恋愛行進曲
 
第十八章 本番直前
 
 一
 三月も二週目に入り、ようやく国公立大学の合格発表が行われた。これで今年度の卒業生の進路がほぼ決定する。もちろん、まだチャンスは残されているが、ほとんどの生徒はその段階でほぼどうするか決めてしまう。
 そこに至り、卒業生の担任だった先生たちは、ようやくひと段落という感じになる。
 で、俺たちの方はといえば、授業も今週いっぱいで終わり、春休みに入る。とはいえ、終業式はもう少しあとなので、微妙な感じなのだが。
 世間は、花粉の季節がピークを迎え、マスクをした人をよく見かける。うちの高校にも教師、生徒を問わずに何人もいる。
 そういう煩わしいこともあるけど、それでも季節は確実に春本番に向かっていた。
 陽は確実に暖かさを増し、日一日と色が増えてくる。
 ま、実際俺がそこまで考えていたかは、とりあえず言わないでおこう。
「それにしても、すっかり暖かくなったよな」
「そうだな」
「こう暖かくなると、なんかパーッと遊びたくなるよな」
「そうだな」
「…………」
「…………」
「なんか、おまえさ」
「ん?」
「適当に返事してないか?」
「そんなことないぞ」
「どうだかな」
 そう言って亮介は、大きく伸びをした。
「もうすぐ二年も終わりなんだよな」
「なんだ、おまえは留年じゃなかったのか?」
「……なわけあるか」
「でも、ギリギリだったんだろ?」
「ギリギリだろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいんだよ。ようは、ちゃんと進級できたということが大事なんだ」
 偉そうに。
「で、亮介。春休みはどうするつもりなんだ?」
「どうするって、そんなの決まってる」
「ほお、なにをするんだ?」
「直子とラブラブする」
「……おまえ、頭病んでるだろ?」
「んなわけあるか。俺は至って正常だ」
 そういうことを真顔で言ってる時点で、もはや終わってると思うのだが。
 ちなみに、直子というのは亮介の彼女の名前で、俺も会ったことはあるけど、こいつにはもったいないくらいしっかりした子だった。こいつのどこを気に入ったのかわからんが、とりあえず夏休みから今までその関係は続いている。
「いいか? 俺と直子がつきあいはじめてもう七ヶ月になる」
「そうだな」
「なのにだ、なぜ未だに俺は童貞なんだ?」
「は?」
「手も繋いだし、キスもした。腕だって組んで歩けるようになった。なのに、その先がまったくない。これは明らかにおかしいと思わないか?」
「いや、別に。そんなの、人それぞれだろ」
「う……それはそうかもしれんが……」
「それに、おまえだけ先走りすぎると、彼女に嫌われる可能性もある」
「ううぅ……」
「まあでも、可能性だけを論じるなら、彼女がおまえがそう言ってくれるのを待ってるという可能性もある」
「そうだ、それだ」
「まあ、待て。だけどな、たとえそうだとしても、そこでおまえが焦りすぎれば、やっぱり嫌われる可能性がある。つまりは、慎重に行動しつつ、彼女の本心を探らなければならない」
「お、おう、そうだな」
「もし、彼女もその気なら、その時にはじめて誘えばいい」
「むぅ……」
「ま、よく考えてみろ」
 中学生や高校生なんか、性欲の塊みたいなものだからな。とにかく早くやりたくてしょうがないんだ。俺だって多少はそういうところはあったし。
 ただ、そこで焦ると絶対にいい結果には繋がらない。
「ところで、洋一」
「ん?」
「そう言うおまえはどうなんだ?」
「どうって、なにがだ?」
「愛ちゃんとは、もうやったのか?」
「死ねっ」
「ぐはっ」
 俺は、容赦なく亮介を殴った。
「て、てめえ、なにしやがる」
「おまえが変なことを言うからだろうが。自業自得だ」
「どこが変なんだよ。ストレートに訊いただけだろうが」
「もう少し違う訊き方があるだろうが」
「ったく、変な奴だな」
「そりゃ、おまえだっての」
「で、実際どうなんだ?」
「さあ、どうだかな」
「なんだかんだ言いながら、愛ちゃんはおまえにベタ惚れだからな。まあ、十中八九、おまえたちはもう経験済みだな。しかも、愛ちゃんからおまえに迫った可能性すらある」
 ……こいつ、本当に変なところで鋭いな。
「だけど、おまえはずるいよな」
「なんだよ、唐突に」
「だってさ、愛ちゃんていうこの学校でも一、二を争う女の子を彼女に持ち、なおかつ愛ちゃんに唯一対抗できる山本さんとも仲が良い。加えて言うなら、優美先生や由美子先生からの扱いもほかの連中とは大きく違う。これをずるいと言わずして、なにをずるいと言うんだ?」
「んなの、おまえの勝手なイメージだろうが。それに文句言われたって、どうしようもない」
「うが〜、納得いかねぇ」
 本当にこいつはアホだ。
 それに、そういう状況がいいか悪いかは、よく考えてみればわかるはずなんだけどな。
 
「洋ちゃん」
「ん?」
「今日、洋ちゃんの部屋に行ってもいい?」
 学校からの帰り道、愛はそんなことを訊いてきた。
「別に構わんけど、なんかあるのか?」
「ん、特になにもないよ。ただ、私が洋ちゃんと一緒にいたいだけ」
 そう言ってにこ〜っと笑う。
「じゃあ、このまま直接来るか?」
「うん」
 すでに腕を絡めているけど、愛はさらに嬉しそうに頷いた。
 で、家に帰ると珍しく鍵がかかっていた。
「誰もいないみたいだ」
 鍵を取り出し、鍵を開ける。
「ただいま」
「おじゃまします」
 玄関には、誰の靴もなかった。
 美樹は学校だからいないのはわかるけど、母さんと姉貴までいないとは。
「小母さんは買い物かな?」
「たぶんな」
 いつもなら俺たちが帰ってくる頃には買い物を済ませてくるのだが、まあ、こういう日もあるだろう。
「ねえ、洋ちゃん。ちょっとお台所借りてもいいかな?」
「別にいいけど、なにするんだ?」
「ん、洋ちゃんのために、美味しい紅茶を淹れるの」
「なら、いい茶葉がある」
 俺は、愛を台所へ連れて行った。
 戸棚から俺専用の紅茶缶を取り出す。
「こいつを使ってくれ」
「これは?」
「レモンティーに最適な茶葉だ」
「そんなのあるんだ」
「まあ、厳密に言えば柑橘系の果物とあう茶葉なんだけどな」
「ふ〜ん、そういうのがあるんだね」
「あるのは知ってたんだけど、このあたりじゃなかったからさ」
「じゃあ、どこかでわざわざ買ってきたの?」
「いや、この街にも紅茶専門店があるんだ。そこで買ってきた」
 その茶葉は、以前姉貴に連れていかれた、あの店で買ったものだ。
 あのあと、俺は何度かあの店に足を運び、すっかり野々田さんとも仲良くなってしまった。ああ、野々田さんというのは、あの店のオーナーの名前だ。フルネームは、野々田知子さん。
 俺も紅茶が好きだから、紅茶好き同士、本当に話が弾むのだ。
 で、足繁く通ってるわけではないけど、今では常連のひとりに名を連ねている。
「そんなわけだから、こいつを使ってくれ」
「うん」
 愛は早速ヤカンを火にかけ、茶葉をポットに入れ、カップの準備をする。
 どこになにがあるか完璧に把握してるところは、さすがは愛というところか。
「洋ちゃんは、春休みはどうするつもりなの?」
「特にやりたいこともないけどな」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「愛は、どうするんだ?」
「私は、洋ちゃん次第。私の予定はね、全部洋ちゃんにあわせるの」
 嬉しいことを言ってくれるけど、それはどうなんだろうか。
「だからね、洋ちゃん。たとえばなんだけど、ふたりきりでどこか旅行に行かない?」
「旅行? それは、泊まりがけでか?」
「うん。あ、別に、一泊二日でいいんだけどね」
「旅行か……」
 来週から休みになることを考えれば、一泊二日の旅行くらいなら、全然問題ないだろう。
 ただ、ひとつだけ問題がある。それは、先立つものがないということだ。
 お年玉は姉貴と美樹の誕生日プレゼントで消えたし、もともと貯金があるわけでもない。いくら一泊二日の旅行とはいえ、それなりにかかるはずだ。
「まあ、俺としてもそれはいいと思うんだが、まず無理だな」
「どうして?」
「金がない」
「…………」
「日帰りならまだしも、泊まりがけとなれば、それなりに必要だからな」
「ねえ、洋ちゃん。そのお金、とりあえず私が出すということでもダメかな?」
「とりあえず?」
「うん。とりあえず私がお金を出して、あとで洋ちゃんに返してもらうの。それなら洋ちゃんも納得できるでしょ?」
「ん、まあな」
 それなら、最終的には俺も払うわけだから、確かに問題はなさそうだ。
「どうかな?」
「そうだな。そのあたりのことはおまえに任せるよ」
「いいの?」
「ああ。どうせ俺は行きたいところもないし。だったら、おまえが行きたいところに行った方がいいだろ?」
「うんっ」
 これはこれでいいんだろうな。そうすることで、愛が喜んでくれるなら。
「あ、じゃあ、二、三日中に候補地を決めておくから、洋ちゃんも少しくらいは意見を言ってね」
「わかった」
「っと、そろそろお湯が沸くね」
 沸騰寸前火を止め、ポットに注ぐ。
 お湯を入れると、茶葉が勢いよくジャンプする。これがないと、紅茶は不味くなる。
 ジャンピングが収まり、茶葉が全部底に沈んだところで、ちょうどいい状態になる。
 それをカップに注ぐ。
 あとは、レモンを輪切りにして上に浮かべる。
「さ、洋ちゃん。ホットレモンティーの完成だよ」
 カップを持って、リビングへ。
「そうだ。ちょっと待ってろ」
「うん」
 紅茶だけじゃ味気ないから、つまむもの、と。
「確かこの辺に……あった」
 戸棚の奥からお菓子を取り出す。本当はこれはあまり勝手に食べない方がいいのだが、今日は愛も一緒だから構わないだろう。
 皿を出すと洗うのが面倒だから、そのまま持っていく。
「ほら、これも一緒に」
「ありがと」
 お菓子は、クッキーとチョコケーキだった。
「でも、とりあえずは紅茶だよね」
 そう言って紅茶をひと口。
「あ、美味しい」
「だろ?」
「うん。いつものよりずっとすっきりしてるね。というか、レモンの酸味がちょうどよくしているのかな」
「そんなところだろうな。紅茶だけで飲むと、少し癖が強いから」
 この茶葉を買ってから、もうほかのレモンティーは飲めなくなった。それくらいこのレモンティーは旨いのだ。
「洋ちゃん♪」
「ん?」
「ん〜ん、なんでもないよ」
 そう言いつつも、愛は俺に寄り添ってくる。
「そういえば、洋ちゃん。最近、夜とか部屋にこもってなにかしてるって聞いたんだけど、なにしてるの?」
「別になにもしてない」
「ウソ。美樹ちゃんが言ってたもん。最近、お兄ちゃんが冷たいって」
 あのブラコン妹は……
「だから、なにをしてるのかなって。今はテスト期間中じゃないから、勉強ってことはないだろうし」
「……そう決めつけられるのも、なんだかな」
「だったら、なにしてるの?」
「だから、なにもしてないって」
「隠しておかなくちゃいけないことなの?」
「……おまえ、信じてないだろ?」
「うん」
 ……即答するな。
「はあ……」
 美樹がそのことに不満を持っていることは知っていた。だけど、それを愛にまで話していたとはな。
「確かに、俺はあることをしてる。だけど、それを今言うわけにはいかない」
「どうして?」
「どうしてもだ。ただ、俺がなにをしてるかは、すぐにわかる」
「そうなの?」
「だから、とりあえず気にするな」
 俺がやっていることは、別に知られて困ることでもないのだが、ここまで隠してきたのだから、最後まで隠し通したいだけなのだ。
「洋ちゃんがそう言うなら、とりあえず気にしないであげる」
 実際、すぐにわかることだから、駄々をこねられることもないだろう。
 それから紅茶とお菓子を食べ、場所をリビングから俺の部屋に移す。
「それっ」
 部屋に入るなり、愛は俺のベッドにダイブした。
「……なんでベッドに飛ぶんだ?」
「飛びたかったから」
 身も蓋もない答えだ。
「ったく、おまえにしろ美樹にしろ、どうしてこうもわかわからんことをするんだか」
「たぶん、私も美樹ちゃんも同じだからだよ」
 なにが同じなのかは、とりあえず訊くのはやめよう。
「それと、スカートの時にそれはやめとけ」
「洋ちゃんしかいないんだから、大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないだろうが。それに、普段からそういうことしてると、気付かないうちに変なところで出るぞ」
「ん〜、そうかもしれないけど」
 言いながら、少し乱れているスカートの裾を直す。
「でも、この誘惑には負けちゃうんだよ」
 枕に顔を埋め、嬉しそうに言う。
「そんなことしてると、その姿を絵にするぞ」
 俺は、カバンの中からスケッチブックを取り出す。
「あ、ダメ」
 愛は、慌ててベッドの上に起き上がる。
「むぅ、洋ちゃんいぢわるだよぉ」
「なにがいぢわるだ。人のベッドを勝手に占領してるくせに」
「じゃあ、洋ちゃんも一緒に使えばいいんだよ」
「そういう問題か?」
「そういう問題なの」
 やれやれ、相変わらずの理論だ。
「ね、洋ちゃん」
 猫なで声で、俺を誘う。
「ったく……」
 悪態を付きつつも、それを拒めない俺。
 愛の隣に座り、そのまま肩を抱く。
「やっぱり、私の居場所は洋ちゃんの側にしかないんだよ」
「なんだ、藪から棒に」
「ん、こうやって洋ちゃんを感じられる場所にいる時が、一番安心できるから。ほかの誰といてもそんなことはないのに、洋ちゃんだけは特別だから」
「そんなもんか」
「うん、そんなもんだよ」
 まあ、それは俺にも言えることだけど。ただ、それを今ここで素直に認めてしまうわけにはいかない。少なくとも、沙耶加とのことにきっちり結論を出すまでは。
「だからね、洋ちゃん。絶対に、絶対に私を離さないでね? 私、洋ちゃんに捨てられたら、本当に生きていけないんだから」
 あまりにも大げさで、あまりにも突飛な言い方だが、同時にそれは事実でもある。こいつは、そういう奴だ。
 ずっと一緒にいて、それはよく理解している。
「心配するな。二度も告白した相手を、そうやすやすと手放すわけがないだろうが」
「うん」
 そのまま愛を抱きしめ、キスをしながら押し倒した。
「洋ちゃん……」
 髪を撫でながら、キスを繰り返す。
「ん、気持ちいい……」
 次第に、愛の頬が上気してくる。
 制服の上から胸に触れる。
「ん」
 愛は、一瞬体がビクンと反応した。
 制服の上からでも十分にその柔らかさは堪能できるのだが、如何せん物足りない。
 やっぱり直に触る方が何倍も気持ちいい。
 そう思って制服を脱がそうと思ったら──
『ただいまぁ』
 階下から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「や、ヤバイ……」
 俺は、慌てて愛から離れ、気持ちを静める。
 愛も、制服の乱れを直す。
 と、少ししてドアがノックされた。
「お兄ちゃん、ただいま」
「お、おう、おかえり、美樹」
「美樹ちゃん、おかえり」
「あ、やっぱり愛お姉ちゃんだったんだね」
 帰ってきたのは、やっぱり美樹だった。
 というか、この時間だから、帰ってくるのは当然だ。俺も愛も、そんなことすっかり忘れていただけだ。
「お母さんは?」
「買い物だろ」
「そっか。珍しいね、この時間に帰ってきてないなんて」
「そうだな」
 美樹は、特に俺たちのことをいぶかることもなく、そのまま自分の部屋に戻っていった。
「はあ……」
「さすがにびっくりしたね」
「誰もいないからって調子に乗ってると、こういう目に遭う。教訓だな」
「もう少し気をつけないとね」
 俺たちの関係がそういう関係であっても、さすがに人目もはばからずするわけにはいかない。それは家族でもそうだ。
 それからすぐに母さんも帰ってきた。どうやら、都心のデパートまで買い物に行っていて、それでいつもより遅くなったらしい。抱えるほどの荷物を持ってきたし。
 母さんと美樹が愛を夕飯に誘ったけど、愛はそれを断った。まあ、愛の家は家族三人だから、誰かひとりでも欠けてしまうと食事が味気ないものになってしまう。だから、前もって言ってない時は、よほどのことでもない限り、愛はその申し出を断っている。
 で、陽がだいぶ地平線の向こうに沈んだ頃、俺は愛を家まで送っていた。
「ねえ、洋ちゃん。あの時、美樹ちゃんに気付かないでそのまま続けていたら、どうなってたかな?」
「……そんなこと、恐ろしくて考えたくもない」
「美樹ちゃんて、そんなに怖いの?」
「まあ、美樹は美樹でなにをするかわからないけど、それよりもなによりも、それが姉貴に伝わったら、もう俺はこの街から逃げ出すしかない」
「あはは、美香さんなら、本当にそれくらいのことしそうだよね」
「笑いごとじゃないって」
「でもね、洋ちゃん。もう少しあとで美樹ちゃんが帰ってきてたら、私、きっと止められなかったと思うよ」
「それは……」
 たぶん、俺もそうだろうな。
「だから、今日は運がよかったということで」
「ま、そうだな」
 本当に、間一髪のところだったからな。運がよかったんだろう。
「あ、でも、洋ちゃん。私は、さっきの続きをしても全然いいよ。というか、むしろしてほしい」
「してほしいって、無理だろ」
「無理じゃないよ。洋ちゃんが、うちに泊まればいいだけなんだから」
「泊まるって、それは……」
 一瞬、それもいいかなと思ってしまった。
「ね、洋ちゃん。今日、泊まっていかない?」
 俺の腕を取り、上目遣いで誘ってくる。
「……まあ、泊まりたいのはやまやまなんだが──」
「じゃあじゃあ──」
「悪いが、今日はやめとく」
「ええ〜っ、どうして?」
「やることがあるからだよ。それを放ったままにしてはおけないからな」
「むぅ……」
「ほら、おまえにだってやることはあるだろ?」
「やること?」
「旅行の候補地選び」
「あ……」
「だから、今日はな?」
「ふう、しょうがない。今日はいいよ。でも、洋ちゃん。今度は、ちゃんと泊まって私を可愛がってくれないと、泣いちゃうからね」
「へいへい、肝に銘じておくよ」
「うん」
 まあ、泊まるのも今やってることが終わるまで無理なんだが、それは言わないでおこう。
「それじゃあ、洋ちゃん。また明日」
「おう」
 そして、俺は森川家の外で愛を見送った。
「さてと……」
 愛との約束があるからというわけでもないけど、やることはやってしまわないとな。
 
