現物語
 
第参話 今は昔
 
 その壱 音楽は好きですか?
 これは今から十二年も前の話。俺が小学校へ入学した頃のことだ。
 前にも話したと思うけど、俺の母さんはヴァイオリニストだった。国内でもその方面に興味のあった人なら、知らない人はいなかったらしい。
 だけど、俺が生まれたことをきっかけにして現役引退。育児と家事に専念することになった。
 母さんにしてみれば、まったく未練がなかったわけではないらしい。
 それも当然だろう。普通、ヴァイオリンなんかをやる場合は二歳とか三歳とか、遅くとも五歳くらいから習いはじめる。となれば、ヴァイオリンとの付き合いはかなり長くなる。
 母さんの場合、三歳の頃からヴァイオリンを習いはじめたらしい。ということは、俺を産んだのが二十三のことだから、二十年。二十年もの間、ヴァイオリンと付き合っていたわけである。
 そんな母さんだったから、子供である俺たちになんらかの形で自分の意志を継いでほしかったに違いない。
 姉さんは幼稚園に入園と同時にピアノをはじめ、あずさも三歳からピアノをはじめた。さとみはピアノを頑として嫌がったために、仕方がなくあきらめたらしい。
 実は俺もピアノを三歳の頃から小学五年まで習っていた。もちろん理奈も一緒に。
 まあ、理奈の場合は『習っていた』かもしれないけど、俺の場合は『習わされていた』というのが正しいかも。
 結局、今まで母さんの意志を受け継いでいるのはあずさだけ。姉さんは中学の時に、俺はさっきも言ったように小学五年の時に、理奈は中学に入るのと同時にやめた。
 ところで、なぜこんな話をしたかというと、それはこれからの話に関係があるからだ。
 俺にとって少し考えさせられる出来事だった。
 
 小学生の頃はよく考えもしないで、なにかを言ったりやったりすることが多々ある。
 それはある意味当然のことで、まだなにがいいことなのか悪いことなのか、これを言ったら相手が傷つくとか、こうすると怒られるとか、そういう基本的な経験がないからである。
 子供の頃にそういった体験を数多くすることによって、そこからさらにまわりを見る能力を身に付ける。
 それが人間の特長でもある。
 
「それじゃあ、これは竜也くんがやったのね?」
 俺はただ黙って頷いた。
 俺に向かって話しているのは当時の担任で、小出利子先生。
「どうしてこんなことをしたの?」
 先生は決して頭ごなしに生徒を叱ったことはなかった。必ずその理由を聞いて、それでもなお叱るべき時にだけ叱った。
「…………」
「正直に言ってごらんなさい」
 俺は先生と目をあわせることができなかった。
 だから、下を向いてぼそぼそと、
「……みんなが、言ったから」
「なにを言ったの?」
 さすがにこれはすぐには言えなかった。
 そんな俺の様子を見て先生は、
「竜也くん。ちゃんと先生に話してくれないと、みんなにも注意できないでしょ? 竜也くんがしたことはいいことじゃないけど、その原因もいいことじゃなければ先生が話してみるから。ね?」
 俺と同じ視線に腰を下ろして、肩に手を置いて優しく声をかけてくれた。
 俺はそんな先生に、
「先生には、関係ないよっ!」
 そう言って駆け出していた。
 ほんの少し振り返った時、先生の悲しそうな表情が目に映ったけど、足を止めることはなかった。
 その頃の俺はかなり負けん気が強く、性格も少しひねくれていたかもしれない。
 俺は次の日、学校をさぼった。仮病を使ったのだ。
 母さんは特に理由を訊ねなかったけど、今にして思えば全部わかっていたのかもしれない。
 俺はベッドの中で、前の日に学校の中で起きたことを思い出していた。
 同じクラスの連中が俺に向かって言った言葉。
「おまえ、ホントは女なんじゃないか。いつもいつも一緒にいるし」
「ピアノなんかやってて、変な奴」
 俺は普段からいろいろ言われることには慣れていたけど、その時はピアノのことを言われて我を忘れてしまった。
 その頃はピアノをはじめて三年。一番イヤになる頃だった。そんな鬱積したものもあって俺はやってしまった。
 なにをしたかといえば、教室の後ろに張ってあったみんなの絵をビリビリに破き、ロッカーの持ち物をバラバラにぶん投げた。
 俺はそれはいけないことだとわかっていた。だけど、体が勝手に動いてしまった。
 そのことに関しては、あとで母さんにも言うつもりだった。
 しかし、一番気にかかっていたことは先生のことだった。
 いつも優しい先生で、生徒のことをなによりも大切に考えていて、俺も大好きな先生だった。そんな先生にあんな態度をとったことが、まだ小学生の俺の心を深く押さえつけていた。
 そして、俺は次の日学校に行って先生に謝ろうと決心した。
 ところが、次の日学校へ行くと先生は休みだった。なんでも急に体調を崩してしまったらしかった。
 俺はひょっとしたら自分がいけないのでは、と自己嫌悪に陥りそうになった。
 だが、先生は二日経っても三日経っても学校へ来なかった。
 俺はどうしようもなくなって母さんにすべてを打ち明け、協力してもらった。
 母さんは少しだけ怒ったけど、快く引き受けてくれた。
 俺は母さんに先生の家まで連れて行ってくれるように頼んだ。
 車で三十分くらいのところに先生の家はあった。
 五階建てのマンションの三階。その一番奥の部屋がそうだった。
 母さんは一緒に行ってくれると言ったけど、俺は自分で、自分ひとりでやりたくて断った。
 俺はやっと届くインターフォンを押した。
 しばらくすると、中から鍵を外す音がして、ドアが開いた。
「はい」
 先生はパジャマ姿にカーディガンを羽織って出てきた。
「先生……」
「えっ? 竜也くん?」
 先生は一瞬驚いたが、すぐに俺を入れてくれた。
 先生の部屋はカーテンが閉まっていて、薄暗かったのを覚えている。
「先生、ごめんなさいっ!」
 俺は部屋に入るなり先生に謝った。
「竜也くん……」
 先生は軽く俺の背中を押して、ソファに座るように促した。
「先生、全部ぼくが悪いんですっ! みんなに言われたからって、ぼく、ぼく、あんなことしちゃって……みんなに謝りますっ! だからだから……ぐすっ」
 俺は一気にまくし立て、最後には泣き出した。
「竜也くん。落ち着いて、どうしてあんなことになったのか、先生に話して」
 俺は少し震えた声ですべてを話した。
 その間、先生はただ黙って聞いていた。
 俺はすべてを話し終えると、
「先生っ! ぼくのせいで学校休んだんだったら、ぼく、ぼく……」
 先生は優しく微笑んで、
「違うわよ。先生は少し風邪気味だったの。でもね、それが本格的に出てきちゃって、それで休んだのよ。竜也くんのせいなんかじゃないわ」
「……ホント?」
「本当よ」
 俺は安心から緊張の糸が切れて、先生に抱きすがってわんわんと泣いた。
 先生はただ優しく俺の頭を撫でてくれた。
 俺が落ち着いたところで、先生が話しはじめた。
「竜也くん。みんなの言ったことは気にしちゃダメよ。それに、そういうところで我慢できないと、強い男の子にはなれないぞ」
「うん……」
「それにね、男の子がピアノをやっているのは悪いことじゃないのよ。昔ね、先生のお友達にもそういう子がいたわ。だから、恥ずかしいことでもなんでもないんだからね」
「うん、わかった」
「偉いわね」
 先生はとびっきりの笑顔を俺に見せてくれた。
「じゃあ、これでこのことはおしまいね。あとで先生がみんなに話をしておくから」
 俺は黙って頷いた。
「ふふっ」
「どうしたの、先生?」
「ううん。先生ね、嬉しいのよ。わざわざ先生のうちまで竜也くんが来てくれて」
 先生は本当に嬉しそうだった。
「でも、ここまでどうやって来たの?」
「お母さんに頼んで車で来たの」
「そうだったの。じゃあ、あとでよくお礼を言わないとね」
「うん」
 俺は先生がいつもの先生で安心した。いつもの優しい、生徒のことを大事に考えてくれている、いつもの先生で。
「先生」
「ん、どうしたの?」
「これからはいい子でいるから、学校来てね」
「竜也くん……」
「ぼく、先生のこと、大好きだからっ!」
 俺の脳裏には、あの先生の悲しそうな表情があった。
「もう先生に悲しそうな顔、してほしくないから」
「見てたんだ」
「うん。だから……」
「ありがとう。先生、嬉しいわ」
「それでね、先生が学校に来たら、あげたいものがあるんだ」
「なにかしら?」
「それは、先生が学校へ来てからだよ」
「うん。それじゃ、こんな風邪、早く治さなくちゃね」
「絶対だからね」
「楽しみにしているわ」
 俺はそれから先生と少しだけ話をして、家に帰った。
 そして、月曜日。
「先生。こっちだよ」
「どこへ行くの?」
 俺は先生の手を引っ張って、ある教室へ向かった。
「ここだよ」
「ここは、音楽室?」
 俺はドアを開け、あらかじめ準備しておいた教室の真ん中の椅子に、先生を座らせた。
「これから、先生のためにピアノを弾きます。ぼく、本当はピアノが嫌いになったんだけど、先生に言われて、少しだけ好きになりました。だから、弾きます」
 俺は一礼してピアノの前に座った。椅子が高くてペダルは踏めないけど、俺は先生に精一杯の演奏を聴いてほしかった。
 先生を悲しませる原因をなった、ピアノを。
 なんの曲を弾いたのかは覚えていないけど、俺は一生懸命弾いたことは覚えている。
 そして、その時にたまたま俺たちが音楽室に入るのを見た同じクラスの奴がその様子を見ていて、廊下にはクラスの連中が集まってきていた。
 俺はたった三曲だけど、精一杯弾いた。
 先生は俺に拍手を贈ってくれた。
「本当にいい演奏だったわ。ねえ、みんな?」
 俺は先生に言われて思わずドアの方を見た。弾いている時は気付かなかったけど、確かにみんながいた。
 先生はドアを開け、みんなを中に入れた。
「先生はいい演奏だと思ったけど、みんなはどうかな?」
 先生はわざとそんなことを言ってくれた。
 すると、誰かひとりが『よかった』と言うと、みんなが口々に俺の演奏を評価してくれた。あの言葉を言った連中も。
 俺はこの時、本当にピアノをやっていてよかったと思った。嫌いだったけど、やっぱり続けようとも思った。
 
 今先生は結婚して退職している。それでも年賀状や手紙のやり取りは今でもしている。
 俺にとってこの出来事は、人のことを考えなければいけないということを学び、音楽に対しての自分の気持ちを考えさせられた、とても大切な出来事だった。
 そして、先生は俺にとっていつまでも大好きな先生でいる。
 もちろん、ピアノも、音楽も。
 
 その弐 喧嘩はダメ
 どんな理由があっても、喧嘩はよくないこと。口喧嘩はまだいいとしても、体を使った喧嘩はダメ。
 これから話すのはそんな話。
 今から十三年前。私とたっちゃんがまだ幼稚園に通っていた頃。
 私とたっちゃんは、毎日かおりさんに送り迎えしてもらっていた。だけど、その頃はあずさちゃんとさとみちゃんも三歳になって、いろいろ忙しくなっていた。
 だから時々ふたりだけで帰ったこともあった。
 その日もふたりだけで幼稚園を出た。
 
