恋愛行進曲
第七章 出会い
一
「……暑い……暑い……」
このクソ暑い中、なんで俺は学校への坂を歩いてるんだ?
うむ、謎だ。
というのは冗談として、ようは暇だったんだ。うちは家族全員出かけてるし、愛もなんか用があるとかでいないし、最終手段のはずの亮介ですらダメだとぬかしやがった。
そんなわけで、とりあえず誰かいそうな学校へとやって来たのだ。
「ん〜、やっぱり静かだな」
校舎内は、時折部活動で来ている生徒の声が聞こえるくらいで、静かなものだった。
上履きに履き替え、職員室へ。
「ちわぁっす」
「あら、いつから出前持ちになったのかしら?」
「じょ、冗談ですよ」
間髪入れずに声が返ってくるとは思ってもみなかった。
まあ、相手が優美先生だからだろうけど。ほかの先生なんか、俺に見向きもしない。ま、こっちも視界に入れるつもりはないけど。
「どうしたのかしら、高村くんが来るなんて珍しいわね。しかも、夏休みに」
「あっ、ひどいなぁ」
「ふふっ、ごめんなさい。でも、どうしたの?」
「いえ、特になにかあって来たわけではないんです。暇だったもんで……」
「まあ、ここに来るのは構わないけど、宿題は終わったの?」
「……実は──」
「終わってないの?」
先生は、やれやれとため息をついた。
「いえ、とっくに終わってます」
「まあ……本当なの?」
「ううぅ、信じてないんですか?」
「そ、そういうわけじゃないけど。まだ学校がはじまるまで一週間あるから」
そ、そこまでダメだと思われてたなんて……さすがにショックだ。
「ま、そのことはいいとして──」
しかも、さらりと流されてしまった。
「ひとつ、まだ誰も知らないことを教えてあげるわ」
「誰も知らないこと?」
「ひょっとしたらね、うちのクラスに転校生が来るかもしれないの」
「転校生、ですか?」
この時期に転校生、ね。
「今日、転入試験をやってるの。でも、前の学校の成績なら全然問題ないわ。それで、その子は二年生なんだけど、うちのクラスだけひとり少なかったでしょ。だから、入るとしたら間違いなくうちのクラスね」
「男ですか? 女ですか?」
「ふふっ、女の子よ。しかも、前の学校は女子校」
「へえ、なるほど。ん……? そういえば……」
どこかでそんなことを聞いた覚えがあるような、ないような……う〜ん、思い出せない。
「いい、このことはほかの子には内緒よ。あまり広まりすぎるとその子に余計な迷惑がかかるから」
「はい、わかりました」
微妙な引っかかりを残しつつ、とりあえず頷いた。
それから優美先生に麦茶なんかを出してもらったりして、とりとめのない話をした。
まあ、微妙に進路の話とか、成績の話が多かった気もするけど。
なにはともあれ、当初の目的は達成できたからよしとしよう。
職員室をあとにし、廊下を歩いている時のことだった。
廊下の向こうから見慣れない格好をした、パッと見ただけでもカワイイと言える女の子が歩いてきた。
「へえ……」
ついつい見とれていると──
「あの、すみません」
声をかけられた。
「は、はい、なんですか?」
うぐっ、声が裏返った。
「職員室は、あちらでいいんでしょうか?」
「職員室なら、その角を曲がった右手にありますよ」
「そうですか。ご親切にありがとうございます」
その子はとても穏やかな、それでいてどこか品のある笑顔を見せて歩いていった。
「カワイイ、というよりは綺麗な子、だったな……」
と、ある結論に達した。
「なるほど、そういうことか」
きっと、今の子が今日編入試験を受けるという転校生なのだろう。そうすれば、あの格好も職員室の場所を聞いたのも納得できる。
「まあ、それは夏休み明けにはわかるか」
それ以上気にしてもしょうがないから、次の目的地へ向かった。
「失礼します」
ドアを開けると、ひんやりとした冷気が流れ出てきた。
「あら、洋一くん。いらっしゃい」
「こんにちは、由美子先生」
「どうしたのかしら、今日は。ひょっとしたら、涼みに来たの?」
「へへっ、ご名答」
「ま、いいわ。さ、座って」
由美子先生は少しだけ呆れた表情を見せたけど、すぐにいつもの笑顔で椅子を勧めてくれた。
保健室は病人とか来るから、空調がしっかりしてる。当然、クーラーも入ってる。これから帰ることを考えると、ここで体調を整えるのは非常に重要なことだ。
「どう、夏休みは楽しく過ごせたかしら?」
「ええ、おかげさまで」
「ふふっ、どうやら上手くいったようね」
「なにがですか?」
俺は首を傾げた。
「森川さんとのことよ。とぼけたってダメよ」
「とぼけるつもりはないですけど。まあ、そうですね、上手くいきました」
「よかったじゃない。これで私の肩の荷も下りたわけね」
「どういうことですか?」
「実はね、あっ、これは内緒にしておいてほしんだけど」
「あっ、はい」
「実は、四月の学校がはじまってすぐに、森川さんから相談を持ちかけられたの」
「その相談て──」
「ええ、あなたとのことよ。彼女、ものすごく悩んでいたわ。でも、私には結果がわかっていたから、ひと言しか言わなかったわ」
「ひと言?」
「そう。自分の気持ちに素直に、偽らずに、ってね。そしたら、完全ではないにしろ、どこか整理がついたみたいだったわ。それからあとのことは、私よりも洋一くんの方が詳しいでしょう」
ある程度予想はできたが、それはそれで驚きだった。
「そのあとで洋一くんから同じことを言われたから」
「そうだったんですか。じゃあ、すっかり心配をかけたわけですね」
「いいのよ。これが私の仕事だし」
そう言って由美子先生は微笑んだ。
「それよりも、これからの方が大変よ。今までと同じスタンスではつきあっていけなくなってくるから。いろいろ戸惑うところもあると思うけど、でもまあ、洋一くんなら大丈夫かしら」
「ははは、そうだといいですけど」
この時は全然思いも寄らなかったけど、また由美子先生のお世話になるなんて。
「そうだ。覚えていますか、四月の屋上でのこと」
「屋上のこと?」
「はい。俺が、先生に淋しそうにしてますねって言ったことですよ」
「ああ、そのことね……」
やはり由美子先生は少しだけ淋しそうな顔を見せた。まだ解決してないのかな。
「俺のことはもう済んだんですから、いくらでも話してください。お役に立てるかどうかはわかりませんけど」
「ふふっ、そうね。聞いてもらおうかしら」
「はい」
「その前に──」
そう言って先生は立ち上がった。なにをするのかと思えば、お茶を淹れてくれた。クーラーが効いてるから、温かい紅茶だった。
「さて、どこから話した方がいいかしら」
「どこからでも構いません。詳しく話さなくても、簡単にでもいいです。とにかく、少しでもなにかの役に立ちたいので」
「ありがと。じゃあ、私が学生の頃から話すわね」
先生は、カップを両手で持ち、ゆっくりと話し出した。
「私はね、小学校の頃からずっと女子校だったのよ。たぶん名前は知ってると思うけど、橘女学院」
「た、橘女学院っ! あの、日本でも屈指の名門超お嬢さま学校で、東大より難しいとされてる超難関校のですか?」
「まあ、そういうことね。でも、私の場合は初等部からだから、それほど大変ではなかったけど」
お、驚いた。まさか、由美子先生が橘女学院出身だったなんて。凡人の俺から見れば、雲の上の存在だからな、橘女学院の人たちは。
「それで、中等部、高等部の途中まではなにごともなく、そこでの生活も楽しかった。友達とのことも、部活も。でも、それも二年生までだったわ」
「なにがあったんですか?」
「ふふっ、いわゆるそのくらいの年頃なら誰にでもあることよ。つまり、異性への憧れ。特に完全に女子校だったから、その思いはすごいものがあったわ。だんだん私の友達の間にも彼氏のことや、性絡みの話が増えてきたわ。いつキスをしたとか、あの子はもう経験済みとか。そんな中で私もご多分に漏れず、そういう話題にのめり込んでいったわ。そして、部活の試合で他校に行った時にカッコイイ男子を見つけるのが、それからの楽しみになったくらいにね」
「女子校か……想像以上にすごいんですね」
「まあ、見た目ほど綺麗なところではないわね。そういう理想的な女子校は、ほんのごくわずか。たいていは、洋一くんなんか見たら、びっくりするわ」
「はは……は、見てみたいような、見たくないような」
「それでね、私も好きになった人がいたわ。ああ、正確に言えば、憧れかしら。でも、その恋はあっという間に終わったけど」
「どうしてですか?」
先生はクスッと笑った。
「その人にはすでに彼女がいたのよ。しかも、もう四年もつきあっている子がね」
「ああ、なるほど」
「その時は不思議と特別な感情は持たなかったわ。ま、話もしたことのない相手だから当然だけど。でも、大学に入ってそうはいかなくなったわ。私もようやく男の人とつきあったの。大学のサークルで知り合った人なんだけど、私にとっては父親や先生以外ではじめての男の人だったの。はじめは楽しかったわ。なにをしても。ただ一緒にいるだけでも。相手もそう思っていたはずよ。最初は」
「最初は?」
「そう、最初は。半年間は楽しかった。いえ、少なくとも私は楽しかった。でも、その人にとってはそうではなかったのかも。なにも知らない私は、ただのつまらない女だったのよ。そうすれば、その人も次第に飽きてくるのは当然。まわりには私よりも魅力的な人がいくらでもいたから。そして、別れたわ」
「…………」
「思いっきり泣いたわ。泣いて泣いて泣いて、泣き明かしたわ。それはその人と別れたことに対してではなく、つまらない自分に対してね。それからは努めていろいろなことを吸収しようとしたわ。人と接する機会を求めて。だから教師にもなったのよ。学校には様々な人がいるからね。大学を卒業した時、両親はすぐにでも結婚して家庭に入れって言ったわ。でも、私はそれを断って、ひとりで家を出たわ。そう、はじめてのひとり暮らし」
先生は紅茶を一口含んだ。
「最初はなにもかも新鮮だった。寝ても覚めても楽しかった。だけど、気が付いたのよ。自分のことに」
「どういうことですか?」
「私は人一倍の淋しがり屋で、人一倍の甘えん坊だったって。その事実に気付いた時、愕然としたわ。自分はそんなに弱い存在だったなんて、って」
「それは……」
「そう、それは人が皆持ってることだったのよ。それもあとから気付いたけどね。それでも、私には自分のパートナーを見つけることはできなかった。臆病になっていたのね。また自分を否定され、自分を否定したらどうしようって。学校ではすぐにほかの先生とも仲良くなれたけど、私生活ではダメだった」
「先生……」
「でもね、そんな時とても素晴らしい生徒に会うことができたわ」
「生徒、ですか?」
「そう。まさに私にとって、いえ、多くの女性にとって理想と言える男の人にね」
「それって、誰のことですか?」
さすがにそれは気になった。
「それはもう少し待ってね。その生徒は人一倍優しくて、それにとても頼りがいがあって、なによりも側にいて安心できる。まさに理想よね。でも、本人はそのことにあまり気付いてないようだし、それに気付いたとしても、そのことを鼻にかけたりするような子じゃないわね。その生徒に対して私と同じことを思っている人はたくさんいたわ。みんな、その子のそんなところに惹かれたのよ。優しくて誠実で、頼りがいがあって、ちょっとお茶目で。年上の私にしたら、本当は守ってあげたい、って思うんだろうけど、その子の場合は逆に守ってもらいたい、って感じが強いわね」
「だ、誰なんですか? 由美子先生にそこまで言わせる奴って?」
「ふふっ、もうひとつ付け足し。その子は、ちょっと鈍感かもね」
まったくわからん。
「先生、教えてください」
「それはね──」
「はい」
「今、私の前にいる子、よ」
「私の前…………って、ええーっ!」