 二
 三月十二日。
 長かった授業もようやく昨日で終わり、晴れて春休みを満喫できる状況となった。
 とまあ、普通ならそうなのだが、あいにくと今日だけはそういう気にはならなかった。
 なぜかといえば、今日は、和人さんの家族が揃ってうちに来る日だからだ。
 姉貴の話だと、和人さんの両親と妹の香織さんは、昨日からすでにこっちの方に来ているらしい。まあ、十分日帰りできる場所に住んでいるのだが、時間を有効に使うために、前日から来たということだ。
 で、今日は、午前中からうちへ来ることになっていた。
 うちの方は、たまたま父さんもいたから、家族全員が揃っていた。
 姉貴は、彼氏の家族に無様な格好は見せられないと、母さんに代わって陣頭指揮を執り、家の掃除や片付けを積極的に行っていた。
 俺と美樹にとっては、そこまで重要なことではないから、いい迷惑なのだが。
 すべて準備が整ったところで、それにあわせたかのように、和人さんたちがやって来た。
「今日は遠いところをわざわざお越しいただいて」
「いえいえ、こちらこそ家族揃って押しかけてしまって」
 客間に四人を通し、早速挨拶。
 和人さんの両親は、父親の芳人さんに母親の佐織さん。芳人さんは、和人さんとは似ても似つかないほど、がっしりとした人だった。あとで聞いた話だと、学生時代にラグビーをやっていたらしく、今でも体を動かすのが趣味ということらしい。
 佐織さんは、とても快活な人で、どことなく姉貴を思わせるところがあった。
 ふたりとも気さくな人柄で、うちの父さんと母さんとも、すぐにうち解けていた。
 で、問題の香織さん。
 客間に呼ばれ、最初に見た時の印象は、まさにクールビューティーだった。
 あの写真よりも髪はもう少し茶色に近かった。あと、髪はセミロングで、特に長いというわけでもなかった。
 萌葱色のロングスカートに、薄いピンクのブラウス、クリーム色の上着という格好。
 見た目は、別に年を取ってるというわけでもないけど、少なくとも二十歳くらいには見えた。だけど、これで俺とひとつしか違わないというのだから、その一年間の差はとてつもなく大きいということだ。
 とりあえずそれぞれにそれぞれの家族を紹介し、簡単な挨拶を済ませる。
 まだお昼には早い時間だったので、お茶とお菓子で話をする。
 だけど、当然のことながら、大人と子供では話があうわけもない。
 程なくして、大人四人と子供五人は別々に。
 俺たちは、リビングに場所を移した。
「とりあえず、親連中はあのままでいいわね」
「そうだね」
 姉貴と和人さんも、やっぱり親同士の話には退屈していたらしい。
「あの、美香姉さん」
 と、それまでほとんど話していなかった香織さんが声を上げた。
「ん、どしたの?」
 というか、香織さんには『美香姉さん』て呼ばれてるのか。
「えっと……」
 香織さんは、なにか言いたそうな顔で俺を見る。
「ああ、別にいいわよ。こいつにも香織ちゃんのことは話してあるし」
「そうですか」
「香織。洋一くんに迷惑かけるんじゃないぞ」
「兄さんは、ひと言余計なの」
 そう言って舌を出す。
 う〜ん、確かにこういう姿を見ると、見た目とのギャップを感じてしまう。
「洋一くん」
「あ、はい」
「少し、お話ししない?」
「別にいいですけど」
 断る理由もなかったから、頷いた。
「それじゃあ、どこか話せる場所に移動しましょ」
 で、俺に部屋に場所を移す。
「へえ、ここが洋一くんの部屋なんだ」
 香織さんは、物珍しそうに部屋を見回す。
「とりあえず、座ってください」
「あ、うん、ありがと」
 香織さんは、言われるままテーブルのところに座った。
「あ、そうだ。話をする前にひとつだけ」
「なんですか?」
「それ。その敬語。それ、やめない?」
「えっ、でも……」
「あたしの方が年上だからだと思うけど、それもひとつしか違わないんだから、そういう堅苦しいのはなし。OK?」
「はい……あ、いや、わかった」
「よろしい」
 そう言って笑った。
 だけど、香織さんは本当に綺麗な人だ。綺麗さだけで言えば、由美子さんにも匹敵するかもしれない。
「でも、なるほどね。確かに美香姉さんの言ってた通りかも」
「姉貴はなんて?」
「ん、それはヒミツ。ああ、だけど悪口とかは言ってなかったから」
 あの姉貴が悪口を言うとは思ってないけど、果たしてなにを吹き込んでるのやら。
「それで、美香姉さんはあたしのことはなんて?」
「そんなには聞いてないよ。美人で頭が良くて、話せるって」
「ふ〜ん、定石通りの説明か。美香姉さんらしくもない」
 美人と形容されても、その反応か。ある意味、ちゃんと自分のことを自覚してるんだろうな、この人。
「兄さんからは、なにか聞いてる?」
「いや、和人さんからなにも。まあ、その和人さんが姉貴に言ったことを又聞きしてるけど」
「それって?」
「ん〜、言ってもいいのかな」
「問題なし。問題ある内容だったら、あとで兄さんをいびり倒すだけだから」
「は、はは……」
 この兄妹。実は妹の方が強いのか。
「とりあえず、聞いたことはふたつ。ひとつは、香織さんは猪突猛進型だということ」
「うん」
「もうひとつは、見た目とのギャップがありすぎる、って」
「それはそれで間違ってないと思うけど、どういう会話の流れでそれを聞いたの?」
「いや、それは……」
 さすがにそれを言うのははばかられる。
「ギャップに関しては、まあ、あたしのことを説明する時に出てきたとしても、もうひとつの方は、普通は出てこないと思うけどね」
 鋭いな。さすがは姉貴をして頭が良いと言わせる人だ。
「まあ、いいわ。今日会ったばかりなのに、いきなり根掘り葉掘り聞くのも問題だしね」
 とりあえず、解放されたのかな。
「ああ、もうひとつだけいい?」
「ん?」
「呼び方。くん付け、さん付けなんて、堅苦しいと思わない?」
「いや、まあ、そうかもしれないけど」
「それにさ、どう考えたってあたしたちは将来、『家族』になるわけじゃない。なのに、他人行儀な呼び方はどうかと思うのよ」
 家族って、姉貴や和人さんは、そこまで話していたのか。
「どんな風に呼ばれたい?」
「別にどんな呼び方でも構わないけど」
「ふ〜ん、じゃあ、洋ちゃん、とかでも?」
「ああ、できればそれはやめてほしい」
「どうして?」
「そう呼ばれてるから」
「誰に?」
「彼女に」
「…………」
 一瞬、眉毛が動いた。
「そう言われると、意地でもそう呼びたくなるのよね」
「いや、だから、それはできれば……」
「そう? あたしは全然気にしないんだけどなぁ」
 結局、俺の呼び方は呼び捨てになった。
「で、洋一はあたしのこと、なんて呼ぶの?」
「普段はどんな風に呼ばれてるの?」
「家族は、呼び捨て。友達も基本的には呼び捨てね。あとは、たまにふざけて『かおりん』とか呼ばれることもあるけど。ほら、あたしの名前って変えにくいのよ」
「確かに。じゃあ、俺も普通に呼び捨てにさせてもらうよ」
「そうね。それが無難かも」
 なんか、まだそれほど話してないのに、えらく疲れてる。
「ところで、洋一。今さっき出てきた彼女のことなんだけど、写真とかないの?」
「写真? あるけど、見たいの?」
「もちろん」
 即答かよ。
「ちょっと待って」
 俺は、クローゼットからアルバムを取り出した。
「これ」
「どれどれ」
 アルバムの中の、比較的最近の写真を見せる。
「……なるほど。この子か」
 香織は、食い入るように写真を見ている。
「そんなに気になる?」
「気になるわよ」
 またも即答。
「あれ、こっちの子は?」
「ん?」
「ほら、こっちの髪の長い子」
「ああ、クラスメイトだよ。親友、という感じかな」
「親友、ねぇ……」
 俺に聞いてきたのは、沙耶加のことだ。俺が親友と説明しても、信じてないようだ。
「ひょっとして、洋一って、モテる?」
「さあ、俺の口からはなんとも」
「そうね。そういうことは自分で言うことじゃないわね。いいわ、このことはあとで美香姉さんに訊くから」
「…………」
 なんか、かなり誇張して説明されそうだ。
「美香姉さんがね、洋一とこの子とのことを、いろいろ話してくれたの。まあ、基本的にはどれだけ自分の弟が自慢の弟かって話だったんだけどね。それで、その話を聞いてるうちに、ふたりがどれだけお互いのことを想ってるかってわかったわ。それでね、洋一のことも、この子のこともすごく気になって」
「なるほど、そういうことか」
「なになに、あたしが洋一に気があるんじゃないかって思った?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そこまでのことはないけどさ。ただ、会ってそうそうにあれだけ聞かれれば、いろいろ考えるのは当然だと思う」
「かもしれないわね」
 確かに疲れる相手だけど、話すのはイヤじゃない。むしろ、レスポンスもいいから、会話は弾むし、話しやすい。
 それに、表情が豊かだから見ているだけでも飽きない。まあ、もともとこれだけの美人だから、見ているだけでも十分なのだが。
「洋一は、美香姉さんの彼氏にうちの兄さんがなった時、どんな風に思った?」
「話を聞いた時は、ようやくかって思ったくらいかな」
「それって、どういう意味?」
「姉貴は、高校を卒業するまでずっと自分のことは後回しだったからさ。俺や美樹がいたからなんだけど、それでも、さすがにそろそろ自分のことを優先してもいいと思ってて。で、去年やっと彼氏ができて、俺も美樹もひと安心したわけ」
「へえ、美香姉さんて、そういう人だったんだ」
「まあね。で、はじめて和人さんに会った時には、ああ、この人なら姉貴を任せても大丈夫だって思った」
「はじめて会ったのに?」
「ああ、もちろん会っただけでそう思ったわけじゃないよ。その時にふたりだけで話をして、それでそう思ったんだ」
「ふ〜ん、なるほど」
「そう言う香織は? 姉貴が彼女だって聞いて、どう思った?」
「朴念仁の兄さんにも、ようやく春が来たって思ったわよ」
「……そりゃ、なんともストレートな感想で」
「兄さんてさ、素材は悪くないんだけど、普段からあまり見た目とか気にしないから。それに、女性の心理とかにも疎いから、まともにつきあってきた人もいなかったし。なのに、美香姉さんみたいな最高の女性を彼女にして、不肖の妹としても、素直に喜んであげたわよ」
「香織って、ひょっとして姉貴のこと、尊敬してる?」
「してるわよ。だって、美香姉さんみたいな女性って、そうそういないもの。あたしもあんな女性になれればいいって、本気で思ってるし」
 だから『美香姉さん』なんだな。
「四月からは大学も同じだし、ますます楽しくなるわ」
「あれ、香織の大学って、姉貴と同じなの?」
「そうよ。知らなかったの?」
「いや、合格したっていうのは聞いてたけど」
「別に兄さんが行ってるから受験したわけじゃないんだけど、結果的にはよかったと思ってるわ」
 姉貴と同じ大学ということは、本当に頭が良いんだな。
「学部は?」
「ん、法学部法律学科」
「……将来は?」
「日本屈指の敏腕弁護士」
「お見それしました」
 そこまで言い切れるとは、たいしたものだ。
 でも、実際それくらいの気構えがないと、やっていけない職業かもしれないな、弁護士なんて。
「あたしのことはとりあえずどうでもいいけど、兄さんには美香姉さんみたいな人が必要なのよ。やろうと思えばなんでもできる人なんだけど、やろうと思わないところが欠点だから。そんな消極的なところを美香姉さんは引っ張ってくれるから」
「それは、姉貴にとっても同じだよ」
「そうなの?」
「姉貴ってさ、見た目ほど強くないから。それに、今までずっと俺や美樹の面倒ばかり見てきて、誰かに依存するってことがなかった。本当は誰かに依存したくてしょうがなかったのにさ。でも、和人さんという彼氏ができて、やっと依存できるようになった。そういう意味でも、俺は安心できたんだ」
「兄さんも、それくらいには役に立ってる、というわけか」
「十分すぎるくらいに」
 結局、姉貴と和人さんは、お互いに欠けていたものを補える相手を見つけたということだ。だからこそ、今ではもうずっと前からつきあっていたかのように、お互いを理解できている。
「ということは、ふたりは出逢うべくして出逢い、そして、これからも一緒に歩んでいくってことか」
「さあ、そういう運命論はわからないけど、今を見ていれば、そういう考え方もできると思うよ」
「なるほどねぇ」
 しかし、まさか和人さんの妹とはいえ、初対面でここまで話をするとは思わなかった。
「兄さんと美香姉さんが一緒になったら、あたしたちは義理とはいえ、姉弟になるのよね?」
「まあ、一応」
「あたしには兄さんがいるから、義理の姉ができるのはわかってたけど、まさか義理の弟と妹ができるとは思ってなかったわ」
 それは俺も同じだ。
「しかも、ちょっと友達にも自慢できそうな弟だし」
「……俺は、見せ物じゃないぞ」
「あはは、それはわかってるって。ただ、それくらいあたしの理想に見合った弟ってことよ。実際、洋一を連れて友達に会いに行ったら、なに言われるかわかったもんじゃないもの。さすがにそれは勘弁してもらいたいし」
 確かに、いきなり『弟です』なんて連れてこられても、困るしな。
 それに、香織の友達というからには、やっぱりそれなりのメンツが揃ってるわけだろうし。俺としては、そんな危険地帯に出向くのはご免被りたい。
「あ、でも、虫除けにはちょうどいいかもしれないわね」
「虫除け?」
「ほら、あたしってこんなじゃない? 別に自慢してるわけでも、おごってるわけでもないけど、ひとりだけで街を歩いてたりすると、結構声かけられるのよ。でも、そこに洋一がいてくれれば、よほどのことでもない限りは、声かけてこないでしょ?」
「まあ、確かに」
 少なくとも、俺たちが一緒に歩いているのを見て『姉弟』だと思う奴はいないだろう。
 そうすれば、確かに虫除けの効果は抜群かもしれない。
「そうだ。ねえ、洋一」
「ん?」
「洋一は携帯、持ってる?」
「携帯? いや、持ってないけど」
「そうなの? 珍しいわね」
「俺のまわりは、ほとんど持ってないから、特に困らない」
「それは、さらに珍しいわね」
 確かに珍しいな。でも、今のところは持ってなくても困ってないし。
「じゃあさ、これを機会に携帯持たない?」
「どうして?」
「それは、ほら、あたしといつでも連絡取れるように。あたしも四月からは家を出てひとり暮らしをはじめるから、連絡は携帯の方が便利なのよ」
「別に持つこと自体は構わないけど、金を払うのは俺じゃないしなぁ」
 今の小遣いで携帯を持つのはかなり厳しい。となると、必然的に父さんに払ってもらうことになる。
「だったら、家族みんなで携帯持てば? ほら、今は家族割りとか結構充実してるから、一緒だと割安になるわよ」
「まあ、一応聞いてみるだけ聞いてみるよ」
「うん、そうして。で、携帯を持てたら……はい」
 そう言って俺に一枚の紙を渡してきた。
「これがあたしの番号。メルアドも書いてあるから」
 確かに、十一桁の携帯の番号と、メールアドレスが書いてある。
「せっかくこうして知り合えたんだから、それを無為なもので終わらせたくないし」
 一期一会、ということか。
「洋一からの電話なら、いつでもOKだから」
 そう言ってにっこり笑った。
「その代わり、あたしも洋一に電話するけどね」
 まあ、携帯を持てるかどうかはまだわからんけど、持てたら持てたで、大変そうだ。
「ん〜、まだお昼までは時間あるわね。せっかくアルバムを見せてもらってるから、もう少し洋一のことを聞かせてもらおうかしら」
 なんとなくだけど、姉貴がふたりになったような気がした。
 
