恋愛行進曲
 
第十七章 春の息吹
 
 一
 たぶん、世の中の女の子、女性にとって、一年の中でも三本の指に入るくらい大事な日が、今日だと思う。それは多少言い過ぎかもしれないけど、でも、世の中の雰囲気を考えると、十分にあり得そうだ。
 そう、今日はバレンタインデー。
 もはや本来の意味などどこかに置き忘れてしまって、お菓子屋の陰謀に踊らされる一日だけど、それはそれで無宗教の国である日本では、ちょうどいいのかもしれない。
 以前は本命チョコ、義理チョコの二種類しかなかったのだが、最近では自分チョコなるものまで出てきたらしい。なるほど、確かに義理チョコを渡すくらいなら、自分にチョコを買った方がいいということだ。
 そもそもわざわざ『義理』などと言ってチョコを渡す方が失礼な気もする。
 まあ、男は単純だから、たとえ義理だとわかっていてもチョコをもらえると嬉しいのだ。それはそれでわかる。だけど、よくよく考えてみれば、虚しいことに気付くはずだ。
 だからといって、いわゆる本命チョコをたくさんもらったら嬉しいかといえば、そうじゃない。むしろ、本命チョコをたくさんもらえば、それだけ大変な目に遭うはずだ。なんといっても、渡してくれた相手は『本気』なのだから。
「……人ごとじゃ、ないんだけどな」
 そんなことをまどろみの中で考えていた。
 
 着替えて下に下りると、いつものように母さんが朝食の準備をしていた。
「母さん、おはよう」
「おはよう、洋一」
 母さんはみそ汁を混ぜながら応えた。
 と、廊下から足音が聞こえ、美樹が入ってきた。どうやら洗面所で顔を洗ってきたみたいだ。
「おはよ、お兄ちゃん」
「おはよう」
 美樹とはあの日から一緒に寝ているのだが、起きる時は基本的にお互いを起こさないで起きるようにしている。まあ、お互いに学校があるから、たいていは時間になったら起こすのだが。
 そんな美樹と入れ替わりに、洗面所へ向かう。
 二月半ばとはいえ、まだまだ冷たい水で顔を洗う。これをすれば、どんなに眠くても目が覚める。
 食堂に戻ると、姉貴の分を除いた三人分の朝食の準備が終わっていた。
 姉貴は大学も休みだから、よほどの用事がない日じゃない限り、俺たちにあわせて起きてこない。
 いつもと同じくらいの時間に朝食を食べ、他愛のない話をする。
 食事を終え、お茶をすすっていると、母さんが俺の前に小さな箱を置いた。
「愛する息子へ、私からのチョコよ」
 少しだけ真面目にそう言うから、思わず呆れてしまった。
「今年はないかと思ったよ」
「あら、どうして?」
「だって、父さんがいないから。毎年、俺の分は父さんの分の余りだからさ」
「そんなことないわよ。もちろん、お父さんのと洋一のとじゃ、そこに込められてる愛情の量は違うけど。でも、ちゃんと洋一のことも考えて作ってるのよ」
「でも、今年は作ってた様子はないんだけど」
「それは、お父さんがいないから」
 ということは、これは店で買ってきたまんまのチョコということか。
「ま、いいけどね」
 母親からのチョコなど、その程度のものだろう。
 それを見ていた美樹は、いきなり席を立ち、二階へ駆け上がっていった。
 ドタドタと足音がして、少しそれが止み、今度はバタンとドアの閉まる音がして、またドタドタと足音が聞こえる。
 で、予想通り、それを持って戻ってきた。
「はい、お兄ちゃん」
「サンキュ」
「今年は、全部私ひとりでやったんだから」
「へえ、ちゃんと味見はしたか?」
「ちゃんとしてるよ」
「なら、とりあえず食べられるというわけか」
「ぶう、お兄ちゃんのいぢわる」
 俺は、美樹がチョコを作っている姿を見ていない。昨日は一日家にいなかったからだ。
 ただ、愛が美樹と一緒にチョコを作るようなことを言っていたから、昨日のうちに一緒に作ったんだろう。ま、愛が一緒なら、食べられないものができあがることはないけど。
「食べるのは帰ってきてからでいいよな?」
「うん」
 さすがに、朝っぱらからチョコを食える胃袋は持っていない。
 出る前にテレビを見ていたら、やっぱりバレンタインの話題をやっていた。今日はどこへ行ってもこの話題で持ちきりなんだろうな。
 いつもと同じ時間に家を出た。
 家の前で、愛と合流する。
「よ、愛」
「おはよ、洋ちゃん」
 愛は、心なしかいつもより機嫌がよかった。
「なんか、嬉しそうだな」
「そうかな?」
「ああ」
「もしそう見えるんだとした、今日が特別な日だからだよ」
「バレンタインだからか?」
「うん」
 頷きはするが、愛は俺にチョコを渡すようなそぶりは見せない。
「あ、チョコはね、学校が終わってから渡すから」
「そうなのか?」
「うん。というか、持ってきてないし」
「ふ〜ん……」
 なんか、愛のことだからいきなり渡してくるかと思ったけど、拍子抜けだ。
「ふふっ、今年のチョコは、かなりの自信作だからね。洋ちゃんも、楽しみにしててね」
 チョコに自信作もなにもないような気がするのだが、とりあえず言わないでおく。
 学校までは、別にバレンタインの話ばかりしていたわけではなかった。それはある意味当然で、愛は、今みたいな関係になる以前から、毎年のようにチョコをくれてた。だから、そこに込めていた想いは別として、チョコを渡すこと自体にはそれほど深い感慨はないはずだ。
 学校に着くと、なんとなくいつもと雰囲気が違った。
 女子は集まって誰にチョコを渡すの、とか聞いてるし、男子はチョコをもらったとかもらえなくても別にいいじゃん、ということを話してる。
 たまにまったく興味を持ってない奴もいるけど、ほとんどの連中はバレンタインを意識していた。
 教室に入ると、男子の机の上に、チョコが置かれていた。どうやら、誰かが義理チョコを配ったらしい。これは毎年のことだから、誰も驚かない。
「洋一さん、愛さん、おはようございます」
「おはよう、沙耶加」
「おはよう、沙耶加さん」
 机にカバンを置くと、早速沙耶加が声をかけてきた。
「あの、洋一さん」
「ん?」
「ちょっとだけ、いいですか?」
「別にいいけど」
 俺は、沙耶加に連れられ、廊下へ出た。
 廊下の隅で、沙耶加は持っていた包みを取り出した。
「あの、バレンタインのチョコです」
「いいの?」
「はい」
「じゃあ、遠慮なく」
 俺は、それを受け取った。
「これ、沙耶加が作ったの?」
「はい。チョコはお菓子作りでもたまに使っていたので、失敗はしてないと思いますけど」
「沙耶加の腕なら心配ないって」
「ふふっ、そう言っていただけると、嬉しいです」
 そう言って沙耶加は微笑んだ。
 だけど、教室じゃなくてわざわざ廊下で渡したってことは、やっぱり愛に遠慮してるのかな。チョコくらいなら、愛もなにも言わないと思うんだが。
 とりあえずチョコはもらったので、教室に戻る。
「──で、おまえはなにしてるんだ?」
 戻ると、愛が俺の席に座ってつまらなそうにしていた。
「べっつにぃ。なにもしてないよ」
「ったく……」
 わかりやすい反応だ。
「とりあえず、席を空けてくれ」
 愛を自分の席に戻し、代わりに座る。
 沙耶加のチョコはカバンにしまう。
「そういや、沙耶加」
「はい」
「前から疑問に思ってたんだけど、女子校のバレンタインでどんな感じなんだ?」
「あ、それ、私も気になる」
「そうですね、やはり男子がいない分、多少盛り上がりに欠けていると思います」
「まあ、それはそうか」
「でも、チョコとか持ってきたりはしてるんでしょ?」
「ええ、ほとんどの人は」
「なんのために?」
「チョコの交換をするんですよ。まあ、正確に言えば、交換というよりは、みんなでチョコを持ち寄って食べる、という感じですけど」
「なるほど」
 なんとなく、それはありそうだ。
「あと、それほど多くはないですけど、本命チョコを渡してる人もいました」
「それって、女同士で?」
「はい」
「な、なるほど……」
 それも、あるのか。う〜ん、おそるべし、女子校。
 男子校なら、絶対にあり得ない話だな。
「沙耶加さんは、どうしてたの?」
「私は、特にはなにも。お父さんに渡していたくらいです」
「ふ〜ん、そっか。じゃあ、本格的にチョコを作ったのは、今年がはじめてなんだ」
「そうですね」
 愛の言葉に、沙耶加は素直に頷く。
「去年まではバレンタインなんて私には関係ないと思ってましたけど、実際渡す相手がいると、全然違いますね。今年はそれを実感しました」
 沙耶加が言うと、説得力がある。
 愛も、そう思ってるかもしれない。
「あ、そうだ。沙耶加さん」
「はい?」
「今日はね、学校のあちこちでチョコを渡す様子が見られるから」
「そうですね」
「ん〜、わからないかなぁ」
「なにがですか?」
「それはつまり、誰もが自分の好きな人にチョコを渡すってこと」
「はあ……」
「だからぁ、それは洋ちゃんにも言えるの」
「あっ」
 愛の遠回しな言い方ではさすがにわからなかったようだ。
「それはそれで、見ててあまり楽しいものじゃないんだけどね。でも、相手も本気だと、邪魔することもできなくて」
「それは、つらいですね」
「うん、つらい」
 ふたりは、揃って俺を見た。
 なんとなく、無言のプレッシャーを感じるのだが。
 やれやれだ。
 
