恋愛行進曲
 
後日談
 
 六
 旅行三日目。
 その日も朝からとても天気がよく、まさに海水浴日和だった。
 うちの娘たちは朝からテンションが高く、本当に泳ぐのが楽しみだったようである。
「パパ、パパ」
 早々に着替え終えた愛果と紗菜が、早く早くと急かしてくる。
「ふたりとも少し落ち着きなさい」
 そんなことばかりしていれば、当然愛や沙耶加に見とがめられる。
「でもでもぉ……」
「おとなしくできないなら、今日はお留守番よ」
「ううぅ……」
 そこまで言われては、さすがのふたりもおとなしくなる。
 そうこうしているうちに、だいたいの準備が終わった。
「それじゃあ、行くか」
 海水浴場は、旅館から歩いてすぐの場所にある。
 だから、わざわざ脱衣所などを借りる必要もなく、部屋で着替えて出かけていた。
 旅館の方でもそのあたりは了承済みで、戻ってきた時には海水を流すためのシャワーまで貸してくれる。
「さすがに混んでるな」
 浜辺には、大勢の海水浴客が出ていた。
 まだそれなりに早い時間だとは思うが、すでに気温は高く、海に入っている人たちが気持ちよさそうに見えた。
 俺たちは砂浜の一角にシートを敷き、海の家で借りてきたパラソルを立てた。
 余計なものは持ってきてはいないが、それでも必要なものはあるので、荷物もそれなりにあった。
 誰かが見張りをしていなければならないのだが、俺たちも結構大所帯なので、そのあたりの心配は必要なかった。
 基本的に見張りは大人の誰かということにした。まあ、娘たちにあわせて泳いでいたらどれだけ体力があってもバテてしまうから、ちょうどいい。
「パパ、泳ご」
 軽く準備運動を終えると、愛奈が俺の腕を引っ張った。
「引っ張らなくてもちゃんと泳ぐから」
「ダメだよ。ここで離しちゃったら、美沙たちにパパを取られちゃうもん」
 取られるとか取られないとか、そういう問題ではない気がするのだが。
 海水に触れると、やはり冷たく感じる。だけど、それも最初だけ。
 これだけの陽差しがあると、水温も結構高い。
 だからこそ泳ぐのにはちょうどいいのだろうけど。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「向こうの方もこの海水浴場の範囲なのかな?」
 指さした先には、岬があった。
 その手前まで砂浜が延びている。だが、あまり人影はなく、確かに判断の迷うところだった。
「さあ、どうかな。ただ、遊泳禁止の看板もないし、ブイもないから、泳いじゃいけないわけじゃないだろうな」
「じゃあ、向こうまで泳ご。もちろん、競争だからね。負けた方は勝った方になにかしてあげないといけないの。いい?」
「ああ、いいぞ」
 年は取ってきてるけど、それでもまだまだ愛奈には負けない自信がある。
 というか、負けたら格好悪いな。
「それじゃあ、スタートっ」
 俺たちは、ほぼ同時に泳ぎ出した。
 最初のうちは人が多くて避けながらになったが、次第にそれもなくなった。
 真っ直ぐに泳いでも普通に行けるようになり、純粋に泳ぎの速さで勝敗がつきそうだった。
 そして──
「ぷはぁっ」
 わずかの差で俺が勝った。
「はあ、はあ……あとちょっとだったのに」
「さすがにまだまだ負けないさ」
 とはいえ、俺の方ももうギリギリだった。あと少し距離があったら、抜かれていたかもしれない。
「とりあえず、少し休もう」
「うん」
 砂浜から岩場になっているところに上がり、岩場に座った。
「俺ももう年かな」
「ん、どうして?」
「この程度の距離を泳いだだけで、かなりバテてるから」
「そんなことないと思うけどなぁ。パパは、ほかの子の父親よりもずっと若々しいし、カッコイイもん」
「そう見えるだけだって。実際は年齢相応だからな」
「そうかなぁ……」
「ま、俺が年を取ったってことは、愛奈たちがその分だけ成長してるってことだからな。喜び半分、淋しさ半分ってところか」
 子供の成長は、自分の老いと比例している。
 子供が成長した分だけ、自分は年を取っていく。
「それを嘆いたところで、どうにもならない問題ではあるんだけどな」
 そう自分に言い聞かせ、その場に寝転んだ。
 見上げた空には、雲ひとつなかった。真夏の太陽が自らを主張し、水着じゃなかったらこんなことできないくらいだった。
「パパ」
「なんだ?」
「あのね、私、いろいろ考えたの」
「なにをだ?」
「これからのこと」
 そう言って愛奈は空を見上げた。
 その横顔は、愛のそれにそっくりだった。
「高校を卒業して、進学して、そのあとのことまでいろいろとね」
「そうか」
「ただね、どうやってもたったひとつのことだけは変わらないの」
「それは?」
「ずっと、パパの側にいるってこと。パパのいない生活なんて考えられないし、考えたくもないから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、最終的には俺のことよりも自分のことを優先するんだぞ」
「それは、その時になったら考えるよ。たぶん、パパを優先しちゃうだろうけど」
 愛奈は、にっこり笑った。
「なあ、愛奈」
「うん?」
「今更訊くのもなんだけど、どうしてそこまで俺にこだわるんだ?」
「ん〜、それは私にもわからないよ。だって、気付いたら私の中でパパが一番になってたんだから。それこそ、生まれる前からそう決められてたみたいにね」
「なるほど……」
 理由は正直微妙だが、愛奈の言いたいことはよくわかる。
「あとは、そうだなぁ……ママの娘だからかな」
「ああ、それはあるかもしれないな」
「それと、今までずっと、パパのことを本気で好きな人たちに会ってきたからっていうのもあると思う」
 愛奈のその想いが流されたものじゃないことくらいはわかっていた。
 だからこそ持て余し気味なのだ。
「それに、パパも私のこと可愛がってくれるし。だから余計にね」
「そりゃ、可愛がりもするさ。なんたって、大事な娘なんだから」
「ん〜、その娘というスタンスからもう少し抜け出せないのかなぁ」
「それは無理だろ。どうやったって、おまえが俺たちの娘であることは変わらないんだから」
「それはわかるけど。でも、私はパパに娘としてだけじゃなくて、ひとりの女の子としても見てほしいの」
 愛奈をそういう対象として見られるかどうかは、正直わからない。もちろん、娘であるという想いが一番強い。だけど、年々成長していく姿を見ていると、多少は女の子としても見ている部分もあるにはある。
「あ、そうだ。パパ」
「どうした?」
「さっきの約束」
「約束?」
「ほら、負けた方が勝った方になにかするっていうの」
「ああ、それか。別に無理にしなくてもいいぞ」
「ううん。そういうわけにはいかないよ」
 こういう律儀さというか、頑固さは間違いなく俺たちの娘だからだ。
「じゃあね、パパ。そのままでいいから、少しだけ目を閉じてくれるかな?」
「わかった」
 言われるままに目を閉じる。
 目を閉じると、まぶた越しに太陽を感じる。じんわりと暖かさというか、暑さを感じる。
「大好きだよ、パパ……」
 と、不意を突くように──
「ん……」
 愛奈がキスをしてきた。いつものように頬ではなく、唇に。
「愛奈、おまえ……」
「唇のファーストキスは、パパのものだよ」
 そう言って愛奈はにっこり笑った。
 そのまま俺の横に寝転がる。
「おまえのそういうところは、ママにそっくりだな」
「そうなの?」
「ママも──愛も、自分の想いの表現方法が真っ直ぐだから。最初の頃は、多少戸惑ってたこともあったけどな。でも、次第にわかってきたんだ。愛は、そういう風にしか自分の想いを表現できなかったんだって。ようするに、不器用だったんだな。ま、それは俺も同じだけど」
「そっか」
「でもな、愛奈」
「ん?」
「できれば今みたいなことはあまりするなよ。特に、愛と沙耶加の前ではな。大変なことになるから」
「あはは、それは大丈夫だよ。いくら私でもママや沙耶加ママを相手にしようとは思わないもん」
「それならいいけど」
 だけど、うちの女性陣は加減というものを知らない。それはきっと、実の母娘でも同じだろう。愛とお義母さんを見ればよくわかる。
 愛と愛奈。
 このふたりも本気でやりあったら、きっと俺ですら止められないだろうな。
 それだけふたりの俺に対する想いは純粋だから。
「あ、でも、パパ」
「ん?」
「ママたちの前じゃなければ、キス、してもいいの?」
「いや、だからな、あまりするなって言っただろ?」
「あまり、だよね?」
「いや、だから……」
「二言は、ないよね?」
「……わかったよ」
「あはっ、ありがと、パパ」
 親と子のスキンシップだと思えば多少は割り切れるけど、それでも複雑な心境だ。
 特に愛奈は、特別な存在だから。
「んじゃ、そろそろ戻るか。あんまりここにいると、あとが大変だ」
 俺は、そう言って起き上がった。
 きっと、今頃向こうでは愛たちが俺を探していることだろう。傷は浅いうちに戻るのが賢明だ。
「パパ」
 と、愛奈が真剣な表情で俺を呼び止めた。
「どうした?」
「私、本当にパパのこと、大好きだからね。これだけはなにがあっても絶対に変わらないからね。だから──」
 俺は、愛奈の言葉を遮り、抱きしめた。
「それ以上言わなくていいから」
「パパ……」
「愛奈が俺のことをどれだけ好きなのかは、ちゃんとわかってるから」
「……ホント?」
「ああ。いったい何年おまえの父親をやってると思ってるんだ?」
「……ふふっ、そうだね」
「それから──」
「ん?」
「もう、そんな顔するな。俺のまわりにいる女性陣に、そんな顔は似合わないんだから」
 泣き顔なんて、どんな状況でも見たくはない。たとえそれが、嬉し泣きでも。
 俺が好きなのは、やっぱり笑顔だから。
「……っ……パパ……」
「やれやれ、しょうがない奴だな」
「ごめん、なさい……」
 もう少しだけ、愛奈のために時間を使うか。
 愛たちへの言い訳は、あとで考えよう。
 今は、誰よりも大切な娘のために、使うべきだから。
 
「はい、パパ」
「ん、ああ」
 しかし、ずっと以前にもこんなことがあった気がする。
 あれはそう、沙耶加とのことで修羅場があったあとのことだ。
 あの時の愛の変わりようといったら、いくら俺でも多少戸惑った。
 今回のことは、それにとても似ている。
「あのさ、愛奈」
「ん?」
「別にそこまでなんでもしてくれなくてもいいんだぞ」
「ヤだ。パパのことは、私がなんでもするの」
 岩場から砂浜に戻ってきてから、愛奈はずっと俺から離れなかった。
 少しでも距離が空くと、泣きそうな顔で近寄ってくる。
 そんな顔されては、俺としても愛奈を放っておくことはできない。
 だけど、愛奈だけ構っていれば、当然のことながらほかの連中が黙ってはいない。
「……なんか、ようちゃんと愛奈、ふたりだけ違う雰囲気……」
 隣でボソッと言うのは、美沙だ。
「なにかあったの?」
「なにもないよ。もともと私とパパは、相思相愛なんだから。ね、パパ?」
 無邪気な笑顔を向けられても困るのだが。
「おとーさん」
 と、背中に軽い衝撃。
 振り返らなくても誰かわかるのだが、一応振り返る。
「どうした、紫織?」
「おとーさん、紫織とあそぼ」
 今まで姉貴や美樹たちと遊んでいたのだが、そろそろ限界のようだ。
 本当の意味で紫織や彩音の相手をできるのは、母親である香織と真琴、それに俺だけだ。
「遊ぶのはいいけど、紫織」
「なぁに?」
「さっきからずっと遊んでたんだろ?」
「うん、そうだよ」
「なら、少し休んだ方がいいな。そうしないと、あとで疲れちゃうから」
「ん〜……」
 紫織くらいの年だと、自分の限界がわからなくて限界を超えて遊んでしまうことがよくある。大事に至ることはそうそうないが、そうならないようにまわりが気をつけてやらなくちゃいけない。
「ほら、紫織」
 紫織を足の間に座らせる。
「なにをして遊んでたんだ?」
「んとね、ボールであそんでたの」
「そっか。紫織は上手く返せたか?」
「うん」
 紫織は香織譲りの運動神経のよさを見せているから、年齢の離れた姉貴や美樹たちが相手でもそれなりに渡り合えたのだろう。
「……むぅ、パパぁ……」
 と、愛奈がむくれた顔で俺の腕をつついてくる。
「紫織相手にそんな顔するなって」
「だってぇ……」
「紫織からもなんとか言ってやってくれよ」
「愛奈おねえちゃんが、どうしたの?」
「おとーさんが紫織の相手ばかりしてるから、お姉ちゃん、つまらないんだよ」
「そうなの、おねえちゃん?」
「そ、そんなことはないけど……」
 さすがの愛奈も、自分より年下で、しかもまだそういうことを理解していない紫織相手では勝手が違うらしい。
「……ようちゃんも結構えげつないね」
「おいおい、別にそんなつもりはないぞ」
「そっかなぁ?」
 美沙は、半分呆れ顔で言う。
「ま、私としてはようちゃんと愛奈がべったりじゃなくなっただけで、しぃちゃんに感謝してるけどね」
 言いながら、美沙は俺にくっついてくる。
「だから、美沙。そういうことはやめろって言わなかったか?」
「なんで?」
 まったくやめる気はないらしい。むしろ、胸を腕に押しつけてくる。
「美沙。パパが困ってるでしょ」
 愛奈も、美沙相手なら強気に出る。
「なんでよ。愛奈だけよくてなんで私はダメなの?」
「それは、私はパパの娘だもん」
「娘だからって、なんでもいいなんておかしいじゃない。そんなこと言うなら、私だってようちゃんの姪なんだから、これくらいいいでしょ?」
「娘と姪じゃ、全然違うわよ」
「だから、おまえら。俺を間に挟んでぎゃあぎゃあ騒ぐな。紫織もどうしたらいいのかわからなくなってるだろうが」
「だってぇ……」
「そうだよぉ……」
「やれやれ。困ったお姉ちゃんたちだな、紫織?」
「んん?」
 とりあえず、紫織のおかげで妙な雰囲気が払拭された。
「よし、紫織。おとーさんと一緒に砂でなにか作ろう」
「うん」
「お姉ちゃんたちも手伝ってくれるから、きっとものすごいのができるぞ」
「ホント?」
「ああ」
「んとね、えとね、紫織ね、おっきなおしろを作りたい」
「城だな」
 先に紫織を立たせ、俺も立ち上がる。
「ほら、おまえたちも一緒に来い」
 愛奈と美沙は顔を見合わせ、あきらめたように頷いた。
 
 昼食を挟み、午後も海水浴を楽しむ。
 海水浴客はますます増え、泳ぐのも面倒になってきた。
 それでも娘たちは元気なもので、特に愛果と紗菜は疲れなど微塵も見せず、はしゃぎまわっていた。
 で、愛奈は、相変わらずだった。
「愛奈」
 気付いてはいたが、なにも言っていなかった愛が、ここで声をかけた。
「ちょっと愛果と紗菜の様子を見てきて」
「ええーっ、どうして?」
「あなた、さっきからずっとここにいるでしょ? あのふたりの相手を愛理たちだけに任せないの。いい?」
「……はぁい」
 愛奈は、本当に渋々その場を離れた。
「で、あなた」
 地獄の底をはい上がってくるような低い声。
「……さてと、俺もちょっと──」
「いいのかしら?」
「うっ……」
 たったひと言で怖じ気づいてしまうのも情けないけど、相手が愛ならしょうがない。
「いったいあの子となにがあったの?」
「別になにもないって」
「ウソよ。あの子があんな風になるのは、決まってあなたとなにかあったあとだけだもの。母親の観察眼を見損なわないでほしいわ」
 愛の観察眼が鋭いのは、ずいぶん前から知っている。
 むしろ、鋭すぎるくらいだ。
「それで、なにがったの?」
「……まあ、なんだな、本音のやり取りをしたってところか」
「本音って……あなた……」
「いや、待て。俺も愛奈も、そのあたりのことはいつもと同じだぞ。特別なことは……なかった」
「……どうして微妙に間が空くの?」
 一瞬、唇にキスされたことが思い浮かんだとは、さすがに言えない。
「あなたとあの子を見ていると、いくら父娘といえども、心配になってくるわ。あの子はあの子であなたと間違いが起こっても後悔しないどころか、それを望んでさえいるし。あなたはあなたで、あの子のことを良い意味で突き放せないから、どんどん深みにはまっていくし」
「…………」
 返す言葉すらない。
「あなたにとって、あの子はなに? 私の代わり?」
「それはない。愛は愛だし、愛奈は愛奈だ。そりゃ、愛奈におまえの面影を見ることはあるけど、それはそれだ。愛奈に対する感情とは関係ない」
「でも、あの子はそう思ってないのよ? あなたに優しくされればされただけ、どんどんあなたのことを好きになる。あなたに認められれば認められただけ、ほかの人のことが目に入らなくなる」
「……まあ、それはな」
「もちろん、それ自体が悪いとは言わないわ。でもね、限度というものがあるはずなのよ。今のところはかろうじてその範囲内に収まってるけど、それもいつ決壊するかわからないし」
 愛は、小さくため息をついた。
「いい? なにがあっても、実の娘にだけは手を出さないでよ?」
「それは大丈夫だ」
「その言葉もどこまで信じられるかわからないけど、とりあえず今は信じてあげる」
 いくら愛奈が可愛くても、実の娘に手を出すほど俺もいかれてはいない。
「んもう、どうして私がここまで言わないといけないのかしら」
「……それを俺に言われても困るんだが」
「半分はあなたが原因でしょ?」
「……その通りです」
「ああんもう、自分の娘にまで嫉妬したくないのにぃ」
 確かに俺が悪いのだが、なんとなく釈然としない部分もあるにはある。もちろん、それを愛に言うことはないが。
「あなた」
「ん?」
「今日の夜、ふたりきりで過ごしましょ」
「ふたりきりって、さすがに無理だろ?」
「為せばなるわよ。いい?」
「……わかったよ。一応、努力はしてみる」
 愛はもちろんだけど、沙耶加も勘は鋭いからな。特に俺のこととなると、野生の動物並に鋭くなる。
 そのあたりがどうなるか。
 それを考えると、胃が痛くなる。
 
 水平線に陽が沈み出す頃、俺たちも旅館に引き上げることにした。
 ほぼ一日中はしゃぎまわっていた下の四人は、もうへとへとという感じだった。
 なんとか部屋に戻り、着替えるとすぐに夢の世界へ旅立ってしまった。
 下の四人がおとなしいおかげで、俺たちものんびりすることができた。
「はあ、旅行ももう終わりなんだね」
 お茶を飲みながら、美樹がそんなことを言った。
 この旅行はもともと三泊四日の予定だったから、それは当然だった。
 それに、お盆休みが終わればまた世の中はいつもの流れに戻る。
 俺や美樹はそこまでのことはないけど、ほかの連中はそういうわけにはいかない。
「なんか、帰るのがイヤになるなぁ」
「そうは思うけど、そうも言ってられないのが、悲しいわね」
 姉貴自身は特になにもないからいいんだろうけど、一応そう言う。
「今度、こういう風に旅行に行けるのは、年末年始かしらね」
 年末年始は、それぞれの予定を考えてだから、必ず旅行に行くわけではない。
 それに、もし旅行に行くならそれぞれの親たちもついてくる。
 だから、夏以上に大所帯となる。
「来年は旅行は無理そうだから、年末年始はどこか行きたいわね」
「なら、姉貴が決めればいいんじゃないか?」
「あのねぇ、そういうことを私ひとりで決められるわけないでしょ? 冬の旅行は私たちだけで行くわけじゃないんだから」
「別に問題ないんじゃないの? 父さんも母さんも日程さえあわせれば、なにも言わないだろうし。お義父さんもお義母さんもそれは同じ」
「ん〜、まあ、それはそうかもしれないけど……」
 父さんも母さんもお義父さんもお義母さんも、旅行に行くことよりも、孫たちと遊べることの方が大事なのだ。だから、はっきり言えばどこに行っても文句は言わない。
「それにさ、この中で比較的自由に動けるのって、姉貴だけだと思うんだけど。そうすると、その機動力、行動力をフルに活かして計画を立てればいいんじゃないか?」
 仕事を持ってないのは姉貴だけだから、そういうことから考えても、最適な選択だと思う。
「しょうがないわね。なんとかしてみるわ」
「美香さん。私も手伝いますから」
 と、愛が手伝いを申し出た。愛も自宅での仕事だから、姉貴ほどではないにしても、時間の都合をつけやすい。
「冬は、やっぱりスキーかなぁ」
「冬だからスキーっていうのも、安直じゃない?」
「じゃあ、愛奈はなにがいいっていうの?」
「ん〜、私はのんびり温泉がいいなぁ」
「温泉なら、ここにもあるじゃん」
「美沙はわかってないなぁ。冬に温泉に入るのがいいの」
「……なんか、年寄りみたいなセリフ」
 早速、愛奈と美沙は冬の旅行のことについて議論を交わしている。
「じゃあ、美沙はスキーさえできればいいの?」
「そんなこと言ってないでしょ? それに、私も別にスキーをなにがなんでもやりたいわけじゃないし。結局は、ようちゃんと一緒になんでもできればそれでいいの。ね、ようちゃん?」
「ん? 別に俺はそんなことないけど」
「ううぅ〜、ようちゃんのいぢわるぅ」
「情けない声出すなよ」
 美沙は姉貴の娘だから、当然、計算高いところがある。
 それに、姉貴から俺のことはあれこれ聞かされているから、こういう時にどうすればいいのかもわかっている。
 俺としてもそれに引っかかるつもりはないのだが、どうしても引っかかってしまう。
「じゃあ、ようちゃんもそう思ってくれる?」
「それはどうかなぁ」
「やっぱりようちゃんはいぢわるだぁ」
 そう言いながら、俺の方にしなだれかかってくる。
「ちょっと、美沙。なにどさくさに紛れて抱きついてるのよ」
「別に抱きついてなんかいわないわよ」
「だからぁ、パパは私のパパなの」
 愛奈も負けじと俺に抱きついてくる。
 というか、このふたりも変わらない。こんなやり取りも、いったいどれくらい繰り返してきたか。
「おまえら、いい加減にしとけよ。じゃないと──」
「愛奈」
「美沙」
 俺が皆まで言う前に、愛と姉貴が行動に出た。
「愛奈。いい加減にしなさい」
「だってぇ……」
「あまりわからず屋なこと言うと、私もなにをするかわからないわよ?」
「ううぅ……」
 愛にそこまで強く出られては、愛奈も引き下がるしかない。
「美沙。あなたもよ。あなたのそれは、少しやりすぎ」
「でも、ママ。ママはよく言ってるでしょ?」
「なにを?」
「攻める時は徹底的に。それは、仕事や勉強だけじゃなくて、人間関係でも同じ。特に、色恋沙汰ならなおのこと、って」
「…………」
 目をそらすな。
 というか、娘にそんなことを教えるなよ。
「だから、私はようちゃんにそうしてるの」
「それはそれとしてわかったから、とにかく離れなさい」
「ヤだ」
「美沙」
 一触即発。
「まあまあ、美香姉さんも美沙ちゃんも、そのくらいにして」
 そこへ、香織が仲裁に入った。
「とりあえず美沙ちゃんは、洋一から離れる。なっちゃんだって離れたでしょ?」
「…………」
 ある意味、自分の母親以上に尊敬している香織にそう言われては、美沙も渋々従った。
「で、美香姉さんも大人げないですよ」
「面目ない」
「それと、洋一」
 と、被害者のはずの俺にまで──
「ふたりがカワイイのはわかるけど、事態が悪化するまで放っておくのはどうかと思うわ。じゃないと、毎回毎回こんなことになる。それはわかってるんでしょ?」
「いや、まあ……」
「そういう中途半端なことばかりしてるから、事態はますます混迷の度を深めていくのよ」
 香織に言われると、普通のことでも妙に説得力がある。
「香織さんも、今日のところはそれくらいにしませんか?」
 穏やかな声が、場の雰囲気を和ませた。
 見ると、沙耶加と真琴がお茶を淹れ直していた。
「みんな、わかってるはずですから」
 こういうほんわかとした雰囲気を醸し出せるのは、やはり沙耶加だ。愛には悪いが、この役目は沙耶加にしかできない。
「そうね。なにも旅行にまで来て目くじら立てる必要はないわね」
 香織は、素直に引いてくれた。
 とはいえ、これで丸く収まったわけではない。ようは、結論を先送りしただけだ。
 どこかでちゃんと答えを出さなくちゃいけない。
「はい、洋一さん」
 淹れ立ての熱いお茶を飲み、俺も気持ちを落ち着ける。
 どうも、思考が変なところへ行きがちになる。あれこれ考えすぎなのかもしれない。
 もう少しシンプルに考えた方が、いい答えが出るかもしれない。
 たぶんだけど。
 
