恋愛行進曲
 
第三章 閑話休題
 
 一
 再び単調な日々が戻ってきた。修学旅行後は、学校では話題といえばそれだったが、それも次第になくなってきていた。まあ、それが普通だろう。
 俺は相変わらず怠惰な生活を送っていた。クラス委員にも関わらず、ほとんど仕事もせず、授業中は居眠りばかりだった。俺がそうしていられるのは、愛のおかげなのだが、どうも普段はそれを意識できない。
 それでも、とりあえず無事に修学旅行を乗り切ったことで、俺への信用も高まった。一応、クラス委員としての仕事はこなしていたからだろう。中には結構面倒な仕事もあったし。
 生徒だけでなく、先生たちからも少しだけ違った目で見られるようになった。今までが今までだったから、こいつは使えるかもしれない、とでも思っているのだろう。
 そんな中で、優美先生と雅先とは前以上に関係が強くなっていた。優美先生は前から俺のことを買ってくれていたけど、修学旅行が終わってからよりいっそう期待をかけるようになった。ただ、俺はそういうプレッシャーに慣れておらず、望まれているような成果はほとんど上げられなかった。
 そういえば、どうやら優美先生と雅先は結構いい感じらしい。ま、優美先生にしてみれば雅先は『お子様』なのかもしれないけど。密かに優美先生のことが好きだった雅先にとっては、それでも一歩進んだわけで、よかったのかもしれない。
 ま、俺の苦労も少しは報われたかな。
 さて、俺と愛の関係はどうなったかというと、はっきり言って変わっていない。まあ、決着は夏休みにつけるわけだから、それは当然だろう。
 それでも、一緒にいる時の会話なんかは少し変わったような気がする。具体的にどう変わったとは言えないけど、愛とは幼なじみだから昔からいろいろなことを話してきた。だからこそ、少し違うような気がしている。
 そういや、ひとつ忘れていた。なんと、この俺が女子から告白されることが出てきた。確かに中学の時にも二度ほどあったけど、最近ほどではなかった。
 しかし、まだ愛とのことが決着していないので、いつもどうやって断るか悩んでいる。贅沢な悩みだとは思うけど、こればかりはどうすることもできない。
 俺は女の子が好きだ。それは認めよう。その女の子のどこに魅力を感じるかといえば、それは笑顔だ。カワイイ子、綺麗な子、確かにいいけど、やはり笑顔が魅力的じゃないとダメだ。
 だから俺としては、一大決心して告白してくれた子の笑顔を消さないよう、上手く断るのが難しい。
「あら、洋一くん」
「あ、由美子先生」
 屋上でそんなことを考えていたら、由美子先生が白衣姿のままでやって来た。
「どうしたの?」
「ははは、現実逃避ですよ」
 なにからの現実逃避なのかというと、テストだ。テストが好きな奴はいないとは思うけど、俺はそんな中でも特に嫌いな方だった。だから、とりあえずなにも考えずに済みそうな屋上へと逃げてきていた。
「ダメよ、そんなことじゃ。洋一くんはやればできるんだから」
「とは言っても、やる気にならないんです。だから、少しでもやれるように今は現実逃避してるんです」
 我ながら支離滅裂な言い訳だ。
「ふふっ、そういうことにしておくわね」
 それに対して由美子先生は、それ以上は言わなかった。たぶん、無駄だと思ったんだろう。
「そうそう、洋一くんにひとつ聞きたいことがあったのよ」
「聞きたいことですか?」
 首を傾げた。
「洋一くんは、休日はどんなことをして過ごしているの?」
「休日ですか? そうですね……」
 そうやって改めて訊かれると考えてしまう。
「いろいろですね。外へ出かけたり、一日中家の中にいたり。俺、部活やってないですから」
「じゃあ、最近はどうなの?」
「最近は、いろいろ面倒であまり出かけてないです」
「そう、わかったわ。ありがとう」
 由美子先生はひとつ頷くと、フェンスに寄りかかった。
「でも、どうしてそんなことを聞いたんですか?」
「純粋に興味があったからよ。教師という立場だからこそ、逆にあまり生徒のプライベートに首を突っ込めないから」
「先生は保健室で生徒の悩み相談なんかやってるじゃないですか」
「あれはあれ。悩み相談と言ったって、根掘り葉掘りなんでも聞けるわけでもないし。だから、聞いてもそれほど問題のなさそうな洋一くんに聞いてみたの」
 それはそれで微妙だ。
「洋一くんは、どんな感じの女の子が好きなの? あっ、森川さんみたい、っていうのはダメよ」
「そんなことは言いませんよ。でも、女の子に対しての望みは、そんなにないんですよ」
「へえ、どうして?」
「結局、そういうものは話したりつきあっていくうちに変わるかもしれないじゃないですか。だからです」
「まあ、それはそうね。でも、一応はあるんでしょ?」
「確かにありますけど。だとしたら、笑顔ですね」
「笑顔?」
 俺の答えに、先生は意外そうな顔をした。
「どんなに可愛くても、どんなに綺麗でも、笑顔が魅力的じゃなければ、俺の場合はダメなんです。自分を作っていない、本当の自分が笑顔には出ると思うんですよ」
「素晴らしい考え方ね。とすると、森川さんはその基準に合格したわけよね」
 少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なるほど、笑顔か」
「なんでそんなことを聞くんですか?」
「ん〜、それは秘密よ」
 そう言って微笑んだ。
「さてと、息抜きもできたし私は戻るわね。洋一くんも帰って少しは勉強した方がいいんじゃない」
「善処します」
 由美子先生は、白衣を翻して屋上をあとにした。
「変な感じだったな」
 俺はどうして由美子先生はあんなことを言ったのか考えてみた。だけど、ダメだった。なんせ由美子先生は話の途中で生徒を煙に巻くのが得意な先生だから。きっとまともに考えてもわからないだろう。
「ま、いっか」
 それ以上考えるのはやめて、俺も屋上をあとにした。
「テストまであと一週間か……」
 校舎内に残っている生徒は部活で残っているのではなく、偉いというか、単に俺がそうじゃないだけなのか、勉強している。
「あ〜あ、テストなんてさっさと終わっちまえばいいのに」
 ぶつくさ文句を言ってみても、状況が変わるわけではない。
「あれ、誰もいない」
 教室に戻ると、誰もいなかった。ほかのクラスはひとりくらい勉強で残っているのに、うちはゼロだった。
「ダメだな、みんなして」
 自分のことを棚に上げ、そんな戯れ言を言って教室を出た。
