恋愛行進曲
 
後日談
 
 一
 時の流れというものは、本当に早い。
 高校を卒業して、結婚して、娘が生まれて、大学を卒業して、就職して。本当にあっという間に時間が過ぎていった。
 その分だけ年を取ったということになるのだが、それはそれでしょうがない。
 俺が年を取らないと、娘たちは成長できないんだから。
「ふう……」
 授業で使うプリントをパソコン上で作り終え、息を吐いた。
 保存して、学校のパソコンにメールで送っておく。
 と、そのタイミングを見計らったかのように、ドアがノックされた。
「パパ、いい?」
「ああ、いいよ」
 入ってきたのは、愛奈だった。
「仕事、終わった?」
「ちょうどな」
「よかった」
 愛奈は、にっこり笑った。
「それで、どうしたんだ?」
「ん、今日はあまりパパと話してないな、って思って」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、たまには妹孝行もしたらどうだ?」
「そんなの私がしなくても大丈夫よ。愛理も紗弥もいるし」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
「それとも、パパ。私と一緒にいるの、イヤ?」
 途端、愛奈の顔が曇る。
「……そんなわけないだろうが。まったく、そういう変なところだけ愛に似てるんだから」
「そりゃ、私はママの娘だもん。似てるのは当然」
 本当に、愛にそっくりだ。
 小さい頃からそうだったが、ここ最近は特にそう思う。
 愛奈も、もう十六歳。今年の誕生日が来れば、十七歳だ。
 俺と愛が付き合い出した頃と同じ年齢になった。
 成長とともに確実に大人の女性に変わりつつある。
 ただ、ひとつだけ変わらないところがある。
 それは──
「パパ」
 愛奈は、まったく躊躇いもせず、俺に抱きついてきた。
「愛奈も、そろそろそういうのから卒業した方がいいんじゃないか?」
「ええーっ、どうして? 別に悪いことじゃないんだから、構わないと思うけど」
「そうかもしれないけど。だけど、世間一般的には愛奈くらいの年になったら、こういうことはしないだろ」
「ん〜、やっぱりそうなのかな。でもね、私はパパが好きだから、それでいいの」
 屈託のない笑みを浮かべ、そう言う。
 やれやれ、ファザコンもここまでくると、感心してしまう。
「あ、そうだ。パパ」
「ん?」
「今度の日曜って、なにか予定ある?」
「いや、特には。なにかあるのか?」
「うん。美沙とも話してたんだけど、そろそろ準備した方がいいと思って」
「準備? なんの?」
「夏の」
 
 俺と愛奈がリビングに下りると、リビングでは愛理と紗弥がなにか言い合っていた。
「こらこら、おまえたちはなにを言い争ってるんだ?」
『パパ』
 ふたりの声が重なった。
「パパ、聞いてよ。紗弥ったら、こんなのがいいなんて言うんだよ?」
 まずは愛理。
 テーブルに載っていた雑誌を俺に見せた。
 そこに載っていたのは、夏モデルの水着だった。
「いいと思うよね、パパ?」
 紗弥は、愛理の言葉を遮るように同意を求めてくる。
「紗弥が選んだのはわかった。愛理が選んだのはどれなんだ?」
「ん、これだよ」
 二ページほどめくり、それを指さした。
 愛理が選んだのは、結構大胆なビキニ。紗弥が選んだのは、おとなしめのワンピース。
 性格が出ている選択だ。
「まあ、なんでもいいと思うけど、水着を着るための準備はできてるのか?」
「準備?」
「水着なんて着たら、体のラインが丸わかりだからな」
「ぶぅ、パパ、私、ちゃんと準備してるよ。なんなら、見てみる?」
 そう言って愛理は、上着に手をかける。
「冗談はそれくらいにして──」
「……冗談じゃないのに……」
 つまらなそうに頬を膨らませる愛理。
「愛理も紗弥も、別にお互いがなにを選んで、なにを着てもいいんじゃないか。それをお互いに着せ合うわけじゃないんだから」
「そうなんだけど」
「そうよ。ふたりとも、そういうつまらないことで言い争わないの」
「お姉ちゃんはいいよね。なにを着ても似合うから」
「そうそう」
 愛理と紗弥は、そう言って愛奈を見る。
 確かに、この三人を比べると愛奈が一番スタイルがいい。もちろん、年上だから余計なのだが、それを抜きにしてもかなりいい方だろう。
 そのあたりも、愛に似たようだ。
「パパーっ!」
 と、廊下から威勢の良い声が聞こえてきた。
 それから少しのタイムラグがあって──
「パパっ」
 勢いよく俺に飛びついてきた。
「こらっ、愛果。ダメでしょっ」
 そのすぐあとから、バスタオルを持った愛がやって来た。
「愛果。いい加減にしないと、ママ、怒るわよ?」
「だってだって……」
「すぐに済むから、ほら、いらっしゃい」
「はぁい……」
 愛果は、渋々俺から離れ、愛のバスタオルに収まった。
 で、その愛果だが、俺の娘だ。俺と愛の間にできた三番目の娘。今年で十二歳になる。
 末っ子の典型で、とにかく誰にでも甘えたがる。
「パーパ」
 そんな愛果の脇を抜けて、もうひとり、俺のところへやって来た。
「紗菜。ちゃんとあったまったか?」
「うん。あったまった」
「よし」
 で、この紗菜が、俺と沙耶加の二番目の娘。やはり今年で十二歳になる。
 なんの因果か知らないけど、子供は娘ばかりになってしまった。
「愛理も紗弥も、くだらないことで無駄な時間を使ってないで、さっさとお風呂に入りなさい」
 どうやら、ふたりの言い争いは、結構前から続いていたらしい。
「はぁい」
 愛にそう言われると、愛理も紗弥もおとなしく言うことを聞いてしまう。
 まあ、この家での力関係を考えれば、当然のことかもしれない。
 ふたりがリビングを出て行くと、入れ替わりに沙耶加がリビングに入ってきた。
「紗菜。ちゃんとお風呂に入ったの?」
「うん、入ったよ」
 紗菜は、俺の膝の上に座ろうとするが、愛果がそれを邪魔する。
「ほら、愛果も紗菜も、パパの邪魔しないの」
 そんなふたりに注意するのは、愛奈だ。
 普段はそうでもないのだが、やはり長女らしく、妹の面倒も見ている。
 もっとも、愛奈としては妹ふたりに俺の隣を取られたくないからなのだろうけど。
「そういえば、愛奈」
「ん?」
「愛奈は、水着とかはどうするの?」
 さっきまで愛理と紗弥が見ていた雑誌を手に取り、愛がそう訊ねた。
「日曜日に、美沙と一緒に買いに行く予定」
「そうなの」
 愛は、頷きながら、俺に意味深な視線を向けてくる。
「なんだ、愛もほしいのか?」
「ほしいって言ったら、買ってくれるの?」
「とりあえず、一考しよう」
「じゃあ、私にも買って」
 そう言って愛は微笑んだ。
 だけど、愛がそんなことを言えば、当然のごとく──
「そういうことなら、私もほしいです」
 沙耶加も対抗する。
「ふたりの分は、また改めてな」
 正直言えば、愛も沙耶加も今年で三十五歳だが、少なくとも見た目ではいいとこ、三十歳くらいにしか見えない。
 それなりに努力もしてるみたいだが、俺は見て見ぬふりをしている。
「でも、今年ももう夏が来るのよね」
「ええ、本当に早いです」
「今年はみんなでどこか行くの?」
「今年は去年みたいに愛理と紗弥が受験じゃないから、それも考えてる」
「そうすると、みんなの都合も確認しないと」
「そのあたりは、追々やるよ」
 本当に『みんな』だと、かなり面倒だ。
 それでも、みんなが集まれる機会はそうないから、案外なんとかなってしまう。
 それが『家族』というものだ。
 
 俺たちが二十四歳の年に、愛果と紗菜が生まれた。
 つまり、もう十二年が過ぎようとしていることになる。
 その間にも実に様々なことがあった。そのすべてを語るには時間があまりにもない。
 だから、必要そうなことだけかいつまんで語ろう。
 その次の年の秋に、姉貴たちがニュージーランドから帰ってきた。和人さんが日本の大学で研究を続けることを決めたからだ。
 本当はもう少し早くしたかったらしいのだが、向こうで結構引き留められてしまったらしく、次の年になってしまった。
 姉貴たちの住まいは、なぜかこの街だった。大学へ通うことを考えれば、もっといいところはあったはずなのだが、姉貴がこの街を主張したらしい。
 で、帰ってきたばかりの頃はマンション住まいだったのだが、父さんと母さんが孫たちと一緒に暮らしたいということで、家を改築し、現在までそこで暮らしている。
 いわゆる二世帯住宅にして、玄関もふたつある。
 姉貴夫婦には、和輝のあとには子供はいない。だから、今も四人だ。
 長女の美沙は、愛奈と同い年だから、今は高校二年生。で、俺たちの卒業した母校、つまり、今の俺の職場である高校に通っている。
 美沙は、姉貴譲りの明るさと性格で、学校内だけでなく、どこへ行っても人が集まってくる。学校で会ったりすると、たまに姉貴の陰を見てしまうこともある。
 そんな美沙だが、未だに俺のことは『ようちゃん』と呼んでいる。学校でそれはないだろうと何度も言っているのだが、結局は『ようちゃん先生』と先生がついただけだ。
 長男の和樹は、中学に入った。こちらは和人さんによく似ていて、とても中学一年生とは思えない落ち着きを持っている。
 そんな美沙と和輝の関係は、どことなく昔の俺と姉貴の関係に似ている。まあ、俺よりも和輝の方が大人かもしれないけど。
 で、姉貴はといえば、和輝がだんだんと手がかからなくなってきて、今はいろいろなことを試している。仕事にするつもりはないらしいけど、趣味としてはなにかをしていきたいということだ。まあ、他人に迷惑がかからないなら、なにをしてくれてもいい。
 さて、次は美樹。
 美樹は、順調に大学を卒業し、今は大学の研究室にいる。というか、当初は俺と同じように高校で教師をやろうと思っていたらしいのだが、現実はそこまで甘くないと理解したらしい。で、卒業後、そのまま大学院に進み、博士課程も終えて、研究室で助手なんかをやっている。
 ここ最近は講義も持っているらしく、昔の美樹からは想像もつかない現状だ。
 とはいえ、美樹の俺に対する想いはまったく変わっていない。というか、むしろ強くなってる気さえする。
 今は高村の家にはおらず、近くでひとり暮らしをしている。
 だからだと思うけど、俺に対するアプローチもなかなか積極的だ。
 それでも、昔ほど猪突猛進という感じじゃないのは、まだ救いかもしれない。
 俺にとってもうひとりの『妹』だった真琴は、今は画家として一線で活躍している。以前はコツコツと、という感じだったけど、最近はようやく個展を開けるまでになっていた。
 それでも目標はあくまでも高く、未だに努力は続けている。
 そんな真琴だが、俺に対しては未だに絵のことをいろいろ聞いてくる。もはや絵の技術や知識では真琴の足元にも及ばない俺なのだが、そうしてくるのは、高校の頃の名残なのかもしれない。
 真琴は今も山本家にいるのだが、家の外にアトリエを構えている。
 家族の中で一番忙しいのは、今もやっぱり香織だ。
 去年、ようやく個人事務所を開設し、本格的に自分のやりたいこと、やろうと思っていたことをやっている。
 弁護士としての評判も上々で、弁護士会の中では、若手のホープという位置づけらしい。
 香織は俺たちに、いつでもなんでも相談に乗ってあげる、と言っているのだが、弁護士の手を借りなければならないことに巻き込まれるのは、さすがに勘弁してほしい。
 まあ、俺の置かれている状況を見れば、それは警告とも受け取れるのだが。
 そしてもうひとり、由美子さんは相変わらずだ。
 今でもうちの高校で保健教師を続けている。
 年齢のことを言うと怒られるけど、大台を突破しても、その美貌は変わらない。それどころか、ますます女に磨きがかかってさえいる。
 見た目もいいとこ、三十代後半くらいにしか見えない。
 それでも、学校での立ち位置が、生徒の『お姉さん』という位置から、生徒の『お母さん』に変わりつつあるのは、しょうがないことかもしれない。
 で、最後に俺たちのことだけど、大きく変わったことはほとんどない。
 愛果と紗菜が生まれた三年後、三つの家からの資金援助を受けて、それこそ二世帯住宅並の一戸建てを建てた。
 かなりの冒険ではあったけど、やはり家族はひとつ屋根の下で暮らした方がいいということで、決意した。
 家を建ててから、俺たちは本当の意味で家族になった。
 特に沙耶加や紗弥、紗菜にとってはそうだっただろう。
 八人での生活は、大変なこともあるけど、充実している。
 少なくとも今までは、あの時の選択に後悔していない。
 そして、これから先も後悔したくない。
 だから、俺にできることはなんでもやっていこうと思っている。
 
 二
 教師という職業に就いてからもうだいぶ経つが、未だに学ぶことは多い。特に、三年を受け持つ時は本当にいろいろあって、勉強もできるが、反省も多い。
 もう何度も生徒を送り出しているが、百パーセントの満足というのは未だに得られていない。
 それもある意味では当然で、カリキュラムも微妙に違えば、受験の傾向も微妙に違う。常にそれに即応しなければならないわけで、完璧というのは難しい。
 二年前までは純粋に生徒のことだけを考えていればよかったのだが、去年からそういうわけにはいかなくなった。
 それは──
「先生」
 廊下を歩いていたら、声をかけられた。振り返ると、見知った顔がふたつ。
「なにか質問か?」
 そのふたりは、愛奈と美沙だ。
 ふたりともうちの高校に入学し、今は二年生。当然のごとく世界史を選択し、俺の授業を受けている。
「別に質問はないよ。先生の姿を見かけたから、声をかけたの」
 そう言って美沙は微笑む。
 タメ口なのは、叔父と姪の関係だからなのだが、これはもう言っても直す気がないので言わないことにしている。
「先生は、なにしてるの?」
「なにしてるの、とはずいぶんな言い草だな。俺はこれから授業の準備をするんだ」
「ふ〜ん、そっか」
「というわけだから、ふたりの相手をしてやれる時間はない」
「そんな言い方しなくてもいいのに。パパのいぢわる」
 愛奈は、ぷうと頬を膨らませた。
「……だから、愛奈。おまえは何度言えばわかるんだ。学校では『先生』と呼べ」
「別に美沙以外誰もいないんだから、問題ないよ」
 確かにほかに誰もいないが、それはそれ。
「ほら、ふたりともさっさと教室へ戻れ。次の授業がはじまるぞ」
 時計を確認し、そう言う。
 しかし、ふたりは顔を見合わせ、にっこり笑った。
「残念ながら、次の時間は自習なんだ」
「自習だとしても、課題が出てるだろうが」
「それがね、なにも出てないの。好きに勉強してろ、って」
「…………」
 なんとなく、誰の時間の自習か想像がついた。
 やれやれ。
「……で、これからどうするんだ?」
「ようちゃん先生は、どこで準備するの?」
「とりあえず、図書室で調べ物をする予定だが」
「じゃあ、私たちも一緒に行く」
 で、結局、ふたりに押し切られる形で図書室へ。
 図書室は、授業中ということもあってとても静かだった。
 いつものように閉架図書から必要な資料を持ち出し、授業用の資料を作る。
 愛奈と美沙も、一応それらしい本を持ってきて勉強のフリをしている。
「そうだ。ようちゃん」
「…………」
「ねえ、ようちゃん」
「…………」
「むぅ……ようちゃん先生」
「……なんだ?」
「日曜日、私たちにつきあってくれるんだよね?」
 一瞬、なんのことを言われてるのかわからなかった。
「……パパ、もう忘れたの?」
「ん、ああ、そういえば、そんな話もあったな」
「そんな話、じゃなくて、とっても重要な話だよ」
「それはおまえたちにとっては、だろうが。俺にはそこまでの話じゃない」
 実際、つきあわされて、しかも金まで出させられるだけだ。
「どういう話でもいいけど、ちゃんとつきあってよね?」
「わかったわかった。だから、静かに勉強しててくれ」
 俺は視線を本に戻した。
 ふたりも渋々勉強を再開する。
 しばらくすると──
「森川先生」
 図書室に聞き慣れた声が響いた。
「ここにいたんですね」
 そう言って近づいてきたのは──
「藤沢先生」
 俺の教え子でもあり、教師としての後輩でもある、藤沢昭乃だった。
「探しましたよ」
「なにか急用でも?」
 藤沢は愛奈と美沙を若干牽制しながら──
「少し、ご相談したいことがあるんですけど、構いませんか?」
「そういうことなら別に」
 俺は、資料を閉じ、返却した。本当は教職員は閉架図書も貸し出してもらえるのだが、今はそこまでの必要はない。
「じゃあ、ふたりとも、しっかり勉強しておけよ」
 愛奈と美沙も、さすがに教師同士の話にはついてこようとは思わなかったらしい。
 図書室を出て、廊下を少し歩いたところで、藤沢は口を開いた。
「相変わらずですね、あのふたりは」
「今更どうにもならないさ」
 そう言って俺は肩をすくめた。
「それで、相談て?」
「とりあえず、その話は場所を移してからにしましょう」
 藤沢はにっこり微笑んだ。
 俺が連れて行かれたのは、屋上だった。
 そろそろ梅雨も明けようかという頃なので、晴れていると暑かった。
 でも、今日は比較的風があるおかげか、まだ過ごしやすかった。
「もう夏ですね」
「そうだな。今年も暑くなるみたいだから、今から憂鬱だよ」
「ふふっ、洋一さんらしい感想ですね」
 なにがおかしいのかわからないけど、藤沢は、いや、昭乃はクスクスと笑った。
「で?」
「で?」
「いや、俺に用があったんだろ?」
「ええ、ありますよ」
 言いながら昭乃は、そっと俺に抱きついてきた。
「学校でこういうことはやめろと言わなかったか?」
「誰もいませんよ」
「ったく……」
 昭乃を受け入れたのは、昭乃が教育実習生としてここへやって来た時のことだ。
 昭乃とは卒業後もたまに連絡は取っていた。俺に対してかなり本気だったことは十二分に承知していたのだが、どうも邪険に扱えなかった。
「そういえば、愛理ちゃんと紗弥ちゃん、未だに私のこと目の敵みたいな感じで見てますよ」
「今年一年の辛抱だろ。来年、世界史の授業がはじまれば変わる」
「だといいんですけど」
 現在、ここには俺の関係者が六人もいる。娘が三人に姪がひとり、愛人がふたり。
 あり得ない状況だとは思うけど、実際あるんだからしょうがない。
 ちなみに、紗弥が俺の娘だということは、ある程度知られている。紗弥自身も隠してはいないし、これからのことを考えるとむしろ隠さない方がいいと判断したからだ。
 ただ、愛奈と愛理がいるせいか、紗弥のことはそれほど話題にならない。
「本当はずっとこのままでいたいんですけどね」
「勘弁してくれ」
「学校でこうしていると、あの時のことを思い出します」
「あの時?」
「はい。洋一さんにはじめて抱いてもらった時のことです」
「……ああ」
「いつかそうなればいいとは思ってましたけど、まさか学校でとは考えもしませんでしたからね」
 いろいろな想いが交錯し、俺は昭乃を受け入れた。
 そうなる可能性を完全に否定していたわけではないけど、昭乃は教え子だったわけだから、可能性は限りなくゼロに近いと思っていた。だけど、そんな俺の予想は見事に外れた。
 まあ、当事者の片方が俺自身なわけだから、なにを言っても意味はないのだが。
「でも、洋一さんて不思議な人ですよね」
「なんだ、藪から棒に?」
「奥さんのことを誰よりも愛しているのに、それだけだとなにかが足りないかのように、私たちとの関係を保ち続けていますから」
「じゃあ、なかったことにするか?」
「それはイヤです。というか、今更そんなことできません。私はもう、身も心も洋一さんのものなんですから」
 そう言われるのは嬉しいけど、今の話の流れから考えると、複雑な気持ちだ。
「そういえば、昭乃」
「はい」
「最近はどうなんだ?」
「どう、とは?」
「ほら、少し前に実家からいろいろ言われてるって愚痴ってただろ?」
「ああ、はい。そのことですか」
 昭乃は、背中にまわした腕にほんの少しだけ力を込めた。
「心配ありません。お見合いでもなんでも、すべて断ってますから。それに、うちの両親はそういうことにかこつけて、私を家に呼び戻したいだけなんです」
 昭乃の家は、昭乃が高校を卒業した年にこの街から引っ越した。今はここからずいぶんと離れたところに住んでいる。
 昭乃は大学がこっちだったこともあり、引っ越したあともこっちに残っていた。
 そのまま大学を卒業し、うちの高校に教師として採用された。
「家のことまで口を出すつもりはないけど、あまり無茶なことはするなよ」
「わかってます」
 やれやれ、本当にわかってるのかどうか。
 
