恋愛行進曲
第一章 スタート
一
「さぁて、何組かな?」
俺は、校門のところで配られたプリントに目を通した。
「えーっと、高村……高村……おっ、あった。三組か」
今日は二年になって最初の登校日。というわけで、クラス分けの発表なんかがあり、とはいえそれ以上なにかがあるわけでもない、楽な日だ。
「ほかの連中はどうかな」
「洋一っ」
ほかの連中のことを調べようと思ったら、声がかかった。
「よお、洋一。どうした、変な顔して?」
このいかにも間抜けそうな奴は、一応俺の親友を名乗ってる奥原亮介だ。
髪を若干脱色し、見た目通り軽い奴でもある。
「いや、別に。朝の、しかも新学期の一番最初に会ったのがおまえだったからな」
「だから嬉しかった。そういうわけだろ?」
……こういうことをマジで言うから、俺もこいつを責められない……はあ。
「とりあえずそういうことにしといてやるよ。ところで、おまえは何組なんだ?」
「俺か? 俺は二組だ」
ラッキー。こいつは悪い奴じゃないんだが、四六時中一緒にいたいと思えるほどの相手でもない。だから、クラスが別なのはラッキーだ。
「なんだ、嬉しそうな顔して。そんなに俺と分かれて嬉しいのか?」
「そうじゃないけどさ」
「ふ〜ん」
まったく、普段はなにを考えてるんだからわからないのに、妙に感が鋭い時があって、こういう奴はホントに困る。
「俺は三組だから、隣だな」
「おう、毎時間遊びに行ってやるぜ」
「来なくていい、来なくていい」
「そうか、残念だなぁ……」
だからってホントに淋しそうな顔するなよ。まったくこいつは……
「あれ、そういえば……」
亮介は突然なにかを思い出したかのように、キョロキョロとあたりを見回している。
「どうした?」
「ああ、今日は愛ちゃんの姿がないなぁ、って思ってさ」
「……愛、か」
「どうかしたのか?」
「い、いや、別になんでもない……愛は、今日は一緒じゃないんだ」
「どうしてだよ?」
いつも以上にしつこく訊ねてくる亮介。普段ならさらっと流すくせに。
「ん、確か……」
また突然なにかを思い出したようだ。プリントを見ている。
「おっ、あったぞ」
「なにがだよ?」
「ほら、ここ見てみろよ」
そう言われて俺は亮介が指さしたところを見た。
「三組って俺のクラスじゃないか……森川、愛。それが──な、なんだとぉっ!」
俺は亮介からプリントを引ったくった。
「お、おい、どうしたんだ?」
そこには確かに『森川愛』と記してあった。
「……愛と一緒か」
「なんだ、嬉しくないのか?」
まったく、今日は余計なことしか聞かねぇ。
「……亮介」
「ん、なんだ?」
「しばらくひとりにしてくれ……」
そう言って亮介に背を向けた。
「ああ、わかった……って、おい、洋一っ」
後ろで亮介がなにか言ってるが、俺は無視して校舎に入った。
昇降口で靴を履き替え、階段を上がっていく。
こういう時に行く場所は決まっている。
少し重い扉を開けると、春の陽差しが一瞬、目をくらませた。
屋上は、相変わらず人がいなかった。
「はあ……」
フェンスにもたれかかり、ため息をつく。
「……どうしてこうなるんだ……」
俺は亮介から引ったくったプリントを見た。何度見ても、二年三組に『森川愛』の名前があった。
「愛と一緒なんてな……」
俺の名前は、高村洋一。この春、高校二年になった。
そして、さっきから名前が出ている森川愛は、俺の幼なじみだ。家が近いせいもあって、ガキの頃からいつも一緒だった。
俺と愛は、まるで兄妹のように育った。俺には三つ上の姉貴がいるけど、それにも増して仲が良かった。まあ、小学校、中学校の途中まではそれでもよかった。
だけど、俺はいつしか愛をひとりの『女』として見るようになった。そりゃ、最初から露骨にそんなそぶりは見せなかったけど。
高校に入学し、二年に上がるのを機に、俺は一大決心をした。
そう、愛に告白したのだ。
だが、結果は──
そんなわけで、いつもは一緒に来る愛とわざと時間をずらし、ひとりで学校へ来た。
なのに、それなのに……
「あら、洋一くん?」
と、屋上に涼やかな声が響いた。
「……由美子先生」
「どうしたの、こんなところで? それに、なんか暗いわよ」
この人はうちの高校の保健教師、広瀬由美子先生だ。その美しい容姿で男子生徒を虜にするという噂すらある、本当に綺麗な先生だ。
「……別になんでもないです」
「あら、なんでもない人がそんなに暗い顔、してるかしら?」
由美子先生はそう言いながら、俺の隣に寄りかかった。
「なにか悩んでるなら、話してみたら? 力になるわよ」
そう言って微笑む由美子先生。
う〜ん、話した方がいいのか、悪いのか。
「話した方が楽になるわよ。だからね?」
……よし、話そう。由美子先生なら誰かに言うこともないだろうし、なにより親身になって考えてくれるだろう。
「……実は──」
俺は、由美子先生に事情を話した。普段以上に真剣に話したからか、由美子先生も熱心に耳を傾けてくれた。
「……そうだったの」
聞き終わると、由美子先生は小さく息を吐いた。
「まさか洋一くんまで……」
「えっ、今なんて?」
「い、いいえ、なんでもないのよ」
確か、洋一くんも、って言ったような。
「洋一くん」
「は、はい」
「あまり深く考えない方がいいわ」
「で、でも……」
今までなかったことに直面し、俺はどうしたらいいかわからない状況だった。だから、いつもより弱気になっていた。
「森川さんとは今まで通りに接していればいいのよ。特に変わったそぶりを見せない方がいいわ。あなたにとっても、森川さんにとってもね」
「……できない時は?」
「やるのよ。洋一くんの口癖でしょ? 『やればできる』って」
……痛いところを突いてくる。確かに俺の座右の銘は『やればできる』だった。実際、普段は成績も並みの上くらいの俺でも、やった時はかなり上位に食い込める。まさに『やればできる』の実践だった。
「いい、やるのよ。それでも悩みがあるなら、また私のところへ来ればいいわ。いくらでも聞いてあげるから」
