現物語
 
第六話 雪のいと高う降りたるを
 
 その壱 溶ける心
 ☆理奈
 今日は十二月九日。
 今年もだいぶ押し迫ってきた。
 明日はたっちゃんが退院する日。
 でも、私は迎えには行かない。いや、行けない。
 たっちゃんに会ったらどんな顔をすればいいのか、わからない……
 あれから一度も病院には行っていない。
 本当は学校のことを伝えなければいけなかったけど、かおりさんやいつみさんに頼んでしまった。
 学校でたっちゃんの話が出ても、私はあえて遠ざかっていた。
 瑞穂が二回お見舞いに行ったけど、その様子も聞かなかった。
 あずさちゃんもさとみちゃんも行っていない。
 未だになにがあったのか話してくれないけど、たぶん私と同じことを言われたのだろう。
 私はあれからずっと考えていた。
 妹に痛いほど慕われてる兄の立場。
 あの時は感情が先走ってなかなか考えられなかったけど、一ヶ月が過ぎた今ではだいぶ冷静に考えることができる。
 だけど、まだ答えは見つからない。
 あれからの笹森家は、それまでとはうって変わって暗くなった。
 あずさちゃんとさとみちゃんは全然笑わなくなったし、私も上手くみんなと話せない。
 いつみさんは相変わらずだけど、やっぱりみんなのことが心配らしい。よく話しかけてきてくれる。
 かおりさんはあれからもほとんどたっちゃんに付きっきり。夜は帰ってくるようになったけど、病院にいる時間の方が長い。
 健一さんは黙して語らず。
 私も最近は笑ったことがない。
 たぶん、学校にいても暗く重い雰囲気でいるんだろう。
 あの瑞穂でさえ、私に声をかけるのを遠慮している。
 ただ、少し見えてきたことはあった。
 それはあの出来事は、たっちゃんの本心だったということ。決して意地悪でやったわけではないということ。そして、たっちゃんにとってやらなければならなかったこと。
 だけど、それでもわからないことの方が多い。
 私にはわからないのかも。
 そう思ったことも何回もあった。
 でも、それではダメ。せめていつみさんがわかっている程度にはわからないと。
 明日、私はどういう顔をすればいいんだろう……
 
 ☆竜也
「退院おめでとう」
「ありがとうございます」
「もう退院しちゃうんだ。淋しくなるなぁ」
「なに言ってるのよ。病院にいることがいいわけないでしょ」
「そうよ」
 今日は退院の日。
 俺は先生や看護師さんたちから退院を祝ってもらった。
「竜也くん」
「由紀さん」
「また、遊びに来てね」
「あら、病院は遊びに来るところじゃないわよ」
「そうよ。由紀だけ竜也くんと仲良くなっちゃって」
「そんなことないですよ」
「あら、じゃあどうして『由紀さん』なのかしら?」
「それは、年も近いし、名前で呼ばれる方が慣れてるし」
「でも、それだけじゃないでしょ」
「入院患者と看護師の壮絶なる愛。ああ、愛しき人は余命三ヶ月。看護師はそれでも生きようとする患者に心奪われていく。そして、お互いがお互いを意識するのに、時は必要なかった……」
「先輩っ! 誰が余命三ヶ月なんですかっ!」
「あはは、ごめんごめん。冗談よ」
 由紀さんをはじめとして、本当にみんないい人たちばかりだった。
「本当にありがとうございました」
「では気をつけて。今度は検診の時に」
「はい」
「バイバイ、竜也くん」
 俺は一ヶ月と少しを過ごした病院をあとにした。
「竜也。真っ直ぐ帰るの?」
 今日迎えに来てくれたのは姉さん。母さんはどうしても抜け出せない用事があって、代わりに姉さんが来た。
「ちょっと学校に行ってみて」
「学校ね」
 俺は退院したことを先生に伝えようと思った。いつもなら部活でいるはずだけど。
 久しぶりの学校はだいぶ静かだった。それに先生もいなかった。
 結局、そのまま帰ることにした。
 車を家の前に止めると、中から父さんが出てきた。
「おかえり、竜也」
「ただいま」
 俺は松葉杖を使って車から降り、久しぶりの我が家に戻った。
「あずさたちは二階にいるんだけど」
「いいよ。あとで直接部屋に行くから」
「そう」
 俺はすぐにあずさたちに会う気にはなれなかった。
 とりあえずリビングで父さんに結果を報告した。
 父さんは仕事があるということですぐに部屋に戻った。
 俺は病院より少しきつい階段を、二階へ上がった。
 部屋に入ると綺麗に掃除されていて驚いた。
 確か、家を出た日は部屋の中が少し散らかっていたはずなのに。
 俺は椅子に座った。
「竜也。荷物置くわよ」
「ありがとう、姉さん」
「まだ会ってないの?」
「これから」
「そう。じゃあ、私は下にいるから」
 俺は松葉杖を立てかけた。
 一応ギブスがしっかりしてるから、そのままでもなんとか歩ける。
「さて」
 俺はとりあえず、あずさとさとみに会うことに決めた。
「あずさ、さとみ」
 少し間を置いて、ドアが開いた。
「やあ、ただいま」
「おかえりなさい、お兄ちゃん……」
 予想通りかなり表情が暗い。でも、これを乗り越えてもらわないと。
「ふたりに少し話があるんだ。入ってもいいか?」
 あずさは俺を中に招き入れてくれた。
「座って」
 さとみが俺に椅子を出してくれた。
「あずさ、さとみ。よく考えてくれたか? 俺はおまえたちが嫌いだからあんなことを行ったんじゃない。むしろその逆だ。おまえたちが好き、いや、大好きだからこそ行ったんだ。あずさが言ったよな。俺がすべてだって。それは俺にとっても同じだ。あずさとさとみはなにごとにも代え難いくらい大事な、そして俺のすべてだと言っても言い過ぎじゃない」
 あずさとさとみは、ただ黙って話を聞いている。
「だけど、おまえたちには俺だけを見ていてほしくないんだ。もっとまわりを、世の中を見てほしいんだ。俺も人のことはあまり言えないけど、それでも少しはまわりを見ているはずだ。今回の事故だってそのひとつかもしれない。病院の先生や看護師の人たち。そういう普段は自分のまわりにいない人と接することは、大事なことだ。自分の殻に閉じこもっちゃダメなんだ。ふたりが俺のことを好きでいてくれるのは嬉しい。だけど、それはあくまで兄妹として。それ以上でもそれ以下でもない」
 俺はきっとダメな兄貴だろう。妹の想いをきちんと受け止めて、それを昇華させられないんだから。
 でも、遅くてもいい。兄の役目を果たしたい。
「好きな人を作るんだ。もちろん俺以外の。そうしたからって俺がふたりのことを嫌いになるわけじゃないし、ふたりが嫌いになってくれなくてもいい。ようするに、今の俺と姉さんみたいな関係だ。姉さんには稔さんていう彼氏がいる。だけど俺は姉さんのことが好きだ。たぶん姉さんも俺のことは嫌いじゃないだろう。そういう関係もあるんだ」
 俺は一呼吸置いた。
「別にすぐにとは言わない。人を好きになるっていうことは簡単だけど難しい。おまえたちは俺の自慢の妹なんだ。男なんていくらでも寄ってくる。みんな手玉に取るくらいしてやれ。変な奴がついたら俺がなんとかしてやる」
 俺はおもむろに立ち上がり、まず床の上に座っているあずさのところに座った。
「あずさ」
「あ……」
 俺はあずさを抱きしめた。強く、強く。
「ごめんな。ダメなお兄ちゃんで。だけど、ダメな奴はダメなりに考えたんだ。どうしたらあずさが幸せになってくれるか。それだけを考えたんだ。その結果、あずさを悲しませたことはどんなに言い訳をしてもダメだろう。全部俺が悪い」
 俺はあずさの髪を撫でた。
「俺の夢をひとつ教えようか。それは、十年後、二十年後でもあずさが幸せで笑顔が絶えず、そしてそんなあずさが俺にピアノを弾いてくれる。それが俺の夢のひとつなんだ」
 あずさの顔を自分の方へ向けさせた。
「あずさ……」
「おにい、ちゃん……」
 俺はあずさのほっぺたにキスをした。
「約束のキス。な?」
「うん……」
「よし、やっぱりあずさはいい子だ」
 俺はもう一度あずさを抱きしめた。
 そして今度はベッドの上に座っているさとみのところへ。
「さとみ」
「お兄ちゃん……」
 俺はあずさと同じようにさとみを抱きしめた。
「ごめんな。本当にダメなお兄ちゃんだから、またさとみに悲しい想いをさせちゃったな。だけど、さとみにも幸せになってほしいんだ。今は女の子だけど、ひとりの女性としてな。さとみは昔から明るかったから、俺も安心して見ていられたんだ。そして、このまま明るいまま幸せになってほしい。そう思ってた」
 俺はさとみの髪を撫でた。
「俺の夢はまだあるんだ。将来さとみに俺の絵を描いてもらいたいんだ。あ、その前に今の俺を描いてもらうけど。そして、比べるんだ。今の自分とその時の自分を。さとみの絵は人を幸せな気持ちにするなにかがある。それで多くの人を幸せにして、その余りの部分で俺を幸せな気持ちにさせてほしいんだ。もちろんさとみも一緒に」
 俺はさとみの顔を自分の方へ向けさせた。
「さとみ。これだけは約束するよ。どんなに年を取っても甘えてもいいって。な、甘えん坊のさとみちゃん」
 俺はさとみのほっぺたにキスをした。
「お兄ちゃぁん」
 さとみは俺の胸の中で泣いた。
 いつの間にか、あずさも俺の背中で泣いていた。
「ごめんな。本当にごめんな」
 俺はつくづく自分がイヤになった。
 結局俺の都合だけでふたりを振り回して。
 これはこれから償っていかなければならない。
「お兄ちゃん」
「ん?」
 あずさとさとみはなにか合図をして、
『だぁいすき♪』
 俺はふたりにキスされてしまった。
「それと、お兄ちゃんはダメじゃないよ」
「うん、お兄ちゃんは最高のお兄ちゃんだよ。だって──」
『お兄ちゃんだもん』
 さっきまでの暗い表情はどこへやら。
 でも、俺はこの表情が大好きなんだ。
 あずさ。
 さとみ。
 俺は幸せ者だよ。
 
 その弐 溶けぬ心
 ☆竜也
 俺はあずさたちの部屋を出た。
 今度は少し気が重かった。
 あずさとさとみはある程度わかってくれると思っていたけど、理奈はそうはいかないだろう。
「理奈……」
 ドアは意外にもすぐに開いた。
「少し、いいか?」
「うん……」
 俺は部屋に入った。
「はい」
「ありがとう」
 俺は椅子に座った。
「ふたりには会ったの?」
「ああ。今会ってきた」
「そう……」
 理奈の表情は暗かった。
「あの時は少し言い過ぎたと思ってる。だけど、今でも間違ったことをしたとは思っていない」
「そうでしょうね。そうじゃなきゃ、ふたりを悲しませるわけないから」
「……母さんから聞いたよ。あのことについて考えろって言ったって。だけど……」
「考えたわ。あれからずっと。でも、答えは見つからなかった」
「俺の立場、そうだったな」
「そうよ」
「人の立場を理解するのは難しい。俺だってたぶんできない」
 正直な意見だ。
「理奈。俺の立場をわかってくれとは言わない。だけど、あずさとさとみのためにしたことだから。それだけはわかってほしい」
「どうして?」
「えっ?」
「どうしてたっちゃんはそんなに人のことを考えられるの? 卑怯よ、優しすぎるもの」
「理奈……」
「今回のことはもういいわ。ふたりが納得したのなら。でも……」
 理奈はいったん言葉を切った。
「私の……私のことも、見てほしいの……」
 理奈は泣いていた。
「私のことも、考えてほしいの……」
「考えてるよ」
「そう。確かに考えてる。でも、それは家族して。幼なじみとして。妹として……」
「…………」
「私は、もっと、もっと見て、感じてほしいの。私を」
「なにが──」
「たっちゃんにもわからないのよっ! 私の気持ちがっ!」
「理奈……」
 俺はそれ以上なにも言えなかった。そして、そのまま部屋を出た。
 俺にとって理奈はどんな存在だったのか?
 それを少し考えなければならないのかもしれない。
 
