しあわせのかたち
 
 俺には、幼なじみがいる。
 家が比較的近所だったことと、幼稚園が一緒で、組も一緒だったことからいつの間にか、どちらからともなく一緒に行動することが多くなった。
 小学校も同じになり、さすがにクラスまではずっと一緒だったわけではないけど、それでも六年間で四年間一緒だった。
 思えば、その頃が一番楽しかった。まわりを必要以上に気にすることもなかった。
 中学校も同じだった。ここでも一年間一緒のクラスになった。
 ただ、中学生になると様々なことが変わってくる。
 知識、経験を得る代わりに、それまで特に意識していなかったことを意識するようになった。
 そこで俺が知ったのは、埋められない溝、だった。
 世の中には、どうがんばっても埋められない溝、越えられない壁がある。
 天から授けられたものに対して、努力でカバーできるのは最初だけ。圧倒的な差に絶望するか、埋められないと理解しつつもあがき続けるか。
 そして俺は、あるひとつの決断を下した。
 それは、今にして思えばとても幼稚な考えだったのかもしれない。それでも、その時はそれがその惨めな状況から逃れる最善の方策だと信じて疑わなかった。
 高校生活は、ある意味ではとても安穏としたものだった。
 高校は当然のことながら、中学校までと違い、実力のかけ離れた者はほとんどいない。もちろん、卒業間際にどうなっているかは別である。少なくとも、入学当初はほぼ同じような成績で入ってきた者ばかりだ。
 だから、変に比べられることもなかった。
 なんとなく過ごしているうちに三年生になり、受験戦争の真っ直中に放り込まれた。
 とはいえ、高校も俺自身もそんなにレベルが高いわけじゃない。狙える場所など限られていたし、また、このくらいで大丈夫というラインも見えていたから、心情的には余裕があった。
 ところが、その変な余裕がいけなかったのか、俺は受験に失敗してしまった。
 両親をなんとか説得し、浪人生活。大学自体にこだわりはなかったんだけど、一応大学は出ておいた方がその後のことを考えるといいだろうということで、浪人した。
 浪人したからには、やはり勉強しなくてはならない。
 俺は、駅前にある予備校に通いはじめた。
 予備校に通うようになって、俺は自分がいかにぬるま湯のような生活を送ってきていたのかを痛感した。
 とにかく、なにをするのもつらかった。
 講義中も、理解するところまでは行かず、黒板を書き写すのだけで精一杯だった。
 そんな状況が一ヶ月ほど続き、本気で進学をどうするか悩みはじめていた。
 このまま惰性で進んでいっていいのかと、ようやく考えはじめた。
 そんな時だった。
 
 その日は、午後からの講義だった。
 慣れない生活のせいで、リズムが狂っていた俺は、午後からの日はギリギリまで寝ていることが多かった。
 その日もそれは同じで、だからそのせいで講義に遅れそうになっていた。
 予備校の入り口を抜け、講義が行われる三階の教室まで階段を駆け上がる。
 その階段を二階まで上がってきた時のことだった。
「もう、少しっ」
 一段飛ばしで階段を駆け上がり、あと一階分というところで──
「きゃっ!」
「うおっ!」
 俺は、誰かにぶつかってしまった。
「あつつつ……」
 思い切りではなかったけど、多少の衝撃があり、俺は尻餅をついてしまった。
 一段飛ばしをするのに階段ばかり見ていたから、ぶつかってしまった。
 というか、確かぶつかった相手は女の人だったような。
 講師だったらヤバイことになるかも。
 俺は慌てて相手を見た。
 すると、相手も衝撃で倒れたらしく、顔をしかめている。
 ただ、格好から判断するに講師ではなかった。それはまずはひと安心。
 だけど、怪我でもさせていたら、それはそれで問題だ。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ、なんとか」
 予備校の中では年がわからないから、一応敬語で話しかける。それに、悪いのはこっちだし。
「すみません。急いでいたので」
「いえ、私も少しボーッとしていたので」
 と、そこではじめて相手の顔をマジマジと見た。
「あっ……!」
「えっ……あっくん……?」
 それは、絶対にこんなところにいるはずのない、しかも、そうでなくても顔を合わせたくなかった、幼なじみだった。
「の、希美……なんで……」
 幼稚園から中学校まで一緒だった幼なじみの顔は、三年間という空白の時間があっても、すぐにわかった。
 三年間で確実に成長していたけど、俺の幼なじみである村山希美の顔は、間違わなかった。
 そして、希美は俺のことをかつてと同じように『あっくん』と呼んだ。
 が、俺はすぐに我に返り──
「悪い……」
「あっくん、待ってっ」
 階段を駆け上がり、教室へ駆け込んだ。
 なるべく奥の方の目立たないところに席を取り、はじまるまで身を潜めた。
 幸い、すぐに講義がはじまったから、最悪の事態だけは避けられた。
 もっとも、精神的には講義どころの騒ぎではなく、もうなにがなんだかわからないような状況だった。
 そもそも、なんで希美がこの予備校にいたのかわからない。
 あいつは、俺なんか足元にも及ばないほど頭がよく、高校もどこへでも推薦で入れるほどだった。
 そんな希美ならば、大学受験に失敗する可能性はゼロに等しい。
 希美は、本物の天才で、ほとんど勉強しなくても授業中にそれを理解し、自分の中で昇華させてしまう。
 それはきっと高校でも同じだったはずだ。
 希美は、このあたりで進学率トップの高校に入っていた。俺の通っていた高校とは、レベルが違いすぎる。
 そんな高校に通っていれば、大学受験だって勉強しなくても余裕で突破できたはずだ。
 なのに、予備校にいた。
 訳がわからない。
 結局、その日の講義の内容は、これっぽちも頭に残らなかった。
 
 すべての講義が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
 これから帰って、適当に飯を食って、今日の復習を軽くやって、明日の予習を軽くやって、寝るだけ。
 そういうルーチンワークに身を置けば余計なことは考えずに済む。
 そう思っていたのだが──
「あっくん」
 世の中は、そう甘くはなかった。
 あいにくとこの予備校には出入り口はひとつしかなく、そこで待ち伏せされたら逃げられない。
 俺はそのことをすっかり失念していて、あいつは──希美はちゃんと理解していたらしい。
 それでも俺は往生際悪く、希美のことを無視して歩き出そうとした。
「待って、あっくん」
 が、それもすぐに無駄になった。
「お願いだから、待って」
 最初しっかり腕をつかまれ、次第にその力が抜けていった。
 場所が場所なだけに、どちらにせよ長引かせるのは得策ではない。
 俺は観念し、希美に向き直った。
「ここだとほかの人の邪魔になる。場所を変えよう」
「あ、うん」
 俺たちは、すぐに予備校をあとにした。
 どこに行くかも決めずに、俺は少し早足気味に歩き、その少しあとを希美は必死についてきた。
 予備校の建物が見えなくなったところで、俺は足を緩めた。
 そこでようやく希美は俺の隣に並んだ。
 駅前なので、夜でも明るい。
 人もまだそれなりにいる時間で、家路を急ぐ姿を見かける。
「ものすごく久しぶり、だね」
「ん、ああ……」
 俺は、生返事で答える。
「元気、だった?」
「見ての通りだよ」
「そっか。よかった」
 希美は、本当に安心したというような感じで、薄く微笑んだ。
「ね、あっくん──」
「なんでおまえがあそこにいたんだ?」
 俺は、希美がなにか言う前に、言葉をかぶせた。
「……受験、できなかったから」
「できなかった?」
 予想外の答えに、俺の声はわずかに裏返った。
「願書も出してたんだけど、試験前日に病気になっちゃって。それで試験も受けずに不合格」
「いや、そうだとしても、滑り止め、あっただろ?」
「滑り止めは、受けなかったの。先生も親も滑り止めを受けなくても、本命一本で問題ないだろうって言うから」
「…………」
「その結果が、予備校生というわけ」
 バカだよね、と言って自嘲する希美。
 確かにバカかもしれないけど、もし病気になっていなければ、予備校になど通う必要はなかっただろう。それだけを考えれば、無駄金を払う必要もなく、本命一本に絞った効率的な勉強もできて、最善の選択だろう。
 こうなることは、確率的には一パーセント以下だっただろうから。
「あっくんは?」
「俺は、普通に受けて、不合格」
 同じ不合格でも、雲泥の差だ。
「そっか」
 希美は、そのことにはなにも言わなかった。
 そのまましばらく会話が途切れた。
 やがて、駅前の明るく賑やかな通りを離れ、住宅街へと入ってくる。
 ここまで来ると、街灯と時折ある自販機の明かりくらいしか、夜の闇を打ち消すものはない。
「ね、あっくん。訊いても、いいかな?」
「……なにをだ?」
「どうして、私に黙って別の高校に行っちゃったの?」
 絶対に訊かれると思った。
 というか、訊かない方がおかしいだろう。なぜなら、俺たちは中学三年の時、同じ高校へ行こうと約束していたのだから。
 その約束を反故にし、違う高校へ行ったのは、俺の意志だった。
「たぶん、おまえには理解できない」
「どうして?」
「仮に言葉の上だけで理解できたとしても、俺の複雑な気持ちまでは理解できない」
「…………」
 当たり前のことだけど、相手のことを百パーセント理解するのは無理だ。
 それでもある程度は理解できる。それは、言葉や態度、それまでに積み重ねてきた時間などから類推してである。
 だけど、それがあったとしても、希美には理解できないはずだ。
 俺は、それ以上はなにも言わず、家から少し離れた場所にある小さな公園に足を踏み入れた。
 かつて、俺たちがよく遊んだ公園だ。
 今は、老朽化して遊具は撤去されてしまったけど、砂場だけは残されている。
 あと、ベンチも。
 そのベンチに荷物を置き、俺は希美に背を向けた。
「中学までずっと一緒にいて、おまえはそのことをどう考えていたのかはわからない。だけど、俺にとってそのことは少しずつ苦痛になっていったんだ」
「苦痛、に……?」
「ああ。最初は、できるだけ気にしないようにしていた。気にしてもしょうがないことだって思って。だけど、それも次第に難しくなって、結局は極論ばかりを考えるようになった。これから先、俺にとってどうあるのが最善なのか、ってな」
「…………」
「方法は、いくつもあったのかもしれない。もう少し深く、ちゃんと考えていれば、別の方法を見つけていたかもしれない。それでも、あの頃の俺には、前向きな考えは浮かばなくなっていたんだ。ずるく、卑屈に、自分のことばかり考えて」
 今思い返してみても、あの頃の俺は、ある意味『病気』みたいなものだった。
「小学校の頃は気にならなかったことも、中学では気になるようになってきた。そうなった理由は、俺自身がいろいろなことを見たり聞いたりして、知識を得たからでもあるし、まわりも同様に変わっていったからでもある。そして、俺は知ってしまったんだ。埋められない溝があり、越えられない壁があることを」
 俺は、空を見上げた。
 月明かりはほとんどなく、星明かりもほとんど見えない。
「おまえが自分のことをどう思っているのかはわからないけど、まわりから見れば、おまえは間違いなく超がつくほどの優等生だった。成績は優秀、運動もひと通りなんでもこなせる。友達付き合いも、先生との関係も良好。きっと、誰もがおまえに憧れてたはずだ」
「私はそんな……」
「で、そんなおまえといつも一緒にいた俺はどうだ? 成績は真ん中より下。運動はごく普通のレベル。特別交友関係が広いわけでもなかったし、先生の覚えもよかったわけではない。ごく普通の奴ならきっとこう思うだろうな」
 俺は、小さく息を吐いた。
「なんでおまえみたいな優等生と俺みたいなダメ生徒が一緒にいるんだ、って」
「あっくん……」
 話の流れで薄々感じてはいたのだろう。話の核心に至り、希美はとても苦しそうに声を上げた。
「中一の頃はまだましだった。俺の耳にそういうことはほとんど届かなかったから。だけど、中三の頃にはあからさまに届くようになった。悪意でもこもっているかのごとくな」
「…………」
「毎日のように比べられ、陰であれこれ言われ、挙げ句の果てに先生にまでそういう態度を取られた」
 そこで俺は、希美に向き直った。
「わかるか? その頃の俺がどんな気持ちだったか? わからないだろうな。いや、わかるはずがない。すべてを持っていたおまえが、なにも持たない俺の気持ちがわかるはずない」
 希美は目を見開き、悲しそうに俯いた。
「ただ、俺もすぐにあからさまに態度を変えるということはしなかった。そんなことをすれば、余計にあれこれ言われるに決まっていたからだ。表面上はそれまで通りでいようと思った。その時に、高校の話もした。もっとも、その頃には俺の中で高校はおまえと別にしようと、ほぼ決めていたんだけどな」
「そんな……」
 希美にとっては、青天の霹靂なんだろうな。
 まさか俺がそんなことを考えていたとは、つゆほども思ってなかっただろうし。
 希美は、人間ができてるというか、人を端から疑ってかかるということをしない。根っからの善人だ。
 まして、俺は幼稚園の頃から一緒にいた幼なじみ。その俺を疑うなど、絶対にないことだっただろう。
「高校に入って、隣におまえがいないという状況は、とても楽だった。誰からも比べられることもなくなったし、あれこれ言われることもなくなった。精神的な重しが外れて、ようやく本来の俺自身になれたんだと思う」
 まあ、それが俺のためになったかどうかは、まだ結論が出ていない。
「それが、おまえと別の高校へ行った理由だ」
 ほぼすべてを話し、ようやく俺の中に溜まっていたものが消えたような気がする。
 自分勝手なことをしたのはいいけど、結局それは誰も知らないことだ。当事者である俺と希美以外は。
 だから、経緯を話す相手は当然いなかった。本当は、誰かに話してしまいたかった。
 ただ誰かに話したかった。
 それが今、相手が希美本人ではあるけど、かなったことになる。
「そういうわけだから、もう俺のことなんか放っておいてくれ」
「……そんなこと……できないよ……」
「希美……?」
 俺の用はすべて終わったから、荷物を取ろうとしたら、その手を希美につかまれた。
「そんなこと、できるわけないよ」
 希美は泣いていた。
「あっくんが、そんな風に思っていたなんて全然知らなかった。私はただ、あっくんと一緒にいたかっただけ。一緒にいることが当たり前だと思ってたから」
「…………」
「あっくんが私のことを許せないなら、それでいいの。でも、もう私の前からいなくならないで。恨み続けても、罵り続けてもいいから、私をあっくんの側にいさせて……」
 俺の手を頬に当て、希美は声を殺して泣いた。
「……あっくんのいない生活は、すごくつまらなかった。毎日がとても空虚で、ただ同じことを繰り返して、一日が終わるだけ。この三年間がどれほどつまらなく、淋しかったか。きっと、あっくんはわからないと思う。ううん、わかってくれなくていいの。それは、私の中の問題だから」
「…………」
「でも、もうそんな生活イヤなの。あっくんと一緒にいたい。あっくんを側に感じていたい」
 流れる涙をそのままに──
「私は、ずっとずっと、あっくんが大好きだから」
 希美は、そう言った。
 こういう言い方をすると卑怯かもしれないけど、俺は希美のその想いを知っていた。
 俺自身、そういうことに敏感だとは思っていない。
 だけど、希美のような奴が俺なんかと一緒にいた理由を探したら、そういう結論に達するだろう。
 面と向かって言われたことはない。お互いに特別なことはしたことがない。
 それでも、希美の俺と俺以外に向けている笑顔の質が違うのは、わかっていた。
 正直言えば、そのことも理由のひとつにある。
 希美のような優等生と釣り合うのは、俺のようなダメ人間じゃない。熱病のような一時的な想いに振り回されて、取り返しのつかない選択をしないように。そんなことも思っていた。
 高校のことだって、あのまま志望校を希美と同じにしていたら、きっと俺だけ落ちるのは目に見えていた。それほど俺と希美には学力に差がある。
 本番までに模擬試験が何度もあるから、自然とどうなるかは予想できてくる。そうしたら、希美は俺にあわせてわざと落ちるか、俺が志望校を変えたらそれについていくことも、平然とやっただろう。
 そこまでされて嬉しい部分がないわけじゃない。だけど、それ以上に人ひとりの人生を棒に振らせるかもしれないという恐怖心の方が大きかった。
 まわりはみんながみんな、俺たちのことを理解してくれるわけじゃないから。
「お願い、あっくん……」
 懇願する希美。
「…………」
 俺は一瞬躊躇ったが──
「ぁ……」
 希美の手を解いた。
 そのまま荷物を手に取る。
「おまえもいい加減に気付けよ。もう、終わってしまったんだってことをな」
 そして、早足で、振り返ることなく公園をあとにした。
 
