恋愛行進曲
第二十章 答え(後編)
一
三月二十七日の朝は、なんとも言えない気分で目が覚めた。やはり、昨夜のことが気にかかっていたせいだろう。
だけど、予想に反して俺が目を覚ました時には、美樹はすでに起きたあとだった。ぬくもりは残っていたから、起きてからまだそれほど時間は経っていないようだった。
時計を見る。
「七時半、か」
春休みということを考えれば、十分に早い時間だ。だけど、今日はのんびりしている余裕はない。
ベッドから出て、着替える。
確か、天気予報だと暖かくなると言っていたから、春らしい格好にした。
部屋を出て念のために美樹の部屋をノックしてみたが、美樹はいなかった。
下に下りると、台所から声が聞こえてきた。
「おはよう」
「おはよう、洋一」
「お兄ちゃん、おはよ」
台所では、母さんと美樹が楽しそうに朝食の準備をしていた。父さんが仕事でいないから、多少朝食の時間が遅くなっても問題はない。
美樹は、一瞬だけ済まなそうな顔を見せたけど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
まだ完全に整理はできていないのだろうけど、普通を装えるくらいには精神的にも成長したということだ。
それを確認できただけで、俺はひと安心だった。
それから朝食を済ませ、改めて準備の確認をする。
「とはいえ、たいした量じゃないけど」
カバンには本当にたいしたものは入っていない。もともと余計なものを持って歩きたくないタチなので、当然といえば当然なのだが。
必要なものは全部入っていることを確認し、俺は時計を見た。
もうそろそろ九時になろうかという時間だ。
「んじゃ、行きますか」
カバンを持ち、部屋を出る。
リビングに顔を出し、母さんに声をかける。
「じゃあ、そろそろ行くから」
「日頃、愛ちゃんに迷惑かけてばかりなんだから、こういう時くらい、甘えさせてあげなさいね」
「わかってるって」
「あと、なにかあったらすぐに連絡すること」
「大丈夫」
玄関で靴を履き、ドアを開ける。
すると、玄関を出たところに、姉貴がいた。
「なにしてんの、こんなとこで?」
「ん、日光浴」
冗談とも本気ともわからないことを言う。
「ひとつだけ、確認したいんだけど」
「ん?」
「あんたはこの旅行を、どんな旅行と位置付けてるわけ?」
「どんなって、愛とふたりきりで過ごすための旅行だろ」
「それだけ?」
「それだけって、それ以上なにがあるって言うんだ?」
姉貴の言葉に、俺は首を傾げた。
「まあ、それはそれでいいんだけど、でもさ、あんたは今、自分がどういう状況にいるかわかってるんでしょ?」
「それは、まあ」
「なら、自ずとこの旅行がそれだけじゃ済まないことも、わからない?」
「…………」
「ま、そういうことよ。とはいえ、愛ちゃんといる間、バカ正直にそれだけ考えてる必要もないけど」
なんとなく、姉貴の言いたいことはわかった。
つまり、この旅行で、俺の愛に対する想いを再確認しろ、ということだ。そうしないと、すべての結論に意味がなくなってしまうから。
「そんじゃま、せいぜい楽しんできなさい」
「ああ」
姉貴は、そのまま家に入っていった。
でも、確かにこの旅行にはそういう意味合いを持たせなくちゃいけないのかもしれない。
「ま、いいや」
だけどとりあえず今は、余計なことは考えないようにしよう。
今はただ、愛との旅行を純粋に楽しみたいから。
箱根は、江戸時代から関所が設けられ、それに伴って旅籠などが発達した場所である。
今でこそ山越えなどしなくて済むようになったし、たとえ山越えするにしても車という便利なものがあるので、大変じゃない。
だけど、当時は『箱根の山は天下の険』とまで言われた難所だった。
その名残を、曲がりくねった道路や、スイッチバック方式が採用されている箱根登山鉄道に見ることができる。
で、俺たちは電車を乗り継ぎ、とりあえず箱根の玄関口である箱根湯本駅へと降り立った。
「やっと着いたね」
「ああ」
実際、やっとというほど時間はかかっていないのだが、普段乗り慣れない電車にそれなりに揺られていたので、そんな感想になってしまう。
駅から見えるあたりでは、観光客や湯治客の姿が結構見られた。
本格的な観光シーズンはこれからだが、さすがは箱根という感じだった。
俺たちが泊まるのは、湯本にある旅館で、駅から歩いて十五分ほどのところにある。
「とりあえず、どうしよっか?」
「そうだな。チェックインまではまだ時間があるんだよな?」
「うん。チェックインは、三時以降だから」
「とすると、まだ二時間以上時間をつぶさなくちゃならんわけか」
来る電車の中で昼食は食べたので、それ以外でなんとかしなくちゃいけない。
「まあ、適当にぶらつくというのもありじゃないか?」
「うん、そうだね」
というわけで、俺たちはなんの目的もなく、そのあたりを歩くことにした。
それほど大きな場所ではないので、見るところはそれほどないけど、時間をつぶすくらいには役に立ちそうだった。
「あ、ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「これって、桜の木だよね?」
「ん、ああ、そうだな」
歩いていると、桜の並木に遭遇した。
「もう少しあとなら、きっと綺麗だったろうね」
「まあな。だけど、その頃じゃここまでのんびりとした空気は漂ってないだろうな」
「ふふっ、そうだね」
そのためにわざわざ桜の咲いていそうにない場所を選んだのだ。
「桜が咲いたら、お花見に行こうね」
「花見か。そうだな。去年はいろいろあって行けなかったから、いいかもな」
「うん」
去年の桜の頃は、例のことがあったせいで、俺の方が愛を避けていた。だから、当然花見にも行っていない。
「本当はね、去年も洋ちゃんとお花見に行くつもりだったんだよ。だけど、あのことがあったから、私自身もうやむやのうちに桜の季節は終わっちゃった」
「去年は、本当に花見どころの騒ぎじゃなかったからな。俺なんか、どうやって愛と会わないようにしようか、そればかり考えたし」
「そっか」
「だけど、今年は去年の分まで楽しむつもりだ」
「私も」
俺の言葉に愛も大きく頷いた。
「だけど、もう一年経つんだな」
「うん、そうだね」
「結果的には去年思っていた通りになってるけど、その過程は決して平坦じゃなかった」
「それは、私のせいだよ」
「別におまえのせいじゃないさ。強いて言えば、俺もおまえも、考えが足りなかったということだ。もう少し考えていれば、違った状況になってたかもしれない。とはいえ、それも今更だけどな」
「私は……たぶんだけどね、どこかで洋ちゃんとはそういうことを言わないでもずっと一緒にいられると思ってたんだよ。だから、洋ちゃんに最初に告白された時、どうすればいいのかわからなかった」
「俺だって、おまえから返事をもらえずに、どうすればいいのかわからなかった」
「本当に今更なんだけど、もしあの時、私がそれにちゃんと応えていたら、どうなってたのかな?」
「さあ、そこまではわからん」
去年の春休みにつきあうことになったとしたら、今よりも五ヶ月ほど長いつきあいになってただろう。だけど、その間にいったいなにがあっただろうか。
「なんだかんだ言いながらも、二年になってからもずっと一緒にいたんだから、それほど変わらないんじゃないか」
「ん、でも、ひとつだけ違うことがあったと思うよ」
「なんだ?」
「たぶんだけど、夏までに洋ちゃんと初エッチしてたと思う」
「……ああ、そっちか」
「私はとにかく、洋ちゃんと一緒にいて、洋ちゃんに必要とされたかったから。たとえそれが、肉体的なことでもね。だから、夏までにはエッチしてたと思う」
「それはまあ、わからんでもないが」
結局、俺も愛とそういうことをしたかったわけだから、そうなってた可能性は高いだろうな。
「でも、そういうあり得ないことを言ってもしょうがないよね。去年の春、私は洋ちゃんに明確な答えを示せず、結局夏になるまで恋人にはなれなかった。それが現実だもの」
「そうだな」
愛がそのことを気にする理由は、沙耶加のことがあるからだ。もし去年の春に恋人同士になれていたなら、本当に沙耶加とのことはなかったかもしれない。今の状況を考えれば、そうなっていた方が愛にとってはよかったはずだ。
「だからね、洋ちゃん」
「ん?」
「私はもう、二度と後悔しないようにこれから過ごしていくの。私自身のことも、洋ちゃんとのことも」
本当に取り返しのつかないことなどそうはない。だけど、それと心情とは別である。
「とりあえず、この話はこれでおしまい。今は、このふたりきりの旅行を楽しまなくちゃね」
「ああ」
俺も、後悔しないようにしないと。
適当に時間をつぶし、ちょうどチェックインのはじまる時間に旅館に入った。
旅館は、箱根の老舗旅館で、外観もそれらしい佇まいを見せていた。
それなりに古い建物ながら、きっちり手入れされているおかげでとても綺麗だった。
案内された部屋は、二階の一室。窓からは箱根の山々が一面に広がっていた。
部屋自体は八畳間のごく普通の部屋。別に一週間も二週間も湯治するわけじゃないから、十分だ。
聞いた話だと、今日は満室にはならないらしく、右隣の部屋は空室のままだという。
静かな方がのんびりできるから、それは願ってもないことだった。
「洋ちゃん」
「ん、どうした?」
「やっと、ふたりきりになれたね」
「厳密には今までにもあったけどな」
「むぅ、それはいいの。大切なのは、今、ふたりきりなことなんだから」
そう言って愛はぷうと頬を膨らませた。
「洋ちゃんは、私とふたりきりなの、イヤなの?」
「誰もそんなこと言ってないだろうが」
「だってぇ……」
「ったく……」
俺は、愛の肩を抱き寄せた。
「ねえ、洋ちゃん」
「なんだ?」
「洋ちゃんはもう、答えは出てるの?」
「答えって、おまえと沙耶加のことか?」
「うん」
「まあ、そうだな……」
愛の髪を撫でながら、俺は小さく頷いた。
「もともと俺は、今回のことがなくてもどこかで答えを出さなくちゃいけないとは思ってたからな。それが今回、この三月中という期限ができたおかげで、よりしっかり考えたと思う」
「それって、洋ちゃんにとって、どんな答え?」
「後悔だけはしない答えだな。この期に及んで後悔だけはしたくないから」
「そっか、そうだよね」
「愛は、なにか考えたのか?」
「うん。私もいろいろ考えたよ。でもね、私の答えは、ずっと一緒なの。私はとにかく、洋ちゃんと一緒にいたい。それだけ。洋ちゃんの側にいて、洋ちゃんと感じられれば、それでいいの」
愛は、特に気負った様子もなく、穏やかにそう言う。
「もちろん、できることならこうなりたい、っていうのはあるよ。だけどね、多くを望むときっと、些細な幸せまで逃げてしまうような気がして。だから、私は絶対に譲れないただひとつのことだけを望むの。それさえかなえられれば、私は満足だから」
「絶対に譲れないこと、か」
愛にそういうことがあるのと同じように、俺にもそういうのがある。
「俺の場合は、俺の側にいるすべての人が、等しくその人の最高の笑顔を見せてくれていること、だな」
「そうなの?」
「ああ。笑顔でいられることイコール、それはその人が俺の側にいて幸せだという証になるからな」
「そっか」
「俺がその人を幸せにできるかどうかはわからんが、少しでも幸せであってほしいから、そのためにありとあらゆる努力は惜しまない」
「そういうことをさらっと言えるところが、洋ちゃんのいいところだよね」
そう言って愛は微笑む。
「まあ、俺だって青臭いガキみたいなことを言ってるって、自覚してる。だけど、この期に及んでウソをつく意味がないからな。だから、少なくともおまえや沙耶加の前では、俺を偽る必要はないんだ」
「うん」
「だけどな、愛」
「ん?」
「それ自体がひょっとしたら、偽善なのかもしれない。おまえや沙耶加に対する、言い訳なのかもしれない。たまに、そう思う」
「洋ちゃん……」
俺は全知全能の神様じゃないから、なにが正しくてなにが間違ってるのか、そんなことはわからない。ひょっとしたら、俺の言ってることはすべて独りよがりの、バカげたことなのかもしれない。
でも、たとえそうだとしても、俺はそれが最良の答えだと信じていなければならない。そうしなければ、愛や沙耶加に語るべき言葉がなくなってしまうから。
「俺にとって愛はどんな存在なのか。そこから導き出される答えと、同じように沙耶加の場合の答えを吟味して、その上で俺の考え得る最良の答えを用意したつもりだ。だから、それが偽善だったとしても、俺はそれを信じるしかない。そうしなければ、おまえたちになにも言う権利がなくなってしまうからな」
「そこまで難しく考えなくてもいいと思うけど。でも、そうだね。洋ちゃんがそこまで考えてくれた答えなら、絶対に後悔はしないね」
そう。ここで大事なのは、後悔しないことなのだ。
ウソでもいい。後悔さえしなければ。
「……洋ちゃん」
「なんだ?」
「正直に答えてほしいんだけど──」
「ああ」
「私と沙耶加さん以外に、誰ともその、関係は保ってない?」
「ああ、保ってない」
その質問は、いつかあるとは思っていた。だけど、それだけは本当のことは言えない。
少なくとも今は、ウソをついておかなければならない。
「本当に?」
「ああ」
「……そっか」
愛は、わずかに目を伏せ、小さく頷いた。
「洋ちゃんのいいところは、誰にでも優しくできて、しかもその人を思いやれることだと思う。だから、もし仮に洋ちゃんのことをそれこそ、これから先の人生をすべて捧げてもいいくらい好きだっていう人が現れたら、きっと洋ちゃんはその人のことを放ってはおけないだろうから」
「…………」
「私の大好きな洋ちゃんは、そういう人だから」
すでに、沙耶加のことがあるから、愛もそういう結論に達したのだろう。
「もしね、沙耶加さん以外に誰かいたら、できれば正直に教えてほしいの。これは、洋ちゃんの彼女だからってことじゃなくて、洋ちゃんが私のことを本当に必要としてくれて、しかも好きでいてくれるならってこと」
「……わかった」
俺だって、いつまでも黙っているつもりはない。いつか必ず、由美子さんのことも香織のことも話す。ただ、今はその時期じゃないだけだ。
「恋人同士になったらいいことしかない、なんてことは思ってなかったけど、ここまでいろいろあるとは思わなかったなぁ。でも、それは当然なんだよね。だって、私が洋ちゃんのことを好きになったのなら、ほかの人だって同じように洋ちゃんを好きになる可能性があるんだから。そして、私以外の誰かが本気で洋ちゃんのことを好きになったら、やっぱりいろいろあると思うから」
「そうかもしれないな」
「その時にどういう行動をとるか。それがこれからの私たちの関係を決めるのかもしれない。だから、私もいろいろ考えたの。私にとって、これからどうあれば後悔しないで洋ちゃんとずっと一緒にいられるかって」
「そっか」
程度の差はあれども、結論はさほど変わらないのだろう。
俺も愛も、とにかくずっと、一緒にいたいのだ。
「そして、願わくば、その私の考えと洋ちゃんの考えが同じだったらいいな」
その言葉には答えず、俺は愛を抱きしめた。
華奢な体がすっぽりと腕の中に収まる。
「大好き……洋ちゃん……」
夕食は六時からで、部屋で食べるか食堂で食べるか選べるようになっていた。
食事は賑やかな方がいいということで、俺たちは食堂で食べた。
料理は特別なものではなかったけど、さすがは老舗旅館という感じではあった。
夕食から部屋に戻ると、すでに布団が敷かれていた。
とはいえ、まだまだ寝るには早い時間だ。
とりあえず食休みをとって、それから温泉に入ることにした。
温泉は内風呂と露天風呂があり、どちらも二十四時間入浴可能だった。
三月下旬とはいえ、やはり箱根である。夜になるとさすがに冷えてきた。
だから、暖かい温泉がとても気持ちよかった。
なにも考えず体の力を抜き、お湯に浸かる。
一週間も入り続ければ、心身ともにリフレッシュできるだろう。
まあ、高校生の俺が湯治まがいのことをするというのも、いささか問題があるとは思うけど。
十分に温泉を堪能して、部屋に戻った。
本当は愛が出てくるのを待ってようかと思ったが、待てそうな場所がなかったので部屋に戻った。
「ふう、いい気持ちだったね」
その愛が戻ってきたのは、十分後だった。
愛は、洋服ではなく浴衣に着替えている。
「やっぱり温泉て、日本人にはなくてはならないものだよね」
「確かにそうだな。ずっとそのまま浸かってたいくらいだ」
「うん」
火照った体を冷ますために、少し窓を開ける。
ひんやりとした空気が気持ちいい。
「でも、できれば混浴がよかったなぁ」
「混浴って、最近じゃほとんどないだろ」
「そうなんだよね。混浴は混浴で需要があると思うんだけど、やっぱり需要と供給のバランスが取れないんだろうね」
「まあ、混浴に入ろうと思うのは、カップルくらいだからな。普通の人たちはどうでもいいんだよ」
「だからその代わり、最近だと部屋にお風呂があったりするよね。さすがに小さくはなっちゃうけど、誰に気兼ねすることもないし」
以前、由美子さんと行った温泉もそれだったな。
「この箱根にはなかったのか?」
「あったよ。あったけど、そういうところは値段に跳ね返ってくるから」
「……なるほど」
世知辛い世の中だ。
「そういうところは、また今度の機会にね。それに、お風呂だけなら、洋ちゃんの家や私の家でも入れるし」
「ま、そうだな」
「今は、洋ちゃんとふたりきりなだけで十分」
そう言ってにっこり微笑む。
「なあ、愛」
「ん?」
「おまえ、進路とかどうするんだ?」
「進路?」
「ああ。俺たちも三年になるだろ。そしたら、イヤでも考えないとマズイし」
「それはそうだけど。あれ、でも、洋ちゃん」
「なんだ?」
「この前の進路調査、なんて書いて出したの?」
「ただ単に進学って」
「……なるほど」
愛は、多少哀れみの目で俺を見た。
「洋ちゃんはやりたいこと、ないの?」
「やりたいことねぇ……」
「美香さんみたいに心理学とかは?」
「俺には無理だな」
確かに面白そうだとは思うけど、それを勉強するのは面倒そうだ。それに、俺には誰かを『見る』ということができそうにもない。
「じゃあ、小父さんみたいに外交官とか」
「そっちはもっと無理だな。まず、英語が苦手だ」
「ん〜……」
姉貴は心理学、和人さんは理学、香織は法学。どれもこれも今の俺には想像もできない。だからといって、父さんのように外交官にもなれそうにもないし。
「じゃあ、洋ちゃんはなんのために大学に行くの?」
「それは、俺自身が一番知りたい」
「それって、全然ダメな気が……」
「だからおまえに聞いたんだ」
「そういうことか」
「で、どうなんだ?」
「私は、正直言えば、大学には別に行かなくてもいいと思ってるの」
「なんでだ?」
「やりたいことがないわけじゃないけど、別にそれは大学に行かなくてもできることだし。それよりも私は、洋ちゃんと一緒にいることの方が大事だから」
「俺と?」
「うん。たとえば、私と洋ちゃんのやりたいことが違って、大学も別じゃないとダメだとするよ。家が近いから会えないということはないだろうけど、カリキュラムも全然違うだろうから、間違いなく会える回数は減っちゃうだろうし」
「まあ、そうだろうな」
「私はね、そんなのイヤなの。だって、せっかく洋ちゃんと一緒に居続けてもいい関係になってるのに、そんなつまらないことでそれがなしになっちゃうなんて、絶対に納得できないもの」
大学進学がつまらないこと、か。愛らしい考えだな。
だけど、それもひとつの考え方だ。ようするに、自分にとってなにが大事なのか。それを考えれば、愛のような考え方もありだろう。
「それはそれでわかった。だけど、おまえのやりたいことってなんなんだ?」
「ん、翻訳の仕事」
「翻訳? それって、通訳じゃなく?」
「うん。本でもいいし、映画とかのテロップでもいいし。そういう仕事」
「なるほど。確かに、それだと無理に大学に行く必要はないな」
「それに、自宅で仕事ができるからね」
「もし大学に行くなら、文学部か」
「うん。文学部。もしくは、外大だね」
そこまで考えてるのか。というか、俺が考えてない方がおかしいのか。
「今の段階で洋ちゃんがやってもいいな、って思ってることってなに?」
「そうだな……」
絵や音楽は、あくまでも趣味だからな。それを今更やろうという気にはならない。
だからって、姉貴たちのやってることをやろうという気もないし。
「改めてそう言われると、なかなか思い浮かばないな」
「なんでもいいんだよ。別にそれを今すぐにやるわけじゃないんだから」
「ん〜……」
俺が今考えてることは、進路のことよりも愛や沙耶加のことだからな。だからというわけじゃないけど、そっちの方はどうも考えにくい。
「……文学、経済、経営、法学、社会学、心理学、福祉、理学、医学、薬学、工学。どれもこれも違うんだよな」
「絵は?」
「絵は、あくまでも趣味だ。今までだって独学で好き勝手にやってきたんだから、今更誰かに教わろうとは思わない」
「そっか」
「まあ、そういうことばかり言い出すとキリがないんだけどな」
「それがわかってるなら、もう少しいろいろな視点から考えてみた方がいいよ」
「ま、それしかないんだろうな」
結局は、時間ギリギリまで考えるしかない。俺の将来のことだ。誰もなにもできない。
「優美先生にも時間はもらってるから、もう少し真剣に考えてみるよ」
「うん、それがいいよ」
「ただまあ、今俺が考えられない理由は、今の俺が置かれている状況があるからなんだけどな」
