恋愛行進曲
 
第十五章 それぞれの想い
 
 一
 三日の日は、ぐ〜たらして過ごした。
 元旦、二日といろいろあったせいもあるけど、寝正月も必要だと思ったからだ。
 いつもはうるさい姉貴は、和人さんの実家から帰ってきてからずっとご機嫌で、変な感じだった。おおかた、和人さんのご両親にますます気に入られ、調子に乗ってるだけだと思うけど。
 美樹は、微妙に俺に構ってほしそうだったけど、なにも言ってこなかった。
 そして、四日。
 朝からこれでもかというほど天気がよく、二日に積もった雪もだいぶ消えそうだった。
 朝食を食べ、出かける準備をしていると、姉貴がやって来た。
「今日は、沙耶加ちゃんとデートだっけ?」
「ああ、そうだけど」
「愛ちゃんは、なにも言わなかったの?」
「いや、言われたよ」
「それでも行くの?」
「それが愛と沙耶加ちゃんが決めたことだから」
「どういうこと?」
 状況を飲み込めてない姉貴は、首を傾げた。
 俺は、この前のことをごくごく簡単に説明してやった。
「なるほどねぇ。愛ちゃんにとっては、それが最大限の譲歩なわけか。本当は沙耶加ちゃんのことはすっぱり切ってほしいんだけど、洋一の性格上、それは無理だとわかってる。だから、もう少しだけどうなるか様子を見る。しかも、沙耶加ちゃんを『恋人』として扱ってね。沙耶加ちゃんにとってはかなりつらい三ヶ月になるだろうけど」
 姉貴は、その説明だけで今回の真意をつかんだ。こういう頭の回転の速さは、さすがだと思う。
「でもまあ、とりあえずはそういうことで落ち着いたのよね?」
「うん」
「じゃあ、ふたりのことはあんたに任せていいのね?」
「ああ」
「その言葉、信じるわよ」
 今は信じてもらうしかない。俺自身だってどうなるかわからないんだ。
 もちろん、俺にできることならなんでもやる。義務感でやるわけじゃないけど、それに近いものはある。
 理由はどうあれ、俺は愛と沙耶加ちゃんをこの手に抱いたのだから。
「それとは別の話なんだけど、なんか面白いことになってるらしいわね」
「面白いこと?」
 マフラーを巻き、コートを着ながら聞き返した。
「美樹と、真琴ちゃん」
「……ああ」
「昨日、美樹に愚痴混じりにいろいろ聞かされてね。お兄ちゃんが真琴さんにまで手を出したって」
「…………」
「まさかとは思うんだけど、真琴ちゃんとはなにもしてないわよね?」
「当たり前だろ」
「それならいいんだけど、これ以上ややこしいことになったら、愛ちゃん、発狂するわよ。冗談抜きで」
 そうだろうな。この前だってその一歩手前だったんだ。
「でも、ホントにあんたはモテるわね。ほかにあんたに告白した人、いる?」
「……いや」
「なによ、その微妙な間は。いるんでしょ?」
「いないって」
「ふ〜ん。じゃあ、私の情報網を使って調べてみましょうか?」
「なんだよ、その『情報網』って?」
「そんなの決まってるじゃない。私はね、今でもあの学校にコネを持ってるのよ。調べようと思えば、それこそなんでも調べられる。みんな、なんでも言うこと聞いてくれるし」
 ……姉貴のファンなら、やりかねないな。というか、犯罪すら起こしそうだ。
「そうするとさ、どうなるかわかる? なにもなければ問題ないけど、もしなにかあったら、それが一斉に広まる可能性もあるってことよ」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、私がそういう指示を出すから」
「…………」
 ダメだ。この姉貴には絶対に勝てない。
「だからさ、取り返しのつかないことになる前に、ゲロしちゃいなさいって」
「……尋問てさ、こういう風にやるんだろうな、実際」
「かもしれないわね。よく知らないけど」
 本当に事件の容疑者になった気分だ。
「話すけど、絶対に誰にも言うなよ。美樹にも、愛にも、沙耶加ちゃんにも、真琴ちゃんにも。もちろん、父さんにも母さんにも」
「いいわ。約束する」
 出かける前からやっかいごとを増やさないでくれ、ホントに。
「で、誰なの?」
「……由美子先生」
「は?」
 一瞬、姉貴はなにを言われたのかわからなかったようだ。
 次の言葉が出るまで、たっぷり三十秒はかかった。
「ちょ、ちょっと、それマジ?」
「マジ」
「由美子先生って、あの保健の広瀬由美子先生のことよね?」
「ああ」
「あんたより年上で大人の女性で、綺麗で優しくて、男女問わず人気がある、あの広瀬先生よね?」
「ああ」
「……ダメ、これだけはさすがに信じられない。だって、なんで先生があんたのことを好きになるのよ。そりゃ、恋愛に年齢は関係ないとは思うけど、イメージできない」
 なにげにひどいこと言ってるな、姉貴。
「でもまあ、この期に及んであんたがウソつくとは思えないから、本当なんでしょうね」
「だから、そうだって言ってるだろうが」
「いつ告白されたの?」
「確か、夏休み」
「夏休み? そんな前に?」
「たまたまだったんだよ。なんとなく話の流れがそっち方面に行って、気付いたら先生から告白されてた。俺だって最初信じられなかったさ。まさか先生みたいな大人の女性に告白されるとは、夢にも思ってなかったから」
「そうでしょうね」
「でも、それは本当にウソじゃなくて、そのあとにもそれっぽいことは言われてた。それでもどこかで信じてきれてなかったけど──」
「それを信じてしまうようなことがあった、と」
「平たく言えば」
「なにがあったかまでは訊かないけど、先生とはどうなったの?」
「別にどうも。俺と先生はあくまでも生徒と教師だし。しかも、俺には愛という彼女がいる。だから、それ以上の関係になることはない」
「なってもいいとは思わなかった?」
「そりゃ、思わなかったと言えば、ウソになる。先生みたいに魅力的な女性はそうそういないし」
「まあね」
「それに、先生にはずっと憧れてたし。愛のことはずっと好きだったけど、それとはまた別に先生のことは見続けてたから」
「そっか」
 いつの間にか、俺から積極的に話していた。まあ、話さなければこの場を解放してもらえないからしょうがないのだが。
「まさか広瀬先生とはね。これは驚いたわ。ホント、世の中ってなにがあるかわからないわ」
 そんなしみじみ言わないでくれ。
「それに、確かに先生が相手じゃ、誰にも話せないわね。これはあんたのためじゃなく、先生のために。こんなことが広まったら、先生、学校にいられなくなるから」
「……だろうな」
「私も訊かなければよかったと思ってるわ」
 だったら最初から聞くな。
「あのさ、洋一」
「ん?」
「このことで、先生に直接話を聞きに行っていい?」
「は? なんのために?」
「ん、ちょっと、確認したいことがあって。本当に誰にも言わないし、先生に迷惑もかけないから」
「……迷惑かけないなら、いいとは思うけど」
「ホント? あ、じゃあ、この休み中にでもちょっと先生に会ってくるわね」
 いったいなにを確認したいって言うんだ?
 さっぱりわからん。
「で、あんたは時間は大丈夫なの?」
「えっ……?」
 慌てて時計を見る。
「って、ヤバイって」
 くそっ、話し込んでたせいでギリギリになった。
「沙耶加ちゃんによろしくね」
「わかった」
 俺は、大慌てで部屋を出て、家を出た。
 沙耶加ちゃんとの待ち合わせは、九時半に駅改札口。
 走らなくてもかろうじて間に合う時間だけど、相手が沙耶加ちゃんだ。絶対に早く来てる。となれば、俺も急がなければならない。
 自然と、俺は早足になっていた。
 そして、いつもより早い時間で駅前に着いた。
 四日ということで、仕事のはじまったところもあり、スーツ姿のサラリーマンの姿もある。
 そんな中を、改札口へ。
 案の定、沙耶加ちゃんはすでに来ていた。
「沙耶加ちゃん、お待たせ」
 最後は結局、走ってしまった。
「走ってきたんですか?」
「最後だけね。待たせちゃ悪いと思って」
「でも、まだ時間前ですから」
 確かにそうなのだが、気持ちの問題だ。
「っと、沙耶加ちゃん。あけましておめでとう」
「あ、はい。あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします」
 一応、直接顔を合わせたのは今年はじめてだから、挨拶をする。
「それじゃあ、時間ももったいないし、行こうか」
「はいっ」
 
 俺たちが向かったのは、この近辺では比較的近くにある海。ただ、近くとは言っても電車で一時間半もかかる。まあ、うちのあたりは内陸にあたるわけだから、仕方がないのだが。
 電車の中では、沙耶加ちゃんととりとめのない話で盛り上がった。
 あの日からまだそんなに経ってはいないけど、沙耶加ちゃんの中ではある程度区切りはついたようだ。もちろん、それはあきらめるという意味ではない。改めてスタートを切ったという意味だ。
「そういえば、洋一さん」
「ん、なに?」
「おととい、真琴となにかありましたか?」
「……なにかって、なに?」
「いえ、それはわかりませんけど、真琴、帰ってきてから妙に機嫌がよかったので。もしなにか機嫌がよくなるようなことがあったとしたら、それはやっぱり洋一さんとなにかあったからだと思ったので」
 なんで女の子ってこうも勘が鋭いんだろうな。
 男なんてそんなこと、全然わからないのに。
「……沙耶加ちゃんはさ、真琴ちゃんのこと、どれくらいわかってるかな?」
「真琴のことですか? そうですね、姉妹ですからある程度のことはわかりますけど」
「じゃあ、真琴ちゃんの好きな人は?」
「えっ、好きな人、ですか? それは……」
 ちらっと俺を見る。やっぱりわかってるか。
「洋一さん、ですよね」
「ん、まあね」
「そうすると、やっぱりなにかあったんですね?」
 まあ、差し障りのない程度に話してもいいかな。
「最初はね、沙耶加ちゃんのことだったんだよ」
「私のこと?」
「うん。まあ、正確に言えばちょっと違うんだけどね。おとといは妹の美樹も一緒だったから。それで、その美樹に真琴ちゃんがお願いしたんだよ。俺のことで、愛と沙耶加ちゃんのどちらの味方にもならないでくれって。もちろん、真琴ちゃんも美樹が愛のことをもうひとりの『姉』と思ってることを知っての上でだよ。美樹を味方につけるのは無理だと思ったんだろうね。かといって、敵にまわられるとさらに困る。だから、中立でいてほしいって」
「真琴がそんなことを……」
「まあ、真琴ちゃんは本当にお姉ちゃん想いのいい子だからね。いつも感心させられるよ」
「…………」
 沙耶加ちゃんは、そのことを少し考えている。
「で、真琴ちゃんの話に戻るんだけど、たぶんだけどね、真琴ちゃんとだけ初詣に行ってたら、なにかはなかったと思うよ」
「そうなんですか?」
「美樹がいたから、なにかが起こってしまった。というのが正しいね」
「それはいったい、どういうことですか?」
「ん〜、なんて言えばいいのかな、真琴ちゃんと美樹って、すごく似た境遇にあるってことかな」
「真琴と美樹さんが、ですか?」
「多少、自分の姉にコンプレックスを持ってるところとか、かなわないであろう恋をしてるとか」
「あ……」
「まあ、ようするに、仲間を見つけたってことなんだけどね」
「でも、それだけで真琴の機嫌がよくなるでしょうか?」
「さ、さあ、そこまではわからないけど……」
 沙耶加ちゃんも、真琴ちゃんと俺が関係してるから、いつも以上に追及が厳しいな。
「洋一さん。なにか、隠していませんか?」
「べ、別になにも……」
 ああ、ダメだ。そんなこと言ったら、隠してると言ってるようなもんだ。
「洋一さん」
 いつもより少しだけ厳しい顔で詰め寄ってくる。
「……ごめん。隠してます」
「やっぱり……」
 沙耶加ちゃんは、小さくため息をついた。
「真琴ちゃんに告白されたのは、結構前なんだけどね。その時にあらかじめ言われたことは、俺のことは男としても好きなんだけど、先輩としても好きで、『お兄ちゃん』としても好きだって。もちろん、愛や沙耶加ちゃんの邪魔をしようなんて思ってなかったよ。ただ単に、俺に自分がそう思ってることを知ってもらいたかったんだね」
「……想いは、伝えないと意味がありませんから」
「でも、告白されたからって特になにか変わったわけじゃなかったんだ。俺と真琴ちゃんの関係は、最初から先輩後輩、もしくは『兄妹』のそれだったから」
「そうですね。姉である私でさえ、真琴と洋一さんが『兄妹』のように見えましたから」
「うん。で、まあ、ちょっと前にいろいろあって、それがほんの少しだけ変わってしまって、真琴ちゃんがより素直に自分の想いを俺に伝えてくるようになったんだ」
「それは、恋人、ということですか?」
「ちょっと違うかな。恋人というよりは、『兄妹』のより親密な感じ。少なくとも俺はそう思ってる。真琴ちゃんがどう思ってるかは、わからないけど」
 とりあえずそう言わないと、いろいろ問題が起きそうだ。
「で、その、なんていうか、俺も真琴ちゃんが可愛かったから、まあ、キスをね、しちゃったんだ」
「…………」
 微妙に沙耶加ちゃん、怒ってるっぽいんだけど。
 やっぱり、早まったかな。キスのことまで言ったのは。真琴ちゃんに迷惑がかからなければいいけど。
「だからだと思うよ。機嫌がよかったのは」
 と、沙耶加ちゃんは、俺の腕をキュッとつかんだ。
「……私がこんなことを言えた義理じゃないことくらい、十分よくわかってます。でも、真琴にだけは負けたくありません」
「沙耶加ちゃん……」
 バレないとは思ってなかった。だから、遅かれ早かれこうなることもわかっていた。
 でも、俺と真琴ちゃんの間には、沙耶加ちゃんとの間にあったようなことは、ない。それが沙耶加ちゃんと真琴ちゃんの差だ。
「俺もこんなことを言えた義理じゃないけど、本当に真琴ちゃんとはそれ以上のことはなにもないから。もちろん、好きというものにそう簡単に順番はつけられないけど、想いの深さ、強さで言ったら、間違いなく沙耶加ちゃんの方が上だし」
「……すみません」
「いいよ。俺も悪いんだし」
 悪いとは思ってるけど、後悔はしてない。そこが難しいところだ。
「洋一さん」
「ん?」
「今日は、私だけを見てくださいね?」
「ああ、もちろん」
 それは当然だ。今日は、沙耶加ちゃんとのデートなんだから。
 
 海は、予想以上に寒かった。というか、痛かった。
 海からの風が、まるで刃物のように斬りつけてくる。
 それでも、どこか落ち着かせる一面を持っているのが、海だ。
 潮風に身を任せていると、安心できる部分がある。
 それは沙耶加ちゃんも同じようだ。
「こうしてると、すごく安心できるんです。海は、すべての生きとし生けるものの源ですからね。きっと、私の中にもそういう記憶があって、こうして海にやって来ると気分を落ち着かせてくれるんでしょうね」
 そう言って目を閉じ、風に身を任せる。
 まわりを見ても、誰もいない。
 こんな寒い日に、こんな寒い場所に来るような酔狂は、そうそういない。でも、そのおかげで俺たちはふたりきりなのだ。
「寒くない?」
「寒いですよ。でも、もう少しだけこうしていたいんです」
「そっか」
 俺としては、一刻も早く暖かいところへ行きたいのだが、ここへ来たいと言ったのは沙耶加ちゃんだ。その沙耶加ちゃんがもう少しいたいと言うのだから、俺もいるしかない。
 それからどれだけ経っただろうか。
 ようやく沙耶加ちゃんも満足してくれたようだ。
「すみません。ワガママを言ってしまって」
「これくらいのワガママなら、全然構わないよ」
 俺たちは、どこか暖かい場所を探して歩いていた。
 だけど、ここはもともと海水浴場ではない。海水浴場ならいろいろな施設や商店もあるんだけど、あいにくとそういうものもない。
 駅まで戻ってどこかへ移動する、というのもひとつの手だが、とりあえずはこのあたりで探そうということになった。
 道をしばらく行くと、コンビニを発見した。こんなところにあってもうかってるのか、と思ったが、今は助かった。
 店内に入ると、ようやく息をつけた。
 俺たちは、温かいものを買って、コンビニを出た。
 コンビニの横が、少し風を避けられる場所になっていたので、少しそこにとどまることにした。
「ふふっ、こういうのもいいですね」
「そう?」
「はい。いつもと違う感じがしますから」
 確かにいつもとは違うけど、俺は少しだけ勘弁してほしいかも。
 まあでも、沙耶加ちゃんが楽しいなら、それでいいんだけど。
「そういえば、沙耶加ちゃん」
「はい」
「どうして海に行きたいと思ったの?」
「そうですね、明確な理由はないんですけど、強いて言えば、洋一さんと本当にふたりきりになりたかったからですね」
「そうなの?」
「街中だと、不意にふたりきりになれたりしますけど、でも、基本的にはそれは無理じゃないですか。いつもどこかに誰かの目があって。だから、本当にまったく人の目を気にしないで洋一さんと一緒にいたかったんです」
 嬉しいことを言ってくれる。
「あと、純粋に冬の海を見たかった、というのもありますけど」
 確かに、あえて行こうと思わない限り、冬の海になんか行かないからな。
「でも、やっぱり長時間はいられませんね。予想以上に寒かったです」
 そう言って苦笑する。
「ですから、午後はどこか違うところへ行きましょう」
「いいの?」
「はい。洋一さんと一緒なら、どこでも」
「わかった」
 どこでも、とは言ってくれたけど、どこへ行くべきなんだろうな。
「沙耶加ちゃんの好きなものってなにかな?」
「私の好きなもの、ですか?」
「うん。なんでもいいよ。食べ物でもなんでも」
「好きなもの、ですか……そうですね……」
 沙耶加ちゃんは、おとがいに指を当て、考える。
「……本当になんでもいいですか?」
「いいよ」
「じゃあ、ぬいぐるみを──」
「ぬいぐるみ?」
「はい。私、カワイイぬいぐるみが大好きなんです」
「あれ、でも、沙耶加ちゃんの部屋にぬいぐるみなんてあったっけ?」
「実は、洋一さんが来る時には、片づけていたんです」
「そうなの?」
「高二にもなって、ぬいぐるみに囲まれてるなんて、恥ずかしいですから」
「別にそんなことは思わないけど。でも、そっか、沙耶加ちゃん、ぬいぐるみが好きだったんだ」
「はい」
 ぬいぐるみが好きと言われて、俺はすぐにぬいぐるみに囲まれてる沙耶加ちゃんが想像できた。女の子らしい女の子の沙耶加ちゃんだから、そういうのも全然違和感がない。
「それじゃあ、そういうぬいぐるみがたくさんあるところに行けばいいかな?」
「もしそうしていただけるなら、嬉しいですけど」
「別にいいよ。今日は沙耶加ちゃんのために一日使おうと思ってたんだから」
「ありがとうございます」
 この素直さが、やっぱり沙耶加ちゃんのいいところだ。
「じゃあ、これを食べたら、早速行こうか」
「はい」
 
