恋愛行進曲
 
第四章 悩みと成長
 
 一
 俺の誕生日から三日後、美樹がオーストラリアへ戻っていった。次は八月の半ば頃、お盆の前くらいに帰ってくるはずだ。
 あれ以来、たぶん亮介だと思うけど、俺が絵を描いていることがみんなに知れ渡ってしまい、普通の似顔絵からイラストまで頼まれるようになってしまった。
 まあ、絵を描くことは好きだけど、こういうものは描きたい時に描くというのが本当だと思う。でもまあ、仕方がない。
「今日は屋上かな……」
 俺は絵を描いているところを人に見られるのがあまり好きではなかったので、いつも静かなところで描いていた。その筆頭が屋上である。
「ん?」
 屋上に出ると、何人かの生徒がいた。
「ちぇっ、出直すか……」
 誰もいないと思って来たわけだから、誰かいるとわかれば長居は無用。
 そう思って屋上を去ろうとした時、異変に気付いた。
「やめてください」
「やめてください、だとよ」
「あははは」
 どうも穏やかならぬ雰囲気だ。
 こっちからだと後ろ姿しか見えないけど、一年だろうな。
 で、こんなとこでそういう会話が成り立っているということは、いじめか。
「しょうがねぇな……」
 そういう面倒なことに口を出すのは好きではないが、寄ってたかっていじめるのも好きではない。
 相手は──
「女の子じゃないか」
 驚いた。ひとりの女の子に男が三人も。これはあまりにも卑怯だ。逃げることもできないし、抵抗することもできない。
「どうするかな……」
 少し考え、ひとつ妙案を思いついた。
「こらっ、こんなところでなにしてるっ」
 似てるかどうかはわからないが、雅先の声色を使って連中に声をかけた。
「や、やべ、先生だ」
「逃げろ」
 男どもは一目散に逃げていった。
 うちの学校ではいじめをすると一回目は停学、二回目になると有無を言わさず退学になった。少々厳しい決まりではあるけど、この決まりのおかげでいじめはほとんどない。
 あいつらもそのことを知っていたらしい。入学して約三ヶ月。自分の身の方が大事だったらしい。
「さてと……」
 俺は、いじめられそうになっていた女の子のところへ足を向けた。さすがにそのままにはしておけない。
「大丈夫かい?」
「あ、は、はい。あの、あなたが助けてくれたんですか?」
「まあ、一応ね」
 否定してもしょうがないし、意味がない。
「ありがとうございました」
「いや、たいしたことはしてないよ」
「いえ……」
「君、一年生だろ?」
「はい、そうですが……」
 彼女は、少しだけ探るような眼差しで俺を見る。まあ、あんなことのあとだ、それもしょうがない。
「ああいう奴らには気をつけた方がいいよ。毎年必ずそういうことがあるからさ」
「ひょっとして、先輩ですか?」
「まあ、二年だけど」
 ……先輩だとは思われていなかったのか。
「あっ、本当にありがとうございました。私、一年三組の山本真琴と言います」
「俺は二年三組の高村洋一」
「それじゃあ、高村先輩ですね」
 そう言って彼女はようやく警戒を解いた。
「ところで、えーっと……」
「真琴で構いません」
「じゃあ、真琴ちゃんはどうしてあいつらに?」
「それは……」
 真琴ちゃんは少し俯き──
「これです」
 そう言って一冊のノートを差し出した。
「見てもいい?」
「はい……」
 中は普通のノートだったが、ところどころに絵が描いてあった。
「どうしてこれで?」
「あいつら、私が絵を描くことを知って、無理矢理自分たちの絵を描かせようとするんです。最初は言うことを聞いていたんですが、だんだん注文がひどくなってきて……」
「どんな?」
「あの、その、エッチなものとか……」
「……最低の奴らだな」
「ですから、それ以来断ってきたんですけど。今日、このノートを取り上げられそうになって。それで……」
「このノートは、いったいなんなんだい?」
「それは私の創作ノートです。思いついた時にそこにそのまま描くんです。そして、あとでイメージがまとまった時とか、題材がほしい時なんかに見て、キャンバスに描くんです」
「そっか、大切なノートなんだ」
 俺はノートを真琴ちゃんに返した。
「その、先輩は絵のこと、なにも言わないんですね」
「どうして?」
「だって、たいていはいろいろ聞かれるので……」
「そのことか。はい、真琴ちゃん」
 今度は、俺のスケッチブックを彼女に渡した。
「これは?」
 真琴ちゃんは、スケッチブックを手に、首を傾げた。
「見てもいいよ」
「うわぁ、綺麗な絵……」
 第一声がそれとは思わなかったな。
 パラパラとページをめくっていく。
「これ、先輩が描いたんですか?」
「そうだよ。あんまり上手くないけどね」
「いいえ、とても上手です。あっ、イラストまで」
 食い入るように絵を見る真琴ちゃん。う〜ん、本当に絵が好きなんだな。
「先輩」
「ん?」
「この人は誰ですか?」
「ん、ああ、それは俺の幼なじみだよ」
「結構ありますね、この人の絵」
「まあ、ね」
 真琴ちゃんは意味深な笑みを浮かべた。
「先輩、その人のことが好きなんですね」
「な、なにを言うかと思えば……」
「だって、そのひとつひとつの絵には心が感じられるんです。だから」
「まあ、それはウソではないけど……」
「ふふっ、先輩、照れてる」
「こら、からかうな」
 俺は子供を叱るように言った。
「ところで、先輩は部活には入ってないんですか? 美術部とか」
「ああ、これは完全に俺の趣味だからね。一定の枠をはめられるのが嫌いなんだ」
「私と同じですね。私もそうなんです。描きたい時に描きたいように描く。それが好きなんです」
 確かに同じだ。というか、親近感を覚える。今まで俺のまわりにそういうのがいなかったからかもしれないけど、俺の考え方に同意してくれたことも大きい。
「先輩」
「なに?」
「よかったら、私に絵を教えてくれませんか?」
「えっ……?」
