恋愛行進曲
 
第十四章 想いの形
 
 一
 十二月三十一日。大晦日。
 今年も今日で終わりだ。
「ん……おにいちゃぁん……」
 ……妙に甘ったるい声で寝言を言うのは、もちろん美樹だ。
 昨日、久々にひとりで寝られると思っていたら、俺が寝る前にすでに美樹が俺のベッドに潜んでいた。
 一瞬姉貴かと思ったけど、さすがにそこまで子供じゃなかったらしい。
 で、しばし押し問答があったのだが、ワガママパワー全開の美樹に勝てるはずもなく、結局一緒に寝ることになった。
 しかも、昨日というか今もなんだが、美樹はいつものパジャマ姿ではなく、姉貴と同じようにダブダブのティシャツ一枚という姿だった。たぶん姉貴の入れ知恵なんだろうけど、これにはさすがに参った。
 実の妹だからというわけじゃないけど、美樹は結構発育がいい。ホームステイに行っていたせいでしばらく会っていなかったから、それを余計に実感している。
 昔から美樹は俺に抱きつく癖があるから、ティシャツ一枚という格好だと、それはもういろいろヤバイ。
 まあ、今は愛という彼女がいるから最悪の事態だけは避けられたが、この癖だけはどうにかして直してほしい。
 だけど、実は今回だけは美樹に感謝している。それは、昨日はいろいろなことがありすぎたからだ。あのままひとりで寝ていたら、きっと余計なことを考えていただろう。もちろん、考えなくちゃいけないことなのだが、せめて一日くらいはなにも考えずに過ごしたかった。そういう意味では、美樹に感謝している。
 とはいえ、美樹も来年の春には中三になるわけだから、そろそろいろいろ考えてもらわないとな。
「美樹。朝だぞ。起きろ」
 別に遅くまで寝ていても問題はないのだが、一応俺のベッドなので起こすことにした。
「……ん、お兄ちゃん……?」
「ああ、お兄ちゃんだよ」
「あはっ、お兄ちゃんだ」
「お、おい」
 まだ寝ぼけている美樹は、俺に抱きつき──
「ん……」
 まあ、キスまでされてしまった。
「ほれ、寝ぼけてないでしっかり起きろ」
「うにゅぅ……」
 軽く額を小突く。
「寒いよぉ……」
「寒いって、エアコン入ってるぞ」
「でもぉ……」
「そんな格好してるからだろうが」
「お兄ちゃん。洋服持ってきてくれるかな?」
「なんで俺がそんなことを──」
「お願いっ、お兄ちゃん」
 まったく、このワガママ娘が。
「……で、なにを持ってくればいいんだ?」
「えっとね、セーターでしょ、スカートでしょ、ブラジャーでしょ──」
「……ちょっと待て。俺に下着をあされと言うのか?」
「だって、ブラジャーしてないもん。しょうがないよ」
 と言いつつ、妙に嬉しそうなのはなぜなんだ?
「……今回だけだぞ。で、持ってくるのはどれでもいいのか?」
「あ、えっと、今日のと揃いのだから……」
 って、自分の下着を確認するな。
「ピンクのワンポイントがあるやつ。二段目に入ってるから。たぶん、すぐわかるよ」
「へいへい」
 なにが悲しくて妹の下着を持ってこなくちゃならんのか。そりゃ、退っ引きならない状況ならわかる。だけど、今はそんな状況じゃない。
 部屋を出て、美樹の部屋に入る。
 薄暗い部屋に電気を点け、まずはクローゼットを開ける。
 その隅にクリアボックスに入った洋服がある。
「スカートは、と」
 下の方にスカートはまとめて入っていた。
 この時期の美樹は、たいてい膝下くらいのスカートを穿いている。
「ん〜、これでいいか」
 それらしいのを適当に選び、今度はセーター。
 こっちもまとめて入っているので、すぐに選べた。
「……最後は」
 下着とかの入ってるタンスだけは、表に出ている。
 二段目に入ってると言ったが──
「…………」
 間違いなく色とりどりのブラジャーが入っていた。
 一瞬めまいがした。
「……さっさと持ってくか」
 余計なことは考えずに──
「これか」
 確かに、それらしきブラジャーはすぐに見つかった。
「あらぁ、愛ちゃんや沙耶加ちゃんだけじゃ物足りず、実の妹の下着にまで手を出してるわけ?」
「あ、姉貴……」
 振り返ると、いつの間にそこにいたのか、姉貴がいた。当然、ニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべてる。
「あら、しかもそれ、美樹のお気に入りじゃない。あんた、よく知ってるわね」
「こ、これは……」
 姉貴は俺の手からブラジャーをもぎ取る。
「ん、へえ、美樹、また胸おっきくなったんだ。さすがは我が妹」
 完全に遊んでやがる。
「……姉貴。なにが言いたいんだ?」
「べっつにぃ。ほら、さっさと美樹に持っていきなさい」
「……わかってるなら余計なこと言うなよ」
「それじゃあ、面白くないでしょ?」
 ダメだ。口で姉貴に勝てるはずがない。
「洋一」
「なんだよ?」
「いくらなんでも、実の妹に手を出しちゃダメよ?」
「出すかっ!」
「ふふっ、なら、お姉ちゃんとしてみる?」
「……姉貴。冗談でもそんなこと言うなよ」
「はいはい。私が悪かったわ」
 姉貴は軽く肩をすくめ、謝った。
「だけど、洋一」
「ん?」
「これきりにしなさいね、こんなこと」
「わかってるって」
「じゃないと、高村洋一は妹の下着に手を出す鬼畜外道だって言いふらさないといけなくなるから」
「……頼むからやめてくれ」
 そんなことされたら、俺はこの街から出ていかなくちゃならん。
「あはは、ま、妹孝行もほどほどにね」
 まったく、誰のせいで面倒なことになってると思ってるんだ。
 で、服を持って戻ると──
「お兄ちゃん、遅いよぉ」
 こっちのお姫様は理不尽に怒ってるし。
「ほれ、持ってきたぞ。それでいいだろ?」
「うん」
 美樹はそれを受け取り、早速着替え──
「ちょっと待て」
「ん?」
「それはどうかと思うぞ?」
「なにが?」
「俺がまだここにいるだろうが」
「うん。それが?」
「…………」
 ダメだ。完全にのれんに腕押しだ。
「美樹。いくら兄妹でももう少し考えろ」
「別にお兄ちゃんになら見られてもいいよ」
 言いながらティシャツに手をかけ──
「んしょ、っと」
 止める間もなく、脱いでしまった。
「……おまえはなぁ……」
 上半身だけだが、美樹の体はちゃんと『女の子』から『女性』へと変わっている途中だった。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「私も──美樹も、これだけ成長してるんだよ」
「ああ、そうだな」
「お兄ちゃんの好みの女の子になりたかったんだけど、それはもう無理だから」
 そう言って髪に触れる。
「でもね、私はずっとお兄ちゃんのこと、好きだから。お兄ちゃんが、私の一番だから」
「美樹……」
「はい、告白終わり」
 にっこり笑い、美樹は服を着た。
 ブラジャーをして、セーターを着て、ベッドから出てスカートを穿いて。
「さ、お兄ちゃん、ご飯食べに行こ」
「その前に──」
 俺はブラシを手に取り、美樹の髪を整えてやった。
「女の子なんだから、気にしなくちゃダメだろ?」
「あ、うん」
 髪を切って、だいぶ手入れは楽になったはずだ。以前なら俺なんか手も出せない状況だったけど、今ならブラシくらいかけられる。
「……やっぱり、ヤだな」
「ん?」
「お兄ちゃんが、美樹だけのお兄ちゃんじゃなくなるの」
「我慢しろ」
「わかってるけど、いつまでも我慢できるわけじゃないから」
「我慢できなくなったら、どうするつもりなんだ?」
「ん、そうだね、お兄ちゃんを愛お姉ちゃんからさらって、ふたりだけでどこか誰も知らないところで暮らすの」
「ははは、それはまた過激だな」
「そこでは私とお兄ちゃんが兄妹だってこと、誰も知らないから、結婚して、お兄ちゃんにいっぱいいっぱい愛してもらうの」
「…………」
「……なんてね。そんなこと、絶対にあり得ないのにね」
「アホ……」
 俺は、美樹を後ろから抱きしめた。
 俺たち兄妹は、いったいいつまでこうしていられるんだろうか。
 たぶん、それは俺にも美樹にもわからない。
 だからこそ、今をとても大事にするんだ。
 本当に、かけがえのない時間だから。
 
 朝食のあと、もう恒例となっている家族総出の大掃除である。
 陣頭指揮は、当然母さんが執る。
 普段から掃除しているところはいいのだが、あまりやっていないところは大変だ。力がいる場所は、俺と父さんが割り当てられる。
 実は、こういうことでもないと父さんとはゆっくり話せなかったりするので、これはこれで大切な時間かもしれない。
「なかなか大変なことになってるようだな」
 父さんは、外してきた網戸に水をかけながら言った。
「まあ、いろいろね」
 濡らした網戸に洗剤をかけ、たわしで擦る。
「綺麗な女性に気が向いてしまうのは、男としてわからんでもないが」
「父さんも、母さんとつきあってる時に、そんなことあった?」
「ない、と言えばウソになるな。でも、それはある意味しょうがないことだ。人を好きになれなかったら、誰ともつきあえないわけだしな」
「それって、浮気の言い訳?」
 手を止め、訊く。
「バカなこと言うな。浮気なんてしてるわけないだろうが」
「母さんが怖いから?」
「うっ……ま、まあ、そういうこともあるかもしれないな」
 父さんと母さんは今でも仲が良いけど、それでも父さんは母さんに頭が上がらない。母さんの方がひとつ年下ではあるが、惚れた弱みとでも言うのだろうか、どうしても最後のひと押しが出ない。
 実際、昔の母さんはかなりの美人で、交際の申し込みもそれはすごかったらしい。そんないわゆる『マドンナ』を射止めたわけである。父さんもやり手なのだが、ふたりを比べるとやっぱり母さんの方が上だ。
「母さんはな、あれでかなり嫉妬深いんだ。結婚した頃なんて、仕事で若い女性がいただけで、それはもう目くじら立てて追求してくるからな」
「そ、それはすごいな……」
「ただな、それは逆に言えばそれだけ母さんが父さんのことを想ってくれてるってことだから、イヤな気はしなかったな」
「まあ、確かに」
 愛も同じだ。
「たったひとりの想いを受け止めるだけでも大変なもんだ。その想いが真剣で、真摯であればあるほどな。洋一。おまえにふたり分の想いを受け止めることができるか?」
「……わからない。そりゃ、ひとりならひとりの方がいいのはわかる。でも、俺にはふたりの想いを無視できないんだ。だから、受け止めきれるかどうかはわからないけど、できる限り、その想いに応えていくつもりだよ」
「そうか」
 たわしで擦った網戸にもう一度水をかけ、洗剤を落とす。
「今回のことでは、父さんはなにも言わん。ただ、あまり女の子を泣かせるなよ」
「それ、母さんにも言われたよ」
「そうか。母さんもなかなか厳しいな」
「母さんが厳しいのは昔からだって」
「そういえばそうだな」
 そう言って笑う。
「ま、実を言うとそんなに心配はしてないんだ」
「なんで?」
「父さんや母さんよりもよっぽど心配してるのがいるからな、うちには」
 姉貴のことか。
「とりあえずは美香に任せておけば、最悪の事態だけは避けられるだろうし」
