現物語
 
第零話 つれづれなるままに
 
 その壱
 俺の名前は笹森竜也。県立桐岡高校三年。一応、生徒会長なんてものをやっている。
 得意科目は歴史全般。中でも古代、考古学には興味がある。将来はその方面もいいかな、と考えている。
 趣味は取り立てて言えるものはないけど、なんでもやる。スポーツも一通りはできるし、音楽も美術も嫌いじゃない。
 性格は、よく人からは『真面目だ』とか言われるけど、自分ではそうは思っていない。どちらかと言えば、不真面目な部類に入ると思っている。ただ、物事を中途半端にするのが嫌いだから、人から見ると真面目に見えるのかもしれない。
 家族は、両親と姉、双子の妹、そして居候の七人。最近では珍しい大所帯だ。
 父さんの名前は、健一。建築設計士をしている。弱冠四十三歳にして日本でも指折りの設計士になった。当然家の設計も父さんがやった。そのため、非常に快適に過ごせるような工夫が随所に施されている。ま、これは設計士を親に持つ特権かな。
 性格は至って穏和。ここ最近、怒ったことはない。いつもニコニコしている。ただ、そのニコニコが最近はちょっと違う。どう違うかと言えば、オヤヂになった。そう言えばわかるかもしれない。これについてはあまり深く触れない方がいいかもしれない。
 母さん名前は、かおり。今は専業主婦なんかをしているけど、昔はヴァイオリニストだった。姉さんが生まれた頃はまだ現役だったけど、俺が生まれたことをきっかけに現役引退。以後は主婦ひと筋、というわけだ。
 これは自慢なんだけど、母さんは今年で四十一になるけど、息子の俺が見ても四十代には見えない。せいぜい三十代半ばだろう。
 父さん曰く、『母さんは良妻賢母』だそうだ。確かにそれは言えてるかもしれない。父さんが怒らない分、母さんが少し厳しいけど、それもその裏にある俺たちへの愛情があるからこそだから、感謝こそすれ恨みはしない。
 姉さんの名前は、いつみ。年は二十歳。国立大学の二年。専攻は国文学。うちの中で一番頭がいいのは姉さんかもしれない。なんたって、一流国立大学に現役で合格したのだから。
 性格は至って明るい。まるで太陽みたいな性格だ。姉として俺は申し分ないと思う。ただ少し茶目っ気がありすぎて苦労することがあるけど、それも愛嬌だ。
 趣味はドライブで、週末になると彼氏の稔さんを助手席に座らせてよく出かけている。
 ショートカットがよく似合い、ラフな格好が好きな姉である。
 妹の名前は、あずさとさとみ。あずさが姉で、さとみが妹。ふたりとも俺と同じ桐岡高校の一年。つまり、今年で十六歳。クラスは別々だが、よく一緒にいる。
 あずさは三人姉妹の中で一番おとなしい。おそらく、三歳の頃からやっているピアノの影響も少しはあるだろう。得意科目は当然音楽。ピアノの腕前はかなりのもの。本人も将来はピアニストに、と考えているらしい。
 頼まれるとイヤとは言えないタイプで、クラスでも人望があるらしい。
 さとみは末っ子の典型で、どうしようもないくらいの甘えん坊。だから、小さい頃からいつも誰かといないとすぐに泣き出して、父さんや母さんを困らせていた。
 得意科目は歴史と美術。歴史を好きになったのは、どうやら俺のせいらしい。
 そんなふたりは容姿もそっくりで、声も一緒だ。家族なら見分けもつくが、ほかの人には少し無理かもしれない。だからというわけではないが、あずさはロングヘアーで、さとみはそれより少し短いセミロングにしている。それと洋服の趣味が少し違い、あずさは落ち着いたシックな感じが好みで、さとみはちょっと少女っぽいのが好みだ。ただ、基本的な趣味は同じで、まさに双子という感じだ。
 俺にとってはカワイイ妹たちで、あずさはつい守ってあげたくなるし、さとみは一緒にいてあげたくなる。親バカならぬ、兄バカという感じだ。
 そしてもうひとり。うちに二歳の頃から居候している、桃瀬理奈。理奈は一歳の頃に両親を事故で亡くし、頼るべき親戚もおらず、孤児院に入っていた。それをうちの両親が引き取ってこれまで育ててきた。だから、家族なのだ。
 理奈は俺と同じ桐岡高校の三年。そして、なぜか生徒会の副会長をしている。まあ、おかげで仕事はやりやすいけど。成績は学年でも常にトップ。得意科目は国語関係。
 性格は明朗快活。だからクラスでも人気者で、友達もたくさんいる。
 俺は詳しいことは知らないけど、どうやら学校には『理奈ファンクラブ』らしきものがあるらしい。なんでも、一部のマニア的な男子がはじめたもので、次第に学校中の男子に広がり、挙げ句の果てには先生にも会員がいるとかいないとか。
 理奈とは双子、もしくは兄妹のように育てられてきた。昔、こんなことがあった。子供の頃はよくつまらないことで喧嘩するが、その時に俺は言ってはならないことを言ってしまった。それは『理奈は本当はうちの子じゃない』というものだった。この時は母さんはもちろんのこと、父さんにまでかなり厳しく叱られた。今思えば当然だが、子供の俺にははっきり言って腹立たしかった。心のどこかではわかっていても、それを割り切れない、そんな気持ちがあった。だが、俺は二度とそのことを口にしなかった。
 とまあ、これがうちの家族。人からは、女ばかりで大変じゃないか、とか、羨ましい、とか言われるけど、俺はその両方の気持ちがわからない。ま、それは当然だけど。なにしろ、気がつけばうちは男女比が二対五だったから。
 ただ、そういう環境のおかげでよかったこともある。それは、女の人と接する時にはじめてでも上手くいくことが多いということだ。本当に副産物的なことだけど。
 さて、俺の紹介はこれくらいにしておこう。
 
 その弐
 どうも、はじめまして。私の名前は桃瀬理奈です。十八歳の現役女子高生です。
 すでに知ってるとは思いますけど、一応。
 では、続いて私が紹介します。
 まず、私やたっちゃんの幼なじみ、桜庭瑞穂。桐高の三年で、私たちと一緒に生徒会もやってます。瑞穂は初期。得意科目は数学。私は苦手なんだけどね。
 性格は、ちょっと難しいかな。昔からこれと言った特徴がないの。私はそれでもいいと思うんだけど、瑞穂は結構気にしてるみたい。
 私とたっちゃんは同じクラスで、瑞穂は違うクラス。でも、たっちゃんとはよく一緒にいます。
 ポニーテールがトレードマークで、同性の私から見てもカワイイと思います。
 次にたっちゃんの親友、宮崎崇史くん。たっちゃんとは中学の時からで、だいぶ仲も良いです。
 崇史くんは端から見ると不良に見え、実際に授業もサボりがちだけど、不思議とたっちゃんの前では性格が変わります。
 得意科目は体育。スポーツ万能。前にこんなことがありました。
 たっちゃんもスポーツは万能で、一度だけふたりで『アマチュア大会荒し』をやったことがありました。陸上、水泳、テニス、卓球、バドミントン、柔道、剣道など。とにかくなんでも出場して、そして必ず上位に入ってました。
 あとで先生に怒られてたけど、それくらいふたりは仲が良いんです。
 もうひとり、たっちゃんの親友、五十嵐祐介くん。やっぱり中学の時からで、崇史くんと同じくらい仲が良いです。
 得意科目は化学で、今は化学部の部長をしています。祐介くんの化学の話についていけるのは同じ化学部員か、たっちゃんくらい。
 性格は真面目すぎるくらい。ひとりっ子だっていうことも少し影響しているみたいです。いつもたっちゃんに『竜也が羨ましい』って言ってます。なにが羨ましいかと言えば、兄弟がいること。やっぱりひとりっ子は淋しいみたい。
 えっと、私の友達も紹介したいんですけど、長くなるのでやめます。
 最後に私たちの担任、篠原牧子先生。担当は世界史。今年で二十九歳になるんだけど、まだ独身。生徒の面倒見がよすぎて、自分のことまで時間が回せないみたいです。
 趣味はピアノとテニス。よく放課後に音楽室でピアノを弾いています。
 先生の口癖は『やればできる』と『ごめんなさい』です。ふたつとも話の節々に出てきます。
 ほかにも紹介したい人はいるんですけど、とりあえずはこのくらいで。
 
 その参
「ねえねえ、たっちゃん」
「ん?」
「紹介はあれでよかったの?」
「いいと思うけど。どうして?」
「ううん。こんなことはじめてだから、気になっちゃって」
「でも、これで主要なメンバーは一通り……ああーっ!」
「ど、どうしたの、たっちゃん?」
「忘れてたっ!」
「えっ? 誰を?」
「叔父さんだよ、叔父さん」
「あっ、本当だ」
「じゃあ、軽く紹介を。叔父さんの名前は笹森康二。年は四十。職業は考古学者。それも世界的に有名な考古学者で、一年のうち十ヶ月は外国で発掘作業に従事してる。研究対象は主にエジプトで、最近は南米の遺跡の発掘もしてる」
「たっちゃんの憧れなんだよね?」
「うん、その通り。叔父さんみたいに考古学者になることが俺の夢。だから、日本に帰ってきた時は、なにをおいてでも叔父さんの話を聞く」
「その時のたっちゃんは、目をキラキラさせて話を聞いてるわ」
「そりゃ、世界でも最先端の話を聞けるんだから当然さ」
「うん、わかってるよ」
「とまあ、これで本当に紹介は終わり」
「じゃあ、早速、本編スタートっ!」
 
 
第壱話 春はあけぼの
 
 その壱 学校にて
 ☆竜也
 入学式も終わったある春の日の朝。
 
 ……枕元で目覚ましが鳴ってる。もう朝か。もう少し寝ていたいけど、しょうがな──
「……あれ?」
 俺は起きようとした。でも、いつもとなにかが違い、思わず声を出していた。
 俺は事態を正確に把握しようととりあえずベッドに身を起こした。そして、一瞬声が出なかった。
「な、なんであずさとさとみが……」
 そうなのだ。昨日の夜、寝た時には確かに俺ひとりだったのに、朝起きると両脇にあずさとさとみが寝ていた。
 俺はなにがどうなってるのかわからず、しばらく呆けてしまった。
「……ん、う〜ん……」
 と、あずさが目を覚ました。
「……あ、お兄ちゃん……おはよう」
「おはよう……って、そうじゃないだろ」
「えっ……?」
 俺はできる限り落ち着いた調子で訊いてみた。
「どうしてここで寝てるんだ?」
 そう言って、まだ隣でカワイイ寝息を立てているさとみを指さした。
 あずさはまだ少し寝ぼけているみたいだったけど、なんとか頭を働かせて、
「えっとね、さとみが夜中に部屋を抜け出して、それについていったらお兄ちゃんの部屋に入ったの。それで私も入ったら、さとみはもうベッドに入ってて……」
「で、あずさも一緒に、か?」
 あずさは小さく頷いた。
 はあ……俺はあずさとさとみには弱いから、あんまりきついことは言えないんだ。
「ごめんなさい」
 どうやら俺の心境を察したらしく、あずさが先に謝ってきた。
「まあ、いいよ」
 俺はあずさの頭を撫でながら、
「これからは黙ってないで寝る前に言えば、まあ、いつもとはいかないけど、時々はなんとかするから」
「ホント?」
「ああ、ホントだよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
 ま、あずさの笑顔が見られてよかった。
「さて、もうひとりのお姫様を起こさないと」
 俺は、ちょっとしたことを思いついた。
 あずさは俺がどうやってさとみを起こすのか興味津々、という感じで見ている。
 俺はさとみの耳元で、
「……さとみちゃんさとみちゃん。そろそろ起きなさい。起きないと……怖いことが起こるかもしれないよ……」
 実はさとみは人一倍の恐がりで、お化けなんかは全然ダメなのだ。だから、今まで気持ちよさそうに寝ていたさとみの表情がみるみる変わった。
「いいのかな? 早くしないと……おわっ!」
「お、お兄ちゃんっ!」
 俺が言葉を続けようと耳元に近づくと、さとみが急に抱きついてきた。とっさのことにバランスを失い、不覚にもさとみの上に倒れ込んでしまった。
「さ、さとみ……」
 さとみは結構な力で俺を抱きしめていて、なかなか身動きがとれなかった。
「あ、あずさ。さとみを起こしてくれ」
「うん」
 仕方なく俺は、あずさにさとみを起こしてもらった。
「さとみ、朝だよ。起きて」
 肩を揺すってさとみを起こす。
「……ん、ん〜……」
 ようやく起きた。
「……あれ、お兄ちゃん?」
 おそらくさとみが目を開けた時、俺の顔しか見えてなかっただろう。
「さとみ。お兄ちゃんを」
 あずさが諭すように言った。
 さとみはようやく俺を抱きしめていることに気付いたみたいだ。一瞬目をぱちくりさせたが、
「あはっ、朝からお兄ちゃんと一緒なんて、幸せ♪」
 幸せ、じゃない、幸せじゃ。俺は心の中でそう言ったが、さとみはいっこうお構いなしにさらに俺を抱きしめてきた。
 さとみは昔から人に甘えるのが好きで、よく抱きついてきたりしてたけど、それをよく見ていたあずさでさえも今回は呆れている。そして──
「さとみっ! いい加減にしなさいっ!」
 珍しく声を荒げて注意した。
 これにはさとみも驚いたらしく、渋々、本当に渋々俺を放した。
 俺はようやくさとみから解放され、ひと息ついた。
 それからふたりに向き直り、
「さとみ。さっきあずさにも言ったけど、こういうことは黙ってないで寝る前に言ってくれ。じゃないと今みたいなことになるから」
「はぁい、ごめんなさい」
 さとみは素直に謝った。ま、この素直さがさとみのいいところでもあるけど。
「わかったのならもうなにも言わないよ」
 俺はふたりに向かって微笑んだ。
「ほら、そろそろ部屋に戻らないと学校に遅れるぞ」
「うん」
 ふたりは黙ってここへ来たわけだから、母さんか誰かが部屋を覗けばちょっと問題になるかもしれない。
「あっ、そうだ。あずさ、さとみ」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「今日のことは、みんなには内緒だぞ」
 さすがに兄妹とはいえ、こういうことは問題になる。だから口止め。
「うん、大丈夫だよ」
「さとみも言わないよ」
 ふたりとも素直だ。
「わかったらいいよ」
 そう言って俺はふたりを送り出した。
「ふう……」
 ふたりが部屋を出て、思わずため息が漏れた。
 それから少し余計なことを考えて、着替えた。
 余計なことというのは、セミダブルのベッドに三人も寝ててよく落ちなかったなぁ、ということだ。
 俺はいつものように着替え、いつものようにベッドを整え、いつものように部屋を出た。そして、いつものように朝食の席に着いた。
 
