、圭太は圭太のやりたいことをやって。どんなことにでも、私はついていくから。私は、一生圭太についていくって決めたんだから」
「柚紀……」
 圭太は、柚紀を抱きしめ、キスをした。
「ありがとう、柚紀」
 感謝の言葉を言い、もう一度キスをした。
 
 その日の夕食は、ホテル近くのレストランでとった。
 そして、広島一日目の夜は更けていった。
 
 三月二十二日。
 アンサンブルコンテスト全国大会二日目。
 少し雲が多いながら、晴れと呼ぶのに支障はない日。
 圭太たちは早めに会場入りした。受付を済ませ、送っていた楽器を受け取り、確認する。万が一のことがあれば演奏辞退ということもあり得る。
 幸いなことにそういうトラブルはなかった。
 控え所に入り、入念に準備をする。
「いつも通りの演奏を心がけて。そうすれば結果は自ずとついてくるわ」
 菜穂子はそう言って五人を送り出した。
 全国大会ともなれば、参加者のレベルは相当のものである。
 コンクールと違い、人数が少ないだけに個々人のレベルが物を言う。もちろんソロコンテストではないので、それがすべてではない。ただ、それでもレベルが高いにこしたことはない。
 自分に絶対の自信を持っているならいざ知らす、普通の高校生なら、ほかの人のを聴けば多少怖じ気づくのも仕方がない。
 それでも、そんなプレッシャーをはねのけ、自分の持てるすべての力を出して演奏しなければならない。
 そこがスタート地点で、結果はあくまでもそのあとについてくるものである。
 圭太たちも、そんなプレッシャーと戦いながら、順番を迎えた。
 会場内を一瞬の静寂が支配する。
 そして、圭太の合図で演奏がはじまった。
 
『これより閉会式を行います』
 会場内に大きな拍手がわき起こった。
 二日目も順調に進み、閉会式を迎えていた。
 いつも通り講評からはじまる。
 圭太たちは、前の方の席でそれを聞いていた。
『それでは、次に審査結果を発表します』
 司会役の男性が、結果を読み上げていく。
 結果に、あちこちから声が上がる。
『──県立第一高等学校、金管五重奏、銀賞』
 
「結果としては銀賞だったけど、私はそれ以上の演奏だと思っているわ」
 すべてが終わったあと、菜穂子は五人を前にそう言った。
「あなたたちの演奏が悪かったわけじゃない。ただ、金賞を取ったところの演奏がすごかった。ただそれだけのことよ。だから、胸を張って堂々と銀賞を喜べばいいわ。今日は、本当におつかれさま。それと、おめでとう」
『はいっ』
 結果は惜しくも銀賞だった。
 それでも五人の顔には、すべてをやり尽くしたという満足げな笑顔があった。
「さあ、今日は私のおごりよ。なんでも好きなものを食べていいわよ」
「よっしゃっ!」
 こうして九月からはじまったアンサンブルは幕を閉じた。
 五人にとっては、これ以上ないくらいの経験を得ることができた。そのことは確実にこれからの活動に活きてくるし、菜穂子もそれを期待していた。
 ただ、今だけはそういうことを忘れて、労を労いたい気分だった。
 
 次の日、一行は午前中のうちに広島を発った。
 来る時とは違い、五人にはまったく緊張感はなかった。ただ、開放感から来る心地よい眠気に誘われて、皆、新幹線で眠っていたが。
 地元に到着したのは、もう夕方近くだった。
「はあ、やっと帰ってきたって感じ」
 柚紀は、改札を抜けるとそんなことを言った。
「今日は、真っ直ぐ帰るんだよね?」
「まあ、無理を言って向こうに行ったから、今日くらいはそうしないと」
 圭太の言葉に、柚紀は苦笑しながら答えた。
 それから柚紀は、いつものバスに乗って帰っていった。
 圭太は、祥子と一緒に歩いて帰ることにした。
「これで圭くんは、コンクール、ソロコン、アンコンとすべてで全国大会に出たことになるね」
「そういえば、そうですね。すっかり忘れてました」
 圭太はそう言って笑った。
「そんなすごい高校生が、私の隣にいるなんて、ちょっと信じられないね」
「僕は、そんなすごい高校生じゃないですよ。ごく普通の高校生です」
「そういうことを簡単に言えちゃうところも、すごいところだと思うけどね」
 祥子は笑顔でそう言う。
「アンコンも終わったし、これで本当に新年度に向けて動き出さないとね」
「まずは、部員の確保、ですね」
「うん。ある程度は確保できると思うけど、できれば私たちや圭くんたちの年と同じように、二十人は入ってほしいからね」
 コンスタントに二十人くらい入ると、その部活は非常に安定した活動が行える。
 少なくなると、コンクールの出場にも影響が出るために、部員確保は重要である。