 その夜。
 近くの店で購入した花火を持って、俺たちは再び浜辺へと出ていた。
 広い砂浜には、俺たちと同じように花火をしている人もいた。
 火種であるロウソクを三本ほど用意し、それを火が消えないように覆いの内側に立てる。
 あとは、各々が好きなものをやるだけ。
「ほら、彩音。ここを持って」
 花火は下手をすると火傷してしまう可能性があるから、特に下のふたりには注意していなければならない。
 だから、俺と香織、真琴の三人は必然的に紫織と彩音の側にいる時間が多くなった。
「わぁ……」
 花火自体はじめてではないが、彩音は目をキラキラと輝かせ、色とりどりの花火に夢中になっていた。
「すごぉい……」
 それは紫織も一緒で、いつも以上に楽しそうだった。
「真琴」
「なんですか?」
「詳しいことはまた今度改めて話すけど」
「はあ……」
「夏休みが終わってからも、今までよりもう少し頻繁に彩音を連れてきてくれないか?」
「彩音をですか?」
 突然の話に、真琴は少しだけ驚いていた。
「別に真琴の子育てに不満があるわけでも、注文があるわけでもない。ただ単に、もう少しだけ『家族』でいることの大切さを教えたくてな」
「家族、ですか」
「長い休みの間はうちにいるけど、それ以外の時間の方が長いだろ? そうすると、どうしてもそういう家族というものを学ぶ機会が少なくなるはずだ。でも、俺たちの関係は特殊だろ? そうすると、せめて娘たちだけでも姉妹として仲良くしてもらいたくてな」
「なるほど、そういうことですか」
「もちろん、真琴もなにかと忙しいとは思うけどさ」
「そんな水くさいこと言わないでください。私は、形こそ違えど、洋一さんの『妻』のつもりなんですから。だからこそ、彩音がいるんです。そして、その家族が一緒にいるのは当然です」
「そうだな。悪かった」
 真琴だけじゃない。沙耶加も香織も同じように考えているはずだ。
「でも、どうしてそうしようと思ったんですか?」
「たいした理由じゃない。彩音も来年、小学校に入学するだろ? そうすると、集団での生活がはじまるわけだ。今も幼稚園がそんな感じだけど、学校はまた違うからな。まあ、そのための予行演習みたいな感じだ」
「ふふっ、ちょっと無理がありますね、その理由」
「そうか?」
「もしそれを理由にすると、しぃちゃんもそうしなくちゃいけなかったんじゃないですか?」
「ああ、まあ、そうかな。だけど、紫織は年齢不相応な部分があるから、なんとなく大丈夫かもしれないと思ってな」
 紫織もちゃんと年齢相応の子供らしさを持っているのだが、たまに大人顔負けの冷静さを見せることがある。
「ふたりして、なにを話してるの?」
 そこへ、香織も入ってくる。
「洋一さんが、彩音をもう少し洋一さんのところへ連れてきてくれって言うんです」
「あら、それはどうして?」
「家族でいることの大切さを教えてあげたいんだそうです」
「へえ、そうなんだ」
 香織は、感心してるんだかバカにしてるんだかわからない笑みを浮かべる。
「それで、真琴さんはどうするつもりなの?」
「もちろんその通りにしますよ。彩音も洋一さんと一緒の方がいいと思いますけど、私自身も洋一さんの側にいたいですから」
「どっちかといえば、そっちの方が重要だったりして」
「ふふっ、かもしれません」
 まあ、どういう理由でも構わないけど。
「それじゃあ、あたしもそうしようかしら」
「紫織をか?」
「ええ」
「でも、それはさすがに無理なんじゃないか? 仕事も忙しいだろうし」
「ん〜、実はね、今いろいろ考えてるのよ」
「考えてる? なにをだ?」
 俺は首を傾げた。
「事務所をね、移転しようかなって」
「なんでだ? 今の場所、気に入ってたんじゃないのか?」
「気に入ってるわよ。できることならずっといたいと思ってる」
「じゃあ、なんでだ?」
「ようするに、優先順位の問題なのよ」
「優先順位?」
 香織は、消えてしまった花火をバケツに入れ、新しいのを手に取った。
「ほら、紫織。気をつけて持つのよ」
「うん」
 それを紫織に渡す。
「あたしの中での優先順位は、仕事よりも洋一や紫織なのよ。もちろん、仕事が大事じゃないとは言わないわ。でもね、それはやっぱり三番目くらいなのよ。大事なのは、洋一であり紫織なの。だからね、そんな洋一の側にいる方法と、紫織が洋一のことで淋しい想いをしないで済む方法を探そうと思って」
「で、具体的にはどうするつもりなんだ?」
「方法なんてそうたくさんあるわけじゃないのよ。というか、それをすべて満たそうと思ったら、ひとつしかない。ようするに、あたしたちが洋一たちの側に住めばいいのよ」
「……えっと、つまり、うちの近くに引っ越してくるってことか?」
「ええ、そうよ」
 香織は、にっこり笑った。
「実を言うとね、もう話自体は進めてるのよ。美香姉さんにあのあたりの物件をいくつか探してもらってるし」
「おいおい、そういう大事なことを俺に話す前に進めるなよ」
「ごめんね。でも、できるだけ洋一の手を煩わせたくなかったのよ。それに、今回のことは完全にあたしの独断だから」
「まったく、そういう変なところだけ奥ゆかしいんだから」
「あら、失礼ね。あたしはいつでも奥ゆかしいわよ」
「紫織。おかーさんがなんか言ってるぞ」
「んん?」
 花火に夢中だった紫織は、不思議そうな顔で俺たちを見ている。
「紫織は気にしなくていいのよ。ほら、花火、そろそろ消えるわ」
 紫織の花火を取り替える。
「洋一さんと香織さんのやり取りを聞いていると、なんとなくですけど、姉弟のそれみたいに聞こえますね」
「そうか?」
「ええ。関係がそういうものに近いからですかね?」
「さあな。ただまあ、俺と香織は実際『義姉弟』だから、そういう感じになるのかもしれない」
「あたしはそう思ってないわよ」
「そうなんですか?」
「だって、あたしと洋一の関係は最初から姉弟のそれじゃなかったもの。ね?」
 可愛くそう言われても、返答に困るのだが。
 だけど、言われてみればそうかもしれない。俺の第一印象も、義姉に向けるようなものではなかったし。
「ま、それは別にいい。で、香織」
「ん?」
「具体的にはいつ頃引っ越してくるつもりなんだ?」
「早い方がいいとは思うんだけど。そうね、たぶんだけど、年末くらいじゃないかしら。部屋の方はすぐに見つかったとしても、事務所の方はすぐに見つからないかもしれないし。それに、紫織の学校のことも考えると、学期の途中で転校させるのは可哀想だし」
「なるほど」
 確かにそれは言えてる。
「引っ越したら、洋一と過ごせる時間も増えるわね」
「そのあたりはやり繰りしてな」
「ね、どうせだから、考えてみない?」
「ん、なにをだ?」
「ふたり目」
「ふたり目?」
「そ。紫織に弟か妹か、いた方がいいかなって」
「いや、まあ、それはだな……」
「洋一さん。そういうことでしたら、私とのことも考えてほしいです」
 香織の話に便乗するように、真琴も声を上げた。
「いろいろな意味で心の成長を促すなら、やはり兄弟がいる方がいいと思うんです」
「ああ、いや、とりあえずだな、ふたりとも。その話はまた今度にしないか?」
「今度って、いつ?」
「向こうに戻ってからですか?」
「……具体的にいつとは言えないけど……」
「じゃあ、今、ここで、きっちりはっきり決めましょう」
「ええ、私も賛成です」
「ちょ、ちょっと待て。今はみんなで花火をしてる最中だろ。だから、そういう話はまた今度に──」
「善は急げって言うでしょ?」
 全然、聴く耳持ってない。
「ん〜、でも、子供を作るためにはふたりきりの時間をもっともっと増やさないといけないわね。今のままだと、確率低そうだし」
「やっぱり、数をこなさないとダメですよね」
「それは間違いないわ。真琴さんもそれはわかってるでしょ?」
「ええ。彩音を授かるまでにも、ずいぶんと時間がかかりましたから」
「あたしもそう」
 ああ、もう完全に井戸端モードだ。
「パぁパ、パぁパ」
 と、花火が消えてしまった彩音が、次をねだってくる。
「ちょっと待ってろな」
 俺は新しい花火に火を点けた。
「ほら、気をつけてな」
「うん」
 彩音の興味がまた花火に移って、俺はふたりの相手を再開しなければならない。
「ふたりきりになるためには、障害も多いのが難点よね」
「お姉ちゃんも愛さんも、洋一さんのこととなると人が変わりますからね」
「そうね。やっぱりそのふたりをなんとかしないことには、こっちの目的は達成できないわ」
「どうしたらいいですかね?」
 揃って唸る。
 俺としてはなにもしないでほしいのだが。
「とりあえず、どれくらい有効かはわからないけど、美香姉さんの力を借りようとは思うけど」
「美香さんですか?」
「ええ。ふたりに対して意見を言える立場にいるのって、美香姉さんか由美子さんくらいしかいないし」
「そう考えると、美香さんというのは最良の人選ですね」
「でしょ?」
 由美子さんを選ぶと、逆に邪魔される可能性があるからかな。まあ、あの由美子さんがそんなことするとは思えないけど。
「あとは、洋一次第よね」
「最後はそうですね。もしそういう機会を作れたとしても、洋一さんにその気がなければ意味ありませんし」
「実際のところ、洋一はどうなの? まったくその気はないの?」
「まったくというわけではないけど……ただ、今の状況を考えるとおいそれとはできないとは思ってる」
 俺にはすでに、七人もの娘がいる。子供は多い方がいいが、育てるためには先立つものが必要となる。
 今は、高村、森川、山本の三つの家から資金援助を受けてなんとかやっている。
 この状況でさらにふたりも増えたら、さすがに首がまわらなくなる。
 それに、もしこのふたりのことを認めてしまったら、愛や沙耶加とのことも認めなくてはならなくなる。あのふたりも、まだ子供がほしいみたいだし。
 さらに言えば、最近は昭乃もそのことをよく口にする。もしそうなったら、二進も三進もいかなくなる。
「じゃあ、こうしない?」
「ん?」
「すべてを成り行きに任せるのよ。子供ができればそれはそれとして受け入れて、できなければできないで、それも受け入れる。それでどう?」
 ふたりを納得させる方法はそれしかないんだろうけど、そういうことは以前にもあったからな。
 沙耶加の時は、そうしたことによって紗菜を授かったわけだ。
 もっと言えば、紫織の時も彩音の時も、それに近いところがあった。
「たぶんね、これがラストチャンスだと思うの。昨今は高齢出産も増えてるけど、やっぱりそれはできるだけ避けたいし。そうすると、ここ一、二年が最後かなって」
「まあ、そうかもしれないな」
「だからね、余計にそう思うの」
 香織も真琴も、それを強く言う理由がわかるだけに、俺も強くは言えない。
 普段は俺が一緒にいられない。だから、家ではそれぞれふたりだけだ。本来いるべき者がいないのだから、淋しいと思われても仕方がない。
 それを紛らわす意味も込めて、子供がほしいのだろう。
「紫織」
「ん、どうしたの、おとーさん?」
「紫織は、弟か妹がほしいかい?」
「おとうと? いもうと?」
「ああ」
 消えた花火を持ったままで、紫織は考える。
「うん、ほしい」
「そっか」
 上はとにかくたくさんいるから、やっぱり下がほしいんだろうな。
「彩音」
「んん?」
「彩音は、弟か妹がほしいかい?」
「んとね、あやね、おねえちゃんになりたいの」
「そうか」
 まあ、しょうがないか。
「とりあえずさ、ふたりとも」
「ん?」
「なんですか?」
「この旅行が終わったら改めて話さないか? ちゃんと俺も話を聞くし、意見も言うからさ」
「あたしは構わないわよ」
「私も全然問題ありません」
「なら、そういうことでよろしく」
 今更話すことなんてないとは思うけど、手順は踏まないといけないし。
 だけど、愛と沙耶加のことはどうするかな。それが一番問題だ。
 
 紫織と彩音のことを香織と真琴に任せ、俺は愛果と紗菜のもとへ移動した。
 ふたりと一緒に花火をしているのは、由美子さんと昭乃だった。
「パパ、見て見て」
 俺に気付いた愛果が、持っていた花火をグルグルまわした。
「愛果。危ないからそういうことしたらダメだろ」
「はぁい」
 一応素直に返事はする。
「香織さんたちとなにを話していたの?」
「いえ、たいしたことじゃないですよ」
「そうかしら? ふたりとも、結構真剣な表情してたけど」
 そんなに離れているわけではないけど、花火の照り返ししかない場所で、よく見てるものだ。
「由美子さんは、昭乃となにを?」
「特にこれといったことはないわよ。ただ、この旅行のこととか、残りの夏休みのこととか」
「あれ、確かこの旅行が終わったら実家に帰るとか言ってませんでしたか?」
「ええ、帰るわよ。というか、帰らないとマズイのよ。このところ長期の休みは洋一くんたちとのことを最優先にしてたから」
「じゃあ、あまり気は進まないんですね」
「当然よ。帰らなかったら帰らなかったでいろいろ言われるし、でも、帰ったら帰ったでまた言われるんだから」
 由美子さんは、そう言ってため息をついた。
「うちの親としては、いつまでも独り身でいることが気にくわないみたいだから」
「それは……」
「洋一くんがそんな顔することはないのよ。それに、私はちゃんと納得した上で今の状況を受け入れているんだから」
 そうかもしれないけど、複雑な心境だ。やっぱり、俺がその状況を作ってしまったわけだし。
「いっそのこと、洋一くんの愛人だって言ってしまおうかしら?」
「……大丈夫なんですか、そんなこと言って?」
「さあ、どうかしら。いきなり洋一くんのところへ乗り込んでくることはないとは思うけど」
 それはそれで恐いな。
「ただね、うちの親も私になにかあることくらいは、気付いてるのよ」
「それは、そうでしょうね」
「なにを言っても無駄なのもわかってるから、以前ほどは言わなくはなったけど」
「由美子さんとしては、どうなんですか?」
「なにも言われないのはさすがにどうかとも思うけど、やっぱりしつこいのは勘弁してほしいわね」
 難しい心境だな。
「今、そういうことを一番言われてるのは、彼女じゃないの?」
 そう言って愛果と紗菜の相手をしている昭乃を見た。
「さっきも、そのことを少しだけ愚痴ってたわよ。もっとも、彼女にしてみれば向こうからの言葉なんてほとんど耳には届いてないのかもしれないけど」
「それは、喜んでいいんでしょうかね?」
「さあ、どうかしら?」
 由美子さんはにっこり笑った。
「ねえ、洋一くん」
「なんですか?」
「昭乃さんのこと、このままでいいと思ってる?」
「えっと、それはどういう意味ですか?」
「私は別としても、それぞれの親を納得させるというか、あきらめさせるにはそれ相応の現実を突きつけないといけないじゃない」
「そうですね」
「沙耶加さんの場合はちょっと特殊だったけど、香織さんや真琴さんは子供ができたことでそうなったわけだし。とすると、昭乃さんもなにかないと、最終的に納得させられないと思うのよ」
 それは俺も考えていた。
 今のままだと、ただ時間だけが過ぎてしまう。それに、家族の間に余計な亀裂を生じさせてしまう可能性すらある。
 そうならないためになにができるか。それを考えなくてはいけない。
「昭乃」
「あ、はい」
 昭乃は、すぐにこっちへ来た。
「なんですか?」
「昭乃は、これから先の俺との関係はどうあるべきだと思ってる?」
「洋一さんとの関係ですか? そうですね……とりあえず絶対に変わらないのが、ずっと側にいるということですね。これがなくなってしまったら、それこそ生きている意味がありませんから」
「なるほど」
「あとは、できるだけ愛さんや沙耶加さんに近づけるように努力します。そうすれば、もっともっと洋一さんに愛してもらえると思いますから」
 屈託のない笑みを浮かべ、昭乃はそう言う。
 それだけ純粋に俺のことを想っていてくれるのは、本当に嬉しい。
 だけど、その想いが純粋であればあるほど、心苦しくもある。
 どんなにがんばっても、昭乃が俺の『恋人』なり『妻』なりになることはないのだから。あくまでも『愛人』でしかないのだ。
「あとは、できればですけど、私も洋一さんとの子供がほしいです」
 やっぱりその問題が出てくるか。
「もちろん、おいそれと決められないことだとは思います。今現在の状況を見れば、それはすぐにわかります。それでもなお、私はそうなればいいと思ってます。ちょっと、自分勝手ですけどね」
「自分勝手だとは思わないけど、難しい問題ではあるな」
「でもそれは、洋一くんの気持ち次第でもあるのよね」
「そうですね」
「……洋一さんは、そのこと自体はどう思ってるんですか?」
「ん、そうだな。積極的に認めるのはいろいろ問題があるけど、そうなってもいいとは思ってる」
「よかった……」
 昭乃は、ホッと息をついた。
「でも、どうしてそんなことを訊くんですか?」
「それは、私が昭乃さんのことを言ったからなのよ」
「そうなんですか?」
「洋一くんとしては、昭乃さんのことをどうするのかなって思って」
「なるほど。だからですか」
「まあ、答えは簡単に予想できたけど」
 その通りだ。というか、そういう関係になった時点で答えなど決まっていたはずだ。じゃなかったら、そこまでのことはしない。
「パパ。打ち上げ花火やろうよ」
 と、愛果と紗菜が、打ち上げ花火を持って話に割り込んできた。
「やるのはいいけど、ほかの花火はどうなったんだ?」
「ほとんどなくなっちゃった」
 ということは、残りは線香花火だけか。
 そうすると、打ち上げ花火をやらないわけにはいかない。
「わかった。じゃあ、それを危なくないところに置いてきてくれ」
「うん」
 ふたりは早速花火を置きに行った。
「いずれにしても、昭乃」
「はい」
「そのことについては、向こうに戻ったら改めて話そう」
「わかりました」
 昭乃は、大きく頷いた。
 
 打ち上げ花火がなくなると、あとは線香花火だけである。
 これがないと花火をしたという気にならないから不思議だ。
「綺麗だね」
「ああ」
 みんな揃って線香花火をしている姿も滑稽だ。
「お兄ちゃんもいろいろ大変だね」
「ん?」
「旅行に来てからも、いろいろ気を遣ってるから」
「そういう意味か。まあ、それはしょうがないだろ。それに、こういう時だからこそ話す時間もあるわけだし」
「そういうところ、お兄ちゃんらしい」
 そう言って美樹はクスクス笑う。
「でも、お兄ちゃん。みんなとの時間は大事にしてるのに、どうして私との時間は作ってくれないの?」
「どうしてと言われても、別におまえは必要ないだろ?」
 なにを言うかと思えば、そんなことか。
「必要ないって、その言い方はひどいよ。私だって、お兄ちゃんといろいろ話したいことあるのに」
「あのなぁ、おまえも自分の年を考えて行動しろよな。おまえくらいの年で、兄貴に駄々こねる妹がどこにいるっていうんだ」
「ここにいるよ」
「いや、だからな……」
 普段は年相応の振る舞いを見せているし、思考もそういう感じだ。
 だけど、俺に対する時だけ、それこそ中学か高校くらいにまで戻ってしまう。
 結局、根本的なところは変わってないからなんだろうな。
「この旅行はもう終わりだからしょうがないけど、向こうに戻ったらちゃんと私のために時間を作ってよ?」
「面倒だな」
「だからぁ、どうしてお兄ちゃんは私にそんなに冷たいの? 私はこんなにお兄ちゃんのことだけを好きで居続けてるのに」
 ちょっとふざけすぎたか?
 美樹は、少しだけ泣きそうな顔で俺を見つめている。
「なに話してるの?」
 そこへ、姉貴が割り込んできた。
「お兄ちゃんが私に冷たいの」
「冷たいって、そんなのいつものことじゃないの?」
「ううぅ、お姉ちゃんまでそんなこと言う……」
 助けてくれると思った姉貴にまでそう言われて、さすがにへこんだみたいだ。
「あはは、冗談よ、冗談」
「冗談にしてはひどすぎるよぉ……」
「ごめんごめん」
 姉貴は、美樹の頭を撫でる。
「で、洋一。妹いぢめちゃダメでしょうが?」
「別にいぢめてなんていないって。言いがかりだ」
「たとえそうだとしても、あんたがなにか言ったんでしょ?」
「それはまあ……」
「だったら、もう少し妹孝行してあげなさい。ここ最近、あまり構ってあげてないんでしょ?」
「うん、全然構ってくれてない」
 思い切り頷くな。
「よしよし。いぢわるなお兄ちゃんにいぢめられて可哀想ね」
「……あのさ、姉貴。そういうわざとらしいこと、やめない?」
「イヤよ」
 即答かよ。
「だって、あんたいじると楽しいじゃない」
「……いや、それを俺に言われても全然わからんのだが」
「いいから、あんたはおとなしく私にいじられて、美樹の相手をしてあげればいいの」
「……姉貴のは余計な気がするんだが」
「あんたも細かいわね」
「姉貴が適当すぎるんだよ」
 なんか、こういう会話を交わしてると、いくつになっても変わらないんだと思う。
 俺たち三人とも、いい年なんだけどな。
「まったく、俺に恨みでもあるのかよ」
「あるわよ」
「……あるのかよ……」
「当然じゃない。あんたには、うちの娘を獲られた恨みがあるの」
「獲られたって、別にそんなことしてないだろ?」
「獲られたも同然よ。この旅行中にも話したでしょ? あの子の考えを変えさせるのは、もう無理よ」
 そう言って姉貴はため息をついた。
「そりゃ、別に結婚しなくちゃいけないとは思わないけど、でも、その理由があんただっていうのは、どう考えても納得できかねるわよ」
「……俺のせいじゃないと思うんだけど」
「たとえそうだとしても、あの子の母親としては、言わずにいられないのよ」
 美沙のことは俺も問題だとは思ってるけど、本人にその意志がない限りは、どうにもならない。現状では、本当にどうすることもできない。
「ま、その問題はまた改めて議論するとして──」
「議論するのかよ」
「とりあえず、もう少しカワイイ妹のために骨を折ってあげなさい。いいわね?」
「わかったよ」
 結局、冗談だと言えずに終わってしまったな。
 まあでも、結果は同じだったから、実害はなかったわけだし、よしとするか。
 
 花火を終えると、俺は愛と沙耶加に拉致られ、温泉に浸かっていた。
「やっとあなたといられるわ」
「ええ。今日も洋一さんは大人気でしたから」
 風呂に入ってるわけだから当然なのだが、ふたりとも裸だ。で、そのまま俺に寄り添ってくるから、イヤでも意識してしまう。
 温泉の成分も影響してるのか、いつも以上に滑らかで気持ちいい。
「いろいろあったけど、今年の旅行も楽しかったわね」
「そのためにあれこれ考えたんだから、当然の結果だな」
「あなただけが考えたわけじゃないでしょ?」
 愛は、そう言って微笑んだ。
「そういえば、洋一さん。花火の時は、みなさんとなにを話していたんですか?」
「あ、それは私も気になる」
「なにって、別にこれといったものはないぞ。この旅行のことや、休みが終わったとのことなんかだ」
「それだけ?」
「それ以上、なにがあるっていうんだ?」
 ほかにもあったのだが、それはさすがに言えない。言えば、墓穴を掘るだけだ。
「そうかもしれないけど、話してる姿を見ていたら、とてもそれだけのようには見えなかったから」
 鋭いな。
「あとで真琴に訊いてみてもいいですか?」
「いいけど、なにもないぞ」
 真琴が本当のことを言うとは思えない。もし言えば、真琴の望む状況にはならないかもしれないから。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「洋ちゃんは結局、どうしたいの?」
「なにがだ?」
「娘たちのこと」
 娘たち、ときたか。いつもなら愛奈のことなのだが。
「前から言ってるけど、別にこれといったことはないぞ」
「ううん。そういうことじゃなくて、愛奈たちを娘として見ていくか、年下の女の子として見ていくか、ということ」
「それも決まってる。愛奈たちは、娘だからな」
「洋一さんはそう考えているのかもしれませんけど、娘たちはそうは思っていないと思います」
「ええ、私もそう思うわ」
「紗弥にしても紗菜にしても、洋一さんのことが本当に好きですから」
「うちだってそう。特に愛奈はこの世の中に、あなたとふたりきりでも構わないくらいに思ってるし」
 やはり愛奈は特別だから。
「でも、洋ちゃん。これだけは忘れないで」
「なんだ?」
「洋ちゃんの妻は、私だということ」
「なにを今更」
「今更だからなの。こうやって確認しておかないと、いつかきっと、そんなこと忘れてしまいそうだから」
 それだけは絶対にあり得ないのだが、ここで反論してもしょうがない。
 それに、今の状況では俺がいくら言っても信用してくれないだろうし。
「もっとも、洋ちゃんにとっては以前ほど明確な差はないんだろうけど」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、私や沙耶加さんだけでなく、香織さんや真琴ちゃんとの間にも子供がいるし」
「まあ、それ自体は否定しないがな。ただ、おまえの位置だけは変わらない」
「それが変わったら、洋ちゃんを殺して私も死ぬわ」
 ……愛なら、それくらい本当にするだろうな。
「ま、それはそれでわかったから。ただな、ふたりとも。愛奈たちのことはそこまで心配しなくても大丈夫だから。俺がどれだけ愛奈たちのことを特別扱いしても、それは結局、父親の娘に対するものでしかないから。それ以上になることは、あり得ない」
「絶対に?」
「ああ」
 愛は、ふっと微笑み、さらに体を預けてきた。
「自分でも不思議なんだけど、洋ちゃんの言葉だけは信じられるんだよね。心のどこかではそんなのわからないって思ってるのに」
「それは私も同じです」
 沙耶加は、俺の手を握り、続ける。
「たぶん、この世の中で本当に信じられるのは、洋一さんの言葉だけだからなのかもしれません」
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、あまり鵜呑みにするなよ」
「そのあたりの取捨選択は、ちゃんとやってるから大丈夫」
「ええ、問題ありません」
「それならいいが」
 愛奈たちには悪いが、どうやってもこの居心地のよさは、愛と沙耶加にしか作れないんだ。だからこそ俺は、愛と結婚し、沙耶加を愛人にしてまで自分の手元に置いているんだ。
 表現方法が正しいかどうかはわからないけど、俺とこのふたりは、パズルのピースだから。ひとつひとつでは全然意味を成さないけど、それがぴったりはまることによって、様々な意味を成してくる。
「ふう……こんな話、のんびりしたい時にする話じゃないわね」
「ええ、そうですね。ある意味、精神衛生上よくない話ですから」
「なら、しなければいいだろうが」
「それをさせてるのは──」
「洋一さんですよ?」
「……すまん」
『ふふっ』
 ふたりの笑いが重なった。
「たまにはさ、私たち三人だけでどこかへ出かけない?」
「あ、それはいい考えですね。賛成です」
「どこかって、どこだ?」
「それは、みんなのことをあまり考えなくてもいい場所、かしらね」
 えらく抽象的だな。というか、現代日本でそういう場所などそうそうないだろうに。
「あえて言えば、私たちがあの頃に戻れるような場所、ですか」
「あの頃?」
「ええ。あの、高校二年生の終わりからの一年間の頃です」
「ああ、そういう意味か」
「確かに、あの頃はなにをするのでも三人一緒だったわね」
「あの一年間は、今までの人生の中でも特に濃密な一年間だったと思いますから」
「学校にいる時も、外にいる時も──」
「平日も休日も──」
「いつも三人一緒で──」
「とても充実した日々でしたから」
 愛と沙耶加は、あの頃を思い出しているのか、目を閉じている。
 俺だって目を閉じればあの頃のことを昨日のことのように思い出せる。
「あれからずいぶんと時間は経ったけど、気持ちだけはあの頃と変わらないはずだから」
「ええ、そうですね」
「だからね、洋ちゃん。三人だけでどこかへ行こうよ?」
「私からもお願いします」
 少しだけ真剣な表情でふたりはそう言う。
 で、俺はといえば、そういう風にお願いされると未だに断る術を知らない。
 もっとも、今回は俺も大賛成だからいいんだけど。
「なら、計画はふたりで立ててくれ。あまり無茶さえ言わなければ、どこへでも行くからさ」
「本当?」
「ああ。ほかならぬ愛と沙耶加の頼みだし」
「あはっ、ありがと、洋ちゃん」
「ありがとうございます、洋一さん」
 ふたりは、嬉しさを言葉と表情と態度で表す。
「あ、洋ちゃん……」
 必要以上に密着されてたせいで、反応してしまった。
「沙耶加さん」
「愛さん」
 ふたりは顔を見合わせ、大きく頷いた。
「今日は、久しぶりに私たちを──」
「たくさん可愛がってくださいね」
 まあ、これはこれでありなのかもしれないな。
 ふたりの笑顔が見られるのだから。
 もっとも、その前に俺の体力が尽きなければの話だが。
 
 次の日。
 今年の旅行も終わりを迎えた。
 帰りの車の中は、屍が累々と横たわる、ある意味凄惨な様相を呈していた。
 ま、それだけ心から楽しめたということだろうけど。
「……んん……パパぁ……」
 助手席で眠る愛奈が、寝言を言う。
「……大好き……だよぉ……」
 いったい、なんの夢を見てるのやら。
 いずれにしても、毎年の旅行で俺たち『家族』の絆は、確実に強いものになっている。
 世間的にみればいびつな『家族』だけどな。
 それでも、それぞれが笑顔で居続けられるのなら、俺はそれをいつまでも守っていく。
 それがみんなを幸せにし、ひいては俺も幸せになれる、唯一無二の方法だから。
「いろいろがんばらないとな」
 毎年のことだけど、俺はそれを心に誓う。
 本当に大切なものを、失わないために。
 