 ☆理奈
「よし」
 私はいつものように目覚ましを止めた。いつものようにとは、目覚ましが鳴るよりも早く起きて、鳴るのを待つってこと。
 時間は六時。
 開け放った窓からは朝の冷たい、清々しい空気が流れ込んでくる。
 私は着替えて、軽く身だしなみを整え、下に下りた。
「おはようございます」
「おはよう、理奈ちゃん」
 キッチンに顔を出し、かおりさんに挨拶する。
 それから洗面所で顔を洗って、鏡を見る。
「うん」
 私だって一応年頃の女の子だから、確かめないとね。
 キッチンに戻る前に新聞を取りに玄関へ。新聞受けから新聞を取って、ついでに玄関の靴も揃える。
 リビングのテーブルの上に新聞を置く。置く場所は当然健一さんの場所。
「理奈ちゃん。ちょっと手伝ってくれる?」
「はぁい」
 私の朝の仕事はこんなところ。本当は食事の支度もなんだけど、それはほとんどかおりさんがやってて、私はほんの少しだけお手伝い。
「今日のはどうかしら?」
 かおりさんはできたばかりのおみそ汁を味見皿に注ぎ、私に味見を求めた。
「うん、完璧」
 もちろん完璧に決まってる。それでもいつもと同じように答える。
 かおりさんはにっこり微笑んで火を止める。
「あとは、みんなが起きてくるのを待つだけね」
 私とかおりさんはちょっとひと休み。
 私には両親がいないから、かおりさんは本当のお母さんみたいな存在。昔は『お母さん』て呼んでたけど、今は違う。健一さんもそう。ふたりとも別に構わないって言ってくれるけど、少し気が引けて。
「ねえ、理奈ちゃん。今年の一年生はどんな感じ?」
「確か、先生の話だといつもより成績はよかったって」
「ううん、そうじゃないの」
 かおりさんはちょっと意味ありげに微笑んだ。
 あっ、そっか。
 私は思い当たる節を見つけて納得した。
「去年よりすごいかも」
「あらあら、あの子も大変ね」
 あの子、とは当然たっちゃんのこと。なにが大変かというと、対面式に原因があるの。
 だいたいどの学校でも同じだと思うけど、新入生は在校生と対面式みたいなことをやるの。その時に代表して挨拶するのは生徒会長。そ、たっちゃん。
 たっちゃんは二年の時から二期連続で生徒会長をやってて、去年の対面式でも挨拶したの。挨拶自体はごくありふれた内容だったんだけど、ちょっと問題があって。
 その問題とは、新入生の女の子のこと。どうやら対面式のたっちゃんに惚れ込んで、去年なんか生徒会の執行部になりたいって、ものすごい数だったの。
 で、たっちゃんはどうだったかというと、呑気なもので適当に誤魔化して逃げたの。
 それが今年も起こるかもしれない。
「あの子はあんまり気にしてないみたいだけど、すぐ側に気にしてる子がいるって気付いてるのかしらね」
 かおりさんは私を見つめた。なにか言いたそうだけど。
 ま、まあ、私だって気にしてないわけじゃないけど、そんなに心配してるわけでもないし……って、なに言ってるんだろ。
「さてと、そろそろ下りてくるわね」
 時計の針は六時半を指している。
「おはよう」
 いつものようにたっちゃんが最初に下りてきた。
 あれ? でも、心なしか少し疲れてるみたいな気がするけど。
「おはよう、たっちゃん。どうしたの? 少し疲れてるみたいだけど」
「ん? そうか? そんなことはないけど」
 と言いながら、ちょっと視線が泳いでる。でも、たっちゃんはウソはつかないから、気のせいかもしれない。
 たっちゃんはあくびをかみ殺して洗面所へ。
 それと入れ替わりに、あずさちゃんとさとみちゃんが下りてきた。
「お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう」
 ふたり揃って言うとまったくハモりがなくて、まるでひとりで言ってるみたいで不思議。
「あずさ、さとみ。お父さんを起こしてきて」
「はぁい」
 キッチンからの声に、ふたりは返事をして奥の部屋へ。健一さんとかおりさんの寝室は一階にある。
「なあ、理奈」
 いつの間にか戻ってきてたたっちゃんが、声をかけてきた。
「今年も去年みたいになるかな?」
「生徒会のこと?」
 たっちゃんは大げさに頷いた。
「まだわからないけど、可能性はあると思うよ」
「そっか」
 たっちゃんはなにか考えてるみたいで、視線がこっちにない。
「しょうがないか」
「なにがしょうがないの?」
「先生に頼むんだよ。生徒会執行部は九月にならないと入れ替えはしないから、来ても入れられないって、一年に言ってくれって」
「機先を制すわけね」
「そういうこと。そうしないと、いつもの生活じゃなくなるからさ」
「いつもの生活、ね」
 それは確かに言えてた。
「でも、どうしてこうなるのかな?」
 たっちゃんは原因が自分にあることに気付いてないみたい。
 たっちゃんがカッコイイからだよ。
 そう言ってあげたかったけど、言えなかった。
 そう。いつも言えないの。
 
 ☆竜也
 うちから学校までは歩いて十五分くらい。それほど遠くはない。通学路には商店街があって、下校時には結構人通りがある。
 三月までは俺と理奈と瑞穂の三人で通っていたが、四月からはこれにあずさとさとみが加わって五人になった。ちょっと大所帯かなとも思うけど、行き先が同じだからしょうがない。
 だけど、問題もある。それは歩く時の位置。今までは理奈と瑞穂が俺の両脇にいたが、今度はそういうわけにはいかない。
 そこで考えた末、というか勝手にそうなったんだけど、俺が四人を先導する形で先を歩き、四人があとから来る。そういう風になった。ま、歩幅も違うし、当然だけど。
 学校までは他愛のない話を交わしながら行くのが常だった。
 学校は四階建てで、二階が一年、三階が二年、四階が三年。四階は見晴らしはいいんだけど、上り下りが結構面倒だ。
 あずさとさとみは一年だから二階。そんなふたりが羨ましくなることも、あるにはある。
「どうしたの、たっちゃん?」
 教室でボーッとしていたら、理奈に声をかけられた。
「なんでもないよ」
「そうかな?」
 理奈はいぶかしそうにこっちを見ている。
「でも、珍しくボーッとしてたよ」
「少し考え事をしてたんだ」
「考え事?」
 ウソである、とは言わないけど、似たようなものだ。
「どうしてうちの学校の制服は、こうなのかなって」
「は?」
 俺が突拍子もないことを言ったもんだから、理奈は思わず聞き返してきた。
「だってそうだろ。制服なんて三年間同じでいいと思うのに、わざわざ男子はネクタイ、女子はリボンを変えるなんて。不思議だ」
「あはは、たっちゃんらしい疑問ね」
 理奈はころころと笑った。
 ま、俺がこんな話をするのは珍しいから、当然かな。
 でも、実際にうちの学校の制服は、男子がブレザーにネクタイ。女子は同じくブレザーだけど胸元はリボン。しかも、三年間違うものを使用する。
 女子はそのことを結構喜んでるみたいだけど、男子はどうでもいいっていう感じが大半。女子は制服のポイントはリボンだからいいのかもしれないけど、男子はポイントもなにもないから、俺みたいな考えが出てくる。
「で、本当はなにを考えてたの?」
 さすがに理奈には冗談は通じないか。
「たいしたことじゃないよ」
「そう言われると余計に聞きたくなるわ」
「そろそろ歴研を閉めようかと思って」
「え、歴研を閉めるの?」
 歴研とは、歴史研究会のこと。俺が一年の時に作った、生徒会非公認の研究会だ。所属しているのは、代表の俺と理奈、瑞穂と崇史。それと何人かの生徒。一応顧問はいて、うちらの担任の篠原先生に頼んでいる。
 歴研の活動は主に、叔父さんの研究内容の考証。だから、俺が閉めようと思えばすぐにでもできるのだ。
「俺たちも三年だし。それに、叔父さんが次に帰ってくる頃には俺たちが忙しくなってるはずだから」
「そっか、そうだよね。私たちは受験生だからね」
「だから、最後にみんなを集めて説明しようと思って」
「うん、たっちゃんがそう考えてるなら、私は反対しないよ。もともとたっちゃんがはじめたことだから」
 と理奈は言うが、少し淋しげに見えるのは俺だけだろうか。
「理奈ぁ、ちょっと来てぇ」
「あ、うん」
 理奈は、クラスの友達に呼ばれて行った。
 だけど、本当にどうするかな。
 
 ☆理奈
「あれぇ、どこ行ったのかな?」
 今は昼休み。
 私はさっきからたっちゃんを探してるんだけど、どこにもいないの。
「ねえ、たっちゃんどこに行ったか知らない?」
「いや、知らん。授業が終わったらすぐに教室を出て行ったのは見たけど」
「そっか」
 たっちゃんの後ろの席の子に聞いてみたけど、収穫なし。
 仕方がない。探しに行こ。
 と、私が教室を出ようとしたら、瑞穂が来た。
「やっほ、瑞穂」
「理奈」
 瑞穂はクラスが違うけど、よくうちのクラスにやって来る。
「たっちゃん?」
 だいたい瑞穂のことは聞かなくてもわかる。瑞穂は当然頷いた。
「今、私も探してるの。一緒に行く?」
「うん」
 というわけで、私と瑞穂はたっちゃんを探して校内をまわることになった。
「どこにいると思う?」
「う〜ん、ちょっとわかんない」
「そうだね」
 私や瑞穂はたっちゃんのことをかなり知ってるつもりだけど、それでもわからないことが多々ある。
「とりあえず、生徒会室にでも行ってみよう」
 思い当たるところを片っ端から探す。結局これしかないみたい。
 生徒会室は二階の端にある。二階は一年の階。となると──
 程なくして私の予想は的中した。
「お姉ちゃん」
 あずさちゃんとさとみちゃんである。
「どうしたの?」
「ちょっと生徒会室に用があってね」
 ふたりともそれだけで私の用件がわかったみたい。
「でも、さっきからここにいたけど、お兄ちゃんは来てないよ。ね、あずさ?」
「うん」
「生徒会室じゃないのか」
 私は瑞穂の方を見た。瑞穂も思案顔。
「さとみたちも手伝おうか?」
「ううん、わざわざの用じゃないから」
 私はさとみちゃんの申し出を丁寧に断った。
「それじゃ、またね」
 生徒会室にいないとなると、次に可能性が高いのは──
「食堂に行ってみよう」
 今は昼休み。となれば、食堂も選択肢に入る。だけど、たっちゃんはお弁当派だから行く必要はないと思うけど。
 食堂は校舎とは別にあって、渡り廊下で行き来する。
「うわあ、やっぱり混んでるね」
「うん」
 私たちは昼時で混んでいる食堂をなんとか一回りしてたっちゃんを探したけど、見つからなかった。
「どこ行ったのかな?」
 私は瑞穂に訊ねるでもなく、ひとり呟いた。
 と、食堂から戻って職員室のところに差し掛かった時──
「失礼しました」
 待ち人来る。たっちゃんが出てきた。
「あれ、ふたりしてどうしたんだ?」
 たっちゃんは私たちに気付き、声をかけてくれた。
「たっちゃんを探してたの」
「俺を?」
 私たちは頷いた。
「で、なんの用なんだ?」
 う〜ん、改めてなんの用かって聞かれると、答えにくいな。
「たいした用じゃないけど。あ、それよりも、職員室になんの用だったの?」
 ここは話題をすり替えるのが一番。
「俺か? 今朝のことだよ」
「今朝のこと?」
 私は思わず瑞穂と顔を見合わせた。
「なんだ、もう忘れたのか? 歴研のことだよ」
「あ、そっか」
「えっ、歴研がどうかしたの?」
 事情を知らない瑞穂は、ひとりで首を傾げている。
「瑞穂もいるからちょうどいいか。これは正式に決まったことで、歴研は四月いっぱいで閉めることになった」
「えっ、歴研やめちゃうの?」
 さすがに瑞穂は驚いてる。
「二年には先生を通じて今日中に知らせてもらうことになった」
「それで職員室にいたんだ」
「そういうこと」
 歩きながら話していたら、いつの間にか四階に着いた。
「屋上行くか?」
 たっちゃんがさらに上に上がる階段を指さして言った。
「うん」
 私と瑞穂は一も二もなく同意した。
 屋上に出ると、気持ちのいい風が頬を撫でた。
 うちの高校は特別高台にあるわけではないけど、見晴らしは結構よかった。
「う〜ん、いい気分だ」
 たっちゃんはフェンスに寄りかかって、気持ちよさそうに目を閉じた。
「ねえ、どうして歴研やめちゃうの?」
「もう活動できなくなるからな。叔父さんはしばらく帰ってこないし、それに俺たちは受験生だろ? だからだよ」
 瑞穂は少し複雑な表情になった。たぶん、私と同じ気持ち。
「俺が私的な目的で作ったものだからみんなの意見は聞かなかったけど、意見があれば聞くからさ」
「私はないよ」
 それは当然。だって、たっちゃんがやるっていうのに、私の方が乗っかった形だから。
「うん、私も」
 瑞穂も同じ。
「そっか。それならいいけど」
「たっちゃん」
「ん?」
「先生はなにも言わなかったの?」
 確かにそれは気になった。
「ひと言だけ」
「ひと言?」
「淋しくなる、って」
 先生は世界史担当だけど、普段はカリキュラム消化のための授業をしてるだけ。やっぱり自由に研究できた歴研には、思い入れがあったみたい。
「ま、歴研は閉めるけど名前がなくなるだけで、研究ができなくなるわけじゃないから」
「うん」
 たっちゃんはそう言って微笑んだ。
「さてと、そろそろ戻らないとな」
「そうだね」
 
 ☆竜也
 今日も一日何事もなく終わった。
 今俺は、生徒会室で仕事中。生徒会長なんてやってるといろいろ面倒くさいこともやらなきゃならない。ま、好きでやってるんだけど。
「会長。これ、どうします?」
「それは生徒総会まで保留しておいて」
「はい」
 春先は仕事も多い。確実にこなさないとあっという間に夏休みになり、今度は部活の予算なんて面倒なものが来てしまう。だから早めに片づけるわけ。
 と言いながら、仕事は俺と理奈が分担してやってるから、それほどでもないんだけど。
「たっちゃん。こっちは終わったよ」
 隣で仕事をしていた理奈が終わったみたいだ。
「こっちも、これで終わり」
 俺は最後の一枚に生徒会の判を押した。
「みんな、おつかれさま。今日はこれで終わりにします」
 緊張感から一転、生徒会室は和やかな空気に覆われた。
「おつかれさまでした」
「おつかれ」
 俺はひとりひとりに声をかける。ま、これはいつもしてるけど。
「たっちゃん。私たちも帰ろ」
「そうだな」
 今日は瑞穂は用事があって先に帰ってしまった。
 俺は生徒会室の戸締まりを確かめ、最後に鍵をかけた。
「行こう」
「うん」
 途中、職員室に鍵を返して学校を出た。
 外はもう夕方で、薄暗くなっていた。ただ、学校からうちの間には前にも言ったように商店街があるから、特に遅くない限り理奈だけでも心配はない。
「たっちゃん」
「ん?」
「歴研やめる前になにかやらないの?」
「なにかって?」
「たとえば、最後にみんなで集まって締めくくるとか」
「いや、特にやるつもりはない」
「どうして?」
「スパッとやめたいんだ。だから余計なことはしない」
 なにかすればそれだけあとに残る。趣味の研究会にそれはいらない。
「理奈はやった方がいいと思うのか?」
「うん。でも、最終的にはたっちゃんが決めることだから」
 そんな風に言われると俺が悪いみたいだ。
 これは理奈たちには内緒だが、実は歴研はあまり生徒の受けがよくない。それは主宰している俺が生徒会長だということに起因している。どうしても会長自ら動くと、その裏でなにかが動いているように人によっては感じるのだろう。確かに俺がその立場だったら、そう感じるかもしれない。
 ただ、誓ってそういうことはなかった。それは当然である。
 それともうひとつ。歴研の構成メンバーが少し問題だった。俺は生徒会長、理奈は副会長、瑞穂は書記。生徒会の中心人物が三人。それに加えて、少々素行に問題のある崇史。それとこれは俺には理解できないが、理奈は学校の男子に異常に人気があるのは前に述べた通りだ。で、一部の過激派が俺や崇史を目の敵にしているらしい。憧れの理奈を独り占めするな、って。
 まあ、生徒会長としては学校内に争いごとを持ち込みたくないから、理解できなくても引き下がるしかない。
 ただ、俺に言わせてもらえば、俺が理奈にくっついてるわけじゃなく、理奈が俺にくっついてるというのが当たらずとも遠からずだと思う。
「理奈」
「なぁに?」
「理奈はどうしていつも俺と一緒にいるんだ?」
 こんな質問をしても──
「それは、一緒にいたいから」
 これで終わり。今まで何度も同じことを聞いたが、結局いつもこれ。
 ま、どうせ昔から一緒にいるから慣れた環境がいいとか、あんまり理屈はないんだろうけど。
 俺には父さんみたいに女性心理はわからない。というよりも、あんまりわかりたくない。わかるとうちにいられなくなりそうで。そんな予感がする。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 ただ、いつまでもそうしていられないのも、事実かもしれない。
 