 放課後。
 クラスの用事と細かな仕事を片づけ、美術部に顔を出した。
 なんの因果か知らないけど、俺は今でも美術部の副顧問なんてものをやっている。絵や彫刻の専門家でもないのだが、なぜか現在の顧問に気に入られている。
 まあ、そのひとつの理由としては、やはり真琴のことがあるんだろう。真琴はうちの卒業生だ。その卒業生であるところの真琴が、今では画家を生業としている。
 学校側としては、そういう有名人とはひとつでも多くのコネを作っておく方がいい。
 だが、真琴は美術部には所属していなかった。そうすると、なかなかきっかけがない。
 そこで目をつけたのが俺だったわけだ。俺と真琴の関係はそれなりに知られていたから。俺から真琴に頼めば、ほぼ間違いなく受けてもらえる。
 そういう理由もあるんだろう。
 そんな美術部で適当に油を売って、あとのことは部長に任せ、俺は地歴科控え室へ戻り、帰る準備をはじめた。
 やることさえやってしまえば、早く帰れるのが教師のいいところだ。
「森川先生。お帰りですか?」
 カバンに書類を詰め込んでいると、声がかかった。
「やることもないのにうろうろしてると、迷惑かかるから」
 声をかけてきた昭乃に返事をする。
「藤沢先生は?」
「私は、もう少しだけやることがありますから」
 そう言って少しだけ残念そうな顔を見せる。
「じゃあ、お先に」
「はい」
 控え室を出て、一階へ。
 職員玄関には向かわず、保健室へ。
「失礼します」
 中に入ると、ずっと変わらない光景がそこにはある。
「おつかれさま、洋一くん」
 由美子さんは、穏やかな笑みを浮かべながら、俺を迎えてくれた。
「今日はもう帰りなの?」
「ええ。やることやってしまいましたから」
「そう」
 小さく頷きながら、由美子さんは俺のためにお茶を淹れてくれた。
「彼女は?」
「まだ仕事があるそうです」
「そう」
 この場合の『彼女』とは、昭乃のことだ。
「じゃあ、もう少しだけふたりきりでいられるわね」
「さあ、それはどうですかね」
 こういう場合の俺の予感は、当たる。
 ほぼ間髪入れずに──
「失礼しまーす」
 ノックもせずに入ってきたのは──
「あっ、やっぱりここにいた」
 愛理と紗弥だった。
「……なるほど、無理だったわね」
 由美子さんは、ふたりを見て苦笑した。
「パパ、どこにもいないからもう帰っちゃったのかと思ったよ」
 愛理は、そう言いながら俺に抱きついてきた。
「そうだよ、パパ。私たち、パパに捨てられちゃったのかと思ったよ」
「……紗弥、アホなことを言うな」
「ふふっ、それだけりっちゃんとさやちゃんにとって、洋一くんが大事な存在だってことよ」
「そうそう」
 やれやれ。
「ところで、愛理」
「ん、なに?」
「愛奈と美沙はどうした?」
「お姉ちゃんたち? さあ、私は見てないけど。紗弥は?」
「私も」
 毎日というわけでもないけど、愛奈と美沙、愛理と紗弥は、一緒に帰る。
 教室の位置関係から、愛奈たちが愛理たちのところに来ることが多い。
「まあ、気にするほどのことでもないか」
「そう言いながらも、優しいパパとしては、気になるのよね?」
 由美子さんは、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「さて、どうでしょうかね」
 素直に認めてしまうのもシャクだったので、そう答えた。
 それからお茶を飲んで、保健室をあとにした。当然、愛理と紗弥も一緒だ。
 学校を出て少ししたところで、愛理が言った。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「どうしてパパは、藤沢先生を選んだの?」
「は?」
「だって、パパの教え子でパパのことを好きだった人って、藤沢先生以外にもいたんでしょ? だったら、そこになにか違いがあったのかなって思って」
「そうだな……」
 娘にそういうことを言うのはどうかと思うが。
「ある意味では、沙耶加たちと同じだったからかもしれないな」
「ママと?」
「ああ。ようは、それだけ本気だったってことだ」
「でも、それだけでもないんでしょ?」
「あとは、縁があったということだろうな。卒業したあとも、なんだかんだ言いながらその縁は続いていたわけだし。その結果が、というわけだ」
「ふ〜ん……」
 納得したのかどうかはわからない。
 ただ、愛理と紗弥は、昭乃のことを最初からあまり快く思っていなかった。だから、余計なのかもしれない。
 それに比べて愛奈は、意外なほどあっさりと昭乃を認めた。そこにどんな思惑があったのかは、未だにわからないけど。
「あ〜あ。どうしてみんなしてパパなのかなぁ。そりゃ、パパがカッコイイのは当然だし、好きになっちゃうのはわかるけど」
「それがわかれば、苦労しないよ」
 愛理と紗弥は、そう言ってため息をついた。
 家の近くまで来ると、またも顔見知りに遭遇した。
「あっ、香織さん」
「あら、お揃いね」
 そう言って香織は微笑んだ。
「珍しいな、平日のこんな時間に」
「ちょっと仕事がキャンセルになっちゃって。だから寄ってみたの」
「なるほど」
「おとーさん」
 と、俺のズボンをくいくいと引っ張る小さい手。
「おっ、紫織も一緒か」
「うんっ」
 にっこり笑うのは、実は俺と香織の子供──紫織だ。
 今年で七歳になる。
 香織によく似ていて、我が娘ながら将来が楽しみだった。
「よし、紫織。抱っこしてやろう」
「ホントっ」
「ああ」
 カバンを香織に持ってもらい、紫織を抱き上げた。
「紫織もずいぶん重くなったな。そろそろ抱っこがきつくなってきた」
「このくらいの年は、そんなものでしょう?」
「まあな。愛理たちも、あっという間に大きくなったし」
 子供なんてそんなものだ。
「おとーさん。紫織ね、がっこうで絵をかいたの」
「どんな絵を描いたんだ?」
「んとね……」
 紫織は、香織の持っていたバッグを見る。
「おかーさん」
「はいはい」
 香織は、バッグの中から画用紙を取り出した。
「これ」
 そこに描かれていたのは、たぶん、俺の顔だった。
「授業で、お父さんやお母さんという題材で絵を描いたんですって」
「上手に描けてるじゃないか」
「えへへ」
 紫織は、嬉しそうに笑った。
「ところで、香織」
「なに?」
「今日はどっちに寄るつもりだったんだ?」
「今日は、洋一たちの方よ。来る前に連絡は入れておいたわ」
「ならいいけど」
「パパ。しぃちゃんと先に行ってるね」
 と、愛理がそう言って紫織の手を取った。
「そうか。じゃあ、任せた」
 紫織を下ろしてやると、愛理と紗弥は紫織の手を取り、先に行ってしまった。
「本当に、仲の良い姉妹ね」
「本当はいろいろ思うところはあるんだろうけどな」
「でも、それを表に出さないところが、りっちゃんにしてもさやちゃんにしても、偉いところだと思うわ」
「本当にそうだな」
 つくづくそう思う。
 全部俺の責任ではあるのだが、娘たちにはずいぶんと助けられている。
「ああ、そういえば──」
「ん?」
「今日は、真琴さんも来るようなことを言ってたわよ」
「真琴も?」
「ええ」
 みんなが来るのは珍しいことでもないけど、平日にというのは珍しい。
 今日は特になにもないのに。
「ほら、こんなところでボーッとしてても仕方がないでしょ」
「あ、ああ」
 まあ、余計なことは考えるのはやめておこう。
 
 家に帰ると、確かに真琴が来ていた。
 ついでに言えば、美樹も来ていた。最近は研究が忙しいとかでなかなか顔を出していなかったのだが。
「おかえりなさい」
 部屋に戻ると、すぐに愛がやって来た。
「今日はずいぶんと賑やかだな」
「最初に真琴ちゃんから電話があったのよ。それから香織さんから連絡があって、最後は美樹ちゃん」
「なるほど」
「美樹ちゃんは、研究の方が落ち着いたから来たそうよ」
 おおかたそんなことだろうとは思っていたけど。
「そういえば、愛奈はどうした?」
「愛奈? とっくに帰ってきて、今は部屋にいるはずよ。なにかあったの?」
「いや、珍しく放課後に俺のところへ来なかったからさ」
「言われてみれば、今日は早くに帰ってきたわね。なにかあったのかしら?」
「さあ、どうだろうな。ただ、学校で会った時にはいつも通りだったけど」
「じゃあ、なにかやることでもあったのかもしれないわね。大量の宿題とか」
「かもしれないな」
 着替えを済ませ、リビングへ。
「パぁパ」
 ドアを開けて入った途端、足にしがみついた小さな陰。
「彩音」
「やっぱりあやちゃんも、パパの方がいいんだ」
 どうやら俺が来るまで彩音の相手をしていたのは、愛理と紗弥だったらしい。
「どうした、彩音?」
「パぁパ、だっこ」
「そうか、抱っこか。それ」
 彩音を抱きかかえる。
 それだけで彩音はきゃっきゃと喜ぶ。
「おっと、彩音。パパはちょっとやらなくちゃいけないことがあるから、下ろすぞ」
「うん」
 下ろしてやると、彩音はトコトコと真琴のもとへ。
「マぁマ」
「よかったわね、彩音」
「うん」
 そう。彩音は、俺と真琴の娘だ。今年で五歳になる。
 つまり、俺には七人の娘がいるのだ。なにも娘ばかり七人も、とは思うけど、こればかりはしょうがない。
「お兄ちゃん。やらなくちゃいけないことって?」
 愛果と紗菜の相手をしていた美樹が、そんなことを訊いてきた。
「たいした用事じゃない」
 そう言い残し、俺は二階へ。
 二階のひと部屋が、愛奈の部屋である。
「愛奈。いるか?」
「うん、いるよ」
 中からはすぐに声が返ってきた。
 部屋に入ると、愛奈は机に向かっていた。
「なにしてるんだ?」
「宿題。今日はたくさん出ちゃって」
 愛奈は、小さくため息をついた。
「本当はね、放課後、パパのところに行こうと思ったんだけど、この宿題を終わらせないことには、ゆっくりできないと思って」
 なるほど。予想通りだったというわけか。
「でも、そんなに面倒なのか?」
「内容的にはそうでもないよ。ただ、量が多いの」
 愛奈は、学年でもかなり上位の頭の持ち主だ。このあたりは愛に似たのだと思う。
 だから、よほどのことでもない限りは、学校の勉強で弱音を吐いたりはしない。
「じゃあ、美沙も今頃はその宿題と格闘してるわけか」
「たぶんね」
 俺と話をしながらも、愛奈は黙々と問題を解いていく。
「あ、でもね、パパ」
「ん?」
「美沙、言ってたよ」
「なんて?」
「今日の分は、明日まとめてようちゃんに払ってもらおう、って」
「……おいおい、俺はいったいなんなんだ?」
「いいじゃない、別に。それに、そんなの今更でしょ?」
「かもしれないけど」
 美沙は、姉貴に似てとにかく頭もいいし、要領もいい。学年でも常に五位以内に入っている。
 そんな美沙なら、愛奈ほど必死にならなくても宿題くらい終わらせられるはずだ。
 まあ、愛奈の手前、一応あわせてくれたのかもしれないけど。
「……ねえ、パパ」
「ん?」
 と、愛奈はペンを置き、俺に向き直った。
「パパは、私にはどうあってほしい?」
「なんだ、藪から棒に?」
「今日ね、進路調査の用紙が配られたから。それを提出して、その上で三者面談するんだって」
「そういえば、もうそんな時期か」
 今年は三年を担任しているから二年のことはすっかり忘れていた。
「だけど、前に言ってなかったか?」
「なにを?」
「パパと同じ仕事をするか、ママと同じように家でできる仕事する、って」
「うん、言ったよ。それに、今でもそうしようと思ってる」
「じゃあ、なんで?」
「それって、私ひとりの考えでしょ? パパは、娘の私に対して、こうあってほしいっていうのはないのかな、って思って」
「そうだなぁ、ないわけじゃない」
「それって?」
「極論を言えば、死ぬ間際に後悔しない生き方をしてほしい」
「……それは、極論すぎだよ」
「そうかもしれないけど、でも、親なんてそんなものだぞ。結局は、幸せであってほしいだけなんだから」
「幸せ、か……」
 愛奈は、少しだけ視線を落とした。
「……私の幸せは、パパたちといつまでも一緒にいることだよ」
「それならそれでいい。俺は、なにも強要しない」
 自分の進むべき道くらい、自分で見つけなければならない。
 たとえ娘であっても、そこまで親が手を貸す必要はない。
 親の引いたレールの上を歩いても、意味はない。
「どこの大学へ行けとも言わないし、どういう仕事をしろとも言わない。当然、さっさと結婚しろとも言わない。それはすべて、愛奈が決めることだ」
「大学と仕事は、うん、そうするけど、結婚は最初から選択肢がないよ。私は誰とも結婚するつもりはないの。だって、パパ以上の男の人なんて、いないから」
 そう言って愛奈は微笑んだ。
「そのことについて、愛には話したのか?」
「ううん、まだ。でも、ママにも前に訊いたことはあるよ」
「なんて言ってた?」
「ほとんどパパと同じこと言ってた。なにをするにしても、自分で選んで、その上で後悔しないようにだって」
 愛ならそう言うな。
 自分もそういう生き方をしてきてるから、なおさらだ。
「まだ考える時間はあるんだろ? なら、もう一度整理し直して、その上で決めればいい。わからないことや訊きたいことがあれば、いつでも訊けばいい」
「うん」
 
 普段でも娘たちにもてあそばれるのに、真琴や香織が来ると余計だ。
 特に彩音や紫織はまだ小さいから、とにかく俺と一緒にいたがる。一緒に暮らせていないから余計なのだろうけど、俺としてもスキンシップは大切にしたいから、いつも以上に構ってしまう。
 そうすると今度は、愛果や紗菜が拗ねる。それをなだめようとすると、彩音や紫織がぐずる。
 その繰り返しだ。
「パぁパ」
「おとーさん」
 今、俺の両膝には、彩音と紫織がいる。というか、しがみついている。
 なにもしていなくても、一緒にいるだけで嬉しそうだ。
「むぅ……」
 で、拗ねているのは、愛果と紗菜だ。
「もう、愛果はお姉ちゃんなんだから、そんな顔しないの」
 そんな愛果を、愛がたしなめる。
「だってぇ……」
「愛果は、いつもパパに甘えてるでしょ? だから、今日はあやちゃんとしぃちゃんに譲るの」
「……はぁい」
 あとでこれでもかというほど甘えられるんだろうな。
 それもいつものことか。
「あ、そうだ。お兄ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんが、夏の予定はどうするんだって言ってたよ」
「夏、か……」
 娘たちがある程度大きくなってからは、毎年の夏に揃ってどこかへ出かけていた。仕事はそれぞれ違うが、できるだけ同じ時期に夏休みを取るようにしている。
 たいていは海か山になるんだが、たまにそれ以外の行楽地になることもある。
「じゃあ、いつものように、それぞれ行きたい場所、やりたいことを決めておいてくれ。あとでそれをまとめるから」
 これだけ人数がいると、どうしても多数決になってしまう。
 だからこそ、最初からそうすることを示しておくのだ。
「彩音は、どこへ行きたい?」
「んとね、えとね……あや、イルカさんがみたいの」
「イルカか。そうすると、海だな」
 去年は山だったから、今年は海の可能性が高そうだ。
「紫織はどうだ?」
「紫織は、ペンギンさんがみたい」
「イルカにペンギンか。どっか、水族館のある場所がいいかな」
 実際にどこに行くことになるかはわからないけど、まあ、彩音や紫織の言うことを聞く可能性が高くなる。
「香織は、休みは取れそうなのか?」
「ええ、大丈夫よ。毎年のことだから、夏は仕事は少なめにしてるから。それに、休まないと紫織がうるさくて」
 香織と紫織の母娘は、結構なんでも言い合える仲になっている。
 紫織は七歳にしては明らかに弁が立つ。おそらく、香織のことをよく見ているからだろう。
 ただ、基本的に香織は紫織にはかなり甘い。望んで望んでようやく授かった娘だから余計なのだろうけど、たまに心配になることがある。
 一方、真琴と彩音の母娘は、その関係がきっちりしている。意外にも真琴は彩音に厳しく、おそらく愛と同じくらいしっかりとしつけができている。
 それは真琴自身の考えに基づいているものなのだが、俺が思うに、普段俺が一緒にいられないからこそ、ちゃんと育てられるところをみんなに認めてほしいのだろう。
 いざとなれば沙耶加もいるのだが、真琴の性格上、本当によほどのことでもない限り沙耶加に泣きつくことはないはずだ。
「そういえば、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、日曜日に美沙ちゃんと買い物に行くんだよね?」
「うん、そうだけど、それが?」
「それって、美沙ちゃんとふたりだけで?」
「えっと……」
 愛奈は、ちらっと俺の方を見た。
「ああーっ、パパと一緒なんだ。お姉ちゃん、ずるい」
「ずるいって、別にずるくないでしょ。先に誘ったのは私なんだし、それにOKしてくれたのはパパなんだから」
「だったら、私も一緒に行く」
「ダメよ。日曜は、私と美沙が、パパと約束したんだから」
 愛奈も愛理も、俺のこととなると一歩も引かない。特に愛奈は、相手が誰であってもだ。
 以前、それで愛と喧嘩になったこともある。
「ねえ、紗弥。紗弥もなんとか言ってやってよ」
 愛理も自分の姉の性格を理解しているからか、紗弥に応援を求めた。
「ん〜、パパが絡んだ時のなっちゃんは、頑固だからなぁ」
「紗弥ぁ……」
「まあでも、今回は私も行きたいし」
「紗弥が一緒でも、ダメなものはダメよ」
「心配しないでいいよ、なっちゃん。日曜は、なっちゃんたちだけで行ってくればいい。その代わり、今度の休みに、私と愛理につきあってもらうから」
「あ、そっか。そうすればよかったのか」
 夏休みまではまだ時間がある。日曜だって、今週が最後なわけじゃない。冷静に考えれば、すぐにわかるはずだ。
「ねえねえ、パパ。わたしは?」
 と、愛果がいつの間にか俺の側に来ていた。
「愛果もなにかほしいのか?」
「うん」
「紗菜も紗菜も」
 うちは、誰かひとりが言い出すと、あっという間に広がってしまう。今はまだ彩音と紫織が小さいからいいけど、もう少し大きくなったら、間違いなく大変なことになる。
「そういうことなら、やっぱり私たちもいろいろ新調しないと」
 で、さも当然という感じで、愛たちがそれに参戦してくる。
「おいおい、娘相手になに変な対抗意識持ってるんだよ」
「いいじゃない、別に。女はね、いくつになっても綺麗であり続けたいの。そして、綺麗な姿をずっと見続けていてほしいのよ。ねえ、沙耶加さん?」
「ええ、そうですよ」
 やれやれ、こうなると母も娘もないな。どっちもワガママな女だ。
「……ん〜、パぁパ、あや、ねむねむなの……」
 と、一番年少の彩音が、船をこぎ出した。
 時計を見ると、もう結構いい時間だった。
「真琴。今日はどうするんだ?」
「そうですね。さすがに眠ってしまった彩音をそのままにはしておけませんから」
「泊まっていくか?」
「ええ、是非」
 結局、真琴も香織もうちに泊まっていくことになった。
 うちは、この家を建てる時にあえて大きく建てたから、こういう時でも寝る場所は確保できた。
 とはいえ、豪邸ではないから、真琴たちはひとつの部屋になる。
「彩音。起きなさい。寝るのはちゃんとお風呂に入ってからよ」
「……う、ん〜、おふろ、ヤなの……」
 真琴は、寝入ってしまう前に、彩音を起こした。
「ちゃんとお風呂に入って綺麗にしないと、パパに嫌われちゃうわよ?」
「……ううぅ〜……」
「じゃあ、彩音。今日はパパと一緒に入るか?」
「うんっ」
「紫織も一緒にな」
「うん」
 正直言えば、彩音たちと風呂に入るのはかなり疲れるのだが、普段構ってやれない分を補っていると思えば、それほど苦じゃなくなる。
 もっとも、高二にもなってそんな彩音たちを羨ましそうに見ている愛奈を極力見ないようにする方が、面倒なのだが。
 本当に、やれやれだ。
 