 駅に戻り、電車に乗って、都心に戻る。
 とはいえ、ぬいぐるみとは無縁な生活を送ってる俺には、どこにそういうものがたくさんあるのかわからない。
「どこに行けばたくさんあるのかな? やっぱり、おもちゃ屋?」
「おもちゃ屋さんにもありますけど、ぬいぐるみ専門店もありますよ」
「へえ、そういうのもあるんだ。そういうところって、やっぱり小学生の女の子とかが多いの?」
「そんなことありませんよ。ぬいぐるみは、世代を問わず人気のあるものですから。私みたいな高校生も来ますし、大学生やOLなんかも見ます」
「大学生やOLまで」
「カワイイものを集めるのに、年齢は関係ありませんから」
 言われてみれば、その通りだ。男だって、サラリーマンがプラモデルをせっせと作ってたりするし。
「沙耶加ちゃんは、主にどんなのを集めてるの?」
「私は、大きな子が好きなんです」
「大きいって、どのくらい?」
「そうですね、うちにある一番大きな子は、私の身長と同じくらいありますよ」
「……マジ?」
「はい」
 沙耶加ちゃんと同じくらいって、だいたい一メートル半以上あるってことだよな。でかいな、そりゃ。
「でも、よくそんな大きいの、俺が行った時にしまっておけたね」
「実は、私の部屋にはしまえないので、一階の客間に移しておいたんです」
 ……そこまでしてたのか。
「じゃあ、今度、その自慢のぬいぐるみを見せてくれるかな?」
「はい、いいですよ」
 たぶん、見たら一瞬引くだろうけど。
 電車で一時間ほど戻ってきた。
 そこはもう都心で、平日とはいえまだ四日なので昼間から人が多かった。
 俺は、沙耶加ちゃんに連れられて、ぬいぐるみ専門店へ向かっていた。
 沙耶加ちゃんの話だと、その店はかなりの有名店で、全国各地からぬいぐるみ愛好家がやって来るらしい。
 普通のビルの二階に店舗はあり、店の中は本当にぬぐるみだらけだという。
 心なしか、沙耶加ちゃんはいつも以上に楽しそうだ。
 駅から歩くこと十分。
 確かに普通のビルだった。奥まったところにある階段を上がる。
『ぬいぐるみ屋さん』
 それがその店の名前だった。というか、そのままだ。
 入り口を入ると、そこは異世界だった。
 本当に所狭しとぬいぐるみが並べられ、店の名に恥じない様相だった。
 ぬいぐるみも実に様々で、一番有名なテディベアはもちろんのこと、最近流行りのキャラクターのぬいぐるみもあった。
 沙耶加ちゃんは、店に入った途端、目の色が変わった。
 大好きなぬいぐるみを前にして、まるで獲物を狙う肉食獣のような鋭さがあった。
 まあ、それは言い過ぎだけど、ぬいぐるみに興味のない俺にとっては、まったく理解できない状況だった。
「あ、これ、新しいの出たんだ」
 沙耶加ちゃんは、慣れた様子で店の中を見てまわる。俺は、そんな沙耶加ちゃんに置いていかれないようについていく。こんな『ファンシー』な空間に男がひとり取り残されたら、それは悲惨な目に遭う。
 それだけはなんとしても避けたかった。
「わ〜、カワイイ」
 沙耶加ちゃんが足を止めたのは、超巨大な象のぬいぐるみだった。もちろん、リアルには作ってなくて、ちゃんとデフォルメされている。だから、確かにカワイイのだが、いかんせんデカすぎる。
 大きさは、だいたい一メートル二十くらい。重さも結構あるだろう。大人の男でも、抱えきれるかどうか。
 沙耶加ちゃんは、キラキラと目を輝かせ、そのぬいぐるみを見ている。
 俺は、それにつけられている値札を見た。
「げっ……」
 桁がひとつ違った。やっぱり、デカい分だけ値段もする。
 確かに、こんなぬいぐるみ、大人しか買えない。
「ほしいなぁ……」
 ほしいって、それはいくらなんでも無謀だ。俺もこれをほしいとねだられても、絶対に無理と答える。
「でも、無理かぁ」
 沙耶加ちゃんも値札を見て、ため息をついた。
「長期計画でいかないと、無理だよね」
 あきらめきれないのか、そんなことを言う。
 と、俺の目に別のぬいぐるみが飛び込んできた。
 なんということはないぬいぐるみだったけど、なぜか気になった。
「これは……」
 それは、ごくごく普通のぬいぐるみだった。大きさも普通。作りも普通。値段も普通。
 元になっているのは、ボーダーコリー。
「なんで気になるんだろ」
 近くで見ると、それがわからない。普通のぬいぐるみだし、特別なところはない。
 改めてさっきの場所から見る。
 と、やっぱりそいつが気になった。
「洋一さん。なにをしてるんですか?」
「ん、いや、ちょっとあのぬいぐるみが気になって」
「どれですか?」
 俺は、コリーのぬいぐるみを指さした。
「普通のぬいぐるみですね」
「うん。だから、なにが気になったのかなって思って」
 少し離れた場所で見ると、気になる。
 まわりにもぬいぐるみはあるのだが──
「あ、そうか」
 と、不意に気付いた。
「こいつ、普通過ぎたんだ」
「普通過ぎた?」
「ほら、まわりのやつはどれもこれも特徴があって、沙耶加ちゃんみたいな人に手にとって見てもらえる。でも、こいつはなんの特徴もなくて、素通りされてしまう。だからかな、気になったのは」
 本当に素通りされてるのかはわからない。ただ、なんとなくそう思った。
「普通過ぎた子、ですか」
 沙耶加ちゃんは、そのぬいぐるみをじっと見つめている。
 いったいなにを考えてるのだろうか。
「洋一さん。私、この子を買います」
「えっ……?」
「幸い、この子を買うくらいのお金は持ってますから」
「それはいいんだけど、でも、どうして?」
「洋一さんの言っていたことが正しいかどうかはわかりませんけど、確かにあまり手にとってもらえない子だと思うんです。でも、この子はこの子でカワイイですから」
 それに、と言って続ける。
「洋一さんが気になった子です。そんな子を私の手元に置いておけたら、やっぱり嬉しいです」
 そう言って微笑んだ。
 それからの行動は素早かった。店員を呼んでそのぬいぐるみを包んでもらい、会計を済ませる。
 大きさは普通とはいっても、持てば抱えるくらいの大きさだ。
 さすがに沙耶加ちゃんに持たせるわけにはいかなかったので、俺が持つことにした。
 店を出ると、早速沙耶加ちゃんが言ってきた。
「洋一さん。この子の名前、なにがいいと思いますか?」
「名前?」
「はい。私、うちの子たちには全部名前をつけてるんです。やっぱり名前がついてる方が大事にできますし」
 それは一理あった。名前は愛着を呼ぶ。そうすれば、自然と大事にするようになる。
「この子、洋一さんが見つけたわけですから、洋一さんに名前をつけていただきたいのですが」
「俺が?」
 さすがにそれは厳しいな。ぬいぐるみになんか名前をつけたことないし。
「なんでもいいですよ?」
「……う〜ん……」
 そう言われても困る。
「ちなみに、今沙耶加ちゃんの部屋にあるぬいぐるみには、どんな名前がついてるの?」
「えっと、シロクマのトンちゃん、アライグマのジャブくん、パンダのちぃくん。ほかにもいろいろあります」
 ……俺には、そういうネーミングセンスはないな。
 どうも沙耶加ちゃんはいろいろな面からそれを決めてるみたいだ。見た目もあるだろうし、行動とかもある。そうなると、本当に難しい。
 俺が抱えてるこいつは犬だ。沙耶加ちゃんのことだ、犬のぬいぐるみもひとつやふたつではないだろう。
 となると、ますます難しい。
「ダメだ。全然思い浮かばない」
「難しく考えることはありませんよ。頭の中にパッと思い浮かんだ名前を言えばいいだけですから」
「じゃあ、沙耶加ちゃんはあるの?」
「えっと、はい」
「それは?」
 沙耶加ちゃんは、少し頬を赤らめ、俺を見た。
「……いちくん、です」
「えっ……?」
「いちくんです」
「いちくん?」
 それはつまり、俺の名前『よういち』から『いち』の部分だけ取ったということか?
「……おかしいですか?」
「いや、別におかしくないけど」
 おかしくないし、聞いただけだと俺を思い浮かべることはないな。上の文字を使われると一発だろうけど。
「だったら、それにしたら? 俺は構わないよ」
「いいんですか?」
「うん」
「あ、じゃあ、この子の名前、いちくんにします」
 沙耶加ちゃんは、もう一度『いちくん』と言って、嬉しそうに微笑んだ。
 まあ、沙耶加ちゃんは喜んでるし、いいか。
「じゃあ、これからどうしようか。これを持ってるから、あまり変なところには行けないけど」
「そうですね」
 まだまだ時間はある。ここからなら地元まで電車で三十分弱だから、本当に時間に余裕がある。
「あ、そうだ」
 と、沙耶加ちゃんはなにか思いついたらしい。
「洋一さん。今、お腹空いてますか?」
「まあ、少しだけ。海のコンビニで肉まん食っただけだし」
 もう昼は過ぎてるけど、昼飯は食べてない。
「洋一さん、甘いものは平気ですか?」
「人並みには食べられるけど」
「それじゃあ、一カ所、行きたいところがあるんですけど」
「それって?」
「それはですね──」
 
「おまたせいたしました」
 運ばれてきたものを見て、俺は唖然とした。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
 ウェイトレスがお辞儀をして戻っていった。
「えっと……」
 目の前に置かれたのは、巨大と言っていいガラスの器に入った食べ物。
「さ、洋一さん。食べましょう」
 沙耶加ちゃんは、嬉々とした表情でそう言う。
 それに対して俺は、すぐには頷けなかった。
 ここは、フルーツパーラー。
 俺もここの名前は知っていた。だけど、今まで一度も来たことはなかったし、実際どんなものがあるのかも知らなかった。
 沙耶加ちゃんがこの店に行きたいと言った時、俺は特別ななにかがあるとは思っていなかった。ただ単に、甘いものが食べたいんだな、くらいにしか思わなかった。
 だけど、それは甘かった。
 まず、ここは女性同伴じゃないと男は店内に入ることすらできない。もちろん、女性同士なら問題はない。店で出しているメニューがメニューなのでそれは別にいいのだが、多少は驚いた。
 メニューは、それほど特別なものではなかった。フルーツパーラーの名に恥じないメニューが並び、どれもこれも美味しそうだった。
 だけど、沙耶加ちゃんの目的はその普通のメニューにはなかった。
 ここは圧倒的に女性客が多いのだが、実は、カップルも多い。そんなカップルのため、というかカップルしか頼めないメニューがあった。
 それが、今俺たちの前に置かれてるパフェだ。
 自慢のフルーツをふんだんに盛り、生クリームやアイス、プリン、ウェハースなどをあわせて、巨大なパフェを作り上げている。
 ふたり分にしては明らかに量が多い。甘いもの好きの女性が一緒だと言っても、限度があるように思える。
「ん〜、美味しい」
 思えるのだが、目の前の沙耶加ちゃんを見ていると、ひょっとしたらこの量が全部消えてしまうかもしれないと、思えた。
「洋一さんも食べてください」
「あ、うん」
 そのままというわけにはいかないので、俺も手をつける。
「あ、旨い」
 量は多かったが、味は抜群だった。
 ここは値段も結構な値段なのだが、それに見合った味だった。
「前に、真琴とふたりで来たことがあるんです。その時は別のを頼んだんですけど、どうしてもこのパフェを食べてみたくて。でも、私には一緒に来てくれる男の人はいませんでしたから」
 一応親子もOKらしいのだが、娘のためにそこまでする父親がどれだけいるか、ということだ。ほかのことなら喜んでするだろうけど、これはかなり考えないと無理だ。
「あの、洋一さん。ひょっとして、ご迷惑でしたか?」
「ん、そんなことないよ。まあ、さすがにこんなに巨大だとは思わなかったけど」
 ウソでもそう言っておかないと。
「それならいいんですけど」
 とはいえ、これだけの量を食べるのは無理だ。
 最初のうちは結構いろんな味を楽しめていいのだが、だんだん飽きてくる。
 全然ペースが落ちない沙耶加ちゃんが、不思議でしょうがない。
 結局、俺は三分の一も食べられずにギブアップした。
「これって、実際何人分なんだろ」
「どうでしょうね。私にもわかりません。ただ、女の人ならふたりでも十分食べられると思いますけど」
「……なるほど」
 だとしたら、この量はやはり明らかに多いということだ。男に、この半分を食べるのはほぼ無理だからな。
「結局は、こういうのは女の人のためのものですから。あまり、男性のことは考えていないのかもしれません」
「だろうね」
 その説明が妙に納得できた。
 それから沙耶加ちゃんは、残りのパフェをぺろりとたいらげてしまった。
 かなりの量があったのだが、いったいその細い体のどこに入ったというのだろう。
「大満足です」
 これで満足してもらえなかったら、それはそれで恐ろしい。
「すみません。私がワガママを言ったせいで」
「いや、気にしなくていいよ。それに、美味しそうに食べてる沙耶加ちゃんの顔を見られただけで、得した気分になれたし」
「よ、洋一さん……」
 俺の言葉に、沙耶加ちゃんは照れて俯いた。
 それから会計を済ませ、店を出る。
「さてと、どうしようか」
 時計を見る。まだ時間には余裕がある。とはいえ、今は冬なので、あまり遅くなると寒くなる。だから、その前には帰りたい。
「そうですね、時間はまだありますから」
「ほかにどこか行きたいところ、ある?」
「今日はもうありません。私の行きたい場所、三カ所も行きましたから」
 そうだろうな。
「そうすると、どうしたらいいかな」
 時間を有効に使う方法か。
 いくつかあるとは思うけど、とりあえず、ここでじっとしてるのが一番もったいない。
「じゃあ、とりあえず、戻ろうか。こっちにいなくちゃできないことや、行けないところにはもう用もないだろうし」
「そうですね。その方が、時間を有効に使えるかもしれませんね」
 俺の言いたいことを理解してくれて、沙耶加ちゃんは賛同してくれた。
 そんなわけで、俺たちは地元まで戻ることにした。
 電車の中では、さすがに大きなぬいぐるみは目を引いた。とはいえ、誰もそれが俺のものだとは思ってない。隣に沙耶加ちゃんがいてくれたからだけど、これがもしひとりだけなら、目も当てられないな。
「はあ、やっと戻ってきた」
 いつもそうだが、たまに遠出すると、どうしてもそんな風に思ってしまう。
「ふふっ、疲れましたか?」
「いや、そこまでは。なんとなく、解放された気がしただけ」
「なるほど」
 で、地元に戻ってきたのはいいが、残りの時間をどうやって過ごそうか。
「どうしようか?」
「そうですね……あ、そうだ」
「ん、なにかある?」
「洋一さん。初詣に行きましょう」
「初詣?」
「はい。もう四日ですけど、問題ないですよ」
「それは、まあ、そうだね」
 確かに、それもひとつの手か。
「じゃあ、ちょっと遅い初詣に行こうか」
「はい」
 駅から行ける神社は、いくつかある。その中で俺たちが選んだのは、俺と愛が初詣に訪れたあの神社だった。そこを選んだ理由は、帰るのが楽というのがある。
 駅向こうにも神社はあるのだが、やはりそこだと一度駅に戻り、また、ということになって面倒だ。
 駅から歩いて二十分。目的の神社に着いた。
 さすがに四日ともなれば、正月三が日の賑やかさは欠片もない。
 いつもの厳かな雰囲気がそこにあるだけだ。
 俺たちはそのまま境内に足を踏み入れる。
 本殿前で、お参りを済ませる。
「…………」
「…………」
 もう三度目の初詣なので、お願いすることもほとんどない。
 早くにお願いを済ませてしまったので、隣の沙耶加ちゃんを見る。
 沙耶加ちゃんは、真剣な表情でお願いしている。いったいなにをお願いしてるんだろう。
 程なくして沙耶加ちゃんもお願いを済ませ、定番のおみくじを引く。
「あ、小吉だ」
 俺のは小吉だった。
「沙耶加ちゃんは?」
「私は、中吉ですね」
 確かに中吉だ。
「なにか気になるの、ある?」
「あ、いえ……」
「いいよ、見ても」
 そう言って沙耶加ちゃんにおみくじを渡す。
「……すみません」
 沙耶加ちゃんが気になってるのは、やっぱり恋愛運だろうな。
 ちなみに俺の恋愛運は──
『些細な見落としに注意すべし』
 三枚のおみくじの中で一番わからない内容だ。
 沙耶加ちゃんのはなにかわからなかったけど、それほど悪い内容ではなさそうだった。
 それぞれを結んで、初詣は終わり。
「ずいぶんと熱心にお願いしてたみたいだけど、なにをお願いしてたの?」
「えっ、それは……」
「あ、別に無理して言わなくてもいいよ。お願いって、そういうものだろうし」
 知りたいけど、無理に聞くことでもない。
「……あの、ひとつだけなら」
「いいの?」
「はい。これは神様にお願いするべきことではないと思うんですけど」
 沙耶加ちゃんはそう前置きして話してくれた。
「洋一さん」
「ん?」
「洋一さんは、どうして私のことを『ちゃん』を付けて呼んでいるんですか?」
「えっ……?」
 意外な内容に、間抜けな声を上げてしまった。
「もちろん、その呼び方がイヤということはありません。でも、どこか一線を画してるような気がするんです。私の錯覚だとは思いますけど」
「つまり、沙耶加ちゃんは呼び捨てにしてほしいと?」
「はい」
 なるほど。それはきっと、愛への対抗心から来るものなんだろうな。
 愛のことは呼び捨てにしてるのに、沙耶加ちゃんは未だに『ちゃん』付け。俺としては差を付けてるわけではないのだが、沙耶加ちゃんはそう感じていた。
「そっか。じゃあ、沙耶加」
「え、あ、はい」
 いきなりそう言われ、沙耶加は驚いた表情を見せた。
「これでいい?」
「はい。十分です」
 正直言えば、俺に呼び方のこだわりはない。
 まあ、姉貴のことや愛のことがあるから、無頓着ということはない。それでも、呼び捨てにするのに抵抗はない。
 だから、沙耶加ちゃんから沙耶加に変わっても、俺にとってはそれほど大きなことではない。
 もちろん、彼女にとっては大きなことだと思う。なんといっても、呼び方の点で愛と同じところに立てたのだから。
「でも、それを言ったら沙耶加もそうだと思うけど」
「私もですか?」
「ほら、俺のこと未だに『さん』付けだし」
「え、でも、それは……」
 沙耶加に俺を呼び捨てにできるとは思ってない。ただ、そう言ってみたくなっただけだ。
 今は、愛ですら俺のことを呼び捨てにしてないし。
「ああ、別に今のままでいいよ。一応、そういうこともあるってことだから。たぶん、沙耶加の性格を考えれば呼び捨てなんか無理だと思うし」
「すみません」
「謝ることじゃないって」
 そう言って俺は笑った。
「そういや、沙耶加はどんな風に呼ばれてたの?」
「えっと、それは以前の学校でということですか?」
「うん。それだけじゃなくてもいいけど」
「基本的には、呼び捨てでした。あまり親しくしていなかった人だと『さん』付けもありましたし。あとは、あまり多くはありませんでしたけど『さや』ちゃんと呼ばれたこともありました」
「なるほど」
『さや』ちゃんて呼ぶと、なんからしく聞こえる。
「じゃあ、俺も『さや』ちゃんて呼ぼうか?」
「い、いえ、呼び捨てにしてください」
「そう?」
「はい」
 ま、沙耶加がそう言うならそうするけど。
「っと、結構時間使えたね」
 時計を見ると、そろそろ夕方という時間帯。寒くなる前に帰るなら、そろそろいい頃かもしれない。
「ほかになにかある?」
「あ、えと……」
 沙耶加は少し俯き、でも、俺のコートの袖をキュッとつかむ。
「……して、ほしいです……」
 顔を真っ赤にしてそれだけ言う。
「いいの?」
「……はい」
 沙耶加は、小さく頷いた。
「それじゃあ、行こうか?」
「はい」
 
 確かにこうやって沙耶加を愛と同じように扱うと、沙耶加にとってはつらいことかもしれない。でも、それはこのあと考えなければならなくなった時の話だ。あと三ヶ月と考えるか、もう三ヶ月と考えるかはわからないけど、少なくともそれだけの猶予があるということだ。とすると、もし頭の切り替えができるなら、沙耶加にとってはこの状況は願ってもない状況なのかもしれない。
 俺が言うのもなんだけど、望んでいた状況になっているのだから。
 それは、俺の心境も同じだ。今でも俺の中では愛が一番だし、本当によほどのことがない限り、それが揺らぐことはない。
 でも、俺の中には沙耶加を俺の彼女にしたいという気持ちも、ないわけではない。もちろん、現段階ではそれがかなう確率はゼロなのだが、この特殊な状況下でその仮想体験のようなことをしている。
 愛に悪いとは思いつつも、俺は、沙耶加を『恋人』として扱っている。
「沙耶加……」
「洋一さん……」
 ホテルの部屋に入るなり、俺たちは抱き合い、キスを交わした。
「ん、あ……」
 舌を絡め、何度もキスを交わす。
「洋一さん、先にシャワーを浴びてもいいですか?」
「いいよ」
 沙耶加は、とりあえずコートと荷物を置いて、バスルームへ。
「ん〜……」
 で、俺はその間待ってるわけなんだが、今日はなんだか待ってるだけというのが我慢できそうになかった。
 少しして、シャワーの音が聞こえてくる。
 それを待って、俺もバスルームへ。
 服を脱ぎ、中に入る。
「えっ、よ、洋一さん……」
 当然、沙耶加は驚いた。
「一緒の方が時間の節約になると思ってね」
「で、でも……」
 手で申し訳程度に隠すが、そんなの無意味だった。
「沙耶加」
「あ……」
 後ろから抱きつき、耳元でささやく。
「あ、だ、ダメです……あん……」
 胸を後ろから鷲づかみにする。
 それでもその手を跳ね返そうとするくらい、弾力に富んでいる。
「ん、あ……んん……」
 胸を揉みながら、乳首をこねる。
 少しずつ硬くなってくる乳首。指を動かす度に、沙耶加は敏感に反応する。
「ん、はあ、はあ、よ、洋一さん……わ、私……」
 次第に息が荒くなり、それだけ感じているのがわかる。
「気持ちいい?」
「は、はい……」
 消え入りそうな声で言う。
「じゃあ、こっちを触ったら──」
「えっ、あっ、ああっ」
 無防備になっていた沙耶加の秘所に直接触れる。
「や、んっ、あんっ」
 シャワーを浴びていたせいもあるだろうけど、沙耶加の秘所はすでに濡れていた。
「もうこんなになってるよ」
「んっ、い、言わないで、あん、ください」
 沙耶加は、可愛らしくイヤイヤする。
 胸をもてあそびながら、秘所もいじる。
 まだ経験の乏しい沙耶加にとっては、すべてがはじめてのこと。自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖感と、抗いがたい快感の狭間で揺れ動いている。
「よ、洋一さん……も、もう私……」
「どうしてほしい?」
 今日は、少しだけいぢわるモードでいこう。
「そ、それは……」
「言ってくれないとわからないよ」
 そうしている間も、俺は沙耶加に触れ続けている。
「ん、よ、洋一さんのを……い、挿れて……ください……」
「うん、わかった」
 別に俺はSではないが、なんとなくそうしたくなる時もあるのだ。
「じゃあ、そこに手をついて後ろを向いて」
「は、はい」
 浴槽に手をつかせ、後ろを向かせる。
「あ、しまった……」
 すっかり忘れてた。こうなることは容易にわかったのに、ゴムを用意するのを忘れた。
「あの、沙耶加」
「……そのままで、いいですよ」
「あ、でも……」
「大丈夫ですから。なにがあっても」
 そう言って沙耶加は微笑んだ。
 沙耶加は大丈夫だと言うが、万が一なにかあったら、さすがに困る。
 だけど、沙耶加をこのままにしてもおけないし。
「洋一さん」
 と、沙耶加は、俺の前に立ち、俺のモノに触れた。
「これが、洋一さんの……」
 直接触れたのははじめてなので、多少驚いている。
「洋一さん。お願いします」
「沙耶加……」
 そんな風に懇願されては、それに応えないわけにはいかない。
「ごめん。じゃあ、もう一度、手をついてくれるかな」
「はい」
 なるようにしかならないんだ。
 そう言い聞かせる。
「きつかったら言って」
「はい……」
 沙耶加の腰をつかみ、モノを秘所にあてがう。
「いくよ」
 そして、そのままモノを押し挿れる。
「ん、ぐっ……」
 沙耶加の中はまだ狭かった。
 それでも、はじめての時ほどのきつさはない。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、です」
 まだ行為自体に慣れていない沙耶加は、少しつらそうだ。
 モノを一番奥まで挿れ、一度止まる。
「洋一さんのを、感じます……」
「沙耶加の中、すごく気持ちいいよ」
「もっと、もっと気持ちよくなってください」
 きつい締め付けに耐えながら、俺は少しずつ腰を動かす。
「ん……く……」
 部屋の中より声が響くので、沙耶加は自然とその声を抑えていた。
「声、出していいんだよ」
「で、でも……あん……」
「聞かせてよ」
 そう言って少し強く腰を打ち付ける。
「ああっ」
 それにあわせて、沙耶加は嬌声を上げた。
 だけど、今ので感じたということは──
「んっ、あっ、んんっ」
 少し強めに動かすと、沙耶加はやっぱり感じた。
 どうも、沙耶加は乱暴とまで言わないけど、多少強引に、強めにされると感じるようだ。
「あんっ、ああっ、あっ、あっ」
 俺が動く度に、沙耶加の胸が大きく揺れる。
 沙耶加も次第に声が抑えられなくなってくる。
「んあっ、あっ……んんっ」
 それでもやっぱり俺の方が先に堪えきれなくなってきた。
「沙耶加っ」
「んっ、きて、くださいっ」
 ラストスパートでさらに強く、速く、動かす。
「ああっ、あっ、んんっ」
「沙耶加っ」
「洋一さんっ」
 そして──
「くっ」
 俺は、沙耶加の中からモノを引き抜き、精液を放った。
「はあ、はあ……」
「ん、はぁ、はぁ……」
 沙耶加も糸の切れた人形のように、その場にへたり込んでしまった。
「沙耶加……」
「洋一さん……」
 そんな沙耶加に、俺はそっとキスをした。
 
