恋愛行進曲
 
第二章 ハプニング・イン・修学旅行
 
 一
 京都市東山区。国道一号線に近い清水山の中腹にあるのが、『清水の舞台から飛び降りる』で有名な清水寺である。清水寺の能舞台は崖にせり出して造られており、昔の人がたとえてその舞台から飛び降りるくらいの一大決心を言ったのは、まさに的を射ている。それほど高い位置にあるのだ。ただ、その分そこから見える京都市内は素晴らしく、時を忘れて見入ってしまう。
 京都での第一日目は、駅から比較的近いこの清水寺からだ。
「これが有名な清水の舞台ね」
「う〜ん、確かにここから飛び降りるくらいの決心なら、その決心も揺らがないよな」
 俺は下を見た。
「この高さだもんな」
「うん」
 うちの高校は良いのか悪いのかわからないけど、団体で見学する時も引率の先生はあまりなにも言わないのだ。だから生徒たちは各々勝手に見学している。かく言う俺もそうだ。
「おっ、優美先生だ」
「高村くんに森川さん、どう、清水寺は?」
 優美先生は俺たちに気付いてやって来た。
「すごいですね、この舞台は」
「そうね、清水寺と言えばこの舞台が有名だからね」
「先生はことわざにあるように『清水の舞台から飛び降りる』ような一大決心て、したことあるんですか?」
「う〜ん、どうかしら。一大決心なんて大げさなことはないかもね」
「じゃあ、先生にとっての清水の舞台はいつ、なんですかね」
「さあ、わからないわ」
 先生はにこやかに、だけどきっぱり受け流した。さすが大人の女性。
「それよりも、集合時間に遅れないようにするのよ」
 そう言って先生は行ってしまった。
「この次、どこだっけ?」
「次は京都御所よ」
「そっか、京都御所か」
「どうしたの?」
「いや、別になんでもないさ。ただ、もう少し面白いところにも行きたいかな、って思ってさ」
 愛はクスッと笑った。
「洋一らしいわね。でも、しょうがないわよ。明日の金閣寺までは我慢するしかないんだから、ね」
「わかってるって」
 実際に寺や歴史に興味がある人以外は、あまり面白くはない。結局は似たような形の建物を見て、それに関してよかったとかなんとか、そんな感想を持つだけ。俺にとってはあんまり面白いものではない。
「洋一にとって面白いものっていうのは、なかなか難しいと思うけどね」
「俺はそんなに偏屈じゃないぞ」
「ふふっ、どうかな」
「ったく……」
 
 京都市上京区。そこに京都御所はある。
 かつて歴代天皇が過ごしていた御所。明治維新によって完全に日本の中心が東京になり、それと同時に御所も東京に移った。しかし、京都御所はその歴史の深さからも京都での存在意義は大きかった。場所も京都駅から伸びる烏丸通り沿いにあり、現在でも京都観光の目玉のひとつである。
「いい、この京都御所ではしっかり団体行動をするように」
 優美先生からそんな注意があった。
 どうやら今でも大切な京都御所で勝手なことはしてほしくない、ということらしい。
 俺たちはごく普通の『団体見学』をした。クラスごとに並んでぞろぞろと見学する。きわめてつまらない。
 従って、俺はほとんど京都御所のことは覚えていない。なんとなく大きな建物が広いところにあったかな、程度だ。
 そして、ようやく第一日目も終わった。
 旅館では腰の低い主人が俺たちを迎えてくれた。時期も時期だけに、旅館にはほかの学校も泊まっているらしかった。
 夕食を済ませるとあとはやりたい放題。適当なところで風呂に入って、あとは部屋で見回りの先生に気をつけて騒ぐ騒ぐ。まあ、修学旅行はみんなこんなもんだ。
 
 二
 京都第二日目。
「ふわ〜あ……」
「なにあくびしてるの?」
 俺がさっきからあくびばかりしてるから、愛が呆れ顔で聞いてきた。
「どうせ、みんなで騒いでいてほとんど寝てないんでしょ」
「まあな、ふわ〜あ……眠い」
 はっきり言って今日はほとんど寝てない。同じ部屋の奴と夜通し話したりなんだりしてたから。
 まあ、なんだな、修学旅行なんてそんなもんだ。『先生VS生徒』。これが修学旅行なんかの夜の構図だ。そしてその話の内容は、定番の好きな子のことを言ったり、怪談まがいの話をしたり。普段はそんな話なんか面白いとは思わないのに、どうしてそういう時は聞けるし、話せるのだろうか。
 俺はいつも不思議に思っている。
「大丈夫なの?」
「ん、ああ、大丈夫だ。心配しなくても自由行動の時までには復活してるさ」
「ホントかしら……」
 
 京都市北区。ここに足利義満によって建立された鹿苑寺金閣がある。当時、権力の絶頂にあった義満が、自分の力を世に知らしめるために建て、その荘厳さ豪華さ、そしてその特徴的な金色から、金閣として現在まで日本を代表する建物になっている。
 俺は眠い目をこすりながら金閣を見てまわった。しかし、俺の頭の中には今日の夜もあるであろう『座談会』のことでいっぱいだった。いかにほかの奴に気付かれずに眠りにつけるか。もし、今日も眠れなかったら明日はかなりヤバイ。
「よう、洋一」
「……雅先か」
「眠そうだな。ま、どうせ夜更かしでもしてたんだろ。だけどな、初日からそれだとあとがつらいぞ。今日は早く寝ろよ」
 そう言って雅先はどこかへ行ってしまった。
「ちぇっ、まだ今日がはじまったばかりだっていうのに」
「先生は心配してくれているんだから、そんなこと言っちゃ……」
「わかってるよ。雅先とはもう一年間も一緒にいるんだから、それくらいわかってる……ふわ〜あ」
「はあ……」
 結局、金閣ではほとんどあくびをして過ごしていたような気がする。
「さて、これから自由行動ですが、ひとつだけ守ってください」
 優美先生がみんなに注意事項を話している。
「絶対に集合時間に遅れないように。もし、どうしても時間までに旅館に戻れそうになかったら、必ず電話してください。そうしないとたくさんの人に迷惑がかかりますからね」
 先生はまるで小学生にでも話しているような感じで話していた。
「それでは解散」
 先生のその声を待っていたかのように、みんな一斉に動き出した。
「愛、行こうぜ」
「うん」
 俺たちは予定通り、京都の街を歩き出した。
 京都の街は平安京の頃に整備された大きな通りがいくつもあり、金閣の近くには西大路通り、北大路通りという通りがある。そのほか、京都駅から北に延びるのが烏丸通り、烏丸通りに垂直に延びているのが四条通や五条通などで、京都の街は非常にわかりやすい街並みになっている。
 俺たちはとりあえず、バスを利用して賀茂川近くまで出た。
 京都の中心部を流れる川、それが鴨川。なぜさっきと字が違うのかというと、鴨川は賀茂川と高野川がひとつになったところからその名前が使われるのである。
 俺たちは賀茂川を南に歩いた。
「風が気持ちいいね」
「ああ、そうだな」
 京都は盆地にあるので一年中山から風が入ってくる。そんな風が春の暖かい陽差しを受け、川面を通り抜けて吹き抜けていく。
「ねえ、洋一」
「なんだ?」
「ホントに私と一緒でよかったの?」
「なんでそんなこと言うんだ?」
「だって……」
 まったく、いつまで経っても煮え切らない奴だ。
「いいんだよ。俺が決めたことなんだから。それに、『私と一緒でよかったの』なんてこと言うな。俺はそれでよかったからこそ、今こうしているんじゃないか」
「うん、ごめんね。変なこと言って」
「まあ、いいさ。気にするな」
 しかし、俺はたまに思うことがある。愛は、実は俺の思っていることをすべて見越した上でそんなことを言ってるんじゃないかと。だとすると、俺は愛にもてあそばれてることになるが、まあ、よく考えればそんなことあるはずがないのだが。
 愛は、基本的に器用だが、そういうことには不器用だからな。
 とはいえ、そんなあり得ないことを考えてしまうくらい、愛の言動には不思議なところがたくさんある。
「なあ、ひとついいか?」
「なに?」
「俺さ、見てみたいものがあるんだけどさ」
「なにが見たいの?」
「舞妓さん」
「は?」
「やっぱりさ、京都と言ったら舞妓さんだろ。父さんの話でも意外に舞妓さんに会えるっていうからさ。な、行ってみようぜ」
「う〜ん、舞妓さんか……そうね、私も本物を見てみたいわ」
「よし、決まりだ。早速行こうぜ」
「でも、どこへ行ったら会えるの?」
「いや、決まった場所はないらしい。とにかく料亭とかそういうのが比較的あるあたりで偶然に会えるらしいぜ」
「ふ〜ん」
「さ、行こうぜ」