「それって、私と沙耶加さんのこと?」
「ああ。今はとにかく、その問題をなんとかしたい。それだけなんだ。それに、おまえだって沙耶加だって、いつまでも中途半端なのはイヤだろ? もしかしたら、俺の選択ひとつでおまえたちの考えだって変わるかもしれないし」
「そうかも」
「だから、とりあえずはそっちから片づける。で、それが片付いたら、改めて進路のことを考える」
「そうだね。それがいいかも」
情けない話だけど、今はそれしかできない。
本当なら、ここまであれこれ考える必要はなかったはずなんだけどな。
「ふう、普段使わない頭を使うと、疲れるな」
「ふふっ、それは大げさだよ」
「いやいや、俺にとっては全然大げさじゃないって。普段、なんも考えないで生活してるからな」
「そんなことはないと思うんだけどなぁ。洋ちゃんみたいにいろいろ考えてる人って、そうはいないと思うし」
「それはおまえの勘違いだろ」
「違うよ。絶対に違う」
そんなことで強情にならなくても。
まあ、それはどうでもいいんだけど。
「ま、その話は今はいい。それに、今考えたってどうにかなるもんじゃないし」
「そうだね。じゃあ、これからどうしよっか?」
「どうするって、そりゃ──」
そんな俺の言葉を遮るように、だいぶ聞き慣れたメロディが聞こえてきた。
「携帯、だね」
「ああ」
俺は、携帯を取り出し、ディスプレイを見た。そこには『高村美樹』とあった。
「美樹?」
「美樹ちゃんなの?」
頷きながら、電話に出た。
「もしもし」
『あっ、お兄ちゃん』
「ああ。どうした、わざわざ電話なんかしてきて」
『あ、うん。ちょっとね、お兄ちゃんとお話ししたいなって思って』
「それって、今じゃなきゃダメなのか?」
『そんなことはないんだけど、できればね、こうやって電話の方がよかったから』
直接じゃなくて間接の方がいい、か。
「で、どうしたんだ?」
『あのね、お兄ちゃん。昨日のことなんだけど』
やっぱり、その話か。
『昨日は、本当にごめんね。今、お兄ちゃんは愛お姉ちゃんと沙耶加さんのことで大変なのわかってたのに。それなのに、私とのことで余計なことを考えさせちゃった』
「余計なことじゃないさ。おまえのことだって、考えなくちゃいけないことなんだから」
『それはそうかもしれないけど、でも、それは今じゃなくてもよかったわけでしょ。私たちは、同じ家に暮らしてる家族なんだから』
「ん、まあな」
『だから、お兄ちゃんに謝ろうと思って。本当はこういうことは直接言わなくちゃいけないんだろうけど。でも、今お兄ちゃんと直接それを話したら、私きっと、また同じことしちゃうと思うから。だから、こうして電話にしたの』
「なるほど」
それはそれでわかるけど。
『それでね、お兄ちゃん』
「ん?」
『今日ね、お姉ちゃんといろいろ話したの』
「姉貴と?」
『うん。私ひとりで考えてると、だんだんわからなくなってきちゃうから。誰かに話して、その上でいろいろ言ってもらえた方が、いいと思って』
「で、姉貴というわけか」
『うん』
「姉貴は、なにか言ってたか?」
『いろいろ言ってくれたよ』
「姉貴なら、余計なことも含めて、あれこれ言ってはくれるよ思うけど」
『そんなこと言ったらダメだよ。お姉ちゃんは、いつでもお兄ちゃんや私のこと、考えてくれてるんだから』
「わかってるって」
それはイヤというほどわかってる。俺のことをいつも助けてくれるのは、姉貴だから。
『それでね、お兄ちゃん。私ね、お姉ちゃんに私の考えてること、全部話したの。そしたらお姉ちゃん、どうするにしても中途半端なことだけはしないように、だって。中途半端なことをすると、絶対に後悔するから』
「確かに」
『だからね、お兄ちゃん。私、やっぱりお兄ちゃんとは兄妹以上の関係になりたい。妹として可愛がってもほしいけど、ひとりの女の子としても可愛がってほしいの』
「……とりあえずさ、美樹」
『うん』
「今は、答えなくていいよな?」
『うん。今はいいよ。今、お兄ちゃんが考えなくちゃいけないのは、別のことだからね』
「悪いな。終わったら、ちゃんと考えるから」
『焦らなくていいよ。私ももう、焦ってないから』
「そっか」
姉貴とどんな話をしたのかはわからないけど、それは美樹にとっていいことだったんだろうな。電話越しだけど、その声もいつもの感じだし。
『お兄ちゃん』
「なんだ?」
『帰ってきたら、またいろいろお話ししようね』
「ああ。そうしよう」
『それじゃあ、おやすみなさい』
「おやすみ、美樹」
電話を切る。
「ふう……」
「美樹ちゃん、どうしたの?」
「いや、いろいろあってな。直接話しにくいことを、電話で話したってことだ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
事情を知らない愛は、なんとなくな感じで頷いた。
「ねえ、洋ちゃん。洋ちゃんと美樹ちゃんて、今でも『兄妹』だよね?」
「なんだそれ? そんなの当たり前だろ?」
「うん、そうなんだけどね。ただ、たまに洋ちゃんと美樹ちゃんを見てると、その姿が普通の兄妹には見えないことがあるから」
俺のことも美樹のこともよく理解している愛にとっては、やっぱりそう見えるんだろうな。
「美樹ちゃんの洋ちゃんに対する想いは、間違いなく妹以上のものだからね」
「……そうだな」
「これは言いたくなければ言わなくてもいいんだけど、美樹ちゃんに兄妹以上の関係になりたいって言われたこと、ある?」
「……ああ」
「そっか……やっぱり……」
言われただけで、まだそうなったわけじゃない。だから、隠しておく必要はない。
「前にね、美樹ちゃんと話したことがあるの。もし洋ちゃんが美樹ちゃんのことを受け入れてくれたら、どうするのって。そしたら美樹ちゃん、それはそれで嬉しいって。だからね、美樹ちゃんができれば兄妹以上の関係になりたいの、知ってたから」
「だけどさ、やっぱりおかしいと思うだろ?」
「確かに、常識で考えればおかしいとは思うよ。でも、兄妹だからというだけで好きになっちゃいけないっていうのは、もっとおかしいと思うから」
「それは、まあ、そうかもしれないけど」
「ただね、洋ちゃんにはどうあっても美樹ちゃんだけは受け入れてほしくないの。もし洋ちゃんが美樹ちゃんを受け入れてしまったら、私は美樹ちゃんにどう接したらいいかわからなくなるから。今のままなら、美樹ちゃんは『妹』として接して、受け入れられるんだけど、そうじゃなくなったら、さすがにわからない」
それはそうだろう。もし俺が同じ立場でも、そう考える。
「ね、洋ちゃん。それだけは、絶対に約束してね?」
「ああ、わかった」
愛に言われたからというわけじゃないけど、俺の中ではすでに美樹に対する答えは出ている。あとは、それをどうやって実行するかだけだ。
やっぱり、俺にとって美樹は、妹なんだ。
「もうそのことはいいよね?」
「ん、ああ」
「じゃあ、邪魔が入らないうちに、洋ちゃんにいっぱい可愛がってもらおうっと」
そう言って愛は、自然な流れで俺に抱きついてきた。
浴衣の薄い布越しに愛の柔らかな肢体がよくわかる。
「洋ちゃん」
「わかったよ」
「うん」
俺は、愛を抱きかかえ、そのまま布団に横たわらせた。
「電気、消すか?」
「ん〜、どっちでもいいよ」
「じゃあ──」
俺は、明かりを落とした。
とはいえ、完全に消したわけじゃない。豆球の淡い光が部屋を、愛を淡く照らしている。
「ん……」
キスをしながら浴衣越しに胸に触れる。
「あ、ん……」
「してるんだな」
「あ、うん。一応ね。本当はしたくなかったんだけど、なにがあるかわからないから」
「そうだな」
大浴場から部屋までそんなに距離があるわけじゃないけど、当然他人の目がある。そういうことがあれば、多少は考えるべきだろう。
「このままするか」
「それは洋ちゃんに任せるよ」
胸元に手を入れ、ブラジャーをずらす。
「あぅ……」
だいぶ火照りは収まっているようだが、それでも普段よりもほんのり暖かい。
指先で乳首をこねながら、胸を揉む。
「んっ」
俺が手を動かす度に、浴衣がはだけていく。
その姿がなんとも言えず、がっつきたくなる。
それでも理性を総動員し、なんとか冷静に進める。
今度は手を下半身に滑らせる。
乱れた裾の間から、ブラと揃いのショーツが見えている。
そのショーツの上から秘所に触れる。
「あんっ」
スリットに沿って指を動かすと、すぐにショーツが湿ってくる。
「や、ダメ、そんなに……」
少し強めに擦ると、湿ってくるというよりは濡れてきた。
「んん、洋ちゃん……焦らさないでぇ……」
「焦らしてるつもりはないんだけどな」
愛撫はいつも通りだと思うのだが、愛の感じ方がいつもとは違うらしい。
俺は、愛のリクエスト通り、ショーツを脱がし、直接秘所に触れた。
「んくっ、んっ」
指を挿れただけで中から蜜があふれてきた。
「洋ちゃん、もう大丈夫だから」
「ああ、わかった」
俺は浴衣の帯を解き、トランクスを脱いだ。
「いくぞ」
「うん」
そして、そのまま愛の中に屹立したモノを突き挿れた。
「んあああっ」
愛の中はとても熱く、俺のモノを締め付けてくる。
「あっ、んっ、んっ」
ゆっくりと腰を動かす。
「洋ちゃん、気持ちいいよぉ」
「ああ、俺も気持ちいい」
何度セックスしても、この快感だけは変わらない。
それはきっと、相手が愛だからなのだろう。
「んんっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
足を持ち上げ、さらに奥を突く。
「いいっ、いいのっ、洋ちゃんっ」
愛は、快感に抗うこともなく、流されるままに感じている。
「愛っ」
そんな愛の姿を見ていると、俺の方もそんな気になってくる。
「洋ちゃんっ、洋ちゃんっ」
嬌声が部屋に響く。
ここがどこかなんて関係なかった。
俺も愛も、ただひたすらにお互いを求める。
「イッちゃうっ、イッちゃうよぉっ」
「俺もだ」
「洋ちゃん、好きっ、大好きっ」
ラストスパートをかけ──
「んんっ、あああっ!」
「くっ」
俺たちはほぼ同時に達した。
「ん、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「洋ちゃん……大好き……」
「洋ちゃん」
「ん、どうした?」
「洋ちゃんは、高校を卒業したら、どうするつもりなの?」
「どうするって、なにをだ?」
「たとえば、家を出るとか」
「ああ、そっちか」
俺は、愛の髪を撫でながら頷いた。
「そうだな。家を出る必要があれば、出るな」
「それって、進路次第ってこと?」
「ああ」
「じゃあ、もし、だよ。もし、私が一緒に暮らしたいって言ったら、洋ちゃんはどうする?」
「同棲ってことか?」
「うん」
「そうだな。それはそれでありだと思うぞ」
「ホント?」
「ああ」
俺も愛も、それが最善だと思えば、そうしてもいいと思う。俺にそのあたりのこだわりはない。
「ただ、現状ではそれも無理そうだけどな。まずは進路を決めなくちゃならんし」
「そうだね。でも、たとえば、洋ちゃんにうちに住んでほしいって言ったら、どうする?」
「は……?」
「だからね、私と洋ちゃんは婚約してるわけでしょ?」
「ああ」
「ということは、つまり結婚を前提につきあってるわけだから、近い将来そうなってもいいってことだよね?」
「そりゃ、確かにそうかもしれないけど」
しかし、いきなりそれはどうかと思う。
それに、俺が森川家に入るなんて言ったら、あのふたりは諸手を挙げて喜ぶだろうし。というか、増改築の計画なんかも立てたりするかも。
「もちろん、今すぐに結論は出ないと思うよ。私だって、どうするかはまだ決められないし。でもね、私は洋ちゃんと一緒に暮らしたいって思ってるの。今でもうちと洋ちゃんの家は近いからいつでも会えるけど、それでも別々の家に暮らしてるわけだから。それがひとつ屋根の下でずっと一緒に過ごせるっていうのは、やっぱり夢だから」
「そっか……」
いつかはそういうことも考えなくちゃならないのだろうけど、今はまだ考えられない。
ただ、実際愛とそうなるなら、やっぱり俺が森川家に入るということになるだろう。
俺にとってはそれが一番問題なのだが。
「俺としてもおまえと一緒に暮らすというのは、別に問題はないと思ってる。ただ、できれば卒業後でもすぐにおまえの家に住むのは勘弁してほしい」
「どうして?」
「いや、やっぱりあの家にはいるじゃないか、俺を『おもちゃ』にしたがる人が」
「ああ、お母さんのことか」
「愛美さんもだけど、孝輔さんだって俺を『おもちゃ』にするからな」
「う〜ん、確かにね。というか、お父さんもお母さんも、洋ちゃんのことが可愛くてしょうがないんだよ。洋ちゃんのことは小さい頃から知ってるから。自分たちの子供のように見てはきたけど、やっぱり違うから。それが余計にとことんまで構いたくなる理由かな」
「そりゃ、俺だってあのふたりに悪気がないことくらい理解してる。でも、俺の意志を無視した構い方だけは勘弁してほしい」
「だったら、はっきりそう言ったら?」
「……できるかよ。まあ、孝輔さんにだったら多少は言えるけど、愛美さんには無理だ。そんなこと言ったら、百倍になって返ってくる」
「……それはあるかも」
愛美さんはとにかく大人と子供が同居してる人だから。その子供の面が顔を覗かせてる時は、本当にやっかいだ。
特に、俺のことはかなり理解してるから、余計にだ。
「お母さんにとって洋ちゃんは、私の幼なじみというだけじゃなく、自分の『子供』であり『彼氏』みたいなものだからね。知ってる?」
「ん、なにをだ?」
「あらかじめ洋ちゃんが来るってわかってる時にお母さん、着替えたり化粧したりしてるんだよ」
「……マジかよ?」
「うん、マジ。もちろん、そこまであからさまじゃないよ。だって、たまに突然来ることもあるでしょ。そういう時と差がありすぎると逆に問題だし」
「なるほど」
「前にね、お母さんに聞いたことがあるの。どうしてそこまで洋ちゃんにこだわるのかって」
「そしたら?」
「そんなの洋ちゃんがカワイイからに決まってるって」
「…………」
「でも、それは洋ちゃんがお母さんにとって『息子』だからでしょ? じゃあ、『彼氏』だったらどうなのって聞いたの。そしたら、かっこよくて頼りになる男性なんだから、当然だって」
「……なんか、らしい答えだな」
本当にらしい答えだ。
「あと、ついでにもうひとつだけ聞いたの。もし、お父さんがいなくて、洋ちゃんがお母さんの彼氏になってくれるって言ったら、どうするのって」
「……で?」
「そしたら、間髪入れずに結婚するわ、って」
「……つきあうじゃなくて、いきなり結婚かよ」
「つまり、それくらい洋ちゃんのことが好きなんだよ」
「それはわかるけどさ」
わかるけど、わかりたくない部分もある。
「あ、ただね、お母さん、こうも言ってた。洋ちゃんは、真面目だからお母さんのそういうことにもきっちりつきあってくれるって。だから余計に構いたくなるんだって」
「……わかってはいるんだけどな、どうも無視できないんだよ」
「なにか特別な理由でもあるの? ただ単にお母さんが苦手だからってわけじゃないでしょ?」
「ん〜、あるにはあるけど、おまえに言ってもいいかどうか」
「ん、どういうこと?」
「まあ、今更だし、言ってもいいか」
「なになに?」
「当然なんだけど、おまえと愛美さんは母娘だろ?」
「うん」
「ということはだ、ふたりはいろいろな面で似てるんだよ。まあ、それはつまり、おまえが愛美さんに似てるってことになるんだけどな」
「まあ、そうなるね」
「だけど、俺にとってはおまえの方が身近だろ。で、俺はおまえを邪険には扱えない」
「だからお母さんにもそうできない?」
「それもある。もうひとつは、おまえが愛美さんくらいの年になったら、あんな風になるのかなって思うと、なんとなく『仮想』愛と接してるみたいでな」
「…………」
それを聞き愛は、さすがに顔をしかめた。
愛と愛美さんは決して仲は悪くない。むしろかなり仲は良いのだが、それが俺のことになると途端に話は別になる。
「そんな風に思ってたんだ」
「まあな」
「最初の理由はいいけど、あとの理由はさすがに納得できないかも。いくらなんでも、お母さんみたいにはならないから」
「別に今の愛美さんが悪いとは言ってないぞ。あの人はあの人で可愛らしい人だと思うし」
「ん〜……」
今の愛になにを言っても、あまり意味はないか。
「ま、そういうわけだから、愛美さんにはなかなか言えないし、だからって無視もできないんだ」
「それはそれでわかったけど、でも、だからってこのままというわけにもいかないでしょ? 私と洋ちゃんは婚約までしてるんだから」
「まあな」
「だとしたら、もう少しなんとかしないと」
「……まあ、俺ももう少し努力はしてみるよ」
「うん。あとは、私が一緒にいる時は余計なことはさせないし、言わせないから」
「そのあたりはほどほどにな」
そんなことで母娘の関係がこじれてもらっても困る。
「とりあえず、一緒に暮らすとか暮らさないとかの問題は、もう少し長期的な計画を立ててからだな」
「しょうがないね、それは。あ、でも、洋ちゃん」
「ん?」
「私が洋ちゃんの家で一緒に暮らすっていうのは?」
「は? おまえが?」
「うん」
「いや、それはさすがに無理だろ」
「どうして?」
「根本的な問題として、部屋がない」
「部屋ならあるじゃない。洋ちゃんの部屋が」
「……おまえ、俺の部屋に転がり込むつもりなのか?」
「うん。ベッドもあのままでいいよ。毎日洋ちゃんに抱きついて寝るから」
「…………」
「そんな顔しないでよぉ」
「と言われてもだな、さすがにそれは勘弁してくれ。それに、姉貴や美樹がいるから、難しい」
「ん〜、それはあるんだよね。うちはもともと三人だから洋ちゃんひとり増えたところでたいしたことはないけど、洋ちゃんのうちはもともと五人だから。家族が増えるのって結構大変だし」
そこまで冷静に考えているなら、そういうことは言わないでほしい。
「とにかく、一緒に暮らすこととお母さんのことはもう少し考えてみてね」
「わかった」
なんか、考えることが多い。
このままだと知恵熱でも出そうだ。
「愛」
「ん?」
「悪いんだけどさ、少し、俺を抱きしめてくれないか?」
「それはいいけど、どうしたの?」
「いや、なんとなく包まれていたくなってな」
「ふふっ、そうなんだ」
愛は、嬉しそうに俺の言う通りにしてくれた。
柔らかな胸が気持ちいいというのもあるけど、胸に抱かれていると本当に包まれている感じになる。鼓動が聞こえるのが大きいのかもしれない。
「洋ちゃんが寝るまでこうしててあげる」
「すまん」
たぶん、今日はぐっすり眠れるだろう。
今の俺にとって、ここが、一番心安らげる場所だから。
二
久しぶりにぐっすり眠れた。やっぱり、愛のおかげだ。
その愛は、まだ眠っている。
「愛……」
こういう些細な幸せな時間こそ、大事にしなければならない。こういう時間は、本当に簡単に失われてしまうから。
布団を抜け出し、障子を開け放つ。
「快晴だな」
空には雲ひとつなく、春の陽差しが箱根の山々に穏やかに降り注いでいた。
今日の予定は、とりあえず芦ノ湖まで足を運び、あとは時間次第でそれ以外も見てから帰ることになっていた。
だから、これだけの快晴だとどこへ行っても気持ちよく見られるだろう。
「ん……ようちゃん……」
と、愛が目を覚ました。
「おはよう、お姫様」
「おはよ、洋ちゃん」
愛は、あくびをかみ殺しながら、起き上がった。
「今日は快晴だぞ」
「ホント?」
「ああ。絶好の観光日和だ」
「そっか。よかった」
愛も、窓際まで来て、外を見る。
「ホントだ。すっごくいい天気」
「そんなわけだから、朝飯食ったら早速出かけようぜ」
「うん」
朝食を食べ、荷物を整理して、旅館をチェックアウトした。
旅館からとりあえず箱根湯本駅の近くまで戻り、そこから芦ノ湖までバスで向かった。向かった先は、正月の箱根駅伝でも有名な元箱根。そこか観光遊覧船に乗る。
本来なら箱根湯本駅から箱根登山鉄道やケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで行く方が面白いのだろうけど、俺はそれを帰りにしようと思った。
で、山道を揺られ、元箱根へ。
遊覧船の行き先はいくつかあり、その中で俺たちが乗り込んだのは、ロープウェイの駅がある桃源台行きである。
「ん〜、いい風」
桟橋を離れ、湖へ船が出ると、さわやかな風がとても気持ちいい。
「これだけ天気がいいから、余計に気持ちいいね」
「これは、俺の日頃の行いがいいからだな」
「あはは、そうかもしれないね」
一応、船内には座席もあるのだが、これだけの気持ちいい日和に中にいるのは酷というものだ。
俺も愛も、桃源台までずっとデッキにいるつもりだった。
「陽差しや風もだけど、見える景色もやっぱり春になってきてるよね」
「ん、ああ」
「緑萌ゆる春。そんな感じだもの」
山の木々は、確かに萌えていた。
これから徐々に緑は濃さを増し、やがて夏を迎える。
濃い緑は比較的期間が長いが、この瑞々しい緑は今の時期にしかお目にかかれない。
「いいよね、こういうの」
これだけの景色が見られるなら、ずっとここにいてもいいと思えてしまう。
それくらい感動的な景色だった。
やがて、船は桃源台へ到着。
そこからはロープウェイに乗る。
ロープウェイは、桃源台から姥子、大涌谷を通り、早雲山まで行く。途中、大涌谷で乗り換えは必要だが、特に面倒なことはない。
「上から見ると、また違った感じがするね」
ロープウェイからの景色は、確かに違っていた。