ううぅ、由美子先生は優しいなぁ。
そんな先生に言われて、そうしないわけにはいかない。
「……わかりました。努力してみます」
「わかってくれればいいのよ。がんばるのよ。私も応援してるから」
「……はい」
「ほぉら、暗いぞ。いつもの洋一くんはどうしたの? そんなんじゃ、新しいクラスで笑われるわよ」
本当に優しいなぁ。まさに『理想のお姉さん像』にぴったりだ。
「あら、そろそろ戻らないといけないわね」
腕時計を見ながらそう言う。
「ほら、洋一くんも教室に戻りなさい」
由美子先生は扉の方に歩き出した。
「しっかりね」
そして、扉を閉める直前に微笑んでくれた。
う〜ん、これはやるしかないか。
「よしっ」
俺はかけ声ひとつ、教室へ向かった。
二
「あれ、そういえば由美子先生、どうして屋上に来たんだ……?」
「由美子先生がどうしたって?」
「……亮介」
間の悪い時に会いたくない奴に会うことは多いとは聞いていたが、本当にそうなるとはな……
「いや、たいしたことじゃない。気にするな」
「そうか。なら、俺行くわ」
「あ、ああ」
そう言って亮介は自分の教室に入っていった。
「俺も行くか」
二年三組。これから一年間を過ごす教室だ。
「洋一」
教室に入ろうとしたところで、呼び止められた。しかも、この声は──
「……愛」
声の主は俺の幼なじみ、森川愛だった。
「おはよ」
「お、おはよう」
く、まともに顔を見られない。
「今日はどうしたの? 先に行っちゃって」
「……悪い、今日は早く来たかったんだ」
「ふ〜ん……」
愛は、それ以上は特に聞いてこなかった。
すまん、本当は違うんだ。
「そういえば、今年は同じクラスね」
「そ、そうだな……」
「担任の先生は誰かな?」
「そ、そうだな……」
くそ、これ以上話していると、余計なことを口走りそうになる。
「おはよう、森川さん、高村くん」
「あっ、おはようございます、斎藤先生」
「おはようございます」
助かったぁ、ナイスタイミングだぜ、優美先生。
「さ、教室に入って。はじめるわよ」
「先生が担任なんですか?」
「そうよ。さ、入って」
俺と愛は、先生に背中を押され、教室に入った。
二年三組の担任は、国語教師、斎藤優美先生だ。保健の広瀬由美子先生とうちの高校で美の双璧を為している、とっても綺麗な先生でもある。
優美先生が担任というのは、ラッキーだ。
「はい、この通りに座って」
先生はその抜群のプロポーションをわざと隠すかのような、いかにも教師という格好をしている。
黒板にとても綺麗な字でこれからの座席を記した。
「俺の席は、と……あった。ラッキー、窓際だぜ」
俺の席は窓際の真ん中より少し後ろの、最高の場所だった。
「隣は……」
ふう、なんとか最悪の事態だけは避けられたな。よしよし。
「その席でいいかしら? もし不都合があれば替わってもらうけど」
「先生」
と、俺の隣の奴が手を挙げた。
「黒板が見にくいんですけど……」
まあ、そう言う奴はいるんだよな。で、この列の前は……うがっ!
「そう、じゃあ──」
「先生、私が替わります」
ヤバイ、ヤバすぎる。このままでは──
「そう、じゃあ、森川さんと伊藤さん、席を替わって。ほかにはいるかしら?」
事態急変。緊急事態。阿鼻叫喚。生き地獄……
「隣だね、洋一」
「あ、ああ……」
ど、どうしてこうなるんだ? 同じクラスというだけでかなり参っているのに、その上席まで隣なんて……この世に神はいないのかっ!
「どうしたの、洋一?」
はっ、取り乱してしまった。
「い、いや、なんでもない」
俺は慌てて頭を振った。
愛は不思議そうに首を傾げていたが、すぐに先生の話がはじまったのでそれ以上はなにもなかった。
それから簡単に優美先生が話をして、始業式が行われた。
しかし、俺の頭の中にはこれからどうやって一年間を過ごしていくか、そんなことでいっぱいだった。
「ねえ、洋一」
「なんだ?」
「どうしたの、今日はなんか変よ」
「……そうか?」
始業式が終わり、教室に戻るなり愛はそんなことを聞いてきた。
「あ、そうだ。ねえ、洋一。今日、ちょっと時間ある?」
「時間?」
「うん、ちょっと洋一に手伝ってほしいことがあってね」
う〜ん、ここで断るのは簡単だが、あまりいつもと違うように接するとこれから先も気まずくなるからな。由美子先生も言ってたし。しょうがない。
「ああ、いいぜ」
「ホント? ありがと」
ううぅ、そんな子供みたいな無邪気な笑顔を俺に見せないでくれ。
「じゃあ、今日は一緒に帰ろうね」
「あ、ああ……」
……ダメだ。俺は愛のこの笑顔には勝てない。なんと言っても、凶悪に可愛すぎるのがいけない。
ここではっきり言っておこう。俺に女性を見る目があるかどうかはわからないが、愛ははっきり言って『超』がつくくらいカワイイ。だから、当然男どもの憧れの的だった。
だが、愛はしょっちょう俺と一緒にいたもんだから、男どもは勘違いしてあきらめたらしい。だからこそ俺は──
……もうやめよう。虚しくなる。
三
「俺、なにやってんだろうな……」
俺は今、下駄箱のところにいる。
今日は始業式だったから授業はなく、早く帰れるのである。
そんな時に口をついて出たのが、さっきの言葉だった。ふられた女を手伝うために律儀に待っている。本当になにやってんだか。はあ……
「それにしても、遅いなぁ……」
愛は今、優美先生に呼び出されている。なんの用かは知らないけど、まあおそらくクラスのことだと思う。
「もう少しかかりそうだな」
俺は校庭に出た。
この時間だとまだどこも部活をやってないから、校庭にはほとんど誰もいない。
「おっ」
都合よくサッカー部のしまい忘れたボールが落ちていた。
「ちょっとやるか」
カバンをその辺に放り出し、ボールを蹴りはじめた。自慢じゃないが、俺はスポーツはあるものを除いてなんでも得意なのだ。もちろんサッカーも。
軽くリフティングし、ドリブルからのシュート。
「っ!」
ボールは弧を描き、ゴールに吸い込まれた。
「ふう……」
「やっぱりすごいね」