「圭くんには、がんばってもらわないと」
「僕、ですか?」
「うん。先生とも話したんだけどね、女子部員を確保するのに圭くんを前面に押し出そうって」
「……なんとなく、わかりました」
「ふふっ、圭くん目当てで入ってくる子は、絶対にいると思うから。ああ、そういえばすでにそういう子がふたり、いるね」
「…………」
「紗絵ちゃんと朱美ちゃん、これでふたりは確保だね」
 そう言って祥子は微笑む。
「そうそう、圭くん」
「なんですか?」
「紗絵ちゃんがいくら同じパートだからって、必要以上に仲良くするの、ダメだからね」
「べ、別にそんなことしませんよ」
「ホントかなぁ?」
 我知らず視線をそらす圭太に、祥子は少しだけ疑いの眼差しを向ける。
 とはいえ、祥子としても本当に圭太がそういうことをするとは思っていない。
 確かに圭太は誰に対しても優しいが、部活など真剣に取り組む時にはちゃんと物事を割り切ってできる能力も持っていた。
 それを祥子は知っていながらも、あえてそう言ったのだ。
「じゃあ、圭くん。また明日ね」
「はい」
 祥子は、圭太に軽くキスをして帰っていった。
「さてと」
 圭太は、祥子を見送ると、カバンを持ち直し、自分も家に向かった。
 
 三月二十五日。
 その日、圭太は部活が終わるなりすぐに帰った。
 圭太がそうやってすぐに帰ることは珍しいのだが、その日はある意味仕方がなかった。
 その日は、淑美と朱美が来ることになっていたからだ。
 訪問の理由は、もちろん朱美のことである。前日の夜に、居候のことに関して結論が出たという電話があったのだ。
 圭太が家に帰ると、ふたりはすでに来ていた。
 圭太はとりあえず着替えてから店の方に出た。
「こんにちは、淑美叔母さん」
「こんにちは、圭太くん」
「朱美もね」
「うん」
 ふたりは、奥の席でお茶を飲んで待っていた。
「じゃあ、鈴奈ちゃん。少しの間、お願いね」
「はい、わかりました」
 琴美は店のことを鈴奈に任せ、圭太と一緒にふたりの前に座った。
「それで、どんな結論が出たの?」
「ほら、朱美」
「えっと、琴美伯母さん、圭兄。これから三年間、よろしくお願いします」
 そう言って朱美はぺこっと頭を下げた。
「亮一さんはなんて?」
「まあ、それらしい理由をつけて引き留めたけど、結局は朱美の好きなようにさせてくれたわ」
「淑美がなにか言ったんじゃないの?」
「とんでもない。今回のことはいくら私でもしなかったわ。ふざけて決められることじゃないし」
「そう、それならいいわ」
 そう言って琴美は微笑んだ。
「それで、引っ越しとかなんだけど、姉さんたちの都合のいい日でどう?」
「そうね。とりあえず、空き部屋を片づけてからだから、来週になるかしら?」
「それはいつでも。こっちは頼んでる側だし」
「そう、わかったわ。それじゃあ、部屋を片づけたら連絡するわ。そっちも、それまでに準備しておいて」
「あの、伯母さん」
「なぁに、朱美?」
「その片づけ、私も手伝っていいですか?」
「それはいいけど。別に無理しなくてもいいのよ。私や圭太だけでも十分片づけられる程度しか荷物もないし」
 琴美は、一応そう言った。
「いえ、これから自分で使う部屋ですから、自分で片づけたいんです」
「そう? じゃあ、お願いしようかしら」
「母さん。琴絵が帰ってきたら、三人でやっちゃうよ」
「そう? わかったわ」
 それから少しして、琴絵も部活から帰ってきた。
 高城家の空き部屋は、圭太や琴絵の部屋と同じ二階にある。もともとは急な客のためと荷物を置いておくために作った部屋だった。
 ただ、祐太が亡くなってからは荷物自体も減り、その部屋もほとんど使われなくなっていた。
「ここが私の部屋になるんだね?」
「そうだよ。僕や琴絵の部屋に比べると少し狭いけどね」
「ううん、これだけあれば十分だよ」
 部屋はだいたい六畳間ほどの大きさ。和室なので、畳敷きである。
 もともと大きな荷物はないため、片づけ自体もそれほど時間はかからない。押入の中身を出して、場所を空けるのが少々面倒なくらいだった。
「よし、こんなものかな」
 圭太は、すっかり片づいた部屋を見回し、そう言った。
「これで、いつでもここに入れるよ」
「うん」
 朱美は、改めてこれから三年間自分の部屋となるその部屋を見回した。
「ねえ、圭兄」
「うん?」
「約束、覚えてるよね?」
「あ、うん」
 圭太は、ちらっと琴絵を見た。
「それ、今から果たしてもらってもいいかな?」
「えっ……?」
「いいよね?」
「だ、だけど、朱美……」
「琴絵ちゃんのこと?」
 そう言って朱美は琴絵を見た。
「えっと、あの、なんのこと?」
 ひとり状況のわかっていない琴絵。
