恋愛行進曲
第十六章 揺れる想い
一
二月になった。
学校の方は、そろそろ年度末の慌ただしさが出てくる頃だ。三年生は受験の最終盤を迎え、ピリピリしてるし、先生たちもそんな感じだ。
俺たち一、二年も、テストが近いからあまりのんびりもしてられない。
それと、うちは私立だから、もうすぐ入試だ。今年は二月八日が試験日ということで、その日は学校は休み。テスト前だから、果たしてラッキーなのかどうか。
世間的には、そろそろ春の話題が増えてくる。梅の開花や、桜の開花予想、花粉症の話が天気予報で聞かれるようになる。
ただ、近いところで世間を騒がせているのは、やっぱりバレンタインだろう。毎年のことだけど、情報番組では美味しいチョコを売ってる店や、美味しいチョコの作り方なんかもやってる。
女性向け雑誌にも、必ずそのことが載ってるし。
だけど、バレンタインが女性だけのものだと思ったら、大間違いだ。
男もあれこれ気になる日。
確実にもらえるのならそこまでのことはないけど、もらえるかもらえないかの境界線にいる連中は、内心ドキドキものだ。もっとも、そういう連中はかなり不自然に自然を装おうとしてるけど。
もちろん、中には最初からあきらめてる奴もいる。
俺はといえば、バレンタインは毎年確実にもらえてるから、それほど感慨はなかったりする。とはいえ、今年はそうもいかないだろうとも思ってる。
なんといっても、今年は本命チョコをもらう数が確実に増えるはずだから。
嬉しいは嬉しいけど、結構複雑な心境だ。
ま、バレンタイン前から鬱になっても仕方がないけど。
バレンタインも気にはなったが、その前に俺にはやらなければならないことがあった。
それを週中に控えた日曜日。俺は、愛と一緒に駅前に出てきていた。
「悪いな、またつきあわせて」
「ううん、別に気にしてないよ。それに、これをデートだと思えば、全然オッケーだし」
愛は、そう言って微笑む。
「でも、洋ちゃんも大変だよね。この前美香さんの誕生日があったと思えば、今度は美樹ちゃんの誕生日だし」
「まあ、それはしょうがないさ。姉貴や美樹の誕生日に文句を言ってもはじまらないし」
そう。今週の九日は美樹の誕生日だった。
俺たちは、そのプレゼントを買うために駅前に出てきていた。
「そういえば、去年はどうしたんだっけ?」
「オーストラリアにいたから、パーティーは当然なしで、プレゼントも美樹が帰ってきてから渡した」
「そっか。じゃあ、今年は去年の分もしっかりとお祝いしてあげないとね」
「そこまですることはないけど、気持ちだけはそういう感じだけど」
「ふふっ、カワイイ美樹ちゃんのためだもんね」
実は、誕生日に関しては姉貴より美樹の方が大変なのだ。確かに姉貴の方も変なことすると報復攻撃してくるけど、それもこっちは織り込み済みだったりする。それに、姉貴は滅多なことでは本気にならないから、まだましだ。
でも、美樹は違う。純粋というか、一途だから、俺としてはそう思ってないのだが、美樹にとって意味深なものを贈ったりすると、あとが大変なのだ。
ここ最近は俺も学んでそこまでのことはないけど、そのあたりは注意しなければならない。
「だけど、今年は難しいな」
「どうして?」
「ほら、姉貴の誕生日に言ってただろ。あの服がほしいって」
「ああ、そういえば言ってたね。でも、あれはダメだって」
「それはそうなんだけど、兄貴としては複雑な心境なんだよ」
「かもしれないね」
「それに、俺としては別にあの服を買うことに問題はないと思ってるんだ」
「そうなの?」
「まあ、確かに資金的にはかなりきついけど、やり繰りできる範囲内だからな」
「ふ〜ん、そうなんだ」
こういうところが、姉貴なんかに言わせると甘いところなんだろうな。
俺もそれは十分理解しているのだが、どうしても美樹が可愛くてなんでもしてやりたいし、できる範囲内でなら、その願いをかなえてやりたいと思う。
「じゃあ、いっそのこと、美樹ちゃんにもああいうの、贈ったら?」
「それも考えてる。ただ、それだと母さんに言われるからな。それが問題だ」
「小母さん、そういうところ厳しいもんね」
「それに、母さんもある程度はああいうのの相場も想像できるだろうから、立て続けに買ったら、後々の俺の小遣いに響く」
今の小遣いで特に不都合があるとは思ってないけど、減らされるとさすがにつらい。
「それでも、美樹ちゃんには応えてあげたい、と」
「まあな」
そこが一番問題なんだ。母さんと美樹を天秤にかけるなんてことはしない。
ただ、今回の場合はどうしてもそういう状況になってしまうのだ。
「洋ちゃんにとって、美樹ちゃんてどんな存在?」
「なんだ、藪から棒に?」
「ん、なんとなく聞いてみたくなって」
「なんとなくで聞くな」
「いいじゃない、別に。それに、聞かれて困るようなこと?」
「それはないが」
それはないが、改めて話すのはどうも……
「……そうだな。とりあえず、立ち話もなんだから、どっかに入ろう」
俺たちは、適当な喫茶店に入った。
ホットレモンティーとココアを頼む。
「で、美樹のことだったな」
「うん」
ホットレモンティーを一口飲む。
「愛は、いつ美樹のことを俺の妹だと認識した?」
「ん〜、たぶんだけど、幼稚園の年長か、小学校に入ってからかな」
「ま、そんなもんだろうな」
「でも、どうして?」
「これは俺自身はそれほど覚えてないんだが、姉貴や母さんの話だと、俺は本当にガキの頃から美樹のことを可愛がってたらしい。俺自身もまだまだ母さんの手を煩わせてたのにだ。一人前の兄貴気取りで、本当にあれこれ世話を焼いてたらしい」
「うん」
「うちは、姉貴があんなだろ? だから、余計に俺は美樹を構いたかったんだ。それに、妹だからってわけじゃないけど、あいつ、カワイイだろ?」
「ふふっ、そうだね」
「だから、余計にそう思うんだ。それに、美樹も昔から俺のことを純粋に慕ってくれてたしな。なにもわかってはいなかったけど、それでもそれには応えてやりたかった」
「確かに、洋ちゃんと美樹ちゃん、いられる時はいつも一緒だったもんね」
「俺にとっての美樹は、最初から単なる妹という存在じゃないんだ。言い方は極端かもしれないけど、ある意味では美樹は俺のすべてでもある。あいつになにかったら、俺はなにをおいてでも駆けつけるだろう。あいつを泣かせる奴がいたら、百倍にして返してやる。それは、今までも、今も、これからもずっとだ」
「…………」
「おまえと比べるなんて愚かなことはしないし、できないけど、もし誰かにそう聞かれたら、俺はきっと答えられない。どっちか、なんて答えは最初からないからな。もう俺の中には、どっちも、という答えしかないんだ。おまえはおまえでかけがえのない存在だけど、あいつはあいつでやっぱりかけがえのない存在で」
「洋ちゃんらしいね、その考え方」
愛は、そう言ってクスクス笑った。
「きっと、洋ちゃんにとって美樹ちゃんは、妹であり、女の子であり、彼女でもあるんだろうね」
「かもしれない」
「そっか、なるほどね」
ココアを飲みながら、愛は何度も頷いている。
「前にね、美樹ちゃんにも同じ質問をしたことがあるの。洋ちゃんて、美樹ちゃんにとってどんな存在、ってね」
「で、なんて?」
「洋ちゃんと一緒。美樹ちゃんにとって洋ちゃんは、お兄ちゃんであり、男性であり、彼氏なの。もちろん、誰よりも大事な存在という大前提があるけどね。それを聞いた時、そういうところは、私には絶対にかなわないなって思ったの。ううん、かなうとかかなわないとか、そういう次元の低い問題じゃなかった。だって、美樹ちゃんにとってそれはもうずっと当たり前のことで、改めて考えるようなことじゃないんだから。言うなれば、DNAレベルの問題。きっと、洋ちゃんと美樹ちゃんは、絶対の信頼を与え、与えられるようにこの世に生まれてきたんだと思う」
「…………」
「そういう点では私は絶対にかなわない。だけどね、洋ちゃんへの想いまでもが負けてるとは思わない。美樹ちゃんにとって洋ちゃんがすべてなのと同じように、私にとって洋ちゃんはすべてだから」
カップをもてあそび、薄く微笑む。
「だけど、なんでそんなことを聞いたんだ?」
「ん、洋ちゃんがあまりにも真剣に美樹ちゃんのことを考えてたから。嫉妬、かもね」
そう言って笑う。
「ったく……」
わかってはいても、ついそんな悪態を付いてしまう。
「じゃあ、ついでにもうひとつだけ」
「なんだ?」
「もし、美樹ちゃんが実の妹じゃなかったら、どうしてた?」
「それは意味のない質問だな」
「そうかもしれないけど、知りたいの」
「……そうだな、それは、美樹とどの段階で出逢うかによって変わるんじゃないか」
「どういう意味?」
「もし、誰よりも早くあいつに出逢っていたら、たぶん、つきあうことになるだろうし、そうじゃなければ、単なる友人に過ぎないな」
「それもそっか」
「だから、意味のない質問だって言ったんだ。それに、それはおまえに対してだって言えることだしな」
「私に?」
愛は首を傾げた。
「ここでその名前を出すのがいいことなのか悪いことなのかはわからんが、おまえより先に沙耶加に──」
「沙耶加……?」
しまった。こいつの前では未だに『沙耶加ちゃん』で通してたんだ。うかつ。
「洋ちゃん。今、私の聞き間違いじゃなければ、沙耶加さんのこと、呼び捨てにしたよね」
「さ、さあ、おまえの聞き間違いじゃないのか」
「……したよね?」
「うぐっ……」
ダメだ。こいつにウソは通用しない。
「いつからなの?」
「……正月明けに会った時」
「じゃあ、もう一ヶ月にもなるの?」
その間、バレなかった方がおかしかったんだ。
「はあ、結局、沙耶加さんも私と同じ位置まで来ちゃったんだね。そのうちそうなるとは思ってたけど、こうもあっさりとそれを肯定されると、さすがにがっくりくるかも」
愛は、深いため息をついた。
「ま、いいよ。呼び方だけだから。で、さっきの続きは?」
「ん、ああ。もし、おまえより先に沙耶加と出逢っていたら、それこそ俺は沙耶加とつきあってたかもしれない。そういうことだ」
「確かにね」
愛は、特に怒った様子もない。
「あ〜あ、やっぱり私って思慮が浅いのかなぁ。どうしてこう、余計なことばかり気になるんだろ。そんなの気にしなければいいのに。気にしたところで今が変わるわけでもないんだから」
残っていたココアを一気に飲み干す。
「やめやめ。もう余計なこと考えるの、やめ。さ、洋ちゃん。美樹ちゃんへのプレゼント、買いに行こ」
「あ、ああ」
なんとなく愛に気圧されながら、喫茶店を出た。
それから、つい先日訪れたあの店に向かった。
店の中は日曜ということで、この前よりお客も入っていた。
当然、全員が女性。俺のような男は、ひとりもいない。
かなり居心地は悪いのだが、今はしょうがない。
「それで、洋ちゃん。美樹ちゃんにはどんなのを選ぶの?」
「そうだな」
あたりを見回す。
と、俺の目にある服が飛び込んできた。
それは、純白のドレスだった。いや、まあ、ドレスと呼んでいいのかは俺にはわからんが。
とにかくレースがふんだんに使われ、可愛らしさを全面に押し出している服だった。
スカートのレースは二段になっていて、フリフリが余計に目立つようになっている。
上着の方では、確か姫袖とかいう形の袖が二段になっている。
本当にフリフリな服で、これは着る者を選ぶ服だった。
「すごいね。このレースの数」
「ああ。ここまで使ってると、この服はレースだけでできてるんじゃないかって思えるほどだ」
「でも、これなら美樹ちゃんに似合いそうだね。本当にお人形さんみたいに見えるかも」
その姿を想像して、愛は笑う。
「これにするの?」
たぶん、ほかに探しても結局これを選びそうな気がする。
よくあることだが、迷ったあげくに、結局は最初のがよかったということだ。
「そうだな。これにしよう」
俺は、その服とリボンレースのヘッドドレスを一緒に買った。
結構な出費だったけど、なんとか許容範囲内で済んだ。
「さてと、これで美樹へのプレゼントは買ったわけだけど、愛はどうするんだ?」
「そうだねぇ、私はどうしようかなぁ」
愛は、おとがいに指を当て、考える。
「ん〜、洋ちゃんが洋服だから、それとはかぶらないようにしないといけないし」
考えられるものは、化粧品、アクセサリー、靴、カバン、ぬいぐるみや置物くらいか。あとは、食べ物か。
「あ、でも、面白いのもあるなぁ」
「なんだ?」
「聞いちゃうと、そこに洋ちゃんも一緒に行ってもらうかもしれないよ?」
「……そんなあやしいものなのか?」
「あやしくはないけど、洋ちゃんは絶対に嫌がると思う」
俺が嫌がる? なんだ?