 ☆理奈
 怒鳴ったのは二回目。
 それも二回ともたっちゃんに対して。
 なんであったなったんだろ?
 わかってる。
 本当はわかってる。
 私のワガママだって。
 たっちゃんはいつだってみんなのことを考えてきた。自分を二の次にして。
 だけど、それだけでは満足できなくなった。
 たっちゃんの優しさを知っているから。
 私だけにその優しさを向けてほしいとは思わない。
 でも、今までとは違った優しさを向けてほしい。
 私を、ひとりの女として見てほしい……
 私の気持ちをわかって……
 たっちゃん……
 
 その参 聖夜に降る雪
 ☆竜也
 冬休み。
 受験生にとっては最後の時間。
 年明けすぐにセンター試験がある。早い大学なら一月末から一般入試がはじまる。
 普通なら勉強勉強の毎日だろうけど。
 俺にはそうしている余裕がなかった。
 その理由のひとつは、叔父さんが帰国したこと。
 今回はたった二週間しか日本にいられないということで、俺ともあまり話ができない。だから話せる時はとことん話をする。
 そうすれば必然的に時間はなくなる。
 まあ、これはある程度しょうがない。俺も好きでやってるから。
 だけど、もうひとつの方が問題だ。
 それは、理奈のこと。
 あれから俺たちはほとんど口を利いていない。学校でもそう。
 だからまわりからはいろいろ言われた。
 特に、瑞穂に。
 だけど、俺にはどうすることもできなかった。
 俺にとって理奈は、二歳の頃からずっと一緒に過ごしてきた、本当の家族以上の存在だ。
 時には単なる幼なじみだと思うこともあったし、妹みたいだと思うこともあった。
 だけど、理奈はそれを望んでいるわけではない。
 情けないけど、俺は今まで姉さんやあずさたちのことは本当になんでもわかっていた。
 だけど、理奈のことはわかっていたつもりだったのだ。
 十二月二十五日は理奈の誕生日。
 おそらく、それがタイムリミット。
 それを過ぎると……
 
 ☆理奈
 今日も一日が終わる。
 だけど、私はなにをしていたのだろう?
 ただ一日机に向かって。勉強は手につかない。
 ほかのこともする気にはならなかった。
 ふと、カレンダーを見た。
 もうすぐ二十五日。
 私の誕生日。
 そして、クリスマス。
 これが最後のチャンスかもしれない。
 これを逃せばたっちゃんは、手の届かないところへ行ってしまうような気がする。
 たっちゃんを信じられないなんて、もうダメなのかな……
 
 ☆竜也
「理奈。これから付き合ってくれないか?」
「えっ、うん……」
 今日は十二月二十四日。クリスマスイヴ。
「どこ、行くの?」
「ついてくればわかるよ」
 本当はあずさたちに付き合うはずだったんだけど、やはり理奈を放っておくことはできなかった。
 だから、ふたりにはあとでの穴埋めを約束して、今日は理奈のために空けた。
 俺たちはクリスマスムード一色の駅前を、駅に向かっていた。
 電車に乗り、三つ先の駅で降りた。
 しかし、どこに行ってもクリスマス。家族連れ、友達同士、恋人同士。とにかく人がたくさんいた。
 俺は駅前から山の方へ歩き出した。
 理奈はずっと黙ったままだった。
 俺たちが向かった山は、俺の秘密の場所だ。
 家からも距離があるから誰も来ないし、ひとりになれる。
 それにそこは普通の人たちもほとんど来ない。
 だけど、そこには何度も俺に足を運ばせるものがあった。
 空はだいぶ暗くなって、冷たい風が吹き抜けていた。
 およそ三十分くらいで山頂に着いた。
 さすがにクリスマスといえども、誰もいなかった。
「寒いか?」
「大丈夫……」
 俺たちはしばらく、そこから見える景色を眺めていた。
 完全に暗くなり、街の明かりがイルミネーションとなって、幻想的だった。
「ここはな、俺がひとりになりたい時に来るところなんだ。静かだし、滅多に人も来ないし。誰かを連れてきたのははじめてだ」
「どうして私を?」
「さあ、どうしてだろう。俺にもわからない。ただ、なんとなく来てみたかったんだ、理奈と」
 俺は空を見上げた。
 空には星が光っているはずだったが、どうやら雲が出ているらしい。月明かりもなく街の明かりを見るのには最高だろう。
「俺さ、いろいろ考えてみたよ。理奈のこと。理奈がうちに来てから今までのこと。はじめて来た時は俺も二歳だったから全然覚えてないけど、理奈をはじめて認識したのは覚えてる。誰だこいつ、そんな風に思った。たぶん、誰でもそうだと思う。見ず知らずの人が来ればそう思う。特に子供の頃は。姉さんは妹がもうひとりできたって喜んでたけどさ。そりゃそうだよ。同じ年にあずさとさとみが生まれたんだから。それからしばらくのことはよく覚えてない。まあ、覚えていてもかなり曖昧だけど。それでも小学校に入学した頃からはだいたい覚えてる。あの頃は理奈は完全に妹だったな。意外と泣き虫だったし。ま、俺はひねくれてたけど。一時期理奈を敬遠したこともあった。みんなからいろいろ言われるのがイヤだったからな。でも、そんなことはどうでもよかったんだ。だからすぐに元に戻ったし。中学に入ってからは瑞穂と同じ幼なじみだったかな。それからはずっとそうだった。家族、もしくは幼なじみ。そう思ってた。理奈に言われるまでは」
 理奈はただ黙って街を眺めている。
「だけど、少し違ったんだよ。理奈の存在は。瑞穂みたいな幼なじみの存在でもないし、あずさやさとみのような妹の存在でもない。ただ、家族だとは思ってるけど。これは今は関係ない。理奈は、俺にとって特別な存在だった。それは間違いない」
「たっちゃん……」
「それでも、わからないんだ。俺には。それをどう表したらいいか。理奈のことはなんでもわかってると思ってた。だけど、それは間違いで、本当はなにも知らなかった。わかっていた気になってただけなんだ。それが理奈にとって迷惑だとも知らずに」
 いつの間にか理奈は俺の方を見ていた。
「理奈。すまない」
「……どうして、謝るの?」
「俺には結局理奈の気持ちがわからなかった。俺はどこかで驕ってたんだ。人のことなんて考えればわかるって。だけど、それは愚かなことだった。前に姉さんに言われたことがある。心も大人になれって。たぶん、姉さんはこうなることがわかってたんだ。だけど、俺はそれに答えられなかった。姉さんだけじゃなく、理奈に対しても。だから……」
「やめて……謝らないで」
「理奈……」
「たっちゃんはなにも、なにもしてない。それなのに、私は……」
 理奈は下を向いたまま、
「本当は謝らなくちゃいけないのは、私」
「どうして?」
「だって、私のワガママでこうなったんだから」
「ワガママ?」
「私の気持ちに気付いてほしい。ただそれだけのために。ワガママよ。たっちゃんは私だけのものじゃないんだから……」
 同じだ。あずさやさとみと。
 じゃあ、まさか……
「私の気持ち。それは──」
 理奈はいつもと同じように笑った。だけど、涙が溢れていた。
「たっちゃんが好き。ううん、大好き。愛してる。そして、ひとりの『女』として私を見てほしいの……」
 止めどなく溢れる涙。必死に笑顔を作ろうとする理奈。
「だけど、もういいの」
「もういい、って」
「私は私の気持ちを伝えたから……」
「そんなこと──」
「ありがとう、たっちゃん」
 そう言って理奈は駆け出した。
 また、悲しませた。俺は、なにをしていたんだ?
 悲しむのを見たくないと言ったのは俺だ。それなのに。
 だけど、まだ間に合うっ!
 俺は松葉杖を放り出してすぐに理奈を追いかけた。
 真っ暗な道を記憶だけを頼りに、理奈を追いかけた。
「くそっ!」
 俺は必死だった。
 どうして気付かなかったんだ。いつも理奈は俺の側にいた。
 いつも俺を見守っていた。
 いつも俺を見ていた。
 いつも俺を……
 いつもいつもいつもいつも……
「理奈ーっ!」
 俺は全力で走った。足のことなんてすっかり忘れて。普通にいけば俺の方が足は速い。
 そして、見つけた。
「どうして……どうして追いかけてきたの?」
「理奈に、どうしても言わなければならないことがある」
 俺は理奈の正面に立った。
「俺はバカだから、こういう時に言う言葉が見つからないけど、好きだ」
「えっ……?」
「俺は理奈が好きだ。妹でも幼なじみとしてでもなく、ひとりの女性として、理奈が好きだ」
「たっ、ちゃん……」
 俺は理奈を抱きしめた。
「震えてるじゃないか」
「う、うん。なんか嬉しくて……」
「理奈……」
「たっちゃん……」
 あとは言葉なんていらない。
 お互いの気持ちは黙っていても伝わってくるから。
 そして──
 
 俺たちは、キスをした。
 
 一瞬が永遠とも思える時間の中で。
「キス、二回目だね」
「ん?」
「だけど、今回は一方通行じゃないから」
「ああ」
 俺たちは再び街を見下ろす山頂に来た。
「理奈」
 俺はコートを理奈にかけた。
「ありがとう。ん、あったかい……」
「さっき理奈が言っただろ。どうしてここへ連れてきたのかって」
「うん」
「たぶん、自分で自覚してなかっただけで、俺は理奈が好きだったんだ。だから、理奈とここに来たんだ」
「うん」
 だいぶ明かりの数が減ってきた。
 時間はもうすぐ十二時。
「私ね、いつみさんやあずさちゃん、さとみちゃんが羨ましかった。いつもたっちゃんと一緒にいて。特にあずさちゃんとさとみちゃん。たっちゃん、ふたりのことになるといつも以上に優しくなるから。おかしいよね。たっちゃんたちは兄妹なのに。嫉妬したんだから」
「理奈も妹になりたかったのか?」
「少しだけね。でも、今はそうならなくてよかったと思ってる」
「ああ、そうだな」
 俺は今になって足が痛くなった。
「大丈夫?」
「あ、ああ、なんとか。少し無理したから、また治るのが遅くなりそうだけど。でも、理奈を追いかけるために使ったんだ。全然平気だよ」
「ありがとう」
「あっ、そうだ」
「どうしたの?」
「メリークリスマス」
「あっ、そっか。うん、メリークリスマス」
「ははは」
「あはは」
 俺たちは久しぶりに笑った。本当に、心から笑った。
「あっ、雪……」
「本当だ」
「ねえ、積もるかな?」
「だといいけど」
「ホワイトクリスマス」
「理奈」
 俺は時計を見せた。
 針が十二時を指した。
「誕生日、おめでとう」
「うん、ありがとう」
 俺たちはもう一度キスをした。
「プレゼント、今度渡すから」
「ううん、もうもらったよ」
「えっ……?」
「いっぱいもらったよ。たっちゃんの気持ちを」
「理奈……」
「たっちゃん、大好き……」
 