 家に帰ってからも、なにも手に着かなかった。
 考えるのをやめたいのに、考えてしまう。
 俺自身が言ったことだけど、もう終わったことなんだ。俺と希美の関係は、あの高校受験の時に終わったんだ。
 なにを今更考える必要がある。
 きっと、はじめて面と向かって言われたから、動揺してるのかもしれない。
 こんな動揺、時間が経てば収まる。
 考えようによっては、もう今日を最後にこのことを考える必要はないのだから、よかったのかもしれない。
 忘れていただけで、いつ思い出すかわからないまま過ごすよりは、さっさと片づけてしまった方がいい。
 今回のことで、俺の中ではすっかり片付いたはずだ。もう、未練などないはずだ。
 数少ない幼なじみとの関係を失うのは痛いけど、しょうがない。
 世の中には、幼なじみと呼べる存在がいない人だって大勢いる。いなくても大丈夫なんだから、プラマイで言ってもマイナスになったわけじゃない。
 それに、今の俺は浪人生だ。そんなことに割ける時間があるなら、勉強しなくてはならない。
 そうだ。そうやって少しずつ本来の俺を取り戻せ。
 そうすればきっと、明日にはいつもの俺に戻っているはずだから。
 
 次の日。
 多少の後遺症はあったものの、精神的には問題なさそうだった。
 講義は午前中から午後まで目一杯ある。
 否応なく勉強漬けにされれば、さらに余計なことを考えずに済むだろう。
 午前、午後と講義を受け、ようやく解放されたのは、そろそろ陽も沈もうかという頃。
 講義の疲れで重い体を引きずりながら校舎を出ようとした。
「あっくん」
 が、そこで再び声がかかった。
 そう、もう二度とかかるはずのなかった相手からの声が。
 俺も、これだけは予想できなかった。
 無視しようかとも思ったけど、自分で思っていたよりも長く、即座の行動に移れなかった。結果、俺は無視するタイミングも、逃げ出すタイミングも逸していた。
「あっくん、お願い……」
 希美は、すでに泣き出しそうだった。
 さすがにここで泣かれると問題がありすぎる。
 俺は、本当は一番選びたくなかった選択肢を選んだ。
 で、結局昨日と同じような状況になっていた。
「なんでなんだよ。なんでそこまでするんだよ」
 苛立ちを隠さず言った。
「……私には、あっくんしかいないから。もう、あっくんしか好きになれないから。あっくんじゃなくちゃダメだから」
「おまえなら、男なんて選り取り見取りだろうが。俺より頭のいい奴、運動のできる奴、金を持ってる奴、カッコイイ奴。どれでも選び放題だろうが」
「そんな人はどうでもいいの。私が好きなのは、今も昔も、あっくんだけだから」
 希美は、明らかに昨日とは違っていた。
 おそらく、俺と同じようにあれからいろいろ考えたんだろう。
「……でも、もうあっくんは私のことを好きにはなってくれないだろうから、恋人になれなくてもいいの。ただ、あっくんの側にいさせてほしい。どうしようもない幼なじみとして」
「俺にはわからん。なんでそんな人生を棒に振るようなことを平気でできるんだ?」
「それはあくまでもあっくんの中の、あっくんの物差しで考えてるからだよ。私の中にも、私の物差しがあるから」
 俺の幼なじみというフィルターを外しても、希美は間違いなく優秀だ。
 希美ほどの好人物を探す方が大変だろう。
 加えて、希美は容姿も抜群だ。今はまだ高校を卒業したばかりだけど、もうあと何年かすれば、街中を歩いただけで男どもが振り返るような女になる。
 そんな希美なら、本当に男なんて選り取り見取りだろう。
「もし私を側にいさせてくれるなら、なんでもするから」
「なんでも?」
 その言葉が、俺には引っかかった。というか、ある意味バカにされてるのと同じだ。
「じゃあ、おまえの了承を得ないまま、こんなことを──」
「っ!」
「してもいいんだな?」
 俺は、わざと乱暴に希美の胸を触った。
「あ、あっくんがしたいなら、いいよ……」
 だけど、希美は体は強ばらせているものの、逃げる様子はない。
 むしろ、自分の気持ちを俺にぶつけるための絶好の機会だととらえているのかもしれない。
「くそっ!」
 俺は、希美を乱暴に突き飛ばし、逃げるように公園をあとにした。
 
 いったい、俺はなにをやってるんだろう。
 なにをしたいんだろう。
 どこかで理解していたはずだ。
 あいつの──希美の想いは半端なものではない、ということを。
 希美の想いをちゃんと理解したのは、中学に入ってからだ。だけど、その時に思い返してみただけで、希美がずっと以前から俺への想いを持っていたことが、容易にわかった。
 一緒にいると感じる視線は、いつも希美のものだった。
 目が合うと嬉しそうに微笑む。
 自己主張の激しいタイプではないから、いつも控えめではあったけど、俺にすらわかるものだった。
 そんな希美の想いが、たった三年間で変わる可能性の方が低いことなど、理解していたはずだ。
 想い続け、育み続けてきた時間の長さ、質は、たった三年間とは比べものにならない。
 それでも俺は、希美と距離を置くことが最善だと思った。俺以外に目を向けた方が、希美のためだと思った。
 なのに──
「俺は、どうすればいいんだ……」
 