「なんとも放任主義な親だことで」
「そのおかげで、好き勝手やれてるということも、忘れるなよ」
「はいはい」
 父さんとこんな会話するとは、去年の今頃は思いもしなかったな。
「よし、次やるぞ」
「了解」
 こういう日は不思議なもので、普段とは違うパターンになることが多い。
 午前中にあらかた掃除を終えると、父さんが車を出して買い物に出た。それについていったのは、姉貴と美樹。
 というわけで、家には俺と母さんが残った。
 まだ掃除しなくちゃいけないところは残っているので、俺と母さんがそこをやっている。
 まあ、残りはたいしたところではないので、集中してやればあっという間に終わってしまう。
 最後に残ったのは、リビングだった。
「洋一。ちょっとそっち持ってくれる?」
「了解」
 テーブルを動かし、その下を掃除する。
「お父さんとも話したの?」
「ん、ああ、ちょっとね」
「なにか言ってた?」
「あまり。ただ、母さんが嫉妬深くて怖かったって」
「……あの人ったら、余計なことを」
 持っていた雑巾を思い切り握り締めている。というか、半端じゃない力なんだけど。こりゃ、早まったか。
「洋一は、ふたりのことをどう思ってるの?」
「どうって?」
「愛ちゃんは洋一の彼女でしょ?」
「うん」
「沙耶加さんはクラスメイト。まずそこからして立場が全然違うじゃない。それなのに、あたかもふたりともがあなたの『彼女』のように見えるから」
「そういうことか」
「だから、どう思ってるのかと思ってね」
「俺自身も完璧に自分の想いを理解してるわけじゃないけど、たぶん、母さんが見てる通りなんだと思う。確かに愛は俺の彼女で、かけがえのない存在で、ずっと一緒にいたい存在だ。でも、じゃあ沙耶加ちゃんがそうじゃないかと訊かれると、そうとも言えない。沙耶加ちゃんも、俺にとってはかけがえのない存在だし、ずっと一緒にいてほしい存在だから」
 それは俺の本音だ。
「でもそれは、かなり都合のいい考え方じゃない? もし結婚するつもりがあるなら、日本ではひとりとしか結婚できないんだから。ふたりと一緒に過ごす方法なんて、結婚しないで事実婚状態で一緒にいるか、一夫多妻制の国に行くことくらいしかないでしょ」
「うん、まあ」
「はい、そっち持って」
「あ、うん」
 掃除を終え、テーブルを戻す。
「もしふたりを平等に愛せるなら、事実婚でもなんでもいいとは思うけど、そんなことできる?」
「……わからない」
「でしょうね。たったひとりを愛し続けるのだって、大変なんだから」
「母さんでも?」
「そうね。私とお父さんがいくら愛し合っていたとしても、それが永遠のものだと言えるほど、お互いを理解できていないから。夫婦といっても、もとは他人だったんだから、それは当然なのよ。自分の子供ならもう少し理解もできるだろうけど、そうじゃないし。それでもね、私はお父さんのことを死ぬまで愛し続けるわ。お父さんも私のことを愛してくれる。そう思えているから、愛し続けられる」
「…………」
「ただね、相手の心を百パーセント理解してしまったら、たぶん、その関係はそこでおわりね」
「どうして?」
「だって、相手のことをもっとよく知りたい、理解したい。同時に自分のことを知ってほしい、理解してほしいという想いの延長線上に、恋とか愛という感情はあると思うの。それがなくなってしまったら、恋も愛も終わりじゃない」
「ああ、なるほど」
 それはそうかもしれない。
「それがひとりだけでも大変なのに、ふたりになったらどれだけ大変か。想像しただけで恐ろしいわ」
「…………」
 人の想いというものは、ある意味鋭利な刃物と同じだ。想いが強ければ、本当に殺傷能力すら有してしまう。
 もし、俺がふたりの想いを受け止めきれなくなったらどうなるか。
「だからね、洋一。ふたりのことは本当に後悔しないようにしっかり考えなさいね。つらい選択かもしれないけど、放っておけないからというだけで軽々しく想いを受け止めていいものか、よく考えないと。その選択の方が、よっぽどつらい目に遭わせてしまうかもしれないんだから」
「……わかった」
 それはわかってる。わかってるけど、俺は──
「そんな顔しないの」
 母さんは、優しい笑みを浮かべながら、そう言った。
「ちょっと待ってて」
 そのまま雑巾とバケツを持って行ってしまう。
 少しして、今度は別のものを持って戻ってきた。
「はい、これ」
「これって……」
 それは、俺の大好物のパイだった。中身は、リンゴ。しかも、母さんが作ってくれるパイが好きで、ガキの頃はよくねだって作ってもらっていた。
 最近はそこまですることはなく、母さんもあまり作っていなかった。
「本当はみんなで食べようと思ってたんだけど、洋一には先にあげるわね」
「でも、どうして?」
「息子の心配をしない母親はいないわ。私が手を貸してあげることはできないけど、せめてこれくらいのことはできるから」
「……母さん」
「美香だけじゃなく、私にだって頼ったっていいのよ。まあ、話しやすいのは美香の方だとは思うけど」
「ありがとう、母さん」
 母さんにここまで言ってもらったのは、はじめてかもしれない。だからこそ、すごく嬉しい。
「ああ、そうそう。洋一にはもうひとつ必要だったわね」
 母さんは、再び台所へ。
 今度はさっきより時間がかかっている。いったいなにをしているのやら。
 しばらくして戻ってきた母さんの手には──
「はい」
 アイスレモンティーがあった。
「アップルパイとアイスレモンティー。洋一の好物だもんね」
 涙が出そうなほど嬉しかった。見てないようでちゃんと見ていてくれる。それが母親というものかもしれない。
「ほら、遠慮しないでいいのよ」
「うん」
 母さんのアップルパイは、本当に旨かった。
 だけど、それ以上に母親の『愛』というものを感じずにはいられなかった。
「がんばりなさいね、洋一」
 だから、そんな母さんの期待を裏切らないよう、俺もしっかりしなくちゃいけない。
 
 大晦日というのは、陽が暮れてからが長い。
 うちは特に変な慣習とかはなく、たいていは国民的歌番組を見て、どこぞのカウントダウン番組を見て、眠くなったところで寝てしまう。年が明けたからといって、すぐに初詣に行くほど酔狂な家族ではない。
 ただ、今年はそういうわけにはいかなかった。
 とりあえず夕飯は家族揃って食べた。母さんが妙に張り切って準備していたから、やっぱり料理も旨かった。
 ちなみに、俺が母さんに嫉妬深い云々のことをしゃべったせいで、父さんはきっちり制裁を受けていた。なにをされたかは、父さんの名誉のために言わないでおく。
 食事のあとは、なんとなくまったりと大晦日の夜を過ごした。
 途中、姉貴が年越しそばでも食べようかと提案したが、寝る前に食べると太るわよ、という母さんの鋭いひと言でご破算になった。
 で、俺は国民的歌番組の途中にその場を抜け出した。
 コートを着込み、マフラーをして、手袋をして、カイロを持って。
 冬の夜はかなり寒い。関東地方はあまり寒くないと誤解されがちだが、北西からの風が乾燥した空気を運んできて、かなり寒くなる。
 身震いしながら家を出て、向かう先は森川家。
 途中、空を見上げたら、綺麗な月と星が見えた。
 結構空気は澄んでるらしい。
 乾燥してるせいで吐く息も白くはならない。
 数分で森川家に着いた。
 普段ならこんな時間にインターフォンを鳴らしたりしないのだが、大晦日なので鳴らした。
『はい』
「あ、洋一です」
『あら、洋一くん。ちょっと待っててね』
 すぐに愛美さんが玄関を開けてくれた。
「こんばんは」
「こんばんは。今日も寒いわね」
「ええ、かなり寒いです」
「さ、上がって」
「はい」
 愛美さんは、いつもと同じように俺を上げてくれた。
「愛〜、洋一くんが来たわよ〜」
 玄関を閉めると、早速二階にいる愛に声をかけた。
「ちょっと待ってて〜」
 二階から声が返ってきて、バタバタと足音が聞こえる。
「なにしてるのかしら、あの子?」
「さあ、おおかた準備に手間取ってるんじゃないですか?」
「そうかしら? あの子、洋一くんと初詣行くの、楽しみにしてたから、そのあたりの準備は完璧のはずだけど」
 おとがいに指を当て、言う。
 時折、バタバタと足音が聞こえてきたが、やがて聞こえなくなった。
「聞こえなくなりましたね」
「そうね。そろそろ下りてくるってことかしら」
 愛美さんの言う通り、まもなく愛が下りてきた。
「なにをバタバタやってたの?」
「あ、うん。うたた寝してたらせっかくセットした髪がひどいことになっちゃってて、それで慌てて直してたの」
 なんというか、間抜けだ。
「じゃあ、もう準備万端ね?」
「うん」
「ということで、洋一くん。愛娘ひとり、お待たせ」
 そう言って愛美さんは微笑んだ。
「それじゃあ、お母さん。帰りは何時になるかわからないから」
「ええ、わかったわ。もし私もあの人も寝ていたら、鍵を開けて入ってきてね。チェーンだけはかけないでおくから」
「うん」
 トントンと爪先を叩いて、靴を履く。
「行こ、洋ちゃん」
「ああ」
「いってらっしゃい」
 愛美さんに見送られ、俺たちは外に出た。
「うわ、寒い」
 外に出た途端、愛はそう言って身震いした。
「少し外にいれば慣れるって」
「そうかもしれないけど、やっぱり寒いよぉ」
「ったく、しょうがないな」
 俺は手袋を外し、愛の手を取った。
「ほれ、おまえも手袋外せ」
「あ、うん」
 愛もすぐに手袋を外す。
 で、愛の手を握り、そのままコートのポケットに。
「これで少しは紛れるだろ?」
「うん。ありがと、洋ちゃん」
 愛は、にこ〜っと微笑んだ。
「それにしても、まさか年明けと同時に初詣に行く日が来るとは思ってなかったな」
「そうなの?」
「ああ。うちは家族揃って、そういうのに興味が薄いからな。だいたい毎年、年が明けてしばらくすると寝ちゃうし」
「そうなんだ」
「無理して起きてたってしょうがないからな。初詣だって、わざわざ暗くて寒い夜中に行かなくたって、明るく多少は暖かい昼間の方が楽だし」
「確かにそうだね」
「今年というか、年が明けたら来年だけど、愛に誘われなかったら、やっぱり朝起きてからだっただろうな、初詣」
「そっか」
 中には年明けと同時に初詣することに生き甲斐をかけてる奴もいるけど、俺にはそういう連中の気持ちがいまいちわからない。別に年さえ明けていれば、いつしたって同じだと思うんだがな。
「おまえんとこはどうなんだ?」
「うちは、その年によってまちまちかな。大晦日や元旦になにか予定があったりすると、普通に寝ちゃう。でも、なにもなかった場合は、揃って初詣に行ったり」
「ふ〜ん」
 やっぱり、そういうのには家族の個性みたいなのが出るようだ。
「でも、今年はこうして洋ちゃんと一緒だからね」
 そう言ってギュッと俺の手を握ってくる。
「一年の最後の時間を一緒に過ごして、一年の最初の時間を一緒に過ごすの。できれば、それからの一年もずっと一緒に過ごしたいけど」
「…………」
