恋愛行進曲
 
第十一章 大切なこと、大切なもの(中編)
 
 一
 十二月になった。
 今年もあと一ヶ月で終わりだ。
 今年は本当にいろいろあったが、まあ、そういう回顧は大晦日にすることにしよう。
 十二月に入ったからというわけではないが、世の中というか、まわりがずいぶんと慌ただしくなった。
 まず、家の方では父さんが出張から帰ってきて、比較的家にいるようになった。とはいえ、それも比較的だ。日本にいても仕事が減るわけでもないから、忙しさは変わっていない。
 それでも母さんは、父さんが側にいてくれて嬉しそうだ。同じように仕事が忙しくても、日本にいるのといないのとでは全然違う。基本的に父さんと母さんは未だに仲が良い。というか、息子の俺から見ても『アツアツ』だと思う。だから、母さんが嬉しそうなのも当然なのだ。
 姉貴は相変わらずかと思いきや、大学二年ということでそろそろ就職活動の話が出てきてる。姉貴自身はまだどうでもいいと思ってるみたいだけど、まわりがそうさせてくれない。だから、大学の講義を受けつつ、就職活動の準備もはじめている。
 もっとも、なんでもそつなくこなせる姉貴にとっては、そんなことは所詮『どうでもいいこと』なのかもしれない。今の姉貴にとっては、それよりもなによりも優先したいことがあるのだから。
 それはもちろん、和人さんのことだ。ふたりの関係はかなり良好だ。姉貴は和人さんにベタ惚れだし、和人さんも姉貴のことを大事にしてくれてる。ま、このふたりのことは今更なのだが。
 美樹は特になにもない。いや、それは正確ではないな。中学生だから大きなことはなにもないというだけで、なにもなかったわけではない。もっとも、それをいちいち述べる必要もないのだが。
 美樹にとって重要なのは、如何にして俺の気を惹くか、ということだ。自分で言うのもなんだが、なかなか積極的だ。ただ、俺の中では美樹に対する接し方を変えなくてはいけないという想いが強いために、それを正面から受け止めていない。時折淋しそうな顔を見せるのだが、その時はものすごい罪悪感にさいなまれる。だけど、それを乗り越えない限り、今の状況は変わらない。
 次に学校の方だ。
 学校ではとにかく先生たちが忙しい。十二月だから忙しいというわけではないのだが、時期だから忙しいのだ。十二月は冬休みもあるし、年が明けると三年は受験本番だ。その準備が最終段階を迎えるから、忙しい。
 俺に近しい先生といえば、優美先生に由美子先生、それと雅先だ。
 優美先生と雅先は、微妙にその関係が進展してる気がする。前に優美先生に言われたように、長い目で見守るということで特になにかしたり、言ったりはしていない。だから詳細はわからんが、見た目、いい感じだと思う。まあ、相変わらず雅先はあたふたしてるけど。とにかく、このふたりはこれからも長い目で見守る必要がありそうだ。
 由美子先生は、実は一番相変わらずかもしれない。保健室に行っても相変わらずだ。まあ、十二月だからって保健室が活気づくわけじゃないし。
 ただ、時折せつなげな表情を見ることがある。その姿が色っぽくて、なんて不謹慎なことは思っていても口にはできない。そういう表情をさせているのが俺だという自覚があるから、当然だ。
 自惚れているわけじゃないけど、由美子先生は今でも俺のことをほかの連中とは違う目で見ている。俺はその想いには応えられないけど、なにかできることはあるんじゃないかと、たまに保健室を訪れては話し相手になっている。先生との話は純粋に楽しいから、まだしばらく続くだろうな。
 亮介は相変わらずだ。あいつの頭の中は年がら年中春だからしょうがない。特に彼女ができてからはそれに輪をかけてだから。とはいえ、一時期に比べて多少おとなしくなったのも事実だ。精神的なものだとは思うけど、俺に害がないからその方がいい。
 真琴ちゃんは、最近絵以外のことにだいぶ興味があるようだ。具体的にこれというものはないが、とりあえずは手当たり次第、という感じ。そこから最も興味を持ったものを、絵と同じように追求していくんだろうな。
 それでも絵の方はちゃんとやっている。最近は寒くなったから屋上ではなかなか一緒に描けないけど、折を見てお互いの絵を批評している。
 真琴ちゃんとの関係は、たぶん、これからもこんな感じなんだろうな。
 そして、愛と沙耶加ちゃんなんだが──
 
 十二月には重要なイベントが目白押しだ。
 クリスマス、冬休み、大晦日。
 どれもこれも後半に固まっているのだが、結局は授業とテストを乗り切らないと意味がないのだ。
 その中で特に重要なのが、クリスマスだ。
 学校でも最近はクリスマスの話題が席巻している。
 彼氏、彼女がいる連中は、どうやってクリスマスを過ごすか、あれこれ考えている。まあ、たいていの連中は頭の中がピンクだろうけど。
 一方、彼氏、彼女がいない連中は、やはりどうやってクリスマスを過ごすか考えている。が、その方向性が違う。ある者は彼氏、彼女をゲットするため、ある者はあきらめて、ある者はクリスマスなど無関心に。
 いろいろあるけど、とりあえずクリスマスが話題の中心にあるのは間違いない。
 それは、このふたりも同じだ。
「ん〜、クリスマスまであと三週間、かぁ」
「そうですね」
 愛と沙耶加ちゃんは、ふたり揃ってクリスマス特集の情報誌を見ている。
「でも、どうしてキリスト教を信じてない日本人がクリスマスを祝うのかな?」
「それはたぶん、日本人がお祭り好きだからだと思いますけど」
「確かに日本人はお祭り好きだけど」
「結局は口実がほしいだけなんだと思います」
「かもね」
 このふたり、俺とのことを除けば実に仲が良い。
 まさに『親友』という感じだ。
「あとは、いろんな企業の策略かしらね。ほら、バレンタインと同じに」
「確かにそういう見方もできますね。そうすると、クリスマスに対する見方も変わりますね」
「うん」
 楽しそうに話はしているが、微妙にこっちに視線を感じる。
「はあ……」
 思わずため息が出た。
 端から見れば『両手に花』とか見えるのだろうけど、そんなのは実際そう言われる立場にいると、いいものでもなんでもない。
「とはいえ、結局は理屈じゃないのよね。クリスマス=聖なる日、だからいろいろ期待しちゃう」
 そう言いつつ、その視線はしっかりと俺の方を向いている。
 もちろん沙耶加ちゃんもそれに気付いているのだが、なにも言わない。
「去年まではどんなクリスマスを過ごしてたの?」
「特にこれといったことはなかったです。学校がキリスト教系だったので、クリスマス礼拝があったくらいですね」
「ふ〜ん」
「愛さんはどうだったのですか?」
「私? 私も特には。友達とわいわいやったり、家族だけで過ごしたり。クリスマスという名前の日を、普通に過ごしていた。そんな感じかな」
「そうですか」
 わずかな沈黙。
 ああ、なんでふたりがどんなことを考えてるのかわかるんだろう。
「はあ……」
 ホント、ため息しか出ないな。
 
 放課後。
 ホームルームが終わり、カバンに荷物を詰め込んでいると──
「あのぉ……」
 どこかで聞いたことのある声が耳に飛び込んできた。
 顔を上げると、ドアのところに──
「真琴ちゃん?」
「真琴?」
 俺と沙耶加ちゃんが同時に反応していた。
 真琴ちゃんは、俺と沙耶加ちゃんを見つけ、教室の中へと入ってくる。
 どっちが目的なのはわからんが。
「どうしたの、真琴?」
 まずは沙耶加ちゃんが真琴ちゃんに訊ねた。
「ああ、うん、お姉ちゃんにも用はあるんだけど──」
 言いながら、俺の方を見る。どうやら用事の主目的は俺らしい。
「先輩。今日、時間ありますか?」
「時間? あるけど、なにかあるの?」
「はい」
 真琴ちゃんは大きく頷いた。
「っと、その前に、お姉ちゃん」
「うん?」
「お母さんからの伝言。用事があって帰りが遅くなるから、夕飯の準備よろしくね。だって」
「私が出る時にはそんな話聞いてないけど」
「うん。お姉ちゃんが出てすぐあとかな。電話があって、それでそういうことになったの。私は単なるメッセンジャーだから」
「……はあ、わかったわ」
 沙耶加ちゃんは小さくため息をつき、頷いた。
「それじゃあ、先輩。行きましょう」
「ああ」
 俺は愛に、真琴ちゃんは沙耶加ちゃんにひと言言って教室を出た。
 愛も沙耶加ちゃんも、相手が真琴ちゃんだからなのか、特になにも言わなかった。
「それで、どこへ向かってるわけ?」
「駅前です」
「駅前?」
 確かに真琴ちゃんの足は、昇降口へ向かってる。
「先輩に画材を見立ててもらいたいんです」
「画材、かぁ」
 なるほど。画材屋自体は商店街にもあるのだが、如何せん品揃えが悪い。ちょっとしたものなら事足りるのだが、ちゃんとしたのを揃えようと思ったら、やっぱり駅前の大きな画材屋に行くしかない。
「ほしいのがいろいろあって、結局自分で決められそうにないんです。そこで先輩に見立ててもらえれば、一石二鳥かなぁ、なんて」
 なにとなにをもって『一石二鳥』と言ってるのかはわからない。それでも、そういう風に頼られるのは嬉しい。
「ダメ、ですか?」
「いや、そんなことないよ。俺の方もほしいものもあるし。でも、駅前はなんかのついでがない限り行かないから。今日はちょうどいいかも」
「本当ですか?」
 俺を強引に誘ったことに少し後ろめたいところがあったのか、それを聞いてホッとしたようだ。
 学校を出ると、俺たちは真っ直ぐ駅前へ向かった。
 うちの高校で電車通学してる連中と同じ道で、同じように駅に向かう。
「そういえば、真琴ちゃんは沙耶加ちゃんとは一緒に学校へ来ないの?」
「えっ? ああ、さっきのことですか?」
「うん」
「そうですね、あまり一緒ではないです。基本的にはお姉ちゃんの方が早くに出ますから。私は、朝はちょっと弱いので、どうしても遅くなるんです」
「なるほどね」
 沙耶加ちゃんは結構早く学校に来るからな。それにあわせるのはなかなか大変かもしれない。
「でも、できれば一緒に来たいんです。私、あまりお姉ちゃんと一緒に学校へ行ったことないですから」
「そっか。違う学校だったからね」
「はい」
 ひとつしか違わないのだから、本当だったら一緒に通う機会はたくさんあったはずだ。でも、学校が違えば登校時間も変わってくる。
 まあ、うちみたいに全然違うのに一緒に行こうとする妹もいるけど。
「それじゃあ、がんばって早起きしないと」
「あ、あはは、努力します」
 多少ゆっくり目に歩いて、駅前までやって来た。
 平日の午後。そろそろ夕方という時間帯だ。駅前には制服姿の高校生や、買い物袋を提げた主婦の姿が多く見られる。
 学校帰りに駅前に来る時はいつもこの時間帯なので、特に珍しい光景でもない。
 俺たちは寄り道せず、目的の画材屋へ。
 どこの画材屋でもそうだが、画材屋が混んでいることなど、まずない。
 実際、お客の数は両手でかろうじて数えられるくらいだった。
「まずはなにを?」
「えっと、筆です」
 絵画用の筆は、実に種類が多い。
 持ち手の材質、毛の材質、長さ、太さはもちろんのこと、どんな絵を描くかによっても種類が分かれる。
 俺も真琴ちゃんも基本的には水彩画なので、筆もそのあたりから選ぶ。
「はあ、やっぱり高いのはいいですね」
 真琴ちゃんは、その店で一番高い筆を手に取り、うっとりと呟く。
 伊達や酔狂で高いわけではない。使ったことはないが、きっと描き心地もいいのだろう。
「そのうちこういうので描いてみたいですね」
「同感」
 その筆を元に戻し、手頃な筆を見る。
「ん〜、どれがいいですかねぇ」
「そうだね……たとえば──」
 それからしばらく、俺たちは筆談義をした。
 俺も真琴ちゃんも道具にそれほど執着するタイプではない。結局は道具は道具でしかないと思っているからだ。ただ、それでもいろいろこだわりは持っている。だから、こういう時にはついつい語ってしまうのだ。
 筆の次は、パレット、キャンバス、絵の具、色鉛筆……
 それこそ店を縦横無尽に見てまわる。
 で、結局真琴ちゃんは、筆を一本と鉛筆と絵の具を少々買った。俺も意見は述べたが、それが役に立ったかどうかはわからない。ちなみに、俺も少しだけ買い物をした。
「いい買い物ができました」
 それでも真琴ちゃんは満足そうだった。
「先輩」
「ん?」
「もう少しだけつきあってもらってもいいですか?」
「いいけど」
 画材屋の次に連れて行かれたのは──
「いらっしゃいませ」
 最近話題のケーキ屋だった。
 確か、テレビや雑誌にも登場したくらいの有名店で、姉貴や美樹も行ってみたいと言っていた。
 店は、四分の一が販売、残りが喫茶スペースとなっていた。その喫茶スペースには学校帰りの高校生や主婦の姿が多い。
 俺のような男は、ほとんどいない。
 居づらい空間ではあるが、一度OKしたのだから最後までつきあわなくては。
「ご注文はお決まりですか?」
 黒のワンピースに白のエプロン姿のウェイトレスが、注文を取りに来る。
「えっと、フランボワーズのタルトを紅茶セットで」
「モンブランを同じく紅茶セットで」
「フランボワーズのタルトとモンブランをそれぞれ紅茶セットでよろしいですか?」
「はい」
「かしこまいりました。少々お待ちください」
 ウェイトレスが行ってしまうと、真琴ちゃんがクスクスと笑った。
「ん?」
「先輩、あまりキョロキョロしない方がいいですよ?」
「そんなこと言っても、この空間はねぇ……」
「気にしなければいいんですよ。別に男の人がケーキを食べちゃいけないなんてことないんですから」
「それはそうだけど」
「だったら、私とデートということで、まわりを気にしないというのはどうですか?」
「真琴ちゃんとデート?」
「はい」
 なかなかな申し出だが、それだけでまわりを気にしなくなるかといえば、そうではない。ただ、ここで駄々をこねてもしょうがない。
「じゃあ、そういうことにしようか」
「はいっ」
 真琴ちゃんとデートか。まあ、それはそれでいいのかもな。
 しばらくしてケーキが運ばれてきた。
「ここのケーキ、本当に美味しいんですよ」
「食べたことあるの?」
「はい。以前、お母さんが買ってきたんです。それでものすごく美味しくてまた食べたいなって思ってはいたんですけど、ひとりだとなかなか行きづらくて」
「なるほど」
 買って帰るには資金が必要。ひとりで食べるなら店でということになるが、いくら女の子とはいえ、ひとりだけで食べるのは淋しいものがある。
「あれ、でも、沙耶加ちゃんと一緒に来ればよかったんじゃないの?」
「ん〜、それはそうなんですけど、でも、やっぱり姉妹でというよりも、先輩と一緒の方が嬉しいですから」
 カワイイことを言ってくれる。
「それに、お姉ちゃんと一緒だといろいろ言われますから」
「たとえば?」
「そうですね、たとえばこのケーキを全部食べてもまだ食べたいと思ったとします」
「うん」
「これがお姉ちゃんと一緒だったら、たぶん、やめておきなさいって言われるはずです」
「それが俺と一緒なら、やめろとは言わない、と」
「……言いませんよね?」
「さあ、どうしようかな?」
「ああんもう、先輩〜」
 こういうやり取りをしていると、俺と真琴ちゃんの関係は単なる先輩後輩というより、やはり『兄妹』という感じがする。
 俺には美樹がいる分、こういうやり取りには慣れている。ごくまれに戸惑うことはあるけど、たいていは予想の範囲内だ。
 そうこうしているうちに、真琴ちゃんはケーキを食べきってしまった。
「…………」
 ちらちらとメニューと俺の顔を伺う。
「食べたければ食べていいよ。もちろん、そのあたりは自己責任ということで」
「うっ……」
 真琴ちゃんは、財布を覗き、考え込んだ。
 ここのケーキは決して高いわけではないが、ついさっき画材を買ったばかりの真琴ちゃんにとっては、なかなかつらい状況だ。
 これが美樹なら、俺にねだってくるんだろうけど、真琴ちゃんならそこまでのことはしてこない。そこはやはり『他人』だから。
「……えっと、先輩」
「ん?」
「おごってくれとは言いません」
「うん」
「だから、半分こしませんか?」
「…………」
 なるほど、そうきたか。
 まあ、カワイイ『妹』のためだ。
「いいよ」
「ホントですか?」
「うん」
 真琴ちゃんは嬉しそうにケーキを選びはじめた。
 俺としては、そういう姿を見られるだけで嬉しいのだが、とりあえずそれは言わないでおく。
 新たに選んだケーキは、チョコレートケーキだった。
 飴細工がケーキの上に載り、見た目には洗練されたケーキだった。
「先輩。お先にどうぞ」
 運ばれてきたケーキを、まずは俺の方に寄せる。
「じゃあ……」
 ここで食べなければ真琴ちゃんも食べにくいだろうから、一口だけもらおう。
 フォークで一かけ取り、口に運ぶ。
「うん、美味しいね」
 上品な味に仕上がっている。甘すぎず、苦すぎず。
「あとは真琴ちゃんが食べていいよ」
「えっ、いいんですか?」
「うん。俺はひとつあれば十分だから」
 そう言ってまだ食べかけのケーキを指さす。
「……わかりました」
 真剣に言おうとしているのだが、顔は自然と緩んでくるらしい。
「ん〜、美味しい」
 やっぱり、嬉しそうな真琴ちゃんを見ている方が、俺はいいな。
 