横、もしくは上の方に見えていたものが、下に見える。これはなかなか貴重だ。
大涌谷で乗り換えるついで、少しあたりを見ることにした。
大涌谷はいわゆる地獄谷で、常にどこかからか湯気が立ち上っている。
そんな大涌谷では、温泉卵を食べた。
まあ、取り立てて面白いところもなかったからなのだが、それはそれで旨かったからよかった。
再びロープウェイに乗り、早雲山へ。
今度はケーブルカーに乗る。ケーブルカーは、箱根登山鉄道の駅がある強羅まで行く。
このあたりも俺たちにとっては特に面白いものはなかったので、そのまま強羅までやって来た。
強羅から先は、箱根登山鉄道で箱根湯本まで一本。
「どうする? このまま戻っちゃうか?」
ケーブルカーを降り、登山鉄道の強羅駅前で愛に訊ねた。
「ん〜、そうだなぁ……」
時間的にはまだまだ余裕があった。
帰りも特に時間は決めていなかったので、帰れる時間に向こうに戻れればよかった。
「ほかにも見て回れそうなところはあるけど、そこでのんびりしてると帰る時間が遅くなっちゃうからね」
「そうだな」
「私としては、洋ちゃんとふたりきりでいられるなら、無理に観光しなくてもいいから」
「じゃあ、とりあえず湯本まで戻るか?」
「そうだね。そうしよっか」
そんなわけで、俺たちは強羅から登山鉄道に乗り込み、箱根湯本駅へ向かった。
途中、有名なスイッチバックの様子を見ることができて、鉄道ファンじゃない俺でも心が躍った。
そんなこんなで箱根湯本駅まで戻ってきた頃には、お昼をまわっていた。
腹が減っては戦ができないので、まずは腹ごしらえ。
駅近くの適当な店に入り、適当に注文し、昼食にした。
昼食のあとは、おみやげの物色。
いつもなら個人個人に買っていくのだが、今回は資金難なので、まとめてにした。
おみやげを買ったら、あとは本当にやることはなくなった。
となれば、あとは帰るだけ。
切符を買い、電車を待つ。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「たまにでいいんだけど、また今度、こういう風にふたりきりでどこかに行きたいな」
「いいんじゃないか」
「ホント?」
「別に断る理由もないし。ただ──」
「ただ?」
「あまり頻繁だったり、遠いところだと、確実に俺の資金がない」
「それは大丈夫だよ。私だって、いつもいつもお金があるわけじゃないもの。本当にたまにだから」
「それならいいけど」
愛とふたりきりで旅行するのは、俺としても楽しいからいいと思う。
それに、本当にふたりきりの時じゃないと、自分の想いを確認できないから。
「あ、そうだ。ひとつ忘れてた」
「ん?」
愛は、そう言ってカバンを開け、なにか探している。
「はい、洋ちゃん」
「これは……」
それは、携帯用の入れ物だった。
「本当は昨日渡そうと思ってたんだけど、すっかり忘れちゃって」
「これ、おまえが作ったのか?」
「うん。あ、別にそんなに大変じゃなかったよ。型紙とかは雑誌にあったし」
手作りらしく、多少既製品より出来映えはよくなかったが、それでも愛の想いだけは十分に感じられた。
「ポケットに入れておいてもいいんだけど、その方が楽だと思って」
「ありがとな」
「ううん、気にしないで」
そう言って愛は微笑んだ。
俺は早速その中に携帯を入れてみた。
「うん、ぴったり」
携帯の大きさなんてそれほど差がないから、おそらく自分のを参考にしたのだろう。
「自分のは作らなかったのか?」
「これから作る予定。とりあえず、洋ちゃんのが先だと思って」
「そっか」
「洋ちゃんに気に入ってもらえたから、私も自分のを張り切って作るよ」
「ああ、そうしてくれ」
こういう些細なことを嬉しく思える。
これが本当に大切なことなのだと思う。
今回の旅行は、そのことを再認識できた旅行になった。
「ん、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「変な洋ちゃん」
今度はいつになるかわからないけど、その時を楽しみにしていよう。
三
三月二十九日。
朝から少し曇りがちだったけど、気温は高かった。
そういえば、昨日の夜のニュースで宮崎と高知で桜が開花したと言ってた。いよいよ桜前線が動き出したわけだ。このあたりも、数日のうちに開花するだろう。
桜が咲いたらとりあえず花見に行こう。誰を誘うかは、まあ、あとで考えて。
で、今日はすでに予定が入っている。
それは、昨夜のことだ。
箱根から帰ってきて部屋でのんびりしていたら、携帯が鳴った。それはメールの着信音で、相手は沙耶加だった。内容は実に簡潔だった。
『こんばんは。今、お時間ありますか?』
で、あると返事を返したら、今度は電話がかかってきた。
「もしもし」
『こんばんは、洋一さん』
「こんばんは」
『あの、少し、お話ししてもいいですか?』
「別にいいよ」
メールで確認してきたのに、改めて確認してくるところが沙耶加らしかった。
『とりあえず、本題から話しますね。えっと、洋一さん。明日なんですけど、お時間空いてますか?』
「明日? 空いてるけど」
『あの、それじゃあ、明日、私につきあっていただけますか?』
「それって、デートってこと?」
『あ、えと、それはそれで嬉しいんですけど、別にそうじゃなくても構いません。少し、お話ししたいことがあるだけなので』
「ああ、この前言ってたことだね」
『はい』
「それはそれでわかったけど、じゃあ、どうしようか? 俺は別に一日空いてるけど」
『そうですね……それでは、十一時に駅前ということでどうでしょうか?』
「十一時に駅前だね。了解」
『……あと、できればでいいのですが』
「ん?」
『その、デートもいていただけると……』
「いいよ。どこか行きたいところとかあるなら、明日までに決めてきてくれればいいから」
『は、はいっ』
そんなわけで、今日は沙耶加とデートの予定が入っている。
俺としても、もともと結論を出す前に沙耶加とは一度ゆっくり話したいと思っていたから、ちょうどいい。
「むぅ、お兄ちゃん。誰のことを考えてるの?」
そんなことを考えていたら、隣から不満そうな声が上がった。
「誰のって、別に誰のことでもないぞ」
今朝は、珍しく俺が起きた時に美樹も目が覚めた。いつもならどちらかが先に起きて、特になにも言わずに起き出すのだが。
「ウソだよ、それ。絶対、誰かのこと考えてた。私にはわかるんだもん」
「女の勘、てやつか?」
「そうだよ」
ったく、そういう非科学的なことで力説しないでほしいものだ。
とはいえ、今は実際に沙耶加のことを考えていたわけだから、あながちウソとも言えない。
「ねえ、お兄ちゃん。いくら私が妹だからって、私と一緒にいる時くらい、ほかの人のことは考えないでほしいなぁ」
「だから、俺は別に──」
「それはもういいの。もし本当に今誰のことも考えていなくても、これから先もそうしていてほしいから」
「……なるほど」
本当に、女心というものはやっかいなものだ。
「だから、わかった?」
「できるだけ努力してみよう。ただ、そういうことは意識してもできないかもしれないけどな」
「むぅ、それでも努力するのぉ」
「へいへい」
とりあえず、うちにいればいろいろな『女心』を学ぶことはできそうだ。それがいいことなのか悪いことなのかは、わからないけど。
「さてと、今日も一日がんばりますかね」
出かける前、姉貴に捕まった。
「洋一。あんた、明日は暇?」
「明日? 別に今のところはなにもないけど」
「そ。じゃあさ、ちょっと私につきあってよ」
「それは、内容にもよる」
「具体的には、私と和人、それに香織ちゃんに」
「は? 和人さんだけならわかるけど、なんで香織まで?」
「いや、和人と一緒に香織ちゃんのとこに行こうと思ったんだけど、どうせならあんたも一緒の方が香織ちゃん、喜ぶと思って」
余計な気遣いだ。
というか、明らかになにかが起こることを期待してやがる。
「どう?」
香織には会いたい気もするけど、姉貴も一緒というのはなぁ……
「あ、ちなみに、和人と香織ちゃんには、あんたも一緒に行くって言ってあるから」
「…………」
こういう奴なんだ、姉貴は。
「はいはい、わかりましたよ。明日は、お姉さまにおつきあいさせていただきます」
「んもう、そんなにイヤそうに言わなくてもいいじゃない。それに、こういう口実があった方が、あんたも香織ちゃんも堂々と会えるでしょ? あたしもさ、このままでいいとは思ってないから、だから、せめて香織ちゃんの喜ぶことをしてあげられればいいと思ったのよ」
「……ったく」
それが本当かウソかなんて関係ない。そう言われてしまえば、俺には返す言葉もない。
「なんなら、香織ちゃんに直接話してもいいわよ」
「いや、やめとく。とりあえず、明日はつきあうから」
「OK。詳しい時間とかは、あんたが帰ってくるまでに決めておくわ」
「了解」
出かける前にそういうことを言わないでほしかったけど、しょうがない。
それに、今の俺にとっては愛や沙耶加のことを考えるので精一杯な状況ではあるけど、近いうちに香織のことも考えなくちゃいけない。そのために、さらに香織のことを知らないと考えることすらできない。だから、考えようによってはいいことだとは思う。
「だけど……」
姉貴が一緒だというのが、不安要因だ。
果たして、なにごともなく過ごせるのかどうか。
まあ、とりあえずそのことはあとにして、俺は家を出た。
どこに行くのはわからないけど、変なところに行くとは思えなかったから、少し薄着にした。
駅までの通りでも、春の装いが目立つ。さすがに桜も咲き出す頃で、真冬の格好はしていられない。
改札近くに来ると、真新しいスーツに身を包んだ男女を見かけた。おそらく、この春から社会人になる連中だろう。サービス業なんかだと、四月一日を待たずに入社式があったり、研修があったりする。
そういう姿を見ると、新しい年になるんだと実感する。
待ち合わせ場所に着くと、すでに沙耶加は来ていた。
「沙耶加」
「おはようございます、洋一さん」
「おはよう」
沙耶加は、クリーム色のカーディガンに桜色のカットソー、萌葱色のロングスカートという格好だった。春らしい色の取り合わせで、とてもよく似合っていた。
「春らしくていいね」
「えっ? そ、そうですか?」
「うん。よく似合ってる。カワイイ」
「あうぅ……」
未だに褒められるのに慣れない沙耶加は、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「それで、どこか行きたいところ、ある?」
「あ、えっと、ひとつだけあるんですけど」
「どこ?」
「水族館です」
水族館は、基本的には海に近い場所に多い。このあたりでもそれは例外ではない。もちろん、たまにどこかのビルの中にあったり、だいぶ内陸の動物園の中にあったりとか、例外はある。そういうところは、たいていが規模は小さく、少々物足りない。
俺たちが向かったのは、このあたりでは一番規模が大きく、魚などの種類が豊富な水族館だった。
電車でそれなりに行かなければならないけど、それもある程度は仕方がない。
「でも、どうして水族館に?」
電車の中で、俺は率直な疑問を投げかけた。
「いえ、特にこれといった理由はないんです。昨夜、洋一さんに言われていろいろ考えてみたんです。その時に思い浮かんだのが、水族館でした。このところ全然行っていませんでしたから、たまにはいいのではと思って」
「なるほど」
そう言われると、水族館なんてそうそう行く場所ではない。小学生なら学校で行くこともあるだろうけど、高校ではそれはない。自ら進んで行かなければ、おそらくほとんど縁のない場所になるはずだ。
「それに、水族館の中って、とても穏やかじゃないですか。ゆったりのんびり時を過ごすには、いい場所だと思います」
それは水槽が基本的には青っぽく見えるからだ。青は、気持ちを落ち着ける効果があるから。
それに、照明も多少落としてあるから、本当に穏やかな空間になる。
「なにかこれは特に見たいというのはある?」
「そうですね……」
沙耶加はおとがいに指を当て、小さく唸る。
「やっぱり、イルカやラッコは見たいですね。あと、ペンギン」
カワイイものというか、ぬいぐるみになりやすいものを挙げてきたか。まあ、沙耶加らしい選択だ。
確か、その三つともぬいぐるみがあった気がする。
「洋一さんは、なにかありますか?」
「ん〜、そうだなぁ……」
改めてそう言われると、悩む。
いろいろ見ていて楽しいのはいるけど。
「クラゲとかタツノオトシゴとか」
「ふふっ、なんとなく想像できました」
「そう?」
「はい」
そのふたつがどうということはない。ただ、水の中でゆらゆらと気ままに浮かんでいる姿が、なんとなく好きなのだ。
「まあ、実際どれということはないよ。どれも、と言った方が正しい」
「そうですね」
電車に揺られること一時間半。
ようやく目的の水族館へと到着した。
時間的にちょうどお昼だったので、まずは腹ごしらえすることにした。
水族館は駅から少し離れているので、あらかじめ駅前で店を探し、そこで食べた。
腹ごしらえを終えると、水族館へ。
春休みということもあり、水族館には親子連れの姿が結構見られた。とはいえ、平日なのでたいてい父親の姿はない。
入場券を買い、中へ入る。
この水族館の特徴は、できるだけその生物の生息していた地域の環境に近い環境で飼育するというものだった。従って、暖かな海に生息する生物のコーナーでは、なんとなく暖かな感じが、冷たい海に生息する生物のコーナーでは、やはりなんとなく冷たい感じがした。
あと、人気なのが、巨大なガラスに覆われた巨大水槽である。
様々な生物がその中で一緒に泳ぎ、人々の目を楽しませてくれる。
回遊魚はほとんど同じ方向に泳いでいるのだが、たまに反対に泳いでいるのを見ると、魚の中にもそういうのがいるんだと思わず笑ってしまう。
「洋一さん」
「ん?」
「あの、手を繋いでも、いいですか?」
「いいよ」
その水槽の前で、沙耶加はそう言ってきた。
手を繋ぐと、沙耶加は嬉しそうに微笑んだ。
「こういうところにいると、今、自分がどこにいるのかわからなくなりますね」
「確かに。本来この姿は、海の中でしか見られない光景だからね」
「なんとなく、自分も海の中にいるような気がします」
「以前、水族館自体が癒しの空間だなんて言ってたけど、それもわかる気がする」
「そうですね。こういうところにいると、一時だけでも悩みも忘れられますから」
俺も沙耶加も、水槽の向こうを見つめている。
目の前を大きなエイが通り過ぎていく。
「本当は、ここで洋一さんとお話ししようと思っていたんですけど、やめておきます」
「賢明な判断だと思うよ」
ここで話せば落ち着いて話せるとは思うけど、落ち着きすぎて、今自分がなにを話しているのかわからなくなるかもしれない。
それから少し行くと、沙耶加が見たいと言っていたものがいた。
「うわあ、やっぱりカワイイ」
それは、ラッコだ。
食事時ではなかったようで、腹の上で貝を割る様子は見られなかったけど、確かに愛嬌のある姿は見られた。
沙耶加は、俺が手を握っていなければ水槽に張り付いて離れないのではと思えるほど、まじまじとラッコを見ていた。
「どのあたりが好きなの?」
「えっと、全部です。あのくりくりっとした目とか、愛嬌のある手足とか」
「なるほど」
しばらくして、沙耶加をなんとかそこから引きはがし、さらに進んでいく。
すると、もうひとつ沙耶加が見たいと言っていたものがいた。
ペンギンである。
コウテイペンギン、アデリーペンギン、フンボルトペンギンの三種類がいると書いてある。
コウテイペンギンは体が大きいのですぐにわかる。ほかのふたつは、すぐには見分けがつかない。
「うわあ、うわあ、カワイイ」
沙耶加は、もうすっかり夢見心地で、興奮している。
水に入っていないペンギンは、歩いている姿など愛嬌がある。
どこが好きなのか聞こうかと思ったけど、同じことを言われそうだったのでやめた。
そこでもしばらく沙耶加が動かなかったので、ある程度満足させてから次へ向かった。
とはいえ、もう残りはほとんどなかった。
俺としては、クラゲやタツノオトシゴののんびりした様子を見られただけで満足だったのだが。
「この先は、ショープールですね」
通路の脇に、ショーの時間が書いてあった。
「どうやら、この次の回は十五分後だね。見ていく?」
「はい」
プールの手前に階段状に座席が設けられ、その三分の一ほどが埋まっていた。平日をいうことを考えれば、十分な数だろう。
俺たちも、その中に座る。これが夏なら、水しぶきがかかってもいい場所に陣取るのだが、三月という季節を考えるとそれはできなかった。
ショーに出てくるのは、イルカ、シャチ、アザラシだという。
「沙耶加はさ──」
「はい」
「前の学校にいた時は、こういうところには来てたの?」
「ごくたまにですけど、来てました」
「それって、水族館だけ? 俺の予想だと、動物園も好きそうだけど」
「あ、はい。動物園にも行きました。ただ、ひとりで行くのはやっぱり淋しいですから、誰かと一緒に行くんですけど、だんだんと一緒に行ってくれる人もいなくなってきて」
「それはまあ、しょうがないかな。人の興味って、どんどん変わっていくから」
子供の頃は動物園や水族館に来てもわくわくしたけど、いろいろなものを見て、聞いて、経験していくうちに、それ以上にわくわくするものがあることを知る。そうすると、たいていの人はそこへの興味が薄らいでいく。
俺だってそうだ。
「ん〜、じゃあさ、今度、動物園にも行こうか」
「えっ、いいんですか?」
「まあね。沙耶加が喜んでくれるなら」
もともと沙耶加がここへ来たいと言ったけど、その沙耶加が喜ぶ姿を見られてよかったし。
それに、水族館でさえこれだけ喜んでいたのだから、動物園なんかに行ったらどうなるのか。それを見てみたい。
「あ、でも、洋一さん」
「ん?」
「えっと、今それを約束してしまってもいいんですか?」
「どうして?」
「いえ、まだ結論は出ていないので……」
「ああ、そのことか」
確かに、そう言われると、今約束しない方がいいのかもしれない。だけど、それはそれだ。
「別に構わないんじゃないかな」
「……それは、どういう意味でですか?」
「これはあくまでももしもという話として聞いてよ」
「はい」
「もし俺が沙耶加を拒んだとして、それで俺たちの関係は終わると思う? 俺はそうは思わないし、思いたくない。そりゃ、恋人同士という関係ではつきあえないけど、友人としてならつきあっていけるはずだからね。つまり、友人としてどこかへ出かけるということも普通にあるはずだから」
それはもちろん言い訳かもしれない。でも、恋人じゃなきゃ一緒に出かけられないということはないのだから、そういう風に考えてもいいはずだ。
「どういうことになっても、その約束は守るよ」
「……はい」
沙耶加としては、複雑な心境だろう。それもわかる。
「沙耶加。手」
「え、あ、はい」
沙耶加は、俺に手を差し出した。
その手を握る。
「とりあえずさ、そういうことは今は忘れよう。せっかくこれからショーがはじまるんだから」
「はい」
そう。今はそういうことは忘れていた方がいい。
どうせ、二日後にはイヤでもその話をしなければならないのだから。
たまに見ると、ショーもなかなか面白いものだということがわかった。
やっていること自体はどこも大差はないのだが、その構成によってそれもまったく変わってくる。ようは、そのショーをどれだけエンターテイメント性のあるものにできるか。そこが問題なのである。
上手い構成ができていれば、観客はショーに惹きつけられる。
もちろん、ひとつひとつの技の精度も重要だ。難しい技を難なくこなせば、観客は拍手をする。
まあ、中には沙耶加のように無条件で喜ぶ者もいるとは思うけど。
「洋一さん。どうやったらイルカを飼えるでしょうか?」
そんなことを真面目に聞いてくるくらいだ。
とりあえず、イルカを飼うならまずは豪邸と呼ばれるような家に済まなければダメだし、なによりもそのあと飼育していけるだけの手間暇をかけられるかどうかが問題だ。
ようするには、普通はとても飼えるものじゃないということだ。
ショーが終わると、もう見る場所もなかった。
出口の手前にはおみやげ売り場があった。様々なものが売っているのだが、沙耶加の目を引いたのは、もちろんぬいぐるみだった。
イルカ、ラッコ、シャチ、ペンギン、アザラシ、クジラなどのぬいぐるみがあった。
その中で特に沙耶加の目を引いたのは、ラッコのぬいぐるみだった。
貝を持っている姿で、顔なんかはだいぶ可愛く作られていた。だけど、一番よかったのはその手触りだった。少し毛が長めにしてあり、その毛もなかなかいいものを使っているらしく、ふわふわ感がよかった。
ただ、いいものらしく、なかなか値が張った。
「ん〜……」
沙耶加は、かれこれ十分くらいぬいぐるみの前で考えていた。
ここでポンとお金を出せればいいんだろうけど、あいにくとそこまでの資金はなかった。
「どうする?」
「ほしいんですけど……」
それは、顔を見ればわかる。
「沙耶加」
「あ、はい」
「さすがにこれを買ってあげられるだけの余裕はないんだけど──」
「あ、いえ、そんなことしてもらうわけには……」
「うん。だから、いくらか俺が出すよ」
「えっ……?」
「それくらいならできるからさ」
「で、でも……」
俺は、財布から札を取り出し沙耶加に渡した。
「返却不可だから」
「…………」
沙耶加はまだ踏ん切りがつかないらしい。
