恋愛行進曲
 
第五章 真夏の夜の夢
 
 一
 夏休み。
 それは学生の一番の楽しみ。
 ひとりで過ごすも良し。
 友人と過ごすも良し。
 彼氏彼女と過ごすも良し。
 家族と過ごすも良し。
 いずれにしても、今年の夏は今年一度きり。
 ひと夏の想い出。
 そう、夏は今だけなのだ。
「ふえぇ、あちぃ……」
 暑い。夏だから当然だけど、とにかく暑い。
 俺はバイトをしていた。時給千二百円という高校生にとっては破格の額で。ま、これも父さんの人脈のおかげだけど。
 なにはともあれ、俺は終業式の次の日から土、日以外毎日働いていた。
 仕事は至って簡単。店番だから。しかし、その店のクーラーが壊れてしまい、なかなか地獄だった。
 ま、楽して金は手に入らないということだな。
 だが、有意義な夏休みにできるかどうかは、このバイトの成果も関わってくるから、気を抜けない。
 バイトのない日は家で死んでいた。そりゃ、一日中サウナみたいなところにいるんだからしょうがない。
 そして、バイトも終わりに近づいていた。
 八月三日。バイト最終日。
「はい、ごくろうさま」
「ありがとうございます」
「ごめんなさいね、クーラーが壊れちゃったせいで、大変だったでしょう?」
「はあ、最初はつらかったですけど、そのうち体が慣れてきました」
「それでね、お詫びとして少し余計に入れておいたから」
「本当ですか? ありがとうございます」
 う〜ん、苦労した甲斐があった。プールにも行かず、ゲーセンにも行かず、宿題もやらず、クーラーのない中で耐えた十五日間。
 十五日間の結果が十六万。これで軍資金はばっちりだ。
 
 八月四日。出発前日。
『うん、十時にね』
 電話で愛と打ち合わせも済ませ、準備は整った。
「……いいわよねぇ、旅行に行けて」
 受話器を置いて後ろを向くと、姉貴が陰気な顔で立っていた。
「な、なんだ、姉貴か。なにをゾンビみたいな声出してるんだよ。それに、姉貴だって行くんだろ、旅行?」
「まあね。でもぉ、洋一みたいにぃ、『ラブラブ』な旅行じゃないしぃ」
「な、なんだよ、その『ラブラブ』ってさ」
「だって、愛ちゃんとふたりきりでしょ? そしたら、ねぇ」
 姉貴は不敵な、意味深な笑みを浮かべている。
「ま、冗談は置いといて──」
「置くなっ」
「ちゃんとけじめはつけなさいよ。愛ちゃんだっていつまでも待ってはくれないんだからさ」
「わかってるよ」
「でも、やっぱり、いいわよねぇ」
 まったく、完全にオバサンモードに入ってる。こういう時の姉貴には関わらない方が利口である。
 俺は、逃げるように部屋に戻った。
「あっ、そうだ」
 部屋に戻るなり、俺は机の上に置いておいた封筒を開けた。
 エアメールで、差出人は美樹だ。
『お兄ちゃん、元気ですか? 美樹はすっごく元気ですっ!
 日本は今、夏ですけどオーストラリアは冬です。寒いです。
 と、まあ、前置きはこのくらいにして、もうすぐ日本に帰ります。たぶん、十一日になると思います。
 早くお兄ちゃんに会いたいな。
 それでね、できたらお兄ちゃんに迎えに来てほしいな。ダメかな?
