僕がいて、君がいて
第一章「若葉芽吹く季節の新たな予感」
一
実力テストも対面式も終わり、少しずつ実質的な高校生活がはじまる。
圭太は新生活を慌ただしくスタートさせていた。本来ならそこまで慌ただしくなるはずもないのだが、根っからの真面目少年のため、いろいろな仕事を引き受けていたのだ。
担任の優香も圭太の『素質』を見抜き、ポンポンと仕事を与えてた。とはいえ、その条件としてクラス委員はやらないというものがあったが。
圭太が慌ただしいのはクラスのことだけではなかった。まだほかの大半の生徒が部活選びのために見学なんかをしているというのに、すでに部活に参加していたからでもある。もちろん、そこにも裏はある。
圭太が入部したのは、吹奏楽部。これは中学の頃からで、ほかに選択肢はなかった。また、一高吹奏楽部には圭太の中学の先輩も何人かいた。しかも、それが部長と副部長をしているとなれば、逃げることなど不可能である。
入学前に顔を出した時からすでに圭太の『居場所』は確保されていた。
そして、その日もひと仕事終え、活動場所である第一音楽室に赴いていた。
「おはようございます」
一高吹奏楽部の伝統として、その日最初の挨拶は必ず『おはよう』だった。それがたとえ夜でもある。
音楽室にいる部員から、時間差で挨拶が返ってくる。もちろんそこにいるのが全員ではない。なんといっても、部員は二、三年だけで四十人にもなるのだから。
「圭太、おはよう」
まず声をかけてきたのは、部長の安田ともみだった。手にはオーボエを持っている。
「今日も仕事?」
「ええ、まあ。いろいろ頼まれて」
照れくさそうに笑う。
「ホント、圭太も損な役回りよね」
そう言うともみに、その一端を貴女も担っているんですよ、とは言えない圭太。
「今日は合奏はないから、パー練のみ。セクションは、リーダーに聞いて」
「はい」
ともみはそれだけ告げると自分の席へ戻っていった。
ちなみに『パー練』とは、パート練習のことである。吹奏楽における様々な楽器をパートに分け、それごとに練習を行う。その上がセクション練習。そして、合奏となる。
圭太は、奥のドアから準備室に入る。そこには音楽の授業で使うもの以外に、吹奏楽部で使用する楽器が置いてある。
準備室の隅にある棚からハードケースを手に取る。それを持ち、音楽室へ。後ろ目の座席のあたりでケースを開ける。中から出てきたのは、綺麗に磨かれたトランペットだった。そして、それが圭太の担当楽器である。
マウスピースを手に取り、唇をほぐすように吹く。それを少し続け、ようやく本体を手に取る。
ピストン部分とスライド管部分を確認する。動きが鈍ければオイルを差したり、グリスを塗ったりする。幸い、その日はその必要はなさそうである。
マウスピースを本体にはめ込む。そして、軽く息を吸い、吹く。
高らかなトランペットの音が響き渡る。
それからピストンの動きを確認するように、音階を吹いていく。
「相変わらずいい音出してるわね」
そんな圭太の隣に、同じトランペットを持った女生徒が立った。
「そんなことないですよ、幸江先輩」
「またまた謙遜しちゃって」
彼女はトランペットパートのリーダー、新城幸江。
ちなみに、これも伝統として部員同士は名字で呼び合うことはない。
「このままだと、ファーストを持っていかれるのは時間の問題ね」
ファーストとはやはりパートのことで、同じ楽器内でも担当パートがある。トランペットの場合、ファースト、セカンド、サードくらいまでが一般的である。もちろん、曲によってはまったく同じ場合もある。
「そうそう、それより、あと三十分くらいしたらパー練はじめるからね」
「はい、わかりました」
「うんうん、素直でよろしい。うちはどうもひねくれ者が多いからねぇ」
そう言って視線を移す。その先には、ふたりの男子生徒がやはりトランペットを吹いていた。
「ま、実力はあるからいいんだけどね」
「あ、あはは……」
そういうデリケートな話題には極力ものは言わない方がいい、圭太はそれを本能的に感じ取っていた。
それから圭太は、ウォーミングアップをはじめた。その練習方法もすでに確立されたもので、圭太のトランペットに対する想いを感じ取れるほどだ。
練習中、たまに一年が見学に訪れていた。経験者でも実際に活動風景を見てから続ける者もいる。また、高校からはじめようという者も当然いる。
そんな一年に諸先輩は甘言を弄し、ひとりでも多く仲間に引き込もうとしている。
もちろん、これは吹奏楽部に限ったことではない。すべての部活で行われていることである。
ただ、その日は入部届の締め切り前日ということもあり、数も多かった。
とはいえ、それは圭太にはあまり関係なく、結局普通に練習し、普通にその日の活動を終えただけだった。
「おつかれ〜」
またひとり、部員が家路に就く。音楽室に残っている部員は、もう多くはない。
その中には、圭太の姿もあった。
「ん〜、やっぱり圭くんがいると、それらしくなるよね」
そう言って笑うのは、副部長で圭太の中学の先輩でもある、三ツ谷祥子である。
「祥子もそう思うわよね? 私もよ。なんか、これが私たちの形って気がする」
「ともみ先輩、僕を持ち上げてもなにも出ませんよ?」
「あら、私がそんな小ずるい女に見える?」
セミロングの髪を掻き上げながら、ちょっと声を低くして言う。
「ま、確かに『桜亭』でコーヒーくらいおごってもらえれば、とは思ってるけど」
『桜亭』とは、圭太の家がやっている喫茶店のことである。中学の頃は、このふたりもちょくちょく顔を出していた。学校からそれほど遠くないところにあったために、よくたまり場になっていた。
そんなこともあってか、このふたりにはいろいろな噂がついてまわっていた。
「さて、そろそろ閉めるわ」
活動日誌を書き終え、ともみは伸びをした。
その頃には音楽室には三人だけとなっていた。