 ある程度は予想できたことだけど、うちの父さんと母さんも、和人さんの両親もすっかり意気投合していた。まあ、高村家と同様に笠原家も女性陣が強いみたいだから、佐織さんが気を許してしまえば、あとはなし崩し的に、という感じだろう。
 昼食の時には、まるで何年来かの友人のように和気藹々と話が弾んでいた。
 四人の親が、姉貴と和人さんがどこまで本気で一緒になろうとしているのかを知っているのかどうかわからないけど、お互いを理解するのはいいことだ。
 で、俺の方はといえば、たかだか一時間やそこらで香織と呼び捨てにしあう仲にまでなっていたことに関して、姉貴からいろいろ言われた。もちろん、和人さんの両親も一緒だったから、いつもみたいに執拗な攻撃にはさらされなかったけど。
 結果的にひとりだけ蚊帳の外になってしまった美樹は、あからさまなことはしなかったけど、かなり不満そうだった。俺としては、そのまま蚊帳の外でいてもらった方が安心なのだが、姉貴と香織が相手では、それは百パーセント無理だ。
 この三人が手を組んで俺や和人さんで『遊ぶ』ことは、火を見るよりも明らかだ。
 それを考えると、どうしてもため息が出る。
 昼食が終わると、親たちはまた話に花を咲かせた。
 午後は美樹の相手をしてやろうと思っていたら──
「洋一。あんた、ちょっと香織ちゃんと買い物に行ってきて」
 いきなり姉貴にそう言われた。
 なんで香織と一緒なのかは、まあ、おおよそ予想がつく。
 香織はどちらでもよさそうな表情で、美樹は明らかに不満そうな表情で、その姉貴の言葉を聞いていた。
 そして、なぜか俺は香織と一緒に買い物に出ることになった。
「ったく、姉貴も余計なことばかり言いやがって」
「あら、あたしと一緒じゃ不満なの?」
「それとこれとは別。それに、香織はお客なんだから、そのお客に買い物に行かせる神経がわからん」
「いいじゃない、別に。あたしは気にしてないもの」
 あっけらかんと言う。
 確かに、家でじっとしてても退屈だし、こうして外にいる方がいいのかもしれないけど、なんか複雑だ。
 買い物先は、商店街にある和菓子屋。そこで適当な和菓子を買ってこいとのこと。
 お茶菓子なら山のようにあるのだが、姉貴はそれでも買ってこいと言った。俺としても下手に言い争う気は毛頭なかったので、とりあえず言うことを聞いたのだ。
「そういえば、美香姉さんからあたしのことをいろいろ聞いてるってことは、あたしの現状も知ってることよね?」
「現状?」
「そ。たとえば、今、彼氏がいない、とか」
 そう言って意味深な笑みを浮かべる。
「まあ、聞いてるけど」
「美香姉さんならそれは必ず言うとは思ってたけど、やっぱりね」
「そういうのって、勝手に言われても平気なわけ?」
「なんで? 別に困らないんだから、いいじゃない」
「そりゃ、そうかもしれないけど。でもさ、姉貴の言い方だと『今』はいないってことでしょ。今までいなかった、ということじゃない。それってつまり──」
「うん。去年の十月だったかな。別れたわよ」
「…………」
 俺が言葉を選んで言おうとした矢先に、香織が言葉を挟んできた。
「最初は悪い奴じゃないと思ったんだけどね、つきあってみたらどうしようもない奴で、結局こっちから別れてやったわ」
「そ、そう……」
 自分のことをそこまで言えるというのは、ある意味たいしたものだ。
「別に理想が高いってわけじゃないんだけど、どうもあたしのまわりにはあたしが認められる相手がいないのよね」
 実際、香織のことを好きな奴がいても、この性格のことを知った途端に、夢から覚めてる場合もあるだろうし。そういう奴は間違いなく香織の理想からは外れる。
 そういう意味では、結構損をしてるのかもしれない。
「兄さんは、とりあえずその性格を直せって言うんだけど、そんなの今更よね。十八年間ずっとこの性格で生きてきたんだから。それを今更直すなんて、できっこないわ」
「じゃあ、香織としては、今のままの自分を受け入れてくれて、なおかつ香織が認められる相手を探してる、ということ?」
「そういうこと。でもねぇ、そういう人ってなかなかいないのよ。あたしを彼女にしたら、絶対に自慢できるのに」
 自慢はできるだろうけど、その男にとってはそれが幸せなのかどうか。
「あ、でもね、ひとり見つけたのよ」
「そういう相手?」
「うん」
「香織から認められた相手か。どんな奴?」
「そうね、まず、このあたしとちゃんと話ができる。多少気を遣っても、変なところで気を遣わない。それと、あたしのことを必要以上に意識してない」
「……それって、本当にいいのか?」
「それくらいじゃなきゃ、ダメなのよ」
「なるほどね」
 だけど、そういう相手がいるなら、姉貴のお節介も無駄になるな。
「ただねぇ、ひとつだけ問題があるのよ」
「問題? どんな?」
「そいつにはね、彼女がいるのよ」
「彼女持ちかよ」
「で、またそいつと彼女はこれ以上にないくらいに仲が良くて」
「じゃあ、あきらめるしかないんじゃないか?」
「ノンノンノン。なにも言わずに白旗揚げるなんて、そんなのあたしの哲学に反してるわ。たとえどんなに困難な状況でも、最善を尽くす必要があるのよ」
「それは一理あるかも」
「でしょ?」
 恋愛についてなら、それもありかもしれない。ダメだとわかっていても、自分の想いを伝えるのは、大事なことだ。
「じゃあ、近いうちに告白するわけ?」
「うん」
 そういうことをなんの気負いもなく言えるのは、すごいことだ。
 それは結局、絶対に後悔だけはしない、という信念に基づいて行動してるからなんだろうな。
 俺も、そのあたりは見習いたい。
 やがて、商店街にある和菓子屋に到着した。
 せっかく香織が一緒だったので、なにを買うかは、香織に決めてもらった。香織は甘いもの全般が好きらしく、結構楽しそうに選んでいた。
 そういう姿を見ていると、年齢相応の女の子という感じがする。
 それなりの数の和菓子を買い、俺たちは来た道を引き返す。
「ねえ、洋一。少しだけ、寄り道していかない?」
「寄り道? 別にいいけど、どこへ?」
「ほら、来る途中に公園があったでしょ?」
「ああ、うん」
「あそこに」
 そういうわけで、俺たちは途中にある公園に足を踏み入れた。
 そこはどこにでもある児童公園で、それほど大きいものではない。
 遊具のまわりでは、小学生くらいの子供とその親が遊んでいる。
「よっと」
 俺たちは、揃ってベンチに座った。
「すっかり暖かくなったわね。もう冬のコートもいらないくらい」
「確かに」
「でも、そういうことを言ってると、急に寒くなったりするから、この時期はイヤなのよ」
「それも確かに」
「だけど、基本的に春は好きよ。こう、世の中に色が戻ってくる季節って感じがするから。冬の間はどこかくすんでいた世の中が、春になって一気に鮮やかに色づく。もちろん、冬があるからこそ春のそういう部分が際立つんだけど、それでもあたしは春の方が好き」
 そう言って香織は、空を見上げた。
 少しだけ雲が出ているけど、とてもよく晴れていた。
「それに、春は出逢いの季節でもあるし」
「別れの季節とも言うけどね」
「出逢いがあるから別れがある。別れがあるから出逢いがある。出逢いと別れは、表裏一体だから」
「じゃあ、さしずめ今日の俺と香織の出逢いは、その春の出逢いになるのかな」
「そうね。そう思うわ。そして、それはきっと──」
 一瞬、強い風が吹いた。
 その風が、香織の髪を乱暴になぶった。
「運命の出逢い、なのよ」
「運命?」
「そう、運命」
 香織は、軽い動作で立ち上がった。
 ロングスカートを翻らせ、クルッと俺の方を見る。
「今までね、あたしは運命なんて言葉は好きじゃなかった。なんか、自分の力ではなにもできない言い訳にしか聞こえなくて。でも、今は少しだけ認めてもいいと思ってる」
「……どうして?」
「だって、あたしはあなたに一目惚れしてしまったから」
「…………」
「そして、一目惚れは、まさに運命の出逢いだから」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
 だけど、それもすぐに頭が理解してしまった。
「あたし、洋一のこと、好きよ」
 そして、告白された。
「……冗談?」
「こんなこと、冗談なんかで言えないわ」
「あ〜、えっと……」
「ま、普通はそういう反応よね」
 なんて言えばいいかわからない俺に対し、香織は実に落ち着いていた。
「今日会ったばかりの相手に、いきなり告白なんかされたら驚くわよ」
「それはそうかもしれないけど……」
「でもね、本気よ。あたし自身でも不思議に思ってるけど、今まで写真でしか見たことなかった相手を好きになり、今日実際会ってからわずかな間でそれを確信した。こんな、今時ドラマにもならないようなことが本当にあるんだって。そう思う」
 香織が本気なのは、その顔を見ればすぐにわかる。
 俺も、今までに何度か告白されてきたけど、その時の相手の顔と同じなのだ。
「ただ、それよりも不思議なのが、よりにもよってどうして彼女がいるあなたを好きになったのかってこと。彼女がいる時点であたしの負けは決まってるのにね」
 俺にはなにも言えない。
「とりあえずさ、返事、聞かせてくれない?」
「…………」
 返事、か。
「……悪いんだけど、どちらとも答えられない」
「どちらとも? 断るんじゃなくて?」
「確かに、普通だったら断るべきなんだろうけど、それって、フェアじゃないんだよ。香織は俺のことを好きになってくれたけど、俺は香織のことをどっちとも思えていないから」
「それって、ようするに好きか嫌いかわからないから、答えられないってこと?」
「そういうこと。まあ、現時点で嫌いになる要素はないから、そっちで断ることはないけど。ただ、これから好きになったとしても、その好きがどんな好きになるのかは、わからないけど」
「……なるほどね」
「ああでも、できれば普通の『義姉弟』でいたいんだけどね、俺としては」
 それがこれ以上事態をややこしくしないためでもある。
「あ〜あ、なんか本気で悔しいわ」
「は?」
「だってさ、洋一って間違いなく今までで一番あたしの理想に近いのに、でも、もうあたしには手の届かないところにいるから。しかもさらに悔しいのが、これから先、家族としてつきあうことになるわけだから、会う度にそれを思い知らされる」
「いや、まあ、そうかもしれないけど……」
「いっそのこと、割り切っちゃおうかしら」
「割り切るって?」
「ん、ほら、不倫とか愛人とか」
「…………」
 どうして俺のまわりにはこういう人たちが多いのだろうか。
 というか、これは俺への嫌がらせですか?
 というか、このままだとますます愛に対する秘密が増えるんだけど。
 それがバレた時、どうなるか……考えただけでも恐ろしい。
「じゃあ、そろそろ行きましょ。あんまりのんびりしてると、なに言われてるかわからないから」
「いや、和人さんはそういうこと言わないだろ」
「そうでもないのよ。兄さん、美香姉さんにだけはなんでも話しちゃうから」
「あ〜、それはなんとなくわかる気がする」
「そういうわけだから、行きましょ」
 まあ、とりあえず、俺と香織の関係は、当分はこのままということで。
 