 学校は、休み時間の度に慌ただしくなった。
 ごく少数の『イベント』不参加組を除いて、ほぼ全員、なんらかの行動を取っていた。別にそれは、チョコを渡したとか、もらったとか、そういうのだけではない。
 誰にチョコをあげたとか、誰からチョコをもらったとか、そういうのもである。
 いやまあ、俺自身もそこまで冷静に様子を伺っていられたわけではない。
 以前、愛から俺には『ファン』らしき連中がいることは聞かされていたけど、なんかそれは本当だったみたいだ。
 去年はクラスの女子から申し訳程度にチョコをもらっただけだったのだが、今年はそれだけでは済まなかった。
 休み時間の度に廊下に呼び出され、チョコを渡された。当然、俺は相手のことはなんにも知らないのだが、真剣な表情でチョコを渡してくるもんだから、断るに断れなかった。
 それを持って席に戻ると、愛と沙耶加がものすごくつまらなそうな顔してるし。
 別にそれは俺のせいじゃないのだが、適当な言葉も見つからなかったので、なにも言わなかった。
 昼休みは、朝と放課後と並んで一番チョコの受け渡しが見られる時間だ。
 俺はいつものように愛と沙耶加と一緒に弁当を食べ、たまにやって来る子の相手をしていた。
 で、弁当を食べ終わると、俺は教室をあとにした。
 さすがに教室にずっといると、愛と沙耶加の視線が痛いからだ。
 避難先は二カ所思い浮かんだけど、とりあえず先に思い浮かんだ方にした。
「失礼します」
 ドアをノックして中に入る。
「あら、洋一くん」
 保健室の主──由美子さんは俺の姿を認めると、嬉しそうに微笑んでくれた。
「いらっしゃい。もうお昼は食べたの?」
「ええ」
「じゃあ、私に会いに来てくれたの?」
「そうです、と言いたいところなんですけど──」
「けど?」
「実は、避難しに来たんです」
「避難? なにから?」
 由美子さんは、首を傾げた。
「チョコからです」
 俺は、勧められる前に椅子に座った。
「チョコからって、どういう意味?」
「いえ、たいした意味はないですよ。ようは、昼休みくらい静かに過ごしたいと思っただけですから」
「ああ、なるほど。そういう意味ね」
 お茶を淹れながら、由美子さんはなるほどと頷いた。
「確かに、洋一くんのファンは多いから。ひょっとして、もうだいぶもらったの?」
「だいぶ、というほどの数はないですけど、それでもそろそろ大台に乗りそうですけど」
「大台って、百個?」
「違いますよ。十個です」
「十個くらいなら、今までにももらってなかったの?」
 俺の前にカップを置きながら訊ねる。
「昔、一度だけありましたけど。でも、それはチロルチョコとか、五円チョコとかを含めてですから。ある程度ちゃんとしたのでは、ないです」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 由美子さんは、納得したんだかしてないんだか、よくわからない返事をした。
「やっぱりあれかしら」
「なんですか?」
「森川さんがいたせいかしら。この学校で洋一くんにファンがいるということは、小学校や中学校でもそういう可能性はあったということだから。でも、チョコはそこまでもらわなかった」
「そうですね」
「じゃあ、その理由はなにかと考えれば、森川さんの存在と考えるのが一番しっくりと思わない?」
 と、俺に訊かれても困るのだが。
「でも、どうして今年はそんなに洋一くんにチョコが来るようになったのかしら。森川さんが側にいるのは変わらないのに」
「さあ……」
 俺にはそうとしか言えなかった。
「もしかしたら、山本さんの存在が大きいのかもしれないわね」
「それは、どういう意味ですか?」
「ほら、山本さんもよく洋一くんと一緒にいるじゃない。しかも、ふたりはまるで本当の『恋人』のように話したりしてるし。でも、みんなの頭の中には森川さんの存在がある。じゃあ、なんで山本さんが? ということになる。ひょっとしたら、森川さんのことは自分たちの早とちりでまだチャンスはあるかもしれない。だったら、チョコを渡さなくちゃ。ということかもしれないわね」
 それはそれで、なんとなく納得できた。
「それで、みんな、どんな感じでチョコを渡していくの?」
「別に、普通ですよ。特に変わったところはありません」
 多少言葉は違っても、だいたい同じようなセンテンスが並んでいた。
「その中に、カワイイ子はいた?」
「……あの、由美子先生。それを確かめてどうするんですか?」
「そうね、その子はライバルになるわけだから、どうやったら蹴落とせるか考えようかしら」
「……勘弁してください」
 由美子さんなら、やりかねない。
「ふふっ、それはもちろん冗談だけど」
 全然冗談に聞こえなかったのだが。
「あ、そうそう。ちょっと待ってね」
 そう言って由美子さんは席を立ち、備え付けのロッカーを開けた。
 荷物を取り出し、その中からなにやら取り出す。
「はい、私からのチョコ」
「ありがとうございます」
 まあ、今日という日にくれるものは、これしかないけど。
「これ、手作りですか?」
「ええ、そうよ」
「でも、昨日はそんなことしてる余裕なかったと思うんですけど」
「ふふ〜ん、甘いわよ。私がこんな大事なことを忘れてると思う?」
「いえ」
「当然、おとといのうちに準備を済ませておいたのよ。それで、あとは昨日、仕上げをすればいいだけ。それなら、そんなに時間もかからないし」
「お見それしました」
 そこまでしっかりやっていたとは、さすがだ、
「味は自信あるんだけど、問題は洋一くんの口にあうかなのよね」
「一応、どんなチョコでも食べられますけど」
「私のはね、少し苦みを残してあるのよ。たぶん、洋一くんがもらうほかのチョコは甘いのが多いと思ったから」
「なるほど」
「男の人は、甘いの苦手な人が多いから。せっかく渡したのに、食べてもらえないと意味がないし、悲しいでしょ?」
「確かにそうですね」
 ちゃんと差別化を図っているのか。さすがは由美子さんだ。
 確かに、甘い中に苦みの強いのがあれば、アクセントになる。
「ところで、洋一くん。ちょっといいかしら?」
「なんですか?」
「ん、ちょっとこっちに」
 そう言って由美子さんは、俺を保健室の奥へ連れて行く。
 窓のカーテンも仕切り用のカーテンもしっかり閉める。
「……ん、やっと抱きしめてもらえた」
 すぐに、由美子さんは俺に抱きついてきた。
 俺もそうなるんじゃないかと思ったから、特に驚くこともなく、由美子さんを抱きしめた。
「ねえ、キス、してほしい」
「いいですよ」
 いつもより少しだけ長くキスをした。
 唇を離すと、由美子さんはほんのり頬を染め、俺の胸に顔を埋めた。
「昨日は、すごく楽しかったわ。あんなに楽しくて充実したデートは、はじめてだった」
「俺も、楽しかったですよ。普段は見られない由美子さんの姿も見られましたし」
「洋一くんの前だと、自分が年上だとか、教師だとか、そんな些細なこと、忘れてしまうのよ。だから、今の私の一番無防備な姿をさらすことになる。でもね、それはいいの。だって、それはつまり、それだけ私は洋一くんのことが好きだということの証明になるし、なおかつ私のことを本当の意味で知ってもらえるから」
「確かに、そうかもしれませんね」
「もちろん、私も洋一くんの学校では見られない姿を見ることができたから。お互い様よね」
 デートの本来の意味はわからないが、デートをするひとつの理由は、そこにあると思う。
「……今日は、もうずっとこのままでいたいわ」
 由美子さんは、ぽつりと本音を漏らした。
「まだね、昨日の感触が残ってるの。したのが久しぶりだったというのもあると思うけど、でも、それ以上に私の中には洋一くんの感触が残ってる」
「由美子さん……」
「ねえ、洋一くん。私もかなり無理なことだとは思っているけど、もし可能なら、月に何回かでいいから、私のこと、抱いてほしいの。ダメ、かしら?」
 真剣な眼差しで問いかけてくる。
「可能な限り、それには応えていくつもりです」
「本当に?」
「はい」
「嬉しい……」
 由美子さんは、本当に嬉しそうに微笑んだ。
 こういう姿を見ると、由美子さんが俺より年上で、大人の女性であるということを忘れてしまう。
「さてと、あまりこうしてると、本当になにもできなくなってしまうから」
 そう言って俺から離れた。
「あ、そうそう。ひとつ忘れてたわ」
「なんですか?」
「ちょっと待ってね」
 カーテンを開け、机に戻る。
 引き出しから紙を取り出し、なにか書いている。
「はい、洋一くん」
「これは……」
「私の部屋の住所と電話番号。電話の方は、家にいる時ならいつかけてもらっても大丈夫だから」
 それはつまり、俺に電話をかけろ、ということか。
「洋一くんの方には、電話はかけられないから」
 確かに、うちにかければ俺以外が出る可能性が高い。姉貴なら誤魔化せるかもしれないが、母さんや美樹ならそれは無理だな。
「まあ、こうして学校がある時なら無理に電話しなくてもいいんだけどね」
「わかりました。もらっておきます」
 俺は、それをポケットにしまった。
「それじゃあ、そろそろ戻ります」
「ええ。午後もしっかり受けるのよ。テストも近いんだから」
 そんな由美子さんの言葉に送られ、俺は保健室を出た。
 
 そして放課後。
 相変わらず校内のあちこちでチョコを渡す姿が見られる。
 俺の方はそろそろ打ち止めのようで、ホームルームが終わってすぐにひとりからもらったきり、ぱったり誰も来なくなった。俺としてはその方がいいのだが。
 だけど、それですべてが終わったわけじゃない。
「先輩」
 教室を出たところで、真琴ちゃんに遭遇した。
「やあ、真琴ちゃん」
「今日は、もう帰るんですか?」
「まあね。一応、テストも近いから」
「じゃあ、つきあってもらうのは、無理ですか?」
「そんなことはないけど」
 俺は、ちらっと愛を見た。
 愛は、やれやれという感じで小さくため息をついた。
「洋ちゃん。私、教室で待ってるから」
「あ、うん、悪いな」
「ううん」
 愛は、教室に戻った。
「あの、よかったんですか?」
「まあ、とりあえずいいよ。それより、真琴ちゃんの用事を済ませちゃおう」
「あ、はい」
 真琴ちゃんは多少愛を気にしていたけど、とりあえずは目的を優先した。
「あの、先輩。これを」
 そう言ってそれほど大きくない包みを俺に渡してきた。
「バレンタインのチョコです」
「ありがとう」
「一応、手作りなんですよ」
「一応?」
「少しだけ、お姉ちゃんに手伝ってもらっちゃったので」
「ああ、そういうことか」
「やっぱり、普段からやっていないといざという時にできないですね。今回、それを改めて思い知りました」
「でも、だいたいは真琴ちゃんがやったんでしょ?」
「それは、まあ」
「だったら、全然できなかったわけじゃないし、いいんじゃないかな」
 全然できない人だっているわけだし。
「去年までは、お店で買ってきたのをそのまま渡してただけでしたから」
「それは格段の進歩だと思うよ」
「そうですかね?」
「まず、自分で作ろうと思った段階で、進歩してるよ」
「先輩にそう言われると、そういう気がします」
 そう言って真琴ちゃんは微笑んだ。
「先輩。ひとつ、変なことを訊いてもいいですか?」
「ん?」
「えっと、今日はどのくらいチョコをもらったんですか?」
「気になる?」
「それは、はい」
「とりあえず、学校では十個かな。あ、真琴ちゃんのを含めると十一個」
「十一個……それって、お姉ちゃんのも含めてですよね?」
「うん」
「……ということは、私の知らない人が九人も先輩に渡してるってことですね」
「中には明らかな義理チョコもあるけどね」
 実際、間違いなく義理チョコだとわかるのは三つだった。そのどれもがクラスの女子からので、まあ、恒例行事の副産物とでも言えばいいのだろうか。
「心配しなくても、その中で真琴ちゃんは特別だよ。そりゃ、チョコをもらったこと自体は事実だし嬉しいけど、でも、俺は相手のことはなにも知らないからね。そのあとなんらかのアクションがあれば別だけど、チョコを渡したこと自体に満足していたら、それ以上はあり得ないから」
「それは……わかってます」
「そっか、ならいいんだけどね」
 真琴ちゃんが言いたいことは、きっと違うことだろう。だけど、どちらにしてもなにか起こることなど、あり得ない。
「じゃあ、とりあえずもう用はないよね?」
「あ、はい」
「なにもなければ真琴ちゃんにつきあったんだけど、さすがに今日はね」
 そう言って苦笑した。
「その代わり、明日の放課後は一緒に絵を描こうか」
「いいんですか?」
「俺から言い出したんだから、いいに決まってるよ」
「あ、じゃあ、是非お願いします」
「それじゃあ、明日の放課後、いつもの時間にいつもの場所でね」
「はい」
 真琴ちゃんがいつもの笑顔を見せてくれたので、俺は安心してその場を離れられた。
 教室に戻ると、予想通り愛は拗ねていた。
「終わったの?」
「ああ」
 俺は、持っていたチョコをカバンにしまった。
「とりあえず、帰ろ」
 なにか言いたいことはあるみたいだが、教室だと言いづらいことらしい。
 無言のまま教室を出て、階段を下り、昇降口で靴を履き替え、学校を出る。
 校門を出て少ししたところで、愛は口を開いた。
「自分の彼氏がモテるのは嬉しいけど、モテすぎるのは問題かも」
「それは俺のせいか?」
「そうじゃないけど、なんか納得できなくて。もちろん、今日のは頭では納得してるわよ。年に一度のバレンタインだし。でも、心ではどこか納得できなくて」
「そんなもんだろ。なんでもかんでも納得できる方がおかしい」
 俺と愛の立場が逆だとしても、俺はそういう風に感じたかもしれない。
「でも、真琴ちゃんので十個目でしょ?」
「……数えてたのか?」
「うん」
 本当は十一個なのだが、それは由美子さんからのを数えてないからだ。
「そのうちの二個が沙耶加さんと真琴ちゃん。それはまあ、いいとして。残り八個のうちの三個は義理チョコ。それもいい。そして、残り五個。それが本当に本命チョコなのかはわからないけど、少なくとも義理チョコとも言えないものだから」
「そりゃ、まあ、そうだけど。だけど、これ以上どうにもならんだろ。その五個、というかそれをくれた五人だけど、誰ひとりとして渡しながら告白してきた子はいなかったし」
「それは、私がいるからだと思うよ。さすがに彼女がいる人に『好きです』って言ってチョコは渡さないだろうし」
 それはどうかわからんけど。
「まあ、どうせこれ以上なにも起きようがないんだから、あんまり気にするな」
「だといいけど」
 そう言って愛はため息をついた。
「ところで、愛」
「うん?」
「俺はこのまま帰っていいのか? 朝、チョコは帰ってから渡すとか言ってたけど」
「あ、うん、別に帰ってもいいよ。ただ、荷物置いて、着替えたらうちに来てね。来てくれなかったら私、銃刀法を破っちゃうかもしれないから」
 ……それはなにか。包丁かなにかを持ってうちに押しかける、ということか。
「わかった。必ず行く」
「うん、待ってるから」
 やれやれ。
 
