恋愛行進曲
 
第八章 揺れ動く心
 
 一
「おっ、やってるな」
「雅先か」
「三組は気合いが入ってるな」
「まあな」
「確か、洋一がまとめてたんだよな?」
「そうだけど、それが?」
「たいしたもんだな。ここまでクラスをまとめるとは」
「それはどうも……」
 今は体育の時間。運動会が近いということで、練習の時間に充てられている。
 まあ、高校生にもなって運動会の練習? と思うかもしれないけど、うちの高校は少し違うのだ。
 どう違うのかというと、まず第一に運動会の参加態度が体育の評定に加えられるということ。つまり、成績はいいとしても、真面目にやらないと減点もあり得る。
 第二に、運動会のすべての競技には点数が与えられており、勝てば高得点になる。そして最終的に最も高得点のクラスには、学校、生徒会、PTAから賞品が出る。
 どうせたいしたもんじゃない、そんな風に思っているかもしれないが、それは違う。
 その年によっても違うけど、去年は池袋のサンシャインシティにあるナムコナンジャタウンのクラス全員分チケットだった。
 そして今年は、なんとTDLのパスポート、クラス全員分。どうも今年は後ろに大きなスポンサーがついたらしく、例年になく豪華なのだ。
 となれば、必然的にクラスの志気も上がってくる。
 だが、個人競技はいいとしても、運動会には団体競技もある。つまりは、ある程度の実力のあるクラスなら、あとは如何にしてみんなをまとめるか。これが勝負なのだ。
 そして、俺はそのまとめ役としてかなり苦労した。
 どのくらい苦労したかといえば、男子はだいたいすんなり言うことを聞いてくれるからいいけど、女子は大変だった。
 やはり、いくら賞品がいいからといっても、運動会は運動会。必ず乗り気じゃない奴がいる。
 愛にも協力してもらってほとんどの女子はまとめるのに成功したけど、何人かはそれでもダメだった。
 それでどうしたかといえば……あまり話したくないけど、ある条件を提示された。
 その条件とは、その女子に一日つきあう、というものだった。
 俺は安易な考えのもとに同意したが、それは失敗だった。
 買い物、カラオケ、ゲーセンなどなど、さんざん振り回され、もう家に帰り着いた時には廃人も同然だった。途中で何度も逃げ出したくなったが、なんとか踏みとどまった。
 まあ、苦労の甲斐あって、なんとかクラスをまとめることに成功した。
 あとはなんの心配もいらない。なぜかというと、うちのクラスは学年でも運動神経のいい奴が多いクラスで、どの競技でも一位を狙えるほどだった。
「ひょっとしたら、おまえたちのクラス、優勝できるかもな」
「当然だって。これほどコマの揃ったクラスはないだろうから」
「それに比べてうちのクラスは……」
「大変だな、雅先」
「ああ。もう少しまとまってくれるといいんだけどさ」
「しょうがないさ。ま、あきらめな」
「はあ……」
 雅先はため息をついて行ってしまった。
「洋一くん、ちょっといい?」
「あ、ああ」
 と、クラスの女子に呼び止められた。
「ちょっと指導してもらいたいんだけど、いいかな?」
「別にいいけど、なにを指導するんだい?」
「リレーよ」
 俺の前には四人の女子がいた。
「あのね、どうやったら速く走れて、バトンパスが上手くいくのかと思ってね」
「なるほど。じゃあ──」
 結局、俺はこういう感じでほかの競技の世話ばかりしていた。
 俺も当然競技に出るんだけど、そっちはかなりおろそかになっていた。
 種目は八百メートルリレーとクロスカントリー。
 八百メートルリレーはいいとしても、クロスカントリーは知らない人もいると思う。ここでのクロスカントリーは本当のものではなく、まあ、簡単に言ってしまえばマラソンを少しハードにしたものだ。
 学校のまわりを走るんだけど、ただ普通に走るわけではなく、階段や少々きつい段差を越えていかなければならない。
 そして、クロスカントリーはクラスの男女一名ずつが参加し、全競技中最も点数が高い。従って、男女ともいい順位ならかなりの点数が稼げるのだ。
 そして、俺とともに走るのは、沙耶加ちゃんだった。
 実は、こう言っちゃ悪いけど、俺もクラスの連中も沙耶加ちゃんは運動の方はダメだと思っていた。ところが体育の時間に走ってみてびっくり。そこら辺の女子なんかより遙かに速かった。
 どうも中学の時は陸上部に所属していたらしい。高校では少し事情があって入らなかったらしいけど。
 そんなこともあって、沙耶加ちゃんはクロスカントリーに出ることになった。
 ここでもう少しクロスカントリーについて説明しておくと、距離は五キロ。男女とも距離は同じだが、女子は五分早くスタート。トラックを一周して学校の外へ。あとはこの学校自慢のクロスカントリーコースを走る。しかもコースは毎年違うものに変えられ、なかなかやっかいだ。
 去年もクロスカントリーに出た俺だが、普通に走れば五キロなんて、まあ、きついことはきつけど、走れない距離ではない。
 しかし、クロスカントリーの場合はまるで倍の十キロくらい走っている感じがするのだ。ゴールした時なんかはへとへとで、二、三日はまともに歩けなかった。
 だが、今年は違う。体力をつけるために毎日のトレーニングをしてきたのだ。そして、目標は一位。去年三位の雪辱を果たすために。
 しかし、このクロスカントリーの難しいところはコースが直前まで発表されないということだ。従って、下調べができずにペース配分なんかが非常に難しい。かく言う俺も、このことにずいぶん泣かされた。
「──洋一さん」
「おわっ!」
「だ、大丈夫ですか?」
 いきなりの声に、俺はかなり間抜けな声を上げてしまった。
 で、そんな俺に声をかけてきたのは、沙耶加ちゃん。声をかけたのが、まるで悪かったことのように恐縮している。
「あ、うん、大丈夫だよ。少し驚いただけだから」
「すみません」
 俺がボーッとしていたのが悪いんだから、沙耶加ちゃんが謝ることはない。とはいえ、それを彼女に言ったところで、堂々巡りだろうからさっさと本題に入ろう。
「それより、どうしたの?」
 グラウンドではまだ練習が続いている。
「あの、洋一さんにクロスカントリーのことをお聞きしようと思って」
「なるほど。じゃあ、去年のことを話すよ」
 俺は、去年のことを若干俺の主観も混ぜながら説明した。もちろん、そんな説明だけであのつらさを完璧に表現できるはずもない。ようは、そう簡単なものじゃないということさえわかってもらえればいい。
「……思っていたよりも、ずいぶんとすごいものですね」
「まあね。はじめてだと余計かも。一度でも経験していれば多少の対策は立てられるけど、それがないとちょっと厳しいかな」
「私で、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だよ。男子と女子では若干コースが違うらしいし。それに、沙耶加ちゃんは元陸上部だったんでしょ?」
「……ええ……」
「それなら、走ることに関しては他の子とは基本が違うよ。だから、あんまり心配しすぎない方がいい。あくまでマイペースで。無茶をしてもクロスカントリーは勝てないから」
「ふふっ、わかりました」
 少し偉そうに言ってしまったけど、それ以外に言いようがなかった。
 俺だってまだどうなるかわからない部分が多い。それなのに、人にどうこう言えるはずもない。
「洋一さんは、クロスカントリーのためになにか特別なことはしているんですか?」
「一応、トレーニングをね」
「トレーニング、ですか」
「そうだ。なんだったら一緒にトレーニング、やる?」
「えっ……?」
「まあ、たいしたトレーニングじゃないけど、一緒にやれば去年のコースも教えてあげられるから」
「……でも、いいんですか?」
 沙耶加ちゃんは、少しだけ探るような、少しだけ不安げな表情で訊いてきた。
「こっちから誘ったんだから」
「……じゃあ、わかりました」
「よし、決まり。トレーニングは毎日やってるけど、沙耶加ちゃんは好きな時に来ればいいよ」
「お気遣いは無用です。ちゃんと毎日やります」
「そっか、ごめん。余計なことだったね」
「あっ、い、いえ、私のために言ってくれたんですから、洋一さんが悪いんじゃありません」
「ははは、まあいいや。それよりも、がんばっていこう」
「あっ、はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 なんとなく成り行きで一緒にトレーニングすることになったけど、これはこれでよかったのかな?
「お〜い、洋一。八百やるぞ」
「ああ、わかった。じゃあ、またあとで」
「はい」
 運動会まであと十二日。
 クラスの練習にも力が入ってくる。
 ま、賞品目当てだけど。
 
「ゴールっ!」
 俺は胸を突き出すようにゴールラインを越えた。
「はあ、はあ……はあ、どうだった?」
「完璧だな」
「この調子なら学年一位どころか、校内一位も狙えるかもな」
「よし、それなら目標は校内一位にしようぜ」
「そうだな、やってみるか」
「でもさ、洋一はいいのか?」
「なにがだ?」
「だって、クロカンにも出るんだろ? こっちに力を出したせいでクロカンがダメなんて言うなよ」
「大丈夫だ。俺の体力を甘く見るなよ」
「ははは、そうだった。洋一の体力は『馬車馬』並だからな」
「おい、言うに事欠いてそのたとえはなんだ?」
「事実だろ?」
「……むぅ、微妙に否定できんのが悔しい」
「ははは」
 俺だっていろいろ考えてエントリーしている。実際、八百を走ってもクロカンまでには体力は回復できると思う。
 そのためにも、トレーニングをしているのだ。
「よっしゃっ、もういっちょいくか」
「よし」
 
