真夏の夜の夢
 
序章
 
 朝。いつも通り、目覚ましよりも早くに目が覚めた。
 カーテンの隙間からは、陽の光が差し込んできている。どうやら今日もいい天気らしい。
 僕は、ベッドの中で軽く伸びをして体を起こした。
「……ん……」
 と、隣からわずかに声が上がった。そこにいるのは、僕の彼女、桜真歩だ。
 私立正徳学園の三年生。学園のアイドルとして男女を問わず人気がある。
 長い髪に愛らしい瞳、鈴を転がしたような声が特徴的な女の子だ。
 その真歩を起こさないようにベッドを出て、薄くカーテンを開けた。
「っ!」
 朝とはいえ、夏の陽は強かった。
 そう、季節は夏。長かった梅雨も明け、学校も夏休みに入った。
 高校三年の夏は受験生である僕たちにとっては、とても重要な季節だった。宿題こそほとんど出なかったが、その代わりにしっかりと受験勉強をしなければならない。
 僕は勉強は嫌いではないけど、特別できるというほどでもない。だから、勉強しろと言われても、そう簡単にはできなかった。
 一方、すやすやと気持ちよさそうに寝ている真歩は、成績は非常に優秀で、現時点で大学への推薦が確実にもらえる成績だった。
 どう考えても釣り合わない僕たちだけど、ここに至るまではいろいろあった。
 そう、あれはちょうど一年前の夏のことだった。
「ひ〜ろくん♪」
 と、いつの間にか真歩が僕の後ろにいた。
 ちなみに、僕の名前は一条浩樹という。だから『ひろくん』なわけだ。
「おはよう、真歩」
「おはよ、ひろくん」
 言葉の挨拶を交わすと、今度はキスをする。これも挨拶なのだが、僕は未だに恥ずかしい。だけど、キスをしないとその日一日、真歩の機嫌が悪くなるから。
「どうしたの、窓の外をぼーっと眺めて?」
「ん、なんでもないよ。それより、今日は向こうに行くんだから、早めに朝食にしよう」
「うん、そうだね」
 真歩は笑顔で頷き、髪をまとめ上げた。これから顔を洗って、朝食の準備をするのだ。
 さて、僕も顔を洗って、荷物の準備をしようか。
 
 
第一章
 
 朝食を食べ、しばらくしてから僕たちは出かける用意をした。夏休みだから出かける、ということもあるけど、これにはそれ以上の理由があった。それについては追々話すとして、向かう先は、常夏の島、沖縄である。
 それぞれ大きめの荷物を持ち、アパートの部屋を出た。
「うわ、今日も暑いね」
 外に出るなり、不快な暑さが全身に絡みついてきた。
「今日も真夏日だって言ってたからね」
 朝のニュースで真夏日だと言っていた。ちなみに、朝はかろうじて熱帯夜にはならなかったらしい。
「さ、行こうか」
「うん」
 
 僕のアパートは、一応東京二十三区にある。いわゆる下町にあるため、家賃も安いし物価も安い。もちろん、学校にも近い。少なくとも、電車やバスを使わずに通える範囲だ。
 そんな場所ではあるけど、羽田空港までのアクセスはよくない。電車を乗り継いで、約一時間かかる。それも接続が上手くいけばの話で、下手をすると一時間半もかかる。さらに、飛行機に乗るためには搭乗手続きというものを取らなくてはならない。これがフライト時間の結構前からある。だから、必然的にだいぶ早めに出る必要があった。
 僕たちは近くの駅から電車に乗り込んだ。
 電車の中は早い時間ということで、ちょうどラッシュに重なってしまった。
 その電車にしばらく揺られ、乗り換え。今度の電車は逆方向だったので、それほど混んでなかった。
 結局羽田空港に着いたのは、一時間ちょいかかってからだった。
 ターミナルビルは、夏休みということで家族連れの姿が目立っていた。
 早めに搭乗手続きを済ませ、僕たちはひと息ついた。
「やっと落ち着いたね」
「ホント、ラッシュの電車なんかほとんど乗らないから、大変だったね」
「それでも、学校が休みの分、混雑具合もそれほどではないと思うけどね」
 以前、たまたまそういう時に電車に乗る機会があった。その時はもう息をするのも大変なほどだった。
 それに比べれば、今日のはましだった。
「向こうに着いたら、真歩はどうしたい?」
「う〜ん、いきなりそう言われても、ちょっと困るかな? ただ、今日から泳ごうとは思わないけどね」
 言って、真歩は笑った。
「じゃあ、とりあえず姉さんのところに行くってことでいいかな?」
「うん、いいよ」
「了解」
 それからしばらくして搭乗時間になった。
 あとは飛行機で約二時間半。そこはもう、沖縄である。
 
