恋愛行進曲
 
第九章 驟雨
 
 一
 文化祭が近くなり、学校内がにわかに活気づいてきた。
 うちの高校の文化祭は、基本的には文化部が中心となって行う。実行委員会もあるが、基本的にはまとめ役に徹している。
 クラス単位での参加は義務ではない。もちろん、参加しても問題はない。
 というか、文化部以外の参加は基本的には有志ということになっている。やっぱり祭り好きの連中はいるから。
 俺としてはそれが中途半端になる原因だと思っているのだが、とりあえず今年もその流れは変わっていない。
 ちなみに、うちのクラスはクラスとしてはなにもやらない。優美先生は本当はなにかやりたいみたいなのだが、文化部の連中は部活の方にかかりきりになるし、多くはないが有志で参加する奴もいる。となると、クラスの方を無理強いすることはできないのである。
 そういうことだから、なにもやらないのである。
 それでも不思議なことに、文化祭には結構人が来る。
 なにが目的で来てるのかはわからないけど、現実がすべてだ。
 とはいえ、俺にはあまり関係ない。少なくとももう少し俺の食指が動くような内容にしてくれないことには、行く気も起きない。
「はあ……」
 俺としては、文化祭よりも先に考えなければならないことがあった。
 それは、愛と沙耶加ちゃんのことである。
 沙耶加ちゃんの誕生日の翌日。
 沙耶加ちゃんは宣言通り、愛に宣戦布告した。
 愛としては青天の霹靂かと思いきや、意外にも真剣にそれを受け止めていた。どうやら、愛にはそうなるであろうことは想定内だったらしい。
 だからといって、あの愛がすんなり引き下がるはずもない。
 うだうだ悩むところが愛の欠点ではあるが、一度決めたことに関してはなにがあっても貫き通すくらいの気概を持っている。
 だからこそ、沙耶加ちゃんをライバルと認めた上での完全勝利を目指しているはずだ。
 こうなってしまった原因が俺にもあることは、認めざるを得ない。
 やはり、沙耶加ちゃんに対して思わせぶりな言動をしてきたせいだろう。
 それでも、沙耶加ちゃんみたいな子を放っておけるほど俺は無関心、無気力な人間ではない。
 少なくとも現段階では、俺が愛から沙耶加ちゃんに乗り換える可能性はゼロだ。それだけ俺は愛のことが好きだ。
 ずっと愛を見続けてきて、これからもずっ見続けていきたい。
 だからこそ俺は、愛に告白し、単なる幼なじみではなく恋人同士になったのだ。
「はあ……」
 そのはずなのだが、俺の中には沙耶加ちゃんを切れない部分があった。
 愛に負けず劣らずの容姿、性格だからそれもある程度仕方ないとは思う。でも、いつまでもそうしているわけにもいかない。
 遅くとも二年が終わるくらいまでには、結論を出さないと。
 
「洋一」
 昼休み。教室を抜け出して屋上で物思いにふけっていたら、後ろから声をかけられた。
 振り返らなくてもそれが誰かわかったが、一応振り返った。
「どうした、愛?」
「それは、こっちのセリフ」
 そう言って愛は俺の隣に並んだ。
 フェンス越しに街を見下ろす。
 そろそろさわやかと言うには肌寒くなってきた風が、愛の長い髪を揺らす。
「洋一ってさ」
「ん?」
「自分でどう思ってるかはわからないけど、私に負けず劣らずいろいろ考えるタイプよね、間違いなく」
「……そうか?」
「うん、そう」
 断言されてしまった。
「今、洋一が考えてること、当ててみようか?」
「……ああ」
「私と、沙耶加さんのこと」
 思わず愛の方を見ていた。
「わかりやすいもん、洋一の行動。たぶん、沙耶加さんも気付いてる。ただ、なにも言わないだけ。まあ、自分が原因だってわかってるからだとも思うけどね」
 愛は、にこやかに理由を説明した。
 俺にはそこまでの自覚はないが、おそらくそうなのだろう。
 俺と同じように、愛も俺のことをずっと見てきたのだから。そのくらいのことを推測するのは、テストで百点取るより簡単だ。
「……今は可能性がゼロだと断言できるけど、もし俺がおまえじゃなくて沙耶加ちゃんを選んだら、どうする?」
「そうだね……」
 愛は、フェンスから離れ、屋上の真ん中でグーッと伸びをした。
「たぶんね、あきらめきれない。それこそ、略奪愛でもなんでもする。少なくとも今は、洋一以外には考えられないから。誰かほかの人を好きにならなくちゃいけないくらいなら、洋一と一緒にいられる方法を考える」
「…………」
「沙耶加さんは友達ではあるけど、どっちかを選べと言われれば間違いなく、洋一を選ぶから。もちろん、できるなら両方選びたいけどね」
「……そっか」
 こういう奴なんだ。
 俺としても愛がここまで考えていてくれるから、安心していられるというのもある。
 俺が愛のことを好きで居続ければ、愛は俺のことを裏切らない。それだけは絶対だと言い切れる。
「でも、洋一の立場からすると、結構難しいんだろうね」
「わかるのか?」
「なんとなくは。だって洋一、自分のことを好きでいてくれる人を簡単に切れないから。たとえ結論が出ていたとしてもね。それが洋一の良さでもあるんだけど」
「……返す言葉もない」
「責めてるわけじゃないよ。ただね」
 愛は、わずかに憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「実際問題、洋一が沙耶加さんと必要以上に仲良くしてると、胸の奥が──心が痛いの。キューッと締め付けられるような感じ」
「愛……」
「今、沙耶加さんに向けている笑顔は、本当は私に向けられるはずの笑顔かもしれないのに。そんなバカみたいなことを考えちゃう。だから──」
 ゆっくりと俺の前に来て、そのまま俺を抱きしめた。
「お願い。私を捨てないで。私だけを見て、なんてことは言えないけど、でも、洋一の彼女は私なんだから、私を見てほしい」
 背中にまわされた腕に、わずかに力がこもった。
「……こんなことを言えた義理じゃないのはわかってるけど、バカだよ、おまえは」
 今度は、俺の方から愛を抱きしめた。
「二回も告白した俺がおまえを捨てると思うか?」
「ううん」
「だったら、やっぱりそれはバカな考えだろ?」
「うん。でも、漠然とした不安は消えないから」
「これでもか?」
「ん……」
 そう言ってキスをした。
「んもう、学校なのに……」
「誰もいないからな」
「……うん」
 愛は、小さくだがはっきりと頷いた。
「……ね、洋一」
「ん?」
「今度、ひとつお願いしてもいい?」
「お願い? しかも、今度?」
「うん。ほら、もうすぐ私の誕生日だし」
 そういや、もうあと半月もすれば愛の誕生日か。
 愛の誕生日は、十一月十二日だ。
「……ダメ?」
「別に構わんが、今じゃダメなのか? 無理難題じゃなければ、とりあえず聞くだけ聞くけど」
「ん〜、やっぱりあとで。今言うのは、反則な気がするから」
 よくわからんが、愛がそれでいいなら俺には異論はなかった。
 ただ、俺は愛の『想い』と『決意』と『覚悟』を完全には理解していなかったことを、あとで知ることになる。
 
 そういえば、沙耶加ちゃんの誕生日の件以来、真琴ちゃんの俺への態度が少しばかり変わった。別に悪い方向に変わったわけではない。
 なんというのか、あえて言うなら、本格的に俺の『妹』になった。
 もちろん、本当の意味ではない。感覚の問題だ。
 俺なんかをそこまで信頼するのはどうかとも思うけど、どうやら全幅の信頼を置いてるらしい。
 以前からそうだったけど、最近はますます俺の前では地の真琴ちゃんでいる。
 接し方を見てると、明らかに『妹』が『兄』に甘えてくる、そんな感じだ。俺には美樹という妹がいるから、よくわかる。特に美樹は、重度のブラコンだから。
 ただ、最後の一線だけは越えてこない。そこはさすがというか、当たり前のことだが。
 どんな時でも、俺と真琴ちゃんの間には越えられない、越えてはいけない壁がある。それが『他人』であるということだ。
 それが当然のことなんだが、真琴ちゃんと接しているとそれが希薄に思えてくるから不思議だ。
 そんな真琴ちゃんだけど、ここ最近は放課後はなかなか忙しい。なぜかというと、文化祭が近いからだ。誰が目をつけたのかはわからないけど、真琴ちゃんの絵の才能に目をつけた誰かが、絵を描いてくれるよう頼んだらしい。
 で、真琴ちゃんも相手の熱意に負けて、手伝っている。だから、最近はふたりで絵を描く機会が減っている。
 もともと学校では描いていなかったし、さらに言えばいつもひとりだったのだから元に戻っただけなのだが、なんとなく淋しかった。
 だからか、真琴ちゃんと絵が描ける日はいつもより楽しかったし、気分もよかった。
「準備の方は順調?」
「まあ、それなりですね。私ひとりでやっているわけではないので」
「それもそっか」
 それは当然だな。
「でも、ようやく終わりが見えてきましたから。最後の仕上げはみんなでやるみたいで、とりあえず私の役目はほとんど終わりました」
「だから今日は解放された、と」
「はい」
 真琴ちゃんは、嬉しそうに笑い、頷いた。
「先輩はどうですか?」
「俺? 俺は別になにも。当日はクラス委員としてやるべきことは少しあるけど。ただ、そんなのはいつものことだし、今更だね」
「はあ、そうですか」
 真琴ちゃんにしてみれば、俺がここまで無気力、無関心でいる理由がわからないのだろう。ここで絵を描いている時の俺を見ていれば、まあ、そう思われても仕方がない。
「あの、先輩」
「ん?」
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
「構わないけど、なに?」
 真琴ちゃんはスケッチブックを置き、俺の方を向いた。
「先輩にとって、お姉ちゃんはどんな存在ですか?」
「沙耶加ちゃん?」
「はい。自分のたったひとりの姉のことですから、気になるんです」
 そう言って小さく息を吐いた。
「誕生日のあと、お姉ちゃん、多少無理してるところがあるんです。なにがあったかは容易に想像できますけど。となると、結果はわかっていたとはいえ、お姉ちゃんの望む形にはならなかった、ということですよね」
「……そうだね」
「たまになんですけど、お姉ちゃん、すごく淋しそうな顔するんです。私が見ているのに気付くとすぐに元に戻りますけど。私にできることなんか限られてますし、根本的な解決もできません。それでも、お姉ちゃんのためになにかしたいんです。だから、そのためにはいろいろ知っておかなくちゃいけませんから」
「……なるほどね」
 姉想いの真琴ちゃんならではの考え方だ。
「そこでさっきの質問です。お姉ちゃんは、どんな存在ですか?」
「……下手なことは言えないけど──」
 俺は、空を仰いだ。
「友達以上恋人未満、だと思う。たぶん」
「……友達以上恋人未満、ですか」
 都合のいい答えだ。
「こう言うと誤解されるかもしれないけど、沙耶加ちゃんは俺の中では特別な存在だよ。ただ、その特別が愛とは違うだけ。方向は結構近いんだけどね」
「それって、結構ひどいですね」
「ははは、確かにね」
 乾いた笑みしか浮かべられなかった。
 確かに俺は沙耶加ちゃんに対してひどいことをしてる。思わせぶりな行動を取り、余計な期待を抱かせた。そして、その上で彼女を振ったのだ。
 ののしられてもなにも言えない俺に、沙耶加ちゃんはそんなことは言わなかった。むしろもっと前向きで、もっと建設的で、もっとすごい考えで行動し、俺にも接している。
 とても俺には真似できない。
「先輩にもひとつだけ誤解しないでほしいことがあるんです」
「それは?」
「私は別にお姉ちゃんを選んでほしいと思ってるわけじゃないんです」
「そうなの?」
 それが意外だった。
「もちろん、そうなったらなったで嬉しいですけど。でも、今の私の目的は、あくまでもお姉ちゃんがお姉ちゃんらしく過ごせるように、それを手助けすることですから」
「沙耶加ちゃんらしく……」
「このまま無理な生活を送り続ければ、必ずどこかで破綻します。そうなったら手遅れだと思うんです。だから、完璧には無理でも多少それを緩和できればいいなって、そう思っています」
 本当に真琴ちゃんはできた妹だ。
 ここまで想われている沙耶加ちゃんの人徳でもあるんだろうけど。
「ただ、思うんです」
「なにを?」
「今の私の行動って、結局『誰』のための行動なんだろうって」
「それは──」
「お姉ちゃんのため、なんて言ってますけど、結局は自分自身のためだと思うんです。今は先輩との間にはこの──」
 そう言ってスケッチブックを撫でた。
「絵があります。でも、それは先輩がここにいる間だけですから。先輩が卒業してしまったら、私には先輩との接点がありません。でも、そこにお姉ちゃんがいれば話は変わってきます。それこそ、お姉ちゃんをダシに先輩と会うこともできますから」
「…………」
「先輩、知ってましたか?」
「ん?」
「私、本当はかなりの淋しがりなんです」
 口の端をわずかに上げ、真琴ちゃんは自嘲した。
「だからこそ、みんなに嫌われないよう、一緒にいられるよう、いろいろがんばってきたんです。時には大好きな絵も利用します」
「真琴ちゃん……」
「私、先輩のこと、好きです」
 唐突な告白だった。
「その好きという言葉には、いろいろな意味があります。先輩として、男性として、お兄ちゃんとして。だから、先輩とは一緒にいたいんです。もっともっと、ずっとずっと」
 真剣な言葉、真摯な眼差し。
 どれも本気だった。
「……幻滅、しましたか?」
 俺は無言で立ち上がり、真琴ちゃんの側に寄った。
 そして──
「……先輩?」
 真琴ちゃんは、少しだけ怪訝そうな表情で言った。
「俺はそんなことくらいで幻滅なんかしないよ。というか、今の真琴ちゃんの考えは程度の差はあるけど、誰でも持ってる考えだろうし。それを否定したら、俺自身の考えも否定することになるから」
 俺は、真琴ちゃんのサラサラの髪を撫で続けた。
「真琴ちゃんが不安に思う気持ちはよくわかる。でも、そこで沙耶加ちゃんをダシに使うんじゃなく、やっぱり自分自身でなんとかしようと思わなくちゃ。世間一般的には、カワイイ『妹』の言うことは、なんでも聞いてあげたくなるって決まってるんだから」
「先輩……」
「俺には遠慮はなしだよ」
「……はい」
 真琴ちゃんは、小さくだが、しっかりと頷いた。
 たぶん、真琴ちゃんにはこんなこと言わなくてもわかっていたことだと思う。それでも人間は、時々誰かに言ってほしいことがある。自分の考えが、少なくともその相手には認めてもらえたと、安心したいのだ。
「さてと、今日はこのくらいにしておこうか」
「あの、先輩」
「ん?」
「今度、先輩の家に遊びに行ってもいいですか?」
「それは別に構わないけど、なんで?」
「えっと、先輩のお姉さんや妹さんに、先輩のことをいろいろと聞いてみたいんです」
「…………」
「……ダメ、ですか?」
 真琴ちゃんは、探るような視線で言う。
 ここで『ダメ』と言えればいいんだろうけど、少なくとも積極的に断る理由がない。俺の理由は、ただ単に姉貴や美樹にあとで根掘り葉掘り聞かれるのがイヤ、というものだ。真琴ちゃんには関係ない。
「いや、いいよ」
「本当ですか?」
「ただ、俺もどのタイミングでふたりがうちにいるのかはわからないから。朝晩ならいるけど。そのあたりは運次第、ということで」
「はい、それはもう全然問題ありません」
 まあ、しょうがないだろう。真琴ちゃんならいろいろ聞かれても特に困るようなことはないし。……たぶん。
 