 二
「お兄ちゃん」
 俺が部屋で作曲していると、美樹がやって来た。
「どうした?」
「うん。愛お姉ちゃんが来たよ」
「愛が?」
「だから、上がってもらったから」
「は……?」
「ありがと、美樹ちゃん」
「うん」
 美樹はそのまま部屋に戻り、代わりに愛が部屋に入ってきた。
 まあ、愛なら俺の都合を聞かずに上がってきても構わんのだが。
「ごめんね、勝手に上がって」
「いや、いいけどさ。どうしたんだ?」
 俺は、キーボードを操作し、曲を保存しながら訊ねた。
「曲、作ってたの?」
「あ、ああ、まあな」
「ふ〜ん、どんな曲?」
「まだできてない」
「そっか」
 とりあえず愛はそれ以上追及してこなかった。
 というか、さすがに沙耶加ちゃんのために作曲してるとは言えない。
「それよりも、なにか用があったんだろ?」
「あ、うん。洋一、覚えてる?」
「なにを?」
「ほら、六月の終わりに駅前で取材を受けたでしょ?」
「そうだっけ?」
「そうなの。ほら、月刊『パレット』のよ」
 そういえば、そんなことがあったような、なかったような……
「で、それが?」
「さっきね、編集部から電話があったの」
「どんな?」
「どうも今度、私たちの写真が載るらしいの」
「なんだって?」
「本当は九月号に載せたかったらしいんだけど、いろいろな都合で無理だったんだって。それで今度、十一月売りの一月号で今年一年間の特集をやるんだって。そこで今年の一月から今までのものを載せることになって。それに私たちが載ることになったんだって」
「マジか?」
「ウソじゃないわよ。編集部の人の話だと、変装もしてるし名前も出さないから大丈夫だって言ってたけど」
「まさか今頃になってとはな」
 驚いた。もうすっかり忘れていたことだったからなおさらだ。
「でも、しょうがないよね」
「ん?」
「だって向こうの誘いに乗ったんだから、そうなるかもしれないこともわかってたんだし」
「まあ、それもそうだな」
 確かに、断ることもできたはずなのに、俺たちはそれを受けた。
 ということは、そこにはそれ相応のリスクもあったはずだ。
「ねえ、洋一」
 と、いきなり愛が抱きついてきた。
「な、なんだよ、いきなり抱きついたりして」
「ううん、なんでもないの」
 ふるふると首を振る。
「おまえなぁ、なんでもないわけないだろ」
「なんでもないの」
 まったくいったいなんなんだ?
「こうしてるとね──」
「ん?」
「不思議な気分になるの。暖かくて、胸はドキドキして。ほら──」
「あっ──」
 愛は俺の手を取り、自分の胸に当てた。
「あ、愛……」
「ね、ドキドキしてるでしょ?」
 心なしか、愛の頬が少し上気しているような……
「洋一……」
 うわっ、ヤバイ。愛が凶悪に可愛く、そしてどうしようもなく愛おしく見える。このままだと、俺の理性が吹っ飛ぶ。
「…………」
 だんだん、ふたりの距離が縮まっていく。
「…………」
 まさに唇が触れあおうという時──
「お兄ちゃん」
「おわっ!」
「きゃっ!」
 美樹がやって来た。幸いドアは開けていない。
「ど、どうした?」
「お母さんがお茶でも出しなさいって」
「わ、わかった」
 足音が離れていく。
 ふう、助かった……
「なあ、愛」
「うん?」
「どうしたんだ、いったい。なんか変だぜ」
 愛がカワイイのはいつものことだけど、でも、今日みたいな感じは珍しい。
 それに、明らかにいつもの愛の行動ではない。
「……そうかもね」
「なんかあったのか?」
「洋一、私の目を見て答えてね」
「あ、ああ……」
 愛は、真面目な顔で俺を真っ直ぐに見つめた。
「洋一は、沙耶加さんのことをどう思ってるの?」
「えっ……?」
 思いもかけない問いに、声が裏返った。
「真面目に答えて」
「どうしてそんなことを……」
「いいから」
「そりゃ、沙耶加ちゃんはいい子だし──」
「好きなの?」
「ま、好きか嫌いかと訊かれたら、好きだ」
「……どういう意味で?」
「どういう意味でって、そりゃ……」
「うん」
「親友としてだな」
「親友?」
「ああ、親友だ。彼女とは友達以上ではあるけど、恋人未満だな」
「ホント?」
「ああ、ホントだ」
「ホントにホント?」
「ホントにホントだ。そんなことにウソをついてどうなる」
「……よかった」
 愛は、あからさまにホッと息をついた。
「なにがよかったんだよ。ちゃんと説明してくれ」
「えっ、う、うん……」
 なんか言いづらそうだな。
「心配だったの……」
「心配?」
「そう、心配だったの。洋一、最近沙耶加さんという時間が多くなってるから。だって、沙耶加さん、綺麗だし、私よりも──」
「やめろよっ!」
「よ、洋一……」
「愛、おまえは俺の性格を知ってるよな?」
「う、うん……」
「だったらどうしてそんなことを言うんだ? 俺はな、おまえと沙耶加ちゃんを比べたことなんて一度もないぞ。それに、比べられるはずがないじゃないか。ふたりにはそれぞれいいところがあるんだから。それを……」
 俺は自分のことを卑下するような言い方が大嫌いなんだ。自分で自分に自信を持てなくなったらいったいどうしろというんだ。
「それを知っていながら、どうして……」
「それは……」
「愛」
「あ……」
 俺は、愛をしっかり抱きしめた。
「もうそんなこと、言うなよ。な?」
「洋一……ごめんなさい」
「わかってくれればいいんだよ。それに、今回のことは少しは俺にも責任があるみたいだからな」
「ごめんなさい……」
「ほら、泣くなよ」
 俺は愛の頬の涙を拭った。
「ぐすっ……」
「しょうがないな。愛はいつからそんなに泣き虫になったんだ?」
「……昔からよ」
「ははは、そうだった」
「ふふっ……」
「少しは落ち着いたか?」
「うん……」
「そっか。じゃあ──」
「ん……」
 キスをした。
「ごめんね。私、洋一のことを信頼してるけど、やっぱりどこかで信頼しきれていなかったみたい。ダメよね、そんなことじゃ」
「そんなことはないさ。絶対の信頼というものはそんなに簡単に築けるものじゃない。時には疑ってみて、そこで改めて信頼関係を強くできるんだ。だから、今回のこともそう考えればいい」
「うん」
 愛は小さく頷いた。
「私ね、洋一の優しさに甘えていたみたい」
「どういうことだ?」
「洋一は誰にでも優しいわ。だけど、その優しさを自分にもっと向けてほしい。そう思ったのね。だから、沙耶加さんのこともわかっていたけど、ああ言えば洋一はきっと優しい言葉をかけてくれる。そう思ったの。でも、ホントはそんなことする必要はなかったのよ。だって、洋一は私にこんなに優しくしてくれるもの」
「愛だけじゃないかもよ」
「ううん、たとえそれでもいいの。今だけは、私にだけ優しいから……」
 なんか、ここまで言われると責任重大だな。
 軽はずみな行動はできない。
「ところでさ、おまえの胸、見た目より大きいんだな」
「ちょ、ちょっとなにを──」
「う〜ん、そうだな。八十二、くらいかな」
「違うわよ。私の胸は──」
「うんうん」
「……って、なにを言ってるのかしら」
「おい、そこまで言ってやめるか?」
「だって……」
 愛は顔を真っ赤にして、少し頬を膨らませた。
「そうだ。どうせだったらスリーサイズを教えてくれよ」
「な、なんで……?」
「そりゃ、知りたいからさ。な、いいだろ?」
「で、でも……」
「あっそ。じゃ、適当なことを言って──」
「わ、わかったわよ」
「で?」
「八十三、五十八、八十五……」
「なるほど。おまえ、着やせするんだな」
「もう……」
 ぷうと頬を膨らませる愛。
「いつもの調子に戻ったろ?」
「えっ……?」
「湿っぽいのは嫌いだからな」
「うん……」
 なんかまるで子供をあやしてるみたいだな。保育士にでもなれるかな?
「そろそろ帰るね」
「ああ、送るよ」
「ううん、いいよ。じゃあね」
「あ、ああ……」
 愛は、来た時とはうってかわってとても晴れやかな笑顔で帰って行った。
「はあ……」
 なかなか難しいな。
 
 三
「おはようございます」
「おはよう、沙耶加ちゃん」
「今日もよろしくお願いします」
 俺と沙耶加ちゃんが一緒にトレーニングをはじめて一週間。
 最初はふたりのペースがなかなかあわなくて大変だったけど、今ではそんなことを心配する必要もない。
「今日は少し軽めにしておこう」
「えっ、どうしてですか?」
「ここでがんばることもできるけど、無理をして本番に支障を来すといけないからね」
「……そうですね」
 俺たちはいつものように準備運動からはじめて、町内を軽く走った。
 本当ならこのあとに少しきつめのこともするんだけど、今日はなし。
「どうぞ」
「ありがとう」
 俺は沙耶加ちゃんからタオルを受け取った。
「もうすぐだね、運動会」
「はい、そうですね」
「ここまで来たら、もうあとは運を天に任せるしかないね」
「ふふっ、そういうことはやることをやった人にしか言えませんね」
「じゃ、俺はダメかな」
「いえ、洋一さんはなにに対しても一生懸命ですから」
「ははは、ありがとう」
 トレーニング後のこの会話も普通になった。
 相変わらず言葉遣いは堅いけど、その内容はだいぶ変わってきた。これはとりもなおさず、俺と彼女の距離が縮まったからだろう。
 もちろん、親友、としてだ。
「そういえば、最近真琴の様子が少し変なんです」
「どう変なの?」
「なにか私に隠してるみたいで。別に隠し事がいけないとは思わないんですけど、ちょっと気になって」
 ……おそらく、誕生日のことだな。
 素直な真琴ちゃんには、なかなか酷なことだったかもしれない。
 そうでなくともこの姉妹は仲が良いから、お互いの些細な変化も見逃さないのだろう。
「大丈夫だよ。真琴ちゃんも高校生になってそろそろ半年だし、それでいろいろ考えることとかあるんじゃないかな」
「そう、かもしれませんね」
 口から出任せの割には、まあ、それほどあやしまれない言い訳だった。
「最近の真琴のことは、私よりも洋一さんの方が理解しているかもしれませんね」
「そんなことないよ。どんなにがんばっても俺は所詮学校の『先輩』か、お姉さんの『友人』でしかないんだから。俺よりもずっと近くにいる沙耶加ちゃんの方が、よりいろいろなことを理解してるはずだよ」
 沙耶加ちゃんは、俺の言葉にほんの少しだけ口の端を上げた。
「さてと、あまりのんびりもしてられないから、そろそろ行こうか」
「はい」
 
 そして、十月九日。運動会当日。
 天気は快晴。まさに運動会日和だ。
「洋一」
「よお、亮介」
「今日は負けないからな」
「そういや、おまえも八百のアンカーだったな」
「おうよ。今回こそは俺が勝つ」
「ま、せいぜいがんばってくれや」
「余裕だな」
「クロカンに比べればな」
「そっか、クロカンにも出るんだったな」
「ああ」
「だからといって、手を抜くなよ」
「当たり前だ。校内一位を狙ってるからな」
「よし、それでこそ洋一だな」
「そして、うちのクラスが賞品をもらう」
「そこまで言うか、普通?」
「ま、いいじゃないか」
「そうだな。じゃあ、またな」
 グラウンドには、体操服姿の生徒とその父兄が集まっている。
 高校の運動会だから小学校みたいに場所取り合戦はないけど、うちの高校はそれなりの数の父兄が来ている。
 運動会と称してはいるけど、祭りみたいなもんだからな。そういうのが好きな人は足を運んでくる。
 で、俺の運動会でのスケジュールは、午前中の最後に八百、午後の最後にクロスカントリーというものだ。ようするに、ほとんど暇なのだ。
 去年なんかはあまりにも暇で寝てしまって、危うく参加できなくなるくらいだった。
 今年は……どうなるのやら。
 
 開会式も終わり、競技開始。
「さてと……」
 俺はおもむろに校舎に入り、屋上へ向かった。
「高見の見物といこうかな」
 屋上からはグラウンド全体が見渡せ、見るだけならいい場所だ。
「あら、洋一くん」
 と、そんな屋上に先客がいた。
 由美子先生だ。
「どうも、由美子先生」
「今年もここ?」
「まあ、下にいても暇ですから」
 先生がそう言うのにも理由がある。去年、俺が屋上に上がってきた時にも由美子先生と遭遇したのだ。
「先生こそ、保健室を空けていいんですか?」
「ふふっ、大丈夫よ。今日は保健委員もいるから」
「そうですか」
 校庭では男子の四百メートル障害が行われている。
「今年も出るんですって、クロスカントリー」
「ええ、去年は悔しかったですからね。今年はマジで一位を狙ってますよ」
「洋一くんならできるんじゃない?」
「そうだといいんですけど」
「大丈夫よ。それに、もしケガでもしたら私に任せなさい。だから、あとは安心して走ればいいの」
「ははは、ありがとうございます」
 こういう優しい言葉をさりげなくかけてくれるところが、由美子先生のいいところだな。
「もっとも、私個人としては、洋一くんのカッコイイ姿が見られれば文句ないけどね」
「な、なるほど」
 そっち方面に話を持っていかれると、さすがに言葉に詰まる。
「じゃあ、私は行くから。去年みたいに寝過ごさないようにね」
「わかってますよ」
 由美子先生は、秋のさわやかな風とともに屋上をあとにした。
「ふわ〜あ、少し寝るかな」
 そう思った途端に眠気が襲ってきた。
 
