恋愛行進曲
 
第十九章 答え(前編)
 
 一
 結局、この春休みの間にそれぞれと過ごす時間ができた。
 それはたぶん、休みの間に結論を出せという、見えないなにかの仕業だろう。普段やもう少し別のことならそんなこと一笑に付すのだが、それはできない。
 なんといっても、これは俺自身のことでもあるのだから。
 
 三月二十日。
 今日は、真琴ちゃんと絵を描きに出かける。
 日帰りできて、それなりに絵の題材となりそうな場所ということで真琴ちゃんが選んだのは、意外にもそれほど遠くない場所だった。俺としては、もう少し遠い場所を選んでくるかと思ったのだが、意外に近くてびっくりした。
 そこまでは電車でおよそ一時間。交通の便も悪くなく、多少遅めの時間でも十分帰れる場所だった。
 俺たちは駅前で待ち合わせし、そこへ向かった。
 今日の真琴ちゃんは、白のブラウスにジーンズという格好だった。とても動きやすそうな格好で、多少動くかもしれない今日にはぴったりの格好だった。
 今日は、俺も真琴ちゃんも小さめのキャンバスを持ってきている。本当はスケッチブックでもよかったのだが、それなりの時間をかけて絵を描くので、せっかくだからということでそうなった。ちなみに、色もつけられるように絵の具も持ってきている。
 車窓を流れる景色は、すっかり春の装いだった。
 桜の花こそまだだが、それ以外の春の花はだいぶ咲き、見頃を迎えているものもあった。
 そんな花をより鮮やかに見せているのが、春の陽差しである。
 今日は雲ひとつない快晴で、この数日で一番暖かな日だった。
 曇ってるよりは晴れてる方がずっといいので、この天気には素直に感謝した。
 電車は空いていた。途中で一度乗り換える必要はあったけど、どちらも座れた。
 電車の中では、本当にとりとめのない話をしていた。
 俺も自覚してるのだが、今日はいつもより多弁だった。それはきっと、真琴ちゃんがいつも以上に機嫌がよかったからだろう。
 だから、電車の中も退屈しないで済んだ。
 そんな電車に揺られること一時間。ようやく目的地へと到着した。
 そこは、実にのんびりとした場所だった。
 駅から少し歩いたところに比較的大きな川が流れており、そこは散歩やジョギング、サイクリングのコースにもなっている。
 別になにもないわけでもなく、駅前には小さいながらも商店街がある。その少し先には住宅街と呼べるところもある。
 俺たちの目的地は、その川の河川敷だった。
 駅から歩くこと十五分。
「ん〜、いい風ですね」
 堤防の上まで来ると、確かに気持ちのいい風が吹き抜けていった。
「こうして風が吹いていても、真冬のように寒くないですし。そういうところからも、春が来たんだなって思います」
「確かに」
 俺たちは堤防を川側へ下り、その一画に陣取った。
 組み立て式の椅子を置き、荷物も置く。
「さてと、とりあえず題材を決めないと」
 ざっと見渡してみるが、すぐに俺の気を引くものは見当たらなかった。
「真琴ちゃんは、なにを描くつもり?」
「私は、その川縁を描こうと思います。揺れる草と水のきらめきを上手く描ければいいんですけど」
「なるほど」
「先輩は、なにを描くんですか?」
「まだ決まってないよ。ただ、真琴ちゃんの話を聞いて、ひとつ思い浮かんだ」
「それは?」
「ん、絵を描いてる真琴ちゃんを描く」
「えっ……?」
「そういう姿を写真に収めるのは簡単だけど、やっぱり描いてみたい題材ではあるから」
「で、でも、それは……」
「別にポーズなんて必要ないからさ。普通にしててくれれば全然問題なし」
「ううぅ……」
「ま、それはどうしてもほかに描くものがない時にそうするから」
「……わかりました」
 そんなこんなで、俺たちは絵を描きはじめた。
 
 青空の下、開放的な場所で絵を描くというのは、本当に気持ちいい。
 家や学校の近くでもそういう場所で描いているとそうなのだから、こうしてまったく別の場所へ来ると余計にそう思う。
 結局、俺の絵の題材は真琴ちゃんになった。
 ほかに適当な題材がなかったというのもあるけど、いつも以上に楽しそうな真琴ちゃんを描きたいと思ったからだ。
 俺は、真琴ちゃんの斜め前に陣取り、描いている。
 最初のうちこそ多少描きにくそうにしてたけど、一度絵に集中してしまうと、もうそんなこともなかった。
 俺の方も、今日はかなり筆の進みが早かった。この調子なら、ある程度の色つけまで終わりそうだ。
 だけど、そういう時に限っていろいろなことを忘れてしまう。
 まず、昼飯。俺も真琴ちゃんもかなり集中していたから、今が何時であるとか、そんなの頭の片隅になかった。
 次に、まわりの目。これは普段も絵を描いている時はあまり気にしないのだが、今日もそんな感じだった。だから、たまにキャンバスを覗き込む人がいても、全然気付かないという有様。まあ、見られて困るようなものを描いてるつもりはないから、それはそれでいいんだけど。
 ほかにも忘れてることはあったけど、とりあえずそんな感じだ。
 で、まず正気に戻ったのが、俺だった。
 ある程度キリのいいところで筆を置き、時間を確認するために携帯を見た。すると──
「うげっ、もう三時かよ」
 とっくにお昼をまわって、おやつの時間になっていた。
「さすがにここまでになるとは……」
 自分でも呆れてしまった。
「真琴ちゃん」
 このままだとさすがにまずいと思って、まだ集中している真琴ちゃんに声をかけた。
「真琴ちゃん」
「……ぇ、あ、先輩。どうしたんですか?」
 ようやく正気に戻った真琴ちゃんが、小首を傾げた。
「時間、見てごらん」
「時間、ですか?」
 真琴ちゃんも俺と同じように携帯で時間を確認した。
「あっ、もう三時」
「うん。午前中からぶっ続けでここまできちゃったからね」
「言われてみると、確かにお腹も空いてますね」
 そう言って苦笑する。
「どうしようか?」
「あ、もしよかったら、かなり遅いですけど、お昼、食べませんか?」
「それは構わないけど」
「じゃあ、ちょっと待っててください」
 真琴ちゃんは、カバンの中からカラフルなシートと、弁当箱らしきものを取り出した。
「ひょっとして、真琴ちゃんが作ってきてくれたの?」
「はい」
 シートを敷いて、その上に弁当を広げた。
 中身は、少しいびつなおにぎりと、コロッケ、ウインナー、アスパラのベーコン巻き、ポテトサラダだった。
「へえ……」
「あの、心配しなくてもちゃんと食べられますから」
「別に心配なんてしてないよ。ただ、前にほとんど料理をしてないって言ってた真琴ちゃんが、ここまでのものを作ってくるなんて、すごいなって思ってさ」
「そ、そんなことは……」
 ここまでのを作れるようになるまでには、それなりの苦労があったはずだ。それを考えると、多少のいびつさなど、問題ではない。
「それじゃあ、早速もらうね」
「あ、はい」
 とりあえず、おにぎりから。
「…………」
 真琴ちゃんは、心配そうな、緊張したような表情で俺を見ている。
「うん、これだけできれば上出来だよ」
「本当ですか?」
「少なくとも俺はそう思う」
「はあ、よかったぁ……」
「そんなに心配だった?」
「それはそうですよ。いくら自分では大丈夫だと思っても、先輩にそう言われるまでは安心なんてできませんから」
 真琴ちゃんもおにぎりを手に取り、頬張った。
「うん、上出来」
 それからしばらくの間、食事をしながらのんびりと過ごした。
 時折川面を通り抜けていく風が冷たかったけど、今はとても気持ちよかった。
 弁当を全部平らげると、再び絵の続きを描いた。
 ここにいられる時間はそう長くはない。ここである程度の形にしておかないと、帰ってからなにもできなくなる。
 俺の方は真琴ちゃんを描いているから、それほど困らないのだが、真琴ちゃんの方は本当にちゃんと描いておかないと、困る。
 次第に風が冷たくなり、陽も翳ってきた。
「真琴ちゃん。今日はこのあたりにしておこうか」
「はい、そうですね」
 だいぶ陽が西に傾いた頃、俺たちは筆を置いた。
「先輩」
「ん?」
「今日の絵は、どうするんですか?」
「家で仕上げようかと思ってるんだけど」
「もう仕上げに入れるくらい描けたんですか?」
「だいたいね」
 俺は、真琴ちゃんに絵を見せた。
「相変わらず先輩は手も速いですし、上手いですね」
「そんなことはないよ。今日はたまたま調子がよかっただけ」
「だとしても、そこまで描けてるのは驚きです」
 俺のは、もうすでに色まで入っている。もちろん、それもまだ仕上げと呼べるものではないが。それでも、あとは家で仕上げられるほどには描けている。
「真琴ちゃんは?」
「私は、もう少し描かないと、色もつけられません」
 そう言って自分の絵を見せてくれた。
 確かに、もう少し下書きしないと、色はつけられないか。
「それじゃあ、またここへ来た方がいいのかな?」
「それはどちらでも構いません。だいたいは頭の中に入ってますから」
「真琴ちゃんがそう言うなら、それでいいけど」
「あ、でも、また先輩が一緒に来てくれるなら、また来たいですけど」
「俺は構わないよ。また、来る?」
「はいっ」
 真琴ちゃんは、嬉しそうに頷いた。
 それから片付けを済ませ、河川敷を離れた。
「こんなに楽しく絵を描けたの、久しぶりです」
「そう?」
「はい。やっぱり、先輩と一緒だったからですね」
「そういうことなら、学校でもそうだと思うけど」
「確かにそうなんですけど、今日は本当にふたりきりでしたから」
「そっか」
 真琴ちゃんにとっては、それが重要なんだろうな。
「あの、先輩」
「ん?」
「今日は、まだ時間は大丈夫ですか?」
「別に帰ってからもやることはないから、大丈夫といえば大丈夫だけど」
「じゃあ、もう少しだけ私につきあってもらえますか?」
「いいよ」
 とりあえず俺たちは電車に乗り、そこを離れた。
「それで、俺はなににつきあうことになるのかな?」
「今は、ヒミツです」
 そう言って微笑む。
「あ、でも、別に変なことじゃないですから」
「変なことって?」
 俺は、少しだけ意地悪く聞き返した。
「あ、ううぅ……」
 真琴ちゃんは、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
 というか、そういうことを想像したのか?
「ごめんごめん。少し意地悪だったね」
「……もし、ですよ。もし、そうだって言ってたら、先輩はそうしてくれますか?」
「それはできないよ。今それをしたら、俺はきっと後悔するからね。真琴ちゃんだって、そういうのはイヤだろ?」
「はい……」
「だから、とりあえず今は、普通にいこうよ、普通に」
 そう言って俺は、真琴ちゃんの頭を撫でた。
 
 真琴ちゃんが俺につきあってほしかったのは、夕食だった。
 それならそうと言ってくれればよかったのだが、真琴ちゃんには真琴ちゃんの考えがあったのだろう。
 店に入る前に、家に連絡。さすがに夕食は用意していたらしく、珍しく母さんに愚痴られた。まあ、相手が母さんだったからその程度で済んだけど、これが今日の夕食を作ったのが姉貴なり美樹なりだったら、その程度ではとても済まなかっただろう。
 真琴ちゃんも家の方に連絡したようだけど、特になにも言われなかったようだ。どうやら、あらかじめこうなるかもしれないと話していたようだ。
 で、俺たちが入った店は、和風創作料理店。今年に入ってからオープンした店ながら、すでに結構な人気店になっていた。
 この店のいいところは、個室が多いということだった。隠れ家的な店として、カップルはもちろんのこと、家族連れにも人気だった。
 俺たちが通されたのも、そんな個室。明かりのせいだけど、少し薄暗い感じで、それがかえって落ち着いていた。
 比較的リーズナブルなコースを頼み、ひと息ついた。
「もうあさってには、学校も終わりだね」
「そうですね。私にとっては、高校に入学してから、あっという間の一年でした」
「それは、それだけ生活が充実してたってことだよ。どうでもいい生活を送っていたら、やっと終わったって感じだろうし」
「そうかもしれませんね」
 俺にとっても、今年は本当に充実した一年だった。だから、あっという間だった。
「でも、私の生活が充実していたのだとすれば、それはきっと、先輩と出逢えたからですよ。あの時、先輩に出逢えていなければ、もっとごく普通の生活を送っていたと思います。そう考えると余計に、先輩に出逢えてよかったと思います」
「それは俺も同じだよ。もし真琴ちゃんに出逢えていなかったら、きっとこんなに絵を描いてはいなかっただろうからね。俺にとっての絵は、あくまでもその程度のものだったから」
 今でこそ結構絵を描いてるけど、それまでは暇つぶしに描いてたくらいだから。
「もし先輩が絵を続けてなかったら、それはすごくもったいないことですよ。たとえ将来に渡って絵を続けなくとも、少なくとも誰かがその絵を求めている限りは、続けた方がいいと思いますから」
「まあ、そこまではわからないけど、そうだね、少なくとも真琴ちゃんと一緒に絵を描ける間は、続けるつもりだよ。俺は、真琴ちゃんと絵を描くの、好きだから」
「だとしたら、先輩。先輩はこれからもずっと、絵を描いていくことになりますよ」
「どうして?」
「だって、私がずっと、先輩と一緒に絵を描いていきたいですから」
「なるほど」
 それが可能なら、俺だってそうしたい。だけど、どうなるかは本当にわからない。
 それからしばらくして、料理が運ばれてきた。
 和食らしく、綺麗な皿に綺麗に盛りつけられ、見た目も楽しめる内容だった。
 創作料理というのは、調理方法や味付けなど、様々な分野に及んでいる。実際、この盛りつけ自体もきっと、本来のものとは違うのかもしれない。
 で、味の方はといえば、予想以上に旨かった。確かに、これだけの味なら、オープン間もないこの店が人気店になったのも頷ける。
「先輩」
「ん?」
「先輩は、お姉ちゃんと森川先輩のこと、どうするつもりなんですか?」
「そうだね。一応、いろいろ考えてはいるよ」
「いろいろ、ですか」
「うん。俺にとっての最善、愛にとっての最善、沙耶加にとっての最善。その三人の最善をよく考えて、その上で共通の最善策はないか。まずはそれを考えた。でもね、そういう都合のいいことは、そうないんだ。だから、必然的に最善とはいかなくても、最良の解決案はないかって。今度はそれを考えた」
「結論は、出ているんですか?」
「ある程度はね」
「それって、聞いてもいいですか?」
「別に話すのは構わないけど、沙耶加には黙っててくれる?」
「えっと……」
 まあ、この姉想いの妹には、本当の意味で黙っていることはできないだろうな。
「すみません。それは約束できません」
「じゃあ、さすがに俺も話せないよ。これを話して、もし沙耶加の耳に入ったら、それはフェアじゃないからね」
「でも、ひとつだけいいですか?」
「なんだい?」
「もしその結論をお姉ちゃんも森川先輩も受け入れたとしたら、先輩は嬉しいですか?」
 なかなか難しいことを訊いてくる。
「そうだなぁ、それは一概には言えないけど、少なくとも俺は後悔しないよ。自分で後悔するような結論は出さないからね」
「そうですよね」
「あ、でも、ひとつだけ」
「なんですか?」
「たとえふたりとの関係がどうなろうとも、真琴ちゃんとの関係は変わらないよ。確かに真琴ちゃんは沙耶加の妹だけど、俺は真琴ちゃんとそういうことで一緒にいるわけじゃないからね」
「先輩……」
 最初、真琴ちゃんに出逢った時がそうだったんだ。あの時は、ただ単に後輩の女の子ということで、俺はつきあっていた。
 だから、俺と愛、沙耶加のことに真琴ちゃんは関係ない。
「私は、きっと悪い妹ですね」
「どうして?」
「今の先輩の話を聞いて、私の中にもうお姉ちゃんのことは関係ないという部分が生まれてしまったんですから」
「それは、ある意味仕方がないんじゃないかな。ふたりは姉妹だけど、それぞれが別の考え方を持ってる、個人なんだから」
「本当にそう思いますか?」
「思うよ。だからこそ俺は、沙耶加も真琴ちゃんも好きになったんだから。そこに姉妹だとか、そういうどうにもならない理由は存在しないからね」
「…………」
「そんなに難しく考えなくてもいいと思うよ」
「でも、私はいろいろ考えなくちゃいけないんです」
「どうして?」
「私は、お姉ちゃんと同じ人を好きになってしまいましたから。そして、その人にはもうすでに彼女がいますから。これでなにも考えないでいる方が難しいです」
 実際はそうなのだろう。
「これは俺が訊くべきことじゃないかもしれないけど、もし俺が真琴ちゃんを抱いて、真琴ちゃんに側にいてほしいって言ったら、どうする?」
「それは……」
 一瞬、言葉に詰まる。
「それでも私は、先輩と一緒にいることを選ぶと思います。きっと、まわりはそんなバカなことはやめろって言うと思いますけど。でも、少なくとも今の私にとって、先輩以上の男性は知りませんし、また、知りたいとも思っていませんから」
「そっか」
 今の俺が最優先で考えなければならないのは、もちろん愛と沙耶加のことだ。
 でも、近いうちに真琴ちゃんのことも考えなくてはならないだろう。これは間違いない。
 それまでに俺たちの関係がどうなっているか。
 
 店を出たあと、俺は真琴ちゃんを家まで送った。
 あのあとは、特にそっちの話はしなかった。いや、俺も真琴ちゃんも故意に避けていた。
 それはもちろん、今その話をしたところでどうにもならないからだ。
 どんな状況であろうとも、現段階で俺が真琴ちゃんを抱くようなことはない。そしてそれは、真琴ちゃんも十分理解している。だからこそ、その話はしなかった。
 もう少しで山本家というところで、真琴ちゃんは俺に言った。
「先輩」
「ん?」
「私、先輩にお願いがあります」
「お願い?」
「はい」
 真琴ちゃんは、俺を真っ直ぐに見つめ──
「私のこと、呼び捨てにしてください」
 そう言った。
「別に今のままでもいいかなって思ったんですけど、やっぱりいつまでもちゃん付けだとどこか一線を画してる気がして」
「それは別に構わないけど、それだったらわざわざそんなお願いだなんて言わなくても」
「実は、それだけじゃないからなんです」
「どういう意味?」
「お姉ちゃんと森川先輩のことに決着がついたら、今度は私の番ですよね」
「まあ、そうなるね」
「もしその時、私がひとりの女の子として先輩に受け入れられるなら問題はないんですけど、もし『妹』のままだったら、私、先輩のことをずっと『お兄ちゃん』て呼ぼうと思います」
「それはつまり、けじめってこと?」
「そうかもしれません。それに、もともと先輩は私にとって『お兄ちゃん』でしたから。それはそれで受け入れられると思います」
「なるほど」
 つまり、俺が『兄』として真琴ちゃんを『真琴』と呼び捨てにし、真琴ちゃんは俺のことを先輩ではなく『お兄ちゃん』と呼ぶ。
 その違いは、言葉の意味以上に複雑で深い。
「それで、いいですか?」
「そうだなぁ、いいとは思うけど」
「けど?」
「俺はもうね、真琴ちゃんのことを、もうひとりの『妹』とは見ていないから。だから、それは今更かもしれない」
「……じゃあ、先輩。私を、受け入れてくれるんですか?」
「それは、今の段階ではなんとも言えない。それにもし、俺が真琴ちゃんを受け入れ、抱いてしまったら、大変なことになるから。沙耶加も真琴ちゃんもそれでいいって言うかもしれないけど、お父さんやお母さんにとっては、大事な娘をふたりも『奪われた』形になるからね。本当に慎重に行動しないといけない」
「…………」
「真琴ちゃんは俺にとって大事な女の子だけど、でも、その先の関係になることにはまだ、躊躇いがある。それだけは真琴ちゃんにもわかってほしい」
「……わかりました」
「うん、ありがとう」
「でも、先輩。私のこと、ちゃんと呼び捨てにしてくださいね」
「ん、ああ、わかってるよ」
 なんとなく、うやむやなうちに話は終わってしまった。
 ただ、今はそこまでが限界だろう。
 それからすぐに、山本家へ到着した。
「それじゃあ、先輩。今日はありがとうございました」
「いや、俺も楽しかったから」
「そう言ってもらえると、誘った甲斐がありました」
「今度は、あさってだね」
「はい。あ、でも、なにかあったら携帯で連絡しますけど」
「それは構わないよ」
 そう言って俺たちは笑う。
「先輩。おやすみなさい」
「おやすみ、真琴」
 最後に真琴は、いつも明るい笑みを浮かべて家に消えた。
 その笑顔が見られただけで、今日は本当によかった。
 