 二
 十一月になった。
 十月から十一月になっただけで、なんとなくより秋らしくなった気がする。
 実際、一日は前日に比べてずいぶんと気温が下がった。まあ、次の日にはまた戻ったけど。
 街の木々も徐々に色づき、暦の上だけでなく、誰の目から見ても秋が深くなっていくのがわかった。
 とはいえ、実際はそんなにのんびりもしていられなかった。
 週末に迫った文化祭の準備がピークを迎え、放課後になると校内のあちこちから悲鳴やら怒号やら歓声やらが聞こえてくる。
 文化祭の準備にはノータッチの俺としては、ごくろうさん、としか言えないけど。
「高村くん」
 帰りのホームルームが終わると、俺は優美先生に呼び止められた。
「なんですか?」
「少し、話があるの。時間は大丈夫?」
 優美先生は、拒否は許さないような笑顔で訊ねてきた。
「特になにもないですから」
 となれば、俺としてはそう言うしかない。
「そう、よかった。それじゃあ、ちょっと一緒に来てくれる?」
「はい」
 優美先生は、教室を出ると職員室へ向かうのかと思いきや、別の場所へと向かった。
 そこは、校舎内でも校長室と並んで生徒があまり近づかない場所だった。
『生徒指導室』
 プレートには間違いなくそう書いてある。
「さ、入って」
 鍵を開け、俺を促す。
 仕方なく中に入る。
 中は、長机がふたつとパイプ椅子が数脚、それと書類棚が二本あるだけの簡素というよりは殺風景な部屋だった。
 普通の生徒がここに来る時は、なにかやらかした場合である。ほとんどの生徒はここに一度も足を踏み入れずに卒業していく。
「別に緊張しなくてもいいわよ。なにも生活指導をしようってわけじゃないんだから」
 俺の心を見透かしたように、優美先生はにこやかにそう言った。
「職員室だとなにかと雑音が多いから、ここの方が静かに話ができると思っただけなのよ。だから、深い意味はないわ」
 先生は俺にもパイプ椅子を勧め、自分から先に座った。
 俺が座るのを確かめ、先生は話を切り出した。
「高村くんは、どうしてこの学校を受験しようと思ったの?」
 それはあまりにも予想外の質問だった。
「ここ、私立だし進学校ではあるけど、際立った特徴もないし」
「そうですね……ひとつには、家から比較的近かった、というのがありますね」
 実際そうだった。受験の時にも家からの距離というのも結構考えた。
「ほかには?」
「あとは、姉が通っていたということもありますね」
「お姉さん? そういえば、お姉さんもここだったのよね」
「知ってるんですか?」
「直接教えたことはなかったけど、何度か見かけたわ。年齢不相応に綺麗な子、という印象が強かったわ」
 言い得て妙だ。
「姉からここのこといろいろ聞いていたので、なんとなく自分もここに入った方がいいのかな、と思いました」
「なるほど」
「それがどうかしたんですか?」
「特に深い意味はないわ。高村くんは与えられた仕事はきっちりこなすけど、それ以外のことに関しては比較的消極的だから。その理由はいったいなにかしらと思って」
「……はあ」
「私はね、高村くんのことをとても買っているの。それはなんとなくわかるでしょ?」
「まあ、なんとなくは」
 それは今にはじまったことじゃないから、驚きもしない。
「別に私は学校のことをすべてに優先しろとは言わないし、それが大切なことだとも思わない。でも、教師である以上は学校のことをある程度優先しなければならないの。それはわかる?」
「はい」
「で、高村くんには私だけじゃなく、ほかの先生の期待に応えられるだけの資質があると思ってるわ。買いかぶりだと言うかもしれないけど、これはおそらく高村くんのことを理解してる先生の共通見解のはずよ」
「…………」
「だから、強制はしないけど、もう少し積極的にいろいろやってもらえないかしら?」
 確かに生活指導じゃないけど、ある意味それよりもタチが悪い。
「今すぐどうこうしろという問題じゃないから、少し考えてみて。せっかくの高校生活なんだから、人ができないようなことをやるのもいいと思うわよ」
 そう言って先生は笑った。
 ただ、俺には先生が結局なにを言いたかったのかわからなかった。プレッシャーをかけただけ、とはとても思えないし。
「もう文化祭だけど、今年はどうするつもりなの?」
「まあ、形だけは参加しようかと」
「あら、担任の前で言うわね」
「ウソを言ってもしょうがないですから」
「それはそうね」
 先生は頷いた。
「でも、今年は例年以上に面白くて盛り上がる文化祭にするんだって、実行委員が息巻いてたわよ?」
「はあ、そうなんですか?」
 それは俺も知らなかった。まあ、もともと乗り気じゃなかったから気付かなかったのかもしれないな。
「過激なのも問題だけど、あまりにも質素なのも問題だからね」
「先生の高校ではどんな感じだったんですか?」
「そうねぇ、ここよりは全校一丸、という感じだったわね。ほら、いるでしょ? お祭り好きな人って」
「はい」
「どういうわけか、うちの高校ってそういう人が多かったの。で、その最右翼が実行委員長になって盛り上げるわけ。それこそ問答無用、ご意見無用って感じでね」
「へえ……」
「実際、三年間とも楽しかったわよ。だいたいの人は、文化祭が終わると抜け殻のようになってたくらいだから」
「……それはそれでなかなか……」
 そこまでのめり込めればたいしたものだ。今の俺にはとうてい考えられない。
「あとは、文化祭の時ってほかの学校の人たちも来るから、それで結構盛り上がったりしてね。ほら、同じ中学校だった友人を招待したりなんかしてね」
 むぅ、俺はそんなことしようとも思ったことないな。
「まあ、なにはともあれ、今年はクラス委員として半強制的に参加するんだから、せめて去年より楽しむよう努力した方がいいわね」
「善処します」
「ふふっ」
 俺の物言いがおかしかったのか、先生はいつも以上ににこやかに笑った。
「そうそう。ひとつ、いえ、ふたつかしら? 言うのを忘れていたわ」
「なんですか?」
「この前、北条先生に誘われたわ」
「えっ……?」
「食事に行きませんか、って」
「それって……」
「確かに北条先生はいい先生だし、人としてもいいところは多いわ。でも、まだ『足りない』のよね」
「足りない?」
「そう。北条先生が私に好意を持ってくれてることは、結構前から気付いてたわ」
「……でしょうね」
 わかりやすいからな、雅先は。
「でも、それってどこか『憧れ』的な好意なのよ。同じ職場の先輩で、私が年上だから余計なのかもしれないけど」
 ああ、なるほど。そういうことか。
「つまり優美先生は、そういう諸々のことを抜きにして、対等な立場でつきあいたい、ということですね?」
「わかりやすく言えば、そうなるわね。だってそうでしょ? その後どうなるかはわからないけど、最初は対等な立場でお互いを見ないと。そうしないと見えない部分は多々あるだろうし」
「それ、雅先には?」
「言わないわよ。そういうことは自分で気付かないと意味がないから」
「……確かに」
 あれ? そういうことを言うということは、優美先生もまんざらじゃない、ってことだよな。
「私もそんなに多くの生徒を受け持ってきたわけじゃないけど、それでもはじめてよ。生徒が先生のことに口出ししてくるなんて」
「……すみません」
「別に責めてるわけじゃないわ。今までそういう生徒に巡り会わなかったから、珍しいと思ってるだけだから」
 どういう反応をすればいいかわからんな。
「そういうわけだから、私と北条先生のことはもう少し長い目で見てくれるといいわ」
「わかりました。というか、あの修学旅行の時が最初で最後だと思っていましたから、もうなにもしません。あとは、なるようにしかならない、と思いますから」
「ふふっ、そうかもしれないわね」
 こういう話をさらっとできるっていうのは、やっぱり優美先生が『大人』だからかな。
「で、もうひとつなんだけど、高村くんは森川さんとつきあってるのよね?」
「え、ええ、まあ……」
「でもね、端から見てるとそれだけじゃないように見えるのよ」
「…………」
「なんとなく、私がなにを言いたいかはわかってるみたいね」
「山本さん、のことですか?」
「ええ。悪い噂ではないけれど、ただ、高村くんは実は山本さんとつきあってるんじゃないかって、そんな噂もあるから」
 そう思われてもしょうがない行動を取ってたからな。
「森川さんと山本さん。ふたりとも性格はいいし、勉強も運動もできるし、なにもよりもカワイイ。そういうことを考えると、いろいろな噂が立つのもしょうがないとは思うわ」
「…………」
「ただ、担任ではなくひとりの人生の先輩としての助言ね。どうなるにしても、自分の意志はしっかり持ってないとダメよ。そして、できるだけ思わせぶりな行動は取らない」
 先生は、穏やかな表情で言う。
「そうすればきっと、三人の関係はますます強いものになるはずよ」
 それはそうだと思うけど、実際それをやるのはなかなか難しい。
「とにかく、なにをするにしても後悔だけはしないように、全力でがんばればいいのよ。実に簡単な結論なんだから」
「……そうですね」
 簡単、ね。
「さてと、話はこれで終わりよ。それとも、まだなにか話す?」
「い、いえ、特になにもないですから」
「そう? なんでも遠慮しないで聞いていいのよ? そりゃ、広瀬先生ほど的確には答えられないとは思うけど。って、確か高村くんは広瀬先生のお気に入りだったわね。とすると、私じゃ役不足か」
「そんなことはないですよ」
「ふふっ、いいのよ」
 優美先生には優美先生の、由美子先生には由美子先生のいいところがある。言い方は悪いかもしれないけど、俺はそれを利用してるだけだ。
「さ、ここを閉めるわよ」
 俺は先生に追い立てられ生徒指導室を出た。
「それじゃあ、高村くん。いろいろ考えてみるといいわ。なにかあれば、私もいつでも相談に乗るから」
「はい、わかりました」
「うん、よろしい」
 先生はどことなく楽しそうに職員室へ戻っていった。
「……はあ、なんだかな……」
 もはやため息しか出なかった。
 とはいえ、それだけでも済まないのだが。
 本気で考えないと、まずいよな。
 