 少なくとも三月までは、それはかなわない。
「まあ、いいや。今は余計なことを考えず、新しい年を迎えないと」
 最後は笑顔でそう締めくくった。
 
 俺たちが向かっているのは、このあたりで一番大きな神社だ。
 大きいとはいっても、別になにかあるわけじゃない。ほかの神社と同じように、初詣の時期と祭の時期くらいしか賑わうことはない。
 それでも結構大きな神社なので、初詣客はそれなりに来る。
 うちも毎年のようにその神社で初詣してるけど、お昼過ぎでも結構な人出だったりする。
 神社までは歩いて三十分ほど。特別近いわけでも、遠いわけでもない。
 ふたりでのんびり歩くことを考えて、しかも神社に着いて少ししたくらいに年が明けるように計算して出てきた。
 で、その計算は見事に当たった。
「結構いるんだな」
「うん。いっぱい、ってほどじゃないけど、それなりにね」
 以前にも来ている愛は、そう説明してくれた。
「あと、五分か」
 時計で時間を確認する。
 すでに本殿前にはお参りの列ができている。当然、まだ誰もお参りしてないので列は泊まった状態だ。
 俺たちもその最後尾に並んだ。
「今年は、本当にいろいろあったね」
「ん、そうだな」
「春休みに洋ちゃんに告白され──」
「俺は振られたと思ってた」
「本当は、あの時にちゃんと答えられてればよかったんだよね。そうすれば、もっともっとふたりの時間を過ごすことができたはずだから」
「そうかもしれないけど、しょうがないだろ」
「うん。過去をいつまでも悔やんでもしょうがないしね」
 すぐ側の人が、携帯ラジオで時間を確認している。
「修学旅行は、ずっと一緒に過ごせて嬉しかったなぁ」
「ま、確かにずっと一緒に過ごすことになったな」
「京都でふたりだけで街を見てまわったでしょ?」
「ああ」
「あの時ね、本当は結構ドキドキだったんだ。修学旅行ではあったけど、実質デートみたいなものだったし。ああ、私は今、洋ちゃんとデートしてるんだ、って。そう思っただけでドキドキしちゃって」
「そんな風には見えなかったけどな」
「当たり前よ。だって、そう見えないように努力してたんだから」
 変なところで努力する奴だな。
「でも、もっとドキドキしたのは、やっぱり白浜で。一緒の部屋で過ごすことになって、もう本当にドキドキだった」
「俺もそうなればいいとは思ってたけど、まさか本当にああなるとは思ってなかったからな。それにあれだ。夜に砂浜でおまえにキスされただろ?」
「うん」
「あれのせいで、ホントに眠れなかったんだからな」
「ふふっ、それは私も同じ。勢いだけでキスしちゃって、よく考えたらものすごく大胆な行動だったって思って。そしたら、全然眠れなくなっちゃって。結局眠れたのは、だいぶ経ってからだったし」
「そのせいで朝、すぐに起きなかったんだな」
「そうなるのかな」
 でも、あれはあれでいい想い出になった。
「それから夏休みまでは、少しずつ少しずつ洋ちゃんへの想いを育んでいたって感じかな。どうやっても洋ちゃんのことは大好きなんだけど、その大好きが少しずつどうしようもないくらい大好きに変わって。だからね、夏休みが待ち遠しかった。自分で夏休みまで待ってほしいと言っておきながら、なんでもっと早くにしなかったんだろうって、後悔したくらいだから」
「なるほど」
「そして夏休みが来て、また白浜へ行って。そこで私たちは──」
「単なる幼なじみから恋人同士になった」
「うん」
 今年の夏だけは、愛と一緒にいる限り、一生忘れないだろう。
「本当に嬉しかった。大好きな洋ちゃんと恋人になれて。世界中で私が一番幸せなんじゃないかって思ったくらいだから」
「それは大げさだろ」
「かもしれないけど、そう思えるくらい幸せだったの」
 でもね、と言って愛はわずかに顔を曇らせた。
「二学期になって、沙耶加さんというライバルが現れた。心配は心配だったけど、最初は大丈夫だって思ってた。でも、沙耶加さんが本気であることがわかればわかるほど、その心配が現実のものとなった」
「…………」
「洋ちゃんは沙耶加さんも放っておけず、やがてふたりの仲は決定的となった。それでも私は心のどこかで大丈夫かもしれないって思ってた。それは、私が洋ちゃんの彼女だから。それでも、根拠は十分なはずなのに、自信が持てなくて……」
 そして俺は、愛を裏切るような形で沙耶加ちゃんを抱いてしまった。
「本当に、いろいろあったね」
「ああ」
「来年も、いろいろあるのかな?」
「たぶん」
 少なくとも、春まではいろいろあるだろう。
「だとしたら、私ももっともっとがんばらないと」
 と、まわりでカウントダウンがはじまった。
「とりあえず今は、いろんなことは忘れて、新たな年を迎えようぜ」
「うん」
 次第にカウントダウンの声が大きくなる。
『十……九……八……七……六……』
『五……四……三……二……一……』
 時報と同時に──
『あけましておめでとう』
 あちこちから歓声が上がる。
「愛。あけましておめでとう」
「うん、あけましておめでとう、洋ちゃん」
「今年もよろしくな」
「こちらこそ」
 俺たちは、まわりの雰囲気に引きずられるように、明るく新年の挨拶を交わした。
 それから少しずつ列が動き出す。
「なにをお願いするんだ?」
「ん〜、基本的には洋ちゃんのことかな」
「俺の?」
「うん。洋ちゃんが、私だけを見てくれますように、って」
「愛……」
「今の私にとっては、それがなによりも大切な願いだから」
 確かにそうだろうな。
「洋ちゃんは?」
「俺は、とりあえず今年も無事過ごせるように、かな」
「無事にって、それはいくらなんでも事なかれ過ぎない?」
「とはいってもだな、ほかに浮かばないし」
「むぅ、私のことは?」
「愛のこと?」
「私だけが洋ちゃんとのことをお願いするだけじゃなくて、洋ちゃんも私とのことをお願いすれば、きっとそれはかなうから」
「……そうだな」
 たぶん、愛のためにはそうするべきなのだろう。だけど、俺の中ではまだ沙耶加ちゃんのことが中途半端なままだ。そんな状況で愛のことだけをお願いしていいのだろか。
「……今だけは、沙耶加さんのこと、考えないで。私だけを見て」
「愛……」
「ね?」
「わかった」
「うん」
 しばらくして、俺たちの番がまわってきた。
 賽銭を入れ、ガラガラと鈴を鳴らす。
 作法に則り、お願いをする。
「…………」
「…………」
 それから本殿を離れ、今度は社務所へ。
 そこでおみくじを引く。
「あ、大吉」
「中吉か」
 愛は大吉、俺は中吉だった。
「えっと、恋愛運は……きっと願いはかなうでしょう。なにごともあきらめないことが肝心です」
 あきらめが肝心とは聞くけど、あきらめないことが肝心とはな。
「洋ちゃんのは?」
「俺のは……前途多難。しかし、自分の気持ちに素直になれば、道は拓かれる」
「……なんか、妙に当たってそうだね」
「……ああ」
 そのおみくじは、枝にくくりつけておくことにした。
 で、俺たちは早々に神社をあとにした。
「ね、洋ちゃん」
「ん?」
「帰ったら、どうするの?」
「どうするって、寝るだけだろ。結構眠いし」
「……抱いて、くれないの?」
 悲しそうな顔で俺を見る。
「……そんな顔で俺を見るなよ」
「でもぉ……」
「ああ、もう、わかったから。好きなようにしていいから」
「あはっ、ありがと、洋ちゃん」
 なんとなく、今年もこんな感じで俺たちの関係は進んでいくんだろうな。
 本当に、進歩のない俺たちだ。
 
 二
 元旦の朝を自宅以外で迎えることになろうとは、思わなかった。もちろん、家族で旅行とかいうのは除く。
 隣には、一糸まとわぬ姿の愛がいる。
 髪を撫でてやると、少しだけくすぐったそうに身をよじる。
 なぜかはわからんが、こいつと一緒に寝ると、たいてい俺の方が早く起きる。もう少し寝ていたいという気持ちもあるのだが、この幸せそうな寝顔を見られるのは、この時だけだから、それはそれでいいのかもしれない。
 とはいえ、まだ眠い時に気持ちよさそうに眠られると、腹が立つのも事実だ。
「愛。起きろ」
 だから、たいていは起こしてしまう。
「いくら正月だからって、グースカ寝てるなって」
「……う、ん〜……」
 愛も寝起きはいい方だから、起こせばちゃんと起きる。
「おはよ〜、洋ちゃん」
「おはよう、お姫様」
 愛は、そのまま俺にキスしてくる。
「今、何時?」
「もうすぐ十二時だ」
「あ〜、もうそんな時間なんだ」
 そう言いながら、特に気にしてる様子もない。
「昨夜は、遅かったからね」
 少しだけ熱っぽい声で言う。
「最近思うんだけどさ」
「ん?」
「おまえって、実はかなりスケベだよな」
「な、なに言ってるのよ」
「いや、悪い意味で言ってるわけじゃない。俺だって、おまえとセックスするのは好きだし。たださ、なんとなくおまえとそういうイメージがあわなかったから、そう思っただけだ」
「……私だってね、健全な高校二年生なんだから、性欲だってあるし、いろいろなことに興味だってあるよ」
「じゃあ、ひとりでしてたとか?」
「そ、それは……その……うん」
 なんとなく、愛のそういう一面を知ることができて、嬉しかった。
「あ、も、もう、なに言わせるのよ」
「ははは、カワイイぞ」
「むぅ、そういうところでカワイイって言われても、嬉しくないぃ」
「照れるな照れるな」
「洋ちゃんの、いぢわる」
 好きな奴にはついついいぢわるしたくなる。それは今も昔も変わらない。
 特に、相手が愛ならなおさらだ。
「あ、そうだ。洋ちゃん」
「なんだ?」
「洋ちゃん、私の着物姿、見たい?」
「着物? 持ってるのか?」
「本当は私のじゃないんだけど、お母さんが昔着たやつがあるの。私にも機会があったら着させてくれるって言ってて。もし洋ちゃんが見たいって言ってくれるなら、お母さんに着付けてもらうんだけど、どうかな?」
「そうだな……」
 愛の着物姿か。確かに、こういうことでもない限り拝めないレアな姿ではあるな。
 それに、こいつならどんな着物を着ても似合うだろうし。
「面倒じゃなければ、見てみたいな」
「着物の着付けはどうやったって面倒なの。でも、見てみたいんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、お母さんに頼んでみる」
 愛は、嬉しそうに頷いた。
 それから俺たちは、なんとなくいちゃつきながら服を着て、部屋を出た。
 リビングからテレビの音と、声が聞こえてくる。
「お父さん、お母さん。あけましておめでとう」
「おめでとう、愛」
 まず、愛が孝輔さんと愛美さんに新年の挨拶をする。
「あけましておめでとうございます」
 次いで俺。
「あけましておめでとう、洋一くん。今年もよろしく頼むよ」
「はい」
 家族より先に、このふたりに挨拶するとは思わなかったけど、まあ、しょうがないか。
「お母さん。お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん。私に着物を着付けてほしいの」