不意に声をかけられた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いや、別にいいさ」
声をかけてきたのは愛だった。少しだけ申し訳なさそうに謝る。
「洋一は、なにをやっても上手よね」
「そんなことないさ」
俺は愛からカバンを受け取りながらそう言った。実際『なにをやっても』ではないから、間違いではない。
「じゃあ、行こうぜ」
「うん」
俺たちの学校はちょっと小高いところにあって、学校への坂道には桜の木が植えられている。少し前までなら、絶好のお花見スポットだった。
「なあ、愛。俺に手伝ってほしいことってなんなんだ?」
「あ、うん……」
「どうした?」
「なんでもないよ。とにかくうちに来ればわかるから」
そのこと自体にはあまり触れてほしくないらしい。
だけど、変な奴だな。ひょっとしたら、相当大変ことなんでは。だから、今言って帰られては困るから言えないとか。
それはそれでイヤだけど、一度引き受けてしまったわけだから、今更断るなんてことはしない。
しょうがない、話題を変えよう。
「ところで、優美先生はいったいなんの用だったんだ?」
「あのね、私にクラス委員をやってほしいって」
「やっぱりか」
そんなことだと思った。愛は成績もいいし、人付き合いもいいから、クラス委員には適役だ。
「……それでね」
と、愛は少しだけ声音を落とした。
「先生ね、クラス委員を洋一と一緒にやってほしいって言うの……」
「は? マジか?」
冗談じゃない。俺はそういう責任を負うことが大嫌いなんだ。今までもそういうことから逃げまくってたし。
「うん、洋一が嫌がるのわかってたから、先生には言ったんだけど……」
「それで?」
まあ、愛ならそれを理解してて当然だな。
「そしたら、逆に私から洋一に頼んでほしいって……」
「俺はやらないぞ」
俺は即座に断った。愛には悪いけど、イヤなものはイヤだ。
「……そうだよね。洋一はそういうこと嫌いだもんね。昔から」
愛は、少しだけ淋しそうに、残念そうにそう言った。
「あはっ、今の話は忘れて。明日、先生に相談してみるから」
無理してやがる。まったく、愛はいつもそうだ。『バカ』がつくくらい真面目だから、言いたいことが上手く言えないことも多い。そういう時は自分だけで悩んで、上手く解決できればそれでもいいのだが、できないこともしばしばだ。俺からしてみれば、とても信じられないことなんだがな。
「着いたわよ」
そうこうしているうちに、愛の家に着いた。
「今日は誰もいないの」
愛は鍵を開けながらそう言った。
「さ、入って」
「おじゃまします」
俺は一応挨拶して中に入った。
「そういえば、おまえの家に来るの、久しぶりだな」
靴を脱ぎながらふとそう思い、そのまま口に出した。
「そうだね。いつ以来かな?」
「よく覚えてないけど、たぶん、中学の時以来じゃないか?」
本当はよく覚えていた。最後に来たのは中学二年の時の、愛の誕生日だった。
その日、愛は風邪を引いていて誕生日どころではなかった。その時、俺はなにを考えていたのか、愛を見舞いに行った。その時の俺はその日が愛の誕生日だということを忘れていて、愛本人から聞くまですっかり忘れていた。そんなことも知らない愛は、とても喜んでくれた。その時の愛の顔が忘れられなくて、それでよく覚えているのだ。
「先に私の部屋に行ってて。なにか持って行くから」
「ん、わかった」
俺は愛の言う通り、先に部屋に行った。昔はよく遊びに来ていたから、どこになにがあるかはわかっていた。
「なんとなく緊張するな……」
愛の部屋の前で立ち止まった。幼なじみとはいえ、年頃の女の子の部屋になにも考えずに入ることはできない。
「ふう……」
俺は息をひとつ吐いてドアを開けた。
「…………」
愛の部屋は、いかにも『女の子』という感じの部屋だった。ただ、よくありがちな、想像されがちなピンクとかそういう感じの色は少なく、とてもさわやかな感じだった。
部屋に入り、なんとなくどこを見たらいいかわからず、あたりを見回した。少なめではあるが、ぬいぐるみなんかも置いてある。
「ん……?」
と、机の上で目がとまった。
「これは……」
それは写真だった。俺と愛が高校に入る前、姉貴が連れてってくれた東京ディズニーランドの写真だった。
「お待たせ」
と、それとほぼ同時に愛が入ってきた。
「どこでも好きに座って」
そう言われて俺はベッドに寄りかかるように座った。
「はい、アイスレモンティー」
「おっ、覚えてたのか?」
「うん」
そう、俺はアイスレモンティーが飲み物の中では一番好きなのだ。同じレモンティーでもホットはダメだ。やっぱりアイスが一番だ。
俺はレモンティーを半分くらい飲んだところで、愛がこっちをじっと見ているのに気付いた。
「どうした?」
「あ、べ、別に……」
愛は慌ててレモンティーを飲んだ。変な奴。
「で、結局なんなんだ、手伝ってほしいことって?」
それを聞くと、愛は突然そわそわし出した。
「……あのね」
どうやらかなり言いにくいことらしい。さっきのことが現実にならなければいいのだが。
「えっと……」
「やれるかどうかはわからんが、とりあえず言ってみろ。俺にできることなら基本的になんでも聞いてやるから」
そうでも言わないとこいつはなかなか言わないだろう。
「……あのね、本当は手伝ってほしいことなんてないの……」
「なに?」
愛の言葉に一瞬耳を疑った。
「怒らないでね。そうでも言わないと洋一に聞いてもらえないと思ったから……」
ふむ、どうやらかなり俺に関係のあることらしい。
「わかった。なんでも聞いてやるって言ったからには、なんでも聞いてやる。だから、言ってみな」
「……うん」
だが、愛は俯いたまま黙ってしまった。
「無理なら今日はやめようぜ。話せるようになったら──」
「ううん、やっぱり聞いて」
ようやく決心したらしい。まったく、世話のかかる奴だ。
「洋一、春休みのことなんだけど……」
なに? 春休みのこと?