手際よく戸締まりを確認し、最後に音楽室自体の鍵を閉める。
「祥子と圭太は先に出てて。鍵、戻してくるから」
ともみは軽やかに階段を下り、職員室へ。
圭太と祥子は、言われた通り先に昇降口へ向かった。
すでに外は暗くなっており、校舎内も電灯が点いていないところは、真っ暗だった。
靴を履き、外へ出ると、少し遅れて祥子が出てきた。
「ねえ、圭くん。ちょっと聞いてもいいかな?」
「なんですか?」
段差のところで立ち止まり、圭太は祥子を振り返った。
「別に他意はないんだけど、今、つきあってる子、いるかな?」
「それって、恋人ってことですか? だったら、いませんよ。もともと受験とか家のこととかで忙しかったですし。なにより、僕のことを好きになるような人なんていませんよ。あはは」
笑い声が夜空に響く。
「……やっぱり、自分の『価値』を見誤ってる」
祥子はぼそっと呟いた。
「じゃあさ、圭くん。もし、もしもだよ? 私がその、圭くんにつきあってほしいって言ったら、どうする?」
「えっと、そうですね……今の僕なら、受けないと思います」
「……どうして?」
あたかもその答えは予想していなかったかのように、祥子は聞き返した。
「こう言うと先輩は怒るかもしれませんけど、今の僕では先輩には釣り合いませんよ。明らかに役不足です」
はっきり、しっかりそう断言した。
「はあ、ホント、圭くんは罪な男の子よね」
祥子にしてみれば、それは『告白』にも近いものだった。だが、こうも悪意のない、しかも明らかに他人の思惑とは違う答えを返されては、なにも言い返せない。
特に、圭太というかなり『珍しい』部類の男子にそう言われては、なおさらである。
「お待たせ」
そこへ、ともみがやって来た。少し息が上がっているところを見ると、駆けてきたようである。
「ふたりでなに話してたの?」
「圭くんはやっぱり鈍いって話です」
「えっ、そうでしたっけ?」
「なるほどね」
それだけでなんの話をしていたかを察したともみ。そこはさすがというところだろう。
「お互い苦労するわね、祥子」
「はい」
「?」
笑い合うともみと祥子。そんなふたりを、圭太は不思議そうに見ていた。
二
朝方、気温が下がったために霧が出た。
それでも太陽が昇ってくるとそれも少しずつ消えはじめる。
そして、今日も一日がはじまる。
圭太の朝は普通の高校生に比べると幾分早い方だろう。もちろん、早起きにも理由がある。
圭太の家は『桜亭』という喫茶店をやっている。かつては圭太の父、祐太と母、琴美のふたりで切り盛りしていた。ところが、圭太が小学五年の時、祐太は不慮の事故に遭い命を落とした。一時期は喫茶店の閉店も考えたのだが、琴美自身、祐太との絆を大事にしたいという想いから、ひとりでも続けていくことを決意。現在は大学生アルバイトの佐山鈴奈とふたりで切り盛りしている。そして、当然のことながら息子である圭太も、その妹である琴絵も手伝っていた。
圭太の仕事は、仕込みの手伝いである。喫茶店とはいえ、軽食なども出すために食材の下ごしらえは必要となる。その手伝いをしている。あとは、重いものの出し入れ。これは店で唯一の男手なので、選択の余地はない。
そんなこともあり、圭太は早起きが日課となっていた。
「おはよう、母さん」
家の台所では、琴美が朝食の準備をしていた。和食派の高城家では、やはり朝食はご飯にみそ汁だった。
「琴絵は?」
「そろそろ起きてくるんじゃないかしら?」
そう言って二階を見る。
「じゃあ、先に出てるから、琴絵に言っといて」
「わかったわ」
廊下の奥から店の方へ出る。
薄暗い店内。
座席数もそう多くないこぢんまりとした喫茶店。それが『桜亭』である。
圭太はまず、業務用冷蔵庫から必要な食材を取り出す。もちろん、基本的に生鮮食料品はその都度買っている。しかし、保存の利くものは極力そうして値段に跳ね返らないようにしている。それが地域密着型個人商店の生き残り方でもある。
そうこうしていると、奥からパタパタと軽い足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん、おはよ」
少しだけ眠そうな顔を出したのは、圭太の妹、琴絵である。まだまだあどけなさの残る中学二年生。
カウンターの上に置いてあるエプロンを手にし、身に付ける。
「とりあえず、そこに出てるのからはじめてくれ」
「うん、了解だよ」
カウンターの内側、キッチン台で材料を手に取る。そして、それを水洗いし皮をむく。ものによっては適当な大きさに切る。
琴絵の手際は、とても昨今の中学生のそれには見えない。ほとんど無駄のない動きで、確実にこなしていく。
「これで最後」
そう言ってタマネギを置く。
あとはふたりで作業をする。圭太の包丁さばきもなかなかのもの。とはいえ、琴絵にはかなわない。
「ねえ、お兄ちゃん。高校、面白い?」
「そうだなぁ、未知数ではあるけど、面白い可能性は高そうかな?」
「部活は?」
「部活は今までと同じだよ。厳しいことに変わりはないし、それに、先輩たちもいるし」
「そっか、そうだよね」
口も動いているが、しっかり手も動いている。
そんなことを話しているうちに、用意は済んだ。あとはそれを材料ごとに分け、冷蔵庫なりなんなりに入れておくだけ。
「っと、そうだ、琴絵」
「ん、どうしたの?」
「ちょっとそのままで」
そう言って圭太は、不意に琴絵に近づいた。圭太の顔が、琴絵の鼻先にまで近づいてくる。琴絵の心臓が、トクンと跳ね上がった。
「ん……」
ちょこんと琴絵の額に自分の額をつける。どうやら、熱を測っているようである。
「大丈夫そうだな」
「も、もう、お兄ちゃんは心配性なんだから。私だって中学二年なんだよ? 自分の体調くらい、自分で管理できるよ」
真っ赤な顔で、そう言いくるめる。とはいえ、それもあまり説得力がない。