「琴絵ちゃん。ほら、お正月に決めたこと、あったでしょ?」
「お正月? う〜ん……あっ、も、もしかして、あのこと?」
「うん」
 今度は圭太が状況をわかっていなかった。
「どうする、琴絵ちゃん?」
 朱美は、ちょっとだけ小悪魔的な笑みを浮かべた。
「……やるよ」
 
 圭太は、ふたりに言われるまま、自分の部屋にいた。
 朱美との約束のことは理解できていたが、そこに琴絵が加わると話は変わった。多少困惑したまま、圭太はふたりを待った。
 一方、琴絵と朱美は、琴絵の部屋で準備をしていた。
「ね、ねえ、朱美ちゃん。本当にこの格好じゃないとダメなの?」
「どうせだし、いいと思うけど?」
 そう言って朱美は、にっこり笑う。
「うん、私も準備終わり。琴絵ちゃんもいいよね?」
「う、うん」
「じゃあ、行こ」
 朱美が先に立って、部屋を出た。
「いい?」
 琴絵が頷き、朱美はドアをノックした。
「圭兄、入るよ?」
 静かにドアを開け、中に入る。
「こ、琴絵、朱美、なんでそんな格好を」
 入るや否や、圭太はふたりの姿を見てそう言った。
 開いた口がふさがらないという感じである。
「これ、琴絵ちゃんのなんだけど、どうかな?」
 そう言って朱美は、くるっとまわった。
 琴絵も朱美も、制服を着ていた。朱美が着ているのは琴絵の予備の制服である。
「いや、そうじゃなくて、なんでふたりでそんな格好をしてるわけ?」
「さて、ここで問題です」
 朱美は、圭太の質問を無視し、そう言った。
「どうして私と琴絵ちゃんは、制服を着て圭兄の前にいるのでしょうか?」
「どうしてって……」
 圭太は、ふたりをまじまじと見る。
 朱美はニコニコと圭太を見て、琴絵は恥ずかしそうに俯いている。
「……まさかとは思うけど」
「うん」
「その、ふたり一緒に、とか言ったりする?」
「大正解」
「…………」
 圭太は、思わずこめかみを押さえた。
「お正月にね、琴絵ちゃんと決めたの。私が一高に合格したら、ふたりで圭兄にお願いしようって」
「本当なのか、琴絵?」
「う、うん」
「はあ……」
「ほらほら、圭兄。ため息なんかついてないで、約束、守ってよぉ」
 そう言って朱美は圭太に抱きついた。
「……しょうがない」
 圭太も覚悟を決め、朱美にキスをした。
「ぁ……」
 それを見ていた琴絵が、キュッと唇とかみしめた。
「ほら、琴絵ちゃんも一緒に」
「うん……」
 ふらふらと魔法にでもかかったように、琴絵も圭太に抱きついた。
「お兄ちゃん、私にも、キス……」
 朱美に負けまいと、琴絵もキスをねだる。
「ん、ん……」
 圭太がキスをすると、琴絵は自分から舌を絡める。
「ん、はあ、お兄ちゃん……」
 唇を離すと、琴絵はとろんとした表情で圭太を見つめた。
「ねえ、圭兄。圭兄は、私たちにどうしてほしい? なんでもするよ?」
「別にしてほしいことなんてないけど……」
「むぅ、それじゃあ、うん、とりあえず私たち、脱ぐから」
 そう言って朱美は琴絵の腕を取る。
「琴絵ちゃん」
「朱美ちゃん……」
 朱美は、琴絵にキスをした。
 妹と従妹のキスは、とても背徳的で、扇情的だった。
 キスをしている間に、朱美は琴絵の制服を脱がせていく。
「ほら、琴絵ちゃんも」
 朱美は、琴絵に自分のも脱がせるように言う。
 それに応え、琴絵も朱美の制服を脱がせる。
 ブレザーを脱がせ、ネクタイを外し、ブラウスのボタンを外し、スカートを脱がせる。
 そして、ふたりとも下着姿になった。
「あとは、圭兄にしてほしいな」
 そう言ってふたり揃って圭太を押し倒す。
「ねえ、琴絵ちゃん。ふたりでしようよ」
「えっ、あ、うん」
 ふたりは、圭太を押し倒したまま、今度は圭太のズボンに手をかけた。
 ベルトを外し、ズボンを下ろし、トランクスも脱がす。
 ふたりの前に、すでに大きくなっている圭太のモノがあらわになった。
「ふふっ、圭兄。私たちを見て大きくなったんだ」
 朱美は、そう言って圭太のモノを握った。
「んっ……」
「うわ、びんくんびくんて、すごい……」
 まじまじと見つめる朱美。
 と、その圭太のモノに、琴絵が舌をはわせた。
「こ、琴絵ちゃん……?」
「ん、ん、お兄ちゃん……」
 琴絵は、一心不乱に圭太のモノを舐める。
「わ、私も」
 一瞬あっけにとられていた朱美だったが、すぐに朱美もモノを舐める。
「うっ」
 同時にふたりに舐められ、圭太は思わず声を上げた。
 圭太のモノを挟んで妹と従妹が舐めあう姿は、とても淫靡だった。
 ふたりに舐められ、快感も二倍で、圭太はすぐに限界を迎えた。
「うっ、出るっ」
「わっ」
「きゃっ」
