恋愛行進曲
第十三章 心の強さ
一
十二月二十七日。
俺はいつもの休みよりも少しだけ早起きした。
それは、少し行きたいところがあったからだ。
朝食の席。まだ見慣れぬ美樹の髪型にわずかに心が痛み、姉貴の物言いたげな表情をなんとか誤魔化し、黙々と食べた。
朝食後、姉貴に捕まる前に家を出た。
外は、うっすらと雪が積もっていた。
どうやら昨日の雨が夜には雪に変わっていたらしい。とはいえ、今日は晴れだ。この雪もすぐに消える。
いつもと違う景色の中、ひとりだけで学校へ向かう。
そう。目的地は学校だった。別に補習とか呼び出しとかではない。
ある人にどうしても会って、話がしたかったのだ。
学校は、いつもより静かだった。
いくつかの部活は今日も活動があるのだろうが、基本的には生徒はほとんど来ない。確か、補習は午後からだから、午前中は余計だ。
昇降口で靴を履き替え、そのままさらに目的の場所へ向かう。
前もっているかどうか確認はしてないけど、たぶんいる。
ドアを軽くノックし──
「失礼します」
ドアは簡単に開いた。どうやらいるみたいだ。
「あら、洋一くん」
声の主──由美子先生はこっちを振り返り、笑顔で出迎えてくれた。
「おはようございます、由美子先生」
「おはよう。今日はどうしたの?」
書類整理の手を止め、由美子先生は応対してくれた。
「少し、先生に聞いてほしいことがあって来ました」
「聞いてほしいこと?」
「はい」
先生は、いつもとは明らかに違う俺の態度に少し考える様子を見せたが、すぐに笑顔で頷いてくれた。
「でも、少しだけ待っててくれる? この書類だけ整理しないと、私の休みがなくなっちゃうのよ」
「別に構いませんよ。いきなりやって来たのはこっちなんですから」
「ふふっ、ありがとう」
書類整理が終わるまで、俺はじっと待っていた。
なにもすることがないというのもあるけど、今日は真面目にいこうと思っていたからだ。
だいたい十分くらいで書類整理は終わった。
トントンと机の上で書類を揃え、ファイルに戻す。
チェックしたことを別に書類に記し、ようやく終了。
「ごめんなさいね。待たせちゃって」
「いえ」
「お詫びというわけでもないけど、今日は洋一くんだけに特別にこれをあげるわ」
そう言ってバッグの中から取り出したの、あまり大きくないタッパーだった。
蓋を開けると、そこにはクッキーが入っていた。
「昨日、久しぶりに作ってみたの。で、結構美味しくできたから職員室で配ろうかと思ったんだけど」
「じゃあ、俺になんて──」
「いいのよ。別に前もって配ることは言ってないんだから。ここで綺麗になくなっちゃえば、誰も知らないの」
確かにそうかもしれないけど、複雑な心境だ。
「はい、洋一くん」
「ありがとうございます」
淹れたばかりの紅茶が置かれる。
とりあえず、クッキーをひとつ。
「どうかしら?」
「旨いです」
「ふふっ、よかった。洋一くんに不味いって言われたら、向こう一週間は立ち直れないからね」
冗談めかしてそう言う。
「それで、私に聞いてほしいことって?」
先生は早速本題に入った。
「たとえばなんですけど、大事なものがあるとします。最初はひとつしかなかったそれが、ふたつになった。でも、本当に大事なものはふたつは持てない。どちらか選ばなくてはならないんですけど、どちらも大事なものです。どうしても選ぶことができない。その時はどうしたらいいと思いますか?」
俺は、とりあえず俺たちのことは伏せて訊ねてみた。
しかし、先生はすべて気付いていた。
「それは、洋一くんと森川さん、山本さんのことを言っているのね?」
どうせ最後には言うつもりだったから、素直に頷いた。
「そうね。それはとても難しいことだと思うわ。本来ならひとつしかない大事なものが、ふたつになった。どちらも大事なものに変わりないから、簡単には捨てられない」
「はい……」
「つまり、それだけ山本さんが大事な人になった、ということね」
「はい」
先生は小さく頷き、薄く微笑んだ。
「洋一くんは優しいから、突き放すことができないのよね。特に、山本さんのような一途でカワイイ子のことは」
否定したかったけど、事実だからできなかった。
「こういうことを聞いていいかどうかはわからないけど、洋一くん、森川さんともうしちゃった?」
「えっと、それは、その……はい」
「じゃあ、山本さんとは?」
「うっ……」
「なるほど。だから余計にか」
わかりやすい反応をしてしまう自分が情けない。
「洋一くんは、結局どうしたいの? 森川さんがあなたの彼女なんだから、普通考えれば山本さんをどうにかする、ということになると思うんだけど」
「……俺の中では、今でも愛の方が大事なんです。一緒にいたいのは誰かと聞かれて、真っ先に顔が思い浮かぶのは愛ですから。でも、だからってそれはイコール沙耶加ちゃんをないがしろにすることではないんです。俺にとって、沙耶加ちゃんはもう、愛に匹敵するくらい大事な存在になってしまったんです」
上手く、言葉にできない。
「愛にも、沙耶加ちゃんにも、ずっと笑っていてほしい。ずっと笑いかけていてほしい。ずっと、側にいてほしいんです」
あとからあとから感情はわき起こってくるのに、それを言葉にできないもどかしさ。
できるなら、俺の頭の中を直接見てもらいたいくらいだ。
「だったら、それを直接ふたりに言ってみたら?」
「えっ……?」
「ありのままを、包み隠さず、全部。当然、森川さんに山本さんのことを話し、山本さんに森川さんのことを話してね。そして、三人で考えてみたら?」
「三人で……」
「たまにひとりの男性、女性をふたりの異性が好きになってしまうことはあるけど、どうしてかその時に責められるのは好きになられた方。私はね、いつも思っていたの。それって結局、三人の問題なんだから、三人が納得できるまで話し合うのが一番なんじゃないかって。そりゃ、どっちかひとりに決められるならいいけど、今の洋一くんのような場合もあるわけだし。その時にひとりだけがあれこれ考えても、意味がないとは言わないけど、どうやったって結論は出ないもの。だって、それはあくまでもひとりの考えであり、結論でしかないんだから。イコール三人の結論じゃない。そうでしょ?」
「そう、ですね……」
確かにそうだ。
でも、それはあくまでも三人の関係がある程度バランスが取れている時にできること。今の俺たちは、どう考えてもアンバランスだ。俺と愛は、婚約者。だけど、沙耶加ちゃんは違う。この差は大きい。
「あまり難しく考えすぎない方がいいわ。難しく考えると、どんどん悪い方向に進んでしまうだけだから。気楽に、とは言えないけど、もう少し簡単に考えてみたら」
そう言って先生は微笑みかけてくれた。
「でも、そっか。もう洋一くんは『子供』じゃないのね」
ちょっと残念だわ、なんて言う。
「やっぱり若いっていうのは、それだけで武器よね。今になってそれを痛感してるわ」
「いや、別に先生は……」
「じゃあ、洋一くん」
「は、はい」
「私を恋愛対象として見られる?」
「もちろんです」
即答した。
年上で先生で、しかも大人の女性だからいろいろ臆するところはあるけど、先生を恋人にできるなら、これほど嬉しいことはない。
「即答したわね」
それが少し意外だったらしい。
「じゃあ、もしも洋一くんが森川さんと恋人同士になる前に告白していたら、私を洋一くんの彼女にしてくれた?」
「それは……」
それは、たぶんない。俺の中では、本当に愛の存在が大きい。たとえ相手が憧れの由美子先生であっても、愛よりも優先することはない。
「ふふっ、正直ね。そういうしっかりしたところがあるから、余計に好きなのよ。だってそうでしょ? ちょっとカワイイ子に声をかけられて、すぐそっちに行っちゃう人を信用なんかできないもの」
まあ、確かにそうだろう。
「洋一くん。ちょっとこっちに来て」
「あ、はい」
俺は言われるまま先生について、奥のベッドへ。
「少しだけ、じっとしててね」
カーテンを閉め、先生は俺の前に立ち──
「せ、先生……」
そのまま俺を抱きしめた。
先生が特別小柄なわけじゃないけど、俺とは頭ひとつ分違う。だから、抱きしめられてるといっても、抱きついているような感じもある。
「ん、洋一くんの匂い……」
こうしていると、年上の先生がすごく可愛らしく見える。
だから、思わずギュッと抱きしめてしまった。
「あ……」
華奢な体が、すっぽりと腕の中に収まる。
「いいの、そんなことして? 私、その気になっちゃうわよ?」
「先生は、そんなことしません」
「…………」
一瞬、先生の表情が翳った。だが、それもほんの一瞬。
「ホント、私って損な役回り。いっそのこと、ここで洋一くんを押し倒して、関係を保っちゃおうかしら」
「せ、先生……」
「なんてね。冗談よ、冗談」
笑う先生。
「ただね、本当にそうなってもいいと思ってるのも、事実。だからね、もうこれ以上抱きしめられると、止められなくなっちゃう」
少しだけ淋しそうにそう言い、そっと俺の胸に手を当てた。
「洋一くんは優しいから、こんな私でもきっと放っておけないと思ってる」
図星だった。
「でも、それはダメ。それは優しさというよりは、半分同情に近いものだから。そりゃね、私がこんなに未練がましいことしてるのも問題だけど。それでも、これ以上はダメ」
そう言って先生は俺から離れ──
「きゃっ」
「先生っ」
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
「だ、大丈夫……?」
「な、なんとか……」
俺から離れようとした先生が足をもつれさせ、転んでしまうのを俺がかばって──
「ごめんね。私のせいで」
床に倒れ込んでしまったが、先生はなんとか守った。
先生は、俺の顔を心底心配そうな顔で覗き込んでいる。
「先生」
「ん……あ」
俺は、そんな先生の唇に、キスをした。
「よ、洋一くん」
「キスも、ダメですか?」
「……ううん。嬉しい」
そう言って、今度は先生からキスしてきた。
少しウェーブのかかった先生の髪を撫でる。
「ん……」
少し鼻にかかった甘い吐息。
「洋一くん……」
「先生……」
「ううん、由美子って呼んで」
「由美子、さん……」
「うん……」
そして俺たちは、飽きるほどキスを交わした。
それ以上進むことのできない、進んではいけない想いを誤魔化すように。
学校をあとにした俺には、また新たな問題が残っただけだった。
とはいえ、今回のことはもうこれ以上どうともならない。俺も由美子先生、いや、由美子さんも、それを理解した上でキスを交わしたのだ。
俺にとっての由美子さんは、あくまでも頼りになる『お姉さん』なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
もちろん、今もこの手には由美子さんの柔らかな感触が残っている。あれだけ魅力的な女性だ。邪な想いを抱かない方がおかしい。それでも、そこはやっぱり俺は『生徒』で由美子さんは『先生』なのだ。
彼女のいる俺にとっては、絶対に越えてはいけない一線がある。
「たまに、こうして『恋人』ごっこしましょ」
由美子さんは、そう言って俺を送り出してくれた。
そこが、俺たちの限界だった。
「はあ……」
愛と沙耶加ちゃんのことを相談しにいっただけのはずなのに、なんでこんなことになったんだろうな。由美子さんの想いは知っていたのだから、そんな由美子さんに相談する方が悪いと言われれば、それまでだ。でも、こんなことを相談できる相手は、由美子さんか優美先生くらいしかいない。そして、真っ先に思い浮かんだのが由美子さんだった。