 家に帰ると、さすがにそろそろ限界の美樹が、人目もはばからずくっついてきた。
「美香姉さんから聞いてたけど、ここまでだったとはね」
 で、案の定香織は意味深な笑みを浮かべて俺たちを見てるし。
「むぅ……」
 というか、威嚇するな、美樹。
「ねえ、香織ちゃん」
「なんですか?」
「首尾はどうだった?」
「一歩前進、一歩後退、という感じですね」
「なるほど」
 それでわかるのかよ。
「洋一くん。香織が迷惑かけなかったかい?」
「ちょっと、兄さん。それはどういう意味?」
「それは香織自身が一番よく理解してると思うけど?」
「…………」
 こんなところで一触即発にならないでほしいんだけど。
「……なあ、姉貴」
「……ん?」
「……和人さんと香織って、普段はどんな感じなんだ?」
「……そうね、普段はあまり会話とかないわね。私が遊びに行く時は一緒にいるから話もするけど」
「……なるほど、典型的な兄妹なわけか」
 俺たち三人みたいな関係の方が最近では少ないからな。
 特にある程度年齢を重ねると、余計にわざと疎遠になるし。
「……でも、基本的には香織ちゃん、和人のこと好きなのよ。なんだかんだ言いながらも、ちゃんとつきあってあげてるから」
「……ふ〜ん」
「……ま、だからこそあんたのことを好きになった、という可能性もあるんだけどね」
「……は?」
 それはなにか? ようするに、和人さんのことが好きなんだけどそれは普段のこともあるからとても口には出せない。でも、好きという想いを否定することはできない。
 そんな風に過ごしてきたから、自然とそういう人を好きになりやすくなってる。
 で、前に姉貴が言ってたように、俺と和人さんは似てるところがあるらしいから、それで俺のことを好きになった。
「ほら、洋一も兄さんに言ってやってよ」
「えっ……?」
「聞いてなかったの?」
「いや、まあ……」
「ははは、洋一くんの援護射撃を期待したようだけど、上手くいかなかったみたいだな」
「……兄さん。それ以上余計なことを言うと、うちに帰ってきた時に兄さんの部屋が『大変』なことになってるわよ?」
「うっ……」
「あたしとしては、それでも全然、構わないんだけど、どうする?」
「いや、俺が悪かった……」
 やっぱり、この兄妹、圧倒的に妹の方が強いわ。
「そういえば、香織ちゃん。香織ちゃんも家を出てひとり暮らしするんでしょ? もうどこに住むか決めたの?」
「いえ、今週中には決めようと思ってますけど」
「いっそのこと、和人と一緒に住めば? どうせ同じ大学なんだし。その方が家賃だって節約できるし」
「いえ、それだけは断固として拒否します」
「どうして?」
「美香姉さんも知ってると思いますけど、あたしと兄さんがふたりだけの時って、倦怠期の夫婦よりも会話がないんですよ? そんなあたしたちが、少なくとも三年間、一緒に暮らせると思いますか?」
「……ゴメン、無理ね」
「そういうことです」
 実際、それだけが理由じゃないと思う。そこには少なからず姉貴への配慮もあるはずだ。もし和人さんと一緒に住んでしまうと、姉貴が訪ねにくくなるから。
「それに、今の兄さんの部屋は、大学まで微妙な距離じゃないですか。どうせならもう少し便利なところの方がいいです」
「なるほど。確かにそうかも。あ、でも、そうなると、距離的にはうちに近くなるわね」
「そうですね。あくまでも比較的、ですけど」
「じゃあ、なにかあったら、すぐこいつを呼びだせるわね」
「えっ……?」
「ええ、そのつもりですから」
 そう言って香織は微笑む。
「あんたも、香織ちゃんから連絡もらったら、すぐに行ってあげるのよ。女の子のひとり暮らしはなにかと危ないんだから」
「いや、それは……」
 その役目は、俺じゃなくて和人さんのような気がするのだが。
 見ると、和人さんは申し訳なさそうにしてるし。
 というか、申し訳なさそうにしてるだけじゃなくて、口に出して言ってほしいんだけど。
「はあ……」
 どうしてこんなことになるんだか。
 とりあえず、これ以上余計なことが起きないように細心の注意を払わないとな。
 
 夕食後、笠原家の面々は帰り支度をはじめた。
 ここからだと、今の時間に出ても、帰りは結構遅くなる。
 和人さんは自分の部屋に戻るだけからいいのだが、両親と香織はそういうわけにはいかないから。
 そんな帰り際。
「洋一。今日はいろいろ話せて楽しかったわ」
「そのくらいには役に立てたか」
「全然問題ないわよ。で、洋一」
「ん?」
「あたしのこと、ちゃんと考えてよ? あたしはまだ、ちゃんと返事を聞かせてもらってないんだから」
「わかってるって」
「それと、不倫とか愛人とか、あれ、結構本気だから」
「お、おいおい……」
「おあつらえ向きにあたしはひとり暮らしをはじめるし。洋一も彼女に知られたくないだろうから、ちょうどいいと思わない?」
「全然思わない」
「ふふっ、無理しちゃって」
 こういうところは、姉貴に似ている。
「そうそう。ちゃんと携帯も買うのよ」
「それはまだわからんて」
「わからんじゃなくて、携帯の便利さ、有効性をきちんと説明して、是が非でも持つの。いいわね?」
「……なんで俺がそこまで……」
「そうしないと、あたしから連絡する時、いつも家族の誰かが電話に出ることになるわよ。そうすると、いらぬ憶測を呼びそうな気がするけど」
「…………」
 特に姉貴とか美樹とか。
「ま、そういうことだから」
 ポンと肩を叩かれる。
「香織。そろそろ行くぞ」
「あ、あと少しだけ待って」
 親同士の挨拶を終えた芳人さんが、香織に声をかける。
「洋一」
「ん?」
「あたしが、洋一のことを好きって証拠、見せてあげるから」
「えっ──」
 そう言うや否や──
「ん……」
 ふわりという感じで、俺の唇に暖かな感触が──
「じゃあね、洋一」
 そして、香織は、今日一番の笑みを浮かべたまま、行ってしまった。
 呆然と見送る俺に、姉貴が声をかけてきた。
「なんか、面白いことになりそうね」
「笑いごとじゃないって」
「ま、最後の一線さえ守ってれば、別にいいじゃない。ね?」
 くそ、人ごとだと思って。
「ほらほら、このあとはうちのお姫様の相手をしなくちゃいけないんだから、いつまでもそんな顔してないの」
「ったく……」
 当然のことながら、たった一日で俺の中に『笠原香織』の居場所ができてしまった。
 やれやれ……
 
