ONLY LOVE
 
第一章
 
 チャイムが鳴り、ようやく授業が終わった。ふう、やれやれだ。とはいえ、まだ午後はあるんだがな。
 ま、そんな鬱になりそうなことはどうでもいい。今はそれ以外にやらねばならないことがある。
「お〜い、陽一」
 俺は、昔からのダチでクラスメイトでもある三重陽一に声をかけた。
「あ? どうした?」
 陽一はマヌケな顔で振り返った。
「食堂行こうぜ」
「なんだなんだ、また早弁か?」
 と、いきなりニヤついた笑みを浮かべる。
「ふ〜ん、なるほど。そういうことを言うのか。なるほどな……っと」
「あっ、てめぇ──」
 俺は陽一のカバンの中から、あるものを取り出した。
「さて、三重陽一くんに質問です。なぜ、まだ食ってないはずの弁当箱がこうも軽く、しかも──」
 振ると、カラカラと音が鳴った。
「このように音が鳴ります。これはどういうことなのでしょうか? 是非とも納得のいく説明をお願いしたいものですね」
 陽一は視線を逸らした。
「ま、まあ、そういうこともある。さあ、行こうじゃないか、浩之くん」
「なにが『浩之くん』だ」
 俺は呆れ顔で苦笑した。
 ただ、言い訳ではないが伸び盛り、育ち盛りの俺たちにとって、弁当ひとつというのは物足りない。だから適当な時間に早弁して、昼休みは食堂へ行ってなにか食べるか、購買でパンでも買わないとやっていけない。第二次成長期はなにかと大変なのだ。
「それより、さっさと行かないと混んで大変だぞ」
「ん、おお、そうだな。じゃあ──」
「浩之ちゃん、ちょっと待って」
 意気揚々と食堂へ向かおうとした俺を呼び止める声。校内広しといえども、俺のことを『浩之ちゃん』などと呼ぶ奴はひとりしかいない。
「なんだ、千砂?」
 無視しても構わなかったのだが、いろいろなことを考えるとあまりメリットはないという結論に達し、俺は素直にその声に応えた。
「あのね、浩之ちゃん、いつもお弁当足りないみたいだから、その……」
 モジモジと後ろ手に持っていた包みを差し出すのは、俺の幼なじみでもある高木千砂。
「あっ、あの、これ、作ってみたの……」
「おまえが、俺にか?」
 千砂は、包みを差し出したまま、顔を真っ赤にして小さく頷いた。
 ピンク色のナプキンに包まれた包みは、両手にちょうどくらいの大きさ。
 作ってきたということと、この時間に渡すということを考えればそれはつまり──
「くくぅ……いい奴だな、おまえ」
 俺は思わず泣きそうになった。いや、泣いてはいないが、それくらい感動した。
「おい、浩之、どうした?」
 そんな俺に無粋な声をかける愚か者が一名。まあ、今の俺は相当寛大だから、許そう。
「陽一」
「な、なんだよ、真面目な顔して」
「悪いな、ひとりで行ってくれ」
 そう言って俺は、陽一の肩をポンと叩いた。
「はい? なんで……って、おまえ、それ……」
 陽一は目敏く俺の持っている包みに目をやった。ちっ、気付きやがったか。
「ま、そういうことだ」
「う、う、う──」
「ど、どうした?」
「羨ましすぎるぅっ!」
「へ……?」
 突然奇声を上げた陽一に、俺としても事態を上手く把握できずにいた。
「おまえなぁ、当たり前だろ? なんたってうちのクラス、いや、うちの学校のアイドルであり女神である千砂ちゃんの弁当なんて、その筋の奴に売ったら相当額で売れる。それを……」
「そ、そんなこと、ないよ……」
 まったく、なにを言い出すかと思えばくだらんことを。見ろ、千砂もすっかり恐縮してるじゃないか。
「うるせぇ。たかだ弁当でギャアギャア騒ぐな」
「た、たかが弁当、だと……?」
 いつの間にか集まっていた男子の冷たい視線が俺に突き刺さる。
 しまったな。さすがにこいつらを刺激しすぎた。
 こうなったら──
「……悪い。ちょっと用を思い出した」
 俺は包みを抱え──
「おい、浩之っ!」
 包囲網を機敏な動きでかいくぐり、危険地帯である教室を抜け出した。
「野郎ども、追えっ!」
 後ろではなぜか陽一がリーダーとなって指示を出してる。俺としてはそれは好都合だ。なんといっても、あいつのことならたいていのことはわかるからな。
 廊下を駆け抜け、階段を下るふりをして階段を駆け上がった。
 一目散に一番上を目指し、屋上へ出る扉を開けた。
「うっ……」
 眩しい陽の光が俺の視界を一瞬遮った。
 後ろ手に扉を静かに閉め、そのままさらに移動する。
 出口の上には給水塔があるのだが、そこへ上がるための梯子に足をかける。
「さすがにここなら大丈夫だろ」
 梯子を上がりきり、俺はひと息ついた。
 ここは静かなところだ。風通しもいいから、音もこもらない。
「あいつら、千砂のことになると目の色変えやがって」
 それでもついつい独り言が出てしまう。ぶつくさ文句を言いながら、包みを開けた。
「これはまた……」
 ふたを開けてびっくりした。中身は、俺の想像を遙かに超えたものだった。
「……ったく、無理しやがって」
 俺は幼なじみである千砂のことはかなり理解してるつもりだ。だから、あいつの性格を考えると間違いなく自分だけの力で作ってるし、なによりも作るために朝早くに起きて作ったはずだ。
 そんなことを考えながら、卵そぼろと鶏そぼろのかかった飯を頬張った。
「……めちゃめちゃ旨いじゃないか」
 本音が出た。
 千砂は、昔から本当になんでもそつなくこなしていた。以前にも千砂の料理は食べたことはあったが、今回ほど旨いとは思わなかった。良くも悪くも、『普通』だった。
 で、今はこれということを考えれば、練習したということだろう。
「…………」
 俺は、無言で弁当を掻き込んだ。
 旨いものはあっという間に食べ終わってしまうというが、まさにそれだった。
 完食すると同時に、横になった。
 暖かな陽差しに風も心地良く、腹も満たされ眠くなってきた。まさに、至福の時だ。
 と、屋上のドアが開いた。誰が来たのか確かめようと思ったが、結局は眠気が勝った。それでも一応耳だけはそばだてていた。
 すると──
「浩之ちゃん、いる?」
 この聞き慣れた声は、千砂だった。
 一瞬どうしようかと思ったが、体を起こして千砂に応えることにした。
「おい、千砂」
「あっ、浩之ちゃん」
 不安げに俺を探していた千砂は、俺が声をかけるとパッと顔を輝かせ、こっちに近づいてきた。
「なんか用か?」
 俺は、縁に足をぶらつかせながら訊いた。
「あ、うん、たいした用じゃないんだけどね……」
 わずかに視線を逸らす。
 ホント、わかりやすい奴だ。どうせ俺に弁当のことを聞きに来たんだろう。
「よっ……と」
 俺は、包みを持って飛び降りた。さすがにその高さだと足に響いたけど。
「ほらよ」
 すぐに空っぽになった包みを渡した。千砂の顔には、『どうだったの?』と書いてある。
「旨かったぜ」
「……ホント?」
「ああ、ホントだ。前より上手くなったんじゃないか、料理?」
 俺は、旨いものを食わせてもらったお礼という感じで、いつもより素直に感想を述べた。
「えっ、あ、うん、ありがと……」
 言われた千砂は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 俺はフェンスに近づき、寄りかかった。
「なあ、千砂」
「うん?」
「どうして弁当を作ろうと思ったんだ? 弁当が足りないなんて、今にはじまったことじゃないし」
「それは……」
 千砂は、少し言い淀んだ。
「……あのね、最近お料理の勉強をしてるの。それで、いつもはお母さんや稔に食べてもらってるんだけど、たまには別の人にもって思って。それで、正直な意見を言ってくれる人は誰かなって考えたら──」
「俺が思い浮かんで、作ってきた、と」
「うん。ごめんね、実験台みたいにして」
「なに言ってんだよ。俺とおまえの関係でそんなこと言うなよ。それに、旨かったんだからさ」
 俺はたぶん、微笑みかけていたと思う。自分の顔は自分では見られないから確証はないが。
「それよりも、大丈夫だったか?」
「えっ?」
「さっきの連中だよ。陽一を筆頭にしたあのアホ連中」
 俺は、自分だけさっさと逃げてしまったことに、少しだけ罪悪感を覚えていた。まあ、まかり間違っても連中が千砂になにかするとは考えられないが。
「大丈夫だよ。みんな、浩之ちゃんを追いかけていったから」
「そっか、ならいいんだ」
「でも、浩之ちゃんがいきなり駆け出した時は、ちょっとびっくりしちゃった」
「あいつら、おまえのことになると途端に目の色変わるからな」
 さすがの千砂も、思い当たる節があるらしく、ちょっとだけ困った顔で苦笑した。
「ま、あいつらも直接千砂に手を出さないだけ、まだましだがな」
「それは、いつも浩之ちゃんがいてくれるからだよ」
 そう言って千砂はニコニコと微笑む。
「な、なんだよ、ニコニコしちゃって」
「ううん、なんでもないよ」
 まったく、変な奴だな。
 と、そこでチャイムが鳴った。
「予鈴だ。そろそろ戻るか」
「うん」
 快適な屋上から行かなくちゃいけないのはかなり名残惜しいが、しょうがない。
「そうだ」
 突然俺は立ち止まった。
「どうしたの?」
「千砂。明日からも実験台にしていいぞ」
「えっ?」
 千砂は、目を丸くして驚いた。というか、俺がなにを言いたかったのか、わからなかったんだろうな。
「別に毎日なんて言わないけどさ。おまえが作れる日にならいいぜ」
「う、うんっ!」
 そして千砂は、満面の笑みを浮かべた。
 
 地獄のような午後の授業もようやく終わった。俺は、そそくさと必要なものをカバンに仕舞い込んだ。
「千砂。帰ろうぜ」
「あ、うん、ちょっと待って」
 俺が声をかけると、千砂は慌ててカバンに教科書なんかを仕舞い込んだ。
「お待たせ」
 千砂が俺のところに来るのとほぼ同時に──
「あっ、榊くん」
「愛子先生?」
 担任の増田愛子先生から声がかかった。
「ちょっといいかしら?」
「ああ、まあ、はい」
「じゃあ、先に行って待ってるから」
 千砂はそう言って先に教室を出て行った。
 俺は愛子先生に連れられて職員室へ移動した。
 あまり職員室は来たくない場所だが、しょうがない。
「座って」
 先生は俺に椅子を勧めてくれた。
「なんですか?」
「あっ、別に深刻なことじゃないのよ」
 俺が深刻そうな顔をしてたからなのか、それを払拭するように笑顔でそう言われた。
「最近、クラスの様子はどう?」
「クラスの様子、ですか?」
 あまりにも予想外のことを訊かれ、俺は思わず聞き返していた。
「いくらまだ四月だからって、もう三年生でしょ? だから、担任としては気になって」
「別にこれと言って二年の時と変わらないと思いますよ。まだ二年の感じを引きずってる感じですし。それに、受験て言ってもまだ部活が忙しかったりしますから」
「変わりなし、か」
 先生はなるほどと頷いた。
「焦らなくてもそのうち雰囲気は変わってきますよ」
「榊くんは?」
「俺、ですか?」
 先生の言った意味がすぐに理解できなくて、またも聞き返していた。
「えっと、まあ、俺はなんとなくですかね」
「なんとなく?」
「なんとなく二年から三年に進級した。そんな感じです」
「でも、進学するんでしょ?」
「ええ、一応は」
 先生は机の引き出しからクラスの生徒の進路調査票を取り出した。
「榊くんは……文学部志望ね」
「歴史が好きなんで」
「文学部の中でも史学科はレベルが高いけど、今の榊くんの成績なら結構いいところも狙えるはずよ」
「そうですか」
 俺は曖昧に応えた。まだ、どの大学を受けるかなんて決めてないからだ。
 それから三十分ほど進路のことやいろいろなことを話した。
 ようやく解放された時には、陽が傾いていた。
 校舎内には生徒はほとんど残っていなかった。階段を下りる俺の足音が、校舎内に大きく響いた。
 昇降口で手早く靴を履き替える。
 校庭では、サッカー部がドリブルからのシュート練習を行っていた。
 俺はそれを横目に見ながら、先に行った千砂を探した。
 と、探すまでもなく千砂はすぐに見つかった。
「千砂」
「あっ、浩之ちゃん」
 校門のところで待っていた千砂は、俺を確かめると今までの淋しそうな表情から一変、笑顔に変わった。
「もう終わったの?」
 千砂は、お決まりのセリフを述べた。
「ああ、終わった。だけどな、千砂」
「うん?」
「ウソはよくないな」
「え、ウソ?」
「もう終わった、なんて心にもないこと言うなよ。ホントは待ちくたびれてたくせに」
 俺は、少しだけ意地悪く言った。
「そうだろ。違うか?」
「……うん、そうだよ。浩之ちゃんの言う通り」
 それに対して千砂は、少しだけ恐縮してそれを認めた。
「悪かったな。こんなに待たせるつもりはなかったんだけどな」
「ううん、私が待つって言ったんだから、気にしないで」
「でだ、お詫びというわけじゃないけど、今日は家まで送ってやるよ」
「えっ、いいの?」
「ああ、たまにはな」
「うんっ!」
 曇った顔も、こうしてちゃんと晴れてくれた。ま、それを考えれば家まで送るくらい、安いもんだな。
 