だから、やって来たのだ。
もちろん、ちゃんとアドバイスももらった。それはそれでよかったのだが、予想外のことがありすぎた。
複雑な心境のまま、家に帰ってきた。
「ただいま」
玄関を見ると、靴は一足しかなかった。しかも、姉貴の。
どうやら、母さんと美樹はいないらしい。
リビングに顔を出す。が、姉貴はいない。
「ん?」
と、音が聞こえてくる。
どうやら台所からのようだ。
覗いてみると──
「おかえり、洋一」
エプロン姿の姉貴が、料理していた。
「なんで姉貴が?」
「そりゃ、お母さんも美樹もいないからよ」
「……そういう状況じゃなきゃ、やらないってことか」
「誰もそんなこと言ってないでしょうが」
俺の言葉に、姉貴は笑顔で答えた。
「で、あんたは制服着て、どこ行ってたわけ?」
「ん、学校」
コートとブレザーを脱ぎ、食堂の椅子にかける。
「学校? なにしに? 補習、じゃないだろうし」
「いろいろあるんだよ」
「いろいろ、ねぇ」
調味料を足しながら、含みのある笑みを浮かべた。
「あんたがなんの用もないのに学校に行くことは考えられない。でも、呼び出しや補習で行ったわけでもない」
菜箸を振りながら、推理する。
「で、考えられる可能性はそう多くない。まずは、担任の斎藤先生に会いに行った。でも、これはない。なぜなら、あんたが先生に相談しなくちゃいけないようなことがないから。もうひとつの可能性。私は、これが正解だと思ってるんだけど、広瀬先生に会いに行った。で、なんのために会いに行ったかというと、相談するため。なにを? もちろん、愛ちゃんと沙耶加ちゃんとのこと。どう?」
「……さて、着替えてくるか」
「こらこらこら、逃げない」
いつの間にかすぐ側まで来ていた姉貴に、腕をつかまれ逃げられなかった。
「ほら、座る」
「わかったから」
こういう時、本当に姉という存在はやっかいだ。
「広瀬先生って、みんなのお姉さんて感じで相談しやすいからね。あんたの選択は間違ってないわ」
「そりゃどうも」
「でも、どうして今日になって相談に行ったの? って、決まってるか」
姉貴には昨日のことは話してないが、どうなったかはわかってるだろう。
「沙耶加ちゃん、抱いたんでしょ?」
「……まあ」
「そっか。やっぱりそうなったか」
姉貴は頷き、料理に戻った。
しばし、沈黙が訪れる。
「よし、完成」
火を止め、戻ってくる。
「今日はね、皿うどんにしてみたの。ちょうどお父さんが皿うどんをもらってきてたからね」
そう言って姉貴は俺の正面に座った。
「ね、洋一。沙耶加ちゃんを抱いたこと、後悔してる?」
「それはない」
「お、即答したわね。だったらさ、余計なこと考えなくてもいいんじゃない? あとは、そうなったことを愛ちゃんに話して、それでそれからのことを考える。それしかない」
こういう時、姉貴のそういう決断力には敬意を表す。俺にもそれくらいの決断力があれば、ここまでの問題にはならなかったんだろうな、実際。
「まだ話してないんでしょ、愛ちゃんに?」
「ああ」
「ま、あんたも結構ウジウジ考えるタチだから、そうだとは思ったけど」
「悪かったな」
「悪いと思ってるなら、直せばいいじゃない。確かに簡単なことじゃないけど、直そうという気があるなら、多少は改善されるわよ」
姉貴の言うことはいちいち間違ってないから、余計にムカツク。
「で、沙耶加ちゃん、どうだった?」
「どうって?」
「ん、体とか感度とか」
「……あのさ、そのエロオヤヂみたいな質問、なんとかならんの?」
「別にいいじゃない、気になるんだから」
駄々こねるし。
「それにしても、愛ちゃんといい沙耶加ちゃんといい、ホント、これ以上ないくらいの女の子に好きになってもらい、なおかつセックスまでしちゃうんだから。あんたって、よっぽど運が良いのか悪いのか、どっちかね」
「…………」
「弟がモテるのは嬉しいけど、心境はやっぱり複雑よ。特に、愛ちゃんは私にとってもうひとりの『妹』だからね」
それはもう何度も言われたことだ。それに、姉貴と愛の仲の良さは、誰もが認めるところだし。実の妹である美樹ですら認めているくらいだ。
「もしさ──」
「うん?」
「もし、いろいろ考えすぎてつらくなったら、いつでも私を頼りなさい。私だけは、どんな結果になってもあんたの味方だから。お父さんやお母さん、小父さんや小母さんからも守ってあげる」
「姉貴……」
「確かに愛ちゃんは私のもうひとりの『妹』だけど、やっぱり実の弟の方が大事だし、大切だから。あんたも、私がどれだけあんたのこと好きなのか、わかってるでしょ? そして、絶対に私はあんたを見捨てない。姉としての義務感から言ってるわけじゃないわよ。今まで一緒に過ごしてきて、その上で言ってるの。だからね、結果を恐れないで精一杯がんばりなさい」
姉貴の言葉は、とても暖かかった。姉貴がどれだけ俺のことを想ってくれているか、それを改めて実感できた。
だから、余計に自分の情けなさが目立つ。
「ごめん、姉貴……」
「謝らないの。そんなの、あんたらしくない。あんたの口癖でしょ? 『やればできる』って。人間関係だって同じよ。二進も三進もいかない状況なんて、そうそうないんだから。いつもの気持ちで、ね?」
「……ありがとう、お姉ちゃん」
俺の言葉に、姉貴は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑顔になった。
それは、俺が一番よく知っている姉貴の一番良い表情だった。
母さんと美樹が買い物から帰ってきて、揃って昼食を取った。
姉貴の作った皿うどんは、マジで旨かった。
そして、午後。
俺は、愛に電話した。
『もしもし、洋一?』
「ああ。今、暇か?」
『うん、特に用はないけど』
「じゃあ、今からちょっとおまえんとこ行くわ」
『いいよ。待ってるから』
電話を切り、すぐに家を出る。
どうなるかはわからない。それでも、愛にいつまでも黙っているわけにはいかない。
森川家に着き、いつものようにインターフォンを鳴らす。
パタパタと足音が聞こえ、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい、洋一」
出てきたのは愛なのだが、これでやって来たのが俺じゃなかったらどうするつもりだったんだろうな。
「さ、上がって」
「おじゃまします」
電話した時、まず最初に出たのが愛美さんだったから、愛美さんもいることはわかってる。
「いらっしゃい、洋一くん」
「こんにちは」
一応顔だけ見せて、二階へ。
部屋に入り、とりあえず腰を落ち着ける。
「どうしたの、いきなり電話なんかしてきて。急な用事でもあった?」
「ん、まあ、いろいろな」
いつも通りの愛に、俺は曖昧な返事しかできなかった。
「ん〜……」
と、愛が顔を近づけてきた。
「洋一。昨日、私が帰る時も、そんな感じだったよね」
鋭い。
「本当は、なにかあるんでしょ? 私に言わなきゃいけないこと」
「……ああ」
ぐずぐずしててもしょうがない、か。
「昨日、沙耶加ちゃんに誘われてたのは、知ってるよな?」
「うん。イヴの日に聞いた」
「昨日、沙耶加ちゃんに会って、いろいろ話して、おまえと口約束だけど婚約したことも話して、だけど、沙耶加ちゃんの想いは変わらなくて。そんな彼女の想いを、俺は無視できなかった」
「まさか……」
「沙耶加ちゃんを、抱いた」
「っ!」
同時に、左頬に鈍い痛みが走った。
「バカっ! 洋一のバカっ!」
愛は、泣きながら、俺の胸を叩いた。
「なんで? なんでなの? 私っていう彼女がいるのに、なんでなの? ねえ、教えてよ。答えてよっ!」
「すまん……」
「謝らないでよぉ。なんで謝るの? やめてっ! 謝らないでっ!」
「…………」
なにも言えなかった。
言い訳もできない。完全に、俺が悪いんだから。
「私じゃ不満なの? だったら、私、それを直すから。だからね、お願い。私を捨てないで。ひとりにしないで」
「……誰が捨てるなんて言った? こんなこと言えた義理じゃないけど、おまえが俺の彼女だからこそ、正直に話したんだ。これからもずっと、一緒にいたいから」
「じゃあ、なんで? なんで沙耶加さんを抱いたの?」
理由を話すのは簡単だ。でも、今の精神状態の愛にそれを話したところで、十分の一も理解してくれないだろう。
今はただ、愛からの責めを、甘んじて受けよう。
「やだよぉ……私だけの洋一じゃなくなるなんて、やだよぉ……」
「愛……」
泣きながら、俺を責めながら、自分の想いを吐露していく。
俺はただ、黙って愛を抱きしめることしかできなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。
愛は、泣き疲れて眠ってしまった。綺麗な顔も、涙のせいで台無しだ。
と、ドアがノックされた。
「あ、はい」
入ってきたのは、もちろん愛美さんだ。
「ごめんね。本当はなにも言わずに戻ろうと思ったんだけど」
そう言うということは、さっきのをある程度聞いていた、ということか。
「すみません」
「ああ、ううん、いいのよ、謝らなくて」
俺が頭を下げると、愛美さんは少しだけ困った顔を見せた。
「こういうことを言うとあとで愛に怒られそうだけど、恋愛ってね、本当にいろいろな形があるのよ。私もね、あの人とつきあう前に、何人かの人とつきあっていたし。それはあの人だってそう。誰かひとりを選べれば、それはそれでいいことだとは思うけど、でも、それはなかなか難しいのよ」
穏やかな表情で続ける。
「好きな人ができたからって、ほかの人を好きにならないなんてこと、ないでしょ? それは結婚してからだってそう。自分の夫や妻以外に好きな人ができるかもしれない。もちろん、そこで関係を保ってしまうと不倫になってしまうから、問題だけど。でも、それが恋人の段階なら、少しだけ話は変わるわ。そりゃ、された方にとっては、浮気した、ってことになるんでしょうけど」
今の愛の立場だな。
「浮気は確かに褒められたことじゃないし、できればしない方がいいとは思うけど、じゃあだからって相手を自分に縛り付けていいかといえば、そうでもないのよ。誰にも、恋愛の自由を奪う権利はないから」
恋愛の、自由か。
「私もね、つきあってる時に、もうひとりほかの男の人とつきあう一歩手前のところまでいったことがあるの」
「えっ……?」
「もちろん、当時はつきあってた人が好きだったわよ。でもね、もうひとりのことも、好きだった。好きになるのに、理由や理屈はいらないって言うけど、その通りなのよ。私がその人を好きになったことに、理由や理屈はなかった。気付いたら、好きになってた。そんな感じ」
「それで、どうなったんですか?」
「ん、結局はもうひとりの人とはなにごともなく、自然消滅したわ。それがよかったのか悪かったのか、それは今でもわからない。だって、そのつきあってた人とだって、その少しあとに別れてしまったからね」
そう言われると、本当になにがよくて、なにが悪いのかわからない。
「洋一くんは、愛のこと、好き?」
「はい」
「ずっと、一緒にいたいと思ってる?」
「はい」
「でも、そのもうひとりの子のことも、放ってはおけないのよね」
「……はい」
「そっか。うん、洋一くんらしい」
そう言って愛美さんは、穏やかに微笑んだ。
「私にはね、洋一くんが伊達や酔狂でそんなこと言わない子だってわかってるから。それはつまり、本当に悩んで悩んで、ようやく出した答えというわけよね」
「……はい」
