恋愛行進曲
 
最終章 恋愛行進曲
 
 一
 時の流れというものほど、曖昧だが早いものはないと思う。
 それ自体が見えるわけでも、それに触れることもできないのに、常に流れている。
 もし、人が時の流れを感じることができるとすれば、それは長い長い年月を経たなにかを見て、感じた時くらいだろう。
 歴史、とはそういうものをわかりやすくしたものだ。
 とはいえ、そんな難しいことばかり考えていてもしょうがない。
 ようするに、あれから時間が流れた、ということだ。
 どのくらい流れたのかというと──
 
 うとうとしていると、パソコンにメールが届いた。
 マウスを操作し、早速メールを開く。
「姉貴からか」
 差出人は、姉貴だった。
『親愛なる弟へ』
 題名はそうなっていた。
 いつもならあやしい顔文字で意味不明なことが書いてあるのだが、今回は少し違った。
『今回は、ちょっとだけ真面目なメールよ。最初からそのつもりで』
 そんな前書きもあった。
『とりあえず、そっちの様子はどう? 私の方も結構頻繁に美樹に連絡は取っているんだけど、どうしても偏った情報になるから。だから、できれば洋一のまわりのことを洋一の視点から教えてほしいの。お願いね』
 さらに読み進める。
『洋一にそっちのことを聞くからには、こっちのことも話す必要があるわね。とはいえ、それほど代わり映えのあることはないんだけど。強いて言えば、日本が懐かしい、という感じかしら』
「懐かしい、か」
『カルチャーショックやホームシックなんてこととは無縁な生活を送ってきたけど、懐かしいというのはあるわ。これは、私だけの意見じゃなく、和人も同じ。もちろん、今に不満があるわけじゃないわ。なんといっても、私の愛する旦那様がその力を認められてのことだから』
 確かに、そうだろうな。
『懐かしい云々は、私の愚痴だとでも思ってて。そういうの、もう慣れてるでしょ?』
 慣れすぎて困ってくるくらいだ。
『それで、本題。なんでこんなメールを出したのかというと、今度、日本に帰る機会ができたからなの』
「帰ってくるのか」
『そのまま帰ってもいいんだけど、せっかくだし、多少の空白の時間を埋められればいいと思って、メールしたの。詳細なことは帰ってから聞くことにするけど、とりあえず、どんな状況なのかだけでも、教えてくれると嬉しいわ』
 なるほど、そういうことか。
『あ、そうそう。肝心の帰る予定なんだけど、クリスマス休暇にあわせての帰国になるから、クリスマスの少し前になるわ。詳細はまだ決まってないけど、決まり次第改めて連絡するわ』
 カレンダーを見る。
 クリスマスまで、あと一ヶ月ない。
『ちなみに、うちの愛娘が、あんたに会うのが楽しみだって言ってるわ。本当に、あんたは世代を問わず、モテるわね。だけど、うちのに手を出したら、いくらあんたでも絶対に許さないから』
「誰が出すかっての……」
『そういうことだから、とりあえず返信よろしく。また、メールか電話するわ』
 そこでメールは終わっていた。
 メーラーを閉じ、背もたれに体を預ける。
 自然と息が吐き出された。
「現状報告か」
 しょうがない。たったひとりの姉の頼みだ。やってみよう。
 
 二
 高三の一年間は、実に様々なことがあった。高二の一年間もいろいろあったが、それと同等、もしくはそれ以上にいろいろあった。
 まず、俺と愛は正式に婚約者となった。安物だったけど、指輪も贈った。
 それはいい。
 で、沙耶加はといえば、とりあえずの立場は恋人に少し足りない部分にいた。まあ、結局俺たちはまだ、高校生だったからなのだが。
 実は、このふたりのことはそれほどなかった。愛は時折嫉妬して俺をいびり倒していたけど、それ以外の時はいつも通りだった。
 沙耶加に関しては、本当になにもなかった。もちろん、恋人っぽいことはいろいろあった。相思相愛なわけだから、当然なのだが。
 問題は、それ以外のメンツだった。
 一番扱いに困ったのが、真琴だった。美樹を除けば、それまでにすでに男女の関係になっていたのだが、真琴だけは例外だった。
 当然、真琴は遠慮なく俺に迫ってきた。
 真琴に関しては、沙耶加から事前に言われていた。
「真琴が洋一さんのことを好きなのはわかっています。その想いがとても強いものであることもわかっています。でも、私と真琴は姉妹です。理由はどうあれ、姉妹で同じ人を好きになり、その人を奪い合ってしまう。好きになるのは仕方がありません。ですから、それ以上のことがないように、お願いしたいのです」
 沙耶加の意見はもっともだったし、俺もできるならそうしたかった。
 そう。
 結局、俺と真琴は、その年の夏に男女の関係になった。
 俺も、最後の最後まで迷ったのだが、最終的には真琴を放っておけないという想いが勝り、そうなった。
 それは程なくして沙耶加に知られ、当然愛にも知られた。
 愛は、一度沙耶加を認めてしまった手前、あまり露骨なことは言わなかったけど、沙耶加はすごかった。あんな沙耶加は、はじめて見た。
 でも、それは沙耶加が真琴の姉であれば当然のことだった。
 だから俺は、それを甘んじて受け入れた。
 そうなってからは、案外それほど大変なことはなかった。
 沙耶加も真琴も、俺に迷惑をかけたくなかったのだと思う。
 そういうところは、やっぱり姉妹だと思った。
 由美子さんと香織については、少なくとも面と向かってなにかを言われたことはなかった。もちろん、由美子さんのことは軽々しく言えることでもないから、たとえ愛がそれに気付いていたとしても、言うのははばかられたのかもしれない。そのあたりのことは、確認していない。
 大まかな流れはそんな感じなのだが、実際はなかなか大変だった。
 一番大変だったのは、やはりそれぞれとの時間の使い方だった。特に、由美子さんと香織の時は細心の注意を払わなければなかったので、毎回冷や冷やものだった。
 だけど、実は本当の意味で一番大変だったのは、やはり美樹だった。
 俺の中では美樹はずっと妹ということで決着していたのだが、そんなのは美樹には関係なかった。
 その積極性は、違う意味でなら是非見習うべきほどのものだった。
 俺としても美樹のことは可愛かったので、何度も流されそうになった。それでも、最後の一線だけは死守した。
 もちろん、美樹はあきらめなかった。というよりは、俺が拒めば拒むほど積極的に迫ってきたほどだ。
 ただ、少なくともその一年間、なにもなかったのは、美樹の中にも多少の葛藤があったからだろうと思う。
 どうやっても俺と美樹が実の兄妹であるということは変えようがない。美樹もそれは十分わかっていた。だから、俺が本当に拒んだ時はそれ以上はなにもしなかったのだ。
 美樹のことについては、姉貴にも助けられた。姉貴にしてみれば、実の弟と妹がそういう関係になることだけは避けたかったのだろう。
 美樹がそう簡単に説得されないこともわかってはいたが、それでも何度となく説得していた。
 美樹にとってどうなることが一番いいのか。その結論はそう簡単に出なかった。
 だから、結論は先延ばしという形が続き、結果的に最終的に美樹を拒みきれなかったのかもしれない。
 ま、それはあくまでも今冷静に見てそう言えるだけだ。
 その時にはそこまで考えられなかった。
 それほどいろいろあった年だったから。
 
 三
「パ〜パ」
 ボーッとしていたら、声をかけられた。
 トコトコと近づいてくるのは──
「ん、どうした、愛奈」
 俺の娘──愛奈だ。
「パパ、おしごとは?」
「今日はもうないよ」
「ホント? じゃあじゃあ、愛奈とあそんで」
「よし」
 俺は、愛奈を抱きかかえ、膝の上に座らせた。
 愛奈は、今年で五歳。幼稚園の年長で、来年には小学校に上がる。
 自分の娘のことを必要以上に言うのははばかられるけど、それこそ目の中に入れても痛くないほどカワイイ。
「なにして遊ぶ?」
「えっとね、えっとね……」
 大きな目で俺を見つめたまま、一生懸命考える。
「パパ〜」
 と、さらに声がかかった。
 トトトと駆けてくるのは──
「こらこら、愛理。走るんじゃない」
 愛奈の妹──愛理。
「ああーっ、おねえちゃん、ずるい〜」
「愛奈がさきだったんだから」
 そう言って愛奈は俺の首に抱きつく。
「ずるいずるいずるい〜。愛理も愛理も」
「しょうがないな」
 俺は、愛理も抱きかかえる。
 愛理は、今年で四歳。愛奈とは年子で、よく似ている。
 兄弟姉妹の典型で、とにかく姉の愛奈の真似ばかりしたがる。
「パパ〜」
「ん?」
「愛理ね、こうえんにいきたい」
「公園か」
「うん。さやちゃんもいっしょ」
「紗弥もか。それもいいかもな」
「ええーっ、パパ、愛奈とあそぶんだよ」
「愛奈も一緒に行って、みんなで遊ぼう。な?」
 俺が頭を撫でながら言うと、愛奈はぷくっと頬を膨らませたが、渋々頷いた。
「よし、愛奈、愛理。出かけるから準備してこい」
『は〜い』
 下ろしてやると、すぐに部屋を出て行った。
「さてと」
 俺は、とりあえずパソコンをスリープモードにした。
 それからコートを着て、財布を持つ。どうせなにかねだられるだろうし。
 部屋を出てリビングに顔を出す。
「愛」
 リビングでは、愛が雑誌を読んでいた。
「出かけるの?」
「ああ。愛理が公園に行きたいって言うから。ついでに、愛奈と紗弥も連れて行く」
「わかったわ。今日は結構寒いから、気をつけてね」
「気をつけるのは、俺だけだな。あの三人にとっては、関係ない」
「ふふっ、そうね」
 そんなことを話していると、ふたりが上着を着てやって来た。
「パパ、じゅんびできたよ」
「愛奈、ちょっといらっしゃい」
「ん、どうしたの、ママ?」
 愛が、愛奈だけを呼んだ。
「公園に遊びに行くなら、髪は結んでおかないと」
「あ、そっか」
 慣れた手付きで愛奈の髪を結ぶ。
 頭の上に、お団子ができた。
「これでいいわ」
「ありがと、ママ」
「愛奈、愛理。パパの言うことを聞いて、良い子にして遊ぶのよ」
「わかってるよ」
「もし言うこと聞けなかったら──」
「だ、だいじょうぶだよ。ね、りっちゃん?」
「うん、だいじょうぶ」
 ふたりは、大げさすぎるくらい大きく頷く。
「じゃあ、いってくるから」
「いってらっしゃい」
『いってきま〜す』
 
 玄関を出るとすぐに隣の部屋のインターフォンを鳴らす。
 すると、すぐにドアが開いた。
「さやちゃん」
「りっちゃん」
 弾丸のように出てきたのは──
「こら、紗弥。いきなり出たら危ないでしょう?」
「だいじょうぶだよ。ね、りっちゃん?」
「うん」
 この部屋の主である沙耶加とその娘──紗弥。
「相手がりっちゃんならいいけど、ほかの人だったらどうするの?」
「だって、いまのはりっちゃんだったもん」
「だから──」
「まあまあ、沙耶加もそのくらいにして」
 そのまま放っておくといつまでも続きそうだったので、止めた。
「でも、洋一さん……」
「紗弥には、俺からも言っておくから」
「……わかりました」
 沙耶加は、渋々頷いた。
「紗弥。なっちゃんとりっちゃんと、仲良く遊ぶのよ」
「わかってるよ」
 上着の襟を直しながら沙耶加は言う。
「じゃあ、ちょっといってくるから」
「はい」
 三人を促し、俺たちは公園へ向かった。
 
 あれから、六年の時が流れた。
 俺と愛は、大学に入った年に結婚。同じ年に長女の愛奈が生まれた。
 在学中に子供はどうしようかと思っていたのだが、結局は自然の流れに任せる形となった。まあ、任せすぎて、次の年には次女の愛理も生まれたのだが。
 ただ、その年はそれだけでは済まなかった。
 それは、紗弥のことである。実は、紗弥も俺の娘なのだ。沙耶加との間にできた娘。
 今年で四歳。愛理と同い年である。
 つまり、三人は正真正銘の姉妹である。
 さすがに子供が三人になり、俺も焦った。
 だから、とりあえずそれ以上は作らないようにした。愛も沙耶加もそのあたりは不満そうだったけど。
 愛理と紗弥が生まれてからも、もう四年も経つ。
 俺たちは大学も卒業し、それぞれ仕事に就いている。
 俺は、自分でも驚いているのだが、教師になった。教えているのは、世界史。大学はとりあえず文学部に入った。学科は英米文。愛と同じにしたのだが、やはり俺にはあわなかった。そこで出逢ったのが、歴史だった。
 すっかりはまってしまい、結局そのまま高校の世界史教師にもなってしまった。
 愛は夢をかなえ、翻訳家となっている。まだまだ駆け出しだから仕事自体はそう多くないが、それでも楽しそうに仕事をしている。
 沙耶加は、姉貴と同じ心理学を専攻し、卒業後はカウンセラーになった。この仕事はある意味信用がないとできない仕事で、少しずつやれることを広げていくしかない。沙耶加は、それを地道に続け、今ではいくつかの学校や病院に定期的に出向くほどになった。
 真琴は、今年の春、ちょうど大学を卒業した。結局、大学は美大に進み、今は画家の卵として精進を続けている。
 家は出ておらず、作業は実家の自分の部屋で行っている。俺も、たまに意見を求められる。
 由美子さんは、今でもあの高校で保健教師を続けている。そのあたりは私立ならではなのだが、由美子さんほどの教師をそう簡単に見つけることはできないから、学校側が離さないというのが本当のところだと思っている。
 香織は、俺たちより一年先に大学を卒業し、その年の司法試験に見事合格した。今は、弁護士事務所に勤めながら、いつかのために経験を積んでいる。
 とはいえ、香織が優秀なのは誰の目から見ても明らかなので、独立もそう遠くないだろう。
 姉貴と和人さんは、大学卒業と同時に結婚した。
 今は、ニュージーランドに住んでいる。それは、和人さんの才能を高く評価した向こうの大学からの要請で、すでに二年が経っている。
 和人さんは、向こうの大学で理学部の講師をしながら研究を続けている。
 姉貴は、カウンセラーの資格を持っているのだが、今は専業主婦となっている。
 姉貴たちにも子供がおり、それがまた娘だった。
 美沙という名前で、今年で五歳になる。
 理由は定かではないが、もうひとりという話はないらしく、今は三人で暮らしている。
 美樹は、今年で大学三年になる。文学部史学科で、完全に俺のあとを追ってきた。
 美樹は今でもあの家におり、ここ数年家にいることが多くなった父さんとも一緒に三人でいる。
 
 公園に着くと、三人はいきなり駆け出した。
「転ぶなよ」
 一応注意するが、どうせ聞いてない。
 日曜の昼下がり。公園には俺たち以外にも親子連れがいた。
 そんな姿を横目に見ながら、俺はベンチに座った。
 三人は、芝生の上を元気いっぱい走りまわっている
 三人の中で、愛奈は一番おとなしい。長女だからというわけでもないのだが、自然とそうなった。それに、多少人見知りもする。はじめて会う相手とは、なかなか話もできない。もちろん、まだ五歳なのだからこれからいくらでも変わる。
 それに比べて愛理と紗弥は、それはもう自由奔放だ。お転婆なんて言葉では足りないくらい、じっとしていられない。
 そういう性格だからか、愛奈と違ってすぐに誰とでも友達になってしまう。だから、こういう公園で放っておくと、いつの間にか大勢と遊んでいたりする。
「パパ」
 と、いつの間にか愛奈がいた。
 手には、松ぼっくりを持っている。
「これ」
「くれるのか?」
「うん」
「そうか、ありがとうな」
 松ぼっくりを受け取り、代わりに愛奈の頭を撫でてやる。
 それだけで愛奈はニコニコ顔となる。
「ねえねえ、パパ」
「ん?」
「こんどはいつ、みさちゃんにあえるの?」
 まるで今日姉貴からメールが来ることを知っていたかのような問いかけだ。
「実はな、今年のクリスマスに日本に帰ってくるんだ」
「ホント?」
「ああ。今日、美香伯母さんからメールが届いたんだよ」
「そっか。みさちゃんとあそべるんだね」
 愛奈と美沙は同い年なので、仲が良い。ただ、姉貴たちが向こうへ行ってしまったために、多少淋しい想いをしている。
 俺や姉貴も、自分たちの娘にそういう想いをさせたくはないのだが、どうしようもないことも世の中にはある。
「美沙に会えるの、嬉しいか?」
「うん、うれしいよ」
「なら、美沙が来るまでに美沙となにをして遊ぶとか、なにを話すとか、決めておかないとな」
「あ、うん」
 途端、愛奈は考え込んでしまった。
 これはうかつだった。愛奈は、真面目な性格が災いして、すぐに考え込んでしまう。このあたりは、俺や愛の悪いところを受け継いでしまったようだ。
「愛奈。とりあえず、今は考えなくていいから。今は、愛理や紗弥と遊んでるんだろ?」
「だって、りっちゃんもさやちゃんも、かってにどっかいっちゃうんだもん」
「勝手に?」
 俺は、慌ててあたりを見回した。
 確かに、見える範囲にはふたりの姿はない。
「愛奈。ふたりはどっちへ行った?」
「んとね、あっち」
「よし、ふたりを追いかけよう」
「うん」
 愛奈の手を握り、ふたりが行ってしまった方へ向かう。
 この公園にはしょっちゅう来ているから問題はないとは思うが、なにかあってからでは遅い。
 それでも走って探さないのは、ふたりのことを信用しているからだ。
 愛理も紗弥もお転婆ではあるけど、バカではない。やっていいことと悪いことの区別はできる。
 もちろん、知らないことに関しては無理なので、そのあたりだけが心配なのだ。
「りっちゃんもさやちゃんもいないね」
「そうだな。いったいどこまで行ったんだか」
「ママにいわないとダメだね」
「ん、まあ、そうなるのかな」
 愛奈と愛理にとって、愛は優しいけど怖い『ママ』である。子供をしつけるのは親の義務なのだからしょうがないのだが、どうしても俺はふたりに強く言うことができない。
 そんな俺に代わってしつけてきたせいで、ふたりにそんなイメージを与えていた。
「愛奈は、ママのことどう思ってる?」
「ママ? んとね……すぐおこるけど、やさしいからだいすき」
「そっか」
「パパは?」
「パパは、世界で一番ママのことが好きだよ」
「あいしてるの?」
「ああ、愛してる」
 娘相手になにを言ってるんだろうな。
「あ、パパ。りっちゃんとさやちゃん、いたよ」
「ん、本当だ」
 ふたりは、噴水の側にいた。
「愛理、紗弥」
 俺が名前を呼ぶと、すぐにこっちへやって来た。
「勝手に遠くへ行ったらダメだろ?」
「だって、さやちゃんが──」
「ちがうよ。りっちゃんがあっちへいこうって」
「さやちゃんだよ」
「どっちでもいいから。とにかく、もう勝手に行かないこと」
「うん」
「はい」
 ふたりは、素直に頷いてくれた。
「で、ここにはなにかあったか?」
「ううん、なんにもないよ。ね、さやちゃん?」
「うん。なんにもないの」
 この公園のことはほとんど把握しているから、ここになにかあるなんてこと、あり得ない。
「愛奈、愛理、紗弥。今日は、もう少し歩けるか?」
「うん、だいじょうぶだよ」
「愛理も愛理も」
「紗弥もだいじょうぶ」
「そうか。なら、ママたちにはナイショで、なにか美味しいものでも食べに行くか」
「うんっ、いく」
「パパっ、すごい」
「やっぱり、パパ、だいすきっ」
 三人は、一斉に俺に抱きついてくる。とはいえ、身長差があるので、足にしがみつく格好ではあるけど。
「じゃあ、行くか」
『うんっ』
 
 公園から大通りにあるファミレスへ。
 日曜ということもあって、やっぱり人が多い。
 席に案内され、早速注文する。
 三人は、ケーキやパフェを頼んだ。俺は、コーヒー。
 こういうところに来ると、座る場所でいつももめる。とはいえ、今日は俺と三人だけなので、俺がひとりで座り、三人は一緒に座らせた。放っておくと、三人とも俺のところへ来る。
 長女の愛奈は、とにかく愛に似ている。本当にそっくりだ。俺は愛のことをガキの頃から知ってるから、なおさらそう思う。
 愛奈は、愛理や紗弥の姉であることに責任を持っている。五歳で責任云々もないとは思うのだが、妙な使命感を持ち、ふたりの面倒もよく見ている。
 ただ、それはあくまでも愛やふたりが一緒にいる時だけ。俺が一緒にいると、途端に甘えん坊になる。というか、俺とは一時たりとも離れたくない、という感じだ。
 まあ、俗に言うファザコンというやつだな。
 そうなってしまった理由もわかる。愛奈が生まれたのは、俺も愛もまだ学生の頃だったから、世話をする時間がかなりあった。基本的には愛が面倒を見ていたのだが、俺もできるだけ一緒にいるようにしていた。
 その後、愛理を妊娠して、愛が愛奈を世話するのが難しくなった。その時には俺がほとんど面倒を見ていた。
 そういう影響が未だに残っているのだろう。
 俺としても、愛奈のことは特にカワイイから、ついつい構ってしまう。
 一方、愛理と紗弥は、同じ年に生まれたということで、双子の姉妹のように育ってきた。
 愛理は俺たちのふたり目の娘だからある程度どうすればいいのかわかっていたけど、紗弥は違う。沙耶加にとっては、はじめての娘である。
 だから、娘を持つ先輩である俺や愛に、あれこれ意見を求めてきた。それもあって、愛理と紗弥の世話の仕方は似通っている。
 ちなみに、愛理と紗弥は、愛理の方が少しだけ早くに生まれている。だから、厳密に言えば、現時点では紗弥が一番下ということになる。
 愛にとっては愛奈と愛理が自分の娘、沙耶加にとっては紗弥が自分の娘なのだが、実際はふたりの娘がその三人、という形である。愛は紗弥のことを自分の娘のように可愛がっているし、沙耶加も愛奈や愛理のことを可愛がっている。
 実際、沙耶加が仕事で家にいない時は、愛が紗弥の面倒を見ている。まあ、便宜上別々の部屋に住んでいるだけで、実際はひとつの家みたいなものだ。
 生活は、それほど楽ではない。ただ、愛や沙耶加の仕事がもう少し軌道に乗れば、楽にはなるだろう。特に愛の仕事は、やればやっただけでお金がもらえる。
 学生の頃は、高村、森川、山本の家から支援を受けなければなにもできなかった。それはある意味では当然なのだが、反面申し訳ないとも思っていた。だからこそ大学を卒業したらすぐに仕事に就いた。
 もう少し生活が楽になったら、三つの家に恩を返さないといけない。まあ、あの人たちなら遠慮するな、と言うだろうけど、これはけじめだ。
 それでも、一番の恩返しは、この三人が無事に成長することだと思っている。
 それが俺たちにとっても一番大事なことだ。
「あれ、洋一さん」
 三人の姿を眺めながらコーヒーを飲んでいると、声をかけられた。
 振り返ると──
「真琴か」
 真琴がいた。
「三人とも、こんにちは」
「こんにちは」
「真琴はどうしてここへ?」
「ちょっと煮詰まってしまって。それで息抜きに」
 そう言って微笑む。
「あ、じゃあ、もう帰るところだったのか」
 真琴が向かっていた方向にレジがある。
「いえ、さらに別の場所で息抜きしようと思ってただけですから。ここで洋一さんたちに会えて、ラッキーです」
「じゃあ、とりあえず座れば」
「はい」
 真琴は、そのまま俺の隣に座った。
 改めてコーヒーを頼む。
「今は、なんの絵を?」
「来年早々にコンクールがあるんです。それに向けて描いてます」
「なるほど」
「洋一さんは、なにか描いてないんですか?」
「今はね。今は、仕事とこの三人のことで手一杯だよ」
「ふふっ、そうですか」
 学生の頃は、まだ少し絵を描いていた。だけど、社会人になって時間がなくなり、自然と描かなくなってしまった。
「そういえば、今日は愛さんやお姉ちゃんは一緒じゃないんですね」
「ああ。散歩というか、公園に遊びに行くだけの予定だったから」
「それが、ファミレスで優雅にティータイム、ですか?」
「まあね」
 ファミレスで優雅ということもないとは思うけど、格好はどうあれそんな感じかもしれない。
「むぅ、パパぁ」
 と、愛奈を筆頭に、三人がつまらなそうに俺たちを、いや、真琴をにらんでいる。
「ああ、ごめんね。パパ、取っちゃったね」
「愛奈も愛理も紗弥も、そんな顔するんじゃない。パパと真琴は、普通に話をしているだけなんだから」
「でもでもぉ……」
「言うことを聞けないなら、ここに置いていっちゃうからな」
「ううぅ……」
 子育ては、やはり甘やかすだけではダメだ。時には強く言う必要がある。
「まあまあ、洋一さんもそこまで言わないでください。ね?」
 少し空気が悪くなったところで、真琴が割って入った。
「なっちゃんもりっちゃんもさやちゃんも、ちゃんとわかってますから」
「やれやれ……」
 困ったもんだ。
 俺と真琴の関係は、実は今でも続いている。そんなにしょっちゅうふたりきりになっているわけではないが、なかなか微妙な関係ではある。
 当然のことながら、三人はそんなことは知らない。紗弥にとっては叔母さん、愛奈と愛理にとっては親戚のお姉さん、という感じだ。
「そういえば、真琴」
「なんですか?」
「クリスマスの頃って、時間あるか?」
「クリスマスですか? ええ、特になにもないですけど」
「じゃあ、予定を空けておいてくれ」
「それはいいですけど、なにがあるんですか?」
「いや、姉貴たちが久しぶりに帰ってくるんだ。だから、家族が揃ってた方がいいと思って」
「なるほど。そういうことですか」
「詳しいことは、近くになったらまた知らせるから」
「はい、わかりました」
 今、俺たちの家族は、実に人数が多くなった。だから、本当の意味で家族が揃うことはほとんどない。
 今回姉貴たちが帰ってくるのにあわせて家族を揃えたい。
 そのためには事前の根回しは絶対に必要だった。
「美香さんといえば、美沙ちゃんもずいぶん大きくなったんでしょうね」
「ああ。美沙も愛奈と同じで今年で五歳だからな。だいぶ大きくなった。まあ、写真で見た感じだけど」
「子供って、少し会わないとどんどん大きくなりますからね」
「本当にそうだ」
「私も、子供、ほしいんですけどね」
 そう言って真琴は俺を見る。
「いや、まあ、その話はまた今度な」
「きっとですよ?」
「……善処する」
「ふふっ」
 俺たちの話は、三人は不思議そうな顔で見ていた。
 それから三人がケーキやパフェを食べきったところでファミレスを出た。
「真琴はこれからどうするんだ?」
「そうですね……」
 おとがいに指を当て、考える。
「洋一さんたちは、どうするんですか?」
「俺たちは帰るよ。これからどんどん寒くなるし」
「じゃあ、私も一緒に行きます。お姉ちゃんの顔を見るついでに」
 で、結局真琴も一緒に帰ることになった。
 愛奈と愛理が俺と、紗弥は真琴と手を繋いでいる。
「パパ」
「ん?」
「みさちゃん、かえってくるの?」
「ああ、帰ってくるよ」
 さっきの話を聞いて、愛理がそう聞いてきた。
「そっか、かえってくるんだ」
「愛奈にも言ったけど、帰ってくるまでになにするか、なにを話すか、考えておいた方がいいぞ」
「うん、そうする」
 愛理は、愛奈ほど物事を深刻に考えない。多少行き当たりばったりなところがあるけど、今はそれでいい。
 家のあるマンションに戻ってくる。
 この七階建てのマンションの五階に俺たちの家がある。
 オートロックの玄関を入る。
 エレベーターで五階へ。
「紗弥。先に家に行って、ママを呼んできてくれ」
「えっと、パパのところへいけばいいの?」
「ああ、そうだよ」
「うん、わかった」
 ドアが開くと、紗弥はすぐに部屋へ。
 その間に、俺たちは俺たちの部屋へ。
 表札には『森川』とある。
 まあ、俺が森川家に婿養子に入ったんだから当然なんだけど。
「ただいま〜」
 まず、愛奈と愛理が駆け込んでいく。
 と、玄関に誰かの靴があった。
「誰か来てるな」
 とりあえず、俺たちも上がる。
 リビングに顔を出すと──
「お兄ちゃん」
「なんだ、美樹だったのか」
 美樹がいた。
「お兄ちゃん、なんだはないでしょ?」
 大学三年になり、美樹もすっかり大人びた。
 性格も多少矯正されたけど、基本的にはあの頃のままだ。
「あれ、真琴さん」
「こんにちは」
「偶然会ったんだ」
「ふ〜ん」
「とりあえず、真琴も座って」
「はい」
 真琴を座らせ、俺はいったんリビングを出た。
 部屋に戻り、コートを脱ぐ。
「あなた」
 そこへ、愛が入ってきた。
「どうした?」
「真琴さんとは、どこで会ったの?」
 微妙に目が据わっている。
「ったく……ファミレスだよ、ファミレス」
「ファミレス? あなた、またあの子たちを甘やかして」
「そう言うなって。俺だって日曜の度につきあえるわけじゃないんだから」
「それはわかってるけど。んもう……」
 真琴に対して嫉妬したと思えば、今度はあの三人のことについて目くじら立てるし。忙しい奴だ。
「そういや、紗弥に沙耶加を呼びに行かせたから、もう来ると思うぞ」
「今日はなにかあるの?」
「いや、全然。真琴と会ったのも偶然だし、美樹が来たのも偶然。ま、そんなもんだろう、実際」
「まあ、そうね」
「夕飯まではどうするかはわからないけど、なにか適当に見てくれ」
「わかったわ」
 愛は、頷いて部屋を出ようとする。
「あ、そうそう。あなた」
「ん、なんだ?」
「あとで、少し話があるの」
「話? なんの?」
「真面目な話。夜でいいから」
「わかった。覚えておくよ」
「お願いね」
 それからリビングに戻ると、愛奈は真琴と、愛理は美樹となにか話していた。
 そのすぐあとに、沙耶加と紗弥がやって来た。
 うちのリビングは平均的な広さなので、大人が五人、子供が三人もいるとかなり狭い。
「美樹は、どうしたんだ? 確か、レポートがあるから忙しいとか言ってたはずだけど」
 愛の淹れてくれた紅茶を飲みながら、美樹に訊ねる。
「あ、うん、それなんだけど、お兄ちゃんのところにも、お姉ちゃんからメール来た?」
「メールって、帰ってくる云々のか?」
「あ、来てたんだ。それを確かめようと思って来たの」
 このマンションは、高村家、森川家からそう遠くない場所にある。そのため、電話で確認するよりも、直接来た方が早い場合もある。
「メール?」
「ん、ああ。姉貴たちがクリスマスに帰ってくるって」
「ホント?」
「和人さんのクリスマス休暇にあわせてらしい」
「そうなんだ。美香さんに直接会うのも久しぶり。それに、美沙ちゃんにも」
 愛は、本当に嬉しそうだ。
「というわけだから、沙耶加」
「はい」
「クリスマスは予定、空けておいてくれな」
「ええ。なにがあっても空けておきます」
 少し大げさに、芝居がかった口調で言う。
「パ〜パ」
「お、どうした、紗弥?」
「パパ、だっこ」
「よし」
 俺は、紗弥を抱きかかえる。
「えへへ」
 紗弥は、俺にしがみつき、テコでも離れないという意思表示だ。
「紗弥。あまりパパを困らせないのよ」
「だいじょうぶだよ。ね、パパ?」
 返事の代わりに頭を撫でてやる。
「お兄ちゃんは、相変わらずだね」
「甘やかしすぎよ」
 ぼそっと愛が呟く。
「別に必要以上に甘やかしてるつもりは──」
 ちょうどその時、俺の携帯が鳴った。
「紗弥。ちょっと離れて」
「うん」
 紗弥を下ろし、すぐに電話に出る。
「はい、もしもし」
『洋一? あたし』
 電話は、香織からだった。
 相手が相手なので、一度リビングを出る。
「どうしたんだ?」
『美香姉さんからメール来なかった?』
「ああ、来た。ということは、香織のところにも来たのか」
『ええ。クリスマスに帰ってくるって』
 なるほど。姉貴も主要メンバーにはメールを出しておいたのか。
『洋一は、なにかするつもりなの?』
「いや、特別なことはなにも。ただ、家族を揃えようとは思ってる」
『なるほど』
「香織は、どうするんだ?」
『そうね。うちも改めてなにかするつもりはないわ。ただ、せっかくだしあたしも時間を作って家には帰るつもりだけど』
「それがいい」
 香織は、仕事が忙しいせいもあって、ほとんど実家には帰れていない。というか、帰れそうな時はあえて俺と会うことに時間を使っている。だから、俺のせいでもあるのだが。
『そういえば、洋一』
「ん?」
『兄さんたちにふたり目が生まれたとか、そういう話、聞いたことある?』
「いや、全然。そういう予定でもあるのか?」
『そういうわけじゃないけど。ほら、美沙も今年で五歳じゃない。それに、向こうに行ってもう二年になるし、そろそろふたり目がほしくなる頃かなって思って』
「俺もそうだとは思うんだけど、話は聞かないな」
『ふ〜ん、そっか。ま、そのことも帰ってきたらゆっくり話せるでしょ』
「まあな」
『ところで、洋一。今度なんだけど、いつ会えそう?』
「それは、俺よりもおまえの都合次第だろ?」
『あれ、そうだっけ? あはは、ごめんごめん。ちょっと待って』
 しばしの沈黙。
『えっとね、早ければ今度の土曜日。日曜でもいいけど』
「じゃあ、そのあたりで少し調整するわ」
『お願いね。このところご無沙汰で、淋しいんだから』
「はいはい」
『むぅ、愛情が感じられないわ。あたしのこと、愛してないの?』
「愛してる、愛してる」
『まったく……』
「じゃあ、また連絡するから」
『ええ。またね』
 電話は切れた。
 いろいろ考えなくちゃいけないけど、とりあえずはお転婆たちの相手をしなくちゃな。
 