 思いも寄らないことを言われ、間抜けな声が出た。
「私も、心のこもった絵を描いてみたいんです」
 そう言われてもなぁ……
「う〜ん、教えることはできないけど、一緒に描くのはいいよ」
 ま、このあたりが妥協点だろう。
「ホントですか?」
「ああ。たぶん、もうしばらくはここやなんかで絵を描いてることが多いと思うから」
「じゃあ、一緒にお願いします」
 真琴ちゃんは、さっきまでの暗い表情はどこへ行ったのかというくらい、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日はとりあえずこれくらいで、明日から昼休みと空いてれば放課後ということでいいかな?」
「はい、全然構いません」
「そっか。じゃあ、これからよろしく」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
 
 二
「なんか楽しそうね」
「そうか?」
「そうよ。二、三日前からずっとね」
 愛には誤魔化したが、理由はあった。
 あの屋上での一件以来、俺と真琴ちゃんは毎日絵を描いていた。正直、俺も絵に関して意見のあう仲間がほしかったから、願ったりかなったりだった。
 その中でひとつ驚いたことがあった。それは、真琴ちゃんの絵の腕前だった。あの日は俺に教えてくれ、なんて言っていたけど、教わるのはこっちだった。俺の知らないいろいろな技法を知っているし、なによりも驚いたのはその感性だった。
 たとえば、屋上から景色を背景にして人物なんかは想像で描く。そんな時、彼女の才能は遺憾なく発揮される。凡人の俺にはとても思いつかないような絵を描く。
 それでも真琴ちゃんは俺の絵を見て、「やっぱり先輩は上手ですね」と言ってくれる。
 それ自体も本心なんだろうけど、真琴ちゃんはとても優しい子だ。絶対に人をけなしたりはしない。愛と比べるのもなんだけど、同じくらい優しくて明るい。
 ただ、時々俺にも理解できないことを言うことがあるが、おそらくいわゆる『天才』にありがちなことなのかもしれない。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「変なの」
 愛は、不思議そうにこっちを見ている。
「ところで、洋一」
「なんだ?」
「今度の休み、暇?」
「今のところ用はないけど、それが?」
「あのね、私、見たい映画があって、ひとりで見に行くのもなんだから……」
 誘われてるんだよな?
「あっ、ダメならいいの」
「おまえなぁ、いきなり弱気になるなよ」
「だって……」
「別にダメだなんて言ってないだろうが」
「それじゃあ、いいの?」
「ああ、いいぜ。たまには映画もいいかもな」
 そういえば、姉貴から映画のチケットをもらったな。
「ありがと。じゃあ、私から誘ったから──」
「ちょっと待った」
「なに?」
「映画のチケットなら俺が持ってるから、それで見に行こうぜ」
「いいの?」
「別に構わないさ。俺が持っててもどうせ使わないだけだし。それならこういう時にでも使った方がいいから」
「うん、わかった。あっ、でも、そのほかのことは私におごらせてね」
「ああ、そのつもりだよ」
 空を見上げると、真っ青な空に白い雲が浮かんでいる。
 梅雨のまっただ中だというのに、とてもいい天気だ。
 今度の休みも晴れればいいのだが。
 家に帰った俺は映画のチケット取り出し、柄にもなく姉貴に感謝した。まあ、それがなくても愛が出してくれるつもりだったらしいが、それはそれとしてだ。
 久しぶりの映画が楽しみではあったけど、愛と一緒というのはそれをさらに強いものにした。以前映画を見に行った時は亮介たちとだったから、今回とは比べものにならない。
「どうしたの、洋一?」
 リビングでそんなことを考えていたら、姉貴が声をかけてきた。
「いや、なんでもない」
「ふ〜ん、なんかあやしいわね」
「なにがだよ?」
「別にぃ」
 わずかでも姉貴に感謝した俺がおろかだった。
「そういえば、あのチケット使えそう?」
「ん、まあ、なんとか」
「よかったじゃない。私が全面的に応援してるんだから、失敗を恐れずにがんばるのよ」
「いやあ、まさに経験者は語る」
「どういうことよ?」
 半眼になって聞き返してくる。
「そのまんまだよ」
「言ったわね」
「姉貴もいつまでも遊びじゃなくて本気になれよ」
「ふん、あんたに言われなくたって……」
 あれ、いつもならしつこく食い下がってくるのに、今日はそれがない。
「とにかく、がんばりなさいよ」
 姉貴はそれ以上なにも言わず、部屋に戻っていった。
「なんなんだ?」
「洋一。あまり美香にそのことを強く言わないで」
「なんで?」
「あれで本人も必死なんだから。いつも洋一のことを考えてくれてるんだから、今回は洋一が美香のことを考えてあげなさい」
「……わかった」
 俺は、部屋に戻って押し入れからアルバムを取り出した。
 少し前の写真だが、そこにはいつも姉弟三人で写っている写真があった。美樹はいつも俺にくっついて離れなかったし、姉貴はそんな俺たちのことをからかい半分でいつも見守っていた。
 考えてみれば、姉貴はいつもひと言多いし腹の立つこともあるけど、一度たりとも俺たちに対して理不尽なことや問題のあることを言ったりやったりしたことはなかった。
 だから、俺もそんな姉貴を、言葉ではあまりそういうことは表さないが、とても頼りにしていたし、好きだった。
 実際はじめて『女』というものを意識したのも姉貴だった。
 だからこそ逆に、姉貴の前では素直になれなかったのだ。
「今回は俺ががんばならないとダメだ」
 姉貴のためになにかしようと決意するまで、そんなに時間はかからなかった。
「姉貴、入るぜ」
 俺は久しぶりに姉貴の部屋に入った。
「どうしたの?」
 姉貴はベッドに寝そべりながら雑誌を見ていた。
「なあ、話なら聞くぜ」
