ONLY LOVE
 
第六章
 
 日曜日。
 俺は千砂と一緒に今ちまたで人気のアミューズメントパークへやって来た。
 梅雨も間近いというのに、朝からいい天気だった。
 少しだけ早起きして電車でおよそ一時間。ようやく辿り着いた。
 入場券売り場、入り口には家族連れや友達同士、カップルなんかが多かった。人気があるというのもまんざらウソじゃないらしい。
 入場券はフリーパスとセットになってるものを、一応ふたりで買った。千砂が払ってくれるって言ってたけど、それはいくらなんでも問題だから自分のは自分で払った。
「う〜ん、いい天気」
 入り口をくぐって中に入るなり、千砂は背伸びをして一言。
「確かに天気はいいけど、あんまりよすぎると暑くなるぜ」
 五月の終わりから六月のはじめにかけては、ちょっと天気がいいとすぐに気温が上がる。下手すると夏日なんてこともある。
 まあ、俺はティシャツにサマージャケットだからいいけど。
 千砂は夏にはちょっと早いけど、夏らしいクリーム色のワンピース。スカートはロングだけど。
「こういうところに来るの、ホントに久しぶり」
「そうだな。俺なんか二、三年は来てないんじゃないか。ゲーセンは時々行くけど」
「確か、中学校の時にみんなで行ったよね」
「ああ。ひょっとしたらそれが最後なんじゃないか。ま、あの頃はアミューズメントパークなんて言わなかったけどな」
「そうだね」
 天気がよくて朝から人出が多い。どのアトラクションも人が並んでる。
 ただ、千砂は下調べしてきたらしく、お目当てのものまで脇目も振らす、まっしぐらだった。
 そして着いたアトラクションが──
「ジェットコースター?」
 一発目からジェットコースターらしい。しかも、それはここイチオシのアトラクションらしい。
「なあ、千砂」
「ん?」
「ひょっとして、今日のスケジュールって、もう完璧に決まってるのか?」
「うん、だいたいわね。ただ、待ち時間があるからそんなにスケジュール通りにはいかないと思うけど」
「あっそ……」
 なんか、いつになく行動的な千砂だな。
 三十分後。
「ううぅ、足下がふらつく……」
 予想以上のコースに、不覚にも体調不良の一歩手前だった。
 傾斜角六十度はあるんじゃないかという坂を一気に滑り落ち、地面と平行になりながらコースターは滑走。ループを連続三回喰らい、小さなアップダウンで三半規管が悲鳴を上げた。
 千砂は隣できゃあきゃあ騒いでたけど、俺より大丈夫そうだ。
「大丈夫、浩之ちゃん?」
「ん、ああ、なんとかな」
 俺はベンチに座って天を仰いだ。
「しかし、一発目からジェットコースターはつらいな」
「やっぱりそうかな。でも、、あんまりたいしたことないと逆につまらないかなって思って」
 千砂は千砂なりに考えたらしい。
「よしっ、次行こうぜ」
「もういいの?」
「ああ。俺の体はそんなに柔じゃねぇよ。それに、スケジュールがあるんだろ?」
「うん」
 それから午前中は三つのアトラクションを楽しんだ。千砂のスケジュールではもうひとつあったらしいけど、待ち時間が長くて三つになった。
「ふう、少し暑くなってきたな」
「うん、そうだね」
 俺たちは少し陰になっているベンチを探し、そこに陣取った。
「はい、お弁当」
「おっ、旨そうだな」
 それは三角おにぎりと卵焼き、タコさんウインナー、唐揚げにサラダだった。彩りもなかなか決まってる。
「いっぱい食べてね」
「おう、遠慮なくいただくぜ」
 とりあえずおにぎりを一口。
「どう?」
「旨いぜ」
「よかった」
 それを聞いた千砂は、嬉しそうに微笑み、自分もおにぎりを頬張った。
「しかし──」
 俺は卵焼きを頬張りながら言った。
「最近また料理が上手くなったんじゃないか?」
「えっ、そ、そうかな?」
「ああ、絶対に上手くなってるって。母さんや姉さんの料理を食べてる俺が言うんだから間違いない」
「そう言ってもらえると嬉しい」
「俺はお世辞は言わないからな」
「うん」
「これってやっぱり、あの弁当のおかげか?」
「う〜ん、どうかな。関係はあると思うけど」
 千砂は未だに俺に弁当を作ってきてくれる。俺としては食費が浮くから非常に助かってる。やっぱり人に食べてもらおうとすればひどいものは作れない。そういう意識から知らず知らずのうちにレベルアップしてたんだろう。
「でも、私のお料理の腕が上達してるのなら、それは浩之ちゃんのおかげだね」
「俺の?」
「うん。浩之ちゃんはいつもちゃんと感想を言ってくれるから。ダメならダメって言ってくれるし」
「まあな。ウソは言いたくないし」
「だからだよ。人は褒められて上達することもあるけど、たいていはけなされて上達するんだから」
 確かにそれは言えてる。動物の調教なんかも最初は徹底的にけなすらしい。それでホントに上手くできた時には、それを補ってあまりあるくらい褒めるらしい。そうすることによって動物もわかるらしい。ちゃんとやれば褒めてもらえることを。
 千砂も、基本的にはそういう感じなんだろう。
「だけどさ、千砂。ひとつ思うんだけど」
「なに?」
「こんなに俺好みの味付けばっかしてていいのか? この卵焼きだって、俺はこの甘いのが好きだけど、嫌いな奴は嫌いだぜ」
「……今はまだいいの。今は浩之ちゃんにだけ食べてもらえれば」
「…………」
 ……聞くんじゃなかったな。
 
 午後は軽いものからはじまった。さすがに食べたあとだからだろう。
 で、今は──
「ミステリーツアー?」
「えっと、ふたり乗りの乗り物でお化け屋敷みたいな中を進んで行くんだって」
「ありがちなやつだな」
「結構リアルらしいよ」
 定番中の定番。いわゆるお化け屋敷にいる。
『ベリエルのミステリーツアーへようこそ』
 俺たちは係員の指示に従って、自動制御のカートに乗った。
『それではよい旅を』
 カートは薄暗い乗り場から、真っ暗な中へと入っていった。
「へえ、こりゃ本格的だな」
 俺は思わず感嘆の声を上げた。よくある中途半端な暗さじゃなく、マジで真っ暗だった。
「……きゃぁ……」
 遠くから女の人の悲鳴が聞こえてくる。
「ね、ねえ、浩之ちゃん……」
「ん?」
「手、握ってていい?」
「怖いのか?」
「う、うん……」
 しょうがないな。千砂は昔から恐がりだからな。
 俺は千砂の手を握った。
「あ、ありがと……」
 と──
「シャアアッ!」
「きゃあっ!」
 突然目の前に妖しい物体が迫ってきた。よく見るとそれはコウモリ男の格好をしていた。案外滑稽なのだが、暗いところで想像力から怖さが先行してしまっている。
 で、千砂は思いっきり叫んでいた。
「い、いやぁ、来ないでっ!」
 握っている手の逆、左手で一生懸命払っている。なんにもいないのに。
「おい、千砂。もういないぞ」
「ほ、ホント……?」
「ああ」
 千砂はそれで少しだけ落ち着いたようだった。
 だが、それからはその繰り返しだった。千砂はなにか現れる度、物音がする度に声を上げて応戦していた。
 俺はそれを妙に冷静に、逆に楽しんでいた。
「ううぅ、浩之ちゃん……」
 もう半べそかいてる千砂。こういう千砂は、見ていてホントに飽きない。
「ほら、千砂。大丈夫か?」
「は、早く出たいよぉ……」
 まるで子供だな。まったく、しょうがない奴だ。
「目、つぶってな。そうすれば少しは大丈夫だろ?」
「う、うん……」
 言われるまま目を閉じ、俺の手をキュッと握ってきた。
 それから五分ほどしてようやくミステリーツアーは終わった。
『旅はいかがでしたか? またのお越しをお待ちしております』
 まだ怖がっている千砂をなんとか連れ出し、ベンチで一休み。
「ほら、千砂」
「ありがと、浩之ちゃん」
 俺は買ってきたソフトクリームを千砂に渡した。あれだけの声を出してりゃのども渇く。
「少しは落ち着いたか?」
「うん」
「まあ、俺が見た中ではいい線いってたと思うけど、演出方法がもうひとつだな」
「浩之ちゃんはいつもそうだね」
「お化け屋敷キラーだからな、俺は」
 自慢じゃないが俺はお化け屋敷で怖いと思ったことはない。所詮は人が作ったものだから、どうしても怖くない。
「なあ、千砂」
「なぁに?」
 クリームをペロッと舐めた。
「おまえ、怖いの嫌いなくせになんであれを選んだんだ?」
「えっ、だってせっかく来たのに楽しまないと損だと思って」
「だけど、あれひとつくらいやらなくたって、ほかにもいろいろあるだろ?」
「う、うん……」
 千砂はちょっと俯いた。
「……浩之ちゃんが一緒だから、大丈夫だと思ったの」
「まったく……」
 俺は千砂の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「頼られるのは嫌いじゃないけど、ほどほどにしとけよ」
「うん」
 
 西の空がうっすらと赤くなってきた頃。
 夜八時まで営業しているこのテーマパークの客層が少し変わってきた。家族連れが少なくなってきて、カップルの数が増えてきた。
 そして、俺たちも最後のアトラクションに並んでいた。
 大観覧車。一周およそ十五分という大きな観覧車だ。夕方近くからカップルが並びはじめる。ゴンドラは空中の密室。カップルにはまたとない空間なのだ。
「はい、どうぞ」
 ゆっくりと回るゴンドラにまず俺が乗り込み、千砂を引っ張り上げた。カシャッという音がして扉が閉まった。
「やっぱり、カップルが多いね」
「そうだな」
 静かな空間で言葉数が少なくなる。
 郊外にあるわけじゃないこのテーマパークからは、ビル群などがよく見える。東の方はだいぶ明かりが増えてきた。
「千砂」
「なに?」
「今日は、楽しかったか?」
「え、うん、楽しかったよ」
「そっか、ならよかった」
「やっぱり、気になった?」
「そりゃそうさ。せっかく来たのに楽しまなかったら損だし。それに……」
「それに?」
「……いや、なんでもない」
 俺は答えをはぐらかした。こんなところで言うことじゃない。
「浩之ちゃん。ちゃんと言って」
「別にいいじゃないか」
「ダメ。それに今日は私の言うことを聞いてくれるんでしょ?」
「うぐっ、た、確かにそうだけど……」
 なんかそれって脅迫じゃないか?
「だから、ちゃんと言って」
「……わかったよ」
 まったく、ホントにしょうがないな。
「今日はな、俺が千砂の言うことを聞くとか聞かないとか関係なく、おまえに楽しんでほしかったんだ」
「どうして?」
「いつもおまえには世話になってるしな。たまには借りを返さないと、な」
「……浩之ちゃん」
 千砂は小さく微笑んだ。
「ねえ、浩之ちゃん。隣に座ってもいい?」
「ん、別にいいけど、狭いぞ」
「うん、大丈夫」
 千砂はゴンドラが揺れないようにゆっくりとこっち側へ来た。
「やっぱり、少しだけ狭いかな」
 俺と千砂はもうホントに密着するように座っている。
「浩之ちゃん。覚えてる?」
「なんだ?」
「この前学校で聞いたこと」
「学校で?」
 俺はあごに手を当て考えた。でも、それらしい答えは出てこない。
「長いのと、短いの」
「おお、そういえばそんなこと聞かれたような気がするな」
「だから──」
 そう言ってスカートを少し持ち上げた。
 ワンピースのスカートはロング……おおっ、なるほど。そういうことか。
「わざわざそのために俺に聞いたのか?」
「うん。せっかく浩之ちゃんと出かけるんだからね」
「まったく、おまえって奴は……」
 しかし、あそこで俺が短いのと答えてたら、どうなったんだ?
「なあ、ひょっとして俺が短いのと答えてたら──」
「うん。ミニ、とはいかないけど短めにはしてたよ」
 う〜ん、それはそれで見たい気がするけど。
「……ホントはね、今日は浩之ちゃんに楽しんでもらいたかったんだ」
「なんで俺が?」
「ミスコンのお礼」
「お礼って、そんなこと俺したか?」
 正直なんでそんなことを言うのかわからなかった。
「私の中での問題なの。だから今日は私がスケジュールを立てたの」
「なるほどな。だからミステリーツアーなんかも組み込んだんだな」
「うん……」
 千砂は小さく頷いた。
「思うんだけどさ、千砂はもう少し自分のことを可愛がった方がいいんじゃないか? そんなに人にばっかり尽くしてると、自分のしたいこともできなくなるぞ」
「私って、そんなに尽くしてるかな?」
「ああ。少なくとも俺の目にはそう映ってる」
「……じゃあ──」
 千砂はそう言って俺の方へ寄りかかってきた。
「こうしていても、いい?」
「特別な」
 千砂は嬉しそうに微笑んだ。こんなことくらいで喜んでもらえるのなら安いもんだ。
「やっと頂上だね」
 ゴンドラはようやく頂上に差し掛かっていた。
「浩之ちゃん。私の今日最後のお願い、聞いてくれる?」
「ああ」
「じゃあ、目をつぶって」
 俺は言われた通りに目を閉じた・
「絶対に開けちゃダメだよ」
「わかってるって」
 どうやら千砂は俺になにかをしようとしてるらしい。隣から立ち上がった。
「…………」
 ゴンドラの鈍い音だけが響く。
「……これが、今の私の想い……」
「っ!」
「ん……」
 く、唇に柔らかな感触が──
 俺が千砂と、キス……?
「……千砂」
「あっ、浩之ちゃん……」
 俺は我知らず千砂を抱きしめていた。なぜかそうしなければいけない、そう思ったら体が勝手に動いていた。
「……やっぱり、これが最後のお願い。もう少しだけ、このままで……」
 千砂もそれ以上は言葉にならなかった。
 本当ならここで言葉のひとつでもかけてやればいいんだろうけど、今の俺には自分の想いを吐露できるほどの甲斐性を持ち合わせていなかった。
「……やっぱり、浩之ちゃんが……」
 夢のような時間は、あと少しだけ続きそうだった。
 