 その日の夜。
 愛奈と愛理を寝かしつけ、俺は愛とグラスを傾けていた。
「で、話って?」
「あのね、これはまだ確かめてないんだけど」
「ああ」
「できたみたい」
「できた? なにが?」
「三人目」
「…………」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「えっと、それは本当か?」
「ええ。愛奈の時と愛理の時と同じだから。もちろん、ちゃんと検査しないと確かなことは言えないけど」
「そっか……」
「嬉しくないの?」
「嬉しいさ。すごく嬉しい。ただ、愛理が生まれてから時間が経ってたから、少し実感がなかっただけだ」
「ふふっ、それならいいけど」
 そっか。三人目か。
「今度は、どっちがほしい?」
「そうだな。そろそろ男がいいな。じゃないと、ますますこの家では男が居づらくなる」
「今のところはそんなこともないでしょ? あの子たちは、私よりもあなたの方がいいんだから」
「今のうちだけだろ。大きくなって、それこそ高校生くらいになったら、途端に邪険に扱われる。その時に、味方がほしい」
「じゃあ、私は女の子の方がいいわ。その方が、あなたを困らせられるもの」
「……家庭内暴力だな、ある意味」
 顔を見合わせ、笑う。
「まあ、実際はどっちでもいい。元気に生まれてくれさえすれば」
「ええ、本当に」
 愛奈の時は生まれるというだけで嬉しかった。
 愛理の時は、多少落ち着いて考えられた。その時にも今みたいなことを話したけど、結局は元気で生まれてくれればいいということになった。
 それはそうだ。どちらにしろ、自分たちの子供には変わりないのだから。
「あ、でも、もし本当に妊娠したのなら、いろいろ考えないといけないな」
「そうね。幸い、仕事は家でしているから問題はないけど、あの子たちのことはなんとかしないと」
「それは、構いたくて構いたくてしょうがないあの人たちに任せておけばいいんじゃないか?」
「お母さんたちか」
「そういう時のために、親はいるんだからさ」
「まあね」
 愛奈の時は、とにかく両家の祖母が張り切った。その張り切りようといったら、俺と愛が心配になるくらいだった。
 愛理の時は俺たちが自分たちで面倒を見られたので、そこまでのことはなかった。
 だけど、本当は構いたくてしょうがないのだ。
「とりあえず、今度病院に行って確かめてくるから」
「もしひとりで不安なら、俺もつきあうから」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。さすがに三人目だし」
「なら、美樹か沙耶加にでもついていってもらえばいい」
「ええ、そうするわ」
 そういうことは、理屈じゃない。だから、やれることはなんでもやる。
「あとは、そうだな。少し、回数を減らさないといけないな」
「回数? なんの?」
「ん、これからの時間の」
「それとこれとは別問題よ。それに、妊娠してたって、問題なくできるんだから」
「だけど、体には負担になるだろ?」
「それはそうだけど……でも、ここであなたを解放してしまったら、ほかの人が喜ぶから。そんなの、納得できないわ」
 そう言って愛は頬を膨らませる。
「それに、沙耶加さん言ってたわ」
「なんて?」
「私もそろそろふたり目がほしい、って」
「…………」
 なんてタイミングで……
「沙耶加さんだけじゃないでしょ? そういう風に思ってるの」
 愛には、すでに由美子さんと香織のことは話してある。結婚した時に、隠し事だけはしないようにしたかったので、話した。
「そりゃ、臨月の頃はそういうのは無理だけど。それまでは、ちゃんと私を愛してほしいの。ね?」
「わかったよ」
 俺と愛の関係は、自分で言うのもなんだけど、あの頃よりさらに深いものになっている。俺も愛もまだ二十四だというのもあるけど、チャンスさえあれば、毎日のようにセックスもしている。
 たまに喧嘩もするけど、すぐに仲直りもしている。
「というわけで、洋ちゃん」
 これが、サインだ。
 普段は俺のことは『あなた』と呼ぶのだが、甘えたい時とか、セックスの時は以前みたいに『洋ちゃん』と呼ぶ。
「今日は、しよ?」
「今日も、じゃないのか?」
「いいの、そんなのどっちでも」
 やれやれ。本当に変わらない。
「さ、洋ちゃん」
「わかったよ」
「うん」
 まあ、こういうことがあるからこそ、うちには深刻な問題というのがないんだろうな。
 本当にそう思う。
 
 四
 朝は、とても慌ただしい。
 俺自身も早く行かなければならないし、愛奈と愛理も幼稚園に行く準備をしなくてはならない。愛理は寝起きはいいのだが、愛奈は寝起きが悪く、早めに起こしておかないと大変なことになる。
 幼稚園への送迎は、基本的には送迎バスである。マンションの近くに止まってくれるので、ずいぶんと助かっている。
 ちなみに、愛奈と愛理、それに紗弥は同じ幼稚園に通っている。今のご時世、希望の幼稚園に通わせるのは大変なのだが、なんとか三人一緒にできた。
 朝食を食べ、準備をして学校へ。
 俺が働いているのは、実は母校だったりする。ダメ元で空きがあるか訊いてみたところ、ちょうど空きがあり、それで採用された。
 まだ二年目なので、クラス担当になっていない。いくつかのクラスの副担任と、美術部の副顧問という状況だ。
 家から学校は近いので、自転車通学している。
 俺の生徒からの評価は、まずまずだ。在校中の経験をもとに、できるだけわかりやすい授業を心がけている。
 去年はとにかくやることなすことはじめてのことばかりで、正直言って役には立たなかった。
 その雪辱を果たすためにも、今年は万難を排して授業に臨んでいる。
 卒業してから五年だったから、まだ俺の知っている先生も結構いた。これが公立高校ならそこまでのことはなかったのだろうけど、私立のおかげでやりやすかった。
 だけど、一番助かったのは、やはり由美子さんがいたことだ。
 話し相手というか、愚痴を聞いてもらったり、いろいろ相談にも乗ってもらったりした。
 もっとも、由美子さんとしては、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
 職員会議が終わると、早速一時間目の授業である。
 世界史は毎時間あるわけではないが、授業のない時はこれからの準備をしたり、自分の知識を増やすために勉強したりする。
 そういえば、由美子さんがこんなことを言っていた。
「洋一くんが赴任してから、世界史を選択する女子が増えたそうよ。よかったわね」
 世界史を選んでくれるのは嬉しいけど、その動機が微妙だ。
 確かに、女生徒の受けはいいようだけど、なんとなく、からかい半分という感じがする。まあ、二十四といえば、高校生にとっては『おじさん』なんだろうけど。
 男子の評価は、とりあえずあまり気にしていない。男子は、たとえ評価がよくなくてもあまりあからさまなことはしないから。俺もそうだったし。
 それでも、もう少し世界史を好きになってもらえるように、それなりに努力はしている。
 授業の方はそんな感じだが、部活の方は少しきつい。
 全員が全員というわけでもないけど、中には本気でプロの画家を目指してる奴もいるから、指導する方もそれなりの実力がないといけない。俺なんかは、すべて我流だったから、正直言えば教えられることはない。
 顧問の先生は美術の先生だから、もっぱら指導はその先生にお願いしている。俺がなにか言ったせいで、台無しにはしたくないから。
 部活を終えると、職員室に戻る前に、必ず保健室に赴く。
「失礼します」
 中に入ると、いつものように由美子さんが机に向かってなにかしていた。
「あら、洋一くん。今日はもう終わったの?」
「ええ」
「じゃあ、少し待ってて」
 そう言って由美子さんは、お茶を淹れるために立ち上がる。
「忙しい?」
「まあ、ぼちぼちと、ですね」
「この時期からは、三年生は特にピリピリしてくるからね。先生としては、難しい時期になるわ」
「それは、去年イヤというほど思い知りました」
「ふふっ、そうだったわね」
 去年の今頃、俺は自分のことで精一杯だったために、いろいろ失敗した。
 大事には至らなかったけど、反省しなければならなかった。
 そんなこともあって、今年は多少ましにはなっているはずだ。
「はい、お茶」
「すみません」
 由美子さんは、いつもと同じ白衣姿。この姿を見ると、俺が教師であることを忘れてしまう。
「ところで、洋一くん」
「なんですか?」
「また最近、相談が増えたんだけど」
「相談、ですか?」
「ええ、相談。恋の悩み、と言った方がいいかしら」
 なんとなく、イヤな予感がした。
「不倫て、大変ですか、とか、どうやったら奥さんに勝てますか、とか、そんなの」
「……あ〜、えっと、一応念のために確認しておきますけど」
「うん」
「その相手って、誰ですか?」
「そんなの決まってるわ。我が校きってのイケメン教師、森川洋一に」
「……やっぱり」
 そういう風に言われて悪い気はしないけど、複雑だ。
「でも、文化祭にわざわざ愛を連れてきたのに、そうなんですね」
「確かに、彼女が来たせいで結構な数が脱落したみたいだけど、かえって闘争心に火を点けてしまったところもあるみたい」
「……火に油を注いだ、というわけですか」
「平たく言えばね」
 そう言って笑う。
「すでに不倫の関係にある私には言えた義理じゃないんだけど、教え子に手を出すのはさすがにまずいわよ」
「出しません」
「でも、洋一くんが担当してるクラスにも、カワイイ子、いるでしょ?」
 一瞬、何人かの顔が思い浮かんだ。
「もし、そういう子に本気で迫られて、断れる?」
「大丈夫です。そういうのには、ある意味慣れてますから」
 本当は慣れたくなかったのだが、仕方がない。
 もちろん、その相手は美樹だ。
 美樹とは、結局兄妹のままだ。あのあとにも何度となく関係を求められたが、その度に説得して、かろうじて回避に成功した。
 ただ、美樹は未だにあきらめておらず、隙あらば、という感じだ。
「去年、洋一くんが赴任してきた時は、すごかったものね。たぶん、ここ数年で一番の盛り上がりだったわ」
「……当事者としては、あまり嬉しくないんですけど」
「でも、先生だけじゃなく、生徒からも快く受け入れてもらえて、よかったでしょ?」
「それは、まあ、確かに」
 先生たちは、知ってる先生が多かったからすぐにとけ込めた。
 そういえば、すっかり忘れてたけど、今でも優美先生と雅先はここにいる。しかも、今はふたりは結婚してる。
 結婚したのは、三年前。
 これは俺がここに来てから聞いた話なのだが、優美先生としてはもっと早くに結婚してもよかったらしい。それなのに、雅先が肝心なところで尻込みしてしまい、結果的に結婚が遅くなった。
 当然のことながら、ふたりの関係は完全に優美先生が上だ。というか、なにをやっても雅先は優美先生には勝てないらしい。
 それでも結構仲良くやっているようだから、それがふたりの形なのかもしれない。
「だけど、洋一くんがすでに結婚してるとわかった時は、また別の意味で大変だったものね。ここにも、連日のように相談に来る生徒がいたわ。まあ、その大半は愚痴だったけどね」
 その話は去年も聞いた。
 唯一の救いは、俺に実害がなかったことだ。
「ただまあ、私に相談に来るのは間違ってるのよね。私は洋一くん寄りの意見しか言えないし、相手が本気だったら、それとなくあきらめるように言ってるし」
「それは、相手が由美子さんと俺のことを知らないからですよ」
「まあね。もし、私たちのことを話したら、どうなるかしら?」
「……俺、職を失います」
「ふふっ、その時は一緒にほかの学校へ行きましょう」
「……シャレになってません」
「冗談よ」
 本当に冗談ならいいけど。
「ところで、洋一くん」
「なんですか?」
 だいぶ冷めてしまった紅茶を飲み干す。
「次は、いつ一緒にいられそう?」
「由美子さんは、いつならいいんですか?」
「私はいつでもいいわよ。それこそ、今日これからでもね」
「…………」
 本気だ。
「えっと、まあ、少し調整してからまた改めて決めましょう」
「それはそれでいいけど、今度、是非とも試してみたいことがあるのよ」
「試してみたいこと、ですか?」
 いったいなんだ?
「ほら、ここにはベッドがあるでしょ?」
「ええ、まあ、保健室ですから」
「ベッドって、病人が寝るためだけのものじゃないでしょ?」
「……まあ、そうかもしれません」
「で、今度、ここでしてみない?」
「……念のために確認したいんですけど」
「うんうん」
「なにを、するんですか?」
「セックス」
「…………」
 正直に言えば、いつかは言われるじゃないかと思っていた。
 由美子さんはとはほぼ毎日顔をあわせていながら、一緒に過ごせる時間はかなり少ない。それを増やす簡単な方法は、ここで過ごすという方法だ。
 もちろん、それにはかなりのリスクが伴う。というか、できれば俺はやりたくない。
「もちろん、細心の注意を払ってね」
「……実際、可能だと思いますか?」
「ん〜、そうね。無理ではないと思うけど、やっぱり、かなり注意してやらないと」
 エロビデオなんかだと、確かにそういうシチュエーションがあったりする。だけど、実際そういうのはかなり難しい。
 学校という場所は、不特定多数の人が常に出入りしている場所だから。
「とりあえずさ、長期休暇の期間に試してみない? それだったら、普通の時期よりは危険を回避しやすいでしょ?」
「それは、まあ、そうかもしれませんけど……」
「あ、でも、洋一くんがどうしてもイヤだと言うなら、無理にとは言わないわ。そういうことって、無理にすることでもないし。それに、無理にしても嬉しくないから」
 そんな風に言われると、俺が悪いような感じがする。
「……まあ、少し考えさせてください」
「ええ、十分に考えて」
 由美子さんは、いったいどこまで本気なのやら。
 つきあってから結構経つけど、未だにわからないことが多い。
「さてと、そろそろ行きます」
「あら、もう行くの?」
「ええ。まとめないといけない書類があって。それを教頭に提出してからじゃないと帰れないんですよ」
「それは大変ね。大丈夫なの?」
「ひな形はできていますから、そんなに時間はかからないと思います」
「それならいいけど」
 俺も、適度に手を抜く方法を覚えたから、そういう仕事もそれほど面倒だとは思わなくなった。もちろん、基本的にやりたくはないことだけど。
「それじゃあ、また明日、顔を出します」
「ええ、また明日」
 別れ際、抱き合い、キスを交わす。
 実は、この姿を見られただけでかなり問題になるのだが、まあ、そのあたりは大目に見て。
 それから職員室に戻り、雑務をこなす。
 こういう仕事さえなければ、結構早く帰れるのだが、しょうがない。
 そして、雑務を終え、地歴科控え室に戻り、荷物を持って家路に就く。
 この時期は陽が暮れるのが早いから、外に出た時には暗くなっていた。
 駐輪場から自転車を出し、乗って構内を正門に向かって走る。
「あ、森川先生」
 と、校門の側で、女生徒に声をかけられた。
 自転車を止める。
 見ると、俺の担当のクラスの生徒だった。
「どうした、藤沢?」
 名前は、藤沢昭乃。二年だ。
「あ、いえ、先生が帰るのが見えたので、声を」
「そうか。藤沢は、部活の帰りか?」
「はい。今日もみっちりしごかれました」
 確か、女子バスケ部だった気がする。
「ひとりなのか?」
「ええ。みんな薄情なんですよ。私が少し着替えるのが遅くなっただけで、先に帰ってしまうんですから」
「ははは、そうか。なら、途中まで一緒に行くか? 方向、一緒だろ?」
「いいんですか?」
「ここでおまえひとりを帰すと、あとでどんなことを言われるかわかったもんじゃないからな」
「んもう、先生、私そんなこと言いませんよ」
「ならいいけど」
 俺は自転車から降り、押して歩いた。
 藤沢は、バスケ部の割にはそれほど背は高くない。平均的な身長だ。
 それでも、聞いた話によるとなかなかセンスがあるらしく、レギュラーメンバーに選ばれているらしい。
「先生の家って、近くなんですよね?」
「ああ、歩いても十分通える距離だな」
 幸か不幸か、俺のプライベートについては、かなりの生徒が知っている。誰が、というわけではなく、誰からもその話が知れ渡ったようだ。
 藤沢も、そのあたりは当然知ってるだろう。
「そういえば、藤沢」
「なんですか?」
「この前のテストは結構がんばったじゃないか。その前に比べてずいぶん結果が出ていたし」
「勉強しましたから」
 そう言って微笑む。
「それに、先生の教え方が上手いからですよ。そうじゃなかったら、歴史はあまり勉強しようとは思いませんから」
 確かに、男女で言うと、男の方が歴史好きが多い。なぜかはわからないけど。
「受験も、現代社会か地理にしようと思ってたんですけど、世界史にすることしました」
「そうか。わからないことがあったら、遠慮なく聞きに来いよ」
「はい。その時は、みっちり教えてもらいますから」
 俺としては、全員に世界史を好きになってほしいとは思っていない。向き不向きがあるから、それを見極めるための手助けができればいいと思っている。
 多少不純な動機でも、そこから本当にやる気にさえなってくれれば問題ない。
「あの、先生」
「ん?」
「先生の奥さんて、すごく綺麗ですよね」
「なんだ、藤沢も見物したのか?」
「あ、はい。気になっていたので」
 愛を文化祭に連れて行った時、実はかなりの騒ぎになった。
 男女を問わず、ずっと誰かにつきまとわれ、本当に大変だった。
 その中のひとりが藤沢だった、というわけか。
「先生の奥さんを見ていると、先生がどれだけ奥さんのことを愛しているのか、大事にしているのかが、よくわかりました」
 藤沢は、特に感情を込めずに言う。
「先生。私も、そういう人に巡り会えると思いますか?」
「そうだな。正直に言えば、そうなるとは言い切れない。これはおまえもわかるだろ?」
「はい」
「だけど、そういう人に巡り会いたいと思っていれば、いつか本当に巡り会える可能性はある。最初からすべてを放棄してしまったら、絶対にそうはならないからな」
「そうかもしれませんね」
「まあ、そういうことに関しては俺ではあまりアドバイスはできないけど、愚痴くらいなら聞いてやるから」
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ、今度から先生にいろいろ聞きますから」
「お手柔らかに」
 俺は、できるだけ多くの生徒とわかりあいたいと思っている。
 男子は結構気さくに声をかけてくるのだが、女子は多少引いてしまうところがある。
 それは俺が男だからなのだろうけど、できればそういうことを抜きにして相対したい。
 そういうことから言えば、今日は一歩進んだことになる。
「あ、ここからは向こうなので」
「お、そうか」
 三叉路で立ち止まる。
「先生」
「どうした?」
「私、先生にどうしても聞いてほしいことがあるんです」
「なんだ?」
 藤沢は、一度深呼吸する。
「先生が、好きです。大好きです」
 そして、笑顔でそう言った。
「はあ、やっと言えた……」
 それからホッと息をつく。
「想いって、伝えないと意味がないですからね。だから、告白だけしました。結果は、わかりきってるんですけど」
「悪いな」
「いえ、いいんです。ただ、私が先生のことを好きなことを、知っておいてほしかっただけですから」
 確かに、藤沢の顔は、ずいぶんと晴れやかだった。
「それじゃあ、先生──」
「藤沢」
「あ、はい」
「ありがとうな」
「はいっ」
 今日は、この笑顔が見られただけで十分だ。
 そして、これからもっとこんな笑顔を見たい。
 ま、それも俺次第だけど。
 