「それは構わないけど、どうしたの急に?」
「ん、だって、せっかくのお正月だし、洋ちゃんに私の晴れ姿、見てほしいから」
 自分の両親の前でそこまで言えるとは、たいした奴だ。
「そういうことなら、すぐに着付けてあげるわ。こっちいらっしゃい」
「うん」
 愛と愛美さんは、連れだって奥の部屋へ。
 自然と、男ふたりが取り残される形となった。
「洋一くん。とりあえず紅茶でも飲むかい?」
「あ、はい」
 孝輔さんは、そう言って俺に紅茶を淹れてくれた。
「愛が洋一くんとつきあうようになって、本当に明るくなったよ。もちろん、以前から暗い子ではなかったけど、なんて言えばいいのかな。明るさの質が変わった気がする」
「明るさの質、ですか」
「それまでの明るさは、電気にたとえて言うなら、ただ電気を流されて点いてる電灯のような明るさで、今の明るさは、自ら電気を起こして明るくしている。そんな感じだよ」
「なるほど」
「今でも忘れないよ。愛が、洋一くんとつきあうことになったって報告してくれた日のことを。あの時のあの子は、それはもう本当に嬉しそうに、幸せそうに話してくれた。親である我々ですら一度も見たことのない笑顔でね」
 そんなことがあったのか。
 そういえば、うちでは父さんにも母さんにもなんとなくしか言わなかったな。
「まあ、我々は愛が昔から洋一くんひと筋だって知ってたから、なるべくしてなったとは思ったけどね。それからのことは、改めて言うこともないと思うけど」
 孝輔さんたちにしてみれば、俺は昔から『狙われて』いたわけだから、願ったりかなったりだったんだろうな。
「洋一くんも愛から聞いてるとは思うけど、私は本当は男の子がほしかったんだ。もちろん、生まれたのが女の子だったからって、落胆はしなかったよ。どちらにしても、自分の子供に変わりはないからね。愛が生まれて、やがて洋一くんという幼なじみができて。確かに洋一くんを見て、やっぱり男の子がほしかったという想いはあったよ。だけど、それはあくまでも理想でしかないから。現実は違うし。だからというわけでもないけど、洋一くんが『息子』になってくれればいいと思ったよ」
「…………」
「でもね、それは娘の幼なじみだったから、というわけでもないんだよ」
「そうなんですか?」
「幼なじみとして、ふたりの成長の姿を見続け、いろいろ考えた上でそう思ったんだ。洋一くんなら、娘を任せるのに十分な男の子だと思ったし、また、洋一くんにしか娘を任せられないと思った。だから、本当の意味で『息子』になってほしいと思ったんだ。もっとも、そんなことをいきなり言われても困ると思ったから、茶化すような感じで話していたんだけどね」
「そうだったんですか」
「そして愛と洋一くんはつきあうようになって、我々の願いをかなえてくれる、あと一歩のところまで来てくれた。願わくば、本当にかなえてくれると嬉しいけどね」
 今の俺には、それに応えることはできない。
 まだ、曖昧な今の状況では。
「今はまだ、そんなに真剣に考えなくてもいいよ。そうだね、少なくとも高校在学中はね。高校を卒業する時に、もう一度真剣に考えてくれればそれでいいから」
「はい、わかりました」
 本当はそれでは遅いんだろうけど、今は素直に頷いておこう。
「それにしても、洋一くんがうちにいてくれると、話し相手がいてくれて助かるよ」
「そうなんですか?」
「ああ。うちのとは、まあ、会話がないわけじゃないが、必要最低限の会話がほとんどだし、愛とも最近は会話の時間が減ってるからね」
 夫、男親というのはそういうものなのだろうか。うちの場合、父さんがあまり家にいないから、かえって会話がある。だから、そういうのを目の当たりにしてないから、よくわからない。
 ただ、そういう話はよく聞くし、実際そうなんだろうな。
「男同士じゃないとできない話もあるしな」
「そうですね」
「なにが男同士じゃないとできない話もある、よ」
 そこへ、愛美さんが戻ってきた。
「あなた。洋一くんに変なこと吹き込まないでよ」
「変なこととはなんだ、変なこととは」
「いくら味方がいないからって、洋一くんを味方につけようだなんて」
 なかなか辛辣な物言いだ。
「洋一くんも、この人の話は、話半分で聞いていていいのよ。まともに聞いても、得るものなんてなにもないから」
 そんなこと言われても、俺はウンともスンとも言えない。
 孝輔さんは面白くなさそうに紅茶を飲み干した。
「洋ちゃん。お待たせ」
 と、愛も戻ってきた。
「どう?」
「お……」
 それは、薄紫の着物だった。
 アヤメの花が染め抜かれ、とても落ち着いた印象を与える。どちらかといえば少し年齢が上の女性が好んで着そうな柄だ。
 それでも、とてもよく似合っていた。
「似合ってる。すごく似合ってる」
「ホント?」
「ああ」
「あはっ、よかった」
 着物にあわせ、髪を結い上げてるから、印象も違う。
「愛。着物を着た時は、それらしい振る舞いをしないとダメよ。そうじゃないと、着物のよさが半減してしまうから」
「それって、楚々としてろってこと?」
「そうね。むやみにはしゃいだりせず、お淑やかにしていれば、着物に負けることはないわ」
「そっか」
 淑やかな愛か。どうも想像できんな。
「あ、洋ちゃん。今、おまえには無理だって思ったでしょ?」
「べ、別に、そんなことはないぞ。うん」
 自然と視線を逸らしてしまう。というか、人の心を読むな。
「むぅ、悔しいなぁ」
「だったら、洋一くんを見返すくらい、お淑やかにしてなさい」
「はぁい」
 なんというか、妙なことになったな。
 本当に、どうなるのやら。
 
 愛は結構がんばった。
 俺の予想だともう少し早く白旗を揚げると思ったのだが、マジで悔しかったらしく、一生懸命だった。
 淑やかな愛というのも、これはこれで新鮮でよかった。
 淑やかさでいえば、沙耶加ちゃんなのだが、その沙耶加ちゃんにも負けないくらいだった。
 とはいえ、付け焼き刃の淑やかさでは、どこかにボロが出る。
 時折地が除き、慌てて直したりもしてた。
 で、そんな愛に与えられた試練。それが、うちへの挨拶だった。
 孝輔さんと愛美さんが初詣に行くということで、その間にうちへ行ってこいということになった。
「大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫だよ」
 愛は、履き慣れない草履を履いている。どうせうちまでだから靴でもいいんじゃないかと言ったのだが、即席『大和撫子』の愛は、それを頑として受け入れなかった。
 とはいえ、履き慣れないものを履いて歩くと、本当に歩きづらい。愛は、ただでさえ着物で歩きづらいのに。
 俺は愛にあわせているため、いつもよりだいぶゆっくり歩いていた。
「別にムキにならなくてもいいんだぞ?」
「ムキになんてなってないから。それに、今から少しずつお淑やかにしてないと、将来困ると思うし」
 確かに、性格矯正はそう簡単にできるものではない。いい年した大人が、年齢不相応にはしゃいでたら、みっともない。
「頑固だな」
「頑固じゃないよ。これは、私の女のとしての決意だから」
「決意、ねぇ……」
 それが頑固だと言うのだが。ま、ここで議論してもしょうがないか。
 そうこうしているうちに、うちに到着した。
 確か、姉貴は和人さんと初詣に行くようなことを言ってたから、いないかもしれないな。
「ただいま」
「おじゃまします」
 家に入ると、リビングから声が聞こえてきた。
 で、そのリビングに顔を出すと、うちの家族全員と和人さんがいた。
「おかえりなさい」
 最初に俺たちに気付いた母さんが声をかけてくる。
「あら、愛ちゃん」
 そうすれば当然後ろにいる愛にも目が行く。
「まあ、綺麗ね」
「ありがとうございます」
「えっ、なになに?」
 それに食いついてきたのは、もちろん姉貴だ。
「あ、愛ちゃん。着物着てきたんだ」
「あ、はい」
「うわ〜、愛お姉ちゃん、綺麗〜」
 美樹も愛を見てそう言う。
「ありがと、美樹ちゃん」
 褒められて愛も嬉しそうだ。
 っと、その前にやることはやらないとな。
「父さん、母さん。あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう」
 これが目的で来たのだから、なし崩し的に話してしまって意味がない。
「愛ちゃん」
「はい」
「今年もうちの洋一をよろしくね」
「はい」
 とりあえず挨拶を済ませ、話の輪に加わる。
 俺たちが来た時には、ちょうど和人さんと酒を飲んでいるところだった。
 本格的なおせちではないけど、それらしい料理も並び、食卓を見ただけで正月という感じがした。
「それにしても、愛ちゃんも着物を着るとぐっと色っぽく見えるわね」
「そうですか?」
「なんていうのかな。和装美人て感じ」
 姉貴も酒が入ってるせいか、いつもよりハイテンションだ。
「ねえ、和人。和人も私の着物姿、見たい?」
「えっ? いやまあ、見たいか見たくないかと訊かれれば、見たいけど」
「ふふ〜ん、見たいんだ。そっか。じゃあ、見せてあげよっか?」
「美香、着物持ってるの?」
「持ってるわよ。お母さんのお下がりだけど」
 姉貴も愛と同じで、母さんが昔着ていた着物をもらっている。まあ、今年は成人式もあるから、それにあわせてなんだけど。
「よし。じゃあ、着替えてくるから、楽しみに待ってて」
 そう言って姉貴は、リビングを出て行った。
「ごめんなさいね、和人さん。騒がしい子で」
「いえ、慣れてますから」
 慣れてますから、のひと言で済ませてしまう和人さんも、いよいよ姉貴に毒されてきてるな。
 ま、それくらいじゃなければ、姉貴とはつきあえないか。
「あれ、でも、美香って着付けできるんですか?」
「ええ。今年は成人式でしょ? それで着物を着てそれに出たいからって、着付けを教えてあげたの」
「そうだったんですか」
 なんでもそつなくこなせてしまう姉貴だ。着付けもあっという間にマスターしてしまった。世の中には着付け学校というものがあって、なかなか上達しない人も多いというのにだ。
 ちなみに、それを見ていた美樹も着付けをやりたいと言ったのだが、母さんがまだ早いと一蹴していた。
 確かに早いということもあったけど、母さんの本音としては、美樹の着物がないから、着付けを教えたら着物も用意しなくちゃいけない。だけど、そんな余裕はないからダメ。というところだろう。
「愛ちゃんは着付けは?」
「私はお母さんにしてもらいました。まだできないので」
「そうなの。でも、愛ちゃんならすぐにできるようになるわ」
「そうだといいんですけど」
 この時点で愛は絶対に着付けができるようになると決意してるはずだ。こいつも負けず嫌いだし、なによりも自分ひとりで着付けができないと、好きな時に着物を着られない。
 俺はそんなこと言わないが、万が一俺が着物姿を見たいと言った時、着付けができないと困る。
 おそらく、そんな方程式が成り立っているだろう。
「ねえ、お父さん。私も着物ほしいよぉ」
 まわりでそんなことばかり言ってたせいで、我が家のワガママ娘が早速声を上げた。