 二
 三月二十二日。
 今日でようやく学校が終わる。
 正式には明日からが春休みなのだが、授業が終わった次の日からは実質春休みみたいなものだったから、今更なんだけど。
 今日の予定は、終了式にホームルーム、大掃除。一年の最後だから、とりあえずみんな晴れ晴れとしている。それも、ホームルームで通知票をもらう前までなのだが。
 でもまあ、このクラスともこれで最後かと思うと、多少感傷的になる。
 三年のクラス分けは、もうほぼ決まってる。まず、文系と理系で分け、その文系と理系の中で国公立と私立に分け、あとは選択科目で分ける。
 だから、このクラスの中で誰と一緒になるかは、ほぼ予想できる。
 わからないのは、担任くらいだ。来年度も優美先生なら、俺も楽ができるんだけど。
 そんなこんなで、あっという間に終了式、ホームルームが終わった。
 大掃除は、まさに全校挙げての作業で、校内の隅から隅まで掃除が行われる。
 そんな中、俺は体育館の割り当てになった。体育館は数クラスの合同で行われ、比較的楽な場所のひとつだ。
 巨大モップを持って床を拭いていると──
「おわっ」
 いきなり携帯が鳴った。
 音量を下げてなかったら、注目の的だったかもしれない。
 ディスプレイを見ると『笠原香織』とあった。
 しかし、いくら香織でも、掃除中に電話に出るわけにはいかない。いや、出てもいいのだが、そこを見つかると後々面倒だからだ。
 とりあえず着信を切る。で、そのまま電源も落とす。
 香織には悪いが、今は掃除を優先だ。
 それから少しして、掃除が終わった。
 道具の後片づけを同じクラスの連中に任せ、俺は人気のない場所へ移動した。
 そこで再び携帯の電源を入れ、すぐに電話する。
 と、ワンコール鳴るか鳴らないかのうちに出た。
『ちょっと、いきなり切るなんてひどいんじゃない?』
「悪い。ちょうど掃除中で、監督の先生もいたんだ」
 いきなりの文句と言い訳というのは、なんとも情けない会話だ。
『で、その掃除は終わったの?』
「ああ。終わったからこうして電話してるんだって」
『そっか。じゃあさ、洋一』
「ん?」
『今日、これからあたしの部屋に来ない?』
「は?」
『引っ越したばかりで暇なのよ』
 そういえば、結局土曜中に部屋を決めて、月曜日には引っ越したとか言ってたな。
「片付けは?」
『九割方終わったわ。あとは、実際に生活してみないとどこに置けばいいかわからないのばかりだから』
「なるほど」
『ね、そういうわけだから、あたしの暇つぶしにつきあってよ。お願い』
 珍しく猫なで声でそう言ってくる。
 別に今日はなんの用もないけど、これを素直に聞いていいものやら。
 香織のことは、姉貴からも言われてるしなぁ。
『もし今日が都合が悪いなら、明日でもいいからさ。ね、哀れなあたしを助けると思ってさ。来てくれたら、あたしが腕によりをかけた料理をごちそうするから』
「う〜ん……」
『それで足りないなら、体で奉仕してあげてもいいわよ』
「ちょ、ちょっと待て」
『なに?』
「それはいきなりだろ?」
『そう? あたしにとっては別にいきなりでもなんでもないんだけど。だってさ、あたしが洋一のこと好きなの、知ってるでしょ? そんな洋一となら、いつでも問題ないわよ』
「……問題大ありだって」
 やっぱり姉貴の言った通り、香織は俺に甘えたくてしょうがないんだ。
 あれから何度かこうして電話で話しているけど、だんだんと声の質が変わってきてるし。
『で、どうするの?』
「行かなきゃ、ダメ?」
『ダメ』
「どうしても?」
『どうしても』
「…………」
『電話口で黙らない』
「……わかったよ。行くから」
『ホント? それで、今日来るの? 明日? それとも、泊まってく?』
「焦るなって。今日はいきなりだから、やめとく。行くのは明日。で、当然ながら、泊まらないから」
『別に一日くらいいいのに。そしたら、あたしたちは間違いなく『他人』じゃなくなってるから』
 なんか、早まった気がするのだが。
 でも、このまま放っておくと、あとでどうなるかわからないし。
『じゃあ、明日の……そうね、八時とかどう?』
「八時って、朝の?」
『もちろん』
「いくらなんでも早すぎない?」
『早くないわよ。というか、それくらいじゃないと、丸一日一緒にいられないじゃない』
 完全に駄々っ子だな。だけど、普通の駄々っ子よりも頭は良いし、弁が立つからかなりやっかいだ。
『八時に、こっちの駅まで来てくれれば、あたしが迎えに行くから』
「……せめて、九時にしない?」
『ダメ。八時』
「……わかったよ」
 結局、俺はこういう相手には勝てないのだ。
『あのさ、洋一』
「ん?」
『あんまり呆れないでね。さっき暇してるっていうのは言い過ぎだったけど、実際、引っ越してきたばかりだから知ってる人もいないし、暇というよりは退屈なのよ』
 それを淋しいと言わないところが、香織らしいところか。
 だけど、そういう風に頼られるのは悪い気はしない。
「じゃあ、明日の朝八時に、そっちの駅に行くから」
『こっちに着いたら連絡して』
「わかった」
『うん、ありがと、洋一』
 そう言って電話は切れた。
 というか、最後にしおらしくそんなこと言われたら、なにも言えない。
 本当に困った相手だ。
 
 三月二十三日。
 俺は、朝早くから家を出た。香織の部屋に行くためだ。
 今日は、香織のおかげでそれほどいろいろ言われずに済んだ。一応香織が母さんや姉貴に根回ししてくれたのだ。引っ越しの片付けを手伝ってほしい。そんな風に。
 ただ、美樹だけは納得していなかったけど、駄々はこねなかった。
 学校は春休みだけど、世間はしっかり動いている。だから、こんな時間に電車に乗ると、当然のことながらラッシュに遭遇する。
 その電車に揺られること四十分。目的の駅へと到着した。
 そこは、比較的古い街で、駅前には昔風の商店街がある。
 それでも最近は新しいマンションが増えてきていて、都心にも近いことから人気の街になっている。
 改札を出たところで、早速電話する。
『もしもし、洋一?』
「ちょうど着いたところ」
『じゃあ、駅前のロータリーを右の方へ歩いてきて。ロータリーを抜けたところにコンビニがあるから』
「了解」
 電話を切り、言われた通りに歩いていく。
 ロータリーには、乗客を乗せたバスやタクシーがひっきりなしに入ってくる。
 そんな朝の光景を横目に、指定されたコンビニへ。
 すると、香織は入り口のところで待っていた。
「おはよ、洋一」
「おはよう」
 香織は、薄い水色のブラウスにジーンズ地のスカートという出で立ちだった。
「時間通りね」
「遅れたらなにを言われるかわからないからさ」
「ふふっ、賢明な判断ね」
 たぶん、とんでもないことをやらされただろうな。
「さ、とりあえず行きましょ」
 俺は、香織について部屋に向かった。
 駅前を抜けると、すぐに住宅街に入った。
「駅から遠いの?」
「十分くらい。ゆっくり歩いても十五分もあれば十分ね」
「ふ〜ん……」
 徒歩十分か。かなりの好条件だな。
「マンションだよね?」
「ええ。七階建てのマンションの五階」
 しかも七階建てのマンション。家賃が高そうだ。
 住宅街を歩いていくと、目的のマンションが見えた。
 マンションは、新築というほど新しくはないが、とんでもなく古いわけでもなかった。
 入り口は自動ドアになっていた。その中にオートロックの玄関がある。
 鍵を鍵穴に入れ、玄関を開ける。
 その中にあるエレベーターに乗り込み、五階へ。
「何号室?」
「507号室」
 エレベーターを降りて、右に出ると、すぐに目的の『507号室』だった。
「さ、入って」
 促されるままに、中に入った。
「へえ……」
 中は意外に広かった。
 ワンルームだけど、特に狭さは感じられない。
 部屋の中には、ベッドとテーブル、それほど大きくないタンスの上にテレビがあった。
 フローリングの床に直接座らないように、座椅子が置いてあった。
「引っ越してきたばかりだから綺麗なのよ」
 香織は、俺にクッションを勧め、さらに座るように言った。
「これだけの部屋だと、家賃とか高くない?」
「若干高めだけど、許容範囲だったわよ。あ、それにこのマンション、一応学生専用だから」
「ああ、なるほど。それなら多少は安くなるか」
「あちこち探してやっと見つけた部屋だからね。そのあたりは抜かりはないわよ」
 そんな香織のお眼鏡にかなったわけだから、結構気に入ってるんだろうな。
「あ、そうだ。忘れないうちに」
 そう言って香織は、小物入れと思われる棚の中から、なにか取り出した。
「はい、これ」
 渡されたのは、鍵だった。
「これって、ここの鍵?」
「そうよ。前に言ってたでしょ」
「だけど、本当にいいわけ?」
「別にいいわよ。それに、これはあたしの独断で決めたことじゃないし」
「そうなの?」
「うちの両親と兄さんとも相談して、洋一だったら大丈夫だろうということになったの」
 そういう経緯があったのか。それだと、さすがにむげにできないな。
「そういうことだから、預かっといてよ」
「わかった」
 まあ、いざとなったら姉貴なり和人さんなりに返せばいいわけだら、ここはおとなしく預かっておこう。
「ふふっ」
「ん?」
「洋一ってさ、見た目突っ張ってるっていうか、取っつきにくそうな感じなんだけど、実際は全然そんなことないのよね。すごく面倒見がいいし、優しいし」
「見た目とのギャップは、香織には言われたくないけど」
「まあね。あたしだってわかってるわよ。でもさ、見た目のイメージって所詮はそれを見てる人の勝手な想像じゃない。あたしにはなんの関係もないもの」
「確かに」
 それは本当にそうだろう。イメージというものは、本当に勝手なものだ。そのせいであれこれ言われては、本人はどうすればいいのだろうか。
 たぶん香織は、ずっとそういう中で生活してきたのだろう。
「だからね、洋一があたしに本当に普通に接してくれてるの、すごく嬉しいわ」
「それが普通だと思うけど」
「その普通ができない人が多いのよ」
 それもそうだろう。普通のことを普通にできていれば、変な誤解など生まれないだろうし。
「そういう理由だけでも、洋一を好きになる理由になるでしょ?」
「それは俺の口からはなんとも」
「んもう、認めちゃえばいいのに」
 そう言って可愛らしく頬を膨らませる。
「そういえば──」
 その時、香織の携帯が鳴った。
「ちょっとごめん」
 香織は、その電話に出る。
 相手は誰かはわからないけど、結構親しい人らしい。
「そんなことないですよ……まあ、確かにそうかもしれませんけど……えっ、でも、それは……」
 相手がなにを話してるかわからないから、どういう流れで話しているのかわからない。
「はい……はい、わかりました。あたしに任せてください。それじゃあまた連絡しますね」
 電話を切り、香織はにっこり笑った。
「……なに?」
「今の電話ね、美香姉さんから」
「えっ、姉貴から?」
 なんで姉貴が?
「美香姉さんから、今日一日洋一を自由にしていいって言われたわ」
「なんなんだよ、その『自由』って?」
「文字通りの『自由』でしょ」
「それをなんで姉貴が勝手に決めるんだよ。ったく、あのアホ姉貴が……」
「そんなこと言わない方がいいわよ。美香姉さんだって、洋一のこと考えて言ってるんだから」
「あのさ、本当に俺のことを考えてたら、そんなこと言わないって」
「……それもそっか」
 本当にこのふたり、よく似てる。
「でも、洋一と美香姉さんて、仲良いわよね。ふたりの年齢を考えると、結構珍しいわよね、実際」
「まあ、そうだと思うけど。でも、うちは結構特殊な家庭環境だったから」
「ああ、そっか。お父さんがあまり家にいないんだっけ」
「そのせいで、男は俺ひとりという状況が多かったから、どうしても話す機会も多くなるし、偏った見方をすることもないし」
「そういうことだと、確かに仲は良くなるわよね」
 俺たち三人の場合は、良すぎるのかもしれないけど。
「香織と和人さんだって、別に仲が悪いわけじゃないだろ?」
「そりゃ、喧嘩するほどじゃないけど。あたしと兄さんは、お互いに干渉しないようにしてるから。だから家でも会話はなかった。いくら兄妹でも考え方は全然違うし、それをいつもぶつけてたら、絶対に仲は悪くなるから。さすがにそれは問題だから、結局は相互不干渉ということになったの」
 それはそれでひとつのあり方なんだろうな。うちじゃ、絶対にあり得ないけど。
「そのおかげでここ何年もずっと問題はなかったわ。もちろん、今年はあたしの受験があって、その二年前には兄さんの受験があったから。本当に余計なことはしたくなかったし。もしまかり間違って、あたしのせいで受験に失敗したなんてことになったら、自分を呪うもの」
「きっと同じことを和人さんも考えてたんだろうな」
「たぶんね」
 まあ、今は和人さんはひとり暮らししてるから、実際そこまで考えてたかどうかはわからないけど。
「ところで、洋一」
「ん?」
「洋一って普段の休日って、なにしてるの?」
「休日? そうだなぁ、特に用事がない時は、絵を描いたり、音楽を聴いたり作ったり。あとは、ただひたすら寝てたり」
「洋一って、絵を描くの?」
「まったくの我流だけど。以前から少しずつ描いてて、最近は少し意識して描くようになったけど」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「香織は?」
「あたしは、静かな場所でのんびり過ごすのが好きなのよ。だから、よほどのことでもない限りは、騒々しいところには行かないわ」
「へえ……」
 それは意外だ。
「だからほら、ここだっていわゆる閑静な住宅街にあるでしょ?」
「言われてみれば、確かにそうかも」
「あ、でも、デートとかなら、多少騒がしいところでも平気よ」
「ふ〜ん……」
「ふ〜ん、て、それだけ?」
「なんで?」
「だったらデートしない、とか、そういう展開じゃない、今のは」
「……ないない」
「ホント、ケチね」
 言いながら、舌を出す。
「じゃあ、今日はその代わりにとことんつきあってもらうから」
「覚悟してるよ」
 やれやれ、いったいどうなるのやら。
 
 午前中は、香織の話につきあった。
 香織との会話は、確かに疲れるけど、楽しくもあった。よくも悪くも根が正直だから、普通はオブラードに包んで話すようなことも、ズバズバと本音で話してたし。
 そういう心地良さがあったせいか、時間はあっという間に過ぎた。
 で、昼。
「♪〜」
 狭い台所で、香織は器用に料理をしている。
 邪魔にならないように髪を縛って、エプロンをつけている姿は、なんとも言えない感じがした。
「洋一は、辛いのは大丈夫?」
「ああ、全然」
「そ」
 なにを作ってるのかは、とりあえず教えてくれなかった。
 でも、台所が狭いせいで、できあがったものは順番にテーブルに運ばざるを得なかった。だから、なにを作ってるのか、すぐにわかった。
「はい、これで全部」
 昼食は、パエリアと鶏肉のスープ、それにサラダだった。
「いや、ここまでできるとは、正直驚いた」
「特別なことなんてなにひとつしてないんだけどね。いつの間にか、これくらいできて当たり前になってたのよ」
 やっぱり香織は天才なんだな。
 たぶん、一を聞いて十とまではいかなくても、五くらいは知ってるはずだ。
「とりあえず、食べてみて」
「それじゃあ、遠慮なく」
 まずはスープから。
「旨い」
 反射的に出た言葉が、その料理の旨さを端的に表していた。
「これ、下ごしらえとかは?」
「多少はしてたけど、ほとんどさっきの時間で」
「だとしたら、本当にすごい」
「褒めてもなにも出ないわよ」
 そう言いながらも、まんざらでもなさそうだ。
 当然のことながら、パエリアもサラダも旨かった。
 さっき、俺に辛いの云々を聞いてたのは、サラダのドレッシングのことだった。
 それだけの料理だったから、本当にあっという間に平らげてしまった。
 食器を片づけたあと、香織は食後のコーヒーを入れてくれた。
「まさに至れり尽くせりだな」
「あら、まだこんなものじゃ足りないわよ。料理だって、あたしの腕はこんなものじゃないんだから」
「別にこれ以上してくれなくてもいいよ。俺は、これで十分」
 そう言ってコーヒーを飲む。
「それじゃあ、あたしが納得できないの」
「だけど、これ以上いったいなにをするって言うんだ?」
「そうねぇ、たとえば──」
 香織は、テーブルをどけて、スペースを作った。
 そこに足をきちんと揃えて座る。
「こういうのはどう?」
 言いながら、俺の体を引っ張り倒す。
 で、俺は香織に膝枕してもらう格好になった。
「ほら、スキンシップって大事でしょ?」
「そうかもしれないけど……」
 柔らかな香織の足のせいか、どうも強く言えない。
「未だかつて、あたしに膝枕してもらった人って、いないのよ」
「そうなの?」
「今までつきあってきた連中とは、ここまでの仲にはなってなかったし。まあ、やってあげたいとも思わなかったけどね。でも、今は純粋に洋一のためにしてあげたいと思った。だから、こうしてるの」
 香織に頭を撫でられ、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
「もし、眠くなったら、そのまま寝てもいいわよ」
「それはたぶん、大丈夫だと思うけど……」
 とても穏やかな、優しい香織の顔を見ていると、俺の気持ちまで穏やかになっていく。
 それはきっと、香織だからというわけではないんだろうけど、少なくとも今は、そうは思えなかった。
 