「そして、その答えに洋一くんは後悔してない。だから、愛にすべてを話した。これから先どうなるかはわからないけど、これはもう自分ひとりだけの問題じゃないから。洋一くんと愛、そして、もうひとりの子。三人の問題だから」
「…………」
「たぶんね、愛にもそのことはわかってるはずなの。この子、結構そういうのには敏感だし、鋭いから。ただ、今はそのこと自体がショックで、上手く整理できてないだけ。だから、泣いて叫んで喚いて」
ふっと、優しい眼差しを愛に向ける。
「起きたら、もう一度しっかりと話してみるといいわ。今度は、さっきみたいなこと、ないと思うから」
「はい」
「うん、素直でよろしい」
もうひとりの『母さん』は、そう言って頷いてくれた。
「それじゃあ、洋一くん。愛のこと、お願いね」
「はい」
「まあ、私は未来の『息子』のことは、信じてるけど」
最後の最後で釘をさすことも忘れない。
でも、おかげで少しだけ気持ちが楽になった。
あとは、愛とちゃんと話すだけだ。
それから少しして、愛が目を覚ました。
泣いたせいで目は真っ赤になっていたが、気持ちは落ち着いていた。
「……洋一」
「なんだ?」
「私、絶対に洋一のこと、許さないからね」
「ああ」
最初から許してもらおうとも、許してもらえるとも思っていない。逆にここで許してもらえたなら、俺は愛の気持ちを疑う。
「どうしてなのかな。私の想いは、もうずっと変わってないのに。ずっと、洋一だけに向いていたのに。心を縛り付けることなんてできない。それはわかってる。でも、でもね、私は私だけをずっと見ていてほしいの。私だけに愛をささやいてほしいの」
胸に手を当て想いを語る。だけど、その声は落ち着いていた。
「本当はね、私もわかっていたの」
「わかっていた?」
「洋一の優しさを、想いを私だけに向けさせることなんて、誰にもできないって。これは別に沙耶加さんがいなくても同じ。だってそうでしょ? 洋一の想いの何割かは、今でもずっと、美香さんと美樹ちゃんに向けられているもの。うん、それは姉であり妹だから。そういう理由もあると思う。だけど、洋一はそんなどうすることもできない理由だけでふたりを想ってるわけじゃない」
不意に、愛が俺の手を握った。
「こういう時、幼なじみってイヤよね。知らなくてもいいことまで知ってるんだから」
俺には、愛がなにを言いたいのかわからなかった。
「洋一の初恋の相手って、誰?」
「えっ……?」
「私、なんて言わないでね。そうじゃないことくらいわかってるんだから」
そうか。ようやくわかった。なにを言いたいのか。
「姉貴、だな」
「そう、洋一の初恋の相手は、美香さん。もちろん、それはすぐに姉弟の想いに変わっちゃったけどね。だからというわけでもないけど、洋一は美香さんを単なる姉としてだけ見てるわけじゃない。ちゃんと、ひとりの女性として見ている。私には上にも下にも兄弟がいないからわからないけど、それでもそういう風に相手を見て、接し続けていくのがどんなに大切なことか、わかる」
「…………」
「美樹ちゃんの場合は、もっと簡単。美樹ちゃんが最初から洋一のことをお兄ちゃん以上に見ていたからね。洋一だってそれに気付いていたし。そうすれば、イヤでも女の子として意識しちゃうもの。それに、洋一だって美樹ちゃんのこと、女の子としても好きでしょ?」
「ああ……」
「そういう理由もあって、洋一は美香さんと美樹ちゃんに想いを向けているの。そりゃね、私だってバカじゃないから、実の姉と妹に絶対に勝てない戦いを挑む気はないわ。私と洋一の絆だって相当のものだと思うけど、姉弟のそれはその比じゃないもの」
小さくため息をついた。
「それでもね、私はどこかで思ってたの。美香さんや美樹ちゃんに向けられている以外の想いは、きっと私に向けてくれているって。私がこれだけ洋一のことを想っているんだから、それに見合うわけじゃないけど、ちゃんと私の想いに応えてくれるくらいの想いは、私に向いてるって。でも、それは私の驕りだった。なにもしてないのに、ものだけもらおうだなんて、そんな虫のいい話、ないものね」
握っている手に、少しだけ力がこもった。
「私はね、洋一の彼女であるということにあぐらをかいていたんだ。確かに沙耶加さんという私を脅かしかねない存在があったけど、それでも、絶対に大丈夫だと思ってた。だからなんだろうね。私に沙耶加さんの本当の想いが読み取れなかったのは。もし私にもっと危機感があれば、きっと沙耶加さんの想いに気付いてた。自慢じゃないけど、洋一に関することだったら、私の勘や考えは鋭くなるからね。もちろん、気付いていても今回のことを止められたかどうかはわからないよ。でも、それでも、もう少し違った展開になってたとは思う」
「愛……」
情けない奴だ。俺は、本当に情けない奴だ。
好きな女をここまで苦しませ、なおかつまたさらに悩みの種を増やしてる。
どうしてこうなる前になんとかできなかったんだ。
沙耶加ちゃんと出逢わなかったら、なんてことは言えない。出逢ったって、これ以外の道があったはずだ。
すべての選択が間違いだったとは思わない。だけど、どこかで、ひょっとしたらほんの些細なことで、俺はボタンをかけ間違っていたのかもしれない。
だからこそ、なにがあっても愛を大事にしたいという気持ちと、沙耶加ちゃんの想いにも応えたいという矛盾した想いが生まれた。
その結果、愛を悲しませた。
「洋一」
「ん?」
「洋一は、どうしたいの? 私を抱いて、沙耶加さんを抱いて。その責任を取れとは言わないけど、でも、これからどうしたいの?」
「俺は、ただおまえにも沙耶加ちゃんにも、ずっと笑っていてほしいだけなんだ。俺のおまえの好きなところは、その笑顔だからな。好きになって、恋人同士になって、婚約して。その度に俺は、その笑顔が曇らないようにするにはどうしたらいいか。そればかり考えていた」
「…………」
「同じことを沙耶加ちゃんにも思った。そのせいでおまえの笑顔は曇っちゃったけどな」
「……そっか」
愛は、小さく頷き、それから改めて俺に向き直った。
「私は洋一を許さないけど、私自身、私を許せないの。だって、洋一が沙耶加さんとセックスしたのだって、浮気だと思ってないんだから。お互いに本気だから。いくら彼女の私でも、本気の想いを否定できるほど偉くない。偉くないけど、許せないの」
愛の目から、涙がこぼれた。
「ねえ、洋一。私、どうしたらいいの?」
「愛……」
俺は、愛を抱きしめた。
きつく、強く、しっかりと。
俺たちは、昼間であることも、下に愛美さんがいることもすべて忘れて、セックスした。
何度も何度もお互いを求め合い、息が上がってもう動けなくなるくらい、抱き合った。
今の俺たちには、そうすることでしかお互いの絆を、想いを確かめる術がなかった。
俺も愛も、誰よりもお互いのことを好きでいるのに、なぜか上手くかみ合わない。
いや、かみ合ってはいる。かみ合ってはいるんだけど、それが常にじゃない。
「私ね、思うの」
「なにをだ?」
「私も洋一も、どこかで私たちはずっと今までと同じだって思ってたのかもしれないって。だから私は沙耶加さんのことに気付かず、洋一は言い方は悪いけど、その隙をつかれた」
なんとなく言いたいことはわかる。
「だからね、私、決めたの。もう一度洋一を好きになった頃の気持ちを、想いを思い出そうって。そしたら、私がどれだけ洋一のことが好きで、どれだけ大切なのか、再認識できると思うから」
「そっか」
それは、俺にも必要なことかもしれない。
口では愛のことが大事だ大事だ言っていても、本当に俺は愛のことを大事に想っているのか。沙耶加ちゃんのことがあったから、多少戸惑っている部分がある。
それを改めて確認するのは、お互いにいいことかもしれない。
「それでね、洋一にひとつだけお願いがあるの」
「なんだ?」
「あのね、今は洋一のこと呼び捨てにしてるでしょ?」
「ああ」
「でも、昔は『洋ちゃん』て呼んでた。だから、洋一のこと、昔みたいに『洋ちゃん』て呼んでいい?」
俺は、それにはすぐには頷けなかった。なぜなら、呼び方については愛が自主的に変えたのではなく、俺が変えさせたからだ。
あれは、中学に上がってすぐのことだ。
俺と愛はやっぱりいつも一緒にいたから、なにかといろいろな噂が飛び交った。もちろん、そんなの小学校の時からあったことだから、あまり気にしなかった。
だけど、中学ではそれまでとは違うことでも言われるようになった。
それが、愛の俺に対する呼び方だった。
俺は『洋ちゃん』と呼ばれることになんの抵抗もなかったのだが、愛以外のアホ連中まで俺のことをそう呼ぶようになり、しまいにはからかうネタにまでしやがった。
ちょうどその頃、姉貴のことでもいろいろあって、結局俺は愛に呼び方を変えるように言ったのだ。
最初愛は嫌がったのだが、それでも俺がどうしてそれを変えさせようとしているか理解し、変えてくれた。
今でこそ呼び捨てが当たり前だけど、その当時は愛に悪いことをしたと思っていた。
だから、愛はわざわざ俺にそうしていいか聞いたのだ。
「ダメ、かな?」
「……好きにしろ」
「うん、ありがと、洋ちゃん」
この年になって、改めてそう呼ばれると、くすぐったい感じがする。
「本当はね、『洋ちゃん』て呼ぶなって言われてからも、ずっとそう呼びたかったの。だって、私にとっては『洋ちゃん』が当たり前だったから。呼び捨てにすると、別の誰かを呼んでるみたいで、イヤだった」
そこまで思い詰めてたとはな。本当に悪いことをした。
「これで、私の中では洋ちゃんを好きになったあの頃まで戻れるよ。大好きで大好きで、いつも一緒にいたくて、いつも洋ちゃんの背中を追いかけて──」
愛の言葉に、俺の記憶までその頃まで戻っていく感じがする。
好きも嫌いもわからなかった、あの頃に。
「毎日毎日くたくたになるまで遊んで、たまに一緒にお昼寝なんかして。洋ちゃんは覚えてないと思うけど、私ね、その時に何度か洋ちゃんにキスしてるの」
「は……?」
「寝てる洋ちゃんに内緒で、ちゅってね。女の子って耳年増だったりするでしょ。私も少しそんなところがあってね、大好きな男の子とキスしたいって思って。でも、面と向かって言ったら、絶対に断られると思ったから。それで、寝てる間にね」
まさか、そんなことがあったなんてな。
「それからずっと、私は洋ちゃんへの好きを育んできた。少しずつ少しずつ、本当に少しずつだけど、確実にその好きは大きくなった。そして、中学に上がった頃から、急激にその好きは大きくなったの。だって、洋ちゃん、どんどんかっこよくなっていくんだもん。たまに意地悪とかして子供っぽいとこも見せてたけど、ふとした瞬間に見せる表情は、間違いなく男の大人の人の表情だった。だから、気付いた時にはもう本当に洋ちゃんしか見えてなかった」
それは俺も同じだ。
やっぱり中学に上がってから、愛はどんどん可愛く、綺麗になった。だから、性格とかの内面だけじゃなく、その容姿からもどんどん好きになった。
「たぶん、その頃からだと思うの。洋ちゃんの隣には、私がいるのが当たり前だって考えるようになったのは。でも、それは思い上がり。だって、私はその場所を一度も自分の力で手に入れてなかったんだもの。なにも言わなくても洋ちゃんは私を隣にいさせてくれる。だから、なにも言わずにずっとそこにいた。だけど、それは間違いだった。そのせいで、今みたいなことになってるわけだし」
「かもしれないな」
「今は私たちは恋人同士で婚約者だから、そこまでの頃には戻れないけど、でも、気持ち的にはその頃に戻って、改めて洋ちゃんの隣は私の場所だって主張するから」