「さてと、今日はどうするかな」
 今日は愛も亮介も用事があるとかで、すでに帰っている。ようするに俺だけだ。
 とりあえず学校を出た。
 もうすっかり緑が濃くなった桜の木の下を、どこに行くでもなく下りていった。
 家に帰っても姉貴がいるはずだから、それはパス。となると行く場所なんて限られてくる。
 自然と足は商店街の方へ向き、ある店へと入っていた。
 そこは本屋である。
「そういえば……そろそろ出てると思うんだが」
 有名な作家の小説がそろそろ出てるはずだ。俺はこう見えても本を読むのは嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。小学生の時に父さんが読んでいた小説を読んで以来、すっかり気に入ってしまったのだ。
「えーっと、確か……ん?」
 本を探していると、見知った奴を発見した。愛だ。
「よし、ちょっと脅かしてやるか」
 俺は愛に気付かれないように近づいた。
「んんっ、あ〜、立ち読みは遠慮していただきたい」
 少し声色を変えて声をかけた。
「あっ、すみません」
 愛は慌てて読んでいた本を戻そうとしたが、ほかにも立ち読みしてる人がいるのに自分だけ注意されたのがおかしいと思ったらしい。キョロキョロとまわりを見て、こっちを振り向いた。
「あっ、洋一。んもう、脅かさないでよ。本当にびっくりしたんだから」
「いや、すまんすまん。あまりにも真剣に読んでたもんだから、ちょっとびっくりさせようと思ってさ。で、なにを読んでたんだ?」
 俺がその本を見ようとすると──
「ダメ」
 愛は、サッと本を後ろ手に隠した。
「なんだよ、別にいいじゃないか」
「ダメなものはダメ」
 むぅ、頑固な奴だ。
「それなら……」
 ほかにも方法はある。俺は、愛が立っていた本のコーナーを見た。
「なになに、『料理・園芸』か。なるほど……」
「な、なにがなるほどよ」
「そうか、この年で庭いじりが趣味だったのか」
「へ……?」
 一瞬、なにを言われたのかわからないというような顔をした。
「ち、違うわよっ」
 が、すぐにバカにされてることに気付いたらしい。
「……もう、しょうがないわね。これよ」
 渋々本を見せてくれた。
「えっと、『誰でも手軽にできる料理の本・初級編』か。へえ……ん? 『これさえあれば旦那も彼氏も完璧マニュアル』?」
 ……すごい副題だ。というか、それはいかがわしい系の本の副題じゃないのか?
「お、おい、本当にこんなの読んでたのか?」
「え、う、うん……」
 愛は、恥ずかしそうに俯いた。
「な、なあ、ここだとなんだから、外に出ないか?」
「えっ、あ、うん、そうだね」
 さすがにそれ以上そこにいるのははばかられた。
 外に出ると、早速追及を開始した。
「で、どうしてあんな本読んでたんだ?」
「別に、いいじゃない……」
「だってさ、愛は料理は得意だったじゃないか」
 愛は、本当に料理が得意だ。今まで食べたもので不味かったものはひとつもない。
「それはそうだけど……」
「だったら、今更なんであんな本を読んでたんだ?」
「……言わなきゃダメ?」
 探るような眼差しで訊ねる。
「別に無理にとは言わないけど、できれば知りたい」
 俺がそう言うと、愛は短く息を吐いた。
「はあ、しょうがない。教えてあげる。あ〜あ、もう少し秘密にしておきたかったのに」
 かなり残念そうにそう言う。なんか、俺が悪者みたいに聞こえるのだが。
「それはね、六月の十二日のためよ」
「六月十二日? その日になんかあるのか?」
「ふう、やっぱり忘れてる。洋一にすごーく関係のある日よ」
 なんだって? 俺に関係がある? う〜ん、そう言われると、なんか忘れてるような気が──
「──あっ! 思い出した。六月十二日って、俺の誕生日じゃないか」
「やっと思い出した。自分の誕生日くらいすぐに思い出せないの?」
「しょうがないだろ、全然気にしてないんだからさ。で、なんで俺の誕生日に……ってことは……?」
「うん……」
 ……ちょっとびっくり。
「ホントはね、直前まで秘密にしておこうと思ったの。でも、しょうがないね」
「…………」
「確かに私、料理は好きだけどレパートリーが少ないから、それで……」
 俺は、返す言葉もなかった。悪いことをしたわけじゃないけど、なんか悪いことをしたような感じさえした。
 しょうがない。
「いや、俺はなにも見てないし聞いてないぜ」
「洋一?」
「あれ、今、なんの話、してたんだっけ?」
 わざとらしいとは思うけど、せめてこれくらいはしないと。
「ありがと、洋一」
 愛は、少し戸惑いながらも、微笑んでくれた。
「ね、一緒に帰ろ」
「ああ、いいぜ」
 俺たちはそのまま一緒に帰ることにした。
「そういえば、洋一」
「なんだ?」
「勉強、してる?」
 イヤなことを思い出させる。
「いや、まったく」
「……だったら、もしよかったらなんだけど、一緒に勉強しない?」
「俺が? 愛と?」
「うん……」
 愛は小さく頷いた。
「いや、してもいいけど、たぶん俺が足手まといになるだけだぜ」
 これは間違いない。愛は俺より遙かに頭がいいから、俺と同じスピードで勉強していたら、できるものもできなくなる。
「大丈夫。洋一はやればできるんだから、そんなこと心配しなくても大丈夫」
「それは違うぜ」
「えっ……?」
「もし俺のせいで愛の成績が落ちたら、おまえはそれでもいいと言ってくれるかもしれない。でも、俺としてはただみじめなだけだし。それに……」
「それに?」
「おまえに迷惑をかけるのがイヤなんだ」
「洋一……」
「だから、な」
 愛は、穏やかに微笑んだ。
「やっぱり洋一は優しいね」
「そんなことはない」
「ううん、そうなの。でも、今回は私から誘ったんだから、心配しないで。もしそれでもダメなら、約束するから。成績は落とさない、って」
 こいつの今の成績から成績を落とさないというのは、かなり難しい。
「……わかったよ。そこまで言われたらこっちもあとには引けないからな。できるだけがんばってみるさ」
「うん、その意気その意気」
 だけど、俺と勉強できるのがそんなに嬉しいもんかね。
 俺なんか本当に役に立たないんだから。
 結局、俺たちは明日から一緒に勉強することを決め、約束して別れた。
「しょうがない、少しは勉強でもするか」
 その日、俺は珍しく勉強をした。
 
 二
「ここはこうなって……そう、だからこうなるの」
「なるほど。さすが愛だ。こんな難しい問題、よくわかるよな」