「ん……」
 気がつくと、香織の顔がすぐ側にあった。
「あれ……俺、眠ってた?」
「うん」
 香織は、ニコニコと機嫌がいい。
「足、大丈夫?」
「全然。なんだったら、もう少しこのままでもいいわよ」
「いや、さすがにそれは」
 そう言って俺は起き上がった。
 時計を見ると、俺はだいたい三十分ほど眠ってたらしい。
「洋一の寝顔、可愛かったわよ」
「男がカワイイと言われても嬉しくないけどな」
「そんなことないと思うわよ。中には嬉しいって思う人もいるかもしれないし」
「それはそうかもしれないけど、少なくとも俺は嬉しくない」
「まあ、言われてる本人は自分の寝顔は見られないからね。しょうがないわね」
 なにがしょうがないのやら。
「なんだったら、あたしの寝顔、見てみる?」
「……いや、遠慮しとく」
「洋一にだったら、いくらでも見せてあげるわよ」
「……あのさ、香織」
「うん?」
「あんまりそうやって俺を挑発するの、やめろって」
「別に挑発してるつもりはさらさらないわよ。あたしの言葉は、全部本気なの。ウソはひとつもないの」
「だけど──」
「確かに、最初は一目惚れだったから、多少の色眼鏡がかかってかもしれない。でもね、はじめて直接会ってから、あたしもいろいろ考えたの。あたしにとって、洋一ってどんな存在なのかなって。そしたら、答えはすぐに出たわ。洋一は、あたしの側にいてほしい存在なの。そしたら、自ずとあたしがするべきこと、したいこと、してあげたいこと。そんなことが思い浮かんで」
「…………」
「だから、もしここで洋一に押し倒されても、あたしは絶対に後悔しない。むしろ、嬉しいくらいだもの」
「香織……」
 香織の言葉が本気なのは、その目を見ればすぐにわかる。本当に真剣な目だ。
「あたしが本気で好きになった人だから、変な誤解だけはしてほしくない」
「すまん……」
「ううん、気にしてないから。それに、たぶん洋一みたいな反応が普通だと思う。たった二回しか会ってない相手に、いきなりそんなこと言われても、信用できないから」
「そう、だな」
「それでも、あたしは洋一にだけはちゃんと理解してほしい。あたしが、どれだけ洋一のことが好きなのかって」
 真っ直ぐな瞳で、俺を見つめる。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「あたしのこと、どう思ってる?」
「それは、この前の返事ってこと?」
「それもあるけど、そうじゃなくてもいい」
「……正直に言えば、俺は香織のことがすごく気になってる。そうやって気にしていることを別の言葉で置き換えるなら、やっぱり『好き』って言葉になるだろうな」
「本当に……?」
「さすがにこんなことでウソは言わないって」
「洋一……」
 香織は、そのまま俺に抱きついてきた。
 見た目よりも華奢な体だった。
「お願い、洋一……」
 潤んだ瞳で俺に訴える。
 そんな目で見つめられると、抗いにくい。
「ダメ、なの……?」
 ああ、もうっ。
「あ、ん……」
 俺は、少しだけ強引に香織にキスをした。
「ん、強引なのも、嫌いじゃないわ」
 そう言って香織は嬉しそうに微笑む。
 結局俺は、この腕の中にいる女に魅入られてしまったんだろうな。じゃなかったら、はじめて会ってから二回目で、キスなんてしない。ましてや、俺の中にも抱きたいという思いがあるはずもない。
「本当に、このまま抱いてもいいのよ?」
「……それは、やめておくよ」
「どうして?」
「俺には今、ほかに考えなくちゃならないことがあるから。それが解決するまでは、言い方は悪いけど、余計なことはしたくないんだ」
「それって、どんなこと?」
「話すけど、とりあえず、この格好だけはなんとかしたいんだけど」
「あ、うん」
 香織は、素直に言うことを聞いてくれた。
 とはいえ、俺から離れる気はさらさらないらしく、ぴったり俺の隣にくっついている。
「この前うちに来た時に、写真見ただろ」
「写真て、彼女の?」
「ああ。あいつは名前を森川愛っていうんだけど、当然俺たちはつきあってるわけだ。それは間違いない。だけど、問題はそう簡単なことじゃないんだ」
「なにか、問題があるわけ?」
「確か、愛の写真を見せた時に、もうひとり写真に写ってた子のことを聞いただろ?」
「ん〜……ああ、確か、髪の長い子ね。クラスメイトで親友とか言ってた子」
「そう。彼女の名前は山本沙耶加といって、本当にクラスメイトだし、親友だと思ってる。だけど、俺たちの関係は単なるクラスメイトでも親友でもないんだ」
「……それって、まさか……?」
 鋭い香織のことだ、それだけでわかるとは思ったけど、やっぱりだった。
「自分の恥をさらすようで情けないんだけど、俺はそんなたいそうな奴じゃないんだ。自分の彼女ですら悩ませ、悲しませてしまうアホなんだよ」
「…………」
「まあ、今ここで自分を責めてもしょうがないけど。で、この三月中にふたりのことにはある一定の結論が出ることになってる。さすがにこのままというわけにはいかないから」
「……そっか。だからか」
 香織は、複雑な表情で頷いた。
「でも、美香姉さんから聞いてるけど、洋一とその彼女って、ものすごく仲が良いんでしょ? なのに、なんでそんなことになったわけ? それって、彼女の立場からすれば裏切りじゃない」
「それについては、なにを言っても言い訳にしかならないから。ただ、俺自身は後悔していない」
「……あたしも彼女のいる洋一と関係を保とうとしてるわけだから、人のことは言えないけど、でも、それってなにかがおかしいと思う」
「そんなの、ずっとわかってる。どんなもっともらしい理由をつけたところで、俺が愛を裏切ったことに変わりはないから」
「そう思ってるなら、どうしてもうひとりのことをすっぱり切らないわけ? それで全部解決するじゃない」
「それがすんなりできれば、こんなに悩まないって」
 本当にそうだ。確かに端から見れば沙耶加を切ればこの問題は解決するんだ。
 でも、俺にはそれができない。できないから、今みたいなことになってるんだ。
「どうしてそんなことになったの?」
「本当は俺ひとりが悪いわけじゃないんだろうけど、でも、俺は俺が悪いと思ってる。彼女がいるのにも関わらず、ずっと思わせぶりな態度を取ってきたから。完全に受け入れるわけでも拒むわけでもない。俺に対して好意を持ってくれてることは知っててだ。そして、気がついたらもう後戻りできないくらいになってた」
「じゃあ、ひょっとして、責任を取ったわけ?」
「そう思われても仕方がないけど、そうじゃない。もちろん、俺にできることはなんでもしてあげたかった。それは事実だ。でも、それは別に責任とか、そういうことじゃない」
「……難しいね」
 確かに難しい。これならテスト問題を解いてる方がまだ簡単だ。
「きっと洋一は、普通じゃないんだ」
「普通じゃない?」
「普通は、ひとりの相手しかできないはずなのに、複数人を同時に相手できてる。そりゃ、単に肉体関係の問題なら、そういう奴は多いかもしれないけど。でも、洋一の場合は違う。洋一は、相手の想いをちゃんと受け止めてる。人ひとりの想いを受け止めるのって、かなり大変なことだと思うから」
「それは、どうなんだろうな。実際、俺はちゃんと想いを受け止めているんだろうか」
「受け止めたからこそ、その子だって洋一に身も心も任せたんでしょうが。いくら洋一のことが好きでも、たとえ無理だとわかっていても自分の想いを受け止めてもくれない相手にほいほいと体を許すような女は、そうはいないわよ」
「…………」
 本当にそうなのだろうか。俺にはわからない。
「でも、本当にこの三月中に結論が出るの? 三月ってもうあと一週間しかないのよ?」
「とりあえず、俺の中ではある程度の結論は出ている。あとは、ふたりがどう考えてきたかだ」
「だから、あたしにもああ言ったんだ」
「まあね」
「そっか……」
「これで、俺がどんな奴かわかっただろ?」
「……そうね」
 そう言って香織は俺から離れた。
 そのまま立ち上がり、なぜかカーテンを閉めた。
「香織……?」
「あたしにとっては、そんなことなんの関係もない。今、あたしの目の前にいるのは、あたしが好きになった人。それだけなの。それが唯一無二の事実なの。それ以外のことなんて、はっきり言えばどうでもいい」
 そう言いながら、香織はスカートのホックを外し、ファスナーを下ろし──
「ちょ、ちょっと──」
「たとえ、ここでの出来事が刹那の出来事だったとしても、あたしは構わない。あたしが洋一のことを本気で好きなことに変わりがなければ、本当にほかのことなんてどうでもいい」
 ブラウスのボタンをひとつずつ外し──
「だから、洋一。今だけでいいから、あたしだけを見つめて。そして、今だけはあなただけのあたしにして」
 下着姿の香織が、真っ直ぐな瞳でそう言い切った。
 そのバランスの取れた完璧な肢体に目を奪われたが、俺にはいまいち現実感がなかった。白昼夢とでも言えばいいのだろうか。そんな感じだった。
 香織は、その格好のまま、俺に抱きついてきた。
「洋一……」
 俺にキスをしながら、空いた手で俺の手を取り、自分の胸にあてがった。
「……ひとつだけいいか?」
「ん、なに?」
「どうして香織は、ここまで俺に抱かれることにこだわるんだ? おまえが俺のことw好きなのはわかった。好きになられて嬉しくないはずはない。でも、それにはセックスが必ずなくちゃならないのか?」
「……こういうことを言うと、作り話だとか、誤魔化しだって言われるかもしれないけど……あたしね、中学の頃に変態に犯されそうになったことがあるのよ」
「えっ……?」
「たまたま夜ひとりで歩いてたら、見るからにあやしい変態が近づいてきて、あたしを無理矢理犯そうとしたの。その時はあたしが大声出したことや、かなり抵抗したから未遂に終わったけど。でも、あたしはそれからしばらくの間、男を見るのもイヤになったの。父さんや兄さんにはさすがにそこまで思わなかったけど、でも、男を見れば誰でもあたしを犯そうとしてるんじゃないかって。そんなことまで考えてた」
 それは、あまりにも予想外で、重い話だった。
「あたしが弁護士を目指してる理由のひとつには、そういうこともあるの。未だに性犯罪は跡を絶たないから、当然被害にあってる人も増え続けてる。あたしは、そんな人を少しでも助けてあげたい。警察や検事でもいいんだけど、親身になって相談に乗ってあげられるのは、やっぱり弁護士だと思うから」
「…………」
「少し話が逸れちゃったけど。今でこそその時のことはほとんど払拭できて、男と話すのも見るのも問題ないけど。でも、どんなに時間が経ってもあたしの中にあるあの忌まわしい記憶だけは消えないのよ。だから、あたしは余計に男に対して注文が多いのよ。そのひとつが、あたしのギャップのこと」
「あ……」
「そうよ。あたしのはね、ほとんど確信犯なの。もちろん、あたしがこんな容姿になるなんて想像できてなかったから、そのあたりは偶然の結果でもあるんだけど。そんなあたしが本気で好きになれた相手。それが洋一なの」
「……それはわかったけど、でも、それがどうしてセックスと結びつくんだ?」
「あたし自身も確信を持ってるわけじゃないけど、たぶんね、あたしが本当に好きになった人とセックスすれば、あの時の記憶を消し去れるんじゃないかって、そう思ってるのよ。男に対する不信感を払拭できればいいと思ってるのよ」
「その相手が、俺だと?」
「そうよ」
 たぶん、香織の話は事実だろう。そんなウソを言ったところで、俺が和人さんなり両親なりに聞けばすぐにバレることだ。
 ということは、香織にとってセックスをするということは、ただ単に体をあわせる以上の意味があるということだ。
「ただね、ひとつだけ言っておくけど、あたしは別に同情してほしいわけじゃないの。むしろ洋一には今まで通りでいてほしい。あたしは、そんな洋一を好きになったんだから」
「香織……」
 どうして俺のまわりには、こうして放っておけない女ばかり集まってくるんだ。
 今の香織を放っておくことなんて、俺には絶対にできない。
「……本当に、後悔しない?」
「ええ、絶対に」
「だったら──」
「ん……」
 今度は俺の方からキスをした。
「ん、あ……」
 最初は唇をあわせるだけ。それから舌を入れる。
「ん、ん……」
 香織は、そんな俺の舌に自分の舌を絡ませてくる。
 息を継ぐのがつらくなってきたところで、一度唇を離す。
「キスって、こんなに気持ちいいものだったんだ」
 すっかり陶酔した表情でそう言う。
「それとも、洋一としてるからかな?」
「さあ、俺にはなんとも」
「あたしとしては、後者の方がいいかも」
 ニコッと笑う。
「香織。あんまりそういうこと言わないでくれ」
「どうして?」
「いや、今みたいな状況でそういうこと言われると、あまりにも可愛くて、俺自身もどうしようもなくなるからさ」
「あ……」
 今は本当に香織がカワイイ。
 はじめて会ってから今日が二度目とは思えないくらい、香織のことが気になり、好きになってる。
「……本当に、そう思ってる?」
「この期に及んでウソは言わない。今だって、早く抱きたくてどうしようもないくらいだから」
「だったら、抱いてよ。思い切り、抱いて……」
「ああ……」
 香織を抱きかかえ、ベッドに横たわらせる。
「改めて訊くのもなんだけど、はじめてだよな?」
「そうよ。洋一は、違うでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「だったら、安心して任せられるわ」
「えらく信用されてるんだな」
「当たり前じゃない。心から信用できる相手じゃなきゃ、抱いてなんて言えないもの」
「なるほど」
 だったら、俺もその信用に応えなくちゃならんな。
「もし、我慢できなかったら、ちゃんと言ってくれよ」
「大丈夫。そんなことないから」
 もう余計なことは言わない方がいいか。
 改めてキスをする。
「外してもいいか?」
 香織は、小さく頷いた。
 一応、ホックの位置は抱きかかえる時に確認しておいた。こういうことが冷静にできるということが、ある意味香織にとっては安心感を与えることなんだろうな。
 フロントホックのブラジャーを手際よく外す。
 ブラジャーによって圧迫されていた大きく、形の良い胸が、息を吹き返したように揺れた。
 だけど、見た目以上に大きい胸だ。
 この前と今日、目の前で見た時に結構大きいとは思ったけど、ここまでとは。
 お椀型の綺麗な胸で、乳首がわずかに勃っている。
 俺は、そんな香織の胸に、軽く手を添えた。
「あ……」
 その胸は、予想以上に柔らかく、肌の滑らかさも手伝って、いつまでも触れていたいほどだった。
「あ、ん……」
 円を描くように、包み込むように胸を揉む。
 香織は、口に手を当て、声が出ないようにしている。
 それでも、時折艶めかしい声が漏れる。
「香織。声、出していいから」
「で、でも……」
「気持ちいいんだろ? だったら、無理に声を抑えない方がいいって。その方が、より気持ちよくなれるし」
「…………」
 わずかに逡巡し、でも、手は口から離れた。
「んん……」
 それを確認し、俺はさらに胸をもてあそぶ。
 俺は、胸を揉む時にわざと乳首だけは触れなかった。触れるか触れないかの微妙なところで焦らし、だけど、それがかえって香織を感じさせていた。
 その証拠が、すっかり硬く凝った乳首である。
 その乳首を右手の指でこね、反対側の乳首には舌をはわせる。
「やっ、んんっ」
 今まで以上の快感に、一瞬香織の体が跳ねた。
 香織の手が弱々しく俺の頭をどけようとするが、その程度では無理だった。
「あっ、ん、ダメ、そんなに……んんっ」
 執拗なまでに乳首をもてあそぶ。
 舌先で転がし、少し強めに吸い上げ、軽く甘噛みする。
「ん、はあ、はあ……」
 俺が顔を上げると、香織は軽く息を整えた。
「そろそろ、次にいってもいい?」
「え、あ、うん……」
 香織の許しを得て、今度は下半身に対象を移す。
 まずは、ショーツ越しに秘所に触れてみる。
「あんっ」
 すでに敏感になっているらしく、思ったよりも大きな声が漏れた。
 それは香織も同じだったらしく、慌てて口を押さえた。
 少し強めにショーツを擦ると、じわっと濡れてくるのがわかった。
「香織。もうこんなに濡れてるのか?」
「だ、だって……すごく、気持ちよかったから……」
 消え入りそうな声で答える。
「じゃあ、直接触れたら、もっと大変なことになるかもな」
 そう言いながら、今度は直接秘所に触れる。
「ん、ああっ……そ、そんなっ」
 香織の秘所は、予想通りかなり濡れていた。
 秘唇を開き、少しだけ指を挿れてみるが、それだけ指先が濡れてしまうほどだった。
 だけど、香織ははじめてだから、あまり乱暴にはできない。
 恐怖心を与えない程度に、指を動かす。
「よ、洋一の指が……あんっ、あたしの中に……んんっ」
 そのままだと動きが制限されるので、俺はショーツを脱がせることにした。
 すでに半分くらい意識がもうろうとしてるので、脱がすのが楽だった。
 香織の裸体は、本当に綺麗だった。
 今までに愛、沙耶加、由美子さん、美樹とその裸を見てきたけど、その誰にも勝るほどだった。もちろん、俺は別に相手の体が目的なわけじゃないから、ただ単純に綺麗だと思っただけなのだが。
 今でこそこれだけかなり完成された美しさを持っているわけだから、中学の頃だって相当のものだっただろう。もちろん変態野郎は殺すべきだとは思うけど、ある意味ではそのメガネは確かだったということだ。
「洋一……?」
「ん、ああ、ごめん」
 香織は、今にも泣き出しそうな顔で、俺を見つめている。
 俺は、そんな香織の頬に手を添え、軽くキスをした。
「今は、余計なことは考えないようにするから」
「うん……」
 すると香織は、少し安心したように笑顔を見せてくれた。
 それから改めて香織の秘所に触れた。
 足を開き、指で秘唇を開き、空いている指で入り口付近を丹念にいじる。
「ん、ふああ……んんっ」
 俺が触れる度に、香織の体が敏感に反応する。
 香織の秘所からは、とめどなく蜜があふれてくる。
 そんな蜜を舐め取るように、今度は舌をはわせる。
「やっ、そ、そんなところ……ひゃんっ」
 舌先で丹念に舐め、少しでもあとが楽になるようにする。
 次第に大きくなってきた一番敏感な突起にも、軽く指を当ててみる。
「んんあっ!」
 と、香織は今まで一番の反応を示した。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……ちょっと驚いただけだから」
 虚ろな瞳で、そう言う。
「そろそろ大丈夫だと思うけど、いいか?」
「うん……あたしを、洋一のモノにして……」
 俺は頷いてから、服を脱いだ。
 それから、万が一のために持っていたゴムを取り出し、モノに装着する。
「本当に我慢できなかったら──」
「大丈夫だから」
 俺の言葉を遮り、香織は微笑みながら言う。
 それなら、俺も決めるしかない。
「いくぞ」
「きて……」
 俺は、怒張したモノを香織の秘所にあてがい──
「っ!」
 一気に貫いた。
 香織は、声にならない声を上げ、荒い息を整えている。
「はじめてって、こんなに痛かったんだ……」
「ごめんな。このつらさは俺にはわからなくて」
「ううん、気にしないで。それに、これが洋一とひとつになるための試練なら、たいしたことないもの」
「香織……」
 香織の中は、はじめてということもあり、かなり狭く、きつかった。
 俺もだいぶセックスには慣れてきたけど、それでも気を抜けばすぐにイッてしまいそうなほどだった。
 俺は気を静めながら、同時に香織が落ち着くのを待つ。
「ん、洋一、もう大丈夫だから」
「じゃあ、動くぞ?」
「うん」
 香織に軽くキスをしてから、俺はゆっくり腰を動かした。
「いっ、くっ」
 わずかに腰を動かしただけで、香織から苦悶の声が漏れる。
 その声を聞いてしまうと、どうしても躊躇してしまう。
 それでも、セックスという行為が本能のものであることから、俺の動きも止まることはなかった。
 俺は、本当にゆっくり動いた。
 次第に、香織の声に艶っぽさが戻ってくる。
「洋一、あたし、感じてる」
「もっと感じていいんだぞ」
「うん」
 それを合図に、俺は少しだけ速く、大きく動いた。
「んんっ、あっ」
 俺の動きにあわせて、香織の腰がぎこちなく動く。
 それはおそらく香織が無意識のうちにしていることだろうが、俺にとっても香織にとってもさらなる快感をもたらす行為だった。
「洋一っ、なんか、気持ちいいのっ」
 香織の口からは、すでに嬌声しか上がらない。
 片足を少しだけ持ち上げ、体勢を少し変える。
「んんっ、そんな、奥にっ」
 より深くモノを挿れられる体勢になり、俺はしつこいくらいに体奥を突いた。
「ダメっ、そんなにっ……ああっ」
 やがて、俺の方に限界が迫ってきた。
「香織、俺、そろそろ……」
「あたしもっ……あたしもそろそろだから……あんっ」
 もはや、俺も香織も止まらない。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
 ラストスパートで俺はさらに動く。
「洋一ぃっ、あっ、んんっ」
「香織っ」
「ダメっ、あっ、んっ……いっ、くぅっ!」
「香織っ!」
 そして、俺はそのまま香織の中で果てた。
「ん、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
 荒い息の中、俺は香織のすぐ隣に突っ伏す。
「洋一……ありがとう……」
 そんな俺に、香織は心からの笑顔を見せてくれた。
 
「はい、洋一」
「ん、サンキュ」
 裸のままの香織が、俺の前にコーヒーを置いてくれた。
 あまりその格好でぶらつかないでほしいのだが、本人は気にしてる様子もない。
「とりあえずさ、香織」
「ん?」
「服、着ないか?」
「どうして? 別にこのままでも問題ないと思う──くちゅっ」
 絶妙なタイミングで、香織がくしゃみをした。
「ほら、問題あるって」
「むぅ、しょうがない」
 俺たちはそれぞれ服を着て、改めてコーヒーを飲んだ。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「もう少し、洋一のぬくもりを感じていたいんだけど、いい?」
「いいも悪いも、どうするんだ?」
「ん、こうするの」
 そう言って香織は、俺の足の間に背を預けるように座った。
「ね、これならぬくもりを感じられるでしょ?」
「確かに」
 俺は、そんな香織を後ろからそっと抱きしめた。
「洋一は──」
「ん?」
「あたしが想像していた以上に、あたしのことを大事にしてくれた」
「そりゃ、大事にもするさ。はじめてだということもあるけど、自分のことをなんの打算もなく好きでいてくれる相手を、大事にするのは当然だって」
 もちろん、昔の忌まわしい記憶を忘れてもらいたいという想いもあったけど、それは言う必要はない。
「もともと洋一のことは誰よりも好きだったけど、こうして抱いてもらって、それはより決定的になった。というより、もう洋一以外の男になんて、興味ないから。たとえその相手が世界的なハリウッド俳優だったとしても、洋一の前ではゴミも同然ね」
 そこまで言わなくても。
「あたし、洋一のためだったらなんでもするわ。というか、なんでもさせて」
「別に、俺はそんなことをしてほしくて香織を抱いたわけじゃない。香織とは、今までより一歩進んだ関係でこれからも過ごしていければと思ってる」
「それって、恋人、みたいな関係ってこと?」
「まあね」
「ふふっ、洋一がそこまでちゃんと考えてくれてるなんて、ちょっと予想外」
「それはいくらなんでもひどいんじゃないか?」
「でもさ、あたしはどうやったって洋一の『彼女』にはなれないわけだから、そういう考え方もしょうがないわよ」
「そうかもしれないけど……」
 そうだとしても、微妙だ。
「それでも、ほんのわずかな間でも、洋一の『彼女』になれて、本当に嬉しかった」
「そんな過去形で言うなよ。これからだって、ふたりきりの時はおまえだけを見ていくからさ」
「洋一……」
 毒を食らわば皿までだ。
 もうこうなったら、俺自身の想いに反しても意味がない。
 今はただ、この腕の中にいる女を、離したくない。
「……やっぱり、あたしには、洋一が必要なの。だから、これからもあたしに会ってくれる?」
「まあ、お互いの都合があえば、会えるだろうな」
「あたしには、それで十分。それに、いざとなれば洋一がこの部屋に来てくれればいいんだから。そうすれば、誰に邪魔されることなく、ふたりきりになれるし」
 俺としても、このままにしておくつもりはないから、それはそれで構わないのだが。
「別に俺を呼ぶのは構わないけど、自分のやるべきことだけはきっちりやってくれよ。それをないがしろにして、というのはさすがに俺も認めないから」
「それはもちろんよ。あたしだって、自分がなんのために大学に行くのかって、ちゃんと認識してるもの。だから、そういうことで洋一に迷惑をかけるようなことは絶対にしないわ」
「それならいいけど」
 確かに最初のうちはそうかもしれないけど、香織の場合は少し気をつけないといけないからな。姉貴にもそのあたりは警告されてるし。
「そういえば、香織」
「ん?」
「本当のところ、午前中の姉貴の電話はなんだったんだ?」
「本当のところって、別に特にないけど」
「ん〜、あの姉貴が本当にあれだけのことで電話をかけてくるとは、とても思えないんだよなぁ」
「……ホント、洋一と美香姉さんて、お互いのことがなんでもわかるのね」
 香織は、小さくため息をついた。
「本当はね、美香姉さんに言われたの」
「なにを?」
「洋一を焚きつけないでくれって。洋一は、見た目よりずっと自分の中に抱え込んじゃうタイプだから、もしあたしとそういう関係になれば、今以上にあれこれ悩むだろうからって」
「……なるほど」
「ただ、こうも言ってた。もし、あたしが本気で、なおかつそれに洋一が本気で応えたなら、それは止められないって」
「姉貴らしい物言いだな」
「美香姉さんはふたつの心配をしてた。ひとつは、今言った洋一のこと。そりゃ、自分の弟のことだものね。心配にもなるわよ」
「もうひとつは?」
「それは、あたし自身のこと。美香姉さんには、あたしのことかなり理解されちゃってるから。あたしが本気で誰かを好きになったらどうなるか。そのあたりを心配してた」
「それで、香織はなんて?」
「とりあえずは、もう少しだけ見ていてくださいって。だってそうでしょ。あの段階ではこうなるかどうかは、本当にわからなかったんだから」
「確かに」
「でも、これで美香姉さんの心配は現実のものとなったわけよ」
「それは、お互いのこれから次第じゃないか?」
「本当にそう思う?」
 そう言いながら、香織は俺の手を握った。
「自分で言うのもなんだけど、あたし、大好きな人にはとことん甘えちゃうわよ。それこそ、まわりなんか見えないくらいに。それでも、そう言える?」
「俺もこう言ったらなんだけど、俺の彼女もさ、そういうところあるんだよ。だから、ある意味ではそういうのに対する対処法はだいぶわかってるつもりだけど」
「ひとりひとりにならそれでもいいかもしれないけど、そのうち洋一に負担がかかりすぎちゃうような気がするけど」
「だったら、そのあたりは香織が加減してくれよ。そうやって理解できてるってことは、まだまだ冷静に物事を判断できてるってことなんだから」
「努力はしてみるけど」
「頼むよ」
 俺は、香織の手を握り返した。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「今日は、夕飯も食べていってくれるわよね?」
「それは構わないけど」
「だったらさ、一緒に買い物行きましょ」
「買い物?」
「ある程度の材料はあるけど、どうせだったら洋一の好きなものを作ってあげたいから。ね?」
「まあ、そういうことだったら」
「よし、それじゃあ、早速行きましょ」
 