 ホントはもっといーっぱい書きたいことあるんだけど、帰ってからのために取っておくね。
 こっちで仲良くなった友達と別れるのは淋しいけど、またいつか会えるよね。だから、笑顔でさよなら言って帰ってくるね。
 でも、泣いちゃうかも……
 あっ、そろそろ終わりにするね。
 今度は日本でね。
 
                        大好きなお兄ちゃんへ、美樹より
 PS.日本に帰ったら、どこか行こうね。』
 ははは、美樹らしい文章だ。
 それにしても、十一日に帰ってくるのか。この前は学校があって迎えに行けなかったから、今度は行ってやらないとな。
 俺は封筒を引き出しにしまった。
「さてと……」
 俺は最後にもう一度荷物を確かめ、少し早いが体調を整えるために寝ることにした。
「明日も、晴れるかな……」
 
 二
「おはよ、洋一」
「よ、よお……」
「ど、どうしたの?」
「い、いや、その……」
 次の日。待ち合わせの時間に現れた愛は、とても可愛かった。思わず声も出ないほどで、つい見入ってしまった。
「あっ……」
 俺の視線に気付いたのか、愛はちょっと顔を赤らめて下を向いてしまった。
 夏の真っ青な空によく映える白のノースリーブのワンピースが、眩しかった。
「よ、よく、似合ってるぜ」
「……ありがと」
 なんか、姉貴の言ったことが当たってしまいそうな気がする……
「そ、そろそろ行こうぜ」
「うん」
 俺たちは電車に乗り込み、一路東京駅へ。そこから新幹線で新大阪へ。
「いい天気でよかったね」
「ああ、そうだな。せめて、旅行中は降らないでほしいけどな」
「大丈夫よ。きっと晴れるわよ」
 愛の笑顔を見ていると、本当にそう思えてくるから不思議だ。
 俺たちは他愛のない話をしたり、もうまさに定番、トランプをしたりして電車の旅を楽しんだ。
 新大阪から特急に乗り換え白浜へ。
 車窓からの景色は三ヶ月前とは明らかに違った。
 どう違ったかというと、まず陽差しが違った。五月の柔らかい陽差しと違い、夏の強い陽差しが海に反射して、これはこれで素晴らしい眺めだった。
 そして、もうひとつ違うことは、海である。春の落ち着いた雰囲気とは違い、人もたくさんいるし、同じ波でも勢いが違うように見えた。
 そんな夏の海が俺たちを迎えてくれた。
「う〜ん、着いたぁ」
 ようやく俺たちは白浜に着いた。
「さ、水島さんが来てるはずだから」
 事前に電車の到着時間を伝えておいたので、水島さんが来ているはずだった。
「あっ、いた」
 俺たちが駅舎を出てきたのを見て、水島さんはこっちへやって来た。
「お待ちしていました」
「またお世話になります」
 と、下で引っ張られるような感じがした。
「へへっ、お兄ちゃん」
「おっ、和樹くんじゃないか」
「美波留もいるよ」
「美波留ちゃんまで。お父さんと一緒に来たのかい?」
 ふたりは大きく頷いた。
「ふたりに高村さんを迎えに行くと言ったら、どうしてもついていくと言うものですから」
 水島さんは困ったように言った。
「ふたりともありがとう」
「うん。あれ、お兄ちゃん?」
「なんだい?」
「今度は、お姉ちゃんとふたりだけ?」
「うん、そうだよ。大きいお兄ちゃんとお姉ちゃんは来られなかったんだ」
「ふ〜ん。でも、いいや。お兄ちゃんが来たから」
「ははは、それは光栄だな」
 ふたりともすっかり日焼けして、元気いっぱい、健康優良児という感じだった。
「さ、そろそろ行きましょう」
 車の中では、俺は和樹くんに、愛は美波留ちゃんにすっかりおもちゃにされてしまった。
 でも、イヤな感じはなく、とても楽しかった。
 車でしばし。
 ペンション『マリンブルー』。
 俺たちは再びここへやって来た。
「今回は満室になっています。おふたり連れがひと組と、四人家族の方がひと組。高村さんの部屋はこの前と同じにさせてもらいました」
 そういう説明のあと、俺たちは部屋に入った。
 まずは、窓を開け放つ。
「ふう、やっぱりここは落ち着くな」
「うん、とても同じ日本だとは思えないよね」
 外は陽が傾き、あたりを赤く染めはじめていた。
「さてと、とりあえずゆっくりするか」
「うん」
 俺たちは夕食までくつろぐことにした。これが夏じゃなければ、砂浜に出てもいいんだけど。夏だとまだいる奴もいるから、あえてやめた。
 それと、夕食は無理を言って、水島さんたちと一緒にしてもらった。最初、ふたりだけで優雅に、とも思ったけど、どうも俺にはそういうのはあわないからやめた。
「なあ、愛」
「なに?」
「今度、美樹が帰ってきたら、三人でどっか行かないか?」
「三人で?」
「正直言ってな、俺ひとりで美樹の相手は大変なんだよ。それに、愛なら美樹も大丈夫だし」