 六月に入って今年はすぐに梅雨入りした。今年は大陸から立て続けに低気圧が来るらしい。でも、七月の梅雨明けは早いかもしれないという予想だった。
 学校の方は毎月模擬テストがあって、少し嫌気がさしてる。それにもまして六月は前期の中間テストもある。これはちゃんとやらないと卒業できない。
 で、俺も一応は勉強をしていた。
 成績は悪い方だとは思わないけど、やることだけはやっておかないと、どんなしっぺ返しを喰らうかわかったもんじゃない。
 それとは関係ないけど六月は教育実習生がやって来る。まあ、三年を受け持つことはないけど、廊下なんかで擦れ違うことはある。
「あ〜あ、かったるい」
 俺がたまたま図書館に行った時のことだ。
「きゃっ!」
「おっと」
 俺は入り口のところで誰かとぶつかった。ノートとプリントが散らばった。
「あっ、すみません」
 ぱっと見ると、スーツを着た女性。どうやら実習生らしい。
 俺も手早くプリントを集め、彼女に渡した。
「それで全部ですか?」
「えっと──」
 一応はパラパラと確かめている。
「大丈夫だと思います」
 で、ようやくまともに顔を見た。う〜ん、確かにまだ『先生』とは呼べないかな。
「実習生の方ですよね?」
「はい」
 俺みたいな生徒にまで敬語を使って、ホントに大変だ。
「図書館で調べものですか?」
「ちょっと確かめです」
 どことなく雰囲気が千砂に似てるような気がする。
「プリントに不備があるといけないので」
「大変ですね」
「仕方ないですよ」
 そう言って彼女は笑った。まだ笑えるだけの余裕はあるらしい。
 俺はぶつかったお詫びというわけじゃないけど、確かめの手伝いを申し出た。少し困惑気味だったけど、時間もあまりないらしく承諾してくれた。
 彼女の名前は白井優紀さん。女性では珍しい高校の地歴を志望してる。文学部史学科の四年生。
「どうかな、そのプリント?」
 授業で使うプリントを見せてもらった。概要を年代順に記してあり、重要箇所は抜いてある。
「う〜ん、結構いいと思いますよ。ただ──」
「ただ?」
「抜いてあるところが偏りがちだと思いますよ。重要なところを抜くのはいいと思いますけど、そこを強調するためにそれに絡めたところがおろそかになりがちですね。たとえば、このローマ帝国の記述。前半と後半を表にして対比するのはいいと思います。ですが、それがどうしてそうなったかという理由付けがもう少しほしいですよ。対外戦争の縮小は、アウグストゥス帝がトイトブルクの戦いで徹底的に負けたのが原因とか」
「でも、それって少し詳しくないかな?」
「多少は詳しい方がいいですよ。歴史を単なる暗記科目じゃなく、理解する科目だということを知ってもらうためにも」
「浩之くんて、ひょっとして史学科希望?」
「まあ、今のところは」
 俺は俺のことを簡単に説明した。優紀さんは自分と同じ畑の俺とすぐに意気投合した。
「あ〜、残念だな。浩之くんが三年生じゃなければ受け持ちになったかもしれないのに」
「ははっ、話し相手くらいなりますよ」
「そう言ってくれると助かるわ」
 それから俺と優紀さんは、時々話をするようになった。
 
「浩之」
「ん?」
「おまえ、実習生の人と仲いいみたいだな」
「ん、ああ、優紀さんのことか」
「優紀さん、ってなに普通に呼んでんだ?」
「別にいいだろ。どう見ても先生には早いから、名前で呼んでんだ」
 陽一はいまいち納得してない様子だ。こいつは俺がやることなすことにとにかくいちゃもんつけてくるからな。
「優紀さんは地歴担当だからな。たまたま俺と意見があったんだ」
「ぬぅ、確かにおまえは歴史を目指してるからな」
「ならいいだろ」
「なんでおまえばっかそんないい目に遭うんだ?」
「知らん」
「千砂ちゃんだけじゃ物足りないって言うのか?」
「なにをバカなことを」
「くぅ、納得いかーんっ!」
 陽一はなにやらわめきながら去っていった。
「まったく、あいつの頭の中はどうなってるんだか」
 
 二週間の実習期間も折り返しにかかった。
「スランプですか?」
「ちょっとね」
 いつものように空き時間に優紀さんと話していたら、そんな話題になった。まあ、実習なんてそんなに上手くいくもんじゃないからな。
「大学の講義で習ったことと、実際に教壇に立ってやるのとでは全然違うのよね」
「人間が相手ですからね」
「担当の先生は焦ることはないって言ってくださるけど、頭ではわかっていても実際は難しいわ」
「優紀さん」
「ん?」
「もう少し自分に自信を持った方がいいですよ。俺が見るところプリントなんかのポイントの抑え方はしっかりしてると思いますし、こうして話していても話し方も嫌味じゃないですし」
「ありがと、浩之くん」
 優紀さんはにっこり微笑んだ。
「でも、浩之くんて不思議な男の子よね」
「どうしてですか?」
「私より四歳も年下なのに、私の方が安心感をもらってる。今までそんなことなかったのに」
 ……どこかで聞いたような言葉だな。
「こうして浩之くんに私の愚痴を聞いてもらえるだけ、ほかの人よりましなのかも」
「それくらいならいつでも」
「よろしくお願いね」
「ええ」
 少しは立ち直ったかな。
 あんまり暗い顔して教壇には立ってほしくないからな。
「あと少しですから、がんばってくださいよ」
「そうね。もう一踏ん張り、がんばるわ」
 そう言って優紀さんは、さっきよりもらしい笑顔を見せた。
 
「浩之ちゃん」
「ん、どうした?」
「今日、一緒に帰ろ」
「ああ、別に構わないぜ」
「うん」
 あの日以来、俺と千砂は少しだけ距離が縮まったような気がする。最初はまともに話もできないんじゃないかと思ったけど、心配する必要はなかった。
 俺も千砂もあのことに関してはあれ以来まったく触れていない。触れるとどうなるかわからないからだ。
「浩之ちゃん最近、教育実習の先生とよく話してるね」
「まあな。たまたまだけどな。図書館でぶつかって、話したら話が合って」
「浩之ちゃんと話が合うなんて、結構珍しいね」
「なんだよそれ? それじゃ俺がまるで人とは話が合わない偏屈みたいじゃないか」
「そ、そんなことは言ってないよ」
 慌てて否定する千砂。
「まあ、そんなことどうでもいいんだけどさ。俺が話をしてる理由はほかにあるんだよ」
「どんな理由?」
「やっぱり、慣れないことをするといろいろ大変だろ。それを少しでも和らげられたらいいと思って。まあ、単に歴史の話で意気投合ってのもあるけど」
「浩之ちゃんらしいね。誰に対しても優しくて」
「バーカ、優しいとか優しくないとかそういう問題じゃない。それに、俺は誰に対してもってわけじゃないぞ。ちゃんと人は選んでるつもりだ」
「じゃあ、その先生も選ばれたんだね」
「先生、か。俺はまだそう呼んでないけどな」
「どうして?」
 千砂は不思議そうに首を傾げた。
「だってさ、どう見たってまだ『先生』じゃないからな。だから名前で呼んでる」
「こだわってるね」
「別にそういうわけじゃない。今まで先生なんて呼ばれてこなかった人が、突然そう呼ばれたら調子狂うだろ? まだホントの先生になったわけじゃないのに。だから普通に呼んでんだよ」
「ふ〜ん」
 千砂は妙に感心してる。
「ま、ホントはもうひとつ理由があるんだけど、それはおまえでも内緒だ」
「ええーっ、どうして?」
「俺のプライドの問題だ」
「それって、逃げるための言い訳?」
「うるせぇ。あんまり余計なこと言うと、ひとりで帰るぞ」
「ああっ、ごめん。もう言わないから」
 慌てて謝る。まったく、千砂はホントに扱いやすいよ。
「ねえ、浩之ちゃん」
 しばらく黙って歩いていたら、千砂から声をかけてきた。
「今回のテスト勉強、一緒にやらない?」
「テスト勉強?」
 イヤな単語を聞いたな。
「うん。もうすぐテストだから」
「まあ、俺は構わないけどな。いつもだって完全にひとりでやってるわけじゃないから」
「どういうこと?・」
「そんなの、姉さんや涼子さんに聞いてるに決まってるだろ。なんたってふたりとも大学生だからな。しかも現役で合格してるし」
「そうだね。弥生さん、昔から頭よかったから」
「なに言ってんだ。おまえだってそれに負けず劣らずの成績を残してるだろ」
「そんなことないよ。弥生さんはいつも三番以内だったもん」
「たいして変わんないだろ。おまえはずっと五番以内。その差なんて数点だろ」
「そうなのかな?」
「はっ、これだから頭のいい奴はわからん」
 俺は普段千砂に助けられてることを棚に上げ、そんなこと言った。
「まあ、なんにしろおまえの提案は受け入れた。で、どこでやるんだ? うちか? それともおまえの家か?」
「浩之ちゃんの家がいいよ。うちには稔がいるから」
「なんだ、稔がいると都合が悪いのか?」
「そ、そんなことないけど、き、気が散っちゃうから」
「ま、いいけどさ」
 しどろもどろに理由を説明する千砂。まあ、言わんとしてることはだいたいわかるんだけどな。
 なにはともあれ、今回のテストは千砂と勉強することになった。
 
「どうしたんですか?」
 実習期間も終わろうという頃、俺は優紀さんに呼び出された。
「ごめんね、呼び出したりなんかして」
「それは別に構いませんけど」
「明日で実習も終わりだから、その前にお礼が言いたくて」
「お礼、ですか?」
「浩之くん、私のためにいろいろと気を遣ってくれたでしょ?」
「……さあ、なんのことですか?」
「私ね、ホントはかなり不安だったの。たとえ二週間でも私に教師なんて務まるのかな、なんて。ほかの人たちを見てると、私だけダメなような気がして。そんな時ね、浩之くんとぶつかったのは」
 優紀さんはふっと笑った。
「あの時、ホントは図書館に逃げに来たのよ」
「逃げるって、なんでですか?」
「控え室にいるとプレッシャーになっちゃうから」
「大変なんですね」
「でもね、そんな私の心を和らげてくれたのが、浩之くん、あなたの存在よ」
「俺が?」
「最初はそうじゃなかったんだけどね。歴史が好きな男の子、そんな感じだったの。何気なく話しているうちに、そうじゃなくなってきて。そうね、強いて言えば気になる異性、かな」
「ゆ、優紀さん……」
「教育実習じゃなかったら、浩之くんに惚れてたかも。ふふっ」
「は、ははは……」
 な、なんかこういうところは姉さんを彷彿とさせる。
「でも、実習がなかったら浩之くんと知り合えなかったのも事実だからね」
「……そうですね」
「あ〜あ、浩之くんみたいな男の人が私のまわりにいてくれればね」
「その言葉、二度目です」
「二度目?」
 俺は簡単にそのことについて説明した。
「……わかるような気がするわ。浩之くんには、そういう不思議な魅力があるのよ」
「自分ではわかんないんですけどね」
「わかってたらわかってたで問題だと思うわ。人は自分のことを全部理解してるわけじゃないから」
「そうかもしれませんね。見た目、ということもありますから」
「ねえ、浩之くん。浩之くんから見て、私ってどうなのかな?」
 と、唐突に質問が変わった。まあ、脈絡がないわけでもないけど。
「そうですね……」
 優紀さんは結構小柄。髪は肩までのセミロング。大きな瞳が印象的な、笑顔が人懐っこい女性。とりあえずの志が同じところにあるから話していても楽しい。
「俺は、優紀さんみたいな女性は好きですよ」
「ホント?」
「ええ。ウソは嫌いですから。ただ、見た目でどうこう言うのが嫌いなんで、そのあたりは勘弁してください」
「ホントはそれが一番聞きたかったんだけど。ま、しょうがないか」
 クスッと笑って俺に一枚の紙を渡した。
「これは?」
「私の家の住所と電話番号。このままお別れなんて、ちょっと淋しいからね」
「でも、いいんですか?」
「いいのよ。それに、今はひとり暮らしだから心配することはないわ」
 お、おい、それって……
「また、会えるわよね?」
「……とりあえず、はい、と言っておきます」
「正直ね。だから好きなのよ」
 次の日。実習期間は終了。優紀さんとは忙しくて話してる暇はなかった。でも、俺の手の中にはふたりを繋ぐものがあった。
 
 
第七章
 
「ん、ああぁ、浩之ちゃん……」
「千砂……」
 
「って、夢か……」
 俺は、あまり口に出したくない夢で目が覚めた。
 イヤな夢じゃなかったけど、なんだかな……
 時計を見ると朝の八時半。今日は日曜日だから時間の心配はない。
 俺はゆっくりと起き、着替えた。一度目が覚めたら寝るのがもったいないからだ。
「おはよう」
 リビングに行くと、父さんと母さんがテレビを見ていた。
「姉さんはいないの?」
「寝てるのよ」
「ふ〜ん」
 俺は洗面所で顔を洗い、食卓に着いた。
「弥生、やらなくちゃいけないレポートがあったんですって」
「それで遅くまで起きてた、と」
「そうらしいわよ」
 まあ、あれでも姉さんは大学生だから。
「今日はゆっくり寝てるんじゃないかしら」
「だろうね」
 俺は手早く朝食を済ませた。
「浩之」
「ん?」
「これはまだ決まったことじゃないんだけどな」
 父さんはテレビから視線を外さすに言ってきた。
「夏休みに幸久のところへ行くかもしれないぞ」
「幸久叔父さんのとこ?」
 幸久叔父さんは父さんの弟で、今は北海道に住んでいる。ちょっと遠いこともあってあまり行くことはない。もうかれこれ五、六年は行ってないかも。
 叔父さんには今年の正月に会ったんだけど。
「でも、叔父さんのところって牧場でしょ? 短期間だけ行くのはかえって迷惑なんじゃないの?」
「だから、今年は二、三週間行こうかと予定してるんだ」
「二、三週間って、俺の夏休みのほとんどじゃないか」
「勉強はどこにいたってできるだろう」
「そりゃそうだけど」
「まあ、あくまでも予定だからな。そういうことがあるかもしれないと、心にとめておいてくれ」
「わかった」
 俺はそのまま部屋に戻った。
 しかし、千砂との約束、果たせないかもしれないな。
 