 ケーキ屋を出ると、家路に就く。さすがにこの時期は陽が落ちるのが早いから、これ以上どこか行くわけにはいかない。
「たまに思うんです」
「ん?」
「やっぱり私も、先輩の『彼女』になりたかったな、って」
 あまり人通りのない裏路地。
 真琴ちゃんはぽつりとそんなことを言った。
「普段は先輩は『お兄ちゃん』なんですけど、たまに先輩に『彼女』として扱ってほしくなって。私じゃ先輩とは釣り合わないってわかってはいるんですけど、ついそう思ってしまうんです」
 あはは、と誤魔化すように笑う。
「だから、今日半分偶然とはいえ、先輩とデートできて、嬉しかったです。ありがとうございました」
 今の俺には、なにも言えない。
 愛という彼女がいながら、沙耶加ちゃんのことも決着をつけられずにいるのだから。今俺がなにを言っても、たぶん、気休めにもならない。
 ただ、本当になにも言わないというのは、さすがに問題だ。
「真琴ちゃん」
「はい」
「真琴ちゃんが望むなら、これからもたまにこうやって一緒に出かけてもいいよ」
「えっ……?」
 俺の言葉に、真琴ちゃんは思わず立ち止まってしまった。
「だって『兄妹』が一緒に出かけるなんて、普通のことだと思うからね」
「先輩……」
「あと、その時は『妹』じゃなくて『彼女』として接するよ」
 これくらいなら、愛を裏切ることもないだろう。
 俺と真琴ちゃんの関係は、あくまでも『兄妹』なのだから。
「だから、そんな顔しないで」
「あ……」
 俺は、真琴ちゃんの頭を軽く撫でた。
 誰であれ、悲しい顔をされるのはイヤだ。特に真琴ちゃんにはいつもの笑顔でいてほしいから。
「さ、行こうか」
「先輩」
「ん?」
「私、先輩のこと、これからもずっと追い続けて、見つめ続けてもいいですか?」
 真っ直ぐな瞳でそう言う。
「もちろん」
「はいっ」
 そして真琴ちゃんは、とびっきりの笑顔を見せてくれた。
 
 二
「ふわぁーあ……」
 日曜日。
「なんだ、寝不足か?」
「え、ううん、そんなことないよ」
 美樹はそう言って頭を振った。
「最近、結構遅くまで起きてるみたいだからな」
「……そ、そんなことないよ」
 不自然に視線を逸らす。
「まあ、なにをしててもいいんだけどな」
 今日はたまたま予定がなかったから美樹と一緒にいる。たまには妹孝行してやらないと、このブラコン妹は拗ねるからな。
 とはいえ、今日はそれだけじゃない。実際、最近の美樹は明らかに寝不足だ。なにをしてるのかは、まあ、だいたいわかる。
 だからこそ、たまにはゆっくりさせてやらないといけない。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「今年のクリスマスは、やっぱり愛お姉ちゃんと一緒に過ごすの?」
「ああ、そのつもりだけど」
「そっか……」
 うちはなぜか、あまりクリスマスに重きを置いていなかった。だから、今までもそれほど特別なことはしてこなかった。もちろん、ケーキを食べたり、プレゼントをもらったりはしたけど。
 俺も姉貴も結構まわりの連中と一緒に過ごすことが多かったから、自然とそうなったのかもしれない。
 それは美樹も同じなのだが、今年は心中穏やかならぬところだろう。
「でも、それってクリスマスイヴだよね?」
「ああ」
「じゃあ、クリスマス当日は時間あるってことだよね?」
「そこまではわからんが、たぶん、あるんじゃないか」
 さすがの愛も、イヴから二日連続で俺を拘束することはないだろう。
「じゃあじゃあ、少しでいいから私に時間、ちょうだい」
「別に構わんが」
「約束だよ?」
「わかったわかった」
 まだ先の話だが、ここで首を縦に振らなければ美樹は納得しないだろうしな。
「ん〜……」
「どうした?」
「あ、うん、せっかくお兄ちゃんと一緒にいられるのに、なにをしようか決めかねてて」
「別になにもしなくてもいいんじゃないか?」
「ダメだよ、そんなの。最近はただでさえテストとかで時間を取られてたのに。この機会を逃したら、今度はいつかわからないもん」
 やれやれ。こういう頑固さには困ったものだ。
「う〜ん……」
「焦って決める必要なんてないぞ」
「うん」
 聞こえてないな。
 俺は読みかけの小説を手に取り、ベッドに寝転がった。
「う〜ん……う〜ん……」
 たまに美樹のうなり声が聞こえてくる。
 まだしばらくかかるかな。
 パラパラと小説を読み進める。
「……ああん、もう、決まんないよぉ」
「だから、別になにもしなくてもいいって」
「むぅ……じゃあ……」
 美樹は、ベッドの方を見て、小さく頷いた。
 って、なんかイヤな予感がするのだが。
「えいっ」
 美樹は、あっという間に俺の隣に寝転がった。
「こらこら、そんな格好でそんなことするな」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんしかいないんだし」
 今日の美樹の格好は、家の中ということもあってかなりのミニスカートだった。
 実際、今ベッドに寝転がった時にもスカートがめくれそうになった。
「兄妹だからって、なにをしてもいいってわけでもないぞ」
「それはそうだけど……でも、お姉ちゃんだってお兄ちゃんの前で『すごい』格好してるよ」
「姉貴は……」
 言っても無駄だから、とは言えなかった。それを言ってしまうと、美樹まで開き直ってしまうからだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「このまま少し、横になっててもいいかな?」
「好きにしろ」
「うん」
 
「ん……おにいちゃん……」
 結局、美樹はあれからすぐに眠ってしまった。
 寝不足だったからしょうがないのかもしれないが、ここまで無防備に眠られると呆れてしまう。
 ただ、その寝顔はとても穏やかで、我が妹ながらカワイイものだ。
「いつまでこうしていられるんだろうな……」
 俺に愛という彼女ができたのと同じように、そのうち美樹にも彼氏ができるだろう。今はまだ俺のことを一番に想ってくれているけど、それもいつまでかはわからない。
 兄妹という関係は死ぬまで変わらないが、お互いの立場はその時によって違う。
 俺と姉貴なら、もうどこかで割り切れてるから問題はないが、美樹とはそこまでじゃない。俺は高校生だし、美樹は中学生だ。それを考えるにはまだ早いとも言えるし、そろそろ考えはじめなければならないとも言える。
 美樹がブラコンなのと同じように、結局俺もシスコンだからな。
「……まあ、あれこれ考えてもしょうがないこともあるけどな」
 実際は考えてもその通りにならないことの方が多い。
 行き当たりばったり、というわけではないが、そういう部分も出てくる。
 少なくとも俺と姉貴の場合は、そうだった。
「やめやめ。あれこれ考えてもしょうがない」
 俺は美樹をそのままに、部屋を出た。
 リビングに顔を出すと、姉貴がひとり、なんとなくテレビを見ていた。
「ひとり?」
「ん、ああ、お母さんとお父さんは買い物に出かけたわよ。夕方までには帰ってくるってさ」
「ふ〜ん……」
 買い物、というのは口実だろう。実際はデートなのだと思う。
「で、美樹は?」
「寝てる」
「寝てるって、あんたの部屋で?」
「ああ。今日はもともと美樹を休ませてやるつもりだったから、ちょうどいいんだよ」
「ホント、美樹には甘いわよね」
 耳にたこができるほど聞いてきた言葉だ。もはやなにも言う気はない。
「あれでしょ? 美樹が寝不足なのって、あんたにプレゼントを用意してるからでしょ」
「たぶん」
「だからこそあんたが美樹を休ませてやった、と」
「そこまでのことはないけど、寝不足だといろいろ大変だから」
「そういうことにしとくわ」
 そう言って姉貴は笑った。
「それにしても、今日はいい天気ね」
 窓の外に目を向ける。
 夏ほどの強い陽差しではないが、朝からとてもよく晴れ渡り、気持ちのいい日だった。
 とはいえ、もう十二月。吹く風は冷たく、日陰に入った途端、寒くなる。
「冬のこういう日は、陽差しのある窓際でひなたぼっこするのが一番よね」
「まあ、確かに」
「どう、お姉ちゃんと一緒にお昼寝しない?」
「遠慮しておく」
「むぅ、即答しなくてもいいじゃない。姉弟のスキンシップは大事なのよ」
「……美樹みたいなこと言わないでくれよ」
 こういうところは、本当に姉妹だ。俺にこう言えば困らせることができるというのがわかっている。
 ただ、姉貴の場合は完璧にそれを理解して、美樹の場合は半分は無意識で。その違いはある。
「じゃあさ、一緒にお昼作らない?」
「昼飯?」
「そ。作らないとなんにもないし。いくら愛ちゃんがなんでもやってくれるとはいっても、あんたも料理のひとつやふたつ、できないと困るわよ」
 姉貴はそう言うが、俺は料理は苦手ではない。ある程度教われば、次からはひとりでできるほどには知識も経験もある。
 現に、同年代の連中に比べれば料理はできる方だ。
「しょうがない。やるか」
「よしっ」
 で、俺と姉貴は、揃って昼飯を作ることになった。
 だけど、実際俺のやることなんてそんなにない。姉貴の料理の腕は確かだから。
 エプロンをつけて、慣れた手付きで包丁を扱うその姿は、普段の姉貴にはない魅力を見せてくれる。
「ほら、ぼさっとしてないでちゃんと混ぜて」
「ああ、うん」
 見てないようでしっかり見てる。こういう細やかな気遣いができるのも、やっぱり姉貴だ。
 だからというわけじゃないけど、姉貴は間違いなく良い『妻』になる。
「……ん〜、こんなものかしらね」
 最後に味見をして、調理完了。
 時計を見ると、まだ昼飯には早い時間だった。
「姉貴はさ」
「ん?」
 姉貴はエプロンを外しながら振り返った。
「結婚しても、仕事とか続けるわけ?」
「さあ、どうかしらね。それはその時の状況次第じゃないかしら。やってる仕事が私の生き甲斐だって言えるくらい魅力的なら、やっぱり続けるだろうし。あとは、金銭的に厳しい時か。じゃなかったら、別に家庭に入っちゃっても構わないと思ってるわよ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 なんとなくそうじゃないかとは思っていたけど、やっぱりそうだった。
 姉貴は貞淑な妻にはならないだろうけど、少なくとも夫を立てる妻にはなる。となると、家庭に入ることにも抵抗はないだろう。
「なに、どうしてそんなこと訊くの?」
「いや、ちょっと気になったから」
「なになに、愛ちゃんとのことに参考にしようって?」
「違うって」
 なんでいきなりそんな話になるんだか。
「それとも、お姉ちゃんのエプロン姿を見て、ちょっと感じちゃったとか?」
「……あのなぁ、姉貴。その頭のネジが十本くらい外れた思考回路はどうにかならないのか?」
「冗談よ、冗談」
 そう言って姉貴は笑う。
 俺と姉貴は、リビングのソファに揃って座った。
「はあ……」
「お、おい……」
 と、いきなり俺の方に寄りかかってくる。
「ちょっと肩貸して」
 有無を言わせぬ言い方に、俺はなにも言えなかった。
「寝るなよ?」
「大丈夫よ」
 なにを根拠に大丈夫だと言うのだろうか。
 と、二階から軽い足音が下りてくる。
「ああーっ!」
 部屋に入ってくるなり、美樹は素っ頓狂な声を上げた。
「お姉ちゃん、なにしてるのっ」
「ん、美樹の大好きな『お兄ちゃん』を独り占めしてるの」
「……ううぅ……」
 まったく、わざわざそんな挑発するような言い方せんでも。
「そんな顔しないの」
 あからさまな表情を見せる美樹に、さすがの姉貴も嘆息混じりになだめる。
「じゃあ、ちょっと早いけど、お昼にしよっか」
「ん、ああ」
 そう言って姉貴は台所へ。
 ちっ、逃げたか。
「むぅ、お兄ちゃん……」
 で、姉貴に代わって美樹が俺の隣へ。
「あのなぁ、美樹。姉貴のやることにいちいち目くじら立ててたら、疲れるだけだと思わないか?」
「それはそうかもしれないけど……でもでも、お兄ちゃんとお姉ちゃんはやっぱり普通よりも仲が良いから」
 どうして妹が姉に嫉妬しなくちゃならんのだ。しかも、俺は兄であり弟なんだから。
 美樹のブラコンは、筋金入りだからしょうがないのかもしれないが。
「やれやれ……」
 小さくため息をつく。
「洋一〜、美樹〜、手伝って〜」
「ほれ、姉貴が呼んでるぞ」
「あ、うん」
 って、俺もか。
 ま、普通にしてれば俺たち三人は、とても仲の良い姉弟だからな。
 そして、それはこれからもずっと──
 