「ふふっ、優しいお兄さんね。いいわよ。行きましょ。私も美樹ちゃんとゆっくり話もしたいし」
「よし、決まりだな。あとは、どこへ行くかだけど……おっ、そうだ」
「どうしたの?」
「TDLにしよう。うん、決定」
「洋一らしいわね、ふふっ」
 
「いただきます」
 俺はテーブルの上に並んだ料理を、片っ端から手を伸ばして堪能した。
「本当によかったのですか?」
「ええ……もぐもぐ……もちろんです」
「ですが、高村さんにはいつもお世話になっているのに、これでは……」
 済んだ話なのだが、水島さんはまだ恐縮している。
「いいんですよ。こっちから頼んだことですから、気にしないでください。それに、食事は大勢で食べた方が美味しいですよ。な、和樹くん?」
「うん、その方がいいよ」
「あなた。そう言ってくださってるんですから……」
「ああ、そうだな。すみませんでした。余計なことを言ってしまって」
「別に気にしてませんよ。な?」
「ええ。私はひとりっ子なので、むしろこういう方が楽しくていいです」
 愛も賛同する。
「ということです」
「ということです」
「こら、和樹。真似なんてして」
「はーい」
 食事は、笑いの絶えないまさに和気藹々といった感じだった。
 食後はやっぱり和樹くんと美波留ちゃんの相手だった。今回は二回目ということもあって、少しはふたりの行動パターンを把握して相手ができた。そのおかげで少しは疲労も少なくて済んだ。とはいえ、相手は無敵の小学生。それでもこっちはくたくたになってしまった。
「本当にすみません」
「いえ、こっちも結構楽しかったですから」
「はい、洋一」
「おっ」
「アイスレモンティーよ。和枝さんに台所を借りて作ったの」
「ありがたい」
 俺は、冷たいレモンティーを一気に飲み干した。
「くぅ、旨い」
「ふふっ、おふたりは本当に仲が良いですね。長いんですか?」
「愛とは幼なじみなんです。それも、生まれた時からずっとの」
「まあ、そんなに。それじゃあ、兄妹同然ですね」
「昔はそうでした。俺には本当に妹がいるんですが、まるで妹がふたりいるみたいでしたよ。な、愛」
「う、うん……」
 愛は、複雑な表情で頷いた。
「おふたりの話を聞いていると、幼なじみもいいものだって思えますね」
 和枝さんは、どことなく羨ましそうにそう言った。
「あら、ふたりとも寝てしまったわ」
 と、静かになったと思ったら、和樹くんと美波留ちゃんは遊び疲れて眠っていた。
「すみません、寝かせますので」
「あっ、俺たちもそろそろ部屋に戻りますから」
「そうですか。本当にありがとうございました」
「いえ。では、また明日」
 和枝さんに見送られ、俺たちは部屋に戻った。
「ふう、結構きつかったな」
「でも、前よりは楽そうだったわよ」
「まあな。でも、あのふたりに頼まれたら断れないから、ついつい」
「案外、洋一に向いてたりして」
 いきなりそんなことを言い出した。
「なにがだ?」
「子供を相手にすること」
「そりゃあ、ちょっと勘弁してほしいな」
「結構似合ってると思うけどね。ふふっ」
「人ごとだと思って。まあ、子供は嫌いじゃないけど……ま、いいや。それより、明日は泳ぐんだから、しっかり休んでおかないとつらいぜ」
「うん、わかってる」
 俺も愛もベッドに入る。
「明日は、忘れられない日になりそう……」
「えっ……?」
「ううん、なんでもない。おやすみ、洋一」
「あ、ああ、おやすみ」
 それ以上追及できず、結局そのまま眠りに落ちた。
 
 三
「う〜ん、絶好の海水浴日和だ」
「ホント、夏の海にぴったりの空」
 次の日。外は朝から暑くなりそうな陽差しが照りつけており、わざわざ白浜まで来た甲斐があった。
「さてと、とりあえずは──」
 朝食か、と言う前に、廊下から足音が聞こえてきて──
「おはよう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
 和樹くんが飛び込んできた。
「どうしたんだい、和樹くん?」
「あのね、お兄ちゃんたち、今日、泳ぐでしょ?」
「うん、泳ぐけど」
 俺が頷くと、和樹くんは満面の笑みを浮かべた。
「それだったら、僕たちの秘密の場所を教えてあげる」
「秘密の場所?」
「うん。だって、前の砂浜は人がいっぱいになるから。秘密の場所は、僕たちしか知らないから静かだよ」
「そっか、ありがとう。でも、そんなところ、教えてもらっていいのかい?」
「うん、もちろん」
「こら、和樹」
 と、そこへ和枝さんがやって来た。微妙に怒っているようだ。
「お客様の部屋に入ってはダメだってあれほど言ったのに。本当にすみません」
「いえ、いいですよ」