先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうよ、洋一くんのことよ」
「そ、そんな、まさか……」
俺は混乱していた。頭の中で、様々なことが交錯していた。いや、そんなことはどうでもいいくらい、わけがわからなかった。
「ウソじゃないわよ。これは正真正銘、本当のことよ。私ももう少し年が近かったら、洋一くんに告白していたかもね。好きだって」
そう言って、今度は穏やかに微笑んだ。
「でも、洋一くんには森川さんがいるから、それも無理だけどね。確かに、森川さんは女の私から見ても、素晴らしいと思うから。でも、ちょっぴり妬けちゃうかな」
「それじゃ……」
「ううん、なにも言わないで。これ以上あなたに優しい言葉をかけられたら、教師でいられなくなっちゃうかも。だから、これからもただ側にいてくれるだけでいいから。今まで通りの洋一くんが好きなんだから、ね」
「はい、わかりました……」
複雑な心境だった。
「まあ、ようするにね、私なりにいろいろ考えていたのよ。人を好きになるってどういうことかって。私は洋一くんのことが好き。でも、洋一くんは私の方は見ていない。じゃあ、私の気持ちはどこへ行くのか。そんなことをね。そしたら、いつの間にかテンションが落ちて、結果的に洋一くんに心配かけちゃって」
「…………」
「でも、こうやって洋一くんに話を聞いてもらって、私もひとつ区切りがついたわ」
「区切り、ですか?」
「そう。洋一くんとは、これからも教師と生徒という関係でやっていけるって。私の好きは、純粋な異性に対するものじゃなく、そうね、言うなれば憧れに近いものとして昇華できるって」
「先生……」
「こぉら、そんな顔しないの。そりゃ、完全にそれを納得するまでにはまだ少し時間はかかるとは思うけど、伊達にあなたたちより長く生きてるわけじゃないわ。そのあたりは、全然大丈夫だから。だから、洋一くんは必要以上に余計なことを考えない。いいわね?」
「……はい」
保健室を出たあと、どこをどう通って帰ったのか覚えていない。
ずっと、由美子先生の話のことを考えていた。
確かに、俺は愛が好きだ。この気持ちにウソ、偽りはない。
だけど、俺にとって由美子先生も好きな相手だ。愛とは少し違う感情だけど。
言ってみれば『憧れの女性』に告白されたわけだ。普通なら天にも昇る気持ちだろう。でも、それを素直に喜べない俺がいた。
二
八月二十八日。今日も手持ち無沙汰で駅前をぶらついていた。
「あ〜あ、なんかないかなぁ」
ついそんなことが口をついて出てくるほど、退屈していた。
日曜日ということもあって、家族連れなんかで結構賑わっていた。
外は暑いから、とりあえずゲーセンに入った。しかし、まったくついてなかった。
格闘をやれば乱入者に負けるわ、レースをやれば一位になれないわ、UFOキャッチャーをやれば金だけどんどん減るわ。
そんなこんなでゲーセンを出た俺は、気分転換に時間つぶしの定番、本屋に入った。
ファッション雑誌やスポーツ雑誌、ゲーム雑誌などを立て続けに立ち読みする。
おかげで結構時間はつぶせたが、少々足が疲れた。
本屋を出ると、少し先を知った顔が歩いていた。
「あれは……」
亮介だ。
「おい、亮介」
「ん? おお、洋一じゃないか」
亮介は声をかけたのが俺だとわかると、軽く手を挙げ立ち止まった。
「なにしてんだ?」
「ああ、ちょっと出かけるんだ」
「そうか。じゃあ、邪魔しちゃ悪いな」
「なんだ、暇を持て余してるのか。まあ、ホントだったら暇つぶしの相手になってやってもいいんだけど、今日はそういうわけにはいかないからさ」
「わかってるって。気にするな」
「悪いな。それじゃあ、また」
そう言って亮介は駅に向かっていった。
「しょうがない、か」
またひとりに戻ってしまった俺は、仕方なく家に帰ることにした。
駅前からうちへの帰り道には、交通量の多い通りがある。幹線道路だからでかいトラックなんかも通り、小学生や年寄りにとっては少し危ないところだった。
「もうすぐ学校だな……」
その道路をなんとなくゆっくり歩きながら、そんなことを呟いた。
夏休みも残りわずか。無駄には過ごしたくなかったが……はあ。
「ん……?」
と、前を少し危なっかしい足取りで歩いている子を見つけた。
今日も陽差しが強くて残暑が厳しいから、暑さにでもやられたのだろう。俺ですらこの暑さに参ってるくらいだからな。
最初は多少程度だったのだが──
「あれはマジか……」
少しすると、道路側にあるガードレールにもたれかかりそうになるくらい、かなり危なくなった。
不幸にもこの時間帯は人の往来が少ない。今も、俺と前の子以外、見渡した限り誰もいない。
「しょうがない……」
俺がなんとかしないといけないと思ったその時──
「危ないっ!」
声と同時に駆け出していた。
ガードレールの切れ目から、ふらふらと車道に出てしまう。
しかも運の悪いことに、向こうからは車が来ている。
「くそっ」
俺は、全速力で追いついた。
「ちっ」
体が勝手に動いていた。
幸い、その子は少し車道に出ていたくらいだったから、歩道側に引っ張り上げるだけで済んだ。
直後、車が通り過ぎていった。
俺はそれを確認すると、腕の中でぐったりしているその子を見た。
「大丈夫、なわけないか……」
その子は、俺と同い年くらいの女の子だった。
「う……ん……」
とりあえず意識はある。多少無理矢理引っ張ったけど、ケガもしていない。
「ん? そういや、どこかで見たことがあるような──」
まじまじと彼女の顔を見ていると、多少意識がはっきりしてきたようだ。
「……ん、あ、あれ……私……」
「大丈夫?」
「え、あ、はい……」
たぶん、自分の置かれている状況は認識していないのだろう。まあ、それも無理からぬこと。とりあえず、状況を説明しよう。
「覚えてるかな。突然車道に出ちゃって、車にひかれそうになったんだよ」
「そう、だったんですか……」
軽く首を振り、女の子は体を起こそうとした。
「無理しない方がいいよ」
「すみません……」
ふっと力を抜き、また俺の腕に収まる。
と、思い出した。
どこかで見たことがあると思ったら、以前学校で職員室の場所を訊いてきた子だ。
となると、ますますこのまま放っておくわけにはいかないか。
「俺が家まで送るよ」
「え、でも……」
「この状態で、家に無事家に帰れる自信ある?」
彼女は、ふるふると頭を振った。
「なら、どうすればいいかは、簡単だと思うけど」
「……そう、ですね。では、すみませんが……」
「了解」
俺は彼女をおぶると、指示に従って歩き出した。
彼女はとても華奢で、簡単に壊れてしまいそうなほどだった。見た目並に体重も軽く、下手すれば美樹くらいかと思った。
多少意識がもうろうとしていたようだけど、とりあえず道案内のほうはきっちりやってくれた。
「ん、このあたりは……」
駅前から住宅街に入り、少しするとどこかで見たような場所へとやって来た。とはいえ、どこかまではわからなかった。
軽いとはいえ、真夏に人ひとりおぶって歩いてるわけで、こっちもそれなりにきつくなってきて、深く考える余裕がなかったからだ。
歩くこと二十分。
「ここです……」
ようやく彼女の家に到着した。
すぐさまインターフォンを押す。
すると、すぐに中から女の人が出てきた。
「どなたですか?」
「あ、あの、すみません──」
「あら、まあっ」
その女の人は、俺が説明する前に背中の彼女に気付いた。
「どうしたんですか?」
「どうやら暑さにやられたみたいで、放っておくわけにもいかなかったので、こうして連れてきました」
「そうでしたか。ありがとうございます」
俺は、車にひかれそう云々はとりあえず伏せておいた。
女の人はすぐに家に中に入った。
と、それから本当にすぐに、今度は男の人も一緒に出てきた。
「わざわざすみません」
「いえ」
どうやらその男の人は彼女の父親で、女の人は母親らしい。
彼女の父親に彼女を渡すと、父親はすぐに家の中へ。
「本当にありがとうございました」
「いえ、たいしたことはしてませんから」
「いいえ、わざわざ沙耶加を運んでいただいて、本当にありがとうございます」
彼女の母親は、しきりにお礼を言ってくる。
「できればお礼をしたいのですが……」
「そんな、気にしないでください。たまたまその場に居合わせただけで、実際たいしたことはしてないんですから」
「ですが……」
むぅ、困った顔されてもこっちも困るんだけどなぁ。
「じゃあ、水をもらえますか」
「ええ、少し待っていてください」
そのまま断り続けてもたぶん堂々巡りになると思い、最低限のお礼で済ませようと思った。水なら、ちょうどのども渇いていたことだし、一石二鳥だ。
で、結局水は冷たい麦茶にランクアップした。俺はそれを遠慮なく飲み干し、ついでに彼女の両親にこれでもかとお礼を言われ、その場を去った。
「まあ、とりあえずは安心か」
ホッとして改めてそのあたりを見ると──
「そういえば、このあたりは真琴ちゃんの家の近くか」
真琴ちゃんの家がどこかは知らないけど、近くまでは来たことがあるから、なんとなく覚えていた。
ひょっとしたら、真琴ちゃんに聞けばあの子のこともわかるかもしれないな。一応、俺らと同年代だろうし。
「ん……?」
そういや、ちゃんと名前聞くの忘れたな。
確か、彼女の母親が『沙耶加』と呼んでいたからたぶん、それが名前だろうけど。とりあえず彼女をどうにかしなくちゃと思っていたから、表札も確かめなかったし。
「ま、しょうがないか」
名前がわからないんじゃ、どうしようもない。今回は、それだけのことだ。
深く考えるのはやめよう。
しかし、俺はその時にもう少し深く考えておくべきだった。
そうすれば、もう少し違った展開になっていたかもしれない。
三
「ふわぁーあ……眠い……」
「なに言ってるのよ。今日から新学期がはじまるんだから、しゃきっとしないと」
「わかってるって」
いろいろあった夏休みも終わり、今日から二学期。心機一転がんばろうかな、とも思ったけど、性に合わないことはやっぱりやらない。ということで、いつもと一緒だ。
「でもさ、どうせ今日はつまらん校長の話と簡単なホームルームだけだろ? どうしたって気合い入らんて」
「それはいつものことでしょ?」
「ははは、そうとも言うか」
俺と愛のことは、とりあえずはなにも言わないことにした。どうせそのうちにわかることだし、なによりも言ったからってどうにかなるわけじゃないからだ。
「よっ、今日も朝から気分がいいねぇ」
素っ頓狂な声を上げて近づいてくるのは、見なくてもわかる。
「亮介。おまえ、いつからそんなわけわからん奴に……って、元からわけわからんか」
「これはまたご挨拶だな。ま、いいじゃないか。あんまり気にするな。せっかくの新学期最初の日なんだからさ」
「だからなんだよ。まったく、なにを考えてるんだか。こんな奴ほっといて、行こうぜ」
「あ、待ってよ、洋一」
「そうだ、待てよ、洋一」
いきなり気分を害されたけど、まあ、相手が亮介だからしょうがないか。
「じゃあな」
「ああ」
クラスの違う亮介と廊下で別れ、教室に入る。
新学期初日の割には、結構来てる方か。
「あっ、来た来た。愛、おはよう」
と、すぐに愛の方に声がかかった。相沢紀子と内藤友美のふたり組だ。
「おはよう、紀子、友美」
「ねえねえ、知ってる? うちのクラスに転校生が来るらしいわよ」
「へえ、そうなんだ」
「なんでも、前の学校は女子校だったらしくて──」
女っていうものは、どうしてこういう話が好きなんだろうか。未だによくわからん。
とにかく、話の内容は優美先生から聞いたことと同じだった。
「でも、この時期に転校なんて、どうしたのかしらね」
「う〜ん、そこら辺はわからないけど、とにかくどんな子か楽しみ」
「うん、そうね」
俺は三人の話を邪魔するのも悪いと思い、さっさと自分の席に着いた。