「着物か? そうだな……」
 母さんに言ったら一瞬で却下されるのは、火を見るよりも明らかだった。
 父さんなら、特に美樹には甘いから、多少希望の光がある。
 だが、それはあくまでも母さんが同席してない場合。
「美樹。着物なんてあなたにはまだまだ早いわよ」
「ええ〜っ、そんなことないよ。私だって今年で中三なんだし」
 無駄と知りつつも、一応反論を試みる。
「そうね。じゃあ、こうしましょう」
「なになに?」
「もし春までに『お兄ちゃん離れ』できたら、用意してあげるわ」
「えっ……?」
 それは、あまりにも予想外の展開だった。
 というか、母さんも今ここでそんなこと言わなくてもいいのに。
「どう?」
「それは……」
 美樹は、俺の顔を見る。
「別にいいのよ。無理しなくても。美樹にだって美香と同じように、成人式までにはちゃんと用意してあげるから」
 そう言われると、さすがの美樹も意気消沈だ。
 特に、俺のことを引き合いに出されてるから、なおさらだ。
「……とりあえず、がんばってみる」
「そう? じゃあ、春が楽しみね」
 そう言って母さんは微笑んだ。
 なんというか、確信犯だな。実の娘のことだし、美樹がどんな目で俺のことを見ているか知ってるはずだ。それでそういうことを言うんだから。
 美樹としては、なにもしないでギブアップするわけにもいかない。親離れと同じで、兄妹間のそれもやはり必要なことだからだ。だから、とりあえずがんばると言ったのだ。
 それから少しして、着物姿の姉貴が戻ってきた。
 オレンジ色のような、淡い黄色地の着物に、山吹の花が染め抜かれている。
「どう?」
 和人さんの目の前でまわってみせる。
「よく似合ってるよ。別人みたいだ」
「なによそれ。それじゃ、普段の私は全然そんな雰囲気ないみたいじゃない」
「そ、そんなことはないよ」
「そういうことを言ったりやったりするから、和人さんのイメージが固定されるんでしょうが。全部、あなたが原因よ」
 詰め寄る姉貴に四苦八苦していた和人さんに、強力な助っ人が現れた。
「そ、それはそうかもしれないけど……」
 さすがの姉貴も、母さんに言われてはなにも言い返せなかった。
「美香も、愛ちゃんを見習って少しはお淑やかにしたらどうなの?」
「はぁい」
 愛を見習って、ときたか。それは予想外だ。
 というか、愛は照れながらも嬉しそうだ。きっと、心の中ではガッツポーズしてるに違いない。
 やれやれ。あとでなにを言われるのやら。
 
「あ、そういえば」
 とりとめのない話が、それこそいつまでも続いている時、俺は不意に思い出した。
「どうしたの?」
 隣にいた愛が、訊いてくる。
「いや、ちょっと電話しなくちゃいけないところがあったんだ」
「電話? 誰に?」
 どこに、じゃなくて、誰に、ときたか。
 本当に女という生き物は、妙なところで鋭いな。
「真琴ちゃんだよ」
「真琴ちゃん?」
 意外な名前に、愛は首を傾げた。
 が、それはその場にいた誰もが思ったことだったらしい。
「まあ、いろいろあってさ。っと、そうだ。美樹」
「え、あ、なに?」
 いきなり俺が話を振ったものだから、美樹は一瞬呆けていた。
「おまえ、初詣はどうする?」
「初詣? 初詣なら、お父さんたちと行ったよ」
「じゃあ、もういいか?」
「どういうこと?」
 普段はそういうことに鋭い美樹も、今日だけは鈍いようだ。ま、今日は母さんからクリティカルヒットを喰らってたし、しょうがないか。
「実はさ、真琴ちゃんから一緒に初詣行きましょうって言われててさ」
 そのことは愛にも話してなかったから、さすがに眉根を寄せてる。
「で、初詣はどうするって訊いたんだが、じゃあ、もういいか?」
「い、行くよっ。絶対に行く」
 美樹は、慌ててそう言った。
「そういうことだったら、絶対に行くよ」
「そうか。じゃあ、そういうことで真琴ちゃんに──」
「あら、洋一。私にはなにも訊かないの?」
 と、案の定、姉貴が口を挟んできた。
「なんで姉貴に訊かなきゃならんのだ?」
「なんでって、妹の美樹だけに訊いて、姉の私に訊かないのは、どう考えてもおかしいでしょ?」
「別に、おかしくないって。俺が美樹だけに声をかけたのは、真琴ちゃんに事前に美樹も一緒になるかもしれないって言ったからだ。姉貴のことは、ひと言も言ってない」
 まあ、本当は少しだけ言ったのだが、誤差の範囲内だろう。
「そんなの理由にならないじゃない。美樹のことだって、あくまでも『かも』ってことでしょ? だったら、私のことだって『かも』の範囲内に入るわよ」
 なんというか、完全に駄々っ子だな。というか、ここまで言ってしまうと、引っ込みがつかないのかもしれないな。
「ふ〜ん、まあ、それはそれでいいよ。じゃあさ、姉貴」
「なによ?」
「俺が誘って、明日、初詣に行けるわけ?」
「そりゃ、行け──あ」
 途端、姉貴はなにかを思い出したように、隣の和人さんを見た。
「俺の記憶が正しければ、ついさっき、明日は和人さんの実家に行くんだって聞いたような気がするんだけど」
「うっ……」
 そう。姉貴は明日、和人さんと一緒に和人さんの実家に行くことになったのだ。それは俺もさっきまで知らなかったのだが、それはそれで好都合だった。
「いいの、そっちに行かなくて? まあ、俺たちについてきちゃうと、たぶんだけど、和人さんのご両親の心証はかなり悪くなるだろうね。来るって言っておきながら、ドタキャンだもん」
「ううぅ……」
「ま、俺はどっちでもいいんだけどさ」
 姉貴は、がくっと項垂れた。
 ふっ、俺の勝ちだ。
 まあ、和人さんのことがなくても、勝てる要素はあったのだが、今回は完勝だったな。
「まあまあ、洋一くんもそこまで熱くならないで」
 と、自分の彼女の窮地を見かねた和人さんが、たまらず声を上げた。
「俺の方は別に構わないよ。うちの親は、そういうのにルーズだし。それに、前に美香を連れて行った時に、美香はかなり気に入られてたからね。そう簡単に心証が悪くなることはないよ」
 やんわりと俺を非難しているのだが、それはそれで構わない。
「で、姉貴はどうするわけ?」
「わかったわよ。今回は私が大人げなかった。だから、明日はあんたたちだけで行ってきなさい」
 そう言って姉貴は小さくため息をついた。
 俺としても、別に姉貴をやりこめたかったわけではないけど、とりあえず目的は達成できた。
「じゃあ、忘れないうちに電話してくる」
 そう言って俺は電話のところへ。
 電話帳を見て番号を押す。
 呼び出し音が数回繰り返され、相手が出た。
『はい、山本です』
 声の感じだけではわからないけど、たぶん、沙耶加ちゃんかお母さんだろう。
 とりあえず、真琴ちゃんじゃないことだけはわかった。
「あの、私、光稜高校の高村と言いますけど──」
『あ、洋一さんですか? 私です、沙耶加です』
 どうやら、電話に出ていたのは沙耶加ちゃんだったようだ。
『あけましておめでとうございます、洋一さん』
「うん、あけましておめでとう」
 なんとなくだけど、沙耶加ちゃんの声を聴けて安心してる自分がいる。
 たぶん、あの日別れてから今日まで一度も会ってないし、話してないからだろうけど。
『あの、今日はどうして電話を?』
「ん、新年の挨拶を、とか言えたらよかったんだけど、別に用事があってね」
『別の用事、ですか?』
「ああ、うん。ごめんね、期待させるような電話で」
『あ、い、いいえ、そんなこと気にしないでください。それに、こうして洋一さんの声を聴けただけで、私は嬉しいですから』
 本当に沙耶加ちゃんは健気だ。こういうところがあるから、愛に悪いと思いつつも、放っておけないんだ。
『あの、それで、別の用事というのは?』
「そうそう。あのさ、真琴ちゃんはいるかな?」
『真琴、ですか? はい、いますけど』
「代わってもらっていいかな?」
『わかりました。少し待ってください』
 沙耶加ちゃんの声が途切れ、保留音のオルゴールに変わった。
 少し待つと、保留音が解除され、真琴ちゃんの声が聞こえた。
『もしもし、先輩ですか?』
「うん。あけましておめでとう、真琴ちゃん」
『はい、おめでとうございます、先輩。今年もよろしくお願いします』
「こちらこそよろしく」
 声の感じは、やっぱり真琴ちゃんは少し違う。性格が表れているからだとは思うけど、こうハキハキした感じが強い。
 別に沙耶加ちゃんの声がそうじゃないとは言わないけど、俺のイメージ的におとなしい感じが強いから、声もそんな感じがする。
『えっと、初詣のことですよね?』
「うん。で、明日なんだけど、どうかな?」
『はい。全然問題ないです。もっとも、問題があっても先輩との約束を優先しますけど』
「嬉しいこと言ってくれるね」
『それだけ先輩のことが好きだってことです』
 臆面もなくそう言えるようになったのは、やっぱりあのおかげなのかな。
「で、前に言ったようにおまけがついてくることになったから」
『美樹ちゃんも一緒なんですね』
「まあね。真琴ちゃんと初詣に行くって言ったら、絶対に行くって言って」
『あはは、美樹ちゃんらしいですね』
「そういうわけだから、まあ、よろしくね」
『はい、わかりました』
 ま、美樹と真琴ちゃんなら、特に問題はないだろう。文化祭の時にちゃんと理解しあえたみたいだし。
「あとは、どこに初詣に行くかなんだけど、どこか行きたいところはある?」
『特にはないですけど。あ、でも、少し大きな神社に行ってみたいです。うちの側にあるのは小さなところなので』
「大きな神社か」
 今日、愛と言ったのはこのあたりでは一番大きな神社だが、実は、電車に乗って少し行ったところに近辺では一番の参拝客を集める神社がある。
「よし、じゃあ、明日はそうだね、十時に駅改札口集合でいいかな?」
『はい、わかりました。十時ですね』
「うん。真琴ちゃんのお気に召すかどうかはわからないけど、大きな神社に連れて行ってあげるよ」
『楽しみにしてます』
「それじゃあ──」
『あ、先輩』
「ん?」
『姉妹で先輩に迷惑かけるのは心苦しいんですけど、できればお姉ちゃんも誘ってあげてください。別に初詣じゃなくてもいいですから』
「……そうだね。じゃあ、悪いんだけど、沙耶加ちゃんに代わってくれるかな?」
『はい』
 またオルゴールが流れてくる。
 だけど、沙耶加ちゃんか。近いうちに誘おうとは思っていたけど、まさか真琴ちゃんから促されるとは思わなかった。それだけお姉ちゃん想いということなんだけど。
 それからすぐに沙耶加ちゃんに代わった。
『あ、洋一さん』
「ごめんね、沙耶加ちゃん」
『あの、なにを謝られているんですか?』
「ああ、うん。さっき期待させる云々て言ったでしょ? あれのこと」
『そのことでしたら、気にしていませんから』
「いや、そうじゃなくて、その、期待してもらっていい展開になったからさ」
『えっ……? それって……』
「どうかな、冬休み中に会わない?」
『は、はい。是非』
 こうも嬉しそうに言われると、やっぱりその気になってしまう。