 三
 十一月六日。
 文化祭がはじまった。もっとも、前夜祭があったからそこからはじまったとも言えなくもない。
 正門には張りぼての巨大な門が据え付けられ、来る者を拒む、もとい、千客万来の様相を呈していた。
 校庭にはいくつかの部活と有志が出し物を行うための広場が設けられている。まあ、去年はろくでもない内容で観客などほとんど集まらなかったけど。
 校舎内は異様な熱気に包まれていた。
 模擬店もあちこちにあり、廊下を歩いていると胃を刺激するいい匂いが鼻孔をくすぐった。
 校内のあちこちに期間限定の派手なポスターが貼られ、ここは本当に学校なのかと錯覚してしまうほどのものだった。
「……なんか、気合い入ってるな……」
 そう。今年はなぜか去年よりかなり気合いが入っていた。
 明らかにみんなの目の色が違う。文化祭を盛り上げてやろう。そんな迫力がある。
 そういう気持ちの欠片も持ち合わせていない俺は、どことなく浮いた感じだった。
「ふ〜ん、やっぱり今年はすごいねぇ」
 隣を歩いている愛は、俺よりはこの空気になじんでいた。
「あ、ねえねえ、洋一。わたあめだって。買っていかない?」
「好きにしろ」
「うん」
 愛は、パタパタとその教室に入っていった。
 教室の中には、よく縁日の屋台で見られるあの機械が置いてあり、揃いのはっぴ姿の生徒が意外にも手際よくわたあめを作っていた。
 少しして、愛が嬉しそうな顔で戻ってきた。
「あはは、ちょっとおまけしてもらっちゃった」
 確かに、普通のより大きい気がする。
「これって結構食べるの難しいんだよね。変に食べちゃうとベタベタになっちゃうし」
 そう言いながら、器用にわたあめを食べる。
「洋一もいる?」
「いや、別に。それこそ、ベタベタになったらイヤだからな」
「そう? 美味しいのに」
 わたあめに美味しいも不味いもないと思うのだが、とりあえず言わないでおいた。
「そういえば、洋一」
「ん?」
「美樹ちゃんが来るようなこと言ってなかったっけ?」
「ああ。中学の友達連れて来るってさ」
「ふ〜ん。それってやっぱり、美樹ちゃんもここを狙ってるから?」
「さあ? とりあえずの理由は、俺とおまえがいるからだろ?」
「やっぱりそうかな?」
「それしかないって」
 実際は愛の言う通りなのだろう。美樹は間違いなくこの高校を希望しており、その下見というわけでもないだろうが、そういう気持ちも多少持ちつつ来る。
 美樹も中二だし、そろそろ進路の話が出はじめる。そうすれば否応なくいろいろ考える。で、美樹なら間違いなくここを選ぶ。
「美樹ちゃんも一緒に通えればよかったんだけどね」
「無理なこと言うな。それともなにか? 美樹のために留年しろってか?」
「洋一ならやりそうだけどね」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 いくら俺が美樹に甘くても、さすがにそれはしない。
「あ、でも、美樹ちゃん、結構苦労するかもね」
「なんでだ?」
「だって、美香さんの妹で洋一の妹なんだもん」
「…………」
 微妙に反論できんな。
「まあ、美香さんのことはよほどじゃない限りは大丈夫だと思うけど。でも、先生たちは美香さんのこと知ってるか」
 姉貴は、いろんな意味でうちの高校では有名だ。
 まず、成績がよかった。三年間常にトップクラス。
 次に性格。あのある意味『豪放磊落』な性格は、男女問わず人気があった。姉貴の後輩には未だに姉貴を慕ってる輩もいるほどだ。
 で、見た目。何度も言うが、姉貴は美人だ。実の姉のことをそういう風に評したくはないが、事実だからしょうがない。
 そういうこともあって、姉貴は有名なのだ。
 俺も去年、いろいろ言われた。
『あの』高村美香の弟という目で見られた。
 最近はそういうこともほとんどないけど、あまり居心地のいいものではない。
「問題は洋一の妹ってことよね」
「なにが問題なんだ?」
「だって、洋一の『ファン』って結構いるから。今年の一年生にいるってことは、私たちが三年生になって新入生が入ってきても変わらないと思うの。で、美樹ちゃんがここに入る時には、その子たちが美樹ちゃんの先輩。いろいろ問題があると思わない?」
「……さあな」
 俺にそんな『ファン』がいるかどうかはどうでもいいが、実際、兄妹揃って同じ高校だと、下はいろいろ言われる。
 もっとも、美樹にしてみればそれは望むところなんだろうけど。なんといっても、重度のブラコンだからな。
「ところで、洋一」
「なんだ?」
「その、よかったの?」
「なにがだ?」
「んと、沙耶加さんのこと」
「ん、ああ」
 話は少し前に戻る。
 開会式が終わったあと、とりあえず今日の予定を決めることにした。
 俺としては適当にぶらついて終わりだと思っていたわけだが、愛と沙耶加ちゃんは違った。
 理由はほぼ一緒で、俺と一緒にまわりたいということだった。
 俺は三人でもいいかと思ったのだが、沙耶加ちゃんがそれを拒んだ。もちろん、明確に拒んだわけじゃない。結果的には、愛に譲った形だ。
 ただ、その代わりに沙耶加ちゃんとも一緒にまわる約束はした。
「私としては、三人でもいいと思ったんだけどね」
「それは沙耶加ちゃんが嫌がったんだからしょうがないだろ?」
「うん」
 それはきっと、沙耶加ちゃんなりの決意表明なのだろう。
 愛と沙耶加ちゃんは友達ではあるが、同時にライバルでもあるのだから。
「……なんとなくだけどね」
「ん?」
「沙耶加さん、無茶しそうで恐い」
「無茶?」
「うん」
 愛は、少しだけ神妙な面持ちで頷いた。
「沙耶加さんて、すごく素直で真面目だから、逆にひとつのことに傾倒しちゃうとまわりが見えなくなるんじゃないかなって。そういう時の人間て、なにをするかわからないし。もちろん、沙耶加さんがそうだって決まったわけじゃないけどね」
「……まあ、確かに」
 愛と沙耶加ちゃんの違いは、そこにもある。
 愛はなんだかんだ言いながら、結構強い部分が多い。
 沙耶加ちゃんも基本的には強いけど、愛に比べるとそれが不安定だ。だから、いつそれがバランスを崩すかわからない。
 俺自身のことだから悠長に構えていていいはずはないけど、だからといってなにができるわけでもない。下手に助ければ、墓穴を掘るだけだ。
「でもさ、愛」
「なに?」
「おまえも損な性格してるよな」
「どうして?」
「沙耶加ちゃんはおまえに宣戦布告したんだろ? そのライバルのことをあれこれ心配してさ。それって絶対損だって」
「ん〜、そうでもないよ」
 愛は、苦笑した。
「私が心配してるのは、沙耶加さんが文字通り無茶すること。それ以外のことは特に心配してないから」
「どういう意味だ?」
「具体的なことはあまり言いたくないけど、ひとつだけ言えば、沙耶加さん、思いあまって洋一に迫らないかなって」
「…………」
「そして、そうなった時、洋一はちゃんと拒めるかなって」
 なるほど。確かに心配だ。
「たぶんだけどね、女ってかなりしたたかな生き物よ」
「……脅すな」
「ふふっ、大丈夫よ」
 なにが大丈夫なんだかさっぱりわからん。
「あ、ほら、占いの小部屋だって。ちょっとやってみない?」
 そう言って愛は、俺の手を引っ張った。
 その姿はいつもの愛だったのだが、俺には気付けなかった。
 
 一日目は特に問題なく終わった。
 人出もまあまあで、実行委員は二日目に向け鼻息を荒くしてることだろう。
 俺としても、去年よりは楽しめたと思う。少なくとも、今年の方が活気があって『祭』という感じがした。
 そのおかげか、愛と一緒にまわっていても退屈はしなかった。
 まあ、愛と一緒、という時点で退屈はしないだろうと思っていたが。
 そういえば、占いをやったんだが、その結果がまたなんともできすぎていた。
 俺はどうでもよかったからなにを占うかは愛に決めさせた。で、予想通り俺とのことを占ってもらった。
『相思相愛。もはや言うことなし』
 そんな結果だったから、愛はそれからずっとご機嫌だった。
 もちろん、俺としてもその結果に悪い気はしなかった。
 ただ、タイミングの問題だ。その少し前に沙耶加ちゃんのことを話していただけに、余計に愛は気に入ってしまった。
 で、俺も愛の機嫌を損ねる必要はなかったから、特に文句も言わずにつきあった。
 夕方近くに、美樹が中学の友達を連れてやって来た。とはいえ、出会ったのは本当に偶然だ。たまたま廊下を歩いていたら、たまたま美樹たちに会った。
 一緒に来たのは、美樹とは親友と呼べる三人の友達だった。俺も何度か会ったことがあり、向こうも俺のことを知っている。
 というか、なぜかは知らんがこの三人も俺のことをやたらと持ち上げる。まあ、美樹が俺のことを悪く言う奴と一緒にいるなんてことは、明日日本が沈没するより確率は低いだろうけど。
 そんなわけで、後半は美樹たちを案内がてら、校舎をまわった。
 美樹は素直に文化祭を楽しんでいたが、友達三人はどうも俺と愛のことに興味津々だった。直接聞きはしないが、それとなく俺たちのことを聞いていた。
 困るような質問は特になかったからよかったけど。
 そんなこんなで、文化祭一日目は終わった。
 