 聖夜に降る雪は白く、どこまでも白く、すべてを優しく包み込んでくれた。
 
 
第七話 冬はつとめて
 
 その壱 一年の計は元旦にあり
 ☆理奈
「あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
「今年も一年、よろしく」
「よろしくお願いします」
 除夜の鐘が鳴り、年が明けた。
 毎年同じように年を越しているけど、今年は、ふふっ、ちょっと違う。
 だって、ずっとたっちゃんと一緒だから。
 去年もそうだったけど、心境が違う。
「さて、とりあえず初詣に行こうか」
 今年は康二叔父さんもいて、いつもより賑やかな年越しだった。
 そして恒例の初詣。近くの神社にお参りに行くんだけど、私はこれが好き。だって、着物を着られるから。
 着付けをしてくれるのはかおりさん。かおりさんは本当になんでもできる。
 いつみさんと私とあずさちゃんとさとみちゃん、四人に着物を着付けるのは大変だけど、それを毎年やってきた。
 だいたい三十分くらいで着付けは終わるけど、四人となると少し時間がかかる。それでもいつみさんはだいぶひとりでもできるようになって、かおりさんの負担も軽くなった。
 私はあの袖を通す瞬間が好き。洋服にはない不思議な感覚。
「おまたせ」
「おっ、綺麗所が揃ったな」
「お兄ちゃん」
 早速さとみちゃんはたっちゃんのところへ。やっぱり最初に見せたいのはたっちゃんみたい。
「ねえ、さとみ、綺麗?」
「ああ、綺麗だよ」
「わぁーい、ありがとう」
 ふふっ。今日だけはたっちゃんは譲ってあげなくちゃ。
「両手に花、かな」
「いやいや、両手には収まらない」
「なるほど」
「ははは」
 私たちはそれから近くの神社に行った。
 そんなに大きくない神社とはいえ、さすがに人が多かった。
 私たちは並んでお参りした。
「なにを頼んだんだ?」
「いつまでも一緒にいられますように」
「あずさは?」
「お兄ちゃんが幸せでありますように」
「さとみは?」
「お兄ちゃんがずっとさとみを好きでいてくれますように」
「なんだ。結局みんな俺のことか」
「そう言うたっちゃんは?」
「ひとりひとりがいつまでも幸せでいられるように」
「結局、みんな同じよ」
「そうだな」
 これがみんなのいいところかもしれない。
「おみくじやろうよ」
「よし、やるか」
 私たちはおみくじを引いた。
「げっ!」
「どうしたの、たっちゃん?」
「い、いや、なんでもない。それより、理奈はなんだった?」
「私? 私は中吉。勉強運と金運がいいみたい」
「お兄ちゃん。さとみね、大吉だったよ」
「そりゃよかった。あずさは?」
「中吉」
「そっか」
「たっちゃんは?」
「俺は末吉だよ」
「なんだ、いいじゃない」
「だけど、全体運があまりよくないんだ」
「じゃあしっかり結んで、神様にお願いしないとね」
「そうするよ」
 たっちゃんは境内の木におみくじを結んだ。
「これで少しはよくなるといいけど」
「大丈夫よ。たっちゃんの分は私たちでカバーするから。ね?」
「うん」
「さとみがいるから大丈夫だよ」
「ははは、ありがとう、さとみ」
 来年もみんなで来られるといいな。
 
 ☆竜也
「こら、さとみ」
「あはは、さとみの勝ち」
「ちくしょう」
 しかし、どうしてこういうものをやると負けると悔しいんだろう。
 なにをしていたかというと、カルタ。久しぶりに出してきてやったのだけど、なぜか勝てない。
「今何時だ?」
「ん? 今は十時半だよ」
 もちろん夜。
「さて、俺はそろそろ寝る」
「ええーっ、寝ちゃうの?」
「俺は全然寝てないの。さとみは昼間寝てたからいいけど、俺はさすがに眠い」
 俺はちょうど三十七時間半も起きていることになる。
「しょうがないよ。今日は終わりにしよ」
「うん、わかった」
 さすがはあずさ。話が早くて助かる。
「ふわぁ〜あ……」
 俺はあくびひとつして、
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
 リビングをあとにした。
 少し重い足取りで階段を上がり、部屋に着くと同時にベッドに倒れ込んだ。
「ふう……」
 体力には自信があるけど、さすがに一睡もしてないとつらい。
 初詣から帰ってきてから、しばらくみんなでいろいろな話をした。それからおせちで改めて新年を祝った。
 あずさとさとみはおせちを食べてから寝てたけど、俺は叔父さんとすっかり話し込んでしまった。
 だいたい夕方くらいからトランプやらカルタやらして遊んだ。なぜかどれもこれも勝てなかったけど。
 俺はもう一度立ち上がり椅子に座った。
 もう家の中では松葉杖を使わなくてもいいくらいになったけど、時々傷がうずくことがある。ギブスも今月の中頃か終わりくらいには外せるらしい。
「あっ、はい」
 と、ドアがノックされ、急いで開けた。
「たっちゃん」
「理奈か。どうした?」
「うん」
 理奈は左右を見回して、
「入ってもいい?」
「ああ」
 部屋に入ってきた。
「楽しかったね」
「そうか。俺は勝てなくて楽しくなかったけど」
「あはは、そうよね。たっちゃん、全然勝てないんだもの。カルタなんてせっかく取ろうとしたのをみんな取られちゃうし」
「それを言うなって」
「だって、本当のことだもん」
 まったく、気にしてることを軽く言ってくれるよ。
「ねえ、たっちゃん」
「ん?」
「私の着物、どうだった?」
「ああ、綺麗だったよ」
「ホント?」
「ホントだよ。ウソついたってしょうがないだろ」
「うん、ありがと」
 最近理奈は些細なことでも笑うし、喜ぶ。
 まあ、俺としてはそんな理奈を見るのは嬉しいけど。
「ねえ、たっちゃん。今日、一緒に寝てもいい?」
 最近の理奈はまるでさとみみたいに甘えん坊になった。なにかというと俺のところへ来て、いろいろ頼み事をしていく。
 まあ、俺も悪いんだけど。なんかクリスマスの日に一緒に寝てから、なぜか理奈の頼みを断るに断れなくなった。
「ね、お願い」
 最近は猫のようにすり寄ってくる『技』を身に付けた。
「わかったよ」
「ありがと、たっちゃん」
 結局こうなってしまう。
「じゃあ、着替えてくるね」
 理奈は跳ねるように部屋を出て行った。
 俺も理奈が戻ってくる前に着替えを済ませた。
「お・ま・た・せ」
 理奈はまたも跳ねるように戻ってきた。
「さっ、寝よ」
 理奈はさっさとベッドに入ってしまった。
 俺は右足を少しかばいながらベッドに入った。
 理奈は俺の腕を腕枕にして、俺の左側に横になっている。
 髪が少しくすぐったいが、シャンプーのいい匂いがそれをかき消した。
「たっちゃん」
「ん?」
「お願い」
 俺は理奈にキスをした。
「今日はいい夢が見られそう」
「初夢か」
「うん。夢の中でもたっちゃんと会えたらいいな」
「人の願望がよく夢に現れるっていうけど」
「じゃあ、もっとたっちゃんを感じて、夢に出てきてもらおうっと」
「あっ、おい」
 理奈は俺の手を取り、自分の胸に当てた。
「私も、もっと感じてほしいから……」
 俺はただただ緊張してしまった。女の人の胸に触れるなんて、とても考えられなかったから。
 俺は、無意識のうちに手を動かしてしまった。
「あん、もう、エッチ」
「あっ、わ、悪い」
 だけど、理奈はなにもつけてない。
「こんなにドキドキしてる……」
「理奈……」
「大好き……」
 俺たちはもう一度キスを交わした。
 だけど、本当にいい夢が見られるかもしれない。
 
 その弐 受験と恋と
 ☆理奈
 やっとセンター試験が終わった。
 出来は思ったよりもよかった。あとは二次試験に向けて最後の追い込み。
 たっちゃんも一応受けてはいたけど、まだどうするかは決めていないみたい。
 たっちゃんの実力なら大学は合格できるだろうけど、私としては少し複雑な気持ち。
「世界史はいいんだけど、数学がな」
「大丈夫だよ。たっちゃんはやればできるんだから」
「理奈はいいよな。センターもよかったし、もともと模試でもA判定出てたから」
「たっちゃんだってB判定だったでしょ」
「まあな」
 もう授業はほとんどなく、補講のようなものだけやっている。
 だからみんなにもなかなか会えなくなった。
「竜也」
「お、崇史」
 だけど、今日は崇史くんに会った。
「桃瀬も一緒か。じゃあ、ちょうどいい」
「どうしたんだ? 確かもうすぐ入試じゃなかったか?」
「それはいいんだ」
「じゃあ、なんだ?」
「ここじゃなんだから」
 私たちは喫茶店に入った。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「桜庭は今、付き合ってる奴、いるのか?」
「は? 瑞穂のことか?」
「そうだ」
「いや、俺の知る限りではいないと思うけど。理奈、知ってるか?」
「ううん、いないよ」
「だそうだ」
 ふふっ、やっぱりね。
「そうか。わかった」
「おい、崇史。おまえ、瑞穂のこと、好きなのか?」
「まあ、な」
「そうか、なるほど」
 たっちゃんは妙に納得してるけど、わかってたのかな?
「少し、手を貸そうか?」
「いや、自分でやる。こういうことは自分でやらないと」
 さすがは崇史くん。考え方は昔からしっかりしてる。
「じゃあ、なんかあったら言ってくれ」
「ああ」
 でも、瑞穂はいいのかな?
 だって瑞穂の好きな人は、たっちゃんなのに。
「どうした、理奈?」
「あ、ううん。なんでもないよ。だけど、崇史くん上手くいくといいね」
「ああ、そうだな。瑞穂も崇史のこと、知らないわけじゃないし。崇史はいい奴だからな」
「瑞穂のこと、心配?」
「どうして? なんで俺が瑞穂の心配するんだ?」
「ううん」
 やっぱり、たっちゃんは瑞穂の気持ち、知らないんだ。
 でも、瑞穂は私たちのことを祝福してくれた。
「まあ、崇史になにか言われたら手伝うとして、とりあえずは」
「?」
「早くこれを外したいよ」
 そう言ってたっちゃんはギブスを叩いた。
「もう治ってるはずなんだけど。最近は鬱陶しくて」
「あはは、そうだね」
 もう少し様子を見た方がいいかも。
 