「なんの話よ?」
「さっきのことだよ」
「あんた、母さんになんか言われたんでしょ?」
「まあ、それもあるけど、ここに来たのはあくまでも俺の意志だ」
「そう……」
 俺は椅子に腰を下ろした。
「ダメね。洋一に心配されてるようじゃ」
「別に核心について話してくれとは言わないけど、愚痴程度でいいから話せばいいじゃないか。だいぶ楽になると思うけど」
「ふう……」
 姉貴はため息をつき、体を起こした。
「じゃあ、これだけ聞いてもらおうかしら」
「ああ、なんでも聞くぜ」
「私ね、男の人とつきあうのにひとつ条件というか、基準みたいのを持っているのよ」
「なんだそれ?」
「ようするに、背が高いとか、カッコイイとか、そういうことよ」
「で、それが?」
「普通の人ならその程度だと思うんだけど、私の場合は違うの」
「どう違うんだ?」
「はっきり言えば、外見は関係ないの。内面がすべて」
「その内面の基準ていうのは?」
 姉貴は一呼吸置いた。
「笑わないで聞いてよ」
「ああ」
「その基準は、父さんや洋一なのよ」
「へ……?」
 俺は一瞬、自分の耳を疑った。
「そんなアホみたいな顔しないの」
 姉貴は、少しだけ困ったような顔で笑った。
「父さんや、俺?」
「まあ、全部ではないけど、そうなるわね」
「ど、どうしてさ?」
「父さんはそうじゃないけど、洋一は優しいって言われるの、イヤでしょ?」
「まあ、好きじゃない」
「そこなのよ。本当に優しくて頼りになる人と上辺だけの優しさの人との違いは。父さんも昔はそうだったみたいよ。母さんに聞いたことがあるわ」
「へえ、父さんがね」
「それで、今までそういう人を探してきたわ。でもなかなかそんな人、いなくて」
「それは──」
 しょうがない、と言おうとしたが、やめた。なんでもしょうがないで片づけるわけにはいかなかったからだ。
「正直言うと、母さんや愛ちゃんが羨ましかった。あっ、別に嫉妬じゃないわよ。ただ単純に羨ましかったの。まあ、美樹はちょっと違う意味でも洋一に惹かれてるみたいだけどね」
 俺にとっては驚きの連続だった。姉貴がこんなに真面目に話すのもそうだったが、その内容にも驚いた。
「ちょっと話しすぎたかしら」
「なあ、姉貴」
「ん?」
「こんなこと言うと勝手だって言われるかもしれないけど、きっと見つかると思うぜ」
「洋一……」
「だから、あきらめるなよ。それに、家の中で暗い顔した姉貴なんか見たくないしな」
「ありがとう。でも、私のことを心配する前に、まずは自分のことにけじめをつけなさいよ」
「わかってる」
「よろしい」
 結局、姉貴は姉貴だ。
 姉貴はベッドから立ち上がると──
「ちょ、ちょっ──」
 俺は、そのまま姉貴に抱きしめられた。
「あ、姉貴……?」
「洋一、これだけは覚えておきなさい」
「えっ……?」
「洋一のいいところはその優しさだけど、あまり人に優しくしすぎると、人を不幸にするかもしれないわよ」
 俺は姉貴の言葉の意味がわからなかった。
「いい? 絶対に不幸にしちゃダメよ」
「ああ……」
 俺は、生返事を返すことしかできなかった。
 
 三
「ごめん、待った?」
「いや、それに時間通りだからな」
「うん」
 六月最後の休日。俺と愛は映画を見に来た。
 ま、愛の誘いに俺が乗ったというのが本当だけど、細かいことは気にしない。
「ところで、なんの映画が見たいんだ?」
「えっとね、今話題の映画で『薔薇の咲く庭で』よ」
「ああ、名前は知ってる。確か、コテコテのラブストーリーじゃなかったっけ?」
「コテコテは余計だけど、そうよ」
「まあ、しょうがないか」
 俺はラブストーリーみたいなお情け頂戴、お涙頂戴ものはあまり好きではない。ただ、一度いいと言ったんだから約束は守らないとな。
「へえ、結構いるじゃないか」
 映画館は中高生と思われる人から、学生、OL、夫婦連れと様々な年代の人が、特に女性が多かった。ま、当然、おきまりのいちゃいちゃバカップルもいる。
「ここ、空いてるよ」
 俺たちはちょっと後ろ目のところに座った。映画は少し後ろの方が見やすい。
 封切られてからあまり日にちが経っていないこともあって、結構入っていた。満席というほどではなかったけど、さすがは話題の映画という感じだ。
 しかし、俺にとって映画は、やはりというか、予想通りというか、退屈なものだった。
 先の見えるストーリー、定番おきまりの連続。確かに役者は素晴らしい演技をしていたけど、如何せん内容が……
 で、結局は寝てしまう。どうせタダだから。
 普通なら最後まで寝ているはずなのだが、今回は不覚にも途中で起きてしまった。しかも、ラストで。
 スクリーンでは、主役の男優とその相手役の女優が感動の再会を迎えていた。
 しかし、俺にとっては虫酸の走るようなイヤな場面だった。
「ううぅ、逃亡したい……」
 俺は、できるだけスクリーンから意識を外し、まわりに目を向けた。
 寝てる奴もいるし、平然と見てる奴もいるけど、やっぱり感動の涙を流している人が多かった。俺には絶対にわからないけど。
 で、愛は──
「……ぐすっ……ぐすっ……」
 まあ、予想通りだな。ハンカチを握り締め、スクリーンに釘付けだ。
「ふう……」
 俺は、おとなしく終わるのを待つことにした。
 それからしばらくして、ようやく映画が終わった。
 解放された俺は、おそらく憔悴しきった顔をしていただろう。それほどつらかった。
「ごめんね、洋一」
「ん、なにがだ?」
「だって、洋一はああいうのあんまり好きじゃなかったし。それに、退屈な思いをさせちゃったから……」
「バーカ、そんなこと心配すんなよ。俺は、まあ、面白かったとは言わないけど、愛が楽しめたならそれでいいじゃないか」
「でも……」
「だから、気にするなって。う〜ん、そんなに俺に対してすまないと思ってるんなら、今日一日俺につきあってくれ。それで帳消しだ」
「えっ? う、うん」