「浩之ちゃんとはよく一緒に帰るのに、私のうちまで行くことはあんまりないね」
「ん、そうだな」
 なんとなくボーッと歩いていたら、いきなりそんなことを言われた。
「やっぱり、うちの方が遠いから?」
「まあ、そうだけどさ」
 俺は曖昧に頷いた。
 学校からほぼ一直線の道を進むと、やがて大きな街道に出る。この街道はこの近辺では一番大きく、当然交通量も多い。そんな街道沿いに俺の家はある。そして、千砂の家はその街道を越えた少し先にある。
「俺がおまえの家まで行かないのは、おまえがうちに来るからだ。俺が行かなくともおまえと話もできるし」
「あ、うん、そうかもね」
 実際、理由はそれだけではないんだが、全部言う必要もないだろう。
 そうこうしているうちに件の街道へ出てきた。そこから少し歩くとうちが見える。
 とはいえ、普通の家ではない。喫茶店だ。
「この時間はあまり客はいないな」
 店の前を通った時、中の様子を確認した。客はふたり。まあ、この時間帯ならこんなものだろう。
 うちの横の道を入り、二ブロックほど歩くと、千砂の家──高木家がある。
 こっちはごく普通の一軒家。ありがちな建て売りではない。
「なんか、こんな感じで来るのは、ホント久しぶりだな」
「上がっていく?」
「ん、そうだな……」
 腕時計を見た。時間は夕方の五時過ぎ。うちの夕食は遅いからまだまだ問題ない時間だ。
「ちょっと寄ってくか」
 自分で言っておいてなんだが、今のセリフはどこぞの飲んだくれオヤヂみたいだな。
「ただいま〜」
「おじゃまします」
 声をかけると、すぐに台所から足音が聞こえてきた。
「あら、浩之くん」
 その足音の主は千砂の母親である勝子さん。年中エプロン姿な気もするけど、今は夕食の支度途中だったんだろう。
「こんちは」
「いらっしゃい。久しぶりね」
「ええ、まあ」
 俺はちょっとだけこの人が苦手なのだ。千砂の父親である文彰さんは商社マンで、今はパリ支店に単身赴任している。昔は単身赴任ではなかったけど、年に何回も海外出張で家を空けていた。だから、実質勝子さんが千砂とその弟の稔を女手ひとつで育ててきた。うちも父さんと母さんがふたりして働いているから、勝子さんには結構世話になった。だから、今でもなんとなくなんでも見透かされているような気がして苦手なのだ。
「あとでなにか持っていくわね」
「うん」
 勝子さんは特になにも言わず、そう言って台所へ戻った。俺としては助かった、というところだな。
 それから二階にある千砂の部屋へ。
「しかし──」
 俺は、部屋を見回し言った。
「相変わらず『女の子ちっく』な部屋だな」
「えっ、そうかな?」
「少なくとも姉さんに比べればな」
 そう言って苦笑した。
「でも、弥生さんてずいぶん女らしいけど」
「見た目や性格はな。でも、部屋なんかにはこだわらないんだ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 俺と千砂とのつきあいが長いのと同じく、俺の姉さんともつきあいは長い。それでも知らないことはあるだろう。だから千砂は意外そうな顔を見せた。
 千砂の部屋は見た目にもピンク系が多い。たまに見るならいいけど、さすがに毎日は遠慮したい。
「千砂」
「あっ、は〜い」
 と、勝子さんが紅茶とお菓子を持ってきてくれた。
 それをテーブルの上に置く。
「はい、浩之ちゃん」
「サンキュ」
 しかし、よくよく考えてみるとこの状況ってすごく不思議な状況だ。制服姿の男女が女の部屋でお茶を飲んでお菓子を食って。幼なじみだということを差し引いても、不思議な感じだ。
「この前来たのって、いつだっけ?」
「う〜ん、確かお正月くらいかな」
「ということは、もう四ヶ月以上か」
「そうだね」
 なんとなく会話が途切れ、俺は紅茶を一口すすった。
 と、千砂がこっちをじっと見ている。
「ん、どうした?」
「えっ、ううん、なんでもないよ」
 とかなんとか言って、慌ててそっぽを向く。
 それは逆効果でしかないのだが、今は触れないでおこう。
「なあ、千砂は進学だよな?」
「えっ、あ、うん。そうだよ」
「大学は決めたのか?」
「まだ確定じゃないけど、だいたいはね」
「そっか」
 う〜ん、さすがは高校三年生。普通はこうなんだろうな。俺なんか、どうもそこら辺の自覚が足りなくて未だに決めていない。
「でも、どうしたの? 突然そんなこと訊くなんて」
「いや、そんなことを絡めて愛子先生といろいろ話したからさ。それで、ちょっと気になったから」
「そうなんだ」
 その説明で納得したらしい。
「ねえ、浩之ちゃん」
「ん?」
「あのね、大学も──」
 と、その時──
「姉ちゃん、いる?」
 いきなりノックもなしでドアが開いた。
「み、稔。なによ、突然」
 入ってきたのは、千砂の弟の稔。
「あっ、浩之兄ちゃん来てたんだ」
「よっ、稔」
 俺は軽く声をかけた。
 稔は俺を見て千砂を見て、それからニヤッと笑った。
「お邪魔だったみたいだね。違う、姉ちゃん?」
「な、なに言ってるのよっ!」
「あはは」
 こいつはなかなかやっかいな弟だ。
「邪魔者は早々に立ち去るから。ゆっくりしてってね、浩之兄ちゃん」
「適当にな」
 そんな稔が出て行くと、千砂は盛大なため息をついた。
「んもう、稔のバカ……」
 なにに対して怒っているのかはわからないが、とにかく怒っていた。
「相変わらずだな、稔の奴は」
「生意気すぎよ、もう……」
「ははは」
 この姉弟は昔からこんな感じだった。
「ま、気にするなって」
「うん」
 それからしばらく他愛ない話をして俺は帰ることにした。
 帰る時に送ってくれるという千砂を言いくるめるのがひと苦労だったが、ま、それもいつものことだ。
 
 うちの夕食は遅い。だいたい午後九時をまわってからだ。店が八時半までだから、どうしてもしょうがない。
 夕食は母さんと姉さんが交代で作る。母さんは店でも料理を任されているくらい料理が得意で上手だ。そんな母さんに仕込まれた姉さんも、腕前は相当のものだ。
 そんなふたりのほかにもうひとり、たまに料理を手伝ってくれる人がいる。それが、アルバイトをしている波原涼子さん。大学二年生で、うちでバイトをはじめてそれなりになる。
 そんな涼子さんもたまに料理を教わりながら一緒に料理を作る。一緒に作らない日でも、たいていの場合は一緒に夕食を食べていく。
「これ、美味しいですね」
 涼子さんは感嘆の声を上げた。
「どういう味付けなんですか?」
「これはそんなに難しくないのよ。強いて言えば、隠し味がポイントかしら」
「今度、教えてくれませんか?」
「ええ、いいわよ」
 という感じの会話がしょっちゅう交わされる。
 その時は俺と父さんは蚊帳の外。まあ、それはそれで楽しかったりするんだけど。
 涼子さんはすでにうちの『家族』の一員だから、余計にそう感じるのかもしれない。
 夕食後、俺にはひとつの仕事がある。
「浩之。そろそろ涼子さんを送ってきなさい」
 十時半をまわる頃、母さんから直々に任命される。
「じゃあ、行こう、涼子さん」
「ええ。それでは、おやすみなさい」
「おやすみ」
 その仕事とは、夜も遅い時間ということで涼子さんをアパートまで送るというものだ。
 アパート自体はうちから五分ほど歩いたところにある。距離的には、千砂の家とそう変わらないか。
「夜もだいぶ暖かくなってきたわね」
「そうだね」
 暖かくなってくると危ない。涼子さんくらい綺麗な人が夜道をひとりで歩いてなんかいたら、襲ってくださいと言ってるようなものだ。さすがに寒いとそういう輩も少ないが、暖かくなってくると増えてくる。
「浩之くん」
「ん?」
「今日、千砂ちゃんの家に行ってたんでしょ?」
「そうだけど、それが?」
「ううん。ただ、いつもふたりは仲がいいなって思って。それに、浩之くんたちくらいの年になると、あまり異性の子のうちには行かないでしょ?」
 そう言われると、特別な関係でもない限りは行かないかもしれない。
「それに、浩之くんたちってすごく自然につきあえてるから」
「自然?」
「そ、自然」
「自然、か……」
 なにを『自然』というのかはわからないけど、それでも漠然とは言いたいこともわかった。
 それからすぐにアパートに着いた。
「いつもありがとうね」
「じゃあ、おやすみ、涼子さん」
「うん、おやすみ、浩之くん」
 涼子さんが部屋に入るのを確認し、俺も家に帰る。
「だけど……」
 家に帰る間中、俺は涼子さんの言った『自然』ということを考えていた。
 本当に俺たちは、『自然』につきあえているのか、と。
 