「そんなことないわよ。それに、洋一だってやればできるって」
 そんなわけで、俺は愛と一緒に勉強をしている。自分で言うのもなんだけど、俺はそんなにできない方じゃないけど、愛に比べたら雲泥の差だ。
 わからない問題の方が多いから、さっきから聞いてばかりだ。だから、愛はさっきから俺のことばかりやっていて、自分のはほとんどやっていない。
「なあ、俺のばかり見てないで、自分のもやれよ」
「大丈夫よ。今やってるとこ、もう終わってるから」
 な、なんだと? こんな難しいところが終わってるだと? う〜ん、信じられん。
「あっ、ちょっと待っててね」
 愛は時計を見て部屋を出て行った。
 俺は愛の部屋にひとり取り残された。
「何度来ても……居づらい部屋だ」
 愛の部屋は、『女の子』というような部屋だ。男の俺にとっては体質的にあわない。
「まだ飾ってある……」
 机の上には俺も写ってる写真が飾ってあり、しかも増えていた。増えたのは、修学旅行のだ。舞妓さんと一緒に撮ったものと、白浜で撮ったものが増えていた。
「お待たせ、洋一」
 と、愛がお盆を持って戻ってきた。
「お茶にしよ」
 テーブルに教科書やノートに代わって、お茶とお菓子が並んだ。
「アイスレモンティーとクッキーよ」
「おっ、旨そうだな」
「……あのね、これ、私が作ったの」
 そう言って愛は、クッキーを指さした。
「へえ、手作りか。どれ……」
 で、早速それをひとつ。
「……どう?」
「うん、旨いぜ。こりゃ、なかなかのもんだ」
「ホント? よかった。これ作ったの、今日がはじめてだったから……」
「なに? ひょっとして、俺を実験台に使ったのか?」
「う、ううん、違うわよ。ちゃんと味見してるから」
 なんかあやしいけど、ま、旨いのは本当だし、あまり気にしないことにしよう。
「でも、この調子でやれば、今度のテストは大丈夫よね?」
「まあ、この前よりはいい点数、採れるんじゃないか? ま、やってみなきゃわかんねえけどさ」
「大丈夫よ。できると思ってやらなければ、できるものもできなくなっちゃうんだから」
 なんか、今回はやけに入れ込んでるな。なんでだ?
「ねえ、洋一」
「ん?」
 レモンティーを飲んでいると、愛が少しだけ上目遣いに声をかけてきた。
 手持ち無沙汰なのか、言いにくいことなのか、聞きにくいことなのか、髪を手でいじっている。
「洋一はさ、長い髪と短い髪、どっちが好き?」
「なんだよ、唐突に」
 本当に唐突だ。話になんの脈絡もない。俺だからまだいいけど、ほかの奴だったら呆れるな。
「いいから、答えてよ」
「う〜ん、そうだな、取り立ててどっちが好きってことはないけど。やっぱり、髪型ってその人に似合ってるものが一番いいんじゃないか。ショートが似合う人もいれば、ロングの似合う人もいる」
「じゃあ、私はどっち?」
「えっ……?」
 思いも寄らないことを、いや、そんなことはないか。最初に聞かれた時にわかってはいた。ただ、俺は他人のスタイルやファッションなんかに意見を言えるほどの知識を持っていない。もっと言えば、そういうことはあまり得意ではない。
「ね、洋一?」
 ううぅ、そ、そんな期待に満ちた目で俺を見ないでくれ。
「そ、そうだな。俺は、今のままで十分いいと思うけど……」
「ホント?」
「ああ。見慣れてるっていうのもあるけど、俺には愛の髪が短いのは想像できないから」
「ふ〜ん……」
 愛は、小さく唸り、少し考える。
「じゃあ、髪、短くしてみようかな」
「な、なんでだ?」
「だって、洋一が私のショート、見たことないって言うから。ひょっとしたら、今よりも似合ってるかもしれないから」
「ちょ、ちょっと待て」
 俺は慌てて止めた。
「なに?」
「それって、もし髪を短くして似合わなかったら、俺のせいにならないか?」
「どうして?」
「だってさ、俺のひと言がきっかけになってるわけだからさ」
「じゃあ、洋一は今のままがいいの?」
「あ、ああ。今のままがおまえらしくていい」
「……うん、じゃあ、このままにしておく」
 愛は、嬉しそうに頷いた。
 まったく、人騒がせな奴だ。結局は、俺にそれを言わせたかったんだろうな。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない……」
「そう?」
「…………」
「…………」
 な、なんか、イヤな沈黙だな……
「ね、ねえ……」
「な、なんだ?」
 思わず声が裏返ってしまった。
「ひとつ、お願いがあるの……」
「お願い?」
 すると、愛は俺の横に移動してきた。
「お、おい……」
 そしてそのまま、俺の方に身を預けてきた。
「しばらく、このままでいさせて……」
 なにも言えなかった。
 髪から、ふわりとシャンプーのいい香りが鼻孔をくすぐった。
「あったかい……」
 理性なんてあってないようなものだった。それでも、わずかに残っている理性にしがみつき、平静を装う。
 でも、それにも限界はある。
「愛……」
 俺は、ほとんど無意識のうちに愛の肩を抱いていた。
「洋一……」
 一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに受け入れてくれた。
「髪、触っていいよ……」
「えっ……?」
「洋一に、触ってほしい……」
 言われるまま、愛の髪に触れた。
 それはとても艶やかで、滑らかで、触れていてとても気持ちがよかった。
「本当はね、髪、切る気なんてなかったの」
「そうなのか?」
「だって、私の宝物みたいなものだから。手入れだって欠かしてないし。そんな髪を、そんなに簡単に切れるわけないよ」
 そうだろうな。髪は女の命、なんていうことを言う場合もある。
 そこまでかどうかわからないけど、愛も髪を大事にしている。
「こうしていると、すごく幸せな気持ちになってくるの……」
 そっと、俺の胸に手を添えた。
 愛がとても可愛く、愛おしく思えた。
 しかし、今ここで俺が暴走してしまったら、愛を壊してしまいそうで怖かった。
「今は……今だけは、私だけの洋一……」
「愛……」
 時が止まればいいと、本気で思った。
「洋一」
「ん?」
「テスト、がんばろうね」
「ああ……」
 
 それからテストまで、愛の家と俺の家と、場所を変えながら勉強した。
 まあ、残念というかよかったというか、初日のようなことはなかった。だから、少なくとも俺にとっては効率よく勉強ができた。