 俺は半ば強引に、今度は俺の方から誘った。ま、こうでもしなきゃ、愛はいつまで経っても気にするからな。
「よし、それなら早速行こうぜ」
「あっ、待ってよ。洋一」
 実際、俺としては映画の憂さを晴らす意味もあった。さすがにあのままだと後味が悪すぎる。それを帳消しにする意味でも、愛といろいろまわるのはちょうどよかった。
 俺たちは特になにをするでもなく、休日の繁華街をまわった。
 そんな時、ちょっとしたハプニングがあった。
「あの、すみません」
 俺たちは通りで呼び止められた。女の人がひとりとカメラを持った男の人がひとり、そして荷物持ちの男の人がひとり。そんな三人組だ。
「なんですか?」
 できるだけ感情を殺して訊ねた。
「私たちは月刊『パレット』の者なんですが──」
「パレットっ」
 俺がなにか言う前に、愛が素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ、知ってるのか?」
「うん。だって、今そういう雑誌の中でも一、二を争うくらいの人気雑誌よ」
「へえ。それで、その人たちが?」
「はい。今ですね、七月の終わりに発売される九月号の特集について取材してるんです」
「なんの取材ですか?」
「『この夏のベストカップル』というものなんですけど」
「カップル?」
「ええ、そこでおふたりを見かけたものですから」
 女の人はにこやかな──あくまでも営業スマイル──を浮かべてこっちを見ている。
「すみません。ちょっといいですか。愛、ちょっと……」
 俺は愛を連れてその人たちから少し離れた。
「どうする?」
「どうするって言われても……」
 俺としても微妙な心境だった。愛とカップルだと思われたのは、まあ、事実ではないけど嬉しくはあった。ただ、それはあくまでも俺の気持ちだ。愛はどう思っているか。それを確かめたかった。
「イヤなら断ればいい。どうせ強制じゃないんだから」
「うん……」
「俺は愛の意見に従う。それに、もし間違って雑誌に載ったら大変だしな」
「……断ろっか?」
「俺は別に構わないぜ。それならそれで言わないと──って、あんたたち、いつの間に」
 振り返ると、すぐ側までその三人は来ていた。
「あの、悪いんですけど……」
「ああ、雑誌に載せたりする時に都合が悪いなら……佐伯くん」
 佐伯と呼ばれた荷物持ちがカバンを開けた。
「帽子やサングラスなんかの変装グッズもありますから、お願いします」
「ここまでやるとは……」
 俺は、驚きを通り越して呆れていた。愛の表情からも俺と同じ考えであることがすぐにわかった。まあ、それが正常な反応だろう。
「洋一」
「どうする……?」
「仕方ないから……」
「さすがは彼女は話がわかる。さ、どれでも好きなのを選んでください」
 で、結局俺たちは簡単な変装をして写真を何枚か撮られ、そのあといくつかの質問を受けた。俺は半分ヤケになっていたが、露骨にイヤな態度を取るのも問題があると思い、自重した。
「ありがとうございました。もし掲載が決まりましたら連絡しますので」
 そう言い残し、その三人は次のターゲットを見つけに行った。
「大丈夫よね?」
「なにがだ?」
「私たち、載らないわよね?」
「たぶんな」
 不思議な感じだった。いつもは愛とふたりでいても特に意識したりすることはないのに、今回は気にしたくなくても気にしてしまった。
 確かに、ほかの人から見れば、男と女が一緒に歩いていれば、よっぽどのことがない限りはカップルに見られるのだろう。ただ、俺たちの場合はまだカップルじゃないから。
 まあ、そういうちょっとしたハプニングはあったが、全体としては有意義な休日だったと言えよう。
「洋一」
「ん?」
「私たちって、カップルに見えるのかな?」
 帰り道、愛がそんなことを聞いてきた。
「う〜ん、そう見えるのかもな。だからあんなことがあったんだろ」
「それはそうだけど……」
 愛は少し俯いた。
「私ね、ちょっぴり嬉しかったの」
「なにが?」
「洋一とカップルに見られたこと。だから、あの時も素直に受けてもいいかな、って思ったの」
「じゃあ……」
「でもね、私にはその勇気がなかったの。それに、私は洋一にふさわしいのかなって、唐突にそんなことが頭をよぎって……」
「それは……」
「うん、わかってる。その答えは、夏休みに出すから……」
 俺はなにも言えなかった。
「ね、もうすぐテストね」
「な、なにを言うかと思えば、イヤなことを……」
「また、一緒にやろっか?」
「えっ……?」
「夏休みに補習なんて、ダメだからね」
「うっ、痛いところを……」
「だから、ね」
 愛は、上目遣いにそう言った。
 愛の容姿でそうやられては、たいていの連中は断れないだろう。
「まあ、この前のテストも愛のおかげでよかったわけだし。よし、やるか」
「うん」
 俺としても積極的に断る理由はない。というか、断る方がデメリットが多い。
「では、先生。よろしくお願いします」
「ふふっ、わかりました」
「ははは」
 ふたりの笑い声が夕方の街に響いた。
 
 四
「先輩」
「やあ、真琴ちゃん」
「あの絵、できましたか?」
「まあ、一応ね。これだよ」
「うわあ、綺麗な絵。やっぱり、先輩の色遣いにはかないません」
「ははは、ありがとう」
 というわけで、テストも結構近いのに俺と真琴ちゃんは相変わらず絵を描いていた。ただ、放課後は勉強もあるのでやってない。もっぱら昼休みにやっている。
「そうだ。もうすぐテストですけど、先輩はどうなんですか?」
 いきなり現実の問題になった。
「う〜ん、なんとかなるとは思うけど。真琴ちゃんは?」
「私もなんとかなる程度です。あっ、でも、お姉ちゃんに教えてもらうともう少しよくなることもあります」
「へえ、お姉さんがいるんだ」
「はい。先輩と同い年ですよ。お姉ちゃんは、私と違って頭がいいので」
「でも、真琴ちゃんだってこの高校に入ったんだから」