 昼食のあと、姉貴がこんなことを言い出した。
「たまには三人で出かけない?」
 俺も美樹も特にやらなければならないことはなかったので、それに賛同した。
 確かに三人だけでどこかに出かけるなんて、ここしばらくなかった。もともと美樹がホームステイでオーストラリアへ行っていたというのもあるけど、それにしてもそういう記憶はあまりない。
 俺たちはあえてそうしなくちゃならないほど仲が悪いわけでもないから、特に気にしていなかった。
「そういや、洋一」
「うん?」
「そのマフラー、どうしたの?」
 姉貴は、俺のマフラーを指差し、そう言った。
「愛にもらった」
「愛ちゃんに? クリスマスでもないのに?」
「ああ。愛もクリスマスに渡そうかとも思っていたらしいんだけど、それはそれで別なのを用意するってさ」
「へえ、相変わらず愛ちゃん、洋一にはとことん尽くしてるわね」
 愛のことを話すと、姉貴は自分のことのように喜ぶ。やっぱり実の『妹』のような存在だからだろう。
「姉貴はどうなんだ?」
「私? そうねぇ、私の場合は一方的ってわけじゃないわね」
「和人さんも姉貴に尽くしてるってこと?」
「ん〜、端から見ればそうかもね。でも、私たちの場合は尽くすとか尽くさないとか、そういうことじゃないのよ。お互いがお互いのためにやりたいことをやっている。ただそれだけ」
 つきあうようになってからまだそんなに経っていない姉貴たちだけど、そういうところは俺と愛よりもきっちりしてる。
「でも、基本的には私は誰かに依存したいタイプだから、結局は私の方が和人に尽くすことになると思うけどね」
「なるほど」
 家では俺や美樹の姉として依存できる立場にはいなかった。
 俺や美樹はわかっていることだが、姉貴はそんなに強い人ではない。ただ、そうあるように見せているだけだ。そして、いつも誰かに肩を貸してほしいと思っていたのだ。
 その相手を見つけた今、もう姉貴が肩肘を張る必要などない。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
 と、ひとり放っておかれた美樹が不満げな表情で俺の腕を引っ張った。
「どうした?」
「どうしたって、お姉ちゃんとばかりしゃべってないで、私の相手もしてよぉ」
 ここまで実の姉に対抗心を燃やす妹も珍しいな。
「はい、お兄ちゃん」
 そう言って美樹は、手を差し出す。
「なんだ?」
「むぅ、手を繋ぐの」
 しょうがない。これ以上お姫様の機嫌を損なうわけにもいかないからな。
「これでいいか?」
「うんっ」
 俺と手を繋ぎ、美樹は嬉しそうに頷いた。
 そんな俺たちの様子を、姉貴は穏やかな眼差しで見ていた。
 で、俺たちが向かったのは、駅向こうにあるショッピングモールである。数年前にできた近隣で一番大きなモールである。ここに来ればありとあらゆるものが揃う。なんてさえも言われている。
 俺たちも結構ここを利用しており、便利さもよく理解している。
 とはいえ、そういう場所だからこそ、日曜などには人でごった返す。
「相変わらず多いわね」
「日曜だし」
 総合エントランスを入ると、人のざわめきで声が聞き取りにくくなる。
「あんたたち、なにか見たいものある?」
「俺は別に」
「美樹は?」
「ん〜、そうだなぁ……」
 美樹はおとがいに指を当て、考える。
「あ、そうだ。手袋」
「手袋?」
「うん。新しい手袋がほしいなぁって思ってたところなの」
「んじゃ、手袋を見に行きますか」
 というわけで、俺たちはまず、美樹の手袋を見に行くことになった。
 手袋自体を売っている店は結構ある。問題はそのどこで買うかだ。
「ん〜……」
 そのうちの一軒。
 美樹は、たくさんの手袋を前に唸っている。
 材質、形、色。とにかく様々な手袋がある。もちろん値段もピンキリで、美樹のような中学生でも買えるようなものから、かなりの決断を要するものまである。
「洋一」
「ん?」
「買ってあげたら?」
「俺が?」
「あんた以外に誰がいるっていうのよ?」
 姉貴の言葉に、俺は財布を覗いた。
 手頃なものなら買えないことはない。
「ちょっと早いクリスマスプレゼント、というわけでもないけどさ」
「……まあ、それはそれでいいんだけど」
「だったら悩むことなんてないじゃない。それと……ほら」
 姉貴は、俺に千円札を一枚寄越した。
「少し支援してあげるから」
 こういうことがさらっとできるのが姉貴だ。
 姉としての自覚がしっかりしている。同じ兄として、俺ももう少し見習うべきなんだろうな、実際は。
「んじゃ、そうするわ」
「そうしなさい」
 とりあえずその千円札を財布に入れ、あれこれ悩んでいる美樹のもとへ。
「決まったか?」
「もう少し」
 右手と左手に手袋を持ち、吟味している。
「……やっぱりこれかなぁ」
 選んだのは、淡いクリーム色の手袋だった。
「じゃあ、ちょっと待ってな」
「えっ……?」
 有無を言わさずその手袋を奪い、レジへ持っていく。
 値段としては、まあ、普通だろうな。一応、姉貴の支援がなくても買えた。
「ありがとうございました」
 レジ係の店員に送られ、美樹のもとへ。
「ほら」
「えっと……」
 美樹は、その手袋の入った袋と俺の顔を交互に見ている。
「素直にもらっておきなさいって」
「お姉ちゃん」
「それとも、洋一からじゃ、不満?」
「そ、そんなことないよ」
 力一杯否定する。
「じゃあ、いいじゃない」
「う、うん」
 特になにもないこの状況で、いきなり俺からプレゼントされれば、美樹でなくとも戸惑うだろう。俺だったら、いろいろ勘繰る。
「次はどこ行く?」
「姉貴はどこ行きたいんだ?」
「私? 私は別にあとでもいいんだけど」
「俺は特にないし、美樹もとりあえずほしいものは買ったわけだ。ということは、姉貴でいいんじゃないか」
「そう? それじゃあ、私につきあってもらおうかしら」
 どうやら姉貴には目的があったらしい。
 俺たちは、その手袋を買った店からそれほど離れていない洋服屋に入った。
 店の中には、色とりどりの洋服がある。当然だが。
 季節は冬なのだが、店の一番目立つ場所には、春物が鎮座していた。
 ファッションは季節を先取りするとは言うが、まだクリスマス前ということを考えると、どうも違和感がある。
「さてと、どれがいいかしら」
 姉貴が見ているのは、セーターだった。
 これも様々な種類があり、優柔不断な奴ならしばらくかかりそうなくらいだった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「本当によかったの?」
 そう言って美樹は、袋を見る。
「ん、ああ。たまにはいいだろ?」
「それはそれで嬉しいんだけど、いいのかなって思って」
「姉貴も言ってたけど、素直にもらっとけばいいんだよ」
「うん」
 俺は、美樹の頭を撫でた。
「ねえねえ、洋一、美樹。どっちがいいと思う?」
 姉貴はふたつのセーターを選び、俺たちに見せた。
 ひとつは淡いピンク、というよりは桜色のようなタートルネックのセーター。とても明るい色なので、見ているだけで暖かく感じる。
 もうひとつは、白のセーター。袖が若干長い。
「う〜んとね、私はこっちの方がいいと思うよ」
 美樹は、白のセーターを推す。
「洋一は?」
「どっちも、と言いたいところだけど、俺はこっちかな」
 俺は、桜色のセーターを推した。
「なるほど」
 どちらも値段はそう変わらない。
 どちらを買っても姉貴には似合うから、そういう面からも問題はない。
 まあ、姉貴に似合わない服を探す方が大変だと思うけど。
「じゃあ、こっちにしようかしら」
 選んだのは、俺が推したセーターだった。
 姉貴がなぜそれを選んだのかは、わからない。まあ、ふたつに絞った段階でどっちでもよかったのかもしれないけど。
 会計を済ませ、姉貴は満足そうな顔で戻ってきた。
「いい買い物ができたわ」
「そりゃよかった」
「私も美樹も自分の買い物はしたから、あとは洋一だけよ」
「俺は別になにもないけど」
「そういうわけにはいかないわ。ねえ、美樹?」
「うん」
 なんか、イヤな予感がするんだが。
「よし、洋一。今度は私たちがあんたのためにいろいろ選んであげる」
 
 で、そのイヤな予感は悪い方向に的中した。
「こっちはどう?」
「え〜っ、お兄ちゃんにはこっちの方が似合うよぉ」
「そうかしら? そっちだとちょっとガキっぽく見えない?」
「そんなことないよ」
 姉貴と美樹は、さっきからずっとこんなことを続けている。
 当然、俺のことなど眼中にない。確か、俺のものを選んでいるはずなのだが。
 まあ、このふたりに任せたらこうなることくらい、十分理解していたが。
「……ん〜、やっぱりこっちの方がいいかしら」
 実は、俺の持っている服の何割かは、このふたりが選んだものだ。姉貴はなにも言わずにポンと買ってくるし、美樹は俺と出かける時はたいてい俺のものをなにか買おうとする。そんなことを繰り返していたら、いつの間にかそういう服が多くなった。
 幸いなことに、ふたりともファッションセンスはいいからどれもこれも着るのに問題はない。ただ、そうやってなにも言わずにいたせいで、未だになにかある度に俺の服が自然と増えていく。
「……こっちの方がいいかなぁ」
 姉貴と美樹の場合、基本的には選ぶものに大きな差はない。ふたりとも俺の好みは知ってるし、変なものを買って受け取りを拒否されても困るから、冒険もそれほどしない。
 ただ、それでも選んだものに差はある。
 姉貴は、基本的に大人っぽいものを選ぶ。まあ、正確に言えば大人っぽいというよりは、紳士的というかダンディというか、そんな感じだ。
 美樹は、姉貴よりは俺の年相応のものを選ぶ。ただ、たまに明らかに年齢より下のものを買ってきて俺を困惑させる。
「やっぱりこれかしら」
 まず、姉貴がひとつ選んできた。
「って、姉貴」
「ん?」
「それ、スエードのジャケットだと思うんだけど」
「そうよ?」
 マジですか? いきなり桁が変わりそうなジャケットを選んできますか、この姉は?
「ん、ああ、値段の心配をしてるわけか。大丈夫よ。そのあたりはちゃんと考えてるから。あんたはなんの心配もいらないの」
 とは言うが、それは確実に五桁のジャケットなんだけど。さすがになにもない時にそういうのをもらうのは、いくら姉貴の厚意でも気が引ける。
「お兄ちゃん」
 次に美樹が選んできたのは──
「……ショートブルゾン」
 姉貴のジャケットよりは安いとは思うが、それでもそれなりにするブルゾンだった。
「これ、絶対お兄ちゃんに似合うよ」
「へえ、美樹にしてはなかなかいいのを選んできたじゃない」
「お兄ちゃんのだからね」
 姉貴にしても美樹にしても、俺のことをあれこれ考えてくれるのは嬉しいのだが、このふたりは基本的に俺に関することになると常識が欠落しているような感じになる。
 今日がクリスマスの前倒しと位置付けたとしても、それをもらうのはあまりにも問題だ。
「よし、美樹。最終的にどっちにするか決めましょ」
「うん」
「へ……?」
 と、俺の予想外の展開となった。
「なに? ひょっとしてそれぞれがあんたに買うと思ってたの?」
「まあ……」
「そうしたいのはやまやまだけど、さすがに今月はなにかと物入りだから。最初から美樹と折半しようと思ってたのよ」
「うん。私ひとりだと、さすがに買えないから」
「……なるほど」
 さすがにそれぞれがという血迷ったことはないか。
 今回は、少なくともそのくらいの常識を持ち、理性は保っていた、と。
 ふたりは、あ〜でもないこ〜でもないと議論を交わしている。
 まだ少しかかりそうだからと、あたりを見回す。
 この店もそうだけど、どこもかしこもやはりクリスマス一色で、綿やモールで綺麗に飾り付けられている。
「……クリスマス、か……」
 俺もそろそろ考えなくちゃいけない。
 今年のクリスマスは特別なクリスマスだから、それに相応しいものを選ぶ必要がある。
「だけどなぁ……」
 これがほとんどプレゼントなど渡したことのない相手なら問題はなかった。ある程度相手の趣味嗜好さえ把握できていれば、選ぶのもそれほど苦ではない。
 しかし、相手が下手すると親よりも自分のことを理解している幼なじみだと話は変わる。
 去年までは惰性でクリスマスをやっていたとはいえ、ほぼ毎年のようになんらかのプレゼントらしきものは贈っていた。
 そうすると、そろそろネタも尽きてくる。
「……どうするかなぁ……」
 姉貴や美樹が買い物してる時に少し見てみたけど、なかなかこれというものがなかった。
 特に愛の場合は、誕生日からクリスマスが近いというのもそういう選択に水を差すことに繋がっている。
「なにをどうするの?」
 いつの間にか、議論を終えた姉貴と美樹が、不思議そうな顔で俺を見ていた。
「いや、別に。それより、もう済んだわけ?」
「ええ」
 姉貴の手には、すでに会計まで済ませた大きな袋があった。袋の口はしっかり閉じられているため、中にどっちが入っているのかはわからない。
「結局どっちになったわけ?」
「ん〜、それは内緒」
「内緒って、そんなの家に帰って開ければすぐにわかるのに」
「だからこそよ。ね、美樹?」
「うん」
 俺が見ていなかったのは偶然なのだが、その偶然さえも利用してしまう。むぅ、さすがは姉貴と美樹だ。
「さてと、とりあえずそれぞれ買うべきものは買ったし、あとはどうしよっか?」
 姉貴は時計を見ながら訊いてきた。
「まだ時間はあるし」
 確かに、父さんと母さんが帰ってくるまでまだ時間はある。家にいても取り立ててやることはないし、とりあえずはもう少しここで時間をつぶしたい。
「なんかない?」
 そう言われても、もともとほとんど目的もなくここへ来た俺には意見などない。
「私はお兄ちゃんと一緒ならなんでもいいけど」
 で、美樹はこんな調子だし。
 姉貴はやれやれとため息をつき、考えていたらしい次の行動を述べた。
「じゃあ、次は──」
 
 正直、姉貴にしてはまともな選択だと思った。もちろん、それは思っただけで口にはしていない。そんなこと口にすれば、百倍返しを喰らうだけだ。
「あははっ」
 楽しそうにはしゃぐ美樹を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
 ここは、モール内にあるペットショップ。
 犬や猫がたくさんいて、特に変わったところもない。
 が、それはあくまでもペットショップの側である。ここのペットショップは普通のよりもだいぶ大きい。それは店内にいる動物たちに十分なスペースを確保するため、ということもあるが、もうひとつ大きな理由があった。
「こぉら、そんなことしちゃダメだよぉ」
 それは、動物園のふれあい広場のような場所が確保されているからである。
 犬や猫はもちろん、売り物ではない子ヤギや子ブタもいる。
 このあたりが特別都会だとは思わないけど、それでもこうして動物とふれあう機会などほとんどない。そうするとこういう場所はとても貴重だ。
 子供たちはとても楽しそうに動物たちに触れている。
 そんな子供たちに混じって、美樹も動物と戯れていた。
「楽しそうね」
「美樹は、カワイイもの好きだからな」
「ここを選んだ甲斐はあったかしら?」
「さあ、それはなんとも」
「なに生意気言ってるのよ」
 正直に言えば、俺にはここへ来るなどという考えはさらさら思い浮かばなかった。そういう点で言えば、姉貴はよく理解している。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「私たちってさ、多少状況が変わったとしても、今みたいにしていられると思わない?」
「……なんとも言えないけど、その可能性は高いと思う」
「私は、あんたに対しても美樹に対してももうスタンスは決まってるし。あんたもなんだかんだ言いながら、私や美樹に対するスタンスも決まってるだろうし。あとは、美樹だけ。ま、私に対しては変えようがないだろうけどね」
「…………」
「結局は、どこであんたのことを『お兄ちゃん』だと割り切るかよね。今はまだ、異性としての意識が強いから」
 姉貴の言葉は、まさにその通りだと思った。
 姉貴はもちろんだが、俺もふたりに対するスタンスはほぼ決まっている。あとは美樹だけ。だけど、それも俺や姉貴の予想の範疇だと思う。
 だからこそ、これから先も俺たちの関係は変わらない。
「でもあれか」
「ん?」
「あんたと一緒になるのが愛ちゃんなら、無理に割り切る必要はないのかもね」
「なんで?」
「だって、愛ちゃんも美樹のことは本当の『妹』のように思ってるから。それが一緒になることで『義妹』になるんだから、文句はないでしょ?」
 いや、文句はあるだろうな。
 なんだかんだ言いながらも、愛も結構独占欲強いし。それは俺もだからお互い様だけど。
 だからこそ、いくら相手が美樹でも譲れない部分ていうのはあるだろう。美樹がそこを越えてくるようなことがあれば、どうなるかはわからない。
「愛ちゃん以外なら、まあ、戦争は覚悟しておくべきね」
「……脅すなよ」
「別に脅してなんかないわよ。事実を言っただけ」
「……余計なこと言うな」
「ふふっ、確かに余計なことだったわ。そんなこと、私に言われるまでもなく、わかってたことだろうから」
 姉貴は意味深な笑みを浮かべながら、そう言った。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん。ほらほら、とってもカワイイよ」
 と、美樹は子犬を抱えてこっちへやって来た。
 美樹の腕の中で、子犬はすやすやと眠っている。
「こういう姿を見てると、飼いたくなるのよね」
「そうだけど、そんな一時的な感情に流されてたら、それこそなんでも飼わなくちゃならない」
「それはわかってる。それでもさ、たまにほしくならない?」
「そりゃ、まあ……」
「でも、うちはどうあがいても無理よね」
「確かに」
 うちでペットを飼っていない理由は、母さんが動物嫌いだからだ。見ている分には問題はないのだが、飼うということになると話は別だ。
 昔、姉貴と俺が犬を飼いたいと言ったことがあった。父さんの了承は簡単に得られたのだが、母さんに断られた。俺たちは粘ったのだが、結局ダメだった。
 それからは俺も姉貴もうちでペットを飼うのは無理なんだとあきらめてしまった。
「ほら、美樹。そろそろその子、戻して」
「はぁい」
 いつまでもそうしているわけにもいかないので、あえて姉貴が声をかけた。さすがにないとは思うが、このままここにいたら美樹が犬か猫をほしいと言い出すかもしれないからだ。
「どう、満足した?」
「うんっ」
 本当に満足そうな美樹を見ていると、俺まで満ち足りた気分になる。
「さてと、そろそろいい時間だし、帰りましょ」
 