「ああっ、わかんねー」
「どこがわからないの?」
「ここだよ、ここ」
「あっ、これはね──」
 午後。千砂が家に来て一緒に勉強をしている。
「おおっ、なるほど」
 さすがは千砂。教え方もわかりやすい。
「やっぱり千砂は頭がいいな」
「そんなことないよ」
「それに、教え方もいい」
「それは、浩之ちゃんの理解が早いからだよ」
「まあ、そんなことどうでもいいか」
「そうだね」
 思わず笑いあってしまう。
 勉強は思いの外はかどっていた。ひとりでやってたらこんなには集中力は持続できなかっただろう。
「ねえ、浩之ちゃん」
 千砂はペンを止めた。
「ずっと聞こうと思ってたことがあるんだ」
「なんだ?」
 俺もペンを置いた。
「……あのね」
 どうやら聞きにくいことらしい。
「この前、ふたりで出かけたでしょ? あの時の観覧車でのことなんだけど……」
 ……なるほど、聞きにくいな。
「浩之ちゃん、私のこと、抱きしめてくれたでしょ?」
「……確か、な」
「……どうして抱きしめてくれたの?」
「……はっきり言って、俺にもわからない。気が付いたら、ああなってた」
「そう、なんだ……」
 千砂の表情が一瞬曇った。
「だけどな、別に後悔はしてないぜ。俺の心のどこかに、千砂とそうしたいっていう部分があったんだろうからな」
「浩之ちゃん……」
「な、なにを言ってんだ、俺は……」
 つい余計なことを口走ってしまった。
 と、千砂はずずいっと俺の隣に来た。
「な、なんだよ?」
「浩之ちゃんが少しだけでも私のことをそんな風に思っててくれたことが嬉しくて」
「…………」
 千砂は、黙って俺に寄りかかってきた。
「こうしてるとね、一番安心できるんだ」
「……そうか?」
「浩之ちゃんは、私にとっては『お兄ちゃん』みたいな存在だったからね。どうしても安心感や信頼感が先立っちゃうんだよね」
「まあ、俺たちは兄妹同然だったからな」
「うん」
「でも、俺は『ちゃん』付けなんだよな」
「だって、浩之ちゃんは浩之ちゃんだから。私にとっては、いつまでも浩之ちゃんなの」
「ホントはやめてほしいんだけどな」
「それだけはいくら浩之ちゃんのお願いでも、ダメだからね」
「わかってるよ。もうあきらめてる」
 俺は小さくため息をついた。
「少し、眠くっちゃった」
「お、おいおい、千砂」
「少しだけ、このままで……」
「……まったく」
 俺は、ため息をつきつつ、千砂の髪を軽く撫でた。
 
 前期中間テストがはじまった。
 テスト期間は五日間。現代文、古文、数学、英語、世界史、日本史、化学と科目は多いが、一日にふたつ程度だからなんとかなる。
 得意な歴史は全然問題ない。国語も比較的得意だから問題ない。化学は暗記勝負。英語は運次第。
 で、問題なのが数学。基本問題なら全然問題ないんだけど、応用になると少し問題発生。
 とはいえ、今回は多少の自信があった。それは良い『家庭教師』がいたからだ。まあ、それはもちろん千砂のことだけど。
 千砂は基本的に全科目が得意だから、テスト自体に問題はない。問題なのは点数がどれだけ採れてるか、ということ。
 そして、テストも最終日、最終科目を迎えていた。
 教室の中にはこれが終わればこの苦痛の日々からの解放、という雰囲気が漂っている。
 かく言う俺もそのひとり。いくら受験生とはいえ、多少の息抜きは必要なのだ。
 最終科目は現代文。問題自体はものの四十分もあれば解ける。あとの二十分はたいてい寝て過ごす。
 そして、チャイムが鳴った。
 教室中の空気が一変した。緊張感が消え、安堵感と開放感が広がる。
「終わったね、浩之ちゃん」
「ああ、やっと終わった」
「でも、今回は調子よかったみたいだね?」
「ん、まあな。なんたって『先生』が一流だったからな」
「えっ、そ、そんなことないよ」
「照れるなって。ホントのことなんだからさ」
 千砂は自分のことを必要以上におとしめるところがある。もう少し自分に自信を持てばいいのに。
「はあ……」
「うおっ!」
 突然耳元でため息をつかれ、俺は飛び上がった。
「な、なにすんだよ、美樹っ!」
「はあ……」
 美樹はふらふらと俺の椅子に座った。
「……いいわよねぇ、成績のいい人は」
「なんだ美樹。また、ダメだったのか?」
「ま、またってのは余計だけど、そうよ……」
 美樹は力なく項垂れた。
「そんなに気を落とさないでよ、美樹」
「千砂はいいわよね。成績に関して心配ないから」
「おまえとはできが違うからな」
「なによぉ、ずいぶん余裕じゃない」
 ジト目で俺をにらむ美樹。
「……あっ、ひょっとして」
「なんだよ?」
「浩之、今回千砂に教えてもらったでしょ?」
「な、なにを根拠にそんなことを」
「だって、それしか考えられないもの」
「美樹、それは言い過ぎだよ。浩之ちゃんはもともと頭いいんだから」
「もともと、ね」
「で、結局おまえはなにが言いたいんだ?」
「ううぅ、なんであたしを呼んでくれなかったのよぉ」
「は?」
「ご、ごめんね、美樹。今回は私が浩之ちゃんと誘ったの」
「千砂が? なんで?」
「なんでって聞かれても──」
 千砂はちらっと俺を見た。
「困るんだけど……」
「ふう、まあ、過ぎたことをいつまでも言っててもしょうがないわね」
 美樹は力なく立ち上がった。
「じゃあね……」
 ドアのところで人にぶつかり、廊下に出て行った。
「大丈夫かな、美樹?」
「さあな。まあ、なんとかなるんじゃないのか?」
 美樹の後ろ姿を見ながら、俺たちはそんなことを言った。
 
 七月に入って雨が少なくなった。だけどまだ梅雨は明けていない。
 高校生までにとって梅雨が短いのはあまりいいことじゃない。それは、体育の問題だ。雨が降らないだけで気温が高くない。そうすると体育で水泳の授業がやれない。となるとほかのことをやる。ほかのことをやるには気温が高い。つまり悪循環。
 で、俺たちはそのことを体育教師に直談判。それでなんとか水泳の授業がはじまるに至った。
 一部の男子には、水泳は女子と一緒じゃないからイヤだという奴もいる。下心丸出しのアホどもだ。
「浩之ちゃん」
「おう、やっと来たか」
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「しょうがないさ。水泳だったんだからな」
 それを示すように、千砂の髪はまだ少し湿っている。
「だけどさ、千砂は少しはまともに泳げるようになったのか?」
「えっ、う、うん……」
「小学校の頃なんか、水に顔つけられなくて泣いてたもんだ」
「ひ、浩之ちゃん……」
「まあ、それでも俺の特訓の成果でなんとか半分溺れながらだけど、二十五メートル泳げるようになったからな」
「あの時は、浩之ちゃんホントに厳しかったから」
「当たり前だ。泳げないっていうのは困るんだぞ。それに」
「それに?」
「おまえは俺の幼なじみだし、それくらいの面倒は俺が見ないとな」
「浩之ちゃん……」
「ま、まあ、なんだな。この話はやめにしようぜ」
「うん……」
 千砂は薄く微笑んだ。
「あっ、そうだ」
「ん、どうしたの?」
「あのさ、あんまりいい話じゃないんだけど」
「なに?」
「夏休みに、時間があったらどこか行こうって言ってたろ?」
「うん」
「それなんだけど、たぶんダメだ」
 一瞬、千砂の表情が曇った。
「どうして?」
「久しぶりに叔父さんのとこへ行くことになったんだ」
「叔父さんて、ひょっとして北海道の?」
「ああ。なんか牧場の柵やなんかを取り替える作業があるらしいんだ。で、人出は多い方がいいということで、うちも家族総出で手伝いに行くことになったんだ」
「そうなんだ。そういうことならしょうがないよね」
「ホントに千砂には悪いと思ってる」
「ううん、気にしないで。あっ、だけど、どのくらい向こうにいるの?」
「俺と姉さんは三週間。父さんと母さんは二週間」
「三週間……」
「ホントに悪い。この埋め合わせは必ずするから」
「あっ、ホントに気にしないで。行けたら行くってことだったんだから」
「でも、楽しみにしてたんだろ?」
「えっ、うん……」
 そうだよな。
「なあ、千砂」
「ん?」
「俺、ひとつ考えてることがあるんだ」
「どんなこと?」
「う〜ん、まだ詳しいことは言えないけど、千砂とどこかへ行こうと思ってるんだ」
「私と?」
「ああ。おまえとだけ、だ」
「えっ……?」
「何度も言わせるなよ。おまえとふたりだけでどこかへ、って考えてんだよ」
「浩之ちゃん……」
「それは別に夏休みの埋め合わせとは考えてないから安心しろ」
 と、千砂が腕を絡ませてきた。
「な、なんだよ?」
「うん、嬉しくて」
「嬉しいと腕を組むのか?」
「だって、ホントに嬉しいんだもん」
「まったく……」
 千砂の嬉しそうな顔を見てると、もはや文句も出ない。
 それはそれでいいのかもしれないけどな。
 
 あっという間に夏休みに入った。
 三年は受験勉強があるということで夏休みの宿題はない。まあ、だから北海道行きを承諾したんだけど。
 とりあえず俺と姉さんが先に乗り込むことになっていた。
 羽田空港からおよそ二時間、根室中標津空港へ。叔父さんは中標津で主に乳牛を放牧している。
「北海道、久しぶりだね」
「そうね。もう六年になるかしら」
 空港に降り立った第一声がそれだった。
「やあ、よく来たね」
「あっ、こんにちは、叔父さん」
「こんにちは」
 空港へは幸久叔父さん自らが迎えに来ていた。まあ、迎えがなければとうてい畏敬ないけど。
「いやあ、ホントに悪かったね。なんせ人出が足りないものだから」
 車の仲で叔父さんはしきりに恐縮していた。おそらくはその三分の二は俺に向けられたのだろう。なんせ俺は一応受験生だから。
「だけど、弥生ちゃんも浩之くんも見違えたね」
「そうですか?」
「弥生ちゃんなんかどこかのアイドルかと思ったよ。ははは」
「まあ、叔父さんたら上手なんだから」
 正月に会っているのにそんなことを言うのは、やはり久しぶりだからだろう。人は久しぶりに会った人にはついついいろいろなことを言いたくなる。
 車はなんにもない道をおよそ四十分進んでいった。
「ようやく着いたよ」
 家はなんとなく見覚えがあった。ただ、一昨年だかの年賀状で増改築をしたとあったから、正確には覚えてないだろうけど。
「部屋はたくさんあるから、好きなところを使って構わないよ」
 さすがは北海道というべきか、家に入っても全然暑くなかった。東京ならクーラーなしでは過ごせない。
「まあまあ、よく来たわね」
 俺たちを迎えてくれたのは叔父さんの奥さん、つまり俺たちの叔母さんの良美さん。
「ご無沙汰しています」
「こちらこそ」
 一通りの挨拶を終える。
「あれ、愛美ちゃんはいないんですか?」
「ん、ああ、愛美なら牧に出てるよ」
「そういえば、愛美ちゃんは馬が大好きだったから」
「そうなのよ。だから今日も」
 愛美というのは叔父さんたちのひとり娘。俺と同い年のいとこだ。
 六年前のことしか覚えてないけど、愛美は背がちっちゃくて少しずんぐりむっくりな女の子だった。
 俺のことを『ひろくん』て呼んでた。
「ひろ。愛美ちゃん、迎えに行ったら?」
「えっ、なんで俺が?」
「だって、愛美ちゃんは私たちがここに来た時、一番ひろに懐いていたでしょ?」
「確かにそうだ。愛美も浩之くんが来るって聞いたら喜んでたからな」
 ふう、来た早々頼まれるとはな。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「ああ、浩之くん」
「はい」
「たぶん、愛美は北の牧にいると思うから」
「北の牧ですね」
「外にトラクターがあるから使うといい。使い方は覚えてるかな?」
「たぶん」
 俺は外に出た。
 家の隣には大きな倉庫がある。そこには様々なものがしまってある。
 その中にトラクターがある。
 トラクターは昔、興味本位で叔父さんに動かし方を教わったことがある。動かし方自体はそれほど難しくないから、小学生でもできるのだ。あと、私有地だと免許がいらないから俺はよく乗っていた。
 キーを差し込んでエンジンをかける。
 低く鈍い音がしてエンジンがかかった。あとは記憶をたぐり寄せて動かすだけ。
 俺は少し手間取りながらも北の牧を目指した。
 叔父さんの牧場は相当広い。叔父さん夫婦、それと学生のアルバイトを使って放牧している。
 俺が向かっている北の牧は主に馬を放っておくところ。ほかに東と南の牧がある。そっちは両方とも牛。
 牧草地の向こうには同じ牧草地か林しかない。今は夏だから空の青と草の緑が印象的だ。
 トラクターは時速十キロほどでゆっくり進んでいく。
 そして、十五分ほど行ったところで馬の群れに出くわした。おそらくこのあたりだろう。
 俺は馬を刺激しないようにトラクターを止め、上から眺めた。
 馬はみんなサラブレット。上手くいけば競走馬になる。
 上から見てると馬はたくさんいるけど、肝心の愛美が見つからない。
 仕方なく俺はトラクターから降りて、その辺を探すことにした。
 吹き抜ける風はどこまでも澄んでいて、心が落ち着く。
 と、突然──
「こらーっ、そこでなにしてるのーっ!」
 大きな声で呼び止められた。
 振り向くと一頭の馬を連れてこっちに来る女性。あれが愛美なのか?
 俺は確かめるべく目を凝らした。しかし、すぐには判別できなかった。ひょっとしたらアルバイトの人かもしれないからだ。
「見かけない顔ね。こんなところでなにしてるの?」
 その日は落ち着いた口調で聞いてきた。
「あっ、いや、別になにかしようとしてたんじゃなくて」
「じゃあ、なに?」
「人を呼びに来たんだ」
「人を? 誰?」
「えっと、この牧場の子で、愛美って──」
「愛美は私よ」
 彼女はきょとんとした風に答えた。
「じゃあ、ひょっとして、あなたが──」
 と──
「ひろくんだーっ!」
「お、おわっ!」
 俺はいきなり飛びつかれ、思わず後ろに倒れてしまった。
「うわーっ、ホントにひろくんなんだ」
「愛美、なのか?」
「うん」
 確かに目元に昔の面影がある。しかし……
「あんまり変わってたからわかんなかった」
「どう変わってた?」
「う〜ん、正直言って、だいぶ綺麗になった」
「ホントっ!」
「あ、ああ」
「あはっ、嬉しい」
 愛美は嬉しさを表情と俺に抱きつくことで表した。
「でも、ひろくんだって変わったよ」
「ふ〜ん、そうかな?」
「だって、すぐにはわからなかったもん。なんか、すごくかっこよくなっちゃって」
 そう言って愛美は頬を赤らめた。
「と、とにかく起きようぜ」
「あっ、うん」
 俺はようやくその場に起き上がった。
「トラクターに乗ってきたんだ」
「まあな。ここまでただ歩いてくるのはなかなか骨が折れるから」
「そうだね」
 愛美はホントに嬉しそうにニコニコと笑ってる。そんなに嬉しかったのかな?
「ここに来たってことは、パパとママに頼まれたんでしょ?」
「それと姉さんにね」
「そっか、弥生さんか。弥生さんにもずっと会ってなかったから」
「まあ、とりあえず戻ろうぜ。って、用はないのか?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっとみんなの様子を見てただけだから」
 俺は愛美をトラクターに乗せ、家の方へ戻った。
 愛美は白いブラウスにジーンズ。もっとも牧場にある服装だ。
「私ね、ずっと楽しみにしてたんだ」
「なにを?」
「ひろくんに会えること。パパから今年は来るって聞いた時、飛び上がるほど嬉しかった」
「そんな大げさな……」
「だって、六年だよ? この前は小学生で、もう来年には高校卒業しちゃうんだから」
「そりゃそうだけど」
「それに……」
「それに?」
「あっ、ううん、なんでもないの。それよ、あとでいっぱい話そうね」
「ん、ああ」
 こうして波乱の北海道生活がスタートした。
 