 その日の夜。
 ベッドでくたばっていると、姉貴がノックもなしに入ってきた。
「なにくたばってるの?」
「別に」
 文句を言っても馬耳東風なので、もはやなにも言うまい。
「で、姉貴はなにしに?」
「そんなの決まってるじゃない。カワイイカワイイ弟とのスキンシップを──」
「はいはい。心にもないことを言わないように」
「ちっ、面白くないわね」
 最近は和人さんを『いじって』るから俺にその矛先が向くことは少なくなった。それでもたまにこうしてやって来るのは、まあ、姉弟だから仕方がないのだろう。
 俺にとってはありがた迷惑なのだが、姉貴にはそんな理由は通用しないだろうな。
「で、実際なにしに?」
「うん。明日、和人と一緒に文化祭に行こうと思って」
「はい? マジ?」
「マジってことはないでしょ? 私、卒業生なんだから。まだ知ってる先生だっているし、たまには昔を懐かしんだっていいじゃない」
「昔を懐かしむ、ねぇ……」
 どうも姉貴が言うと胡散臭くてしょうがない。裏の裏の裏がありそうだ。
「なによ、そのマジかよ、って顔は?」
「いや、マジでそうなんだけど」
「あんたねぇ、たったひとりの姉に向かってそれはないでしょ?」
「はいはい。俺が悪かったですよ」
 そう言って俺はベッドの上に体を起こした。
「で、マジでなんなの?」
「んもう、しょうがないわね。ひとつは、本当にただ久しぶりに母校に行きたくなったからよ」
「ふ〜ん」
「もうひとつは、確かめたいことがあってね」
「確かめたいこと?」
 俺は首を傾げた。
 この期に及んでなにを確かめるというのだ?
「そ。愛ちゃんのライバルのことを確かめたくてね」
「…………」
「こら、そこ。目をそらさない」
「……あのさ、それって必要なこと?」
「もちろん。あんたは私の弟だけど、愛ちゃんも私にとってはもうひとりの妹なんだから。昔から一途な愛ちゃんを脅かしかねない相手のことを、ちゃんと知っておこうと思って」
「……それは姉貴の役目じゃないだろ?」
「あら? どうしてそんなこと言えるの?」
「どうしてって、そりゃ……」
 ……特に理由はない。ただ単に、姉貴と沙耶加ちゃんを鉢合わせさせたくないだけだ。
「運動会の時に姿は見たけど、愛ちゃんに負けず劣らずカワイイ子だったからね。いろいろ気になってたのよ」
「…………」
「でも、実際はその子というよりは、あんたがその子のことを気にかけてるから、私も気になってるのよ。わかる?」
「……なんとなく」
「だったら、素直に私に紹介しなさいよ?」
「それとこれとは別。だいいち、向こうの都合だってあるし」
「そんなの大丈夫よ。あんたが用があるって言えば、よほどのことがない限り、つきあってくれるでしょ?」
 ぐぅの音も出なかった。
「別にその場で根掘り葉掘り聞いたりなんかしないから。ちょっとどんな子なのか確かめるだけだから」
「……わかったよ。だけど、絶対に余計なこと言うなよ? 彼女、今時かなり珍しいくらい純粋なんだから」
「へえ、そんな純粋な子をたぶらかそうってんだ?」
「……姉貴」
「あはは、冗談冗談。今のところ、あんたは愛ちゃんひと筋だもんね?」
 まったく、どうやっても口で姉貴には勝てない。
 俺の言動をほぼすべて把握されてるからな。
「そういや、もうすぐ愛ちゃんの誕生日よね?」
「ああ」
「今年はどうするの?」
「どうするって、特に変わったことはしない。してもしょうがないし」
「ん〜、それもそっか。祝い方なんてそれほど違わないしね。でも、一応なんか考えてはいるんでしょ?」
「さあ、どうかな?」
「なにをするんでもいいけど、ちゃんと愛ちゃんの立場に立って考えなさいよ。去年までは単なる幼なじみだったからいいけど、今年はそうじゃないんだから。愛ちゃんだって言わないとは思うけど、それなりに期待してるだろうし」
 そんなこと言われなくてもわかってる。
 余計なお世話だ。
「ま、私の『優秀』な弟ならなんの心配もないとは思うけどね」
「……姉貴。なにが言いたいんだ?」
「べっつにぃ。ただ、一応言っておかないといけないと思って」
「あっそ……」
「なによぉ、その言い方は?」
「おわっ」
 と、いきなり俺をベッドに押し倒した。
「昔は『お姉ちゃん、お姉ちゃん』言って後ろをくっついてたくせに」
「……いつの話だよ。そんなの、幼稚園の頃だろ?」
「幼稚園の頃だろうがいつだろうが、実際あったんだから」
「……まあ」
「いつからだっけ?」
「ん?」
「あんたが私のことを『姉貴』って呼ぶようになったの」
「さあ、よく覚えてない」
 それはウソだ。本当はよく覚えてる。
 小学校を卒業して、中学に入学する時だ。
 たまたま兄弟の話になって、俺が姉貴のことを『お姉ちゃん』て言ったら、笑われた。
 別に気にしなければよかったんだが、その時の俺はムキになってそれを変えた。
 そして、もうひとつだけ覚えていることがある。
 それは、はじめて『姉貴』と呼んだ時の姉貴の顔だ。
 驚きと戸惑いと、ほんのわずかな淋しさ。
 だけど、もはやあとには引けない状況で、それからはずっと『姉貴』だ。
「やっぱり『お姉ちゃん』て呼ぶのは、抵抗ある?」
「そりゃ、まあ……」
「だったら、なんで『お姉さん』や『姉さん』じゃなかったの?」
「いや、それはなんとなく。それしか思いつかなかった」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「先にどっちかが思い浮かんでいたら、たぶんそう呼んでた」
「なるほどね」
 頷きながら、姉貴は俺の髪を撫でる。
 それが結構心地良いから、俺もなにも言えない。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「洋一は、私が家を出たら淋しい?」
「家を出るって、単に家を出て生活するってこと? それとも、結婚、て意味?」
「ん〜、後者かな?」
「だとしたら、淋しくはない」
「どうして?」
 姉貴は意外そうな顔をした。
「それって、基本的には姉貴は幸せになったってことだろ? 多少の淋しさはあるかもしれないけど、そんなの本当に些細なことだって。弟としては、たったひとりの姉には本当に幸せになってほしいからさ」
「洋一……」
「って、なにを言ってるんだ、俺は……」
「照れなくたっていいじゃない」
 姉貴は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、洋一は最高の弟よ。私の自慢の弟」
「それはどうも」
「だから、私が安心して家を出られるように、あとを任せられる子をちゃんと見ておきたいの」
 どうやら話が戻ってきたようだ。
「今のところは愛ちゃん以外にはいないんだけどね。ただ、今後もそうかはわからないから、一応いろいろ確認しておこうと思って」
「なるほどね」
「だから、あんたも協力しなさいよ?」
「わかったから」
 なんとなく、それ以上その話を続けるのは危険だと思った。
「そうだ」
 と、姉貴はとんでもないことを言い出した。
「今日さ、一緒に寝よっか?」
「は?」
「だから、一緒に──」
「いや、それはわかったけど、なんで?」
「ん〜、たまには姉弟水入らずで過ごしたいと思って」
「…………」
 そんな風に言われると、なかなか断りにくい。
 とはいえ、俺も姉貴ももう子供じゃない。美樹だったら、まあ、考えなくもないけど。
「どう?」
「……悪いけど、やめとく」
「どうして?」
「もうそんな歳じゃないし、それに、姉貴の添い寝係は和人さんの役目だし」
「なに生意気なこと言ってるのよ」
 そう言いながら、姉貴は笑っていた。
「しょうがない。残念だけど、今日は退散するわ。でも、そのうち一緒に寝ましょ」
「……考えとく」
 とりあえずそう言うしかない。
「じゃあ、洋一。明日はよろしくね」
「了解」
 姉貴は、軽く俺の頬にキスして部屋を出て行った。
「やれやれ……」
 最悪の事態だけは避けられた。
 正直に言えば、姉貴と一緒に寝ること自体はそれほど抵抗はない。ただ、一緒に寝ることによって起こるであろう、怒濤の質問攻撃に耐えられない可能性が高いから断ったのだ。
「……ま、一回くらいなら、考えないでもないか……」
 結局、俺も姉貴のこと、好きだからな。
 
 四
 十一月七日。
 文化祭二日目。
 今日は少し肌寒い。天気はいいんだが、風が冷たい。
 文化祭は今日が実質本番みたいなものだから、なにかしらやる連中は朝から準備に追われる。俺なんかは適当な時間に行って、最後に出席を確認すればいいだけ。
 もっとも、今の俺の立場ではそんなこと許されないんだけど。
「お兄ちゃん」
 家を出る前、美樹に呼び止められた。若干眠そうなのは、まあ、今日が日曜だからだな。
「今日も行ってもいいかな?」
「いや、別に俺に断る必要はないだろ。あくまでも文化祭に来る、というのが目的ならな」
「あ、あはは、そうだな」
 美樹は、乾いた笑みを浮かべ、視線を逸らした。
 わかりやすい奴だ。
「そういえば、今日はお姉ちゃんも行くんだよね?」
「ん、ああ。昼くらいに和人さんと一緒に来るってさ」
「あ、和人さんも一緒なんだ。そっか、ふ〜ん……」
 とりあえず、本当の目的は言わないでおく。言えば、もっと収拾がつかなくなる。
「ま、来たけりゃ好きにすればいいさ。偶然俺に会うこともあるだろうし」
「うん、そうする」
 実際、昨日も本当に偶然会ったにすぎない。美樹の方は俺がいないか探していたかもしれないけど、少なくとも俺はそうじゃなかったからな。
 家を出て、途中で愛と合流し、学校へ。
「今日はちょっと寒いね」
「そうだな」
「でも、いい天気だから、人は結構来るかな?」
「だろうな。去年のあのレベルの内容でもそこそこ人は来てたんだから」
「そうだね」
 もっとも、一般客は今年の内容は知らないわけだから、いきなり増えるということはないと思う。
 学校に着くと、校庭ではこれから出し物を行う有志連中がリハーサルを行っていた。
 校舎内もほぼ似たような感じで、やはり活気があった。
 俺たちはどれにも関わっていないから、はじまるまでは本当に手持ち無沙汰だ。
 適当に校舎内をぶらついていると、山本姉妹に遭遇した。
 学校内でこのふたりが一緒にいるのは珍しいので、なんとなく新鮮な感じがした。
「ふたりとも早いね」
「せっかくの文化祭なので、ゆっくり見てまわろうと思ったんです」
「なるほど」
 沙耶加ちゃんにとっても真琴ちゃんにとってもうちの学校の文化祭ははじめてだ。そういうことを考えると、そんな考えに至るのもよくわかる。
「そうだ。沙耶加ちゃん」
「はい」
「今日、ちょっと時間あるかな?」
「時間、ですか? 別になにかしなくてはいけないこともありませんから、大丈夫ですけど」
 沙耶加ちゃんはそう言って首を傾げた。
「実はね、沙耶加ちゃんに会いたいっていう人がいてさ」
「私に、ですか?」
「ああ、心配しなくてもいいよ。とりあえず害のない人ではあるから」
 害はないけど、問題はあるな。
「そんなに手間はかけさせないから、いいかな?」
「はい、わかりました」
 とりあえずこれで姉貴に文句を言われることはなくなった。
「先輩」
 と、真琴ちゃんが声を上げた。
「ん?」
「先輩はなにか用事とかあるんですか?」
「別になにもないよ。これでも一応クラス委員だから来てるけど、本当は終わり間際だけ来て済ませたかったんだけどね」
「そうなんですか」
 多少意外そうな顔をする。
 まあ、真琴ちゃんの前では比較的『真面目』な姿を見せてるからな。
「じゃあ、そのお姉ちゃんの用事があるまで一緒に見てまわりませんか?」
「真琴ちゃんと?」
「はい。あ、別にふたりきりってことじゃないですよ」
 愛と沙耶加ちゃんの視線を感じ、慌てて付け加える。
「別に構わないけど」
「本当ですか?」
「うん」
「あはっ、よかった」
 とりあえず真琴ちゃんは嬉しそうだからそれでいいか。
 もっとも、真琴ちゃんにしてみればそれは沙耶加ちゃんのためだったのかもしれない。もちろん、それを確かめたわけじゃないからわからないけど。
 そんなこんなで、文化祭二日目がはじまった。
 