 七
 夏休み最終日。
 この夏休み中ずっとこっちにいた紫織と彩音は、今日で家に帰る。もっとも、彩音の幼稚園は夏休みはとっくに終わっているのだが、少なくとも八月中はうちから幼稚園へと通っていた。それも幼稚園が近いからできることなのだが。
 で、毎年のことだが、この日はとにかく疲れる。
 一ヶ月ちょっととはいえ、ずっとここにいたものだから、すっかりなじんでしまったからだ。紫織も彩音もまだまだ甘えたい盛りだから、帰りたがらない。
 そんなふたりをなんとかなだめるだけで、一日が終わってしまうくらいだ。
 もっとも、高校二年生になっても駄々こねてる奴もいるけど。
 暦が変わると、いつもの生活が戻ってくる。
 夏休み中が特別な期間だったから、そういう生活を懐かしく思ってしまう。
 だけど、九月から年末までは本当にあっという間に時間は過ぎていく。
 学校行事も多いし、あれこれやることが多いからだ。
 そして、気がつけば今年も終わりという頃になる。
 
 騒がしかったクリスマスを終え、年の瀬の忙しさをあちこちで感じる頃。
 俺のまわりで大きな変化があった。
 それは、今年の夏に言っていた香織たちのことだった。
 香織はあの旅行のあと、本格的に事務所の移転話を進め、十月中に話をまとめてしまった。
 新しい事務所は、こっちの駅前に構えることになった。前のほどではないが、そこもそれなりに気に入った場所らしい。
 で、家の方は、本当にうちのすぐ側に決めてしまった。
 歩いて二分。走れば一分かからない場所だ。
 それにあわせて紫織の転校手続きも取られ、年明けからは俺たちも通った小学校で生活することになった。
 紫織としては仲良くなった友達との別れは淋しかったみたいだが、俺たちの側で暮らせる方により魅力を感じたようで、いっさい反対はしなかった。
 引っ越しが終わり、部屋の片付けが済んだのが十二月二十八日。なんとか今年中に終えたという感じだった。
 
 大晦日。
 毎年のことだが、大晦日から正月二日まではとにかく賑やかになる。
 まず、うちに大勢集まるのがひとつ。
 それと、元旦と二日は孫たちの顔を見に、それぞれの祖父母がやって来る。
 年末年始の休みではあるけど、ある意味では普段以上に疲れるし、気を遣う。
 もちろん、それも今にはじまったことじゃないから、あきらめてるけど。
「パぁパ、パぁパ、あやもするぅ」
 大晦日の午前中から午後にかけて、大掃除を行う。
 細かいところは、普段から愛たちがやってくれてるから、主に普段はあまりできないところをやる。
 うちは男手が圧倒的に不足しているから、こういう時は和人さんや和輝の力を借りる。
 で、今俺は、網戸の掃除をしていた。
 そんな俺のあとにくっついているのは、彩音だ。
 彩音は唯一の戦力外だから、基本的にあまりなにも言わない者のあとについている。
「大丈夫か?」
「うん」
 だけど、まわりがみんな忙しそうにやっていれば、自分だけ仲間外れにされたと思って、なんでもさせてくれと言い出す。
 さすがになんでもはさせられないけど、楽そうなものならやらせてやった方がいい。
「じゃあ、このホースを持って」
「うん」
 言われるままに、彩音はホースを持った。
「パパが水を出すから、彩音は網戸を綺麗にしてくれな?」
「うん、わかった」
 蛇口を捻り、水を出す。あまり勢いをつけると彩音が制御できないから、抑え気味だ。
「わぁ……」
「水は上から流すんだ」
 彩音の身長だと一番上は届かない。だからとりあえず真ん中くらいからやらせる。
「そう……そんな感じで綺麗に」
 水しぶきがかかりながらも、彩音は楽しんで網戸を洗っている。もっとも、本人にとっては遊びの延長線でしかないのかもしれないが。
 ある程度綺麗になったところで、彩音の仕事は終わった。
「よし、綺麗になったな。偉いぞ、彩音」
「えへへ」
 よくできたご褒美に頭を撫でてやる。
 網戸を洗い終えると、今のところの仕事がなくなった。
 最後に動かしたものをまた元に戻す作業があるのだが、それも最後だ。
「さて、次はなにをするかなんだが──」
「洋一さん」
 と、庭に沙耶加の声がした。
「どうした?」
「あの、今動けますか?」
「ああ。ちょうど網戸の掃除が終わったところだからな」
「あ、じゃあ、ひとつ、お願いがあります」
「なんだ?」
「私の家に行って、荷物をもらってきていただけませんか?」
「荷物? なんのだ?」
「父がお歳暮でもらった様々なもの、なんですけど」
 なるほど。中身がなにかはわからんが、うちにとってはそういうのはなんでもありがたい。くれるというのだから、断ることはない。
「結構な量になりそうか?」
「たぶん」
「なら、車か」
「お願いします」
「彩音、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くか?」
「うん、いく」
「じゃあ、ママに言って上着を着てこないとな」
「うん」
 彩音は、そのまま家の中へ。
「紫織も連れて行った方がいいか? あまり戦力にはなってないだろ?」
「そんなことはありませんけど。ただまあ、そうしていただけるのなら、多少楽にはなります」
「了解」
 で、俺は紫織と彩音を車に乗せ、一路山本家へと向かった。
 歩いても十分に行ける場所にあるから、車で行くとあっという間だ。
 家の前に邪魔にならないように車を止める。
「さ、着いたぞ」
 ふたりと一緒に車を降り、早速インターフォンを鳴らす。
『はい』
「あ、洋一です」
『あら、洋一さん。ちょっと待ってて』
 インターフォンが切れ、少しして玄関が開いた。
 出てきたのは沙耶加たちの母親、千登勢さん。まあ、俺のお義母さんでもあるんだが。
「おばあちゃん」
「あらあら、あやちゃんも一緒だったのね」
 彩音の姿を見つけると、千登勢さんは目尻を下げた。
「まあ、今日はしぃちゃんも一緒なのね」
「うん」
 紫織にとっては直接の祖母ではないが、本当の祖母のように慕っているし、千登勢さんも紫織のことを可愛がってくれている。
「あの、沙耶加から聞いてやって来たんですけど」
「荷物は中にあるから、とりあえず入って」
 中に入ると、とても静かだった。
「今日は、お義父さんはいらっしゃらないんですか?」
「今はちょっと買い物に出ているの。すぐに戻ってくるとは思うんだけど」
 リビングに通される。
「あやちゃん、しぃちゃん。ジュースでも飲む?」
『うん』
「すみません、わざわざ」
「いいのよ。カワイイ孫の喜ぶ顔が見たいだけなんだから」
 千登勢さんは、嬉々とした表情で台所へ。
「ふたりとも、おばあちゃんにちゃんとありがとうを言わなくちゃダメだからな」
「うん」
「わかった」
 それからジュースを与えられおとなしくなったふたりをリビングに残し、俺は千登勢さんと一緒に客間へ移動した。
 そこには、清司さんがもらったお歳暮が積まれていた。
 確かに、結構な量だ。
「どれでも好きなものを持って行っていいわ。どうせ私たちだけでは処分できないから」
 中身を確かめながら、もらうものを選別する。
 お歳暮の中身などたかが知れてるけど、それでもありがたいものもある。
「じゃあ、このあたりをいただいていきます」
「そう? もっと持って行ってもいいのよ?」
「いえ、とりあえずはこのくらいで」
 放っておくと、全部持って行くことになりそうだから、ちゃんと主張しないと。
「ところで、洋一さん」
「なんですか?」
「真琴はちゃんと役に立ってるかしら?」
「ええ、大丈夫ですよ。うちでなにかする時は、特に沙耶加の目がありますから」
「そういえばそうね。あの子がいれば、真琴も大丈夫ね」
 そう言って千登勢さんは笑う。
 こういう仕草を見ていると、沙耶加は千登勢さんに似ているのだと再認識する。
 リビングに戻ると、ジュースはすでになくなっていた。
「ふたりとも、そろそろ行くぞ」
 とりあえず荷物を車に運び、その上で改めて挨拶をする。
「それじゃあ、お義母さん。明日はお待ちしてますので」
「ええ。私もみんなに会うのが楽しみだわ」
「それと、お義父さんによろしく言っておいてください」
「ええ」
 ふたりを促して車に戻る。
「そうだ。ふたりとも。ちょっとドライブでもしに行くか?」
「どらいぶ?」
「この車でどこかへ行くことだよ」
「うん、いきたい」
「紫織もいいか?」
「うん、いいよ」
「よし、じゃあ、ちょっとドライブに行くか」
 
 しばし車を走らせ、郊外にある大型スーパーまでやって来た。
 大晦日ということで、駐車場は満車に近い状況だった。
 なんとか車を止め、ふたりと一緒に店の中へ。
「今日は、ふたりともママたちの手伝いでがんばってくれたから、なにか好きなものを買ってあげよう」
「わぁい」
「いいの、おとーさん?」
「紫織も、たくさん手伝ってくれただろ?」
「うん」
「だからいいんだよ」
「うん」
 混雑している店内を歩き、適当に物色する。
 基本的に正月向けのものがほとんどで、それ以外を探す方が大変そうだった。
 と、ある場所まで来た時に、ふたりの足がほぼ同時に止まった。
「ん、ふたりともあれがいいのか?」
『うん』
 やっぱり、ふたりとも女の子だ。
 ふたりの目に留まったのは、ケーキ屋だった。
 様々なケーキが並べられ、特に背の低いふたりの目線から見れば、余計に目に留まりやすかった。
「じゃあ、ふたりとも好きなのを選んでいいぞ」
 同時に、ふたりはガラスケースに張り付き、目をキラキラさせて選びはじめた。
「さてと……」
 とはいえ、このふたりだけに買っていくわけにはいかない。親連中はいいとしても、ワガママ娘たちが黙ってる可能性など、明日地球が滅亡する確率よりも低い。
 それなりの出費にはなるが、ケーキひとつでご機嫌をとれるのなら、安いものだ。
「すみません」
「お決まりですか?」
 女性店員が営業スマイルを浮かべ、訊いてくる。
「イチゴのタルトを三つ、桃のタルトを三つ、モンブランを三つ、ミルフィーユを三つ、チーズケーキを三つ。あとは──」
 ガラスケースに張り付いているふたりの分だ。
「紫織はなにがいい?」
「んとね……あれがいい」
 そう言って指さしたのは、定番のイチゴのショートケーキだった。ただ、ほかの店と違ってイチゴの数が多い。
「イチゴのショートケーキをひとつ」
 店員は、言われた数を箱に詰めていく。
「彩音は、決まったかい?」
「ううぅ……」
 どうやら、どれもこれも食べたいらしい。
「とりあえず、今日はなにが食べたい? ほかのは、また今度にして」
「ん〜、あやね、あれがいいの」
 それは、フルーツがたくさん載っているタルトだった。フルーツが多い分、若干値が張る。
 でも、今日は特別だ。
「それと、フルーツのタルトをひとつ。以上です」
「はい、ありがとうございます」
 全部で十七個のケーキを買うことになった。これならホールで買った方が安いのだが、まあ、しょうがない。
 会計を済ませ、ケーキを受け取る。
「じゃあ、ふたりとも、そろそろ帰ろうか」
 いつもなら駄々をこねる彩音も、ケーキが気になってか、特になにも言わなかった。
 買い物したおかげで、駐車場代は無料になった。
「紫織」
「うん?」
「紫織は、こっちに来てよかったと思ってるかい?」
「んと、うん。よかったよ。だって、こっちにはおとーさんがいるもん」
 そう言って紫織はにっこり笑った。
「おとーさんは?」
「ん、おとーさんも嬉しいよ。いつでも紫織の顔が見られるし」
「んふ」
 紫織は、引っ越し当日こそマンションにいたのだが、次の日からうちに泊まっている。まあ、本来なら冬休みに入った当日にやって来る予定だったのだから、今の状況が予定通りなのだ。
 長期の休みの間はいつでも顔を見られるからあまりわからないが、休みが終わればそれも実感できるはずだ。
「パぁパ……あや、ねむいの……」
 と、妙におとなしかった彩音が船をこぎ出した。
 一日中はしゃいでいたから、疲れたのかもしれないな。
「寝てもいいよ。着いたらパパが起こすから」
「ん……」
 最後の言葉は聞こえていたかどうか。
「紫織は大丈夫かい?」
「ん、だいじょうぶ」
「そうか」
 なんとなく紫織も眠そうだが、彩音の方が先に眠ってしまったために、その機会を逃してしまったのかもしれない。
「紫織は、ちゃんと彩音のお姉ちゃんになれてるな」
「おねえちゃん?」
「彩音は、紫織の妹だからな。紫織は、お姉ちゃんだ」
「あやちゃんの、おねえちゃん……」
 うちは上が多いから、紫織もあまりそのことを自覚していなかったのかもしれない。
「おとーさん。紫織は、あやちゃんのおねえちゃんなの?」
「ああ、そうだよ」
「おねえちゃんたちは?」
「お姉ちゃんたちは、紫織と彩音のお姉ちゃんたちだよ。紫織よりも先に生まれてるからね」
「んと……えと……」
 紫織は、俺の言葉を一生懸命理解しようとしている。
 だけど、そんなことは理解していなくても構わない。実際、紫織はちゃんと彩音の姉をやれているのだから。
「よくわかんない……」
「ははは、わからないか。そうだな、もう少し大きくなったらわかるようになるよ」
「うん」
 きっと聡明な紫織のことだ。すぐにそういうことも理解するだろう。
 本当に将来が楽しみだ。
 
 大晦日の夜は長い。
 いつもより遅めの時間に夕食を食べ、あとはのんびり過ごす。
 昼寝をしたおかげか、いつもならとっくに寝ている紫織と彩音も起きていた。
「それにしても、どうして一年てこうも早いのかしら」
 紅茶のカップを傾けながら、姉貴はそんなことを言い出した。
「それだけ充実してたってことじゃないんですか?」
 それに対して、愛がそう答えた。
「そうとも言えるけど、時間の流れが速いのは、正直微妙ね」
「それだけ早く年を取るからだろ?」
「あんたはひと言余計なのよ」
 姉貴は、拳を振り上げ、抗議する。隣にいなくてよかった。
「だけど、あんただってそう思うでしょ? 年が明けて春になれば、いろいろ変わることもあるし」
「まあ、それはな」
 春になれば、愛果と紗菜が小学校を卒業し、中学校に入学する。それに、彩音も幼稚園を卒園し、小学校に入学する。
 それだけいろいろあれば、確かに時間の流れが速いと感じる。
 特に、愛果と紗菜は、もう中学生になるのだから。
「だけどさ、姉貴」
「ん?」
「姉貴のとこだって、美沙が受験生なわけだし、いろいろあると思うけど」
「まあね。ただ、美沙は放っておいても大丈夫だから、あまり心配してないわ」
「それはそれでひどいな」
「そうでもないわよ。だって、美沙にしてみたら私に心配されるよりも、あんたに心配してもらいたいに決まってるもの」
 そうかもしれないが、自分の娘のことなんだから、もう少し考えてやればいいのに。
「それに、あんたは美沙たちの先生でもあるわけだから、余計に面倒見なくちゃいけないでしょ?」
「身内を優遇するつもりはないけど」
「とかなんとか言って、実際は美沙やなっちゃんを優遇するんでしょ?」
 これ以上反論したところで、姉貴が納得することはないだろう。
 というか、この話題になった時点で俺の勝ちは消えたわけだ。
「まあまあ、美香姉さんもそのくらいにして。それに、そういうことは改めて言わなくても、洋一なら予想通りのことをやってくれますよ」
「そうね」
 香織も勝手なことを言いやがる。
「まったく……」
「あら、どこ行くの?」
「今年最後のメールチェックだよ」
 そう言って俺はリビングを出た。
 少し肌寒い廊下を抜け、仕事場に入る。
 スタンバイ状態だったパソコンを立ち上げる。
「ふう……」
 椅子に座ると、自然とため息が漏れた。
「パパ」
 と、開け放っていたドアの陰から、愛奈が顔を覗かせていた。
「どうした?」
「ん、パパがいなくなっちゃったから」
「いなくなったって、すぐに戻るよ」
「今日はあまりパパに構ってもらってないから、少しだけふたりきりがいい」
 愛奈はにっこり笑い、近寄ってくる。
「なら、少しだけ待ってくれ。今、メールチェックするから」
「うん」
 メーラーを立ち上げ、メールを確認する。
 今年最後ということで、知り合いからのメールがちらほら来ていた。まあ、元旦にはまた年賀メールが来るんだろうけど。
 どうでもいいメールを削除し、ひと通りのチェックを終える。
「よし、終わり」
 その声にぴくんと反応し、愛奈は早速俺に抱きついてきた。
「こらこら、いきなり抱きつくな」
「だってぇ……」
「まったく、これで春から受験生だっていうんだから」
「大丈夫だよ。私がこんな風になるのは、パパの前でだけなんだから。普段は、ちゃんと年相応の行動をとってるから」
 それはウソではない。話を聞く限りでは、愛奈はかなり大人扱いされてる。
 俺としてはそういう姿を見たことがないから、いまいち信用しきれていないのだが。
「ね、パパ」
「ん?」
「今年は、どんな一年だった?」
「そうだな、騒がしくもあり、楽しくもあり、いろいろな意味で充実した一年だったな」
「それって、愛理と紗弥が高校生になったから?」
「それだけじゃない。本当にいろいろなことがあったからな」
 去年がなにもなかったわけじゃない。ただ、今年はそれ以上にいろいろあっただけだ。
「その中には、私のことも入ってるの?」
「入ってるさ。というか、愛奈絡みのことが結構多い」
「ふ〜ん、そっか。でも、それってそれだけ私がパパと一緒にいるってことの裏返しでもあるんだよね?」
「そうとも言えるな」
「なら、いいや」
 愛奈は、本当に嬉しそうだ。
「あ〜あ、三年生になったら、パパが担任になってくれないかなぁ」
「それはないだろ。俺は今年三年を受け持ってるんだから」
「でも、例外的にそういうこともあるんでしょ?」
「そりゃ、例外的にな。でも、そういうのは本当に滅多にない」
「パパが担任だったら、私も今以上にがんばれるのに」
「愛奈や美沙が俺のクラスだったら、俺は心の安まる時がないな」
「むぅ、そんなことないのにぃ」
「だから、いちいちむくれるな」
 そう言って俺は、愛奈の頬を指で押した。
「……ねえ、パパ」
「なんだ?」
「私ね、たまに思うの。パパの娘でよかったことの方が多いのに、でも、娘だからこそパパとは絶対に結ばれないんだって。私はこんなにパパのことが好きなのに、好きとしか言えずに、抱いてもらうこともできない。それって、娘だからだよ。娘じゃなかったら、それこそ沙耶加ママたちみたいに、愛人にでもなんでもなれたのに」
「…………」
「パパは、私が娘でよかったと思ってる?」
「思ってるさ。愛奈が娘じゃなかったら、こんなにわかりあえることはなかっただろうからな。親であり子であるからこそ、今みたいにいろいろ理解できてるんだ」
「……そっか」
 いろいろ考えてしまうのはわかるけど、俺にはそれに対する明確な答えはない。
 俺の答えは、あくまでも父親の娘に対するものでしかないからだ。愛奈は、それだけを望んでいるわけではない。
「ま、あんまり深く考えるな」
 そう言って俺は愛奈の頭を撫でた。
「ん……」
 愛奈は気持ちよさそうに目を閉じ、俺の胸に頬を寄せた。
 こんな姿、愛たちには見せられないけど、まあ、今はしょうがない。
 娘の心のケアも、父親の大事な役目だから。
 
 今年もあと数分。
 テレビ番組はどこもカウントダウン番組がはじまっている。
 俺たちもその番組のひとつを見ながら、新年を迎えようとしていた。
 ちなみに、下のふたりは十一時をまわった頃に寝てしまった。
 愛果と紗菜もつらそうだが、年越しだけはみんなと一緒がいいと、がんばっていた。
 カウントダウンがはじまると、ようやく今年も終わるんだなと実感する。
 そして──
『新年あけましておめでとうございます』
 テレビの中からそんな挨拶が聞こえてくる。
 俺たちもそれにあわせて挨拶をする。
「ようちゃん、ようちゃん」
「ん?」
「初詣行こうよ、初詣」
 と、美沙がそんなことを言い出した。
「初詣か」
「たまにはさ、こういう時間帯に行くのもいいと思うんだけど」
 うちは、以前からの慣習で年越しと同時には初詣には行っていない。面倒だというのもあるけど、今までは娘たちが小さかったというのもひとつの理由だった。
「行くのはいいけど、誰かは残らないといけないぞ。紫織と彩音が寝てるんだから」
「ん〜、それはママが──」
「あら、どうして真っ先に私が出てくるの?」
「だって、パパと和輝が行かないって言えば、ママも行かないでしょ?」
「それはそうかもしれないけど、だからっていきなり私を名指しするのはどうかと思うわ」
「で、姉貴は行くの?」
「私はいいわ。陽が昇って暖かくなってから行くから」
「じゃあ、美沙のほかは誰が行くんだ?」
「私も」
 当然のように愛奈が手を挙げた。
「私も行く」
「私も私も」
 それに続いて、愛理と紗弥も手を挙げた。
「愛たちはどうする?」
「そうねぇ……」
 愛は、そろそろ限界そうな愛果と紗菜を見た。
「この子たちが無理そうだから、私も残るわ」
「沙耶加は?」
「私も残ります」
「そうか」
 まあ、家族揃ってというのは、陽が昇ってからか。
「香織と真琴は?」
「私は彩音がいますから、残ります」
「そうね、あたしは行こうかしら」
 というわけで、結局大人は俺と香織、子供は愛奈と愛理、紗弥、美沙の計六人で行くことになった。
 寒い中の初詣なので、しっかり準備してから出かけた。
 この人数なので、とりあえず近場の神社に行くことにした。
「だけど、香織まで行くとは思わなかったな」
「どうして?」
「紫織が寝てたというのもあるし、面倒がるかと思ってた」
「あら、それは心外ね。確かに紫織のことは多少気にはなるけど、紫織だけが残ってるわけじゃないし。それに、面倒だからという理由は、それこそあり得ないわ」
「なんでだ?」
「だって、どういう理由だろうと、洋一と一緒に行けるんだから」
 そう言って香織はにっこり笑った。
「こっちにいるようになったから、今までよりは確実に一緒にはいられるけど、それでもこういう機会は絶対に逃しちゃいけないのよ」
「そんなもんかね……」
「そういうものなの」
 そういうことは言い出せばキリがないのかもしれない。
 実際は香織だけじゃなくて、沙耶加や真琴、由美子さん、昭乃だってそう思ってるはずだし。
「というわけで、洋一」
「ん?」
「腕、組んでもいい?」
 と言いながら、早速腕を組んでくる。
「おいおい……」
「たまにはいいでしょ?」
「途中までだからな」
 やれやれ。俺も本当に甘いな。
 
 初詣から帰ってくると、さすがに疲れてすぐに寝てしまった。
 で、起きたのはもう昼をまわってからだった。
 着替えてまず最初にやることは、全員揃っての新年の挨拶だ。
 昨日は寝ていた紫織と彩音も、朝から元気だった。
 ひと通りの挨拶を済ませると、子供たちにとっては待ちに待ったお年玉を渡す。
 うちは数も多いから、どうしてもひとりあたりの額は減る。まあでも、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
 それから立て続けにそれぞれの家から親たちがやって来る。
 いくら広めに造った家でも、全員が揃うと大変なことになる。
 ただまあ、それも年に何回もあることではないので、みんな我慢している。
 挨拶を終えると、全員揃っての初詣に行く。
 これがまた大変なのだ。
 祖父母たちはとにかく孫たちと一緒にいたいから、奪い合いになる。
 俺たちはといえば、それを後ろから見ているだけ。一度、それを仲介しようと思ったことがあった。だけど、それは上手くいかず、結局は成り行きに任せるしかないことを学んだ。
 ぞろぞろと大人数で神社まで歩く。
 神社にはまだまだ結構な数の初詣客がいた。
 参拝のための列に並び、しばし待つ。
「ねえ、あなた」
「ん?」
「今年はどんな年になると思う?」
 隣にいる愛が、そんなことを訊ねてきた。
「そうだな、去年に負けず劣らず、いろいろあるんじゃないか。少なくとも春にはいろいろあるし」
「そうね。確かにいろいろありそう。だけど、私としてはその中に含まれてほしくないこともあるの」
「なんだ?」
「そんなの決まってるわ。私以外の誰かとの間に、子供ができることよ」
「…………」
 そうきたか。
 だけど、それはなんとなく悪い方向へ実現しそうだ。
 去年の夏から、香織と真琴に加えて、昭乃からも怒濤の攻撃を受けてるし。今のところはその兆候はなさそうだけど、いつそうなるか。
「もしそうなったら、私もまた言うからね」
「言うって、なにをだ?」
「四人目がほしいって」
「……ああ」
「なによ、その気のない返事は」
 いや、実際気は入ってないし。
「とにかく、現状だってかなり大変なんだから、あまり軽々しくそういう状況を作り出さないでよ」
「わかったよ」
 ウソでもそう言っておかないと、愛の機嫌が悪くなるからな。
 それから少しして、順番がまわってきた。
 とはいえ、俺は夜中に一度初詣に来ているから、特にお願いすることもなかった。
 さっさとお参りを済ませ、みんなを待つ。
「パパ。おみくじ引こうよ」
 と、さっさと戻ってきた愛果が、そんなことを言ってきた。
「引くのはいいけど、もう少し待ってな」
 とりあえず娘たちだけでも平等に扱わないと、誰もがへそを曲げる。
 特にへそを曲げられるとやっかいなのは、やっぱり愛奈だ。
 それから立て続けにみんな戻ってきた。
 娘たちにおみくじを引かせ、俺はお飾りを買う。
「パパ、パパ」
「ん、どうした?」
「大吉だよ、大吉」
 にこーっと嬉しそうなのは、紗菜だ。
「これで今年もいい年になるね」
 占いとかと一緒で、おみくじも気の持ちようだ。
「パパぁ」
 と、情けない声を上げるのは、愛奈だ。
「パパは、私を捨てないよね?」
「いきなりなんなんだ?」
「だって、ほら──」
 そう言っておみくじを見せる。
「全体運も悪いし、なによりも恋愛運が悪いんだもん」
 確かに、あまりいいことは書かれていない。
「だからって、いきなり捨てるとか捨てないとか、そういう問題になるか?」
「だってだってぇ……」
「まったく……」
 こういうところは、愛とそっくりだ。ただ、愛の場合は悪かった時はそこですべての悪いものが出たと、かえってやる気になってたけど。
「ほら、とりあえずそのあたりに結んでおけ。そうすれば少しは運気も上がるだろ」
 愛奈は言われるままに、境内の木におみくじを結んだ。
「パパはおみくじ引かなかったの?」
「今更おみくじで一喜一憂することもないからな。おまえたちのを見てるだけでいい」
「ふ〜ん、そっか……」
 冷めてると言われるかもしれないけど、実際そんなもんだ。
 それに、俺のまわりにはそういうことにすぐ一喜一憂する連中が揃ってるから。
「ようちゃん、ようちゃん」
 そこへ、美沙がやって来た。
「ほら、大吉だよ、大吉。しかも、恋愛運なんて最高。これで今年こそ、ようちゃんと私は相思相愛になれるよ」
 場の空気を読めない奴だ。
「……ううぅ、パパぁ……」
「へ? どうしたの?」
 やれやれ。
 