「う〜ん、でも、ホントに見違えちゃったわね。愛美ちゃん」
「そんなことないですよ。弥生さんだって」
「多少わね」
 夕食。今日は俺たちが来たということでかなり豪勢だった。いつもだとバイトの人たちも一緒に食べてるらしいんだけど、今日だけは特別らしい。
「六年か」
「浩之くん」
「いくつかね、身長は?」
「えっと、一七八くらいです」
「そうか。六年でそんなにか」
 叔父さんは感慨深そうに頷いている。
「すっかりかっこよくなってね」
「ま、これでも私の弟ですから」
「……な〜にが」
「なんか言った?」
「べっつに」
 とにかく楽しい夕食だった。叔父さんと叔母さんのペースに姉さんが加わり、加速度的に盛り上がって、もう手のつけられない状態だった。
「ねえ、ひろくん」
「ん?」
「私の部屋に行こ」
 酒が入って止められなくなった姉さんたちを横目に、俺は愛美の部屋へ。
「さすがに家がでかいと、部屋もでかいな」
 愛美の部屋は、六畳ある俺の部屋の倍くらいあった。
「改築した時に大きくなったんだよ。前はこの半分くらいかな」
「まあ、それくらいが平均だと思うけどな」
 部屋自体は別段普通の部屋だった。妙に『女の子ちっく』な千砂の部屋に比べればおとなしいもんだ。
「愛美は相変わらず馬が好きなんだな」
「うん。馬は大好きだよ。それに馬って結構賢いから。私の言うこと、ちゃんとわかってくれるの」
「そりゃ、愛美が馬のことを好きだからだろ。馬を嫌いな奴がやったってダメさ。動物ってやつは基本的に人間を『見る』からな。動物にとってその人間は害を及ぼす者か守ってくれる者か。たいていそういうことを瞬時に判断するんだ。たとえば、犬を飼う時には人間が偉いということを叩き込まないと、絶対に言うことを聞かない。あいつらは自分たちの方が人間より上位にいると思うんだ。ほかにも、猿回しやサーカスの猛獣使いなんかもそうだ」
「へえ、ひろくんてよくそんなこと知ってるね」
「たまたまだよ」
 ふと机に目をやると、いくつかのフォトスタンドが並んでいた。たいていは愛美と馬の写真だったけど、その中の一枚に見覚えのあるものがあった。
「なあ、愛美。この写真」
「あっ、うん。六年前の時の」
 それは俺と愛美が馬に乗っている写真だった。愛美は嬉しそうにニコニコしてる。俺はちょっと膨れっ面してる。なんでだろ?
「なんで俺、こんな顔してたんだっけ?」
「パパにからかわれたからだよ。浩之くんは白馬の王子様かな、なんてね」
「……なるほど」
 そりゃこんな顔にもなるわな。多感な頃だからな。
「私ね、ホントに、ホントに会いたかったんだよ。うちは牧場なんかやってるからなかなか出かけられないから。だから、毎年パパに聞いたわ。今年はひろくん来るの、ってね」
「……そんなに会いたかったら、一言言ってくれればよかったんだ。そうすれば俺だけでも来たのに」
「うん。でも、ひろくんにはひろくんの都合がある。それにここは北海道。東京からは遠いもん。だから……」
 ……こいつは昔からこんなだったからな。
「俺のことなんか気にするなよ」
「あっ……」
 俺は愛美の頭を撫でた。
「都合があるったって、ずっとあるわけじゃない。遠いったって、飛行機を使えば二時間だしな。それに、俺とおまえはいとこ同士なんだぞ。そんな遠慮するような仲じゃないだろうが」
「……うん、そうだね」
 愛美はニコッと笑った。
「やっぱり、ひろくんは優しいね。昔と同じで」
「そんなことは──」
 それ以上は言えなかった。愛美が人差し指で俺の口を塞いだからだ。
「自分のこと、必要以上に低く言わない方がいいよ。ひろくんは誰が見たって優しいんだから。そして、それはいいことなんだから。ね?」
「……わかったよ。愛美にはかなわないな」
「うん」
 それから愛美とはいろいろと話をした。まあ、ほとんどは愛美が話してたけど。
「あっ、もうこんな時間」
「そうだな。そろそろ寝た方がいいな」
「うん」
「愛美は何時に起きてるんだ?」
「私? 私は四時だよ」
「四時っ! そりゃ、まあ、牧場は早いのは知ってたけど。う〜ん……」
「別にひろくんもその時間に起きなくたっていいよ」
「だけどな、別に俺たちは遊びに来たわけじゃないからな」
 愛美も『そっか』という感じでなにやら考えている。
「じゃあ、私が起こしてあげようか?」
「愛美が? 俺を?」
「うん。それとも、私じゃ、イヤ?」
「そうしてくれるって言うなら、お願いするよ」
「うんっ!」
 愛美は、本当に嬉しそうに頷いた。
 
 寝る前。俺はあるところへ電話をかけていた。
『はい、高木です』
「あっ、夜分遅くすみません。浩之です」
『あら、浩之くん』
「こんばんは」
『こんばんは。千砂ね。ちょっと待ってて』
 かけたのは千砂の家。少し遅い時間だったが、とりあえず取り次いでもらえた。
 受話器からオルゴールのメロディーが流れてくる。
『はい、もしもし』
「おっ、千砂か。俺だ」
『うん、浩之ちゃんなら声を聞いただけでわかるよ』
「ホントは着いたらすぐに電話しようと思ったんだけどさ」
『ううん、気にしないで。こうやって忘れずに電話してくれただけでもよかったんだからね』
「それじゃまるで俺が忘れて電話しない方が確率的に高かったみたいな言い方だな?」
『そ、そんなことないよ』
「ははっ、冗談だよ」
『んもう、浩之ちゃんのバカ』
「とりあえず、こっちには無事に着いたし。電話も忘れなければ週に二、三回はかけられると思う」
『うん』
「じゃあ、そういうことだから」
『浩之ちゃん』
「ん?」
『おやすみ』
「ああ、おやすみ」
 受話器を置くと、自然とため息が漏れた。
 いろいろ考えなくちゃいけないことはあったけど、とりあえずは忘れて明日に備えよう。たぶん、死ぬほどきついだろうから。
 
 
第八章
 
「……ううぅ、ね、眠い……」
「大丈夫、ひろくん?」
 次の日。俺は朝四時に起きた、いや、起こされた。空がようやく白みはじめようかって頃だ。
「無理しなくてもいいのに」
「いや、大丈夫だ。それより、朝の愛美の役割はなんなんだ?」
「馬を牧の方へ放すの」
「ひとりでやってるのか?」
「だいたいわね」
 俺たちは厩舎へ向かった。
「みんな、おはよう」
 愛美は一頭一頭に声をかけてる。おそらく、その時にスキンシップと同時に馬の様子も見てるんだろう。
 飼い葉をやって、一頭一頭をマッサージしていく。馬のストレスを取るためだ。
「さあ、みんな。好きなだけ走ってきて」
 馬を後ろから追い立て、北の牧へと放つ。
「ふう、だいたいこんな感じかな」
「いや、さすがだな。手際がいい」
「ずっとやってれば誰でもできるよ」
「誰でもできることだからこそ、難しいんじゃないか?」
「そ、そうかな?」
 愛美は照れてる。
「しかし、牧場の朝って、ホントに清々しい気分になる」
「東京から来ればね」
「夏だっていうのに、これだけ涼しいし」
 吹き抜ける風は、東京ではどう考えても秋に吹く風だった。
「今日からは俺もこの牧場で手伝うわけだから、いわゆる愛美は『先輩』だな」
「えっ、別にそんなことないよ」
「これからしばらくよろしくな」
「ひろくん……うん、よろしくね」
 
 いや、しかし、牧場の仕事っていうのは大変だ。おそらくは普段使わないような筋肉を使うからだろう。慣れてしまえばどうってことないんだろうけど。
 俺は一日、たった一日の仕事でダウンしてしまった。情けない……
「大丈夫なの、ひろ?」
「ううぅ、な、なんとかね」
 とは言いながら、ベッドの上でさっきからずっと同じ格好をしてる。体が動かせないのだ。
「まあ、仕事が大変なのは知ってるけど、もう少しなんとかならなかったの?」
「俺だってそう思ったさ。でも、頭の中で考えてたのより現実は厳しかったってこと」
「そんな調子でこれから大丈夫なの?」
「慣れれば大丈夫だと思うけど」
「慣れるのが先か、倒れるのが先か、って感じね」
「まあ、ね」
 俺は苦笑した。
 と、ドアがノックされた。
「はい?」
「愛美です」
「愛美ちゃん? 開いてるわよ」
 俺は顔向けられないけど、愛美が入ってきた。
「大丈夫?」
「ん、ああ、なんとかな」
「さすがに堪えたみたいね。ひろはそんなに軟弱じゃないけど」
「仕方がないですよ。うちに来るアルバイトの人たちも、最初の一週間くらいはこんな感じですから。スポーツをやってるとかやってないとか関係ないんですよ。使う筋肉が違うんです」
「そうらしいわね」
「いくらひろくんでも、そう簡単にはいかないですよ」
 なんかそこまで言われると少し悲しくなってくる。
「ふう、ひろ」
「ん?」
「私も疲れたから早めに寝るわね」
「あっ、うん」
「愛美ちゃん。ひろのこと頼むわよ」
「あっ、は、はい」
 姉さんは意味ありげに笑って出て行った。そんなこと見なくたってわかる。
「明日は、今日より簡単な仕事にするってパパが言ってたよ」
「そうしてもらえると助かるよ」
「でも、ひろくんよくがんばってたよ。パパもママも褒めてたもの。仕事やるのはじめてなのに、あれだけできればたいしたものだって」
「そう言われると、悪い気はしないけど」
 しないけど、なんとなく悲しい。
「ねえ、ひろくん」
「ん?」
「マッサージしてあげようか?」
「マッサージ?」
「うん。少しは疲れが取れるかと思って」
「う〜ん、遠慮しとく」
「どうして?」
「マッサージってのは常習性があるんだ。あんまり癖をつけちゃうと後々大変だから。愛美の気持ちだけ受け取っておくよ」
「そう、だね」
 ちょっと酷だったかな? でも、事実だからしょうがない。
「私にできることがあったらなんでも言ってね。極力要望に応えるから」
「ああ、ありがと。心強いよ」
「うん」
 少しだけ会話が途切れた。
「なあ、愛美」
「ん、なに?」
「昨日さ、俺に会った時、ホントに俺だってわからなかったのか?」
「……どうして?」
「ただ、なんとなくな」
「……ホントはね、なんとなくはそうじゃないかとは思ってたの。私の知らない人が牧場にいるなんて普通はないから。で、昨日はその可能性があるとしたらひろくんだけだったから」
「でも、自信が持てなかったからあんな風になった、と」
「うん」
「ま、だいたい俺と同じだな。俺もおまえを見た時、そんな感じだったからな」
「そうなな」
「これを言うと怒るかもしれないけどさ、昔の愛美の印象って、ずんぐりむっくりだったんだよ」
「ぶう、そんなにずんぐりむっくりじゃなかったよ」
 ぷうと頬を膨らませて抗議する。
「だからだよ。あんまり変わってたから、わからなかったんだ」
「そんなに変わったのかな、私?」
「ああ。少なくとも外見はな。背も伸びたし、髪も伸びたし、顔つきだってずいぶんと大人びてるし。それにだな、体つきだって……」
「…………」
「ま、まあ、なんだな。それだけ変わったってことだよ」
「……ひろくん」
「ん?」
「私が変わったのは、ひろくんのためだって言ったら、本気にする?」
「……正直言って、わからないな。本気にするかもしれないし、しないかもしれない。ただ、それがホントなら、嬉しいけどな」
 俺は少し無理して体を起こした。
「それでもな、俺は変わってくれなくてもいいんだ。外見なんてどうでもいい。結局は中身だからな。外見と一緒に中身まで変わってると困るからな」
「じゃあ、私は?」
「今のところは昔のままだな。俺の知ってる『榊愛美』だよ」
「成長してないのかな?」
「いや、そんなことはないさ」
「どんなところが?」
「そうだな。昔みたいに『ひろくん、ひろくん』て言って、俺にべったりじゃなくなったことかな」
「そ、そうだったかな?」
「ああ。愛美は人見知りが激しかったからな。最初は俺にも懐かなかったのに、いざ懐くと片時も離れない。帰る時なんか、大泣きして大変だった。『まーも一緒に行く』なんて聞かなかったからな」
「も、もうそれくらいにしよ。なんか恥ずかしくなってきちゃった」
「そうか?」
 ちょっと言い過ぎたかな? 愛美は顔を真っ赤にして俯いている。
「あっ、そうだ」
「どうしたの?」
 俺は傍らに置いてあるカバンを探った。
 確かこのあたりに……
「あった」
「なに?」
「まあまあ。ちょっと目をつぶってな」
「えっ、うん」
 愛美は俺に素直に従った。
 で、俺はというと──
「いいぞ」
「あっ、これ」
「悪くはないと思うけどな」
 俺が愛美にあげたのは、ラベンダーのようなパープルのリボン。姉さんが俺に押しつけたんだけど、役に立った。
「普通にしてる時はいいけど、仕事してる時はまとめてる方がいいだろ」
「うん、ありがと、ひろくん」
 