 五
 街の中は、すっかりクリスマスムード一色だった。
 毎年思うのだが、日本人は本当にお祭り好きだ。
 キリスト教の例祭であるクリスマスを、ここまで日本人向けのお祭りに仕立て上げてしまうのだから。
 今更そんなことを考えても意味はないし、クリスマス自体がなくなるわけでもない。
 ただ、今の俺にとっては、クリスマスはあまり歓迎できない行事になっている。
 それは、三人の娘のことだ。子供にとってクリスマスといえば、やはりクリスマスケーキにクリスマスプレゼント。とにかく楽しいことがある日。
 もちろん、俺だってカワイイ娘たちのためにあれこれしてやるのは楽しいし嬉しい。
 だけど、そこにはそれ相応の出費がある。それが結構痛い。
 そのくらいの出費で三人の笑顔が見られるなら安いものだけど、年末年始はなにかと出費がかさむから、正直なところ、微妙だ。
 そして、今年もクリスマス直前にプレゼントを買いに行った。
 うちの娘たちは、未だにサンタクロースの存在を信じている。いつまで信じているのかはわからないけど、その間はせいぜいサンタ役に徹しようと思う。
 俺の場合のクリスマスは、もうひとつ重要なことがある。それは、愛をはじめとする女性陣になんらかのことをしなければならないからだ。
 これも結構厳しい。まあ、最近は多少大目に見てもらってるけど。
 毎年そんな感じで忙しいクリスマスだが、今年はさらに忙しい。なんといっても、姉貴たちが帰ってくるからだ。
 つい先日、細かい日程が伝えられた。それによると、帰ってくるのは二十二日。向こうに戻るのは四日ということだ。
 帰国した日は時差ボケとかあるだろうから特になにかするつもりはない。それに、最初はうちではなく、笠原の家に行くことになっている。高村の家に来るのは、クリスマスイヴだ。
 愛は、美樹と一緒にあれこれ考えているようだけど、俺はなにをするかは知らない。というか、この時期は仕事が忙しいから、それどころじゃないのだ。
 その学校だが、本当に忙しい。担任になっていない状況でこの体たらくなのだから、担任になったらどうなるか、考えるだけで恐ろしい。
 この時期は、とにかく三年の受験に全勢力を傾ける。俺にできることなど限られているけど、なにもできないわけではないので、やれることを精一杯やっている。
 それとは別に、最近、いろいろ相談というか、話し相手になってくれと言われることが多くなった。以前、藤沢昭乃にそのことを言ってからだから、どうやらそのあたりから広まったらしい。藤沢自身が言ったとは思ってないけど、そういうのはどこからともなく広がるものだ。
 で、それ自体はいいのだが、中には本気で俺にあれこれ言ってくるのもいて、それにはさすがに困った。
 それと、それにかこつけて何人かに告白された。好きと言われて悪い気はしないけど、やはり複雑な心境だった。
 もちろん、嫌われるよりはずっといいことなのだから、文句は言ってないけど。
 ただ、それによる弊害もあった。それは、由美子さんだ。同じ高校で、しかも一番相談を受ける立場にいるのだから、そういう話題はすぐに伝わる。
「なんか、本当に教え子に手を出しそう」
 ぼそっとそう言われた時には、さすがになにも言い返せなかった。
 由美子さんに話が伝わると、それがほぼ自動的に愛の耳に入るようになっている。その際の取捨選択はそれぞれの役目なのだが、そういうことはほぼ確実に届いていた。その結果、俺はあらぬ疑いをかけられ、宗教裁判のごとく、尋問された。
 俺は潔白なのだから最終的には問題はなかったのだが、そのせいで多少愛の機嫌が悪くなってしまったのは痛かった。
 愛といえば、三人目の妊娠が確認された。予定では来年の夏に生まれる。まだ男か女かはわからない。
 四年ぶりの子供だったので、四人の祖父母は特に喜んでいた。
 特に張り切っていたのが、母さんとお義母さんだ。今回こそは自分たちが面倒を見ると息巻いていた。
 俺としては、真っ直ぐに育つならそれでも構わないのだが、あとは愛次第だ。
 そんなことがありつつ、クリスマスを迎えた。
 
 今年のクリスマスは、例年より気温が低く、雨が降れば雪になるかもしれないとのことだった。ホワイトクリスマスなどここ最近なかったので、それはそれでありだろう。
 もっとも、夏真っ盛りの南半球から帰ってくる姉貴たちにとっては、つらい休暇になるとは思うけど。
 そんな十二月二十二日。
 当然俺は仕事があり、娘たちは幼稚園がある。
 学校はそろそろ冬休みに入るので、その前にやっておかなければならないことがごまんとあった。
 そんなことをこなしつつ、授業も行いつつ、部活にも顔を出しつつ、あっという間に夕方となった。
 廊下を歩いていると、携帯が震えた。
 取り出し、ディスプレイを見ると──
「お、姉貴からだ」
 姉貴からだった。
「もしもし」
『洋一? 今、電話大丈夫?』
「ああ、もう特になにもないし」
 それでも多少話しやすい場所へと移動する。
「もう着いたんだ」
『もうって、向こうから十二時間弱よ。飛行機に乗ってるだけで疲れるんだから』
「しょうがないって。なんたって、向こうは南半球、こっちは北半球なんだからさ」
『まあね』
 電話口の姉貴は、俺のよく知ってる姉貴のままだった。
「どう? 元気?」
『ええ、おかげさまで。和人も美沙も、全然問題なし』
「そりゃよかった。そういや、もう笠原の家に着いたの?」
『ついさっきね。こっちで挨拶して、ひと段落ついたからあんたにも連絡したの』
「なるほど」
『それにしても、日本は寒いわね。向こうなんて半袖だったのに、こっちはコートが必要だもの』
「今年のクリスマスはいつもより寒いって話だから。姉貴たちにはつらいんじゃない」
『まったく、なにもこんな時に寒くならなくてもねぇ』
 そう言ってため息をつく。
『でさ、洋一』
「ん?」
『あさってのことなんだけど、あんた、いつ帰れる?』
「多少は早く帰れるとは思うけど、本当に多少だと思う」
『そっか』
「なんかあった?」
『ああ、うん。あんたにだけ先に会えればと思ったんだけど、無理そうね』
「明日は?」
『明日は無理。こっちの親戚がこぞってやって来るらしいから』
「ああ、そういえば、香織がそんなこと言ってたな」
『なにもわざわざ明日じゃなくてもいいのにね。どうせ正月もあるんだから』
「そっちの親戚にとっては、一族の誇りである和人さんが戻ってきたんだから、一日でも早く会って話を聞きたいんじゃないの」
『ま、そんなところだろうけどね。それにつきあう私と美沙は、いい迷惑よ』
「ははは、そう言うなって」
『それはそれでいいんだけど、そうね……まあ、しょうがないか』
「ん、なにが?」
『あのね、実は、美沙に弟がいるのよ』
「は? 弟?」
『生まれたのは去年。だから、今年で一歳。名前は、和輝』
「えっと、姉貴。それ、今まで誰にも言ってなかったわけ?」
『あはは、まあね。本当は言おうと思ってたんだけど、なんとなくサプライズにするのもいいかなって思って。それで、両方の家の両親にだけ話して、あとは黙っていてもらってたの』
「……そこまでするか、普通?」
『まあ、今は私も少しやりすぎたかなって思ってる。で、そっちに行く前に、せめてあんたにだけは話しておこうと思って』
 自分の息子をサプライズの道具に使うとは、さすがにあきれてしまう。
「でも、まあ、おめでとう、姉貴。ずいぶんと遅くなったけどさ」
『ありがとう』
「それで、俺はどうすればいいわけ? 美樹たちに話してもいいの?」
『そのあたりは任せるわ。今日の夜、香織ちゃんがこっちに来れば美樹にも伝わる可能性は高いだろうし』
「まあ、そうだろうな。じゃあ、俺からみんなには話しておくよ」
『お願いね』
 やれやれ、余計な仕事を増やしてくれた。
『あ、そうそう。あんたも三人目、おめでとう』
「ん、ああ、ありがとう。でも、メールでも祝ってくれたと思うけど」
『そこはそれよ。やっぱり直接言わないと』
「確かに」
『愛ちゃんとも直接話したいんだけど、電話だと終わらない可能性があって、今日は自粛しようと思ってるの』
「賢明な判断だ」
『だから、あんたから言っておいてよ』
「わかった」
 と、ちょうどチャイムが鳴った。これが最後のチャイムだ。
『じゃあ、またあさってに会いましょう』
「姉貴」
『うん?』
「おかえり」
『うん、ただいま』
 電話を切る。
 姉貴たちも帰ってきたし、今年のクリスマスは本当に賑やかに、そして楽しくなりそうだ。
 
 十二月二十四日。
 朝、天気予報を見ていたら、夜の降水確率が結構高かった。本当にホワイトクリスマスになるかもしれない。
 学校は今日までだ。もちろん、それは生徒だけで、俺たち教職員はギリギリまで出なければいけない。それでも、授業のあるなしはずいぶんと違うので楽だ。
「あなた」
 その出がけ。
「ん?」
「今日は、イヴだってこと、忘れないでね」
「忘れないというか、忘れられないだろ」
「そういう意味じゃなくて、ほら」
「どういう意味だ?」
「んもう……」
 愛は、頬を膨らませ抗議する。
「ああ、わかったから。そんな顔するな」
「本当に?」
「ようは、未だに甘えん坊のおまえの相手をする、ってことだろ?」
「なんか、ずいぶんと語弊があるようだけど、結果的には同じことだから」
「まったく……」
「美香さんたちがこっちに来てあまり時間はないとは思うけど、それでもね」
「ま、なるようになるだろ。それはいつものことだし」
「そうね」
「じゃあ、いってくる」
「いってらっしゃい」
 ま、今日はクリスマスイヴだし、それもいいか。
 
 クリスマスということで、学校内にも多少浮ついた空気が流れていた。
 受験生である三年にはあまり関係ないが、一、二年には受験というものが関係ない。
 だから、基本的に人数の多い一、二年の雰囲気に学校は包まれるのだ。俺たちの時もそうだったし。
 とはいえ、今日は授業はない。明日から冬休みに入るので、終業式とホームルームだけだ。だから、俺のやる仕事はほとんどない。
 ホームルームが終わると、大掃除だ。
 俺は、いくつかの場所の監督を任された。
 そのうちの一カ所が、講堂だった。
「あ、先生」
 講堂や体育館など、広い場所は当然複数のクラスが担当する。
 その中に、俺のよく知っている連中がいた。
「なんだ、ここはおまえらの担当なのか」
「はい、そうです」
 頷いたのは、藤沢昭乃だった。
 一緒にいるのは藤沢と同じクラスの連中。全員女子だ。
「んじゃ、さっさと掃除して、さっさと帰るぞ」
「はぁい」
 全員にクリスマスの予定があるのかどうかはわからないが、早く帰りたいというのは全員の一致した想いらしい。
 ほかのクラスの連中にも声をかけて、掃除をはじめさせる。
「先生」
「どうした?」
「先生はクリスマスというか、今日はどう過ごすんですか?」
「さあ、どう過ごすんだろうな」
「いいじゃないですかぁ。教えてくださいよぉ」
「いいから、さっさと掃除しろ。だからといって、手を抜くなよ。手を抜いたら、当然やり直させるからな」
「むぅ、先生のケチぃ」
「はいはい」
 その後も、次から次へと質問にやって来る。
 俺はそれを適当にあしらいながら、さっさと掃除させる。
 途中、ほかの場所も見てくる。
 どこも人数が多いからか、だいぶ早く進んでいた。
 結局、一番最後になったのは講堂だった。
「先生、終わりました〜」
 しばらくすると、ひとりがそう言ってきた。
 それから最終的に俺がチェックする。
「まあ、こんなもんか。よし、終わりだ。帰っていいぞ」
 それを合図に、ぞろぞろと講堂を出て行く。
 が、全員ではない。
「おまえらは帰らないのか?」
 藤沢たちだ。
「先生。このあと、時間ありますか?」
「ない」
「ええーっ、そんなこと言わないでくださいよぉ。少しでいいんですから」
「目的にもよるな」
「ほら、せっかく二学期も終わったわけですから、おつかれさまの意味を込めて、少し話せたらなぁって」
「プライベートな話をしないなら、いいぞ」
「…………」
 全員黙る。
「ったく、おまえらは……」
 やれやれ、どうして女って生き物はそういう話題が好きなんだろうな。俺には一生わからんことだ。
「三十分」
「はい?」
「三十分だけなら、つきあってやるから」
「ホントですか?」
「ほら、さっさとしないと時間がなくなるぞ」
「あ、え、じゃ、じゃあ、行きましょう」
 連れて行かれたのは、学食だった。
 そこにある自販機で飲み物を買い、テーブルにつく。
 ちなみに、今ここにいるのは、藤沢のほか、新井恵里香、永村久美、若生静穂、北岡波恵の四人だ。
「ではでは、無事二学期が終わったことに──」
『かんぱ〜い』
 まずは、乾杯。
「さて、先生」
「なんだ?」
「昭乃に告白されたって本当ですか?」
「し、静穂っ」
 若生の言葉に、早速藤沢が声を荒げた。
「その真偽についてはとりあえず置いといて、おまえはそれをどこから聞いたんだ?」
「風の噂です」
「うわ、マジだ」
「噂なんですけど、告白したかもしれない本人が、結構さっぱりしてるんですよ。だから、ひょっとしたらそれってマジなのかなって思って」
 藤沢は、若生をにらみつけている。
「そうだな……まあ、藤沢に告白されたのは本当だ」
「せ、先生……」
「まあ、待て。だけど、ここにもうふたりほど、同じことをした奴がいる」
「えっ……?」
 俺の言葉に、藤沢は四人の顔を見る。
 心当たりのあるふたりは、無意識のうちに視線を逸らしている。
「って、静穂。まさか──」
「さ、さあ、なんのことやら」
「恵里香はなんとなくそうかもって思ってたけど」
 告白してきたのは、新井と若生だ。
 どちらもそれきりなのだが、こんなところでまた話題に上るとはな。
「へえ、あたしは昭乃と恵里香だけだと思ってたけど、まさか静穂までとはね。こりゃ驚いたわ」
 永村は、ニヤニヤとチェシャ猫のような笑みを浮かべて言う。
「ホント。静穂なんて、そういうところとは一番遠い存在だと思ってたのに」
 北岡も同じような顔で頷く。
「い、いいじゃない、別に」
 みんなにそう言われ、若生はそれを認めた。
「でもさ、なんでコクったの? 結果なんてわかってるじゃん」
「そうそう。それはあたしも知りたい」
 告白してきた三人が顔を見合わせる。
「結果がわかってても、なにも言わなければ絶対にそれ以上ってないじゃない。一歩でも進めば、プラスかマイナスかはわからないけど、どっちかにはなるわけだし」
「でも、なにも言わずにいたら、ゼロなのよ、ゼロ。それって、まったく意味ないし」
「後悔、したくなかったから」
 三人でひとつの答えを言う。
「ふ〜ん、なるほどね。まさか、そんな今時ドラマにもならない展開があったとはね」
「それにさ、そういう理屈は抜きにして、先生とならそういう想い出があってもいいと思ったのよ」
「ああ、うん、そっちの方がよくわかるかも」
「だから、コクったの」
「だけど、それって先生の意志を無視してることにならない?」
「うっ、それはそうなんだけど……」
「先生も、結果のわかりきった告白なんてされても、迷惑なだけですよね?」
「そうでもないぞ」
「そうなんですか?」
「結果はどうあれ、誰かに好きだって言われて悪い気はしないし」
「まあ、それはそうかもしれませんね」
「それに、これはまあ、俺だけかもしれないけど、藤沢も新井も若生も、その気持ちだけは本気だったからな。本気の想いってやつは、そう簡単には切り捨てられないし、捨ててもいけない。もちろん、どうやっても結果は同じだろうけどな。ただ、そこへたどり着くまでの過程が全然違う。となると、当然俺にとって三人は印象に残る三人になる。そういうのって、大事だと思うぞ」
 っと、少しかっこつけすぎたか。
「えっと、つまりその、先生にとって昭乃と恵里香、静穂はあたしや波恵よりも印象に残る存在になってると?」
「そうだな。たぶん、何年後かにおまえらのことを訊かれたら、永村と北岡より藤沢たちを先に思い出すだろうな。そういや、告白してきた奴がいたな、って」
 俺の言葉に、藤沢たちは少しだけ意外そうに、だけど、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、ひとつだけ勘違いするなよ。俺は別に、告白そのもので印象に残ってるわけじゃない。その告白が、どれだけ本気だったか。そのあたりが重要なんだ。だから、今ここで永村が俺に告白したとして、それがただ単に告白しただけだったら、数日後には忘れてるかもしれない」
「……なるほど」
 五人は、神妙な表情で頷く。
「ああ、だけど、これはあくまでも俺の考えだから、鵜呑みにするなよ。人によっては違う考えを持ってるのもいるだろうから」
「わかってますよ」
 本当にわかってるのかあやしいところだが、まあ、信用してやろう。
「お、もうそろそろ時間だな」
「えっ、もうですか?」
「早いですよぉ」
「先生、せっかくなんですから、もう少しゆっくりじっくりのんびりたっぷり話しましょうよぉ」
「そうは言ってもな、俺はこれから職員会議もあるし、ほかにも仕事があるんだ」
「ううぅ……」
「それに、おまえらにだってやることはあるだろ?」
「やること、ですか?」
「ああ。冬休みの宿題、というありがたいものが」
「……ああ」
 全員、イヤな顔をする。
「せめてもの救いは、世界史に宿題がないことですね」
「世界史は、夏休みにしか宿題は出さないからな。それに、その宿題だって問題集一冊だし。ほかに比べれば、かなり楽だっただろ?」
「まあ、比較的、ですけど」
「それに、あれくらいの問題集が簡単にできないようだと、来年の今頃は泣いてるぞ」
「そこは、三年生になったら追い込みをかけるということで」
「それはおまえたちのやることだから、俺はなにも言わないけどな」
「先生は、高校生の頃は、どうだったんですか?」
「そうだな、正直に言えば、今のおまえらとそう変わらなかったな。というか、もっとひどかったかもしれない」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだろ。なんたって、願書提出直前まで、どの学科に出すか迷ってたくらいだし」
「へえ、そうだったんですか」
「初耳」
 なんでもかんでも知られてたら、それはそれで問題だ。
「で、とりあえず受けたのが英米文で、だけど、やっぱり俺にはあわなくて」
「あれ、じゃあ、どうして世界史の先生に?」
「二年の時に転科したんだ。それからはずっと史学科で歴史の勉強をして。そのついでに教職免許を取って」
「じゃあ、先生は本当に自分のやりたいことを見つけるために大学に入ったんですね」
「まあな」
「でも、なんで最初は英米文だったんですか?」
「ああ、それは、その時つきあってた奴が、そこに行くからって」
「ん? その時つきあってた?」
「先生の奥さんて、確か、幼なじみでずっと一緒だったって話ですけど」
「じゃあ、最初は奥さんと一緒だったってことですか?」
「……おまえらの前だと、俺のプライベートはないようなもんだな。だけど、まあ、そういうことだ。結局、最後の最後まで決められなかったからな。でも、どこか決めないと受験はできないし。なら、せめて知ってる奴がいるところの方がいいかな、ってことで」
「そっかぁ」
「そういう話を聞くと、多少気分が楽になります」
「なんか、まわりからはとにかく早く決めて、覚悟を決めて、さっさと勉強しろとしか言われませんから」
「それが普通だ。ただ、そういう画一的な方法では必ずあわない奴もいる。ま、俺もそうだけど。そういう連中には、そいつなりのやり方を探し出してやる方がいいんだ」
「すっごくためになります」
 なんか、いつの間にか進路相談みたいになってたな。
 いかんいかん。
「よし、もう時間だな」
 俺はそう言って立ち上がる。
 一度引き留められてるから、今度は引き留められなかった。
「おまえらも、さっさと帰って宿題やれよ。冬休みは短いんだから」
「先生〜、今日はクリスマスイヴですよ。そういう面倒なことは、あとあと」
「ほお、誰か一緒に過ごしてくれる相手がいるのか?」
「……うっ、いません」
 揃って項垂れる。
 その姿が滑稽で、思わず笑ってしまった。
「なら、とりあえず相手を探すところからはじめないとな」
「先生が相手になってはくれないんですか?」
「おまえなぁ、そんなことしたら、俺は明日から学校に来られなくなるぞ」
「奥さんて、そんなに怖いんですか?」
「ある意味、最強だな」
「へえ、そうなんですか。ふ〜ん」
「ほれ、いつまでもくだらんこと言ってないで、さっさと帰れ」
『はぁい』
 五人は、のたのたと立ち上がる。
「あ、先生」
「なんだ?」
 行こうとしたら、藤沢に呼び止められた。
「あの、先生は冬休みも学校には来てるんですよね?」
「基本的にはいつもとほとんど変わらないな。多少、遅めに来て、早めに帰れるけど。それがどうした?」
「あ、いえ、ちょっと……」
「先生〜、そんなの決まってますよ」
「ん、なにが決まってるんだ?」
「昭乃が、愛しの先生に会いに来るために決まってるじゃないですか」
「久美っ」
「別に来るのはいいけど、どこまで相手できるかわからんぞ。こっちも、別に遊びに来てるわけじゃないし」
「あ、え、はい……」
 藤沢は、俺の言葉が意外だったらしく、目を白黒させ、頬を赤らめて俯いた。
「昭乃〜、よかったじゃない」
「も、もう、久美は余計なこと言わないっ」
「あはは」
 ま、どうせこういうのは一過性のものだろうから、俺も余計なことを言わずにつきあってやればいいんだ。
 もちろん、愛の耳には届かない範囲で。
 