 うちの高校のテストは、英国数理社の五科目、十のテストを一日二科目、五日間の日程で行う。
 俺は、英語と理科、社会は比較的好きなのでいつもそれなりの点数を採っていた。それに、国語は得意、不得意は特にはないので人並みだった。しかし、数学はどうしても好きになれなかった。いつも数学に足を取られ、順位を下げてしまう。
 しかし、今回は違った。なんといっても、優秀な『先生』がいたおかげだ。テスト範囲だけではあるけど、だいぶ理解できた。
 そんなこんなで、テスト最終日。最後のテスト、現代文がようやく終わった。
「ええ、では、テストはこれで終わりよ。今日は午後も授業がないのでゆっくり休んで、明日からまた一生懸命がんばるように」
 優美先生のホームルームが終わり、俺たちはようやくテスト地獄から解放された。
「ねえ、どうだった?」
 と、早速愛が状況を確認してきた。
「ああ、手応えはあった」
「よかったじゃない。これも洋一ががんばったからよ」
「まあ、確かに今回は自分でも驚くほど勉強したけど、やっぱり愛のおかげだろ」
「そんなことないわよ」
「いいや、そうだ」
「おやおや、なにを話してるのかな?」
「なんだ、亮介か……」
 そこへ、亮介が割り込んできた。ま、あのまま続けてても、お互いに譲らなかっただろうから、今回ばかりは亮介に感謝しておく。もちろん、口では言わないけど。
「なんの用だ?」
「そうつれないこと言うなよ」
 本気で悲しそうな顔を見せる。
「わかったわかった。で、なんだ?」
「いや、テストも終わったことだし、どっかでパーッとやらないか?」
「どっかって、どこだよ?」
「そうだな、カラオケとか、ま、そこは臨機応変にさ。どうだ、行かないか?」
「ん〜、今日は八日だろ……って、八日っ!」
「どうした、洋一?」
「忘れてた」
 大事なことを忘れてた。
「なにがだよ?」
「今日は、美樹が帰ってくるんだ」
「えっ、美樹ちゃん、帰ってくるの?」
「ああ、本当は夏休みまでなんだけど、なんかこっちでやることがあるっていったん戻ってきて、また行くんだってさ」
「そっか、美樹ちゃん帰ってくるんだ。一年ぶりね」
 さて、美樹とは誰かと言うと、俺の妹だ。今、中学二年なんだけど、俺に似ないで頭が良かったりして、なんと、オーストラリアへホームステイに行っているのだ。
 俺も英語は得意な方だけど、美樹のは尋常じゃない。たぶん、父さんの影響だろうけど、小学生の頃からかなりのレベルだった。そんなわけで、中学校での成績とか普段の生活態度なんかを考慮して、美樹がようするに留学生に選ばれた。で、オーストラリアへホームステイで行っているというわけだ。
「というわけだから、すまない、俺はパスだ」
「まあ、しょうがないな。せっかく美樹ちゃんが帰ってくるんだからな」
 亮介もさすがに無理強いはしなかった。
「それにしても、美樹ちゃん、可愛くなってるだろうなぁ」
「おい」
「なんだ?」
「美樹には手を出すなよ」
「へえ、兄貴として心配なのか?」
「別にそういうわけじゃない。ただ、もしも、もしもだぞ。ま、明日地球が滅亡する確率より低いとは思うけど──」
「だから、なんだよ?」
「もしおまえが美樹と一緒になって、『兄貴』とか『義兄さん』なんて呼ばれたくないからな」
「ははは、そんなこと心配してるのか」
「俺にとっては真剣な問題だ」
 笑いごとじゃない。
「でも、一年も経ってれば、女の子って変わるわよ」
「そうだそうだ、愛ちゃんの言う通りだ」
「ちぇっ、調子のいい奴だ」
「で、いつ帰ってくるんだ?」
「正確な時間は知らんが、姉貴が迎えに行くって言ってたからな」
「なら、いつまでいるんだ?」
「一週間だったと思うから、十五日までだな」
「そうか。洋一」
 亮介は真剣な眼差しでこっちを見ている。うん、真剣な表情が似合わない奴だ。
「そのうち遊びに行くからな」
「ええい、来ないでいい。それに、夏休みになれば帰ってくるんだから、それまで待て」
「イヤだ。というわけで、俺は行くからな。ああ、楽しみだ……」
 なんかぶつぶつ呟きながら去っていった。
「なんなんだろうな、あいつは」
 あいつともつきあいは長いけど、未だにわからん。
「愛。おまえはどうする? 美樹に会っていくか?」
「いいの?」
「ああ、別に構わない。亮介ならちょっと問題ありだけどな」
「じゃあ、ちょっと寄ってみようかな」
「んなら、さっさと行こうぜ」
 というわけで、俺たちは学校をあとにした。
 美樹のことについてもう少し言っておくと、今までまったく触れなかったのは忘れていたわけではなく、単にそのうち帰ってくるからその時に話そう。そう思っていただけなのだ。
 前に愛が妹のような存在だと言ったが、それはそれで事実で、別に美樹がそうでなかったわけではない。ただ、美樹は小さい頃、あまり体が強くなくて、外でほとんど遊べなかった。俺は男だから家で遊ぶよりも外で遊ぶことが多かった。その時に愛がいつも一緒だったから、妹みたいだと思ったわけだ。
 美樹は性格は明るいが、姉貴みたいにひと言多いこともないからいい。家にいる時はいつも『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と言っていたくらい俺に近かった。
 そんなわけだから、兄貴としてみればオーストラリアであまり変な風に変わってきてほしくはない。
 そうこうしているうちに、家に着いた。
「おっ、車がある。ということは、帰ってるな」
 姉貴が学生だからある程度時間を自由にできる。だから、今日は美樹を迎えに行ったのだ。
「さ、入りな」
「おじゃまします」
「ただいま」
 玄関を閉めると、いつものように母さんの声が返ってきた。
「おかりなさい。美樹、洋一が帰ってきたわよ」
 すると、奥からパタパタと足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん、お帰りっ」
 現れたのは──
「……美樹、だよな?」
「そうだよ。どうしたの?」
 思わずそう聞いてしまうくらい、ずっと大人っぽくなった美樹だった。さすがにここまで変わるとは思っていなかったから、かなり驚いた。
「お兄ちゃん?」
「い、いや、なんでもない。それより、おかえり、美樹」
「うん、ただいま、お兄ちゃん」
 美樹は屈託のない笑顔を見せた。
 うん、間違いない。この笑顔は美樹の笑顔だ。
「おかえりなさい、美樹ちゃん」
「あっ、愛お姉ちゃん。ただいま」