 圭太は、白濁液をふたりの顔に放った。
「えへへ、お兄ちゃん、気持ちよかった?」
 琴絵は、顔についた精液を指ですくいながら、そう言った。
「あ、ああ、すごく気持ちよかったよ」
「圭兄……イってくれたんだね」
 朱美も、熱に浮かされたような表情で、手についた精液を見ている。
「今、綺麗にしてあげるね」
 琴絵は、そう言って圭太のモノを口に含んだ。
「あ……」
 その様子を、朱美は羨ましそうに見ている。
「はあ……」
 琴絵が口を離すと、ツーッと唾液が糸を引いた。
「今度は、お兄ちゃんの番だよ」
「ああ」
 圭太は、そう言ってまず琴絵のブラジャーを外した。
「ああん、圭兄、私も」
 それにすぐに朱美も声を上げる。
 圭太は苦笑しつつ、朱美のブラジャーを外した。
「朱美」
「なぁに、圭兄?」
「横になって」
「うん」
 言われるまま、朱美はベッドに横になった。
「琴絵は、朱美に覆い被さるように」
「うん」
 琴絵も言われるまま、朱美に覆い被さる。
「ふたりとも、いいかな?」
「うん」
「いいよ」
 圭太は、ふたりの秘所をショーツ越しに触れた。
「ふわぁ」
「あん」
 同時に甘い吐息が漏れる。
 ふくらみに指を当て、少し強めに擦る。
「ああんっ、お兄ちゃんっ」
「んんっ、圭兄っ」
 すると、程なくショーツにシミができてくる。
 それを確認し、圭太はふたりのショーツを脱がせた。
 圭太の前に、ふたりの秘所があらわになった。
 同じ女性器でも、やはり少し違う。
 圭太は、頭の片隅でそんなことを思いながら、指でそれをいじる。
「んんっ、あんっ、おにいちゃんっ」
「あんっ、圭兄っ、気持ちいいよぉっ」
 ふたりともすでに中はびしょびしょだった。
 どうやら圭太のモノを舐めている時に感じていたようだ。
「んんっ、圭兄、もう圭兄のがほしいよぉ」
 先にねだってきたのは、朱美だった。
「お兄ちゃん、私も」
「わかったよ」
 圭太は、自分でモノをしごき、まずは朱美の秘所にあてがった。
「んっ、ああっ」
 一気に体奥を突かれ、朱美は嬌声を上げた。
 すぐに圭太は動き出す。
「んんっ、あんっ、圭兄っ」
 朱美は、圭太と琴絵の下で快感に悶える。
「朱美ちゃん、気持ちよさそう……」
 琴絵はそう言って朱美の胸に手を添えた。そのままぷっくりとふくらんだ突起を指でいじる。
「んあっ、琴絵ちゃんまでっ」
 兄妹ふたりに攻められ、朱美はますます感じてくる。
「いやっ、いやいやいやっ」
 上と下を同時に攻められ、朱美の神経は麻痺してくる。
 と、圭太はモノを朱美から抜いた。
「けい、にい……?」
「少しだけ待ってて」
 そう言って今度は琴絵の秘所にモノをあてがった。
「お兄ちゃん、来て……」
 圭太は、ゆっくりと琴絵の中にモノを挿れた。
「ふああ、お兄ちゃんっ」
 琴絵は、朱美の上で必死に倒れないように体を支える。
 しかし、圭太が動く度に琴絵の中に快感が走り抜け、それもままならなくなってくる。
「琴絵ちゃん……」
 朱美は、琴絵にキスをし、琴絵が自分にしたように胸をいじる。
「あんっ、んんっ、ダメっ」
 立て続けに体を駆け抜けていく快感に、琴絵の神経も麻痺してくる。
「んあっ、あっ、あっ」
 もう琴絵は自分の力では自分を支えられなくなっていた。
 と、また圭太はモノを抜いた。
「はあ、はあ、どうして、お兄ちゃん……?」
 琴絵は、もう少しでイケたのに、そんな顔をする。
「琴絵、朱美。三人で一緒に気持ちよくなろう」
 圭太は、ふたりの秘所がちょうど上下に来るようにふたりの位置を調整し、その間に自分のモノを差し挿れた。
「んんあっ」
「あんっ、ああっ」
 圭太のモノがふたりの一番敏感な部分を擦り、ふたりは揃って嬌声を上げた。
「んんっ、あんっ、お兄ちゃんっ」
「圭兄っ、あんっ、気持ちいいのっ」
 圭太は、さらに動きを速くする。
 容赦ない圭太の動きに、ふたりの快感もあっという間に高まってくる。
「イヤっ、お兄ちゃんっ、私っ」
「私もっ、イっちゃうっ」
 圭太は、ラストスパートというように、さらに激しく動く。
「ああっ、お兄ちゃんっ!」
「圭兄っ、イクぅっ!」
「くっ、琴絵っ、朱美っ」
 そして、三人はほぼ同時に達した。
 圭太は、ふたりの真っ白な腹部に、白濁液をほとばしらせていた。
「ん、はあ、はあ、おにいちゃん……」
「はあ、はあ、圭兄……」
 上に乗っていた琴絵は、ころんとベッドに横になる。
「圭兄、すごく気持ちよかったよ……」
「うん、私も……」
「そっか……」
 圭太は、微笑んでふたりの間に横になった。
「大好き、圭兄……」
「お兄ちゃん、大好きだよ……」