 ☆竜也
「なあ、どうして俺たちがこんなことしてるんだ?」
「だって、気になるでしょ」
 俺たちは今、とある喫茶店にいる。
 なぜこんなところにいるのかといえば、よくわからない。
 理奈が付き合ってくれと言うから来てみたら、そこには瑞穂と崇史が。
 どうやらふたりの成り行きを見ておきたいらしい。
 俺たちはふたりからは死角になるところにいる。
 崇史はいつにも増して真剣な表情だ。
 一方、瑞穂は終始俯き加減。
「桜庭。返事を聞かせてほしい」
 声もかろうじて聞こえる。
「どちらにしても、はっきりとした返事がほしい」
 崇史は学校なんかはよくサボってるけど、根は真面目だから、こういう時でも性格が出てる。
「桜庭が竜也のことをいつも見ていたことは知っている」
「えっ……?」
 俺と瑞穂は思わず同じ反応をした。
「理奈。どういうことだ?」
「ま、まあ、そのことはあとで説明するから」
「竜也は誰にでも好かれる性格してるから、見ればすぐわかる」
 俺はわからなかった。
「だけど、そんな桜庭を好きになったんだ」
「崇史くん……」
「改めて言う。俺と付き合ってほしい」
 さて、瑞穂はどうするのか。これ以上答えないわけにもいかないだろうし。
「私、つまらない女だよ。なにか得意なものもないし」
「別にそんなことは構わない。俺は桜庭瑞穂を好きになったんだ。それだけなんだ」
「ありがとう、崇史くん」
 どうやら決めたみたいだな。
「私、努力してみる。崇史くんに似合うような女になるように」
「それじゃあ」
「うん」
 崇史は、俺も見たことないような表情を見せた。
「たっちゃん、よかったね」
「まあ、そうだな」
「どうしたの?」
「いや、崇史はあの性格をなんとかしないと、これから大変かなと思ってさ」
「大丈夫よ」
 そう言うと理奈は席を立った。
「おい、どこ行くんだ?」
「ふたりのとこ」
「えっ?」
 俺は一瞬耳を疑った。わざわざ見つからないようにしてたのに、どうして会う必要が。
「瑞穂」
「あ、理奈」
「桃瀬、なんでここに……竜也まで」
「さあ、俺にもわからん」
「たっちゃんは、私が連れてきたの」
「瑞穂。ひょっとして俺たちがいること知ってたのか?」
「うん」
「瑞穂はね、私たちに見ていてもらいたかったんだよ」
 なんか途端に拍子抜けしてしまった。
「しかし、崇史と瑞穂か。なんか不思議な感じがするよ」
「どういう意味だ?」
「およそ誰もが予想しなかった取り合わせだからだよ」
「そうか?」
 崇史は首を傾げた。
「じゃあ、私たちはそろそろ行くね」
「うん」
「たっちゃん、行こ」
「ああ」
 俺たちはふたりを残して喫茶店をあとにした。
「なあ、理奈」
「ん?」
「さっきのこと、ちゃんと説明してくれないか?」
「あのね、瑞穂はたっちゃんのことが好きだったのよ」
「瑞穂が? 俺のことを?」
「そ。崇史くんはそのことに気付いていたみたいだけど」
「いつからそうだったんだ?」
「う〜ん、この時っていうことはないけど、たぶん私と同じよ。いつの間にか好きになっていたんだと思う」
「そっか」
「少し残念?」
「いや、そんなことはない。俺には理奈がいるから」
「嬉しい」
 理奈は腕を絡めてきた。
「今日はこのまま帰ろ」
「ああ」
 自分でも不思議だった。
 今までの俺だったら、こういうことに抵抗を感じていたはずなのに。今はすんなりと受け入れられる。
 それだけ理奈のことが好きになったのかもしれないな。
 
 ☆理奈
 ふふっ。もうすぐヴァレンタイン。
 今年はたっちゃんにいつもよりたくさんの想いを込めてチョコを送るの。
 だけど、毎年そうだけどたっちゃんは女の子にモテるから、たくさんのチョコをもらってくる。
 三年は二月はほとんど学校には行かないけど、何日か登校日がある。受験がない生徒は必ず行かなくちゃいけないんだけど、それが今年はよりにもよって二月十四日。
 去年は学校で百個ももらってた。芸能人でもないのに。
 たっちゃんは人の厚意を無にするのを嫌がるから、ついもらっちゃう。
 女の子にしてみればはっきりしてもらった方がいいこともあるけど。
 そういえば、瑞穂もすっかり崇史くんと仲良くなって、今度チョコを作るって言ってた。
 実は瑞穂と崇史くん、同じ大学を受ける。私立なんだけど、私は知らなかった。たっちゃんは知ってたみたいだけど。
 私たちも一緒に行けるといいけど。
 でも……
 
 ☆竜也
 下駄箱を開けた途端、大量の箱が落ちてきた。
 ある程度は予想してたけど、実際こうだと、なんかやる気がなくなる。
 今日は二月十四日。つまりヴァレンタインデー。
 たまたま登校日と重なったのが運の尽き。
 俺は仕方なくカバンの中にチョコとおぼしきものを入れた。
 しかし、まだこれで終わりじゃない。
 教室に行くと机の中、上にこれまた大量のチョコが。
 ほかの男子が羨ましそうな目で見てるけど、俺にとってはそれほどいいことではない。
「たっちゃん。今年もすごいね」
 俺がなんとかそれを整理していると、理奈が声をかけてきた。
「なんか去年より多い気がするけど」
「今年は先輩がいないからよ。たっちゃん、一、二年生にすごい人気だから」
「はあ……」
 俺は思わずため息をついてしまった。
 去年は大きな紙袋三つ分だったけど、今年はもっとありそう。
 去年は五分に一回くらい誰かがチョコを持ってやって来たけど、さすがに今年はそれは少ない。なんといっても、去年直接俺に持ってきたのは、ほとんどが先輩だったから。
 それでも今年は同学年からが少なくて助かる。同学年は俺と理奈のことをだいたい知ってるから。
「姉さん呼ばないとダメかも」
「あ、いつみさん、今日いないよ」
「どうして?」
「だって、ヴァレンタインだもの」
 そっか。稔さんのところへ行ったんだ。姉さん律儀だから。
 俺はチョコは嫌いではないが、これだけの量になるとさすがに無理。
 家ではあずさとさとみがチョコをくれるし、理奈もそう。今年はないけど瑞穂からももらった。
 結局母さんに頼んでチョコレートケーキやなんかにしてもらって、近所の人にお裾分け、ということでなんとかしのいでいるの。
 あ〜あ、なんでヴァレンタインにチョコをあげるんだろ……
 
 
最終話 ゆく河の流れは絶えずして
 
 その壱 卒業
 ☆理奈
 あれ? ピアノの音?
 私はリビングに下りていった。
 うちではみんなピアノが弾けるから、誰が弾いてるかは見ないとわからない。
 ピアノを弾いていたのは、あずさちゃん。
 そしてそれを聴いていたのは、たっちゃん。
「どうしたの?」
「いや、久しぶりにあずさのピアノが聴きたくなってさ」
 あずさちゃんのピアノは相当なもの。音楽大学でも行くか、留学でもすれば将来は有名なピアニストになれるはず。
 演奏が終わった。
「ありがとう、あずさ」
「ううん」
 たっちゃんは褒める時はいつも頭を撫でる。あずさちゃんやさとみちゃんはもちろん、少し前までは私にもそうしていた。
「また、頼むよ」
「うん……」
 どことなくあずさちゃんに元気がないけど。
「たっちゃん」
 私はあずさちゃんがリビングを出てから話しかけた。
「あずさちゃん、どうかしたの? なんか元気がないみたいだったけど」
「そうか? 気のせいじゃないか」
「そうかな」
 まあ、少し疲れてるのかもしれないけど。
「あさってはいよいよ二次試験だな」
「うん。あとひと息」
「終わったら、あとは卒業式だけか」
「どうしたの、たっちゃん? 急に感傷にふけっちゃって」
「いや、なんでもない。それより、ちょっと散歩にでも行かないか?」
「えっ、うん、いいよ」
 私たちは外に出た。
 二月の空は晴れ渡っていた。風は冷たいけど、気持ちがシャキッとする。
「もうすぐ、卒業なんだよな」
「えっ、うん」
「高校を卒業すると、だいたい大人と見られるよな」
「そうだね。十八歳だし、就職する人も多いから」
「大人か……」
 たっちゃんは小さくため息をついた。
「なあ、理奈。昔の夢と今の夢。変わったか?」
「夢?」
「俺はさ、昔は冒険家になりたかったんだ」
「冒険家?」
「ロビンフッドやシンドバッドみたいになりたかったんだ」
「そうだったんだ。はじめて聞いた」
「七つの海を股にかけ、幾多の苦難も知恵と勇気で切り抜けて、世にも珍しい宝物を手に入れて。単純だよな。そんなことできないのに」
「でも、みんなそうだと思うけど」
「今の夢はその頃の夢の延長線にあるんだ。考古学でまだ誰も見たことないものを発見して、まだまだ謎が多い古代を解き明かす」
「たっちゃん……」
 なんでだろう? 胸騒ぎがする。
「理奈の夢は?」
「私の夢は、昔はお嫁さん」
「お嫁さん?」
「うん。大人になって誰か好きな人と結婚して。それが夢」
 女の子はそういう子、結構多い。
 男の子でもヒーローになるとか、怪獣になるとかいう子もいたけど。
「じゃあ、今の夢は?」
「今の夢は、内緒」
「なんだよ、それ?」
「だって、恥ずかしいんだもん」
 ちょっとたっちゃんには言えないかも。
「まあいいや」
「でも、どうしてそんなことを聞いたの?」
「ん、なんとなくな。これからは夢なんかそうそう追えなくなるからさ」
「そんなことないと思うけどな。夢は追い続けなくちゃ絶対にかなわないわ。夢って、年齢や時間は関係ないのよ。いつでもその時に追いかける。それに夢を追いかけている人は、みんな輝いているしね」
「それはそうだけどな」
 たっちゃんの返事はどこか曖昧。
「どうしたの、たっちゃん?」
「ん?」
「今日はなんか変だよ。なにかあったの?」
「別になんでもないよ。俺はいつもと同じだよ」
 そう言ってたっちゃんは笑った。
 だけど、やっぱりどこか変。
「あれ? あの車、姉さんじゃないか?」
「あ、ホントだ」
 ちょうど大通りに出るところで、いつみさんの車に会った。
「あら、どうしたのふたりとも?」
「ちょっと散歩」
「そう。じゃあ、ちょっと乗ってく?」
「どうする?」
「私はいいけど」
「じゃあ、ちょっとだけ」
 私たちはいつみさんの車に乗り込んだ。
「今日は稔さんと一緒だったんでしょ?」
「そうよ。今度ふたりで旅行に行こうってことになってね、その話をしてきたの」
「うわぁ、旅行ですか。いいなぁ」
「で、どこに行くの?」
「沖縄」
「沖縄か」
「向こうは春になれば海で泳げるからね」
「稔さんも大変だよな」
「どういう意味よ?」
「だって、日がな一日姉さんのお守りをしなくちゃいけないんだから」
「なによ、それじゃ私は世話のかかる小学生みたいじゃない」
「ははは、いいたとえ」
「竜也」
「ん?」
「降りる?」
 いつみさんの表情は真面目だった。
「あ、あはは、冗談だよ、冗談。俺が本気でそんなこと言うと思ったの?」
「それならいいけどね」
 やっぱりたっちゃんといつみさんは仲がいいな。
 私たちは三十分ほどドライブして帰った。
 