「ほら、玄関でそんなことしてないで。せっかく愛ちゃんも来てるんだから」
 と、母さんが顔を出し、軽くたしなめた。ま、いつまでも玄関にいるわけにはいかないな。
「わかったよ。じゃあ、美樹。ちょっといいか?」
「うん、いいよ」
「よし、俺の部屋に移動だ」
 美樹は俺の前に立ち、先に部屋に入った。
 俺と愛もすぐに続く。
 美樹は、部屋に入るなりベッドにダイブした。
「う〜ん、お兄ちゃんの匂いがする……」
 な、なんか誤解されそうなことを言ってるけど、こういうところは美樹だ。
「こら、美樹。あんまりはしゃぐなよ」
「はーい」
「ふふっ、やっぱりふたりは仲が良いわね」
「うん、だって私、お兄ちゃんのこと、大好きだもん。ね、お兄ちゃん」
「ははは……」
 笑うしかなかった。そりゃそうだろ、いくら妹とはいえ、そんなにはっきり好きだなんて言われたら、言われた方は照れる。
「ところで、向こうはどうなんだ?」
 一応、手紙や電話である程度のことは知ってるけど、なんとなく直接聞いてみたくなかった。
「うん、みんないい人たちだし、楽しいことばかりで、あっという間だったよ」
「そっか。そりゃよかったな」
 自分でも時々不思議に思うんだが、俺は美樹のことになると途端に素直になってしまう。実に不思議だ。
「ところで、お兄ちゃん」
「なんだ?」
 美樹は、なにやら不敵な笑みを浮かべてこっちを見ている。いや、俺と愛か。
「愛お姉ちゃんとは上手くいってるの?」
「な──」
 ちらりと愛を見た。
「ななな、なにを言ってるんだ?」
「だって、美香お姉ちゃんが言ってたよ。最近はいい感じだって」
「……姉貴の奴、余計なことを吹き込みやがって……」
 俺の脳裏に、姉貴の不敵に笑っている顔が浮かんだ。
「ね、どうなの?」
「そ、それはね……」
 愛もすっかり困っている。
「美樹、その話はおまえが夏休みに帰ってきたら話してやるから、それくらいにしとけ」
「う〜ん、わかった。でも、約束だよ」
「ああ、わかった」
 すんなり引き下がってくれた。ふう、ひとまず安心だ。
「あ、そうだ」
 とその時、愛がなにか思い出したらしく、声を上げた。
「ねえ、美樹ちゃん」
「うん?」
「ちょっと耳貸して」
 愛は、美樹の耳元でなにか言っている。むぅ、非常に気になる。
「ね、いいでしょ?」
「うん、いいよ」
 ふたりはよくわからないけどニコニコして、なんか気味が悪い。
「なんのことだ?」
「秘密、ね?」
「うん、洋一にはちょっと内緒」
「ちぇっ、俺だけ仲間外れかよ」
 さすがに少しだけ悲しくなった。
「あっ、そろそろ帰るわね」
「ん、ああ」
 愛はそう言って立ち上がった。
「じゃあ、またね、美樹ちゃん」
「うん。バイバイ、愛お姉ちゃん」
 俺は玄関まで愛を送った。
「洋一」
「ん?」
「美樹ちゃん、すごく可愛くなってたわね」
「ん、まあな」
「これじゃあ、妹想いの『お兄ちゃん』としては、心配でしょうがないわね」
「……んなことない」
「ふふっ、だといいけど」
 まったく、余計なことばかり。
「それじゃあ、またね」
「ああ」
 愛を見送り、部屋に戻る。
「なんだ、まだいたのか」
 部屋にまだ美樹がいた。
「うん、お兄ちゃんと一緒にいたいの」
 う〜ん、カワイイことを言ってくれるけど、兄貴としては複雑な心境だ。
「まあ、いっか。それより、向こうのこと、もう少し教えてくれないか?」
「うん」
 それから俺は、美樹からオーストラリアのことについて様々なことを聞いた。旅行雑誌に載っていないようなことから、向こうの家族のことまで結構興味深かった。
 夕食の時も話題はそのことで、美樹はすっかり話し手になってしまった。母さんは娘の成長を頼もしげに見ていたし、姉貴は観光名所や向こうの男のことばかり聞いていた。
 夕食後、俺は部屋に戻った。勉強から解放され、気分的に楽になっていた俺は、ついうとうとしてしまった。
 気が付くと、時計は十一時半を指していた。
「四時間も寝てた……」
 これには自分でも驚いてしまった。
 特にすることもなかったので、風呂に入りさっさと寝ることにした。
「さてと」
 俺が寝ようとベッドに入ろうとしたら──
「お兄ちゃん、起きてる?」
 美樹の声がした。
「あ、ああ、起きてるけど」
「入るね」
 ドアを開け、美樹は静かに入ってきた。ピンク色のパジャマを着て、枕を持っている。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「あのね、一緒に寝てもいい……?」
「は?」
 俺は一瞬なにを言われたのかわからなかった。
「……ダメ?」
「ダメもなにも、どうしてそんなことを?」
「昔みたいに、一緒に寝たいの。だって、お兄ちゃんと一緒に寝ていると安心できるんだもん。ね、いいでしょ?」
「む、むむ……」
 いくら妹とはいえ、相手はそろそろ年頃の女の子だ。それなりにあちこちも発達してきて、男の俺としてはちょっと目の毒、体の毒だった。
「ね、お願い?」
「う〜ん、わかった。でも、俺のベッド、セミダブルだといっても大きくない方だから。それでもいいのか?」
「うん、お兄ちゃんと一緒ならいいよ」
 そこまで言われては、さすがに決めるしかなかった。
「さ、寝よ」
 美樹は、さっさとベッドに潜り込んだ。
 俺は、できるだけ意識しないようにして横になった。
「ふふっ、お兄ちゃんと一緒」
「早く寝ろよ」
「うん、おやすみなさい、お兄ちゃん」
 俺は、次の日の朝の状況を想像してみた。おそらく寝不足だろう。理由は、あえて言うまい。しかし、心の片隅でそれもいいかな、なんて考えがあるのもなんとなく頷けた。
「おやすみ、美樹」
 
 三
 次の日。俺は奇妙な感覚で目が覚めた。
「……ん? なんだ?」
 俺の顔に柔らかい感覚が、それもとても暖かい感覚。
 手を伸ばすと弾力があり、触れていてとても気持ちがいい。
「いったい……げっ!」
 すっかり忘れていた。そう、昨日美樹と一緒に寝たことをすっかり忘れていた。
「い、いかん……」
 俺は慌てて手をどかし、ベッドから飛び起きた。
「ふう、ふう……危なかった。とんでもないことをするところだった」
 まさか実の妹に手を出すなんて、小説やテレビのドラマなんかではあることでも、実際にそういうのは……
 って、俺はなにを想像してるんだ。
「しっかし、美樹も変わったよな」
 俺はつくづくそう思った。