 カワイイ妹とカワイイ従妹にそう言われ、圭太も嬉しそうに微笑んだ。
 
「もう、ホントに圭太くんは……」
 淑美は、そう言ってため息をついた。
「圭太くんて、案外好き者なの?」
「えっと、その……」
「別にそれが悪いとは言わないけど、でもねぇ、さすがにふたりとするのはねぇ」
 以前と同じように、圭太と琴絵、朱美の情事は、淑美の知るところとなっていた。
「なんか、朱美をここに預けるの、少し心配になってきたわ」
「…………」
 そう言われては、なにも言い返せない圭太。
「ねえ、圭太くん。どうせだったら、このまま朱美をもらってくれない?」
「へ……?」
「なんか、このままだと朱美は圭太くん以外に興味を示さないような気がするのよ。うちの旦那はそれでいいって言うかもしれないけど、私としてはちょっとね。だから、いっそのこと圭太くんがもらってくれれば、まあ、安心できるかな」
 そう言う淑美は、案外真剣だった。
「どう、圭太くん?」
「あ、あの、さすがにそれは……」
「ダメ? まあ、今のあの子じゃまだまだダメか。もうちょっといろいろ仕込まないと、さすがにね」
「そ、そういう問題ですか?」
「とまあ、半分本気の半分冗談な話は置いといて。圭太くん。別に私は朱美を抱くなとは言わないわ。ただね、もう少しいろいろなことを真剣に考えた方がいいわ。琴絵ちゃんは圭太くんの妹だから、家族内の問題で済むかもしれないけど。朱美は、あれで結構頑固で一途だから。このままだと、本気で一生圭太くんについていくわよ。それでもいい?」
「それは……」
「よくないわよね。だったら、もう少し考えてね」
「はい、わかりました」
 圭太は、素直に頷いた。
「でも、圭太くん」
「なんですか?」
「朱美って、そんなにカワイイ?」
「えっと、そう、ですね」
「ふ〜ん、そっか。まあ、うちの家系は案外モテるみたいだから。知ってる? 姉さんだって学生の頃結構モテたんだから。ただ、性格が真面目すぎたせいで祐太さん以外とはつきあったことはないけどね」
 淑美は、そう言って少し懐かしそうな顔をする。
「ま、圭太くんが側にいてくれれば、少なくとも変な虫がつくことはないわね。それは、私もあの人も安心できるわ」
「…………」
 自分がその変な虫なのでは、とは言えない圭太である。
「お母さん。圭兄と話、終わった?」
 そこへ件の朱美がやってくる。
「ええ、終わったわよ。それで、今朱美のことをお願いしてたところ」
「ええーっ、私、そんなに迷惑かけないよ?」
「ふふっ、そうね」
 朱美と淑美では、その『お願い』の意味するところが違う。圭太にもそれがわかっただけに、冷たい汗が背中を流れていた。
 こうして、朱美は高城家の居候となり、圭太にとっては悩みのタネが増えることになった。
 
 六
 三月二十七日。
 その日は朝から気温が高く、桜のつぼみも一気にふくらみそうな日だった。
 関東地方でも伊豆諸島ではすでに桜が開花し、そろそろ横浜や東京では開花宣言が出そうだった。
 桜の季節を間近にしたその日も、吹奏楽部では部活があった。
 アンコンも終わり、部活は完全に通常の活動に戻っていた。
 学校では前日に新入生の保護者説明会が行われていた。その際には当然勧誘活動を行った。チラシを作り、今年度の輝かしい実績を強調した。
 反響のほどはわからないが、それでも出だしとしてはまあまあだった。
 そんな翌日でも、活動は特に変わらない。
 ただ、部員はどことなくそわそわしていた。
 その理由は実に簡単である。
「じゃあ、今日はこれで終わりね。今日は五時から追いコンだから、忘れないように」
 そう、その日は卒業生を送り出す追い出しコンパの日だったのだ。
 だから、部員はどことなくそわそわしていたのだ。
 五時からならば部活を午後にしてそのまま、と思うかもしれないが、そこにも多少の配慮があった。
 普段なら制服のままなのだが、追いコンだけは伝統的に全員私服で行っていた。そのため午後からでは家まで遠い部員は帰れない。そうすると着替えをわざわざ持ってこなくてはいけない。そういう手間をなくすこともあって、あえて午前中にしていた。
 部活が終わってから集合時間までなら、結構時間があるため、着替えに帰っても、その間に十分休んでこられる。
 とまあ、そういう裏事情はこの際どうでもいい。
 部員たちは部活が終わると、そそくさと帰っていった。
 その日ばかりは圭太や祥子もそうである。柚紀も一度家に帰る。
 そんなわけで、時間を進めよう。
 圭太は、ジャケットにジーンズという格好で家を出た。
 集合場所は駅前繁華街にある広場である。そこはこの近辺では待ち合わせ場所としては一番ポピュラーである。