「春休みに、私につきあってほしいって言ったよね?」
「……ああ」
……まさか、このことを蒸し返されるとは……。
「……あの時はすぐに返事できなくて、あやふやになっちゃって。それでね、私、あのあとずっと考えてたの」
「……なにをだ?」
「どうしたらいいかな、って」
「それで……?」
「いろいろ考えたんだけど、まだ考えがまとまらないの。だから、夏休みまで返事を待ってほしいの」
「そんなこと──」
「聞いて」
愛は、俺の言葉を遮り、続けた。
「本当のことを言うとね、洋一に告白してもらって嬉しかった。すぐにでも一緒になりたかった」
「それじゃあ──」
「私、洋一のこと、好きよ。心の底からそう思ってる。でも、もう少しだけ考えさせて。お願い……」
「愛……」
まさかこんなことになるとは。でも、愛の奴よっぽど考えたんだな。こんなこと自分から言うなんて。いつも大切なことを言えずにいたあの愛が。
「……わかったよ」
だからか、俺は自分でも信じられないくらい優しく言っていた。
「夏休みになったらもう一度、おまえに告白する。返事はその時にな」
「うん、ありがとう」
それを聞き、愛にいつもの笑顔が戻ってきた。
「……それとな」
「なに?」
「クラス委員、やってやってもいいぜ」
ああ、俺もお人好しだなぁ……
「ホント?」
「二度は言わない」
「ありがとっ」
「ちょ、ちょっ、愛」
愛は、いきなり俺に抱きついてきた。
「……なんでも聞いてくれるって言ったわよね?」
「お、おお」
「もう少しだけ、このままでいさせて……」
愛のその真摯な、真剣な瞳を見ていたら、俺はなにも言えなくなった。
「愛……」
自然と手が愛の髪に伸びていた。その髪を優しく軽く撫でる。
「……やっぱり優しいね、洋一って」
俺は自分のことを『優しい』と言われるのが大嫌いだったが、今はそれほどイヤな感じはしなかった。
俺は、そのまま愛を抱きしめたい衝動に駆られたが、今は愛の気持ちを大事にすることが大切だと、なんとか思いとどまった。
「……ね、洋一」
「なんだ?」
「今日はありがと」
「なんだよ、改まって」
「ううん、言いたかったの。ただそれだけ……」
そう言って愛は、本当に嬉しそうに俺の胸に頬を寄せた。
ホントに、なにやってんだろうな、俺……
四
「ただいま」
と、普通だったらドアを閉めるところなんだけど──
「ちょっと待った」
後ろから声がした。
「なんだ、姉貴か」
声の主は、俺の三つ上の姉、高村美香だった。
「なんだとはご挨拶ね。誰に向かってそんなことを言っているのかしら?」
「けっ、なに言ってんだ。姉貴にそんなこと──」
「ストップ。そんなこと言っていいのかしら?」
姉貴は、不敵な笑みを浮かべた。
「な、なんだよ?」
姉貴がこういう表情をしている時は、必ずイヤな予感がする。
「洋一。あんた、今さ、愛ちゃんの家から出てこなかった?」
ぐっ、見られた……
「あらぁ、どうしたのかしら? 反論はできないはずよ。だって、見てたんだから」
「そ、それがどうかしたのかよ?」
「別にぃ。ただ、出てくる時のあんたの顔、すっごく嬉しそうだったから」
な、なんだと? そんな顔してたのか……不覚……
「洋一」
姉貴は俺の耳元でささやいた。
「なにがあったのよ?」
「な、なんにもないって……」
「ウソね。正直に教えてなさいよ」
こういう時の姉貴は、ヒルよりもしつこい。
「本当になんにもないってっ」
……やべ、はめられた。
「ほぉら、ムキになってる」
「玄関でなにしてるの?」
そこへ、母さんの声がした。
ラッキーだ。地獄に仏とはまさにこのことだ。
「別になんにも」
そう言って俺はそそくさと部屋に戻った。
「あっ、ちょっと待ちなさいよ。洋一っ」
後ろで姉貴がなんか言ってるけど、無視無視。
「ふう……」
俺は部屋に入るなりベッドに突っ伏した。
「……愛」
俺は右手を眺めた。右手にはまだ、愛の髪の感触が残っていた。
「あれは、現実だよな……」
俺は、確かめるように目を閉じた。
夏休み。愛は夏休みまで待ってくれと言っていた。俺にしてみればすぐに返事がほしいところだったけど、こういうことは自分だけ突っ走ってもしょうがない。やっぱり待つべきだろう。
だけど、なにを考えるっていうんだ?
確かに愛はなにをするにしても、かなり考えてからじゃないと決断できない。だから今回もそうなのか。だとしたらしょうがないのかもしれないが。まあ、俺には結局わからないことではあるんだろうな。
「洋一、入るわよ」
と、姉貴がノックもせずに入ってきた。
「なんだよ?」
「なに警戒してるのよ。もうさっきのことは聞かないわよ」
「じゃあ、いったいなんだよ?」
「あのね、父さんが帰ってくるんだって」
「へえ、そっか……」
「あら、無反応ね。喜ぶとか嫌がるとか、少しは反応しなさいよ」
「別にいいじゃないか。それで、いつ帰ってくるって?」
「あさってだって」
俺の父さんは、高村洋と言う。外交官という職業に就いているため、外国に行っていることが非常に多い。そんな父さんが久しぶりに帰ってくるらしい。
「さっきエアメールが届いたんだって。母さん、ずいぶん喜んでいたわ」
「そりゃそうさ。三ヶ月ぶりだから」
「そうね。いくら仕事とはいえ、三ヶ月も別々なんてね」
「へえ、姉貴の口からそんなこと聞くとは思わなかった」
「なによ、結構な言い草じゃない」
「でも、ホントのことだから」
と、顔つきが変わった。これはヤバイな。
「やっぱりさっきのこと、追求しようかしら」
「ひ、卑怯だぞ。さっき聞かないって言ったじゃないか」
「あら、そんなこと言ったかしら?」
くそっ、とぼけた顔しやがって。
「さあ、教えなさい」
「イヤだ」
「教えなさい」
「イヤだって」
あれ、言い返してこない。
「わかった。そっちがそういうつもりなら……」
「な、なんだよ?」
「あとで愛ちゃんに聞いてみようかしら」
「なっ、や、やめろよっ、そんなこと……」
「じゃあ、教えなさい」
……完敗だ。俺の負けだ……
「……わかったよ。教えてやるけど、一度しか言わないからな。聞き逃したからって、聞き返すなよ」
「ええ」
くっ、姉貴の奴、嬉々とした顔してやがる。