 次の日は、朝から雨だった。
 五月とはいえ、雨の日は少し肌寒く感じる。
 俺は、考えがまとまらないまま、予備校へ向かった。
 というか、もうどうすればいいのかわからなかった。
 俺がいくら拒んだところで、希美はあきらめないだろう。それは、一度後悔しているからだ。
 もう二度と後悔したくないから、絶対にあきらめないだろう。
 じゃあ、俺はどうなんだ?
 それをずっと考えていたけど、結論は出なかった。
 頭のどこかで、俺の方が折れて、希美を受け入れてしまえという考えも浮かびはじめていた。
 だけど、そんなことをしたら、俺のあの時の決断はなんの意味もなくなってしまう。
 ちっぽけなプライドだけど、少なくともある程度納得できる結論が出ない限り、妥協はできない。
 講義も上の空でそんなことをばかり考えていたら、いつの間にかすべて終わっていた。
 外は、まだ雨が降り続いている。
 陽が落ちて気温が下がり、雨が余計に寒々しく感じられる。
 と、俺は慌てて教室を出た。
「まさかとは思うけど……」
 こんな天気の中、あいつはまた外で待ってるんじゃ──
「……なんでだよ……」
 そして、予想通り、希美は雨の中、待っていた。
「あっくん」
 暗がりではっきりとは見えないけど、顔色も悪い感じだ。
 少し、震えてる。
「なんでこんなバカなことをするんだよ、おまえは」
「バカなことじゃないよ。あっくんに会うために必要な、大事なことだよ」
 そう言って希美は、少し無理気味に微笑んだ。
 ああっ、くそっ!
 もうどうしようもない。
「行くぞ」
 俺は、傘を差し、先に歩き出した。
 その少しあとを、希美がついてくる。
 さすがに震えている希美を見過ごすことはできず、予備校からほど近いチェーン店のコーヒーショップに入った。
 店内はさすがに暖かった。
 ちょうど予備校の終わりの時間なので、俺たちと同じような連中が多い。
 見た顔もあったが、話したこともない相手だったから、特に問題はなかった。
 禁煙席の中程に席を取った。
 俺はカフェオレを、希美はカプチーノを頼んだ。
「……ごめんね、あっくん。私、また迷惑かけてるね」
 暖かい場所に移り、温かいものを飲んでようやく落ち着いたのか、希美は話し出した。
「ホント、私って昔から変わらないよね。というか、成長してないよね。幼稚園の頃からずっと、あっくんには迷惑かけてばかり」
「別に、そんなことはないだろ。それを言い出したら、俺の方がよっぽどおまえに迷惑かけてた」
「そのあたりは、なにをどう見るかの見解の相違があるかもしれないね」
 カップを両手で包み込み、時折動かす。
「私が迷惑をかけた時の何割かは、確信犯だったの。普段から優しいあっくんだったけど、なにか迷惑をかけると余計に優しくなったから。優しくされたくて、迷惑をかけてた」
 それは初耳だけど、人間誰しもそういうところはあるだろう。
 打算的でない人間など、そういるものではない。
「迷惑かけちゃいけないんだっていうのはわかってるの。わかってるんだけど、ダメなの。あっくんの優しさを求めて、結局迷惑かけちゃう」
「……確かに、そのあたりは見解の相違があるな。まずもって、俺は俺自身が優しいだなんて思ってない」
「それは、うん、あっくんなら絶対にそう言うと思ってた。あっくん、昔から自分のことを持ち上げられるの、すごく苦手だったからね」
 ……こういう時、幼なじみという存在ほどやっかいなものはない。
 俺が希美のことを家族以外ではだいぶ理解しているのと同様に、希美もまた、俺のことを理解しているはずだ。
 それに、実際に体験してきたことなら、なおのことわかってる。
「だけどね、私にとってはあっくんはとっても優しくて、とっても頼りになる存在なの。だから、ずっと好きなの」
 好きという言葉を、希美はもう照れることもなくはっきりと言う。
 はじめて言った時には、まだ照れがあったのだが。
 そのあたりはきっと、すでに割り切っているのだろう。
「昨日も言ったけど、あっくんに好きになってもらえなくてもいいの。もちろん、こんな私でもまだ好きになってくれるなら、それはすごく嬉しいけど。でも、それは無理だと思うから。だから、ただあっくんの側にいさせてほしいの。友達という関係じゃなくてもいい。単なる幼なじみの腐れ縁でもいい。あっくんに彼女ができても、それをどうこう言うつもりもないし、そもそも言う権利もないから。そういう状況になったらさすがにいつも一緒というわけにはいかないと思うけど、せめて一週間に数日でも一緒の時間を持てればいいから。それと、その時には私に話しかけてくれなくてもいい。本当に、ただ側にいさせてくれればいいだけだから」
 そこまで一気に言って、希美は薄く微笑んだ。
 希美の言い分はわかったけど、本当に希美はそれで満足できるんだろうか。
 今、ここでそれを問いただしても、できるとしか答えないだろうから、それはしないけど。
 所詮、人間の行動原理の一番大きいものは、欲求だ。
 こうしたい、ああしたい。そういうものが一番大きい。
 それを押し殺して、本当にやっていけるんだろうか。
 できる可能性もゼロではないだろうけど、普通の神経の持ち主なら、いつかどこかで破綻する。
 だけど、じゃあ、俺が希美の気持ちに応えてやれるのか、ということになると、それはそれで難しい。
「……ね、あっくん。あっくんは私のこと、どう思ってたの?」
「……それに答える必要、あるか?」
「あ、うん……そうだね。もう今更だよね」
 本当は、俺の本心を知られるのがイヤなだけだ。
 正直に言えば、俺は希美のことが好きだった。
 中学生だった当時、希美ほどの同級生、先輩、後輩はいなかった。そうすれば、いつも一緒にいた俺としても、単なる幼なじみとしてではなく、ひとりの女の子として見るようになった。
 そして、程なくして俺は希美のことを好きになっていた。
 その頃だ。希美の俺への想いにちゃんと気付いたのは。
 同時に、俺と希美の関係への様々なことが聞こえてくるようになった。
 最後のことは、俺が意識し出したせいで、より聞こえてくるようになっただけだと思うけど。
 俺は次第に希美とは一緒にいてはいけないんだと考え、さらには俺の希美への想いも捨てるか忘れるかしなければならないと考えるようになった。
 その最終段階が高校受験だったわけだ。
 だけど、今にして思えば、高校時代に彼女でも作っておけば、こんなことにならなかったのかもしれない。
 それも今更だけど。
「……そろそろ行くか」
「あ、うん……」
 この場で結論なんか出せるわけもなく、俺たちは店をあとにした。
 外は相変わらず冷たい雨が降り続いている。
 俺たちはなにも話さず、ただ雨の中を歩いていた。
 駅前から住宅街へと入ると、雨ということもあって人通りはいつも以上に少ない。
「あっくん」
 と、希美が意を決したような声を上げた。
「本当に今更で都合のいい話なんだけど、もしあっくんが私のことを好きになってくれるなら、なにをどうすれば好きになってくれるの?」
「それは……」
 一瞬、言い淀んでしまった。それはとりもなおさず、俺の中でその可能性を否定できていないからだ。
 もし希美とつきあうのは絶対にイヤだ、という状況なら、即答できたはず。それなのに、それができていない。
「……もし、私の覚悟が見たいというなら、本当に私のこと、好きに抱いていいよ」
「希美……」
「私は、あっくんにならどんなことをされても、絶対に嫌いにならないから」
 そういう覚悟は、どうしてできるんだろうか。
 俺なんか、ものすごく中途半端なことしか言えない、できないのに。
「もしかなうなら、あっくん、私にもう一度だけチャンスをちょうだい」
「……チャンスをものにできなかったら、どうするんだ?」
「その時は……あっくんがイヤなら、もう二度とあっくんの前に姿を見せないよ」
 結局、俺はただ逃げてるだけなんだろうな。
 希美からも、周囲からも。
 それこそどこかで覚悟を決めて、どうにかしないとズルズル行ってしまう。
 それはきっと、希美とのことだけじゃなく、様々な人との間で起こり得る。
「だから、ね」
 俺は、小さく息を吐いた。
「なあ、希美。おまえ、今度講義がない日って、いつだ?」
「えっ? あ、えっと、私は基本的に土曜日と日曜日は入れていないから」
 土日か。となると──
「じゃあ、今度の土曜に、少し俺につきあってくれ」
「あ、うん、それは全然構わないよ」
 今度の土曜日。
 それまでに俺もちゃんとした覚悟を決めなければならない。
 俺のためにも、希美のためにも。
 
 俺は、久々にある人と連絡を取った。
 いや、正確には俺からの連絡は久々、という意味だ。
 その人は、俺からの連絡にとても驚いていたけど、すぐにいつもの調子に戻った。
『珍しいこともあるものね。敦彦から連絡を寄越すなんて』
「ちょっと、ね」
 相手は、俺の年の離れた姉。すでに結婚して家を出ている。
 それでも比較的近くに住んでいることから、下手すると週一くらいで顔を出す。
『それで、どうしたの? わざわざ連絡してきたってことは、よっぽどのことなんでしょ?』
 優莉姉さん──ゆう姉は、いつもより少しだけ優しい口調でそう言った。
「あのさ、ゆう姉。ゆう姉に相談というか、聞いてもらいたいことがあるんだけど」
『私に? それは構わないけど、それって、電話で済むこと? なんだったら、私がそっちに行ってあげるわよ?』
「そうしてもらえるならありがたいけど」
『わかったわ。じゃあ、早速明日なんかどう?』
「明日は……」
 講義の予定を確認する。おあつらえ向きに午後の早い時間に上がれる。
「夕方くらいまでにこっちに来ててくれるとありがたいんだけど」
『夕方ね。少し早めに行って、あんたのこと、待っててあげるから』
「ありがとう、ゆう姉」
『いいっていいって。たったひとりのカワイイ弟の頼みだから。不肖の姉としては、できることはなんでもするし、こうやって頼ってきてるならなおのことよ』
 そう言って笑う。
『それじゃあ、明日の夕方頃ね』
「うん」
 ゆう姉に希美とのことを話して、問題が解決するかどうかはわからない。
 だけど、もう俺ひとりであれこれ考えるのは限界だった。そもそも俺の中では希美との関係には、一度終止符を打っている。
 そこから先のことなんて、なにも考えていなかった。
 だから、今みたいなことになってる。
 そこに、人生の先輩でもあり、希美と同性のゆう姉に話を聞いてもらえば、なにかアドバイスでももらえるかもしれない。
 そう考えたのだ。
 もっとも、最終的な決断をするのは、俺なんだけど。
 