「どこか行きたいところある?」
『……ひとつだけ、あるんですけど』
「いいよ。それって、どこ?」
『海に、行きたいです』
「海? この冬に?」
『はい。寒いから人はいないと思いますけど、冬の海はそれはそれでいいと思いますから』
「海、か」
 別に俺に行きたいところはないから、構わないか。
「じゃあ、海にしようか。あとは、いつ行くかなんだけど、いつがいいかな?」
『私はいつでも大丈夫ですけど』
「そっか、じゃあ──」
 カレンダーを確認する。
 今日が元旦。明日は『妹』ふたりと初詣。学校は六日からだから、三日から五日の間というわけだ。
「四日なんてどうかな?」
『四日ですか? はい、いいですよ』
「それじゃあ、四日に。細かいことは、前日にでも連絡するよ」
『わかりました。楽しみにしてます』
 行くこと自体は、俺も楽しみなんだけど、ここでは言わない方がいいか。
「じゃあ、沙耶加ちゃん。また」
『はい』
 電話が切れたのを確認してから、俺も受話器を置いた。
 電話を終え、みんなのところに戻る。
 で、案の定愛がちょっとだけむくれてる。電話の内容も全部は聞かれてないだろうけど、それでも想像するのは簡単だ。なんといっても、相手が相手だから。いくら真琴ちゃんに電話したといっても、沙耶加ちゃんとまったく話してないとは思ってないだろうし。
「……洋ちゃん。あとでちゃんと教えてね」
「わかったよ」
 黙っていると余計にややこしくなるから、できるだけお互いのことは話した方がいい。特に愛は嫉妬深いから。
「ホント、モテる男はつらいわね、洋一」
 そう言って姉貴は笑った。
 俺としては、笑いごとじゃないんだけどな。
 
 すっかり夜のとばりが下り、結構いい時間になった頃、まずは和人さんが帰ることになった。あまり遅くなると部屋まで帰れなくなることもあるのだが、明日には実家に帰るというのも理由にあった。
 姉貴はそういうところは結構ドライなので、変に引き留めたりはしない。だからといって、ふたりの仲が冷めてるというわけでもない。これで結構ラヴラヴなんだから、よくわからん。
 で、それから少しして、愛も帰ることになった。ま、いくら家が近いとはいっても、夜は夜だし。
「寒いな」
「うん、寒いね」
 家は近いけど、俺は愛を家まで送っていた。
「それで、なにを話してたの?」
「ん、とりあえず真琴ちゃんとは明日の初詣のこと。美樹も一緒になったってことを含めてな」
「うん、そっちは全然心配してないからいい。問題は、沙耶加さん。話したんでしょ?」
「ああ」
 結局、家ではふたりきりになる時間がなく、電話のことは話せなかった。
「それで、なにを話したの?」
「本当は新年の挨拶程度にするつもりだったんだけど、真琴ちゃんがね」
「真琴ちゃんがどうしたの?」
「ほら、真琴ちゃんと沙耶加ちゃんて、ものすごく仲がいいだろ?」
「うん」
「これは俺の想像でしかないけど、自分だけ俺と初詣に行くのは悪いと思ったんだろうな。別に初詣じゃなくてもいいから、お姉ちゃんを誘ってあげてくれって」
「……そっか」
「だから、デートに誘った」
 と、愛が腕を絡めてきた。
「わかってはいるんだけど、やっぱりダメなの。どうしても胸のモヤモヤは消えなくて」
「ああ」
 その原因を作ってるのは俺だ。
「洋ちゃん」
「ん?」
「ギュッと抱きしめて」
「着物、いいのか?」
「少しなら大丈夫」
「わかった」
 俺は、愛の言うように抱きしめた。
「このまま時が止まればいいのに……」
「愛……」
 ああ、ダメだ。どんな理由があっても、愛にこんな顔させちゃダメだ。
「愛。今度さ、着物姿のおまえを抱きたい」
「えっ……?」
「ほら、時代劇とかであるだろ? 帯を引っ張って、あ〜れ〜ってやつ」
「あれって、実際そこまではならないと思うけど」
「いやまあ、そうかもしれないけど。とにかく、着物姿のおまえを抱きたいんだ」
「……ふふっ、いいよ。今度、着物着てエッチしよ。あ、それまでに着付け覚えとかなくちゃ。じゃないと、お母さんに着付けてもらわなくちゃいけないし」
「それは、がんばってくれ」
「うん」
 こういうことを利用するのはどうかと思うけど、それで愛が笑ってくれるなら、安いもんだ。
「ありがと、洋ちゃん。やっぱり洋ちゃんは優しいね」
「なんのことやら」
「だから、大好き」
 そう言って愛は、キスしてきた。
 本当に、もう少しだけ時間が止まればいいのにな。
 柄にもなく、そう思った。
 
 三
 一月二日に見る夢を、初夢と言う。
 とはいえ、いったいどれだけの人が初夢を覚えているのだろうか。たいていの人は寝ている時に夢を見ているらしいけど、それを起きたあとにまで覚えていることは少ない。その覚えていたことが、いわゆる『夢』なのだ。
 かく言う俺も、ここ最近は全然夢を見ていない。別に取り立てて夢を見たいわけじゃないけど、たまにはなにかいい夢でも見たいと思うのは、人間心理だと思う。
 そんなことを昨日の夜に漠然と考えていたら、本当に久しぶりに夢を見た。
 初夢に出てくると縁起がいいと言われているもの。
『一富士二鷹三茄子』
 残念ながら、そのどれも出てこなかった。まあ、それはあくまでも昔のことだから、なにをもって縁起がいいとするかは、人それぞれだと思う。
 実際、茄子が大嫌いな人だったら、茄子が出てきた夢を縁起がいいとは思えないはずだ。
 だから、たとえば自分の大好物や行きたいと思っている場所、ほしいもの。そんなものが夢に出てくると、縁起がいいと感じるかもしれない。
 あとは、好きな人、だな。
 それは、たとえ両想いじゃなくてもいい。片想いの相手が出てきただけで、嬉しくなる。
 で、俺の夢だが、これがまた複雑な夢だった。
 最初は俺だけが妙な空間にいたのだが、やがてそこに天使がやって来た。なにやら理解不能な言葉を操り、俺になんか言っていたのだが、当然理解不能。
 向こうは俺に話が通じてると思っていたらしく、全部話したら満足そうに帰って行った。
 あっけにとられていると、そこに姉貴が出てきた。しかも、今の姉貴じゃなくて、中学の制服を着た姉貴だった。
 だけど、その行動パターンはまったく同じで、さんざん俺で遊んでどこかへ行ってしまった。
 次に出てきたのは、美樹だった。こっちも今の美樹じゃなくて、なぜかうちの高校の制服を着た、ようするに高校生の美樹だった。
 だいぶ大人びた容姿にはなっていたが、中身はたいして変わっておらず、俺にじゃれつくだけじゃれついて、どこかへ行ってしまった。
 次に出てきたのは、真琴ちゃん。真琴ちゃんは今の真琴ちゃんのままで、だけど、なぜか超巨大な筆を持っていた。人の背丈より長い筆なんだけど、真琴ちゃんはそれを片手で扱っていた。
 でも、その筆は絵を描くためのものじゃなくて、実は、空を飛ぶための筆──つまり、魔法の筆だった。
 呪文のようなものを唱えると、筆がふわっと宙に浮き、真琴ちゃんはそれに乗ってどこかへ行ってしまった。
 この段階でもはや展開についていけなくなっていたのだが、夢を途中でリセットすることもできず、次には予想通り、沙耶加ちゃんが出てきた。
 沙耶加ちゃんは、とても色っぽいイブニングドレスを着ていて、どう考えても高校生には見えなかった。
 話し方や仕草は今と変わらないけど、大人の艶っぽさが加わり、ますます綺麗だった。
 だけど、俺の方はそんな沙耶加ちゃんと話すこともできない。手も足も動かすことができず、ただひたすらに沙耶加ちゃんの為すがままだった。
 でも、沙耶加ちゃんは突然煙とともに消えてしまう。なにが起こったのかわからずにいると、声も出るし、手も足も動くことに気付いた。
 慌てて沙耶加ちゃんを探しに行こうとするが、今度はまったく前に進めない。後退しているわけでもないんだが、まるでルームランナーに乗っているような感じだった。
 結局、途中で体力が限界に達し、沙耶加ちゃんを探すのを断念した。
 寝っ転がり、荒い息を整えていると、今度は愛が出てきた。
 だが、その愛は今の愛ではなく、小学校に入ったばかりの頃の姿だった。
 首を傾げていると、愛が俺の手を引いた。
 が、その時になってようやく俺まで愛と同じように小学生に戻っていることに気付いた。
 愛はまったく気にせず、俺を引っ張って走っていく。
 俺の方はさっきあれだけ走ったはずなのに全然疲れておらず、どこまででも走れそうな感じだった。
 やがて、愛が立ち止まり、俺も立ち止まった。
 するとそこには、大量の写真がばらまかれていた。写っているのは、主に俺。
 よく見ると、それは俺の生まれた頃から、今までの写真だった。なぜそれがそんなところに大量にばらまかれていたのかは、まったくわからない。
 俺はその中から一枚の写真を拾い上げた。
 そこには確かに俺が写っていた。だけど、それは昔の俺でも、今の俺でもなかった。
 自分で言うのもなんだが、今より精悍な顔つきで、明らかに未来の俺だった。とはいえ、それは別に問題はなかった。美樹や沙耶加ちゃんが未来の姿になっていたのだから、俺だって可能性はあるだろうと思っていた。
 だが、問題は隣に写っている人だった。いや、正確に言うと、そこに誰かが写っていたんだろうけど、その人の部分だけ、すっぽり消えていた。だから、誰がそこに写っていたのかはわからない。
 俺はそれのことを愛に訊いてみようと思ったのだが、いつの間にか愛もどこかに行ってしまっていなかった。
 どうしようか思案し、一歩踏み出したところで、いきなり地面がなくなり、写真ともども俺は奈落の底へ落ち、そこで目が覚めた。
 そこまで細かく覚えていた夢ははじめてだと思ったが、なにを表しているのかさっぱりわからなかった。
 それがもし、愛と沙耶加ちゃんだけ出てきた夢なら、まあ、なにが言いたいのかはわかる。だけど、そこに姉貴や美樹、真琴ちゃんまで出てくるとさっぱりわからん。
 まあ、所詮夢でしかないわけだから、必ずしも意味があるとは思わない。
 夢は、過去にあった出来事を再度主ださせる役目と、自分の願望を映し出す役目があると思っているのだが、今日のはそのどちらにも当てはまりそうで、当てはまらなそうだった。
「まあ、いいや」
 考えてもわからんだろうから、考えるのはやめよう。
 ベッドから出ようとして、妙に寒いことに気付いた。エアコンを入れ、少し部屋が暖かくなったところでベッドを出る。カーテンを開けると──
「寒いわけだ」
 雪が降っていた。
 そういえば、昨日の天気予報で雪が降るかもしれないと言っていた。
 でも、まさかこんなにしっかり降るとは思わなかった。
 外はすでに一面の銀世界で、こんな光景は久しぶりだった。
 だけど、雪が降ったと喜んでばかりもいられない。大都会の悲しいところで、雪が降るとすぐに交通機関が麻痺する。まだ正月二日だから仕事とかには影響はないが、それでも帰省してる人や旅行してる人には結構影響が大きい。
 で、予定では俺たちも電車を使うのだが、はてさて、どうなることやら。
 