「実は──」
俺は姉貴に非常に簡単に説明した。しかし、話を聞いていた姉貴の顔が、だんだんとにやけていくのが非常に腹立たしかった。
「へえ、あんた、ようやく決心したんだ。ずいぶんかかったわね」
「……悪かったな」
「でも、いいじゃない。あんたは気付いていたかどうか知らないけど、愛ちゃんね、あんたのことばかり見てたのよ」
「まさかぁ」
「はあ、これだから困るのよね。もう結構前からよ。そうね……中学校の、二年生くらいかしらね。私にはすぐにわかったわよ。あれは、恋する女の子の目だってね」
確かに、姉貴はどうでもいいことばかり、勘が鋭いことがある。
「よしっ、私も協力するわ」
「えっ……? いいって、そんなこと……」
「よくないわよ。私にとっては、愛ちゃんは妹みたいなものだから、幸せになってもらいたいの」
「姉貴……」
「だけど、洋一と一緒になって幸せになれるかどうかは、わからないけどね」
そんなことだろうと思ったぜ。姉貴はいつもひと言多いんだ。
「とにかく、できるだけ私も協力するから、ちゃんと状況は教えるのよ。わかった?」
「……ああ」
それを確かめると、姉貴は満足して部屋を出て行った。
「まったく……」
つい愚痴りたくなったが、なんとか思いとどまった。それは、姉貴は俺がガキの頃から人一倍俺のことを面倒見てくれていて、いつも俺のことを考えていてくれたからだ。
そんな姉貴を鬱陶しいと思うこともあるが、ありがたいとも思っている。だから、今回も……
五
次の日の朝。
俺はここ最近では比較的すんなりと目覚めた。
そういうことだから朝から気分は悪くなく、どちらかといえば気分はよかった。
朝食を食べ、そのまま学校へ向かった。
家を出たところで愛に会った。
「おはよ、洋一」
「おう、おはよう」
「昨日はありがとね」
愛は、少しだけ照れたように言った。
「いや、いいって。気にするな」
俺もそうとしか言えなかった。
「……ホントに嬉しかったよ」
そうささやかれると、昨日のことを思い出してしまう。
「ま、まあ、とりあえず行こうぜ」
「うん」
そのまま話を続けているとどうなるかわからないから、とりあえず行くことにした。
少し行ったところで、愛が余計なことを思い出した。
「そういえば」
「ん?」
「今日のテスト、大丈夫?」
「テスト?」
「……ひょっとして、忘れてたの?」
「……あ〜」
愛は肩をすくめ、クスッと笑った。
「洋一らしいわね。今日は実力テストよ」
「……そういえば、そんなことどっかで聞いたような気がする……」
気分は急降下。最悪だ。
しかし、ヤバイ。すっかり忘れてた。昨日はそんなこと頭に入らなかったからな。
「でも、洋一はやればできるんだから、心配することないわよ」
一応フォローしてくれる。
「そうは言ってもなぁ……」
「大丈夫よ。どうせ一年生の復習なんだから」
「それが余計に悪いんだ……」
俺は基本的に復習というものが大嫌いなのだ。だから、当然テストもヤバイ。
「もう、洋一らしくないぞ。もっと前向きに考えないと、ね」
う〜ん、そんな笑顔を見せられても……
「……そうだな。ま、忘れてたのはしょうがない。こうなったらそのあとのことでも考えよう」
「そうそう」
……なんて単純なんだ。我ながら悲しくなる。
そうこうしているうちに学校に着いた。時間も少し早めなのでそんなに生徒の数はない。
「そうだ。一応、斎藤先生に言っておかなきゃ」
「なにをだ?」
「クラス委員のことよ」
そういえば、そんなこともあったな。
「洋一も行く?」
「う〜ん……」
行きたいような、行きたくないような。職員室自体には行きたくないけど、朝から優美先生に会えるのは捨てがたい。
「よし、行こうぜ」
俺たちは昇降口からそのまま職員室に向かった。
「失礼します」
挨拶をして優美先生のもとへ。
「おはようございます、斎藤先生」
「あら、森川さん、おはよう」
書類に目を通していた優美先生はこちらを振り返り、笑顔でそう言った。
こういう仕草を見ていても、絵になるのが綺麗な人の特権だよな。
「おはようございます」
「あら、高村くんも。ということは……」
「はい。洋一がクラス委員を引き受けてくれるそうです」
「本当なの?」
自分から愛に頼んでおきながらそこまで驚かなくてもいいと思うのだが。
「ええ、まあ……」
「へえ、珍しいわね。確か、高村くんはそういうことが嫌いだって、一年生の担任の先生から聞いていたのに」
「まあ、心境の変化、というやつですか」
本当はそこまでのことはないけど、なんとなく偉そうにそう言ってしまった。
「じゃあ、今日のテスト後のホームルームの時に、ほかの委員なんかも決めるから、その時からよろしくね」
「はい」
それから教室へ行き、一日がはじまった。
午前中は、国語、数学、英語のテストがあった。出来の方は……まあ、聞くな。
午後はホームルームで各委員なんかを決めた。進行は俺と愛のクラス委員がやったが、結局俺はほとんどなにもしなかった。というか、愛が手際よくやるもんだから、やることがなかったのだ。
そして放課後。
今日も愛と帰ることになっていたが、愛は掃除と先生に頼まれたことがあり、俺が待つことになった。
教室にいると余計なことをさせられそうだったから、校内をブラつくことにした。
と、二年の廊下でひとりの教師に遭遇した。
「おっ、洋一じゃないか」
「雅先、久しぶり」
その先生は体育教師の北条雅晴。通称『雅先』。去年、俺たちとともにこの学校へ来た新任教師だ。よく体育教師にありがちな『必要以上の厳しさ』はなく、非常につきあいやすい先生で、生徒の人気も高かった。
「そういや、雅先は何組?」
「なんだ、知らなかったのか。俺は二組だ」
「ということは、亮介のクラスか」
「ああ」
雅先はうんうん頷いている。
「ところで、雅先。ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「なんで実力テストなんてやるんだ?」
俺は、純粋な疑問を口にした。
「さあ、俺にもよくわからん。なんせ、俺が高校の時にもあったからな、実力テスト」
「ふ〜ん」