 三
 三月十四日。
 今日は、世の中のある人たちにとっては、とても重要な日である。
 それは、今日がホワイトデーだからである。
 先月のバレンタインにチョコをもらった男性は、もらった相手にお返しをする。
 渡した女性は、それが本命の相手ならどんな結果が返ってくるか、楽しみにしているだろうし、義理チョコを渡した女性も、それなりに楽しみなはずだ。
 ただ、たまにチョコの何倍ものお返しを期待している輩がいるけど、それはどうなんだろうか。もちろん、お返しはあくまでも誠意なので、そうなる可能性はあるだろう。でも、それはあくまでも本人の誠意だ。そうじゃなかったからといって、理不尽に怒るのはなにかが間違ってる気がする。
 もっとも、少なくとも俺のまわりにはそういうのはいないから安心だけど。
 とはいえ、毎年のこととなると、さすがにネタも切れてくる。
 だけど、今年はいいアイデアがあった。そのために何日もかけて準備もした。
 そう。夜、部屋にこもっていたのは、この日のためだったのだ。だからこそ、美樹はもちろんのこと、愛にもなにも話さなかったのだ。
 そんなホワイトデーの朝。
 昨日から学校は休みになっているので朝早く起きる必要はなかったのだが、少しだけ用があったから美樹にあわせて起きることにした。
「……すぅー……すぅー……」
 美樹が起きる前から起き出し、俺はあるものを準備した。
 それは、ホワイトデーのお返しである。
 義理チョコをくれた相手には別のものを用意してある。俺が何日もかけたお返しは、あくまでも本命チョコをくれた相手に対してのものである。
 ちなみに、母さんと姉貴は義理チョコ組に入れてある。
 いつもとほぼ同じ時間に美樹は目を覚ました。
「あれ、お兄ちゃん。今日は早いんだね」
「ああ」
 まだ眠そうな目を擦りながら、ベッドの上に体を起こす。
「美樹。今日はなんの日かわかるか?」
「ん、今日? えっと……今日は……あ、うん、わかるよ。今日は、ホワイトデー」
「さすがに覚えてるな」
「うん。だって、お兄ちゃんからのお返し、すごく楽しみにしてたんだから」
「そう言われると、渡すのに気が引けるな」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんからのなんだから、どんなものでも嬉しいよ」
「そうか」
 なんとなくお決まりなやり取りをして、俺は早速美樹にホワイトデーのお返しを渡した。
「これって……ひょっとして、絵?」
「ああ」
 俺のお返しは、絵だった。
「あ、もしかして、お兄ちゃん。これを描いてたから、部屋にこもってたの?」
「まあ、そうなるかな」
「そっか、そうなんだ……」
 美樹も、俺がこもっていた理由を知り、ようやく納得してくれた。
 それから申し訳程度に縛っていたリボンを解き、中を見る。
「わあ……」
 それは、美樹の絵だった。
 特別な構図で描いたわけではないが、今回のはそれなりに気合いが入っている。もちろん、色もつけてある。
「なかなか本人より可愛くは描けなくてさ」
「絵の方が私より可愛かったら、それはそれでヤダよ」
「それはそうだな」
 俺にはこれくらいしかできることはないから、それを喜んでもらえれば俺としても嬉しい。
「愛お姉ちゃんたちにも絵を描いたの?」
「ああ。さすがにこれだけまとめて描いたことはなかったから、かなり大変だったけどな」
「そっか。あれ、でも、お兄ちゃんたち学校休みだよね。どうやって渡すの?」
「ん、それはちゃんと考えてる。だから、おまえはなにも心配しないで学校へ行けばいい」
「むぅ、そういう言い方はないよぉ」
「だけど、実際そうだろ?」
「それはそうだけど……」
「ほら、のんびりしてると、準備ができなくなるぞ」
「はぁい」
 
 朝食の席で母さんと姉貴にホワイトデーのお返しを渡した。こっちは、定番のクッキーにした。まあ、ある程度の量を買えば、そんなに元手もかからないし。
 朝食後、俺は二カ所に電話をかけた。
 最初は愛のところ。午後、うちに来てくれるように言っておいた。
 もうひとつは、沙耶加と真琴ちゃんのところ。こっちにも、午後にうちに来てくれるように言っておいた。
 本当なら三人揃ってというのはやめたいのだが、如何せん今日中に渡しておきたいので、仕方がなく三人一緒にしたのだ。
 で、午前中はどうするのかといえば、もうひとりに渡しに行くのだ。
 お返しを持って向かったのは、学校だ。
 事前に行くことは話してないけど、まあ、今日がどういう日かわかっていれば、必ずいる。
「失礼します」
 いつものように中に入ると、その部屋の主──由美子さんがにこやかに俺を迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「今、忙しいですか?」
「ううん、忙しくないわよ。むしろ、暇なくらい」
「そうですか。じゃあ、ちょうどよかったです」
 由美子さんに勧められるまま椅子に座る。
「それで、今日は?」
「恒例行事のお返しをと思いまして」
「あら、別によかったのに」
「いえ、由美子さんからは本命チョコをもらいましたから。さすがにそのままというわけにはいきません」
「そういうことなら、私はなにも言わないわ」
 早速お返しを渡す。
「これって、絵かしら?」
「はい。お金に余裕がなかったので、苦肉の策という感じです」
「こういうのはね、お金じゃないのよ。洋一くんの想いがどれだけ込められているかなんだから」
 言いながら、由美子さんは中を確かめる。
「まあ、これ、私?」
「はい。上手く描けてるかどうかはわかりませんけど」
「これだけ描けてれば十分よ」
 由美子さんは、嬉しそうに絵を見ている。
「話には聞いていたけど、本当に絵が上手いのね」
「我流ですけど。それに、今回のはお返しの意味がありましたから、それなりに気合いも入ってます」
「ふふっ、これだけしっかり描いてもらっちゃうと、額にでも入れて飾っておかなくちゃいけないわね」
「それは由美子さんの自由ですけど、俺としてはできれば勘弁してほしいですね」
「そのあたりのことは、少し考えてみるわね」
「そうしてください」
 それから自称暇人の由美子さんにつきあい、昼近くまで学校にいた。
 家に帰ると、姉貴がいなかった。どうやら和人さんのところへ行ったようだ。
 母さんとふたりで昼食を食べ、午後。
 一時をまわった頃、まずは愛がやって来た。
 愛も、なんで呼ばれたのかは理解しているはずだから、あえてなにも聞かなかった。
 愛を部屋に通し、さて話をしようかというところで、今度は沙耶加と真琴ちゃんがやって来た。
 このふたりも状況は理解しているので、特になにも言わなかった。
 俺は、人数分のお茶を淹れ、お茶菓子を持って部屋へ。
 部屋の中は、ある意味異様な雰囲気が漂っていた。
 そういえば、よく考えてみるとこの四人の組み合わせは今までほとんどなかったな。まあでも、お互いのことはわかってるから問題はないけど。
「今日来てもらった理由はわかってると思うけど」
 そう言いながら、俺はお返しを取り出した。
「今日はホワイトデーだから」
 三人に渡す。
「これ、絵?」
「ああ」
 三人はそれぞれ中を確かめる。
 実は、今回の絵の中で愛のは少しだけ気合いが違っている。それは愛が俺の彼女であることの明確な証明でもある。
 愛以外のは基本的に腰から上の構図で描いている。多少の違いはあるけど、今回はそれほど時間がなかったから、そうなってしまった。
 で、愛のやつは、ちゃんと全身を描いている。時期が時期だったから、桜の花びらを散らして、少し哀愁を漂わせた。
「でも、先輩。これだけの絵を描くのは大変じゃなかったですか?」
 絵のことを理解している真琴ちゃんが、そう訊いてきた。
「まあ、ここのところずっとそれを描いてたからね。なんとか描き上がってよかったよ」
「洋ちゃんはがんばりすぎだよ。ホワイトデーのお返しなんて、もう少し手を抜いても全然問題ないのに」
「そうかもしれないけどさ、これしか思いつかなかったんだよ」
 これ以外だと、お菓子とかあまりにも無難なものになっただろうから、結果的にはよかったと思っている。
「こんなのもらっちゃうと、バレンタインのチョコをもう少しがんばっておけばよかったって思っちゃう」
「そうですね。これじゃ、割にあいませんよね」
 愛も沙耶加も、すっかり恐縮している。俺としてはそこまでのことはないのだが。
「とりあえず言いたいことはあるかもしれないけど、今日はそういう日ということで、納得してくれ。それを渡しただけでまた別のものをもらったり、なにかしてもらったりしたら、それこそいたちごっこになるからな」
「洋ちゃんがそう言うなら、そうするけど」
 三人とも不承不承という感じで頷いた。
「で、俺の用事はそれだけなんだけど……帰る気はないよな?」
 三人とも、当然のように頷く。
 俺は、こういうことがあるからこそ、あえて三人一緒にしたのだ。これがひとりずつだと、下手するとひとりにしか渡せなかったかもしれない。まあ、それは大げさかもしれないけど、用心するに越したことはない。特にこの三人は。
「あ、そうだ。ついでだから言っておくけど、俺、携帯持つことになったから」
「そうなの?」
「ああ。家族会議の結果、そう決まった。今週中には手元に来ると思うけど」
「でも、どうしていきなり?」
「いや、いろいろあったんだよ」
 今まで携帯の『け』の字も言ってなかった俺が携帯を持つというのだ。気になるのは当然だな。だけど、携帯を持とうと思った原因が香織であることは、口が裂けても言えない。
「持つのは、洋ちゃんだけ?」
「いや、姉貴も美樹も一緒に。ほら、家族割りってのがあるだろ。あれでまとめて」
「そうなんだ」
 あの日の夜、父さんに携帯のことを切り出す前に、美樹を味方に引き入れておいた。父さんはとにかく美樹に甘いから、美樹が言えばたいていのことは通ってしまう。
 で、多少母さんが渋ったけど、携帯の便利さだけは父さんので知っていたから、結局は認めてくれた。
 それで昨日、父さんの使っている携帯会社のカタログをもらってきて、機種を決めた。本当は駅前の携帯ショップで買ってもよかったのだが、父さんが安く買えるというので、そっちを利用することになった。俺としては別にすぐにほしかったわけじゃないから、特に異を唱えなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。私たちも頼もうよ」
「そうね」
 その話を聞き、沙耶加と真琴ちゃんは早速携帯を買うことに決めたようだ。山本家はうち以上に大黒柱の権限が弱いから、すぐに決まるだろうな。
「愛はどうするんだ?」
「ん、そんなの買うに決まってるよ。それに、前から言われてたんだ。外にいる時とかに連絡取れないと困るから、携帯持ちなさいって。携帯が便利なのは知ってるけど、とりあえず必要性を感じてなかったからそのままにしてたけど、洋ちゃんが持つなら私も持つよ」
 愛はひとりっ子だから、余計なんだろうな。うちとか確実に連絡が取れるところならいいけど、そうじゃないところだとなにかあった時に困るし。
「でも、これでいつでも連絡取れるようになるね」
「それはそうだけど、常識の範囲内でしてくれよ。それは、沙耶加も真琴ちゃんも同じ」
「はい、それはもちろんです」
「わかってますよ」
 本当にわかってるかどうかは、それぞれが携帯を持ってみればわかることだ。
 ただ、俺が一番心配してるのは、姉貴と美樹なんだけどな。姉貴は確信犯で、美樹は無意識で。それこそ時間も場所も関係なくメールとか送ってきそうだ。
 この三人は学校がある時ならそれほど問題はないだろうし。
「で、それで本当に俺の用事は終わりなんだけど、なにかやりたいこととかある?」
「ん、そうだなぁ……」
「そうですね……」
「あの、先輩」
「ん?」
「少しだけいいですか?」
「いいけど」
 愛と沙耶加がいると話しにくいと思い、俺は場所を移した。
 当分帰ってこないだろうから、姉貴の部屋にした。
「それで?」
「先輩、この春休みの予定って、決まってますか?」
「いや、まだ特には」
「じゃあ、たとえばなんですけど、私と絵を描くために遠出すること、できますか?」
「絵描き旅行か。いいね」
「本当ですか?」
「たまに違うところで描くのはいいことだと思うよ。それに、知らないところに行くと、いろいろ刺激も受けられるだろうし」
 よく考えてみれば、俺は絵のためにどこかに行くとか、そういうことをしたことがない。もちろん、それは今までは絵を描いてることを人に話していなかったから、ということもあるけど、そこまでしなくてもいいと勝手に思っていたからでもある。
 でも今は、真琴ちゃんという最高の絵描き仲間がいるから、もう少しだけ真剣にそういうことをやってもいいと思ってる。そのひとつとして、絵のためにどこかへ行くというのは、いいことだと思う。
「じゃあ、この春休み中にどこかへ行くということでいいですか?」
「うん、構わないよ。俺にはここに行きたいというのはないから、真琴ちゃんの方で勝手に決めてもらって構わないから」
「……えっと、もし許してもらえるなら、泊まりがけとかでもいいですか?」
「ああ、泊まりがけか」
 それはさすがに難しいだろうな。
 相手が愛なら説明も楽だし、問題もないのだが、真琴ちゃんじゃ説明が難しい。
「俺としては構わないんだけど、実際は無理だと思うよ。どうやっても説明が難しいからね」
「……やっぱり、そうですよね」
 真琴ちゃんもわかってはいるんだ。
「真琴ちゃん」
 俺は、そっと真琴ちゃんを抱きしめた。
「泊まりがけは無理だけど、その日は一日中真琴ちゃんにつきあうからさ」
「……本当ですか?」
「本当だよ。それに、絵描き旅行がよかったら、また今度ということもあるかもしれないし。今、一緒に絵を描く相手は、真琴ちゃんしかいないんだから」
「先輩……」
「そういうわけだから、今はそれで我慢して」
「はい……」
「うん、そういう素直な真琴ちゃんは、好きだよ」
「なんとなく、子供扱いされてる気がします」
「そんなことないよ。もし仮に子供扱いしてたら、こんなこと──」
「ん……」
「しないよ」
 俺は、真琴ちゃんにキスをした。
「でしょ?」
「はい」
 こうやって泥沼化していくんだろうけど、もうしょうがない。
 俺は、真琴ちゃんを受け入れたんだから。
 