 家に帰り、荷物を置いて、着替える。
 一応チョコはカバンから出しておく。見た目で誰からもらったかはわからないから、そのままにしておいても問題はないだろう。
「いや」
 やっぱり、三個だけ別にしておくか。
 その三個はもちろん、沙耶加と真琴ちゃん、それに由美子さんのだ。
 エアコンさえ入れなければどこに置いておいても同じだろうから、机の引き出しにしまうことにした。
 コートを持ち、部屋を出る。
「母さん」
 リビングに顔を出す。
「どうしたの?」
「ちょっと愛のとこ行ってくるから」
「帰りは?」
「あいつ次第」
 これに関しては、俺の意志はほとんど反映されない。悲しいけど。
「じゃあ、とりあえず夕飯どうするか決まったら、連絡しなさい」
「わかった」
「あとはいつものことだけど、迷惑かけないのよ」
「わかってるって」
 あの家の人たちなら、多少の迷惑も迷惑とは思わないだろうな。
「あ、そうそう。ひとつ忘れてたわ」
「ん?」
「美香がね、あなたに渡しておいてほしいって」
 そう言って母さんは立ち上がり、食堂のテーブルから小さな箱を持ってきた。
「はい、チョコレート」
「俺に渡しておいてほしいってことは、今日は帰ってこないわけ?」
「ええ、和人さんのところに泊まってくるって言ってたわよ」
「なるほど」
 姉貴らしい行動力だ。
「じゃあ、いってくるわ」
「いってらっしゃい」
 姉貴からのチョコを部屋に置き、改めて家を出た。
 陽が傾いてきて、少し寒くなってきた。
「……姉貴がいないということは、できれば帰った方がいいんだろうな」
 俺までいないと、美樹の愚痴聞き係がいなくなるから、あとが面倒だ。
 しょうがない、なんとか愛を説得してみるか。
 森川家に着き、インターフォンを押す。
『はい』
「洋一です」
『あら、洋一くん。今開けるわね』
 すぐに玄関が開いた。
「いらっしゃい、洋一くん」
「こんにちは」
 愛美さんは、いつもの笑みを浮かべ俺を迎えてくれた。
「さ、上がって」
「はい」
 言われるまま家に上がる。
「愛に呼ばれたの?」
「ええ。チョコを渡したいからって」
「チョコくらいなら、持っていけばいいのに」
 俺もそう思うのだが、とりあえず言わないでおこう。
「ところで洋一くん」
「はい、なんですか?」
「まだチョコをもらう余裕はある?」
「えっと、それはつまり──」
「私もチョコをあげようと思ってね」
 ニコニコと笑う。
「それは別に構いませんけど──」
「じゃあ、今持ってくるわね」
 愛美さんは、パタパタと足音を立て、奥へ消えた。
 それからすぐに戻ってくる。
「はい、洋一くん」
「ありがとうございます」
「それが今年の『本命』チョコだから」
「えっ、そうなんですか?」
「うちの人にも渡したけど、そっちは義理チョコみたいなものね」
 さ、さすがにそれは……
「私としては、洋一くんに喜んでもらえればそれでいいのよ」
 無邪気にそう言われると、なにも言えない。
「ちなみに、少しお酒が入ってるから、食べる時は気をつけてね」
「わかりました」
 それから愛に声をかけ、部屋へ。
「むぅ、洋ちゃん、遅いぃ」
「悪い」
 インターフォンの音で俺が来たのはわかったはずだから、すぐに上がってこなければ遅いと思うのも当然か。
「なにしてたの?」
「ん、愛美さんにチョコをもらった」
 証拠のチョコを見せる。
「お母さん、洋ちゃんにも用意してたんだ」
「なんだ、知らなかったのか?」
「うん。朝、お父さんには渡してたけど。それだけだと思ってたから。んもう、ホントにお母さんは抜け目ないんだから」
 愛は半分呆れ顔で言った。
「じゃあ、とりあえず、私もチョコ渡すね」
 そう言って机の上に置いてあったチョコを手に取る。
「──って、おい、愛」
「ん?」
「なんだ、その大きさは?」
「いいでしょ? これ作るの大変だったんだから」
 それは、直径二十センチはあろうかというチョコだった。厚さは普通みたいだが、さすがにその大きさには閉口する。
「あ、心配しなくてもいいよ。これ、ひとつじゃないから」
「どういう意味だ?」
「ん〜、実際見てみるとわかるよ」
 言うが早いか、愛はそれを開けた。
 すると中には、数種のチョコが入っていた。
「これがビターチョコ。これがホワイトチョコ。これがストロベリーチョコ。これがブルーベリーチョコ」
 四種類のチョコで、大きなハートを作っていた。これは確かに、作るのは大変だ。
「ふたつのベリーチョコは、中に甘さ控えめのジャムが入ってるから」
「なるほど」
 見ると、そのふたつは確かに少し厚みがある。
「食べてみる?」
「そうだな」
 俺は、一番無難なビターチョコを手に取った。
「…………」
 一口食べる。
「どう?」
「うん、旨い」
「よかったぁ」
 まあ、普通に作れば食べられないものができることはないからな。
 ビターチョコを食べきって、いったん箱を閉じた。
「いろいろ考えたんだけどね、なかなかいいアイデアが浮かばなくて。で、苦肉の策でとりあえず何種類かチョコを作ってみようと思ったら、その途中でアイデアが浮かんだの。そして、こういうのになったと」
「なるほどな」
 毎年作ってれば、それもしょうがないだろう。
 でも、俺は特別チョコが好きというわけでもないから、同じのでもいいのだが。
「だけど、愛」
「ん?」
「おまえの苦労を無駄にするようなことを言うつもりはないけど、もう少し普通のでいいんだぞ。どんなのでも、おまえが作ったというのが大事なんだからさ」
「洋ちゃん……」
「まあ、本音を言えば、これ以上大きいのを作られると、いくらおまえが作ったのでも、さすがに食べきれないからなんだけどな」
「あ、そっか」
 愛は、得心という感じで頷いた。
「じゃあ、来年はもう少し違うところで工夫してみるね」
「ああ、そうしてくれ」
 せっかく作っても俺に食べてもらえないのでは意味がない。だから愛も素直にそれを聞き入れてくれた。
「それはそうと、洋ちゃん」
「なんだ?」
「そこに座ってくれるかな」
「ここじゃダメなのか」
「うん」
 俺は言われるままベッドを背に座り直した。
「ではでは……えいっ」
「おっと」
 愛は、そんなに俺に寄りかかるように座った。
「洋ちゃん。ギュッとして」
「今日は注文が多いな」
 だけど、断るつもりはない。
「やっぱり、洋ちゃんに抱きしめてもらうと、安心する」
 目を閉じ、さらに少しだけ体重をかけてくる。
「ねえ、洋ちゃん。昨日はどこに行ってたの?」
「……美樹に訊かなかったのか?」
「訊いたよ。でも、美樹ちゃんも詳しいことは知らないって言ってたし」
 ……確かに、デートではないけど、退っ引きならない用事があって出かける、としか言ってないからな。
「しかも、かなり朝早くから出かけたっていうし。だから、どこに行ったのか気になって」
「まあ、いろいろあったんだよ」
「そのいろいろが気になるの」
「…………」
「今日、沙耶加さんに話を聞いてみたけど、一緒じゃなかったって言うし。当然、真琴ちゃんも違う。だから、デートじゃないというのはわかったけど」
 すまん、デートだったんだ。
「じゃあ、どこに行ったのかなって。帰ってきたのって、もう夜だったの?」
「少なくとも陽は沈んでたな」
「ということは、どこか遠くに行ってたってこと?」
「そうだな。ちょっと遠くに行ってた」
「なにしに?」
「……いろいろだ」
 これ以上のことは、絶対に話せない。もし愛が由美子さんのことに理解を示してくれたとしても、それだけはしたくなかった。もちろん、愛のことは信用している。だけど、これはそういう問題じゃない。
「どうしても教えてくれないの?」
「俺個人の問題だからな。いくら俺とおまえが恋人同士でも、個々人というものはあるはずだからな」
「…………」
 少し言い方はきついけど、しょうがない。それに、それ自体は間違ってるとは思わない。たとえ、夫婦であろうと、個人というものはある程度尊重されなくてはならない。
「……うん、そうだね。洋ちゃんの言う通り。洋ちゃんにそういうのがあるように、私にもそういうの、あるから」
「悪いな」
「ううん」
 愛の淋しげな笑みを見ていると、心が痛む。だけど、ここで挫けてはいけない。
「でもね、洋ちゃん。できれば、そういうのはあまりないようにしてほしいの。ワガママな言い分だってわかってはいるけど、でも、そうしてほしいの」
「……そうだな。できるだけそういうことはないようにするよ。ほかならぬ、おまえの頼みだし」
「うん、ありがと」
 これくらいのことは、言ってもいいだろう。
「あ、そうだ。洋ちゃん」
「なんだ?」
「面白いものを借りたの」
「面白いもの?」
「うん。ちょっと待っててね」
 そう言って愛は、クローゼットを開けた。
 そこから少し大きめの紙袋を取り出す。だけど、中身は軽いようだ。
「なんだ、それ?」
「なんだと思う?」
「さあ、かさばるけど重くはないものだろうけど」
「そこまではあってる」
「それ以外はわからんな」
「じゃあね、教えてあげる」
 愛は、袋の中からそれを取りだした。
「じゃじゃ〜ん」
 妙な掛け声とともに見せてくれたのは──
「チャイナドレス?」
 目にも鮮やかなチャイナドレスだった。
「うん、チャイナドレス」
「それ、どうしたんだ?」
「ほら、文化祭の時にコスプレ喫茶をやってたところがあったでしょ?」
「……そういや、そんなのもあったな」
 俺たちは、そこにいる『人種』があまりにも特殊だったので、回避したのだが。
「で、その中に私の知り合いがいてね、これを着てたの」
「なるほど。で?」
「これ自体はそれほど高いものじゃないんだけど、でも、だからって一回着ただけで捨ててしまうわけにもいかなくて」
「だったら、家にしまっておけばいいんじゃないか?」
「そこが問題だったの。その子の家ね、今時珍しいくらい厳しいの。文化祭のことなんてなにひとつ話さなかったっていうし。だからね、もしこれが家にあることがわかったら、どうなるかわからないっていって」
「だからおまえがとりあえず借りるという形で引き取った、と」
「うん」
「だけど、なんで今なんだ? 文化祭からもうだいぶ経ってるだろ?」
「それは、あちこちを転々としてたからだよ。私のところに来るまでに、三人ほどの手を渡ってきてるから」
「……ひとり一ヶ月か」
「だいたいそんな感じ」
「じゃあ、おまえもそのくらいの間、預かってるのか?」
「ううん。これ以上たらい回しにするわけにもいかないから、どうなるか決まるまで私が持ってることになったの。ほら、うちなら『面白いもの』で済んじゃうから」
 確かに、あのふたりならそれで終わらせるだろうな。
「で、それを俺に見せてどうしようって?」
「ん、これ着て、エッチしたいなって」
「…………」
「どうしてそこで黙っちゃうのよぉ」
「いや、あまりにも予想通りの展開だったからな」
 なんとなく、予想できた。
「もしかして、おまえ、コスプレエッチにはまったとか言わないよな?」
「ん〜、それはわからないけど、でも、いつもと違う格好でするのは、気分まで変わるからいいと思うよ」
 それは俺も思うけど。
「洋ちゃんがイヤなら、別にいいけど」
「別にイヤとは言わないけど」
「じゃあ、しよ?」
 嬉々とした表情で言われると、さすがに断れない。
「わかったよ」
「あはっ、ありがと」
 結局、こうなるんだな。
 
 実際、このチャイナドレスを着てウェイトレスをやっていたわけだから、着ていた奴はなかなか度胸のある奴だ。
 なんといってもチャイナドレスはサイドのスリットがきつい。少なくとも足を見せるのに躊躇してしまうような奴は、とうてい着られない。どこぞのあやしいビデオなんかに出てくるような、下着をつけてるのかどうかわからないような、そこまでのスリットではなかったけど、それでもふとももが露わになる。
 愛は、それを着ようとしたが、ひとつだけ問題があった。
「ね、ねえ、洋ちゃん」
「……なんだ?」
 もうなにを言われるかわかっていたのだが、あえて訊いてみた。
「胸、きついんだけど」
 そう。もともと愛のために用意されたものじゃないから、微妙にサイズがあわなかった。丈はだいたいあっていたのだが、とにかく胸のところがあわなかった。
 首もと、ウェストは問題ない。本当に胸だけダメだった。
 これを着ていた奴も、まさか愛がこれを着るとは思ってなかっただろう。というか、今のこの姿を見せられたら、微妙に怒るかもしれないな。
「どうするんだ?」
「どうしよっか?」
 一生懸命胸のところを締めようとするのだが、どうしても無理だ。
「まあ、とりあえずそれ以上はどうしようもないだろ」
「そうなんだけどね」
 愛は、ようやくあきらめたようだ。
「しょうがない。今日のところはこれで我慢しよ」
 胸のところが微妙に開いていて、これはこれで悪くはない。
 って、俺はなにを言ってるんだ。
「ね、洋ちゃん」
 愛は、足を微妙に上げ、わざとふとももを見せる。
「どう?」
「おまえなぁ、そういう時にそういうことを訊くなよ。興ざめするだろ」
「そうかな?」
「そうなんだって」
「そっか。じゃあ、今度から言わないね」
 今度、があるんだな。
「それじゃあ、洋ちゃんの好きなようにしていいよ」
 そう言われても、なにをどうすればいいのやら。
 まあでも、この格好ならやっぱり──
「愛」
 俺は、愛を後ろから抱きしめ──
「や、ん、くすぐったい」
 スリットから手を入れ、ふとももに触れた。
 スベスベのふとももは、触れているだけで気持ちいい。
 首筋にキスをしながら、執拗にふとももに触れる。
「あ、ん……」
 次第に愛の声に艶っぽさが加わってくる。
「洋ちゃぁん……」
 甘えるような声で、俺の名前を呼ぶ。
 俺は、ふとももを触れていた手を、少しずつ上へと移動させる。
「ん、洋ちゃん、焦らさないでぇ」
 別に焦らしてるつもりはないのだが。
 唯々諾々と従うつもりはないのだが、まあ、やることは同じなので、愛のしてほしいことをしようと思う。
 俺は、ふとももに手を滑らせ、そのままショーツに触れた。
「あん」
 柔らかなふくらみに手が触れ、愛は甘い吐息を漏らす。
 こっちのスリットに沿って指を動かす。
 次第に指先が湿ってくる。
「なんだ、もう濡れてきたぞ」
「だ、だって、気持ちいいんだもん」
 愛は、拗ねたように言う。
 今度は、ショーツの中に手を入れ、直接秘所に触れる。
「やっ、んっ」
 指を挿れただけで、中から蜜があふれてきた。
 明らかにいつもより感じている。やっぱり、こういう格好をしているせいだろうか。
「んんっ、洋ちゃん、気持ちいいよぉ」
 なんとか俺にしがみつき、立っている。だけど、もうそろそろそれも限界みたいだ。
 それでも俺は、指を動かすのをやめない。
「ああんっ、ダメっ、そ、そんなにかきまわさないでぇ」
 最初は一本だけだった指を二本に増やし、押し入るように愛の中をかきまわす。
 湿った音が、耳にまで届いてくる。
「あっ、んんっ、ダメっ、そんなにっ」
 膝ががくがくと揺れ、結局その場に崩れ落ちてしまった。
「ん、はあ、はあ……」
「ほら、愛。俺の指がこんなになってるぞ」
 俺は、愛の蜜ですっかり濡れてしまった指を見せる。
「ううぅ、見せなくてもわかってるもん」
 女の子座りし、膝に手を置き、イヤイヤする。
「洋ちゃんの、いぢわる……」
「なら、もうやめるか?」
「ううぅ、それはもっとイヤ……このままやめられたら、私、おかしくなっちゃう」
「じゃあ、どうしてほしい? 言ってみな?」
 なんとなく今日は、愛を攻めたくなる。
「……えっと、洋ちゃんに、後ろから突いてほしい……」
 か細い声で、してほしいことを言う。
「なら、そういう格好をしてみな」
「うん……」
 愛はのそのそと立ち上がり、まずはショーツを脱いだ。
 そして、チャイナドレスの裾をまくり上げ、ベッドに手をつき、後ろを向く。
「洋ちゃん、お願い……」
 せつなげな眼差しで、俺を求める。
 そんな健気な愛が愛おしくて、思わずがっついてしまいそうになる。だけど、それだけはしてはいけない。それをしてしまうと、俺は単なる理性を失ったアホになってしまう。
 俺はズボンとトランクスを脱ぎ、念のために持ってきていたゴムをモノに装着した。
「いくぞ」
「うん、きて」
 そしてそのまま、後ろから愛の中にモノを挿れる。
「ん、あああ……」
 少し勢いがついてしまい、愛が、それだけで声を上げる。
「洋ちゃんの、一番奥まで届いてるよ……」
 最近、多少は自分をコントロールできるようになり、さすがに挿れただけでヤバイことになることはなくなった。
「動くぞ」
「うん」
 腰をしっかりつかみ、俺はモノを引き抜く。
「んっ」
 完全に抜ける前に、また押し込んでいく。
「ああっ」
 最初はゆっくりと、次第に速く。
 そのパターンを繰り返す。
 もちろん、時には動き自体も変える。
「んんっ、洋ちゃんっ、気持ちいい」
 片手を胸に伸ばし、完全に胸をはだけさせる。
 窮屈なドレスから解放された胸が、俺が動く度に大きく揺れる。
 邪魔なブラジャーをたくし上げ、少し乱暴に胸を揉む。
「あっ、んっ、んくっ」
 次第に愛は手で支えられなくなり、肘をついてしまう。
 だが、それも続かなく、やがて、ベッドに顔を押しつけてしまう。
「洋ちゃんっ、洋ちゃんっ」
 まるでそれだけで別の生き物であるかのような愛の中が、俺のモノを執拗に締め付けてくる。それはまるで、俺の射精を促すかのような動きで、なんとか耐えようとするが、なかなか抗うことはできない。
 激しく腰を動かし、それでも射精感に抗おうとする。
 だけど、それも本当に長くは続かない。
 急激な射精感が襲ってきて、逆にもはや止められない。
「ああっ、いいっ、いいのっ」
 いつしか愛は、自分で自分の胸を揉んでいた。
 だけど、俺の方はそれを冷静に分析している余裕はない。
「愛、そろそろ」
「うんっ、いいよ、一緒にイッちゃおう」
 俺は、再度しっかりと腰をつかみ、モノを速く深く突き立てる。
「あっ、あっ、んんっ、いいっ」
「愛っ」
「洋ちゃんっ……んんっ」
「愛っ」
 そして、俺はそのまま愛の中で果てた。
「んあああっ」
 それとほぼ同時に、愛もより高い声を上げた。
 俺がモノを抜くと、愛はその場に膝からへたり込んだ。
「はあ、はあ、洋ちゃん……」
 愛は少し虚ろな表情で、でも、とても満足そうな笑みで俺を見つめた。
 そんな愛に、俺は同じように微笑み返した。
 