 青い空と青い海。東京にいたらまずお目にかかれないものが僕たちを迎えてくれた。
 僕が沖縄へ来るのは、これで何度目だろうか。年の離れた姉さんが沖縄の人と結婚してから、もう何度も足を運んでいる。僕も沖縄が好きだから、来られるのはとても嬉しい。
 那覇空港に降り立つと、僕はまず空を見る。
 東京の空と繋がっているはずなのに、まったく色が違う空。
 そして、吹き抜ける風が沖縄へ来たんだと認識させてくれる。東京の夏はとにかく無茶苦茶な暑さだけど、沖縄のそれは違う。もちろん、湿気が多いから不快指数自体は高いけど、それでも東京に比べれば幾分ましだと思う。
 よく沖縄はグアムやハワイみたいに夏が快適だと勘違いしている人がいる。確かにグアムやハワイは湿度が低いから気温の割に過ごしやすい。でも、沖縄は夏に台風が多いからそれに伴って湿気が多くなる。だから、蒸し暑い。
 決して過ごしやすいとは思わないけど、空気が綺麗な分だけましだと思う。
 まあ、東京に比べればどこでもましかな。
「じゃあ、とりあえず姉さんのところに電話しておくよ」
 そう言って僕は公衆電話へ。あいにくと僕は携帯電話を持ってない。
 もうそらでも言える番号を押す。すぐに繋がった。
『はい、与那覇です』
 幸いなことに出たのは姉さんだった。
「あ、もしもし姉さん? 浩樹だけど」
『あら、浩樹。ひょっとして、もう着いたの?』
「うん。今、空港だよ。これからそっちに向かうから」
『充昭さんがいてくれれば迎えに行けたんだけど』
「しょうがないよ。義兄さんだって仕事があるんだから」
『そうね。じゃあ、こっちもお茶の準備でもして待ってるから』
「わかった。それじゃあ」
 受話器を置くと、自然と息が漏れた。
 真歩のところに戻ると、真歩は少しだけつまらなそうに人の流れを見ていた。
「電話してきたから。さ、行こうか」
 真歩は頷き、僕の隣に並んだ。
 最近できたばかりの沖縄都市モノレール、通称ゆいレールに乗り、市の中心部へと向かう。
 中心部に出ると、今度はバスに乗り換える。モノレールができた分だけ時間に余裕ができたように感じる。やっぱり、バスは道路事情で時間が変わるから。
 モノレールとバスを乗り継ぎ、那覇市内でも比較的古くからの住宅街へと到着した。
 数は減ったけど、昔ながらの琉球建築の家もある。もちろん、シーサーも。
 バス停から歩くことしばし。僕たちは目的地である与那覇家へとやって来た。
 元は琉球建築の家だったらしいけど、姉さんとの結婚を機に建て替え、今では二階建ての立派な家となっていた。
 インターホンを鳴らすと、すぐに玄関が開いた。
「いらっしゃい」
 出てきたのは姉さんだった。与那覇由樹。もちろん、旧姓は一条だ。
「久しぶり、姉さん」
「久しぶりね。元気にしてた?」
「相変わらずだよ」
「で、その子が噂の彼女ね」
 そう言って後ろの真歩を見た。
「あ、えっと、桜真歩です。今日は、よろしくお願いします」
「浩樹の姉の由樹よ。もっとも、今は家を出てるけど。さ、ふたりとも上がって」
 家に入ると、いい匂いが漂ってきた。
 僕がそれに気づいたのを見て、姉さんが説明してくれた。
「お昼、まだでしょ? だから、お昼用意してるの」
 ということだそうだ。
「とりあえず荷物を置いてからね」
 僕たちは客間へと通された。そこに荷物を置き、今度は居間へ。
「お義母さん。浩樹たちが来ました」
 居間には、姉さんの旦那さん、充昭さんのお母さん、つまり姉さんのお義母さんがいた。
「まあまあ、浩樹くん」
「お久しぶりです」
 与那覇さわ子さん。沖縄の人らしく、彫りの深い顔が特徴の気っぷのいい女性だ。
「それと、この子が噂の彼女です」
 姉さんは真歩の背中を押した。
「桜真歩ちゃん。浩樹と同じ高校の三年生だそうですよ」
「桜真歩です。今日はよろしくお願いします」
「そんなかしこまらないでいいのよ。浩樹くんの彼女なら、家族も同然なんだから。家と同じだと思って、ゆっくりしてちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
 まあ、この家の人たちは皆おおらかな人ばかりだから心配はしてなかったけど、本当に心配することはなかった。
「それじゃあ、私はお昼の準備をしてきますね」
「ええ、お願い」
 姉さんが台所に戻ると、居間には僕と真歩、さわ子さんの三人だけとなった。
「飛行機は混んでた?」
「そうですね、そこそこ混んでました」
「そう、やっぱり夏休みだからかしらね」
 さわ子さんは僕たちの前にお茶を置いた。
「うちの人も充昭も仕事があって夕方まで帰ってこないけど、その方がゆっくりできるかしらね」
 そういうことを言われても、反応に困る。
「そうそう、浩樹くん。愛に会ってきたらどう? まだお昼はできないだろうし」
「そうですね。じゃあ、先に愛ちゃんに会ってきます」
 僕は真歩を促して居間を出た。
「愛ちゃんて?」
「ああ、うん、姉さんたちの子供。この夏に一歳になったんだ」
「そうなんだ」
 勝手知ったるなんとやら、という感じで僕は姉さんたちの部屋へ。
 部屋の中はエアコンが効いていて、とても快適だった。
 その中にベビーベッドがあり、そこで僕の姪、与那覇愛ちゃんが気持ちよさそうに眠っていた。
「うわ〜、カワイイ」
 真歩は、愛ちゃんを見るなりそんな声を上げた。
「ねえねえ、触ってもいいかな?」
「いいよ」
 サクランボみたいなほっぺたに指を伸ばし、ぷにぷにと触る。
「柔らか〜い。それに、すべすべで気持ちいい」
 キラキラと目を輝かせて言う真歩。
 愛ちゃんは、少しくらい触ったところで起きることはなかった。
「はあ、カワイイなぁ」
 小さな手、小さな指に触れ、うっとりとする。
「ねえ、ひろくん」
「うん?」
「ひろくんは、子供好き?」
「まあ、嫌いじゃないけど。なんで?」
「ううん、なんでもないよ。ただ、聞いてみただけ。ねえ、愛ちゃん?」
 真歩はそう言って、愛ちゃんのほっぺたをつついた。
 