琴絵は、もともとあまり体が丈夫な方ではない。小学校の頃は、休むこともしばしばだった。それでも少しずついろいろなことをしてきたおかげか、今では休むことの方が少なくなっていた。
ただ、兄の圭太としては妹のことが心配なのだろう。それは、今の圭太の顔を見ていれば一目瞭然である。
「圭太〜、琴絵〜。そろそろご飯にするわよ〜」
と、ちょうどいい頃合いに、琴美から声がかかった。
「は〜い」
琴絵はちらっと圭太を見て、それから奥へと消えた。
一方圭太は、やれやれと苦笑混じりに向かった。
こうして圭太の朝は過ぎていく。
教室での話題は、もっぱら部活のことだった。
今日は入部届の提出締め切り日。とはいえ、一高は部活動を強制しているわけではないので、所属しない生徒もいる。さらに、これはあくまでも形式上の手続きであって、実際はどの部活にいつ入部しようが関係ない。
ただ、それだといつまでもダラダラと続くので、こうして締め切りを設けているのだ。
大半の生徒は身の振り方を決めているのだが、中にはまだ決めかねている者もいた。
もっとも、圭太は入学前から入部が決まっていたのだから、それこそ関係ない話かもしれない。
「もう一度確認しておくけど、入部届は今日の放課後、それぞれが直接希望のクラブに届けるのよ。それが終われば、晴れて新入部員ということ。いいわね?」
担任の優香は、最後の確認をする。まあ、これも形式的なことだが。
もっとも、これから授業がある生徒たちには、さらに意味のない言葉なのかもしれないが。
放課後。
さすがに今日は仕事を頼まれなかった圭太は、真っ直ぐ音楽室へ向かった。
音楽室からはいつも通り、楽器の音が漏れ聞こえてくる。
と、そのドアの前に、挙動不審な生徒がいた。とはいえ、真新しい制服でそれが一年であることは明白だった。つまり、彼らは入部希望者で、だけど、まだ中には入りづらい、そんなところだ。
圭太が声をかけようとすると、それを遮るようにともみの声がした。
「ほらほら、入部希望者は入った入った。そんなところにいたら、ほかの部員の迷惑になるわ」
有無を言わさず、中に押し込める。
「あら、圭太。おはよう」
「おはようございます、先輩」
「今日は早いのね」
「ええ、さすがに今日は」
苦笑する圭太。
「まあいいわ。それより、もう少ししたらミーティングをはじめるから。とりあえず、楽器だけでも出しておいた方がいいわよ」
簡潔に用件を伝えると、自分の持ち場に戻っていった。
それからしばらくして、音楽室に新入部員を含め、現在の一高吹奏楽部の全員が揃った。
「おはようございます」
まず、部長であるともみが前に立った。
「えっと、見学に来た一年は知ってると思うけど、うちの部ではその日、最初の挨拶は必ず『おはようございます』と言うの。これはそれが夜でもよ。あと、終わりは『おつかれさまでした』よ。今日がはじめての人は覚えておいて」
それから簡単に部の活動について説明を加える。
ともみの説明は簡潔明瞭で、実に小気味よかった。
「っと、すっかり忘れてたけど、私は部長の安田ともみ。担当はオーボエ。それと、寛と祥子」
脇に控えていたふたりを紹介する。
「こっちが副部長の小西寛。担当はトロンボーン。そして、同じく副部長の三ツ谷祥子。担当はクラリネット。一応、私たち三人がこの部をまとめてるから。わからないこととかあったら遠慮なく。それと、菜穂子先生」
ピアノ椅子に座っていた女教師に声をかける。
「顧問の菊池菜穂子先生。一年で音楽を選択してる人はすでに知ってると思うけどね」
ともみに紹介され、菜穂子はにこやかに微笑んだ。
「というわけで、とりあえず入部届を回収。あっと、その前に。その入部届に希望楽器を書いて。あと、経験者はそれも忘れずに」
まだ提出していない一年が、いそいそと言われた通りにする。
同じ一年でも、圭太は蚊帳の外。もっとも、それは圭太だけではないが。
入部届を集め、ともみはざっと目を通す。
「ん〜、全部で二十人ね。よしよし」
嬉しそうに大きく頷く。
「じゃあ、今日のところは希望楽器の見学ということで。経験者以外のパート分けは、明日までに決めておくから。というわけで、解散」
同時に、部員が散っていく。
「じゃあ、ペットはほかの教室に行ってから」
そう言ってリーダーの幸江がみんなを先導する。
音楽室からすぐの教室。放課後で、しかもこういう日なので誰もいない。
「さてと、うちは別にやることもないのよね」
「だよな。メンバーは決まってるわけだし」
相づちを打ったのは、幸江を同じ三年の伊藤大介。
トランペットパートは、リーダーで三年の新城幸江、同じく三年の伊藤大介。二年の太田徹と榊原広志。それから新入部員の圭太ともうひとり、有馬夏子。この六人である。
「新人はどちらも期待の若手だし」
「そうそう。特に、圭太は『あの』ともみのお気に入りときてる。あいつが並大抵の奴をお気に入りにしないのは、誰もが認めるところだからな。もっとも、そんなことがなくても圭太の実力は折り紙付きだからな」
「昨年度ソロコンテスト全国大会銀賞受賞。まったく、とんでもない逸材だね」
「ホントホント」
やれやれと肩をすくめる二年のふたり。
「こぉら、徹、広志。そういう言い方はしない──」
「ま、なんにせよ──」
幸江の言葉にかぶせるように大介は言う。
「これでうちのパートは確実にレベルアップしたわけで、ますます合奏の時に標的となるわけだ」
「うへ〜……」
「まったく……」
呆れ顔の幸江。
圭太はなにも言わず、ただ曖昧な笑みを浮かべていた。
「じゃあ、とりあえず、個人練して、そのあとにパー練するから」
部活終了後。
楽器を準備室に戻し、音楽室に出てくると、ともみがふたりの生徒と話していた。ひとりはパーカッションのリーダー、鳴川さとみ。そしてもうひとりは──
「笹峰柚紀さん、だっけ?」
「はい」