「えへへ、実はそれも半分はお姉ちゃんのおかげなんです」
「どういうこと?」
 俺は首を傾げた。
「最初、私の成績ではここはダメだったんです。でも、どうしても行きたくて。それでもお父さんやお母さんは塾とかはダメだって言うから。それで、お姉ちゃんに即席家庭教師になってもらったんです」
「ふ〜ん……」
「受験勉強の時は絵も描かないでがんばりました。お姉ちゃんの教え方も上手だったので、十二月頃にはなんとかなるところまで成績も上がったんです。そして、今の私があるんです」
「でも、それって確かに真琴ちゃんのお姉さんも教え方がよかったのかもしれないけど、結局は真琴ちゃんのがんばりなわけでしょ? すごいことだよ」
「えへへ、そんなに言われちゃうと照れちゃいます」
「うん、ようやくわかった」
「えっ、なにがですか?」
「真琴ちゃんは人一倍のがんばり屋なんだね。受験のこともそうだけど、絵だってそうだ。俺も少し見習わないと」
「その言葉、お姉ちゃんにも言われました。でも、私はそうは思ってないんですけど……」
「そういうことは、本人にはわからないもんだよ」
 これは本当のことだと思う。天才は自らが天才であるとは言わない。スポーツ選手などがすごいと言われて、本人はまだまだだと思うのも、それに近いものがある。
 ようするに、変に自信過剰にならないというのだろうか、分をわきまえているのだと思う。
「よし、今日は真琴ちゃんを描こう」
「ホントですか?」
「ああ。真琴ちゃんのスケッチブックに描くから。あ、でも、今日は下書き程度かな」
 時計を見ると、あまり時間はなかった。
「できあがったら、お姉ちゃんに見せてもいいですか?」
「もちろんだよ。それに、真琴ちゃんのスケッチブックに描くんだから、絵も真琴ちゃんのだよ」
「はいっ」
 俺はとてもカワイイ、太陽みたいに明るいモデルを描きはじめた。
「先輩」
「ん?」
「先輩に描いてもらって、絵の方がカワイイとか言われたらどうしたらいいですか?」
「ははは、大丈夫だよ。本人よりも可愛くも美しくも描くことはできないから」
「はい、先輩がそう言うなら大丈夫ですね」
 俺は、話している間にも筆を走らせていた。はっきり言って、真琴ちゃんは俺には過ぎたモデルだけど、気合いだけは入っていた。
「……よし、今日はこれくらいにして、明日、もう一度下書きしてから……あ、そうだ。真琴ちゃんは、色つけた方がいい?」
「私はどちらでも構いませんけど」
「う〜ん、それじゃ、明日までに俺が考えておくよ」
「はい、お願いします」
 スケッチブックを彼女に返した。
「そろそろ戻ろうか?」
「はい」
 俺たちは揃って屋上をあとにした。
「それじゃあ、先輩。また明日です」
「うん、また明日」
 一年生の教室と俺の教室は階が違うので、途中で別れた。
「ん〜、洋一。今の誰かな?」
「……雅先」
 と、どこから湧いて出てきたのは、雅先がいた。
「森川ではなかったようだけど」
「あの子は……」
「ふんふん、あの子は?」
「絵描き仲間だって」
「絵描き仲間?」
 雅先は首を傾げた。
「ああ、ちょっとしたことで知り合って、彼女も絵が好きだって言うから、たまに一緒に描いてるんだ」
「それで一緒に。でも、あの子、一年だろ?」
「そうだけど、それが?」
「いやいや、たいしたことじゃない。洋一も守備範囲が広いなぁ、と思って」
「い、いい加減にしろって。真琴ちゃんとはなんでもないんだからさ」
「ほお、真琴ちゃん、ねぇ……」
 くそっ、雅先の奴、調子に乗りやがって。見てろよ。
「……雅先」
「な、なんだよ?」
 俺は、目一杯ドスの利いた声で言った。
「あんまり余計なことを言うと……」
「言うと……?」
「優美先生にあることないこと、適当に言うからな」
「げっ! そ、それだけはやめてくれ」
「どうしよっかなぁ?」
「わ、わかった。これ以上聞かないし、誰にも言わない」
「まあ、そう言うなら」
 まったく、これくらいでうろたえるなんてな。それにしても、優美先生の名前は効くなぁ。
「おっ、そ、そろそろ行かないとな。洋一も早く戻れよ」
「わかってるって」
 雅先は、形勢不利を悟ったのか、そそくさと立ち去った。
「さてと」
 俺は、午後のつまらない授業を受けるため、教室に戻った。
 
 とはいえ、午後の授業は爆睡した。俺が悪いんじゃない。授業がつまらないのが悪いんだ。
 放課後。俺が帰ろうとすると──
「ね、一緒に帰ろ」
 愛が声をかけてきた。愛とはこのところ愛が優美先生にいろいろ仕事を頼まれていたから一緒に帰っていなかった。
「今日はいいのか?」
「うん、大丈夫よ」
「そっか。じゃあ、帰るか」
 というわけで、俺たちは久しぶりに一緒に帰ることにした。
 ラッシュの昇降口を抜け、校舎を出る。
「ねえ、いつからはじめよっか?」
「なにをだ?」
 唐突な話題に、俺は首を傾げた。
「勉強よ」
「ん、ああ。そうだな、また一週間前でいいんじゃないか」
「じゃあ、あさってからね」
「テストさえ終わってしまえば、あとは夏休みだ」
 少し前までなら少し暗くなってくる頃だが、今はだいぶ日が長くなっている。
「でも、その前のテストをがんばらないと」
「わかってるって。今年の夏は、大切だからな」
「えっ……?」
「いや、なんでもない。気にするな」
 そう言って俺は愛の頭をポンポンと叩いた。
「あっ、また人の頭を叩いて」
「いいじゃないか。ちょうど叩きやすいところにあるんだからさ」
「よくないわよ」
「まあまあ、怒るなって」
 言いながらも、やめない俺。
「んもう、洋一っ」
「──あらあら、相変わらず仲が良いわね」
「げっ、姉貴……」
 突然の声は、姉貴だった。
「こんにちは、美香さん」
 愛は、その隙をついて俺の手から逃げた。
「こんにちは、愛ちゃん。ホント、ふたりは仲が良いわね」
「どうして今のを見てそう思うんだ?」
