恋愛行進曲
 
後日談
 
 十一
 四月の慌ただしさがそろそろ収まろうという頃。
 世間的にはGWが目前に迫り、休み気分になろうかという頃だ。
 俺としては、確かに学校は休みになって授業をやらなくていいのは嬉しいのだが、うちの連中の相手をしなくてはならないのは、正直複雑だ。
 授業をするよりもよっぽど疲れる。
 ただ、普段はあまりできない家族サービスをしていると思えばこそ、なんとか耐えられるのだ。
「みんなでいろいろ考えたんだけど」
 夕飯のあと、みんなが揃っているリビングで愛がそう切り出した。
「今年のGWは、みんなでどこかへ行こうと思って」
「……まず、いくつか確認したい」
「なに?」
「最初の『みんな』はいったい誰のことを言ってるんだ?」
「みんなはみんなよ」
「……じゃあ、あとの『みんな』は?」
「それもみんなはみんなよ。文字通り」
 つまり、これは俺だけ事後承諾というわけか。
 そりゃ、こいつらが結託した場合、俺に意見を言う権利などないのも事実なのだが。
「すみません、洋一さん。本来なら事前にお話ししておくべきだったのですが」
「……まあ、いいけど。で、具体的にどこに行くんだ?」
「それが、いろいろ案は出たんだけど、まとまらなくて」
「人数が多いですから、あまり遠出はできませんし」
 夏休みの旅行は、すでに予定に入ってるから毎年なんとかなってるけど、今回のは完全にイレギュラーだ。となると、やはり条件は厳しくなる。
 泊まりがけとなると、まずは宿を探さなくてはならない。その際のネックとなるのが、人数だ。ただでさえGWは混んでるのに、大勢でというのは敬遠される。
 うちは、団体客も同然だから。
「それで、あなたに聞いてみようということになったの。妙案はない?」
「いきなりそう言われてもなぁ……」
 日帰りならまだしも、泊まりがけで行くなら相当考えないとダメだ。特にうちは年齢幅が大きいから。
 夏休みの場合は、海か山か、そのどちらかで問題はないのだが、今の時期はさすがに海は泳げないからいい選択肢とは言えない。
「パパ。私は、山がいい」
 と、愛奈が早速自分の意見を述べた。
「こら、愛奈。いちいち抱きつかないの」
 同時に抱きついてきたものだから、愛に怒られている。
「別にいいでしょ? 減るもんじゃないんだから」
 最近の愛奈は、愛が相手でも一歩も引かない。強くなったといえばそれまでだが、俺としては少々精神的によくない。
「ね、パパ。山にしようよ、山に」
「山はいいけど、山でなにをするんだ?」
「んと、パパとふたりきりで──」
「お姉ちゃんばっかりずるいよぉ」
 愛奈に負けじと、愛理も抱きついてくる。
「パパとふたりきりになりたいのは、お姉ちゃんだけじゃないんだから」
「そうかもしれないけど、私が一番最初に言ったんだから」
「お姉ちゃんはいつもパパにひいきしてもらってるんだから、たまには譲ってよ」
「ダメ。それに、パパはひいきしてるわけじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「それが当たり前なの。私とパパは、相思相愛なんだから」
 ……こいつら、人を挟んでギャアギャアと。
「愛奈、愛理。いい加減にしなさい。それ以上パパを困らせるなら、私にも考えがあるわよ」
「…………」
「…………」
 愛に強く出られると、さすがのふたりも渋々引き下がる。
 いくらがんばってみても、この家で一番強いのは、愛だから。
「愛は、どこがいいと思ってるんだ?」
「私はどこでもいいわ。みんなで一緒に楽しめるならね」
 そういうのが一番困るんだけどなぁ。
「沙耶加はどうだ?」
「私も特には」
「おまえたちに意見がないということは、そもそも誰が言い出したことなんだ?」
「美香さんよ」
「……やっぱり姉貴か」
 そんなことだろうとは思っていたけど、やっぱりか。
「というか、美香さんと美沙かしらね」
「美沙も絡んでるのか?」
 余計やっかいだな。あのふたりは根本的な部分がとても似ているから。
「まあ、それはそれとして、特に行きたい場所がないなら、愛奈の意見を採用してもいいんじゃないか?」
「山ってこと?」
「ああ。もちろん、探してみなければわからんけど」
「そうね。それでいいんじゃないかしら」
「沙耶加もそれでいいか?」
「はい。私は特に意見もありませんから」
「なら、山ということで、どこか探してみよう」
 結果的に愛奈の意見を採用したけど、ま、どこでも同じだとは思う。
 行ける場所なんて限られてるのだから。
 
 そしてGW。
 結局俺たちは、それほど遠くなく、でも近いというほどでもない場所でGWの大半を過ごすことになった。
 参加メンバーは、うちの家族と姉貴たちの家族、それに由美子さんと昭乃といういつものメンバーだ。
 一応それぞれの家の両親にも声をかけたのだが、俺たちに遠慮してか、どこも不参加ということになった。
 まあ、いろいろな思惑はあるんだろうけど、俺としては多少は楽になったという感想だ。特にお義母さん──愛美さんは未だに苦手だから。
 夏休みの旅行と同じように車三台に分乗して目的地へやって来た。
 そこは一応温泉もあり、それなりの観光地ではあった。ただ、それ以外に目玉がないことと、有名な観光地まで遠いということでこういう時期にはあまり人気がない場所でもあった。だからこそ、直前でも宿が取れたわけだ。
 相変わらず部屋割りは面倒だったけど、いつものようになんとなく決まり、着いた日はあれこれしているうちに終わってしまった。
 二日目は、とてもいい天気で、登山などしたらとても気持ちいい感じだった。
 登山も予定には入っていたが、実際やるかどうかは、天候とそれぞれの気分次第だった。
 朝起きて朝食を食べ、しばしのんびりしてから揃って外へ出た。
 車で向かったのは、冬はスキー場として利用されている場所だった。春から秋にかけてはグラススキーやハイキングのためにリフトを動かしている。
 青々とした草と真っ青な空のコントラストがとても綺麗で、草の上に寝転がっただけでとても気持ちいいだろう。
 俺たちは特にこれということをするつもりはなく、それぞれに任せていた。
「パパ」
「おとーさん」
 今、俺の側には一番下のふたりがいた。
 彩音は小学校に入学してから、ほんの少しだけ大人になった。少し舌っ足らずだった話し方も、多少はまともになった。
 紫織はそれほどの変化はないが、それでも着実に成長している。
「パパ、あや、びゅーっとすべりたいの」
「ここをか?」
「うん」
 確かにここはソリを借りて滑ることもできる。
 うちも息子がいれば、真っ先にそれをやっていただろうな。
「じゃあ、紫織も一緒に滑るか?」
「うん」
 ソリを借りて、斜面の少し上まで歩いて上る。リフトを使ってしまうと高すぎて、さすがに問題があるからだ。
 まずは俺が座り、俺の前に紫織、彩音の順に座らせる。
「ふたりとも、しっかりつかまってるんだぞ」
『うん』
 あまりスピードが出ないように細心の注意を払いながら、斜面を滑る。
 ふたりとも歓声を上げ、とても楽しそうだ。
 下に着くと──
「パパ、もういっかい、もういっかい」
 早速彩音が次をねだってきた。
「よし、もう一回やるか」
 とりあえず彩音を満足させられるくらいにはやらないと意味がない。ここで断ると、駄々をこねるから。
「紫織はどうする?」
「紫織も、おとーさんといっしょがいい」
「そうか」
 少しずつではあるが、紫織は今まで以上に俺に甘えたがるようになってきた。もともとそういうところはあったのだが、彩音がいる時は『お姉ちゃん』として我慢してきた。
 でも、彩音も小学校に入り、少しだけその我慢するということをやめてしまった。
「そうだ」
「んん?」
「ふたりとも、そのあたりにごろんと寝てみな」
 ふたりは、素直に言うことを聞いてくれた。
「どうだ? 草が気持ちいいだろ?」
「うん、きもちいい」
 それなりに草丈が長いので、クッションのように気持ちいいはずだ。
「おとーさんも」
「ん、ああ」
 紫織に引っ張られ、俺もそこに寝転ぶ。
 と、すぐに紫織が俺にくっついてきた。
「どうした?」
「ん〜ん、なんでもないよ」
「紫織も、すっかり甘えん坊になったな」
「ん〜……んふっ」
 別に褒めたわけではないのだが、紫織は嬉しそうに笑った。
「おとーさん……」
 腕をつかみ、ぴったりくっついてくる。
「むぅ、パパ、あやも、あやも」
 そうなると、当然彩音も声を上げる。
「ほら、彩音はこっちだ」
「うん」
 空いている右側に彩音も寝転がる。
「おとーさん」
「ん?」
「紫織ね、ずっとおとーさんといっしょがいい」
「どうしたんだ、突然?」
「紫織、おとーさんのこと、大好きだから。ずっとずっといっしょにいたいの」
 どうしてそんなことを言い出したのかはわからない。
 だけど、そう思っていてくれてることは嬉しい。たとえそれが今だけだったとしてもだ。
「おとーさんも、紫織のこと、好き?」
「ああ、大好きだよ」
「えへへ」
 こんなやり取りは、もう何度もしている。
 それでも繰り返すのは、紫織の中に多少の不安があるからなのだろうな。今は近くに住んではいるけど、一緒に住んでいるわけではない。四六時中一緒にいられないということから、常に不安がつきまとっているんだろう。
「三人でなにしてるの?」
 そこへ、愛理がやって来た。
「寝てるんだよ」
「それは見ればわかるけど」
「なら、聞くなよ」
「そんな言い方しなくてもいいのに」
 愛理は、ぷぅと頬を膨らませた。
「おまえも寝てみたらどうだ? 気持ちいいぞ」
「ん〜、そうしよっかな」
 愛理も俺たちに倣って寝転んだ。
「しぃちゃんもあやちゃんも、ホントにパパと一緒がいいんだね」
「別にこのふたりだけが特別なわけじゃないだろ。おまえたちだってそうだったし」
「そりゃ、まあね。でも、私から見て、特にしぃちゃんはパパのこと好きだよね。お姉ちゃんを見てるみたい」
 見てないようで意外に見てるんだな。
「しぃちゃんて、小さい頃のお姉ちゃんに似てるんだよね。結構おとなしくて、でも案外自己主張はする。そういうところはそっくり」
「……だとしたら、なんだっていうんだ?」
「別に。ただそう思っただけ。ね、しぃちゃん?」
「んん?」
 愛理の言うことをちゃんとは理解できていないのか、紫織は不思議そうな顔を見せる。
「しぃちゃんは将来、間違いなく美人になるからね。なんたって、香織さんの娘だし」
「で?」
「そうなると、ますますしぃちゃんを手放したくなくなるよね」
「……で?」
「ううん、それだけ」
 まったく、余計なことばかり言いやがって。
「でもな、愛理」
「うん?」
「それは別に、紫織だけじゃないぞ。俺にとっては、みんな大事な娘なんだから」
「私も?」
「ああ」
「そっか……」
 愛理はそれを聞いて、嬉しそうに微笑んだ。
「でも、パパ」
「なんだ?」
「そういう『誰でも』みたいな考え方ばかりしてるから、今みたいな状況になってるんじゃないの?」
「余計なことは言わんでいい」
「あはは」
 まあでも、実際愛理の言う通りだ。誰かに決められないところが俺にはあるから、今みたいなことになってるわけだ。
 それでも、俺は今までの俺の選択を後悔していない。
 それに、それを後悔してしまったら、みんなに申し訳ない。
「パパーっ」
 そこへ、さらに声がかかる。
 この声は見なくてもわかる。
「どうした、紗菜」
「どうした、じゃないよ。せっかくパパと一緒にいようと思ったのに、すぐにいなくなっちゃうし」
 俺の頭上に立ち、見下ろしてくる。
「お姉ちゃんたちも、パパを待ってるよ」
 やれやれ、うちの娘たちにかかると、俺に安息の時間は訪れないようだ。
「よし、紫織、彩音。もう一回滑ろう」
 とりあえず、紫織と彩音の相手をしてからだな。
 あとでなにを言われるかわからないけど。
 