それは、圭太と同じクラスで、しかも隣の席の笹峰柚紀だった。
「一応確認するけど、本当にいいのね?」
「はい。本当は合唱部がないとわかった時に、部活に入るつもりはなかったんですけど、ここが──吹奏楽部が面白そうだったので入ることにしました」
「でも、うちは厳しいわよ? ピアノのレッスンだってまともにできなくなるだろうし。それでもいいの?」
「はい。私のピアノの腕では、音楽大学に入れるほどのものではありませんし。それに、これから先は楽しみながら弾きたいと思っていたので、ちょうどいい機会です」
「そ」
柚紀の言葉を聞き、ともみは短く言葉を発した。
「で、さとみはどう思う?」
「あたしはどっちでも。ただ、欲を言えばピアノが上手い子がいる方がいいと思うけど」
「なるほど」
吹奏楽においてピアノは、基本的にはパーカッションの誰かが弾くことが多い。ピアノもほかの打楽器と同じように、鍵盤を叩く、というところからそうなっている。もっとも、それも時と場合によりけりで、ピアノの腕が確かな人が弾くのが一番である。
「ん、ちょうどいいところに」
そこで、ともみの視線が圭太に止まった。
「圭太。あなた、彼女を同じクラスでしょ?」
「ええ、まあ」
ともみは入部届に書かれたクラスを見ながら続ける。
「で、悪いんだけど、部活以外の場所では彼女の手伝いをしてくれないかしら」
「手伝い、ですか?」
「別にそんなたいそうなことじゃないわ。吹奏楽とはなんぞや、みたいなこととか、あなたが知ってるうちの部のこことか。そんなのを教えてあげてくれるだけでいいの。その方が早くとけ込めるし。だいいち、部活中のそういう時間を減らせて楽器に慣れさせられるし。どう?」
その提案自体は、とても筋が通っていた。
しかし、圭太はすぐには答えなかった。
「あの、先輩。なんで僕なんですか?」
「ん〜、強いて言えば、次々期部長だから、かな?」
「あはは、ともみ、もう指名する?」
「そりゃあそうよ。圭太はうちの中学でも同じ道をたどってきたんだから。私、祥子、そして圭太。それがここになっただけ」
「なるほどなるほど。だとしたら、圭太くんは断れないわね」
「わかった?」
「はい……」
結局、圭太はその役目を受け、いや、受けさせられた。
「それじゃあ、あとのことは圭太に任せたわよ」
「えっ……?」
「私、今日はこれから行くところがあるのよ。ごめん」
「それは右に同じ」
ふたりの先輩はそう言って、いそいそと帰り支度を整えた。
「ほらほら、ふたりも出た出た」
音楽室を閉めるため、圭太たちも追い出す。
鍵を閉め、もう一度振り返る。
「圭太、よろしくね」
「おつかれ、圭太くん」
そのまま、ふたりの先輩は行ってしまった。
残されたふたり。
「えっと、とりあえず、帰ろうか?」
「あっ、うん」
「笹峰さんは──」
「柚紀でいいよ」
「えっと、柚紀、さんは──」
「柚紀」
「…………」
「柚・紀」
「……あ〜、えっと、柚紀は──」
「うんうん」
街灯が灯る通学路。ふたりは、ゆっくりとしたペースで歩いていた。
柚紀は、よっぽど自分の名前を呼び捨てにさせたのが嬉しかったのか、ニコニコと笑っている。
一方、圭太は知り合って間もない女の子にいきなりそんなことを言われ、戸惑いを隠せないでいた。
「中学の時は、合唱部だったんだね」
「うん。とはいっても、私は伴奏だったんだけどね」
「そっか。じゃあ、一高に合唱部がなくてがっかりだったでしょ?」
「ん〜、どうかな? あんまりそうでもなかったかも。結局は、ピアノが弾ければいい、みたいな部分はあったし」
おとがいに指を当て、考える仕草を見せる。その仕草がなんとも絵になっている。
「だから、案外早く切り替えはできたと思うの。それに──」
と、視線が圭太に向く。
「とっても親切な同級生がいてくれるしね」
そう言って笑う。
その笑顔は本当に綺麗だった。
「そういえば、明日も部活、あるんだよね?」
「うん。基本的には土日も部活はあるみたい。もっとも、丸一日やることはないみたいだけど」
「そっか」
柚紀は、どことなく嬉しそうに頷いた。
しばらくして、ふたりは大通りに出てきた。柚紀は、そこからバスに乗って帰る。
「じゃあ、送ってくれてありがとう」
「ううん」
「それと、また、明日ね、圭太」
何気なく発した言葉。
だからこそ、圭太は素直にそれを受け入れることができた。
「また、明日、か……」
圭太も、どことなく嬉しそうだった。
三
春雨に街が霞む日。
一高では、そんなことはお構いなしにいつも通り授業が行われている。
一年生の教室でも、本格的に授業がはじまっていた。各教師も様子見な部分はまだあるが、進度の速い高校のカリキュラムを確実にこなすため、早くも自分のペースに引き込もうとしていた。
とはいえ、まだまだ本気ではないだろう。本気なら、授業中にあくびなどする暇もないだろうから。
昼休み。
「う、ん〜……」
圭太は大きく伸びをした。
「圭太」
と、すぐ隣から声がかかった。
振り向くと、柚紀がニコニコと笑顔で圭太を見ている。
「……あ〜、えっと、どうしたの?」
圭太は、幾分引き気味に訊ねる。どうやら、その笑顔は圭太にとってはあまりいいものではないらしい。
「どうしたの、じゃないでしょ?」
可愛く頬を膨らませ、柚紀は圭太の鼻先にビシッと指を差した。
「あ〜……はい」
圭太は、すぐにカバンから包みを取り出した。ナプキンに包まれたそれほど大きくないそれを、柚紀に渡す。
「うんうん、ありがと♪」
柚紀は嬉々とした表情でそれを受け取り、早速開いた。
すると中から表れたのは、彩りも綺麗なサンドウィッチだった。
なぜ圭太が柚紀の弁当を持参しているかと言えば、話は日曜日にまでさかのぼる。
その日も部活があった。基本的に一高の部活は、長時間はやらない。従って、日曜のその日は午前中だけだった。