「だって、仲が良くなければ、こんなことできないし」
 そう言って姉貴は、俺の頭をさっき俺が愛にしたようにポンポンと叩いた。
「ね、そうでしょ、愛ちゃん?」
「えっ、それは……」
 姉貴の問いに、愛は困った顔でこっちを見る。
「洋一と愛ちゃんは、幼なじみということを抜きにしても、珍しいくらい仲が良いからね。学校にいないでしょ、ふたりほど仲の良い男女なんて?」
「さあ、全校生徒のことを把握してるわけじゃないし、わからんなぁ」
「あんたはただ単に気にしてないだけでしょうが」
 まあ、それは間違いないな。
「でも、あれかしら。愛ちゃんとしては、もう少し、とか思ってたりする?」
「えと、その……」
「まったく、またはじまった。姉貴、そのくらいにしておけよ」
「はいはい、わかってるわよ」
 姉貴は意外にすんなり引き下がった。
 それぞれの家が近づいてくる。
「それじゃ、また明日ね」
「ああ」
「バイバイ、愛ちゃん」
「はい、さようなら」
 愛は、俺と姉貴にそう言って、少し駆け足で家に入った。
「ただいま」
 俺たちも家に入る。
「おかえりなさい」
 ちょうどリビングから出てきた母さんと遭遇した。
「あら、美香も一緒だったの」
「そこで一緒になってね」
「じゃあ、そういうことで──」
「ちょっと待ちなさい」
 俺がさっさと部屋に戻ろうとすると、姉貴に呼び止められた。
「なんだよ?」
「着替えたら、私の部屋に来て。話があるの」
 姉貴は、いつになく真剣だった。
「あ、ああ、わかった」
 だから俺も、特に聞き返すこともなく、ついそう言ってしまった。
 部屋に戻って着替えている最中も、なんの話か考えたが、まったく思い浮かばなかった。ただ、あの真剣な表情からすると、いつものアホみたいな話じゃないのは確かだ。
「入るぜ」
 着替えた俺は、姉貴の部屋に行き、中に入った。
「いったいなんの話なんだ?」
 姉貴はベッドに座り、いつも以上に真剣な表情だった。
 俺はなんとなくいつもと勝手が違い、戸惑っていた。
 椅子に座り、次の言葉を待つ。
「真面目に答えてね」
「あ、ああ……」
 あまりの真剣さに、圧されてしまった。
「男の人って、どういうところに女の魅力を感じるものなの?」
「は……?」
 俺は、突拍子もない質問に間抜けな声を上げた。ただ、それ自体はどこかで聞いた質問だった。
「ちゃんと答えなさい」
「そ、そうだな、それは人それぞれだと思うけど……」
「じゃあ、洋一はどうなの?」
「俺? 俺は、笑顔だな」
「笑顔?」
 姉貴は、首を傾げた。
「どんなに可愛くても、どんなに綺麗でも、笑顔が魅力的でなければダメだ」
「なるほど、わかる気がするわ。確かに愛ちゃんは笑顔が魅力的だからね」
「まあ、当然性格とかもあるけど、とりあえず二の次かな。容姿もそう」
「そういうことから言うと、愛ちゃんは完璧よね。性格はいいし、カワイイし、おまけにスタイルも抜群だし。まさに至れり尽くせり」
「姉貴。そんなことを言うために俺を呼んだんじゃないだろ」
「わかってるわよ。そんなに目くじら立てないの」
「ちぇっ……」
 とりあえず本題に入るのを待つ。
「洋一。私って、魅力的だと思う?」
「な、なにを言うかと思えば……」
「答えて」
 またも迫力に圧されてしまった。
「ちょっとひと言多いこともあるけど、姉貴は十分魅力的だと思うけど……」
 これは本音だ。
「ふう、やっぱりね。洋一なら絶対にそう言うと思ったわ」
「なんで?」
「たとえ今のがウソでも、洋一は人を悲しませるようなことは言わないからね」
「今のは本気だぞ」
「わかってるわよ」
「じゃあ──」
「洋一は優しすぎるのよ」
「えっ……?」
 いきなりな展開に、またも俺は驚いた。
「でも、それがいいところでもある。もしもね、私が洋一の姉じゃなかったら、絶対に好きになっていたわ」
「姉貴……」
「洋一」
 姉貴は手招きで俺を呼んだ。
「私を抱きしめて」
「は?」
「お願い」
「そ、そんなこと言われても……」
「ただ抱きしめるだけでいいから」
 冗談、というわけではない。
「……わかった」
 俺は、そっと姉貴を抱きしめた。
「あ……」
 そこには、いつもの姉貴はいなかった。そこにいたのは、まさにひとりの『女性』だった。
「……よく、女の人が男の人に抱きしめられると幸せな気持ちになるっていうけど……」
 姉貴は、わずかに間を置いた。
「今ならその気持ちがわかるわ」
 姉貴の体は、想像以上に小柄で華奢だった。このまま強く抱きしめたら折れてしまいそうなくらいだった。
「私ね、ようやく好きになれそうな人をみつけたの。父さんや洋一ほどではないにしろ優しくて頼れる人よ。それに、裏表がないし」
「よかったじゃないか。これで姉貴も──」
「ううん、まだわからないわ。私もその人のことをもっとよく知って、その人にも私を知ってもらって。それでようやくスタートラインに立てるんだから」
「手伝うぜ。家に連れてきてくれれば聞きにくいことなんか、聞いてやるし」
「ありがとう。でも、とりあえず自分でやってみるわ。それでもダメなら、その時には洋一に手伝ってもらうから」
「ああ、任せておけ」
「うん、期待してるわよ」
 姉貴は、いつになく穏やかな笑みを浮かべた。
「それから──」
「ほかにもあるの?」
「ううん、ただ、もう少しこうしていたいだけ……」
 俺は、なにも言えなかった。
 姉貴の華奢な腕が、俺の背中にまわされた。
「だけどね、この前言ったことは忘れちゃダメよ」
「この前言ったこと?」
「そう、優しすぎると人を不幸にするかもしれないってこと。よく考えなさいね」
「……わかった」
 
 五
「先輩、先輩」
「ん、ああ、ごめんごめん」
 気付くと、真琴ちゃんが不思議そうな顔で俺の顔を覗き込んでいる。
「どうしたんですか、ボーッとしちゃって?」