 紗菜に言われて斜面を下り、紗弥たちがいると言われた場所へ向かう。
 そこは、ちょうど花畑ようになっている場所だった。
 このあたりは山なので、麓に比べると花の時期が少し遅い。ただ、気紛れなものもあるので、数多くの花を見ることができた。
「あっ、パパ」
 センサーでもついてるのかと思うほど、愛奈はすぐに俺に気付いた。
「んもう、どこ行ってたの?」
「どこって、別にそこまでだだっ広いわけじゃないんだから、すぐに見つけられるだろうが」
「それはそうだけど……パパのいぢわる」
「わかったから。そんな顔するな」
 むくれる愛奈の頭を、軽く撫でてやる。
「ほら、紫織も彩音も、お姉ちゃんたちと一緒に花でも摘んでな」
 ふたりとも素直に花畑へ足を踏み入れた。
「そういや、愛奈」
「ん?」
「ここにいないメンツはどこへ行ったんだ?」
「さあ、どこかな。私は知らないけど」
 ここには、愛奈と紗弥、それに愛果がいた。紗菜は俺と一緒に戻ってきた。愛理も然り。
 ということは、面倒な奴がここにはいない。
「ママたちは、ロッジにいるんだよね?」
「ああ」
 大人連中は、揃ってロッジにいる。
 和人さんと和輝は、来て早々にリフトに乗って上へ行ってしまった。
「じゃあ、いないのは美沙だけか」
 こういう時に真っ先になにかしそうな奴がいないというのは、正直気味が悪い。
 特に、ここ最近の美沙は俺に対して遠慮という言葉をどこかへ置いてきているから。
「いない美沙のことなんてどうでもいいから、ほら、パパ」
 どうでもいいというのは少しひどい気もするが、愛奈と美沙の関係を考えると、普通の物言いだな。
「ね、パパ。ここの花って、どれくらい摘んでもいいのかな?」
「そりゃ、常識と良識の範囲内だろ。花は無尽蔵にあるわけでもないし、そもそもおまえたちだけのために咲いてるわけでもないんだから」
「ん〜、そうだよね。となると、本当にほしいのだけにした方がいっか」
 当たり前のことを確認し、愛奈は花畑の中へ戻った。
「はい、パパ」
 と、入れ替わりにやって来た愛果が、俺に小さな花束を渡してきた。
「わたしからのプレゼント」
「ああーっ、愛果だけずるぅい」
 その後ろから、紗菜もやって来る。手には同じように花束がある。
「ずるくないよ。わたしが先にパパに渡したんだから」
「ずるいよ。それって抜け駆けだもん」
「全然ずるくない」
「ずるい」
 まったく、くだらんことで喧嘩をはじめて。
「おまえたち、その辺にしておけ。こんなところにまで来て喧嘩することないだろ?」
「そうだけど……」
「むぅ……」
「とりあえず──」
「あ……」
 俺は、紗菜の花束を受け取る。
「これでいいだろ」
 このふたりだけじゃないけど、うちはだいたいふたりでセットになっているから、なんでも平等にしないとすぐに喧嘩になる。
 特に愛果と紗菜は、面倒な年頃になってきてるから、余計だ。
「まったく、おまえたちはなにかというとすぐに張り合おうとするんだから」
「だってぇ、パパのことだけは引けないんだもん」
「特に愛果が相手の時はね」
「別に俺は逃げも隠れもしないんだから、もう少し普通にしてくれ」
「普通にしてたら、お姉ちゃんたちにかなわないもん」
「隙を見ての先手必勝じゃないと」
 こういう思考になるのは、やはり愛と沙耶加の娘だからだろうか。
 そういう似なくてもいいところまで似ていると、俺がなにかと困るのだが。まあ、今更か。
「それにママもよく言ってるよ。チャンスだと思ったら躊躇しないで攻めないと後悔するって」
 ……実際その通りだから反論できん。
「でも、パパを困らせるつもりもないの」
「うん、そうだね。それは違うもんね」
 そして、こういう素直なところがあるから、俺も最後まで強く言えない。
 つい甘やかしてしまう。
「節度を持って接してくる分には構わんから」
「うん。ちゃんと節度を持つよ」
「と言いながら、なんで抱きついてくるんだ?」
「えへへ」
「えへへ、じゃない」
 本当に困った連中だ。
 
 場所が場所なだけに、俺が移動する時は紫織と彩音を連れて行く。
 愛奈たちに任せてもいいのだが、なにかあった時に困るから、俺が一緒の方がいい。
「パパ」
「ん?」
「おやま、のぼるの?」
「登るけど、それはお昼を食べてからな」
 登山というわけではないが、リフトで上まで行くというのはすでに予定に入っていた。リフトで上がれるのは、ちょうど九合目くらいなので、そこから少し登れば山頂だ。
 リフトを使わなければ登山とでも呼べるのだろうが、使った場合は散歩くらいにしか思えない。
「おとーさん」
「なんだ?」
「ちょっと足がいたいの……」
 と、紫織は立ち止まった。
「足が痛いって、捻ったとか、そういう痛さか?」
「ううん」
「じゃあ、靴か。痛いのはどっちの足だ?」
「こっち」
 右足を上げる。
「じゃあ、おとーさんの肩に手をついて、靴を脱いでごらん」
「うん」
 俺はその場にしゃがみ、紫織に肩を貸す。
 右の靴を脱ぎ、足を見せてくる。
「靴下も脱がすぞ」
「うん」
 靴下を脱がすと、かかとが靴擦れを起こしていた。皮がむけていたり、血が出ているようなことはないが、結構痛そうだ。
「大丈夫か?」
「だいじょうぶだけど……」
 このまま靴を履かせて歩かせれば、悪化するな。
 しょうがない。
「ほら、紫織。おとーさんがおぶっていくから」
「いいの?」
「いいよ」
 脱いだ靴と靴下を持ち、紫織をおぶる。
「よっと……」
「……重い?」
「全然軽いよ。紫織は、もっとたくさん食べて、もっと大きくならないとな」
「うん」
 うちの娘たちは、それぞれの母親に似てあまり大きくはない。もちろん小さいわけでもないが、まあ、標準くらいか。
 ただ、紫織は少し軽い。このくらいの年なら、もう少し体重があっても問題はないはずだ。
「彩音も、どこか痛くなったりしたら、すぐに言うんだぞ」
「うん」
 廻れ右で俺たちはロッジへと戻ってきた。
 ロッジの一角、大きなテーブルを囲んで大人連中はお茶と洒落込んでいた。
「ママ」
 先にロッジに駆け込んだ彩音が、真琴のもとへと駆け寄る。
「あら、どうしたの?」
「んとね、しぃおねえちゃんが──」
「靴擦れだよ」
 少し遅れて俺も輪に入る。
「香織。悪いけど少し見てくれないか」
「ええ」
 紫織を香織に任せ、俺はひと息つくために椅子に座った。
 いくら軽いといっても、人ひとりを背負ってきたわけだ。それなりに疲れる。
「靴擦れ自体はたいしたことないわ。でも、この靴、新しいわけでもないのに、どうして靴擦れなんて起きたのかしら」
 紫織の足を見たあと、今度は靴を見ている。
 確かに、歩くことを考えてわざわざ新しい靴は選ばなかったのだ。履き慣れてる靴で靴擦れは起きにくいはずなのだが。
「紫織。あなた、元からこの靴、窮屈だったんじゃないの?」
「…………」
 少し俯き、紫織は視線を逸らした。
「んもう、窮屈なら窮屈だって言わないとダメでしょ? 靴はちゃんと足にあったものを選ばないと、あとで大変なことになるんだから」
「……でも……」
「でも、じゃないの。そのせいで足、痛くなっちゃったんでしょ?」
「……う〜……」
 どうやら、引けない理由があるみたいだな。
「しぃちゃん。しぃちゃんは、どうしてその靴を履いてこようと思ったの?」
 ちょうど隣にいた沙耶加が、そう訊ねた。
「…………」
「ね、しぃちゃん?」
「……おとーさんが、買ってくれたから……」
 ……なるほど。そういう理由か。
 なんというか、紫織らしい理由だ。
「紫織。いくらおとーさんが買ってくれた靴でも、あなたの足にあわなくなっているのなら、あってるのを履かないとダメでしょ?」
「だって……」
 なかなか折れない紫織に、香織は困った顔で俺を見た。
「紫織。おかーさんの言うことは、ちゃんと聞かないとダメだぞ。それに、靴ならまた買ってやるから。な?」
「……うん」
 紫織の気持ちはよくわかる。自分の大切な人からもらったものは、大事にしたくなる。たとえそれ自体に多少の不都合があったとしても、その気持ちは変わらない。
「じゃあ、とりあえず痛いところに絆創膏を貼っておくから。あまり走ったりしないのよ」
「うん」
 絆創膏を貼ってもらい、靴下を穿いて、靴を履く。
「おとーさん」
 椅子を降り、トトトという感じで俺のところへ寄ってくる。
「どうした?」
「ん……」
 手を広げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。
 どうやら、抱っこしてほしいみたいだ。
「ほら」
 小学校三年生にもなって、とは思うけど、あんな顔されたらそうしなければならないと思ってしまう。
「あなた」
「ん?」
「しぃちゃんがこれじゃあ、お昼からの予定は変更しなくちゃいけないわね」
「ああ、そうだな。さすがにこの足で登らせるわけにもいかないし」
 特になにかに支障を来すわけではないのだが、カワイイ娘にわざわざ痛い思いをさせることもない。
「換えの靴は、持ってきてないの?」
 姉貴が香織に訊ねた。
「ええ。さすがにそこまでは」
 まあ、一週間とか十日も過ごすなら持ってきてるだろうが、二、三日の旅行では持ってこないな。
「売店で靴、売ってないかしら?」
「さあ、どうかな」
「ちょっと見てくるね」
 美樹が立ち上がり、売店へ向かった。
 スキーシーズンならまだしも、こういう時期に靴を売ってるとは思えない。なにしろ、需要がないのだから。
 少しして、美樹が戻ってきた。
「全然ないね」
 予想通り。たとえあったとしても、大人用の登山靴だろうな。
「でも、予定を変更して、どうするの?」
 それも問題だ。ここでできることなんて限られてる。
 どこかへ移動して、というのもひとつだが、そもそもそういう予定を組んでなかったわけだから、どこへ行けばいいのか皆目見当もつかない。
「おとーさん。紫織、歩けるよ」
「歩けるだろうけど、山を登るのは大変だぞ」
「……ん、だいじょうぶ」
 さて、どうするべきか。
 確かにおぶってでも登れるが、それを往復でやるのはなかなか骨だ。
 多少なりとも歩いてくれるのなら、予定通りでも問題はないかもしれない。
「それじゃあ、こうしたらどう?」
 と、由美子さんが発言した。
「靴が少し窮屈になるかもしれないけど、かかとの部分にハンカチかなにか、適当なもので直接当たらないようにするの。多少の歩きにくさはあるとは思うけど、とりあえず靴擦れは大丈夫だと思うわ」
「紫織。ちょっとそのままで」
「うん」
 俺は、紫織の右の靴と足の間に指を入れた。
 窮屈といっても、多少の余裕はある。
「これくらいあれば、ハンカチくらいなら入りますね」
「それじゃあ、試しにそうしてみたらどうかしら? しぃちゃんだって、みんなと一緒に山に登りたいだろうし」
「そうするか?」
「うん、そうする」
「よし」
 なにかあった時は俺がおぶってやればいいだけの話だしな。ひとりだけ仲間外れにするのも可哀想だ。
「パパ。あやも、だっこ」
 と、それまで会話に混ざれなかった彩音が、少しだけ不満そうな顔でそう言ってきた。
「じゃあ、ほら」
 彩音も膝の上に座らせる。
「えへへ」
「本当に、うちの娘たちは揃いも揃って、あなたのことが好きなんだから」
 それを見ていた愛が、呆れ顔でそう言った。
 ま、それも今更だけど。
 