 いつもより早めに帰れた。
 自転車に乗る時は手袋なしではとても乗れないくらい寒い夕方。
 とりあえず俺は、真っ直ぐ家に帰った。
 今日は高村の家の方でパーティーをするのだが、まさか仕事帰りのまま参加するわけにもいかない。本当に時間がないならしょうがないが、そんなことはない。
 家に帰ると、ちびっ子ギャングが揃っていた。
 俺が早く帰ってきて嬉しいのだろう。とにかくくっついて離れようとしない。
 そんな三人のことは、愛と沙耶加に任せて、まずは着替える。
 さっさと着替えると、再び三人に捕まった。
 三人を適当にあしらいながら、家を出る。
 今日のパーティーは、あくまでも高村家の主催なので、準備は母さんと美樹に任せてある。
 高村の家には一ヶ月に何回も来ているので、娘たちだけでも十分に辿り着ける。
 家が見えると、三人が走り出す。
 まあ、三人にとっては、俺たちよりも甘やかしてくれるふたりがいるのだから、はやる気持ちを抑えきれないのだろう。
 そんな三人について俺たちも中に入る。
「ただいま」
 未だにここに入るときは『ただいま』と言う。
「おかえり、洋一」
 と、すぐに姉貴が出てきた。
「三人娘は、もう中にいるわよ」
「わかってる」
 挨拶もあるのだが、とりあえずリビングへ。
 リビングには、和人さんと美沙、それにはじめて見る姉貴たちの長男、和輝がいた。
「愛奈、愛理、紗弥」
 まずは挨拶。
 三人を呼んで座らせる。
「和人さん、姉貴。おかえり」
「ええ、ただいま」
 姉貴もだけど、和人さんも変わってない。
「愛ちゃんも沙耶加ちゃんも、ご無沙汰ね」
「ええ。でも、メールとか電話とかで元気なのは知ってましたから」
「便利な世の中だものね」
「ほら、おまえたちもちゃんと挨拶しろ」
 三人は、揃って頭を下げる。
「おかえりなさい、伯父ちゃん、伯母ちゃん」
「三人とも、ずいぶんと大きくなったわね。それに、しっかりしてる」
「そんなことないですよ。まだまだ全然」
「ほら、美沙。あなたも挨拶なさい」
 和人さんと姉貴の後ろに隠れていた美沙が、前に出てきてちょこんと座った。
「ただいまかえりました」
「お、美沙もずいぶん立派な挨拶ができるようになったじゃないか」
「今日だけよ。普段なんて全然ダメなんだから」
 姉貴はそう言う。
「そんなことないよな、美沙?」
 俺が頭を撫でながら訊ねると──
「うんっ」
 大きく頷き、そのまま俺に抱きついてきた。
「えへへ、ようちゃんだぁ」
 美沙は、俺のことを『ようちゃん』と呼ぶ。その理由は定かではないが、俺は姉貴がなにかを吹き込んだのだと思っている。
「みさちゃん、パパは愛奈のパパなの」
 すると、早速愛奈が美沙を牽制する。
「パパ、愛奈も愛奈も」
「おっと」
 美沙を押しのけるように俺に抱きついてくる。
「なっちゃん、ずるいぃ」
「おいおい、喧嘩はするなよ。喧嘩するなら、もう抱っこしてやらないからな」
「ううぅ……」
 ふたりは、渋々引き下がる。
「あんたも、ずいぶんと扱いが上手くなったじゃない」
「そりゃ、姉貴たちが向こうに行って二年も経ってるわけだから、多少成長もしてるさ」
「ま、確かにね」
 いつもなら愛理と紗弥もそれに加わってくるのだが、今日はそれ以上に興味を惹くものがあった。
「ねえねえ、りっちゃん。あかちゃんだよ、あかちゃん」
「うん。カワイイね」
 ふたりは、和輝の側で和輝を見ている。
「愛理、紗弥。手を出さないのよ」
 一応、愛が注意する。
「大丈夫よ。和輝、どこかの誰かさんと同じで、図太い神経してるから。だから、ちょっとくらい触られても、起きないわ」
 赤ん坊の仕事は、寝ること。
 寝る子は育つ、とは言うけど、本当にそうだと思う。
「あ、そうそう。愛ちゃん」
「なんですか?」
「三人目、おめでとう」
「ありがとうございます」
「今度は、どっちがほしい?」
「どちらでもいいです。元気なら」
「でも、そろそろ男の子もほしいな、とか思ってない?」
「少しだけ」
 そう言って笑う。
「美香さんは、実際どうでしたか?」
「そうね、私の場合は、なんとなく予感があったのよ」
「予感?」
「今度は男の子だ、っていう予感。そしたら、本当にそうだったの」
「そういうことってあるんですね」
「ま、そんなのはあくまでも結果論なんだけどね。ただ、実際にそうだったから、嬉しかったわよ。この人なんて、それはもうはしゃいじゃってはしゃいじゃって」
「おいおい、そんなこと言わなくてもいいだろう」
「せっかくだから」
「まったく……」
 このふたり、関係も相変わらずだ。
「沙耶加ちゃんは、どうなの? 考えてないの?」
「私としては、いろいろ考えてますけど」
 そう言って俺を見る。
「なるほど。あとは洋一次第ってことか」
 俺は、聞こえないフリをする。
 そうこうしているうちに、真琴がやって来てようやく全員揃った。
 父さんもすべての予定を繰り上げて速攻で帰ってきたし。
 それから、ささやかながら、姉貴たちの帰国祝いパーティーがはじまった。
 ついでに、クリスマスパーティーも。
 話題の中心は、とにかく姉貴たちの向こうでの生活だった。メールや電話である程度知ってはいるものの、細かなことは実際に話を聞かなければわからない。
 それによると、和人さんは向こうでもその実力に見合った待遇を受け、毎日楽しく仕事をしているらしい。まあ、自分の好きなことを、しかもお金をもらってやれるのだから、楽しくもあるだろう。
 姉貴は、英語の方はまったく問題ないので、普通に生活できている。最近は、近くの家の家族や奥さん連中と世間話に花を咲かせることもあるそうだ。
 美沙は、さすがに英語は話せないので、日本人学校に通っている。とはいっても、まだ小学生ではないので、いわば、日本語を忘れないため、という感じだ。
 いずれにしても、特に問題もなく生活できていることは、日本にいる俺たちにとってはいいことだった。
「ん〜、パパ〜」
「どうした?」
「愛理、ねむいのぉ」
 愛理は、俺のところへやって来たと思ったら、こてんともたれかかってきた。
「愛理。寝るならちゃんと寝ないと、あとで大変だぞ」
「……だけどぉ……」
 もうダメだ。目が開かない。
 普段からあまり夜更かしはさせていないから、今日は眠くなったのだろう。
「しょうがないな」
 俺は愛理を抱きかかえた。
「愛。悪いけど、俺と愛理の上着を貸してくれ」
「あ、うん」
 愛から上着を受け取り、俺はそれを羽織り、愛理にはそれをかける。
「ちょっと愛理を寝かしつけてくる。すぐ戻るから」
 そう言ってリビングを出た。
 本当はこっちに寝かせといて、あとで連れて帰る方がいいのだが、愛奈と紗弥までそうなると、さすがにきついから先に戻ることにした。
「洋一。ちょっと待って」
 家を出てすぐに姉貴が追いかけてきた。
「ん、なんか忘れ物でもあった?」
「ううん、違うわよ。ちょっと、あんたとふたりだけで話がしたかったの」
「ふ〜ん、ま、いいけど」
 愛理を抱きかかえたまま、姉貴とマンションまで歩く。
「りっちゃん、本当に大きくなったわね」
「美沙と同じだよ。子供なんて、二年も見てなかったらあっという間に大きくなる」
「確かに」
 姉貴は、愛理の髪を軽く撫でた。
「ね、洋一。今、あんたのまわりはどうなってるの? 変わってない?」
「特に変わってない。相変わらず、中途半端」
「中途半端、ね。でもさ、誰からも愛想尽かされてないわけでしょ? だったら、多少中途半端なのかもしれないけど、本人たちにとっては、それほどでもないのかもしれないわよ」
「そうだといいけど、俺がそこまで訊くわけにもいかないし」
「そうね、少なくとも香織ちゃんと真琴ちゃんはそう見えた。広瀬先生には会ってないからなんとも言えないけど」
「先生も、相変わらずだよ」
「でしょうね」
 そこですんなり納得されるのも、なんだかなって気がする。
「だけど、私もまさかここまで今みたいな関係が続くとは思わなかったわ。基本的な生活は破綻しないとは思ってたけど、誰かがそこから抜けると思ってた。でも、実際はそんなことないし。それだけみんな、あんたのことが好きなのね」
「正直、申し訳ないと思ってる。俺なんかを好きにならなければ、もっと普通に、自由にいろいろできたはずなのに」
「それを今更言ったところで意味がないでしょ。それに、あんたもみんなも、それを受け入れたんだから」
「まあね」
 だからこそ、俺は自分の為すべきことを常に為そうとしている。
「それはさておき、洋一」
「ん?」
「これはまだ決まったわけじゃないんだけど、実はね、和人に日本の大学からもオファーがあったのよ」
「じゃあ、それを受ければこっちに帰ってこられるってこと?」
「そういうこと」
「和人さんは、なんて?」
「とりあえず、もう少し考えてみるって。あの人のやりたいことは、どっちにいてもできることだから。あとは、どれだけ望む環境を整えてくれるか、だけだから」
「姉貴は、どっちがいいと思う?」
「私は、どっちでも。どちらを選んでもそれを全力で支持するわ」
「ま、姉貴ならそうか」
「ただ、そうね。美沙や和輝のためには、もう少し日本にいた方がいいのかもしれないわね。勉強という点では向こうでも十分なんだけど、ほら、家族というものがいないじゃない。こっちにいれば、あんたたちもいるし、お父さんたちもいるし」
「難しい選択ではあるよな、実際」
「だから、私は和人の意見に従うつもりなの。別に、責任をなすりつけるつもりはないわよ。結局、今向こうにいるのも、今回こっちに戻ってくるかもしれないのも、全部あの人絡みのことだから」
「じゃあ、和人さんにはなるべく早めに、後悔しない選択をしてもらわないと」
「そうね」
 そうこうしているうちに、マンションに着いた。
 真っ暗な部屋の中は、だいぶ寒くなっていた。
 愛奈、愛理の部屋に入る。
「そういえば、三人目が生まれたら、部屋はどうするの?」
 電気を点け、エアコンを点ける。
「まあ、とりあえずは俺たちの部屋かな。そのあとのことは、また考える」
 愛理をベッドに寝かせる。
 愛奈と愛理のベッドは、二段ベッドだ。愛理は、その下のベッド。
「すぐに引っ越すのは無理でしょ?」
「さすがにね。それに、ここより広くて家賃も手頃なところは、なかなかないから」
「小父さんと小母さんはなんか言ってないの?」
「言ってるよ。というか、俺と愛が泣きついてくるのを待ってる感じ。泣きついてきたら、早速今の家を建て替えるつもりだってさ」
「あはは、らしいわね」
「だけど、それはなかなか難しいんだ」
「沙耶加ちゃんと紗弥ちゃんのことでしょ?」
「ああ」
 俺たちが本当なら実家に住んでいても問題ないのに、こうしてマンション暮らしをしているのは、沙耶加たちのことがあるからだ。
 確かに、夫婦という関係にあるのは、俺と愛だ。だけど、俺は沙耶加との関係もそんなに軽いものだとは考えていない。じゃなかったら、紗弥が生まれてくるはずはない。
 沙耶加たちにしても、本当は実家にいても問題はないのだ。実際、そう言われている。
 だけど、多少いびつな形ではあるけど、俺たちは家族だから。家族は、できる限り一緒にいた方がいい。
 今のこの部屋は、2LDKだ。部屋は、俺と愛がひとつ、愛奈と愛理がひとつ使っている。三人目が生まれたら、さすがに手狭になる。考えなければならないことではあるけど、すぐに結論が出せるわけでもない。
「いっそのこと、みんなで一緒に暮らせるだけの家に住んだら?」
「そんな金、どこにあるんだって」
「そこはほら、うちも小父さんたちも手招きして待ってるんだから、なんとでもなるでしょ」
「そうかもしれないけど、なんでもかんでも親に頼るのはさすがにね」
 すでに俺たちは、だいぶ親に頼っている。このマンションの保証人にもなってもらってるし。
「ま、そのあたりのことは、もう少しゆっくり考えてみればいいわ」
 ようやくエアコンが暖かい空気を吐き出しはじめた。
「りっちゃん、ひとりにして大丈夫?」
「大丈夫だよ。愛理は、これで愛奈よりしっかりしてるところがあるから」
「なっちゃんは、パパにべったりだからね」
 俺はそれには答えなかった。
「……ん〜、パパぁ……」
「りっちゃんも、パパにべったりだったか」
「もう否定しないよ」
 頭を撫でてやると、愛理の表情が和む。
「さてと、戻ろうか」
 エアコンを一番弱くし、直接愛理に当たらないようにする。
 電気を消して部屋を出る。
 家の電気が全部消えていると愛理が起き出した時に不安がるので、リビングの明かりだけは点けておいた。
「洋一は、これからが本当に大変よね」
「ん?」
「特に、紗弥ちゃんのこと。今のうちはいいけど、大きくなればいろいろわかってくることがあるじゃない。その時に、どう説明するのか。それが問題よ」
「俺は正直に話すよ。ウソはなにも生み出さないから。それに、紗弥は今でもある程度は自分の置かれてる状況を理解してるよ。どうして自分のパパは、いつも一緒にいないのかって」
「ふ〜ん……」
「だからというわけじゃないけど、俺はその分も紗弥には愛情を注いでるつもりだよ。そりゃ、愛奈や愛理と比べることはできないし、そんなことはしない。三人とも、俺のカワイイ娘だからね」
「あんたのそういうところは、全然変わらないわね。だからこそ、未だに複雑な生活を続けていけてるんだろうけど」
 褒められてるのかけなされてるのかはわからない。
「姉貴にはこれからもいろいろ心配かけるかもしれないけど、とりあえず長い目で見ていてくれな」
「言われなくても。あんたと美樹は、死ぬまで弟で妹なんだから。そして、私は死ぬまで姉としての役割を果たすわ」
「ありがとう」
 姉貴には、普段話さないようなことも話せてしまう。これが、姉弟であることの安心感と、信頼感なのかもしれない。
「ん、どうかした?」
「いや、別に」
「変なの」
 そう言って姉貴は笑った。
 
 そろそろお開きかな、という頃には、子供たちは全員夢の中だった。やはり、愛理を先に寝かしつけてきて正解だった。帰りは、愛奈と紗弥を連れていかなければならない。
 姉貴たちは今日はここに泊まっていくので、帰りの心配はしなくてもよかった。
 帰りを心配するといえば、真琴は沙耶加のところに泊まっていくらしい。山本家なら帰れない距離ではないのだが、そのあたりは真琴が決めたことだからなにも言わない。
「さてと、今日はこの辺でお開きかしら」
 主賓である姉貴がそう言った。
「お父さんも洋一も、明日も仕事あるんでしょ?」
 俺は冬休みに入ったことで多少余裕が出たけど、父さんはいつも通りだ。
「そういうわけだから、片付け開始」
 こういう時、仕切り屋の姉貴がいると本当に楽だ。
 俺たちは、手分けして後片付けをはじめる。
 その間に和人さんは美沙を部屋に寝かしつけてくる。
 うちもそうしたいのだが、さすがに片付けをさぼるわけにはいかない。
 美樹と真琴にふたりのことを見ていてもらい、片付けに参加する。
 女手が多いから、とにかくこういうことは早く終わる。まあ、俺や父さん、和人さんはあごで使われるだけなんだけど。
「それじゃあ、俺たちは帰るよ」
「洋一。明日は忘れないでちゃんと来なさいね」
「わかってるって。父さんと母さんの楽しみを奪うほど俺も屈折してないから」
「それならいいけど」
 明日はクリスマスだ。だから、父さんと母さんは孫たちにプレゼントやケーキを用意している。今日もその意味はあったのだが、今日はあくまでも姉貴たちの帰国祝いがメインだし。
「洋一。ちょいちょい」
「ん?」
「この冬休み中に、学校に行ってもいい?」
「は? なんで?」
「いや、ほら、不肖の姉としてはよ、一応挨拶しておかなくちゃいけないでしょ」
「……まあ、いいんじゃない。だけど、それは俺がいる時にしてくれ。今のあの学校は、かなりセキュリティが厳しくなってるから。関係者じゃないとすぐにつまみ出される」
「了解。そのあたりはまた連絡するわ」
 姉貴としては、日本にいる間になんでもやってしまおうというのだろう。その気持ちもわからんでもないけど。
「よっと」
 愛奈を抱きかかえる。
 少し前なら、このまま紗弥も抱きかかえられたのだが、今は厳しい。
 紗弥は、すでに沙耶加が抱きかかえている。だけど、少しつらそうだ。さすがに四歳にもなれば結構重くなってるからな。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 俺たちは家を出た。
 外に出ると──
「あ、雪」
 いつの間にか、ちらちらと雪が舞っていた。
「初雪ね」
「ああ」
「このまま積もれば、ホワイトクリスマスですね」
「さて、それはどうかな」
 白い息を吐きながら、歩いていく。
「真琴。今日はわざわざ悪かったね」
「別に気にしないでください。私も美香さんたちに会えて楽しかったですから」
 そう言って微笑む。
「それならいいけど」
「洋一さんは、相変わらずそういうところに気を遣いすぎですよ。もう少し楽に考えればいいのに」
「それができれば苦労はしないって」
 こればかりは今更どうしようもない。俺もあきらめてるし。
「そういえば、沙耶加」
「なんですか?」
「家には帰らなくていいのか?」
「大丈夫ですよ。クリスマスには行けないって言ってありますから。その代わり、今度の休みには行かなければなりませんけど」
「なるほど」
 休みを取れないと、そうなるのは仕方がないか。しかも、明日はうちの父さんと母さんに呼ばれてるし。
 ちなみに、俺たちは明日の高村の家に行く前に森川家の方に顔を出すことになっている。ひょっとしたら、お義父さんもお義母さんもうちへついていくかもしれない。
「あ、そうだ」
 と、愛が立ち止まり、ポンと手を打った。
「どうした?」
「あなたに訊きたいことがあるの」
「なんだ?」
「これは、某所から入手した情報なんだけど、最近、特定の教え子とずいぶんと仲がいいそうね」
 一瞬、なんのことを言われてるのかわからなかった。
「目撃談も結構あるみたいだから、それ自体は本当のことだと思うし」
「ちょ、ちょっと待て」
「うん?」
「なんでそれをおまえが……というより、なんか、変なことを考えてないか?」
「変なことって?」
 目が据わってる。
「いや、だから、別に俺は普通に話をしているだけだ。連中とだって、仲が悪いよりいい方が絶対にいいんだから」
「それは私もそう思うわよ。だけど、なんで特定の教え子なのかしら?」
「特定って……」
 ひょっとして、藤沢のことを言ってるのか?
「仲良くするのはいいと思うわよ。私たちの時だって、そういう先生はいたし。でも、誰か特定の子というのは、どうなのかしら?」
「いや、だから、愛。それはおまえが勝手にあることないこと考えてるからだろうが」
「私はそんなことしてないわよ」
「してるだろうが。じゃなかったら、そんな詰問口調になんかならない」
「もしそうだとしたら、それは余計な誤解を招くようなことをした、あなたの責任よ」
 なんとなく言い返せなかった。
「ま、まあ、ふたりともその辺にして」
 見かねた沙耶加が止めに入った。
「ったく、そんなことでいちいち問い詰められてたら、俺は女子生徒と話しもできんな」
「その言い方はないでしょ?」
「なんにもありはしないんだから、たとえ心の中で思ってたとしても、それを口にするな」
「それができれば苦労はしないわよ」
 やれやれ。
 というか、この情報を流したのは間違いなく由美子さんだ。明日、文句言わないと。
「もし、これ以上なにか新しい情報が入ったら、私もなにをするかわからないわよ」
「……恐ろしいことを言うな」
「だったら、心にやましいことを持たずに、誠実に行動すればいいのよ。簡単でしょ?」
 これは愛の俺への愛情の裏返しだということはよくわかる。だけど、これだけは未だに慣れない。
 というか、勘弁してほしい。
「愛奈がぐずるといけないから、先に行くわ」
 そう言って俺は、あとわずかな距離を早足で歩いた。
 後ろから愛たちも来るけど、特に急いでる様子はない。
「やれやれ、本当に困った奴だな」
 俺は、愛奈の髪を撫でながら呟いた。
「う、ん、パパ……」
「お、愛奈。起きたのか?」
「あ、れ……パパ……」
「そのままじっとしてろ。もうすぐ家に着くから」
「うん……」
 愛奈は、そのまま俺にしがみついた。
「そうだ。愛奈」
「どうしたの?」
「今日は、久しぶりにパパと一緒に寝るか?」
「ホントっ」
「ああ。その代わり、愛理と紗弥にはナイショな」
「うんっ」
 娘をバリア代わりにするのは忍びないけど、しょうがない。
 それにどうやったって、愛から逃げることなんてできないんだ。
「パパ」
「ん?」
「だいすき」
 ま、これはこれでいいのかな。
 クリスマスだし。
 
 六
「パパーっ」
 部屋で本を読んでいたら、珍しく愛奈が部屋に駆け込んできた。
「ん、どうした?」
「愛奈と、おでかけしよう」
「お出かけ? どこへ?」
「んとね……」
 大きな目を見開いて、一生懸命考えている。
 俺は、時計と財布を確認する。
「よし、とりあえず駅前まで行くか」
「うんっ」
 
 仕事は、昨日で終わった。愛奈たちの幼稚園も冬休みに入り、朝から晩まで元気な声が途絶えることはない。
 年末の慌ただしさはあるけど、俺にとっても久々の休みなので、できるだけのんびり過ごしたかった。
 そんな中、俺は愛奈と一緒に駅前にやって来た。
「さて、愛奈。これからどうしようか?」
「んとね、えとね……」
 愛奈とふたりだけで出かけることは滅多にないので、愛奈はとても楽しそうだ。
 駅前は、どことなく慌ただしい。もちろん、普段の休日とそう変わらないのだから、錯覚なのかもしれないけど、年末というだけでそう感じてしまう。
「ゆっくり考えていいぞ」
 一生懸命考えている愛奈の頭を撫でる。
 と、携帯が鳴った。
 ディスプレイを見ると──
「香織?」
 香織からだった。
「もしもし」
『あ、洋一? 今、電話平気?』
「ああ、平気だけど」
『なんか、まわりが騒がしいわね。どこにいるの?』
「こっちの駅前。愛奈と一緒」
『あ、じゃあ、ちょうどいいわ』
「ん?」
『今ね、ちょうどそこに着いたところなの』
「は?」
『もう改札も出るから』
「ちょ、ちょっと待て。そこって、ここのことか?」
『ええ、そうよ。で、悪いんだけど、改札前まで来てくれる?』
「はあ、しょうがない。少し待ってろ」
『ええ、よろしく』
 いったん携帯を切る。
「愛奈」
「ん?」
「香織がこっちに来てるんだってさ」
「え、ホント?」
「ああ。今から会うことになった」
「うん」
 愛奈は、特にイヤな顔も見せず、言うことを聞いてくれた。
 改札前に移動すると、すぐに香織は見つかった。
「香織」
 クリーム色のロングコートにライトブラウンのマフラー、同系色のロングスカートという出で立ち。
「洋一、なっちゃん」
「こんにちは、香織さん」
 愛奈は、ぺこっとお辞儀する。
「ん〜、ちゃんとご挨拶できて、偉いわね〜」
 香織は、目尻を下げ、愛奈の頭を撫でる。
「それで、いきなりどうしたんだ? なにも言わずに来るなんて、珍しいじゃないか」
「たまにはこういうのも悪くないと思って。それにほら、兄さんたちもこっちにいるし」
 姉貴たちは、この一週間、笠原と高村の家を行ったり来たりしている。で、今はこっちにいる。
「なっちゃん、パパとお出かけなんだ」
「うん」
 香織は、うちの娘たちに人気がある。気さくな性格のおかげだと思うけど。
「でも、りっちゃんやさやちゃんが一緒じゃないなんて、珍しいわね」
「たまにはこういうのも悪くないと思ってさ」
「ふふっ、そっか」
「で、香織はすぐにうちに行くのか?」
「そうねぇ、こうして洋一となっちゃんに会えたから、少し一緒にいようかしら。いいかな、なっちゃん?」
「うん、いいよ」
「ん〜、ホント、カワイイわ、なっちゃん」
 というわけで、俺たちはしばし駅前を歩くことにした。
「さすがの弁護士先生も、年末年始は休みなんだな」
「そりゃそうよ。弁護士だって人間なんだから、休みも必要なの」
「まあ、香織の場合、放っておくといつまでも仕事しそうだから、こういうのは必要かもしれないな」
「あら、失礼ね。別にあたしはそこまで仕事バカじゃないわよ」
「だといいけど」
 しばらく歩き、喫茶店に入った。
「よし、なっちゃん。今日はあたしがなんでもおごってあげるわ。好きなの選んでいいわよ」
「ホント?」
「ええ」
「えへへ」
 俺と香織は紅茶を、愛奈はパフェを頼んだ。
「なっちゃんは、春には小学校だっけ?」
「ああ」
「どこか附属の小学校とかに入れるの?」
「いや、普通に近くの小学校だよ。小学校は、その方がいいと思う」
「確かにね。近くということは、友達も近くに住んでるってことだから」
「それもあるけど、うちは余裕もないから」
「来年の今頃は、りっちゃんとさやちゃんのことも考えないといけないしね」
「本当に頭が痛いよ」
 子供はいろいろお金がかかると言われてはいたけど、本当にお金がかかるのはこれからだ。
 特にうちは、愛奈と愛理、紗弥が年子だから、あっという間になくなってしまう。一応、少しずつ貯金はしてきてるけど、そんなのあっという間になくなるだろう。
「そういや、香織は姉貴から話は聞いてるか?」
「ん、なんの話?」
「和人さんが日本の大学からもオファーを受けてるって話」
「ああ、その話。ええ、聞いてるわよ。ただ、すぐに決められることじゃないから、じっくり考えて答えを出すって言ってたけど」
「確かに、じっくり考えないと後悔しそうだからな」
「ただね、あたしとしては、日本に帰ってきた方がいいんじゃないかなって思ってるの」
「それは?」
「兄さんはまだ二十代じゃない。だったら、これからまだまだ向こうに行ける機会はあるだろうし。それこそ、日本で成功を収めればさらに選択肢は広がるでしょ。だけど、美香姉さんや美沙、和輝にとっては今はやっぱり今しかないから。それを考えると、日本にいた方がいいこともあるんじゃないかなって」
「なるほど」
 それもひとつの考え方だろう。
「それに、洋一じゃないけど、お金がかかるじゃない、これから。そのことも考えると、日本にいた方がすぐに助けられるし」
「それ、和人さんには?」
「言ってないわよ。というか、そんなことあたしが言わなくても兄さんも美香姉さんもわかってるだろうから」
「それもそっか」
 確かに、あの姉貴と和人さんなら、俺たちが考えてるようなことなんてとっくに考えてるな。
「そのあたりのことは、まわりがあれこれ言ってもダメよ。結局は本人たちの問題なんだから」
「それもわかる」
 とりあえずは、どうなるか見守っているしかないんだろうな。
 ウェイトレスが注文した品を運んできた。
「ほら、愛奈」
 この喫茶店の椅子は大人用なので、五歳の愛奈にはあわない。
 なので、俺が膝の上に載せ、それでようやくパフェに届いた。
「こぼさないように食べるんだぞ。こぼすと、ママに怒られるし、愛理や紗弥にいろいろ言われるから」
「うん」
 愛奈は、嬉々とした表情でパフェを食べはじめた。
「こういう姿を見てるとさ──」
「ん?」
「子供がほしくなるのよね。ね、洋一」
「ああ、とりあえず、そういう話はあとでな」
「あたしとしては、全然構わないんだけどね」
「こっちが構うって」
 愛奈に聞かれたところで話の内容など理解できないだろうけど、そこはそれだ。
 やっぱりそういう話はできるだけ聞かせたくない。
「そういや、香織」
「ん?」
「最近はどうなんだ? いろいろ言われたりしないのか?」
「相変わらずよ。兄さんたちが向こうにいるから、とりあえずあたしだけでも側に置いておきたいみたいで。結婚の『け』の字も出てこないわ」
「それは、香織にとっては願ってもない状況なんじゃないか?」
「ある意味ではね。だけど、これも一時的なものだし。あたしも、そうね……あと三年もすればいろいろ言われるようになるわ」
「三年て、二十八か」
「年のことはいいの」
 香織は、形のいい眉をついと上げた。
「ただね、これはあくまでもあたしの推測なんだけど、うちの両親、洋一とのこと、薄々気付いてるかもしれない」
「本当に?」
「あくまでも、そんな感じがするってだけ。なにか言われたわけでもないし。まあ、あたしも悪いんだけどね。実家に帰っても、話の話題は洋一のことが多いし。そうすれば、よほどのバカでもない限り、あたしと洋一の間になにかあるのかもしれない、って思うでしょ?」
「なるほど」
「もし両親が気付いていて言わないなら、それはきっと相手が洋一だからよ」
「なんで?」
「あたしはもちろんのこと、兄さんも美香姉さんも洋一のことはあれこれ言ってたからね。それに、直接会ったあとも、向こうから話題として振ってくることもあったし」
「ふ〜ん……」
 それはそれで、微妙だ。
「パパ」
「ん、どうした?」
「パパは、香織さんのこと、すき?」
「え、あ、うん、好きだよ。愛奈も、好きだろ?」
「うん、だいすき」
「ありがと、なっちゃん」
 香織みたいな性格なら、よほどの人でもない限り、嫌うことはない。
 まあ、俺と愛奈の『好き』というのは少しニュアンスが違うけど。
「あ、ほら、愛奈。口につけてる」
 紙ナプキンで口元を拭いてやる。
「愛奈。お腹いっぱいになってないか?」
「だいじょうぶだよ」
「でも、お腹いっぱいになると、ママの料理を食べられなくなるから、気をつけないとな」
「うん」
「よし、いい子だ」
 親バカだと言われるかもしれないけど、やっぱり自分の子供はカワイイ。
「なっちゃんは、将来なにになりたいの?」
「んとね、パパのおよめさん」
「そっか、パパのおよめさんか。でも、パパにはママがいるでしょ? なっちゃんは?」
「んと……えと……」
「香織。そんなことを今言わなくてもいいだろ」
「でも、そういうことって早めに教えておいた方が、後々楽だと思うわよ」
「それはそうかもしれないけど」
「それこそ、中学生になっても今と同じ夢を語ってるようだと、さすがに困るでしょ?」
 それはさすがに困るな。
「ああ、でも、洋一もなっちゃんが可愛くて手放したくないか」
「む……」
 そういうのはあるかもしれない。今はまだわからないけど。
「そういうのも、少しずつ考えていかないとね」
 そう言って香織は微笑んだ。
 それから愛奈がパフェを食べ終わるのを待って、喫茶店を出た。
「ねえ、洋一。なっちゃん、抱いてみてもいい?」
「いいけど、結構重くなってるぞ」
「大丈夫よ」
 俺にカバンを持たせ、香織は愛奈を抱きかかえた。
「ん、本当。なっちゃん、ずいぶん重くなってる」
「それだけ成長してるってことだ」
「そうね」
 だけど、さすがにそのまま歩いていくのはつらいらしく、すぐに愛奈を下ろした。
 年末の商店街はやはり混雑している。俺は、愛奈が迷子にならないように、しっかりと手を繋ぐ。
「もう今年も終わりなのよね」
「なんかやり残したことでもあるのか?」
「あるわよ」
「へえ、それって?」
「いろいろあるけど、一番はやっぱり、洋一との子供が授からなかったこと」
「…………」
「こら、そこで黙らない」
「いや、訊いた俺がバカだった。この話はやめよう」
「いいじゃない、別に」
 子供がほしいと言っているのは、香織だけではない。由美子さんも真琴もほしいと言っている。だけど、俺としてはおいそれとはそれはできないと思っている。
 そりゃ、できてしまったらちゃんと俺の子供だと認知するけど、それはつまり、俺の子供が増えるということになる。今現在、三人でも結構大変なのに、これ以上になったらさすがにどうなるかわからない。
 そういう無責任なことはしたくないから、三人とはそうしないようにしている。
「だけどさ、実際もし子供ができて、生まれて、それでも仕事は続けられるのか?」
「そのあたりはいくらでもやりようがあるわよ。今はね、育児休暇というものを大手振って取ることができるのよ」
「まあ、そうかもしれないな」
 俺は、育児休暇を取ったことがないから、よくわからない。だけど、来年の夏頃には愛との三人目が生まれるわけだから、ひょっとしたらそういうこともあるかもしれない。
「ね、洋一。もう少しさ、真剣に考えてみてよ」
 香織は、少しだけ真剣な表情でそう言った。
「ん、まあ、考えはするけど」
「お願いね」
 しおらしい顔でそう言われては、やはり真剣に考えねばならないだろう。
「パ〜パ」
 と、愛奈が俺の手を引っ張った。
「どうした?」
「あれ」
 小さな手をいっぱいに伸ばし、なにかを指さす。
 その先を見ると──
「珍しい。羽子板売ってるわね」
 このあたりでは珍しく、羽子板の屋台が出ていた。
 浅草の羽子板市は有名だが、あそこまで華やかでもきらびやかでもないけど、それなりに目を惹くものがあった。
「ちょっと見ていくか」
「そうね」
 屋台には、所狭しと羽子板が置かれ、飾られていた。
 大きさも飾りも様々で、値段は書いてないが、ピンキリだろう。
 こういう羽子板を見るのはほとんどはじめての愛奈は、目を輝かせて見ている。
「愛奈。どれか気に入ったのはあったか?」
「んとね……あれ」
 それは、一番オーソドックスな羽子板だった。着物姿にかんざしを挿した少女が澄ましているものだ。
 着物を作っている和紙や飾りがとても綺麗なので、愛奈の目に留まったのだろう。
「洋一。縁起物だし、買ってあげたら?」
「そうだな」
 財布の中身を思い出す。まあ、なんとかなるか。
 それから屋台のオヤジさんに値段を聞き、案外高くなかったのでそれを買うことにした。
 お金を払い、紙の袋をかぶせてもらい、それを受け取った。
「ほら、愛奈」
「わあ」
 そんなに大きいわけではないが、愛奈が持つと大きく見える。
「その袋は、家に帰るまで取っちゃダメだからな」
「うん」
 愛奈は、嬉しそうにそれを持ち、大きく頷いた。
 それから俺たちは商店街を離れた。
 羽子板を持った愛奈は、ずっとご機嫌で、気をつけていないとどこか行ってしまいそうな感じだった。
「そういや、とりあえずどうするんだ?」
「まずは、兄さんたちに会ってくるわ。それからそっちに行くから」
「わかった」
「なんだったら、夜はふたりきりでも構わないわよ」
「それは無理だな」
「なんでよぉ?」
「いや、おまえが来たというだけで愛は警戒するからな。それこそ、夜なんてずっと監視してるんじゃないか」
「……彼女なら、ありそうね」
「まあ、ふたりきりになるのは、またの機会ということで」
「その代わり、精根尽きるまでつきあってもらうから」
「……俺を殺す気か」
「人聞きの悪いことを言わないの」
 そう言って香織は笑った。
 そうこうしているうちに、高村の家が見えてきた。
「じゃあ、洋一。またあとでね」
「できれば来る前に連絡してくれ」
「わかったわ」
 頷きながら、愛奈の前にしゃがむ。
「なっちゃんも、またあとでね」
「うん」
 軽く愛奈の頭を撫で、香織は家に入っていった。
「よし、愛奈。帰ろう」
「うん」
 