 その弐 小さな迷子
 ☆竜也
 ゴールデンウィークも終わり、そろそろ学校へ、会社へ行くのがイヤになる時期。
 俺たちはいつもと同じように学校へ向かっていた。
「たっちゃん。宿題やった?」
「宿題?」
「ほら、数学で出てたでしょ」
 そういえば、そんなこと言われたような……
「……忘れてた」
 なんたる失態。ここのところ生徒会の仕事が忙しくて授業の予習なんかがおろそかになってたけど、宿題まで忘れるとは。
「理奈。頼む、見せてくれ」
「別にそれでもいいけど、数学だったら私よりも瑞穂の方が得意だから。ね、瑞穂」
「えっ?」
「頼む。見せてくれ」
 俺はふたりに頭を下げた。
「うん、いいよ」
「そうか、ありがとう」
 いや、持つべきものは幼なじみだな。これで宿題の件は解決だ。
 しかし、三年にもなって宿題を出す先生も先生だ。まあ、まだ五月だからなのだろうけど。
「あっ、カワイイ」
 俺が心の中で悪態を付いていると、さとみがなにやら見つけたようだ。
「なんだ?」
「ほら」
 見るとゴミ捨て場のポリバケツの上に、子猫がいた。
「捨て猫かな?」
「う〜ん、わかんない」
 確かに、よくマンガやドラマなんかでは捨て猫はゴミ捨て場にいる。だけど、実際はそうとは限らない。ただ散歩の途中で休んでるだけかもしれないのだ。
「みぃ」
 子猫は五人もの人間に囲まれ、少し怯えているみたいだった。
「怯えてるの?」
「そりゃそうだ。自分より遙かに大きな人間が五人も目の前にいるんだから」
 それでもさとみは一番間近で子猫を見ている。
 あずさも理奈も瑞穂もその少し後ろから見ている。
「ほら、そろそろ行くぞ。あんまりちょっかい出すとついてくるかもしれないから」
「はぁい」
 これは本当によくあることだ。犬なんかでも自分に危害を加えず、なおかつ優しく接してくれる者には好意を持ってついてくる。飼う気もないのに、それは動物に可哀想である。
「バイバイ」
 さとみは子猫に手を振っている。
 昔、うちでも犬を飼ってたけど、可愛がりすぎると死んだり別れなくちゃならない時につらいから、あとにも先にも一度しか飼ってない。
 しかし、この朝のことはそれから先の俺たちの運命のほんのはじまりにすぎなかった。
 午前中は瑞穂に宿題を見せてもらったおかげで何事もなく過ぎ、午後もそれなりに過ぎていった。
 放課後。俺は掃除当然で職員、来校者用の玄関を掃除していた。ここは普段からきちんと掃除されているから、それほど汚れておらず割と楽な掃除だった。
「あっ、お兄ちゃん」
 声のした方を見ると、ゴミを捨てに行くのだろう。ゴミ箱を持ったあずさがいた。
「掃除当番か?」
「うん」
 あずさのことだからほかの掃除当番にゴミ捨てを頼まれ、イヤとは言えずに捨てに来た。そういうところだろう。
「手伝ってやろうか?」
「えっ? ううん、大丈夫だよ。そんなに重くもないから」
 と言いながらも、しっかり両手で持たないとダメなくらいは重いみたいだ。
 俺はほうきを用具入れに仕舞うと、
「ほら、貸してみな」
「あ……」
 半ば奪い取るようにあずさからゴミ箱を取った。
「行くぞ」
「う、うん」
 俺はあずさを連れて校舎裏にあるゴミ捨て場に向かった。
「あずさ。また頼まれたのか?」
「……うん」
 はあ、やっぱり。
「たまには断ったらどうだ? いつもいつもやってるんだから、それくらいしたって構わないだろ」
「でも……」
 わかってる。わかってるんだ。あずさにそんなことができないことくらい。
 理奈、あずさ、さとみの中で普通だったらさとみが一番俺の側にいたと思うだろうし、目をかけていたと思うだろう。だけど、実際はあずさが一番側にいた。どうしてそうだったのかは、俺にはわからない。だけど、だからこそ俺にはあずさのそういうところが手に取るようにわかるのだ。
「あずさは損な役回りなんだな。ほっとくとなんでも自分の方へまわってきて、大変な目に遭う」
「そんなこと、ないよ」
「ふう……ま、すぐにどうこうできるわけじゃないからな」
 俺はあずさの頭を撫でた。昔からあずさは俺に頭を撫でられるのが好きだった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「いつもありがとう」
「なんだよ、改まって。それに、俺はあずさの兄貴なんだから、気にするな」
「うん」
 ゴミ捨て場に着くと、さっさと中身を捨てて戻ろうとした。
 ところが、
「どうした?」
「お兄ちゃん。あれ」
 あずさがなにか見つけたらしく、すぐには俺についてこなかった。
「あれは……」
 そこにいたのは、今朝の子猫だった。
「今朝の子猫だよね?」
「たぶんな」
 いや、確信はあった。
「どうしよう?」
「どうしようって言ってもな」
 ここは学校。小学校や中学校なら飼育委員かなんかに頼めばいいんだが、高校にはそんなものはない。
「迷子なのかな?」
「たぶんな」
 どうしても曖昧な答えになってしまう。
「おいで」
 あずさが手を伸ばすと、
「みぃ」
 ゆっくりとあたりを確かめながら近づいてきた。
「いい子だね」
 そんな子猫をあずさは優しく抱きかかえた。
 今は今朝ほど怯えていなかった。それよりあずさに抱かれて安心しきっている。
「仕方ない。これは生徒会の問題として取り扱おう」
「いいの?」
「このままってわけにはいかないだろ?」
「うん」
「とりあえず、生徒会室に連れて行こう。ついでにみんなも呼ばないと」
 思い立ったら行動は早い。あずさにはとりあえずここにいてもらって、俺はコミ箱をあずさのクラスに返し、四階で理奈と瑞穂を呼び、そのままふたりをあずさのところへ行かせた。さらに職員室に行き篠原先生の協力を仰ぎ、生徒会室へ向かう途中にさとみを呼んだ。
「じゃあ、はじめようか」
 生徒会室にいるのは、今朝子猫を見た俺を含めた五人と篠原先生、それとたまたま生徒会室にいた生徒会のメンバー。
 子猫はまだあずさに抱かれている。
「とりあえず、子猫をどうするかなんだけど。さすがにこのままというわけにはいかないし。だけど、学校でどうにかすることも難しいから。で、みんなにどうしたらいいか考えてもらいたいんだ」
 普通、生徒会はこんなことをわざわざすることはない。ただ、今回は朝のこともあってほっとけなかった。
「笹森くん。笹森くんはどうしたらいいと思うの?」
 最初に発言したのは篠原先生だった。
「おそらく迷子ですから、なんとか飼い主を探せればと思ってます」
「そうね。それが一番いいかもしれないわね。でも、子猫といっても猫の行動範囲は侮れないわよ」
 それは言えてた。猫は細い路地、塀の上、水の流れていない側溝など、人が通れないところを使ってかなりの範囲を移動する。
「とりあえず学校の中で探してみて、それから外に広げてみるのは?」
 理奈の意見は確かにいい意見だが、少し効率が悪い。
「商店街を使うのはどう?」
 なるほど。商店街なら人の出入りも多い。しかも話し好き、噂好きの主婦も多い。
「それがいいかもしれないな。となると、張り紙かチラシが必要になるわけか」
「お兄ちゃん。お父さんのパソコンを使わせてもらったら?」
「そうね。さとみちゃんの言う通りかも」
 理奈もさとみの意見に賛成らしい。確かに父さんはデジカメを持ってるから、子猫を写してそれを張り紙にすれば効果は期待できる。
「先生。コピーの方は頼めますか?」
「いいわよ。学校のカラーコピー機でやってあげるわ」
「ありがとうございます」
 とりあえず、方針が決まった。
 あとは、実際に動くだけだ。
 
 ☆理奈
「こら、動かないでよ」
「あはは、なんかすごく嫌がってる」
「さとみ。笑ってないで手伝ってやれよ」
「はぁい」
 私は今、デジカメを持って悪戦苦闘中。
 なぜかって? それはもちろん、あの子猫のせい。張り紙を作るのに写真を撮ろうとしてるんだけど、これがなかなか大変。
「ほんの少しでいいから、じっとしてて」
 私はもう泣きそうな声を出した。
「あずさ、さとみ。カメラの方から一瞬だけ気を引くんだ。その間に理奈はシャッターを押すんだ」
 あずさちゃんとさとみちゃんは、子猫の気を引きながら私の後ろに回り込んだ。
「あっ、チャンス」
 私は子猫がこっちを向いた瞬間を逃さず、シャッターを切った。
「撮れたか?」
「うん、完璧」
 たっちゃんは健一さんのパソコンで張り紙の文章とレイアウトを作っている。
「カメラ貸して」
「はい」
 たっちゃんはカメラとパソコンを繋ぎ、画像を取り込んだ。
「よし、出てくるぞ」
 画面には少しずつ、今撮った子猫の写真が現れてきた。
「へえ、理奈にしては珍しくちゃんと撮れてるじゃないか」
「な、なによ。それじゃ私がいつも失敗してるみたいじゃない」
「違うか?」
「う……」
 悔しいけど言い返せなかった。確かに私が写真を撮るとぼやけてたり、ピントがずれてたりしてることが多いけど。
 だからってそんなに言うことないのに。たっちゃんの意地悪。
「ん? どうかしたか?」
「う、ううん」
 顔に出てたみたい。いけないいけない。
「よし、これをここに入れて……っと」
 さすがはたっちゃん。私はいまいちパソコンの使い方がわからないけど、たっちゃんは見事なもの。
「文章はこれでいいかな?」
 たっちゃんはモニターを私たちの方へ向けてくれた。
『迷い子猫、あずかっています。心当たりの方は桐岡高校生徒会までご連絡ください。直接学校にいらしてもらっても構いません。夕方以降は笹森までご連絡を。桐岡高校生徒会』
「いいと思うよ」
「あずさは?」
「うん、いいよ」
「よし。あとはこれをプリントアウトして、明日学校でカラーコピーしてらおう」
 たっちゃんはマウスを操作して、プリントアウトできるようにしている。
「さてと、これで準備完了」
「ごくろうさま、たっちゃん」
「いや、たいしたことないよ」
 たいしたことないとは言うけれど、これを作るのに一時間以上もかけてたのに。たっちゃんは昔からそう。人には大変な姿を見せない。
「よし、プリントアウトできた」
 たっちゃんはできあがったばかりの張り紙の原紙を私たちに見せた。
「ほら、子猫ちゃんだよ」
 さとみちゃんは子猫を抱きかかえて、写真の子猫と向かい合わせた。
「みぃ」
 子猫はひと鳴きしてそっぽを向いてしまった。
「竜也ぁ、いる?」
「いるよ」
 と、部屋にいつみさんが入ってきた。
「どうしたの、姉さん?」
「母さんが子猫が来てるって言うから」
「こいつだよ」
 たっちゃんはさとみちゃんに抱えられている子猫の頭を撫でた。
「あはっ、カワイイ」
 いつみさんの顔がみるみる変わった。
「ちょっと抱かせて」
「うん」
 さとみちゃんはいつみさんに子猫を渡した。
「う〜ん、カワイイカワイイ」
「姉さん。おもちゃじゃないんだから」
「わかってるわよ」
 でも、いつみさんは子猫を放そうとしない。
「竜也。飼い主が見つかるまではうちで飼うんでしょ?」
「そうだよ。最初に見つけたのがさとみで、二度目に見つけたのがあずさだったから。それに生徒会で扱ってるから、当然会長の俺が責任を持たなくちゃいけないし」
「じゃあさ、うちにいる時だけ名前つけない?」
「名前?」
「そ。だって名前がないと呼びにくいでしょ? だからよ」
「うん、さとみも賛成」
「あずさは?」
「いいと思うよ」
「私は構わないわよ」
「決まりね」
 いつみさんは子猫をさとみちゃんに返すと、
「明日の朝までに決めましょ。どうせ一日じゃ見つからないわよ。噂が広まるのに少なくとも三日はかかるからね」
「わかったよ」
 たっちゃんも納得した様子。私に異存はない。
「じゃ、私は行くから」
 いつみさんはそう言って部屋を出た。と思ったら、
「あ、そうだ。竜也。少し話があるから、あとで部屋に来て」
「わかった」
「じゃあね」
 今度こそ本当に出て行った。
「あずさ、さとみ」
「なぁに、お兄ちゃん?」
「今日はふたりの部屋に連れて行っていいから」
「ホント?」
 さとみちゃんがすぐに反応した。
「そのかわり、ちゃんと面倒を見ること」
「うん、大丈夫だよ。ね、あずさ?」
「うん」
 あずさちゃんも嬉しそう。
「じゃあ、俺はここの片付けしてから出るから」
「うん。行こ、あずさ」
 あずさちゃんとさとみちゃんは先に部屋を出て行った。
「なんだ。理奈は行かないのか?」
「うん。たっちゃんを待ってる」
「そっか」
 私と話してる間も、たっちゃんは手を止めずに片付けをしている。
「あずさちゃんとさとみちゃん、本当に嬉しそうだったわね」
「まあな。だけど、どうせ今日だけだから」
「えっ? どういうこと?」
「いくらうちで預かってるだけとはいえ、相手は動物だ。愛着が湧くと手放しづらくなるだろ? だから今日だけなんだ」
「……やっぱりたっちゃんはすごいね」
「なんだよ、改まって」
「だって、突然のことにもそれだけのことを考えられるなんて」
 たっちゃんはなにも答えなかったけど、その表情は少し照れていた。
「よし、終わった。行こうか」
「うん」
 そんなたっちゃんがまた少し、大きく思えた。
 