まあ、結局は読んで字のごとくなんだろうけどな。
「そういや、洋一。おまえ、クラス委員なんだってな」
「そのことか……ああ、そうだよ」
「斎藤先生が言ってたぞ。『高村くんもようやくやる気を出してくれた』ってさ」
「別にやる気になったわけじゃないけど……」
「なんで引き受けたんだ?」
「心境の変化だよ」
「そうか。まあ、いずれにしろ、がんばれよ」
そう言って雅先は軽く手を振り去っていった。
「ちぇっ、俺がクラス委員やるの、そんなに珍しいのかよ」
俺はなんとなくすっきりしない気分を引きずりながら、憂さ晴らしに屋上へ向かった。
屋上のドアを開けると、スーッとさわやかな春の風が頬を撫でた。
屋上に出ると、フェンス際に人影があった。
「あの後ろ姿は……」
俺はその人物にある程度見当をつけ、忍び足で近寄った。そして息を吸い込み──
「由美子先生っ」
大声でそう言うと、一瞬体をビクッとさせ、こちらを向いた。
「洋一くん、びっくりするじゃない」
由美子先生は少しだけ怒ったように言った。ただ、その顔はにこやかだった。いや、実際には表面的にはにこやかだけど、なんとなく繕った笑みで、わずかながら淋しさのような違う表情が見え隠れしていた。
「どうしたの、こんなところへ?」
「いや、ちょっと時間があったもんで……」
「そう。ああ、そういえば、昨日の話はどうなったの? 今日は昨日とは表情が違うけど?」
「ああ、あれはなんとかなりそうです。心配をかけました」
「ううん、いいのよ。生徒の悩みを聞くのも私の仕事なんだから。それに、それが解決してくれれば先生も嬉しいし」
そう言って先生は微笑みかけてくれた。しかし、やはりその笑みはどこか作り笑いのように見えた。
「先生、ひとついいですか?」
「なに?」
「なにかあったんですか?」
「……どうして?」
「いや、その、確信はないんですけど、なんとなく先生の表情がいつもとは違うような気がして。淋しそうな、悲しそうな、せつなそうな。そんな感じです」
先生はわずかに驚いた様子を見せた。
「ふふっ、洋一くんは鋭いわね。職員室の先生やほかの生徒にはそんなこと言われなかったのに」
「いや、別に、そんな……」
……失敗したかも。これは触れてはいけないことだったかもしれない。
「生徒に心配してもらうなんて、ちょっと失敗ね。心配してくれること自体は嬉しいけど。でもね、今は私のことより自分のことに決着をつけること。いいわね?」
「はい」
「じゃあ、先生は行くわね」
「あっ、先生」
「ん?」
「あの、俺でよかったらいつでも話、聞きますから」
「ふふっ、ありがと」
由美子先生は、最後だけいつもの笑みを浮かべ、屋上をあとにした。
「由美子先生、なに悩んでるんだろ……」
俺はフェンスに寄りかかって考えた。いつも俺たち生徒のことを考えてくれて、その優しさで包み込んでくれている由美子先生。でも、よく考えてみれば、先生も先生である前にひとりの人間。しかも年頃の女性なんだから悩みのひとつやふたつ、あっても不思議ではない。
「少し、心配だな……」
そんなことを空をボーッと眺めて考えた。
春の暖かな陽差しを浴びて眠くなりかけた頃。
「あっ、しまった。ゆっくりしすぎた」
俺は愛を待っていたことをすっかり忘れていた。のんびりしていたため、急いで教室へ戻った。
「ヤバイ、だいぶ時間が……」
校舎内を駆け抜け、教室の手前でスピードを落とし、呼吸を整えた。
すると、静かな校舎に声が響いていた。その声は俺の教室からで、ふたりのようだった。
別にやましいことはないが、ちょっと隠れて教室の中を覗いた。
「あれは、愛と……優美先生じゃないか」
声の主は愛と優美先生で、なにやら作業をしながら話していた。
「う〜ん、どうするべきか……」
俺はドアのところで思案した。今入っていくと作業を手伝わされそうだし、でも、ここで聞き耳立ててるのもあやしいし……
そんなことを考えていると、気になる話が聞こえてきた。
「そうね。先生にもそんなこと、あったわね」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ、今の森川さんに近かったわね」
「先生はどうなったんですか?」
「私? 私はね、結局ダメだったの。私がはっきりしなかったために、その人にほかの子が現れてね。私もその人のことが好きだったんだけど、やっぱりはっきりしないとダメよね。私がその人のことを好きになったということは、その人に惹かれるところがあったからで、もしほかの子がその惹かれたところに気付いたら、その子も好きになる可能性もあるのよ」
「……そうかもしれませんね」
「高村くんは優しい子だから、もしそんなことになったら断りきれないかも。だから、その前にね」
「……はい」
……こんな話をされては、入るに入れない。さらに困った。
しかし、優美先生にそんな過去があったなんて。でも、女の人は恋をすればするほど、綺麗になるって言うし、優美先生が綺麗なのもそういうことがあったからかもしれないな。
ひとりで納得していると、話が終わったらしい。
「それじゃあ、ありがとうね」
「いえ」
「気をつけて帰るのよ」
「はい」
不意にドアが開いた。
「あら、高村くん」
「ど、どうも……」
ヤバイ、なんとか誤魔化さないと。
「森川さん、高村くんが来たわよ。じゃあ、私は行くわね」
「あ、はい、さようなら」
優美先生は笑顔と心地良い香りを残して戻っていった。
「ごめんね、洋一。待たせちゃって」
「いや、別にいいさ」
俺は教室に入り、自分のカバンを持った。
「行こうぜ」
「うん」
俺は聞きたいことがあったのだが、とりあえず学校を出ることにした。
「なあ、愛」
「なに?」
俺は学校を出ると、早速聞いた。
「さっき、優美先生となにを話てたんだ?」
内容は知っているのだが、聞いてみた。
「う〜ん、それはね……」
「うんうん」
「秘密」
「うんうん……って、おい。なんで秘密なんだよ?」
「だって、女同士の話だもん」
そう言って愛は楽しそうに笑った。
はあ、ある程度予想されたこととはいえ、こうも予想通りとはね。
「ね、洋一。どっか寄って帰らない?」