 朝食後、一応念のために真琴ちゃんに電話した。雪だからどうしようかと訊いたのだが、愚問だった。雪ぐらい全然構いませんよ。そんな答えが返ってきた。
 ちなみに、確かに交通機関は乱れてはいたが、正月ダイヤのおかげで、止まるというところまではいっていなかった。
 で、俺と美樹は、いつもよりだいぶ早く家を出た。
「お兄ちゃん。こんなにしっかり雪が積もるのって、いつ以来かな?」
「さあな。確か、去年は夜に降ってたことはあったけど、日中には止んでたしな。だから、少なくとも二年ぶりじゃないか」
「そっか」
 美樹は、どことなく嬉しそうだった。
 足下に注意しながら、ゆっくり歩いていく。傘も持っているから、なおのことだ。
 これが牡丹雪の降る雪国だったら、傘はいらないんだろうけど、あいにくとみぞれ混じりの雪だから、傘がないと濡れてしまう。
「そういえば、お兄ちゃん。どうして真琴さんと初詣に行くなんてことになったの?」
「どうしてと言われても困るんだが、真琴ちゃんに一緒に行こうって誘われたから、としか答えようがない」
「ん〜、そうなのかなぁ」
「別にそこに他意はないと思うぞ。じゃなかったら、おまえを一緒に連れて行っていいなんて言わないはずだし」
「それはそうなんだけどね」
 どうも美樹は、その理由には納得しかねる部分があるらしい。
 とはいえ、実際なにかあるなら、やっぱり美樹を連れて行っていいなんて言わないはずだ。それを認めたのだから、なにもないと考えるのが妥当だ。
「真琴さんて、お兄ちゃんのことを『お兄ちゃん』て思ってるけど、でも、やっぱり先輩としても男の人としても好きなんだよね?」
「ん、まあ……」
「だとすると、やっぱり不思議だなぁ。もし私がそういう立場にいたら、絶対ふたりきりでって誘うもん」
「そこが美樹と真琴ちゃんの違いなんだろ。人を好きになるのだって、理由は様々だし、愛情表現だって様々だ。美樹の考えだって、ほかの人にしてみたらひょっとして変てこともあるだろうし」
「そう言われると、そうなんだけどね」
「ま、別にいいだろ。こうして初詣に行けるんだから」
「うん、そうだね」
 そこで納得してしまうのも、美樹らしい。
 止まない雪の中、結局駅まではいつもの倍くらいかかった。
 それでもだいぶ早く出ていたおかげで、待ち合わせの時間には遅れなかった。
「真琴ちゃんは……」
 改札前を確認する。
 人はまばらで、真琴ちゃんがいれば一発でわかるのだが、あいにくとまだ来ていなかった。
「まだみたいだね」
「ま、しょうがないだろ。この雪だし」
 そう言って空を見上げる。
 鉛色の空から、重い雪が降ってくる。
 少し気温が上がってきたせいか、道路に積もっていた雪が溶け出していた。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「こうしてふたりで並んでると、私たちってどんな風に見えるのかな?」
「兄妹じゃないのか?」
「むぅ、それじゃ、普通だよ」
「普通のなにが悪いんだ。それに、俺たちは兄妹なんだから、そう見えて当然だろうが」
 うちは、姉貴と美樹が母さん似で、俺が父さん似だ。だけど、やっぱり兄妹だから、多少似ている部分はある。それに気付けば、当然兄妹だとわかる。
「……そういう時は、ウソでも『恋人同士』に見えるって言ってくれればいいのに」
「あのなぁ、なんでおまえにそんなこと言わなくちゃならんのだ」
「でもでもぉ……」
 まったく、髪を切ってある程度吹っ切ったと思ったんだが、まだまだだな。というか、昨日母さんに言われたことは、この調子だと絶対に無理だな。
 そうこうしているうちに、真琴ちゃんがやって来た。
「先輩、あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう」
「美樹ちゃんも、あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
 直接会ったのは今日が最初だから、新年の挨拶を交わす。
「美樹ちゃん、髪切ったんだね」
「あ、はい」
「ん〜、なにかあったのかな」
 そう言って真琴ちゃんは笑うけど、俺も美樹もさすがに笑えなかった。
「じゃあ、行こうか。今日はこんな天気だし」
「はい」
「うん」
 とりあえず切符を買って、電車に乗る。
 電車は確かにダイヤは乱れてはいたけど、もともと間引き運転されていたからか、いつもの正月とたいして変わらない乗客数だった。
 俺たちは、三人揃って座れた。
「真琴ちゃんたちは、年末年始にどこかに行ったりはしないのかい?」
「場合によりけりですね。今年は暦があまりよくないじゃないですか。そうするとどうしてもちゃんと休める日が少ないので、家にいることが多いです」
「なるほど」
「今年はそのおかげで、こうして先輩と初詣に行けるわけですから、感謝してます」
 言いながら真琴ちゃんは、俺に寄り添ってくる。
 反対側にいる美樹のこめかみがわずかにひくついたが、とりあえずなにも言わなかった。
 と、真琴ちゃんはさらに俺の手に自分の手を重ねてくる。
「真琴ちゃん?」
「ダメ、ですか?」
 ここでダメと言えば真琴ちゃんが悲しむし、かといって言わなければ美樹が拗ねるし。
 なんか、この組み合わせは予想外に面倒な組み合わせかもしれないな。
 とりあえず、真琴ちゃんにはいいとも悪いとも言わなかった。
「……お兄ちゃんのエッチ……」
 案の定、ブラコン妹は拗ねて変なことを口走ってるし。
「拗ねるな」
「拗ねてなんかないよ」
「ったく……」
 俺は、空いているもう片方の手で美樹の手を握った。
「これで満足か?」
「ん……まあ、ね」
 やれやれ、困ったもんだ。
 電車に揺られること二十分。
 ようやく目指す神社のある駅へ到着した。
 雪の方は相変わらずで、止む気配すらなかった。
 街の規模としてはそれほど大きいわけではないが、駅前はそれなりに発展している。それにも関わらず、歩いている人はほとんどいない。
「なんか、貸し切りみたいですね」
「確かに」
 駅から神社までは、歩いて十分。
 とはいえ、それは道路に雪がない状態で。今日みたいな日だと、余計に時間がかかる。
 ま、急ぐわけでもないから、のんびり行けばいいんだけど。
「あ、そういえば先輩」
「ん?」
「お姉ちゃん、すごく喜んでました。まさか誘ってもらえるとは思ってなかったみたいで、私にもお礼を言ってくれたくらいですから」
「そう言ってもらえると、誘った甲斐はあるけど」
 心境は複雑だな。
「でも、先輩って決断早いですよね」
「なんで?」
「だって、私がああいうことを言ってすぐに決めたわけですよね?」
「まあね」
「だとしたら、やっぱり決断が早いですよ。普通はとりあえずどこかに行こうか、くらいを決めてまた後日、だと思いますから」
 その可能性はあるだろう。だけど、俺と沙耶加ちゃんの場合は、それだと問題がある。
 なんといっても、俺たちは恋人同士ではないのだ。もしそこに彼女である愛となにか約束したなら、そっちを優先させなければならない。
 とすると、決められる時にさっさと決めておくべきなのだ。
「私としては、お姉ちゃんが嬉しそうだったので、それでよかったんですけどね」
 欲のない子だ。
 十五分ほどで神社に到着した。
 境内は、正月二日とは思えないくらい閑散としていた。いくら正月でも、やっぱり大雪の中を出てくるのは躊躇ったわけか。
 参道を進み、本殿までやって来る。
「昨日も初詣には行ったの?」
「はい。家族で行きました」
「じゃあ、今日はまた別のお願いをするのかな」
「そうですね。今日のお願いは、ちょっと特別です」
 そう言って真琴ちゃんは微笑んだ。
 ほとんど参拝客はいなかったので、三人並んでお願いできた。
「…………」
「…………」
「…………」
 そのあとは、やっぱりおみくじ。
 この大雪の日でも社務所は開いてるわけで、ちゃんとお守りや破魔矢、絵馬、おみくじも売っていた。
「あ、中吉」
 最初に引いた美樹は、中吉だったらしい。
「私は、吉ですね」
 真琴ちゃんは吉。
「俺は……お、珍しい、大吉だ」
 ここ数年大吉なんて出てなかったんだけど、本当に珍しい。
「えっと、恋愛運は……」
 気になるのはそこらしい。
「大胆に突き進むべし。結果は自ずとついてくる、だって」
 なんで美樹のおみくじにそんな結果が書いてあるんだ。
「そっか、大胆に、か」
 美樹もすっかりその気になってるし。というか、もう俺のことは吹っ切れたんじゃないのか。
「私のは……」
 真琴ちゃんも美樹に続く。
「迷いは禁物。迷わず進むべし、か」
 微妙な言い回しだな。どっちとも受け取れる内容だ。
「お兄ちゃんのは?」
「ん、俺のは……思わぬ結果がついてくる。現状を維持せよ」
「よくわかんない内容だね」
「ん、まあ、そうかな」
 俺としては、本当に複雑な内容だ。現状維持ということは、愛とつきあいつつ、沙耶加ちゃんのことを気にかけていけということだからな。
 拡大解釈すると、真琴ちゃんや由美子さんだってそうなる。
「どうする、結んでいくか?」
「そうだね。その方がいいかも」
「そうしましょう」
 俺たちは、それぞれおみくじを神社に結んでいくことにした。
「さてと、とりあえず初詣は済んだけど、これからどうする?」
 時計を見る。
 まだ昼飯には早い時間だ。
「そうですね、私はどこでなにをしてもいいんですけど」
「美樹は?」
「ん、私も別になにもないけど」
「じゃあ、まずは駅まで戻るか。この雪の中じゃ、なにもできないし」
 というわけで、俺たちはいったん駅まで戻った。
「はあ、寒かった」
 駅ビル内は、しっかり空調が効いていて暖かかった。
「正月二日だと、やってる店も少ないからなぁ」
 案内図には結構たくさんの店が書いてあるのだが、この中で実際営業しているのは、半分以下だろう。
「ま、ここが妥当か」
 俺が選んだのは、コーヒーショップのチェーン店。全国展開していて、一応年中無休をうたい文句にしている。
 で、店の前に行くと、ちゃんと営業していた。
 俺はホットレモンティ、美樹はカプチーノ、真琴ちゃんはカフェ・ラテを注文し、席に着いた。まあ、全然客なんていなかったのだが。
 席は、俺がひとりで、美樹と真琴ちゃんがふたりで座った。
「ねえ、美樹ちゃん。美樹ちゃんて、私のお姉ちゃんのこと、どれくらい知ってるの?」
「真琴さんのお姉さんですか?」
「うん」
「えっと、文化祭の時に少し話したくらいです。だから、あまりよく知らないです」
「そっか。でも、印象とかはあるよね?」
「綺麗な人だなって思いました。あと、こういう人に、男の人は惹かれるんだろうなって」
 そう言いつつ、俺を見る。
「なるほどね」
 どうして真琴ちゃんがそんなことを訊いたのかはわからない。
 でも、なにか意味があったのだろう。
「でもね、綺麗な人だなって思ったのは、私も同じだよ」
「真琴さんも? えっと、それは……?」
「ほら、美樹ちゃんのお姉さん。すごく綺麗な人で、しかも大人の女性で。私なんか、羨ましくて羨ましくてしょうがなかったよ」