 冬の夕方は、急激に寒くなる。
 日中は陽差しがあるおかげでまだ過ごしやすいのだが、陽がなくなると一気に寒くなる。肩をすぼめ、ポケットに手を入れて足早に歩く。
 俺もひとりだけだったらそうしていただろう。
 だが、今は姉貴と美樹が一緒だ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「今日はとっても楽しかったね」
「そうだな」
 そういえば、本当は今日は美樹に休んでもらおうと思ってたんだが。まあ、その分も楽しんでくれたなら、別にいいんだが。
「たまにこうやって三人で出かけるのもいいかもしれないね」
「そうね。どうせだったら、これからもこうやって三人で出かける日を設けてもいいかもしれないわね」
「うん。大賛成」
「洋一もいい?」
「別にいいけど」
「じゃあ、決まりね」
 これからは確実に三人で過ごせる時間は減ってくる。
 姉貴は大学が忙しくなるし、就職活動もある。もちろん、和人さんも。
 俺も美樹も来年は受験生だし。
 だからこそ、そうやって進んで一緒に過ごす時間を持つのはいいことだと思う。
「お姉ちゃん」
「ん、どした?」
「お姉ちゃんは、お兄ちゃんがお姉ちゃんだけの『弟』じゃなくなるかもしれないことを、どうやって受け入れたの?」
 唐突な疑問に、姉貴は俺の方を見た。
 俺だって一瞬、美樹がなんのことを言っているのかわからなかった。
 でも、いつになく真剣な美樹の表情を見ていると、すぐになにが言いたいのかわかった。
「そうね……」
 姉貴は俺たちより一歩、前に出た。
「まず結論から言えば、どうやっても私と洋一は姉弟だから、なんだけどね」
「それは、うん、そうだと思うよ」
「私が結婚して家を出ても、洋一が結婚して別に家庭を持っても、私たちが姉弟であるという事実だけは死ぬまで変わらない。だから、たとえ自分の手の届かない場所に行ってしまったとしても、繋がりだけは必ずあるから。それがある限り、私は洋一の姉でいられる。そうやって自分を納得させたの」
「…………」
「ただね、私がそれをできたのは、洋一の相手が愛ちゃんだっていうのもあるのよ」
「愛お姉ちゃんだから……?」
 姉貴の言葉に、美樹は首を傾げた。
「愛ちゃんは、私のもうひとりの『妹』だから」
「ぁ……」
「私の誰よりも大切な弟の相手に、やっぱり大切な『妹』がなってくれるなら、多少の淋しさはあったとしても、心配することはないでしょ?」
「……うん」
「それに、愛ちゃんなら私や美樹のこともよく知ってるし、だからこそ私たちが洋一のことをどんな風に見て、接していたかもわかってる。そうすれば、ほかの人よりは懸念材料は少ないだろうし」
「そっか……」
 実際、姉貴が本当にそこまで考えていたかはわからない。
 ただ、姉貴の言葉は真剣で、そのすべてが本音であることだけはわかった。
「もちろん、それはあくまでも私の場合だから。それを美樹にまで強要するつもりはないわよ。どうやって洋一のことを割り切るか。それは、本当にあんた次第だから」
 最後は突き放すような言い方になった。でも、それは仕方がない。たとえ妹であっても、方法まで同じではないのだから。
「ま、もう少し考えてみればいいわ。焦ってもなにもいいことなんかないんだから」
 そう言って姉貴は、美樹の頭を撫でた。
 俺も姉貴もこれ以上はなにもできない。
 最後は、美樹がなんとかしなければならないのだから。
「あ、そうだ」
 と、姉貴がなにか思いついたらしい。
「洋一、美樹。どうせだから、今日はずっと三人で過ごさない?」
「ずっとって、ずっと?」
「そ。川の字に布団を敷いて、三人で寝るの。どう?」
 パス、と言いたいところだったが、話の流れから俺が断ることに『意味』はない。
「特に反対はないみたいだから、そうしましょ」
 なんとなく、ドツボにはまってるような気がするのだが……
 
 で、夜。
 姉貴の宣言通り、俺たちは三人揃ってひとつの部屋で寝ることになった。
 とはいえ、三人が並んで寝られる部屋などそうはない。和室である客間なら可能なのだが、布団の出し入れが面倒だからやめた。
 結局、俺の部屋に布団を持ち込んで、ひとりはベッドでということで落ち着いた。
 当然俺がベッドで、と思っていたのだが──
「あんたはここ」
 姉貴が当然のように布団と布団の真ん中を指さした。
「じゃないと意味ないでしょ?」
「意味って……」
 俺にとってはどうでもいいのだが。
 ただ、寝る間際に言い争うのはバカらしいので、言うことを聞いた。
「じゃあ、電気消すわね」
 電気が消え、姉貴も布団に潜り込む。
 と、すぐに美樹が俺の袖をつかんだ。
「そういや、美樹」
「ん?」
「まだたまに洋一と一緒に寝てるでしょ?」
「……ん〜、うん」
「それって、淋しいから? それとも、なんとなく?」
「……淋しいというのも多少はあるけど、一番は、お兄ちゃんと一緒にいたいから」
「なるほどね」
 俺を真ん中にして、姉と妹はそんな会話を交わす。
「美樹は昔から洋一にべったりだったからね。お母さんや私が寝かせようとしてもなかなか寝ないのに、洋一が一緒だとすぐに寝ちゃうし」
 そのあたりのことは、俺の記憶では曖昧だ。なんとなくそういうことがあったのは覚えてるけど、それは俺も美樹もまだガキの頃だったから。
「そんなに洋一のこと、好き?」
「確かに言葉にすれば、好きってことになると思う。でも、きっとそれだけじゃないんだと思うの。もちろん、兄妹だっていうのもあるけど」
「それは、あんたにしかわからない、と」
「うん」
「それはそれで、なんとなくわかるけどね」
 俺と姉貴の関係を考えれば、多少は理解できるのだろう。
「もし、実の兄妹でも結婚できたなら、結婚したい?」
「どうかな」
 と、美樹は意外な言葉を口にした。
 俺も姉貴もほぼ確実に肯定すると思っていた。
「結婚しなくちゃずっと一緒にいられないというなら、うん、結婚したい。でも、そうしなくても一緒にいられるなら、別に結婚にはこだわらないかな」
「ふ〜ん……」
「結局私は、お兄ちゃんと一緒にいられれば幸せだから」
 そう言って美樹は、俺の腕をしっかりとつかんだ。
「私も美樹みたいにしたら、もう少し優しくしてくれる?」
 言いながら、姉貴まで俺の腕をつかんだ。
「……あのさ、妹に対抗するの、やめない?」
「いいじゃない、別に。私にとっても、あんたは大事な弟なんだから」
「…………」
 やれやれ。もうすぐ二十歳だっていうのに、なにを言ってるのやら。
「はあ……」
「ため息なんかつかないの」
 たしなめられてしまった。
「ため息をつくと、その数だけ幸せが逃げていくのよ」
「だとしたら、俺の幸せはもうないな」
「洋一ぃ、あんたはどこまでひねくれた物言いしかできないのよ」
「ふん……」
 相手が姉貴だから、とはさすがに言えない。
「そういえば、お姉ちゃん」
「ん、なに?」
「お姉ちゃんもクリスマスは、和人さんと一緒に過ごすんだよね?」
「そだけど、なんで?」
「お兄ちゃんも愛お姉ちゃんと一緒だっていうから、私はどうしようかなって」
「友達と過ごすんじゃないの?」
「うん、たぶんそうなると思うけど」
「それだけじゃ、不満?」
 姉貴はわかってて言う。
「……不満はないけど」
「姉貴もさ、わかってて言うのやめない?」
「あら、ひどいこと言うわね。別にそういうつもりで言ったわけじゃないのよ」
「じゃあ、どういうつもりで言ったんだ?」
「ん〜、それは……」
「……考えなくちゃ言えんのか」
「ふふっ」
 そんな俺と姉貴のやり取りを聴いて、美樹が笑った。
「お姉ちゃんとお兄ちゃんて、やっぱりすごく仲が良いよね」
「そうか?」
「あによぉ、洋一。私と仲が良いの、イヤなの?」
「……いちいち突っかかるなよ」
「昔からね、お姉ちゃんとお兄ちゃんのようになりたいって思ってた。たまに口喧嘩みたいなことはするけど、でも、それはその場限りのことで、すぐにいつも通りになって」
「まあ、だいたい姉貴の方が突っかかってきてるんだけどな」
「違うでしょ? 洋一がバカなことばかり言うから私が──」
「俺のせいかよ?」
「なんでも言い合える仲、っていうのかな。姉弟だから。それも理由なんだろうけど、心からお互いを理解し、信頼してるからできること。ずっと見てきて、そう思ったの」
 美樹の言葉に、俺も姉貴も口をつぐんだ。
「私ね、お姉ちゃんとお兄ちゃんの妹で本当によかった」
「なによ、突然」
「本当にそう思ってるの」
「ま、いいけどね」
 そういえば、姉弟三人でこれだけゆっくり話をするのは久しぶりかもしれない。この状況はどうかと思うが、それを差し引いたとしても、大切なことだと思う。
 特に俺と姉貴には、それぞれ愛と和人さんという『相手』がいる。三人の関係をないがしろにするつもりはないが、どうしてもそういう時間は削られてくる。
 これは今だけじゃないけど、今日一日、三人で過ごしてみて再認識した。
「ふわぁ……」
「いつまでも話しててもしょうがないし、寝ましょうか」
「うん、そうだね」
 と、言いながら、姉貴も美樹もいっこうに寝る様子はない。
「……あのさ、言いたいことがあるなら言えば?」
「別に」
「なんにもないよ」
「…………」
 まったく、姉妹揃ってどうしてこうも……
 だけど、あとどれくらいの間、こうしていられるのかわからない。それを考えると、よほどのことでもない限り、許してしまうんだろうな。
 結局、俺もこのふたりのことが好きだから。
 
 三
 クリスマスというものは、本来はキリスト教の例祭である。
 だから、キリスト教国ではない日本には関係ないのだが、いつの間にかクリスマスは定着した。
 だけど、日本のクリスマスは、まさに『祭』である。
 日本人は祭好きではあるけど、クリスマスまで自国の祭にしてしまうのだから、ある意味ではすごい。
 まあ、俺がここでどんなことを言ったところで、現状が変わることはない。
 むしろ、クリスマスという特別な日があるからこそ、できることもあるし、言えることもある。
 
 十二月二十二日。
 クリスマスを二日後に控え、街はすでに臨戦態勢である。商店街を歩けばクリスマスソングがエンドレスで流れ、クリスマスケーキを必死に売っている売り子の声が耳に飛び込んでくる。
 そういう雰囲気は好きだからそれはそれでいいのだが、客観的に見るとなんだかな、と思ってしまう。
「はい、洋一」
「ん」
 お茶の入ったカップを受け取る。
 寒い日には、温かいお茶が一番だ。
「部屋の中で日向にいればあったかいんだけどね」
 窓の外に目を向け、愛は言う。
 確かに外はもうだいぶ寒いけど、こうして部屋の中の日向にいれば、暖かい。
 ここは生徒指導室。
 普段からほとんどの生徒が近寄らない場所である。
 そこで俺と愛は、のんびりと弁当を食べていた。
「でも、よく鍵借りられたわね」
「ま、そこは俺の人徳ってやつだ」
「……洋一にそんなものがあるなら、ほとんどの人が鍵を借りられるわね」
「…………」
 さらっとひどいことを言いやがる。
「それでも、洋一のおかげでこうしてのんびりできてるわけだから、感謝してるわよ」
「十分感謝してくれ」
 俺が鍵を借りられたのは、たいした理由でもない。
 まず、幸か不幸か俺は諸先生の覚えがいい。担任の優美先生もそうだ。
 だから、俺が多少無理そうなことを言っても、よほどのことでもない限りは言うことを聞いてくれる。
 今回はあとでここの掃除をするということを条件に、鍵を貸してくれた。
 で、なんでここを借りることになったのかというと──
「♪〜」
 愛が、鼻歌混じりに俺の髪を撫でる。
 俺自体はあまり頭をいじられるのは好きではないのだが、こういう場合は別だ。
 暖かな日向で、愛の膝枕で横になる。
 少なくとも今、この場所でこれ以上の優雅な過ごし方はないだろう。
 そもそも膝枕のことを言い出したのは、愛の方だ。
 午前中の授業が終わり、昼休みになるとすぐに俺に声をかけてきた。
「ねえ、洋一。膝枕、してほしい?」
 最初なにを言われてるのかわからなかったが、理解すると今度はなぜそういうことを言い出したのか考えた。
 膝枕自体はとても魅力的な申し出だった。
 普通の枕では味わえない微妙な感触がやみつきになる。
 以前、姉貴に実験台にされた時にそう思った。
 だから、愛の申し出も特に断る理由はなかった。ただ、それを素直に聞いていいのかどうかは別である。
 一瞬問い詰めようかと思ったが、逆に学校でそういうことを言ったという段階で裏はないと判断した。最近のこいつの行動には、以前のような裏がないからだ。
 だけど、学校で膝枕のできる場所などそうあるものではない。
 そこで考えたのが、普段あまり使われていない場所だった。その筆頭がここ。
 ダメ元で先生に掛け合ったら、意外にすんなりと鍵を貸してくれた。
「もうクリスマスね」
「キリスト教でもないのにな」
「だったら、洋一だけクリスマスはなし?」
「別に構わんぞ」
「どうして?」
 俺の言葉に、愛は意外そうな顔を見せた。
「アメリカとかみたいにクリスマス休暇があるわけでもないし、ただ単に十二月二十四日と二十五日になるだけだ。実害はない」
「それはそうかもしれないけど……」
 俺の理由はかなりひねくれた理由なのだが、一応の筋は通っている。実際、クリスマスがなくなったからといって困ることはないのだから。
「……ひょっとして、洋一」
「ん?」
「私と一緒に過ごすの、イヤ?」
 ……こいつはどうしてこうもわけのわからん方向へ物事を考えるんだろうか。
「あのさ、愛。俺がいつ、どこでイヤだなんて言った?」
「言ってはいないけど……」
「だったらそんなわけわからんこと言うな」
「それは洋一のせいじゃない」
「なんでだよ?」
「だって、クリスマスなんてどうでもいいみたいな言い方するから……」
 実際どうでもいいのだが、ここは黙っておこう。
「まったく……」
 俺は一度起き上がり、そのまま愛を抱き寄せた。
「結局さ、おまえはどうあればいいんだ? 俺は、別にクリスマスじゃなくてもおまえと一緒に過ごせればそれでいいと思ってるんだが」
「私も、それはそうだけど……」
「あえて『特別な日』にそうありたい、と」
「うん……」
 まあ、それは聞かなくてもわかっていたことだ。
 それに、今のは俺の方が悪い。こいつに余計なことを考えさせたんだから。
「愛」
「ん……あ……」
 不意を突き、キスをした。
「……んもう、そうやってすぐ誤魔化すんだから」
 そう言いながら、俺の方に体を預けてくる。
「このまま──」
「ん?」
「このままさぼっちゃいたいね」
「まあな」
 心情的にはそうなのだが、ここの鍵を返さずにそんなことできない。
「余計なこと考えさせて、悪かったな」
「ううん」
「クリスマスには、その分おまえの言うこと聞いてやるから」
「うん」
 なんだかんだ言いながら、俺もこいつと過ごすのが楽しみなんだ。
 だから、最終的には甘いことを言ってしまう。
「もう少しだけ、このままでいいよね」
「ああ」
 