 こういうことを考えるのは本当はよくないのだろうけど、もし、愛と出逢う前に香織と出逢っていたら、おそらく香織とつきあっていただろう。
 俺の初恋が姉貴に対してということでもわかるように、俺は、こういうタイプに弱いのだ。
 だから、こうやってデートのような感じで買い物していても、楽しいし嬉しい。
「これと……これ」
 香織の家から少し行ったところにある大型スーパー。
 その食料品売り場に俺たちはいた。
「家でも料理してたわけ?」
「たまにね。特にする必要がない時にはしてなかったけど、たまに気紛れでやってたよ」
「気紛れ、ね。でも、気紛れでよくあれだけの料理ができるね」
「それは、要領よ。要領さえよければ、それほどやらなくてもなんとかなるものよ」
「なるほど」
 天才型の香織にとっては、それが当たり前なんだろうな。料理は、繰り返しやることで覚えることが多いから、要領だけでは普通はダメだ。なのに、そう言い切れる。そこが凡人との違いだな。
「あ、これも」
 話をしながらも、必要なものはちゃんと手に取っていく。
「でも、これからは自分で作らないと誰も作ってくれないから、自然とレパートリーも増えると思うわよ。というか、洋一の好物ばかり増えるかも」
 そう言って微笑む。
「普通の料理に関しては、特にこれが好きというものはないのよね?」
「ほとんど好き嫌いはないから」
「そういう方が作る方としては楽だけど、もう少し張り合いがあってもいいかも」
「それを俺に言われても」
「洋一の好きなものって、なんなの? まったくないってことはないでしょ?」
「ああ、まあ、あることはあるけど」
「それって、なに?」
「母さんが作るアップルパイ」
「お母さんが?」
「ほかのどんな店のアップルパイより、母さんが作るアップルパイがいいんだ」
「ん〜、でもそれって、難しいわね。ただ単にパイを作るだけならたいしたことないけど、それがそういう特殊なものだと、そう簡単にはいかないわ」
「まあ、そうだろうね」
 そのせいもあって、愛は母さんからアップルパイの作り方を習ったし。そういえば、今は自分なりに試行錯誤中だそうで、未だに俺に食べさせようとはしない。
「やっぱり、いきなりあたしが作り方を教えてほしいって言っても、さすがに無理よね」
「無理かどうかはわからないけど、その理由を説明するのが難しいだろうね」
「確かにそっちの方が問題かも」
 いくら理解のある母さんでも、姉貴の彼氏の妹とそんなことになってると知ったら、さすがになにを言われるかわからない。
「美香姉さんは、作れるの?」
「さあ、どうかな。姉貴が作ってる姿は見たことないけど」
「そっか。美香姉さんになら、こっそり訊けると思ったんだけどなぁ」
「どうしても作りたいなら、俺が味見してもいいけど」
「ホント?」
「まあ、常識の範囲内でなら」
「じゃあ、今度部屋に来た時に、早速お願いするわね。あ、でも、もしなにかコツみたいなのがあるなら、それだけでも訊いておいてくれると助かるかも」
「それくらいなら構わないけど」
「じゃあ、お願いね」
 それからさらにいくつかの食材を買って、スーパーをあとにした。
「ふふっ」
「ん?」
「こうやって腕を組んで歩いてると、恋人同士みたい」
 香織は俺と腕を組み、とても嬉しそうにしている。
「でも、今のあたしにとっては、洋一といつでも会えないという方がいいのかも」
「なんでだ?」
「だって、もし毎日でも会えたら、あたしきっとダメになるから。洋一に甘えて、尽くして、それこそ寝ても覚めても洋一のことしか考えられなくなるから。そんな生活を送ってたら、どんどんダメ人間になるわ」
「まあ、そうかもしれないな」
「だから、たまに会ってその会えなかった分まで甘えた方が、今の生活を維持できると思うから」
 それはそれで、ひとつの方法だろう。それに、これ以上余計な詮索を避けるためにも、たまに会う方がいいのだろう。
「なあ、香織。香織は、これから俺との関係を、どうするつもりなんだ? しばらくは和人さんや両親からもなにも言われないだろうけど、そのうち彼氏はどうしただの、結婚はどうするだの、いろいろ言われるだろ?」
「別にそんなの無視すればいいのよ。確かに、兄さんが美香姉さんと一緒になれば今度はあたしにその矛先が向くとは思うけど、なにを言われたところで、あたしにその気がなければ意味ないし」
「それを貫ける?」
「貫くわ。だって、それが洋一との関係を続けていく唯一の方法だと思うから」
「そっか」
「あたしとしては、洋一こそあたしとの関係をどうするのか聞きたいわ」
「俺は……確実なことは正直言えない。もちろん、そう簡単にこの関係をあきらめるつもりはないけどさ。ただ、俺のまわりにはいろいろありすぎるから。本当にどうなるかわからない」
「洋一としては、そうなるわね」
 それ以上は今は言えない。
 それ以上言っても、気休めにしかならないからだ。
「でも、それはあたしも覚悟の上。じゃなかったら、彼女のいる洋一に告白して、抱かれようとは思わないもの」
 こういう時、人より頭のできがいいと、いろいろわかりすぎてしまうのかもしれない。本当はわからなくてもいいことまでわかってしまい、そのせいであきらめてしまうこともあるのかもしれない。
 もちろん、それが香織に当てはまるかはわからないが。
「まあ、いいや。そういう難しいことは、これから少しずつ考えていけばいいのよ。それに、それはあたしだけが考えてもダメだし、洋一だけが考えてもダメ。ふたりのことなんだから、ふたりで考えないと」
「そういう前向きな考え方、結構好きかも」
「ふふっ、世の中はポジティブに生きなきゃ損するだけだもの」
「確かに」
 マンションの部屋に戻ると、早速夕食の準備に取りかかる。
 狭い台所なので、俺の手伝う余地はない。
 仕方なく、テレビを見ながら、香織の様子を見ている。
 と、そんな時、俺の携帯が鳴った。
 ディスプレイを見ると『高村美香』となっていた。
「はい、もしもし」
『洋一? まだ香織ちゃんのとこ?』
「そうだけど。ああ、夕飯はいいから。すっかり連絡するの忘れてた」
『そんなことだろうとは思ったけどね。お母さんには、それとなくは言ってあるから、心配する必要はないわよ』
「助かる」
『で、洋一。結局、香織ちゃんとはどうなったわけ? 私の予想だと、十中八九、もうふたりは普通の関係じゃないと思うんだけど』
「……それは、姉貴の想像に任せる」
『そっか。やっぱりそうなったか』
 電話の向こうの姉貴は、喜びとも落胆とも言えない微妙な言い方をする。
『じゃあ、洋一』
「ん?」
『香織ちゃんとのことは、広瀬先生の場合と同じように、ずっと隠し続けるの?』
「バレないうちは、そうする」
『だとしたら、よほど上手く立ち回らないと、厳しいわね。特に、女の勘は鋭いから』
「それは十分わかってる。だからむしろ、すべてを隠さないでいこうとは思ってる。最低限の情報だけはちゃんと伝えて、とりあえず知られたくないことは、まあ、カムフラージュというわけじゃないけど、それで多少は誤魔化せればと思ってる」
『小手先だけじゃ、あとで大変な目に遭うわよ』
「それも覚悟のうち」
『そこまで考えてるなら、私はなにも言わないわ。ただ、あまり女の子は泣かせるものじゃないわよ』
「わかってる」
『それで、今日は帰ってくるのよね?』
「それはさすがに」
『まあ、それが賢明ね。うちのお姫様も、だいぶご立腹だから』
「……そんなにヤバイ?」
『五分と置かずに時計を見てるからね。何度も携帯を手にとってあんたに電話かけようと思ってるみたいだけど、とりあえず正式な理由があるじゃない。だから、そこまではできないみたい』
 なんか、それを聞くと帰るのが怖くなってきた。
「あのさ、姉貴」
『ん?』
「なんとか誤魔化せないか?」
『そうねぇ、できないこともないけど、高いわよ?』
「……それは、出世払いということで」
『ま、しょうがない。大事な弟と妹のためだ。姉として、ひと肌脱ぎますか』
「すまん」
『それより、香織ちゃんのこと、ちゃんと見てなくちゃダメよ?』
「まあ、それは……」
『それが、男としての最低限の義務だから。ま、こんなこと今更だとは思うけどね』
 本当に今更だ。
『それじゃあ、香織ちゃんによろしく言っといてよ』
「わかった」
 電話を切ると、すぐに香織が声をかけてきた。
「美香姉さん?」
「ああ。夕飯いらないって言うの忘れてたから」
「それだけの割には、結構いろいろ話してたみたいだけど」
 とりあえず香織は、それ以上はなにも聞かなかった。
 しばらくすると、テーブル狭しと夕食が並んだ。
 俺がリクエストしたのは、とにかく白い飯にみそ汁だった。あとは、それにあうようなおかず。
 で、香織は俺のリクエスト通り、ご飯に豆腐とネギのみそ汁、ブリの照り焼き、きんぴらゴボウ、菜の花のおひたしという、純和風料理を作って見せた。
 いや、これだけの料理がすんなりできるというのは、マジですごい。
 愛でも、ここまでできるかどうか。
「やっぱり、誰かのために作るっていうのは、張り合いがあっていいわ。作ってても楽しかったし」
「でも、よくここまでできたと思うよ、正直」
「それはほら、あたしの腕がいいからよ」
 冗談めかして言うが、実際その通りだろう。
「とりあえず能書きはいいから、食べてみてよ」
「それじゃあ、いただきます」
 まずみそ汁から。
「……ん、旨い」
「でしょ?」
 香織は、ニコニコと嬉しそうだ。
 もっとも、料理の腕前は昼に見せてもらってるから、万が一にも不味いなんてことないと思ってはいた。だけど、この味は想像以上だ。
 絶妙な味加減で、こういうことは熟練の腕が必要な気がするのだが、それを平然とやってのけるんだから、すごい。
「ここへ来れば、いつでも食べさせてあげるわよ」
「考えておくよ」
 のんびり話をしながら、箸を進める。
 旨い料理は、本当にあっという間になくなってしまう。
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
 食後には、ちゃんとお茶が出てきた。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「本当にありがとうね」
「なにがだ?」
「あたしのワガママを聞いてくれて。本当なら、あたしの言うことなんて聞かなくてもよかったのに」
「まあ、多少はワガママかなって思ったけど、その程度だって。それに、俺はそこまで器用な人間じゃないからさ。どうでもいい奴なんか、抱けないって」
「うん」
 これから先、間違いなく大変なことの方が多い。
 だけど、今だけはそんなことは頭のどこかに追いやって、ささやかな幸せを楽しもう。
「洋一」
「ん?」
「帰る前に、もうひとつだけ、お願い聞いてくれる?」
「お願い?」
「うん、お願い」
 それからなにがあったかは、あえて言わなくてもいいだろう。
 ただ、俺も香織も、どこかに漠然とした不安感があったのだ。それを少しでも忘れようとしただけだ。
 いろいろ考えることは多いけど、なんとかなるだろう。
 それこそ、ポジティブシンキングで。
 
 三
 三月二十四日。
 午前中、美樹がついにキレた。
「ヤだヤだヤだ、今日はお兄ちゃんと一緒にいるのっ」
 ここ最近、あまり美樹の相手をしてやれてなかったらしょうがないのだが、ついにという感じだ。
 もうあと一週間で中三になるというのに、その駄々っ子ぶりはまさに小学生のそれだった。
「お兄ちゃん、美樹のこと嫌いになったの?」
「あのなぁ、嫌いな奴と一緒に寝たりしないって」
「だったら、美樹と一緒にいてよ」
「じゃあ、昼過ぎまでな」
「ダメ。今日は、一日ずっと」
「だから、夕方から出かけるんだって。それはもう話しただろ?」
「でもでもでもぉ」
「頼むから、聞き分けてくれ」
「ううぅ……」
 実は、今日の夕方から俺は由美子さんの部屋に泊まることになっていた。もちろん、バカ正直にそんなこと言えるわけもなく、亮介にワイロを渡して協力してもらった。
 まあ、亮介も俺を利用することがあるから、お互い様だけど。
「じゃあ、お兄ちゃん」
「ん?」
「日曜日は、一日美樹につきあってくれる?」
「ああ、つきあうから」
「……じゃあ、許してあげる」
 やれやれ、本当に困った奴だ。
 
 時間ギリギリまで美樹につきあわされ、俺は家を出た。
 今日のことは、姉貴しか知らない。その姉貴も、呆れ顔ながら特になにも言わなかった。
 俺は、駅に着くと早速言われた駅までの切符を買った。
 由美子さんの部屋は、ここから電車で二十分ほどの場所にある。
 一応住所まで教えてもらってるのだが、念のため駅まで迎えに来てくれることになっている。
 そんな電車に揺られ、目的の駅に着いた頃には、だいぶ陽が傾いていた。
 改札を出るとすぐに由美子さんを見つけた。
「由美子さん」
「時間通りね」
「それはもちろんですよ」
「ふふっ、いい心がけだわ」
 そう言いながら、由美子さんは自然な流れで腕を組んだ。
「さ、行くわよ」
「はい」
 金曜の夕方。
 そろそろ仕事帰りのサラリーマンが増えてくる時間。
 駅前の商店街には、買い物に来ている主婦の姿や、学校の部活帰りだろうか、中学生や高校生の姿もあった。
 話によると、駅からマンションまでは十分弱。さっさと歩けば、七、八分で着くらしい。
 住宅街を少し歩くと、目的のマンションが見えた。
 九階建てのマンション。
 結構綺麗な外装で、家賃もそれなりに高そうなマンションだった。
 玄関のドアを開け、さらにオートロックのドアを開ける。
 部屋は、八階だ。
 エレベーターに乗り込み、八階へ。
 その八階の一番奥に由美子さんの部屋はあった。
「さ、入って」
「おじゃまします」
 部屋の間取りは、1DK。ひとり暮らしなら十分な広さだった。
 想像通りの綺麗な部屋で、大人の女性らしい感じがした。
「とりあえず、そこに座ってて」
 俺を部屋のテーブルのところに座らせ、由美子さんは台所へ。
 少しすると、紅茶を入れたカップを持って戻ってきた。
「はい」
「ありがとうございます」
 その紅茶は、保健室の紅茶と同じものだった。どうやら、由美子さんのお気に入りらしい。
「それにしても、まさか洋一くんがこの部屋に入った最初の男性になるとは思わなかったわ」
「そうなんですか?」
「ええ。この部屋に引っ越してきてから、今まで誰ひとりとして男性は入ってないから」
 それは、嬉しいような困ったような、複雑な心境だ。
「まあ、私としては、それで全然構わないんだけどね。特に、その相手が洋一くんならなおのこと」
 そう言って微笑む。
 部屋をよく見てみると、普通の部屋ではあまり見かけないものがあった。
「由美子さん、弾けるんですか?」
「えっ? ああ、キーボードのこと?」
「はい」
 部屋の片隅に、電子オルガンだと思うけど、それが置いてあった。
「これでも、高校までピアノを習っていたのよ」
「へえ、そうなんですか」
 まあ、橘女学院だったんだから、そういうことくらい、やってて当然だろうな。
「最近は弾いてないんですか?」
「そうね。ここ最近は全然弾いてないわね。以前は、たまに時間が空くと弾いてたんだけど」
「どうして弾かなくなったんですか?」
「深い理由はないわ。ただ、そうね。弾かなくてもいい理由を見つけたから、かしら」
「弾かなくてもいい理由?」
 それはそれで深い理由な気もするのだが。
「ひとり暮らしをはじめた頃は、よく弾いてたわ。私がそれを弾くのは、その日にイヤなことや悲しいことがあったりした時。あとは、淋しい時」
「…………」
「鍵盤に向かっているとね、余計なことを考えなくて済むのよ。まあ、いわゆる現実逃避の道具だったんだけどね。でも、そうね、この一年半くらいの間、その回数もぐっと減ったわ。なぜだかわかる?」
「……えっと、もしかして、俺、ですか?」
 由美子さんは、にっこり笑って頷いた。
「ええ、そうよ。洋一くんと出逢って、洋一くんを知っていくうちに、確実にその回数は減ったの。特に、私の中で洋一くんのことが好きなんだって認めてからわね。その日、洋一くんと話ができただけで私は楽しかったし、嬉しかった。そういう時にそれを弾いちゃうと、そんなことまでどこかに追いやってしまいそうで。だから、最近はこの部屋の肥やしになってるの」
「そうだったんですか」
 それはそれで、なんからしい話だ。
「でも、今でも弾けるんですよね?」
「ピアノを幼い頃にやっていると、その間にどれだけ空白の時間があっても、最低限は弾けるのよ」
「じゃあ、なにか、弾いてください」
「えっ……?」
「由美子さんの演奏、聴いてみたいです」
「洋一くん……」
 俺は、純粋に由美子さんがどんな演奏をするのか聴いてみたかった。
 本当は迷惑になるかも、と考えなければいけないのだが、そんな理性を簡単に欲求が乗り越えてしまった。
「しょうがないわね」
 由美子さんは、小さくため息をついて、電子オルガンの前に立った。
 ホコリ除けのカバーを取り、蓋を開ける。
 椅子を引き出し、そこに腰掛ける。
「なにか、リクエストはある?」
「いえ、俺、そういうのにあまり詳しくないので」
 俺自身も作曲なんかはするけど、知識の方はかなり乏しい。
「そう? じゃあ、私の得意な曲を弾くわね」
 そう言って由美子さんは目を閉じ、鍵盤を叩いた。
 その曲は、曲名は知らなかったけど、聴いたことのある曲だった。
 とても穏やかなメロディで、気持ちが落ち着く。
 このところ全然弾いていなかったと由美子さんは言っていたけど、全然そんなことはなかった。多少の善し悪しはわかるから、由美子さんの演奏がそれなりのレベルにあることはすぐにわかった。
 やがて、最後の一音が余韻をわずかに残し、消えた。
「どうかしら?」
「すごいです。素直に感動しました」
「それは大げさじゃないかしら?」
「いえ、そんなことはないですよ。むしろ、どうやって今の気持ちを言葉にしようかと悩むほどです」
「ふふっ、洋一くんにそう言ってもらえると、私も弾いた甲斐があったようね」
 もし、今の姿を世の男どもが見ていたら、その中の九割くらいは落ちただろうな。
 それくらい優雅で可憐で、綺麗だった。
「でも、今はこれ以上は弾くのはやめましょう」
「どうしてですか?」
「せっかく洋一くんとふたりきりなのに、時間がもったいないもの。それに、ここはマンションだから、あまりうるさくできないのよ」
 そういう理由なら仕方がないか。確かに、こういう音は結構耳に付くからな。
 由美子さんは蓋を閉め、またカバーをかけた。
「さてと、とりあえず洋一くん」
「なんですか?」
「夕食の準備をしよう思うんだけど、洋一くんはどうしてる?」
「別に、待ってますよ」
「退屈じゃない?」
「大丈夫ですよ」
「そう? じゃあ、テレビでも見て適当にくつろいでて」
 そう言って由美子さんはエプロンをして、台所に立った。
 俺は、とりあえずテレビを点けた。
 特に面白そうな番組はやってなかったけど、あまり静かすぎるのも間が持ちそうになかったので、音だけのつもりで点けたままにしておいた。
 それにしても、どうして女の人が台所に立ってる姿って、こんなに心を揺さぶる効果があるんだろうか。それが綺麗な人ならなおさらだ。
 由美子さんは、文句なく綺麗な人なので、余計にそう思う。
「ねえ、洋一くん」
「なんですか?」
「洋一くんはこの春休み、どうやって過ごそうと思ってるの? まあ、もうはじまってるんだけどね」
「特に、これということはありませんよ。ただ、無事に過ごせればいいな、と」
「その『無事』というのが、妙に説得力あるんだけど」
 そう言って笑う。
「でも、森川さんなんかと、どこかに行ったりしないの?」
「愛とは、一応予定してます」
「どこ行くの?」
「箱根です」
「箱根かぁ。いいわね。あれ? じゃあ、ひょっとして、泊まりがけ?」
「ええ、まあ、そういうことになります」
 結局、愛との旅行は、週明けの月曜、火曜の二日間となっていた。
「羨ましいわ。私も洋一くんと、旅行の方がよかったかしら?」
「それは、まあ……」
「今度は、私とどこかへ行きましょうね」
「え、ええ、そうですね」
 ここで頷いておかないと、大変なことになりそうだ。
 それから少しの間、由美子さんは調理に集中した。
 さすがにそんな時に話しかけるわけにもいかないので、なんとはなしにテレビを眺めた。
 と、テレビラックの中に、一冊の冊子を見つけた。
 どうやら、アルバムのようだ。
「由美子さん」
「どうしたの?」
「このラックの中にあるのって、アルバムですか?」
「ん、ええ、そうよ。見たい?」
「見てもいいんですか?」
「そうねぇ、あとで私のお願いを聞いてくれるなら、いいわよ」
「えっと、そのお願いというのは?」
「それは秘密よ。どうする?」
 この期に及んで無理難題を言ってくるとは思えないから、いいか。
「それで構いません」
「そう? じゃあ、見てもいいわよ」
 由美子さんの許可を得て、早速アルバムを見てみることにした。
 そのアルバムは、どうやら由美子さんが中学か高校の頃からのものらしい。
 橘女学院の制服は、中学も高校も同じだから、見分けがつきにくい。
「これって、いつのですか?」
「そこにあるのは、私が高校の頃のよ」
「へえ、高校のですか」
 なるほど。言われてみれば、確かに少し大人っぽい感じが出てきてる頃だ。
 それにしても──
「由美子さんて、高校の頃から綺麗だったんですね」
「あら、褒めてもなにも出ないわよ?」
「別に他意はありませんよ。純粋にそう思ったんです」
「ふふっ、ありがと」
 もし、この頃の由美子さんに出逢えたなら、まず間違いなく惚れてただろうな。それくらい別次元の綺麗さだ。
 というか、橘女学院ということを考えると、深窓の令嬢という風に思っちゃって、かえって声もかけられないな。
 高校時代の写真は、とても生き生きとした表情のものが多い。
 友達と多少ふざけてる写真もあって、お茶目な一面もかいま見られる。
「お、これは……」
 ページをめくると、運動会だろうか。体操着姿の由美子さんが写っていた。
「今度はなにを見てるの?」
 と、菜箸を持ったまま、由美子さんが俺の後ろに立った。
「あっ、それはダメよっ」
 慌ててアルバムを取り返そうとするが、俺もそこまで間抜けじゃない。
「洋一くんっ」
「いいじゃないですか」
「よくないわよ。そんな、体操着姿なんて……」
 最近は女子の体操着はブルマじゃなくてスパッツやショートパンツが多いけど、その写真はブルマ姿だった。だから余計に言うんだろうけど。
「この写真なんて、すごくカワイイと思いますよ」
 運動会の合間に、友達と一緒に写っている写真だろう。ちょっとお茶目なポーズを決めていて、それがすごくカワイイ。
「……洋一くんて、そういうマニアックな趣味、あるの?」
「ないです。でも、由美子さんは冗談抜きにどんな格好しても似合うだろうから、俺の知らない格好をしていると、気になるんですよ」
「…………」
 由美子さんは、少し考え、やがて小さく息を吐いた。
「洋一くんにはかなわないわ」
「別に俺は由美子さんを困らせたくて言ってるわけじゃないですからね」
「わかってるわ」
 なんとなく俺が悪者みたいな気がする。
「見ててもいいけど、あまり一喜一憂しないこと。いいわね?」
「わかりました」
 俺に釘を刺して、由美子さんは台所に戻った。
 運動会のあとは、特にこれといったものはなかった。
 学校での写真、友達とどこかへ行った時の写真。そういうものが並んでいた。
 やがて、卒業式の写真があり、大学時代へと移った。
 当然のことながら、大学は常に私服だから、急に大人っぽくなった気がする。
 だけど、ある時を境に写真の数が減った。理由はたぶん、あれだろうけど。
 サークルの写真やゼミの仲間との写真がいくつかあって、案外あっさりと大学時代は終わった。
 そのあとは、当然教師時代、つまり今に至る写真だ。これはそれほど数はなく、由美子さんの姿も今とさほど変わらない。
「……なるほどなぁ……」
 思わずそう呟いてしまう。
 人に歴史あり、なんて言うけど、まさにその通りだ。俺と由美子さんとの関係は二年に満たないものだから、知らない期間の方が多い。だから、こういう写真を見ているといろいろな由美子さんを知ることができて、楽しい。
 ここにはないけど、小学校や中学校の頃は、それこそ美少女だったに違いない。
 その頃の写真も見てみたいけど、それは無理そうだ。
 それにしても、いくら女子校に通っていたとしても、これだけの美人を放っておくなんて、まわりの男どもはよっぽど見る目がなかったんだな。
 まあ、今こんな関係になってる俺としては、そっちの方がいいんだけど。
「洋一くん。できたものをそっちに運んでくれる?」
「あ、はい」
 とりあえず、今は由美子さんの手伝いをしよう。話は、またあとで聞けばいいんだから。
 