 夕食後、香織がやって来た。
 食事は姉貴たちと一緒だったということで、こっちでは用意していない。
 香織が来ていることはすでに話してあったので、愛も沙耶加もいつも通りに接していた。
 だけど、喜んでいたのはやはり三人娘だった。
 たまに来て可愛がってくれるので、嬉しいのだろう。
 しばらくは香織でずいぶんと遊んでいたが、さすがに夜なので疲れが出たようだ。立て続けに三人とも寝てしまった。
 三人をベッドに寝かしつけ、そのあとの時間は、大人だけの時間となった。
「弁護士の仕事でも、年末や年始は忙しいんですか?」
「多少はね。大幅に忙しくなることはそうそうないけど、やっぱり駆け込み的なことはあるから」
 香織と愛、沙耶加の関係は、まさに親友のそれだった。
 年上の香織は年齢という点だけではなく、精神的にもずっと大人びているから、愛も沙耶加もある意味つきあいやすいようだ。
 愛にとっては、姉貴に似ているというところもそのひとつの要因かもしれない。
「あ、そうだ。前から一度、やってみたいことがあったのよね」
「やってみたいこと?」
「今現在、洋一に関係してる女性だけでお酒を飲みながらいろいろ話したりするの」
「それ、楽しそうですね」
「でしょ? みんな仕事を持ってるからなかなか都合もつかないとは思うけど、一度くらいはやってみたいのよ。それに、そういう場じゃないと話せないようなこととかあると思うし」
 それは暗に、俺がいては話せない、ということか。
「とりあえず、来年の目標は、それかしらね」
「その時は、私も協力しますから」
「ええ、お願いね」
 果たして、その時にどんな会話が交わされるのやら。
 終わったあとは、怖くてとても聞けないな。
「香織」
「ん?」
「おまえ、今日はどうするんだ? 帰るなら、そろそろだろ?」
「ん、そういえばそうね」
 香織は、大学卒業後、学生時代に住んでいた場所よりもさらにここから遠い場所に引っ越した。それも仕事に絡んでのことだから仕方がない。
 そのせいか、あまり遅くなると帰れなくなる。
「泊まっていってくださいよ」
「いいの?」
「ええ」
「ん〜、それじゃあ、お言葉に甘えて」
 で、結局香織はうちに泊まることになった。
 とはいえ、普通に泊まろうと思ってもうちには余裕はない。
 どうするのかといえば、方法はいくつかある。
 ひとつは、沙耶加の部屋に泊まってもらう方法。向こうは部屋に余裕があるので、その方法を一番よく使っている。
 もうひとつは、これは相手にもよるのだが、俺が沙耶加の部屋で寝る方法。俺がいなくなれば、ベッドに余裕ができる。とはいえ、俺が使っているベッドはダブルベッドなので、必然的に愛と一緒に寝てもいい人限定となる。
 ほかにもリビングのソファを使うとか、方法はある。
 で、香織は前者の方法で泊まることになった。
 適当な時間まで酒を飲みながら、話をした。
 日付が変わる頃にお開きとなり、沙耶加と香織は隣の部屋に戻っていった。
「洋ちゃん」
 ベッドに入って少しした頃、愛が声をかけてきた。
「ん、どうした?」
「洋ちゃんはさ、私や沙耶加さん以外との子供がほしいと思ってるの?」
「それは難しい質問だな」
「そうかな?」
「すでに愛奈たちがいることを考えれば、そう思っちゃいけないんだろうけど、心のどこかではそれもいいかもしれないと思ってる」
「ん」
「それにこういう言い方はあまりしたくないけど、子供ってやっぱり大変だろ。もちろん、それを補って余りあるほどの喜びをくれるけどな」
「うん、そうだね」
「あとは、おまえにあまり負担をかけたくないんだ」
「私に?」
「今は紗弥しかいないからいいかもしれないけど、これがさらに増えてみろ。うちだって来年の夏には増えるのに、どれだけ大変なことになるか」
「ん〜、そうかもしれないね」
「そうすると、どうしてもそう簡単には決められないんだ」
「でも、言われてるでしょ?」
「ああ、言われてる。今日だって、香織に言われたし」
「そうだよね」
 愛は、少しだけ神妙な表情で頷いた。
「まあ、そのことはもう少し時間をかけて考えていくよ。それに、最終的には俺ひとりで決めることじゃないし」
「うん」
 愛を胸に抱き、髪を撫でる。
「なあ、愛」
「ん?」
「おまえは、三人目が生まれても、ここにいるべきだと思うか?」
「とりあえずは問題ないと思うけど。でも、大きくなったらやっぱり手狭だよね」
「この春には愛奈が小学校に上がるし、次の春には愛理も。それから先なんて、本当にあっという間だろうからな」
「洋ちゃんは、どう考えてるの?」
「俺も、とりあえずは今のままでいいと思う。というか、引っ越す余裕もないし」
「そうだね」
「あとは、二世帯住宅とか」
「お父さんとお母さんか。それもひとつの方法だとは思うけどね。でも、そうすると、沙耶加さんは?」
「そこが実は一番問題なんだよな。沙耶加と紗弥は、俺たちの家族だから。その家族が別れ別れになるのだけは避けなければならないし」
「うん」
「ただな、そういうことを言い出すとキリがないというのも事実なんだよ。たとえば、家族が増えたらどうなるか。とりあえず、来年の夏には俺たちは七人家族になる。だけど、それは将来に渡っても同じとは限らない。だろ?」
「その都度変わる、というわけにもいかないしね」
「だから、この問題も相当しっかり考えないと大変なことになる」
「もし必要なら、お父さんたちにお金を借りるというのもありだと思うけどね」
「俺もそれは考えてる。できるだけそういうことはしたくないけど、意地だけでは生活できないしな」
 妥協点というのは必要だ。特に、俺たちのようにまだまだなにもない若輩者にとっては。
「そうすると、洋ちゃん」
「なんだ?」
「厳密にってわけじゃないけど、私や沙耶加さんと、あと何人子供がほしいかちゃんと考えないと」
「ん、そうだな」
「少なくとも沙耶加さんは、もうひとりはほしいみたいだけど」
 あと何人、か。
 それも難しい問題だ。
「はあ……」
「ため息なんかつかないの。幸せが逃げていっちゃうよ」
「逃げていった分は、また別の幸せで補えばいいんだよ」
「そういうものかな?」
「さあ、どうだろう」
「んもう、いい加減なんだから」
 そう言って愛は微笑む。
「じゃあ、洋ちゃん」
「ん?」
「今日も、そろそろしよっか?」
「たまには俺を休ませようとは思わないか?」
「全然」
「…………」
「ほら、洋ちゃん」
「ったく……」
 いろいろ考えるべきことはあるけど、とりあえず、なんとかなると考えていこう。
 きっと、大丈夫。
 ひとりじゃないから。
 
 七
 十二月三十一日。
 今年も今日で終わりだ。
「パパ〜」
 大晦日だからというわけでもないけど、大掃除なんかをやっている。
 それほど広い家ではないので、普段からきちんとやっていれば大変ではない。
 そんな中、愛理がはたきを持って駆けてきた。
「愛理も、おそうじするぅ」
 そう言いながら、適当にはたきを動かす。
 全然掃除になっていない上、かえって邪魔になってる。
 そうなると当然──
「愛理。パパの邪魔をしないの」
 愛が、少し目をつり上げて叱った。
「じゃましてないもん。愛理も、おそうじしてるんだもん」
 だけど、愛理も負けていない。はたきで愛を牽制しながら、そう主張する。
「愛理。いい加減にしないと、ママ、怒るわよ」
「だってだってだって……」
 それでも愛に強く出られると途端に小さくなってしまう。
「まあまあ、愛。そのくらいにしてやれ」
「でも……」
「愛理だって、ちゃんと掃除の仕方を教えれば、十分な戦力になるさ」
「しょうがないわね……」
 愛は、やれやれとため息をついた。
「愛理。それを持ってこっちにいらっしゃい。愛理にもできることをさせてあげるから」
「うん」
 愛と愛理が向こうへ行くと、入れ替わりに愛奈がやって来た。
「パパ。おそうじするから」
 愛奈の分担は、家具の水拭きと乾拭きだ。
 今は、濡れた雑巾を持っている。
「隅々まで綺麗にしてくれな」
「うん」
 愛奈は、嬉々とした表情で掃除を開始した。
 俺はそれを少し見守り、それから部屋を出た。
 そのまま隣の部屋へ。
「沙耶加。こっちはどうだ?」
「大丈夫ですよ。真琴も手伝ってくれてますから」
 本当は実家の方を手伝わなければならないのだろうが、真琴は沙耶加の方を手伝いに来ていた。
「洋一さんの方は、どうですか?」
「まずまずだな。今は、愛が愛理に掃除の仕方を教えてる。なにをさせるのかはわからないけど」
「うちも、紗弥にもう少し手伝ってもらえると、ずいぶんと楽になるんですけど」
「その紗弥は?」
「今は、真琴と一緒にいます」
 真琴と紗弥は、風呂場にいた。
「あ、パパだ」
 俺が姿を見せると、紗弥がパッと顔を上げ、俺に突っ込んできた。
「こら、紗弥。危ないだろ」
「そうよ、さやちゃん。そういうことしちゃダメなんだから」
「はぁい」
 一応返事はするものの、俺から離れる様子はない。
 ふたりは、ちょうど浴槽の掃除をしていた。
 腕まくりをして、スポンジで浴槽を擦っている。
「紗弥。ちゃんと真琴の手伝いできてるか?」
「うん、できてるよ」
 紗弥は、嬉しそうに頷く。
 一方真琴は、少しだけ困った笑顔を見せる。どうせ、邪魔ばかりしてはかどっていなかったのだろう。
「よし、紗弥。パパと一緒に掃除しよう」
「うんっ」
 真琴の掃除がはかどるように、紗弥を引き離す。
「沙耶加。ちょっと紗弥を借りてくから」
「わかりました」
 俺は、紗弥を連れて部屋を出た。
 そのまま隣に戻る。
「愛理〜」
 玄関で愛理を呼ぶ。
 すぐにパタパタと足音が近づいてくる。
「なぁに、パパ?」
「今は、なんの掃除をしてたんだ?」
「えとね、モップがけ」
「モップ? ああ、フローリングのあれか」
 少しして、愛も出てきた。
「愛。愛理は役に立ってるか?」
「そこそこ」
「じゃあ、愛理と紗弥に廊下の掃除をさせてみようと思ってるんだけど」
「なるほど。それもあったわね」
「愛理。紗弥。そこにあるほうきとちりとりを持って」
 玄関先に置いてあったほうきとちりとりを手に取る。
 一応、玄関前の廊下は共有区域なのだが、ここを一番使うのはやっぱりそこに住んでる俺たちだ。となれば、掃除をするのも当然だ。
「まずは、愛理。ほうきを持って」
「うん」
「紗弥は、少し待って」
「うん」
 愛理の身長に比べると少し大きいほうきを、悪戦苦闘しながら動かす。
 元からそれほど汚くはない廊下なので、少し掃くと綺麗になる。
「紗弥。ちりとりを構えて」
 紗弥は、ちりとりを斜めに立て、愛理のほうきを待つ。
「愛理。その集まったゴミを、ちりとりに入れるんだ」
「うん」
 多少コツが必要なので、すぐにはできない。
「パパぁ」
「ちょっと貸してごらん」
 一度だけ手本を見せてやる。
「こうやって……丁寧に、ゆっくりと動かすんだ。そうすると……ほら」
「わあ……」
 半分ほどのゴミが集まった。
「紗弥。それをもう少し倒して」
「うん」
 せっかく集めたゴミをばらまかれては困るので、念のために注意する。
「愛理。ママからゴミ袋をもらってきてくれ」
「うん」
 愛理は、駆け込んだ。
「パパ」
「ん?」
「きょうは、紗弥といっしょにいてくれるんだよね?」
「ああ。今日はずっと一緒だ」
「よかったぁ」
 今日は大晦日ということで、大掃除のあとは家族揃って年越しの準備をすることになっていた。
 娘たちは夜中まで起きているのは無理なので、その前にやることはやっておこうというのだ。
 愛理がゴミ袋を持ってきたので、それにゴミを入れる。
 同じことをもう二回ほど繰り返し、廊下は綺麗になった。
「よし、これでここは終わりだ。ほうきとちりとりを片づけて」
 道具を片づけるところまでちゃんとやらせる。
「じゃあ、次はどうするかな」
 もうだいぶ掃除も進んでいるから、ふたりにできそうなことはほとんどない。
 というか、ふたりにやらせるには誰かが教えないといけないので、かえって効率が悪くなる。
 あれもこれもというとさすがに覚えられないので、少しずつやらせればいい。
「あなた」
 と、愛が出てきた。
「どうした?」
「ここの掃除は終わったのよね?」
「ああ」
「それじゃあ、ちょっとお母さんのところに行ってきてくれないかな」
「なにしに?」
「洗剤が切れちゃったのよ。普段は使わないやつだから、買うのももったいなくて。で、さっき連絡したら向こうに予備があるっていうから。それ、もらってきて」
「わかった」
 俺は、愛理と紗弥を連れて、森川の家に向かった。
 こっちもマンションから近いので、わざわざ行くという感じでもない。
 すぐに到着する。
 すると、家の前でお義父さんが網戸を洗っていた。
「おじいちゃん」
「お、愛理に紗弥じゃないか」
 お義父さんは、声をかけてきたのがふたりだとわかると、眉を下げた。
「こんにちは」
「やあ、洋一くん」
「お義母さんは中ですか?」
「ああ。今は、台所の掃除をしてるはずだよ」
「わかりました。愛理、紗弥。ちょっとここで待っててくれないか」
「うん」
「はぁい」
 愛理と紗弥をお義父さんに任せ、俺は中に入った。
「こんにちは」
 ここは俺の家でもあるから、声をかけながら上がる。
「あら、洋一くん」
 すると、すぐにお義母さんが顔を出した。
「愛に、洗剤をもらってきてくれと言われまして」
「まあ、あの子ったら、そんなことに洋一くんを使うなんて」
「いえ、別にいいんですよ。愛は愛で、うちのことをやってますから」
「そう? あ、じゃあ、少し待ってて」
 お義母さんは、そのまま奥へと消えた。
 そのままそこにいるのもなんなので、とりあえずリビングで待つことにした。
 月に何度も足を運ぶ、もうひとつの我が家。
 二階にある愛の部屋は、実は学生時代そのままになっている。もちろん、ある程度の荷物は今の部屋にあるのだが。
 部屋にある学習机は、今度の春から愛奈の机となる。本当は新しいのを買ってやりたいところなのだが、そういうところで少しでも節約しないと、あとで大変なことになる。
 ちなみに、愛理と紗弥の机もすでに決まっている。愛理のが美樹ので、紗弥のが沙耶加のである。
 本当は俺のでもよかったのだが、状態のいい美樹のになった。
「お待たせ」
 お義母さんは、洗剤をビニール袋に入れて持ってきてくれた。
「じゃあ、いただいていきます」
「ええ。それと、愛に言っておいて。いくら普段使わないものでも、いざという時のために使えないのなら意味がないって。そういうのも先を見越して用意しておけるのが、主婦の役目だってね」
「わかりました。伝えておきます」
 これを伝えたら伝えたで、また愛になにか言われるのだろうけど、仕方がない。
「ところで、ここへはひとりで?」
「いえ、愛理と紗弥と一緒に。ふたりは、表でお義父さんと一緒にいますよ」
「じゃあ、私もふたりに声くらいかけておこうかしら」
 俺たちは、そのまま家を出た。
 表では、愛理と紗弥がホースで網戸を水洗いしていた。
「愛理、紗弥」
「あ、おばあちゃん」
 ホースをその場に置き、ふたりはお義母さんのもとへ。
「ふたりとも、おじいちゃんのお手伝いをしてたの?」
「うん」
「そう、偉いわね」
 お義父さんはもちろんなのだが、お義母さんも三人の孫たちをとても可愛がっている。それこそ、言われたら本当に目の中に入れてしまいそうなくらいだ。
 あまり長期間ここへ来ないということはないけど、それでも少し会えない期間が続くと、向こうからやって来ることもある。
「それじゃあ、今日のお夕飯はふたりの大好きなものでも作ってあげるわね」
「ホント?」
「ええ。だから、それまでパパやママのお手伝いをちゃんとすること」
「うんっ」
 お義母さんに頭を撫でられ、ふたりは嬉しそうだ。
「洋一くん。大掃除が早く終わったら、早めにうちへ来るといい」
「そうですね。できるだけそうします」
 俺の立場は、あくまでもこの森川家の婿養子なので、基本的にはこっちの家を優先している。だから、大晦日や正月もこっちが先で、高村家の方は後回しとなる。
 まあ、近所にあるからそこまで厳密なものではないけど。
「愛理、紗弥。いったん帰るぞ」
「はぁい」
「それじゃあ、お義父さん、お義母さん。また夕方に」
「ええ」
「バイバイ、おじいちゃん、おばあちゃん」
 ふたりの手を引いて、マンションに戻る。
 部屋に戻ると、掃除の方はひと段落ついていた。
「ほら、愛。もらってきたぞ」
「ありがとう」
「パパ」
「ん、どうした?」
「愛奈ね、がんばっておそうじしたの」
「そうか。じゃあ、ちょっと見てみるか」
 早速、愛奈と一緒に部屋を見てまわる。
 見た目ではわからないのだが、確かに普段あまり拭き掃除をしていないところにホコリはなかった。
「綺麗になったな」
「えへへ」
 愛奈は、幼稚園に入園してからずいぶんといろいろなことを覚えた。
 要領がいいので、それも比較的早く覚え、今では愛理や紗弥に比べてだいぶ手もかからなくなってきている。
 そつなくこなせるところは愛に似たのだろう。それに、自分が愛理と紗弥の姉であるという自覚もあるのかもしれない。
「さすがはお姉ちゃんだ」
「うん。愛奈、おねえちゃんだもん」
「ははは」
 ちょっと胸を張る愛奈。
 その仕草が可愛くて、俺は思わず抱きかかえてしまった。
「もう少ししたら、おじいちゃんとおばあちゃんのところに行くから。そしたら、おじいちゃんのところでもお手伝いできるか?」
「うん」
「よし、いい子だ」
 愛奈をそのままに、リビングに戻る。
「ああーっ、おねえちゃん、ずるい〜」
 すると、すぐに愛理と紗弥が不満の声を上げた。
「ずるくないもん。愛奈は、パパにほめてもらったんだから」
 離れまいと、俺にしがみつく愛奈。
「むぅ、パパぁ、愛理も愛理も」
「紗弥もだよぉ」
 愛理と紗弥が、足に絡んでくる。
「こら、ふたりとも。パパを困らせないの」
 愛に叱られ、ふたりは渋々離れた。
「愛。掃除の方はもう終わりか?」
「ええ、必要なところは全部終わってるわ」
「そうか。じゃあ、沙耶加のところも終わったら、少し早めに向こうに行こう」
「お母さんになにか言われたの?」
「まあ、多少は」
 俺は、お義母さんに言われたことをそのまま愛に伝えた。
「そりゃ、私もそうだとは思うけど、さすがに年に一回か二回しか使わないものの予備を用意しておくのもねぇ」
 怒りはしなかったけど、多少不満そうだ。
「まあ、いいわ。いつものことだし」
「それで片づけるのもなんだかな」
「いいのよ。それより、沙耶加さんの様子を見てこなくていいの?」
「お、そうだった」
 愛奈を下ろし──
「紗弥。ちょっとママの様子を見てこようか」
「うん」
 紗弥と一緒に隣の部屋へ。
 こっちも、すでに掃除はひと段落していた。
 沙耶加と真琴は、リビングでお茶を飲んでいた。
「ママ、ただいま」
「おかえりなさい」
「洋一さんも、ごくろうさまです」
 真琴が、少しだけ芝居がかった口調で言う。
「掃除はもういいのか?」
「ええ。真琴のおかげで、だいぶ早く終わりました」
「うちの掃除をやらされるよりも、こっちをやった方が楽ですから」
 そう言って笑う。
「だけど、そろそろ帰らなくていいの?」
「ああ、うん。帰らないといけないけど」
 真琴は、俺の顔を見る。
「こら、真琴」
 姉である沙耶加は、真琴がなにを言いたいのかすぐに察したようである。
「洋一さん。明日は、できるだけ早めに来るようにしますから」
「別にゆっくりでもいいぞ」
「そんなこと言わないでくださいよぉ」
「冗談だって」
「タチの悪い冗談です」
 ぷうと頬を膨らませて怒る様は、以前と変わらない。
「それじゃあ、私は帰ります」
「お父さんとお母さんによろしく言っておいてね」
「ご機嫌取りは、結構大変なんだからね」
 そう言いながら、真琴は帰っていった。
「さてと、俺たちも用意して行くとするか」
「そうですね。紗弥、着替えましょう」
「はぁい」
 沙耶加と紗弥は、部屋へ消えた。
 その間に俺は隣の部屋へ戻る。
「愛。沙耶加たちももう終わって、今は出る準備をしてるから」
「じゃあ、うちも準備しないと。愛奈、愛理。いらっしゃい」
 さてと、俺も着替えて行く準備をしますかね。
 
 大晦日の夜は、とても長く感じる。
 普段は早めに寝る愛奈たちも、この日ばかりは多少遅くまで起きている。
 それでも、日付が変わるまでは起きてはいられない。
 子供たちが寝てしまうと、大人たちだけで多少アルコールが入ったりする。
 お義父さんもお義母さんも賑やかなことが好きなので、こういう時は本当に楽しそうだ。
 ふたりは、沙耶加のこともその事情をよく理解した上で、もうひとりの娘のように接してくれる。これは、俺にとってとても助かっている。
 まあ、それはこの森川家だけではなく、山本家でもそうなのだが。
「もう今年も終わりなのね」
「お母さんにやり残したことなんてなにもないでしょ?」
「あら、それはどういう意味かしら」
「だって、最近のお母さんは自分の好きなことばかりしているもの。これでまだ不満があるなんて言ったら、ほかの人に刺されても文句は言えないわ」
「微妙に反論できないのが悔しいわね」
 こういうやり取りも、もう慣れた。
「来年は、どんな年になるのかしら」
「そんなの、いい年に決まってるわ」
「だといいけど」
 このふたりが話している時は、俺も沙耶加もお義父さんも絶対に口を挟まない。
「ああ、そうそう。お父さんたちにあらかじめ言っておかなくちゃ」
「ん?」
「あの子たちに、必要以上にお年玉あげなくていいからね」
「それは、あなたじゃなくて私たちが決めることでしょ?」
「それはそうなんだけど、だからって気前よくポンポンと結構な額をあげるのもどうかと思うわよ。ほら、あの子たちは三つの家でもらえるわけだし」
 これは愛の言う通りで、今年の正月にも結構な額をもらっていた。
 まだ自分たちで使えるわけじゃないから、俺たちが管理している。だけど、さすがに額が多いとそれも気が引けてしまうのだ。
「そういうわけだから、もう少しだけ考えてみてよ」
「考えても変わらないと思うけど」
 それからしばらくして、国民的歌番組も終わった。
 もう間もなくすると、年が変わる。
 このところは毎年、年明けまでここにいて、一度マンションに戻る。本当は初詣に行ってもいいのだが、さすがに娘たちだけを置いて行くわけにはいかない。
 テレビの各チャンネルでカウントダウンがはじまった。
 午前零時。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます」
 こうしてまた新しい年がやって来た。
 