 家に帰ると、さらに大変になる。
 とにかく祖父母たちが孫を構いたがる。あれもこれもと言い続けていれば、さすがのうちの娘たちでも、なかなかつらそうだ。
 それでも比較的笑顔で対応しているところを見ると、案外大人なんだなと思える。
 陽が沈み、夕食を食べ終えると、ようやく祖父母たちが家路に就く。
 もっとも、みんな近くに住んでいるから、そんなにたいそうなことではない。
 祖父母たちと一緒に姉貴たちも帰る。美沙は相変わらず駄々をこねていたけど、さすがに元旦くらいは家に帰って家族で過ごすべきだ。
 で、ようやくのんびり過ごせるようになった頃には、下の娘たちは夢の中だ。
「毎年のことながら、正月早々どうしてこんなに疲れるんだろうな」
 お茶を飲みながら、愚痴をこぼす。
「しょうがないわよ。うちの親もそうだけど、みんな孫たちが可愛くてしょうがないんだから」
「それはわかるんだが、どうも度を超えてる気がするんだが」
「それはたぶん、本当の意味で全員揃うことがあまりないからだと思いますよ。うちでも両親ともに今日をとても楽しみにしていましたし」
「まあ、年に一度のことだから、もうあきらめてるけど」
 これから先、いったい何年間これが繰り返されるかわからないけど、少なくとも繰り返せるうちはそうし続けたいとも思ってる。
 それは、俺の贖罪でもある。
「でも、お兄ちゃん」
「ん?」
「うちは別としても、小父さんや小母さんなんかはお兄ちゃんとゆっくり話すのも楽しみにしてるみたいだけどね」
「そうか?」
「うん、そうだよ」
「あ、それはうちも同じですよ」
 美樹の言葉に、真琴も頷く。
「うちも、お父さんもお母さんも洋一さんとゆっくり話せる機会を楽しみにしてます。たまに言うんですよ? 今度はいつ洋一さんが来るんだって。私に訊いてもわからないのにです」
 確かに、俺はそれぞれの親からの覚えがいい。別に特別なことはなにもしてないのだが。
 山本のお義父さん、お義母さんにとっては、ある意味では俺は『仇』だと思うのだが、それでも娘の『婿』のような感じで接してくれる。
 笠原のお義父さん、お義母さんも同じだ。まあ、こっちは姉貴があれこれ口添えしてるせいもあるんだろうけど。
「俺としては、たまに静かな正月を過ごしてみたくもあるんだが」
「それは無理ね。少なくとも、あと二十年は無理」
 二十年か。二十年後だと、一番下の彩音ですら二十六になる。
 そんな先まで無理か。
「はあ……」
 湯飲みを置き、ソファの背もたれに寄りかかる。
「パパ、ため息なんてついちゃダメだよ」
「そうそう。ため息をひとつつくと、幸せがひとつ逃げていっちゃうんだから」
 ソファの後ろから、愛理と紗弥がそんなことを言う。
「なら、もう幸せなんて残ってないな。ため息ばかりついてるし」
「大丈夫。幸せなら私がいくらでも分けてあげるから」
「あ、ずるい。それは私の役目」
「私が先に言ったんだから、紗弥はあとあと」
「そんなの関係ないって」
「そうそう、関係ないわよ」
 と、間を割って愛奈が乱入してくる。
「パパを幸せにするのは、昔から私の役目って決まってるの。愛理も紗弥も、ダメ」
「お姉ちゃんじゃ、パパに苦労かけるだけだよ」
「なんですって?」
「だって、幸せにするっていうよりも、とにかくお姉ちゃんがパパにベタベタしたいだけだと思うし」
「…………」
 をい、そこで目をそらすな。
「だから、その役目は私なの」
「違うわよ。私」
「……誰でもいいけど、人の頭の上でぎゃあぎゃあ騒ぐのはやめろ」
 まったく、娘はカワイイからいいのだが、こういう時は娘はやっかいだ。
「ホント、たまには静かに過ごしたいものだ……」
 またため息が漏れた。
 
 八
 冬休みが終わると、受験生は本番を迎える。まずは大学受験。センター試験を皮切りに、私立大学の試験も順次はじまる。
 また、同時期に私立高校の受験もはじまる。
 この時期はとにかくデリケートな時期で、未だに緊張する。
 慌ただしく時間が過ぎていく中、二月に入るとそれをさらに実感する。一年で一番短い月だからということもあるけど、やるべきことが多いから時間を忘れてしまう、というのもある。
 そんな中で、うちにいると絶対に忘れないイベントがある。
 それは、二月の十四日にあるイベントだ。
 
 その日は朝から騒がしい。
 普段から台所にはあまり立ち入らないけど、前日と当日は絶対に立ち入り禁止となる。
 で、今年はというと──
『パパ』
 朝、リビングで新聞を読んでいると、早速愛果と紗菜がやって来た。
「どうした、ふたり揃って?」
「今日は、バレンタインだから」
「パパにチョコを渡そうと思って」
 丁寧にラッピングされたチョコを、ずいっと前に差し出す。
「そうか。ありがとう」
 ふたりの分を受け取る。
「今年は、手作りなのか?」
「ん〜、がんばったんだけど、結局ママたちに手伝ってもらっちゃったから」
「紗菜もか?」
「うん。あ、でもね、去年よりはちゃんとわたしたちで作ったんだよ」
 このふたりは去年、手作りチョコに挑戦してあえなく失敗していた。俺としては失敗してもいいと思ったのだが、ふたりにとってはかなり大きな問題だったらしい。
 その後、愛や沙耶加にいろいろ教わっていた。
 で、今年はなんとか形になったというわけだ。
「じゃあ、これは仕事から帰ってきたら食べさせてもらうな」
『うんっ』
 愛果と紗菜の次は、愛理と紗弥だ。
「パパ。今年はかなりの自信作だよ」
 そう言って渡してくるのは、愛理だ。
「ママにもね、褒められたの」
「へえ、愛に褒められたのか。それは楽しみだな」
「えへへっ」
 いくら娘でも、愛はこういう時は結構厳しい。その愛が褒めたということは、本当になかなかのできなのだろう。
「私のは、パパへの愛情がいっぱい詰まってるから、それでいいの」
 紗弥は、そう言って俺に渡す。
「愛情なら、私だっていっぱい詰まってるよ」
「愛理は、作ることにいっぱいいっぱいだった気がするけど」
「それは紗弥も同じでしょ?」
「こらこら、そんなことで言い争うな。ふたりが一生懸命がんばってくれたのはわかったから」
 娘たちの合間を縫って、愛と沙耶加も俺にチョコを渡してきた。
「今年は、初心に戻って、シンプルなのにしてみたの」
 ここ最近のサプライズチョコに比べれば、こっちの方が数倍ありがたい。
 というか、愛は変なところに凝るからな。
「私もいつもより少しだけがんばってみました」
 沙耶加は、こういう時は控えめだ。
 根本的な性格は変わってないからなのだろうけど、まあ、それが沙耶加らしさでもある。
 俺が学校へ向かう前に、香織と紫織の母娘がやって来た。
「はい、洋一。これはあたしからのチョコ」
「おとーさん」
 香織と紫織は、それぞれにチョコを渡してくる。
「紫織のね、紫織自ら型に流したのよ。だから、半分くらい手作りかしらね」
「そうか。偉いな、紫織は」
 頭を撫でてやると、嬉しそうに笑った。
 そうこうしていると、真琴と彩音の母娘もやって来た。
「パぁパ、パぁパ」
「ほら、彩音。パパにちゃんと渡さないと」
 彩音は、まだバレンタインというもののをちゃんとは理解していないはずだ。でも、なんとなく雰囲気とかで大事なことだと理解しているのかもしれない。
 真琴が用意したチョコを嬉々とした表情で俺に渡してくる。
「真琴のは、手作りか?」
「ええ。愛さんやお姉ちゃんほど上手くはできてないと思いますけど」
 真琴も決して不器用ではないのだが、愛や沙耶加に比べると料理の腕前は劣る。
 お菓子作りも同じで、チョコなんかでも差が出る。
「あとで味わって食べるよ」
「はい」
 いつもなら愛奈も朝のうちに俺に渡してくるのだが、今年はなかった。
 どうやら、なにか考えがあるらしい。
 まあ、俺としては心穏やかに済むならいつ渡されてもいいのだが。
 
 これは俺が現役の頃から変わっていなのだが、やはりバレンタインは独特の雰囲気がある。
 ただ、今は傍観者の位置にいるから、それを楽しめる。以前はそんなことなかったのだが。
「森川先生」
 朝の職員会議が終わり、控え室に戻ろうという時、声がかかった。
「藤沢先生」
 声をかけてきたのは、昭乃だった。
「少しだけ時間、よろしいですか?」
「ええ」
 職員室を出て、廊下をふたりで歩く。
「やっぱりバレンタインは独特の雰囲気がありますよね」
「そうだな。これは今も昔も全然変わらない」
「私もバレンタインの朝はドキドキでしたから」
 そう言う昭乃の表情は、とても穏やかだった。
「特に、二年生の時は大変でした。一年生の時も、先生のために、って作ってたんですけど、なんとなく渡しそびれてしまって。でも、二年生の時にはちゃんと受け取ってもらえたので」
「あの時は、今みたいな状況を想像できてなかったからな。もし想像できてたなら、多少はその対応も変わってたかもしれない」
「むぅ、それは少しひどい言い草じゃありませんか?」
「そうか? 至極真っ当な意見だと思うけど」
 本来、不倫自体問題なのに、それが教え子となのだから、余計だ。
「ま、今更そんなことを言っても意味はないんだけどな」
「そうですよ。それに、意味をなしにされても困ります」
 控え室の前までやって来て、ドアの前で昭乃が先に立ち止まった。
「洋一さん。少しだけ待っていてください」
 そう言って先に控え室に入った。
 すぐにバッグを持って出てきた。
「今年も、一生懸命作りました」
 昭乃は、バッグの中から綺麗にラッピングされたチョコを渡してきた。
「本当はいろいろ工夫したかったんですけど、失敗するのが恐くてやめました」
「賢明な判断だな」
「それはどういう意味ですか?」
 頬を膨らませ、抗議する。
「とりあえず、ありがとう。あとで味わって食べるから」
「あ、はい」
 学校では、昭乃だけでなく由美子さんからもチョコをもらえる。
 だけど、それだけでは済まない。
 未だに俺にチョコを渡してくる生徒がいるからだ。
「森川先生。チョコです」
「センセ、本命チョコだよ」
「先生、お返し期待してますからね」
 まあ、おもちゃ感覚なんだろうけど、それにいちいちつきあわなければいけないこっちは大変だ。
 とはいえ、それをむげに扱うこともできない。
 だから、放課後に保健室でのんびりできる時間がとても待ち遠しく感じられる。
 昼休み。
「ようちゃん先生」
 廊下を歩いていると、美沙に捕まった。どうやら俺を探していたようだ。
「今、時間大丈夫?」
「ダメだって言っても、どうせ無理につきあわせるんだろ?」
「えへへ、ご名答」
 そのまま廊下で話し続けるのは、いろいろな意味で問題があるので、場所を変えた。
 二月の屋上は、とても寒い。だけど、寒いからこそ誰もいない。
「ね、ようちゃん」
「ん?」
「今年は、何個もらったの?」
「さあ、何個だったかな。ちゃんとは数えてない」
「ということは、結構もらったってことだよね?」
「さあな」
「ホント、ようちゃんはモテるよね。モテる理由もわかるから、当然といえば当然なんだけど」
 別に教え子にモテたいとは思わないけど、まあ、嫌われるよりはましか。
「でも、私のチョコはみんなのより、ずっとずっとたくさんの愛情が込められてるんだから」
「そういうことにしとこうか」
「そういうことじゃなくて、それが事実なの」
 美沙は、頬を膨らませ、抗議する。
「んもう、ようちゃんは相変わらずいぢわるなんだから」
「わかってるならいちいち聞くな」
「そこはそれなの」
 で、美沙はずっと持っていたチョコを渡してきた。
「あと、誰からもらってないの?」
「あとは愛奈だな」
「愛奈? なんで?」
「いや、それを俺に訊かれても困るんだが。ただ、家ではもらわなかったし、学校でもまだもらってない」
「ん〜、なんか企んでるのかも」
「俺もそう思うけど、でも、チョコを渡すだけでなにか企めるものか?」
「それは考え方次第だと思うけど」
 そうかもしれないけど、俺にはわからんな。
「私もなにか特別なことをした方がよかったかな?」
「やらんでいい」
「じゃあ、今そういうことしようかな?」
 言うや否や、美沙は俺に抱きついてきた。
「おいおい、ここが学校だってこと忘れてないか?」
「いいの。それに、今は誰もいないし」
「まったく……」
 変に拒んで余計駄々をこねられても困る。
 ま、少しの間だけ、このままでいさせてやるか。
「……ね、ようちゃん」
「なんだ?」
「私ね、本当にようちゃんのこと、好きなんだよ。叔父と姪というのは全然関係ない。私は、ひとりの女の子として男性のようちゃんが好きなの」
「…………」
「この想いが届かないことはわかってる。でもね、ようちゃん。なにもしないであきらめちゃうのだけは、絶対にあり得ないの。やれることはなんでもやって、その上ではじめてどうするか決める。それが私の考え方」
 顔を上げずに、ただ淡々と話す。
「ダメなのはわかってるけど、ようちゃん」
「ん?」
「私のこと、抱いてほしい」
 その言葉は、いつもみたいな冗談交じりの言葉とは明らかに違った。
 とても真剣で、たくさんの想いが込められていた。
「これでもね、いろいろ考えたんだよ。私はようちゃんにどんな風に見てほしいのか、どんな風に扱ってほしいのか。本当にいろいろ。そして、結局私自身はどうしたいのか、どうなりたいのかを考えたら、あっけないほど簡単に答えは出たの」
「…………」
「それが、ようちゃんに抱いてもらうこと」
「極端だな」
「そうでもないよ。だって、それって好きな人としたいことのひとつでしかないんだから。そうでしょ?」
「まあ、確かに……」
 そう言われれば、そうかもしれない。
「だからね、ようちゃん。私は心の底からようちゃんに抱いてほしいの。抱かれても後悔は絶対にしない。パパやママがなにを言っても絶対に後悔しない」
「……ったく」
 俺は、美沙を軽く抱きしめた。
「そこまで思い詰めるな。今からそんなに思い詰めてると、そのうち爆発するぞ」
「だって、ようちゃんが私の想いに応えてくれないから……」
「あのな、美沙。俺は別におまえのことを女の子として見てないわけじゃないぞ。姪であるということは変わらないけど、それでもちゃんと女の子としても見ている。なんたって、あの姉貴の娘ということもあって、見た目抜群だからな」
「……ふふっ、褒められちゃった」
「ただな。俺はおまえが生まれた時からずっと知ってるんだ。だから、そういう目で見るのは難しい」
「……そっか」
 正直に言えば、もし美沙が俺の姪じゃなければ、そういうことを言われたらひょっとしたら断れなかったかもしれない。それほど美沙は魅力的だ。
「じゃあ、ようちゃん。抱いてもらうのはダメだとして、それ以外のことだったら、いいの?」
「それ以外のことってなんだ?」
「たとえば、キスとか」
 そう言って美沙は目を閉じる。
 どうやら、キスしてほしいみたいだ。
「そういう強引さは、まさに姉貴譲りだな」
 俺は、望み通り美沙にキスをした。
「ん……もう一度……」
 そう言いながら、今度は美沙からキスをしてきた。
「キスって、こんなに気持ちいいものだったんだね」
「そりゃよかった」
「んもう、茶化さないの」
「いや、茶化してなんかいないって」
 茶化してないけど、あまり真面目にも受け取りたくないだけだ。
「ね、ようちゃん。もし、でいいんだけど。もし、私のことをちゃんとひとりの女の子として好きになれたら、その時にこそ私を抱いてほしいの。やっぱり、簡単にはあきらめられないし、あきらめたくないから。それに、ようちゃんが抱いてくれないと、私は一生バージンのままだし」
「……それを俺に言われても困るんだが」
「ようちゃん以外に言える人なんていないよ。ようちゃんはね、私の初恋の相手で、しかも生涯唯一の男性なんだから」
 たとえ姪であっても、そこまで言われて嬉しくないはずがない。だけど、美沙のことはまだそういう風には見られない。
「さてと、そろそろ昼休みも終わりだね」
 俺の胸に手を当て、軽く押すように離れた。
「あ、そうだ。最後にもうひとつ」
「なんだ?」
「私ね、これからはもう遠慮しないから」
「遠慮?」
「うん。今まではママたちの前ではそこまでしてこなかったけど、でも、これからは遠慮しないから。いつもいつでも、ようちゃんに私の想いをぶつけていくから」
「お、おい……」
「じゃあね、ようちゃん」
 美沙は、長い髪をなびかせ、笑顔のまま校舎内へと消えていった。
「はあ……」
 思わずため息が漏れた。
 嬉しさ半分、悲しさ半分。そんなところか。
 本当に、やれやれだ。
 
 放課後。
 俺は細かな用事を済ませ、保健室へ。
 保健室の中は、適温に保たれ、とても快適だった。
 その部屋の主である由美子さんは、書類を前に唸っていた。
「忙しそうですね」
「年度末が近いからね。今のうちから書類を整理してるのよ」
 ペンを置き、軽く肩をまわす。
「洋一くんは、今日は終わりなの?」
「ええ、終わりです」
「じゃあ、私もこのくらいにしておこうかしら」
 そう言って書類をクリアファイルにしまう。
「いいんですか?」
「いいのよ。今日は、これよりも重要なことがあるんだから」
 たおやかに微笑み、ロッカーからバッグを取り出した。
「はい、洋一くん。バレンタインのチョコ」
「ありがとうございます」
「今年もビターにしてみたの。それと、少しだけお酒を入れてみたんだけど」
「ウィスキーボンボンみたいな感じですか?」
「ううん。チョコ自体に入れたから」
「なるほど」
「口にあうといいんだけど」
「大丈夫ですよ。由美子さんの作ったチョコが不味かったことは一度もないんですから」
「ふふっ、でも、言うでしょ? 弘法にも筆の誤りってね」
「それもまた、ご愛敬ということで」
 まかり間違っても不味いものを俺に渡すことはない。
 これは長年のつきあいで学んだことで、それは絶対だ。
「そういえば、今年もたくさん来たわよ」
「なにがですか?」
「洋一くんのファンの子たち」
 ニコニコと嬉しそうだ。
「毎年思うんだけど、洋一くんてモテるのよね」
「あの、それを俺に訊かれても困るんですけど」
「確かにカッコイイし、分け隔てなく接してくれるから、好意を持っちゃうんだろうけど。それでも、ここまでというのは結構不思議なのよ。だって、最近の洋一くんは年齢相応におじさん化してきてるし」
「…………」
「たぶんなんだけど、みんなは洋一くんに理想の『お父さん』を見てるのかもしれないわね」
「理想、ですか」
「ええ。洋一くんが自分のお父さんだったらと思って、でも実際はお父さんではないでしょ? そうやって少しずついろいろな想いが積み重なって、結果的に洋一くんへの好意に繋がっている。そういうわけよ」
 それはそれでなんとなく納得できる理由だけど、でも、認められる理由ではない。というか、そういうことが重なると、うちの連中がいちいち目くじら立てて困る。
「それで、由美子さんは毎年のごとく、適当にあしらってるだけなんですよね?」
「それは当然よ。なんでわざわざライバルを増やすような真似をするの?」
 それはそれで、保健教師としてはどうかと思うんだが。
「ところで、洋一くん」
「なんですか?」
「ひとつ、お願いがあるんだけど」
「お願い、ですか?」
 なんか、イヤな予感がする。
「これから少しだけ、私につきあってほしいの。ダメかしら?」
「えっと、内容にもよりますけど……」
「それを言っちゃうと、面白くないと思うの」
「……そういうことを言おうとしてるんですか?」
「ふふっ」
 笑って誤魔化さないでほしい。
「……で、なんですか?」
「とりあえず、学校を出てからにしましょう。私もすぐに帰り支度するから」
 そう言って由美子さんはにっこり笑った。
 本当にすぐに帰り支度をして、俺たちは学校を出た。
 由美子さんはいつも穏やかな笑みを浮かべているけど、今日はいつも以上ににこやかだった。
「なにかいいことでもありましたか?」
「ん? そんな風に見える?」
「ええ」
 思い切って訊いてみた。
「そうねぇ、これからあるのかも」
 なんとなくだけど、なにがあるのかわかってしまった。
 つきあい、長いし。
「たまに思うんだけど、私、いつまで今の生活を続けていいのかしらね」
「それは、どういう意味ですか?」
「年齢のことはあまり言いたくないけど、でも、私ももう若くないし。仕事だっていつまでもできるわけじゃない。先のことを考えると、今のままでいいのかな、って思うの」
「なるほど、そういう意味ですか」
「それに、洋一くんとの関係もそろそろ考えなくちゃいけないのかもしれないし」
 それには、なにも言えなかった。
「もともとは教師と教え子で、今は同僚。あと、ついでにいえば、親友かな。そういう関係『だけ』になってもいいのかもしれない。不倫の時間は、いつか終わるわけだし」
「……そうかもしれませんね」
 俺としては、そうとしか言えない。
 たぶん、今の状況では俺からじゃなく、由美子さんからその関係を壊そうとしない限り、壊れないから。
「ただね、それももう少し先のこと。今はまだ、洋一くんの側にいたいから」
 ふと垣間見せる少女の表情。
 それは、あの頃から全然変わらない。
 年上の大人の女性に憧れていたあの頃から。
「由美子さん」
「うん?」
「少しだけ待ってください」
 そう言って俺は自転車を止め、携帯を取り出した。
 そして携帯をかける。
『もしもし、洋ちゃん?』
「ああ。今、大丈夫か?」
『ええ、大丈夫よ』
 相手は愛だ。
「あのさ、愛。今日、少し帰るの遅くなりそうだ」
『なにかあったの?』
「仕事上のつきあいだよ」
『……まあ、ちゃんと今日中に帰ってくるなら、いいわよ』
「すまん。夜はちゃんと相手するから」
『なんか、適当に誤魔化されてる気がする』
「気のせいだ」
 由美子さんは同僚でもあるわけだから、間違いではない。ただ、仕事上のつきあいでこれから街へ繰り出すわけではないが。
『洋ちゃん』
「ん?」
『今日がなんの日か、ちゃんと考えて行動しないと、あとで大変な目に遭うからね』
「わかった」
 携帯を切り、由美子さんに向き直る。
「というわけなので、いつもより少し長めにつきあえますよ」
「ありがとう、洋一くん」
 たまには、こういう日もあっていいと思う。
 だけど、俺はすっかり忘れていたのだ。まだ、残っていたことを。
 
 由美子さんと濃密な時間を過ごし、家に帰ったのはいつもよりだいぶ遅い時間だった。
 愛に話は通してあったおかげで、愛と沙耶加からは特になにも言われなかった。もっとも、それは表面上はというだけで、なにを考えているのかは、正直わからないし、わかりたくない。
 夕飯は俺ひとりだけだったから気にしていなかったのだが、いつもならなにかと理由をつけて側にいたがる愛奈の姿を一度も見ていなかった。
 愛にそのことを訊いてみると──
「部屋にいるわよ」
 それだけだった。
 仕方がないので、食事を終えたあと、愛奈の部屋を訪ねてみた。
「愛奈。いるか?」
 ノックすると、少しのタイムラグがあってドアが開いた。
 が──
「うわっ」
 いきなり手を引っ張られ、バランスを崩した。
「あつつ……」
 床に倒れ、腰を打ってしまった。
「愛奈、いきなりそれは──」
 文句は、途中までしか言えなかった。
「……パパのバカ……」
 愛奈は、今にも泣き出しそうな顔で、抱きついてきた。
「今日がバレンタインだってわかってるくせに……」
「……あ〜」
 そう。俺が忘れていたのは、愛奈のことだった。
 今日、唯一もらっていない相手が愛奈だった。今までのことを考えれば、愛奈がチョコを渡してこないなんてことは、絶対にあり得ない。だが、いつもなら朝のうちにもらっていたから、つい頭から消えていた。
「すまん」
「許さないんだから」
「許さないって、どうするんだ?」
「今日は、私と一緒に寝て」
 真剣な表情でそう言う。
 だけど、今日はさすがに無理だ。由美子さんのこともあったし。
「じゃないと、明日から毎日パパと一緒に寝るからね」
 それはそれで、なかなか恐ろしい脅し文句だ。
「せっかくパパのためにいろいろ準備したのに。ほとんどダメになっちゃった」
「そんな時間限定のことなのか?」
「いろいろやりたかったの。でも、今からじゃほとんどできない」
「…………」
「だから、せめて一緒に寝たいの。それも、ダメなの?」
 愛と愛奈を天秤にかけるわけじゃないけど、今日はしょうがないのかもしれないな。
 忘れていたのは、俺なんだから。
「わかったよ。今日は特別な」
「ホント?」
「ああ。今日は俺が悪いんだから」
「ん、ありがと、パパ」
 愛奈は、ようやく笑みを浮かべてくれた。
 それから愛を説得し、沙耶加を説得し、なんとか愛奈と過ごすことに了承を得た。もちろん、それ相応の代償は払わなければならなかったけど。
「あ、そうだ。パパ」
「ん?」
「はい、チョコ」
 愛奈は、丁寧にラッピングされたチョコを渡してきた。
「ありったけの想いを込めて作ったからね」
「味わって食べるよ」
「うん」
 それから少しだけ話をしてから、ベッドに入った。
「ね、パパ」
「なんだ?」
「もし、だよ。もし、私がパパに抱いてほしいって言ったら、どうする?」
「抱いて、って……」
 なんだか、今日の昼間にも同じような会話があったな。
「今の世の中って面倒だよね。昔は家族間でもそういうことは普通にあったのに」
 それはいつの話だ。しかも、そういうのはあくまでも朝廷とか一部の有力な家でだけだ。庶民の間ではあまりなかった。
「パパにとって、私は娘でしかないのかもしれないけど、私にとってはパパは男性でもあるんだからね」
「…………」
「だから、抱いてほしいって思ってもおかしなことじゃないでしょ?」
「それはそうかもしれないが、だけど、やっぱり父娘ではな」
「でも、美沙だって同じでしょ? 美沙、ことあるごとに言ってるもん。私はようちゃんに抱いてもらえなかったら、一生バージンなんだって」
 あいつは愛奈にまで言ってるのか。
「それは、私も同じ。パパに抱いてもらえなかったら、やっぱり一生バージンだと思う。パパ以外の男性を好きになることは、絶対にないから」
 どうして俺のまわりにはこういう考えの持ち主が集まってくるんだろうな。
 そう思ってくれてること自体は嬉しいけど、でも、それはあくまでも一時の感情でしかない。その後のことを考えると、どうしても歓迎はできなくなる。
「たまに考えるんだ。もし、私がパパのことを今ほど好きじゃなかったらって。そしたら、ほかの人と同じように普通に恋をして、結婚して、子供を産んで。そんな普通な人生を送っていたかもしれない。だけど、それって幸せなのかな? もちろん、一概にどっちがとは言えないと思うけど。でもね、今の私にとってはパパと一緒にいること、それ自体が幸せの絶対要因であり、唯一のことだから」
「それは、難しく考えすぎじゃないか?」
「そんなことないよ。私は至って単純に考えてるよ。ようするに、好きか嫌いか。想像できるかできないかなんだから」
 確かにそうかもしれないけど、そこに立場というものを入れ込みすぎている。
 父と娘という立場すらまっさらにして考えてこそ意味がある。
「パパのことを考えるとね、体の奥が熱くなってくるの。パパに愛されたい。パパに抱きしめてもらいたい。パパに触ってほしい。そこまで来ると、あとはもう止められない」
「愛奈……」
「私、パパのことを想って何度もしてるよ。自分の指がパパの指だったらどんなにいいだろうって考えながら」
「もういいから」
「よくないよ。パパにはね、私のこと、なんでも知っておいてほしいの。ホントは、そういうことを言うのは恥ずかしいけど、パパにだけは隠し事はしたくないから。それに、しちゃうこと自体は、悪いことではないし」
 愛奈は、あくまでも真剣にそう言う。
 だけど、それは本来知らなくても構わないことだ。
「パパ……」
 潤んだ瞳で俺を見つめる。
「……パパに、触ってほしいの……」
 愛奈は俺の手を取り、そのまま自分の胸に当てた。
「私も、こんなに成長したんだよ」
 愛奈の胸は、とても柔らかかった。
「パパ……」
「愛奈……」
 俺たちは、そのまま自然な流れのままにキスを交わした。
 そして──
 