「本当にすみません。和樹も、ほら」
 和樹くんは和枝さんに頭を無理矢理下げさせられた。
「あっ、和樹」
 だが、それも一瞬。次の瞬間には、和枝さんの腕を払って逃げ出していた。
「お兄ちゃん、あとでね」
「もう、あの子ったら」
「あまり叱らないでください。和樹くんは、俺たちに秘密の海水浴場を教えてくれるって言いに来てくれたんです」
「まあ、和樹がそんなことを? よっぽど気に入られたんですね」
「光栄ですね」
「わかりました。今回はあまり言わないでおきます」
 そう言って和枝さんは微笑んだ。
「あっ、そうそう。そろそろ朝食にしますので、食堂へどうぞ」
 
 朝食後、ほかの泊まり客もみんな海へ出かけていった。ま、当然か。
 俺はというと、今は外で愛を待っている。和樹くんの話だとその場所はここからそんなに離れていないということだから、ここで着替えて行くことにした。だから、俺は部屋を追い出されたわけだ。
「ねえ、お姉ちゃんまだ?」
「もうちょっと待ってて。すぐ来ると思うから」
 俺のそばには、準備万端の和樹くんと美波留ちゃんがいた。午前中は水島さんたちが忙しいので、俺たちが面倒を見ることにしたのだ。
「和樹くん、その場所ってどんなところなんだい?」
「う〜ん、少し狭いけど砂浜もあって、えーっと、とにかくいいところ」
「美波留ちゃんもよく行くんだよね?」
「うん、お兄ちゃんたちと行くんだよ。近くにね、お魚さんがいっぱいいるところもあるの」
「へえ、それは楽しみだな」
 ふたりの話を聞いていると、なんだか本当にすごいところのような気がしてきた。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「お姉ちゃん、遅いよ」
「ごめんね」
 俺がなにか言う前にとっくに痺れを切らしていた和樹くんが声を上げた。
 愛は、水着の上に薄い水色のパーカを羽織って、あとはバッグを持っていた。
「よし、そろそろ行こうか」
「うん」
 元気のいいかけ声とともに、和樹くんは先頭を切って歩き出した。
 俺は少々荷物が多く、自然と最後になった。
「大丈夫? そんなに持って?」
「大丈夫だって。量は多いけど軽いから」
 ゴムボートにビーチボール、その他諸々。まあ、かさばるけど重くはない。
「こっちだよ」
 先頭を行く和樹くんが、普段は人が入らないような脇道へ入っていった。
「へえ、確かにここはわからないな」
 そこは少し背丈の高い植物が生い茂り、観光客なら絶対に来ない場所だった
 少し歩くと岩場に出た。
「ここを越えたらすぐだよ」
 俺は結構きつい岩場を悪戦苦闘しながら、なんとか乗り切った。
「ここが僕たちの秘密の場所だよ」
 そこは、小さめの砂浜に三方はちょっとした崖に囲まれた、まさに秘密と呼ぶに相応しい場所だった。
「ここはね、あの岩場が陰になって、向こうの砂浜からは見えないんだ。ね、いいところでしょ?」
 和樹くんは誇らしげに胸を張った。
「うん、申し分ないね」
 早速俺たちは荷物を置いて、軽く準備運動をした。
 和樹くん曰く──
「ちゃんと準備運動しないと、溺れちゃうかもよ」
 だそうだ。さすがは海の子。そういうことはきちんとしている。
「先に泳いでるからね」
 和樹くんと美波留ちゃんは、さっさと海に入っていった。
「俺たちも行こうぜ」
「う、うん……」
「どうした?」
「な、なんか、恥ずかしくて……」
「別に恥ずかしいことなんてないだろうが。ここには俺たちしかいないんだから」
「ううん、私にとっては洋一が……」
「俺か? とは言ってもだな」
 俺が思案していると、愛は小さく息を吐き、意を決して言った。
「笑わないでね」
「どうして笑うことなんかあるんだ?」
「うん……」
 やっとの思いでパーカを脱ぐ。
「…………」
「あ、あんまり見ないでよ……」
 み、見ないでと言われても、自然と目が行ってしまう。
 セパレートタイプではないのは残念だったけど、それはそれで、なんというか、男としてはまた嬉しい限りだった。
 薄いピンク色のワンピースで、胸元はそれほどでもないけど、背中は大きく割れていた。
「ど、どうかな?」
 愛は、遠慮がちに訊ねてきた。
「あ、ああ、よく似合ってる。こういうこと言うのはなんか照れるけど、カワイイよ」
「あはっ、ホント? このために買った甲斐があったかな」
 それを聞いて、愛は本当に嬉しそうに笑った。
「さ、行こうぜ」
「うん」
 そして、俺たちも海に飛び込んだ。
 このあたりの海は水が非常に綺麗で、見ていても気持ちがよかった。
 砂浜近くには珊瑚はないけど、南の海という感じだった。