 ☆竜也
 やっと受験が終わった。二次試験も特に大きなミスもなく、無事に終えることができた。
「そうか、決めたか」
「竜也が決めたことだから、私たちはなにも言わないわ」
「明日、学校に行って先生に話してくる」
「そうだな、早い方がいいだろう」
「それで、いつ行くの?」
「卒業式の次の日」
「すぐだな」
「がんばるのよ」
 俺はひとつの決心をした。それはこれからの人生を左右する選択で、一大決心だった。
 次の日、俺は学校へ行った。
「そう。わかったわ」
「すみません。こんなに遅くなって」
「いいのよ。こういうことはそんなに簡単に決められないから」
「先生もそういうことあったんですか?」
「ううん。高校卒業して、大学入って、それで教師になったの」
「そうですか」
「でも、笹森くんがいろいろ考えたことは絶対に役に立つわよ。少なくとも考えないで道を選んだ人よりはね」
「先生。ありがとうございました」
「いいのよ。それに、笹森くんみたいな生徒が先生の教え子にいて嬉しいわ」
「はい」
 俺は、あと一回しか来ないであろう学校をあとにした。
 そして、時はあっという間に過ぎ、卒業式前日。
 俺は今、姉さんの部屋にいる。
「姉さん、決めたよ」
「そう、決めたんだ。それでどうすることにしたの?」
「行くことにするよ」
「また、ひとりで決めたの?」
「まあ、ね」
「竜也はいつもそう。大変なことは全部自分で背負い込んで。でも、ほかの人には苦しいところはこれっぽちも見せない。損な性格よね」
「わかってるよ。でも、自分でもそれはどうしようもできないから」
「そうね」
 姉さんは黙って俺を抱きしめた。
「荷物は?」
「もうだいたい用意した。明日送るよ」
「そう」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないわ」
 そう言いながら、姉さんの目は潤んでいた。
「そうだ。竜也にだけ教えてあげるわ」
「えっ?」
「今度稔と沖縄に行くって言ったでしょ?」
「うん」
「その時にね、私たち、婚約することにしたの」
「えっ、ホント?」
「本当よ。当然結婚は卒業してからだけど、ふたりでいろいろ話し合って決めたの」
「そっか。おめでとう、姉さん」
「ありがとう。でも、このことはまだ内緒よ。まだお父さんたちにも言ってないんだからね」
「わかってるよ」
 姉さんが婚約か。稔さんなら絶対に姉さんを幸せにしてくれるだろうから、心から喜ぶことだろうな。
「だけど、竜也はどうするの?」
「理奈には、きちんと話すよ」
「そう。それならいいわ。それで、いつ行くの?」
「あさって」
「あさってっ! そんなに急に」
「いろいろあってね」
「そうね。わかったわ。がんばらなくちゃダメだからね」
「わかってるよ」
 俺は立ち上がり、
「ありがとう、姉さん」
 ひと言そう言って部屋を出た。
 そして、そのままあずさたちの部屋へ。
「あずさ、さとみ」
「お兄ちゃん……」
 ふたりにはそれとなく話しておいたから、話自体は簡単だ。
「あさって、行くことにしたから」
「うん……」
 俺はふたりを抱きしめた。
「あずさ。さとみを頼んだ。姉さんも忙しくなるから、仲良くするんだぞ」
「お兄ちゃん……」
「さとみ。みんなにあんまりワガママ言うんじゃないぞ」
「お兄ちゃぁんっ!」
 あずさとさとみは強くなった。ほんの二ヶ月前までとは比べものにならないくらい。
「さとみ、毎日電話するから」
「ああ、楽しみにしてるよ」
「私も」
「もちろん」
 カワイイ妹を残して行くのは非常に心残りだけど、これも仕方がない。
「お兄ちゃん。私、決めたことがあるの」
「なんだい?」
「高校を卒業したら、ピアノで留学するの。それで一生懸命がんばって、必ずお兄ちゃんに私の演奏を聴いてもらうの」
「ああ、楽しみにしてるよ。それに、あずさが演奏会をやる時は必ず行くから」
「うん」
「お兄ちゃん。さとみも決めたの」
「さとみもか。それで、さとみはどうするんだ?」
「えっとね、卒業したらおにいちゃんと一緒に考古学をやるの」
「考古学か。でも、絵の方はいいのか?」
「うん。絵は時間のある時に描ければいいの」
「そうか。じゃあ、楽しみに待ってないとな」
「うんっ!」
 俺はつくづく思い知らされた。
 ふたりは俺が思っているよりも遙かにいろんなことを考え、悩み、そして行動していることを。
「じゃあ、行くよ」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「必ず行くからね」
「ああ」
 俺は思わず泣いてしまいそうになった。
 あまりにもふたりが健気で。
 あとは、理奈だけだけど。
 俺は……
 
 ☆理奈
 今日は卒業式。
 みんな三年間の想いを胸に、次のステージに立つ。
 大学に行く人、就職する人、浪人してしまう人。道はそれぞれだけど、確実に次の一歩を踏み出す。
 卒業式は通過点。
 ここでまたひとついろいろなことを学び、吸収して次に備える。
 涙はあるけど、その涙は明日への誓いの証。
 そして、すべてが終わる時、すべてがはじまる……
 
 卒業式のあと、PTA主催の謝恩会が開かれ、高校生活の最後を楽しんだ。
 いつまでもこのままでいたいという時間は、すぐに過ぎてしまう。
 みんないい顔してた。
「理奈。どうした?」
「うん、ちょっと卒業式のことを思い出してて」
「そっか」
 私は今、たっちゃんの部屋で一緒に寝ている。
「理奈。話があるんだ」
「話?」
「俺、明日行くことにした」
「行くって、どこへ?」
「叔父さんのところだ」
「ウソ……」
「ウソじゃない。明日の飛行機で行く。これは受験の少し前から考えていたことで、二次試験が終わった時に決心した」
「そんな……」
「もうみんなには言ったんだ。あとは理奈だけ」
 どうして? どうしてそんなことをそんなに落ち着いて言えるの?
 私は心の動揺を少しでも抑えようとした。
 わかっていたはずなのに。
 たっちゃんの夢。
 それをわかっていたはずなのに。
「いつ日本に帰れるかはわからないけど、俺の心はいつまでも理奈と一緒だ」
「イヤよ……」
「理奈……」
「どうして? たっちゃんはどうしてそんなに……」
 あとは言葉が続かなかった。
「俺だって理奈を置いて行くのはつらい。だけど、それじゃあ進むことはできないんだ。夢を追い続けるためには……」
「…………」
「許してくれとは言わない。俺のことをどんな風に思っても構わない。それでも、それでも俺は、理奈を、愛してる……」
 もう、限界だった。
 堰を切ったように涙が溢れてきた。
 そして、むさぼるようにキスを交わした。
 私は、もうどうしようもなかった。
 たっちゃんのはいつものように優しく微笑んでくれた。
 だけど、今はその優しさが痛かった。
 
 そして、気がつくと自分の部屋で眠っていた。
 そして、机の上にはふたつの封筒が置いてあった。
 
 その弐 いつまでも
 ☆竜也
 いよいよ今日は俺が叔父さんのところへ行く日。
 叔父さんは今、エジプトのカイロ中央博物館で発掘された遺物の研究をしている。従って俺もカイロまで行く。
 カイロまでは飛行機でおよそ二十時間。夕方に出て朝に着く。
 飛行機の時間は午後四時。
 俺は朝から準備に追われていた。一応荷物は送ったといっても全部ではないから、ある程度は自分で持っていかなければならない。
 そして、お昼頃、家を出た。少し早めに行っておかないと大変なことになる。
 空港までは父さんが車で送ってくれた。
 姉さんはちょっと用事があってあとから来ることになった。
 だけど、理奈は来なかった。
 でも、それでよかったのかもしれない。
 万が一にも俺の決心が鈍るようなことのないように。
 成田空港はそれほど混んではいなかった。
 出発ロビーの電光掲示板には、すでに俺の乗る便が表示されていた。
『MS865 16:00 カイロ マニラ、フィリピン』
 俺はとりあえずカウンターで搭乗手続きを行った。
「お兄ちゃん。これ」
「ん?」
「ふたりで作ったの。おまもり」
 それはたぶん俺なんだろうけど、小さなマスコット人形だった。
「ありがとう、大切にするよ」
「うん」
 俺は早速カバンにつけた。
「ごめーん」
 と、姉さんがやって来た。
「ごめんね、竜也」
「いいよ」
 搭乗時間は出発の三十分前から。
 もうすぐ時間だ。
「理奈ちゃん、来なかったね」
「いいんだよ。理奈は理奈なりに考えてそうしたんだから」
「でも、ホントは来てほしかったんでしょ?」
「そりゃあ、そうだよ。一分でも長く一緒にいたいさ」
「ふふっ、竜也も言うようになったわね」
『MS865便、十六時発、カイロ行きにご搭乗の方は出発ロビーよりゲートの方へお越しください。搭乗開始時間となります』
 館内放送が時間を知らせた。
「竜也。向こうへ行ったら、康二によろしくな」
「ちゃんとご飯は食べるのよ。それから、向こうはイスラム世界だから、そのあたりは気をつけるのよ」
「わかってるよ」
 俺は小さなカバンをひとつ持って、ゲートへ向かった。
「お兄ちゃん」
「あずさ、さとみ。いってくるよ」
「うん」
「竜也。必ず連絡しなさいよ」
「もちろん」
 俺は搭乗券を受け取ると、
「いってきます」
 そう言ってみんなと別れた。
 機内はそれほど埋まっていなかった。
 俺は自分の席を探した。
「この席は、この列の窓側になります」
 スチュワーデスさんが親切に教えてくれた。
「ここかな」
 俺は席をもう一度確かめた。
 俺の席は窓側。通路側には女性が座っている。
「すみません」
 俺は軽く会釈をして席に着いた。
 飛行機ははじめてじゃないけど、海外へ行くのははじめてだ。
 確か、こういう時は隣の人と仲良くなると、長時間の旅もそれほど苦にならないと聞いたような気がする。
「みなさま、こんにちは。当機はまもなくフライト時間でございます。みなさまにはお席にお着きになりましてお待ちくださいますよう、お願いいたします」
 明るくはっきりとした声で、スチュワーデスさんがアナウンスを入れた。
「あの、カイロまでは旅行ですか?」
 俺は隣の女性に声をかけた。
 女性はひさしの大きな帽子を目深にかぶって、サングラスをかけていた。
「いえ」
 女性はひと言そう言った。
 俺はあまりにも素っ気ない返事に、ちょっと意気消沈してしまった。
 そこでとりあえずは離陸するまで待つことにした。
「お待たせいたしました。MS865便、カイロ行き。離陸いたします。みなさまはお席に着いてシートベルトの着用をお願いいたします」
 俺はシートベルトを締め、窓の外を見た。
 徐々に加速し、景色の流れが速くなった。
 そして、離陸。
 これで、しばらく日本には帰れない。
 だけど、俺は俺の夢を追いかける。
 ランプが消えて、ようやく離陸時の緊張感から解放された。
 俺はもう一度隣の女性に話しかけた。
「あの、カイロまではどういうことで?」
 女性は小首を傾げた。
「あっ、すみません。こっちもなにも言ってないのに。えっと、カイロには考古学のために行くんです。私の叔父が考古学者で、その助手ということで」
「そうですか」
 女性は落ち着いた声で話した。
「私は、ある人に会いに行くんです」
「ある人、ですか」
「ええ」
 女性ははじめてこっちを向いた。
 帽子を取り、サングラスを外し──
「ある人です」
「り、理奈っ!」
 俺は驚きのあまり、大声を出してしまった。
 いや、しかし、どうして理奈がこんなところに。
「ど、どうしてこんなところに……いや、それよりどうやって……ああーっ、そんなことはどうだっていい」
「えへっ、来ちゃった」
 理奈はいつもと同じように笑った。
「昨日の夜ね、机の上に封筒が置いてあったの、ひとつはたっちゃんの。そして、もうひとつはいつみさんからの」
「姉さんからの?」
「うん。そこにはね、飛行機のチケットが入ってたの。そして、こう書いてあったわ。若いうちはなんでもやりなさい。それと、後悔だけはしないように一日一日を大切に。それで、決めたの。行こうって」
「それじゃ、今日の姉さんの用事って……?」
「うん、私を送るため」
「ひょっとして、知らなかったのは、俺だけ?」
「そういうことになるのかな」
 やられた。まさかみんな知っていたなんて。
 だけど、あずさやさとみもなにも言わなかったなんて。
「だけど、叔父さんには──」
「大丈夫よ。来る前に連絡したから」
「まったく……」
 俺は思わずため息をついた。別に悲しくてついたわけじゃない。
「たっちゃんと離れ離れになるなんて、やっぱり耐えられなかった。ワガママかもしれないけど、たっちゃんとはずっと一緒にいたいから」
「理奈……」
「たっちゃん」
「ん?」
「いつまでも、いつまでも一緒にいようね」
「ああ、いつまでも一緒だ」
 