「俺としてはさ、沙耶加の喜んだ顔を見られればいいんだよ。そういう小道具を使うのはどうかとも思うけど」
「洋一さん……」
「ほら」
結局、沙耶加はそのぬいぐるみを買った。
それなりの大きさなので、やっぱり抱えるしかなかった。もちろん、俺が持っている。
「洋一さん、ありがとうございます」
「別にいいよ。それに、こいつだって心から大事にしてくれる人に買ってもらった方がいいだろうし」
俺も、すっかり沙耶加に感化されてしまったな。
「……えと、洋一さん」
「ん?」
「ひとつ、お願いがあるんですけど」
「お願い?」
「はい。できれば、その子の名前を考えてほしいんです」
「名前、か」
前のコリーの時にも言われたけど、そういうのは苦手だからなぁ。
「あ、でもさ、沙耶加、ラッコはすでに持ってるんだろ?」
「はい」
「そいつって、なんて名前?」
「るーくんです」
「るーくん? 由来は?」
「ラッコの学名から取ったんです。学名が『エンヒドラ・ルトリス』というので」
「なるほど」
そういう付け方もしてるのか。
というか、さらっと学名を言えるところは、さすがは沙耶加というところだ。
「そうだなぁ……」
今回はさすがにつけてあげるべきか。
ラッコという名前からだと難しい。学名もダメ。
「ん〜、難しいな」
「単純な名前でいいですよ。あまり難しく考えると、思いつかないので」
「とはいっても、俺はそういうの苦手だから」
「たとえば、その格好や動きから連想してもいいと思いますよ」
「格好か」
ラッコは海のカワウソと呼ばれてる。だから、格好はそんな感じだ。
胴が長く、愛嬌のある顔。これは同じだ。
あとは、海にいるか川にいるかの違いか。
もちろん、厳密には結構違うけど。
動きだとすると、やっぱりあの貝を割る様子か。
だけど、どっちも名前に結びつかないな。
「じゃあ、こういうのはどうかな?」
「なんですか?」
「エル」
「エル、ですか?」
「学名が確か──」
「『エンヒドラ・ルトリス』です」
「そう。だから、その頭文字を取って、エル」
結局、そういうのしか思い浮かばないわけだ。本当に貧困な発想力だ。
「エル、ですか。はい、とてもいい名前だと思います」
「そう?」
「家に帰ったら、早速るーくんの隣に置いておきます」
沙耶加は嬉しそうにそう言う。
「で、余韻に浸ってるところ悪いんだけど」
「あ、はい」
「これからどうする?」
「そうですね……どこか、ゆっくりお話しができるところに行きたいです」
「話ができるところ、か」
そうすると、比較的静かで、あまり人のいないところだな。
「そうだ。ここからそう遠くないところに公園があるんだ。そこに行こうか?」
「はい」
水族館から少し行ったところに、海に面した公園が広がっている。
駅からはさらに遠くなるのだが、今日のところはその方が好都合だった。
休日になれば親子連れや、ジョギング、サイクリングをしている人で結構賑わうのだろうけど、平日だとあまり人もいない。
海の近くということであまり木々はないけど、ところどころにベンチもあり、のんびりするにはちょうどいい環境だった。
俺たちは、その公園の芝生の上に陣取った。
潮風が頬をかすめる。
「やっぱり、このくらいの時期からが、海に来るにはいい季節ですよね」
「ん、ああ」
「お正月の時は、さすがに寒かったですから」
そう言って沙耶加は笑う。
確かに、あの時は凍えそうなくらい寒かった。
「潮風が気持ちいいです」
目を閉じ、風を感じる。
「私、いろいろ考えました」
唐突に話がはじまった。
「去年の十二月に愛さんといろいろ決めてから、本当に考えました。一時期は、どうしてそこまで考えなくちゃいけないんだろうって、目的を見失いかけたこともありました。でも、考えて答えを出さなくては、私は洋一さんと一緒にいることができませんから。だから、一生懸命考えました」
「うん」
「その答えを今ここで言うのは、フェアではありませんから言いません。ただ、その過程でいろいろ出てきたことについて、洋一さんとお話ししたいと思ったんです」
「なるほど」
沙耶加は、もう決めたわけか。
「あの、洋一さん。洋一さんにとって、私って、どんな存在ですか?」
「どんな存在? そうだな……こう言うと沙耶加はどう思うかわからないけど、沙耶加は愛が持ってないものを持ってる。だから、俺は沙耶加に惹かれた。言い方は悪いけど、愛だけでは足りないものを補ってくれる存在、かな」
「足りないものを補ってくれる存在……」
「具体的に挙げるのは難しいけど、たとえば、愛と沙耶加だと性格が違うだろ? あいつは明るさを押し出してくるような感じで、沙耶加は控えめというか、お淑やかというか、そんな感じ。努力すれば直せるものもあるけど、たいていはもう染みついてることだね」
俺自身も完全に理解してるわけじゃないけど、誰かを好きになるということは、自分と同じもの、あるいは違うものを相手が持ってるからこそだと思う。
やはり、きっかけというのもは必要だろう。
愛と沙耶加でもそれは同じだ。
愛からもらえるものと沙耶加からもらえるものは、同じものもあれば違うものもある。そして、俺はその違うものに惹かれたのだ。
「すぐに理解するのは難しいとは思うけど、そんな感じだよ」
「いえ、なんとなくはわかりました」
「あとは、そうだな、やっぱり側にいてほしい存在だよ。愛がいるのになにを、と言われるかもしれないけど、沙耶加とこうして一緒にいるの、好きだからさ。安らげるというか、癒されるというか。もちろん、それは俺が沙耶加のことをだいぶ理解してきたからなんだろうけどね」
相手のことがわからなければ、そんな風には思えない。俺がそう考えられるということは、それだけ山本沙耶加という存在が俺にとって普通で、なくてはならない存在になったということだ。
「それにさ、そうじゃなかったら、抱いたりなんかしないよ」
「洋一さん……」
本当は、考える必要などないのかもしれない。
俺だって愛だって沙耶加だって、最初から答えは出ているんだ。ただ、今回はその答えを改めて考え直すというだけ。たぶん、どれだけ考えたとしても、その答えが変わることなどない。
「ずるいですよ、洋一さん」
「ん?」
「そんなこと言われたら、ほかのことなんてどうでもよくなってしまいます」
「そうかな?」
「本当にいろいろお話ししたいことがあったんです。でも、今の答えでそれは本当に意味のないものになってしまいました」
「そっか」
俺としては、そこまでたいそうなことを言ったつもりはないのだが、沙耶加にとっては違ったらしい。
「じゃあさ、俺から質問してもいいかな?」
「はい」
「まずは、基本的なこと。なんで俺なのかな。まあ、似たようなことは以前にも聞いてるんだけど、一応ね」
「一番の理由は、洋一さんが私の男性像を壊してくれたからです。洋一さんのおかげで、私は正しい見方ができるようになりました。だからというわけではありませんけど、気付いたらもう洋一さんのことしか考えられなくなっていたんです」
「なるほど」
「もちろん、性格的なこともそうなんですけど、その、見た目という点でも洋一さんに惹かれてました」
「見た目?」
「はい。今の私から言われてもあまり説得力はないかもしれませんけど、洋一さんはとてもカッコイイですから」
何度かそう言われたことはあるけど、俺自身はそこまでだとは思っていない。うちの高校にだって、俺以上の奴はいるし。
そりゃ、見た目というのは人それぞれ好みが違うから、一概には言えないだろうけど。
「じゃあ、次。今のと少し近いんだけど、どうして俺じゃなくちゃダメだったのかな。沙耶加なら、それこそ男なんて選り取り見取りなんだからさ」
「それは、あまり意味のない質問ですね」
「そうかな?」
「私が洋一さんのことを好きになった時に、決めたんです。どんなことがあっても、洋一さんしか好きにならない、って。それが本当にできるかどうかは関係ありません。それくらいの気概がなければ、すでに愛さんという彼女のいる洋一さんを好きにはなれないと思ったんです」
「そういうことか」
そういう風に言われると、納得してしまう。
「でもさ、去年の夏に出逢ってからそれなりの時間が経ってるけど、明らかにイメージと違ったところもあったでしょ? それで幻滅したりしなかった?」
「確かに私の想像と違うところはありました。でも、それは当然のことだと思います。人と人との出逢い、つきあいというのは、そういうことの積み重ねだと思いますから。自分の中でのイメージを常に上書きしていって、そこではじめて自分の中のイメージが完成すると思います」
「それはまあ、そうかな」
沙耶加の意見の方が正しい。
自分のイメージなんて、所詮はイメージでしかない。実像と違うのは当然だ。
俺にとっての沙耶加も、イメージと違うところはあったし。
「あ〜あ、これで俺が沙耶加を幸せにできなかったら、世の中の男どもに殺されるかもしれないな」
そう言いながら、俺は芝生に寝転んだ。
「だったら、私を幸せにしてください。それで、万事解決です」
「そうなんだけどさ」
やることは簡単なんだ。だけど、そのための方法が難しい。
「私を幸せにすることなんて、簡単なんですよ。私、単純ですから。洋一さんが側にいてくれさえすれば、それだけで本当に幸せですから」
「まあ、考えてみるよ」
「はい」
今、ここで答えてしまっては、フェアじゃない。あくまでも答えは、あさってだ。
「全然話は変わるんだけど、沙耶加はこの春休み、なにかしてることとかある?」
「いえ、特には。自他共に認める自堕落な生活を送ってます」
「そっか」
「洋一さんは、どうですか?」
「俺? 俺は、まあ、それなりに忙しかったかな」
なんとなく、誰かといつも一緒にいたから、やることはあった。
「あ、でもさ、ピアノなんかやってないの?」
「たまに弾いてますけど、時間つぶしという感じですね。弾くこと自体は好きなんですけど、気分が乗らないと楽しくないので」
「なるほど」
一理あるな。
なにか目標があるなら別だけど、特にないなら無理にすることでもない。
「もし暇だったら、俺に声をかけてくれてもいいよ」
「本当ですか?」
「そりゃ、いつもいつも相手できるわけじゃないけど、それこそ電話で話し相手になるくらいならできると思うし」
「ふふっ、わかりました。今度からそうします」
まあ、こういうことは言い出すとキリがないのだが、沙耶加が相手ならしょうがない。惚れた弱味だ。
「さてと、これからどうしようか?」
「私は洋一さんと一緒なら、どこでなにをしてもいいんですけど」
「そう言われるのが一番困るんだけど」
これは、今日の夕飯はなにがいいと聞かれて、なんでもいいと答えるのと同じだ。
つまり、もう少しちゃんと考えて発言はしなくちゃいけないということだ。
「ま、とりあえずここから移動しようか。ここにいてもなにもできないし」
「そうですね」
時間はまだあったので、選択肢は多かった。
だけど、選択肢が多いこととそれを選ぶことは別である。
俺としても、なんとなく沙耶加と一緒にいられれば満足という部分があるので、どうも真剣に考えられないのかもしれない。
とはいえ、無目的なまま移動もできないので、とりあえず都心に出てきた。
時間はそろそろ夕方という時間だ。少し、風に冷たさが加わってきている。
「ん〜、なにかないかな」
ぶらぶらと街を歩きながら、興味を惹いてくれそうなものを探す。
沙耶加は、特になにも言わずについてきている。
なんとなくだけど、沙耶加はそんな俺の姿を楽しんで見ているような気がする。
「そうだ」
と、不意に思いついた。
「沙耶加ってさ、ゲーセンとか行ったことある?」
「ゲーセンですか? えっと、前の学校にいた頃に少しだけ」
「その時はなにを?」
「プリクラとUFOキャッチャーです」
「なるほど」
ま、普通はそんなところだろう。
「じゃあさ、ほかのもやってみない?」
「それは構わないんですけど、私にできるでしょうか? 私、ゲームとかほとんどやったことがないので」
「大丈夫大丈夫。そんなに難しいのじゃないから」
そんなわけで、俺たちはゲーセンに向かった。
この当たりならゲーセンは腐るほどあるので、すぐに見つかった。
ゲーセンの中は、なんとなく空気が淀んでいる感じがする。これはどこでもそうなのだが、これだけはあまり好きになれない。
プリクラやUFOキャッチャーは店頭や入り口近くにあることが多いので、沙耶加にとっては奥の方に入ったのははじめてかもしれない。
「これだよ」
そして、目的の筐体の前にやって来た。
それは、いわゆる音ゲーの筐体。沙耶加がピアノをやっていることから、キーボードを使うのを選んだ。
「画面にタイミングが出てくるから、それにあわせてキーを弾けばいいんだよ」
「なるほど」
「あと、上手いアドリブなんか入れられると、高得点になったりするし」
「そうなんですか」
「ま、とりあえず一回やってみよう」
コインを入れ、レベルを選択。まずは、イージーモード。
「いくよ」
「はい」
沙耶加は、真剣な表情で画面を見つめた。
画面を流れていくタイミングの表示にあわせて、キーボードを弾く。
最初こそ少し戸惑っていたけど、次第にリズムにも慣れてきた。
流れるような手付きでキーを弾き、次々に得点が入っていく。
やがて、最初のステージが終わった。
「はじめてでこれだけできればすごいよ」
「そ、そうですか?」
幾分興奮した様子で沙耶加は言う。
「だんだん面倒に、難しくなっていくから」
「はい」
だけど、そんなアドバイスなんて必要なかった。
沙耶加の抜群の音楽センスをもってすれば、このくらいのゲームなど本当に遊びでしかなかった。
それでも、沙耶加は楽しそうだった。
俺としては、そんな沙耶加の姿を見ているだけで楽しかった。
程なくして、イージーモードの全ステージをクリアしてしまった。
「どうだった?」
「すごく楽しかったです。こう、自然と興奮してくる感じで、勝手に体が動いてしまって」
「そっか。それはよかった」
「洋一さんは、こういうところにはよく来るんですか?」
「たまにね。まあ、あまり騒がしいのは好きじゃないから、長時間はいないけど」
ひとりで来ることはほとんどないから、たいていは誰かと一緒に、なにか目的があって来る。それが音ゲーだったり格ゲーだったりいろいろだけど。
「こういうゲームを作ってるメーカーもさ、沙耶加みたいな女の子にも遊んでもらえるようなゲームを作ろうと躍起になってるからね。だから、以前に比べると格段に女の子の数は増えてるよ」
実際、このゲーセンにも女の子だけのグループもいた。
「こういうのなら、私にもできますからね」
「こういうところも、いろいろ変わってるからね。昔のイメージだとゲーセンなんて変な連中のたまり場、みたいな感じだったけど、そういうこともないし」
もちろん、まったくなくなったわけじゃない。遅い時間には、そういう連中がけっこうたむろってる。
「どう? ほかにもなにかやってみる?」
「そうですね……」
沙耶加はあたりを見回し、考える。
「私はなんでもいいんですけど、できれば洋一さんと一緒にできるのがいいです」
「ふたりでか」
となると、選択肢は限られてくる。
本当ならそういうのは多いけど、沙耶加にできるかどうかというのがあるから。
音ゲーでもいいんだけど、それは俺が得意じゃないしな。
「ん〜……」
「あ、えっと、無理に選ばなくてもいいですから」
そう言われると、余計になにか選ばなくちゃいけない気がする。
だけど、こういう時には奇をてらってはいけない。ごくごく無難なものにすればいいんだ。
「じゃあ、あれをやろうか」
俺が指を差したのは、入り口近くに設置されているUFOキャッチャーだった。
とりあえずその近くへ。
「ほしいものはある?」
俺がこれを選んだのにも理由がある。沙耶加がやったことのあるものということもあるけど、こういうのの景品はぬいぐるみが多いからだ。
実際、そこにある大半はぬいぐるみが景品になっていた。
「えっと……では、これを」
沙耶加が選んだのは、最近テレビでもよく見るキャラクターのキャッチャーだった。
俺としてはそれほど興味はないのだが、沙耶加がいいというのだからそれにした。
「取れたことある?」
「……いえ、一度も」
「そっか。じゃあ、一緒にやろう」
まずは、狙いを定める。
沙耶加が一番ほしがったのは、いわゆるメインのキャラではなく、脇役として作られたキャラだった。
なかなかやっかいそうな場所にあり、取るのも大変そうだ。
一回で取れるかどうかはわからないので、まずは無難にまわりを崩すことにした。
もちろん、金を無駄にする気もない。
「沙耶加は、俺の言う通りにやって」
「はい」
コインを入れ、スタート。
まずはクレーンを水平方向に移動させる。
「そこ」
次に、垂直方向。
ここが重要だ。
目標を取るためには、その手前にあるのが邪魔だった。幸いにしてそいつは輪っかの部分も出ているし、ほかにも引っかけられる部分がある。
俺が狙うのは、その首のところだ。そこにアームを引っかけて取ろうということだ。
横に移動し、指示を出す。
「そこでストップ」
大丈夫だと思うところでクレーンが止まる。
あとは勝手にやってくれる。
クレーンが降りてきて、アームをかける。
「……よしっ」
見事にアームが引っかかり、手前のを持ち上げた。
ここまで来ればもう問題はない。
クレーンはちゃんとそれを運んでくれた。
「さてと、これで準備完了」
さて、ここからが問題だ。
とりあえず持ち上げるのに邪魔なものはなくなった。だけど、目標は微妙な角度でそこにある。
へこみにアームを引っかけようにも、片方しか引っかからない。
あとは、輪っかの部分なんだけど、ここで取るのは結構難しい。勢いがつきすぎると滑って落ちてしまうからだ。
とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかない。
「取れなくても別に気にしなくていいよ。これは結構難しいから」
「はい、わかりました」
コインを入れ、スタート。
まずは水平方向。今回はここから慎重に進めないと。
アームの位置と、輪っかの位置を確認する。
「ストップ」
若干微妙だけど、まあいいだろう。
次に垂直方向。
クレーンが動き、アームが近づいてくる。
「ストップ」
クレーンが降り、アームが動く。
片方が輪っかにかかった。
「そこで持ち上げろ」
アームの先に輪っかがかかり、ぬいぐるみが持ち上がった。
「よしっ」
予想以上に上手くいった。
しかし、まだ安心はできない。ぬいぐるみが揺れているからだ。
クレーンが再び上昇し、動き出した。
が──
「あっ」
その衝撃でぬいぐるみが落ちた。
「やっぱりダメだったか」
ぬいぐるみは、少し手前の一番上に落ちた。
だけど、次のためには絶好の場所だ。
「でも、これで次で取れるよ」
で、目標は無事達成された。
沙耶加は、キャッチャーで取ったふたつのぬいぐるみを抱え、嬉しそうだ。
「洋一さん、ありがとうございます」
「別に気にしなくていいよ。それに、実際に動かしたのは沙耶加なんだからさ。どんなに的確な指示を出したとしても、その通りに動かせなければ取れなかったんだから。ようするに、それは俺たちふたりで取ったってこと」
「はいっ」
ゲーセンを出た俺たちは、少し早いけど夕食を食べることにした。
あまり余裕がなかったから高級そうな店は最初から除外。
選んだのは、イタリア料理店。
まあ、あまりオシャレすぎると気負っちゃうので、そこは適当に。
「今更こういうことを聞くのもどうかと思うんだけどさ」
「はい」
「沙耶加の理想の男性像って、どんなだったの? もちろん、俺に出逢う前だよ」
「そうですね……正直に言うと、理想像すら持てていなかったのかもしれません」
「それって、イメージから?」
「はい。ただ、私の男性に対するイヤなイメージを払拭してくれる人がいてくれたら、とは思っていました。だから、結果的に洋一さんが私の理想でもあったんです」
「なるほどね」
「だから、逆に私にとってはよかったと思っています」
「それは?」
「もし、ほかに理想像があったら、きっと洋一さんと比べてしまったからです。私にはそれがありませんでしたから、それもしなくてすみました」
「そういう考え方もあるか」
理想と現実のギャップというのは、時としてかなりのダメージを与えることがある。沙耶加の場合は、その理想がなかったわけだから、それもなかったと。
それはきっと、ある意味では幸せなことなのだろう。俺にはわからないけど。
「私は、洋一さんと出逢えて本当に幸せです」
それが、沙耶加の本音であり、本心であり、唯一の想いなのだろう。
こういう言い方はあまりしたくないけど、食欲を満たしたあとに満たすのは、やっぱり性欲なのだろう。
俺も沙耶加も、デートの最後はそうあるべきだとは思っているけど、そういう穿った考え方をしてしまうと、なんだかなと思ってしまう。
もちろん、そんなことを沙耶加に言ったりはしない。
ホテルの部屋に入った俺たちは、すぐに抱き合い、キスを交わす。
「ん……」
キスをしながら、髪を撫でる。
「洋一さん……」
カーディガンを脱がせ、ベッドに横たわらせる。
カットソーの上から胸に触れる。
「あ、ん……」
それだけで沙耶加は敏感に反応する。
「そのままなんて、せつないです……」
「じゃあ、脱がせるよ」
沙耶加は小さく頷く。
カットソーを脱がすと、レモンイエローのブラジャーが露わになる。
ブラジャーをたくし上げ、直接胸に触れる。
「んん」
手のひらが乳首に触れただけで沙耶加は体をビクンと反応させる。
「あ、ん、気持ちいいです」
胸を揉みながら、乳首を舐める。