 九時に文化祭がはじまると、少しずつだが一般の客がやって来た。
 それにあわせて、それぞれの出し物も気合いを入れる。
 それは時間が下るにつれてますますヒートアップし、結果的には文化祭全体の活性化に繋がる。
 俺たちはそんな中を特に目的もなく歩いていた。
 性格的に意気投合できるのか、愛と真琴ちゃんはさっきからずいぶんと楽しそうに話をしている。
 そうなると自然と俺は沙耶加ちゃんと話をすることになった。
 これも真琴ちゃんの作戦かと思ったが、さすがにそこまではしないだろう。
「あの、洋一さん」
「ん?」
「私に会いたいというのは、いったいどなたなのですか?」
「ん〜、そうだね。いつまでも黙ってるのも悪いから」
 どうせあと数時間でわかることだ。
「俺の姉貴なんだけどね」
「洋一さんの、お姉さんですか……?」
「うん。どういう理由で会いたいかは、できれば本人に聞いてほしい」
「はあ……」
 さすがに俺の口からそれは言えない。
「ちなみに、姉貴は大学二年でここの卒業生だから」
「そうなんですか」
「しかも、かなりの有名人。先生はもちろん、今の三年生に聞いてみれば、誰かはきっと教えてくれると思うよ。高村美香のいろいろな話を」
 先生は別として、先輩ならよほどのことがない限りは褒め言葉しか言わないだろう。
「洋一さんは、お姉さんとは仲は良いんですか?」
「そうだね、かなり珍しいくらい仲が良いと思うよ」
「喧嘩とかしたことありますか?」
「ないね。ああ、言い争いくらいはしたことはあるけど、いわゆる喧嘩というものはしたことがない、という意味だから」
「それはすごいですね」
「沙耶加ちゃんたちだってそうじゃないの?」
「そんなことはありませんよ。最近はないですけど、以前はつまらないことで喧嘩もしてましたから」
「へえ、そうなんだ」
 沙耶加ちゃんと真琴ちゃんの喧嘩か。
 全然想像がつかない。
「でも、姉弟で喧嘩もしないというのは、そうそうあることではないと思うんですけど」
「確かにそうだろうね。普通はどんなに仲が良くても喧嘩はするだろうし」
「はい」
「ただ、うちの場合は仲の良さが普通以上だから」
「それは……?」
「あえて言うなら、ブラコンのシスコンというところかな」
 自分で言うと、なんとなく情けなくなる。
「姉貴は俺のことを誰よりも大事にしてくれてるし、俺も姉貴のことをそんな風に思ってる。相手が幸せであってくれるにはどうしたらいいか、そんなことを考えながらね」
「…………」
 さすがのことに沙耶加ちゃんもなにも言えない。
「ちょっと引いちゃったかな?」
「い、いえ、そんなことは……」
「別にいいよ。気にしてないから。それに、俺自身それは少しおかしいと思ってるから。もちろん、異常という意味ではないけどね。姉弟なんだから、仲が悪いよりは良い方が絶対にいいに決まってるし」
「そう、ですね」
「沙耶加ちゃんがそんなに難しく考えることはないよ」
「あ、いえ、そんなことは……」
 慌てて頭を振る。
「ま、姉貴のことは実際に会ってみればよくわかると思うから」
「はい」
 とりあえず、今はそう言うしかないな。
 弟の俺ですら、姉貴がどんな行動を取るかわからないこともあるんだから。
「お姉ちゃん、先輩」
 と、真琴ちゃんから声をかけられた。
「あれ、やってみませんか?」
 そう言って指さした先には──
『懐かしの屋台広場』
 そんな看板があった。
 そういえば、昨日ぶらついた時にも見たな。
 確か、縁日とかでよく見かける屋台を再現してた。
 特に異論もなかったので、その教室に入った。
 中には、射的、型抜き、ヨーヨーすくい、輪投げなどがあった。
「洋一。勝負しない?」
「勝負?」
「そ」
 愛は、俺に射的で勝負を挑んできた。
「……負けても文句は言うなよ?」
「それはこっちのセリフ」
 それぞれ鉄砲を受け取り、的に狙いを定める。
 弾は五つ。
 当てた数の多い方が勝ち。
 俺は、狙った的の少し上を撃つ。
「よしっ」
 弾は見事な弧を描き、的に当たった。
「私だって」
 愛も狙いを定め、撃つ。
「あ……」
 しかし、弾は的を大きく外れた。
「勝負あったな」
「まだまだこれからよ」
 やれやれ。結果は見えてるのにな。
 
「……悔しい」
 愛は、俺のあげた変なぬいぐるみを抱えながら、心底悔しそうにため息をついた。
「どうして洋一は五発中三発も当たって、私は一発も当たらないの?」
「そりゃ、おまえはバカ正直に的を狙ったからだろ」
「それのどこが悪いっていうのよ?」
「本物の銃ならいざ知らず、射的の鉄砲なんかに弾をちゃんと飛ばせる力があるわけないだろ。ということは、水平に真っ直ぐ的を狙ったところで、その手前で失速するのがオチだ」
「…………」
「あとは、鉄砲ひとつひとつには癖があるからな。それをいかに素早く見極めるかだ。で、おまえはそれがどっちもできなかった。だからそれができた俺には勝てなかった。そういうわけだ」
 そこまでムキになることはないのだが、やはり勝負は勝負だ。
 愛もそれくらいのことはわかってるだろう。
「で、愛」
「……なによ?」
「俺が勝ったんだが、なにがあるんだ? というか、おまえは俺に勝ったらなにをさせるつもりだったんだ?」
「それは、その……」
 視線を逸らす。
「おいおい、そんな言えないことなのか?」
「そうじゃなくて……」
 愛は、俺たちの少し前を歩いている山本姉妹に視線を向けた。
 ああ、なるほど。ふたりの前、特に沙耶加ちゃんの前では言いづらいことか。
 まったく、なにをさせるつもりだったんだか。
「とりあえず、あまり無茶なことじゃなければ、なんでもいいわよ」
「そうか。じゃあ──」
 いくつか思い浮かんだが、無難なのを選んだ。
「飯をおごってくれ」
「それって、今日?」
「いや、今日じゃなくて、普通の日に」
「ん〜……」
 愛は、おとがいに指を当て唸った。
「じゃあさ、私がお弁当作ってくるってことで、手を打たない?」
「それはそれで別に構わんが、いいのか?」
「別にいいよ。それに……機会があればやってみたかったことでもあるし……」
 少しだけ熱っぽい表情でそう言う。
 なんか、墓穴を掘った気がするのだが。
「洋一」
 と、後ろから声がかかった。
「亮介か」
 振り返ると、亮介がいた。
「どうかしたか?」
「いや、別に。ぶらついてたら、たまたまおまえの後ろ姿を見かけてな。それで声をかけた」
「そうか。じゃあ、もう用はないな」
 そう言って俺はきびすを返した。
「──って、おい、それはないだろ?」
 そんな俺を、亮介は腕ごと引っ張って止めた。
「なんだよ?」
「しばらく暇なんだよ。つきあえ」
「なんで俺がおまえの暇つぶしにつきあわねばならん?」
「心の友だからな」
「……死ね」
「うぐっ!」
 手加減なしに亮介の鳩尾を殴った。
「げほっ、けほっ……い、一瞬息が止まったぞ」
「そうか、それは残念」
「……まったく」
 愛たちはそんな俺たちのやり取りを半分呆れ顔で見ている。
 ま、こんなやり取り、日常茶飯事だからな。
「そういや、しばらく暇、とか言ってたな?」
「ん、ああ」
「そのしばらくしたあとは暇じゃないってことだよな?」
「そうなるな」
「なんでだ?」
「ん〜、まあ、いろいろあるんだ」
 そう言ってにやけた。
 わかりやすい奴だ。
「何時頃来るんだ?」
「昼過ぎに──って、おまえなにをさらっと訊いてるんだ?」
「いや、おまえの彼女がどんななのか、気になってさ」
「……見せ物じゃねぇっての」
「減るもんじゃなし、いいだろ?」
「減る」
「なにが減るんだよ?」
「いろいろだ」
「わけわからんな」
 俺も亮介も本気で言い合ってるわけじゃない。
 すべてが冗談というわけでもないけど、ほとんどは冗談だ。
 ただ、亮介の彼女を見てみたいという気持ちはある。
「やっぱ、おまえに声をかけたのは失敗だった」
「だったら最初から声なんかかけるな」
「はっはっはっ、そうだな。次からそうする」
 そう言って亮介は去っていった。
「相変わらずね、洋一と亮介くんは」
「これくらいが俺たちにはちょうどいいんだよ」
「そうかもしれないわね」
 愛も亮介とはそれなりのつきあいだから、そのあたりのことはよく理解してる。
「とりあえず、昼過ぎに亮介の彼女を拝みに行こう」
「……やっぱりそうなるのね」
「当然だ」
 持つべきものは、面白い親友だからな。
 