 お昼を食べ、ゆっくりとした午後を過ごす。
「ねえ、浩樹。聞いてもいい?」
 さわ子さんが買い物に出かけ、与那覇家には僕たち四人しかいない。ちなみに、そのうちのひとりは愛ちゃんだ。
「なに?」
「どうして真歩ちゃんとつきあうことになったの? 自分の弟のことをあれこれ言いたくはないけど、取り立てて目立つわけでもないし、特別勉強ができるわけでもスポーツ万能ってわけでもないし。それが、こんなカワイイ子を彼女にしちゃうんだから、気にならない方がおかしいでしょ?」
 でしょ、と言われても僕は困る。
 ただ、姉さんの言い分はよくわかった。僕だってそう思う。
「それを話すと長くなるんだけど、それでも聞く?」
「いいわよ、時間はたくさんあるんだから」
「じゃあ、話すけど」
 隠すようなことじゃないけど、改めて話すのは大変そうだ。
 
 
第二章
 
 一年前の夏。
 僕は夏休みに入るとすぐに宿題を終え、八月に行く沖縄旅行に備えていた。
 ひとり暮らしのような生活をしているから、時間はいくらでもあった。なんで高校二年生でひとり暮らしかと言えば、父さんは結構有名な音楽家で、一年の大半を海外で過ごしているからである。母さんは、その五年前、つまり今から六年前に病気で亡くなった。
 だからこそひとり暮らしのような生活をしていた。姉さんは大学入学と同時に家を出ていた。それまでは姉さんが母さんの代わりをしてくれていた。
 ひとり暮らしと言っても、近くに親戚がいたし、なによりも生活費はちゃんと父さんが入れてくれていたから心配はいらなかった。
 とまあ、そういうことだったから、部活もしていなかった僕には、宿題をする時間はいくらでもあった。
 八月に入り、僕は沖縄へ向かった。
 沖縄旅行と言えば聞こえはいいかもしれないけど、本来の目的は姉夫婦の子供を見るためだった。これは、父さんたっての希望で、あまりにも忙しすぎる自分に代わって見てきてくれと頼まれたからだった。もっとも、僕もはじめての姪っ子に会ってみたかったけど。
 飛行機も沖縄もはじめてではなかったけど、あの高揚感は未だに続いていた。
 那覇空港に到着した僕を、姉さんの旦那さん、充昭さんが出迎えてくれた。
 充昭さんは、いつもにこにこと笑顔の絶えない人で、とても優しい人だった。もちろん優しいだけでなく、男としての強さも兼ね備えていた。
 僕がこの人とはじめて会ったのは、姉さんがまだ大学在学中だった。
 姉さんが会わせたい人がいると言って連れてきたのが、充昭さんだった。初対面の、しかも自分の彼女の弟ということで、最初こそ緊張気味だったけど、すぐにうち解けた。
 それから何度か会って話をするうちに、この人は本当に姉さんのことを大事に想ってくれてる人なんだとわかった。だからこそ、姉さんが充昭さんのことを話す時、とても幸せそうに話すんだと理解できた。
 だから、卒業後に結婚するって言われた時も、すんなりおめでとうと言えた。
 というか、充昭さんと一緒なら姉さんは幸せでいられると思ったから。
 そんな姉さんたちにできたはじめての子供、それが愛ちゃんだった。
 生まれたのは七月。さすがにその時に行くことはできなかったから、八月の夏休みに沖縄へ出向いたわけだ。
 充昭さんの車で与那覇家へとやって来た僕は、充昭さんの両親、重昭さんとさわ子さんに挨拶をして、さっそく愛ちゃんと会った。
 生まれて間もないということもあったけど、愛ちゃんはとても小さくて、すぐに壊れてしまいそうな感じだった。
 でも、泣き声を聞いた時、その考えはすぐに消えた。あんな元気よく泣く子が、すぐに壊れてしまうことなんてあり得ないと。生きるための強さを、生後一ヶ月にもならない子がちゃんと持っている。そのことを改めて思い知った。
 その日は、久々に『家族団らん』の雰囲気を味わい、沖縄一日目は終わった。
 