 俺は愛がこんなにも簡単に賛同してくれるとは思っていなかった。もう少しいろいろな理由をつけてはぐらかされると思っていた。
 しかし、このことでひとつわかったことがあった。それは、愛も『女』だったということだ。人間というものは、異性に対して憧れを抱くのは当然だが、それと同じように同性でも、たとえば男ならばカッコイイものはカッコイイと思うし、それに憧れることもある。女も同じだ。綺麗だったり美しかったり、憧れに思うことはいくらでもある。
 愛が舞妓さんにそういうものを持っていたかどうかわからないけど、それに似たようなものは持っていたのだろう。だからこそ、すんなり聞き入れたのだと思う。
 ま、そんなことはさておいて、俺たちは地下鉄やバスを利用して祇園にやって来た。
 祇園と言えば祇園祭。京都の夏の風物詩にもなっているその祭りは、祇園にある八坂神社の祭りで、歴史と伝統ある祭りである。
「こういう街並みを見てると、なんかとても俺たちが住んでるところと同じ日本にあるとは思えないな」
「そうね。この落ち着いた雰囲気。なかなか味わえるものじゃないわ」
 俺たちはどこへ向かうでもなく、ただ歩いた。
「とても人口百四十万の都市とは思えないよな」
 京都市の人口は約百四十万。しかし、祇園の落ち着いた街並みを見ていると、とてもそんなに大きな都市であるとは思えない。そんな錯覚さえ与える街、京都。
「しかし、いざ会いたいと思うと会えないもんだな」
「しょうがないわよ。そこかしこで会えるほどたくさんいるわけでもないんだし」
「それはわかってるけど、俺たちには時間制限がある──ん?」
「どうしたの?」
「しっ、静かに」
 俺は愛を黙らせ耳を澄ました。
「この音は……」
 それは普通の靴の音ではない、別の音だった。
「……見つけたぞ」
「えっ、なにを?」
「舞妓さんだよ」
「どこ?」
「まあ、ちょっと待ってな」
 俺たちはその場で街並みを眺めながら、しばし待った。
「来た」
 通りの向こうから待ち人が来た。髪を結い上げ、化粧をし、着物を着て、そして独特の下駄を履き、舞妓さんがやって来た。
「……綺麗だな」
「……うん、綺麗だね」
 俺たちはその洗練された美しさに魅入ってしまった。
 しゃなりしゃなり、という擬音がぴったり当てはまるその姿は、俺の想像以上だった。
「よし」
 俺はおもむろに近づいた。
「ちょ、ちょっと洋一」
「あの、すみません」
「はい?」
 ふたりの舞妓さんはイヤな顔ひとつせず立ち止まってくれた。
「写真、いいですか?」
 俺は持っていたカメラを見せながら頼んでみた。
「ええですよ」
 ふたりのうち、赤が特徴的な着物を着た舞妓さんが微笑んで答えてくれた。
「ありがとうございます。おい、愛、撮ってくれ」
「えっ、私が?」
「おまえのも撮ってやるから、な」
「わかったわよ」
 愛は渋々カメラを受け取った。
「頼むぜ」
 俺はふたりの舞妓さんの間に立った。
「いくわよ」
 デジカメだから特に音はしない。
「撮れたわよ」
「よし、撮ってやるから」
 そう言って俺はカメラを受け取った。
「いくぞ」
 ファインダーを覗いてピントをあわせ、シャッターを切った。
「ありがとうございました」
 俺は舞妓さんに礼を言った。すると──
「お撮りしましょうか?」
「えっ?」
「おふたりで」
 俺と愛は、顔を見合わせた。
「じゃあ、お願いします」
 俺はもうひとりの舞妓さんにカメラを渡し、今度は俺と愛とが舞妓さんを間にするように立った。
「はい」
 舞妓さんは快く写真を撮ってくれた。
「本当にありがとうございました」
 俺はカメラを受け取りながら言った。舞妓さんは「いえ」と言いながら、とてもいい香りを残して通りに消えていった。
「……はあ」
「……ふう」
 俺たちは舞妓さんが完全に視界から消えると、ため息をついた。
「綺麗だったな」
「うん」
 人間て、どうして印象的なことが起きると言葉が少なくなるのだろう。
「俺、思ったんだけどさ」
「なにを?」
「今回の修学旅行、成功だな」
「どうして?」
「舞妓さんに会えたから」
 それを聞いた愛は一瞬固まった。
「やっぱり洋一らしいわね」
 でも、すぐにそう言ってクスクスと笑った。
「なあ、愛」
「ん?」
「あ、いや、なんでもない」
「変なの」
 俺は、本当はもうひとつ思ったことがあった。それはカメラのファインダーを覗いていた時、舞妓さんが綺麗だったのは言うまでもないが、それに勝てはしないが、匹敵するくらい愛が可愛く綺麗に見えたのだ。それを言おうかと思ったけど、恥ずかしいし、なにより俺らしくないからやめた。
「ねえ、洋一」
「ん、なんだ?」
「舞妓さん、私たちのこと、どう見てたのかな?」
「は?」
「ううん、やっぱりいいや。さ、行こ」
 愛は俺の手を引っ張って歩き出した。
「変な奴だな」
 よくわからないけど、愛は嬉しそうだった。
 
 三
 さて、ここまでいろいろ話してきたが不思議に思った人もいるだろう。それはおそらく、なぜ高校の修学旅行で京都・奈良なのかということだと思う。関東地方の高校なら、普通ならもう少し遠いところへ行くだろう。
 ところが、うちの高校は少し変わっている。目的地は中学校なんかでも行く京都・奈良。まあ、俺の場合は中学の時は北海道に行ってるから京都ではなかったけど、大半は二度目だ。
 そこでなにが変わってるかというと、まず日程。普通は二泊三日か三泊四日、海外なら四泊六日なんてところだろうが、うちの高校は京都・奈良で四泊五日なのだ。京都で二泊、奈良で一泊、そして一番大切なのは最後の一泊。なんと、うちの高校では京都・奈良周辺、つまり大阪や神戸、和歌山のあたりならどこに誰と泊まってもいいのである。ある程度の制限があるとはいえ、自分たちで泊まる場所を探し、一晩を過ごす。
 これは、今の校長の四代前の校長が、高校生としてその程度できなくては、という考えのもとにはじまったらしい。当時はいろいろと問題もあったらしいが、それも月日を重ねる度に慣れというか、そんな感じですっかり定着した。
 従って、みんながつまらない見学に耐えているのは、そのことがあるからなのだ。
 一番人気は大阪、次いで神戸、時には南紀の方まで行く奴もいるらしい。事前に担任に宿を誰と泊まるか報告すればあとは自由。帰りもばらばらなのだ。
 まあ、中にはそんな修学旅行は認めない、という奴もいるが、そういうごく少数の意見には耳を貸さないのがうちの高校である。ま、本当はこれではいけないのかもしれないけど。
 俺も計画は立ててある。まあ、それはあとのお楽しみ、ということで。
「ん〜、これで京都も終わりか」
「ふふっ、そうね」
 俺たちは旅館に戻りくつろいでいた。もうすぐ集合時間になるので、生徒もほとんど戻っていた。
「なあ、愛」
「なに?」
「どうしてあんなにたくさんおみやげ買ったんだ?」
 そうなのだ。俺たちは祇園から中心部へ戻り、おみやげなんかを見た。俺なんかは適当に自分のものと、義理程度に家族に買っただけなのだが、愛は違った。なにやら、あれもいいこれもいいと言って大量に買い込んでいた。それも最終日ならわからないでもないが、まだ半分残っている段階でだから、さすがに驚いた。
「いいじゃない。みんなにあげるのよ」
「まあ、おまえのことだからな。いいけど」
「あ、いたいた。愛」
「紀子、友美」
 向こうから愛の親友、相沢紀子と内藤友美がやって来た。
「ねえねえ、面白いものがあるんだけど、見に来ない?」
「え、なに?」
「来ればわかるわよ。あ、でも……」
 ふたりは俺の方を見た。
「俺ならいいぜ。ちょっと用もあるからな」
 別に強がりでもなんでもなく、少し用があるのだ。
「じゃあ、私、行くわね」
「ああ」
「じゃあね、高村くん。愛を借りていくわね」
 そう言って三人は部屋に戻っていった。
「さてと」
 それを見送り、俺もある部屋に向かった。
「失礼します」
 そこは、先生たちの部屋だ。
「よう、洋一。どうした?」
 中には何人かの先生が話をしていた。その中で雅先が一番先に反応した。
「いや、たいしたことではないんだけど、雅先、ちょっといい?」
「ああ、別に構わないけど」
 俺たちは部屋を出てロビーに降りてきた。
「なんだ、洋一?」
「用はふたつ。ひとつは、今日舞妓さんに会ったんだ」
「なに? 本当か? くぅ、悔しい。俺も会いたかったんだけどな」
「会えなかった、と」
 雅先は残念そうに頷いた。
「まあ、あとで写真見せるからさ」