 結局、三人は陽が沈む少し前までうちにいた。
 特にやることもなかったのだが、なんとなくいろいろ話をしていたら時間が過ぎた、という感じだ。
 たまにはこういうのもいいとは思ったけど、ことあるごとに三人がものすごく期待に満ちた目で俺を見るのだけは勘弁してほしかった。
 そして夜。
 なぜか部屋には帰ったはずの愛がいた。
「しかし、なにも今日じゃなくてもよかったんじゃないか?」
「ほら、善は急げって言うでしょ?」
 愛は、沙耶加たちにあわせて一度は家に帰ったのだが、夕食後に再びやって来たのだ。一応目的もある。
「まあ、いいや。で、おまえはどこに決めたんだ?」
「うん。とりあえず、候補を三カ所に絞ってみたの」
 そう言って愛は、旅行用のパンフレットをテーブルの上に広げた。
「まずは、房総半島。場所は、館山か鴨川かなって思ってるんだけど」
「この時期だと、もう春の花が咲いてるだろうしな」
「うん。ちょうどいい季節だと思うよ」
 房総半島は、関東の中でも春が早い場所だ。もう三月半ばではこのあたりもだいぶ春らしくなったけど、それでもまだなにかが欠けている気がする。
「で、次が伊豆半島。こっちは、下田が最有力よね」
「伊豆か」
 伊豆も春の訪れが早い場所だ。
「で、最後が箱根」
「またえらく定番だな」
「それはしょうがないよ。距離と時間、それにお金のこととか考えるとどうしても近場のしかも定番の場所になるの」
「まあ、そうかもしれないな」
「私はこの三カ所ならどこでもいいんだけど、洋ちゃんはどう?」
「そうだなぁ……」
 それぞれのパンフレットを見ながら考える。
 どこもそれなりにいいところだし、行ってみてもいいと思う。
 ただ、逆にそういうところだから、決め手に欠ける。
 となると、行く目的によって決めるしかないか。
「なあ、愛。おまえのこの旅行の目的はなんなんだ?」
「目的? ん〜、私はただ、洋ちゃんと一緒にいたいだけなんだけどなぁ。ただ、同じ一緒にいるんでも、旅行しながらの方がより楽しいと思ったから、提案したの」
「なるほど」
 予想通りか。
 そうすると、愛にとっては本当にこの三カ所ならどこでもいいんだな。
 交通の便は箱根が一番いいけど、ほかの二カ所も大差はない。見る場所もそれなりにあるし。
 意外に難しいな。
「そんなに難しく考えなくてもいいのに。直感で決めちゃっていいよ」
「じゃあ……」
 こうなったら、一番楽に行けて、なおかつのんびりできるところがいいか。
「箱根にするか」
「うん、いいよ」
 桜が咲く前なら、それほど混んでないだろうし、のんびり過ごすにはちょうどいい。
「それじゃあ、今度はいつ行くかなんだけど、いつ頃がいいと思う?」
「終了式は二十二日だったよな」
「うん、そうだよ。あと、春休み中の登校日が、四月の三日。新学期は、六日から」
「土日祝日は避けるとすると、結構限られてくるな」
「それはしょうがないよ」
「ん〜……」
 カレンダーをにらみ、唸る。
 一番無難なのは、最終週の週頭だな。あとは、その前の週の木、金とか。
 四月に入ってからだと、慌ただしくなるからやめた方がいい。それに、桜も咲いてるだろうし。
「とりあえず、二十七から三十日くらいにして、あとは予約状況次第じゃないか」
「そうだね。そのあたりのこと、今度までに確認しておくから」
「ああ、頼んだ」
 しかし、愛とふたりきりで旅行か。なんとなくどんな展開になるか、読めるな。
 それはそれでいいんだが、だんだん俺の感覚が麻痺しそうで怖い。
「ところで、洋ちゃん」
「ん?」
「どうして今日は、私たち三人を一緒に呼んだの?」
「そんなの決まってるだろ。どこかの誰かさんで一日使わないためだ」
「むぅ、どこかの誰かさんて、私のこと?」
「さあ、別におまえとは言ってない」
「洋ちゃんのいぢわる」
 そう言って愛は、俺の腕をキュッとつねる。
「ったく……」
 別にいぢわるで言ったわけじゃないんだがな。
 事実だし。
「あともうひとつ確認したいんだけど」
「なんだ?」
「携帯のこと。洋ちゃん、あれだけ携帯なんていらないって言ってたのに、どうして今になって持とうと思ったの?」
「だから、いろいろあったんだって」
「私は、そのいろいろが知りたいの。だって、よほどの理由がない限り、持とうとは思わないはずだから」
「…………」
 こういう時、幼なじみってやつは不利だよな。
「……おまえといつでも連絡が取れるように、って理由でいいだろ?」
「それはそれで嬉しいけど、でも、それ、ウソだし」
「…………」
 ああ、くそ。なんか適当な理由を作らないと。
「最初に言い出したのは、姉貴だったんだよ」
「美香さん?」
「ああ。和人さんと連絡を取るのに、やっぱり携帯があった方がいいって言ってさ。確かに和人さんはひとり暮らしだから、携帯の方が便利なんだよ。それに、姉貴も和人さんも四月から三年になって、就職活動とか本格化してくるだろ。そうすると、学内でもなかなか会えなくなるかもしれないって」
「なるほど」
「で、どうせだから俺と美樹も一緒に持てばいい、ということになった」
「洋ちゃんは、賛成したの?」
「俺は別にどっちでもよかったんだよ。なくても困らないし」
「そっか」
 とりあえず、この理由で信じてくれたようだ。まあ、この理由もあながちウソじゃないし、いいけど。
「私はてっきり、普段は携帯じゃないと連絡が取れない相手のためかなって思ったの」
 ……鋭い。
「でも、私の知ってる限り、携帯じゃなきゃ困るような相手はいないし」
 やっぱり、香織のことは話せないな。
「ね、洋ちゃん。私、洋ちゃんのこと、信じていいんだよね?」
 一瞬、そのあまりにも真剣な眼差しに気圧されてしまった。
「当たり前だろ。おまえは俺のなんなんだ?」
「うん、そうだね。ごめんね、余計なこと言って」
「いや、気にするな。もともと、おまえに疑われそうなことをしてる俺が悪いんだ」
「それは……」
 さすがにそれを全否定することはできないか。沙耶加のこともあるしな。
「そうだ、愛」
「ん、なに?」
「この春休みに結論が出たら、正式に婚約するか?」
「えっ……?」
「今は俺たちだけの口約束だろ。それを破るつもりは毛頭ないけど、でも、多少なりとも安心感を得られるなら、正式に婚約した方がいいと思ってな」
「いいの……?」
「いいから言ってるんだ」
「洋ちゃん……」
「あ、ただ、高い指輪は贈れないけどな」
「そんなの気にしなくていいよ。私にとっては、そういう風に約束してくれることが大事なんだから」
 そう言って、潤んだ瞳を細める。
「前から言ってる通り、どんな結論が出ても、俺のおまえに対する想いだけは絶対に変わらない。そして、本当の意味で俺の隣にいてほしいのは、やっぱりおまえだからな」
「洋ちゃん……」
 そう。これだけはどんなことがあっても覆らない。たとえ、相手が沙耶加や真琴ちゃん、由美子さんであってもだ。
 それくらい俺は、この森川愛という女を愛しているのだ。
「それでもまだ不安なら──」
「ん……」
「態度で示してやるから」
「うん……」
 俺は、愛を抱きしめ、安心できるように優しく撫でてやる。
「洋ちゃん……」
「ん?」
「今日、泊まってもいい……?」
「ああ」
「うん、ありがと……」
 すべてを話していない俺を許してほしいとは思わない。
 今はただ、ほかのことはなにも考えず、この誰よりも愛しい女を抱きしめよう。
 たとえそれが、かりそめの幸せだとしても。
 
 四
 三月十七日。
 携帯が来た。
 午前中家にいたら、宅配便でそれが届いたのだ。
 早速俺と姉貴は、それぞれの携帯を確かめた。
 俺のは、黒の携帯で、比較的シンプルなやつだ。
 姉貴のは、赤の携帯で、デザインに凝ったやつだ。
 簡単に説明書を読み、いくつかの機能を確認する。
 それから、電話帳に必要そうな電話番号を登録する。もちろん、香織のも。
「洋一。早速香織ちゃんに電話してみれば?」
 一通り登録を済ませると、姉貴はそんなことを言い出した。
「半分は香織ちゃんのために持ったようなもんなんだからさ」
「別にそこまでのことはないけど」
「でも、香織ちゃんに言われたから、美樹まで味方につけて、お父さんを説得したんでしょ?」
「まあ……」
 反論できなかった。
「ほら、せっかくなんだから」
「わかったよ」
 俺は、登録したばかりの香織の携帯に電話をかけた。
 ツーコールで電話に出た。
『もしもし?』
 こっちの番号は教えてなかったから、多少警戒してる。
「もしもし。香織? 俺、洋一」
『えっ、洋一?』
 途端、声のトーンが変わった。なんというか、現金だ。
「携帯買ったから電話したんだけど」
『もう買ったんだ。あたしはもう少し時間がかかると思ったのに』
「ところで、今電話してても平気なわけ?」
『全然平気よ。ちょうど今、部屋の片付けに飽きてたところだから』
「部屋の片付けって、ああ、引っ越しの準備か」
『うん。部屋はまだ決まってないんだけど、準備だけは進めておかないと後々大変だから。でも、いるものといらないものを分けるのが大変で、ホントイヤになるわ』
 なんとなく、香織が今、どんな顔をしてるのかわかる気がする。
「部屋は、どのあたりになりそうなの?」
『ん〜、兄さんの部屋がある駅よりも大学に三駅ほど近いあたり』
「じゃあ、本当にこっちからの方が近い場所か」
『そうね。だからね、洋一』
「ん?」
『遠慮なく部屋に来ていいわよ。ほかの男なら門前払いだけど、洋一ならいつでも大歓迎だから』
「……それはどうも」
『なによぉ、そのやる気のない返事は?』
「いや、そこまであからさまに言われると、さすがに……」
『まわりくどい言い方は嫌いなのよ。洋一も、これからあたしとのつきあいは長くなるんだから、そういうのに早く慣れてよ』
「善処するよ」
 香織みたいなタイプは、理解してしまえばつきあいやすいタイプだと思う。
『あ、ねえ、洋一。いっそのこと、洋一にあたしの部屋の合い鍵、渡そうか?』
「……あのさ、それはいくらなんでも問題じゃないか?」
『どうして? 家族以外で信頼できる相手に持っててもらうのは、悪いことじゃないと思うけど』
「それはそうかもしれないけど。でも、そういう理由で渡すなら、俺よりも姉貴じゃないのか?」
『美香姉さんはいいのよ。だって、兄さんにも鍵は渡すから、兄さんと一緒にいれば鍵いらないし』
「……なるほど」
 それは一理あるな。
『だから、部屋が決まったら洋一にも鍵、渡すから』
「……わかったよ」
 電話口でごねてもしょうがないな。
『その鍵を使って、夜ばいに来てもいいわよ』
「行くかっ」
『あはは』
 まったく、本当にやっかいな相手だ。
『ま、冗談はさておき、たぶん、遅くとも月曜までには部屋は決まると思うから、決まったら連絡するわね』
「わかった」
『それと、この電話が終わったら、メールもちょうだい。それでこっちも洋一のメルアド登録しておくから』
「わかった」
『じゃあ、また電話してよ』
「了解」
 で、電話を切った。
「ずいぶん楽しそうだったわね」
「……香織と話してると、まるで姉貴と話してる気がする」
「それ、どういう意味で?」
「疲れるってこと」
「あら、ずいぶんな言われようね」
「そういうところだって。すぐに突っかかってくるところ。姉貴も香織も一緒」
「…………」
 やれやれ、おそらく自覚はしてるんだろうけど、もはや直しようがないんだな。
「ねえ、洋一。あんた、冗談抜きで香織ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「どうもこうも、和人さんの妹、だよ」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「本当に?」
「本当に」
「マジで?」
「マジで」
「それならそれでいいんだけどね」
「あのさ、姉貴。いくらなんでも、たった一回会っただけでどうにもならないって」
「あら、そんなのわからないじゃない。会ったその瞬間に、ってことも実際あるわけだし」
「そうかもしれないけど、少なくとも俺はそうじゃなかったんだよ」
 もし、俺に愛という彼女がいなければ、確かにわからなかっただろう。話していて疲れるという点を除けば、香織は非の打ちどころがない女だと思う。それに、俺に好意を持っているということも大きい。
 でも、俺には愛がいる。だから、あれだけの女を前にしても、最後の一線を越えることはなかったんだ。
「でも、香織ちゃん、あんたに告白したでしょ?」
「ああ」
「多少なりとも揺れなかったの?」
「そりゃ、揺れなかったと言えばウソになるけど、でも、俺だっていろいろ考えてるんだから、それ以上はなかったよ」
「ふ〜ん……」
 姉貴は納得したのかしてないのか、よくわからない表情で頷いた。
「ま、今のままなら今のままでいいわ。その方が愛ちゃんも安心できるだろうし。でもね、洋一。ひとつだけ警告しておくわ」
「警告?」
 また物騒な物言いだな。
「香織ちゃんの見た目とのギャップって、別に普段の砕けた性格のことだけじゃないのよ」
「……どういう意味?」
「あの子ね、好きになった相手にはそれこそまわりが呆れるほど尽くすのよ。尽くして尽くして、まあ、その見返りってわけでもないけど、あとはもうとにかく甘えちゃう」
「…………」
「実は、そっちのギャップの方が問題だったりするんだけどね」
 それって、かなり問題だと思うんだけど。
 というか、マジで俺にそんなことになったら、さすがに愛に隠し続けられない。
「あと、香織ちゃんは頭が良いからなんでも自分で理解できるんだけど、その一方で結構思いこみも激しいから」
「……猪突猛進型ってやつか」
「そうね。だから、香織ちゃんに対するスタンスはきっちり決めておかないと、大変なことになるわよ。それこそ思わせぶりな行動なんて取ったら、もう絶対に抜け出さないないわね」
「…………」
 確かに、警告だ。
「そういうことだから、しっかりするのよ」
 