 オーストラリアへ行く前は、まだはっきり言って『ガキ』だと思っていた。たった一年離れた場所で、しかも日本とは違う文化の国で様々なことを吸収できる。そんなことが美樹を少なくとも外見だけは大人に変えた。
 こんなことを言うと変な風に思うかもしれないが、兄貴の俺から見ても美樹はかなりカワイイし、将来的にも絶世の美女とまではいかなくても、街を歩く男どもが振り返らずにはいられないくらいの美人になるだろうと、確信に近い感覚を持っている。まあ、多少大げさかもしれないけど。
 これはあまり言いたくないが、うちは母さんも結構綺麗だし、不満はあるが姉貴も綺麗だ。ただ、母さんに面と向かってそのことは言えても、姉貴にはおそらく言えないだろう。
 まあ、そんなことはどうでもいい。どんなに外見が変わっても、中身が伴ってなければ意味がないんだから。少なくとも美樹は、中身はそれほど変わっていなかった。もう少し大人になってほしいとは思うけど、今はまだこのままでもいいのかもしれない。
「……ん、おにいちゃん……」
 まったく、なんの夢を見てるんだか。
 時計を見ると、六時五十分だった。いつもより早い。
 しかし、今更美樹が寝ているベッドで寝るのもなんだから、とりあえず着替えることにした。
 いつもならギリギリに起きて、慌てて着替え、転びそうになりながら下におり、朝食を口に押し込んで、家を出る。そんな朝がほとんどだった。
「……もう少し寝かせておいてやるか」
 俺は美樹の幸せそうな寝顔を見ると、起こすのに気が引けてしまった。
 そのまま下に下りた。
「母さん、おはよう」
「あら、ずいぶん早いのね」
「あ、ああ、ちょっとね」
 いくら母親とはいえ、どうして早く起きたのか理由を話すのは気が引けた。
「まあいいわ。ご飯にするから、顔でも洗ってきなさい」
 うん、さすがは母さんだ。細かいことは気にしない。姉貴とはえらい違いだ。
「父さん、帰ってこられればよかったのに」
 洗面所から戻り、テーブルにつく。
「仕方ないわよ。お父さんがしっかり働いてくれているおかげで、みんなは暮らしていけるんだから」
「そうは言っても、せっかく自分の娘が帰ってきてるのに、えーっと……」
「イギリスのバーミンガムよ。大丈夫よ。夏休みに帰ってくる時には、お父さんもいるはずだから」
「まあ、それはそうだけど……」
 実際、美樹のことを一番気にかけていたのは父さんだった。家にいる時間が少ない分だけ、余計にそういう感じになったのだろう。だから、せめて一日でも帰ってこられたらと思いはするが、社会はそう甘くはない、ということだ。
「あれ、そういえば姉貴は?」
 いつもならいるはずの姉貴がいない。
「美香は出かけたわよ」
「どこへ?」
「確か、同じサークルの人とどこかへ行くらしいわよ」
「はあ、せっかく美樹が帰ってるのに……ま、姉貴らしいといえば姉貴らしいけど」
「おはよう」
 不意に声がした。
「おはよう、美樹。昨日はよく眠れた?」
 美樹はちらっとこっちを見た。
「うん、よく眠れたよ」
 と、満面の笑みを浮かべて言うもんだから、俺はちょっと恥ずかしくなってしまった。
「ね、お兄ちゃん」
「ぶっ!」
「なにしてるの、洋一」
 突然振られ、思わず吹いてしまった。
「な、なんでもない……」
 俺はさっさと切り上げ、部屋へ退散した。
「まったく、美樹にも困ったもんだ」
 これも向こうの影響か。なんて思いながら俺は一応学校の準備をした。
「今日はたまには早く行ってみるか」
 やたら早い時間ではないけど、もう学校に行くことにした。
「う〜ん、愛はどうするかな……」
 いつもは愛が俺の出てくるのを待っているのだが、今日は早いから当然いない。
「一応、声かけておくか」
 俺は愛の家の呼び鈴を押した。
「はーい」
 中から声がした。
「あら、洋一くんじゃない。おはよう」
「おはようございます」
 顔を出したのは、愛の母さんの愛美さん。
「今日はずいぶん早いわね」
「ええ、ちょっといろいろあって。それで、愛は?」
「ちょっと待っててね」
 そう言って中に戻った。
 少しすると、慌ただしく足音が近づいてきた。
「おはよう、洋一。ずいぶん早いのね」
「まあな。それより、俺はもう行くんだけど、どうする?」
「私も行くわよ」
 愛はそう言うが早いか、すでに靴を履きはじめていた。
「いってきます」
 俺と愛は珍しくゆっくり学校へ向かった。いつもなら少し急ぎ気味に歩くのだが。
「ね、洋一」
「なんだ?」
「今日、家に行ってもいい?」
「ああ、別に構わないけど、どうしてだ?」
「うん、ちょっと美樹ちゃんに用があってね」
「美樹に?」
 俺は首を傾げた。
「ふふっ、洋一」
「な、なんだよ?」
「今は秘密だけど、そのうちわかるから、ね」
 俺はなんか完全に丸め込まれたような気がした。
 
 放課後、俺は優美先生に呼び出されたために愛と一緒に帰ることができず、美樹になんの用があったのかわからなかった。
「どうしたの、高村くん?」
「い、いえ、なんでもないです」
 だからか、時々優美先生に注意されてしまう始末だった。
「とりあえずこれで用件は終わりだけど──」
「まだ、なにかあるんですか?」
 先生は俺の方に向き直り、微笑んだ。
「高村くん」
「は、はい」
「今回はよくがんばったわね」
「はい? なにがですか?」
「テストのことよ」
「は、はあ……」
「現代文や英語なんかはいつも結構いいけど、今回は数学や理科までいいって、ほかの先生に聞いたわよ」
「はあ、それはどうも……」
 俺ははっきり言ってテストの結果には興味がなかった。テストなんてものは、受ければ必ずなんらかの結果がついてくるのが当たり前だ。終わったあとにはそのことはいっさい考えないように、中学の頃からしていた。
「まだ全体の結果が出ていないからはっきりしたことはわからないけど、おそらくかなり上位に食い込めるはずよ」
 優美先生は自分のことのように喜んでいた。
 俺はそれを邪魔するのも悪いと思い、黙って聞いていた。
「なにはともあれ、今回だけじゃなく次もがんばってくれると、私も安心できるわ」
「善処します」
 ようやく話が終わった。ホームルームが終わってからもうだいぶ時間が経っていた。
 俺は急いで家に帰った。
 別に気になっていたわけじゃないけど、ただなんとなく早く帰りたかった。
 家に着くとまだ車はなく、姉貴は戻っていないことがわかった。
「ただいま」
 玄関には愛の靴があった。
「おかえりなさい。愛ちゃんが来てるわよ」
「ああ、知ってる」