「えっとね、下着」
「……なるほど。そりゃ、是が非でも遠慮したいな」
「うん、さすがにそこに洋ちゃんは連れて行かないよ。あ、でも、私のを選んでくれるなら、一緒に行くけどね」
「アホ」
なんで俺が女物の下着を選ばなくちゃならんのだ。
「それに、サイズとか知らないと下着は買えないし。服なら多少の余裕はあるけどね」
「確かに、そうかもな」
「特にブラはね。大きさとカップと、両方知らないと買えないし」
そういうのは聞いたことがある。もちろん、それはうちが女の方が多いからだ。
胸の大きさが同じでも、カップまで同じとは限らないらしい。なんでも、カップはトップとアンダーの差で決まるらしいからだ。
「なら、誕生日までに美樹を連れて買いに行けばいいんじゃないか?」
「そうだね。それでもいいかもね」
そういうことなら、俺も安心してられるし。
「美樹ちゃん、この一年でぐっと大人っぽくなっちゃったから、下着もそれっぽいの選んだ方がいいと思うの。当面はそんな心配はないと思うけど、いざって時に、その方がいいと思うし」
「…………」
いざ、か。今の美樹に、本当にそんな時が来るんだろうか。
「おまえもそういうの、持ってるのか?」
「持ってるよぉ。というか、はじめての時のは、それだったんだから」
「そうなのか?」
全然気付かなかった。というか、気付いてる方がおかしいか。
「んもう、これだから洋ちゃんは……」
「おいおい、無理なこと言うなよ。俺がおまえの下着コレクションなんて知るわけないんだから。その中で、どれがそういうのかもわかるわけもないし」
「それもそっか」
愛も、それには納得してくれた。
「じゃあ、おまえの美樹へのプレゼントはそれでいいんだな?」
「うん」
「んじゃ、もう用もないし、帰るか」
「帰るのは構わないけど、今日はもう少し私につきあってくれるよね?」
「つきあってほしいのか?」
「当然だよ。私は、一分一秒でも長く洋ちゃんと一緒にいたいんだから」
「そういうことならしょうがないか」
「しょうがないなんて言わないの」
愛は、ちょっとだけ頬を膨らませ抗議する。
「へいへい、私が悪うございました」
「ホントに洋ちゃんは素直じゃないんだから」
そう言いつつ、愛は嬉しそうに俺の腕を取る。
「で、どうするんだ? うちへ行くのか? それとも、おまえの家に行くのか?」
「どっちでもいいけど。あ、やっぱり、うちにしよ」
「別にいいけど。なら、そうだな、たまにはああいうのも必要かもしれないな」
「ああいうの?」
「ん、ワイロ」
そう言って俺はニヤッと笑った。
別に本当に『ワイロ』を渡すつもりはない。
ただ単に、日頃からお世話になってる孝輔さんと愛美さんにたまにはなにか買っていこうと思っただけだ。
とはいえ、俺がそれを買っていけば、『ワイロ』のような働きをするから、『ワイロ』と言っただけだ。
で、俺が買ったのは、愛美さんの大好物であるあんみつ。しかも、愛美さんにはこだわりがあって、餡と蜜が多い店のじゃないと、機嫌が悪くなる。だから、この近辺でそれを満たせる店は一軒しかなく、必然的にそこでしか買えないことになる。
俺は、人数分プラス一個を買って、森川家へ向かった。
愛は、俺があんみつを選んだことに対して、半分呆れていたけど。
「ただいま」
「おじゃまします」
日曜なので、森川家には当然孝輔さんもいた。
「あら、洋一くん。いらっしゃい」
「おじゃましてます」
愛美さんは、実の娘に声をかけるよりも先に、俺に声をかけてきた。
「あの、これ」
「ん、どうしたの?」
「いつもお世話になりっぱなしですから、たまにはと思って」
そう言って俺は『ワイロ』を渡す。
「まあ、湖陽軒のあんみつ」
湖陽軒とは、あんみつを買った店の名前だ。
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「ついでです」
そう言っておかないと、あとが大変だ。
「んもう、本当に洋一くんはどこまでも良い子ね」
愛美さんは、それはもうとにかく嬉しそうだった。
「でも、数があわないみたいだけど」
俺をその数に入れたとしても、一個余る。
「それは、愛美さん用です」
「ああんもう、本当に洋一くんは」
そう言って愛美さんは、俺に抱きつこうとする。
「お母さんはそこまで」
が、それを愛が制する。
「洋ちゃんは、私の洋ちゃんなの」
「ケチね」
「いいじゃない。お母さんは洋ちゃんにあんみつもらったんだから」
「それはそれ。これはこれ。やっぱり『親子』のスキンシップは大事なのよ」
「だからぁ、お母さんと洋ちゃんは『親子』じゃないでしょ?」
「近い将来そうなるんだから、別にいいじゃない」
なんというか、子供の言い争いだ。
孝輔さんも苦笑してるし。
「はいはいはい。じゃあ、もう用事も済んだから、私たちは行くから」
そう言って愛は、俺の背中を押す。
「あ、洋一くん」
「なんですか?」
「あとでお茶と一緒に持っていくから、食べていってね」
「わかりました」
それを答えるだけの時間はくれた。
二階に上がり、部屋に入ると、愛はベッドに突っ伏した。
「はあ、ホント、お母さんの洋ちゃんに対する執着心は、どうにかしないといけないなぁ」
それに対して俺は、なにも言えなかった。
「まあ、とりあえず私が目を光らせてればいいんだけど」
嘆息混じりにそう言う。
「洋ちゃん」
「ん?」
「……あ、やっぱりいいや」
「なんだ?」
「とりあえず、今はいいの。言っても意味ないことだし」
「変な奴だな」
少しして、愛美さんがあんみつとお茶を持ってきてくれた。
「ねえ、洋一くん。今日は、夕飯食べていかない?」
「夕飯ですか?」
「うん。あんみつのお礼もあるし」
別にそれ自体は構わないとは思うが、隣の愛はあまりいい顔してない。
「愛のことは無視していいから」
「ちょっと、お母さん。なにその言い方?」
「私は、個人的に洋一くんを誘ってるの。あなたに許可を得なければいけないいわれはないわ」
「…………」
そう言われては、さすがの愛もなにも言い返せない。
「どう、洋一くん?」
しょうがない。ここは愛の顔を立てるか。
「すみません。今日は遠慮しておきます」
「そう? 別に遠慮しなくてもいいのよ」
「いつもごちそうになってますから。それに、この時間だとうちの方ももう準備してると思いますし」
「そういうことならしょうがないわね」
愛美さんは、意外とあっさり引き下がった。
「でも、今度は一緒に食べましょうね」
「わかりました」
愛美さんが部屋を出て行くと、愛は首を傾げていた。
「今日のお母さん、ずいぶんとあっさりしてたなぁ。なんか、裏がありそう」
「自分の親をそこまで疑うなよ」
とは言いつつ、俺もそう思っているのだが。
「洋ちゃん。ちょっとだけごめんね」
愛は、そう言いながら俺に抱きついてきた。
「どうした?」
「ううん、別にどうもしてないよ。ただ、洋ちゃんに抱きしめてもらいたかっただけ」
俺は、愛を体の正面に移し、そこで改めて抱きしめた。
「今日は、帰っちゃうんだよね?」
「ああ。さすがに買い物に出ただけで、泊まるわけにはいかないだろ」
「そういえばそうだね」
今日は、あくまでも美樹の誕生日プレゼントを買うために出かけていたのだ。
それが、いきなり泊まることになれば、言い訳のしようもない。
「ん……気持ちいい……」
髪を撫でてやると、愛は少しだけくすぐったそうにしたけど、すぐに気持ちよさそうに目を閉じた。
「そういえば、洋ちゃん」
「ん、なんだ?」
「あさっての休みは、どうするの?」
「いや、別にこれといって予定はないけど」
「そうなんだ」
「デートでもしたいのか?」
「それもあるんだけどね」
愛は、少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。
「このところ、休みの度に私と一緒にいるでしょ?」
「そうだな」
「ということは、必然的に沙耶加さんともデートはしてないってことだよね?」
「そうなるな」
「……本当はイヤなんだけどね、前に私と沙耶加さんを同じように扱ってほしいって言ってるから、穴埋めってわけじゃないけど、沙耶加さんをデートに誘ったら?」
なるほど。だから複雑な表情を浮かべたのか。
「まあ、それはそれで聞いておくさ。ただ、デートするかしないかは、わからんけどな」
それは当然だ。俺がそう思っていても、沙耶加にも予定はあるはずだ。
あさってが休みというのはもうだいぶ前からわかっていたことだ。だから、あらかじめ予定を入れている可能性もある。
「その前に、俺としては今腕の中にいるおまえを、笑顔にしたいんだけどな」
「洋ちゃん……」
俺は、愛の髪を掻き上げ、キスをした。
「このまま、いいか?」
「うん、いいよ」
これも所詮は気休めに過ぎないことは、十二分に承知している。
結局、俺も愛も、不器用なんだ。
本当に。
二
二月七日。
次の日に受験本番を控え、学校内は慌ただしかった。
授業は平常通り行われるが、放課後の部活はいっさい禁止。以後、あさっての朝まで校内への立ち入りはいっさい禁止となる。
先生たちは授業を行いながらも、頭の中では受験のことでいっぱいだろう。
とはいえ、それは俺たちにはなんの関係もない。俺たちとしては、さっさと授業が終わって休みにならないかな、くらいにしか思ってないのだ。
そんな日の昼休み。
俺は、愛お手製の弁当を食べたあと、少し用があって購買部へ行っていた。
買い物を済ませ、廊下を歩いていると──
「洋一くん」
涼やかな声とともに、肩を叩かれた。
「由美子さん」
振り返ると、由美子さんがいた。
「こら、こういうところでは『先生』でしょ?」
「すみません」
ほとんど誰もいない廊下とはいえ、誰に聞かれるかわからない。
「ところで、今、時間は大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「それじゃあ、少しつきあってもらおうかしら」
そう言って由美子さんは微笑んだ。
保健室は当然のことだが、ケガ人や病人がいなければ、誰もいない。
つまり、今の俺と由美子さんが話をするにはもってこいの場所と言えた。
「明日のお休みは、どうするの?」
「今のところ、決まってません」
「あら、そうなの? 私はてっきり、森川さんとでもデートするのかと思ってたわ」
「残念ながら」
「それなら私がその相手に立候補したいところだけど、あいにくと明日は私もかり出されることになってるから」
それは仕方がない。受験当日は万全の態勢で臨まないといけない。そうすると、全職員がかり出されるのは当然だ。
「いっそのこと、仮病で休んで、洋一くんとデートしようかしら?」
「お願いですからそれは勘弁してください」
「ふふっ、冗談よ」
まあ、いくらなんでもそこまでのことはしないだろう。
「じゃあ、洋一くん」
「なんですか?」
「今度の日曜は、どう?」
「日曜ですか? まだ別に予定はありませんけど」
「これから予定が入る可能性は?」
「ないとは言い切れませんけど」
「じゃあ、なおのこと、私が予約するわ。日曜日、デートしましょ」
そう言う由美子さんの表情は、まるで少女のようだった。
俺としても、そんな表情で言われては、断れるはずもない。
「わかりました。日曜日、デートしましょう」
「ありがとう、洋一くん」
「でも、どこでデートするんですか?」
「そうね、多少離れていて、でも、ちゃんとその日のうちにこっちへ帰ってこられる場所だから……」
由美子さんは、頭の中に地図を開き、考える。
「そうだ。ねえ、洋一くん。洋一くんは、温泉、好き?」
「温泉ですか? 人並みには好きですけど」
「それじゃあ、温泉に行きましょ。いくらこのあたりでも、日帰りで行ける温泉は結構あるから」
確かに、それなら誰かに会う可能性は格段に低くなる。さすがに高校生が高校生だけでこの時期に温泉に行くなんてことはないからだ。
「細かなことは、どこの温泉に行くか決めてからでいいわね?」
「はい」
デートが決まり、由美子さんは本当に嬉しそうだ。
「温泉は、やっぱり混浴かしら」
「ちょ、ちょっと待ってください。それはさすがに……」
「でも、その温泉がそういうところなら、しょうがないわよね?」
「それはそうかもしれませんけど……」
なんとなくだけど、あまり望まれない結果が見えてきた。
「よし。これで明日の退屈な受験も乗り越えられそうだわ」
そう言って由美子さんは、楽しそうに笑った。
放課後。
ホームルームが終わると、俺はすぐに沙耶加に声をかけた。
愛がなにか言いたそうな顔をしていたけど、これを言い出したのは自分だから、なにも言わなかった。
とりあえず教室から連れ出し、比較的静かな場所で話をする。
「あのさ、明日ってなにか予定ある?」
「明日ですか? いえ、特になにもありませんけど」
「じゃあ、明日、デートしない?」
「いいんですか?」
「いいから誘ってるんだけど」
「あ、はい、そうですね」
少し気が動転してるのか、間抜けな受け答えをする。
「どう?」
「はい、デートしたいです」
少しはにかんだ表情で、沙耶加は頷いた。
「あ、でも、なんで私なんですか? デートならまずは愛さんに声をかけると思うんですけど」
「あ、うん、そうなんだけどね」
さすがに愛に言われたから誘った、とは言えないな。
「愛は、なんか用があるんだってさ。だからって別に、沙耶加をそのついでで誘ってるわけじゃないから」
「それはわかってます。でも、そうですか……」
沙耶加は、少しだけ眉根を寄せ、黙り込んだ。
いったいなにを考えているのか。
ひょっとしたら、気付いているのかもしれないな。女の勘というのは、恐ろしいくらいに働くから。
「それで、どこか行きたいところ、ある?」
「特にはありませんけど……あ、でも、もし行けるならどこかの遊園地に行ってみたいです」
「遊園地?」
「はい。子供っぽいかもしれませんけど、最近はそういうところもずいぶんと変わってるみたいなので」
「なるほど」
確かに、最近は遊園地なんて名前がついていても、中のアトラクションは子供向けのものばかりではない。明らかにある一定年齢以上の男女を狙って作られているものも多い。
そういうことを考えると、デートする場所としては、なかなかいい場所なのかもしれない。
「そうすると、どこに行くかということになるけど」
この近辺で一番近いのは、電車で三十分ほど行ったところにある遊園地だ。ほかにも、もう少し足を伸ばせば選択肢は広がる。どこもそれなりの目玉があり、大型連休や長期休暇の時期には家族連れなどで賑わう。
「リクエストはある? 別にどこの遊園地とかじゃなくても、あれに乗りたいとか、そういうのでも」
「……えっと、観覧車に乗りたいです」
「観覧車?」
沙耶加は、小さく頷いた。
なるほど。そういうことか。いくら俺でも、それがなにを意味しているかは、ちゃんと理解している。
となると、できるだけ大きな観覧車がある遊園地か。
「それじゃあ、そのあたりのことは俺に任せてくれるかな?」
「はい」
「待ち合わせはいつものように駅改札前で、時間は……九時くらいでいい?」
「はい、全然問題ありません」
「よし、明日の九時に、駅改札前ということで」
「わかりました」
沙耶加は、デートの約束しただけですごく嬉しそうだ。
「あの、洋一さん」
「ん?」
「お昼は、私が作ってきてもいいですか?」
「それは大歓迎だよ。味のわからない店で食べるより、腕の確かな沙耶加の料理の方が、何倍もいいからね」
「…………」
少し大げさかもしれないけど、実際そういうものだ。
遊園地の中のレストランなんて、案外適当なのが多い。そういうのがイヤなら、どうしてもファーストフードになってしまう。それはさすがに味気ないし。
「だけど、ひとつだけ約束してほしいんだ」
「約束、ですか?」
「絶対に、無理をしないこと。一生懸命作ってくれるのは嬉しいけど、そのせいで寝不足になったりしたら、意味ないし。それだけは絶対に約束してほしい。いい?」
「……わかりました」
これはあらかじめ言っておかないと、たぶん無理をするだろう。
愛もそうだけど、沙耶加もそういうところはバカがつくくらい真面目だから。
ま、それはそれで嬉しいけど。
さて、明日はどうなるのやら。
二月八日。
みんなが仕事をしたり学校へ行ったりしている日に休めるというのは、非常にいい。優越感に浸れる。
朝、美樹は俺をさんざん羨ましいと言いながら学校へ行った。
まあ、俺としては、すでに春休みに入っている姉貴の方がはるかに羨ましいのだが。
それはそれとして、俺は約束の時間に間に合うように家を出た。
二月になったからといっても、まだ寒い。
陽差しにだいぶ春の匂いを感じるようにはなってきたけど、風が吹くとそんな些細な感じが消えてしまう。
俺は、コートに沙耶加からクリスマスにもらったセーターを着て、しっかり手袋もして出かけていた。
駅前は、平日の朝、しかも一番のラッシュの時間帯を外しているからか、それほど人の流れは多くなかった。
改札を見ると、沙耶加はすでに来ていた。
遠くからでも沙耶加の姿はすぐにわかった。まあ、沙耶加ほどの容姿の持ち主なら、誰でもすぐにわかると思うけど。
「沙耶加」
「洋一さん、おはようございます」
「おはよう」
今日の沙耶加は、ベージュのダッフルコートにクリーム色のタートルネックセーター、それにジーンズという格好だった。
髪は、珍しくポニーテールにしている。
「そういう髪型をしていると、イメージも変わるね」
「そ、そうですか?」
「うん。いつもの沙耶加もいいけど、今の沙耶加もいいと思う」
「あ、ありがとうございます……」
沙耶加は、照れて俯いてしまった。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
電車は、結構混んでいた。時差通勤というやつだろう。
俺たちが利用している駅は、この沿線では比較的中間にあるため、こういう状況ではまず間違いなく座れない。
たまたま反対側のドアのところが空いていたので、沙耶加を奥にしてそこに陣取った。
沙耶加を奥にしたのは、いろいろ心配だからだ。一番心配なのは、痴漢。そんなことする奴がいたら、容赦なくたたきのめしてやるけど、とりあえず未然に防ぐ方が大事だ。
俺が前に立つことで、それが防げるし、混んでる電車で人にぶつかったりする心配もなくなる。俺は、少しぶつかられたところで問題ないし。
「あ、洋一さん」
「ん、どうかした?」
「あ、いえ、たいしたことじゃないんですけど、そのセーター……」
「うん、沙耶加にもらったセーターだよ」
さすがに自分で編んだセーターなので、すぐにわかったようだ。
「一応言っておくけど、別に今日はじめて着たわけじゃないから。もう何度も着てるよ」