 昼前に外に出ていた連中が戻ってきた。
 その時まで紫織も彩音も俺から離れようとしなかったので、いつものことながら愛奈はむくれてしまった。妹たちよりも長女である愛奈がそうなってしまうのは、もはやしょうがないというしかないのかもしれない。
 そんな愛奈のフォローをするのは俺の役目なのだが、いつもいつもフォローしてもらえると思われても困るので、しばらく放っておくことにした。
 一方、姿の見えなかった美沙も、時間にはちゃんと戻ってきた。
 どこでなにをしてたのか多少は気になったが、聞くのはやめた。聞けば調子に乗るだろうし、なにより『なにか』に巻き込まれる可能性もあるからだ。
 昼食を食べ、予定通りリフトに乗って山頂を目指した。
 リフトはふたり乗りで、小学生以下は大人と一緒に乗らなければならなかった。
 うちでそれに該当するのは、紫織と彩音のふたり。あれこれ騒ぐ前に、それぞれ香織と真琴が一緒に乗ることに決めた。
 で、俺たちはくじ引きで順番を決め、恨みっこなしにした。
 俺と一緒に乗ったのは、なんの因果か愛奈だった。
「むぅ……」
「なんだ、まだむくれてるのか?」
「だってぇ……」
「だってじゃないだろうが」
「最近のパパ、しぃちゃんとあやちゃんを甘やかしすぎだよ」
「別に甘やかしてなんかいないぞ。いつも通りだ」
「そんなことないよ」
 多少甘やかしてるとは思うけど、愛奈が目くじら立てるほどではない。
「ふたりがカワイイのはわかるけど、でも、もう少し考えてもいいと思うの」
「で、その分おまえを可愛がれ、と?」
「ん〜、そうなるのかな?」
 愛奈は、笑顔で頷く。
「でもな、愛奈。一時的にそうしたとしても、それは本当に一時的なものでしかないぞ」
「どうして?」
「そりゃ、さらに可愛がるべき対象が現れるからな」
「……ああ、そっか」
「彩音は別として、紫織は子供が生まれるまでの限定的なものだよ」
「本当にそうならいいけど……」
 どうして愛奈にそこまで言われなければならないのか、正直わからないのだが、あれこれ言ってもしょうがないので、なにも言わない。
「あ、でも、そういうのが理由になるとすると、私もそうだったの?」
「ん、なにがだ?」
「愛理や紗弥が生まれた時のこと。やっぱり私よりもふたりを可愛がった?」
「別に差はなかったはずだぞ」
「どうして?」
「そりゃ、おまえたちは年子だったからな。いくらおまえが先に生まれてたとしても、まだ一歳じゃそうそう差はつけられない」
「そういうものなの?」
「ほかの家はどうかは知らんが、うちはそうだった。まあ、なんとなく役割分担が成されていたのも理由かもしれないけどな」
「役割分担?」
 愛奈は、不思議そうに首を傾げた。
「愛が愛理を、沙耶加が紗弥を、そして俺が愛奈を。そんな役割分担だ」
「私はパパの担当だったの?」
「結果的にな」
「そっか……」
 それを聞き、愛奈は嬉しそうに微笑んだ。
「おまえは覚えてるかどうかわからんが、愛果と紗菜が生まれた時は明らかにさっき言った状況になったぞ」
「ん〜、そうだったっけ?」
「おまえが覚えてないのは、たぶんおまえもずいぶんとふたりの世話をしてたからだと思うぞ」
「そういえばそうだね。おぼろげにだけど、覚えてる」
 あの頃の愛奈は、妙に『姉』であることを意識していた。だから、愛果と紗菜の面倒もよく見ていた。もちろん、小学校に入ったばかりの愛奈にできることは限られてはいたけど。
「それに、紫織や彩音に対してもそうだっただろ?」
「ああ、うん。そうだね」
「だから、おまえは余計な心配はしなくていいんだ」
「理屈から言えば、もちろんそうなんだろうけど、ん〜、いまいち頷けないんだよねぇ」
「別に納得しろとは言わんし、理解しろとも言わん。ただ、あまり余計なことを言ったりやったりするな、ということだ」
「それはそれで微妙だけど……」
 愛奈の言動は単純ではあるのだが、その分だけやっかいでもある。
 最近は特にいろいろな技を身に付けてきてるから、俺もなかなか気を抜けない。
「やっぱり、俺の一番の失敗は、おまえを甘やかして育てたことだな」
「むぅ、そんなこと言わないでよぉ……」
「だけど、おまえだって思うことあるだろ?」
「……そりゃ、少しくらいはあるけど。でも、それはパパが私のことをそれだけ大切にしてくれてるってことでもあるから」
 この話は、どこまでいっても結論は出ないだろうな。まあ、死ぬ間際にあれは正しかったかどうか、考えればいいだけの話だ。
「だから、私はパパからの愛情はすべて受け止めることにしてるの」
「まったく……」
 そんな風に言われると、ますます子離れできなくなる。特に、愛奈は俺にとって特別だから。
 それからすぐにリフトを降り、そこから今度は山道を歩いていく。
 とりあえず気にしなくてはならないのは、やはり紫織だ。靴擦れが悪化しないように対策はとったが、それはあくまでも仮でしかない。まわりが気にしてやらないと、すぐに悪化してしまうだろう。
 そんなことを頭の片隅に置きながら、ぞろぞろと山道を歩いていく。
 山道は、やはり登山というよりはハイキングという感じの傾斜が続き、子供や年寄りでも簡単に歩けるようになっていた。
 和人さんと和輝が一番前を歩き、その後ろを愛果と紗菜が、さらに後ろを姉貴と美樹、それに愛理と紗弥が歩いていた。
 ほかの連中はその後ろを適当に歩いている。
 道を進むこと三十分。
 山頂が見えてきた。
 山頂には特になにもない。一応、山頂であることを記した看板と、山の神を奉った祠があるくらいだ。
 今日は天気がいいので、山頂にも人がいた。
 ちなみに、今俺たちが来たのとは反対側にも登山道があり、そっちは麓から山頂までのしっかりとした登山道となっている。そっちを使うと、山頂までは二時間ほどだという。
 どっちを使ってきたかは、格好を見ればわかる。
 山頂は面積的にはそれほど広くはない。だから、俺たちみたいな団体がやって来ると、狭く感じる。
「ん〜、いい気持ち」
 山頂はちょうど風の通り道になっているらしく、ほとんど間断なく風が吹いていた。
 その風に身を任せ、初夏の太陽を全身に受けていると、確かに気持ちいい。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「今年はあとどれだけこうしてみんなで一緒にいられるのかしらね」
「そうだな。いいとこ、夏休みまでじゃないか。夏以降はいろいろあるし」
「やっぱりそうだよね。なんか、淋しくなるわ」
「別に今すぐってわけじゃないんだから、そこまでのことじゃないだろ」
「そうかもしれないけど、でも、夏休みなんてあっという間に来るわよ」
 そう言われるとそうなのだが、だけど、いきなり淋しいとかそういう感情は湧かないな。
「だけどさ、俺たちの場合は集まろうと思えばいつでも集まれるからな。実際、そこまでのことはないと思うぞ」
「それって、結構言葉だけになる可能性が高いんだよね」
「…………」
「もちろん、洋ちゃんのことは信じてるけど」
 なんとなく、フォローされてる気がする。
「あ、でも、こういう考え方もできるのかな」
「どんな考え方だ?」
「これから先の『みんな』というのは、今回のメンバーにこれから生まれてくる香織さんと昭乃さんの子供も含めてになるわけでしょ? そうすると、本当の意味での『みんな』というのは、まだ先なのかなって」
「なるほど。そういう考え方もできるな」
 そういう考え方を採用するなら、みんなが揃うのは来年の春以降ということになる。どのみち愛奈と美沙の受験があるから、春じゃないとダメではあるのだが。
「私はね、こうやってみんなで一緒になにかをするのがすごく好きなの。ほら、私ってひとりっ子だったから、大家族というものに憧れも持ってたし。多少不本意な部分もあるけど、今の状況はとても好き。私をそういう場所に置いてくれた洋ちゃんには、本当に感謝してるよ」
「別に改めて言わなくてもいいって」
「たまに、ちゃんと言葉にしないと、感謝の意を表せないから」
 そう言って愛は微笑む。
「でもね、洋ちゃん。私はまだあきらめたわけじゃないのよ」
「なにをだ?」
「ん、四人目」
「……またその話か」
「またじゃないでしょ? 私はね、本当にほしいと思ってるの」
「ほしいからって、なにも考えずに作っていいものでもないだろうが」
「考えてないわけないじゃない。愛果も中学生になって手がかからなくなったし、上のふたりは言うに及ばず。それに、子供を作るなら年齢的にもそろそろ限界かな、って思ってるし」
 その理由はよくわかる。比較的安全に出産するには、やはり三十代のうちがいい。もちろん、昨今は医療技術が発達してるから、高齢出産も安全性は高まっている。
 ただ、俺としてはあまりそれをしてほしくはない。子供も大切だけど、俺にとってはやっぱり愛が大切だから。
「ね、洋ちゃん」
「……可愛くねだってもダメだ」
「むぅ、ケチぃ」
 愛が年齢不相応の容姿を保っていることは認めるが、もう少し実年齢を考えたことをしてほしい。
「どうしてそんなに四人目がほしいんだ?」
「洋ちゃんに話したことはなかったと思うけど、私ね、子供は四人から五人はほしいと思ってたの。その人数の根拠はなんにもないけどね」
「それは、俺と結婚する前からなのか?」
「うん」
 それを聞いてたら聞いてたで、またいろいろあっただろうな。
 自慢じゃないが、俺は愛には弱いから。
「あ、別にすぐにほしいわけじゃないからね。すぐだと、なにかと大変だから。そうね、できれば来年かな」
「……まあ、その話は追々詰めていこう」
「いい返事、待ってるからね」
 満面の笑みを浮かべ、愛は言った。
「ふたりでなに話してるの?」
 そこへ愛奈が首を突っ込んできた。
「大人の話よ」
「大人の話って、なに?」
「あなたは知らなくていいの」
「……ねえ、パパ。大人の話って?」
 あっさり愛から聞くことをあきらめ、俺に訊いてきた。
「いや、まあ……」
 愛がかなり恐い顔でにらんでるから、さすがに話せない。
「むぅ、ママ。パパをにらまない」
「あら、にらんでなんかいないわよ。愛奈の見間違いよ」
「絶対にらんでた。だからパパ、私に話せないの」
 よくわかってるな。さすがは我が家の長女。
「パパは、ママには絶対に逆らえないんだから、そういうことしちゃダメ」
「…………」
 そうはっきり言われると、悲しいものがあるな。
「仮にそうだとして、それをあなたに言われる筋合いはないでしょ?」
「あるの」
「どうして?」
「だって、パパが困ってるところ、見たくないもん」
 そう言われて、さすがの愛も言葉に窮した。
「だから、ダメなの」
 愛奈は俺の腕を取り、愛から少しだけ引き離した。
「──そういうことを言うなら、愛奈もダメね」
「えっ……?」
 と、ちょうど空いていた反対側の腕に、誰かの腕が絡まった。
 見ると──
「美沙」
 美沙だった。
「ちょっと、それどういう意味よ?」
「だって、愛奈、しょっちゅうようちゃんを困らせてるじゃない」
「うっ……」
 困らせてるという自覚はあるらしい。
「そ、そう言う美沙だって、パパを困らせてるじゃない」
「ん、私はいいのよ」
「なんで?」
「だって、ようちゃんの困った顔見るの、好きだから」
 ……をい。
「ママがよく言うの。怒らせちゃいけないけど、適度に困らせるのは全然構わないって」
 あの親にしてこの子ありか。まったく、姉貴も余計なことしか言わんのだから。
「……たとえそうだとしても、やっぱりダメ」
「別に愛奈の了解なんて必要ないじゃない。私は私のやりたいことをしてるだけなんだから」
「それは自分勝手でしょ?」
「多少なら許されるのよ」
 全然多少じゃないと思うのだが。
「ふたりとも、いい加減にしなさい。洋ちゃんは私の旦那様なのよ。あなたたちが口出ししていいことなんて、なにもないの」
 ここでようやく愛が出てきた。さすがにあそこまで好き勝手に言われては、言わざるを得ないだろうな。愛も、負けず嫌いだし。
「ほら、いつまで腕組んでるの。離れなさい」
 愛と正面からやりあうつもりはないらしく、ふたりは比較的素直に離れた。
「洋ちゃんも、あまりふたりを甘やかさないの」
「そういうつもりはないんだけどな」
「つもりがなくても、結果的にそうなってたら意味がないでしょ?」
「善処するよ」
 この場はこう言っておかないと、収まらないしな。
 しかし、本当に俺のまわりにいる連中は、どうしてこうも……
 本当にやれやれだ。
 