部活終了後、圭太は柚紀に呼び止められた。いや、正確にはともみを筆頭とした数人の部員に、である。そして、そのまま圭太を『拉致』し、『桜亭』へ。
そこで圭太を半ば脅し、なんらかのものをおごらせた。
その時、たまたま柚紀が口にしたのがサンドウィッチだった。柚紀はその味にえらく感動し、こうのたまった。
「こんな美味しいサンドウィッチを毎日食べられたら、幸せだろうなぁ」
もちろん、それに他意はなかっただろう。だが、そこにいたメンツが悪かった。
圭太はともみや祥子の『策略』にはまり、いつの間にか柚紀と勝負することになっていた。もちろん、圭太圧倒的に不利な勝負を。
で、結果は圭太の惨敗。
こうして、圭太の責任においてしばらくの間、柚紀の昼食は『桜亭』のサンドウィッチとなったのである。
琴美にしてみればもともと圭太に弁当を作っていたので、手間的には変わらないらしく、なんでもないと言っていた。
だが、圭太にしてみれば一方的にやられたみたいで、どこか納得できない部分があった。とはいえ、ともみや祥子に逆らえるはずもない。結局、甘んじて受け入れるしかなかった。
「あむあむ……あのね、圭太」
「ん、なに?」
「別に、無理しなくてもいいんだよ? 先輩たちの手前、受け入れちゃったみたいだけど、私は気にしてないし」
そう言う柚紀ではあるが、美味しそうに頬張りながら言われても説得力はない。
「まあ、確かに多少は無理したかなって思うけど、でも、いいんだ」
「どうして?」
「だって、柚紀のそんな顔見たら、今更やめられないし」
「…………」
柚紀の手が止まった。
「……圭太ってさ、優しすぎだよ。ちょっと、反則」
「そうかな? 僕にはそういう自覚はないんだけど」
「一緒のクラスになって、一緒の部活になって、まだまだ日は浅いけど、それくらいのことはわかるよ。たぶん、みんな同じ意見だと思うけどね」
柚紀は、少しだけ熱っぽい表情で言った。
「じゃあさ、圭太。こうしようよ。先輩たちは今月いっぱいって言ったけど、これは今週いっぱいで終わり。ね?」
「いいの?」
「うん。それに、食べたくなったら『桜亭』に行けばいいだけだし。そうでしょ?」
「それはそうだけど……」
「というわけで、あと二日、楽しみにしてるからね」
そう言って柚紀は、再び美味しそうにサンドウィッチを頬張った。
音楽室から音が聞こえてくる。もっとも、ドアは防音扉になっていて、そこからはほとんど聞こえてこない。聞こえてくるのは、窓を通しての音である。
音楽室では今、合奏で行われている。指揮棒を振っているのは、顧問の菊池菜穂子。
渋い顔で指揮棒を下ろした。
「Cからクラのみ」
素早く指示を出す。それに応え、クラリネットだけその曲のCからはじめる。
「ほら、指が回ってないわよ。遅い」
いつもにこやかな菜穂子からは想像できないくらい、厳しい口調だった。
「優子」
「はい」
「次までに直しておくのよ」
「はい」
クラリネットのパートリーダーである村田優子は、神妙な面持ちで頷き、楽譜にチェックを入れた。
「じゃあ、Dから全体で」
指揮棒が上がり、再び合奏がはじまった。
時計の針が六時半を指そうかという頃、合奏が終わった。
「じゃあ、今日指摘したところは確実に直しておくように。それと、一年生。今はまだ自分たちのことじゃないかもしれないけど、うちの部活の方針はこんな感じだから、常に自分のことだと思って見てるように」
『はい』
「じゃあ、終わり」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
挨拶が済むと、ようやく緊張感から解放される。この雰囲気には、そう簡単には慣れないかもしれない。
「ああ、そうそう。金管のリーダーはちょっと来て」
菜穂子は、指揮台から降りながら、そう指示した。
圭太はそんな様子を見つつ、自分の楽譜に目を落とした。今日の合奏だけでかなりの部分にチェックが入った。
ちなみに、圭太のようにすでに合奏に出ている一年も何人かいる。
「おつかれ、圭太」
「おつかれさまです、大介先輩」
「どうだ、合奏は?」
「さすがに厳しいですね。でも、先生の指摘はまさにその通りですし」
「だよな? そこが余計にムカツクんだよ。わかってるのにできない。ホント、イヤになるよ」
そう言って大介は肩をすくめた。
「だけどさ、圭太」
「はい?」
「おまえ、マジで上手いな」
「そうですか? 僕なんかまだまだだと思いますけど」
「いやいや、テクニックだけなら幸江以上だろ。まあ、表現力とかはさすがにかなわないけどな」
圭太は自分のトランペットを見つめた。
中学の時、吹奏楽部に入ってからずっとトランペットだった。そのトランペットを買ったのは中学二年の時。それ以来、ずっと使っている。手入れも欠かさず、本当に大事に使っている。
今ではそれを使ってある程度以上、自分の思い通りに音を表現できるようになっていた。とはいえ、音楽の世界はそこまで甘くない。
インスピレーションも大事だが、経験も大事だ。そして、その経験は若い者には時間的に得られないものだった。そして、それはたった二年間でも大きいもので、それが現在の圭太と幸江の差でもあった。
「ところで、だ」
大介は、顔をぐぐっと近づける。
「圭太。おまえ、誰が本命なんだ?」
「本命? なにがですか?」
「ん、ともみと祥子、それにあの一年だよ」
「えっ……?」
「ん〜、でも、この場合は違うのかもしれないな。どっちかと言えば、向こうからアクションを起こしてるし。こりゃ、三つどもえか?」
大介はひとりで盛り上がり、ひとりで結論づけている。
「ま、修羅場になればそれはそれで面白いからな。そん時は、ちゃんと呼べよ」
ポンポンと肩を叩き、大介は行った。
「なんだったんだ?」
圭太は、首を傾げるだけだった。
「圭太。ちょっと」
圭太がリビングでくつろいでいると、琴美から声をかけられた。
「なに?」