 わかりきったこととはいえ、俺も愛も、少しばかりうかつだった。
 まだ夕方という時間にそんなことをすれば、当然、あの人の耳にそれは聞こえる。
 俺たちがそれに気付いたのは、階下からの声でだった。
 当然、俺も愛も慌てた。だけど、今更慌てたところで、もはや後の祭り。
 俺たちがそういう関係で、そういうことをしていることもあの人は当然知っているのだが、それでもなおかつそれをネタにいろいろ言ってくる。それがあの人の真骨頂だ。
「……なあ、愛」
「ん?」
 チャイナドレスからいつもの服に着替えている愛に、俺は言った。
「悪いけど、今日はこのまま帰るわ」
「どうして……って、まあ、今日はその方がいいかもね」
 本当なら俺に側にいてほしいのだろうけど、これからまだ何時間もあの人の相手をしなくちゃいけないことを考えると、愛もそれ以上はなにも言えなかった。そのことは、娘である愛が一番よく理解している。
「この埋め合わせは必ずするからさ」
「うん、それでいいよ」
「で、愛美さんのことは、おまえに任せたから」
「任されても困るんだけど、しょうがないね」
 愛は、半分あきらめ顔で頷いた。
 愛が着替え終わると、俺は愛と愛美さんのチョコを持って、愛の部屋を出た。
 本当はそのまま家に帰りたかったのだが、なにも言わないで帰るとかえってあとが怖い。
「あの、愛美さん」
 俺は、おそるおそる愛美さんに声をかけた。
「ん、どうしたの?」
 夕食の準備をしていた愛美さんは、それもうえらくニコニコと、いや、ニヤニヤとした笑みを浮かべ、聞き返した。
「今日はこれで帰ります」
「あら、そうなの? せっかくだから、一緒に食べていけばいいのに」
「いや、そうしたいのはやまやまなんですけど、うちも準備してるので」
 明らかにウソが含まれているのだが、それは仕方がない。
「そう? そういうことならしょうがないわね」
 愛美さんは、意外にあっさり引き下がってくれた。
「あ、じゃあ、洋一くんが帰る前に、ひと言だけ」
「……な、なんですか?」
「もう少し、いろいろ気をつけた方がいいわよ。うちは、ラブホテルじゃないんだから」
「…………」
「…………」
 案の定なことに、俺も愛もなにも言い返せない。
「ああ、でも、そういう気持ちを抑えられなくなる気持ちは、よくわかるから、無理にとは言わないわ。でも、もう少しだけ気をつけた方がいいわね。わかった?」
「はい……」
 穏やかに諭されてしまうと、本当になにも言えない。
「うん、素直でよろしい」
 俺はこの人が苦手だけど、それでも嫌いになれないのは、やっぱりこういうところがあるからだろうな。
「この調子でいけば、近い将来、孫の顔が見られそうね」
 ……前言撤回。
 やっぱり嫌いだ、この人。
 
 二
 バレンタインの騒ぎも、テストが間近いということもあって、すぐに収まった。
 とはいえ、そのバレンタインのおかげで誕生したカップルもちらほら見受けられ、なるほど、バレンタインは特別な日であることを再認識させられた。
 バレンタインが終わると、あとはテストを待つのみ。
 授業も大詰めを迎え、普段はやる気を見せない連中も、最後にあがく。
 で、学年末試験は、あっという間にやって来て、あっという間に過ぎていった。
 このテストで赤点を取っても一応救済措置はあるけど、でも、取らないに越したことはない。
 幸いにして、今の俺には非常に優秀なブレーンが三人も揃ってるから、赤点だけは確実に回避できた。
 その手応えを感じつつ、学校の方は最後の大きな行事を迎える準備に入った。
 それは、卒業式である。
 学年末とほぼ同時期に国公立大学の二次試験が行われ、大半の三年生はある程度のめどが立った。もちろん、合格発表はまだ先なので、予断は許さない。
 それでも卒業式くらいは、ちゃんと出ようという人が多い。
 まあ、卒業式自体はごくごく普通のもので、面白みはないのだが。せっかくの卒業式だし、ひょっとしたらもう会わない人たちもいるかもしれないので、案外出てくる。
 今年の卒業式は、三月三日。もはやこの年になると、桃の節句など関係ないのだが、一応そういう日だ。
 俺たちの授業は、まるでプロ野球の消化試合みたいなもので、全然覇気がない。先生たちも、卒業式と三年生の進路のことでいっぱいいっぱいなのだ。
 もちろん、現役生である俺たちには直接は関係なのだが、なんとなくそういう雰囲気に飲まれていた。
 そんな二月最後の日。
 今年は閏年で、二十九日まである。これを得したと捉えるか損したと捉えるかは、その時の状況次第だろう。
 ちなみに俺は、どちらでもない。強いて言えば、授業が長くなり面倒だ、くらいにしか思っていない。
 今の俺の関心事と言えば、むしろもっと身近なところにある。
「はあ……」
「ふう……」
「…………」
 なぜかはわからんが、今、俺の両隣には愛と沙耶加がいる。いや、いるのは別に構わんのだが、問題はどうしてふたり揃って俺に寄りかかっているのかということだ。
 どちらかならわかる。だが、今はふたり揃ってなのだ。
 ふたりに挟まれているせいで、俺は身動きが取れないし。
 もうすぐ三月とはいえ、まだ外は寒く、かえって人はいないのだが──
「……なんだかなぁ……」
 今のこのふたりなら、多少人がいたところでこうしていただろうけど。
「ねえ、沙耶加さん」
「なんですか?」
「私ね、最近よく考えるの。結局私たちはどうなったら一番いいんだろうって。もちろん、洋ちゃんには私だけを見ていてほしいんだけど、でも、だからって沙耶加さんとの関係を壊したいとも思ってないし」
「……そうですね。私もそう思います」
 愛の言葉に、沙耶加も頷く。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
 今度は俺に話がまわってきた。
「もし、一夫多妻制が認められたら、どうする?」
「どうするって……」
「今の日本にそういう制度があればね、私はそれでもいいと思ってる。たぶん、私たちの問題はもうベストという解決方法はないと思うから。じゃあ、ベターな解決方法はなにかって考えると、そういう風になっちゃうんだよね」
 俺だってそれは考えている。だけど、今の日本にはそういう制度はない。
「でも、今の日本にはそういう制度はない。だったら、どうしたらいいのか。それが難しいの」
 難しいからこそ、今みたいな状況になってるんだ。もちろん、これは俺の責任なんだが。
「ただね、どういう状況になっても、私、ひとつだけ絶対に譲れないことがあるから」
「それはなんだ?」
「私が、洋ちゃんのお嫁さんになるってこと」
「ああ……」
 それは、俺と愛のかつての約束であり、これから先の約束でもある。
「だからこそ、難しいの」
 本当に難しい。
 由美子さんはどんな関係になっても、俺の側にいたいと言ってくれた。もちろん、それは本音でありながら、多少のウソが込められているだろう。だけど、あの人は大人だ。最後には絶対にジタバタしない。
 真琴ちゃんは、今はまだそこまでの関係じゃないから、真琴ちゃん自身もどこまで考えているかはわからない。ただ、心の奥底では、もうほとんど結論は出ているのではと思っている。
 そして、沙耶加。
「…………」
 沙耶加は今、少し俯き、じっと黙っている。
 俺は、そんな沙耶加の頭を優しく抱く。
「洋一さん……?」
「難しい顔してたから」
「すみません……」
「別に謝る必要はないよ。ただ、そういう顔、してほしくないだけだから」
 そう。俺はただ、俺に関係している人たちは皆、笑顔でいてほしいだけなんだ。
 どんな理由があっても、その笑顔を曇らせたくない。
「……洋ちゃんは、優しすぎるんだよ」
 愛は、ぽつりと呟いて、抱きついてきた。
「だからみんな、好きになっちゃう。もう、なにも見えなくなるくらい、本気でね。私もそうだけど」
「それが、洋一さんのいいところでもあるんですけどね」
「うん。私もみんなも、それを理解してる」
「なあ、ふたりとも」
「うん?」
「なんですか?」
「もし俺がなにがあってもふたりと一緒にいたいって言ったら、どうする?」
 