それから始業式なんていうつまらないものがあり、俺はすっかり眠りの世界に落ちていった。
そしてホームルーム。
まずは様々な提出物を出して、簡単に先生から話があった。
休み時間を挟んで後半。
「それでは、もう知っている人もいるかもしれませんが、今度、このクラスに転校してきた子を紹介します」
優美先生は廊下で待たせていた転校生を中へ招き入れた。
当然だけど、その子はうちの学校の制服を着ていた。そして──
「あっ」
「どうしたの、洋一?」
俺は思わず声を上げていた。
「い、いや、なんでもない……」
そうだ。すっかり忘れていた。
以前学校で会った子が転校生なら、この前助けた彼女と同一人物で、そして、今教壇のところにいる。
「それでは自己紹介を」
「は、はい」
先生に促され、黒板に名前を書いた。綺麗な字だった。
「えっと、山本沙耶加と言います。いろいろあってこの学校に通うことになりました。わからないことだらけですけど、よろしくお願いします」
「はーい、よろしくお願いされまーす」
一部の男子が声を上げたが、確かに思わず声を上げたくなるような可愛さだった。いや、どちらかといえば、綺麗と言った方がいいかもしれない。改めてそう思う。
「では、席は……森川さんの後ろにしましょう」
「はい」
席は愛の後ろ、つまり俺の斜め後ろになった。ちょうど空いてたしな。
「よろしくね」
「こちらこそ」
愛と山本さんは、軽く挨拶を交わした。
「では、明日は実力テストですから、がんばってください。それから、高村くんと森川さん、それに山本さんは私のところへ。それでは終わります」
なんか先生に呼ばれたけど、ま、見当はつく。
みんなが部活やら帰宅やらでざわめいている中、俺たちは教壇の先生のもとへ。
「なんですか?」
「ふたりには、山本さんに学校のことを教えてもらいます。いいですか?」
「はい」
「山本さんもいいですか?」
「はい、わかりました」
「もしなにか困ったことがあったら、私のところへ来てください」
そう言って優美先生は教室をあとにした。
「さてと、まずは自己紹介からね。私は森川愛。よろしくね」
「森川、愛さんですね」
「俺は高村洋一。よろしく」
「高村、洋一さんですね」
と、彼女は首を傾げて──
「どこかでお会いしたような……ああっ!」
「ど、どうしたの?」
こっちもびっくりするような声を上げた。
「あ、あなたは、以前学校で職員室の場所を教えてくれて、しかも、私を助けてくれた方……」
「そんなことがあったの?」
「ああ、まあな」
「あのあと、私が治ってからも名前もわからなくて、お礼も言えなかったんです」
「それはもういいって」
「本当にありがとうございました」
「え、えっと……」
改まってお礼を言われると、照れてしまう。
愛は愛で、いったいどういうこと、って表情でこっちを見てるし。というか、微妙に怒ってる気がする。
「あっ、そういえば、ひょっとして『真琴』という一年生を知っていますか?」
「え、ああ、知ってるけど、それが?」
「真琴は私の妹なんです」
「妹? 真琴ちゃんが?」
「はい」
……ああ、これは偶然なのだろうか。
真琴ちゃんにお姉さんがいるとは聞いていたけど。
なるほど、だから優美先生の話を聞いた時、引っかかったんだ。
「いつも真琴から話を聞いてます。私と同じ考えを持った人がいたって。絵も拝見しました。とても素晴らしかったです」
「そんなにたいしたものじゃないけど……」
ん? そういえば、なんか忘れている気が……って、しまった。真琴ちゃんだ。
「あのさ、ちょっと悪いんだけど急用があって」
「どこ行くの?」
「悪い。あとは頼んだぜ、愛」
「ちょ、ちょっとぉ……」
彼女のことは愛に任せ、俺は屋上へ走った。
この場合は仕方がない。休み明けに真琴ちゃんと会う約束をしていたんだから。
「はあ、はあ、いるかな……」
屋上へ着くと、すぐにあたりを見渡した。
「帰っちゃったのかな……」
この時間、用もないのに屋上にいる者はほとんどいない。
誰もいない、ということは──
「先輩、遅いですよ」
と、その時、後ろから声がした。
「真琴ちゃん」
ちょうどドアの陰から出てきたのは、真琴ちゃんだった。
「ごめん、ちょっと用を頼まれて」
「ふふっ、冗談ですよ。別に、時間まで決めてたわけじゃないんですから」
そう言って真琴ちゃんはにっこり笑った。
「あ、そうそう。真琴ちゃん」
「なんですか?」
「お姉さんに会ったよ」
「会ったんですか?」
「うん。最初は真琴ちゃんのお姉さんだって気付かなくてさ。そしたら、俺の名前を聞いて話してくれたんだ」
「お姉ちゃんが、話を、ですか?」
と、真琴ちゃんは怪訝そうな表情を見せた。
「どうかした?」
「いえ、たいしたことじゃないんですけど、お姉ちゃん、男の人と話をするの苦手なのに。しかも、初対面ならなおさら。どうしてかな?」
しきりに首を傾げている。
「う〜ん、それは俺にもわからないけど。あっ、ひょっとしたら、もう三回目だからかもしれない」
「三回目?」
「そう。一回目は、ちょうど転入試験の日。二回目は、これはたぶん知ってると思うけど──」
「ひょっとして、お姉ちゃんを家まで運んできてくれた男の人って──」
「うん、俺だね。そして、今日の三回目。だから、何回も会ってるから……って、どうしたの、真琴ちゃん?」
真琴ちゃんは、潤んだ瞳で俺の顔をじっと見ている。
「先輩っ」
「な、なに?」
「ありがとうございましたっ」
と、いきなりお礼を言われた。
「えっと……いったい、なに?」
「お姉ちゃんを助けてくれたこと、その他諸々です」
「あ〜、まあ、そっか……」
真琴ちゃんにそうされるいわれはないと思うのだが、とりあえず言わないでおく。
「ついでと言ったら失礼かもしれませんけど──」
「うん?」
「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」
「それは、どういう意味?」
「さっきも言ったように、お姉ちゃん、男の人が苦手なんです。前は女子校だったから問題なかったですけど、ここは違いますから。それに、すべて女の人とだけ、というわけにはいかないじゃないですか。その時に、先輩がお姉ちゃんのことを助けなくてもいいですから、少しは気にかけていてください」
少しだけ真剣な眼差しで、真琴ちゃんは俺に言う。
「真琴ちゃんは、お姉さんのことが好きなんだね」
「はい、大好きです。でも、先輩のことも、同じくらい大好きです」
「ま、真琴ちゃん……」
「大丈夫ですよ。私の『好き』は、お姉ちゃんに対する『好き』と同じものですから」
口ではそう言うけど、こればかりは鵜呑みにはできない。女心、乙女心は俺には永遠にわからんだろうからな。
「あっ、そうだ。先輩」
「ん?」
「今度、うちに来ませんか?」
「えっ?」
「お姉ちゃんも喜ぶし、それに見てもらいたい絵もあるんです。ダメ、ですか?」
真琴ちゃんは上目遣いに訊ねてくる。
そんな顔されたら、なぁ。
「まあ、特に断る理由もないから、いいけど……」
「ホントですか? あはっ、やった」
無邪気に喜ぶ真琴ちゃん。
俺としては、素直に喜んではいられない。
なんか、イヤな予感がする……
「ねえ、洋一」
「ん?」
「沙耶加さんとは、どんな関係なの?」
すべての用事を終え、俺たちは家路に就いていた。
その途中、愛がなんかものすご〜く恐い顔でこっちを見ている。
「……おまえなぁ、誤解してるだろ。俺だって彼女に会ったのは、今日を入れて三回なんだからな」
「でも……」
「ああ、わかったわかった。全部教えてやるから、そんな顔するな」
「うん……」
とは言ったものの、まだ俺のことを疑ってるみたいだ。
「いいか? 最初に会ったのは、転入試験の日。俺がたまたま学校へ行ったら、その時に廊下で職員室の場所を訊かれた。ただそれだけだ」
「ホントに?」
「質問はあと。二回目は、四日前に暑さにやられた彼女が車道に飛び出し危うく車にひかれそうになったのを、偶然近くにいた俺が助け、家まで送った。その時はお互いに名前すら知らなかったんだ。そして、今日、ようやく名前もわかった。そういうことだ」
「そう、だったんだ。じゃあ、ホントに知り合ったばかりなんだ」
「当たり前だ」
「でも、あの目は……」
「ん?」
「う、ううん、なんでもない。だけど、もうひとつ」
「な、なんだ、まだあるのか?」
「どうして洋一が沙耶加さんの妹さんのことを知ってるの?」
「なんだ、そのことか」
まったく、なにを聞いてくるのかと思えば。
「真琴ちゃん、あ、それが妹さんの名前な」
「あ、うん」
「真琴ちゃんは、俺の絵描き仲間だ」
「絵描き仲間?」
「ま、ちょっとしたきっかけで、時々一緒に絵を描いていたんだ」
「ふ〜ん……」
いまいち納得しきれてない様子。
「そうだ。今度うちに来るから、その時にちゃんと紹介するよ」
「えっ……?」
「いや、俺が描いていた絵の中に愛を描いたものがあってさ。それで一度会ってみたいって言ってたんだ」
「私の、絵?」
「あっ、いや、その、なんていうか、人物を描こうとすると、しかも女性を描こうとすると、自然に愛に似てくるんだ。だから、その……」
「わかったわよ。でも、今度からは私を描いたら、私にも見せてね?」
「あ、ああ、わかった。約束する」
「うん。じゃあ、行こ」
「あっ、こら、引っ張るな」
愛は、笑いながら俺の手を取って歩き出した。多少は機嫌も直ったかな。
「洋一」
「ん?」
と、また突然立ち止まった。
「私は、洋一だけだからね」
「……ああ、わかってる」
「うん。でも、あんまりほかの子と仲良くしないでね。心配になるから」
「なんだ、妬いてるのか?」
「ううん、私は洋一を信じてるから」
「ははは、それじゃ、その期待に応えないとな」
「あ……」
俺は、愛に軽くキスをした。
「んもう、バカ……」
「さ、帰ろうぜ」
「うん」
四
九月。暦の上では秋。
スポーツの秋、読書の秋、芸術の秋、食欲の秋。
俺の秋はどうなるのやら。
まあ、そんなことはどうでもいい。
今日は、真琴ちゃんがうちに来る日だ。
「先輩、おはようございます」
「おはよう、真琴ちゃん」
真琴ちゃんは当然、うちの場所を知らないから学校で待ち合わせた。
「ずっと楽しみにしてたんですよ」
「ん〜、そりゃプレッシャーだな。こんなことなら、もう少し気合いを入れて描けばよかったかも」
天才肌の真琴ちゃんに期待に満ちた目で見つめられると、余計緊張してしまう。たとえて言うなら、面接の時に面接官と向かい合っているような感じだ。
「先輩が気合い入れて描いたら、すごいものができあがりますね」
「そんなことはないよ。普段が適当だから、気合いを入れてようやくそれらしいのができるくらいだって」
「それこそ、そんなことないと思いますけどね」
なにかというと俺を持ち上げたがる真琴ちゃん。いったい俺のどこを気に入ったのか。まあ、気に入られて悪い気はしないけど。
学校から家までは適当に話をしながら、急ぐでもなく歩いた。
「ここがうちだよ」
そうこうしているうちに、家に着いた。だいたい十時過ぎだ。
「さ、入って」
「おじゃまします」
今日は幸いなことに姉貴も美樹もいない。つまり、余計な心配をしなくていいということだ。姉貴は言うに及ばずだが、美樹も相手が相手だといろいろやっかいだからな。
「こっちだよ」
階段を上がり、俺の部屋に案内する。
「こっちの部屋は、先輩のお姉さんや妹さんの部屋ですか?」
「ん、そうだよ。ふたりともいないけど」
部屋のドアを開ける。
「うわぁ、綺麗な部屋ですね」
「まあ、昨日掃除したからね」
本当に昨日は大変だった。普段から整理整頓を心がけていればそんなことはないんだろうけど。さすがに少しばかり改心した。
「あっ、適当に座ってて」
「はい」
悪いとは思ったけど、真琴ちゃんを部屋に残し、台所へ。