 八
 一月二日に、再び家族が揃った。
 姉貴たちは四日までしか日本にいないので、おそらくこれが最後になると思われた。
 ちなみに、三日は笠原の家に行くので、揃うのは無理なのである。
 そういうこともあってか、今日は香織もこっちに来ていた。
 大人九人、子供五人。さすがにこれだけの人数がいると、普通の一軒家では狭い。
「美沙」
 大人たちは挨拶だけで済むのだが、子供はそういうわけにはいかない。
 俺は、早速美沙を呼んだ。
「ん、なぁに、ようちゃん?」
 美沙は、好奇心いっぱいの瞳で俺を見つめた。
「ほら、お年玉」
「ありがとう、ようちゃん」
 たいした額は入ってないけど、美沙は嬉しそうだ。
 和輝の分は、とりあえず姉貴に渡しておこう。
「パパぁ、おとしだまもらった」
 うちの娘たちも、和人さんからお年玉をもらった。
「ちゃんとお礼は言ったか?」
「うん、いったよ」
 愛奈はそうでもないけど、愛理と紗弥は、まだお金の価値というものをちゃんとは理解していない。お年玉としてお金をもらえたことよりも、お年玉それ自体をもらえたことが嬉しいようだ。
 ただ、そのお年玉はすぐに愛と沙耶加の手に渡る。もちろん使うためではなく、貯金しておくためだ。
 それに、誰からいくらもらったかはちゃんと書き留めておかないと、後々返していく時に面倒になる。
「パパ」
「ん、どうした?」
「愛奈、ちょっとあついの」
 確かに、愛奈の顔は少し赤い気がする。
 外が寒いせいもあるけど、暖房が入っていて、なおかつ人が多いから、いつも以上に室温が上がっているのだろう。
「じゃあ、ちょっと外に出て冷ましてくるか」
「うん」
 一応上着を着せて、愛奈を外に連れ出した。
 正月二日の空は、とてもよく晴れていた。
 時折吹く冷たく乾いた風が、火照った体を冷ましてくれる。
「どうだ、少しは楽になったか?」
「うん、きもちいいの」
 愛奈は目を閉じて、風に身を任せている。
「パパ」
「なんだ?」
「パパは、愛奈のこと、すき?」
「好きだよ。パパが愛奈のこと、嫌いになるはずないだろ?」
「うん。愛奈もね、パパのこと、だいすき」
 そう言って愛奈はにっこり笑った。
「愛奈はね、ずっとずっとずーっと、パパといっしょにいるの」
「そうか。それは嬉しいな」
 そういうことを言ってくれるのも、今のうちだけだ。大きくなったら、男親なんてほぼ間違いなくないがしろにされるんだから。
「だからね、パパ」
「ん?」
「パパも、愛奈といっしょにいてね?」
「ああ、約束するよ」
 愛奈の小さな小指に俺の小指を絡め、指切りげんまんをする。
「これで約束したから」
「うん」
 だいぶ火照りが収まったところで、家の中に戻った。
 それからしばらく子供は子供同士で遊ばせて、俺は大人連中と話をしていた。
「洋一くん。少し、いいかな?」
 と、和人さんがにこやかな笑みを浮かべて近寄ってきた。
「ええ、いいですけど」
「少し、ふたりだけで話がしたいんだけど」
「じゃあ、上に行きましょう」
 俺は、和人さんと一緒に元俺の部屋に入った。
 俺の部屋は、もうあまり荷物はない。俺自身がこの部屋を使うこともあまりなく、それでも未だに俺の部屋という感じは残っている。
「洋一くんは、美香から話は聞いているかい?」
「話って、オファーの話ですか?」
「ああ、聞いてるんだね。まあ、美香から聞いてなくても、香織から聞いてたと思うけど」
 そう言って和人さんは微笑んだ。
「和人さん自身はどう考えているんですか? 姉貴は、もう少し考えてみる、なんて言ってましたけど」
「そうだね。実際いろいろ考えてるよ。美香とも何度も話しているし、うちの両親とも話したし、お義父さんやお義母さんともね。ただ、正直言えば、未だに結論は出てない」
「そう簡単に決められる話でもないですからね」
「いや、実はそうでもないんだよ」
「そうなんですか?」
 それは意外な言葉だった。
「美沙や和輝のことを考えると、日本にいるべきなんだろうね。確かに、海外にいていろいろなことを学ばせるのも大事だと思う。だけど、日本人であることだけは変わらないわけだから、それなら日本にいなくては学べないことを学べる時に学ぶべきだと思う」
「それはあくまでも美沙や和輝のことを考えてですよね。和人さん自身のことはどうなんですか?」
「俺は、どっちでもいいんだよ。好きなことさえやらせてもらえれば。昔みたいに海外との情報交換に時間がかかるわけでもないし」
 確かに、今はインターネットがどこの国にいても使えるから、情報交換にタイムロスが少なくなっている。
「それなら、日本の大学に戻ってきた方がいいんじゃないですか?」
「うん、そうなんだけどね。それでも、二年間向こうで世話になってるわけだから、話を聞きました、はいわかりました、とはいかないんだよ」
「難しいですね」
「ただね、ひとりだけ俺に強硬に日本帰国を勧めてきたのがいたね」
「それって、香織ですか?」
「うん、そうだよ。香織は、絶対に日本に帰ってきた方がいいって言ってた。それこそ海外で研究するのも、今じゃなくてもできるだろうからって。それはそれでそうだと思った」
「でも、そういうことを言い出すとキリがないですよね。それこそ、今向こうにいなければできないことも必ずあるはずですし」
「そうだね。だから、香織も最後には決めるのは結局俺だけど、って言ってたけど」
 香織らしいな。
「そこで、洋一くんにも意見を聞きたいと思ったんだ。洋一くんならどうするかなって」
「そうですね……」
 俺なら、自分より家族のことを優先しそうだな。もちろん、実際にはその場に立ってみないとわからないだろうけど。
「結局は、自分の考えとそれ以外の考えを天秤にかけてみるしかないと思います。それで、ほんの少しでも勝ってる方を選ぶ。それなら、とりあえず後悔だけはしないはずですから」
「やっぱり、それしかないか」
 和人さんは、小さく頷いた。
「いや、悪かったね。こういうことははじめてだから、手探り状態でね」
「いえ、気にしないでください」
 俺だってなにかあったら、誰かに相談する。それは当然のことだ。
「ところで、洋一くん」
「なんですか?」
「最近、香織とはどうなんだい?」
「特に変わってませんよ。まあ、変わりようがないとも言えますけど」
 和人さんは、俺と香織の関係を知っている。だからどうということもないのだが。
「香織が言ってたよ。最近、洋一くんがあまり構ってくれないって」
「そんなことはないと思いますけど」
「香織自身も結構忙しくなってるみたいだからね。それはある意味仕方がないと思うよ」
「そうですね」
 だけど、和人さんにまで愚痴ってるのか、香織は。
 困った奴だ。
「とりあえず、香織のことは洋一くんに任せておけば心配はないと思ってるから」
「だといいですけど」
 俺に変な期待をかけられても困る。もちろん、責任は取るつもりだけど。
「話はこんなところかな。そろそろ下に戻らないと、なにを言われるかわかったものじゃないし」
「メンツがメンツですからね」
 そう言って俺たちは笑った。
 
 話が落ち着いたところで、有志メンバーで初詣に行くことになった。
 というか、行かないメンバーの方が少ない。
 残るのは父さん、母さんと和輝。あとは全員行くことになった。
 で、なぜか一番人気になっている俺は、四人のちびっ子ギャングにまとわりつかれた。
 大人数だったので結構ゆっくりと神社まで歩いた。
 神社はまだ正月二日ということでそれなりの初詣客がいた。
「おまえたちはなにをお願いするんだ?」
 列に並び、俺は四人に訊ねた。
 全員昨日も初詣しているから、今日は改めてということになる。
「愛奈はね、パパともっといっしょにあそびたい」
「愛理はね、愛理はね、はやくおねえちゃんになりたいの」
「えっとね、えっとね、紗弥は、パパやママのおてつだいをいっぱいするの」
「美沙は、ようちゃんのおよめさんっ」
「ええーっ、パパのおよめさんは、愛奈なの。みさちゃんは、ダメなの」
「なっちゃんはようちゃんとはけっこんできないんだよ」
「できるもん」
「こらこら、ふたりとも喧嘩しない」
「だってぇ……」
 愛奈も美沙も不満そうだ。
 だけど、昨日の今日だからなのか、愛理も紗弥もずいぶんと殊勝なことをお願いするようだ。まあ、愛理の方は、今年の夏にはかなう願いなんだけど。
「そう言う洋一は、なにをお願いするの?」
 と、後ろから香織が顔を突っ込んできた。
「そうだな。恒久的な世界平和かな」
「うわ、冗談でもそういうこと言う、普通?」
「別にいいだろ。それに、俺がなにか言うと敏感に反応する連中が多すぎるんだよ。だから、本当のことは言わないようにしてる」
「なんか、ずいぶんと卑屈な理由ね」
「卑屈なのは、今にはじまったことじゃないわよ」
 さらに、姉貴まで。
「洋一なんて、昔から卑屈の塊みたいなものだから」
「はいはい、そうでございますね、お姉さま」
 こういう時は、まともに相手をしても埒があかない。
「むぅ、ママ、ようちゃんをいぢめちゃダメなの」
「別にいぢめてないわよ。ねえ、洋一?」
「さあ、どうかな」
「ほらぁ、ママ」
 とりあえず、美沙を味方につけ、姉貴を追い払おう。
「ああ、もう、わかったから。美沙もそんな顔しないの」
 これが家の中でのことならそこまで早く姉貴が折れることはないのだが、あいにくと今は外だ。まわりの目を気にして、姉貴は早々に白旗を揚げた。
「美香姉さんも、美沙を味方に取られては形無しですね」
「本当に、美沙は母親の私よりも叔父である洋一の方がいいんだから。困ったものよ」
 そう言って苦笑する。
「それは、お兄ちゃんだからだと思うよ」
 その間を縫って、美樹が俺の隣に出てきた。
「お姉ちゃんがいない時でも、お兄ちゃん、本当に美沙ちゃんに優しいから。自分を叱るお姉ちゃんより、たくさん褒めてくれるお兄ちゃんの味方になっちゃうのは、仕方がないと思う」
「まったく……」
 姉貴は、呆れ顔でため息をついた。
「ところで美樹」
「ん?」
「もう研究室は決まったのか?」
「決まってるよ。倉岡教授のところ」
「なんだ、おまえも教授のところなのか」
「そうだよ。あれ、言わなかったっけ?」
「初耳だ」
 倉岡教授というのは、俺が学生の時に教わった教授のことだ。古代ローマ史が専門で、俺も古代ローマ帝国のことを研究していた。
「だけど、教授のところとなると、四年は結構大変だぞ」
「それはいろいろ聞いてるよ。まあでも、もともと四年生はそれほど取らなくちゃいけない講義があるわけじゃないから、いいんじゃないかな」
「悠長に構えてると、卒論で痛い目に遭うからな」
「大丈夫だよ」
 実際、俺は悠長に構えていて痛い目に遭った。
 そうこうしているうちに、俺たちの番が来た。
 俺は、うちの娘三人にお賽銭を渡した。
 それを賽銭箱に入れさせ、鈴を鳴らした。
 あとはそれぞれにお願いをするだけ。
 お参りが済むと、社務所の方でおみくじを引いた。
「やったぁ、大吉だぁ」
「むぅ、小吉……」
「えへへ、中吉、中吉」
「吉だよぉ」
 まだ四人とも漢字はほとんど読めないのだが、おみくじの漢字は簡単なので教えてある。
 で、結果としては、愛理が大吉、愛奈が小吉、紗弥が中吉、美沙が吉だった。ここまで綺麗に分かれるのは珍しい。
「洋一さんは、どうでしたか?」
「ん、俺はこれ」
 俺は、自分の分のおみくじを真琴に見せた。
「末吉ですか。微妙ですね」
「真琴はどうだった?」
「私は、大吉です。昨日も大吉でしたから、今年の運勢は完璧ですね」
 そう言って笑う。
 おみくじだけで今年の運勢が決まるなら、確かにそうかもしれない。実際、そんなことはないのだが。
「あ、これはひょっとして、今年は洋一さんが私のお願いをいろいろ聞いてくれるという前兆ですかね」
「なんなんだ、そのお願いって?」
「そんなの決まってますよ」
 にっこり笑い──
「私、母親になりたいんです」
「…………」
「ああんもう、そこで視線を逸らさないでくださいよぉ」
「いや、なんとなく条件反射的にな」
「そんなにイヤなんですか?」
「いや、そういう問題でもなくてだな」
「じゃあ、いいんですね?」
「いや、だから……」
 このままだと堂々巡りになる。
「ふたりでなにを話してるんですか?」
 と、そこへ、沙耶加がやって来た。
「全然たいしたことは話してない」
「そうなの?」
「ううん、すごく大事なことを話してたの」
「大事なこと?」
 沙耶加は首を傾げた。
「私も、洋一さんとの子供がほしいなぁって」
 一瞬、殺意のこもった視線が俺に向けられた。
 いや、マヂで怖いのですが、沙耶加さん……
「だから、真琴。その話はまた今度な」
「今度っていつですか?」
「ん、そりゃ、今度だから、十年後、くらいか?」
「ふ〜ん、そういうことを言うんですね」
「いや、だから、今のは冗談だから」
 この姉妹、本当に怒りの波動というのだろうか。そういうのが似ている。
「洋一さん」
「な、なんだ?」
「今日の夜、少しお時間をいただけますか?」
 沙耶加は、にこやかに、だけど目は全然笑っていない顔でそう言った。
「あ、ああ、いいけど」
「ありがとうございます」
 やれやれ、面倒なことになった。
 それから少しして、俺たちは神社をあとにした。
 途中まで元気だった愛理が疲れたと駄々をこね、結局俺がおぶっていくことになった。
 愛奈と紗弥は、美沙と一緒に姉貴たちに任せてある。
「どうしてあなたの背中の上だと、この子たちはおとなしくしてるのかしらね」
「さあ、どうしてだろうな」
「愛奈も愛理も、どう見ても私よりもあなたの方がいいみたいだし」
「それを俺に言われても困るんだけどな」
 愛は、背中で眠ってしまった愛理を見ながら、そんなことを言った。
「ただ、俺に言わせれば、愛奈も愛理もおまえの娘だからだろうな」
「それは?」
「そりゃ、おまえ自身が一番よくわかってるだろ?」
「ん〜、そうかも」
 愛は微笑む。
「愛奈も愛理もあなたの味方だとすると、今度生まれてくるこの子は、是非とも私の味方にしないと」
「心配しなくても、愛奈も愛理も中学、高校くらいになったら俺から離れるさ」
「そうかしら。確かに愛理はその可能性も否定できないけど、愛奈はそれはないと思うわよ」
「なんでだ?」
「だって、愛奈のあなたに対する想いは、本物だもの。もちろん、あなたが父親で愛奈が娘だというのが一番大きいとは思うけど。それを抜きに考えても、愛奈は本気であなたのことを想っているわ」
 俺は、少し前を歩いている愛奈を見た。
「それはそれでいいけど、でもな、愛。実の娘に嫉妬だけはするなよ」
「しないわよ、そんなこと」
「どうもおまえの行動を見ていると、暗に愛奈や愛理に対抗してるところがあるからな。そういう行動って、俺たちがつきあい出した頃のおまえとお義母さんの行動に似てるよ」
「うっ……」
 その話を持ち出されては、さすがの愛も口ごもった。
「そんな昔の話はどうでもいいの。それに、私はお母さんとは違うんだから」
「だといいけど。な、愛理?」
「ううぅ、洋ちゃんのいぢわる」
 半分いじけている愛を見て、俺は声を上げて笑った。
 
 その夜。
 俺は、初詣の時に言われた通り、沙耶加のために時間を作った。
「洋一さん。隣に座ってもいいですか?」
「ああ」
 リビングのソファで俺たちはぴったりと隣り合って座った。
「それで、話って?」
「簡単なことです。ふたり目が、ほしいです」
 これは想像できたことだった。
 今日のことがなくても、沙耶加は以前から時折漏らしていたから。
「沙耶加の気持ちは十分わかる。だけど、ただほしいからというだけで、子供を作るわけにはいかないだろ? 少なくとも今は、沙耶加にとっては紗弥だけでもそれなりに大変なんだから」
 俺は、努めて冷静に言った。
「確かにそうです。でも、紗弥も来年の春には小学生です。今に比べれば多少は手もかからなくなるはずです。それなら、たとえふたり目がいても問題はないと思います」
「いや、沙耶加の手間だけの問題じゃなくて、養育費というのが必要だろう。俺はそう簡単に年収は増えないし。沙耶加だって、劇的に増えるわけじゃない」
「……そうですね」
「こういう言い方はしたくはないけど、ふたり目を考えるのはそういう諸々の懸案課題を解決してからだ」
「でも、それでも私は……」
 沙耶加は、少しだけ悲しそうに言う。
「……しょうがないな」
「じゃあ……?」
「少なくとも俺はそのことに積極的にはなれない。だけど、拒みもしない。つまり、子供ができるのもできないのも、すべて運を天に任せようと思う。それでいいよな?」
「はい、それで十分です」
 このくらいは、しょうがないのかもしれないな。
 沙耶加を受け入れたのは俺なのだから。
「すみません。本当は私にそこまで言える筋合いはないんですけど」
「いや、いいさ。俺だって沙耶加となら、とは考えてるんだから」
「それは、真琴よりも、ということですか?」
 まだ昼間のことを引きずってるな。
「当たり前だろ。今、俺の隣にいるのは誰だ? 真琴じゃないだろ? 沙耶加だろ。それが答えなんだよ」
「そうですね」
 俺は、沙耶加の肩を抱いた。
 あの頃よりほんの少しだけ丸みを帯びた体。だけど、それはより大人の女になったということだ。
 今でも沙耶加と街を歩くと、たいていの男どもは振り返る。
「でも、洋一さん」
「ん?」
「最近の真琴、ここへ来る度に言うんですよ」
「なにをだ?」
「私もお姉ちゃんみたいに洋一さんの子供がほしいって。うちには紗弥がいるから余計だと思うんですけど。ずっとそれを聞かされてると、気が気じゃなくて」
「まあ、それはそうかもしれないけど。それでもさ、少なくとももうしばらくはおまえや愛以外と子供を作る気はないから。これは本当だ。どういう状況であっても、おまえと愛は特別だからな」
「ふふっ、ありがとうございます。そう言ってもらえると、嬉しいです」
 確かに、関係で言えば、沙耶加と真琴、香織、由美子さんは同じだ。愛人なのだから。だけど、俺の中では明確な差がある。
 俺の妻である愛。それに匹敵するところにいる沙耶加。
 ほかの三人は、どうやってもその下になるのだ。もちろん、明確な差ではあるけど、それが天と地ほどの差があるわけではない。
「あ、そういえば、洋一さん」
「ん?」
「うちの両親が、今度洋一さんに相談したいことがあると言ってました」
「俺に? 相談?」
「はい。なに、とは言ってませんでしたけど」
「沙耶加は、それがなにか予想できるか?」
「ん〜、そうですねぇ……」
 おとがいに指を当て、考える。
「可能性はいくつかあると思います」
「ああ」
「ひとつは、真琴のことですね。私のことは半ばあきらめてるところはありますけど、真琴のことはまだあきらめきれてないみたいですし」
「なるほど」
「あとは、可能性が高いので考えれば、家のことだと思います」
「家?」
「はい。今は、私たちはこのマンションにふたつの部屋を借りて暮らしてるじゃないですか。でも、家族ならやっぱり同じ屋根の下で暮らすのが一番だと思ってますから」
「それは俺も思うけど、先立つものがな」
 それが一番問題なんだ。
「少し前に愛さんに聞いたんですけど、愛さんのご両親も同じことを考えてるそうです」
「ん、ああ、それは俺も聞いてる」
「洋一さんとしては不本意かもしれませんけど、ふたつの家にお金を出してもらったらどうでしょうか。それで、マンションではなく一戸建てを購入するんです。多少広めのです。そうすれば、家族が増えても対処できると思います」
「……そうだなぁ……」
 実は、俺もそれを選択肢のひとつには入れている。ただ、やっぱり自分たちの勝手をやって借りを作るのは不本意だ。
 だから尻込みしている。
「今年の夏には家族が増えるわけですから。それに、私の望む形になれば、もうひとり。そうすると、このままというわけにはいかないと思いますし」
「まあな」
「あらゆる可能性を考えていくと、手遅れになる前にある程度対策を講じておく必要はあると思います」
 耳が痛い話だ。
「ただ、私は洋一さんの考えに従います。もちろん、意見は言いますけど」
「わかったよ。俺ももう少し考えてみる。それに、うちの親も今か今かと手ぐすね引いて待ってるし」
「ふふっ、確かにそんな感じがありますね」
 揃いも揃ってバカ親だからな。
「で、話というのはそれだけか?」
「ええ」
「なら、俺は──」
「ダメですよ。今日は、帰しません」
 そう言って沙耶加は、俺の腕をがっちりつかんだ。
「いや、だけどな、沙耶加」
「いいえ。苦しい言い訳はいりません」
「…………」
 ダメだ。完全に読まれてる。
「今日は、久しぶりにたくさん洋一さんに抱いてもらいますから」
「……わかったよ」
 どういう話をしていても、最後はこうなるのかもしれない。
 ま、俺たちの間で本当に深刻な話など、そうはないからな。むしろ、これでいいのかもしれない。
「さ、洋一さん」
 沙耶加の変わらぬ笑顔を見ていると、本当にそう思う。
 
 九
 一月四日に姉貴たちはニュージーランドに戻った。
 次の帰国はいつになるのかはわからない。ひょっとしたら、和人さんが英断して、違う意味での帰国になるのかもしれない。
 学校の冬休みが終わると、いよいよ慌ただしくなる。すぐにセンター試験があるし、私立大学の願書も締め切り間近となる。
 俺たち教員は、三年ができるだけ自分の力を発揮できるよう、最大限の努力をする。俺も俺のできる範囲内でなんでもやった。それがどれだけの役に立ったかは、受験の結果を見なければわからない。
 そうこうしているうちに、一月などあっという間に終わってしまった。
 二月はさらに時間の流れが速くなる。もともとほかの月よりも短い月なので当然なのだが、あれもこれもとやっていたら、本当にあっという間だ。
 そんな二月の中でどうしても逃げられない日がある。
 それは、バレンタインだ。
 
 二月十四日。
 バレンタインの日は、朝から慌ただしい。
「パパ〜」
 幼稚園へ行く準備もそこそこに、愛奈と愛理は、揃ってやって来た。
「パパ、バレンタインのチョコ」
「愛理も」
「お、そうか。ありがとうな」
 このふたりは、どこまでこのバレンタインのことを理解しているのかは、俺にはわからない。愛に言わせると、完璧に理解していなくとも、本能的に理解しているはず、ということだ。
 実際、ちゃんと理解するのは、まわりもみんなそういうことをしだす頃だと思う。
「ほら、愛奈、愛理。チョコを渡したのなら、幼稚園へ行く準備をしなさい」
「はぁい」
 またパタパタと部屋へ戻っていく。
「今年は、チョコはどうしたんだ?」
「一緒に買い物に行って、あの子たちが選んだのよ。最初、愛理はすぐに決めたんだけど、愛奈がなかなか決められなくて。そうこうしているうちに、愛理までほかのに目移りしちゃって。本当に大変だったんだから」
 そう言って愛はため息をつく。
「じゃあ、俺は心して食べなくちゃダメだな」
「ええ、そうしてあげて。あ、でも、ちゃんと私の分の余裕は残しておいてね」
「今年は、普通のだろうな?」
「さあ、どうかしら」
 愛は、未だにこのバレンタインのチョコに様々なことをしている。もはや思い出すのも面倒なのだが、とにかくたまには普通のが食べたい、ということだ。
「ママ、おわったよ」
 そこへ、準備も終わったふたりが戻ってきた。
「じゃあ、もう少しだけおとなしく待ってて。ママも準備してくるから」
「うん」
 今日は、愛も仕事の打ち合わせがあって、幼稚園の送迎バスの時間まで家にいられない。だから、あらかじめ幼稚園に送ってから出かけることになっている。
 そうこうしているうちに、インターフォンが鳴らされた。
「あ、さやちゃんだ」
 いち早く反応したのは、愛理だった。
 俺も玄関へ。
 ドアを開けると、こっちもすでに準備万端な紗弥が沙耶加と一緒にいた。
「パパ、おはよう」
「おはよう、紗弥」
「さやかママ、おはよう」
「おはよう、りっちゃん」
 少し遅れて愛奈もやって来る。
「パパ、パパ」
「ん、どうした?」
「これ」
 そう言って紗弥が取り出したのは、やはりチョコだった。
「ありがとうな、紗弥」
「うん」
 帽子の上から頭を撫でてやる。
「洋一さん。私の分は、今夜、お渡ししますから」
「ああ、わかった」
 少しして、愛が準備を整え、やって来た。
 あいにくとうちには自家用車というものがない。だから、こういう時は自転車が大活躍する。もちろん、雨の日は無理だが。そういう時は、俺がどっちかの家に行って、車を借りてくる。
 俺の自転車に愛奈、愛の自転車に愛理、沙耶加の自転車に紗弥を乗せる。
 幼稚園は、ここからそれほど遠い場所にあるわけではない。ただ、幼稚園児の足では結構な距離にあるので、バスを使っている。
 自転車で行く時は、一方通行などを気にしなくていいから、案外早くたどり着ける。
 自転車の上では愛奈たちはおとなしい。さすがに乗り物に対する恐怖心というものがあるらしく、よほどのことでもない限りはおとなしい。
 朝の冷たい空気の中を疾走し、幼稚園へと到着した。
 登園時間より少し早めなので、まだ園児の姿はない。
 自転車を邪魔にならないところに止め、愛奈たちを園舎に連れて行く。
「おはようございます」
 中に声をかけると、ちょうど愛理と紗弥の担任の先生が出てきた。
「あ、おはようございます」
「すみません。今日は揃って仕事なものでして」
「いいえ、お気になさらずに。そういう方も、ほかにいらっしゃいますし」
 この会話も何度目だろうか。
「じゃあ、パパたち行くけど、ちゃんと先生の言うことを聞いて勉強して、遊ぶんだぞ」
「うん」
「わかったよ」
「はぁい」
 三人の元気な返事を聞き、俺たちは幼稚園をあとにした。
「あ、そうだ。あなた」
「ん、なんだ?」
「あらかじめ言っておくけど、バレンタインだからって、あまり教え子にデレデレしないこと」
「しないって」
「本当に?」
「本当に」
「絶対?」
「絶対」
「…………」
「…………」
「わかったわ。とりあえず信用してあげる」
 去年はこんなこと言われなかったんだけどな。やっぱり今年は違うか。
 それから途中で愛と沙耶加と分かれて学校へ向かう。
 さて、いったいどんなバレンタインになるのやら。
 