 なんであんなことを訊いたのか、俺自身もよくわからない。だけど、それは当然選択肢のひとつとして考えていることでもある。だから、遠からず訊かなければならなかったことに違いないのだが。
 だけど、それよりもなによりも俺が驚いたのは、それに対するふたりの反応だった。
 沙耶加の反応はある程度読めていたのだが、愛はわからなかった。
 だからこそ、俺は驚いたのだ。
「──先輩。どうしたんですか?」
 気がつくと、真琴ちゃんの顔が目の前にあった。
「あ、うん、ちょっとボーッとしてた」
「大丈夫ですか?」
 本気で心配そうな顔をする。
「全然大丈夫だから」
「それなら、いいんですけど」
 真琴ちゃんは、まだ心配そうな顔を見せながらも、自分の場所へ戻った。
 放課後。
 俺は約束していなかったのだが、真琴ちゃんを誘って絵を描いていた。それもいつもなら学校でなのだが、今日は外で描いていた。学校からそう遠くない公園だ。
「でも、先輩の方から誘ってくれるなんて、珍しいですね」
「ん、たまにはね」
 俺は、目の前の景色をスケッチブックに描いていく。
「私としては嬉しいんですけど、でも、それを素直には受け取ることはできないんですよね」
「どうして?」
「先輩は自覚してるかどうかわかりませんけど、その日になにかあった時は必ず、いつもと違うところがありますから。たとえば、今日みたいにいきなり誘ってくれたり」
「…………」
「勘ぐりだと言われてしまえばそれまでですけど、たぶん、私の推測は間違ってないと思います」
 さすがだ。伊達に結構な時間を一緒に過ごしてない。
「……よっと」
 俺は、鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。
「先輩?」
「今更だけど、真琴ちゃんを誘ったのは失敗だったかも」
「ど、どうしてですか?」
「あ、別に真琴ちゃんといるのがイヤだとか、そういうことじゃないから安心して。ただ、今日真琴ちゃんを誘った理由を考えると、失敗だったかなって思っただけだから」
「誘った、理由?」
「ん〜……」
 あたりを見回す。
「おっ、発見」
 俺は、なにも言わずにその場を離れた。
 公園を出て、すぐのところからまた戻ってくる。
「はい、真琴ちゃん」
 俺が差し出したのは、缶コーヒー。もちろん、あたたかい方だ。
「お詫びってわけじゃないけど、ちょっと話も聞いてもらおうかと思ってさ」
「話、ですか」
 真琴ちゃんもスケッチブックを閉じ、鉛筆をコーヒーに持ち替えた。
「実はさ、今日、いろいろあったんだよ」
「それって、お姉ちゃんと森川先輩とですか?」
「まあね」
 俺が『いろいろ』あると言えば、それしかないからな。
「そのいろいろの中でね、俺がふたりに訊いたことがあるんだ」
「それは、なんですか?」
「もし俺がなにがあってもふたりと一緒にいたいって言ったら、どうする?」
「ぁ……」
 真琴ちゃんは、それだけすべてを察したようだ。
「俺としては、別にその場で答えてもらわなくてもよかったんだ。ただ、そういう可能性もあるということだけ、知っておいてほしかっただけだから。なのに、あのふたりは律儀に答えたんだ」
「じゃあ、その答えが先輩の想像とは違ったってことですよね?」
「半分当たり」
「半分ですか?」
「うん。沙耶加の方は、予想通りだった。でも、愛のは予想できなかった」
「…………」
 真琴ちゃんもふたりがどんな答えを言うか考えている。
「お姉ちゃんは、たぶん、それでも一緒にいたいって答えたと思います」
「うん、正解。確かに、そう言った。というか、そういう状況ででも俺と一緒にさえいられればいい、みたいな感じだったけどね」
「お姉ちゃんらしいですね」
 あの時、沙耶加はなんの迷いもなく頷いた。答えも、なにを当然のことを、という感じだった。
 これは沙耶加だけではないのだが、もはや沙耶加にとって俺と一緒にいない、というのは選択肢にすら入っていないのだ。
 俺もそんな沙耶加の想いは理解していたから、そう答えるであろうこともわかっていた。
「森川先輩は……たぶんですけど、どうにかしてふたりきりでいられるようにする、って言ったと思うんですけど」
 真琴ちゃんの答えはそれだった。
 正直言えば、俺もそれに近いものを考えていた。
「愛の本音がどこにあるかはわからなかったけど、愛は、即答したよ。全然構わないって」
「本当ですか?」
「ああ、本当だよ。俺もだけど、沙耶加も驚いてた。まさか、愛の口からそんな答えが聞けるとは思ってなかったからね」
「森川先輩は、それ以上はなにも言わなかったんですか?」
「言ったよ。恋と友情を天秤にかけるなら、恋を選ぶけど、でも、それはあくまでも自分側の問題だって。それはつまり、愛がいくらそう思っていても、もうひとりの当事者である俺がそれを認めなければ、意味がないって」
「確かに」
「だから、それが俺の望みなら、愛がそれを断る理由はないってこと」
「……そこまで言えるなんて、やっぱり森川先輩はすごいです」
 真琴ちゃんはそう言ってため息をついた。
「俺もそう思う。だけどね、それはよくよく考えれば大変なことなんだよ。確かに俺はふたりと一緒にいたいと言った。それはつまり、俺はどちらかだけをひいきすることはないってことだよね」
「そうですね」
「じゃあ、今の愛の立場がすべて意味がなくなるということでもある。俺の彼女という立場。口約束だけど、婚約者という立場。そのアドバンテージがすべてなくなるんだよ。もし真琴ちゃんがその立場にいたら、どう思う?」
「それは……きっとその立場に固執すると思います」
「うん、普通はそうだろうね。俺もそう思う。だけど、愛はそうは言わなかった」
 だから驚いたのだ。
「これがもし、俺と愛が一緒になって、沙耶加に愛人になってくれ、とでも言っていれば話は変わるけど」
「妻と愛人じゃ、全然違いますからね」
「だから俺は今真琴ちゃんに話したことを訊いたんだ。そしたら、愛はそれも十分理解してるって言った。理解した上で、さっきのように答えたって」
「…………」
「もちろん、それが愛の本心なのかはわからない。わからないけど、少なくとも俺と沙耶加がそこにいる状況で、そう言ったんだ」
「だから先輩は、いろいろあったって言ったんですね。その言葉の意味と、森川先輩の真意を考えていたから」
「まあね」
 本当に愛はそれでいいのか。それこそ沙耶加が一緒にいたからそこまで突っ込んでは訊けなかった。
 だからといって、すぐに問い詰めようという気も起きず、真琴ちゃんを誘って絵を描きに来たんだ。
 それを説明し、俺は真琴ちゃんに謝った。
「でも、人選を誤ったよ。真琴ちゃんも、同じだったからね」
 そう。真琴ちゃんも俺のことは『本気』だから。
 選ぶなら、亮介あたりを選んでいればよかったんだ。
「そんなこと、言わないでください。どんな理由であれ、私は先輩に誘ってもらえて、嬉しかったんですから」
 そう言って少し頬を膨らませる。
「ああ、ごめん。もう言わないから」
「本当にですよ?」
「約束する」
 真琴ちゃんは、薄く微笑んだ。
「先輩」
「ん?」
「これからデートしませんか?」
「デート?」
「はい。どうせあれこれ考えてなにも手につかないでしょうから、だったら、少しでもそういうのを忘れられるようにと思って」
「……確かに、そうかも」
「ですよね?」
 俺に同意してもらい、真琴ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、先輩。早速行きましょう。もうそんなに時間、ありませんから」
 スケッチブックをしまうと、今度は俺の手を取る。
 俺は、その手を握り締め、立ち上がった。
 
 だけど、俺も現金なものだ。さっきまであれだけいろいろ考えていたのに、今は隣にいる真琴ちゃんとのデートを楽しんでいる。もちろん、すべてを忘れて、とはいかないけど、でも、それに近いものはある。
 あまり思い悩んでいても前には進めないわけだから、真琴ちゃんには素直に感謝している。
「先輩、先輩」
「ん?」
「一緒にどうですか?」
 そう言って真琴ちゃんが指さした先には──
「プリクラか」
 プリクラの機械があった。
 一時期ほどの盛況さはないが、それでも未だに定期的に新しい機種が入っているところをみると、利用している人は意外と多いようだ。実際、ゲーセン前を通ると、たまにプリクラを撮っている中学生だか高校生を見る。
「どうですか?」
「別にいいよ」
「あはっ、ありがとうございます」
 真琴ちゃんは、俺の手を引っ張って機械の前へ。
 実を言うと、俺はこのプリクラというものをやったことがない。俺のまわりはどちらかと言えば男より女が多いのだが、なぜかこれだけは縁がなかった。
 とはいえ、別に抵抗があるわけでもない。
「まずはお金を入れて──」
 真琴ちゃんが財布からお金を入れるより先に、俺がお金を入れた。
「えっ、先輩」
「まあまあ、いいからいいから。ほら、フレームを選んで」
「あ、はい」
 まだなにか言いたそうだったけど、とりあえず言われた通り、フレームを選ぶ。
 たくさんあるフレームの中から真琴ちゃんが選んだのは──
「へえ、なるほど」
 大きな三日月がフレームの右側から下にかけてあり、その反対側には星が輝いているものだった。
「あとは──」
 俺たちがそのフレームに収まるだけ。
「先輩」
「ん?」
「えっと、その、少しだけ、いいですか?」
「なにを?」
「あの、腕を組んでも……」
 真琴ちゃんは、頬を赤らめ、そう言う。
「いいよ、ほら」
 そう言って腕を出す。
「あ、はいっ」
 その腕を真琴ちゃんは嬉しそうにつかむ。
「あ、先輩。もう少しかがんでください」
「こうかな?」
「もうちょっとです」
 フレームを見ながら調整する。
「あと、もう少しこっちに」
「こんな感じ?」
「もう少し」
 腕を組んでいるとはいえ、さらに密着する。
 だいぶかがまされているので、真琴ちゃんの顔がすぐ近くにある。
「それじゃあ、いきますよ?」
 真琴ちゃんは、撮影ボタンを押した。
 と、俺は、そこで少しだけ悪戯したくなった。
 声が流れ、もうシャッターが切られるという時──
「カワイイよ、真琴ちゃん」
「っ!」
 耳元でそうささやいた。
 途端、真琴ちゃんは真っ赤になって──
「あ……」
 そこでシャッターが切られた。
「あ〜う〜……」
 ニヤニヤと笑う俺を見て、真琴ちゃんは悪戯に気付いたようだ。
 プリントアウトされた写真を見ると──
「ううぅ、先輩のいぢわるぅ……」
 泣きそうな顔でそれを後ろ手に隠してしまった。
「そんなにひどい顔してた?」
「そ、そんなことはありませんけど……」
「でも、見せたくない、と」
 真琴ちゃんは小さく頷いた。
 でも、そう言われると見たくなるのが人情というものだ。
「ん〜……」
 じりっと真琴ちゃんににじり寄り──
「それっ」
「あっ」
 俺は、真琴ちゃんからそれを奪った。
「だ、ダメですっ!」
 手を挙げてしまうと、真琴ちゃんは届かない。俺の足下でぴょんぴょん跳ねる。
「どれどれ」
 わずかな罪悪感を感じながらも、俺はそれを見た。
「なんだ、別におかしなところなんてないじゃないか」
「ううぅ……」
 真琴ちゃんは俺の胸をポカポカ叩く。
 だけど、実際にその写真はおかしなところなんかなかった。
 写真は、俺がちょうどささやいたところで、真琴ちゃんが驚きで顔を真っ赤にした瞬間だった。
「澄ました顔より、こういう自然な顔の方がずっといいよ」
「でもでもぉ……」
「カワイイと思うんだけどなぁ」
「…………」
 カワイイと言われ、さすがに叩くのはやめた。
「……本当に、そう思いますか?」
「ウソは言わないよ。それに、もう何度も言ってきてると思うんだけど。信じてなかったの?」
「い、いえ、そういうわけではないんですけど……」
「俺は性格が性格だから、お世辞は言えないんだよ。褒めるにしろけなすにしろ、本音だから」
 それは多少誇張があるが、おおかた間違ってない。
「……先輩はずるいです。先輩にそんなこと言われたら、なにも言えなくなってしまいます」
 少しだけ拗ねた表情で、でも、最後には微笑んでくれた。
「じゃあ、一枚もらっておくね」
 真琴ちゃんにダメと言われる前に、一枚はがした。
「もうあきらめました」
 残りを真琴ちゃんに返すと、真琴ちゃんはそう言ってため息をついた。
「それ、どうするんですか?」
「そうだなぁ……」
 シールだからどこかに貼っておかなくちゃいけないけど、変なところには貼っておけない。女の子みたいにプリクラ手帳を持ってるわけでもないし。
「あ、そうだ」
 ちょうどいいものを持っていることを思い出し、カバンを開ける。
 真琴ちゃんは、俺がそれをどこに貼るのか興味津々なようだ。
 俺が取り出したのは、カードケースだった。透明のプラスチック製のカードケース。
「ここに……っと」
 俺は、その隅にシールを貼った。
 ちなみに、そのカードケースにはなにも入っていない。
「なにも入ってないんですね」
「なにかあった時に使おうと思ってたんだけど、ずっと使う機会もなくてね。でも、だからこそちょうどいいと思ってね」
 いつも使うものだと、どうしても誰かの目に触れる。俺があれこれ言われるのはいいのだが、真琴ちゃんに飛び火するのだけは避けたい。
 だからといって、すぐに処分してしまうようなものにも貼れない。
 カードケースなら、そのうち使うこともある。たとえば、滅多に使わない銀行のキャッシュカードを入れておくとか。
 まあ、ようはあまり使わず、だけど捨てないものに貼りたかっただけだ。
「それに、これならうちの連中に見られることもないし」
 そう、それが一番大事だった。愛も問題は問題だが、うちのブラコン姉妹の方がよっぽど問題だ。
「真琴ちゃんは、どうするの?」
「私は、一枚だけ使って、あとは大切にしまっておきます」
「そっか」
 どこにどんな風に使うのかはあえて訊かなかった。訊いても意味のないことだし。
「さてと、あとはどうしようか?」
 時計を見ると、まだ多少余裕はありそうだ。
「あ、じゃあ、先輩。ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
「いいけど、なに?」
「見立ててほしいものがあるんです」
 