 三
 日曜日。
 俺は、愛奈と美沙と一緒に都心へとやって来ていた。
 前日までの雨がウソのように晴れ上がり、湿度が高いせいもあって、不快指数はかなりのものだった。
 そんな中でもふたりは元気だった。
「あらかじめ言っておくが、俺は基本的にはなにも買ってやらないからな。あくまでも付き添いなんだから」
 結果的にどうなるかはわからないが、そう言っておかないと、なんでもかんでもねだられてしまう。
 最初に訪れたのは、十代や二十代の若者向けの服などを扱っている店だった。
 一階には水着売り場が設けられ、色とりどりの水着が所狭しと並んでいた。
 ふたりの目的も、これだった。
「ん〜、これいいなぁ」
「あっ、これ、雑誌に出てたやつだ」
 喜色満面という表情で水着を見てまわる。
 俺は、そんなふたりを売り場の外から傍観している。
 やはり、男がそういう場所に入るのには、かなり勇気が必要だ。
「ねえねえ、ようちゃん。これ、どうかな?」
 だが、このふたりがそんなことを許すはずがない。
 早速美沙が俺を売り場内へと引っ張り込んだ。
「別にどれでもいいんじゃないか」
「それじゃあ、せっかくここまで来てる意味がないよ」
「俺にはどうでもいいことなんだがな……」
「ちゃんと見てくれないと、もっと困らせちゃうよ?」
 そう言って美沙は、姉貴譲りの小悪魔的な笑みを浮かべた。
 しかも、それも半分以上は本気だ。
「パパ。これなんてどうかな?」
 今度は愛奈だ。
「今年は、少しだけ大胆なのにしてみようと思ってるんだけど」
 確かに、愛奈が見ているのは去年までは見もしなかったタイプの水着だった。
「ママにね、言われたの」
「なんて?」
「大胆な水着を着ようと思えば、それだけ努力するようになるから、結果的に自分のためになるんだって」
 なるほど、それはそれで納得できる。
「それはそうかもしれないけど。だけどな、愛奈。無理だけはするんじゃないぞ。綺麗に見せたいのはわかるけど、そのために無理をするというのはナンセンスだ」
「うん、わかってるよ。それに、さすがにいきなりこういうのは無理だし」
 そう言ってかなり際どいビキニを指さした。
 そういうのは、自分に自信があり、スタイルにも自信がないと着られない。
 今の愛奈には、まだ無理だな。
「愛奈なら、それでも着られると思うけどなぁ」
 と、美沙が首を突っ込んできた。
「着られるかもしれないけど、それを着てプールや海には行きたくない」
「じゃあ、なんのために着るの?」
「それは……」
 美沙の問いかけに、愛奈は言葉を濁す。だが、その視線はしっかりと俺を捉えているわけで、それだけでなにが言いたいのかわかってしまった。
「ホント、愛奈はようちゃんひと筋ね。もう父娘なんてこと、関係ないみたい」
「そこまでのことはないけど……うん、でも、パパ以外はどうでもいい」
「私もようちゃんのことは本気なんだけど、愛奈には負けるわ」
「おいおい、ふたりしてなにを言ってるんだ。そういう話は、人のいないところで、しかも俺のいない時にしてくれ」
 おそらくわざとなのだろうけど、一応言っておかないと。
「とりあえず、さっさと決めてくれ。いつまでもここにいたくない」
『はぁい』
 
 水着売り場から離れられたのは、それから三十分後だった。
 ふたりともそれぞれ新しい水着を買い、ご満悦のようだった。
 水着売り場の次は、同じ店の夏物衣料売り場に立ち寄った。
 ファッションとしては主力は秋物に替わりつつあるのだが、夏本番はこれからなので、まだまだ夏物が幅を利かせていた。
「やっぱりこういうのは、私にはあわないなぁ」
 そう言うのは、美沙だ。
「愛奈にはぴったりだと思うけど」
 美沙が見ているのは、ロングスカートのワンピースだった。
 とても明るい色で、だけど、確かに着る者を選びそうな服だった。
「美沙だって、ちょっと髪型を変えれば、十分着られると思うけど」
「ああ、ダメダメ。私はお淑やかじゃないことを自覚してるから。無理してそんなことしても、絶対にどこかでボロが出る」
「そこまで言わなくても……」
「だって、うちはママからしてそうだもの」
 うむ、確かに姉貴はそうだ。
「そんなこと言ったら、うちだってそうよ。お淑やかというのが一番しっくりくるのは、沙耶加ママくらいだもの」
「ああ、沙耶加さんは確かにね。でも、その娘であるはずの紗弥は全然だけど」
「それは、まあ……」
「別にお淑やかじゃなくてもいいじゃないか。それに、親がそうだからって子供までそうだとは限らない」
「でも、ようちゃん。愛奈は、比較的お淑やかだと思わない?」
「美沙に比べれば、そうかもしれないな」
「むぅ、私と比べれば、っていうのが気になるけど、事実だから反論できない」
「ただ、愛奈もやっぱりお淑やかとは言えない」
「どうして?」
「そんなの、普段の愛奈の行動を見ていれば一目瞭然だろうが」
「あ〜、ん〜、まあ、そうかな」
 そう言って美沙は笑った。
「それにな、お淑やかなのはいつもじゃなくていいんだ。そういう場面でそうできればなんの問題もない」
「確かに、ママはそういうの得意だもんね」
「愛の場合は、いろいろあったんだよ」
「いろいろって?」
「ほら、愛の上にはいろいろ言う人がいるだろ?」
「……ああ、おばあちゃんか」
「そういうことだ。だから、それに対抗してたいがいなんでもできるようになった」
「へえ、そうだったんだ」
「でも、そこにはようちゃんにはよく見せたいっていう想いもあったんでしょ?」
「まあな」
 愛の原動力は、いつもそこにあったし。今もそうだけど。
「とすると、私も少しはそういうのに挑戦した方がいいのかな。ようちゃんにお淑やかな私を見てもらいたいし」
「ま、十年後にな」
「ぶぅ、ようちゃんのいぢわる」
 それからふたりしてあれこれ見てまわり、結局なにも買わなかった。
 デートなどもう数え切れないほどしてるからよくわかるけど、女というものはこういうものだ。たぶん、男の俺には一生理解できないんだろうな。
 時間的にそろそろお昼という頃だったので、混む前に食べてしまおうということになった。
 昼食代は俺が払うわけだが、こういう場合は娘の方が助かる。食べる絶対量が少ないから、多少高めのものを注文されてもそれほど問題はない。
 もちろん、ケーキやなんかの甘いものなら話は別だが。
 入ったのは、暑かったせいもあって、そば屋だった。
「そういえば、今日は美沙以外はどうしてるんだ?」
「パパは仕事。ママは、おばあちゃんと一緒に買い物。和輝は部活」
「なるほど。ようは、暇だったのは美沙だけだったと」
「それは違うよ。私の場合は、ちゃんと前もって予定を入れてたんだから。暇だから予定を入れたわけじゃないよ」
「ま、そういうことにしとくか」
 前もって予定を入れられるのなら、それは暇ということだと思うのだが。
「しかし、姉貴と母さんは揃って買い物か。こりゃ、夕方まで帰ってこないな」
「下手すると、もう陽が落ちてからだよ」
「あのふたりは、限度というものを知らないからな」
「ママにそれ言うと、買い物は女の生き甲斐だって言うんだよ」
「勝手に生き甲斐にするなっての」
 姉貴らしい言い分だ。
「そういうことから考えると、ようちゃんのまわりにはそのあたりに妙なこだわりを持ってる人はいないね」
「そうだな。愛も沙耶加も適当なところで切り上げられるし。もっとも、それは俺が一緒にいる時だけかもしれないが」
「だとしても、誘惑を断ち切れるのはすごいよ」
「美沙も、今のうちからそういう風にしてないと、将来は姉貴と同じになるぞ」
「ん〜、嬉しいような悲しいような、複雑な気分」
 美沙もそうだが、うちの娘たちも基本的にはそれぞれの母親のことを尊敬している。
 美沙はあまりそういうことを言わないが、愛奈は愛のようになりたいと、よく口にしている。もっとも、到達点としては、愛と沙耶加を足して二で割った感じなのかもしれないが。
「だけどもう──」
 と、携帯が鳴った。
 取り出し、ディスプレイを見てみると『広瀬由美子』となっていた。
「はい、もしもし」
『洋一くん? 今、電話大丈夫?』
「すみません、少しだけ待ってもらえますか?」
『ええ』
 さすがに席で話すわけにはいかないので、手洗いに近い方へ移動した。
 その間も、愛奈と美沙は誰からの電話か興味津々という感じだった。
「お待たせしました」
『ごめんね。今、どこにいるの?』
 俺は、場所を説明した。
『あら、ちょうどよかったわ。実はね、私もこっちにいるのよ』
「そうなんですか?」
『本当は時間があったらこのまま洋一くんのところへ行こうと思ってたんだけど、手間が省けてよかったわ』
「じゃあ、あとで待ち合わせますか?」
『そうしてくれる?』
「わかりました」
『あ、でも、なっちゃんたちは残念がるかしら? せっかくのパパとのデートなのに』
「気にしないでいいですよ。それに、どっちかだけだったら多少言われるかもしれませんけど、今日は愛奈と美沙のふたりですから」
『そう? じゃあ、悪いけど、あとで合流しましょう』
 食事を終えて、移動する時間を考慮した上で、待ち合わせの場所と時間を決めた。
「誰から?」
「なんの話?」
 席に戻ると、いきなり質問が飛んできた。
「由美子さんからで、偶然にもこっちにいるから、会わないかって」
「由美子さんか……」
 ふたりも、相手が由美子さんとなると、普段の威勢のよさは影を潜める。
 人生の先輩であり、女としての先輩であり、学校の先生でもある由美子さんには、愛奈も美沙も、一目以上を置いている。
「なにか、問題でもあったか?」
「特にはないけど……」
 ふたりは、仕方がないという感じで小さくため息をついた。
「そういうわけだから、食べ終わったら移動な」
 
 待ち合わせ場所は、待ち合わせるのには不向きな場所だった。
 だけど、それもわざとのこと。逆にそういう場所の方が見つけやすいのだ。
 由美子さんは、すぐに見つかった。
 ゆったりとしたロングスカートに夏らしい薄い青のブラウスという格好で、ついさっき美沙が自分には似合わないと言った格好に近かった。
「お待たせしました」
「こんにちは」
「ごめんね、わざわざつきあわせちゃって」
「別に気にしないでください」
「それならいいけど」
 そう言いながらも、由美子さんは愛奈たちを少しだけ気にしている。
「とりあえず、どこか移動しましょう。ここは暑いですから」
「そうね」
 俺たちはその場を離れた。
 俺と由美子さんが先に立って歩き、愛奈と美沙があとからついてくる。
「今日は?」
「ふたりが夏のための準備がしたいと言うもので」
「じゃあ、水着なんかを?」
「ええ。とはいえ、俺は付き添いですけどね」
「あら、そうなの? 私はてっきり、カワイイ娘たちのために自腹を切ってるのかと思ったわ」
「それをし出すと、キリがないんで」
「それもそうね」
 由美子さんはクスクス笑った。
「でも、なっちゃんたちにつきあったとなると、今度はりっちゃんたちにもつきあうのかしら?」
「ええ。愛理と紗弥にはもう約束させられてますから」
「優しいパパね」
「つきあわないと、あとが面倒だからですよ。できればこういうことは勘弁してもらいたいんですけどね」
「それは無理じゃないかしら。それに、洋一くんと一緒に出かけたいと思っているのは、娘たちばかりじゃないでしょう?」
「……ええ。それが一番やっかいなんですけどね」
 それを考えると、自然とため息が出てしまう。
「そんなため息なんかつかないの。そうやっていろいろ言ってもらえるというのは、幸せなことなんだから」
「それもわかってます」
「そう? それならいいけど」
 場所を喫茶店に移し、しばしのんびりする。
「ところで、由美子さんはなにをしにこっちへ?」
「人と会う約束があったのよ。それもさっさと終わっちゃったから、じゃあ洋一くんのところへ行こうと思って」
「なるほど」
「こっちで会えたのは、本当にラッキーだったわ」
 そう言って由美子さんは微笑んだ。
「もっとも、なっちゃんたちにとっては、残念な結果かもしれないけど」
「そ、そんなことはないですよ」
「え、ええ、そうですよ」
「ふふっ」
 これを本人に言うと怒られるから言わないけど、由美子さんにとっては愛奈たちは自分の娘みたいな存在だ。
 生まれた頃から知ってるから、余計にそうだ。
 今は教師と生徒という関係にあるけど、こうやって学校を離れてしまうと、こんな風になってしまう。
「あの、由美子さん」
「ん、どうしたの?」
「由美子さんに訊きたいことがあるんですけど」
「あら、なにかしら?」
 と、愛奈がそんなことを言い出した。
「綺麗であり続けるための秘訣ってなんですか?」
「綺麗で、か。そうね……」
 アイスコーヒーを一口含み、小さく頷いた。
「不断の努力も必要だけど、一番大切なのは、自分の一番大切な人に綺麗な自分を見せたいと思い続けることかしらね」
「なるほど」
「恋をすると綺麗になるって言うでしょ? あれは、好きな人にはより綺麗な自分を見てほしいと思うようになるからなのよ。それを続けていけば、きっと綺麗であり続けられるわ」
「じゃあ、由美子さんはいつもパパに綺麗に見てもらいたいと思ってるってことですね」
「ええ、そうよ」
 愛奈は、得心という感じで大きく頷いた。
「もっとも、洋一くんは私のことをどう見てるかはわからないけど」
 そう言って由美子さんは意味深な視線を向けてきた。
 というか、わざとらしいことを。
「なっちゃんも美沙ちゃんも必ず綺麗になるから、余計にそういうのは必要かもしれないわね」
「由美子さん。そうやってふたりを焚きつけないでください。ただでさえ持て余し気味なんですから」
「あら、いいじゃない。カワイイ娘と姪が心の底から慕ってくれてるんだから。ねえ?」
「はい、その通りです」
「ようちゃんは、そのあたりのことをまだまだわかってない」
 いつの間にか、敵ばかりになっていた。
 本当に女という生き物はわからん。
 
 喫茶店を出たあとは、由美子さんも一緒にいろいろ見てまわった。
 基本的に俺がすることはなにもなかった。どこへ行くかも三人で勝手に決めていたし、なにを見るかも決めていた。俺はそれについていくだけ。
 時々意見を求められ、それに答える。
 真面目に答えないと文句を言われるので、一応真面目に答えた。
 そうこうしているうちに、夕方になった。
 夕食までに帰ると言ってあったので、適当に切り上げて電車に乗り込んだ。
 電車に乗り込んですぐに愛奈と美沙は寝てしまった。
「はしゃぎすぎて疲れたのかしらね」
 そう言いながら、由美子さんはちょうど隣にいる愛奈の髪を撫でた。
「こうやって出かけるのって、久しぶりなの?」
「そうですね。このところテストだのなんだのあって、予定もあいませんでしたから」
「じゃあ、余計ね。きっと、大好きなパパと一緒にいたかったのにいられなかったことで、悶々とした部分があったのよ。で、今日はそれを一気に発散できた、と」
「でも、ふたりとも隙あらば俺と一緒にいようとしてましたし、実際一緒にいましたよ」
「それはそれ。こうやって余計なことを考えないで、というのが大事なの」
 娘たち相手にそこまでは考えなかったな。
「ねえ、洋一くん。洋一くんは、なっちゃんたちにはどうあってほしいの?」
「別に、俺に希望はありません」
「そうなの?」
「ええ。どういう道を歩んでも、幸せであるならそれだけでいいです。いい大学に入らなくてもいいですし、一流企業に就職しなくてもいいです。結婚だってしなくてもいいです。愛奈たちがそれが幸せだと思えば、それでいいです」
「なるほどね。でも、本音としてはこうあってほしいというのはあるんでしょ?」
「……まあ、多少は」
「特に、なっちゃんに対して?」
「愛奈は……そうですね、確かに少し特別かもしれません。これを言うと愛奈はきっと怒ると思いますけど、愛奈は、愛によく似てますから」
「そうよね」
「どうあっても、俺が一番愛してるのは、やっぱり愛ですから。その愛に似ている愛奈に特別な感情を抱くのも、無理はないかと」
 自分で言うのもなんだが、そのあたりの感情は多少歪んでいるのかもしれない。
「手放したくない?」
「……そうですね。手放したくないです。ずっと、俺の側にいてほしいです」
「でも、なっちゃんならずっとそうかもしれないわね。なっちゃんの洋一くんに対する想いは、父と娘というものではとても片づけられないくらい、強いから」
「由美子さんは、そういうのはどう思います?」
「それは人ぞれぞれだと思うわ。偏った常識や倫理観を持ち出すつもりはないけど、世間一般的には、あまり認められないでしょうけど。それでも、好きになったものはしょうがないし、それを無理に矯正することもできない」
「確かにそうですね」
「ようは、一線を越えなければいいのよ。仲の悪い父娘よりも、仲の良い父娘の方が絶対にいいんだから」
「一線を越えるなんてことは、あり得ませんよ。どんなに愛に似ていても、愛奈はやっぱり娘ですから。それ以上の存在には見られません」
「それならいいの。ま、確かに洋一くんは美樹ちゃんの怒濤の圧しにも耐え抜いてきてるわけだから、大丈夫だとは思うけど」
「はは……は……」
 それを言われると、確かにそうなのかもしれない。
「でも、そうなると、りっちゃんたちはどうするのかしらね?」
「愛理たちですか?」
「ええ。洋一くんの娘たちは、揃いも揃って重度のファザコンだから。それが一番顕著に表れているのがなっちゃんというだけで、りっちゃんたちだって本質的には変わらないと思うわよ」
「……そうですかね?」
 愛理と紗弥もそういうところはあるけど、愛奈よりももう少し割り切れてる気がする。
 愛果と紗菜は、まだそういうことを考える年じゃないし、彩音と紫織も同じだ。
 もちろん、ずっとそのままだとは言い切れないけど。
「いずれにしても、娘たちのことで本当の意味で苦労するのは、これからよ」
「……かもしれないですね」
 本当にそうだ。
 果たして俺に、子離れはできるんだろうか。
 