 山頂で適当な時間を過ごし、気温が下がる前に戻ることにした。
 さすがにまだGWなので、陽が落ちてくると寒ささえ感じる。
 その帰りの山道。
 案の定、紫織が音を上げた。まあ、靴擦れの状態でよく歩いたと言えるだろう。
「……おとーさん」
「ん?」
「……ごめんなさい……」
「なにを謝ってるんだ?」
「だって……」
 紫織は、俺の背中で消え入りそうな声でそう言った。
「気にするな。紫織はなにも悪いことはしてないんだから」
「……うん」
 紫織は聡い分だけ、あれこれ考えてしまうところがある。そういう余計なことにあれこれ悩んでしまうところは、俺に似たようだ。香織に似ていたら、もう少しすっぱり割り切れるはずだから。
「それより、足は大丈夫か?」
「うん。だいじょうぶ」
「今日はもう、あまり歩きまわらないから、その分足を休ませないとな」
「うん」
「よし、いい子だ」
 最近、自分でもよくわかっているのだが、俺は紫織をずいぶんと甘やかしているというか、手元に置いている。娘たちに優劣などないのだが、今の俺にとって紫織の存在はとても大きいということだ。
 理由は、いろいろあるだろう。説明できるものからできないものまで。
「洋一。ちょっと待って」
 と、少し後ろを歩いていた香織が俺を呼び止めた。なにごとかと振り返ると──
「紫織の靴を脱がせちゃうから」
 紫織の靴を脱がせ、それを手に持った。
「せっかく歩かなくてもいいようになってるのに、靴履いてたら意味ないでしょ?」
「ま、確かに」
「それとね、紫織」
「ん?」
「あまり気にしちゃダメよ。確かにこの靴を選んだのは紫織自身だけど、おかーさんも気付かなかったわけだし。ね?」
「ん……うん」
「それに、足は痛いだろうけど、その代わりにおとーさんと一緒にいられるでしょ?」
「うん」
「紫織にとっては、そっちの方が嬉しいかもね」
 その理由は微妙だが、今はなにも言うまい。余計なことを言って香織ににらまれるのもイヤだし、紫織にへそを曲げられるのもイヤだから。
「しぃちゃん、いいなぁ」
 と、今度は少し前を歩いていた愛果と紗菜が寄ってきた。
「なんだ、おまえたちは」
「だって、ずっとパパと一緒なんだもん」
「そうだよ。少しくらい、わたしたちの相手もしてほしいのに」
 ふたりは、俺の両側でそれぞれ不満を漏らす。
 その不満の理由がわからんでもないが、今日は我慢してほしい。
「ねえ、しぃちゃん。しぃちゃんは、パパと一緒がいいの?」
「……うん」
「そっか」
「こら、おまえたち。今日はしょうがないんだから、あまり余計なことは言うな」
「余計なことなんて言ってないよ」
「うん、言ってない。普通のことだよ」
 まったく、愛果も紗菜も年々生意気になっていく。もっとも、あの姉たちを見ていればこうなってしまうのもしょうがないのかもしれないが。それでも、もう少し可愛げがあってもいいのだが。
「それに、パパ。さっきからお姉ちゃんたちもずっとこっちを気にしてるよ」
 言われて見ると、確かに愛奈たちもこっちを気にしていた。
 状況が状況なだけに、あれこれ言ってくることはないが、特に愛奈なんか今すぐに駆け寄ってきそうなくらいな感じだ。
「パパ」
「なんだ?」
「しぃちゃんて、愛奈お姉ちゃんに似てるの?」
「なんでだ?」
「ん、ママたちがそんなことを言ってたから」
 ママ『たち』というところが気になるところだが、今は追求しないでおこう。
「別に似てるとは思ってないぞ。実際、愛奈が紫織くらいの頃とは、全然違うしな」
「じゃあ、なんでママたちはそんなこと言ったのかな?」
「それはたぶん、性格とかいろいろなことを考えてだろうな」
「愛奈お姉ちゃんて、しぃちゃんみたいにおとなしかったの?」
 ある程度大きくなってからの愛奈しか知らないふたりにとっては、確かに思わず訊ねたくなることだろう。
「そうだな。愛奈も紫織と同じで人見知りする性格だった」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「あとは、いつの間にか俺の側にいる、というのも似てるかもしれないな」
「ああ、うん、そうかも。しぃちゃん、気付くとパパの側にいるもんね」
「愛奈は未だにそうだが、紫織くらいの頃もそうだったからな。そういう諸々のことを含めて、似てるって言ったんだろう」
 そうやって改めて説明してやると、確かにふたりは似てるのかもしれない。だから、俺も愛奈同様に紫織を放っておけないのだろう。
 どうもこういう性格の相手にはとことん弱いらしい。ま、実の娘に対してだから、多少は色眼鏡がかかってるのだろうけど。
「だからって、おまえたちまでそうなる必要はないんだからな。というか、そんなことしても意味はない。無理してもいいことなんてないし」
「わたしには無理だよ」
 そう言ったのは、愛果だった。
「わたしはどうやっても愛奈お姉ちゃんみたいにはなれないもん」
「わたしも無理かな。紗弥お姉ちゃんですら無理なんだから」
 紗菜は紗菜で、結構ひどいことを言ってるし。
「たぶん、うちでそうなれるとしたら、やっぱりしぃちゃんくらいだよ」
 駄々をこねるかと思ったが、意外にも割り切ってたな。
 普段の様子を間近で見ていれば、イヤでも思い知るだろうけど。それに、うちには愛奈よりもレベルの高いのがいるし。
「ねえ、パパ。パパって、ママよりも沙耶加ママみたいな性格の人が好きなの?」
「……なんでそう思うんだ?」
「だって、愛奈お姉ちゃんの性格もしぃちゃんの性格も、沙耶加ママに似てるから」
「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃない。ただ単に、そういう相手を放っておけないだけだ」
 なかなか鋭い質問だが、それを認めるわけにはいかない。
 それに、俺は愛や香織みたいな性格も好きなんだ。
「なんか、難しいね」
「おまえたちも、もう少しいろいろな人と出会って、話をして、同じ時間を過ごせばわかってくるさ」
「そうなのかなぁ」
 それを今理解できるとは思っていない。今は、そういうこともあると頭の片隅に留めておいてくれれば十分だ。
「どうしてもわからなければ、愛や沙耶加に聞いてみればいい」
「うん、そうする」
 そこでどんな話が出るかは、正直わからない。
 願わくば、俺に不利な話は出ないでほしい。
 本当に。
 
 紫織のこともあって、少し早めに宿に戻った。
「……ん……」
 車の中で眠ってしまった紫織は、部屋に戻ってからも起きることはなかった。ただ、俺が抱きかかえて部屋まで運んだせいか、俺が離れようとすると途端にぐずってしまった。
 で、結果的に俺は紫織の側を離れられないでいた。
 今、部屋には俺と紫織、それに由美子さんと愛奈、美沙がいた。
 ほかの連中は隣の部屋にいたり、おみやげを物色したりしている。
「しぃちゃんだけじゃないけど、どうしてみんな、洋一くんの側にいるとこんなに穏やかでいられるのかしらね」
 お茶を飲みながら、由美子さんはそんなことを言う。
「私にはそういう経験がないから、本当のところがわからないのよね」
 言いながら、紫織を見て、愛奈を見る。
「ん〜、たぶんなんですけど、パパはパパであり男性だからだと思いますよ。父親ということでとても信頼できますし、男性ということで好きな人という意味合いから幸せな気持ちになれるので。だから、側にいるだけで穏やかになれるんだと思います」
 それに対して愛奈は、律儀に答えた。
「それはそれでわかるけど、それはすべての人に当てはまるわけじゃないのよね。少なくとも私はそこまでのことはなかったし」
「私もそうですね。ようちゃんの側ならそうなりますけど、パパだとそこまではならないし」
 由美子さんの意見に、美沙は賛同する。まあ、立場が違えば意見が違うのも当然だ。
 それに、人の好き嫌いなど、どんなことでどっちに転ぶかなんてわからない。今は俺のことを無条件で好きでいてくれる娘たちも、いつ、なにをきっかけに変わるかわからないのだから。
「洋一くん自身は、どう思ってるの?」
「さあ、どうなんでしょうかね。よくわかりません。ただ、側にいて穏やかになれる相手、というのはわかります」
「それは、愛さんや沙耶加さんのこと?」
「ふたりだけじゃないですよ。そりゃ、確かにふたりは特別だとは思いますけど。でも、人には適材適所があるじゃないですか。これはあくまでも俺だけの考えですけど、穏やかさにもそういうものがあるんだと思います」
「求めているものが違う、ということね」
「はい」
「じゃあ、洋一くんはおおよそ人が求めるであろうほとんどのそれを持っている、というわけね」
「そこまでは言いませんけど、まあ、そうかもしれません」
 俺のまわりにいる人たちは、それぞれ持ってるものが違う。本当はずるいのかもしれない。ひとつかふたつしか持てないものを、いくつも持っているのだから。
 それでも俺は、それを手放すつもりはさらさらない。
「……ん、ん……」
 と、俺たちの話がうるさかったのか、紫織が目を覚ました。
「……おとーさん……?」
「目、覚めちゃったか?」
「……ん……うん」
「ごめんな。ちょっとうるさかったな」
「ううん。そんなことないよ」
「そっか」
 まだ眠そうな目を擦りながら、紫織は起き上がった。
「おかーさんは?」
「おかーさんは、みんなと買い物に行ったよ。紫織も行くか?」
「……ん〜、紫織、おとーさんといっしょがいい」
 そう言って紫織は、俺の腰のあたりに抱きついてきた。
「じゃあ、みんなが帰ってくるのを待ってような」
「うん」
 素直に頷き、猫のように頬をすり寄せる。
「いいなぁ、しぃちゃん……」
「だからな、愛奈。いちいち妹に対抗心を燃やすな」
「だってぇ……」
「だってじゃない。おまえもそろそろそういうのから卒業しないとダメだからな」
「どうして?」
「訊くか、普通?」
「ううぅ〜……」
 甘えられるのは嫌いじゃない。むしろ好きだけど、愛奈がいつまでも俺に甘えていると、妹たちまでそれを真似てしまうから問題なのだ。
「まあまあ、洋一くんもそのくらいにして。せっかく旅行に来てるんだから、そういう話は向こうに戻ってからにしたら?」
「……まあ、そうですね」
 俺だって好きでしてるわけじゃない。ただ、なにも言わないでいると際限なく続くから言うのだ。
「なんとなくだけど、しぃちゃんがもっと大きくなった頃に、愛奈としぃちゃんの間で結構いろいろありそう」
「おいおい、なにを言ってるんだ」
 ひとり部外者面して、美沙がそんなことを言った。
「ようちゃんだって、そう思うでしょ?」
「思わん」
「どうして? だって、愛奈はようちゃんのこととなると一歩も退かないし、しぃちゃんだって少しずつそういう兆候が出てきてるよ。それに、愛奈を側で見ていた私から見てもしぃちゃんは愛奈そっくりだからね。間違いないよ」
 そんなこと、改めて言われなくてもわかってる。だけど、それをおいそれと認めるわけにもいかない。
「愛奈は? 愛奈はどう思ってる?」
「私は、別に……」
「ホント? まったくなんとも思ってない?」
「…………」
「思ってないわけないよね。だって、愛奈にとってようちゃんは誰よりも大切な人だもんね。そして、それは同時に誰にも獲られたくない相手でもある。もちろん、妹のしぃちゃんが相手でもね」
 美沙の指摘は、まさにその通りだ。もっとも、そんなものは少し見ていればわかることではある。
「……確かにそうかもしれないけど、だからってしぃちゃんと争ったりなんかしない」
「本当に?」
「……本当よ」
「微妙に間が空いてたけど」
「う、うるさいなぁ」
「ふふっ、本当になっちゃんと美沙ちゃんは、本当の姉妹みたいよね」
「えっ……?」
 由美子さんの思いもかけない言葉に、ふたりは呆けた顔で振り返った。
「ずっと一緒にいたから余計よね。実の妹であるりっちゃんや弟である和輝くんが知らないようなことを、お互いに知ってることもあるだろうし」
 顔を見合わせる。
「それにね、そこまでなんでも言い合えるのは、その関係が近いからなのよ。確かに友達でもそれはできるだろうけど、兄弟姉妹のそれとは比べるべくもないわ。そして、ふたりは限りなくそんな関係に近いと思うの。洋一くんも、そう思うでしょ?」
「えっ……ああ、まあ、そうですね。美沙たちが日本に戻ってきてから、ずっと一緒でしたからね。同い年の姉妹みたいな感じはありますね」
「でしょ?」
 この場は由美子さんの話に乗った方がよかった。ただ単にそれを言うためだけではなく、微妙な空気を払うためにも、その方がよかったのだ。
「おとーさん」
「ん、どうした?」
「紫織、おねえちゃんにそっくりなの?」
 それまで黙って聞いていた紫織が、話の内容を理解し、そう訊ねてきた。
「そうだなぁ……」
 ここはなんと言ってやればいいんだろうか。
 愛奈は愛奈で、紫織のことはとても可愛がっているから、似てると言われてもそれほど思わないだろうが、今は話の流れを考えるとすぐに認めるのもどうかと思う。
 紫織は姉たちに対しては、誰かひとり、ということはほとんどなく、同じくらいの割合で接している。ただ、その中で年の離れている愛奈は自分のことを特に可愛がってくれるから、愛理たちよりは印象はいいはずだ。
 とはいえ、それがそのまま似てることイコールいいことに繋がるかどうかは、わからない。
「確かに、紫織は愛奈に似てるところもある。でも、それは顔とかじゃないんだ。なんて言ったらいいのかな。紫織は、愛奈が今の紫織と同じ年の頃に、言動が似てるんだ」
「げんどう?」
「少し難しいか。ん〜、言い直すと、紫織のいろいろな行動は、愛奈の行動とそっくりだってことだよ」
「ん〜……」
 難しいことを言ってるから、さすがに紫織も首を傾げている。
「ようするにね、しぃちゃん。愛奈もしぃちゃんくらいの頃には、そうやってようちゃんに甘えてばかりいたの」
「ちょっと、美沙。そこばかり強調しないでよ」
「ま、確かにそれだけでもないんだけどね。結構人見知りするところとか、おとなしいところとか。そういうのがそっくりなの」
「紫織にはまだ難しいか」
 別に理解できなくてもいいことだから、あまり悩まないでほしい。というか、理解されると困る。理解されると、将来紫織まで今の愛奈みたいになってしまうからな。
「あのね、しぃちゃん。なっちゃんとしぃちゃんが一番そっくりなところは、ふたりとも洋一くんのことが誰よりも大好きだってことなのよ」
 その説明は、さすがにどうなんだろうか。そりゃ、そうかもしれないけど。
「なっちゃんが今のしぃちゃんくらいの頃、やっぱりそんな風に洋一くんの側から離れようとはしなかったわ。りっちゃんたちと遊ぶよりも、友達と遊ぶよりも洋一くんと一緒の方がよかったみたいだし」
「…………」
「そのせいで、りっちゃんたちからはしょっちゅうヤキモチを妬かれてたけどね。大好きなパパをお姉ちゃんが独り占めしてる、って」
「ゆ、由美子さん。そのくらいにしませんか?」
「あら、もう降参?」
「い、いぢわるしないでくださいよぉ」
 愛奈も、由美子さんが相手では分が悪い。なんたって、相手は愛奈よりもあらゆる面で上を行く存在だから。
「ふふっ、じゃあ、今日はこのくらいにしておくわね」
 そう言って由美子さんはたおやかに微笑んだ。
「さてと、みんなが戻ってくる前に、風呂でも入るかな」
「あ、私も」
 すかさず手を挙げたのは、美沙だ。
「ね、ようちゃん。一緒に入ろうよ」
「こら、美沙。パパを誘惑しない」
「ええーっ、別にいいじゃない。私は全然気にしないんだから」
「ダメ。私が気にするの」
「そんなの愛奈の勝手じゃない。私には関係ないわ」
「あるの」
 やれやれ。いつまで経っても成長しない奴らだ。
「紫織。おとーさんとお風呂に入るか?」
「うん」
『えっ……?』
「じゃあ、タオルを持って、早速行くか」
 とりあえず、今はこれでいいのかもしれない。
 本当に考えなければいけない時は、きっと、まだ先だろうから。
 