 もちろん人数が少なければ改札前でもいいのだが、今回のように大人数となるとそうはいかない。
 そういうことも考慮しての選定である。
 圭太が広場に着いたのは、集合時間の二十分前だった。
 さすがにその時間に来ている者は、ほとんどいなかった。ただ、その中には圭太と関係の深い者がいた。
「幸江先輩」
「ん、圭太」
 幸江である。白のブラウスに明るい茶系のジャケット、揃いのスカートという格好で、制服姿とはまた違った印象を与えた。
「早いですね」
「うん、ちょっと用があって、それでね」
 そう言って幸江は微笑んだ。
「圭太が早いのは、いつものことか」
「そうですね」
「ホント、圭太は真面目よね」
「真面目っていうか、心配性なんですよ。早く着いて安心したいんです。それだけです」
 圭太は、ごくごく当たり前のように言う。
「そういえば、先輩」
「うん?」
「先輩たちって、どのくらい進路、決まったんですか?」
「今年はよかった方だと思うけど。二十人中、十四人が進学が決まったし」
「そうなんですか」
 確かに七割というのはかなりの高確率である。一高全体の進学率よりもいい。
「でも、僕としては幸江先輩も大介先輩も決まっていてよかったです」
「ふふっ、そう? やっぱり、浪人生を相手にすると、気を遣う?」
「多少はそうなると思いますよ」
 大学浪人は、ほかの浪人に比べると比較的気楽に訊ける部分はあるが、それでもまわりに合格してる者がいれば、それも変わるだろう。
 特に圭太のようにまわりに気を遣うタイプは。
「でも、圭太はいいわよね」
「どうしてですか?」
「だって、私や大介もそうだけど、三中の三人も決まってるし」
「確かにそうですね」
 幸江の言う通り、三中出身のともみ、さくら、つかさの三人はしっかり進学を決めていた。
「ただ、さとみにだけは気をつけた方がいいわよ」
「さとみ先輩ですか?」
「うん。さとみ、ことごとくダメだったから。本人はそれほど落ち込んでないけど、それでも気にはしてると思うから」
「はあ、気をつけます」
 そんなことを話しているうちに、卒業生も現役生も集まってくる。
 それぞれに久々に会う者も多く、知らず知らずのうちに話の花が咲いていた。
 五時を少しまわった頃。
 今回の幹事である仁が声を上げた。
「一部遅れてくる人もいるので、そろそろ移動します」
 参加者は、それなりの数だった。ただ、卒業生にも欠席者はいた。時期も時期なだけにある程度は致し方がない。
 会場として選ばれたのは、コンサートの打ち上げと同じく、例の居酒屋だった。さすがに人数を考えるとある意味最善な選択とも言えた。
「それでは、これから追い出しコンパをはじめたいと思います。先輩方には後ほどひとりずつコメントをもらいますので」
 同時に卒業生からブーイングが上がる。とはいえ、それも毎年のことである。
「まずは、乾杯をしましょう。乾杯の音頭は、祐一先輩にお願いしたいと思います」
「ええ、僭越ながら、不肖私儀五十嵐祐一が乾杯の音頭をつとめさせていただきます。みなさん、グラスは持ちましたか? それでは、乾杯っ!」
『かんぱ〜いっ!』
 当然のことながら、アルコール入りジュースの類もありつつ、乾杯は行われた。
 とりあえずは飲み食いからである。
「ね〜、圭太〜」
 オレンジジュースを飲んでいた圭太のところへ、早速襲撃者。
「さとみ先輩」
 さとみである。はす向かいの席で、幸江が気をつけるように目で訴えている。圭太はそれに小さく頷き、改めてさとみに向き直った。
「どうしたんですか?」
「あのさ〜、人生ってなんだと思う〜?」
「はい? 人生ですか?」
「一度や二度の失敗なんて〜、長い人生の中では〜、些細なことよね〜」
「そ、そうですね」
「ぬわにぃ〜、そうですね〜、だと〜? あんた、あたしが浪人決定だからって〜、バカにしてるでしょ〜?」
 さとみは、そう言って圭太に迫った。もちろん、飲んでいたのはアルコール入りジュースである。
「ば、バカになんてしてませんよ」
「ホントに〜?」
「も、もちろんじゃないですか」
「じゃあさ〜、来年、合格できるか〜、賭けしましょ〜」
「賭け、ですか?」
「そ〜よ〜。で、あんたは〜、どっちに賭ける〜?」
「じゃ、じゃあ、合格という方に」
「…………」
 と、さとみは急に黙り込んでしまった。
「あ、あの、さとみ先輩?」
「……いいのよいいのよ。ど〜せあたしは合格できませんよ〜だ」
 いきなり膝を抱え、丸くなる。さらに畳に『の』の字を書いている。
「さ、さとみ先輩……」
 さすがに自分だけではどうすることもできないと判断し、頼み綱である幸江に助けを求めた。