別に母乳が出るわけでもないのだが、甘い感じがするのはなぜだろう。
まあ、些細なことだけど。
「沙耶加」
「は、はい」
「ちょっと四つんばいになってくれるかな」
「あ、はい」
沙耶加は、言われるまま四つんばいになる。
俺は、そんな沙耶加のスカートをめくる。
今日はストッキングを穿いていたので、いつもと少し違う感じがする。
そのストッキングの上から秘所に触れる。
「んんあ……」
触り心地がいつもと違うけど、沙耶加の感じ方は同じだ。
それからストッキングとショーツを脱がせる。
露わになった秘所に、まずは指で触れる。
「んっ」
秘唇に沿って撫で、軽く中に挿れる。
「あんっ」
沙耶加の中は、すでに少し濡れていた。
「沙耶加、もう濡れてるよ」
「……言わないでください」
沙耶加は、イヤイヤと首を振る。
「こうして指を挿れると──」
「んんっ、あんっ」
「ほら、音まで聞こえる」
わざと音が聞こえるようにしてるのだが、沙耶加は気付いていないだろう。
ちゅくちゅくと淫靡な音が神経を麻痺させていく。
「それに、沙耶加の中、すごく熱い」
「それは、んんっ、洋一さんが、ああっ」
「ん、なに?」
「や、ん……そんなに、かき回さないで、くださいっ」
指を一本から二本に増やし、さらにいじる。
「んんっ、洋一さんっ」
自然と腰が動き、より快感を得ようとする。
「あっ、ダメっ、んんっ、私っ」
速く、深く指を出し入れし、沙耶加をイカせようとする。
「んんっ、あああっ」
キュッと中が締まり、沙耶加は達した。
「ん、はあ、はあ……」
「気持ちよかった?」
「はい……すごく……」
沙耶加は、恍惚とした表情で頷く。
「沙耶加、このまま続けてもいい?」
「はい、洋一さんのお好きなように……」
俺もズボンとトランクスを脱ぎ、ゴムを装着して屹立したモノを沙耶加の秘所にあてがう。
「いくよ」
「はい……」
そのまま一気に奥まで突き挿れる。
「あああっ」
達してからほとんど間がなかったせいか、沙耶加の中はまだかなり敏感だった。
「大丈夫?」
「は、はい、大丈夫です。続けてください」
「わかった」
腰をつかみ、ゆっくりと動く。
何度かセックスしていると、どうすれば感じるのかわかってくる。
沙耶加の場合は、少し乱暴にされる方が感じるのだが、最初からそれをするつもりはない。やっぱり最初は沙耶加を労りながらの方がいい。
「ん、あっ、あっ」
俺が動く度に、沙耶加の髪と胸が揺れる。
「洋一さん、もっと突いてください」
「わかった」
最近は沙耶加もしてほしいことを言ってくれるからやりやすい。
俺は、少し力を入れて腰を動かす。
「んんっ、ああっ」
肌と肌がぶつかる音、俺のモノが沙耶加の中を蹂躙する音、それに俺たちの荒い声が部屋に響く。
「んんっ、いいっ、洋一さんっ」
「もっともっと気持ちよくなっていいんだよ」
「はいっ、はいっ」
すでに俺も沙耶加も止まれない。
「あんっ、んくっ、あっ、あっ、あっ」
次第に俺の方も高まってくる。
「沙耶加っ」
「洋一さんっ」
ラストスパート。
「やっ、ダメっ、またっ」
「俺も、そろそろ」
「私もっ、またっ」
「沙耶加っ」
そして──
「くっ」
「いっ、くぅっ」
俺たちはほぼ同時にイッた。
「はあ、はあ、洋一さん……」
「はぁ、はぁ、沙耶加……」
そのままベッドに倒れ込み、しばし目を閉じた。
ホテルを出たのは、それからだいぶ経ってからだった。
あのあと、ベッドで二回、シャワーを浴びながら一回してしまったからなのだが。
「大丈夫?」
帰りの電車の中、沙耶加は俺に寄りかかり目を閉じている。
「大丈夫ですよ」
「でも、さすがに疲れたんじゃない?」
「少しだけです」
そう言って微笑む。
「それに、これは心地良い疲れですから」
「それならいいけど」
沙耶加と一緒に過ごしてここまで遅くなったことはないから、今日は家まで送らなければならない。
それも俺の役目だから、特に感慨はない。当然だ。
「洋一さん」
「うん?」
「今日はいろいろとありがとうございました」
「そんなお礼を言われるようなことはなにもしてないよ。デートは、俺もしたかったからだし、ゲーセンに行ったのだって俺も楽しみたかったからだからね」
「それでも、お礼を言いたかったんです」
地元に戻ってくると、沙耶加はいつものように駅前で別れようとした。
「今日はいつもより遅いから、家まで送るよ」
「えっ、でも……」
「いいからいいから。ほら」
「あ、はい」
ぬいぐるみを持ったまま、歩き出す。
駅前を離れていくと、住宅街に入る。そうすると、街灯の数も急に減る。
人の数が少ないので、女の子のひとり歩きは結構危ない。
「次は、あさってですね」
「ん、そうだね」
「あさってのことは、私と愛さんとで決めてしまっていいんですよね?」
「そりゃ、そうするって決めたのはふたりだから。俺はその決まったことに粛々と従うよ」
「わかりました」
どこで話し合うことになるのかはわからないけど、そこに居合わせるのは愛と沙耶加、それに俺の三人だけだ。
「洋一さん。あらかじめ、ひとつだけ約束してください」
「約束?」
「はい。絶対に私に同情しないでください。ちゃんと、洋一さんの本音で話してください。それを約束してください」
沙耶加は、真剣な表情でそう言う。
「そうしないと、意味がありませんから」
「そうだね。それは約束するよ」
「すみません」
沙耶加にとって、あさってはいったいどんな日になるんだろうか。
俺の答えを聞いた時、沙耶加はどんな顔をするんだろうか。
考えればキリがない。
「沙耶加。気休めかもしれないけど、あまり考えすぎないように。考えれば考えるほど、人っていうのは変な方向に向かっちゃうから」
「それは大丈夫です。私、単純ですから」
「いや、でも……」
「ふふっ、本当に大丈夫ですから。洋一さんは心配しないでください」
「……わかったよ」
沙耶加は、確かにもろい面もあるけど、基本的にはとてもしっかりしている。沙耶加の言葉を鵜呑みにはできないけど、それでも相手を気遣えるだけの余裕はあるのだ。
ここが愛との違いだろう。これが愛なら、おそらくそこまでの余裕はない。
「それに、逆にそこまで心配されてしまうと、かえってイヤなことを思い浮かべてしまいます」
「まあ、そうかもしれないね」
もうこれ以上は言わない方がいいか。
それから山本家までは、まったく違う話をしながら歩いた。
「それじゃあ、沙耶加」
家の前でぬいぐるみを返す。
「洋一さん。本当にありがとうございました」
「気にしなくていいよ」
「また、こうしてデートしたいです」
「ん、そうだね」
そのデートが、どんなデートになるかは、あさって次第だけど。
「ん……」
最後にキスをする。
「じゃあ、またあさって」
「はい」
沙耶加が家の中に入るのを確かめてから、俺は歩き出した。
とりあえず、沙耶加とのことはまたあさってに考えよう。
もちろん、もうすでに結論は出ているけど。
四
三月三十日。
昨夜遅くに降り出した雨が、未だに降り続いている。
この雨のせいで、桜の開花は少しだけ延びるだろう。
今日は、姉貴と一緒に香織のところに行くことになっている。
少し早めに起きると、俺よりも早く姉貴は起きていた。
「おはよ、洋一」
「ん、おはよう。早いね」
「まあね。出かけるから準備とかあるし」
朝食の準備を手伝いながら、姉貴はそう言う。
「別に準備なんかしたって変わらんだろ」
言ってからしまったと思った。
「ふ〜ん、そういうこと言うんだ。へえ……」
「あ、いや、今のはそういう意味じゃなくて……」
「そういう意味って、どういう意味?」
「だから、その……」
「覚えてなさいよ」
不覚だ。
これで今日は姉貴になにを言われ、なにをされるかわからなくなった。
姉貴は、ヒルよりもしつこいからな。
しょうがない、覚悟しておこう。
それから朝食を食べ、準備をしてから家を出た。
傘を差して駅まで歩く。
「和人さんとは、どこで合流するんだ?」
「ん、向こうの駅で。香織ちゃんのとこに直接でもよかったんだけど、それは和人も香織ちゃんも嫌がったからね」
「なるほど」
まあ、あの姉弟ならそう言うかもな。
雨は、しとしとという感じで降り続け、なんとなく鬱陶しい。
「なあ、姉貴」
「ん?」
「和人さんは、俺と香織のこと、気付いてるわけ?」
「さあ、どうかしら。なにかあるかもしれないとは思ってるかもしれないけど、実際にどこまでの関係になってるかは、わかってないんじゃないかな」
「そっか」
「まあ、バレるかバレないかは、香織ちゃん次第じゃない?」
「確かに」
香織が人目もはばからず甘えてきたりすれば、さすがに気付かれる。
あらかじめ言っておいた方がいいかな。
「いいじゃない、別にバレたって。遅かれ早かれ、和人には話しておかなくちゃいけないことなんだからさ」
「そりゃそうなんだけど」
「それに、あの香織ちゃんが黙ってられると思う?」
「……微妙」
「向こうの両親になら拷問されても黙ってると思うけど、和人にだったら自分から話すと思うわ」
香織ならそうかもしれない。
「なるようにしかならないわよ」
人ごとだと思って。
駅から電車に乗り、香織の部屋のある駅へ向かう。
電車は、それなりに混んでいた。少なくとも、座る余地はない。
そんな中、姉貴はわざと俺に密着してきた。そこまで混んでるわけじゃないのだが、明らかに遊んでる。
「……なんでそんなに密着してくるのさ?」
「混んでるから」
「……そこまで混んでないと思うけど」
「いいじゃない。減るもんじゃないし」
そんなことがありつつ、電車は目的地へと到着した。
和人さんは、改札を出たところで待っていた。
「和人」
「やあ、美香、洋一くん」
「おはようございます」
「時間通りね」
「時間通りじゃないと、大変なことになるからね」
「よくわかってるじゃない」
これは別に俺がいなくても行われてる会話だろう。
「洋一くん。今日はわざわざ悪かったね」
「いえ、どうせ暇でしたから」
「そうかい。それならいいんだけど」
姉貴も和人さんも香織のマンションは知ってるから、誰もなにも言わなくても問題はない。
雨の中を、三人で歩いていく。
姉貴と和人さんが並び、その少しあとを俺がついていく。
俺は、その隙を使って、香織にメールを打った。和人さんに余計なことを言うな、という内容なのだが、とりあえずマンションに着くまでには返事はなかった。
和人さんが合い鍵を使い、マンションの中へ。
エレベーターで五階へ上がり、エレベーターを出てすぐの『507号室』へ。
インターフォンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい」
白のブラウスにジーンズ地のミニスカート姿の香織が俺たちを出迎えてくれた。
「さ、入って」
それほど広い玄関じゃないから、四人分の靴が並ぶといっぱいになった。
部屋の中は、先週よりも片付いていた。
「兄さんと美香姉さんはそっち。で、洋一はここ」
で、いきなり香織はそんなことを言い出した。
いや、もちろんそれほど広い部屋じゃないから、考えて座るのは当然なのだが、あからさますぎる。
だけど、姉貴も和人さんもまったく気にしている様子はない。
「今、お茶淹れるから」
香織は、そのまま台所でお茶を淹れる。
その近くにいた俺が手伝おうと腰を浮かせると、香織が目だけでそれを制した。
ここで言い争ってもしょうがないので、とりあえず引き下がった。
程なくして俺たちの前にお茶が並んだ。
で、当然のごとく、香織は俺にぴったりとくっついている。
「ん、どうかした?」
「……いや、なんでもない」
「そう?」
無邪気、とも言えないけど、そんな顔でそう言われては、なにも言い返せなかった。
本当にどうなることやら。
なんのために俺が呼ばれたのかは、正直わからなかった。
会話の中身も、別に俺がいなくても問題のないものばかりだったし。
姉貴は俺がいればなんて言ってたけど、香織にとってはそれが姉貴でもそれほど問題はないはずなんだ。
実際、誰が話しているかを割合に直せば、姉貴と香織が四割ずつで、俺と和人さんが一割くらい。
会話としてはそんな感じなんだけど、香織は俺からまったく離れようとしない。
最初はくっついてるだけだったのだが、次第に寄りかかって、腕を組んできた。
姉貴は時折意味深な視線を俺に向けてきたけど、無視した。
そうこうしているうちに、そろそろお昼という時間になった。
「兄さん。悪いんだけど、ちょっと買い物に行ってきて」
「なにを買ってくればいいんだ?」
「今書くから、待って」
香織は、メモ帳に買ってくるものを書いていく。
「はい、これ。お金は、立て替えといて」
「了解」
「洋一。あんたも一緒に行ってきなさい」
「俺も?」
そんなわけで、俺は和人さんと一緒に買い物に出かけた。
買い物は、この前香織と一緒に行ったあのスーパーだ。
「洋一くん」
「はい」
「香織がいろいろと面倒をかけてるみたいだね」
スーパーまでの道すがら、和人さんはそんなことを言ってきた。
「まあ、今更兄貴面しようとは思ってないし、香織は香織の考えがあって洋一くんとつきあってるとは思うんだけどね。それでも、一応は兄貴として多少なりともその責任を感じてるというわけだよ」
そう言って微笑む。
「和人さんは、俺と香織がどんな関係だと思ってるんですか?」
「ん、そうだな。今日の香織の様子を見れば、普通の関係じゃないことはわかるよ。いくら俺でもね。で、その普通の関係じゃないというのは、ようするに男女の関係ってことだね。違うかい?」
「いえ、その通りです」
さすがにあれだけのことをされれば、誰でも気付く。
特に、俺と香織は最初に会ってからまだ間もないんだから。
「ああ、そのことを謝る必要はないよ。さっきも言ったけど、香織は香織の考えがあってのことだから。俺はそれになにか言うつもりは全然ない。それが、俺たち兄妹のあり方だし」
そういう兄妹の関係ももちろんあるだろう。うちみたいに、上も下も干渉過多というのは珍しい。
「ただね、俺たちの関係がどうであっても、香織が妹であるという事実だけは変わらないから。だから、せめて洋一くんには香織を泣かせないでほしいんだ。俺からのお願いは、それだけだよ」
「……もちろん、俺にできることはなんでもやるつもりです。それができなければ、香織に応えることなんてできませんから」
「ははは、洋一くんは真面目だね。いや、だからこそ誰からも好かれるんだろうな」
「そんなことは……」
「まあ、香織のことは必要以上に気にしなくていいよ。洋一くんには、れっきとした彼女がいるんだから。香織のために、その彼女をないがしろにしたり、泣かせるようなことだけはしないでほしい」
「わかりました」
俺もそのことは十二分に理解している。だけど、実際どの程度バランスを取ればいいのかは、まだわからない。もちろん、基本的には愛の方が優先されるけど。
「それにしても、香織と洋一くんがそういう関係になるとはね。でも、これはあれかな。美香の責任でもあるのかもしれないね」
「姉貴の責任、ですか?」
それはどういうことだ?
「美香がうちに来ると、たいてい香織といろいろ話していたからね。その時の話題の何割かは洋一くんのことだったみたいだし。ほら、美香は洋一くんのことをいつも自慢の弟だって言ってるから。その洋一くんのことを多少の誇張を含めて香織に話してるはずなんだよ。そうすると、次第に香織の中に洋一くんに対する興味が湧いてくる。もちろん、美香も必要以上に幻想を抱かせるようなことは言ってないから、変な想像はしてなかっただろうね。そのあたりの調整は上手いからね、美香は」
そう言われると、確かにそうかもしれない。
「で、ここからは完全に想像なんだけど、その美香の話が引き金となって、香織が洋一くんに実際に会った時に、その想像はプラスの方向に働いてしまった、と。あれで香織も結構人を見る目があるからね。いやまあ、今までにつきあって別れた数もそれなりだけど。まあ、だから最初から洋一くんに対して好意を持ってたんだろうね。その好意が、まさかここまでのものだとは思わなかったけど」
人を好きになるのに、時間は関係ない。それは確かだと思う。
そして、その好きになるのに理由はいらない。
気付いたら好きになっていた、それが正しい。
もちろん、後々よく考えてみればその理由もある程度説明できるのかもしれないけど。すぐには無理だろう。
実際、俺だって愛や沙耶加のことでそう聞かれたら、そう答えていたはずだ。
「とりあえず、俺からはそれだけ。あとのことは、ふたりに任せるよ」
そう言って和人さんは俺の肩を叩いた。
スーパーに着くと、早速頼まれたものを買う。
数はそれほど多くなく、どれもこれもすぐに見つかった。
「どうも、この内容を見ると、俺たちはわざと外に追いやられたみたいだね」
「そうかもしれませんね」
それは、確かに必ずしも必要とは思えないものばかりだった。
香織の腕なら、これがなくても十分なものは作れるはずだ。
「香織なのか美香なのかはわからないけど、ふたりだけで話したいことがあったんだろうな」
そうとしか考えられない。今にして思えば、俺に付き添わせたのも、わざとらしかったし。
「まあ、そのおかげで俺たちも話すことができたんだけど」
それはそうだ。こういう機会でもなければ、和人さんとゆっくり話すことはなかっただろう。
「そうだ。洋一くん」
「なんですか?」
「たまには点数稼ぎも必要だと思わないかい?」
「点数稼ぎ、ですか?」
和人さんの言葉に、俺は首を傾げた。
「うん、まあ、洋一くんは香織にはその必要はないのかもしれないけど」
「和人さんは、姉貴には必要なんですか?」
「それを言われるとつらいね。そうだともそうじゃないとも答えづらい。ただ、なにもなくても喜ぶことはしてもいいと思うんだよ」
「そうですね」
というわけで、和人さんの提案に従って点数稼ぎの品物を物色することにした。
「さて、なにを買っていけば点数稼ぎになると思う?」
「そうですね……姉貴なら、普通に甘いもので十分だと思いますけど」
「問題は香織か」
「香織は、特にこれが好きというのはないんですか?」
「どうだったかな。うちではなんでも食べていたからね。ただ、この二年間はあまり家にいなかったからわからないけど」
「そうですか」
無難なのは、やはり甘いものだろう。それ自体が嫌いじゃなければ、食べてもらえないということはない。
「あ、でも、和人さん」
「ん?」
「あまり量が多いのはやめた方がいいですよ。香織が準備してる食事の中に、そういうのがあるかもしれませんし」
「なるほど。せっかく買っていっても、それを食べてもらえなければ意味はない、か」
女性は甘いものは別腹なんていうけど、それでも限度はあるだろう。
「ん〜……」
腕を組んで考える。
あたりを見てみる。
と、あるものが目に飛び込んできた。
「和人さん。あれはどうですか?」
「ん、どれだい?」
俺が見つけたのは、イチゴクリームのシュークリームだった。しかも、普通のより小さめである。
「なるほど。この大きさなら、それほど問題にはならないか」
大量にさえ買い込まなければ、問題なさそうなものだった。
「あとは、味か」
それも重要だった。
ここは俺にとっても和人さんにとっても地元ではないから、それが旨いのか不味いのかわからない。
「よし、試食させてもらうか」
そう言って和人さんは店員に声をかけた。
「すみません」
「はい、いらっしゃいませ」
二十代半ばくらいの女性店員が、営業用スマイルを浮かべ、応対してくれた。
「このイチゴのシュークリームを試食させてもらうことってできますか? 丸々ひとつじゃなくて構わないんで」
「できますよ。少々お待ちください」
店員は、シュークリームをひとつ取り出し、ナイフで半分にしてくれた。
「どうぞ」
俺たちは、それを早速試食してみる。
「……ん」
「……なるほど」
特別旨いというわけでもないけど、不味くもなかった。欲を言えば、もう少しイチゴの風味が効いてる方がいいんだけど。
それでも果肉が入っているおかげでわずかな酸味もあって、これはこれでいいと思った。
「どうですか?」
和人さんにも聞いてみる。
「悪くないね。よし、これにしよう」
それから適当な量を買い、スーパーをあとにした。
「いや、洋一くんがいてくれて助かったよ。俺ひとりだけだったら、もう少し苦戦してただろうね」
「そんなことはないですよ」
「美香にもよく言われるんだ。和人はもう少しいろいろなことに興味を持つようにしないとダメだって。確かに、そう思うよ」
興味なんて人に言われて持つようなものではないと思うのだが。
「洋一くんの場合は、家庭環境のおかげかな、そこまでいろいろ気がつくのは」
「かもしれません。というか、昔から姉貴には無理難題を言われてきましたから。それの副産物かもしれません」
「ははは、なるほど」
その役目は、これからは和人さんが担うことになるのだが、とりあえず言わないでおこう。
「ああ、そうそう。ひとつ忘れてた」
「なんですか?」
「香織が言ってたよ。兄さんはさっさと美香姉さんと一緒になって、家を継いでくれって」
「えっと、それって……?」
「ようは、自分は早く家のしがらみから解放されたいってことだろうね」
「なるほど」
「香織は、なにか言ってたかい?」
「……そうですね。いろいろ言ってました」
「そっか」
それきり、和人さんはなにも言わなかった。
俺も口を閉ざし、雨の中をマンションに戻る。
マンションに戻り、エレベーターに乗った時、和人さんは言った。
「香織のことを、よろしく頼むよ」
だから俺も──
「はい」
素直にそう言えた。
昼食はなかなか豪華だった。狭いテーブルの上には四人分が乗らなかったくらいだ。