 ☆竜也
「俺だよ」
「入っていいわよ」
 俺は無造作にドアを開けて、中に入った。
 姉さんは……相変わらずだった。
「あのさ、もう少しきちんとしてられないの?」
「どういうこと?」
「たとえ家の中とはいえ、そんな格好で、しかも仮にも俺は男で……」
「なぁに言ってるのよ。そういうことはもう少し大人になってから言いなさい。体だけ大人でも心まで大人にならなくちゃ、意味がないんだからね」
 と言いながら、タンクトップ(おそらくノーブラ)にショートパンツという非常にラフな格好で、姉さんは俺に席を譲ってくれた。
「で、話って?」
「竜也。できるだけ早くあの子猫の飼い主、見つけなさい」
「やっぱりその話か。大丈夫だよ。そのことは十二分に承知してるから」
「それならいいけど。あずさとさとみが心配なのよ。あんまり情が移らなければいいけどね」
「まあね。こういうことは意外とあずさの方があとに残りそうだから」
「ま、あのふたりのことは私よりも竜也の方がよくわかってると思うから、あんまり言わないけど」
「確かに、あずさは一見芯が強そうに見えるけど、実はもろくて、意外にさとみの方がしっかりしてる。これは見てないとわからないからね」
 俺は、姉さんにふたりを見ている時間がなかったことを十分に理解している。長女という立場上、なんでも先にやらなければならず、特に姉さんの性格上俺たちの手本になろうと努力もしていた。だから、必然的に姉としての時間、つまり俺たちに関わる時間よりもほかの時間が増えてしまった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
「それならいいけど」
 姉さんは優しい。優しすぎる。そして、真面目だ。
 おそらくその反動が大学に入って出ているのだろうけど、根本は一緒だ。
「竜也。ひとつ聞いてもいい?」
「なに?」
「今、好きな子、いる?」
「な、なにを言うかと思えば、そんなことか」
「そんなことで悪かったわね」
 姉さんは少し拗ねたフリをした。
「で、どうなの?」
「……いないよ」
「ホント?」
「……ホントだよ」
「そっか。じゃあ、やっぱり心も大人にならないとね」
「どういうこと?」
「そうね。簡単に言うと、人の心がわかるようになるってことかしら。たとえば、身近な人のこと」
 そう言って姉さんは微笑んだ。
「竜也。たとえば、理奈ちゃんがなにを考えてるか、わかる?」
「だいたいはわかるけど」
「まあ、それはそうね。なんてったって、十六年も一緒に暮らしてるんだから。でも、肝心なところはわかってないでしょ?」
「肝心なところ?」
「そこがわかるようになると、心も大人になるのよ」
「姉さんはどうなの?」
「私? 私はあとひと息かな。竜也たちのことは手に取るようにわかるけど、稔のことが少しね」
「稔さんと喧嘩でもしたの?」
「ううん、してないわよ。だけど、時々わからなくなるの。あの人がどこを見ているのかね。たぶん、私には一生かからないとわからないのかもしれないけど」
「姉さん……」
「あはは、いいのよ。そういうことはね、人から教わるものではなくて、自分で見つけるものなのよ。だから心配しなくてもいいの。それよりも、自分のことを心配しなさい。気付いた時には手遅れ、なぁんてこともあり得るわよ」
「お、脅かさないでよ」
「あら、本当のことよ。だって、昔から竜也はああいうことには鈍感だとは思ってたけど、ここまで鈍感だとは思わなかったわ」
「ああいうこと?」
「ま、そのうちわかるわ」
 姉さんは意味ありげに笑った。
「さ、そろそろ戻りなさい。それとも、今日はお姉ちゃんと一緒に寝るのかな?」
「ちょ、ちょっと姉さん。そう言いながら迫ってこないでよ」
「ふふっ、冗談よ」
「まったく、冗談に聞こえないから困ってるんだよ」
「もう、そんなに言わなくたっていいでしょ。竜也は私のこと、嫌いなの?」
「嫌いなわけ、ないよ」
「そうでしょ。だったら、怒らないの」
「じゃ、じゃあ、行くから」
 俺が部屋を出ようとすると、
「あ、ちょっと待って」
「どうしたの?」
 姉さんはなにやらカバンを探っている。
「ほら、この間預かった研究論文」
「えっ、見てもらえたの?」
「もちろん。学科は違うけど面識のある教授だったから。渡しておいたのを今日返してもらったの」
 俺は部屋を出ようとしていたことなどすっかり忘れて、論文を受け取った。
「それでね、その教授が一度竜也と直接話がしたいって言ってるの」
「ホントっ!」
「ええ、本当よ。教授の話だと、確かに今は古代史ブームで考古学は流行っているけど、中身の伴っているものは少ないんだって。だけど、竜也のは論文としてはまだまだだけど、研究自体は面白いって。うちの大学でもお堅い教授で有名なその人が、かなり熱っぽく話してくれたわ」
「あ、しっかりチェックしてくれてる」
 論文には赤ペンで校正してあり、しかも資料まで紹介してあった。
「どうするの? 会ってみる?」
「もちろん」
「じゃあ、教授にそう伝えておくわ。おそらく、夏休みくらいになると思うけど」
「やった」
 嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。俺の夢は考古学者である叔父さんに追いつくこと。その第一歩を踏み出せたかと思うと、本当に嬉しかった。
「さ、戻りなさい」
「うん」
 俺は自分でも子供みたいだとわかるくらい、はしゃいでいた。
「ありがとう、姉さん」
 その日、俺は遅くまで何度も何度も論文を読み返した。
 
 ☆理奈
 次の日から子猫の飼い主探しがはじまった。
 朝、商店街の会長さんに事情を説明し、承諾を得た。そして、張り紙の原紙を篠原先生に渡してカラーコピーをお願いした。昼休みには生徒会のメンバーを集めて割り当てを決め、放課後はその割り当て通りに張り紙配りを開始した。
 張り紙の枚数は五十枚。あと、先生がチラシ用に百枚ほど印刷してくれた。
 私とたっちゃんは生徒会の代表としてもう一度商店街へ。そこで張り紙とチラシを渡して協力に感謝した。
「たっちゃん。これで準備はオーケーね」
「とりあえずはな。でも、これからが大変なんだ。積極的に情報も集めなくちゃいけないし」
「そうだね。でも、大丈夫だよね。きっと、見つかるよね」
「だといいけど」
 私たちはいったん学校へ戻った。
「よ、竜也」
「崇史。久しぶりに来たのか?」
 学校に戻ると、崇史くんに会った。彼が学校に来るのは本当に久しぶり。
「まあな。あんまり来ねぇと、卒業できなくなるからな」
「ははは、さすがにそれはまずいか」
「当然。ま、卒業だけはしとかないと、後々大変そうだからな」
「それはそうと、崇史に聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
「ちょっとこれを見てくれ」
 たっちゃんは崇史くんにチラシを見せた。
「迷い子猫? またこんなのやってんのか?」
「行きがかり上仕方なく。で、この子猫、見たことない?」
「ないな。うちの近くにもうるせえノラはいるけど」
「そっか。いや、ありがとう」
「悪いな。力になれなくて。それに今はあまり時間がなくてさ」
「先生のところに?」
「そういうこと。じゃあな」
「なるべく学校に来いよ」
「ああ」
 崇史くんは、そう言って行ってしまった。
「たっちゃん」
「ん?」
「崇史くん、変わった?」
「いや、そんなことはないと思うけど。なんでだ?」
「ううん、なんでもない」
 私がそう思ったのは、崇史くんがいつにも増して饒舌だったから。たっちゃんの前では人が変わるけど、今日はそれ以上に思えたから。
「それより、生徒会室に戻ろう」
「うん」
 
 ☆竜也
 子猫の飼い主を探しはじめて一週間が過ぎようとしていた。
 子猫の方は人間の苦労なんて知りもしないのだろう。すっかりうちになじんでいる。
 そうそう。名前も一応あって、『トルテ』になった。これは姉さんが考えたもの。フランス語らしいけど、よくわからない。
 日に何本か問い合わせの電話がかかってくるが、決定的なものは今のところなかった。
 俺としてはそろそろ見つかってほしいのだが、如何せん物事は思い通りには進まない。
 とか言ってる側からあくびなんかしてる。
「なあ、トルテ。おまえの飼い主、どこにいるんだ?」
 トルテはちょっと首を傾げて、
「みぃ」
 と鳴いた。
「悪かったよ。おまえには罪はないもんな」
 俺はトルテの頭を撫でた。トルテは猫のくせにのどをゴロゴロされるのと同じくらい、頭を撫でられるのが好きらしい。
 しかし、トルテは本当におとなしい猫だ。日中は家で母さんが面倒を見ているのだが、全然手がかからないという。家の中を勝手に歩き回ることもないし、トイレもちゃんとわかってる。
 それは夜も同じで、うちに来た日からそれぞれ持ち回りでトルテと寝ているのだが、今日は俺の部屋でおとなしくしている。本当に頭もよくていい猫だ。
 ただ、本音を言うとあまりうちになじんでほしくはなかった。トルテがなじむということは、当然俺たちの方もなじんでくるということだ。
 これは前にも言ったが、情が移ると別れる時につらくなる。
 俺や理奈、姉さんはそんなことはないが、あずさとさとみはわからない。ふたりとも本当によく面倒を見ているから。
 と、ドアがノックされた。
「はい?」
「たっちゃん、ちょっといい?」
 理奈だ。
「構わないよ」
「じゃ、おじゃまします」
 ドアが開き、理奈が入ってくるとトルテが足下にすり寄っていった。
「うふふ、トルテ、いい子ね」
 理奈はトルテを抱き上げ、ベッドに腰掛けた。そこは理奈の指定席だ。
「で、どうした?」
「うん、そろそろ潮時かな、って思って」
「トルテのことか?」
 理奈は黙って頷いた。
「そうだな。そろそろ見つからないと、つらくなるな」
「あずさちゃんとさとみちゃん、本当に可愛がってるから」
「今週中にはなんとかした方がいいかもしれない」
 俺はカレンダーを見た。今週はあと三日。
「ねえ、たっちゃん。もし、見つからなかったら、どうするの?」
「それは、桐高の生徒会長としての意見を求めてるのか、単に俺の意見を求めてるのか。どっちだ?」
「両方」
「そうだな。生徒会長としては、最後まで責任を持つべきだと思う」
「つまり、うちで飼う、ということね」
「俺個人としては、誰か飼ってくれる人を探した方がいいと思う」
「そうよね」
 理奈は、膝に載せているトルテを見た。
「おまえはどうしたい?」
 まるで子供に言ってるみたいにトルテに訊ねた。
「みぃ」
 トルテは相変わらずひと声鳴くだけ。
「わかるわけないよね」
「理奈」
「ん?」
「飼えると思うか?」
「う〜ん、どうかな。ふたり次第だと思うけど」
「飼ってる間はいいんだよ。おそらくふたりとも一生懸命にやるだろうし。だけど、どれくらい先のことかはわからないけど、死ぬかなんかして別れる時は、つらい。できればふたりに悲しい想いはさせたくないからな」
「私もそう思うわ。でも、それって両立できないのよね」
 確かにそれは難しい。うちで飼うことになればふたりは喜ぶ。これはいい。しかし、いつかは来る別れの悲しみ。これはつらい。
 かと言って、ほかの誰かに飼ってもらうようにすれば、それはそれで喜びのない悲しみ。
「結局は、あずさとさとみに任せるしかないな」
「うん、そうなるね」
 俺はふと時計を見た。もう夜の十一時をまわっていた。
「ま、いつまで考えててもしょうがない。第一、まだ飼い主が見つかる可能性もあるわけだし。飼い主が見つからなかったら、その時に考えればいい」
「そうね」
 結局結論はそこに行き着く。実際それしかないと思う。
「で、理奈。本当はもうひとつあるんだろ。トルテのことだけでこんな時間に部屋に来るわけないからな」
 伊達に理奈と十六年間も過ごしてきたわけではない。こういう時の理奈のことはよくわかる。
「あはは、やっぱりわかっちゃうよね。たっちゃんにはかなわないな」
 理奈は軽く笑って、
「ひとつ聞いてもいい?」
「なに?」
「私がお弁当作ったら、食べてくれる?」
「は?」
 俺は思わずこけそうになった。それは当然。なにを言うかと思えば、お弁当ときたもんだ。
「どうかな?」
「別に構わないけど。なんで?」
「あ、ううん、気紛れよ、気紛れ」
 なんとなく裏がありそうな感じがしたが、とりあえず実害はなさそうだ。
「じゃ、明日から作るね」
「明日から? それはまた急だな」
「じゃないと間に合わないかも……」
「ん? なんか言った?」
「ううん、なんでもないよ。あ、そろそろ戻るね」
 そう言って理奈はトルテを置いて、
「おやすみ、たっちゃん」
 部屋を出た。
「なんだったんだ?」
 俺は思わずトルテに向かってそう言っていた。
 トルテはただ、首を傾げただけだった。
 
 ☆理奈
 トルテの飼い主探しは、最後は意外なほどあっけなかった。
 私がたっちゃんに相談に行った次の日、学校に飼い主の方が来ていた。
 なぜトルテがいなくなったのかといえば、急に用事ができて家を空けたのが一週間ほど前。すぐに戻る予定だったので、誰にも預けずにいたらしい。そうしたらまだ子猫のトルテはいつの間にかいなくなった。そういうことらしい。
 あ、それから本当の名前は『ルッチ』ということ。
 放課後にうちの方へ来てもらい、ようやく事件は解決。
 あずさちゃんとさとみちゃんはちょっと残念そうだったけど、すべて丸く収まったからめでたしめでたし。
「なるようになったわけかな」
「そうだね」
 今は事件の解決した日の次の日。たっちゃんとふたりで屋上にいる。
「高校生活最後の年の、生徒会長としての最後の大きな仕事だったかもしれない」
「かもね、うふふ」
 そうそう。たっちゃんにお弁当を作りはじめて二日目だけど、出だしは好調。たっちゃんも『美味しい』って言ってくれたし。
 もうすぐ夏。
 きっと想い出に残る夏になるはず。
 きっと……
 
 PS・ルッチが取り持った縁で、飼い主の方と知り合いになった。あずさちゃんとさとみちゃんは、今度の休みに会いに行くと言ってるし。これはこれでよかったのかな?
 