 次の日。僕は朝から海へと出かけた。泳ぐつもりはなかったけど、一度くらいは行っておかないといけないと思ったからだ。
 バスを乗り継いで、海水浴客で賑わう海水浴場へとやって来た。
 だけど、あまりの人の多さに、僕は別の場所へと向かった。それは、特に観光地というわけでもない、本当になんの変哲もない場所だった。
 そこは、海に突き出した小高い丘で、海を眺めるだけなら絶好の場所だった。
 潮風が心地よく吹き抜け、真夏の暑さをほんの少しだけ和らげてくれた。
 僕はなにをするでもなく、ただボーっと海を眺め続けた。
 気がつけば、何時間もそうしていた。
 太陽は西に傾き出し、そろそろ夕方という頃になっていた。
 さすがにそこまでなにもしないでいられるとは思わなかったけど、不思議とイヤではなかった。
 僕は、改めて砂浜へと足を運んだ。
 夕方になり、砂浜にいる人もかなり減っていた。もともとその砂浜は観光客は少なく、地元の人が多いというのもその理由のひとつではあった。
 僕は砂浜に足を取られながらも、水平線に傾いていく太陽を見つめた。
 そんな時だった。
 僕は、一瞬自分の目を疑った。
 そこにいたのは、女神とも呼べそうな綺麗な女性だった。
 だが、それよりもなによりも驚いたのが、僕が彼女を知っていたことだった。
 正徳学園の男子で彼女のことを知らない者はいない。それくらい有名だった。
 振り返り、顔がはっきりと見え、それが確かめられた。
 その女性こそ、桜真歩だった。
 真歩は、長い髪を潮風に揺らし、空色のワンピースに身を包んでいた。
 振り返った真歩は、じっと見ていた僕の存在に気づいた。
「あの、なにか?」
 真歩は、鈴を転がしたような声で僕に声をかけてきた。
 だけど、その時の僕には真歩と話をするだけの度胸もなにもなかった。
「い、いえ、なんでもないです」
 そう言ってそそくさと砂浜をあとにしただけだった。
 だけど、僕と真歩の『偶然』はそれだけでは終わらなかった。
 
 沖縄三日目。僕は朝から沖縄観光に出かけた。
 一度沖縄観光はしていたけど、今度はゆっくり見てまわりたかったからだ。
 最初の目的地は、首里近辺だった。首里のあたりでは首里城をはじめてとして琉球時代の歴史を目の当たりにすることができた。
 首里城だけじゃないけど、琉球建築は日本でも中国でもない、独特の造りが特徴で、とても興味深いものだった。
 僕は時間の過ぎるのも忘れて、夢中で見てまわった。
 首里城をあとにする時、僕はまた彼女に出会った。
 そこはちょうど守礼の門のあたりだった。
 真歩は、守礼の門を、あまり興味なさそうに見上げていた。
 僕は、持てる度胸と勇気を総動員して声をかけてみることにした。
「あ、あの……」
 僕の声に、真歩は振り返った。
「なんですか?」
 あからさまに不審そうな眼差しで僕を見た。
「桜真歩さん、ですよね? 東京の正徳学園の」
「……確かにそうですけど、あなたは?」
「僕も正徳学園の生徒なんです」
「そう……」
 一応それで僕が真歩のことを知っていたことについては、納得してもらえた。だけど、僕に対する警戒心が解けたわけではなかった。
「それで、私にどんな用ですか?」
 真歩は、不機嫌極まりないという声で僕に訊ねた。
 僕はひるみそうになる心を必死に支え、やっとこ次の言葉を言った。
「あ、あの、もしよかったら、一緒に見てまわりませんか?」
 僕も、ご多分に漏れず、真歩には密かに憧れを持っていた。だからこそ、一緒に見てまわりたかった。
 真歩は少しだけ考え、頷いた。
「ええ、いいですよ」
 僕は小躍りしそうなほど喜んだ。
 だけど、それはつかの間の喜びでしかなかった。
 それから僕たちは那覇市の中心部、国際通りへとやって来た。
 異国情緒あふれる通りを、本当にいろいろ見てまわった。ただ、僕もその内容までは覚えていない。
 それは、真歩がまったく楽しそうじゃなかったからだ。どこへ行ってもなにを見ても、反応はなく、つまらないのかどうかすらわからないほどだった。
 僕はそんな真歩に気を遣いすぎ、まったく楽しめなかった。
 それでもなんとか事態を打開しようと、僕は真歩にプレゼントをしようと思った。と言っても、おみやげに毛の生えた程度のものだったけど。
「真歩さん。なにかほしいものはありますか?」
 土産物屋で、僕は真歩に訊ねた。
「もしよかったらなにか買いませんか?」
 真歩は、僕と土産物を見比べ、頭を振った。
「別に、なにもいりません」
 挫けそうになる心をまたもなんとか支え、僕は続けた。
「高いものは無理ですけど、せっかくの沖縄ですから」
「……じゃあ、ここにあるおみやげを全部」
 その言葉には僕も言葉を失った。
「え、えっと、さすがにそれは……」
 しおしおとしおれてしまいそうな僕の心に、真歩はとどめの一撃を放った。
「だったら、最初から言わなければいいのに……」
 そう言って真歩は、僕を無視して店を出て行った。
 僕はあまりのことに声をかけることも、追いかけることもできなかった。
 そして、真歩とのことはそれで本当に終わりだと思っていた。
 