「なんだと? 写真まで撮ったのか。ううぅ、羨ましい……」
 ……ま、まるで小学生だな。
「それでもうひとつなんだけど──」
「北条先生」
「あっ、はい」
「そろそろ集合時間も過ぎましたし、夕食も近いですから生徒の確認、お願いします」
「わかりました」
 こりゃダメだな。
「すまんな。そういうわけだ。話はまた今度聞くから」
「いや、別にたいしたことじゃないから」
「じゃあ、俺、行くわ」
 そう言って雅先は見回りに行った。
「俺も戻るか」
 俺はいったん部屋に戻り、優美先生が来たのを確かめて、一応クラス委員としてみんなを食堂に移動させた。
 食堂にはほかのクラスもだいぶ集まっていた。
「よお、洋一」
 と、亮介が来た。
「どうだった?」
「ん〜、まあまあだろ」
「なんなんだよ、そのやる気ない感想は?」
「前半は面白くなかったけど、後半は面白かったから、まあまあだってことだ」
「ふ〜ん、後半は面白かった、と」
 亮介はアホみたいなにやけ顔で繰り返した。
「で、具体的にはなにが面白かったんだ?」
「舞妓さんに会ったこと」
「……なに?」
「だから、舞妓さんに会ったことだって」
「……おまえ、なんでそんな美味しい目に遭ってるんだ?」
「知るか。そもそもどこへ行くかは自由なんだから、舞妓さんを探したって問題ないだろうが」
「それはそうだけど。でも、よく愛ちゃんが許してくれたな?」
「まあ、それはな。だけど、愛も興味あったんだろ。すんなり受け入れたぞ」
「なるほどな」
 そんなことを話しているうちに、食堂に全員が揃ったようだ。
「ほれ、自分の席に戻れ」
「わかってるって」
 それから全員揃って夕食。
 特になにかあるわけじゃない。連絡事項もたいしてない。まあ、明日は奈良に移動して見学だからな。
 夕食が終わると、クラス委員と修学旅行実行委員が集められ、ミーティングが行われる。
 面倒なのだが、クラス委員である以上は仕方がない。
 それが終わると、ようやく短い自由時間となる。
「ごくろうさま、高村くん」
「優美先生」
 ロビーの椅子に座っていたら、優美先生に声をかけられた。
「どう? 京都の感想は?」
「想像以上ですね。話に聞いていたよりもずっとすごい街です」
「そう、だったらよかったわ」
「先生はもう何度も来てるんですよね?」
「そうね。でも、未だに行ったことない場所もあるわよ」
「そうなんですか?」
 まあ、修学旅行の引率は二年を担当しないと来ない。となれば、毎年というわけではないだろう。だとしたら、行ったことがない場所もあるかもしれない。
「今年の修学旅行は、いろいろ楽できていいわ」
「どういう意味ですか?」
「実行委員とクラス委員がとても優秀だから」
 そう言って微笑む。
「高村くんは、やっぱり私の思っていた通りの働きをしてくれているわ」
「そんなことないですよ」
「去年から思っていたのだけど、高村くんは自分のことを必要以上に低く見ているわね」
「そう、ですかね」
「ずば抜けて優秀、とは言わないけど、高村くんには人を惹きつける魅力と、人を引っ張っていける行動力があると思うわ。それは、一朝一夕では身に付かないことだし、それをすでに持ってることは、それだけで十分すごいと思うわ」
 優美先生はたまに俺のことを過大評価する。実際はどうかはわからないけど、少なくとも俺はそこまでだとは思っていない。クラス委員をやれているのは、先生や愛のフォローがあるからだ。それがなければダメだ。
「修学旅行もあと半分。あと少しだけ、クラス委員としてがんばって」
 そう言って先生は戻っていった。
「……プレッシャー、かけにきたのか?」
 なんとなくそんなことを思ってしまった。
 
 四
 修学旅行三日目。今日は、京都から奈良へ移動する。
 午前九時。バスに乗って一路奈良へ。奈良までは約一時間。
 奈良での最初の見学先は、定番の東大寺。日本三大大仏のひとつ、奈良の大仏がある。
 大仏は聖武天皇がその当時の様々な厄を仏の力を借りて払おうとしたものである。
 東大寺にはほかにも有名な正倉院がある。正倉院の宝物庫には聖武天皇の遺品をはじめ、貴重な品々が納められている。
「へえ、これが奈良の大仏か」
 俺は思わず感嘆の声を漏らした。三大大仏のうちほかのふたつ、鎌倉と高岡の大仏は外にあるが、奈良の大仏は大仏殿にある。そのため、妙な圧迫感がある。
「確か、昔はこの大仏一面に金箔が貼り付けてあったらしいわよ」
「へえ、すげえなぁ……」
 すっかり感心しきりだった。
 開いた口がふさがらない状態だった俺は、正倉院の見学の時にようやく元に戻った。ようするに正倉院は面白くなかった、ということの現れだ。
 昼食を挟み、最後は春日大社。春日山の麓にある春日大社は、あの藤原氏の氏神として名が知られている。現在でも春に春日の祭りが、かつての藤原氏の栄華をしのんで盛大に行われている。
 だが、俺にとっては特に物珍しいものでもなければ、つまらないだけである。
 俺は必死に退屈な時間に耐えた。途中何度か挫けそうになったが、なんとか踏ん張った。
 春日大社の見学が終わると、もう予定はすべて終了。しかし、ホテルに入るには時間があるということで、近くの奈良公園で時間をつぶすことになった。
 奈良公園といえば、鹿。その鹿たちが俺たちを迎えてくれた。
「テレビとかで見てたけど……」
 まわりには鹿、鹿、鹿……
「本当にこんなにいるとは思わなかった」
 俺は、テレビとかではわざわざまわりの鹿をカメラの入る範囲で集めて、それで映しているんだと思っていた。しかし、実際に見てみると違うことがわかった。
「うわあ、鹿よ、鹿。ねえねえ、洋一」
 ……すっかり気分は小学生だな、愛の奴。
「カワイイ♪」
 か、カワイイだと……お、女って生き物はよくわからん。
「ね、ね、餌やろう?」
「俺は別にいい」
「えーっ、どうして?」
「俺は見てるから、やってこいよ」
「う〜ん、わかった」
 愛は餌を買って、鹿の群れの中に入っていった。
 まわりでもうちの生徒が餌をやっている。どう考えてもやりすぎだと思うんだけどな。
「それにしても……」
 愛は、本当に楽しそうだった。
 ずっと笑みが絶えず、心から楽しんでいた。
「どうしたの、高村くん?」
「優美先生」
「ん〜……?」
 優美先生は俺の視線の先を見る。
「ふふっ、いいわね」
「な、なにがいいんですか?」
「さあ、なにかしら?」
 先生は不敵な笑みを浮かべた。
「ところで、高村くんは旅行とかにはよく行くの?」
「どうしてですか?」
「別にたいしたことじゃないんだけど、いろいろなところの様々なことを知ってるから」
「旅行なんてほとんど行ったことないですよ。うちは父さんが家にさえあまりいないですからね」
「じゃあ、どうしてそんなに詳しいの?」
「それは、歴史に関係のあるところは自然に覚えてるんですよ。でも、教科書程度しか知らないですけど」
「それだけ知っていれば十分よ」
「あとは、父さんにいろいろ場所の話を聞いたり、まあ、直前に雑誌なんか読むくらいですね」
「へえ、すごいわね」
 俺は苦笑した。
「別にすごくなんかないですよ。普段旅行できない分、人の何倍も楽しみたいからそれなりの予備知識を仕入れておくんです。ただそれだけです」
「そうだとしても、すごいと思うわ」
 感心しきりの先生。
「でも、この修学旅行は結構熱心だと思うけど、なにか理由でもあるの?」
「さっきのことが主な理由ですけど」
「それ以外は?」
「そうですね、一応あるにはありますけど」
「それは?」
「う〜ん、秘密です」
「はい?」
 ははは、肩すかしを食らって間抜けな顔してる。
「どうして秘密なの?」
「どうしてもです」
「どうしても?」
「どうしても」
「意地悪ぅ」
 あ〜あ、これじゃまるで駄々っ子だよ。
「あっ、ほら、先生」
「なに?」
「呼んでますよ」
「……しょうがないわね。でも、明日は覚悟してなさい」
 先生は少しだけ怖い表情でそう言い置いて向こうへ行った。
 ヤバイ、あれはマジだ。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。それより、もう気は済んだのか?」
「うん」
 愛は、満足そうに頷いた。
「でもさ、あんなにみんなで餌やったら鹿が可哀想じゃないか?」
「う〜ん、そうかもね。でも、公園の人も特になにも言わないってことは、たぶん大丈夫なんじゃない?」
「まあ、どうでもいいんだけどな。それより、そろそろ時間だな」