 私たちの通っていた幼稚園は、大人の足なら十五分。子供なら二十分か二十五分くらいのところにあった。
 朝、あらかじめかおりさんに言われていて、私たちはいつものようにふたりで帰った。
 お揃いの制服を着て、手を繋いで帰った。
 帰り道に公園があった。遊具もそれなりにあって、子供には魅力的な空間だった。
 私たちはいつもなら真っ直ぐ帰るところを、その日はその公園で寄り道してしまった。
「ねえ、たっちゃん、かえろうよぉ」
「いいよ、かえっても」
 たっちゃんはすっかり遊びに夢中になって、私の言うことを聞いてくれなかった。
 私は仕方がなく、ベンチに腰掛けてその様子を見ていた。
 たっちゃんはあの頃から夢中になるとまわりが見えなくなっていた。
 たっちゃんが遊びはじめて三十分くらい経った頃、それは起こった。
「おい、おまえ」
 私は突然声をかけられ、びっくりした。
 見ると、三人ほどの男の子が私のまわりにいた。
「ここは俺たちのベンチだ。どけよ」
「そうだそうだ」
 おそらく相手は小学一年くらいだったと思うけど、その頃の一年違いは、三、四年くらいの違いに匹敵した。
 私は恐くてなにも言えなかった。
「こいつ、どかないよ」
 三人の中で一番小さな子が、リーダーの子に言った。
「ふん、どかないなら、どかしてやるっ!」
「きゃっ!」
 私は男の子に押されて、ベンチから落ちてしまった。
「ははは、ざまぁみろ」
 私は、そのまま泣き出した。
「こいつ、泣いたぜ」
「いいんだよ。女はすぐに泣けばいいと思ってるから」
 妙に大人ぶったことを言うリーダーの子は、どっかとベンチに腰掛けた。
 だけど、私は恐くてまだ動けないでいた。
「こいつ、うるさいな」
 ひとりの男の子が私を叩こうとした時、
「やめろよっ!」
 たっちゃんが止めに入った。
「なんだこいつ?」
「理奈をいじめるのはやめろよ」
 たっちゃんは私の前に立って、盾代わりになってくれた。
「うるさいな。こいつが悪いんだぞ」
「そんなのかんけいない」
「なんだよ、おまえには関係ないだろ」
 そう言ってリーダーの子がたっちゃんの足を蹴った。
「やっちゃえ」
 三人の男の子がたっちゃんに飛びかかった。
 たっちゃんは何回も叩かれ、蹴られはしたものの、しっかり相手に叩き返し、蹴り返していた。
 たっちゃんはそれまで喧嘩に負けたことはなかった。小学二年生を泣かせたこともあった。
 その時もたっちゃんは負けなかった。
 三人を追い払うと、
「理奈、だいじょうぶか?」
 そう言って汚れた顔に笑みを浮かべた。
 私は泣きながら頷いた。
 私はたっちゃんに連れられて家に帰った。
 かおりさんは私が泣いていることと、たっちゃんが泥だらけになって、しかもあざまで作っていることに驚いたけど、黙って迎えてくれた。
 たっちゃんに助けてもらったのは、この時だけではない。
 小学校の時にもあった。
 クラスで小学生のよくある嫌がらせのせいで泣いている時、たっちゃんがそれをやった子に殴りかかったことがあった。
 その時はさすがに止めたけど、私はいつもたっちゃんに助けられてばかりだった。
 そして、極めつけが小学校の四年生の時。
 私がたまたま廊下で男の子にぶつかった時、その子は私を突き飛ばして今にも殴りかかろうとしていた。
 その時、止めてくれたのがたっちゃん。
 私とその子の間に入り、そのせいで殴られた。
 それでもたっちゃんは、ただ私の前に立ってその子を見つめていた。
 結局その子は立ち去って、それ以上のことは起こらなかった。
 だけど、
「たっちゃん、大丈夫?」
 私はおそるおそる訊ねた。
「あ、ああ、大丈夫。なんともないよ」
 そう言って頬を押さえた。
「それより、気をつけろよ。あんな融通の利かない奴もいるんだから」
「う、うん……」
 私はたっちゃんの顔をまともに見られなかった。
 自分のせいで殴られたという想いと、喧嘩にはならなかったけど、もしそうなっていたら私は、という想いで。
「たっちゃん」
「ん?」
「もう、無理なことはしないでね。今のだって私が悪かったのに……」
「違うよ。今のは理奈が悪いんじゃない。あいつが悪いんだ。廊下の真ん中を歩いてたんだから」
「たっちゃん」
 私は泣きながら、
「ごめんなさい」
 たっちゃんに謝った。
「もういいよ。だけど、喧嘩はしなかっただろ。前に理奈に言われたからしなかったんだぞ」
 そう言ってたっちゃんは笑った。
「だから泣くなよ。みんな見てるしさ」
 私は少し笑って、涙を拭いた。
「たっちゃん。ありがとう」
 
 たっちゃんはいつも私を助けてくれた。
 一時期は『王子さま』とも思ったこともあった。
 だけど、なによりも嬉しかったのは私が言った『喧嘩はしないで』という言葉を守ってくれたことだった。
 私はそれからたっちゃんが誰かと喧嘩したり、誰かに殴られたりしたのを見たことがない。
 たっちゃんは、今でも私の言葉を守ってるのかはわからないけど、そう思い続けていたい。
 
 その参 兄妹の絆
 今度の話は俺が中学二年のこと。つまり四年前。
 俺が考古学に興味を持ちはじめたのは、叔父さんの影響が大きい。叔父さんがうちに来る度にいろいろな話をしてくれて、その話をひと言も漏らさないように聞いていた。
 その時に叔父さんは土器の破片やそのもの、土偶や埴輪なんかを持ってきてくれたこともあった。
 俺は本当に大切なものは箱にしまって、それ以外は部屋に飾ってあった。
 小学校の頃はそれを見てるだけだったけど、中学に入って歴史をしっかりやるようになって、自分なりに調べるようになった。
 それは家族みんな知っていた。考古学の遺物は、俺にとって宝物であることを。
 
 その日、俺は少し遅く家に帰った。
 学校でやらなければならないことがあって、理奈にも先に帰ってもらっていた。
「ただいま」
 俺はいつものように家に入った。
 いつもなら母さんの声が聞こえるはずだが、その日は用事があって夜まで帰ってこなかった。
 俺はリビングを覗いたが、誰もいなかったのですぐに部屋へ戻った。
 二階に上がっても人の気配がしないことにちょっと違和感を覚えたけど、俺は部屋に入った。
 俺は部屋に入ってもどこか違和感を感じたけど、気にしないで着替えた。
 俺が部屋でくつろいでいると、それまでどこにいたのか理奈とさとみが部屋にやって来た。
「どこ行って──」
「たっちゃん」
「ど、どうしたんだ?」
 理奈とさとみの様子がいつもと違うことに気付いた俺は、改めて聞き返した。
「あずさちゃんが……」
「あずさがどうかしたのか?」
「あずさちゃんがいないの」
「どこかに遊びに行ったんじゃ……」
「ううん。友達に聞いてみたけど、誰も知らないの。あずさ、黙って出て行ったこと今までなかったのに」
 さとみは半泣き、理奈もどうしようもないという表情をしていた。
「それで、私たちで探したんだけど、家にもいなくて、近くにもいなくて。だけど、これを見つけたの」
 理奈はビニール袋を俺に渡した。
 中身は、焼き物の欠片だった。
 だけど、どこかで見たような……そう、それは俺の土器の破片だった。
 部屋に入った時の違和感は、その土器がなくなっていたことだった。
「ひょっとして、これをあずさが?」
「たぶん」
 俺はもう一度壊れた土器を見た。
「あずさ、お兄ちゃんの大切な土器を壊して、それでいてもたってもいられなくなって出て行ったのかも」
 おそらくさとみの分析が正しいだろう。
「バカだな。形あるものは必ず壊れるんだから」
 俺は袋を机の上に置き、上着を取って部屋を出ようとした。
「たっちゃん」
「あずさを探しに行く。これから寒くなるし、放ってはおけないから」
 季節は秋。といってももう十一月で、朝夕はだいぶ寒くなっていた。
「私も行くわ」
「いや、理奈とさとみは家にいてくれ。俺が出ている間にあずさが戻ってきたらそのまま引き留めて、俺が帰ってくるのを待っててくれ」
「でも……」
「大丈夫。必ず連れてくるから」
 俺はそう言うと部屋を出て、家を出た。
 俺は家を出ると、とりあえず学校へ向かった。小学校は中学校の隣にあるが、門の位置が全然違うために、それぞれを確かめることはそうそうない。
 学校はすでに明かりが落ちて、人の気配がなかった。
 俺は校庭を一通り探したが、あずさはいなかった。
 学校をあとにした俺は、商店街へ向かった。
 ただ、ここにあずさがいるとは思えなかった。それは、あずさが人の多いところが苦手だからだ。
 商店街を通り抜け、俺は公園に向かった。
 公園に着いた頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。気温も低くなって、だいぶ寒くなってきた。
 公園の街灯を頼りに、隅から隅まで探したけど、あずさはいなかった。
 俺は公園のベンチに腰掛け、ため息をついた。
 理奈とさとみに大きなことを言ったのに、見つけられていなかったそのことに、自分でも少しイヤになっていた。
 だけど、ここで探すのをやめるわけにはいかなかった。
 俺は公園を出た。
 その時、俺は昔理奈やあずさ、さとみと遊んだ時のことを思い出していた。
 夕方、母さんが呼びに来るまで遊んでいたのも度々。
 よく遊んでいたのは──
 俺は、駆け出した。
 学校を通り過ぎ、大きな道路を越えて小高い山に来た。
 そこには神社があった。
 それは、昔みんなで遊びに来ていた神社だった。
 俺は階段を上り、鳥居をくぐった。
 境内は木が多いこともあって、かなり暗かった。
 参道、手洗い場、社務所と探したがあずさは見つからなかった。
 俺は目を凝らして本殿の方を見た。
 すると、うっすらと誰かがいるのがわかった。
 俺はゆっくりと近づいていった。
「あずさ……」
 その人影は、あずさだった。
 あずさは一瞬身を固くしたが、近づいてきたのが俺だとわかると、少し安心したみたいだった。
「お兄ちゃん……」
「あずさ。こんなところにいると、風邪引くぞ」
 俺は本殿の縁側に座っているあずさの隣に座った。
「理奈とさとみが心配してたぞ」
 あずさは黙って俯いたままだった。
「俺も心配したんだからな」
「お兄ちゃん、ごめんなさい。お兄ちゃんが大切にしていた土器を壊してしまって。それで……」
 あずさは肩を震わせて泣いていた。
 俺はあずさの肩に手を置いた。
「こんなに冷えてるじゃないか」
 俺は上着をあずさにかけた。
「あずさ。俺は別に怒ってないよ。形あるものはいつかは壊れるし、あんなところに置いていた俺も悪いんだから」
 俺はできるだけ優しく言った。
「だけどな、ひとつだけ怒っていることがある。それは、黙って家を出たことだ。みんなに心配かけさせたのには怒ってる」
 俺はあずさの肩を抱いて、俺の方へ抱き寄せた。
「もう、心配かけさせるなよ」
「お兄ちゃん……」
 あずさは俺の胸の中で泣いた。声も上げずに泣いた。
 ひとしきり泣いたあとで、
「そろそろ帰ろう」
「うん」
 俺は久しぶりにあずさと手を繋いで帰った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「探しに来てくれて、ありがとう」
「当たり前だろ。あずさは俺の大切な妹だ。その妹がいなくなったら兄として探しに行くのは当然だ。それに……」
「それに?」
「いや、やめておくよ」
「内緒なの?」
「う〜ん、聞きたいか?」
「うん」
「よし、今日は特別だ」
 俺はあずさの方を向くと、
「俺はあずさが大好きだからな」
 あずさは予想通り、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「ははは、さあ、帰ろう」
 帰り道、さっきよりあずさの俺の手を握り返してくる力が強くなったような気がした。
 
 その日からしばらく、あずさは俺にべったりだった。
 さとみはかなりヤキモチを妬いていたし、理奈もちょっと複雑な表情をしていた。
 だけど、土器ひとつでより兄妹の絆が深まったのは確かだろう。
 俺はあずさも好きだけど、さとみも好きだ。
 俺は、昔から兄バカだったのかな。
 