 バスルームを出てから、俺たちはさらに二度ほどセックスした。
 沙耶加も、セックスの度に感じてくれるようになり、一方的じゃないことが嬉しかった。
 俺自身もそうだけど、まだまだ慣れていないところがあって、ペース配分が上手くいかなかった。だから、俺も沙耶加も、すっかり力尽きていた。
「ふふっ」
「ん、どうかした?」
「なんだか、今、こうしていることがすごく不思議だなって思えて」
「そう?」
「はい」
 沙耶加は、ニコニコと嬉しそうだ。
「自分で言うのもなんですけど、私、少なくとも高校を卒業するまで、経験しないと思っていました」
 まあ、前の学校にいたら、そうだったかもしれないな。
「でも、転校してきて、半年もしないうちに二度も経験して。本当になにがあるかわかりませんね」
「かもね。でもさ、沙耶加くらい綺麗で性格もいい女の子なら、それこそ男なんて選り取り見取りなんだから、いつでもいい経験ができたと思うよ」
「それはわかりませんけど、今の私にとっては、そんな顔も名前も知らない誰かのことなんて、どうでもいいんです。今の私にとっては、洋一さんがすべてですから」
 そう言って俺の胸に手を当てる。
「これから先、洋一さんほどの男性と巡り会う確率は、きっと夜空から望遠鏡を使わずに星を見つけ出すくらい大変だと思います。私は、それをしないでこうして洋一さんと出逢えたんです。これ以上の幸運はありません」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどね」
 嬉しいけど、少し複雑だ。
「そういえば、洋一さん」
「ん?」
「真琴のことなんですけど」
「真琴ちゃん? 真琴ちゃんがなにか?」
「あ、いえ、真琴がどうしたというわけじゃないんですけど、今日、電車でこの前のことを聞いたじゃないですか」
「うん」
「洋一さんから見て、真琴ってどう見えますか?」
「どうって、見た目のこと?」
「それも含めて、全部です」
「全部か」
 ここは、思ってることを全部言った方がいいんだろうか。
「とりあえず見た目だけど、これは文句のつけようもないよ。沙耶加の妹だからってわけじゃないけど、カワイイからね。でも、それもここあと一、二年だと思うけど」
「どうしてですか?」
「だって、成長したら、間違いなく綺麗になるから。これは、やっぱり沙耶加の妹だからだね。実際、その片鱗は見えてるし」
「……なるほど」
 実の姉としては、微妙な心境かもしれない。
「真琴ちゃん自身は、結構沙耶加のことをコンプレックスに思ってるよ」
「そうなんですか?」
「うん。これはうちの美樹も同じなんだけど、自分の姉が自分以上に見えてるからだろうね。年下なんだから、比べる方が間違ってるんだけど、本人たちはそう思ってないから。真琴ちゃんが気にしてるのは、スタイルと顔だね」
「別に気にする必要なんてないのに」
「俺もそう思うよ。だから、言ってあげたよ。胸はこれから大きくなるし、今は童顔かもしれないけど、ちゃんと綺麗になるって」
「…………」
 沙耶加は、ピクリと眉を動かした。
「……真琴が、洋一さんを好きになったのは、そういうところがあるからですね……」
 そして、ぽつりとそう言った。
「あとは性格というか内面だけど、真琴ちゃんはとにかく真っ直ぐな子だからね。なんでも一生懸命だし、あきらめない。そういうところは俺も見習いたい」
「それは、私もです」
「それに、明るい子だから一緒にいて楽しい。ああいうのはあとから身に付けようと思ってもなかなか難しいから、そういう点で言えば、羨ましいね」
「……はい」
「だからこそ俺にとってはもうひとりの『妹』だったんだけど、真琴ちゃんがそう思っててくれなかったから」
 沙耶加の前であまり言うのは問題だとは思うけど、言わないでおくともっと問題になりそうだ。
「……もし、真琴がもう少し大きくなって、その時に洋一さんにすべてをもらってほしいと言ったら、どうしますか?」
「そうだね。その時になってみないとわからないけど、少なくとも今は、それは受けないよ。どんなに真琴ちゃんが可愛くてもね」
「そう、なんですか?」
「だって、俺には愛がいる。沙耶加がいる。それなのに、真琴ちゃんまで受け入れることはできない」
「洋一さん……」
 結局、沙耶加が一番気にしていたのは、そのことだろう。
「今思えば、真琴は自分が好きになった人だったから、家でもよく話していたのかもしれませんね。洋一さんと知り合った頃なんて、本当によく名前が出ていましたから」
「単に珍しかっただけかもね」
「そんなことはありません。あ、いえ、もちろん真琴が男の人のことを話題にしたのは、珍しかったですけど」
「まあ、理由はなんでもいいけどね。そのおかげで、こうして沙耶加とも知り合えたわけだし」
 それがよかったかどうかは、わからないが。
「……もし、洋一さんが真琴と知り合っていなければ、私たちも出逢えなかったんでしょうか?」
「……それは、わからない。出逢えたかもしれないし、出逢えなかったかもしれない。でも、それはたいして重要なことじゃないと思うけどね」
「どうしてですか?」
「だって、それって結局すでになかった話でしょ? それをいくら話したところで、そうなるわけじゃない。だからだよ」
「……そうですね」
 沙耶加は、薄く微笑んだ。
「本当にダメですね、私。なんか、余計なことばかり話してます。本当はこんなこと話さなくてもいいのに」
「そんなもんだよ。俺だって本当に話さなくちゃいけないことを忘れて、どうでもいいことばかり話してることもあるし」
「そうかもしれませんけど、でも私は、そんな自分の行動がイヤです」
 ま、人はそういうところがある。自分を好きになれる人なんて、そうそういない。俺だって自分の好きなところより、嫌いなところの方が多い。
「じゃあ、沙耶加が本当に話したいことって?」
「えっ、そ、それは……」
「言えない?」
「そ、そんなことは、ないですけど……」
「別に無理して言わなくてもいいけどね」
 本当に話したいこと、言いたいことなんてそうそう言えない。それは誰だってそうだ。
 もしそれが簡単に言えたら、些細な取り違えなど起こらないだろうし、それに伴ういざこざもないだろう。
 ただ、言えないからこそ、楽しいということもある。
「……本当は、私の洋一さんに対する想いを、すべてお話ししたいんです。でも、それはどう考えても無理なんです。中には言葉にできない想いがありますから」
「それは誰だってそうだよ。これは俺の母さんが言ってたんだけど、相手を百パーセント理解してしまったら、その関係は終わりだって。わからないからこそ、わかろうとする。わかろうとしている限り、その関係は続くって」
「確かに、そうかもしれませんね」
 ま、俺もこんなことを言えるほどわかってはいないけど。
「くしゅっ」
 と、沙耶加は可愛くくしゃみをした。
「寒い?」
「あ、いえ、そんなことはないです」
 暖房は入ってるけど、なにも着てないわけだから、寒さも感じるか。
「そろそろ出ようか」
「あ、はい」
 いつまでもここにいるわけにはいかない。
 俺たちは服を着て、部屋を出た。
 ホテルを出る時は、なんかいけないことをしてる気がする。別にそんなことはないんだが、不思議なもんだ。
「次は、学校でだね」
「はい、そうですね」
「とはいっても、もうあさってだけど」
「ふふっ、あっという間ですね」
 冬休みなんてそんなもんだ。夏休みならそうでもないけど。
「じゃあ、沙耶加。また──」
「洋一さん」
 沙耶加は、俺の首に腕をまわし──
「さよならの、キスです」
 キスをしてきた。
「それでは、また学校で」
 沙耶加は、コートを翻し、笑顔で帰って行った。
「ったく……」
 ここが駅前の往来だということを、完璧無視してくれた。
「ま、しょうがないか」
 それでも、それをしてきたのが沙耶加だから許してしまう俺がいた。
 
 二
 一月五日。冬休み最終日。
 宿題は終わってるから、特になにもすることがない。
 ぐ〜たら過ごそうかと思っていたら、姉貴が来襲してきた。
「なぁにぐ〜たらしてるのよ」
「ぐえっ」
 ノックもなしに部屋に入ってきて、ベッドに寝転んでいた俺にエルボードロップをかましてきた。
「お、重い……」
「あによぉ、私、そんなに重くないわよ」
「だ、だから、わざと体重かけるなって」
「んもう、根性ないんだから」
 言いながら、離れる。
 根性とかそういう問題か?
「で、お姉さま。わたくしめにどのようなご用でしょうか?」
「ん、昨日の報告」
「昨日?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「ほら、広瀬先生の件」
「ああ」
 そう。結局姉貴は、昨日、由美子さんに会いに学校へ行ったのだ。まあ、冬休みは昨日と今日だけだから、今日じゃなければ昨日なのだが。
 昨日は仕事はじめの日だから、先生たちもほぼ確実にいた。だから、ちゃんと会えたはずだ。
「で、先生になにを確認しに行ったわけ?」
「まずは、私の弟に告白したのかどうかの確認」
「先生はなんて?」
 由美子さんのことだ、さらっと認めただろうな。
「最初はそんなことないって言ってたわ」
「えっ、そうなの?」
「意外そうね」
「あ、いや、そんなことはないけど」
「でも、それは先生としては当然の行動じゃない? だって、いくら私があんたの姉だといっても、そういうことっておいそれと話せることじゃないじゃない。特に、先生と生徒の色恋沙汰なんて」
「まあ、確かに……」
「だけど、私が洋一から話を聞いたって言ったら、観念して話してくれたわ」
「……えげつないな」
「なんか言った?」
「い〜え、なんにも」
 明日、学校行ったら、由美子さんに謝っておかないと。
「こういう言い方すると誤解されそうだけど、あんたの話をしてる時の先生、すごく可愛かった。年上の女性なんだけど、それを感じさせない、そうね、いわば『恋する少女』みたいな感じだった。だからね、よくわかったわ。先生がどれだけあんたのことを好きなのかって」
「…………」
「先生は年甲斐もなく、なんて言ってたけど、そんなことないわよね。それこそ、恋愛に年齢なんて関係ないんだから。いくつになっても、恋はしたいのよ」
「姉貴も?」
「私だってそうよ。ま、私の場合は、その相手はずっとひとりでいいんだけど」
 少しだけ照れくさそうに言う。
「って、私のことはいいのよ」
「俺のことだけ確認してきたわけじゃないんだろ?」
「当然よ。私が確認したかったのは、別のこと」
「それって?」
「まずは、先生があんたのことを好きな子がどれだけいるか、知ってたかってこと」
「は?」
「そしたらね、もちろん相手のことがあるから具体的には教えてくれなかったけど、結構いたみたいね、あんたのこと好きな子。そういう相談もされたって言ってた」
「まっさかぁ」
「少なくとも、愛ちゃんと沙耶加ちゃんは先生に相談したそうよ」
「…………」
「あとは、実名は教えてくれなかったけど、同じ学年の子や後輩もいたって」
 そんな話、まったく聞いたことがない。だいいち、俺はあの学校に入って、一度も告白されてないんだ。
「先生ね、基本的にはちゃんとアドバイスしてあげてたらしいんだけど、相手の子が本気だと、ちょっとだけいぢわるしてたみたい?」
「どういうこと?」
「ようするに、あんたを誰かに取られるのがイヤだったんでしょ。わかりやすい乙女心よ」
「……そういうことか」
 確かにわかりやすいけど、相談を受ける側の先生が、そんなことでいいんだろうか。
「ただね、その誰もが口を揃えて言ったことがあるって言ってた」
「なにそれ?」
「あんたには、愛ちゃんがいるからって」
「あ……」
「そりゃ、自分が好きになった相手のことだもの。よく見てるわよ。そしたら、いつもその隣には愛ちゃんがいたことも、当然わかってた。だからだと思うわよ。そういう話があんたのもとまで来ないのは。どう見てもね、あんたと愛ちゃん、お似合いだもの。その好きって想いがどれだけのものかはわからないけど、生半可な想いだと、絶対に愛ちゃんに勝てないから。その子たちも、それを悟って告白してこなかったのかもね」
 惜しいような、ホッとしたような。
「私は、結構嬉しかったわよ」
「なんで姉貴が嬉しいんだ?」
「だって、弟がそれだけいろんな子に想われてるって、いいことじゃない。自分から想われようと思っても、そんなの上手くいかないし」
「それはそうかもしれないけど」
「それにほら、あんたは私の自慢の弟だから。それを認めてもらえただけでも、嬉しいのよ」
「姉貴……」
 やっぱり、姉貴にはかなわない。
「ほかになにを確認してきたんだ?」
「ん〜、それはナイショ」
「どうして?」
「いろいろあるのよ。ただ、あんたに迷惑かかるようなことは聞いてないから、安心して。なんだったら、先生に直接確認してもいいわよ」
「……いや、いい」
 そんなことしたら、墓穴を掘るだけだ。
「でもさ、可能性としては、先生があんたの『彼女』になった可能性もあったのよね」
「まあ、ゼロではないけど」
「だとしたらよ、これも可能性として、先生に私が『お義姉さん』なんて呼ばれたかもしれないのよね」
「……限りなくゼロに近いけど」
「もしそうなってたら、結構大変だったかも。いやあ、相手が愛ちゃんで本当によかったわ」
 そう言って姉貴は笑う。
「あ、そうだ。先生からあんたに伝言」
「ん?」
「休み明けに訪ねてきてくれないと、拗ねちゃうってさ」
「す、拗ねちゃうって……」
「ま、それは冗談だと思うけど、それくらいあんたに会いたいってことよ。恋する乙女のために、あんたも少しは骨を折りなさい」
「……へいへい」
 言われなくても、会いに行くつもりだったし。
「で、洋一」
「なんだよ?」
「昨日は、どうだったの?」
「どうって、なにが?」
「沙耶加ちゃんよ。帰ってきたの夕方だったし、たっぷりデートしてきたんでしょ?」
「そりゃ、まあ」
「どこ行ってきたの?」
「海」
「海? このクソ寒い中?」
「彼女が海が見たいって言うから」
「へえ、珍しいわね。寒かったでしょ?」
「寒いというより、痛いって感じだった」
「ああ、なるほど。言い得て妙だわ」
 姉貴は、うんうんと頷く。
「海のあとは?」
「彼女につきあって、ぬいぐるみ専門店とフルーツパーラーに行って、初詣してきた」
「ずいぶん変わった取り合わせね。でも、沙耶加ちゃん、ぬいぐるみが好きなんだ」
「俺も知らなかったんだよ。なんでも俺が彼女の家に行ってた時は、ぬいぐるみを全部しまってたらしくて」
「ふ〜ん、別にぬいぐるみくらいいいのにね。彼女、女の子らしい女の子だから、違和感ないし」
 それは俺もそう思う。たとえ、沙耶加の部屋にぬいぐるみがたくさん置いてあったとしても、驚きはしたかもしれないが、すぐになるほどと認めてただろうし。
「フルーツパーラーって、ひょっとして、あの有名な?」
「たぶん。俺はそういうの詳しくないけど」
「あそこ、高いのよね。あと、男性は女性同伴じゃないと入れないし」
「よく知ってるね」
「そりゃ、それくらいの情報は知ってるわよ。私もそのうち和人を連れて行こうと思ってたし」
「だったら、カップル限定のパフェだけはやめとけ」
「なんで?」
「和人さんが困るから」
「そんなに大きいの?」
「がんばったけど、三分の一も食べられなかった」
「沙耶加ちゃんは?」
「残りをぺろり」
「だったら、大丈夫よ」
 まあ、彼女に食べられたのなら、姉貴なら余裕か。
「そのあとは、初詣か。どこに行ったの?」
「こっち戻ってきて、いつもの神社」
「わざわざ戻ってきたんだ。向こうにもいろいろあるのに」
「時間を有効利用したかったから」
「ふ〜ん。で、そのあとは?」
「……別になにも」
「あらぁ、それは絶対にあり得ないと思うけど」
「……なんで絶対なんだ?」
「だって、あんたも彼女も、健康な高校生だし」
「…………」
 ぐうの音も出なかった。
「ま、そのあたりは聞かないであげるわ」
 わかってるなら、最初から聞くな。
「ところで、洋一」
「ん?」
「今日って、暇?」
「……状況によって、暇じゃない」
「なによそれ?」
「姉貴が無理難題をふっかけてきたら、暇じゃなくなるってこと」
「なに生意気なことを言ってるのよ」
「ちょ、ちょっと……」
 姉貴は、手加減なしに俺を抱きしめた。
 胸のところに押しつけられ、息ができない。
「暇、よね?」
「ひ、暇だから、離せって」
「ヤだ」
「うっ、ううぅ……」
 ますますギュッと抱きしめられ、苦しいやら気持ちいいやら。
 しかし、どうして俺のまわりには過剰にスキンシップをはかろうとする人が多いんだろ。
 しかも、俺が逆らえない人ばかり。
「あのさ、ちょっと私につきあってくれない?」
「なにに?」
「買い物とか、いろいろ」
「……荷物持ちかよ」
「違うわよ。買い物はたいしたもの買わないし」
「……ホントかよ?」
「ちゃんと、お昼おごってあげるから。ね?」
 まったく、俺も甘いよな。
「しょうがない」
「ありがと、洋一」
 ホント、やれやれだ。
 