 その日の夜。
 愛と沙耶加と軽くアルコールを飲んでいると、愛奈が少しだけ真剣な顔でやって来た。
「どうした、愛奈?」
「パパ。少し、話があるの」
「話?」
 いつになく真剣な様子に、愛と沙耶加も少し困惑している。
「場所、変えた方がいいか?」
「あ、うん」
 たぶん、愛と沙耶加が一緒だと話しづらいことなのだろう。雰囲気でなんとなくわかる。
 リビングから愛奈の部屋に場所を移した。
「それで、いったいなんの話なんだ?」
 俺も愛奈もベッドに座っている。
 愛奈は俯いたまま、両手を膝の上でギュッと握っている。
「……パパ」
「ん?」
「話をする前に、ひとつだけ、お願いがあるの」
「なんでも言ってみな」
「ギュッと抱きしめてほしい」
 普段は断りも入れずに俺に抱きついてくるのだが、こうやって断りを入れてくることはほとんどない。それはつまり、俺にそうしてほしいということか。
「わかった」
 そっと肩を抱き、そのまま抱きしめた。
 少し前までは完全に子供の華奢さばかりが目立っていたのだが、少しずつだけど、女性らしい丸みが出てきている。
 同じ頃の愛を知ってるから、よくわかる。
「……あのね、パパ。パパにとって私って、どんな存在?」
「ん、娘だよ。誰よりも大事な、娘だよ」
「それだけ?」
「それだけって……ああ……」
 なんとなく読めた。
「愛奈。おまえ、由美子さんとの話を聞いてたな?」
「……うん」
「だからか……」
「ごめんなさい……」
「いや、謝る必要はないけど」
 あれを全部聞かれていたのだとすれば、愛奈の性格から考えると、こうなってしまうのも頷ける。
「……私って、やっぱりママの代わりなの?」
「俺が言いたかったのは、そういうことじゃないんだよ」
「じゃあ、どういうことなの?」
「愛奈もわかってるとは思うけど、俺が一番愛してるのは、愛なんだ」
「うん」
「そんな愛にそっくりなおまえが特別な存在になるのは当然のことだ。はじめての子供でもあるし、なにより俺自身もずっと大事に育ててきたから。そういうふたつの要因があって、おまえは特別なんだ」
「……それでも、まだよくわからない」
「ん〜、簡単に言ってしまえば、愛と愛奈は同じくらいの存在だってことだ。愛奈が愛の代わりというわけじゃない。愛奈は愛奈として、俺の中では特別なんだ」
「パパ……」
 少しはわかってくれたかな。
「それに、由美子さんとの話を聞いてたのなら、俺の本音も聞いてるはずだろ?」
「うん」
「できることなら、本当に愛奈にはずっと側にいてほしいんだ」
「大丈夫だよ、パパ。私はずっとパパの側にいるよ。死ぬまでずっとね」
「そうか。それなら安心だな」
 本当にそうなるかどうかはわからないけど、そうなってくれれば嬉しい。
 親としては、そんなことではいけないんだろうけど。
「だけど、愛奈」
「ん?」
「もう俺の本音も聞いたんだから、あまり余計なことを考えるなよ。どうもそのあたりは俺や愛の悪いところを受け継いでるみたいだから」
「うん。もう余計なことは考えないよ。だって、私はパパに愛されてるってわかったからね」
 愛奈は、少しだけ顔を上げ、にっこり笑った。
「あ、そうだ、愛奈。もうひとつだけ」
「ん、なぁに?」
「あまり人前でベタベタ甘えてくるなよ」
「ええーっ、どうして? パパ、私のこと愛してるんでしょ?」
「それとこれとは別だ。特に、学校では絶対にダメだ」
「ううぅ〜、パパのいぢわるぅ」
「その代わり、ふたりきりの時は甘えてもいいから。それで我慢してくれ」
「……ん〜、わかった。それでいい」
 やれやれ。とりあえず、これでひと安心かな。
「さてと、そろそろ行くな」
「もうちょっと一緒にいようよぉ」
「あのな、さっき俺がなにしてたか、わかってるだろ? あのふたりを長時間放置してみろ。俺に明日はないぞ」
「大丈夫だよ。私が一緒なんだから。ね?」
 こういう時の愛奈は、本当に頑固だ。
「だからね、パパ。今日は一緒に寝よ」
「は?」
「だからぁ、一緒に寝ようよ」
「いや、さすがにそれは無理だろ」
「どうして?」
「そりゃ……」
 今日は愛との日だからな。
「じゃあ、私がママに言うよ」
「……頼むから、それだけはやめてくれ。事態が泥沼化するだけだ」
「むぅ……」
 とても不満そうだ。
 だけど、俺も愛の機嫌を損ねたくないし。
「……じゃあ、それとなく聞いてみるから。ダメなら、あきらめるんだぞ」
「うん」
 で、愛奈を伴ってリビングへ戻る。
 案の定、愛と沙耶加は若干不機嫌になっている。
「ママ」
 俺が言葉を発する前に、愛奈が切り出した。
「どうしたの?」
「今日、パパを貸してほしいの」
 いきなり直球だ。
「……それは、どういう意味?」
「今日は、パパと一緒に寝たいの」
 愛の視線が鋭くなった。
 というか、マジで恐いんだが。
「あなた。ちょっといいかしら?」
「あ、ああ」
 俺は、愛に連行され、場所を移した。
「あれはいったいどういうことなの?」
「いや、どういうもこういうも……」
「あの子といったいなにがあったの? 以前は愛理たちと張り合うようにあなたと一緒に寝たいとは言ってたけど、高校に入ってからはそういうこともなくなっていたのに」
「……まあ、なんだ、悩み相談というか、愚痴聞きというか、いろいろあったんだよ」
 愛は、ジト目で俺をにらむ。
「それに、今日は私の日でしょ? まさか、それを忘れたとは言わせないわよ?」
「ちゃんと覚えてるって。そのことも遠回しには話したんだけど、愛奈も頑固だから」
「別に愛奈と一緒に寝るなとは言わないわ。ただね、あの子の性格を考えると、一度枷を外してしまうと、そのままズルズルいっちゃう気がするのよ。あの子、あなたのことになると別人になってしまうから」
「……まあ、おまえの娘だしな」
「こほん、それはいいの」
 自覚はあるんだな。
「とにかく、少なくともそんな理由だけでは、あの子にあなたを譲れないわ。私だって、久しぶりなんだから」
 確かにこのところお互いに忙しくて、そんな余裕もなかった。
「だから、今日だけはダメ」
「わかったよ」
 しょうがない。今日は愛奈に引いてもらおう。
「愛奈」
 リビングに戻り、早速愛奈に話す。
「悪いけど、やっぱり今日はあきらめてくれ」
「むぅ……ママのケチぃ」
「ケチって、そういう問題じゃないでしょう?」
「だって、ママや沙耶加ママはいつもパパと一緒でしょ? たまには私に譲ってくれてもいいと思うの」
「じゃあ、愛奈は明日にしなさい。明日ならいいわ」
「本当に? 絶対? ウソじゃないよね?」
「ええ、ウソじゃないわ」
 隣で沙耶加が不満そうな顔をしているけど、見なかったことにしよう。
「わかった」
 ようやく愛奈の方が折れてくれた。
「パパ。明日は必ず一緒に寝ようね」
「ああ、わかったよ」
「うん、おやすみなさい」
 愛奈は、俺の頬にキスをして部屋に戻っていった。
「洋一さん。確か、明日は私のはずだったと思うんですけど」
「いや、まあ、そういうこともあったかな」
「明日の分は、あさってということでいいです。その代わり、あさっては覚悟してくださいね」
「お、おう……」
 やれやれ。なんとなくだけど、これからもこういうことが繰り返されそうな気がする。
 本当にやれやれだ。
 
 四
 学校は夏休みに入った。
 それはつまり、うちの娘たちも夏休みに入ったということになる。
 で、その娘たちのうちのふたり、彩音と紫織がうちに泊まりに来ている。
 これはここ最近はずっとで、真琴も香織もそれぞれにやることがあるから、半分託児所みたいな感じでうちに預けていく。
 うちの娘たちは基本的に要領は悪くないので、夏休みの宿題もさっさと終わらせてしまう。もちろん、高校生である愛奈と愛理、紗弥はそう簡単には終わらないが。
 俺も愛も沙耶加も、特に夏休みがあるわけではない。いつも通りの仕事がある。
 だから、彩音と紫織のことは愛奈たちに任せている。
 日中は結構おとなしく愛奈たちの言うことは聞いているみたいだけど、夜に俺が帰ってくると、途端にじゃじゃ馬娘に変わってしまう。
 こんな感じに。
「パぁパ、パぁパ」
「こらこら、彩音。そんなに引っ張るな」
「パぁパ、あやとあそぼ」
「遊ぶから、そんなに引っ張らない」
 彩音は、年齢のせいもあるんだろうけど、とにかく遊びたい盛りだ。
 限界という言葉を知らないのではないかというくらいに、ギリギリまで遊ぼうとする。まあ、たいていはそのあと、糸の切れた操り人形のように寝てしまうのだが。
「おとーさん」
 で、紫織はといえば、とりあえずは彩音よりはおとなしい。
 我慢強いのかどうかはわからないけど、俺の側でじっとしていることもしばしばだ。
 だけど、主張するところはちゃんと主張する。たとえば、愛果や紗菜が紫織をどかそうとすると、俺にしがみついて離れようとはしない。
「紫織、おとーさんといっしょにいるんだもん」
 そんな感じだ。
 それでもふたりとも俺の言うことはちゃんと聞いてくれるから、まだ気が楽だ。
 ちょうど言うことを聞かなくなってきてる愛果と紗菜とは、そのあたりが違う。
 もっとも、うちにいる間は好き勝手は絶対にできない。なぜなら、うちの一番の権力者が、愛だからだ。家族の中で愛に逆らえる者は、誰ひとりとしていない。
 そのあたりのことは、彩音と紫織も認識しており、愛にだけは絶対服従だった。
 あと、うちが娘たちだけになるからなのだが、姉貴がたまに様子を見に来る。で、その姉貴に対しても娘たちはたいてい、絶対服従だ。
 まあ、愛とは違った意味でなのだろうけど。
 で、彩音や紫織ですらうちに来ているのだから、近くに住んでいる美沙がうちに来ないはずがない。
 たいした距離があるわけでもないのだが、夏休みに入った途端、大きな荷物を持って、愛奈の部屋に転がり込んでくる。
 これもここ最近はずっとで、最初の頃こそいろいろ言っていたのだが、もはやそれも無意味だと悟り、今ではなにも言わなくなっている。
 もちろん、タダ飯を食わせるだけじゃもったいないから、従妹たちの面倒を見させている。
「ねえねえ、パパ」
「どうした?」
「プールに行こうよ、プール」
 金曜日の夜。
 紗弥がそんなことを言い出した。
「これだけ毎日暑いんだから、プールに行ってリフレッシュしないと」
「行くのは構わんが、彩音と紫織の面倒は誰が見るんだ?」
「そんなの、お姉ちゃんたちに任せておけばいいんだよ。お姉ちゃんと美沙ちゃんは、そのためにいるんだから」
 と、愛理が横から口を出してきた。
「愛理。誰がそれを決めたのよ」
 さらに、愛奈まで。
「そうよ。あやちゃんとしぃちゃんの面倒は、愛理と紗弥で見ればいいのよ」
 美沙も愛奈を援護する。
「こらこら、おまえたち。彩音と紫織を物扱いするな。ふたりの面倒は、おまえたち四人が見るんだ。それができないなら、プールはなしだ」
「むぅ……」
 若干不満そうだが、ここ最近はずっとそうだから、文句も出ない。
「パパ。わたし、ウォータースライダーやりたい」
「あ、わたしもわたしも」
「ウォータースライダーか」
 このあたりでそれができるプールは限られている。
 しかも、この時期だ。休日は間違いなく芋の子を洗うような状態だ。
「それはそれでいいけど、愛果、紗菜。ものすごく人が多いぞ。下手するとプールの中で泳げないくらいにな」
「ん〜、それはそれでイヤだけど」
「私は普通のプールでいいよ」
「そうそう。ようちゃんに新しい水着を見てもらうだけなら、普通のプールで十分」
 年上のふたりが、現実的な意見を述べる。
「愛理と紗弥はどうだ?」
「私は正直どっちでもいいよ。でもまあ、泳げた方がいいかもしれないから、あまり混んでない方がいいかな」
「私もそうかも」
 やはり、高校生の四人は現実的だな。
 まあ、その理由のひとつは、泳ぐことだけが目的じゃないからなんだろうけど。
「パパは?」
「そうだな。あまり混んでるのもイヤだけど、ガラガラすぎるのもイヤだな。夏のプールに来たという感じがしない」
「それは贅沢じゃない?」
「そうかもしれないけど、実際そうじゃないか?」
「ん〜、まあ、そうかも」
「ただ、現実的なことを考えるならば、普通のプールの方がいいのかもしれないな」
「ええーっ、パパ、ウォータースライダーがいいよぉ」
「ウォータースライダー、ウォータースライダー」
 愛果と紗菜は、どうしてもウォータースライダーがいいらしい。
「じゃあ、愛果、紗菜。とりあえず、今度行くのは普通のプールにして、ウォータースライダーのあるプールへは、普通の日にママたちに連れて行ってもらえばいい」
「わたしはパパと行きたいのに」
「夏休みはまだあるだろ? だから、今回は我慢してくれ。な?」
 不満そうな愛果と紗菜の頭を撫でる。
「むぅ、しょうがないなぁ……」
「パパ、約束だからね?」
「ああ、約束だ」
 実際、プールに行けるかどうかはわからないけど、約束しておかないと収まらないから。
「パぁパ」
「おとーさん」
 と、そこへ風呂上がりの彩音と紫織がやって来た。
 頬も真っ赤で、髪も湿っている。
「ふたりとも、ちゃんとあったまったか?」
「うん」
「あったまったよ」
「よし」
 今日、ふたりを風呂に入れたのは、沙耶加だ。
 毎日俺だとさすがに保たないので、俺と愛、沙耶加が交代で入れている。もちろん、真琴と香織が来ている時は、それぞれに任せるが。
「ほら、次は誰が入るんだ?」
 夏休み中は、うちの人口密度が一気に高くなる。となると、当然風呂に入る順番も問題になる。俺なんかは男だからさっさと入ってしまうのだが、俺以外は長湯が多い。
「ようちゃん。一緒に入ろうよ」
「却下」
「ケチだなぁ、ようちゃんは」
「ケチでもなんでもいいから」
「じゃあ、愛奈。一緒に入る?」
「入ってもいいけど、美沙、すぐ触ってくるから」
「いいじゃない、別に。減るもんでもないんだから」
「減るの」
「はいはい」
 とまあ、いつもこんな感じに賑やかだ。
「洋一さん」
 で、たまにイレギュラーなことが起きる。
「どうした──って、いきなりなんだ?」
 沙耶加は、本当にいきなり俺にしなだれかかってきた。
 沙耶加が娘たちの前でそういうことをするのは珍しい。まあ、ないわけではないが。
「少し、のぼせてしまったので」
「なら、離れた方がいいんじゃないか?」
「洋一さんに、看てほしいんです」
 たまにあるのだが、沙耶加が壊れる時がある。
 いつ壊れるのかはわからないし、その兆候すら感じ取れない。
 唐突に、本当にいきなり壊れる。
「ママぁ、パパが困ってるよ」
「……困ってるんですか、洋一さん?」
 潤んだ瞳で、しかも風呂上がりの艶っぽさが加わり、なんとも反論しづらい。
「いや、まあ、その……」
「……ホント、パパは沙耶加ママには弱いんだから」
 ボソッと言うのは、愛奈だ。
「美沙。お風呂入ろ」
「あ、うん」
 愛奈は、美沙と一緒にリビングを出て行った。
「とりあえず、沙耶加。髪くらいちゃんと乾かした方がよくないか?」
「そうですね。そうします」
 そして、壊れたのも唐突に修復されてしまう。
 本当によくわからん。
「パパも大変だね」
 本当にその通りだ。
 
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「洋ちゃんは、愛奈たちにはどうあってほしいと思ってるの?」
 夜遅く。ベッドの中で愛がそんなことを訊いてきた。
 唐突だとは思うけど、愛奈が高二であることを考えれば、おかしな質問とも言えない。
「別にこれというのはないな。どんな道を進むにしろ、後悔さえしなければいい」
「それはそうだと思うけど、本当にまったくないの?」
「まったく、ということもないけど」
「じゃあ、それは?」
「そうだな……」
 目を閉じ、しばし考える。
 それぞれに対する俺の想い。
「愛奈には、できればずっと側にいてほしい。特にこれをしてほしいということはないけど」
「それって、愛奈が私にそっくりだから?」
「それもある。もちろん、それだけが理由じゃないけどな」
「私たちの娘だから喜ぶべきことなんだろうけど、少しだけ複雑な気持ち」
「ただ、そういうことを言い出すと、それこそ全員、そうしてほしいくらいだ。愛奈だけじゃなく、愛理たちもカワイイ娘には違いないからな」
「でも、ずっとそうあり続けられるわけじゃないわ。いつか、あの子たちにも好きな人ができて、この家を出て行くかもしれない」
「わかってる。さっきのはあくまでもあえて言えば、ということでだ。俺としては、みんながみんな、幸せであるならどうあっても構わないと思ってる」
「結局は、そうなるのね」
 愛は、仕方がないか、という感じで苦笑した。
「私ね、ずっと不思議だったの」
「なにがだ?」
「どうしてうちの娘たちは揃いも揃って、洋ちゃんのことが好きなのかなって。そりゃ、嫌いになるよりは好きになった方がいいとは思うけど。でも、揃いも揃ってというのは、そうそうないと思うし」
「それを俺に言われても困るんだがな」
「そうなんだけどね。愛奈や愛理、紗弥のことはなんとなくわかるの。愛奈は私たちのはじめての子供だったし、なによりもそのすぐあとに私が愛理を妊娠したから、洋ちゃんが面倒を見ていたし。その延長線上に愛理や紗弥のこともある。だけど、愛果たちの場合は違うと思うの」
 順序立てて言われると、確かにそうかもしれないと思う。
「愛果と紗菜が生まれてからも、特に猫可愛がりしたわけでもないし、愛奈たちのこともあったから、それなりにおろそかになった時間もあったはず。なのに、あの子たちも洋ちゃんのことが大好きで大好きでしょうがない。すごく不思議なことよ」
「愛は、どう考えてるんだ?」
「私は、今は単純に考えてるわ」
「それは?」
「だって、私が好きになった洋ちゃんなんだよ? 娘ということを抜きにしても、好きになっちゃうのはしょうがないと思うの」
「……なるほど、そういうことか」
 俺自身はそういうことは全然気にしてないのだが、愛は気になるらしい。
 やはりそのあたりは、愛とお義母さんのやり取りに似ている。
「だけどね、洋ちゃんは自分のことを好きでいてくれる人を絶対にないがしろにしないから、私としては少しだけ不満なの」
「それも今にはじまったことじゃないだろ」
「そうよね。私と沙耶加さんだけじゃ飽き足らず、由美子さんに香織さん、真琴ちゃんにまで手を出して、その上教え子だった昭乃さんにまで手を出したわけだし」
「…………」
 反論できん。
「そして、今では愛奈たちを含めて娘たち全員に好かれていて。本当にこれから先、どうなるのかしらね」
「……なあ、愛」
「ん?」
「そうやってちくちく責めるのやめないか?」
「イヤよ。それに、これくらいの愚痴くらい聞いてくれなくちゃ、私だっていつか爆発するわよ。それでもいいの?」
「……それはそれで困るけど」
「だったら、甘んじて受け入れればいいの」
 そう言って愛はにっこり微笑み、俺にキスをした。
「ね、洋ちゃん。そろそろ考えてみない?」
「考えるって、なにをだ?」
「ん、四人目」
「…………」
「なんでそこで黙っちゃうのよぉ」
「いや、さすがに諸々のことを考えると無理だろ。今だって俺たちの稼ぎでギリギリなんとかやれてるところなんだし。これで愛奈たちが大学にでも行くようになれば、さらに金がかかる」
「そのあたりはなんとかなると思うけど。ほら、未だにお母さんたちは孫の面倒を見たくて見たくてしょうがないんだから」
「それは俺がイヤだ」
「どうして?」
「自分の子供なら、やはり自分たちで面倒を見ないと」
「それはわかるけど、限度というものもあるでしょ?」
「できないなら、子供を作らなければいいだけだ」
「むぅ……」
「そんな顔するなって」
 どれだけ年を重ねても、人間、根本的な部分はそう簡単には変わらない。
 俺もそうだけど、愛もそうだ。
 普段は娘たちの母親として凛としているけど、ふとしたきっかけで昔の愛が顔を覗かせる。
「なんか、最近の洋ちゃん、私に冷たいよね」
「だから、どうしてそうなるんだよ?」
「だって、洋ちゃんの方から誘ってくれる回数も減ったし、普段のコミュニケーションの時間も減った気がするから」
「それはただ単に、お互いに忙しいからだろうが」
「そうかもしれないけど……」
「まったく……おまえのそういうところは、全然変わらないな」
「それだけ洋ちゃんのことが好きってことなの」
 どれだけいろいろ言われても、最終的に許してしまうのは、俺もそれだけ愛のことが好きだからなのだろう。
 頭の片隅ではそんな理由では、とも思っているのだが、それで納得できてしまう自分もいる。
 今更なのかもしれないけど、恋は盲目なんだな。
 