 秋の柔らかな陽差しの中、目が覚めるとだいぶ時間が経っていた。
「ヤバイな……」
 俺は慌てて下に下りた。
 校庭ではちょうど女子の四百メートルリレーが行われていた。
「これは一年か」
 走っていたのは一年だった。
「ということは、次が二年だな」
 この競技には愛が出場する。
「さてと、どうなるかな」
 女子四百メートルリレーは、ひとり百メートルずつ走る。
 三組は最速メンバーを揃えたから、おそらく大丈夫だろう。
 そして、俺の予想通り、三組は一位を独走。アンカーの愛も余裕のゴール。
「ま、当然かな」
 俺は、それを確かめるとクラスのところへ戻った。
「お〜い、洋一。そろそろ出番だぞ」
「わかった」
 同じ八百の奴がこれをかけてきた。
「それじゃ、ちょっくら行ってくるかな」
「洋一」
「よっ、愛」
 今、終わったばかりの愛が声をかけてきた。
「がんばってね」
「大丈夫だ。目標は校内一位だからな」
「うん」
 トラックの真ん中に一年から三年までの選手が揃った。
「いいか。まず学年別に走ってもらう。その後、各学年の一位のクラスによる校内一位を決める。わかったか?」
 体育教師からの簡単な注意のあと、いよいよスタート。
「目標は校内一位だから、学年別の時は少し手を抜け。どうせ力を抜いても勝てるさ」
「ああ、わかった」
 一年はあっという間に二組の勝利で終わった。
「次、二年」
 二年の中で三組が他のクラスに負けたことは一度もない。
 今回も出足好調。
「洋一っ」
 俺は一位でバトンを受け取った。
 第一走者から一位で差もだいぶついている。
 大丈夫だろう。
 最初の百メートルは流し気味。最後の百に勝負をかける。
 しかし、百メートルを過ぎた頃、後ろに気配を感じた。
 俺は振り返らなかったが、それが亮介だとわかった。
 ま、アンカーの中で俺と張り合えるのは亮介くらいだからな。
 だが、俺はラストスパートして一位でゴールに入った。
「ふう……ふう……」
「はあ……はあ……」
「俺の勝ちだな」
「しょうがないさ。洋一のクラスは速すぎる」
 亮介もかなり速い方だが、リレーはひとりだけ速くてもダメなのだ。
「洋一。来年もこれに出ろよ」
「ああ」
 三年の一位も決まり、最後の走り。
 スタートから序盤は一進一退。
 一年は少々遅れ気味だが、三年はさすがというべきだ。一番間が短いのに、わずかに一位だ。
 第二、第三走者もほとんど変わらず。
 俺にバトンがまわってきた時、ほんの少し前を三年が走っていた。
 俺はスタート直後、一気に追い抜いた。
 二百を一気に走るつもりだった。もちろん、その自信があったからだ。
 スピードはまったく落とさない。
 さすがに百五十あたりできつくなってきた。
 しかし、三年もすぐあとについてきている。
 力を抜くわけにはいかなかった。
 そして──
「よっしゃあっ!」
 ゴールを駆け抜けた時、クラスの声が耳に届いた。
 俺たちは、校内一位になった。
「はあ、はあ、はあ……」
「洋一っ」
「やったな、洋一」
「へへ、まあな」
 前に走った三人が集まってきた。
「たいした奴だよ、おまえは。あの三年、確か、陸上部だぜ。そんなのに勝つなんて」
「たまたまだ。あれはあれで結構ヤバかったんだから」
「やったわね、高村くん」
「優美先生」
 そんな俺たちのところへ、優美先生をはじめ、クラスの連中が集まってきた。
「おまでとう、みんな。校内一位よ。先生も嬉しいわ」
「これでうちのクラスは、学年でも単独一位よ」
 なるほど、そのあたりも予想通りだな。
「でも、洋一。大丈夫か?」
「なにが?」
「いくらおまえでも、あれだけ本気で走ったら……」
「心配するな。クロカンまでには体力回復してみせる」
「ふふっ、期待してるわよ、高村くん」
 とは言ったものの、さすがの俺も少々ヤバイかもしれない。
 俺はあるあてを求めて校舎に入った。
「失礼します」
「あら、洋一くん。ケガでもしたの?」
「いえ、そうじゃなくて」
「じゃあ、どうしたのかしら?」
「実はですね、少し休ませてほしんですけど」
「なるほどね。わかったわ。今はベッドが空いてるから使っていいわよ」
「ありがとうございます」
 由美子先生は俺のひと言で言いたいことがわかったらしく、快く休ませてくれた。
 俺は一番奥のベッドに横になった。
「ふう……」
 手足を思い切り伸ばし、目を閉じる。
 心地良い脱力感に襲われた。
「もう眠ったのかしら?」
「……まだ起きてますよ」
 俺が目を開けると、由美子先生がカーテンを開け、入ってきた。
「そのままでいいわよ」
 ベッドの脇に椅子を引き、そこに座った。
「いいんですか、こんなところにいて?」
「それはこっちのセリフでしょ」
「ははは、ごもっとも……」
「見てたわよ」
「なにがですか?」
「決まってるじゃない、リレーよ、リレー。すごかったわね。あの三年生に勝つんですもの」
「陸上部らしいですね」
「そうよ。彼は陸上部のエースだったのよ。まあ、彼は長距離の選手だったから、瞬間的な瞬発力はないけど、それにしてもすごいわよ」
「たまたまですよ。それに、あの三年生、どっか故障があるみたいですから」
「えっ、どうしてそれを?」
「俺の前を走っている時に、その走り方に違和感を覚えたんですよ。それほど大変なものではないと思いますが、足首かふくらはぎあたりかと」
「そうよ。彼は一度、練習中にふくらはぎの肉離れを起こしたの。ほとんど完治したんだけど、少し後遺症が残っちゃって。でも、そこまでわかるなんて、洋一くんはすごいわ」
 そこまで言われると悪い気はしないけど、少し複雑な気分だ。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないです」
「そう……」
 ああ、ヤバイな。由美子先生とふたりきりで、しかもこんなところにいると。ううぅ……
 しかも、俺は由美子先生の気持ちを知っているからなおさらだ。
「ねえ、洋一くん」
「は、はい」
「こうしているとね、気分が落ち着くの」
「どういうことですか?」
「ふふっ、洋一くんの側にこうしていられること」
 先生は、そう言って穏やかに微笑んだ。
「森川さんとは、上手くいっているのかしら?」
「えっ、あの、その……」
「妬けるわよね」
「そ、それは……」
「冗談よ。私だって大人だから。でも、羨ましいのは本当よ。ただ、今だけは私のものよ……」
 うわぁ、マジだ。マジな目だよ。
「せ、先生……」
「ふふっ、カワイイわね。さ、もう休みなさい。時間になったら起こしてあげるから」
「は、はい……」
 俺が再び目を閉じると──
「おやすみなさい」
「っ!」
 ふわりといい香りがしたと思ったら、柔らかい感触が唇に──
 目を開けた時には、由美子先生はいなかった。
「…………」
 そっと唇をなぞる。
 それが夢ではないことを確かめ、俺は再び目を閉じた。
 