「いや、なんでもないよ。それより絵のことなんだけど、しっかり背景も入れて色もつけることにするから」
「はい」
 とは言ったものの、俺の頭の中には昨日の姉貴の言葉がグルグルまわっていた。
 なんとか振り払おうとするんだけど、気が付くとそのことを考えていた。
「やっぱり先輩、どうかしたんですか?」
「う〜ん、なんともないんだけど、ごめん。もうすぐ描き上がるから」
「はい……」
 あんまり真琴ちゃんに迷惑をかけたくなかったので、俺は少し集中して筆を動かした。
「……よし、これでいいだろう。どう?」
「うわぁ、これ、私ですか?」
「そうだよ」
 真琴ちゃんは嬉しそうに絵を見ている。これが人物画を描いていて一番充実できる瞬間だ。
「色づけは、そうだなぁ、一週間くらいかかるかな。だから、テストが終わってから渡すから」
「はい、楽しみに待ってます」
「そうだ。背景のリクエストはなにかあるかい?」
「う〜ん、なんでもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、森の中の湖のほとり、というのはどうですか?」
「いいよ。じゃあ、テスト明けにここでね」
 俺は真琴ちゃんとそう約束して別れた。
 授業中、頭の中にはやはりあの言葉が渦巻いていた。考えないようにしているんだけど、授業がつまらないからついつい考えてしまう。
 そんなことだから放課後、俺は由美子先生のところへ行った。
「失礼します」
「あら、洋一くん」
 備品チェックをしていた先生は、いつものように笑顔で迎えてくれた。
「今日はどうしたのかしら?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「まあ、珍しい。じゃあ、座って」
 俺は、先生の前に座った。
「それで、聞きたいことって?」
「はい、実は昨日、うちの姉貴に言われたことがあるんです」
「お姉さんは確か……美香さん、だったわよね」
「はい。それでこう言われたんです。『人に対して優しすぎると、人を不幸にするかもしれない』って。そして、そのことについてよく考えろとも言われたんです。でも、俺にはその真意がつかめなくて……」
「……それで私に聞きに来た、と?」
「そういうことです」
「ふふっ、美香さんもいいこと言うわね」
 由美子先生はそう言って微笑んだ。
「その答えは自分で見つけなければならないけど、ヒントはあるわよ」
「ええ、それで構いません」
 たとえヒントでも、前に進めるならそれでいい。
「自分の立場があるということは、相手にも立場があるということ。そのことを踏まえた上で、人に優しくした時、相手はどう思うか。相手があなたのことをどう思っているのかも結構重要な要因ね。そして、それが複数になったら。それがヒントよ」
「……はい」
 なんとなく生返事になってしまった。
「じゃあ、もうひとつだけ言うと、決して自分の心を偽ってはダメよ。わかった?」
「なんとなく、わかったようなわからないような……」
 ようするに、自分で考えろ、ってことだな。
「洋一くん。時には考えて考えて、そして答えを見つけ出すことも必要よ」
「はい」
「それに、洋一くんにならきっと答えを見つけ出せるわよ。私が保証するわ」
 うん、やっぱり由美子先生は優しいな。
「でも、その前にテストをがんばるのよ」
「あはは……、やっぱりそうなりますか」
「この前みたいにね」
「ま、がんばってみます」
 先生に話したおかげで、ここへ来る前よりずいぶんと気分が軽くなった。
「先生、ありがとうございました」
「いつでも相談に乗るから、遠慮なくいらっしゃい」
 俺は、優しい笑顔に送られながら保健室を出た。
「よし、がんばってみるか」
 俺の気持ちは、登校時とはまったく変わっていた。少なくとも、ほかのことを邪魔するほど例のことを気にしなくなった。
 家に帰ると早速絵に取りかかった。
 下書きを清書して、注文にあうような背景を描き入れた。
 ある意味不可抗力とはいえ、今日は真琴ちゃんに悪いことしたから、かなり気合いを入れて描いた。
 それをキリのいいところまでやり、それから勉強をはじめた。今回は愛とやる前に少しでも進めておきたかったからだ。
 
 次の日から愛と勉強を開始した。
 今回はそれほど範囲が広くないので、より細かいことが出題されそうだった。
「やっぱり洋一はすごいわよ。なんでもすぐに吸収しちゃうんだから」
「もともとできないからな。それしかないんだよ」
「そうだとしても、でも、すごいわよ」
 愛は、俺の気合いの入りとうがよっぽど意外だったらしく、しょっちゅうそんなことを言った。まあ、本当にそれくらいしないとテストを乗り切れないから、勝手に普段では考えられないような力が発揮されてるんだろう。
 そしてあっという間に一週間が過ぎ、テストがはじまった。
 今回は前回よりも調子がよかった。しかも、勉強の合間に絵の仕上げを行ったのにだ。これには俺自身も結構驚いた。やった分だけの結果が出てくるのはやっぱり嬉しかった。
 そんな充実した気持ちのままテストは終わった。
「結果、どうだった?」
「いい感じだぜ」
「それなら夏休みは安心ね」
 俺の言葉に、愛はホッと胸を撫で下ろした。
「ま、少なくとも赤点だけは回避できただろうからな」
「それが一番重要だから」
 ま、確かに。
「っと、すまん、愛。ちょっと行くところがある。そうだな……三時頃、うちに来てくれ。いろいろ決めないといけないこともあるから」
「あ、うん、わかった」
 愛にそう言い置いて、俺はスケッチブックを持って屋上へ向かった。
「一年はもう終わってるはずなんだが……」
 今日は、一年がテスト科目が少ない関係で先に終わっている。
「先輩」
 と、聞き慣れた声がした。
「待たせちゃったかな」
「いいえ、大丈夫です」
 真琴ちゃんは、少し大げさとも思えるくらい、首をブンブンと振った。