「悪いんだけど、鈴奈ちゃんを送っていってくれないかしら?」
「鈴奈さんを? それは構わないけど、どうかしたの?」
圭太が疑問に思うのも無理はない。
鈴奈の家というか部屋は、高城家からそれほど離れていない場所にある。だから、夜遅くなってもよほどのことがない限り、圭太に送らせるようなことはない。
「少し、体調が悪いみたいなの。本人は大丈夫だって言うんだけど」
困ったわ、と言ってため息をつく。
「わかったよ。それで、鈴奈さんは?」
「もうこっちに戻ってくると思うけど」
と、ちょうどそこへ鈴奈が戻ってきた。確かにあまり顔色がよくない。
「おつかれさま、鈴奈さん」
「あ、うん、おつかれさま」
覇気のない声で返事をする。明らかに体調が悪い証拠だ。
「鈴奈ちゃん、今日は圭太に送っていかせるから」
「えっ、でも、悪いです……」
「いいのよ。それに、鈴奈ちゃんはうちの看板娘なんだから、しっかり静養して明日もがんばってもらわなくちゃ」
琴美はそう言って微笑む。そこには本当に鈴奈のことを心配している、慈愛に満ちた笑みがあった。
そう言われてはさすがの鈴奈もなにも言えず、申し出を受け入れるしかなかった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるから」
「ええ、気をつけて」
圭太は、鈴奈と一緒に家を出た。
外は、四月の割には暖かな夜だった。
雨も夕方過ぎには上がり、今は星も出ている。
「鈴奈さん、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
とはいえ、鈴奈の足取りはおぼつかない。支えこそ使っていないが、ふらふらといつ倒れてもおかしくない。
「鈴奈さんはがんばりすぎなんですよ。大学の方だって決して楽じゃないでしょうし」
鈴奈はこの春、大学三年に進級した。ちなみに学部は文学部で、専攻は国文学である。
「店のことを一生懸命やってくれるのは嬉しいですけど、そのせいで鈴奈さんが倒れたら、悲しいですよ」
「……圭くんは、ホントに優しいね」
「そんなことないですよ。それに、もしそうだとしても誰に対してってわけでもないですし。今回は、それが鈴奈さんだからです。鈴奈さんは、うちの『家族』なんですから。その家族の心配するのは当然のことです」
圭太は、穏やかな口調でそう諭す。鈴奈も、それを黙って聞く。
少し涼やかな風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
五分ほど歩くと、こぢんまりとした三階建てのマンションが見えてきた。このマンションの三階に鈴奈の部屋はある。
階数の関係でエレベーターはない。階段を一歩一歩上がっていく。いつもの倍くらいの時間をかけ、三階にたどり着く。そして、部屋の前へ。
鈴奈は頼りなげな手付きで、ドアを開ける。真っ暗な室内がふたりを迎えた。
「……お願いがあるんだけど、いいかな?」
「なんでも言ってください」
部屋に電気を点け、鈴奈はやっとの思いでひと息つく。
「少しだけ、一緒にいてくれるかな? なんか、今はひとりでいたくない気分なの」
「僕でよければ喜んで」
圭太はそう言って微笑んだ。
ソファーベッドに座り、ふたり肩を並べる。
「……ごめんね、圭くん。迷惑かけちゃって」
「気にしないでください。さっきも言いましたけど、家族の心配をするのは当然です」
「うん、そうだね……」
鈴奈は、安心したように圭太に寄りかかった。
心地良い重さが圭太にかかる。
「……鈴奈さん?」
圭太は、静かになった鈴奈を見た。
すると、鈴奈は静かに寝息を立てていた。長いまつげが、時折揺れる。
圭太は鈴奈を起こさないようにベッドに寝かせた。
「おやすみなさい、鈴奈さん」
そして、静かに鈴奈の部屋をあとにした。
四
四月十八日土曜日。
その日は朝からこれでもかというくらい、天気がよかった。
圭太はいつものように起き、いつものように手伝い、いつものように部活に出かけた。
部活は土曜ということもあって、半日だけ。十二時過ぎには終わった。
普段ならそれで本当に終わりなのだが、その日は違った。
誰ひとり帰る者はいない。
「うっし、買い出し部隊、出発するぞ」
副部長の小西寛が声をかけた。それについていくのは男子部員。当然のように圭太の姿もある。
「寛。場所はわかるわよね?」
「いつもと同じだろ?」
ともみの言葉に振り返りながら答える。
「じゃあ、よろしくね。あと、領収証はちゃんともらってくるように。誤魔化したら、それなりの罰を当てるから」
「へいへい」
そして、寛以下、買い出し部隊は出発した。
さて、今日は一高吹奏楽部の恒例行事、新入部員歓迎会である。
これは本当に毎年行われている行事で、ほぼ出入りが確定するこの頃に行われている。
内容的には、近くの公園で弁当を食べ、お菓子を広げ、ジュースを飲み、騒ぐ。それだけである。もちろん、ノリで芸が披露されることもある。
ようは、親睦会である。
一高吹奏楽部の部員は、全部で六十人。生半可なことではひとりひとりを把握することは無理である。従って、このような行事を通じて、少しでも相互理解を深めようというのである。
とはいえそれは建前で、上級生にとっては騒げればなんでもいいのである。サラリーマンの飲み会の口実と同じである。
圭太たち買い出し部隊は、六十人分の食料と飲料を持って会場まで行く。半端ではない量なので、店も数店舗利用するほどだ。
会場は一高から歩いて十五分ほどの場所にある、市立公園である。つい先日までは桜が綺麗に咲き誇っていた。今はすっかり散り、そろそろ若葉が芽吹く頃である。
吹奏楽部の面々は大きな桜の下にブルーシートを敷き、今や遅しとメインディッシュを待っていた。
そこへ買い出し部隊が到着。