 俺は靴を放り出して二階へ上がった。
「ん?」
 部屋に入る直前、美樹の部屋の前になにかがかかっているのに気付いた。
「なになに……『お兄ちゃんは入っちゃダメby美樹&愛』……なんなんだ、いったい」
 俺は思わず力が抜けてしまった。
「はあ、よくわからん……」
 考えてもわからないので、とりあえず部屋に入った。
「まったく、なにをしてるんだか……」
 気にならないと言えばウソになる。というか、すごく興味があった。
「確か、そのうち俺にもわかるとか言ってたけど……」
 なんとかそのことを頭から追い払おうとしたが、そう思えば思うほど気になった。
「……なんか腹立つな」
 腹は立つが、無理矢理聞き出すのも問題がある。
「しょうがない……」
 俺は憂さ晴らしに音楽をかけた。デッキに入っているのをそのままかけたから、なにがかかるかわからなかった。
「…………」
 聞こえてきたのは、ジャズだった。そういえば、ジャズのCDを入れっぱなしだったな。
 普段は心地良いジャズのリズムも、なぜか無性にうるさく鬱陶しく思えた。
 俺は乱暴にCDを止め、ベッドに横になった。
 と、廊下で声がした。
「じゃあ、そういうことでね」
「うん、楽しみだね」
 愛と美樹だった。
 廊下に出て声をかけようかと思ったけど、思いに反して体は動かなかった。
 やがて、声は下へ。
「ふう……」
 どうもなにをするのにもやる気にならない。
「このままふて寝するか」
 なにに対しての『ふて寝』なのかわからないが、とりあえずそんな気分だった。
 
 四
 それから二日間は特に何事もなく過ぎていった。
 愛も普通に俺に接しているし、美樹は相変わらずだし。
 心の奥でなにかおかしいとは思っていたけど、深くは考えなかった。
 しかし、その日は違った。
 朝はよかった。いつもと同じように学校に向かい、授業を受けた。
 問題は放課後だった。
 土曜日ということで授業は午前中で終わり。午後からはゆっくりできる。そう思っていた。
「なあ、愛」
「あっ、ごめん、洋一。今日、ちょっと用があって」
「あ、ああ……」
 愛はさっさと帰るし──
「よお、亮介」
「ん、洋一」
「これからどっか行かないか?」
「いや、悪い。ちょっと用があってさ」
「まあ、それならしょうがないか」
 亮介もつきあいが悪いし。
「ま、こういう日もあるか……」
 予定があわないことくらいあるだろう。とはいえ、俺は暇を持て余すことになった。
「ちょっと寄ってくか」
 そんなわけで、俺は久しぶりに保健室に向かった。
「失礼します」
 消毒液の独特の臭いが鼻をつく。
「あら、洋一くん。珍しいわね」
 書類の整理をしていた由美子先生は、こっちを見てにっこり微笑んだ。
「土曜日で早く帰れるはずなのに、どうしてここへ?」
「実はですね……」
 俺は、愚痴混じりで由美子先生に事情を説明した。先生は最初は真面目な顔で聞いていたが、終わり頃になるとにこやかな笑みを浮かべていた。
「そういうことだったの」
「まあ、そういうこともあるから別にいいんですけどね」
「それなら心配ないわね。洋一くん」
「はい」
「暇つぶしになるかどうかはわからないけど、私なら話し相手になるわよ」
「いいんですか?」
「だけど、三時までよ。そのあとはちょっと予定が入っているから」
 先生の申し出を快く受け入れ、話をして時間をつぶすことにした。
 話の内容は実に多岐に渡った。俺だけが話しているわけでもなく、また先生だけが話しているわけでもない。ちゃんと会話が成り立っていた。
 もともと先生と話すのは好きだったけど、今日のことで余計に好きになった。なんというか、肩の力を抜いて話ができるのがいい。
 ただ、そういう時間はあっという間に過ぎてしまう。
「そろそろ時間ね」
 先生は時計を見てそう言った。
「ありがとうございました」
「あ、そうそう」
「なんですか?」
「家に帰ると、いいことがあるかもしれないわよ」
「どういうことですか?」
「ふふっ、すぐにわかるわよ」
 なにがなんだかよくわからなかったが、とりあえず追及するのはやめた。
 俺は先生に言われるまま、家に帰った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 いつものように奥から声がした。
 玄関を見ると、いつもより靴の数が多い。
「洋一」
「なに?」
「とりあえずカバンを置いて、それから下りてきなさい」
 俺はいつもと少し違う母さんをいぶかしげに見ながら部屋に戻り、カバンを置いて下に戻った。
「さ、入って」
 母さんはリビングの前にいて、俺が来るのを待っていた。
 リビングに入ると、俺は目を見張った。
「おめでとう」
「おめでとう、お兄ちゃん」
「これは……」
 部屋一面に飾りが施され、たくさんの料理がテーブル狭しと並べられていた。
「今日は、六月十二日でしょ」
「……あっ」
 一瞬なんのことかわからなかったけど、ようやく思い出した。
「お誕生日おめでとう、お兄ちゃん」
「おめでと、洋一」
「はっはっはっ、めでたいな、洋一」
 俺はまんまとはめられたらしい。
 このことを知らなかったのは俺だけで、愛や美樹はもちろん、姉貴や亮介、母さんまで知っていたらしい。
「ひょっとして、由美子先生に言わなかったか?」
「うん、言ったよ。もし先生のところに行くようなことがあったら、三時まで足止めしてほしいって」
 なるほど。だから『三時』であんなことを言ったのか。
「お兄ちゃん、ごめんね。びっくりさせようと思って内緒にしてたの」
「ふう……まあ、いいさ」
 ここまでしてくれたのだから、今更とかやく言ってもしょうがない。それに、これはこれで嬉しいからな。
「さ、こっちよ」
 俺は、俺の席として用意された席に座らされた。
「美樹ちゃん」
「うん」
 愛と美樹はなにやら合図をして、台所へ消えた。
「しかし、亮介までいるとはな」
「おまえの驚く顔が見たくてな。だから、愛ちゃんから話があった時もすぐにOKしたんだ」
「まったく……」
「おまちどおさま」
 愛と美樹は、なにやら大きなものを運んできた。
『せーの……えいっ』
 ふたりは、それにかぶせてあった箱を取った。
 現れたのは──
「ケーキ……」
 それはケーキだった。真ん中に『はっぴーばーすでい』とチョコレートで書かれたケーキだった。
「これね、美樹と愛ちゃんが作ったのよ」
 母さんが補足してくれた。
「ホントか?」
「うん、まあね。いろいろ大変だったけど」