 次の日。
 予備校から帰ってくると、すでにゆう姉は来ていた。
「ただいま」
「おかえり、敦彦」
 ゆう姉は、いつも通りだった。
 そういえば、いつもは賑やかすぎるくらい賑やかなゆう姉のふたりの子供の姿が見えない。
「ゆう姉、真莉と恵莉は?」
「ふたりは、お母さんに頼んで出てもらってるわ。あのふたりがいると、落ち着いて話ができないでしょ?」
「そっか」
 真莉と恵莉の姉妹は、この家に来ると俺をオモチャにして遊んでいる。
 確かに、ふたりがいると落ち着いて話すなど夢のまた夢だ。
「それで、いったいなにがあったの?」
 ゆう姉は、すぐに本題に入った。
 俺は、これまでのことをできるだけ詳しく、説明した。
 もちろん、多少はばかられるようなことは割愛したけど。
「なるほど。希美ちゃんとのことだったか」
 ゆう姉も希美のことはよく知っている。中学まではいつも一緒だったから当然なんだけど、ゆう姉にしてみたら、妹みたいな存在かもしれない。
「希美ちゃん、昔からあんたのことずっと追いかけてたものね。小さい頃から、あっくん好き好きオーラを放ってたし」
 その頃を思い出しているのか、ゆう姉は楽しそうだ。
「だけどさ、敦彦。それってそんなに悩むこと? 私に言わせると、なんであんたがそんなに悩んでるのかがわからないのよね。希美ちゃんはもう無条件であんたのことを慕ってるわけだし、あんただって希美ちゃんのこと、好きなんでしょ? だったら、余計なことあれこれ考えずに、くっついちゃえばいいのよ」
「そうは言うけど……」
「そりゃ、あんたの考えもわからないでもないわよ。自分の好きな人のことだから、余計にあれこれ考えちゃうんだろうけど。どれだけ考えたって、その結果がどうなるかはわからないんだから。だったら、お互いが望む形に落ち着いていいと思うのよ」
「…………」
「それにさ、希美ちゃんも言ってると思うけど、希美ちゃんのことを決めるのは、最終的に希美ちゃん自身なのよ。あんたじゃない。どれだけ考えたって、それは独りよがりでしかない可能性もある」
「それは、わかってるけど……」
 そんなこと改めて言われなくてもわかってる。
「ん〜、ねえ、敦彦。今日って希美ちゃんは時間あるかな?」
「は?」
「だから、こうなったら私が間に入ってふたりだけじゃ話せないことを聞き出して、結論を出す手助けをしてあげるわ」
「えっ、だけど、ゆう姉……」
「あのさ、人生の先輩として言わせてもらえば、こういうことって時間をかければかけるほど考えがまとまらなくなるものよ。実際、考えれば考えるほどわからなくなってきて、それで私に相談したんでしょ?」
「まあ……」
 そう言われるとそうなんだけど。
「ほら、さっさと希美ちゃんに連絡するの。あんたがしないなら、私が直接乗り込むわよ?」
「わ、わかったよ」
 俺は渋々携帯で希美に連絡した。
 希美は、すぐに出た。
『もしもし、あっくん?』
「希美。今、電話大丈夫か?」
『うん、大丈夫だよ』
 電話口の希美は、少し声が上擦っている。
「あのさ、今時間あるか?」
『時間? あるけど、どうかしたの?』
「まあ、その、なんだな──」
「ああ、もう、まどろっこしいわね」
 と、ゆう姉が俺の携帯を取り上げた。
「あ、もしもし、希美ちゃん? 久しぶり。優莉よ。覚えてる?」
 それからゆう姉はあっという間に希美との話をまとめた。
「はい、携帯」
 特に悪びれた様子もなく、携帯を俺に返す。
「希美ちゃん、すぐに来るって」
 そう言ってゆう姉は立ち上がった。
「どこ行くの?」
「希美ちゃんが来るまでに、お茶の用意をしておくのよ。こっちが無理言って来てもらうわけだから、そのくらいはしないとね」
 ゆう姉のそういうところは、素直に見習うべきだと思う。
 普段は結構大ざっぱというか、適当な感じのゆう姉だけど、実は気配り上手で、細かいことにも気がつく。
 少しして、ゆう姉がポットとカップを持って戻ってきた。
 そのすぐあとに希美が来た。
 少し息が上がっていたので、どうやら走ってきたようだ。
 希美をリビングに通す。
「希美ちゃん。久しぶり。元気にしてた?」
「お久しぶりです、優莉さん。元気にしてました」
 ふたりはにこやかに挨拶を交わす。
「さ、座って。あんたは希美ちゃんの隣」
 座る場所まで指定され、早速話がはじまった。
「とりあえず、まずは謝っておくわね。敦彦がくだらないプライドのために、希美ちゃんを振り回してしまって、ごめんね」
「そ、そんな、優莉さんが謝ることじゃないです。それに、あっくんだって……」
「ま、そのあたりはもう結論が出てるみたいだから、私があれこれ言う問題じゃないわね」
 だったら言わなければいいのに。
「で、希美ちゃん。希美ちゃんは、今でも敦彦のこと、好きなのよね?」
「はい」
 希美は即答した。
 ゆう姉の前だから言い淀むかと思ったけど、そんなことはなかった。
「その好きって気持ち、想いは、どのくらいのもの?」
「そうですね……使い古された表現かもしれないですけど、この世界に私とあっくんのふたりだけでも平気なくらい、大好きです」
「そっか」
 ゆう姉は、意味ありげな表情で俺を見る。
「じゃあ、希美ちゃんにとって敦彦って、どんな存在?」
「なくてはならない存在です。あっくんのいない生活なんて、もうイヤです」
「なるほど」
 大きく頷くゆう姉。
「それじゃあ、希美ちゃん。そこまで敦彦のことが好きなら、どうして高校の間はなにもしなかったの? 極端かもしれないけど、高校だって転校するくらいのことはできただろうし。そもそも、どうして三年間も敦彦に接触しなかったの?」
「それは……」
「私も不思議だったのよ。中学までは敦彦の口からも希美ちゃんの話はよく聞いてたんだけど、高校に入ってそれがまったくなくなって。高校が別々になったのは知ってたけど、まったく関係が途切れちゃったなんて、予想もしてなかったから」
「…………」
「まあ、その理由も今はいいわ。希美ちゃんはそのことを後悔してるからこそ、再会できた今回はもう後悔しないようになりふり構わず行動してるんだろうし」
 ゆう姉にかかると、俺はもちろんだけど、希美もかなわない。
「で、敦彦。敦彦も、希美ちゃんのこと、好きなのよね?」
「えっ……あっくんも?」
 再会してからの行動を考えれば、どう見てもそういう結論には達しない。それなのに、ゆう姉がそう言ったから、希美は驚いている。
「……ああ」
 ここでウソをついてもしょうがない。
「どうして好きなのかは今は関係ないから訊かないけど、興味があるなら希美ちゃん、あとで訊いてみれば?」
 余計なことを。
「敦彦はあれこれ余計なことを、グダグダと考えて、踏ん切りがつかないのよ。希美ちゃんのためだとか言っておきながら、高校時代にほかに彼女がいたわけでもない。そりゃ、人と人の関係は簡単じゃないから、必ずしも彼女ができるわけではないわ。でも、希美ちゃんとのことに区切りをつけていたなら、忘れるためにも積極的に行動したはず。なのに、それがなかった」
「…………」
「それはつまり、なんだかんだ言いながら、敦彦も希美ちゃんのことを好きで居続けたのよ。もっとも、今回再会できていなければ、その想いも自然消滅してしまった可能性は否定できないけど。でも、再会できた。こういう言い方はあまり好きじゃないけど、運命なんじゃないのかな。ふたりにとって」
「運命……」
「そうしたらさ、どうするのが一番いいのかなんて、わかると思うんだけど」
 希美は、俺を見た。
 その顔、瞳には、明らかに俺への期待感が浮かんでいる。
 自分の想いが通じる。
 願いがかなう。
 そんな表情だ。
「ほら、敦彦」
「だけど、ゆう姉……」
「あのさ、なにがそんなに不満なの? 希美ちゃんほどの女の子、探したってそう簡単に見つからないわよ。しかも、無条件であんたのことを慕ってくれてる。世の中のモテない男どもが、涙を流して喜びそうな状況の、なにが不満なの?」
「不満は……ないけど」
「あっくん……」
 希美は、俺の服の袖をちょこっとつかんだ。
 潤んだ瞳で俺を見つめる。
「……本当にいいんだな? 後悔しても知らないぞ」
「ううん、後悔なんて絶対にしないよ。あっくんと一緒なら、絶対に後悔しない」
「わかったよ」
 ここまで来たら、俺も覚悟を決めよう。
 もともと、希美に対して不満なんてないんだから。
「希美。俺とつきあってくれ」
「うんっ! あっくんっ!」
「おわっ!」
 希美は、そのまま俺に飛びつき、抱きついてきた。
「ちょ、希美」
「あっくん、あっくん、あっくん、あっくん」
 ギュッと抱きしめられ、いやが上にもその体の柔らかさを感じてしまう。
「あらあら、希美ちゃん、よっぽどいろいろ我慢してたのね」
 ゆう姉は、楽しそうにそんなこと言う。
「もう我慢しなくていいんだよね? もうあっくんにギュッと抱きついてもいいんだよね?」
「わかった、わかったから、とりあえず離してくれ。身動きがとれん」
 希美は、渋々抱きつくのだけはやめてくれた。
 座り直しても、ぴったりくっついたままだ。
「小さい頃は、希美ちゃんが敦彦の後ろを追いかけてるというのが当たり前だったけど、これからは希美ちゃんは敦彦の隣に並ぶのね。なんだか、とても感慨深いわ」
 感慨深いのはいいけど、あまり希美を刺激することを言わないでほしい。
 今の希美は、自分の願いがかなって興奮状態にある。酩酊状態とまでは言わないけど、多少正常な判断ができない状況だ。
 そんな時にゆう姉になにか言われたら、それを簡単に鵜呑みにしてしまう。
 ただでさえ希美の変わりように困惑気味なのに、これ以上なにかあったら、逃げ出してしまいそうだ。
「でも、ふたりとも。自分たちが浪人生だということを忘れちゃダメよ。希美ちゃんはやりたいこともたくさんあると思うけど、ほどほどにしないと、違うことで後悔しちゃうわよ」
 そんなこと、わかってる。
 希美もわかってるはずだけど……なんか、それについては不安になってくる。
「ま、なにはともあれ、ふたりとも、仲良くね」
 
 陽が暮れる前に希美をなんとかなだめすかし、家に帰した。
 最後なんか泣き出しそうになって、これから思いやられそうだ。
 希美が帰ってすぐに、母さんと姪っ子ふたりが帰ってきた。
 で、俺はそのふたりにオモチャにされてる。
「あっくん、あそぼーよ」
「あっくん、あしょぼ」
 腕を引っ張るわ、足を叩くわ、もうやりたい放題。
 ゆう姉も母さんもなにも言わないし。
「ふたりとも、もう少しだけ落ち着いてくれ」
「ええーっ、真莉、おちついてるよぉ」
「おちちゅいてるよぉ」
 来年小学校に入学する真莉は、ゆう姉の影響か、やたらませてる。
 そんな真莉の様子を見ているせいか、妹の恵莉も似たようなことをする。
 恵莉はまだ三歳で言葉もちゃんとはしていないけど、ふたり揃ってるとやっかいな存在だ。
「やっぱり敦彦に任せておくと、楽でいいわ」
「なに言ってるんだよ、ゆう姉。育児放棄しないで、ちゃんと責任持ってくれよ」
「別に放棄してないわよ。子供の成長のためには、様々なことを学ぶ必要があるのよ。いつもいつも親とばかり接していても、必ず足りないものが出てくる」
「だから、親以外で俺に任せると?」
「そうよ」
 しれっと適当なこと言って。
 まあ、俺は昔からゆう姉に口で勝てたことがない。最初は優勢でも、いつの間にか劣勢になっていて、そのまま負けるというパターンだ。
「で、敦彦。いつまでお母さんに黙ってるつもり?」
「ん、なんの話?」
 と、夕飯の支度をしていた母さんが、ちょうどこっちへ顔を出した。
「ほら、いずれはわかることなんだから」
「わかってるって」
 今の状況なら、先に母さんに希美とのことを話しておくべきなのは、わかってる。
 でも、なんかすごく恥ずかしい。
「あのさ、母さん。えっと、母さんは覚えてると思うけど、中学まで一緒だった希美っていただろ?」
「ん、ああ、ええ、村山さんのところの希美ちゃんね。ええ、覚えてるわよ」
「まあ、その、なんだ、希美とつきあうことになった」
「あら、まあ、そうなの?」
 母さんは、少しだけ驚いたようだが、それ以上は特になかった。
「というか、ふたりってつきあってなかったのね。そっちの方が驚きだわ」
 確かに、あの頃の俺たちを見ていたら、そう思っていても不思議ではない。
「あっくん、どーしたのぉ?」
「ん、あっくんね、大好きな人とつきあうことになったのよ」
「真莉も、あっくんのこと、だいだいだいだいすきぃ」
 無邪気にそう言う真莉。
「ふふっ、そうね」
 ゆう姉は、笑ってるし。
 そりゃ、カワイイ姪っ子に好かれてるというのは嬉しいけど、今は複雑な心境だ。
「だけど、敦彦。焚きつけた私が言えた義理じゃないけど、これから先、大変だと思うわよ。希美ちゃん、あんたに対する想いを相当抑え込んできてるから。三年間の空白の時間が、抑え込みつつも想いを膨らませることにも繋がった。そんな感じね。希美ちゃんは昔からとにかく一途だから、相当覚悟しておかないと、その想いに潰されちゃうわよ」
「それは、わかってる」
「それならいいけど。ま、なんにせよ、さっきも言ったけどあくまでも自分が浪人生だってことを忘れないように。たまに羽目を外すくらいならいいけど。それも勉強の妨げにならないように」
 たぶん、ゆう姉はわかってるんだろうな。
 誰かを好きになったことも、本気で好きになって、それこそ一生一緒にいたいと思える相手と出会ったこともあるゆう姉だから。
 容易にわかるからこそ、わざとらしく言ってくるんだ。
「ま、またなにかあったら遠慮なく言ってくればいいわ。今回みたいに、あっという間に解決してあげるから」
 あっけらかんと笑うゆう姉。
 そうならないことを祈ろう。じゃないと、本当にもっともっと話がややこしくなりそうだから。
 
「あっくん、お待たせ」
 土曜日。
 当初はこの土曜日を使って希美とのことに決着をつけようと思っていたんだけど、ゆう姉のおかげでそれはせずに済んだ。
 とはいえ、用がなくなったから会うのもやめようというのも、さすがにどうかと思った。
 で、これまでの罪滅ぼしの意味も含めて、予定通り会うことにしたのだ。
 希美は、今日はとても気合いの入った格好だった。
 いつものは所詮予備校に行くだけなので、普段着という格好だが、今日は明らかに特別な『勝負服』のような格好だった。
 肩のところが少し膨らんでいる白のブラウスに、アクセントにネックレスをかけている。
 スカートは足首くらいの長さのロングスカート。色はこの時期にあわせて、淡い緑。
 その姿を見ただけで、これがデートなんだということを、再認識させられた。
「ね、あっくん。今日って、どこへ行くか、もう決めてあるの?」
 期待感に満ちた大きな瞳で、少し上目遣いに俺を見つめる。
「いや、決めてない」
 だけど、実際俺はなにも決めていなかった。というか、生まれてこの方、デートなんてしたことないから、どこへ行けばいいのかもわからなかった。
「じゃあ、私、行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
「いいけど、どこへ行くんだ?」
「ん〜、秘密だよ」
 そう言って希美は笑った。
 