 そして十二月二十四日。
 クリスマスイヴの朝は、この冬一番の寒さだった。俺も、寒さで目が覚めたほどだ。
 ベッドを出る前にエアコンのスイッチを入れる。ある程度部屋が暖まらないと、ベッドから出ることもできない。
 部屋が暖まり、着替えを済ませる。
 だが、このあと朝一番の難関が待っている。
 それは──
「……うあ……」
 洗顔である。
 この時期の水はとにかく冷たい。洗面所も一応お湯は出るのだが、特別な理由がない限り、お湯は使わせてもらえない。
 指先が触れただけで、思わず引っ込めてしまうほどに冷たい。
「……ええいっ、気合いだっ」
 一気に顔を洗う。
 冷たい水のおかげで、半覚醒状態だった頭もしっかり覚醒した。
 食堂にはすでに母さんと美樹の姿があった。美樹は母さんの手伝いをしている。
「あ、お兄ちゃん、おはよ」
「ああ、おはよう」
「すぐに用意できるから」
 言いながら美樹はテーブルの上に皿を並べていく。
 うちの朝食は基本的には和食だ。白いご飯にみそ汁がないと朝を食べた気がしない、という父さんの意向でそうなっている。
 ただ、それも絶対ではなく、たまにパン食になる。
 で、今日はそのたまにの日だった。
 トースターにはすでに食パンがセットされており、ジリジリと焦げ目をつけていく。
 コーヒーメーカーからはコーヒーの香りが漂い、なんとなくいつもと違う感じがする。
「はい、お兄ちゃん」
 美樹が運んできたのは、ベーコンエッグだ。
「美樹、もういいわよ。あなたも座ってなさい」
「は〜い」
 母さんが残りの皿を持ってきた。
 ちなみに、父さんは年末ということで早朝から出ている。姉貴は、単にまだ寝てるだけだ。
「今日は遅くなるのよね?」
「ん、ああ、たぶん」
 コーヒーに砂糖を入れながら俺は頷いた。
「いくらよく知ってるからって、迷惑だけはかけるんじゃないわよ」
「わかってるって」
 すでに母さんには今日を愛と過ごすことは伝えてある。
 母さんは絶対に余計なことは言わないが、実は誰よりも愛とのことを気にしていた。母さんにとって、愛はもうひとりの『娘』みたいなものだ。それこそガキの頃から知ってる。
 だから、俺が愛のことを、そして愛が俺のことをどういう風に見ていたかも知っている。
 俺と愛が恋人同士になって、姉貴も喜んだが、母さんも喜んでいた。
 だからこそ、俺と愛のことに誰よりも理解を示してくれている。
 で、同じように理解を示してくれている美樹は、それでも複雑そうな表情で俺たちの話を聞いている。
 それでもなにも言わないのは、明日は美樹と過ごすことになっているからだろう。それがなければ、さすがに母さんの前ではなにも言わないだろうけど、いないところでいろいろ言われたはずだ。
 朝食を済ませると、少し早めに用意をする。
 学校は今日までなので、特に持っていかなければならないものはない。それでもカバンを持っていかなければならないのは、実に理不尽だ。
 いつもより十分ほど早く準備を済ませ、家を出る。
 家を出たところで、ちょうど向こうから愛がやって来た。
「よ、愛」
「おはよ、洋一。今日は早いのね」
「たまにはな」
「そっか」
 クリスマスだからなにかが違うわけではない。
 行き交う人々も同じ。
 通学路もいつもの風景。
 学校も、変わらない。
 だけど、それぞれの気落ちだけは違っていた。
 そう、俺たちも。
 
 授業がないというだけで学校にいる間の気持ちがずいぶんと違う。
 すべての授業がつまらないとは言わないが、おおむねそうだから仕方がない。終業式の長い話もつまらないのだが、それでも授業に比べればましだろう。
 ホームルームも簡素に終わった。まあ、今日だけはどれだけきっちりやっても、大半の連中の思考は、クリスマスのことに切り替わっている。もちろん、それは恋人同士だけではない。友人や家族と過ごすのもそうだ。
 どういう理由であっても、やはりクリスマスというのは特別な日なのだ。
 ホームルームのあとは、大掃除である。これもまあ、それほど面倒ではない。普段は少人数でちまちまやっている清掃範囲を、大人数でパパッと終わらせるのだから。
 俺は教室前の廊下の担当だった。
 実は、廊下は一番楽なのだ。場所が場所なだけに、本当にさっさと終わらせる必要があるために、掃き掃除も拭き掃除もある程度手を抜ける。それに、長い廊下を俺たちだけでやるわけではないので、気分的にもだいぶ楽だ。
 一応義務を果たし、教室に戻る。
 教室の掃除が一番面倒で、まだ掃除途中だった。ちなみに、その教室担当の中には愛も含まれている。
 まだ時間がかかりそうなのを確認し、いったん教室を出た。
 どこへ行こうか思案していると──
「洋一さん」
 後ろから声がかかった。
 振り返らなくても誰かはわかったが、ちゃんと振り返った。
「ん、どうかした?」
「あ、えっと……」
 沙耶加ちゃんは言い淀み、少し沈黙した。
「あの……」
 キョロキョロとあたりを見回し──
「場所、変えてもいいですか?」
 そう言った。
 俺に異論はなかったので、とりあえず場所を変えることにした。
 とはいえ、今日はどこに行っても誰かしらいる。
 普段のこの時間なら明らかに誰もいない場所にも、本当に誰かいた。
「ここなら、大丈夫ですね」
 で、結局、体育館に続く廊下になった。
 ここの掃除はすでに終わっていて、だけど特に人の気配はなかった。
「もう二学期も終わりなんですね」
「そうだね」
「本当に、あっという間でした」
 閉め忘れていた窓から、冬の冷たい風が吹き込んでくる。
 だけど、今はその窓を閉めようとは思わなかった。
「ずっと女子校だった私にとっては、いろいろなことが新鮮で、大変なこともありましたけど、楽しかったことの方が多かったです」
 沙耶加ちゃんは、いつもと同じようなゆったりとした口調で、まるで語りかけるように言う。
「でも、それもこれも、そこに洋一さんがいたから、そう感じられたんだと思います。もし洋一さんがいなかったら、きっとその楽しかったことは半減していたでしょう」
「それは大げさだと思うけど」
 俺の言葉に沙耶加ちゃんは頭を振った。
「そこに洋一さんが──私の大好きな人がいたから、毎日がとても楽しかったんです」
 真っ直ぐな瞳で、俺を見つめる。
「それがここで終わるわけではないんですけど、ひと言お礼を言いたかったんです」
「お礼?」
「はい。愛さんというれっきとした彼女がいるのに、たとえ今だけだとしても私を受け入れてくれたことに」
「……そっか」
 俺には、なにも言えない。なにか言えばそれはウソになってしまう。
「今日は、クリスマスイヴですね」
「ん……?」
 突然話題が変わったことに、一瞬思考が追いつかなかった。
「特別な日、だからこそ、みんな、胸躍らせるんですよね」
「かもしれない」
「……私も、そのひとりです」
「…………」
「もちろん、今日を洋一さんと過ごせないことはわかっています。だから──」
 沙耶加ちゃんは、ほんのわずか逡巡し──
「あさって、二十六日でいいですから、私のために時間をください」
 そして、今までにないくらいはっきりとした口調で、これも今までにないくらいきっちりと俺にお願いしてきた。
「ダメ、ですか?」
 潤んだ瞳が、不安げに揺れる。
 まるでうち捨てられた子犬か子猫のような瞳を、無視することはできない。
「クリスマスは終わってるけど、それでもいいの?」
「はい」
「……わかった」
「本当ですか?」
「とりあえず、二十六日の予定は決まってないから」
 そんな言い訳、本当は必要ないのだ。聡い沙耶加ちゃんのことだ。俺の思考などある程度予測できているはずだ。
「じゃあ、本当に急で申し訳ないんですけど、二十六日の十一時に駅前でよろしいですか?」
「いいよ」
 それを聞き、ようやく沙耶加ちゃんは緊張を解いた。
「でも、どうして二十六日に?」
「深い意味はありません。ただなんとなく、明日もなにかありそうな気がしたので」
 鋭い。
 もし明日と言われていたら、たぶん俺は首を縦には振らなかっただろう。
「確かにクリスマスというのは大事ですけど、今の私にとってはそれ以上に洋一さんと一緒にいられること、そのことが大事なんです」
「……なるほどね」
 気後れなくそう言われると、なんて返せばいいのかわからなくなる。
「……もう後悔したくないですから」
「えっ……?」
「いえ、なんでもありません」
 確か今、後悔したくないって……
「そろそろ戻りましょうか」
「ん、ああ、そうだね」
 それきり、クリスマスのことは話さなかった。
 それはきっと、俺にとっても沙耶加ちゃんにとっても、触れるべきではない話題だったからだろう。
 本当に、どうしたものか。
 
「どうかしたの?」
 学校からの帰り道。
 いつものことなのだが、ボーッとしていたら愛が不審そうな表情で訊いてきた。
「いや、なんでもない」
「なんでもない、ってことは絶対にない」
「……なんでだ?」
 俺が即座に否定すると、愛が即座に断言してきた。
「あのねぇ、私、洋一といったい何年一緒にいると思ってるの? そりゃ、一年三百六十五日、一日二十四時間一緒にいるわけじゃないけど、少なくとも洋一の家族以外では一番長く一緒にいるんだから。だから、今のがウソだっていうのも、わかるの」
 少しだけ怒って、少しだけ得意そうに、愛は答えた。
 やれやれ、やっぱり幼なじみはなにかと面倒だ。
 これが単なる幼なじみの頃なら問題なく話せたのだろうが、今は考えなくてはならない。仮にも、俺と愛は恋人同士なのだから。
「それに──」
「ん?」
「沙耶加さんと一緒にいたでしょ?」
 見られてたか。
「だから、余計にね」
 愛は、俺の一歩前に出て、クルッと俺の方を向いた。
「全部を話してくれなんて言えないけど、でも、できればなんでも話してほしい。私もそうするから」
 俺はマフラーを巻き直し、小さく息を吐いた。
「今日はおまえと過ごすだろ?」
「うん」
「で、明日は美樹、というかたぶん家族で過ごすことになる」
「うん、そうだね」
 愛には、美樹のことはすでに話してあった。俺と美樹のことを知ってる愛は、それについては特になにも言わなかった。
「で、あさっては沙耶加ちゃんに誘われた」
「……そっか」
 予想通りの答えだったのか、愛は特に驚いた様子もない。ただ、わずかに声のトーンが落ちたくらいだ。
「行くんだよね?」
「断る理由もなかったからな」
 それはウソだ。俺に愛がいるという時点で、十分断る理由になる。断らなかったのは俺の意志だ。
「あ〜あ、どうしてこうなっちゃうのかなぁ。やっぱり、私のせいなのかな」
「なんでおまえのせいなんだ?」
「だって、私がもっと早くはっきりしてれば、もっと早く今みたいな関係になれて、結果的に沙耶加さんの付け入る隙はなかったかもしれないから」
「……アホ」
 俺は、愛の額を小突いた。
「なんでおまえはそうやってすぐに後ろ向きな考えを持つんだ?」
「そうは言うけど……」
「そりゃ、そうさせてしまう俺も悪いけど。でも、今のままだと俺になにもなくてもおまえのそういうところは変わらない、と思う」
「…………」
「って、別におまえを非難したいわけじゃないんだ。その、なんていうか……」
 ええい、適当な言葉が出てこない。
「俺が悪かった」
「洋一……」
 理由はどうあれ、こいつの笑顔を曇らせたのは俺だ。
「沙耶加ちゃんのことは今更取り消せないけど、今日はおまえだけだから」
「うん」
 愛は、くすぐったそうに微笑み、それから俺の隣に並んだ。
「じゃあ、行こ」
「ああ」
 そう。
 今日はクリスマスイヴ。
 聖なる日。
 特別な日。
 だから、今日はそれに相応しい日にしよう。
 
 一度家に帰り、着替えてからまた外に出る。
 今日は寒いので、防寒対策もバッチリだ。
 ダウンジャケットにマフラー、手袋、カイロ。
 これでも北風が吹くと寒いが、これ以上着ると動きにくくなるからしょうがない。
 そういえば、この前姉貴と美樹に選んでもらったショートブルゾンを下に着込んでこようかとも思ったけど、さらに動きにくくなったからやめた。
 お姫様を出迎えるために、森川家の呼び鈴を鳴らす。
 出てきたのはやっぱり愛美さん。いつもにこやかな人だけど、今日はそれ以上ににこやかだ。なにかいいことでもあったのか、あるのか。
「洋一くん」
「はい」
「ひとつだけ、お願いしてもいいかしら?」
 まだ準備に手間取っている愛を待っている間に、愛美さんにそんなことを言われた。
「お願い、ですか?」
「たいしたお願いじゃないのよ。今日の夜のことなんだけど、夕食、私たちと一緒に食べてほしいの」
「私たち、というのは、ひょっとして……?」
「私と、うちの人よ」
 その目的が見えないお願いだな。もう少し話を聞かないと。
「それはそれで構わないんですけど、どうしてですか?」
「理由はいくつかあるの。私個人の理由。あの人個人の理由。そして、私たち共通の理由。そのひとつひとつを説明するのはやめるけど、ただね、基本的にはどれも根本にあるものは一緒よ」
「…………」
 なんとなくわかるけど、それを素直に受け入れるべきなのだろうか。当事者である俺が言うのもなんだが、まだ結果はわからないのだから。
「今はまだ、深く考える必要はないのよ。娘がお世話になってるお礼、程度に考えてもらえばいいんだから」
 今は、か。確かに、そうかもしれない。
 先のことは考える必要はあるが、それはいつもではない。必要な時に必要な場所で、必要な答えを見つけ出せればいいのだ。
「そういうことだから、夕食までには戻ってきてね」
「わかりました」
 愛美さんがいつも以上ににこやかだった理由は、これか。
 本当に森川夫妻には可愛がられてるからな。以前は娘の友達、だったのが、今じゃ娘の彼氏だから。
「ああ、そうそう。あともうひとつ」
「なんですか?」
「あまり夜更かしはしないようにね」
 愛美さんは、少しだけ意地悪な笑みを浮かべてリビングへと消えた。
「はあ……」
 なんか、すべてを見透かされてるみたいでやりにくい。
 それからすぐに愛が準備を終えて下りてきた。
「どうしたの? なんか疲れてるみたいだけど」
「いや、それこそたいしたことじゃない」
「そう?」
 実際たいしたことじゃないと思っていたおかげか、愛もそれ以上は追求してこなかった。
「さてと、行くか」
「うん」
 