 二日目は午前から午後にかけて行われるため、学食が臨時営業している。もちろん喫茶スペースを出している部活や有志もあるのだが、それだけではさばききれないからだ。
 あとは、学食の方が安心できるというのもある。
 俺たちは無難に学食を選び、のんびりと昼食を取った。
 で、午後。
 とりあえず亮介の彼女を拝もうと思ったのだが、どこで待ち合わせてるのかもわからなかったので、偶然に任せることにした。
 ということで、当初の予定をこなすことに。
 予定では俺が姉貴たちを迎えに出なくてはならないのだが、よくよく考えてみればあの姉貴がおとなしく待ってるはずもなかった。
 待ち合わせは昇降口だったのだが、そこにはいなかった。
 仕方なく校舎内を探そうと思った矢先、妙な群衆に遭遇した。
 そこは確か、三年生の有志が喫茶スペースを出していた教室だった。
 教室の中からは黄色い歓声が上がり、教室の外にまで人が溢れている。もっとも、それはみんな三年生なのだが。
 なんとなく予想できる状況に、俺は苦笑するしかなかった。
「すみません。ちょっと通してください」
 俺は愛たちを廊下に待たせ、教室に入っていった。
 で、そこには予想通りの光景が広がっていた。
「姉貴」
「あら、洋一」
 俺が声をかけた瞬間、まわりにいた姉貴のファンが一斉にこっちを向いた。
 マジで恐い。
 姉貴の向かいには和人さんもいるのだが、この状況に目を白黒させている。
「なんで待ってないんだよ」
「別にいいじゃない。退屈だったんだから。それに、こうして会えたんだから、結果オーライでしょ?」
 呑気な物言いに、もはや反論する気はゼロとなった。
「で、どうするわけ? まだここにいるの?」
「そうね。時間は有限だし、とりあえず目的を果たそうかしら」
 そう言って姉貴は立ち上がった。
 同時にまわりのファンから残念そうな声が上がる。
「さ、行きましょ」
 姉貴は、そういう輩の扱いには慣れているのか、適当に愛想を振りまきながら、教室を出た。
「やっほ、愛ちゃん」
「こんにちは、美香さん」
 廊下で待っていた愛に、声をかける。
 が、その視線はすでに沙耶加ちゃんの方を向いている。まあ、こっちが目的だから仕方がないか。
「ほら、洋一。紹介しなさいよ」
「へいへい」
 なにが悲しくて俺がそんなことをしなくちゃならんのかな。
「沙耶加ちゃん。これがうちの姉──あだだだっ」
「これ、ってなによ、これって?」
 いきなり耳を引っ張られた。
「ちゃんと紹介しなさい」
「りょ、了解」
 くそっ、姉貴のくせに。
「俺の姉貴の高村美香。で、その彼氏の笠原和人さん」
 一応、和人さんも紹介しておく。さすがになにも言わないのは和人さんにも悪いし。
「で、彼女が山本沙耶加ちゃん。そして、妹の真琴ちゃん」
 これで紹介は終わり。
「…………」
 姉貴は、沙耶加ちゃんを頭のてっぺんから爪先までじっと見ている。
 というか、そんなことするなよ。
「洋一から話は聞いてる?」
「え、あ、はい」
「うん。それなら話は早い」
 姉貴は満足そうに頷いた。
「じゃあ、洋一。悪いけど彼女を借りるわね。代わりに和人を預けていくから」
「へいへい、了解しました」
「それじゃあ、行きましょ」
「あ、はい」
 姉貴は、そのまま沙耶加ちゃんを連れてどこかへ行ってしまった。
「和人さんも大変ですね」
「さすがに慣れたよ」
 そうは言うが、心境は複雑だろう。
「あの姉の弟としては、申し訳ない気持ちでいっぱいなんですけどね」
「ははは、洋一くんのせいじゃないから、気にしなくていいよ」
 こういう性格じゃないと、あの姉貴とはつきあえないんだろうな。納得。
「そういえば、ちゃんと紹介するのははじめてですよね」
「ん、そういえばそうだね」
 和人さんの視線が愛の方を向く。
「森川愛。幼なじみで俺の彼女です」
 なんとなく間抜けな紹介だけど、そうとしか言いようがない。
「森川愛です」
「君のことは、美香からよく聞いてるよ。うちの弟にはもったいないくらいよくできた彼女だって」
「そ、そんなことないですよ」
 姉貴らしい物言いだけど、余計なお世話だ。
「とりあえずここにいてもしょうがないから、どこかへ移動しようか」
「そうですね」
 確かに廊下の真ん中にいてもしょうがない。
「愛。どっか適当な場所ってなかったか?」
「ん〜、そうね……この時間帯は結構混んでるから。とすると、あそこしかないかな」
 
 そこは、いわゆる『休憩スペース』となっている教室だ。
 クラス単位で文化祭に参加していないから、空き教室もある。そのいくつかが休憩スペースとなっている。
 椅子と机をそのままに、自由にくつろいで構わないスペースである。
 実はうちのクラスもそれに割り当たっており、俺たちはそこにいた。
「こういう椅子に座ると、高校時代を思い出すよ」
 和人さんは、懐かしそうに木製の椅子に座る。
「思い出すというほど昔じゃないと思うんですけど?」
「ははは、そうかもしれない。でも、大学だとこういう椅子の教室はほとんどないからね。どうしても懐かしく感じるんだよ」
「なるほど」
 確かに、ずっと違う椅子に座っていたら、こういうのを懐かしく思うんだろうな。俺たちだって、小学校の小さな椅子を見たらきっと懐かしく思うはずだ。
「それにしても、美香のあのバイタリティはどこから湧いてくるんだろうね」
 和人さんは、窓の外を眺めながら呟いた。
「普段からあんな感じだけど、いつも不思議に思ってる」
「そうですね。たぶんですけど、きっと自分で納得したいからだと思います」
「納得?」
「それが自分に関係ないことでも、どう関係ないのか。本当に関係ないのか。そういうのを自分自身で調べて、それで納得するんです」
「ふむ、なるほど……」
「もっとも、姉貴の場合は自分に関係ないことでも自分に関係させてしまうかもしれませんけどね。面白ければ」
 自分が中心にいたいとは思ってないみたいだけど、関係者ではありたいと思ってるはずだ。もちろん、そこにはそれ相応の責任がついてくるのだが、姉貴はそれすらも楽しんでいるように見える。
「じゃあ、洋一くんや美樹ちゃんはそんな美香にいつも巻き込まれてるのかな?」
「たまにですけどね」
 ウソを言ってもしょうがない。
「それでもなにも言えないのは、やっぱり姉貴だからだと思います」
「実に複雑だね」
「はい、そう思います」
 確かに複雑だ。姉貴のせいで面倒なことになったことも多々ある。それでも、その時は多少恨んでも後々まで引きずったことはほとんどない。
 そういう意味では、姉貴だからこそ、なのだろう。
「ところで洋一くん」
「なんですか?」
「この期に及んで言うのもなんだけど、美香はどうしてあの子にあそこまでご執心だったんだい?」
「えっと、それはですね……」
 それを聞かれるとは思っていなかった。姉貴もそこまでは言ってなかったのか。
「話すと長いんですけど、いいですか?」
「構わないよ。こっちは美香が戻ってこないとどうしようもないんだから」
「じゃあ……」
 俺は、そもそものはじまりから説明した。
 その場に真琴ちゃんもいたから、説明は結構すんなりできた。
「なるほど。それは確かに美香が気にするわけだ」
 そう言って和人さんは愛を見た。
「でも、少々お節介という気もする」
 それが普通だろう。姉貴みたいなのは特別だ。
「あまり余計なことを言っていなければいいんだけど」
 和人さんの言葉に、俺も少しだけ不安になってしまった。
 頼むぜ、姉貴。
 
 姉貴と沙耶加ちゃんと合流したのは、それから三十分後だった。
 とりあえずふたりの様子におかしなところはなく、まずはひと安心という感じだ。
 とはいえ、相手は姉貴である。そういう場合はしないとは思うけど、それでも余計なことを吹き込んでる可能性は否定できない。
「洋一」
「ん?」
「帰ったらちょっと話があるから、私の部屋に来ること。いいわね?」
「……忘れなければ」
「忘れたら、どうなるかわかってるわよね?」
「……へいへい」
 そんな脅し文句に簡単に屈してしまう。
「さてと、とりあえずの目的は達成したし、和人」
「なんだい?」
「私がここを案内してあげるわ」
 そう言って姉貴は、実にマイペースに行ってしまった。
 それに普通に対応できている和人さんも、なんだかんだ言いながら姉貴に毒されてきてるな。
 で、残された俺たちはというと──
「あの、愛さん」
「なに?」
「少しだけ、つきあっていただけますか?」
「別にいいけど」
 沙耶加ちゃんが幾分神妙な面持ちで愛を連れて行ってしまった。
 残ったのは俺と真琴ちゃんだけ。
「なんだかな……」
「なんか、嵐が過ぎ去ったみたいな感じですね」
「確かに」
 怒濤のごとく物事が展開し、俺と真琴ちゃんだけそこからあぶれてしまった。そんな感じもある。
「とりあえず、どうしようか?」
「そうですね……」
「お兄ちゃん」
 と、聞き慣れた声が俺を呼び止めた。
 振り返ると、私服姿の美樹たちがいた。
「こんなところでなにしてるの?」
「いや、別になにも。見ての通り」
「…………」
 美樹の視線が一瞬鋭くなった。
「先輩、こんにちは」
 美樹と一緒にいるのは、昨日も一緒だった友達三人。
「今日も来たんだね」
「はい。美樹がどうしても行くって言うものですから」
「ちょ、ちょっと……」
「だって、そうでしょ?」
「今朝、いきなり電話がかかってきて、文化祭に行こうって」
「…………」
 ひとりで行くのははばかられたから、この三人を誘ったのか。それにしても、当日の朝に誘うとは、姉貴みたいな行動力だ。
「ところで、その、先輩」
「ん?」
 三人、いや、美樹も含めて四人の視線が真琴ちゃんに向いている。
 まあ、わからんでもないが。
「彼女は山本真琴ちゃん。俺の後輩。絵描き仲間」
「絵描き、仲間?」
 聞き慣れない言葉に、三人は首を傾げた。
「別に美術部ってわけじゃないけど、趣味で絵を描いていて、たまに一緒に描いてるんだよ」
「なるほど」
 三人はその説明で納得したようだが、美樹だけはまだ渋い顔。
 おそらく、妹の直感というやつだろう。俺が真琴ちゃんに対して『妹』に近いものを感じているのを、美樹も感じている。
『お兄ちゃんの妹は私なのに』
 そんなところか。
 やれやれ。
「美樹。なにを難しい顔してるんだ?」
「えっ……? そ、そんなことないよ?」
「そうか? そうは見えなかったけどな」
 とりあえずここは、美樹の方に引いてもらおう。というか、このくらいで顔に出るようじゃ、兄離れは当分無理だな。はあ……
「そういえば、今日は先輩たちはふたりだけなんですね」
「いや、本当は違うんだが、いろいろあって一時的にふたりだけになってるんだ」
「へえ、そうなんですか」
 美樹の分が悪いのを感じてか、三人が積極的に話してくる。
「今日はどうするんだい?」
「これという目的はありませんから」
「そっか。確かにそうかもしれないな」
 美樹にいきなり誘われたなら、確かにそうだろう。
「先輩。オススメとかありませんか?」
「オススメ、ねぇ……」
 そんなの俺が聞きたいくらいなのだが、そうも言えまい。
 とりあえず、面白そうなのを適当に言っておく。もっとも、それが本当に面白いかどうかは、わからないが。
「あの」
 と、それまで黙っていた真琴ちゃんが声を上げた。
 それは、明らかに美樹に向かってだった。
「美樹ちゃん、でいいのかな?」
「え、あ、はい」
 戸惑いつつも頷く美樹。
「一度、会って話してみたかったんだ」
「私と……?」
「うん」
 そういえば、そんなこと言っていた気もする。
「それに、先輩にすごく大事に想われてる妹さん、にも興味があったし」
「…………」
 上手い牽制だ。
「どうかな? 先輩のこととか、いろいろ話さない?」
「えっと……」
 美樹は、俺に助けを求めてきた。だが、そう簡単には助けてやらない。というか、そんなこと助けなど必要ない。
「いいじゃないか。美樹も言ってただろ? 学校での俺のことをもっと知りたいって。真琴ちゃんしか知らないこともあるから、ちょうどいいと思うぞ」
「…………」
「ね?」
 年齢はふたつしか違わず、俺にとってはふたりとも『妹』なのだが、やはり真琴ちゃんの方が『大人』だ。
「……わかりました」
 美樹は、観念したように頷いた。
「あ、じゃあ、ちょっと場所変えよっか。いいですよね、先輩?」
「好きにしていいよ。俺は、彼女たちの相手をしてるから」
 ま、これが今の俺の役目なんだろうな。
 美樹と真琴ちゃんが行ってしまうと、三人が複雑な表情で言ってきた。
「先輩のまわりって、いろいろあるんですね」
「否定はしないよ」
 とりあえず、なるようにしかないらないのだから。
 