 なんとなく気分が落ち込んだけど、いつまでもそうしていてもしょうがないから、用事を済ませることにした。
 その用事というのは、主要な面々に携帯を持ったことを報告に行くことだ。たぶん、人が聞いたら律儀だとか、真面目だとか言うだろうけど、そうじゃない。ここでもし俺がそれを言わなかったら、あとでとんでもないことになるからだ。
 それを避けるためにも、ちゃんと報告に行かないといけない。
 で、いつものように最初に行くのは、由美子さんのところだ。由美子さんからは部屋の住所も教えてもらっているのだが、さすがにこのためだけにそんなことはできない。となると、やっぱり学校へ行かなければならない。だけど、学校だと時間に制限がある。だから最初なのだ。
 学校は春休みに入ってそろそろ一週間になるから、本当に静かだった。
 校舎内を保健室に向かうと、珍しいことにドアが開けっ放しになっていた。
「失礼します」
 そのまま中に入ると──
「うわ……」
 そこはものすごいことになっていた。
「誰?」
 物陰から声が聞こえた。
「あら、洋一くん」
 いつもの白衣姿ではなく、ジャージ姿の由美子さんがいた。
「あの、これはどうしたんですか?」
「ああ、これ? 片付けの途中なのよ」
 保健室は、それはもうえらいことになっていた。
 あちこちにものが氾濫し、かろうじて歩けるくらいしかスペースはなかった。
「あ、じゃあ、俺、邪魔ですよね?」
「全然そんなことないわよ。むしろ、大歓迎」
 由美子さんは、そう言ってニヤッと笑った。
 ああ、そういうことか。
「さ、洋一くん。あなたに重要な任務を与えるわ」
 そして、俺は由美子さんの『奴隷』となった。
 それはもう俺は馬車馬のごとく働いた。
 由美子さんに言われるまま、あっちへこっちへ荷物を動かし、いらないものを処分して。
 で、手伝いは意外に早く終わった。まあ、俺が来る前からやってたから当然なんだろうけど。
 でも、ふたりでやってこれだけの時間がかかったということは、ひとりでやってたら本当に一日仕事だったということだ。
「はい、洋一くん」
 片付いた保健室で、早速由美子さんがお茶を淹れてくれた。
「ごめんね、手伝わせちゃって」
「いえ、いいですよ。これも巡り合わせだと思いますから」
「なにかお礼ができるといいんだけど、私にしてほしいこととかある?」
「別にいいですよ。今日はボランティアということで、見返りもなしです」
「そう言われると、余計になにかしてあげたくなるのよね」
 由美子さんは、腕を組んで考える。
 このまま由美子さんを止めないとなにを言われるかわからないな。しょうがない、無難なことを言っておくか。
「あ、じゃあ、こういうのはどうですか?」
「ん?」
「以前、クッキーをもらったじゃないですか」
「そういえば、そんなこともあったわね」
「あのクッキー、本当に旨かったので、また食べてみたいんです」
「つまり、クッキーを作ってきてくれ、と?」
「はい」
 これなら特に問題はないだろう。
「それはそれで、いくらでも作ってきてあげるけど、でも、それだけじゃダメ」
「えっ……?」
「よし、こうしましょ。今度、私の部屋に来て。そしたら、これでもかってくらいになんでもしてあげるから」
「え、えっと……拒否権は……?」
「認めません」
 こういうことがあるから、俺から無難なことを言ったのに。
「……そんなに私と一緒にいるのがイヤなの?」
「そ、そんなことはないですよ」
「じゃあ、もう少し嬉しそうにしてくれてもいいのに」
 そりゃ、俺だって由美子さんと一緒にいられるのは嬉しい。でも、なにごとにも限度というものがある。ただ単に由美子さんの部屋に行くのだって躊躇するのに、さらに俺になんでもするっていうんだから、余計に躊躇する。
「確かに、今の洋一くんにとって私はつきあいにくい位置にいるわ。それに、私だけ洋一くんより年上だし。でもね、洋一くんに対する想いは、ほかの子たちとなにも変わらないのよ。そりゃ、現役の女子高生に勝てるとは思ってないけど、それでも気持ちだけは負けてないと思ってる」
「……すみません。余計なことまで言わせてしまって」
「ううん。わかってくれればいいのよ」
 そう言って由美子さんは微笑んだ。
「それで、洋一くん。今日はどうしたの?」
「あ、はい。実はですね、俺、携帯を持ったんですよ」
「携帯を?」
「はい。それで、由美子さんにも番号を教えておいた方がいいと思って」
「それでわざわざ?」
「はい」
「そっか。じゃあ、本当に洋一くんにとっては災難だったわけね。それだけのためにここに来て、面倒な仕事を手伝わされたんだから」
「別にそんなこと思ってませんよ」
 そりゃ、少しくらい面倒だとは思ったけど、嫌々やってたわけじゃないし、本当に気にしていない。
「あ、じゃあ、早速教えてもらおうかしら」
 そう言って由美子さんは、自分の携帯を取り出した。
 俺は、由美子さんの携帯に電話をかける。
 軽快な着メロがなり、すぐに切る。
「それじゃあ、登録しておくわね」
「はい。あと、メールも使えますから、メルアドも教えておきます」
 由美子さんからメルアドまでは聞いてなかったから、俺は紙に自分のメルアドを書いた。
「私の方のは、あとで直接メールして教えるわね」
「はい」
 これでまずはひとり。
「でも、どうしていきなり携帯を?」
「いろいろあったんですよ。まあでも、なくても困らないですけど、あっても困るものじゃないですから」
「確かにそうね」
 特に、由美子さんとの連絡にはこっちの方がいいかもしれない。
「あ、そうだ。洋一くん」
「なんですか?」
「私の登録名ね、変えておいた方がいいわよ」
「どうしてですか?」
「ほら、いつ誰がそれを見るかわからないじゃない。その時にバカ正直に名前を入れてるとすぐにわかっちゃうし」
「……そう言われると、そうですね。変えておきます」
 それは気がつかなかった。確かに、せっかく由美子さんとのことは姉貴にまで秘密にしてもらっているのに、こんな些細なことでバレてしまっては意味がない。
 これが先生のがいくつか入っていれば誤魔化せるんだろうけど、あいにくと由美子さんのしかないからな。
「用件はこれだけなのよね?」
「はい」
「じゃあ、早速いつ私の部屋に来るか、決めましょ」
「えっ……?」
「ほら、善は急げって言うでしょ? それに、今は春休みだから、私も結構時間に融通が利くし」
「それは、まあ、そうかもしれませんけど」
「とりあえず、とにかく丸一日使いたいのよね。だから、学校のある日はダメ、と。あと、四月に入っちゃうと私も忙しくなるから、やっぱりダメ、と。そうすると、自ずと限られてくるわね」
 由美子さんは、カレンダーに丸とバツをつけていく。
 そうすると、自然と休みの日に丸がつく。あと、今は春休み中なので土曜日にもついている。
「ねえ、洋一くん。なにか『不慮の事故』が起きて、泊まりになるっていうのは、さすがに問題あるかな?」
「えっと、おっしゃってる意味がよくわからないんですけど」
「だから、正直に私の部屋に泊まるなんて言えるわけないから、たとえば、誰か友達とどこかへ遊びに行って、たまたま終電に乗り過ごしちゃって、帰れなくなる。今日は友達の家に泊まって、明日帰るから。なんてこと、どうかな?」
「いや……」
 さすがにそれはあり得ないだろう。それに、うちの女性陣は俺のウソを見抜くのが上手いからな。
「私の理想としては、金曜日の仕事が終わってから、土曜日の夜までずっと一緒、というのなんだけど」
 そうしてあげたいのはやまやまだけど、どんなもっともらしい理由をつけたところで、バレてしまうだろう。特に、姉貴は俺と由美子さんの関係を知ってるわけだし。
「どうせ朝早くから出ても、いろいろ詮索されるでしょ? だったら、泊まりがけでも一緒だと思うんだけど」
 いや、全然違うし。
「どうかな?」
「…………」
 まあ、実際、やってやれないことはないと思う。男友達に適当なワイロでも握らせれば、アリバイ証明も可能だろうし。
 だけど、由美子さんとのことは、とにかく慎重にやらないと。
「ね、洋一くん?」
 ううぅ、そんな期待に満ちた目で見つめられても……
「お願い……」
 ダメだ。俺にはこの瞳に、表情に勝てる術がない。
「……わかりました。なんとかしてみます」
「本当に?」
「はい。ただ、由美子さんの方でも、多少の根回しはお願いします。用心に越したことはありませんから」
「それはもちろん。ここまできて、むざむざとこの幸せを無為にするつもりはないもの」
 しょうがない。ここは腹をくくるしかないな。
「それはそれとして、今日はこれからは?」
「まだ行かなくちゃいけないところがあるので、そろそろ」
「それじゃあしょうがないわね」
「なにかあったら、携帯の方へ連絡してください」
「たいした用事じゃなければ、メールにするわね」
「はい」
 さてと、次は山本姉妹か。
 
 とりあえず、携帯から山本家に電話をかけた。
 さすがにいきなり訪ねていくわけにはいかない。
 で、沙耶加も真琴ちゃんも家にいた。
 今から家に行くことだけを伝えて、電話を切った。
 山本家までは、うちから行くよりも学校からの方が近い。
 山本家に着くと、沙耶加が出迎えてくれた。
「突然来ちゃってごめんね」
「いえ、今日は特にやることもなかったので、気にしないでください」
 ふたりのお母さんに挨拶してから、早速沙耶加の部屋へ。
 そこで、はじめて本来の沙耶加の部屋を見た。
「……いや、ここまでとは……」
 そこは、まさにワンダーランドだった。
 というか、俺の予想を遙かに超えていた。まさかここまでの数だったとは。
 それに、本当に人間と同じくらいのもあるし。
 そのぬいぐるみの中に、真琴ちゃんもいた。
「ほら、お姉ちゃん。先輩、びっくりしてるよ」
 真琴ちゃんは、大きなイルカのぬいぐるみを抱きしめながら、そう言う。
「あ、いや、確かに驚いたけど、ここまで徹底してれば、逆にいいんじゃないかな」
「……そうですか?」
「うん。この光景自体は多少違和感あるけど、そこに沙耶加がいても、全然違和感ないし」
 こういうところにいられる女の子は、かなり限られてるけど。
 と、以前俺が見つけて沙耶加が買った、あのコリーのぬいぐるみもあった。それだけはなぜか、ベッドの布団の中に半分ほど潜っていた。
「あ、えっと……」
 俺がそれを見ていたことに気付いたのか、沙耶加は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 そんなリアクションを取れば、当然真琴ちゃんにもわかってしまう。
「先輩。お姉ちゃん、このぬいぐるみを抱いて──」
「真琴っ」
 いきなり、沙耶加が今まで聞いたことないくらいの大きな声で真琴ちゃんを叱責した。
「も、もう言わないよ」
 さすがの真琴ちゃんも、沙耶加のその様子に恐れをなし、素直に引き下がった。
 だけど、時すでに遅し。
 沙耶加がそれをどんな風に使っているか、わかってしまった。
「あの、えと、その、よ、洋一さん。それはその、た、たまたまなんです。たまたま、今日はそこにあるだけなんです」
 それでも沙耶加は、虚しい抵抗を試みる。
「ごめん、もうなにも言わないから」
「……はうぅ……」
 沙耶加にとっては、それは大事な秘密だったのかもしれない。それを俺は、知ってしまった。
 あくまでも不可抗力なのだが、なんか悪いことをしてしまった気がする。
「と、ところで、先輩。今日はどうしたんですか?」
 真琴ちゃんが、気まずい雰囲気を払おうと、話を進めようとする。
「あ、ああ、実はね、携帯を持ったから番号なんかを教えようと思って」
「あっ、先輩もなんですか」
「も?」
「はい」
「私たちも、今日の午前中に買いに行ってきたんですよ」
 そう言って沙耶加と真琴ちゃんは、それぞれ携帯を見せてくれた。
 機種はふたりとも同じらしく、色が違うだけだった。沙耶加のがキウイグリーン、真琴ちゃんのがクリアブルーだった。
「じゃあ、ちょうどよかったんだ」
「はい」
 まずは俺が携帯の番号とメルアドを紙に書き出し、まずはふたりの携帯に登録してもらった。それからふたりに俺の携帯に電話とメールを送ってもらい、こっちも登録する。
「これでよし、と」
 登録を終えると、携帯をしまった。
「学校がある時は、携帯で連絡することなんてそうはないと思うけど、こういう休みの時には便利だろうね」
「そうですね。これで、どこにいても洋一さんとお話しできます」
 このふたりにとっては、携帯は本当に使える道具だろう。
 今までは、俺に連絡を取りたい時も、いちいち家に連絡してたし、なによりも、一台の電話機をふたり同時に使うことはできないから、なおさらだ。
「あ、そうだ。洋一さん」
「ん?」
「少しだけ待っててください」
「いいけど」
 そう言うや否や、沙耶加は部屋を出て行った。
「なにがあるのかな?」
「たぶんですけど、昨日作ったお菓子を持ってくると思いますよ」
「お菓子か」
「はい。昨日はほぼ一日中、お菓子を作ってましたから」
「一日中?」
「そのせいで、ご飯よりもお菓子の方をたくさん食べることになったんですけどね」
「なるほど」
 この姉妹は、ひとつのことに集中すると、とことんまでやるタイプだからな。それがお菓子作りでも、同じなのだろう。
「それにしても、さっきの沙耶加はさすがに怖かったね」
「お姉ちゃん、普段が普段なんで、怒ると本当に怖いんです」
 確かに、温厚な人ほど怒ると手がつけられないと聞く。
「だけど、お姉ちゃんもひどいですよね。このぬいぐるみがここにあるのは、お姉ちゃんがここに置いたからですよ。私はなにもしてないんですから。そして、どうしてここにあるのか疑問に感じていた先輩に、説明しようとしただけなんですから」
「まあね」
 事実はそうなのだが、さすがに沙耶加もそれを俺に聞かせるのははばかられたようだ。
「でもさ、真琴ちゃん」
「はい」
「本当にそれを抱いて寝てるの?」
「寝てますよ。今じゃ、一番のお気に入りですから」
「……なるほど」
 さすがに複雑な気持ちだ。それを買った経緯、そしてそれの名前を考えると、どうしても一歩引いてしまう。
 ちょうど話を終えたところへ、沙耶加が戻ってきた。
 真琴ちゃんが言っていた通り、沙耶加が作ったというお菓子とお茶を持ってきた。
「これ、私が作ったんですけど、よかったら」
 お菓子は、定番のクッキーからパイ、ケーキと実に様々だった。
 確かに、今日の段階でまだこれだけあるということは、昨日は本当にお菓子が主食だったのかもしれない。
「それじゃあ、遠慮なく」
 とりあえず、クッキーをひとつ食べてみた。
「どう、ですか?」
「うん、旨い」
「よかったぁ……」
 俺にそう言ってもらい、沙耶加はひと安心という感じで息を吐いた。
 それからお菓子を食べながら、お茶を飲みながらとりとめのない話をした。
 これもよく考えてみると、この三人でここまでのんびり話をしたのははじめてかもしれない。別に狙っていたわけじゃないけど、今まではたいていどちらかしかいなかったから。
 ふたり一緒だと、ふたりが本当に姉妹だと実感する。それは、ふとした時に見せる仕草だったり、ちょっとした考え方だったり、本当に些細なところでわかる。
 もちろん、このふたりは基本的な性格が違うから、そういう風に思えるのもそう多くはないのだが。
 そういうことだから、これから真琴ちゃんが成長して、今の沙耶加と同じくらいに綺麗になったら、果たして俺に真琴ちゃんを拒むことができるのだろうか。
 考えなくてもいいのに、ついそんなことを考えてしまった。
「さてと、そろそろ帰らないと」
 結構話し込んでいるうちに、いつの間にか外はだいぶ陽が落ちていた。もうあとそれほど経たずに、日の入りを迎える。
「あの、洋一さん」
「ん?」
 帰り際、沙耶加が俺を呼び止めた。
「今度、少しお話ししたいことがあるのですが」
「話したいこと?」
「はい。それで、今度、お時間を取れないでしょうか?」
「事前に連絡さえしてくれれば、それは別に構わないよ」
「わかりました。細かいことに関しては、また改めて連絡しますね」
「そうしてくれると助かる」
 いったいどんな話があるっていうんだ。
 この時期に話すことなんてひとつしかないと思うのだが、まあいい。
 さてと、最後は愛のところか。
 