「お姉ちゃんは、うん、そうかも」
「そうするとね、私と美樹ちゃんて、同じ境遇にいるってことになるよね」
「あ、そうですね」
「美樹ちゃんは……あ、そっか。お姉さんと年が離れてるから、比べられたりはしないか」
「そうですね。私のこともお姉ちゃんのことも知ってる人にしか、言われません」
「私なんて、お姉ちゃんとひとつしか違わないから、いつもいつも言われてた。家族は誰もなにも言わないんだけどね」
「大変ですね、そういうの」
「まあね。でも、最近は無視できるようになったから。お姉ちゃんはお姉ちゃん。私は私だから。いくら姉妹だからって、なんでもかんでも同じなわけないし。実際、私はお姉ちゃんほど頭はよくないし、要領もよくない。それでも、負けないところはあるつもり」
「それは?」
「絵だよ。絵だけはお姉ちゃんに負けない。絶対に。そりゃ、誰かに習って描いてるわけじゃないけど、それでも自分なりに勉強して、上手くなってると思ってる」
 真琴ちゃんは、いつもより少しだけ熱く語る。
「でもね、これはあくまでも私の立場だから。お姉ちゃんはお姉ちゃんで、また違った目で私のことを見てる。たまに言うもの。私も真琴みたいだったらよかったのに、って」
「…………」
「私にはそれは一生理解できないと思うけど、それでも、否定もできないから」
「そう、ですね」
「ただ、ひとつだけわかることがあるの」
「それって、なんですか?」
「真剣な想い」
「真剣な、想い?」
 美樹は首を傾げた。
「うん。お姉ちゃんの真剣な想い。これはやっぱり姉妹だからわかるんだと思う。だからね、私はそんなお姉ちゃんを手助けしてあげたい。お姉ちゃんはそんなこと望んでないかもしれないけど」
「…………」
 美樹も、真琴ちゃんがなにを言おうとしているのか、わからないようだ。
 俺の方は、なんとなく話の流れが見えてきた。
「私のお姉ちゃん、先輩のことが好きなの。たぶん、これが最初の本気の恋。あまりにも本気すぎて、今、大変なことになっちゃってるけど」
 そう言って俺の方を見る。
「ちょっと話がややこしくなったけど、私が言いたいのは、美樹ちゃんには公平な立場でその行く先を見守っていてほしいの。美樹ちゃんにとってはそれは難しいことかもしれないけど、そうしてほしいの」
「…………」
「どうかな?」
「……わかりました。できるだけそうします」
 美樹は、小さく頷いた。
「ありがとう、美樹ちゃん」
 真琴ちゃんは微笑んだ。
「ごめんね、変なこと言っちゃって」
「いえ、気にしてませんから」
 真琴ちゃんとしては、美樹を味方につけようとは思ってなかったはずだ。とはいえ、敵にまわられても困る。だから、中立でいてほしいと言ったのだろう。
「あ、そうだ。もうひとつ」
「はい」
「あのね、私も先輩のこと、大好きだから」
「えっ……?」
「今は森川先輩やお姉ちゃんにずいぶんと後れを取ってるけど、でもね、私、あきらめ悪いんだ」
 ちょっと待て。それはつまり──
「だからね、何年後かはわからないけど、自分にもう少し自信が持てるようになったら、改めて先輩に告白する。もちろん、その時の先輩がどういう立場にいてもね」
「真琴さん……」
「美樹ちゃんもわかってると思うけど、先輩ほどの男の人って、そうそういないと思うの。だとしたら、簡単にあきらめるなんてできないよ」
 そう言って真琴ちゃんは、改めて俺に向き直った。
「というわけで先輩。この前の『責任』に付け足しておいてください。先輩が私の『お兄ちゃん』じゃなくなったら、その時には改めて恋人、あ、この場合は愛人かな? その候補に立候補しますから」
「…………」
 ……最悪だ。なんでこんなことになるんだ?
「お、お兄ちゃん」
「な、なんだよ?」
「私もやっぱり、お兄ちゃんのことあきらめないから。うん、絶対にあきらめない」
 ほら、こうなる。
 隣の真琴ちゃんは、楽しそうに笑ってるし。
 ホント、勘弁してくれ。
 
 コーヒーショップを茫然自失の状態で出た俺は、とりあえず美樹に適当な買い物を頼み、少しだけ消えてもらった。
「真琴ちゃん。どうしてあんなことを?」
「すみません。本当はあそこまで言うつもりはなかったんです。お姉ちゃんのことだけのつもりでした。でも、改めて今日、美樹ちゃんと話をして、私と美樹ちゃんの境遇って本当に似てるなって思ったんです。美樹ちゃんは先輩のことをお兄ちゃん以上に見てます。でも、それはかなわない想い。私も先輩のことは好きですけど、やっぱり先輩は私のことを『妹』以上にはなかなか見てくれなくて。見ているのはお姉ちゃんばかり。まあ、私の想いは絶対にかなわない想いではないですけど、現段階ではその可能性は皆無に近いですから。そう思ったら、なんか悔しくなったんです」
 真琴ちゃんは、少しだけ意地悪く笑った。
「だから、先輩を困らせようって思ったんです。私があそこで告白すれば、美樹ちゃんもそうするだろうことは、わかってました。だって、美樹ちゃんが髪を切ったのって、先輩への想いを吹っ切るためですよね。自分の想いを胸にしまいこんでしまった美樹ちゃんなら、必ずああ言ってくれる。そう思いました」
「そして、その思惑は見事に成功した、と」
「はい」
 まさか真琴ちゃんがあんなことをするとは、夢にも思わなかった。だから、俺のショックも大きい。
「あの、先輩。怒ってますか?」
 少しだけ申し訳なさそうに訊いてくる。
「……いや、怒ってはいない。ただ、ちょっとショックだっただけ」
「すみません」
 こうやって素直に謝られると、それはそれで対処に困る。
「でも、先輩。あれは、私の本心ですから。愛人になるとかならないとかいうのは、半分くらい冗談ですけど。でも、あきらめていないというのは、本当です。だって、世の中なにが起こるかわからないじゃないですか。今は先輩は森川先輩とつきあってますけど、それだってこれから絶対かどうかはわからない。お姉ちゃんもそうです。可能性は限りなく低いとは思いますけど、万が一そうなった時、私の想いが先輩に向いていなかったら、ほかの誰かに先輩を取られちゃいます。そんなのだけは、絶対にイヤなんです」
 真琴ちゃんの言いたいことはよくわかる。
 俺だって真琴ちゃんと同じ立場にいたら、そう思うかもしれない。
 でも、今は俺はそう思われる立場だ。それをおいそれと認めるわけにはいかない。少なくとも、俺の愛への想いは本物なんだから。
 ただ、真琴ちゃんの一途で純粋な想いを否定できるほど、俺は偉くない。
「とりあえず、真琴ちゃんのことは保留ということでいいかな?」
「はい、それで構いません。たぶん、そのままずっと保留状態でしょうけど」
 そう言って真琴ちゃんは笑った。
「ごめんね。真琴ちゃん」
「ん……」
 俺は、お詫びの意味も込めて、真琴ちゃんにキスをした。
「先輩……」
 スッと、真琴ちゃんの腕がまわされる。
「本当に、本当に大好きです……」
 そんな真琴ちゃんを、俺はギュッと抱きしめ──
「こほん、お兄ちゃん。真琴さん」
「おわっ」
「きゃっ」
 いきなり美樹が現れた。
 俺と真琴ちゃんは、慌てて離れる。
 と、美樹は俺の腕を取り──
「あだだだだっ」
 思い切りつねってきた。
「ふんっ、お兄ちゃんの浮気者」
「お、おまえなぁ……」
 ダメだ。完全に拗ねてしまった。
 こうなった美樹は、どうしようもない。
「あんまり浮気すると、愛お姉ちゃんに言いつけちゃうからね」
「ちょ、ちょっと待て。今は余計な波風立てるのは勘弁してくれ」
「そんなの、お兄ちゃん次第だよ」
 実際そうなのだが、愛に言うのだけは勘弁してほしい。もし今の状況でこのことが愛に知られたら、もう俺の自由は完全になくなる。
「って、真琴ちゃん。笑ってないでなんとか言ってくれるかな」
「ダメですよ、先輩。妹さんは、大事にしないと」
 うわ、いいところを邪魔されたもんだから、微妙に怒ってるし。
 ああ、もう、なんでこうなるんだ。わけわからん。
 
 それからのことは、あまり思い出したくない。
 美樹と真琴ちゃんは、ライバルではあるんだけど、なぜか共闘して俺をいじっていた。
 昼食は当然俺がおごらされたし、それからあともなんだかんだ言って、ほとんど俺が払っていた。
 ずっとやられっぱなしだと悔しいのでなんとか反撃を試みようとしたが、ふたりの方が上手だった。
 よく考えると、俺は女に勝てた試しがないのだ。
 ようするに、俺がこうなるのは避けられない運命だったのかもしれない。
 もちろん、そんな運命願い下げなんだが、そうなってるんだからあきらめるしかない。
 雪のせいでどこもガラガラだったから、なんでもできた。
 カラオケも行ったし、ゲーセンにも行った。
 喫茶店でケーキもおごらされた。
 それでも、ふたりは本当に最後の一線だけは守ってくれた。それだけが唯一の救いだ。
 夕方という時間になり、ようやく雪が上がった。
「はあ……」
 地元の駅に着いた時には、心底助かったと思った。
 美樹と真琴ちゃんは、楽しそうに話をしてる。
「先輩」
「ん?」
「今日はありがとうございました。いろいろワガママ言っちゃいましたけど、お正月ということで許してください。もうこんなこと、しませんから」
 そんな風に言われると、なにも言えない。
「だから、これからも私のこと、可愛がってくださいね」
 そう言って真琴ちゃんは、俺の頬にキスをしてきた。
「それじゃあ、私はここで。美樹ちゃん、またね」
「はい」
 そして、そのまま真琴ちゃんは帰っていった。
 なんだかな。
「お兄ちゃん。私たちも帰ろ」
「ん、ああ」
 俺たちも駅をあとにする。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「もし、真琴さんがお兄ちゃん好みの女の人になったら、どうするの?」
「……別にどうもしないさ。俺の彼女は、愛なんだから」
「そっか」
 そう思い続けていないと、俺はきっと誘惑に負けてしまう。なんといっても、真琴ちゃんは魅力的な女の子だから。
「あと、真琴さんとも話してたんだけど、お兄ちゃん」
「うん?」
「もう誰もいないよね? お兄ちゃんのこと、本気な人」
 美樹は、真剣な表情で訊いてくる。
 だけど、俺はそれにはすぐには答えられなかった。
 脳裏に、由美子さんの姿が浮かんだからだ。
「ひょっとして、まだいるの?」
「い、いや、そんなことない」
「ホント?」
「ああ」
「ん〜、とりあえず、信じてあげる。でもね、愛お姉ちゃんは私以上に鋭いからね。お兄ちゃんが本気で愛お姉ちゃんのこと好きなら、そのあたりのこともちゃんと考えて行動しないと」
「……わかってる」
「それならいいの」
 そう言って美樹は、薄く微笑んだ。
「私、誰のことを『お義姉ちゃん』て呼ぶようになるんだろ」
 だけど、最後の最後で落とすのは忘れていなかった。
 さすがは、姉貴の妹。
 だけど、俺も本気で考えないとな。
 いろいろと。
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