そこでいつものようにアイスレモンティーを作る。やっぱりお茶はこれに限る。
それから戸棚なんかを開けてお茶請けを探したが、なにもない。
「母さん」
リビングでくつろいでいた母さんに声をかける。
「どうしたの?」
「なんかお茶請けない?」
「なにもないの?」
「ない」
「そうね……じゃあ、なにか作るから、とりあえずお茶だけ持って行ってなさい」
「了解」
こういう時は母さんは本当に頼りになる。俺だけだったら、速攻でコンビニに買いに走らなくちゃいけなかったな。
俺はレモンティーだけ持って部屋に戻った。
「お待たせ」
真琴ちゃんは部屋の真ん中に置いてあるテーブルのところに、文字通りちょこんと座っていた。
「アイスレモンティーなんだけど、いいかな?」
「はい、問題ないです」
俺はコースターを置いてからグラスを置いた。
「じゃあ、早速見てもらおうかな」
いちいち座る手間を省くため、早速本題に入った。
クローゼットの奥から大きめのキャンバスを取り出す。
「よ……っと」
「楽しみ」
「これが今回の絵だよ」
俺は絵を真琴ちゃんの方に向けた。
「すごい……」
真琴ちゃんの口から漏れた最初の言葉は、それだった。
「先輩、すごいです」
「ははは、ありがとう」
「絵のイメージは、う〜ん……海の中の森、ですか?」
「まあ、当たらずとも遠からずだね。これは海ではなく空なんだ」
「空、ですか?」
絵を見ながら首を傾げる。
「そう。雲ひとつない真っ青な空。そして、森に見えるのが空を浮遊している、人間には絶対に見ることのできない『モノ』なんだ。それは生きているといえば生きているし、そうでないといえばそうでない。ようは、何者にも囚われない自由の象徴だね」
「心のイメージですか?」
「う〜ん、そうかもしれない。ひょっとしたら、知らず知らずのうちに自分の願望を描いていたのかも」
真琴ちゃん目の色が変わった。完全に絵を描く時の目だ。
「どうして色鉛筆なんですか?」
「柔らかい感じを出すのに色鉛筆が一番ぴったりだったから。絵の具と違って大変だったけど」
「…………」
黙って絵を見つめる。
あまりじっと見られると、ボロが出るかもしれない。
「先輩」
「ん?」
「私、感動しました。こんなにすごい絵、見たことないです」
「それは大げさだよ」
「いいえ、大げさじゃないです」
真琴ちゃんはぶんぶんと頭を振った。
「確かに有名な画家の絵には人を惹きつけるなにかがあります。先輩の絵にもそれはあります。でも、先輩の絵にあって画家の絵にないものがあります」
「それは?」
「それは、完成されていないところです」
「完成されていないところ……」
「画家の絵は、どこかその人独自に完成されたところがあって、見る人にそれ以上の余地を与えないんです。でも、先輩の絵にはまだまだ完成されていないところがあって、そこへ見る人が入り込めるんです。見る人との一体感。それに感動しました」
「そこまで言ってもらえると、描いた甲斐があったみたいだね」
「あっ、すみません。つい、生意気なことを言っちゃって」
「別に気にしなくていいよ。下手な褒め方より、そういう屈託のない意見の方が数倍いい。ありがとう」
「そんな……」
真琴ちゃんは、ちょっと照れたように俯いた。
「さてと、絵はこのくらいにして──」
「先輩、この絵はどうするんですか?」
「そうだね。今までだと、しばらくしたらみんな捨ててたけど……」
「私にくださいっ」
「えっ、でも……」
「捨てるなんてもったいないです」
う〜ん、そんな真剣な眼差しで見つめられても……
「真琴ちゃん」
「はい」
「俺がどうして絵を捨てるかわかる?」
「えっ、理由があるんですか?」
「俺が絵を捨てる理由は、新しいものを描くためだよ。前のがあると、どうしてもここがダメだったから今度はそうしないようにしようとか、よかったところを自然に真似することもあるかもしれない。そういう余計なことを考えないように、いつでも新しい気持ちで描くために捨てていたんだ。俺は別に画家じゃないしね」
「そうだったんですか……」
俺の話を聞いて、さすがに意気消沈。
「でも、真琴ちゃんが気に入ってくれたのなら、持っていってもいいよ。いや、是非持っていってほしい」
「でも……」
俺は真琴ちゃんの手を取った。
「ね、真琴ちゃん?」
「わかりました。持っていきます」
「うん、ありがとう」
ふう、とりあえず絵のことはこれでいいかな。
「じゃあ、今日帰る時に俺が運んでいくから」
「そんな……いいんですか?」
「もちろん。こんな絵をもらってくれるっていうんだから、当然だよ」
でも、本当にこんな絵、どこに置いておくんだろ。
「先輩」
「ん?」
絵を立てかけていると、真琴ちゃんがなにか気付き声をかけてきた。
「あれは、なんですか?」
「ん? ああ、あれね」
真琴ちゃんが気にしていたのは、机の上に張ってある一枚の絵だった。
「これはね、俺の夢なんだ」
俺は、その絵を外した。
「夢?」
「俺の父親は外交官をしていてね、一年に何回も外国へ行くんだ。そして、いろんな外国の話を小学校へ入る前から聞いていてね。いつからかその話に夢中になってたんだ。まあ、子供は単純だからね」
「…………」
「そして、そのうちこう思うようになった。いつか世界中をまわりたい。もしそれがかなったら、最初に行こうと思ってるのが、この絵の場所だよ」
「これ、どこなんですか?」
「フランスの城から見た風景だよ。フランスの西部にロアールという地方があるんだけど、そこに残っている古城から、名もない画家が描いたものだよ。実を言うと、絵を描こうと思ったのもその絵を見てからなんだ」
「大切な絵なんですね」
「まあ、そうだけど。でも、まだまだ実現できそうにはないね」
絵を受け取り、元に戻した。
「でもね、このことは今まで誰にも言ったことなかったんだ」
「えっ、本当ですか?」
「そうだよ。ま、誰も聞いてくれなかったっていうこともあるけど」
「ふふっ、なんか先輩のことがまたひとつわかったような気がします。お姉ちゃんには内緒にしとこっと」
そう言って真琴ちゃんは笑った。
ちょうどその時、ドアがノックされた。
「洋一。ちょっと開けて」
ドアを開けると、お盆を持った母さんが立っていた。
「お待たせ」
「あっ、いい香り」
「クッキーなんだけどね」
「美味しそう」
「さ、どうぞ」
「いただきます」
母さんは料理だけじゃなく、お菓子作りも得意だ。その中でもクッキーはかなりのものだと思う。材料は常に揃えてあるし。下手な店で買ってくるより、よっぽど旨いクッキーが食える。
「美味しい……」
「ふふっ、どういたしまして」
「こんなに美味しいクッキー、はじめてです」
「あらあら、ずいぶんと褒めてもらったわね。でも、ハーブクッキーなんて口にあったかしら」
「はい、とっても美味しいです。なんか、幸せって感じがします」
「ふふっ」
真琴ちゃんの言葉に、母さんは満足そうに微笑んだ。
なんとなく、こういう時は俺は蚊帳の外だな。
「ゆっくりしていってね」
「はい」
母さんは、上機嫌で下に下りていった。
「先輩のお母さん、料理が上手なんですね」
「まあね」
「料理が上手な人って、すごいなって思います」
「そう?」
「私がただ単に下手なだけなんですけどね」
そう言って苦笑する。
「料理も絵と同じだと思うよ。いろいろ試して、苦労して失敗して、その中から自分の納得できるものを見つけていく。絵でそれができている真琴ちゃんなら、料理でだってそれができるはずだよ」
「そう、ですかね?」
「うん、必ず」
真琴ちゃんは、普通の人よりもひとつのことに集中できる能力を持っている。だから、それを料理なりなんなりに活かせれば、きっとなんでもできるようになる。
「あ〜あ、ホントに惜しいな」
「どうしたの?」
「先輩はこんなに優しくて素敵なのに、好きな人がいるなんて」
「はは……はは」
「でも──」
真琴ちゃんは、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「今日は私が独り占めしちゃいます」
「ま、真琴ちゃん……」
言うや否や、俺に寄りかかってきた。
「先輩……」
微妙に瞳が潤んでるような気が……
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「な、なに?」
「もし、私がお姉ちゃんのように突然倒れても、助けてくれますか?」
「もちろんだよ」
「それは、私だとわからなくてもですか?」
「うん、放ってはおけないからね。それに、助けなかったら絶対後悔するだろうし」
「ふふっ、やっぱり先輩は先輩ですね」
「どういうこと?」
「内緒です」
いったいなにを確認したかったのやら。
まあ、今日は真琴ちゃんはお客だから、真琴ちゃんが楽しければそれでいいんだけど。
それからは特にこれと決めず、真琴ちゃんが興味を示したことを中心に話をしていた。
一番興味があったのは、アルバムだった。とにかく興味津々で、気になる写真のシチュエーションを聞いてきては、妙に納得していた。
とはいえ、話の中心は絵が多かった。まあ、お互いを結びつけているのが絵なのだから当然か。
三時をまわった頃。
「真琴ちゃん。ちょっと待っててほしいんだけど、いいかな?」
「はい、それは構いませんけど」
俺は真琴ちゃんを部屋に残して玄関へ。
「どこ行くの?」
「ちょっと愛のところへ」
足音に気付いた母さんが俺に声をかけた。
「愛ちゃん? どうして?」
「まあ、いろいろあるんだよ」
首を傾げている母さんをそのままに、俺は外へ出た。
すぐさま森川家の呼び鈴を押す。
いつものことながら、インターフォンを利用しない家だ。
パタパタと足音が聞こえて、玄関が開いた。
「あれ、洋一?」
出てきたのは愛だった。
「どうしたの?」
「今、時間あるか?」
「時間? うん、あるけど」
「じゃあ、この前の約束通り、山本さんの妹の真琴ちゃんを紹介するよ」
「えっ、でも……」
「いいから」
「あ……」
俺は半ば強引に愛を連れ出した。
「んもう、わかったから……」
「あ、悪い」
「ホント、強引なんだから」
そう言いながらも、それほど怒っている様子はない。
「さあ、入ってくれ」
「おじゃまします」
俺は少し急いでいた。
なぜかというと、もうすぐ夕方になる。そうすれば姉貴や美樹が帰ってくる。その時に愛はいいとしても、真琴ちゃんまで部屋に連れ込んでいれば少なからずなにかが起きる。避けられることならそういうことは避けたい。
「お待たせ」
部屋に入ると、真琴ちゃんは出しっぱなしだったアルバムを見ていた。
「ほら、入れよ」
「う、うん」
「あっ」
「紹介するよ。よく俺の絵に出ていたモデル」
「森川愛です。よろしくね」
「あっ、山本真琴と言います。うわぁ、やっぱり絵よりも本物の方が綺麗ですね」
真琴ちゃんの素直な感想に、愛は返す言葉もなく照れている。
「ま、立ち話もなんだから、座ってくれ」
「うん」
俺たちはちょうどテーブルに三角形に座った。
「ふたりにはそれぞれ簡単にお互いのことを話してあるからわかってるとは思うけど」
「真琴ちゃんは、沙耶加さんの妹さんなのよね?」
「はい。学校がはじまってから、おふたりのことがよく話題に出てきます」
「へえ、どんなこと?」
「とても仲が良くて、話していても楽しいし、すぐに友達になれてよかったって」
「それは光栄だな」
「なに言ってるのよ」
とりあえずファーストインプレッションは問題なし、と。
「先輩と森川先輩は、幼なじみなんですよね?」
「うん。まあ、俺たちくらいになると、単なる幼なじみというわけでもないけど」
「確かにね。生まれてからずっと一緒だったから」
「そんなになんですか?」
「たまたま病院が一緒だったんだよ。誕生日は俺の方が早いんだけど、産後の検査やなんかでたまたま一緒になって、話をしたら家まで近くで」