 
第四話 男もすなる日記といふものを
 
 その壱 かしましいのは好きですか?
「これなんかいいんじゃない?」
「ええーっ、こっちの方がいいよ」
「ううん、これがいいよ」
「そうかな。ねえ、理奈はどれがいいと思う?」
「う、うん、私は……」
「まったく、理奈は相変わらずなんだから。少しは自分らしさを見つけないと」
「でも、理奈はなんにもしなくても十分だってこともあるんじゃない」
「そうかも。なんてったって、理奈は学校のアイドル、ヒロイン、憧れ、女神、う〜ん、とにかくすごい人気だもんね」
「そんなことは──」
「あるのよ。理奈もそこのところを自覚すると、変わると思うんだけどな」
「千絵。それってヤキモチ? 嫉妬?」
「なぁに言ってんのよ。そう言う涼子こそ」
「私は、自分のことをちゃんとわかってるから、そんなことないもん」
「そうかしら。案外、理奈さえいなければ男の子の気持ちは私のものなのに、とか考えてんじゃないの」
「それは千絵でしょ」
「んもう、ふたりともいい加減にしなさいよ」
「あっ、ごめぇん」
「当事者を無視して話すのはよくないんじゃない」
「あはは、由香も言うわね」
「理奈。決まった?」
「うん、もうちょっと」
「やっぱり理奈は冒険しないのよね。まあ、選んでるものはどれもいい感じだけど。でも、たまには冒険してもいいと思うんだけどな」
「千絵はいつも冒険しっぱなしでしょ。ほらっ」
「きゃっ! やめてよ」
「まったくあのふたりは懲りないんだから。理奈もなんか言ってあげれば?」
「ううん、いいよ。千絵と涼子はああじゃないといるって気がしないから」
「あはは、それはそうかも。変におとなしいとこっちがおかしくなるかも」
「それは言い過ぎだよ」
「そうだよ、由香」
「あっ、やっぱり聞いてた?」
「うん、ばっちり。ね、涼子?」
「うん」
「だから、あとで由香におごってもらうからね」
「なっ、ちょっと、どうしてそうなるのよ?」
「いいからいいから」
「うん。これにしよう」
「えっ、どれどれ?」
「あっ、これ、この秋の流行りの色だ」
「うん。確かに理奈にぴったりかも。これを着て秋風に吹かれながら髪をなびかせて、ちょっと物憂げな顔をすれば、男の子なんて即ゲットよ」
「涼子、飛躍しすぎ」
「そうかな。いいと思うんだけどな」
「じゃあ、涼子がまず試しにやってみたら?」
「ああ、ダメダメ。私、そんな状況に耐えられないから」
「やる前からギブアップ?」
「千絵はできるの?」
「私? そうね……ちょっと無理かも」
「ほうらね。だから、これは理奈じゃなきゃできないの。わかった?」
「あれ? 理奈は?」
「レジに買いに行ったわ」
「そっか。でもさ、理奈はなにを着ても見てくれる人がいるからいいよね」
「竜也くんのこと?」
「そっ。だって、幼なじみで一緒に住んでて、それで仲が良くて」
「でも、確かに仲は良いけど、それ以上って感じはしないのよね。友達以上、恋人未満みたいでさ」
「それは言えてるかも。見てると、なんか歯がゆくなることもあるのよね」
「でも、あれは竜也くんに原因があるかも」
「どういうこと?」
「たぶんね、竜也くんは慣れすぎてるのよ。いつも理奈がいるということに」
「それって、羨ましいことでもあるけどね」
「そうかもしれないけど、理奈は複雑なんじゃない」
「竜也くん、少し優しすぎるところがあるから、関係を壊せないんじゃない」
「そうだよね。竜也くん、優しいしカッコイイし」
「あれ、涼子。ひょっとして密かに竜也くんを狙ってるの?」
「なっ、なにバカなこと言ってんのよ。どうして私が……」
「ホントにそう思ってる?」
「そりゃ、少しくらいは、いいかな……って、なに言わせるのよっ!」
「あはは、冗談よ、冗談。だって、竜也くんはほかの誰も見てないもの。ひょっとしたら理奈さえも」
「千絵……」
「おまたせ。あれ、どうしたの?」
「う、ううん、なんでもないよ。さっ、次行こ、次」
「そうだね」
「ようし、今日は買いまくるぞ」
「やめときなさい」
「由香、冷静すぎ」
「あはは」
 
 その弐 ファイト
「失礼します」
 私は挨拶をして音楽室に入った。
 音楽室では篠原先生がピアノを弾いている。
 私はその演奏が終わるまで待つことにした。
 先生は目を閉じて、ただひたすらにピアノに向かっていた。私もピアノをやっていたから少しはわかるけど、先生は上手い。
「ごめんなさいね。こんなところまで呼び出したりして」
「いえ、いいんです」
 先生はピアノの蓋を閉じて、私の前に座った。
「実はね、桃瀬さんに頼みがあるのよ」
「頼み、ですか?」
「今度、文化祭があるでしょ。その文化祭の開会式で毎年ピアノと歌があるでしょ」
「はい」
「だけど、今年は伴奏者が見つからなくて。それで桃瀬さんか、誰かに頼もうと思って」
「私ですか?」
「お願いできないかしら?」
「でも、もうピアノをやめて六年になります。だから、できるかどうか」
「そうね。六年はつらいかも」
 先生はちょっとがっかりしたみたい。
「先生」
「なにかしら?」
「伴奏者は三年じゃなくてもいいんですよね?」
「ええ」
「じゃあ、ひとりいいですか?」
「誰かしら?」
「たっちゃんの、竜也くんの妹のあずさちゃんです」
「笹森くんの妹さん?」
「はい。ピアノの腕前は保証付きです」
 先生は少し考えて、
「一度演奏を聴いてみたいわね」
「わかりました。明日の放課後、連れてきます」
「お願いするわね」
「はい」
 
 次の日。
「……素晴らしいわ」
「そんなことないです」
「桃瀬さんの言ったことは本当だったわね」
「はい、ウソは言いません」
「笹森さん。お願いできないかしら?」
 あずさちゃんはちょっと困った表情をしたけど、
「わかりました。やります」
「ありがとう」
 先生は嬉しそうに頷いた。
「だけど、本当に上手ね。先生、驚いたわ」
 先生はピアノ椅子に腰掛けた。
「先生も昔はピアニストを夢見たこともあったわ」
「先生もですか?」
「ええ、そうよ。四歳の頃からピアノをはじめて、中学校の頃にコンクールで準優勝したこともあったわ」
「やめたんですか?」
「ううん、やめたわけじゃないの。でも、やめたと言ってもいいかも」
 私は思わず首を傾げた。
「弾けなくなっちゃったの。練習しても練習しても、ちっともいい演奏ができなくて。それでも夢を捨てるのはイヤだったから、一生懸命努力したわ。でも、いつまで経っても弾けなかった。それでね、大学に入る時、思い切ってピアノをあきらめたの。だから、世界史なんか教えてるのよ」
「心が繋がらなかったんですね」
 あずさちゃんが言った。
「そうなの。ピアノはね、その技量も大切だけど、心にあるものをそのまま表すことで演奏するものなの。だけど、その頃の私にはそれがわからなくて。ただがむしゃらに練習して。そのことに気がついたのは大学に入って、もう卒業しようって言う時。久しぶりにピアノを弾いたら考えなくても指が動いて、思い通りに弾けたの。その時思ったわ。ピアノは指で弾くものではなく、心を通わせて想いを形にして弾くものだって」
 先生は鍵盤をひとつ鳴らした。
「ピアノを弾くことは人を想うことと同じだと思うわ。笹森さんはきっとそれができているのよ」
 あずさちゃんの想い。それはたぶん──
「ちょっと長くなっちゃったわね。それじゃ、よろしくお願いね」
「はい」
 
「へえ、じゃあ、あずさが伴奏するんだ」
「先生直々の頼みだったからね」
 私はたっちゃんの部屋におじゃましてる。
「だけど、大丈夫かな、あずさ」
「大丈夫よ。コンクールや発表会なんかもこなしてるんだから」
「わかってないな」
「どういうこと?」
「コンクールや発表会なんかは見てる人、聴いてる人がほとんど知らない人だからかえってリラックスできるんだ。ところが、桐高祭はそうはいかない。知ってる人の方が多いからな。プレッシャーでつぶれてしまうかもしれないぜ」
 やっぱりたっちゃんはあずさちゃんのお兄さんだ。よく妹のことを理解してる。
「まあ、あずさもこのプレッシャーに打ち勝てれば、まだまだ伸びるんだろうけどさ」
「ねえ、たっちゃん」
「ん?」
「心配?」
「あずさのことか?」
「うん」
「そりゃ、心配じゃないと言えばウソになるけど、そうそう心配もしていられないし」
 昔からだもんね。たっちゃんがあずさちゃんのことを心配するのは。普段はさとみちゃんが甘えてるけど、いざとなるとあずさちゃんを真っ先に心配するし。
 少し、羨ましいかな。
「理奈。今回は俺はなにもしないからさ、あずさのことは頼むわ」
「えっ……?」
「実は、これはまだ内緒なんだけど、ひょっとしたら桐高祭の初日は行けないかもしれないんだ」
「どうして?」
 たっちゃんは少し考えて、
「あずさとさとみには絶対に言うなよ」
「うん」
「桐高祭の初日と同じ日に、日本考古学研究会の総会があるんだ。それに行かないかと三輪教授に誘われたんだ。桐高祭の日は出席は終わりにしか取らないし、午前中だけでも出てみようかと思って」
「そうなんだ」
「そういうことだから、頼みたいんだ」
 ちょっと勝手かとも思うけど、いつもたっちゃんに迷惑ばかりかけてることを考えると断れないかも。
「少し考えてみる」
「そうしてくれ」
 
 次の日から早速練習がはじまった。
 あずさちゃんくらいの実力があれば桐高祭でやる程度の曲は、初見でも十分できた。
 音楽室にはあずさちゃんと私、担当の篠原先生と桐高祭の実行委員長、それからさとみちゃんがいた。
 たっちゃんは自分で言った通り、私に任せて来なかった。
「どうかしら?」
「はい。問題ありません。これならすぐに合唱とあわせられます」
「そうね。明日からあわせてみましょう」
 桐高祭まであと五日。
 
「たっちゃん」
「どうした?」
「あずさちゃんね、がんばってるわよ」
「そっか」
「ねえ、やっぱり来られないの?」
「ダメだ」
「じゃあ、せめてあずさちゃんに教えてあげたら?」
「教えてどうするんだ? ここまでやって来たことを無にするようなことを言うのか?」
「だけど……」
 私はなおもたっちゃんに食い下がったけど、たっちゃんは取り合ってくれなかった。
「なあ、どうしてそんなに今回はあずさに肩入れするんだ?」
「別に肩入れしてるわけじゃないけど……」
 言えるわけないよ。あずさちゃんにはたっちゃんが必要だなんて。あずさちゃんの想いは全部たっちゃんへの想いだって。
「ふう、じゃあ、こうしよう。俺も午前中だけは出たいからこれは譲れないけど、できる限り急いで帰ってくるから」
「ホント?」
「まあ、間に合う保証はないけどさ」
 ホントにたっちゃんは優しい。
「理奈。俺がどうしてあずさを任せたかわかるか?」
「時間がないから、だけじゃないよね?」
「さとみもそうだけど、あずさも結構俺に甘えてるところがあるからな。それを少しでも直せればと思って。たとえ、俺がいなくなっても」
「えっ……?」
「いや、あんまり気にしなくていいや。とにかく、頼んだぞ」
「う、うん」
 
 桐高祭当日。
 開会式は十二時半から。ピアノと合唱は最後の方。
 たっちゃんは朝早くから出かけてしまった。結局、あずさちゃんにもさとみちゃんにも言ってない。
「お姉ちゃん。お兄ちゃん見なかった?」
「う、ううん、見てないけど。たぶんどこかで手伝いでもしてるんじゃないかな。たっちゃん、頼まれると断れない性格だから」
「そうだね」
 やっぱりあずさちゃんはたっちゃんを必要としてる。今はまだ時間があるからいいけど、直前になったらどうなるか。
「あずさちゃん」
「うん?」
「あっ、やっぱりいいや」
 私はたっちゃんのことを話そうかと思ったけど、やめた。
 時間は刻一刻と進んでいた。
 
「では、次に今年の合唱です。歌は合唱部のみなさんと有志のみなさんです。伴奏は一年の笹森あずささんです」
 まだたっちゃんは戻って来ていない。
 講堂にはほとんどの生徒が集まっている。ステージにはすでにピアノがセットされている。
 拍手の中、合唱部と有志、あずさちゃんの順番でステージに上がった。
 曲は二曲。時間にしてだいたい七、八分。
 私は祈った。たっちゃんが間に合うように。
 指揮者が指揮棒を上げ、曲がはじまった。
 あずさちゃんは少し緊張気味だったけど、無難にこなしていった。
 歌とピアノが一体となり、素晴らしい演奏になった。
 そして、二曲目。
 曲がはじまった。
「たっちゃん……」
「なんとか間に合ったな」
「っ! たっちゃん」
 私の隣には紛れもなく、本物のたっちゃんがいた。
「あずさは、俺なんかいなくても大丈夫なんだよ」
「うん」
「だけど、やっぱり硬いかな」
「ふふっ、やっぱり気になってたんだ」
「まあな」
 無事曲も終わり、あずさちゃんも大役を果たし終えた。
「あずさ。がんばったな」
「お兄ちゃんっ」
 ステージから戻ってきたあずさちゃんはたっちゃんに声をかけられ、満面の笑みを浮かべた。
「理奈。悪かったな」
「ううん」
「どうしたの?」
 たっちゃんの言葉に、あずさちゃんは首を傾げた。
「いや、なんでもないよ。それより、あずさにはなにかしてあげないといけないかな」
「えっ?」
「もうすぐ誕生日だしな」
「あっ、そっか」
「笹森さん。ちょっと来てちょうだい」
「あっ、はい」
 あずさちゃんは先生に呼ばれて行ってしまった。
「理奈。ちょっといいか?」
「うん」
 私はたっちゃんと一緒に講堂をあとにした。
 私たちは桐高祭では使わない教室に入った。
「今回は本当にすまなかった。俺のワガママに付き合わせちゃってさ」
「ううん、いいよ。いつもたっちゃんにはいろいろしてもらってるから、こういうことでもないと返せないから」
「今度埋め合わせするから」
「いいよ、そんなこと」
「いや、親しき仲にも礼儀ありだから」
「たっちゃん……」
「さて、今日は桐高祭を楽しもう」
「うんっ!」
 