 俺たち姉弟三人は、昔からとにかく仲が良かった。
 喧嘩らしい喧嘩もした覚えがないし、たぶん、父さんや母さんに聞いてみてもそう答えるだろう。
 普通は喧嘩くらいするのが当たり前だが、俺たちにはそれはなかった。もちろん、口喧嘩くらいはある。というか、俺なんか、姉貴に文句ばかり言っていた。
 それでも、本当の意味での喧嘩は一度もなかった。
 美樹は、末っ子ということもあって、姉貴の言うことも俺の言うこともよく聞いてくれた。姉貴に対しては、ある種の尊敬の念を持っていたし、俺に対しては、兄以上の感情を持っていたからでもある。
 姉貴も、美樹のことは可愛がっていた。年が離れているのもその理由のひとつだっただろうが、そうじゃなくても自分のことを素直に慕ってくれている妹を可愛がるのは、当然のことと言えた。
 で、俺は、美樹のことは当然可愛がっていた。いや、今でも可愛がってるけど。
 姉貴に対しては、それなりに複雑な想いを持っていた。俺にとって姉貴は、初恋の相手であり、だけど、やっぱり姉なのだ。その折り合いをつけるのがなかなか難しくて、最初の頃は苦労した。
 今時の姉弟としては珍しいくらい仲が良い俺と姉貴だけど、別にそれほど一緒に行動していたわけではない。もちろん、姉貴がどんどん忙しくなったという理由もあるけど、なんとなく一緒にいることはなかった。
 家では結構話はしたけど、外ではほとんどなかった。
 だからだろうか。姉貴が大学に入って、多少時間に余裕ができてからは、必要以上に俺と一緒にいようとした。なにもない時は構わないのだが、たまに駄々っ子になるくらいしつこいこともあって、大変なこともあった。
 それでも俺は、姉貴のことを憎めない。俺に構ってくるのは、愛情の証だし、そうされること自体、イヤじゃないからだ。
 とはいえ、スキンシップ過剰なのは、さすがに考えものだ。
「……なあ、姉貴。なんで俺たち、腕組んでるんだ?」
「なんでって、別にいいじゃない。減るもんじゃないし」
「そりゃ、そうだけど」
 姉貴は、まるで恋人同士のデートのように、腕を組んで歩くことを強要した。
 もちろん断ることもできたのだが、なんとなくそれを受け入れてしまった。
 誰かに見られても、姉貴が相手だから特に問題はないのだが、心境は複雑だ。
「で、俺はどこに拉致られるわけ?」
「人聞きの悪いこと言わないの」
「だけど、どこに行くか教えてもらってないし」
「別にいかがわしい場所じゃないわよ」
「……そんなこと思ってないって」
 どうして実の姉とそんなところへ行かなくちゃならんのだ。
「ま、とりあえずおとなしくついてきなさいって」
「へいへい」
 ま、姉貴に逆らうだけ無駄だから、端からそのつもりだったけど。
 駅前商店街にやって来た俺たちは、商店街を抜け、裏路地へと入った。
 裏路地といっても、別におかしな場所ではない。最近は店も増えてきて、人通りも増えたくらいだ。
 姉貴の目的は、どうやらその中の一軒にあるようだ。
「ここは……」
 そこは、実にこぢんまりとした店だった。
 売っているのは、紅茶。つまり、紅茶専門店だ。
「なんで姉貴がこんな店、知ってるんだ?」
「なんでって、あんたのために決まってるじゃない」
「俺のため?」
「うちはみんな紅茶飲むけど、それが好きって言ってるのは、あんただけだし」
「それは、そうかもしれないけど」
「で、どうせだったら美味しい紅茶の方がいいじゃない。だから、いろいろ情報を集めて、ここを見つけたの。わかった?」
「わかった」
 姉貴の言いたいことはわかるし、それ自体は嬉しい。だけど、それは本当に善意からなのだろうか。どうも姉貴のことだから、裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
「それで、今日あんたを連れてきたのは、ここをあんたにも教えたかったから。買い物は、そのついでみたいなもの」
「それはわかったけど、なんで今日?」
「別に深い理由はないわよ。どうせだから、休みの時がいいと思っただけ」
 疑えばきりがないが、信じないわけにもいくまい。少なくとも、俺をだましても意味はないのだから。
「じゃあ、買い物済ませましょ」
 そう言って姉貴は、手慣れた様子でお目当ての茶葉を探す。
 俺も紅茶はそれなりだけど、これだけの種類があると、さすがに迷う。もちろん、オーソドックスな茶葉もあるのだが、全然聞いたことないような茶葉まである。
 姉貴は、その中からいつも買ってると思われる茶葉を選んだ。
「本当はあんた専用に買ってもいいんだけど、使い切れないともったいないから、みんなも飲めるのにしてるの」
 姉貴が選んだのは、あとで聞いた話によると、ホットでもアイスでもストレートでもなんでも飲める茶葉ということだ。
「すみません。これ、お願いします」
 レジには、二十代後半くらいの女性が店番をしていた。というか、ほかに店員はいない。
「あら、また来てくださったんですね」
「ええ。ここの紅茶はうちでも評判なので」
「それはありがとうございます」
 どうやら、姉貴とその女性はある程度面識があるらしい。
「あら、そちらは?」
 と、女性が俺に気付いた。
「弟です」
「どうも」
「こんにちは。どうですか、うちの店?」
「これだけたくさんの紅茶を見たのははじめてです。感動しました」
「ふふっ、そう言っていただけると、嬉しいですね」
 たおやかに微笑む。
「では、少々お待ちください」
 それから姉貴の選んだ茶葉を、袋に詰めてくれる。
「そういえば、以前、レモンティーが好きな方がいるとおっしゃってましたけど、弟さんのことだったんですね」
「ええ。どうして好きになったのかはわかりませんけど、いつの間にかそれが一番好きになってたので」
「それでしたら、今度はレモンティーに最適な茶葉を教えてさしあげますので」
「それは、こいつに教えてやってください」
 そう言って姉貴は、俺の背中を押した。
「じゃあ、弟さんに教えてさしあげますね」
 それはそれで嬉しいけど、それはつまり、俺はまたここに来なくてはならないということだ。
「おまたせしました」
 茶葉を受け取り、代金を支払う。
「またのお越しをおまちしております」
 入り口まで見送られ、俺たちは店を出た。
「綺麗な人だったでしょ?」
「ん、まあ。だけど、結婚してるみたいだったけど」
「あら、よく見てるわね」
 茶葉を袋に詰めてる時に、左手薬指に指輪がはまっているのが見えた。
「でもね、それは半分だけ正解なの」
「どういうこと?」
「これは話してもいいって言われてるから言うんだけど、旦那さんね、病気で亡くなってるのよ」
「えっ……?」
「脳出血で、急逝。結婚して、四年しか経ってなかったんだって。最初はどうしようかって悩んだらしいんだけど、旦那さんといつか実現させたいって思ってたあの紅茶専門店をやろうって決めて、今に至ってるのよ」
 まさか、そこまで複雑なことがあったとは。
「で、あの指輪は今でも旦那さんを愛してるという証。ま、ようするに再婚する意志はないってことね」
「子供は?」
「ん、女の子がひとりいるって。今は実家にいるから、店に出てる時は預けてね」
「ふ〜ん」
「実際、大変だと思うわよ。あの店の売り上げがどれだけかはわからないけど、生活していくのは大変だし」
「そうだろうね」
「それでも、旦那さんと自分の夢を追い続けるために、今を選んだわけ。そういうところは、素直にすごいと思うわ」
 確かにそうだ。夢を追うことは、思っているよりもずっと大変だ。
 しかも、旦那さんに先立たれ、さらに困難な道が待っている中で、それを続けるのは、なおさら大変だ。
「だからってわけじゃないけど、ひいきにしてるのよ。そりゃ、私ひとりが紅茶を買ったところでたいして変わりはしないと思うけど」
「そんなことないさ。あの人だって、姉貴がそう思ってくれてることを感じ取って、いろいろ話を聞かせてくれたんだろうから」
「そうかもね」
 そういうことをなんの気負いもなくできるのが、姉貴だ。
「洋一も、たまにでもいいから、顔出して話し相手になってあげてよ。そうやっていろんな人と話しているだけで、自分はここにいていいんだって思えるようになるから。それが店を続けていく原動力にもなるし」
「姉貴に言われなくても、あれだけ紅茶の充実した店に行かないわけないって」
「ふふっ、そうね。あんたは、そういう子ね」
 そう言って姉貴は笑った。
「さてと、とりあえずひとつの用事は済んだから、次行きましょ」
「次って?」
「まずは、腹ごしらえでしょ」
 
 俺たちが入ったのは、ラーメン屋。以前、テレビで取り上げられてから、一気に人気店となった店だ。
 正統醤油ラーメンが看板メニューで、俺も姉貴もそれを頼んだ。
「あとは、俺になにをさせようっていうんだ?」
 ラーメンをすすりながら、訊ねる。
「知りたい?」
「知りたいって、そういう問題か?」
「そうね、あんまり焦らしてもしょうがないから、教えてあげるわね」
 姉貴は、チャーシューを頬張り、頷いた。
「実はさ、これから和人と会うことになってるのよ」
「和人さんと?」
 意外な名前に、俺は首を傾げた。
「和人さんと会うなら、俺はいない方がいいんじゃない?」
「今日はね、洋一にもいてほしいのよ」
「なんでさ?」
「ちょっとね、大事な話があるのよ。で、洋一には、その証人になってほしいの」
「大事な話?」
 大事な話と言われると、思い浮かぶのはひとつしかない。
「なあ、姉貴。ひょっとして──」
「それは、あとでね」
 姉貴はそう言って微笑んだ。
 ラーメンを食べ、ラーメン屋をあとにした。
「どこで会うの?」
「いつもの喫茶店」
 姉貴と和人さんは、こっちで会う時はその喫茶店ばかり利用しているらしい。
 喫茶店自体は、どこにでもある普通の喫茶店だった。
 座席数は多くもなく、少なくもない。
 店内には有線が流れ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 姉貴たちには、『指定席』というものがあるらしい。もちろん、店に予約してるわけじゃない。ただなんとなく、いつも同じ席に座っているということだ。
 その席はふたり用のテーブルをふたつあわせて四人用にしている席だった。
 俺は、姉貴の隣に座り、とりあえず注文する。
「何時に待ち合わせ?」
「一時くらい」
「くらい?」
「別に時間厳守しなくちゃいけない用事があるわけじゃないもの。一時くらいにいつもの場所で。それで通じるのよ」
「ふ〜ん」
 まあ、ある程度そういうのの形を決めてしまえば、確かにそれでいいのかもしれない。
「今日、俺が一緒なのは、伝えてあるの?」
「ううん」
「は?」
「いや、あんたを同席させようと思ったのは、今朝、あんたと話してる時だから。それから和人には連絡取ってないし」
「……そんなんでいいのか?」
「別に問題ないわよ。和人だって、洋一のこと知らないわけじゃないし」
「……デートじゃないの?」
「デート? あはは、違うわよ。今日はもともといろいろ話をするために会うことにしてたの。話す内容は流動的だったけど。それももう固まったけどね。ま、そういうわけだから、あんたはなにも心配する必要はないの」
 なんだかな。
 和人さんは、一時五分前にやって来た。
「や、和人」
「相変わらず早いね、美香は」
「今日はいろいろあってね」
「こんにちは、和人さん」
「あれ、洋一くんまで」
「姉貴に拉致られてここに」
「だから、人聞きの悪いこと言わない」
 冗談のわからん人だ。
 和人さんも注文する。どうやら、それもいつもと同じらしい。
「でも、実際どうして洋一くんを?」
「ん、洋一を今日の話の証人にしようと思ってね」
「証人か」
「あとで言った、言わないになると困るじゃない。こいつはそんな風には見えないけど、結構律儀だから。話の内容を全部とは言わないけど、かなり覚えててくれるわよ」
 ひどい言われようだ。
「あと、洋一の前だからって、遠慮することないから。いないものと思って話してくれて全然オッケーだから」
 姉貴の言葉に、和人さんは少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた。俺としては、そんな姉貴をずっと見てきたから、特に感慨はない。
 ウェイトレスが、和人さんの前にカプチーノを運んできた。
 姉貴は、和人さんがそれを一口飲むのを待ってから切り出した。
「で、和人。少しは考えてくれた?」
「考えたよ」
 いきなり俺のわからないところから会話がはじまった。
「でもさ、美香。なんで今のタイミングなわけ? それがどうしてもわからない」
「理由はいろいろあるわ。いちいち枚挙してほしい?」
「できれば」
「じゃあ、してあげる」
 姉貴は、自分のアップルティーを一口飲んだ。
「一番の理由は、この前言った通り、私が一緒にいたいから。今の状況に不満があるわけじゃないけど、やっぱり会うのに時間もかかるわけじゃない」
「まあね」
「会う時に待ってる時間も楽しいけど、会いたい時に会えるって、大事だと思うから。和人もわかってるでしょ?」
「わかるよ。わかるけど、それだけじゃ『今』というタイミングの説明にはならない。それこそ、あと少し待てばいくらでも、という風に考えてもいいわけだし」
 なんとなく、話の流れが見えてきた。
「次の理由。これは簡単。さっきの私が一緒にいたいっていうのと多少重複するけど、私、基本的に誰かに依存したいタイプなのよ。ここまでつきあってきて、和人もわかってるとは思うけど」
「うん」
「あと、そのせいかどうかわからないけど、常に誰かに側にいてほしいという願望、ううん、もはや強迫観念ね。そういうのを持ってる。淋しがり屋、とは言わないわ。多少淋しいと思ったことはあるけど、それ自体が我慢できないほどではなかったから」
「つまり、美香は俺の側にいて俺に依存したい、と」
「平たく言えばね。ただ、もちろん限度があることもわかってる。私が考えてるほどそんなこと上手くいかないこともわかってる。それでも、私はそうしたい」
「…………」
 和人さんは、腕組みをして小さく唸った。
「ほかに、なにか理由はあるのかい?」
「実を言うとね、これが今回私が言い出した原因なの」
 そう言って姉貴は、ポンと俺の肩を叩いた。
「えっ……?」
「洋一くんがどうかしたのかい?」
「和人も、洋一が愛ちゃんとつきあってるのは知ってるわよね?」
「ああ。文化祭の時にもこの正月にも会ってるからね」
「洋一と愛ちゃんはね、あくまでも口約束なんだけど、もう婚約までしてるのよ」
「あ、姉貴……」
「それは本当かい?」
「え、ええ、まあ……」
「だけど、これはそんなに簡単な問題じゃないのよ」
「どういう意味だい?」
 和人さんは、さっぱりわからないという感じで首を傾げた。
「もちろん、洋一と愛ちゃんになにもなければ、素直に婚約しておめでとう、なんて言えたと思う。まあ、実際おめでとうなんだけど。でも、可能性としてはかなり低いとは思うんだけど、それが覆る可能性があるの」
「覆る? それは、口約束だから?」
「それは無関係。昔みたいに正式に結納の儀式をしても、同じこと」
「さっぱりわからないな」
「今ね、洋一はいわゆる『三角関係』の真っ直中にいるのよ」
「三角関係?」
「…………」
「和人も会ってる子なんだけどね」
「俺が会ってる子?」
 和人さんが会ってる俺の知り合い、しかも女の子限定の知り合いなんて、たかがしれてる。
「……ああ、あの子かな」
 どうやら、どっちかを思い浮かべたらしい。
「それはまあ、いいのよ。その問題はあくまでも洋一たちの問題だから。もちろん、姉として気にはなるけどね。私が言いたいのはそこじゃなくて、私もそうなりたくないってことなのよ」
「それはつまり、俺と美香の間に、誰か別の、まあ、男か女はわからないけど、そういう奴が現れてほしくない、と」
「うん」
 姉貴は、頷いてから自嘲した。
「和人はね、私の理想の男性像に限りなく近いの。そりゃ、理想は理想、現実は現実ってこともわかってる。それでも、和人はそんな中にあってもかなり理想に近い。だからということはまったくないけど、私はね、もう和人以上の人を見つけられないし、見つけるつもりもない」
「美香……」
「これが私の勝手な理想を押しつけてるだけだっていうのもわかってる。でも、そんなこと言っても、この私の想いにだけはウソはつけない。将来に渡っても、私は和人以外を好きになることはない。それくらい和人のことが好き。好きだから、一緒にいたい」
 いつもの姉貴ではなかった。隣にいるのは、ただひたすらに目の前にいる大好きな人を想い続けている、ひとりの女性だった。
「そして、ずっと一緒にいられるように、誰にも和人を取られないように、側にいたいの」
「……なるほど」
 和人さんは、得心した様子で頷いた。
 カプチーノを飲み干し、小さく息を吐いた。
「だからなんだね、一緒に暮らしたいって言ったのは」
 やっぱりそうだった。
 姉貴は、和人さんと同棲したいんだ。
 確かに、大事な話だ。
「美香の言い分はわかったし、どれだけ俺のことを想ってくれてるかってこともわかった。でもさ、それって一緒に暮らしたら解決することなのかい? たとえばだけど、もし俺のことを好きだっていう奴がもうひとり現れたとする。現れること自体はどうしようもないだろうから、それ以上どうにもできなくすればいい。だけど、一緒に暮らしてたって、どうにもできなくすることは、できない。俺も美香も、それぞれに行動しているように、その誰かも自分の意志で行動してる。それをどうにかすることなんて、神様でもない限り無理だ」
 和人さんの言う通りだと思う。
 姉貴の提案も悪くはないだろうし、功を奏すかもしれない。でも、それはあくまでもそうなる可能性があるということだ。そうならない可能性も、ある。
「……そんなのわかってる。私の言ってることが、所詮気休めにしかならないこともわかってる。でも、イヤなの。なにもしないで後悔するのだけは、絶対にイヤなの。同じ後悔するなら、全力を尽くしてから後悔したい」
 姉貴らしい考え方だ。
「お願い、和人。私を、あなたの側にいさせて」
「…………」
 和人さんは、腕を組んだまま、なにも言わない。
「和人……」
 姉貴は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……悪いけど、それはできない」
 そして、和人さんの答えは、姉貴の望んだものではなかった。
「どうして?」
「もし仮に、今回美香の言うことを聞いたとしよう」
「うん」
「最初のうちはいいかもしれない。でも、今の美香の理由が元で一緒に暮らすことになったら、きっと、一緒に暮らしてからも同じような理由で、また別のなにかを言われる」
「それは……」
「それがどんなものになるかはわからないけど。ただひとつだけ、わかってることがある。そうなった時には、俺と美香の関係は終わってる、ということだよ」
「…………」
 姉貴は、唇を噛みしめた。
「なあ、美香。もう少しだけ、冷静に考えてくれないか。別に俺は、美香と一緒に暮らすのがイヤなわけじゃない。そうなったらそうなったで、きっと今より楽しいだろうし。だけど、そうなるのはもう少し先じゃダメかい? 今はもう少し、このままでいた方がいい。お互いのためにも」
「和人……」
「それに、こう言ったらなんだけど、洋一くんや美樹ちゃんを放っておけるかい? 少なくとも洋一くんが高校を卒業するまでは、放っておけないだろ?」
「……うん」
「だったらなおのこと、今のままの方がいい」
「だけど、私は……」
「あと、俺のこと、信用できない? 美香以外の誰かが現れたら、そっちに行っちゃうと思ってる?」
「それは……」
「それは、あり得ない。俺は、本当に美香のことが好きなんだから。極端な言い方すれば、美香以外に女はいなくてもいい、と思えるくらいにね」
 次第に、姉貴の表情にいつものらしさが戻ってくる。
「まあ、美香のことを好きになる男はいるかもしれないけど」
「それこそ、余計な心配よ。私はもうね、和人にすべてを捧げてると言っても過言じゃないんだから。ほかの男なんて、どうでもいいの」
 なんとなくだけど、こうなることは予想できた。
 姉貴自身も、こうなるだろうと予想していたはずだ。
「もし、それでもなお心配なら、こうしようか」
 和人さんはそう言って、カバンの中から紙とペンを取り出した。
 その紙に、なにやら書いていく。
「こんなもんか」
 書き上がった紙を、姉貴の前に置いた。
「これって……」
 俺も、それを見る。
「洋一くんじゃないけど、将来を約束していれば、心配が消えることはないだろうけど、だいぶ薄くなるだろ?」
 それは、簡易婚約証書だった。
 婚約した旨を書き、その下に和人さんの名前。当然、その下にも名前を書く欄がある。
「それで、今回はいったん終わりにしないか?」
「……ペン、貸して」
 姉貴は、和人さんからペンを受け取り、自分の名前を書いた。
 と、さらになにか付け加える。
「……うん、これでよし」
 姉貴が書いたのを見ると、まずは和人さんの下に名前を書いていた。
 同時に、和人さんが書いた文言に付け足しがあった。
『死ぬまでずっと』
 それが付け足されていた。
「というわけで、洋一くん」
「なんですか?」
「証人になってくれないか?」
 この場合の証人は、ふたりが婚約したことに対する証人だ。
「わかりました」
 俺は、さらにペンを借りて、その紙に自分の名前を書いた。
「……これで、いいですか?」
「うん、十分。な、美香?」
「そうね、十分だわ」
 ようやく、姉貴は笑みを浮かべた。
「この場合は、おめでとう、と言うべきなのかな?」
「さあ、どうかしら。どう思う?」
「どうだろうね。ただ、そう言われて、悪い気はしないよ」
「じゃあ、改めて。和人さん、姉貴。おめでとう」
 俺の言葉に、ふたりはとてもいい笑顔を見せてくれた。
 