「なるほど」
まあ、本当に俺たちみたいな幼なじみは珍しいだろうな。
それに、そういうのは本人たちじゃないとまずわからない。
「先輩は、森川先輩のことをよく知ってるから好きになったんですか?」
「ん、まあ、それも理由のひとつではあるけど」
俺はちらっと愛を見た。
「ん〜、じゃあ、あとはやっぱり魅力的で綺麗だからですか?」
「外見がまったく関係ないと言わないけど、それほど重要ではないよ」
「そうなんですか?」
「そりゃ、いいに越したことはないけど。でもやっぱり最後は中身だと思うから。見てくれだけに惹かれてつきあっても、あとで本性を知って別れる、なんてこと多々あるし」
とはいえ、それは実際は難しいと思う。俺たちは幼なじみだったから、お互いのことを知り尽くしていた。でも、普通はほとんど知らないところからはじまる。じゃあ、なにを基準にするかといえば、やっぱり見てくれだろう。
だから、俺の言ったことはあくまでも理想論でしかない。それを強要する気はさらさらない。
「私も、森川先輩みたいになれますかね?」
「なにを基準に愛みたいになれるか聞いてるのかわからないけど、別に愛みたいになる必要はないよ。真琴ちゃんは真琴ちゃんらしく。それが一番」
「それはそれでわかってるんですけど……」
「なにか問題でもあるの?」
「うちには、お姉ちゃんがいるので」
あ〜、なんとなく真琴ちゃんの考えてることがわかった。
「よく言われるんです。真琴は『カワイイ』ねって。それはそれで嬉しいんですけど、そういう時のお姉ちゃんは『綺麗』だねって言われてますから。たったひとつ違いの姉妹なのに、その差はどうなのかなって」
俺と愛は、顔を見合わせた。
「もちろん、私がお姉ちゃんになれるはずもないですから。ただ、もう少し違うように見られるようになってもいいのかな、って」
そう言って苦笑する。
確かに、真琴ちゃんは若干子供っぽいところがある。それは言動や見た目など、いろいろなところにだ。
それに比べて山本さんは、年不相応に大人っぽい。
姉妹が一緒にいれば、比べられるのは当然だろう。
うちの姉貴と美樹くらい年が離れてれば問題もないんだろうけど。
「真琴ちゃんは、今の自分が嫌い?」
「いえ、そんなことはないです」
「だったら、あまり余計なことは考えない方がいいと思うよ。人のことをあれこれ考えてても、結局その人になれるわけじゃないんだから、しょうがない、で終わっちゃうだけだし。それにね、私みたいになれるかなっていうのは、私にとってはどうして、としか思えない。だって、真琴ちゃんには真琴ちゃんにしかないよさがあるんだから。それはきっと、私にとっても羨ましいことだろうし」
愛の言葉に、真琴ちゃんは少し考え込んだ。
「それに、今はまだ『カワイイ』かもしれないけど、もう少し成長すればそれも変わってくると思うよ。だって、あの沙耶加さんの妹さんなんだから」
姉妹が似てなくちゃいけないことはないけど、たいていは似ている。となれば、将来的に真琴ちゃんもああなる可能性はある。
うちだって、将来的に美樹が姉貴みたいになる可能性もある。あまり考えたくないけど。
「真琴ちゃんは真琴ちゃんで、自分に自信を持って。ね、洋一?」
「人を羨むのは簡単だけど、自分を貫き通すのは難しいから。真琴ちゃんは真琴ちゃんらしく。それが一番だよ」
俺たちにそう言われ、真琴ちゃんは多少は吹っ切れたようだ。
「あ、そうだ。森川先輩」
「ん?」
「どうしたら先輩みたいな彼氏を見つけられますか?」
「ぷっ!」
その質問に、俺は飲んでいた紅茶を少し吹いてしまった。
「えっと、それは……」
さすがの愛も、返答に困っている。というか、俺の方を見られても困るのだが。
「見つける方法はわからないけど、見つけようという努力はした方がいいかも」
「努力、ですか?」
「うん。自分が相手にどんなことを求めているのかちゃんと考えた上でね」
「……なるほど」
無難な答えに逃げたか。確かに、それ以上は答えようがない。
「あ、私そろそろ帰らないと」
と、愛が時計を見てそう言った。
「なんだ、もう帰るのか?」
「うん。ちょっと頼まれてることがあって」
「ならしょうがないか」
「真琴ちゃん。今度は一緒に遊びに行こうね。もちろん、洋一のおごりで」
「えっ……?」
「はい」
まったく、なにを言い出すのかと思えば。
俺は愛を玄関まで送る。
「洋一」
「ん?」
「なんとなくね、洋一が真琴ちゃんのことを気にかけてる理由がわかった気がする」
「ほお、それはなんだ?」
「洋一にとって真琴ちゃんは、もうひとりの『妹』なのよね。美樹ちゃんとはまた違った意味で放っておけない」
「ま、確かに」
「真琴ちゃん自身も、洋一のことを『先輩』というよりは『お兄さん』という感じで見ているし」
それもなんとなくはわかっていた。
「だから、ちょっとだけ安心した」
「安心?」
「うん。いくら後輩といっても、やっぱり女の子だから」
「……あ〜、なるほど」
「洋一のこと、信用してるから」
そう言って愛は帰って行った。
「……なんだかな」
部屋に戻ると、真琴ちゃんに言われた。
「先輩」
「ん?」
「今日、わかりました」
「なにが?」
「先輩は私の優しい『お兄さん』だって。きっと、本当のお兄さんを持つと、こんな気持ちなんだなって」
「真琴ちゃん……」
「ふふっ、今度から『お兄ちゃん』て呼ぼうかな」
「はは、は……」
これは結構本気だな。
まあ、そう割り切ってくれるならそれはそれでいいけど。
「私もそろそろ帰ります」
「じゃあ、送っていくよ。これもあるし」
そう言って俺は絵を叩いた。
家を出た俺たちは、近道ということもあって学校を通って行くことにした。
「先輩。今度はうちに来てくださいね」
「うん、そうするよ」
「お姉ちゃんも楽しみにしてますから。ふふっ」
えっ? 山本さんが? いったいどうして?
まあ、わからないことを考えててもしょうがないので、早々に頭を切り換えた。
それから陽が傾きだした頃に、山本家に到着した。
「じゃあ、また学校で」
「はい。今日はありがとうございました」
「たいしたことはしてないけどね」
「では、また学校で。大好きな、洋一お兄ちゃん」
「へ……?」
真琴ちゃんは笑顔のまま家の中に消えた。
「洋一お兄ちゃん、か……」
美樹以外にそう言われるとはな。
なんとなく不思議な気分で歩いていると──
「お兄ちゃん」
美樹と会った。
「どうしたの、こんなところで?」
「ん、ちょっと用があってな」
「ふ〜ん。その用って、もう終わったの?」
「ああ」
「じゃ、一緒に帰ろ」
美樹は、嬉しそうに俺の隣に並んだ。
「今日はね──」
美樹は、今日あったことを俺に楽しそうに話してくる。
こうしてると、確かに美樹も真琴ちゃんも『妹』なんだよな。
どっちがどっちというわけじゃないけど。
「ん、どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや、どうもしないぞ」
「そう? また愛お姉ちゃんのこと考えてるのかと思った」
「……なんでそこで愛が出てくるんだ?」
「だって、お兄ちゃんと愛お姉ちゃんは、恋人同士だし」
……どうも美樹は恋人という関係を激しく誤解している。そんな四六時中相手のことを考えてるわけない。
「別に恋人同士だからって四六時中相手のことを考えてるわけじゃないって」
「そうなの?」
「当たり前だって」
「そうなんだ」
「ま、美樹にも彼氏ができればわかるさ」
「う〜ん、私はまだ彼氏はいらないかな」
「そうなのか?」
「うん。今はまだ、お兄ちゃんが一番だから」
そう言って腕を組んできた。
やれやれ。これは本当に当分彼氏は作りそうにないな。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「もし私に好きな人ができたら、どうする?」
「別にどうもしないだろ」
「むぅ、どうして?」
「そりゃ、おまえの好きな奴だからな。俺には関係ないし」
なにやら俺の答えは気にくわないらしい。
「相手がどんな人か、気にならないの?」
「多少は気になるけど、俺がとやかく言う問題でもないし」
「……むぅ、お兄ちゃんのバカ」
「なにがバカなんだよ」
「知らないよ」
そう言って美樹はむくれた。
本当にこのブラコン妹は……
「あ〜あ、せっかくアイスでも買ってやろうかと思ったのに」
「えっ……?」
「なんか機嫌悪そうだし、このまま帰るか」
「ああ、ウソウソ、全然機嫌悪くないよ」
「本当か?」
「うん」
まったく。
「じゃあ、コンビニ寄ってくか」
「うんっ」
妹のご機嫌取りもなかなか面倒だ。
とはいえ、美樹の嬉しそうな顔を見られるなら、安いものかもしれないけど。
五
「おはようございます」
「あっ、おはよう」
昇降口に入ったところで山本さんに会った。
今日は少し用があったので愛とは別々に来ることにしたのだ。だから、今はひとり。
「早いんですね」
「いや、今日はちょっと用があって。山本さんはいつもこの時間なの?」
「はい。学校でゆっくりしていたいので」
「ふ〜ん、なるほど」
俺の場合は家でゆっくりしてたいけど、彼女は違うんだな。
「それで、どのような用があったんですか?」
「ん、ちょっと美術室にね」
「美術室、ですか?」
「いや、実はね、美術室から俺の持っていない筆と絵の具を借りていたんだけど、返すのをすっかり忘れていて。で、思い出したのはいいんだけど、真っ正面から返すのも気が引けて、こうして朝早くにこっそり返しておこうと思って」
「ふふっ、そうだったんですか」
「じゃあ、そういうことで──」
「あ、あの」
と、呼び止められた。
「どうかした?」
「私も一緒に行っていいですか?」
「それは別に構わないけど、なんにもないよ?」
「はい」
よくわからないまま、彼女とともに行動することになった。
考えてみれば、彼女がうちの学校に来てから話は結構してるけど、ふたりだけで、というのは一度もなかったな。いつも愛が一緒だったから。
階段を上がり、美術室へ。
日中なら美術準備室の廊下側のドアが開いてるんだけど、この時間は開いてない。美術室の方から入らないとダメだ。
美術室に入ると、絵の具や石膏の独特の臭いが鼻をつく。
「こっそり返しておいて……」
準備室に筆と絵の具を返す。まあ、厳密に言えば絵の具は使ったわけだから、ちゃんと返してることにはならないけど。
「これでよし。ごめん、つきあわせちゃって」
「いえ、私がお願いしたんですから」
そう言って彼女は頭を振った。
「そういえば、山本さんは──」
「あの、高村さん」
「うん?」
「その、ですね、できれば私のことは、名前で呼んでほしいんですけど……」
「名前で? それは構わないけど、なんか不都合でもあった?」
「いえ、そういうわけではないんですけど。あ、もし真琴が一緒だと、名字だとどっちのことかわかりませんし」
「ああ、なるほど。確かにそうだね。じゃあ、これからは……ん〜、沙耶加、ちゃんて呼ぶよ」
「あ、はいっ」
俺がそう言うと、山本さん、もとい、沙耶加ちゃんは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、そういうことなら、沙耶加ちゃんも俺のこと名前で呼んでよ。せっかくだし」
「あ、えと、じゃあ……洋一、さん」
「うん」
たぶん、このやり取りをほかの連中が見たら、アホだなぁと思うんだろうな。
ま、確かに名字より名前の方が親しい感じもするし、これはこれでいいのかも。
「で、改めてなんだけど、沙耶加ちゃんは絵を描いたりしないの?」
「ええ、見るのは好きなんですけど、真琴のように描くのは……」
「なるほど。じゃあ、沙耶加ちゃんはどんなことが好きなの?」
「私は……」
ちょっと図々しく聞きすぎたかな?