 
第二章
 
 耳障りな音が聞こえる。
 ……う〜ん、もう朝か。
 だけど、まだ眠いんだよな。昨日の夜はちょっと遅くまで起きてたから。
 しかし、いつまで鳴ってるんだ、このバカ目覚まし。確か、三十秒ほどで一度鳴り止むはず──
「ちくしょーっ!」
 俺はコンマ一秒で起きた。
「何時だっ!」
 時計を見ると──
「げっ! 八時十分……」
 タイムリミットギリギリ。もしこの時間に起きられないと、遅刻は決定的。
 俺は速攻で着替え、カバンをひっつかんで下へ。
 自慢じゃないが俺は朝が弱い。だから、目覚ましを三つかけている。一個目で起きることはほとんどないから、時間は六時半。二個目はその一時間後、七時半にセットしている。いつもなら二個目には起きるのだが。
 ダイニングのテーブルの上にはパンが用意してある。姉さん、ありがとう。
 と、インターホンが鳴った。
「浩之ちゃ〜ん」
 千砂が来た。そりゃそうだな。いつもなら八時には出かけるのに。
「うりゃーっ!」
 パンをかじったまま、意味不明な奇声を上げつつ玄関へ。靴もきちんと履かずに玄関を開ける。
「うほっす」
 パンが邪魔してまともに話せない。
 鍵をかけ、歩きなら靴をきちんと履いて、ようやくひと息ついた。
「はう……」
「大丈夫?」
 千砂が心配そうに訊いてくる。
「今日は遅かったね」
「ああ、父さんも母さんもちょっと出ててな。今夜には帰ってくるんだけど」
「そうだったんだ」
 心なしか早足になってる。遅刻なんてシャレにならないからな。
「先に行っててもよかったんだぞ」
「えっ、だって……」
「まあ、とにかく急ごうぜ」
「うん」
 うちから学校まではおよそ十五分。急げば十分ちょい。
 街道から学校への道に入ると、前の方にうちの学校の生徒が見える。でも、俺たちの近くには歩いている生徒はほとんどいない。自転車通学の連中が余裕の表情で追い越していく。
「とにかく、校門まで」
 俺たちはラストスパートで、校門まで走り出した。八時半までに校門の中に入っていればとりあえず遅刻は免れる。
「よっしゃーっ!」
 思わずマラソン選手がゴールする時のようにガッツポーズをしながら校内へ入った。
 時間は八時二十七分。残り三分。まさにギリギリだ。
「はあ、はあ……なんとか、間に合ったね」
 そのすぐあとに千砂も入ってくる。
「まあ、俺だけならもう少し早く着けただろうけどな」
「浩之ちゃん、足早いからね」
「でも、それについてきた千砂も偉いぞ。うんうん」
「ひ、浩之ちゃん……」
 俺は千砂の頭を撫でた。
 とはいえ、まだ安心していいわけではない。三十五分までに教室に入らなければ、それはそれで遅刻になる。
 俺たちはすぐに昇降口へ向かい、靴を履き替える。
「そういえば、浩之ちゃん」
「ん?」
「宿題、やってきた?」
「宿題?」
「うん、数学の」
「…………」
 俺は、一瞬固まってしまった。
「……やって、ないんだ」
 俺は操り人形よろしく、かくかくと頷いた。
 というか、まったく覚えてないぞ。
「しょうがないなぁ。私が見せてあげる」
「さすがは千砂。話がわかる」
 こういう時は、やはり持つべきは話のわかる幼なじみだな。
「あれ、でも数学って何時間目だったっけ?」
「四時間目だよ」
「なら、十分時間あるじゃないか」
「えっ……?」
「一時間目から三時間目まで、十分にな」
「……内職?」
「当然」
「はあ……」
 千砂は思わずため息をついた。
 宿題自体は正直どうでもいいんだが、あまり千砂に迷惑をかけるのも心苦しい。となれば、四時間目までの時間を使わないのはもったいない。だから、内職というわけだ。
「今日の午前中は、ずっと数学だな」
 そして、今日も一日がはじまった。
 
「うぬぬ……」
 予想以上に難しいじゃないか。このままだと四時間目までに終わらない。
 さすがに教科書で隠しながら、先生の目を気にしながらだとなかなかはかどらない。
 隣の席の千砂を見ると、心配そうに俺のことを見てる。そりゃそうだな。
 しょうがない。このまま続けても無理そうだし、いったんやめるか。
 
 休み時間。
「どのくらいできたの?」
「ほら」
 俺は無造作にノートを見せた。
「あの短時間でもう二問も解いたんだ」
「最初のふたつは簡単だからな。問題は残りの三つだ。俺は基本的に応用力がないからな。そういう問題は苦手なんだよ」
「でも、私よりできるでしょ?」
「計算のスピードが速いだけだ。できるわけじゃない。その点、千砂はなんでもそつなくこなせるじゃないか」
「それだけだよ」
「それもできない俺にとっては、羨ましいことなんだよ」
 千砂のそういうボケたところは微笑ましいこともあれば、ムカツクこともある。今はどちらかといえば、後者になる。
「とりあえずもう一時間やってみて、それでもわからなかったら──」
「うん、貸してあげる」
 そんなわけで、第二ラウンド。
 
「くくぅ……」
 二時間目。相変わらず数学の問題とにらめっこ。
 しかし、どうして応用問題ってこんなに難しいんだ? 基本問題はあんなに簡単なのにさ。雲泥の差がある。
 微分積分は特に嫌いなんだよな。
「はあ……」
 結局、全部はできそうにないな。
 
「千砂。頼む」
 次の休み時間。
「できなかったんだ」
「まあ、な」
 千砂は机の中からノートを取り出した。
「はい」
「サンキュ」
 パラパラとノートをめくってみる。う〜ん、さすがは千砂。宿題どころか予習まで完璧にできてる。しかも、ものすごく綺麗な字だ。読みやすい。
「なにしてるの?」
「あっ、美樹」
 千砂に声をかけてきたのは、千砂の親友で俺とも交遊のある上原美樹だ。
「うん、浩之ちゃんにノートを貸してあげたの」
「ノート? なんの?」
「数学」
 美樹は、なるほどという感じで納得した。
「またやってこなかったんだ、浩之」
「またってなんだよ、またって?」
「ホントのことでしょ?」
「たまたまだ、たまたま」
「ふ〜ん……」
 な、なんだ、こいつのいかにも『見下してますっ!』みたいな視線は。すっげームカツク。
「誰だっけ? 二年の時、宿題提出五回連続忘れたのって?」
「うっ……だ、誰だ、そ、そんなことする奴……」
「なに言ってるのよ。浩之、あなたのことでしょ?」
 まったく、こいつはなんでそんなどうでもいいことを覚えてるんだ?
「でも、今年はよかったわね」
「は、なんでだ?」
「三年はもともと宿題少ないし、出たとしても同じクラスに千砂がいるしね」
 そう言って美樹は千砂の肩をポンと叩いた。
「なんたって、千砂が学年でもトップクラスの成績だし」
「そんなこと、ないよ……」
 千砂はちょっと困った表情で俯いた。まったく、美樹の奴は余計なことばかり言いやがって。
「おい、美樹」
「ん、なに?」
「そんなに千砂を持ち上げて、なんか裏があるんじゃないか?」
「ど、どういう意味よ?」
「おまえも、俺と同じように恩恵に与りたいんだろ?」
「ううっ……そ、そんなこと、ないわよ……」
「なんで言葉尻が小さくなるんだ? それにどもってるし、挙動不審だし」
 千砂のためとはいえ、我ながら嫌味な言い方だ。
「あっ、そ、そうだ。あたし、ちょっと用があったんだ。じゃあね、千砂」
「えっ、う、うん」
 美樹は俺にあっかんべーをして、そそくさと逃げていった。
「相変わらずだな、美樹の奴」
「うん、そうだね」
 俺と千砂は、苦笑するしかなかった。
 
 三時間目。千砂の完璧なノートのおかげで、俺の宿題は事なきを得た。まさに千砂さまさまだな。
 宿題が終わったからといって、その授業を真面目に受ける気にもならなかった。で、ノートをパラパラとめくっていると──
「ん?」
 ノートの最後の方になにやら書いてあった。
『今日、一緒に帰ろ』
 まったく、やられたよ。千砂は俺がノートを借りることをわかっていたんだ。だからこんなことを……
 ちらっと横を見ると、千砂は真面目に黒板の文字を写していて、こっちには気付いていない。
 ま、借りは返さないとな。
 俺はその下に『OK』と書いた。
 しかし、もし俺がこのページを開かなかったらどうするつもりだったんだ?
 
 そして放課後。
「ふわ〜あ、やっと終わった」
「眠そうだね、浩之ちゃん」
「そりゃそうさ。現国なんてつまんねーもの受けたんだから」
「はじまって五分くらいかな、浩之ちゃんが寝たの」
「そうか?」
 よく見てるな。感心するぜ。
「浩之。今日、ゲーセン行かねーか?」
 と、陽一が俺を誘ってきた。
「ん、悪いな。今日は先約があるんだ」
「先約? 誰だ?」
「千砂だよ、千砂」
「ええーっ、また千砂ちゃんと帰るのか?」
 それを聞くと、陽一は不満たらたらの表情で文句を言った。
「というわけだから、悪いな」
「ちぇっ、わかったよ」
 それでもさすがに相手が千砂だからか、しつこく粘ったりということはしなかった。そのあたりはまあ、ましな奴だな。
 陽一が教室を出て行くと、千砂が申し訳なさそうに訊いてきた。
「いいの、浩之ちゃん?」
「いいの、って、おまえが俺を誘ったんだろ?」
「うん」
「なら、それでいいじゃないか」
 どうも千砂はそこら辺のネジが一本抜けてるんじゃないか、と思うことがしばしばある。
「ほれ、帰るぞ」
「あ、うん」
 それでもいつまでも教室にいてもしょうがないから、とりあえず学校を出ることにした。
 学校を出た俺たちは一緒に帰ったわけだが、真っ直ぐには帰らなかった。
「ここに来るの、久しぶりだね」
「ああ、そうだな」
 ここは学校からそう遠くない河原。土手もしっかりしていて、なかなかいい場所だ。
「風が気持ちいいね」
 川面を吹き抜けてくる風が、千砂の髪を揺らしていく。
 俺は緑の土手に横になった。
 適度なクッションと適度な陽の光。風も気持ちいい。
 本当に最高の場所だ。
「もうすぐ五月だね」
「ん、そうだな。でも、五月だからってどうってことないだろ」
「そうかな?」
 千砂は、珍しく俺の意見に同意しなかった。
「じゃあ、どうだって言うんだ?」
「一雨ごとに緑が深まって、徐々に夏を迎える準備をして、あくせくしていた四月も終わって、ようやく落ち着く五月」
「まあ、それはそうだけどな」
 そう言われると、妙に納得してしまう。
「それに、ゴールデンウィークもあるでしょ?」
「そんなの関係ないさ。ゴールデンウィークが終わったら、七月まで休みないんだから」
 そう。ゴールデンウィークが終わると、七月の夏休みまで休みらしい休みがない。これは非常に苦しい。
「浩之ちゃんらしいね」
 そう言って千砂はにっこり微笑んだ。
「去年は、ゴールデンウィーク明けに修学旅行があったからね」
「修学旅行、か……」
「あ……」
 俺と千砂は、思わず顔を見合わせた。おそらく、同じことを思い出したのだろう。
「ね、ねえ、浩之ちゃん」
「な、なんだ?」
 つい声が裏返ってしまう。
「修学旅行の時、私が言ったこと、覚えてる……?」
「……ん、一応は、な」
「よかった。浩之ちゃん、また忘れたなんて言うのかと思ったから」
「バーカ、あんなシチュエーションで言われたこと、忘れたくても忘れられないって」
 ああ、思い出しただけでも顔が熱くなってくる。
 千砂も、心なしか頬が赤いし。
 会話が続かない。
 土手の上を犬の散歩をしてる人、学校帰りの中学生、自転車の高校生、買い物帰りの主婦が通っていく。
 河原では、小学生とおぼしき連中が野球なんかをしてる。
「──また、行きたいね」
「修学旅行か?」
「それもいいけど、今度はふたりだけで……」
「…………」
 い、いきなりなにを言うかと思えば、こいつは……
 千砂は、期待に満ちた目で俺のことを見てる。
「……そんなに行きたいのか?」
「えっ……?」
「だから、旅行にだよ」
「……うん」
「はあ……」
 俺はひとつため息をついた。同時に体を起こす。
「夏休みにさ、時間があれば、行くか?」
「えっ、ホント?」
「まあ、あくまでも時間があればだけどな。なんたって俺たちは『受験生』だからな」
「うん、わかってるよ」
 千砂は、ニコニコとホントに嬉しそうだ。
 その笑顔が見られたのはよかったけど、でも、なんで俺ってこんなに甘いんだろ。
 
「ひろ、入るわよ」
「ん、ああ」
 俺がマンガを読んでいると、姉さんがやってきた。
「なんか用?」
「あら、素っ気ない言い方ね」
 そう言いながらちゃっかりベッドに座ってる。ま、いつものことだけど。
 俺はマンガを無造作に机に置いて、姉さんの方へ向き直った。
「で?」
「あのさ、今度少し顔貸してくれないかな?」
「顔貸せって、どこへ?」
「今度、私と涼子で買い物に行くんだけど──」
 ははあ、なるほど。
「で、俺に虫除けになれ、と?」
「早い話がそういうこと」
「まあ、姉さんはともかく、涼子さんは心配だな」
「私はともかくって、どういう意味よ?」
「そのまんまの意味」
「相変わらず減らない口ね」
 言葉とは裏腹に、姉さんはまったく気にしてる様子はない。まあ、俺たち姉弟の間で、姉弟喧嘩などという言葉は存在しない。父さんや母さんですら俺たちが喧嘩してるのを見たことがないくらいだ。
「いいよ、別に。その代わり、昼飯は姉さんのおごりだから」
「はいはい、わかってるって」
 そういうやり取りもいつものこと。
「で、どこへなにを買いに行くわけ?」
「えっと、渋谷へ服とかカバンとか」
「うわぁ、そりゃ相当時間かかるな」
「今更行かないなんてなしだからね」
「わかってるよ」
 俺は小さくため息をついた。
 ホント、俺って甘いよな。
 