姉貴の話だと、ほとんど香織が作ったらしい。もちろん、味の方は文句のつけようもなかった。
で、俺と和人さんが買っていったシュークリームは、案外好評だった。
まあ、ふたりとも頭もいいし、勘も鋭いから、なんのために買ってきたのかは当然わかっていただろう。
昼食からのお茶の時、ようやく今日の本題に入った。
俺も、まさか四人でのんびり話をするためだけに集まったとは思っていなかった。
口火を切ったのは、姉貴だった。
「私と和人も、この四月から大学三年でしょ。そろそろ就職活動の方も忙しくなってくるし、面倒なことが多くなってくるのよ。で、あれこれ考えてさ、近いうちに一緒に暮らそうってことになったの」
「えっ……?」
それに反応したのは、俺だった。
「あれ、でもさ、その話って、正月の時になしにならなかったっけ?」
「あの時はね。でも、あれからいろいろ話したのよ」
「俺としては、今でも一緒に暮らす必要はないと思ってるんだけど、美香の暮らしたい理由が変わったから、そっちでもいいと思ったんだよ」
「理由?」
「香織ちゃんにも簡単なことは話したわよね?」
「ええ、聞いてます」
「私もね、あの時の理由は結構無茶だとは思ってるのよ。ただ、あの時は理性よりも感情の方が先走っちゃって。だけどね、今回は違うわ。ちゃんと冷静に考えた。その上で和人と話し合って、そうしようって決めたの」
本当にいろいろ話し合ったんだろうな。
「その理由っていうのはね、就活で時間がなくなってくるでしょ? 私は実家暮らしだからいいけど、和人はひとり暮らしでしょ? ということは、放っておいたら大変なことになると思って」
「確かに、兄さんはそういうことに無頓着ですからね」
「ふふっ、そうね。そこに私が一緒にいられれば、大変な時期にも助け合えるじゃない。それこそ、来年の今頃なんて一番大変な時期だろうし」
「だから、一緒に暮らすと?」
「まあ、そういうこと」
「なるほど」
俺と香織は顔を見合わせた。
「それ自体は別に構わないと思うけど、なんで俺たちに先に話したわけ? この話、うちにも和人さんの両親にも話してないでしょ?」
「ええ、あたしもそれを聞きたい」
「別に他意はないんだよ。そのうち話すつもりだし。ただ、現段階では具体的なことがなにも決まってないから、じゃあとりあえず香織と洋一くんにだけは話しておこうと思ってね」
姉貴を見る。
「和人の言う通り。本当は美樹にも話そうと思ったんだけど、あの子、いろいろ余計なことを言うと思って」
ありそうだ。
「まあ、美樹には折を見て私から話すわ」
「だけど、美香姉さん」
「ん?」
「同棲するのはいいと思いますけど、部屋はどうするんですか? 兄さんの部屋だと、ふたりで暮らすには手狭じゃないですか?」
「そのあたりも考えてるわよ。とりあえず考えてるのが、私もアルバイトでもはじめて、もう少し広い部屋に引っ越すこと。折半なら、多少家賃が高くても大丈夫だし」
「確かにそうですね」
だけど、姉貴が家を出るのか。
そのうち出るだろうとは思っていたけど、まさかこんなに早くとは思わなかった。もちろん、今すぐというわけじゃないけど。
母さんはなにも言わないだろうけど、父さんは言うだろうな。父さんは、美樹を猫可愛がりしてるけど、姉貴のことも可愛がってるし。
美樹は、あまり言わないか。むしろ、大歓迎かもしれない。姉貴が家を出れば、あの家には母さんと俺、それに美樹だけになるからな。父さんはたまにしかいないし。
「一応、いつくらいまでに一緒に暮らそうと思ってるわけ?」
「夏までには。それを過ぎると、それこそ忙しくなるし」
「なるほど」
「兄さん」
「ん?」
「ようするに、美香姉さんを守っていくという覚悟ができたってことよね?」
香織は、少しだけ鋭い視線を向けながら訊ねる。
「そこまで気負ってないよ。俺としては、その延長線上に、俺や美香の望む形があればいいと思ってるだけだ」
「……本当に、兄さんも変わったわね」
「そうかい?」
「ええ、変わった。これもきっと、美香姉さんのおかげね」
「そりゃそうよ。和人には、これから先もどんどん変わってもらわないと」
そう言って姉貴は和人さんの背中を叩いた。
「早く美香姉さんと『義姉妹』になりたい」
「ま、それはもう少し先ね」
姉貴と和人さんが決めたことだ。きっと、大丈夫だろう。
姉貴は一度失敗したことは、二度繰り返さないから。
「とりあえず、話はこんなところ」
見ると、カップは空になっていた。
「ちょっと待ってて。今、お茶淹れるから」
隣の香織が、すぐに立ち上がった。
「大学がもう少し近ければ、私が出たあとに香織ちゃんに部屋を貸してあげてもよかったんだけどね」
「それはいいアイデアですね」
「ちょ、ちょっと……」
なに、火に油を注ぐようなことをさらっと言ってるんだ、このアホ姉貴は。
「いっそのこと、そうしますか?」
「そうする?」
「だから、なんでそうなるのさ?」
「だって、その方が安心でしょ? 香織ちゃんだって、ひとりでいるよりも誰かといた方が心強いだろうし」
「いや、そうかもしれないけど……」
「でも、美香姉さん」
ティーポットに紅茶を入れ、香織が戻ってきた。
「ん?」
「とりあえずはもう少しひとり暮らしを経験してみます。やっぱり、ひとりというのを経験するかしないかというのは、違うって聞きますし」
「そう? 遠慮することないのよ? うちの方は、私が責任持って説得するし」
「そうですね。とりあえず二年間はひとり暮らしを続けます」
「二年か……いいわ、二年後にもう一度同じことを聞くから」
「ええ」
それまで覚えてるのかどうか。
というか、二年後には姉貴は違う意味で家を出て行く可能性もあるし。
「ところで、香織ちゃん」
「なんですか?」
全員のカップに紅茶を注ぎ、香織は姉貴に向き直った。
「香織ちゃんは、どうするの?」
「どうするって、なにをですか?」
「洋一とのこと」
姉貴は紅茶を一口含んだ。
「この間聞いた時は、まだ曖昧な感じだったから。多少冷却期間もあったわけだし、考えもまとまったかなって思って」
「そうですね……」
香織は、カップをもてあそびながら頷いた。
「ひとつだけ、絶対に譲れないことはあります」
「それって?」
「少なくとも洋一があたしのことを嫌いにならない限りは、側にいるってことです」
はっきりそう言い切った。
「どういう状況でも?」
「はい」
「なるほど。そのあたりはこの間と一緒か」
「ただ、そうですね、あたしは別に、洋一とその彼女の仲をどうこうしようとは思っていません。それを理解した上で、今の関係になってるわけです」
「そのあたりは心配はしてないわ。香織ちゃんは、聡明だから」
「…………」
「私もふたりのことについてはあれこれ言うつもりはないけど、ひとつだけ。これから先ふたりの関係がどうなるのかはわからないけど、どうなったとしても、後悔だけはしないこと。いい?」
「はい」
「洋一もよ」
「わかってる」
そんなこと、改めて言われなくてもわかってる。
「あと、なんかあったっけ?」
「いや、俺の方はなにも」
「じゃあ、とりあえずそんなところ」
姉貴はそう言ってその話を締めた。
だけど、いったいなんのためにわざわざこの場でその話をしたんだ?
それだけがわからなかった。
「本当に帰るの?」
「ああ」
夕方。姉貴と和人さんが帰ると言い出した。
俺もと言うと──
「あんたは残ってなさい」
そう言われた。
一応の理由としては、とりあえずこれからのことをさらに考えたいから、ということらしい。もちろん、ウソだろうけど。
「あ、洋一」
「ん?」
「今日、帰らないかもしれないから。お母さんにそう言っといて」
「んなの、自分で連絡しろよ。携帯持ってるんだから」
「それはそうなんだけどさ。そこはほら、念には念を入れってことで」
「へいへい、わかりましたよ」
そうこうしているうちに、姉貴と和人さんは本当に帰ってしまった。
「こういうことを言い出してやるのは、姉貴しかいない」
「それはわかってる」
とりあえず俺たちは部屋に戻り、腰を落ち着けた。
「だけど、今日のことはいったいどれだけの意味があったんだろうな」
「さあ、それはあたしにもなんとも。ただ、兄さんにしろ美香姉さんにしろ、とりあえず誰かに聞いてほしかったんだと思うわ」
「それはそうだろうな」
自分たちだけで決めたことだから、ほかの誰かに認めてほしい。そう思うのは当然だ。
だけど、そうするとそこで俺たちのことを取り上げた理由がわからない。
「洋一は、兄さんとなにか話した?」
「ん、少しだけな」
「どんなこと?」
「たいしたことじゃないよ。兄としては、当然の行動だと思う」
「だから、それってどんなこと? あたしは兄じゃないんだから、わからないの」
「ようするに、自分のカワイイ妹をよろしく頼むってこと」
「……ああ」
香織は、わずかな沈黙のあと、頷いた。
「兄さんがそんなこと言うなんて、ちょっとだけ驚き」
「それだけ香織のことが大事だってことだよ」
「ん、まあ、そうなのかな」
「香織は、姉貴となにを話したんだ?」
「あたしたちのことは、それほど話してないわよ。もうすでに話してたから。ただ、改めて確認された」
「確認?」
「あたしが、洋一のこと本気なのかどうか」
「なるほど」
「で、あたしは当然、本気だって答えたわ。それこそ、愛人でも未婚の母でもなんてもこいって感じだって言ってね」
「そりゃ、なんとも……」
香織らしい啖呵の切り方だ。
「隣、いい?」
「ん、ああ」
ふたりきりになって別々に座っていたのだが、香織はさっきまでと同じように、俺の隣に移ってきた。
そのまま俺に寄りかかり、胸に頬を寄せた。
「ん、洋一の匂い……」
俺は、そんな香織を優しく抱きしめた。
「この一週間、なんともなかったか?」
「ええ、大丈夫。いくらあたしでも、そこまでのことにはならないわよ」
「それならいいけど」
「アフターケアもばっちりね」
「さあな」
「あたしは、そういう洋一が、好きだけど」
そう言ってにっこり笑う。
「それでも、こうしてぬくもりを感じられると、嬉しい」
「そりゃよかった」
ひとり暮らしをはじめてまだ間もないけど、そのうちひとりということがどういうことか、わかってくるはずだ。もちろん、気丈な香織のことだ。そうそう弱音を吐くとは思えないけど。
それでも、誰かに側にいてほしいと思うことは絶対あるはずだ。
姉貴がそこまで考えて俺に香織のことをあれこれ言ったのかどうかはわからないけど、俺がその役目を担えるなら、それはそれでいい。
今みたいな関係じゃなかったとしても、俺と香織は義理の『姉弟』になるのだから。
家族の心配をするのは当然だ。
「ねえ、洋一」
「なんだ?」
「あれから一週間経ったけど、洋一の気持ちは変わってない?」
「気持ちって、なんの?」
「そんなの決まってるじゃない。あたしに対する気持ちよ」
「ああ、それか。別に変わってないぞ。じゃなかったら、今、こんなことしてるはずないだろ」
「それもそっか」
人の心なんて、絶対にわからない。わかってると思ってるのは、あくまでも自己満足でしかない。心なんて曖昧なもの、絶対にわかるわけがない。
だからこそ人は、訊くんだ。
相手の言葉がウソだとしても、それは関係ない。その言葉によって、自分が安心できればいいのだ。
「あたしもね、いろいろ考えたの。考える時間だけはたくさんあったから。いろいろな場面を想定して、本当に考えた。でもね、どうやってもたったひとつのことだけは変わらないの」
「それが、さっき姉貴に言ったことだな?」
「そう。その考えが甘いって言われればそれまでだけど、それでも、あたしはずっとそうあり続けたいの。洋一のことが好き。洋一を好きな自分が好き」
「…………」
「これから先、きっとあたしの想像を遙かに超える大変なことがあると思う。それでも、洋一と一緒にいられないことに比べたら、それはたいしたことじゃないの。あたしにとって洋一と一緒にいるということは、もうあたしの一部だから。ないと困るの。ないと、あたしじゃなくなるの」
香織は上目遣いに言う。
「彼女のいる洋一を好きになったあたしに言えた義理じゃないけど、でもね、洋一」
「ん?」
「あたしのこと、ずっと好きでいて。彼女より好きになるのは無理だろうけど、少なくとも側にいてもいいと思えるくらいには、好きでいてほしい。そうしたらあたし、ずっと目的を持って生きていけるから」
「わかった。約束する」
「うん、ありがと……」
俺は、香織にキスをした。
「ね、しよ?」
「あのさ、香織」
「ん?」
「ひとつ、質問してもいいか?」
「いいわよ」
俺は、盛大なため息をつきつつ、言った。
「なんでそんな格好してるんだ?」
「イヤ?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、問題なし」
にっこり笑い、ついでにクルッとまわった。
今、目の前の香織の格好はさっきまでの格好と違う。
俺をベランダに追い出し、待つことしばし。
次に俺の前にいたのは、制服姿の香織だった。
オーソドックスなセーラー服。胸のところに校章が入っている。
スカートの丈は、かなり短い。
ついでに、靴下もニーソックスになってる。
「……それ、高校のか?」
「そうよ」
「……なんでそれがここにあるんだ? 卒業したんだから、もう必要ないだろ?」
「そうなんだけどね。先週、洋一とセックスしてから、あたしもいろいろ考えたのよ。洋一とのセックスをもっと楽しみたいって。じゃあ、そのためにはどうしたらいいか。一番の早道はあたしがいろいろ覚えるのがいいんだろうけど、すぐには無理だから。なら、とりあえずシチュエーションというか、コスチュームからやってみようと思って。で、実家まで取りに行ったのよ」
「……セックスのためにわざわざ取りに行くなよ……」
一途な想いで動いてるから強くは言えないけど、それでもさすがに呆れてしまう。
というか、思考回路がどこかの誰かとそっくりだ。
「これだけで満足できないっていうなら、中学のも持ってくるわよ。ちょっと小さいとは思うけど、これと違ってブレザーだったから、なんとかなるでしょ」
「……いらん」
「あ、それとも、メイド服とかナース服とかチャイナドレスとか巫女服とかスク水とかの方がいい?」
「……どれもいらん」
「あ、裸エプロンとか?」
「…………」
「ああんもう、冗談だって」
言いながら俺にしなだれかかってくる。
「そんな顔しないでよ。ね?」
「ったく……」
小さく息を吐き、しかめっ面を解いた。
だけど、よくよく見ると、実によく似合ってる。というか、これだけの容姿の持ち主だ。どんな格好をしても似合うな。
さっき冗談で言っていたどの格好をしても、本当に似合うだろう。
って、俺はコスプレマニアじゃないぞ。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「そう? じゃあ、このまましよ」
そう言って香織は俺にキスをしてきた。
一度キスをして唇を離し、再びキスをする。
二度目のキスからは、舌を入れてする。
「ん、ん……」
息を継ぐのも忘れてキスに没頭する。
「ん、はあ……」
長いキスを終えると、香織はすっかり陶酔した表情で艶めかしくため息をついた。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「今日は、あたしにさせてね」
言うや否や、香織は俺の足の間に跪いた。
ズボンの上からモノを擦る。
「ふふっ、少し硬くなってる」
ベルトを外され、ズボンも脱がされる。
トランクスをずり下ろされる。
「わ……」
すでに結構大きくなっていたモノが、香織の前に飛び出す。
「これが、洋一のなんだね……」
感慨深そうにモノを見つめ、おもむろに触れた。
「すごい……」
なにがすごいのかはあえて訊かない。
香織はそのままモノを軽く握り、擦り出す。
「どんどん硬くなる……」
ぎこちない手付きでモノをしごく。
「……硬くて、熱くて……びくんびくんて……」
香織自身も、すでに自分がなにを言ってるのかわかってないだろう。
「舐めると、気持ちいいんだよね……?」
「ん、ああ」
「じゃあ、舐めるね」
舌を出し、ペロッという感じでモノを舐めた。
ちょうど尿道口のところにあたり、一気に快感が駆け抜けた。
「ん……ん……」
最初はおそるおそるという感じだったが、次第に慣れてきて、大胆になってくる。
舌先だけでなく、舌全体で舐めたり、くわえたり。
「ん……む……は……ん……」
一心不乱にモノを舐める姿は、とても淫靡だった。
「気持ちいい……?」
「ああ、気持ちいい」
「あたしの口で、イッていいからね」
カワイイことを言ってくれる。
というか、俺も興奮してきて、もうそんなにもたない。
「ん……は、む……」
「香織、そろそろ」
「いいよ」
香織は、さらに激しく舐める。
「ん、くっ!」
「っ!」
そのまま、俺は香織の口内に精液を放った。
「ん、はあ……」
射精後の虚脱感に身を任せる。
「っと、香織、無理するな。出していいから」
しかし香織は首を振り──
「ん……」
そのままそれを飲み込んでしまった。
「ん、けほっ」
「だから無理するなって」
「大丈夫。それに、思っていたよりずっと平気だったし」
香織は、穏やかな表情でそう言う。
「おまえは本当に……」
「それだけなんでもしてあげたいってことなの。言ったでしょ? あたし、とことんまで尽くすって」
「ああ……」
「でも、今度は洋一にしてほしい」
香織は俺の前に立ち、スカートをめくった。
紫色のショーツが露わになる。
「あたしの、いじって」
「ああ」
俺は、ショーツの上から秘所に触れた。
「んっ」
スリットに沿って指が沈む。
「あっ、ん」
そこを重点的に擦る。
「や、ん、洋一」
すぐに指先で湿り気を感じてくる。
「もう濡れてきたぞ」
「だ、だって、気持ちいいから……」
「じゃあ、もっと気持ちよくしないとな」
言いながら、ショーツを脱がす。
わずかに開いた秘唇の間から、蜜があふれてくる。
俺は、そのまま指を挿れた。
「あっ」
香織の中は、すでに十分なくらい濡れていた。
「もうこんなになってるじゃないか」
「や、ん、だって……んんっ」
指を出し入れし、さらに敏感な部分を擦る。
「ね、ねえ、洋一」
「ん?」
「あたし、もう我慢できない」
「もうか?」
「だって……」
俺のを舐めていた時から感じていたんだろう。
「だからね、洋一の、挿れていい?」
「ああ」
香織は、俺をベッドに押し倒し、その上にまたがった。
そして、そのままモノを挿れようとする。
「ちょ、ちょっと待──」
が、まだゴムをつけていないことを思い出し、止めようとしたが──
「んんっ」
香織はそのまま挿れてしまった。
「あ、ん、洋一のが、奥まで届いてる……」
奥まで入ると、香織は大きく息を吐き出した。
「洋一ので満たされてると、心まで満たされる感じ……」
「香織……」
体を前に倒し、キスをねだってくる。
「ん……」
俺はそれに応え、キスをしてやる。
「動くね……」
キスを終えると、香織は腰を浮かせ、動き出した。
「んっ、あっ」
香織の中はまだ狭く、締め付けはきつかった。
「ああっ、んっ」
俺にとってはそのきつさが気持ちよかった。
「洋一っ」
次第に動きが速くなってくる。
上下に動かしていた腰を、前後に動かす。
「いいっ、気持ちいいっ」
動きは小さいが、俺の方も気持ちよかった。
「んっ、あっ、んくっ」
俺は、制服の上から胸をつかみ、少し乱暴に揉む。
「やっ、んっ、洋一っ」
自分の意志とは関係なく、動きが止まらないという感じだ。
「洋一、あたし、イッっちゃうっ」
体を前に倒し、さらに大きく動く。
「洋一っ、洋一っ」
「香織っ」
「あっ、んっ、ああああっ!」
香織は、体をのけぞらせ、達した。
同時に香織の中が締まり、俺のモノを締め付ける。
そのせいで──
「くっ」
俺はそのまま香織の中に精液を放ってしまった。
「あ、洋一のが、出てる……」
香織は、うっとりとした表情でそう言う。
「洋一、好き……」
「このまま朝まで眠れたら、きっといい夢見られるんだろうなぁ……」
香織は、そんなことを言いながら、俺の胸に頬を寄せた。
結局、香織にねだられる形でもう二度ほどセックスしてしまった。
その途中で俺も香織も服を脱いで、今は裸である。
「あのさ、香織」
「ん?」
「セックスするのはいいんだけど、やっぱりもう少し考えないとまずいって」
「まずいって、中出しのこと?」
「ん、ああ」
「ん〜、あたしは別にまずいとは思ってないわよ」
「なんでだ?」
「だって、あたしたちはそういうことをしてるんだから。どんなに注意したって、できちゃう時はできちゃうんだから。それってつまり、最初からその覚悟がなければしちゃいけないってことでしょ? だとしたらあたしは、この前はじめて抱いてもらった時から、そうなってもいいと決心してた」
たぶん、香織の言うことの方が正しいのだろう。
セックスは、子孫を残すための行為である。
どんなに注意したって、できる時はできてしまうのである。
「だから、もしできちゃったとしても、あたしは後悔なんてしない。むしろ、嬉しい」
「……わかったよ」
そこまで言われては、もうなにも言えなかった。
「でも、嬉しい」
「なにがだ?」
「洋一が、あたしのことを心配してくれて」
「当たり前だろうが。今、この時はおまえが俺の『彼女』なんだから」
「洋一……」
俺は、香織の頭を撫でる。
「あたしもまだまだダメね」
「ん?」
「全然わかってないもの。そんなこと、少し考えればわかることなのに」