「あ、いえ、私はそんなこと……」
思ってなかったとは思うけど、誤解ないようにしないと。
「タートルネックだから、マフラーするほどじゃない時には重宝してるよ」
「あ、ありがとうございます……」
こういう初々しい反応は、沙耶加らしいと言える。
俺も、こういう姿を見られるから、ついつい余計なことを言ってしまうんだ。
「これ、編むの大変だったんじゃない?」
「そんなことはありませんよ。形さえ決めてしまえば、あとは本当に編むだけですから」
「そう言うってことは、昔から編み物はやってたの?」
「そうですね。小学校の頃から少しずつやってました。もっとも、ちゃんと見られるのが編めるようになったのは、それなりに時間が経ってからなんですけどね」
「なるほど。でも、そのおかがでこんなものまで編めてしまうんだから」
「はい。今は、やっていてよかったと思っています」
そう言って微笑む。
「そういや、沙耶加は家事全般なんでもこなせるの?」
「一応は」
「それって、昔から手伝いとかしてたから?」
「それもありますけど、半分くらいはやらされていた、という感じですね。お料理だけは昔から進んでやっていましたけど、掃除とか洗濯はできればあまりやりたくないことでしたから」
「ふ〜ん」
「それでも、長女であるということと、それくらいはできていないといけないかも、という考えから少しずつやるようにはなりました」
「偉いね、そこまで考えられるなんて。俺なんか、母さんに無理矢理やらされて、ようやくだから」
「普通はそうだと思います。それこそ、特殊な環境で育たない限り、必要最低限のことしかできないと思いますから」
「確かにね」
だから、なにもできない連中が多いんだ。
「ただ、今思うと、少しだけ後悔しているんです」
「なんで?」
意外な言葉に、俺は思わず身を乗り出して聞き返していた。
「結果的に、私はなんでもこなせるようになり、お母さんも私になんでも用事を頼むようになりました。でも、そうすると必然的に家でやることは少なくなります」
「……ああ、なるほど。真琴ちゃんか」
「はい。私は、真琴からいろいろなことを奪ってしまったんです。お母さんも私がなんでもできたので、真琴にまでやらせなくてもいいと思っていたんです。それが余計に真琴をそういうことから引き離すことになってしまって。もちろん、最低限のことはできますけど、任せられる、というほどではありません」
「でも、言い方は悪いかもしれないけど、そういう状況だったからって真琴ちゃんがなにもできなかった、というわけじゃないでしょ?」
「はい」
「そうすると、多少なりとも真琴ちゃんに足りないところがあったことも否めない」
「そうだとは思いますけど、最近、真琴が率先してなんでもやろうとしているのを見ていると、どうしても後悔の念にさいなまれるんです」
なかなか難しい問題だ。
うちなんかは、母さんの方針で男である俺にもある程度のことは仕込んでたからな。そういう心配はいらないけど。
「だから、今は真琴になんでも教えています。お母さんもですけど、やっぱり真琴にもちゃんと教えておいた方がいいと思ったんだと思います」
「そっか」
たぶん、それは俺が真琴ちゃんを変えてしまったからだと思う。
以前みたいに、絵に傾倒していればそんなこと考えもしなかっただろうけど、今は違う。俺が言うのも変だけど、真琴ちゃんは女の子として目覚めてしまったのだから。
「ただ、私としては、最近少しだけ複雑な気持ちで見ているんですけど」
「それは?」
「真琴がなんのために、誰のためにそうしているのかを考えると、真琴の姉としては嬉しいんですけど、同じ人を好きになったライバルとしては、複雑です」
そう言って苦笑する。
「でも、それはそれでいいんです。やっぱり私は真琴の姉ですから」
そう言えるところも、沙耶加のいいところだ。
俺は、そんな沙耶加の頭を軽く撫でた。
「ん……」
沙耶加は、少しだけくすぐったそうにしたけど、すぐにいつもの笑顔を見せてくれた。
今日は、沙耶加とのデートだから、もうこれ以上真琴ちゃんのことは話題にしない方がいい。話題にすると、きっと一時的に気持ちが落ちてしまうから。
電車に揺られながら、俺はそんなことを考えていた。
電車に揺られること一時間。
ようやく目的地へと到着した。
平日の特になにもない時期ということで、チケット売り場もエントランスも空いていた。
俺がこの遊園地を選んだ理由はいくつかある。ひとつには、それほど遠くないということ。帰りのことも考えると、あまり遠いのはさすがに遠慮したい。
次に、最初から子供向けというよりもう少しターゲット層が上ということで造られたこの遊園地は、俺たちでも十分楽しめると思ったからだ。
もうひとつは、これが一番大事なのだが、観覧車の大きさだ。沙耶加のリクエストは、遊園地で観覧車に乗る、ということだ。なら、それに応えてやらないと意味がない。だから、このあたりで一番大きな観覧車のあるこの遊園地を選んだ。
果たして沙耶加がそこまでのことを理解してくれたかどうかは、わからない。まあ、理解してくれてなくても、楽しんでさえもらえればいいのだが。
フリーパスチケットをそれぞれ買い、早速中に入った。
「さてと、まずはどれから行く?」
「私はどれでも」
「本当に?」
「あ、えと、その……コースター系は、苦手なので……」
「了解」
ま、俺もそういうのはダメだから、ちょうどいいんだけど。
俺たちは、そういう類のものを避けて、片っ端から楽しんだ。
それも、今日みたいに空いているからできる芸当だ。休みの日なんかにはまず間違いなく無理だ。
これも、平日に休める特権だ。
ある程度まわったところで、お昼になった。
休憩用のベンチで早速お昼にする。
弁当は、沙耶加のお手製だ。
「お口にあうかどうかはわかりませんけど……」
メインは、サンドウィッチだった。中身は、ハムとレタス、たまご、キュウリとトマトの三種類。おかずには、クリームコロッケとピリ辛ウインナー、アスパラガスとニンジンのソテー、それと、なにかデザート。
「それじゃあ、早速」
まずは、サンドウィッチから。
たまごを食べたけど、これはマヨネーズとマスタードで和えたものじゃない。なにか別のもので和えてある。
「これ、なにで和えてあるの?」
「サワークリームです。少し塩味を加えてありますけど」
「なるほど」
これが意外に旨かった。
まあ、沙耶加の料理の腕は本当に確かだから、不味いなんてことは万が一にもないと思うけど。
「ところで、これを作るために無理しなかったよね?」
「あ、えっと、はい」
少しだけ視線が泳いだけど、まあ、追求はしない方がいいか。
「それならいいけど」
風は少し冷たいけど、それなりに暖かい陽差しの下、俺たちはのんびりと弁当を食べた。
量は、実に見事と言えるくらい、ぴったりだった。
で、デザートにはちょっと驚いた。
「これは……」
それは、アップルパイだった。
そう、俺の大好物だ。
沙耶加にそういうことを聞かれたことはない。母さんともそういう話をする機会はなかったわけだから、偶然だろうけど。
「ちょうどリンゴをもらったので、作ってみたんです」
実は、アップルパイのことは愛もつい最近まで知らなかったことだ。まあ、昔から一緒だったからまったく知らなかったとは言わないが。
だからこそ余計に驚いた。
俺は、それを食べてみた。
「どうですか?」
「……うん、旨い」
そして、一番驚いたのは、その味だった。確かにアップルパイは好きだけど、俺が好きなのは母さんが作るアップルパイである。どんなに美味しいと言われている店のアップルパイより、母さんのアップルパイの方がいい。もちろん、店のが不味いということじゃない。美味しいと言われているだけあって、本当に美味しい。だけど、俺にとってはそれだけなのだ。
で、沙耶加のアップルパイは、母さんのにかなり近い味だった。完全に同じというわけにはいかなかったけど、俺にとっては十分だった。
「パイは、よく作るの?」
「そういうわけではありませんけど、たまに作るくらいです」
「これは、誰かに教わったの?」
「いえ、本を見てだいたいの作り方を覚えて、それから少しだけアレンジを加えてあります」
「そっか……」
ヤバイな。これはかなり心を動かされた。
愛が少し前に作ったパイは、ここまでの味にはなっていなかった。今ところ、パイ作りでは沙耶加がかなりリードしてる。
「あの、なにかありましたか?」
「あ、いや、たいしたことじゃないんだけどね」
ここは、フェアプレーに徹した方がいいのだろうか。
「実はさ、アップルパイ、俺の大好物なんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。これは愛ですら最近まで知らなかったことなんだけどね」
「そうだったんですか」
「ただ、アップルパイならなんでもいい、というわけでもないんだ」
「それは、どういう意味ですか?」
「俺が好きなのは、母さんが作るアップルパイなんだ。だからどんなに有名な店のアップルパイも、所詮は美味しいアップルパイでしかない。なかなか微妙なんだけどね」
「……あの、私のは、どうでしたか?」
もちろん、それが一番気になるだろうな。
「正直言って、かなり驚いた。沙耶加のは母さんのにかなり近い味だったから」
「ほ、本当ですか?」
「ウソは言わないよ」
沙耶加は、驚きの表情を浮かべていたが、やがて笑顔になった。
「ふふっ、すごく嬉しいです。洋一さんのために作ったアップルパイが、まさか洋一さんの大好物だったなんて。しかも、洋一さんのお母さんの味にも近くて。こんな偶然、本当にありません」
「確かに」
沙耶加がアップルパイを作ってきたこと。その味が母さんのに近かったこと。そのどちらも偶然だ。偶然だけど、それは事実だし。
「あ、でも、ひとつだけ」
「なんですか?」
「いくら大好物だからって、そんなにしょっちゅう食べてるわけじゃないからね。それに今は愛も修行中だから、必然的に食べる回数が増えるから。たまにならいいけど、無理して作らなくていいから」
「わかりました」
言っておかないと、たぶん、三日と置かずにアップルパイが俺の前に並んだかもしれない。それはさすがに勘弁してほしい。
そんなこともありつつ、時間はのんびりと過ぎていく。
昼からは、少しペースを落としてのんびりまわった。
午前中の勢いだと、本当に全部制覇しそうだったからだ。
最後に乗るのは観覧車なので、あとは適当に。
冬の陽はかなり早く落ちる。
三時をまわる頃には、だいぶ気温も下がってくる。
もともとそれほど多くなかったお客の数も、徐々に減ってくる。
俺たちは、西の空が赤く染まり出す頃に、観覧車に乗り込んだ。
観覧車は、一周を約十五分かけてまわる。
その間は、空の密室というわけである。
いくらお客が少なくても、これを目当てに来ているカップルなんかはそれなりに見られた。
ゴンドラに乗り込み、ドアが閉められる。
最初はそれぞれ座っていたんだけど、沙耶加がこっちに来たそうな顔をしていたので、手招きして隣に座ってもらった。
「こういうの、夢だったんです」
「そうなの?」
「はい。自分でも子供っぽいとは思いますけど、でも、大好きな人と一緒にゴンドラに乗って、ふたりきりの時間を過ごしたかったんです」
「そっか」
「今、こうしてそれがかない、本当に嬉しいです」
沙耶加は、そっと俺に体を預けてくる。
「……洋一さんはどう思っているかはわかりませんけど、私、今、この状況をとても楽しんでいます。去年の年末に愛さんといろいろお話しして、確かに私は厳しい立場に立ちました。でも、それはあくまでも最終的に、なんです。最終的には考えなくてはいけないことですけど、今は、必要ありません。そうすると、今の私と洋一さんの関係は本当の意味での『恋人同士』になるはずです。だから、今は純粋に楽しんでいられるんです」
やっぱり、沙耶加もそう思っていたか。俺が思いついたくらいだから当然、沙耶加も思いついただろう。
「今更かもしれないけど、俺は沙耶加とふたりきりの時は、沙耶加のことを俺の『彼女』だと思ってるよ。俺はそんなに器用じゃないからね。なんとも思ってない子とここまでいろいろできないよ」
それは俺の本音だ。それに、そうじゃなきゃ単なる女好きの変態野郎になってしまう。
「もし、言葉だけで信用できないというなら──」
「あ、ん……」
俺は、沙耶加にキスをした。
「態度でも示してあげるから」
「洋一さん……」
潤んだ瞳で俺を見つめる。
「沙耶加……」
耳元でささやき、もう一度キスをする。
俺も沙耶加もこのまま続けてもいいほどに気持ちは高ぶっていた。だけど、ここは観覧車のゴンドラの中。頂上は過ぎたから、もう半分も残っていない。さすがに、こんなところでそこまでのことをする勇気はない。
そして、ゴンドラは地上に戻ってきた。
観覧車をあとにした俺たちは、手を繋いだまま、園内を歩いていく。
「楽しい時間は、本当にあっという間に過ぎてしまうんですね」
「まあね」
「ずっとこんな幸せな時間が続けばいいと思ってしまうのは、いけないことなのでしょうか?」
「そんなことはないよ。そう思うこと自体、誰にも妨げられない」
「そうですね」
だけど、俺は最後の一線として、それに完全に同意はできなかった。それはもちろん、俺には愛がいるからだ。
もしそれに同意してしまえば、本当の意味で俺は愛を裏切ることになる。それだけはできない。
「だけど、時間は常に流れているからね。必ず、終わりの時が来る。だからこそ、今を大事にしようとする。俺はそう思うよ」
「……そうかもしれませんね」
「というわけで、これからどうしようか?」
そんなこと聞かなくてもわかっているのだが、あえて聞いてみた。
「……洋一さんに、いっぱい、抱いてほしいです」
ささやくように、でも、熱っぽい声で言う。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
沙耶加とラブホテルに入るのは三回目だ。
一回目は、今にして思えばかなり緊張していた。ホテルなんてはじめてだったし、なにより沙耶加とセックスすること自体が、俺にとっては『あり得ない』ことだった。
それが現実のものとなり、俺は上手く頭が働いていなかった。
二回目は、もういつもと同じだった。図々しい、図太い神経だと自分でも思う。ただ、ひとつだけ言い訳させてもらえるなら、それはある意味では沙耶加のためでもあった。俺は愛とセックスしているから行為自体に対する感覚は、多少薄れていた。だけど、沙耶加にとっては違う。回数は、そのまま沙耶加のセックスの回数と同じなのである。
俺と愛だって、二回目の時はまだまだ緊張感が支配していた。だからこそ、俺はできるだけ普通を装い、沙耶加を安心させてやりたかった。
まあ、それが功を奏したかはどうかは、沙耶加に聞いてみないとわからない。
そして、三回目。
沙耶加は一回目の時と同じで、まだ緊張感から解放されていない。それもしょうがないことだと思う。沙耶加は、男に対してあまりいいイメージを持っていなかった。それは当然、セックスという行為に対しても同じだっただろう。もちろん、これも確認したわけではないから、違うかもしれない。でも、俺はそう思っている。
セックス=いけないこと、とは思ってはいないだろうけど、どこか気後れするところはあるはずだ。
でも、俺はそんな沙耶加をカワイイと思う。綺麗だとか汚れてるだとか、そんなくだらないことは思ってない。それが沙耶加だから。それで十分なんだ。
部屋に入ると、俺は沙耶加を後ろから抱きしめる。
「沙耶加」
ポニーテールにしているので、首筋にキスをする。
「ん……」
せつなげな声が、一気に俺の気持ちを高ぶらせる。
コートを脱がせ、そのままベッドに横たわらせる。
「あの、シャワーを──」
「ダメ。待てない」
「ん……」
それ以上なにも言わせないように、唇を塞ぐ。
「いぢわるですね」
「そうだよ。知らなかった?」
「ふふっ」
微笑みと同時に、沙耶加から余計な緊張が消える。
キスをしながら、胸に触れる。
「ん……ん……」
舌を入れると、沙耶加はおずおずと舌を絡めてきた。
「ん、ちゅ……は……ん……」
息を継ぐのも忘れて、キスを交わす。
「ん……ん……ん……」
いつの間にか、沙耶加の腕が俺の首に絡みついている。
「ん、はあ……」
唇を離すと、ふたりの唾液が、ツーッと糸を引いた。
「沙耶加、キス、好き?」
「え、あ、はい」
「そっか」
それは確かめるまでもないことだった。
愛もそうだけど、沙耶加も依存したいタイプだから、キスでもなんでも俺に求められることに関しては、好きになってしまう。
まあ、俺としては、キスをしたあとの表情が好きだから、またキスをするのだが。
「あ、あの、洋一さん」
「ん?」
「えと、あの……」
沙耶加は、顔を真っ赤にしてしどろもどろになりながら、なにごとか言おうとする。
「どうしたの?」
「きょ、今日は、私に、させてください……」
「えっ……?」
「す、少し、覚えてきました、から……」
それだけ言って、ギュッと目を閉じる。
だけど──
「カワイイ」
「えっ……?」
「すごくカワイイよ、沙耶加」
「えっ……えっ……?」
俺にとっては、今の沙耶加があまりにも可愛くて、そっちの方に感動してしまった。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、無理しなくてもいいんだよ?」
「あ、いえ、無理なんて……」
「本心から言ってる?」
「はい」
頷く。
「…………」
「…………」
沙耶加も頑固だからな。
「で、俺はどうすればいい?」
「あ、はい」
俺は、沙耶加に言われるまま入れ替わりにベッドに横になった。
「……えと、失礼します」
沙耶加は律儀にそう言ってから、ベルトに手をかけた。
少しだけ手間取ったけど、まずはベルトを外した。
「…………」
明らかに戸惑い、躊躇っているのだが、ここで余計なことを言えば、それだけ意固地になってしまうから、なにも言わない。
「…………」
おそるおそる、という感じでズボンに手を伸ばす。
なんとなくだが、服だけは先に脱いでおいた方がよかったのかもしれない。
それでも、沙耶加は俺のズボンを脱がすことに成功した。
「…………」
さて、ここから先が問題なのだが。
「あのさ、沙耶加。本当に無理しなくても──」
「ダメですっ」
「えっ……?」
「ダメなんです。私は、私がしたいことを、してあげたいことをできるようにならないと、ダメなんです。意味がないんです」
「沙耶加……」
「せっかく洋一さんの『彼女』になれたのに、今までと同じじゃ、意味がないんです」
そうか。そういうことか。
まったく、真面目すぎるのも考えものだな。
だけど、それも沙耶加なんだ。俺の好きな、山本沙耶加なんだ。