「……う、う〜ん」
 北海道に来て四日目の朝。
 少しだけ朝に慣れてきたそんな頃。
「ん……?」
 伸びをした時、なにか柔らかいものに触れた。それに、なんかベッドが狭いような気がする。
 俺は眠い目を擦りながら、よく見てみると──
「な、なななな、なんで……」
 俺は慌てて口を閉じた。あまり騒ぐとまずい。
「……なんで愛美が俺のベッドで寝てるんだ?」
 そう。なぜかわからないけど、隣に愛美が寝てる。俺が寝た時には誰もいなかったはずなのに。
 微妙にヤバイ格好になっていて、俺としても非常に困る。
「おい、愛美。起きろよ」
 体を軽く揺すってみるけど、全然起きない。
 時計を見ると時間は四時少し前。もう起きる時間だ。
「しかし……」
 愛美はホントによく寝ていた。穏やかな寝顔で、スースー寝息を立ててる。
「まったく……」
 額にかかった髪を軽くよけてやる。
 昔からそうなんだよな。愛美はホントに俺に懐いていた。北海道に来るのは夏休みだけだったから、なおさらだった。
 千砂と同じく、愛美も俺にとってはカワイイ『妹』だった。まあ、今でもカワイイけど。
 そんな愛美が俺にいとこということ以外に、ひとりの男として好意を抱いてることは薄々気付いていた。俺としてもそれは嬉しい。いとこ同士なら結婚もできるし。
 ただ、俺は愛美にはいとこ以上の感情は持っていない。というか、持とうとは思わなかった。
 俺だって愛美は好きだ。性格だって今時珍しいくらい純情だし。
 だからこそ俺は──
「……う、う〜ん……」
「おっ、やっと起きたか」
「……ん、あれ?」
 愛美は目を擦りながら俺を見た。
「ひろくん……?」
 どうやらまだ寝ぼけてるらしい。
「おはよう、お姫様」
「えっ、うん……」
 愛美はなんとなく答えた。
「……あはは」
 部屋を見回して、ようやく状況が飲み込めたらしい。
「そろそろ説明してくれるか?」
「う、うん」
 愛美はちょっと気まずそうに話した。
「あのね、ちょっと淋しかったの。昼間はひろくんや弥生さんといっぱい話して楽しいけど、夜はひとりだから。そしたら、自然と足がここへ向いていて」
「ふう……」
 俺はひとつため息をついた。そして、愛美の頭を引き寄せた。
「なあ、愛美」
「ん?」
「別に俺は怒ってないけどさ。もし、またそんなことがあったら前もって俺に言えよ」
「えっ?」
「言えば、一緒に寝てやるからさ」
「ホント?」
「ああ。ただし、みんなには内緒だからな。特に姉さんには。姉さんに知られたらなにを言われるかわかったもんじゃない」
「……ねえ、ひろくん」
 愛美は、潤んだ瞳で俺を見上げる。
「なにも言うなよ。余計なこと言うと、必要以上に意識しちゃうからな」
「うん、わかった」
「さて、今日も一日がんばるか」
 
「ははは、そうかそうか」
 俺たちが叔父さんのところへ来て一週間が過ぎ、父さんと母さんがやって来た。
 父さんと叔父さんは兄弟。今でもふたりはものすごく仲が良い。
 それと同じく母さんと良美叔母さんも仲が良い。どうも馬が合うらしく、叔父さんが父さんのところへ良美叔母さんを連れてきた頃からの仲らしい。まあ、俺はまだ生まれてなかったからわからないけど。
「浩之は役に立ってるか?」
「ああ、よくやってるよ。最近は体育会系の学生でもすぐに音を上げるのに、そんなこともないから」
「ひょっとして、甥っ子だからって楽なことさせてるんじゃないか?」
「とんでもない。バイトの連中と同じくらいやってもらってるよ」
「そんなに俺が信用できないわけ?」
「ははは、そうとんがるな」
 まったく、父さんは……
「ああ、そうそう。浩之」
「ん、なに、母さん?」
「ちょっといい?」
 俺は首を傾げながらリビングを出た。
「どうしたの?」
「来る前にね、千砂ちゃんに会ったのよ」
「千砂に?」
「それで、これを頼まれたのよ」
 そう言って母さんが取り出したのは、一通の手紙だった。
「千砂ちゃんね、ちょっと淋しそうだったわよ」
「……電話はしてるんだけどさ」
「声だけじゃなく、会いたいことはあるわよ」
「しょうがないさ。それに、ずっと帰らないわけじゃないんだし」
「そうね」
 母さんはふっと微笑んだ。母さんはなんでもわかってる。
「あっ、そうそう、伝言」
「ん?」
「風邪引かないようにがんばってね」
「……あのお節介が」
「いいじゃないの。さ、戻りましょ」
 俺は小さく頷いた。
 手紙はズボンの後ろポケットに入れた。
「ひーろ」
「な、なんだよ?」
 戻るなり、酒臭い姉さんに絡まれた。
「ほら、さっさと愛美ちゃんの相手をしなさい」
「は?」
 姉さんは耳元でささやいた。
「この中で愛美ちゃんの相手がつとまるのは、ひろだけなんだから」
「どうしてさ?」
「……私はなんでも知ってるのよ」
「な、なんのこと?」
「まあ、そういうことだから。それとも、千砂ちゃんに引け目を感じてるわけ?」
「……千砂は関係ない」
「……割り切ってるのね」
「…………」
「まあ、いいわ。とにかく、今は愛美ちゃんよ」
「わかったよ」
 姉さんはまだなにか言いたそうだったけど、それ以上はなにも言わなかった。
「ふう……」
「どうしたの、ひろくん?」
「なんでもないよ」
「そう」
「なあ、愛美」
「ん?」
 グラスを傾けながら愛美は首を傾げた。
「ひょっとしたら、姉さんにバレてるかも」
「バレてるって、なにが?」
「おまえなぁ、ここで内緒のことって言ったら……」
「あっ、そっか」
 まったく、普段はしっかりしてるんだけど、時々ボケるんだよな。
「どうするの?」
「どうするって、それは愛美次第だろ?」
「そうだけど……」
 愛美は俺の袖をくいっと引っ張った。
「……わかったよ」
 ホント、俺って甘いよな。
 
『お元気ですか? って、元気だよね。いつも電話してくれるてるもんね。
 今日は電話だけじゃなくて手紙を書いてみたくなったので書きました。あんまり手紙なんて書かないから、ちょっとだけ大変。
 ホントはね、電話じゃ言えないことも手紙なら書けるかなって思ったから書いたんだけど、そんなに簡単じゃないね。想いを言葉にするのって。
 あんまり長く書くと浩之ちゃんは、まったく、なんて顔するからあんまり書かないね。
 この手紙が浩之ちゃんに届いた頃にはあと二週間だね。お手伝い、一生懸命がんばってね。さぼっちゃダメだぞ。
 今度は電話でね。
 
 追伸
 早く、会いたいな……
                                   千砂より』
 
「くぉらっ、おとなしくしろっ!」
 俺はおとなしくしない馬に怒鳴りつけた。こいつら人のことをバカにしてる。
 愛美やほかの慣れた人がやるとおとなしくしてるくせに、俺の時だけは暴れる。
「まったく……」
 それでもしっかり世話してやると、気持ちよさそうにする。それを見るとなんとなくそれ以上言えなくなってしまう。
「ほら、終わったぞ」
 尻を叩いてやると、馬は軽く走っていった。
「ひろくん、ごくろうさま」
「ああ」
「まだ少し手間取ってるみたいだね」
「あいつら、人を見てるからな」
「動物だからね」
 そう言って愛美はクスッと笑った。
「そういえば、もう慣れたか、そのリボン?」
「えっ、あ、うん」
 長い髪をまとめているパープルのリボン。愛美はそれに軽く触れ、頷いた。
「最初はちょっと違和感があったけど、今はもう大丈夫」
「まあ、気に入ってもらえてよかったよ」
「気に入ってるのはそうだけど、やっぱり、ひろくんからもらったからだよ」
「おだてたってそれ以上はなにも出ないぞ」
「ううん」
「ま、似合ってるしな」
「ありがと」
 愛美は、満面の笑顔で応えた。
 
 三週間の滞在期間の半分が過ぎた。
 牛や馬の世話の合間に、牧の柵を新しいものへと交換している。やることは今までのものを引き抜いて穴を埋め、そこの少し隣に穴を開けて新しい杭を打ち込む。杭と杭の間に板を渡して柵を固定する。これをただひたすらに続けていくのだ。
 牧場の男総出で柵を設置し、女総出でペンキを塗っていく。ペンキはただ単に色分けという意味だけではなく、木が腐るのを防ぐ、いわゆる防腐剤の役割もある。
 柵の方は俺たちが来る前から少しずつやっていたから、残りもそれほどない。割合で言えば、あと二割ほど。それだけをやればあと二、三日で終わるはず。まあ、それだけやるわけにはいかないから、あと四、五日。
 幸い雨もほとんど降らずに作業は順調そのものだった。
「ふえぇ、さすがに疲れた」
 俺は木陰に横になった。
 八月の上旬から中旬にかけて、北海道は次第に秋の準備がはじまる。朝夕の気温が少しずつ下がりはじめる。
 そして、ここ中標津なんかがある道東は、それが早いところだった。
 木陰を吹き抜けていく風は完全に秋の風。日向にいるとそれはとても気持ちいい。日陰に長時間いると、少し肌寒く感じるかも。
 ただ、今の俺にとってはそれくらいがちょうどよかった。
 作業が終わったばかりでものすごく暑かったからだ。
「な〜にしてるのよ」
「休んでるんだよ」
「よっと」
 姉さんがやってきて俺の隣に腰を下ろした。
「もうすぐ終わるわね」
「そりゃ終わってもらわないと。なんのために俺たちは来たのかわからないじゃないか」
「まあ、ひろの場合は特にそうかもね。なんせ、受験勉強と千砂ちゃんをほっぽりだして来たんだから」
「勉強はこっちでもしてる」
「へえ、一応やってるんだ。最初の頃の様子だと、お風呂に入ったらバタンキューだと思ってたけど」
「まあ、確かに最初はね」
「慣れたの?」
「慣れたといえば、慣れたのかも」
「なによ、その歯切れの悪い言い方は?」
「……いや、なんでもない」
 俺は答えを濁した。
「……ひろ」
「なに?」
「あんまり愛美ちゃんに思わせぶりなこと、しない方がいいわよ」
「……わかってる」
「ホントにわかってるの? ほとんど毎日一緒に寝てるくせに」
 やっぱり姉さんは知ってた。
「確かにね、愛美ちゃんはカワイイわよ。ひろがほっとけないのもわかる」
「姉さんが言いたいことはわかる」
「……それならいいけど」
「……俺はさ、愛美に悪いと思ってるんだ」
「どうして?」
 姉さんは首を傾げた。
「今年ここへ来る前、つまり六年前からあんなに俺を慕ってくれていた愛美を、結果的には六年間も放っておいたんだから。別に償いってわけじゃないけど、せめて多少なりとも愛美の思うままにさせてやりたいと思って」
 それを聞くと、姉さんは小さくため息をついた。
「ひろは優しすぎるのよ。人は優しくされると嬉しくなる。そして、優しくされたくて優しくしてくれるようなことを言ったりやったりする。そして、その人の優しさに溺れていく」
「…………」
「愛美ちゃんがそうだとは言わないけど、そういうこともあるのよ。それに、優しさって時には残酷なものになりうるのよ」
「……愛美には、わかってもらうさ」
「わかってくれると思う?」
「信じてはいるけど……」
「愛美ちゃんだってひとりの女の子なのよ」
「わかってる。もし、言葉で言ってわからないようなら、行動に出る」
 たぶん、俺の顔はひどく情けないものだっただろう。
「傷つくのが怖いなら、人とつきあうな、か」
「……それは違う。傷つくとわかってるからこそ、つきあうんだ」
「……なに生意気なこと言ってるのよ」
 姉さんは穏やかに、優しく微笑んだ。
「因果なものよね。ひろは私にとって最高の弟。だから、そのひろを好きになってくれる子が現れてくれるのは嬉しい。でも、それがあまりにも身近なんだから……」
「姉さん」
「ん?」
「ごめん」
「な〜に言ってるのよ。ひろが謝ることないでしょ? それに、今回のことも少しは手助けしてあげるから。ただし、あくまでもひろが最善を尽くしてからね」
「ありがと、姉さん」
「うん」
 俺にとっても、姉さんは最高の姉さんだ。
 