 そして、日曜日。
 俺たちは揃ってプールへとやって来た。
「いやあ、それにしてもプール日和ね」
「ええ、これ以上にないくらいに」
 今日は、姉貴はもちろんのこと、香織と真琴もいる。ついでに言えば、昭乃も誘っておいた。仲間外れにするとすぐに拗ねるからなのだが、正直、愛理と紗弥のことがあるから迷ったのも事実だ。
 でもまあ、ふたりもさすがに面と向かって敵意をむき出しにすることもないだろうから、誘うことにした。
 俺たちがやって来たプールは、このあたりでは比較的大きく、だけど、穴場的なプールだった。なぜ穴場かといえば、それは施設が比較的古いからだ。
 最新の設備がないから、多少不便だ。それがイヤな連中はここへ来ない。
 もちろん、俺たちと同じように穴場だからわざわざ来る連中もいるにはいるが。
 だけど、一番大きな理由は、プールが複数あるからだ。俺たち大人も泳げるし、彩音や紫織のような子供も泳げる。これが重要。
 子供用プールを設置してるプールも最近では少なくなってるから、こういう場所は貴重だ。
 うちは家族全員泳ぎに関しては問題ない。彩音はまだ浮き輪なしでは泳げないけど、水に対する恐怖心はない。紫織は、香織の娘らしくスポーツに関しても万能そうなところを見せている。
「じゃあ、着替えたらプールサイドで」
 男は俺と和輝だけなので、ふたりで更衣室へ。
「和輝は、今日はこっちでよかったのか?」
「よかったもよくなかったも、母さんと姉さんに無理矢理連れて来られたから」
「苦労してるな、相変わらず」
「父さんにもよく同情されるよ」
 あの家に暮らしていれば、確かにそうなるだろうな。
 姉貴も美沙も、加減というものを知らないから。
「だけど、父さんはこうも言ってるよ。もし、近くに叔父さんがいなかったら、もっと大変だったって」
「それはつまり、俺が生け贄になってるってことか?」
「たぶんね」
 事実だから反論できんな。
 というか、本当に姉貴と美沙は、俺をおもちゃにして遊びたがるから。
「僕も、叔父さんがいてくれてよかったと思うよ。母さんは別にしても、姉さんの分はかなり軽減されてるからね」
 美沙と和輝の姉弟は、仲は悪くない。だけど、俺と姉貴のように、美沙の性格が強烈だからか、和輝の存在が薄い。本人はまったく気にしていないみたいだが。
「叔父さんはさ、姉さんのことどう思ってるの?」
「どうって、姪っ子で教え子だろ?」
「そうじゃなくて、ひとりの女の子としてだよ」
「ん〜、そういう風には見たことないからなぁ」
「……それ、姉さんの前で言ったら、姉さん泣くよ?」
「いや、もう何度も言ってる」
「……あっそ」
 和輝は、小さくため息をついた。
「ただな、姉貴の娘だから、確実に美人になるな。あと、頭も良いし、運動もなんでもこなせる。性格だって多少うるさいところに目をつぶれば、悪くない。そういうことからいえば、なかなかお目にかかれない逸材だと思うぞ」
「……それ、姉さんの前で言ったら、姉さん泣いて喜ぶよ?」
「言えるかよ」
 そう言って俺は苦笑した。
「それより、和輝はどうなんだ?」
「どうって?」
「もう中学生なんだし、好きな子とかはいないのか?」
「好きな子ねぇ……」
 着替え終わり、ロッカーの鍵をかける。
「今はまだいないよ。ただ、これから先もすぐには見つからないと思うけど」
「なんでだ?」
「だって、姉さんもいとこたちも、あんなだし」
「……ああ、なるほど」
 なんとなく、それだけで理解してしまった。
「まあ、誰を好きになってもいいけど、とりあえず美沙に対抗できる力を持ってた方がいいと思うぞ」
「できれば、姉さんのことは叔父さんに任せたいところだけど」
「勘弁してくれ」
 そんなことを話しつつ、プールサイドへ。
 プールは、予想より若干少なめだった。
 それでも、結構多い。プールサイドに設置されているベンチはひとつも空いていなかった。
 それからすぐに、女性陣が出てきた。
「パパっ」
 いきなり突っ込んできたのは、愛果だった。
「こら、愛果。プールサイドで走らないの」
 後ろから愛の鋭い声が飛んでくる。
 だが、今日の愛果はそれくらいでは止まらない。
「パパ、早く泳ご」
「わかったわかった」
 言うことを聞いておかないと、さらに面倒なことになるから、とりあえずは言う通りにする。
「紗菜、彩音、紫織」
 さらに三人を呼ぶ。
 愛果を含めた四人は、さすがに大人用のプールでは足が届かない。さらに言えば、彩音と紫織はまだまだ泳ぎが上手くないので、邪魔にならないように、という意味もある。
「パぁパ、だっこ」
「よし」
 彩音を抱きかかえ、愛果たちを連れて子供用プールへ移動する。
 そこは水深が浅く、長さも短い。
「ちゃんと準備運動してからだからな」
 今にも飛び込もうという三人にそう言い聞かせる。
 彩音を下ろし、一緒に準備運動をする。
 準備運動を終えたら、ようやくプールへ。
 愛果と紗菜は、早速泳いでいる。
 紫織は、俺の側を離れようとしない。どうやら、一緒がいいようだ。
 俺は、彩音が使う浮き輪を膨らませ、その彩音と一緒にプールに入った。
「彩音は、少しは泳げるようになったのか?」
「ん〜、わかんない」
「じゃあ、今日は練習してみるか」
「うん」
 彩音の手を取り、少し引っ張る。
「ほら、足をバタバタって動かして」
 彩音は、言われた通りに足を動かす。
 そうすると、俺が引っ張らずとも前進する。
「そう、そのまま足を動かして」
 スッと手を放す。
 途端、彩音の動きが不安定になった。やはり、手を繋いでいないと不安になるんだろう。
「パぁパ、パぁパ」
 必死に俺に近づいてくる。
「パぁパ、はなしちゃヤなの」
「ごめんごめん」
「むぅ、おとーさん」
 と、後ろから紫織が首にしがみついてきた。
「あやちゃんだけじゃなくて、紫織も」
「わかったわかった」
 まあ、結局はこうなるんだろうな。
 彩音の泳ぎの練習を中断し、紫織の相手もする。
「紫織は、学校ではどのくらい泳げるんだ?」
「んと、あっちからあっちまで」
 そう言って指さしたのは、ちょうど二十五メートルプールだった。
「そうか。それだけ泳げればすごいな」
 我が娘ながら、なかなか優秀だ。
「彩音も、紫織みたいにたくさん泳げるようにならないとな」
「うん、あやも、しぃちゃんみたいになる」
 彩音と紫織は年が近いこともあって、一緒にいる時は仲が良い。
 紫織は彩音のよき姉であろうとしてるし、彩音は紫織のことを純粋に好きでいる。
「パパ」
「どうし──うわっ」
 振り返るとの同時に、水をかけられた。
「あはは、わぁい、引っかかった」
「…………」
 水をかけたのは、愛果だった。
「パパ……?」
「…………」
「えっと……ごめんなさい……」
 俺が黙っていたら、愛果の方から謝ってきた。
 別に怒っていたわけではないのだが。
「愛果」
「な、なに?」
「そういうことはできるだけしないこと。ほかの人に迷惑がかかるかもしれないからな」
「うん、ごめんなさい」
「わかればいい」
 俺は愛果の頭を撫でてやった。
「そういえば、紗菜はどうした?」
「紗菜ちゃん? 紗菜ちゃんなら、ママたちのところだよ」
「なんでまた?」
「ん〜、よくわかんない」
 いつもならあまり単独行動はとらないのだが。
「ま、そのうち戻ってくるだろ」
「そうだね」
 で、しばらくすると、確かに戻ってきた。
 おまけを引き連れて。
「ほら、彩音」
 連れてきたのは、美樹と真琴だった。
 真琴は娘である彩音の泳ぎの様子を見に、美樹は面白半分で。
「あ〜あ、私も真琴さんみたいに、自分の娘の面倒を見たかったなぁ……」
「……そこでなんで俺を見る?」
「だって、私が好きなのはお兄ちゃんだけだから」
「……ったく、おまえは……」
 悪態をつきながらも、強く言えない時点で俺の負けなのだが。
「なあ、美樹。おまえももう三十二なんだから、そろそろそういうのはやめにしないか?」
「年齢なんて関係ないの。私とお兄ちゃんが死ぬまで兄妹であることと、私がお兄ちゃんのことを好きなことは、ずっと変わらないの」
「……勝手にしてくれ」
 そんなことくらいで説得できるとは思っていない。それくらいで説得できるなら、もうずっと前に今のような状況は打破できていたはずだ。
「おとーさん」
「ん、どうした?」
「おかーさんがよんでるよ」
「香織が?」
「うん」
 紫織に手を引かれ、俺は子供用プールから普通のプールへと移動した。
「おかーさん」
「ちゃんと呼んできてくれたのね」
「うん」
 香織の側には、愛と沙耶加もいた。
 姉貴と昭乃の姿が見えないけど、どこに行ったのだろうか。
「で、なんで俺を呼んだんだ?」
「なんでって、娘たちの相手ばかりしてないで、あたしたちの相手もしなさいよ」
「……面倒だな」
「あら、そんなこと言っていいの?」
「そうよ、あなた。ここにはあなたを助けてくれる人はいないのよ?」
 愛と沙耶加まで香織に加勢する。
「紫織。おとーさんと一緒に泳ごう」
 だが、そこには最後の盾、もとい、助っ人である紫織がいた。
 紫織を抱き上げ、そのままプールに飛び込んだ。
 少し水がかかったが、紫織はイヤな顔ひとつ見せない。
「おとーさん。おかーさんはいいの?」
「おとーさんは、紫織と一緒がいいんだよ」
「えへへ」
 あとでなにか言われるだろうけど、今日くらいは大人の相手は適当にしたい。
 反対側に出ると、姉貴たちがいた。
「あら、洋一。しぃちゃんとふたりだけなの?」
「今し方、連中から逃げてきたところ」
「大丈夫なの、パパ? ママたちからそんなことしたら、あとが大変だと思うけど」
 さすがは愛奈。そういうことはよく理解している。
「心配するな。どうせ今日は疲れてなにもできなくなるんだから」
「ん〜、それは甘い気もするけど……」
「いいのよ、美沙。洋一がいいって言ってるんだから」
「そうなのかなぁ」
 姉貴と違って、美沙が俺のことを心配してくれる。
「ところで、なんで姉貴たちは三人でいるんだ?」
「別に特に理由なんてないわよ。たまたまよ、たまたま」
 愛奈と美沙にも訊いてみるが、同じ答えだった。
「ね、ようちゃん。しぃちゃんのことはママに任せて、私と一緒に泳ごうよ」
 そう言いながら、俺に体を寄せてくる。
 自分の母親がすぐ側にいるのに、なかなか大胆な奴だ。
「美沙。パパに抱きつかない」
 だが、姉貴よりも先に愛奈が鋭い声を上げた。
「別に抱きついてなんかないわよ」
 確かに抱きつかれてはいない。だが、似たようなものだ。
「美香さんもなにか言ってくださいよぉ」
「いいんじゃないの? 別に誰か困ってるわけでもないし」
「……をい」
「むぅ……」
 愛奈は、口ではダメだと判断し、実力行使に出た。
「ほら、美沙。離れて」
「イヤ」
「美沙」
「こら、ふたりとも。こんなところで喧嘩しないの。洋一だったら、家に帰ってから思う存分甘えればいいじゃない。ね、洋一?」
「いや、俺に振られても困るんだけど」
「そういうわけだから──」
「……無視するつもりなら、最初から聞くなよ」
「とりあえず引いておきなさい」
「はぁい」
 ふたりは、姉貴に言われて渋々引いた。
「じゃあ、俺たちは行くから」
 紫織を連れて、その場を離れた。
 一度プールサイドに上がる。
 さすがにずっと水に浸かっていると、ふやけてしまう。
「なあ、紫織」
「ん?」
「紫織は、おかーさんとふたりだけで淋しくないか?」
「ん〜……淋しくないよ。だって、おかーさんいるし、おとーさんもいるから」
「そうか」
「……でもでも、もうちょっとおとーさんと一緒にいたい」
「ごめんな、ずっとは一緒にいられなくて」
「ううん」
 紫織は本当に聡い子だ。だからこそ俺は、紫織のことをちゃんと見ていなくてはならない。
「夏休みが終わったら、今度はおとーさんが紫織のところへ遊びに行くから」
「ホント?」
「ああ。その時はたくさん遊ぼうな」
「うんっ」
 愛奈たちが手がかからなくなっていることを考えれば、もう少し彩音や紫織との時間を増やす必要はある。もちろん、それにも限界はあるが、そのあたりは実際はなんとでもなる。
「あ、パパとしぃちゃんだ」
 と、向こうから見知った顔が近づいてきた。
 愛理と紗弥、それに昭乃だった。
 この三人が一緒にいるのは珍しい。
「三人でなにしてるんだ?」
「ん、パパを探してたの」
「俺を?」
「だって、すぐにしぃちゃんやあやちゃんと行っちゃったから」
「それで、今向こうのプールを見てきたところなの」
「なるほど」
 理由はわかったが、それでもこの三人が一緒にいる理由が見えない。
「向こうはちゃんとやってたか?」
「うん。真琴さんもいるし」
 美樹は数に入ってないんだな。
「それより、パパ。ちゃんと私たちにもつきあってよ。パパがいないと、なんのためにここへ来たのかわからなくなっちゃう」
「大げさだろ」
「そんなことないよ。プールに来ることよりも、パパと一緒にいることの方がよっぽど大事なんだから」
 愛理も紗弥も、そのことだけは絶対に譲らない。
 隣にいる昭乃も、苦笑している。
「ところで、昭乃」
「あ、はい」
「なんで、このふたりと一緒にいたんだ? 子守でも頼まれたのか?」
「パパぁ、いくらなんでも『子守』はひどいよぉ」
「別にそういうわけじゃないんです。私から進んでふたりと一緒にいたんですよ」
「そうなのか?」
 珍しいこともあるもんだ。
「ええ。愛理ちゃんと紗弥ちゃんには、まだまだ認めてもらえてませんから。こういう機会でもないと、関係はなかなか縮まらないと思ったので」
「なるほど。意固地なお子様ふたりに対して、あくまでも真摯に接しようとしていたわけか」
「むぅ、そんな言い方しなくてもいいのに」
「そうだよ、パパ。それに、認めてないわけじゃないし」
「じゃあ、なんなんだ?」
「そんなの決まってるよ。パパを取られたくないから」
 単純な理由だ。
 だけど、そんなものか。
「だけどな、俺は誰のものでもないぞ。俺は、俺だ。だから、取られるとか取られないとか、そんなのは考えるだけ無駄だ」
「そう言いながらも、ママには弱いもんね、パパは」
「うるさい」
 愛は、特別なだけだ。
「ふふっ、やっぱり洋一さんたちはとても仲が良いですね。羨ましいです」
「そうやって未だに一歩引いた位置にいるから、こいつらに舐められるんじゃないか?」
「えっ、でも……」
「そりゃ、愛や沙耶加の前では勘弁してほしいけど、それ以外だったら、多少のことには目をつぶるぞ」
「ん〜、だったら──」
 昭乃はそのまま俺の隣に来て──
「こうしててもいいですか?」
 俺の腕を取った。
 水着越しに柔らかな感触が伝わってくる。
「いや、さすがにこれはやりすぎだろ」
「そうですか? 本当は、もう少しいろいろやりたいんですけどね」
「……おいおい」
 いつもならここで愛理と紗弥が文句を言うのだが、それがない。
 というか、ここから逃げようとしてる?
 さらに言えば、視線は俺たちではなく、その後ろに──
「こほん、あなた」
 ……しまった。
 ここには、こいつがいたんだ。
 愛理と紗弥は、そそくさと逃げ出した。
 くそっ。
「昭乃さん。ちょっとだけいいかしら?」
「え、ええ」
 昭乃は、俺から離れる。
「あなた。とても長いお話があります」
 愛は、にこやかに、だけど怒気をはらんだ声でそう言った。
 合掌。
 
 結局、プールには夕方近くまでいた。
 俺たちはへとへとだったのだが、娘たちはとにかく元気で、特に愛果と紗菜は最初から最後まではしゃぎっぱなしだった。
 プールからの帰り道。
 俺は、疲れて寝てしまった彩音を背負い、歩いていた。
「今日は、本当に疲れた」
「帰ったら、もうなにもできないかもしれないわね」
「それならそれで構わないさ。どうせ、やることもないし」
 娘たちもプールを離れた途端、疲れが出てきたようで、足取りも重い。
 紫織も結構つらそうなのだが、あいにくと彩音の方が先に落ちてしまったので、背負ってやることはできない。
「こうやって夏休みにいろいろできるのは、今年までなのかしらね」
「来年は、愛奈と美沙が受験だし、そうなる可能性が高そうだけど」
 愛奈も美沙も受験するから、来年は遊んでいるわけにはいかないだろう。もちろん、夏休み中ずっと勉強するのも無理だろうけど、それでもなかなか遊べないはずだ。
「とりあえず、愛理と紗弥の受験が終わらないと、のんびりはできないな」
「そうすると、今年の夏は目一杯遊ばないと」
 と、愛奈が割り込んできた。
「ね、パパ。海では、私と一緒にいてね」
「愛奈、抜け駆けはよくないわよ。来年受験なのは、愛奈だけじゃないんだから」
 そう言って、美沙も入ってくる。
「美沙も一緒だと、いつもと変わらないじゃない。たまには私に譲ってよ」
「イヤよ。愛奈こそ、私に譲ってよ。そしたら、私がようちゃんとゆったりのんびり、楽しく過ごすから」
「おまえら、人を挟んでぎゃあぎゃあ騒ぐな」
「だってぇ……」
「そうだよぉ……」
 やれやれ、こいつらはどこまでいっても変わらないんだろうな。
「じゃあじゃあ、お姉ちゃんたちの代わりに、私が──」
『それはもっとダメっ』
「あうっ」
 本当に、変わらない。
 
 五
 ちょうどお盆の時期に、俺たちは家族総出で旅行に出かけた。
 本当はお盆は外したいのだが、あいにくと仕事の都合でそうもいかない。だから、出かける時にはそれ相応の覚悟が必要だ。
 車での移動も、電車での移動も、どちらも相当に混雑する。
 俺たちの場合は、人数が多いのでかえって車での移動の方が安上がりになる。
 車は、七人乗りのワンボックスカー三台。運転は、俺と和人さん、それに香織だ。香織は車の運転が好きで、普段はあまり運転できないので、その分の鬱憤を晴らすかのように、こういう時に運転する。
 同乗者は、くじ引きで決める。そうしないと、うちの娘たちは全員、俺の運転する車に乗りたがるから。
 とはいえ、それも行く先々で行うから、たいてい全員と一緒になるのだが。
 車の中はとにかく賑やかになる。
 賑やかなのは眠気覚ましになるからいいのだが、度を超すとさすがに勘弁してほしくなる。
 それも今更だけど。
 