「姉貴はこれからどうするの?」
 喫茶店を出た俺は、姉貴にそう訊ねた。
「どうしようかしら。和人、なんかある?」
「別に俺はなにもないけど」
「もしふたりでどっか行くなら、俺は早々に退散するけど」
「ん〜、それでもいいんだけど」
 いつも即断即決の姉貴が、珍しく悩んでる。
「ねえ、和人。うちに来ない?」
「今からかい?」
「そ。別になにもないんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、決まり。うちに行きましょ」
 そんなこんなで、俺たちは和人さんと一緒にうちへ帰ることになった。
 家に着くまでのふたりのやり取りは、いつもとさほど変わらなかった。だけど、本当に些細なことだけど、いつも以上に姉貴は楽しそうだった。今の姉貴にこの笑顔を作らせることができるのは、和人さんしかいない。
 だからというわけじゃないけど、和人さんにはずっと姉貴の側にいてあげてほしい。
 これは、弟としての俺の本心だ。
 家に帰ると、家の中が賑やかだった。
 玄関には、母さんと美樹以外の靴が二足。
 靴だけでは誰か判断できないから、とりあえず確認の意味も含めてリビングに顔を出した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 リビングには、母さんともうひとり、愛美さんがいた。
「おじゃましてるわね」
 愛美さんは、俺たちに笑顔でそう言った。
「今日はどうしたんですか?」
 姉貴が訊ねる。
「実家の方から荷物が届いてね、そのお裾分け」
「みかんをいただいのよ」
 そういえば、愛美さんの方の実家は、静岡だと聞いたことがある。なるほど、だからみかんなのか。
「それはそうと、美香ちゃん」
「あ、はい」
「そちらは?」
 和人さんのことを知らない愛美さんは、興味津々という感じで姉貴に訊ねた。
「私の彼氏です。笠原和人といって、同じ大学に通ってます」
「あら、そうなの。ふ〜ん、なるほど」
 愛美さんは、和人さんを見てしきりに頷いている。
「美香ちゃんも隅に置けないわね」
「いえ、そんなことは……」
 姉貴も愛美さん相手だと、さすがに負ける。
「ああ、そうそう。洋一くん」
「なんですか?」
「愛、美樹ちゃんと一緒にいるから、声かけてあげて」
「わかりました」
 俺は姉貴たちを残して二階へ。
 美樹の部屋をノックすると、すぐにドアが開いた。
「あ、お兄ちゃん」
「ただいま」
「おかえりなさい」
「洋ちゃん、おかえり」
 美樹と愛は、雑誌やらなにやら広げ、話をしていたらしい。
 ちゃんと、お茶とお菓子が用意されている。
「美香さんの方の用事は終わったの?」
「ああ。姉貴も一緒に帰ってきたし」
「そうなんだ」
「おまえは、なんで?」
「なんでって、その言い方はひどい〜」
 愛は、ぷうと頬を膨らませ抗議する。
「せっかく洋ちゃんに会いに来たのに」
「いや、まあ、それは別にいいんだけど」
「お母さんがみかんを届けに行くって言うから、どうせ家にひとりになっちゃうと思って、一緒に来たの。そしたら、洋ちゃんは美香さんと出かけてていないし。だから、美樹ちゃんといろいろ話してたわけ」
 まあ、愛の場合は、愛美さんをダシに使って俺に会いに来た、ということだろうけど。
「で、ふたりでなんの話してたんだ?」
 俺も輪に加わり、話に参加する。
「春物の洋服とか見てたの」
 確かに、広げられてる雑誌のいくつかは、ファッション雑誌だった。例の『パレット』もある。
「今は、美樹ちゃんのを見てたの。ほら、これなんて美樹ちゃんに似合いそうでしょ?」
「ん、まあ、そうかもな」
「ほら、美樹ちゃん。洋ちゃんも似合うって」
「ん〜、じゃあ、こういうの探して買おうかなぁ」
「別に俺に言われたからって、無理に買うことないんだぞ」
「それはわかってるよ。でも、せっかくだし」
 なにがせっかくなのか、さっぱりわからん。
 それからしばらくは、ふたりの話につきあった。
 もっぱら俺は聞き役だったが、時折意見を聞かれた。正直言えばそれはどうでもいいのだが、ちゃんと答えないとこのふたりはすぐにへそを曲げるので、一応ちゃんと答えた。
「んじゃ、俺はいったん部屋に戻るわ」
 話がひと段落したところで、そう切り出した。
「あ、じゃあ、私も」
 当然のように愛もついてくる。本当は美樹もついてきたいのだが、愛の手前、そこまでは言わなかったし、やらなかった。
 で、部屋に入るなり──
「洋ちゃんっ」
 愛が抱きついてきた。というか、半分タックルみたいな感じで、そのままベッドに押し倒されてしまった。
「いきなりなんだよ」
「だってぇ、淋しかったんだもん」
「淋しかったって、たかだか三日だろうが」
「三日もだよ。本当は毎日一緒にいたいんだから」
「まったく……」
 その気持ちを全否定するつもりはないけど、もう少し考えてほしいものだ。
「そう考えると、学校があった方がいいのかなって思うの。だって、学校があれば毎日会えるし」
 そうかもしれんが、微妙だな。学校自体が好きなわけじゃないし。
「もう明日から学校なんだよね。冬休みなんて、ホント、あっという間」
「まあな。でも、これだけ休めるだけましって気もするけど」
「社会人になったら、無理だもんね」
 学生時代の休みは、社会人になった時にそのありがたみがわかるらしい。今なんて、下手すればさっさと終わってほしいと思ってる奴もいると思うが。
「あ、そうだ。ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「明日から、私が洋ちゃんのお弁当作ってもいい?」
「弁当? なんでまた?」
「ん〜、花嫁修業、かな」
「花嫁修業?」
「それは言い過ぎかもしれないけど、心境としてはそんな感じ。だって、毎日お弁当を作るって、大変なことだから。そうすれば自然と料理のレパートリーは増えるし、なにより洋ちゃんの好みを知ることができるから」
 愛にとっては、それが重要なんだろうな。
「どうかな?」
「別に構わんが、愛はいいのか?」
「ん、どうして?」
「だってさ、弁当を作れば少なからず材料費なんかがかかるだろ? おまえは作る手間は惜しまないとは思うけど、材料を揃える愛美さんがなんて言うか」
「お母さんなら大丈夫だよ。前々から洋ちゃんにお弁当作っていけばいいのにって言ってたくらいだから」
「……なるほど」
 確かに、愛美さんなら言いかねないな。
「それに、材料費といっても、いつもいつもお弁当のために買ってくるわけじゃないし。たいていは前の日の夕飯の残りを使ったりしてるから、それほど負担にならないよ」
「それならいいけど」
「じゃあ、お弁当作ってくるね」
「好きにしてくれ」
 そこまで言われると、さすがに断れない。
「明日はなに作ろうかなぁ」
「とにかく、食えるものにしてくれ」
「むぅ、なによその言い方。私の料理の腕は、洋ちゃんだって知ってるでしょ?」
「普通に作ればな。だけど、おまえの場合は余計なことをしようとすると、失敗する確率が高くなる」
「そんなことないよぉ。洋ちゃんのために作るんだから、死んでも不味いものなんて作らないもん」
「そうだといいんだけどな」
 愛の腕を信用してないわけじゃない。ただ、あらかじめ言っておかないと、あとでとんでもない目に遭うかもしれないからだ。
「ところで洋ちゃん」
「ん?」
「昨日は、沙耶加さんとデートだったんだよね?」
「ん、ああ、そうだけど」
「なにか変わったこと、あった?」
「いや、別に。普通だったけど」
「ホント?」
「今更ウソついてもしょうがないだろ」
「それもそっか」
 愛が気にするのはわかるが、気にしすぎてノイローゼになられても困る。
 俺が気にかけて愛にできるだけそう思わせないようにしなくちゃいけないんだろうけど、それもなかなか難しい。特に、沙耶加との時は。
「こういうのも、やっぱり慣れちゃうのかな?」
「こういうのって、なんだ?」
「ん、洋ちゃんが沙耶加さんとデートして、今はそれがイヤだイヤだ思ってるんだけど、そのうちそれがしょうがないって思えるようになっちゃうのかなって」
「それは……」
 ないとは言えない。どんなにイヤなことでも、慣れというのはある。
「そうはなりたくないけど、やっぱりしょうがないのかな」
「愛……」
 これから先、俺は何度愛の笑顔を曇らせるんだろうか。
 どんな理由があろうと笑顔を曇らせてはいけないのに。俺はそう誓ったはずなのに。それを自ら破っている。
 本当に、情けない。
「……なんでなんだろうな」
「うん?」
「なんでこんなことになってるんだろうな」
「……うん、そうだね」
 いくら嘆いたところで、今更どうすることもできない。
「たまに思うんだ」
「なにを?」
「もし、愛が俺のことを好きになってなかったら、愛ももう少し違った目を見られていたんじゃないかって」
「…………」
「もちろん、それが良い結果に繋がったかどうかはわからないけどな。ただ、可能性としては、今みたいに思い悩むことはなかったかもしれない」
「……そうかもしれないけど、でも、私は洋ちゃんを好きになれて、本当によかったと思ってる。そりゃ、今みたいに沙耶加さんとのことでいろいろ大変な目に遭ってはいるけど。それでも、私は洋ちゃんの彼女になれて、婚約者になれて、一緒にいられて、側にいられて、本当に幸せだから」
 そう言って愛は、俺の胸に頬を寄せた。
「悪かったな。余計なこと言って」
「ううん、そんなことないよ。私だって以前、余計なこと言ったりしてるし」
「そっか」
 俺は、愛の髪を撫でた。
「洋ちゃん」
「ん?」
「エッチ、したいな」
「は……?」
「だからぁ、エッチしたいの」
「いや、おまえ、それはいくらなんでも唐突だし、無理だろ」
「……じゃあ、うちに行こ」
「なんで……って、そうか。愛美さん、今うちにいるんだな」
「うん。だからね?」
「……どうしてもか?」
「うん、どうしても。してくれないと、明日からとんでもないことが起きるよ」
 こいつは、やると言ったらマジでやる奴だからな。
「はあ……」
「ね、洋ちゃん?」
「わかったよ」
「あはっ、ありがと」
 こうして俺は、ダメ人間街道を突っ走っていくんだろうな。
 はあ……
 
 三
 冬休みが終わり、学校がはじまった。
 初日は始業式と実力テスト。どちらも歓迎したくないことだが、やらないわけにはいかない。
 なんとかそれを切り抜け、ようやく解放される。
 そういえば、昼休みには昨日の愛の宣言通り、愛が弁当を作ってきた。中身は実にオーソドックスなものだったが、むしろその方が俺にはありがたかった。それに、そういう方が旨いか不味いか、はっきりわかる。
 ちなみに、味の方は文句のつけようもないくらいだった。
 放課後。
 俺は、真琴ちゃんとの約束を守るため、屋上にいた。
 さすがに一月の屋上は寒かった。ただ、テストでボーッとしていた頭が、すっきりしたのも事実だった。
 少しすると、真琴ちゃんがやって来た。
「先輩、おまたせしました」
「やあ、真琴ちゃん」
 真琴ちゃんの手には、真琴ちゃんがこの冬休み中に描いたという絵があった。
「早速なんですけど、見てもらえますか?」
「うん」
 今回の真琴ちゃんの絵は、静物画だった。題材は、鏡。それと、その鏡に映った景色。
 鏡は、描くだけならそれほど難しくない。でも、その鏡に映ったほかのものまで描こうと思うと、なかなか難しい。
「ん〜……」
 真琴ちゃんの絵は、実に上手く描かれていた。普通のどこにでもある鏡なのだが、鏡面の微妙な光沢も表現できていたし、鏡の中の景色も綺麗に描かれていた。
「どうですか?」
「うん、悪くないね。ただ、このあたり」
「はい」
「このあたりは、もう少しはっきり描いてもよかったんじゃないかな。確かに実際見てもそんなに見えないのかもしれないけど、どうもここだけぼやけてる感じがする」
「なるほど。確かにそうですね」
「あとは、問題ないかな」
 もともと真琴ちゃんの絵に俺が言えることなど少ない。それでも、せっかく見せてもらっているので、思ったことを言ってるだけだ。
「先輩はどうですか?」
「俺はぼちぼちだね。やる気になった時に、少しずつ描いてるよ」
「そうですか。あ、完成したら、見せてくださいね」
「もちろん」
「今は、どんなのを描いてるんですか?」
「人物画だよ」
「人物画ですか? それって、私が知ってる人ですか?」
「残念ながら、知らない人。というか、俺も知らないし」
「どういう意味ですか?」
「雑誌を見ながら描いてるだけだから」
「雑誌、ですか」
「姉貴が持ってた雑誌に印象的な写真があって、それを使って描いてるんだよ」
「なるほど」
 誰かにモデルをやってもらうと、時間がかかる。だから、俺は結構そういう写真なんかを利用してる。もちろん、写真は二次元だから凹凸まではわからないけど、それでも勉強にはなる。
「ちなみに、それって、女性ですか?」
「うん、そうだけど」
「……綺麗な人ですか?」
「いや、まあ、雑誌に載るくらいだから綺麗だけど」
「ふ〜ん……」
 女の子は、どうしてそういうのに敏感に反応するんだろうか。実に不思議だ。しかも、今回のなんてどう考えてもあり得ない紙の上の女性相手なのに。
「先輩」
「ん、どうしたの──って、どうしたの?」
 と、真琴ちゃんはなんの前触れもなく抱きついてきた。
「別に私は先輩とつきあってるわけじゃないですけど、それでも嫉妬しちゃうんです。森川先輩やお姉ちゃんなら、まだ我慢もできますけど、全然知らない人に先輩が心を許してると思うと、やるせなくて」
「真琴ちゃん……」
「先輩……」
 そっと真琴ちゃんの頬に手を添える。
「……ダメですね、私」
「ん、なんでだい?」
「だって、先輩に余計なことを考えさせてますから」
「そんなことないよ。それに、真琴ちゃんのことなんだから、余計なことだなんて思わないよ」
「先輩……」
 少しだけ力を込めて、真琴ちゃんを抱きしめる。
「このまま、先輩だけのものになりたい……」
「真琴ちゃん……」
 そう言って真琴ちゃんは目を閉じた。
 そんな真琴ちゃんに、俺はキスをした。
 
 真琴ちゃんの俺への依存傾向は、最近特に強くなっている。俺が悪いところもあるのだが、少し考えなくてはならない。このままだと、あまりいい結果にはならない。
「わかってはいるんだけどなぁ……」
 やっぱり真琴ちゃんがカワイイから、どうしても強く出られない。
 そんなことを考えながら、俺は廊下を歩いていく。
 学校がはじまったばかりなので、あまり生徒の姿は見られない。ま、もともとこのあたりは静かだけど。
「失礼します」
 ノックをしてからドアを開ける。
「あら、洋一くん」
 由美子さんは、笑顔で俺を迎えてくれた。
 あの日以来、由美子さんには会ってなかったけど、こうして目の前に立っていても、だいぶ落ち着いていられる。
「座って」
「はい」
 由美子さんは、仕事の手を止め、お茶を淹れてくれた。
「洋一くん、ちょっとだけいい?」
「はい」
 俺は、由美子さんを抱きしめ、軽くキスをした。
「ずっとこのままでいたいくらい……」
 その誘惑をなんとか振り払い、俺たちはそれぞれ座った。
「久しぶりにね、『恋』をしてるって思えたわ。あの日、洋一くんに抱きしめてもらい、キスをして。もう頭の中は、洋一くんのことでいっぱい」
 確かに、そういう話をしている時の由美子さんの表情は、恋する女性の表情だ。
 相手が俺であるということを除いても、その表情はとてもよかった。
「私もわかってはいるのよ。でも、頭の中でどれだけそれはダメだって否定しても、心がそれを許してくれないの。洋一くんに見つめてほしい。抱きしめてほしい。キスをしてほしい。抱いてほしい。そう思ってしまうの」
 そう言って、少しだけ複雑な笑みを浮かべる。
「もし、洋一くんに身を任せることですべてに区切りをつけられるなら、そうしてもいいと思ってる」
「由美子さん……」
「でもね、それじゃあきっと区切りはつかない。むしろ、私はさらに洋一くんから離れられなくなる。だから、それはしないつもり」
「そうですね。今は、その方がいいと思います」
「うん」
 由美子さんとなら、そういう関係になってもいいとは思ってる。もちろん、それは決着をつけるためだ。継続的につきあうためじゃない。
 だけど、今のままだと、それはできない。俺も由美子さんも、お互いに依存してしまう可能性があるからだ。
「それでも、もし洋一くんが私を受け入れてくれるなら、うん、私はいつでも洋一くんに身を任せるから」
「そ、そんなこと言わないでください」
「ふふっ」
 まあでも、俺たちの関係はずっとこんな感じかもしれない。なんだかんだ言いながらも、由美子さんは俺なんかよりもずっと大人だから。すぐに自制できなくなるガキとは違う。
「そういえば、おとといお姉さんが来たわよ」
「ええ。行くって言ってましたから」
「洋一くん、美香さんに私のこと、話したの?」
「半分脅された形で」
「なるほどね」
「だいたいのことは姉貴から聞いたんですけど、姉貴、余計なことを言ってませんでしたか?」
「別にそういうのはなかったわ。ただ、確認しに来ただけ」
 姉貴の言う通りか。
「美香さんとちゃんと話をしたのはおとといがはじめてだったけど、彼女、本当に洋一くんのことを大切にしているのね。どれだけ洋一くんのことが大切なのか、話しているだけでわかったもの」
「まあ、うちは姉弟が仲が良いですからね」
 誰が見ても、うちら姉弟は仲が良いと思われるからな。俺の言葉は、それを自ら証明してるだけだ。
「あと、美香さんが在学中、どうしてあれだけ人気があったのかも、わかった気がするわ。綺麗だし、面倒見はいいし、なにより性格がいいものね」
 それは事実なのだが、弟としてはそれを素直に認めていいものかどうか。
「美香さんもきっと、相手が私だったから心配だったのよね」
「いや、それはたぶん、俺よりも由美子さんの心配をしたんだと思いますよ。姉貴以外には誰にも言ってませんけど、もし知られれば、由美子さんもどうなるかわかりませんし」
「そうね。それでも、そういうことをひと言も言わないで気にかけてくれたから、嬉しかったわ」
 たぶん、姉貴が由美子さんに会った本当の理由は、それなんだろうな。俺とのことは誰にも話せないことだ。そうすると、どうしても自分の中だけで溜め込んでしまう。それがストレスになる可能性もある。
 誰かひとりにでもそれを話して、意見を言ってもらえれば、だいぶ楽になれる。その役目を姉貴は買って出たのだろう。
「だから、私も彼女にいろいろ話したの。洋一くんのこと以外のこともね。それのことは聞いた?」
「いえ。姉貴から聞いたのは、由美子さんが本当に俺に告白したのかということと、ほかに俺のことを相談しに来た人はいたかってことです」
「そっか」
「姉貴が自分で判断したんだと思います。俺になにを話していいのか、そうでないかを」
「じゃあ、私から言うのはやめるわね。せっかく美香さんがそう考えたのだから」
「それでいいですよ」
 実際、それ以上のことを聞かされても、俺にはどうすることもできないんだ。なら、余計なことを頭に入れず、今のことだけ考えてる方がいい。
「ねえ、洋一くん。もしよかったらなんだけど、今度、デートしない?」
「で、デートですか?」
「さすがにこの近辺では無理だけど、少し離れたところでなら、一緒にいても問題ないと思うから」
「それは、そうですけど」
「どうかしら?」
 すごく魅力的な申し出だけど、どうするべきか。
 確かに少し離れたところでのデートなら、関係者に見られる可能性はほとんどないだろう。だけど、それも絶対じゃない。俺とのせいで、由美子さんになにかあったら、悔やんでも悔やみきれない。
「もし誰かに会うのが心配なら、私の部屋に来る?」
「えっ……?」
「デートはデートでしてみたいけど、結局は洋一くんと一緒にいられればいいから」
「…………」
 由美子さんにそこまで言わせては、さすがに応えないわけにはいかない。
「わかりました。デートしましょう」
「本当?」
「はい。俺も、由美子さんとデートしたいですから」
 これは本心だ。
「ありがとう、洋一くん」
 由美子さんは、そう言って微笑んだ。
「あ、でも、本当に私の部屋に来る? 洋一くんなら、いつでも大歓迎なんだけど」
「え、えっと、それは嬉しいんですけど……」
 それをすると、取り返しのつかないことになりそうで怖い。
「まあ、そのあたりは状況によって決めましょう」
「はい」
 なんとなくだけど、そういう方向へ進んでいるような気がする。
 少し、気を引き締めないと。
「それで、洋一くん」
「なんですか?」
「今日は、もう少し時間ある?」
「ええ、ありますけど」
「ふふっ、それじゃあ、もう少しだけ、私につきあってもらおうかしら」
 
 週が変わり、月曜日には成人式が行われた。今年は姉貴が成人式なので、母さんなんかは結構張り切ってた。
 父さんも母さんも姉貴に着物を用意し、それを着た晴れ姿をカメラに収めていた。
 成人式自体は家族には関係ないし、参加した姉貴にとっても面白いものではなかっただろう。
 それに、成人式を迎えたからといって、すぐに大人になるわけではない。実際、姉貴の誕生日は今月の二十七日だ。それまでは十九なのだから、成人の義務も権利も有していない。
 まあ、成人式なんてそんなものだ。
 その週末には、センター試験が行われた。今年は直接関係ないけど、来年は俺たちの番になる。だから、あまり人ごとではない。
 とはいえ、それももう少し経たないと実感できないと思うけど。
 センター試験が終わると、三年生は受験モード本番に突入する。学校にもあまり来なくなるし、三年生の担任の先生たちはピリピリした雰囲気になる。
 去年もそうだったし、今年もそうだ。
 うちは私立だから、合格率には結構神経を尖らせている。俺たちもよく言われているけど、しっかり考えないで受験すると、大変な目に遭う。だから、今からしっかり考えろ、と。
 俺も考えなければならないのだが、とりあえずあとまわし。
 そんなこともありつつ、一月も下旬となった。
 