 九
 今年もまた春がやって来た。
 桜の便りも聞かれるようになり、風も暖かく、陽の光にも春を感じられる。
 なにかと慌ただしかった三月ももうすぐ終わりだ。
 この春は、愛果と紗菜が小学校を卒業し、中学生になる。ふたりとも近くの中学校に通う。ま、うちはみんなそこを卒業してるんだけど。
 また、彩音も幼稚園を卒園し、小学校に入学する。
 あとは進級するだけだが、愛奈は受験生になる。とりあえず大学には行くみたいだが、詳しいことは聞いていない。まあ、なにをするにしても後悔さえしなければいい。
 そんな三月末のある日。
 春休み中の学校はとても静かだが、俺たち教員にとってはあまり関係なかった。新年度に向けてやらなければいけないことがたくさんあった。
 俺も新年度の授業計画と、新たに受け持つクラスの生徒のことを調べたりと、忙しくしていた。
 とはいえ、朝から夕方までずっとやっていては煮詰まってしまう。適当に息抜きもしている。
 控え室を出て、廊下の隅で窓を開ける。
「ふう……」
 春の穏やかな陽差しが窓から降り注ぎ、さわやかな風が気分を落ち着けてくれる。
 卒業式も終了式も終わると、三月であるにも関わらず、もう次年度になった気がする。これは毎年のことで、生徒たちには三月いっぱいはその年の学年であることを言ってるくせに、という感じだ。
「洋一さん」
 と、控え室にいたはずの昭乃が声をかけてきた。
 今日は昭乃にしては珍しく、萌葱色のロングスカートのスーツ姿だ。
「少し、一緒にいてもいいですか?」
「好きにしてくれ」
「はい」
 昭乃は、ニコニコと嬉しそうに俺の隣に並んだ。
「そういえば──」
「はい?」
「今日はずいぶんとゆったりとした服装だな」
「そうですか? ん〜、まあ、そうかもしれませんね」
 スカートの裾をつまみ、少しだけポーズを取る。
「授業もないですし、たまにはこういうのもいいと思うんですよ」
「別に悪いとは言ってないけどな」
 昭乃も見た目は抜群だから、なにを着ても似合う。教え子だった頃からそうなのだが、もともと体育会系なので活発な感じが強い。だから、服装もそういうものが多かった。
 実際、授業のある時はタイトなスカートのスーツが多い。
「あ、そうだ。ひとつ、忘れてました」
「ん?」
「これはまだちゃんとは確認していないんですけど、たぶん、できました」
「……なにがだ?」
「子供、です」
 にっこり笑う。
「…………」
「洋一さん?」
「えっと、それは本当か?」
「はい」
 こうなることはわかってはいたが、まさかこのタイミングとはな。
「洋一さんは、嬉しくないんですか?」
「いや、嬉しいさ。ただ、ちょっと重なって驚いてるだけだ」
「重なって?」
 実は、前日の夜に香織から同じことを言われていたのだ。
 愛理と紗弥といい、愛果と紗菜といい、どうしてこうも重なるんだろうな。
「で、病院にはいつ行くつもりなんだ?」
「土曜日にでも行こうと思ってます。そこでちゃんと確認できたら、改めて報告します」
「一緒に行った方がいいか?」
「それはどちらでも。ひとりでも大丈夫ですけど」
 とは言いながら、来てほしそうな顔をしている。
「じゃあ、土曜にそっちへ行くから」
「はい、わかりました」
 まったく、嬉しそうな顔して。
「ふふっ、これで私も母親になれるんですね」
「そんなになりたかったのか?」
「ええ。それに、洋一さんと一緒にいると、そういうのを見せつけられてしまうじゃないですか。それを見る度に羨ましく思っていたんです」
「なるほどな」
 その気持ちもわからないでもない。子供の可愛さを知ってしまった今なら、なおのことだ。
「あ、でも、そうすると私もこっちに引っ越した方がいいですかね?」
「それは好きにすればいい。ただ、誰かに頼りたい時に近くに誰もいないというのはつらいからな。そういうことを考えると、こっちにいた方がいいかもしれない」
「そうですね。こっちにいれば、愛さんや沙耶加さんもいますし」
 昭乃にとってははじめての子供だから、そのうち不安を感じることもあるだろう。そういう時に頼れる相手がいるのといないのとでは、全然違う。
 こっちにいれば、経験者がいるから俺としても安心だ。
「しかし、また同じだったらどうするかな」
「同じって、なにがですか?」
「ん、昨日香織とも話してたんだけど、また娘だったらってことだ。今現在で七人とも娘なのに、また娘だったらと思うと、微妙だ」
「いいじゃないですか、それはそれで」
「そりゃ、元気ならどっちでもいいさ。ただ、ひとりくらい息子がいてもいいとは思うんだよ」
「じゃあ、そう願ってみましょうか?」
「ん、いや、それは必要ないだろう。俺のはあくまでも、そうあったらいいというだけで、別にそうじゃなくてもいいんだから。それに、娘は娘でカワイイからいい」
「それはそうですね」
 まあ、カワイイだけならいいけど、今のうちの娘たちを見ていると、それだけじゃないから大変だ。
「ま、いずれにしても、嬉しいよ」
「はいっ」
 
 夕方までに仕事を終え、ようやく解放された。
 今日は由美子さんが出張中だから、保健室にも寄らない。まあ、出張といっても泊まりがけではなく、ようするに会議みたいなものがあるから、それに行ってるというだけだ。
 職員玄関から外に出ると──
「パパ」
「ようちゃん」
 愛奈と美沙がいた。
「ふたりしてどうしたんだ?」
「パパを迎えにきたの」
「迎えにって、わざわざ制服に着替えてか?」
「うん」
 確かに、むやみに私服で学校へ来るのは控えるようにと言われてはいるが、だからといって、迎えにくるだけで着替えてくるというのはどうだろうか。
「ほら、帰ろうよ」
「ああ」
 とりあえず学校にいても意味がないので、出ることにした。
「今日は、ふたり一緒だったんだな」
「愛奈が、暇だ〜って言ってうちに来てからずっとね」
「別にそんなこと言ってないじゃない。というか、暇だから遊びに来てって電話かけてきたの、美沙の方じゃない」
「あれ、そうだっけ?」
「そうよ」
 ふたりは、俺を挟んでそんなことを言い合う。それが喧嘩腰になることもあるけど、このふたりは基本的にとても仲が良い。というか、姉貴たちがニュージーランドから戻ってきてからずっと、一緒にいるから余計かもしれない。
「で、実際なんでわざわざ迎えになんてきたんだ?」
「別に深い意味はないけど」
「ママがね、暇なら迎えにでも行けばって言うから、それでね」
 なるほど、黒幕は姉貴か。
「ついでにお花見の予定は大丈夫なのか、確認してこいって」
「お花見か」
 確かに、そろそろそんな時期だ。
 今年もまた、場所取りをやらされるんだろうな。男手が少ないから仕方がないけど。
「ようちゃんは、とりあえず誰にお花見のこと話してる?」
「特に話してないな。というか、すっかり忘れてた」
「んもう、ダメだよ、そんなことじゃ」
 お花見は年に何回かしかない、本当の意味で全員揃う機会だ。それを考えると、ダメかもしれないな、そんなことでは。
「由美子さんと昭乃さんにはちゃんと話してね」
「ああ。明日にでも話しておくよ」
 ほかの連中はなにかのついででいいだろう。みんなこっちにいるし。
「ところで、パパ」
「ん、なんだ?」
「今日、美樹さんに聞いたんだけど、香織さんに子供ができたんだって?」
「えっ、ホント?」
「……ったく、美樹の奴……」
 べらべらとしゃべりやがって。しょうがない。
「本当はちゃんと報告するつもりだったんだけどな」
「じゃあ、本当なんだ」
「ああ」
「愛奈にとっては、七人目の妹か弟だね」
「まあね。でも、香織さんの子供なら、たぶんだけどしぃちゃんがあれこれ面倒を見ようとするんじゃないかな。しぃちゃん、しっかりしてるし」
「かもしれない」
 紫織ならそうかもしれない。しかも、淡々といろいろこなしてしまいそうで、ある意味恐ろしい。
「でだ、愛奈」
「うん?」
「おまえに、もうひとり、妹か弟ができそうだ」
「えっ、誰?」
「どうやら、昭乃にもできたらしい」
「昭乃さんかぁ。そっか……」
 もうこういうやり取りは何度か繰り返しているからか、愛奈も必要以上に驚かない。今にして思えば、真琴に子供ができたといった時が一番驚いていたかもしれない。香織の時は、当然のような顔してたのに。
「昭乃さん、喜んでたでしょ?」
「ああ。今日はずっと機嫌がよかったな」
「だって、昭乃さん言ってたよ。パパとの子供がほしいって。それが夢だって」
 それは初耳だな。
「あ〜あ、いいなぁ。私もようちゃんの子供、ほしいなぁ」
「美沙はダメでしょうが」
「それはわかってるけど、でもさ、愛奈だってほしいとは思ってるでしょ?」
「……まあ、それは……」
 愛奈は、上目遣いに俺を見る。
「子供は無理だとしても、せめてセックスくらいはしたいなぁ。ね、ようちゃん?」
「だから、それを俺に訊くな」
「そうよ、美沙。そんなのパパに訊いちゃダメ」
「愛奈はいいわよね」
「なにが?」
「だって、一緒にいようと思えばいくらでも一緒にいられるし、一緒に寝ることもできる。それこそ、セックスの真似事だってできる」
「…………」
「私は、一緒に住んでないという時点で、それができない。だから、羨ましい」
 それ自体が羨ましいことなのかどうかは、俺には判断できない。
 ただ、最近のふたりは、どうもすぐにそっちへ話をもっていきたがる。
「ひょっとして、もうそういうことしちゃったとか?」
「えっ……?」
「ようちゃんもなんだかんだ言いながらも、愛奈には弱いからなぁ。愛さんの影響だとは思うけど、愛奈もおねだりの仕方を心得てるし」
 悔しいが反論できん。
「私もママにいろいろ訊いてるんだけど、それをなかなか実際には活かせてないんだよねぇ。というか、そういうのを実践する相手は、ようちゃんだけなんだけど」
「美沙もそんなことばかり言ってないで、もう少しまわりに目を向けたらどうだ? 言い寄ってくる男はいっぱいいるだろ?」
「そりゃ、言い寄ってくる連中はいるけど、どいつもこいつもようちゃんの足下にも及ばないもの。だから、考えるだけ無駄なの」
 それはそれでひどいな。相手だって、それなりに考えての行動だろうに。
 もっとも、それはうちの娘たちにも言えるのかもしれないが。
「それに、言い寄ってくる男の数なら、愛奈だって負けてないから。ね、愛奈?」
「ん〜、そういうどうでもいい話は、しても意味ないよ」
 ……どうでもいいとまで言うか。
「だからね、ようちゃん。私や愛奈にそういうことを言っても意味がないの。ようちゃん以外の選択肢は、最初から用意されていないんだから」
「はいはい、わかったよ。もうこの話は終わりな」
「そうそう。それでいいの」
 とりあえず、話題がそれたからよしとするか。
「それでなんだけど、ようちゃん」
「なんだ?」
「今日の夜、そっちに行ってもいいかな?」
「別に来るのは構わんけど、なにがあるんだ?」
「んと、それは夜のお楽しみ、ってね」
 そう言って美沙は笑った。
 
「パぁパ」
 帰ると、彩音が来ていた。
「今日は彩音だけか?」
「ん〜ん、マぁマもいるぅ」
 真琴は仕事が仕事だから、いつ頃来るか予想できない。だから、こうやって突然来ることもある。
「パぁパ、あやとあそぼ」
「遊んでやりたいけど、パパもやらなくちゃいけないことがあるんだ」
「むぅ……」
「あとで遊んでやるから、とりあえずお姉ちゃんたちと遊んでな」
「うん」
 彩音は甘えん坊ではあるけど、ちゃんと説明してやると理解してくれる。このあたりは真琴のしつけのおかげかもしれない。
 部屋に戻り、とりあえず片づけなければならないことを片づける。主に書類整理なのだが、これをちゃんとやらないとあとが大変なのだ。
 毎年思うのだが、これだけいろいろなことが発達してきてるのだから、もう少しなんとかならないのだろうか。まあ、俺自身でなんとかする気がないから、口だけなのだが。
「パパ。ちょっといい?」
 ようやく終わりが見えた頃に、ドアがノックされ、愛奈が顔を出した。
「どうした?」
「ん、いつものだよ」
 にっこり笑い、近寄ってくる。
「なら、少しだけ待ってくれ。あと少しで終わるから」
「ん〜、待たないよ」
 そう言って、俺の膝の上に座ってくる。
「こらこら、パソコンが操作できないだろうが」
「大丈夫だよ。私がもっとパパにくっつくから」
「まったく……」
 言っても無駄なので、とりあえず無視して作業を再開。
 それからすぐに仕事は終わった。
「よし、これで終わりだ」
「終わり?」
「終わりだよ」
「じゃあ、パパ」
 愛奈は、目を閉じ──
「…………」
 俺は、そのまま愛奈にキスをした。
 本当はこんなことではいけないのだろうが、愛奈はやっぱり愛の娘なのだ。言い出したら絶対に引かないし、口でもなかなか勝てないから、結局言うことを聞いてやることになる。
 それに、下手に駄々をこねられて騒がれると、愛や沙耶加の耳に届いてしまう。それも回避したいことだった。
「ねえ、パパ。今日の帰り、美沙に言われたでしょ?」
「なにをだ?」
「ほら、私たちがセックスの真似事してるんじゃないかって」
「……ああ、言われたな」
「あの時ね、びっくりしちゃった」
「別にびっくりするようなことなんかないだろうが」
「そうかもしれないけど、でも、私はパパとそうしたいと思ってたから。それを美沙に言われて、ちょっと驚いたの」
「そのことは、この前話して解決しただろ?」
「そうなんだけどぉ……」
「なにが不満なんだ?」
「不満だらけだよぉ。結局パパとはエッチできないし、触ってもらうこともできない。パパは私が一生バージンでもいいの?」
「それはおまえの人生だからな。それがいいとも悪いとも言えない。それに好きこのんでそうある人だっているくらいだしな」
「むぅ……」
 愛奈はとにかく不満なようだ。
「ま、その代わりにこうやって抱きしめてやってるわけだし、キスもしてやってるんだ。それで我慢しろ」
「ううぅ……」
「ほれ、そろそろ夕飯だ。行くぞ」
「はぁい」
 実際、前以上に愛奈に求められたら、俺はどうするんだろうな。
 正直、なんとも言えない。
 できるだけそうならないようにはするつもりだけど。
 
 夕食後、待ってましたとばかりに彩音につきあわされた。
 もう幼稚園もないから昼間に無茶していなければ、夜でも元気いっぱいだ。
「パぁパ」
「ん?」
「あやね、パぁパといっしょにいるの」
「そうか。彩音が一緒にいてくれると、パパも嬉しいな」
「えへへ」
 彩音は、さっきからずっと楽しそうだし、嬉しそうだ。
 ここ最近はあまり相手してやれていなかったから、余計なのかもしれない。
「それじゃあ、彩音。パパと一緒にお風呂に入ってらっしゃい」
 と、それまで愛たちと話をしていた真琴がこっちへ来てそんなことを言い出した。
「おふろ、ヤなの」
「彩音。いつまでもそんなこと言ってると、小学生になれないわよ?」
「ううぅ……」
「今日はパパが一緒なんだから、パパに頭も体も洗ってもらいなさい」
 彩音は、助けを求めるような顔で俺を見つめる。
 そういう顔には弱いのだが、ここは真琴の方が正しい。
「じゃあ、彩音。パパと一緒にお風呂に入ろう」
「……うん」
 渋々頷いた。
 彩音を連れて風呂場へ移動する。
「ほら、彩音。服を脱いで」
 真琴がしつけていたのと幼稚園でやらされていたから、彩音はひとりでだいたいの着替えができる。
 パパッという感じではないが、ちゃんと服も脱げる。
「よし、入るぞ」
 浴室に入ると、彩音は俺にしがみついてきた。
 特に水が恐いというわけではないのだが、彩音はとにかく風呂が嫌いだ。なぜなのかは俺も真琴もわからない。
 お湯を温めにし、まずは掛け湯をしてやる。
「熱いか?」
「ん〜ん……」
 一応確認もする。熱い風呂に入れて風呂嫌いが進まれても困るし。
「ほら、彩音」
 彩音を抱きかかえ、そのまま浴槽へ。
「ちゃんとあったまらないと、またママに怒られちゃうからな」
「……マぁマ、こわいの」
「うん、そうだな。ちょっと恐いな。でもな、彩音。それは全部彩音のためなんだよ」
「あやの、ため?」
「ママだって彩音のことは大事だし、好きなんだよ。でも、ママは彩音のためにいろんなことを言わなくちゃいけないんだ。彩音はまだまだ知らないことが多いから」
「……ん〜」
「だから、ちょっと恐いかもしれないけど、ママの言うことはちゃんと聞かなくちゃダメだぞ」
「……うん」
「よし、いい子だ」
 真琴が恐いとは思えないけど、彩音にとっては恐い存在なんだろうな。
 うちも、愛がそんな感じだったし。
「……パぁパ」
「ん?」
「パぁパは、あやのこと、すき?」
「ああ、大好きだよ。彩音はパパのこと、好きか?」
「だいすきぃ」
「そうかそうか」
 ま、俺には娘たちに強く当たることはできそうにないから、それぞれの母親にがんばってもらうしかないな。
 なんて言ったら、愛たちに怒られそうだけど。
 
 彩音を風呂に入れて少しした頃、昼間の宣言通り、美沙がやって来た。
 いつもより遅めの時間だったのでうちの面々は不思議そうな顔をしていたが、相手が美沙だということである程度納得していた。
「で?」
「で?」
「なんの用があってこんな時間に来たんだ?」
「なんでだろ?」
 そう言って美沙は笑った。
「というのはウソで、今日はね、どうしてもようちゃんと一緒にいたかったの」
「なにかあったのか?」
「特になにかあったわけじゃないけど、そうだなぁ、強いて言えば、多少の情緒不安定っていう感じかな」
「情緒不安定ねぇ……」
 今の美沙の様子からは一番遠い状態だ。
 それ以前に、そんな状況の美沙を見たことがない。
「それが本当かどうかはこの際どうでもいい。結局、なにをしに来たんだ? 一緒にいるだけなら、別にこんな時間じゃなくてもいいと思うんだが」
「この時間じゃないとダメなこともあるの」
「そんなこと、ほとんどないだろ?」
「ね、ようちゃん」
 無視かよ。
「今から少しだけ出かけることってできる?」
「できないことはないが、どこへ行くんだ?」
「どこでもいい。ようちゃんとふたりきりになれるなら。あと、できれば車で行きたい」
「注文が多いな」
「たまにはいいでしょ?」
「本当にたまにならな」
「んもう、ようちゃん」
 やれやれ、しょうがないな。
「じゃあ、ちょっとだけ待ってろ」
「うん」
 それからすぐに美沙と一緒に出かけた。
 その辺までの散歩だと言いながら、車を使っているんだから、あとでなにを言われるか。
「で、どのあたりまで行く?」
「そうだなぁ……とりあえず、静かなところがいい」
「静かなところね」
 この時間ならたいていの場所は静かだが、そういう意味ではないんだろうな。
 適当に車を走らせ、望み通りの場所へとやって来た。
 家からは車で二十分ほど。
 住宅街からは少し離れているおかげか、本当に静かだった。
「こうしてふたりきりで車の中にいたら、この光景をほかの誰かが見た時、私たちの関係ってどう見えるのかな?」
「さあ、父娘だと思われるんじゃないか?」
「そうかなぁ。ようちゃん、実年齢よりも若く見えるから、そこまでのことはないと思うけど」
「美沙は、どう見られたいんだ?」
「恋人同士」
 即答かよ。
「ひとつだけ、お願いがあるんだけど」
「さっきからもう何度かお願いを聞いてる気がするんだが」
「それは気のせい。だからね?」
「……で?」
「エッチしよ」
「……は?」
「だからぁ、エッチしようよ」
「いや、いきなりそう言われても困るんだが。というより、俺にその気がない」
「どうして?」
「どうしてって、その話は以前しなかったか?」
「したけど、私は全然納得してないもん」
 納得できる答えになると、俺は美沙とセックスしなくてはならない。それはあり得ない。
「だからね、ようちゃん」
 美沙は、言うや否や、服に手をかけ、脱ぎ出した。
「ちょ、ちょっと待て」
「待たないよ」
 車に乗っていたから上着は着ていない。
「抱いてくれないと、ようちゃんを襲っちゃうよ?」
「おまえになんか襲われるか」
「ふ〜ん、そんなこと言うんだ。じゃあ、試してみようか?」
 にやりと笑う美沙。その笑みは、姉貴の笑みにそっくりだった。というか、その笑みを見た時はたいていイヤなことしか起きなかった。
「……試すな」
「だったら、抱いてよ。私は絶対に後悔しないから」
「そういう問題じゃないだろうが」
 かつて、美樹も同じようなことを言ってたな。あの時はなんとかなったけど、美沙は美沙で扱いづらい相手だから。
「ほら、ようちゃん」
 ああ、くそっ。面倒だ。
「とりあえず、美沙。服を脱ぐのはやめろ」
「それはいいけど、ようちゃんが脱がしてくれるの?」
「いいから。それと、一度外に出ろ」
「はぁい」
 先に外に出る。
 三月とはいえ、夜は冷える。
「ううぅ、寒い……」
 上着がないから、少し寒い。
「寒いよ、ようちゃん」
「こっち来い」
「うん」
 俺は、美沙を後ろから抱きしめた。
 こうして素直な時は可愛いんだけどな。
「なあ、美沙」
「ん?」
「どうしても抱かなくちゃダメなのか?」
「ん〜、どうなんだろ。私もね、本当のところはよくわからないの。ただ、今以上に私のことを好きになってもらうためにはなにをしたらいいかって考えたら、そんなに選択肢はなかった。で、その選択肢のひとつが抱いてもらうこと──セックスだったの」
「なるほどな」
 そこへたどり着いてしまう気持ちはよくわかる。特に高校生ならたいしたことはできないから。
「でもさ、俺に抱かれて、そのあとはどうするんだ? それで終わりなのか?」
「それは……」
「それって、お互い気まずくなるだけだと思うぞ。俺たちは叔父と姪の関係なんだから、これから先もずっとつきあいがある。なのに、そういうことになったら、顔をあわせるのもつらくなる」
「それはそうだけど……でも……」
「ま、そう焦るな。焦ってもいいことなんてなにもないんだから」
「うん……」
 本当にそうだ。焦って選んだ選択肢など、絶対にいいものではない。後悔もするだろう。美沙には、そんなことをしてほしくないし、そうあってほしくない。
「それとな、美沙」
「ん?」
「前にも言ったけど、俺はおまえのこと本当に好きだぞ。それこそ、もうひとりの娘という感じでも好きだし、姪としても好きだ。そして、女の子としての美沙も好きだ」
「ようちゃん……」
「それにな、別にセックスなんかしなくても今以上に好きになることはできる。俺と美樹を見ればわかるだろ?」
「そうかも」
「だから、答えを急ぐな。おまえはまだ高校生なんだから」
「うん、そうする」
 とりあえず、こんなところか。
「じゃあ、ようちゃん」
「ん?」
「私が高校を卒業したら、もう一度同じことをお願いしてもいい?」
「ああ」
「その時に姪という想いよりも、女の子としての想いが強ければ、抱いてくれる?」
「そうだったらな」
「約束だよ?」
「約束だ」
 美樹とも似たような約束をして、結局果たされていない。もちろん、果たされる必要はないのだが。
 美沙とも、そうあってほしいものだ。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
「うん、そうだね」
 笑顔で頷く美沙を見て、俺は思った。
 たぶんだけど、美樹の時のようにはいかないのだと。
 それくらい今の美沙の笑顔は、俺の心を捉えていた。
 
 十
 人の幸せというものは、人の数ほどある。
 そもそも幸せという言葉の定義自体、あやふやなものだ。本当の意味での幸せというものは、ひとりひとりにしかわからない。
 それでもたいていの人は、自分の側にいる人、自分に関わっている人、そのみんなが幸せであることを願っている。それはとりもなおさず、そうあることが自らが幸せになる近道であると信じているからだ。もちろん、それが正しいかどうかは誰にもわからない。それこそ、間違った方法だとしても本人が幸せになれるのなら、それでいいのだ。
 そして、俺もそう思っているひとりだ。
 