「沙耶加。ごめん」
俺は、体を起こし、沙耶加を抱きしめた。
「俺が無神経だった」
「……いえ、洋一さんはなにも悪くはありません」
「でも、沙耶加。ひとつだけ聞いてほしいんだ。確かに沙耶加はそう思って、それに基づいて行動してるのかもしれない。もちろん、俺もそれを否定はしないし、止めはしない。だけど、それって、一足飛びにやらなきゃいけないこと? 俺はそう思わない。できることから少しずつやればいいと思う。違う?」
「……いえ」
「そういうこと。だから、今日もできる範囲でやればいいんだよ」
「洋一さん……」
「というわけで、沙耶加」
「は、はい」
「服、脱いじゃおう」
「えっ……?」
「別に俺は沙耶加がすることを止めはしないよ。俺の服を脱がせたければ、脱がせばいい。でも、今日はそこまでできそうにないから、じゃあ、今日は先に脱いでしまえばいい。それだけ。あ、俺だけ脱ぐのはなんか間抜けだから、沙耶加にも脱いでもらうけどね」
沙耶加は、あっけにとられた表情を浮かべたが、すぐにクスクスと笑い出した。
「きっと、私は永遠に洋一さんには勝てないんですね」
「そうかな?」
「はい。でも、それはそれでいいと思います。だって、その方が、洋一さんに大事にしてもらえますから」
「かもね」
俺たちは、声を上げて笑った。
で、俺たちは服を脱いだ。ま、最初からこうしていればよかったんだけど、今更だ。
「あ、沙耶加。髪はそのままで」
「このままの方がいいですか?」
「あ、うん、それもあるんだけど、俺がそれを解きたいから」
「ふふっ、わかりました」
服を脱いで、俺はまたベッドに横になる。
「さ、好きにしていいよ」
「は、はい……」
沙耶加は、俺の腰の横にぺたんと座る。
裸だから、妙に色っぽいのだが。
「…………」
じっと俺のモノを見る。
そして、おそるおそるそれに触れた。
「っ」
すぐに手を引っ込めようとしたが、意志の力でそれを留めた。
「……ん」
小さく頷き、今度はちゃんと触れてきた。
「……それから……」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、手順を確認している。
沙耶加は、モノを握り、上下に動かした。
亀頭の敏感な部分が擦れ、快感が増してくる。
それに伴い、モノが硬く、大きくなる。
それを目の当たりにし、沙耶加の表情が変わる。
それは少女の顔から大人の女の顔に変わった感じだった。
沙耶加は、緩急をつけてモノをしごく。
なにを見てきたのかはわからないけど、そういうことはちゃんと教えてくれるものだったらしい。
ただ、まだ躊躇いがあるせいで、積極的とは言えなかった。
「……次は……」
沙耶加は手を止め、少し身を乗り出す。
そのまま屹立したモノを、口に含んだ。
「ん……」
ねっとりとした口内で、舌が少し動く。
だけど、モノが入った状態では、思ったように舌を動かせない。
「沙耶加。頭を上下させて」
「あ、はい」
沙耶加は、言われるまま頭を上下させる。
「ぅ……」
はじめての行為なので、沙耶加はとにかく一生懸命だった。
動きは拙いのだが、それがかえって俺を感じさせた。
一心不乱に頭を動かす。
「くっ……」
予想以上の快感に、俺の方は限界が近い。
と、沙耶加は動きを止めた。
なにをするのかと思えば──
「ん……」
今度は、モノを舌で舐めてきた。
ちろちろと先端を舐め、少しずつ舐める範囲を広げていく。
「ん、ん……」
すでにだいぶ限界に近かった俺にとっては、それだけでも十分快感だった。
「沙耶加、そろそろ」
「ん、いいですよ」
沙耶加はニコッと笑った。
程なく──
「出るっ」
「んっ」
俺は、沙耶加の口内に精液を放った。
「ん、はあ……」
射精後の脱力感に襲われる。
が、沙耶加はまだ口の中のものをどうするか迷っていた。
「あ、無理しなくても」
そう言って俺は、ティッシュを取ろうとしたが──
「ん……」
それより前に、沙耶加はそれを飲んでしまった。
「……けほっ、けほっ」
軽く咳き込み、でも、笑顔を見せる。
「気持ち、よかったですか?」
「すごく気持ちよかったよ」
「よかったです。でも、これで終わりじゃありませんから」
「えっ……?」
これで終わりじゃない? いったい、なにをするつもりなんだ。
そう言って沙耶加は立ち上がり、そのまま俺をまたぎ──
「はしたないって、思わないでくださいね」
軽く自分で秘所をいじり──
「……んっ……」
そのまま腰を落とし、俺のモノを挿れてしまった。
すでに沙耶加の中はだいぶ濡れていた。
「沙耶加、どこでこんなことを」
「いろいろです」
ゆっくりと腰を浮かせ、また戻す。
「んっ、あっ」
俺のモノは、たぶん、いつも以上に奥に届いているはずだ。
多少緩慢な動きではあるけど、中の締め付けはきつく、イッたばかりの俺には十分な快感だった。
俺は、沙耶加の胸に手を伸ばし、揉む。
「あ、や、んっ……あんっ」
そのせいで上下の動きが制限されたが、沙耶加は腰を前後に振って、快感を得ようとする。
「ん、中が、擦れて……んんっ」
沙耶加が動く度に、中から蜜があふれてくる。
それがさらに動きを滑らかにし、俺も沙耶加も快感が増してくる。
「あ、んん……や、ダメ……止まらないっ」
次第に動きが速く、細かくなる。
「んっ、あっ、んんっ」
胸が大きく揺れ、髪も乱れる。
「ダメっ、洋一さんより……んっ、先になんてっ」
言葉とは裏腹に、動きは止まらず──
「やっ、んん……ああっ、あっ、あっ」
そして──
「んっ……いっ、くぅっ」
一瞬、糸がピーンと張ったように体が張りつめ、次の瞬間に全身の力が抜けて落ちた。
「はあ、はあ……」
どうやら、イッてしまったようだ。
力が入らないのか、沙耶加は俺の方に体を預けてくる。
「イッったんだね、沙耶加」
「はあ、はあ、これが、イクということ、なんですね……」
トロンとした瞳で、少しだけ遠い声で言う。
「なんか、体が飛んでしまうような、そんな感じでした……」
「そっか」
まだ繋がったままのだが、俺は、そっと沙耶加を抱きしめる。
「あの、洋一さん」
「ん?」
「洋一さんは、その、まだ、ですよね?」
「ああ、うん。でも、沙耶加に無理はさせられないから」
それに、このまま続けられたら、我慢できなくて中出ししてしまいそうだ。
それはいくらなんでも問題だ。
「私のことなら、気にしないでください。今日は、洋一さんのために、なんでもしてあげたいんです」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、まだまだセックス自体に慣れてないんだから、無理は禁物だよ」
「……はい」
とはいえ、このままというのも実際、蛇の生殺し状態だ。
沙耶加は、小さく息を吐き、呼吸を整えた。
「もう、大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、今度は俺がするよ」
今度は沙耶加に下になってもらう。
「いくよ?」
「はい」
改めて、俺は沙耶加の中にモノを挿れた。
「んっ」
多少落ち着いたとはいえ、イッたばかりなので、沙耶加はまだまだ敏感だった。
だけど、今度は俺の方が止められなかった。
「あっ、んっ、んっ」
最初から全開で腰を動かす。
「やっ、気持ち、よすぎですっ」
俺も沙耶加も、すぐに達してしまいそうだった。
「ああっ、あっ、洋一さんっ」
「沙耶加っ」
「んんんっ」
「くっ」
そして、俺も沙耶加も、イッた。
「ん、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
荒い息の中、俺は、沙耶加にキスをした。
結局、その後にもう一度セックスしてしまった。
なんだかんだ言いながらも、沙耶加とのセックスはやめられない。
「あの、洋一さん」
「ん?」
「髪、このままでよかったんですか?」
「ああ、そういえば、すっかり忘れてた」
「ふふっ、そうだったんですか」
セックスの時はセックスしか考えてないから、そういうことは忘れてしまう。
「じゃあ、沙耶加。ちょっと起きてくれるかな」
「はい」
俺も、沙耶加にあわせて起き上がる。
「それじゃあ、早速」
俺は、髪を束ねているリボンを解いた。
同時に、綺麗な髪がふわっと広がる。
「やっぱり、いいな」
この、髪が広がる瞬間のなんとも言えない感じが好きだ。
「洋一さんは、髪は長い方が好きなんですよね?」
「まあ、どっちかって聞かれたら、そう答えるね」
別にショートが嫌いなわけじゃないけど、風になびく姿が絵になるのは、やっぱりロングだと思う。
それに、ロングじゃなければ、今みたいなことを楽しめない。
「とすると、少なくとも髪だけは、洋一さんの好みにあってるわけですね」
「それは違うよ」
「えっ……?」
「髪だけじゃなく、沙耶加はほとんど完璧に俺の好みにあってる」
「洋一さん……」
そう。髪が長いことも、綺麗でカワイイことも、スタイルがいいことも、俺の好みにあっている。
「じゃなかったら、俺が沙耶加に応えることはなかったと思ってる」
もちろん、俺の意志の弱さというのもあるけど、沙耶加はあまりにも俺の好み通りの女の子だった。だから余計に歯止めが利かなかったのだ。
「今はまだ言えないけど、来月、沙耶加がいろいろ考えて、答えを出した時に、改めて言うよ。今、飲み込んだ言葉を」
「それは、私にとっては、どんな言葉になりますか?」
「それはわからない。わからないけど、失望はさせない」
沙耶加は、目を閉じ、ふうと息を吐いた。
「ずるいですね、洋一さん」
「ずるい?」
「はい。そんなこと言われたら、私、迷ってしまいます。なにも言われない方が、かえって素直に決められるかもしれないのに」
「…………」
「でも、それは考えようによっては、いいことだと思います。きっかけに、なると思いますから」
そう言って微笑んだ。
「そっか」
確かに、俺はずるいのかもしれない。今、言おうとした言葉は、そういう類の言葉だ。
そしてそれは、俺のひとつの答えでもある。
愛や沙耶加だけでなく、俺も考えなくてはいけないから。
なにが俺たちにとって大事なのかを。
三
十四年前の今日、俺に妹ができた。
まだ三歳だった俺はよくは覚えてないけど、でも、父さんや姉貴たちに『兄貴』になったことだけは言われた記憶がある。
あれから十四年。
ここまでの月日が長かったのか短かったのかは、わからない。
だけど、俺の妹は、俺が想像していた以上に、ちゃんと成長してきた。
十四歳になり、これからどう成長していくかはわからないけど、これからも俺は、そんな妹の姿を見守り続けていく。
それが、兄貴としての最低限の義務であり、また、俺自身の望みでもあるから。
朝。目が覚めると、久々の違和感があった。
なんとなく予想はできたのだが、目を開けて確かめる。
「……ん……」
予想通り、隣には今日、十四歳になったばかりの妹──美樹が眠っていた。
「あれだけ勝手に潜り込むなと言ったのに……」
どうやら、前に言ったことは聞いていなかったようだ。
とはいえ、今日だけは怒る気にはならなかった。
誕生日だというのが一番の理由だけど、それ以外にも理由がある。それは、美樹は去年、うちで誕生日を祝ってもらっていない。去年の今頃はオーストラリアにいたからだ。
人一倍の甘えん坊で淋しがり屋の美樹が、それでも文句ひとつ言ってこなかったのは、向こうのホスト家族がとてもいい人たちだったからだ。その人たちのおかげで淋しい想いもせず、楽しく過ごせた。
だけど、それはそれ。美樹にとって本当に祝ってほしかったのは、父さんであり、母さんであり、姉貴であり、俺だった。
今年はそのみんなに祝ってもらえるのだが、心のどこかに去年のことがあるのだろう。
楽しい、嬉しいはずの誕生日を前に、急に淋しさがこみ上げてきた。だから、自然と俺の部屋に足が向いて、一緒に眠った。そんなところだろう。
もちろん、それはあくまでも俺の考えでしかない。本当のところはわからない。だけど、当たらずとも遠からずだと思っている。
「んん……」
ま、それを確かめるつもりはさらさらないのだが。
「さてと」
誕生日だからのんびり寝かせてやりたいけど、そうはいかない。今日も、学校はある。
「美樹。起きろ。朝だぞ」
肩を揺すりながら、エアコンを入れる。
「ん、ん〜……」
「ほら、もう朝だぞ」
「……ん、おにいちゃん……?」
「そうだよ」
「あはっ、お兄ちゃんだ」
ニコッと笑い、そのまま俺に抱きついてきた。
「寝ぼけてるのか?」
「ん〜ん、そんなことないよ。お兄ちゃんの顔を見たら、すぐ目が覚めちゃった」
「そりゃよかった」
「よくないよ」
「なにがよくないんだ?」
「ん、ほら。おはようのキスがまだだから」
この色ボケ妹はなにを言うかと思えば……
「あのなぁ、ここは日本で、日本にはそういう習慣はないんだ」
「やだやだやだ。お兄ちゃんがキスしてくれないと、美樹、起きないもん」
「ワガママ言うなよ」
愛だけじゃなく、美樹まで最近は精神年齢が退行してる気がする。
「むぅ、お兄ちゃん、美樹のこと嫌いになったの?」
「アホ」
「あうっ」
今日は誕生日だけど、甘やかしてばかりじゃダメだ。
「う〜、う〜、う〜」
「唸ってもダメだ」
「……どうしても?」
泣きそうな顔で訊ねてくる。
そういう顔をされると、弱い。
「ああ、もう、わかったから」
「あはっ」
結局、こうなるんだ。
俺は、美樹の唇にキスをした。
このキスももう何度目か忘れたけど、未だに慣れない。やはり、実の妹とのキスは、複雑だ。
「ほれ、キスしたんだから、さっさと起きる」
「はぁい」
部屋もだいぶ暖かくなって、ベッドから出ても寒くはない。
「それじゃあ、お兄ちゃん。部屋に戻るね」
「あ、美樹」
「うん?」
ドアノブに手をかけながら、美樹は振り返った。
「誕生日、おめでとう」
「あ、うんっ」
美樹は、朝からずっと機嫌がよかった。誕生日は毎年機嫌がいいけど、今年は特にだ。
その理由を訊けば、きっとそんなことないとか答えるだろう。まあ、俺のことを持ち出されて説明されても困るから、それはそれでいいのだが。
今年は、仕事の関係で父さんは一緒ではない。姉貴と美樹の誕生日にはたいてい仕事をやり繰りしてこっちにいられるようにしているのだが、今年はそれも無理だったようだ。
とはいえ、ちゃんと前もってプレゼントも用意してあるし、今日の夜には電話もかかってくるから、祝えないというわけではない。
朝から機嫌のいい美樹に、姉貴はからかうように声をかけた。
「美樹、ずいぶんと機嫌がいいじゃない」
「そうかな?」
「やっぱり、あれ? 今年はみんなに祝ってもらえるから?」
「う〜ん、どうなんだろ。でも、それはあるかも」
「なるほどね。あ、でも、一番の理由は、これでしょ?」
そう言って、俺を指さす。
つか、俺のことを『これ』呼ばわりしないでほしいのだが。
「なんといっても、美樹の大好きなお兄ちゃんが直接祝ってくれるものね」
この姉貴は、どうしてこうも余計なことしか言わないのか。
「それはそうなんだけど、でも、それだけじゃないよ」
だけど、今回は美樹の方が『大人』だった。
「ふ〜ん。ま、いいんだけどね」
美樹がそういう反応を示したからか、姉貴は意外そうな顔でそれ以上言うのをやめた。
朝食を終え、学校に行く準備を済ませ、玄関で靴を履く。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「今日の夜、少しだけ、私に時間、くれるかな?」
「夜か? 別にいいけど、今じゃダメなのか?」
「うん」
美樹は、曖昧な笑みを浮かべつつ、頷いた。
「ま、おまえがそう言うなら別にいいけど。んじゃ、いってくるわ」
「うん、いってらっしゃい」
美樹に見送られ、家を出た。
家を出てすぐに愛がやって来た。
「おう、愛」
「おはよ、洋ちゃん」
今日は昨日の受験のためにあちこち移動された机なんかを元に戻すために、少し早く行かなければならなかった。
「ね、洋ちゃん」
「ん?」
「昨日、どこ行ったの?」
「遊園地」
「遊園地?」
「観覧車に乗りたいって言うからさ」
「あ、そういうことか。なるほど」
愛は、沙耶加とのデートは自分から言い出したことなので、それ自体については特になにも言わなかった。
「今日は、美樹ちゃんの誕生日だよね」
「ああ」
「パーティーは、いつもと一緒なの?」
「そのつもりだけど」
「そっか」
姉貴や美樹の誕生日に愛が参加するのは、もはや当たり前となっている。俺が森川家で家族同然に扱われているのと同様に、愛もうちでは家族同然に扱われているからだ。
「美樹ちゃんも十四歳か。あっという間だね」
「ま、俺たちもその分年くってるけどな」
「ふふっ、そうだね」
「美樹には、そろそろ年齢相応の行動を見せてほしいものだけどな」
「洋ちゃんの前じゃ、ダメよ。美樹ちゃんにとって洋ちゃんは、誰よりも甘えたい存在だから」
「それじゃあ、困るんだけどなぁ」
「洋ちゃんは知らないかもしれないけど、美樹ちゃん、普段はすごく『大人』なんだよ」
「そんなバカな」
「中学校でも頼りになる存在と認識されてるみたいだし」
「……あの美樹がねぇ」
にわかには信じられん。
「だからね、あまり美樹ちゃんにそのこと言わない方がいいよ。それに、洋ちゃんの前で言われても、すぐに直せないから」
そうかもしれないが、複雑な心境だ。
「もっとも、洋ちゃんにとって美樹ちゃんは、妹以上の存在だから、言わなくてもわかってくれると思うけど」
「ったく……」
こいつもなにを言ってるんだか。
「あ〜あ、早く放課後にならないかなぁ」
そう言って愛は、にっこり微笑んだ。
朝から机やら椅子やらを移動させ、それから授業。
授業もそろそろ佳境で、テストまでにどこまで教科書を進められるかによって、テスト範囲が変わってくる。
俺もテスト前だからいつも以上に真面目に授業を受けている。もっとも、普段はそこまで真面目に受けていないから、今が普通の状態かもしれないけど。
そんなわけだから、休み時間は脳を休息させるために、大事な時間となっている。にも関わらず、そういう時に限ってアホがやって来る。
「相変わらずだらけてるな」
「……おまえにだけは言われたくないな」
俺は、机に頬杖つきながら、目の前の悪友に答えた。
「俺のいったいどこがだらけてるって言うんだ?」
「すべて。顔から体からにじみ出てくるオーラまで、すべて」
「…………」
さすがの亮介も、今の言葉には多少傷ついたみたいだ。
「で、なんの用だ? 用がなかったら、自分の教室に戻れ」
「いや、用はある」
「なんだよ?」
「今日は二月九日だよな」
「世界中の暦が間違ってなければ、そうだな」
「ということはだ、今日は、美樹ちゃんの誕生日ということだよな?」