「あ、ああ、別にいいけど……」
「決まりね。さ、行こう」
愛は俺の手を引っ張って嬉しそうに歩いていく。
結局その日は愛につきあってウィンドウショッピングやらなんやらに連れ回された。
なんだかな……
六
それからしばらくは、なにごともなく過ぎていった。なんとなく学校へ行って、なんとなく授業を受けて……そんな繰り返しだった。
そんな退屈な生活から抜け出せそうなことが、ようやくやって来た。
四月下旬。ホームルームで五月の修学旅行のことについて話があった。
行き先は定番の京都・奈良。行き先に特に目新しいことはない。だけど、うちの高校の修学旅行は、まあ当然みんなで見学することもあるが、基本的には好きなところに誰とでも、言ってしまえばひとりで勝手にまわることも許している学校である。従って、誰とどこへ行くか、これをどう決めるかが修学旅行の面白みを決め、重要なことだった。
俺が席の前後の奴と話していると、隣から声がかかった。
「ねえ、洋一」
「ん?」
「洋一は、誰と行くの?」
そう聞いてくるのは、もちろん愛だ。
「そうだな……」
「亮介くんと?」
「亮介? いやいや、あいつとは行かないって」
俺は即否定した。
「どうして?」
「あいつなんかと一緒に行ったら、ろくな修学旅行になりそうもないからな」
「ふ〜ん……」
「そう言う愛はどうするんだ?」
「私? 私は……」
愛は、そう言うとちょっと俯いた。
「どうした?」
「……あのね、洋一」
「なんだ?」
少し頬を赤らめ──
「その、えっと……」
「なんだよ、はっきり言えよ」
「……やっぱりいいや」
「へ?」
「ごめんね」
そう言って愛は、まわりの女子と話し出した。
「なんなんだいったい?」
俺はいまいちすっきりしない気分だったが、とりあえずその場はそれ以上考えないようにした。
放課後。
俺は愛と一緒に帰っていた。
「なあ、愛」
「なに?」
「ホームルームの時、なにを言おうとしてたんだ?」
「えっ、あれ……?」
「ああ、どうも釈然としないからさ。ほかの連中がいて言いにくいことなら、今なら誰もいないから、言えよ」
「……うん」
頷きはしたが、すぐに話す気配はない。
「はあ……おい、愛。いったいなんなんだよ」
俺はつい少し強い口調で言ってしまった。
「……あのね、修学旅行のことなんだけど……」
「修学旅行がどうかしたか?」
「うん、もしも誰と行くか決めてないんなら……」
なるほど、そういうことか。う〜ん、やっぱり愛は大事なことが言えないんだな。まったく、しょうがない……
「いいぜ。一緒に行こうぜ」
「えっ……? ホント?」
「ああ、どうせ男同士で行っても面白くないからな。でもよ、おまえはいいのか?」
「なにが?」
「おまえにだって友達いるだろ。そいつらとは一緒に行かなくていいのか?」
「うん、別にいいよ。だって……」
そう言うと愛の顔がパーッと赤くなった。
「だって、なんだ?」
「……だって、洋一と一緒だから……」
なにを言うかと思えば……そんなこと言うからこっちまで恥ずかしくなっちまう。
「ま、まあ、そのなんだ……そうだ、おまえはどこへ行きたいんだ?」
「えっ、その、まだ決めてないけど」
「へえ、珍しいな。準備不足とは」
「だって……」
「まあいいさ。だったらこれから決めればいいんだからさ」
「そうだね」
「じゃあ、とりあえず本屋にでも行ってみるか?」
「うん」
俺たちは駅前の本屋に旅行雑誌を買いに行った。本屋には俺たちと同じ目的のうちの生徒が何人もいた。
何冊もある雑誌から適当なのを選び、それを買った。
で、それからとりあえず俺の家に行くことになった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
奥から母さんの声がした。
玄関を見ると、姉貴の靴はない。
「入れよ」
「うん、おじゃまします」
「あら、愛ちゃん。いらっしゃい」
奥から出てきた母さんが、俺に声をかけるよりも先に、愛に声をかけた。……それでも親か。
「こんにちは、おばさん」
「母さん、姉貴は?」
一応、確認する。
「美香? いないわよ」
よし、邪魔者はいない。
「じゃあ、行こうぜ」
俺は愛を促して部屋に向かった。
「洋一の部屋に来るの、久しぶり」
愛は部屋を一瞥してそう言った。
「適当に座ってくれ」
「うん」
俺の部屋は六畳のたいて広い部屋ではない。しかも、ベッドやら机やらで結構狭くなっている。そんな部屋で愛は、クッションの置いてある部屋の真ん中に座った。
「ちょっと待ってろ」
そう言い置いて、俺は部屋を出た。
階段を下り、台所へ。
「ん〜……」
俺専用の紅茶を取り出し、お湯を沸かす。
紅茶を淹れて、レモンを切って、氷を入れて、アイスレモンティーを作る。
いつも作ってるから特に大変だとは思わない。
それを持って部屋に戻る。
「お待たせ」
とりあえずレモンティーを愛に持たせて、テーブルを真ん中に出し、愛の正面に座った。
「さて」
レモンティーでのどを潤してから、早速雑誌を取り出した。
「どこにする?」
パラパラと雑誌をめくる。
「みんなでどこに行くんだっけ?」
「確か、京都は京都御所と清水寺、金閣の鹿苑寺で、奈良は東大寺と正倉院、春日大社だったと思うけど」
「なんか日本史に出てくる場所ばかりね」
「まあ、しょうがないさ。で、どうする?」
「やっぱり、あまりみんなが行かないところがいいかな」
「とすると……」
俺は地図を見た。
「有名なところは削除だな。太秦の映画村とか二条城とか銀閣の慈照寺なんかはダメだな。あっ、平安神宮も有名だな」
俺がひとりで話を進めていると、愛が俺の顔をじっと見つめていた。
「ん? どうした?」
「う、ううん、別に、なんでもないよ。それより私ね、京都の街をゆっくり歩いてみたいの」
「歩くかぁ。うん、それもいいかもな。じゃあ、京都は中心からあまり遠くならない程度にブラブラ歩くか」
「うん」
自分の意見が通り、愛は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「奈良は──」
今度は奈良で行く場所を決める。