 十二
「お父さん。朝だよ。起きて」
 体が大きく揺さぶられる。
 頭の上から声も聞こえる。どうやら、もう朝のようだ。
 昨夜は書類整理に手間取って寝るのが遅くなったからな。その分だけ起きるのがつらい。自業自得ではあるのだが。
「お父さん。起きてよ。起きないと……」
 ごそごそとベッドに潜り込んでくる声の主。
「──って、こら、紫織」
「きゃっ」
 勢いよく布団をはぐと、わざとらしく声を上げた紫織がにこやかな顔で俺を見ていた。
「おまえは朝っぱらからなにをしてるんだ。まったく……」
「だって、お父さん起きてくれないんだもん。だから、私が別の方法で起こしてあげようと思って」
「そのあやしげな別の方法で起こすのはやめてくれ」
「別にあやしくないよぉ。ただちょっとだけ、人には言いにくいだけ」
 そう言ってにっこり笑う。
「そんなことより、おはよ、お父さん」
「おはよう、紫織」
 俺は、紫織の頬に軽くキスをする。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「いつになったら、ここにキスしてくれるの?」
「さあ、いつかな」
「むぅ、お父さんのいぢわる」
 やれやれ。十八にもなって、子供みたいに駄々をこねるなっての。
「ほれ、おまえも準備してこい」
「うん」
 紫織は軽やかにベッドから出て、スカートを翻しながら、部屋を出て行った。
「あ、そうだ」
「まだなにかあるのか?」
「今日のお昼は、一緒じゃないとイヤだからね」
「へいへい。わかったよ」
「うん」
 本当にやれやれだ。
 
 十年ひと昔、なんて言うが、確かに十年という時の流れは大きいと思う。
 俺だって今年で四十六歳だし。
 そして、十年も経てばいろいろ変わるのも当然だ。
 俺たち親連中は変わらないが、子供たちは変わった。
 まず、愛奈。大学を卒業後、愛と同じように翻訳を仕事にして、最近ようやく軌道に乗りはじめていた。まあ、近くに大先輩がいるわけだから、心配なことはなにもない。
 次に愛理。同じく大学を卒業し、今は旅行代理店に就職し、毎日忙しく仕事に励んでいる。本人としては、本当はツアーコンダクターがよかったらしいのだが、諸々の事情からそっちは断念したらしい。詳しいことは聞いてない。ま、話したくなったら話してくれるだろう。
 次に紗弥。紗弥は、高校の途中から医者になると言い出し、一浪の末、医学部に入学した。現在はインターンとして大学病院に勤務している。ちなみに、小児科だ。どうも、子供たちと接する仕事がよかったらしく、自分は先生には向かないから、じゃあ、医者だ、という感じで決めたらしい。どういう理由でも、しっかり歩んでくれればそれでいい。
 次に愛果。この春大学を卒業し、今はカウンセラーの卵として勉強の最中だ。どうやら、沙耶加の影響らしい。ま、こっちも近くに先輩がいるわけだから心配はない。
 次に紗菜。紗菜は大学へは行かず、高校卒業後、専門学校へ入った。そこでファッションデザイナーの勉強をし、今はあるデザイナーのもとで修行に励んでいる。
 次に紫織。紫織はこの春に高校三年に進級し、今年は受験生だ。高校はやはり姉たちと同じで、ようするに俺たちの後輩だ。大学はすでに八割方決めているらしく、現在の成績なら推薦ででも入れるだろう。
 次に彩音。彩音はこの春に高校に入学したばかりだ。女子高生になれることをとても喜んでいたが、それ以前にちゃんと勉強してくれれば俺はなにも言わない。その後の進路についてはまだ決めていないらしく、少しずつ考えると言っている。
 ちなみに、愛理、紗弥、紗菜の三人は家を出ている。まあ、紗弥の場合は自らというわけではなく、医者という仕事柄遠い場所に家は持てないから、なのだが。
 で、家族だが、これだけではない。
 まず、香織との間に生まれたのが、沙織。今年で九歳になる。姉の紫織と違ってとても活発で、人懐っこい性格で友達も多い。
 同じ年に昭乃との間に生まれたのが、優奈。昭乃にとってははじめての子供だったので、とても可愛がられて育ち、少しだけ甘えん坊になっている。まあ、彩音もそうだったし、あとでなんとでもなる。
 沙織と優奈は、愛理や紗弥、愛果と紗菜と同じように、単なる姉妹というよりは、双子みたいな感じで一緒に育ってきた。性格上、沙織が優奈を引っ張り、優奈はいつも沙織の背中を追いかけている。そんな感じだ。
 ここまでで娘だけで九人なのだが、実はさらにふたりいる。こうなるともはや笑うしかない。
 ひとりは、真琴との間に生まれた、瑞希。今年で七歳になる。彩音と違って結構さっぱりとした性格で、年齢不相応な面をよく見せる。ただ、彩音のことは大好きみたいで、家にいる時は一緒にいることが多い。
 もうひとりは、愛との間に生まれた四人目、愛乃。瑞希と同い年の七歳。長女である愛奈とはずいぶんと離れていて、ある意味では親子ほどの差だ。
 愛乃の面倒は、久しぶりに愛がしっかり見ている。まあ、上が手がかからなくなったから当然といえば当然なのだが。
 愛乃は本当の意味で末っ子なので、大勢の姉たちからとても可愛がられている。ただ、そのせいで姉妹で一、二を争うほどの甘えん坊になってしまった。
 娘だけ十一人もいて、さすがにそろそろいいかな、と思ってる。というか、これ以上増えるといろいろ困る。
 娘たちのことを話したからには、やはり姪っ子、甥っ子の話もしなければならないだろう。
 美沙は、大学在学中にうちの高校に就職希望を出したのだが、あいにくと欠員がおらず、採用は見送られた。だが、それくらいであきらめる美沙ではない。ただ遊んでるわけにもいかないから、とりあえず大学院へ進み、いつでも就職できるようにしていた。
 で、その執念深さが伝わったのかどうかはわからないが、運良く欠員が出て、今は俺の同僚ということになっている。ちなみに、専攻は西洋史だったのだが、なぜか日本史教師として教鞭を執っている。
 和輝は、大学卒業後、以前の和人さんと同じように海外へ行ってしまった。まだ若いながら将来有望なエンジニアで、ヘッドハンティング候補の筆頭に常にいるということだ。
 本人にはそこまでのこだわりはないらしく、自分の能力を正しく評価してくれて、ある程度自由にやらせてくれればどこでもいいらしい。そのあたりは、姉貴と和人さんの息子らしい。
 ざっと挙げただけでもこのくらいのことがこの十年にあったわけだ。
 そのことを改めて考えると、やっぱり俺も年を取ったと感じる。もちろん、まだまだ若い気ではいるけど。そうじゃないと、うちの女性陣の相手などできやしないから。
 