「……なんでおまえが知ってる?」
「なんでって、前に一緒にやっただろうが」
そういや、そんなこともあったな。すっかり忘れてた。
「で、美樹の誕生日だったらなんだっていうんだ?」
「つまり、俺をパーティーに呼んでくれ」
「却下」
「早っ」
「なんでおまえを呼ばなくちゃならんのだ」
「いや、なんでと言われても困るんだが」
「というわけで、用事は済んだな。帰れ」
「ま、待て」
「……なんなんだよ?」
「おまえなぁ、いくら美樹ちゃんがカワイイからって、そこまで猫可愛がりするのもどうかと思うぞ」
「うるせぇ」
「そんなんだと、美樹ちゃんに彼氏ができた時、おまえ、大変だぞ」
「おまえに言われる筋合いはない。俺に説教するためだけにここにいるなら、即刻帰れ」
「ったく……」
亮介は苦笑しながら、なにかを俺に寄越した。
「美樹ちゃんへのプレゼントだ。それくらいなら、渡してくれるんだろ?」
「まあ、ろくでもないものじゃなければな」
「おまえにやるのとは違うから、安心しろ。まともなものだ」
見た目、そんなに大きくないし、重くもない。いったいなんなんだろうか。
「ま、俺の用事はそれだけだ。美樹ちゃんによろしくな」
そう言って亮介は教室を出て行った。
「亮介くんらしいね」
と、俺たちのやり取りを見ていた愛が、そう言った。
「最初からこうなること、わかってたんだよ」
「だろうな。じゃなかったら、これを持ってはこない」
なんだかんだ言いながら、あいつは俺たちのことを理解している。もちろん、どの程度理解しているかはわからないけど。
「ねえ、洋ちゃん。亮介くん、呼んであげてもよかったんじゃないの?」
「んなことできるわけないだろうが」
「どうして?」
「今の俺たちの関係を考えろ。おまえは俺にべったりだし、美樹もそれに対抗してなにかと構ってもらおうとするし。以前だったら別にいいけど、今の状況をあいつに見せるのは、いろいろ問題がある」
「あ、あはは……」
「ま、それに、あいつはこのことをなんとも思ってないからな」
「そうなの?」
「去年までなら、いろいろ文句も言ってきただろうけど、今年はない。その間にいったいなにがあったのか。それを考えればすぐにわかる」
「ん〜、それって、なに?」
「そりゃ、あいつに彼女がいるからだよ。去年までは半分冗談ながら、なにかと美樹にちょっかい出そうとしてたけど、彼女がいる今は、それもできない。もちろん、美樹に関心がなくなったわけじゃなく、ただ単に俺の妹という目で見るようになっただけだ。だから、別にそれほど気にしてない」
「そうなのかなぁ……」
俺の言葉に、愛は首を傾げた。
「まあ、本当のところはどうでもいい。あいつがこれを渡してくれるだけでいいと言ったんだからな」
「うん、そうだね」
俺と亮介なら、こんなことはしょっちゅうだ。それでも今まで友人関係を保っていられたんだ。だから、大丈夫だと言える。
俺たちは、お互いの良いところも悪いところも知ってるからな。
それが『親友』というものだ。
放課後。
俺が愛と一緒に帰るために廊下を歩いていると──
「先輩っ」
「ぐえっ」
いきなり後ろからタックルを喰らった。
腰を押さえつつ振り返ると──
「真琴ちゃん」
ニコニコ顔の真琴ちゃんがいた。
「先輩、今日はもう帰るんですか?」
「あ、ああ、そうだけど……って、そうじゃなくて、さすがにいきなり後ろからタックルするのはどうかと思うんだけど」
「あ、すみません。先輩の姿を見かけたら、自然と体が動いてしまって」
それはかなり問題だ。
「まあ、今度からしなければいいよ」
「はい、すみませんでした」
真琴ちゃんは、素直に頭を下げた。
「あの、それで先輩」
「ん?」
「今日はもう帰るんですよね?」
「ああ、そうだけど、なにかある?」
「あ、いえ、用事があるなら別に構いません。私の方は明日でも全然問題ありませんから」
よく見ると、真琴ちゃんはスケッチブックを持っている。
どうやら、俺を誘いに来たらしいな。とはいえ、今日は絵を描いてる暇はない。
「愛」
「え、なに?」
「悪いけど、先に行っててくれないか」
「それは別に構わないけど、洋ちゃんは?」
「少し遅れて行くから。そんなに時間はかからない」
愛は、俺と真琴ちゃんを見て、小さくため息をついた。
「うん、わかった。じゃあ、先に行くね」
愛を見送り、真琴ちゃんに向き直る。
「あの、先輩。よかったんですか?」
「少しだけならね」
「……ありがとうございます」
俺と真琴ちゃんは、屋上へ出た。
少し風は冷たかったけど、凍えるほどではなかった。
俺は、真琴ちゃんが最近描いたラフスケッチを見せてもらった。
最近の真琴ちゃんの絵には、以前にはあまりなかった細やかさと大胆さが同居しているものが多い。
なぜそうなったのかはわからない。ただ、真琴ちゃんもずっと努力しているから、その中からこういう描き方を見つけ出したのかもしれない。
「うん、面白いね。完成形が楽しみだよ」
「本当ですか?」
「特にこれ」
そう言って俺は、椿の花のスケッチを指さした。
「花と葉、それに枝をどういう色遣いで描くのか、楽しみだよ」
「それは、なかなか難しいですね。すぐには完成しないと思います」
「別に急かしてるわけじゃないよ。ゆっくり描きたい時に描けばいいんだから」
「はい、そうします」
それからほかの絵についても少しコメントを加えた。
「やっぱり先輩に見てもらうと、次へのやる気が湧いてきます」
「それくらいには役に立ってるわけか」
「当たり前ですよ。というか、今の私にやる気を起こさせることができるのは、先輩だけですから」
「それは大げさだと思うけど」
「そんなことありません。今の私にとって、先輩は本当になくてはならない存在なんですから」
そう言いながら、真琴ちゃんは俺に迫ってくる。
「絵だけじゃなく、あらゆる面で、先輩はなくてはならない存在なんです」
「真琴ちゃん……」
「先輩……」
俺は、そんな真琴ちゃんをそっと抱きしめた。
「もう、先輩のことしか考えられないんです。寝ても覚めても先輩のことばかりです。このままだと私、どうにかなってしまいそうです」
遠からずこうなるとは思っていたけど、やっぱりか。
真琴ちゃんは真面目だから、こうと決めてしまうとそれに向かってただひたすらに突き進んでしまう。それはきっと恋愛に対しても同じなのだ。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、でも、真琴ちゃん。そういうことはもう少し冷静になって考えた方がいいよ。今は少しまわりが見えなくなってるからそう思ってるだけで、実際はそこまでじゃないかもしれないし」
「それはありません。それに、私は十分冷静に考えてきました。それでも先輩への想いは変わらなかったです。だから──」
真琴ちゃんは俺の手を取り、自分の胸に押し当てた。
「このまま先輩に抱かれても、絶対に後悔しません」
俺にとって真琴ちゃんは『妹』だったはずだ。それがいつの間にか、俺の中でもその認識が変わってきている。なんとかして『妹』だと思い込もうとしても、それは無理なところにきている。
結局のところ、俺の中で真琴ちゃんを『妹』からひとりの女の子として見るようになったからこそ、真琴ちゃんはそれを敏感に感じ取っていたのかもしれない。
「先輩……」
俺がこのまま真琴ちゃんを抱いても、真琴ちゃんは本当に後悔しないだろう。ここまでつきあってきて、真琴ちゃんの聡明さは、俺が一番よく理解している。だからこそ俺は、余計に真琴ちゃんを抱けない。
少なくとも今のままでは、無理だ。
「確かに真琴ちゃんは後悔しないかもしれない。でも、俺はきっと後悔する。少なくとも今の状況では」
「じゃあ、どういう状況になれば後悔しないんですか?」
「そうだね。とりあえず、現状の問題を解決してからだね」
「現状の問題? それは、お姉ちゃんと森川先輩のことですか?」
「うん」
そう。それを解決する前に、真琴ちゃんを抱いてしまったら、問題は余計に複雑になるだけだ。もちろん、真琴ちゃんを抱かないですべてを解決できるのが最善だけど。
「だから、真琴ちゃん。それまでにもう一度よく考えてほしい。俺に抱かれることで、俺たちの関係がどうなるのかを」
「……わかりました」
少し酷な言い方だけど、しょうがない。それくらい言わないと、今の真琴ちゃんは聞いてくれないだろうから。
「それじゃあ、俺はそろそろ行くから」
「あの、先輩」
「ん?」
「……私のこと、嫌いにならないでくださいね?」
「なるわけないよ。俺は、本当に真琴ちゃんのことが好きなんだから」
「はい」
家に帰ると、リビングはだいぶ準備が整っていた。
姉貴が中心となって準備を進めている。
「おかえり、洋一」
先に帰っていた愛も、着替えて準備を手伝っている。
「洋ちゃん、用事は済んだの?」
「ああ」
愛が姉貴たちにどういう説明をしたかはわからんが、とりあえず特に追求されそうな雰囲気はなかった。
「美樹は?」
「部屋にいるわよ。まさか主役に手伝ってもらうわけにはいかないでしょ」
「それもそっか」
俺も着替えるために一度部屋に戻った。
着替えて、プレゼントを持ってリビングに戻る。
その頃には、もう俺が手伝うことなんてなにもなくなっていた。
「それ、プレゼント?」
「そうだけど」
「なにを買ってきたの?」
「さあ、なんだったかな」
「別に教えてくれてもいいじゃない。ケチ」
姉貴はそう言ってむくれた。
それから少しして、準備が終わった。
「洋一。美樹を呼んできて」
「了解」
階段を上がり、美樹の部屋へ。
「美樹。入るぞ」
ノックして、ドアを開けた。
中に入ると、美樹は、ベッドに突っ伏してうたた寝していた。
「まったく……」
幸せそうな顔で眠ってる。
だけど、このまま眠らせておくわけにはいかない。
「美樹。起きろ」
肩を揺すり、美樹を起こす。
「ん……ん〜」
うたた寝してただけなので、比較的すぐに目を覚ました。
「あれ、お兄ちゃん?」
「目が覚めたか?」
「あ、うん」
体を起こし、目を擦る。
「そっか、眠っちゃったんだ」
「眠いか?」
「ううん、もう大丈夫」
そう言って微笑む。
「じゃあ、下に行こう。もう準備は終わってるから」
「あ、ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「なんだ?」
「だっこ、してほしいなぁ」
「だっこ?」
「うん。お姫様だっこ」
なにを言うかと思えば、またとんでもないことを。
「ね、いいでしょ?」
「まさか、そのまま下まで行け、とは言わないよな?」
「そこまではね。さすがに階段は危ないし」
まったく、本当にワガママ娘なんだから。
「しょうがない」
美樹をそんな風に抱きかかえるのははじめてじゃない。それを美樹が覚えてるかどうかはわからんけど。
「よ、っと」
美樹は、俺の首に腕をまわし、体を支える。
「これでいいか?」
「うん」
相変わらずこいつは軽いな。
うちは姉貴もそうだけど、食べても太らない体質なんだろうな。
「んじゃ、行くぞ」
「うん」
とりあえず、そのまま部屋を出る。
階段の一番上で美樹を下ろす。
「ありがと、お兄ちゃん」
「別にいいさ」
ま、これくらいなら別に構わないけど。
美樹を連れてリビングに戻り、ようやく誕生パーティーがはじまる。
テーブルの真ん中には、ケーキが鎮座している。
そのケーキは、姉貴が作ったものだ。いつもなら母さんが作るか、父さんがどこかから買ってくるのだが、今年は姉貴が結構前から作ると言っていた。
なんでそんなに気合いが入っているのかは、俺にはわからなかった。
ケーキの出来映えは、見事だった。
お菓子作りは母さんの得意分野だから、当然姉貴もそれを習っている。だからというわけじゃないけど、このできは当然とも言えた。
そのケーキに十四本のロウソクを立てる。
「火を点けるから、消してくれ」
「うん」
俺は、マッチでロウソクに火を点けた。
全部に火が点くと、美樹に合図をする。
「すーっ……ふ〜っ」
美樹は大きく息を吸い込み、一気に吹き消した。
「美樹、誕生日おめでとう」
「おめでとう、美樹ちゃん」
「うん、ありがとう」
ケーキからロウソクを取り、今度は切り分ける。
「美樹には、これをおまけにつけてあげるわ」
姉貴は、ケーキの真ん中に乗っていたイチゴを美樹の分に乗せた。
ケーキが切り分けられ、まずはそれを食べる。
「どう?」
「うん、美味しい」
「そ、よかった」
改めて言うこともないけど、姉貴のケーキは旨かった。
このパーティーは夕食も兼ねているので、料理にも手を付ける。
料理の方は、母さんが作った。姉貴も少しは手伝っただろうけど、ケーキも作っていたわけだから、いつもよりは関わっていないはずだ。
ある程度食事も進んだところで、姉貴が声を上げた。
「じゃあ、そろそろプレゼントを渡しましょ」
「それじゃあ、まずはお父さんと私からね」
まずは、母さんがプレゼントを渡す。
「お父さんが美樹のために選んだものだから、大事に使いなさいね」
「うん、ありがとう」
それは、春物のコートとバッグだった。去年、美樹がホームステイから戻ってきた時もそうだったけど、父さんは美樹にはとことん甘い。
ま、俺も人のことは言えないけど。
「じゃ、次は私。はい、美樹」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「ま、たいしたものじゃないんだけどね」
「開けてもいい?」
「いいわよ」
美樹は、姉貴に確認してからそれを開けた。
「うわ〜」
それは、メイクセットだった。結構ちゃんとしたので、どこがたいしたものじゃないんだ、という感じだった。
「去年あげたのとあわせれば、それなりのものになるでしょ?」
「うん」
姉貴はそこまで計算していたか。このあたりはさすがだ。
「美樹ちゃん」
次は愛だ。
「私のプレゼントなんだけど、今はないの」
「そうなの?」
「あ、別にプレゼントを用意し忘れたわけじゃないの。ちゃんと考えてのことだから。それでね、今度の日曜に私につきあってくれるかな?」
「うん、いいよ」
「ねえ、愛ちゃん。愛ちゃんはなにを美樹に贈ろうと思ってるの?」
姉貴がそう訊ねた。
「えっと、下着です」
「ああ、なるほど。それは本人を連れて行った方がいいわね」
姉貴だけじゃなく、美樹も頷いている。
「美樹ちゃんも、遠慮しないでいいからね」
「うん」
で、残るは俺か。
「最後は俺だな」
俺は、プレゼントを渡した。
「ありがと、お兄ちゃん。開けてもいい?」
「もうおまえのなんだから、好きにしろ」
「うん」
美樹は、嬉々とした表情でそれを開ける。
「あっ、これ……」
出てきたのは、もちろんあの純白のドレスだ。
「また洋一は無茶して……」
母さんはそれを見て呆れ顔だ。
「いいの、お兄ちゃん?」
「いいからもらっとけ」
「うんっ、ありがと」
美樹はそれを自分にあてがう。
「ホント、あんたは美樹がカワイイのね」
姉貴も呆れ気味だ。
「ここまでできるのは、かえって今だけだと思うからさ」
「まあ、それはわかるけどね」
実際、こんな風に誕生日を祝ってやれるのは、いつまでかわからない。それだったら、なんでも素直に受け取ってもらえる間に、こっちもなんでも贈ってやりたい。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「着てみてもいいかな?」
「好きにしろ」
「うん」
美樹は、それを持って一度席を外した。
「洋一。この前そこまでしなくていいと言ったはずでしょ?」
「そうなんだけどさ」
美樹が席を外すと、早速母さんが嘆息混じりにお小言を言ってきた。
「まあまあ、お母さんもそんなに目くじら立てないで」
「別に怒ってるわけじゃないのよ。ただ、いくらカワイイ妹のためだって、そこまでする必要があるのかしらと思ってるだけ」
「洋一はそう思ってるってことよ」
姉貴が俺を弁護してくれる。
「本当にうちは、お父さんといい洋一といい、どうして美樹にはそんなに甘いのかしら」
それを言われると、なにも言えない。
しばらくして、美樹が戻ってきた。
「どうかな?」
それは俺の予想以上だった。
間違いなく美樹には似合うと思っていたけど、まさかここまで似合うとは。
美樹のためにしつらえられたのでは、と思えるほどだ。
「美樹ちゃん、すっごくカワイイ」
「ありがと、愛お姉ちゃん」
「ほら、洋一。なんか言ってあげなさいよ」
美樹も、俺の言葉を待っている。
「まあ、よく似合ってるよ」
「ホント?」
「ああ、本当だって」
「あはっ、よかった」
美樹は、嬉しそうにクルッとまわる。
もともとフリフリのスカートが、ふわっと翻る。
「美樹。嬉しいのはわかったから、少し落ち着きなさい」
「はぁい」
浮かれる美樹を、母さんが軽くたしなめる。
ま、なにはともあれ、喜んでもらえてよかった。
その夜。
片付けまで全部済ませ、ひと息ついたところで美樹の部屋を訪れた。
「美樹。入るぞ」
ノックして中に入る。
「……って、おまえはまたそれ着てるのか」
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「やめろ」
「あうっ」
さっき着替えたはずの美樹が、またあの服を着ていた。しかも、どこで知ったのか血迷ったことまで口走ってるし。
「ううぅ、冗談なのにぃ」
「冗談でもなんでも、そういうことはやめろ」
「はぁい」
美樹は、ヘッドドレスを外しながら、渋々頷いた。
「で、俺に時間をくれって、いったいなんなんだ?」
「あ、うん」
それきり、美樹は黙ってしまった。
ベッドに座り、スカートのレースを指でいじっている。
俺は、美樹が話し出すのを待っている。
「……あのね、お兄ちゃん」
「ん?」
「私がお兄ちゃんのこと、お兄ちゃん以上に見てるのは知ってるよね?」
「ん、まあな」
「じゃあ、私がお兄ちゃんを想って、いつもひとりでしてるの、知ってる?」
「えっ……?」
キュッと唇を噛みしめ、美樹は、はっきりそう言った。
「ちょ、ちょっと待て。おまえ、自分でなにを言ってるか、わかってるのか?」
「わかってるよ。わかってなかったら、こんなこと言えないもん」
「美樹……」
「お兄ちゃんのことを想うとね、体が熱くなってくるの。いつもはそれもなんとかなるんだけど、時々どうしようもなくなって。それで、ひとりでしちゃうの。最初のうちはダメだって思って、やめようとしたんだけど、最近は止められないの」
俯き、ささやくように言う。
「ねえ、お兄ちゃん。私、どうしたらいいの?」
そのまま俺にしがみつき、訴える。
今まで、こんな美樹は見たことなかった。こんなに痛々しい美樹を。
「教えて、お兄ちゃん……」
俺はなにをすればいい? こういう時に、どうすればいい?