 夕食はとにかく豪華だった。これだけのものを食べてしまうと、さすがに申し訳なく思ってしまう。
 もちろん、そんなことは言わないけど。言えば、由美子さんの厚意を無にしてしまうから。
 食後にはちゃんとデザートも出てきた。イチゴのタルトだったんだけど、それまで作ったのかはわからなかった。
「由美子さんは、中学や高校の時は、まわりからどんな風に見られてたんですか?」
「どんなって、別に特になにも言われてなかったけど」
「本当ですか? いくら女子校でも、由美子さんくらい綺麗な中学生、高校生だったら、なにか言われてたと思うんですけど」
「ん、まあ、そう言われると、少しくらいは言われてたかな」
「どんなことですか?」
「それは、さすがに私の口からは言えないわ。なんといっても、自分のことだから」
 それはそうか。
 まあ、そういうことなら仕方がない。俺の想像だけであきらめよう。
「それに、見た目のことは少しくらいなら言われれば嬉しいけど、言われすぎると逆に嬉しくないものよ。本当にあの人はそう思ってるのかな、って」
「でも、俺の言ってることは本心ですよ?」
「別に洋一くんのことを言ってるわけじゃないわ。ただ、そういうことがあるっていうこと」
「そうですか」
 それを疑ってたわけじゃないけど。
「ところで、洋一くん」
「なんですか?」
「さっきの写真のことだけど──」
「さっきの写真?」
「ほら、運動会の写真」
「ああ、あれですか。あの写真がなにか?」
「やっぱり男の子って、ああいうの、好きなの?」
 なにを訊かれるのかと思えば、それか。
「そうですね、中にはブルマというだけで反応する変態野郎もいるかもしれませんけど、普通はそこまでじゃないと思いますよ」
「洋一くんも?」
「俺もそうです。それに、俺の場合は、ブルマ姿というよりは、それを着ているのが誰かということの方が重要ですから」
「それってつまり、あれを着てたのが私だったから、ということ?」
「まあ、そうなりますね」
「……いろいろあるのね、男の子って」
 しみじみとそう言う。
「普通なら理由はそれが一番大きいと思いますけど、今回の場合はそれだけでもないんですよ」
「それって?」
「俺は、今の由美子さんの姿しか知らないじゃないですか。だから、以前のことは全然わかりません。もちろん、由美子さんにも制服を着ていた頃や、それこそ体操着を着ていた頃があったわけですけど。今しか知らないと、それが容易には想像できないんですよ。だから、余計に気になったんです」
「そっか」
 今みたいに大人の女性の由美子さんから、中学時代や高校時代を想像するのは難しい。漠然と美少女だったというのは想像できるけど、細かいのは無理だ。
「……もし、今高校の制服を私が着たら、洋一くんはどう思う?」
「えっ……? 高校の制服、ですか?」
「うん」
「それは……」
 想像してみる。
 ……うわ、犯罪だよ、それ。というか、今でも似合うと思う。
「たぶんですけど、今でも似合うと思いますよ。多少の違和感はあるとは思いますけど、それは許容範囲内だと思いますし」
「……本当に、そう思う?」
「思いますよ」
「……じゃあ、今度実家から送ってもらおうかしら」
「制服をですか?」
「まだ実家に取ってあるから」
「それはそれで嬉しいですけど、無理はしないでくださいね。嫌々着られても嬉しくないですし」
「大丈夫よ。本当に着ることになったら、それはそれで楽しんで着ると思うし」
 橘女学院の制服は、女子中学生の憧れの的だ。歴史のある学校なんだけど、制服だけはある一定の期間でマイナーチェンジしている。
 セーラー服が元になってるんだけど、今の制服はその面影はあまりない。
 由美子さんの時の制服は、今のとは少し違うけど、それほど差はない。
 その洗練された制服を今の由美子さんが着ても、絶対に似合う。
「私ね、洋一くんよりずっと年上じゃない。だからね、たまに思うのよ。今の私の感覚は洋一くんの感覚にあってるのかなって。もちろん、いつもじゃないけどね」
 それは、ある意味仕方がないことかもしれない。時間というものは、隔たりが大きいほど取り戻すのが大変なのだ。
「そういうこともあって、私は洋一くんの好きなこと、喜ぶことをなんでもしてあげたいの。それがたとえ、ちょっとコスプレちっくなことでもね」
「由美子さん……」
 すごく嬉しいことを言ってくれる。
「ふふっ、洋一くんて、結構表情が豊かよね」
「そうですか?」
「今だって、コロコロ変わってたし」
「……自覚はないんですけど」
「そういうものよ。でも、無表情なのよりよっぽどいいと思うわよ」
「まあ、そうかもしれませんね」
 改めてそう言われると、本当にそうなのかと思ってしまう。
「あ、そうだ。洋一くん」
「なんですか?」
「さっきのこと、覚えてる?」
「さっき?」
「ほら、アルバムを見せる条件に──」
「ああ、なにかお願いがあるとか」
「ええ」
「それで、そのお願いというのは?」
「そんなにたいしたことじゃないんだけどね」
 そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 なんか、イヤな予感がするんだけど。
「今日はせっかくふたりきりだから、この前できなかったことしたいのよ」
「えっと……具体的には……?」
「私を、朝まで寝かせないでほしいの」
 とびっきりの笑顔でそう言われたら、断れる男なんていない。
「ね?」
「あ〜、えっと……どうしても、ですか?」
「どうしても」
 たぶん、こんなことだろうとは思ったけど、本当にそうなるとは。
「もしかして、私とするの、イヤ……?」
 いや、それは反則だから。
 この状況下でそんなことを言われて、仮にそうだと言ったら俺ひとりが悪者だし。
「それは絶対にありません。でも、そこまでできるかどうかは、俺にもわからないんですけど」
「それで構わないわよ。私だって、実際そこまで保つかわからないし」
「あの、由美子さん。ひとつだけ訊いてもいいですか?」
「ん、なに?」
「えっと、由美子さんて、ひょっとして、するの好きですか?」
「それは心外ね。別に私はセックスが好きなわけじゃないわ。ただ、洋一くんとするのが好きなの。そのあたりを誤解しないでほしいわね」
「すみません。少し気になったので」
 それが肯定されてたら、それはそれで俺もどういう反応をすればいいかわからなかったな。
「というわけで、洋一くん。する?」
 俺は、無意識のうちに時計を見ていた。
 別に早いという時間でもないけど、これからのことを考えると長丁場になりそうな時間だ。
 せめてもう少し時間をつぶせれば──
「あ……」
 とその時、運良くといえばいいのだろうか、俺の携帯が鳴った。
「ちょっとすみません」
 ディスプレイを見ると『森川愛』となっていた。
 一瞬、ここで出るのを躊躇ったが、さすがに相手が愛なら出ないわけにはいかない。
「もしもし」
『洋ちゃん? 今、電話大丈夫?』
「あ、ああ、大丈夫だけど。なんかあったのか?」
『ううん、特になにかあったわけじゃないんだけど。洋ちゃんの声が聞きたくなって』
 うわ、カワイイこと言ってくれる。
 だけど、今の俺にはその余韻に浸ってる暇はない。目の前では、由美子さんがものすごくつまらなそうな顔してるし。
『今、亮介くんのところにいるんだよね?』
「ああ。今はいないけどな」
『あれ、そうなの?』
「ちょっと出てくるって言って、そのままだ」
『ふ〜ん、そうなんだ』
 なんか、明らかに三文芝居だ。姉貴なら、間違いなく気付いてるな。
 愛も勘は鋭いから、気付いてるかもしれないな。
『明日は、何時くらいに帰ってくるの?』
「さあ、わからんけど、そんなに遅くはならんと思うぞ」
『だったら、帰ってきたら私に連絡してくれるかな』
「それは別に構わんけど、なんかあるのか?」
『だって、このところ洋ちゃんとゆっくりできてないから』
「それはそうかもしれないけど、そのために行くんだろ?」
『むぅ、洋ちゃんは、私といるの、イヤなの?』
「いや、それはないけど」
 言ってることが、由美子さんと同じだ。
『ね、洋ちゃん、いいでしょ?』
「わかったよ。とりあえず、こっちを出たら連絡するから。それでいいだろ?」
『うん、それでいいよ』
 少し落ちていた声が、いつもの調子に戻った。
『そういえば、洋ちゃん』
「ん?」
『今日、夕方過ぎに、美樹ちゃんが来たよ』
「美樹が?」
『うん。お兄ちゃんに捨てられた、って言ってね』
「あのバカが……」
『洋ちゃん、最近私だけじゃなく、美樹ちゃんの相手もしてないんだね』
「いや、別にそういうわけじゃないんだけどさ。ただ、あいつと俺の感覚の差だと思うぞ、実際」
『でも、美樹ちゃん言ってたよ。明らかに以前より私の扱いがぞんざいになってるって』
「……それは誤解だ」
『そうかもしれないけど、美樹ちゃんにとっては、洋ちゃんは誰よりも大切な人なんだから、その洋ちゃんに可愛がってもらえなければ、それは当然淋しくなっちゃうよ』
「だけどなぁ……」
『うん、もちろんね、美樹ちゃん自身もわかってるの。洋ちゃんにだって、洋ちゃんの都合があるし、つきあいがある。美樹ちゃんにもそういうのがあるのと同じでね。そして、そういうのはこれからますます増えてくるから。だからこそ余計に、少しでも時間のある今、洋ちゃんに構ってほしいんだよ』
「まあ、それはそれでわかるけど……」
 そんなこと言い出したら、それこそキリがない。
『もし、美樹ちゃんとの時間が取りにくいんだったら、私と一緒の時に、たまになら美樹ちゃんも一緒でもいいよ』
「それはさすがに甘やかしすぎだろ?」
『そうかな? 別に私はそこまで思わないけど。それに、私個人的には、美樹ちゃんと一緒も楽しいから好きだし』
 そう言われると、むげにもできないか。
「まあ、そのあたりのことは考えておくわ」
『うん、そうしてあげて。美樹ちゃんは、洋ちゃんにとってカワイイ妹であるのと同時に、私にとっても、カワイイ妹なんだから』
 本当に、美樹はいい『姉』を持ったな。
『それじゃあ、洋ちゃん。また明日ね』
「ああ」
『おやすみ、洋ちゃん』
「おやすみ」
 わずかな余韻を残して電話を切った。
 が、すぐに我に返る。
「……ずいぶんと楽しそうだったわね」
「あ、えっと……そうですか?」
「ええ、とっても。相手は、森川さん、でしょ?」
「……わかりますか?」
「洋一くんが、今みたいな感じで話す相手は、そう多くないから。男の子の友達なら、もっと雑だろうし、女の子の友達なら、もっと適当だろうから。ということは、親しい人で、なおかつかなりいろいろ言える相手だから。そうすると、自ずとわかるわ」
「……なるほど」
 確かにそう言われると、実にわかりやすいな。
「それで、森川さんはなんて?」
「いや、たいしたことじゃないですよ。まあ、状況確認みたいなものです」
 実際、それが目的だっただろうな。美樹のことは、ついでみたいなものだ。
「とりあえず、ここへ来ていることは、バレてないと思います」
「でも、バカ正直に奥原くんのところへ行ってるとも、思ってないんでしょ?」
「たぶんですけど」
「恋する女の子の勘は鋭いから」
 たとえ疑われていても、由美子さんとのことがバレなければとりあえずはいい。
「由美子さんとのことは、少なくとも俺が高校を卒業するまでは、絶対に秘密にしないといけませんからね」
「それはそうだけど、でも、もしバレそうになったら、下手に誤魔化さない方がいいわよ。これは間違いない。下手に誤魔化すと、変にこじれてしまう可能性があるから。それに、二度と洋一くんに会えないなら是が非でも抵抗するけど、そうじゃなかったら、あの学校を辞めてしまってもいいわ」
「由美子さん……」
「もちろん、今の仕事は好きだけど、洋一くんとは比べられないもの」
 由美子さんは、真剣な表情でそう言う。
 俺が由美子さんとのことを真剣に考えているのと同じように、由美子さんも真剣に考えている。じゃなかったら、教師と生徒の関係なんて続けようとは思わないはずだ。
「まあ、その話は今はいいわ。それよりも、仕切り直し」
 そう言って由美子さんは、俺に近づく。
「洋一くん。私を抱いて」
 今度は、もっと直接的だった。
「ね?」
 ここまで来たら、あとには引けない。
 俺は、由美子さんを抱きしめ、キスをした。
「ん、優しいキス……」
 夜は長い。
 果たして、どうなることやら。
 