 俺は腕時計を見た。
「これで修学旅行もあと二日ね」
 今日は明日のこともあり、奈良市内のホテルに泊まった。猿沢池が見える結構いいホテルだった。
 部屋はダブルの部屋にベッドをひとつ入れた部屋だった。当然ベッドの質は違うので奪い合い。まあ、俺の場合はちょっと頭を使って見事にいいベッドをゲットしたけど。
 こうして修学旅行三日目は無事に過ぎていった。
 
 五
 修学旅行四日目。
「──以上のことを注意するように」
 前の日に続いて、今日も主任の先生から注意があった。とはいえ、みんなの心はすでに今日のこれからのことでいっぱいのようだった。
「ふう、やっと終わった」
 それからいろいろ注意事項やらなんやらで俺はすっかり退屈していたが、終わった途端にやる気が復活した。我ながら現金な奴だ。
「さてと」
 俺は部屋に戻り、出発する準備をした。みんなも準備を整え、準備のできた者から出発していく。
 荷物を持ちロビーに降りた。
「洋一」
 ロビーにはすでに愛がいた。
「よお、早いな」
「うん」
「あとは……」
 俺はエレベーターの方を見た。
「おっ、来た来た」
「よお」
「雅先、もう点検はいいの?」
「ああ、完璧だ」
 そう言って雅先は親指を立てた。
「でも、洋一も不思議な奴だよな」
「ん?」
「だってさ、せっかくの修学旅行をだよ、わざわざ教師と過ごそうだなんて」
「まあ、そう言うことは──っと、来た来た」
「ごめんなさい。ちょっと手間取っちゃって」
「さて、揃ったことだし行きますか?」
 俺の言葉にみんな頷いた。
 ここで今回の計画の一部を話そう。なんと、俺は大胆にも俺と愛に加えて、優美先生と雅先をメンバーに入れたのだった。なぜそうしたかというと、深い理由はない。単に普段と違うことがしたかったのだ。
「でも──」
 俺たちは奈良駅から関西本線で一路天王寺駅へ向かった。
「なんでそんなところを選んだんだ?」
「雅先、野暮なことは聞かないことにしようぜ」
「ねえ、そこまでどれくらいかかるの?」
「そうだな。天王寺駅から二時間くらいかな」
「じゃあ、ちょうどお昼頃ね」
 俺たちの行き先は、和歌山は白浜。いわゆる南紀白浜である。どうしてそこを選んだかというと、理由はいくつかあるけど、一番大きいのは俺が海が見たかった、ということだ。
 俺は山も好きだけど海が大好きなのだ。昔、家族で行った沖縄の海が印象深かったために、それから海にはまってしまったのだ。しかし、ひとりで行くには少し虚しいものがあるし、だからといって家族では行けない。だから、この修学旅行は絶好の機会だった。
 天王寺駅で阪和線・紀勢本線の特急スーパーくろしお号で白浜駅へ。時間にして約二時間。和歌山駅を過ぎると紀伊水道が右手に見えはじめる。まさに『南紀』という感じだ。
「いい天気でよかったわね」
「天気が悪かったら楽しみが半減しますからね」
 俺たちはふたり掛けの座席を合わせて、四人向かい合って座っていた。
「それはそうと、優美先生は本当はどこへ行くつもりだったんですか?」
「私? 私は大阪にでも泊まろうと思っていたのよ。ほとんどの先生はそうよ。結局は一番便利なところがいいのよ」
「でも、それってつまらなくないですか?」
 先生は少し考えた。
「そうね。最初はそれでもいいけど、生徒と違って教師は何度も来るから。マンネリになっちゃうわね」
「雅先ははじめてだから、それでもよかったんじゃないか?」
「う〜ん、まあな。でも、これはこれでいいんじゃないか」
 なんて話をしながら列車は紀伊半島を南下し、白浜に到着した。
「やっぱり海が近いのはいいわね」
 優美先生は電車から降りるなり、思い切り伸びをした。
「風に磯の香りがして気持ちいい……」
「ホント、気持ちいい」
 白浜駅に着いたのがちょうどお昼だったので、俺たちはとりあえず昼食を取った。
 南紀白浜といえば、関西でも有名な観光地だが、五月の平日ということで観光客の姿はそれほど多くなく、比較的静かだった。都会の雑踏があまり好きではない俺にとって、それはまさに好都合だった。
 ここでひとつ昔話。俺が海が好きになったのは、家族で行った沖縄の海が印象的だったからだと言ったが、どう印象的だったかというと、実のところ言葉では言い尽くせない。
 しかし、あえて言うなら『未知』のものだった。朝、水平線から昇る太陽に照らし出された水面の輝きと、昼間の空の青さに映える白い砂浜とエメラルドブルーの海。沈む夕陽と一面朱に染まる水面。そして、なんといっても満点の星空の見える砂浜でわずかな月明かりに照らし出される水面の幻想的な様子。
 それはまだ小学生で世間に汚されていない俺にとって、忘れられない出来事だった。そして、俺はもう一度その光景が見たかった。
 昼食を済ませ、俺たちは時間まで駅周辺を歩いてみた。
 白浜駅は海岸からは少し離れているから、残念ながら海は見えない。
 それでも風には磯の香りが乗ってくる。
「なあ、愛」
「ん、どうしたの?」
「なんで俺が優美先生はともかくとして、雅先を選んだかわかるか?」
「えっ、それって北条先生と洋一が仲が良いからじゃないの?」
「まあ、それもあるけど」
「ほかに理由があるの?」
 俺は黙って頷いた。
「なに、その理由って?」
「あのふたりには内緒だからな」
「……うん」
 俺は声音を落として言った。
「実はな、雅先さ」
「うん」
「優美先生のことが好きらしいんだ」
「えっ? えーっ!」
「しっ、そんなに大きな声出すな」
 俺は慌てて愛を黙らせた。
 前を歩く件のふたりはとりあえず気にしてないみたいだ。
「それに誰が誰のことを好きになったっていいじゃないか」
「……それはそうだけど」
「いいか、このことはあくまでも俺が雅先に接していて感じたことだから、雅先の口から聞いたことじゃない。だから、不用意なことは言ったりするなよ」
「わかった」
「俺な、あのふたり結構いい感じだと思うんだ。まあ、優美先生を雅先にやるのは釈然とはしないけど」
「洋一っ」
 愛は怖い顔でこっちをにらんだ。
「ウソだよ。確かに優美先生は綺麗だし大人の女性だけど、俺にはあわないからな」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃ……」
 俺はちらりと横目で愛を見た。
「まあ、いいじゃないか」
「あっ、また誤魔化して」
「とにかく──」
 強引に話題を戻した。
「んもう……」
「別に俺がどうこうするつもりはないけど、雅先にそれなりの甲斐性があれば、いろいろ進展するんじゃないか」
 どことなく良い雰囲気を醸し出しているふたりを見た。
「ま、優美先生もいろいろ考え出す頃だし」
 本人が聞いていたら、すごい勢いで反撃を喰らっただろうな。
「ところで洋一」
「なんだ?」
「今日泊まるところってどんなとこ?」
「俺は行ったことがないからよくは知らないが、父さんと姉貴の話では海のよく見える最高のロケーションだってさ」
「へえ、素敵なところなのね」
「まあ、姉貴はともかくとして父さんがあれだけ褒めることは滅多にないから、よほどいいんだろうな。確か、造りは海の家みたいでそれほど大きくなくて、家族だけで切り盛りしている、いわゆる家庭的なところらしいぜ」
「でも、よくそんなところ知ってたわね」
「まあ、父さんはいろんな人と知り合いだから、その関係で何度か来ていたらしい。姉貴はその話を聞いて来たみたいだけど。だけど、大人数で泊まれないのが弱点だな」
「部屋数はどのくらいなの?」
「確か、四つだったかな」
「ホントに家庭的ね」
「ある程度の入れ替えはきくみたいだけど、基本的にはすべてダブルだってさ。確か、電話した時には俺たち以外の泊まり客はいないって聞いたけど。ま、この時期なら休日でもないとそうなんだろうな」
「ふ〜ん」
 愛は、いまいちはっきりしないような感じだった。
「なんだ、まだ聞きたいことでもあるのか?」
「えっ、ううん、もうないよ」
「ま、一応部屋は二部屋取ってあるけど、頼めばひとり一部屋なんてこともできるかもな」
「なにもそこまでしなくても……」
「別にそんなことするつもりはないけどさ。部屋割りは勝手に決めていいけど──」
 俺はひと呼吸おいた。
「……なんだったら、一緒の部屋にでも──」
「えっ……?」
「い、いや、なんでもない」
 ……俺はなにを言おうとしたんだ。そんなことできるはずが──
「……それでも、いいよ」
 いいってさ。やっぱり……なんだと?