 クリスマスの繁華街は、まさにお祭り騒ぎだ。
 確かにクリスマスらしい飾り付けが施され、クリスマスソングがひっきりなしに流れているから、クリスマスだと認識できる。でも、それだけだ。
 この異様な盛り上がり方は、どう考えても祭に近い。
 日本人は祭好きが多いからしょうがないのかもしれないが、少し複雑だ。
「まさにクリスマスって感じね」
「ああ」
 白のダッフルコートを着込んだ愛が、白い息を吐きながら言う。
「……本当はね、去年もこうしてふたりで過ごしたかったの。みんなとわいわいやってても、頭の片隅では洋一のことばかり考えてたし」
「過ぎたことをいつまでも悔やんでてもしょうがないだろ」
「うん。だから、今年は今までの分を取り戻すくらいの勢いで過ごすの」
「ああ、そうしてくれ」
 こいつとなら、それも可能だろう。
 根拠などない。ただ、俺も愛もそう思っているから、そうなる。それだけだ。
「とりあえず、どこへ行く?」
「ん〜、別にこれといって行きたいところはないんだけど」
「じゃあ、まずは俺につきあってくれ」
 今回、俺が行きたいところはひとつだけだった。
 それは──
「ここって……」
 こぢんまりとした店内には、とても綺麗な『それ』があちこちに飾ってあった。
「おまえ、集めてただろ、こいつを」
 そう言って手近なものを手に取る。
 蓋を開けると──
「…………」
 涼やかな、軽やかな音色が耳に届く。
 そう。ここはオルゴール専門店である。
 オルゴールだけを売っている店はとにかく珍しく、それだけに品揃えはよかった。
 俺がここを選んだ理由は、愛へのクリスマスプレゼントを買うためである。本当は事前に買っておいて渡そうかとも思ったのだが、どうせならこいつの一番ほしいのを贈りたいと思った。
「タイミングとしてはどうかとも思うけど、おまえへのクリスマスプレゼントだ。好きなのを選んでくれ」
「えっ、でも……」
 愛が気にしているのは、値段だろう。
 確かに本格的なオルゴールは高い。俺の小遣い程度ではとても手が出ない。
 でも、こういう店にもお手頃なものはいくつもある。
「ほら」
「う、うん」
 愛は、遠慮しながらも、目の前の誘惑には勝てなかったようだ。
 愛は、いつからだったか忘れたけど、オルゴールを集めるようになった。別にしっかりしたものじゃなくても、それっぽいのでも集めている。
 趣味、というほどのものではないが、年にいくつかは増えていく。
 ちなみに、愛がオルゴールを集めていることを知っているのは、森川夫妻を除けば俺だけだったりする。言いふらすことでもないから当然なのだが。
 愛は、気に入ったデザインのものを手に取り、実際に曲を聴いて決めている。
 オルゴールは見た目もだが、やはりどんな曲が鳴るのかが重要だ。
「……ん〜……」
 数はたくさんあるのだが、ある程度俺にも手が出るものから選ぶとなると、それなりに大変だ。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「どうしてこれにしようと思ったの?」
「別に深い理由はない。ただ、せっかく贈るなら残るものの方がいいと思っただけだ」
「そっか」
 それを聞き、愛は嬉しそうに微笑んだ。
 なにがそんなに嬉しいのか、俺にはさっぱりわからん。
「洋一ってさ、たまに予想外のことをするよね」
「そうか?」
「うん。でも、それは私にとってはたいてい良い方にだから」
 俺の方へは振り返らず、愛は言う。
「今日もね、そうなの。プレゼントはもらえるだろうとは思ってたけど、まさかこんな形になるとは思ってなかったし」
「別に俺としては特別なことをしてるつもりはないんだがな」
「それでいいんだと思うよ。もし洋一が特別なことをしてるって思っちゃったら、きっとこんなに嬉しくないから」
 そう言って笑う。
「……いいから選べ」
「ふふっ、照れてる」
「うるせぇ」
 実際、俺には本当に特別なことをしているつもりはない。したいことをしている。ただそれだけだ。それで喜んでもらえるなら、それはそれでいい。
「……うん、これにしよ」
 それから少しして、愛は吟味を終えた。
「それでいいのか?」
「うん」
「じゃあ、ちょっと待ってろ」
 オルゴールと言われて一番最初に思い浮かぶ材料は、やはり木である。
 楽器として考えれば、木管楽器があるし、弦楽器も基本は木製である。そうなると、やはり木を材料に使うのがオーソドックスなのだろう。
 愛が選んだのも、そんな木製のオルゴールだった。丁寧な仕事が施された外側に、蓋を開けると小さな鏡がついている。
 鏡の両側には、妖精なのだろうか。小さな羽の生えた生き物が彫り込まれていた。
 曲は、なぜか『雨に唄えば』だった。
 明らかにあっていないのだが、愛がいいなら俺には文句はない。
 値段は、まあ、許容範囲だった。そのあたりはさすがは愛というところだ。俺の懐具合も理解している。
 プレゼント用に包んでもらい、とりあえず店を出た。
「じゃあ、愛。改めて」
「うん、ありがと」
 オルゴール自体はたいした大きさじゃない。小さな紙袋に入っているから、持っていても邪魔にはならない。
「洋一」
「ん?」
「私からのプレゼントは、家に帰ってからだから」
「ああ、別にいつでもいいけどな」
「んもう、そういうつれないこと言わないの」
 そう言いながらも、愛は笑っている。
「次、どこ行く?」
「別にどこでも」
「う〜ん、それじゃあさ、洋一に見てもらいたいものがあるんだけど」
「見てもらいたいもの?」
「うん」
 商店街を歩き、駅前まで出てくる。
 新興の駅ビルの中には、オフィスだけではなくブティックのような店も入っている。
 知る人ぞ知る、という場所なのだろう。
 愛は、そんな中のひとつの店に入っていった。
 店はそれほど大きくなく、それでいて明るさは十分だった。
 並んでいるのは、主に洋服。それにあわせたカバンや靴などもある。
「いらっしゃいませ」
 店員はふたり。どちらも女性で、おそらく店長と思われる三十代半ばの女性が奥に、二十代半ばか後半くらいの女性が手前にいた。
 お客は女性ふたりだけ。
 先客にも俺たちにも、その店員は近づいてこない。たぶん、それがこの店の方針なのだろう。
 愛は、店に入るとお目当てのものへ。
「で、俺はなにを見ればいいんだ?」
「ん、これなんだけどね」
 そう言って愛は、スカートを見せた。
 ロングのタイトスカートで、これになにをあわせるかで印象はずいぶん変わる。
「洋一はさ、こういうのとこういうの──」
 さらに、同じロングなのだが、普通の裾のスカートを手に取る。
「どっちが好き?」
 で、どっちが好き、ときた。
 それはつまりなにか。俺が嫌いだと言えば、たとえ愛がそれを気に入っていても選ばないということか。
 いやまあ、そのどちらを選んでも愛には間違いなくあうのだが。
「どっち?」
「……どっちもいいけど」
「ん〜、さすがにふたつ買う余裕はないのよね」
「余裕があったら、両方買うつもりだったのか?」
「うん。だって、洋一が好きだって言ってくれたものだから」
「…………」
 かなり心動かされることを言ってくれているが、よく考えるとそれはちょっとどうかと思う。
「ああ、心配しないでも無理や無茶はしないから。洋一が好きだって言ったからって、本当になんでもかんでも買わないし。そこはほら、私の主張もあるし」
「……ならいいけど」
 俺としては普段の愛のセンスに文句はないから、あえて俺が言わなくてもいいと思っている。というか、むしろそのせいで野暮ったくなったら俺の責任だから、やめたいくらいだ。
 だけど、そんな理由は愛には通用しないだろう。
「そういうわけだから、とりあえず今日のところはということで、どっちか選んで」
「それじゃあ……」
 ここでこれ以上議論しても無意味なので、俺が折れることにした。
「これだな」
「こっちね?」
 俺が選んだのは、最初に手に取ったタイトスカートの方だった。
 明るい色合いなので、今の時期よりは春の方があわせやすいかもしれない。
「……そっか、こっちか。なるほどね」
 愛は、改めてそれをあわせ、なにやら納得している。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
 そう言って、早速それを買ってしまった。
「なんというか……」
 愛らしい行動だ。
 
 とりあえずの買い物を済ませ、俺たちは再び街に繰り出した。
 とはいえ、もう目的はない。
 今日はとにかく『クリスマスを愛と過ごす』こと自体が目的なのだ。それがデートじゃなくてもいい。とにかく一緒にいることが大事だった。
 ただ、一緒にいるというのは実は結構難しい。なにもしないでいると間が保たないし、高校生である俺たちには先立つものがないから、金を使っての時間つぶしもできない。
 だからというわけじゃないけど、その中間のことをしているわけだ。
「ん〜……」
「どうした?」
 駅前を歩いていると、愛が難しい顔で唸った。
「あのさ、洋一って必要以上にベタベタするの、好きじゃないよね?」
「ああ」
「ん〜、そうるすと、ダメかなぁ」
 なんなんだいったい?
「とりあえず言ってみろ」
「えっと、手、繋いでいい?」
「手? 別にいいけど」
「違うの。普通に繋ぐんじゃなくて、こうやってね──」
 言いながら愛は、俺のジャケットのポケットに手を入れ──
「ポケットの中で手を繋ぐの。ほら、ドラマとかにあるでしょ?」
 確かにそういうのを見たことはあるし、実際にしている奴を見たこともある。
 だけど、これは歩きにくい。
「ダメ?」
 手を入れたまま、愛は上目遣いに訊いてくる。
「……おまえ、ずるいよな」
「どうして?」
「そんな風にお願いされて、俺が断れると思うか?」
「ん〜、どうかな」
 確信犯なのはわかってる。でも、それを許せてしまう俺も俺だな。
「いいけど、ちゃんとついてこいよ。このままだと歩きにくいんだから」
「うんっ」
 ダメだ。やはりこの笑顔には絶対に勝てない。
 嬉しそうな愛を見ていると、こっちまで嬉しくなる。
「あっ、そうだ」
 グイッと後ろに引っ張られるように、足を止めた。
「なんだ?」
「もうひとつだけ、行ってみたいところがあったんだ」
「どこだ?」
「ん、あっち」
 そう言って愛は、駅向こうを指さした。
 高架下を通り、反対側へと出る。
 こっちもクリスマス一色で、ここまでクリスマスが徹底していると辟易してくる。
 反対側の商店街に入り、少し歩いていく。
 一本路地を入り、見えてきたのは──
「喫茶店?」
 小洒落た感じの喫茶店だった。
 以前真琴ちゃんと行った喫茶店は表通りにある大きめの店だったが、こっちは中規模という感じで、落ち着いた佇まいを見せていた。
「美香さんに聞いたの」
「姉貴に?」
「うん。美味しい紅茶とケーキを出してくれる喫茶店があるって」
「それがここだと」
 看板には『ノエル』とあった。
「知ってる? このお店の名前、フランス語で『クリスマス』って意味なんだって」
 クリスマスに『クリスマス』という名前の喫茶店に来る、か。それはそれで面白い。
「ね、入ろ」
「ん、ああ」
 店内は外観そのままに、実に落ち着いた雰囲気だった。
 商店街はクリスマスのお祭り騒ぎだが、ここだけはその喧噪から隔絶され、本来のクリスマスの雰囲気を味わえる。
 こぢんまりとした店内だから、当然座席数も少ない。それでも俺たちが座る分は空いていた。
 落ち着いた感じのウェイトレスが俺たちを席に案内し、メニューを置いていった。
「で、どれがオススメだって?」
「えっと……これ」
 それは、まさにクリスマスに相応しいものだった。
「やっぱり『ブッシュドノエル』だって」
「店の名前でもあるからか?」
「たぶんね」
 店の名前を『ノエル』にし、一番のオススメを『ブッシュドノエル』にしてるということは、それだけ自信があるということか。なら、試してみる価値はあるな。
「じゃあ、それにしようぜ。紅茶は──」
 俺たちは『ブッシュドノエル』と紅茶のセットを頼んだ。
「あ、そういえば、洋一」
「なんだ?」
「家で私を待ってた間、お母さんとなに話してたの?」
 なんの話を振られるのかと思えば、それか。
 家を出る時に追求してこなかったから終わったもんだと思っていたけど。
「ん、たいしたことじゃない。今日、夕飯を一緒にってさ」
「えっ、そうなの? 私、聞いてないぃ」
 愛美さん、娘の愛に言う前に俺に言ったのか。なんというか、そそっかしい人だ。
「で、洋一はなんて?」
「別に断る理由もないから、受けたけど。まずかったか?」
「そんなことはないけど……なるほど、だからか」
「なにがだ?」
「お母さん、朝からめちゃくちゃ機嫌がよかったの。なんでかなぁってずっと考えてたんだけど、それを計画してたからだ」
「な、なるほど……」
「でも、洋一ってホント、お母さんのお気に入りよね。昔から洋一がうちに来てるとお母さん機嫌よかったし、たまに食事が一緒になるといつもより豪華になったし」
 それは愛に言われなくても自覚していた。
「やっぱりあれかな? 子供は私だけで、しかも娘だったから、洋一みたいな息子がほしかったということなのかな?」
「さあ、どうだろうな。でも、その可能性はゼロじゃない」
 実際、そういう話は聞く。口ではどっちでもいいとは言うけど、本当は男の子がほしかったとか、女の子がほしかったとか。
 うちは男女いるからそんなことはないけど、愛の家ならそうだろう。特に孝輔さんは男の子がほしかったと言ってはばからないし。
「まあ、いいや。じゃあ、夕飯はうちで食べるんだね」
「ああ」
「となると、それくらいの時間には帰らなくちゃいけない、ということか」
「そうなるな」
 もうひとつの話の方は、言わない方がいいか。
 それからすぐにケーキと紅茶が運ばれてきた。
 ケーキの方は、形はオーソドックスなものだった。切り分けてるから、それぞれに飾り付けが施されている。特に今日はクリスマスだから、ちゃんと『メリークリスマス』とチョコで書かれていた。
「あ、美味しい」
 ひと口食べ、愛はそう感想を漏らした。
 確かに旨かった。あの姉貴が勧めるだけはある。
「でも、これだけ旨いのに、この状況はどうしてなんだ?」
「あ、それはね、まだこのお店ができて間もないからだよ。それと、ほとんど宣伝もしてないから口コミで来た人か、たまたま入った人くらいしかいないし」
「そういうことか」
 それなら頷ける。
「ということは、そのうちほかの人気店みたいになるってことか」
「かもね」
 これだけのものを出すなら、間違いなく人気が出る。
 たいして大きな街じゃないけど、それでもマスコミに取り上げられるとこぞって人が来るから。
「ま、今はそんなこと忘れて、食べよ」
 確かに、あとのことを考えてもしょうがない。今は、人より先にこれを味わえることを感謝して。
 
 喫茶店を出る頃には、陽もだいぶ西に傾いていた。
 もともと寒い日だったけど、陽が傾いたせいでよけいに寒くなった。じっとしていると、足下からじわじわと冷えてくる。
 だからというわけでもないけど、俺たちは駅前をあとにして愛の家まで歩いていた。
 ちなみに、またもや愛が例の方法で手を繋いでほしいと駄々をこねたので、俺としては歩きにくい格好になっている。
「洋一はさ──」
「ん?」
「こんなこと考えたことある?」
 愛は、唐突にそんなことを言ってきた。
「どんなことだ?」
「もし、今隣にいるのが私じゃなかったら、って」
 少し俯いているせいで、愛が今、どんな表情をしているのかわからなかった。ただ、その声の感じからして、笑っているとはとうてい思えなかった。
「そうだな、そういうことを聞いてくるおまえには悪いが、ないな、そんなこと」
「えっ……?」
 俺の答えがよほど意外だったらしく、愛は弾かれたように俺の方を見た。
「なんだ、そんなに意外か?」
「う、ううん、そんなことないけど。でも、本当にないの? まったく? 全然?」
「全然ないということはないが、少なくとも今はない。俺の隣にいるのはおまえだけだ」
「洋一……」
 愛がなにを聞きたいか、それはわかった。
 愛はとにかく自分が想像していた以上に幸せだと、あとは不幸なことしかないと考えてしまう。だから、今だって俺とこうしているのが自分じゃなく、そう、たとえば沙耶加ちゃんだったかもしれないと考えているのだろう。
 だが、それはない。俺は自分で言うのもなんだが、そこまで器用な人間じゃない。目の前のことでいっぱいいっぱいになっている時に、ほかのことなど考えている余裕などない。
「おまえは、あるのか?」
 イヤな訊き方だ。
「……ない、って言いたいけど、やっぱりあるよ」
 愛は、下唇を噛みしめ、俯いた。
「洋一の隣に、私以外の誰かがいて、すごく楽しそうに話してるの。私はそれをなにもできずにただ見ているだけ。声は出ないし、動けもしない。だけど、頭の中ではしっかりいろいろなことを考えていて、どうしてあそこにいるのが私じゃないの? 私だってこんなに洋一のこと好きなのに、どうして私じゃないの? やっぱり、私にあと一歩の勇気がなかったから? 自分の気持ちに素直になれなかったから?」
 そこまで一気に言い、小さく息を吐いた。
「わかってる。わかってるの。そんなこと考えるだけ無駄だって。意味がないって。だって、今私は洋一の隣にいる。洋一のことを同じくらい好きな沙耶加さんじゃなく、私が隣にいる。これが現実。真実。事実。それでもね、考えちゃうの」
 絞り出すような声。心の奥の叫び。
 普段は決して表に出てこない、裏の想い。
「ねえ、洋一。私、洋一のなんなの?」
「彼女だろ」
「私、洋一の隣にいてもいいの?」
「いいに決まってるだろ」
「ずっと、ずっと一緒にいてもいいの?」
「当たり前だろ」
「絶対? 絶対?」
「ああ」
 俺は、返事と一緒に愛の手を強く握り締めた。
 だいぶ強い力で握ったが、今はその痛みが愛の現実になると信じている。
 俺は、ここにいる。
 それを伝えるための。
「洋一っ」
 愛は、そのまま俺の胸に飛び込んできた。
 ここが往来であることなど、端から頭にない。
「ごめん……ごめんね……こんな私で、ごめんね……」
「謝るなよ。おまえはなにも悪くないんだから」
「うん……うん……」
 愛は、泣かなかった。
 ただ俺にしがみつき、自分の想いと葛藤している。
 俺にできることは、この誰よりも大事な女を、優しく受け止め、抱きしめることだけだった。
 