「あっ、別に無理して答えなくてもいいから。ちょっと無神経に聞いちゃったから」
「あっ、そういうわけではないんですけど……あの、笑わないで聞いてくれますか?」
「もちろん」
沙耶加ちゃんは、小さく頷いてから答えた。
「私は、読書や料理なんかも好きなんですけど、一番好きなのは……その、詩を書くことなんです。その日にあった出来事の中で印象に残っていることを書いたり、時にはまったくの思いつきで書いたりもしますが……ちょっと変わってますよね?」
「そんなことないよ」
「えっ……?」
「だって、詩を書くって心や感性が豊かな人じゃないとできないことだから。素晴らしいことだと思っても、変わってるなんて思わないよ」
沙耶加ちゃんは意外そうな表情で見ている。
「それに、俺にも似たような、まあ、いわゆる趣味があるし」
「それって、なんですか?」
「実は、昔から曲を作ってはいたんだけど、どうも最近は物足りなくなってきて、とうとう詞をつけるようになったんだ。だから、同じだよ」
「洋一さんて、なんでもできるんですね」
「あっ、いや、絵にしても作曲にしてもみんな独学だし、たいしたものじゃないよ」
「でも、すごいです。私も見習いたいくらいです」
「ははは、それは大げさだよ」
「いえ、そんなことは……」
俺のことを認めてくれるのは嬉しいけど、ちょっと過大評価し過ぎだな。
と、廊下がだいぶ賑やかになってきた。
「そろそろ教室に行こうか?」
「あっ、はい」
とりあえずそこで話を終わらせて教室へ向かった。
それにしても、思わぬところで沙耶加ちゃんのことがわかったな。せっかく知り合ったんだから、少しくらい知ってないと。
それと、やっぱり沙耶加ちゃんは綺麗だ。笑い方ひとつ見ても上品だし、今まで俺のまわりにいなかった感じの子だよな。
彼女には愛とは違った魅力を感じる。
愛とは一緒にいて楽しいとか、あの明るさでこっちまで明るく、暖かくなれるっていう感じで。沙耶加ちゃんは、なんかこう、守ってあげたくなるような、それでいて妹のような存在でもないし。とにかく、気になる存在ではある。
ま、それは沙耶加ちゃんが俺に好意的に接してくれてるっていうのもあるんだろうけど。
「──おい、洋一、どうしたんだ?」
「……ん、いや、なんでもない」
「変な奴だな、ボーッとして」
昼休み。俺は久しぶりに亮介と過ごしていた。
「そういや、おまえのところに来た転校生。確か……山本さん。やっぱり元女子高生ということもあって、うちの学校の女子とは違うよな」
「なんだ、またはじまったのか?」
「いや、ああいう子はちょっと俺にはあわない。でも、カワイイというよりは綺麗だよな、彼女」
「まあ、確かに」
「そういや、おまえのこと知ってたんだってな?」
「ま、いろいろあってさ」
「それに、教室では席も近くだっていうし。まったく、世の中不公平だよな」
「なんだよ、突然?」
「だって、おまえには愛ちゃんがいるだろ。それに、優美先生や由美子先生のウケもいい。美香さんや美樹ちゃんも綺麗でカワイイし。どうしておまえのまわりだけそんなに集まるんだ? だから、不公平だって言うんだ」
なにを言い出すかと思えば。
「それは、たまたまだろ。それに、優美先生や由美子先生は俺だけじゃなく、みんなに優しいだろ。しかも、姉貴と美樹は家族なんだから、文句を言われても困る」
「ま、それもそうだな」
「ん、なんだ、今日はすんなり認めるんだな」
「俺だってな、成長してるんだ」
なにを偉そうに。
「なんのきっかけもなく成長するわけないな。なにがあった?」
「くくっ」
と、亮介が低く笑った。
「実はな、俺、今つきあってる子がいるんだ」
「……マジか?」
「おお、マジだよ。うちの学校の子じゃないけど、夏休みに知り合って、それからとんとん拍子で」
いや、まさかそんなことになってるとは。
「亮介、おめでとう」
「ありがとう。やっぱり素直に喜んでくれるのは洋一だけだな」
「なに言ってんだ。俺とおまえの仲なんだからさ。それに、親友の幸せを願わない奴はいないって」
「洋一。おまえ、ホントにいい奴だな」
「なんだ、今頃気付いたのか」
「ちぇっ、せっかく褒めてやったのに」
「冗談だよ、冗談」
確かに素直に喜んではいるけど、実は、それだけじゃない。こいつがある程度落ち着けば、あまりバカなことを言ったりやったりしなくなる。そういう計算もしてある。
「洋一」
「ん?」
「いくら選り取り見取りだからって、おまえ自身がしっかりしてないと、とんでもないことになるぞ」
「……ご忠告、肝に銘じておくよ」
なんとなく、その忠告は本当に肝に銘じておく必要がありそうだった。
本当になんとなくなんだけど。
放課後。
「高村くん。ちょっといいかしら?」
「あっ、はい」
ホームルームが終わって、さあ帰ろう、というところで優美先生に呼び止められた。
「ちょっと時間がかかるかもしれないから」
「じゃあ、先に帰ってるね」
「ああ、わかった」
一緒に帰る予定だった愛は、それを聞いて先に帰った。
「それじゃあ、一緒に来て」
俺は、先生について職員室へ。
「さて」
放課後の職員室は、なにかと慌ただしかった。
「来月は運動会ね」
「そうですね」
「そこで、高村くんにお願いがあるの」
「……なんですか?」
微妙にイヤな予感がする。
「みんなのまとめ役、お願いできないかしら?」
「……それは、クラス委員だからですか?」
「そう捉えられてもしょうがないけど、私としてはそういうことで頼んでいるわけじゃないの」
「では、どうして俺なんですか?」
そういう理由じゃないとすると、いったいなんなのか。
「高村くんはクラスのみんなをまとめるのが上手いわ。まあ、クラス委員として森川さんがいたということもあるでしょうけど。でも、それだけではないと思うの。高村くん自身の力でもあると思うわ」
「…………」
「それに、高村くんはスポーツが得意だし。でも、一番重要なのは、部活に入っていないっていうことね」
「……部活に?」
「やっぱり部活に入ってると大変でしょ。特に三年生が引退して、どの部活も二年生が中心になっているから。だから、高村くんにお願いしてるの」
「はあ……」
優美先生の言い分はよくわかった。俺のことは置いといても、とりあえず反論のしようがない。
「どう? 引き受けてくれる?」
う〜ん、どうせここで断ってもやる奴はいないだろうな。で、結局は俺のところに戻ってくる、と。
「……わかりました。やります」
「ありがとう、高村くん」
ま、しょうがないか。これもクラス委員になった運命とあきらめよう。
「それと、もうひとつあるの」
「もうひとつ、ですか」
「山本さんのことなんだけど」
「へ?」
思いも寄らないことを言われ、思わず間抜けな声を上げてしまった。
「どうかしら? みんなと上手くやってる?」
「あ、そうですね、女子とは上手くやってますけど、男子とはもう少しですかね」
「そうね、やっぱり女子校にいたから。あっ、でも、高村くんとはよく話してるみたいだけど」
「ええ、席も近いということもあって。それに、以前にいろいろあったので」
「あら、面白そうな話ね。是非聞かせてほしいわ」
……しまった。余計なことを言った。
先生は興味津々という表情でこっちを見てるし。
「……はあ、わかりました。話します」
「そうこなくっちゃ」
なんだかな……
俺は、ごくごく簡単に説明した。
「へえ、そんなことがあったの。なるほど、だから彼女も高村くんのことだけはすんなり受け入れられたのね」
優美先生は、しきりに頷いている。
「でも、名前も告げないで去るなんて、きっと彼女にとって高村くんは『王子様』か『ナイト』かもしれないわね」
「ま、まさか、そんな……」
「わからないわよ。特に彼女は男の人に対する免疫がほとんどないみたいだから。となると、そういうことの印象はかなり強いはず」
先生の言い分は正しいとは思う。だけど、それを認めるということは、それはそれでとんでもないことになる。
「ふふっ、悩んでるわね。でも、少しは心当たりがあるんじゃない?」
「いえ、そんなことは……」
「まあ、いいわ。ありがとうね。運動会のことはあくまでもまとめ役だから、基本的にはみんなにもしっかりやってもらって、その上でだから。だから、あまり心配しないで」
「はい」
「じゃあ、用件はそれだけだけど……まだここにいて話の続きでも、する?」
「い、いえ、帰ります。さ、さような」
「ふふっ、また明日」
俺は、大慌てで職員室をあとにした。
あまりにも先生のつっこみが激しくて、こっちはもはやグロッキー状態だ。
「さっさと帰ろ……」
これ以上学校にいるとなにがあるかわからない。
俺は教室に戻り、カバンを持ってさっさと帰ることにした。
「……と、今何時だ?」
下駄箱前で、時間を確かめようとした時──
「洋一さん」
「沙耶加ちゃん」
思わぬところから声がかかった。
というか、予想外の人物から声がかかった。
「ど、どうしたの? あっ、ひょっとして、待っててくれたとか?」
「えっ、あ、はい……」
沙耶加ちゃんは、恥ずかしそうに俯いた。
なんというか、すごく初々しい。
「そっか。それじゃあ、悪いことしたね。ずいぶん待ったんじゃない?」
「いえ、そんなことは……」
「よし、お詫びに家まで送るよ」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。さ、行こうか」
「は、はい」
内心落ち着かないところはあったけど、変に意識しないように注意しながら、沙耶加ちゃんと表へ出た。
沙耶加ちゃんの家はうちとは反対側なので、裏門から学校を出た。
「でも、どうして俺を待ってたの?」
「それは、その……もう少し洋一さんとお話しがしたかったので……」
「話って、朝の話?」
「はい……」
わざわざそんなことのために待っていてくれたなんて。ちょっと感動。
「そういえば、今度うちに来られるんですよね?」
「あっ、うん。真琴ちゃんとの約束だからね。でも、どうして?」
「もしよろしかったら、私にも少しつきあっていただけないでしょうか?」
「それは構わないけど、なんだったら別の日にゆっくりの方が──」
「い、いえ、そこまでしていただかなくても。たいしたことはでないですから……」
「そう? それならいいけど」
「はい」
そんな約束をしつつ、俺たちはゆっくりと歩いていった。
家に着くまでの間、いろいろな話をした。
特に沙耶加ちゃんの趣味の話で盛り上がった。といっても、俺はほとんど聞き役だったけど。
沙耶加ちゃんは、料理が得意で、もはや趣味とは言えないくらいのレパートリーがあるそうだ。とはいえ、料理人になりたいということでもないらしい。
本当に趣味で料理をしているらしい。で、今度家に行った時、なにか作ってくれるそうだ。それだけ料理をやってるからには、腕前も相当だろう。うん、今から楽しみだ。
「洋一さん、ありがとうございました」
「ううん、たいしたことはしてないよ」
「それでは、また」
「うん、また明日」
沙耶加ちゃんは、丁寧にお辞儀して家に入った。
その帰り道。
俺は自然と沙耶加ちゃんのことを考えていた。
少しずつ、確実に、俺の中で沙耶加ちゃんの存在が大きくなっている。
「沙耶加ちゃん、か……」
俺には愛という彼女がいるのに。
本当に、これからどうなるのやら……
六
「お兄ちゃん、入るよ」
「ん、ああ」
部屋でくつろいでいると、美樹がやって来た。
「どうした?」
「お兄ちゃんにお願いがあるんだけど……」
美樹は、少し俯き加減にそう切り出した。
「なんだ、言ってみな」
「あのね、曲を作ってほしんだけど、ダメかな?」
「なんで曲を?」
「……それがね、今日学校で友達と話をしていたら、みんなの兄弟の話になったの。それで私がお兄ちゃんのことを言ったの」
「なんて?」
「お兄ちゃんはなんでもできるんだって。絵も描くし、曲も作るし。そしたらみんな信じなくて。それで悔しくて絶対に聴かせるって言っちゃったの」
「……なるほど」
「私、自分のことを悪く言われてもいいけど、お兄ちゃんのことを言われるのは我慢できなくて……だから……」
美樹は、今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
「ごめんなさい……」
まったく、しょうがないな。
「私、結局お兄ちゃんに迷惑かけてるよね……やっぱり……」
たとえ妹であろうと、悲しい顔は見たくない。
「あ……」
自然と美樹を抱きしめていた。そうしなければならないような気がしたからだ。
「別に迷惑だなんて思ってない。だから……」
「お兄ちゃん……ぐすっ……」
あ〜あ、泣き出した。嬉しい時の涙はいいんだけど、こういう涙は対処に困る。
「ほら、泣くな。美樹が俺のことを思って取った行動なんだから、嬉しいとは思っても迷惑だなんて絶対に思わない」
「でも……」
「だったら、その友達に言ってやればいい。ウソじゃないでしょ、って。曲は作るから、泣くなよ」
「ひっく……うん……」
やれやれ、どうにか収まったか。
「美樹。あんまり片意地張るなよ。少しくらい俺のことを言われたくらいで──」