「う〜ん、やっぱり海はいいな。気分が落ち着くっていうか、開放的になることもあるんだろうけど」
「そうね……えいっ!」
 と、いきなり愛が水をかけてきた。
「うわっぷ……やりやがったな。この俺様に勝負を挑むなんて、十年早い。そりゃっ!」
「きゃっ……そんなにムキにならないでよ」
「隙あり……それっ!」
「うわっ!」
 思わぬところから攻撃があった。
「へへっ、隙だらけだよ、お兄ちゃん」
「うぬぬ、やったな。これならどうだ。とりゃっ!」
 しかし、和樹くんにはかからなかった。
「ぷはーっ、当たらないよ」
「そ、それはずるいな。水の中に潜るなんて」
「いいんだよ。それに、そんなこと言ってる暇があったら……それっ!」
「うぐっ」
 今度は正面からまともに喰らってしまった。
「ふふっ、洋一も形無しね」
 とまあ、いきなりすっかりこけにされてしまった俺ではあったが、久しぶりに心から楽しいと思えたのも事実だった。
「よし、ボートでも出そうか?」
「うん。それであそこへ行こう」
 和樹くんは、少し離れたところにある岩場を指さした。
「あそこは泳いでいくか、ボートじゃないと行けないんだ。歩いていくには岩が邪魔だし」
「ひょっとして、美波留ちゃんが言っていたのは──」
「うん、あれのことだよ」
「じゃあ、早速行ってみよう」
 俺たちはボートをこぎ出して、その場所へ向かった。
「へえ、小さな入り江になっているのか」
 そこは、まわりをぐるっと囲まれた、小さな入り江だった。
「ほら、魚がいっぱいでしょ」
 確かにそこには迷い込んでしまったのか、魚がいっぱいだった。
「それに、このあたりは水の中から見るのが綺麗なんだよ」
 そう言うや否や、和樹くんは水中メガネをして水の中へ。
「お兄ちゃんもおいでよ」
「う〜ん……」
 俺は、ちらっと愛の方を見た。
「いいわよ。私がボートを見てるから」
「すまない」
「早く早く」
「よし」
 俺もメガネをして海に飛び込んだ。
「こっちだよ」
 俺は和樹くんが呼ぶ方へ向かった。
「ここが一番綺麗なんだ」
 そう言って和樹くんは潜った。
「俺も……」
 息を吸い込んで潜った。
 そこは、別世界だった。
 まわりにはほとんどない珊瑚があり、その間を色とりどりの魚が泳いでいた。そして、その珊瑚や魚を水を通した光が照らし出し、得も言われぬ美しさだった。
「ぷはーっ」
「どうだった?」
「すごいのひと言だな」
 本当にそれしかなかった。ほかのどんな形容詞を使って表現しても、結局は同じだと思う。
「愛も行ってみればいいじゃないか」
「う〜ん、考えとく」
 はっきりしない奴だ。ま、いいけどさ。
「よし、戻って遊ぼうか」
「うん」
 俺たちは午前中は和樹くんたちにつきあった。
 ふたりともとても楽しんでいたけど、端から見たら俺たちの方が楽しんでいるように見えたかもしれない。ま、たまにはそういうのもいいとは思う。
 そして、午後。
 いったんペンションに戻り、昼食後、今度はふたりだけで泳ぎに行った。
「ふたりは宿題があるからダメ」
 和樹くんと美波留ちゃんは、和枝さんにそう言われ、やむなくリタイヤ。
 でも、宿題があるのは和樹くんたちだけじゃないっていう話もあるけど、ま、それは置いといて。
 で、俺たちはゆっくりと楽しんだ。さすがに午前中から泳いでいたから、体力的にもきつくなってきたこともあったけど、そういうのを抜きにしてもゆっくり、のんびりしていたかった。
 結局、愛も珊瑚を見て、やっぱり言葉を失っていた。
 たっぷりと夏の海を堪能した俺たちは、夕陽を待って戻った。
「ふう、体がだるいな」
「うん。でも、心地良いだるさよね」
「そうだな。これで夜はぐっすり眠れるはずだ」
 泳いだあとの特有のだるさを感じながら、ペンションに戻った。
 夕食の時、和樹くんたちは午後、一緒に行けなくて残念そうだったけど、午前中たっぷり遊んだおかげか、あまり文句も言わなかった。
 夕食後、和樹くんは遊ぶ気満々だったけど、如何せん体が言うことを聞かなかった。昼間の疲れが出て、眠い目を擦りながらだったので、和枝さんが寝かしつけたのだ。
 こっちとしても、二日連続はきつかったので、よかったかも。
 そして、その時は確実に近づいていた。
 
 四
 部屋に戻り、時計を見ると八時五十分をまわっていた。
「愛、ちょっとつきあってくれないか?」
「あ、あ、うん……」
 愛も俺のいつもと違う様子に気付いたらしい。
 懐中電灯を借りて、昼間の砂浜に向かった。
 俺も愛も、なにも話さない。
 暗いせいでなかなか大変だったけど、なんとか着くことができた。
「昼間も静かだったけど、夜になってますます静かになったな……」
「うん……」
 俺は、波打ち際に立った。