 五日後。柵の交換がすべて終了した。叔父さんは予定より早く終わったと言っていたけど、実際は遅れていたと思う。まあ、理由はいろいろあるけど、今は関係ない。
 柵のことがなくなると、俺たちの仕事はぐっと減った。もともと夏休みは学生のアルバイトを増やしてるから仕事が少ない。
 俺は朝夕の愛美の手伝いだけになった。
「愛美、終わったぞ」
「あっ、うん」
 俺は厩舎の入り口から中に声をかけた。
「ごくろうさま、ひろくん」
「ああ」
 ホントはそんなにご苦労じゃないんだけど。
「どうしたの?」
 俺がちょっとボーッとしてると、声をかけられた。
「いや、もうすぐ三週間経つんだなって思ってさ」
「あっ、うん、そう、だね……」
「まあ、それもある程度しょうがないことだけどな。北海道は夏休みが短い。おまえに影響が出る前に、ってことだからな」
「……ひろくん」
「ん?」
 愛美は急に立ち止まった。
「あっ、ううん、やっぱりなんでもない。気にしないで」
「……そうか」
 だけど、気にしないでいられるほど、俺も大人ではないし、冷たくもない。もちろん、言葉をかけられるはずもなかったけど。
 そして、北海道最後の夜が来た。
 
「いやあ、ホントに世話になったな」
「こっちこそ」
 父さんと叔父さんは相変わらず上機嫌で酒を飲んでいる。
 母さんと叔母さんと姉さんもワインをすでに三本空けている。
 そして、俺たちは──
「ふう、風が少し冷たいかな」
 星の綺麗な外にいた。
「うん……」
 愛美は朝からあまりしゃべっていない。ただなんとなく答えているだけ。
「あっという間だったな、この三週間」
「うん……」
 ダメだな、これは……
「東京に戻ったらまだ暑いんだろうな。こっちはこんなに涼しいのに」
「……だったら、ずっとここに──」
「……それはできない」
 即答した。
「どうして?」
「俺は東京の高校の三年だ。決して北海道じゃない。家も向こうにある」
「それは、そうだけど……」
「なあ、愛美。とりあえず言いたいこと、言ってみな」
 俺の言葉に、愛美は一瞬ハッとした。
「な?」
 愛美は小さく頷いた。
「私、ひろくんに帰ってほしくない。ずっと、ずっと一緒にいてほしい。だって、私、ひろくんが、大好きだから」
 比較的簡潔だったな。
「こう言うと卑怯な奴って思われるかもしれないけど、おまえの想いは前から知ってた。あの頃から。まあ、あの頃はただ漠然とした感覚的なものだったけど」
 ……これからが一番つらい。
「だけど、俺はおまえの想いには応えてやれない」
「っ!」
「俺だって、おまえが好きだ。カワイイと思う。ずっと綺麗になったし、ホントに俺のいとこなのかって思うこともある。だけど、そこまでなんだ。それ以上、ない」
「……ど、どうして?」
「俺にとって、愛美はカワイイ『妹』みたいな存在なんだ。兄妹の間に兄弟愛は成立しても、ひとりひとりの男と女としての恋愛感情は成立しない」
「……でも」
「でもじゃない。わかってくれよ、愛美」
 愛美は唇をきつく噛みしめた。
「無理よ。絶対に無理。ひろくんをあきらめるなんて、絶対に……」
 一番聞きたくなかったことだ。それを聞いたらあとは……
「……なら、仕方がない」
「えっ……?」
 俺はできる限り低い声で言った。
 そして──
「あっ……」
 俺は強引に愛美を引き寄せ、乱暴に唇を奪った。
 そのままの状態で胸に手を当てる。
「っ!」
 愛美は必死で逃げようとする。が、俺はそれを許さない。
 強引に胸を触り続け、そして、下腹部に手を伸ばす。
「い、いやっ!」
 そこで、俺は吹っ飛ばされた。
 愛美は泣いていた。そして──
「……ひろくんの、バカ」
 そう言って家の方へ駆けていった。
 俺はそれを無言で見つめていた。
「ふう……」
 思わずため息が漏れた。
「仕方、ないよな……」
 俺はほこりを払って立ち上がった。
 北海道の夜は、こうして終わった。
 
 次の日。
 愛美は朝から部屋にこもりきりだった。
 理由を知らない叔父さんたちは困惑していた。ただ、姉さんだけがすべてを知っている感じだった。
「ごめんね、浩之くん」
「いえ、いいんです」
 叔母さんが申し訳なさそうに謝った。
 そして、出発する直前。
「あの、叔母さん。ひとつ、頼みを聞いてもらえますか?」
「いいわよ。なにかしら?」
「この手紙を、俺たちが飛行機に乗った頃に愛美に渡してください」
「わかったわ」
「すみません」
 姉さんはそれを見て、納得したような表情だった。
 来た時とは逆方向へ車は走り出した。
 振り返った家の窓に、わずかに愛美の姿を捉えることができた。でも、それはすぐに見えなくなった。
 北海道は、もう秋になる。
 
『愛美へ
 まず、最初に謝っておくよ。本当にごめん。
 なにを言っても言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、一応書いておくよ。
 あれはわざとだ。愛美が俺から離れるために。
 愛美はまだ俺しか見てないんだ。世の中にはもっといろんな男がいる。その中には俺なんかよりもよっぽどいい奴もいるはずだ。その可能性を俺がつぶしたくなかったんだ。
 俺にとって愛美は大切な存在だ。それだけは間違いない。
 とはいえ、いくら言っても信じてもらえないかな。
 これ以上はもうやめとくよ。
 最後にもう一度だけ。
 ホントに、ごめん。
                             不出来ないとこ、浩之』
 
 その夜。
「浩之、電話よ」
「ん、ああ」
 俺が受話器を取ると──
『ひろくん、ごめんなさい』
 いきなり謝られた。相手はもちろん、愛美だ。
「手紙、読んだか?」
『うん』
「そっか」
『あのね、ひろくん』
「ん?」
『悪いのは、やっぱり私よ。自分の気持ちばかりひろくんに押しつけて、肝心のひろくんの気持ちを考えてなかった』
「……誰が悪いとか、そんなことどうでもいいんだよ。それに、あえて言うなら誰も悪くない。人間なんて、お互いの気持ちを百パーセント理解することなんか不可能なんだからさ。どこかで行き違いが生じるのは当たり前。問題はそれをどうやって修正していくかなんだよ」
『ホントに、ひろくんは優しいね』
「……もう、否定はしないよ」
『ひろくんの手紙読んだら、涙が止まらなかった。どうしてあの時、ひろくんの気持ちをわかってあげられなかったのかって、悔しくて悲しくて』
「これで愛美も大人に一歩近づいたわけだ。まあ、まだまだ半人前の俺が言っても説得力ないけど」
『そんなことないよ』
 ようやく声に明るさが戻ってきた。
『私ね、決めたの』
「なにを?」
『私、東京の大学を受験する』
「な、なにぃ、ほ、ホントか?」
『うん。いろいろ考えて、やっぱり私はひろくんが好きで、少しでも側にいたいから決めたの』
「あ、あはは……」
 ま、まさかこんな展開になろうとは……
『それとね、昨日の夜、少しだけあのままされてもいいかなって思ったの』
「ば、バカなことを言うな。俺にホントにそんなことができたと思ってるのか?」
『ひろくんなら、ね』
「ま、愛美ぃ」
『ふふっ』
 つい情けない声を上げてしまった。
『私のファーストキスは、ひろくんにとられちゃったからね。ちょっと強引だったけど』
「あ、あれはだな……」
『でも、相手がひろくんでホントによかった。ホントはね、心のどこかではわかってたんだと思うの』
「なにを?」
『ひろくんが本気じゃないってこと。確かにひろくんは強引だったけど、どこかにいつものひろくんが残っていたから。さすがに胸を触られた時はびっくりしたけど』
 くすくす笑う愛美。
『ひろくん』
「ん?」
『私、負けないから』
「は、誰にだよ?」
『ひろくんの幼なじみ』
「お、おまえ、知ってたのか?」
『うん。弥生さんから聞いたの』
 ね、姉さんのバカ……
『それに、聞かなくてもだいたいはわかってたよ。ひろくん、時々電話してたし』
「……見てたのか」
『弥生さんからは、いろんなことを聞いたよ。幼なじみの千砂さんのこと、アルバイトの涼子さんのこと』
「よ、余計なことを……」
『でもね、弥生さんが一番ひろくんのことを言ってたよ。ひろは私の自慢の弟なんだって。だから、あんまり弥生さんにきつく言わないでね』
「……わかったよ。今回は、愛美の顔を立ててなにも言わないよ」
『うん』
 ふっと会話が途切れた。
「愛美」
『うん?』
「ホントに、ごめんな」
『ううん。もういいの。ひろくんのホントの気持ちもわかったし』
「そうだ。手紙に書き忘れたんだけどさ、もしなにかあったら俺に言えよ。もう六年間も淋しい思いをさせないから」
『ひろくん……』
「な?」
『うん』
「じゃあ、そろそろ……」
『ホントにありがと、ひろくん』
「いいさ」
『だから、大好き』
「俺もだよ」
『うん、じゃあね、ひろくん』
「ああ」
 受話器を置く。
「一件落着ね」
「姉さん」
 振り返ると、姉さんがいた。
「愛美ちゃんもいろいろ考えたのよ」
「姉さんが余計なこと言ったから、でしょ?」
「はは、そうだったかしら?」
「まったく……」
「でも、これでよかったわけでしょ?」
「まあね」
「なら、私のこともいいわけでしょ?」
「今回はね」
 と、姉さんは俺を抱きしめた。
「今回は、少し、つらかったでしょ?」
「……多少はね」
「よくがんばったわね」
「……姉さん」
 姉さんの腕の中、胸の中はとても気持ちよかった。心が落ち着いて、癒されていく感じだった。
「ひろは、私の自慢の弟なんだからね」
 
 
第九章
 
 北海道から帰ってからの残りの夏休みは、ただただ受験勉強の日々だった。
 まあ、夏休みを征する者が受験を征す、と言われるほど夏休みは重要だから仕方がない。姉さんや涼子さんにも多少なりとも勉強を見てもらった。それと、大学の方もある程度絞り込んできた。その中には姉さんが通っている大学も一応入っている。
 そして、九月。夏休みが終わった。
 九月は文化祭と前期末テストがあり、結構忙しい。まあ、三年はのめり込む、というほどにはならないけど、それなりに張り切る。
「ふわ〜あ……」
 俺は例によって例のごとく屋上にいる。風がなかったらちょっと暑くていたくないほどではあるけど。
 今教室では、遅ればせながら文化祭でやるクラスの出し物を話し合っている。俺はそういうことには極力関わりたくないから、逃げてきた。
 ただ、そんな時には必ず──
「浩之ちゃん。いるんでしょ?」
 千砂がやって来る。
 一瞬無視しようかと思ったけど、ちゃんと返事した。
「なにか用か?」
 千砂はもうなにも言わなくとも給水塔へ登ってくる。
「なんだ、おまえもさぼりに来たのか?」
「まあ、そうなるのかな」
 千砂はクスッと笑った。
「ねえ、浩之ちゃんは文化祭、どうするの?」
「さあな。たぶん、出席になるのだけ来て、あとは出ないんじゃないか?」
「去年も一昨年もそうだったからね」
「面白くないとは言わないけど、興味がないんだよ。だから出てこないんだ」
 俺にとっては文化祭はたいした意義がない。どうせどこかの部活に所属してるわけじゃないし。
「別に俺につきあう必要はないんだぞ」
「だって、ひとりで文化祭を見てても面白くないもん」
「美樹やいつみがいるだろ?」
「そうだけど……」
 去年も一昨年も千砂は俺と一緒にいた。ま、ちょっと遊びに行ったこともあるけど。
「でも、浩之ちゃんは弥生さんの大学の学園祭には行くよね?」
「まあな。大学の方が面白いんだよ」
「それは言えてると思うけど」
 千砂も一緒に行ってるだけあって、賛同した。
「ま、とにかくよほど面白いことでもない限り、去年と一緒だな」
 この時はそう思っていた。しかし、それが失敗のはじまりだった。
 
 ロクに話も聞かないで文化祭当日を迎えていた。どんな部活がなにをするのか、まったく知らない。実行委員会や生徒会がなにをするのかも知らない。
 そんな『無知』な状態で一応文化祭を一通りまわっていた。
 千砂と一緒にぶらぶらしていると、どうも視線が気になる。
 なにかしらやっている連中はいいけど、そうじゃないのが問題だ。なにやらキョロキョロして、まるで品定めでもしてる感じだった。
「なあ、千砂」
「ん?」
「なんかいつもと様子違わないか?」
「そうかな?」
「一般生徒のほとんどがなんか品定めしてるみたいでさ」
「気のせいだよ」
 千砂はあっけらかんと答えた。まあ、千砂に聞いただけ無駄だったのかもしれない。
 しかし、俺には悪い予感があった。そして、それは現実のものとなった。
 