 結局、俺たちはこうなる運命にあったのかもしれない。
 いや、それを単に運命と言ってしまうのも違うか。
 俺たちは、俺たち自身が考えて、この道を選んだんだ。
 この先になにがあるかはわからないけど、理奈には俺の隣でずっと笑っていてほしい。
 いつまでも……
 
                                    FIN
 
 
後日談
 
 ☆竜也
「久しぶりの日本だな」
 眼下には日本を代表する山──富士山が見える。
 この姿を見ると、日本に帰ってきたんだと実感する。
「……ん、たっちゃん……」
 だけど、そんな感慨もすぐに消えてしまう。
「まったく……」
 もうすぐ成田に着くっていうのに、気持ちよさそうに寝て。
「理奈。そろそろ起きろ」
 軽く肩を揺すり、起こす。
「ん……ん、たっちゃん……?」
「おはよう、お姫様」
「……ん、おはようございます」
 寝ぼけ眼でそんなことを言う。その仕草が少しカワイイ。
「ほら、しっかり目を覚ませ」
「あ、うん」
 軽く伸びをして、理奈は目を擦った。
「今、どの辺?」
「もう富士山が見えてる」
「えっ、ウソ?」
 慌てて窓の外を見る。
「あ、ホントだ」
「だから、着陸前にやることやっておかないと」
「うん」
 そう言って理奈は、ハンドバッグを持って席を立った。
 やれやれ。
 だけど、いつもと変わらない姿を見て安心でもあった。
 
 俺たちが日本に帰ってくるのは、実に三年ぶりだった。
 高校三年の三月に日本を出て、それから日本に帰ったのは三度。
 一回目は、叔父さんと一緒に、日本を出てから一年後に。
 二回目は、あずさとさとみの卒業式の時に。
 三回目は、姉さんと稔さんの結婚式の時に。
 その時からもう三年も経っている。
 あれからもう、五年の月日が流れていた。
 俺と理奈は、叔父さんの助手として世界各地の遺跡の発掘を行っている。俺にとっては毎日が勉強で、新しいことを発見する度に、考古学の面白さ、奥深さを再認識している。
 理奈も今ではすっかり考古学にはまっていた。まあ、ほとんど毎日やってるから当然かもしれないけど。
 大学を出ていないから多少難しいところはあったけど、常に現場で新しいことに触れていたおかげで、今ではかなりのことを知識として吸収できた。
 叔父さんも、俺たちにいろいろ任せてくれるようにもなった。
 その叔父さんのおかげで、実は俺たちは特例で大学の学位までもらった。日本の大学じゃないんだけど、そんなことは関係ない。このあと研究が認められれば、修士や博士の号ももらえるかもしれない。
 好きなことをやって、そういうことになるなら、これほど幸せなことはない。
 とはいえ、実際はそんなにいいことばかりじゃない。
 外国にいるわけだから、当然日本語以外もできないとつらい。俺も理奈も、英語やフランス語、ドイツ語なんかを学んだ。最近は、スペイン語やポルトガル語もかじっている。
 あとは、生活環境の変化に慣れること。これが大変だった。
 最初の頃はそのせいでよく体をこわした。
 叔父さんは、最初はみんなそうだって言ってくれたけど、なんか情けなかった。
 楽しいこともつらいこともあるけど、俺は今の生活に満足している。
 そして、あの時の選択に後悔していない。
 
 定刻より少し早く飛行機は着陸した。
 今回の日本滞在期間は、二週間。これでも過去三回より長い。
 帰国の目的は、はっきり言えばほとんどない。あまりにも日本に帰らなかったから、多方面から帰ってこいと言われ続けた。で、プロジェクトが落ち着いたこの機会に帰ってきた、というわけだ。
「ん、日本だね」
「そりゃ、ここが日本じゃなきゃ、困るだろ」
「んもう、そういうこと言わないの」
 荷物を受け取り、到着ロビーから出る。
「さてと、迎えに来てるはずなんだけど──」
『お兄ちゃんっ!』
 ほぼ同時に、後ろに衝撃が。
「おかえりなさい、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「ただいま、あずさちゃん、さとみちゃん」
 振り返ると、あずさとさとみだった。
「お兄ちゃん?」
「……あずさ、さとみ」
「ん?」
「おまえらいったい何歳だと思ってるんだっ」
「きゃっ!」
「まったく、いい年して子供みたいなことするんじゃない」
「だってぇ……」
 そう言いながらも、ふたりとも俺から離れるつもりはないらしい。
「そんなことよりも、早く行こ」
「うん」
 まあ、ふたりの元気な姿を見ることができたことで、今のことはチャラにするか。
「ほらほら、お兄ちゃん」
「わかったよ」
 
 空港までは、さとみが車を運転してきたらしい。
 ふたりも今年で二十一だ。
 あずさは高校卒業後、パリにピアノ留学した。期間は二年間。
 その留学期間も終わり、今は日本の大学に編入して、女子大生をやっている。
 ピアノの腕はもはや俺が語る言葉もないほどに上達しており、話によると卒業後の話もちらほら来ているらしい。
 一方、さとみは大学に進学し、歴史を学んでいる。
 どうやら、本気で俺のあとを追いかけるらしい。それはそれでいいんだけど、多少不安もある。まあ、結局は本人が決めたことだから、俺もなにも言っていない。
 そんなふたりだけど、見た目はずいぶんと変わった。ふたりともずいぶんと大人の女性になり、写真なんかを見ていなかったら、すぐにはわからなかったかもしれない。
 あずさは、パリに行っていたせいか、洋服のセンスがずいぶんと洗練されたものになっている。ピアノをやっていることもあって、どうやら憧れの的になっているらしい。
 だけど、そんなあずさよりもさとみの方が変わった。以前は少女趣味っぽい格好が好きだったのだが、今は違う。髪もだいぶ短くし、スカートよりもズボンを穿いていることが多い。
 その理由は定かではないけど、どうも卒業後のことを考えてらしい。
 とはいえ、ふたりが俺の大切な妹であることは変わりない。
 
「そういや、姉さんたちはもう来てるのか?」
「ううん。夜になるって。ほら、稔さんが忙しいから」
 ハンドルを握りながら、さとみがそう言った。
「それに、お姉ちゃんも由梨奈ちゃんのことがあるし」
「それもそうだな」
 姉さんと稔さんが結婚したのが三年前。
 去年、待望の子供も生まれた。女の子で、名前を由梨奈と言う。
 今は親子三人で生活している。
 稔さんが少し忙しい仕事をしているせいで、なかなか団らんの時間が持てないみたいだけど、それでも仲の良さは変わっていない。
「でも、お兄ちゃんもお姉ちゃんもひどいよ。三年も帰ってこないんだもん」
「うん、私もそう思う」
「いや、それは悪かったから」
「お父さんもお母さんも言ってたよ。ふたりはこのまま向こうに定住するんじゃないかって」
「さすがにそれはないけど」
「だったら、もう少し帰ってこないと」
「そうだな。これからはそうするよ」
 それもどこまで実現できるかわからないけど。
「ところで、あずさ、さとみ」
「ん?」
「どうしたの?」
「ふたりとも、彼氏とかいないのか?」
『いないよ』
 答えは、見事にハモった。
「というか、全然その気ないし。私が好きなのは、今もずっとお兄ちゃんだけだから」
 さとみは、なにを当たり前のことを、という顔でそう言う。
「あずさもか?」
「私も基本的にはさとみと同じ。ただね、さとみと違って少しだけそういうことも考えたこともあるんだよ」
「そうなのか?」
「うん。でもね、結局ダメなの。どうやってもお兄ちゃんと比べちゃって」
「……なるほど」
 隣の理奈が、おかしそうに笑っている。
「兄妹でも結婚できればよかったのにね」
 そんなことになったら、俺はとても生きていけない。
「ダメよ、ふたりとも。たっちゃんは、私の旦那さまなんだから」
 そう言って理奈は、俺の腕を取った。
「ね、たっちゃん?」
 そう。俺と理奈は、二年前に結婚した。
 とはいえ、式も挙げてないし、新婚旅行にも行っていない。
 ただ、婚姻届を出しただけ。
 それでも、俺たちにとってはとても意味のあることだった。
「お兄ちゃんたちは、子供とかって考えてないの?」
「今のところはそれどころじゃないからな」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「ま、落ち着いたら追々考えるさ」
 そうこうしているうちに、車は都心へと入った。
 もうすぐ、三年ぶりの我が家だ。
 
 ☆理奈
 久しぶりの我が家は、以前とほとんど変わっていなかった。
 今、この家で暮らしているのは、健一さんとかおりさん、それにあずさちゃんとさとみちゃんの四人だけ。もともと七人で暮らしていたわけだから、少し淋しい感じもする。
 まあ、私たちがここにいる間は、以前と同じ感じなんだろうけど。
 健一さんとかおりさんに久しぶりの挨拶をして、久しぶりにかおりさんの手料理を食べた。
 健一さんは、以前よりもずいぶんと仕事の量を減らしていた。だけど、その代わりに大きな仕事をするようになっていた。これは、時間を有効にしたいということらしい。
 かおりさんは、私たち子供が手がかからなくなったので、また音楽をはじめた。
 子供たちにピアノやヴァイオリンを教え、一緒に楽しんでいる。
「あ、そうそう。竜也」
「ん?」
「これ、来てたわよ」
 そう言ってかおりさんが持ってきたのは、一枚のはがきだった。
「崇史と瑞穂じゃないか」
 それは、瑞穂と崇史くんからだった。
「へえ、今は北海道にいるんだ」
 ふたりは、同じ大学に進学し、大学を卒業したのは聞いていた。
 だけど、そのあとのことは私たちが忙しかったこともあって、ちゃんとは聞いていなかった。
「あれ、たっちゃん。名前、よく見て」
「ん?」
 よく見ると、連名になっていた。しかも、名字は一緒。
「あいつら、結婚したんだな」
「うん」
 そっか。結婚したんだ。
 だけど、そんな大事なことを教えてくれないなんて、瑞穂もひどいなぁ。
「どうする、理奈。時間見つけて、ふたりに会いに行くか?」
「そうだね。それもいいかも」
 この機会を逃すと、次はいつになるかわからない。
 なら、今のうちになんでもやっておかないと。
「でも、あいつらも結婚か」
「そりゃ、結婚だってするわよ。私たちだって結婚したんだから」
「そうなんだけどさ。なんか、いまいち実感がなくてさ」
 どうもたっちゃんの言いたいことは、よくわからない。
「ま、ふたりに会えば、そんなこともないか」
「そうだよ」
 それからしばらくして、夜になった頃に、いつみさんたちが到着した。
「わあ、理奈ちゃん、久しぶり〜」
 いつみさんは、全然変わってなかった。
 これで一歳になる娘さんがいるんだから、ほかの人にとっては羨ましいに違いない。
「理奈ちゃん、また綺麗になったんじゃない?」
「そうですか?」
「これも、結婚したおかげかしら?」
「どうですかね」
 挨拶もそこそこに、私は早速由梨奈ちゃんに会った。
「うわ〜、カワイイ」
 由梨奈ちゃんは、本当に可愛かった。
 子供は天使だなんて言うけど、まさにその通りだと思った。
「理奈ちゃんたちは、そういう予定はないの?」
「ええ、今のところは」
「でも、やることはやってるんでしょ?」
「えっと、それは、まあ……」
「じゃあ、なるようになるわね」
 そう言っていつみさんは笑った。
 全員が揃ったところで、私たちの帰国祝いパーティーが開かれた。
 久しぶりの再開にも関わらず、ほんの少し話しただけで以前に戻れてしまう。
 これが本当の家族なんだろう。
 私は、それを改めて感じだ。
 同時に、私たちもそんな家族を作っていけるのだろうか、と思った。
 