 森川家に着く頃には、愛も落ち着きを取り戻していた。
 もっとも、さっきの反動からか、繋いでいるのが手から腕になったのだが、まあ、今日はしょうがない。
「ただいま」
「おじゃまします」
 玄関を入ると、途端にいい匂いが鼻孔をくすぐった。
 そのままリビングに上がる。
「お母さん、ただいま」
「おかえり、愛、洋一くん」
「あ、はい」
『おかえり』と出迎えられると、なんだかくすぐったい感じがする。
「お母さん。私、聞いてなかった」
「ん、なにを?」
「今日の夕飯を洋一も一緒に食べるって」
「あら、言ってなかった?」
「全然」
「そうだったかしら?」
 愛美さんは、本当に忘れていたようである。
 昔からそうだけど、この人はたまに天然でこういうことをする。だから憎めないんだけど。
「んもう、どうして娘の私より洋一に先に言うの?」
「それはやっぱり、洋一くんだからよ」
「なによそれ?」
「わからない?」
「全然」
「そう、残念ね」
 本気なのか冗談なのか、さっぱりわからん。
 この母娘は、普段からこういうやり取りをしてるからな。
「洋一くん。外は寒かったでしょう? 今、熱いお茶を淹れるから、座って待ってて」
「あ、はい、すみません」
「お母さんっ」
 なんというか、気疲れするやり取りだ。
 これを普段から目の当たりにしている孝輔さんは、どういう精神状態でいるのだろうか。今度一度、じっくり話を聞きたいものだ。
「むぅ、ホントにお母さんは……」
 コートを脱ぎ、愛はどっかとソファに座った。
 ここでなにか言うと、火に油を注ぐだけだから、黙っていよう。
 が、しかし、なにも言わなくとも火の粉が飛んできた。
「洋一も、いちいちお母さんの相手しなくていいの」
「いや、それはさすがに……」
 よく知ってるからこそ、ちゃんと相手しないとまずい。
 特に愛美さんは、うちの母さんや姉貴すら知らないことを知ってるから。
「むぅ……」
 曖昧な返事をしたせいか、こっちのお姫様はえらくご立腹のようで。
「洋一のバカ……」
 そう言いつつ、俺の方にしなだれかかってくる。
 というか、もはや自分で自分の体を支える気はないらしい。
 やれやれ。
 そこへ、愛美さんがお茶を淹れて持ってきてくれた。
 申し訳なさそうにお茶を置き、そのままなにも言わずに台所へ戻っていった。
「……あのさ、洋一。前から訊こうかなって思ってたんだけど、洋一って、お母さんのこと、好きなの?」
「……は……?」
 突然なにを言い出すのかと思えば。
「あ、別に恋愛対象って意味じゃないよ。純粋に異性として好きかってこと」
「そりゃまあ、嫌いになる要素はないけど」
 実際、愛美さんはちょっとお茶目なところはあるけど、良妻賢母の鑑みたいな人だ。そういう人を好きにならない方がおかしい。
 ただ、どうがんばっても恋愛対象とは思えない。やっぱり、もうひとりの『母さん』の位置にいるからだろうな。
「おまえなぁ、いくらなんでも実の母親に嫉妬するのはどうかと思うぞ」
「そんなんじゃないけど……なんとなく、ね」
 まったく、どうして俺のまわりにはこういう奴ばかりいるんだ?
「私って、洋一から見ても、嫉妬深いと思う?」
「思う」
「……そんな、即答しなくても……」
「いや、事実だからな。別に嫉妬が悪いとは思わないけど、さすがに度を超えると勘弁してほしい」
「そっか」
 嫉妬は、ある意味では愛情のバロメータでもあるから、一概にダメとも言えない。
 俺だって愛が誰かほかの奴と仲良くしていたら、気分が悪い。場合によってはあからさまに邪魔するかもしれない。
 それでも、限度というものがある。ただ単に嫉妬深い奴ということになると、さすがに手に負えなくなる。
 愛の場合はそこまでは至ってないけど、そうなる可能性はある。
「私もわかってはいるんだけど、ダメなの」
「まあ、慣れもあるんだろうけどな」
「慣れ?」
「頭ではわかってるんだろ?」
「うん」
「だったら、俺がほかの誰かと話していても、それは別になんでもないことだって、自分に言い聞かせ続ければいい。そうすれば次第にそういう些細なことでは嫉妬しなくなるだろ?」
「う〜ん、そうなのかな?」
 俺の解決策、とまでは言わないけど、打開策に首を傾げる。
「私だったらたぶん、その度にイヤなことばかり考えちゃいそう」
 ああ、こいつならその可能性の方が高いか。
「うん、でも、もう少しなんとかできるよう努力するから。じゃないと、洋一に愛想尽かされちゃうかもしれないし」
 こいつは、本当に……
「そうやって余計なことばかり考えるからだろうが」
「わ……」
 俺は、愛の頭を少し乱暴に撫でた。
「無条件で信用しろとは言わないし、言えない。だけど、もう少し楽観的になってもいいんじゃないか?」
「楽観的に、か」
 口で言うほど簡単なことじゃないけど、できないことじゃない。少なくとも俺は、それを実践している。
 愛を彼女にしている限り、それは続くだろう。そうしなければ、いつほかの誰かに愛を取られるんじゃないかと、びくついてなくちゃならない。
「少しずつ努力はするけど、やっぱり、洋一が私にそう思わせないでくれることが、一番手っ取り早いと思うけどね」
 そんなの当たり前だ。
 それができれば、誰も心配しない。
「とりあえず、今は私だけの洋一なんだから」
「お、おい……」
 言いながら、愛は俺の腰に抱きつく。
 これが俺たちふたりだけのシチュエーションなら嬉しいのだが、あいにくとここには愛美さんもいる。
「ごめんなさいね、洋一くん」
 案の定、見かねた愛美さんが声をかけてきた。
「ほら、愛。そういうことは時と場所を考えてしなさい」
「ちゃんと考えてるよぉ。今ここには私と洋一、それにお母さんしかいないんだから。誰に迷惑かけるわけでもないし」
「そういうことはね、普段からちゃんと考えてしてないと、変なところで出てくるものなのよ」
「むぅ……」
 愛は、本当に渋々俺から離れた。
「洋一くん、愛のせいで苦労してない?」
「いえ、そんなことはないですけど」
「この子、ひとりっ子のせいかものすごく甘えん坊だから。もう高校二年だっていうのにそれは変わらないし」
 こういう場合はなんと言えばいいのだろうか。愛美さんに同意すれば愛が拗ねるし、それを否定すれば愛美さんの口撃は止まないだろうし。
「本当に相手が洋一くんでよかったわね」
「それ、どういう意味?」
「洋一くんみたいに、愛のことをなんでも知ってる人じゃないと、一緒にいるのは大変ていう意味よ」
 うわ、いきなり懐に飛び込んで袈裟懸けだ。
「ふ〜んだ、私が好きなのは洋一だけなんだから、それでいいの。ほかの誰も好きにはならないんだから」
 そう言われて悪い気はしないけど……
「まったく、すっかり色ボケしちゃって」
 愛美さんは、半ばあきらめたようにため息をついた。
「洋一くんも、苦労するわね」
「は、はあ……」
 やっぱり、微妙だ。
 
 夕食は、それはもう豪華だった。
 どれが、ということはなく、どれも気合いが入っていて、これでもし俺が誘いを断っていたらと思うと、あまりの怖さに背筋が凍る。
 愛美さんは終始ご機嫌で、見ているこっちまでそんな気分になってくるほどだった。
 孝輔さんも機嫌はよかった。ただ、愛美さんがあまりにも機嫌がよかったせいで、孝輔さんの影はだいぶ薄かった。
 食事中の話題は、意外にも俺たちのことよりも全然関係ないことの方が多かった。とはいえ、まったく問題がなかったわけでもない。
 直接的な物言いではなかったが、愛の誕生日のことも訊かれた。もちろん、俺も愛も誤魔化すので精一杯だった。最終的には隠す必要などないのだが、少なくともアルコールの席で言うべきことではないと判断した。言えば、火に油を注ぐようなものだからだ。
 夕食後、とりあえず俺たちは解放された。
「はあ……」
「ふう……」
 部屋に戻るなり、俺たちはため息をつきつつベッドに座り込んだ。
「どうして食事だけでこんなに疲れてるんだろ」
「それを言うな……」
 森川夫妻に悪気はない。それは十分わかってる。でも、だからこそやっかいなのだ。
「お父さんもお母さんも、極端なのよね。そりゃ、洋一はふたりにとって『息子』みたいなものだから遠慮なしになるのはわかるけど」
「まあな」
 でも、それは裏を返せばそれだけ娘の愛のことを大事に想っていることの証明でもある。大事な娘だからこそ、その彼氏──この場合は俺だが──のこともあれこれ構いたくなる。それが、ふたりに認められていればなおのことだ。
「ま、いいや。とりあえず解放されたんだから」
 そう言いながら愛は立ち上がり、クローゼットを開けた。
「よっと」
 掛け声とともに出してきたのは、少し大きめな袋だった。
「はい、洋一。私からのクリスマスプレゼント」
「ああ、サンキュ」
 受け取ると、大きさの割りにずいぶんと軽かった。しかも、なんだか柔らかい。
「開けていいか?」
「うん」
 開けると──
「……おまえなぁ」
 俺は思わずそう言ってしまった。
「ん?」
「また無茶しただろ?」
「どうして?」
「どうしてって、決まってるだろうが」
 愛は、俺がどうしてそんなことを言うのかわかっていないようだ。
「これ、手編みだろ?」
「うん」
「で、先月にマフラーをくれたけど、あれも手編みだっただろ?」
「うん」
「この短期間でこれを仕上げるのは、編み物ができない俺でも大変さはわかるぞ」
 愛からのプレゼントは、手編みのセーターだった。
 だけど、マフラーより複雑な構造をしている関係上、時間もかかる。
「んとね、確かに大変は大変だったよ。実際、完成したのはおとといだし」
「だからおまえは──」
「でもね」
 愛が、俺の言葉を遮った。
「その大変さは、楽しい大変さなの。ひと編みひと編み、自分の想いを込めて、洋一のためだけに編んで。喜んでくれるかな。似合うかな。なんていろいろ考えながらね」
 とても穏やかな表情で言う。
 俺に、口を挟む余地などない。
「大好きな人のためになにかをする。大変なことも、楽しみに変えられる。それが、恋をしてるってことだと思う。もちろん、なにも考えずに立て続けにマフラーとセーターを編んでたら、途中で投げ出してただろうけどね」
「……なるほどな」
 確かにそうかもしれない。俺が愛の立場でも、同じことを考えただろう。
「愛」
「うん?」
「ありがとな」
「うん」
 こういう時じゃなければ、とても素直には言えない。
 茶化すのはいつでもできるけど、素直には、そうそうなれないから。
 
 穏やかな、緩やかな時間が流れていく。
 俺たちは、特になにをするでもなく、ただ寄り添い、ぽつぽつと話を続けていた。
「もうこんな時間か」
 時計を見ると、もう結構な時間だった。
「どうする?」
 訊くまでもないことだったが、それでも訊いた。
「どうするもこうするもないわよ」
 そう言って愛は、俺にしなだれかかってきた。
「いい、よね?」
 俺は、返事の代わりにキスをした。
「ん……」
 最初は触れるだけ。
 少しだけ離し、今度は舌を絡めるほどにしっかりと。
「……ん、む……は……ぁ……」
 愛の長い髪が、サラサラと流れる。
 俺は、その髪に手を添える。
 上から下へ。滑らかな、まるで絹糸のような肌触り。
「ん、洋一……」
 それだけで愛は、本当に気持ち良さそうな表情を見せる。
「愛」
「うん……」
 そのまま愛をベッドに横たわらせる。
 潤んだ瞳で俺を見つめ、そのしっとりと濡れた唇は、なにか言いたげにわずかに開かれている。
「洋一……」
 愛の手が、俺の頬に触れる。
 その手に俺の手を重ねる。
「本当に──」
「ん?」
「ずっとこんな時間が続けばいいのに……」
「ああ……」
 もう一度軽くキスをする。
「いいか?」
 愛は、小さく頷いた。
 俺は、ブラウスのボタンをひとつずつ外し、胸をはだけさせた。
 薄いピンクのブラジャーに包まれた胸が、呼吸のタイミングで上下する。
 全部脱がすのももどかしく、ブラジャーをたくし上げる。
「ん……」
 その綺麗な双丘が目の前にさらけ出される。
「あ……ん……」
 わずかに触れただけで、愛は敏感に反応する。
 すぐにでもむしゃぶりつきたいのを我慢し、そっと触れる。
「や、ん……」
 包み込むように両側から揉む。
 マシュマロのような弾力さが、少しずつ俺の感覚を麻痺させていく。
「ん……んふ……」
 少しずつ力を込める。
「あ、洋一……」
「どうした?」
「もう少し強くしてもいいよ」
「そうか?」
 言われるまま、もう少しだけ強くした。
「あっ、ん」
 形が変わるほど強く揉んでも、愛は痛がっている様子はない。
 むしろ、ピンと勃った乳首でもわかるように、感じているようだ。
「ん、あん……あっ」
 その乳首を指でこねると、それにあわせて愛の体が大きく跳ねた。
 こういうことをしてる時に変な話だが、胸をいじっているとそういう気分だけではなく、なんか、懐かしい、落ち着いた気分にもなる。それはたぶん、赤ん坊の頃の記憶なんだと思う。
 母親の乳房。
 たぶん、そんなところだ。
 生まれて間もない子供が一番心安らげる場所は、そこなのだから。
「あ、んっ、ん……」
 指から舌に変える。
 うむ、こうしてるとますますそんな気になる。
 本能的に『母親』を求めてるのかもしれないな。
 いや、まあ、実際に母さんにこんなことできないけどな。
「ん、はぁ、洋一……」
「ん?」
「今日は、私にもさせて」
「え?」
 言うや否や、愛は体を起こし、逆に俺をベッドに押し倒した。
「お、おい」
「んふふ」
 トロンとした表情で、妖艶に微笑む。
 愛は、そのまま俺のベルトに手をかけ、外してしまう。
 ここまで来れば、愛がなにをしようとしてるのかわかる。
「ん〜、と……」
 とはいえ、まだそういうことに慣れていない愛は、多少戸惑いも見せている。
 彼氏としては、どうするべきなんだろうな、こういう時は。
「洋一。ちょっとだけ、腰浮かせて」
「ん、ああ」
 言われるまま、腰を浮かせた。
 愛は、それを見計らって、ズボンを脱がせた。
「…………」
 葛藤してるのかもしれないな。
「無理しなくても──」
「ううん。大丈夫」
 頭を振る。
「洋一のためなら、なんでもしてあげたいから」
 そう言って微笑む。
 そんなこと言われたら、なにも言えなくなってしまう。
「じゃあ、するね」
 意を決して、と言えばいいのだろうか。愛は、トランクスに手をかけ、ずり下げた。
「わ……」
 されることを考えていたから、俺のモノはすでに大きくなっていた。
「……うん」
 小さく頷き、愛は俺のモノに触れた。
「……すごい……」
 なにがすごいのかは、あえて訊かないでおこう。
「こうすると、いいんだよね」
 俺に言いながら、自分で確認している感じだ。
 で、愛は、俺のモノをぎこちない手付きでしごき出した。
 おそるおそるという感じなので、それほどでもない。
「愛」
「ん?」
「もう少ししっかり握って、速く擦ってみてくれ」
「あ、うん」
 このままでもいつかは、とも思ったが、滑稽なくらいに一生懸命な愛の姿を見ているとアドバイスしたくなった。
 愛は、言われるままにモノをしっかり握り、さっきより速く擦った。
「っ……」
 そうなってくると、俺の方も感じてくる。
 明らかに俺の様子が変わったことに気をよくしたのか、愛は、さらに一生懸命に行為を続ける。
「気持ち、いい?」
「ああ、すげぇ気持ちいい」
「よかった……」
 自分でするとどうしても加減してしまうが、人がするとそれがない。それがさらなる快感を与えてくれるのだが、それをしているのが一番してほしい奴──この場合は愛だな──なら、なおのことだ。
「く……」
 ぎこちなさは抜けないが、それでも少しずつ慣れてきたのか、愛の方に余裕が出てきた。
「……ねえ、洋一」
「なんだ?」
「やっぱり、その……舐めた方が、いいのかな?」
 手を止め、怯えた子猫のような眼差しで訊ねてくる。
 ああ、それだけで俺はこいつを抱きしめたくなる。
「そ、それは、おまえが決めろ。俺は強要しない」
「そっか……」
 心の動揺を悟られまいとして、余計にどもってしまった。
「……こんなことするの、洋一にだけなんだからね」
 そう一応言い訳して──
「ん……」
 愛は、俺のモノに舌をはわせた。
「ん、く……」
 想像以上の快感に、さすがに俺も冷静さを失いつつあった。
 アイスキャンディーでも舐めるように、ペロペロと舐める。
 愛も、次第に感覚が麻痺してきたのか、舐め方も大胆になってきた。
 最初は舌先だけだったのだが、舌の半分くらいを使い、まんべんなく舐めてくる。
 そして、最後にはモノを口に含んだ。
 暖かな口の中で、俺のモノはもうはち切れんばかりになっている。
 愛がどんなものを見て『勉強』したのかは知らないが、自然と頭を上下させ、少しでも気持ちよくさせようとする。
 なんて冷静に分析してる場合じゃない。
「くっ、愛。そろそろヤバイ」
「ん……いいよ、そのまま出しちゃっても」
 その言葉で、俺の中でなにかがぷっつり切れた。
 たぶん、理性だろう。
 ずっと抗っていた射精感に、身を委ねていく。
「は……む……ちゅ……ん……」
 そして──
「愛っ」
「んんっ」
 俺は、愛の口内に精液を放った。
「はあ、はあ……」
 するのも気持ちいいけど、口でしてもらうのも気持ちいいんだな。そっち系のビデオなんかでそういうのが多いのも、なんとなく頷ける。
 と、愛が俺の袖を引っ張った。
「ん〜」
 どうやら、どうすればいいか迷っているようだ。
「無理すんな。出していいから」
 一瞬ティッシュに手が伸びかけたが、結局それは取らなかった。
「んっ……」
 愛は、そのまま俺の精液を飲んでしまった。
「けほっ、けほっ」
「だから無理すんなって言ったのに」
 むせてしまった愛の背中をさする。
「……だって、洋一のだし」
「だからってなぁ……」
 それ以上はなにを言っても無駄だろう。こいつは、そういう奴だ。
「気持ちよかったんだよね?」
「ん、ああ」
「そっか、よかった……」
 ホッと胸を撫で下ろす。
「これで少しはらしくなったのかな?」
「いいんだよ、そんなこと気にしなくても」
「だってぇ……」
 まったくこいつは……
「俺たちは俺たちらしく。それでいいんだって」
 言いながら俺は体を起こし、また愛をベッドに横たわらせた。
「……うん、そうだね」
 愛はわずかに逡巡したが、それでも頷いてくれた。
「じゃあ、今度は俺だな」
 早速俺は、愛のズボンを脱がせた。
 ズボンを脱がすと、愛はわずかに体をよじった。
「どうした?」
「あ、う、ううん、なんでも、ないの」
 言いながら、視線を逸らす。
 なにかあると思いつつも、俺は行為を続けることにした。
 が、その理由はすぐにわかった。
「なるほど」
「な、なにがなるほどなの?」
「いやいやいや、愛もかなりのスケベだと思ってさ」
「ううぅ……」
 俺がそう言うのにも理由がある。それはまだ触れてもいない愛の下半身、ショーツがしっとりと濡れていたからだ。
「だ、だって、胸、いじられてたし、それに……洋一のをしてる時に、その……感じてたから……」
 しどろもどろに言い訳する姿が、なんともカワイイ。
「じゃあ、俺がもっと感じさせてやるよ」
「あ……うん」
 ショーツを脱がせ、直接秘所に触れる。
「あ、んっ」
 ショーツが濡れていたことで結構そこも濡れているとは思っていたが、実際触れてみるともうなにもしなくてもいいくらいだった。
「もうこんなになってるぞ」
「や、やん……見せないで……」
 すっかり濡れてしまった指を愛に見せる。
 してもらうのもいいが、やっぱりこっちからする方がいいな。
 俺は、愛の秘所に指を挿れ、小刻みに動かした。
「んんっ、や、そんなに……ああっ」
 すぐにちゅくちゅくと湿った音が耳にまで届くようになった。
「よ、洋一……ダメ、もう我慢できないよぉ……」
 半分泣き出しそうな顔で、懇願する。
「わかった」
 俺は財布の中からゴムを取り出し、モノに装着した。
「いくぞ」
「うん……」
 挿れる時、愛は必ず目を閉じる。
 最初の記憶が鮮明なのか、理由は定かじゃない。
 そして、モノが入ると、うっすらと目を開け、俺を見つめる。
 俺は、それを確かめてから動き出す。
 なんとなくそうするべきだと思っているからだ。
「あっ、んっ」
 愛も、最初に比べればずいぶんと感じてくれるようになった。
 まだ多少きつそうな表情も浮かべるが、それも徐々になくなってきている。
「んんっ、洋一っ」
 愛が、俺の首に腕をまわしてくる。
「愛っ」
 もうあとは本能のままに。
 俺も愛も、ただひたすらにお互いを求め合う。
「あっ、あっ、あっ、んっ」
 そして、次第に高まっていく。
「やっ、んんっ、私っ、なにかきちゃうっ」
 誰にも止めることはできない。
「洋一っ、洋一っ」
「愛っ」
 そう、誰にも──
 