 真琴ちゃんに連れていかれたのは──
「帽子屋か」
 帽子屋だった。
 別に珍しいわけじゃないけど、あまり帽子をかぶらない俺にとっては、なじみの薄い店だ。
 店に入ると、形も色も様々な帽子が俺たちを迎えてくれた。
 そろそろ春ということで、帽子も春物が多くなっている。春物=カラフルというイメージがあるけど、そこにある帽子もそんな感じだった。
「そういえば、真琴ちゃんが帽子をかぶってる姿は見たことないけど、好きなの?」
 沙耶加がかぶっているのは見たことあるけど、真琴ちゃんはない。
「特別好きということはないですけど、いくつか持ってます」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 帽子だからどれでも似合う、とは言わない。
 帽子は、本当に人を選ぶから。
「それで、どんな帽子がいいの?」
「えっと……」
 真琴ちゃんは店内を見回し──
「あ、あれです」
 店の一画を指さした。
「なるほど、ベレー帽か」
 それは、ベレー帽だった。
「見立てるのはいいけど、とりあえずどんなのがいいのかな?」
「そうですね……あまり派手な色は遠慮したいです」
「なるほど」
 原色を使ったのもあるから、それはダメと。
「あと、ぶかぶかなのも」
 せっかくかぶっても、すぐにずり落ちてしまっては意味がない。
「了解。じゃあ、ちょっと見てみるよ」
 ベレー帽は男女を問わずにかぶれるから、種類も数も多かった。
 その中でまずは真琴ちゃんがダメだと言った原色のものと、大きなものを除外する。
 あと、俺的に野暮ったいのはボツ。
 そうすると、案外オーソドックスなデザインが残った。
 色も、特に派手でもなく、地味でもない。
「真琴ちゃん」
 俺は、その中から白、紺、茶色、ベージュ、紫を選んでみた。
「とりあえず、かぶってみようか」
「はい」
 鏡の前で、ひとつずつかぶってみる。
「どうかな?」
 一応、形はみんな同じだ。
「そうですね、形も大きさもいいと思います」
 三つほどかぶり、そう言う。
「じゃあ、あとは色だね」
「先輩は、どれがいいと思いますか?」
「そうだなぁ……」
 どれも似合うんだけど、強いて言えば──
「これかな」
 そう言って俺がかぶせたのは、白のベレー帽だった。
「汚れやすいかもしれないけど、明るくていいと思うよ」
 一応、汚れにくい材質を使ってるらしいけど、やっぱり白だとどうしても汚れる。
 真琴ちゃんは、それをかぶったまま、いろいろ角度を変えて見ている。
「迷ってる?」
「あ、いえ、そんなことはないんですけど」
 そう言って頭を振る。
「実はですね、前にお姉ちゃんと一緒に帽子を見に来たんですよ。その時にお姉ちゃんに言われたんです。真琴にはこの白いベレー帽が似合うって」
「ああ、なるほど」
「その時はそれだけだったんですけど、今日、先輩にも同じことを言われたので」
 とりあえず、沙耶加と同じファッション感覚だったことに安心した。
「どうする?」
「これにします」
 そう言って真琴ちゃんは笑った。
「よし、じゃあ、真琴ちゃん」
「はい、なんですか?」
 俺は、財布から千円札を二枚ほど取り出した。
「これ」
「えっ、で、でも……」
「別に全額出すって言ってるわけじゃないんだから、遠慮しないで」
 実際、俺がそれだけ出しても、半分にもならない。
「でも、先輩にはいつもおごってもらってますから」
「いいから、ほら」
 俺は、半ば強引にそれを渡した。
「はい。これでそれは真琴ちゃんのもの。返却はなしだからね」
「…………」
 真琴ちゃんは少し考え、やがて観念したように頷いた。
「すみません。いただいておきます」
「うん」
 それからそのベレー帽を買って、俺たちは店を出た。
 袋に入ったベレー帽を大事そうに抱え、真琴ちゃんは嬉しそうだった。
「先輩、ありがとうございます」
「別にいいよ。プレゼントしたわけじゃないんだから」
「でも、なにも言わないのは問題だと思いますから」
 気にしないのだが、まあ、言ってもしょうがない。
「先輩って、本当に優しいですよね」
「そうかな?」
「はい。でも、その優しさは押しつけじゃないんです。自然に優しくできる。それが先輩のすごいところだと思います」
「まあ、俺にはわからないけど」
「わかってたら、それはそれでイヤですよ」
 そう言って笑う。
「先輩」
「ん?」
「もう少しだけつきあってもらえますか?」
「いいけど」
 俺たちは商店街を抜けた。
「さっきも公園でしたけど」
 今度の公園は、真琴ちゃんの家にほど近い公園だ。時間を考え、とりあえず家に近いところまで来たのだ。
 公園には、本当に誰もいなかった。
 だいぶ陽も傾いてきて、寒くなってきてるせいもある。
 公園に足を踏み入れ、ベンチに座ろうというところで──
「真琴ちゃん……」
 いきなり真琴ちゃんが抱きついてきた。
「……ダメですよ、先輩。あんまり私に優しくしないでください。私、優しくされるとされた分だけ、先輩のことを好きになってしまいますから。そうすると、ますます先輩への想いを抑えきれなくなります」
 俺に顔を見られないように、顔を埋める。
「今はお姉ちゃんと森川先輩のことで大変なんですから、これ以上面倒なことを増やさない方がいいですよ」
 面倒なこと。それは──
「それとも、先輩。私のこと、その、可愛がってくれますか……?」
 そういうことだ。
「前に、機会があったら迫りますって言いましたけど、本当にそうしてもいいんですか?」
「…………」
「あの時はああ言いましたけど、さすがに一方的にというわけにはいきませんから。それに、あんなことまで言っておいて今更ですけど、はじめては忘れられないものにしたいんです。別にロマンチックにとは言いませんけど、後悔するようなことだけはしたくないんです。だから……」
 俺の中で、真琴ちゃんの存在は確実に大きくなっている。
 ここで由美子さんの名前を出すのは由美子さんに失礼だけど、愛を抱いて、沙耶加を抱いて、もうそれで終わりだと思っていた。だけど、俺は由美子さんも抱いた。
 自分に枷をかけていたわけではないけど、由美子さんを抱いたことで、その枷が外れてしまったところがある。
 もし本当に真琴ちゃんに迫られたら、俺は間違いなく真琴ちゃんを抱いてしまう。
 今だって、女の子特有の柔らかさ、匂いを感じ、理性を総動員しなければならないほどだ。
 だけど、俺自身のこともそうだけど、真琴ちゃんのことを考えれば、そんなことをしていいはずがないのだ。真琴ちゃんは年下ということもあるけど、沙耶加の妹なんだ。もし姉妹に揃って手を出してしまったら、その姉妹の仲がどうなるか。
「……だけどね、真琴ちゃん」
「なんですか?」
 少しだけ、言葉が硬い。
「俺は別に意識して真琴ちゃんに優しくしてるわけじゃないんだ。俺がしようと思った行動が、たまたま真琴ちゃんにとっては優しいと思える行動だっただけ。だから、優しくしないでくれと言われても、正直困る」
「…………」
「もし、本当にそうしてほしいなら、俺にできることは、真琴ちゃんに接しないことになる」
「っ……」
 一瞬、真琴ちゃんの体が震えた。
「それでも、いいかい?」
「……イヤです。そんなの、絶対にイヤです……」
 真琴ちゃんは、今にも泣き出しそうな顔で、下から俺を見つめた。
「先輩に会えないなんて……先輩とお話しできないなんて……そんなの、絶対にイヤです。耐えられません……」
 真琴ちゃんから告白され、その想いが真剣なものだとわかった時から、こうなることは予想できた。
 だけど、俺はそれに対してなんの対策も取らなかった。
 もちろん、そんなことに対策を取ることは、真琴ちゃんの想いに対する裏切りにもなるからだ。
「真琴ちゃん」
「はい……ん……」
 俺は、そのまま真琴ちゃんにキスをした。
「真琴ちゃんはカワイイし魅力的だ。抱いてくれって言われたら、俺はそれを拒めないかもしれない」
「先輩……」
「でも、今はダメだ。さっき、真琴ちゃんも言ったけど、俺にはまだやらなきゃいけないことがある。愛と沙耶加のことに結論を出さなくちゃいけない」
「はい……」
 小さく頷く。
「もし、本当に俺に抱いてほしいなら、少なくともふたりのことが決着してからにしてほしい。そしたら、今度は真琴ちゃんのことを真剣に考えるから」
「それで、いいんですか?」
 まだ若干戸惑いを含んだ瞳で、訊ねる。
「俺にとって真琴ちゃんは、もう『妹』じゃないんだよ。ひとりの『女の子』だからね。そして俺は、真琴ちゃんのことが好きだから」
「先輩……」
 潤んだ瞳から、涙がこぼれた。
「す、すみません……泣くつもりはなかったんですけど……」
「いいよ」
 抱きしめ、髪を、背中を撫でる。
「……私、先輩を好きになれて、本当によかったです」
 俺に、この健気な女の子を放っておくことなど、絶対にできない。
 セックスがすべてだとは思わない。だけど、自分の想いを理解してもらうのに最もわかりやすい方法がそれなら、そうするべきなのだろう。
 そのせいで俺自身の首が絞まったとしてもだ。
 愛は、俺のことを裏切り者とののしるだろう。まさにその通りだ。
 でも、俺は俺にウソはつけない。
 だから俺は、沙耶加を抱いた。由美子さんを抱いた。
 そして、真琴ちゃんを──
 
 三
 弥生三月。
 梅の花が咲き揃い、桃の花がそろそろ咲き出す頃。
 卒業式が行われた。
 卒業生にあまり知り合いがいないせいか、それほどの感慨はない。もちろん、来年は俺たちの番なのだから、それではいけないのだろうけど。
 でも、やっぱり人ごとなのだ。
 その卒業式が終わると、ようやく一年が終わるということだ。
 もちろん、三十一日まで高校二年生だけど。
 いつもならやっと授業が終わった、と開放的になるのだが、今年はそこまでのことはない。なぜなら──
 
 卒業式が終わると、授業の方は投げ遣りになる。まあ、教科書の残りをやるだけだから仕方がないのだが。
 学校の方は、三年生がいなくなり、新年度に向けた準備が本格化する。受験の結果はすでに発表され、あとは公立高校の結果次第ということだ。
 三年生は、入試の結果如何でまだ先生たちのお世話になるのだが、とりあえずは解放された形だ。
 で、在校生に対しては、特別なにかあるわけではない。強いて言えば、俺たち二年には進路の話が多くなるくらいだ。すでに来年度の選択授業は決まっているから、具体的にどうするか、ということになる。
 一応うちの高校は進学校だから、圧倒的に受験組が多い。だけど、毎年就職する者や専門学校に進む者もいる。どれを選ぶにしても、きっちり決めておかないとあとでうるさく言われる。
 かく言う俺は、受験組だ。どこの大学を受けるかはまだ決めてないけど、とりあえずそういう風に進路調査票には書いて提出した。
 なにをやりたいかは決まってない。本当なら学部と学科まで決めて提出しないといけないのだが、大学名も書けない俺には、当然そのふたつも書けなかった。
 普通ならそれであれこれ言われるのだが、担任がよかった。もちろん優美先生に呼び出された。どうして進学しか決めてないのか、と訊かれた。だけど、決まってないものは決まってないとしか答えられず、それに対して優美先生は、ある程度の理解を示してくれた。
 進路の最終決定は、秋口になる。その頃までに決めておかないと、推薦や就職に影響が出るからだ。だから、俺もそこまでには決めなければならない。優美先生も、そこまでにきっちり決めておけばとりあえずはいい、と言ってくれた。
 俺としても進路のことは考えたいけど、でも、それよりも先に考えなければならないことが多すぎた。
 愛のこと。
 沙耶加のこと。
 美樹のこと。
 真琴ちゃんのこと。
 由美子さんのこと。
 どれもこれも中途半端は許されないことばかりだ。
 だから俺は、とりあえずはそのことに結論を出そうと思っている。
 それに、今月末には愛と沙耶加の間でとりあえずの結論が出る。それがどういうものになるかは気になるけど、それを待っていては遅い部分もある。
 全部俺がまいた種だ。俺がなんとかしなければ、誰もなにもしてくれない。
「なに難しい顔してるのよ」
 そんなことを考えていたら、いきなり目の前に姉貴の顔が現れた。
「こんなに眉間にしわ寄せちゃってさ」
 そう言って俺の眉間に指を押し当てる。
「お姉ちゃん。お兄ちゃんが嫌がってるよぉ」
 そんな姉貴を、美樹が止める。
「嫌がってるの?」
「……喜んでるように見えるのか?」
「やあねぇ、そんな顔しないの」
 姉貴は、最後にグイッと指を押して、ようやく離れてくれた。
 今日は三月最初の日曜日。
 たまたま誰とも予定がなかったから、こうして家にいる。そしたら、姉貴と美樹が部屋にやって来て、今の状況になっている。
「でも、お兄ちゃん。お姉ちゃんじゃないけど、難しい顔してたよ」
「そうそう。で、なにを考えてたの?」
「いろいろだよ」
「いろいろ、ねぇ」
 姉貴と美樹は、揃って顔を見合わせた。
「今、あんたが考えなきゃいけないことって、ひとつしかないじゃない。で、私も美樹もそれがなにか知ってる。だから、隠す意味はないの。わかる?」
「…………」
「ほらほら、そんな顔しないの」
 そう言って姉貴は、俺の頭を撫でた。
「ほら、美樹もお兄ちゃんに言ってやりなさい」
「えっと……」
 美樹は少し考え──
「えいっ」
「おわっ」
 いきなり俺に寄りかかってきた。しかも、俺の正面に。
「お兄ちゃん。私にはお兄ちゃんにあれこれ言う権利はないけど、あまり難しく考えすぎない方がいいと思うよ。考えてるのはお兄ちゃんひとりじゃないんだから。そりゃ、最終的に判断するのはお兄ちゃんなのかもしれないけど、それでもそれを愛お姉ちゃんや沙耶加さんと相談しちゃいけないなんてことはないんだから」
「美樹の言う通りよ。あんたはね、いつもいつも余計なことまで考えすぎなの。本当に考えなくちゃいけないことなんて、実はそんなに多くないのよ。それにね、ウダウダ考えてるってことは、もう自分の中では答えは見つかってる証拠でもあるのよ。答えが見つかってるからこそ、それがダメだったらどうしようとか、余計なことを考えちゃう。だから、シンプルに考えればいいのよ」
 姉妹揃って、言いたいことを言ってくれる。
 でも、これだけ親身になって言ってくれる姉や妹はどれだけいるだろうか。それを考えると、感謝しなくちゃいけない。
「まったく、姉貴はともかくとして、美樹にまで言われるとはな」
 俺は、美樹を抱きしめ、そう言う。
「私だって、日々成長してるんだから、お兄ちゃんにだっていろいろ言うよ」
「その割には、相変わらずの甘えん坊ぶりだけどな」
「いいんだもん。私がこうやって甘えるのは、お兄ちゃんとお姉ちゃんだけなんだから」
 そこまで開き直られると、対処に困る。
「私ももうちょっと洋一に甘えようかしら?」
「……やめてくれ」
「あによぉ、同じ姉妹でもその扱いの差はなんのよぉ」
「……理不尽な理由で怒るの、やめてくれる?」
「理不尽じゃないわよ。私はただ、姉弟間のスキンシップを大事にしたいだけ。美樹とのスキンシップは多すぎるほど大事にしてるのに、私とはダメなんて、そっちの方が理不尽じゃない」
 そう言われると、なにも言い返せない。
「ほら、なにも言い返せないのは、あんたもそう思ってるからでしょ?」
「……ったく、もう好きにしてくれ」
「じゃ、そうさせてもらうわね」
 姉貴はそう言って、早速俺の腕を引っ張った。
「ちょ、ちょっと──」
「わきゃっ」
 結構勢いよく引っ張られたから、美樹ごと姉貴の方へ倒れ込んでしまった。
「あうぅ、お姉ちゃん、ひどいよぉ」
「ああ、ごめんごめん。お詫びに、膝枕してあげるから」
「ホント?」
「ええ。ほら、こっち」
 そう言って姉貴は、自分の右膝を指さした。
「えへへ」
 美樹は、嬉しそうにそこに寝転ぶ。
「ほら、あんたもおとなしく膝枕されちゃいなさい」
 有無を言わさず、俺の頭は姉貴の左膝へ。
「……なあ、姉貴。これだと、俺が姉貴に甘えてることにならないか?」
「そういえばそうね。でも、そんな些細なこと、どうでもいいじゃない。大事なのは、スキンシップなのよ」
 そう言って俺の頭を撫でる。
 右手は、しっかり美樹の頭を撫でてる。
「美樹の髪も、それなりに伸びてきたわね。また伸ばすの? それとも、そろそろ切っちゃうの?」
「ん、また伸ばすの」
「ふ〜ん、それはまた心境の変化があったから?」
「うん。というか、前に戻ったから、かな」
「なるほどね」
 姉貴は、意味深な視線を俺に向ける。
 たぶん、姉貴は全部お見通しだろう。
「ねえ、洋一。あんた、どうしようと思ってるわけ?」
「なにを?」
「愛ちゃんと沙耶加ちゃんのこと。一応、こうしようっていうのはあるんでしょ?」
「まあ、ある程度は」
「それって、どんなの?」
「私も知りたい」
 姉妹揃って興味津々な声を上げる。
「……美樹とはともかく、姉貴はすぐしゃべるからなぁ」
「あら、そんなこと言っちゃっていいのかしら?」
「……そういうところがイヤなんだよ」
「わかってるなら、あきらめなさいって」
 まあでも、ここで一度口にしておくというのは、必要なことかもしれない。それによって、また違った考えが浮かぶかもしれないから。
「じゃあ、話すけど、絶対にふたりには言うなよ」
「わかってるわよ」
「うん、絶対に言わない」
 やれやれ……
 