 最初に戻ってきたのは、愛と沙耶加ちゃんだった。
 ふたりの表情からはどんなやり取りがなされたのかはわからなかった。ただ、当事者としては気が気ではない。
 どちらかに訊いてみようかと思ったが、微妙にそういう雰囲気ではなかったために、後回しにした。
 それから姉貴と和人さんが戻ってきた。姉貴の手には、なにやらいろいろなものがあった。和人さんに無理を言って遊んできたんだろうな。
 そして、最後に戻ってきたのが、美樹と真琴ちゃん。
 このふたり、すっかり意気投合していて、少し前までとはまったく変わっていた。
 まあ、ふたりとも正真正銘の妹だし、心情的にも理解しやすかったのだろう。
 全員が揃った頃には、もうそろそろ文化祭も終わりという時間だった。
 姉貴と和人さんは、和人さんがここからは少し離れたところに住んでいるということもあって早々に帰った。
 美樹と三人の友人もそれにあわせるように帰って行った。
 で、残ったのは俺たち四人。
 文化祭自体はこれで終わりだが、最後に後夜祭がある。
 ある程度片付けが済んだ夕方から行われ、毎年盛り上がるらしい。俺は去年のことしか知らないけど、確かにすべてを終えた開放感からか、かなり盛り上がっていた。
 校庭の真ん中に櫓が建てられ、文化祭で使われた様々なものがそこに積まれていく。
 そこに火を点け、そのまわりで後夜祭は行われる。
 
 だいぶ空が暗くなってきた頃、後夜祭がはじまった。
 実行委員が音頭を取って後夜祭を進めていく。毎年なんらかの出し物を催しており、しかも基本的にはそれは後夜祭まで秘密ということになっていた。
 そして、今年の出し物は──
『さて、今年は後夜祭では久しく行われていなかった伝統行事を復活させたいと思います。その伝統行事とは、キャンプファイヤーのまわりでやることの代名詞とも言えるもの。そう、フォークダンスです』
 フォークダンスだった。
 確かに赤々と燃える火のまわりではフォークダンスを、というのは結構普通にイメージされる。だが、それを実際にやるとなるとそれなりに抵抗がある。
 高校生にもなって、という意識が強いからだろう。
 一部からのブーイングもなんのその、実行委員はさっさと進めていく。
『それでは、みなさん最後まで楽しんでください』
 スピーカーから、おなじみの『オクラホマミキサー』が流れてくる。
 ノリのいい連中はそれにあわせて踊り出す。
 ただ、ほとんどの連中は様子見。
「洋一。どうしよっか?」
 隣の愛が、微妙な表情で訊いてきた。
「踊るか?」
「踊り方、覚えてる?」
「いや、全然。でも、なんとかなるんじゃないか?」
 そう言ってすでに踊ってる連中を見る。
 中にはちゃんと踊れてるのもいるけど、たいていはめちゃくちゃな踊り方だ。それでも様になっているように見えるのは、こういう状況だからだろう。
「じゃあ、踊ろっか?」
「ああ」
 俺と愛は、外の輪から中の輪へと移動した。
「なんとなくあわせれば大丈夫だろ」
「うん」
 音楽にあわせてステップを踏む。
 ちゃんと踊れてる奴を見て、あとはもう適当に。
「ふふっ」
「ん?」
「なんかいいね、こういうのも」
「まあ、その気持ちもわからんでもない」
 実に不思議な気分だった。
 なかなか言葉では表しにくい気分で、それでも気分は高揚していた。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「洋一って、沙耶加さんのこと、好きなんだよね?」
「……嫌いになる理由がないだろ?」
「そういう意味じゃなくて、純粋に異性としてってこと」
「……まあ、そりゃ」
 今更ウソを言ってもしょうがない。
「沙耶加さんね、改めて私には負けないって言ってきた。美香さんとなにを話したのかはわからないけど、多少はその影響もあったと思うけどね」
 あの姉貴のことだ。表面上は愛を応援していても、とりあえずは面白くなるように沙耶加ちゃんにはっぱをかけたに違いない。
「おまえはなんて答えたんだ?」
「ん? そんなの決まってるでしょ? 絶対に負けないって。というか、現時点では私が勝ってるわけだから、正確に言えば勝ち続けるってことだろうけど」
「……まあ、確かに」
「ただね、私も沙耶加さんも、それこそ昼ドラのようなドロドロの展開は望んでないの」
「当たり前だ。あんなことになってたまるか」
 昼ドラのウリは、あのドロドロの展開だからな。主婦層にはそういうのがウケる。
 でも、俺たちにはそんなの必要ない。
「だから、ひとつだけ約束したの」
「約束?」
「最終的な結論が出たら、選ばれなかった方は潔くあきらめる、って」
「…………」
「そうすればとりあえず、ドロドロの愛憎劇にはならないだろうし」
「……なるほど」
 あきらめると言って、本当にあきらめきれるのかは、まあ、その状況にならないとわからないか。
 というか、それを決めるのは俺か。
「でも、なんで洋一なんだろ」
「なにがだ?」
「好きになったのが」
「いや、それを俺に訊かれても困るのだが」
「そういえばそうだね」
 そう言って愛は笑った。
「私は、ずっと洋一だけを見てきたから最初から選択肢なんかないけど、ほかの人たちは違うわけでしょ? 日本だけを考えたって、男の人は女の人と同じだけいるんだから。それなのに、なんで洋一なんだろ」
 そう考えてしまうのはわかる。だが、それは考えるだけ無駄だとも思う。
「誰かを好きになるのは、理屈じゃないからだろ?」
「たぶんそうなんだろうね」
 常に理屈、理由を考えて人を好きになっていたら。そんなこと想像もできないし、想像したくない。
「彼氏がモテるのは嬉しいよ」
「ん?」
「言い方は悪いかもしれないけど、私は誰からもモテる人を彼氏にしてるわけだから。自慢もできちゃう。でもね、それも一長一短だと思う。そのモテるが、アイドルと同じようなものだったら別にいいんだけど、本気モードだったらさすがにね」
「確かにな」
「だからね、どうして沙耶加さんは洋一を好きになっちゃったんだろうって」
 一瞬だけ、表情を消した。
「なんてね。今更だよね、そんなこと。沙耶加さんが洋一のことを好きでも、洋一が私の彼氏だっていう事実は変わらないから。それさえ変わらなければ、私は大丈夫」
「愛……」
 愛の笑顔が、ほんの少しだけ強がっているように見えた。
 どうやったって不安は消えない。消えないからこそ、少しでもそれを忘れようと相手を求める。
 それは愛だけじゃない。俺だってそうだ。
 今つないでいるこの手を放した瞬間、愛がいなくなってしまうんじゃないか。そんな不安な気持ちをいつも持っている。
「洋一」
「ん?」
「私の気持ちはずっと変わらないから」
 そう言って愛は、人目もはばからずキスをしてきた。
 今の俺にこの愛の想いを裏切ることはできない。
 それでも──
 
 家に帰ると、早速美樹がやって来た。
「お兄ちゃん、ひどいよぉ」
 部屋に入ってくるなり、いきなり文句を言う。
「なんだ、いきなり?」
「だってだってだって」
 ベッドに座り、俺の枕を持ち、抱く。
「どうして教えてくれなかったの?」
「真琴ちゃんのことか?」
「うん」
「じゃあ、逆に訊くけど。教えてたらどうなった?」
「それは……」
「会ったこともない相手のことをあれこれ教えたところで、どうにもならんだろう。特に美樹と真琴ちゃんは直接の接点がないんだから」
「ううぅ……」
 美樹に真琴ちゃんのことを話そうと思ったこともあった。でもその時は、本当にこのふたりが会うかどうかわからなかったから、やめたのだ。
 美樹は『独占欲』が強いから。
「お兄ちゃんにとって、真琴さんも『妹』なんだよね?」
「否定はしない」
「うん……」
 美樹と真琴ちゃんの間にはもうわだかまりはないはずだ。それでも美樹としては俺に言わないと気が済まないのだろう。
「真琴ちゃんとはどんなことを話したんだ?」
「たいしたことじゃないよ。私や真琴さんから見たお兄ちゃんのことだから」
「全部か?」
「ほとんど。だって、今日会ったばかりでまだお互いのこともよく知らないし。で、共通の話題っていったら、お兄ちゃんくらいだから」
「なるほど」
 言われてみれば、その通りだ。
「それで話しているうちに真琴さんもお兄ちゃんのことを『お兄ちゃん』だと思ってるってわかったの」
「だから同じ立場にある者同士、意気投合したと?」
「それもあるけどね」
「それもってことは、ほかにも理由があるのか?」
「うん。でも、それはお兄ちゃんにもヒミツ」
 そう言って美樹は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「私は、ずっとお兄ちゃんのこと、好きだからね」
「なんだ、藪から棒に」
「これから先、お兄ちゃんも私もどんな風になるかはわからないけど、私たちが兄妹だということは一生変わらないし、私の想いも変わらないから」
「美樹……」
「でも、あれだよね。私もそのうち、お兄ちゃん離れしないといけないんだよね。ずっと兄妹ではあるけど、ずっと一緒にいられるわけじゃないんだから」
 少しだけ淋しそうに微笑む。
「いいんだよ、そんなことまだ考えなくても。そんなの考えなくちゃいけなくなった時に考えろ」
「……うん、そうだね」
 俺は、美樹の隣に座り、その肩をそっと抱いた。
「私、お兄ちゃんの妹で本当によかった」
 そう言った美樹の顔には、とても穏やかな笑みが浮かんでいた。
 