「ああ、そうしてくれ」
「うん、そうする」
ようやく、愛は笑顔を見せてくれた。
まだ完全には割り切れてないんだろうけど、多少区切りはついたのかもしれない。
あとは、これからのお互いの行動次第だからな、結局は。
「あ、そうだ。洋ちゃん」
「ん?」
「明日から、なにか用事ある?」
「いや、特にはなにも。さっさと宿題を終わらせることくらいかな」
「じゃあ、もしよかったらなんだけど、洋ちゃん、しばらくうちに泊まらない?」
「は……?」
いきなりなにを言うかと思えば、また突拍子もないことを。
「いや、なんでいきなりそんなことになるんだ?」
「ん〜、なんて言えばいいのかな。スキンシップを増やして、相互理解に努める」
「……おまえ、わかってて言ってるか?」
「というのは建前で、本当は私が洋ちゃんと一緒にいたいの」
不意に、真面目な表情になる。
「今は洋ちゃんの前だからこうしていられるけど、ひとりきりになったら、たぶん、ダメになっちゃうから。洋ちゃんも知ってるし、何度も直せって言われてるけど、私、すぐ物事を悪い方へ悪い方へ考えちゃうから。特に今は、洋ちゃんが私の側にいないと、私を捨てて沙耶加さんのもとへ行っちゃったんじゃないかって、本気でそう思っちゃうから」
極端な言い草だが、愛なら十分あり得る。
理由はどうあれ、愛に心の傷を負わせたのは、この俺だ。少なくともその傷が癒えるまで、面倒を見るのは当然だ。
「ワガママだって思われてもいい。どれだけ文句を言ってもいいから、しばらく、私の側にいて。お願い、洋ちゃん」
「……さっきも言ったと思うけどな、俺は、おまえにはずっと笑っていてほしいんだ。だから、ずっと笑っていてくれるなら、なんだってする」
「じゃあ……?」
「ああ、一緒にいるよ」
「あはっ、ありがとう、洋ちゃん」
そうだ。これでいいんだ。
俺の理由は、これしかないんだから。
……だけど、姉貴や美樹への言い訳はどうするかな。
二
いや、わかってはいたんだ。昔の愛の性格を考えれば、そうなることも。
愛の家に泊まることを決めたのはいいが、なんの用意もしてない状態で泊まるわけにはいかなかった。いくら家が近所だっていっても、なにか必要なものがある度に行き来するわけにもいかない。
となると、必然的に家に必要なものを取りに行くわけだが──
「や。絶対に一緒に行く」
どうも俺への呼び方を変えてから、精神年齢が後退したような気がする。それはそれでカワイイのだが、限度というものがある。
で、俺が家にいったん戻ると言うと、今度は愛が一緒に行くと駄々をこねた。愛の心情を考えればそれはわかるのだが、今の状況を考えると、あまり好ましい展開にならないことは、火を見るよりも明らかだった。
また運の悪いことに、家には姉貴も美樹もいる。俺が帰っただけなら別になにもないが、愛が一緒なら話は別だ。必ず一度は顔を見せに来る。
で──
「あらあら」
これが姉貴の反応。
「むぅ……」
これが美樹の反応。
しかも、それはあくまでも今の俺と愛の姿を見た段階でのこと。これから俺は、愛の家に泊まることを話さねばならない。
とりあえず必要なものを揃え、カバンにぶち込む。
「よし、こんなもんだろう」
「終わった?」
「ああ」
「じゃあ、行こ」
がっちり腕を組まれ、この段階で俺に自由意志というものは存在しない。
部屋を出て、母さんに許可を得るため話をする。
「まあ、それは構わないけど」
やっぱり母さんはとやかく言わない。
「いいの、愛ちゃん?」
「はい。全然構いません」
実は、まだ愛美さんに確認は取ってないのだが、愛は言い切った。
「じゃあ、洋一。迷惑かけないようにするのよ」
「わかってる」
で、リビングを出ると、今度は姉貴と美樹だ。
相変わらず愛は俺の腕にがっちりとつかんでる。
「ねえ、愛ちゃん」
「はい」
「これから、私のこと、『お義姉ちゃん』て呼んでいいわよ」
「おっ……」
「姉貴っ」
予想通りというか、それ以上というか、その斜め上の展開が繰り広げられている。
愛は愛で、まんざらでもなさそうに頬を赤らめてるし。
当然、目の前でそんなこと言われれば、ある程度区切りをつけとはいえ、ブラコン妹が黙ってるわけがない。
「お姉ちゃんはお兄ちゃんを困らせて、そんなに楽しいの?」
嘆息混じりに実の姉を非難する。
「楽しいわよ。だって、これは実の姉である私に与えられた特権だもの。洋一をいじっていいのは、世界広しといえども、この私だけなんだから」
「……いや、ウソだから」
「あら、ウソじゃないわよ。もし私以外の誰かがそれをしようとしたら、私、全力で妨害するもの」
その妨害が、普通の、常識の範囲内の妨害ならいいのだが。
「でも、そうねぇ、美樹にだったら、少しくらいそれをさせてあげてもいいわよ。なんたって、この世でたったひとりの実の妹なんだから」
いや、だから。そこで目を輝かせるな、美樹。
「ま、それはまたあとで話しましょ」
姉貴はそう言ってから、改めて俺と愛に向き直った。
「どう? いろいろ考えてみた? たぶん、まだ明確な答えは出てないだろうけど、大丈夫。ふたりなら大丈夫だから」
「姉貴……」
「美香さん……」
「私も神様じゃないから、なにが正しくてなにが間違ってるかはわからない。それでもね、信念を持って行動してるなら、少なくともその先に明らかに間違ってる未来はないから」
「私もね、お兄ちゃんと愛お姉ちゃんなら大丈夫だと思う」
と、事情を知らないはずの美樹までそんなことを言い出した。
隣の姉貴を見ると、話しちゃった、と笑っている。
このアホ姉貴は……
「だからね、ホントはイヤなんだけど、今回のこともしょうがないって思ってるから」
「ありがと、美樹ちゃん」
「でも、その代わり、お正月は私がお兄ちゃんを独り占めするからね」
「おいおい、おまえはなにを言って──」
「あら、それは楽しそうね。私も混ぜてもらおうかしら」
「姉貴まで……」
「だから、結論は出ないかもしれないけど、できるだけ結論が出るように、ちゃんと話し合ってね」
と、愛は、つかんでいた腕を放し、そのまま美樹を抱きしめた。
「ごめんね、美樹ちゃん。少しだけ、お兄ちゃんを貸してね」
「うん」
なんというか、結局こうなるんだろうな。
俺たち四人は、他人にはわからない深い絆で結ばれているのだから。
で、予想通り、俺は森川家にそれはもう、快く迎えられた。というか、愛美さん、仕事中の孝輔さんに電話までしてたし。もちろんその電話は、俺が泊まっていいかの確認の電話ではなく、泊まるからという決定の電話である。
電話のあとは、それはもうとにかく、いろいろ大変だった。愛という十七歳の娘がいる身である。当然愛美さんもそれなりの年なのだが──もちろん、年のことを言うと俺に明日はないが──そのはしゃぎっぷりといったら、まるで子供のようだった。
そういえば、以前、愛に聞いたことがある。愛美さんが学生の頃は、その性格のせいでなかなか大変だったそうだ。容姿は文句のつけようがないほどなのだが、この起伏の激しい性格が、いろいろな部分をマイナスに押し下げていた。
今は年齢相応に落ち着いているが、学生時代は本当に大変だったらしい。その愛美さんを一番上手く『操縦』できたのが、孝輔さんというわけだ。一見、愛美さんの方が実権を握っているように見えるが──まあ、間違いではないが──実際は結構孝輔さんが愛美さんを引っ張っている、ということだ。
「洋一くん、洋一くん」
そんなことを考えていたら、愛美さんに呼ばれた。
ちなみに愛は、愛美さんの命令で買い物に出ている。さすがの愛も、母親の命令には従うらしい。それに、俺のことを引き合いに出されたら、断れないな。
「なんですか?」
「とりあえず、座って座って」
満面の笑みを浮かべた愛美さんが、自分の隣に座るように言う。
なんで隣、とも思ったが、とりあえず素直に従った。
「えっと、なんですか?」
笑顔の愛美さんほど、実際なにを考えているかわからない人はいない。
「そんなに警戒しなくてもいいのよ。別に、カワイイ洋一くんをどうこうしようだなんて、ん〜、ちょっとしか思ってないから」
思ってるんかいっ。
「今はそういうことを言いたいわけじゃないの。それはまた、今度ね」
……なくていいよ、そんな今度。
「今は、愛のこと。ありがとうね、ワガママ聞いてくれて」
「そんな、別に俺は……」
「ううん、理由はどうあれ、いきなりうちに泊まってくれだなんて、ワガママ以外のなにものでもないから。愛もそれはわかってるとは思うんだけど、今日は少しだけしょうがないかなって思ってるわ」
「…………」
「あ、別に洋一くんを責めてるわけじゃないのよ。あんな状態の愛を扱えるのは、もう洋一くんだけだし。それにね、こう言うと洋一くんはどう思うかわからないけど、私は今回のこと、よかったと思ってるの」
「どうしてですか?」
「今回のことがなくても、愛と洋一くんなら、ずっと仲良く、ずっと一緒にいられたと思う。でもね、それって結局幼なじみの延長線上のつきあいでしかないと思うの。もちろん、それが悪いってわけじゃないのよ。ただね、人と人とのつきあいって、もっともっといろいろあると思うから」
「つまり、今回のことは、その『いろいろ』の中のひとつだからよかった、と?」
「そうね。今回のことで、愛も洋一くんもいろいろなことを学べただろうし、また、これからも学べると思うから」
確かに、いろいろなことを学んだ。だけど、それで終わったわけじゃない。
「愛も洋一くんも、お互いのことが好きすぎて、少し感覚が麻痺していたのかもしれないわね。まあ、人を好きになるって、どこかの感覚が麻痺してるのと同じだと思うから、ふたりはその症状が少しだけ極端に現れただけだと思うけど。でも、今回のことでそれも元に戻りそうだし、これからはそうそうこういうことにはならないわね」
「そう、ですね」
言い方は穏やかだけど、多少、俺への非難の感情が込められていた。それも仕方がない。愛娘を傷つけられたのだから。
「そこでひとつ訊きたいんだけど、今回洋一くんの心を奪っていった、もうひとりの子って、どんな子なの?」
「えっ……?」
「ほら、やっぱり気になるのよ。自分の娘を自慢するわけじゃないけど、あの子、同年代の子より頭ひとつ抜け出てると思うから。そんな愛を彼女にしてる洋一くんですら虜にしちゃう子。気にならない方がおかしいでしょ?」
「…………」
こういう時はなんて言えばいいんだろうか。
俺は、人を評するというのが一番苦手なんだ。本人を見てもらえれば一番いいのだが、それも無理だし。せめて写真でもあれば──
「あの、ちょっと愛の部屋に行ってもいいですか?」
「それは構わないけど、どうしたの?」
「口で説明するのは難しいので」
確か、運動会や文化祭の時に撮った写真があるはずだ。俺たち三人は結構一緒にいたから、愛も一枚くらい持ってると思うんだが。
だけど、根本的な問題にぶち当たった。
「どこにあるんだ?」
肝心のアルバムがどこにあるかわからない。
あまりあちこち物色すると、あとでとんでもないことになりそうだし。
「ん〜……」
本棚にあると思うんだけど──
「ん……これは……」
それは、本当に無造作にそこに納められていた。
「日記、だな」
愛の日記だった。
「…………」
気にはなった。気にはなったけど、こういうのは見るべきではない。
俺はそれを元に戻し、改めてアルバムを探した。
アルバムは、それからすぐに見つかった。パラパラと中を見ると、期待していた写真もちゃんと収められていた。
それを持ち、リビングに戻る。