 私は、優しくて頼りがいがあって、人のことを大切に考えて、ちょっと照れ屋で、そんなたっちゃんが、好き。
 
 
第伍話 秋は夕暮れ
 
 その壱 ○○の秋
 ☆竜也
 秋。
 暑い夏が終わり、寒い冬がはじまるまでの季節。
 食欲の秋。スポーツの秋。読書の秋。芸術の秋。
 俺は季節の中で秋が一番好きだ。暑くもなく寒くもなく。ちょうどいい季節。
 ちなみに、俺が秋といえばとりあえずはスポーツの秋。体を動かすにはちょうどいいし。
 ただ、今年はそうも言ってられない。一応、受験生だから。
「竜也」
「よっ、祐介。どうしたんだ? おまえがうちのクラスに来るなんて珍しいじゃないか」
「ちょっと暇だったからね」
 祐介は俺の前の席に座った。
「部活も終わって、毎日暇だろ?」
「まあね。だけど、それも受験が終わるまでの辛抱だよ。大学に入ればもっとできるからね」
「まったく、祐介は相変わらずだな」
「僕にはそれしかないから」
「ははは、そう言うなって」
「竜也は、国立一本なの?」
「ん? まだ決めかねてる」
「そっか」
「祐介は推薦だからな」
「でも、まだ合格できるかわからないから。筆記試験に面接、小論文があるから」
「大丈夫だろ? 祐介の実力はよくわかってるつもりだから」
「だといいけど」
「合格したら、いよいよ『マッドサイエンティスト』かな」
「なんだよ、それ。僕はそんな変なことにはならないよ」
「そうだな。祐介にはそれをやる勇気がないもんな」
「ひどいなぁ」
「ははは、冗談だよ、冗談」
 祐介はひとりっ子だけど、昔からどうも押しが弱い。気が優しいと言ってしまえばそれまでだけど、少し臆病なところがある。
 それでも、高校に入って化学に出会って少し変わった。
 化学の実験で薬品を調合する時、あまり慎重になりすぎるとかえって失敗する。だから、祐介は化学のおかげで少し強くなった、はす。
「ふたりとも楽しそうね」
「やあ、理奈ちゃん」
「こんにちは、祐介くん」
「そういえば、理奈ちゃんは竜也と同じ大学を志望してるんだよね」
「えっ、うん」
「そっか。また一緒なんだ」
「…………」
 俺はなにも言えなかった。
「じゃあ、僕はそろそろ行くから」
「ああ、またな」
 祐介は足早に自分の教室へ戻っていった。
「たっちゃん」
「ん?」
「……あ、ううん、やっぱりなんでもない」
「そっか」
 理奈は自分の席に戻ろうとしたけど、
「今日、一緒に帰ろうね」
「ああ」
 ひと言そう言って笑った。
 
 ☆理奈
「瑞穂」
「理奈」
「帰ろ」
「うん。だけど、たっちゃんは?」
「ちょっと用があってね。生徒会のことで会長に呼ばれたの」
 生徒会長は先の選挙で二年生の女子が当選した。彼女は生徒会の役員をやってたけど、会長の仕事は少し違う。だから前会長であるたっちゃんにいろいろ教わってるの。
「じゃあ、仕方がないね」
「これだけはね」
 私たちは教室を出た。
「そういえば、駅前に美味しいケーキ屋さんができたんだって」
「あっ、知ってる。確か、『フェアリー・マロン』て名前だと思ったけど」
「行ってみようか?」
「う〜ん、そうだね」
「食欲の秋だしね」
「うん」
 私たちは駅前にできたばかりのケーキ屋に向かった。
「うわぁ、すごい人……」
「そうだね……」
 ケーキ屋にはたくさんの女子高生がいた。店内の席も満席。外にもたくさん並んでる。
「どうしよっか?」
「やめよっか?」
「そうだね」
 私たちは結局入るのをやめてしまった。
「あんなにすごいとは思わなかったなぁ」
「このあたりにああいうお店、少ないから」
「でも、ちょっともったいなかったかな」
「また来ればいいよ」
「そうだね」
 私たちは駅前からいつもの通りへ出た。
「あれ?」
「どうしたの?」
「ほら、あれ、崇史くんじゃない?」
 通りの向こうから歩いてくるのは、間違いなく崇史くんだった。
「ん? 桃瀬と桜庭か」
「こんにちは、崇史くん」
「ああ」
「これから学校?」
 崇史くんは今日も学校に来てなかった。
「ああ」
「たぶんね、まだたっちゃん学校にいると思うから」
「そうか」
 崇史くんは私と瑞穂をちらっと見て、そのまま行ってしまった。
「相変わらずだね、崇史くん」
「うん」
「たっちゃんの前だと別人みたいなのに」
 だけど、私はもうひとりだけ崇史くんがほかの人の時とは違う態度を取る人を知ってる。
「さっ、帰ろ」
「うん」
 本人は気付いてないみたいだけど。
 
 ☆竜也
 今日は日曜日。
 今日は姉さんの彼氏の稔さんがうちに来た。
「こんにちは、稔さん」
「やあ、竜也くん」
「いつもいつも姉がお世話になってます」
「そんなことないよ」
「そうよ、竜也。私が面倒見てるのよ」
「それは言い過ぎだよ、いつみ」
「あら? 違う?」
「うっ、完全に否定できないのが悲しい」
 稔さんと姉さんは本当に仲が良い。付き合いはじめて一年くらいになるけど、喧嘩してるのを見たことがない。まあ、喧嘩しても姉さんが勝っちゃうかもしれないけど。
「これからもこのふつつかな姉をよろしくお願いします、お義兄さん」
「おっ、おにい──」
「たっ、竜也っ!」
「あはは」
 俺はふたりをからかって逃げた。
 まあ、いつも姉さんにはいろいろやられてるから、たまにはやり返さないと。
 それに、俺の予想では姉さんと稔さんはほぼ間違いなく結婚する。だから、あながち冗談ではないと思ってる。
「お兄ちゃん」
「ん? ふたり揃ってどうしたんだ?」
 俺がリビングのソファに腰を下ろすと、あずさとさとみが俺の両脇に座った。
「あのね、もうすぐ十一月でしょ」
「ああ、そうだな」
「十一月といえば──」
「十一月といえば、テストがあるな」
「違うの」
「じゃあ、なんだ?」
「んもう」
 さとみはほっぺたを膨らませた。
 実は、俺にはふたりがなにを言いたいのかわかっていた。だけど、ちょっとからかってみたくなっただけなのだ。
「さとみ」
 あずさがさとみをなだめるように声をかけた。
「本当にわからないの、お兄ちゃん?」
 だけど、あずさもそう訊ねてきた。
 これ以上焦らすのも可哀想だからな。
「ウソだよ。ちゃんと覚えてるよ。十一月の十一日はふたりの誕生日だろ」
「うんっ!」
 あずさとさとみはひと安心といった様子で、
「今年の誕生日はお兄ちゃんとずーっと一緒にいるって決めたんだ」
「いつも一緒にいるじゃないか」
「今年は土曜日だから」
 あずさがさりげなく説明した。
「なるほど、そういうことか」
「ねっ、いいでしょ?」
 さとみはねだるような上目遣いで、俺の方を見てる。
 控えめだけど、あずさも期待に満ちた目で俺を見てるし。
「わかったよ」
「ホント? わぁーいっ、ありがとっ、お兄ちゃんっ」
「お兄ちゃん、ありがとう」
 俺はあずさとさとみの笑顔を見るのが好きだ。たとえ、兄バカだと言われても。
 だから、このくらいはなんということはない。
「ホント、優しいお兄ちゃんだね、竜也は」
「あっ、ね、姉さん……」
 いつの間にか、姉さんが後ろに立っていた。
「さっきのはほんの冗談だから」
「ふうん、冗談ね」
「な、なんか、イヤな予感……」
「あとで覚えておきなさいよ」
 姉さんは顔は笑っていたけど、目がマジだった。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「いや、なんでもないんだ」
 なにも知らないふたりは、不思議そうな顔をしてる。
 あとで、姉さんから逃げる方法を考えないと。
 
 その弐 運命の悪戯
 ☆理奈
「たっちゃん。帰ろ」
「ん? ああ」
「どうしたの、ボーッとして?」
「いや、なんでもない。帰ろうぜ」
「うん」
 教室にはまだ結構残ってた。三年の階はもう受験色に染まっている。
 下校時間ギリギリまで学校で勉強してる姿をよく見る。
 最近は会話の中にもそういう話が多くなった。
 部活をしてるのは二年生と一年生。ほとんどの部活は新人戦も終わり、来年の春までに練習を積んで結果を残すのにがんばっている。
「ねえ、たっちゃん。最近疲れてない?」
「そんなことはない、と思うけど」
「毎日遅くまで起きてるでしょ?」
「……なんだ、知ってたのか」
「うん」
 最近たっちゃんは、深夜一時か二時くらいまで起きている。なにをしているのかはわからないけど、部屋の明かりが消えないからそれだけはわかる。
「実は、今までの研究をまとめてるんだ。バラバラにしておくとあとで大変だから」
「だけど、あんまりがんばりすぎると、体壊しちゃうよ」
「大丈夫だよ。俺の基礎体力はそんなに弱くないから」
「……うん」
 とは言うものの、最近のたっちゃんは精彩に欠けてる。授業中もボーッとしてることが多くなった。
「ねえ、私、手伝おっか?」
「まあ、そうしてほしいのはやまやまだけど、これは自分でやりたいんだ。以前の研究を見返す意味もあるから」
「でも……」
 私は食い下がった。たっちゃんが心配で。
「じゃあ、ひとつだけ頼もうか」
「うん」
「今夜、俺の部屋に来てくれ。その時に説明するから」
「うん、わかった」
 たっちゃんの顔に笑顔が戻った。私もつられて笑った。
 そして、その夜。
「うわぁ、すごい……」
 たっちゃんの部屋は、少し見ない間にすごいことになっていた。
「じゃあ、こっちの終わったやつを種類別に分けといてほしいんだ」
「うん」
 私はものすごい量の資料を目の前に、ちょっとめまいがした。でも、気を取り直してはじめた。
 たっちゃんが中学校の頃からコツコツと溜めてきた資料。康二叔父さんからもらった資料と独自に集めた資料。それを元にして研究したもの。
 私は種類別に資料を分類して、わかりやすいように揃えた。
 机の上、テーブルの上、ベッドの上、床の上。所狭しと並べられている資料。
 これじゃ、寝るところもない。
 ひょっとしたら、ずっとベッドで寝てないのかも。
 私はとりあえずベッドの上の資料を片づけ、次に床の上の資料を片づけた。
 机の上の資料は使っているものだからあと。テーブルの上の資料を片づけてとりあえず終わり。
「たっちゃん、だいたい終わったよ」
「ん? そうか、ありがとう」
 たっちゃんはちらっとこっちを見て、すぐに机に向かった。
「そうだ。なんか持ってこようか?」
「じゃあ、コーヒーを」
「うん」
 私は部屋を出て台所へ行った。
 リビングでは健一さんとかおりさんがテレビを見ていた。
「あら、理奈ちゃん。どうしたの?」
「ちょっとコーヒーを淹れようと思って」
「竜也のね」
「はい」
 さすがはかおりさん。みんなお見通しだ。
「手伝おうか?」
「いいんです。私がやりますから」
「うん、わかったわ」
 コーヒーメーカーを出して豆を碾き、お湯を注いでしばらく待つ。その間にカップを温めておく。
 たっちゃんはいつもブラックで飲むから、ミルクも砂糖もいらない。
 私はゆっくり落ちるコーヒーの滴を、ただじっと見ていた。
 コーヒーポットにコーヒーを入れたまま、カップを持って部屋へ。
「お待たせ」
 私はカップにコーヒーを注いでたっちゃんに渡した。
「ふう、落ち着く」
 たっちゃんはホッと息をついた。
「こんなにあったんだね」
「まあ、かれこれ六年になるから。でも、まだまだ少ないよ」
「そうかな」
「だけど、これが今の俺の限界だから。これ以上はもっといろいろなことを勉強しないとダメだな」
「焦っちゃダメだよ。焦ってもなにもいいことなんかないから」
「ああ、わかってるよ」
 そう言ってたっちゃんは机に向き直った。
「理奈。ありがとう。すごく助かったよ。それに、コーヒー、旨かった」
「うん」
「あとはいいから、もう寝なよ」
「たっちゃんは?」
「もう少しやってから寝る」
 時計はもうすぐ十二時。
「ねえ、私もここにいていい?」
「ん? ああ、別にいいけど。なにもすることないぜ」
「いいの」
「そっか。じゃあ、眠くなったら俺のベッド、使ってもいいから」
「うん」
 そう言ってたっちゃんは机に向かった。黙々と、ただひたすらに。
 私はその様子をただ後ろから見つめていた。
 時計の音と、鉛筆の音だけが部屋に響いていた。
 だけど、普段あまり遅くまで起きていないから眠気が襲ってきた。私は必死に眠気と戦ったけど、結局負けてしまった。
 意識が途切れる寸前、たっちゃんが私になにか言ったような気がした。
 再び目を覚ますと部屋の電気は点いたまま。
 時間は三時半。
 私はいつの間にかたっちゃんのベッドで眠っていた。
 たぶん、たっちゃんが私を寝かせてくれたんだ。
 そして、たっちゃんは机に突っ伏して眠っていた。
 私はそっと音を立てないようにベッドから出て、布団をたっちゃんにかけた。
「おやすみ、たっちゃん」
 そっと電気を消した。
 私は自分の部屋に戻り、しばしの眠りについた。
 