 初日は、移動だけで大半の時間を費やしてしまった。できるだけ混雑してない道を選んだつもりだったのだが、やはり普段よりかなり時間がかかってしまった。
 当然のことながら、それはあらかじめ予想していた。だから、特になにもできなくても問題のなさそうな時間に家を出たのだ。
 結局、そのまま旅館にチェックインすることになった。
 部屋は大きめの部屋を四部屋。そのひとつには、姉貴たち家族が。あとの三つに俺たちが分かれて泊まることになっている。
 ここでもまた部屋割りで一悶着あるのだが、このあたりも慣れたもの。絶対に譲らないふたり以外は、くじ引きで決めた。ちなみに、絶対に譲らないふたりというのは、愛と沙耶加のことだ。俺もこのふたりを敵にまわしたくないので、そのあたりは素直に言うことを聞いている。
 で、とりあえず今日のところは、愛と沙耶加のほかに、愛理と愛果が一緒になった。愛奈だけ仲間はずれの形になり、愛奈はそれはそれは悔しそうだった。
「ふう……」
 荷物を置き、ひと息つく。
 この旅館は海から近く、夜中なら波の音が聞こえてくる距離だった。
 ほとんどの客室からは海が見え、潮風も心地良く吹き込んできた。
「パパ。今日は泳がないの?」
「さすがにこの時間からだと、危ないからな」
 いくら夏は日の入りが遅いといっても、夕方に海に入るのは危険だ。泳ぎに自信があれば別だが、普通にしか泳げない者には少々厳しい。
「じゃあ、パパ。一緒にお風呂に入ろうよ」
 いきなりそう言い出したのは、愛理だ。
「ここって、ファミリー風呂があるんでしょ?」
 この旅館は温泉を引いていて、当然、風呂場は男女別だ。ただ、一時期流行った家族向けの小さめの風呂があり、そこは男女は関係なかった。
 来る前にいろいろ調べていた娘たちだから、そのあたりのことは当然知っている。
「あるにはあるが、あれも予約してからじゃないと使えないんだ」
「それなら、予約してくるよ」
 言うが早いか、愛理は部屋を出て行った。
 このあたりの行動力は、愛にそっくりだ。
「パパ。お膝に座ってもいい?」
「ん、ああ」
 余所行きの服から動きやすい服に着替えた愛果が、そうねだってきた。
 小学六年生にもなって、とは思うのだが、うちの娘たちはとにかく甘えたがりばかりだから、無駄な抵抗はしないことにしている。
 ちょうど愛果が俺の膝に収まった時──
「パパ」
 どやどやとみんなが部屋にやって来た。
「むぅ、愛果、ずるい……」
 で、いきなり妹に嫉妬してるのは、愛奈だ。
「ずるいって、愛奈。おまえはもうこんなことする年じゃないだろう」
「そんなことないよ。私はいつまでもパパの膝の上に座っていたいし、ギュッと抱きしめていてほしいの」
 そう言いながら、俺たちの方へ近づいてくる。
「愛もなんとか言ってくれよ」
 無駄だと知りながらも、一応愛に振る。
「無理よ。愛奈は、私に似てるんだもの」
 それで済ませるなよ。
「あれ、パパ。愛理は?」
 と、いつも一緒にいる紗弥が、愛理がいないことに気付いた。
「ああ、愛理なら、風呂の予約に行ったぞ」
「予約?」
「ほら、ファミリー風呂のよ」
「あ、そっか」
「さすがはりっちゃんね。行動が素早いわ」
 程なくして愛理が戻ってきた。
「あれ、みんないるんだ」
 多少広めの部屋ではあるが、ほとんどがここにいると、かなり狭く感じる。
「予約、できたの?」
「もっちろん。今日はほかに予約がなさそうだからって、夕食後はずっと貸してくれるって」
 ……それはそれで、旅館の対応としてはどうなんだろうか。
「じゃあ、今日はパパと一緒にお風呂入れるんだ」
 ああ、俺のプライベートな時間はこれで消滅したな。
 今日は運転して疲れてるのに。
 やれやれ。
 
 夕食は、大広間で揃って食べた。うちには彩音がいるのだが、隣に真琴を座らせておけば、騒ぐこともないし、迷惑をかけることもない。
 そういう理由は別としても、やはり食事は大勢の方が楽しい。
 今は夏休みだから大勢で食べる機会が多いけど、彩音や紫織にとっては、普段はふたりだけで食べることの方が多い。そうするとどうしても変な影響が出てしまうから、こういう機会にでも矯正する必要がある。
 とまあ、そういう堅苦しい理由はどうでもいい。
 ようは、みんなで楽しく食事ができればいいのだ。
 その食事自体は、なかなかのものだった。海の幸がふんだんに使われ、海に来たんだと食事の面からも実感できた。
 食事が終わると、いったん部屋に戻った。
「あなた」
 部屋に戻るなり、愛が声をかけてきた。
「ん?」
「ひとつだけ忠告」
「……なんだよ、忠告だなんて物騒な」
「このあと、愛奈たちとお風呂に入るんでしょ?」
「ん、ああ。断っても無理矢理連れて行かれるだろうし」
「だったら、あの子たちを必要以上に甘やかさないでよ。特に、愛奈。あなたは、愛奈になにか言われるとすぐにそれを聞いてしまうんだから」
「いや、まあ……」
 さすがに娘たちと風呂に入ったくらいでどうにかなることはないが。
「それと、あまり長い時間お風呂に入らないこと」
「なんでだ?」
「そんなの決まってるわ。そのあとに、私たちとも一緒に入ってもらうからよ」
 そう言って愛はにっこり微笑んだ。
 というか、俺にはその笑顔が悪魔の笑みに見えたのだが。
「パパ」
「ようちゃん」
 そこへ、愛奈と美沙がやって来た。
「パパ。お風呂行こ、お風呂」
「ほら、ようちゃん」
 しょうがない。覚悟を決めるか。
「あなた。今言ったこと、忘れないでよ」
「わかったよ」
 さて、どうなるのやら。
 
「わあ、結構広いねぇ」
「さすがはファミリー風呂ね」
 風呂場は、大浴場ほどではないが、それなりに広かった。とりあえず、今ここにいる娘たちと一緒に浴槽に入っても余裕があるほどではあった。
「ふう……」
 まずはお湯に浸かって疲れを癒す。
 お湯は、乳白色とまでは言わないが、若干濁っていた。
 効能については、まあ、おおよそのことにはなんでもということらしい。
「パパ」
 スーッと近づいてきたのは、予想通り愛奈だった。
「パパとこうやってお風呂に一緒に入るの、すごく久しぶり」
「そりゃ、おまえだって高二だからな。普通はもう入らない年だろう」
「私はずっと一緒がいいのになぁ……」
 言いつつ、俺に寄り添ってくる。
「愛奈、抜け駆けはよくないわ」
 と、すぐに美沙が寄ってくる。
「別に抜け駆けなんてしてないでしょ」
「いいえ、そうやってようちゃんにくっついてる時点で抜け駆けなの」
 美沙は、愛奈に負けじと体を寄せてくる。
「おいおい、ふたりともこんなところまで来て喧嘩はやめろよ。それと、必要以上にくっつくな」
「ええーっ、くっついちゃダメなの?」
「ダメだ」
「むぅ……」
 どうもこのふたりはそのあたりの常識が欠如している。いや、このふたりだけじゃないけど。
「パパ。背中流してあげる」
 そこへ、愛理が声をかけてきた。
「ほら、パパ」
「わかったから」
 洗い場の椅子に腰掛け、背中を向ける。
「パパの背中って、大きいよね」
「そりゃ、男でもあるしな」
「そういう意味だけじゃないんだけどなぁ」
 愛理は、なにかぶつぶつ言いながら背中を流してくれる。
「パパ。前は私がやろうか?」
 と、紗弥がそんなことを言い出した。
「調子に乗るな」
「あうっ」
 久しぶりで嬉しいのはわかるが、少しは遠慮してほしいものだ。
「愛果。紗菜」
「ん、どうしたの、パパ?」
「ちょっとこっちに」
 俺は、愛果と紗菜を呼んだ。
「椅子を持ってきて、背中を向けて座る」
 ふたりは、素直に言うことを聞く。
「ちゃんと洗わないと、ママに怒られるからな」
 タオルを持ち、ふたりの背中を流してやる。
 ふたりともまだ成長過程にあるので、背中を流すのも楽だ。
「パパ、私も」
 そんなことをしていると、愛奈が自分もと近づいてくる。
「だから、愛奈。おまえはもう高二なんだから、それくらい自分でやる」
「パパ、私にだけ冷たい……」
 そんな泣きそうな顔しなくても……
「パパはもう私のこと、愛してないんだ……」
「だから、どうしておまえはそんなに極端なんだ……」
「だってぇ……」
 間違いなく、育て方を間違えたな。
「とにかく、洗うなら自分でやること。それがイヤなら、美沙にでも流してもらえ」
「美沙なら、自分でやった方がまし」
「ちょっとちょっと、愛奈。なによ、その言い分?」
「美沙だってそうでしょ?」
「そりゃ……そうかもしれないけどさ」
 そうこうしているうちに、愛果と紗菜の背中を流し終えた。
「よし、ふたりとも綺麗になったな」
「えへへ」
「あとは、ちゃんとあったまってから上がること」
「はぁい」
 愛果と紗菜は、愛奈たちがいるところでは結構素直に言うことを聞いてくれる。ある意味それは処世術とでも呼べるもので、姉たちに対抗することの愚かさを理解しているようだ。
「おまえはいつまでむくれてるんだ」
「……パパが悪いんだもん」
「はいはい。それでいいから、とにかくやることだけやってくれ。いつまでもそのままだと風邪引くぞ」
「風邪引いたら、パパが看病してくれる?」
「そんなの、愛に任せる」
「むぅ……」
 まったく、世話の焼ける奴だ。
 娘たちだけでもこれだけ大変なのに、あの連中を相手にしたら、どれだけ大変なことになることやら。
 
 なんとか娘たちとの入浴を終え、部屋に戻った。
 入浴時間自体はそれほどでもなかったのだが、精神的に疲れてしまった。
 部屋に戻ると、下のふたりが待っていた。
「パぁパ、パぁパ」
 俺たちの部屋に全員集まっていたからなのだが、彩音と紫織にとっては大人ばかりの場所は退屈だったようだ。
「どうした、彩音?」
「パぁパ、だっこ」
「よし」
 彩音を抱き上げ、窓際の椅子に座る。
「おとーさん、紫織も」
「紫織もか。ほら」
 左膝に彩音を座らせ、右膝に紫織を座らせる。
 彩音と紫織は、それぞれちゃんと真琴と香織と一緒の部屋になっている。今回の旅行のメンバーなら誰でもいいのだが、できれば母娘は一緒の方がいい。
 まあ、俺が一緒ならそれも関係なくなるのかもしれないが。
「ところで、お風呂はどうだったの?」
「意外に広くて、大浴場じゃなくてものんびりできると思う」
「へえ。お湯は?」
「いろいろなことに効くとは書いてあったけど、どこまで効くのかはわからんな」
「じゃあ、何度も入ってその効果を確かめないと」
「ご自由に」
 俺も何度も入るつもりではいるが、できればひとりでのんびり入りたい。一緒に入るなら、和人さんか和輝がいい。
「それじゃあ、私たちも入ってきましょうか」
「ええ」
「……いってら」
「なに言ってるのよ。あなたも一緒に決まってるでしょ?」
「勘弁してくれ。もう疲れた」
「ダメよ。約束したでしょ?」
「なら、とりあえず先に行っててくれ。俺はあとでこのふたりを連れて行くから」
 そう言って彩音と紫織の頭を撫でる。
「絶対よ?」
「ああ」
 愛たちは、俺に何度も念を押して部屋を出て行った。
「おとーさん。紫織たちも、おふろいくの?」
「ん、ああ、あとでな」
「パパ。しぃちゃんとあやちゃんを言い訳にしたんだね」
「おいおい、愛理。それは違うぞ」
「どう違うの?」
「言い訳じゃない。正当な理由だ。このふたりが長時間の入浴に耐えられると思うか?」
「ん〜、無理だね」
「だろ? それに、特に彩音は普段から風呂嫌いなんだから、余計だ」
「でも、ママたちとあまり長湯したくないっていう気持ちもあるんでしょ?」
 愛理は、俺の思考を理解した上でそう言う。
「当たり前だろうが。ただでさえおまえたちと一緒で疲れたんだから」
「それでも一緒に入ってくれるパパは、やっぱり優しいよね」
「そりゃどうも」
 俺としては優しいとは思っていない。というか、断るとあとが面倒だから、という理由の方が大きい。
「ところで、パパ」
「ん?」
「私たちも、ちゃんと成長してたでしょ?」
「成長してなかったら困るだろ?」
「んもう、そういうことじゃなくて、ちゃんと、ママたちみたいな『大人の女性』になってきてるってこと。胸だって大きくなったし」
「その割に、いつも愛奈と比べられて落ち込んでるじゃないか」
「お姉ちゃんは、私より年上なんだからいいの」
「だけど、去年の愛奈と比べても、小さいんだろ?」
「……それはそうだけどぉ……」
 愛理は、浴衣の袖をもてあそびながら、ぶつぶつと文句を言う。
「パパは、やっぱり胸は大きい方がいいの?」
「別に胸は関係ない」
「でも、ママだって沙耶加ママだって、胸大きいよ?」
「それは、たまたまだ。好きになった相手がたまたま胸が大きかっただけ。その証拠に、真琴や昭乃は標準タイプだろ?」
「それはそうかもしれないけど。でも、香織さんだって由美子さんだって、標準以上だし。美香伯母さんもそうだよ」
「姉貴を数に入れるな」
「私としては、もう少し大きくなりたいんだけどなぁ」
「まあ、そうなるように祈ってくれ」
 娘のことだからというわけでもないのだが、俺のところへは娘たちのスリーサイズが逐次伝わってくる。愛や沙耶加も簡単に話すし、なにより保健教師である由美子さんからその情報がもたらされる。学校には身体測定というものがあるから。
 それによれば、確かに愛奈は標準以上という感じだ。
 それでも、愛理や紗弥も見劣りするわけではない。母親はどちらも抜群のプロポーションの持ち主だから、娘であるふたりもそうなる可能性が高い。
「さてと、彩音、紫織。そろそろ風呂に行くか」
「うん」
「はぁい」
 ふたりを膝の上から下ろし、タオルを持つ。
「愛理。なんだったら、愛果と一緒に愛奈たちのところにいてもいいんだぞ?」
「ん、そうする」
「その時は、鍵だけはしっかりな」
「うん」
「よし、いこう」
 彩音と紫織の手を取り、部屋を出る。
「そうだ。彩音、紫織。どうせなら、大きな風呂に入るか?」
「おっきなおふろ?」
「ああ」
 愛たちには悪いが、やっぱり向こうは遠慮させてもらおう。
 で、俺はふたりを男湯の方へ連れて行った。
 男湯は時間の割には空いていた。
「あれ、洋一くん。こっちへ来たのかい?」
 先に入っていた和人さんが声をかけてきた。
「ええ。バカ正直につきあっていたら、体がいくつあっても足りませんから」
「ははは、確かに」
「ほら、彩音。ちゃんとお湯に浸かる」
「やぁなの」
「彩音。パパの言うこと聞いてくれないと、ママに怒られるぞ?」
「ううぅ……」
 彩音は、渋々お湯に入った。
 一方、紫織はおとなしいもので、俺の隣でお湯に浸かっている。
「洋一くんも大変だね」
「そんなことはないですよ。彩音も紫織も、結構言うこと聞いてくれますから。このふたりに比べたら、愛果や紗菜の方が大変でした」
「彩音ちゃんはどうかわからないけど、紫織は香織に似てるからかな。生まれながらに処世術を身に付けてるというか」
「なんとなくわかります」
「泰然自若というか、まあ、なにごとにも動じない強心臓の持ち主だから」
「それを本人に言うと、百倍になって返ってきますけどね」
「もちろん、言うわけないさ。あれに口で勝てるのは、うちのくらいだ」
「確かに」
 俺たちはそう言って笑った。
「よし、ふたりとも。次は体を綺麗に洗おうか」
 ふたりの相手は大変は大変だけど、愛たちに比べれば雲泥の差だ。
 まあ、逃げてしまったことに対する制裁措置は覚悟の上だ。
 刹那的かもしれないけど、今さえよければそれでいい。
 なんといっても、今日はまだ旅行初日なのだから。
 
「イルカさん、イルカさん」
 次の日。俺たちは水族館へとやって来た。
 ここは、彩音と紫織のリクエストだ。
 ふたりとも望みのものが見られるとわかって、朝からご機嫌だった。
「パぁパ、パぁパ。はやくはやく」
「こらこら、そんなに引っ張るんじゃない」
「イルカさん、いっぱいいる?」
「ああ、いるよ」
「えへへ」
 今日は、とりあえず水族館にいる間は彩音と紫織を側に置いておくつもりだった。
 どうしてそうするかといえば──
「……まったく」
 愛たちがものすごく不機嫌だからだ。
 やはり、昨日の夜に約束をすっぽかしたのは、いろいろな意味で痛かった。部屋に戻ってからは、愛理と愛果が狸寝入りしてしまうほど、苛烈なまでに責められた。
 それも覚悟の上だったのだが、愛と沙耶加にそこまでされたのは久しぶりだったから、結構堪えた。
「彩音。ちょっと待ちなさい」
 入場券を買って中に入る直前、真琴が彩音を呼び止めた。
「マぁマ?」
「いい? ここにはママたちだけがいるわけじゃないんだから、あまり騒いだり走ったりしないこと。ママと約束できる?」
「うん。やくそく」
「それと、あまりパパに迷惑かけないのよ?」
「うん」
 外を歩くためにかぶっていた帽子を脱がせ、髪を軽く整えてやる。
「洋一さん。彩音がぐずったら、遠慮なく言ってくださいね?」
「ああ」
 中に入ると、クーラーが効いているからだけじゃなく、とても涼しく感じられた。
 やはり、まわりに水が多いせいだろう。それに、壁も青系統が多い。それも人に涼しげな印象を与える。
「結構混んでるわね」
 いつの間にか俺の隣にいた香織が、そんなことを言った。
「そりゃ、この時期だし。それを承知の上で来てるんだから、改めて言うなよ」
「いや、なんとなく口をついて出てきただけよ」
 香織は、そう言って笑う。
「おとーさん。ペンギンさんは?」
「ペンギンか。確か、結構あとの方だって書いてあったけど」
 もらったパンフレットを確認する。
「うん、そうだ。ペンギンは、もう最後の方だ」
「そっか」
「紫織は、どうしてそんなにペンギンが見たいんだ?」
「んと、カワイイから」
「カワイイ、か。まあ、あの歩く様はカワイイと形容できるか」
「それにほら、洋一も知ってると思うけど、今、子供たちの間で大人気のアニメにペンギンが出てくるのよ。紫織、あれが特に好きだから」
「なるほど。そういう理由もあったのか」
 そういうことなら、そこまでペンギンにこだわる理由がわかる。
「ところで、洋一」
「ん?」
「いつまで紫織とあやちゃんを盾に使うつもりなの?」
「盾だなんて、人聞きの悪い……」
「でも、実際そうでしょ?」
「いや、まあ、そうかもしれんが……」
「あたしや由美子さん、昭乃ちゃんはそこまで気にしてないからいいけど、愛ちゃんたちはかなり気にしてるからね」
 そう言って後ろからついてくる愛と沙耶加を見る。
「もうずっと不機嫌だったんだから。美香姉さんですら声をかけるのを躊躇ったほどよ」
「……いや、なんとかするよ。俺も、さすがにいつまでも針のむしろ上に座ってるつもりはないし」
「なら、早めにして。じゃないと、雰囲気が悪くなるから」
「……了解」
 やれやれ。せっかくの水族館も、純粋には楽しめないか。
 