 文化祭最終日。展示の時間も終わり、残すは後夜祭のみとなった。
 後夜祭は案外楽しいから毎年出てる。
 が、今年はものすごく後悔した。
「さて、宴もたけなわとなり文化祭の最後を締めくくるに相応しい、本当に最後の催し物に行きましょうっ!」
 実行委員がなにやら騒ぎ立て、生徒を扇動する。
「さて、今年の文化祭は知っての通り、あるひとつのことを最初から最後までやっていました。そして、今この場でその結果を発表したいと思います」
 俺はなにがなんだかわからなかった。
 生徒のほとんどはそれがなんなのかわかっているらしかった。
「それでは、今年のメインイベント。輝け! 第一回桜蘭高校ベストカップルグランプリっ!」
 ものすごい歓声が沸き起こる。
 しかし、なんなんだ、それ?
「さて、前夜祭からこの後夜祭の直前まで、全校生徒のみなさんにはあるひとつのことを選んでくれるようにお願いしてありました。それは、この桜蘭高校におけるベストカップルは誰と誰なのか、というものでした」
 な、なんなんだそれは? あまりにもくだらなすぎる。
「ここに集計したばかりの結果があります。私も上位三組は知りません」
 委員の手には数枚の紙と、封のされた紙が三つ。
「今回は諸先生方のご尽力により、スピーディーかつ公正な投票並びに開票が行えました」
 そんなことに先生たちまで巻き込むとは、恐るべし……
「下位のカップルはあまりにもたくさんあるため、すべて割愛させていただきます」
 同時にブーイングが起きる。
「それでは、順番にいきたいと思います」
 委員が封を切って中を読み上げる。
 それは結構噂の高かったカップルだった。ふたりはまわりから冷やかされながらも大の方へ。
 次も結構校内では有名なカップルだった。
「それでは、いよいよ最後です。これでベストオブ桜蘭ズカップルが決まりますっ!」
 もったいぶった言い回しで焦らす。
 まわりからは早く発表しろとヤジが飛ぶ。
「では、発表します。見事栄冠に輝いたふたりは……」
 封が切られる。
 そして──
「三年の、榊浩之、高木千紗のご両人ですっ!」
「な、なんだとぉっ!」
 俺は思わず声を上げていた。
 な、なんで俺と千砂がそんなことに……
 千砂も隣で困惑の表情を浮かべている。
「さあ、ふたりは前の方へ」
 まわりからの冷やかし。
 しかし、なんで俺たちが選ばれるんだ? 前の二組はわかるけど、俺たちは別につきあってるわけじゃない。ただ、いつも一緒にいるだけなのに。
 気付くと、いつの間にか俺たちのまわりに人垣ができていた。そして、それを扇動してるのが──
「ほら、早く行けよ」
 陽一の大バカ野郎だった。
「なっ、ちょっと待てよ……」
「きゃっ……」
 俺と千砂は人の波に圧され、とうとう台のところまで来てしまった。
「……どうするんだ?」
 俺は小さな声で千砂に訊ねた。
「……もう、しょうがないんじゃないかな」
 千砂はあきらめてるようだ。
 そりゃ、ここまで来たらもうあきらめるしかないのかもしれないけどさ。
「ええ、では、まずは投票者の意見を少しだけ紹介します。最初は『すっげームカツクけど、すっげー悔しいけど、これしかない』ということです。これは三年の男子です」
 ……俺、殺されるんじゃないか?
「次は『残念だけど、榊先輩には高木先輩がお似合いです』というのは、二年の女子ですね。う〜ん、どうやらほとんどの票の理由がこういう感じみたいです」
 これって、つるし上げとたいして変わらないんじゃないか?
 俺は思わずため息をついた。
「さて、それではご本人からひと言いただきましょう」
「なっ、ちょ、ちょっと待てよ」
 俺は強引にマイクをつかまされた。
「くぉらーっ、浩之っ! なんか言えよーっ!」
 よ、陽一の野郎、あとで覚えてろよ……
 くそー、なにを言えばいいんだ?
 千砂もかなり困った顔してる。
 次第にヤジが多くなってくる。このままだとマジでヤバイかも。
「早くしろーっ!」
 ……こうなったら……
「うるせーっ!」
 俺はマイクに向かって大声を上げた。そのせいでスピーカーが耐えられなくなり、機械音が響き渡った。
 だが、それでやかましい連中はぴたっと静まった。
「ガタガタ騒ぐな。いいか、一回しか言わないからな」
 俺は幾分高圧的に言った。
「今回のことで俺に対して批難なり中傷するのは構わない。だがな、千砂に対してそれをやるのはやめてくれ。どんな些細なことでもだ。陰でコソコソそういうことをする奴は、男だろうが女だろうが俺がしばく」
 あたりは完全に静まり返った。
「今、おそらくこの中の何割かの連中は俺の言ったことを冗談だと思ってるだろう。だがな、俺は冗談なんかでこんなこと言わないからな。それでもなおやるなら、それ相応の覚悟を決めてやれよ。俺はいっさい容赦しない」
「……ひ、浩之ちゃん、もうそのくらいにしとこうよ」
「時に、三重陽一」
 俺が突然陽一の名前を呼んだので、当の本人は慌てふためいた。
「おまえにもしっかりと手伝ってもらうからな」
 多少ドスが入っていたかもしれない。陽一はカクカクと首を縦に振った。
「……俺からは以上だ」
 俺はマイクを委員に突っ返した。
「あ、ありがとうございました」
 委員もあっけにとられていたが、ようやく我に返った。
「さ、さて──」
 俺はそのまま台を下り、校庭をあとにした。
 多少場を白けさせたことに申し訳ないという思いがあったけど、とりあえず今はその場を離れたかった。
 少しすると校庭から歓声が聞こえてきた。どうやら復活させたらしいな。
「浩之ちゃん、待って」
 と、千砂が追いかけてきた。
「なんだ、千砂も来たのか」
「うん」
 千砂は俺の隣に並んだ。
 暗がりだが、心なしか嬉しそうな顔をしてるのは気のせいだろうか?
「浩之ちゃん」
「ん?」
「ありがと」
「……なにがだよ?」
「私を、かばってくれたでしょ?」
「……そんなつもりじゃ、なかったんだけどな」
 俺はあえて否定しなかった。事実は事実だ。
 千砂は、スッと腕を絡めてきた。
「嬉しかったな」
「……バーカ」
 千砂はクスッと笑った。
「そういえば、おまえは知ってたのか?」
「なにを?」
「後夜祭であんなことをやるってことだ」
「うん。だって、実行委員会も結構マメに広報活動してたし」
「……俺は、知らなかったぞ」
「浩之ちゃん、あまり真面目に参加してなかったし、聞いてもいなかったからだよ」
「じゃあなにか? 展示を見てる時に妙な視線を感じたのは、気のせいじゃなかったんだな」
「たぶんね」
 苦笑する千砂。こいつ、確信犯だな。
「くそっ、そうとわかってればさっさと帰ってたのにな」
「もう過ぎたことなんだから、いいじゃない」
「よかねーよ」
「どうして?」
「そりゃ、また冷やかしやなんかが増えるからな」
「小学校の時みたいに?」
「まあ、そうだな」
 小学校の頃、いつも一緒にいるということでかなり冷やかされた。特に小学生は限度とか相手のことを考えるとか、そういう類のことはできないから、いろいろ問題もあった。
「……浩之ちゃんは、私と冷やかされるの、イヤ?」
「……誰がとかって問題じゃない。俺は冷やかしが嫌いなんだ。陰湿だからな」
「じゃあ、冷やかしじゃなかったら、どう?」
「……おまえとなら……」
「なら?」
「……まあ、考えとく」
 すると千砂はにっこり笑って──
「うん。しっかり考えといてね」
 よりいっそう腕をしっかりと絡めてきた。
「ねえ、今日はこのまま帰ろっか?」
「なっ、なにをバカなこと言ってるんだ。そんなこと──」
「ダメ?」
 まったく、そういう目で見られるとな……
「わかったよ。今日だけ特別だからな。ホントに特別だからな」
「うんっ!」
 まあ、これはこれで、ありなのかもしれないな。
 
 文化祭も終わって、学校はテスト一色となっていた。一、二年はもちろんのこと、三年でも推薦なんかを狙ってる奴は、今回のテストまでが内申書に載るということでそれなりに気合いが入る。
 ちなみに俺の成績の平均はおよそ四・〇から四・一だから、たいした大学へは推薦してもらえない。だから、推薦はなし。
 俺のまわりで推薦で行けそうなのは、千砂といつみ。千砂は平均が四・七くらいだからどんな大学でも問題ない。いつみは平均が四・五くらいで、やはりいいところにいる。
 とはいえ、ふたりとも推薦は考えていないらしい。地道に一般入試で大学を目指すらしい。
 とまあ、人のことはさておいて、俺は俺で考えなければならないことがあった。それはもちろん志望校のこと。前にも言ったようにいくつかには絞り込んできたけど、まだ確定していない。
 姉さんは──
「そんなの十二月に決めればいいのよ」
 ってな具合だし、涼子さんは──
「早ければ早いほど準備ができていいと思うけど」
 と、姉さんとは正反対のことを言ってる。
 まあ、このことはふたりの性格を考えれば、ある程度予測できたことだけど。
 結局、第一志望の大学を決めないことには滑り止めなんかも決まらない。
 ホントは姉さんの大学でもいいんだけど、少しばかり勉強しないと入れないかもしれないから尻込みしてる。今までの模試でもセンター模試はだいぶ調子いいけど、二次試験対策の模試がどうもいまいち。あと十点くらいはほしいところだ。
 模試の結果が返ってくる度に『B』判定だ。ほかは一応『A』判定なんだけど。
 一度愛子先生にも相談したけど、とりあえず今回のテストを乗り切りなさいと言われた。終わったあとにすぐ、センター試験の願書を書くからだ。その時にある程度以上決めておきなさい、ということだった。
 そんな時、愛美から電話があった。
『やっほ、ひろくん』
「ずいぶんご機嫌じゃないか?」
『うん。模試の結果がよかったからね』
「へえ、そりゃすごいじゃないか。で、愛美はどこ受けるんだ?」
『弥生さんと同じT大学』
「なに? ホントか?」
『うん。今回の模試でやっと『A』判定が出たんだ』
 確かに愛美は頭がよかった。おそらく姉さんに匹敵するくらい頭はいいだろう。ただ、北海道の中標津という土地柄、どうしても成績は頭打ちになりがち。だから俺はさすがに姉さんと同じ大学はないと思っていたけど……
『パパとママにそのことを話したら、あきらめ顔だった。なんとか私をここにとどまらせたかったんだろうけどね』
「そりゃそうさ。叔父さんたちにとって愛美はたったひとりの娘だからな。できるならずっと手元に置いておきたいんだよ」
『うん、それはわかるんだけどね。でもね、もう決めたことだから。絶対に東京に行くって。ひろくんの側に行くって』
「側って、おまえまさか……」
『うん。合格したら居候させてもらうから』
「なっ、なんだとぉっ!」
『だって、やっぱり東京は物価高いし。うちだってそんなにお金あるわけじゃないから。せめて家賃分は浮かせないと』
 ……確かに、今のうちはひと部屋余ってる。愛美ひとりくらいどうってことないだろう。だけど、それはちょっと……
『ひろくんはもう決めたの?』
「ん、まだなんとも。まあ、候補は絞り込んであるけど」
『T大は?』
「まあ、考えとくよ」
『うん』
 てな感じだった。
 そして、俺はある決断をした。
 
 テストも終わり、三年はいよいよ臨戦態勢に入った。授業の方もほとんど教科書は終了し、入試向けへと変わってきた。
 俺の中でもだいぶ受験のことが占めていた。
「浩之ちゃん」
「…………」
「浩之ちゃんてば」
「……ん、ああ、悪い」
「どうしたの? なんか考え事?」
「まあな。いろいろあるんだよ、この時期になるとさ」
「受験のこと?」
 千砂に言い当てられたこと自体は別段どうということはなかった。この時期に考えることなんか、どうせ受験のことくらいしかない。
「千砂はもう決まってるんだよな?」
「うん、一応はね。やりたいこととか今の私の実力を考えて、T大かな」
「おまえも、なんだよな」
「えっ、私も?」
 あっ、しまった。愛美のことはまだまだ内緒にしとかないと。
「あ、いや、姉さんがいるからさ。姉さんがいてそれでおまえも、ということだ」
「あ、そういうことか」
 ふう、なんとか誤魔化せた。
「ねえ、浩之ちゃんもT大、受けないの?」
「……まだ、わからないな。俺の場合はボーダーあたりでふわふわしてるから」
「浩之ちゃんもT大なら、また一緒なのにね」
 そりゃそうだけどな。
「なあ、千砂」
「なに?」
「大学って、なんのために行くんだ?」
「えっ、それは、やりたいことをやるため、じゃないの?」
「そう、だよな」
「……ねえ、浩之ちゃん。ひとりで悩んで答えが見つからなかったら、私に話してみて。力になれるかどうかはわからないけど、手がかりくらいは見つかるかもしれないから」
 千砂はちょっと照れくさそうに、それでも真面目に言ってくれた。
「……そうだな。たまには千砂に俺の愚痴でも聞いてもらおうかな」
「うん」
 
 俺たちは場所を移した。
 ここは学校からそう遠くない神社。小高い丘の上にあって、結構見晴らしもいい。
 神社には誰もいない。しーんと静まり返っている。
「ここに来るのはホントに久しぶりだな」
「初詣以来、かな?」
「そうなるな」
 神社の脇には展望台よろしく視界の開けた場所があり、そこにはベンチなんかも置いてある。
「で、なにを話すの?」
「まあ、簡単に言えば大学のことなんだけどさ。根本的な問題があるんだよ」
「根本的な問題?」
 千砂は小首を傾げた。
「つまり、大学へ行くのかどうかってことだ」
「えっ、浩之ちゃん、大学行かないの?」
「結局大学に行ってなにをしたいかなんだよ。そりゃ、大学でもう少し歴史の勉強をしたいっていう気持ちもあるにはある。ただ、それはすべてを差し置いてというものではないんだ」
「でも、大学に行かないでどうするの?」
「専門学校か、就職か。まあ、うちは自営業だからな」
「……でも、少しでもやりたいことがあるなら、やってみた方がいいんじゃないかな?」
 千砂はベンチを立って、手すりのところへ。
「やらないで後悔するなら、やってから後悔した方がいいと思う」
「そりゃそうだけどさ。でも、今の大学に行ったってなにができるんだ?」
「それは違うと思うよ」
「違う? なにがだよ?」
「なにができるんじゃなくて、なにをする、だと思うよ。高校までの受け身とは違って、大学は自分で自分を管理しなくちゃいけないんだよ」
「自分で自分を管理、か……」
 言葉で言うのは簡単だけど、やるのは難しい。
「千砂。おまえはなんで大学に行くんだ?」
「……ひとつは、勉強するため。もうひとつは……」
「もうひとつは?」
 千砂は少し躊躇った。
「……浩之ちゃんと、一緒にいたいから」
「なっ……」
 俺は一瞬言葉に詰まった。まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったからだ。
「い、一緒にいたいって、そんなこと、別に大学じゃなくたって──」
「ううん。やっぱり学生じゃないとダメ。時間がなくなるから」
 いつになく頑固な千砂だ。
「……浩之ちゃん」
「ん?」
「一緒に、一緒に大学、行こ」
 千砂は振り返り、そう言った。
「千砂……」
「でも、焦らないで。焦って出した答えなんて、きっとダメになっちゃうから」
「ふう……」
 俺はひとつため息をついた。そして、ベンチから立ち上がった。
「……今度さ、ひょっとしたら俺のいとこが東京に来るかもしれないんだ」
「いとこ……?」
「俺たちと同い年だ。それに、女だ」
 一瞬千砂の顔が強ばった。
「そいつがさ、姉さんと同じ、つまりおまえと同じT大を受けるって言ってきたんだ」
「そう、なんだ」
「で、なんでこっちの大学を受けると思う?」
「勉強、ってわけじゃないみたいだね」
「……俺の、俺の側にいたいんだそうだ」
「っ!」
「そうだよ。俺のことが好きなんだ。それについては、まあ、いろいろあったんだけど」
 俺は北海道のことまで話すつもりはなかった。
「俺が今言いたいのは、おまえにしろあいつにしろ勉強以外の理由が大きくて大学へ行くわけだろ。だけど、俺にはそんな理由が見つからないんだ」
「……浩之ちゃん。私、思うんだけど。結局はどうしたいの? 理由がなくちゃなにもできないの?」
「……そうだな。案外できないのかもしれないな」
 俺は苦笑した。
「……じゃあ、私が理由になる」
「……どういうことだ?」
「私が大学に行くから浩之ちゃんも大学へ行く。今までみたいに一緒にいるために」
「…………」
 千砂の言わんとしてることはなんとなくわかる。
「ね、浩之ちゃん?」
「……わかった。とりあえず、仮の理由としてそれを採用する」
「浩之ちゃん……」
 本当に俺はダメだな。
 こうやって背中を押してもらわなければなにもできないなんて。
「千砂」
「ん?」
「今日は悪かったな」
「ううん、いつもいつも浩之ちゃんにばかり迷惑かけてるから」
「まったく……」
 俺は千砂の頭を抱え、胸に引き寄せた。
「……ありがとな」
 そして、そう呟いた。
 