 話した時の反応は、ある程度予想できた。
 で、実際の反応は俺の予想とそう違わなかった。
「まあ、それはそれでいいんじゃない。たぶん、それがベターに近い結論だと思うし」
 姉貴はそう言って微妙な笑みを浮かべた。
「お兄ちゃんが決めたことなら、それでいいと思うよ」
 美樹は、どんなことを言ってもそう言ったと思う。
「でも、ふたりは幸せよね。どんな理由があっても、自分の好きな人にそこまで真剣に自分のことを考えてもらえてるんだから」
「うん、そう思う」
 姉貴の言いたいことはわかるが、それはまだ俺と愛が恋人同士じゃなければ本当にそうだったと思う。でも、それはない。
「ま、それはいいわ。あとは、あんたたちの問題だから。もう私もなにも言わない」
「うん、そうだね」
 姉貴も美樹も、本当にもう口は挟まないだろう。余計なことにまで口を挟んでくる姉貴でも、今回のことが茶化していいことかそうでないかは理解してるからだ。
「さて、これからどうする?」
「また、三人で出かけようよ」
「私は構わないけど、あんたは?」
「別にやることもないし、構わないけど」
「それじゃあ、三人で出かけましょうか」
 で、俺たちは揃って出かけることにした。
 どこに行くのか、なにをするのかまったく決めてないけど。
「そ〜れっ」
 家を出て、三人で歩く。
 美樹は、俺と姉貴の前を、それはもうえらく楽しそうに歩いている。
 さすがに、そのテンションにはついていけない。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「愛ちゃんと沙耶加ちゃんのことはわかったけど、ほかはどうするの?」
「……ほかって?」
 俺は、前を向いたまま聞き返す。
「あんた、まさか私が気付いてないとでも思ってるわけ?」
 姉貴の顔を見なくても、呆れ顔なのがわかる。
「まず、広瀬先生。バレンタインの前に、朝っぱらから出かけたでしょ。あれ、先生とのデートだったんでしょ?」
「…………」
「先生とのデートだからね。近場というわけにはいかない。じゃあ、遠くへ行くことになる。そしたら、その日を有意義に過ごすためには、朝早くから出ないといけない。そう考えれば、完璧に説明できるわ」
「……で?」
「まだ説明してほしい? だったら、あの日は愛ちゃんはうちで美樹と一緒にチョコを作ってた。たぶん、沙耶加ちゃんも同じ。彼女の妹さんもね。あんたとデートする可能性があるのは、その三人を除けば、先生だけだもの」
 バレないとは思っていなかった。だけど、もう少しバレないと思っていた。
「さすがの私もね、先生とどこでなにをしてきたのかはわからない。でも、ひとつだけわかることがある。それ、あえて口にしようか?」
「……いや、いい」
 結局、俺は姉貴にはどうやってもかなわないのだ。それは俺が弟だからということもあるけど、それ以前に本当の意味で姉貴には隠し事ができないからでもある。どうやっても、顔に出てしまうのだ。今の話だって、そのほとんどは姉貴の推理だろうけど、ある程度は俺の顔色を見ながらの話だ。俺がわずかでも反応すれば、それが間違いないことの証明となる。
「どうしてこうなるのかしらね。もう、私にもわからないわ。そりゃ、自慢の弟だから誰からでも好かれるのはわかるし、嬉しい。でも、どうしてそれがいつも恋人レベルにまで発展してしまうのかしら。それがわからない」
 それはたぶん、俺の意志が弱いからだ。
「それで、本当にどうするの?」
「……正直言えば、まだわからない。ただ、先生はもう覚悟は決めてる。だから、あとは俺次第」
「その覚悟って?」
「もし、俺と愛が一緒になっても、ずっと俺の側にいるって」
「それって、不倫てこと?」
「平たく言えば。ようは、それくらいの覚悟があるってこと」
「そうなんだ。先生も、本当に本気なのね」
 姉貴は、小さくため息をついた。
「まあ、先生は私よりも年上だし、大人の女性だから最悪の事態にはならないとは思うけど」
 それに対して俺が言うことはなにもない。
「先生のことはひとまずいいわ。次は、沙耶加ちゃんの妹さん。真琴ちゃんて言ったかしら?」
「ああ、うん」
「彼女も、本気なんでしょ?」
「……まあ」
「沙耶加ちゃんのことがあるから、まだ取り返しのつかないことにはなってないだろうけど、そうなる可能性はずいぶん高そうだから」
 姉貴と真琴ちゃんは、ほとんど話もしてない。なのに、そこまでわかるのか。
「なんでそこまでわかるの、みたいな顔してるわね。そりゃ、わかるわよ。だって、彼女も『妹』だから。まったく美樹と同じとは言わないけど、結構似てるところありそうだし。となれば、考えとかも似てくるかなって思って」
「……なるほど」
「まあでも、沙耶加ちゃんと真琴ちゃんは姉妹なんだから、それこそ慎重に行動しなさいよ。じゃないと、あんたを巡っての骨肉の争いになるから」
 笑えない。
「あとは、うちのワガママ娘ね」
 そう言って少し前を歩いている美樹を見た。
「あの子も、あんたのこと、本気だから。たぶんもう、兄妹だからとか、そんな理由では押さえ込めないほどにね」
「…………」
「兄と妹が仲良くするのは、普通だし、問題ないわ。でも、それがどんな風に仲良くするのかが問題。今のところは、多少過剰な愛情表現で収めることができる範囲内だけど。だけど、それ以上となると、問題だわ」
 それ以上、か。
「あんた、まさかとは思うけど、実の妹に手を出そうだなんて、考えてないわよね?」
「それはないよ」
「それならいいけど。美樹なら、あんたのことが好きだっていう理由だけで、セックスしたいって言い出しそうだから」
 ……もう言われたけど。
「愛ちゃんと沙耶加ちゃんのことが大変なのはわかるし、とりあえずそっちからなんとかしなくちゃいけないのもわかる。でも、だからって今挙げた三人のことをそのままにしておいていいわけじゃない。ちゃんと考えなくちゃ」
「わかってる」
「ま、ハーレムでも作るって言うなら、それはそれでいいんだろうけど」
 シャレになってない。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん。遅いよぉ」
 と、結構美樹との差が開いてしまい、美樹が腰に手を当て、口を尖らせている。
「ごめんごめん。ちょっと話してたら、遅くなっちゃった」
「どんな話してたの?」
「ん、いろいろ話して、それで今日は洋一がおごってくれることになったのよ」
「をい、姉貴」
「ホント?」
「ええ、本当よ。ただ、所詮はこいつの財布だから、ある程度妥協しないと無理だろうけど」
 ひどい言われようだ。
「なんでもいいの?」
「常識の範囲内なら」
「じゃあね、じゃあね、私はね──」
 まあ、それで美樹が喜んでくれるなら、いいのかもしれないけど。
 
 結局、美樹にはデラックスジャンボパフェ、姉貴にはケーキセットをおごらされた。
 美樹のパフェは以前に沙耶加と一緒に食べたパフェほど大きくはなかったが、それでも男ひとりではとても食べきれない量だった。それをぺろりと平らげてしまうのだから、女という生き物は恐ろしい。
 甘いものを食べ、とりあえずの欲求が満たされたのか、ふたりはえらく機嫌がよかった。まあ、機嫌もよくなってもらわないと困る。じゃないと、ただ俺の財布が薄くなっただけ、ということだから。
「これからどうする?」
 喫茶店を出てすぐに姉貴が俺たちに訊いてきた。
「う〜ん、私はこれといって行きたいところはないけど」
「あんたは?」
「そうだなぁ……」
 今日は天気がいいけど、風が冷たい。外に長時間いるのはできるだけ避けたい。
 となると、どこか建物の中がいいんだけど──
「たまに行くならいいところがあるんだけど」
「それって、どこ?」
「まあ、ついてきなって」
 この時期にちょうどいい場所を思い出し、そこへ向かうことにした。
 駅向こうへ抜け、さらに少し歩く。
 十五分ほど歩き、公園へとやって来た。
「なんとなくどこに行こうとしてるのかわかったわ」
 まず、姉貴が気付いた。
 あと一ヶ月足らずで桜が咲き誇る園内を歩き、ようやく着いた。
「あ、温室」
 そこは、年末に沙耶加と一緒に来たあの温室だった。
「ここなら静かだし、寒くないし、ちょうどいいと思ってさ」
「しかも、お金もかからないしね」
 それが大事だったのだが、言わないでおく。
 俺たちは早速中に入った。
 温室内は、相変わらず閑散としていた。
 ここのお得意様は小学生や中学生なので、こういう時期はほとんど人は来ない。たまにこの公園に散歩に来た老人が足を踏み入れるくらいで、本当に静かだ。
「へえ、久しぶりに来たけど、ちゃんと植物も入れ替えてるんだ」
 順路に従って歩いていく。
 その途中にある植物は、このあたりの植物から、このあたりでは見ることのできない植物まで様々だ。
 それに、姉貴の言うように定期的に植物も入れ替えているので、案外飽きない。
「だけど、よくここへ来ることを思いついたわね」
「姉貴とは違うからさ」
「どうせあれでしょ? 誰かとデートに来て、それが最近だったから、たまたま思い浮かんだだけなんでしょ?」
「…………」
 ズバリ言い当てられ、なにも言えなかった。
「ええーっ、お兄ちゃん、誰とデートに来たの?」
 で、美樹はデートという言葉に敏感に反応してるし。
「知らん知らん」
「もう、お兄ちゃん、教えてよぉ」
 無視して行こうとすると、美樹が俺の腕をつかんで止めようとする。
「まあまあ、美樹。そんなに無理に聞こうとしないの。こいつにはこいつの事情があるんだから」
 珍しく姉貴が援護してくれたけど、なんか裏がありそうだ。
 話ながら反対側の休憩スペースまでやって来た。
「お兄ちゃん♪」
 俺がベンチに座ると、早速美樹が俺の膝の上に、横向きに座ってきた。
「おい、美樹。それはいくらなんでもおかしいだろ」
「おかしくないよ」
 そう言いながら、俺に寄りかかってくる。
「ったく……」
 そんな美樹を邪険に扱えない時点で、俺の負けなんだろうけど。
「ねえ、美樹」
「ん?」
「美樹はどうしてそんなに洋一のことが好きなの? そりゃ、洋一が美樹のお兄ちゃんだからというのもあるだろうけど、それだけじゃ説明できそうにないこともあるし」
「ん、そうだね」
 姉貴の問いかけに、美樹は小さく頷いた。
「私がお兄ちゃんを好きな理由は、本当にたくさんあるの。その中で一番大きいのは、私たちが兄妹だからなんだけど、たとえ兄妹じゃなかったとしても、私はお兄ちゃんのことを好きになってたと思う」
「それは?」
「お兄ちゃんは、カッコイイし優しいから。私が妹だったからかもしれないけど、お兄ちゃんはいつも私のことを見守っていてくれたし。もちろん、ただ優しいだけじゃなかったよ。言うべきことは言ってくれたし」
「ふ〜ん……」
「あとは、同い年の男の子とお兄ちゃんを比べちゃうからかな。三歳も違うんだからあらゆる面で劣るのはしょうがないのにね。それでもね、ずっとそうやってきたから、もうお兄ちゃんしか私の目には入らないの。それがもうずっと続いているから、私はお兄ちゃんのことが好きなの」
「なるほどね。その言い分はよくわかるわ。でも、ひとつだけわからないことがあるの。それはね、どうして美樹は洋一にすべてを捧げてもいいと思ってるのか、ということ。血の繋がった兄妹なんだから、恋人にもなれない。ましてや、セックスもできない。美樹もそれはわかってるはずなのに、それでもそのタブーを破ってもいいという感じで洋一に接してる。それが私にはわからないの」
 今度の問いかけに、美樹はすぐには答えられなかった。
「……私も、それは十分わかってるよ。でもね、ダメなの。もうどうやってもお兄ちゃんのことしか考えられないから」
「洋一に抱かれたいと思ってる?」
「うん、思ってる」
 即答した。
「やれやれ、本当に困った子ね」
 言葉とは裏腹に、姉貴はどことなく楽しそうだった。
「まあ、いいわ。そのことは洋一に任せるから。ただ、早まったことだけは絶対にしないこと。これは、姉としてのお願い。本当は命令とか言ってもいいんだけど、いくら姉弟でもそこまではできないから。だから、お願いなの。わかった?」
「わかったよ」
「美樹もよ?」
「うん……」
 すっかり笑顔が消えてしまった美樹の頭を、軽く撫でてやる。
「お兄ちゃん……」
 そんな俺たちを見て、姉貴は穏やかな笑みを浮かべていた。
 姉貴としては、別に美樹を責める気はさらさらなかったのだ。ただ、なにも言わないで流されてしまうのだけは避けたかったのだ。
「あ、そうそう。ふたりに言っておかなくちゃいけないことがあったんだ」
「ん?」
「今度ね、和人の家族が揃ってうちに来るから」
「今度って、いつ?」
「たぶん、来週の日曜日」
「来週かよ」
「そんなこと言っても、それが決まったのがおとといだったんだから、しょうがないでしょ」
「まあ、それならしょうがないけど」
 そっか、和人さんの家族が。
 って、待て。なんか忘れてないか?
「あのさ、姉貴。家族揃ってっていうのは、本当に全員?」
「当たり前でしょ」
「…………」
「ははあ、なるほど。あんた、香織ちゃんに会うのがイヤなんだ」
「香織ちゃん?」
 事情を知らない美樹が首を傾げた。
「香織ちゃんていうのは、和人の妹のことよ」
「和人さんに妹さん、いたんだ」
「うん。まあ、妹といっても、洋一よりひとつ年上なんだけどね。だから、美樹とは四つ違いね」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「だけど、洋一」
「……なんだよ?」
「あんたもあきらめ悪いわね。この前言ったでしょ? 向こうの家族が揃って来る時に香織ちゃんの相手をしてあげられるのは、あんただけなんだって。まさか、もう忘れたわけじゃないでしょ?」
「そりゃ、まあ……」
 だから改めて確認したんだ。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「なんでお兄ちゃんは、その香織さんに会いたくないの?」
「ああ、それはね、私が香織ちゃんのことをあれこれ言ったからよ」
「言ったって、どんなこと?」
「美人で頭が良くて、話せる子って」
「ん〜、愛お姉ちゃんみたいな人?」
「そんな感じ。まあ、私も愛ちゃんほど理解はしてないけどね。ただ、どことなく似てるところはある」
「そっか。だからなんだね、お兄ちゃん」
 美樹は、意味深な笑みを浮かべ、俺を見た。
「美樹も、香織ちゃんと仲良くしてあげてね」
「うん」
 多少人見知りする美樹だけど、相手の素性がはっきりしている時は、案外すんなり仲良くなれる。人徳というところだろう。
 だから、香織さんとも本当にすぐに仲良くなるだろうけど……
「ねえねえ、その香織さんの写真かなにかはないの?」
「写真? ああ、そういえば写真、あったわ」
「ホント?」
「うん。今は持ってないけど、家にあるから、帰ったら見せてあげるわ」
「うん」
「あんたも見る?」
「……別に」
「見たいんでしょ?」
「……知らん」
「無理しちゃって」
 そう言って姉貴は笑う。
「う、ん〜……」
 暖かな陽差しが俺たちを包み込み、次第に眠気が襲ってくる。
「なんか、ずっとここにいると寝ちゃいそう」
「うん、私、もう眠いよ……」
「寝るな」
「あうっ」
 俺に抱きついたまま眠られると困るから、おでこを小突いた。
「これからどうする?」
「俺はもうアイデア出したんだから、姉貴か美樹が決めてくれ」
「だってさ?」
「う〜ん……」
 姉貴と美樹は、揃って唸る。
「私としては、あんたで遊べればどこでもいいんだけどね」
「……なんで俺で遊ぶんだよ」
「それが私の生き甲斐だから」
「…………」
 姉貴が言うと、冗談に聞こえない。
「私も、お兄ちゃんと一緒ならどこでもいいんだけどなぁ」
「ほら、美樹も同じじゃない」
「どこが同じなんだよ。姉貴と美樹とじゃ、目的が違うだろ、目的が」
「似たようなものよ。ね、美樹?」
「うん」
「って、おまえも頷くな」
「だってぇ……」
 美樹がいろいろな知識を得て、今の姉貴くらいになった時、なんとなく姉貴がふたりになったような感じになるかもしれないな。この姉妹、本当によく似てるから。
「しょうがない。私がとっておきの場所へ連れていってあげるわ」
「とっておきの場所?」
 この街にそんな場所があるのだろうか。
 俺も美樹も、そんな場所は見当もつかなかった。
 