 
第弐話 夏は夜
 
 その壱 夢への道
 ☆竜也
 突然だけど……暑いっ!
 今年の夏はそれほど暑くならないと言っていたのに、実際は連日の真夏日、熱帯夜。体中の水分がなくなりそうだ。
 そんな中、俺は学校に来ている。もう夏休みに入っているから生徒の数はそれほどでもない。
 なぜ学校へ来たかというと、あるものを取りに来たからだ。
 あるものとは、俺の宝物のひとつ、考古学ノート。そのノートにはこれまでに世界で発見された遺跡や遺物のデータが記してあり、それに関する自分の意見も記してある。
 そんな大事なノートをどうして学校に置いておくのか、と思うだろうけど、そのノートは篠原先生の意見もあって、学校の図書館に置いてある。従って、学校がない時だけ自由に使うことができる。
 俺は風通しの悪い校内を汗を拭きながら図書館に向かった。
 図書館は廊下に比べると幾分涼しかった。
 何人かの生徒が勉強してる。おそらく三年だろう。
 俺はそれを横目に見ながら、図書準備室に入った。
 図書準備室の地理、歴史科の棚からノートを探して取り出す。自分の手元に戻ってくるのは四ヶ月ぶり。
 俺は用事が済んだので、さっさと図書館を出た。
 ところで、どうして俺がノートを取りに来たかといえば、今度姉さんの大学の教授と会うことになって、その時にノートも見せようと思ったからだ。
 自分は現在どれくらい評価されているのか、できる限り詳しく知りたかった。その結果は良かろうが悪かろうがどちらでもいいのだ。良ければさらにがんばればいいし、悪ければ悪い点を改善すればいいのだし。
「竜也」
 と、誰かが俺を呼んだ。
 声がした方を見ると、祐介がいた。
「やあ、竜也」
「部活?」
「そうだよ。今最後の研究をしてるんだ」
「そっか。桐高祭は夏休み明けすぐだからな」
「そうそう。で、竜也はなにしに学校へ?」
「これだよ」
 俺は持っていたノートを見せた。
「これを取りに来た。ちょっと必要になってさ」
「へえ」
 完全に理系の祐介は、考古学にはそれほど興味を持っていない。
「そういえば、夏休みはどこかへ行くの?」
「行くよ。今年は石垣島」
「石垣島か。いいね」
「そう言う祐介はどうなんだ?」
「僕はどこにも行かないよ。部活の研究もあるし、それに受験勉強もあるから」
「真面目だな。俺なんか受験勉強なんて考えもしてないのに」
「竜也はいいんだよ。もともと成績はいいから」
「そんなことはないと思うけど」
 これは謙遜ではない。実際、この前のテストでは成績が少し落ちた。
「じゃあ、そろそろ行くから」
「またそのうちに」
「おみやげ楽しみにしてるよ」
「ははは、忘れなかったらな」
 俺は祐介と別れ、学校をあとにした。
 うだるような暑さの中、焼けるように熱くなった校庭を汗だくになりながら通り過ぎた。
 俺ははっきり言って夏は好きではない。暑いのが嫌いなのだ。季節で一番好きなのはやはり秋。なにをしても気持ちのいいあの季節が一番好きだ。
 とまあ、まだまだ先の話をしてもしょうがない。
 俺は蝉が鳴き、生ぬるい風が吹き抜ける中を、一刻も早く家に帰ろうとした。
 が──
「たっちゃん」
 世の中は上手くいかないものだ。瑞穂と出会ってしまった。
「今日も暑いね」
「ああ、暑くて気力がなくなるよ」
「ふふっ、その割にはしっかりとした足取りだったけど」
「そうか?」
 やはり大学の教授に会えるということで、少し浮かれていてそのことが自然と出ていたのかもしれない。
「う〜ん、ここで話してるのもなんだから」
 俺は財布をちょっと確かめて、
「入ろう」
 近くの喫茶店を指さした。
「いいの?」
「別に構わさないさ。暑いのがイヤなだけ」
「うん」
 俺たちは喫茶店に入り、奥の窓際に座った。そして、アイスコーヒーとアイスレモンティーを頼んだ。
「ところで、制服を着てるってことは、学校へ行ってたの?」
「まあ、ちょっと用事があって」
 瑞穂はいかにも、なにしてたの?、というような表情でこっちを見ている。
「これを取りに行ってたんだ」
 俺はノートを渡した。
「考古学の研究ノートね」
 瑞穂は同じ歴研だったこともあって、このノートのことはよく知っている。
「ありがと」
「そういえば、瑞穂とこうしてふたりだけっていうのも久しぶりだな」
「うん。いつもは理奈やあずさちゃん、さとみちゃんがいるからね」
「お待たせしました」
 ちょうど注文したものが運ばれてきた。
「今日は俺のおごり」
「えっ? そんなの悪いよ」
「いいからいいから。今日はおごりたい気分なんだ」
 瑞穂はちょっと困った顔をしたが、
「じゃ、今度は私がおごるということで、今日はありがと」
 こうやっていちいち理由をつけるのが、昔からの瑞穂の癖だ。
「たっちゃんたち、石垣島に行くんでしょ?」
「ああ、もうちょっと先になるけど」
「いいなぁ、私もどこかへ行きたいけど、予定がつかなくて」
「夏期講習か?」
「うん。夏休みのうちに苦手なところを克服しておきたくて」
「大変だな」
 同じ受験生の俺が言ってもしょうがないのかもしれないけど、なんとなく他人事に聞こえてしまう。
「あ、そうだ。この前ね、理奈とふたりで買い物行ったの」
「買い物?」
「うん。新しい水着を買ったの」
「水着か」
「理奈ね、もうはりきっちゃってはりきっちゃって。せっかく石垣島まで行くんだから新しいのがいいんだって」
「瑞穂も買ったのか?」
「私? うん、一応。着る機会、あるかわからないけど」
 そう言って少しだけ淋しそうな顔をした。
 そういう顔をされると、こっちも困ってしまう。
 う〜ん、仕方がない。
「なあ、瑞穂。暇な時に、プールにでも行かないか?」
「えっ、プール?」
「まあ、あんまり遠出もできないだろうからさ。どうかな?」
「うん、行くわ」
「よし、決まりだな」
 俺ってどうして弱いんだろう。
 
 ☆理奈
「なあ、理奈。どうしてついてきたんだ?」
 さっきからたっちゃんはこの質問ばかりを繰り返している。
「いいじゃない。理奈ちゃんだって大学ってものを見ておきたいのよ。それに、理奈ちゃんの志望大学は、ここだし」
「だけど……」
 たっちゃんはなにか言いたそうだったけど、言わなかった。
 今日はたっちゃんと一緒にいつみさんの通う大学にやって来た。近くには大学がないから中はそうそう見られない。だから、結構楽しみだった。だけど、たっちゃんにはなんにも言ってなかったから、ちょっとご機嫌ナナメ。怒っては、いないみたいだけど。
「竜也。今日は家にいたって誰もいないんだから。理奈ちゃんひとりだと淋しいでしょ? それくらいはわかるでしょ」
「それはそうだけど……」
 今日は見事なまでに誰も家にいない。健一さんは当然だけど、かおりさんは近所の奥さん仲間と買い物、あずさちゃんとさとみちゃんは友達と遊びに行った。いつみさんとたっちゃんは大学に行くって決まってたから、私だけ用がなかったの。
 というわけで、いつみさんにお願いして一緒に大学へ来たわけ。
「あれが文学部の研究棟よ」
 それにしても大学の構内は広い。駐車場から五分以上もかかってやっと着いた。
「ここの二階の一番奥が考古学研究室よ」
 私たちは古い階段を上がって、あまり陽当たりのよくない廊下を進んでいった。
「ここよ」
 半開きになったドアのところに『考古学研究室』と書いてあった。
「失礼します」
 いつみさんが先頭に立って、私とたっちゃんがあとに続いた。
 雑然と置かれた様々な資料などを見ていると、やっぱり大学だと思う。
「教授。おはようございます」
 一番奥の机に座っていた白衣の男性に、いつみさんが声をかけた。
「ん? おお、笹森くんか」
 振り返ったその人は、意外にも若かった。
「私の弟です」
「どうも、笹森竜也です」
「よろしく」
「そして、桃瀬理奈ちゃんです。彼女はうちの大学を志望していて、見学にと思って連れてきました」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 私はその人をよく見た。教授ってもっと年を取った人がやると思っていたのに、こんな若い人でビックリ。
「ははは、驚いたかな。僕みたいなのが教授で」
「い、いえ、そんなことは……」
 心の中を見透かされたような質問に、ちょっと焦った。
「さて、僕はこれから竜也くんと話をするけど、ふたりはどうするかね?」
「私たちは構内をまわってきます」
「うん、それがいいだろう。興味のない人が聞いていても面白くない話になるだろうからね」
 そう言って微笑んだ。
「では、後ほど来ます」
「ああ」
 私といつみさんはいったん研究室をあとにした。
「あの教授、まだ三十代なのよ」
 文学部の研究棟を出て、いつみさんがそう言った。
「あの教授、三輪教授はね、天才なのよ。発表する論文は必ず学会に議論を呼び起こし、研究でも発掘だけじゃなく、復元にも力を注いでかなりの成果を挙げているし。だから、異例の若さで教授になったのよ」
「すごい方なんですね」
「そうよ。そんな教授に認められた竜也は、ひょっとしたらもっとすごいのかも」
 確かにそうかもしれない。天才は自分と同じものは認める。上辺だけではなく心から。
「さてと、どうせ時間がかかるから、私たちもゆっくりしましょ」
「はい」
 私たちは大学の施設を順番にまわった。管理棟、教室棟、体育館、講堂、文学部以外の研究棟。
 昨今の国立大学はお金がないから十分な施設の拡張や整備ができないみたいだけど、この大学は比較的しっかりとしていた。
 グラウンドではサークル活動をしていた。図書館はうちの高校なんか比べるのも恥ずかしいくらいのたくさんの本があった。コンピューターを入れた部屋もあり、その規模はうちの高校とは比べものにならなかった。
 一通りまわったらちょうどお昼になり、食堂に入った。光を効率よく取り入れられるように窓があって、とても明るく清潔感溢れる食堂だった。
 私たちはランチを頼んで席に着いた。
「ひとまわりしたから疲れたでしょ?」
「そんなことないですよ。結構楽しかったです」
「ふふっ、それはよかったわ」
「いつみさんはここで勉強してるんですよね?」
「どうしたの改めてそんなこと訊いて?」
「私もここで勉強できるのかなって思って」
「大丈夫よ。理奈ちゃんの成績なら推薦でも入れるわよ」
「大学は楽しいですか?」
「楽しいわよ。高校みたいに堅苦しくないし。その代わり自分がしっかりしなくちゃいけないけど」
「そうですよね」
 私は、どうしてこんな当たり前の質問をしたのかわからない。ただ、なんとなくそんなことを聞いて確かめたかった。
「竜也もここに入ればいいんだけど。三輪教授も喜ぶだろうし」
「たっちゃんなら大丈夫ですよ」
「ううん、成績のことじゃないの」
「えっ?」
「進路自体のことよ」
「どういうことですか?」
「そっか、理奈ちゃんは聞いてないんだ」
 私には話が全然見えてこなかった。
 いつみさんはコーヒーを飲むと、
「竜也はね、進学か就職か、まだ決めてないのよ」
「就職、ですか」
「そうよ。進学ならうちの大学。これは成績的には問題ないと思うけど。そして、就職なら叔父さんの、康二叔父さんの助手」
「そんな……」
 私は思わず椅子から立ち上がった。それくらい衝撃的な事実だった。
「叔父さんは知っての通り、一年のほとんどを外国で過ごしてるわ。助手になれば当然竜也もそうなる。それどころか、竜也なら一年中日本に帰ってこないかも。だから決めかねているのよ。難しい選択だから」
 心なしかいつみさんの表情が淋しそうに見えた。
「ま、まだ夏休みだからゆっくり考えるんでしょうけど。それと、このことはあずさやさとみには言わないでね。それから、竜也にも言わないで。本人が決めることだから、他人が口を挟まない方がいいのよ」
「はい……」
「ほら、そんな顔しないの。別に竜也が外国へ行くって決まったわけじゃないんだし」
 とは言っても、素直に状況を受け止めることはできなかった。ただ、結局はたっちゃんの問題だから、私はどうすることもできない。それだけは事実だった。
「……理奈ちゃんは、竜也のことが好きなのよね」
「えっ」
「いいのよ、わかってるから。それに竜也のことを好きなのは理奈ちゃんだけじゃないでしょ。瑞穂ちゃんもそうだし。おそらく学校にもいるんでしょうね。妹のあずさやさとみも竜也が好きなんだから、ほかの人なら当然よね。私だって竜也は好きよ。稔とは比べられないけど」
「……いつみさん」
「好きな人がなにか困っていたら助けるのも大切だけど、時にはなにもしないで見守ることも大切なのよ。わかるかしら?」
「なんとなく」
「今はそれでいいのよ。その時が来たら自分で決断すればいいのよ。助けるか、見守るかを」
 心の中では確かにそうだとわかっている。でも、それを素直に受け止めることは、難しい。
「さて、この話はこのくらいにしましょう。そろそろ話も終わるだろうし、行きましょう」
「はい」
 結局、現実にならないとわからないのかもしれない。
 