 四月。
 今年もまたこの月がやって来た。
 一年のはじまりとはまた違ったはじまりの月。
 心機一転を誓うなら、ちょうどいいかもしれない。
 もっとも、毎年そんなことをしていたら、心機一転などという言葉がほとんど意味のないものになるのだろうけど。
 今年の四月は、いろいろと動きのある四月になる。
 愛果と紗菜が中学校に入学し、彩音が小学校に入学する。
 本当はそれぞれの入学式に出席したいのだが、あいにくとそれは無理だ。俺も仕事がある。有休を使えばなんとかなるけど、立て続けに使うわけにもいかない。
 というわけで、今の予定では彩音の入学式にだけ出席することにしていた。
「それにしても、一年てどうしてこんなに早いのかしらね」
 ある日の昼間。
 仕事がひと段落したところで、俺は屋上で息抜きをしようと思っていた。すると、屋上には先客がいた。
 その先客は、由美子さんだった。
「それだけ充実してた、ということですよ」
「そうかもしれないわね。でも、それは洋一くんが側にいてくれたからでもあるのよ」
 由美子さんは、穏やかに微笑む。
 涼やかな風が、由美子さんの髪とスカートを揺らす。
「洋一くんがいなかったら、きっと一年間がとてもつまらない、空虚なものになってると思うわ。それを考えると、あの時洋一くんに告白してよかったと思ってる」
 あの時、由美子さんに告白されていなかったら、いったいどうなっていたのだろう。
 生徒と教師というそれ以上でもそれ以下でもない、普通の関係のまま卒業していただろう。憧れではあったけど、それは所詮憧れでしかなかったのだから。
 それでも、今は由美子さんが側にいてくれてよかったと思ってる。
 由美子さんは、俺が本当の意味で甘えられる唯一の相手だから。母親のような包容力で俺を癒してくれる。
「あの時から今までのことは、まったく後悔していない。あ、でも、ひとつだけ心残りがあるわ」
「心残りですか?」
「結局、洋一くんの子供を授かれなかったこと」
「ああ……」
 由美子さんも、以前はそのことを気にしていた。でも、それは結局運任せのようなところもある。そして、俺と由美子さんの間ではその運がなかったということだ。
 そんなに簡単に割り切れる問題ではないが、少なくとも俺たちの間では解決済みの問題だ。
「その代わり、私にはたくさんの『娘』がいるわ。私にとってあの子たちは、実の娘みたいなものだから。疑似体験ではあっても、母親の気持ちがわかったわ」
 本当にそうなのだろう。由美子さんは、うちの娘たちを実の娘のように可愛がってくれたし、可愛がっている。
「洋一くんにとって、私との時間は、どういうものなの?」
「由美子さんとの時間ですか?」
「そう」
「そうですね……」
 フェンスに寄りかかり、空を見上げる。
「ここへ入学した頃は、話せただけで嬉しかったですね。普段は挨拶程度で、たまにいろいろ話せると浮かれてました」
「ふふっ、そうだったの」
「少しずつ仲良くなれて、距離が縮まって、憧れはさらに強いものになりました。まあ、高校生のガキでしたから、当然由美子さんに対して邪な気持ちも持ってましたけど」
「洋一くんが相手なら、私はいつでも問題なかったのに」
 それはそれで問題だ。あの頃は生徒と教師という関係だったんだから。
「それからは、そうですね……由美子さんとの時間は、安らぎの時間だったのかもしれません」
「安らぎ?」
「由美子さんは、俺が唯一甘えられる相手ですから。もちろん、愛や沙耶加にも甘えてますけど、でも、言葉通り、本当の意味で甘えられるのは由美子さんしかいませんでした。由美子さんといる時は、肩肘を張る必要がなかったんです。俺が俺であっていい。なにかあった時は、由美子さんが優しく包み込んでくれるから。そう思ってました」
「なるほどね」
「ただ、だからなのかどうかはわかりませんけど、由美子さんとはあまり長期間一緒にいてはいけない気がしてました」
「それはどうして?」
 意外な言葉に、由美子さんは首を傾げた。
「あまり長い間一緒にいると、精神的にダメになってしまうような気がして。実際そうなるかどうかはわかりませんけど。ただ、そんなことを少し考えてました」
「ふ〜ん……」
「それでも俺は、由美子さんと一緒にいる時間が好きです。だから、今もこうして一緒にいるんです」
 あまりにも依存しすぎるとダメにはなるだろうけど、それも結局は本人次第だ。たとえ俺が由美子さんと毎日一緒にいたとしても、そうならない可能性もある。
「今でもたまに思うんだけど、洋一くんが愛さんとのことを私に相談しに来たでしょ?」
「はい」
「あの時、ふたりの関係が上手くいかないようにしてたら、今頃どうなってたのかしら」
「それは……」
 あの時は、俺も愛も由美子さんに相談していた。だから、可能性は低いだろうけど、上手くいかせない方法もあったはずだ。
「私はね、結局はどうやってもふたりの仲は壊せないと思ってるの。あの時の私のアドバイスなんて、たいしたものじゃなかったし。きっかけではあったかもしれないけど、それは別に私が与える必要はなかった。ほかの誰でもよかった。そして、そのほかの誰かが現れてふたりの関係は結果的に同じになった。そう思ってる」
「……かもしれませんね」
 これはのろけでもなんでもなく、俺と愛の関係を考えれば、そうなった可能性の方が遙かに高いだろう。それだけ俺たちはお互いのことを考えていた。
「ただ、こうも考えてる。もし、あの時ふたりのことを邪魔して、たとえば私が洋一くんと添い遂げたとする。その時、洋一くんは今みたいに幸せなのかなって。今と同じような笑顔を見せてくれるのかなって」
「…………」
「考えても意味のないことなんだけどね」
 そう言って由美子さんは笑った。
「私は洋一くんが好き。洋一くんも私が好き。だから一緒にいる。それでいいの」
「深く、考えてはいけないのかもしれませんね」
「そうね。それに、そこでの答えなんて所詮は自分だけのものでしかないのよ。それがそのまま相手に当てはまるとは限らない」
「はい」
「だから、この話はこれでおしまい」
 物事はシンプルに考えた方が上手くいく可能性が高い。
 必ずしもそうとは限らないけど、たぶん、この場合はそうなのだろう。
「さてと、そろそろ戻らないと仕事する気力がなくなりそうだわ」
「そうですね」
「もっとも、洋一くんが私の相手をしてくれるというのなら、そっちを優先するけど」
「とても魅力的な提案ですけど、今日はやめましょう」
「残念」
 俺たちは顔を見合わせ、笑った。
 
「こんなものか」
 できあがったばかりの文書を確認し、保存する。
「ん〜……」
 凝り固まった腕や肩、腰を伸ばす。
 仕事は、思いの外時間がかかってしまった。
 気がつけば控え室には俺以外誰もいない。授業のないこの時期は、仕事を早く終えればそれだけ早く帰れる。
 俺もそういう風にしているが、今日は逆の立場になってしまった。
「さてと……」
 パソコンを落とし、荷物を片づけていると──
「洋一さん」
「あれ、昭乃?」
 昭乃が入ってきた。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「帰ってませんよ。それに、帰るにしても洋一さんに挨拶もしないで帰るわけないじゃないですか」
 そういえば、帰りの挨拶をされた覚えがないな。
「どこにいたんだ?」
「保健室です」
「俺が必死に仕事してる間に、昭乃は由美子さんと優雅にお茶してたわけか」
「たまにはいいと思ったので」
 まあ、いつもはその逆の立場だからな。
「仕事は、終わりですか?」
「ああ。これでずいぶんと楽になるはずだ」
 今日一日でずいぶんと仕事を終えたから、明日からはずいぶんと楽になるはずだ。
 もっとも、授業がはじまればまた仕事が増えるけど。
「じゃあ、少し私につきあってもらえますか?」
「それはいいけど、どこでなににつきあえばいいんだ?」
「場所はどこでもいいんです。なにに、というのはですね……」
 昭乃は、スーッと俺に近寄ってきた。
「久しぶりに、学校でしませんか?」
「するって……」
「今日はもう、誰も戻ってきませんから」
「いや、でもな……」
「洋一さん……」
 潤んだ瞳で俺を見つめ、しなだれかかってくる。
「……しましょ?」
 はあ、本当に意志が弱いな、俺。
 
 久しぶりのシチュエーションだったからなのかどうかはわからないが、正直かなり焦った。いくらほとんど人がいないとはいえ、誰かしらはいるわけである。
 そんな場所で大きな喘ぎ声を出されたら、俺じゃなくても焦る。
 幸い、誰も来なかったけど、本当に焦った。
「なあ、昭乃」
「なんですか?」
 服を整えながら、昭乃はこちらを向く。
「さすがにもう学校ではやめないか?」
「どうしてもですか?」
「ああ、どうしてもだ」
「…………」
「…………」
「しょうがないですね。でも、洋一さん」
「ん?」
「その代わりに、家で私のこと、たくさん抱いてくださいね」
「……まあ、それは今後の検討課題ということで」
「しっかり検討してくださいね」
 そう言って昭乃は笑った。
「あ、そうだ。洋一さん」
「なんだ?」
「このあたりで評判のいい不動産屋を知りませんか?」
「不動産屋?」
 まったく予想外のことに、俺は間抜けな声を出してしまった。
「はい。私、夏くらいをめどにこっちへ引っ越そうと思ってるんです」
「決めたのか」
「やっぱり、こっちにいた方がなにかといいですからね」
 これはこれでしょうがないな。特に昭乃は近くに知り合いがいないし。
「そういうことなら、俺たちがこぞって世話になってる不動産屋を紹介するよ。そこなら多少の融通も利くし」
「ありがとうございます」
「でも、夏か」
「さすがに夏までは動けそうにないですから」
「そうだな」
 授業がある時期はなかなか難しい。それに、今の時期はまだ足下を見てくるからな。もう少し時間を置いた方がいい。
「さてと、もう大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
「なら、帰るか」
「はい」
 控え室を閉め、職員室に鍵を戻し、職員玄関で靴を履き替え、校舎を出る。
 校庭ではサッカー部が後片づけをしている。
「こうやって洋一さんと一緒にいることが当たり前になって、そう思えることも当然になってしまいましたけど、今こうしていられることにもう少し感謝しないといけないですよね」
「さあ、俺にはわからんな」
「高校を卒業して、それでも洋一さんへの想いが断ち切れなくて。大学に入っても洋一さんのことしか考えられなくて。今思えば、あの頃って本当になんでもするつもりでした。もし洋一さんに拒否されたとしても、なにもしないでというのは自分が後悔しますから。それだけは絶対にしたくありませんでしたし」
「あの頃は、俺もこんなことになるとは思ってなかったしな。ただ単にカワイイ教え子が慕ってくれている、くらいにしか思ってなかったし」
「だから、私も積極的にいこうと思ったんです。ただ、そういう機会はそう簡単に訪れなくて、結局教育実習まで待たなくてはなりませんでした」
「あの時の教育実習は、いったいどっちが目的だったんだろうな」
「どっちもですよ」
 昭乃は、実習生としても優秀だった。同じ地歴科の教師として側で見ていたけど、俺の同じ時とは雲泥の差だった。
 だからこそ、それが嬉しくてついつい昭乃の言うことを聞いてしまったのかもしれない。
「もし、あの時洋一さんに受け入れてもらえてなかったら、どうなってたんでしょうね」
「そのまま普通に就職して、結婚してたんじゃないか?」
「就職はそうかもしれませんけど、結婚はしてなかったと思います。私、そんなに器用な方じゃありませんから」
 そう言って昭乃は頬を膨らませる。
「でも、高校時代も大学時代も、それなりに言い寄られてはいたんだろ?」
「それは、まあ……」
「なら、その中にひとりくらいよさそうな奴もいたと思うんだが」
「今思えばいたかもしれませんけど、でも、私にとっては洋一さん以上の男性はいませんから。最初から選択肢は存在してないんです」
「なるほど」
 そのあったかもしれない選択肢をつぶしてしまったのは、果たしてよかったのか悪かったのか。その答えは、死ぬまでわからない。
 ただ、俺も昭乃もそのことに後悔していないということが、救いだ。
「洋一さんにとって、高校時代の私はどんな存在でしたか?」
「そうだなぁ……こう言うとおまえはどう思うかわからないけど、正直に言えばまわりとそう大差はなかったんだ。所詮は教え子のひとり。そんな感じだった」
「そうだったんですか?」
「もちろん、話す頻度とかを考えれば、多少は特別だったかもしれない。でも、それはその程度でしかなかったんだ」
「でも、私たちになっちゃんたちと会わせてくれましたよね? それも特別じゃなかったんですか?」
「確かに特別と言えなくもないけど、あれはおまえらがしつこいから譲歩したんだ」
「しつこいって、そんなにしつこく言ってなかったじゃないですか」
「ま、おまえはな。でも、ほかの連中は違っただろ?」
「……確かに、静穂とか久美とかは」
「そういうことだ」
 ああ、でも、そういう風に考えると、あの時から俺は昭乃を特別扱いしてたのかもしれないな。
「もし、高校時代に洋一さんに迫っていたら、洋一さんはどうしてました?」
「そりゃ、断ったさ。さすがに教師と教え子の関係はまずいし」
「そう言いながらも、由美子さんとはそういう関係だったじゃないですか」
「あれはあれだよ。実際はかなり危ない橋を渡っていたわけだし」
「私ともそうあってくれてもよかったんですけどね」
「勘弁してくれ」
 あの時にそんなことになっていたら、俺は愛と沙耶加に殺されてたな。うん、間違いない。
「それでも、今はこうして洋一さんの側にいられますから、よかったです」
 昭乃は、自然な流れで腕を組んできた。
「それに、洋一さんとの絆もありますから」
 そう言ってお腹に触れる。
「来年、この子が生まれてきたら、またいろいろ変わるんでしょうね」
「多少だよ。本当に変わることなんてそうそうないんだから」
「はい」
 昭乃のことも今以上に見てやらないとダメだな。昭乃は、意外に精神的にもろいところがあるし。
 支えてやるのが、俺の役目だ。
「ずっと、ずっと、こんな幸せな時間が続けばいいですね」
「本当にそうだな」
 幸せであるために、俺はなんでもする。
 それが昭乃を受け入れた時の、自分自身に対する誓いでもあるから。
 
 家に帰ると、真琴と彩音が来ていた。
 彩音は、俺が帰ってくるのを待っていたらしく、リビングに入る前に捕まってしまった。
「パぁパ」
「彩音。ちょっとだけ待っててくれ。パパは、着替えてきちゃうから」
「ヤなの。あやもいっしょ」
「しょうがないな」
 彩音を抱きかかえ、そのまま部屋へ。
 彩音を椅子に座らせ、とりあえず着替える。
「今日もたくさん勉強したか?」
「うん。あやね、たくさんべんきょうしたの」
「そうか。偉いな」
 小学校に入学するということもあって、最近は家でひらがなを教えている。字は早めに書けるようになってた方がいいからだ。
 彩音は結構要領がよく、こっちが教えることをすんなりと身に付けてしまう。
「よし、ママのところへ行こうか」
 着替え終え、彩音と一緒にリビングへ戻る。
「おかえりなさい」
 リビングに入ると、真琴が沙耶加と話をしていた。
「ふたりでなにを話してるんだ?」
「いえ、別にこれといったことを話していたわけではないんです」
「雑談ですよ」
 ふたりは揃ってそう言う。
「そういえば、真琴」
「なんですか?」
「入学式にお義父さんとお義母さんは来るのか?」
「えっと、お父さんはどうしても抜けられない仕事があるとかで、来ません。お母さんは来ます」
「なるほど」
「それで、お父さんから洋一さんに言づてがあります」
「なんだ?」
「彩音の晴れ姿をビデオに収めておいてほしい、とのことです」
「了解」
 言われなくてもそうするつもりだったし。せっかくの晴れ舞台だ。俺だって楽しみにしてる。
「しぃちゃんの時は、大変でしたからね」
 沙耶加は、クスクス笑う。
「あれは、俺のせいじゃないだろうが」
「そうかもしれませんけど、それを実際にやったのは洋一さんですから」
「……まあ、そうだけど」
 紫織の入学式では、ちょっとしたことがあった。
 それは、カメラを持ったまま前に出過ぎて、笑いものになってしまったということだ。ただ、言い訳させてもらえば、あの時はまわりの親も一緒に前に出ていて、たまたま俺だけ出過ぎてしまっただけなのだ。
 実際、慌てて戻った親もかなりいた。
「今回はそんなことはないさ。同じことを二度も繰り返さない」
「ふふっ」
 同じことを繰り返したら、アホだ。
 というか、さらなる笑いものになる。
「パぁパ。あやとあそんで」
「わかったよ」
 とりあえず、その話題から逃げよう。なんか、続けるといろいろ言われそうだ。
 
 夕食を終えると、珍しく真琴が頼み事をしてきた。
 その頼み事というのは、今夜一晩、親子三人で過ごしたい、というものだった。
 真琴とふたりで過ごしたいと言われることはあっても、三人でというのはあまりないことだった。だからかもしれないけど、なんとか愛と沙耶加を説得し、真琴の言う通りにすることにした。
 俺が一緒に行くことを喜んでいたのは、真琴もだが彩音もそうだった。
 いつも以上に甘えてきて、真琴に怒られたくらいだ。
 部屋に着くと、彩音だけでなく、真琴まで俺に甘えてきた。
「おいおい、真琴がそんなことでどうするんだ?」
「たまにはいいじゃないですか」
「いいじゃないですかぁ」
 母娘揃ってそんなことを言う。
「最近、全然洋一さんに構ってもらえてませんでしたから」
 そうは言うが、それは俺だけのせいじゃない。真琴も絵の仕上げが忙しくて、時間が取れなかった。
「だから、今日は特別なんです」
「なんですぅ」
 真琴も基本的には彩音と同じく、甘えたがりだ。
 高校の頃からずっとそうで、彩音が生まれてからは多少抑え気味ではあったけど、ふとしたことでそういう面が出てくる。
「まったく……」
 なにを言っても聞かないだろうから、こっちが折れるしかない。
「今でもたまに思うんですけど」
「ん?」
「もし、洋一さんが『男性』ではなく『お兄ちゃん』だったら、今頃どうなってたんだろうって」
「それは、普通の関係じゃないのか?」
「たぶん、そうでしょうね。私とのことがなくても、お姉ちゃんとのことはあったはずですから。そうすると、ますます『お兄ちゃん』です」
 出逢った頃は確かにそうだったから、そのままお互いの立場が変わっていくだけだっただろう。
「でも、私にとってはやっぱり今の方がいいです。洋一さんに愛されて、しかも娘までいて。これだけの幸せ、ひとりだったら味わえません」
 ひとりよりふたり。ふたりより三人。
 人の数だけ幸せが増える。
 今の真琴にとっては、それがまさに当てはまる感じだ。
「あ、でも、洋一さん」
「なんだ?」
「どうして私にはできなかったんでしょうか」
「なにがだ?」
「子供です。香織さんや昭乃さんにはできたのに、私はできませんでした」
「ああ、まあ、そうだな……」
「そこでいろいろ考えてみたんです。そうすると、根本的な問題が出てきました。それは、洋一さんとのエッチの回数が少ないんです。だから、確率的に子供ができる確率も下がったんだと思います」
「……で、結局なにが言いたいんだ?」
「だから、たくさんエッチしましょう、ということです」
「いや、まあ……」
 さすがに香織や昭乃に子供ができて、またすぐにというのはどうかと思う。
 いろいろ大変になるし。
「ダメ、ですか?」
「ですかぁ?」
 そんなところだけ母娘揃って言うな。見上げ方もそっくりだし。
「ダメとは言わんが、すぐにというのは勘弁してくれ。香織や昭乃のこともあるし」
「ん〜、そうですね。立て続けというのも結構大変ですからね。わかりました。今すぐというのはなしにしましょう」
「……はあ」
「でも、時期が来たら約束を守ってくださいね?」
「ああ、約束するよ」
「はい」
 まったく、本当に嬉しそうな顔しやがって。
「パぁパ」
「ん、どうした?」
「きょうは、あやといっしょ?」
「ああ、一緒だよ。パパも彩音と一緒がいいからね」
「うんっ」
 ま、今日は特別な日だし、全部良しとするか。
 真琴も彩音も嬉しそうだし。
 
 春休み最後の土曜日。
 俺は、少しばかり用があって高村家へ来ていた。完全に私用だったので、ひとりだ。
 さっさと用を済ませ、さあ帰ろうというところで、姉貴に捕まった。
「洋一。ちょっとつきあって」
 有無を言わさず拉致られ、ついでに車まで運転させられ、しかも途中で美樹をピックアップし、郊外にあるファミレスへとやって来た。
 適当に注文し、まずは姉貴が口を開いた。
「たまには、姉弟三人だけで過ごすのもいいと思わない?」
「うん、いい」
 どうやら、姉貴と美樹の間ではこのことは決定事項だったらしい。そんなところへのこのこと俺が出向いたもんだから、これ幸いにと拉致ったのだろう。
「美樹は、忙しいんじゃないのか?」
「まあ、ちょっとだけ。まとめなくちゃいけない論文があるけど、大枠はできてるから、なんとかなるよ」
「そうか」
「このままがんばれば、助教授くらいにはなれるかしら?」
「さあ、それはどうかな。教授とか助教授とか、基本的に各学科で何人て決まってるから。空きがない限りはそうならないよ」
「ふ〜ん……」
「なれたらなれたでいいけど、とりあえず自由に研究できればそれでいいよ」
 殊勝な心がけだ。
「学者先生になるのは美樹よりも洋一だと思ってたんだけど、美樹の方がそうなったわね。ああ、もちろん洋一もその端くれだけど」
「悪かったな、端くれで」
「拗ねないの」
「まったく……」
 いくつになっても俺は姉貴におもちゃ扱いされるんだろうな。
「ところで、今日はなんの用があって俺を拉致ったんだ?」
「人聞きの悪いこと言わないの」
「そうそう。本当に姉弟三人だけで過ごしたかったんだから」
 普段の言動が言動だから、どうも信じられない。特に姉貴は裏があると思ってかからないと、痛い目を見るからな。
 美樹だけなら、ある程度その思考を読めるから、対処もできる。
「そういえば、昭乃ちゃん、こっちへ引っ越してくるんだってね」
「ん、ああ。夏くらいをめどに考えてるらしい」
「やっぱり、こっちの方が都合がいいからね」
「姉貴にもなにかと面倒をかけるかもしれないけど、よろしく頼むわ」
「別にそんなこと改めて言わなくてもいいわよ。そういうことは、当然のことなんだから」
「でも、一応な」
 愛や沙耶加にも面倒はかけるだろうけど、行動力を考えると姉貴に一番面倒をかけるはずだ。それは今までを見てもよくわかる。
「昭乃ちゃんは、初産だから、あんたがしっかり支えてあげないとね」
「それはもちろん。昭乃は幸いなことに、仕事場も一緒だから、目も届きやすいし」
「そうね」
 ただ、一緒の職場だからこそ、あれこれ言われるのだ。
 実際、産休に入ったら、間違いなく言われる。俺はなにを言われてもいいけど、昭乃にあれこれ言うのは勘弁してほしい。
 もっとも、俺たちの関係に気付いてる先生や生徒もそれなりにいる。だから、あまり深刻な状況にはならないだろう。
「あ〜あ、私も子供ほしいなぁ。ね、お兄ちゃん。改めて考えてみない?」
「考える余地なんかないだろうが。というか、今更そんな話するな」
「私は今も昔もお兄ちゃんひと筋なんだから」
「それとこれとは話が別だ」
「ケチ」
 まったく、いったい何歳だと思ってるんだか。
「子供といえば、お姉ちゃんたちにはそういう予定はないの?」
「ないわね」
「ほしいとは思わないの?」
「ん〜、とりあえずふたりいれば十分ね。増えれば増えただけ楽しくはなるだろうけど、その分だけ苦労も増えるし」
「そうなの、お兄ちゃん?」
「そりゃそうさ」
「でも、お兄ちゃんはあまり気にしてないみたいだけど」
「気にしてないわけじゃない。本当に気にしてなかったら、今頃大変なことになってた」
「そっか」
 確かに、愛奈と愛理、紗弥が生まれてからも気にしていなかったら、今頃どうなってたか。考えるだけで恐ろしい。
「和人さんは、どう考えてるの?」
「和人? そうねぇ、最近はちゃんと話したことないわね。私も和人も、和輝が生まれてからはもういいかな、みたいなところがあったから」
「なるほど」
「ただね、洋一たちを見てると、子供が多いのもいいかな、とは思うわ。やっぱり、楽しそうだし」
「お兄ちゃんたちは、ちょっと特別だと思うけど」
「ま、それはね。でも、美樹だってそう思うでしょ?」
「うん」
「だから、まったくその気がないわけでもないのよ。まあ、年齢的にそろそろギリギリかなとは思うけど」
「姉貴なら、全然問題ないんじゃないか?」
「それはど〜ゆ〜意味よ?」
「ようは、気の持ちようだと思うってことだ。世の中には姉貴よりも年が上でも、出産してる人はいくらでもいるんだからさ」
「まあ、そうかもしれないけど」
「その気があるなら、本気で考えてもいいんじゃないか?」
「それはおいおいね」
 姉貴たち夫婦のことをとやかく言うつもりはさらさらない。というか、今はそれどころじゃないし。
「でもさ、もし子供ができて、その子が女の子だったら、また洋一に獲られちゃうかもしれないのよね」
「ああ、うん、それはあるかも」
「……別に獲ってないだろうが」
「獲ってるわよ。美沙はもう完全に洋一のものだし。私や和人がなにを言っても全然言うこと聞かないし」
 それを言われるとなにも言い返せない。
 だけど、それも俺が悪いわけじゃない。言ってしまえば、勝手に、なんだから。
「美沙ちゃんは、本当に子供の頃からお兄ちゃんひと筋だからねぇ。いくら叔父と姪の関係とはいえ、かなり不思議なことだと思うよ、実際」
「ようはあれよ。私や和人は、親の責任としてあれこれ言わなくちゃいけないんだけど、洋一にはそんなのは関係ない。だから、美沙にとっては洋一は単なる叔父ではなく、自分に優しくしてくれる叔父なのよ」
「なるほどね」
 好き勝手言いやがって。
「あのさ、姉貴」
「ん?」
「そういう状況を作り出した要因のひとつには、姉貴が俺のことをあれこれ言ったこともあると思うんだけど」
「ないとは言わないけど、実際、それを言われたことがどれくらい影響してるかはわからないでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「いずれにしても、愛娘を獲られた母親としては、複雑な心境なのよ」
 そう言って姉貴は笑った。
「ただね、洋一なら美沙を本当の意味で不幸にはしないとも思ってるのよ。普通にイメージできる幸せを手に入れられるかはわからないけど、少なくとも不幸にはならない。だから複雑なの」
「そうだね。それはあるかもしれないね」
「そのあたりは、美樹の方が気持ちはわかるんじゃない?」
「よくわかるよ。なんたって、美沙ちゃんたちの『先輩』だからね」
 そういうことを偉そうに言うな。
 本当に美樹は変わらないな。
「そういえば、美樹」
「うん?」
「うちに来た時に、たまに美沙とふたりきりでいるけど、主にどんなことを話してるの? 前から気になってたのよね」
「いろいろだよ。私のことや美沙ちゃんのこと、本当にいろいろ。でも、一番多い話題はやっぱりお兄ちゃんのことかな。お兄ちゃんのことになると、時間がいくらあっても足りないくらいだし」
「だろうとは思ってたけど、本当にそうだったとはね」
 姉貴も多少呆れ気味だ。そりゃ、自分の娘と妹が揃って弟のことを話題にしてるんだから、当然だな。
「お姉ちゃんがそう思ってる以上に、愛お姉ちゃんたちは複雑だろうね」
「そりゃそうね。なんといっても、自分の娘が実の父親に対して恋愛感情を持ってるわけだから」
「特になっちゃんは本気だから」
「あの子は、ある意味では美樹以上かもしれないわね。ほんの少しなにかがずれたりしたら、きっとなにもかも捨てて洋一との関係を進めようとするくらいにね」
「私もそれくらいの覚悟はあるけど」
「あるだろうけど、それを実際やろうとは思ってないでしょ? 特に世間をいろいろ知った今となっては」
「うん……まあ……」
 精神的に成長したとも言えるんだろうけど、ま、美樹にとっては複雑な心境だろうな。
「なっちゃん、年々愛ちゃんに似てくるから、洋一としてもあれこれ考えちゃうでしょ?」
「あれこれってなんだよ?」
「このまま大人になったら、愛ちゃんがふたりいるみたいな錯覚に陥るとか。でも、なっちゃんは愛ちゃんよりも若いわけだから、よからぬことを考えてしまったりとか」
「……それはない」
「微妙に間が開いてたけど」
 よからぬことを考えてしまうかどうかはわからないが、実際、愛がふたりいるような錯覚に陥る可能性はあるだろうな。
 今でもたまにそういうことがある。もちろん、それはいわゆる既視感みたいなものだから、問題はないのだが。
 ただ、これから先もそれだけで済むという保証はどこにもない。
 だから、はっきりと否定できなかったのだ。
「それでもね、私も洋一の気持ちがわからないでもないのよ」
「どういう意味だ?」
「少し意味合いが違うかもしれないけど、自分の娘が可愛くて手放したくないという気持ちよ。私だって、美沙はカワイイし、できることならずっと側に置いておきたい」
 自分の息子や娘のことを可愛く思っていない親など、ほとんどいない。そうなると、程度の差こそあれ、姉貴みたいに考えるのは当然だろう。
「ただ、それはあくまでもそう思ってるだけだから。それを本人に言うことはないし、誰かと結婚することに反対もしない。それがあの子の幸せに繋がるなら、それが一番いいわけだからね」
「お兄ちゃんは、なっちゃんたちにはそこまで割り切れてないんだよね?」
「そういうわけでもないけど。ただ……」
「ただ?」
「愛奈に対する感情だけは、未だに自分でも理解できてない」
「それって、どういうこと?」
 姉貴も美樹も、首を傾げる。
「正直に言えば、娘たちの中で愛奈だけは特別な存在だと言える」
「うん。それで?」
「それはたぶん、愛奈が愛に似ているからでもあると思ってる。だけど、愛は愛。愛奈は愛奈だ。そのあたりの区別はできてるし、理解もできてる」
「うん」
「こう言うとふたりともどう思うかわからないけど、ある意味では愛奈に愛を重ねて、もう一度好きになってしまった、という感じなのかもしれない」
「ん〜、難しいわね。それって結局、なっちゃんじゃなくて愛ちゃんを見てることになるし」
「だから、俺も理解できてないんだって」
 理解できてれば、こんなこと言わない。
「ま、確かになっちゃんはカワイイし、性格もいいからね。愛ちゃんに似てるということを差し引いたとしても、男の人なら好きになってしまうだろうし」
「うん、そうだね」
「それに、なっちゃんの場合は洋一に対して、真剣に想いを伝えようとしてるから。父と娘という関係だから冗談ぽく聞こえてしまうけど、本人は全然そんな風には思ってないだろうし」
 そんなの、言われなくてもわかってる。
「まあ、なっちゃんとの問題は、洋一となっちゃんにしか解決できないわけだから、私たちがあれこれ言ってもしょうがないのよね」
「私たちにできることは、応援くらいだから」
「それだけで十分だって」
 なんだかんだ言いながらも、姉貴も美樹も俺のことを考えてくれる。
 だからこそ俺は、このふたりの話には耳を傾けるし、俺もなにかあったらなんでもするつもりだ。
「さてと、そろそろ次へ行きましょうか」
「……次? これで終わりじゃないのか?」
「当たり前じゃない。久しぶりの三人だけの時間なんだから、もっともっと有意義に使わないと。ね、美樹?」
「そうだよ、お兄ちゃん」
 やれやれ。
 しょうがない。腹をくくるか。
「で、どこへ行くって?」
 