 あたりには時々、岩に当たる波の音が響いているだけだった。
「ひとつ、くだらない話をしてもいいか?」
「え、うん」
 俺は、静かに話しはじめた。
「あるところに男がいた。そうだな、年は俺たちと同じくらいかな。その男には幼なじみがいた。男はその幼なじみのことを本当の妹のように思っていた。まわりからもよく間違われていたくらい仲が良かった。男はその子に頼りにされていることに気付いていたが、そのことを上手く表せないくらい不器用だった」
 雲に隠れていた月が顔を出し、あたりを照らし出した。
「その男が、いつの頃からだったか、その子を『妹』ではなくひとりの『女』として意識しはじめたのは。最初はそんな気持ちを否定するかのように、その子と一緒にいないようにしていた。だけど、それは間違いだと気付いた。そして、それまでとは少し違った感じで一緒にいられるようになった。男はそれだけでもいいと思っていた。ただ、その子の側にいられるだけでよかった」
 俺は、一呼吸置いた。
「だけど、それは無理だった。まわりの友達の中には彼氏、彼女を作る者も現れはじめ、男の中に再びあの感情がわき起こってきた。そう、恋人として一緒にいたいという気持ちが。しかし、そこにはたったひとつの、でも、とても高くて大きな壁があった。それは、あまりにも長く幼なじみという関係にあったことだった。友達より関係は深いけど、恋人とは言えない関係。とても微妙な関係。だけど、男は決心した。その子に自分の想いを伝えようと」
「…………」
「でも、その子は答えを出さなかった。男にしてみれば、振られるならはっきり振られた方がいいと思った。そして、それから避けるようになった。だけど、運命というかなんというか、男とその子の関係は複雑に重なり合った。そして、その子は言った。夏まで待ってほしいと。男は戸惑った。それは嬉しい反面、騙されているのではないのかとも思った。だけど、男はそれを了承した。夏までいろいろあったが、その時は確実に近づいていた。そして──」
 俺は、愛の方へ向き直った。
「男はこう思った。自分のその子に対する気持ちに変わりはない。いや、むしろ強くなった、と……」
「…………」
「今、もう一度、その気持ちを言う。愛、俺はおまえが好きだ。幼なじみとしてではなく、ひとりの女として。返事を、聞かせてほしい」
 愛は、ふっと微笑んだ。
「さっきの話の付け足し。その子もこう思ったの。よりその男が好きになった自分の気持ちを伝えなければ、一生後悔するだろうって、ね。だから、勇気を出して。私も好きよ。誰よりも、洋一が……」
「愛……」
「私を、私のすべてを受け止めて……」
 俺は愛を抱きしめた。
「あれからいろいろ考えたけど、私が洋一に相応しいかどうかはわからなかった……でも、もうそんなことどうでもよかった。私は、洋一が好き。誰よりも。その気持ちだけは確かに変わらなかった。ううん、むしろ強くなったの。そして、もうその気持ちを抑えておくことができなくなったの……」
 愛は、俺の背中に腕を回し、抱きしめてきた。
「もう無理はしたくない。私も洋一も同じ想いなんだから」
「ああ」
「ずっと、いつまでも洋一の側にいたいから……」
「愛……」
 ふたりの視線が交差し、そして──
 キスをした。
 幼なじみという複雑で微妙な関係を乗り越えて。
「……ん、優しいキス……」
「……好きだ、愛……」
「私も……」
 何度となくキスをした。お互いの気持ちを確かめるように。
 キスのあと、俺たちは砂浜に腰を下ろした。
 愛が寄り添い、俺はその肩を抱いた。
「ね、洋一」
「ん?」
「覚えてる? 修学旅行の時、私は言ったこと?」
「ああ、もちろん覚えてるさ。俺が昔、愛に言ったことと約束したことだろ?」
「うん」
「教えてくれるのか?」
 愛は黙って頷いた。
「房総に行った時の夜、私が洋一の手をずっと握っていたのよ」
「それは聞いた。その時、俺が言ったことだったな?」
「洋一ね、最初に私が手を握った時、手を引っ込めようとしたの。でも、思いとどまって、そして強く握ったわ。その時に呟くように言ったわ。『怖いことなんかないからな。俺が一緒にいるから大丈夫だ』って」
「そんなこと言ったのか……う〜ん、覚えてない」
「それまで洋一のことは少し怖いと思っていた私にとって意外な言葉でもあったけど、それ以上に嬉しかった。それに、洋一の優しさに触れたのもその時。それからは洋一のことを怖いとは思わなくなったわ。だって、洋一の優しい一面を見ちゃったからね」
「ふう……俺ってそんなに怖かったか?」