 希美に連れられていったのは、バスでしばらく行った場所だった。
 かつて、小学生の頃に遠足でもやって来た場所だ。
「なんでここに来ようと思ったんだ?」
「んと、とにかくあっくんとのんびり、ゆっくりと過ごしたかったから」
 ここは、森林公園だ。
 広大な敷地の大半は森で覆われており、その森をぐるっとまわれるように遊歩道兼サイクリングロードがある。
 正面入り口から見て一番奥には、アスレチックコースもある。
 もちろん、森林公園といっても森ばかりではない。
 開けた場所もある。そこには芝生の広場があったり、花が咲き乱れる花畑があったりする。
 今日は土曜日だから、親子連れの姿が見受けられる。
「あっくんは、賑やかなところの方がよかった?」
 ちょっとだけ心配そうに訊いてくる。
「いや、そんなことはないけど」
「そっか、よかった」
 しばらく歩くと、芝生の広場に出てきた。
 広場は平坦ではなく、小高い丘がある。その頂上から、段ボールなんかを使ってソリ滑りをしている子供の姿もある。
「あっくん、このあたりに座ろ」
 希美は、持っていたカバンの中からレジャーシートを取り出した。
 つまり、最初からここへ来たいと思ってたんだな。
 もし俺が予定を決めていたら、なにも言わずにそれに従ってただろう。
 昔からこんな奴なんだ、こいつは。
 そんなことを考えつつも、俺は素直にその場に座った。
 レジャーシート越しではあるけど、芝生の柔らかさは伝わってくる。
「いい天気でよかったね」
「そうだな」
 見上げれば、五月晴れの空。
 吹く風も心地良く、こういう場所に来るには、絶好の日和だ。
「ね、あっくん」
「ん?」
「あっくんも、膝枕、してみたい?」
「は?」
 いきなりなにを言い出すのかと思えば、膝枕ときた。
 それは世間一般的な常識で言えば、女が座ってその膝に男が寝転ぶというものだ。
「ほら、なんとなくこういう時の定番かな、って」
 言いながら、希美は足を揃え、スカートを軽く直した。
「はい」
 いや、はいと言われても……
「あっくん」
 期待に満ちた目というか、有無を言わせない迫力を持った目で、希美は俺に訴えてくる。
 まあ、しょうがない。今日は罪滅ぼしの意味もあるからな。
「よ、っと」
 俺は、できるだけ平静を装いながら、希美の足に寝転んだ。
 予想以上の足の気持ちよさに、思わず声が出そうになる。
「重くないか?」
「ううん、全然平気だよ。むしろ、心地良い感じ」
 希美は、本当に嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに、俺の髪を撫でる。
「もし、眠くなっちゃったら、そのまま寝ちゃっていいからね」
「ああ、そうならないように努力する」
 さすがにそこまではできない。
 そういや、希美とつきあうことを決めてから、ここまで穏やかに過ごせているのは、はじめてかもしれない。
 今なら、気になっていたことも訊けそうだ。
「なあ、希美。いくつか、訊いてもいいか?」
「いいよ」
「なんでおまえは、俺と高校が別々になってから、俺に接触しようとしなかったんだ? 前にゆう姉が言ってた、転校云々は極端な話だとは思うけど、家だって比較的近所なんだし、どうにでもなったはずだろ?」
 実は、あの時から俺はそのことが気になっていた。
 確かに、俺は故意に希美を避けようとしていたけど、たとえば家の前で待たれたりしたら、それはどうがんばっても無理だ。
 希美は、そんな簡単なことすら、三年もの間、やってこなかった。
「……それはね、あっくんに嫌われたくなかったからなの。高校が別々になってしまったのは、ある意味仕方がない部分もあったと思う。だけど、もしそれが単に学力だけの問題じゃなかったら、全然意味合いが変わってくるから」
「まあ、そうだな」
「だから、そういう可能性を完全に払拭できない限りは、私から接触を試みるのはやめようと思ったの。もちろん、本当はあっくんに会いたかったよ。会って、話をして、側にあっくんを感じていたかったよ。それでも、嫌われたくもなかったから、結局高校が別々になったことを理由にして、あっくんに会いに行こうとしなかったの」
「なるほど」
「ただね、時々あっくんの姿は見かけたんだよ」
「そうなのか?」
「だって、それはやっぱり家が近いから」
「そういう時は、どうしてたんだ?」
「ただ、遠くから見てただけ」
 そう言って希美は苦笑した。
「自分で決めたこととはいえ、私、すごく恐かったの」
「なにが恐かったんだ?」
「あっくんがいないことに、慣れてしまうことに。三年間という時間が長いか短いかは人それぞれだけど、普通の人にとってみれば、三年間は長いと思うから。その間に、あっくんがいないことに慣れてしまい、同時に私のあっくんへの想いまで、変わってしまうんじゃないかって」
「そういうことか」
 そういう風に説明されると、取り返しのつかない状況になってなかったのが、奇跡だとよくわかる。
「なんとか三年間耐えて、そのおかげでこうしてまたあっくんと一緒にいられるようになり、しかもあっくんの彼女にもなれた。本当に不思議」
「ん、ということは、三年間、誰ともつきあってなかったんだな」
「当たり前だよぉ。私が好きなのは、昔も今もこれからもずっとずっとあっくんだけなんだから」
 そうだとは思っていたけど、実際にそれを聞いて、安心した。
「そう言うあっくんは?」
「俺か? 俺だって、誰ともつきあってなかったって。そもそも、モテたことがなかったからな」
 なんか、自分で言ってて虚しくなる。
 だけど、そんな俺を無条件で慕ってくる希美は、かなり貴重な存在だ。
「そっか。よかった」
「そんなに心配することか?」
「ずっと心配だったんだから。私はあっくんのことが好きだけど、あっくんもそうだとは限らなかったわけでしょ。そうなると、あっくんだって高校で彼女ができちゃうかもしれなかったから。そうなっちゃったら、私はなにも言えないし」
「それだけ心配してても、行動を起こそうとは思わなかったんだな」
「今は、少し後悔してるよ。もし高校時代になにかできていたら、どうなってたかはわからないけど、今と違う状況になっていたかもしれないし」
 もし、高校時代に希美に告白されていたら、俺はどうしただろうか。
 なるべく希美のことを忘れようとしていたけど、目の前に現れたらどうなっていたか。
 なんとなく、うやむやのうちにつきあうことになってたかもしれない。
 結局俺も、希美への想いを完全に捨てることはできなかったんだから。
「でも、もう今更だよね。今はただ、こうしてあっくんと一緒にいられることに感謝しなくちゃ。あまり多くを望みすぎると、きっと手痛いしっぺ返しがあるから」
「そうだな」
 そのことは、特に俺が常に気にしてないといけないことだ。
 ゆう姉じゃないけど、希美以上の相手なんて、探したってそう簡単に見つからないんだから。
「あ、そうだ。あっくん」
「ん?」
「この前、優莉さんが言ってた、あっくんが私のことを好きな理由って、なに?」
 ……余計なことを思い出しやがって。
「すっごく気になってるの」
「……黙秘する」
「ダメです。黙秘権はありません」
「なんでそんなに気になるんだよ」
「だって、あっくん、昔からそういうこと言ってくれたことないから」
 そんなこと、恥ずかしくて言えるか。
「ね、あっくん。教えてよ。ね?」
 くぅ、可愛くおねだりしやがって。
 一瞬、話してもいいと思ってしまった。
「むぅ、どうしたら教えてくれるの? 先に私が言おうか?」
「そんなの、意味ないだろ。おまえはそういうことを黙ってないし」
「でもでもぉ……」
 ああ、もう、これもすべてゆう姉のせいだ。
 今度家に来たら絶対に文句言ってやる。
「……一回しか言わないからな。聞き逃しても、知らんぞ」
「うん」
「可愛くて性格もいいからだよ」
「あっくん……」
 うわあ、めちゃくちゃ恥ずかしい。
 こんなこと、もう絶対に言えない。
「本当に、本当に私のこと、カワイイと思う?」
「ああ」
「ん、ありがと、あっくん」
 希美は、本当に嬉しそうに微笑み、そのまま──
「お、おい……」
「大好きだよ、あっくん……」
 キス、されてしまった。
「あっくんに、ファーストキス、あげられてよかった」
 そんなこと言われたら、俺だって我慢できなくなる。
「希美」
「えっ、あ、ん……」
 今度は俺から。
「も、もう、あっくん……」
「これでおあいこだって」
「うん」
 これだけ幸せな気持ちになれるんだから、ほかのことなんて些細なことだ。
 本当にそう思う。
 