 その弐 石垣島の夏
 ☆竜也
 東経百二十四度、北緯二十四度。東京から飛行機で三時間。南西諸島の琉球諸島の先島諸島の八重山列島に属している島、石垣島。
 父さんの仕事のおかげで、俺たちは石垣島にやって来ることができた。父さんの仕事は場所を選ばない。だから時にはこうやって遠くに来ることもある。
 そして夏休みにはたいてい遠くの仕事を入れてくれ、それに同行して家族みんなで出かける。これが笹森家の夏の定番となっていた。
 父さんの今回の仕事は、石垣島の民宿からのものだった。改築するにあたって父さんに設計を頼んできたのだ。当然、宿もその民宿となる。
 海を見下ろせる高台にあり、それほど大きくはないがいい雰囲気の民宿だった。
 部屋は三つ。父さんと母さん、姉さんとあずさ、さとみ、そして俺と理奈。それは部屋の数から言ってしょうがない分け方だった。
 それにしても、理奈と同じ部屋というのは今の家を建てる前以来だった。
「うわぁ、いい気持ち」
 理奈は窓を開け放ち、部屋いっぱいに風を流し入れた。
「綺麗な海に綺麗な空。最高だね」
 理奈はさっきからこんな感じ。ま、思わずはしゃぎたくなる気持ちもわからないではないけど。
「ねえねえ、たっちゃん。泳ぎに行こっか?」
「もう行くのか?」
「だって、あんなに綺麗な海を見ていたら、早くあそこへ行きたいって思うわよ」
 俺は荷物の取り出しをやめて、窓から海を見た。
 確かに綺麗な海だった。陽の光に水面が映えて、本州の海とはまたひと味違っていた。
「ま、しょうがないか」
「やった、ありがと、たっちゃん」
 理奈は本当に嬉しそうに笑った。
「私、いつみさんたちに言ってくるから」
「わかった」
 俺はやれやれとその様子を見てから、もう一度窓の外を見た。
 都会の喧噪を離れ、こういう場所に来ると本当に落ち着く。俺ははっきり言って都会より田舎の方が好きだ。人が嫌いなわけではなく、騒々しいのが嫌いなのだ。
 ま、近くの騒々しいのには慣れてるけど。
 俺は気を取り直して荷物の取り出しを再開した。
「たっちゃん、言ってきたよ」
「で?」
「すぐに行くって」
「そっか。じゃ」
「どこ行くの?」
 俺が部屋を出ようとすると、理奈が呼び止めた。
「あのさ、泳ぎに行くんだろ。そしたら水着に着替えるわけだ。そしたら、俺がいたら邪魔だろうが」
「あ、そっか」
「ったく、もう少し早く気付けよ」
 俺は今度こそ部屋を出た。
 この民宿はすべての部屋が海に面しているため、廊下からは海は見えない。
 隣の部屋からはなにやら楽しそうな声がする。おそらく姉さんがあずさとさとみをからかっているんだろう。
「たっちゃん、いいよ」
 部屋から理奈が出てきた。水着の上にパーカーを羽織っていて、どんな水着を着ているのかはわからなかった。
「いつみさんのところにいるから、準備ができたら呼んでね」
「わかったよ」
 俺は部屋に入ると、早速水着に着替えた。男なんてすぐに終わるから楽だ。
 一応ティシャツを着て、タオルを持ってサンダルを持って準備完了。
 俺は窓を閉め、部屋を確かめて鍵をかけた。
 隣の部屋をノックする。
「はぁい」
「準備できたよ」
「すぐ出るわ」
 そう言って最初に出てきたのは、さとみだった。ピンク色のパーカーを羽織って、髪を後ろにまとめあげている。
「お兄ちゃん。一緒に泳ごうね」
「わかってるよ」
 そう言ってさとみは嬉しそうに俺の腕をとった。まったく、さとみにはかなわないよ。
 次に出てきたのは理奈とあずさ。あずさはやっぱり落ち着いた青のパーカーを羽織って長い髪をひとつに結んでいる。
「必要なものは持ったの?」
「うん」
 一応の確認。鍵は俺が管理することになってるから当然だけど。
 最後に出てきたのはもちろん姉さん。黄色のパーカーを羽織ってるけど、本当に羽織ってるだけ。腕なんか通してない。
「さあ行くわよ」
 姉さんの掛け声で俺たちは民宿をあとにした。
 海までは三分くらい。坂を下りたところが海水浴場になっている。
 すでに、明らかに地元の子供とわかる子と、おそらくどこかから来た人たちは泳いでいた。
「さてと、ここら辺でいいわね」
 荷物を置いておくのに適当な場所を見つけ、そこに荷物を置いた。
「ちゃんと準備運動するんだぞ」
 この準備運動を怠ると大変なことになる。水泳では鉄則。中学の時、海で溺れた人がいたが、あとで話を聞いたところでは準備運動を怠ったために途中で足をつったらしい。
「さてと」
 俺はさっさと済ませて、波打ち際に立った。
 押し寄せる波はそれほど冷たくなく、心地良い温度だった。
 俺は早速海に入った。
 久しぶりの海はとても気持ちよかった。しかも透明度抜群の南の海は、泳いでいてもほかの海とは違った楽しみもある。
「うわっ」
 水の中から顔を上げると、いきなり水をかけられた。
「あはは、上手くいった」
「こらっ、さとみ」
「こっちだよ」
 さとみは逃げるように、というよりは俺に捕まえてくれと言わんばかりに泳いでいく。
 それに俺ものるから悪いのかもしれないけど。
 俺はあっという間にさとみに追いついた。
「捕まっちゃった」
 と言いながら俺の後ろに回り込み、後ろから抱きついてきた。
「危ないぞ」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんが一緒だから」
 そう言われるとなにも言い返せない。
 俺はさとみを負ぶったまま、みんなのいるところまで泳いだ。もともとそんなに重くないさとみが浮力でさらに軽くなったから、全然大変ではないけど。
「ほら、着いたぞ」
 さとみを下ろすと入れ替わりにあずさが来た。
 あずさはさとみほど泳ぎが上手くないから、海ではいつも俺と一緒にいた。
「あずさ、どうする?」
「うん、もう少しこのあたりにいるよ」
「そっか。じゃあ、泳ぐ時は呼ぶんだぞ」
「うん」
 俺はもう一回泳ごうかと水に潜ろうとした時、いきなり後ろから目隠しされて、思わず転んでしまった。
「あはは、大丈夫?」
 慌てて起き上がると、嬉しそうに笑っている理奈の顔が目に入った。
「大丈夫なわけないだろ。普通いきなりあんなことするか?」
「ごめんなさい」
 本当にわかってるのかは疑問だけど、特別に許そう。
 理奈はライトグリーンのワンピースの水着。派手すぎず、地味でもなく、うん、理奈にはよく似合ってる。
「それ、新しい水着だろ?」
「えっ、うん、そうだよ。でも、どうして知ってるの?」
 理奈は、まだなにも言ってないのにどうして知ってるの、という顔をしている。
「瑞穂に聞いたんだよ。一緒に買いに行ったって」
「そっか。どう、かな?」
「似合ってるよ。いいと思う」
「あ、ありがと……」
 なんでそこで赤くなるのかわからないけど、本人も結構気に入っていたのは事実らしい。
「そぉれっ」
「うわっ!」
 いきなりの不意打ちを喰らって、俺は思わずよろけた。
「隙ありよ、竜也」
「くそっ、やったな」
 俺は狙いを姉さんに定め、思い切り水を跳ね上げた。
 しかし、敵もさるもの。素早くかわして反撃してきた。
 だが、そう簡単にはこっちもやられはしない。
 と、その時──
「今よっ!」
 俺は姉さんに気を取られすぎて、理奈たちを忘れていた。一斉に水をかけられ、もう降参。
「どう? チームプレーの勝利よ」
「こっちはひとりなの。どうやったって、勝ち目はないよ」
「そう。だったら、ひとりじゃなければ勝てるのね?」
 姉さんはにやりと笑った。
「あ、お、俺、泳いでくるから」
「あっ、待ちなさい」
 俺は慌てて沖の方へ逃げ出した。
 まったく、こんな調子だと帰るまで保たないかも。
 
 ☆理奈
 夕食後、私たちは部屋でおとなしくしていた。
 まあ、着いた初日から無理しなくても時間はあるから。
 というわけで、今はたっちゃんとふたりだけ。
「あ〜あ、初日からあんなのじゃ、保たないかも」
「そんなことないでしょ。たっちゃんは人一倍体力あるんだから」
「でも、人一倍疲れてる」
 たっちゃんは部屋に戻ってきてから、ずっと窓際の椅子に座って外を見ている。
「じゃあ、肩でも揉んであげようか?」
「今日はいいや。本当にダメになった時に頼むよ」
 たっちゃんは優しいし、今日なんか男の人はたっちゃんだけだったから、責任感も強いから余計な気を遣っていたはず。
「姉さんに関わらなければ、もう少し楽なんだろうけどさ」
「そんなことないと思うけどな」
「いいや、四人の中で姉さんが一番やっかいなの」
 と言ってるけど、いつみさんとたっちゃんは、今まで一度も喧嘩したことがない。口論すらほとんどないくらい。
 笹森家ではいわゆる『姉弟(兄妹)喧嘩』がない。いつみさんとたっちゃんはもちろん、たっちゃんとあずさちゃん、さとみちゃんもそう。
 かく言う私もたっちゃんとは喧嘩した記憶がない。
 それだけみんな仲がいいんだけどね。
「静かだよな」
「えっ?」
「余計な音が聞こえないのって、こんなに心地いいんだよな」
「そうだね」
「去年は名古屋だったから、こんな想いはできなかったし」
 私たちはほぼ毎年、健一さんの仕事についていって夏を過ごしている。
 今年は石垣島だけど去年は名古屋。その前の年が函館。ほかにも青森、仙台、京都、高知、長崎、鹿児島なんかにも行った。一番印象的だったのが小笠原に行った時、東京なのに東京じゃない。そんな不思議な空間がとても印象的だった。
「日本は、少し騒々しいのかな」
 私は驚いてたっちゃんを見た。
 ここへ来る前、いつみさんに聞いたことを思い出した。卒業したら日本からいなくなるかもしれないということを。
「理奈は外国へ行きたいとか、住みたいと思ったことはないか?」
「私? うん、行きたいと思うことはあるけど、住もうとは思わないかな。でも、どうして?」
「俺は、外国に住んでみたい。誰も知らない街で、ひとりで気ままに。あと、ついでに考古学の勉強ができたら言うことないけど」
「たっちゃん……」
「ま、今の俺には無理だけど。なんといっても言葉がね」
 そう言ってたっちゃんは苦笑した。
 だけど、さっきのたっちゃんの表情は真剣だった。
 たっちゃんは自分のことを一生懸命考えてる。それに対して私は、なにも言えないけど。だけど……
「そうだ。散歩しよう」
「えっ、散歩?」
「昼間みたいに暑くはないし、それに星を見ながらの散歩なんてそうそうできないから」
「でも、明かりもないのに大丈夫?」
「へへっ、心配ないって。キャンプ用に懐中電灯を持ってきてあるから」
 そう言ってたっちゃんは、カバンの中から懐中電灯を取り出した。
「理奈も行くか?」
 たっちゃんとふたりだけの散歩か。うん、いいかも。
「うん、行くよ」
「じゃあ、早速」
 私たちは民宿を出ると、とりあえず浜辺へ歩いた。
 車の音なんかしない。聞こえてくるのは波の音だけ。
「海からの風って、本当に気持ちいいよな」
「うん」
 砂浜は昼間とは百八十度反対の表情を見せていた。暗く、冷たく、海まで深い闇で。見ているだけで吸い込まれそうになる。
 その時、たっちゃんは懐中電灯のスイッチを切った。
「どうしたの?」
「しばらく、空を見ていたいから」
 そう言って砂浜に腰を下ろした。
 私もその隣に腰を下ろす。
「あの星は今から何万年も何億年も、ひょっとしたら計り知れないほど前に輝いたものなんだよな。それを今地球で見ている。本当に不思議だよ」
 たっちゃんがどうしてそんなことを言ったのかはわからない。ただ、少し思うところはあるみたい。
「人間なんて宇宙から見たら、ミクロのゴミくらいの存在なんだろうけどな。だけど、ゴミみたいな存在だから、今を必死に生きているのかもしれない。そう考えると辻褄もあうし」
 私はただ黙ってたっちゃんの話を聞いていた。
「ひょっとしたら、すべては決まっていることなのかもしれない。俺たちが今こうして星を見上げているのも。去年名古屋に行ったのも。俺に兄妹がいるのも。理奈がうちに来たのも。そして、これから先のことも」
「そうかもしれないけど。それに流されるだけじゃつまらないよ。自分で考えて、行動して、いろいろなことを見て聞いて、いろいろな出会いをして。その上でそれが決まっていたことならそれでもいいと思う。だってそうでしょ? 自分で生きてるんだから」
「わかってるよ。俺だって自分で自分のためにいろいろ考えてる。今までも、これからもそうだ。きっと、最後まで答えは出ないのだろうけど。なにがよくてなにが悪いのか」
「悪いことでもよくしようとすれば、変わるかもしれないしね」
「そうだな」
 それからしばらく、ただ星空を見上げていた。
 確かに、永遠ともいえるような時間をかけて地球に届いた星の光を見ているのは、不思議な気分だった。
「さてと、そろそろ行くか」
「あ、うん」
 たっちゃんは再び懐中電灯を点けると、港の方へ歩き出した。
「暗いから気をつけろよ」
「うん」
 とは言っても少し不安ではあった。
「もっと近くに来た方がいいんじゃないか」
 たっちゃんは私の心を見透かしたように、そう言ってくれた。
「理奈になにかあると、俺が怒られるからな」
「ふふっ」
 たっちゃんのいつもの癖。照れを隠すときは必ず誰かのせいにする。
 私はたっちゃんのすぐ横に並んだ。
 昔はこんな風によく歩いていたんだけど。いつ頃からか、少し距離感ができた。
「ねえ、手、繋ごっか?」
「は?」
「ダメ?」
 たっちゃんは少し考えて、いきなり私の手を取った。
「これでいいか?」
「うん」
 私たちはそれから港をまわって戻った。
 その間、ずっと手を繋いでいた。たっちゃんの手は大きかった。だけど、昔と同じでとても暖かく、安心感に溢れていた。
 今度は、腕を組んでみようかな?
 
 ☆竜也
 石垣島、二日目。
 朝からあいにくの雨。まあ、南の島は晴れも多いけど雨も多い。今回の旅行でもある程度予想してたけど、まさか二日目から降るとは。
 俺たちは仕方なく、部屋でおとなしくしている。父さんは仕事で出かけてるし、母さんと姉さんはなにやらやってる。
 というわけで、あずさとさとみが俺たちの部屋に来ている。
「お兄ちゃん。なにかしようよ」
「なにかって言われても」
 さとみに言われて俺は自分のカバンを見たが、めぼしいものはなにもなかった。
「理奈。なんかないか?」
 俺は理奈に助けを求めた。
「う〜ん、トランプくらいしかないけど」
「トランプか」
 まあ、定番のものだけど暇つぶしにはいいかも。
「よし、トランプしよう」
「なにするの?」
「そうだな。大富豪なんかいいんじゃないか? それと盛り上げるために、大富豪になったら大貧民に言うことを聞かせられるっていうのは?」
「なんでも?」
「そう、なんでも。まあ、常識の範囲内というのは当然だけど」
「うん、いいよ。あずさは?」
「うん」
「じゃあ、私もいいわよ」
「よし、決まりだな」
 こうして石垣島の二日目は大富豪大会になった。
 俺はかつて大富豪で怒濤の十連勝をしたことがあり、ちょっと自信があった。
 配られた手札はそんなに悪くはなく、ようするに出す順番が大きかった。
「細かいルールを確認。勝負は五回。五回目に大富豪だった者が勝者。それでいいな?」
 理奈たちは黙って頷いた。
「じゃ、はじめるぞ」
 ここからは少し長くなるから要所だけ。
 一回目。
 いい調子で枚数を減らしていったけど、最後の最後であずさにかわされ惜しくも富豪。さとみが貧民で理奈が大貧民。
 二回目。
 最初の手札が悪かった割にはなかなかがんばった。結局貧民。あずさが相変わらず大富豪。さとみが富豪になり、理奈は大貧民のまま。
「これからよ、これから」
 だそうだ。
 三回目。
 ついにツキがまわってきた。最初から2が三枚と1が二枚。富豪に一枚あげてもなかなかの戦力だ。ただ、順番が悪いのが難点だったが、かろうじて大富豪に。あずさはよっぽどカード運がなかったらしく、一気に大貧民。さとみが富豪で理奈が貧民。
 四回目。
 さっきのツキがまだ残っていた。圧倒的な強さで大富豪を死守。さとみと理奈が入れ替わりあずさは大貧民のまま。
 そして五回目。
 配られた手札は、2が三枚、1が三枚と圧倒的。俺は心の中でほくそ笑んでいた。しかし、あずさにカードを渡した時、一瞬顔がほころんだのを見逃していた。
 そして、悲劇がはじまった。
「はい、革命」
「…………」
 俺はあずさの出したカードに思わず絶句してしまった。7が四枚。大富豪において同じカードを四枚同時に出すことは、強弱の逆転を意味する。つまり、それまで一番弱かった3が一番強くなり、一番強かった2が一番弱くなる。
 ちなみに俺の手札をもっと詳しく説明すると、2が三枚、1が三枚、KとQが二枚ずつ、10が一枚、9が一枚。普段なら最強だが、革命が起これば……
 五回目はつらかった。みんながカードを着実に減らしていくのに、俺だけ変わらない。減ったのは10だけ。
 強いカードが俺に集まったために、三人は革命下では強い強い。俺はまったく太刀打ちできなかった。
 そして──
「あがり」
 あずさが最後に3を出してあがった。大富豪だ。
 次いでさとみ、理奈とあがった。
「お兄ちゃんの負け」
 さとみがニコニコ笑って俺に言った。
「約束は約束だからな。あずさのいうことをなんでも聞くよ」
 俺は大貧民になったのは悔しかったが、大富豪があずさでホッとしていた。さとみや理奈だとなにを言われるかわかったもんじゃないから。
「で、俺はどうすればいいんだ?」
 俺はあずさに訊ねた。
「なんでもいいのよ」
「そうだよ、あずさ」
 まったく、ふたりとも人のことだと思って。
「じゃあ、旅行の間、理奈お姉ちゃんと私たちの言うことを一日に三回、聞いてほしいの」
「あずさはともかく、なんで理奈とさとみまで」
「ダメ?」
 ダメと聞かれれば、ダメとは答えられない。なんと言っても俺は負けた身。
「わかったよ。旅行の間、あずさとさとみと理奈の言うことを一日に三回聞く」
「うん」
 あずさは嬉しそうに頷いた。
「あずさ、いいの?」
「うん」
 さすがに勝者じゃないさとみは少し遠慮がち。
「一日三回か。大事に使わなきゃね」
 一方理奈は、楽しそうにこれから俺になにをさせようか考えているみたいだった。
 旅行はまだはじまったばかり。気が重い。
 