 温室を出て、公園を出る。
 駅前まで戻り、そこからバスに乗り込んだ。
 普段あまりバスは利用しないので、ずいぶんと久しぶりな気がした。
 俺も美樹も、どこに行くのかは全然わからない。ずっとこの街に住んでいるけど、未だに行ったことのない場所もあるからだ。
 バスの行き先は聞いたことのある場所だった。だけど、そこまで行くかはわからない。
 そのバスに揺られること二十分。
 幹線道路を行き、途中から知らない場所へと進んでいく。
 少し狭い道をしばらく行き、停留所のアナウンスが流れたところで、姉貴が降車ボタンを押した。
 バスが停まり、俺たちはそこで降りた。
「どこまで行くんだ?」
「あと少しよ」
 俺たちはただ姉貴についていくだけ。
 住宅街を少し行くと、公園に出た。
「ここ?」
「そうよ」
 その公園は、見た目、それほど大きくない感じだった。
 だけど、それはすぐに間違いだと気付いた。
 公園を歩いていくと、やがて大きな池に出た。
 結構大きな池で、貸しボートまであった。
「目的は、これ?」
「これでもいいんだけど、残念ながら違うのよ」
 姉貴は、その池をまわり、さらに奥へと進んでいく。
 さらに歩いていくと、今度は小高い丘が現れた。
 いや、もう少し正確に言うなら、斜面だ。
 南向きの斜面で、この時期でも芝生が青々と生い茂っていた。
「さ、この上まで行くわよ」
 俺たちは、その斜面を上がる。
 芝生がふかふかなせいで、足が取られて歩きにくい。
 なんとか頂上まで上がると──
「へえ……」
 そこは結構眺めのいい場所だった。
「どう、いい場所でしょ?」
「うん、すごくいい場所だね」
「だけど、姉貴。なんで姉貴がこんな場所を知ってるんだ?」
「そんなの決まってるじゃない。いろいろ調べたからよ」
「なんのために?」
「あのさ、洋一」
「ん?」
「デートの場所って、自分から探さないと、どんどんなくなるのよ?」
「つまり、和人さんとのデートのために、あれこれ探した、と」
「そうよ。で、前に来た時、なかなかいい場所だったから、今日みたいないい天気の日はちょうどいいかなって」
「なるほど」
 確かに、こういう日はちょうどいい場所かもしれない。
「さてと、洋一、美樹」
「ん?」
「なに?」
「そこに横になってみて。すごく気持ちいいから」
 言うが早いか、姉貴は早速斜面に横になった。
「お兄ちゃん」
「そうだな」
 俺たちもそこに横になる。
「ん〜……」
「どう?」
「うん、すごく気持ちいいね」
 手足を伸ばし、太陽を目一杯浴びる。
「洋一は?」
「いつでも寝られるぞ」
「ふふっ」
 風は少しだけ冷たいけど、でも、凍えるほどじゃない。
 柔らかな芝生に、暖かな陽差し。
 芝生が敷き布団で、陽差しが掛け布団という感じだ。
 目を閉じても、太陽を感じられる。
「美樹」
「ん?」
「もう私は洋一とのことはなにも言わないけど、でも、もう一度よく考えてみなさいね。あんたと洋一は、血の繋がった兄妹なんだから。そして、今の世の中では、絶対に結ばれてはいけないの」
「……うん」
「これから先誰ともつきあわなくてもいいし、結婚しなくてもいいと思うけど、でも、最後の最後まで、あんたたちは兄妹で居続けるのよ。いいわね?」
 姉貴の言葉は、とても穏やかだった。
 それは、あくまでも確認でしかないのだ。美樹にだって、それくらいのことは理解できているはずだ。でも、理性だけでは抑えきれない感情がある。だから、今のような状況になっているんだ。
「……お兄ちゃん」
 と、美樹が俺の手に触れてきた。
「どうした?」
 それには答えず、そのまま俺のすぐ隣にやって来る。
「お姉ちゃん。私、お兄ちゃんのことだけは、なにがあっても絶対にあきらめないから」
「別にあきらめろ、とは言ってないわよ」
「そうなの?」
「ただ、最後の一線だけは越えないようにっていうこと。あとは、好きにしていいわよ」
「うん、そうする」
 姉貴がなぜそんなことを言ったのかは、俺にはわからない。もちろん、その考えがわからないわけじゃない。なぜ、今、このタイミングで言ったのかがわからないだけだ。
「ああ、でも、美樹」
「なに?」
「洋一と愛ちゃんが一緒になると、そういうのもなかなか難しいと思うわよ」
「どうして?」
「今のままだと、洋一はほぼ確実に森川家に婿入りすることになるから。いくら兄妹でも、家が違えば好き勝手もできないから」
「……そうなの?」
「いや、俺に聞くな」
 俺だってそこまでは考えてない。
「ま、そういうことだから、そのあたりも含めてよく考えてみなさいね」
 やれやれ。
 どうして姉貴はこうも余計なことを言うんだろうか。
 せっかく綺麗にまとまったところだったのに。
「はあ……」
 ホント、ため息しか出ない。
 
 家に帰ったらのんびりできると思ったのだが、相変わらず俺に自由はなかった。
「ほら、この子が香織ちゃんよ」
 姉貴の部屋に拉致られた俺は、早速件の写真を見せられていた。
 その写真は、どうやら正月に撮ったものらしい。姉貴と和人さんとともに写っているのが、香織さんだ。
 写真の角度だとわからないが、髪は短くはない。セミロングからロング。若干染めているようで、茶色がかっていた。
 だけど、姉貴じゃないけど、本当に美人だった。
 すっきりと目鼻立ちに、長いまつげ、薄い唇、ほっそりとしたあご。
 俺のまわりにはいないタイプの美人だ。クールビューティーとでも言えばいいだろうか。そんな感じだ。
「ホントに綺麗な人だね」
「でしょ?」
「なのに、彼氏いないんだ」
「ん〜、そのあたりの細かい事情は知らないけど、和人曰く、香織は見た目とのギャップがありすぎるから、だそうよ」
「見た目とのギャップ?」
「ほら、この写真でもわかるように、香織ちゃんて、一見するとものすごく取っつきにくそうでしょ?」
「あ、うん」
「だけど、実際はそんなこと全然なくて、むしろ砕けすぎってくらいなの」
「それはそれで、すごいね」
「うん。だから、見た目だけで好きになっちゃうと、あとで幻滅、なんてことになるみたいで。まあ、それが今彼氏がいない理由なのかどうかはわからないわよ。いくら和人の妹だって、そこまで根掘り葉掘り聞けないし」
「そうだね」
 男なんてそんなもんだ。結局は、自分のイメージにあっていなければダメ、なんてことがよくある。まあでも、それはつきあう前にもう少し相手のことを理解していれば避けられることだ。
「で、洋一。あんたはどう?」
「……なにがどう、なんだよ」
「そんなの決まってるじゃない。せっかく香織ちゃんの姿を見せてあげたんだから、感想とか感想とか感想とか、さ」
「……知らん」
「とかなんとか言いながら、気にはなってるんでしょ?」
 意味深な笑みを浮かべ、姉貴はそう言う。
「あのさ、姉貴」
「ん?」
「結局、姉貴はどうあってほしいわけ? 俺をからかってるだけなら、まあ、それもやめてほしいけど、とりあえずはいいとして、香織さんまで巻き込みたいわけ?」
「ふふっ」
 俺の言葉に、姉貴は穏やかな笑みを浮かべた。
「そんなこと、あんたに言われなくてもわかってるわよ」
「じゃあ、なんでわざわざそんなこと言うんだ?」
「本当に深い意味はないのよ。ただ、あんたと香織ちゃんが仲良くしてくれればいいの。さっきも言ったけど、彼女、見た目とのギャップが大きいから、それを多少でも和らげようと思ってね」
「だったら、煽るようなこと言うなよ」
「別に煽ってなんかいないわよ」
「俺には煽ってるようにしか聞こえないんだけど」
「私が言いたいのは、むしろ逆よ」
「逆?」
「あんたと香織ちゃんの間に万が一にでも間違いが起きないように、わざわざ言ってるの。あんたの性格を考えれば、言われれば言われるほど意固地になるから」
「…………」
「わかった?」
「ったく……」
 そういうことか。
 まったく、だから姉貴にはかなわないんだ。
「でも、お姉ちゃん」
「ん?」
「それはあくまでもお兄ちゃんの立場でだよね?」
「そうね」
「香織さんは、どうなのかな?」
「…………」
 不自然に視線を逸らす。
「大丈夫。心配ないって。いくらなんでも、彼女持ちの洋一に迫ってくるなんてこと、そうそうないわよ」
 今、そういう状況にいるんだけどな。
「それよりさ──」
 まあ、俺だってこれ以上状況をおかしくするつもりはない。
 ただでさえ、かなり厳しい状況なんだから。
 でも、春は出逢いの季節でもあるからな。
 って、そんなことでどうするっていうんだ。
 俺がもっとしっかりしなくちゃいけないんだから。
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