「うん、いつも威張ってて、ほかの子との喧嘩も絶対に負けなかったし。あっ、でも、美樹ちゃんにだけは昔からずっと優しかったわね。羨ましいくらいにね。でも、その一件から少しずつだけどほかの子に対しても優しくなっていったわ」
「う〜ん、まったく覚えてない」
「ふふっ、いいの。私にとっては大切な想い出だから」
「じゃあ、約束っていうのはなんだ?」
 実を言うと、俺は自分が言ったことより約束したっていうことの方が気になっていた。もし、変なことを約束していたら……
 しかし、愛は微笑んでいるだけで話そうとはしなかった。
「どうした?」
「約束はね、まだ秘密」
「どうして?」
「前にも言ったけど、私がそのことを言って守ってもらえなかったら、イヤだから」
「俺は約束は絶対に守るぜ。それはおまえも知ってるだろ?」
「うん、それはもちろんわかってる。わかってるからこそ、言うのが怖いの……」
「怖い?」
「その約束が守られたら、どんなに嬉しくて幸せか……」
 愛は、少しだけ淋しそうに微笑んだ。
「この約束は、もう少しあとまで取っておくね。その時が来ることを願って……」
「わかった。もうなにも聞かない。愛のそんな顔は見たくないからな」
「えっ……?」
 俺の言葉に、愛は一瞬なにを言われたかわからないような顔を見せた。
「だから、そんな淋しそうな顔、するな」
「……うん、わかった。やっぱり洋一は優しいね」
「誰に対しても、というわけじゃないぜ」
「特に、カワイイ女の子や綺麗な女性にでしょ?」
「そうそう……って、なにを言わせるんだ」
「ふふっ、ごめんなさい」
「そういうことを言う奴には、こうだ」
「あっ──」
 俺は、愛の唇を奪った。もうなにも言わせないように。
「ずるい……こんなことされたら、もうどうすることも……」
「いいんだ」
 俺は、もう一度唇を塞いだ。
 真夏の夜に、『夢』は『現実』になった。
 
 五
「──いち……」
 ん? 遠くで声がする。
「……洋一……」
 俺を呼んでる?
「洋一、朝よ」
「……ん、愛か……」
 目を覚ますと、目の前に愛の顔があった。
「おはよ、洋一」
「早いな」
「なに言ってるのよ、もう七時よ」
「そうか。昨日は遅かったからな」
「う、うん……」
 愛はちょっと恥ずかしそうに俯いた。
「なに照れてるんだよ。おまえが照れるとこっちまで照れくさくなるじゃないか……」
「ごめん……」
「まあ、それがおまえのいいところでもあるけどな」
「あ……」
 俺は、愛を抱きしめた。
「もう、何度目かな……」
「回数なんて関係ないよ。だって──」
 そう言って愛の方からキスを求めてきた。
「……ん、だって、私をこんなに幸せな気持ちにさせてくれるんだからね」
 にっこり笑う。
「東京に戻ったら、こんな風にしていられないのかな……」
「そんなことはないさ。俺たちは家も近いし、いつだって会えるじゃないか。そしたら、いつでも抱きしめてやるし、キスだってしてやるさ」
「んもう、バカ……」
「ははは、半分は冗談だけど、半分は本気だからな」
「うん」
 俺たちの本当の夏は、ここからはじまる。
 そう思えるような今回の白浜だった。
 白浜を出発する時、また来年来ることを約束して東京に戻った。
 その途中、俺たちははじめての体験をした。それは──
「ちょっと、恥ずかしい……」
 手を繋いで歩くことだった。最初は少し抵抗があったけど、手を繋いでいるといつでも愛を感じられた。
 今まではなんでそんなことを、なんて思っていたけど、今ならその気持ちがわかる。
 理由もなく、意味もなく、こうしたくなるのだ。
 東京に戻ってきて、駅から家までもやっぱり手を繋いで歩いた。
「洋一、ありがとう」
「なんだよ、改まってさ」
「またひとつ、大切な想い出をありがとう、っていうことよ」
 そう言って愛は微笑む。
「想い出はこれからたくさん作ればいいんだよ」
「うん」
 そう。まだまだ夏休みはある。
 想い出など、いくらでも作れる。
「あ、そうだ。私たちのことって、話していいのかな?」
「ん、別に隠しておくこともないだろ。悪いことしてるわけじゃないんだからさ」
「まあ、それはそうなんだけど。なんとなく、いろいろ言われそうな気がして」
「言われるって、誰にだ?」
「ん〜、洋一の隠れファンにね」
「俺の、隠れファン?」
 突拍子もない言葉に、俺は思わず立ち止まった。
「そんなのいるのかよ?」
「まあ、洋一は本人だから知らないのは当然だと思うけど、洋一ってね、結構女子の間で人気あるんだよ」
「んなバカな」
「普段の性格は二の次にしても──」
「をいこら」
「成績も悪くないし、スポーツは基本的になんでもこなすし、それに、カッコイイから」
「…………」
「知ってる? 去年から結構いろいろ聞かれてたんだからね。高村くんてどんな人、とか、洋一くんてどんな子が好きなのかな、とか」