 朝食の席は、賑やかだ。
 一緒に住んでいるわけではないが、紫織、沙織の姉妹と彩音、瑞希の姉妹もたいてい一緒だ。まあ、今は前以上に家が近いからそういうことも簡単にできる。
 朝食を終えると、揃って家を出る。
 このあたりで美沙が合流してくる。
「今日もいい天気だよねぇ」
「そうだな」
「こういう日は、授業なんかサボって、どこか出かけたいよねぇ」
「……仮にも教師が言うセリフじゃないだろ」
「ま、そうなんだけどね」
 美沙は、カラカラと笑った。
「というわけで、ようちゃん。今日のお昼は──」
「ダメ。今日のお昼は、私がお父さんと一緒なの」
「あれ、そうなの?」
「ん、そうみたいだな」
「そうみたいだな、じゃなくて、そうなの。約束したでしょ?」
 約束を反故にされそうになり、紫織は頬を膨らませて抗議する。
「わかってるから。そんな顔するな」
 そんな紫織をなだめるのも、俺の役目だ。
「ホント、そういうところ、同じ頃の愛奈にそっくりだよねぇ。愛奈もようちゃんに対する甘え方がすごく上手だったけど、しぃちゃんも同じ」
「妹だし、お父さんを好きなのも同じだから」
 紫織は、ある意味では愛奈のことを尊敬している。憧れという意味では母親の香織なのだが、俺に対する面では愛奈を尊敬し、愛奈みたいになりたいと考えている。
「ん〜、そういう意味じゃないんだけどね、私の言いたいことって」
「?」
「まわりに誰がいようが、どんな状況だろうが、ようちゃんに対する接し方が同じだってこと。これって、結構大変なことなのよ?」
「……ん〜……」
「それを実践してるしぃちゃんにはピンと来ないかもしれないけど」
 そう言って美沙は苦笑する。
「あやちゃんは、わかる?」
「なんとなく、かな。確かに愛奈お姉ちゃんも紫織お姉ちゃんもパパと一緒の時は、それこそ人が変わっちゃうから」
「そうそう。そんな感じ。ようは、普段とのギャップが大きいってことよ。愛奈も普段は普通の女子高生だったんだけど、ようちゃんを前にすると、素の自分が出てきてたから」
 そこまで分析されてると、紫織もなにも言い返せない。
 実際、愛奈もよく美沙に言い負けてたし。
「さっちゃんはそこまでのことはないから、やっぱりしぃちゃんが特別なんだよ」
「まあまあ、美沙もそのくらいにしてやれ。ずっとふたりのことを見てきたおまえに言われては、なにも言えないんだからさ」
「そういう状況を作り出してる要因のひとつには、ようちゃんのしぃちゃんに対する接し方もあることを、忘れないように」
「へいへい」
 やれやれ。もう少し心穏やかに登校できないものだろうか。
 少なくとも彩音が卒業するまでは無理か。
 はあ……
 
 夕食は、朝食より賑やかだ。
 毎晩というわけではないが、娘たちが揃うからだ。
「パパ」
「どうした、愛乃?」
「ん〜ん、なんでもない」
 ここ最近の俺の膝の上は、愛乃の指定席になっている。同い年の瑞希はあまりベタベタしたがらないから、本当に愛乃の指定席だ。
 むしろ愛乃に嫉妬しているのは、すぐ上の姉である沙織と優奈だ。まあ、ふたつしか違わないわけだから、ある意味仕方がないのだが。
 望んでそうなったわけではないが、俺もこういう状況には慣れてしまった。だから、ちょっとやそっとのことでは驚かないし、対処に困ることもない。
 ただ、困るのはそういうことをすべて理解した上で行動を起こす『特定』の人物だ。
「パ〜パ」
 テレビを見ていたら、後ろからいきなり抱きつかれた。
「……愛奈。おまえもいい年なんだから、そういうことはやめないか?」
「年は関係ないの」
 そう言って、ある意味この家で一番やっかいな相手──愛奈はにっこり笑った。
 愛奈は、年齢相応の落ち着きを、少なくとも見た目に関しては持っている。ただ、本人には誰になにを言われても動じるところがないので、相手にとってはかなりやりにくいと思う。というか、同情する。
「あ、また愛乃を膝に座らせてる」
「別にいいだろ。おまえだって、愛乃くらいの頃はよく座ってたんだから」
「それはそうなんだけどぉ……」
「愛奈。あなたもいい加減、妹に嫉妬するのやめなさい」
 そこへ、お茶を持って愛がやって来た。
「別に嫉妬してるわけじゃないの」
「じゃあ、なに?」
「私も同じことがしたいだけ」
 ……おいおい、その年で膝に座るのだけは勘弁してくれ。
「その気持ちがわからないわけではないけど、でもね、愛奈。あなたは愛乃たちの姉なのよ。その姉であるあなたがいつまでもそんなことだと、妹たちに示しがつかないと思わない?」
「……むぅ……」
「別にパパに甘えるなとは言わないわ。ただ、もう少し年相応の行動をしなさい。そうしないと、あなたは構わないかもしれないけど、まわりの私たちも変な目で見られることになるんだから」
「……はぁい、わかりました」
 愛奈は、渋々俺から離れた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「ん、なんでもないの。愛乃は、気にしないで」
「ん〜……」
 愛奈は、誤魔化すように愛乃の頭を撫でた。
「あ、こら、沙織。待ちなさい」
 と、廊下から声が聞こえた。
 それとあまり時間差なく──
「パパー」
 沙織が飛んできた。
「パパ、沙織も」
 風呂上がりなので、頬が上気し、髪も湿っている。
「沙織。こっちへいらっしゃい」
 そこへ、バスタオルを持った香織がやって来る。
「髪、ちゃんと乾かさないと、風邪引くわよ」
「むぅ……」
「ほら、沙織。ママの言うことを聞かないと」
「うん」
 さすがに風邪は引きたくないらしい。沙織は案外素直に言うことを聞いてくれた。
「んもう、パパはどこにも行かないんだから、もう少しだけ我慢しなさい」
「だってぇ……」
「だってじゃないの」
 ピシャッとたしなめられ、沙織はぷくっと頬を膨らませた。
「愛奈。今のうちに愛乃をお風呂に入れてくれる?」
「はぁい。愛乃、行こ」
「うん」
 愛奈は、愛乃を連れて風呂場へ。うちは相変わらず風呂は順番だから。
「あれ、ひょっとして、今はお姉ちゃんたちがお風呂?」
 そこへ、愛果と沙耶加がやって来た。
「今さっきね」
「そっか。じゃあ、私はそのあとか」
 愛果は、週に何日かは沙耶加からカウンセラーとしての心得や、いろいろな経験談を聞いている。今日も夕食後、それをやっていたのだ。
 沙耶加にしてみれば、実の娘である紗弥も紗菜もカウンセラーを目指していなかった上に、今はふたりとも家を出ている。だからというわけではないのだが、以前にも増して愛果を可愛がっている。
「よし、こんなものかな」
「はあ……」
 ダイニングのテーブルでは、紫織が彩音の勉強を見ている。
 紫織はとにかく頭がよく、実際、入試ではほぼパーフェクトでトップ合格している。それは入ってからも同じで、三年になった現在まで、一度たりとも一位の座を明け渡したことはない。
 それでも紫織は特別なことはなにもしていない。むしろ、ほかの生徒よりも勉強時間は短いと思う。それでもそれだけのことをやってしまうのだから、それはすなわち天才ということだ。
 ま、母親である香織もそんな感じだったから、娘である紫織もそうなったのだろうけど。
「とりあえず、そのあたりを中心にやっておけば大崩はしないと思うよ」
「うん、ありがと、紫織お姉ちゃん」
「あとは、授業中に先生に言われたことは確実にマスターしておくことかな」
「それが一番難しいんだよねぇ」
「そうかもしれないけど、やらないとダメなものばかりだから」
「うん」
 紫織は、性格故なのか、とても面倒見がいい。このあたりは、愛奈と同じだ。
 長女である愛奈が妹たち全員の面倒を見ているとすると、紫織は紫織より下の妹たちの面倒を見ている、という図式になっている。
「さてと……」
 紫織は、視線をこちらへ向け、にっこり微笑んだ。
 というか、イヤな予感がするのだが。
「おっと、ひとつ片づけなくちゃいけない仕事があったんだ」
 俺はわざとらしくそう言い、立ち上がった。
「じゃあ、そういうことで」
 リビングを出て、仕事場である書斎へ。
 スタンバイ状態だったパソコンを立ち上げ、椅子に座る。
「お父さん」
 ほぼ同時に、紫織が顔を覗かせた。
「なにか用か?」
「そんな言い方しなくてもいいのに」
 別段気にした様子もなく、紫織はすぐ側まで寄ってきた。
「仕事、本当にあるの?」
「あるからここにいるんだろうが」
「ふ〜ん……」
 まったく、年々上の連中に似てくる。それに、勘が鋭いから下手なことは絶対にできない。
「ね、お父さん」
「なんだ?」
「お父さんは、愛奈お姉ちゃんのこと、愛理お姉ちゃんたちとは違った目で見てるんだよね?」
「なんだ藪から棒に」
「いいから」
「そうじゃないとは言わないが、それでもあくまでも娘という範疇でだからな」
「だとしたら、私はどう?」
「…………」
「なんでそこで黙っちゃうの?」
 ぷうと頬を膨らませ、抗議する。
「いや、そういうところは本当に愛奈そっくりだと思ってな」
「……そうなの?」
「愛奈も昔、よくそういうことを気にして、俺に訊ねてきた」
 まあ、実際は愛奈だけでなく、愛理も紗弥も愛果も紗菜もだけど。ただ、一番気にしていたのは、やっぱり愛奈だった。
「おまえも、少しくらい覚えてないか?」
「ん〜、少しだけ覚えてる」
「なら、俺の答えもわかるだろ?」
「……かもしれないけど、でもね、お父さん。やっぱり気になるよ」
 ごく一般的に考えれば、俺と紫織くらいの年齢差があると、どちらかがどちらかに引け目を感じてしまう。
 だけど、少なくとも紫織にはその兆候はない。というか、成長するに従って積極的にさえなっている。
「まったく……」
「ため息ついちゃダメ。幸せが逃げちゃうよ」
 つかせてるのは紫織なんだけどな。
「まあ、おまえがあれこれ考えてしまう気持ちはわかる。それをやめろという権利はないから、言わない。でもな、紫織。結果だけはどうやっても変わらないんだから、それをちゃんと考えて行動してくれ」
「ん〜、たぶんね、それは無理だよ」
「なんでだ?」
「だって、私がお父さんのことを好きな気持ちは変わらないから。好きな人のことをあれこれ考えてしまうのは、しょうがないでしょ?」
「まあな」
「それに、確かに結果は変わらないかもしれないけど、なにもしないで後悔するくらいなら、なんでもやってその上でダメだったか、って思いたいから」
 こういう健気なところは、似なくてもいいのにな。
「でも、お父さんに迷惑もかけたくはないから。うん、もう少しだけ考えて行動するよ」
「そうしてくれ」
 基本的に俺は、本当の意味で愛以外を特別扱いしたことはない。ただ、そう見えるようなことはしてきた。それは沙耶加に対してであり、愛奈に対してであり、紫織に対してだ。
 だから、紫織は言うのだ。
「で、それはそれとして、お父さん。久しぶりに、お父さんの膝の上に座ってもいい?」
「は?」
「だからぁ、さっき愛乃ちゃんにしてたみたいに──」
「いや、それはわかるんだが、なんでそうしなくちゃならんのだ?」
「そんなの決まってるよ。私がそうしたいから」
 即答するな。
「ね、お父さん。いいでしょ?」
 ここで断っても、あれこれ理由をつけて結局押し切られてしまう。強く出られない俺も悪いのだが、どうもそのあたりが上手くできない。
「……ほら」
 観念して、膝を紫織に差し出す。
「あはっ、ありがと、お父さん」
 まったく、嬉しそうな顔しやがって。
「……ん、お父さんの匂い……」
「小さい頃は黙ってくっついてたのに、今は策を弄してくっついてくるな」
「そりゃ、私だっていろいろ考えてるからね。それにほら、お父さんが素直に私を抱きつかせてくれないから」
「一般常識として、おまえくらいの年齢になってそういうことをしてるのはおかしいだろうが」
「それはあくまでも、どこの誰ともわからない人が勝手に言ったことでしょ? だったら、誰にも迷惑のかからない今みたいな状況なら、問題ないと思うなぁ」
「それは屁理屈だろうが」
「屁理屈じゃないよ。少なくともこの家では普通に通用する『常識』だよ」
 それを言われると、なにも言い返せない。この家を基準にすると、俺に不利なことが多すぎる。
「ね、お父さん。私も結構成長したと思うんだけど、どうかな?」
「どうって、なにがだ?」
「だからぁ、お父さんから見て、女の子としてどうなのかなってこと」
「そうだなぁ……」
 これは娘だからというわけではないが、頭ふたつ分くらい抜けていると思う。
 見た目は香織譲りのものがあるし、頭も良いし、運動もなんでもできる。性格だって悪くない。手先も器用だし、家事もなんでもこなせる。
 今時、こんな十八歳はほとんどいないだろう。
 ただ、それをそのまま紫織に言うのははばかられる。言えば調子に乗るからだ。
「体は成長したけど、精神的にはまだまだだな」
「むぅ、そうかなぁ」
 とても不満そうだ。
「私、結構モテるんだよ? 高校に入ってからも、何度も告白されてるし」
「あのなぁ、モテることと俺からの評価って、イコールなのか?」
「それは違うけど……」
「だったら、そんな意味のないことを言うな」
「…………」
 ちょっときついかもしれないが、言うべきことは言っておかないと。
「パパがそんなこと言ったら、しぃちゃんはなにも言えなくなっちゃうよ」
 と、いつの間にか、風呂上がりの愛奈が戸口のところにいた。
「部屋に入るなら、ノックくらいしろ」
「ドア、開いてたから」
 やれやれ。紫織だけでも面倒なのに、愛奈まで来るとはな。
「あのね、しぃちゃん。パパがそういうことを言う時は、たいてい心の中では別のことを考えてるんだよ」
「そうなの?」
「本心を言っちゃうといろいろ面倒なことになるし、だけど、ウソを言うわけにもいかないから、ウソではないもっともらしいことを言うの」
 ……どうしてこいつは俺の考えをズバズバ当てられるんだ?
「だからね、しぃちゃんにはまだ難しいかもしれないけど、パパとそういう話をする時は、その言葉の裏にある意味をよく考えるといいよ」
「うん、そうしてみる」
 紫織までそうなってしまうと、ますます俺は本音を言えなくなる。
 ただでさえ、この家では本音は言えないのに。
「お姉ちゃんは、お父さんの言うこと、どれくらい理解できてるの?」
「う〜ん、私もまだまだだと思うなぁ。やっぱりパパの方が長生きしてる分だけ、誤魔化し方とか上手いから」
「そっか」
「でもね、将来的にはママたちみたいになりたいと思ってるから。ママも沙耶加ママも、パパのことならなんでもわかってるから。きっと、パパが隠せてると思ってることでもママたちには筒抜けだろうし」
 ……それはそうかもしれない。過去にも、そういう経験がある。
「まあ、でもそれは当然なんだよ。特にママは、パパとは幼なじみということもあって、本当になんでも知ってるから」
「確かに、お母さんもよくそんなこと言ってる」
「だから、最終的にママにはなれないけど、できるだけ近づきたいとは思ってるから。そうすることで、私のパパに対する想いももっともっと深くなるだろうし」
「うん、そうだね」
 本当にそういうことを話題にすると、すぐに意気投合するんだから。
 そうなってしまうと、まわりは敵だらけになる。俺などなにもできない。
「で、愛奈。おまえはいつまでここにいるつもりなんだ?」
「いつまでって、ずっと」
 そう言ってにっこり笑う。
「それはそれとして、パパ」
「なんだ?」
「私が膝に座りたいって言っても頑なに断ったくせに、しぃちゃんはいいんだね」
「……あのなぁ、おまえは今年で何歳だ?」
「年は関係ないの。いくつになっても私がパパの娘であることに変わりはないんだから。そして、私はいつでもパパの膝に座りたいの」
 完全に屁理屈なんだけどな。ただ、ここで余計なことを言うと話がこじれるだけだから、言わない。
「最近のパパ、私に冷たいよね」
「そんなことはないだろ」
「あるよ。しぃちゃんやあやちゃんとは日中も一緒だし、さっちゃんやゆうちゃん、瑞希ちゃんにも優しいし。愛乃にもね。もう私のことなんてどうでもいい、みたいな感じもあるし」
 こうなってくると駄々っ子だな。
「私はね、いつもいつでもパパと一緒にいたいの。パパの側にいて、パパのことをいつでも感じていたいの」
「そういうもっともらしい理由で気を引こうとするのはやめておけ。そう何度も何度も通用しないぞ」
「……ウソじゃないのに」
 ウソだとは思ってない。むしろ、愛奈はいつでも俺に対しては本心をぶつけてくる。
 でも、それになんでも応えていたら、俺の方が保たない。
「じゃあ、今日のところはこれで我慢するよ」
 言いながら愛奈は、俺の首に腕をまわしてきた。
「もう風呂に入ったんだろ? 汚れるぞ」
「いいよ、別に。汚れたら、パパと一緒に入るから」
「おいおい、それだけは勘弁してくれ。あとが恐ろしいんだから」
 愛奈と風呂に入ること自体も問題なのだが、それ以上に問題なのが、愛や沙耶加のことだ。多少は丸くなったふたりではあるのだが、未だに娘たちに張り合おうとする。
 で、その被害はすべて俺に降りかかってくる。
「じゃあ、ママたちも一緒に入るっていうのはどう?」
「……それも勘弁してくれ。のんびりできるはずの入浴が、全然のんびりできなくなる」
「そんなこと言ってたら、パパと一緒にお風呂入れないよ」
「入らなくていいだろうが」
「ええーっ、どうして? 父娘のスキンシップは大事だと思うよ」
「……明らかにスキンシップ過多だろうが」
 こういうやり取りは、もう何度繰り返してきただろうか。やめればいいのだが、律儀につきあってもしまう俺も俺だ。
「やっぱり、お父さんとお姉ちゃんは特別だよね」
「ん?」
「見ててそう思う」
「大丈夫よ、しぃちゃん。しぃちゃんも、パパの『特別』になってるんだから。これは間違いない」
「本当にそう思う?」
「思う思う。じゃなかったら、パパがそんなことさせてくれるわけないから。パパはね、結構そういうのきっちりしてるから。もちろん、愛乃やさっちゃんたちみたいに小学生のうちは別だけど。中学以上になると、途端に厳しくなるから」
「お姉ちゃんもそうだったの?」
「うん。ある日、いきなりそういうことさせてもらえなくなって、ものすごく悲しかったなぁ。私がなにかしちゃったのかな、って思い悩んだこともあるし。でも、結局は何度も何度も言って、やって、それで認めてもらったの」
 認めたわけじゃなくて、抗うのが面倒になっただけなんだけどな。
「そして、私以外にそれを認めてもらってるのが、しぃちゃんだから。やっぱり特別だと思うよ」
「そっか……」
 紫織は、嬉しそうに表情を和らげた。
「愛奈。おまえもそうやって紫織を焚きつけるな」
「別にそんなことしてないよ。私は、事実を述べてるだけ」
「それならそれでいいけど、じゃあ、事実を知った紫織はこれから先、どういう行動を取るか、おまえならわかるだろ?」
「えっ……?」
「おまえ、さっき自分で言ってたよな。日中は紫織と一緒だって。このままだと、日中以外も、ってことにならないか?」
「うっ……」
 墓穴を掘ったか。
「ね、ねえ、しぃちゃん。少しくらいは常識的に行動してもいいんだよ」
「ううん。これからもっともっと積極的にお父さんにアタックするよ」
「あうぅ……」
 やれやれ。
「ね、お父さん?」
「さあ、俺は知らない」
 知ってるわけがないし、知ってても知らないと言うに決まってる。
 なんといっても、ふたりは実の娘なのだから。
「あ、そういえば、お父さん」
「どうした?」
「日曜日は、みんな、何時頃来るの?」
「さあ、適当に来るんじゃないか。少なくとも紗弥は、仕事が終わらなければ無理だからな」
「そっか」
 日曜日は、本当に久しぶりに家族が全員揃う。
 紗弥がたまたま日曜に休暇が入り、だったら久しぶりにみんなで騒ごうということになったのだ。
「さてと、俺はそろそろ仕事がしたいんだが、ふたりはいつまでここにいるつもりなんだ?」
「ん、ずっと」
「うん、ずっと」
 やれやれ。訊いた俺がバカだった。
 