「じゃあ、これが約束の絵」
「見てもいいですか?」
「もちろん」
 真琴ちゃんはスケッチブックを受け取り、早速開いた。
「……素敵」
 それを見ての第一声はそれだった。
「気に入ってもらえたかな?」
「はいっ、すごく素敵です」
 その絵は、真琴ちゃんのリクエストに応えるように森の中の湖が背景になっており、そのほとりに真琴ちゃんがたたずんでいる、そんな絵だった。
 今回は色づけにもかなり力を入れた。背景は淡い色で統一し、緑が多いからあまり暗くならないように工夫した。
 そして、真琴ちゃん自身はわざと手法を変えた。それによって真琴ちゃんが際立つようにした。ま、それは当然だけど。どうせ背景は俺の想像で、絵自体は似顔絵なんだから。
「これ、私の宝物にしますね」
「ははは、それは光栄だな」
「この前、下書きをお姉ちゃんに見せたら、すごい絵だって言ってました。先輩、もし機会があったらお姉ちゃんも描いてあげてください」
「でも、お姉さんは学校が──」
「あっ、そのことだったら大丈夫です」
 俺の言葉を遮り、真琴ちゃんは笑顔でそう言った。
「お姉ちゃん、二学期からうちの高校に転校してくる予定なんです」
「どうして?」
「今の学校、女子校なんですけど、あまり好きじゃないみたいで。それで私の話を聞いているうちに、転校するって言って。お父さんやお母さんは反対したんですけど、もうお姉ちゃんの中では決定事項らしくて。結局、お父さんたちが折れる形で転校することになったんです」
「理由はわかったけど、でも、転入試験て難しいはずだけど、大丈夫なわけ?」
「あ、それなら大丈夫です。お姉ちゃんの成績ならどこでも余裕で入れますから」
 そんなに優秀なのか。
「そういうことなら、機会があれば会ってみようかな」
「はい、是非」
 真琴ちゃんのお姉さんか。俺と同い年ってことだけど、どんな子なんだろうか。
「先輩」
「ん?」
「夏休みにも会えるといいですね」
「会おうと思えば会えるよ。それに、なにかあればうちに電話してくれればいいから。えーっと……これがうちの電話番号」
 スケッチブックの端に電話番号を書き、真琴ちゃんに渡した。
「はい、わかりました」
「あ、でも、八月の頭はいないかもしれないから」
「大丈夫です。宿題がひと段落してからだと思いますから、その頃はさすがに」
「うっ、宿題か。また、終盤勝負かな」
「がんばってくださいね」
 俺たちは終業式の日にもう一度会う約束をして別れた。
「さ、急いで帰らないとな」
 愛との約束の時間にはまだ十分余裕があったけど、その前にひとつやることがあったのだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 俺は帰るなり着替えもせず電話をかけた。相手は父さんの友達で、うちとはかなりつきあいもある人だ。その人はとある会社の重役で、俺にいつもいろいろ世話を焼いてくれていた。
 それでなんで電話をかけたかというと、アルバイトのためだ。その人のつてで割のいいバイトを紹介してもらうのだ。普通にバイトを探しても、高校生ということでバイト代は結構足下を見られる。夏休みはなにかと物入りだから、やはり裏技を使う必要があった。
 バイトの方は、すんなり決まった。その人の知り合いの人がちょうど信用できるバイトを探していたのだ。仕事自体はそれほど大変じゃないみたいだけど、バイト代は結構期待できそうだった。
 バイトも無事決まり、俺は部屋に戻った。
 着替えてからベッドに横になり、久しぶりに姉貴の言葉について考えてみた。
 すると、以前とは比べものにならないほどすんなりと考えられた。やはり、精神状態は大きく影響するらしい。
 そして、ひとつの答えを出した。それが正しいかどうかはわからない。ただ、俺は間違いではないと思っている。それがなにかは、とりあえず言わないでおこう。どうせそのうちわかることだから。
 
 三時少し前。
「洋一。愛ちゃんが来たわよ」
 愛がやって来た。
「よう、来たな。ま、座れ」
「うん」
 愛は、もはや定位置になってるベッド前に座った。
「テストも終わったし、もうすぐ夏休みだろ」
「うん」
「だから、あの計画を立てようと思ってさ」
「あ、そうだね」
 愛もようやくなんで呼ばれたのかわかったらしい。
「水島さんが言ったのは、八月の一日、二日と五日から七日まで、そして十日、十一日だった。この中から決めないとな」
「洋一はいつがいいと思う?」
「俺は、五日からがいいと思うけど」
「そうね。それくらいがいいかも」
「じゃあ、八月の五日から、七日までいるか?」
「できれば」
「より、決まりだな。あとで予約しておくよ」
「うん」
「早く泳ぎたいぜ」
「ふふっ、気が早いわよ。でも……」
 愛は、少し俯いた。
「決めないとね」
「えっ……?」
「ううん、私自身のことよ」
「そうか?」
 俺はそれ以上なにも言わなかった。
「ね、洋一」
「ん?」
「私のワガママにつきあわせてごめんね」
「別に気にしてない」
「ホントに?」
「ああ。それに、気にしてたらおまえとどうこうしようだなんて思わないだろ?」
「それもそっか」
 こいつも、鋭いんだか鈍いんだか。
「……やっぱり洋一は優しいね」
「さあな」
 いろいろ悩み、考えたけど、時間だけは止まらない。
 だからこそしっかり考え、答えを出し、前に進まなければならない。
 それは、俺と愛の関係にも言えることだ。
 愛がいろいろ考えて答えを出すなら、俺もそれにしっかり応えられるだけの答えを用意しておかないといけない。ま、少なくとも今の段階ではそれは十分可能だろうけど。
「夏休み、楽しみね」
「ああ、そうだな」
 悩んだ分だけ成長して、俺は夏を迎える。
 きっと、忘れられない夏を──
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