しばらくはそんなことで盛り上がり、いつの間にかいろいろなことを話していた。
「洋一」
「ん?」
「……やっぱり、なんでもない」
またか……
「なあ、愛。おまえのその性格、なんとかした方がいいんじゃないか。言いたいことを言いたい時に言えないと、苦労するぞ」
「……うん」
……わかってないな。
その時、玄関から声がした。どうやら姉貴が帰ってきたみたいだ。
「あっ、そろそろ帰るね」
姉貴の声が引き金になって、愛は腰を上げた。
「また面白そうなところがあったら教えてね」
「ああ」
俺たちは部屋を出て玄関に降りた。
「あら、愛ちゃん」
「こんにちは、美香さん」
「ほら、姉貴なんかいいからさ」
「あら、なによその態度。聞き捨てならないわね」
姉貴を無視し、愛を促した。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ」
「おじゃましました」
「またいらっしゃい」
「はい」
愛は姉貴に笑顔で応えた。
「じゃあね、洋一」
そう言って愛は帰って行った。
「さて、洋一。さっきの言葉はどういうことかしら?」
「ちぇっ、姉貴はしつこいんだよ」
俺は余計なことに巻き込まれる前に、そそくさと部屋に戻った。
「しかし……」
俺はよく考えてみた。考えてみれば、修学旅行で愛と一緒に行くということは、愛から言われなくても俺から言っていたかもしれない。
結局、男同士はイヤだし、かといってほかに一緒に行く女子もいない。それに、愛ならよく知ってるから気兼ねもないし。まあ、よかったんだよな。愛と一緒で。
七
それから学校では修学旅行の話ばかりだった。確かに大きな行事といえば、あとは運動会と文化祭くらいしかない。来年は三年で受験生だし、今のうちに楽しめるだけ楽しみたいという気持ちが強いからこそ、そればかりなのだろう。
そんな中、俺も話題はやっぱり修学旅行だった。
実を言うと、俺の父さんは外交官なんかやってる関係で家を空けがちだから、あまり旅行とかに縁がなかった。だから小学校や中学校の林間学校や修学旅行なんかは、人一倍楽しみだったし、実際楽しんだ。だから、今回も非常に楽しみだった。
「なあ、京都ってどんなところなんだ?」
「そうだなぁ……」
外交官という職業柄、海外だけでなく日本各地もまわっている父さんにそんなこと聞いた。
「ひと言で言えば、『京都』だな」
「なんだよそれ。全然答えになってないじゃないか」
「ははは、つまりだな、京都というところは日本の中でも特異なところなんだ。京都をほかの都市で言うとどこか、と聞かれても答えられない。そんなところだ。それだけに、見る者を魅了するものがたくさんあり、何度行っても飽きない」
「へえ、そうなんだ」
「それにな、女性も綺麗だしな」
「あなた、なにを言ってるんですか」
「じょ、冗談だよ」
とまあ、こんな感じで少しでも京都のことを吸収して、修学旅行に臨もうと思った。
そして、ゴールデンウィークが過ぎ、いよいよ修学旅行の日がやって来た。
「洋一、準備はいいの?」
「ああ、完璧」
そう言って俺はカバンを叩いた。
「おみやげ、よろしく」
「ちぇっ、姉貴はそれだけが目的なんだろ?」
「そうよ」
そんな簡単に肯定されても……
「んじゃ、いってきます」
「気をつけて行くのよ」
俺はそんなに大きくないカバンを持って家を出た。大半の荷物はすでに向こうに送ってあるから、だいぶ楽だ。
「さて、そろそろ出てくると思うんだけど……」
すると、案の定愛が出てきた。
「おはよ、洋一」
「おう、おはよう」
「いい天気でよかったわね」
「ああ、そうだな」
今日の集合場所は駅前だった。バスで京都まで行くには関東はちょっと遠いので、当然のごとく新幹線だった。
「私ね、緊張してあんまり眠れなかったの」
「なんで修学旅行ぐらいで眠れないんだよ?」
「だってぇ……」
泣きそうな顔で俺を見るな。
「なにはともあれ、楽しくなるといいね」
「ああ。でも、もし楽しくなかったら俺が無理にでも楽しくしてやるさ」
「なんか企んでるの?」
「さあな」
そんなことを話しながら俺たちは駅に向かった。
俺たちの住む街から東京へ出て、そこから新幹線で約二時間半。
結構遠いから、本当に『旅行』という感じを味わえる。
地元の駅で集合し、東京へ向かい、新幹線に乗り込む。
一応修学旅行専用列車だから、一般客はいない。
「ねえ、私が窓際でいい?」
「構わんぞ」
「うん」
隣に座る愛は、早速窓際に席を確保した。
列車が走り出す前、走り出したあとと、とにかく中は小学校か、と思えるくらいの状態だった。みんなはしゃぎまくって先生はもう見て見ぬふり。とりあえず、ほかに乗客がいないから迷惑はかからない。
「うわあ、富士山よ」
俺としては新幹線の中では寝て、京都のために体力を残しておきたかったんだけど──
「ねえねえねえ、ほら、見てよ。あれが浜名湖よ」
隣ですっかり好奇心の塊を化した愛がしょっちゅう声をかけてくるもんだから、ろくに休めなかった。
だけど、愛は本当に楽しそうだった。見ているこっちまで楽しくなるような、嬉しくなるような表情を見せていた。
「よお、洋一」
「ん、亮介。どうした?」
にやけ顔の亮介がやって来た。
「いや、おまえだけあまりにも静かだからさ」
「京都での体力を温存してるからだよ」
「へえ、そうなのか。そういえば、おまえは愛ちゃんと行くんだよな?」
亮介は隣の愛をちらっと見て言った。
「ああ、それがどうした?」
「ん、いや、別に」
まったく、不敵な笑みを浮かべやがって。
「じゃあ、またな。じゃあね、愛ちゃん」
「うん」
なにしに来たのかわからんが、とりあえず亮介は戻っていった。
「なんなんだ、あいつは……」
「亮介くんも一緒に行きたいのかな?」
「いいっていいって。あいつはいつもああだから。ほっとけばいいんだよ」
「ん〜、そうなのかな?」
修学旅行中くらい、余計なことを考えずに過ごしたい。
だから、余計なこと=亮介のことは無視する。
「それより、愛」
「ん?」
「あんまりはしゃいでると、向こうに行ってからへばるぞ」
「大丈夫大丈夫。そんなに柔じゃないし」
そう言って愛は笑った。
はてさて、どうなることやら。