どうすれば、いつもの美樹に戻ってくれる?
さあ、考えろ。
考えろ。
「おにいちゃん……」
美樹のことが大事なら、俺はなにをすればいい?
本当に大切に想っているなら、どうすればいい?
「美樹……」
「おにい、ちゃん……ん……」
俺は、美樹を抱きしめ、キスをした。
「ごめんな、美樹。俺が不甲斐ないせいで、おまえにまでそんな想いをさせて」
「ううん、お兄ちゃんは悪くないよ」
「美樹が、俺のことを兄貴以上に見ていたことは、結構前から気付いてた。まあ、結構わかりやすい態度も示してたしな。だけど、俺はそれに気付いてないフリをしてた。それは別に、なんの考えもなしにそうしてたわけじゃない。俺とおまえは、やっぱりどうやっても兄妹だから。おまえがどんなに俺のことが好きでも、それは兄妹間の好きを越えない。いや、越えてはいけない。越えてしまったら、もう兄妹には戻れないから。もちろん、俺もおまえのことは好きだ。昔から純粋に俺のことを想い続けてくれて、いつしかそんなおまえに相応しい兄貴になろうと思ってた。まあ、今、そうなれてるかどうかはわからんけどな」
「大丈夫。お兄ちゃんは世界で一番のお兄ちゃんだよ」
「ありがとう。だけど、俺はひとつだけ間違っていた。俺は、美樹のそんな想いに真っ直ぐに応えてはいけないとずっと考えていた。もしそれをすると、兄妹ではいられなくなるような気がしたからだ。でも、それがそもそも間違ってた。俺が気付かないフリをしていたせいで、おまえはますます俺への想いを募らせるようになり、結果的に、もうどうしようもないところまで来てしまった。もし、もっと早く、それこそおまえがまだ小学生の時にその想いを真っ正面から受け止め、応えていたら、きっと、こんなことにはならなかったはずだ。きっと、今よりもっといい兄妹の関係を築けていたはずだ」
「お兄ちゃん……」
「もっとも、今更後悔しても、遅いんだけどな」
そう言って自嘲する。
「もし、これから先、おまえが俺以外の誰も好きにならなかったら、それは俺の責任だ。その時は、潔くその責任を取るつもりだ」
「責任……?」
「ああ。たとえ俺がどんな状況にあっても、おまえを一生見続けていく。誰も好きにならなくていい。俺だけ想い続けてていい」
俺には、それくらいしかできないから。
「本当に、いいの? お兄ちゃんだけを、好きでいていいの?」
「ああ」
「私、本当にお兄ちゃんから離れないよ? たとえお兄ちゃんがどこへ行っても、私、必ずついていくよ?」
「ああ」
「ううぅ……お兄ちゃ〜んっ」
美樹は、そのまま泣き出してしまった。
「うわ〜ん……」
俺は、そんな美樹の背中を優しく撫でてやる。
泣いている理由はなんとなくわかるけど、それを確かめるつもりはない。
今はただ、この誰よりも大切な妹を、そっとしておいてやりたい。
それだけだ。
いったいどれくらい経っただろうか。
時計を見ていなかったから正確な時間はわからないけど、それなりの時間が流れた気がする。
腕の中の美樹は、泣いて泣いて泣いて、ようやく落ち着いたようだ。
時々しゃくり上げるけど、涙は止まっている。
「落ち着いたか?」
「うん……」
まだ目尻に残っている涙を、指で拭ってやる。
「ごめんね、お兄ちゃん。私、またお兄ちゃんに迷惑かけてる」
「気にするな。それに、今回のことは俺が悪いんだ。おまえが謝る必要なんてない」
「ううん、そんなことない。お兄ちゃんは、なにも悪くない。私が、なにもわかってない子供だから、そのせいでお兄ちゃんに迷惑かけただけだから」
このことを言い続けても、きっと平行線のままだろう。
「なあ、美樹。とりあえず、俺にどうしてほしい? 俺にできることなら、できるだけ応えてやるから言ってみな」
「……本当に、なんでもいいの?」
「ああ。俺にできることならな」
「……じゃあ、これから特になにもない時は、お兄ちゃんと一緒に寝たい」
「わかった。できるだけ一緒に寝よう」
「あと……えっと……一緒に、お風呂に入りたい」
「えっ……?」
「……ダメ?」
いくらなんでもそれはさすがに……
だけど──
「本当にたまにでよければ、いい」
「本当に?」
「俺にできることだからな」
「ん、ありがとう、お兄ちゃん」
美樹は、穏やかに微笑んだ。
「ほかにはないのか?」
「とりあえずは、そのふたつでいいよ。あんまりワガママばかり言うと、今度こそお兄ちゃんに嫌われちゃうから」
「それは無用の心配だと思うけど」
美樹がこの先、本当に誰も好きにならないかは、わからない。
だけど、美樹が俺のことを好きで居続けるうちは、ずっと側にいてやろうと思う。
償いだとは思ってないけど、俺には、それくらいしかできないから。
きっと、このことについては姉貴にあとでいろいろ言われるだろう。それに、姉貴の言い分の方がきっと正しいだろう。でも、これは俺が決めたことだ。もう美樹に今日みたいな想いをさせないために、俺が決めたことだ。
たとえ姉貴でも、俺の決意を覆させることはできない。
「話は、さっきのことだけだったんだよな?」
「あ、うん、そうだよ」
「そっか。なら、今日はもう寝るか?」
俺は、時計を見ながらそう言う。
いつの間にか、結構いい時間になっていた。
「うん。でも、その前にお風呂入らなきゃ」
「そうだな。じゃあ、とりあえずおまえから──」
「一緒に、入ろ」
「…………」
「ね、お兄ちゃん?」
今更あれこれ考えても仕方がないのだが、もう少し上手い方法はなかったんだろうか。
ガキの頃なら兄妹揃って風呂に入ったところで、別にどうということもない。だけど、俺は高二、美樹は中二。子供じゃないとは言わないけど、少なくともなにも知らないガキではない。
それなのに、一緒に風呂に入るなんて、普通はあり得ない。いや、世界中を探せばそういう兄妹もいるだろうけど、少なくとも一般常識的には、あり得ない。
「はあ……」
俺は、湯船に浸かりながらため息をついた。
いくらカワイイ美樹のためとはいえ、ここまでしている俺は、さすがにどうだろうか。客観的に見たら、おかしいだろうな。
こんな姿、誰にも見せられない。
「お兄ちゃん、入るよ」
ドアの向こうから声がかかり、ドアが開いた。
一糸まとわぬ姿となった美樹は、タオルで前を隠しながら、入ってくる。
「やっぱり、少し恥ずかしいね」
そう言いながらも、美樹は微笑んでいた。
掛け湯をして、湯船に入ってくる。
うちの風呂は、普通の家の浴槽より少し大きい。これは、父さんが大きいのにこだわっていたからで、手足がちゃんと伸ばせるくらいじゃないとダメだという考えでこうなっている。
だから、すでに俺が入っていても、美樹が一緒に入るくらいの余裕はあった。
「こうしてお兄ちゃんとお風呂に入るの、いつ以来かな?」
「さあ、たぶん、俺が小学校の時以来じゃないか?」
「もうそんなになるんだっけ。そっか」
あの時はなにも考えずに一緒に入れたが、今は無理だ。
妹ではあっても、その体は普通の女の子と変わりない。
まだまだ発展途上だが、体の凹凸もはっきりしてきている。
意識しないようにすればするほど、意識してしまう。
「ん〜……」
「どうした?」
「えいっ」
「ちょ、ちょっと待て」
美樹は、俺が止める間もなく、俺に体を預けてきた。
「さ、さすがにこれはマズイだろ?」
「どうして?」
「いや、それは……」
美樹は、俺に背中を向け、そのまま寄っかかっている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「私、こんなに成長したんだよ。ほら」
今度は、俺の手を取って、自分の胸に当てる。
さっきは布越しだったからそこまでじゃなかったけど、今は直接だ。
肌のぬくもりも、胸の柔らかさも、直接伝わってくる。
「ねえ、お兄ちゃん。男の人に胸を揉んでもらうと、本当に大きくなるのかな?」
「さ、さあ、それはわからんけど」
「私もお母さんやお姉ちゃんみたいに胸、大きくなるかな?」
「たぶん、なるんじゃないか」
「もし、ならなかったら、お兄ちゃん、揉んでくれる?」
「えっ……?」
「お兄ちゃんになら、なにをされてもいいから……」
そう言って、胸に当てていた手を、下半身へと導く。
だが、触れる直前、俺はそれを拒んだ。
「……お兄ちゃん……ダメ、なの?」
「そこまでする必要があるのか?」
「だって、お兄ちゃんのぬくもりを感じたいんだもん。ずっと、お兄ちゃんだけの美樹でいたいから。お兄ちゃんの、モノになりたい」
「美樹……」
美樹は真剣だった。今まで以上に真剣だった。
「今はまだ、そこまでする必要はないだろ?」
「…………」
「心配なのはわかる。でも、少しくらい俺のことを信用してくれてもいいんじゃないか?」
「……でも」
「今までも、本当に大切なことは、いつも約束を守ってきただろ? 今回のことは、今まで以上に大切なことだと思ってるから、絶対に約束を守る。だから、今はそれはやめような」
俺は、そう言いながら、美樹を後ろから抱きしめた。
「……やっぱり、お兄ちゃんはお兄ちゃんだね」
「そりゃそうだ」
「でも、お兄ちゃん。今はまだ、ってことは、そのうちこの先をしてもいいってこと?」
「さあ、それはわからん。ただ、少なくともおまえが中学の間は、ダメだな」
「じゃあ、高校生になったら、いいの?」
「その時に、俺好みのいい女になってたら、考えよう」
「うん、わかった。私、お兄ちゃん好みのいい女になる。そして、お兄ちゃんに抱いてもらう」
本当にそうなるかはわからないけど、今を切り抜けるためにはちょうどいい約束だろう。
それに、そうでも言わないと、今度は俺の方が我慢できなくなる。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ありがと」
「ああ」
これから先、お互いにどうなるかはわからないけど、たぶん、俺たちの関係だけはずっと変わらないだろうな。
それで美樹が笑顔を見せてくれるなら、安いものだ。
それに、今日は美樹の誕生日だから、プレゼントのひとつだと考えれば納得もできる。
「お兄ちゃん、大好きだよ」
その見返りは、この笑顔だ。
四
二月十三日。
世の中はすっかりバレンタイン一色だ。情報番組ではこぞって今年のイチオシチョコを紹介しているし、ついでにオススメデートコースなんかも紹介してる。
毎年同じような感じなのだが、世の中の女性はこれをどれだけ参考にしてるんだろうな。俺にはさっぱりわからん。
うちは、男女比が偏ってるからバレンタインになるとそれなりに慌ただしくなる。ここ最近は母さんはチョコを作ることはなくなったけど、以前は結構気合い入れて作っていた。まあ、それは父さんのためのものなんだけど、俺もそれのおこぼれにあずかっていた。
姉貴は、実はチョコはほとんど渡していなかった。チョコも作れるほどの腕は持っているのだが、ごく少数の義理チョコだけ持って、毎年渡していた。だけど、今年は違う。今年は材料選びからラッピング素材まで、だいぶ前からこだわっていた。ま、大本命がいるからなんだけど。
過剰な愛情表現になると、和人さんが困る気がするのだが、本人にその自覚はない。
美樹は、姉貴と違って毎年気合いが入っている。去年も、わざわざオーストラリアから送ってきたくらいだ。一応父さんにも渡しているのだが、感じ的にはついでという感じだ。
で、今年は誕生日の一件があったから、ますます気合いが入っている。
うちはこんな感じなのだが、ほかの面々に関しては、今のところ静かだ。嵐の前の静けさ、ということにならなければいいのだが。
バレンタインは明日なので、それはまた明日考えよう。
それより今日は、由美子さんとデートだ。
行き先は温泉。電車で一時間半ほどの場所に、適当な温泉があるらしい。
で、一日を有効に使いたいからということで、待ち合わせは朝八時。それ自体は構わなかったのだが、その時間に出かけることに関しての言い訳が大変だった。
特に姉貴はしつこくて、誤魔化すだけでひと苦労だった。
俺は、待ち合わせの時間より少し早めに家を出た。泊まりではないから、荷物もそれほど持っていない。
実は、この待ち合わせについてもいろいろ問題があった。相手が由美子さんじゃなければ問題はなかったのだが、相手が先生ということで、最善の方法を考えた。
もともと由美子さんは学校まで電車で通ってきている。電車で温泉に向かうことを考えれば、駅での待ち合わせがリスクが一番少ない。だけど、バカ正直に改札口とかで待ち合わせすると、誰に遭遇するかわからない。
そこで考えたのが、電車の時間をあわせることだった。日本の鉄道はとにかく時間に正確だから、時刻表を見て乗る電車さえ決めておけば、車内で一緒になれる。
で、いろいろ考えた末に、その方法を採ることにした。
駅に入ってくるのは、八時二分。由美子さんは、その電車に乗ってくる。
本当はどこか別の駅で待ち合わせした方がいいのだが、今日はとにかく効率的に過ごしたいということで、そうなった。
駅へ着くと、由美子さんに言われた通りの切符を買う。そのくらいの電車賃は俺が払うと言ったのだが、由美子さんはあとで精算すると言って譲らなかった。
改札を抜け、ホームへ出る。
電光掲示板を見ても、電車の遅延情報は出ていない。ということは、ちゃんと時間通りに電車はやって来るということだ。
電車の時間まであと七分。
「なんとか無事に過ごせればいいんだけど……」
あらゆる事態を想定してきたけど、できれば無難に過ごしたい。
もちろん、由美子さんの想いをむげに扱うこともできないけど、唯々諾々と行動しても意味がないのも、また事実だった。
俺にとって由美子さんは、近くて遠い憧れの存在だった。一年の時は、なにかと理由をつけて保健室に出向いた。最初のうち、邪険にこそ扱われなかったけど、けんもほろろという感じだった。それでも俺が自分のことなんかを話し続けていたら、いつの間にか普通に話し相手になってくれるまでになった。
そこからは、由美子さんは学校でのもうひとりの『姉』のような存在になった。確かに憧れてはいたけど、それは所詮憧れでしかないと俺は理解していた。
だからこそ、俺は由美子さんに心を許していた。生徒と先生という関係ではあったけど、少なくとも俺の方はなんでも言えるようになっていた。
だけど、それも二年になって変わることになった。
『まもなく、電車がまいります。白線の内側まで下がってお待ちください』
と、ホームにアナウンスが流れた。
向こうから、電車が入ってくる。
日曜の早い時間なので、それほど乗っていない。