「ダメっ! それは絶対ダメっ!」
と、いきなり大声を出した。
「だって、だって……お兄ちゃんは私のすべてだもん。世界で一番大好きな人……」
「美樹……」
「だから、絶対にダメなの……」
「……わかったよ。もうそのことはいいから、な」
「うん……」
俺には美樹の気持ちが痛いほどわかった。俺にも似たような経験があるからだ。
俺が小学生の時、なにかといえば突っかかってくる、まあ、ライバルのような奴がいた。いつもは口喧嘩や多少のとっくみあいで終わっていたんだけど、その日は、キレた。
そいつは自分が劣勢にまわると、姉貴のことを口にした。
前にも言ったと思うけど、俺にとって姉貴ははじめて『女』というものを自覚した、単なる姉貴以上の大切な存在だった。
俺と姉貴は外でも結構仲が良かったから、俺のまわりの連中はたいてい姉貴のことも知っていた。中にはおもちゃにされてた奴もいたくらいだ。
だから、そいつも当然姉貴のことは知っていた。
そんな姉貴のことを、そいつは悪く言った。なんて言ったかは、思い出したくもない。
その時、俺は生まれてはじめて、最初で最後、人を憎いと思った。
そして、気付いた時には先生に押さえつけられていた。
俺は、そいつを力の限り殴っていた。必死に謝るのも無視して。
当然怒られた。先生にも、父さん、母さんにも。
だけど、俺は本当のことはひと言も言わなかった。言えば姉貴に迷惑がかかると思ったからだ。
そのことは俺の心の中にだけしまっておくつもりだった。
だが、程なくして誰かが先生に言ってしまった。そうなれば当然、うちにもその話は伝わってくる。
父さんと母さんは、今度はなにも言わなかった。
でも、真相を知った姉貴は、ものすごく怒った。今まで見たことのないくらいに。
その時、俺は美樹と同じようなことを姉貴に言った。
姉貴も今の俺のようなことを言った。
俺は後悔した。
姉貴のためにやったことが、逆に姉貴を苦しめてしまったことに。
それを理解しているからこそ、俺は美樹を怒らなかった。怒れば美樹を苦しめてしまう。自責の念に駆られるわけだ。
俺にとって、そっちの方が耐えられない。
もちろん、怒らなくても自分を責めるだろう。でも、美樹ならちゃんと言えばちゃんと理解できる。
だからこそ、俺は怒りもせず、あまり言わなかったのだ。
「ごめんなさい……ホントにごめんなさい……」
「もういいって。俺にとってはそういうことを言われるより、美樹の悲しそうな顔を見る方がよっぽどつらいよ。だから、笑ってくれ」
「うん……」
美樹は、一生懸命に笑顔を作ろうとするが、どうしてもダメだった。
このまま部屋に戻しても、どうせ泣きじゃくるだけだろう。
ふう、しょうがない。
「美樹、今日は一緒に寝よう」
「えっ……?」
「そのままの美樹を放っておけないからな」
「お兄ちゃん……」
「だけど、ひとつだけ約束してくれ。もう泣かないって」
「うん、わかった。約束する」
「よし、それでこそ美樹だ」
そう言って俺は美樹の頭を撫でた。
それから風呂に入ったり寝る準備をしたり、バタバタと慌ただしく動きまわる。
で、だいたいいつもと同じくらいには、ベッドに入っていた。
「お兄ちゃん……」
「ん?」
美樹は、俺の袖をちょこっとつかみ、ささやくように言った。
「ありがとう……」
「気にするな」
つかまれていない反対の手で頭を撫でる。
「いいか? 明日になったらいつもの美樹に戻るんだぞ」
「うん……」
「それならもう寝な」
「うん、おやすみなさい、お兄ちゃん……」
「おやすみ、美樹……」
「あ……」
俺は、額にキスをした。
美樹は一瞬驚いていたが、笑顔で眠りについた。
そんな大切な妹の寝顔を見ながら、俺も眠りに落ちていった。
しかし、次の日から俺にはある種地獄のような日がはじまった。
曲作りが思うようにいかなかったのだ。
持っているCDを片っ端から聴いて、少しでもイメージを膨らませようとしたが、結果はボツ。
学校にいても頭の中ではそのことがまわっていて、ほかのことは手につかなかった。
しかし、約束したからには破るわけにはいかない。
そうすると余計効率が悪くなる。
曲ができない。
まさに地獄のような日だった。
そして、苦心惨憺したあげく、ようやくできあがった。
曲調は、ポップな感じに仕上げた。ま、相手は美樹と同い年だからちょうどいいだろう。
比較的軽い感じの伴奏に、少しきつめのメロディーをつけた。
苦労した甲斐があってか、なかなかのできだった。
「よし、あとは……」
キーボードからの出力コードをコンポに繋いだ。
そして、曲を流す。
おとなしめのイントロから曲がはじまる。
高音と低音、メロディーと伴奏のバランスチェック。
「う〜ん、間奏が少し悪いな」
少しずつ手直しをしながら最終チェックは、ラストに来ていた。
はじめはエンドレスにするつもりだったが、曲を作っていくうちにイメージが変わり、エンドレスとはまったく逆の、突然曲が終わってしまうようにした。
スピーカーから最後の音が消えた。
「……完成だな」
最後にMDを取り出し、曲をダビングすればすべて終わり。
時間にして約五分。制作日数、五日間。
俺は、ダビングの終わったMDを取り出した。
「ふう……」
ケースにMDを戻し、ベッドに横になった。
少し寝不足気味だったのに、なぜか眠くない。
人間がどうしてそういう時に考え事をするのだろう。
俺の中に、ひとつのことが浮かび上がってきた。
それは、美樹のことだ。
美樹は俺にとってかけがえのない、カワイイ妹だ。
だから、昔から美樹に対して怒ったり、怒鳴ったりしたことはない。
でも、本当にそれだけでいいのだろうか?
ただ優しく守るだけで。
美樹だっていつかは好きな人と一緒になるはずだ。
しかし、俺にそれは耐えられるのか? 美樹がいないことに。
オーストラリアに行っていた時は、必ず帰ってくるということがあったから別段どうということもなかったけど。
バカ兄貴でいいのだろうか?
やはりよくないのだろうか?
それとも、俺は親ではないのだからいいのだろうか?
俺は今まで美樹のためと思っていたが、本当は自分のために美樹との接し方を決めていたのではないか?
姉貴と違い、美樹はいつも一緒だったから、淋しいのがイヤだからそうしていたのだろうか?
答えは出ない。
いつまでも自問するだけで。
そして、気付くと外は朝だった。
いつの間にか眠っていたらしい。部屋は昨夜のままだったから。
「ふわぁ〜あ……」
あくびをして俺は下に下りた。
「おはよう、母さん」
「おはよう。昨日はずいぶん遅くまでやっていたのね」
「ちょっとね」
「なにをしてるのか知らないけど、ほどほどにしておかないと体壊すわよ」
「大丈夫。もう終わったから」
と、トントントンと軽い足音が聞こえてきた。
「おはよう、お母さん」
起きてきたのは、美樹だった。
「あれ、お兄ちゃん起きてたんだ」
「おはよう、美樹。それで、あれ、完成したぞ」
「えっ、ホント?」
「ああ」
「聴いてもいい?」
「なに言ってんだ。おまえのものなんだから、好きにすればいいさ」
「うん」
美樹は嬉しそうに微笑んでる。
「あらあら、なんの話かしら」
「お兄ちゃんに曲を作ってもらったの」
「まあ、美樹のために作ってたの?」
「そういうことになるけど」
「ふふっ、それは是非聴きたいわね。いいかしら?」
「ま、しょうがない」
俺はMDを取りに部屋に戻った。
そして、リビングに戻るとなぜか姉貴までいた。
「どうして姉貴まで?」
「いいじゃないの、気にしない気にしない」
いろいろ言いたいことはあったが、朝は時間が少ないから言うのはやめにした。
「ほら、これだよ」
MDを美樹に渡す。
「かけてみな」
「うん」
コンポのMDデッキにMDを入れ、スイッチを押す。
スピーカーからはちょっと朝には不似合いな曲が流れてくる。
「明るい曲ね」
姉貴の第一印象。
美樹はじっと聴き入っている。
そして、約五分後。
「どうだった?」
「うん、とっても素敵な曲」
「そうか。そうそう、この曲さ、例によって曲名がないから勝手に決めていいぞ」
「うんっ」
「まったく……」
と、姉貴が口を挟んできた。
「洋一は美樹にはとことん甘いんだから。私に対する態度とは大きな違いよね」
「なんだ、姉貴も美樹みたいにしてほしいのか?」
「バ〜カ、冗談よ。いいのよ、あんたは美樹の兄貴なんだから。そして、私の弟なんだから」
「……兄貴で、弟だから、か……」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「ん? いや、なんでもない。それより、ちゃんと聴かせるんだぞ」
「うん、わかってるよ」
昨日の問いの答え。
ひょっとしたら、姉貴の言ったことかもしれないな。
俺は美樹にとっては兄貴だし、姉貴にとっては弟だし。
年上が年下に優しく、守ってやるのは当然のことだ。
もちろん、それだけではダメだけど、基本は構わない。
なんだ、間違ってなかったんだ。
そう、俺は美樹の兄貴なんだから。
俺と美樹がこの先どういう立場になっても、その関係だけは変わらない。
だから、間違ってないんだ。
七
「おじゃまします」
今日は少し緊張している。真琴ちゃんとの約束で山本家に来ているからだ。
「先輩、こっちですよ」
真琴ちゃんはさっきからずっとニコニコだ。
一方、俺は女の子の家に来るのはなんともないはずだったのだが、どうもダメだ。
「あっ、ちょっと待ってください」
真琴ちゃんの部屋と思われる部屋に入る前。
「お姉ちゃん、先輩が来たよ」
隣の部屋に声をかけた。どうやらその部屋は沙耶加ちゃんの部屋らしい。
程なくしてドアが開いた。
「おはようございます」
「おはよう、沙耶加ちゃん」
いつもの制服姿と違って、私服姿は新鮮な感じがした。
以前、一度だけ見ていたけど、その時はそれどころじゃなかったし。
「あの、なにかついてますか……?」
じっと見ていたら、俯きがちにそう訊かれた。
「あ、いや、なんでもないよ」
「そうですか?」
「じゃあ、お姉ちゃん。あとでね」
「うん、わかったわ。それでは……」
沙耶加ちゃんは、軽く会釈して部屋に戻った。
「さ、先輩。入ってください」
真琴ちゃんは、隣の自分の部屋のドアを開けて待っている。
「へえ……」
部屋に入ってみての第一印象は、『女の子らしからぬ部屋』だった。
部屋はまさに絵を描くためだけの部屋、といった感じだった。
もちろん、ベッドや机、その他の家具はあった。
でも、部屋の真ん中にはいつでも絵が描けるようにイーゼルにはキャンバスがかけられていて、そのまわりには画材道具が揃っていた。
ただ、よく見るとやっぱり女の子の部屋なのだ。ところどころにおしゃれが施され、カワイイキャラクターなんかが置いてあったりする。
「先輩、適当に座っていてください」
「あ、うん」
真琴ちゃんはそう言い残して部屋を出て行った。
「座っていてくれ、って言われても……」
この部屋で『適当』に座っていてくれと言われても、困る。
部屋を見回していると、本棚が目にとまった。
有名な画家の画集、画法の本、その他にも絵に関する本が並んでいた。
やっぱり絵の好きな真琴ちゃんの本棚だった。
「ん……?」
絵関係の本に混じって違う本を見つけた。
「なになに……『あなたも今日からお菓子作り名人〜初級編』……」
なるほど。この前のことがきっかけで。
とりあえず、これは見なかったことにしよう。
「これは……」
机の上に、写真を見つけた。
それは、真琴ちゃんと沙耶加ちゃんの小さい頃の写真だった。
写真のふたりは今と同じように、沙耶加ちゃんはおとなしく、お淑やかに、真琴ちゃんは満面の笑みを浮かべ、今にも飛び出しそうな感じで写っていた。
「変わらないのかな」
まあ、小さい頃といっても何十年も前じゃない。そうそう変わるわけないか。
「……えっ……?」
とその時、あることに気付いた。
それは、背景のことだ。ふたりの後ろには絵が飾ってあるのだが、その絵はどこかで見たことあるような絵だった。
「って、これは……」
それは、俺が描いて真琴ちゃんにあげた絵に似ていたのだ。
「こんなことがあるなんて……」
「お待たせしました」
俺が驚いていると、真琴ちゃんが戻ってきた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや、別に……」
写真を戻し、座った。
「あっ、その写真のことですね」
「うん、ちょっとびっくりしたよ」
「ふふっ、そうかもしれませんね」
真琴ちゃんはミニテーブルを出し、そこにカップをふたつとお菓子を並べた。
「紅茶でいいですか?」
「うん、構わないよ」
「ラベンダーの紅茶なんです」
カップに紅茶を注ぐと、ラベンダーの良い香りが漂ってきた。
真琴ちゃんは、紅茶を注ぎ終えると、机の上の写真を手に取った。
「この絵、私の想い出の絵なんです。詳しいことは自分でも覚えてないんですけど、とにかく印象が強くて。それから次第に絵に興味を持ちはじめて」
「なるほど、それで俺の絵に対してあれだけ力を入れていたんだ」
「あっ、でも、ホントに素敵だと思ったんですよ」
「うん、わかってるよ」