 
第三章
 
 そこまで一気に話して、僕はひと息入れた。
 姉さんはキラキラと目を輝かせ、まるで噂好きの近所のおばさんみたいだ。
 当事者の真歩はといえば、やはり複雑な表情だった。とはいえ、あの時のことはあのあと真歩本人からも話を聞いて、事態は把握してるからいいんだけど。
「だけど、ふたりがこの沖縄で会ってたなんて、それは予想外だったわ」
「それが普通の反応だと思うよ。僕たちは同じ学校に通ってるわけだし」
 確かに普通考えれば、学校かどこかで出会って、というのが一番予想できることだろう。僕だって、まさか沖縄に来て同じ学校の生徒に会うとは露程も思っていなかった。
「あと驚いたのが、浩樹が真歩ちゃんに声をかけたことね」
「……どういう意味?」
「だってさ、どう考えたって浩樹がそんなことするなんて思わないわよ。私が大学でまだ向こうにいた頃だって、そんな浮いた話、一度も聞かなかったし」
 それを言われるとなにも言い返せない。事実、僕が女の子に声をかけたのは、あの時がはじめてだった。
 僕だって男だから女の子に興味はあった。だけど、声をかけるだけの度胸を持ってなかった。当然、女の子の方から声をかけてもらえるほどなにかがあるわけでもなかった。
 だからこそ、ずっと彼女なしだった。
「そのあとの話がものすごく気になるんだけど、残念ながらそろそろ時間ね」
 そう言って姉さんは立ち上がった。
「愛が起きる頃だから」
 一応説明してくれた。
 姉さんが居間を出て行くと、僕と真歩だけが残された。
「話、しない方がよかったかな?」
「えっ、ううん、そんなことないけど。ただ、去年のことを思い出しちゃっただけだから。ひろくんが心配することはないよ」
 真歩は微笑んだ。
「でも、改めて言われると、私って本当にひどいことしてるよね」
「そんなことないよ。あの時は、しょうがないよ」
 そう。あの時はしょうがない。
 真歩は、僕なんかに構ってる余裕がないほど精神的に疲れていたのだから。
「ホント、ひろくんは優しいね……」
 僕たちは、軽くキスを交わした。
 
 夕食は、久々に賑やかなものとなった。
 夕方には与那覇家の主、重昭さんも姉さんの旦那さんの充昭さんも帰ってきて、六人での食事となった。愛ちゃんは、ミルクを飲んで夢の中。
 夕食での話題は、もっぱら僕と真歩のことだった。
 重昭さんもさわ子さんも、うちの家庭事情はよく知ってるから、僕のことを本当の息子のように思ってくれている。だから、そんな僕が真歩を連れてきたわけだから、本当の親のようにあれこれ聞かれた。
 ほとんどは僕が答えていたけど、たまに真歩に質問が飛び、その度に真歩は僕の顔を見た。まあ、大半は正直に答えていいものかどうか、という感じだった。
 ただ、どの質問も嫌味なものではなく、多少好奇心が先走ってはいたけど、基本的には現状確認の意味合いが強かった。
 東京では近くに親戚はいるけど、直接僕のことを見ている人が誰もいないから、ここへ来た時くらいは『親』らしいことをしようというところなのだろう。
 もっとも、僕と真歩のことは、春休みにここへ来た時にある程度は姉さんに話してあったから、必要以上に突っ込んだことは聞かれなかった。
 夕食後、片づけも済み、客間の方で寝る準備などをしていると、姉さんがやって来た。
「浩樹。ちょっといい? あ、真歩ちゃんも一緒に」
 そう言って姉さんは、僕たちを自分たちの部屋へと連れて行った。
 部屋の中では、充昭さんが愛ちゃんの寝顔をビデオカメラで撮っていた。
「連れてきたわよ」
「ん、ああ」
 充昭さんはカメラをケースにしまうと、僕たちに座るよう促した。
 言われるままに、僕たちは姉さんたちに正対するように座った。
「わざわざ来てもらったのはほかでもない。由樹が、浩樹くんから面白い話を聞いてると言うものだから、是非僕も聞かせてほしいと思ってね」
 にこやかに微笑みながら、充昭さんは説明した。
「ほら、さっきは途中で終わっちゃったでしょ? まだ夜は長いし、もう少しくらい聞いておきたいと思って」
「そこまで仲の良いふたりの『なれそめ』というものを聞いてみたくて。どうかな?」
 僕と真歩は、顔を見合わせた。
 あのあとの話は、実は結構いろいろあって、詳細なことは話しにくい。概要だけ話すというのも手だとは思うけど、姉さんがそれで納得するかどうか。
「無理にとは言わないけど、できれば教えてほしいね。なんと言っても、この沖縄でのことなんだから」
 充昭さんは、県庁の観光課に勤務している。大学こそ東京の大学を出たけど、沖縄が好きで、わざわざ沖縄で就職先を探したほどだ。
 だから、この沖縄で僕たちにいろいろなことがあったと聞いて、自分も聞きたいと思ったのだろう。
「わかりました。話します」
 真歩も頷いてくれたから、僕は話すことにした。
「途中までは、姉さんから聞いてますよね?」
「おおざっぱにはね。だから、その続きからでいいよ」
 あの続きから、か。
 