「お、おい、今なんて言った?」
「だから、いいよって……」
 愛は、耳まで赤くしてそう言った。
「あっ、でも、先生たちがなんて言うか……」
「私たちがどうかしたの?」
「うわっ」
 いきなり声をかけられ、俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「び、びっくりした……いつからそこにいたんですか?」
「つい今よ。それより、私たちがどうしたの?」
「いや、たいしたことでは……」
「……本当かしら」
 優美先生は俺の顔をじっと見た。その目は完全に好奇心でいっぱいの目だった。
「まあ、いいわ」
 優美先生はそう言って俺から少し離れた。ふう、寿命が縮むかと思った……
「ところで、今日泊まるところって遠いの?」
「えっと、駅から車で十五分くらいだってことですけど。あっ、心配しないでも迎えに来てくれるそうです。確か──」
 俺は腕時計を見た。
「三時に白浜駅前だそうです」
「あと二十分くらいね。遅れると悪いから待ってましょうか」
「そうですね」
 俺たちは優美先生の提案に従って、白浜駅で宿の人を待つことにした。
 暖かな陽差しを浴びながら待つこと十分。予定より早く待ち人は来た。
「高村様ですか?」
「はい、そうです」
「私、ペンション『マリンブルー』のオーナー、水島です。はるばる遠いところをよくおいでくださいました」
 とても優しい感じのオーナー、水島さんはまだ三十代半ばくらいの若いオーナーだった。
「それではご案内しますので、どうぞお乗りください」
 そう言って水島さんはRVカーのドアを開けた。
「だいたい十五分くらいで着きますから」
 車は海岸線沿いに白浜のある瀬戸崎を進んでいった。実は、紀勢本線の白浜駅はいわゆる白浜からは少し離れているのだ。従って、今車の進んでいる方向が本当の白浜の方だった。
 素晴らしい景色を見ながら、車はあっという間に着いてしまった。
「ここがペンション『マリンブルー』です」
 そこは海岸線沿いの道路に面し、海が、砂浜がすぐ側の最高の場所だった。
 建物自体は、淡い青を基調とした二階建てのとても綺麗な建物だった。表には看板として鯨を象ったものに鮮やかな青で『マリンブルー』と書いてあった。
「すごくカワイイわね」
「ホント、カワイイ」
 女性の印象はそういうことだそうだ。
「どうぞお入りください」
 車を戻した水島さんが、俺たちを中へ招き入れた。
「うわあ、素敵」
 思わず愛から声が漏れた。しかし、それもわからないでもない。まず、光の取り入れ方が素晴らしく、天窓を大きく取ってあって、そこからの光が玄関を照らし出している。
 また、色の使い方も海に近いということもあり、全体的に青や白を基調として落ち着いた雰囲気になっている。調度品もひとつひとつはたいそうなものではなくても、全体としてしっかりとした存在感を示していた。
 しかし、なによりも目を惹いたのは、あちらこちらに生けてある花だった。色とりどりの花が玄関から廊下にかけていくつもあり、ほのかな香りさえ感じられた。
「お部屋は二階になります」
 水島さんは俺たちを二階へ案内した。
 二階は、廊下に沿って四つの部屋が並んでいた。
「お好きな部屋をお使いください。今日はほかのお客さまはおられませんので。それと、どの部屋でも海はよく見えますので」
 水島さんはにっこり微笑んだ。
「それでは私は一度下に戻りますので、部屋に荷物を置いたら食堂の方にも来てください。お茶を淹れますので」
 そう言って階段を下りていった。
「さてと、部屋、どうします?」
「そうね、とりあえず中を見てみましょう」
 優美先生はドアを開けた。
 部屋の中は、窓からのいっぱいの光を受けてとても明るかった。
「こりゃ、ホテルならスウィートルーム並みだな」
 雅先が驚いてそんなことを言った。
 俺は中に入り、窓を開けた。
 すると、海からの風がとても気持ちよく入ってきた。
「うん、これは父さんや姉貴の言うこともわかる」
 俺は窓からの眺めにしばし見入ってしまった。
「隣の部屋も同じだけど、少し色が違うみたい」
 隣の部屋を見てきた優美先生がそう言った。
「色?」
「ようするに、この部屋は柔らかな緑を基調としているけど、隣は柔らかなピンク、といってもきつい色じゃなくて、ほんのりピンクがかった色だけど」
「残りのふたつは、青と黄色だったぞ」
 雅先はほかの部屋も見てきたらしい。
「じゃあ、好きな色の部屋に、ということで」
 俺は愛の方をちらりと見て──
「俺は青の部屋にしようかな」
「私は……」
 愛は少し考えて──
「私も、青の部屋がいいです」
「えっ?」
 優美先生は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「そうねぇ、高村くんなら大丈夫よね」
「な、なにがですか?」
「ふふっ、私はこの部屋がいいわ」
 優美先生がなにを言いたかったのかは、すぐにわかった。それでも、俺と愛が同じ部屋になるということに対しては、なにも言わなかった。一応、信頼されてるってことか。
「雅先は?」
「俺か?」
「優美先生がイヤじゃなければ、できれば同じ部屋に。一応、二部屋ということで取ったから。あっ、でもどうしてもというならほかの部屋も使わせてもらうようにしますけど」
「私は別に構わないわよ。ねえ、北条先生?」
「え、あ、はい」
 さ、さすがは大人の女性だ。
「じゃあ、そういうことで、荷物を置いたら食堂にでも行きましょう。せっかく水島さんがお茶を淹れてくれると言ってますから」
「そうね。じゃあ、またあとで」
 俺と愛は、一番奥の部屋に入った。
「確かに同じだけど、青が基調だな」
 俺はさっきの部屋同様、入るなり窓を開け放った。
「こういうところに来ると──」
 そのままベランダに出る。
「帰るのがイヤになるよな」
「うん、いつまでもここにいたいっていう感じになるよね」
 愛もベランダに出てきた。
「なあ、本当にいいのか?」
「なにが?」
「そりゃ、一緒の部屋でってことだよ。ひょっとしたら、おまえを襲うかもしれないんだぜ」
「大丈夫よ。洋一はそんなこと絶対にしないから。それに……」
「それに、なんだ?」
「ううん、なんでもないよ。それより、食堂に行こ」
 愛は俺の腕を引っ張って部屋を出た。
 とりあえずの滑り出しは順調。あとは、無事に明日を迎えられればいいのだが。
 
 六
 食堂では水島さんの奥さん、和枝さんが紅茶を用意していてくれた。ダージリンティーに手製のお菓子。至れり尽くせりだ。
 愛と優美先生はそのお菓子があまりにも美味しかったので、作り方まで聞いていた。
 俺たちはペンションのオーナーである水島さん夫婦のことや、白浜のことなどいろいろな話を聞いた。その話によると、水島さん夫婦が今の仕事、つまりペンション経営をはじめたのが五年前の三十歳の時。ふたりとも海が好きで、そのことがきっかけになって以前の仕事を辞めたそうだ。
 しかし、最初の頃は客足も悪く、日々の暮らしも大変だったらしい。
 そんな時、奥さんの和枝さんが思いきった提案をした。その提案というのは、ペンションの大改装と儲け度返しのサービスだった。結局そのままでもどうなるかわからない状況だったので、一大決心をしてその提案を実行した。
 すると、そのことが功を奏したのか、次第に評判がよくなり、しかも口コミでその評判も広がっていった。そして、儲け度返しでやっていたはずが、借金もだいぶ返し、しかもある程度余裕まで出てくるほどになったそうだ。
 そして、今では夏の行楽シーズンには予約客でいつもいっぱい、というくらいの人気ペンションになった。
 水島さん夫婦にはふたりの子供がいるということだけど、学校でもペンション『マリンブルー』のことは有名で、評判がいいらしい。
 白浜のことについては、ここで話すようなことはあまりないと思うから特に話さないが、ひとつだけ言うとすると、一度ここに来たらまたここに来たくなる、そんなことがあると言っていた。ほかの人はどうかわからないが、少なくとも俺にとってそれはわかるような気がする。いつかはわからないけど、俺はもう一度ここに来るような気がしてならなかった。
 そんなことを小一時間ほど話して、俺たちはそれぞれ部屋に戻った。夕食までまだ一時間ぐらいあったが、どこかに行くにはちょっと中途半端な時間だった。
「五時少し前か……」
 俺は腕時計を見てそう呟いた。
「ちょっと出てくるから」
「どこ行くの?」
「あそこだよ」
 窓の外を指差し、俺は部屋を出た。
 五月とはいえ、夕方になってくると昼間の暖かさが薄れてくる。
 海からの風にも多少冷たさを感じるようになってきた。
 それでも俺は、そんなことにもお構いなしに砂浜に立った。
 もうだいぶ西に傾いた太陽に水面が照らされ、砂浜も朱に染まっていた。
「ふう……」
 人間という生き物は、どうしてこういうシチュエーションになると感慨深くなるのか。そんないかにも悟りきった人が考えそうなことが、頭をよぎった。
 俺はその場に腰を下ろし、ただなにもしないで沈みゆく夕陽を眺めた。
「ふふっ、黄昏れてるわね」
「優美先生」
「ひとりなの?」
「そうですけど、なにか?」
「ふ〜ん……」
 先生は少し意外というような顔をした。
「ところで、高村くん」
「なんですか?」
「あの部屋割りは、作戦成功かしら?」
「ど、どうしてですか?」
 優美先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なんとなくね、高村くんの思い通りになったような気がしたのよ。あまり気にしないでね」
「はあ……」
 優美先生って時々ものすごく勘が鋭いことがあるからな。でも、今回のことは作戦でもなんでもないんだけどな。
「高村くんは海が好きなのね」
「えっ……?」
「今、そうしている姿も、とても海が嫌いな人の姿には見えないから」
「先生はどうなんですか?」
「私も好きよ。海を見ていると心が和むというか、ん〜、言葉では言い表せないような感情が湧いてくるのよね」
「へえ、そうなんですか」
「あら、意外そうな顔してるわね。そう言う高村くんは、どうして海が好きなの?」
「それは、すごく単純なことなんですけど、以前家族で行った沖縄の海が印象的で、それですっかり虜になったんです」
「なるほど。だから今も海を眺めていたのね」
 優美先生はその説明で納得したようだった。
 しばし、なにも言わずに海を眺める。
「先生、ひとついいですか?」
「なにかしら?」
「どうしたらほかの人の気持ちを敏感に感じ取ることができるんですか? 教師である優美先生ならすべてではないにしろ、ある程度はわかると思うんですけど」
「そうねぇ……」
 先生は少し考えた。
「まずは、相手の気持ちを感じ取ろうという時に、自分ならどういう風に思うか、それを念頭に置くこと。それから相手の一挙手一投足に注意を払っていることね。人間の気持ちって、案外態度に表れるのよ。それを見逃す手はないわ」
 俺は黙って聞き続けた。
「あとは、いろんな人と接することね。同じシチュエーションでも人によって感じ方は千差万別だから。でも、どうしてそんなことを聞くの?」
「いえ、たいしたことではないんですけど……ただ、ふとそんなことを思ったんです。だからあまり気にしないでください」
「そう?」
 釈然としないところがありつつも、先生はそれ以上聞いてこなかった。
 まあ、たぶん、本当のところはわかってるからだろうな。
「夕陽の砂浜もいいけど、夜の砂浜もいいんでしょうね」
「たぶん、最高だと思いますよ」
「高村くんとしては、そのあたりが狙い目かしら?」
「な、なんのことですか?」
「ふふっ、なんのことかしらね」
 笑う優美先生に、俺はなにも言い返せなかった。
 
「いただきます」
 テーブルいっぱいに並べられた料理。どれもこれも美味しそうで目移りしてしまう。
「う〜ん、昨日までの食事なんか、比べるにも値しないな」
 これは正直な感想だった。実際、京都の食事はまだいいとしても、奈良のホテルでの食事ははっきり言ってたいしたことはなかった。うちの母さんの料理の方がまだ旨いと思ったほどだ。
「ほら、美波留。こぼさないの」
 この声は和枝さん。実は、今日は俺たちしか泊まっていないので食事は水島さん一家と一緒に取っているのだ。当然、ふたりのお子さん──長男で小学校三年生の和樹くんと長女で小学校一年生の美波留ちゃん──も一緒だ。
 水島さんは最初、いつもと同じように客とは別々に食事を用意すると言っていた。だけど、別々にするといろいろ大変だろうし、なにより俺たちだけで食べるより大勢で食べる方がいいだろうということで、こっちから一緒にと提案したのだ。
「お兄ちゃん、食べてる?」
「ああ、食べてるよ。和樹くんのお母さんの料理があまりにも美味しいから、箸を休める暇もないよ」
 なぜか俺は和樹くんにすっかり気に入られてしまった。まあ、子供は嫌いじゃないからいいんだけど。なんで気に入られたんだろ?