 ☆竜也
「ねえ、たっちゃん」
「ん?」
「あの話、どうするつもりなの?」
「そうだな……」
 パーティーは夜遅くまで続いた。
 まあ、由梨奈を除いてみんな成人だから、当然酒が入る。そうすると手が付けられない。そんな形でダラダラと続いてしまったのだ。
 で、それも終わって俺たちは二階の俺の部屋にいた。
「とりあえず、いろいろ話は聞いてみるつもりだよ」
「それしかないかな」
 あの話、とは、俺たちの日本の大学への教授クラスでの招致だった。
 もちろん、実際に教授というわけにはいかない。ただ、そのくらいの待遇でというわけだ。
 その話を持ってきてくれたのは、あの三輪教授だった。
 今回の帰国の目的のひとつには、三輪教授と直接話をするというのもあった。
「理奈は、どうしたらいいと思う?」
「私は、たっちゃんの好きなようにするのが一番だと思う。だって、今までもずっとそうだったんだから。私は、それについていくだけ」
 そう言って理奈は微笑んだ。
「私はたっちゃんと一緒にいられればそれでいいの。世界中のどこにいてもいいの」
「……ありがとう」
「ただ、あれかな」
「ん?」
「日本に戻ってくれば、過労で倒れる回数も減るかな」
「……なるほど」
「たっちゃんて、ホントに集中しちゃうとまわりが見えなくなるからね。私がいなかったら、今頃発掘なんてできない体になってたかも」
「ああ、そうかもしれない」
「そういうことだけで言えば、日本の方がいいかな」
 理由はいろいろあるだろう。
 俺の中にだって、いろいろある。理奈にもいろいろあるはずだ。
「とにかく、いろいろ話を聞いてみて、それで最終的に決めるよ」
「うん」
 焦る必要はないのだから。
「ところで、たっちゃん」
「ん?」
「今日は、したいなぁ」
「したい、って、いや、でもな……」
「ダメ?」
 上目遣いにそう言う。
「だって、このところ帰国準備が忙しくて全然できなかったし」
「はあ……わかったよ」
「あはっ、ありがと、たっちゃん」
 
 ☆理奈
 日頃、発掘現場や博物館などであくせく働いているから、のんびりした空気というのがどうもなじめなくなっていた。これも一種の職業病なのだろうけど、困ったものだ。
 だけど、それも時間が解決してくれる。少なくとも、家にいる間はそうだ。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
 私がリビングで雑誌を読んでいたら、さとみちゃんに声をかけられた。隣にはあずさちゃんもいる。
「日本にいない間のお兄ちゃんて、どんな感じなの?」
「そうね、ひと言で言えば、考古学バカ、かしら」
「あ、うん、それはなんとなく想像できる」
「寝ても覚めても考古学のことばかり考えてるからね。たまに、私のことですら忘れることもあるんだから」
「それはいくらなんでもひどいなぁ」
「そうなんだけどね。でもね、側で一生懸命なたっちゃんの姿を見ていると、怒るに怒れなくなっちゃって。それだけたっちゃんにとって、考古学は大事なのよ」
「お姉ちゃんは、それでいいの?」
「よくないわよ。よくないけど、でも、今すぐにどうこうできる問題でもないから。それに、今のたっちゃんから考古学を奪っちゃったら、きっとたっちゃんじゃなくなっちゃうから」
「……それはそれで、やっぱり問題だね」
 ふたりは、小さくため息をついた。
「それでもね、たっちゃんは私のこと、大事にしてくれてるよ。そういうところは、以前と全然変わってない。私の大好きな、たっちゃんのまま」
「そっか」
「それに、未だにたっちゃんはふたりのことを気にかけてるわよ。一週間に一回はふたりのことが話題に上るし」
「そうなんだ。それは、ちょっと嬉しいかも」
「たっちゃんにとって、あずさちゃんもさとみちゃんも、大事な妹だからね。ふたりの兄としてできることは、常に気にかけてやることくらいだからって」
「そういう話を聞いちゃうと、ますますお兄ちゃんから離れられなくなっちゃうなぁ」
 さとみちゃんは、冗談半分でそう言う。
「お姉ちゃん」
「どうしたの?」
「お兄ちゃんに、日本の大学に来ないかっていう話、ないの?」
 あずさちゃんが鋭い質問をしてきた。
「ん〜、これは本当は内緒だったんだけど、実はね、あるんだ、そういう話」
「ホント?」
「うん」
「それって、どこの大学?」
「T大」
「わ、すごい」
「だからね、今回の帰国の目的のひとつには、そのこともあったの」
「じゃあ、ひょっとしたら、日本に帰ってくる可能性もあるんだ」
「可能性はね。ただね、これはあくまでも私の考えなんだけど、たっちゃんはとりあえず今回の話は断るんじゃないかと思ってるの」
「どうして?」
「それはやっぱり、実際に発掘に携わるようになって、まだまだ日が浅いからね。たっちゃんの中には、自分は未熟者だっていう考えがあるから。そんな自分が誰かにものを教えるなんて、という考えになるわけ」
「お兄ちゃんなら、そうかもしれない」
「でも、日本に帰ることがイヤなわけじゃないんだよね?」
「それはもちろん。どんなに長く海外にいたって、日本が生まれ故郷なんだから」
「そうだよね」
 たっちゃんに確認する前に話しちゃったけど、今回はいいよね。
 どうせ話すつもりだったんだから。
「あ〜あ、私も早くお兄ちゃんと一緒に発掘作業したいなぁ」
「さとみちゃんは、やっぱり卒業後は?」
「うん。私も叔父さんのところで働くつもり。そのことは、もう何度もお父さんや叔父さんには言ってるから」
「その度に考え直せって言われてるけど」
「考え直す余地なんてないから。私にとって大事なのは、そこにお兄ちゃんがいるかどうかなんだから。この世界のどこにもお兄ちゃんがいないのなら、それこそ生きている意味なんてないし」
 なかなか重いことをさらっと言う。
「さとみちゃんが卒業後、私たちと同じことをするとなると、あずさちゃんは?」
「私は、もう少しだけいろいろ勉強するつもり。世界をまわって演奏するには、学ばなくちゃいけないことがたくさんあるから」
「なるほど」
「それに、お兄ちゃんにはその時その時の最高の演奏を聴いてもらいたいから」
 このふたりは、本当に変わらない。
 これだけ一途にたっちゃんのことを考えられるのは、すごいことだ。
 たっちゃんの妻である私ですら、敬意を表しちゃうくらい。
「あ、そうだ。お姉ちゃん」
「ん?」
「こっちにいる間に、一日だけ、お兄ちゃんを貸してくれないかな?」
「たっちゃんを?」
「うん。お兄ちゃんと一緒の時間を過ごすのも、三年ぶりだから」
「ん〜……そうね、一日だけなら、いいわよ」
「ホント? ありがとう、お姉ちゃん」
 特になにか起こるとは思えないけど。
「あずさ。そう決まったら、早速計画を立てないと」
「そうだね」
 たまには、大好きなお兄ちゃんとの時間をプレゼントしてあげるのも、いいかな。
 私にとっても、ふたりはカワイイ妹だから。
 
 ☆竜也
 久しぶりに日本に帰ってきたものだから、とにかくいろいろ慌ただしかった。もちろん、仕事ではないからそれはそれでよかったのだけど、俺としては、もう少しだけのんびりしたかった。
 まあ、それもこれも、ちゃんと帰ってこなかった俺たちが悪いんだろうけど。
 そんな騒動からも解放されたのが、ちょうど一週間後。
 残り一週間は、穏やかに過ごしたい。
「──で、姉さん」
「ん?」
「どうして俺は、車を運転してるわけ?」
「どうしてって、私は由梨奈を見てないといけないからに決まってるじゃない」
「あ、そ……」
 穏やかに過ごせると思った矢先、朝から姉さんがやって来て、俺を拉致した。
 問答無用で車に押し込み、運転手をさせている。
 ちなみに、この車はうちの車だ。それにチャイルドシートを乗せて、姉さんと由梨奈は後ろに乗っている。
「あんたもあきらめが悪いわね」
「そういう問題?」
「男なら、細かいことなんか気にしない」
 実に理不尽だ。
「で、このまま道なりでいいわけ?」
「ええ。途中で曲がるところはあるけど、しばらくはこの道を真っ直ぐでいいわ」
「了解」
 どこに向かっているのかはわからない。もちろん、どのあたりに向かっているのかはわかる。だけど、目的地はわからない。
「竜也はさ、子供がほしいとは思わないの?」
「さあ、どうかな。理奈はほしいみたいだけど」
「やっぱり、子供がいるといろいろ面倒だって思ってるわけ?」
「多少は。邪魔とまでは思わないけど、確実にそっちに時間を割かなくちゃいけなくなるし」
「でもさ、やることはやってるわけでしょ? その時はどうしてるわけ?」
「……いきなり答えにくいことを」
「別に答えにくくもないでしょ。あんたと理奈ちゃんは夫婦なんだから。そういうことはして当然なわけでしょ」
「まあ、そうだけど」
「なら、問題ないじゃない」
 なんとなく、丸め込まれた気がする。
「前までは気をつけてしてたけど、このところは理奈の望み通りにしてる」
「ふ〜ん。じゃあ、竜也も少しはほしいと思ってるんだ」
「そりゃ、一応は」
「なるほどね」
 姉さんは後ろにいるからバックミラー越しにしか表情はわからない。それでも、どことなく嬉しそうな感じがする。
 それからしばらくは、姉さんの愚痴混じりの話に適当に相づちを打っていただけだった。
 そうこうしているうちに、目的地へ到着した。
「ここは……」
 そこは、郊外型のホテルだった。
 大きなホテルの建物とは別に、いくつかの建物がある。
 まわりを緑に囲まれているから、ちょっとしたリゾート気分も味わえる、というところだろう。
 姉さんは由梨奈を抱きかかえ、俺を先導してホテルに入った。
 中に入り、ホテルのロビーを素通りし、隣の建物の方へ向かう。
 案内板を見ると『総合催事場』『教会』とあった。
 廊下を進んでいくと、ホテルのロビーのような場所に出た。
「すみません。予約していた笹森ですけど」
 姉さんはカウンターの中にいる係の人に声をかけた。
「はい、笹森様ですね。では、ただいま係の者が参りますので、少々お待ちいただけますでしょうか」
「わかりました」
 俺は、未だに姉さんがなにをしたいのかわかっていなかった。
 だから、それからの時間は、驚きの連続だった。
 