 
第四章
 
 国際通りで真歩と別れてから二日後。
 僕は、当初の予定通り、石垣島と西表島へと向かった。沖縄本島から飛行機で一時間。同じ沖縄でありながら、また違う雰囲気の漂う島だった。
 僕が石垣島を訪ねた理由は、ひとつだけ。それは、西表島へ行くためだった。
 西表島は、島のほとんどが国立公園に指定されており、豊かな自然に珍しい動物が生息していた。特に、イリオモテヤマネコは有名で、島では県や国が保護活動も行っていた。
 そういう自然に触れあいたくて、僕は西表島へ向かった。
 西表島へは、石垣島から船で向かった。波は穏やかで、絶好の航海日和だった。
 天気もよかったので、石垣島からも西表島は見えたけど、やっぱり船で近づいて見た方が感動もひとしおだった。
 西表島に着いた僕は、観光ガイド片手に、島を散策することにした。
 特に目的があったわけではない。足の向くまま気の向くままに歩き、そこにあるものを見て聞いて感じたかっただけである。
 島の周回道路を歩きながら、本当に豊かな自然が残っていることを実感した。
 さすがに夜行性のイリオモテヤマネコには会えなかったけど、それでも来たかいはあった。
 しばらく歩くと、島の東側にある、野原崎までやって来た。そこから今度は島の西側に出る予定だった。
 ちょうどそこへ着いた頃にお昼になり、僕は景色のよさそうなところで持ってきた弁当を食べようと思っていた。
 野原崎の展望台へ向かう道を歩いていると、僕は人の気配を感じた。
 普段なら間違いなく感じ取れなかったその気配に、僕は言い知れぬなにかを感じた。
 道を逸れて気配のした方へ行くと、そこに、彼女がいた。
 
 白のワンピースに小さめのバッグを持ち、どこか虚ろな表情で海を眺めていた。
 僕は、二日前のことを思い出し、声をかけた。
「真歩さん」
 だけど、すぐには返事はなかった。
 聞こえなかったのかもと思い、もう一度声をかけた。すると、ようやく真歩の意識が僕の方に向いた。
「……誰?」
 でも、その目には、僕は映っていなかった。
 どんよりと曇った目には、光がなかった。
 よく見ると、女生徒の憧れだったあの綺麗な髪もどこかくすんでいたし、なによりもワンピースがずいぶんと汚れていた。
 慌てて真歩に駆け寄り、なにがあったのか問いただした。
「真歩さん。いったいなにがあったんですか? どうしてこんなことに?」
「……ったの」
「えっ……?」
「……思ったの……でも、できなかったの……」
 真歩の目から、涙がこぼれた。
 僕は、突然のことになにも言えず、なにもできなかった。
 それから真歩は、とんでもないことを口走った。
「ねえ、あなた。私のこと、好き?」
 さらに思いも寄らないことを言われ、僕は混乱した。
「好きなら、いえ、嫌いでもいい。私を……抱いて……」
 そう言って真歩は、僕の肩をつかんだ。
「お願いっ! 私を抱いてっ! 壊してっ! めちゃくちゃにしてっ!」
 泣きながら、声の限りに僕に訴えた。
 それでも僕は、なにも言えなかったし、なにもできなかった。
 すると、途端に真歩から力が抜けた。
 それはまるで操り人形の糸が切れたみたいな感じだった。
「ま、真歩さんっ」
 僕は、倒れ込む真歩を、なんとか支えた。
 それから僕は、真歩を陽の当たらない場所に寝かせ、様子を見た。
 熱などがあるわけでもなかったけど、原因はわからなかった。
 目を覚ますまでに、服の汚れやなんかをできるだけ落とした。さすがにそのままというわけにもいかないと思ったからだ。
 はじめて触れた真歩の肌は、白く透き通っていて、本当に綺麗だった。
 感触も男の僕とは全然違い、すべすべだった。
 だけど、どうして真歩がそんな姿になっていたのか、それだけはわからなかった。
 しばらくすると、真歩が目を覚ました。
「大丈夫ですか?」
 僕が声をかけると、一瞬ここがどこで、僕が誰なのかわからない、というような顔を見せた。だけど、それも一瞬で、すぐに返事があった。
「私……倒れたの……?」
「はい」
「そっか……」
 力なく微笑み、手で顔を覆った。
「……一条くん、だっけ?」
「はい」
「ごめんね、迷惑かけて」
「それは別に気にしてませんよ」
 本当に迷惑だとは思っていなかった。ただ、どうして真歩がそんな状態だったのか、それの方が知りたかった。
「どうしてこんなことに?」
「私も、よく覚えてないの。石垣島まで飛行機で来て、そこから西表島まで船で渡ったところまでは覚えているんだけど」
「ひょっとして、昨日からずっとここにいたんですか?」
「そうかも……」
 真歩が倒れた原因は、疲労と空腹だった。
「あの、おにぎりでよかったら、食べますか?」
 そう言って僕は、鞄の中からおにぎりを取り出した。ちゃんと暑さのことを考えて、ダメになりにくいタネが入っている。
「……ありがとう」
 真歩は、沖縄で会って以来、はじめて穏やかな笑みを見せてくれた。
 