 希美は、弁当まで作ってきていた。
 ますますこれでここへ来てなかったらどうするつもりなのか気になる。
 ただ、今は目の前の旨そうな弁当を腹に収めるのが先だ。
「はい、あっくん。お茶もあるよ」
 そう言って希美は俺にお茶を渡す。
「どれでも好きなのを食べていいからね」
「それじゃあ……」
 まずはおにぎりを。
 希美は、じっと俺を見つめている。
 心配することなんてないのにな、まったく。
 おにぎりを頬張る。
「どう、かな?」
「ん、旨いよ」
「よかったぁ」
「って、おまえ、中学の頃から料理、めちゃくちゃ得意だったじゃないか」
 何度か希美の手料理は食べたことがあるけど、不味かったことはない。
「得意ということと、あっくんが食べてみて美味しいと思えるものが作れるのとは、全然違うよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんなの」
 ここでそのことを議論してもしょうがない。
 その理由を理解できたところで、俺にはあまり意味がないし。
 おにぎり以外のおかずも、どれも旨かった。
 希美はその都度感想を聞いてきたけど、俺にはそこまで心配する気持ちがわからない。
 そりゃ、最初のひと口は心配だっていうのはわかるけど、あとはそこまでにはならないと思うんだけど。
「ふう、食った食った」
「おそまつさまでした」
 弁当を平らげ、お茶を飲んでひと息つく。
「なあ、希美。もし、今日俺がどこへ行くか決めてたら、どうしてたんだ?」
「別にどうもしないよ。お弁当は、こういう場所じゃなくても食べられるし」
 言われてみれば、そうだな。
 飲食物持ち込み禁止、なんていう店でもない限りは、どこでも食べられる。
「だけどさ、ここへ来たかったんなら、昨日までに言えばよかったんだよ」
「そう思ったんだけど、はじめてのデートだから、あっくんに任せようと思って」
 それなのに、俺はなにも決めてなかったわけだ。
「じゃあ、希美の予定では、ここの次はどこになるんだ?」
「特にはないけど」
「そこまでは決めてなかったのか」
「うん。あ、でも……」
「なんだ?」
「う、ううん、なんでもないよ」
 希美は慌てて頭を振った。
「気になるだろ。途中でやめるなよ」
「だ、だって……」
 いつの間にか、希美の顔も赤くなってるし。
 というか、まさかとは思うけど。
「もしかして、最後の最後のことを考えてたのか?」
「え、あ、ううぅ……」
 希美はますます顔を赤くし、俯いてしまった。
「あ、あっくんは、エッチな彼女は、嫌い?」
「そんなことないって」
「わ……」
 言いながら、俺は希美の手を引き、そのまま抱きしめた。
「いろいろな面があるのは当たり前だって。そんな些細なことで嫌いになんてならない」
「あっくん……」
 そんなことを言い出したら、俺なんて誰にも好きになってもらえない。
「あの、ね、あっくん。私は、構わないよ。ずっと、あっくんとそうしたいって思ってたから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、とりあえずそのことはあとで考えような。じゃないと、そのことしか考えられなくなる」
 今だって、勢いで希美を抱きしめたのはいいけど、別にここには俺たちだけがいるわけじゃないことを忘れてて、どうするか本気で焦ってる。
 それに、抱きしめたことで、想像というか妄想というか、そういうのが現実に近いものだと感じられて、結構我慢するのがきつかったりする。
「とりあえず、離すな」
 希美を離す。
 なんか、俺も希美に引きずられるように、今までだったら絶対にしないようなことをやるようになってきてる。
 これも相手が希美だからなんだろうな。幼なじみで、相手のことをなんでも知ってるから。
「このあと、どうする?」
「少し、歩こ」
 シートをしまい、荷物を持って俺たちは広場をあとにした。
「ふふっ」
「ん、どうした?」
「あっくんとこうして歩いているだけで、すごく幸せだなって思って」
「そうか?」
「うん。だって、もう二度とこんなことないかもしれないって、どこかで思ってたから」
 まあ、確かにそうかもしれない。
 もし俺も希美も大学に合格していたら、もう会うこともなかったかもしれない。
 そうじゃなかったとしても、会えた可能性は低かっただろう。
 それを考えると、今こうしていられるのは、奇跡に近い。
「あっくん。ひとつ、お願いがあるんだけど」
「お願い? なんだ?」
「えっと、手、繋いでもいい?」
「手?」
「うん。ダメ、かな?」
 さすがに、ダメとは言えないよな。
「ほら」
「いいの?」
「いいよ、ほら」
「ありがと、あっくん」
 希美に手を握られた。
 緊張してるのか、少しだけ汗をかいていた。
 いや、それは俺も同じか。
「もしもの話なんだけど、もし、中学の頃に私かあっくんのどちらかが告白していたら、どうなってたかな?」
「さあ、今となってはわからんな。つきあってたかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。中学のいつ頃というのも、関係してくるだろうな」
「三年生の頃だったら、あっくんは断ってた?」
「わからん。ただ、そうだった可能性は高かっただろうな。逆に一年の頃なら、すんなりつきあってたかもしれない」
「そっか」
 あの頃のことを今言ってもどうにもならないのは、俺も希美も十分理解している。
 ただ、特に希美には、なにもできなかったという後悔の念があるから、そういうことを考えてしまうんだろう。
「私ね、この数日の間にいろいろ考えたの。いろいろあったけど、あっくんの彼女になれて、結果としては最高のものになったと思うの。でも、じゃあ、それまでの間に違う選択肢を選んでいたら、どうなっていたんだろう、って」
「なるほど」
「本当は、そんなこと考えるだけ無駄なんだけどね」
 そう言って苦笑する。
「だから、あっくんに今のことを聞いて、もう終わりにしようと思ったの。過去のことをあれこれ考えても、決して前向きにはなれないと思うから」
 こういうところは、素直に見習いたいと思う。
 悩みやすい性格だけど、切り替えるのも早いし上手い。
 俺なんか、あれこれ悩んで、切り替えるのも遅いし下手だ。
「あ、ごめんね。さっきから私ばかり話してて」
「いや、気にしてないって。それに、まだ気になるほどおまえだけ話してるわけじゃないし」
「それならいいけど。私、あっくんと再会してから、あっくんといられるだけで、軽い興奮状態にあるみたいで。どうも自分のことをコントロールできないところがあって」
「それはそれで、問題じゃないか?」
「たぶん、これは一緒にいる時間が長くなれば、直ると思うよ」
 そこまでだと、さすがになんだかなと思ってしまうけど。
「ね、あっくん。あっくんは覚えてる?」
「ん?」
「昔、あっくんがまだ私のことを『のんちゃん』て呼んでくれてた頃のこと」
「それは……ずいぶんと昔の話だな」
 確かに、俺は昔、希美のことを『のんちゃん』と呼んでいた。
 これは別に俺から呼んだわけではなく、まわりがみんなそう呼んでいたから、自然とそうなっただけなのだ。
 その呼び方も、小学校の途中で呼び捨てに変えた。
 いつまでもそんな呼び方してるのは、格好悪いと思ったからだ。
「あの頃のことは、覚えてることは少ないな、さすがに」
「そっか。そうだよね。でも、これは覚えてる?」
「なんだ?」
「小学校に入ったばかりの頃だったかな。私が他愛もないことでいじめられたというか、ちょっとからかわれたことがあって。その時に私、泣き出しちゃって。だけど、自分ではどうすることもできなくて。そこへ、あっくんが来てくれて、私のことを守ってくれたの。『のんちゃんを泣かせるな』ってね」
「…………」
「すごく嬉しかったのを、今でも覚えてるよ。あの頃はまだ好きとか嫌いとか、はっきりとは認識できてなかったけど、そのことがあっくんのことを好きなんだって認識するようになった、きっかけのひとつになったの」
 俺は、そんなことをした覚えはないのだが、たぶん、希美の言う通りなんだろうな。
「それから、前にも増して、あっくんと一緒にいるようになったの。守ってもらえるし、なにより大好きなあっくんとなんでも一緒にできたから」
 ある意味、確信犯だとは思ってたけど、やっぱりそうだったんだな。
「ただね、いくら思い出してみても、よくある約束はしてないみたいなの」
「よくある約束?」
「ほら、幼なじみの男の子と女の子が、小さい頃によくする約束」
「……それって、まさか」
「うん。大きくなったら、お嫁さんになるとか、そういうの」
 やっぱりそうか。
「たぶんだけど、私がそういうことを言い出さなかったのは、言わなくてもそういう関係になれるって思ってたからだと思うの。普通は言わなければわからないことでも、私とあっくんの関係なら、言わなくても大丈夫だって勝手に思い込んでた」
「それはそうだったかもしれないけど、たとえ約束してたとしても、それは所詮子供の頃のことだろ? 大きくなったら忘れてしまう可能性が高いって」
「うん、そうだね。それでも私は、そういうことに少し憧れるの」
 もし、そんな約束をしていたなら、俺はどうしただろうか。
 忘れて、なにもなかったように振る舞っていたか。
「だから、その代わりというわけではないけど、今、あっくんと約束したいの」
「なんの約束だ?」
「私のことが嫌いにならない限り、側にいさせてほしい」
 なるほど。
「ね、あっくん?」
「……今、こうして手を繋いで歩いてることが、その約束と繋がらないか?」
「うん、そうだね」
 そういう約束をするのも、もう今更だ。
 俺も希美も、もうお互いのいない生活なんて考えられなくなってるんだから。
「ありがと、あっくん」
 