「すっかり『お兄ちゃん』ね」
 優美先生はこの状況をそんな風に言う。
「でも、洋一は弟だからちょうどいいんじゃないの。貴重な体験ができて」
 愛はそんなことを言う。まったく、勝手なことばかり言いやがって。そんな兄の経験なら、今でもしてるっての。まあ、弟はいないけど。
「しかし、高村さんにはいつもお世話になりっぱなしで……」
「とんでもないです。父さんも姉貴もここのことは絶賛してますから。特にうちの父さんが旅館やホテルの類を褒めることはほとんどないですからね。だから今回はすごく楽しみでした」
「そう言っていただけると嬉しいです」
 水島さんは本当に嬉しそうに笑った。
「でも、あまり人には教えたくないわね」
「どうしてですか?」
 優美先生の発言に愛が質問した。
「だって、みんなが知ってしまったら、ゆっくりここに来られないじゃない」
「なるほど、それもそうですね」
 食事が終わると、俺はすっかり和樹くんと美波留ちゃんのおもちゃにされてしまった。ふたりにすれば学校に行けば同じ学年の友達はいても、先生ではない自分たちより年上の人と接することはそう多くない。だから、こういうことが嬉しいのだろう。
 体力には結構自信があった俺だが、八時頃からたっぷり一時間半も相手をしたら、ヘトヘトになってしまった。恐るべし、小学生。
 ふたりが遊び疲れて寝たのを確認すると、俺はようやく解放された。
「本当にごくろうさまです」
 和枝さんはそう言ってお茶を出してくれた。
「高村くんにそういう才能があったとは、ちょっと驚きね」
「はあ、そうですかね」
「でも、あれだけ相手できるのは、それはそれで立派な才能だと思うわ。そう思わない、森川さん?」
「えっと、そうですね」
 優美先生は意味深な笑みを浮かべつつ、愛にそんなことを言った。
「友達でも先生でもないから、逆に楽しめたのかもしれないわね」
 本当のところはわからないけど、そういう理由もあるかもしれない。
「これで明日、へばってなければ完璧だと思うけど」
 最後の最後でそんなことをのたまう優美先生。
 それは俺が一番心配してることだった。
「はあ……」
 俺は部屋に戻るなりベッドに突っ伏した。
「いやあ、参った……」
「安請け合いなんかするからよ」
「子供の相手があそこまで大変だと思わなかった」
 今回のことで『恐るべし、小学生』という教訓を得た。
「まあ、ふたりに楽しんでもらえたから、俺としてもよかったけどな」
「そうかもね」
 苦労しても結果が伴ってなかったら、さすがにへこんでただろう。
 と、俺は時計を見た。
「おっと。また出てくるから」
 俺はだるくなった体を起こし、部屋を出ようとした。
「ねえ、私も一緒に行っていい?」
「えっ、ああ、別にいいけど」
「うん」
 俺たちは夜の砂浜に出た。
 夜になっても空は綺麗に晴れており、星が綺麗に見えた。その光景はまさに『満天の星空』だった。
「綺麗……」
「この景色は東京では見られないからな」
 この時間に走っている車などほとんどなく、あたりには波の音だけが響いていた。
 砂浜を少し歩く。
 もしこれが本当の恋人同士なら、最高のシチュエーションなんだけど……
「洋一?」
「ん、どうした?」
「ううん、なんでもない……」
 ふたりの間に妙な沈黙が生まれた。
「あのさ……」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
 言いたいことはあった。だけど、言葉にできない。
 俺も愛も、そんな感じだった。
「ねえ、洋一」
 と、愛が一歩俺の前に出て、クルッと振り返った。
「覚えてる?」
「なにをだ?」
「小学生の時、洋一のうちと私のうちとで一緒に旅行に行った時のこと」
「そういえば、そんなこともあったな」
 うん、なんとなくは覚えてる。
「あの時も海だったよね。ちょうど夏休みで、房総の海に行ったんだよね」
「う〜ん、そこまでは覚えてない」
「……あの時ね、やっぱり今日みたいにふたりで一緒に泊まったんだよ」
「そうだったか?」
「私、昔から恐がりだったから、洋一の手を握ったまま寝たのよ。そうしてないとみんなどこかへ行ってしまうんじゃないかって思って」
「愛の恐がりは相当のものだからな」
「その時ね、洋一が言ってくれたことがあるの」
「なんて言ったんだ?」
「ん〜、今は秘密」
「な、なんでだよ?」
「それとね──」
 無視しやがった。
「もうひとつあるの」
「なんだよ?」
「洋一ね、私に約束してくれたの」
「なにを?」
 愛は少し考えた。
「それもやっぱり秘密。だって、もしそれを言って約束を守ってもらえなかったら、さすがに、ね」
「だからこそ俺に──」
「だからなの。でも、その時が来たら教えてあげるわ。洋一が言ってくれた言葉と、約束をね」
 そう言って微笑んだ。
「ね、洋一。こういうシチュエーションだと、普段できないことができそうな気がしない?」
「ん、まあ、そうかもな」
 確かに、そんな感じはする。
「だからね、私もしてみようかなって」
「なにをするって?」
「洋一。目、つぶって」
「は?」
「いいから、目、つぶって」
「あ、ああ……」
 有無を言わせない言葉に、俺は思わず言う通りにしてしまった。
 目を閉じると、波の音がやけに耳につく。
 と、わずかに砂を踏む音が聞こえ──
「っ!」
 ふわりとシャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。
 そして、頬に柔らかな感触が──
「お、おい」
「私、先に戻ってるね」
 目を開け声をかけるが、愛はすでに目の前にはいなかった。
「キス……だったのか……」
 俺は頬を撫でながら呟いた。
「夢、かな……」
 頬をつねってみたが、痛いだけだった。
 俺はしばらくなにがなんだかわからないままその場に立ち尽くしていた。
 しばらくして部屋に戻ると、愛はすでにベッドの中だった。
「ふう……」
 俺もベッドに横になる。
 おそらく愛はまだ寝てはいないだろうけど、かける言葉も見つからなかったのでそのまま寝ることにした。
「おやすみ……」
 頬に柔らかな感触を残したまま、俺は眠りについた。
 
 七
 次の日の朝、俺は早くに起きた。朝陽を見るためだ。
 俺はまだ薄暗いベランダに出た。
 東の空が次第に明るくなっていくが、空にはまだ明るい星が見えていた。
 別に俺には特別な信仰というものはないが、朝陽を見る時はやっぱり拝んでしまう。まあ、俺が朝陽を拝むのも、正月とこんな時くらいしかないけど。
「ふわ〜あ……」
 ようやく朝陽が昇ってきた。闇から光へ。その刻一刻と変わる様子が俺はたまらなく好きだった。
 だけど、一番好きなのは、太陽が水平線から出る瞬間だ。一瞬だけ光が消え、次の瞬間に水平線いっぱいに広がる。時間にしてもわずかだが、本当に魅入られてしまう光景だ。
 俺は、そんな光景を目に焼き付け、ベッドに戻った。
 隣のベッドでは、まだ愛が眠っていた。
「ちぇっ、幸せそうな顔しやがって」
 愛は、カワイイ寝息を立てて眠っていた。
「ちょっと悪戯してやるか」
 愛があまりにも平和そうで幸せそうだったので、鼻をつまんでやった。
 五秒……十秒……二十秒……三十秒……四十秒……五十秒……
「お、おい、ちょっと待てよ」
 一分が経過したところで、さすがに心配になって手を放した。
 すると──
「すぅー……すぅー……」
 何事もなかったかのように寝息を立てた。なんて奴だ。
「それにしても……」
 俺は、改めて自分の置かれている立場をよく思い返してみた。
 恋人でもないのに、健康な男と女が同じ部屋にいる。女は大変魅力的だった。男は女のことが好きである。実は、女もまんざらではない。そしたら──
 と、普通は理性もなにもかも吹っ飛んでしまいそうだが、そういうことにはならなかった。
「ちょっとぐらい強引にしてもよかったかな……いや、ダメだな」
 確かに俺は愛が好きだ。当然、俺だけのものにしたいという気持ちもある。
 だけど、俺の中にはその気持ちに勝る気持ちがあった。それは、愛を『大切』にしたいという気持ちだ。
 俺は自分で言うのもなんだけど、普段は愛に対して悪態を付くこともあるが、実のところは単に会話の口実がほしくてそういう態度を取っているに過ぎない。ま、ワガママなんだな。