 たまに思うのだが、やっぱり俺は幸せなのだ。
 愛という最高の彼女がいて、沙耶加という文句のつけようもない子に想われて、真琴という明るくカワイイ子にも想われて、香織というこれまたどこをどう評価しても文句のつけられない最高の女に想われて。
 そして、由美子さんという大人の女性から想われて。
 これを不幸だなんて言ったら、世の中の男に殺される。
「なにを考えてるの?」
 隣から、少しだけ気怠そうな声がする。
 もちろん、由美子さんだ。
「いえ、たいしたことじゃないです」
「こぉら、そういう言い方はないでしょ? 本当にたいしたことないことかもしれないけど、物事には言い方っていうものがあるのよ。そういう些細なことでも傷ついちゃう人はいくらでもいるんだから」
「すみません」
「まあ、私はそこまで繊細じゃないから、大丈夫だけど」
 そう言って微笑む。
「……俺って、幸せなんだろうなって、思ってたんです」
「幸せ?」
「もちろん、どういうことを幸せと定義するかによって、それも変わってくるとは思いますけど。でも、俺は幸せなんだろうと思います」
「それって、今、洋一くんが置かれてる状況を鑑みてってこと?」
「そうですね」
「確かに、ある意味では幸せかもしれないわね。森川さんや山本さんみたいな綺麗でカワイイ子に想われてるわけだから。多少の差はあるとは思うけど、人間誰にだって独り占めにしたいという欲求はあるだろうから」
「由美子さんは、そういうの、どう思いますか?」
「そうねぇ……」
 由美子さんは目を閉じ、少し考える。
「私は、自分でも不器用だってわかってるから、最初からそういうことは考えないのよ。誰かひとりのことを好きになったら、あとは一直線。そんな感じ。だからね、今の洋一くんのような状況には、望んでなりたいとは思わないわ」
 まあ、普通はそうだろうな。俺だって、できればそうありたかったし。
「ただね、ひとつだけ誤解しないでほしいのは、それをダメだとか、そういう風には思ってないってこと。だって、そんなこと思ってたら、今みたいに洋一くんと一緒にいられないから」
 たぶん、愛以外はみんな、由美子さんと同じことを言うだろう。
「ねえ、洋一くん」
「なんですか?」
「私、洋一くんとの子供、ほしいな」
「…………」
 えっと、今、由美子さんはなんて言った?
「あ〜、えっと、その、今、なんて?」
「だから、洋一くんとの子供、ほしいな」
「…………」
 俺の聞き間違いじゃなければ、由美子さんは俺との『子供』がほしいと言った。
 それはつまり──
「んもう、どうして固まっちゃうのよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「うん?」
「それは、本気ですか?」
「本気よ。洋一くんも私が保健教師だって、知ってるでしょ?」
「それは、まあ……」
「だからこそ、私がそういう冗談を言わないことも、わかるでしょ?」
 確かにそうだ。うちの学校で一番そういうことに精通してるのが由美子さんで、いろいろ言う立場にあるのも、由美子さんだ。
「私もね、いろいろ考えてるのよ」
 そう言ってそっと俺に抱きついてくる。
「どうしたら私は、洋一くんの側にいられるだろう。どうしたら私は、いつまでも洋一くんに必要とされる立場でいられるだろう。そういうことも考えてる。でもね、今回のことにはそれは関係ないの」
「関係ない?」
 それは、どういう意味だ?
「正直に言えばね、洋一くんとのことは、私自身としてはそこまで難しくは考えてないのよ。だって、私はもう、自分の想いをすべて洋一くんにぶつけているわけだからね。だから、もう怖いものなし、という感じなの」
「じゃあ、どうしてですか?」
「こんな私でもね、ひとつだけ、どうにもできないことがあるのよ。それがなんだか、わかる?」
「いえ」
「それはね、私の両親」
「あ……」
 そうか、家族か。
「洋一くんには、私の家のこと、話したことあったかしら?」
「いえ、ないです」
「じゃあ、少しだけ聞いてもらおうかしら」
 由美子さんは、ぽつぽつと話しはじめた。
「私の家は、両親と兄と姉の五人家族なの。私は、三人兄妹の末っ子。父親は、結構有名な会社の取締役をやってて、母親は、今は専業主婦だけど、昔はそれなりに名の知れたピアニストだったの。兄は、父親の会社の関連会社で、それなりのポストを与えられてる。姉は、母親の影響を多大に受けて、今ではチェリストとして海外ではそれなりに名前が知られているわ」
 そういう風に聞くと、すごい家だ。
 まあ、橘女学院に入れてしまうくらいだから、普通の家だとは思わなかったけど。
「もちろん、兄も姉も結婚してるわ。家は、兄が継ぐことになってる。だから、末っ子の私は比較的自由にやってこられた。でもね、末っ子だからこそ、心配もされてるの。このところはあまりないけど、以前は家に戻ってこないのか、結婚しないのか。そんなことばかり。私だって、両親が心配してくれるのはありがたいとは思うけど、でも、自分のことだから、自分の思う通りにやりたい。だから、学校の教師をやって、ひとりで暮らしてるの」
「いろいろあるんですね」
「親、なんてそんなものよ。それでね、今はのらりくらりとかわすことはできるけど、そのうちそれもできなくなる時が来るのよ。これは間違いなく。その時に、私は自分の意志を通すために『なにか』がほしいと思ったの。両親を納得させることはできないとは思うけど、それでも、ある程度困惑させることはできると思って。それさえできれば、付け入る隙は生まれるだろうし」
「その答えというか、方法のひとつが、さっきのことなんですね」
「ええ、そうよ。もし、私に子供がいたら、それはきっと、大変なことになる。両親ともに、私のこと、ものすごく可愛がってくれてるから。でも、それくらいのことがないと、私の意志を貫くことはできない。それくらい、実の親の影響って大きいの」
「…………」
「もし、それ以外に最善の方法があるなら、私はそっちでも構わないと思ってる。でも、少なくとも今は、その方法が思い浮かばない。だから、ああ言ったの」
 そういうことか。
 確かに、それはそれでよくわかる。だけど、いきなりそういうことで、本当にいいのだろうか。少なくとも俺には、今のところはそういう気持ちはない。
「ただ、そういうのは一方的じゃ意味がないから。だから、洋一くんに言ったの」
「それは、そうですけど……」
「あ、洋一くん。誤解してるでしょ?」
「誤解?」
「今すぐに子供がほしいって解釈してるでしょ?」
「えっと、違うんですか?」
「違うわよ。私だって、今すぐにはほしいとは思ってないから。あ、もちろん、できちゃったらできちゃったで、嬉しいけどね。ただ、今はまだ、この生活を続けていきたいから。だから、それを実行するにしても、もう少し先の話」
「そうだったんですか。俺はてっきり……」
「ふふっ、それはそれで魅力的なんだけどね」
 とりあえず安心した。
「そうね、とりあえず洋一くんが高校を卒業するまでは、先送り。高校を卒業したら、改めて考えようかな」
 それって、あと一年てことか。
「たぶんね、今度両親からいろいろ言われるのは、私が三十になる直前。やっぱり、三十路になるともらい手も格段に少なくなるから」
「由美子さんなら、たとえ三十を過ぎても、引く手あまただと思いますけど」
「イヤよ、そんなの。私は、これから先、誰にも好きになってもらわなくてもいいの。ただひとり、洋一くんにさえ好きでいてもらえれば」
 俺は、一般論を述べたつもりなんだけど……
 だけど、三十って、今、由美子さんて、何歳なんだ?
「えっと、由美子さん」
「ん?」
「由美子さんて、今年、何歳なんですか?」
「こぉら、女性に対して年を訊くなんて、失礼よ」
「そ、それはわかってますけど、具体的にそうなるのがいつなのかなって思って」
「んもう、しょうがないわね。私は、今年の七月で二十七になるの」
「えっ、そうなんですか?」
「あら、それはどういう意味?」
「いや、俺はもうひとつくらい下かと思っていたので」
「ふふっ、上手なんだから。でも、残念ながら、今年で二十七なの。だから、あと三年」
 三年か。順調にいけば、俺が大学二年の時か。
「だから、とりあえず洋一くんが高校を卒業したら、改めて考えようって言ったの」
「なるほど」
 そういうことだったのか。
「それで、洋一くん。洋一くんは、私との子供、ほしい?」
「それは……正直言って、わかりません。俺はまだ、愛とですら、そういうことを考えてませんから。だから……」
「そっか。そういうことならしょうがないわね」
 由美子さんは意外にさばさばした表情でそう言う。
「ただね、私がそういうことを考えてるってことだけは、心にとどめておいてほしいの。ね?」
「わかりました」
「ありがとう、洋一くん」
 由美子さんとの子供か。今はまだ、想像もできないな。
「じゃあ、話もひと段落したところで、もう少しふたりきりを楽しみましょ」
 そう言って由美子さんは、俺にのしかかるようにキスをしてきた。
 一糸まとわぬ姿なので、体が触れただけで、気持ちが高ぶってくる。
「ん……ん……」
 キスを繰り返し、舌を絡ませ、唾液を交換する。
「洋一くんの、まだダメみたいね」
 すでに俺たちは、今日だけで二度ほどセックスしていた。
 なので、俺のも多少感覚が鈍くなっている。
「じゃあ、私が元気にしてあげる」
 由美子さんは、そう言って下半身の方へ体を移動させる。
「ふふっ、これはこれでカワイイんだけどね」
 そう言いながら、俺のモノを撫でた。
「ん……」
「こうして、っと」
 モノをつかみ、手でしごきはじめた。
「少し、滑りをよくした方がいいかしら」
 そう言って、唾液をモノに垂らす。
「これで……」
「んっ」
 滑りがよくなり、動きも速くなり、俺の方も気持ちよくなってくる。
「だんだん大きくなってきた」
 一度火が点けば、あとは勢いだ。
 すぐに、俺のモノは臨戦態勢を整えた。
「これでよし、と。このまましても、いい?」
「いいですよ」
「それじゃあ……んんっ」
 由美子さんは、俺の上にまたがり、そのまま腰を落とした。
 由美子さんの中は、未だに濡れており、挿れるのにもなんら支障はなかった。
「ああんっ、やっぱり洋一くんの、大きくて硬くて」
 そのまま腰を前後に動かす。
「んんっ、中が擦れて、気持ちいいっ」
 俺としては動きが小さくてそこまで気持ちいいとは言えないのだが、由美子さんが感じてくれているなら、よしとするか。
「ダメっ、私、またイッちゃうっ」
 それなりにインターバルは置いていたのだが、まだ余韻が残っていたらしい。
「やっ、んんっ、洋一くんっ」
 俺も、由美子さんをイカせようと、腰を使う。
「あっ、そんなにされるとっ……んあっ」
 下から突き上げながら、胸に手を伸ばし、少し強めに揉む。
「んんっ、ダメダメダメっ、私っ」
 そして──
「いっ、くぅっ!」
 一瞬体が硬直し、そのまま俺の方へ倒れ込んできた。
「はあ、はあ、はあ……」
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……気持ちよすぎただけだから」
「それならいいですけど」
 俺は、由美子さんの髪を優しく撫でる。
「洋一くんは、まだよね?」
「はい。でも、もう少しこのままでもいいですよ」
「それだったら、そのまま抱いてくれた方がいいかも」
「そうですか?」
「うん。私のことなら心配しないで大丈夫だから」
「……わかりました」
 そう言われたなら、そうしないわけにはいかない。
 俺は、一度体を起こし、由美子さんを代わりにベッドに横たわらせた。
「いきますよ」
「うん」
 そのまま、すぐにモノを挿れる。
「んんっ」
 由美子さんの中は、イッたばかりということもあって、とても熱く、また、たくさんの蜜をたたえていた。
「ああっ、んっ」
 少し腰を持ち上げ、俺が動きやすくする。
「あっ、あっ、あっ、んんっ」
 少し乱暴かと思えるくらいに、激しく腰を打ち付ける。
「いいっ、いいのっ、洋一くんっ」
 由美子さんは、シーツをつかみ、足を突っ張って快感に抗っている。
「もっと、イッてください」
「やっ、ダメっ、そこはっ──あああっ」
 俺は、追い打ちをかけるように、最も敏感な突起を指でいじった。
「また、イクっ」
 同時に、体がわずかに硬直した。
 だけど、今度は俺の方が止まれなかった。
「由美子さんっ」
「そんなっ、すぐに……ああっ、んんっ」
 俺の方も、そろそろ限界が近づいてきた。
「ああっ、んんっ、あっ」
 もはや、俺も由美子さんも本能のままにお互いを求めていた。
「俺、そろそろ」
「んんっ、きて、洋一くんっ」
 由美子さんは俺の首に腕をまわす。
 そのままの体勢で、俺はラストスパートをかけた。
「んくっ、あんっ、ああっ、あっ」
「由美子さんっ」
 そして──
「んんっ、ああああっ!」
「くっ」
 寸でのところでモノを抜き、由美子さんの下腹部に精液を飛ばした。
「はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
 俺は、そのまま由美子さんの隣に倒れ込む。
「もう私は、心も体も洋一くんの虜になってしまったわ」
「由美子さん……」
「だから、洋一くん。たとえ洋一くんの隣にいられなくても構わないから、洋一くんの側にいさせて。お願い……」
「そんなこと、改めて言わなくても大丈夫ですよ。俺は、由美子さんを受け入れた時から、ずっとそのつもりですから」
「洋一くん……」
「ずっと、俺の側にいてください」
「うん……」
 由美子さんを抱きしめると、由美子さんは、そのまま俺の胸に顔を埋め、やがて穏やかな寝息を立てはじめた。
 そして程なく、俺も眠りに落ちた。
 
 四
 目が覚めると、そこは見慣れない部屋だった。
「…………」
 目を擦り、頭を働かせる。
「そうか……」
 ここは、由美子さんの部屋だった。
 その証拠に、隣では由美子さんが小さな寝息を立てている。
 朝まで寝かせない、ということはさすがに無理だったけど、寝たのはそれなりに遅い時間だったから、まだ寝ていても不思議じゃない。
「ん……」
 髪を優しく撫でると、由美子さんはわずかに反応した。
「だけど……」
 これだけ綺麗な人の寝顔は、そうそう見られない。
 寝ている時だけ見せる、このあどけない表情。これを見られただけで、満足してもいいくらいだ。
「由美子さん……好きですよ……」
 そう言って、頬に軽くキスをした。
 と、それが合図だったかのように、由美子さんが目を覚ました。
「ん、おはよう、洋一くん……」
「おはようございます」
「今、何時?」
「えっと……十一時前です」
「そっか」
 カーテンの隙間からは、春の陽差しが漏れている。
「いつまでも寝てるわけにはいかないから、起きましょうか」
「そうですね」
「と、その前に、シャワーでも浴びないと」
「ああ、そうですね」
「じゃあ、一緒に浴びましょ」
「えっ……?」
「ほらほら、洋一くん」
 そのまま由美子さんに引っ張られ、浴室へ。
 浴室はそれほど大きくないので、ふたりが立つと結構狭かった。
「はい、じっとしてる」
 シャワーをかけられ、ボディソープを含ませたタオルで体を洗われる。
「♪〜」
 それをしている由美子さんは、とても楽しそうだ。
 なんとなくほのぼのとした雰囲気だけど、それも長くは続かない。
「ここは、念入りに洗わないとね」
 そう言って触れたのは、俺のモノだった。
「え、えっと、由美子さん……」
「ん、なに?」
「それ、洗ってるんですか?」
「そうよ?」
 洗ってるというよりは、しごかれてる気がするのだが。
「ふふっ」
「あの……」
「今度は、洋一くんの番よ」
 たぶん、そういうことなんだろうな。
 結局、俺たちは浴室で一回してしまった。
 それから朝食兼昼食を食べた。
「今度はいつ、こうしてふたりきりになれるのかしら」
「それは……」
 食後、俺たちはもう少しだけふたりきりを楽しんでいた。
「三年生になると、洋一くんも忙しくなってくるし。私も、四月からしばらくは忙しくなるから」
「でも、ふたりきりになろうと思えば、意外になんとかなると思いますよ」
「本当にそう思う?」
「はい。それに、俺は保健室の『常連』じゃないですか。本当の意味でふたりきりにはなれないとは思いますけど、由美子さんの側にいることはできますから」
「洋一くん……」
「たとえ迷惑でも、押しかけますから」
「ふふっ、それだけは絶対にあり得ないわ。洋一くんなら、本当にいつでも大歓迎だもの」
 由美子さんを受け入れた責任というわけでもないけど、俺は、由美子さんのこともちゃんと見続けていかなければならない。
 俺としても、由美子さんと一緒にいるのは楽しいから、それは願ったりかなったりだし。
「あと、たまにデートもできるといいわね」
「それは、お互いの予定や状況次第だとは思いますけど、そうですね」
「デートできなければ、今回みたいに部屋に来てくれてもいいし」
「それも考えておきます」
「ただ、それも森川さんにあまりヤキモチ妬かれない程度にしないとね」
 そう言って笑う。
「由美子さん」
「ん?」
「俺のせいでこれからもいろいろ迷惑をかけると思いますけど、俺、本当に由美子さんのこと、好きですから」
「洋一くん……」
「だから、ずっと俺の側にいてください」
「うん。ずっと側にいるわ。ずっと……」
 俺と由美子さんの関係は、少なくともあと一年は秘密にしておかなければならない。
 自由にできないということがどれだけ大変なことか、俺もおぼろげながら、わかる。だからこそ俺は、由美子さんを大事にしようと思う。
 それが、俺のことを想ってくれている由美子さんに対する、俺なりの態度の示し方だと思うから。
 
 いいと言ったのだが、結局由美子さんは駅まで送ってくれた。
 一分一秒でも長く一緒にいたいという気持ちはわかるけど、送ってもらうのはさすがにどうかと思った。送るならともかく。
 電車に乗り、地元に戻ってきたところで、昨日の約束通り、愛に電話した。
『もしもし、洋ちゃん?』
「ああ。これからこっち出るから」
『じゃあ、それにあわせて、私も洋ちゃんの部屋に行くから』
「来るのか?」
『うん』
 一瞬、俺が行ってもいいと言おうとしたが、思い直した。
 昨日、キレてしまった美樹のことを考えると、帰った早々に愛のところに行くのは愚策としか言えない。
「わかった。もし俺が着いてなくても、部屋にいていいから」
『うん、ありがと』
「それじゃあ、またあとでな」
『うん』
 電話を切り、家へ帰ろうと歩き出す。
「いや、待てよ……」
 だが、すぐに立ち止まる。
 昨日の今日ということを考えると、少なくとも美樹の機嫌だけは取っておいた方がいいな。とすると、ここは甘いものでも買っていくか。
 そのまま商店街へ向かい、甘いものの定番──ケーキを買った。
 美樹は甘いケーキならなんでも食べるから、特にこれというものは選ばなかった。まあ、多少いつもより奮発はしたけど。
 そのケーキを片手に、俺は家へ急いだ。
 いつもより若干早いペースで家に着いた。
 玄関を見ると、すでに愛は来ているようだった。ついでに、姉貴も美樹もいる。
 最初にリビングにいた母さんに声をかける。
「ただいま、母さん」
「おかえり。愛ちゃん、来てるわよ」
「わかってる。で、母さん。悪いんだけど、これ、用意してくれる?」
「あら、ケーキ。どうしたの?」
「いや、たまには妹孝行しないと兄としての威厳に関わると思ってさ」
「ああ、そういうこと。でも、洋一と美樹だと、そういう心配だけは必要ないと思うわ」
「仮にそうだとしても、俺はそう思っていたいんだよ」
「はいはい。わかったわ。それじゃあ、部屋に運んであげるから、美樹も呼んでおきなさいね」
「わかった」
 ケーキを母さんに預け、二階へ。
 部屋のドアを開けると、案の定、愛が姉貴となにか話していた。
「おかえり、洋ちゃん」
「ああ」
「早かったのね」
「ん、まあな」
 昨日から由美子さんのところへ行っていたことを知っているのは、姉貴だけだ。だから、多少複雑な表情をしている。
 荷物を置き、とりあえずやるべきことをやる。
「どうしたの、洋ちゃん?」
「いや、ちょっと美樹をな」
「美樹ちゃん?」
 愛の疑問には答えず、俺は部屋を出た。
 そのまま美樹の部屋のドアをノックする。
「美樹。入るぞ」
 返事を待たずに中に入る。
 すると──
「お兄ちゃんっ」
「おっと」
 いきなり美樹が抱きついてきた。
「おいおい、いきなりだな」
「だってだってだって、淋しかったんだもん……」
 今にも泣き出しそうな顔でそう言う。
「わかったから、そんな顔するな」
 美樹を抱きしめ、髪や背中を優しく撫でてやる。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「今日は、もうどこにも行かないよね?」
「ああ、行かないよ」
「よかった……」
 安心したようにひと息つき、美樹は微笑んだ。
「っと、いつまでもこうしてるわけにはいかないな」
「どうしたの?」
「美樹に、ケーキを買ってきたんだ」
「ホント?」
「ああ。たまにはそういうのもいいと思ってさ。で、ちょっと部屋に来てくれ」
「うんっ」
 くっついたままの美樹を連れて、部屋に戻る。
「あら、美樹。早速洋一に甘えてるの?」
「姉貴。頼むから無駄に煽るのだけはやめてくれ」
「いいじゃない、別に」
 同じ部屋にヤキモチ妬きがふたりもいなければそれでもいいけど。
 美樹をそのままに、俺もテーブルのところに座る。
「で、なんで美樹を連れてきたの?」
「いやたいしたことじゃ──」
 と、ちょうどいいタイミングで母さんがやって来た。
「あ、ケーキ」
 母さんは姉貴が部屋にいることも知っていたらしく、ちゃんと人数分あった。
「洋一が買ってきてくれたのよ」
「へえ……」
「……なんだよ?」
「べっつにぃ」
「文句あるなら、姉貴は食わなくていいぞ。これは、美樹のために買ってきたんだから」
「別に文句なんてないわよ」
 言いながら、ちゃっかり自分の分を確保している。
「ったく……」
 ケーキは、取り合いにならないように、すべて同じものにした。
 フルーツのショートケーキというもので、イチゴのショートケーキだとイチゴが入っているけど、その代わりにいろいろなフルーツが入っている。
「美樹。ちゃんと洋一にお礼を言うのよ」
「わかってるよ」
 母さんはそれだけ言って、部屋を出て行った。
「お兄ちゃん、ありがと」
「別に気にするな」
 それから俺たちは、適当な話をしつつ、ケーキとお茶を堪能した。
「なんだかんだ言いながら、洋一って結構マメよね」
「なんだよ、悪いのか?」
「別に悪いだなんて言ってないじゃない。ただ、変におおざっぱよりは、マメな方がいいと思って。ね、愛ちゃん?」
「えっと、そうですね」
「ああでも、洋一の場合はマメというよりは、律儀と言った方が正しいのかも。普段なんか全然そんなことないのにね」
「へいへい、悪うございましたね」
「だから、悪くないの。あんたもいい加減しつこいわね」
 姉貴は呆れ顔で言う。
「洋ちゃんが律儀になったのは、たぶん、美香さんと美樹ちゃんがいたからだと思いますよ」
「私たちが?」
「もし、洋ちゃんの兄弟が上でも下でも男の人だったら、そんなことはなかったと思います。姉弟が異性だったから、気を遣うこともあったし、遣われることもあった。だからこそ、自然とそんな風になったんだと思います」
「なるほどね。それはそれであるかも」
 その理由もなんとなくはわかるけど、認めにくい。それに、そんなことを言い出せばキリがない。うちは父さんがほとんど家にいないから、必然的に男は俺ひとりだ。そうするとあれこれ使われるし、それを繰り返しているうちに処世術も身に付ける。
 それが姉貴たちには律儀と映るのかもしれない。
「ねえ、お兄ちゃんて律儀なの?」
「さあ、俺にはわからん」
「そうよ。洋一は律儀なの。ほら、このケーキだってその証拠よ」
「そうなの?」
「だってこれ、美樹のために買ってきたんでしょ。それって、半分くらいは美樹のご機嫌取りの意味があったんだろうし」
 このバカ姉貴は、余計なことをぺらぺらと……
「まあ、ご機嫌取り云々は別にいいんだけど、結局はそうやって美樹のことを気にかけてこうしてケーキを買ってくること自体が、律儀ってことよ」
「そっか」
「ただ、それって不器用さの裏返しとも言えるんだけどね」
「……姉貴は余計なことを言うな」
「私はどっちでもいいよ。お兄ちゃんが優しくしてくれるなら」
 そう言って美樹は俺に抱きついてきた。
 ちらっと愛を見ると、微妙にこめかみがひくついてるような気がするのだが。
「ね、お兄ちゃん」
 猫のようにじゃれついてくる美樹を、俺もむげには扱えない。
「…………」
 そんな俺たちを見て、愛が微妙に動いた。
 ジリジリと俺の方に近づいてきて、やがて、ちょうど美樹の反対側にぴったりとくっついた。
「あらあら……」
 姉貴は、穏やかな表情でその様子を見ている。
「美樹。そろそろ洋一を解放してあげなさい」
「ええーっ」
「ええーっ、じゃないの。あんたがそうしてたら、いつまで経っても愛ちゃんが洋一に甘えられないでしょ?」
「それはそうかもしれないけど……」
「いつまでもしてると、いくら洋一でも美樹のこと、そのままにはしないと思うわよ」
「ううぅ……」
「ほら」
 姉貴に言われ、美樹は本当に渋々離れてくれた。
「その代わり、私が相手してあげるから」
 そして、そのまま美樹を連れて部屋を出て行った。
「やっぱり、美香さんにはかなわないなぁ」
 その様子を見ていた愛は、そんなことを言う。
「なんでだ?」
「だって、私じゃ美樹ちゃんをああいう風には諭せないもの」
「それは当然だろ。姉貴と美樹は正真正銘の姉妹で、たとえおまえが美樹のことを実の妹のように思っていたとしても、事実はそうじゃないんだから」
「そうなんだけどね」
「別になにか困ることがあるわけじゃないんだから、今のままでいいだろ」
「うん、そうだね」
 愛は、気持ちを切り替えるように、にっこり笑った。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「洋ちゃんはもう、準備はできた?」
「準備? なんの?」
「なんのって、旅行の準備」
「ああ、それか。いや、まだ全然。というか、どうせ一泊だし、そんなに準備なんて必要ないだろ」
「ん〜、まあ、男の人ならそうかもしれないね」
「愛は、もう済んだのか?」
「だいたいは。あとは、手当たり次第にカバンに入れた中から、不必要なものを選別するだけ」
「……なんかそれって、順番が違うんじゃないか?」
「いいの。なんでもかんでも入れておけば、忘れることもないし」
「そういうもんか」
「うん」
 俺はそんな風にしたことがないから、なんとも言えんな。
 だけど、俺も準備をしておかないと、当日の朝に慌てることになりそうだ。今日、愛が帰ってからやるかな。
「それでね、洋ちゃん。向こうに行ったら、洋ちゃんに聞いてもらいたいことがあるの」
「聞いてもらいたいこと?」
「うん。すごく大事なこと」
 そう言って、少しだけ真剣な表情を見せる。
「別にそれは構わないけど、向こうに行ってからじゃないのとダメなのか?」
「そんなことはないけど、向こうの方がいいと思って」
「ま、おまえがそれでいいなら、俺はなにも言わないけどさ」
「うん、ありがと……」
 愛は、そっと俺に抱きつき、そのまま目を閉じた。
「……やっぱり、おまえはカワイイな」
「ん、どうしたの急に?」
「いや、不意にそう思ってさ」
「変な洋ちゃん」
 俺も変だと思う。だけど、理由もなく、そう思ったのも事実だ。
「でも、そう言ってくれるのは、すごく嬉しいよ」
「そっか」
 俺も愛を抱きしめ、そのぬくもりを感じる。
 今はただ、わけもなくそうしていたかった。
 