 そして日曜日。
 愛理と紗菜は、仕事が終わった土曜日のうちに帰ってきていた。あとは、紗弥が帰ってくれば家族が揃う。
 ついでに今日は、姉貴たちと由美子さんも来ているので、本当に全員が揃う。この前揃ったのは正月だったから、本当に久しぶりだ。
 で、久しぶりのメンツはいつも通り、俺を放そうとしない。
「……あのさ、おまえら」
「ん?」
「どうしたの?」
「少しは俺のことを考えたりしないのか?」
「パパのことはいつも考えてるよ。というか、今度はいつパパに会えるか、ってことばかり考えてるよ」
 愛理は、なにを今更という感じで言う。
「私も同じだよ。今度パパと会ったらなにを話そうとか、どこへ行こうとか、なにをしようとか、そんなことばかり考えてる」
 紗菜までそんなこと言う。
 というか、ふたりともわかっててあえてそういうことを言ってやがる。
「愛理。紗菜。そろそろパパを放してあげなさい」
 と、愛が見かねて助け船を出してくれた。
「そうよ、紗菜。今日はこれから紗弥も帰ってくるんだから、あなたは少し遠慮しないと」
 さらに沙耶加も加勢してくれる。
 それぞれ母親にそう言われて、渋々俺から離れた。
「パパ」
 と、待ってましたとばかりに、優奈が駆け寄ってきた。
「どうした、優奈?」
「パパのおひざにすわりたいの」
「そうか。ほら」
 優奈を抱きかかえ、膝の上に座らせる。
「パパぁ、愛乃も」
 そのすぐあとに、頬をぷくっと膨らませた愛乃もやって来る。
「じゃあ、愛乃はこっちな」
「うん」
 愛乃を反対側の膝に座らせ、とりあえず問題は解決。
「パパ。優奈、先生にほめられたの」
「へえ、それはよかったな。いったいなにをして褒められたんだ?」
「えっとね、はやく走れたから」
「そうか」
 優奈はこれでなかなか運動神経がよく、本人も体を動かすことが好きらしいので、中学生になったら運動部に入るかもしれない。
 うちの娘たちは基本的に運動神経は悪くないので運動部に向いているのだが、なぜか運動部に入ろうという気がない。まあ、親があれこれ言うことではないから俺も特になにも言っていないのだが、ひとりくらいいてもいいと思っていた。
 そこにきての優奈の存在は、俺のその願いをかなえてくれるかもしれない。
 沙織はあまりそういう気はなさそうだし、瑞希は性格から考えてないだろう。愛乃はわからないが、あまり可能性は高くなさそうだ。
「優奈は、体を動かす方がいいか?」
「ん? ん〜、わかんない」
 まだわからなくてもしょうがないか。
「ゆうちゃんものんちゃんも、ようちゃんと一緒がいいんだよ」
 そこへ、美沙がやって来る。
「ほら、みんなそうでしょ? クラブや部活よりも、ようちゃんと一緒にいる方が楽しいってこと」
「それはそれで嬉しいけど、学校生活を送っていく上で、もう少しそういうことにも力を注いだ方がいいと思うがな」
「たぶん、みんなわかってるとは思うけどね。少なくとも、誰かさんは確実にわかってたし」
「誰かさんて、誰よ?」
 ちょうどリビングに入ってきた愛奈が、眉をつり上げた。
「別に愛奈だとは言ってないでしょ?」
「暗に私だって言ってたように聞こえたけど?」
「もしそう聞こえたのなら、それは愛奈自身がそう思ってる証拠よ」
「ふたりともそのくらいにしておけ」
 このふたりは放っておくといつまでも言い争うからな。
「はぁい」
 言い争うことの無意味さもよく理解しているから、すぐにやめてくれる。
 時計を見ると、そろそろ紗弥が帰ってくる時間だった。
 今日は久しぶりに家族が揃うわけだから、ま、いつもよりはいろいろなことに目をつぶらないとな。
 