 結局、その後も愛にねだられ、もう二度ほどセックスしてしまった。
 なんというか、そういう雰囲気の時に可愛くねだられると、絶対に断れない。
 それはきっと俺だけではないはずだ。たぶん。
 で、そのお姫様はひとり気持ち良さそうに眠ってる。
「本当に、幸せそうな顔しやがって」
 なんとなく悔しくて、頬をつつく。
「ん……」
 わずかに身をよじるが、起きる気配はない。
「ちょっとのどが渇いたな」
 愛がまだ起きそうにないのを確かめ、俺はベッドから出た。
 一度服を着て、部屋を出る。
 まだ日付は変わっていないが、だいぶ遅い時間だ。
 家の中も静まりかえっている。
 一階に下りてくると、リビングから明かりが漏れていることに気付いた。
 人の家なのでそのまま素通りもできず、様子を見ることにした。
「あら、洋一くん」
 と、そこには愛美さんがひとり、グラスを傾けていた。
「どうしたの?」
「のどが渇いたので」
「そう。じゃあ、少し待ってて」
 そう言い置いて、愛美さんは台所へ。
 仕方なしに、俺はソファに座った。
「はい」
 少しして、俺の前にコップが置かれた。
「レモン水よ」
「いただきます」
 冷たいレモン水が、胃の中へ落ちていく。
「ふふっ」
 愛美さんは、そんな俺の様子を見て微笑んだ。
「そういえば、愛は?」
「えっと、寝てます」
「あらあら。あの子ったら」
 困ったわね、と言って微笑む。
「ねえ、洋一くん」
「なんですか?」
「洋一くんは、どうしてうちの愛を選んでくれたの?」
 少しだけ真剣な表情で訊ねてくる。
「まわりには、愛よりも魅力的な女の子、いるでしょ? なのに、洋一くんは愛を選んでくれた。もちろん、あの子の母親としては嬉しいんだけどね」
「……そうですね、俺としては選んだつもりはないんですよ」
「そうなの?」
「強いて言えば、最初から愛を選んでいた、という感じですね」
 そう。姉貴を除けば、愛が俺の初恋の相手で、最初に本気で好きになった相手だ。そこにはほかの誰もいなかった。最初から愛だけだったのだ。
「確かに、愛と洋一くんはいつも一緒にいたものね」
「そうですね」
「昔ね、愛に訊いたことがあるの」
「なにをですか?」
 愛美さんは、にっこり笑って言った。
「洋ちゃんのこと、好きって」
「…………」
「そしたらね、あの子、なんの迷いもなく答えたわ。うん、大好き、って。たぶんその時には単なる好き嫌いで言ったんだと思うけど、でも、その好きは今の好きに繋がってると思うわ」
 愛のことを話す愛美さんは、本当に楽しそうだ。
「だからね、洋一くん」
「はい」
「あの子のこと、本当にお願いね。たぶん、もう洋一くんにしかお願いできないから」
「それは……」
「別に今すぐどうこうということではないから。でもね、これから先もずっと、愛の側にいてくれると、嬉しいわ」
「……はい」
「ありがとう、洋一くん」
 愛美さんは、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「そのうち、洋一くんともお酒を酌み交わすようになるのかしらね」
 グラスにお酒を足しながら、愛美さんは言う。
「でも、時の流れって本当に速いわよね。愛も洋一くんも、ついこの間までこんな小さかったのに」
 ……いや、そこまで小さかったのは、それこそずいぶん昔なのだが。
 愛美さんが『こんな』といって手を出したのがあまりにも小さかったので、つい心の中で突っ込んでしまった。
「今じゃ、洋一くんなんて私よりも背は高いし、ずっと大人になっちゃって」
「そんなことはないですけど」
「ふふっ、そうじゃなかったら、こんな時間にうちにいないでしょ?」
「…………」
 ぐうの音も出なかった。
「ああ、別に責めてるわけじゃないのよ。ふたりとも、もうそんな年になったんだと思っただけ」
 アルコールが入っているせいか、愛美さんはいつも以上に上機嫌だった。
「あ、時間といえば、大丈夫なの、こんな時間まで」
「ええまあ、大丈夫です。遅くなるとは言ってありますから」
「泊まる、とは言ってないのね?」
「状況によって、とは言いましたけど」
「じゃあ、どうするの? 今のうちに帰れば、まだ今日中だけど」
 それは確かにそうなのだが、あいつになにも言わずに帰るのは、さすがにまずいだろう。
「いえ、今日は泊まらせていただきます」
「そう?」
「あいつを、そのままにはしておけないので」
 そう言って俺は、二階を指さした。
「優しいのね」
「そんなんじゃないですよ」
「いいのいいの」
 まあ、俺がどんなに反論したところで愛美さんに勝てるわけもないのだが。
「さてと、私はそろそろ寝るわね」
「あ、じゃあ、俺も」
 残っていたレモン水を飲み干し、コップを愛美さんに手渡す。
「洋一くん」
「はい」
「本当に、ありがとうね」
「はい」
 俺にはそのありがとうの本当の意味するところはわからなかったが、それでも素直に頷けた。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 リビングを出ると──
「愛」
 階段の一番下のところに、愛が座っていた。
「とりあえず、部屋に戻ろ」
 愛はそれだけ言って、階段を上がっていった。
 
 部屋に戻ると、愛は小さくため息をついた。
「本当はね、リビングに入ろうと思ったの」
「本当は? じゃあ、なんで入ってこなかったんだ?」
「だって、洋一とお母さんの話を聞いてたら、入れなくなっちゃって」
 またもため息をつく。
「確かにああいう話は本人のいないところでするものだけど、やっぱりねぇ……」
「おまえ、どこから聞いてたんだ?」
「んっと、お母さんが私の昔のことを話してたあたりから」
 ということは、ほとんど聞いてたということか。
 だとしたら、そういう風に思ってもしょうがないか。
「洋一」
「ん──って、なんだよ、いきなり」
 愛は、俺に抱きついてきた。
「洋一、さっきの会話の意味、ちゃんとわかってる?」
「……ん、ああ、わかってる」
「ホントに?」
「本当だって」
「そっか……」
 それを確かめると、愛は目を閉じた。
 俺は、愛の髪を撫でる。
「昔ね、洋一が私に約束してくれたことがあるの」
「それって、あれか?」
「ん?」
「修学旅行の時に聞いたあの話か?」
「うん」
 ここに至り、愛はそのことを話す気になったらしい。
「洋一はすっかり忘れちゃってるけど、私にとっては、たぶん、一生忘れられないできごとだから──」
 そう言って愛は、語りはじめた。
 
 それは、高村家と森川家が揃って旅行に出かけた時のこと。
 昔から家族ぐるみでつきあっていた両家だが、旅行に出かけたのは実ははじめてだった。
 行き先は、房総。夏休みの数日間をそこで過ごした。
 そのうちのある夜。
 洋一と愛は、たまたま夜をふたりだけで過ごすことになった。本当なら姉の美香や妹の美樹と一緒だったのだが、たまたま美樹が熱を出してしまい、移るのを防ぐためにふたりは別の部屋で寝ることになった。
 美樹の熱自体はたいしたことはなく、次の日には治った。実際、大人たちはそこまで心配はしておらず、その夜も揃って話に花を咲かせていた。
 そんな状況で洋一と愛は、ふたりだけだった。
「ほら、愛。もう寝るぞ」
「ええ〜っ、まだ大丈夫だよぉ、洋ちゃん」
「俺は眠いんだよ」
「でもでもぉ……」
「電気、消すからな」
「えっ、あっ、ちょ、ちょっと待って」
 洋一がそう言うと、愛は慌てて自分の布団に潜り込んだ。
 電気を消し、洋一も布団に入った。
 旅館の一室である。普段寝起きしてる部屋よりもずっと広い。
 また、慣れない部屋で、妙にあちこちが気になる。
 最初のうちはふたりとも静かにしていたのだが、次第に愛の寝返りの回数が多くなる。
「ねえねえ、洋ちゃん」
「……なんだよ?」
「お話ししようよ」
「そんなの明日だってできるだろ?」
「で、でもぉ……」
 眠たくてしょうがない洋一は、愛の言うことをすげなく却下した。
 それからまた、少しだけ静かな時間が流れる。
 時折部屋の外から物音が聞こえてくるのだが、過敏になっている愛には、いろいろな想像をかき立てるのに十分な音だった。もちろん、それはそういう音ではない。冷静になって考えればすぐにわかったことだった。
 愛は、少しずつ洋一の方へ近寄っていった。
 布団は隣り合わせに敷いてあるので、本当に手を伸ばせば届く距離だった。
「…………」
 布団の中で手を伸ばし、洋一の布団の中に手を入れる。
「…………」
 すぐに洋一の手は見つからず、探していたら──
「っ」
 不意に、洋一の手に触れた。
 なにが起きたのかと思った洋一は一度手を引っ込めたが、ものすごく真剣な、そして泣きそうな顔で洋一を見つめている愛の顔を見て、手を戻した。
 そして──
「……洋ちゃん?」
 洋一はなにも言わず、愛の手を握った。
「怖いことなんてないからな。俺が一緒にいるから大丈夫だ」
 それは、耳を澄ませていないと聞こえないくらいの声だった。
 でも、愛の耳にはちゃんと届いていた。
「……ありがと、洋ちゃん」
 嬉しそうに笑顔を見せる愛に、洋一はただ黙っているだけだった。
 手を繋いだおかげで、愛も落ち着いたようで、不安な気持ちはかなり払拭されていた。
 だからだろうか。そういう特殊な環境下で愛は、心の奥底に秘めていた小さな『想い』を吐露した。
「ねえ、洋ちゃん」
「なんだよ?」
「洋ちゃんは、愛のこと、好き?」
「は……?」
「だからぁ、愛のこと、好き?」
「そ、そりゃ……嫌いじゃないけど……」
「それって、好きってことだよね?」
「さ、さあ……」
 小学生の洋一にとって、そういう話題はあまりしたくない、してこなかったことだった。特に洋一は学校でも愛と一緒にいることが多く、冷やかされることが多かった。
 誰でもそうなのだが、そういうことをされるとどうしてもムキになってしまい、心にもないことを言ってしまったりやってしまったりする。
 それは洋一もそうだった。ただ、心のどこかではそうすることのバカらしさも理解していた。だからこそ、愛に訊かれてもはぐらかさず、遠回しながらちゃんと答えたのである。
「うん、愛もね、洋ちゃんのこと、好き」
「…………」
「それでね、愛ね、お姉ちゃんに訊いたの」
「なにを?」
「愛も洋ちゃんも好きだったら、どうしたらいいのって。そしたらね、お姉ちゃん、ふたりともが大好きだったら、結婚するんだよって教えてくれたの」
「けっこん?」
「うん。お父さんとお母さんになることだよ」
「結婚、か……」
 洋一も愛も、言葉では結婚のことは知っていても、なにがどういうことなのかまではちゃんとは理解していなかった。
「だからね、洋ちゃん。おっきくなったら、愛と、結婚してくれる?」
 愛は、なんの躊躇いもなくそう言った。
 それに対して洋一は──
 
「洋一ね、条件付きで約束してくれたの」
「条件付き?」
 愛は、その時を思い出すように言った。
「愛が『いい女』になってたら、結婚する」
「…………」
「私も洋一もどんな人が『いい女』なのかわかってなかったんだけどね。それでもね、私、そう言われてすごく嬉しくて、絶対に『いい女』になるって言ったの」
 愛の性格からすれば、そうだろうな。
 って、ちょっと待て。ということはなにか?
 つまりこいつが『いい女』になったなら俺たちは──
「ねえ、洋一。私、『いい女』になれたかな?」
 真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。
 その瞳は、昔から変わっていない。いつも真剣で、いつも真っ直ぐで。
「どう、かな?」
「……愚問だ」
「えっ……?」
「なんで俺はおまえに告白したんだ? なんで俺たちは今、つきあってるんだ? なんで俺はおまえを抱いたんだ?」
「それは……」
「そんなの決まってるだろ。おまえが『いい女』だからだよ」
「洋一……」
 たぶん、今日、この場所でこれを言うことは、約束したその時から決まっていたんだろうな。
「それじゃあ、洋一。いいの……?」
「約束、だろ?」
「うん……うん……」
 愛の目から、涙がこぼれる。
 でも、その涙は哀しみの涙じゃない。
 泣き笑いの表情を見せる愛を、俺はしっかりと抱きしめた。
「まさか、こんなに嬉しいクリスマスになるなんて思ってなかった」
「よかったじゃないか」
「うん」
 俺だって、こんなクリスマスになるとは思ってなかった。
 でも、愛とだったらそうなってもいいと、本気で思っている。
 それはきっと、まだふらふらしてる俺への警告でもあったのかもしれないな。
「大好きだよ、洋一」
 
 そして俺たちは、はじめてのキスを交わした。
 そう。彼氏彼女の関係ではなく、婚約者としてのはじめてのキスを──
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