「どうするかなぁ」
「なにをどうするの?」
「ん、姉貴の誕生日」
「あ、もうそんな時期だっけ」
「ああ。今週の木曜だ」
「そっか」
 一月二十四日。
 朝、学校へ向かう途中、俺たちはそんな会話を交わしていた。
「ということは、美樹ちゃんの誕生日も近いってことよね」
「そうだな」
 姉貴の誕生日は二十七日。で、美樹の誕生日は来月の九日。
 別に狙ったわけじゃないんだろうけど、うちの姉妹は誕生日が近い。まあ、そのおかげで忘れずに済むのだが。
「去年、俺の誕生日にいろいろしてもらったから、なんかやらんといけないとは思ってるんだが、なにをどうするかが、全然思い浮かばん」
「別に、奇をてらったことなんてすることはないと思うけど」
「そんなことするか。ちなみに、おまえらがやったように、びっくり形式もなしな」
「あ、あはは」
「とりあえず大事なのは、どうやって祝うか、なんだ。どれだけ感謝の意を込められるかなんだ」
「うん、そうだね」
 姉貴に感謝の意を表せる機会なんて、そう多くない。そのひとつが、誕生日だ。
 普段から世話になってるわけだから、こういう時にくらいちゃんとしてやりたい。
 これは、俺だけの想いじゃない。美樹だってそうだし、愛だってそうだ。
 だからこそ、あれこれ考えるんだ。
「ただ、今年はもうひとつだけ考えなくちゃいけないことがある」
「それって、なに?」
「ん、和人さんの存在。誕生日はふたりでって可能性もあるだろ?」
「ああ、うん、そうだね」
「そうすると、家では祝えないかもしれない。ま、プレゼントくらいは渡せるだろうけど」
「でも、それはあらかじめ確認しておけばいいんじゃないの? サプライズパーティーにはしないんでしょ?」
「まあな」
「じゃあ、確認して、それでどうするか決めればいいじゃない」
「それしかないか」
「うん」
 確かに、その日がどうなるかわからなければ、なにもできないな。
 さて、どうなるのやら。
 
 その日の夜。
「姉貴」
「ん、なに?」
 夕食後、テレビを見ていた姉貴に声をかけた。
「あのさ、木曜、誕生日だろ?」
「ん、そうね。それが?」
「その日って、どうするわけ?」
「まだ決まってない」
「なんで?」
「そんなの決まってるじゃない。和人がぐずぐずしてるから」
 身も蓋もない言い方だ。
「姉貴としては、やっぱり和人さんと一緒に過ごしたいわけ?」
「当然じゃない」
 当然ときたか。
「私たちがつきあうようになって、はじめての誕生日だもの。そういう時くらい、いつもと違うことをしてほしいわ」
「なるほど」
 となると、木曜は帰ってこないかもしれないな。
「なんでそんなこと聞くの、って、決まってるか」
「別に和人さんを優先するなら、それはそれでいいんだ。姉貴にとっては、そっちの方が全然いいだろうし」
「そうね。洋一の厚意は嬉しいけど、今年は和人を優先したいわ」
「了解。じゃあ、こっちもそれにあわせてなにか考えるわ」
「うん、そうしてくれると助かる」
 そう言って姉貴は微笑んだ。
 これでとりあえずどうなるかはわかったけど、これはこれで面倒だな。
 
 一月二十五日。
「ふ〜ん、そっか。そうすると、やっぱりプレゼントだけかな」
 俺は、愛に状況を説明した。
「ただプレゼントを渡すだけじゃ、面白くないからな。そこら辺をよく考えないと」
「感謝の意を込めたプレゼント、もしくは、そういうシチュエーションか。難しいね」
「難しい」
 姉貴のことだから、普通にプレゼントを渡しても喜んでくれるだろう。だけど、それだと俺が納得できない。
「とりあえず、プレゼントをなににするか決めて、それからまた考えれば? まだプレゼントも用意してないんでしょ?」
「ん、ああ」
「じゃあ、今日の帰りにでも、買いに行かない? 私も買いたいし」
「んじゃ、そうするか」
「うん」
 
 昼休み。
 俺は久しぶりに雅先につかまった。
「最近どうだ?」
「ぼちぼち」
 廊下の隅で、そんなことを言い合う。
「そういや、雅先」
「ん?」
「優美先生とはどんな感じ?」
「ば、バカ野郎っ! こんなとこで言うな」
 慌ててまわりを見る。
「別に気にしなきゃいいのに。教師同士なんだから、別に誰もなにも言わないって」
 これが、生徒とならいろいろ問題になるけど。
「それはそうかもしれないけど」
「で、どうなの?」
「別に、どうともなってないって」
「でもさ、優美先生を食事に誘ったりはしてるんだろ?」
「おまえ、それをどこで?」
「優美先生本人から」
「…………」
「俺ってさ、先生のお気に入りだから。そういう話もしてくれるんだよね」
 お節介を焼いたから、とは言わないでおいた。
「……まあ、おまえなら吹聴したりはしないからいいけどさ」
「そりゃどうも」
「……嫌われてはいないと思ってる。じゃなかったら、誘いに乗ってなんてくれないからな。ただ、そこ止まりなんだ。それ以上がない」
「ふ〜ん……」
 どうやら、まだ雅先は気付いてないみたいだな。
「いろいろ考えてはいるんだが、どうにもわからん。俺も、これまでに何人かとつきあってきたけど、先生みたいな年上の女性ははじめてで、勝手がわからん」
 どうするかな。少しだけ手助けしてやるかな。
「あのさ、雅先」
「ん?」
「今、雅先はなにを考えて優美先生を誘ってるわけ?」
「なにって、そりゃ……」
 言葉に詰まる雅先。
「じゃあ、雅先は優美先生とどういう関係になりたいわけ?」
「それは……」
「あとさ、彼氏彼女の関係、恋人同士ってどういうものか、考えたことある?」
「…………」
「そういう諸々のことを改めて考えると、どうすればいいかわかると思うんだけどなぁ」
 結構なヒントだけど、俺と雅先の仲だ。これくらいはいいだろう。
「それでもしわからないようだったら、優美先生のこと、あきらめた方がいいわ。それって結局、優美先生の期待を裏切ってるってことだからさ」
 俺は、もう少しだけはっぱをかけた。
「……ったく、好き勝手言ってくれるな」
「雅先だから言ってるんだって。ほかの奴だったら、言わない」
「じゃあ、ありがたく聞いておこう」
「そうしてくれ」
 俺たちは笑った。
「あ、そうだ。雅先」
「ん、今度はなんだ?」
「雅先が誰か親しい人の誕生日にプレゼントを贈る時って、どうしてる?」
「どうしてるって、普通に渡してるけど」
「パーティーとかしないでも?」
「ああ。直接本人に渡して、お祝いの言葉を言えれば、それで十分だろう」
 それはそうかもしれない。
「でも、なんでそんなこと聞くんだ?」
「いや、いろいろあってさ」
「ふ〜ん……」
 結局、雅先に聞いても収穫はなかった。
 
 放課後。
 朝の予定通り、俺は愛と一緒に姉貴の誕生日プレゼントを買いに出かけた。
 平日の夕方なので、買い物途中の主婦の姿が圧倒的に多い。
 その中に、うちの高校やほかの高校の生徒が見える。このあたりも決して高校が多いわけじゃないから、すぐに見分けがつく。
「洋ちゃんは、なにを贈ろうと思ってるの?」
「全然決めてない。毎年のことだけどな」
「去年は?」
「去年は、美樹と折半でスプリングコートとパンプス」
「相変わらず無茶するわね。いくら折半でも、結構したでしょ?」
「そういうのは値段じゃないからな。そりゃ、多少足は出たけど、その分喜んでもらえればいいんだ」
 実際、姉貴はすごく喜んでくれた。コートの方は春用だからあまり着てなかったけど、パンプスは結構履いてくれたし。
「洋ちゃんのいいところは、そういうところなんだよね」
「ん?」
「普通は躊躇しそうなことも、躊躇なく、気負いなくできちゃう。そういうところは本当にすごいと思う」
「別にそんなたいそうなことじゃないって」
 褒められたり持ち上げられたりするのに慣れてないから、くすぐったい。
「あ、じゃあ、今年も美樹ちゃんと一緒の方がよかった?」
「いや、それは別に構わない。去年は俺がどうしても決められなかったというのと、美樹がホームステイに行ってたこともあって、じゃあ、一緒のにしようってことになったんだ」
「あ、なるほど。確かに、去年の今頃は美樹ちゃん、オーストラリアだったもんね」
 今はずっと家にいるから忘れがちだけど、美樹はこの夏までホームステイをしていた。かく言う俺も、たまに忘れるけど。
「それじゃあ、今年はそうならないようにしっかり考えて選ばないと」
 とりあえず商店街をうろつき、よさそうなものはないかと探す。
 だけど、そういうものはそう簡単には見つからない。それに、ちょっとよさそうなものはすでに贈っていたりするから、なおのこと大変だ。
「おまえはどうするんだ?」
「私? 私は、アクセサリーか化粧品かなって思ってるんだけど」
 定番だけど、当たり外れが少ないから、妥当な線か。
「じゃあ、とりあえずはおまえのから選ぶか。そこまで決まってるなら、さっさと決められるだろ」
 そんなこんなで、俺たちはまず、アクセサリーショップに入った。
 男の俺には実に居づらい空間なのだが、致し方がない。
 そういえば、年末に沙耶加と一緒に来たのも、この店だったような気がする。
「ん〜、美香さんはどれを選んでも喜んでくれるだろうし、なにをつけても似合うと思うんだけど。そういう方が逆に大変なのよね」
「まあな」
「ねえ、洋ちゃんならどういうの選ぶ?」
「そうだな……」
 ざっと見渡し──
「指輪なら、これ」
 ファッションリングひとつと──
「ネックレスなら、これ」
 ネックレスひとつ──
「ブレスレットなら、これ」
 ブレスレットをひとつ選んだ。
「ふ〜ん、なるほど」
 そのどれもが普通のアクセサリーだ。ただ、そのどれもにワンポイントのアクセントがついている。俺の判断基準はそこだ。せっかくつけるのだから、多少は目にとまる方がいい。そうすると、ワンポイントがあった方がそうなる。
「美香さんて、普段はあまりアクセサリーつけてないよね?」
「ああ。つけるとしても、お気に入りのネックレスかイヤリングくらいだからな」
「嫌いってわけじゃないよね?」
「そんな話は聞いたことがないし、俺も以前、贈ったことがある。だから、受け取らないってことはない」
「ん〜……」
 愛は、たくさんのアクセサリーを前に、小さく唸った。
「そうだなぁ、とりあえずアクセサリーは無難な方がいいよね」
「まあ、奇抜なのを選んで、一度もつけてもらえなかったら、意味ないしな」
「そうだよね。うん」
 どうやら、決まったようだ。
「すみません。このイヤリングを見せてもらえますか?」
 愛が選んだのは、イヤリングだった。
 姉貴もイヤリングはいくつか持ってるし、ちゃんとそれを使い回してる。ファッションのアクセントになるから、いい選択だと思う。
 店員にいくつか出してもらい、その中から気に入ったのを選び、買った。
 アクセサリーショップの次は、化粧品屋だ。
 こここそ、男の俺にはほとんど用のない店だ。実際、たとえ付き添いで来ても、奇異な目で見られる。
 とはいえ、愛をひとり置いていくわけにもいかない。
「とりあえず、口紅か化粧水かなって思ってるんだけど」
「無難なものがいいって」
「でもさ、口紅なら多少冒険しても、面白いと思うけど」
 確かに、口紅ならそうかもしれない。実際、普段の印象とは明らかに違う口紅を引いても、慣れると意外によく見えたりする。
 姉貴には絶対明るい色の口紅が似合うのだが、ダーク系も似合うのではと思っている。
「冒険て、どんな感じのだ?」
「これなんか、大人の女性って感じしない?」
 愛が選んだのは、クリムゾンレッドの口紅だった。
「するけど、ちょっときつくないか?」
「そうかなぁ。じゃあ、こっちは?」
 今度のは、クリアブラウン。ブラウン系の中でも比較的明るい色のだ。
「……ん〜、やっぱ、今の姉貴のイメージにはあわないな」
「それはそうだよ。だからこその冒険なの。今の美香さんにあうのを選んだら、レッド系やオレンジ系、ピンク系のになるんだから」
「そうだよなぁ……」
 愛の言いたいことはよくわかる。頭で似合うのばかり選んでいては、とても冒険にはならない。
「じゃあ、洋ちゃん。洋ちゃんも一緒に選んで、買おうよ」
「俺も?」
「うん。私はちょっと冒険したのを。洋ちゃんは、今の美香さんに一番似合うのを。そのふたつを一緒に贈るの」
「なるほど」
 それなら最悪の状況にはならないか。
「それに、そうすれば洋ちゃんのプレゼントも決まるし」
「いや、そうしたところで、また別なのを選ぶ」
「……ホント、律儀なんだから」
 愛は、やれやれとため息をついた。
 それから俺は姉貴らしい口紅を、愛は、ちょっと冒険した口紅をそれぞれ選んだ。
 それをセットで包んでもらい、とりあえずは愛に渡した。
 化粧品にしようと思ってたのは愛なのだから、それは当然だ。
「次は、洋ちゃんのだね。なにかよさそうなのあった?」
「いろいろ考えてはいるんだけど、なかなかなくて」
 姉貴にもらったのは、TDLのチケットと映画のチケットだった。そういうものでもいいんだけど、同じのを贈るわけにはいかない。
「もしおまえが姉貴と同じ立場だったら、どんなものをもらったら嬉しい? なんでもというのはなしな」
「それはわからないよ。だって、どんなに考えたって、私には『姉』という立場はわからないもの」
「美樹がいてもか?」
「うん。そりゃ、美樹ちゃんは本当の妹みたいな存在だけど、やっぱり違うから。私も、それはずっと頭に置いて接してるし」
「なるほどな」
「そうするとね、どうしてもなんでもいいって答えになっちゃうよ。だって、それが本心だし、それ以上のことは望んでないだろうし」
 愛の言い分はもっともだ。
 美樹が俺のことを誰かに聞いても、俺としてはなんでもいいとしか言えない。それと同じだ。
「それにさ、洋ちゃんの方が美香さんのことは理解してるでしょ? 好きなものとか、趣味とか、いろいろ」
「まあな」
「結局は、そのあたりから考えるしかないと思うよ」
「それしかないか」
 それだといつもと同じなのだが、しょうがない。実際、それが一番の方法なのだから。
「でもなぁ、そうだとしても、なかなか思いつかないんだよなぁ」
「う〜ん、そうだねぇ……洋服は去年贈ったんだよね?」
「ああ」
「靴も一緒だった、と」
「ああ」
「アクセサリーや化粧品は?」
「贈ったこと、ある」
「そうすると、身に付けるものだと、カバンとか時計とか、そういうのかな。あとは、身に付けるものじゃない、なにか別のもの」
「カバンや時計は、ちょっとなしだな」
「どうして?」
「いや、姉貴、去年の秋にどっちも新しいの買ってるし」
「ああ、そっか。それじゃあ、ちょっと外した方がいいね」
「そうだな」
 贈りたいという気持ちはあるのだが、どうしてもこの選ぶ時の面倒さでイヤになってしまう。
「いっそのこと、洋ちゃんが絵でも描いて、それを贈ったら?」
「できないことはないけど、色はつかない」
「そっか」
 う〜ん、マジで難しい。
「美香さんの好きなものか、趣味の路線で攻めてみたら?」
「好きなものか。ん〜、いろいろあるけど、どれも決め手に欠けるな」
「たとえば?」
「弟いじり」
「…………」
「ああ、この場合は、好きなことか。ま、あんま変わらんけどな」
「美香さんの洋ちゃんに対する『好き』って想いは、姉弟という関係にまったく関係ないものね」
「まあな」
「ん〜……」
 俺たちは、揃ってため息をつきつつ、考え込んだ。
 本当は愛は考えなくてもいいのだが、ここは言わないでおこう。
「じゃあ、むしろ割り切って、今までと同じのでもいいんじゃない?」
「それがいいか」
「うん。それに、考えすぎて納得できないものを贈るよりはずっといいと思うよ」
「かもしれないな」
 それは言えてる。ここまで考えて結局決まらないとか、あまりにも適当なものしか贈れなかったら、それこそアホだ。
「ねえ、洋ちゃん。今回は、洋ちゃんが美香さんにこういうのを着てもらいたいとか、こういうのを身に付けてもらいたいとか、そういうのを贈ってみたら?」
「それはつまり、姉貴の好みはこの際無視して、俺が全部決めろってことか?」
「そこまで乱暴じゃなくてもいいけど。そんな感じかな」
「ふむ、それはそれで面白いかもしれないな」
 着せ替え人形みたいには無理でも、普段は着ないような服を着させるチャンスかもしれない。
「よし、それでいこう」
 
 で、俺たちは愛オススメの店にやって来た。
 そこは女性の洋服を扱っている店で、男の俺には、よほどのことでもない限り、足を運ぶことはない店だった。
 平日の夕方なので、店内に客の数は少なかった。
「洋ちゃん。どんなのがいい?」
「そうだなぁ。姉貴が普段は絶対に着ない服がいいかな」
「美香さんが着ない服かぁ」
 愛は、店内を見回す。
「だったら、ああいうのかな」
 店の一画に、それはあった。
「なるほど、これは着ないな」
「私も着ないけどね」
 そう言って愛は、それを一着あてがった。
 それは、フリルのたくさんついた服だった。
「ちょっと着るのには抵抗あるけど、これはこれで着てみたいとは思うよ」
「そうなのか?」
「うん。だって、ほら──」
 俺にそれを見せる。
「カワイイでしょ? 女の子だったら、一度はこういうカワイイの、着てみたくなるよ」
「ふ〜ん、そんなもんかねぇ」
 俺にはそういう気持ちはわからん。
「美樹ちゃんなら、似合うと思うよ」
「美樹か。確かに、お子様だから、似合うかもな」
「それは偏見。別に、こういうのは子供が着るためのものじゃないもの。ドレスが少し様変わりしただけだと考えればわかるでしょ?」
「まあ、そうかもな」
「それに、洋ちゃんだってたまに見るでしょ。こういうのを着た女の人」
「ああ、そういえばそうだな」
 確かに、街中や電車の中なんかで見かけることがある。
「なるほどな……」
 見れば、確かにカワイイ服ではある。とはいえ、こういうのが似合うのはやっぱり人形のようなカワイイ女の子、というイメージが強い。それを偏見だと言われてしまえばそれまでだが。
「……愛も、似合うは似合うと思うけどな」
 いくつか見ている愛には聞こえないように呟く。
 愛は、本当になにを着ても似合う。こういうのを着た愛を見たことはないけど、それだけは言える。
「ね、洋ちゃん」
「ん?」
「私もこれ着たら、可愛く見えるかな?」
 上目遣いに訊ねてくる。
「……まあ、かなり可愛く見えるだろうな」
「ホント?」
「そりゃ、服自体がカワイイから、当然だろ」
「むぅ、そういう理由なの?」
「いや、別に、それだけが理由じゃないけど」
「……ん〜、よし」
 と、愛はなにかを決めたらしく、頷いた。
「とりあえず、洋ちゃん。美香さんのプレゼント、決めよ」
「ん、ああ、そうだな」
 なにを決めたのはわからないけど、あまりいい予感はしない。なんだろうな。
 俺はそれが気になりつつも、とりあえずは姉貴へのプレゼント選びに集中した。
「洋ちゃんは、美香さんの身長とか知ってる?」
「ある程度は」
「じゃあ、大丈夫だね」
 実は、スリーサイズまで知ってるのだが、それは黙っておこう。それに、俺がスリーサイズを知ったのは、姉貴がべらべらとしゃべったからだ。じゃなかったら、そんなこと知るわけがない。
「これなんてどうかな?」
「それも悪くはないけど、こっちの方が面白くないか?」
「面白いかもしれないけど、そんなの贈ったら、あとで洋ちゃん、ひどい目に遭うかも」
「……やめよう」
「ふふっ」
 こういうやり取りは、素直に楽しいと思う。別に俺に買い物の趣味はないが、なにか目的を持って、しかも一緒にいる相手がこっちのことを理解していればなおのこと楽しくなる。
「ん〜、これなんかどうだ?」
「うん、いいんじゃないかな」
 俺が選んだのは、白生地に白のリボン通しレースをふんだんに使用した服だった。
 絶対姉貴は着ないと思うけど、これはこれで似合うんじゃないかと思う。
「だけど……」
 ひとつだけ問題があった。それは、値段だ。もともと女物の洋服なんかは高いけど、これはそれよりだいぶ割高だ。
 もちろん、買えないことはないのだが、来月に美樹の誕生日があることを考えると、さすがに躊躇してしまう。
「もしよかったら、少し援助しようか?」
「いいのか?」
「うん。少しくらいなら出せるよ。それに、言い出したのは私だから。少しくらいはね」
「悪いな」
「ううん。それにね、これを着た美香さんを見てみたいっていうのもあるから」
「なるほど」
 ここで変な意地を張ってもしょうがないな。
「じゃあ、悪いけど、頼むわ」
「うん」
 俺は、愛からいくらか出してもらって、それを買った。
 プレゼント用なのでちゃんと包んでもらったのだが、その間に愛もなにかほかのものを見ていたみたいだ。
「愛、行くぞ」
「あ、ちょっと先に出てて。すぐに行くから」
 俺が声をかけると、愛はそう言ってなにかを持ってレジへ。
 なんか気に入ったものでもあったのかもしれないな。
 先に店の外に出て、愛を待つ。
 少しして、愛が手にその店の袋を持って出てきた。
「なんか買ったのか?」
「うん。ちょっといいもの」
 愛は、ニコニコと嬉しそうだった。
 そんなにいいものだったのかね。
「これでとりあえずプレゼントは買った、と。あとは、これをどうやって渡すかだな」
「それが問題だね」
「俺としてはだ、これを買ったことでひとつ、案が思い浮かんだ」
「それって?」
「これを着た姉貴の姿を、みんなに見てもらう」
「みんなって、みんな?」
「ああ。俺としては、特に和人さんに見てもらいたいんだけどな」
「ん〜、でも、それって難しいんじゃない? 誕生日当日は、家にいない可能性が高いんでしょ?」
「だから困ってる。ネタはあるんだが、それを披露する場がない」
「そうだねぇ……」
 俺たちは、歩きながら次の作戦を考える。
「ねえ、洋ちゃん。いっそのこと和人さんも『仲間』にしちゃったら?」
「和人さんをか?」
「うん。そうすれば、洋ちゃんが考えてることもできると思うよ」
「なるほど、それはひとつの方法だな」
 幸い、和人さんの連絡先は知っている。
「よし、帰ったら連絡してみるわ。もし和人さんが協力してくれるなら、さっきのでいくし、ダメなら、しょうがないから普通に渡す」
「それがいいよ」
 とりあえず、こんなところだな。あとは、和人さん次第、ということで。
「んじゃ、帰るか」
「あ、洋ちゃん」
「ん?」
「今日って、時間ある?」
「別に取り立ててやることはないけど、なんでだ?」
「じゃあ、夜に私の部屋に来てくれるかな?」
「夜? 帰ってからじゃダメなのか?」
「それでもいいけど、夜の方が確実だから」
「確実?」
 俺にはこいつがなにを言いたいのか、さっぱりわからなかった。
 とはいえ、積極的に断る理由もない。
「わかった。そうだな、夕飯食ったら行くわ」
「うん。待ってる」
 愛は、嬉しそうに頷いた。
 