 ☆竜也
 今日は十一月五日、日曜日。
 朝からいい天気で、ちょっと気温が低いけど、気持ちのいい日。
 今日は今度の土曜日のあずさとさとみの誕生日プレゼントを買いに行く。
 毎年なににしようか悩むけど、とりあえず決めてることがある。それは、必ずふたりとも同じものを買うこと。色違いでもいいからとにかく同じもの。
 ふたりが小学生の頃はぬいぐるみとかおもちゃ類、中学生になってからはちょっとした小物類。去年は少し奮発してネックレスを買った。
「たっちゃん、どこ行くの?」
「ちょっと買い物」
「ああ、そっか、プレゼントね」
「そういうこと」
「じゃあ、今日はひとりの方がいいね」
「ふたりの相手は頼む」
「うん、任せといて」
 俺は理奈にふたりを任せて、駅前に向かった。
 今年は一応なにを買うかは決めていた。
 一度なにも決めないで行って、結局なにも買えなかったことがある。で、苦肉の策で一日ふたりの言うことを聞くということをやったら、あとが大変だった。
 だから、あらかじめ決めておくのだ。
 俺は目的の店に入った。
 そこは時計屋。今年は腕時計を買おうと決めていた。
 様々な時計がある。
 俺はひとつひとつ確かめるように見て、ある時計に目が留まった。
 それは時計自体はアナログの特に変わったところのない時計だったが、目を引いたのはバンドのところに好きな文字を入れてくれるというところだった。
 俺はそれにふたりのイニシャルを入れてもらうことに決めた。
「すみません」
「はい、いらっしゃいませ」
「この時計、バンドのところに好きな文字を入れてくれるとあるんですけど」
「はい。五文字程度なら」
「じゃあ、お願いできますか?」
「わかりました。それでなんと入れましょう?」
「ふたつに、ひとつはイニシャルでA・S。もうひとつはS・Sと入れてください」
「わかりました。少々お待ちください」
 そう言って店員は時計を持って店の奥へ消えた。
 俺は待っている間、いろいろな時計を眺めていた。
 壁掛け時計、アラーム付きの目覚まし時計。様々な機能がついた時計、これで時計の役割を果たすのか、というような時計。
 俺自身は去年時計を買ったばかりだから別段ほしいとは思わなかったけど、結構時計をプレゼントするのはいいことかもと思った。
 それから十分ほどして、
「おまたせしました」
 さっきの店員が時計を持って出てきた。
「こちらでよろしいでしょうか?」
 並べられたふたつの時計には、イニシャルが筆記体で綺麗に入っていた。
「はい」
「では、お包みしますが」
「別々にラッピングしてもらえますか?」
「わかりました」
 店員は慣れた手付きで時計を箱にしまい、それを綺麗な包装紙で包んだ。
「大変おまたせしました」
 俺は支払いを済ませると、それを受け取って店を出た。
 駅前は日曜日ということもあって、だいぶ人が多かった。
 俺はバースデーカードを買って家路についた。
 駅前通りから大通りへ。交通量はそれほど多くはないけど、歩道が狭いところで結構危ない。
 と、目の前を親子連れが歩いていた。身重な母親とおそらく三歳くらいの男の子。
 俺は何気なくそこを通り過ぎようとした。
 ところが、母親がちょっと男の子の手を放した途端、男の子がフラフラッと道路に飛び出してしまった。
 しかも運悪く車が向かっている。
 母親が気がついた時にはすでに半分くらいのところにいた。身重の母親では今からではとても無理。
 俺は心に思うと、同時に飛び出していた。
 しかし、このまま抱きかかえて反対側に出るにはタイミングがあわない。
 車のクラクションの音が耳につく。
 俺は最後の手段。男の子を反対側に突き飛ばし、自分でも反動でこっち側へ戻ろうとした。
 そして、
「それっ!」
 俺が男の子を反対側に突き飛ばすのと同時に、車が鈍い音を立てた。
「きゃあぁっ!」
 さっきの母親の叫び声が聞こえる。
 体が動かない。
 それになにか生暖かい。
 声も出ない。
 空が見える。
 だんだん音が聞こえなくなる。
 あっ、そっか。俺、轢かれたんだ。
 でも、どこも痛くない。
 でも、体は動かない。
 誰かが俺のことを呼んでる。
 だけど、よく聞こえない。
 どうしてだろう?
 俺、死ぬのかも。
 そうだ。プレゼントは、
 大丈夫。ポケットに。
 でも、もう……
 そして、俺は意識を失った。
 
 ☆理奈
「お姉ちゃん。お兄ちゃんは?」
「ちょっと買い物に行ったわ」
「そっか」
「そうだ。お庭の手入れでもしようか?」
「うん」
 庭には四季を通じて花が咲いている。普段はかおりさんが世話をしているんだけど、時々私たちもやっている。
 みんな緑や花が好きだから、それぞれが好きな花が植えられている。
 かおりさんはパンジー。健一さんは椿。いつみさんは薔薇。あずさちゃんが百合。さとみちゃんがチューリップ。たっちゃんは桔梗。私はすみれ。
 だから今の時期はたっちゃんの桔梗の花が咲いている。
「お姉ちゃん、お水持ってきたよ」
「ありがとう」
 私はさとみちゃんからじょうろを受け取り、水をかけはじめた。
「あれ?」
「どうしたの、さとみちゃん?」
「ほら、お花がしおれてる」
「あっ、ホントだ」
 秋の花、桔梗は季節的にはまだ咲いていてもいいはずなのに、もうしおれている。
「お水やり忘れたのかな?」
「そんなことはないと思うけど」
 しっかり者のかおりさんのことだから、水をやり忘れてることなんてない。
「じゃあ、しっかり水をやっておこ」
「うん」
 私はたっぷり水をかけた。
「さて、今度はこっち」
 それからしばらく庭で過ごし、家に入った。
 私はリビングで早速かおりさんに訊いてみた。
「かおりさん。庭に水、やり忘れましたか?」
「ううん。ちゃんとやってるわよ」
「じゃあ、どうしてだろう?」
「どうしたの?」
「桔梗の花がしおれていたんです」
「あら、おかしいわね。昨日は綺麗に咲いていたのに。たった一日でしおれるなんて、夏じゃないからないのに」
 かおりさんも不思議そうな顔をしてる。
「でも、水をやったから大丈夫ですよね?」
「そうね。もう時期も終わりだけど、もう少し大丈夫だと思うわ」
「よかった」
 私はなんとなくホッとした。
「お茶でも淹れるわね」
「あ、私も手伝います」
 私たちは台所に立って、お茶の準備をはじめた。
「紅茶でいいわね?」
「はい」
 私はお湯を沸かし、かおりさんが紅茶とカップの準備をした。
「きゃっ!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ちょっと手が滑っただけ」
 珍しくかおりさんが食器を落として割った。
「掃除しなくちゃ」
 その時、電話が鳴った。
「あっ、私がやっておきます」
「じゃあ、お願いね」
 かおりさんは電話を取った。
「はい、笹森です」
 私は後片づけをしながら誰からの電話か、耳をそばだてていた。
「はい……はい……」
 だんだんとかおりさんの声のトーンが下がっていく。
「そんなっ!」
 突然、大きな声を上げた。滅多にないことにちょっと驚いた。
「はいっ、わかりました、すぐに」
 かおりさんは青ざめた顔で受話器を置いた。
「どうしたんですか?」
 私は一瞬躊躇ったが、訊いてみた。
「理奈ちゃん……あずさとさとみを呼んできて……」
「あ、はい」
 私は訳もわからず、二階にふたりを呼びに行った。
 呼んで戻ってくると、リビングには仕事をしていたはずの健一さんもいた。
「来たわね」
 かおりさんはさっきより青ざめた顔をしている。
 健一さんはその様子を心配そうに見ている。
「あの、どうしたんですか?」
「絶対に驚かないで」
「は、はい」
 私はかおりさんの迫力に、思わず声が裏返った。
「今、警察から電話があったの」
「警察?」
「竜也が、竜也が……うっ」
 かおりさんはそれだけ言うと声を詰まらせ、泣き出した。
 それを健一さんが優しく支え、言葉を続けた。
「竜也が、交通事故に遭った……」
「交通、事故……」
 私は一瞬なんのことかわからなかった。
「ウソっ! ウソっ! お兄ちゃんが交通事故なんてっ!」
 さとみちゃんが悲鳴にも似た声を上げた。
「駅前からの大通りで、男の子を助けるために飛び込んではねられたそうだ……」
 心なしか健一さんの声も震えている。
「幸い、命には別状はないそうだが、意識不明の重体だそうだ……」
「うっ、うわぁんっ!」
 さとみちゃんが泣き出した。
 あずさちゃんは呆然として、その場に足から崩れた。
 私だって、涙が止めどなく溢れて、今にも倒れそうだった。
「これから病院に行く。いつみには電話したから、直接病院に来る」
 私はどうしていいのかわからなかった。
 そして、どこをどうやって来たのか。いつの間にか病院に着いていた。
 私たちは重い足取りながら、一刻も早くたっちゃんのもとへ。ただそれだけの思いで廊下を急いだ。
 案内された病室の前には、数人の人がいた。
「どうも、県警の坂本です」
「竜也の様子は?」
 健一さんもたっちゃんのことが気になり、挨拶どころではない。
「今、手術中です。終わってもしばらくはICUでしょう」
 代わって白衣を来た男の人が話しはじめた。
「病状ですが、右足の三カ所骨折、肋骨を二本骨折、それと頭部から出血がありまして脳には異常はないと思いますが、意識はありません。それと、強く体を打っていますから全身打撲になっています。内臓の方は奇跡的にほぼ無傷です。ただ、折れた肋骨が少し臓器を圧迫しています。現在は頭部の縫合手術、胸部の肋骨の矯正手術、右足の複雑骨折部分の手術、ほかの固定を行っています」
「先生っ! 竜也は、竜也は」
「大丈夫です。落ち着いてください。意識はありませんが、命に別状はありません。ただ、しばらくはICUで面会謝絶です」
 かおりさんはその場にへたり込んでしまった。
 あずさちゃん、さとみちゃんはもう話を聞いていられない状態。
 そこへいつみさんがやって来た。
「お父さん、竜也はっ!」
「大丈夫だ」
 健一さんはひと言そう言った。
「それから、この子が竜也くんが助けた子です」
 私たちの様子をずっと見ていた親子が紹介された。
「い、井上です。この子が飛び出したところを……うっ」
 井上さんはもうそれ以上話せなかった。おそらくその場を見たからだろう。
「幸い、優太くんはかすり傷で済みました」
 確かに男の子、優太くんは腕に包帯を巻いているだけだった。
「では、こちらの部屋で詳しい事情を説明します」
 その時、私はふっと力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
 そして、そのあとのことはよく覚えていない。
 
 ☆???
 病室には、無機質な機械音だけが響いていた。
 心音を表すその音は規則的に、そして安定して鳴っていた。
 今、ベッドのまわりには六人おり、その誰もが一点を見つめていた。
 竜也の手術は無事成功。二日間の面会謝絶も解かれ、今は会うこともできる。と言っても、まだ意識は戻っていない。
 ベッドの傍らに立つそれぞれの顔には、かなりの疲労が見て取れる。
 だが、今はそれどころではないということを、誰しもわかっていた。
 理奈は、ずっと竜也の手を握ったまま、ただ祈るように目を閉じていた。
 あずさとさとみはもう片方の手をふたりで握っている。ふたりとも腫れぼったい顔をして、目は真っ赤だ。
 健一はベッド脇の椅子に腰掛け、ただ黙って見ている。
 かおりは、時折竜也の髪を撫でている。
 いつみは、さっきから竜也の顔と側にある機械とを交互に見ている。
 担当医師によると、竜也はもう意識を取り戻してもおかしくないらしい。ただ、頭部を打ったことで少し回復が遅れているのでは、そういう見解だった。
 それと、竜也は全治三ヶ月。右足の骨折が一番時間がかかる。そのほかは一ヶ月ほどで治るらしい。
「さあ、そろそろ帰るぞ」
 健一は沈黙を破り、声をかけた。
 彼らは事故に遭った日こそずっと病院にいたが、次の日からは面会謝絶ということもあって、必ず家に帰っていた。
 ただ、一応かおりだけは付きっきりだった。
「たっちゃん……」
 理奈はしばしの別れを惜しむように声をかけ、手を強く握った。
「あっ……」
 すると、わずかに竜也の手が理奈の手を握り返した。
「あとは、頼む」
 かおりを病室に残して、五人は家に帰った。
 
 ☆竜也
 あれ? 俺はなにをしていたんだ?
 確か、車に轢かれて……
 そうか。死んだんだ。
 だけど、誰かの声を聞いたような気がした。
 あれは、理奈の声?
 それとも、あずさ?
 さとみ?
 姉さん?
 母さん?
 父さん?
 そう言えば、体が温かい。
 目は開くのか?
 手を動かしてみよう。
 動く。
 それに、誰かが俺の手を握っている。
 誰だろう?
 