 約一時間後。
 由美子先生に起こされ、俺は校庭に戻った。
 起こされた時に先生に訊こうかと思ったが、訊くことはできなかった。
 その上──
「がんばってね」
 なんて笑顔で言われたら、俺はどうしたらいいんだ?
 まあ、とにかく体力だけは回復したから問題はない。
「洋一さん」
 と、ちょうど沙耶加ちゃんに遭遇した。
「いよいよですね」
「そうだね。もうそろそろコースも発表されるだろうし──」
『クロスカントリー参加選手はテント前に集合してください。繰り返します。クロスカントリー参加選手は──』
「呼び出しだ」
「そうですね」
 テント前には、俺たちを含めた各クラス男女一名ずつが集まった。
「ええ、それでは、これから今年のクロスカントリーのコースを発表する」
 偉そうな体育教師が、模造紙に書かれたコースを広げた。
「まずは、トラックを一周。それから坂を下り、校外へ」
 今年のコースは去年とはまったく違っていた。同じところは、最初と最後だけだった。
「いいか。スタートまでにコースをよく見ておくこと。いくら各所に先生方がいるからといっても、ある程度は自分の力で行くこと」
 いったん解散になった。
「今年のコースはどうですか?」
「う〜ん、そうだね。取り立ててきついところはなさそうだけど……」
 改めてコースを見る。
「あえて言うなら、ここかな」
 俺はコースのある場所を指さした。
「ここは階段なんだけど、普通の階段じゃないんだ」
「どう違うんですか?」
「段差が低いんだよ。俺たちくらいの身長になると、あまり段差が低いとかえって上り下りが大変なんだよ。しかも、ここは運の悪いことに階段の幅が広いんだ。だから、結構大変かもね」
「なるほど……」
 沙耶加ちゃんは、食い入るようにコースを見ている。
「あっ、ここ、ふたつに分かれてますよ」
「そうだね。おそらく男子と女子のコースだろうね。ん? これは……」
「どうしたんですか?」
「沙耶加ちゃん。今年のコースはなかなか大変かも」
「えっ、でも……」
「今気付いたんだよ。さっきは説明しなかったけど、ここ」
「そこが?」
「線が入ってるでしょ?」
「あ、はい」
「詳しくはわからないけど、おそらく学校で特別に用意した障害だと思う」
「障害、ですか……」
 なるほど、だから今年のコースは平坦な場所が多かったんだ。
「しかも、ここはご丁寧に行きも帰りも通ることになってる」
 まあ、無茶な障害は作らないとは思うけど、なんとなくイヤな予感がする。
 それからしばらくして、クロスカントリー以外のすべての競技が終わった。
『これより、クロスカントリー女子の競技を開始します』
 放送で女子に集合がかけられた。
「沙耶加ちゃん」
「はい」
「いつも通り、マイペースで」
「はい」
「きっと勝てるから。がんばって」
「はいっ」
 沙耶加ちゃんは、とびっきりの笑顔を残してスタート地点に立った。
「位置について……用意……」
 ピストルの合図とともに走りはじめた。
「あと五分……」
 俺は頭の中のコースのシミュレーションを行っていた。
 浮遊に行けば、今年のコースなら十分に勝てるだろう。
 だが、ひとつ気になるのは、やはり障害。
「次、男子」
 俺はシミュレートを途中でやめ、スタート地点に立った。
「位置について……用意……」
 スタート。
 俺は少し抑え気味に走り出した。まわりもそんな感じだ。
 トラックを一周して校外へ。
 最初のうちは学校をぐるっとまわるように走るコースで、特に問題はない。
 俺はあくまでマイペースに走り続けた。
 二キロ手前で最初の自然の障害、階段に差し掛かった。
 しかし、俺には秘策があった。それは──
「楽ちん楽ちん」
 ちょっと卑怯だが、階段の縁の斜面を走ることだ。ようは、どうやってでもここを越えればいいんだから。
 少しすると、コースが二手に分かれた。右が女子で左が男子。
 一応先生が立っていて、男子は左に入るように言ってくれている。
 左側は、舗装工事中の道路だった。明らかに悪路と呼べるもので、これは確かに走りにくい。
 おそらく、女子の方は普通の道路なんだろうな。
 とはいえ、このくらいの道などそれほど問題にはならない。
 コースが合流すると、中間点くらいで公園内に入っていく。
 と、俺は思わず足を止めてしまった。
「……なるほど」
 そこはいわゆる児童公園で、遊具があちこちに設置されている。
 そして、俺たちはそれをひとつずつご丁寧にクリアしていかなければならない。
 ガキの頃はそれでもよかったのだが、高校生になって体も大きくなった。となると、子供用の遊具はかなりきつい『障害』となる。
 誰が考えたのか知らないけど、今年はなかなかにハードだ。
 しかも、これを帰りにも越えなくちゃならんのだから。
 しかし、文句ばかりも言っていられない。
 俺は多少悪戦苦闘しながら障害をすべてクリアした。
 公園の反対側の出口から外へ出て、すぐに折り返し。
 再び公園に入る。
 その頃には多少遅れていたほかの連中も公園にたどり着いていた。
 中には女子の姿もある。
 が、幸いというか、沙耶加ちゃんの姿はなかった。
 俺は、女子も簡単に抜き去って、最大の難関をクリアした。
 公道に戻ると、あとは学校までそれほど問題はない。
 残り二キロ弱。
 ここからが本番だ。
 俺は、ギアをトップに入れ直し、後続を引き離しにかかった。
 現時点で俺は男子の一位だ。
 しばらく行くと、前方におそらく女子のトップグループと思われる人影を発見した。数は三人。
 曲がり角が多いからここまで距離が詰まっているとは思わなかった。
 距離にしておよそ五百メートルくらいか。今のペース、残りの距離を考えれば追い抜くことも可能だ。
 で、今までに追い抜いてきた中に沙耶加ちゃんの姿はなかったから、あの三人の中に彼女はいるはずだ。
 距離が縮まると、確かに沙耶加ちゃんがいた。
「ん?」
 だけど、その沙耶加ちゃんの走り方がおかしい。
 右足をかばうような走り方で、ふたりに食いついているのが精一杯という感じだ。
 練習の時はなんともなかったはずだから、おそらく今までに痛めたのだろう。
 残りは少ないから、なんとかがんばって、というところなのだろうけど。
 やがて、俺は三人に追いついた。
 まさかこの三人も五分もあとにスタートした男子が追いついてくると思わなかったらしく、一様に驚いていた。
 残り距離は一キロない。
 俺は、沙耶加ちゃんが多少気にはなったけど、そのまま追い抜くことにした。
 沙耶加ちゃんの性格を考えれば、俺に余計な心配をかけたくないと思ってるはずだ。となれば、俺は俺のペースでちゃんとゴールしなくちゃならない。
 抜き去る時、一瞬だけ沙耶加ちゃんを振り返った。
 沙耶加ちゃんは、自分は大丈夫だからという感じでわずかに微笑んでくれた。
 最後に学校のまわりをまわって、校内へ。
 クロスカントリーは得点が高いので選手が戻ってくると歓声が上がる。
 そして、俺はぶっちぎりで一位だった。
「はあ、はあ、はあ……」
 さすがにこの距離を走りきるときつい。
 肩で息をしながら、クールダウンしていく。
 と、再び歓声が上がった。
 沙耶加ちゃんを含めた女子の三人が校内に入ってきたのだ。
 沙耶加ちゃんは、前のふたりから若干遅れていた。
 それでも足の状態を考えれば、かなりの善戦と言えた。
 トラックを一周して、ゴール。
 同時に、沙耶加ちゃんはその場に崩れ落ちた。
「沙耶加ちゃん」
「洋一さん……」
 なんとか笑顔を作ろうとするけど、この距離を走って、しかも足を痛めていては無理だった。
「足、痛めてるでしょ?」
「……はい」
「歩ける?」
「たぶん……」
「じゃあ、保健室に行こう」
 本当は表彰式なんかがあるんだけど、そんなのどうでもいい。
 俺は沙耶加ちゃんに肩を貸して、保健室に向かった。
「由美子先生」
 中に入るなり先生を呼んだ。
「とりあえず座らせて」
 どうやら先生も沙耶加ちゃんの走りを見ていたらしい。
 なにも訊かずに指示を出した。
 俺は沙耶加ちゃんを椅子に座らせた。
「触るから、痛かったら言ってね」
「はい」
 由美子先生は、右足を軽く触り、状態を確かめる。
「捻挫ね」
 なんとか走れたということは、捻挫だとは思っていたけど、やっぱりだった。
「それにしても、よくこの状態で走れたわね。相当痛かったでしょう?」
「……そう、ですね」
 先生は棚から湿布を取り出した。
「とりあえず湿布を貼って包帯で固定しておくから。しばらくは安静にしていないとダメよ」
「わかりました」
 靴下を脱がせ、湿布を貼る。
 それから慣れた手付きで包帯を巻く。
「よし、これで少しはましになるはずよ」
「ありがとうございます」
「いいのよ。これが私の仕事なんだから」
 包帯を片づけながら、由美子先生は少し照れくさそうに言った。
「さてと、私は校庭に戻らなくちゃいけないから、ここのことは洋一くんに任せていいかしら?」
「わかりました」
 由美子先生が廊下に出ようとすると、ちょうど保健室に入ってくる人影があった。
「あら」
 それは、愛だった。
「ふたりなら中にいるわよ」
 それだけ言って、由美子先生は校庭へ戻った。
「洋一」
 愛は、心配そうな表情で中に入ってきた。
「沙耶加さん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
 とは言いながらも、包帯を巻かれた足を見ると、そうは思えないだろう。
「もう閉会式だろ?」
「うん。だから様子を見に来たんだけど」
「私なら大丈夫ですから、洋一さんは閉会式に出てください」
「別に閉会式に興味はないから、ここにいるよ。由美子先生に任されたし」
 沙耶加ちゃんはなにか言いかけたが、結局なにも言わなかった。
「愛。悪いんだけど、優美先生に適当に言っておいてくれないか?」
「それはいいけど……」
 愛もなにか言いたげな表情を見せたが、結局なにも言わなかった。
「じゃあ、閉会式が終わったら戻ってくるから」
「ああ、頼む」
 愛は、そのまま保健室を出て行った。
 愛が出て行くと、保健室には俺と沙耶加ちゃんのふたりだけとなった。
「足、どこで痛めたんだい?」
「公園です。着地に失敗してしまって。完全に私のミスです」
「そっか」
 結構な距離を走ってからのああいう動作は、なかなか普段通りにはいかない。
 そういう時には、今回の沙耶加ちゃんのようにケガしたりする。
「ケガさえしなければ、もう少しがんばれたはずなんですけど」
「十分だよ。三位なんだから」
「でも、洋一さんは一位でしたから」
「俺は俺。沙耶加ちゃんは沙耶加ちゃん。それでいいと思う」
「…………」
 沙耶加ちゃんは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「私、洋一さんには助けられてばかりです」
「そうかな?」
「そうですよ。一番最初に会った時から、ずっとです」
 言われてみれば、そうかもしれない。でも、俺としてはそこまでのこととは思っていない。当然のことをした、くらいにしか思ってない。
「私は、洋一さんのためになにができますか?」
「別になにもしなくていいよ。なにかしてほしくて助けてるわけじゃないんだから」
「そうかもしれませんけど、それだと私の気持ちが収まらないんです」
「と、言われてもね……」
「なんでもいいんです。それが私の自己満足だとしても」
 真剣な表情で言われると、心が揺らぐ。
「……じゃあ、ひとつお願いがあるんだけど」
「なんですか?」
「今度、沙耶加ちゃんのピアノを聴かせてほしい」
「ピアノ、ですか?」
「真琴ちゃんが、沙耶加ちゃんはピアノをやってるって聞いてたから。どうかな?」
「それくらいでいいなら、全然構いません」
 俺にお願いされたことで、沙耶加ちゃんはほんの少しだけ満足したようだ。
 まあ、下手なことをされるより、こっちから無難なことを言った方が安心できるからな。
 と、沙耶加ちゃんは思い出したように、髪を結んでいたリボンを解いた。
 長い髪が、ふわっと広がる。
「それだけ髪が長いと、手入れとか大変でしょ?」
「大変は大変ですけど、好きで伸ばしてますから」
 そう言って髪に触れる。
「洋一さんは、長い髪は嫌いですか?」
「別にどっちということもないけど。髪型はパーソナルなものだとは思うけど、結局は似合ってれば長くても短くてもいいと思う」
 それでも強いて言えば、俺は長い髪の方が好きだ。
 たぶん、愛をずっと見てきたからだろうな。
 それを知ってなのかどうかわからないけど、美樹も髪を伸ばすようになったし。
「ただ、沙耶加ちゃんには今の髪型がよく似合ってる」
「あ、ありがとうございます……」
 沙耶加ちゃんは、頬を染めて俯いた。
 開いている窓から、校庭の声が聞こえてくる。
 一緒に秋のさわやかな風も入ってくる。
「あの、洋一さん」
「ん?」
「この前言えなかったことを、言ってもいいですか?」
「この前?」
「はい。この前私の家に来た時です」
「あ……」
 それって──
「私、やっぱり洋一さんのことが──」
「ごめん」
 俺は、沙耶加ちゃんの言葉を遮った。
「それは、まだ聞けないよ」
「…………」
「ただ、沙耶加ちゃんのその気持ちは嬉しい。俺に愛という彼女がいたとしてもね」
 沙耶加ちゃんの表情がわずかに曇った。
 本当は愛の名前は出すべきではないんだろうな。
「愛さんが羨ましいです。洋一さんにこれだけ想われているんですから」
「…………」
「洋一さんのことを知れば知るほど、想いが深くなっていくんです。男の人に対する免疫がないから余計なのかもしれませんけど、今は洋一さんのことしか考えられません」
「沙耶加ちゃん……」
「洋一さんの姿を見つけただけで、胸の奥がキュッと締め付けられるような感じになります。声を聞き、笑顔を見られればなおのことです」
 胸の前で手を組み、沙耶加ちゃんは穏やかに続ける。
「洋一さんは、私のこと、どう思っていますか?」
「……こういう言い方は卑怯かもしれないけど、好きだよ」
「洋一さん……」
「沙耶加ちゃんみたいな子を嫌いになる方が難しいというのもあるけど。それだけじゃない。まだ短い間しか一緒にいないけど、それでも沙耶加ちゃんのいいところ、だいぶわかってるつもりだから」
 たぶん、この学校で妹の真琴ちゃんを除けば、俺が一番沙耶加ちゃんのことを理解してるだろう。これは誇張でもなんでもない。本当にそれくらいの自信がある。
「それでも、俺にはその好きを愛と同じ『好き』だとは言えない。近いものではあるけど、確実に違う」
「…………」
「もしかなうなら、愛と同様に沙耶加ちゃんともこれからも一緒にいたい。本当にそう思う」
 本当にこういう言い方は卑怯だ。
 こんなことを言えば、沙耶加ちゃんに余計な期待を持たせるだけだ。
「それでも、沙耶加ちゃんから同じ言葉は聞けない」
 そう言って俺は、沙耶加ちゃんに背を向けた。
 さすがにそれ以上沙耶加ちゃんを見ていられなかった。見ていたら、たぶん、それ以上のことを言ってしまう。
 と、その時──
「沙耶加、ちゃん……?」
 沙耶加ちゃんが、後ろから抱きついてきた。
「洋一さんは、優しすぎます。できるだけ私を傷つけないようにしようと思って、私の言葉を聞かないようにして。でも、優しくされると私、勘違いしちゃいます」
 沙耶加ちゃんの腕が、前にまわされた。
「現段階では愛さんに勝てる見込みは限りなくゼロに近いですけど、勘違いして私でもいいのかもしれない、なんて思ってしまいます」
「…………」
「洋一さん」
「……ん?」
「好きです」
 なんの躊躇いもなく、そう言った。
「大好きです」
「沙耶加ちゃん……」
「もし本当にご迷惑じゃなければ、洋一さんのことを好きな私がいることを、心の片隅にでもとどめておいてください。今は、それだけで十分ですから」
 そう言って沙耶加ちゃんは俺から離れた。
「……ずるいな、そんなこと言うなんて」
「おあいこ、ですよ」
「……確かに」
 俺たちは、顔を見合わせ笑った。
 それからしばらくして、由美子先生が戻ってきた。
「どうかしら、足の具合は?」
「はい。だいぶ楽になりました」
「あら?」
 と、先生は沙耶加ちゃんの顔と俺の顔を交互に見た。
「なるほど」
「な、なにがなるほどなんですか?」
「別に、たいしたことじゃないわ」
 なんとなくいろいろ見透かされた気がした。
 さらに少しして、優美先生がやって来た。
「山本さん、大丈夫?」
「あっ、はい」
「そう、よかったわ。高村くん、ごくろうさま」
「いえ、別に俺はなにもしてませんよ」
「そうかしら? ふふっ、まあいいわ。あっ、そうそう」
「どうしたんですか?」
「優勝したわよ。学年でダントツの一位。校内でも種目に差があるものの、点数だけなら一位よ」
「そうですか。よかった……」
 優美先生の言葉にホッと胸を撫で下ろした。
「これも高村くんのおかげね」
「違います。みんなのおかげです。俺ひとりががんばっても、どうにもなりませんから」
「高村くんならそう言うと思ったわ。でもね、みんなも高村くんのおかげだと思っているはずよ。それくらいがんばっていたから」
「……ありがとうございます」
 そう言われて悪い気はしないけど。
「それはそうと、山本さん。どうする? 家族の方に来てもらった方が──」
「あっ、俺が連れて行きます」
「でも、大丈夫なの? 高村くん、だいぶ疲れてると思うけど」
「大丈夫です」
「そこまで言うなら、お願いするわね」
「はい」
「ただし、条件があるわ」
「条件、ですか?」
「いいわよ」
 優美先生は、廊下に向かって声をかけた。
「真琴ちゃん」
「真琴」
 入ってきたのは、真琴ちゃんだった。
「大丈夫、お姉ちゃん?」
「うん、大丈夫よ」
「彼女と一緒に行くこと。いい?」
「はい」
 それから三十分後。
 俺は沙耶加ちゃんをおぶって、真琴ちゃんが荷物を持って、学校から帰っていた。
「先輩?」
「ん?」
「お姉ちゃん、重くないですか?」
「ま、真琴……」
「ううん、そんなことないよ。むしろ軽いくらいだよ。沙耶加ちゃんに比べたら、うちの姉貴なんて……」
「えっ、先輩はどうしてお姉さんの体重を?」
「ああ、それは、姉貴が酒を飲み過ぎて前後不覚に陥った時、俺が部屋まで運んだんだよ。父さんはいなかったし、母さんじゃ運べないから。その時と比べてるんだよ」
「そうなんですか。でも、先輩のお姉さんや妹さんにも会ってみたいです」
「えっ、そ、それはやめておいた方がいいよ」
「どうしてですか?」
「美樹はともかく、姉貴は特に」
「この前先輩の家に行った時には、いませんでしたよね?」
「まあね」
 真琴ちゃんは、少し考えて──
「そうだ。今度、不意におじゃましてみようかな」
「えっ……?」
「そうすれば会えるかも」
「こら、真琴。洋一さんが困ってるじゃないの」
「冗談だよ、お姉ちゃん。でも、会ってみたいのはホント。きっと、私やお姉ちゃんの知らない『先輩』をたくさん聞けると思うんだけどな」
「ま、真琴ちゃん……」
 そういうことが目的なら、なおのこと姉貴には会わせられない。どんなホラ話を吹き込まれるかわかったものじゃない。
「大丈夫ですよ。もし聞くにしても、先輩のいないところで聞きますから」
「……さすがにそれは勘弁」
「んもう、真琴ったら……」
 