 
第三章
 
 日曜日。
 俺は姉さんと涼子さんと渋谷へやって来た。別に俺の用があったわけではないけど、ふたりの『付き添い』でやって来た。
「ごめんね、浩之くん。無理につきあわせちゃったみたいで」
 で、当の涼子さんは結構恐縮してる。なんでも今日のことは涼子さんの方から言い出したことらしい。ようするに姉さんは『オマケ』らしい。
「別に気にしなくていいよ。それなりの見返りはもらうことになってるから」
「なに言ってるのよ。そういう嫌味な言い方すると、おごってあげないわよ」
 横から姉さんが口を挟んでくる。地獄耳だからな、姉さんは。
「それならそれで契約不履行だから、俺は帰るよ」
 ちょっとマジで言ってみた。
「涼子も置いて?」
「うっ……」
 だけど、姉さんの方が上手だった。さすがにそう返されるとつらい。姉さんはともかく、涼子さんはちょっとまずい。
「ひろには選択肢はないのよ。わかってる?」
「わかったよ」
 俺は渋々頷いた。こういう時は、少しだけ姉さんを恨めしく思う。
 俺たちは、というより、姉さんたちはそれはもうあちこちの店をまわっていた。俺はそれにただただ振り回されて、昼までに相当の体力を消耗した。
 傍目には『両手に花』なんていう風に見えるのかもしれないけど、そんなにいいものじゃない。
「ねえねえ、ひろ。これなんかどう?」
「ん、いいんじゃない」
 もう何度同じセリフを言っただろうか。それでも、似合わないものにはやめた方がいいと遠回しには言っている。
 姉さんも涼子さんも基本的にはなにを着てもよく似合う。これはお世辞抜き。自分の姉を必要以上に褒めたりしたくないけど、姉さんはそこら辺の女性より綺麗だ。スタイルだって悪くない。だからなんでもよく似合う。
 涼子さんは言うに及ばず。渋谷みたいな流行発信地を歩けば、ナンパやスカウトなんかによく遭遇する。
「さてと、そろそろお昼にしよっか?」
「そうですね」
「はあ……」
 俺は返事の代わりにため息をついた。
 ようやくひと段落ついて、俺たちは姉さんオススメのイタリア料理店に入った。
 こぢんまりとした店ながら人気があるらしく、お昼時ということもあってほぼ満席だった。
 俺は『ナポリ風香草と魚介類のパスタ』、姉さんは『ベニスの風』というパスタ、涼子さんは『フィレンツェ風ペスカトーレ』を頼んだ。どうもネーミングセンスがよくないような気がする。
 とはいえ、味の方はなかなかのものだった。ま、どうせ俺の金で食ったわけじゃないからいいんだけど。
 午後。姉さんたちはさらに店をまわった。だけど、俺は途中で音を上げてしまった。
「仕方がないわね。ひろはどこかで少し休んでなさい」
「そうさせてもらうよ」
 俺は目にとまった喫茶店に入った。
 コーヒーを頼んでひと息つく。
 ちょっと奥目の席から外を眺める。渋谷くらいの繁華街になると、実に様々な人がいる。人間観察とまではいかないけど、見てるだけで結構楽しい。
「ここ、いいですか?」
 と、不意に声をかけられた。
「あっ、は、はい……って、涼子さん」
 振り返ると、涼子さんだった。思わず声が裏返ってしまい、少し恥ずかしかった。
「どうしたの?」
 涼子さんは俺の向かいの席に座った。
「姉さんだけ置いてきたの?」
「まあ、結果的にはそうなるのかな。弥生さん、ちょっと行きたいところがあるって言って。それに私をつきあわせるのは悪いから、先に行っててって」
「姉さんらしいや」
 俺は苦笑した。
 それから涼子さんはコーヒーを頼み、俺もおかわりを頼んだ。
「ふふっ」
「どうしたの?」
「なんかこうやってると、恋人同士みたい」
「こ、恋人同士……」
 な、なにを言い出すのかと思えば、涼子さん。ちょっときつい冗談だ。
「浩之くんて、結構大人っぽいから違和感ないと思うけど」
 悪戯っぽい瞳で見つめる涼子さん。ううぅ、そんな顔しないでくれよぉ。
「でも、浩之くんには千砂ちゃんがいるからね」
「千砂は関係ないけど」
「あらそう? 私にはそうは思えないけど」
 な、なんか今日の涼子さん、いぢわるだな。
「でも、浩之くんとなら恋人同士に思われてもいいかなって、本気で思ってるのも事実なのよ」
「えっ……?」
「浩之くんは、どう? 私とじゃ、イヤ?」
「そ、そんなことはないけど……」
 いきなりそう訊かれ、俺はそうとしか言えなかった。
「私ね、今まで男の人とまともにつきあったことないのよ」
「えっ、そうなの? 涼子さんほどの女性を男が放っておくはずないんだけどな」
「ふふっ、ありがと。でもね、ホントのことなの」
 そう言って涼子さんは微笑んだ。
「じゃあ、涼子さんのまわりにいた連中に見る目がなかったんだ。もし、俺のまわりにいたら、絶対に放っておかないのに」
「私、中学からずっと女子校だったからね」
「あっ、そっか。女子校ならしょうがないか」
 妙に納得したけど、女子校だからって機会がないわけじゃない。それに、今は大学だし。
「……さっき、浩之くん、私のこと放っておかないって言ったけど、たぶんね、それより先に私の方が浩之くんに声をかけていたと思うの」
「…………」
「もしも、私と浩之くんが同い年で同じ学校で浩之くんに特別好きな人がいなかったら、私の告白受けてくれる?」
「……たぶん、ね」
 一瞬詰まったけど、そう答えた。
「よかった。それだけ確かめたかったの」
 涼子さんはホッとしたように、嬉しそうに微笑んだ。
「でも、どうしてそんなこと訊いたの?」
「うん?」
「今まで、涼子さんからそんなこと訊かれたことなかったのに」
「そうかもね。でも、私だってひとりの『女』だし、気になる男性にそういうことを訊いてみたいのよ」
「き、気になるって、俺のこと……?」
 こくん、と頷く。う、ウソ……
「は、ははは……」
 もう笑うしかない、笑うしか。
「あはは、ごめんごめん」
 と、ようやく姉さんが戻ってきた。お、遅いよ、姉さん……
「終わったんですか?」
「ええ、終わったわよ。ちょっと目移りしちゃって時間かかったけどね」
 姉さんはそう言って涼子さんの隣に座った。
「ん、どうしたの、ひろ?」
「な、なにが?」
「なんか顔赤いから。ね、涼子?」
「えっ、そ、そうですね」
 うわぁ、あからさまな同意の仕方。それじゃ姉さんが疑っちゃうよ。
「ふ〜ん……」
 姉さんは意味ありげに笑った。
 あ〜あ、こりゃあとで姉さんにいぢめられるな。
 
「──で?」
「で、とは?」
「とぼけるつもり?」
 案の定、家に帰るなり姉さんに捕まった。
「なにがあったの?」
「……別に」
「別に? あんな姿を見せつけて、別にはないでしょ?」
「…………」
「涼子に訊いてもいいんだけどね」
「……まったく」
 仕方ない。
「わかったよ、話すよ。だけど、そのことに関して涼子さんに余計なこと、言わないでよ」
「わかってるわよ」
 俺は、昼間のことを簡単に、あまり差し障りのない言葉を選んで説明した。その間、姉さんは黙って聞いていた。
「……なるほどね。涼子がそんなことを」
「あくまでもその場限りのことだから」
「でも、涼子も見る目があるわよ」
「えっ……?」
「私の自慢の弟だからね、ひろは」
 そう言ってウインクする姉さん。
「いいことだよ思うわよ。人から好かれるのは悪いことじゃないし、涼子は涼子で良い子だし」
「そりゃそうだけど。ホントにびっくりしたんだからさ。涼子さんにあんなこと言われるなんて、思ってなかったから」
「どうしてそう思ったわけ? 涼子だってひとりの女性なんだし、一年も一緒にいるんだから、可能性は皆無じゃなかったわけでしょ?」
「まあ、ね」
「それに、ひろだって涼子のこと、好きなんでしょ?」
「好きは好きだよ。恋愛対象かどうかは別だけど」
「ふ〜ん、やっぱり千砂ちゃん一筋なんだ」
「な、ななな、な、なに言って──」
「あはは、そんなに慌てることないでしょ?」
「……姉さん、俺に恨みでもあるの?」
「ないわよ」
 しれっと言う。
「でもね、ひろ」
 急に真面目な口調になる。
「私も涼子もそうだけど、ひろのこと、見守りたいのよ」
「見守る?」
 俺は首を傾げた。
「そう、千砂ちゃんとのことよ。ひろもこのままでいいとは思ってないんでしょ?」
「それは、そうだけど。今すぐにどうこうっていう気にもならない」
「でも、高校生のうちにはなんとかするべきでしょ?」
「……まあ、ね」
「私はね、急かしてるわけじゃないのよ。ただ、私としては現状はよしとしないのよ。煮え切らないのは、嫌いだから」
 姉さんの言いたいことは痛いほどわかる。だけど、だからといってケリをつけられるものでもないし。
「ま、ひろのことだから心配はないと思うけどね」
「期待を裏切ることだけは、しないよ」
「うん、そう言ってくれると私も安心よ」
 姉さんはにっこり微笑んだ。
「がんばってね、ひろ」
 そして、ふわりと柔らかな感触が頬に──
 姉さんは、軽くキスをして部屋を出て行った。
「……プレッシャーだよ」
 本当に、プレッシャーだよ。
 
「……来年のクリスマスまでに、答えが出せるといいね」
 
「なにしてんだ?」
「おお、浩之か」
「これだよ、これ」
 三重陽一&一条則和というバカコンビが、机の上になにやら広げ、ニヤニヤと話していた。
「ん?」
「今度さ、有志でうちの高校のミスコンをやろうって話してたんだ」
「ミスコン?」
 机の上には『みんなで決めよう! 大ミスコンテスト』なる紙が置いてあった。
「おまえらなぁ……」
 俺は思わず頭を抱えてしまった。こいつらのいい加減さと軽薄さはよくわかってたつもりだが、ここまでとは。
「まあ、まずは話を聞けって」
 陽一は俺を無理矢理座らせた。
「で?」
「ミスコンてったって、別にどっかに会場を設営してやったりするわけじゃない」
「当たり前だ。そんなこと普通の高校生ができるかよ」
「まあまあ、そうとがるなって」
「俺たちは学校の男子を対象にして、ミスコンの出場者を決める」
「出場者って、そんなもの集まらないだろ?」
「違う違う。とりあえず名前を挙げてもらうんだよ。で、名前の挙がった女子にしばらく注目して、何日かしたら投票」
「そして、ミスが決まるんだ」
「なんだよ、単なる人気投票じゃないか」
「そんなこと言ったら、身も蓋もないだろ?」
 ふたりは別段気にする風もなく返してくる。
「で、どこまで進んでんだ?」
「よくぞ聞いてくれた」
 陽一は待ってましたとばかりに別の紙を見せた。
「それを見ればだいたいどのくらい進んでるかわかるはずだ」
 俺はその紙を見た。そこには女子の名前が並んでいた。
「一応、一学年あたり五人にはしてある」
 確かに三年と二年は五人ずつ名前が挙がってる。さすがに一年はまだ入学して間もないから、名前の挙がりが鈍い。
 が、そんなことははっきり言ってどうでもよかった。
「当然気付いたよな」
「ああ」
「千砂ちゃんは大本命だ」
 そう。三年のところには千砂の名前が挙がっていた。
「千砂ちゃん以外の四人は、対抗にはならないな。おそらく、三年はダントツだろう」
「浩之もそう思うだろ?」
「……知らん」
「則和。浩之に千砂ちゃんのことを聞くのは愚問だって」
「あっ、なるほど」
 こいつら……
「まあ、浩之も参加したかったら言ってくれ。特別待遇するからさ」
「遠慮しとくよ」
 俺はふたりにつきあいきれなくなって教室を出た。
 廊下を歩いていると、向こうから千砂と美樹、それとそのふたりの親友の湯浅いつみの三人がやって来た。
「浩之ちゃん」
「よお」
 なんとなく、こういうやり取りはマヌケじゃないかって思うんだが、まあいい。
「三人揃ってなにしてんだ?」
「別に特になにかしてたわけじゃないよ」
「たまたま会っただけ」
 千砂と美樹は、『ね』という風に頷きあっている。
「ふ〜ん、そっか」
 つい素っ気なく答えてしまう。が、三人ともそんなことには気にしない。まあ、三人ともつきあいが長いから当然か。
「ねえ、浩之」
「ん?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
 俺は美樹に聞き返した。
「ちょっと小耳に挟んだんだけど、一部の男子がなにかやろうとしてるの、知ってる?」
「なにかって、なんだよ?」
「ミスコン」
 へえ、もう広まってるんだ。
「知らない?」
「知ってたらどうする?」
「どうもしないわよ。ただ、詳しいことが知りたいだけ」
 とは言うものの、美樹の顔には相当の好奇心が見え隠れしている。
「知ってるの、浩之ちゃん?」
「ん、ある程度はな」
 俺はついさっき陽一と則和から聞いたことを話した。
 三人それぞれの反応だった。千砂はちょっと困惑気味。美樹は興味津々。いつみははっきり言ってなにを考えているのか読み取れなかった。
「で、浩之はどう考えてるの?」
「俺か?」
「うん」
「いいんじゃないか。迷惑さえかからなければ」
「人ごとね」
「当たり前だろ。俺はそんなことに興味はない」
 客観的に人を評するのはいいけど、それに順位をつけるのはあまり好きじゃない。
「でも、浩之にとっては人ごとじゃないんじゃないの?」
「なんでだよ?」
「だって、千砂の名前が挙がってるんでしょ?」
「だから?」
 なんとなく美樹の言わんとしてることはわかる。でも、それはそれ。
「苦労するわね、千砂」
「えっ……?」
 美樹はため息をついて千砂の肩をポンと叩いた。
「いつみもそう思うでしょ?」
「私は、別に……」
 か細い声で曖昧に答える。いつみはものすごくおとなしい性格だ。こんなにおとなしくてよく生きていけると思うほど。
「浩之」
「なんだよ?」
「もう少しそういうこと、気にしなさいよ」
 