「じゃあ、受験校はこれでいいかしら?」
「はい」
 十月のある日。先生と最後の面談があった。だいたいは受験する大学の最終確認。
「第一志望は、T大ね。まあ、模試の結果でも常に『B』判定以上が出てるから心配はないと思うわ」
 愛子先生は進路志望書と学校の成績表、模試の成績表を見比べながらだ。
「確か、T大は……」
 先生はなにやら別の書類をめくっている。
「高木さんもそうだったわね」
「ええ、知ってます」
「ふたりで決めたの?」
「違いますよ。千砂は早々に決めてたみたいですから。それに比べて俺は、ようやくですから」
「榊くん」
「はい?」
「ひとつ、込み入ったことを聞いてもいい?」
「込み入ったこと、ですか?」
 先生は書類を一通り片づけると、改めて俺に向き直った。
「榊くんと高木さんは幼なじみなのよね?」
「ええ、まあ」
「いつからのつきあいなの?」
「幼稚園からです。まあ、正確に言うと幼稚園の保護者説明会からですけど。たまたまうちの親と千砂の親が話したら家も近くということがわかって」
「じゃあ、だいたい十五年くらいなのね」
「そうですね」
 俺はまだ先生がなにを言いたいのか計りかねていた。
「榊くんにとって、高木さんはどんな存在だったの?」
「だった、ってことは、今じゃないんですか?」
「そうね。とりあえずは」
「俺と千砂は兄妹みたいに育ったんですよ。先生も知っての通り千砂のお父さんは単身赴任ですし、うちは自営業で。それでよく千砂のうちに言ってたんです。だから、昔は幼なじみというより兄妹という感じが強かったですね」
「ホントに仲がよかったのね」
「……そうですね」
「じゃあ、今はどうなの?」
「今、ですか……?」
「無理に答える必要はないけど、できれば正直なところを聞かせてほしいわ」
 かなり無理な質問だ。今の俺にそんなこと……
「……すみません」
「しょうがないわね。じゃあ、質問を変えるわ。志望校を選ぶ時に高木さんのことは考えた?」
「ええ、まあ、一応は」
「そう、わかったわ」
 そう言って先生は微笑んだ。
「ごめんなさいね、変なこと聞いて」
「いえ、いいんですけど」
「少し気になったことがあったから」
「気になったこと?」
「あっ、ううん、それはいいの」
「そうですか」
 なんとなくそのことが気になったけど、とりあえず引き下がることにした。
「じゃあ、あとは受験に向けてがんばって」
「はい」
 
 十月十日。今日はうちの高校の体育祭。
 朝から雲ひとつないいい天気で、絶好の体育祭日和だった。
 うちの高校ではクラス対抗で競技が行われ、その結果学年順位と校内順位が確定する。学年順位自体はたいしたことはないけど、校内で一位になるとそれなりにいいこともある。
 まあ、というわけで体育祭に賭けてる奴も結構いる。
 俺たちのクラスは運動部だった連中が中心になって、結構校内でも上位を狙えた。それに三年にとってはこれがほとんど最後の学校行事だから、なおさら張り切っていた。
 そんな中、俺は校庭が見渡せるところからぼんやり競技を眺めていた。どうも俺にはこういうことが向いてないらしく、いまいちやる気が湧いてこない。
 俺が出場するのは午後の八百メートルリレー。なまじ運動神経が悪くないばかりにリレーの選手になってしまった。
 一応選手になったからには走るけど、それ以上を望むつもりはなかった。
『次は男子障害物リレーです』
 俺はその場をあとにした。
 校舎内に入ると、外の騒々しさがウソのように静かだった。時々一階に人が入ってくる程度で、出入りはほとんどない。
 階段を上がり屋上へ出た。
 屋上には体育祭の様子をカメラに収めている写真屋がいた。ただ、ファインダーを覗いていて、俺には気付いていないみたいだった。
 例によって例のごとく給水塔に登る。どうも学校の中で一番落ち着くのはここらしい。
 ビルの高さで言えば六階くらい。そこから校庭を見下ろすとみんな小さく、こまこまと動いてる。
 今は障害物リレーが行われている。確か、陽一が出てるはず。まあ、関係ないけど。
 それにしても、ホントにいい天気だ。暑くもなく寒くもなく。
 体を動かすこと自体は嫌いじゃない。スポーツはひと通りなんでもやる。ただ、それは好きな時に好きなようにやるのが好きなのだ。人に言われてやるのは好きじゃない。
「さてと」
 俺はおもむろに横になった。しばらくここでゆっくりしてよう。どうせ午後までなにもないんだから。
 
『次は女子四百メートルリレーです』
「やばっ!」
 気が付くと校庭では女子の四百メートルリレーがはじまろうとしていた。
 どうやら俺は完全に寝入ってしまったらしい。すでに昼をまわって、残す競技は女子の四百と男子の八百、それとクラス対抗リレーだけだった。
 俺は慌てて飛び起き、急いで校庭へ戻った。
 校庭へ戻るなり、俺はいきなりド突かれた。
「おわっ!」
「なにやってるのよ」
「ね、姉さん」
 俺をド突いたのは姉さんだった。
「今までどこにいたのよ」
「あっ、ちょ、ちょっとね」
「まったく、どうせどこかで寝てたんでしょ」
 図星だ。
「まあ、いいわ。それより、もうすぐ出番でしょ」
「そうだよ」
「なら、少しはウォーミングアップするとかしなさいよ」
『男子八百メートルリレーに出場する選手は、入場門前に集合してください』
「あっ、呼び出しだ。というわけだから、行くから」
「しょうがないわね。しっかり走りなさいよ。涼子も来てるんだから」
「えっ、涼子さんが?」
「そうよ」
「わかったよ」
「あっ、ひろ」
「ん?」
「千砂ちゃんも、応援しなさい」
 そう言って校庭を指さした。
 校庭の真ん中では、三年のリレー選手が順番を待っていた。そして、その中には千砂もいた。
 そっか、千砂も選手だったんだ。
「ほら、早く行きなさい」
「ん、ああ」
 俺はとりあえず急いだ。
 門のところでは俺以外の連中はみんな集まっていた。
「遅いぞ、浩之」
「悪い悪い」
 ほかの三人に軽く詫びを入れて、屈伸をはじめた。
「おっ、次は三年だぞ」
 誰かがそう言った。
 俺は横目で校庭を見ていた。
 第一走者から激しい先頭争い。うちのクラスは今のところ三位。
 第二走者でひとりかわされた。
 そして、第三走者。
「千砂……」
 思わず動きを止めて見入っていた。
 千砂はバトンを受け取るとあっという間にひとりかわした。そして、猛追しされにもうひとりをかわした。
 少しずつ前との距離を縮めていくけど、差が少しありすぎた。
 そして、バトンはアンカーへ。一位のクラスが渡したそのすぐとに千砂が入ってきた。
「……あいつ」
 バトンを渡し、そのままふらふらと倒れ込んだ。
 すぐに係の生徒に抱えられ、コース外へ。
 千砂は大丈夫だとアピールしてる。それを見て係の連中もひと安心といった様子だった。
 まったく、ド素人が。
 
「浩之、頼むっ!」
 俺は三位でバトンを受け取った。前にはふたり。どちらも速い。
 ばてない程度に飛ばしていく。
 程なくしてひとりを捉えた。そして、かわす。
 もうひとりとは十メートルくらいの差。
「……行ける」
 俺はそう呟いた。
 そして──
 結果は一位。まあ、これでアンカーとしての責任も果たした。
「さすがは浩之」
「陸上部顔負けだな」
 口々に褒めそやしてくれる。
「これでうちのクラスの一位は堅いな」
 そこまでは知らなかったけど、どうやらうちのクラスは学年では一位確定らしい。校内でも次のクラス対抗で勝てれば、逆転一位らしい。
「榊くん」
「なんですか、先生?」
「走ったばかりで悪いんだけど、次の対抗リレーに出てくれないかしら?」
「は? どうしてですか?」
「実は、アンカーの中田くんがケガをして出られそうにないのよ」
 中田は障害物リレーに出ていたはず。
「走ったばかりというのはわかってるんだけど、ほかに頼めそうな人がいないのよ」
 確かに元陸上部の連中は複数を掛け持ちしてるし、だいたいはすでに対抗リレーにエントリー済み。
「お願いできないかしら?」
 俺はため息をついた。
「……いいですよ」
「ホント? ありがとう、榊くん」
 そして、俺はクラス対抗リレーに出た。
 結果から言えば、うちのクラスの圧勝。別に俺が出なくとも勝てた。
 と、そんなことより──
「おっ、いた」
 俺は千砂の姿を見つけた。
「千砂」
「あっ、浩之ちゃん」
「大丈夫か?」
「えっ、なにが?」
「とぼけるな。足だよ、足」
 そう。千砂がリレーのあと倒れ込んだのは、最後のところで足を痛めたからだ。
「見て、たんだ」
「当たり前だ。それより、行くぞ」
「えっ、どこへ?」
「保健室だよ」
「あっ、ちょ、ちょっと、浩之ちゃん」
 俺は強引に千砂を連れて保健室へ向かった。
「失礼します」
 しかし、保健室には誰もいなかった。
「みんな、閉会式に出るためにいないんだよ」
「まったく」
 俺は深々とため息をついた。
「まあ、いい。とにかくそこに座れ」
「えっ、うん」
 千砂を座らせると俺は勝手に戸棚を開けた。
「なにしてるの?」
「確かこのあたりに……おっ、あった」
「あっ、湿布」
「前に体育でやっかいになったんだ。それで場所を覚えてたんだよ。ほら、靴脱ぎな」
「う、うん」
 千砂は靴を脱いで裸足になった。
「ここら辺か?」
 俺は足首を少し捻った。
「ううん」
「じゃあ、ここか?」
「痛っ!」
「あっ、悪い」
「う、ううん、平気だから」
 とか言いながら顔をしかめてる。
「少し冷たいぞ」
 冷湿布を患部に貼り付ける。
「まあ、たいしたことはなさそうだけどな」
「ありがと、浩之ちゃん」
「なにがありがとだ。こんなことさっさとやってもらえばよかったんだ。心配かけないように黙ってるから」
「う、うん……」
 千砂は恐縮してしまった。
 校庭からは閉会式の声が聞こえてくる。
「少しそのままにしてろよ」
「うん」
 千砂は俺に言われた通り、そのままじっとしてる。
「浩之ちゃん」
「ん?」
「今日、かっこよかったよ」
「……バーカ」
 俺は千砂の額を小突いた。
 保健室には西日が差し込んでいて、ある種幻想的な空間だった。
「そういえば、浩之ちゃんどこにいたの? お昼とか探したんだけど」
「ん、まあ、いつものところだ」
「えっ、給水塔?」
「ああ」
「でも、屋上は立ち入り禁止じゃなかったっけ?」
「さあな。とにかくなにもなかったんだから、いいんだよ」
「……せっかくお昼一緒に食べようと思ったのに」
「……悪かった」
「あっ、ううん、別にいいんだけどね」
 それでも千砂はちょっとだけ残念そうだった。
 それから俺は先生を探して、千砂のことを話した。
 俺は教室でとりあえず着替え、千砂の荷物を持って保健室に戻った。
「ほらよ。それから、先生には事情を話しといたから。今日は帰っていいってさ」
「ごめんね、浩之ちゃん」
「なに言ってんだよ。それより、さっさと着替えろよ」
 そう言っていったん保健室を出た。まさか着替えしてるのに一緒にいるわけにはいかない。
 千砂が着替え終わるのを待って、俺たちは家路に就いた。
 あまり目立たないように裏門から出ることにした。
「しっかりつかまってろよ」
「う、うん」
 俺は千砂を背負って帰った。荷物は千砂に持ってもらってる。
 俺と千砂の身長差では、肩を貸して歩くのは結構きついからだ。
 幸い人通りもほとんどなく、あまり恥ずかしくはなかった。
「……ねえ、浩之ちゃん。重くない?」
「……別に」
「重かったら言ってね」
「いいんだよ。俺が連れて帰るって」
 正直言って長い距離を背負っていくのはつらい。それでも、一度言い出したからには最後までやり遂げなければならない。
「……浩之ちゃんの背中、おっきいね」
「そうか?」
「うん……おっきくて、あったかくて……」
 耳元にかかる千砂が、少し心地良かった。
 秋の陽が、ふたりを優しく照らしていた。
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