 四
 運動会も終わり、学校に平穏な日々が戻ってきた。
 とはいえ、俺はそれどころではなかった。
 もうすぐ沙耶加ちゃんの誕生日が来るからだ。
 俺は連日曲作りに明け暮れていた。
 いくらそういうものは気持ちが大切だと言っても、やはりそれはそれ。ある程度のクオリティを求めないと。
「お兄ちゃん、いる?」
「ん、ああ」
 打ち込みをしていると、美樹がやって来た。
「どうした?」
「ん、ちょっとね」
 なにやら意味深な笑みを浮かべている。
「お兄ちゃんはなにしてるの?」
「見ての通り」
「曲作り?」
「まあな」
 俺はいったんキーボードの前から離れた。
「で、美樹はなにしに来たんだ?」
「う〜んとね……」
 美樹は、視線を中空に彷徨わせた。
「なにか企んでるな?」
「べ、別に企んでなんかいないよ」
「じゃあ、なんでどもるんだ?」
「ど、どもってなんか──」
「ほら」
「ううぅ……」
「まあ、いいさ」
 とりあえず美樹を座らせた。
「で、実際どうなんだ?」
「あのね、お兄ちゃん」
「ん?」
「……今日、一緒に寝てもいい?」
「は?」
 思わず間抜けな声を上げてしまった。
「……なにかあったのか?」
「えっ? ううん、別になにもないけど」
「そうか」
「でも、どうして?」
「いや、なんとなく」
 言葉を濁したけど、思うことはある。
 美樹は最近、必要以上に甘えることはなくなってきていた。だからこそ、なにかあって俺のところへ来たのではないかと思ったわけだ。
 まあ、この様子を見ると、本当になにもないみたいだ。
「ダメ、かな?」
 上目遣いに訊ねてくる。
 俺はしばし考えた。
 曲作りもやらなくちゃいけないけど、最近少し疲れ気味だったから、ゆっくり寝るためのいい口実かもしれない。
「しょうがないな」
 俺は、ため息をついた。
「特別だぞ」
「ホント? うわぁ、お兄ちゃんありがとうっ!」
 美樹は満面の笑みを浮かべて俺に抱きついてきた。
「おいおい……」
「……ん〜、お兄ちゃんの匂いがする……」
 俺の胸元に頬をすり寄せ、他人が聞いたら間違いなく勘違いされることを言ってる。
 まあ、俺も甘いよな、ホント。
 
「ふわ〜あ……」
「どうしたの? 寝不足?」
「まあな」
 家を出てからずっとあくびばかりしていたから、愛も半ば呆れ顔でそれを見ている。
 確かに寝不足はつらいけど、もう沙耶加ちゃんの誕生日まで日がない。今日が十五日だから、あと五日。とはいえ、二十日はなにもできないわけだから、実質あと四日。
 まあ、曲の方は八割方完成してるから、なんとかなるとは思うけど。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「今年は文化祭、どうするの?」
「どうするもこうするも、別に興味ないからなぁ」
「だよね。洋一ならそう言うと思った。でも、クラス委員なんだから、一応出ないとまずいんじゃない?」
「出席か。まあ、一日、二日休んだからってどうにかなるわけじゃないと思うけど、仕方ないか」
「うん」
 去年の文化祭は、二日間ともさぼった。どうせ部活にも入ってないし、クラスでなんかやるわけでもないから。
 まあ、後夜祭だけは出たけど。
「あれ、沙耶加ちゃんだ」
 昇降口で沙耶加ちゃんに遭遇した。
「あっ、おはようございます、洋一さん、愛さん」
「おはよう、沙耶加さん」
「今日はいつもより遅いんだね」
 沙耶加ちゃんはいつもかなり早く学校へ来る。たいてい、うちのクラスで一番らしい。
 それがこの時間である。
「ええ、ちょっと寝坊してしまって……」
「へえ、沙耶加ちゃんでも寝坊するんだ」
「ちょっと、洋一。当たり前でしょ? 沙耶加さんだって私たちと同じなんだから」
「わかってるって」
 別に俺が沙耶加ちゃんに対してそんな風に思っていたわけじゃないけど、やはりそういうイメージがないだけに、多少驚いたのだ。
「でも、なんで寝坊なんか? 夜更かしでもしたの?」
「えっ、ええ、ちょっと……」
 そう言って沙耶加ちゃんは恥ずかしそうに俯いた。いったいなんなんだ?
 まあ、あまり詮索するのも悪いから、これ以上は聞かない方がいいか。
 それぞれ靴を履き替え、階段を上がっていく。
「ところでさ、沙耶加ちゃん」
「はい?」
「沙耶加ちゃんは文化祭はどうするの?」
「文化祭ですか?」
「来月の六日と七日にあるやつ」
「そうですね、一応、みんなまわってみようとは思っています。この高校に来てはじめての文化祭ですから」
「なるほどね」
「あの、洋一さんはどうなさるんですか?」
「俺? 俺は適当にね。ようするにクラス委員として問題ない程度にさぼりつつ、というわけ」
「洋一はね、去年も出なかったんだから。あんなつまんねぇもん、行く価値もねぇ、とか言って」
 愛が余計なことを言った。
「そうなんですか」
「うちの高校の文化祭は、どうも盛り上がりに欠けるんだ。準備期間からその調子だから本番もその程度でしかないから。まあ、文化部に優秀なのがないってのも原因ではあると思うけど。それに、ほかの学校のようにクラスでなんかやったりなんてのもないし」
 せめてクラスでなんかやることがあれば、嫌々ながらも出てくるんだけど。
「ま、楽しもうと思ったら意外に楽しめるのかもしれないけどね」
 この時の俺は去年と同じようなことしかないとたかをくくっていた。
 
 昼休み。
 俺は真琴ちゃんと屋上にいた。
「どう、進み具合は?」
「はい。もうすぐ完成です。先輩はどうですか?」
「俺ももう少しで完成だよ。でも、今回はかなりの難産だったから」
「そうなんですか?」
 真琴ちゃんは小首を傾げた。
「うん。沙耶加ちゃんはピアノをやってるっていうから、ある程度格好がつかないといけないからね」
「でも、お姉ちゃんだったらどんなものもらっても喜んでくれますよ」
「それはそうだと思うけどね。俺としてもさ、せっかくやるんだったら納得できるものを作りたくてね」
 これは本音。
 よく手作りのものは姿形よりどんな想いを込めたかが大事だと言う。確かにそれはそれで大切なことだと思う。
 でも、それはそれ。やっぱり自分で納得できなければ意味がない。
 たとえそれを受け取って喜んでもらえても、こっちとしてはなんともすっきりしないはず。
「プレゼントの方はいいとして、当日のことをそろそろ考えないとね」
「そうですね」
「二十日は平日だから、やるのは夕方からだね」
「土曜とか日曜だとよかったんですけどね」
「うん。あっ、そういえばいつもはどんなことをしてるの?」
「家族で簡単なお祝いをするくらいです」
「そっか。じゃあ、あんまり派手にやらない方がいいかな?」
「いえ、それは気にしないでください。うちはみんなそういうの好きですから。特にお父さんなんか大好きですよ」
「そ、そうなんだ」
 まあ、確かに真琴ちゃんたちの両親はとってもいい人だからな。ちょっとやそっとのことだったら逆にこっちが背中を押されるかも。
「でも、一番の問題は沙耶加ちゃんだよね」
「そうですね。いかにお姉ちゃんに悟られないように準備を進められるかですね」
「当日に関しては、真琴ちゃんとお母さんの協力が欠かせないね」
「それはもう任せてください」
 そう言って真琴ちゃんは胸をポンと叩いた。
「このことに関してはもう少し詰める必要がありそうだね」
「う〜ん、どうしましょうか?」
「今日の放課後は大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、放課後にもう一度話し合おう」
「わかりました」
 