 幸江は、しょうがないなぁ、という顔でふたりのところへやってくる。
「ほぉら、さとみ。なに後輩に絡んでるのよ」
「……ふんだ。いいわよね、幸江は。第一志望の国立大に合格だから。それに比べてあたしは……」
「ちょっと、さとみ……」
 さすがの幸江といえども、幼児退行してしまったさとみをどうにかするのは難しい。
「しょうがない。荒療治しましょう」
「荒療治、ですか?」
「ともみ〜、ちょっといい?」
 幸江が呼んだのは、ともみだった。
「ん、どうしたの?」
 ともみは自分のグラスを持って三人のところへ。
「このわからず屋をなんとかしてくれない?」
「わからず屋って、さとみのこと?」
 そう言っていじけているさとみを見る。
「さとみ、あんたなにしてるの?」
「なんでもいいじゃない。どうせあたしなんて……」
「ホント、あんたはつくづくバカよね」
「な、なによ……」
「たかが一浪くらいでなに人生終わったみたいな顔してんの? 別にいいじゃない、一年くらい遅れたって。それともなに? あんた、二十代で死ぬの? だったら確かに一年の遅れは大きいけど」
 ともみは、そこまで一気にまくし立てた。
「それにさ、別に無理して大学なんて行かなくてもいいじゃない。浪人してる間にほかに本当にやりたいこと、見つかるかもしれないし。そうすると、今回合格しなかったことが逆によかったってことになるし」
「……そこまで前向きな意見をさらっと言えるともみって」
 自分で呼んでおきながら、幸江はそんなことを言う。
「だから、とりあえずそういう余計なことなんて忘れなさいって。せっかく今日は追いコンやってくれてるんだからさ」
「……まったく、好き勝手言ってくれちゃってさ」
「あら、やる?」
「結構。口でともみに勝てるとは思ってないから」
「そう?」
「圭太。さっきは絡んでごめんね」
「いえ、気にしてませんから」
「まあ、なんとなくそういう気になるのは、察してちょうだい」
 そう言ってさとみは笑った。
「よっしゃっ、飲むわよっ! ほら、ともみ、あんたもつきあいなさい」
「なんで私が……」
 さとみはともみを連行し、飲みに行った。
「まあ、ともみには悪いけど、しばらくさとみの相手をしてもらって」
「そ、そうですね」
「はい、圭太」
 幸江は、ずいっと自分のグラスを突き出した。
 圭太は手近にあったジュースを手に取ろうとしたが。
「違う違う。これは、圭太が持つの」
「えっ、僕がですか?」
「うん。で、まずは私が」
 幸江は、圭太が手に取ろうとしていたジュースを手に取り、そのグラスにジュースを注ぐ。
「はい、飲んで飲んで」
「じゃ、じゃあ、いただきます」
 圭太は言われるままそのジュースを飲み干した。
「うん、いい飲みっぷり」
 幸江は嬉しそうに手を合わせる。
「じゃあ、返杯ね」
 圭太からグラスを返してもらう。
「はい」
 そしてグラスを出す。
 今度こそ圭太は幸江のグラスにジュースを注ぐ。
「んぐ……んぐ……ぷはぁ」
 幸江も、圭太と同じようにジュースを一気に飲み干す。
「はあ、美味しかった」
 幸江は、そう言って笑った。
「んふふ」
「ど、どうかしましたか?」
「ううん、なんでもない」
 圭太は気づいていなかった。幸江が圭太が口をつけたところとまったく同じところに口をつけていたことを。
 それは、幸江なりの想いの告げ方であり、また、区切りのつけ方でもあった。
 追いコンはとにかく食って飲んで歌って騒いでと、まあ、らんちき騒ぎだった。
「ええ、宴もたけなわな頃とは思いますが、このあたりで先輩方にコメントをいただきたいと思います」
 頃合いを見計らい、仁がそう言って次に進める。
「それでは、パートごとに行きたいと思いますので。ちなみに、このパートの順番は事前にクジによって決めたものですから、いっさいの苦情は受け付けません」
 またブーイングが上がる。
「では、最初は──」
 
 コメントは、実に機械的に進んでいった。基本的にはこれまで三年間のことと、このあとの進路についてであった。
 中にはこの場ではじめて進路のわかった者もいたくらいである。
「それでは最後に、オーボエ、というか、前部長の安田ともみ先輩からまとめのコメントをいただきたいと思います」
 結局、最後はともみである。
「まず、今日はわざわざ私たちのために追いコンをやってくれてありがとう。毎年のこととはいえ、自分たちが主催するわけじゃないから、やってもらうまでは冷や汗ものだったけどね」
 そう言って笑う。