 気がつくと、そこは見たこともない部屋だった。
 暗い部屋に薄明かりが灯って。
 そこが病院の病室だと気付くまで、しばしの時が必要だった。
 体は起こせない。
 だけど、俺は助かったんだ。
 首を少し曲げて横を見た。
「母さん……」
 そこには母さんがベッドのところに伏して眠っていた。
 俺は思った。
 さっきの声は気のせいなんかじゃなかった。ずっと俺に声をかけていたんだ。
 みんなのおかげで助かった。
 そう思ったら、また眠くなった。
 
 ☆理奈
 私たちは急いで病室に向かった。
 朝、かおりさんから電話があって、たっちゃんが意識を取り戻したということだった。
 みんな、眠れない夜を過ごしていたのにそれを聞いた途端、いてもたってもいられなくなり、すぐに病院へやって来た。
 たっちゃんはICUから一般病室へ移されていた。
「お兄ちゃんっ!」
 さとみちゃんが真っ先に病室へ飛び込んだ。
「たっちゃん……」
 たっちゃんはベッドの上に体を起こして、いつものように笑っていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!」
「ごめんな、さとみ」
 たっちゃんにすがりついて泣きじゃくるさとみちゃんを、たっちゃんは優しく抱き留めた。
「お兄ちゃん……」
「あずさ」
 たっちゃんはあずさちゃんも自分の方へ抱き寄せた。それと同時に、あずさちゃんも泣き出した。
「竜也」
「ごめん、父さん」
「いいんだ、無事なら」
 健一さんとはただそれだけだった。
 たぶん、ほかにはなにもいらなかったのだろう。
「まったく、心配ばかりかけて」
「姉さん……」
「あとで、絶対に穴埋めしてもらうから」
 いつみさんの声は震えていた。
「うん、必ず」
 たっちゃんはいつものように微笑んだ。
「ほら、さとみ。理奈ちゃんに場所を空けなさい」
「理奈……」
「たっちゃん……」
 私はベッド脇の椅子に座った。
「バカ……バカバカバカバカ……ホントに、ホントに心配したんだから……」
「ごめん」
「ホントに……」
 もうあとには言葉が続かなかった。
 私はたっちゃんに抱きすがって、堰を切ったように泣いた。
 たっちゃんは優しく、本当に優しく私を慰めてくれた。そして、そんなたっちゃんの優しさに触れると、また涙が溢れてきた。
「ホントにごめん」
 
 ☆竜也
 俺の意識が回復したことで、みんなの生活のリズムが少しずつ元に戻ってきた。
 理奈とあずさ、さとみは学校へ行った。
 父さんも仕事をはじめた。
 姉さんも大学へ行った。
 母さんだけは俺に付き添っている。
 そして、今病室にはあの親子がいる。
「よかったな、怪我がなくて」
 名前も聞いた。井上優太くん。俺の予想通り三歳だった。
 だけど、三歳なりにことの重大さはわかっていたらしい。さっきからずっと萎縮している。
「本当になんと言ったらいいのか」
 母親の井上綾子さんは、さっきからそればかり繰り返している。
「いいんですよ。あの状況では仕方がないことですから。俺の方も少し自分のことを過信していたんです」
 確かにあの時、優太くんを突き飛ばして自分も反対側に、と思ったけど、体重の軽い優太くんを突き飛ばして俺が反対側に飛ぶわけがない。
「だけど、お腹のお子さんは大丈夫ですか? その様子だとあまり眠っていないようですし。優太くんも心配でしたけど、今度はそっちの方が心配です」
「そうですよ。竜也のことは仕方がないことですから」
「母さん」
 話していると、母さんが花瓶の花を取り替えて戻ってきた。
「あまり気にしないでください。と言っても無理でしょうけど。あまり自分を責めないで。結果的には竜也も優太くんも助かったんですから」
「は、はい」
 綾子さんは、さっきからずっと泣いている。
「そろそろ検診の時間です」
 看護師さんが部屋をまわって、時間を告げた。
「それでは、失礼します」
「そこまで送ります」
 そう言って綾子さんと優太くんはもう一度深々とお辞儀をして、部屋を出て行った。
「気分はどうかな?」
 それと入れ替わりに俺の担当医、林先生が入ってきた。
「はい、すこぶる好調です」
「ははは、それは結構」
 先生はカルテを見てから傷の具合を確かめた。
「順調に回復してる。しかし、君の快復力は驚異的だ。これなら予定より早く退院できるかもしれない」
「いつ頃になりますか?」
「そうだな、早くて来月の中頃。遅くとも今年中には退院できると思うよ」
「そうですか」
 俺は少し安心した。
「それと、足のギブスは一月くらいまでは外せないから。その間は松葉杖を使ってもらうよ」
「はい」
「まあ、こんなところかな。では、お大事に」
 先生が部屋を出る時に、ちょうど母さんが戻ってきた。母さんは先生とひと言、二言交わした。
「帰ったの?」
「ええ、くれぐれもよろしくって」
「もう何回も聞いたよ」
 俺は冗談含みで笑った。
「そうだ。母さん」
「ん?」
「俺の持ち物は?」
「それならここにあるわよ」
 そう言ってベッドの横の引き出しを開けた。
 そこには少し血の付いた財布と、箱がふたつ。
 そう。あずさとさとみへのプレゼントだ。
「無事だったんだ」
「そうよ。救急隊員の方も、よく無傷で残ったって言ってたわ」
 俺はふたつの箱を手に取った。
「母さん。ペン、持ってる?」
「ええ、あるわよ」
 俺は母さんからペンを受け取った。
 バースデーカードも無事だった。
「よかったわね、もう一度買うことにならなくて」
「本当だよ」
 俺は笑いながら筆を走らせた。
『HAPPY BIRTHDAY あずさ(さとみ)
 いつもより多めの感謝を込めて、たくさんの幸せが舞い降りるように
                                バカな兄 竜也』
 青いリボンがあずさ、赤いリボンがさとみ。
「そういえば、篠原先生に連絡したら、明日伺わせてもらうって言ってたわ。先生もずいぶん心配してたみたいだから」
「まだ、心配かけるよ。どうせすぐには学校へも行けないし。受験も近いから」
「だけど、まだ決めてないんでしょ?」
「まあね」
「まあ、いいわ。それより、少し休んだ方がいいわよ」
「そうするよ」
 俺は横になった。
「母さん」
「どうしたの?」
「俺って、親不孝者だよね」
「……なに言ってるのよ。そんなことまだまだ気にしなくていいのよ。そういうことはあずさやさとみ、理奈ちゃんに対して気にしなさい」
「そうだね……」
 
 ☆理奈
「待ってよ、理奈」
「ほら、早く早く」
 放課後。私は瑞穂と病院へ向かった。
 授業中もたっちゃんのことが気になって、全然集中できなかった。
 制服のままだったから、病院に入った時はちょっと不思議そうな目で見られた。
「ここだよ」
 はやる気持ちを抑えつつ、病室へやって来た。
「あら、理奈ちゃん。瑞穂ちゃんも」
 ドアを開けようとしたら、かおりさんが出てきた。
「竜也。理奈ちゃんと瑞穂ちゃんよ。さっ、入って」
 私たちはかおりさんと入れ替わりに病室に入った。
「ずいぶん早いじゃないか」
「急いできたから」
 私と瑞穂は、ベッド脇の椅子に腰掛けた。
「瑞穂にも心配をかけたかな」
「うん。でも、無事でよかった」
「瑞穂ね、たっちゃんのために願掛けしてたんだって」
「願掛け?」
「そ。たっちゃんが無事でありますようにって」
「それくらいしか私にはできないから」
「ありがとう、瑞穂」
「ううん」
 瑞穂も本当に嬉しそう。
「そういえば、先生なにか言ってた?」
「うん。たっちゃんのこといろいろ訊かれたよ。先生も心配してたみたい」
「じゃあ、先生にも謝らないと。明日先生来るからさ」
「そうなんだ」
「たっちゃん」
「ん?」
「今度は私がこういう立場になったね」
「ん? ああ、そうか。小学校の時の」
 小学校の時、瑞穂はたっちゃんと同じように交通事故に遭ったことがあった。怪我の具合はたっちゃんより遙かに軽かったけど、二週間ほど入院もした。
 その時、私とたっちゃんは毎日お見舞いに行っていた。
 そのことを言っているんだ。
「今ならあの時の瑞穂の気持ちがわかるよ。病院て暇だから、誰かが見舞いに来てくれると本当に嬉しい」
「うん」
「竜也」
「あっ、姉さん」
 病室に入ってきたのはいつみさん、それにかおりさんも一緒だった。
「あっ、ふたりとも来てたんだ」
「こんにちは」
「こんにちは、瑞穂ちゃん」
「今日はずいぶん早いね」
「なぁに言ってんのよ。カワイイ弟が入院してるっていうのに、ほかのことなんかしてられないでしょう?」
「本当にそれだけ?」
「それに、たくさん恩を売っておけば見返りも多そうだし」
「だと思った」
 そう言ってたっちゃんは笑った。
「あっ、みんな来てる」
 今度はあずさちゃんとさとみちゃん。
「急いで来たのに」
 さとみちゃんは一番最後でちょっと残念そう。
「せっかくの個室でも、これだけ入ると狭くなるわね」
「相部屋にはできないかも」
「考えておくわ」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「さとみ、なんでもするからなんでも言って」
「ははは、ありがとう。でも、とりあえずは来てくれるだけでいいよ。あとは母さんがやってくれるから」
 さとみちゃんはかおりさんの方を見て、
「ねえ、お母さん。さとみ、お兄ちゃんのお世話がしたい」
「ダメよ」
「どうして?」
「学校もあるでしょ。家のこともあるし」
「でも……」
「あずさも理奈ちゃんもダメだからね」
 私もあとで言おうとしてたことを先に言われ、しかもとめられてちょっと力が抜けてしまった。
「その代わり、お見舞いに来た時は私の代わりをやってもらうわね」
「うんっ!」
 さとみちゃんはたっちゃんの世話ができるのが本当に嬉しいのだろう。さっきまでの渋い表情から一転、満面の笑みを浮かべている。
「さ、今日はそろそろ帰りなさい。朝も来たんだから。いつみ。みんなを送ってね」
「うん、わかったわ」
「あっ、瑞穂」
 私たちが病室を出ようとしたら、たっちゃんが瑞穂を呼び止めた。
「これを」
 そう言って一枚のカードを渡した。
「なにそれ?」
 カードには『THANK YOU FOR YOUR COMING』と書いてあった。
「来てくれたお礼だよ」
「ありがとう」
 瑞穂は嬉しそうにそれを受け取った。
 