 いや、しかし、なんだな。世の中にはわからないことが多い。
 なにがわからないって? そりゃ、ミスコンのことだ。
 俺は最初、そんなものは物好きだけがやると思っていた。いくら男がそういうのが好きだからといっていくらなんでも、と思っていた。
 ところが、だ。陽一と則和に話を聞いてから一週間。校内でミスコンのことを知らない生徒はいないほどになっていた。二、三年はほぼ百パーセント。一年でも九十パーセント以上。しかも、先生たちも大部分が知っている。
 授業中、リストに挙がっている女子は常に注目されている。一挙手一投足が投票の参考となっている。
 校庭なんかで体育なんかある日にはもう大変だ。窓際の男どもは授業そっちのけで観察観察。
 休み時間なんかは、集団で女子観察ツアーなんぞをやってる連中もいる。
「ふわ〜あ……」
 俺はそんな騒ぎから逃げて、屋上で自分の時間を過ごしていた。
 雲がゆっくり流れ、陽が暖かく地上を照らし、風が心を静めてくれた。
 陽一の話だと、当初の予想通り三年は千砂がダントツらしい。一年から三年の一番が決まると三人で校内一を決めるらしい。そこでも千砂が最右翼らしい。
 べ、別に千砂のことだけを気にしてるわけじゃないけど、なんとなく気にはなっている。
「ふう……」
 実際、俺と千砂の関係は非常に曖昧だと思う。幼なじみなんてそういうものかも知れないけど、やっぱり友達以上恋人未満だな。
 と、屋上のドアが開いた。
 俺は例によって例のごとく、出口の上の給水塔のところにいる。少し気になって見てみた。すると、やって来たのは千砂だった。
 キョロキョロとあたりを見回している。時々不思議に思うんだが、千砂はどうして俺の行き先がわかるんだ?
「浩之ちゃん?」
 遠慮がちに声をかける。
「千砂。ここだ」
「浩之ちゃん」
 パッと嬉しそうな顔を見せる。
「上がってくるか?」
「えっ、そうだなぁ……」
 千砂はちょっと考える。
「うん」
 そして、頷いて脇にある梯子を登ってくる。
「ほら、つかまれよ」
「あっ、うん、ありがと」
 千砂は俺の隣に腰を下ろした。
「どうしたんだ?」
「うん……」
 まあ、おそらくは教室なんかにいると男どもがやかましいんだろう。それがイヤでここに来たんだろう。
「まあ、だいたい予想できるけどな」
「ねえ、浩之ちゃん」
「ん?」
「浩之ちゃんは、どう思ってるの?」
「どうって、なにがだ?」
「え、あ、うん……」
 ホント、千砂はわかりやすいよな。
「……俺がどうこう言ってもしょうがないと思うけどさ、やってること自体は悪いことじゃないと思うぜ」
「それはそうだと思うよ」
「まあ、あんまり気にするな。どうせ一過性のものだから。終わってしまえばそれまでだって」
「ううん、違うの。私が言いたいのは、浩之ちゃんはどう考えてるのかなってことなの」
「俺が?」
 ふ〜ん、なるほど。そっちの方が気になるのか。
「そんなに気になるか?」
「え、う、うん……」
 ちょっと俯く。
「そうだな、俺としては棄権したいところなんだけどな」
「棄権? どうして?」
「そりゃ、おまえのことを知りすぎてるからだよ。いいところも悪いところも。そんな千砂とほかの連中を比べることはできない。アドバンテージが大きすぎる」
「嬉しいような、嬉しくないような、複雑な感じ」
 そう言って千砂は苦笑した。
「まあ、あえて言うならだ。俺は──」
「待って」
「なんだ?」
「やっぱり言わないで。今聞いちゃうと、今まで通りでいられないような気がするの」
「そりゃおまえがそう言うなら、それでいいけどさ」
 俺としてもそのことはあまりはっきりとは言いたくなかったから、よかったのかもしれない。
「なあ、千砂。もしおまえが校内一になったらどうする?」
「別に、どうもしないと思うけど」
「そうはいかないだろ。いくら適当なミスコンだって、もう生徒のほとんどが知ってるわけだから、完全無視というのは無理だろうな」
「そんなぁ……」
 さすがの千砂もそれは堪えるらしい。
「私は別になにもしてないのに……」
「そんな暗い顔するなって」
「だって、浩之ちゃん」
 ……まるで子供の時みたいだな。俺と千砂は兄妹同然だったから、そういうシチュエーションはしょっちゅうあった。そういう時はたいてい俺が千砂を慰めて、気が付いたらいつもに戻ってる。そんな感じだった。
「まあ、なんだ。もしなんかあったら、ホントにもしだぞ」
「うん」
「俺を、頼れ」
「浩之ちゃん……」
「学校の中くらいで守ってやるくらいわけないさ」
「ありがと、浩之ちゃん」
「お、おい……」
 と、千砂が俺に寄りかかってきた。
「浩之ちゃんは、いつも私を守ってくれるね」
「そ、そうか?」
「うん、そうなの」
 なんかこういう時の千砂には、なかなか言い返せない。
「浩之ちゃんと一緒にいると、安心できるんだ。たぶん、ずっと一緒にいてなんでもわかってるからなんだろうね」
「俺はどう受け取ればいいんだ?」
「ふふっ、どう受け取ってもいいよ」
「なんだかな……」
 笑顔でそう言われると、拍子抜けする。
「もう五月なんだよね」
「……そうだな」
 つい千砂に合わせて空を見上げてしまう。
「もし、千砂が校内一になったら、俺がおまえの言うことをひとつだけ聞いてやるよ」
「ホント?」
「ああ。実現不可能なこと以外ならな」
「でも、どうして?」
「理由か? そうだな、せめてなにかいいことが、まあたとえて言うなら走ってる馬の前にニンジンをぶらさげるって感じかな?」
「もう、私は馬なの?」
 ぷうと頬を膨らませる。
「そんなことはないさ」
「ホント?」
「ああ」
「うん」
 千砂は小さく頷いて俺の腕をキュッとつかんだ。
「やっぱり浩之ちゃんは……」
 ……そのあとの言葉は聞き取れなかった。
 
 さて、最近俺に対する男どもの視線がきつい。まあ、おおよその予測はつくけど。
「おい、陽一」
「ん、なんだ?」
「いつまで続くんだ?」
「またそれか? しょうがないだろ? みんながみんなを見終わるのに時間がかかってるんだから」
 陽一はしれっと言う。
「だったらさ、俺に迷惑がかからないようにやってくれないか?」
「迷惑? なにがだよ?」
「……いや、いい」
 そのことを真顔で聞かれると答えにくい。
「そうだな。あと一週間くらいじゃないか? それ以上やるとテストなんかに影響が出るからな」
「わかった」
「浩之も参加したらどうだ?」
「遠慮しとくよ」
「千砂ちゃん、喜ぶぞ」
「……知らん」
 俺は教室を出た。向かうは屋上。校内で唯一安心できる場所だ。
 ドアを開けると、予想以上に強い風に思わず息が止まりそうだった。
「ずいぶん風が強いな」
 俺は乱れる髪を無視して、フェンス際に立った。
 校庭では暇な連中がなにやらやっている。まあ、暇は俺もそうだけど。
「あら、榊くん」
「愛子先生?」
 声がして振り返ると、珍しく愛子先生がいた。
「先生がここに来るなんて珍しいですね」
「そうでもないわよ。授業のある時は来ないけど、授業中に担当がない時は時々来るのよ」
「さぼりですか?」
「さぼり、になるのかな?」
 先生はペロッと舌を出した。う〜ん、これで新婚ほやほやだからな。
「先生」
「ん?」
「新婚生活は楽しいですか?」
「もちろん。シングルとは雲泥の差よ」
「具体的にはなにが楽しいんですか?」
「そうね、ひとりじゃないってところかしら。常に見ていてくれる人が側にいる。それだけで人は変わるし、強くもなる。結婚すればさらに結びつきは強くなるしね」
「そういうものですか?」
 俺はいまいちピンとこなかった。
「榊くんならそういう気持ち、わかるんじゃないかしら?」
「どうしてですか?」
「いるでしょ? いつも側にいてくれる人が」
 千砂のことだろう。
「たとえば、その人が突然目の前から消えたら、どう?」
「不思議な感じでしょうね」
「そうよ。今まで空気みたいな存在だったのが、いなくなってその大切さがわかる。心の中にぽっかりと穴が開く。きっとそんな風になるわよ」
「……難しいですね」
「確かにね。だから面白いんじゃないかな? 人と人との繋がりなんて、単純なようで意外に複雑だからね」
「先生の話を聞いてると、ずいぶんと修羅場をくぐってきたみたいに聞こえますけど?」
「こぉら、生意気言うんじゃないの」
 俺は額を小突かれた。とはいえ、その顔には笑みが浮かんでいた。
「う〜ん……」
 先生は大きく伸びをした。
「ちょっと風が強いわね」
 セミロングの髪を押さえて言う。
「こういう日はね、女の子は大変なのよ」
「髪、がですか?」
「それと、スカート、もね」
「なるほど」
 妙に納得してしまった。
「さてと、そろそろ戻るわね」
「あっ、はい」
「授業はちゃんと出るのよ」
「わかってますよ」
 先生はさわやかな微笑みを残して下りていった。
「空気、か……」
 ホント、難しいわ。
 