「でも、私、驚きました。まさか似た絵に会えるなんて」
「そういえば、あの絵は?」
「ここです」
少し陰になっているところからキャンバスを出してきた。
「お姉ちゃんも驚いてました。でも、不思議なこともあるんですね」
「そうだね」
確かに不思議なことだ。しかも、かなりの──あり得ないくらいの偶然が重なってのことだ。
「先輩」
「ん?」
「今度は私の絵を見てください」
そう言って真琴ちゃんはもう一枚のキャンバスを取り出した。
「これは……」
俺は思わず目を見張った。そこに描かれていたのは、なんと俺とその首に抱きついている真琴ちゃんだった。
「ちょっと恥ずかしいですけど、描いちゃいました。自分で自分を、しかも動きをつけて描くのって、難しいですね」
照れ笑いを浮かべる真琴ちゃん。
まるで日常生活のワンカットを取り出したようなその絵は、絵の具をできるだけ薄くして、色がわかるかわからないかくらいの濃さで塗られていた。
「先輩、どうですか?」
「うん、とってもいい絵だよ。ちょっと変な感じはするけどね」
「ごめんなさい。勝手に描いちゃって」
「別に気にすることはないけどさ」
「やっぱり先輩は優しいですね」
「おだててもなにも出てこないよ」
「そんなんじゃないですよ」
真琴ちゃんは、ぷうと頬を膨らませた。
「冗談だよ、冗談」
「えへへ、ウソですよ」
こうしていると、やっぱり真琴ちゃんはカワイイ妹かな。美樹とはちょっと違うけど、そんな感じがする。
「あっ、そういえば、真琴ちゃんはイラストも描くんだよね?」
「はい、描きますけど」
「で、確か沙耶加ちゃんの誕生日って、来月だったよね?」
「はい、そうですけど」
「あのね、ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」
以前、学校で話をしていて、偶然お互いの誕生日の話が出た。その時に沙耶加ちゃんの誕生日が来月だと知ったのだ。
で、せっかくだからなにかしようと思っていたところに、真琴ちゃんがいた、というわけだ。
「はい、わかりました」
「うん、頼んだよ」
「きっとお姉ちゃん、びっくりしますね」
「それが目的だからね。あっ、これは誕生日までふたりの内緒だからね」
「はい」
こういうやり取りが自然にできているのは、お互いにお互いを信頼してるからなんだろうな。少なくとも俺は真琴ちゃんのことを『妹』同然に思ってるし。真琴ちゃんも俺のことは気に入ってくれてるし。
「でも、先輩の曲、楽しみだな」
「ははは、あんまり期待しない方がいいよ。どうせたいしたものじゃないんだから。俺の作曲は完全に趣味で、しかも独学だから」
「でも、すごいです」
真琴ちゃんは、しきりに俺を持ち上げる。
「そういえば、沙耶加ちゃんはピアノかなんかやってる?」
「えっと、ピアノをやってますけど」
「……う〜ん、これはかなり気合いを入れてやらないとまずいかな」
「大丈夫ですよ。お姉ちゃんは先輩のこと……あっ、これはダメなんだ」
「ん? どうしたの?」
「なんでもないです。それよりも、そろそろお昼ですよ」
「もうそんな時間か」
時計を見ると、十一時五十分を過ぎていた。
「今日は、お母さんが朝から張り切って準備してるんですよ。ホントは先輩が来るって言った日からなんですけどね」
「はは……は……」
こりゃ、相当気合いが入ってるな。覚悟しないと。
程なくして、昼食の時間となった。
そして、それは同時に俺にとって地に足がつかない時間でもあった。
まず、その料理の気合いの入れよう。テーブル狭しと並べられた料理を次から次へと勧められ、たじたじだった。
次に、ふたりの両親。日曜ということでお父さんもいたので、ますます大変だった。先の沙耶加ちゃんのことについてこれ以上ないというくらいお礼を言われ、そのあとは質問の嵐。学校でのこと、家でのこと、今までのこと、挙げ句の果てには将来のことまで。まるで娘の連れてきた男を品定めする父親、母親という感じさえした。いや、そうだったのかもしれない。
その間、沙耶加ちゃんは申し訳さなそうな表情でこっちを見ていた。
一方、真琴ちゃんは半分呆れた様子だったけど、顔は笑っていた。
そして、小一時間で昼食は終わり、そこからまさに『解放』された。
「先輩、大変でしたね」
真琴ちゃんの部屋に戻るなり、そう彼女から労われた。
「ははっ、予想以上にすごかったよ」
「いつもよりお父さんもお母さんも楽しそうでした。特にお父さんは、うちは男の人がお父さんだけだから、たまに男の人と話せるのがいいみたいです」
確かに、家に男ひとりだと、話すことも限られてくるんだろうな。俺も似たような環境にあるけど、まだ息子という立場だからましだ。
「でも、いいご両親だね。うちは母さんはいいけど、父さんがね」
「先輩のお父さんて、確か外交官でしたよね?」
「そうだよ。でも、最近はめっきり『おやぢ』になっちゃってさ」
「ふふっ、みんなそうですよ」
とその時、ドアがノックされた。
「はい」
真琴ちゃんがドアを開けると、さっきまで後片づけをしていた沙耶加ちゃんがいた。
「お姉ちゃん」
「ちょっといい?」
「うん」
真琴ちゃんは廊下に出た。
ひとり部屋に取り残された俺だが、なにを話しているのかはなんとなくわかる気がした。まあ、それはあえて言わないけど。
少しして再びドアが開いた。
「先輩、今度はお姉ちゃんに付き合ってあげてください」
「あ、うん」
言われるまま、俺は部屋を出た。
廊下で待っていた沙耶加ちゃんが、自分の部屋のドアを開けた。
「どうぞ」
沙耶加ちゃんの部屋は、女の子の部屋、と言うのに十分な部屋だった。
暖色系でまとめられ、ところどころにカワイイ飾りがあり、男の俺は微妙に入りづらい空間を作り出していた。
たぶん、沙耶加ちゃんの今までを考えれば、男の人なんかお父さん以外入ったことがないんだろうな。
「あっ、好きなところに座ってください」
ドアを閉めながら沙耶加ちゃんはそう言った。
部屋の真ん中にテーブルがあり、そこにクッションが置いてあったので、とりあえずそこに座った。
「…………」
沙耶加ちゃんは俺の反対側に座った。
ちらちらとこっちを見て、どう切り出すか考えている、そんな感じだった。
「あの──」
「綺麗な部屋だね」
俺は、沙耶加ちゃんの言葉を遮って話を振った。
「あ、ありがとうございます。でも、あまり掃除していないから……」
「これで掃除してないなんて信じられない。これに比べたら俺の部屋なんてひどいもんだよ」
「そんなことはないですよ」
話すきっかけさえあれば大丈夫だろう。
沙耶加ちゃんも少し落ち着いたのか、いつもの表情に戻っていた。
「あの、洋一さんに見ていただきたいものがあるんです」
「見てもらいたいもの?」
沙耶加ちゃんは、机の引き出しからなにか取り出した。
「この前言っていた詩を書いているノートです」
「へえ……」
俺はそのノートを受け取り、ページをめくった。
そこには、日常の出来事を題材にした詩が数多く記されていた。
「…………」
「…………」
「すごいよ、これ。俺もこれだけ書けたら苦労しないんだけどな」
「洋一さんにもできますよ」
「そうかな?」
「ええ、心に感じたままに書けばいいんですよ。飾った言葉ではなく、ごくありふれた言葉で」
「う〜ん、それがなかなか難しいんだよね。いざ書こうと思うと、なんとなくかっこつけちゃって」
「あっ、つい偉そうなことを言ってしまって……」
「ううん、全然偉そうなことじゃないよ」
パラパラとページをめくって詩を読んでいるうちに、ひとつのことに気付いた。
「この詩は一種の日記みたいになってるけど、あんまり楽しいことがないような気がするけど……」
うあっ、しまった。
俺は言ってから後悔した。
「あっ、ごめん。余計なことだったね」
「いいえ、いいんです」
沙耶加ちゃんは、苦笑しつつ頭を振った。
「洋一さんの言う通りですから。でも、最近は違うんですよ。自分でも不思議なくらい」
「でも、ここにはないよね?」
「あっ、はい。それは別のものに」
「そっか」
「……あ、えと、そっちはまだ終わってないので見てもらうのは……」
「いいよ、無理に見せてくれなくても。これを見られただけでも俺にとっては十分なんだから」
「はい……」
こういうものは、本来人に見せるものじゃない。特に、日記の形を取っているこれは。
それでもこうして見せてくれたんだから、それだけで本当に十分だ。
「これだけすごいのを書けるってことは、いろんな本を読んでるってことだよね。沙耶加ちゃんはどんな本を読んでるの?」
「そうですね……」
沙耶加ちゃんは本棚の前に立った。
「なんでも読むんですけど、今は……」
そう言って一冊の本を取り出した。
「これで──きゃっ!」
「危ないっ」
振り向いたところで、わずかに足が滑って体勢を崩した。
俺は間一髪のところで倒れるのを防いだ。
「大丈夫……」
「は、はい……」
「よかった」
って、よくないか。今の格好はどう考えても、な。
「すみません……」
「気にしなくてもいいよ、と言っても気にするかな」
「あっ……」
ようやく自分の格好に気付いたらしい。
「ごめん、すぐに──」
「待ってください」
「えっ……?」
と、沙耶加ちゃんが俺の袖をキュッとつかんだ。
「……もう少しだけ、こうしていていいですか……?」
「沙耶加ちゃん……」
俺は小さく頷くと、とりあえず無理な格好だけは直してそのままでいた。
「あの時と同じですね……」
「うん、そうだね」
「私、今までは男の人ってみんなイヤな人ばかりだと思っていたんです。カワイイとか綺麗とか、褒め言葉を言って近づいて。誰ひとりとして本当の自分で向き合わない。そう思っていたんです」
「…………」
「でも、真琴の話に洋一さんのことが出てくるようになって、その私の認識はひょっとしたら間違っているかもしれないと思ったんです。確かにそういう人もいるとは思いますけど、すべての人がそうじゃないって」
「ま、確かにね」
「ちょうどその頃いろいろあって、それで思い切って真琴や洋一さんのいる今の学校に転校しようと思いました」
「それは、結構な決断だね」
「でも、私にはそれくらいのことが必要だったんです」
たぶん、そのことはまだ訊いちゃいけないんだろうな。
「そして、実際にお会いした洋一さんは、私の想像以上の方でした。自分を飾らずに、それでいてとても優しくて……」
って、ちょっと待て。この展開は……
「私の中にある感情がわき上がってきました」
沙耶加ちゃんは、潤んだ瞳で俺のことをじっと見つめた。
「私、洋一さんのことが──」
「ストップ」
「えっ……?」
「沙耶加ちゃん、その先は言っちゃダメだし、聞けない。それをすれば、きっと沙耶加ちゃんを悲しませてしまう。だから、言っちゃダメだ」
「洋一さん……」
沙耶加ちゃんは、なにか言いたげだったけど、ぐっとそれを飲み込んだ。
「俺って最低だよな。女の子にそこまで言わせといてなにもできないなんて」
「そんなことは──」
「ううん、いいんだよ。でも、今ここでその続きを言われたら、俺はきっと後悔する。勝手な言い分だけど、沙耶加ちゃんのその気持ちは嬉しい。でも、俺には愛がいる。その愛を悲しませるわけにはいかないんだ」
「ふふっ」
と、沙耶加ちゃんが微笑んだ。
「やっぱり洋一さんは私の思っていた通りの人ですね。優しくて思いやりがあって、人の気持ちを大事にして」
「買いかぶりすぎだよ」
沙耶加ちゃんは、小さく頭を振った。
「洋一さん。私もなれますか?」
「なにに?」
「洋一さんに相応しい人に……」
「それは……」
俺は、なんて答えるべきだろうか。気休めじゃ意味がない。
「私、洋一さんとの出会いを出会いだけで終わらせたくないんです。だから……」
「……なれるかなれないか。そんなことは関係ないと思うよ」
「……どういう意味ですか?」
「だって、それは俺が沙耶加ちゃんのことをどう思っているか、だから。俺が認めれば沙耶加ちゃんがそう思っていなくても、そうなるんだから」
「…………」
「そういう意味で言えば、今の沙耶加ちゃんは俺には過ぎた存在だよ」
「そんなことはないです……私なんて……」
たぶん、愛と自分を比べてるんだろうな。
「沙耶加ちゃん」
「はい」
「もし愛と自分を比べてるなら、それは無意味だよ。愛は愛。沙耶加ちゃんは沙耶加ちゃんなんだから。確かに、愛は俺の彼女で沙耶加ちゃんは違う。だから比べてしまうんだろうけど、でも、それは無意味だよ」
「…………」
まあ、比べるなと言ってすぐにそれをしないようにはならないだろうな。
「洋一さん」
「ん?」
「私は、今のままでいいんですか?」
「うん」
俺は即答した。
「……わかりました」
沙耶加ちゃんは、小さく頷き、俺の胸に頬を寄せた。
「……でも、ひとつだけ」
「うん?」
「私、最後まであきらめません。今はまだ洋一さんの心を占めているのは愛さんですけど、少しでも私の場所を作れるよう、がんばります」
「…………」
これって、事実上、愛に対する宣戦布告か?
……やれやれ、これからどうなるのやら。
「あの出会いが、運命の出会いだと信じていますから」
これは強敵かもしれないぞ、愛。