 美樹が部屋に戻ると、今度は俺が姉貴の部屋を訪れた。
 姉貴は部屋の真ん中でストレッチをしていた。
「ちゃんと来たわね」
「来いって言ったのは姉貴だろ?」
 俺は勧められる前にベッドに座った。
「んしょ、っと」
 開脚し、体を前に倒す。
「そういや、和人さんは?」
「ん? 別になにもないわよ。いつも通り」
 姉貴と和人さんは、うちの文化祭からそのまま出かけて、夕食を食べて帰ってきた。とはいえ、和人さんは家に帰らなければならなかったから、ほとんどうちにはいなかったけど。
 かなり姉貴に振り回されてるけど、特に文句を言ってる様子もない。
「あんたは私と和人の心配よりも、自分の問題を心配しなさい」
「心配、って……」
「沙耶加ちゃん、彼女、本気ね」
 そう言って姉貴は少しだけ真面目な表情を見せた。
「そんなにいろいろなことを話したわけじゃないけど、あの子のあんたに対する想いはひしひしと伝わってきたわ。愛ちゃんほど年季は入ってないけど、その質だけは同等ね」
「…………」
「夏前までは女子校にいて、同年代の男子に対する免疫がほとんどない。しかも、男子にはあまりいいイメージを持っていなかった。でも、それを覆すような相手に出会い、好きになってしまった」
 俺のことか。
「とりあえず、私はなにも言ってないから」
「ホントか?」
「当たり前でしょ? 言ったと思うけど、あんたを任せられると思ってるのは、あくまでも愛ちゃんなんだから。今日話しただけであの子が今時珍しいくらいの子だっていうのはわかったけど、それでもなにをおいてでも応援できるほど理解できたわけではないわ。そしたら、私から言うことなんてなにもないでしょ?」
「まあ、確かに……」
 普段は適当な姉貴だけど、そういう時はきっちりしてるからな。
「ただね。ひとつだけ言ったわ」
「なにを?」
「洋一にしろ愛ちゃんにしろ、どんな結果になっても沙耶加ちゃんの友達であり続けるって」
「…………」
 そういうことをさらっと言えるのが、姉貴だ。
「それにしても、沙耶加ちゃん、綺麗ね。愛ちゃんに全然負けてないもの」
「……なにが言いたいんだよ?」
「べっつにぃ。端から見れば、ものすごく贅沢な状況下にいるなぁと思ってね」
「それは俺のせいじゃないだろ?」
「そうかもしれないけど、まわりはそうは見てくれないから」
 まったく、余計なことを。
「あ、そうそう。すっかり忘れてたけど、沙耶加ちゃんにあんたのこと、いろいろ教えてあげたから」
「はい……?」
「いや、いろいろ訊かれたから。私もあんたのことを語るの久しぶりだったから、舌も滑らかで」
「……余計なことを」
「いいじゃない、別に。家族じゃないと知らないことだってあるんだから」
 知れば知るほど、抜け出せなくなる。
 それは俺の首を絞めることになるから、極力避けてきた。
 それをこの姉貴は……
「いっそのこと、ふたりともモノにしちゃったら?」
「は……?」
「たぶん、そうなってもふたりとも文句は言わないだろうし」
「……あのさ、俺になにをさせたいわけ?」
「ん〜、面白いこと」
 そう言って姉貴は笑った。
「それは冗談としても、少なくとも今すぐどうこうする気はないんでしょ?」
「できることならなんとかしたいけど、まだ俺の考えが固まってないから」
「そして、抜け出せない、戻れないところまで行ってしまう、と」
「……それ、シャレになってないから」
「でも、実際そうでしょ? このままだと沙耶加ちゃん、間違いなくあんたから抜け出せなくなる。たとえ振られてもね」
「…………」
「ここまで来たら、もう誰も傷つかない方法なんてないんだから、割り切っちゃいなさいよ。そういうことは早めに対処した方が、後々楽なのよ」
「わかってるけど、さ……」
 そんなことよくわかってる。今の状況が問題なのもわかってる。
 それでも、俺には沙耶加ちゃんを今すぐどうこうできない。優柔不断だと言われても反論できない。
 でも、それはある程度は仕方がないと思ってる。愛に匹敵する容姿の持ち主で、性格も抜群にいい。そしてなによりも、俺のことを本当に一途に想ってくれている。
 正直に言えば、俺はもう少し沙耶加ちゃんに想われていたいのだ。
「まあ、結局私があれこれ言っても仕方がないんだけどね。それはあくまでもあんたと愛ちゃん、そして沙耶加ちゃんの問題だから。私のはあくまでも参考意見でしかないから。それが正解とは限らないし」
「いや、直接言ってくれるのはありがたいから」
「そう? ならいいけど」
 ストレッチを終えた姉貴は、俺の隣に座った。
「姉貴」
「ん?」
「姉貴と和人さんは、もう先のことは決めてるのか?」
「先のこと? そうね、多少は。でも、まだ二年だし、細かいところまではまだまだよ」
「そっか……」
 先のことに明確なビジョンがあれば多少は変わるかと思ったけど、そう上手くは行かない。
「やっぱり、ふたりともモノにしちゃったら?」
「だからそれは──」
「少なくとも愛ちゃんは、それを望んでるでしょ? 愛ちゃん、淋しがり屋だし。そういう人は余計に人と人との繋がりを求めるの。最初は心だけなんだけど、そのうち体の繋がりも」
 理屈はわかる。だけど、それを鵜呑みにするわけにはいかない。
「あまりこういう言い方はしたくないけど、それこそセックスだけならそれほど相手を考える必要もないのが、現状でしょ?」
「……確かに」
 だからこそ、援交なんてことがあるんだ。
「ひょっとしたらだけど、セックスしちゃったら逆に割り切れるかもしれないわね」
「割り切れなかったら?」
「そりゃ、謝るしかないわ」
「…………」
「なによぉ、その人を小馬鹿にしたような顔は?」
「小馬鹿、じゃなくて、バカにしてるの」
「洋一のくせに生意気」
 姉貴は、そのまま俺に抱きついてきた。
「姉貴?」
「洋一。今日、一緒に寝ない?」
「は……?」
「なんとなくそういう気分なの。どう?」
「いや、どうと訊かれても……」
「あ、ひょっとして、よからぬことを考えちゃうから?」
「……なんで実の姉にそんなことを考えるんだよ」
「実の姉だろうが妹だろうが、なる時はなるでしょ?」
 それはそうかもしれないけど、その立場にいる俺としては、それを簡単に認めることはできない。
「美樹とは一緒に寝れて、私とはダメなわけ?」
「美樹は……」
 中学生というのは理由にならないか。
「別になにもしないから。たまには姉弟水入らずで、ね?」
「……はあ、わかったよ」
 結局、俺は美樹だけじゃなく、姉貴にも甘いんだな。
 それからそれぞれやることをやって、就寝時間となった。
 ベッドの大きさは俺のも姉貴のもそれほど変わらないのだが、姉貴がどうしてもと言うので、姉貴の部屋で寝ることになった。
 美樹に見つかるとなにかと面倒なので、そのあたりには細心の注意を払った。
「……姉貴。せめて今日くらいは、その格好やめない?」
「なんで?」
 姉貴は、自分の格好を見下ろし、首を傾げた。
 今の姉貴の格好は、健全な青少年には実によろしくない格好だ。
 以前はパジャマを着ていたのだが、いつの頃からか、だぶだぶなティシャツを着るだけという格好になった。
 朝もたまにその格好でうろつくので、いくら実の姉でも目のやり場に困る。
「別になにも着てないわけじゃないんだから、いいでしょ?」
「……へいへい」
 これ以上議論しても意味がないな。
「ほら、電気消すわよ」
 そう言うや否や、電気を消した。
 雨戸のない部屋である。カーテン越しに街灯の明かりがわずかに漏れてくる。
「いつ以来かしら、こうして一緒に寝るの?」
 ベッドに入ると、姉貴はぽつりと呟いた。
「さあ、いつからかな」
「確か、あんたが拒んだのよね」
「そうだっけ?」
「そうよ。あっ、思い出した。確か、あんたが中学に上がったばかりの頃よ。せっかく私が気を利かせて一緒に寝ようって言ったのに、それをすげなく拒んで。理由を聞いても答えてくれないし。あれ、結構へこむのよ」
 俺と姉貴は、昔から本当に仲が良かった。
 だから、姉貴が高校に入って、俺が中学に入っても、その関係は変わらなかった。ただ、俺は姉貴との関係に多少の戸惑いを覚えてもいた。それは、ほかの連中の話を聞いたからである。
 ほかの連中は中学になれば兄弟との関係も変わってくる。疎遠、とまでは言わないけど、自分を優先してしまう。
 俺としては姉貴と一緒にいることは嫌いじゃなかったのだが、なんとなくほかの連中の手前、そうしづらくなってきた。
 それからは、必要以上に姉貴と一緒にいることのないようにした。
「……いろいろ言われるのがイヤだったんだよ」
「言われるって、誰に?」
「クラスの連中とか。中学生にもなって姉貴と一緒に寝てる、なんて知られたら間違いなくいろいろ言われるから」
「ふ〜ん、なるほどね」
「だから、あの頃は別に姉貴と一緒にいたくなかったわけじゃない」
「まわりなんか気にしなければいいのに。私なんか、結構言ってたわよ。弟と一緒に寝たりしてる、って」
 そういうところは、姉貴らしい。
「ね、洋一。洋一は今でも私のこと、好き?」
「そりゃ、好きだよ。嫌いになる理由もないし」
「私はね、洋一のこと、大好きよ。それこそ、世界で一番大好き。もちろん、弟としてだけどね。今の私の一番は、やっぱり和人だから」
 そう言って姉貴は照れくさそうに笑った。
「大好きだからこそ、いろいろ言うし、やりたくなるのよ」
「……なんとなくわかる」
 それは俺の美樹に対する想いと似てる。
「だからね、邪険に扱われたりすると、案外マジでへこむのよ。というか、いろいろ考えちゃうの。私のなにがいけなかったのかなって」
「…………」
「これから先、私があんたになにができるかはわからない。でも、姉として弟のためにはなんでもしてあげたい。その中でたまに昔みたいにいろいろ言ったりやったりすると思うけど、あんまり邪険にしないでね」
「わかった」
 口うるさい姉貴もイヤだけど、へこんでる姉貴もイヤだ。
 となれば、答えはひとつしかない。
「あ……」
 と、姉貴がなにかに気付いた。
「雨……」
 耳を澄ますと、確かに雨音が聞こえた。
「雨、降るって言ってったっけ?」
「いや、降水確率十パーセントだったけど」
「じゃあ、にわか雨かしらね」
 雨音は特に強くなることもなかった。
 それでも屋根に当たる雨粒の音は消えなかった。
「洋一。ちょっとだけじっとしてくれない?」
「なんでさ?」
「ん、ちょっとね」
 俺は言われるままじっとしていた。
 と、姉貴がふわっという感じで俺を抱きしめた。
 というか、ちょうど俺の顔が姉貴の胸のところにくる感じで、いろいろやばかった。
「抱き枕、っていうわけじゃないけど、今日はあんたを抱きしめていたいの」
「……好きにしてくれ」
「ありがと」
 姉貴は、俺の頭をゆっくり、優しく撫でる。
「……私はね、あまりいい姉じゃないと思ってるの。あれこれちょっかいは出してるけど、肝心な時にはなにもしてない。それに比べてあんたは、美樹のいいお兄ちゃんしてる。まあ、美樹ならどんなあんたでも盲目的についていくとは思うけど」
 姉貴の言葉は、なんの抵抗もなく俺の中に入ってくる。
「今更だとは思うけど、私、あんたや美樹のいい姉になりたいの。だから──」
「それは必要ないって」
 俺は、姉貴の言葉を遮った。
「姉貴は、俺と美樹のいい姉だって。これは、弟の俺が保証する」
「洋一……」
「姉貴以上の姉貴、探したっていない」
「……ありがと」
 姉貴の表情はわからないけど、たぶん、微笑んでる。
「愛ちゃんと沙耶加ちゃんのことだけど、私はもうなにも言わないし、なにもしないから。あとは、あんたがどうにかしなさい」
「わかってるよ」
「さっきは冗談にしちゃったけど、私はね、本当にふたりともモノにしちゃっても構わないと思ってるわよ。まあ、それもあくまでもふたりが納得できていれば、という前提付きだけど」
「…………」
「私は、自慢の弟のことを本気で好きになってくれたふたりに、心から感謝してる。だからこそ、幸せになってもらいたいの。あんたにも、愛ちゃんにも沙耶加ちゃんにも」
「姉貴……」
「洋一。がんばりなさいよ」
「ああ、もちろん」
 俺は、小さくだが、しっかりと頷いた。
 いつの間にか、雨音は聞こえなくなっていた。
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