 放課後。
 俺と真琴ちゃんは、再び屋上にいた。
「簡単な準備はお母さんに頼めるかな?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、沙耶加ちゃんが家を出たらやっておいてもらおう。それと、当日は真琴ちゃんはできるだけ早く帰った方がいいね」
「そうですね」
「沙耶加ちゃんは俺が学校に引き留めておくから。あとは、頃合いを見計らって家まで送るということで連れて行くよ」
「おおまかな時間は決めておいた方がいいですよね?」
「そうだね。何時頃にしようか?」
「授業が終わって、家に帰って準備してだから……五時くらいでいいんじゃないですか?」
「五時だね。わかった」
 この計画の成否は、俺がいかに沙耶加ちゃんを自然に学校に引き留めておけるかにかかっている。
「ふう、これでとりあえず大丈夫だね」
「はい。あっ、でも、プレゼントをちゃんと完成させないと意味がないですけどね」
「ははは、確かにそうだ。まあ、沙耶加ちゃんならそれはそれでも喜んでくれそうな気はするけど」
「そうですね。お姉ちゃん、そういうことってこだわらないから」
「だからこそ、今回はこういうことをやるんだけどね」
 沙耶加ちゃんとのつきあいはまだまだ短いけど、だいぶいろんなことがわかるようになってきた。
 もともとの性格かどうかはわからないけど、常に一歩引いた視点で物事を捉え、自分よりもまず他人を立てる。
 ちょっと自己犠牲が過ぎるんじゃないかとも思うけど、まあ、性格なんてそう簡単に変えることはできない。
 だからこそまわりがちゃんと見ていないといけない。
 そういうことからも今回の誕生日は、まず第一に沙耶加ちゃん自身を慈しんでもらいたかった。せめて、誕生日くらい自分を中心に考えても誰も文句は言わないから。
「さてと、そろそろ帰ろうか」
「はい」
 秋の陽は次第に短くなっていく。
 夕闇が近づいてくると、風も変わってくる。
「今日は家まで送るよ」
「えっ、いいんですか?」
「だいぶ陽も傾いてきたからね。これだとあっという間に真っ暗になるから」
「でも、そうすると先輩が……」
「真琴ちゃんがそんなこと心配することはないよ。俺は男だし、真琴ちゃんはカワイイ女の子。薄暗い道のひとり歩きの方が心配だよ」
「……わかりました」
 真琴ちゃんは、少しだけ複雑そうな表情で頷いた。
「先輩」
 学校を出たところで真琴ちゃんが声を上げた。
「ん?」
「先輩はどうしてそんなに人のことを考えられるんですか?」
「別に取り立てて考えてるわけじゃないけどね。それにこれでも一応は人は選んでるし」
「そうなんですか? 私には誰にでも分け隔てなくって感じに見えますけど」
「ははは、それは俺の一部分しか見てないからだよ。特に真琴ちゃんと一緒にいる時は、同じ場所にいるのなんか限られてるからね」
 まあ、真琴ちゃんと一緒にいる時にいるほかの連中は、愛と沙耶加ちゃんくらいだけど。
 このふたりだったら、確かにいろいろ考えてるかな。
「……先輩って、不思議な人ですよね」
「えっ?」
「こうして一緒にいると、とっても安心できるんですけど、時々ふっと先輩が遠くにいるような気がするんです」
「そんなことは……」
「ええ、実際にそういうことがあるわけじゃないんです。ただなんとなく、そういう感じがするだけなんです」
 そう言って真琴ちゃんは微笑んだ。
「先輩といると、先輩が私の恋人にもお兄ちゃんにも思えてくるんです。恋人とお兄ちゃんじゃ全然違うんですけどね。だからですかね、先輩を不思議な人だって感じるのは」
「……そういうのって結構あるんじゃないかな」
「そうですか?」
「だってさ、俺にとって真琴ちゃんはだいたいはカワイイ妹のような存在だけど、時々俺の彼女じゃないかって思うこともあるから。まあ、その時どんな会話をしてるとか、どこにいるとかってことも関係あるんだろうけどね」
 人と人との関係なんてそんなものだと思う。
 特にそれが同い年じゃなければなおさらだ。
「じゃあ、先輩」
「なんだい?」
「今はどうですか?」
「そうだな……」
 俺はちょっと考えて──
「これが答えかな」
「あ……」
 真琴ちゃんの腕を取った。
「腕を組んで歩いたら、どう見えるかな?」
「そ、それは……」
「兄妹?」
「……こ、恋人同士、ですか?」
「じゃあ、そうなんだよ、きっと」
「は、はいっ」
 真琴ちゃんはちょっと照れていたけど、嬉しそうだった。
 俺にとって真琴ちゃんはもうひとりの妹みたいなものだから、こうしていても心のどこかで完全に『恋人同士』になりきれていない。
 でも、それでも真琴ちゃんのこの笑顔を見ていると、そんな些細なことはどうでもよくなってくる。
 それでいいんだと思う。
 俺は、真琴ちゃんが大好きなんだから。
 
 五
 日曜日。
 姉貴が彼氏を連れてきた。
 ……って、冷静に言ってる場合じゃないけど、なんか俺は冷静だった。
 名前は笠原和人さん。同じ大学で同じサークル。
 本当は違うサークルだったらしいんだけど、姉貴とのことがあって今のサークルにしたらしい。
 俺の第一印象は姉貴の彼氏というよりは、どこかの年若い『お父さん』みたいな雰囲気の人、だった。
 優しい顔立ちで、子供の頃はたぶん女の子に間違われたのではと思うほど。とはいえ、別に優男というわけでもない。
 まあ、あの姉貴が選んだわけだから、俺に突っ込まれそうな印象を与える人を選ぶわけもないけど。
「しかし、姉貴にはもったいないよ」
「どういう意味よ?」
 姉貴は、ピクリと眉を動かした。
「言葉通りの意味だけど?」
「言ったわね、洋一」
「ほら、そうやってすぐに手を出したり度を超えたお節介をしたり。なかなか大変ですよ、和人さん」
「はは……」
 俺の言葉に和人さんは苦笑した。
 さすがにつきあいはじめて二ヶ月も経ってれば、少しくらい姉貴の本性も見抜いてるかな。
「なによぉ、和人まで乾いた笑いをして。まさか、洋一の言葉を真に受けてるんじゃないでしょうね?」
「さあね、どうかな」
「あっ、言ったわね。そういうこと言うと、明日からお弁当作らないわよ」
「いいっ、そ、それは困るな」
 姉貴の言葉に本気で動揺する和人さん。
 これはあとで聞いたことだけど、和人さんはひとり暮らしをしていて、当然のことながらそんなに余裕があるわけではない。
 だから最近では姉貴が作る弁当が昼飯になり、一食分浮いて結構楽になっているらしい。
 確かに食事代ってバカにできないところがあるから、案外切実なことなのかもしれない。
 まあ、いろいろあるけど、姉貴と和人さんはすごく仲が良い。それは確かだ。
 そんなにいろいろなカップルを見ているわけじゃないけど、姉貴たちが仲の良いカップルだということはすぐにわかった。
 姉貴は和人さんのことを心から信頼しているようだし、和人さんは和人さんで姉貴のことを大事に想ってくれてるみたいだし。
 母さんも言っていたけど、和人さんになら姉貴を任せることができそうだ。
 夕飯前。
 夕飯作りを追い出された男ふたりが俺の部屋にいた。
「賑々しい家族じゃなかったですか、うちって?」
「確かにね。でも、それもしょうがないんじゃないかな。男女比がね」
「ですよね。でも、これで父さんがいてもたいして変わらないと思いますよ。まあ、場を盛り上げてるのは姉貴ですけど。母さんや美樹だけだったらもう少し静かですよ」
「ははは、それだと美香は騒音みたいだな」
「騒音ですよ。ははは」
 普段、和人さんくらいの年の人と話す機会なんかないから、素直に楽しかった。
 もちろん、そこには和人さんの人柄のよさもあったのだろうけど。
「あの、和人さん」
「なんだい?」
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
「別に構わないけど」
「どうして姉貴を好きになったんですか?」
「う〜ん、どうしてと訊かれると困るけど、あえて答えるとするならば、美香が美香だったからかな」
「姉貴が姉貴だったから、ですか?」
 俺は首を傾げた。
「俺もね、そんなにたくさんの女の人を知ってるわけじゃないけど、美香はそんな中でも少し変わった部類に入るだろうね。いや、変わったという言い方は間違いかもしれない。本当はみんな美香みたいであってほしいんだ」
「どういうことですか?」
「つまり、美香は自分というものをしっかりと持っているということだよ。人から聞いたことや教えられたことにばかり頼って本当の自分を偽ったり、人前で格好良くありたいと思うあまりに、自分を完全に殺してしまっていたり。結構そういうのが多いからね。でも、美香は違った。最初に会った時から常に『高村美香』だった。誰の真似でもない。まあ、単に少し不器用だったのかもしれないけどね」
「そうですね。姉貴は高校までずっとつきあってた人、いませんでしたから。だから、まだまだ初心者だったんですよ」
「それでも、最初はそうだったかもしれないけど、だんだんと変わっていく場合もあるだろ。しかも、たいていは悪い方向に。でも、美香はそうはならなかった。だから、今でもあの頃と同じ美香なんだ。俺が好きになったね」
 そう言って和人さんは笑った。
 俺は、和人さんと話をする前に決めていたことがあった。
 それは、もし和人さんが俺の基準以下ったらそれとなく嫌味のひとつでも言ってやろうと思っていた。俺としたって姉貴には是非とも幸せになってもらいたい。そのために相応しい人かどうか、俺が確かめようと思った。
 でも、実際はそんな必要はなかった。
 和人さんは俺の予想を遙かに超えた、とても素晴らしい人だった。
「あの、もうひとついいですか?」
「いいよ」
「もしですよ、姉貴と一生一緒にいるとして、ずっと姉貴を幸せにしてくれますか?」
 俺はわざと答えづらいことを訊いた。
「……そうだな、今の俺にそこまでの自信は正直言ってない。でも、そのための努力は惜しまないつもりだよ。俺だっていつまでも美香には笑っていてほしいから」
「すみませんでした。答えにくいことを訊いて」
「いや、いいよ。それに、洋一くんの気持ちもわからないでもないからね。君たち三人の仲の良さは美香の言葉の端々に現れていたからね。それと、洋一くんのこともよく美香に聞かされてたし」
「えっ、そうなんですか?」
「そうだよ。私にはもったいないくらいの弟だって」
 まさか姉貴がそんなことを言っていたとは……
「その素晴らしい弟くんの期待に応えられるかどうかはわからないけど、とにかく俺は俺なりに精一杯がんばってみるよ」
「和人さん」
「ん?」
「姉貴を、お願いします」
 俺はそう言って頭を下げた。
「ああ、確かに頼まれたよ」
 とそこへ──
「ふたりとも、準備できたわよ」
 姉貴がやって来た。
「わかったよ。すぐ行く」
 俺と和人さんはすぐに部屋を出た。
「なに話してたの?」
 やはり俺たちの話が気になったらしく、いきなりそう聞いてきた。
「別にたいしたことは話してないよ。ただ、将来俺の『義兄さん』になるかもしれない和人さんに、ふつつかな姉貴を頼んでおいただけ」
「ば、バカなこと言ってんじゃないわよ」
 姉貴は大いに焦って、思わず階段から転げ落ちそうになった。
「生意気なことばかり言ってると、こっちにだって考えがあるわよ」
「……な、なんだよ?」
「私も将来私の『義妹』になるかもしれない愛ちゃんに、洋一のことよーく頼んでおこうかしら」
「うっ、わ、わたしが悪うございました」
「わかればよろしい」
 結局、姉貴には勝てない。
 くっ、さすがは俺の姉貴だ。
 とまあ、そんなことはどうでもいいんだけど、結局和人さんは思ったよりもすんなりと高村家に入り込めそうな感じがした。
 うちはある種特異な家庭だから、ダメな人にはとことんダメだと思う。
 そう考えると、愛は上手くうちに適合してるよな。
 まあ、幼なじみだから当然か。
 と、またそれてしまった。
 夕食は姉貴が中心となって作った。当然かなり張り切っていて、量もかなりあった。もう少しそこら辺も考えられるようになると、完璧な『主婦』にもなれると思うけど。まあ、まだそれは先のことだから、今はよしとしよう。
 夕食後、しばらく母さんなんかと話をして、和人さんは帰っていった。
 別れ際、姉貴と和人さんがキスをしていたのを見た。
 一瞬そのことで姉貴を強請ろうかとも思ったけど、百倍返しされそうだったから思いとどまった。
「姉貴」
「なに?」
「安心したよ」
「なにによ?」
「和人さんがいい人で」
「なに言ってるのよ。当たり前でしょ? この私が選んだんだからね。悪い人なわけないでしょ?」
「そりゃそうだけど。でも、実際に見てみないとわからないことだってあるし」
「だからいろいろと話したわけ、和人と?」
「まあね。それと、俺がさっき言ったことの義兄さん云々は別としても、姉貴のことを頼んだっていうのは、本当のことだから」
「……まったく、洋一はいつもそうよね」
「えっ……?」
「まず最初に人ありき。自分は二の次なんだから」
「それは、姉貴だってそうだろ?」
「私が?」
「高校までは彼氏も作らずうちのこととかやって、自分は二の次だったじゃないか。たとえ姉貴が高村家の長女だということを抜きに考えてみても、少し自己犠牲が過ぎてたよ」
「…………」
「だからさ、これからはまず最初に自分ありきであってほしいんだ。それくらいしたって罰は当たらないと思うけど」
「ありがと、洋一」
「俺でも美樹でもそうだけど、姉貴には本気で幸せになってもらいたいんだ。幸せで幸せでどうしようもないくらいにね。それくらいじゃないと、これまでの分は取り返せないと思うよ」
 姉貴は、小さく頭を振った。
「……それは違うわよ。私にとって今までが幸せじゃなかったかと聞かれても、幸せじゃなかったとは答えない。確かにあんたや美樹にいろいろと世話を焼いてきたけど、それはそれで幸せだったんだから。姉としては、弟や妹の幸せな様子を見るだけでも幸せになれるものなのよ。それは美樹の兄であるあんたにもわかるでしょ?」
「まあ、ね」
「だから、今の私に昔の分まで取り返す云々言っても意味ないわよ。でも……」
「?」
「その気持ちだけは大事に受け取っておくわ」
「……そうだね。気持ちだけは『タダ』だからね」
「ふふっ、そうね」
「あっ、でも」
「なに?」
「やっぱり和人さんには『義兄さん』になってもらいたいよ」
「よ、洋一っ!」
「ははは、というわけで俺は去る」
 なんだかんだ言っても、よかったじゃないか、姉貴。
 