さすがに六十人が車座に座ることはできないので、いくつかに分かれている。基本的な分け方はパートごとである。
「えっと、全員に行き渡った?」
ともみはそう言ってぐるっと見回した。
「さてと、これから一高吹奏楽部恒例の新入部員歓迎会をはじめます」
会は、意外に普通にはじまった。
「まず最初に私から。えっと、一年生諸君、入部ありがとう。今年もまた去年に引き続き二十人の大台を守れた。これはひとえに諸君のおかげである。これで我が吹奏楽部は少なくとも部員の面では心配はない。中身は別だが」
妙に格式張った、時代がかった台詞回しで続ける。
「今年は、去年果たせなかったコンクールでの全国大会への出場を目指している。そのための努力は欠かさないでほしい。そして、全国大会のステージに、みんなで立とうではないか」
拳を握り締め、力説する。
「……とまあ、形式的なことはこれくらいにして」
と、いきなり終わった。
それにあわせて二、三年が立ち上がる。
あっけにとられる一年。
「ようこそ、一高吹奏楽部へっ!」
『ようこそっ!』
高らかに歓迎の台詞が空に響いた。
「さあ、あとは好き勝手にやってちょうだい。私たちも好き勝手にやるから」
そして、怒濤の宴会モード突入となった。
アルコールこそ入っていないが、もうそれは飲めや歌えやの乱痴気騒ぎだった。
中には圧倒されている一年もいたが、そんな一年には『個別指導』が行われていた。
「どう、圭太?」
圭太の側に、ともみがやって来た。
「噂では聞いていましたけど、ここまでとは思いませんでした」
圭太は、苦笑混じりに答えた。
「でも、いいでしょ、こういうの。うちは運動部と違って合宿とかもほとんどないし、こういう機会でもないと騒げないのよ」
「この騒ぎを経れば、まさに真の部員ですね」
「そうよ、それが目的だもの。あと、コンサートとかコンクールはまだ先だから、それまで比較的ダラダラ活動することになるからね。その前にあらかじめ鬱憤を晴らしておくって意味合いもあるの」
「なるほど」
ともみの言葉に、圭太はしきりに頷いている。
「ああ、そうそう。ひとつ忘れてた」
「なんですか?」
「一年にはこのあと、ひとつの試練があるからね」
「試練、ですか?」
ともみは、楽しそうに頷いた。
そして、宴もたけなわな頃、ともみがもう一度みんなの前に立った。
「さて、ボルテージも上がってきたところ、恒例の『アレ』をやりたいと思います」
「いよっ、待ってましたっ!」
「一年生諸君。諸君にはこれから、あるひとつの試練を与える。その試練に見事打ち勝つことができれば、諸君は英雄としてみんなに語り継がれるだろう」
「…………」
一瞬、シンと静まりかえる。
「あ、あの、なにをするんですか?」
誰かから声が上がった。
「ふむ、よい質問だ。では、簡単に説明しよう。その試練とは……」
もったいぶるともみ。
誰かがのどを鳴らした。
「王様ゲームよ」
「王様ゲーム、ですか?」
「もちろん、普通のとは違うわよ。あなたたち一年は番号札を持つだけ。あなたたちからは王様は選ばない。王様は、私たち」
『えっ……?』
「つまり、私たち二、三年四十人の誰かが王様になって、適当に番号を言ってなにかをさせるの。オーケー?」
さすがの内容に、一年もどう反応していいかわからない。
「あの、一度指名されたら終わりなんですか?」
「そうね。本当はどっちでもいいんだけど、誰かひとりが集中的に命令されるといじめになっちゃうから、一度で終わりにしましょう」
つまり、気分次第でダメという可能性もあったわけだ。
「さあ、はじめましょう」
「うっし、今度は俺が王様ってことで」
今度の王様は大介である。
「ん〜、十五番と三番で漫才やってくれ」
「マジすか?」
「マジマジ」
十五番の小久保翔を三番の相川めぐみは、お互いにどうしようかと話している。
こんなある意味不毛なやり取りが、数十回と繰り返されていた。
ただ、残りの人数もそう多くないので、そろそろ終わりも見えてきた。
ちなみに、圭太はまだ残っている。
「次の王様は──」
「諸君。ここにみごとに英雄がふたり、残された。まずは拍手」
大げさな拍手が沸き起こる。
今、その輪の中心にいるのは、圭太ともうひとり、柚紀だった。
「早抜けするのも英雄だが、最後まで残るのも英雄だ。なんといっても、ピンポイントで攻撃されるからな」
ともみの顔が、少しだけいぢわるになっていた。
「この王様ゲーム、最後のルールは、ふたりになった段階で残りの命令回数が決まるというものだ。そして、残りの回数はこのサイコロで決める」
ともみは早速サイコロを振った。
コロコロと転がり、出た目は──
「ほほぉ、三回」
三だった。微妙な声が上がる。
「では、残り三回の王様を選出しよう」
大盛り上がりのともみたち。
そんな中、圭太と柚紀は半泣き状態だった。
「……大丈夫、かな?」
「……どうかな、かなり不安だけど」
ふたりは揃って深いため息をついた。
「さて、王様も決まったし、最後の命令、いってみようっ!」
まず最初は、幸江だった。
「で、王様、命令は?」
幸江は、圭太と柚紀にごめんと謝りながら言った。
「二人羽織でこれをやって」
『えっ……』
用意されたのは、炒り豆の入った紙皿と、空の紙皿。それと箸。
「はいはい、時間もそんなにないんだから、ちゃっちゃとやる」
なし崩し的にふたりは命令を履行しなければならなくなった。
「あ、ちなみに圭太が前で、柚紀が後ろね」
王様の言うことは絶対である。
「……ごめんね、圭太」
「……いや、いいよ」
どこから用意したのか、大きな半纏まで持ち出してきた。
しかし、所詮は半纏である。ふたりで羽織るものではないので、必要以上に密着することになる。
そういうことに頓着しない圭太であっても、さすがに気になった。
「じゃあ、いくよ」
「うん」
二人羽織自体は、実にスムーズだった。
圭太の指示も的確だったし、柚紀の箸使いも見事だった。