 その夜。
 俺はまず、和人さんに電話した。姉貴はうちにいたから、話はスムーズに進んだ。
 和人さんも誕生日の過ごし方には苦慮していたらしく、俺の話に一も二もなく賛同してくれた。
 当日、和人さんがうちに来て、それでパーティーみたいなものをやることに決めた。
 パーティー後は、ふたりに任せるけど。
 俺はそれをすぐに美樹に話した。美樹もそれには大賛成してくれ、なんでもやると言ってくれた。
 後顧の憂いをなくし、俺は約束通り森川家に向かった。
 夜の訪問に関わらず、森川家の面々は快く出迎えてくれた。
 だけど、肝心の愛は出てこない。
「あの、愛は?」
「なんかね、洋一くんが来たら、とりあえず声だけかけてくれって」
「声だけ?」
「なにがしたいのかはわからないけどね」
「…………」
 本当になにがしたいのかはわからない。
「愛〜、洋一くんが来たわよ〜」
 愛美さんが二階の愛に声をかける。
「うん、わかった〜。洋ちゃん、もう少しだけ待ってて〜」
 そんな声が返ってきた。
「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに」
「いえ、いつものことですから」
 そうとしか言えなかった。
 それからしばし、リビングで孝輔さんと愛美さんの相手をしていた。
 話が盛り上がってきた頃──
「洋ちゃ〜ん。もういいよ〜」
 上から再び声がした。
「もう、あの子ったら、上から声をかけるなんてみっともない」
 愛美さんはちょっとご立腹。
「あ、じゃあ、ちょっといってきます」
「ええ」
 リビングを出て、二階の愛の部屋へ。
「愛、入るぞ」
 ドアをノックして、部屋に入った。
「いらっしゃい、洋ちゃん」
「お、おまえ……」
 が、すぐに俺は絶句してしまった。
「どう? 似合う?」
 愛は、そう言ってクルッとまわる。
「それ、もしかして?」
「うん、カワイイから買っちゃった」
 そう言ってニコッと笑う。
 愛は、昼間のあの店で見ていた例の服を着ていた。
 しかも、わざわざヘッドドレスまで買ってるし。
 ブラウスはピンク、スカートは白。どちらもフリルやリボンがふんだんに使われている。
「……可愛くない?」
「い、いや、カワイイけど」
「あはっ、よかった」
 着てる服が違うだけで、こうも印象が変わるとはな。正直驚いた。
「ねえねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「今日は、このまましよ?」
「は……?」
「だからぁ、このままエッチしよ」
「……おまえ、まさか、そのために買ったのか?」
「ん〜、そういう考えがなかったわけじゃないけど、でも、純粋にカワイイから買ったんだよ。それは本当」
 それは本当だろう。ただ単にセックスしたいがために、服を買うほど酔狂じゃないだろうし。
「ね、洋ちゃん。しよ?」
 言いながら、俺にすり寄ってくる。
 だけど、こういう格好でするというのは、さすがに抵抗がある。
「洋ちゃ〜ん」
「お、おい……」
「してくれないと、襲っちゃうよ?」
「襲うって……おまえなぁ……」
「だから、ね?」
 ああ、くそっ。
 抵抗はあるけど、本能には逆らえない。
「本当にこのままでいいんだな?」
「うん」
 結局、俺はこうやってどんどん深みにはまっていくんだろうな。
 
 こういう言い方はおかしいかもしれないが、いつも以上に盛り上がった。
 俺も愛も、まるで魔法でもかけられたかのように、本能のままに求め合った。
 服一枚でこれだ。もっと特殊なシチュエーションだったらどうなるか。考えるだけで恐ろしい。
「洋ちゃん、なにを考えてるの?」
 一糸まとわぬ姿の愛が、そう訊いてくる。
「いや、たいしたことじゃない」
「そうなの? 真剣な顔で考えたから、すごいこと考えてるのかと思った」
 まあ、ある意味すごいことを考えてはいたが。
「でもさ、愛」
「うん?」
「本当によかったのか?」
「なにが?」
「服だよ、服。カワイイから買ったなんて、衝動買いだろ、それ」
「ん〜……」
 愛は、おとがいに指を当て、小さく唸る。
「確かに衝動買いだと言われればそれまでだけど、でもね、それは別にいいの。だって、私もカワイイ服を買えて、着られて嬉しいし。それに、洋ちゃんにもカワイイって言ってもらえたし」
「だけど、普段は着られないだろ?」
「それはね。いくら私でも着られない」
「だったら、買うだけもったいないだろ」
「そんなことないよ。だって、洋ちゃんの前でまた着ればいいんだから」
「……なに?」
「だから、また洋ちゃんに今日と同じ格好で抱いてもらうの」
「…………」
「なんでそこで黙っちゃうのよぉ」
「……いや、最近おまえの考えがようわからんから」
「どうして?」
「いや、本当になんとなくなんだけどな」
「そっかなぁ……」
「別におまえとするのがイヤとか、そういうのじゃないから。そのあたりは間違うなよ」
「うん」
 あらかじめそう言っておかないと、こいつは余計なことを考えるからな。
「……たぶんね、私もわかってないんだ」
「ん?」
「自分でなにがやりたいのか。あ、もちろん、全部が全部ってわけじゃないよ。時々だから。それでたまに、今自分はなにがやりたいのかなって考えちゃう。わからないんだけど、なぜかやらなくちゃいけないような気がして。それが洋ちゃんもわからないんだよ、きっと」
「かもしれないな」
 愛がそんな風になってしまったのは、まず間違いなく、俺のせいだ。
 年末の沙耶加とのことがきっかけになってる。見た目はもうなんともないが、頭の中ではまだまだ葛藤があるはずだ。折り合いがついてない部分もあるから、時折そんな面が顔を覗かせるんだ。
「愛」
「なに?」
「たまになら、今日みたいなこと、あってもいいから」
「ホント?」
「ああ。俺もさ、愛のカワイイ姿、見たいし」
「洋ちゃん……」
 罪滅ぼし、なんて考えは持っていない。だけど、愛のためになにかしたい。そういう想いはある。
「……やっぱり、洋ちゃんは優しいね」
「そうか?」
「うん。優しい。だから大好きなんだけどね」
 愛は、ニコニコと微笑みながら、俺に抱きつく。
「さっき洋ちゃんは、私の考えがわからないって言ったけど、ちゃんとわかってるよ。だって、わかってなかったら今みたいなこと、言えないから」
「…………」
「私と洋ちゃんの間で、本当にわからないことなんて、そうそうないよ。だって、私はずっと洋ちゃんのことを見続けてきたんだから。洋ちゃんだって、私のこと、見てたでしょ?」
「ああ」
「だから、本当にわからないことなんて、ないよ。うん」
 俺は、こいつのこういう考え方は、嫌いじゃない。いや、むしろ好きだ。
「でも、やっぱり自分でもわかってないことは、洋ちゃんにもわからないね」
「愛……」
「うん、それはそう」
 愛は、小さく息を吐いた。
「ごめんね、洋ちゃん」
「なんで謝るんだ?」
「洋ちゃんに、余計なこと考えさせちゃったから」
「……気にするな。俺とおまえの仲だろ?」
「うん……」
 今度は、俺が愛を抱きしめる。
「……ね、洋ちゃん」
「ん?」
「今日、泊まっていって」
「……そうだな。今日は、おまえの側にいるよ」
「うん、ありがと……」
 今日は、俺も愛の側を離れたくなかった。
 感傷的になってるわけじゃない。ただ、説明できないなにかの影響で、そう思った。
 
 四
 一月二十七日。
 今日は、姉貴の誕生日だ。成人式は済んだが、これでようやく正真正銘の二十歳だ。
 とはいえ、学生の間はそんなに二十歳ということを意識することはないだろう。十代から二十代になった。それくらいだ。
「洋一」
 朝、学校へ行く準備をしていたら、姉貴に声をかけられた。
「ん?」
「今日のこと、あれ、洋一の差し金でしょ?」
「だとしたら?」
「別にそれ自体が悪いとは言わないわよ。私だって、あんたや美樹に祝ってもらえるなら、嬉しいし。ただね、私に黙って和人に連絡取ったのは、ちょっといただけない」
「それは悪かったと思ってる。だけど、姉貴にはそれは言われたくない」
「どうして?」
「俺の誕生日のこと、まさか忘れたとは言わせない」
「……そういえば、そんなこともあったわね」
「あれの首謀者が姉貴だってことは、一目瞭然だし」
「なるほど。そういうことから考えれば、私も言えないか」
 別に俺の誕生日のことを持ち出そうとは思っていなかった。ただ、そう言っておいた方が、後腐れがないと判断した。
「で、わざわざ和人を家に呼びつけて、なにをしようっていうの?」
「特に変わったことはしないって。普通の誕生パーティー」
「じゃあ、なんで和人を?」
「そこは、さすがに言えない。それを言ったら、面白くないから」
「やっぱりなにかあるんじゃない」
「パーティー自体にはなにもない。これは天地神明に誓って」
「それ以外になにがあるっていうのよ」
「それは、夕方までに考えてみてくれ」
「ケチ」
 
 なぜか知らないが、学校で少々面倒なことがあった。
 それは別に授業のことでもテストの点数のことでもない。
 まあ、いわゆる俺絡みのことだ。
 その相手は、珍しいことに山本姉妹だった。
 沙耶加も真琴ちゃんも普段は仲が良いし、俺のことでもよほどのことがない限りは言い争ったりはしない。もちろん、家ではどうかは知らないが。
 ただ、今日はちょっとお互いに感情的になったみたいだ。
 その時の詳細はあえて言わない。言っても意味のないことだし、ふたりともそれを少し後悔していたし。
 俺が言うことはないのだが、そのままというのもさすがに問題だと思ったので、ふたりに声をかけた。
「沙耶加」
「洋一さん……」
 沙耶加は、真琴ちゃんと別れたあと、ひとりで屋上にいた。
「すみません。みっともないところをお見せしてしまって」
「別にいいよ」
 本当にそれ自体は気にしていなかった。
「ダメですね、私。あんなことくらいで感情的になって。しかも、相手は真琴なのに」
「それは、むしろ真琴ちゃんだったからじゃないの?」
「……そうかもしれませんね」
 そう言って沙耶加は自嘲した。
「根本原因は俺だからね、申し訳ないと思ってる」
「いえ、洋一さんのせいじゃありません。私の思慮が浅かっただけです」
「……そこまで思い詰める必要はないと思うけど」
「洋一さんのことになると、どうしても感情が先走ってしまうんです。自分でもいけないと思ってはいるんですけど、どうしても抑えきれなくて」
「…………」
「それに──」
 沙耶加は、風に流される髪を押さえながら──
「やっぱり、真琴には負けたくありませんから」
 小さく、だがしっかりとした口調でそう言った。
「洋一さん……」
 俺は、そんな沙耶加を後ろから抱きしめた。
「今日のことに関しては、俺はなにも言わない。でも、ひとつだけ」
「なんですか?」
「そんな顔、しないで」
「あ……」
「どんな理由でも、悲しい顔されるのはイヤだからさ。綺麗な顔が台無しだし」
「……すみません」
「いいよ。もう少しだけならね。ただ、俺が離れた時には、いつもの沙耶加に戻っていてくれると、嬉しい」
「……わかりました」
 甘いとは思うけど、今の沙耶加は俺の『恋人』だから。
 それに、こんなことくらいで笑顔になってくれるなら、安いものだ。
 沙耶加と別れたあと、今度は真琴ちゃんに会いに行った。
 真琴ちゃんは、自分の教室にいた。
「真琴ちゃん」
「あ、先輩……」
 どことなく元気がない。まあ、大好きなお姉ちゃんと喧嘩してしまったのだから、しょうがないか。
「ちょっと、話さない?」
「はい……」
 俺は、真琴ちゃんを教室から連れ出した。
 比較的静かな場所で、話をする。
「すみませんでした」
 まずは、真琴ちゃんから切り出した。
「私もお姉ちゃんとあんな風に言い争うつもりはなかったんです。でも、どうしても先輩のことになると引けなくなってしまって」
 そういう風にしてしまったのは、この俺だ。
「……さすがに、呆れましたよね?」
「そんなことはないよ。ただ、どんな理由であれ、仲の良い姉妹が喧嘩はしてほしくないだけ」
「……すみません」
 本当は俺が改めて言うことなどなにもない。沙耶加にしろ真琴ちゃんにしろ、ちゃんと理解しているのだから。
「あの、先輩」
「ん?」
「お姉ちゃんと、話しましたか?」
「うん。真琴ちゃんに会う前に」
「そうですか。お姉ちゃん、なにか言ってましたか?」
「まあ、いろいろ」
 それをいちいち話す必要はないだろう。
「……お姉ちゃんも、私が相手だったからあれほど感情的になったんですよね」
「ん、まあ」
「お姉ちゃん、言ってましたから。真琴にだけは絶対に負けない、って」
 そこまで話していたのか。
 確かに、姉妹とはいえ、恋愛となったらもはやライバルだからな。手の内や考えがわかるだけに、負けたくないという気持ちも強いんだろうな。
「……でも、ずるいですよね」
「ん、なにが?」
「私にだけは負けたくないって、もう戦う前から勝負はついているんですから」
「……そういうことか」
「だって、森川先輩以外で先輩に本当に想われているのって、お姉ちゃんだけですから。私は、その舞台にすら上がれていないんですよ?」
 真琴ちゃんは、少しだけ自嘲気味にそう言う。
「私がこんなこと言えた義理じゃないっていうのはわかってます。それでも、お姉ちゃんはずるいです」
 それでも真琴ちゃんは、ちゃんと理解している。だからこそ、沙耶加に対して申し訳ないと思っているんだ。
「じゃあ、真琴ちゃん。真琴ちゃんは、どうなりたいの?」
「それは……」
「試しに、言ってみな」
「……先輩も、ずるいです。私、前に先輩に話していますから。どうなりたいのかって。それでも訊くんですか?」
「いや、やめようか」
 そう言われては、やめざるを得ない。
 俺も、真琴ちゃんをいぢめたいわけじゃないから。
「……先輩」
「ん?」
「もし、私にチャンスがあったら、先輩に迫ってもいいですか?」
「は……?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「えっと、それはつまり、どういうこと?」
「先輩とふたりきりになれて、そういうことができそうな状況だったら、先輩に迫ってもいいかってことです」
「…………」
 ヤバイ。本気だ。マジだ。
「あ、やっぱりいいです。先輩に訊いても、絶対にダメだって言いますから。私、決めましたから」
「ちょ、ちょっと真琴ちゃん?」
「自分で決めたことですから、絶対に後悔しません。だから先輩。覚悟していてくださいね」
 そう言って真琴ちゃんは、いつも以上の笑顔を浮かべた。
 だけど俺は、それどころじゃなかった。沙耶加のことだけでも愛は大変なのに、これで真琴ちゃんもなんてことになったら……考えるだけで恐ろしい。
 とはいえ、今の真琴ちゃんを止める術を俺は持っていない。いくら言ってみたところで、たぶん、聞いてはもらえないだろうから。
 本当に、どうしてこんなことになるんだろうな。
 
 沙耶加と真琴ちゃんのことは確かに真剣に考えなくちゃいけないけど、とりあえず今日はそれはやめておこう。なんといっても、今日は姉貴の誕生日なのだから。
 学校を出ると、真っ直ぐ家に帰った。
 山本姉妹のことがあったから、愛には先に帰ってもらっている。だから当然のことながら、家に帰ったら愛もすでにいた。
「おかえり、洋ちゃん」
 リビングでは、母さんと美樹、それに愛が一緒にパーティーの準備をしていた。まあ、俺の時より質素だったが、それでもそれらしくはあった。
「姉貴は?」
「和人さんと一緒に帰ってくるって」
「なるほど」
 和人さんには先に来てもらって打ち合わせをしたかったのだが、先手を打たれた。さすがは姉貴だ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「お兄ちゃんが買ってきたプレゼントって、どんなの?」
「見たいか?」
「うん、見たい見たい」
「ん〜、やっぱダメ」
「ええ〜っ、どうして?」
「そりゃ、やっぱりあとで見た方がより面白いからに決まってるだろ」
「ぶう、お兄ちゃんのケチ」
 美樹は、そう言って拗ねる。
「どうせあと数時間でわかるんだから、もう少し待ってろ」
「はぁい」
 なんとか美樹を納得させ、俺も準備に加わる。
 とはいえ、俺のやることなんてもうほとんどなかった。
 程なくして準備は終わった。
「そういや、美樹はなにを贈るんだ?」
「私はバッグだよ」
「なんだ、ずいぶんと奮発したんだな」
「そんなことはないけど。ただ、お姉ちゃんに喜んでもらおうと思っただけ」
「なるほどな」
 美樹のそういう気持ちはよくわかる。俺だってそうだからだ。
 ただ、俺の場合はそれを口にしないだけだ。
「愛ちゃん。ちょっといいかしら?」
「あ、はい」
 と、母さんが愛に声をかけた。
「この前の件だけど、ちょうどいい機会だから、少しだけ教えてあげるわね」
「本当ですか? ありがとうございます」
「ううん、いいのよ。じゃあ、ちょっとこっちへ来て」
「はい」
 母さんと愛は、そのまま台所へ消えた。
「なんなんだ?」
「あれ、お兄ちゃん、知らないの?」
「おまえは知ってるのか?」
「うん。この前ね、愛お姉ちゃんがお母さんにお願いしたの」
「愛が?」
「愛お姉ちゃん、お兄ちゃんのためにお弁当を作ってるでしょ?」
「ああ」
「お弁当って、毎日あるからレパートリーが豊富じゃないと続かないでしょ?」
「そうだな」
「で、愛お姉ちゃんは考えたの。お兄ちゃんのために作るなら、当然お兄ちゃんの大好物を知らなくちゃいけない。でも、愛お姉ちゃんはそれを全部は知らない。じゃあ、誰が知ってるかと考えた時、真っ先に思い浮かんだのが──」
「母さんだった、と」
「うん。お母さんはずっとみんなの食事を用意してきてるから、当然、お兄ちゃんの好みも知ってるからね。それで愛お姉ちゃんにお願いされて、少しずつ教えてあげるってことになったの」
「なるほど、そういうことか」
 そんなことがあったとはな。
「私もお兄ちゃんの好みだったら知ってるんだけどなぁ」
「おまえの場合は、それを現物にするだけの腕がないからな」
「むぅ、そんなにはっきり言わなくてもいいのに」
「ウソを言ってもしょうがないだろ。それに、自覚してるならなんとかしようと思わないのか?」
「うっ……そ、それは……」
 実は、美樹もちょくちょく料理の練習をしている。美樹も不器用じゃないし、覚えも悪くないから、上達も早い。ただ、美樹の欠点は多くを望みすぎる、ということだ。
 母さんは別として、うちは姉貴も人並み以上に料理はできるし、愛だって料理の腕は確かだ。そういうのがすぐ身近にいるせいで、自分も早くそうなりたいと焦ってしまう。で、ちょっとできたらそれを繰り返して身に付けなくちゃいけないのだが、先を急いであれもこれもとなってしまう。
 その結果、本当はもう少しなんとかなったはずなのに、終わってみればたいしたことない。なんてことが続いている。
「じゃあ、お兄ちゃん」
「ん?」
「もし私が料理の練習をしたら、お兄ちゃん、その料理を食べてくれる?」
「食えるやつならな」
「…………」
 あ、ヤバ。美樹の闘争心に火をつけちまった。
「絶対、お兄ちゃんに美味しいって言わせるんだから」
「へいへい、覚悟しておくよ」
「覚悟じゃないよ。楽しみにしてるの」
「そうだな」
 やれやれ、余計なことを言ってしまったな。
「洋ちゃん」
「ん、なんだ?」
 そこへ、いつの間にか愛が戻ってきた。
「明日のお弁当、楽しみにしててね」
「ん、ああ、楽しみにしてるよ」
「うん」
 こっちはこっちで、かなり気合い入ってるし。
 ホント、やれやれだ。
 