 五
 たまに思うのだが、もし、俺と美樹が兄妹じゃなかったら、今頃どうなっていたのだろうか。
 姉貴と姉弟じゃなかったら、それはそれで改めて姉弟のような関係になっていただろう。もちろん、恋人同士になる可能性も否定はしない。姉貴は、あれだけの容姿の持ち主だ。弟である今でさえもそれを認めているのだから、赤の他人だったらさらに意識するだろう。
 姉貴とのことが容易に想像できるのとは対照的に、美樹とのことはどうも想像しにくい。
 それはひとつには、美樹が妹だからだと思う。
 美樹が生まれた時の記憶はそれほどないが、それでも俺は兄貴になったんだと思った。つまり、俺は美樹という妹がこの世に生を受けたことを、理解していた。
 刷り込みとでも言えばいいのだろうか。俺の中では美樹は、妹という存在でしかない。それが当然で、それ以外はあり得ない。
 だから、もしも、という話であっても、なかなか違うことは考えにくいのである。
 それでも、今の状況を考えると、いろいろ想像してしまうのは、仕方がないことだ。
 たとえば、俺と美樹の関係は、先輩後輩の場合。俺が先輩で美樹が後輩なら、それはおそらく、今と同じような関係になっていただろう。美樹はどう見ても、妹タイプなのだ。
 その逆はどうだろうか。俺より年上の美樹というのは想像しにくいが、無理矢理想像してみると、なるほど、それはそれでありなのかもしれない。
 だけど、やっぱりどこか年下と接しているような雰囲気をまとっていそうで、結局同じになりそうだ。
 じゃあ、今の愛と同じような同級生ならどうだ。
 気楽にはつきあえるだろうけど、結果は同じ気がする。
 つまり、俺にとって美樹は、本当にどうやっても『妹』なのだ。そこから抜け出すためには、それこそ美樹が生まれる前にさかのぼって、その存在自体を消滅させるか、俺の意識を改変するしかない。
「……ん、おにいちゃん……」
 そうは思うのだが、こうして俺の隣で無防備な寝顔を見せられると、男の悲しい性だな。美樹をひとりの女の子だと思ってしまう。
 しかも、今着ているのは俺のお古のワイシャツで、寝ている間に胸元のボタンが外れてしまい、胸が見える状況になっている。
 もしこれが、美樹に告白される前なら、しょうがないと言いながら直せただろうけど、今はそれも難しい。妹に持ってはいけない邪な感情を捨てきれないからだ。
 今、この瞬間もわずかずつ成長を続けているこの妹に、本当に迫られたら、俺は拒めるだろうか。情けないけど、絶対の自信はない。
 頭ではわかっている。そういうことはいけないこと。倫理的に認められないこと。
 だけど、理解していることと、それに従って行動するかしないかは、別問題だ。
 だから俺は、その時になってどういう行動を取るか、まったくわからない。
「……ホント、情けない兄貴だよな……」
「……そんなことないよ」
「起きてたのか?」
「ほんのちょっと前にね」
 美樹は、目を擦りながら、そう言った。
「おはよ、お兄ちゃん」
「ああ、おはよう」
 おはようのキスを交わしながら、美樹は微笑む。
「いろいろ考えるのはいいけど、でもね、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、絶対に情けなくなんかないんだから、そういうこと言わない方がいいよ。これは、私だけじゃなく、お姉ちゃんや愛お姉ちゃんも同じだと思う」
「まあ、自分のことはなかなか客観的には見られないからな」
「たとえそうだとしても、今のだけは絶対に納得できないし、理解もしたくないから」
「わかったよ」
 そこまで強硬に言われては、もうなにも言うまい。
「ところで美樹」
「ん、なぁに?」
「その格好は、なんとかならんのか?」
「ん?」
 首を傾げながら、胸元を見る。
「えへへ、気になる?」
「アホ。そういう問題じゃない。いくら兄妹でも、けじめだけはきっちりしておかないと大変なことになる」
「私は別に、お兄ちゃんになら見られても、なにをされても文句は言わないよ」
「…………」
「そ、そんな顔しないでよぉ……」
「だったら、そういうこと言うな」
「はぁい……」
 一応返事はしたものの、胸元のボタンを留める気はないらしい。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん、なんだ?」
「お兄ちゃん、私の誕生日に言ってくれたよね。私が中学を卒業して、お兄ちゃん好みのいい女になってたら、抱いてくれるって」
「ん、まあ、微妙にニュアンスが違うが、そういうようなことは言ったな」
「それって、今でも有効だよね?」
「なしにしたつもりはないから、そうだな」
「それはつまり、エッチするのはそこまでダメだけど、その前までのことなら、今でもいいってことだよね?」
「ちょ、ちょっと待て。その前までのことって、いったいなんだ?」
「ん、たとえば、私のをお兄ちゃんが指でいじってみたりとか、私がお兄ちゃんのをしたりとか」
 危険だ。この思考回路はかなり危険だ。
「それもダメなの?」
「当たり前だ。それも含めて、すべてだ」
「ううぅ、お兄ちゃんのケチぃ」
「ケチで結構」
 妹のことをちゃんと妹として見続けていくために必要なら、ケチでもいい。
「……でもね、お兄ちゃん。私だって、この春から中三になる、健全な女の子なんだよ。そういうことに興味もあるし、やってみたいとも思ってる。もしお兄ちゃんにしてもらえるなら、その欲求も多少緩和されると思うけど、ここで拒まれたら余計にひとりでしちゃうから」
 それはある意味では、脅しだ。
「それにね、お兄ちゃんはお兄ちゃんが私を拒めばお兄ちゃんのことをあきらめるかもしれないと思ってるみたいだけど、それだけは絶対にないからね。どんな理由があっても、私にとってお兄ちゃんはただひとりの『男性』なんだから。一生、ほかの誰も好きになることはないから」
 ああ、本当にどこで美樹に対する接し方を間違えたんだろう。
 もうこれは兄とか妹とか、そういうレベルの問題じゃない。
「ただ……それを無理強いすることも、できないけどね」
「美樹……」
 本当に俺は、どうしたらいいんだろうな。
 暗中模索どころの騒ぎじゃない。
 明確な答えがあるなら、誰か教えてほしい。
 本当に。
 
 今日はとにかく美樹につきあうことになっていたので、俺がなにをするか決める必要はなかった。
 とはいえ、美樹もなにをするかはちゃんとは決めていないらしく、あれこれ考えていた。
 美樹がそうしている間、俺は姉貴に拉致られ、姉貴の部屋にいた。
「ようやく、あんたと話ができるわ」
 姉貴はそう前置きしてから話しはじめた。
「とりあえず、香織ちゃんとのことを聞きたいんだけど」
「聞きたいって、なにをさ?」
「香織ちゃん、どんな感じだった?」
「どんなって、まあ、ある程度は姉貴の予想通りだと思う」
「やっぱり、かなり甘えられたの?」
「まあね。ただまあ、いろいろ話も聞いたから、多少はその影響もあったのかもしれない」
「ふ〜ん……」
 姉貴としては、香織のことは応援したいけど、愛のことを考えると複雑な心境、というところだろう。俺だってそうだ。
「そういや、合い鍵預かったでしょ?」
「ん、ああ」
「和人が言ってたわよ。洋一くんにはいろいろ迷惑かける、って」
「鍵を預かったこと自体は迷惑だとは思ってないけど」
「あと、こうも言ってた。もし、香織のせいでなにか困ったことが起きたら、遠慮なく言ってほしい、って。和人も香織ちゃんのこと、よく理解してるから、そんな風に言ったんだろうけどね」
「できるだけそうならないようにはするよ」
「それがいいわね」
 たぶんだけど、和人さんは遅かれ早かれ、俺と香織がただならぬ関係になることは予想していたと思う。それがまさか、はじめて会ってから二度目だとは思ってなかったとは思うけど。
「でもさ、洋一」
「ん?」
「実際どうなの? 香織ちゃん、あんたのこと、どこまで本気なの?」
「……これは俺が言えた義理じゃないんだけど」
「うん」
「香織は、それこそすべてを捨てる覚悟さえしてる」
「そこまで本気なんだ。そっか」
「別に俺もそんな香織にほだされたわけじゃないけど、やっぱり放っておけなかった」
 これは今更だけど、本当にどうして俺のまわりにはそういう子ばかりいるのだろうか。そういう子と知り合うのはいいけど、深い関係になる必要はない。もちろん、最終的には俺の意志が介在してるわけだから、文句を言う筋合いはないのだが。
 それでも、愚痴のひとつでも言いたくなる。
「香織ちゃん、これからどうするのかしら」
「さあ、とりあえず誰になにを言われても、無視するって言ってたけど」
「学生の間はそれでもいいけど、社会人になったら、さすがに難しいわね」
「俺もそう思うけど、香織の決意は固いからさ」
「まあ、香織ちゃんは頭もいいし、要領もいいから、なんとかなっちゃうのかもしれないけど」
「頭がよすぎるのも、考えものだと思うけど」
「で、洋一はどうするつもりなの?」
「とりあえずは、たまに会うつもり。責任というわけでもないけど、そのままってわけにもいかないし」
「愛ちゃんには内緒で?」
「ん、まあ……」
 香織の存在自体は愛に知られている。だからこそ、疑われないくらいの情報を与えて、しばらくは誤魔化そうと思う。
「姉貴は、香織のこと、どうしたらいいと思う?」
「そうねぇ、誰かを本気に好きになってる同じ女としては、応援してあげたいから、洋一にもそれ相応の関係を保ち続けてほしいけど。でも、あんたの姉としては、複雑ね。自分の弟がまた、ふたりといないくらい最高の女の子から想われてるわけだから、それは嬉しいけど。だけど、愛ちゃんのことを考えると、本当はそういう関係はやめなさいって言うべきなのよね」
「まあ、そうだろうな」
「洋一から香織ちゃんを突き放すというのは、今のところ無理?」
「無理だね。偉そうに言うべきことでもないけど、やっぱり香織を放っておけない」
「それって、香織ちゃんのことをだいぶ理解できたから? それとも、香織ちゃんがカワイイから?」
「ウソは言いたくないから、まあ、半々くらいかな。香織の俺に対する想いもわかったし、どうして俺のことをそこまで好きになったのかも、ある程度わかったから。それにまあ、香織ほどの容姿の持ち主は、そうそういないし」
「見た目とのギャップを除けば、性格もいいし、見た目もいい。本当に誰もが羨む逸材だものね」
 だからこそ、俺は余計に困ってるんだけどな。
「うん、とりあえず香織ちゃんのことはそのくらいでいいわ。どうせ、私も香織ちゃんといろいろ話すだろうから」
「話すのはいいけど、余計なことだけは言わないでくれよ」
「わかってるわよ」
 どこまでわかってるのやら。
「じゃあ、次。広瀬先生のこと。まあ、先生のことはかえってあまりあれこれ言わない方がいいとは思うんだけど」
「だったら言わなければいいんじゃないか?」
「そういうわけにはいかないでしょ? あんたと先生以外で、ふたりの関係を知る唯一の人間なんだからさ」
「それはそうなんだけどさ」
「ただ、昨日みたいに泊まりがけっていうのは、できるだけ控えた方がいいわよ。昨日はかろうじて誤魔化せたけど」
「それはわかってる。だから、もう当分はしないよ」
「それがいいわね。私の見た感じ、愛ちゃんもさすがにこのことは気付いてないみたいだから」
「少なくとも向こう一年間は、隠し通すよ」
「そのあたりは、あんたと広瀬先生のがんばり次第ね」
 結局は、そこへ落ち着くんだろうな。
 もちろん、それは俺も由美子さんも十二分に理解してる。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「私、思うんだけど、あんたって間違いなく普通の男どもとは違うわね」
「どう違うって言うんだ?」
「普通は、誰かひとりのことを好きになったら、あとはよほどのことがない限り、そのままじゃない。もちろん、不倫や浮気なんてことはあるけどね。普通だったらそのひとりだけでも大変なのに、あんたはあんたのことを本気で想ってくれてる全員の想いを受け止めようとしてる。そして、それをある程度まではできてる。だから違うって言ったの」
「でも、不倫や浮気してる奴も同じじゃないの?」
「違うわよ。不倫や浮気は、どこかそういう関係を楽しむために行ってるところがあるから。そりゃ、相手のことが好きなのには変わりないとは思うけどね。でも、今のあんたみたいにすべて本気、なんてことはほとんどない」
 なんとなく言いたいことはわかるけど、理解するというところには至ってない。
「もし、今あんたのことを本気で想ってくれてる相手全員と一緒になれるなら、一緒になる?」
「それは、なんとも言えない。少なくとも今現在、一緒になってもいいと思ってるのは、やっぱり愛だけだから」
「そっか。だとしたら、なおさらしっかりしないといけないわね。どんな結果でも、中途半端が一番よくないから。それがたとえば、沙耶加ちゃんや香織ちゃんをあんたの愛人とするような結論でもね」
「わかってる。俺だって、中途半端は問題だと思ってる。それに、一緒になれないからって、すぐになんでもあきらめるつもりもないし」
「ふふっ、そういうところは、実にあんたらしいわ」
 そう言って姉貴は笑う。
「まあいいわ。とりあえず、やれるだけやってみなさい。いざとなったら、私もできることはやってあげるから」
「ありがとう、姉貴」
「ううん」
 なんだかんだ言いながら、姉貴がいてくれて本当によかった。もし俺ひとりであれこれ考えていたら、きっと今頃、ノイローゼになって精神科の世話になってただろうな。
「それより、そろそろうちのお姫様のところへ行った方がいいわよ。へそ曲げられると、困るでしょ?」
「そうだな」
 時計を見ると、それなりに時間が経っていた。
「姉貴。俺じゃ心許ないかもしれないけど、もし姉貴になにかあった時は、遠慮なく言ってくれよ。姉貴は、この世でただひとりの姉貴なんだからさ」
「洋一……」
「んじゃ、そういうことで」
 俺は、姉貴の言葉も聞かず、部屋を出た。
 ただ、部屋を出るほんのわずかな間に、姉貴の言葉が聞こえた気がした。
「ありがと、洋一」
 
「こうしてお兄ちゃんとふたりきりになるの、久しぶりだね」
「そうか? 一緒に寝てる時は、ふたりきりだと思うけど」
「あれは別。私が言ってるのは、今みたいにふたりきりで一緒になにかしてる時のこと」
 そう言いながら美樹は、俺の手をキュッと握る。
 結局、美樹もあまりいいアイデアが浮かばなかったらしい。それで、とりあえずは外へ出ようということになった。
 今日はとても暖かい日で、スプリングコートすらいらないくらいだった。
 これだけ陽差しもあって気温も高いと、一気に桜のつぼみが膨らむ。
「最近は本当に私の相手、してくれなかったからね。すっごく淋しかったんだから」
「それは悪かったと思ってる。でも、おまえの方は学校だってあったわけだから、ある意味仕方がないと思うんだけどな」
「そういうどうにもならない時はいいの。私だって、そこまでは言わないもん。でも、休みの日くらい、私の相手してくれてもいいのに」
 休日には休みたいという気持ちもあるので、どうしてもあまり積極的にはなれない。もちろん、約束なんかがあれば別だけど。
「これでもし、一緒に寝られてなかったら、私もなにをしたかわからなかったよ」
「恐ろしいこと言うな」
「だから、たまには妹孝行してね、お兄ちゃん」
「へいへい」
 特に目的もなく、のんびりゆっくり歩いていく。
 今日は日曜日なので、たまに家族連れと擦れ違う。
 もっとも、もう小学生も春休みに入ってるから、毎日が日曜日みたいなものだけど。
「あ、ねえ、お兄ちゃん。寄っていこ」
 そう言って指さすのは、神社だった。
 いつの間にか俺たちは、例の神社の側まで来ていた。
「そうだな。どうせ目的もないし」
「行こ」
 そのまま、境内へと足を踏み入れる。
 境内は、相変わらず静かだった。
 参拝客もおらず、昼間だというのに不気味な静けさに包まれていた。
 まずは拝殿でお参り。
 なにかお願いすることがあるかなと思ったけど、取り立ててなかった。なので、無病息災と願っておいた。
 本当は今の状況についてお願いすればいいんだろうけど、そういうのを神頼みにするのは、なんかイヤだった。だから、それはなしにした。
 美樹は、初詣の時と同じく、なにやら一生懸命にお願いしている。
 しばし終わるのを待ち、拝殿を離れる。
「なにをそんなに熱心にお願いしてたんだ?」
「ん、いろいろだよ」
「いろいろって、正月にもお願いして、まだ足りないのか?」
「足りないってことはないけど、また新しいお願いが増えただけだから」
「そんなにポンポンとお願いが増えるもんかねぇ……」
 今日は社務所にも寄らず、そのまま神社をあとにした。
「私のお願いは、ほとんどお兄ちゃんのことだから。お兄ちゃんのことなら、いくらでもお願いできるよ」
「いくらでも、とはまた大きく出たな」
「だって、本当にそうなんだもん」
 ぷうと頬を膨らませ、抗議の意を示す。
 だけど、俺はそれだけは信じられない。いくら美樹でも、それは無理だろう。
「まあ、それはどうでもいいけど──」
「どうでもよくないよ」
「だから、とりあえず今はいいってことだ。で、美樹自身のことはなにもお願いしてないのか?」
「したけど」
「それって、なんだ?」
「……笑わない?」
「笑わないよ」
 俺は少しだけ真剣な表情で言った。
「えっとね……私もお姉ちゃんみたいになりたい、って」
「姉貴みたいに? 具体的には?」
「性格とかもそうだけど、一番はやっぱり……」
 そう言ってある場所を見た。
 それは、ちょうど視線を落とした先にあるもので──
「胸か」
「ううぅ、そんな、直接的に言わなくても……」
「オブラードに包んでも意味ないだろうが」
 それにしても、まだ気にしてるのか。
 まあ、うちは母さんも姉貴もそれなりに存在感のあるものを持ってるからな。気になるのは仕方がないけど。
 だけど、美樹はまだ自分が中二、この春から中三になることを考えていない。
 胸だって身長だって、これから一気に大きくなる可能性があるんだから。
「だけど、美樹」
「ん?」
「前に姉貴が言ってたけど、美樹の胸は、ちゃんと成長してるから心配ないって」
「そうかもしれないけど……」
 それこそ目に見えて大きくならないと、納得できないか。
「それに、姉貴だって中学の頃は今の美樹くらいだったはずだぞ」
「でも、お姉ちゃんの場合は、高校に入る前に大きくなったから」
 そういえば、そうだったな。俺が小六の時に、胸が大きくなって嬉しいと言ったり、ブラを改めて買わなくちゃいけなくて大変だと言ったり、大きくなったらなったで、肩凝るようになったと言ってた記憶がある。
「とりあえず、自分でどうにもできないことは、自然に任せておけばいいんだよ」
「うん……」
 美樹は、渋々という感じで頷いた。
 それにしても、なにが悲しくて実の妹と胸の話をしなくちゃならんのだろうな。
「お兄ちゃん。これからどこ行こうか?」
「そうだなぁ……」
 携帯を見て時間を確認する。
 お昼までまだ少し時間がある。
「今日は天気もいいし」
「うん」
「たまには、外でのんびり食べるか」
「それはいいけど、どこで?」
「ん〜……」
 こういう時にいい場所は──
「よし、あそこにしよう」
 