結局、それ以上面白くなりそうもなかったので、豆が半分ほどになったところで終わりとなった。
半纏から出てきた柚紀の頬が赤くなっていたのは、暑かったからだけではないだろう。
「じゃあ、次の王様、命令を」
今度の王様は、さとみだった。
目が笑っていない。
「ふたりで、こづく──」
「ドアホっ!」
「ふみゃっ!」
間髪入れないツッコミが炸裂した。
「さとみ、あんたのそれはシャレにならないから。それに、下ネタ禁止」
「う〜ん、残念」
後頭部をさすりながら、本当に残念そうに言う。
「じゃあ、定番だけど、現段階でこの中で一番好きな異性は?」
と、なぜか一斉に視線が圭太に集まった。
ともみも命令を繰り返すのも忘れ、それに加わっている。
「最初は、レディーファーストで、柚紀」
「あっ、えっと、そのぉ……」
柚紀は俯いてしまう。
「ほらほら、ゲロしちまいな」
どうも微妙に口調がおかしい。
「……です」
「えっ、なに、聞こえないよ?」
「あうぅ〜……」
「ほらほら」
「っと、さとみ。柚紀は勘弁してあげれば?」
助け船を出したのは、ともみだった。
「ほら、うちって男が少ないし。あとでやっかいなことになると、その全責任は言い出したさとみに来るわけだし」
「なるほど、そこは盲点。じゃあ、柚紀はいいわ」
「は、はい……」
柚紀はちらっと隣の圭太を見た。
ここで柚紀が解放されても、圭太は答える必要がある。
「じゃあ、圭太くん。答えて」
再び視線が集まる。
「えっと……」
圭太の視線が中を彷徨う。
「……菜穂子先生、というのは?」
「却下。この中で、だからね」
代替案は見事に却下された。ちなみに、菜穂子は既婚である。
「……みんな、ほぼ同じということではダメですか?」
「なにそれ?」
「いや、今までそういうこと、考えたこともないので。ここで無理に考えてもきっとまともな答えは出てこないと思って」
「ん〜……」
さとみは腕を組んで考える。
「ま、そういうことならしょうがないか。ただし、圭太くん」
「は、はい」
「夏合宿の時にもう一度同じ質問をするから。その時までには答え、出しておくように。これは命令」
「わかりました……」
サーッと緊張感が引いていく。
「じゃあ、正真正銘の最後。王様は、私」
最後は、ともみだった。通算五度目の王様である。
「ともみ、男女が残った場合の命令は、決まってるだろ?」
「わかってるわよ」
ともみは静粛にと、手で制す。
「さて、圭太、柚紀。最後の命令は──」
「…………」
「…………」
「キス、して」
『ゑっ……?』
「ほらほら、照れない照れない」
最後の最後で、こういうものの定番が発動された。
「ほっぺにチュー、はダメよ」
「あ、あの、先輩。絶対ですか?」
「もちろん。異議は認めない」
ともみは厳しかった。
「……どうしよう?」
圭太は小声で柚紀に訊ねる。
「……やらないと、終わらないよね?」
「……そうだけど。でも、いいの?」
「……圭太なら、いいかも……」
「……えっ、それって……」
「……ふ、深い意味はないの。ただ、ほかの人よりはいいかなって」
「ほらほら、こそこそ話してないで、さっさと済ませる」
そして、圭太と柚紀は真っ正面に立たされた。
「…………」
圭太の手が、柚紀の肩に添えられる。
一瞬、柚紀の体が震えた。
「……あとで、殴ってもいいから」
圭太は、一歩、前へ踏み出した。
「────」
『あの……』
歓迎会からの帰り道。
圭太と柚紀は、微妙な雰囲気の中を歩いていた。
「圭太からでいいよ」
「いや、柚紀からで」
「…………」
「…………」
さっきからこれの繰り返しだった。
もっとも、ふたりがこんな感じになるのも無理はなかった。
「……じゃあ、先に言うね」
先に折れたのは、柚紀だった。
「気にするなって言う方が無理だと思うけど、あんまり気にしないで。私は、そこまで深刻には考えてないから」
「でも、本当によかったの?」
圭太は、今にも泣きそうな顔で問いかける。
そんな顔をされては、たとえイヤだと思っていてもそれを口にするのははばかられるだろう。
「じゃあ、逆に訊くけど、圭太はどうだったの?」
「僕は男だし」
「そういうのに男も女も関係ないと思うけど」
柚紀は、少し語気を強めた。
「じゃあさ、圭太が納得するにはどうすればいいの? 私のファーストキスを奪った責任を取ってくれ、って言われる方がいいの?」
「えっ……?」
「あ……」
さすがに今のは失言だと気付き、柚紀は慌てて言葉を継いだ。
「なし、今のはなし。忘れて」
「でも……」
「いいから。それとも、本当にそうしてほしいの?」
「それは……」
「だから、これでこの話は終わり。いい?」
柚紀にそこまで言われては、圭太もなにも言えなかった。
また、沈黙が訪れる。
「あの、さ、柚紀」
「うん?」
「僕は、少し、嬉しかった、かな」
「えっ……?」
「相手が、柚紀で」
「圭太……」
「あ、あはは、なに言ってるんだろ。ごめん」
圭太は慌てて取り繕い、笑って誤魔化した。
「…………」
と、柚紀が圭太の制服をつかんだ。
「柚紀?」
「……そのまま前、向いてて」
「あっ、うん」
言われるまま、振り返らない。
「……今はまだ、頭の中が上手く整理できてないの。だけどね、私、圭太のこと好きだよ。あっ、この場合の好きは、ライクの方だけど」
そして、圭太の背中にそっと寄り添う。
「ひとつ提案。ここから、はじめてみてもいいかなって」
「はじめるって、なにを?」
「友達の一歩先の関係。もちろん、それになれるかどうかは、今後次第だけど」
「いいの?」
「圭太さえよければ」
「僕に異論はないよ。というより、僕でいいのかなって」
「それの見極めも今後、ということ」
「なるほど」
大きく頷く圭太。
「さてと、圭太」
「ん?」
「これから、よろしくね」
そう言って柚紀は、とびきりの笑顔を浮かべた。