 それから僕は、野原崎の近くで電話を借り、タクシーを呼んだ。さすがに体力の落ちている真歩を歩いて連れて行くわけにはいかなかったからだ。
 タクシーで港まで行き、そこから石垣島へと戻った。
 僕の予定では、元々石垣島で一泊する予定だった。だから、民宿に予約を入れていた。
 石垣島に着いた僕たちは、港からまたタクシーで民宿を目指した。
 距離的にそれほどあったわけじゃないけど、念には念を入れ、という感じだった。
 民宿は、本当にこぢんまりとしたもので、そういう風情があった。
「すみません」
 中に入り、僕は声をかけた。
 すぐに、若い女性が出てきた。
「はい、いらっしゃいませ」
「あの、一泊で予約していた一条ですけど」
「一条様ですね。少々お待ちください」
 その女性は、玄関脇のおそらく事務所かなんかに入り、予約表を確認した。
「はい、確かに承っております。本日は、遠いところ、ようこそお越しくださいました」
 女性は、恭しく頭を下げた。
「あのですね、大変急な申し出で恐縮なんですけど、もうひとり、追加をお願いできませんでしょうか?」
「追加、ですか?」
 女性の視線が、後ろの真歩に向いた。
 と、事情を察したように、快くその申し出を受けてくれた。
 部屋に通されると、僕はすぐに布団を敷いた。
「さ、真歩さん」
 真歩は、少しだけ躊躇いながらも、素直に寝てくれた。
「ちょっと詳しい事情とかを説明してきますから、ゆっくり寝ていてください」
 真歩が頷いたのを確認し、僕は部屋を出た。
 それから事務所の方でさっきの女性、その民宿の女将さん、稲嶺純子さんに事情を説明した。
 あまりにも不明瞭なことが多い説明にも、稲嶺さんは素直に頷いてくれた。
 それだけでなく、困ったことがあればなんでも言ってほしいとまで言われた。
 稲嶺さんに感謝しつつ部屋に戻ると、真歩は静かに寝息を立てていた。
 ホッとして、緊張の糸が切れたようだった。
 僕としても体力を早く回復してほしかったから、あえて声もかけなかった。
 ただ、その寝顔に少しだけ見とれていたけど。
 
 夕食の時間になっても真歩は目覚めなかった。僕は、とりあえずひとりで食事をし、真歩の分は残しておいてもらった。
 夕食後もなにをするでもなく、真歩の様子を見ていた。
 だけど、それも長くは続かなかった。
 気がつくと、僕は眠っていた。時間にしてどれくらい眠っていたのかはわからない。ただ、時計の針は午前零時を示していた。
 僕は、布団がかけられたいたことに気づいた。
 そして、寝ていたはずの真歩がいないことに気づいた。
 最初はトイレかなにかだと思ったけど、いくら待っても真歩は戻ってこなかった。
 そこでようやく、真歩が部屋を抜け出したのだと気づいた。
 僕は、部屋に備え付けてあった懐中電灯を持ち、外へ探しに出た。
 昼間とは違い、真っ暗な闇の空間がそこにはあった。
 東京のようにネオンがきらめいているわけでもなく、本当に暗かった。
 そんな中、僕は懐中電灯の明かりと、ところどころに申し訳程度に立っている街灯を頼りに、真歩を探した。
 民宿のまわり、裏の林、通り道。
 体力の限りに走って探した。
 昼間の真歩の様子からすると、最悪の事態も考えられたから、僕は焦っていた。
 それでも諦めずに探し、ようやく見つけた。
 