 紗弥が帰ってきて、家族が揃った。
 仕事は忙しいらしいが、紗弥はとても元気だった。今はまだまだ学ぶことの方が多いというのも、自らのやる気に火を点けているのかもしれない。
「はい、パパ」
「ん、ああ」
 紗弥は、嬉々とした表情でお茶を渡してきた。
「やっぱりパパの側が一番落ち着く」
「仕事なんだから、そうも言ってられないだろ?」
「そうなんだけどね。ただ、もう少しだけ自由になる時間があればいいのに、って思っただけ」
「それは、一人前になってからだな」
「うん」
 俺としても愛娘の様子は気になるが、物理的な距離だけはどうしようもない。
 もっとも、週に何度も連絡してくるから、様子はよくわかってる。
「パパ。これ」
 と、唐突に横から皿が出てきた。
 見ると、瑞希がお菓子の載った皿をこちらに差し出していた。
「ママがパパにって」
「そうか。ありがとうな」
「うん」
 瑞希は、そのまますぐに彩音のもとへ。やはり彩音の側がいいらしい。
「瑞希ちゃんて、本当にあやちゃんのことが好きなんだね」
「姉妹だし、仲が良いに越したことはない」
「そうだけど、私たち姉妹の中では珍しい存在だと思っただけ」
 なんのことを言ってるのかはわかるが、俺から言うことではない。
「パパよりもあやちゃんだからね。私にはちょっと考えられないけど」
 瑞希の場合は、彩音がやたらと可愛がったからそうなったのだと思う。ほかの姉や妹同様に育っていれば、まあ、今よりは彩音にべったりではなかっただろう。
「そういえば、パパ」
「なんだ?」
「お姉ちゃんとしぃちゃんは? さっきまでいたと思ったのに」
「ん、ああ、あのふたりならおまえたちのためにケーキを作るんだって、香織のところに行ったぞ」
「そうなんだ」
 香織のところ、と言っても香織は今ここにいるわけで、実際の意味は、香織たちの住んでる部屋という意味だ。
 うちの台所は料理やお茶の準備なんかですでに使われているから、すぐ側にある香織たちの部屋で作業をしているわけだ。
「あのふたりって、結構一緒にいるよね」
「そうだな。なんだかんだ言いながら、一緒のことが多いな」
「似た者同士、だからかな」
「それはなんとも」
「パパに対する想いは、ふたりとも相当のものだからね。私も負けてないとは思うけど、あのふたりの前だとさすがに引けちゃうから」
「あら、紗弥ちゃんはその程度なんだ」
 そこへ、話をややこしくする天才が来た。
「そんなことだと、負けちゃうわよ?」
「おいおい、姉貴。紗弥を煽るのやめてくれないか?」
「別に煽ってないわよ。ただ私としては、意外に弱気なことを言うのね、と思っただけ」
「……それが煽ってるというのだが……」
「まあでもね、紗弥ちゃんの気持ちがわからないでもないわ」
「そうなんですか?」
 紗弥は、意外そうな顔で聞き返す。
「うちの美沙も含めて、なっちゃんもしぃちゃんもちょっと考えられないくらい、一途で真面目で真剣だから。そういう人を前にすると、引けちゃうのはしょうがないわ」
「美香さんでもそうですか?」
「私だってそうよ。ただまあ、私はそこまでの状況になったことがないから、多少わかる程度なの」
「なるほど」
 姉貴は、そういうのとは比較的無縁な生活を送ってきたからな。
 高校までは誰かとつきあうという選択肢はなかったし、大学からは和人さんひと筋だし。
 もちろん、そっちの方が幸せだと思う。
「三人でなにを話してるの?」
「私も混ぜてよ」
 微妙に話が途切れたところで、愛果と紗菜が入ってきた。
「今は、なっちゃんとしぃちゃんと美沙がいかに普通じゃないかを話していたの」
 なんか、誤解されそうな説明だな。
「お姉ちゃんたちか。確かに普通じゃないかも」
「そうだね。かなり特殊だよね」
 それでもこのふたりはわかったらしい。
「紗弥ちゃんと紗菜ちゃんは、そういうことから考えると、ちょっと損してるかもしれないわね」
「どういう意味ですか?」
「だってほら、すぐ上になっちゃんがいて、すぐ下にしぃちゃんがいるから。間に挟まれてると、どうしても存在感が薄くなるから」
「……なるほど」
「そうかも……」
 おいおい。そこで落ち込むな。
「まあでも、それでも洋一はよくやってる方だと思うわ」
「なにがだ?」
「娘ばかり十一人もいて、それでもある程度平等に接してるんだから。普通ならもう少し偏りが出てくると思うけどね」
 確かに、同じ息子や娘でも愛情には差が出てくることはある。俺はあまりそこまでのことはないのだが、人によってはそれが大きいこともあるはずだ。
「私なんて、美沙と和輝のふたりだけでもそれなりに苦労してるのに」
「別に特別なことはなにもしてないけどな」
「だから余計に、なのよ。特別なことをしようと思ったら、どこかに綻びが生じるのが常だから。それに、純粋な娘たちだったらそういう些細なことにも気付くと思うわ。そして、そこから心が離れていく」
「……確かに」
「だからこそ、あんたはよくやってると言ったの。ま、よくやりすぎてうちの美沙まで巻き込まれてしまったけど」
「──ママ、私は別に巻き込まれてないわ」
 ちょうどそこへ件の美沙がやって来た。
「私は小さい頃から好きでようちゃんの側にいるの。誰に強要されたわけでもなく、自分の意志でね」
「……まったく、ああ言えばこう言うんだから」
 姉貴は小さくため息をついた。
「ママだってそのことはわかってるくせに」
「わかってはいても、それが納得できるかどうかはわからないでしょ?」
「もう今更じゃない」
 それは美沙が言うべきセリフではないような気がするのだが。
「ところで、美沙。ただ話をややこしくするためだけにここへ来たのか?」
「その言い方はひどいなぁ。愛が感じられない」
「……なにが愛だ」
 本当に対処に困る奴だ。
 さすがに学校ではここまでのことはないが、まわりに誰もいないと途端にこういう感じになるし。俺としては、是非ともなんとかしてほしいのだが。
「パパぁ」
 と、ダイニングから優奈が駆けてきた。
「どうした、優奈?」
「あのね、優奈、これつくったの」
 そう言って俺に見せたのは、今日の夕飯に並ぶ予定の餃子だった。
 かなりの不格好ながら、一応餃子の体裁はとっていた。
「そうか。なかなか上手だぞ」
「えへへ」
「その調子で、ママたちの手伝いをしっかりな」
「うんっ」
 優奈は、そのままダイニングへ戻った。
「もうひとつ珍しいことがあったわ」
「ん?」
「最近は女の子だからって料理ができるとは限らないのに、この家では多少の差はあっても、全員なんらかの料理はできるからね」
「それは料理でもなんでもできないと、後れを取るからよ。ライバルが多いから」
「あなたもそうだったものね。なっちゃんたちに負けないんだって、ある時から急に料理の勉強をはじめて」
「そりゃそうよ。私の場合は、愛奈というとにかく手強いライバルがいたから。愛奈を倒すためだったら、それこそなんでもしたわ」
 なんだか、話があらぬ方向へ進んでいる気がするのだが。
「そうやってなっちゃんも美沙もどんどん先へ進んでいってしまったせいで、紗弥ちゃんと紗菜ちゃんは埋められない差をつけられてしまったわけね」
「あ、あはは……」
 まあ、理由はどうあれ、女の子が女の子らしくあるのは悪いことだとは思わない。もちろん、料理ができることイコール女の子らしいというのは前時代的な考えではあるだろう。ただ、俺のまわりには幸か不幸か、そういう連中が揃っているからそういう考えになってしまうのもしょうがない。
 ただ、仮にあまり料理に興味を持たなかったとしても、愛が黙っているとは思えない。愛は、あまり口にはしないが、女の子は常に女の子らしくあった方がいいと思っている。それは自らの行動にも表れているし、娘たちに対するしつけにも現れている。
 父親としては、どこに嫁に出しても恥ずかしくない程度には女の子らしくあってくれればいいのだが。
「あなた」
 そこへ、愛がやって来た。
「どうした?」
「そろそろ準備も終わるから、愛奈たちを呼んできてほしいの」
「わかった」
「お願いね」
 こういうところで何気ない笑顔を見せられるのは、やはり愛だからなのだろうか。
 それはただ単に、相手が俺だからなのだろうか。
 ま、今更考えてもしょうがないことではあるんだけどな。
 
 振り返れば、本当にいろいろあった。
 長い人生なのか、短い人生なのかは死ぬ時にならなければわからないが、少なくとも今は言える。
 後悔などしていない、と。
 あの時、愛と沙耶加のふたりを選んだこと。
 由美子さんや香織、真琴、昭乃を受け入れたこと。
 すべてを後悔していない。
 いや、それも正確ではないかもしれない。後悔とは、本当の最後の最後でするものだろうから。だとしたら、今はまだその時ではない。
 それに、これから先になにがあったとしても、後悔などしない。
 それは俺が今、本当に幸せだからだ。
 愛する人たちに囲まれて、これ以上なにを望めというのだ。
 これ以上を望んだら、それこそ後悔するだろう。
「どうしたの?」
「……ん、いや、なんでもない」
「そう?」
 愛は小首を傾げ、だけどそれ以上特に追求するでもなく、再び体を預けてきた。
「ね、洋ちゃん」
「なんだ?」
「ものすごく今更なんだけど、どうして私だったのかな?」
「なにがだ?」
「洋ちゃんが好きになった人」
 確かにものすごく今更だ。それこそ、もう四十年も前の話になる。
「もちろん、私は洋ちゃんが私を好きになってくれて、本当に嬉しいのよ。だからこそ、今これだけ幸せなんだから。でも、たまに思うの。世の中には私よりも素敵な人はきっといたずはなのに、って」
「……それに答える前に、おまえにも訊きたいんだけど」
「なに?」
「なんで俺だったんだ?」
「ん、そうだね。そう考えると、不思議だね」
 そう言って愛はクスクス笑った。
 ま、実際この会話は過去にも交わされている。その時もこんな感じだった。
「私はいつもこう考えるの。たぶん、世の中には洋ちゃん以上の人はいたかもしれない。でもね、私の前には洋ちゃん以上の人はいなかった。だから、洋ちゃんを好きになってしまったのは当然だ、って」
「じゃあ、俺も同じだな。俺の前に、愛以上の人は現れなかった。だから、愛だった」
「うん。それでいいと思う。じゃないと、今がないから」
 辿ってきた道をないがしろにするわけではないが、それは所詮過去でしかない。過去をどれだけ振り返ったところで、タイムマシンでもない限りそこへ戻ってやり直すことなどできない。
 それならば、その過去で選んできた選択肢が間違いではなかったと信じて、その上で未来をより良いものにしようと努力する方が、建設的だ。
「私たちって、ほかの人たちよりいろいろ苦労してる分、これからの楽しみも多いと思うの」
「確かに」
「でもね、私はひとつだけ不満もあるの」
「なんだ?」
「このままだと娘たちはみんな、結婚してくれないってこと」
「……ああ」
「ああ、じゃないわ。揃いも揃いってあなたにベタ惚れで、ほかの人のことなど目の端にも入ってないんだもの。もちろん、カワイイ娘たちが側にいてくれるのは嬉しいけど。でも、人並みの幸せを探してもいいと思うのよ。それが結婚かどうかは別としてもね。最初からその選択肢を排除してしまうのは違うと思うから」
「なら、それを俺じゃなくて愛奈たちに言ってくれ」
「何度も言ってるわ。特に愛奈には。でも、あの子はもう死ぬまでその意志を変えないと思うわ。もし、なにかのせいでほかの誰かと結婚しなくちゃいけなくなったら、あの子、死んでしまうかもしれない。それくらい意志は固いわ」
 それを俺に言われても困るのだが。
「でも、不満はそれくらい。あとは不満なんてないわ」
「それならよかった」
 みんなが幸せでなかれば、意味がない。
 誰かひとりでも不幸では、本当の意味で幸せにはなれないのだから。
「洋ちゃん。これから先も、みんな幸せであるために、がんばろうね」
「ああ」
 
 これから先、なにが待ち受けているのかはわからない。
 だけど、これだけはわかる。
 俺たちはきっと、後悔だけはしない。そして、みんな幸せであり続ける。
 なぜか?
 それは、みんながみんな、そう思っているからだ。
 支え合い、信じ合い、ともに歩んでいくからだ。
 
 俺は、そう信じている。
 
 
                                    FIN
inserted by FC2 system