 
第四章
 
 部屋でのんびりしていると、インターフォンが鳴った。
 今誰もいないんだよな。
 俺はベッドから出て、玄関へ。
「はーい」
 一応愛想だけは振っておく。
 で、ドアを開けると──
「浩之ちゃん」
「なんだ、千砂か」
「あたしもいるわよ」
 よく見ると、千砂の後ろには美樹といつみがいた。愛想振って損したな。
「三人揃ってなんか用か?」
「別に特に用はなかったんだけどね」
「千砂がどうしても浩之のところへ行きたいって言うから」
「そ、そんなこと言ってないよ」
 まあ、どうせ誰が決めたとかいうことはないんだろう。
「まあいいさ。とりあえず上がれよ」
「おじゃまします」
「おじゃましま〜す」
「おじゃまします」
 同じ言葉でも三人三様だな。
「あれ、誰もいないの?」
「ああ。姉さんは友達と買い物。父さんと母さんが出かけることになって店も休み」
「そうなんだ」
「確かにお店は開いてなかったからね」
 とりあえず三人をリビングに通す。
「なに飲む?」
「紅茶」
 美樹が間髪入れずに答えた。
「私も紅茶で」
「私も」
 個性のない奴らだ。まあ、こっちは助かるけど。
「じゃあ、少し待ってろ」
 俺はそう言って店の方へ出た。
 一応台所にも紅茶あるけど、店の方が遥かにいいものが揃ってる。
 さて、今日はどの紅茶にするかな。ひと通り揃ってるけど。まあ、無難にうちの店のスペシャルブレンドにするか。これは父さん自慢のブレンドだからな。
 まずはお湯を沸かして、カップを用意。葉っぱを用意。
「浩之ちゃん。手伝おうか?」
「ん、そうだな」
 俺は千砂にお菓子の用意を頼んだ。
 で、紅茶はこのお湯の注ぎ方とタイミングが重要なんだよな。
 父さん直伝の淹れ方で淹れる。う〜ん、いい香りだ。
「千砂」
「ん?」
「あいつら呼んできて、好きなケーキ持っていきな」
「えっ、ケーキもいいの?」
「ひと切れ、ふた切れならな」
「うん」
 女を黙らせるには甘いものを与えておくのが一番。これは教訓。
 数分後。さっそくお茶の時間になった。
「で、一日中ごろごろしてたわけ?」
「しょうがないだろ? 留守番なんだから」
 いきなり美樹がいちゃもんつけてきた。こいつはホントに人のことをバカにすることが好きだな。
「おまえらこそ、三人つるんでなにしてたんだ?」
「買い物に行こうと思ったんだけど……」
 千砂がちらっと美樹を見た。
「あ、あはは、ちょ〜っとだけ寝坊しちゃったのよ」
「二時間です」
 おおっ、珍しい。いつみのつっこみだ。
「おまえな、いくらなんでも二時間はひどいぜ」
「だって、目覚まし止まってたんだもの」
「自分で止めたんだろ、寝ぼけて」
「だから時間の関係でどこ行こうかって相談して、浩之ちゃんのとこになったの」
 ま、そんなとこだろうな。
「う〜ん、相変わらず美味しいケーキね」
「おばさんのケーキは評判だからね」
「お世辞を言っても、それ以上は金払えよ」
「わかってるわよ」
 とは言いながら、早くもひと切れ目を食べ終わってる美樹。なんつう奴だ。
「で、うちに来てなにを期待してたんだ? まさかケーキのためだけに来たわけじゃないだろ?」
「別に目的があってきたわけじゃないわよ。ただなんとなく、よ」
「だろうな」
 俺は深いため息をついた。こいつらは案外そういうところがあるからな。千砂はどっか抜けてるし、美樹は当てにならないし、いつみはなにを考えてるのかわからないし。
「ねえ、浩之ちゃん」
「ん?」
「迷惑だった?」
 だけど、こいつはこんなことばかり気にする。
「別に。暇つぶしにはちょうどよかった」
「暇つぶしねぇ」
「なんだよ、美樹。なんか文句あるのか?」
「別に、なにもないわよ。あたしたちだって浩之のこと言えないからね」
 それからしばらく適当な話をして時間をつぶした。
 で、なぜか場所が俺の部屋に移った。
「へえ、結構綺麗じゃない」
「汚い部屋は嫌いなんだよ」
「あれ、美樹は入ったのはじめて?」
「そうよ」
「そういえばそうだな。千砂はまあ当然だけど、いつみは前に来たことあったしな」
 同意を促すようにいつみを見ると、こくんと頷いた。
「いつみはなんで?」
「千砂ちゃんと一緒に来たの」
「そうなんだ」
「まあ、適当に座ってくれよ」
 俺は椅子に座って、千砂といつみがクッションに、美樹がベッドに座った。
「それって、アルバム?」
「ん、ああ、そうだ」
 さっそく美樹が目敏くアルバムを見つけた。まあ、別に隠すようなものじゃないけど。
「見たいのか?」
「もちろん」
 大げさに頷く。
「しょうがないな」
 俺はアルバムを渡してやった。
「うわ〜、今の浩之からは想像もできないくらいカワイイわね」
「おまえなぁ、いちいちいちゃもんつけんなよ」
「だけど、ホントのことだからしょうがないでしょ?」
 まったく、口の減らない女だ。
「あっ、これ千砂よね?」
「うん」
 それは俺と千砂が写った写真だった。幼稚園くらいの写真だ。千砂はニコニコと笑い、俺はつまらなそうな顔をしてる。
「ふ〜ん……」
 次から次へとページをめくっていく。
「こうして見てると、ホントに千砂と浩之って一緒にいるわね」
「まあな。腐れ縁なんてものじゃないからな。幼稚園から高校まで一緒だし」
 確かにアルバムの写真の中には、千砂と一緒に写っている写真が相当ある。
「この人が浩之のお姉さん?」
「ああ」
 今度のには、姉さんが写っていた。比較的最近の写真だ。
「綺麗な人だね」
「うん。弥生さんは私の憧れの人だから」
「へえ、そうなんだ」
「おい、千砂」
「うん?」
「姉さんが憧れの人だなんて、初耳だな」
「あれ、そうだっけ?」
 いや、確かに初耳だ。薄々そんな気はしてたけど、ホントにそうだとは思わなかった。
「まあ、千砂にとっても姉さんは『姉さん』みたいなものだからな」
「ホントに『お義姉さん』になったりして」
「み、美樹っ!」
 千砂は思わず声を上げていた。俺だって声を上げたかったぜ。
 まったく、こいつはなにを言うかと思えば、とんでもないことを……
「あはは、そんなに焦ることないじゃない。ねえ、いつみ?」
「えっ、私は……」
「おい、美樹。あんまり好き勝手やったり言ったりするなよ」
「わかってるわよ」
 美樹は肩を小さくすくめた。
 それから一時間ほどとりとめのない話をした。すぐに暴走をはじめる美樹を止めながらだと、ホントに疲れる。
「じゃあまたね、浩之」
「おじゃましました」
 美樹といつみは方向が逆だし、家も遠いからさっさと帰った。
「ごめんね、浩之ちゃん」
「ん、なにがだ?」
「せっかくのお休みの日を使っちゃって」
「そんなこと気にするなって。俺だってつまらなかったわけじゃないしな」
「そう言ってもらうと助かるよ」
 千砂はホッとしたように微笑んだ。
「なあ、千砂。ホントは誰がうちに来ようって言ったんだ?」
「誰でもないよ。たまたま浩之ちゃんの名前が出て、それなら行ってみようってことになったの」
「ふ〜ん……」
 それならそれでいいけど。
「さてと、家まで送ってやるよ」
「えっ、いいの?」
「ああ。どうせすぐそこだしな」
「うん」
 それに、家にいたってすることないしな。
「綺麗な夕陽だね」
 外に出ると、すでに空は茜色に染まっていた。
「ずいぶん陽が長くなったからな。もうすぐ六時半くらいになるんじゃないか」
「昔はよくこうやって家に帰ってたよね。いつも私が浩之ちゃんについていって。追いついて歩くだけでひと苦労だったけど」
「千砂は昔からトロかったからな」
「そんなことないよ」
 真っ赤な夕陽に照らされて、千砂の顔が幻想的に見える。穏やかな表情。思わずハッと息を呑んでしまった。
 な、なにを意識してんだ、俺は。
「海とかに沈む夕陽も綺麗だけど、こうやって見てると普通のでも十分綺麗だね」
「そうだ、な」
「ん、どうしたの?」
「い、いやなんでもない……」
 まともに千砂の顔が見られない。
「ありがと、浩之ちゃん」
「ん、ああ」
「明日も晴れるといいね」
「そうだな」
「じゃあね、浩之ちゃん」
「ああ……」
 千砂は笑顔で家に入っていった。
 そんな千砂を見送り、俺は息をついた。
「……意識しすぎ、だな」
 誰に言うともなく、俺は呟いた。
 
 その日は朝から曇っていた。どんよりとした重い雲が空を覆い、いつ雨が降り出してもおかしくないような天気だった。
 俺はなんとなく朝から虫の居所が悪くて、授業もほとんど寝てた。
 ところが夏休み。
「浩之」
「なんか用か、陽一?」
「ああ。用があるからおまえのとこに来たんだ」
 陽一の手には、一枚の紙があった。
「これがなにか知りたいか?」
「おまえなぁ。おまえが用があるから俺のとこへ来たんだろ? それなのにそういう言い草はないだろ?」
「まあまあ、いいじゃないか。お約束だよ」
 あっけらかんと笑う陽一。
「で?」
「ついに決定したぞ」
「なにが?」
「ミスコンだよ。その速報をいち早くおまえに知らせてやろうと思ってさ」
「ふ〜ん、それはご苦労なこって」
「ほら、これがとりあえずの結果だ」
 俺は陽一から結果の書いた紙を受け取った。
 なになに、一年は……知らないな。二年は……名前だけは知ってるな。確か、テニス部の奴だ。で、三年は……おおかたの予想通り、千砂の圧勝か。
「しかし、この数字ホントなのか? 三年なんか千砂以外にほとんど入ってないじゃないか」
「まあ、それだけ千砂ちゃんがダントツだってことさ」
 うちの高校の男子の総数はだいたい五百人。ミスコンの有効投票総数がだいたい三百票。で、千砂に入った数が二百八十票。実に九割以上。ちょっとにわかには信じられない。
「あとで校内一を決める投票の告知もするんだけどな。まあ、このままだと千砂ちゃんの圧勝だろうな」
「ふ〜ん……」
 俺は紙を陽一に返した。
「まっ、開票日を楽しみにしてろよな」
 そう言って陽一はそそくさと教室を出て行った。
 しかし、ある程度予想できたこととはいえ、実際にそうなるとはな。
 そうか、千砂が一位か。
 みんなが千砂を見てる。だから一位になった。ただそれだけのことなのに。
 俺は教室を出た。
 と、廊下で誰かとぶつかった。
「きゃっ!」
「あっ、と」
 俺はなんともなかったが、相手は廊下に倒れてしまった。
「大丈夫か、っていつみじゃないか」
「あっ、浩之さん」
「悪いな、ちょっと気付かなくて」
「いいえ、大丈夫です」
 手を取って立たせてやる。いつみは声だけじゃなくて体も小さいからな。男の俺なんかがぶつかったら、まあ、倒れるわな。
「でも、珍しいですね。考え事でもしてたんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな」
 いつみは小首を傾げた。
 ここはひとつ、千砂の親友であるいつみの意見でも聞いてみるか。
「なあ、いつみ。少し時間いいか?」
「ええ、いいですよ」
 俺たちはなるべく人のいないところへ向かった。外は雨が降るといけないから、結局は体育館への渡り廊下になった。
「あのさ、いつみ」
「はい」
「ミスコンの結果って、知ってるか?」
「いいえ」
「そっか、じゃあこれからなんだな」
「……気になりますか、千砂ちゃんのこと?」
「ん、まあ、気にならないって言ったらウソになるけどな」
「そうですね」
 なにを言ってるんだ、俺は。
「あのさ、その結果なんだけど、三年が千砂が一位だったらしいぜ」
「そうなんですか」
「そうなんですかって、それだけ?」
「千砂ちゃんなら妥当だと思いますよ」
「まあ、それはそうだけど……」
「浩之さんはどうなんですか? 千砂ちゃんが一位になって」
「どうって言われてもな。正直どういうリアクションをしたらいいかわからないんだ。校内一ならリアクションの取りようもあるんだけどな」
 校内一なら約束もあるし。
「そういえば、浩之さんは投票したんですか?」
「いや、俺はしてない。どうしてもひいき目で見ちゃうからな」
「千砂ちゃんのこと、なんでもわかってるからですね」
「そうじゃないけど、俺が今更千砂のことを評したくないんだよ。今までずっとそうやってきたし」
「それはそうかもしれませんけど、千砂ちゃんはどう思ってるんでしょうかね」
「千砂が?」
 いつみは小さく頷いた。
 そう言われると、そうだな。千砂はどう思ってるんだ?
「千砂ちゃんて、ホントによく浩之さんの話をするんですよ」
「千砂が俺の話を?」
「はい。その時の千砂ちゃんはいつも楽しそうで。時々美樹ちゃんに冷やかされてますけど」
 まあ、美樹は毎度のことだからな。
「その度に、千砂ちゃんと浩之さんは仲がいいんだなって思ってます」
「悪くはないな」
 いつみは小さく笑った。いつになく話すいつみだが、俺はそんなことは気にならなかった。
「浩之さんは、千砂ちゃんのことどう思ってるんですか?」
「どうって、幼なじみ、だろ。じゃなかったら同じ高校のクラスメイト」
「それだけですか?」
「それ以上なにがあるんだ?」
「……たとえば、千砂ちゃんを幼なじみとしてだけじゃなく、ひとりの女性として見るとどうですか?」
「ひとりの、女性……」
 友達以上恋人未満の俺たち。それは千砂をひとりの女性として俺が見ていないからかもしれない。ただ、その可能性は極力なくしたい。
「……余計なことを言って、ごめんなさい」
「いや、いいさ。もともと俺の方がいつみに意見を求めたんだからさ」
「やっぱり、浩之さんて優しい方ですね」
「優しい? 俺が?」
「はい。いつも千砂ちゃんが言ってます。『浩之ちゃんはいつもはあんなだけど、いざとなったら頼れるし、人のことを一番に考えるし、それに優しいし』って」
「千砂がそんなことを……」
「私も千砂ちゃんの意見に賛成です。私もそう思いますから」
 褒められてるんだよな?
「とにかく、千砂ちゃんのこと、もう少し考えてみてあげてくださいね」
「ん、ああ」
 ……結局、いつみから新たなことを言われただけだな。
 