 ☆理奈
 その日、私は朝からたっちゃんといつみさんと一緒に車に乗っていた。
 運転しているのはたっちゃん。私が助手席。後部座席にいつみさんと由梨奈ちゃん。
 で、どこに行くのかは教えてもらってない。たっちゃんは教えてくれそうな気がするけど、いつみさんが口止めしてるらしい。
 この期に及んで変なことはないだろうから、私も深くは追求しなかった。
 車で走ることしばし。
 ようやく目的地へと到着した。
「ホテル?」
 そこは、ホテルだった。詳しいことはわからないけど、確か、それなりに名の通ったホテルだったはず。
「たっちゃん……?」
「姉さん、そろそろ話してもいいんじゃないの?」
「そうね。じゃあ、ネタばらし」
 駐車場から建物に入り、ロビーを抜けていく間に、いつみさんが説明してくれた。
「竜也と理奈ちゃんが結婚して、もう二年になるでしょ? なのに、結婚式もしてないし、新婚旅行にも行っていない。それって、やっぱり淋しいじゃない。で、いろいろ考えたのよ。時間的な余裕がないからたいしたことはできないけど、せめて想い出に残るようなことをさせてあげたいな、って」
 いつみさんは、そう言って微笑んだ。
「ここ、ホテルだから当然結婚式とかも行えるのよ。で、最近はジミ婚とかいろいろあって、そういうニーズに応えるために、本当にいろいろやってるの。その中に、結婚式の真似事をさせてくれるっていうのがあって、今回はそれをやろうということになったの」
「そうなの?」
「ああ。そういうことらしい」
 ついこの間、たっちゃんはいつみさんと一緒に出かけていた。たぶん、その時に段取りを決めたんだろう。
「竜也にはタキシードを、理奈ちゃんにはウェディングドレスを着てもらって、あとは、家族でお祝い。ね、結婚式の真似事でしょ?」
 確かにそうかもしれない。
 でも、それは真似事じゃなくて、本当の結婚式と呼んでもいいかもしれない。
「理奈ちゃんも、やっぱり着たいでしょ、ウェディングドレス?」
「それは、まあ……夢、ですから」
「だったら、ちょうどいいと思うわよ」
 で、私はそのまま控え室へと通された。
 そこで簡単にサイズを測り、それにあわせてドレスを選んでくれた。
「はあ……」
 そのドレスを見て、私はため息をついた。
 この純白のドレスは、女性ならほとんどの人が夢に思うはず。
 そして、私はそのドレスに袖を通した。
 背中のファスナーを上げ、スカートのふくらみを整える。
 そのまま姿見で私の姿を確認する。
「どう、理奈ちゃん?」
 と、いつみさんが部屋に入ってきた。
「うわぁ、これは想像以上に綺麗だわ」
「そ、そんなことはありませんよ……」
「この姿を見たら、竜也、なにも言えなくなるわよ」
「そ、そうですかね……?」
「ええ、絶対に」
 結婚したんだから、これを着てもおかしなことはない。
 だけど、どうにも実感がなかった。
 それでも、私の心は高揚していた。
「とりあえず、準備が済んだら、竜也を呼んでくるから」
「わかりました」
「それまでに、もっともっと綺麗にならないとね」
 私のこの姿を見て、たっちゃんはなんて言ってくれるんだろう。
 楽しみなような、恐いような。
「……褒めてくれると、嬉しいな……」
 
 ☆竜也
 今回の話をあらかじめ理奈に言わなかったのは、正解だったのかどうか。
 俺としては話した方がいいと思ったんだけど、姉さんが口止めしてきた。
 で、そのまま今日を迎えている。
 俺はすでに着替えも済んで、姉さんが呼びに来るのを待っている。
「お兄ちゃん、緊張してる?」
「いや、別に」
「でも、お姉ちゃんのドレス姿は、楽しみでしょ?」
「そりゃ、まあ……」
 控え室には、あずさとさとみが一緒にいる。
 ふたりともそれなりの格好をしている。
「お姉ちゃんは、なにもしなくても綺麗だから、ドレスを着て綺麗にメイクをしたら、ますます綺麗になるね」
「あ、そうだ、お兄ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんに会ったら、ちゃんと率直な感想を言ってあげなくちゃダメだよ。絶対に、お兄ちゃんからの感想を待ってるんだから」
「わかったよ」
 やれやれ、このふたり、だんだんと姉さんみたいになってくる。姉妹だから当然かもしれないけど。
「あ〜あ、私もウェディングドレス、着てみたいなぁ。もちろん、相手はお兄ちゃんでね」
「そんなの、結婚する時に着ればいいだろ」
「だからぁ、私は、お兄ちゃん以外を好きになるつもりはないの。そしたら、当然結婚だってしないの」
 さとみは、そう言って頬を膨らませる。
「ホント、お兄ちゃんてデリカシーないよね」
「いや、そういう問題か?」
「そういう問題なの。というわけで、お兄ちゃん。ちゃんと責任、取ってよね」
 にっこり笑う。
「なんだよ、その責任て?」
「ん、そうだなぁ、とりあえず今は秘密かな。私が大学を卒業したら、教えてあげる」
「……その頃には忘れてるな」
「大丈夫。お兄ちゃんが忘れてても、私が忘れないから。絶対に」
 やけに気合いが入ってるな。
 面倒なことじゃなければいいけど。
 と、ドアがノックされた。
「はい」
 入ってきたのは、姉さんだった。
「理奈ちゃんの準備、できたわよ」
「わかった」
 俺たちはこっちの控え室を出て、理奈の待つ控え室へ。
「竜也。理奈ちゃんを見ても、驚かないでよ」
「なんだよ、それ?」
「いいからいいから」
 姉さんは意味深な笑みを浮かべ、ドアを開けた──
 
 
 それはきっと、偶然の出会いで
 それはきっと、必然の出会いで
 
 歯車と歯車が噛み合うように
 ピースとピースがはまるように
 
 ふたりが紡ぎ出す物語が動き出した。
 
 
「ふふっ」
「ん、どうした?」
「なんか、夢みたいだな、って」
「夢なわけないだろ。俺だってあれこれさせられたんだから」
「うん、そうだね」
 結婚式の真似事も滞りなく終わった。
 俺も理奈も、慣れない格好をしていたせいか、さすがに疲れていた。
 今は、ふたりだけでのんびりさせてもらっている。
 ちなみに、俺たち以外は、まだ飲んだり食べたりしている。まあ、一応、祝いの席だから。
「ねえ、たっちゃん」
「ん?」
「私ね、今日ほど自分が幸せ者だと思ったことはないわ」
「なんでだ?」
「ほら、私って、両親がいないじゃない。親戚はいるけど、顔も知らないし、今更親戚面してほしいとも思ってないし。そんな私が、こんな気持ちになれるのは、やっぱり笹森家のみんなのおかげだと思うの。もし、笹森家に引き取られていなかったら、こんなに幸せになれていたかどうか」
「…………」
「健一さんもかおりさんも、私のことを本当の娘のように大事にしてくれて。いつみさんは私を妹として、あずさちゃんとさとみちゃんは私を姉として、大事にしてくれる」
 理奈は、そう言って微笑んだ。
「それは今までも、今も、これからもずっとそう」
「当たり前だろ。理奈は、父さんと母さんの娘で、姉さんの妹で、あずさとさとみの姉だ。それは、ずっと変わらない。だけど、それだけじゃない」
「どういうこと?」
「あのなぁ、理奈。今のおまえは、なんだ?」
「今の私?」
「そうだ。今のおまえだ」
「えっと……」
 小首を傾げ、考える。
「……それがわからないのだとすれば、終わりかもしれないな」
「ちょ、ちょっと待って」
「ほら、ちゃんと考えろ」
「え、えっと……」
 必死で考えてる。
「えっと……ん〜……あ」
「わかったか?」
「私は、たっちゃんのお嫁さん」
「そうだな」
 俺と理奈が結婚したことで、理奈は正真正銘うちの娘になった。
「でも、たっちゃんの口からそういうことを聞くとは思わなかったなぁ」
「なんだよ、それ?」
「ううん、なんでもないよ」
 そう言って理奈は笑った。
「あ、そういえば、たっちゃん。たっちゃんは知ってる?」
「なにをだ?」
「一時期ね、私を笹森家の養女にしようかっていう話があったんだって」
「初耳だな」
「私も、結構経ってから知ったんだけどね。だけど、それを聞いた時、私、思わず言っちゃったの」
「なんて?」
「養女にしないでくれて、ありがとう、って」
「は?」
「だって、養女とはいえ、法律上は私は笹森家の娘になるんだよ? そしたら、たっちゃんとは兄妹になっちゃう。そうなったら、結婚できないから」
「……ああ、なるほど。そういうことか」
「健一さんもかおりさんも、というか、特にかおりさんがなんだけど、私の気持ちに気付いていたから。だから、将来もしふたりが結婚したいと思うようになった時のことを考えて、養女の件は見送ったんだって。そのおかげで、私たちはこうして結婚できたわけ」
「ふ〜ん」
 そういうことがあったのか。
「私は、本当に幸せ。優しい家族がいて、大好きな旦那さまがいて。だからね、私はこれ以上の幸せは望まないの。望んじゃったら、きっと、罰が当たるから」
「まあ、それはおまえの自由だけどな。ただ、俺としては、おまえにはもっともっと幸せになってもらいたい。それがそのまま、俺の幸せにも繋がるから」
「たっちゃん……」
 本当にそう思う。
 ふたりだからこその、幸せの形というものがある。
「ん、じゃあ、たっちゃんに、大事なお話があります」
「大事な話?」
「えっとね、実はね、できたみたいなの」
「できた? なにが?」
「子供」
「…………」
「んもう、そこは喜ぶところでしょ?」
「い、いや、待て。それは本当なのか?」
「うん。向こうにいる時は確信が持てなかったんだけど、今回日本に帰ってきて、わかったの。医者にも診てもらったんだから」
「そっか……」
「……嬉しく、ないの?」
「いや、嬉しいさ。ただ、あまりにも唐突だったから、処理しきれなくなっただけ」
「そっか、よかった」
 そう言って理奈は、にっこり笑った。
「ね、たっちゃん。これからは、私とたっちゃんと、これから生まれてくる私たちの子供と、みんなで幸せにならないとね」
「ああ」
 俺は、理奈をそっと抱きしめた。
「じゃあ、俺も理奈に話そうか」
「えっ、なにを?」
「実はな、三輪教授ともいろいろ話をして、決めたんだ」
「それって……」
「ああ。とりあえず、日本に帰ってこようと思う。すぐというわけにはいかないけど、叔父さんの了承を得て、なるべく早いうちにそうしようと思ってる」
「たっちゃんは、それでいいの?」
「いいんだ。確かに、現場にいないとわからないことは多いけど、それをじっくり検証する時間、場所も必要だから。そういう環境を、三輪教授は提供してくれるから」
「そっか」
 これを決めたのは、本当につい先日だ。
 理奈にも話そうと思っていたんだけど、いろいろあって話していなかった。
「ああ、でも、日本でやることがなくなったら、また向こうに行くと思うけど」
「ふふっ、そうだね。たっちゃんなら、絶対にそうするね」
 それがいつになるのかは、わからない。
 だけど、それもそう遠くない未来のことだと思う。
「じゃあ、たっちゃん」
「ん?」
「この日本にいる間に、みんなに話さないとね」
「ああ、順番に話すよ。子供のことと、俺のことと」
「うん」
 
 その先になにがあるのかは、わからない。
 でも、大丈夫。
 ひとりじゃないから。
 共に歩んでくれる人がいるから。
 幸せであり続けるために。
 いつまでも、隣にいてほしい。
 ふたりの物語は、本当に、はじまったばかりなのだから──
 
                                   FIN
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