「そんなものだろう、実際」
「そうかもしれないけど、やっぱり悔しいから」
「まあ、好きにしてくれ」
「ええ、好きにするわ」
香織は、嬉しそうに頷いた。
「……ねえ」
「なんだ?」
「本当に、泊まっていかない?」
「……そうしたいのはやまやまなんだけどな」
「うん」
「明日は、どうしても外せない用があるんだ」
「それって、例のあれ?」
「ああ。何時からどこでかはわからないけど、向こうにいた方がいいだろうから」
「そっか……」
たぶん、夜に愛と沙耶加、両方ともから連絡が入るだろう。
「まあ、なんだ。そのうち泊まるから。それまで我慢してくれ」
「約束よ?」
「ああ、約束だ」
その約束が果たされるのがいつになるのかはわからないけど。
「そうだ。洋一」
「ん?」
「四月からさ、毎日メールするから」
「毎日?」
「そうね、いわば携帯版交換日記みたいなものかしら。なんでもいいのよ、内容なんて。その日あったことでもいいし、次の日にあることでもいいし。そういうのをメールで送るの」
「それは別にいいけど、それ、おまえから送ってくれ。じゃないと忘れる」
「忘れたりしたら、ひどいわよ。ペナルティだからね」
「ペナルティって、なにをさせられるんだ?」
「ん〜、それはその時までに考えておくわ」
「だけど、一回のペナルティでそうなるのか?」
「もちろんよ。しかも、次に会うまでに何回もペナルティを課されていたら、してもらうことも格段に大変なことになるから」
「……わかった。できるだけ忘れないようにする」
「ええ、そうして」
そういうのが続いた試しはないんだが、しょうがない。
「さてと、いつまでもこうしてるわけにはいかないな」
「あたしは気にしないわよ」
俺はそれには答えず、ベッドから出た。
服を着て、帰る用意をする。
「香織」
「うん?」
「次はさすがにもっと先だと思うから、その間になにかあったら、ちゃんと言えよ。おまえ、なんか無理しそうだし」
「信用ないのね」
「今のところはな。だから、俺に信用されるような行動を取ってくれ」
「善処するわ」
そう言って香織は笑った。
「それじゃあ、帰るな」
「あ、待って」
香織は、裸のまま俺に抱きついてきた。
「どうした?」
「少しだけだから」
「しょうがないな」
俺は香織を抱きしめた。
「……今、洋一を好きな人以外とは、浮気しないでよ」
「なんだよ、それ?」
「ん、心配なの」
「それだったら、俺の方が心配だ。大学で男どもに言い寄られそうだし」
「ふふっ、大丈夫よ。洋一以外は、眼中にないもの」
「なら、安心だな」
そんなこと改めて言う必要もないのだが、なんとなく言ってしまった。
「じゃあ、またな」
「うん」
最後にキスをして、俺は香織の部屋を出た。
家に帰ると、すでに姉貴から連絡は入っていた。
母さんも美樹もそれについてはなにも言っていない。まあ、うちは家族揃ってなにを言っても無駄な連中が揃ってるから。
で、夜。
まずは沙耶加から連絡が入った。
『あの、洋一さん。明日のことなんですけど、一時くらいに愛さんの家ということになりました』
「愛の? 沙耶加は、それでいいの?」
『はい。静かに話せるなら、どこでも』
「そっか」
とはいえ、沙耶加にとっては愛の家は『アウエー』だ。多少、思うところはあるはずだ。
「愛とは、どんなことを?」
『いえ、特には。今日は話すことはありませんから』
そのあたりの割り切りはさすがだ。
「あのさ、沙耶加」
『はい』
「ひとつだけ確認したいことがあるんだけど、いいかな?」
『はい』
「沙耶加にとって、愛ってどんな存在?」
『愛さんですか?』
愛と沙耶加は、俺を巡って争うライバルではあるけど、それだけではない。ちゃんと、今でも親友としてつきあえている。
だからこそ、一度確認しておきたかった。
『……そうですね。愛さんは、親友です。一緒にいても楽しいですし』
「それだけ?」
『……洋一さんのことで言えば、正直言えば、一番争いたくない相手です。どうやっても、勝てない相手ですからね。もちろん、勝てない相手に勝負を挑んでいる私も問題ではあると思いますけど』
「つまり、どんな存在?」
『側にいてほしくて、いてほしくない存在です』
「なるほど」
俺にもそういう相手がいれば、そう思うのかもしれない。
「変なことを訊いてごめん」
『いえ、気にしていませんから』
「あ、ついでにもうひとつ」
『なんですか?』
「俺のこと、好き?」
一瞬、返事がなかった。
それから電話口でクスクスと笑い声が聞こえてくる。
『洋一さん』
「ん?」
『その質問、愛さんにもしてみてください。きっと、私と同じ反応が返ってくると思いますから』
だけど、沙耶加はその質問には答えなかった。
いや、答える必要なないということか。
それから少しして、今度は愛から連絡が入った。
『洋ちゃん。沙耶加さんから連絡あった?』
「ああ。ついさっき」
『そっか。じゃあ、明日のことは改めて言わなくてもいいよね?』
「そうだな。沙耶加がウソをついてなければ、必要ない」
『ふふっ、そんなこと微塵も思ってないくせに』
「まあ、そうだけど」
沙耶加が俺にウソつくことはない。それだけは言える。
「ところで、愛」
『ん、どうしたの? これから部屋に来てくれるの?』
「……切るぞ」
『ああん、ウソ。もう言わないから、もう少しだけ』
「ったく……」
こいつのこういうところは、姉貴や香織と同じだ。
「あのさ、確認したいことがあるんだ」
『確認したいこと?』
「ああ。たいしたことじゃないんだけどな」
『それって、なに?』
「ん、おまえにとって、沙耶加ってどんな存在だ?」
『沙耶加さん?』
「ああ」
『……そうだね、とりあえずは、親友かな。沙耶加さんとは価値観とか考え方とか、結構近いところがあるから、話していても楽しいし』
「それだけか?」
『あとは、洋ちゃんの心を何割かは奪っていった許せない相手』
ストレートな物言いだ。
「つまり?」
『一緒にいたいけど、いたくない存在』
「なるほど」
確かに、同じだ。
『確認したいことって、それだけ?』
「いや、あとひとつ」
『うん』
「俺のこと、好きか?」
そして、沙耶加の時と同じで、一瞬返事がなかった。
そのあと、やっぱり笑い声が聞こえてきた。
『それ、沙耶加さんにも確認したの?』
「ああ」
『そっか。じゃあ、あれでしょ? 私と同じ反応だったでしょ?』
「ああ。沙耶加はそれも予想してた」
『そりゃそうだよ。同じことを考えたはずだから』
愛はそう言って笑う。
『洋ちゃん』
「ん?」
『できればでいいんだけど、明日、少し早めに来てくれるかな?』
「それは構わんけど、なんでだ?」
『少しだけ用事があるから。そんなに面倒なことじゃないよ』
「まあ、別にいいけど」
『それじゃあ、約束だからね』
「ああ」
電話を切り、ベッドに寝転がる。
「……きっと、そうなんだろうな」
それが、答えだ。
俺は確信した。
五
三月三十一日。
三月も今日で終わりだ。明日から、新年度がはじまる。
俺も、高三になる。
だけど、それも明日からだ。
休日の朝と同じ時間に起き出す。美樹はすでに起きていて姿はなかった。
着替えて下に下りると、母さんと美樹が朝食を食べていた。
顔を洗って食堂に戻り、俺も朝食を食べる。
結局、姉貴は和人さんのところに泊まったからいない。
「お兄ちゃん」
朝食を食べ終え、リビングでテレビを見ていると、美樹が声をかけてきた。
「どうした?」
「今日、だよね?」
「ん、ああ」
美樹も、今日という日がどういう日なのか、知っている。
「どうなるのかな?」
「さあ、どうなるんだろうな」
それがわかれば、苦労はない。
「なあ、美樹」
「ん?」
「もしさ、俺が愛だけを受け入れていたら、今頃どうなってたと思う?」
「ん〜、そうだなぁ、たぶんだけどね、今よりもう少しだけ普通だったかも」
「普通?」
「うん。普通の恋人。それ以上でもなければそれ以下でもない。そんな感じ」
「普通の恋人、か」
確かにそうかもしれないな。
「ただね、それは愛お姉ちゃんの望んだ形じゃないかも」
「なんでだ?」
「これは別に愛お姉ちゃんだけじゃないと思うけど、好きな人とは、普通の関係ではいたくないんだよ。特別になりたいの」
「……ああ、なるほど」
「だからね、経緯は不本意かもしれないけど、愛お姉ちゃんにとっては、今の形の方が望んだ形かもしれないよ。明らかにお兄ちゃんと愛お姉ちゃんは特別な恋人だし」
特別、か。
俺と愛は、確かに特別だろう。それは必要に迫られたからというのもある。
いやまあ、俺のせいなんだけど。
「……ねえ、お兄ちゃん」
少し深く座っていたのを浅く座り直す。
「愛お姉ちゃんと沙耶加さんのことが終わったら、どうするの?」
「どうするって……」
「真琴さんや香織さんのことだってあるでしょ?」
「なっ……」
真琴ちゃんのことはともかく、香織のことまで知ってるとは。
いや、当然か。
「香織さんのこと、知ってるよ。あ、もちろん、お姉ちゃんや香織さん本人に訊いたわけじゃないよ。なんとなくね、わかるんだ。私、お兄ちゃんの妹だし」
そう言って微笑む。
「……そうだな。そっちも当然考える。ただ、今回ほどあれこれ悩むことはないと思うぞ」
「どうして?」
「そりゃ、今回のことが一番大事で、面倒なことだからだよ。それに比べたら、ふたりのことはまだ気分が軽い。ああ、別に優劣をつけてるわけじゃないからな」
「それはわかってる。でも、そっか、そうなるんだね……」
「あとは、そうだな……」
俺は、わざとらしく間を開けた。
「早急というわけでもないけど、もうひとり、考えなくちゃいけない相手がいるな」
「…………」
「実は、それはそれで結構大変なんだけどな。それでも、その相手が俺にとってかけがえのない大事な相手だから」
「お兄ちゃん……」
「ま、そういうことだ」
「うん、ありがと、お兄ちゃん」
美樹のことは美樹のことで、本当にちゃんと考えなくちゃいけない。
それに、俺の中ではすでに答えが出ているのだから。それも伝えなくちゃいけない。
あとは、それをいつにするかだけだ。
もっとも、それももう少し先になるだろうけど。
「そういえば、お兄ちゃん」
「ん、なんだ?」
「昨日、お姉ちゃんとなにを話してきたの?」
「ああ、昨日のことか」
そういや、美樹には姉貴が直接話すって言ってたっけ。
「別に俺が教えても構わないんだけどさ」
「うん」
「ただな、姉貴が自分の口から美樹に説明したいって言ってた」
「お姉ちゃんが?」
「ああ。だから、姉貴が帰ってきたら直接聞いてくれ。一応俺も、姉貴のその意見に賛成したからさ」
「ん〜、そういうことならしょうがないね。わかったよ、そうする」
昨日のことを話したところで、美樹は姉貴にお祝いの言葉をかけるくらいだろうけど。
「あ、そういえばね、来月早々にお父さん帰ってくるんだって」
「あれ? 予定早まったのか?」
「なんかね、いろいろあるみたい。だから、とりあえず帰ってくるんだって」
「ふ〜ん」
父さんはついこの間、海外出張に出たばかりだった。
予定では、五月末までの予定だったのだが、かなり短くなった。
トラブルでもあったのかもしれない。
「理由はどうあれ、お父さんが家にいると、お母さんが嬉しそうだから」
「まあな」
母さんを本当の意味で精神的に安定させられるのは、父さんしかいない。
これだけ海外に行くことが多い父さんに対し、今日まで愛想尽かしてこなかったのは、やっぱり側にいる時に心からお互いのことを想えているからだろう。
夫婦の営みがどの程度あるのかは知らないし、知りたくもないけど、そういうことでも絆は確かめられる。
もっとも、今更弟だの妹だのができても困るけど。
「ねえ、お兄ちゃん。私にも、弟や妹ができる可能性ってあるのかな?」
少しだけ早めに昼飯を食べ、予定の時間よりも三十分ほど早く家を出た。
今日は愛の家に行くだけだから、上着はいらない。
いつものようにインターフォンを鳴らすと、すぐに愛が出てきた。
「いらっしゃい、洋ちゃん」
「おう」
愛は、薄い青のブラウスにジーンズという格好だった。
「とりあえず、私の部屋に」
愛美さんに挨拶しようと思ったら、留守のようだった。
どうやら、今日のことで家にいられても困るから、どこかへ行ってもらったようだ。
部屋に入ると、すでにお茶の準備ができていた。
「あらかじめ、お茶の準備もしておいたの」
「手際がいいな」
「それもあるんだけど、できれば、話を中断させたくないから」
「なるほど」
たとえお茶でもあっても、淹れに行けば話が中断する。
今日の話では、それはあまりしたくない、と。
「で、俺に早く来てほしいって、いったいなんの用があるんだ?」
「あ、うん。まずは、これ」
そう言って取り出したのは、写真だった。
「ほら、旅行の時の写真。できあがったから」
「へえ」
旅行中、そんなに写真ばかり撮ってたわけじゃないけど、それなりに撮っていた。
カメラ自体愛のものなので、俺はすっかり忘れていた。
「あれ? この写真」
写真を見ていると、どう思い出しても思い出せないものが何枚かあった。
「あ、うん。それ、ナイショで撮った写真」
それは、俺が寝ている時の写真と、俺がまったく気付いていない時に撮っていた写真だった。
「ふ〜ん、愛に盗撮の趣味があったなんてな」
「盗撮って、人聞きの悪い。そういうつもりで撮ったわけじゃないの。ただ、ほら」
俺の寝顔が写ってる写真を指さす。
「カワイイ寝顔でしょ? だから、思わず写真に収めちゃった」
「……あのなぁ、男が寝顔をカワイイとか言われても、全然嬉しくないし、ましてや同意なんてできない」
「そうかなぁ? 私はカワイイと思うんだけどなぁ」
どこの世の中に、男で自分の寝顔がカワイイだなんて言うアホがいるんだか。
「もし、焼き増しの必要なのがあったら言ってね。すぐに用意するから」
「そんなのないだろ。これはあくまでも俺とおまえのふたりの写真なんだから」
「そうかもしれないけど、ほら、洋ちゃんのところにはそういうのをなんでもほしがる人がふたりもいるじゃない」
「……ああ」
姉貴と美樹なら、面白がって欲しがるかもしれないな。
「それで、ほかには?」
写真をしまいながら訊く。
「もうひとつはね、これからのこと」
「これから?」
「うん。これからの、私と沙耶加さんの話について」
そう言って愛は、少しだけ真剣な表情を見せた。
「洋ちゃんには、基本的には聞き役に徹してほしいの。今回のことはあくまでも、私と沙耶加さんの間の問題だから。それに対して、最終的に洋ちゃんがどういう判断を示すか。そういうことだから」
「なるほど」
確かにそうかもしれない。今回のことを言い出したのは、あくまでも愛と沙耶加なんだから。
それに対して、俺が最初からあれこれ言うのは筋違いというやつだろう。
「あとね、洋ちゃんにはちゃんと中立でいてほしいの。そりゃ、立場上ある程度私の見方みたいにはなるとは思うけど、それでも、基本的には中立であってほしいの」
「わかった」
「うん、とりあえずはそんなところ。あとは、洋ちゃんの思った通りにしてくれていいよ。私も沙耶加さんも、それにはなにも言わないから」
好きにしてくれていいと言われても、実際どうするかなんて、わからない。
話が、どういう風に流れていくかもわからないんだから。
「愛は、決めたんだよな?」
「うん、もちろんだよ。沙耶加さんも、決めたって言ってたし」
「そっか」
ということは、今日中に結論が出ないということは、ないということだ。
「俺としては、結果がどうあれ、その結論に対して後悔だけはしてほしくない。まあ、俺がこんなこと言えた義理じゃないんだけどな」
「ううん、そんなことないよ。それに、私も沙耶加さんも、後悔したいだなんて思ってないし」
「そうだな」
誰だって後悔したいとは思ってない。そんなの当たり前だ。
だからこそ、全力を尽くし、ありとあらゆることをしようとする。
あがくんだ。
もちろん、その道が必ずしも正しいとは思えない。だけど、正しいか正しくないかなんて、今はわからない。
だからこそ、後悔だけはしたくない。
たとえ結果が、望んでいる形じゃないとしても。
「洋ちゃん」
「ん?」
「沙耶加さんが来る前に、ひとつだけ」
「なんだ?」
「結果はどうあれ、私が洋ちゃんの彼女で、婚約者であることは、変わらないよね?」
「当たり前だろ。それが大前提なんだ。そこからはじまるんだよ、すべて」
「そっか、よかった」
愛は、俺の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
と、ちょうどその時、インターフォンが鳴った。
時間は、十二時五十二分。
少し早いけど、沙耶加が来た。
さあ、クライマックスだ。
沙耶加は、愛とは対照的にお嬢様然という格好をしていた。
薄い黄色のワンピース。スカートはロング。
だけど、その表情は少しだけ硬かった。
テーブルのまわりに、俺たちは三人、ほぼ等間隔で座った。
とりあえず、愛が用意していたお茶をカップに注いでくれる。
お茶は、レモンティーだった。
俺たちはなにも言わず、お茶を飲む。
「今日で、二年生も終わりね」
「ええ、そうですね」
話は、差し障りのないところからはじまった。
「明日から、私たちも三年生。世間一般的に言えば、受験生。まだ、そんな実感全然ないけど」
「ふふっ、それは現実を突きつけられない限り、実感できないと思いますよ」
俺は、なにも言わず、ふたりの会話に耳を傾ける。
「じゃあ、沙耶加さんから」
「……わかりました」
唐突に話題が変わった。
沙耶加は、もう一口お茶を飲み、コトリとカップを置いた。
「この三ヶ月の間、私はこれまで生きてきた間に考えた時間と同じくらい長い時間をかけて、いろいろ考えました。それくらい、今回のことは私にとって大事なことです」
穏やかな口調で、俺たちに語りかける。
「正直に言えば、答えは最初から出ていました。あとはただ、その答えで本当に後悔しないか、それを確かめるために費やしました。おそらく、今回のようなことがなければ、ここまで深くは考えなかったと思います。そして、きっといつかどこかで、後悔していたと思います。それも、そういう風に行動したこと自体に後悔するのではなく、なぜもう少ししっかり考えられなかったのか、ということに対してです。だから、理由や経緯はどうあれ、今回のことはよかったと思っています」
「なるほど」
「それで、私の答えですけど、これはもう最初から変わっていません。いえ、正確に言えば、洋一さんに私の想いを伝えた時から少しも変わっていません」
「…………」
沙耶加は、俺の方を見て穏やかに微笑んだ。
「私は、洋一さんのことが好きです。もう、洋一さんのいない生活など考えられませんし、考えたくもありません。そのためにできることは、なんでもします。どんなにつらいことでも、必ず成し遂げます。たったそれだけのことで、洋一さんの側にいられるなら、些細なことです」
改めて聞く、沙耶加の決意。
「たぶん、普通の人は私のことをワガママだと言うでしょう。私もそう思います。でも、理屈じゃないんです。理性でいくら考えても、答えなど出てきません。もちろん、理性を失って考えたことが正しいというわけでもありません。いえ、正しいか正しくないかなど、今の私にはわかりません。それを決めるのは、未来の私です。そして、できることならその時に私は私の行動を、選択を正しかった、と認めたいです」
「……そっか」
愛は、小さく頷き、お茶を飲んだ。
「この三ヶ月は、私にとってはある意味では夢のような時間でした。一時的とはいえ、洋一さんに『恋人』として扱ってもらえましたから。私は単純ですから、それだけで本当に幸せでした。そして、できることなら四月からも、今の状況に近い状況でいたい。そう思いました」
視線を、愛に向ける。
「愛さん。私の洋一さんに対する想い、あの時とは比べものにならないくらい、強くなっています。最初からそうでしたけど、この世の中にたったふたりしかいない状況でもいいくらいです。それくらい、私は洋一さんのことが好き……いえ、愛しています」
真っ直ぐな、真摯な目で、愛を見つめる。
それに対して愛は、その視線をしっかり受け止め、口を開いた。
「こうなることは、最初からわかってたんだと思う。というか、こうならなかったらならなかったで、きっと怒ってた。どうして中途半端な気持ちで洋ちゃんに想いを伝えたんだって。私の気持ちとしては矛盾してるんだけど、ある意味こうなってよかったと思ってる。ホント、おかしいけどね」
わずかに自嘲する。
「私もね、いろいろ考えた。沙耶加さんじゃないけど、これまでこんなに考えたことないくらい考えた。だけど、考えれば考えるほど、楽観できる考えが出てこなくなった。どう考えても、沙耶加さんが洋ちゃんのことをあきらめるという選択肢は浮かんでこなかったから。じゃあ、どうしたらいいってことになるんだけど、それがまた難しくて」
確かに、愛にとってはそれが一番難しいだろうな。
って、俺が言えた義理じゃないけど。
「私にとって一番いいのは、沙耶加さんが洋ちゃんをあきらめること。これは、私が彼女なんだから、当然なんだけどね」
「…………」
「だけど、その選択肢はもうあの時からないの。理由はどうあれ、私は沙耶加さんを認めてしまったんだから。今更それを覆すなんて、やっぱりできない」
小さく息を吐く。
「沙耶加さん」
「はい」
「私と洋ちゃんが一緒になっても、自分の想いを貫ける?」
沙耶加は、愛を真っ直ぐ見つめ──
「はい」
しっかり頷いた。
「あ〜あ……」
愛は、ふっと緊張の糸を解いた。