「ん〜……」
「ん〜……」
 夜。ダイニングのテーブルで、愛果と紗菜が唸っていた。
「なにしてるんだ?」
「あ、パパ」
「あのね、中学校に入ったらなにをしようかって考えてたの」
「なにを?」
「部活のことだよ」
「ああ、部活か」
 確かに、小学校ではクラブも適当だったけど、中学に入るとそれもしっかりとしたものに変わる。興味を惹くようなものも結構あるだろうから、考えてしまうのだろう。
「パパは、なにに入ってたの?」
「中学の時は、最初はサッカー部に入ってたんだけど、途中でやめたんだ。で、それからはずっと帰宅部だ」
「ふ〜ん……」
 特別サッカーが好きだったわけではなく、なんとなくなにかに入らなければならないと思って、それで比較的よさそうだったサッカー部に入っただけなのだ。だからかもしれないけど、中途半端にしかできずに、やめてしまった。
「なにか興味のあるものに入るのが一番だとは思うけど」
「興味のあるものかぁ……」
「う〜ん……」
 悩む気持ちもよくわかる。俺だって中学に入る時にはあれこれ悩んだ。ただ、悩みすぎて結局は適当にしか決められなかったわけだけど。
「ママは、なにに入ってたの?」
「ん、ママか。ママは……」
 そういや、愛はなにに入ってたんだっけ? 確か、入学した時にはなにか入ってたけど、俺がサッカー部をやめるのとほぼ同時に、部活をやめたっけ。
 で、肝心の部活だけど、あれは確か──
「確か、料理部だったかな」
「料理部? そんなのあったんだ」
「なんだ、今はないのか?」
「うん。ほら」
 説明会で渡された案内には、確かに料理部の名前はなかった。どうやら、廃部、もしくは休部になったらしい。
「愛ママは、ずっと続けてたの?」
「いや、俺がサッカー部をやめたのとほぼ同じ頃にやめてる」
「やっぱり、パパと一緒がよかったんだね」
 今思えば、そうだったんだろうな。あの頃はそこまでのことは考えてなかったけど。
 それでも、いつも一緒にいる愛が一緒にいてくれるのは、単純に嬉しかったのを覚えている。
「沙耶加ママは?」
「沙耶加は、陸上部だよ」
「陸上部? ママが?」
 紗菜は、自分の母親がまさか陸上部に入っていたとは思わなかったらしい。まあ、今の沙耶加しか知らなければ、当然のことかもしれない。
「沙耶加は見た目よりずっと運動神経がいいんだからな」
「そうなんだ」
 いくら説明したところで、実際そういう姿を見せなければ、本当の意味では理解できないだろうな。今の沙耶加は、おっとり感が強いから。
「愛果は、とりあえずなにがいいと思った?」
「えっとね、わたしはこれ」
「テニス部か」
「うん」
 テニスというスポーツは、華麗なスポーツ、みたいなイメージがあるから、憧れるんだろうな。実際はやってみると結構難しいし、泥臭いスポーツだ。
「愛果がテニス部に入りたいのは、ウェアがカワイイからだよね?」
「それだけが理由じゃないけどね」
 ……なるほど。そっちが理由か。
「テニスウェアってカワイイから、着てみたいんだ」
「テニスがしたいわけじゃないんだな」
「テニスもしたいけど、どっちかといえば、パパに見てもらいたいからかな」
「……それが理由か」
「だってだって、やっぱりパパにはカワイイ姿を見てもらいたいし」
 こういうところは、揃いも揃って同じだ。
 愛奈はかなり極端だけど、愛理も愛果も似たようなものだ。
「紗菜はどうなんだ?」
「んと、わたしはこれだよ」
「演劇部か」
「うん」
「まさかとは思うが、いろいろな衣装を着られるから、というだけで決めてないよな?」
「えっと……」
 目をそらすな。
「まったく、揃いも揃って……」
 まあ、ふたりとも女の子だから、そういう風に考えてしまうのもわかる。
 だけど、その対象が俺だというのは、正直どうだろうか。
「なあ、愛果、紗菜」
「ん?」
「なぁに?」
「どうしてそこまで俺にこだわるんだ? 俺はどうやったって、おまえたちの父親なんだから」
 あまり意味のある質問ではないが、一度くらい聞いておきたい。
「それはあんまり関係ないかなぁ」
「うん、そうだよね」
「自分の父親でも誰でも、好きになってしまったらしょうがないと思うの」
 それはそうだと思うけど。
「それに、わたしも紗菜も、ずっとパパのことを見てきたから。パパがどれだけ優しくて、どれだけカッコイイか、知ってるし」
「あとは、お姉ちゃんたちもパパのこと好きだからかな。お姉ちゃんたちが好きになったということは、そういう理由があったとはずでしょ?」
「まあ、そうだな」
「そのことにわたしも愛果も気付いたの。だから、好きな人はパパじゃないとダメなの」
 なんとなく理路整然としてる気もするが、実際はそんなことはない。
 もちろん、ふたりがそう考えていること自体を否定する気はさらさらない。ただ、理由を聞いておきたかっただけだ。
「そのこと自体を否定はしないけど、ほどほどにしてくれよな。うちにはいろいろな意味で恐い存在が多いから」
「あはは、特にママは恐いもんね」
「わかってるなら、余計やるなよ」
 実際、愛果と紗菜は愛奈たちみたいにはならないと思ってる。なぜなら、やっぱり愛奈たちの存在が大きいからだ。
 現状ではどうやったって愛奈たちにはかなわない。となれば、必然的に俺に対するアプローチも減ってくる。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「今日は一緒にお風呂に入ろうよ」
「は?」
「だからぁ、一緒にお風呂に入ろうよ。最近、一緒に入ってなかったし」
「まあ、そうだけど」
「ね、たまにはいいでしょ?」
 ふたりとも期待に満ちた目で俺を見てる。
 はあ、しょうがない。
「今日は特別な」
「うんっ、ありがと、パパ」
「だからパパ、大好き」
 
 次の日。
 朝食を終えると、愛理と紗弥が部屋へやって来た。
「パパ。ちょっといい?」
「どうした?」
 ふたりは、いつもより幾分真剣な表情で中へ入ってきた。
「パパに相談があるの」
「相談? ふたりともか?」
 ふたりは揃って頷く。
 どうやら、本当に相談があるらしい。
「わかった。とりあえず、そこに座って」
 ふたりを椅子に座らせ、俺も向き直る。
「で、相談の中身はなんなんだ?」
「あのね、私も紗弥もこの四月から二年生でしょ? そうすると当然、進路のことでいろいろ言われるようになるから」
「つまり、進路相談みたいなものか」
「うん」
 確かに、二年になった途端、進路のことをうるさく言われるようになる。俺も言う立場にいるから、ふたりの気持ちもよくわかる。
「相談するのはいいけど、とりあえずのふたりの希望はあるのか? それがあるのとないのとでは全然話が違うからな」
 ふたりは顔を見合わせた。
「大学には行くつもりなのか?」
「うん、一応そのつもり」
「私も。行かないよりも行った方が選択肢は広いだろうから」
「なるほど」
 そのあたりにはすでに結論が出てるんだな。
「なら、問題は大学へ行ってなにをするか、か」
「学部も学科もたくさんあって、どれが自分にあってるのかわからなくて」
「だから、パパにいろいろ訊いてみようと思って」
 この家だと、俺に訊きに来るのが一番手っ取り早い。これでも教師だし。大学のことを聞くだけなら、愛や沙耶加でもいいけど。
「これはおまえたちだけじゃなく、俺が進路相談をしてきたほぼ全員に言ってるんだが、大学に入る前から自分にあったものを見つけるのは不可能だ。なんといっても、実際大学に入ってないんだから。それなのに、話を聞いたり、見たりしたくらいで自分にあってるかどうかなんてわかりっこない。もし仮にわかってたとしたら、進路相談の必要はない」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「方法はいくつかある。正攻法としては、それでもやっぱり自分にあってるかもしれない学部、学科を選ぶことだ。時間はまだあるし」
「うん」
「ほかは、とりあえず大学に入ってしまうことだな。学部や学科はあまり深く考えずにな。そうすると、大学に入ってから自分にあっていたかどうか、わかるから」
「確か、パパはそうしたんだよね?」
「ああ。ただ、その方法はあまり進めない」
「どうして?」
「早いうちに自分にあったものが見つかればいいけど、もし見つからなければそれを続けなくちゃいけないわけだし」
「あ、そっか。もしそれがかなりの妥協を受け入れた上での学科だったら、結構苦痛かもね」
 そういう連中は、やめるか適当になるか、どちらかだ。
 少なくともうちの娘たちにはそうはなってほしくない。
「お姉ちゃんと美沙ちゃんは、どうやって決めたのかな?」
「ん、あのふたりは、最初から自分がなにをやりたいか決めてたからな。愛奈は、愛と同じように家でできる仕事に就きたいから。美沙は、先生になりたいから、そのために大学へ行く」
「そっか」
「別に今すぐに決める必要はないんだぞ。二年の間に決められれば、十分だ」
「うん、そうする」
 俺も人のことを言えるような決め方をしてないから、このくらいでいいだろう。
 それに、まわりがあれこれ騒がしくなってくれば、今以上に真剣に考えるようになるだろうし。その時に焦らなければ、大丈夫だ。
「相談は、それだけか?」
「うん」
「じゃあ──」
「あとは、パパとのスキンシップだね」
「は……?」
「だからぁ、父娘のスキンシップだよ。大事なんだからね、そういうの」
「いや、大事なのはわかるけど」
「じゃあ、いいよね」
 そう言ってふたりは、近寄ってくる。
「……もう勝手にしてくれ」
 ここであれこれ言っても聞くふたりじゃないしな。
「小さい頃は、よく膝に座らせてくれたよね」
「ん、ああ。おまえたちはいつもふたり一緒だったからな。その方が楽だったし」
「久しぶりに、膝に座ってもいい?」
「ダメだと言っても、座るんだろ?」
「うんっ」
 重いだなんて言ったら泣くかもしれないけど、さすがにあの頃に比べればはるかに重くなってる。彩音や紫織を膝に座らせるのとは全然違う。
「やっぱりパパの側が一番安心できるなぁ……」
「ここが私のいるべき場所、という感じだよね」
「おまえたちは、高二にもなってこんなことをしてることに対して、どう思ってるんだ?」
「ん、別にどうとも思ってないよ。何歳になったって、パパと一緒にいたいし」
「そうだよ。それに、年齢によってあれがダメ、これがダメという考え方は、あくまでも一般論でしかないんだから。例外はあって然るべきでしょ?」
 なまじふたりとも頭は悪くないから、弁も立つ。最近は逆に言いくるめられそうなこともしばしばある。
「ねえ、パパ。パパにとって、お姉ちゃんはやっぱり特別なの?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「だって、誰の目から見ても、パパのお姉ちゃんに対する態度は違うから」
 そう見えるのは当然か。俺にも自覚がある。
「……そうだな。確かに愛奈は特別だ」
「それは、どうして?」
「ん、やっぱりはじめての子供だしな。俺も愛も、愛奈が生まれて本当に喜んだし、嬉しかった。それに、愛奈は俺がずっと見てきたから」
「……でも、私も紗弥も、お姉ちゃんとはひとつしか違わないよ?」
「そうだな。でも、実際そのひとつの違いは大きいんだ」
「…………」
「あとは、愛奈が愛に似てるのが大きい。これはどうやったって変わらないことだが、俺にとっての一番は、昔も今もこれからも、愛なんだ。だから、その愛に似ている愛奈を特別扱いしてしまうのは、あまりいい言い方ではないかもしれないけど、しょうがない」
 愛理も紗弥も、そのあたりのことはわかっていたのだろう。なんといっても、ずっと俺たちのことを見てきたのだから。ただ、口で説明されたことがないから、上手く処理できていないのかもしれない。
「ただな、それはあくまでもあえて言えばの話だ。おまえたちに順番なんてつけてないし、つけられない。みんな俺の大事な娘だからな」
「うん」
「だから、あまり気にするな」
 気にするなといっても、実際は気にするだろうな。でも、できるだけそうしてくれたら、こっちも気が楽になる。
「あ〜あ、私もママの娘だから、結構似てるとは思うんだけどなぁ。それでもやっぱりお姉ちゃんにはかなわないのかなぁ」
「おまえにしろ愛奈にしろ愛果にしろ、どこかしら愛に似てはいる。ただ、その中で愛奈が特に似てるというだけだ。おまえや愛果を見ていて、たまに愛と錯覚することもあるからな」
「そっか」
「パパ、私は?」
「紗弥は、沙耶加によく似てる。見た目だけで言えば、同じ頃の沙耶加とそっくりだ」
 これは前にも言ったことだ。見た目は確かに似ているが、性格は違う。
「私もなっちゃんみたいになれるかな?」
「別に愛奈になる必要はないだろ。紗弥は紗弥らしくあればいい」
「でも、それだと今以上にパパに愛してもらえないから」
「もし紗弥が愛奈そっくりになったら、俺はただ単に戸惑うだけだぞ。今以上になることはほとんどないな」
「ん〜……難しいなぁ」
 憧れるのはいいけど、同じを求めるのはどうかと思う。
 自分らしいところがなければ、それは人形と同じだ。娘たちには、そんな風になってほしくない。
「とりあえず、おまえたちはおまえたちらしくあればいいんだよ」
「うん、そうする」
「あ、でも、パパ。もっと好きになってもらうために、いろいろやるのはいいよね?」
「いろいろってなんだ?」
「いろいろは……うん、いろいろだよ」
 紗弥は、ほんのり頬を染め、そう言う。というか、なぜに頬を染める?
「そうだ。パパ」
「ん?」
「私ね、最近胸が大きくなったんだ。愛理より大きいんだよ」
 そう言って胸を押しつけてくる。
「大きいって、ほとんど変わらないじゃない」
 と、愛理も反論する。
「ほとんど変わらないとしても、私の方が大きいのは事実だからね」
「むぅ……」
「この一年で結構大きくなったし、これでまた一歩、ママ並のプロポーションに近づいたね」
「じゃあ、あとはそれを維持するだけだな。ま、それが一番難しいんだろうけど」
「そのあたりのことは、ママに聞くから大丈夫」
「そうしてくれ」
 そういうことを気にするのは、やっぱり女の子だからだな。最近は愛奈も気にしてるみたいだし。
「そろそろ話は終わりか? 終わりなら、俺はやることがあるからできればどこかへ行ってもらいたいんだが」
「ヤだ。もっとパパとスキンシップするの」
「ヤだって……子供じゃあるまい……」
「いいよ、子供で。子供でいればパパと一緒にいられるなら、そっちの方がいい」
 こういうところは、母娘ともにそっくりだ。
 愛も沙耶加も、娘が側にいる時も構わず迫ってくるからな。それを見ていれば、娘たちがこんな風になるのもしょうがない。
「パパ……」
「大好き……」
 しょうがない。もう少しだけ娘たちの相手をしようか。
 たまにはそういうのもいいだろう。
 
 昼飯を食べ、しばしのんびりしていると、香織と紫織がやって来た。
「おとーさん」
「ん、どうした?」
「今日ね、紫織ね、これ、つくったの」
 そう言って紫織は、小さな包みを俺に渡してきた。
 なんのことかと香織を見ると──
「昨日ね、テレビで紫織くらいの女の子がお菓子を作ってたのよ。それを見て紫織も触発されちゃって、自分も作るんだって聞かなくて」
 なるほど。つまりこれはお菓子というわけか。
「じゃあ、早速食べてみるよ」
「うん」
 包みを開け、中を見る。
 入っていたのは、クッキーだった。特別焦げていたり、形がおかしいものはない。どうやら香織がずいぶんと手伝ったみたいだ。
「いただきます」
 一口大のクッキーを口に運ぶ。
「…………」
「…………」
 俺に持ってきたからには、それなりのものを持ってきたのだとは思っていたけど、これがまたなかなかどうして、結構旨かった。
「紫織。がんばったな。とっても美味しいよ」
「ホント?」
「ああ、本当だよ」
「えへへ」
 紫織は香織に似てとても器用だから、こういうお菓子作りでもちゃんと教えてやれば、すぐにできるようになる。今回のははじめてだったから香織が手伝ったのだろうけど、次からはだいぶひとりでできるはずだ。
「紫織、おいで」
 紫織を膝に座らせ、頭を撫でてやる。
「やっぱり紫織も女の子だよな。お菓子作りに興味を持つんだから」
「それはそうよ。紫織は学校でもクラスで特に女の子らしい女の子なんだから」
「こうなると、成長した時が楽しみでもあるし、恐くもあるな」
「そうね」
 紫織が高校生くらいになった時、いったいどうなってるのか。容姿は香織譲りのものがあるし、器量もいい。今のままならきっと成績だって悪くないだろう。
 本当に我が娘ながら、末恐ろしい。
「でも、紫織もなっちゃんと一緒で、とにかく洋一のことが好きだから。邪険にされることはないと思うわ」
「そう願いたいものだ」
 愛奈たちが今の年までファザコンなのは、偶然でしかない。だから、紫織もそうだとは言い切れない。
 もっとも、父親としては多少複雑な想いもあるんだけど。
「紫織が香織みたいに成長したら、それはそれで大変だろうな」
「あら、それはどういう意味かしら?」
「香織みたいに誰かひとりを好きになれるならいいけど、そうじゃなかったら、言い方は正しいかどうかわからないけど、ある意味では『魔性の女』みたいな感じになるかもしれない」
「まあ、可能性はあるかもしれないわね」
「だからといって、愛奈みたいになるのも、考えものだけどな」
「複雑な心境ね」
 そう言って香織は笑う。
「紫織」
「ん?」
「紫織は、おとーさんのこと、どう思ってるの?」
「おとーさんのこと?」
「ええ」
「ん、大好きだよ」
「どうして大好きなの?」
「んと……やさしいし、カッコイイし」
「そう」
 紫織にそう言わせ、香織はほらね、みたいな顔をしてる。
「じゃあ、紫織は大きくなったらなにになりたい?」
「ん〜……」
 紫織は、俺の顔をじっと見つめる。
「おとーさんとおなじがいい」
「それって、学校の先生ってこと?」
「うん」
「だってさ」
 無理矢理言わせたわけではないから、本当にそう思ってるんだろうな。
 しかし、紫織までそんな風に思っていたとは。
「紫織はいつからそんなことを言ってるんだ?」
「いつから、ってことはないわよ。気がついたら、そうなってただけ。向こうにいた頃は毎日のように洋一のこと話してたからかも」
「なるほど」
「ただね、紫織の本音としては、とにかく大好きなおとーさんと一緒にいたいだけなのよ。学校の先生というのも、その方が一緒にいられる時間が長くなるから。そのあたりはちゃっかりしてるわね」
「そりゃ、おまえの娘だからだろ」
「あら、失礼な物言いするわね。あたしはそんなこと言った覚えないわよ。それに、誰もなにも言わなくてもそう考えてるわけなんだから、あたしとかそうじゃないとか、そういうのは関係ないわ」
 確かにそう考えると、紫織も筋金入りかもしれない。
「紫織は、そんなにおとーさんのことが好きなのかい?」
「うん、大好き」
「そうか。おとーさんも紫織のことは、大好きだよ」
「えへへ」
 正直言えば、俺は娘たちを甘やかしすぎなんだろうな。
 普段も怒るなんてことはほとんどないし。怒るというか、しつけはそれぞれの母親に任せきりだ。
 だから、余計に娘たちは俺にべったりになっているんだ。
 俺も原因はわかってはいるんだけど、どうしても娘たちが可愛くて厳しくできない。
「よし、紫織。おとーさんと一緒に遊びに行くか?」
「うん」
「遊びにって、どこへ行くつもりなの?」
「ん、公園だよ。今日は天気もいいし、外で遊ぶにはちょうどいいだろ?」
「確かにそうね。じゃあ、あたしも一緒に行こうかしら」
 というわけで、俺たちは公園へとやって来た。
 家を出る時にいろいろ文句を言われたが、とりあえず忘れることにした。
 公園は案の定、家族連れが多かった。
「遊具はみんな使われてるわね」
「しょうがないさ。これだけのいい天気なんだから」
「それはそうだけど、どうするの?」
「こういう時は、慌てず騒がず、のんびりしてればいいんだよ」
 そう言って俺は少し先にある芝生を指さした。
 この公園の芝生は立ち入り自由で、寝転がってのんびりすることもできる。
「ほら、紫織。ごろん、と寝転んでごらん」
「うん」
 その場に寝転がると、芝生の適度な柔らかさがとても心地良かった。
 さらに、暖かな陽差しが天然の布団となり、そのまま目を閉じれば眠れそうな感じだった。
「おとーさん」
「どうした?」
「紫織ね、おとーさんにギュッてしてほしい」
「じゃあ、こっちへおいで」
「うん」
 紫織は、そのままこちらへ近寄ってくる。
 俺は、そんな紫織をしっかりと抱きしめてやる。
 小さな紫織は、俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「なあ、香織」
「なに?」
「俺さ、もし紫織に彼氏とかできたら、どうすればいいんだろうな」
「それは洋一が決めることでしょ。あたしはなんとも言えないわ」
「たぶん、今以上に紫織を手放したくなくなってるだろうからな。厳しいな」
「ふふっ、心配しなくても紫織に彼氏なんてできないわよ。紫織にとっては、洋一が常に一番なんだから」
「だけど、どうなるかはわからないだろ?」
「そうかもしれないけど、実際、なっちゃんたちは今まで彼氏も作らず、パパだけを見てきてるじゃない。それと同じよ」
 まだ小学生だからなのかどうかはわからないけど、俺にとって紫織は確実に特別な存在になっている。ある意味では、愛奈に近いものがある。
 どうしてそうなったのかはわからない。おそらく、娘たちの中で一番おとなしいからかもしれない。黙って俺の側にいる様子が、どうしようもなく放っておけないのだ。
「香織としては、どうあってほしいと思ってるんだ?」
「後悔さえしなければ、どうあってもいいわ。あたしもそういう人生を送ってきてるわけだから。なにかを選ばなくちゃいけない時に、本当に大事なものを選べれば、たとえその先になにがあっても、最後には幸せになれるはずだから」
「今の香織のようにか?」
「ええ。あたしもね、あの時に洋一に告白して、抱かれて、本当によかったと思ってる。もしそのどちらもなかったら、きっと今よりもつまらない人生を送っていたはずよ」
「そっか」
 香織の話を聞きながら、紫織の髪を撫でる。
「仮にあの時に洋一に告白していなくて、なおかつほかの誰かと一緒になっていたら、たぶんだけど、長くは続かなかったと思うの」
「なんでだ?」
「自分で言うのもなんだけど、あたしってこんな性格じゃない。こんな性格のあたしをちゃんと受け止めてくれる人は、そう多くはないと思うのよ」
「そのあたりは人それぞれだとは思うけどな」
「ありがと。洋一はちゃんとあたしを受け止めてくれてるからそう言ってくれるけど、ほかの人は違うのよ。実際、高校の時につきあってた連中なんてそんなのばかりだったし」
 本当にそうだったかはわからないけど、少なくとも香織自身がそう思ってるなら、確かに上手くはいかなかっただろうな。
「ま、そういうあったかもしれないことなんてどうでもいいの。あたしは今、好きな人と一緒にいられて、カワイイ娘がいることに満足してるんだから。これ以上を望んでしまうと、この幸せを奪われてしまうわ」
 そう言って香織は穏やかに微笑む。
 こういう時の表情は、未だに見とれてしまう。
「だからというわけではないけど、紫織にもできるだけそうあってほしいの。あたしのワガママのせいで少なからず苦労させるとは思うけど、それでもあたしたちの娘として生まれてきたことを誇りに思えるようになってほしいの」
「そうだな」
 本当にそうなってくれれば、言うことはない。
「おかーさん」
「なぁに?」
「おかーさんも、おとーさんにギュッてしてもらいたい?」
 突然なにを言い出すのかと思えば、また微妙な質問を。
「ええ、おかーさんもしてほしいわ」
「じゃあ、おかーさんにかわる?」
「ふふっ、今はいいわ。今は、紫織がおとーさんにギュッてしてもらってるんだから」
「いいの?」
「おかーさんは、またあとでしてもらうから大丈夫よ」
「うん」
 またあとで、というのはいったいいつのことなんだろうな。
 なんか、意味深な笑みを浮かべてるし。
「というわけで、洋一」
「なにがというわけなんだ?」
「今日の夜は、うちへ来てね」
「どうしてもか?」
「ええ、どうしてもよ。それに、たまには紫織と一緒に寝てあげてよ」
 それを言われると断りにくい。
「ね?」
「わかったよ。なんとかしてみる」
 やれやれ。どうして俺は、こうも押しに弱いのかな。
「紫織。よかったわね。今日は、おとーさんが一緒に寝てくれるわよ」
「ホント?」
「ええ。だから、今日の夜は、たくさんおとーさんに甘えていいのよ」
「うんっ」
 誰との時でもそうなのだが、結局こういうことがあって納得してしまう。
 まあ、それを今更変えることなんてできないんだから、ある意味当然かもしれないけど。
「洋一。今日は、寝かせないでね」
 本当に、やれやれだ。
 