 ☆竜也
「でも、本当によかったわ」
 次の日、篠原先生が来てくれた。
「学校ではあっという間に噂が広まってね、大変だったわよ。笹森くんのことを訊きに来る女子の応対が」
「本当にすみません」
「いいのよ。事故に遭ったこともあっという間に広まったけど、無事だったということもあっという間に広まったから」
「学校に戻れますかね?」
「ふふっ、大変かもね」
「勘弁してほしいですよ」
「贅沢な悩みよ」
「でも、学校に出られるのは一月からかもしれませんから」
「そうね。その間のことは桃瀬さんに頼んでおくから。なにかあったら彼女を通して言ってね」
「テストはどうなるんですか?」
「それは、ここでやるわ。教科担当の先生から問題をもらってきて、私が監督してやってもらうわ」
「そうですか」
「最後のテストだから、結果を残さないとね」
「勉強が追いつくかどうか」
「大丈夫よ。笹森くんの実力なら。それに、世界史は少しおまけしてあげるから」
「ありがとうございます、先生」
「でも、笹森くんならそんなことしなくても大丈夫だと思うけど。世界史、得意なんだから」
「そろそろ面会時間、終わりです」
 巡回の看護師さんがそう告げた。
「じゃあ、お大事にね」
「あ、先生。これを持っていってください」
 俺は先生にカードを渡した。
「ふふっ、ありがとう」
 先生は気持ちよくカードを受け取ってくれた。
「あら、お帰りですか?」
「ええ。それでは失礼します」
 先生は母さんと入れ替わりに病室を出て行った。
「先生も大変よね。わざわざ病院にまで来て」
「それが先生のいいところでもあるけど」
「だけど、もうお年頃なのに」
「それは言わない方がいいよ。本人も少なからず気にしてるみたいだから」
「先生くらい綺麗な人なら、いくらでも相手がいると思うけど」
「ダメだよ。先生は仕事と結婚してるから」
「仕事というよりも、生徒ひとりひとりとじゃないの?」
「そうとも言うか」
 先生はもうすぐ三十路。でも、男の人の話は聞いたことがない。
「そうだ。母さん。ひとつ頼みがあるんだけど」
「なに?」
「明日、付き添いをあずさとさとみに代わってやってくれないかな?」
「どうしても?」
「前に約束したんだ。ふたりの誕生日の日はずっと一緒にいるって。今回のこともあるし、その上約束を破るわけにはいかないから」
「そういうことなら仕方がないわね。いいわ。明日はあずさとさとみに代わってもらうから」
「ありがとう」
「でも、ほどほどにしなさいよ。まだひとりで起き上がることもできないんだから。調子に乗ると、あとで大変なことになるわよ」
「わかってるよ」
 母さんもちゃんと理解してくれてるから、それ以上はなにも言わなくても大丈夫。
「明日は久しぶりに家に帰って寝られるわ」
「そんなに病院はイヤ?」
「そんなことはないけど、雰囲気がね。少し重いから」
「そっか」
「お食事です」
「あっ、はい」
 明日は、がんばらないと。
 
 ☆理奈
「り・な・ちゃん」
「はい」
「ちょっといい?」
「いいですよ。どうしたんですか?」
 部屋にやって来たのはいつみさん。
「ちょっとね。竜也のこともあったし、ゆっくり話したいなって思って」
 そういえば、最近いつみさんとゆっくり話したことなかった。
「差し入れよ」
「あっ、これ」
「そ。駅前の『フェアリー・マロン』のケーキよ。噂には聞いてたんだけど、食べたことなかったから」
「私もです。何度か行ってみたんですけど、いつ行っても人が多くて」
「そうね。今日も多かったわ」
 そういう風にして見ると、なんかホントにすごいケーキに見えてくるから不思議。
「さ、食べて食べて」
「はい、いただきます」
 私は定番のショートケーキを一口食べた。
「あっ、美味しい」
 ほどよい甘さの生クリーム、ふわっと柔らかいけど弾力のあるスポンジケーキ。イチゴの甘酸っぱさがそれぞれを引き立てていた。
 噂は本当だったんだ。
「でも、よく買えましたね」
「まあね。たまたま知り合いが並んでて、ちょっと入らせてもらったの」
「そうだったんですか」
「でも、本当の目的は違うのよ」
「えっ?」
「明日、あずさとさとみの誕生日でしょ。それでケーキを頼んできたのよ。今年はお母さんが忙しくてケーキ作れないから」
「なるほど」
 いつもだとかおりさんが手作りケーキを焼いてくれるんだけど、今年はたっちゃんに付き添ってるから無理。
 私たちはしばらくの間、ケーキの味を楽しんだ。
「竜也がね、事故に遭ったって聞いた時、最初は冗談だと思ったの。だって、そうでしょ。あの子が、竜也が事故だなんて。でも、お父さんの真剣な声で冗談じゃないとわかった時、言い表せない想いに襲われたわ。体中の力が抜けていくような、目の前が真っ暗になったような、そんな感じがしたわ」
「私もそうでした。たっちゃんが事故だなんて」
「あとは無我夢中で病院に向かったわ。ただひたすらに竜也の無事を祈って」
 いつみさんの言葉のひとつひとつから、たっちゃんへの想いが伝わってくる。
「包帯を巻かれて、点滴を受けて、機械がいくつも繋げられて。そんな竜也を見たら、私はどうなんってもいいから一刻も早く代わってあげたい、そう思ったわ」
「いつみさん……」
「でね、今回のことでひとつ再認識したことがあるの」
「なんですか?」
「それは、私は竜也のことが大好きだっていうこと。好きって言っても恋人みたいな好きじゃないけど。それでも、私の中で竜也の存在はかなり大きかったのは事実。稔がいるのにね」
 微笑むいつみさん。
「竜也は昔から理解してた。男は竜也だけだったから。私、理奈ちゃん、あずさ、さとみ。みんなを守るというか、人一倍大切にしようという気持ちが強かったから。私もね、どこかで竜也を頼りにしてたの。特に大学に入る前までは。大学に入って少し遠いところから竜也を見たら、今まで見えなかったことが見えたわ。そう、私たちのためにどこかで無理をしていた竜也が。だから大学に入ってからはできるだけ竜也に無理をさせないように振る舞ってきたわ」
 私はいつみさんの様子がいつもとは少し違うことに気付いた。どこが違うとは言えないけど、違った。
「これを言うと誤解されるかもしれないけど、高校の時、何回か竜也に泣きついたこともあったわ。その時でも竜也はなにも言わずにいつものように笑って、優しく慰めてくれた。一時期本当に竜也のことを好きになったこともあったわ。恋人として。姉弟だから許されないってわかってても。それくらい竜也の存在は大きかったのよ」
 確かに、昔は弟のたっちゃんが弟じゃないみたいな時もあった。
「今は明るいってよく言われるけど、その明るさを私にくれたのは竜也よ。本当の私は弱いの。どうしようもなく弱いの」
 そっか。さっきの違和感はこれだったんだ。昔のいつみさん。大学に入る前のいつみさん。
「ふふっ、こんな話、絶対に竜也には聞かせられないわね。聞かせたら、もう後戻りできないから」
 いつみさんは一呼吸置いて、
「今回のことで昔の私が少しだけ顔を出したみたい。たぶん、竜也の意識が戻って、ベッドの上のいつもの笑顔を見た時に、出てきたみたい」
「…………」
「あ〜あ、竜也と姉弟じゃなかったらよかったのに」
「い、いつみさん」
「冗談よ。だって、姉弟じゃなければそういうことはわからないから」
「そう、ですね……」
 私は、本当の姉弟そのものを目の当たりにしたような気がした。
「あ、もうひとつわかったことがあったわ」
「えっ?」
「それは、竜也はね、理奈ちゃんのことが好きなのよ。でも、自分ではその気持ちに気付いていないだけ。鈍いからね」
「たっちゃんが、私のことを……」
「そうよ。あの時のあずさとさとみに対する時の様子と、理奈ちゃんに対する時の様子が明らかに違っていたもの」
 私は今までたっちゃんには自分のことは、年の同じ『妹』くらいにしか見られていないと思っていた。
 一時期、たっちゃんのことを『お兄ちゃん』と呼んでいたこともあったし。
「理奈ちゃん。竜也に告白しなさい」
「えっ……?」
「こういうことは人が言うことじゃないと思うけど。でも、告白しなさい。すぐには言わないわ。そうね、来月の、そう、クリスマスにでも」
「でも……」
「竜也のこと、好きなんでしょ?」
「はい、大好きです」
「だったら迷うことはないと思うけど」
「恐いんです」
「恐い? なにが?」
「今の関係が壊れてしまうんじゃないかって。はっきり言って、これまでも、今も、そしてこれからも、たっちゃん抜きの私は考えられないんです」
「それはよくわかるわ。でもね、このままだと竜也は一生手の届かないところに行ってしまうかもしれないわよ。姉である私でさえも」
「でも、恐いんです」
「竜也ね、最近進学より就職に傾いてるわよ。もし叔父さんの助手になったら、前にも言ったように丸一年、日本に帰ってこないかもしれないわ。それでもいいの?」
「イヤ、です」
「それなら……」
 私の心は揺れていた。
「少し、考えてみます」
「そうね、それがいいかも。そして、絶対に後悔しないような行動を取りなさい」
「……はい」
 その夜、私はずっと考えていた。今までのこと、これからのこと。
 でも、すぐには答えは見つからなかった。いや、見つかるわけはなかった。
「本当の、兄妹だったら……」
 本当の兄妹なら、こんなことを考えることはないんだろうけど。
 たっちゃんは、どう思っているのかな?
 
 ☆竜也
 十一月十一日。今日はあずさとさとみの誕生日。
 いつもなら家にふたりの友達なんかを呼んで盛大にやるんだけど、今年は俺のせいでそれができない。すまん。
 林先生と相沢婦長さんに特別の許可をもらって、病室でやることになった。
「お誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
 姉さんが買ってきたケーキを囲んで、あずさとさとみは本当に嬉しそうだ。
「もう十六か。早いもんだな」
「なに言ってるのよ、お父さん。私は二十歳よ」
「いつみはいいんだ」
「なにがいいのよ?」
 姉さんは父さんに詰め寄る。
 まあ、いつものことだ。
「あずさ、さとみ。誕生日、おめでとう」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「これは俺からのプレゼントだ」
 俺はちょっと曰く付きのプレゼントを渡した。
「開けてもいい?」
「いいよ」
 さとみは早速箱を開けた。
「あっ、時計」
「普通の時計?」
「まあ、見た目は普通の時計だけど、ひとつしかない時計だよ。ほら、ここに」
 そう言って俺はバンドのところを見せた。
「イニシャル?」
「あずさとさとみのイニシャルを入れてもらったんだ」
「あはっ、ありがとう、お兄ちゃんっ!」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「大事にするね」
「ああ」
 あずさもさとみも喜んでくれてよかった。
 あとはただひたすらに楽しく騒いだ。
 時間が五時までということもあったけど、本当にあっという間の誕生日だった。
「あずさ、さとみ」
「なぁに、お母さん?」
「今日は、竜也の付き添いをしてあげて」
「えっ? いいの?」
 さとみは驚いて聞き返した。
「いいのよ。これは母さんからのプレゼント」
「うんっ!」
「いいの、お母さん?」
「今日一日だけよ」
 あずさもさともみ一度母さんに止められて、まさかできるとは思っていなかったみたいだ。
「本当はね、竜也にお願いされたのよ。約束だからって」
「覚えてたの、お兄ちゃんっ!」
「もちろん。俺があずさとさとみにウソをついたことはないだろ? それに約束も忘れたことはないだろ?」
「うんっ!」
「じゃあ、あとは頼んだわよ」
 そう言い残して母さんたちは帰った。
 俺はあずさたちに一通りのことを教えた。病院はルールが大事だから、そのあたりのことは特に。
「お食事です」
 やって来たのはなにかとお世話になっている看護師の本田さん。
「あら、今日はずいぶんと可愛らしい付き添いさんね」
「妹ですよ。あずさとさとみです」
「よろしくね、ふたりとも」
「はい」
 本田さんはまだ二十三歳。駆け出しの看護師で、少しでも仕事に慣れようとがんばってている。小柄でちょっと見、高校生にも見えるけど、結構しっかりしてる。
「そうだ。ふたりにいいこと教えてあげる」
「なんですか?」
「竜也くんね、私たち看護師の間ですごく人気があるのよ。宿直の間もその話が出ると時間も忘れるくらい。だから、時間があったらナースステーションにも来てみてね」
「本田さん」
「どうしたの?」
「今の話、はじめて聞きました」
「えっ、そうだったかしら?」
「はい」
「まあ、いいじゃない。ね」
 なんか上手く丸め込まれたような気もするけど。
「じゃあ、またあとで取りに来るから」
「はい」
 そう言って本田さんは、次の病室へ行った。
 