 俺は、愛の笑顔が好きなのだ。見ているだけでこっちまで幸せな気持ちになってくる。だから、逆に言えば悲しむ顔は見たくない。
 もし、俺が強引にしてしまったら、愛を悲しませてしまうかもしれない。それだけは絶対にイヤだ。愛の笑顔と引き替えに、自分の欲望を満たすなんて。
 それに、愛は言った。夏休みまで待ってほしいと。楽観的な見方をすれば、そこまで待てば強引にする必要などなくなるのだ。
 だから、今はこうして一緒にいられることに満足しなくてはならない。
「その時まで、待ってるからな」
 少し乱れている前髪を軽く整えてやった。
 と──
「……ん……」
 まつげが揺れ、愛が目を覚ました。
 その様子をじっと見ているのもなんだから、ベランダに出た。
 すっかり明るくなった外で、改めて深呼吸する。
「ん〜、おはよ、洋一」
 目を擦りながら、愛がベランダに出てきた。
「よお、よく眠れたか?」
「うん」
 愛の様子は、昨日までとなんにも変わっていない。
「今日は早いのね」
「ああ、海へ来た時の俺の習慣だからな。朝陽を見て、昼の景色を見て、夕陽を見て、夜の景色を見る。これをしないと本当に海に来たっていう気がしなくてな」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 頷きながら、愛はグーッと伸びをした。
「今日で修学旅行も終わりね」
「ああ、そうだな」
 そう、今日で修学旅行も終わりだ。
「洋一?」
「ん?」
「どうしたの、ボーッとしちゃって」
「いや、なんでもない」
 少し考えていたら、愛が不思議そうな顔で聞いてきた。
「それよりも、着替えるんだろ?」
 俺は愛の格好を指さした。愛は、いかにも『女の子』というようなパジャマ姿だった。
「それとも、俺に手伝ってもらいたいのか?」
「へ? ……ば、バカっ!」
「い、痛っ!」
 俺は思い切り背中をつねられた。
「バカバカバカバカバカバカ……バカっ!」
 愛がポカポカ背中を叩くので、俺は部屋を脱出することにした。
「洋一の、バカっ!」
 部屋を出る時、愛の声が耳に届いたが、無視した。
「あら、おはよう、高村くん」
 廊下に出たところで、優美先生に会った。
「おはようございます」
 先生はまだ化粧はしてないようだったが、それでも綺麗だった。
「よく眠れましたか?」
「ええ、とっても。ここは空気も綺麗だし、うるさくないし、最高の場所ね」
 優美先生は本当に嬉しそうにそう言った。
 しかし、俺にはひとつ気になることがあった。雅先のことだ。果たしてなんらかの進展はあったのだろうか。
「あら、なにか聞きたいことでもあるの?」
 うっ、鋭い。だけど、ここで訊いてもいいものかどうか……
「どうしたの?」
「い、いえ、なんでもないです」
「そう?」
 意味ありげに微笑む。
「それよりも、どうだったのかしら?」
「な、なにがですか?」
「言わないとわからない?」
 いや、よくわかってるけど、それを言うのはさすがに。
 なんとか話題を変えなくては。
「おはようございます」
 と、そこへ運良く水島さんが上がってきてくれた。
「おはようございます」
「よくお休みになられましたか?」
「ええ、もちろんです」
「それはなによりです」
 よし、この間に俺は──
「あっ、朝食は七時半ですから」
「は、はい」
 大慌てで部屋に戻った。
「どうしたの?」
 部屋では、着替えて荷物の整理をしていた愛が、不思議そうな顔で俺を見ていた。
「な、なんでもない」
 まさか、愛とのことを訊かれそうになったとは、言えない。
「それよりも、さっきはごめんね」
「い、いや、俺も悪いんだから謝ることはないさ」
「でも……」
「いいんだよ。それとも、ホントに手伝ってほしかったのか?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
 愛は困った顔をした。
 俺としても愛を困らせる気はさらさらないんだが。
「そうだ。朝食は七時半だってさ」
「あ、うん」
 時計を見ると、七時ちょっと前だった。
 まだ時間はあるから、俺も荷物の整理をすることにした。
 とはいえ、そんなに多いわけじゃないから、すぐに終わってしまう。
「ねえ、洋一」
 先に整理し終わった愛が、ベッドに座ってこっちを見ながら言った。
「なんだ?」
「夏にも、ここに来られるといいのにね」
「ここ、気に入ったのか?」
「うん」
 そうか。それなら思い切って誘ってみるか。
「じゃあ、夏にもここに来るか?」
「えっ……?」
「だから、ここに来るか?」
「ホント?」
 愛は、半信半疑という顔で聞き返した。
「ああ、ホントだ。おまえが来たいって言うんならな。それに、俺としてはこの夏はどこかしらの海には行くつもりだったから、ちょうどいいし」
 これは本当のことで、去年の夏はちょっとした事情でまったく海に行けなかったから、今年こそは、と気合いも入っていた。
「どうする?」
「……うん、また来たい」
「よし、それなら決まりだ。あとで水島さんに聞いてみるから」
「……ふたり、よね……?」
「いや、別に俺は何人でも構わな──」
 一瞬、愛の顔が曇った。
「いや、やっぱりふたりだけにしよう。それでいいな?」
「うん……」
 これははっきり言って予想外の展開だった。俺にしてみれば、夏休み前に愛を誘おうとは思っていたが、まさかこんなところで約束することになるなんて。
「そろそろ、下、行こうよ」
「ああ、そうだな」
 なんとなく居づらい雰囲気になって、俺たちは食堂へ降りた。
 食堂では和枝さんと和樹くん、美波留ちゃんが準備をしていた。
「おはようございます」
「あっ、おはようございます」
 皿を運んでいた和枝さんが、笑顔で挨拶してくれた。
「よお、和樹くん。朝から手伝いかい?」
「うん。ねえ、お兄ちゃんたち、今日帰るんでしょ?」
「そうだけど」
「また、来てくれるよね?」
 和樹くんは、期待に満ちた目で俺を見ている。う〜ん、こういう顔をされたら、なあ。
「ああ、きっと来るさ。でも、それは和樹くんがちゃんとお母さんの手伝いや学校の勉強、それに遊びにもがんばってたらだけど。そしたら、必ず来るよ」
「うん、約束だよ」
 俺は、和樹くんと指切りげんまんさせられた。まあ、どうせあとで水島さんに頼むんだけど、ちょうどいいか。
 と、不意に後ろから引っ張られる感じがした。
「どうしたの、美波留ちゃん?」
 それは美波留ちゃんだった。
「美波留とも約束」
 そう言って彼女は可愛らしい指を出した。
「よし、美波留ちゃんとも約束だ」
 俺は、二度目の指切りげんまんをした。
 ようするに、これは兄弟によくあることだ。年上の者がなにかあると、年下の者も同じじゃないと気が済まない。うん、俺にも経験ある。
「あらぁ、よかったわね、ふたりとも」
 和枝さんの言葉に、ふたりともニコニコ顔である。よっぽど嬉しかったらしい。それとも、単に『おもちゃ』がほしかったのかな。
「おはようございます」
 と、食堂に優美先生と雅先が降りてきた。
「ん?」
 心なしか、雅先がやつれて見えるのは気のせいかな。
「みなさん揃ったようなので、朝食にしますね」
 和枝さんは再び厨房に消えた。
「雅先」
「なんだ?」
「どうだった、優美先生と一緒で?」
 俺は、雅先の耳元でそう訊ねた。
「どうだったもこうだったもあるかよ。俺はな、妙に気を遣って寝不足なんだよ」
「ははは、雅先らしいや」
 確かに、目の下にうっすらと隈ができてる。
「ま、それもいい想い出、ということで」
「まったく、してやられたぜ」
 とはいえ、憧れの優美先生と同じ部屋だったわけだから、それはそれで感謝してくれてもいいと思うのだが。
 まあ、今回はこのあたりで勘弁してやろう。
 朝食は、昨夜の夕食同様、とても美味しかった。というか、朝から思わず食べ過ぎてしまうくらいだった。
 和樹くんと美波留ちゃんは学校があるので、素早く食べて出て行った。和樹くんは、出て行く直前まで俺に念を押していた。
 俺たちは八時半くらいまでゆっくり食事をしながら、いろいろな話をした。俺はもちろんのこと、愛も優美先生も、そして寝不足の雅先までもが『マリンブルー』のことを褒めちぎっていた。
 しかし、いつまでも話しているわけにもいかず、俺たちはチェックアウトの時間まで部屋に戻っていることにした。
「さてと」
 部屋に戻るなり、封筒を取り出した。その中には、四人分の宿泊費が入っている。