 ☆理奈
 トランプが終わったあと、あずさちゃんとさとみちゃんはいったん部屋へ引き上げた。
 しばらくなにもしない時間が続いたけど、ドアをノックする音でそれは破られた。
「あ、はい」
「ちょっといい?」
 声の主はいつみさん。私はドアを開け招き入れた。
「竜也、聞いたわよ」
「ストップ」
 いつみさんがさらに言葉を続けようとすると、たっちゃんはそれを制した。
「言っておくけど、姉さんはダメだからね。あくまでも勝負をしたあずさたちだけ」
「んもう、そんなに言わなくてもいいじゃない」
 言葉は少し怒っていても、いつみさんは笑っていた。
「だって、姉さんにそんなこと許したら、俺は一日なにもできなくなるよ」
「あら、よくわかったわね」
 そう言っていつみさんは笑った。
 たっちゃんはため息をついた。
「理奈ちゃんはもう頼んだの?」
「まだです」
「ダメよ、使わなきゃ。今日はもうそんなにないんだから。あずさたちなんか一生懸命考えてたわよ」
「姉さん。ふたりに余計なこと、言わないでよね」
「わかってるわよ。私だってそこまではしないわよ」
「やりそうだから言ってるんだよ」
 たっちゃんはすっかり疲れきった表情をして、いつみさんを見ている。
「じゃ、またあとでね。理奈ちゃん、しっかりね」
「えっ?」
 いつみさんは謎の笑顔を残して部屋を出て行った。
「まったく、あの中に姉さんがいなかったのはホントに運がよかったよ」
 たっちゃんはいつの間にか窓際の椅子に座っていた。
「理奈。遠慮することはないんだぞ。姉さんが言ってたように、今日はそんなにないんだから」
「う、うん」
 そうやって改めて言われるとなかなか言えない。
 そうこうしているうちに、さとみちゃんがやって来た。
「お兄ちゃん。お願い聞いて」
 どうやらさとみちゃんは、三つのうちのひとつを決めたらしい。
「で、なにをするんだ?」
「あのね、今日の夜、一緒に寝てもいい?」
「……いつもならダメだと言うんだけど、しょうがない。いいよ」
「ホントっ! わぁーい、ありがとっ!」
「お、おいっ」
 さとみちゃんは嬉しさのあまり、たっちゃんに抱きついた。
「あ、そうだ。あずさも同じこと考えてるかも。だって、双子ってよく同じことをするって言うでしょ?」
 確かにそういう傾向は強い。双子は普通の人とは違うなにかで結ばれているらしい。
「お兄ちゃんと一緒に寝るの久しぶり」
「こ、こら、さとみ」
「あっ……」
 たっちゃんに言われてさとみちゃんは慌てて口ごもった。
 だけど、私は聞いたからね。
「またあとでね」
 さとみちゃんはさっさと部屋を出て行った。
「たっちゃん」
「な、なにかな?」
「さとみちゃんが言ってたこと、どういうこと?」
 おそらく今の私の表情は、結構意地悪になっていたと思う。
「さ、さあ、なんのことか」
「ふ〜ん、こういう時に使うといいのよね」
 たっちゃんはいよいよ視線を床に落とし、深いため息をついた。
「わかったよ。ちゃんと話すよ」
 たっちゃんは私の方へ向き直り、おもむろに話しはじめた。
「確か、四月くらいだったと思うけど。俺が朝起きたらあずさとさとみが俺のベッドでねていたことがあったんだ。俺はなにがなんだかわからなくて、あずさに訳を聞いてようやく納得したんだ」
「どういうこと?」
「夜中にさとみがこっそり部屋を抜け出して、それにあずさが気付いて。さとみは俺の部屋にやって来てベッドに潜り込み、あずさも半分寝ぼけてて、一緒にベッドに入ってきた。そういうことらしい」
 たっちゃんは半分ヤケになって話してくれた。
 私はその話を聞いて、ちょっぴり羨ましく思った。
「理奈。姉さんにだけは黙っててくれよ」
「ふふっ、わかったわよ」
 私は悪戯っぽく笑った。
 たっちゃんはちょっと不安そうに、私を見ている。
「私もなにか考えよう」
 わざと声を大にして言った。たっちゃんはまたため息をついた。
 
 ☆竜也
 その日の夜、結局あずさとさとみと三人で寝た。理奈は姉さんの部屋で寝た。
 あずさとさとみは本当に嬉しそうに寝ていた。あずさは俺の手を握ったまま、さとみは俺の腕をつかんだまま寝ていた。
 しかし、俺は頼み事がこれくらいのことで済んでよかったとも思った。もっと無理難題を言われたらどうしようかと、本気で思っていたくらいだ。
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、あずさとさとみはその状況を楽しんでいた。
 そして石垣島、三日目。
 昨日の悪天候とはうって変わって、朝からいい天気だった。
 この日は父さんも仕事がなく、みんなで石垣島観光に行った。
 港で船に乗って沖に出たり、車で石垣島を一周したり。ゆっくりのんびり石垣島を楽しんだ。
 そして、その日はあずさたちは俺になにも言ってこなかった。
 石垣島、四日目。
 初日以来三日ぶりに海に出た。
「たっちゃん。今日は私に付き合ってね」
 民宿を出る前に理奈にそう言われた。俺には断る術はない。
「竜也。あずさをちゃんと見てるのよ」
 これは母さん。母さんは今日は一緒に砂浜には来ている。だけど、泳ぎはしない。
「たっちゃん」
「さてさて、なんでしょうか?」
 俺は半分投げ遣りに言った。
「一緒に潜ろ」
 理奈は、ゴーグルとシュノーケルを俺に渡した。
「この近くに珊瑚礁があるんだって。ね、行ってみよ」
「珊瑚礁か」
 俺は珊瑚礁という言葉に少し魅力を感じた。船の上から珊瑚礁を見たことはあったけど、潜って見たことはなかった。
「よし、行くか」
「うん」
 俺たちはとりあえず浜辺を歩いた。
 理奈は俺より少し前を歩いている。上にはなにも羽織っていない。
「理奈。焼いてもいいのか?」
「えっ?」
「だから、日焼けしてもいいのかって」
「うん、別にいいよ。せっかく石垣島まで来たのに、来た時と同じだともったいない気がして」
「そんなもんか」
「そんなもんだよ」
 理奈はそう言って微笑んだ。
 しばらく歩いてから、俺たちは海に入った。
 理奈の話によれば、珊瑚礁までは三百メートルくらいらしい。俺にとってはたいした距離ではないけど。
「理奈。大丈夫か?」
「大丈夫」
 と言っていた理奈だったが、連続で三百メートルも泳いだことのない理奈にはやはりきつかったみたいだ。あと五十メートルくらいで手足が止まってしまった。
 俺は仕方なく理奈の腕を取って顔を水面から出した。
「まったく、だから言ったんだ」
「ごめんなさい」
 理奈は少し落ち着いたのか、なんとか自分で体勢を整えた。
「潜るのはもっと大変なんだぞ」
「うん」
 俺はゴーグルをかけ、シュノーケルをつけた。
「理奈。手を貸してみな」
「えっ……?」
「俺が引っ張っていくから、つらくなったら逆に手を引っ張りな」
「う、うん」
 理奈はゴーグルとシュノーケルをつけると、
「いいよ」
 合図を送ってきた。
 俺はシュノーケルをくわえ、先に潜った。少しあとから理奈が潜ってきた。俺は理奈の手を取り、珊瑚礁を目指した。
 珊瑚礁のあるあたりは水深がおよそ三メートル。それほど深くはない。
 水を通して見る陽の光はすごく綺麗だった。
 シュノーケルの使い方はちゃんと知っている理奈は、さっきより幾分楽そうだった。
 珊瑚礁は本当に綺麗だった。極彩色豊かな魚が珊瑚の間を泳ぎ回り、時折見せる滑稽な泳ぎは見ていて飽きなかった。
 理奈も目をキラキラ輝かせてそれを見ていた。ただ、あまり熱心に見ていて、呼吸するのを忘れたらしい。慌てて浮上した。
 俺もそれについて海面に顔を出した。
 シュノーケルを外し、直に空気を吸った。
「ははは、見とれて呼吸するの忘れたな」
「んもう、そんなに笑わなくてもいいじゃない」
「だけど、思わず見とれてしまうのはわかるよ。本当に綺麗だったからな」
「うん。こんなに綺麗だとは思わなかったわ」
 俺たちはもうしばらくそこで珊瑚礁を楽しんだ。
「さて、これから戻るわけだけど」
 俺は理奈を見た。理奈はさすがに疲れが見えており、ちょっと戻るのはきつそうだった。
「理奈。俺につかまりな」
「だ、大丈夫よ」
「ダメだ。さっきもそう言って途中で止まったじゃないか」
「…………」
 俺は理奈の手を取り、そのまま首にまわした。
「しっかりつかまれよ」
「うん……」
 結局理奈は、俺の首にしっかりしがみついていた。やっぱりだいぶ疲れていたみたいだ。
 砂浜に着いた時は、さすがに俺も疲れてその場に倒れ込んだ。
 このあたりはあまり人がいないから、迷惑にはならなかった。
「ははは、さすがに疲れた」
「ごめんね」
 理奈は心底悪そうに俺を見ている。
「気にするなよ。別に理奈のせいじゃないからさ」
 俺は砂浜に体を起こした。
「さてと、あんまり長居はできないからな」
 防水時計を見るともうすぐ昼。
「立てるか?」
 おそらく足に一番きているだろう。俺ですらそうなのだから。
 俺は先に立ち上がり理奈に手を貸した。
 理奈は立ち上がる時に少しよろけたが、歩けないほどではなかった。
「午後は休まなきゃダメだぞ」
「うん」
 まあでも、この無理のおかげで貴重な体験ができたわけだから、結果的にはよかったのかもしれない。
 
 ☆理奈
「どうしたの、理奈ちゃん?」
 お風呂に入っていたら、いつみさんに声をかけられた。
「ちょっとボーッとしてるみたいだけど」
「そうですか? そんなことはないと思いますけど」
 私はなんでもない、というように手をパタパタと振った。
「そうかしら。疲れてるんじゃないの? 結構大変だったんでしょ」
 昼間、たっちゃんと一緒に珊瑚礁を見に行ったあと、私は疲れから午後はずっと休んでいた。
 たっちゃんはあずさちゃんとさとみちゃんにせがまれて、もう一度あの珊瑚礁のとこまで行ったらしい。
「私よりもたっちゃんの方が疲れてると思いますけど」
「あの子は大丈夫よ。見た目よりもずっと体力あるから。まあ、あずさやさとみの世話をしていれば、少しくらいのことではバテないようになるけどね」
 そう言っていつみさんは笑った。
「それに、竜也は人前では弱音は吐かないわ」
 そう言ったいつみさんの表情は、自分の弟のことを誰よりもよくわかっている、そんな優しさに満ちた表情だった。
 私はそんないつみさんが羨ましく思えた。
「ふう……」
 いつみさんは湯船に浸かり、私の隣に並んだ。
「少し焼けた?」
「そうですね」
 私は自分の腕を見た。確かにここへ来た時より色が黒くなっていた。
「私はあんまり肌が強くないから焼けないんだ」
 いつみさんは、自分の腕をさすりながら言った。
「でも、水着の跡が残るくらいに焼かない方がいいわよ。まだまだ暑い日が続くし、ノースリーブなんて着たら目立つしね」
「ふふっ、そうですね」
 私は内心、それでもいいかな、と思った。
「今日、たっちゃんにも言われたんですよ」
「なにを?」
「焼いてもいいのか、って」
「へえ、あの子がそんなこと言ったんだ。私にはそんなことひと言も言わないくせに。あとでちょっといじめようかしら」
 いつみさんの言葉は半分本気、半分冗談。昔からそう。
「そうそう。竜也とは上手くいってるの?」
「い、いきなりどうしたんですか?」
「だって、部屋ではふたりっきりだし、今日だってそうでしょ。姉としては気になるのよ、そういうこと」
 そう言っていつみさんはウインクした。
「で、実際はどうなの?」
「べ、別にどうにもなってません……」
 私は思わず小さい声で言ってしまった。
「う〜ん、あの子は本当に鈍いからね。少し積極的にいくしかないのかも」
 私は今日のことを思い出した。珊瑚礁を見たあと、浜辺へ戻ってくる時にたっちゃんにつかまった時、たっちゃんの背中が本当に大きく思えた。暖かくて、安心感に満ち溢れていて、思わずドキドキして、たっちゃんに聞こえるんじゃないかと思ったくらい。
「でも、最近少し変わったみたいよね」
「えっ?」
「以前より相手のことを気にかけるようになったし。やっぱり、まわりの影響もあるのかしら」
 確かに最近、学校でも付き合っている子が多くなった。もとから人に対して献身的なたっちゃんはそういうのを見て、少し刺激を受けたのかもしれない。
「どっちにしても、あの子が一番見ているのは、理奈ちゃん、あなたなんだからね」
 私はなにも言えなかった。確かに私とたっちゃんは十六年もの付き合いがあるけど、未だにたっちゃんのことがわからないことも多々あるのも事実。そういうことを考えると、ちょっと複雑な気持ちにもなる。
「あ〜あ、私が男だったら理奈ちゃんみたいな子は放っておかないんだけどな」
「い、いつみさん」
「でも、理奈ちゃんだって告白されたことはあるんでしょ?」
「はい」
「それならわかるはずよ」
 いつみさんはにっこり微笑んだ。
「さてと、そろそろあがろうっと」
「あっ、私も」
 私は慌てていつみさんのあとを追いかけた。
「理奈ちゃん。自分に自信を持ちなさいね」
 いつみさんの言葉は、本当に優しかった。
 