 様々な種類の海の生き物を見ていると、自分もあの中で泳いでみたくなる。
 特に、クラゲやタツノオトシゴを見ているとそう思う。ゆらゆらと波間に揺られ、ただただ漂うだけ。そんな風に生きてみたい。
 もちろん、そんなこと実際は無理なのだが。だからこそ余計にそう思う。
「パぁパ、ラッコさん、ラッコさん」
 彩音は、さっきからずっとハイテンションだ。
 名前の知っている、見たことのある魚や生き物がいると、その名前を連呼して真剣に見入る。
 あまりにも真剣に見入っているから、そこから離すのがひと苦労だ。
 やがて、俺たちの前に回遊魚を集めた巨大水槽が現れた。
「うわぁ……」
「すごい……」
 決してはじめて見るものではないのだが、それでも何度見ても圧倒されてしまう。
「あなた」
「……ん?」
「別に、許したわけじゃないわよ」
「ああ」
「ただ、こういうのを目の前にしていると、そういうことが些細なことに見えてしまうから」
「そうだな」
 昔からそうなのだが、俺たちの間では本当の意味で深刻な喧嘩というものはない。
 いつも、いつの間にか仲直りしている。
 俺も愛も、お互いを無視しきれないし、なによりもお互いがいなくなることに耐えられないからだ。
「昔の人は、こういうのも見たことなかったはずなのに、よく竜宮城のようなものを想像できたよな」
「それは、本当に想像のものだったからじゃないの? 人の想像力って、それだけすごいってことよ」
「かもしれないけどさ。でも、中にはいたのかもしれない」
「なにが?」
「こういう光景を見たことあった人が」
「それはそれで、うん、あるかもしれない。むしろ、その方が面白いかも」
 そう言って愛は微笑んだ。
「ねえ、あなた」
「なんだ?」
「少しだけ、ふたりきりで見てまわらない?」
「構わないけど、できるのか?」
「別に、完全に別行動にしようってわけじゃないわ。みんなのあとについて、ゆっくりと歩いて行くとか」
「それくらいなら、できるか」
 巨大水槽を離れ、さらに奥へと進んでいく。
 俺と愛は、みんなから少しばかり遅れて歩いていた。
「本当はね──」
「ん?」
「私もわかってるの」
「なにがだ?」
「かなり過敏に反応してるって。でもね、それを直せないこともわかってるの。だって、今までずっとそうやって過ごしてきたから」
 最初、なんのことを言ってるのかわからなかった。だけど、すぐに昨夜のことを言ってるのだとわかった。
「今でこそ愛奈たちがいるけど、私にとって誰よりも大切なのは、やっぱり洋ちゃんだけだから。だからね、洋ちゃんにはできるだけ私のことを見ていてほしいの。もちろん、今は私だけを見るのが無理なのはわかってる。それでも、洋ちゃんの妻としては、それくらいのことを主張させてほしいの」
 愛の真摯な想いが、俺に伝わってくる。
「それって、贅沢なことかな?」
「いや、そんなことない。むしろ、普通だろ」
「じゃあ、洋ちゃんもできるだけそうしてくれる?」
「俺としては、今でもおまえを優遇してるつもりだけどな。どんな状況にあっても、基本的にはおまえとのことが先で、そのほかがあとだから」
「ん〜、そうかもしれないけど」
 実際、俺はかなり愛を優遇してる。それはもちろん、愛が俺の正式な妻なのだから当然ではある。だけど、沙耶加や真琴、香織との間にも子供がいることを考えれば、愛だけを優遇するべきではないのだろう。愛を優遇すれば、それだけそれぞれと過ごす時間が減るわけだから。
「まあでも、誰に対しても優しいところが洋ちゃんのいいところでもあるから。それがなくなってしまったら、洋ちゃんじゃなくなるし」
「それはそれで、ひどい言われようだ」
「ふふっ、そんなことないよ」
 愛はクスクスと笑う。
「あ、そうだ。洋ちゃん」
「ん?」
「今日の夜は、ちゃんと私たちの相手をしてよね?」
「わかってるって。さすがに俺もあれを二度も聞かされるのはイヤだし」
「私も沙耶加さんも、好きで言ってたわけじゃないんだから」
「それもわかってる」
「ああいうことを言うと、言われた方も気分はよくないだろうけど、言った方も気分が悪くなるんだから。できれば、もうしたくないの」
「……そこまでしつこく言わなくても、ちゃんと相手するから」
「もし、約束を破ったら、なにをしてくれる?」
「そうだな……向こう一週間、なんでも言うことを聞いてやるよ」
「ん〜、それはそれですごく魅力的だなぁ」
「おいおい、そのために約束を破らせるなよ」
「うん」
 まあ、いいか。とりあえず、愛との溝は埋められたわけだし。
 
「わぁ、ペンギンさんだぁ」
 ようやく、ペンギンのいる場所までやって来た。
 ペンギンはどこの水族館でも人気者で、夏休みのこの時期は来館者も多いので下手をすると人だかりができる。
 そんな人混みの中をかき分け、俺は紫織をガラスの側まで連れて行った。
 紫織は、キラキラと目を輝かせ、食い入るようにペンギンを見つめている。
 ここにいるのはフンボルトペンギンで、一番メジャーな種類だ。
 よちよちと歩く姿は、確かにカワイイ。
 それでも水に入るとかなりの速度で泳ぐ。
 そのギャップが面白い。
「どうだ、紫織。ペンギンを見られて、よかったか?」
「うんっ」
 まわりに人がいなければ、声を上げて喜びそうなくらい、紫織はテンションが高かった。
「カワイイですね」
 と、いつの間にか昭乃が隣にいた。
「どっちがだ?」
「両方です。ペンギンもカワイイですし、しぃちゃんもカワイイです」
「律儀な答えをありがとう」
「んもう、そういうこと言わないでくださいよ」
「いや、なにか気の利いた答えを言ってくれるんじゃないかと思ってな。予想が外れたから、つい」
「つい、じゃないですよ。そういうところ、相変わらずいぢわるなんですから」
 そう言ってぷうと頬を膨らませる。
「どうしたの、おとーさん?」
「ん、なんでもない。それより、ほら──」
「ん?」
「あのペンギン、水に飛び込むぞ」
 と同時に、ペンギンが一羽、水に飛び込んだ。
 そのまま水の中を進み、ちょうど紫織の目の前を通り過ぎていった。
「おとーさんおとーさん、いま、紫織のまえをとおったっ」
「紫織に挨拶してくれたんだよ。来てくれてありがとう、って」
「そっか」
 前を通り過ぎたのは偶然なのだが、今の紫織にはちょうどよかった。
 でも、これでテコでも離れなくなってしまったかもしれない。
「昭乃は、水族館はどれくらいぶりなんだ?」
「そうですね……五年ぶりくらいですかね」
「五年前は?」
「洋一さんとデートで行ったきりですよ」
 そう言って微笑む。
 そういや、なんかデートで行った記憶もある。たまには違うところを、ということで水族館に行ったんだ。
 沙耶加とのデートだと動物園や水族館にはよく行くのだが、ほかの面々とはあまり行かない。
 娘たちとは、そういうところより遊園地の方が多いし。
「洋一さん」
「ん?」
「私もやっぱり、子供、ほしいです」
「……ああ、その話はまた今度な。少なくとも、この旅行中はいっさいその話をするな。余計な波風を立てたくない」
「じゃあ、向こうに戻ったらいいってことですか?」
「いや、だからな……」
 ここでいくら言ったところで、絶対に納得しないだろうな。
 今までに、香織や真琴とのことで経験済みだ。
「あ、おとーさん。あれ」
「なんだ?」
 紫織が指さした先では、ちょうどペンギンの飼育係の人が、餌を与えようとしてるところだった。
「ペンギンさんは、なにをたべるの?」
「ん、魚だよ。見ててごらん」
 バケツの中から魚を取り出し、ペンギンに与える。
 ペンギンはそれを丸呑みにしてしまう。
「わぁ……」
「紫織も、好き嫌いせずになんでも食べないと、おかーさんみたいになれないぞ」
「でもでもぉ……」
 紫織は基本的には好き嫌いはないのだが、ピーマンだけは食べられなかった。子供にはあの苦みがイヤなのだろう。
「ま、少しずつ食べられるようにしていけばいいさ」
「うん」
「よし、いい子だ」
 俺は、紫織を抱き上げた。
「じゃあ、そろそろ次へ行こう」
「うん」
 多少ペンギンから意識がそれたおかげか、案外すんなり言うことを聞いてくれた。
「しぃちゃんは、ペンギンさんのほかには、なにがよかった?」
「えとね、んとね……ラッコさん」
「ラッコさんか。確かにラッコさん、カワイイもんね」
「うん」
 高校生だった頃からそうなのだが、昭乃は子供の扱いが上手い。子守の経験があるわけでもないのだが、無難にこなせてしまうし、なによりも相手の信頼を得てしまう。
 うちの娘たちはみんな、昭乃と一緒に遊んだことがある。
 だから、すんなりうちの輪の中にとけ込めたのだろう。もちろん、そういうことがあったからこそ、納得できない部分もあるのだろうけど。
 紫織もそうだが、彩音も昭乃とは和気藹々と遊んでいることが多い。たぶん、昭乃は自分の目線を相手のところまで下げるのが得意なのだろう。
「パパ」
 と、そこへ、少し先行していた愛奈たちがやって来た。
「今度のショーは、二十分後だって」
「そうか。なら、とりあえず場所だけ確保しておくか」
 この時期だからというわけでもないのだが、こういう時間の決められているショーは人が集まる。いい場所で見たければ、早めに場所を確保しておく必要がある。
 幸いなことに俺たちは人数が多いので、確保した場所を見張っているのは楽だった。
「いやあ、さすがに人混みの中を進んでくると、疲れるわね」
「姉貴は、もう年──」
「なにか言った?」
「い、いえ、別になにも……」
 一瞬、マジで背筋が凍った。
「そういや、愛ちゃんとは仲直りしたみたいね」
「ん、ああ。とはいえ、俺たちの間でそうそうこじれることはないけど」
「お互いにお互いがいないとダメだからね。最後の一線だけは絶対に越えない。ま、だからこそあんたたちは未だに仲が良いんだろうけど」
「姉貴たちだってそうだろ?」
「私たち? そうね……近いところはあるけど、それでも喧嘩はするわよ。いわゆる絶交状態になることもあるし」
「へえ、そういう話ははじめて聞いた」
 姉貴と和人さんの場合は、喧嘩しても姉貴がたいてい押し切ってしまう。だから、そういうことはないと思っていた。
「たまに、美沙があんたのところへ泊まりに行くでしょ? あれの中の何回かは、私と和人の喧嘩が原因なのよ」
「つまり、うちが避難場所だと?」
「そういうこと」
 そう言って笑う。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「洋一はさ、なっちゃんたちはこのままでいいと思ってる?」
「このままって、なにについて?」
「ほら、脇目も振らずにファザコン街道まっしぐらなことよ」
「それは、俺がどうこう言う問題じゃないと思うけど。たとえそうだとしても、それをそうしようと考えてるのも、それを行動に移してるのも本人の意志なんだから。誰もそうしろとは言ってない」
「そうかもしれないけど、親としては心配じゃないの?」
「どうして? 別に心配なんてないさ。それに、今の考えをずっと持ち続けられるかどうかもわからないわけだし。それこそ、大学卒業の頃には俺になんて見向きもしないかもしれない」
 そうなったらそうなったで淋しいだろうけど、それはそれでいい。
「じゃあ、美沙のことは?」
「美沙? 美沙も同じだろ。娘か姪かの違いだけだ」
「……本人はそう思ってないのよね」
 姉貴は、ため息をついた。
「美沙のあんたに対する想いは、本物よ。もうだいぶ前からあんた以外眼中にないし」
「それって、俺のせいか?」
「誰のせいでもないわよ。ただね、あの子の親としては、少しだけ心配なの。あ、別に相手があんただからというわけじゃないわよ。ようは、これから先もずっと今みたいなことを続けていくのかな、と思って。それって、かなり大変じゃない。それに、まわりからは奇異な目で見られるし」
「まあ、確かに……」
「美樹はあんたの妹だから問題なかったけど、美沙は違うから」
「姉貴が心配するのはわかるけど、だからってどうにかなる問題か?」
「だから、悩んでるんでしょうが」
「……そうだなぁ」
 俺にできることなんて、ほとんどないのだが。
「どうしたの、ママ、ようちゃん?」
 そこへ、件の美沙が戻ってきた。
「ん、どうやったらあんたを洋一から引きはがせるかなって、それを考えてたのよ」
「引きはがすって、そんなの絶対無理無理」
「どうしてよ?」
「だって、私にその気がないんだもん。なんらかの理由でようちゃんから離れなくちゃいけない状況になったら、私はようちゃんから離れずにその原因を突き止めて解決するし」
 そういうことをさらっと言えるところが、美沙の美沙たるゆえんだな。
 姉貴の弟として言わせてもらえれば、まさに姉貴の娘だからなのだけど。
「でも、美沙。あんた、本当にこれから先も洋一のあとをついていくつもりなの?」
「そんなつもりはないよ」
「あら、そうなの?」
「私は、ようちゃんの隣を歩くの」
「……あ、そう」
 それを聞き、姉貴は軽く脱力した。
「ママもあきらめ悪いよね。私のことなんて、もうあきらめればいいのに」
「そうもいかないのよ。親には、少なくとも子供が成人するまで、様々な義務が発生するんだから」
「じゃあ、二十歳になればあきらめるの?」
「そういう問題じゃないでしょ?」
 姉貴に対してここまで言えるのは、さすがだ。俺なら、途中で言い負かされてるな。
「姉貴も美沙も、そのくらいにしとけって。なにも旅行中にそんなこと話さなくてもいいだろ?」
「なにひとりだけ部外者面してるのよ」
「いや、今の話に俺は関係ないし」
「関係大ありでしょ?」
「それは対象が俺であるというだけで、俺の意志なんかは関係ない」
「まったく、屁理屈ばかりなんだから」
「ようするに、ママがさっさとあきらめればいいの。ね、ようちゃん?」
「さあな」
「むぅ、ようちゃんのいぢわる」
 そう言って美沙は、わざと俺に抱きついてきた。
「洋一。頼むから美沙には手を出さないでよ?」
「出さないって」
「なんで? 私は別に構わないよ?」
「あのねぇ、美沙。あんたと洋一は姪と叔父の関係でしょうが。それなのに手を出すということがどういうことなのか、わかるでしょ?」
「私は別に構わないんだけどなぁ。むしろ、手を出してほしいくらい」
「おいおい……」
「ようちゃんが手を出してくれない限り、私は一生バージンのままだよ」
 にっこり笑う。
「洋一。本当に頼むわよ?」
「わかってるって」
 やれやれ。
 
 ショーがはじまった。
 ショーに出てくるのは、彩音のお目当てのイルカ、シャチ、アザラシ、オットセイだ。
 どれもなかなかに訓練されており、ショーの質も高かった。
「パぁパ、イルカさんイルカさん」
 彩音は、さっきからイルカに視線が釘付けで、手を放せばそのまま行ってしまいそうなくらいだ。
 こういうのは久しぶりに見るが、結構新鮮な気持ちで見られる。ショーの構成も、決して子供向けというわけではない。大人も楽しめる内容になっているからこそ、俺たちも普通に見られて、楽しめるのだ。
「ほら、彩音。そんなにバタバタしないの」
 真琴は、一応そういう風に注意する。
「まあまあ、たまにはいいだろ」
「私はいいんですけど、洋一さんが大変じゃないですか?」
「これくらいなら、まだまだ大丈夫だ。これなら、愛果や紗菜の方がまだ手強かったし」
「それならいいんですけど」
「真琴も、もう少し彩音の好きにさせてやったらどうだ?」
「別にそこまで縛ってるつもりはないんですけど……」
「いや、俺も縛ってるとは思ってないけど、彩音はまだ五歳だろ? なら、もう少しくらい好きにさせてもいいと思っただけだ」
 しつけは大切だけど、そのせいで性格が歪んだりしてしまっては意味がない。
「ま、ようするに、肩の力を抜いて子育てすればいいんだよ。普段はなかなか面倒見てやれないけど、俺だってちゃんと面倒は見るから」
「すみません」
「いいって」
 真琴もそのくらいのことは十分理解してるんだろうけど、まあ、これは俺のせいでもある。普段は俺が側にいられないから、その分もがんばろうとしてるだけだからな。
 俺も、あまり言える立場ではない。
「お姉ちゃんにも、たまに言われるんです」
「ん?」
「しつけることと、縛ることは全然違うことだって。私のやってることは、一歩間違えば縛ることに繋がってしまうって」
「ま、それはな。でも、真琴自身もわかってはいるんだろ?」
「はい」
「なら、大丈夫だ。それに、彩音は誰と誰の娘だ?」
「ふふっ、そうですね」
 お互いに年は取ったが、関係は基本的に変わらない。
 俺の真琴に対するスタンスは、未だに『兄』という部分が強い。もちろん、娘までいる状況なわけだから、その部分はだいぶ減ってはいるけど。
「パぁパ、イルカさん、とんだよ」
「おお、ずいぶん高く飛んだな」
「びゅぅんてとんで、ぱちゃんておちた」
「そうだな」
 彩音につられてというわけでもないけど、本当にこのショーは楽しめる。
 やはり、たまに見るならこういうのもいい。
「パぁパ、あやも、イルカさんになれる?」
「ん〜、それは難しいかもしれないな」
「んん?」
「パパやママもイルカにはなれてないだろ? 彩音は、そんなパパやママの娘だからな。やっぱりイルカにはなれないんだよ」
「イルカさん……」
「でも、イルカみたいに泳いだり飛んだりすることはできる」
「ホント?」
「ああ。もしそうなりたいなら、まずはもっと大きくならないとな」
「うん。あや、おっきくなる」
 彩音は、なかなかにしっかりした表情でイルカを見つめている。
 今日のことをいつまで覚えているかはわからないけど、これはこれでいい想い出になるだろう。
 