「あ〜あ、すっかり遅くなったな」
 俺は教室に戻りながら呟いた。
 たまたま職員室に用があって行ったら、見事にほかの先生にも捕まってしまった。話すことといえばもちろん進路のことが中心。
 俺は適当に聞き流しつつ、相づちを打っていた。それでもだいぶ時間がかかってしまったのだ。
 教室にはもう誰も残っていなかった。いくつかの机にはまだカバンは残っていたが。
 俺もカバンを持って教室をあとにした。
 薄暗い廊下や階段を昇降口へ。ただでさえ薄暗い校舎内が、今日の天気でさらに薄暗くなっている。
 靴を履き替えてようやく気付いた。雨が降ってる。
 さて困った。なんとか雨の降らないうちに帰れると思ったのに。
 俺は昇降口の屋根の端っこから、恨めしそうに空を見上げた。いくら五月とはいえ、雨に打たれて帰るのは少々つらい。だから少し待つことにした。
 鉛色の空からは止めどなく雨粒が落ちてくる。校庭にはすでに水溜まりができはじめている。最近雨が降ってなかったから、まあ、よかったのかもしれない。でも、それは俺が家に帰り着いてからにしてほしかった。
 しかし、この雨で木々の緑はよりいっそう濃くなるな。
 気温が高くて雨が靄になりつつある。う〜ん、上がらないかな?
 しょうがないな。雨に打たれて帰るか。
「あれ、浩之ちゃん?」
「ん?」
 聞き覚えのある声だ。
「やっぱり浩之ちゃんだ」
 それに、俺のことを『ちゃん』付けで呼ぶのは千砂しかいない。
「どうしたの、こんなところで?」
「いやなに、雨が降ってて傘がなくて雨が上がるのを待ってたんだ」
「傘忘れたの?」
「降る前に帰れると思ったんだけどさ」
 千砂は『またなの?』って顔をしてる。
「しょうがないなぁ」
 千砂はカバンから折り畳み傘を取り出した。
「一緒に帰ろ」
「いいのか?」
「うん。どうせ私の方が家は遠いし。それに……」
「ん、それになんだ?」
「あっ、ううん、なんでもない」
 慌てて首を振る。
「そんなことより、帰ろ」
 俺は千砂から傘を受け取って差した。まあ、俺の方が背が高いから当然なんだけど。
「千砂はこんな時間までなにしてたんだ?」
「うん、ちょっと図書館で調べもの。浩之ちゃんこそ、どうしたの?」
「いや、職員室に用があって行ったら、いろんな先生に捕まってさ。なかなか逃げ出せなかったんだ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「どうも俺みたいにたまにしか職員室に行かない奴が行くと、先生たちは面白がってさ。極力行きたくないんだけどな」
「行かなくて、また用があって行ったら捕まるんじゃないの?」
「まあ、そん時はしょうがない」
 校門を抜けた頃、雨が少し強くなってきた。
「おい、千砂」
「なに?」
「肩濡れてるぞ」
「えっ、あ、うん。傘、小さいからね」
 確かに折り畳み傘はただでさえ小さいのに、そんな傘にふたりも入ったらなおさらだ。
 千砂の肩は制服に雨が染み込んでうっすらと肌が透けている。
 俺は傘を千砂の方に傾けた。
「そんなことしたら、今度は浩之ちゃんが濡れちゃうよ」
「いいんだよ。どうせ俺は入れてもらってるんだから」
 とは言いながら、ちょっと肩口が冷たいかな。
「じゃあ、こうすればいいね」
 そう言って千砂は、俺に密着してきた。
「お、おいおい、少しくっつきすぎじゃないか?」
「でも、こうすれば少しは濡れなくなるでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
 ううっ、こんなに密着されるとどうしても意識してしまう。う、腕に柔らかな感触が当たってるし……
「こうしてると、私たちってどんな風に見えるのかな?」
「さ、さあな……」
 俺はわざと答えをはぐらかした。そんなこと、答えられない。
「友達、かな? それとも、恋人、かな……?」
「…………」
「……私ね、浩之ちゃんとならそう思われてもいいかなって思うの」
 俯き加減に言った言葉。それでもはっきりと聞き取れた。少し、頬が赤いかな。
「……千砂」
「浩之ちゃん、私、待ってるから。ずっと、ずっと待ってるから」
 もうそれ以上はなにも言えなかった。言っても全部言い訳になってしまうと思ったから。
 雨は、もうしばらく続きそうだった。
 
 
第五章
 
「こういう時は、おめでとう、って言えばいいのかな?」
「えっ、うん、ありがと」
 千砂はちょっと恥ずかしそうに答えた。
「だけど、校内一だもんな」
「別に私はなにもしてないけどね」
「そりゃそうさ。陽一や則和みたいな一部のわけわからん連中がはじめたことだから、当事者だって関係ないさ」
「そう、だね」
 ここは学校の屋上。もうすぐ六月になるけど、まだ天気はいい。最後の五月晴れかな。
 長時間陽に当たってると、少し汗ばんでくるくらい気温も上がってきた。
「ねえ、浩之ちゃん」
「ん?」
「浩之ちゃんは、私が校内一になって、どう思った?」
「……そうだな」
 俺はフェンスに寄りかかった。空を見上げるとふわふわっとした雲がゆっくりと流れていく。
「……正直言うとな、俺は千砂にはそういうことに絡んでほしくなかったんだ」
「えっ、どうして?」
「見せ物みたいでさ、イヤなんだよ。それにもともと人に順位をつけることが嫌いなんだ。そんな表面的なことだけで、その人のことがわかるわけでもないのにさ」
「……浩之ちゃんらしいね」
「前にも言っただろ。もし俺が投票したら、どうしても千砂にひいきしちゃうって」
「うん」
「それはな、俺がおまえのことをホントによく知ってるからだ。いいところも悪いところも含めて。人を表面で判断しなければ中身で判断するわけだろ? そうなるとどうしたって千砂が有利だし」
「どうしても投票しなくちゃいけなくなってたら、どうしてたの?」
 ……どうしてもそのことが聞きたいらしいな。
「そうだな。たぶん、卑怯だとかいろいろ言われても、千砂に入れただろうな」
「……ありがと、浩之ちゃん」
「まあ、そうは言っても実際は投票してないからな」
「それでもいいの。浩之ちゃんの気持ちがわかっただけでも」
「まったく、なに言ってんだか」
「ふふっ」
 俺は千砂の額を小突いた。
「そうだ。浩之ちゃん」
「なんだ?」
「約束、覚えてる?」
「約束?」
「あーっ、忘れちゃったの? ひどいなぁ」
 ぷうと頬を膨らませ、怒った顔を見せる。
「ウソだって。ちゃんと覚えてる」
「ホント?」
「ああ。俺がおまえの言うことをひとつだけ聞いてやるってのだろ?」
「うん、そうだよ」
「いくらなんでも俺から言い出したんだから、覚えてるさ」
「よかった」
 千砂は本当にホッとしたようだ。まったく、もう少し信用しろよな。
「で、なにをしてほしいんだ? 実現不可能なこと以外ならいいぞ」
「……あのね、一日だけ私の言うことを聞いてほしいの」
「千砂の言いなりか。まあ、いいぜ」
「絶対に言うこと聞いてね?」
「わかってるよ」
「絶対だよ」
「ああ」
 千砂はニコニコとホントに嬉しそうだ。まったく、俺はなにをさせられるんだか。
 しかし、困るようなことをさせられたら、どうしようか?
「浩之ちゃん」
 そんなこと考えていると、千砂が少しだけ真剣な表情で言った。
「ん?」
「私ね、ホントはすごく不安だったんだ。みんなからどんな風に見られるんだろうって」
「そりゃそうだろうな。男ならまだしも、女は嫉妬深いからな」
「でもね、それも浩之ちゃんのおかげでなんとかなったんだよ」
「俺のおかげ?」
「うん。浩之ちゃん言ってくれたでしょ? なにかあったら俺を頼れ、って」
「……そういや、そんなこと言ったな」
「私にとってその言葉は、百倍にも千倍にも勇気をくれるの」
「そんな大げさな……」
「ううん、大げさじゃないよ。実際にそうなんだもの」
 珍しく意見を通すな。
「浩之ちゃんが私のことわかってるのと同じで、私も浩之ちゃんのことわかってるから」
「……まあ、そりゃそうだろうな」
「私ね、浩之ちゃんのこと、家族以外で一番わかってるつもりだよ」
「わかったよ。もうこれくらいにしておこうぜ。これ以上このことについて話してると、絶対によくない」
「……そうだね」
「はは、そういうわかりやすい性格も俺は知ってるからな」
「んもう、浩之ちゃん……」
 千砂は少し不満そうに唇を尖らせた。
「もうすぐ梅雨だね。梅雨が明ければ高校生活最後の夏、だね」
「そうだな。どっか行けるといいな」
「うん……」
 俺たちは空を見上げ、しみじみとそう言った。
 