「しかし、この環境、このサービスで一拍八千五百円とは信じられないな」
 一応中身を確認しながら、そう呟いた。
「ね、洋一」
「ん?」
「いつにするの?」
「そうだな。今度は夏だから泳ぎたいし。そうすると、遅くてもお盆くらいまでには来ないとな」
「うん」
「ま、妥当なところで八月の頭くらいでいいんじゃないか?」
「うん、洋一に任せる」
「細かいことはもう少しあとになったら決めればいいしな」
 お金を封筒に戻し、ベッドに横になる。
「洋一」
「なんだ?」
「ありがとね」
「は?」
 いきなり感謝されても、なにに対して感謝しているのかわからない。
「本当だったら、こう言うのもなんだけど、修学旅行で心に残る想い出って、なかなかないと思うの。でも、この修学旅行は私にとって最高の想い出になったから。だから、その演出をしてくれた洋一にお礼が言いたくて」
 愛は、少し照れたように顔を赤くした。
「まあ、その言葉はありがたく受け取っておくけど、想い出なんかいくらでも作れるもんだぜ。ようするに、本人に最高の想い出にしたいという気持ちさえあればな」
「じゃあ、洋一はどうだったの?」
「そりゃ、いい想い出になったぜ」
 これはウソじゃない。心の底からそう思っている。
「私ね、今までのこういうことで心の底からよかったって思ったことないの。たぶん、洋一と一緒じゃなくてもそれなりに楽しかったと思うけど、よかったとは思えなかっただろうし。だからね、もう一度言うね。ありがと」
 愛は、こぼれ落ちそうな笑顔でそう言った。
 それには俺も、ただ頷くことしかできなかった。
「なあ、愛」
「うん?」
「昨日の夜、おまえが言った、俺が昔言ったことってなんなんだ? 昨日からいくら考えても思い出せないんだ」
「ふふっ、ダ〜メ。教えてあげない」
「ひょっとして、とんでもなく変なことでも言ったのか?」
「ううん。私にとっては、なによりも嬉しかった言葉」
「どうしてもダメか?」
「うん、ダ〜メ」
 まったく、こいつは変なところで妙に頑固だからな。
「さ、そろそろ時間よ。行こ」
「ちぇっ、わかったよ」
 俺は仕方なく荷物を持って部屋を出た。
 ちょうど廊下で優美先生と雅先に会った。
「先生。俺、支払いを済ませますから、外で待っていてください」
「わかったわ」
 俺は事務室として使っている水島さんの書斎へ向かった。
「水島さん、ありがとうございました」
「いえいえ、とんでもないです。この時期はあまりお客さんもいませんから、かえってこちらの方が助かりました」
 最後まで腰が低いな。
「それで、これが宿泊費です」
「はい、すみません」
 水島さんは、中身を確認する。
「はい、確かに」
「あの、あともうひとついいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
 お金を金庫に入れながら、水島さんは聞き返した。
「実は、夏休みにもう一度ここに来たいと思ってるんですけど……空いてますか?」
「少々お待ちください」
 すぐ脇にあるパソコンで予約状況を確認している。
「そうですね、まだ少し余裕があります。具体的にはいつ頃ですか?」
「八月の頭頃です」
「そうですね……大丈夫です。八月の一日、二日と五日から七日、そして十日、十一日が空いてます。ただ、一日と二日は一部屋だけですけど」
「本当に勝手なんですけど、細かい日程はもう少しあとじゃないと決められないので……」
「わかりました。一応、仮予約ということで取っておきます」
「本当にすみません」
「いえいえ、私たちはいつでもお待ちしていますから」
 う〜ん、本当にいい人だ。やっぱり、ここを選んだのは正解だった。
「それでは、駅までお送りしますので」
「よろしくお願いします」
 俺たちは来た時と同じように、車で白浜駅へ向かった。
 駅に着くと、水島さんは俺たちが電車に乗るまでずっといてくれて、見送りまでしてくれた。
「これで修学旅行も終わりか」
「あら、ずいぶんと感慨深そうね」
「そうですか」
「ま、今回は私もそういう気持ち、あるけどね」
「また、来たいですね」
 俺は、車窓を流れる景色をしっかりとまぶたに焼き付けた。
 また、夏まで──
 
 八
 俺たちは大阪で途中下車をした。買い物と、ちょうど大阪に着いたのが昼だったので、やはり食い倒れの街大阪を楽しみたいということもあった。
 お好み焼きとたこ焼きを食べ、買い物に行ったのはいいけど、まあ、なんというか、女という生き物はどうしてウィンドウショッピングというものが好きなのか。愛と優美先生はすっかり楽しんでるし。
 で、結局俺と雅先は、乾いた笑みを浮かべながら、その様子をただ眺めていた。
 それでも新幹線の時間があったから、小一時間くらいで収まったのは、まだましな方だろう。
 新大阪から新幹線に乗り込み、約三時間。
 新幹線の中では、今回の修学旅行のことで盛り上がった。どれが、ということはなかったけど、やはり白浜のことが一番多かった気がする。
 話をしながらだったから、三時間なんてあっという間だった。東京駅で優美先生と雅先と別れた。ふたりとは住んでる場所が違うのだ。俺と愛は在来線に乗り換えた。時間にしてだいたい約一時間。
 窓の外には見慣れた景色が流れていた。
 愛は、電車に乗って間もなくして眠ってしまった。疲れが出て寝ているんだろうけど、俺としては寄っかかられているから、眠ることもできない。
 まあ、そこは俺も大人だから起こさずにそのままにしておいた。
「それにしても……」
 顔にかかっていた髪をよけてやりながら、こういうのもいいかな、と思った。
 ただ、そういう時間は長くは続かない。電車が俺たちの降りる駅に近づいたのだ。
「愛、愛、起きろ」
 肩を軽く揺すって起こす。
「そろそろ降りるぞ」
「……ん、あ、うん」
 寝ぼけ眼で頷く愛。
「ほら、ちゃんとしろよ。そんなことだと、転ぶぞ」
 俺は、普段はかけないような言葉を愛にかけていた。
 電車から降りると、ようやく戻ってきた気がする。
「どうする? 姉貴がいれば呼ぶか?」
 駅舎を出て、愛に訊ねた。
 姉貴は車の免許を持ってるから、こういう時に迎えに来てもらうこともあった。
「ううん、歩こ」
 しかし、愛は頭を振った。
 まあ、駅からは歩いても二十分くらいだから、たいした距離ではない。
 すっかり陽の落ちた街を、ゆっくりと歩く。
「楽しかったね、修学旅行」
「そうだな」
「たぶんね、洋一と一緒だったから、余計に楽しかったんだよ」
「別に俺はなにもしてないぜ」
「ううん、洋一のおかげよ」
 と、突然、愛が腕を絡めてきた。
「お、おい……」
 突然のことに思わずまわりに誰もいないか確認してしまった。
「早く──」
「え……?」
「早く、こうやって歩けるようになるといいな……」
「愛……」
 触れている場所を通して、愛の気持ちが俺に流れ込んでくるような錯覚に陥った。
「あ、でも、それは私次第だっけ。じゃあ、もっとちゃんと考えないと。じゃないと、私、抑えきれなくなっちゃうから」
 それにはあえてなにも言わなかった。
「洋一」
「ん?」
「もう少しだけ、待っててくれる?」
「ああ、ちゃんと待ってるから。だから、おまえも後悔しない答えを出せよ」
「うん。絶対に後悔しない答えを出すから」
 見上げた月がだいぶ上に来た頃、家に着いた。
「あ、そうだ。洋一」
「なんだ?」
「写真、できたら見せてね」
「ああ、わかってるって」
「うん。じゃあね、洋一」
「ああ」
「ホントに楽しかったよ。ありがと」
 愛は、弾けんばかりの笑みを残して家の中に入っていった。
 それを見送り、俺も家に入った。
「ただいま」
 五日ぶりの我が家だ。
 だけど、その五日ぶりのせいか、夕食の時に母さんと姉貴に根掘り葉掘りいろいろなことを聞かれた。というか、修学旅行とは関係ないことまで。
 せっかくおみやげを買ってきたのに、姉貴はさも当然という感じで受け取っていた。ううぅ、腹立つ。
 おみやげを渡すと、ようやくふたりから解放された。
 すぐに部屋に戻り、ベッドに突っ伏した。
 心地良い疲労感が俺の体を包み込んだ。
 明日は休みなので、俺はゆっくり休むことにした。
 これからはじまるであろう、新たな出来事に期待を寄せながら……
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