 六
 十月十九日。
「……完成だ」
 時間はもうすぐ十二時。
 思えば今回の作曲はこれまでで一番時間をかけた。まあ、時間をかければいいものができるわけでもないが、とにかく時間をかけてようやく完成させた。
 沙耶加ちゃんがピアノをやってるってこともその一因だとは思うけど、それ以上に俺の中に、これまで以上のものを作りたいという思いがあった。
 曲をMDに落とし、とりあえずは終わり。
 コンポとキーボードの電源を落とし、MDを机の上に置いたら、もう限界だった。
 ふらふらと誘われるようにベッドに突っ伏した。
 そして、そのまま欲望の赴くままに、俺は眠りに落ちていった。
 
 十月二十日。
 その日は朝からいい天気だった。
 と言っても、俺は朝からヤバかった。
 前日までの疲労からか、危うく遅刻するところだった。
 愛はそんな俺を律儀にも待っていた。時間ギリギリまで待って、それでも俺が出てこないから呼びに来た、というわけだ。
 あとは朝から猛ダッシュ。学校までの道のりを全速力で駆け抜けた。
 クラス委員がふたり揃って遅刻なんてシャレにもなんないからな。
 猛ダッシュのおかげでなんとか遅刻だけは免れた。ただ、その後遺症で授業中は完全爆睡状態だったのは、言うまでもないだろう。
 そして放課後。
「沙耶加ちゃん」
 俺は手はず通り、沙耶加ちゃんを学校に足止めするために呼び止めた。
「なんですか、洋一さん?」
 沙耶加ちゃんは片付けする手を止めた。
「ちょっと時間あるかな?」
「ありますけど」
 一応時計を確認して、沙耶加ちゃんは微笑んだ。
「じゃあ、ここじゃなんだから、屋上にでも行こうか」
「はい」
 俺たちは教室を出て、屋上へ向かった。
 屋上には誰もいなかった。
 吹き抜けていく風はだいぶ冷たく、もう一枚重ね着したくなるくらいだった。
「沙耶加ちゃんにひとつ、頼みがあるんだけど、いいかな?」
「頼み、ですか?」
 沙耶加ちゃんは小首を傾げた。
「絵のモデル、なんだけど」
 そう言ってスケッチブックを見せた。
「まあ、似顔絵程度だから、だいたい──」
 時計を見た。まだ四時になっていない。それでもこの絵だけで三十分はつぶしたい。
「三十分くらいで終わると思うけど」
「ええ、それくらいなら構いませんよ」
「よかった。じゃあ、適当なところに座って。ポーズも好きなのでいいから。疲れない程度でね」
 俺はスケッチブックを開き、沙耶加ちゃんの似顔絵を描きはじめた。
 沈みゆく太陽の下で、沙耶加ちゃんの顔は幻想的な美しさを見せていた。ちょっとでも気を抜いたら、きっと飲み込まれてしまう。
 屋上には、俺が走らせている鉛筆の音だけが響いている。
 校庭からはいろいろな部活の声が、ひっきりなしに聞こえてくる。
「あの、洋一さん」
「ん?」
「少し、お話ししてもいいですか?」
「別に構わないよ」
 俺の言葉に沙耶加ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「洋一さんはどうして絵を描かれるのですか?」
「どうしてかな? 好きだっていうこともあるけど、一番の理由は絵の中にはウソがないからかな」
「ウソ、ですか?」
「そう。たとえその絵が実際のことを描いていなくとも、その中のことはすべて本当のことだから。自分の心がそのまま絵に表れてくる。絵の上手い下手なんて関係ない。だから絵を描いているんじゃないかな」
「……今もそうですか?」
「さあ、それはどうかな? 沙耶加ちゃんみたいなモデルははじめてだからね」
「どういう意味ですか?」
 さすがにそれはわからないか。
「まあ、簡単に言ってしまうと、沙耶加ちゃんは絵にしにくいんだよ」
「そうなんですか?」
「なんたって、こっちがどんなに綺麗に描こうとしても、結局本人の美しさには絶対にかなわないからね。そういう点で言えば、沙耶加ちゃんは絵描き泣かせだと思うよ」
「そ、そんなことないですよ。私なんか……」
「ははは、そんなに自分を貶めることはないよ。誰が見たって沙耶加ちゃんは綺麗なんだから」
「…………」
 ちょっと言い過ぎたかな。沙耶加ちゃん、顔を真っ赤にして俯いている。
 というか、よくよく考えてみると、俺もなかなか大胆なことを言ったものだ。
 しかも沙耶加ちゃんは俺のことを──
「……洋一さんも、そう思ってくれますか?」
「もちろんだよ。でも、俺の場合はそれは二の次だけどね」
「二の次、ですか?」
「俺は人を外見で判断するようなことが嫌いなんだ。どんなに綺麗な人でも性格的に、人間的に最悪な人だったら、俺はその人とは絶対につきあわない」
「洋一さん……」
「なんて偉そうなこと言ってるけど、かく言う俺自身がどうなのかはわかりかねるんだけどね」
「大丈夫です。洋一さんは素晴らしい方です。私だけの言葉で足りなければ、愛さんや真琴に聞いても、そう答えてくれると思います」
 だ、断言されてしまった。そこまで言われて悪い気はしないけど、複雑だ。
 それからしばらくとりとめのない話をしながら、俺は絵を描き進めた。
 そして──
「よし、こんなもんかな」
 四時半を少しまわった頃、ようやく完成した。
「できたよ、沙耶加ちゃん」
 俺はスケッチブックを見せた。
「うわぁ、これ、私ですか?」
「まあね。俺は結構いいできだと思うけど、自分で自分の絵を評価してもしょうがないからね」
 沙耶加ちゃんはまじまじと絵を見ている。
「もう少し時間をかければ細部まで手直しできるけど、今日はそれくらいだね。あんまり沙耶加ちゃんを引き留めておくのも悪いし」
「そんなことないです。こうして洋一さんに私の絵を描いてもらえただけで嬉しいんです」
「そっか……」
 たかが絵のことくらいでこんなに喜んでくれるなんて、やっぱり沙耶加ちゃんはいい子だな。
 しょうがない。真琴ちゃんには悪いけど、ちょっとだけ早く沙耶加ちゃんの誕生日を祝ってしまおう。そうしないと俺の気が収まらない。
「沙耶加ちゃん」
「はい」
「その絵、俺からのプレゼントだよ」
「プレゼント、ですか?」
「そう。今日、十月二十日は、沙耶加ちゃんの誕生日でしょ?」
「あ……」
 沙耶加ちゃんは、一瞬驚いたような顔を見せた。
「覚えていたんですか?」
「そりゃね。聞いてからまだたいして経ってないし。というわけで、誕生日おめでとう、沙耶加ちゃん」
「あ、ありがとうございます」
 俺は時計を見た。まだ五時には少し早いけど、ゆっくり行けば大丈夫だろう。
「でも、プレゼントはそれだけじゃないんだな」
「えっ、ほかにもあるんですか?」
「まあね、でも、それはここじゃなくて、沙耶加ちゃんのうちにあるよ」
「私のうちにですか?」
「では、不肖この高村洋一めがご案内いたします」
 俺はそう言って沙耶加ちゃんに微笑みかけた。
 そして彼女も──
「はい」
 そう言って微笑んでくれた。
 