徐々にスピードが落ち、空気圧の甲高い音とともに、ドアが開いた。
予定通りの号車、ドアのところに由美子さんはいた。
それを確かめて電車に乗り込んだ。
「おはようございます、由美子さん」
「おはよう、洋一くん」
挨拶をしているうちに、ドアが閉まった。
すぐに、電車は動き出した。
「とりあえず、座りましょう」
車内はガラガラで、どこにでも座れる状況だった。
由美子さんは、少し大きめのバッグを持ち、オフホワイトのコートに煉瓦色のセーター、紺色のロングスカートという格好だった。
「よく眠れた?」
「ええ、いつも通りです」
「私なんて、柄にもなく楽しみで眠れなかったわ。デートだってはじめてじゃないのに」
そう言って微笑む。
「でも、晴れてよかったわね」
「そうですね。この時期は雨になると寒いですから」
窓の外を見ると、空はどこまでも青く澄んでいた。これだけ天気のいい日は久しぶりだ。
風の当たらない車内にいると、陽差しがとても温かい。
「今日はとにかく、目一杯楽しまないとね」
にこやかな由美子さんにつられて、俺も笑みを浮かべた。
途中の駅で電車を乗り換え、目的地へと向かう。
車内では、本当にとりとめのない話ばかりしていた。話題は様々で、俺のこともあれば由美子さんのこともある。だけど、基本的にはそのどちらにも関係ないような話ばかりだった。
俺も楽しかったけど、由美子さんはいつも以上に楽しそうだった。心境を考えれば当然のことかもしれないけど。
電車は、定刻通りに到着した。
「ん〜、やっと着いた」
電車を降り、駅を出る。
そこは、都心まで二時間という場所ながら、田舎と形容するのに十分な場所だった。
駅前にも高い建物などなく、のんびりとした空気が漂っている。
「ここから遠いんですか?」
「ううん。歩いて十五分くらい」
温泉の場所は由美子さんしか知らないので、俺はついていくだけ。
「ねえ、洋一くん」
「なんですか?」
「恋人っぽいこと、してもいい?」
「恋人っぽいこと、ですか?」
「うん。こういうこと」
言うや否や、由美子さんは俺の腕を取り、自分の腕を絡めてきた。
「洋一くんも、こうやって歩いたことはあるでしょ?」
「まあ、ありますけど」
「実を言うとね、私はあまりないの」
「そうなんですか?」
「まったくないわけじゃないんだけど、そういうのを嫌がる人だったから」
まあ、そう言う人はいるだろう。俺だって、最初はかなり抵抗があった。今でこそ感覚が麻痺して普通になってしまったけど。
「洋一くんが、こういうのを嫌がる人じゃなくてよかった」
そう言って由美子さんは嬉しそうに微笑んだ。
駅から少し歩くと、小さいながら温泉街に入った。
入り口にある案内板を見ると、温泉宿は全部で五軒あるようだ。
「私たちが行くのは、ここよ」
由美子さんは、その中のひとつを指さして説明してくれた。
宿の名前は『緑風荘』。温泉街と同じだけの歴史があるらしい。
温泉街を歩いていくと、温泉の独特の匂いが鼻をつく。
時期も時期なので、あまり人の姿は見られない。
まあ、よほどの温泉街でもない限り、このご時世ではこんなものだろう。
少し歩くと、目的の宿が見えた。
木造の古い建物で、趣のある宿だった。
見た目はそれほど大きくはないが、奥の方が見えないのでなんとも言えない。
こういう老舗の宿は、基本的には泊まり客しか相手にしていなかったのだが、今の世の中それだけでは生き残れない。俺たちみたいに、日帰りで温泉に入りたいという人もいる。
そういうニーズに応え、日帰り温泉プランを用意していた。
ただ温泉に入るだけのコース、泊まり客で満室じゃなければ部屋も利用できるコース、そのコースに昼食をつけたコースの三つである。
俺たちは、その三番目のコースを選んだ。
宿の人に案内され部屋に向かう。
部屋は、離れにあった。
どうやら、昼食付きのコースだと、この部屋をあてがわれるらしい。
部屋は離れにあるおかげで広かった。
窓の外には、山が見える。
「洋一くん。お風呂があるわ」
由美子さんに呼ばれて行ってみると、確かにこの部屋専用の風呂がついていた。
この風呂も当然温泉を引いていて、お湯が常に出ていた。
「この温泉街はね、隠れ家的温泉街なの」
「そうなんですか?」
「都心からも結構近いでしょ? だけど、特別有名なわけでもないし、静かに過ごしたい時にはもってこいの温泉なのよ」
「なるほど」
「だからこそ、こういう離れもあるのよ。離れの方が、より静かに過ごせるから」
確かにそうだろう。
「離れがあるのは知ってたけど、まさかお風呂まであるとはね」
由美子さんは、嬉しそうだった。
とりあえず俺たちは、荷物を置いて足を伸ばした。
「はい、洋一くん」
「あっ、すみません」
俺の前にお茶が置かれる。
「いいわね、こういうのんびりした雰囲気」
「そうですね」
「今週は受験もあったし、もうすぐ学年末テストもあるし、しかも三年生は受験で忙しいし。あれこれあるから、こんなにのんびりできるのは久しぶりかも」
保健教師であっても、教師のひとりであるから、あれこれやることは多いのだろう。そのあたりのことは俺にはわからないけど、大変なのはわかる。
「しかも、洋一くんと一緒だし」
テーブルに頬杖をつき、由美子さんはにこやかにそう言う。
「少し休んだら、大きい方のお風呂に入りましょうか」
「はい」
大浴場は、二十四時間入浴可能だった。
懸念していたような混浴ということはなく、ちゃんと男女別だった。
浴槽は石造りで、結構大きかった。誰もいなければ泳げそうなくらいだ。
あいにくと露天風呂はなかったけど、その分大きな窓があり、外の景色を堪能できた。
お昼前にも関わらず、風呂には俺以外にも何人かいた。
泊まり客なのか日帰り客なのかはわからなかったけど、ゆったりとお湯に浸かっていた。
「ふう……」
俺もお湯に浸かり、手足を伸ばす。
温泉は久しぶりだったから、すごく気持ちいい。
温泉の効能はちゃんと見ていないから覚えてないけど、確か、疲労回復とかいうのもあったはずだ。のんびりお湯に浸かっていれば、疲れも取れるということだ。
そういうことも考えると、隠れ家というのも頷ける。
お湯は少しぬるめで、ゆっくりと浸かるにはちょうどいい感じだった。
本当に疲れてる時にお湯に浸かっていたら、寝てしまうかもしれない。
体の芯まで温まったところで、風呂から上がる。
温泉が目的で来たわけだけど、ずっとお湯に浸かってるわけにもいかない。
脱衣所で部屋から持ってきた浴衣に着替える。
洋服のままでもよかったのだが、温泉といえばやっぱり浴衣である。せっかく用意してあるのだから、着ない手はない。
風呂場を出て、入り口のところでしばし待つ。
だけど、由美子さんが出てくる気配はない。
しょうがないから、途中にあるラウンジで待ってることにした。
椅子に座り、息を吐くと、なんとなく体が軽くなってる気がした。
そんなにすぐに効果が出るわけじゃないけど、そんな気にさせる雰囲気だ。
この温泉街も静かなのだが、宿自体も静かなので、とても落ち着く。
少しして、由美子さんも出てきた。
「お待たせ」
風呂上がりだから当然なのだが、肌がほんのり赤く染まり、とても色っぽかった。
「男湯の方は、どうだった?」
「思ってたよりも広くてよかったですよ」
「女湯の方もね、大きくてよかったわ」
「やっぱり、大きな風呂に入るのは、気持ちいいですね」
「それが温泉の醍醐味よ」
部屋に戻りながら、そんな話をする。
部屋に戻ってしばらくすると、昼食が運ばれてきた。
地元の食材を使った料理らしく、とても美味しそうだった。
風呂に入って空腹になっていたので、それはあっという間に平らげてしまった。
「ふふっ、すごい食べっぷりね」
「腹も減ってましたし、それに、旨かったですから」
食器を部屋の外に出しておき、あとはのんびり過ごす。
「ねえ、洋一くん」
「なんですか?」
「ちょっと」
由美子さんは、俺を手招きで呼ぶ。
「はい、ここに横になって」
そう言って自分の膝を指さす。
それはつまり、膝枕ということだろうか。
「えっと、でも……」
「遠慮しないの。ほら」
「はい」
俺は、言われるまま横になった。
浴衣の薄い布地越しに、由美子さんの柔らかな股の感触が伝わってくる。
「こうして、本当にふたりきりでいると、恋人同士みたいね」
由美子さんは、俺の髪を撫でながら穏やかに言う。
「そういえば、洋一くんには話したことあったかしら」
「なにをですか?」
「ん、私が以前につきあっていた人の話」
「いえ、聞いたことありません」
「そっか。話してなかったか。あ、でも、最初の人のことは話してるわよね?」
「ええ」
「じゃあ、少しだけ、その人のこと話そうかしら」
なんで由美子さんがその人のことを話そうと思ったのかは、わからない。
ただ、なんとなく俺には隠し事はなくしておきたいのではないか。そう思えた。
「最初の別れから私はずっと臆病になっていたんだけど、ある時、そんな私ですらつきあってみてもいいかなって思える人に出会えたの。ちょっとぶっきらぼうで、でも、笑うと子供みたいに無邪気で。いつの間にか、私はその人のことを好きになって、いつしかつきあうようになったわ。最初の失敗が尾を引いていたから、なかなか積極的にはなれなかったけどね」
由美子さんは目を閉じ、当時を思い出しながら話している。
「デートらしいデートも、その人とが最初。手を繋いだり、腕を組んだりというのは嫌いな人だったから、そういうのはなかなかできなかったけどね。楽しかった。純粋に楽しかった。この人となら、前みたいなことにはならない。本気でそう思ってた。だから、その人が私を求めてきた時も、それに応えた」
「…………」
「でもね、結局私たちは別れた。最終的にお互いに求めてるものが違ったのよ。だから、お互いにもっといい相手を見つけましょう、って言ってね」
「その人とは、今でも話したりしてるんですか?」
「うん。本当にたまにだけどね。今では、いい友人よ。あ、ちなみに、その人にはもう奥さんもいるから」
それを聞いて、俺は少しホッとした。
「それからは私は誰ともつきあってないわ。仕事が楽しくなったというのもあるんだけど、急いで誰かとつきあう必要はないと思ったから。でも、そのおかげで、こうして洋一くんに出逢えた。本当に世の中ってなにがあるかわからないわね」
「確かに」
俺だって、まさか由美子さんとこんな風にデートするなんて思ってもみなかった。
「今度は、洋一くんの番」
「はい?」
「だから、今度は洋一くんが話すの」
「話すって、俺にはそういう話、ないですよ」
「全然?」
「全然」
「まったく?」
「まったく」
「…………」
「…………」
いや、じっと見つめられても困るのだが。
「じゃあ、洋一くんが好きになった人って、森川さんしかいなかったの?」
「そういうわけでもないですけど、でも、それに近いですね」
「一途なのね」
確かに一途と言われれば、そうかもしれない。でも、複雑な心境だ。
「ひょっとして、森川さんが洋一くんの初恋の相手?」
「いえ、違います」
「そうなの? じゃあ、それって誰なの?」
これは言っても構わないか。
「姉貴です」
「美香さん? ふ〜ん、なるほど。そういうのって、あるのね。話には聞いたことあるけど。でも、それって小さい頃の話よね?」
「そうですよ」
「じゃあ、そういうこともあるわね」
うちは三つずつ年が離れてるから、そういうのも理解してもらいやすいのかもしれない。
子供の頃の三歳は、大人の三歳とは比べものにならないくらいの違いがある。
「そっか、美香さんが初恋の人なんだ」
由美子さんは、なるほどと頷いている。
「洋一くんと美香さんて、今時珍しいくらいに仲が良いわよね」
「そうですね、俺もそう思います」
「なにか特別な理由、あるの?」
「さあ、別になにもないと思いますけど。ただ、そうですね、うちは父さんが家を空けがちなので、男は俺ひとりだったんですよ。姉貴にとって俺は弟なんですけど、でも、父さんの代わりの男でもあったんだと思います」
「なるほど」
「あと、俺も姉貴も、お互いのことを理解してましたから。たとえば、ちょっと言い争いになってもそれが本気か冗談か、すぐにわかるんです。冗談ならその場限りですけど、本気の時でも、とっくみあいの喧嘩には発展しません。そのあたりは、妙に『大人』だったと思います」
今でもそれに変わりはないけど。
「もうひとつは、母さんに迷惑をかけないため、というのもあったと思います。父さんがいない時は、母さんが俺たち姉弟のことを見ていましたから」
「なんとなくね、洋一くんが今のように成長した理由がわかった気がするわ」
「そうですか?」
「まあ、自分のことだから、洋一くんはわからないと思うけど」
そう言って微笑む。
「今の洋一くんの性格を形作っているのは、美香さんの洋一くんに対する愛情と、洋一くんの美香さんに対する愛情、それに、ご両親に対する信頼ね。あ、そういえば、妹さんもいたんだっけ?」
「ええ、います。この春に中三になります」
「じゃあ、それもあるわね。美香さんから受けてきた愛情を、今度は妹さんに分けてあげて。だから洋一くんは、大切なところで人を思いやれるのよ」
そう言われて悪い気はしないけど、少し、買いかぶりすぎなような気がする。
「洋一くんのことが好きな子たちは、みんな洋一くんのそういうところを見ているから好きになったのよ。ただ優しいだけの人は、どこか信じられないけど、でも、洋一くんのような優しさを持ってる人は、信じられる。それは、人を好きになる上で大事なことだと私は思うわ」
由美子さんはそう言うけど、それは由美子さんが俺のことを好きだからなのではないだろうか。もう少し客観的に見たら、多少違う意見が出るような気がする。
「もっとも、今の私の言葉には、あまり説得力もないと思うわ。だって、私はすでに洋一くんのことが好きなんだから。どうしても洋一くん寄りの考えを持ってしまうから」
ちゃんとわかってた。
「本当はこんなことじゃダメなんだけどね」
「今は、いいんじゃないですか?」
「えっ……?」
「今は、由美子さんは先生じゃないんですから。由美子先生と呼ばれてる時は、確かにそれじゃあマズイと思いますけど、今は、違いますから」
「洋一くん……」
由美子さんは、潤んだ瞳で俺を見つめる。
「由美子さん……」
そんな由美子さんの頬に手を伸ばし、そっと撫でる。
「好きよ、洋一くん……」
そして、そのままキスを交わした。
暖かい。
とても、安らげる。
フワフワと、気持ちいい。
こういうの、いつ以来だったっけ?