「これを見ればすぐにわかると思います」
その写真は、運動会のものだった。
俺と愛、それに沙耶加ちゃんと真琴ちゃんが写っている写真だった。
「この子ね」
愛美さんは、俺がなにも言わなくても沙耶加ちゃんを言い当てた。
「まあ、本当に綺麗な子ね」
沙耶加ちゃんが写っている写真は、ほかにも何枚かあった。
「それに、愛にはない清楚可憐さを持ってる子ね。うん、確かにこの子なら、洋一くんも虜になるかも」
写真を見ただけでそこまで言えるとは、さすがは愛美さんだ。
「おとなしい子でしょ?」
「ええ」
「そっか。この子か。なるほど」
愛美さんは、しきりに頷いている。
「洋一くんも、隅に置けないわね。こんな綺麗な子に好かれちゃうんだもの」
「そんなことは……」
「こんなことを訊かれても困ると思うんだけど、うちの愛とこの子、どっちが『いい女』だった?」
「えっ……?」
「ん〜、見た感じ、背格好はそれほど変わらないと思うのよね。スタイルだってそう。性格に違いはあるだろうけど」
「…………」
困るというか、そんな質問、答えられるわけがない。愛には愛の、沙耶加ちゃんには沙耶加ちゃんのいいところがあるんだから。それを、俺が勝手に評していいはずなどない。
「すみません。それには答えられません」
「ふふっ、洋一くんならそう言うと思ったわ」
……そう思ったなら、訊かないでほしい。
やっぱり俺は、この人が苦手だ。
「洋一くんが私たちの『息子』になってくれたら、毎日楽しいでしょうね。私もあの人も、男の子がほしかったから」
「あ〜、えっと……」
「もちろん、愛は愛でカワイイわよ。なんといっても、私たちの娘だし。でも、そこはそれ。洋一くんみたいな男の子もほしかったの」
「え、あ、愛美さん……?」
と、なぜか俺は愛美さんの胸に抱かれてしまった。
フワフワな胸に抱かれて気持ちいいんだけど、複雑な心境だ。
「少しだけ、こうさせてね」
「……はい」
今は、下手なことは言わない方がいいか。どうせ、口では勝てないんだから。
ただなにもせず、愛美さんの胸に抱かれていると、まるで母さんに抱きしめられている感じがする。
この、日向のような暖かな感じも、トクントクンと聞こえる心臓の音も、俺の気持ちを穏やかなものにしてくれる。
だが、そういう時間は長くは続かないことになっている。
「ただいまぁ」
そこへ、愛が帰ってきた。
「あ、あの、愛美さん。そろそろ……」
「うふふっ、ダ〜メ」
うあ、すごくいぢわるな顔だ。というか、こんなところを愛に見られたら──
「ああーっ!」
ほら、こうなる。
「お、お母さんっ! 私の洋ちゃんになにしてるのよっ!」
買い物袋を放り出し、あっという間に俺たちのもとへ。
「ほら、ちょっと『親子』のスキンシップをね」
「お母さんと洋ちゃんは『親子』じゃないでしょっ!」
愛は、俺を愛美さんから引きはがし、そのまま抱きしめた。
「洋ちゃんは、私の洋ちゃんなんだから」
ものすごい力で抱きしめられ、息ができない。
「あ、愛……苦し……」
「あ、ご、ごめん」
少し力は緩んだけど、離すつもりはないらしい。
「別に洋一くんをどうこうしようなんて……思ってないから」
「なんでそこで間が開くのよ?」
さっき、思ってるって言ったし、この人。
「洋ちゃんはね、お母さんには逆らえないの。それを逆手にとって、好き放題やっちゃダメ」
「はいはい。私が悪かったわ」
愛美さんは、そう言って立ち上がり、愛が放り出した買い物袋を拾った。
「ほら、愛。今日はあなたが料理するんでしょ?」
「それはそうだけど……」
俺と愛美さんの顔を代わる代わる見る。
「もうなにもしないわよ。ほら」
「むぅ……」
愛は、渋々俺から離れ、買い物袋を受け取った。
「洋ちゃん。もうお母さんに惑わされたらダメだからね」
「了解」
やれやれ、初日のまだ夕飯前にこれじゃ、これから先、どうなるんだろうな。
夜。孝輔さんが仕事から帰ってきた。
当然、俺が『おもちゃ』にされ、愛が怒り、愛美さんがそれを軽くかわした。
なんというか、最近こんな場面にばかり遭遇する。
だけど、俺はそれがイヤじゃない。ここにいると、もうひとつの『家族』に触れることができるからだ。
孝輔さんも愛美さんも、本当に俺によくしてくれる。もちろん、それは俺が『他人』だからということもある。でも、それだけじゃない。ふたりとも俺をできるだけ『家族』のように扱ってくれる。
それがここにもうひとつの『家族』を作り出している。
まあ、こんなことふたりには口が裂けても言えないけど。こんなこと言ったら、婿に来い、って言われるのがオチだ。
で、愛はそれをどう考えているのかといえば、案外ちゃんと受け止めている。確かに昔からこんな感じだったから、イヤでも受け入れてしまったんだろうけど。
でも、今は俺と愛は恋人同士で婚約者だ。よほどのことがない限り、今は作り物で偽物の『家族』が、本物になる。だからこそ、毎回毎回孝輔さんと愛美さんが暴走しても、次を許しているのだ。もしそうでなければ、二度とそんな場を設けさせないだろう。
とまあ、そんなことは今はいい。
「ん……洋ちゃん……」
愛は今、なぜか俺の膝枕で眠ってる。
長いまつげがかすかに揺れている。
今日はいろいろあったから疲れてるのはわかる。だけど、なんで俺の膝枕で眠ってるのか、それがわからん。
というか、身動きが取れないのだが。
「……あん、ダメだよぉ、洋ちゃん……」
なんの夢を見ているんだ、こいつは?
「ったく……」
髪を撫でる。
つくづく思い知らされる。俺は、こいつが──森川愛が好きなんだ、と。
「とはいえ、このままというわけにもいくまい」
寝るのにはまだ早い時間だが、それでも寝ちゃまずいわけでもない。ただ、このまま寝られると困るのだ。
「愛、起きろ。寝るならここじゃなくて、ベッドにしろ」
肩を揺すり、愛を起こす。
「う、ん〜……」
深い眠りに落ちていたわけではないので、比較的すんなり起きてくれた。
「……おはよ〜、洋ちゃん」
「おはようじゃない。寝ぼけるな」
「だってぇ……」
ぴと〜っとという感じで俺に抱きついてくる。
「どうするんだ? もう寝るのか?」
「ん〜、寝る前にお風呂入らないと」
「だったら、さっさと入ってこい」
こいつが風呂に入ってる間くらいは、のんびりさせてもらいたい。
が、愛はすぐには動こうとしない。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
「一緒にお風呂、入ろ」
「は……?」
「だからぁ、一緒にお風呂、入ろうよぉ」
「い、いや、それはさすがにまずいだろ?」
「どうして? お父さんもお母さんも、別になにも言わないよ」
確かに、あのふたりならなにも言わないだろうな。
「ね、洋ちゃん?」
上目遣いにねだってくる。
ああ、もう、俺はこいつのこの目には勝てない。つい、なんでも言うことを聞いてやりたくなる。
「……今日だけだからな」
「うんっ」
結局、言うことを聞いてしまうんだ。
それからの行動は実に素早かった。さっきまでのダラダラした愛はどこに行ってしまったのかというくらいだ。
だけど、一緒に入るとは言っても、森川家の風呂場は普通の大きさだ。ガキふたりなら問題のない広さだが、今の俺たちにはちと狭い。
脱衣所だってそうだ。とてもふたり一緒には服を脱げない。
そんなわけで、まずは俺が先に入り、あとから愛が入ってくるということになった。
「洋ちゃん、入るね」
俺が入ってからそれほど間を置かずに、愛も入ってきた。
申し訳程度にタオルで前を隠しているが、それもあまり意味を成していない。
「やっぱり、ちょっと恥ずかしいね」
そういうのが目的で裸になってるわけじゃないから、どうしても恥ずかしいという気持ちが出てくる。
浴槽はさすがにふたり一緒には無理だった。
「ねえ、洋ちゃん」
「ん?」
俺が風呂に浸かっている間、愛が髪や体を洗っている。
「今の私、イヤ?」
「なんだ、藪から棒に」
「なんとなくね、洋ちゃん、戸惑ってる気がするから」
鋭い。
「……そうだな。確かに少し戸惑ってる。俺への呼び方を変えてから、なんとなく幼くなったっていうか、精神年齢が後退してる気がするからな」
「やっぱり、そっか……」
「ただな、別にそれがイヤというわけじゃないんだ。今のおまえはおまえで、カワイイと思う。今みたいに甘えられるのも、悪い気はしない」
「…………」
「そりゃ、おまえとつきあうようになって、セックスまでするようになって、おまえの俺に対する接し方も変わってきてた。より素直に、より真っ直ぐに。で、生来の甘えん坊なところも出てきてたしな」
「あ、あはは……」
「だから、今のおまえとそう大差があるわけでもない」
「うん、そうだね」
「だけど、俺、言ったよな」
「ん、なにを?」
「四六時中ベタベタしてるのは勘弁してほしい、って」
「あ、うん」
「今のままだと、そうなりそうで怖い」
「怖い?」
俺の意外な物言いに、愛は小首を傾げた。
「おまえとベタベタすることに慣れてしまって、いろんなことに対して感覚が麻痺してしまうんじゃないかってことだ。ま、簡単に言うと、廃人てやつだな」
「…………」
「そういうのは、俺は望んでないし、おまえだってそうだろ?」
「うん」
「でも、今のままだと遅かれ早かれ、そうなるんじゃないかって。そう思ってる」
愛に溺れてしまう。なんてこともあながちウソじゃない。
この場合の『愛』は、名前じゃない。感情の方だ。
愛美さんの言葉を借りるなら、俺も愛も、お互いのことが好きすぎて、感覚が麻痺している。そんな状況でさらに感覚が麻痺しそうな生活を送ったなら、どんなことになるか。
「ただ、勘違いするなよ」
「えっ……?」
「さっきも言ったけど、俺は今のおまえはカワイイと思うし、甘えられるのも悪い気はしない。ようは、程度の問題だ。それこそ、四六時中じゃなければ、問題ないだろ?」
愛が、悲しそうな顔をしていたから、思わずそう言ってしまったが、これは早まったかもしれないな。
今日みたいに精神的に不安定な日は、どうしても愛はベタベタしたがる。落ち着いていれば、そんなことはないだろうけど。
つまり、これから先の俺の役目は、かなり重要だということだ。ましてや、また沙耶加ちゃんとのことがあったら……目も当てられない。
「じゃあ、私、今のままでいいの?」
「ああ。ただ、物事には限度があるってことだけは、念頭に置いて──」
「ん〜、洋ちゃん、大好きっ!」
「って、言ってるそばから──おわっ」
愛は、そのまま湯船に飛び込んできた。
当然お湯は飛び散るし、案外痛いしでさんざんな目に遭ったのだが──
「洋ちゃん、ありがとう」
本当に嬉しそうな愛の顔を見ていたら、どうでもよくなってしまった。
だけど、裸で抱きつかれると──
「あ、洋ちゃん……」
その、いろいろ反応してしまう。というか、昼間、あれだけしたのにまたか、という感じだ。
「ね、洋ちゃん。しよ」
そしてそのまま、雰囲気に流されしてしまう。
なんだかんだ言って、愛がこうなった原因は俺なんだろうな。
はあ……
それから二日間は、愛もだいぶ落ち着いていたおかげか、初日ほどのことはなかった。
ただ、なんとなく暇があればいちゃいちゃしてたような気がする。セックスまではしなくとも、キスをして、抱き合って。
客観的に見ると、典型的な『バカップル』だな。
とはいえ、別に四六時中ベタベタしてたわけじゃない。一応、やるべきことはやっていた。
愛は最初嫌がったけど、一日に必ず一度は、ひとりきりの時間を設けることにした。そうしないと、お互いに考えることもできない。