 学校内の雰囲気は、いつの頃も変わらない。
 多少のマイナーチェンジはあったとしても、基本的な流れは変えようがないので、男の俺でもバレンタインなんだと感じる。
 基本的に授業中や短い休み時間はほぼいつも通りなのだが、朝や昼休み、放課後はそれが一変する。
 そんな昼休み。
 学食で昼飯を食べようと廊下を歩いていると──
「先生」
 いつもの連中が声をかけてきた。
「揃いも揃って、なんの用だ?」
 もちろん、なんのために呼び止めたのかはわかっているのだが、だからといって俺からそれを言うわけにはいかない。
「先生、今日がなんの日か、わかってますよね?」
「今日は、煮干しの日だな」
「は? 煮干し、ですか?」
「ああ。知らないのか?」
「知りませんよ、そんなこと」
 煮干しの日というのはウソではない。なんでそうなのかは知らないけど。
「ほら、昭乃。あんたが先陣を切りなって」
「え、あ、ちょっと」
 永村に背を押され、藤沢は俺の前に出てきた。
「あ、えっと、先生」
「ん?」
「……これ、チョコです」
 差し出してきたのは、綺麗にラッピングされたチョコだった。
「先生。昭乃のチョコ、手作りなんですよ」
「し、静穂っ」
「もう何日も前から張り切っちゃって。見てるこっちが疲れちゃうくらいでした」
「むぅ……」
「そんな顔するな。とりあえず、これはもらっておくから」
「あ、はい。ありがとうございます」
 俺が藤沢のを受け取ると、それを待っていたかのように、後ろの四人も俺にチョコを差し出した。
「先生、まさか昭乃のだけ受け取るなんてこと言わないですよね?」
 北岡がそう言う。
「そんなことすると、恵里香と静穂がマジでへこみますから」
「……久美も波恵も、余計なことを言うな」
 そんなやり取りを見つつ、俺はそれを受け取った。
「まあ、気が向いたらホワイトデーになにか返すわ」
「無理しなくていいですから」
「というより、ホワイトデーの日って、学校来るんだっけ?」
「さあ、どうだったかな。でも、卒業式とか終わってるから、ひょっとしたら来てないかも」
「じゃあ、先生がホワイトデーになにか返してくれるなら、それはかなりすごいことだってことになりませんか?」
「別に、そこまで大げさなことはないだろ。義理チョコには、義理のなにかで返すだけだ。それ以上もそれ以下もない」
「先生〜、昭乃のは、明らかに本命ですよ」
「く、久美っ」
「ひょっとしたら、恵里香や静穂のもそうかもしれませんけど」
 そう言って永村は笑う。
 やれやれ、騒がしい連中だ。
「で、とりあえず用事はそれだけか? 終わりなら、俺は飯を食いに行きたいんだけど」
「え、あ、じゃあ、先生。一緒に食べませんか?」
「一緒にって、おまえらも学食なのか?」
「先生と一緒なら、学食で問題ないですよ」
 そんなわけで、俺はこの五人と一緒に昼飯を食うことになった。
 学食は、いつもよりは空いている。それは、三年が学校に来ていないからだ。三年がいる時は、今日の比ではない。それに、授業さえなければ、昼休みの前かあとに食べに来る。
 俺は、B定食を頼み、席に着いた。
 ひとつのテーブルは六人が座れるように椅子が配置されている。俺は、その中のひとつの角に座った。
「あ、先生。逃げましたね」
 最初に戻ってきた永村が、そんなことを言った。
「なんなんだ、それは?」
「いえ、真ん中に座れば、当然誰かに挟まれるわけじゃないですか。そういう状況から逃げた、ということです。たいしたことじゃないので、気にしないでください」
 永村は、スパゲティ・ナポリタンを頼んでいた。で、座ったのは俺の斜め前。
 次に戻ってきたのは、新井と北岡。
 新井は、きつねうどん、北岡はカレーライス。で、新井は俺と同じ列のもうひとつの角に、北岡はその正面に座った。
 最後に、藤沢と若生が戻ってきた。
 藤沢はC定食、若生は親子丼。で、藤沢が俺の隣に、若生が俺の正面に座った。
「そういや、おまえら、学年末に向けて勉強はしてるのか?」
「先生、そういう話はやめましょうよ」
「そうですよ。今は昼休みなんですよ。そういうイヤなことを忘れて、身も心もリフレッシュする時間なんですから」
「別に俺はそれでも構わんのだが」
「なにかあるんですか?」
 俺の言い方に引っかかりを覚えたのか、藤沢が訊いてきた。
「そうだな、おまえらに今日のチョコのお礼ってわけじゃないけど、世界史の試験について、少しだけヒントを教えてやろうかと思ったんだが」
「えっ……?」
「若生と永村がそういう話はやめろって言うから、それもなしな」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「そ、そういうことなら、全然問題ないです。むしろ、こっちからお願いしたいくらいですから」
 若生と永村は、慌ててそう言う。
「しょうがないな。だけど、おまえらだけをひいきするわけにはいかないから、本当にごく簡単なヒントだけだからな。あとは、おまえらで考えてくれ」
「はい」
「とりあえず、試験の範囲は授業中に言うからいいとして、今回の試験は、選択肢問題を大幅に減らすことにした」
「ええーっ、それはホントですか?」
「それがどういうことなのかよく考えて試験勉強してくれ。以上だ」
 まあ、このくらいのヒントなら、それほど問題にはならないだろう。どんな問題が出るとか、どのあたりが出るとか、そういうのはいっさい言ってないのだから。
「俺もな、世界史の試験くらいはできるだけ楽に受けられるように毎回考えてるんだからな」
「そうなんですか?」
「ああ。俺の高校の頃の経験をもとにしてるからな。どれかひとつでも楽な教科があると、ほかに勉強時間をまわせるから。もちろん、そのために問題のクオリティを下げるようなことはしてないから、安心しろ。テスト勉強だけをやっていても、それなりの勉強ができるようにはしているつもりだ」
「問題を作るのも大変なんですね」
「そりゃそうだ。成績をつけるためだけに試験をやってるわけじゃないからな。特に、おまえら二年にとっては、三年になった時に少しでも役に立つようにしている」
「なるほど」
 とはいえ、こういうことを言えるようになったのも、去年の失敗やなんかがあったおかげだ。
 去年は、本当にいろいろあったからな。
「ところで、おまえらは全員世界史受験なのか?」
「ええ、そうですよ」
「文系か? 理系か?」
「みんな文系です」
「そうか。なら、世界史の補習や特別授業は俺が担当だ」
「本当ですか?」
「ああ。基本的に俺が文系クラスを受け持つことになった」
「やった」
「ラッキー」
 それぞれ喜んでいる。
「まあ、それがラッキーなのかどうかは、春になればわかる」
「どういう意味ですか?」
「文系クラスの世界史は、一気にスピードを上げるからな。目標は、十二月までに教科書を終えること」
「えっと、現段階でまだ半分も来てませんよね?」
「ああ。だから、それがどういう意味か、よく考えてみろ。そうすると、そんなに喜べなくなるから」
「うわ……」
 世界史や日本史の授業なんてそんなものだ。時代が下れば下るほど、やることが増えていく。なのに、授業の時間は増えない。だから、スピードを速くする。
「あの、先生」
「ん、なんだ?」
「そういう時に、わからないことを先生に訊きに行ってもいいんですよね?」
「当たり前だろうが。俺は、おまえら生徒に使われるためにいるんだ。少なくとも、センター試験や二次試験でそれなりに取れる指導はできる。それ以上のことは、各自努力するしかないけどな」
「というか、一週間に一度とか、希望者に補講のようなことをしたらどうですか?」
「実は、それも考えているんだ。まあ、どのくらいのスパンでやるかはわからないけど」
「じゃあ、昭乃と恵里香と静穂は参加決定ね」
「久美は参加しないの?」
「ん〜、内容次第かしらね」
「ふ〜ん……」
 俺としても、どんなことをやるかはまだ決めてないから、永村みたいに考えていてくれた方が助かる。
「ま、そういうことだ」
 俺は、そう言って箸を置いた。
「あれ、先生。もう食べ終わったんですか?」
「ああ。同時進行だったからな」
 俺は食べ終わったが、当然のことながら五人はまだだ。
「先生」
「ん?」
「先生って、広瀬先生と仲良いですよね?」
「ああ、そうだな。それがどうした?」
「いえ、他意はないんです」
 いつか、誰かに訊かれるとは思っていた。まあ、ほぼ毎日のように保健室に行っているわけだから、目撃者も多いだろうし。
「広瀬先生は、俺がここの現役だった頃から知ってるからな」
「その頃から仲が良かったんですか?」
「ああ。広瀬先生と斎藤先生、それに北条先生と仲が良かった」
「へえ……」
 優美先生は、雅先と結婚したあとも、学校では旧姓で通していた。
「おまえらもわかると思うけど、あの三人て、生徒との垣根が低いだろ? だから、いろいろ話したりしてるうちに、仲良くなったんだ」
「じゃあ、今の私たちと同じですね」
「ん?」
「先生なんて、垣根なんてもの、全然ないですから」
「ああ、なるほど」
 確かに、俺は垣根なんて設けてないからな。そう言われるとそうかもしれない。
「先生は、教師と教え子の関係ってどう思いますか?」
「そうだな。それは人それぞれだと思うぞ。一概にそれがダメだとは言えないし。教え子が在学中はさすがに問題もあるだろうけど、卒業してしまえば、問題はないだろうし」
「じゃあ、仮に、昭乃からそういう関係を求められても、卒業後ならいい、ということですか?」
「波恵っ」
「意見としては、そうなる。だけど、俺個人の今の考えとしては、卒業後でもダメだな」
「どうしてですか?」
「どうして? そんなの決まってるだろうが。俺は、結婚してるんだ。なのに、それ以上誰とつきあえというんだ」
「不倫でもいいじゃないですか」
「よくない。俺を殺す気か」
 仮にそういうことになったら、まず間違いなく俺は刺されるな。
「だってさ、昭乃」
「だから私は──」
「でもさ、先生とならそうなってもいいと思ってるんでしょ?」
 永村の言葉に、藤沢はすぐには答えられなかった。
 というか、そこで俺を見るな。
 まったく……
「おまえらも、本当に飽きないよな。そんなにそういう話が楽しいか?」
「楽しいですよ」
「だけど、俺にはその楽しさがわからん。だから、できればそういう話はなしにしてくれ」
「それは無理ですよ。それを入れないと、面白くないですから」
「…………」
 面白いか面白くないかで決めるな。
「あ、そうだ。先生」
「ん、なんだ?」
「先生の家って、学校から近いんですよね?」
「歩いて通えるくらいには近いな」
「じゃあ、今度、遊びに行ってもいいですか?」
「は?」
「遊びに行くと言っても、本当に遊ぶわけじゃないですけど、どうですか?」
「いや、どうかと訊かれても困るんだけどな。それに、なんでうちに来たいんだ?」
「ん〜、もう一度先生の奥さんに会ってみたいというのもありますし、あと、先生のお子さんにも会ってみたいんですよ」
「……そういうことか」
「どうしてもダメですか?」
「そうだなぁ……」
 ここでダメだと言っても、また言われる可能性はあるな。その都度断ってもいいんだけど、それも面倒だ。
 会わせても会わせなくてもなにか言われるなら、相対的に言われない方がいいのかもしれない。
「うちに来るのはNGだ。だけど、会わせるだけなら、考えてもいい」
「あ、それでも全然構いません」
「なら、返事は少し待ってくれ」
「はい、わかりました」
 なんか、予想外の展開になったな。
 さて、愛になんて言ったものか。
 
「あはは、それは災難だったわね」
 放課後、保健室に顔を出し、由美子さんに昼休みのことを話すと、いきなり笑われた。
「笑いごとじゃないですよ」
「でも、最悪の事態だけは避けたわけでしょ?」
「ええ、まあ」
「なら、その子たちの言う通りにしてあげればいいと思うわ。ダメならダメで、またあれこれ言ってくるだけだろうし。それなら、先手を打てる時には打っておいた方が賢明ね」
 確かにそうだろう。特に、俺たちの本当の関係については、そう簡単に知られるわけにはいかないのだから。
「でも、あれね。藤沢さんだっけ。彼女、その子たちの中でも洋一くんに対する想いは特別ね。なにもしなかったら、それこそ自分の中だけで溜め込んじゃって、それが些細なことで爆発するかも」
「……脅かさないでくださいよ」
「脅かしじゃないわよ。洋一くんにも経験あるでしょ? 藤沢さんくらいの年、つまり、高校二年生くらいの頃って、本当に無茶をしてしまう頃なのよ」
 それはあれか。沙耶加のことを言ってるのか。
 それを言われると、なんとも否定できなくなる。
「それで、洋一くんはどう思ってるの?」
「なにをですか?」
「その、藤沢さんのこと。女子バスケ部でも結構有望な選手らしいし、成績だって決して悪くない。それになにより、高校生らしい可愛さがある」
「それ自体は否定しませんよ。ただ、今のところ教師と教え子以上の感情は抱けないですね」
 告白された時もそうだった。どうやっても、藤沢とそうなっている姿が想像できなかった。それだけ、俺にとって藤沢は教え子という枠を出ない存在なのだ。
「洋一くんはそう思っていても、彼女がどう思っているかが、重要だと思うけど」
「それを言い出すと、キリがないです」
「まあ、それもそうね」
 藤沢が俺のことを本気で好きなのは、見ていればわかる。授業中だって、何度となく視線があうし。
 本当なら、一時的な風邪のようなものだと割り切ってしまえばいいのだろうけど、かつてそういう状況下にあったことがあるので、そうだとも言えない。
「それで、結局、その子たちに会わせるの?」
「そうですね、そのことについては、ひとつ考えがあります」
「考え?」
「愛を連中に会わせるのは正直問題があると思います」
「まあ、文化祭の時をことを考えると、そうなるわね」
「で、とりあえず、うちの娘たちだけ会わせようかと」
「娘たちって、さやちゃんも?」
「いえ、紗弥はさすがに。説明が面倒ですから」
「そうね。じゃあ、なっちゃんとりっちゃんか。確かに、それなら被害は最小限で防げそうね」
「もちろん、ふたりには余計なことは言わないようにきつく言っておきますけど」
「ふたりなら大丈夫よ。だって、パパのご機嫌を損ねるようなこと、絶対にしないから」
「だといいんですけど」
 あとの問題は、やはり愛か。
 どうやってもこれが一番問題だな。
「あ、そうそう。大事なこと忘れてたわ」
 そう言って由美子さんは立ち上がり、ロッカーの中からバッグを取り出した。
「今日は、バレンタインだから」
 渡されたのは、チョコだった。毎年もらってるけど、未だにちゃんと手作りらしい。
「なんとなく、慣例化してしまって、そろそろ別の方法を考えるべきだと私は思うのよね。だけど、代替案もなかなか浮かばなくて。で、結局今年もチョコというわけ」
「なるほど」
「それでも、洋一くんの好みは理解してるから、用意するのは楽よ。それに、ほかに渡す相手もいないし」
 そういえば、由美子先生は職員室でも誰にも渡していなかったな。
「だから、心して食べるように」
「わかってますよ」
 ああ、でも、今年は数が少し多いな。
 さて、どうしたものか。
 
 その週の日曜日。
 俺は、午前中から愛奈と愛理を連れて出かけた。
 その目的は、藤沢たちにふたりを会わせるためだ。
 学校で、とも思ったのだが、ほかに誰がいるかわからないので、公園にした。
「愛奈、愛理。パパとの約束、覚えてるよな?」
「うん、だいじょうぶだよ」
「愛理も、だいじょうぶ」
 ふたりにはあらかじめ藤沢たちに余計なことを言わないように言いつけてある。もちろん、正当な理由とは言えないので、ちゃんと約束を守れたらケーキを食べさせるという条件付きでなのだが。
 日曜日の公園は午前中とはいえ、それなりに人がいた。ただ、二月という季節柄、多いということはない。吹く風はまだまだ冷たいのだから、仕方がない。
 その公園には小高い丘があり、待ち合わせはそこにした。
 約束の時間より早めに来たので、五人はまだだった。
「ねえ、パパ」
「ん、なんだ?」
「ここで、びゅーんとすべりたい」
 丘の上に立ち、愛理はそんなことを言い出した。
「愛理。今日は滑るための道具を持ってきてないから、我慢な」
「どうしても?」
「良い子にしてたら、今度また連れてきてやるから」
「ん〜、うん、わかった」
 愛理が言ったのは、この丘の斜面を段ボールを使って滑る遊びのことだ。
 以前にもそれをやったことがあり、特に愛理はお気に入りだった。
 丘の頂上で太陽に向かって座り、愛奈と愛理を膝に座らせた。
「さやちゃんもいっしょだったらよかったね」
「そうだな。だけど、今日だけは紗弥は連れてこられなかったんだ」
 今日のことは、紗弥にはいっさい話していない。話せば必ず連れていってくれと駄々をこねるに決まっていたからだ。
 まあ、その代わり、今度穴埋めはするつもりだ。
「あ、先生〜」
 と、丘の横手から声がかかった。
 見ると、私服姿の五人がこっちに向かって手を振っていた。
 そういえば、いつも制服姿だから、私服姿だと多少違和感があるな。
 それからすぐに、五人は俺たちの側に登ってきた。
「おはようございます、森川先生」
「時間通りだな」
「それはもう。こういう時に遅れたら、きっと後悔しますから」
 挨拶を交わしつつも、その興味はすでに愛奈と愛理に移っていた。
 で、五人に注目されてしまった愛奈と愛理は、さすがに小さくなっていた。
「とりあえず、こっちが長女の愛奈」
 そう言って愛奈の頭に手を置く。
「こっちが次女の愛理だ」
 同様に愛理の頭にも手を置く。
 五人は、まじまじとふたりを見つめる。
「ほら、愛奈、愛理。挨拶」
「えっと……」
 多少人見知りする愛奈は、モジモジと口ごもってしまった。
「森川愛理です」
 愛奈に比べて度胸のある愛理が、そう言った。
「ん〜、カワイイ」
 同時に、五人の相好が崩れた。
「先生〜、すっごくカワイイですよ」
「だってさ」
 ふたりにそう言うと、愛奈は俺にしがみつき、愛理は少し嬉しそうに微笑んだ。
「ホント、カワイイなぁ……」
「愛奈、愛理。このお姉ちゃんたちが、遊んでくれるってさ」
「えっ、いいんですか?」
「無茶さえしなければいい。ケガだけはさせるなよ」
「はい」
 俺は、ふたりを立たせ、五人の前に出した。
 愛理は普段なかなか会うことのない女子高生に興味を持ったようで、比較的すぐにうち解けた。
 愛奈は、最初は俺から離れようとしなかったが、それでも藤沢や新井が優しく声をかけたおかげで、なんとかその輪に入れた。
 俺は以前から常々思っていた。教師なんてものをやってるから余計だと思うけど、人と人とのつきあいについては、同年代の間だけでは意味がない。多用な世代との交流を通してこそ、本当に大事なことは学べる。
 とはいえ、それも実際は難しい。だから、偶然とはいえ、愛奈と愛理にこういう機会を与えてやれて、俺はよかったと思っている。
「先生」
 と、そんなことを考えていたら、藤沢が俺の隣に座った。
「愛奈ちゃんと愛理ちゃん、本当にカワイイですね」
「まあ、俺に似てないからな」
「奥さんに似てるんですか?」
「ああ。特に愛奈はな。うちのが今くらいの頃にそっくりだ」
「なるほど」
 愛奈と愛理は、永村と若生と一緒に追いかけっこをしている。
「でも、先生」
「ん?」
「愛奈ちゃんて、この春から小学生なんですよね?」
「ああ」
「じゃあ、先生が学生の頃に生まれたんですね」
「まあな。俺たちは大学一年の時に結婚してるから」
「学生結婚ですか。大変だったんじゃないですか?」
「それなりにな。だけど、その大変さは、イヤな大変さじゃなかった」
「それって、それだけ幸せだったってことですか?」
「言葉にすれば、そうなるな。だけど、そういうことは言葉にできない部分が多い。藤沢も、そういう立場になればわかると思うぞ」
「私なんて、まだまだ先ですよ」
 そう言いながら苦笑する。
「なあ、藤沢」
「なんですか?」
「なんで俺なんだ?」
「はい?」
 藤沢は、一瞬なにを言われたのかわからなかったようだ。
「えっと、それは、私が先生のことを好きなことですか?」
「ああ。同じクラスじゃなくても、同じ学年や先輩、後輩にだってよさそうなのはいるだろ。なのに、なんで俺なんだ?」
「そうですね……」
 膝を立て、その上に手を重ね、あごを載せた。
「自分で言うのもなんですけど、ある種、熱に浮かされた感じなんだと思います。同い年の男子にないなにかを持ってる先生に、私は惹きつけられてしまった。それを意識するうちに、好きになってしまった。たぶん、そういうことだと思います」
「なるほどな」
 それはそれでよくわかる。
「ただですね、最初はそうだったんですけど、今は違うんです。甘いとか青いとか言われるかもしれませんけど、本気で先生のことが好きなんです。それこそ、許されるなら不倫でもなんでも構わないくらいに、です」
 真っ直ぐ前を向き、淡々と話す。
「正直に言えば、ここまで本気で誰かを好きになったことって、ないんです。だから、そのことに戸惑いつつも、少しずつそれを受け入れている、という感じです」
「そこまで自己分析できているなら、十分だ」
「そうでしょうか?」
「他人を客観的に見ることよりも、自分を客観的に見ることの方が遙かに難しいからな。それを自覚できている間は、問題ない」
「……ありがとうございます」
 そこでようやくこっちを見て、薄く微笑んだ。
「パパ〜」
 と、そこへ愛理が駆けてきた。
「どうした?」
「おねえちゃんたちが、これつくってくれたの」
 そう言って見せたのは、草の冠だった。
 この時期なのでなかなかそれを作るのは難しいのだが、案外ちゃんとしていた。
「そうか。よかったな」
「うんっ」
 見ると、愛奈も四人と一緒に冠を作っていた。
「あのねあのね、愛理ね、ママのもつくってもらうの」
「ママのもか。それはママも喜ぶな」
「うん」
 ここで紗弥の名前が出なかったのは、一応言いつけておいたおかげかな。
 愛理がまた輪に戻ると、藤沢がクスクスと笑っていた。
「先生って、ちゃんといい『パパ』してるんですね」
「もう少し厳しくできないとそのうち苦労するんだろうけどな」
「ふたりとも、先生のことが大好きみたいですからね」
「まあな。だからというわけじゃないけど、あのふたりは違うところで役に立ってるんだ」
「どういう意味ですか?」
「今日みたいに初対面の相手でも、ちゃんと相手のことを見極められるんだ。俺に対してその相手はいい人なのか悪い人なのか、ってな」
「じゃあ、私たちは認められたってことですか?」
「だろうな」
「ふふっ、よかったです」
 人見知りする愛奈がこれだけ懐いてるんだ。多少好奇心が旺盛すぎるところはあるけど、こいつらはやっぱり悪い奴ではないということだ。
「昭乃〜。あんたもこっち来て手伝ってよ」
「うん、わかった」
 藤沢は、そのままその輪に加わった。
 五人の中で、愛奈と愛理は本当に楽しそうだった。
 その姿を見られただけで、五人に会わせた価値があったというものだ。
 
 全額出すのは無理だったけど、多少の補助を出すことで、五人と一緒に昼食となった。
 この人数でさらに愛奈と愛理がいることを考えると、やはりファミレスしかなかった。
 愛奈も愛理もすっかり五人に懐いて、久々にふたりを気にしないで過ごせた。
「先生」
「ん?」
「どうしてふたりに会わせてくれたんですか?」
 と、永村がそんな疑問を口にした。
「まあ、会わせても会わせなくてもおまえらはなにか言うと思ったからだ。なら、一度でも会わせておけば、アドバンテージはこっちにあるわけだ。どちらにするかは比較的簡単に決められた」
「……なるほど」
「でも、会わせてよかったと思うぞ」
「どうしてですか?」
「おまえらくらいの相手と会って話をしたり遊んだりできる機会なんて、そうそうないからな。ふたりにとっては、貴重な体験になったはずだ」
 藤沢以外は、少しだけ意外そうな顔を見せた。
「愛奈、愛理。ふたりも、お姉ちゃんたちと遊べてよかったよな?」
「うん、たのしかったよ」
「愛理も、すっごくたのしかった」
「な?」
「なんとなくですけど、昭乃たちが先生のことを好きになった気持ちがわかりました」
 永村は、しみじみと言う。
「そこで、おまえらに提案なんだけど、ごくたまにでいいから、ふたりの遊び相手になってくれないか?」
「えっ……?」
「もちろん、おまえらにも予定なんかがあるだろうから本当にたまにでいいんだけどな」
 思いもかけない提案に、五人は戸惑った。
「でも、いいんですか?」
「いいから言ってるんだ。それに、俺はおまえらを信用してるからな。じゃなかったら、最初から会わせもしなかったし、そんなことを言うこともない」
 詭弁かもしれないけど、とりあえず効果のある言い方だろう。
 それに、ふたりにとっては藤沢たちとのふれあいはきっと役に立つはずだ。
「あと、そうだな。もしふたりの相手をしてくれたなら、そのうちうちのにも会わせてやる。悪い話じゃないだろ?」
 で、切り札を出す。
「先生、その提案の仕方はずるいです」
 若生が半分呆れ顔で言う。
「ふたりも、またお姉ちゃんたちと遊びたいよな?」
「うんっ」
「あそびたいっ」
 さらに追い打ち。
「さ、どうする?」
 五人は顔を見合わせ、苦笑しつつ頷いた。
「わかりました。それでいいです」
「すまんな」
「でも、先生。その代わりと言ってはなんですけど、それなりの便宜も図ってくださいね」
「なんの便宜だ?」
「世界史のです」
「そのくらいならいつでもしてやる。お望みとあれば、補講でもなんでもしてやるし」
「それならいいです」
 俺としても最初からこうしようと思っていたわけではない。ただ、ふたりが思っていたよりもかなり五人に懐いたものだからそういうことを考えただけだ。
 それに、今度はいつそういう機会に巡り会えるかわからないから、この機会を逃す手はない。
 ま、ギブアンドテイクということだ。
 
 十
 卒業式を迎えると、ようやく一年が終わるのだと実感する。
 この場合の一年は、当然のことながら学校での一年だ。
 卒業式の段階では三年の進路は半分も決まっていないが、国公立大学の状況も悪くはないらしいので、教師の立場としてはひと安心だ。
 卒業式から数日後、国公立大学の合格発表が行われると、ようやく次年度に向け、様々なことが動きはじめる。
 その中で俺にとってとても大きなことが決まった。
 それは、俺がクラス担任になるということだった。担当は二年。本来は一年からなのだが、一年は世界史がないということと、今年三年のクラス担任をやっていた先生たちがそのまま一年を担当することになったからだ。
 俺としては何年でも構わなかった。というか、それどころじゃない。
 担任になれば背負う責任が多くなる。
 それに応えられるよう、しっかりしなければならない。
 それとは別に、この春には大きな出来事がある。
 
「愛奈、準備はできたか?」
 ドアを開けると、七五三の時に買った一張羅を着た愛奈がいた。
「パパ」
「こぉら、愛奈。まだ動いちゃダメよ」
 俺のところに来ようとするのを、愛が押しとどめる。
 愛は、愛奈の髪を結っている。
 そう。今日は愛奈の卒園式だ。
 本当は俺も仕事があるのだが、やはり娘の晴れ舞台の方が大事なので、有休を使わせてもらった。
「はい、いいわよ」
 と、同時に俺のところに駆けてくる。
「お、愛奈。いつもよりずっと可愛くなったな」
「えへへ」
 頭を撫でながら褒めると、愛奈は嬉しそうに笑った。
「愛理は、もう行ったのか?」
「ええ。沙耶加さんにお願いして」
 愛理と紗弥は、在校生というか、在園児として愛奈たちを送る。
 そのための準備があるので、少し早めに出ていた。
「あなたは、準備はいいの?」
「ああ、完璧だ」
 今日の俺の役目は、愛奈の晴れ舞台をカメラで収めることだ。
 そのための準備もしてある。
「愛は、もう少しかかるか?」
「五分もあれば終わるわ」
「わかった。愛奈と待ってるから」
 愛奈を連れて、リビングへ移動する。
「パパ」
「ん、どうした?」
「愛奈も、しょうがくせいになるんだよね?」
「ああ、そうだよ。今日、幼稚園を卒園して、四月からは小学生だ」
 すでにランドセルやノート、筆記用具などは揃えてある。
「愛奈は、小学生になったら、なにを勉強するつもりなんだ?」
「えっとね、愛奈ね、パパとおなじことやりたいの」
「パパと?」
「うん」
「そっか。じゃあ、その前にたくさん勉強しないといけないな」
「そうなの?」
「たくさんたくさん勉強して、いろいろなことを覚えたら、そこでパパと同じことをやれるようになるんだよ」
「そっか……」
 それをどこまで理解できたのかは、わからない。
 だけど、同じことをやりたいと言ってくれたのは、本当に嬉しかった。
 それからすぐに、準備を終えた愛がやって来た。
「じゃあ、行くか」
 