 俺たちは途中コンビニで適当に昼飯を買い込み、目的地へと向かった。
 住宅街を抜け、坂道を上がり、さらに階段も上る。
 やがて着いたのは、通称見晴らし山。
 それなりの距離を歩いてきたから、結構いい運動になった。
「ん〜、いい気持ち」
 美樹は、さわやかな風を全身に受け、大きく伸びをした。
 以前と同じくらいの長さには戻っていないけど、それなりに長くなった髪を優しく撫でていく。
「私、ここへ来るのすごく久しぶり。お兄ちゃんは?」
「俺は、そこまで久しぶりというわけでもない」
「あれ、そうなんだ。いつ来たの?」
「去年の年末」
「年末? そんな寒い時に?」
 あの時は、とにかく誰もいない場所に行くことしか考えてなかったからな。沙耶加には少し悪いことをした。
「誰と来たのかは、聞かないでおいてあげる」
「そりゃどうも」
 別に聞かれても素直に沙耶加だって答えてたけど。
「とりあえず、飯でも食うか」
「うん」
 コンビニで買ったのは、おにぎりとサンドウィッチ、それに総菜が少しと飲み物。
 こういういい天気の下で食べると、コンビニのおにぎりとかでも、いつもより美味しく感じるから不思議だ。
「こんなことなら、お弁当でも持ってくればよかったね」
「今更だろ。それに、そうするならそうするで、前もってやっておかなくちゃいけないし」
「そうだけどね」
「それともうひとつ。美樹が弁当を作るなら、それこそきっちり準備しておかないと、大変なことになる」
「むぅ、それって、私の料理の腕が信用できないってこと?」
「平たく言えば」
「私だって、お母さんやお姉ちゃんからいろいろ教わってるんだから、まかり間違っても美味しくないものなんか、作らないよ」
「だといいけど」
 実際、美樹の腕前はかなり上がってるらしい。俺はここ最近、美樹の料理を食べてないからわからないけど、そういう話だ。
「そんなに信用できないなら、今度、お兄ちゃんのために作ってあげる」
「おまえがか?」
「うん。その日は、私がお兄ちゃんのための料理は全部するの。お母さんもお姉ちゃんもお兄ちゃんのためにはなにもしないでね」
 それはつまり、保険がないということだ。
「あ〜、おまえだけ、というのはやめないか?」
「ダメ。私だけがやらないと意味がないんだもん」
「いや、でもな、全部やるのは大変じゃないか?」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんのためだと思えば、そんなこと全然」
 まあ、美樹ならそう言うとは思ったけど。
「どうせだから、お兄ちゃん」
「ん?」
「この春休み中に作ってあげるよ」
「は?」
「だからぁ、この春休み中に──」
「いや、それはわかったから。だけど、なにもこの春休みじゃなくてもいいだろ。それこそ、そうだな……一年後とか」
「ヤだ。絶対にこの春休みにする。じゃないと、意味がないもん」
「意味って……」
「美味しいの作って、お兄ちゃんをあっと言わせるんだから」
 やれやれ、こうなったらもう誰にも止められない。
「まあ、それはそれでいいや。ただし、感想にはいっさい私情は挟まないからな。当然、その比較対象が母さんであり姉貴であり愛であることは、忘れるなよ」
「うっ……」
「ま、せいぜいがんばってくれ」
「ま、負けないもんっ」
 実際、そういう風にやっていけば、確実に腕は上がる。姉貴だって最初は、俺たちに文句を言われてたし。
 まあ、愛の場合は俺に不味いものを食わせる、という選択肢が最初からなかったから、孝輔さんや愛美さんを実験台にしてから俺に食わせてたけど。
「ふう……」
 空腹を満たすと、途端にまったりとしてしまう。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「どうして兄妹で好きになっちゃいけないのかな?」
 それは、唐突な質問だった。
「たとえ兄妹だって、ひとりの人間だよ? お互いに好き同士になる可能性だってあるのに。なのに、なんでダメなのかな?」
「まあ、理屈ではそうなんだけどな。ただ、これまでの様々な経験を元にすると、兄妹間での恋愛、というよりは性行為だな。それは禁止すべきことなんだよ」
「近親相姦?」
「言葉としてはな。ようするに、親兄弟の間でそういうことをして、もし子供でもできた場合、血が濃くなりすぎて子供に障害が出る可能性が高くなるんだ。それを防ぐためにも、そういう間柄の関係は認めてないんだ」
「そのことは聞いたことがあるけど……でも、そうならない場合もあるんでしょ?」
「そりゃ、あるさ。だけど、どうなるかはわからないだろ? 親の勝手な都合で子供を大変な目に遭わせるわけにはいかないし」
「うん……」
「もちろん、兄妹で好きになるなと言うわけではないぞ。嫌いになるより、好きになる方がいいんだから。ただ、兄妹の場合は、その先がないだけだ」
 そう。俺だって美樹のことは好きだ。だけど、それは愛に対するものとは違う。
「……じゃあ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「もし、その、エッチする時にちゃんと子供ができないようにすれば、たとえ兄妹であっても、していいの?」
 確かに、さっきの俺の理由だと、それなら構わないという風にも受け取れる。
「たとえそうだとしても、しない方がいい」
「…………」
「なあ、美樹。美樹が俺のことを好きなのはわかる。誰よりも好きでもいい。それこそ、これから先、誰ともつきあわなくてもいい。だけど、そこにセックスという選択肢だけは入れるな」
「……どうして?」
「今、美樹が俺に望んでいることが俺とセックスすることだとする。仮にそれをしたとしよう。次におまえはなにを望む? 人間は、自分の願いがひとつかなうと、さらに別の願いを持つ。もしそれが、セックスよりもさらに難しいことなら、俺はあらかじめそうならないように、その前段階であるセックスもしない。そういうことだ」
 必ずそうなるというわけではないが、そうなる可能性はある。
「美樹。ここに座りな」
「あ、うん」
 俺は、美樹を膝の上に、横向きに座らせた。
「美樹は、本当にカワイイよ」
「ん?」
「美樹が俺の妹で、俺は本当に嬉しい。まあ、美樹みたいな妹を持てば、誰でも嬉しいとは思うけどな」
「…………」
「俺は、これからもずっと、美樹の兄貴であり続けたいんだ。もし、美樹とセックスしてしまったら、兄貴で居続けられないかもしれない。それだけはイヤなんだ。だから、俺を美樹の兄貴でいさせてくれ。な?」
「お兄ちゃん……」
 美樹は、俺の胸に額を押し当てた。
「……私は、死ぬまでお兄ちゃんの妹だよ。だから、お兄ちゃんはずっとお兄ちゃんなの。それだけは絶対に変わらない。だから、そのことは改めて言わなくてもいいよ」
「そっか」
「でもね、お兄ちゃん。私は妹でもあるけど、ひとりの女の子でもあるんだからね。私がお兄ちゃんのことを、ひとりの男性として見ているのと同じようにね」
「…………」
「お兄ちゃんの言いたいことはわかるし、それが一番いいのもわかるよ。でも、今の私にはそれを受け入れるだけの余裕はないの。今だって、お兄ちゃんのぬくもりを感じて、自分の想いを抑えるのに精一杯だから」
 ああ、やっぱり美樹も『女の子』なんだな。
 それはわかっていた。去年、美樹がホームステイから帰ってきてから、いつも感じていたことだ。
 妹である事実は変わらない。
 だけど、美樹は確実に幼さの皮を脱ぎ捨てている。確実に、『女』になってきている。
 だからこそ、俺の中で美樹に対する想いが複雑なのだ。
 ずっと妹として接していきたい。
 それが当たり前の感情なのだが、相反するものもある。
 恋人のように、この手に抱きしめたい。
 そういう想いもある。
「だからね、お兄ちゃん。私の誕生日にした約束。守ってね」
 そう言った美樹の顔には、迷いなど一片もなかった。
 楽観もしていないし、悲観もしていない。
 その答えが美樹にとっては当たり前なのだ。
「やれやれ……」
 俺は、それには直接答えず、ただ頭を撫でた。
 今なにかを言おうとすると、きっと、余計なことまで口走ってしまいそうだったから。
 
 見晴らし山でのんびりしたあとは、特になにも予定がなかったので、ゆっくり家に帰ることにした。
 俺も美樹も、あれからあのことは話題にしなかった。そこには、今そのことを話題にしても結論など出ないとわかっていたからでもある。
「あ、そうだ。お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃん、香織さんとなにかあった?」
「は?」
「お姉ちゃんがね、お兄ちゃんと香織さんが仲良くなってくれてよかったって言ってたから。私もそれはいいと思うんだけど、どうもお姉ちゃんの言うことだから、そのままには受け取れなくて」
 美樹にまで疑われてるぞ、姉貴。
「どうなの?」
「……そんなに気になるなら、香織本人に聞いてみたらどうだ?」
「えっ、香織さんに?」
「ああ。なんだったら、電話するぞ?」
「えっと……」
 香織のことは、下手に言うと大変なことになる。だから、ある程度の情報はあえて流しておかなければならない。
 香織なら、そのあたりの対処はできるはずだ。
「どうする?」
「……あ、じゃあ、香織さんがいいって言うなら、話してみる」
「わかった」
 携帯を取り出し、早速香織に電話する。
『はぁい、あなたの香織ちゃんでぇす』
「……切るぞ」
『ウソウソ、冗談よ』
 このあたりのノリは、間違いなく姉貴と同じだ。
『で、どうしたの? デートのお誘い?』
「残念ながら。あのさ、香織」
『うん?』
「うちの下のお姫様がさ、俺とおまえの関係を聞きたがってるんだ」
『美樹ちゃんが?』
「ああ。で、悪いんだけど、おまえから説明してやってくれないか?」
『本当のことを?』
「……アホ」
『ごめんごめん、ちゃんとわかってるから。いくら美樹ちゃんでも、そのせいで洋一と会えなくなったら、絶対に後悔するもの』
「ならいいけど。じゃあ、頼めるか?」
『いいわよ』
「なら、ちょっと待っててくれ」
 俺は、携帯を美樹に渡した。
「あの、もしもし?」
 美樹は、おっかなびっくりという感じで香織と話しはじめた。
 どんなことを話しているのかは、美樹の言葉を聞いているだけではわからない。
 まかり間違っても香織がボロを出すことはないから、その点では安心できるけど。
 しばらくすると、美樹が俺に携帯を返してきた。
「もしもし?」
『一応、それっぽいことは説明しておいたわよ。美樹ちゃんがどこまで信じたかは、わからないけど』
「サンキュ。助かったよ」
『別にこのくらいなんでもないわよ。あ、でも、お礼してくれるっていうなら、ありがたく受け取るわよ』
「それはそれで考えておくよ」
『ふふっ、できれば、朝までフルコースだと、あたしは嬉しいけど』
「……知らん」
『照れるな照れるな』
「とにかく、悪かったな、急に電話して」
『ううん、気にしないでいいわよ。あたしもちょうど暇してたとこだし』
「また電話するから」
『ええ、待ってるわ』
 電話を切る。
「で、納得できたか?」
「……なんとなくだけどね、香織さんもお兄ちゃんのこと、本気なんだね」
 が、しかし、美樹の言葉は俺の期待したものではなかった。
「確かに、香織さんはお兄ちゃんとは親友みたいなものだって言ってたけど、でもね、やっぱり違うの。香織さんのお兄ちゃんに対する話し方は、愛お姉ちゃんや沙耶加さん、真琴さんと同じだったから」
「…………」
「ただ、今はまだ、香織さんの言うことを信じてるよ。疑うところも今のところはないから」
 そう言って微笑む。
「愛お姉ちゃんに沙耶加さん、真琴さん。それに、香織さん。みんな、お兄ちゃんのいいところをちゃんと理解してくれてるんだよね。そのこと自体は、嬉しいよ。でも、やっぱり私だけのお兄ちゃんじゃなくなるのは、淋しいな」
「美樹……」
「あ、ごめんね。また余計なこと言っちゃって」
「いや、いいさ」
 無理に言わないでいると、どこかで破綻する可能性がある。なら、ある程度は口に出した方がいい。
「いつまでもここにいてもしょうがないから、行くか」
「うん」
 
 家に帰ると、姉貴はいなかった。
 どうやらどこかへ出かけたようだ。まあ、俺としてはうるさい相手がいなくて清々するのだが。
 時間的にまだ日中という時間だったので、ちょうどおやつにありつけた。
 今日のおやつは、油で揚げたせんべい。もちろん、飲み物は緑茶。
「お母さん」
「どうしたの?」
「私にも、アップルパイの作り方、教えて」
 ボリボリ、バリバリせんべいを食べていると、美樹がそんなことを言い出した。
「教えるのは構わないけど、急にどうしたの?」
「私もね、作れた方がいいと思って」
「ふ〜ん」
 母さんは、それには特になにも言わなかった。
「パイって、作るの大変?」
「最初のうちは大変かもしれないわね。特に、パイ生地をしっかり仕上げるのが」
「そうなんだ」
「あとは、どんな料理でもそうだけど、慣れという部分もあるから」
「お母さんがお菓子作りが得意なのは、やっぱり何度も作ってるから?」
「そうね。最初は自分で作れば全部自分で食べられる、という不純な動機ではじめたんだけど、そのおかげで今では結構作れるようになったから」
「そうなんだ」
 最初のきっかけなんて、実際そんなものだろう。
「でも、美樹」
「ん?」
「アップルパイを作れるようになっても、壁は高くて厚いわよ」
「どういうこと?」
「愛ちゃんがね、ずいぶんと腕を上げたから。ただ単に作るだけなら、誰の手も借りなくてもできるようになったし。あと、細かなところも、だいぶ上手になってる」
 母さんも、美樹がなんのためにパイ作りを習おうとしているのか、当然理解している。
 だからこそ、そんなことを言ったんだ。
「でも、美樹の大好きなお兄ちゃんは、美樹のと愛ちゃんのを比べるような無粋な真似は、しないと思うけどね」
 余計なことを。
「私だって、一生懸命がんばるもん」
「ええ、がんばって」
 当事者がここにいるっていうのに、どうしてこう勝手に盛り上がるのかね。
「母さんて、昔は父さんのためにあれ作ったりこれ作ったりしてたわけ?」
「ええ、してたわよ。ただね、あの人は人を褒めるのが苦手な人だから、なかなか褒めてもらえなかったけど。それでも、美味しそうに食べてくれて、残さず食べてくれただけで嬉しかったわ。それだけで、またなにか作ろうって気になれたから」
「へえ……」
「今は?」
「今も、基本的にはあの頃と変わってないわよ。あなたたちに美味しいものを食べさせたいというのと同じで、あの人にも美味しいものを食べてほしいし」
「お父さんとお母さんは、未だにラヴラヴだもんね」
「こら、親をからかうんじゃないの」
「はぁい」
 とはいえ、母さんもまんざらではない様子だ。
「でも、お母さん」
「なに?」
「たまにはお父さんに褒めてもらいたいとか、思わない?」
「思うわよ。思うけど、そういうことは強要することじゃないし。それに、二十年以上連れ添ってくると、ある程度は言葉にしなくてもわかるようになるから」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「美樹。父さんと母さんの場合は、普段あまり一緒にいられないから、世間一般の夫婦よりお互いのことを考えてるんだ」
「あら、洋一。ずいぶんとわかったようなことを言うのね」
「違う?」
「すべてが違うとは言わないけど、違うところもあるわね」
「でもさ、美樹じゃないけど、俺から見ても父さんと母さんはそこら辺の同世代の夫婦より仲が良いと思うけど」
「それは、人それぞれでしょ? それに、夫婦の形っていろいろあるのよ。おしどり夫婦という形がいい場合もあれば、普段それほど会話がなくてもわかりあえてる形がいい場合もある。結局は、そこまでに積み上げてきたふたりの時間でどういう風にも変わるんだけどね」
「なるほどね」
「まあ、洋一にも美樹にも、本当の意味ではまだまだわからないと思うわ」
 そりゃ、二十年以上も妻をやってる人と比べたら、わかるわけがない。
 でもまあ、実際、そういうものなんだろうな。
「あ、話は全然変わるんだけど」
「ん?」
「お母さんは、お姉ちゃんに和人さんという彼氏ができて、お兄ちゃんに愛お姉ちゃんという彼女ができて、どう思った?」
「どうって、嬉しかったわよ。美香にしろ洋一にしろ、私たちの自慢の娘、息子だから」
「それって、たとえば、その相手のことをよく知らなくても?」
「そうねぇ……私はふたりの目は確かだと思っているから、とんでもない人を彼氏や彼女に選ぶとは思ってなかったわ。だから、和人さんのように私のよく知らない人でも、たぶん大丈夫だって思ったくらいだし」
「そっか」
 そこまで無条件に信頼されてると、これからいろいろ大変そうだ。
「親って、そういうものなのかな?」
「さあ、どうなのかしらね」
「おじいちゃんやおばあちゃんはどうだったの? ほら、お母さんがお父さんとつきあうようになって」
「ん〜、どうだったかしら。うちはほら、みんな揃って呑気な性格だから、あまり深くは考えてなかったかもしれないわ。ただ漠然と、美保にもようやく彼氏ができたのか、くらいにしか思ってなかったかも」
「確かにそうかも。むしろ、お父さんの方がいろいろあったかもね」
「ああ、うん。確かにいろいろあったかも」
 父さんの方の家系は、真面目な性格の人が多く、母さんの方の家系は、のんびりというかおおらかというか、そういう人が多い。
 父さんと母さんもそういう性格を受け継いでるから、だからかえってよかったのかもしれない。
 まあ、父さんと母さんの性格は、俺たちにはそれほど強く受け継がれてないけど。どちらかといえば、足して二で割ったのを、それぞれ持ってる感じだ。ようするに、普通ってこと。
「……もし、だよ。もし、私が将来に渡っても、誰ともつきあわず、結婚もしないって言ったら、お母さんは、怒る?」
「どうして?」
「どうしてって……」
「それは、美樹の決めたことでしょ? そりゃ、親としては結婚して幸せな家庭を築いてくれる方が嬉しいけど、でも、それは強要していいことじゃないから。ひとりでいることが美樹にとってなによりも幸せなら、私もお父さんもなにも言わないわ」
「……そっか」
「まあ、そうじゃなくても、お父さんは美樹にはお嫁に行ってほしくないと思ってるから、それこそ諸手を挙げて喜んでくれると思うわ」
「あ、あはは……」
「ただね、美樹」
「ん?」
「その理由を、洋一にするのだけは、やめなさい」
「えっ……?」
「もしそれを理由にしても、きっと洋一は美樹を許すと思う。でも、心のどこかでは自分のせいで美樹はすべての選択肢を放棄してしまったと、思ってしまうはず。そんなの、イヤでしょ?」
「うん……」
「今はまだ洋一のことしか見えてないのかもしれないけど、これから少しずつ、まわりを見るようにしなさい。そうすれば、もう少し違ったものの見方、考え方ができるはずだから」
 本当にそれができるなら、美樹にとってはいいことだ。俺だって、そのためなら協力も惜しまない。だけど、果たして本当にそれができるのだろうか。
「まだ、結論を出す必要はないわ。ただ、たまにでいいから、少しずつそういうことを考えていけばいいの。それくらいなら、できるでしょ?」
「うん……」
 美樹は、神妙な面持ちで頷いた。
「美樹の大好きなお兄ちゃんは、たとえ美樹がどういう状況にあろうと、いつ、どこにいようと、必ずあなたを助けてくれるから。そうしてくれる相手に対して、自分はどうあるべきか、ほんの少しだけ真剣に考えてみた方がいいわ」
 母さんは、そう言って穏やかな笑みを浮かべた。
「さてと、そろそろ夕食の支度でもしましょうか。美樹、手伝ってくれる?」
「あ、うん」
 母さんと美樹は、台所へ。
 ひとり取り残された俺は、ただただため息をつくしかなかった。
 
 その夜。
 俺も美樹も風呂に入り、今は揃ってベッドに入って横になっている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「やっぱり私って、甘いのかな?」
「甘いって……ああ、夕方の母さんの話か」
「うん」
「どうだろうな。俺も人のこと言えた義理じゃないから、なんとも言えんな」
「私もね、少しはわかってるんだ。お兄ちゃんのことになると、感情的になっちゃうって。お母さんはたぶん、そういう部分をできるだけなくして、もう少し冷静に考え、行動しなさいって言いたいんだと思うの」
 なるほど、美樹もそのくらいのことは冷静に判断できてるというわけか。
「もし、だよ」
「ん?」
「もし、私とお兄ちゃんが、単なる兄妹じゃなくなったら、どうなるのかな?」
「どうなるって、そりゃ……」
 確かに、どうなるんだろうな。そうすることで誰かに迷惑でもかかれば、問題ではある。だけど、それが俺と美樹との間でだけの問題なら、世間体や倫理観はとりあえず置いといて、それほど問題があるようには思えない。
「たとえば、今ここで、私とお兄ちゃんがエッチしたとして、それで誰が困るのかな?」
 俺は困るだろうけど、美樹は困らないだろう。
「あ、うん、もちろんお兄ちゃんは困ると思うけどね。でも、お父さんやお母さんはなにか困るのかな?」
「まあ、理屈で言えばそうなんだろうけどな。でも、だからって実の兄妹でなにも考えずにセックスするのは、やっぱり問題だろ」
「……どうしても、そうなるんだね」
「それだけはな」
 やはり、そこだけは守るべきところだろう。いくら美樹が可愛くても。
「大事なことって、いったいいつわかるんだろ」
「ん?」
「私にとってお兄ちゃんがなによりも大事だってわかったのは、もうずっとずっと前のことだから。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも大好きだけど、それでも、私はお兄ちゃんさえ側にいてくれれば本当に幸せだから」
「美樹……」
「これから先、お兄ちゃんのこと以外に大事なことって、本当にあるのかな? それって、お兄ちゃんよりも大事なことになるのかな?」
「それは……わからないな」
「わからないことは、怖い。わかることは、安心」
 本当に、そうだ。
「だからね、お兄ちゃん」
「ん?」
「そんなわからないことをわかるために、私はお兄ちゃんとエッチしたいの」
 そういうことか。
「お兄ちゃん……美樹のここ、触って……」
 抵抗する間もなく、俺の手は、美樹の下半身に導かれていた。
 今日の格好もお古のワイシャツにショーツだけ。だから、触れただけで、妙に生々しい感触が伝わってくる。
「そのまま、いじってほしいの……」
「だけど──」
「今だけ……今だけだから……お願い、お兄ちゃん」
 本当に、どうしてこんなことになったんだろうか。
「美樹……」
「お兄ちゃん……」
 俺は美樹にキスをした。
「どうして俺は、いつもいつも美樹にそういう想いをさせちゃうんだろうな。本当に情けないよ」
「そんなことは──」
「その度に美樹は、そんなことはないって言ってくれるけど、俺自身納得できないんだ。俺にとって美樹は、この世でただひとりの妹で、誰よりも大切な、守っていかなければならない相手なのに」
「…………」
「そうなってしまう理由は、きっと、俺になにかが足りないからだろうな。決定的ななにかが。それが足りていれば、きっと、今みたいなことにはならなかったのかもしれない」
 それも、所詮は言い訳だな。
「本当に、いいんだな?」
「……して、くれるの……?」
「絶対に後悔しないという条件付きで」
「…………」
 この言い方は卑怯だ。
 後悔しないというのは、美樹自身のことだけじゃなく、美樹の俺に対する心情に対してもになるからだ。
 でも、それを言わなければ、後悔してからじゃ意味がなくなる。
「……お兄ちゃん、いぢわるだよ」
「そうだな」
「そんなこと言われたら、できないよ、私……」
「ごめんな……」
 俺の手をつかんでいた美樹の手から、力が抜けた。
 俺は、今にも泣き出しそうな美樹を、できる限り優しく抱きしめた。
「私は、お兄ちゃんに抱かれても絶対に後悔しないけど、お兄ちゃんはきっと、後悔しちゃうから」
 兄と妹。
 俺が兄で、美樹が妹であったからこそ、俺たちは心から信頼できる関係になっている。
 もし、俺と美樹の関係が、義理の兄妹などという三文芝居並の関係だったなら、俺もここまで悩まなかっただろう。むしろ、その方が楽だった。
 でも、それはない。絶対にない。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
 美樹は、俺の胸に顔を押しつけ、泣き出した。
 今はただ、ほんの少しでも淋しさ、悲しさ、虚しさを和らげられるように、抱きしめていよう。
 そして、できることなら、明日の朝にはいつもの美樹に戻っていてほしい。
 今は、それ以外のことはどうでもいいから。
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