 いったん家に帰り、夕食を食べた。
 その頃には当然美樹も帰ってきていて、自分の携帯を嬉しそうにいじっていた。
 ちなみに美樹の携帯は、色は白で、機能的には俺のと姉貴のの中間くらいのだ。
 用もないのに俺に電話をかけたりメールを送ったり、ずいぶんなはしゃぎっぷりだった。
 それから愛に電話して、これから行く旨を伝えた。
 森川家ならいきなり訪ねていってもなにも言われないだろうが、そのあたりは親しき仲にも礼儀ありということで。
 森川家の方でもすでに夕食は済んでいて、そのあたりは助かった。これが夕食前だったら、間違いなく誘われていただろう。
「それで、洋ちゃん。どんな用があったの?」
「ん、これだよ」
「あ、携帯」
 俺は、早速愛に携帯を見せた。
「もう買ったんだ」
「ちょうど今日、届いたんだ」
「そっか。私は、明日にでも買いに行こうかと思ってたんだ」
「とりあえず、俺の番号とメルアドを教えておくから」
「うん」
 紙にそれぞれを書いて渡す。
「あ、ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「明日、携帯買いに行くの、一緒に行かない?」
「別に構わんけど、もともとおまえひとりで行くつもりだったのか?」
「ううん。お父さんとお母さんと行く予定」
「……ああ、やっぱやめとくわ」
「心配しなくても大丈夫。お金だけもらって、ふたりには遠慮してもらうから」
「それならいいけど」
 万が一にもあのふたりと一緒に行くようなことになれば、いったいどんな目に遭うことやら。
「もう沙耶加さんとかには教えたの?」
「ああ。今日は午後をそれに費やした」
「費やしたってことは、わざわざ行ってきたんだ」
「暇だったしな」
 とりあえず暇だったということはウソではない。
「そういや、沙耶加もちょうど今日、携帯買ってた」
「ふ〜ん、そっか」
「番号、教えとこうか?」
「ううん。私も買ったら直接やり取りするからいいよ」
 ま、その方がいいだろうな。
「あ、洋ちゃんが買ったということは、美香さんも美樹ちゃんも買ったってことだよね?」
「ああ。なんだったら、ふたりの番号くらい、教えとこうか?」
「うん」
 俺は、姉貴と美樹の番号とメルアドをさっきの紙に書いた。
「実際こうして携帯を持っちゃうと、なんとなく首に縄か鈴でもつけられた気分だな」
「あはは、そうかもね。電波が届く範囲内なら、どこにいても連絡取れるし」
「特に、俺のまわりにはそ〜ゆ〜ことしそうなのが揃ってるから」
「あによぉ、それって、私のこと?」
「別に誰とは言ってないだろうが。おまえかもしれないし、おまえじゃないかもしれない」
「それは、暗に私だって言ってるようなものじゃない」
「被害妄想だろ、それは」
「違うわよ。確信」
 即答する。
「……だったら、この前も言ったけど、本当に常識の範囲内での連絡にしろよ」
「大丈夫だって。いくら私でも、そこまでしないもん」
「……だといいんだが」
「それに、いざとなったら携帯なんてまどろっこしいもの、使わないよ」
「は?」
「本当にそういう時は、直接会いに行くもん。いつでもね」
 ああ、こいつはこういう奴だ。
「洋ちゃんだって、本当に大切なことには、そんなもの使いたくないでしょ?」
「まあ、確かに」
「結局ね、どんなに便利なものでも、所詮は道具でしかないの。道具は上手く利用できればそれは便利だけど、そうじゃなかったら単なるガラクタでしかないから。携帯も同じ。携帯を携帯の本来の利用方法で使ってるうちはいいけど、そうじゃないことに利用しようと思っても、きっと上手く使えない」
「間違ってはいないな」
「そして、どうしても会えない相手ならしょうがないとは思うけど、会える相手になら、やっぱり直接会って話すべきだし」
 本当に大切なことは、直接か。
「だからね、私は携帯を必要以上に使うつもりはないよ。やっぱり、そういうの私のガラじゃないし」
「わかったよ。俺も、大人げなかった」
「ううん。いいよ、気にしてないし」
 あっけらかんと笑う。
「ところで、洋ちゃん」
「ん?」
「ひとつ、是非とも聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「香織さん、て、誰?」
「えっ……?」
 今、こいつはなんて言った?
 なんでこいつが香織のことを知ってるんだ?
「どうして私が知ってるんだって顔、してるわね。確かに、洋ちゃんにとってはそうかもしれないね。でもね、どんなに洋ちゃんが私に隠したって、私の情報源は洋ちゃんだけじゃないんだからね」
「……美樹、か」
「正解」
 すっかり忘れてた。
 日曜日、美樹は仲間外れにされて、すっかりご機嫌ナナメだったからな。それを愚痴混じりに愛に話すであろうことは、当然考えておかなければならないことだった。
「美樹ちゃんね、言ってたよ。お兄ちゃんが、綺麗な女の人の前でデレデレしてたって」
「…………」
 なんか、愛の目が微妙に据わってる気がするんだけど。
「そりゃね、なんでもかんでも私に言う必要はないと思うよ。私だって、その日あったことを全部洋ちゃんに話してるわけじゃないし、秘密にしてることだってあるから。でもね、さすがに今回のことは私に話してくれてもいいと思うんだけどなぁ」
 話さなかったら話さなかったでこうなるし、だけど話せば話したでたぶん、似たような状況になってただろうな。
 こいつは、とにかくヤキモチ妬きだから。
「香織さんて、和人さんの妹さんなんだよね?」
「ん、ああ。この春から姉貴たちと同じ大学に通うことになってる」
 ここまでネタが割れてたら、隠しておく意味なんてない。
「そっか。じゃあ、頭良いんだ」
「将来は、日本一の敏腕弁護士だそうだ」
「へえ、すごいね。でも、あの大学の法学部に入れるなら、それもあながちウソじゃないかも」
 愛は、素直に感心している。
「それで、洋ちゃん。まさかとは思うけど、香織さんとはなにもないよね?」
「あるわけないだろ。俺だって、この前はじめて会って、話したくらいなんだから」
「洋ちゃんはそうかもしれないけど、香織さんの方はどうかわからないじゃない。それこそ、会ったその瞬間に、ってこともあるわけだし」
 姉貴と同じことを言うな。
「それと、洋ちゃんが携帯を持った理由、香織さんでしょ?」
「……ああ」
「やっぱりね。そんなことじゃないかとは思ってたんだ。じゃなかったら、洋ちゃんが携帯持とうなんて思わないもん」
 完全に読まれてる。
「でも、どうして洋ちゃんのまわりにはそういう人ばかり集まってくるんだろ」
「それを俺に言われても困るんだが」
「だってさ、たとえ沙耶加さんや真琴ちゃんがいなくても、洋ちゃんの側には美樹ちゃんていう、最大の『ライバル』がいるのに。それなのに、今じゃ洋ちゃんの心の何割かは占めてる沙耶加さんもいるし、真琴ちゃんだっている。ほかにも学校には洋ちゃんのことを好きな子はいっぱいいるし。それに加えて、今度は美香さんの彼氏の妹さん」
 そう言ってため息をつく。
「美香さんと和人さんて、このままだと一緒になるんだよね?」
「ああ、まず間違いなく」
「だとしたら、洋ちゃんと香織さんは義理の姉弟になるんだよね」
「まあ、そうだな」
「家族だから、特に理由もなく会いに来られるし。まだどんな人かは知らないけど、美樹ちゃんの話だと、すっごい美人で、スタイルもいいし、とにかく頭の回転が速い人だってことだから。性格の面まではわからないけど、それだけの要素があれば、十分ブラックリストに入れておかなくちゃいけないから」
「物騒な物言いするなよ」
「私だってこんなこと言いたくないし、考えたくもない。でもね、洋ちゃん。こういう言い方はしたくないけど、私にそうさせてるのは、ほかならぬ洋ちゃん自身なんだよ」
「…………」
 それを言われると、本当になにも言えなくなる。
 そうだ。すべて俺が悪いんだ。弁解の余地などない。
「……すまん」
「ヤダよ。謝らないでよ。今洋ちゃんに謝られると、私の中にあるイヤな想像が、全部本当になりそうで、怖いの。だから、謝らないで」
「愛……」
 どうして俺は、いつも誰かになにか言われないと気付かないんだろうか。
 もっと早くに自分で気付いていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
「……私、どんどんイヤな女になってく。本当はもっと洋ちゃんのこと、信じていなければいけなのに、それすらできなくなってきてる……」
「それは全部、俺が悪いんだ。おまえはなにも悪くない。本当に、全部俺が悪いんだ」
「洋ちゃん……」
「どんな理由があろうとも、俺は沙耶加の想いに応えちゃいけなかったんだ。なのに、俺は応えてしまった。今のおまえのそういう考えは、すべて俺のその行動から来てる。だから、全部俺が悪いんだ」
「……そんなこと言わないでよ。洋ちゃんにそんなこと言われたら、私、ますますイヤな女になっちゃう」
「だけど──」
「だって、最終的に沙耶加さんを認めたのは、私なんだよ? あの時に本当ならもう二度と洋ちゃんに近づかせないことだってできたはずなのに、それはしなかった。その段階でこうなることは予想できてたはずなのに。だから、悪いのは洋ちゃんだけじゃない。私にも悪いとこはあるの」
「愛……」
 俺は、愛をきつく抱きしめた。
「洋ちゃん……」
 今更後悔したところで、時間は戻らない。
 これから先、後悔しないために、最善を尽くさなければならない。
 それが、今の俺に必要なことだ。
 愛のことも、沙耶加のことも。
 もちろん、真琴ちゃんや由美子さん、香織のことだって。
 そうしないと、俺は、愛の隣にいる資格を失ってしまうから。
 
 本番は、これからだ。
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