ただ、一日や二日で考えがまとまるわけでもない。なにが悪かったのか。お互いにそれを見つけ出し、改善しなくてはならないのだ。簡単ではない。
俺と愛はそんな感じだったけど、森川夫妻は怒濤のごとく『攻めて』きた。
孝輔さんは二十八日が仕事納めだったから、そこまではそれほどでもなかったのだが、二十九日から休みに入り、俺の顔を見つけてはなにかに誘おうと手ぐすねを引いている。
もっとやっかいなのが、やっぱり愛美さんだ。楽しんでるだけなんだろうけど、すぐ実の娘に張り合うから、間に立たされている俺は気が気じゃない。
それに、愛美さんは隙あらば過剰なスキンシップを図ろうと狙っている。それに注意もしなくちゃいけないから、余計にきつい。
なんとなくだけど、孝輔さんのつきあってた当時の苦労がわかる気がする。愛もそういうところがあるから、よくわかる。
まあ、愛と愛美さんは似た者同士なんだ。母娘というのもあるけど、それ以上にいろいろ似ている。
だからかもしれないけど、余計に俺は愛美さんをぞんざいに扱えない。
それがとにかく困った。
で、十二月三十日。
その日は、朝起きてリビングに顔を出すと、予想外のことを言われた。
「あ、洋一くん。ついさっきね、おうちの方から電話があったわよ」
「えっ……?」
「なんか直接洋一くんに話したいことがあったみたいだから、とりあえずその場はそれまでになったけど」
「わかりました。すみません。電話借ります」
家から電話がかかってくる用事があるとは思えない。しかもこんな朝早くに。
ということは、本当になにかあったと考えるべきだろう。
番号を押し、数コールで繋がった。
『はい、高村です』
出たのは母さんだった。
「もしもし、母さん。俺、洋一」
『ああ、洋一』
「どうしたの、電話なんかしてきて」
『あのね、昨夜なんだけど、洋一宛に電話があったの』
「俺に? 誰から?」
『えっと、山本──』
「えっ……?」
『真琴さんからよ』
「真琴ちゃん?」
『洋一はいないって言ったら、今日でもいいからなんとか連絡取れないかって言われて。それで電話したのよ』
「なるほど」
『真琴さんて、以前、うちに来た後輩の子よね?』
「ああ、うん。そうだよ」
『なんの用事かはわからないけど、連絡してあげて』
「わかった」
真琴ちゃんが、俺にいったいなんの用があるんだろ。
『それと、洋一』
「ん?」
『あまり、女の子を泣かせるんじゃないわよ』
「な、なにを言って──」
『美香に聞いたわよ』
「……姉貴め……」
『聞くのは当然でしょうが。いきなり愛ちゃんのところに泊まるって言い出して。あの場は愛ちゃんがあまりにも真剣だったから聞かないであげたけど、理由は気になっていたのよ。で、美香に聞いたらその理由を教えてくれたから』
「そういうことなら、まあ、しょうがないか……」
『別に私は洋一のそういうことに口を出すつもりはないわ。ただ、どんな行動を取っても後悔だけはしないようにしなさいね。そうしないと、愛ちゃんにも沙耶加さんにも悪いもの』
「……わかってる」
『それならいいのよ』
なんとなくだけど、姉貴はわざと母さんに話したのかもしれない。二進も三進もいかなくなった段階で説明されるより、今のうちに話しておいた方がいろいろ手を打てる。
『あ、それともうひとつ。いつ帰ってくるの?』
「そればっかりは、愛に訊いてみないとわからん」
『そう? じゃあ、わかったらちゃんと連絡するのよ』
「わかった」
『それじゃあ、真琴さんへの連絡も忘れないで』
「了解」
受話器を置く。
「なんだったの?」
いつの間にか、愛までそこにいた。
「俺に電話があって、その相手が連絡ほしいって」
「……それって、誰?」
一瞬、愛の表情が強ばった。
「心配するな。真琴ちゃんだよ」
「真琴ちゃん?」
意外な名前に、愛は首を傾げた。
「なんの用があるのかはわからん。だからとりあえず連絡だけはしてみる」
「そうだね。あの真琴ちゃんが連絡してくるくらいだからね。きっとなにかあったんだよ」
朝食を食べ、比較的常識的な時間に、今度は山本家へ電話した。
昨今、連絡網はなくなってきているが、真琴ちゃんというか、山本家の電話番号は教えてもらっていたから、問題なかった。
番号を押し、数コール。
『はい、山本です』
幸いなことに、電話に出たのは真琴ちゃん本人だった。
「もしもし、真琴ちゃん?」
『あ、先輩。連絡してくれたんですね』
「うん。それで、俺に直接話したいことがあるって」
『あ、はい。そうなんですけど。あの、先輩』
「ん?」
『直接会ってお話しできませんか? 年末でお忙しいとは思うんですけど……』
「ああ、うん、そうだね……」
俺は、じっと電話の様子を見ている愛を見た。
「真琴ちゃん。ちょっとだけ待っててくれるかな?」
『あ、はい』
一度、電話を保留にする。
「愛。今日、少し出てもいいか?」
「出るって、真琴ちゃんに会うため?」
「ああ。直接会って話したいって言うから」
「……ん〜……」
愛は、小さく唸った。
「沙耶加さんは、来ないのよね?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、絶対。じゃなかったら、ダメ」
「……わかったよ」
ワガママな言い分だけど、しょうがない。
保留を解除する。
「もしもし、真琴ちゃん」
『あ、はい』
「会うのは構わないんだけど、真琴ちゃんひとりだよね?」
『はい、そうですけど』
「沙耶加ちゃんは、一緒じゃないよね?」
『お姉ちゃんは、今日はもう出かけていないですから。お姉ちゃんが一緒の方がよかったですか?』
「あ、ううん、そんなことはないよ。ちょっと確認しただけだから」
『はあ、そうですか』
「じゃあ、何時にどこで会おうか?」
『えっと、十一時に駅前広場でどうですか?』
「うん、それでいいよ」
『それじゃあ、よろしくお願いします』
受話器を置くと、早速愛が確認してきた。
「沙耶加さんは、一緒じゃないのよね?」
「ああ。沙耶加ちゃんは今日はもう出かけてるって」
「そっか……」
やっぱり、いくら落ち着いたとはいえ、沙耶加ちゃんの名前が出てくると、まだ不安が顔を覗かせるな。
「十一時に駅前で待ち合わせってことになったから、それにあわせて行くから」
「うん、わかった」
「愛」
と、それまで黙って俺たちのやり取りを聞いていた愛美さんが声を上げた。
「どうせだから、今日は洋一くんを家に帰したら? 洋一くんはいいって言うかもしれないけど、今が年末で、こういう時期は家族が揃ってるのが当然ということをよく考えなさいね」
「…………」
「それに、あなたのことだもの。どうせ大晦日から元旦にかけては、ずっと一緒にいるつもりなんでしょ?」
「うん」
「だったら、なおのこと今日は帰した方がいいわ。それで、明日また改めて、ね?」
愛美さんの意見は、筋が通っていた。
愛も、今の状況を多少心苦しく思っていたらしく、強気に反論できなかった。
「でも……」
ただ、今の愛は、精神的に不安定な状況だ。俺もそれが心配だから一緒にいるんだ。
「愛。なにかあったらすぐに連絡しろ。そしたら、すぐに来るから」
「洋ちゃん……」
「な?」
「……うん」
愛は、小さく頷いた。
「じゃあ、今日はいったん家に帰るから」
「うん」
こうして、俺はいったん家に帰ることになった。
いったん家に帰り、すぐに準備をして出かけた。
幸いなことに、姉貴も美樹もいなかったから特になにもなかった。
とはいえ、今日家に帰れば、絶対に追求されるわけだから、少しも楽観できない。
まあ、そんな暗いことばかり考えていてもしょうがない。今は、真琴ちゃんと会うことだけを考えよう。
駅前に着いたのは、約束の十分前だった。
年末ということもあり、結構人出があった。
あちこちから威勢のいい掛け声が聞こえてきて、こういう雰囲気の中にいると、今年も終わるんだなって思う。
そんなことを考えながら、待ち合わせ場所の駅前広場へ到着した。
このあたりでは待ち合わせのメッカになっている場所だが、真琴ちゃんはすぐに見つかった。
「真琴ちゃん」
「あ、先輩」
薄茶色のダッフルコートに身を包んだ真琴ちゃんは、俺を確かめるとパッと顔を輝かせた。
「すみません、お休みのところを」
「いや、全然構わないよ」
「そう言ってもらえると助かります」
そう言って真琴ちゃんは微笑んだ。
「それで俺に話があるってことだったけど」
「あ、はい。でも、その前にどこかに移動しませんか?」
「そうだね」
俺たちは、少し時間は早かったが、食事も兼ねて近くのファミレスに入った。
適当に注文し、メニューを戻す。
「真琴ちゃん。今日はデザートはよかったの?」
「えっ……?」
「真琴ちゃん、甘いもの好きだから」
「えっと、本当は食べたいんですけど、あまり余裕がなくて」
なるほど、そういうことか。
「じゃあ、俺がおごってあげるよ」
「本当ですか?」
「うん。たまにはそうしないと、カワイイ『妹』に愛想尽かされちゃうかもしれないし」
「ぷぅ、私、そんなことしませんよぉ」
「ははは、それは冗談だけど、たまにはそういうのもいいと思ってね」
まあ、実際は俺も全然余裕はないのだが、実際カワイイ『妹』のためだ。これくらいは安いものと受け止めなくては。
真琴ちゃんは早速メニューを開き、デザートを追加注文した。
「それで、真琴ちゃん。話って?」
俺は、お冷やを飲みながら訊いた。
「あ、はい。いくつかあるんで、順番にでいいですか?」
「うん」
はてさて、真琴ちゃんの話とはいったいなんなんだろうな。
「まずは、これは別にいつでもよかったし、電話でもよかったんですけど、今度、絵を見てほしいんです」
「絵って、新しいの?」
「はい。テストが終わってから描きはじめたので、この冬休み中には描き上がると思います」
「そっか。じゃあ、冬休み明けに完成したら見せてもらおうかな」
「はい、お願いします」
真琴ちゃんの絵か。そういえば、最近は全然見てなかったから、楽しみだな。って、俺も描きかけの絵を完成させなくちゃいけないな。
「次なんですけど、これは電話でもよかったことなんですけど、あの、先輩」
「ん?」
「お正月なんですけど、その、よかったら、一緒に初詣に行きませんか?」
「初詣?」
「はい」
「それは別に構わないけど、どうして俺と?」
「それは……やっぱり『お兄ちゃん』と一緒がいいですから」
少し頬を赤らめ、照れながら言う。
う〜ん、嬉しいことを言ってくれる。
だけど、正月の日程は慎重に決めないと、大変なことになるな。
とりあえず、元旦は愛と過ごすことは確定してるわけで。あとは、うちと森川家か。
二日はさすがに解放されると思うけど、問題はブラコン姉妹だな。和人さんが上手く姉貴を連れ出してくれれば、苦労も半減するんだが。こればかりはわからん。
ん〜、いっそのこと、『妹』ふたりを連れて出た方がいいのかもしれないな。
「真琴ちゃんとしては、いつがいいと思ってるの?」
「えっと、二日か三日が妥当かなって思ってたんですけど」
そうだろうな、普通は。
「じゃあ、とりあえず二日でどうかな。即決定というわけにはいかないけど、とりあえずというところで」
「はい、それは全然構いません」
真琴ちゃんは、首をブンブン振ってから頷いた。
「それと、もしかしたら、おまけがついてくるかもしれないんだけど、いいかな?」
「おまけ、ですか?」
「うん。姉貴はなんとかするつもりだけど、もうひとりワガママ娘がいるから、うちには」
「あ……」