「で、まあ、部活の思い出とかなんだけど、私たちが一年の頃のことを話してもわからないと思うから却下。去年は、やっぱり全国を逃したことが大きいわね。まさか次点で逃すとは思わなかったから。ただ、そのかいあってか、今年は最高の年になったわ。全国出場もそうだけど、なんといってもそこで金賞をとれた。吹奏楽を六年間やってきて、最高の瞬間だった」
 ともみの言葉に、部員一同頷いている。
「もちろんそういうコンクールやコンサートだけが思い出じゃないわよ。普段の部活だって十分楽しかったし。ま、ようするに充実した三年間だったってこと。えっと、あとは、四月からは私も大学生ということで。地元にいるから、たまに遊びに行くから。邪険にしないでね」
「邪険になんてしませんよ〜」
「よろしい。で、最後なんだけど」
 ともみは、そう言って言葉を切った。
 一同に、沈黙が訪れる。
「祥子、仁、圭太を中心に、新年度もがんばって。がんばるのはすべてにおいてだけど、特にコンクールは、二年連続全国出場と金賞を狙って。目標は高くないと意味がないからね。私たちが抜けたらいきなりレベルが下がったなんて言われないように。いいわね?」
『はいっ』
「うん、あとは心配するようなことはなにもないわ。優秀な後輩たちが揃ってるから」
「そうね。一高吹奏楽部は、安泰ね」
「そうそう、卒業生の諸君。七月三日は万障繰り合わせて予定を空けるように。退っ引きならない事情じゃない限り、欠席は許さないわよ。いい?」
「わかってるって」
「そういうわけだから、コンサートの手伝いのことは心配しないで。ちゃんとOB、OGとしての義務は果たすから。現役生は、コンサートを成功させることだけに全精力を注いでちょうだい」
『はいっ』
「うん、これで私のコメントは終わり。前部長として偉そうなこと言ったけど、そんなこと私が改めて言わなくてもわかってたことだと思う。だから……」
 と、ともみが言葉を詰まらせた。
 見ると、目が潤んでいる。
「だから、がんばって」
『はいっ!』
 
「いや〜、まさか泣くとは思わなかった」
 追いコンが終わって、圭太はいつもの面々と一緒にいた。
「でも、ともみ先輩の気持ち、わかるような気がします」
「そう? まあ、確かに祥子も来年は同じ立場でコメント言うわけだからね」
 結局、ともみは最後の言葉を言ってから泣き出してしまった。普段のともみからはとても想像できないことだったが、部員の誰もなにも言わなかった。
 それは、ともみがどれだけこの吹奏楽部のことを考え、思い続けてきたか、理解していたからだ。
 そんなともみが泣いたからといって、それを揶揄するような者はいない。
「これで、本当の意味で、一高吹奏楽部からの引退ね」
「先輩……」
 圭太、祥子、柚紀は、なにも言えなかった。
「私は確かに去るけど、どうせすぐに新しい連中が入ってくるんだから。祥子は最上級生として部長としてパートリーダーとして、圭太は上級生として副部長として、柚紀も上級生として、後輩たちに、これが一高吹奏楽部だ、って見せつけてやるくらい、しっかりがんばって。もちろんそのがんばってって言葉がすごく無責任な言葉だっていうのはわかってる。でも、三人、ううん、三人だけじゃなくて、みんな、できると思うから言うの、がんばってって」
 そう言ってともみは、心からの笑みを三人に向けた。
「そして願わくば、私たちがいた頃よりももっと吹奏楽部を発展させてほしいの。そうすれば、私たちにはなんの憂いもないわ」
「先輩たちの期待に応えられるよう、がんばります」
「うん。ただし」
「はい?」
「祥子はともするとがんばりすぎるきらいがあるから、圭太、ちゃんと祥子のこと見ててよ」
「はい、わかってます」
「で、そんな圭太もすぐに自分で抱え込むところがあるから、そこは柚紀、あなたがしっかり見ていてよ」
「はい」
 ともみは、三人に最後の指示を出し、満足そうに頷いた。
「ん〜、これで私の役目は終わり。あとは後輩に任せるわ」
「先輩」
「ん?」
「ありがとうございました」
 そう言って祥子は、深々と頭を下げた。圭太と柚紀もである。
「うん」
 そんな三人を見て、ともみは本当に嬉しそうな、幸せそうな笑みを浮かべた。
 
 旅立つ者がいれば、新たに出会う者もいる。
 それが、その季節、春である。
 今、ともみたち三年生は新たな一歩を踏み出そうとしている。
 そして、それを圭太たちは後ろから見送っている。
 それと同時に、そんな圭太たちの後ろにも、新たな一歩を踏み出してくる者たちがいる。
 その一時の別れに涙しても、新しい出会いを笑顔で受け入れる。
 それが、春。
 そして、そんな出会いの日まで、あと少しである。
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