「ちょっとお母さんに手伝ってもらったけどね」
 確かに、よく見るといかにも『手作り』という感じが出ていた。
「ほら、洋一。ロウソクに火、点けるから、ちゃんと消すのよ」
 姉貴はロウソクを立てはじめた。
 ロウソクが十七本並び、火が点けられた。
「一気にね」
 俺はガラにもなく緊張した。あまりこういうことに慣れていないということもあったが、一番の理由は嬉しかったからだ。嬉しくて体が言うことを聞かなかった。
「ほら、洋一」
 俺は、一気に火を吹き消した。
「おめでとう、洋一」
「ありがとう、みんな」
「あら、今日はやけに素直ね」
「美香、あまり茶々入れないの」
 姉貴は、母さんにたしなめられた。
「さ、食べて」
「うん、食べてみて、お兄ちゃん」
 ふたりに促され、ケーキを口にした。
「どう?」
 心配そうにこっちを見ている愛と美樹。
「……うん、旨いぜ」
「よかったぁ……」
 ホッと胸を撫で下ろす。
「ほら、ケーキだけじゃなくて料理も食べてあげなよ」
「ひょっとして、これもおまえたちが?」
 ふたりはちょっと恥ずかしそうに頷いた。
 俺は思わず感動してしまった。たかが俺のためにここまでしてくれるなんて、思いも寄らなかったからだ。
「さてと、洋一。プレゼントだ」
「へえ、亮介がね」
「おっ、そんなこと言うとやらないぞ」
「いや、受け取っておこう」
 俺は、亮介から少し小さめの包みを受け取った。
「はい、洋一」
 姉貴までプレゼントをくれた。
「はい、お兄ちゃん」
 美樹のはなにやらでこぼこしていた。
「これ、プレゼント」
 愛のは少し大きめだった。
「あとで開けさせてもらうから。でも、その前に」
 俺は立ち上がって部屋に戻った。
 いくら誕生日とはいえ、このままでは気が引けた。だから、お返しをすることにした。
 部屋からスケッチブックを持ち出し、リビングに戻った。
「これは、俺からの感謝の気持ちです」
 俺は、おもむろに筆を走らせた。みんなは、俺がなにをしているのかよくわかっていないようだった。それもそのはず。俺は人前では無趣味で通してきたが、実際は絵を描いたり文章や詩を作ったりするのが好きなのだ。ただ、あまり人にいろいろ言われたくなかったので黙っていた。
「まずは亮介」
 俺は亮介に一枚渡した。
「へえ……」
「どれどれ……すごいじゃない」
「そっくりだし、カワイイ」
 なにを描いているのかというと、似顔絵とデフォルメキャラだった。
「短時間で描いてるからあまり上手くないけどさ」
「いや、これはすごいぜ。まさか洋一にこんな才能があったなんてな」
 みんな、亮介の絵に見入っている。
「ほい、姉貴」
「どれどれ……」
「そっくりじゃない、美香」
「ちょっと、洋一」
「なに?」
「これは、どういうこと?」
 姉貴は、デフォルメキャラを指さして言った。
「そのまんま」
 それは、高笑いをした女王様の格好をした姉貴だった。
「まったく、可愛くないんだから」
 と言いながら、姉貴は微塵も怒っている様子はなかった。
「ほら、美樹」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「カワイイ、美樹ちゃん」
 美樹は、思いっきり可愛く描いた。特にデフォルメキャラは気合いが入っていた。
「これ、洋一?」
 愛がデフォルメ美樹の側に描いてある絵を指差し聞いた。
「まあ、一応そういうことになるかな」
 それは、美樹のまわりでスポットライトも当たらず、後ろを向いてたたずんでいる俺の姿だった。
「最後は──」
 俺は、その一枚を愛に渡した。
「っ!」
 愛は、それを見て明らかに驚いた。
「どうしたの?」
 何事かと、姉貴が横から覗き込んだ。
「……素敵」
 意外な感想が漏れた。
「これ、どうしたの?」
 その絵は、背景まですべて入っていて、なおかつ色もつけてあった。
「ちょっと、な」
 俺は答えを濁した。まさか、本当のことを言うわけにはいかないし。
「これ、かなり気合いが入ってるわよ」
「うん、この景色も綺麗だけど、愛お姉ちゃんも綺麗に描かれてる」
「洋一」
「なんだ?」
「いつの間にこんなもん描いたんだ?」
「まあ、いいじゃないか」
「ありがと、洋一」
 愛は、大事そうに嬉しそうに絵を抱えてそう言った。
「ま、それはお返しだから。本当はこっちがちゃんとお礼を言わなくちゃいけないんだから。今日はありがとう」
 こういう時は素直にお礼を言わないと、さすがにどうかと思う。
 それからはとにかくいろいろなことをした。とりあえずは料理を食べながら話をして、どこからそうなったのか、俺の昔のアルバムを持ち出してきてそれで盛り上がったり。
 まあ、なにはともあれ楽しかったからいい。
 夕飯時になって、愛と亮介が帰り、リビングの後片づけも済んだ。
 一応主役だった俺は後片づけは免除され、部屋にいた。
「さてと」
 俺は、もらったプレゼントを開けてみることにした。
「亮介は……あの野郎……」
 亮介のプレゼントは、まあ、ある程度予想はしていたが、ろくでもないものだった。従って、あえてここで言うつもりはない。というか、これがプレゼントじゃなかったら、絶対にしばいてる。
 姉貴のは、TDLのチケットと映画のチケット、それから一枚の手紙だった。
 手紙の内容自体はとても短く、わかりやすかった。
『愛ちゃんと仲良くしなさい。ちゃんと有効活用すること。それから、おみやげよろしくね』
 実に姉貴らしいものだった。
 美樹のは、オルゴールと手作りの置物、そして──
「『お役立ち券』?」
 いわゆる『お手伝い券』みたいなものだった。美樹が俺のためになにかしてくれる、そんなものだろう。
 最後は愛のだ。
「……あいつは、また無理しやがって……」
 愛のは、サマーセーターだった。もちろん手編みだ。
 なまじっかなんでもできるから、誕生日プレゼントでもそこまでしてしまう。
「こりゃ、お返しが大変だな」
 みんなのプレゼントを並べ、俺は嘆息混じりに呟いた。
 たかが俺の誕生日にここまでしてくれるのは、本当にありがたいことだと思う。この年になればもう誕生日なんていいと思うのだが、こういうことがあるとまだまだやってもいいと思ってしまう。
 我ながら現金だとは思うけど、そんなもんだろう。
 とりあえず、今日は気分よく眠れそうだ。
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