 森林公園を出て、バスに乗って駅前に戻ってきた頃には、太陽は西に傾いていた。
「さて、どうする?」
 なにも決めずに戻ってきたのはいいけど、どうするのかは考えなければならない。
「あっくんは、なにかないの?」
「別にないなぁ。そもそも、こういう時になにをしたらいいのかもわからんし」
「それは私もだよ。でも、結局は自分たちのやりたいことやって、行きたいところに行って、というのが一番だと思うけど」
「そうかもな」
 世の中には、マニュアルなんてものもあるけど、それはあくまでも一般的な、統計的に見て受けのいいものを選んだものにすぎない。
 実際にどこでなにをするのか、したいのかは、結局は当事者にしかわからない。
「ただ、そういう考えに立っても、今は特にこれといったものが思い浮かばない」
「それって、私とじゃ、どうでもいいってこと?」
「いや、そうじゃなくて、時間も時間だし、先立つものだってあまりないし。なにより俺はそういう情報にとことん疎いから、どこになにがあるとか、全然わからん。だったら、俺よりもおまえの意見を優先してもらった方が、丸く収まるだろ」
「私は、あっくんと一緒だったらどこでもいいの。あっくんと一緒、ということに意味があって、そうじゃなければどこへ行っても楽しくないし、面白くもないから」
 そんなこと言われても、なかなか思い浮かばない。
 ひとつだけ思い浮かんだところはあるけど、それを言うのはさすがに問題だろう。
 希美なら、そこでもいいと言うだろうし。
「……もし、本当にどこでもいいなら、もうひとつだけ、行きたいところがあるの」
「どこだ?」
「ん、こっちだよ」
 希美は、俺の手を握ったまま、歩き出した。
 さて、どこへ向かうのか、と思っていたら──
「ここは……」
 そこは、駅前の商業地区の中でも、最も特異な場所だった。
 駅に近いところには、妖しい雰囲気の店が多く、そこから少し行ったところには、多くのホテルがあった。
 そう、いわゆるラブホテル街だった。
 昼間、希美に言われたせいで、俺もここのことを思い浮かべたけど、いきなりすぎると思って言わなかった。
 それなのに希美は、俺の予想を遙かに超えた行動力を見せつけた。
「希美。本当にいいのか?」
「うん、いいよ。私は本当に、あっくんに抱いてほしいと思ってるから」
 女の希美にここまで言わせて、なにもできないようでは、俺も男として問題だ。
「わかった。入ろう」
 俺も覚悟を決めた。
 中に入り、部屋を決め、その部屋に入る。
 当然ながらラブホテルなんてはじめてだから、なにをどうしたらいいのかわからない。
 少し大きめのベッドが、なんとなくこれからのことを思い起こさせて、複雑な心境だ。
「ど、どうしたらいいんだろうね?」
「さ、さあ、どうなんだろうな」
 とりあえず上着を脱いで、ベッドに座った。
「だけど、はじめてのデートのあとに、いきなりこういうところというのは、性急すぎないか?」
「そうかもしれないけど、でも、あっくん。私とあっくんは、昨日今日の仲じゃないんだから、そういうのもあまり当てはまらないかも」
 言われてみればそうだ。
 中学までずっと一緒で、たまにふたりだけで買い物したり、どこかへ出かけることもあった。
 それをデートと称してしまえば、確かに当てはまらない。
「あっくんは、私としたいと思ってくれてる?」
「思ってるって。思ってなければ、こんなところに入らないし」
「そっか、よかった」
 俺も希美も、どういうタイミングでなにをしたらいいか、全然わかっていない。
 だから、なんとか会話で間を持たせている状況だ。
「えっと、シャワー、浴びた方がいいよね?」
「そうだな」
 部屋にはシャワーがついている。
 が──
「……あれって、ガラス張り、だよね」
「そうだな」
「丸見え、だよね」
「丸見えだな」
 そういうのがあるとは話には聞いていたけど、本当にあるとは。
「どうする? シャワーを浴びてる間、向こう向いてるか?」
「……あっくん。一緒に浴びても、いい?」
「は?」
「お願い」
 なんか、いきなりとんでもない方向へ話が動き出した。
「いいのか?」
「うん。今はね、たとえガラス張りとはいえ、ひとりきりになりたくないの」
「……わかった」
 で、俺たちは一緒にシャワーを浴びることにした。
 後ろを向いたまま服を脱ぎ、まず俺が先に浴室に入った。
 コックを捻り、お湯を出す。
 温かなお湯が出てくる。
 と──
「お、お待たせ……」
 タオルで前を隠し、希美が入ってきた。
「覚悟は決めていても、恥ずかしいね」
「それとこれとは別だからな」
「だけど、いつまでもこうしてもいられないよね」
 そう言って希美はタオルを取り──
「あっくん」
 そのまま俺に抱きついてきた。
「いきなりだな」
「抱きついてる方が、ましかな、って思って」
「で、実際は?」
「もっと、恥ずかしいかも……」
 そう言って希美は微笑んだ。
 俺は希美に抱きつかれたままシャワーヘッドを持ち、お湯を浴びた。
「あったかいね」
「ああ」
「あっくん……」
 希美は目を閉じ、キスを待つ。
 俺はそれに応え、キスをした。
「希美」
「どうしたの?」
「おまえをもっとよく見たい」
「えっ……うん、いいよ」
 希美は、そっと俺から離れた。
 明かりの下、希美の裸体は、とても綺麗だった。
 ゆったりとした服の上からではわからない、凹凸のはっきりした体つき。
 胸のボリュームもなかなかのものだ。
 腰はしっかりとくびれているけど、特別痩せているわけではない。いわゆる女らしい体つきだ。
「ありきたりなことしか言えないけど、すごく綺麗だ」
「ホント?」
「ああ、本当だって」
「よかった。あっくんに綺麗だって言ってもらえて、本当によかった」
 きっと、希美の中では俺以外にそれを言われても、ほとんど意味がないんだろう。
 誰に認められるよりも、俺に認められたい。
 今考えれば、希美は昔からずっとそうだった。
「おまえって、着痩せするんだな」
「えっ?」
「だって、見た目よりもずっと大きいからさ」
 希美は、慌てて胸を隠した。
「……あ、あっくんは、胸が小さい方がいいの?」
「いや、別にどっちが好きとかそういうことじゃなくてだな」
「じゃあ、大きい方が好き?」
「だから……」
 ああ、もう、こいつは本当に。
「どっちでもない。おまえのが好きなんだよ」
「あっくん……」
 そりゃ、ないよりはあった方がいいかな、とは思うけど。どうにもならないことだってあるし。
「おまえはさ、心配しすぎだって」
「でも、気になるもん」
「気にするなとは言わないけど、もう少しだけ自分に自信を持ってもいいと思うぞ。少なくとも俺は、希美が彼女でよかったと思ってるし、さらにその彼女がこれだけの抜群のプロポーションの持ち主だったんだから、なおさらだって」
「……うん、今度からは、できるだけ努力してみる」
「少しずつでいいからな。慌てるなよ」
「うん」
 どうせ一足飛びに、なんでもできるわけないんだから。これはいくら希美でも無理だろう。勉強とは違うんだから。
 それからもう少しちゃんとシャワーを浴びて、今度は揃って浴室を出た。
 浴室内と違って、バスタオルを巻いてはいても、なんとなく気恥ずかしい。
「希美、いいか?」
「うん、いいよ、あっくん」
 希美を抱き寄せ、キスをする。
 そのままベッドに横たわらせた。
「やっぱり、緊張するね」
「まあな」
 俺なんか、さっきから緊張のしすぎで、口の中がカラカラに乾いている。
「でも、相手があっくんだから、安心できるというのもあるんだよ。あっくんになら、なんでも任せておけるから」
 それはそれで、かなりのプレッシャーだ。俺だって、こういうことははじめてなんだから。
 知識としてはあっても、それを上手くできるかどうかは別問題だ。
「できるだけその期待に応えられるように努力するよ」
「うん」
 俺は、もう一度キスをし、まずはバスタオルを取った。
 一度その裸体を見てはいるけど、こうして改めて見ると、やっぱり綺麗という言葉しか出てこない。
 人を褒めるのが苦手な俺でも、これだけは素直に言える。
 そんな希美の体に触れていいのか、という想いもないではないが、ここまで来たら今更だ。それに、希美が望んでいることだ。
 俺は、ゆっくりとその胸に手を添えた。
「ん……」
 ちゃんと触れると、その柔らかさに驚かされる。これは、男の体にはない柔らかさだ。
 驚きなのは、柔らかさだけではない。その肌のきめ細やかさ、滑らかさもそうだ。
「そうだ。希美」
「ん、どうしたの?」
「この前は、悪かったな。いきなり胸を触ったりして」
「あ、ううん。いいの、気にしてないから。それに、私の言い方も悪かったから。あんな言い方されたら、誰だって怒るよね。だから、当然の報いなの」
 さすがに、そのあたりのことはちゃんとわかっていたか。
「それに、あの時はあっくんが本気じゃないってわかってたから。あっくん、口ではいろいろ言うけど、相手のことを無視してまでなんでもやらないから」
 読まれてるな。
 こういうところが、幼なじみだ。
「おまえの胸、すごく気持ちいい。ずっと触ってたいくらいだ」
「あっくんなら、ずっと触っててもいいよ。私のすべては、あっくんのためにあるんだから」
「それは……そのうちな」
 そういうことを言われると、本当にそうしたくなる。
 希美はとにかく俺に過剰なまで、なんでも与えてくれる。だから、こっちが調節しないと大変なことになる。
「大きさって、どのくらいなんだ?」
「んと……八五のDカップ」
「大きいな」
 そういうモデルとしてやっていけそうなくらいだ。
 こんな胸は、AVの中だけだと思ってたけど、まさか希美がそうだったとは。
 少し手に力を込めると、その手の動きにあわせて、胸が形を変える。
「ん、あ……」
 その度に希美の体が敏感に反応する。
「あっくん、もう少し強くしても、大丈夫だよ」
「わかった」
 言われるまま、俺はもう少しだけ強めに胸を揉む。
「ん、や……ん……」
 希美の口から、甘い吐息が漏れてくる。
 少しすると、胸の先端──乳首が硬くなってきた。
 感じている証拠だ。
 軽く指先で乳首をこねてみる。
「んっ、やんっ」
 と、途端に希美はさらに敏感に反応した。
「あっ、んっ」
 乳首はさらに硬さを増し、俺はさらに両方の乳首を刺激する。
「だ、ダメっ、あっくん。感じすぎちゃう」
 希美は、半分無意識のうちにそれをやめさせようと手を出すが、力が入らないせいで、ほとんど意味がない。
「あっくん……」
「そんな目で見られてもなぁ……」
「い、いぢわるしないで、あっくん……」
「じゃあ、胸はやめて、今度は──」
 俺は、そのまま手を下半身へ伸ばした。
 たぶん、同年代に比べてかなり薄い恥毛の先に、希美の秘所はある。
「んんっ」
 軽く指が触れただけで、希美は敏感に反応した。
 体も下半身側へずらし、目の前に秘所を見る。
「あ、あんまりじっと見ちゃ、ダメ……」
「別に減るもんじゃないんだから、いいだろ」
「だ、だって、恥ずかしいよぉ……」
 そうは言いながらも、希美は隠そうとはしていない。
 このあたりは、相当の覚悟と勇気を持っている証拠だ。
「毛が薄いのは、別に剃ってるわけじゃないよな?」
「う、うん」
 薄くても濃くても、あまり関係はないか。
「触るぞ」
 希美は小さく頷いた。
 まず、秘所のふくらみを指で沿ってみる。
「んん……」
 と、希美の体がぴくんと動いた。
 プニプニという感じのふくらみに何度か触れ、いよいよその中へ。
 軽く秘唇を開くと、綺麗なピンク色の秘所があらわになった。
 照明で少し光って見える。
 俺の方も口では軽口を叩いてはいるが、かなり際どい状況だった。
 だから、希美のためにも少し落ち着いて、冷静に、丁寧に触れてやらなくてはいけないんだけど、そこまで気が回らないかもしれない。
 今度は、秘所の中に指を入れてみた。
「あっ」
 中は、とても熱く、とてもざらざらしていた。
「大丈夫か、希美?」
「だ、大丈夫。あっくんの、好きなようにしていいから」
 ゆっくりと指を動かす。
「んっ、んっ、あんっ」
 それにあわせて希美の口から、甘い吐息が漏れてくる。
「やっ、あっ、んんっ」
 元々湿っていた中は、さらに湿り気を帯び、指をしっかり濡らすほどになってきた。
「あ、あっくん、それ以上されたら、私……んんっ!」
 と、希美は言葉を途切れさせ、軽く体を張り詰めさせた。
「イッたのか?」
「う、うん……」
 少し呆けた表情で、希美は頷く。
「あっくん……今度は、一緒に気持ちよくなりたいよ」
「わかった」
 俺はすでに限界まで怒張しているモノを、希美の秘所にあてがった。
「痛かったら、我慢するなよ」
「大丈夫だよ。あっくんのだもん」
 そう言って微笑む。
 覚悟を決めてるうちにした方がいいな。
「んっ、いっ」
 俺は、ゆっくりとモノを希美の中に入れていく。
 希美の中は、本当に、これ以上ないくらい気持ちよかった。
「んっ、はっ、んんっ」
 そして、もうこれ以上入らないというところまで入れた。
 と、同時に──
「くっ、出る」
 急激な射精感が襲いかかってきて、そのままなんの抵抗もできずに、俺は希美の中で射精してしまった。
「わ、悪い……」
「ん、謝る必要なんてないよ、あっくん」
 希美は、慈しむように俺の頬に手を添えた。
「私もあっくんもはじめてなんだから、最初からなんでも上手くはできないよ」
「だけど……」
「こういうことは、経験だと思うから。ね、あっくん?」
 本当に希美のこういうところには救われる。
 同時に、相手が希美で本当によかったと思う。
 相手が希美じゃなくて、ここであれこれ言われたら、きっと俺はそれがトラウマになっていただろう。
「希美は、大丈夫か?」
「うん。想像してたのよりは、痛くはなかったよ」
「そうか」
 それはよかった。
 たまに、はじめての時は苦痛だけで、とても気持ちよくなんてなれなかった、なんて話を聞くけど、少なくとも現時点ではそういうことはなさそうだ。
「今ね、すごく幸せなの。あっくんとこうしてひとつになれて、あっくんを外でも中でも感じられて。本当にすごく幸せなの」
「希美……」
「だからね、あっくん。大丈夫だよ」
 ああ、そのひと言がとても俺の気持ちを楽にさせる。
「希美。このままいいか?」
「うん、いいよ」
 今度は、ちゃんと希美も感じさせないと。
 俺は、一度射精してもまったく収まる気配のないモノを、ゆっくりと動かした。
「んっ」
 精液のせいで、さっきよりも格段に滑りがよくなっている。
「んっ、あっ、んっ」
 そのまま本能に任せておくと、どんどん希美に構わず速く動いてしまいそうになる。
 それをなんとか理性で抑え込む。
「んっ、あっくん」
 少しずつその動きに慣れてきたのか、希美も少しあわせてくれる。
「あっくんの、奥まで届いて、あんっ、気持ちいいよ」
 だが、俺の方はすでに余裕はなくなっていた。
 二度目も、そう保たない。
「希美っ」
「あっ、んっ、やっ」
 そして──
「くぅっ」
 俺は、再び希美の中で射精した。
「はあ、はあ……」
 ものすごい脱力感に襲われ、力なく希美の上に倒れ込んでしまった。
「あっくん……」
「ごめんな、希美……」
「ううん、あっくんは悪くないよ」
 希美に頭を撫でられ、俺は少しだけ落ち着けた。
「あっくん、ありがとう」
 希美はそう言って、俺にキスした。
 
 セックスの余韻に浸るように、俺たちはベッドの上で裸のまま抱き合っていた。
 俺はまだ少し引きずってはいるけど、希美の前ではあまりそういう姿を見せない方がいい。
「これで、私は心も体も、正真正銘あっくんのものになったね」
「そうか?」
「うん。すごく嬉しいよ」
 その言葉には、一片のウソもない。
 すべて希美の本心だ。
「私ね、高校の時、あっくんのことを想って何度もひとりでしてたの」
「おまえがか?」
「そうだよ。私にだって、性欲はあるもん。それで、その時はそれが一番気持ちいいと思ってたけど、全然違ってた。やっぱり、あっくんにしてもらう方が、何倍も気持ちよかったよ」
 それは、俺にも言えた。
 家でひとりでするより、実際にセックスする方が、遥かに気持ちよかった。
「ね、あっくん」
「ん?」
「私たちは浪人生ではあるけど、たまにならこうしてエッチするのも、いいよね?」
「そうだな。こっちが主目的にならない程度になら、いいと思う」
 なんとなく、しばらくはふたりきりになると今日のことを思い出しそうな気もするけど。
「でも、その時って毎回ここへ来ることになるのかな?」
「家でできれば金はかからないだろうけど、いろいろ考えなくちゃいけないことは多いからな」
「そうかもね。あ、でも、うちは多少は平気かも」
「なんでだ?」
「だって、私があっくんとつきあうことになったって話したら、いきなり早々に孫の顔が見られるかもしれないって、お父さんもお母さんも盛り上がって」
 思い出した。
 希美の両親は、すごく変わった人たちだった。もちろん、普段はごく普通の人なんだけど、たまにおかしくなってた。
 あの人たちなら、確かにそういうことを言い出すかもしれない。
「それに、今はお兄ちゃんが家にいないから、余計にね」
「なんだ、孝輔兄ちゃん、家にいないのか」
「うん。大学が少し遠いから、大学の近くでひとり暮らししてるの」
 孝輔兄ちゃんは、希美の兄貴で、俺にとっても兄貴みたいな存在だった。
 うちのゆう姉みたいに、過干渉してくることはなく、適度に距離を保ってた兄妹だった。
「まあ、そういうことは、ゆっくり考えればいいんじゃないか。今すぐどうこうなる問題でもないし」
「うん、そうだね」
 考えなければいけないことはたくさんあるけど、今日だけは余計なことは考えたくない。
 せっかくのはじめての日、なんだから。
 