 自分の卒園式のことなど、まったく覚えていない。
 だから、実際に式がはじまっても、こんなものか、くらいにしか思わなかった。
 だけど、今の俺に与えられた役目は、愛奈の姿を余すところなくカメラに収めるというものだ。
 お世話になった先生や父母に対する言葉や歌、卒園証書授与など、本当にすべて収めた。
 これが小学校以上の卒業式なら、泣く子もいるのだろうけど、幼稚園ではそういうことはない。というか、卒園ということをどこまで理解してるのだろうか。
 まあ、所詮は形だけだから、どうでもいいのかもしれない。
 卒園式が終わると、幼稚園での最後の帰りの会が行われる。
 俺たちはその間に、園長先生からいろいろ話を聞かされた。
 その両方が終わると、ようやく解放される。
 今度は、愛理と紗弥も一緒だ。
「愛奈。卒園おめでとう」
「うん」
 卒園証書は、すでに愛のバックの中に収まっている。
「よし、今日は特別にパパが抱っこして帰ろう」
「ホント?」
「ああ」
 今日の主役は愛奈なので、本当に特別だ。
 愛理と紗弥は明らかに不満そうだったが、多少は状況を理解しているらしく、なにも言わなかった。
「でも、本当に早いわね。ついこの前幼稚園に入ったと思ったら、もう卒園だもの」
「そんなもんだろ」
「そうね。来年の今日には愛理たちも卒園だし」
 子供の成長はあっという間だとよく聞く。
 幼稚園でもそれを実感しているくらいだから、これから先、さらにそれを実感させられるんだろう。
「そういえば、沙耶加」
「はい」
「なんか、俺に話があるとか言ってなかったか?」
「ありますけど、今、聞きますか?」
「なんか言いにくいことなのか?」
「いえ、そんなことは」
 そう言いながらも、少し愛の様子を伺っている。
「なら、今聞いた方がいいな。今日はゆっくりしてる時間はなさそうだし」
 このあと、森川、高村両家の祖父母が揃って愛奈の卒園を祝ってくれる。当然、酒が入る。そうなると、ゆっくりなどしていられない。
「わかりました」
 沙耶加は、穏やかに微笑んだ。
「実はですね、できました」
「できた?」
「はい。ふたり目、です」
「…………」
「本当なの?」
「二ヶ月だそうです」
「おめでとう、沙耶加さん」
「ありがとうございます」
「……そうか」
「ほら、あなたもボーッとしてないで」
「いや、別にボーッとしてるわけじゃないんだがな。なにはともあれ、嬉しいことだ」
「はい」
 晴れの日にはそういうことが重なるのかもしれない。
「パパ?」
 と、事態を飲み込めていない愛奈が首を傾げた。
「ん、愛奈にもうひとり弟か妹ができたんだよ」
「え、ホント?」
「ああ、本当だよ」
 愛に三人目ができた時も、愛奈は嬉しそうだった。
 愛理と紗弥とは年子だからあまりお姉ちゃんらしくできないところもあるが、六歳違えば最初からお姉ちゃんらしくできるだろう。
「今二ヶ月ということは──」
「年末くらいですね、予定では」
「夏には愛が、冬には沙耶加が。今年は本当にいろいろあるな」
 考えなくちゃいけないことはたくさんあるけど、とりあえず今は、素直に喜ぼう。
 
 案の定、卒園祝いパーティーは乱痴気騒ぎとなった。
 その中心にいるのは、四人の祖父母たち。今日が平日で、明日も仕事があることなどまったくお構いなしに、とにかく騒いだ。
 主役の愛奈は、卒園式の疲れが出たのか、愛理や紗弥よりも早く、夢の世界に旅立ってしまった。
 それから愛理と紗弥も寝てしまい、その少しあとに、父さんとお義父さんが酔いつぶれた。
 残ったのは、なぜか女性ばかり。
 母さんとお義母さんは、結構なペースで飲んでいるのだがら、まだ案外大丈夫そうだった。
 愛と沙耶加は、美樹と一緒にお茶を飲みながら話をしている。
 で、俺はといえば、その両方の相手をしなければならなかった。
「それにしても、月日の流れるのは早いわね」
「本当に」
「洋一くんも、そう思わない?」
「ええ、思いますよ」
「でも、その分だけ、年を取ってしまった、ということでもあるのよね」
「それは……仕方がないわ。そのうち、呼び方だけじゃなく、見た目も『おばあちゃん』になってしまうのよ」
「そうね」
 年の話はできるだけしたくないのだが、しょうがない。
「以前は『おばあちゃん』だなんて呼ばれるのはイヤだったけど、今は素直に受け入れられる。それが、ある意味では年を取ったということなのかもしれないわ」
「結局は、孫がカワイイからよ」
「カワイイ孫が言ってることだから、多少のことでも許せてしまう、というわけね」
「ええ」
 まだしばらく話題は変わりそうにないので、愛たちの方に目を向けた。
「来年の今頃は、美樹ちゃんも大学を卒業してるのよね」
「ちゃんと就職できて、卒業できてればいいけど」
「大丈夫よ。美樹ちゃん、優秀だから」
「美樹ちゃんは、就職はどうするつもりなんですか?」
「とりあえず、教職は採ってますから、それでまずはなんとかするつもりです」
「じゃあ、採用されれば、洋一さんと同じように先生になるわけですね」
「されれば、ですけど」
 そう言って美樹は苦笑する。
「ねえ、お兄ちゃん。そういうののコツとかってないの?」
「コツ? そんなものない。多少の実力と運があれば採用されるだろ」
「実力はどうにかできるけど、運はどうにもならないなぁ……」
「いっそのこと、大学院にでも進んだらどうだ?」
「そこまで勉強を続けたいわけじゃないから」
「だけど、普通に就職するつもりはないんだろ?」
「ないわけじゃないよ。ただ、あまり乗り気じゃないだけ」
 まあ、身近にいる俺たちの中で、いわゆる普通のサラリーマンをやってるのは、父さんとお義父さんだけだからな。そういう姿を見ていると、あまりイメージが浮かばないのかもしれない。
「まあ、そのあたりは追々考えていくよ」
 そうこうしているうちに、時計の針は深夜十二時を指そうとしていた。
「さてと、そろそろお開きにした方がいいな」
 いつの間にか、母さんとお義母さんはテーブルに突っ伏して眠っていた。
「でも、この惨状はどうするの?」
「軽く片づけて、寝てるのはそのままでいいだろ。今から起こして改めて寝てもらうのも悪いし」
「そうね。じゃあ、まずは片付けましょ」
 俺たちは手分けしてパーティーの後片づけをはじめた。
 料理はほとんどなくなっていたので、食器の片付けは楽だった。
 面倒だったのが、やはり酒類の缶やビン。結構な量があるので、ひと苦労だった。
 あとは、四人の祖父母に毛布をかけて、終了。
「お兄ちゃん。せっかくだから、今日は泊まっていけば?」
「そうしたいのはやまやまだけど、寝る場所がないだろ」
 父さんたちのベッドを勝手に使うわけにはいかないので、そうすると寝る場所は限られてくる。
 俺の部屋にはベッドがない。姉貴の部屋にはあるけど、そこは愛奈たちによって占領されている。
 美樹は自分の部屋があるからいいとしても、俺たちはさすがに寝る場所がない。
「でも、なっちゃんたちを置いて帰るの?」
「そのあたりはなんとでもなるだろ。別に誰もいないわけじゃないんだから」
「そうかなぁ。なっちゃんもりっちゃんもさやちゃんも、お兄ちゃんがいないと淋しがると思うよ」
「それを言い出したらキリがないだろ」
「じゃあ、お兄ちゃんの部屋に布団を持っていって、寝るのは?」
「布団を運ぶのが面倒なのと、布団も足りない」
「それは心配ないと思うけど」
「なんでだ?」
「なんでって、だって、一緒に寝るのが、ねぇ?」
 そう言って美樹は、愛と沙耶加を見た。
 ……なるほど、確かにそれなら足りないこともないか。
「それとも、お兄ちゃん」
「ん?」
「私と一緒に、寝る?」
「アホか」
「アホってことはないと思うけどなぁ」
 どこの世の中に二十歳過ぎた妹と一緒に寝る兄貴がいるんだ。
「私は、今でもお兄ちゃんだけが好きなんだから」
「へいへい」
 こんなところでそのことを議論するわけにはいかない。そうしないと、愛と沙耶加が拗ねるから。
「だけど、いつまでも決めないわけにもいかないな」
 愛奈たちを置いていくのも気が引けるし、しょうがないか。
「とりあえず、客間に布団を敷こう」
 行動に移れば早い。
 まずは布団を敷いて、寝床の確保。
 布団は二組しか余っていない。
 愛と沙耶加には問答無用でそこに寝てもらう。
「お兄ちゃんはどうするの?」
「愛奈たちの様子を見てくる。で、あとはソファにでも横になる」
「わざわざソファで寝なくても」
「いいんだよ。ほれ、おまえらも寝る準備しろ。もうだいぶ遅いんだから」
 そうやって三人を追い払い、俺は二階の姉貴の部屋へ。
 部屋に入ると、わずかに動いている気配がした。
 どうやら、三人のうちの誰かか、それとも三人ともか、起きているらしい。
 一応三人は、姉貴のベッドに器用に寝ている。
 だけど、このまま出て行くのはどうかな。
「さてと、今日は帰るかな」
 少しわざとらしく言ってみた。
 すると──
「やなの、パパ」
 すぐに起きていた愛理が飛びついてきた。
「愛理をおいていっちゃやなの」
 見ると、紗弥も起きている。どうやら、寝ているのは愛奈だけのようだ。
「パパぁ……」
 今にも泣き出しそうな顔で訴えてくる。
「大丈夫だよ。愛理たちを置いてパパが帰るはずないだろ?」
 頭を撫でながら言う。
「紗弥も、心配しないで大丈夫だからな」
「うん」
 やれやれ、少し言い過ぎたか。
「パパ」
「ん?」
「いっしょにねよ」
「一緒にか?」
「うん」
「そうだなぁ……」
 三人が寝ただけでベッドはいっぱいだ。俺が横になれるスペースはない。
 だけど、さっきのことがあるから、素直には引き下がらないだろうな。
「わかった。一緒に寝よう」
 ここはふたりが眠るまで一緒にいてやるか。
 少しきついが、なんとかベッドに入り込む。
「そういや、なんでふたりは起きてたんだ? 愛奈はこんなにぐっすり寝てるのに」
「りっちゃんが紗弥をおこしたの」
「そうなのか?」
「うん。おねえちゃんもおこそうとしたけど、ぜんぜんおきないんだもん」
 それだけ疲れてた、ということか。
 まあ、たいしたことはしてないとはいっても、一応それなりの公式行事だったからな、卒園式は。見えないところで疲れてしまったのかもしれない。
「パパ。なっちゃんともうようちえんいけないの?」
「ん、そうだな。愛奈は、四月から小学生になるからな」
「紗弥は?」
「紗弥は、来年な。来年には、紗弥も愛理も小学生だ」
「そしたら、またなっちゃんといっしょにいけるの?」
「ああ、行けるよ」
「そっか」
 愛奈と紗弥の関係は、姉妹なのだが微妙に友達という関係に近い。
 愛理は愛理のことは姉だと認識している。だけど、紗弥はそこまで明確には認識していない。それは愛奈の紗弥への接し方にも起因しているのだろう。
 愛理に対してはお姉ちゃんぶったところも見せているのだが、紗弥が相手になるとそこまでのことはない。それがなぜなのかは俺にはわからない。
 愛奈には紗弥が妹であることは伝えてあるし、理解もしてるはずだ。
 まあ、そこはやっぱり、四六時中一緒にいるわけじゃないからだろうな。
「愛理も紗弥も、お姉ちゃんになるんだから、小学生になったら一生懸命勉強しないとな」
「うん、愛理、いっぱいいっぱいべんきょうするよ」
「紗弥も」
「でも、勉強だけしててもダメだからな。小学生の仕事は、勉強もだけど、友達なんかとたくさん遊ぶことも仕事だ」
「あそぶの?」
「そう。たくさん遊んで、たくさん勉強して」
「ん〜……」
 まだよくわからないか。
「ねえねえ、パパ」
「なんだ?」
「しょうがくせいになったら、パパとけっこんできる?」
「ん〜、できないな」
「じゃあじゃあ、いつ?」
「そうだなぁ、愛理が大人になったらだな」
「ホントに?」
「ああ」
「そっか……」
 ここでどれだけ真実を言ったところで意味はない。なら、理解するまではそれにつきあってやった方がいい。
「ほら、ふたりともいつまでもしゃべってると、明日の朝、起きられなくなるぞ」
「はぁい」
 ふたりは、案外素直に目を閉じた。
 だけど、俺にしがみついたままで、離そうとはしない。
「パパ、いっちゃやなの」
「大丈夫だよ。ちゃんといるから」
「うん」
 しょうがない。とことんまでつきあうか。
 せいぜい、朝起きるのが三人より遅くならないようにしないとな。
 かっこわるいし。
 
 十一
 毎年、三月末か四月頭の休日に、俺たちは揃ってお花見をしていた。
 これは、誰が言い出したわけでもない。ただなんとなく、みんなでお花見したら楽しいだろう、ということではじまった。
 特別なことはなにもやらない。普通に桜の花を見ながら、飲んで食べて騒いで。
 ただ、これをやらなかった年はない。予定の日が雨でも、順延してちゃんとやった。
 参加メンバーは、うちの家族全員と、真琴、香織、由美子さん。これが固定メンバーで、あとはその時次第だ。ちなみに、来る者拒まず、去る者追わずである。
 今年は桜の開花が去年より早く、お花見の日にはちょうど八分咲きという感じだった。
 その分場所取りが大変だが、そのあたりはしょうがない。
 お花見は昼過ぎからはじめる。
 とにかくすべてを忘れて楽しむことが大事なので、みんな用事はすべて済ませて来る。
 今年は本当は藤沢たちを呼んでやろうと思ったのだが、さすがに説明できないことが多いので、それはやめた。卒業後なら、考えないでもないのだが。
 まあ、藤沢たちは藤沢たちで、部活の連中や友達連中とやってるだろう。
「毎年思うんだけど──」
「ん?」
「日本人て、やっぱり桜が好きなのよね」
 綺麗に咲き誇っている桜並木を見上げ、愛がそんなことを呟いた。
「そりゃ、国花でもあるわけだからな。それに、好きじゃなかったら、こんなことにはならないだろ」
「そうね」
 公園にある桜並木の下には、大勢のお花見客が花より団子を楽しんでいた。
「それより、早く行かないと連中に文句を言われるぞ」
「早く行かなくても言われると思うけど」
「そう言うなって」
 十人分の食べ物や飲み物を運ぶのは骨である。愛奈たちは荷物持ちには適さないので、どうしても誰かがもう一回運ぶことになる。今回は、俺と愛がそれをやっている。
 少し奥に行ったところにある桜の木の下に、俺たちの場所はあった。
「パ〜パ、おそい〜」
 真っ先に文句を言ってきたのは、愛理だった。
「ごめんごめん。人が多くて大変だったんだよ」
 全然そんなことはないのだが、一応そう言っておく。
 荷物を置き、俺たちも席に着く。
 それから全員に飲み物をまわす。
「まずは──」
『かんぱ〜い』
 みんなが揃っているからといっても、なにか特別なことをするわけでもない。
 ごくごく普通のお花見をするだけだ。
「はい、パパ」
「お、ありがとうな」
 紗弥は、俺の前にいくつかの食べ物を寄せてきた。
「紗弥も、食べたいものがあったらどんどん食べろよ」
「うん」
 普段は沙耶加の目が光っているから、好きなものだけ食べるのは難しい。だから、こういう時には普段できないことをした方がいい。
「ねえ、洋一。洋一はさ、いつまでこうしてみんなとお花見しようと思ってるの?」
 唐突に香織はそんなことを聞いてきた。
「別に、いつまででもいいんじゃないか。年によっては全員が集まらないこともあるだろうけど、だからこそ、また次の年に参加できるようにさ」
「なるほどね」
「香織こそ、どう思ってるんだ?」
「あたし? あたしは決まってるじゃない。洋一から誘われてる間は、参加するわよ」
「じゃあ、ずっと、ということだな」
「かもしれないわね」
 将来に渡ってはわからないけど、少なくとも向こう十年くらいは、これを続けられればと思っている。
 こうしてみんなが集まる機会など、そうそうないのだから。
「とりあえず、紗弥たちがもう参加したくない、という時までは続けるつもりだから」
「自分のことよりも、娘を優先させるのね」
「そういうわけでもないけどな。それこそ、そのうち俺たちだけでやったっていいんだし」
「それはそれで、楽しそうね」
「なにが楽しそうなんですか?」
 そこへ、美樹が割り込んできた。
「ん、このお花見のこれからのこと」
「これからのこと?」
「いつまで続けるのかって」
「いつまで続けるの?」
「別にいつまでというのはない。俺としては、いつまででもとは思ってるけど」
「でも、娘想いの父親としては、その大事な娘が参加したくないと言い出したら、やめようかと思ってるらしいわ」
「ふ〜ん」
「で、そうなったらそうなったで、今度はあたしたちだけでやってもいいかなって」
「ああ、そういうことですか。なるほど」
「でもさ、美樹ちゃん」
「はい」
「実際のところ、なっちゃんたちがそんなこと言うと思う?」
「ん〜、そうですねぇ、可能性はゼロではないとは思いますけど、限りなくゼロに近いと思います」
「やっぱりそう思うわよね? あたしもそう思うの。そりゃ、成長とともに親に対する考え方や接し方なんてコロコロ変わるわけだから、今だけで判断するのは早計だろうけど。でも、今のなっちゃんたちの姿を見ていると、洋一の提案を断る姿がどうしても想像できないのよね」
「三人とも、お兄ちゃんのことが大好きですからね」
 なんか、話の方向があらぬ方向へ進みそうだ。
 とりあえず、いったんこの場を離脱しよう。
 目を転じると、真琴と由美子さんが愛奈と愛理の相手をしていた。
「なっちゃん、次はどれ食べたい?」
「えっと……」
 由美子さんは、愛奈を膝に座らせ、お菓子を食べさせている。
 愛奈たちにとって由美子さんは、自分の母親よりも年上の女性としてしっかり認識されている。だからなのか、絶対にワガママは言わないし、おとなしくしている。
 由美子さんは由美子さんで、愛奈たちをことのほか可愛がっている。まあ、滅多に会えないからなんだろうけど。
「りっちゃん、上手だね」
「えへへ」
 真琴と愛理は、真琴が持ってきていたスケッチブックになにやら絵を描いている。
 愛理にあわせてか、ちゃんとクレヨンを持参してきている。
「どれどれ?」
「あ、パパ」
 愛理がなにを描いたのか気になったので後ろから覗き込んだ。
「お、桜の木か」
「うん」
 そこに描いてあったの、桜の木だった。
 ピンク色の花と、茶色の樹。それだけなのだが、ちゃんと桜の木に見えた。
「洋一さん。りっちゃん、上手ですね」
「そうだな。とりあえず、対象物を正確に表現することはできるみたいだ」
「このまま絵を教えたら、将来は有名な女性画家になるかもしれませんね」
「それは飛躍しすぎだろ。それに、俺の方から愛理に絵を教えようとは思ってない」
「そうなんですか?」
「愛理がどうしても教えてほしいと言い出せば別だけど、そうじゃなかったら、絶対にしない。やりたいことは自分で決めるべきだ」
「そうかもしれませんけど……あ、じゃあ、私がりっちゃんに教えてもいいですか?」
「真琴がか?」
「はい」
「別にいいけど、とりあえず、愛理の自主性に任せてくれよ」
「わかってますよ。私の絵だってそうだったんですから。自分がされてイヤなことは絶対にしません」
「パ〜パ、パ〜パ」
「ん、どうした?」
「これ」
 俺たちが話している間にまた違う絵を描いたようだ。
 見ると──
「これは……パパか?」
「うんっ」
 そこには、俺とおぼしき人間のようなものが描かれていた。
 かろうじて俺だと判断できたのは、愛理が描くなら誰だろうかと想像したからだ。じゃなかったら、いくら愛娘の絵でもわからなかっただろう。
「そうか。上手だな」
「えへへ」
 頭を撫でてやると、愛理は嬉しそうに笑った。
「むぅ、パパぁ……」
 と、いつの間にか愛奈が頬を膨らませて俺をにらんでいた。
「洋一くん。りっちゃんばかり褒めてると、なっちゃんがへそ曲げちゃうわよ」
「……すでに曲げてると思いますけど」
「そういえばそうね」
 由美子さんは笑う。
「あ、そうだ。洋一くん」
「なんですか?」
「昨日ね、偶然藤沢さんに会ったのよ」
「えっ……?」
 唐突に、思いもかけない名前が出てきて焦った。
 で、間の悪いことにその場にいた愛奈たち以外の耳にはそれが届いていた。
 あからさまに反応はしていないけど、聞き耳を立てている。
「本当に偶然に会っただけだから特になにをしたわけでもないんだけど、ひとつ、頼まれたことがあって」
「……なんですか?」
「新学期がはじまったら、また一緒にお昼を食べましょう、って」
「…………」
 うあ、愛と沙耶加の目が猛禽類のそれになってる。
 というか、俺、ピンチ?
「でも、さすがは藤沢さんよね」
「どういう意味ですか?」
「だって、私に言づてを頼めば、洋一くんに伝わることがわかってるわけだから」
「……そういえば、そうですね」
 確かに学校では由美子さんとよく話すけど、それはあくまでも放課後とか、比較的時間のある時だ。そんな姿をそうしょっちゅう見られているとは思えない。
「これはあれかしら。女の勘、てやつ」
「……それ、本当だったらかなりまずいんですけど」
「大丈夫よ。彼女だって、同じなんだから」
 そうかもしれないけど、釈然としない。
「こほん、あなた」
「……な、なんだ?」
「私も一度、その話を詳しく聞きたいと思っていたの」
 いつの間にか、愛が俺のすぐ側に移ってきていた。
「私も、是非聞きたいです」
 沙耶加まで。
「い、いや、別に特別なことはなにもないぞ。藤沢は教え子だからな」
「どうなんですか?」
 そこで由美子さんに話を振る。
「そうねぇ、洋一くんの方は確かにそんな感じらしいわね。私も直接そのやり取りを見たわけじゃないから、なんとも言えないけど。でも、聞いた話だと、藤沢さんの方はだいぶ違うみたい。洋一くんに妻子がいることを承知の上で、積極果敢にアタックしてるみたいだから」
「へえ……」
 ま、マジで怖いんですけど……
「そういえば、あなた。確か、その藤沢さんだっけ? 私に会いたいって言ってたのよね?」
「あ、ああ……」
「じゃあ、今度私が直接会って、いろいろと、話を聞いてみるわ」
「お、おい……」
「もちろん、彼女自身に興味もあるけど、愛奈と愛理がお世話になったんだから、そのお礼くらいは言っておかないと」
「それはまあ、そうかもしれないけど……」
 間違ったことは言ってないから、反論もできない。
「やっぱり、お兄ちゃんはモテるんだね。ねえ、お兄ちゃん。今、学校でお兄ちゃんのことをいいな、って思ってる子、どれくらいいるの?」
「そんなこと俺がわかるわけないだろうが」
「洋一くんが現役の頃から類推すると、それなりの数になってると思うわ」
「やっぱりそうですか。う〜ん……」
 火に油を注ぐようなことを言わないでほしい……
「ったく……」
 せっかくのお花見も、いつの間にか俺のつるし上げ大会になってるし。
 本当にやれやれだ。
 
 十二
「よ……っと」
 勢いよくカレンダーをめくる。
「もう四月、か……」
 今日から四月。
 また今年も、はじまりの月が巡ってきた。
「洋ちゃん」
 カレンダーを見ながらしみじみとしていると、愛が声をかけてきた。
「ん、どうした?」
「うん、洋ちゃんはなにをしてるのかな、って」
 言いながら俺の隣にやって来る。
「もう四月なんだな、と思ってな」
「そうだね。もう四月なんだね」
 愛も、カレンダーを見ながらしみじみと言う。
「愛奈も小学生になるし、この春はいろいろありそうね」
「だな」
 春は、本当に様々なことがある。
 出逢いと別れ。
 はじまりと終わり。
 もちろん、それは春に限ったことではない。ただ、春にそういうことが多い、というだけだ。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「洋ちゃんは、今、幸せ?」
 唐突にそんなことを聞いてきた。
「そんなわかりきったことを聞くな」
「それでもね、たまに確認したくなるの。洋ちゃんにもそういうことってあるでしょ?」
「ん、まあな」
「で、どうなの?」
「もちろん、幸せだよ」
 そう言って愛の肩を抱く。
「少なくとも、今はあの時に誓ったことを守れてる」
「あの時?」
「おまえと沙耶加のふたりを選んだ時のことだ」
「あの時か……」
「俺だけが幸せでもダメ。おまえだけが幸せでもダメ。みんなが幸せじゃないと、意味がない。だから俺は俺に関わっているみんなが幸せであるようにがんばってきたつもりだ」
「うん、そうだね。洋ちゃん、本当にがんばってると思う」
「だから、俺は今、幸せだ。みんな、幸せでいてくれてるから」
「そっか」
 今は確かに幸せだ。だけど、それは保証された幸せじゃない。努力してつかみ取らなければならない幸せだ。
「これから先もみんなが幸せであり続けられるように、俺は最善を尽くす」
「それは、洋ちゃんだけががんばってもダメでしょ?」
「ああ」
 そう。
 みんなで一緒に。
 そうじゃなければ意味がないのだ。
 愛。
 沙耶加。
 美樹。
 真琴。
 由美子さん。
 香織。
 この六人だけじゃない。
 愛奈に愛理、紗弥の三人娘。
 それに、姉貴たちや大勢の人たち。
 みんなで。
「さ、洋ちゃん。朝ご飯にしよ。愛奈たちも待ちくたびれてるわ」
「そうだな」
 多くを望まず、一歩ずつ。
 
 大切な人たちと一緒に──
 
 歩き続ける──
 
 いつまでも──
 
                                   FIN
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