 少し遅くなったけど昼食をとり、次の目的地へ移動した。
 娘たちはとにかく泳ぎたいらしかったけど、それはそれで一日時間を取ってからにした。
 で、俺たちがやって来たのは、半島の突端にある灯台だった。
 灯台以外になにがあるわけでもない。
 ただ、海側はどこを見ても海という、普段はなかなか見られない景色を堪能できる。
「ん〜、気持ちいいわね」
 俺の隣で、由美子さんは大きく伸びをした。
「こういうところに来ると、開放的になるのよね」
「そうですね」
「本当なら、洋一くんとふたりきりだとよかったんだけどね」
 そう言ってにっこり笑う。
「由美子さんは、海でよかったんですか?」
「ん?」
「一応確認はしましたけど、それもある意味事後承諾みたいなものでしたから」
「私は、どこでも構わないわ。そこに洋一くんがいて、みんながいればね。どこに行くかじゃなくて、誰と行くかが重要なのよ」
 それはそれでよくわかる。
「洋一くんは、そういうことに気をまわしすぎよ」
「そうかもしれませんけど、やっぱり気になるので」
「ふふっ、それが洋一くんらしいとも言えるんだけどね」
「おふたりでなにを話しているんですか?」
 そこへ、沙耶加がやって来た。
「世間話だよ、世間話」
「こんなところで世間話ですか?」
「洋一くんは洋一くんだってことを再確認していたのよ」
「えっと……それは?」
「説明するのは面倒だけど、沙耶加さんもちゃんと理解してることよ」
「なるほど」
 それだけでどこまで理解できたのやら。
 女同士の会話というものは、未だによくわからん。まあ、百パーセントわかってしまったら、それはそれで居づらくなるのだろうけど。
「そういえば、洋一くん」
「なんですか?」
「もう仲直りは済んだの?」
「仲直り?」
「ほら、昨夜のことのよ」
「……ああ、そのことですか」
 せっかく忘れていたのに。
 というか、愛とは仲直りできたから、なんとなく沙耶加とも終わったものだと思っていた。
「ひょっとして、まだなの?」
「いや、まあ……」
「ダメよ、そんなことじゃ。そういうことはできるだけ早く」
「わかりました」
 こういう風に言われると、まったく言い返せない。これはやはり、俺と由美子さんの関係が元々教師と生徒だったからだろうな。
「じゃあ、私は少し席を外すわね。その間に、ちゃんと仲直りするのよ」
 そう言って由美子さんはその場を離れた。
「ああいうことをさらっとできるところが、由美子さんのすごいところだと思うんです」
「確かに」
「私もそうありたいとは思うんですけど、なかなか上手くはいきません」
 沙耶加は、小さなため息をついた。
「昨夜は、悪かったな」
「いえ、実はそれほど気にしていないんですよ」
「そうなのか?」
「ええ。まあ、昨夜は多少言い過ぎてしまったところはありましたけど。ただですね、普通に考えれば私たちの言っていたことも、あまり筋が通ってなかったってわかるので。そうすると、お互い様、ということになるはずですから」
「なるほどな」
「それでも、私は洋一さんと一緒にお風呂に入りたかったです」
「それは、また今度な」
「約束ですよ?」
「ああ」
 愛とは結構口喧嘩っぽいことをするけど、沙耶加とはほとんどそういうことはない。
 それはひとえに、沙耶加の俺に対するスタンスが愛とは違うからだ。沙耶加は常に一歩引いたところにいるから、すぐに感情的になることがない。もちろん、それも絶対ではない。むしろ、感情的にさせてしまうと、あとが大変だ。
「こうして海に来ると、思い出しませんか?」
「ん、なにをだ?」
「高校生の頃、真冬の海を見に行った時のことです」
「ああ、そういえばそんなこともあったな」
「あの時は、冷たいというよりは痛い風が吹いていましたからね」
「あれは、沙耶加がどうしても海を見たいっていうから」
「そうなんですけどね。でも、あのことも今ではいい想い出ですから」
「確かに」
 ああいう印象的なことがあったおかげで、今でも結構鮮明に思い出せる。
 今、同じように誘われたら、果たして行くかどうか。
「あれからずいぶんと時間が経ちましたけど、私はずっと幸せでした。大好きな人と一緒にいられて、愛する娘たちに恵まれて。これ以上望むべくもないほどの、幸せです」
「心配しなくても、これから先も幸せなままだから」
「ええ、そうですね。洋一さんと一緒にいる限り、それは絶対です」
 そう言い切られると、責任重大だ。だけど、それだけでこの笑顔を見続けられるのなら、安いものだ。
「洋一さんは、どうですか?」
「俺か? 俺だって同じだ。愛がいて沙耶加がいて、娘たちがいて。まずは側にいてくれるだけで幸せになれる。もちろん、そこになんらかのことが付加されることはあるけど」
「じゃあ、私たちはずっと幸せですね」
「そうなるな」
 そう言って俺たちは笑った。
「だけど、時間が経ったといえば、沙耶加はずっと変わらないな」
「そうですか?」
「ああ。高校の頃に比べたら格段に綺麗になってるけど、その綺麗さは変わらない」
「褒めてもなにも出ませんよ?」
「別に特に褒めてるわけじゃない。事実を述べてるだけだ」
「ふふっ、ありがとうございます。でも、それは洋一さんのおかげですよ」
「なんでだ?」
「私は世界中でただひとり、洋一さんにさえ綺麗だと思っていてもらえればいいんです。そのためにいろいろ努力もしてますし。その結果、今でも綺麗だと思ってもらえているのであれば、それはやっぱり洋一さんのおかげです」
 このあたりのことは、俺がいくら言っても引かないだろうな。
 まあ、俺としても沙耶加が綺麗で居続けてくれるのは嬉しいからいいけど。
「パパ」
 と、ちょうどそこへ紗弥がやって来た。
「ママとなに話してたの?」
「大人の話だよ」
「ふ〜ん……」
 全然信じてない顔だ。
「紗弥は、どうしたの?」
「あ、うん。パパとママがいつまで経っても来ないから、様子を見に来たの」
「別になにもすることはないだろ?」
「それはそうだけど……」
 紗弥は、あまり面白くなさそうな顔を見せる。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「パパは、ママのこと、どのくらい愛してるの?」
「なんだ、藪から棒に」
「なんとなく」
「なんとなくでそんなこと聞くな」
「私だって気になるんだから」
 ふとした時にかいま見せる表情は、高校時代の沙耶加とよく似ている。娘だから当たり前なのだが、たまにドキッとすることがある。
「まあ、そうだな。あえて言葉にするなら、この海くらいか」
「海?」
「ああ。それくらいだ」
「ん〜、よくわかったようなわからなかったような」
「じゃあ、紗弥。こう考えてみてはどう?」
 と、沙耶加が口を挟んできた。
「パパがママのことをそれだけ愛してくれてるからこそ、紗弥が生まれたんだとね」
「ああ、そういう考え方もできるね。なるほど」
「それに、紗弥から見て、ママは不幸せに見える?」
「ううん」
「ということは、ママはパパに愛されて幸せということなの。わかった?」
「うん」
 紗弥は、紗弥なりにそれを理解したらしい。もっとも、今の質問などあまり意味はなかったのだろうけど。わかりきったことだし。
「それじゃあ、パパ」
「なんだ?」
「パパから見て、私ってママに似てると思う?」
「ん、似てるとは思うけど、それは基本的に見た目だけだな」
「それって?」
「性格なんかは、全然違う」
「そんなに違うかな?」
「少なくとも今の紗弥と同じ頃の沙耶加は、もう少し落ち着いてたし」
「むぅ……」
 紗弥は、難しい顔で唸る。
「ただ、どっちがいいとか悪いとか、そういうことじゃないからな。今の紗弥に、あの頃の沙耶加と同じことを求めても意味はない。むしろ、そうすることで紗弥のいいところが消えてしまう可能性もある」
「じゃあ、私は今のままでいいってこと?」
「基本的にはな。もちろん、もう少し精神的に大人になってもいいけど」
「難しいなぁ」
「そんなことないだろ。すぐ側に生きた見本がいるんだから」
 そう言って沙耶加を見る。
「沙耶加は、基本的な性格はあの頃と変わってないからな。多少、積極的にはなってるけど」
「そうなの?」
「私の口からはなんとも言えないわ」
 沙耶加は、少しだけ咎めるような目で俺を見る。
「ん〜、やっぱり私もママみたいにならないとダメかぁ」
「なんでそんなに風に思うんだ?」
「だって、ママみたいになれたら、パパは今よりもっと私のこと、愛してくれるでしょ?」
「……問題はそこか」
「もちろんそうだよ。なっちゃんだけじゃないんだからね。私だってパパのこと、誰よりも大好きなんだから」
 改めてそう言われると、少しだけ複雑な気持ちだ。
 愛娘からそう言われてるわけだから、普通は喜ぶべきところなんだろうけどな。
「ま、なんでもいいけど、紗弥」
「うん?」
「とりあえずは、自分のやるべきことをちゃんとやる方が先だからな」
「やるべきこと?」
「高校生なんだから、勉強が最優先。家では紗菜の姉として手本になるように様々なことに努力して」
「勉強はいいけど、紗菜のことは、私があれこれ言う前に、ママが言うから」
「そうだとしても、姉としての責任があるだろ?」
「う〜ん……」
「もしひとりでやるのが心配なら、愛理と一緒にやればいい」
「愛理と?」
「愛理は愛理で、愛果の面倒を見るように常に言ってるからな」
「そういうことか」
 うちには愛奈がいるから、どうしても愛理のそういう意識が希薄になっている。
 だけど、愛理にもそういうことをさせないと、あとで困る。
 それは紗弥も同じだ。
「でも、そういうのってなっちゃんが全部やっちゃうし」
「だからって、全部愛奈に任せていいわけじゃないだろ?」
「それはそうだけど……」
「紗弥。パパはね、紗弥にもう少しいろいろな自覚を持ってほしいのよ。なにも言わないでおくと、紗弥は今のままでしょ?」
「ん〜……」
「ま、そんなに難しく考えるな。実際、そんなに難しいことじゃないんだから」
 俺は紗弥の頭を撫でた。
「な?」
「うん」
 紗弥は、難しい顔から一転、笑顔で頷いた。
 
 灯台をあとにした俺たちは、土産物屋というか、ショッピングセンターのようなところへ入った。
 近辺の土産物も売っているのだが、どう見ても普通のスーパーだった。まあ、両方をやった方が効率的なんだろうな。
 買い物での主役は、どうしても女性陣になる。
 俺や和人さん、和輝は蚊帳の外だ。
「しかし、わざわざ旅行にまで来て、こういう買い物をしなくてもいいのに」
「ええ、本当に」
 俺と和人さんは、売り場近くのベンチに座り、売り場の方を見ていた。
「パパ」
「どうした?」
 まだ買い物にあまり興味のない愛果と紗菜は、紫織と彩音の面倒を見ながら、側で遊んでいた。
「あやちゃんが、眠そうだよ」
 言われて見ると、確かに彩音は眠そうだった。
 キッズルームの中で、彩音はおもちゃを持ったまま、船を漕ぎはじめていた。
「愛果。彩音の面倒、見てられるか?」
「うん、できるよ」
「なら、紗菜と一緒に少し見ていてくれ。パパは、ママを呼んでくるから」
「うん」
 うちでは末っ子の愛果は、そうやってなにかを任されるということがあまりない。だから、こういう時にでもひとつのことを任されると、とても嬉しそうだ。
「和人さん。ちょっと連中を呼びに行ってきます」
「ああ」
 和人さんにその場を任せ、俺は売り場に足を踏み入れた。
 売り場は結構広く、ざっと見回した限りではそこにはいなかった。
 とりあえず土産物を売ってるあたりを中心に探してみる。
 すると、すぐに愛奈たちを見つけた。
「あれ、どうしたの、パパ?」
「いや、愛と真琴を探してるんだが」
「ママと真琴さん?」
 愛奈と一緒にいたのは、美沙と愛理、紗弥の四人だった。
 あいにくと、愛も真琴もいない。
「どのあたりにいるかわかるか?」
「さっきまではママと一緒に向こうの方にいたけど」
 そう言って美沙は、売り場の奥を指さす。
「でも、途中で移動したみたいだから、今はどこかな」
 あまり意味がないな。やはり自分で探すしかない。
「悪いけど、どっちかに会ったら、待ち合わせ場所に行くように言ってくれるか?」
「うん、わかった」
 さて、次はどこを探すべきか。
 土産物のあたりにいないとなると、普通の売り場の方か。
 少し行くと、姉貴と由美子さんと昭乃がなにやら議論していた。
「あ、洋一。いいところに」
 黙って通り過ぎようと思ったのだが、姉貴に捕捉されてしまった。
「ちょっと意見を聞きたいんだけど」
「なんの?」
「これよ、これ」
 三人が見ていたのは、口紅だった。まあ、そのあたりは化粧品なんかを売ってるわけだから、そういうのがあるのも当然だ。
「洋一はさ、どういうのがいいと思う?」
「そんなの、好み次第じゃないの? それに、似合う似合わないというのもあるだろうし」
 日本人は特に顔の作りが欧米人とは違うから、似合うとか似合わないというのが顕著に表れる。
「でも、たまには冒険してみるのもいいと思うのよ」
「まあ、それはね」
「でも、昭乃ちゃんはそういう気が全然ないのよ」
「えっと……」
 姉貴のパワーに圧され、昭乃はちょっと引き気味だった。
「昭乃ちゃんだってこういう色合いの口紅を塗ったら、ずいぶんと印象が変わると思うんだけどね」
 その色は、暗めの色合いのものだった。確かに、普段の昭乃は明るい色合いのものを使っている。
 その点で言えば、姉貴や由美子さんはいろいろ使ってるな。
「なにもしないうちから、これは自分にはあわないと思っちゃダメよ。食わず嫌いじゃないけど、使わず嫌いかもしれないし」
 由美子さんも、基本的には姉貴に賛同しているらしい。
「ほら、洋一からもなにか言ってあげなさいよ」
「…………」
 昭乃は、上目遣いに俺の表情を伺っている。
 とはいえ、なにをどう言えばいいというのだ。そんなの、誰かに強制されてやるべきことじゃない。
「別に無理することはないって。昭乃は今のままで十分なんだから」
「洋一さん……」
「それに、由美子さんはともかく、姉貴の言うことにいちいち気にしてたら、それこそ身が保たないぞ」
「ちょっとちょっとちょっと、それはど〜ゆ〜意味よ?」
「自覚ないわけ?」
「うぐっ……」
「ふふっ、美香さんの負けね」
 由美子さんは、クスクス笑っている。
「まあでも、昭乃自身がイメージを変えてもいいと思ってるなら、姉貴の言うことに従ってみるのも、ひとつの方法ではある」
 ま、一応フォローしておくか。
「取って付けたようなフォローなんかしないの」
「せっかくフォローしてやってるのに、その言い草はないだろ?」
「はいはいはい。文句はいいから」
「……ったく」
「で、あんたはなにしに来たの? 確か、和人と一緒に待ってるってことだったのに」
「ん、ちょっと愛と真琴を探してるんだ」
「なんで?」
「彩音が寝ちゃいそうで、さすがに俺たちだけだと対応しきれそうにないから」
「なるほど」
「それじゃあ、ふたりを見かけたら、そういう風に言っておくわね」
「お願いします」
 その場を離れ、さらに別の場所を探す。
 夏休みのしかもお盆ということもあって、人出は多かった。
 その人の合間を縫うように進んでいく。
 すると、ようやく愛たちを見つけた。
「愛」
「あなた、どうしたの?」
「いや、愛と真琴に用があって探してたんだ」
「私にもですか?」
「彩音がそろそろ限界みたいでさ」
「もう寝ちゃってますか?」
「さっきは、船を漕ぎはじめてた」
「わかりました」
 真琴は、早速行こうとする。
「買い物はもういいのか?」
「ええ。あれこれ見ていただけですから」
「そっか」
「それなら、私たちも戻りましょう」
 で、結局愛と真琴だけでなく、沙耶加も美樹も戻ることになった。
 待ち合わせ場所に戻ると、すでに姉貴たちも戻ってきていた。
 彩音は、まだ完全に眠っていたわけではないが、限界ギリギリという感じだった。真琴が抱き上げると、すぐに安心したように眠ってしまった。
「愛果、紗菜」
「どうしたの、パパ?」
「ちゃんと紫織と彩音の面倒を見ててくれたからな。なにかご褒美でもと思って」
「ホント?」
「ああ」
「やった」
 愛果と紗菜は、嬉しそうに俺にくっついてくる。
「あなた。なにもそこまでしなくても」
「そうですよ。妹の面倒を見るのは当然なんですから」
 と、早速愛と沙耶加が声を上げた。
「まあまあ、とりあえず俺に任せておけって」
 だが、俺にも一応考えがある。
 ふたりは、俺にそう言われて、とりあえずは引き下がってくれた。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
 俺は、愛果と紗菜を連れて売り場へ戻った。
「なにか好きなものを買ってやろうか。なにがいい?」
「んとね……」
 ふたりにとっても思いがけない展開なので、すぐには思いつかないらしい。
 売り場を見回し、思案する。
「慌てることはないからな」
「ん〜……」
「あ、あれ」
 と、俺たちの前を親子連れが通っていった。
 その子供が持っていたものに目が留まったらしい。
「ねえ、パパ。あれって、どこに売ってるのかな?」
「ん、向こうから来たみたいだから、向こうじゃないか」
「わたし、あれがいい」
「愛果もあれでいいか?」
「うん」
 俺たちは、それが売ってる場所を探してその親子連れが来た方へ歩いていく。
 俺たちが最初に入ってきた入り口とは反対側の入り口近くに、その店はあった。
 夏だからだろうけど、店の前にはそれなりの列ができていた。
「順番が来るまでに、なににするか決めておくんだぞ」
「うん」
 その店は、ジェラートなどを売ってるスタンドだった。
 見ると、この近辺でとれる果物などを材料にしているようだ。もちろん、定番の味もある。
「ふたりとも、紫織や彩音の面倒を見るのは大変だったか?」
「ん、そんなことないよ。あやちゃんもしぃちゃんも言うこと聞いてくれるし」
「じゃあ、これからは愛奈たちに代わってふたりが面倒を見るということでいいか?」
「えっと、それはいいけど、お姉ちゃんたちは?」
「愛奈は、来年は受験生だから、いろいろ忙しくなるんだ。愛理や紗弥も、少しずつ忙しくなってくるし。そうすると、愛果と紗菜が代わりにやる必要があるんだ。ふたりは、紫織と彩音にとっては『お姉ちゃん』なんだから」
 俺の考えとは、褒め言葉とご褒美でふたりの『姉』としての自覚を促すというものだ。
 上に三人もいるから、スタンス的にどうしても『妹』のままになってしまう。だけど、現実に紫織と彩音という妹がいるわけだから、それだけでは済まない。
 今のうちから少しずつやっておけば、いざという時に役に立つ。
「でも、パパ」
「ん?」
「きっと、わたしたちがなにもしなくても、愛奈お姉ちゃんがみんなやっちゃうよ」
「うん、わたしもそう思う」
 確かに、愛奈は姉としての自覚もあり、積極的に妹たちの面倒を見ている。
 しかも、そういうことに生き甲斐を感じているところもある。
「だとしても、愛奈にだけ任せておいていいわけじゃない」
「うん」
「それに、ふたりが『お姉ちゃん』としていろいろやってくれれば、ママたちも喜んでくれるぞ」
「ん〜……」
 ふたりは、顔を見合わせ唸った。
「パパも、喜んでくれる?」
「当たり前だろ。ふたりともちゃんと『お姉ちゃん』ができてるって思うさ」
「そっか……」
 ふたりは、それきり少し黙り込んでしまった。
 少しして、順番がまわってきた。
 愛果はストロベリー、紗菜はブルーベリーを頼んだ。ちなみに、俺はなにも頼んでいない。このままあそこに戻ると、非難囂々だからな。
 ベンチに座って、しばし休憩。
「パパ」
「ん?」
「わたしも、ママやお姉ちゃんたちみたいになれるのかな?」
 と、愛果がぽつりとそんなことを言った。
「どうしてそんな風に思うんだ?」
「ママみたいになんでもはできないし、お姉ちゃんたちみたいに勉強や運動もできないし。だから、ね」
 なるほど。確かに、普段の様子を見ているとそういう不安感に襲われるのかもしれない。だけど、そんなのは今だけだ。
「大丈夫だ」
 俺は、愛果の頭を撫でながら言った。
「ママがなんでもできるのは、愛果くらいの年の頃からいろいろ努力したからだ。ママだって、最初からなんでもできたわけじゃない」
「そうなの?」
「ああ。だから、愛果だってこれから努力すれば、いくらでもママみたいになれる」
「そっか……」
「それに、勉強や運動も同じだ。中学校に入って一生懸命勉強すれば、愛奈たちを追い越すことだって可能だ。運動もな」
 結局は本人のやる気次第なのだが、最初からなんでもあきらめてしまうよりは、そうやって悩んでくれた方がいい。
「紗菜もそれは同じだぞ」
「うん」
「ママや紗弥だって、最初からああだったわけじゃない。そこにはそれ相応の努力がある。それさえ忘れなければ、大丈夫だ」
 ふたりは、神妙な面持ちで頷いた。
「ほら、溶ける前に食べないともったいないぞ」
 少しずつ少しずつ、いろいろなことを考え、悩み、体だけじゃなくて心も成長してくれればいい。
 俺は、それ以上はなにも望んでいない。
 親とは、結局はそういうものだから。
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