 ラブホテルを出ると、すでに陽は暮れていた。
 陽が暮れると、さすがに気温もぐっと下がる。
「希美」
「どうしたの?」
「ほら」
 俺は、希美に向かって手を出した。
「いいの?」
「いいから」
「うん」
 希美は嬉しそうに俺の手を握った。
 まだ腕を組んで歩くのにはかなり抵抗があるけど、手を繋ぐくらいなら、いいだろう。
 どうせ昼間も手を繋いでたし。
「そういえば、希美。その、今日は大丈夫なのか?」
「大丈夫って、なにが?」
「いや、ほら、中に出しちゃったからさ」
「ああ、うん。そのことか」
 希美は自分の下腹部に触れた。
「大丈夫だと思うよ。それに、万が一のことがあっても、私は絶対に後悔しないし」
「それは俺もそうだけど、さすがにもう少し気をつけないといけないな」
「そうだね。私たちのエゴのせいで、なんの罪もない子供に迷惑をかけるわけにはいかないものね」
 本当はする前にちゃんと考えておかなくてはいけなかったんだけど、それどころじゃなくて、結局ダメな結果になってしまった。
「あ、そうすると、あれを買っておかなくちゃいけないね」
「あれって、コンドームのことか?」
「うん」
 確かに、必要だな。
「ついでだから、買って帰ろうか?」
「ああ、まあ、希美に任せる」
「うん、任されました」
 こういうことは、なぜだかわからないけど、男より女の方が話が早い。
 別に買うのがどうとか、そういう問題ではないのだが、複雑な心境だ。
 駅前商店街のドラッグストアで買い物を済ませ、そのまま家路に就いた。
「ね、あっくん。あっくんに相談があるの」
「相談? 改まってなんだ?」
 道すがら、希美は少し真剣な表情でそう切り出した。
「あのね、あっくん、私と一緒に勉強しない?」
「勉強?」
「このままだと、予備校に通ってる間しか一緒にいられないから」
「まあ、志望大学が違うからな」
「だからね、ふたりで、同じ大学へ行けるように、一緒に勉強しよ」
 そういうことか。
「それはそれでいい提案だと思うけど、実際問題、俺とおまえの学力差はかなりあるぞ」
 今のままでは、天地がひっくり返っても希美の志望大学へは入れない。
「あっくんは、私が大学のレベルを落とすのを嫌がるかもしれないけど、私の考えはちょっと違うの」
「どう違うんだ?」
「確かに、大学のレベルというのは、ある意味では重要だと思うよ。でもね、レベルに関係なく、やりたいことがやれる大学というのはあると思うの。たとえば、有名な教授がいたり、研究施設が充実していたり」
「そうだな」
「そういうことで考えれば、私も必ずしも今のままじゃなくてもいいかもしれない。もちろん、もう一度ちゃんと調べてみないとわからないけど」
「つまり、今目指している大学じゃなくなるかもしれないから、あきらめるな、と?」
「そこまでは言えないけど、でも、がんばればなんとかなるよ」
 ずっと一緒にいようと思ったら、それしか方法はないのかもしれない。
「とりあえずさ、一緒に勉強するというのは、いいよ」
「ホント?」
「ただ、ひとつだけ約束してくれ。俺に教えてくれるのはありがたいけど、自分の分をおろそかにしてまではしないこと」
「それは、約束するよ」
「それならいい」
 希美は昔から極端なところがある。それが俺絡みのこととなると、余計だ。
 昔よりは多少は考えられるようにはなっただろうけど、逆に昔よりもなんでもできるようになってるから、俺が気をつけてないと大変なことになるかもしれない。
「私はね、あっくんと一緒にいられるなら、本当になんでもするから。それがどんな大変なことでもね。これだけは、いくらあっくんでも止められないよ」
「基本的には止めるつもりはないって。ただ、限度を超えてほしくないだけだ」
「う〜ん、それはやっぱりその時の状況次第かな」
 そう言って希美は笑う。
 やがて、公園の近くまで戻ってきた。
「あっくん、少し寄っていこ」
 俺たちはそのまま公園へ入った。
「あの日から、まだ全然時間も経ってないのに、状況は全然変わっちゃったね」
「そうだな」
 劇的、と言っていいほどの変化だ。
「今考えるとね、私たちには必要なことだったのかもしれないね」
「なにがだ?」
「お互いの本音をぶつけること」
「ああ……確かに」
「私もあっくんも、わかってるつもりになって、いつも一緒にいたから。本当は、ちゃんと言葉にして伝えないと意味がなかったのにね」
 たとえ意見がぶつかったとしても、それは無駄にはならない。
 なにも言わずに、あとでこじれる方が問題だ。
 まあ、俺たちの状況もそうだったわけだけど。
「私ね、自分でも不思議なくらい、あっくんになにを言われても、あっくんのことを嫌いになれなかったの。ずっと一緒にいて、その背中を追いかけ続けて、ただひたすらにあっくんのことだけ想い続けて。だからなのかな。あの時にいろいろ言われても、それは結局私のためにあっくんが言ってくれてるって、理解できたの。もちろん、それを私が納得できるかどうかは別問題ではあったけど。それでもあっくんは今でも私のことを考えてくれてるってわかって、すごく嬉しかった。だから、余計にもう二度と離れたくないって思って」
「……中学の時の俺の選択が間違っていたとは、今でも思ってない。あの時は、あれが最善だと信じてた。そりゃ、俺もおまえのことが好きだったから、いきなりすぐにあきらめるのは難しかったけど。それでも、時間がそれを解決してくれると思ってたからな。それに、おまえに彼氏でもできれば、もっと早く切り替えられただろうし。でも、矛盾してるかもしれないけど、高校を卒業して、偶然とはいえ予備校で再会して、こうして彼氏彼女の関係になって、その相手がおまえで本当によかったと思ってる。おまえが、誰のものにもなってなくてよかったと、心の底から思ってる」
「あっくん……」
「おまえが、希美が俺のことを嫌いになれなかったのと同様に、俺もおまえのことを嫌いにはなれなかった」
 結局、俺たちは似た者同士だったわけだ。
「おまえに言葉だけで伝わるかわからないけど、俺は本当におまえのことが、好きだからな。おまえが彼女で、本当によかったと思ってる。いや、おまえが彼女じゃなければ、彼女なんていらなかった。だから──」
 俺は、希美を抱きしめた。
 力一杯、もう離れないように。
「希美、ずっと一緒にいてくれ」
「うん、ずっと一緒だよ、あっくん」
 これから先、どうなるかはわからない。
 ひょっとしたら、また大学受験に失敗するかもしれない。
 はたまた、希美を悲しませるようなことをしてしまうかもしれない。
 だけど、これだけはわかる。
 どちらかが死ぬまで、本当に、ずっと一緒にいる。
 十年後も、二十年後も。
 
 ずっと、ずっと……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それから──
「あっくん。はい、あ〜ん」
「……いや、それはいいから」
「ええーっ、別に誰も見てないんだから、いいでしょ?」
「そういう問題じゃなくてだな……」
「ほら、あっくん。あ〜ん」
 俺は、渋々口を開けた。
 口の中に広がるのは、アイスクリームの冷たくて甘い味。
「美味しいよね」
「そうだな」
 希美は、嬉しそうにアイスクリームを舐める。
 その嬉しそうな顔を見ていたら、もうなにも言えない。
 希美はやっぱり、笑ってる方がいいから。
 
 あれから三年が経った。
 一年間の浪人生活の後、俺たちは大学に合格した。
 受験勉強は、特に俺にとってはまさに地獄だった。
 希美と一緒の大学へ行くためには、少しがんばるくらいではとても足りず、相当のがんばりが必要だった。
 はっきり言えば、寝てる時間以外は、ほとんど勉強していた気がする。
 やれることはなんでもやった。
 予備校でも、家でも。
 だけど、それは希美がいてくれたからできたことでもあった。
 希美の献身があったからこそ、奇跡が起きた。
 大学に入ってからは、一年間の鬱憤を晴らすかのように、ふたりでなんでもやった。
 デートもしたし、長期の休みには旅行にも出かけた。
 ふたりでいることがとにかく楽しかった。
 そして、大学二年になった今、俺たちの関係に大きな変化が訪れていた。
 
 それは、やはり五月のことだった。
「あっくん。あのね、私、妊娠したみたい」
「は?」
 最初、なにを言われたのかわからなかった。
「ちょっと生理が遅れてると思ってたら、違ったみたい」
「本当なのか?」
「うん」
 希美はその性格から、ウソは絶対に言わない。さらに言えば、こういう冗談も絶対に言わない。
「そっか」
「あっくん……?」
 大学一年の時に、希美に言われたことがあった。
「あっくんがいいと思った時でいいから、私、あっくんの子供がほしいの」
 俺の中では、希美以外とそういう関係になるつもりはなかったから、いつかはそういうこともあるとは思っていた。
 それを希美に言われ、俺はいろいろ考えた。
 そして、年が明けた頃から、セックスの時に毎回ではないけど、コンドームをつけずにするようになった。
 その結果だったというわけだ。
 それからはいろいろ大変だった。
 お互いの両親にそのことを報告して、さらには様々なことをどうするのか、選択を迫られた。
 すぐに結婚、というのが頭に浮かんだけど、俺だけがそれを考えていても意味がなかった。
 それで希美と相談し、結婚式は無理でも、結婚だけはしようということになった。
 だから今、俺と希美は夫婦という関係になっていた。
 ただ、結婚したからといって、特別なにかが変わったわけではない。
 変わったのは、希美の名字が村山じゃなくなり、うちに泊まる回数が格段に増えたことくらい。
 ほかは、変わっていない。
 
「ん……」
 いつからか、俺にとっても希美にとっても、心地の良い格好というのができた。
 ふたりとも座って、希美が俺の方へ体を預けてくる格好だ。
 そんな希美を、俺は後ろから抱きしめる。
「そういえば、週末にゆう姉たちが来るって言ってたな」
「あ、そうなんだ。じゃあ、また真莉ちゃんと恵莉ちゃんと遊べるね」
「おまえは遊べるかもしれないけど、俺は遊ばれるだからなぁ」
「ふふっ、ふたりともあっくんのこと、大好きだから」
 ゆう姉のふたりの娘、真莉と恵莉も、もう小学生だ。
 学校に通うようになって以前ほどうちへ来なくなったけど、それでも来た時には相変わらず俺をオモチャにする。
 で、その姪っ子ふたりは、希美のことがこれまた大のお気に入りだった。
 希美は希美で、妹がふたりもできたと大喜び。
 まあ、家族だから仲良くしてくれるのはいいんだけど、ゆう姉も含めて四人で結託されると、俺はなにもできなくなるから勘弁してほしい。
「だけど、あっくん」
「ん?」
「真莉ちゃんには、ちゃんと言わないとダメだよ」
「なにを言うんだ?」
「なにって、真莉ちゃん、今でもあっくんのお嫁さんになるって言って、聞かないんだもん」
 なにを言い出すかと思えば。
 確かに真莉は未だに俺と結婚すると言ってはばからない。ゆう姉もそんな真莉のことを止めるわけでも咎めるわけでもなく、ただ笑って見てるだけ。
 もちろん、叔父と姪が結婚できるはずもなく、いつかは自分で理解するだろうということで、黙ってるのかもしれない。
 ただ、希美の立場からすれば、複雑な心境なのだろう。
 とはいえ、八歳の子供相手に嫉妬するのはどうかと思うんだけどな。
「それに、最近は恵莉ちゃんまで真莉ちゃんを真似て、あっくんのお嫁さんになるなんて言うんだもん」
「どうせ今だけだって。そんなに目くじら立てるなよ」
「だってぇ……」
 つきあいはじめた頃はそうでもなかったけど、実は希美はとても嫉妬深い性格だというのがわかった。というか、淋しがり屋だからなんだろうけど。
 予備校や大学で、なんでもないことで女子と話しただけで、その内容を確認しようとする。
 度が過ぎなければそれもいいんだけど、最近はちょっと。
「本当に心配性だな」
「それだけ、あっくんのことが好きってことだよ」
 希美は、そう言って微笑んだ。
「それに、あっくん。この子が生まれた時に、今みたいな状況になってるのは、やっぱり問題だと思うよ」
「だから、それは心配しすぎだって。どうせ中学にでも入れば、逆に俺のことなんて煙たがるって」
「そこまで甘くはないと思うけどなぁ」
「どっちがいいんだよ、おまえは」
「真莉ちゃんは真莉ちゃんでカワイイから。基本的には応援してあげたいの。でも、あっくん絡みのことは、ちょっとだけ遠慮してほしいけど」
 なんだかな。
「さて、そろそろ寝るか」
「そのまま寝ちゃうの?」
「明日は一限からあるからな」
「むぅ、あっくん、いぢわるだよぉ」
「なにがいぢわるだ。昨日だって、散々したくせに」
 希美は、それはもうセックスに対してはどん欲だ。
 最初の頃は俺もやりたくてしょうがなかったけど、そのうちにその欲求も抑えられるようになった。
 でも、希美は違った。だんだんと希美自身もセックスを楽しめるようになったからなんだろうけど、正直その差には驚いた。
 俺だって希美が好きだし、カワイイから何度だって抱いてやりたい。
 それでも、なんにでも限度というものはある。
「ね、あっくん。いいでしょ?」
 で、こうやっておねだりされると、断れない。
「わかったよ」
「あはっ、ありがと、あっくん」
 いろいろ思うところはあるけど、幸せだからいいか。
 
                                   おわり
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