 病院の夜は早い。消灯は九時だ。
 最初は気怠さから九時でも眠れたが、少し慣れてきてさすがに眠りづらくなってきた。
 病院はベッドがたくさんあるから、その点は困らなかった。
 まず、あすさが俺のベッドのサブベッド。さとみは貸してもらったベッド。ちょっと無理をして両脇に寝ることにした。
 俺はまだ自分で体を起こすこともできないから、電気も消してもらった。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「少し、一緒に寝てもいい?」
「ん、ああ、いいよ」
 病院のベッドは普通のベッドより大きく作ってある。ダブルとは言わないまでもセミダブルより少し大きいくらいだ。
 さとみはあっという間に俺のベッドに入ってきた。
 こうなると、あずさを放っておくわけにはいかない。
「あずさ、おいで」
 俺は今までどんなことでも必ずふたりに平等に接してきた。
 甘えん坊のさとみはどんな時でも積極的。だから、おとなしいあずさはこっちが行動を示さないとダメだ。
「こうして寝るのは、八月以来かな」
「うん」
 俺はふたりの肩を抱いて、自分の方へ寄せた。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんはどこにも行かないよね? さとみを置いてどこにも行かないよね?」
「どうしたんだ、急に」
「あのね、この前お父さんとお母さんが話してるのを聞いたの。お兄ちゃんが大学に行かないで叔父さんと一緒に外国へ行っちゃうって」
 驚いた。まさかこの話が出てくるとは思わなかった。
 あずさも驚いていないところをみると、知っているらしい。
「ねえ、行かないよね?」
 俺のパジャマを握る手に、力が入る。
「まだ、わからないよ。大学に行くかもしれないし、外国へ行くかもしれない。決めていないんだ。いや、決められないんだ」
 俺は正直に言った。ふたりに対してはどんな些細なことでもウソをつきたくなかったから。
「お兄ちゃんがいなくなったら、さとみ、どうしたらいいの?」
 確かに、さとみが生まれて十六年。その間ずっと一緒にいた。もちろんあずさも。
 俺にとってふたりはかけがえのない存在だ。これは間違いない。
 もし、ふたりに対してなにかひどいことをする奴がいたら、俺はそいつを絶対に許さない。地獄の果てまでも追いかけていって、後悔させてやる。
 だけど、これから先はそういうわけにはいかなくなってくる。
 俺も大学、もしくは就職して、ふたりも高校を卒業。
 社会に出れば一緒にいることなんてほとんどできなくなる。
 それに、好きな人もできるだろう。
 いつまでも俺のあとを追いかけている。そういうわけにはいかない。
 俺はふたりの頭を撫でながら、
「いなくなるといっても死ぬわけじゃないんだ。もう二度と会えなくなるわけじゃないんだ。それにたとえ外国にいても、ふたりになにかったらすぐに飛んでくる。必ず」
「でも、イヤなの。お兄ちゃんと一緒にいられないのは」
「私も、イヤ……」
「あずさ……」
「お兄ちゃんが好きだから。お兄ちゃんしか好きになれないから……」
 あずさの口からはじめて聞いた。好き、だって。
 さとみはことあるごとに好きだって言っていたけど、あずさが言ったことはなかった。
「私にとって、お兄ちゃんがすべて。たとえ同じ地球上にいるとしても、側にお兄ちゃんがいないなんて、絶対にイヤ……」
「さとみもそうだよ」
 俺はなにも言えなくなってしまった。いや、言えるはずがない。今はどんな言葉を並べても、全部ウソになってしまう気がしたから。
「この髪もこの唇もこの体も、そして心もすべてお兄ちゃんのもの……」
「そんなこと、言うな……」
 あずさとさとみの想いは、痛いほど伝わってくる。だけど、それに流されるわけにはいかない。
「ふたりともよく聞くんだ。これから先のことは本当にどうなるかわからない。その度に流されるな。たとえ──」
「イヤっ!」
「さとみ……」
「お兄ちゃんは平気でも、さとみは……さとみは平気じゃないんもんっ!」
「お兄ちゃんと一緒にいたい。ただそれだけなの。ほかにはなにもいらない……」
 ダメだ。これではダメなんだ。
「さあ、ベッドに戻るんだ」
「イヤっ!」
「さとみっ!」
 俺ははじめて怒鳴った。今までどんなことがあっても怒鳴ったことはなかったのに。
「頼む、戻ってくれ……」
「うっ、うっ……」
「あずさも」
 さとみはただただ泣いている。
「明日、朝になったら家に帰るんだ。そして、もう見舞いには来なくていい」
「!」
「わかったな」
 俺は自分がイヤになった。あずさたちを傷つけるつもりはないのに。自分の都合だけでふたりを遠ざける。
 人はそんな俺を見たらなんて言うだろう。
 冷たい奴。
 ろくでなし。
 だけど、このままではダメなんだ。絶対に。
 その夜は、俺は眠れなかった。
 あずさもさとみも泣いていた。ずっと泣いていた。
 
 ☆理奈
「たっちゃん、どういうことなのっ!」
「理奈には、関係ない……」
「関係ないって……ふたりとも泣いてたじゃないっ!」
「だから、これは俺とふたりの問題なんだ。理奈にも、誰にも関係ないんだ……」
 私は納得いかなかった。
 朝、病院に来たらあずさちゃんとさとみちゃんが泣いていた。目を真っ赤にして。
 理由を聞いてもなにも答えてはくれないけど、病院には知ってる人はたっちゃんしかいない。そうすれば、たっちゃんとなにかあったに決まってる。
「自分で言ったんでしょ。ふたりの悲しむ顔は見たくないって。それなのに……」
「うるさいっ! おまえになにがわかるっ! 俺のなにがわかるっていうんだっ!」
 たっちゃんが、怒った……
「出てけっ! もう二度と来るなっ!」
「あ……」
 私は、どうしたらいいのかわからなかった。
「理奈ちゃん。来なさい」
 私はかおりさんに言われて病室を出た。
 その間もたっちゃんは窓の外を見て、ほんの少しもこっちを見なかった。
「今は竜也をそっとしておいてあげて」
「どうしてですか?」
「一番つらいのはあの子なのよ。さっき理奈ちゃんが言ったように、竜也はあずさとさとみの悲しむ顔を見たくないのよ。でも、あえてそうしたの。ふたりのために」
 かおりさんはすべてを理解しているみたいだけど、私には全然見えてこない。
「母親として、これ以上あの子がつらい目に遭うのを見たくないの。だから、お願い」
「わかりません」
「理奈ちゃん……」
「どうしてですか? 誰かを悲しませて、それで黙ってるなんて。そんなの、わかりません。わかりたくありません」
 かおりさんは半ばあきらめたように病室に戻ろうとした。
「よく考えてみなさい。あずさとさとみの立場だけじゃなく、竜也の、妹に痛いほど慕われている兄の立場を」
 ドアが閉まった。
 私はただ立ち尽くしていた。
「お母さんも厳しいわね」
「いつみさん……」
「ちょっと、気分転換でもしよ」
 私は黙っていつみさんについていった。
「う〜ん、いい気持ち」
 私たちは屋上へ上がった。
「今日もいい天気。天高く、馬肥ゆる秋、なんてね」
「いつみさんはわかっているんですか?」
「あらら、いきなり核心を突いてきたわね。でも、その答えはノーよ」
「えっ?」
「ある程度しかわからないわ。たぶん、お母さんもそうだと思う。だってそうでしょ? 竜也のことは竜也にしかわからないのよ。でも、そのある程度の部分からすべてを推測することはできるわ。それを考えろって言ったのよ、お母さんは」
「私には、わかりません」
「ちょっときつい言い方をするけど、もし、今回のことがわからないなら、もう竜也のことはなにもわからなくなるわよ。それに、竜也は必ず行動を起こすわ」
「でも……」
「理奈ちゃんには、あずさやさとみの気持ちはわかるんでしょ?」
「はい」
「そうよね。同じ女ですものね。でも、今回はふたりの立場、考えは捨てなさい。そして、竜也の立場に立って見てみなさい。そうすれば竜也の気持ち、さっきのお母さんの言った意味がわかるはず。ね、理奈ちゃん」
 たっちゃんの、立場……
「これは私の推測だけど、あずさもさとみもいつかはこうなるってわかってたんじゃないかな。それがたまたま昨日の夜になっただけで」
 だからなにも話してくれなかったの?
「さてと、そろそろ帰ろっか。っと、その前に、竜也のところに行ってくるから、先に車のところに行っててね」
 そう言い残していつみさんは中に入っていった。
 私にわかるの?
 たっちゃんの、気持ちが……
 
 ☆竜也
「すごいな。もう肋骨の方は大丈夫だ。まさか三週間で治るなんて」
「少し違和感がありますけど、大丈夫です」
「うん、この調子ならあと一週間か十日くらいで、退院できるかもしれない」
 十一月の終わり。俺の病状はかなり回復していた。
 まず肋骨はほぼ完治。頭の方は二針だったので問題なし。
 ただ、右足の複雑骨折の部分がまだ治っていない。
 それでも最近は松葉杖でだいぶ自由に歩けるようになった。
「ただ、ここで気をつけないと、今までのことが不意になるから」
「はい、わかってます」
「じゃあ、お大事に」
 俺は林先生の部屋を出た。
 先生の部屋は二階。俺の病室は四階。エレベーターを使ってもいいんだけど、鈍った体を鍛え直すために階段を使っている。
 病院の階段は緩やかに造ってあるから、それほど苦労することはない。
「あら、竜也くん」
 ちょうど階段を上りきったところで、本田さんに会った。
「林先生のとこ?」
「ええ、肋骨は完治したそうです」
「それはよかったわね」
「この時間に回診ですか?」
「ううん。ナースコールで呼ばれてちょっと行っていたの。そうだ。私今から休憩だから、少しお話でもしましょ」
 本田さんはいったんナースステーションに戻った。
 その間に俺は屋上に出た。
「少し寒いかな」
 最近はよく屋上にいた。
 だいぶ寒くなってきた近頃は、屋上に来る人も少ない。
「おまたせ」
 俺がベンチに座って空を眺めていると、本田さんがやって来た。
「はい、差し入れ」
 そう言って渡してくれたのは缶コーヒー。もちろん、温かい方。
「最近ここにいることが多いわね」
「ええ、ここは静かですから。それに、太陽を浴びないと腐っちゃいそうで」
「あはは、言えてる」
 本田さんはこの病院の看護師の中で最年少らしい。ということは、必然的に俺と一番年齢が近くなる。
 だから最近よく話なんかをする。
「でも、最近の竜也くん、少し変わったね」
「どう変わりましたか?」
「う〜ん、少し大人になったかな。まだ半人前の私が言うことじゃないと思うけど」
「いえ、そんなことはないです」
 本田さんは本当に明るい人だ。ちょっとおっちょこちょいなところもあるけど、それも愛嬌に思えてしまうくらいだ。
 看護師さんはみんな俺によくしてくれる。だけど、一番いろんなことで気を遣ってくれてるのが本田さん。
「本田さんに──」
「ほら、また言った。私のことは由紀でいいって言ったのに」
「じゃあ、由紀さんに見えたってことは、変われたんです」
「でも、少し無理してるようにも見えるけど」
 ウソをつけないのも本田さん、もとい、由紀さんのいいところ。
「ごめんなさい。余計なことまで」
「いいんですよ。確かに少し無理してるかもしれません。でも、その無理にもだいぶ慣れました」
「妹さんたちが来なくなってからね」
「…………」
「私にはなにがあったのかはわからないけど、これだけは言えるわ。自分の気持ちにウソをつくのはよくないこと。ウソをつけば必ずどこかに無理が生じて、些細なことから綻んで、そして気付いたらもう戻れないこともあるわ」
 今の俺には痛い言葉だった。
 だけど、俺は間違ったことをしたとは思っていない。
「だけど、そのおかげで」
「ゆ、由紀さん」
「そのおかげで、こうしていられるんですもの」
 由紀さんは俺の腕を取って、体を俺の方に預けてきた。
「もうすぐ退院しちゃうのよね」
「ええ。林先生があと一週間か十日くらいだと」
「もう一回怪我させちゃおうかな」
「そ、そんな……」
「ふふっ、冗談よ。そんなことできるわけないでしょ」
 由紀さんは屈託なく笑った。
「少し、寒いかな」
「そうですね」
 俺たちはしばらくそのままでいた。
「さてと、そろそろ戻らないと」
「じゃあ、俺も」
「あ、綺麗……」
 見ると、太陽が落ちて雲を真っ赤に染めている。
「よし、もうひとがんばり」
「失敗しないでくださいね」
「あらら、それを言わないでほしかったな」
「ははは」
「あはは」
 なんか、久しぶりに笑った気がした。
 冬にこそ、温かい心を持たないといけないのかも。
 秋が、冬を連れてきた。
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