 春休み最終日。
 とはいえ、俺は普通に仕事がある。特に始業式や入学式の準備があるので、細々としたことが多かった。
 午前中のうちに大半のことを終え、昼食のために休憩を取る。
 弁当を食べ終え、息抜きに控え室を出ると、廊下の向こうから見知った顔が近づいてきた。
「ようちゃん」
「……なんでおまえがここにいるんだ?」
 それは、美沙だった。
 制服を着ているところを見ると、最初から学校へ来るつもりだったらしい。
「ようちゃんに会いたくなって、来ちゃった」
「……おいおい」
 思わず眉間を押さえてしまった。
「ひょっとして、休憩中?」
「ああ」
「じゃあ、ちょっと一緒にいてもいい?」
「ダメと言っても、いるんだろ?」
「うん。さすがようちゃん。わかってるね」
 美沙は、嬉々とした表情で言う。
「どこへ行こうと思ってたの?」
「屋上あたりだな」
「じゃあ、行こ」
 美沙に引っ張られ、屋上へ。
 外は、春特有の霞が若干残ってはいるが、とてもいい天気だった。
 気温もちょうどいい感じで、ひなたぼっこするにはもってこいの日和だ。
「ん〜、いい天気だね」
 屋上の真ん中で空を見上げ、グーッと伸びをする。
「これだけいい天気だと、仕事したくなくなるでしょ?」
「わかってるなら聞くな」
「あはは、ごめんね」
 クルッと振り返る。
「ね、ようちゃん」
「ん?」
「お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん。そんなに面倒なことじゃないよ」
「面倒か面倒じゃないかを決めるのは、俺だ」
「大丈夫大丈夫。本当に面倒なことじゃないから」
「……で?」
「恋人みたいなこと、したいなぁって」
「は? 恋人?」
「うん」
 なにを言うかと思えば。
「……それはそれで言いたいことは山ほどあるが、具体的にどんなことをするんだ?」
「ん〜、ピタッとくっついて離れないとか」
「いつもやってるじゃないか」
「それはそれ。いつもは心情が違うから」
「なら、いつもそう思ってればいいじゃないか」
「本当にそれでいいの? それをすると、ようちゃんが困ると思うんだけど」
「…………」
 確かに、そういうことを愛や沙耶加の前でやられると、俺が困る。
「だから、あまり深く考えない方がいいよ。それに、いくら私だってある程度は時と場所を考えるから」
「ある程度かよ」
「ね、いいでしょ?」
「まったく……」
 このまま拒み続けても意味はないだろうな。美沙も姉貴みたいにしつこいし。
「……どうしてほしいんだ?」
「まずは、抱きしめてほしいな」
「へいへい」
 いくら休み中とはいえ、いつ誰がここへ来るかわからない。
 というわけで、多少人目につかない場所で美沙を抱きしめる。
「ん……やっぱりようちゃんの腕の中は落ち着くね……」
「そうか?」
「うん。私が小さい頃からずっとそう。パパやママよりも、ようちゃんと一緒の方が落ち着くの。それだけようちゃんのことが好きだってことだよね」
「さあな」
 そう言ってくれるのは嬉しいけど、俺と美沙の関係を考えると複雑だ。
「たまに思うんだけど、どうして私はこんなにようちゃんのことが好きなんだろうって。ようちゃんは私の叔父で、私はようちゃんの姪。そういう関係だったらからこそ、つきあいも長いんだろうけど、でも、それは結局後付の理由だと思うんだ。こういう言い方が正しいかどうかはわからないけど、私はようちゃんを好きになるように生まれてきたんだと思う。じゃなかったら、こんなにようちゃんのこと、好きになんてなれてないと思うから」
 普通はそうだろうな。いとこ同士ならまだしも、叔父と姪の関係だ。そうそう問題のある関係にはならない。もちろん、皆無ではないだろうけど。
「でもさ、美沙」
「ん?」
「美沙が俺のことを意識するようになったのは、姉貴の影響もあるだろ?」
「ママの? ん〜、ないとは言わないよ。私がようちゃんのことを『ようちゃん』て呼ぶようになったのは、ママから言われたからだし」
 やっぱりそうだったか。
「でも、そうだね。ママからはずいぶんとようちゃんのことを聞いたかも。ママにとってようちゃんは、自慢の弟だったから。ことあるごとにそれを聞いてたから、いつの間にかようちゃんのことを意識するようになったのかもしれないね」
 となると、元凶は姉貴というわけだ。
 まったく、あと先考えないことをするから。
「俺はわからないんだが──」
「ん、なにが?」
「俺は、美沙が生まれた時から知ってるんだ。それこそ、姉貴が手が離せない時におむつを替えたこともある。そんな俺でも、やっぱりそういう対象になるのか?」
「それは関係ないよ。だって、私とようちゃんはそれだけ年が離れてるんだから。そうしたら、そういうことだってあり得るわけだし。それに、逆に言えば、私のすべてをようちゃんは知ってる、ってことになるわけだから」
 赤ん坊をそういう対象に見るような趣味は持ってないな。
「私としては、今の私のすべてを知ってもらいたいんだけどね」
「その話はまた今度な」
「また今度があるの?」
「さあ、どうだろうな。ただ、おまえとのつきあいはこれからもあるわけだから、可能性はゼロじゃないんじゃないか」
「じゃあ、それを期待しようかな」
 そう言って美沙は笑った。
「あ、そうだ。ようちゃんにひとつ聞いてみたいことがあったんだ」
「なんだ?」
「私って、ママに似てる?」
「姉貴にか?」
「うん。ママの昔のことを知ってる人には、よく言われるんだ。ママが高校生の頃によく似てるって。ママにその頃の写真を見せてもらっても、私にはどうもピンとこなくて。だから、ようちゃんに聞こうと思って」
「そうだな……実際、おまえは姉貴によく似てるよ」
「本当にそう思う?」
「ああ。ただ、それは見た目だけだ。性格は違う」
「どう違うの?」
「これは俺の立場的なものもあるんだろうけど、姉貴の場合は、誰からも慕われるような位置に常にいて、それがそのまま性格にも反映していた。まあ、もともとの性格もそんな感じではあったけどな」
「なるほど」
「で、おまえはといえば、姉貴ほどのカリスマ性は持ってない。性格も姉貴ほど強烈なものは持ち合わせていないし」
 それはどちらがいいかはわからないけど。
「性格については、おそらく和人さんの性格も引き継いでるからだろうな。足して二で割ったら、今のおまえの性格になった、と」
「確かに、パパはそんな感じだもんね。いつもママに引っ張られてるし」
「和人さんの性格を考えれば、それはしょうがないさ。だけど、姉貴は姉貴で和人さんのことをとても信頼してるから、たまに逆の立場になることもあるぞ」
「私たちの前ではほとんどないけどね」
 さすがに子供の前でそういう失態は犯さないだろうな。
「それでも、美沙は姉貴にそっくりだし、和輝は和人さんにそっくりだ」
「和輝は、うん、確かにパパみたいだね。私としては、もう少し積極的になれるといいと思うんだけど」
 強烈な姉の前にあっては、弟の存在など霞んでしまう。
 俺もかつて同じような経験があるから、よくわかる。
「ひょっとして、ようちゃん」
「ん?」
「ようちゃんが私に手を出してくれない理由のひとつって、それなの?」
「それってなんだ?」
「私がママに似てるっていうこと。私にママが重なるから、手を出せないとか」
「そんなこと、考えたこともないな。それ以前に、おまえに手を出そうだなんて、考えたこともない」
「むぅ、そんなにはっきり言わなくてもいいのに」
 むくれる美沙。
「私って、そんなに魅力ないかな?」
「あのなぁ、俺はひと言もそんなこと言ってないだろ?」
「そうかもしれないけど、でも、私はそんな風に思っちゃうんだもん」
 やれやれ。やっかいだ。
「これでもね、学年の中ではスタイルだっていい方だし、多少は大人びてると思うんだ。そりゃ、愛さんや沙耶加さんに比べたら全然お子様だけど」
「誰かとおまえを比べたことなんてない」
「だったら、どうして私を見てくれないの? 私はこんなにようちゃんのことが好きなのに」
 ダメだな。今は感情が高ぶっていて、俺の話をまともに聞けない状態だ。
「なあ、美沙。少し落ち着け」
「私は十分落ち着いてる。自分でなにを言ってるかもわかってるし、ようちゃんがなにを言ってるのかもわかってる」
「だったら──」
「でもね、理性だけじゃどうにもならないこともあるの。ようちゃんにだって、そういうことあったでしょ?」
「…………」
「ようちゃん」
 美沙は、真っ直ぐに俺を見つめる。
「ようちゃん……」
「美沙……」
 スッと目を閉じる。
 そんな美沙に、俺は軽くキスをした。
「ん……ようちゃん……このまま、最後までしよ……」
「それは、まだ結論が出てないだろ」
「でも……」
「もう少しだけ抱きしめていてやるから、今日はそれで我慢してくれ」
「……うん」
 いつまでこの関係を続けていけるかは、わからない。
 美樹の時と違って、美沙に対する俺の想いは、さらに複雑だから。
「もう一回だけ、キスしよ」
 なんとなくだけど、美沙との今の関係は、長く続かないような気がする。
 たぶんだけど。
 
「パパっ」
 勢いよくドアが開き、飛び込んできたのは、愛奈だった。
「どうした、そんなに慌てて」
「パパ、今日美沙と一緒だったでしょ?」
「美沙と? ん、ああ、なんか学校に来てたな」
「……まったく、すぐ抜け駆けしようとするんだから……」
「抜け駆けって……」
 愛奈は、真剣な表情で言う。
「私は美沙とは姉妹みたいに育ってきてるから、よくわかるの。美沙がどれくらいパパのことが好きなのかって。まあ、美沙本人も私にそういうことを言うけど。でも、たとえなにも言わなかったとしても、わかる。だって、パパのことだもん」
「……で、なにが言いたいんだ?」
「パパ、美沙とはなにもないよね? まさか、もう美沙としちゃったとか、そういうことないよね?」
「アホか。そんなことあるわけないだろうが。美沙は姪であり、教え子なんだぞ」
「教え子だったら、昭乃さんに手を出してる時点で説得力ないけど」
「…………」
 反論できん。
「本当に、なにもないよね?」
「ないって」
「……うん。とりあえずは信じてあげる」
 そう言って愛奈は、表情を緩めた。
「でもね、パパ。美沙絡みのことで私にウソをついても、絶対にバレるからね。これだけは絶対の自信があるから」
「そんなウソはつかないから、それは意味がないな」
「私としても、意味がない方がいいけど。それでもパパと美沙のことだから、用心に越したことはないから」
 つまり、俺の信用度はほとんどない、というわけか。
 確かに、今までの俺の行動を見てくれば、そうなってしまうのもわかる。自分で言うのもなんだけど、俺は愛を裏切り続けてるしな。
「ね、パパ。パパは美沙のこと、どう思ってるの?」
「どうって、姪だろ?」
「んもう、そういうことじゃなくて、美沙個人のことをどう思ってるのかってこと」
「姪で教え子でおまえたちのいとこだ」
「だからぁ、そういう事実を聞いてるんじゃないの。感情的なことを聞いてるの」
 もちろんわかってはいるのだが、あまり真面目には答えたくない。
「正直に答えてよ」
「正直に答えるのは構わんが、それに答えてなにがあるんだ?」
「なにもないけど、私がすごく気になるから」
「……知的欲求を満たすためだけか」
「それだけじゃないよ。美沙は、私の一番のライバルだから。だから警戒してるの」
 警戒するようなことか、それは。
 だけど、ここでなにも言わなければ、それはそれでやっかいなことになる。愛奈は、そういう性格だ。
「……そうだな。美沙は姉貴の娘だけあって、見た目は一歩も二歩も抜けてるものがある。実際、おまえたちの学年で言っても、三本の指に入ると思うぞ」
「……うん、それは私もそう思う。美沙は、年齢不相応に綺麗」
 俺としては、今までにそういうのを何人か見てきてるから、特別な感慨はない。もっとも、その最初が姉貴だったから、感慨が薄れているのかもしれないけど。
「性格は、姉貴ほど強烈なところはないし、比較的穏やかだから、男女問わず人は集まってくるだろうな」
「そうだね。すごく得な性格してると思う」
「あとは……そうだな。どんな理由があろうとも、あそこまで純粋に慕ってくれて、嬉しくはあるな」
「それは……そうだね」
「そういうことを総合的に考えるなら、俺は美沙を単なる姪だとも教え子だとも思ってない。もちろん、普段はそれだけだけどな。ただ、ふとした時に垣間見せる表情や仕草には、ドキッとさせられることもある」
「…………」
「それでも、美沙は俺にとっては姪であり教え子なんだ」
「でも、パパ」
「ん?」
「パパは、そういう風に思い込もうとしてるだけじゃないの?」
 ……確かにそうかもしれない。
 俺は明らかに美沙の中に『女』を見ている。でも、美沙は姪だからと、そう思い込もうとしている。
「……もし、パパが美沙に手を出しちゃっても、たぶんね、私はやっぱり、としか思えない。だって、今こうしてパパにしつこく訊いてる時点で、認めちゃってるってことだから。私もバカだとは思うけど、でもね、それはしょうがないの。だって、パパよりも誰よりも美沙のいいところを理解してるつもりだから」
「愛奈……もういいから……」
 今にも泣き出しそうな愛奈を抱きしめる。
「パパも、呆れちゃうよね。あれだけいろいろ言っておきながら、結局矛盾したこと言ってるんだから」
「別に呆れてなんかいない。誰かを本気で好きになるということは、そういうことだからな。理屈だけですべてを解決できたなら、きっと誰も人を好きにはなれないだろうな」
「パパも、そうだったの?」
「ああ。だからこそ、おまえにたくさんの妹がいるだろ?」
「そっか……そうだね」
 俺は人にあれこれ言えるほど偉くはない。ましてや色恋沙汰に関しては、言えるはずもない。俺自身が一番人にはやるなと言いそうなことを、実際やっているのだから。
「パパは、どうしてママと沙耶加ママを選んだの?」
「俺は、選べなかったんだよ。本当なら、愛か沙耶加のどちらかを選ばなくちゃいけなかったのにな」
「もし、どうしてもどちらかを選べと言われてたら、どっちを選んでたの?」
「愛だな」
 それはもうあの時からずっと変わってない。俺がこの世の中で選ぶとしたら、愛しかいない。
 それくらい俺は愛のことが好きだから。
「だからなのかな。ママがパパのことを信じていられるのも」
「かもしれないな。俺も直接確認したことはないけど」
「そっか」
 結局、俺は愛に甘えているだけなのだ。愛が本当の意味でなにも言わないから。
「……だけどね、もしパパが美沙に手を出しちゃったら、私、もう止められないと思う。なにがなんでもパパに抱かれようとすると思う。美沙だけなんて不公平だ、なんて言ってね」
「わかったよ。その時はその時で、覚悟しておくから」
「うん、覚悟しといてね」
 やっと、少しだけ笑顔を見せてくれた。
「でも、美沙も本気なんだなぁ」
「ん?」
「美香さんにことあるごとに言われてるのに、全然気にしてないみたいだし。まあ、それくらいでやめちゃうようじゃ、それは本気じゃないってことになるんだろうけど」
「それは美沙の性格も関係あるんじゃないのか?」
「それはもちろんあると思うよ。でもね、それだけじゃ説明できないことも多いから。とすると、美沙のパパに対する想いは冗談抜きで本物だってこと」
「それはそれで、あまり感心できないけどな」
 俺としては、そう言わざるを得ない。
「ねえ、パパ。どうして父娘で好きになっちゃいけないのかな?」
「別に好きになるのは構わないだろ」
「そうかもしれないけど、でもね、普通の人なら好きになった相手と抱き合いたいと思うだろうし、キスしたいと思うはず。そして、それが進んでセックスだってしたくなるはず。もちろん、それだけじゃないっていうのはわかってるよ。でも、パパだってママとそうだったでしょ?」
「まあ、それはな」
「それと同じで、私もパパのことを好きになって、抱きしめてほしくなって、キスしてほしくなって、そして、セックスしてほしくなってるの」
 確かに、その理論からいえば、そうなるな。それ自体は間違いじゃない。
「……どうしても、ダメ?」
「……そんなにしたいのか?」
「うん」
「…………」
 ああ、きっと俺は、最後には愛奈を拒めないんだろうな。
 今は拒める。だけど、これから先もそうできるかはわからない。自分のことだけど、わからない。
 いったい、どこで育て方を間違ったんだろうな。本当に。
「じゃあ、こうしよう」
「うん?」
「愛奈が二十歳になった時、もう一度よく考えてみてくれ。その時にも今と気持ちが変わっていなければ、俺ももう一度だけ考えるから」
「二十歳、か……うん、わかった。でもね、パパ。これは賭けてもいいけど、私のパパへの気持ちは絶対に変わらないよ。ううん、むしろ強くなってるはず。それだけは、覚えておいてね」
「ああ」
 結局、こうやって問題を先送りすることしかできないんだろうな。美樹の時と同じだ。
 だけど、美樹と違って、愛奈も美沙もまわりに諭してくれる相手が少ない。というより、それが自分の母親だから、余計にタチが悪い。
 俺が、なんとかするしかないんだろうけど。
「あ、そうだ。ひとつ忘れてた」
「なんだ?」
「パパ。これから先、私の前であまり美沙と仲良くしないでね」
「なんでだ?」
「じゃないとね、私もなにをするかわからないから。パパとしても、それは本意じゃないでしょ?」
「当たり前だ」
「だったら、必要以上に仲良くしないでね。約束だよ?」
「前向きに検討するよ」
 やれやれ。どうしてこう、次から次へとやっかいなことが出てくるんだろうな。
 しかも、実の娘と姪から。
「で、愛奈」
「ん、なぁに?」
「いつまでここにいるつもりなんだ?」
「いちゃ、ダメ?」
 いや、上目遣いに言われても困るのだが。
「ダメとは言わんが、俺としてはあまり余計ないざこざを起こしたくないんだ」
「だったら大丈夫だよ。私はママも沙耶加ママも気にしてないから」
 俺が気にするって。
「ん、パパ……」
 腕を背中にまわし、しっかりと抱きついてくる。
「……もう少しだけこうしていていいから、その代わり、今日はもうそれで終わりだからな」
「うん、ありがと、パパ」
 どういう状況であっても、愛奈が俺の大事な娘であることに変わりはない。
 できることなら、いつまでもこのぬくもりを感じていたい。
 そう思ってしまっても、誰も責めはしないだろう。
 自分勝手な言い分かもしれないけど。
 
 その日の夜。
 ベッドに入っていろいろ考えていたら、愛と沙耶加が不満げな声を上げてきた。
「んもう、洋ちゃん。私たちを放っておいて、なにを考えてるの?」
「そうですよ。考えるなとは言いませんけど、こういう時くらいはそういうのなしにしませんか?」
「ん、ああ」
 今考えなければいけないことではないから、素直に言うことを聞いておこう。じゃないと、なにを言われるかわかったもんではない。
 このふたりが揃うと、俺にはどうすることもできない。
「それで、いったいなにを考えていたの?」
「いや、たいしたことじゃない。気にするな」
「気にするわよ。洋ちゃんにはあまりにもたくさんの前科があるから」
「…………」
 前科とまで言われるか。まあ、それもしょうがないけど。
「それに、夕飯が終わったあとに愛奈とふたりきりだったみたいだし」
「そうですね。紗弥たちも洋一さんがいないって、騒いでましたし」
「まさかとは思うけど、愛奈となにかあったりしないわよね?」
「あるわけないだろ? それに、なにかあったとしたら、あの愛奈がいつも通りでいられると思うか?」
「ん〜、それはそうね。あの子なら、すぐに顔に出るわ」
「でも、なっちゃんのことを考えていたんですか?」
 あまり誤魔化し続けると、このふたりは気付くからなぁ。
 差し障りのない感じで、話した方がいいな。
「確かに、愛奈のことを考えていた」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 愛は、あからさまに面白くなさそうな顔を見せる。
 実の娘相手に、妬かないでもらいたいものだ。
「最近のなっちゃん、ずいぶんと積極的ですからね」
「あれは、ある程度は美沙の影響でもあると思うわ」
「そうですね。美沙ちゃんもずいぶんと積極的ですね」
「愛奈にしろ美沙にしろ、洋ちゃんに対する想いは娘とか姪とか、そんなことを些細だと思わせるくらい強いから」
「それに対する洋一さんも、実はまんざらでもなさそうですし」
 微妙に沙耶加の視線もきつい。
「あのなぁ、ふたりとも。ありもしないことをあれこれ言うのはやめないか? 話していてお互いにいい気分にはならないだろ?」
「そうは言うけど、その原因を作ってるのは、洋ちゃんなんだからね」
「俺かよ?」
「そうよ」
 言い切られてしまった。
「あのね、洋ちゃん。いくら愛奈や美沙が可愛くても、あのふたりは娘であり姪なんだから、絶対に手を出しちゃいけないんだよ」
「わかってるよ」
 やれやれ。こういう会話も、もう何度繰り返したことか。
「でも、私も洋一さんの気持ちが、少しだけわかる気がします」
「どうして?」
「まずは、なっちゃんですけど、なっちゃん、ここ数年でずいぶんと大人びてきましたから。洋一さんじゃなくても、男性なら惹かれてしまうと思いますよ」
「むぅ……」
「愛さんも、そのあたりに異論はないですよね?」
「まあね」
「それに、なっちゃんは愛さんの娘ですから。愛さんの同じ頃にそっくりだというのも、理由のひとつかもしれません」
 その理由は、愛にとっては不本意なんだろうな。
「美沙ちゃんも理由はほぼ同じですね。美香さん譲りの容姿と性格を持ち合わせていますから。これで男性が惹かれない理由がありません」
「美沙は……確かにそうかも」
「そんなふたりに一途に想われてるわけですから、洋一さんとしても悪い気はしないはずです」
 俺に賛同してるのかと思いきや、遠回しに責められてるわけか。
「ああん、もう、どうして洋ちゃんのまわりではこうもいろいろ問題が起こるのかしら」
「……それを俺に言われても困るのだが」
「洋ちゃんがもっとしっかりしてれば、ここまでのことにはならなかったんだから」
 それを言われるとなにも言い返せない。
「私は、今までも今もこれからも洋ちゃんだけを好きで居続けてるのに」
 そう言って愛は、俺の胸に頬を寄せた。
「悪い……」
「謝らなくてもいいよ。謝っちゃうと、すべてをなしにすることになるから」
「……そうだな」
 すべてをなしにしてしまったら、今ここに、沙耶加はいなかったかもしれない。
「どうも俺は、余計なことばかり言ってしまうな」
 沙耶加を抱き寄せながら、自嘲する。
「そんなこと、些細なことです」
「そうそう、些細なことだよ」
「そんな、あったかもしれないことなんて、どうでもいいじゃないですか。私は今、こうして洋一さんの側にいられて本当に幸せなんですから」
 結局、いつもこのふたりに助けられる。
 俺ひとりでは、本当になにもできない。
「愛」
「ん?」
「沙耶加」
「はい」
「俺にはおまえたちがいてくれて、本当によかったよ。きっと、俺ひとりならなにもできていなかっただろうから」
「それは、私も同じよ」
「ええ、私もです」
「ひとりでできることなんて、そうないんだから」
「そういうところを補い合うのが、家族なんだと思います」
「確かに」
「でも、改めてそう言ってくれるのは、嬉しいけどね」
「洋一さんもそう思っていてくれるのだと、再確認できますから」
 ふたりとも、穏やかな表情で言う。
「あの時、俺が選べなかったのは、きっと俺に決断力と勇気がなかったからなんだろう。愛のことを好きだと言っておきながら、その一方で沙耶加を手放したくないと言い。結果的には今みたいなことになってるけど、もしかしたら、俺はふたりとも失っていたかもしれない。いや、俺自身のことはどうでもいい。むしろ、そうしてしまったことで起こり得るおまえたちの未来を摘み取ってしまったかもしれないことの方が、恐い。だから、今こうしていられることを、素直に嬉しいと思える」
 たまに、そんなことを考えていた。もちろん、それはあくまでもあったかもしれないもうひとつの未来でしかない。現実は、今なのだから。
 でも、本当にそうなっていたら、俺はふたりに対してなにができたのだろうか。未来を踏みにじってしまった俺に。
 だからこそ、今の幸せを大切にしたい。
「そうだ。ふたりとも」
「どうしたの?」
「今度の休みに、三人だけでどこかへ行くか?」
「いいんですか?」
「たまにはいいだろ。それに、おまえたちだって母親であることを忘れて楽しみたいことがあるだろ? ささやかだけど、それをかなえられればと思ってな」
「それはそれで嬉しいけど、いいのかな?」
「そうですね。私たちだけ、というのは、少し気が引けます」
「おまえたちが行かないなら、ほかの誰かと行くという選択肢もあるけど」
「……ホント、洋ちゃんはいぢわるだよ。昔から全然変わらない」
「で、どうするんだ?」
 ふたりは顔を見合わせ、大きく頷いた。
「どこに行くかは、私たちが決めてもいい?」
「好きにしてくれ」
「ありがと、洋ちゃん」
「ありがとうございます、洋一さん」
 たまにはそういうのもいいだろう。
 もっとも、それがうちの連中に伝われば、また一悶着起きそうだけど。
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