「……なんて答えてたんだ?」
「ん〜、その時々によって違うけど、比較的真剣な子には真剣に答えて、適当な子には適当に答えてたかな」
「……イヤな奴だな」
「しょうがないじゃない。そうでもしないと、私『だけ』の洋一じゃなくなっちゃうかもしれなかったんだから」
 ……なるほど。
「私はね、学校の誰よりも洋一のことを理解してる。それが洋一のことを好きなほかの子との決定的な差。誰も告白してない段階では、それくらいのアドバンテージは持ってないと、不安で不安でしょうがないから」
 ほんの少しだけ、手に力がこもった。
「まあ、私のことはもういいんだけど、それくらい洋一には隠れファンがいるの。もともと私たちはいつも一緒にいてなにかと噂されてたから、夏休み中に彼氏彼女の関係になってたら、やっぱりいろいろ言われるかなって思って」
「それを言うなら、愛だって同じだろ」
「私?」
「男連中でおまえに憧れてる奴、結構いるからな」
「…………」
 多少は思い当たるふしがあるようだ。
「別に俺は誰になにを言われようといいと思う。それに、仮に俺のファンとやらがいたとしても、むしろ公にした方がすっぱり割り切れるんじゃないか?」
「それはそうかもしれないけど」
「ただまあ、こっちから進んで言うべきことでもないだろうな。普通にしてればいいんだよ。普通に。気付く奴はそれで気付くだろうし、気付かない奴はいつまで経っても気付かない」
「うん、まあ、そうかもね」
 完全には納得できてないんだろうけど、とりあえず頷いた。
 そんなことを話していたら、いつの間にか家の側まで来ていた。
「じゃあ、またね」
 俺は、愛を抱き寄せキスをした。
 ほんのり染まる頬が、なんとも言えなかった。
「またな」
「うん」
 愛は、小さく手を振って家の中に入っていった。
 それを見送り、俺も家に入った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 奥から母さんの声がした。しかし、いつもなら出てくるはずの姉貴が出てこない。なにか企んでるな。
 そう思いつつ、階段を上がる。
 ドアを開けると──
「おかえり、洋一」
 部屋の中に姉貴がいた。
「なんで姉貴が俺の部屋にいる──」
「見たわよ」
「な、なにを?」
「今、そこでね」
 姉貴はそう言って窓を指さした。
 部屋の窓から見えるところと言えば……って、まさか──
「愛ちゃんをこうやって抱き寄せ、そして──」
「わ、わかったから、声に出して言うなっ!」
 ……だから姉貴は侮れないんだ。
「あの様子からすると、上手くいったみたいね」
「ああ、まあ、そうかな……」
「ひょっとして、もうキス以上のことまでしちゃったとか?」
「な、なに言ってるんだよ。そんなこと、できるわけないだろ」
「まあ、それもそうね。あんたにそんな甲斐性はないもんね。もしあったら、もっと前に愛ちゃんといい感じになったでしょうからね」
「……なにもそこまではっきり言わなくても……」
「ごめんごめん、冗談よ」
 まったく、姉貴の場合は冗談だか本気なんだかわからない。しかも、結構気にしてることをもろ直球で言ってくるし。
「でも、ちょっと関係が進んだからって、いい気になってると思わぬところに落とし穴があるかもしれないわよ」
「わかってるよ。だけど、姉貴は俺のことより自分のことを──」
「残念でした」
 姉貴は、そう言ってニッと笑った。
「私、この前言っていた人とつきあいはじめたのよ」
「ほ、ホントかよ?」
「そんなことでウソを言ってどうするのよ。そうね、そのうち洋一にも会わせるわよ」
 ……まさか、姉貴までそんなことになっていたとは。
「洋一には感謝してるのよ」
「へ……?」
「だって、あんたのおかげでつきあえたみたいなもんだからね」
「俺の?」
「そうよ。だから感謝してるの」
「う〜ん、なんかピンとこないけど、ま、いっか」
 そうだよな。姉貴もやっと自分のことを考える機会を得て、よかったんだよな。
「あっ、そうだ。父さんがね、十日の日に帰ってくるんだって」
「じゃあ、久しぶりに家族が全員揃うわけだ」
「うん、だから盛大にパーティーでもやろうって、母さんと相談してたの」
「美樹も帰ってくるし、姉貴も落ち着くところに落ち着きそうだし」
「それを言うなら、あんただってそうでしょうが」
「ま、そうとも言うかな」
 そう言って俺たちは笑った。
 
 本当の意味での夏は、これからはじまる。
 夢は、現実になったのだから。
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