 そろそろ陽が沈むという時間に、姉貴は帰ってきた。もちろん和人さんも一緒だ。
 ニコニコと嬉しそうな様子だったから、おおかた先にプレゼントでももらったんだろう。それくらいしか時間はなかったはずだし。
 まあ、それは別にどうでもいい。
 程なくして、姉貴の誕生パーティーと相成った。
 逐一解説するのは面倒だから、省略。
 ただ、今日ばかりは姉貴もさすがに素直に祝ってもらっていた。
 で、いい頃合いを見計らい、俺は切り出した。
「じゃあ、姉貴。姉貴にプレゼントがある」
「へえ、プレゼントね。なにかしら?」
「まあまあ、それは見てのお楽しみ、ってね」
 まずは、美樹が渡す。
「はい、お姉ちゃん」
「ありがと。開けてもいい?」
「うん、いいよ」
 丁寧にラッピングを解くと、バッグが出てきた。
 ショルダーバッグで、スーツなんか着てると似合いそうなやつだった。
「へえ、美樹、いいセンスしてるじゃない」
「えへへ、そう?」
「うん。大切に使わせてもらうわね」
 次は愛。
「美香さん。お誕生日、おめでとうございます」
「ありがと、愛ちゃん」
「たいしたものじゃありませんけど、どうぞ」
「開けてもいい?」
「はい、どうぞ」
 愛自信が改めてラッピングし直したプレゼントを、姉貴は丁寧に開けていく。
「あ、イヤリング。それに、口紅」
「私の見立てなので気に入ってもらえるかどうかわかりませんけど」
「ううん、そんなことないわよ。とってもいい感じ」
 姉貴は、早速イヤリングをつけてみた。
「どう?」
 そう訊いたのは、和人さんにだ。
「うん、似合ってる」
「ほら、大丈夫よ」
 和人さんに認められたから、姉貴もいつも以上に嬉しそうだ。
「さてと、最後は俺か」
 渡すのは問題ない。最大の難関は、これをどうやって着させるか、だ。
「とりあえず、姉貴。これ」
 まずはほとんどついでに買った口紅を渡す。
「愛が口紅見てて、俺もついでにと思ってさ」
「ふ〜ん、悪くない色じゃない」
「そりゃどうも」
 さて、本番だ。
「で、これが俺のプレゼント」
「あら、ずいぶん大きいのね」
「服だから」
「へえ」
 姉貴は、早速それを開けた。
「まあ……」
「うわぁ……」
「…………」
 出てきたのは、もちろんあの白の服。
「……洋一。あんた、謀ったわね?」
「さて、なんのことやら」
 ちっ、さすがにストレートすぎたか。
「うわ〜、うわ〜、すっごくカワイイ」
 それに一番反応したのは、美樹だった。
「ねえねえ、お兄ちゃん。これ、どこで買ったの?」
「ん、駅前商店街」
「そんなお店あったっけ?」
「詳しいことは、愛に聞いてくれ」
 俺としては、あの店には二度と行きたくない。
 っと、そんなことはどうでもいい。
「姉貴。試しに着てみれば?」
「は?」
「なんか、イヤそうな、微妙な顔してるからさ。でも、そういうのって着てみないとわからないから」
「いや、でも……」
 とりあえず俺の言ってることに間違いはない。
「和人さんも、そう思いますよね?」
 ここで、切り札投入。
「え、あ、そ、そうだね」
 ふふん、どうやら和人さん、この服を着た姉貴を想像してたな。これで勝ったも同然。
「和人まで……」
「ほら、和人さんもそうした方がいいって言ってるし」
「私も見たい見たい」
 美樹も加勢する。
「…………」
 姉貴は、俺の顔を憎々しげににらんだが、やがて観念したようにため息をついた。
「わかったわよ。試しに着てみるから」
 よしっ、勝負あり。
「ただし、洋一」
「な、なんだよ?」
「もし、着た私を見て大笑いなんてしたら、どうなるかわかってるわよね?」
「お、おう、もちろんだ」
「ならいいけど」
 い、今のはさすがに怖かった。姉貴も本気で怒ると母さん譲りの『恐怖』を発動させるからな。
「じゃあ、愛ちゃん。ちょっと手伝ってくれる?」
「あ、はい、わかりました」
 姉貴は、愛を連れてリビングを出て行った。
「和人さん。どうですか?」
「あ、ああ、なかなか大胆なことをするね、洋一くんも」
「たまにはいいと思いますよ。それに、俺は姉貴に本当に似合わないものを買ってきたつもりはないですから」
「まあ、確かにね」
 これは本当だ。姉貴も愛と同じで、なにを着ても似合う。というか、着こなしてしまう。だから、普段は絶対に着ない今回のような服でも、きっと着こなしてしまうだろう。
「ねえ、お兄ちゃん。そのお店には愛お姉ちゃんも一緒に行ったんだよね?」
「ん、ああ。俺はそんな店、知らないからな。でも、なんでだ?」
「たいしたことじゃないんだけど、愛お姉ちゃんもカワイイ服、好きだから。一着くらい自分の買わなかったのかなぁ、って」
 ……鋭い。あまりにも鋭すぎて、言葉に詰まった。
「い、いや、ほら、あいつも姉貴へのプレゼントを買ったあとだったから、もう余裕がなかったんだって」
「そっか。それならしょうがないね」
 まさか、愛が違う目的のためにあれを買ったとは、さすがに言えない。
「私もああいうの、ほしいなぁ」
 ほしいなぁ、と言って俺を見ないでほしい。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「もうすぐ、私も誕生日だから、ね?」
「…………」
 そういうので迫られると、断りづらい。
「美樹。中学二年生にもなって、プレゼントなんてねだらないの」
 と、思わぬところから助けが入った。
「でもぉ……」
「そんなことばかり言ってると、なにももらえないわよ?」
「むぅ……」
 買ってくること自体はいいのだが、如何せん先立つものがない。
 今回は、美樹にあきらめてもらおう。
「洋一も、いくら美樹が可愛くても、そこまでしなくてもいいのよ」
「わかってる」
 とりあえずそう言っておかないと、収拾つかないな。
 それから少しして、まず愛が戻ってきた。
「どうだった?」
「ふふっ、それは見てのお楽しみ」
 そして、姉貴も戻ってきた。
 が──
「すごい……」
「うわぁ……」
「ほお……」
「へえ……」
 そこにいたのは、姉貴であって姉貴ではない、別人のような姉貴だった。
 背格好は同年代の女性とそう変わりないので、それ自体は特に違和感はなかった。
 だけど、これが本当によく似合っていた。
 自分の姉を褒めるのはあまり好きではないが、それでもこれだけは褒めざるを得ない。
 そういう格好をしているせいか、姉貴もどことなくそれにあわせた雰囲気をまとっていた。
「お姉ちゃん、カワイイ」
 最初に我に返ったのは、美樹だった。
 リボン通しレースをふんだんに使った白のワンピース。
 それにあわせたヘッドドレスに、ストッキング。
 どこからどう見ても、『人形』だった。
「……洋一」
「え、あ、なに?」
「あんたはどうなのよ?」
「い、いや、マジで似合ってる。違和感ないし」
「そう?」
「だったら、和人さんに聞いてみればいいだろ」
「……和人は、どう?」
「あ、え、えっと……すごく似合ってる」
「あ……」
 和人さんにそう言われ、姉貴の頬が赤く染まる。
「俺としてはさ、確かにそれを着た姉貴を見て笑いたかった、というのもあるけど、そういうのを着た姉貴を純粋に見たかった、というのもあるんだ」
「…………」
「それに、俺も男だから、和人さんの考えというか、嗜好もある程度はわかる。で、男というものは総じてそういうのが好きだから」
 実際、和人さんにそういう趣味があるかどうかはわからない。ただ、姉貴を納得させるためには、それくらい言わないと意味がない。
「……そうなの?」
「あ〜、改めて訊かれると困るけど……そうだね、洋一くんの言ってることも、あながちウソではないと思う」
「ふ〜ん……」
 姉貴は、自分の格好を見下ろし、少し考える。
「しょうがない。今回だけは許してあげるわ」
 嘆息混じりにそう言い、すぐに微笑んだ。
「でも、さすがにこのままの格好はイヤだから、着替えてくるわ」
「あ、姉貴。ちょっと待った」
「なによ?」
「せっかくだからさ、証拠、残しておかないと」
「……写真、撮る気?」
「あ、いや、ほら、父さんだけのけ者にするのはさすがにどうかなぁって、思ってさ」
 すまん、父さん。ダシに使った。
「……ホント、あんたは口だけは達者ね」
 肩をすくめ、降参の意を示す。
 それから俺は、すぐにカメラを用意した。
 本当は姉貴の写真だけでいいのだが、せっかくだし、和人さんも一緒に撮った。
 ふたりともなんとなく照れくさいのか、いつもとちょっと違う表情だった。
「あ、洋一。あんたも一緒に来て」
「えっ、俺?」
 着替えに部屋に戻るはずなのに、俺は姉貴に連行された。
 部屋に戻るまで、姉貴はひと言も発しなかった。
 部屋に入り、姉貴はベッドに腰を下ろした。
「正直、あんたがここまでするとは思ってなかった。和人をうちに呼んだ時点で、なにかあるとは思ってたけどね」
 その口調は穏やかで、怒っている感じはなかった。
「愛ちゃんがね、言ってたわ」
「愛が?」
「うん。今回のことを言い出したのは、私なんですって。着替えを手伝ってくれてる時に、そう言って謝ってくれたの」
「そっか」
「別に私は怒ってるわけじゃないのよ。これはこれで、カワイイと思うし。ただ、本人の意向を無視した形でこういうことはしてほしくないだけ。わかる?」
「わかる」
「それならいいわ」
 そう言って姉貴は微笑んだ。
「よし、さっさと着替えて戻りましょ」
「あ、じゃあ、俺は先に──」
「なに言ってるのよ。今度はあんたが手伝うに決まってるでしょ?」
「は……?」
「この服、ひとりだと本当に面倒なんだから」
「い、いや、ちょっと待て。なんで俺が?」
「ここにはあんたしかいないから」
「だったら、愛か美樹を代わりに──」
「いいから、手伝いなさい」
 姉貴の有無を言わせぬ物言いに、俺は従うしかなかった。
「とりあえず、後ろのファスナー、下ろして」
 なにが悲しくて姉貴の着替えを手伝わなくちゃならんのだ。
 そう思いつつも、俺はそれをやるしかないのだが。
 言われた通り、ファスナーを下ろす。これだったら、ワンピースタイプにしなけりゃよかった。
「こうリボンとかフリルとか多いと、扱いが大変なのよね」
 言いながら、ワンピースをストンと脱いでしまう。
 当然のことながら、あとは下着だけ。
「ね、洋一」
「ん?」
「今、ちょっとでもムラムラっときた?」
「は? なに言ってんの?」
「あによぉ、少しくらいつきあってくれてもいいじゃない」
 理不尽に腹を立てる。
「あのさ、姉貴の下着姿なんて、見慣れてるんだけど。今更だろ、そんなの」
 この姉貴は、俺の前で平気で下着姿になるから、もはやなんの感慨もない。
「でも、シチュエーションが違うじゃない」
 ヘッドドレスを外し、ストッキングも脱ぐ。
「かもしれないけど、姉貴は姉貴だろ」
「それってつまり、私が実の姉だから、そうはならないってこと?」
「なったら困る」
「ふ〜ん、なるほどね」
 なるほどって、改めて確認することか、そんなこと。ホント、わからん人だ。
「じゃあ、これが義理の姉とかだったら、話は変わる?」
「義理の姉?」
「そ」
「いや、変わるか変わらないかは、わからんけど。でもさ、そんな状況になるわけないじゃん。うちには男兄弟はいないんだから」
「ん〜、それがそうでもないかもよ」
「……どういう意味?」
「和人にはね、妹がいるのよ」
「それで?」
「妹なんだけど、あんたよりは年上なの。このままいくと、私と和人は一緒になるじゃない」
「まあ、そうだな」
 この前、証人にもなったし。
「ということはよ、私にとって和人の妹、名前は香織ちゃんて言うんだけどね、香織ちゃんは私の義理の妹になるわけでしょ?」
「それは当然だな」
「で、和人にとっては、あんたは義理の弟になるわけよ」
「ならないと困るだろ」
「じゃあ、あんたと香織ちゃんの関係はどうなるのかってことよ」
「あ……」
「わかった? つまり、あんたにとって義理の兄になる和人の妹、香織ちゃんは、あんたより年上だから、関係上は義理の姉という立場になるの。もちろん、実際はそこまで厳密じゃないし、あんたも香織ちゃんのことを義理の姉だとは思えないだろうけどさ。ただ、関係を図に直せば、そういう図式になるわけよ」
 確かに、それはそうだろう。それに異論はない。
「で、もし、その義理の姉である香織ちゃんが今みたいなシチュエーションでいたら、どう?」
「どうって、そりゃ……」
 意識するだろうな、男として。
「ま、そういうことよ」
 姉貴は、そう言って笑った。
「あ、そうそう」
 元の服を着ながら、さらになにか思い出したらしい。
「香織ちゃんね、すっごく美人だから。今、大学受験の真っ最中だから結構家にいてね、行くと会うから話もするし。で、香織ちゃんは美人で頭がよくて、話せる子。そういうところは、愛ちゃんに似てるわね」
「ふ〜ん……」
「で、今は彼氏もいない、と」
「……なにが言いたいんだ?」
「いやね、香織ちゃんにあんたの話をしたら、是非一度会ってみたいって言うのよ」
「は……?」
「もう興味津々て感じでさ。写真も見せたから、顔も知ってるし」
「いや、俺は知らないし」
「あ、ちなみに、和人曰く、香織は猪突猛進型だから、って」
「…………」
 なんか、ものすごくイヤな感じだ。
「あはは、大丈夫よ。あんたには愛ちゃんていう彼女がいることも話してあるから。ただ単純に、あんたに会ってみたいだけ、だと思うけど」
「なんなんだよ、その最後の余計なひと言は」
「しょうがないじゃない。私は香織ちゃんじゃないし、話したって言っても、そんなに長時間じゃないし。そんな短い間に彼女のこと、全部は理解できないもの」
「それはそうかもしれないけど……だったら、余計なこと言うなよ」
「余計なことじゃないわよ。香織ちゃんの受験がひと段落したら、家族揃ってうちに来ることになってるんだから」
「……マジ?」
「マジよ、マジ。私は向こうの両親に会ってるし、和人もうちの両親に会ってるけど、その親同士はまだ一度も顔をあわせないでしょ。別に堅苦しい席を設けるつもりはないけど、一度くらいは会っておいた方がいいと思って」
 まあ、近い将来一緒になるなら、そういうことは必要かもしれない。
「で、その時にいきなり香織ちゃんに会って困惑しないように、あらかじめ言っておいてあげたのよ」
「別に困惑なんてしないって。ああ、和人さんの妹さんなんだ、くらいにしか思わないんだからさ」
「それじゃあ、香織ちゃんが可哀想じゃない」
「なんで?」
「彼女にとっては、親同士の話なんてどうでもいいのよ。家族揃って、ということだから一緒に来るけど。でも、そこに話だけでも知ってるあんたがいれば、話は変わるでしょ。それに、あんたと彼女はひとつしか違わないんだから、話もあうだろうし」
 それはどうだろうか。
「彼女に話したというのはもう変えられない事実なんだから、だったら、あんたにもそれ相応の情報を与えて、迎えてもらわないと」
「…………」
 なんだか、はめられてる気がするのだが。
「ま、そういうわけだから、うちに来た時はよろしくね」
「へいへい」
「あ、いくら彼女が美人だからって、襲っちゃダメよ」
「襲うかっ」
「あはは」
 まったく、服の仕返しだな、これは。
 ホント、俺はどうやっても姉貴にはかなわないんだな。
 まあ、ちょっとだけその香織さんに会ってみたいと思ったのは、しょうがないことだ。
 
 俺と姉貴が戻って、パーティーは続いた。
 とはいえ、それは別に誕生パーティーという雰囲気ではなく、飲んで騒いでという、単なる宴会みたいな感じだったけど。
 だいぶいい頃になり、和人さんが帰ることになった。
「じゃあ、ちょっと途中まで送ってくるから」
 それに姉貴がついていく。
「洋一。あなたも愛ちゃんを送ってらっしゃい」
「へ〜い」
 後片づけを母さんと美樹に任せ、俺も愛を家へ送る。
「洋ちゃん。美香さんとなにを話してたの?」
「ん、服のことだよ。そういや、おまえ、姉貴に言ったんだってな」
「あ、うん。さすがに黙ってるわけにはいかないと思って」
「姉貴も別に怒ってたわけじゃないし、どうしてああなったか理解したから、案外楽しんでたな」
「そうだね。でも、やっぱり美香さんだよね」
「ん?」
「どう考えても美香さんがあんな服、着るとは思わないでしょ。それなのに、そういう服でもあれだけちゃんと着こなしちゃうんだもん。すごいよ」
「姉貴だからな」
 そのひと言で片づけるのもどうかと思うけど、そうとしか言いようがない。
「洋ちゃんも、美香さんは綺麗だと思うよね?」
「まあな」
「やっぱり、綺麗な人ってなにを着ても似合うんだよね」
 それをほかの連中に聞かせたら、なにをほざいてやがると、暴動でも起きるかもしれないな。
「あのさ、愛」
「ん、なに?」
「おまえ、自分のことはどう思ってる?」
「私のこと?」
「ああ」
「えっと……」
「正直に言ってみな」
「……自惚れてるわけじゃないけど、多少は見られる方だと思うよ」
「だとしたら、おまえはもう少し自覚するべきだな」
「なにを?」
「自分が、同年代の連中より頭ひとつ分は抜け出てることを」
「…………」
「これは別に幼なじみとか彼氏だから言うわけじゃない。客観的に見ても、おまえはほかの連中以上のものを持ってる」
「洋ちゃん……」
「って、そこで瞳を潤ませるな」
「だって、洋ちゃんにそこまで言われたことなかったし」
「……言えるか、そんなこと」
 俺にはラテン系の血は流れてない。べらべらと歯の浮くようなセリフを言えるか。
「でも、洋ちゃん」
「なんだ?」
「洋ちゃんの脳裏には、もうひとり、思い浮かんだでしょ?」
「……さて、なんのことやら」
「沙耶加さんも綺麗だからねぇ」
「……なにが言いたい?」
「ううん、別に。ただ、洋ちゃんの中では沙耶加さんもそういう位置にいるんでしょ?」
「まあ、そうだな」
 今更ウソを言ってもしょうがない。
 実際、俺の沙耶加に対する第一印象は、年齢不相応に綺麗な子、だったからな。
「私から見ても、沙耶加さんは綺麗だと思うよ。というか、客観的に見て、彼女の方が綺麗だと思う」
 俺としてはなにも言えないが、たぶん、みんな聞いたら愛と同じ答えが返ってくるだろう。愛も決して負けてはいないのだが、沙耶加のそれは群を抜いている。
 これはお世辞でもひいきでもなく、全国規模のコンテストに出てもいいところに残るはずだ。
「それでも洋ちゃんは、私に綺麗って言ってくれる。だから、嬉しい」
 愛はそう言って俺の腕を取った。
「ああ、でも、それはそれで大変かも」
「なんでだ?」
「だって、ずっと綺麗で居続けるのって、大変だと思うから」
「まあ、そのあたりはがんばってくれ」
「うん、がんばる」
 ま、愛はあの愛美さんの娘だ。それなりに努力してれば、年齢相応の容姿を保つことはできるだろうな。
「それで、美香さんとは服のことだけ話してたの?」
「いや、ほかにもあったんだけど」
 あ〜、これは言わない方がいいかもしれないな。
「それって?」
「和人さんのことだよ」
「和人さん?」
 間違っていないな。
「ホントに?」
 だけど、愛はそれを疑ってる。というか、なんでそんなに鋭いんだ?
「ホントにホント?」
「……なんでそんなに疑うんだ?」
「女の勘」
「…………」
 一番やっかいなものを持ち出してきやがった。
「なんか、それだけじゃないような気がして」
 どうするかな。ここで俺が誤魔化しても、姉貴に聞いたらすぐにバレることだしな。
「……はあ、しょうがない」
「やっぱり、ほかになにかあったんだ」
「和人さんのことっていうのは、間違いじゃない。ただ、話の中心は和人さんの妹のことだっただけだ」
「和人さんの、妹さん……?」
 愛の眉が、ピクリと動いた。
「俺たちのひとつ上だから、今受験の真っ最中」
「それはいいけど、なんでその妹さんが話題に上がったわけ?」
「それは……」
 これを言うと、さすがにマズイだろうな。
「そのあたりは、姉貴に聞いてくれ。俺が言うと、いろいろ語弊がありそうだ」
「……わかった」
 こうなったら仕方がない。覚悟を決める。
 というか、別に俺はやましいことはしてないし、言ってない。まだ未遂にすらなってないんだから。
「ほれ、着いたぞ」
「洋ちゃん」
「ん?」
「あんまり、浮気しないでね。私、本気で洋ちゃん刺してあと追っちゃうから」
「お、恐ろしいこと言うな」
「それくらい、洋ちゃんが好きってこと。それに、浮気はよくないことなんだから、しない方がいいに決まってるでしょ」
「そりゃ、まあ……」
「とりあえず、今日はそれだけ。じゃあね、洋ちゃん」
 愛は、俺にキスをして家に入っていった。
 完全にドアが閉まるのを確かめて、俺はきびすを返した。
「本気で刺す、か……」
 なんか、刺されそうで怖い。
 だけど、俺にとって愛が一番だということは、絶対に揺らがない。
 これだけは、真実であり、譲れないことだ。
 それさえ見失わなければ、大丈夫だ。
「ふう……」
 息を吐き、空を見上げた。
 冬の夜空には、綺麗な星が瞬いていた。
「俺も、しっかりしなくちゃな」
 今更かもしれないけど、改めてそう誓った。
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