 その参 星空と海と
 ☆竜也
 石垣島、五日目。
 今日は朝から曇りがちでパッとしない天気。
 俺たちは今日と明日、石垣島の隣の島、西表島へ行く。
 西表島は石垣島の目と鼻の先にある島で、島には国の特別天然記念物であるイリオモテヤマネコなどの珍しい動物がいる。そして、島のほとんどは国立公園に指定されている。
 石垣島からは船で約十分。まさに『近所の島』という感じ。
 島には人は住んでいるがそれほど多くはない。大きさは石垣島と同じくらい。
 俺たちは島の国立公園の外にあるキャンプ場でキャンプをすることになっていた。
「イリオモテヤマネコ、見れるかな?」
「そうね、たぶん無理なんじゃない」
 さとみはイリオモテヤマネコが見たいと言っているが、ただでさえ数の少ないイリオモテヤマネコは夜行性で非常に敏感な性格をしているから、専門家でもなかなか見つけられない。
「さて、テントは三つあるから、民宿と同じ分け方でいいな」
 父さんはテントの入った大きな袋を目の前にして、そう言った。
「一応ロッジもあるから大雨が降っても大丈夫だから」
 確かにキャンプ場の端にはロッジが数戸並んでいる。
「じゃあ、父さんと竜也でテントを張るから、母さんたちはその間に諸々の準備をしといてくれ」
 最近のテントはひとりで張れるやつもあるが、大きなテントはやはり無理。
「竜也。そっちを持ってくれ」
 父さんは大学時代、山岳部に所属していたらしく、テントの張り方は上手い。基本を押されているから手際もいい。
「あまりテント同士をくっつけるのはよくないからな」
 父さんは俺に的確なアドバイスをしながら、テントを張っていく。
 三つのテントを三十分ほどで張り終え、俺と父さんはテントのまわりに溝を掘りはじめた。こうしないと雨なんかが降った時に、直接水が流れてきて大変なことになるからだ。
「よし、これで終わりだ」
 テントはキャンプ場の背の低い樹の近くに張った。そして、端をロープを結んで樹にくくりつける。こうすると風で飛ぶのを抑えることもできるし、中の空間を広くすることもできる。
「さて、これで父さんの仕事は終わりだな」
 そう言って父さんは自分のテントに入って横になった。
 まあ、確かに料理は母さんたちがやるから、俺や父さんのやることはもうほとんどないけど、だからって寝ることはないと思う。
「たっちゃん、終わった?」
「終わったよ。あれを見ればわかるだろ?」
 そう言って俺は父さんの方を指さした。
「あはは、ホント」
 理奈はそう言って笑った。
「そっちはどうなんだ?」
「うん、大丈夫だよ。一通り終わったから」
「お兄ちゃん」
「どうした、さとみ?」
「ねえ、イリオモテヤマネコ見に行こ」
「ちょっとそれは無理だと思うけど」
「行ってみなくちゃわからないよ。ね?」
 さとみにこう言われるとイヤとは言えない。
「そうだな。ちょっと行ってみるか」
「うん、行こうっ」
 さとみは嬉しそうに頷いた。
 結局俺と理奈とあずさとさとみの四人でキャンプ場の裏の森へ出かけることになった。
 一応姉さんも誘ったんだけど、母さんとなにやらしてるらしく残った。
「足下には気をつけろよ。今は昼間だから出てこないとは思うけど、ハブなんかもいるんだからな」
 俺は今の言葉を言ってから、しまったと思った。さとみは蛇の類が大嫌いで、余計な気を遣わせてしまうからだ。
「お兄ちゃん。絶対、放さないでね」
 さとみはピッタリと俺にくっついている。あずさも心なしか俺に近づいている。
 俺たちはできるだけ見通しの利く場所を、奥へと進んでいった。
 森の中は薄暗く、湿気も多かった。
 南西諸島の島々に生えている木々は古いものが多く、日本でも数少ない太古の息吹を残した場所である。
「さとみ、大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
 さとみは俺の腕を痛いくらいしっかりとつかんでいる。
 しばらく歩くと、大きな樹が視界に入ってきた。
 おそらく杉だろう。屋久島の屋久杉みたいな樹齢はないだろうが、それでもかなり大きなものだった。
「こういう樹は本州にはないな」
「そうね。亜熱帯の気候の沖縄だから育つんだろうね」
 幹のまわりにはコケが張り付いて、樹の樹齢を幾分多く見せている。
「なにしてるんだ、あずさ?」
「樹の音を聴いてるの」
「樹の音?」
 あずさは杉の幹に耳をつけている。
 俺もあずさの真似をして幹に耳をつけた。
 はじめはなにも聞こえなかったが、心を落ち着け、よく耳を傾けるとなんとも不思議な音が聞こえた。
 わずかな音だが、確かに聞こえた。
「これは?」
「この樹が水を吸い上げている音なの。生きている証拠」
 あずさは結構いろんなことを知っている。
「なんか神秘的な音だな……」
 俺たちはしばらくの間、その音に耳を傾けていた。
 
 ☆理奈
 森から戻ってきた私たちは、早速夕食の準備をはじめた。
「竜也。お鍋にお水を汲んできて」
「いつみと理奈ちゃんは材料を切って」
 テキパキと仕事をこなしながら、みんなにも指示しているのはかおりさん。こういう姿を見ると改めてなんでもできるすごい人だと思う。
 メニューはキャンプでは定番のカレーライス。だけど、その作り方は本格的。ルーは市販のものは使わず一から作ったもの。これはかおりさんのこだわりらしい。
 ほとんどの作業はかおりさんがやって、それを私といつみさんが手伝う。
 たっちゃんとあずさちゃん、さとみちゃんはほとんどすることもなく、食器の準備なんかをしている。
「理奈ちゃん。あとはいいわよ」
 あとの作業は煮込むだけ。ということで私の仕事も終わり。
「なにしてるの?」
「さとみが絵を描いてるんだ」
 見るとさとみちゃんがスケッチブックに絵を描いている。
 さとみちゃんは昔から絵が上手で、賞をもらったこともあるほど。
 絵は鉛筆だけのモノクロだけど、それがすぐにわかる。
 描いているのはさっきの杉の樹。正面から見た構図ではなく、下から見上げた構図になっている。
「できた」
「なかなかいいじゃないか」
「えへっ」
 たっちゃんに褒められて、さとみちゃんは嬉しそう。
「母さんの芸術の才能は、あずさとさとみが持っていったからな」
 たっちゃんはいつもそんなことを言っている。確かにあずさちゃんはピアノ、さとみちゃんは絵と、その才能はかなりのもの。
 でも、そんな才能を持っていても全然鼻にかけていないのがふたりのいいところ。
「あのね、前にこんな絵を描いたんだ」
 そう言って見せてくれた絵は、紛れもなくいつみさんの絵だった。
「お姉ちゃんが寝てる時に描いたんだ」
「ははは、こりゃいいや」
 気持ちよさそうに寝ている表情が上手く描かれていた。
 それからさとみちゃんが描いた絵でしばらく盛り上がった。
 やっぱりみんなでわいわいやるのがキャンプの醍醐味。
 
 ☆竜也
 夕食後、俺たちは浜辺で花火を楽しんだ。
 花火なんて、と思う人もいるかと思うが、やはり夏と言えば花火。これは風物詩であり必需品。
 さとみはきゃあきゃあ言いながら花火を持ち、あずさは静かに花火をしている。
 姉さんは二本の花火を持って遊んでいる。
 理奈は線香花火とにらめっこ。
 俺はみんなに花火を供給する係。そして、打ち上げ花火の点火役。
 父さんと母さんはなんかふたりでいい雰囲気だし。
「竜也。そろそろいいんじゃない」
「そうだね」
 俺は打ち上げ花火を立て、着火した。
 花火は勢いよく打ち上がり、綺麗に開いた。
 俺たちもほかの人たちも、みんな花火を楽しんでいた。こういうこともキャンプと花火の醍醐味かも。
 三十分くらい花火を楽しんだあとは、後片づけをして寝るだけ。
「風が強いわね」
「ひと雨来るかな」
 確かに昼間に比べて風が強くなった。しかも、雨が降る前の独特の匂いがした。
「まあ、どうせ通り雨だろう。予報では大丈夫だからな」
 父さんはずいぶんと楽観している。
「さてと、そろそろ寝るか」
「おやすみ、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「私たちも行こ」
「先に寝てていいよ」
「えっ、どうして?」
「星がさ──」
「星?」
 俺は持っていた懐中電灯を消した。
「星が流れてるんだ」
「ホント?」
「ほら、あの雲の切れ目」
 俺は雲の切れ目から見える空を指さした。
「う〜ん、よく見えない」
「しょうがないさ」
「でも、流れ星なの?」
「確か、ペルセウス座流星群だと思うけど。夏のこの時期に見えるんだ」
「だけど、この空だと」
「そうだな」
 俺は再び懐中電灯を点けると、
「さて、戻るか」
「うん」
 俺たちはテントに戻った。
 雨の匂いがさらに強くなっていた。
「たっちゃん」
「ん?」
「ううん、やっぱりいいや」
「なんだよ、変な奴だな」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 俺は寝袋に潜り込んだ。時間は十時半。
 
 その日。俺はなかなか寝付けなかった。どうしてかわからないけど、寝付けなかった。
 どうやら外は雨が降っているみたいだった。
 隣では理奈が寝息を立てて眠っている。時間は十一時半。
 
 まだ眠れなかった。雨はさらに強くなった。
 樹が近いおかげで少しは雨を防いでくれてはいるが、テントに当たる音はだいぶ大きくなった。
 これ以上雨が強くならないように。時間は十二時。
 
 どうやら雷が鳴りはじめたらしい。ということは一時的に雨が強くなる。
 俺は念のために起きていることにした。あまり雨が強くなるとここはヤバイかもしれないから。時間は十二時半。
 
 雨がだいぶ強くなった。雷もだいぶ近くなった。
 しかし、雷はちょっとまずい。それは──
「……う、ん……」
 理奈が起きた。まずい。
「……たっちゃん?」
 まだ寝ぼけてるみたいだけど、
「えっ……?」
 理奈の顔が一瞬強ばった。
「きゃあぁっ!」
 雷が落ちるのと同時に理奈が叫んだ。
「か、雷……」
 理奈は少し震えているみたいで、声も少し震えていた。
 これでわかると思うけど、理奈は雷が大の苦手なのだ。うちにいる時でも雷が鳴ると、悲鳴を上げて布団に潜り込んだりする。
 学校であった時は大変だった。授業中にひとりで悲鳴を上げて机の下に潜り込んで、しまいにはたまたま隣にいた俺に抱きついてきた。
 そんなこともあって雷はまずい。
「理奈。落ち着けよ。どうせ通り雨だから、それほど経たないうちに通り過ぎるはずだから」
 俺は理奈に諭すように言った。
 しかし、パニック状態にある人間にはなにを言っても無駄だと思うが、まさにその通り。
「きゃあっ!」
 いよいよ理奈はパニック状態。
 俺は落ち着いて時計を見た。時間は一時。雨が降りはじめて一時間半。そろそろやむと思うが。
 こうなったら雨がやむのを待つしかない。
 俺は懐中電灯を点けた。テントの中が薄明るくなった。
「理奈、大丈夫か?」
「きゃあぁっ!」
「う、うわっ」
 かなり近い雷に、理奈は思いっきり俺に飛びついてきた。
 俺はバランスを崩し倒れ込んだ。
「お、おい、理奈。しっかりしろよ」
「うっ、うっ……」
 理奈は泣いていた。痛いくらいに俺にしっかりとしがみついている。
 こうなったらテコでも動かない。
 俺はあきらめた。
 とりあえずこのままの体勢はつらいから、体だけを起こした。
「……恐いよ……」
 理奈は蚊の鳴くような声でそう言った。
 まるで子供だと思ったが、誰にでも苦手なものはある。それを人がとやかく言うのはよくない。
「理奈。恐くなんかないって。俺がここにいるだろ」
 ひとりだと耐えられないものも、ふたりだと耐えられることがある。
「たっちゃん、たっちゃんっ!」
「大丈夫。心配するな」
 外では相変わらず激しい雨と雷が続いていた。
「理奈。とりあえずその格好はつらいだろ」
 俺はゆっくりと理奈を俺の隣に座らせた。その間も理奈の腕は俺の首にしっかりと巻き付いていたけど。
「もう泣くな」
「う、うん……」
 理奈も少しは落ち着いたのか、ようやくまともに話ができるようになった。
「雲が行くまでこうしててやるから、心配するな」
 俺は理奈の肩に手を回して自分の方へ近づけた。
「こうしていれば安心だろ?」
 理奈は小さく頷いた。
「ひっ!」
 まだ敏感に雷に反応はするものの、パニック状態からは抜け出したみたいだ。
「このまま寝てもいいぞ。あとで俺が寝かせてやるから」
「うん……」
 こうなったらとことん理奈に付き合うしかない。まあ、どうせ寝付けなかったからいいけど。
 理奈は目をつぶって俺の方へ体を預けてきた。
 俺は軽く理奈の髪を撫でてやった。今は少しでも落ち着かせることが肝心。
「理奈?」
「…………」
 どうやら安心して眠ったようだ。雷もだいぶ遠くなったし。
 俺は改めて時計を見た。時間は一時半になろうとしていた。
 こうしていると、いつもはあずさたちの姉のような存在の理奈も、あずさやさとみと同じ『女の子』だと感じる。
 昔は妹が三人いるみたいだった。いつ頃からか、理奈は俺と同じになった。
 今日は、しょうがないか。
 
 ☆理奈
 明け方。私は寝心地がいつもと違うので目が覚めた。
 私はたっちゃんに寄りかかるようにして眠っていた。
「そっか……」
 真夜中の雷でたっちゃんに慰めてもらったんだ。
 外はまだ暗い。時計は四時を指していた。
 たっちゃんは私の肩を抱いたまま眠っている。結局、一晩中たっちゃんの世話になっちゃった。
 私はもう少しだけ、このままでいたかった。
「……ん、理奈……」
 だけど、たっちゃんが起きちゃった。
「あ、俺も寝ちゃったんだ」
 たっちゃんは状況を確かめてそう言った。
「二時半くらいまでは起きてたんだけどな」
「たっちゃん」
「ん?」
「ありがと。ホントに心強かったよ」
「いいさ。それより、今何時だ?」
「今? 四時だよ」
「それなら間に合うかも」
「あ」
 たっちゃんは私の手を取ってテントの外に出た。
 外は雨で暖かい空気が洗い流され、涼やかな空気が立ちこめていた。
「ほら、見てみろよ」
 そう言ってたっちゃんは私に空を見るように言った。
「っ!」
 思わず息を呑んだ。
 そこには無数の流れ星が次から次へと流れていた。
「なんとか間に合った。おそらくもう最後だと思うから」
 たっちゃんの言う通り、次第に流れ星の数が減って、ついには元の星空に戻った。
「今月は月も出てなかったから、最高の日だった」
 たっちゃんは空を見上げたまま、そう言った。
「もう少し海が穏やかだと、星空が映るんだけどな」
 海は雨と風のせいで少し波が高く、星空を映せるような状態じゃなかった。
 波打ち際で海を見つめるたっちゃん。
 私は隣に立ってたっちゃんの手を取った。
「どうした?」
「ありがと」
 たっちゃんは一瞬なにか言おうとしたけど、なにも言わずにただ微笑んだだけだった。
 
 ☆竜也
 ちょっとしたハプニングはあったけど、西表島でのキャンプは楽しかった。
 西表島の二日目。トータルで六日目。
 午前中はのんびり西表島で過ごして、午後石垣島に戻った。
 俺は民宿に戻るなり、猛烈な睡魔に襲われ夜まで寝てしまった。
 そして、石垣島、七日目。今日止まったら明日は帰る日。
 旅行の方は問題もなく終わりそうだった。
 俺の方も二日目の大富豪のことはすっかり忘れて、最後の日を楽しもうとした。
 だけど……
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
 さとみは朝から俺のところに来て三つの頼みを言ってくるし、あずさもひとつ言ってきた。
 結局、一日あずさとさとみの相手を過ごすことになった。
 そして、その夜。
「どうしたんだ、理奈?」
 俺は理奈と浜辺に来ていた。
「ねえ、お願い、聞いて」
「別にいいけど、なにをするんだ?」
「目、閉じて」
「目?」
「うん」
 俺は言われるまま目を閉じた。
「改めて、ありがと、たっちゃん」
「えっ……」
 頬に柔らかな感触。これって、まさか……
 目を開けると理奈はもう後ろ姿になっていた。
「先に戻ってるね」
 そう言って一度も振り返らず小走りに戻っていった。
 俺は頬に残る感覚に、少し我を忘れて立ち尽くした。
 こうして石垣島の旅行は終わった。
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