真琴ちゃんも、それが誰のことかわかったらしい。クスクス笑って、頷いた。
「別に構いませんよ。美樹ちゃんなら、一緒にいて楽しそうだし」
「そう言ってくれると助かるよ。まあ、どうなるかはわからないけど」
「そのあたりのことは、元旦に電話で確認、ということでいいですか?」
「そうだね」
さて、俺の方はどうやって姉貴と美樹の注意を逸らすかなんだが。とりあえず、元旦までに考えよう。
「あと、ほかに話は──」
「お待たせしました」
ちょうどそこへ、注文した料理が運ばれてきた。
無駄にフリルのついた制服を着たウェイトレスが、それぞれの前に料理を置く。
それから、食後にコーヒーを持ってくる旨を告げて戻っていった。
「とりあえず、食べようか」
「そうですね」
まだ話はあるのだろうが、まずは腹ごしらえ。
とりとめのない話をしながら、食事をする。
コロコロとよく笑う真琴ちゃんは、本当に見ていて飽きない。それに、カワイイ。
「どうかしましたか?」
「ん、いやね、真琴ちゃんはやっぱりカワイイなって」
「なっ、ななな、なにを言ってるんですか」
飲んでいたお冷やを吹き出しそうになり、真琴ちゃんは顔を真っ赤にして抗議した。
「そんなこと言われると……いろいろ我慢できなくなっちゃいますから」
「そうだね。ごめん。俺が無神経すぎたよ」
「あ、いえ、先輩が悪いわけじゃないんです。ただ、私の中で上手く処理できていないだけですから」
複雑な想い、か。
俺を先輩としても、兄としても、ひとりの男としても好きだと言ってくれた真琴ちゃん。
やっぱり、その想いは今でも複雑なんだろうな。
「……でも、私はまだましだと思います。私よりも、もっとずっと苦しんでる人がいますから」
「それは……」
ああ、そうか。真琴ちゃんが本当に俺に話したかったのは、やっぱり──
「はい、お姉ちゃんです」
沙耶加ちゃんのことだったか。
ウェイトレスが俺の分のコーヒーと真琴ちゃんのデザートを運んできた。
入れ替わりに食器を片づけていく。
「日曜日に、先輩と出かけて、帰ってきてからずっと苦しんでます。先輩、お姉ちゃんとなにがあったんですか?」
真琴ちゃんなら、沙耶加ちゃんの些細な変化にもすぐに気付くだろう。
「お姉ちゃんに訊いても、全然教えてくれないんです。なんでもない、の一点張りで」
そりゃそうだろうな。いくら実の妹でも、彼氏でもない俺とセックスしただなんて、そうそう言えるわけがない。
だけど、ずっと黙っていたら、今度は姉想いの真琴ちゃんの方が参ってしまうだろう。それはそれで、やっぱり問題だ。
だとしたら、話した方がいいんだろうな。
「真琴ちゃんもうすうすは感じてると思うんだけど、俺と沙耶加ちゃんは、単なるクラスメイトじゃなくなったんだ」
「…………」
真琴ちゃんがそっち方面に疎いか聡いかはわからない。それでも、その可能性もあると思っていたようだ。
「それって、お姉ちゃんが先輩に迫ったんですか? それとも──」
「どっちでもないよ。強いて言えば、お互いにお互いを求めていた、という感じかな」
あれからもう四日経っている。もちろん、俺の中でも完全に答えが出たわけじゃない。それでも、落ち着いて話せるくらいにはなっている。
「……私にはわかりません。お姉ちゃんと先輩は、恋人同士じゃないんですよね。なのに、どうしてそんなことできるんですか?」
「それには、こうとしか答えられない。人を好きになるって、理屈じゃない。そして、相手を求めてしまうこともね」
「…………」
「納得、できないかい?」
「はい」
普通はそうだろう。それを簡単に納得できてしまうようでは、それはそれで心配だ。
「俺だってね、自分がその立場に立つまではあり得ないって思ってた。でも、実際そういう立場に立つと、本当に理屈だけじゃ説明できないことが多々あるんだ」
「でも……でも、そのせいでお姉ちゃんは苦しんでるんです。理屈じゃないから。それはそれでわかりました。でも、だったらどうしてお姉ちゃんは苦しんでいるんですか?」
それを言われると、俺にはなにも言えない。
苦しむ原因を作り出したのは、間違いなくこの俺なのだから。
「……たぶん、私にはどれだけ考えてもわからないことなんでしょうね。このことは、当事者であるお姉ちゃんと先輩、そして、森川先輩にしかわからないこと」
「真琴ちゃん……」
「それでも私は、お姉ちゃんの苦しんでる姿を見たくないんです。だから、なんとかしたいんです」
真琴ちゃんは、本当に沙耶加ちゃんのことが好きなんだな。これだけ純粋に相手のことを想えるなんて、ある意味羨ましいことだ。
「だから、だから……」
だけど、実際なにをどうしたら沙耶加ちゃんが苦しみから解放されるかは、わからない。俺だって沙耶加ちゃんを苦しめるのは本意ではない。でも、現状ではベターな解決策は出ていないのだ。
「……すみません。この問題は先輩だけを責めちゃいけない問題なんですよね。だって、そういうことをするのには、やっぱりお互いの合意が必要だと思いますから。そうすると、お姉ちゃんにも同じことを言わなくちゃいけないです」
そう言って真琴ちゃんは、泣き笑いの表情を浮かべた。
「先輩」
「ん?」
「もし、ですよ。もし、私が先輩に、その、抱いてほしい、って言ったら、抱いてくれますか?」
「今は無理だね」
「そう、ですか……」
「でもね、それはあくまでも『今』だから。そう言われた時に、お互いがどういう立場にあって、お互いのことをどう思っているかで、ひょっとしたら抱けるかもしれない」
って、俺はなにを言ってるんだ。そんなこと言ったら、俺は真琴ちゃんを抱きたいって言ってるようなものじゃないか。
そりゃ、真琴ちゃんみたいに魅力的な女の子を抱きたくないと思う方がおかしいが。それに、真琴ちゃんはあの沙耶加ちゃんの妹だ。今はまだ幼さが先行してるけど、将来は間違いなく美人になる。
って、そうじゃない。そんなことばかり言ってると、マジで節操なしになる。
「あ、ごめん。今はそこまで言う必要なかったね」
「いえ、そう言ってもらえて、嬉しいですから」
真琴ちゃんは、そう言って薄く微笑んだ。
ああ、そうか。真琴ちゃんも俺のことが『好き』だから。
「あの、先輩。そろそろ出ましょうか」
と、真琴ちゃんがそう言い出した。
確かに、いつまでもファミレスで今みたいな話を続けるわけにもいかない。
「そうだね。行こうか」
「はい」
ファミレスを出た途端、結構な寒さに思わず身震いしてしまった。
「先輩。あの……」
「ん、どうかした?」
「えっと……」
真琴ちゃんは、少し俯き、なにか言おうとしてる。
「その、あ、やっぱりいいです」
「別になにを言っても怒らないよ。言ってごらん」
「……じゃあ、えと、手を──」
「手?」
「繋いでも、いいですか……?」
探るような眼差しで俺を見る。
なるほど、そう来たか。
真琴ちゃんも本当は美樹に負けず劣らず甘えん坊なんだろうな、本当は。すべての妹がそうだとは思わないけど、少なくとも俺の側にいるふたりはそうだ。
「いいよ。はい」
別に減るもんじゃないし、断る理由もない。それに、見られて困ることもない。
真琴ちゃんは、遠慮がちに俺の手を握った。
「これからどうしようか。話、まだ続けるでしょ?」
「あ、はい」
俺たちは、あまり人気のない場所を探して歩いた。
冬なので外なら人のいないところはあるのだが、ずっと外にいると寒い。だから、できればどこか建物の中がよかった。
だけど、そういう場所はなかなかない。
で、結局陽当たりのいい公園になった。
途中で缶コーヒーを買って、それをカイロ代わりに持っている。
「先輩は、これからどうしようと思ってるんですか?」
「それは、まだ答えが見つかってないんだ。愛と別れるつもりは毛頭ないし、だからって沙耶加ちゃんを放っておくこともできない。だけど、それを選択してしまえば、愛も沙耶加ちゃんも思い悩み、苦しむ。だから、まだ答えが見つかってないんだ」
ふたりが百パーセント納得できる答えなど、それこそ中東かどこかに行かない限りない。ここは日本で、結婚は一対一しか認められていないのだから。
「……先輩は、優しすぎるんですよ。本当はお姉ちゃんにそこまでしなくてもよかったんです。お姉ちゃんは、先輩の恋人ではないんですから」
「そうかもね」
「……でも、そんなお姉ちゃんをも受け入れてしまえるのも、やっぱり先輩だからなんですよね。じゃなかったら、お姉ちゃんはもっと早くに先輩のことを吹っ切ってたと思いますから」
真琴ちゃんの中でも、少し整理ができたのかもしれない。ファミレスの時よりも落ち着いて話せている。
「そういえば、お姉ちゃんて森川先輩と直接話してるんですか?」
「いや、あの日からはまだだね」
「じゃあ、お姉ちゃんと森川先輩は、ちゃんと話す必要がありますね」
「えっ、でも、それは……」
「森川先輩にとってはつらいかもしれません。でも、ふたりがちゃんと話さない限り、前には進めないと思います」
確かにそうかもしれない。俺と愛、俺と沙耶加ちゃんが話しても、愛と沙耶加ちゃんが話さない限り、最終的な解決策は出てこない。
「だから先輩。どこかでふたりが話せる場を設けた方がいいと思いますよ」
「……そうだね。近いうちにそうするよ」
「はい」
とりあえず、今の俺たちにできることはここまでだろう。本当は、俺が愛を選んでしまえばそれで終わりなのだが、今の沙耶加ちゃんをそのままにはしておけない。
「はあ……」
「疲れた?」
「あ、いえ、そんなことはないです」
「それならいいけど」
「……でも、少しだけ、こうしていてもいいですか?」
そう言って真琴ちゃんは、俺に寄りかかってきた。
「いいよ」
俺は、真琴ちゃんの肩をそっと抱いた。
風は冷たいけど、陽差しは暖かかった。
「……先輩」
「ん?」
「さっきは、本当に嬉しかったです」
「さっき?」
「はい。私を抱く、抱かないの話です」
「ああ……」
まさかその話を続けられるとは思わなかった。
「私、お姉ちゃんに比べてこんなじゃないですか」
そう言って、自分の胸を触る。
「それに、童顔だっていうのも自覚してますから」
今はまだ、というのが抜けてるな。
「だから、先輩にそういう対象として見られていないと思ってました」
ああ、激しく勘違いしてる。
「真琴ちゃんは、勘違いしてるよ」
「勘違い、ですか?」
「別に俺は、真琴ちゃんをそういう対象として見てなかったわけじゃない。もちろん、極力そういう風に見ないようにはしてたけどね。だってほら、真琴ちゃんは『妹』だから」
「…………」
「でもね、それでも真琴ちゃんは魅力的な女の子だから。どうしてもそんな風に見てしまうこともあったよ」
ふとした瞬間に、真琴ちゃんが誰よりも魅力的に見えることがある。そういう時は、本当に押し倒して自分だけのものにしたくなる。
「それに、胸はこれから大きくなるし、童顔だって言うけど、それもこれからちゃんと変わっていくから。こういう言われ方は不本意かもしれないけど、真琴ちゃんはあの沙耶加ちゃんの妹なんだから」
「……本当に、そう思いますか?」
「もちろん」
「……ふう」
と、真琴ちゃんは小さく息を吐き出した。
「私、お姉ちゃんと森川先輩に嫉妬してます」
「は……?」
「だって、こんなに先輩は優しいのに、その想いは私じゃなく、お姉ちゃんと森川先輩に向けられているからです」
「真琴ちゃん……」
どうして俺のまわりには、こんなに健気で放っておけない子ばかりいるんだろう。
本当に、恨めしく思う。
「真琴ちゃん」
「え、あ……」
俺は、そのまま真琴ちゃんを抱きしめた。
「せ、先輩……」