「なあ、浩之」
「ん?」
「最近、千砂ちゃんとなんかあったのか?」
「は? どういう意味だ?」
 昼休み。珍しく教室に残っていたら陽一に捕まった。で、なんか疑問があるらしい。
「いや、なんか最近千砂ちゃんが楽しそうだからさ」
「千砂が楽しそうだと、俺が関係あるのか?」
「そういうわけじゃないけどさ。ただ、悔しいけどその可能性がもっとも高いからな」
 陽一はマジで悔しそうだ。
「で、実際はどうなんだ?」
「……別に、なんにもないさ。俺たちはいつも通り」
「……ホントか?」
 ちっ、疑い深い奴だ。
「じゃあ、逆に聞くぞ」
「ああ」
「もし俺と千砂になんかあったらどうだって言うんだ?」
「そりゃ、なにがあったかによるだろうな」
「答えになってない」
「んなこと言ったって、事実だからな」
「ああ、おまえに質問した俺がバカだった」
 こいつの性格は熟知していたはずなんだけどな。
「なにしてるの?」
「おっ、千砂」
「浩之じゃ話にならないから、千砂ちゃんに聞くかな」
「えっ、なに?」
「勝手にしろ」
 陽一は意気揚々と千砂に訊ねた。
「千砂ちゃん。最近浩之となんかあったの?」
「えっ、なんで?」
「だってさ、最近の千砂ちゃん、ずいぶんと楽しそうだから」
「えっ、そ、そうかな?」
 こ、こら、ちらっとでも俺を見るな。陽一が目を光らせてるっていうのに。
「浩之はなんにもないって言うんだけどさ」
「だから、なんにもないんだよ。おまえもしつこいな」
「おまえには聞いてない。俺は今、千砂ちゃんに訊いてるんだ」
「千砂。こんな奴、まともに相手しなくていいぞ」
「なに言ってんだ。俺は至ってまともなことを聞いてるんだぞ」
「ふん、おまえのまともの基準なんて、この世で一番信用できないな」
 と、陽一がにやりと笑った。
「浩之。おまえ、なにをそんなに必死になってんだ? なにもなければ別にいいじゃないか。それともなにか? 実は人に言えないなにかがあるのか?」
「ば、バカなこと言うなよ。なにが人には言えないことだ」
 くっ、形勢不利だな。別にやましいことはないけど、あのことだけは知られるのはまずいからな。
「なあ、浩之。ひとつだけ教えておくよ」
「な、なんだよ?」
「千砂ちゃんになんかあったら、学校中の男どもに殺されるぞ」
「はっ、なにをバカなことを」
「別に信じる信じないはおまえの勝手だけどな。じゃなかったら──」
 陽一は俺の耳元でささやいた。
「おまえの気持ちをはっきりさせろ」
「なっ……」
「わかったな?」
 陽一はそう言って離れていった。
「どうしたの、浩之ちゃん?」
「あっ、いや、なんでもない」
「そう?」
 ……まったく、陽一の奴は余計なことしか言わないんだから。くそっ。
「でも、浩之ちゃん」
「ん?」
「私、そんなに楽しそうに見えるのかな?」
「さ、さあな」
 俺はわざと答えをはぐらかした。たとえそれが事実だとしてもだ。
「陽一くんにもそう見えたのなら、そう見えるのかも」
 それでも嬉しそうな千砂。
「今度の日曜日だよ」
「は、なにが?」
 突然振られてそう答えていた。
「んもう、忘れちゃったの? 私との約束。浩之ちゃんが──」
「わーっ、それ以上言うなっ。誰かに聞かれたらどうするんだ」
「……別に私は構わないけど……」
「俺が構うんだ」
「もう、浩之ちゃん……」
 千砂はなにが不服なのか知らないが、恨めしそうに俺を見てる。
「あっ、そうだ」
「今度はなんだ?」
「浩之ちゃんは、長いのと短いの、どっちが好き?」
「はい? なんだそれは?」
「いいから、答えて」
「おまえな、そんなこと言われたって、ものによるだろ」
「すべてのものを対象にしてみて。感覚でいいから」
 そんなこと言われたってなぁ。いきなりわけわからんことを聞いてくるなって。とはいえ、答えないとなに言われるかわからんからな。
「そうだな、基本的には長い方がいいかもな」
「長いものね。うん、ありがと」
「なあ、なんなんだそれって?」
「う〜ん、まだ秘密」
「ちぇっ」
 まったくなに言ってんだか。
「あらあら、相変わらず仲がいいわね」
「……またうるさい奴が来たな」
「誰がうるさい奴よ」
 とか言いながら金切り声を上げてるのは、言わずと知れた美樹だ。
「で、なに話してたの?」
「別に、特になにも」
「そうかしら? 端から見てて千砂の表情がころころと変わってたから、なんか話してたんでしょ?」
 ……余計なことばかり見てやがる。
「たとえ俺たちがなんか話してたとしても、おまえには関係ないだろ」
「ふ〜ん、秘密の会話なんだ」
「だ、誰が秘密の会話だっ! 下卑た言い方するな」
「なんでそんなに焦るのよ」
「……くくぅ」
 くそっ、勝ち誇った顔してやがる。
「でも、浩之。なにを話してたかなんて千砂の表情見てればだいたいわかるのよね。千砂がホントに嬉しそうな表情してれば、たいてい浩之、あなた絡みのことなのよ」
 ぬぬぅ、なまじ当たってるから反論もできない。
「ね、そうでしょ、千砂?」
「えっ、そ、そうかな?」
「そうなのよ。昔からそうなんだもん。千砂ってホントにわかりやすいのよ」
 褒めてんだか、けなしてんだか。
「まあ、千砂と浩之の場合、あまりにもつきあいが長いからね、そういうことに鈍感なのよね」
「ボケてるって言いたいのか?」
「幼なじみボケね。少しは刺激を入れた方がいいんじゃないの」
「うるせー、余計なお世話だ」
「まっ、いいけどね」
「まったく、おまえと話してるとホントに疲れるよ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
 口の減らない奴だ。
「あっ、そうだ。千砂、ちょっといい?」
「えっ、うん」
 美樹は千砂を連れて向こうへ行った。
「……なんか最近、やたら後ろを押されてるような気がするな」
 
「大丈夫、涼子さん?」
「え、ええ、大丈夫よ」
 夜。ちょっと調子の悪そうな涼子さんをアパートへ送っていた。
「最近、ちゃんと寝てるの?」
「少し、寝不足気味かな。でも、無理はしてないわよ」
「なんだったら、明日のバイト、休んだ方がいいんじゃないかな」
「そうはいかないわよ。それに、一晩寝れば大丈夫よ」
 とか言いながら足下がふらついている。俺が肩を貸してなかったら、だいぶ危ないな。
 いつもなら五分も歩けば着くところを、倍近くかかった。
「鍵、開けようか?」
「ええ、お願い」
 俺は涼子さんから鍵を受け取り、ドアを開けた。暗い玄関にとりあえず明かりを点ける。
「一応中までついてくよ」
 靴を脱いで部屋へ上がる。
 パパッと明滅して明かりが点いた。きちんと片づけられた綺麗な部屋。何回か上がったことがあるから、まあ、それほど緊張とかはない。
 とりあえず涼子さんをベッドに座らせる。
 う〜ん、少し顔が青いかな。
「ねえ、涼子さん。薬ある?」
「鏡台のところに……」
 俺は鏡台の上に置いてあった薬入れから薬を選んだ。おそらく疲れや寝不足からくる軽い体のだるさ、頭痛なんかにみまわれてるんだろう。
 台所でコップに水を入れる。
「はい、涼子さん。薬飲んで」
 少し虚ろな瞳で薬とコップを見て、それから飲んだ。
「……ねえ、浩之くん」
「ん?」
 涼子さんは、コップを俺に渡し、ささやくように言った。
「少し、側にいてほしいの……」
「えっ……?」
「お願い……」
 ……具合が悪いからな。そういう時はいつも以上に淋しくなったりする。
「いいよ。少しだけなら。でも、涼子さんは横になって」
 涼子さんは小さく頷いた。ベッドに横になって目を閉じる。
「……不思議よね。浩之くんが側にいてくれるだけで、ずっと安心できる」
「そう、なの?」
「うん……」
「俺には、一生わからないんだろうね」
 そりゃそうだよな。俺のことなんだから。
「……私ね、やっぱり浩之くんのこと、好きみたい」
「り、涼子さん……」
「大学でも男の人はいるけど、どうしても浩之くんと比べちゃうのよ。そんなことしてたらいつの間にか、浩之くんのことを特別な存在として意識してたの」
「……どうして?」
「それは、浩之くんが『男性』だからよ。ただ優しいだけじゃなくて、力強くて頼りになって……」
「……買いかぶりすぎだよ。俺はそんなに完璧じゃないよ」
「ううん。別に完璧っていう意味で言ったわけじゃないのよ。私が男の人に求めていること、求めたいことを持ってるっていうこと」
 それならそれで、また問題だけど……
「……でも、やっぱり迷惑だよね」
「迷惑だなんて、そんなこと全然思ってない。思ってないけど……」
「……けど?」
「今の俺は、涼子さんのその想いに応えてあげられない……」
 確かに涼子さんは綺麗だし性格もとてもいい。間違いなく好きなんだけど。
「……少し酷な言い方になるかもしれないけど、俺にとって涼子さんはもうひとりの『姉さん』なんだ。弥生姉さんとはまた違った、つい甘えたくなるような守りたくなるような、そんな感じなんだ。確かに一時期は涼子さんに憧れてたこともあった。でも、その憧れは単なる憧れだと気付いたんだ。そしたら、憧れは男が女に持つものから、弟が姉に持つものに変わった……」
「…………」
「俺、涼子さんのこと、好きだよ。ずっと側にいたいって思う。でも──」
「……ありがと、浩之くん。やっぱり、優しいね」
「上辺だけ、かもよ」
「ううん、そんなことないよ。浩之くんの優しさは本物」
 そう言って涼子さんはベッドの上に体を起こした。そして──
「浩之くん……」
 俺は、涼子さんに抱きしめられた。涼子さんの心臓が、トクントクンと高鳴っていた。
「涼子さん……」
「あ……」
 俺は、できるだけ優しく涼子さんを抱きしめた。一瞬ビクッとなったけど、すぐに俺に体を預けてきた。
 今の俺には、これくらいしかしてあげられることはない。
「……泣いてるの?」
「嬉しくて……」
「悲しい涙じゃなくて、よかったよ」
「……ごめんね」
「んっ……」
 一瞬の隙をつかれた。
 涼子さんは、俺にキスをした。長いキスじゃなかったけど、その唇の感触ははっきりとある。
 そして、そのまま体を離そうとしたけど、今度は俺がそれを許さなかった。
「……浩之くん?」
「涼子さん。ひとつだけ約束してほしいんだ」
「えっ?」
「ずっととは言わないけど、大学に通っている間は、俺の『姉さん』でいてほしい」
「……ええ、いいわよ。でも、『弟』は姉の言うこと、聞いてね」
「はは、おやすいご用さ。なんたって、本物の姉さんに鍛えられてるからね」
「ふふっ、そうかもね」
 やっと涼子さんに笑顔が戻った。
「浩之くん」
「ん?」
「私は、いつまでも浩之くんが好きだからね」
「うん」
 それは、俺もだよ、涼子さん。
 
 人から好かれるってどういうことなのか。最近そのことがわからなくなってきた。
 俺が誰かを好きになるということはわかる。だけど、人から好かれるというのは、俺の中だけでわかることではない。相手の気持ち──心だからだ。
 単純に好かれてるといえば、家族からは好かれているだろう。特に姉さんはいろんな意味で。
 それに恋愛感情が含まれると、もうわからない。まずだいいちに、どうして俺なんかを好きになるのか。とにもかくにも、その問題が出てくる。
 俺は俺自身を正確には理解できていない。時々、自分が思っていないことを俺を見ている人が口にすることがある。そういう時はたいてい『ウソだー』って感じで流すけど、実際はそうなのかもしれないという気持ちも多少なりともある。
 涼子さんは俺のことを好きだと言ってくれた。それ自体はものすごく嬉しい。俺だって涼子さんのことが好きだからだ。好きな人に好きと言われてイヤな思いをする奴はいないはずだ。
 ただ、その好きがどんな好きなのかが問題だ。親兄弟間の家族愛みたいな好きなのか、究極的に言って結婚して一生添い遂げたいくらいの好きなのか、単なる好き嫌いの好きなのか。意味によって全然変わってくる。
 そして、お互いの間にその意味の取り違いがあると、結果は悲しい。
 俺はひょっとしたら、涼子さんを傷つけてしまったかもしれない。涼子さんの性格を考えればそのことを表に出すことはない。だからこそ余計に心苦しい。
 でも、そこで同情すればいいとも思わない。同情すれば一時的にはその傷はふさがるかもしれない。あくまでも一時的に。時とともにおそらくそれは破けてしまうだろう。見せかけだけでは、結局なにも解決できない。
 だから俺は涼子さんに本心を伝えた。俺にとってはもうひとりの『姉さん』であるということを。その方がこれからのことを考えるといいと判断したからだ。
 結果はすぐには現れてこないだろうし、しばらくは涼子さんとぎこちない関係になるかもしれない。でも、俺はそんなことで涼子さんとの関係が終わってしまうとは考えたくない。いろんな意味で責任を取れと言われれば、俺はいくらでも責任を取る。だけど、必要以上の代償を払うつもりは毛頭ない。
 人は人を頼りすぎるとひとりではなにもできなくなる。俺は涼子さんにはそうなってほしくない。もちろん、俺みたいな半端物がそんなことを言っても説得力のないこともよくわかってる。だからこそ、そうするのだ。
 ホントに、涼子さんが好きだから。
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