「年末に、沙耶加さんの想いが強くなってたらまたその時に考えるなんて言ったけど、もう考えることなんてないんだよね。たとえ、今回のことを繰り返したって、結果は同じ。というか、その度ごとに沙耶加さんの洋ちゃんに対する想いは強くなる。だから、全然意味がない」
「では……?」
「いいよ。沙耶加さんの好きなようにして」
「愛さん……」
「本当はね、途中からもう無意味なことだってわかってたの。そして、じゃあどうすればいいのかもわかってた。ただ、一応終わるまで結論を先送りしてただけ。ちょっとだけ、往生際が悪かったけどね」
そう言って微笑む。
「うん、まあ、私の答えはそんな感じ」
同時に、ふたりが俺を見た。
あとは、俺がどう判断するか、だ。
「俺の考えを言う前に、ひとつだけいいか?」
頷くふたり。
「まずは、愛に」
「うん」
「明日、正式に婚約しよう」
「洋ちゃん……」
「これは、前にも言ってたけどな。いつまでも中途半端な状況だと、おまえも不安だろうし」
「そんなことはないけど、そうしてくれるのは、すごく嬉しいよ」
愛は、満面の笑みを浮かべて言う。
「次に、沙耶加」
「はい」
「沙耶加とは婚約はできないけど、約束というか、まあ、契約というか、誓約というか、そういうのはできると思う」
「えっと、それはどのようなものなのですか?」
沙耶加は、首を傾げる。
「俺の側からの願いは、勝手にいなくならないでくれ、ってこと。こういうことを言うと愛に怒られるかもしれないけど──」
愛は、苦笑する。
「沙耶加はすでに、俺にとってなくてはならない存在だから。だから、側にいてほしい。その約束」
「洋一さん……」
「あ、ちなみに、その約束は明日から有効だから」
そう言って俺はわざとらしく笑った。
ここまで言ってしまえば、このふたりのことだ。俺がどんなことを考えているのかなんて、テストの答えを書くよりも簡単にわかってるはずだ。
まあ、それが答えみたいなものだし。
「俺もさ、いろいろ考えたんだ。愛が俺の彼女であることは絶対に変わらないし、変えたくない。同時に、俺は愛のことを誰よりも好きでいる。これも、絶対だ。じゃあ、沙耶加は? そういうことになる。沙耶加は、愛にはほんの少しだけ及ばないけど、それでもやっぱり『彼女』なんだよな、俺にとって。いや、違うな。俺が『彼女』として扱いたいんだ」
ふたりとも、黙って俺の言うことを聞いてくれている。
「愛が俺のことをどれだけ好きでいてくれるか、沙耶加が俺のことをどれだけ好きでいてくれるか、すべて理解できているわけじゃないけど、それなりに理解してるつもりだ。そんなふたりの想いに、どうやったら応えられるか。本当にいろいろ考えた。それこそ、中東にでも行って、一夫多妻制の認められている国で一緒になる、なんてことも結構真面目に考えた。それはそれでいいんだけど、やっぱりそれは違うんだ。日本で、ここで、できることをやる。そうじゃないと意味がない」
後悔だけはしたくないから。
「愛は、俺の妻」
俺は、愛を見る。
「沙耶加は、俺の愛人」
そして、沙耶加を見る。
「言葉にすればそうなる。だけど、それはあくまでもどうしても言葉にした場合だ。俺の中では、愛に対するそれ以外は、あまり意味を持ってない。一緒にいたいから一緒にいる。それでいいと思う」
自分勝手な考えだと思う。
誰にも認められない考えかもしれない。
だけど、俺は、今の俺の想いにウソをつきたくないし、なによりも後悔したくない。
だから、俺の望む形を俺の考えにした。
あとは、ふたりの意志だけ。
そして、その意志もさっきのふたりの話で確かめられた。
「愛。ちょっとこのテーブルどけるぞ」
「あ、うん」
俺は、テーブルを脇にどけた。
俺たち三人の間に、遮るものはなにもない。
「手を、出してくれないか」
ふたりは、言う通りにしてくれる。
その手をつかみ──
「きゃっ」
「あっ」
そのまま引っ張る。
「洋ちゃん……」
「洋一さん……」
「たぶん、これから先、ふたりには今は想像もつかない苦労をさせると思う。だけど、俺もその苦労を一緒に乗り越えようと思う。それが、後悔しないための方法だろうし」
「洋ちゃんと一緒にいられるなら、少しくらいの苦労なら、どうってことないよ。むしろ、なにもなかったら面白くないし」
「私も、そういう苦労なら、ドンと来い、という感じです」
ふたりは、俺の大好きな笑顔を浮かべ、そう言ってくれた。
口にはしなかったけど、俺は結局、この笑顔を見続け、守り続けたかったんだ。
「あ、ねえ、沙耶加さん」
「なんですか?」
「ちょっと、耳貸して」
そう言って愛は、沙耶加の耳元でなにかささやく。
それを聞いた沙耶加は、少しだけ顔を赤らめ、だけど、嬉しそうに笑った。
「どうかな?」
「ええ、いいですよ」
「じゃあ、決まり」
「なにが決まったんだ?」
「ん、いいこと。ね?」
「はい、いいことです」
「なんだかな」
いったいなにをしようというのか。
「というわけで、洋ちゃん」
「ん?」
「ちょっとベッドに座ってくれるかな」
「ベッドに?」
俺は、言われるままベッドに座る。
「で?」
「洋ちゃん」
「洋一さん」
ふたりは、顔を見合わせ、頷いた。
「私たちを──」
「抱いてください」
「は……?」
なにを言われたのかわからなかった。
だけど、頭は確実にその意味を理解してしまう。
「ちょ、ちょっと待て。どこをどうなったら、そういう話になるんだ?」
「ん〜、なんて言えばいいのかな。もう結論は出たわけでしょ? そしたら、いつまでもこだわっててもしょうがないわけだから、だったらいっそのこと、その結論を実証できるようなことをしたいと思って」
「それが、ふたりを抱くことだと?」
「うん」
めまいがした。
「沙耶加も、それがいいと?」
「はい。せっかくですから」
そりゃ、愛と沙耶加というふたりといない最高の女を抱けるのは嬉しい。
だけど、なんか違う気がする。
「洋ちゃんは、イヤ?」
「イヤとかそうじゃないとかじゃなくて、なんでなんだ? 俺にはそれが理解できん」
「洋一さんは、私と愛さんを平等に愛してくれようとしています。もちろん、そこに多少の差はあるとは思いますけど。だけど、そういうのも一方通行じゃ意味がないはずです。私も愛さんも、洋一さんを誰よりも愛していますから。その想いの深さ、強さを少しでもお見せできるのは、やはり行動でということになるはずです」
「その一番簡単な方法が、セックスなの」
言いたいことはわかる。
「ね、洋ちゃん。今は納得できなくてもいいよ。その代わり、私たちがどれくらい洋ちゃんのことを想ってるか、それをセックスの間に感じて、理解して」
「お願いします」
懇願されたら、断れるわけがない。
「わかった。ふたりの好きにしてくれ」
「ありがと、洋ちゃん」
「ありがとうございます」
ふたりは、嬉しそうに笑った。
「とりあえず、ふたりでしよっか?」
「そうですね」
事前の打ち合わせなどまったくなかったはずなのに、実に息が合っている。
俺は、ベルトを外され、ズボンを下ろされ、トランクスも脱がされた。
「洋ちゃん、触るよ?」
「ん、ああ」
まずは、愛が俺のモノに触れてくる。
萎縮していたモノが、軽い刺激を受けて反応する。
「私も、します」
沙耶加も負けじとモノに触れてくる。
触り方が微妙に違うので、いつもより感じてしまう。
「じゃあ、今度は──」
そう言って愛は、俺のモノに舌をはわせた。
「ん……」
ザラッとした舌が絡みつくようにモノを舐めてくる。
愛に先手を取られた沙耶加は、竿から下の方を舐めてくる。
「くっ」
同時に舐められ、思わず声が出た。
それぞれに舐められたことはあるけど、ふたり同時というのは、なんかすごくイケナイことをしている気になってくる。
愛も沙耶加も、一心不乱に舐め続ける。
「ん……は……」
最初こそ同じ場所を舐めていたのだが、次第にお互いに広範囲を舐めてくる。
間違いなくいつも以上に感じている。
当然、加減というものがいっさいない。
俺は、すぐに限界を迎えた。
「くっ、出るっ」
そのまま、俺は精液を放った。
勢いよく飛んだ精液が、ふたりの顔にかかった。
「気持ち、よかった?」
愛は、顔についた精液を指ですくいながら、淫靡に微笑む。
「ああ、気持ちよかった」
「綺麗にしますね」
と、沙耶加は俺のモノを口に含んだ。
舌先で丁寧に舐められる。
「ん、はあ……」
沙耶加は、満足そうに息を吐いた。
「今度は、洋ちゃんの番だよ」
「ああ」
頷いたのはいいけど、そのままするのは面倒だった。
「なあ、ふたりとも。とりあえず、服、脱いでくれないか?」
ふたりは顔を見合わせ、頷いた。
愛は、ジーンズを脱ぎ、ブラウスを脱ぐ。
沙耶加も、ワンピースを脱ぐ。
「下着は?」
「どっちでも」
「ん、じゃあ──」
「えっ……?」
愛は、にっこり笑って沙耶加のブラジャーをたくし上げた。
「あ、愛さん」
「せっかくだし」
「……それじゃあ、私も」
沙耶加も、負けじと愛のブラジャーをたくし上げる。
「洋ちゃん、あとはお願い」
まずは愛を抱きしめ、キスをする。
「ん……」
そのままショーツの中に手を入れる。
「ひゃんっ」
愛の秘所は、すでに濡れていた。
「なんだ、もうこんなに濡らしてるのか」
「だ、だって……」
指は、難なく動く。
「あ、や、ダメ……」
愛は、力なく俺にもたれかかってくる。
「愛。ちょっと待ってろ」
「うん……」
次いで、沙耶加。
「沙耶加」
「はい……ん……」
抱きしめ、キスをする。
やはり同じようにショーツの中に手を入れる。
「あんっ」
沙耶加の秘所も、すでに濡れていた。
「沙耶加も、こんなに濡れてるぞ」
「そ、それは……」
「激しく動かしたら、音が出そうなくらいだ」
「んんっ、あっ」
嬌声が漏れる。
ふたりとも準備万端なのだが、さて、どうするか。
俺はひとりしかいない。だから、同時に挿れてやることはできない。
だけど、できればふたり一緒の方がいい。
とりあえず、試してみるか。上手くいくかどうかはわからんけど。
「沙耶加」
「は、はい……」
「そのまま横になってくれ」
言われるまま、沙耶加はベッドに横になる。
「っと、こいつは脱がして」
ついでにショーツを脱がす。
「で、愛」
「あ、うん」
「おまえは、沙耶加の上に覆い被さるように」
「えっと、こう?」
なんとなく俺がどうしたいのかわかったらしく、愛は沙耶加に覆い被さる。
もちろん、ショーツは脱がす。
いや、しかし、目の前にふたりの秘所が露わになると、なんとも言えない感じがする。
それに、同じ女性器でも、微妙に形が違う。
普通は比べることなんてないから、気付かないことかもしれない。
そんなことを漠然と思いながら、俺はふたりの秘所に触れた。
「んっ」
「あっ」
ふたりとも十分濡れている。
それは、このシチュエーションのせいもあるのだろう。
「洋ちゃん……洋ちゃんの、ほしいよぉ……」
「私にも、ください……」
特殊な状況下でそんなことを言われると、ますます感覚が麻痺してくる。
「わかった」
俺のモノは、このシチュエーションのせいで再び硬くなっていた。
まずは、愛の秘所にモノをあてがう。
「いくぞ」
「うん……」
そのまま一気に貫く。
「ああっ」
一瞬、愛の体がのけぞった。
間髪入れず、腰を動かす。
「あっ、んっ、やっ」
愛は、下に沙耶加がいるのも忘れて、いつも以上に声を上げる。
「んんっ、洋ちゃん、気持ちいいっ」
愛の中は、いつも以上に俺のモノに絡みついてくる。
こんな状況が続けば、すぐに保たなくなってしまう。
ある程度動いたところで、一度モノを抜く。
「洋ちゃん……?」
「今度は、沙耶加にな」
少しだけ不満そうな顔を見せたが、なにも言わなかった。
「沙耶加、いくぞ」
「はい……」
今度は、沙耶加の中に挿れる。
「んんっ」
沙耶加の中も、愛に負けず劣らず俺のモノに絡みついてくる。
「んっ、んっ、あっ」
愛が上にいるせいで多少動きが制限されるが、今の沙耶加にはあまり関係ないようだった。
「洋一さんっ」
愛は、そんな沙耶加の胸に手を添え、軽く揉む。
「あ、愛さん」
「私も、気持ちよくしてあげる」
「んんっ」
下から俺に突かれ、上は愛にいじられ。
「そんなっ、んんっ、ダメっ」
沙耶加はなんとか耐えようとするが、徒労に終わる。
だけど、そのまま終わらせるつもりはない。
俺は、沙耶加の中からモノを抜いた。
「はあ、はあ、洋一さん……?」
「上手くいくかどうかわからないけど、三人で一緒にな」
俺は、愛と沙耶加の秘所がちょうど上下に来るようにふたりの位置を微妙に調整した。
で、俺は、その間にモノを差し挿れた。
「んんあっ」
「ああっ」
少し不安定ながらも、俺のモノがふたりの一番敏感な部分を擦った。
そのままの状態で腰を動かす。
「ああっ、んっ、洋ちゃんっ」
「んあっ、洋一さんっ」
少しずつ動きを速くする。
次第に、快感が高まっていく。
「洋ちゃんっ、私っ」
「私もっ、イキそうですっ」
俺の方も、いつもと違う感覚に、再び限界を迎える。
「んんっ、あああっ!」
「いっ、んんんっ!」
「くっ」
そして、俺たちはほぼ同時に達した。
「はあ、はあ……」
「はあ、はあ……」
上に乗っていた愛が、力なく横に寝転ぶ。
俺も、力尽き、ふたりの間に倒れ込む。
「洋ちゃん……気持ちよかったよ」
「私も……すごく気持ちよかったです」
「そっか……」
狭いベッドの上で、俺たちは心地良い脱力感に身を任せる。
今は、それだけだった。
今更考えてもあまり意味はないのかもしれないけど、どうして俺なんだろうな。
そりゃ、愛や沙耶加のような『特別』な女の子に好かれて悪い気はしない。だけど、男などこの街ですら腐るほどいる。なのに、俺だ。
もちろん、そんなことを考えることに意味はないし、それの答えがあるとも思えない。ましてや、答えがあったところでそれが今の俺たちになんらかの影響を及ぼすとも思わない。
それでも、とりとめのなく考えてしまう。
そしてその疑問は、これから先、さらに何度か考えることになるはずだ。
少なくとも、あと四回。
「なんだかな……」
俺はそう呟き、お茶を飲んだ。
ベッドでは、愛と沙耶加が裸のまま眠っている。
ふたりとも寝相はいいので、お互いを邪魔することもない。
時計を見る。そろそろ夕方という時間だ。
愛美さんも、帰ってくるかもしれない。
さすがにこの姿を見られるわけにはいかないから、なにか対策を講じないと。
というか、俺が愛美さんの相手をするしかないんだろうな。
このふたりを起こすのは、忍びない。
俺は、ちゃんと服を着て、静かに部屋を出た。
階段を下り、玄関に差し掛かったところで──
「ただいま」
ちょうど愛美さんが帰ってきた。
「あら、洋一くん」
「どうも、おじゃましてます」
愛美さんは、どうやら都心まで買い物に行っていたようだ。袋に見覚えがある。
「それ、持ちましょうか?」
「大丈夫よ。ありがとう」
靴を脱ぎ、そのままリビングへ。
「愛は?」
「部屋です」
「ふ〜ん、そうなの」
愛美さんは、それ以上なにも聞いてこなかった。
たぶん、なんとなくはわかってるんだろうな、この人なら。
「少し、待っててね」
「はい」
上着だけ脱いで、愛美さんは荷物を片付けにリビングをあとにした。
俺は、言われるままソファに座り、愛美さんが戻ってくるのを待った。
少しして、荷物の代わりにお盆を持って戻ってきた。
「はい、洋一くん」
「すみません」
「これ、さっき買ってきたの。なんでも健康にいいジュースなんだって」
なにが入っているのかは見た目ではわからなかったけど、甘い匂いがした。
「冷たくなくてごめんね」
「いえ」
とりあえず一口。
「どう?」
「美味しいですね」
なかなか美味しかった。やはりフルーツが多いようで、ミックスジュースのような感じだった。
「私も試飲してきたんだけど、結構飲み口もまろやかだし、なにより後味がすっきりしてるから、ついつい買っちゃった」
そう言って微笑む。
「ただ、ひとつだけ難点があるの」
「なんですか?」
「ん〜、少しだけカロリーが高いのよ。たぶん、いろいろなものが入ってるせいだと思うんだけど。まあ、それも若干の範囲だから、目くじら立てることもないんだけどね」
世の女性にとって、カロリーというのはなかなか重要な値だ。
愛美さんも、ご多分に漏れずというところだ。
「……来てるのは、沙耶加さん?」
「ええ」
唐突に話題は変わったけど、特に驚くこともなかった。
「決めた、わけね」
「はい」
「とりあえず、今のところはそのことは聞かないわ。まだ、三人は高校生だから」
「はい」
「ただ、ひとつ確認」
「なんですか?」
「後悔、してない?」
「してませんし、これから先も後悔することはありません」
「うん、それならいいの。きっと、愛も沙耶加さんも同じだろうから」
愛美さんは、穏やかな笑みを浮かべ、そう言った。
「あの、愛美さん」
「ん?」
「また改めて言いますけど、愛を俺にください」
愛美さんは少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔になった。
「ふふっ、愛はね、もうずっと昔から、洋一くんのものよ。これは、親である私やあの人にも口出しできない問題。それはどうしてだか、わかる?」
「いえ」
「こういうことを言うと親失格かもしれないけど、愛はね、私たちと一緒にいる時よりも、洋一くんと一緒にいる時に、本当の姿を見せるから。それはつまり、それだけ洋一くんのことを信頼しているから。そして、洋一くんのことが好きだから」
「……かも、しれませんね」
「ふふっ」
俺も、それ自体を否定する気はない。
「ねえ、洋一くん。洋一くんは、愛といつ一緒になろうと思ってるの?」
「まだ、わかりません。ただ、そう遠くないうちに、とは思っています」
「その時は、うちに婿に来てくれる?」
「望むなら」
「ありがとう」
それはもう、決めていたことだ。
愛はひとり娘なんだから、それが一番いい。うちには、姉貴がいるんだから。
「あ、でも、実際はそこまで単純ではないんでしょ?」
「えっと、まあ、そうかもしれません」
「私はそういうのもいいと思うんだけど、あの人はなんて言うか。もちろん、最終的には文句は言わせないけど」
「は、はは……」
「洋一くんになら、ううん、洋一くんだからこそ、愛を任せることができるの。これは、確信。希望でも予想でもないわ。あとはただ、愛や洋一くんのまわりの人たちが、幸せであればなにも言うことはないから」
「そうですね。俺も、みんなに幸せになってもらいたいです」
本当にそう思う。
「あ、ちなみに、私の幸せは、早く『孫』の顔を見ることだから」
「……善処します」
「よろしくね」
今までならそんなこと言えなかったけど、今なら多少の戸惑いはあるけど、ちゃんと受け入れられる。それだけ俺は、愛とのことを真剣に考えたということだ。
「じゃあ、洋一くん。今日は、ささやかながらお祝いでもしましょう」
「お祝い、ですか?」
「愛と洋一くんと、沙耶加さんとでね」
「……わかりました」
今は、愛美さんの厚意に素直に甘えよう。
今はまだ、高校生なのだから。
「愛美さん」
「うん?」
「これからも、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
それから一度愛の部屋に戻り、起きたふたりに愛美さんとの話をごくごく簡単に話した。
愛はそれほどでもなかったけど、沙耶加はやはり驚いていた。まあ、これから先、こういう機会は何度となくあるだろうから、その予行演習だと思えばいい。
愛美さんは、俺との話のあとすぐに料理をはじめた。俺があらかじめ来るとわかっている時は、いつも気合いが入っている。だけど、今日はいつも以上だ。
愛美さんとしては、どうやっても百パーセントの納得はできないはずだ。いくら俺と愛が一緒になるとは言っても、俺は愛だけを見続けていくわけではないのだから。自分の娘がそんな状況にあって、ましてやそれを知ってる親が、それを簡単に納得できるはずはない。むしろ、簡単に納得されるとその愛情を疑う。
それでも愛美さんは、俺たちのことを認めてくれた。それはとりもなおさず、俺が絶対に愛を不幸にしないと信じているからだ。
だからこそ俺は、その信用に応え続けていかなければならない。
もちろん、そういうことがなくても愛を不幸にするつもりなど毛頭ない。
幸せであること。それが、大前提なのだ。
そして俺は、人よりもそれを多く望んだ。
その結果が、沙耶加や香織、由美子さんなのだ。そこに、美樹や真琴の名前が入るかどうかは、今はわからない。
だけど、そうなる可能性は限りなく高い。
それでも、幸せを望むことは悪いことではない。人間誰しも、不幸よりも幸福を希望するのだから。
これから先の道のりは決して平坦なものではない。むしろ、山あり谷あり、茨の道だろう。だけど、俺はそれを乗り越えていかなければならない。
その先にこそ、本当の幸せがあるのだから。
……と、今までの俺なら勝手に自己完結していただろう。
でも、今は違う。
俺ひとりでできることなどたかが知れている。ならどうするか。
そんなの簡単だ。
一緒に歩けばいい。
ひとりではつらいことも、側に大切な人がいてくれれば乗り越えられる。
そして、そうすることにこそ、本当の意味があるのだ。
普通は夫がひとりに妻がひとり。夫婦二人三脚なのだが、俺の場合は違う。
より困難な状況を乗り越えるために、さらに多くの人が力を貸してくれる。
だから俺は、歩き続けられる。
そして必ず、幸せを手に入れる。
俺だけではない、みんなの幸せを。
俺のことを好きでいてくれるみんな。そして、俺が好きなみんなと一緒に。
それが、俺が出した本当の答えだ。