あれは、そう、確か、ガキの頃、母さんに寝かせてもらってる時だ。
頭を撫でられ、子守歌を歌ってもらって。
それと、同じなんだ。
「……ん……」
そんな感覚から、急速に現実が戻ってくる。
「起きた?」
目を開けると、由美子さんの穏やかな顔が見えた。
「……あれ、俺……」
「よく眠っていたわ」
「あ、じゃあ、ずっと……?」
「洋一くんのカワイイ寝顔を見られて、得した気分よ」
どうやら、膝枕をしてもらっていたせいで、眠ってしまったようだ。
さっきの心地良さは、由美子さんが俺の髪を撫でてくれていたからだろう。
「あ、すみません」
俺は慌てて体を起こした。
「足、つらくなかったですか?」
「大丈夫よ。むしろ、重みがちょうどいい感じだったくらい」
「それならいいんですけど」
それを確かめ、俺は大きく伸びをした。
外の様子を見ると、それなりに眠っていたようだ。
「ここって、四時まででしたよね?」
「ええ、そうよ。だから、あと二時間弱」
とすると、一時間くらいは眠っていたようだ。
「洋一くん。最後に、もう一度温泉に入らない?」
「そうですね。もう一回入りましょうか」
「それじゃあ、一緒に入りましょう」
「えっ……?」
「せっかくこの部屋にはお風呂がついてるんだから、利用しない手はないでしょ?」
「い、いや、そうかもしれませんけど、でも、さすがに一緒には……」
それはさすがにマズイ。
先日、美樹と一緒に入った時だって結構ヤバかったのに、これが由美子さんだったらまず間違いなく、理性が保たない。
「ほら、ぐずぐずしてると、時間がなくなるわよ」
由美子さんは、有無を言わさず俺を風呂へと引っ張る。
だけど、本当によく見ていると、由美子さんも少し照れているのがわかった。
「あの、由美子さん。本当に一緒に入るんですか?」
「そうよ」
即答されてしまった。
「ほら、浴衣を脱いで」
「わ、わかりましたから、自分で脱ぎます」
俺は、渋々浴衣を脱いだ。
由美子さんも、一緒に浴衣を脱いでいる。
狭い脱衣所にふたりもいると、ますます狭い。
それでも由美子さんは、そういうことを気にしていない様子で、下着に手をかけた。
わずかな逡巡の後、由美子さんは、ブラジャーを外し、ショーツを脱いだ。
今、俺の目の前には、あの憧れの由美子『先生』の一糸まとわぬ姿がある。
それは現実なのだが、現実感に乏しい光景だった。
「ほら、洋一くんも」
「あ、はい」
言われるまま、俺もトランクスを脱いだ。
「それじゃあ、入りましょう」
ドアを開けて、浴室へ。
手を入れて熱さを確かめる。同じ温泉を使っているので、こっちもぬるめだった。
俺も由美子さんも、掛け湯をしてお湯に浸かった。
「ふう……」
薄い湯気の向こうに、由美子さんの姿がある。
そう思っただけで、俺の方は意識してしまう。
「洋一くん」
「は、はい」
「そんなに固くならないで」
そう言いながら、由美子さんは俺に近づいてくる。
「ねえ、洋一くん」
「な、なんですか?」
「もうほかの人に抱かれてる私を、洋一くんは抱ける?」
「それは……」
まさか、そんな質問が来るとは思わなかった。
「もし、抱けないなら、それはそれでいいの。でも、もし抱けるなら、抱いてほしい」
「由美子さん……」
「もう、教師と生徒なんてこと、どうでもいい。私は、ひとりの女として、好きな男性に抱いてもらう。それだけなの」
あの日、俺たちは一歩を踏み出してしまった。それはもう、戻れない一歩だった。
だから、遅かれ早かれこうなるのは、当然だったのかもしれない。
「洋一くん……」
「……由美子さんが、前に誰に抱かれたかなんて、そんなの関係ありません。今、俺の目の前にいる女性は、とても魅力的で、すぐにでも抱きしめ、抱いて、俺のモノにしてしまいたいくらいです」
「じゃあ、お願い。抱いて」
由美子さんは言いながら、俺に体を預けてきた。
「由美子さん……」
「ん……」
俺は、そのままキスをした。
「触ってもいいですか?」
「うん」
許可を得て、まずは胸に触る。
由美子さんの胸は、俺の手には収まりきらないほど大きかった。
「あ、ん……」
俺自身は胸の大きさは気にしないけど、これはこれでいいかもしれない。
お湯の中なので多少抵抗はあるけど、その柔らかさは十分堪能できた。
「ん、洋一くんのも、触るわね」
そう言って由美子さんは、俺のモノに触れてきた。
俺のモノは、由美子さんを意識しているせいですでに大きくなっていた。
「洋一くんの、硬いわ……」
ゆっくりとモノをしごく。
「由美子さんのも、もうこんなになってますよ」
「ひゃん」
俺は、硬く凝ってきた乳首を指でこねた。
由美子さんはそれに敏感に反応する。
「敏感ですね」
「だって、もうずっとしてなかったから」
「じゃあ、もっとじっくりとした方がいいですか?」
「ん、洋一くんの好きなようにしていいわよ。私は、どんなことをされてもなにも言わないから」
うわ、ヤバイ。由美子さんがめちゃくちゃカワイイ。
このままじゃ、俺は由美子さんから抜け出せなくなりそうだ。
でも、その誘惑には勝てそうにはない。
「由美子さん。そこに座ってもらえますか?」
「ええ」
由美子さんは、俺の言う通りにしてくれる。
「足を開いてください」
「うん」
俺の目の前に、由美子さんの秘所は露わになる。
「すごく綺麗ですよ」
「ありがと」
由美子さんの秘所は、本当に綺麗だった。すでに経験済みとは思えないほどで、本当にずっとしていなかったのだろう。
俺は、まずは指を挿れてみた。
「んっ」
つぷっという感じで指が入る。
由美子さんの中は、お湯に浸かっていたせいもあるだろうけど、すでに熱く、濡れていた。
「あっ、んんっ」
由美子さんは、体をのけぞらせ、嬌声を上げた。
「もうこんなになってますよ」
「いや、言わないで……」
可愛くイヤイヤする。
これで俺よりも約十歳ほど年上だというのだから、女性はわからない。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、さらに秘所をいじる。
「あっ、んっ、やっ」
ちゅくちゅくと湿った音が耳に届く。
俺の指は、とめどなくあふれてくる蜜でしとどに濡れている。
もう十分だとは思うけど、久しぶりだということを考え、もう少しだけいじることにした。
指を抜き、秘所に顔を近づける。
「え、あ、そ、そんな──んんっ」
指で秘所を押し広げ、敏感な突起に舌をはわせた。
舌先で突起を転がす。
「だ、ダメっ……そんなにされると、んんっ」
体に力が入り、イキそうなのがわかる。
だけど、俺はそのタイミングで舐めるのをやめた。
「はあ……洋一くん……?」
陶酔した表情で俺を見つめる。
もう少しでイケたのに、という感じで拗ねているようにも見える。
「……洋一くんて、ひょっとしていぢわる?」
「さあ、それはどうでしょうかね」
「……やっぱり、いぢわる」
プイと拗ねる。
そういう仕草もカワイイ。
思わず抱きしめたくなる衝動をなんとか抑え、再び秘所に舌をはわせる。
「あんっ、そんな、いきなり」
舌先を秘所の中に挿れる。
「んんっ」
あふれてくる蜜で口元が濡れるが、そんなの気にする必要もない。
アイスキャンディーでも舐めるように、舌を動かす。
「やんっ、洋一くんの舌が……んんっ、中に入って……あんっ」
少しの間それを繰り返し、ようやく顔を離す。
「はあ、はあ……」
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。それより、ね?」
「わかりました」
俺は由美子さんを抱き起こし、一度キスをした。
「あ、ねえ、洋一くん」
「なんですか?」
「私が上でもいいかしら?」
「それはいいですけど」
「じゃあ、洋一くんは、そこに座って」
言われるまま、浴槽の縁に座る。
その上に由美子さんはまたがり、そのまま腰を落とす。
「んっ……」
俺のモノが、由美子さんの中に入っていく。
「あ……ん、ああっ」
奥まで入りきると、由美子さんは大きく息を吐いた。
「洋一くんの、大きいわ。奥まで届いてる」
俺のが大きいかどうかはわからないけど、そう言われて悪い気はしない。
「こうして洋一くんとひとつになれて、すごく嬉しい」
「俺も、憧れの由美子さんとひとつになれて、嬉しいです」
「ふふっ、お互い様か」
「そうですね」
由美子さんに対して邪な想いはずっと持っていたけど、それがこうして現実のものとなるとは、本当に思わなかった。
「じゃあ、動くわね」
「はい」
由美子さんは、俺の肩に手を乗せ、腰を浮かせる。
「んっ、あっ」
適当なところまで腰を浮かせ、また落とす。
由美子さんの中は、狭く、熱かった。俺のモノを締め付け、緩慢な動きでも十分すぎるほどの快感を得られた。
「んっ、んっ、あっ、あっ」
少しずつ、動きも速くなってくる。
「洋一くんも、動いて」
そう言われて、俺も腰を突き上げた。
「ああっ、いいっ、いいのっ」
由美子さんの嬌声がよりいっそう大きくなる。
「やっ、んっ、ダメっ、止まらないっ」
「由美子さんっ」
俺は腰を突き上げながら、胸もいじった。
少し強めに揉みながら、乳首もいじる。
「すごいっ、こんなのはじめてっ」
俺も由美子さんも、もう止められなかった。
「んんっ、あっ、私っ」
「俺もそろそろ」
「一緒にっ、一緒にイッてっ、あんっ」
むさぼるようにキスを交わす。
「ん……あっ、んん……」
その間でも動きは止まらない。
「あっ、ダメっ、イクっ、イッちゃうっ」
「由美子さんっ」
「んんっ、あああっ」
そして──
「くっ」
俺は、由美子さんの中に精液を放っていた。
「ああぁ……洋一くんの、いっぱい出てる……」
由美子さんは俺にしがみつきながら、そう言う。
「洋一くん……」
「由美子さん……」
俺は、繋がったままキスを交わした。
それから俺たちは時間ギリギリまでセックスしていた。
数年ぶりの由美子さんは、体の火照りが収まらず、俺も、そんな由美子さんを何度も求めた。
お互いに精も根も尽き果て、のろのろと体を洗い、風呂場を出る。
時計を確かめると、時間までもうそれほどなかった。
「すごく、名残惜しいわ」
まだ上気した表情で、由美子さんはそう言った。
服を着て、荷物をまとめ、部屋を出る。
精算を済ませ、旅館をあとにしたのは、本当にギリギリの時間だった。まあ、多少遅くなってもあの部屋を使うお客がいなければ特になにも言われなかっただろうけど。
旅館を出てからも、由美子さんは俺にべったりだった。
腕を取ってというよりは、ぴったりくっついて離れない感じだ。
「あの、由美子さん。今更なんですけど、その、中に出しちゃってすみませんでした」
「ううん、気にしないで。たぶん、大丈夫だから。それにもし、万が一ということになっても、私は後悔しないし」
そう言って微笑んでくれる。
いつもなら中出しは気をつけているのだが、今日はそんなこと頭の片隅にもなかった。
どうやら、それほどまでに俺の感覚は麻痺していたようだ。少し落ち着いて、改めてそれを思い出し、さすがに焦った。
「でも、洋一くん」
「なんですか?」
「洋一くんて、ずいぶん慣れてるのね」
「なにがですか?」
「ん、エッチ」
意味深な笑みを浮かべる。
「最初こそ私がリードしてたけど、あとはもう洋一くんに任せきりだったから」
「そうでしたっけ?」
「別にそれが悪いってわけじゃないのよ。私も久しぶりだったから、その方が安心できたし」
微妙に非難されてる気もするのだが、それは言わないでおこう。
温泉街を抜け、駅まで戻ってくる。
「次の電車は……二十分後ね」
時刻表を確認すると、次まで結構時間があった。
「どうする?」
「そうですね」
とはいえ、駅前には時間をつぶせるような場所はない。
「とりあえず、ホームで待ってましょう」
切符を買い、ホームに出る。
上りホームに備え付けられたベンチに揃って座る。
「これからの私と洋一くんの関係って、どうなるのかしら?」
由美子さんは、前を向いたまま、静かに問いかけた。
「俺としては、少なくとも学校では今まで通りでいたいと思ってます」
「私もそうしたいけど、でもね、洋一くんの姿を見て、声を聞いたら、きっと我慢できなくなる。その時私は、教師じゃなく、ひとりの女になってしまう」
「それでも、俺は由美子さんとの繋がりをなくしたくありません。だから、あえて俺は学校ではひとりの生徒であり続けたいと思います」
それは、俺の保身のためじゃない。俺たちの関係が知られてしまえば、もう会うこともかなわなくなるかもしれない。それだけは、絶対にイヤだった。
だからこそ、つらいかもしれないけど、それを選択するしかないのだ。
「……洋一くんは、強いのね」
「そんなことはありません。俺だって、由美子さんの姿を見て、声を聞いたら、抱きしめ、キスをしたくなると思います。でも、その気持ちを抑えておかなければ、一緒にいられませんから。同じつらいことなら、それを多少は紛らわすことができる方を選びたいと思います」
「洋一くん……」
俺は、由美子さんの肩を抱く。
「でも、洋一くんには森川さんがいるのよ。それでも私にそう言ってくれるの?」
「それは……」
愛は、確かに大切な存在だ。どうしてもどちらかを選ばなければならないと言われれば、愛を選ぶだろう。
だけど、俺はそんな選択をしなくていい方法を見つけたい。
愛が今回のことを理解してくれるとは思わない。たぶん、沙耶加の時よりも激しく動揺し、怒るだろう。だから、俺は由美子さんのことは話さない。
もし俺と愛が一緒になっていたら、それは不倫と呼べただろう。だけど、俺は、愛に対しても由美子さんに対しても、本気なのだ。
もちろん、どんな理由をつけてみたところで、愛にとっては言い訳にしかならないのもわかってる。
それでも、俺はこの年上の健気でカワイイ人を、放ってはおけない。
「……由美子さん」
「うん?」
「もし、ですよ。もし、俺と愛が一緒になって、それでもなお俺が由美子さんとの関係を続けたいと言ったら、どうしますか?」
「それは、不倫の申し出、ということ?」
「そうなりますね」
「そんなの、決まってるわ。私はね、今回のデートの前に、もう決めていたの」
そう言いながら、手をギュッと握り締める。
「もう二度と自分の想いにウソはつかない、って。私はあと何年生きられるかわからないけど、残りの人生の中で、洋一くんほどの男性に出逢える確率は、かなり低いと思うわ。もし、ここで私が大人の意見を言って、元の関係に戻してしまったら、私は間違いなく後悔する。せっかく、私が生涯を捧げられる人に出逢えたのに、それを意味のないものにしてしまったら、絶対に後悔する。それだけは、したくないから」
「…………」
「それに、同時に私は理解してた。どうやっても、森川さんには勝てないって。だから、大どんでん返しがあるなんて全然考えてない。私も、そこまで愚かじゃないわ」
静かな、抑揚のない声で続ける。
「それでも、私は洋一くんの側にいたい。洋一くんの側にいて、少しでもいいからそのぬくもりを感じていたい。そのためなら、たとえ不倫という関係になっても構わない。そう決めていたの」
それは、薄々感じていたことだった。
デートの約束をした時も、俺に抱いてほしいと言った時も、本当にわずかながら、悲壮な決意が見て取れたから。
だからこそ、俺は由美子さんの想いに応えたのだ。どんな困難な状況になったとしても、この人だけは絶対に見捨ててはいけない。そう思ったから。
それは俺の驕りかもしれないけど、本心でもある。
「だからね、洋一くん。私は、将来洋一くんが誰と一緒になっても、それに口を出すことはない。でも、洋一くんの側を離れるつもりもない。これが、私の決意」
由美子さんは、悲壮な言葉とは裏腹に、清々しい笑顔でそう言った。
それはきっと、自分の想いに本当に素直になれた充実感の表れなのだろう。
「わかりました。もうこのことは、二度と聞きません。それで、いいですよね?」
「ええ、いいわ。まあ、聞かれたところで、答えは同じだから」
由美子さんがそこまで決意しているのなら、俺も腹をくくらなければならない。
「ふふっ」
「どうかしましたか?」
「これから先、どうなるのかなって思ったら、意外に楽しいことしか思い浮かばなくて。私も現金だなって思ってたところ。きっと、現実はそんなに楽しくはないと思うけどね」
「そうですね」
「ねえ、もし森川さんに私たちのことがバレたら、どうするの?」
「その時は、洗いざらいすべてを話しますよ。変に言い訳するよりは、よっぽどましだと思いますし」
「そうね。でも、その結果、二進も三進もいかない状況になったら?」
「それは……その時に考えます」
「それでいいの?」
「今、あれこれ考えてもしょうがないですから。それに、由美子さんの前で言うのもなんですけど、俺は、本当に愛のことが好きですから。由美子さんに向ける想いを差し引いても余りあるくらい、あいつを愛し続けていきます」
「……羨ましいわ」
それにはなにも言わない。
と、ホームにアナウンスが流れた。どうやら電車が来るようだ。
「由美子さん。帰りましょう」
「ええ、そうね」
俺は、由美子さんの手を取って立ち上がらせた。
すぐに、電車が入ってきた。
電車は、来る時よりは多少人が乗っていたけど、それでもガラガラだった。
ドアが閉まり、電車が発車する。
俺は、由美子さんの手を握ったまま、心地良い電車のリズムに身を委ねた。
来る時にも電車を乗り換えた駅で、また電車を乗り換えるために降りた。
だけど、俺たちはすぐには次の電車には乗らなかった。
もう少しだけ、一緒にいたかったからだ。
「そういえば、明日はバレンタインね。洋一くんは、今年はいったい何個のチョコをもらうのかしら?」
「さあ、わかりません。それに、そういうのは数をもらったところで困るだけですから」
「確かにね。女の子にしてみれば、渡せた、という自己満足を得るための儀式みたいなものだから。でも、中には本気な子もいるから」
「それを見分けるのが、難しいという話もありますけど」
「ふふっ、そうかもしれないわね」
由美子さんは、穏やかに微笑む。
「ところで、私も洋一くんにチョコを渡そうと思ってるんだけど、受け取ってくれる?」
「もちろんですよ。由美子さんからのチョコなら、何個でも受け取ります」
「そんなこと言ってると、本当にたくさんのチョコを渡すわよ?」
「えっと、できれば常識の範囲内で」
そう言って俺たちは笑う。
「ねえ、洋一くん」
不意に、声の調子が変わった。
「はい」
「今度は、私の部屋に来て。今日の温泉ほどのんびりできるかどうかはわからないけど、でも、人目を避けてデートするよりはのんびりできると思うから」
「そうですね。是非、伺います」
「ええ、約束よ?」
「はい」
俺たちは、子供みたいに指切りした。
「それじゃあ、次の電車で帰りましょうか」
「はい」
これから先どうなるかはわからないけど、とりあえず今は、由美子さんのことだけ考えていよう。
そうすればきっと、由美子さんの笑顔が曇ることはないだろうから。