 それから俺たちは山本家へと向かった。
 道すがら、沙耶加ちゃんは俺があげた絵を大事そうに抱え、本当に嬉しそうだった。
 五時少し前。俺たちは山本家に到着した。
「ただいま」
「あっ、おかえりなさい、お姉ちゃん」
 玄関に出てきたのは真琴ちゃんだった。
「先輩。ごくろうさまでした」
「別にそれはいいんだけどね。そっちは大丈夫?」
「はい、もう完璧です」
「じゃあ、早速はじめようか」
「はい」
 ある程度は理解できているんだろうけど、完全には理解しきれていない沙耶加ちゃんは、ちょっと不思議そうに俺たちのやりとりを見ていた。
「お姉ちゃん、早く早く」
 真琴ちゃんが沙耶加ちゃんを急かす。
「……すごい」
 リビングは完璧に飾り付けがされ、ある種異空間の様相を呈していた。
 まあ、俺もここまでやるとは思っていなかったから、ちょっと驚いたけど。
「はい、お姉ちゃんはこっち。先輩はここです」
 真琴ちゃんが俺と沙耶加ちゃんを席に案内する。
「お母さんも早く早く」
 そう言ってまだ台所にいた沙耶加ちゃんたちのお母さんを呼ぶ。
 全員が揃ったところで──
「じゃあ、とりあえずケーキにロウソクを立てて」
 真琴ちゃんがロウソクを十七本、ケーキに立てた。
「これに火を点けて──」
 ライターで火を点けていく。
「よしっ、これで本当に準備完了」
「じゃあ、沙耶加ちゃん」
「はい」
 俺は沙耶加ちゃんを促した。
 沙耶加ちゃんは息を思い切り吸い込んで──
「ふぅ〜……」
 一気にロウソクの火を消した。
「おめでとう、お姉ちゃん」
「おめでとう、沙耶加」
「おめでとう、沙耶加ちゃん」
「ありがとう」
 あとは、なし崩し的に宴会モードに突入。
「今日は無理を言ってすみませんでした」
 俺は、一応彼女のお母さんに言う。
「いいえ、いいんですよ。沙耶加のあんなに嬉しそうな顔、ここしばらくの誕生日には見られませんでしたから。こちらの方が逆に感謝したいくらいです」
 そこであえて俺が、というところを言わないあたりはさすがに人間ができている。
「先輩」
「ん?」
「そろそろいいんじゃないですか?」
「そうだね。じゃあ、最後の仕上げといきますか」
「はい」
 そう言って真琴ちゃんはいったんリビングを出た。
 俺もカバンの中からMDを取り出した。
「なにをしてるんですか?」
「俺と真琴ちゃんからのプレゼント」
 あらかじめ真琴ちゃんを通して概要は伝えてあったので、俺はすぐにMDをコンポにセットした。
「先輩、持ってきました」
 真琴ちゃんがそう言って数枚のキャンバスを持ってきた。
「じゃあ、はじめるよ」
「はい」
 俺は、コンポのプレイボタンを押した。
「お姉ちゃん。この絵は私と先輩のふたりで描いたものなの」
 そう言って真琴ちゃんは絵を見せた。
 一枚目の絵は、沙耶加ちゃんが風とともに空を優雅に飛んでいる様子を描いたもの。
 白と青を中心に仕上げた。
 二枚目は一転して普通の絵。これが俺が構図を考えて、仕上げは真琴ちゃんに頼んだもの。沙耶加ちゃん、真琴ちゃん姉妹が仲良く眠っている様子を描いた。
 三枚目は完全に真琴ちゃんの絵。これには俺はいっさい口を出していない。だから、完成形を見るのははじめてなんだけど、ちょっとびっくりした。
 さすがに俺と沙耶加ちゃんが描かれているとは思わないから。
 四枚目はちょっとお遊び。俺と真琴ちゃんがデフォルメキャラを使って面白おかしくいろいろなことを描いた。まあ、四コママンガみたいな感じだ。
 そして五枚目。
 これは真琴ちゃんたっての希望で、沙耶加ちゃんのウェディングドレス姿を描いたもの。ドレスのデザインはすべて真琴ちゃんに任せた。俺は沙耶加ちゃんの表情作りを中心に色づけなどを行った。
 そして、この絵とリンクするような曲を俺は作った。
「まあ、まだまだ至らない点もあるけど、これが今の俺たちの気持ちだから」
「ありがとう、ございます」
 沙耶加ちゃんは感極まって涙ぐんでいる。
 ま、泣いてもらえるほど喜んでもらえれば、こっちもやった甲斐があったかな。
 しばらくそれを見ていた沙耶加ちゃんが──
「今度は私からのお返しです」
 そう言ってリビングに置いてあるピアノの前に座った。
 そして、おもむろにピアノを弾きはじめた。
 それは心に染み渡るような安らぎを与える旋律で、聴く者を引き込んでいく。
 それほど長い曲ではなかったけど、すごくいい曲だった。
「沙耶加ちゃん」
「はい」
「この前、寝坊したのはこれを作ってたからなんでしょ?」
 なんとなくそういう気がして、俺はそう言った。
「えっ、あ、はい。そうです」
「すごいよ。音楽を聴いてこんなに安らいだ気持ちになったのははじめてだよ」
「そ、そんなことはないですけど……」
「真琴ちゃんもそう思ったんじゃないかな?」
「はい。お姉ちゃん、すごくよかったよ」
「ありがとう、真琴」
 沙耶加ちゃんの笑顔が見られて、本当によかった。
 これだけでもパーティーをやって正解だと思う。
 だけど、もう一度だけ。
 沙耶加ちゃん、誕生日おめでとう。
 
 七
 ささやかなパーティーのあと、俺は沙耶加ちゃんの部屋に呼ばれた。
「洋一さん」
「ん?」
「真琴がこの間から私に隠し事をしていたのも、今日のためだったんですね」
「まあ、ね」
「洋一さんも知っていたんですよね?」
「そうなるのかな」
 沙耶加ちゃんに見つめられて、俺は乾いた笑いで誤魔化した。
「でもさ、沙耶加ちゃんだって同じだと思うけどね」
「私もですか?」
「そうだよ。さっきの曲のこと、先週に聞いた時は適当に誤魔化してたし」
「そ、そうでしたっけ?」
「まあ、それでおあいこだからね」
「そうですね、ふふっ」
 俺たちは顔を見合わせ笑った。
「そういえば、洋一さんの誕生日っていつなんですか?」
「俺? 俺は六月二十日だよ」
「じゃあ、今年はもうないんですね」
 そう言ってちょっと残念そうな顔を見せる。
 とはいえ、こればかりはどうすることもできないからな。
「今年の誕生日はいろいろあったからね」
「いろいろ、ですか?」
「ようするに、今日の沙耶加ちゃんみたいに不意打ちを喰らったんだよ。まあ、正確に言うとちょっと違うんだけどね」
「どう違うんですか?」
「誕生日の前にそれらしいことを聞いていたのに、当日にはコロッと忘れてたんだ。だから違うんだよ」
 忘れてた俺が悪いと言えばそれまでだが、それでもかなり驚かされたのも事実だ。
「でも、もうそろそろこういうことをやる年じゃなくなるんだよね」
「そうですね」
「高校生の間だけかな?」
「でも、そういうのって結構ノリだと思うんですよ。だから、あんまりいつまでってことは言わない方がいいのかもしれません」
「確かにね」
 沙耶加ちゃんの考え方もよくわかる。一般的に考えれば高校生くらいまでしか誕生パーティーなどやらないが、中にはそれ以降もずっと続けていく人もいる。
 別にやってはいけないということはないのだから、それ自体はかまわないと思う。
 ただ、俺が思うことはそれに現を抜かしていていいのは高校生までであるということ。それを越えたら年相応の分別を持たなければならない。
「あの、洋一さん」
「うん?」
「えと、その……隣に行っても、いいですか?」
「えっ? あ、うん、いいけど」
 沙耶加ちゃんは、嬉しそうに微笑んで俺の隣にやって来た。
「不思議ですよね」
「なにが?」
「こうしているだけで安心できるんです。別になにをしているわけでも、なにをされているわけでもないのに」
「…………」
「もう少しだけ……」
 そう言って沙耶加ちゃんは、俺の方に体を預けてきた。
「……人を好きになるって、せつないことなんですね」
「……そうかもね。でも、それを乗り越えられれば、それを補って余りあるものを得られるよ」
「洋一さんもそうだったんですか?」
「まあね。実はね、俺、愛に二回告白してるんだよ」
「二回、ですか?」
 沙耶加ちゃんは意外そうな顔をした。
「一回目は今年の春休み。答えは曖昧だったけど、まあ、振られたようなものだね」
「どうしてですか?」
「まあ、ようは愛が踏ん切りがつかなかったということなんだけどね。愛は昔から大切なことになればなるほど、あれこれと考えていたから。だから、時間がほしかったみたいなんだ。そして、夏休みにもう一度告白して今に至っているというわけ。だから、沙耶加ちゃんが言うせつなさも少しはわかるよ」
 なんか自分の情けなさを披露してるみたいで変な感じだけど、そのまま流せる話題でもないし。
「沙耶加ちゃん。ひとつ、訊いてもいいかな?」
「なんですか?」
「沙耶加ちゃんはどうしてうちの高校に転校しようと思ったの? ただ学校が嫌いだっていうことだけで転校を決めたとは思えないんだ」
 それはずっと引っかかっていたことだった。
「……自分を変えたかったんです」
「自分を?」
「ずっと女子校に通っていたらわからないことを、共学校でわかればいいと思ったんです。本当のことを言うと、別に前の学校のこと、嫌いじゃないんです。仲の良い友達も結構いましたから」
 沙耶加ちゃんは淡々と話す。
「でも、それでも女子校にいたのでは自分は変えられないと思ったんです。だから、転校を決めたんです」
「そうなんだ」
「でも、決めたのはそのことだけではないんです。その中のひとつには、洋一さんのこともあったんです」
「俺のこと?」
「はい。真琴がある時期から洋一さんのことをよく話すようになりました。真琴が男の人の話をすること自体珍しかったので、私も興味がありました。そして、次第に私の中でその話の中の男の人、つまり洋一さんにお会いしたいという想いが沸き起こってきたんです。そして、少し前から考えていた転校のことを、先生に話していました」
「ご両親はなにも言わなかったの?」
「あまり言いませんでした。結局は私のことですから」
「そっか……」
 う〜む、本当に理解ある両親だ。
「転校してよかった?」
「はい。これだけははっきりと言い切れます」
 その言葉を裏付けるような沙耶加ちゃんの真剣な表情。
「沙耶加ちゃん……」
 この表情の向こう側には、きっとひとつの俺には想像もつかないしっかりした想いがあるんだろう。
「でも、今のままだと私はきっと同じことを繰り返すだけだと思います」
「それは?」
「結局、自分から行動を起こさない、ということですから」
「…………」
「だから私、決めました」
「決めたって、なにを?」
「愛さんに宣戦布告します」
「せ、宣戦布告ぅ?」
「今は大きく差を開けられていますけど、でも、いつか洋一さんを私の方に振り向かせてみせます。そのための宣戦布告です」
「ちょ、ちょっと沙耶加ちゃん──」
「そうしないと、私が転校してきた意味がなくなってしまうんです。洋一さんと一緒にいられないと。ですから決めました」
 前からそういう感じはあったけど、マジだ。
 愛の性格を考えると、間違いなくとんでもないことが起こる。
「それと、洋一さん」
「な、なに?」
「好きです。洋一さんのこと、好きです」
 たぶん、もう戻れないところまで来たんだろうな。
 それはもうわかっていた。俺の中に沙耶加ちゃんの場所ができてしまったのだから。
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