「俺は、真琴ちゃんのことも、好きだから」
そして──
「ん……」
真琴ちゃんにキスをした。
真琴ちゃんは、一瞬なにをされたのか理解できず、呆けていたが、それを理解すると耳まで真っ赤にして、俯いてしまった。
そんな真琴ちゃんがやっぱり可愛くて、ギュッと抱きしめてしまう。
「……先輩って──」
「ん?」
「手が早いんですね」
不本意な言われ方だった。でも、真っ正面から否定もできなかった。
「……私のファーストキス、奪われちゃいました」
そう言って微笑む。
「だから先輩、ちゃんと責任取ってくださいね」
「責任?」
「はい。先輩が卒業するまで、ずっと、私の大好きな『お兄ちゃん』でいてください。じゃないと、キスされたこと、森川先輩やお姉ちゃんに言っちゃいますから」
「そ、それは勘弁してほしいな……」
その脅し方は、なかなかきつい。
だけど、それくらいの責任なら、苦もなく取ってあげられる。
「わかった。ちゃんと責任は取るよ。でもね、俺は結構バカだから、それがいつまでなのか、忘れちゃうかもしれないよ」
「えっ、それは……」
「だから、もし忘れて、俺が卒業しても真琴ちゃんを『妹』だと思ってたら、ちゃんと言ってほしいんだ」
「先輩……」
「それでいいかな?」
「はい、十分です」
本当は沙耶加ちゃんのことを話すために会った俺たちだけど、でも、これはこれでよかったのかもしれない。
真琴ちゃんとだって、どこかで今日みたいなやり取りをしなくちゃいけなかっただろうし。
それに、真琴ちゃんの心からの笑顔が見られたのだ。本当によしとしないと。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「はい」
俺たちは、自然な流れで手を繋ぎ、公園をあとにした。
三
真琴ちゃんとは駅前で別れたのだが、最後はもう完全に『恋人』のそれだった。
俺がそう焚きつけてしまったのだけど、ここまでになるとは思わなかった。最後なんか、真琴ちゃんの方からキスをねだってきたくらいだ。まあ、カワイイ真琴ちゃんの頼みだから、当然断らなかったけど。
なんとなく、今日の真琴ちゃんといい、この前の由美子さんといい、どうも俺は自らの首を絞めているような気がしてならない。
そんなことを考えつつ家に帰ると、また予想外の展開が待っていた。
「あ、洋一。愛ちゃんから電話があったわよ」
「愛から?」
「ええ。それで、帰ってきたらこっちに来てくれるように言ってくれって」
まさか本当になにか起こるとは思っていなかったから、電話がかかってくるとは思ってなかった。
俺は、とりあえず回れ右して森川家に向かった。
森川家に着くと、早速インターフォンを鳴らす。
『はい』
声は、愛美さんの声だった。
「あ、洋一です」
『あら、洋一くん? ちょっと待ってね』
少しして、玄関が開いた。
「どうしたの? 確か、いったん帰ったと思ったけど」
「ええ、そのはずだったんですけど、愛に呼び出されたもので」
「愛に? ははあ、なるほどね」
「?」
どうやら愛美さんにはどうして愛が俺を呼んだのかわかったようだ。
「とりあえず、上がって」
「あ、はい」
ここ数日ですっかり慣れてしまった玄関に入る。
と、その玄関に、見慣れぬ靴があった。
女物のようだ。
俺も愛や愛美さんの持ってるすべての靴を把握してるわけじゃない。だから、それがどちらかのものという可能性はあった。だけど、俺にはどうしてもそれは別の誰かの靴だと思えた。
「あの、誰か来てるんですか?」
「ええ。愛にお客さん」
「愛に?」
愛も交友関係は広いから、女友達が遊びに来てもおかしくはない。ただ、こんな年も押し迫った頃に来るだろうか。
愛美さんは、俺をリビングに通してくれた。
「ごめんね。愛の方から呼び出しておいて、すぐに会えなくて」
「いえ、それは構いませんけど」
「もうそろそろ終わると思うんだけどね」
そう言って愛美さんは、二階を見た。
いったい、誰が愛のところに来てるんだろう。
知りたいという欲求は募るが、俺になんの関係もない相手だったら気まずいから、訊くに訊けない状況だった。
そんな俺の前に、お茶が置かれた。
「あ、すみません」
お茶を持ってきてくれたのは、なんと孝輔さんだった。
「いやいや、気にしなくていいよ」
ふむ、どうやら愛美さんにいいように使われてるらしい。
「洋一くんも大変ね。せっかく家に帰れたと思ったのに、またすぐに呼ばれて」
「まあ、相手が愛ならそれもしょうがないかな、と」
「ふふっ、愛のこと、ちゃんとわかってくれてるのね」
ま、伊達や酔狂で幼なじみをやってるわけじゃない。
「本当に洋一くんくらいしか、うちの愛を操縦できないわね。もし愛が洋一くんに捨てられたら、たぶん、一生独り身ね」
「…………」
なんか、微妙に威圧感のある言い方だ。
「ふふっ、たまには真剣に考える必要があるのよ」
ああ、本当に愛美さんは苦手だ。
愛美さんの後ろで、孝輔さんが申し訳なさそうにしてるし。
それからしばらく、俺は愛美さんにいいように遊ばれた。
ただ、その遊び方も昨日までとは少し違っていた。なぜ違うのかはわからなかった。
「どうやら終わったみたいね」
二階から音が聞こえてきた。
足音がふたり分、下りてくる。
そして、俺は驚いた。
「えっ……沙耶加ちゃん……?」
「洋一さん……」
愛と一緒にいたのは、沙耶加ちゃんだった。
確か沙耶加ちゃんは出かけていて、それで俺は真琴ちゃんと会って──
「洋ちゃん。ちょっと私たちにつきあってくれる?」
愛は、にこりともせず俺にそう言った。
「あ、ああ……」
俺は、言われるままふたりについていった。
どこへ行くのかと思えば、森川家からそう離れていないところにある児童公園だった。
冬のそろそろ夕方という時間である。当然、誰もいない。
愛は、ブランコに座り、沙耶加ちゃんは、その隣のブランコに座り、必然的に俺はふたりの正面にいることになった。
衝突防止用の柵に座る。
「今日ね、洋ちゃんが帰ってしばらくした頃だったかな。突然やって来たの」
幾分言葉が硬い。
「ここ数日、ずっと考えていたんです。私はこれからどうすればいいのか、と。でも、いくら考えても最善の答えは出てきませんでした。それは、ある意味当然でした。この問題は私ひとりの問題ではありません。なのに、私ひとりがいくら考えても、答えなど出てくるはずがなかったんです」
沙耶加ちゃんもその考えに至ったわけか。
「だったら、話さなくちゃいけないと思いました。洋一さんとはあの日、ある程度話していましたから、あとは愛さんと」
「で、私のところに来て、さっきまで話してたの」
「そっか……」
「そこでどんなことを話したのかは、いくら洋ちゃんでも話せないから」
「いいよ、それで」
ふたりの話を俺が聞いても、あまり意味がないだろう。もちろん、原因は俺なのだからまったく無意味ということはないが、それでも今日の話はあくまでも沙耶加ちゃんが愛に対して、愛が沙耶加ちゃんに対して言いたいことを言った、と考えるのが妥当だろうから。
ふたりの表情が晴れていないところを見れば、問題が解決していないことなどすぐわかる。
「私はね、洋ちゃんが誰とセックスしようが、絶対に洋ちゃんから離れない。私には最初から洋ちゃんしかいないんだから」
それは愛の決意だ。
「でもね、それでもね、私は本気の想いを否定できるほど偉くないの」
右手で顔の右半分を覆い、絞り出すように言う。
「だって、沙耶加さん、本気なんだもん。遊びじゃない。それこそ、想いの強さだけで言ったら、私にも負けてないくらいにね。沙耶加さんを許すことはできないけど、それでも私は、沙耶加さんを排除することもできない」
相反する想い、か。
「だからね、私、もう少しだけ様子を見ることにしたから」
「様子を?」
「うん。とりあえず二年生が終わるまで。それまでに沙耶加さんの洋ちゃんへの想いがどうなっているか。もし今と変わらない、もしくは強くなっていたら、またその時にどうするか決める。で、万が一弱くなっていたら、遠慮なく排除するから」
たぶん、それが愛にとっての最大限の譲歩なんだろうな。簡単に認めるわけにはいかないけど、認めざるを得ないところがある。だから、もう少し時間をかけて結論を出そうと。
「これは、沙耶加さんも同意したことだから」
「はい」
「なら、俺に文句はない」
「そうじゃないの。洋ちゃんにはね、ひとつだけやってほしいことがあるの」
「やってほしいこと?」
「うん」
俺にやるべきことなんてなにもないと思うのだが。
「私も沙耶加さんも、同じように扱ってほしいの」
「は……?」
「だから、私も沙耶加さんも同じように扱ってほしいの。普段もそうだし、ふたりきりの時もそう。もちろん、セックスの時もね」
「でも、おまえ、それは……」
「イヤだよ、本当は。洋ちゃんは私だけの洋ちゃんだもん。私だけに愛をささやいてほしいし、私以外の誰も抱いてほしくない。でもね、同じ条件にしないと、意味がないの。そうしないと、沙耶加さんの心の強さがわからないもの」
「心の強さ……」
「そう。いくら洋ちゃんが沙耶加さんのことを『恋人』のように扱ったとしても、それは所詮かりそめのもの。だってそうでしょ? 洋ちゃんの恋人は、私なんだから」
ああ、そうか。だから心の強さなのか。
だけど、それはある意味ものすごくつらいことだ。今日までの心の葛藤など比べものにならないくらいの葛藤があるはずだ。
それを受けたということは、沙耶加ちゃんも相当の覚悟をしてるということだ。
「それ、やってくれる?」
やらないわけにはいかないだろう。愛も、沙耶加ちゃんもそこまで覚悟を決めているんだから。
「わかった。やろう」
「うん、ありがと」
これで、舞台は整ったわけか。
「じゃあ、洋ちゃん。私、先に帰るから」
「ん、ああ」
「夜に、電話するから」
愛は、沙耶加ちゃんに一瞥をくれて、帰って行った。
「沙耶加ちゃん──」
「……私、どうしてもあきらめきれなかったんです」
沙耶加ちゃんは、そう言って空を見上げた。
「本当は、洋一さんのことをあきらめようかとも思ったんです。それが一番丸く収まる方法ですから。でも、どうしてもそれだけはできませんでした。私にとって洋一さんは、もうなくてはならない存在ですから。洋一さんのいない生活など、生活するに値しないものです。それこそ、極端に言えば、死んでるのと同じですから」
沙耶加ちゃんも、そこまで思い詰めてたのか。
「だから、愛さんに言いました。私、絶対にあきらめませんから、って。当然愛さんは怒りました。それでも、いろいろ話をして、最終的にはさっきのことに落ち着いたんです」
「そっか、そんなことが」
「洋一さん」
「ん?」
「お願いします。強く、抱きしめてください」
俺は、言われるまま沙耶加ちゃんを抱きしめた。
「……正直に言えば、私にそこまでの心の強さがあるとは思えません。でも、洋一さんへの想いは、愛さんにも負けてないと思ってます。私は、そのわずかな可能性に賭けてみようと思ったんです。もし二年生が終わるまで今の想いを持ち続けられたなら、改めて洋一さんに告白して、愛さんに宣戦布告します」
本当に沙耶加ちゃんはすごい。
俺がもし同じ状況にあったら、間違いなく身を引いてる。
それを彼女はさらなるエネルギーに変えようとしてる。本当にすごい。
「これは勝負じゃありませんから、応援してくれとは言えません。でも、ずっと見ていてください。私、単純ですから、それだけで結構がんばれると思うんです」
「わかったよ」
「ありがとうございます」
沙耶加ちゃんは、笑顔でそう言った。