 
第五章
 
「きっと、来てくれると思っていました……」
 そう言って真歩は微笑んだ。
 そこは、港の一番隅で、昼間でもあまり人気のない場所だった。
 僕が懐中電灯を当てると、真歩はゆっくりと振り返った。
「真歩さん……」
 一瞬、強い風が僕たちの間を吹き抜けていった。
「眠れなかったのですか?」
 間抜けな問いかけだとは思ったけど、それでも聞いてみた。
 真歩は、小さく頭を振った。
「それじゃあ──」
「あなたは、どうしてそんなに優しくしてくれるのですか?」
「えっ……?」
 僕の言葉を遮り、真歩はそんなことを言ってきた。
「……どうして、どうしてそんなに優しいのですか?」
「別に僕は……」
「どうしてたいして知りもしない私に、そんなに優しいのですか?」
「それは……」
 それにはすぐには答えられなかった。
「あなたの優しさは、私の決意を鈍らせました」
「決意?」
「……あなたも知っての通り、私は桜家のひとり娘です。桜家は代々続く名門家系。当然今までもなに不自由なく過ごしてきました。家では、お嬢様と敬われ、かしずかれ。学校では、桜家の娘という色眼鏡をしたままでしか私を見てくれず、いつもちやほやされてきました」
 それは、真歩の独白だった。
 どうしてそれを僕に話してくれたのか、その時はわからなかった。
「最初はそれでもよかったんです。私もどこかそういうのを当然と受け止めていましたから。でも、わかってしまったんです。みんな、本当のみんなの姿で私に接していないと……」
 僕は、なにも言えなかった。
 それは、僕自身にも当てはまることだったからだ。確かに僕は、真歩を桜家のお嬢様というだけで、遠い存在、次元の違う存在だと思っていた。だから、学校では一度も声をかけたことはなかった。
「ある意味、打算的な人はまだわかりやすくてよかったです。桜家の娘である私と知り合いになれば、お父様やお母様とも知り合いになれる可能性がありますから。でも、それすらもわからない、でも、心から本当の私とつきあってくれる人は、いませんでした」
 風が、真歩の髪を少しだけ乱暴に揺らした。
「私は、ただ普通にみんなと話がしたかっただけなんです。普通の女の子としてみんなと話し、遊び、そして……恋をしたかっただけなんです。でも……」
 そこで言葉が途切れた。
 わずかな沈黙が、長い沈黙のようにも思えた。
「でも、誰も私のことをわかってくれませんでした。そう、本当に誰も……だから、決めたんです」
「な、なにを?」
「それならば、徹底的にみんなが思っているような、欲しているような女になろうって」
 一瞬、悲しみに瞳が揺れた。
「それでも、私はどうしてもできませんでした。なりきれませんでした」
「…………」
「私の中のなにがそれを拒んでいたのかは、わかりません……」
 真歩は、目を伏せた。
「誰もわかってくれない。でも、私は望むような女にはなれない。だから、私はなにもかもがイヤになりました。そして……死のうと思いました」
 その言葉に、僕は息を呑んだ。
「でも、私はそれすらもできませんでした。いざという時になると、怖くて……手も足も体も動かなくなって……」
 そこで、真歩の瞳が、僕を捉えた。
「その時です、あなたに出会ったのは」
「…………」
「はじめのうちは気晴らし程度にしか思っていませんでした。あのままでは死ねませんでしたから、少しだけ気分を切り替えようと思って……でも、あなたを選んだのは間違いでした」
「どうして……?」
「あなたは、優しかったです。どんな時でも。本当に短い時間でしたけど、私はそれがわかりました。でも、あなたが優しければ優しいほど、私にこれ以上優しくしないでって、そう思っていました。だけど、日頃の行いのせいでしょうか。そんな願いは届きませんでした」
 薄く微笑む。
「あなたは優しく私に接してくれて……今までに出会ったどんな人よりも、心から優しく接してくれました。本当に嬉しかったです。あなたに出会えて」
「真歩さん……」
「もし、できるなら、最後のワガママを聞いてください」
 真歩は、真っ直ぐな瞳で、僕を見つめた。だけど、そこにあるべき意志の光は、とても弱かった。
「……私を、抱いてください……」
「えっ……?」
「あなたは優しい人でした……もっと早くに知り合っていれば……でも、もういいんです。だから、せめて最後くらいは、そんな優しいあなたに抱いてほしいんです……」
 僕は、拳を握り締め、絞り出すように言った。
「……それは、できません」
「……どうしてですか?」
 最後に僕にまで拒絶され、真歩の瞳は、色を失った。
「どうしてできないんですか? 私には魅力がないからですか? こんな、惨めで醜い女では抱くことすらできないですか?」
「いや、そんなことは──」
「じゃあ、どうしてっ!」
 真歩は、声を上げた。
「……それでも、できないです」
 僕は、そう言うしかなかった。
「……意気地なし……やっぱりあなたも最後はほかの人と同じ……やっぱり、誰も私のことをわかってくれない……わかってはくれないっ!」
 そう言って真歩は駆け出した。
 僕は一瞬なにが起きたのかわからなかった。
 だけど、それを理解すると、すぐに追いかけた。
 
 暗闇の中、足音と荒い呼吸音だけが響いていた。
 どれくらい走ったのか。
 そこは、崖だった。
 下の方から、波の音が不気味に聞こえてきていた。
「来ないでっ! もう、来ないでっ!」
 真歩は、声の限りに叫んだ。
 だけど僕は真歩に近づき、その腕をつかもうとした。
「いやっ! 来ないでっ! 私は死ぬんだからっ!」
 
 乾いた音が、あたりにこだました。
 
 それは、僕が真歩の頬を思い切り叩いた音だった。
 叩かれた真歩は、なにが起きたかわからないという表情で、呆然と僕を見つめていた。
 同時に、全身の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
「どうしてそんなに簡単に死ぬだなんて言えるんだ? 死んでもなんにもならない。死んだって、なんにもならない。どうして、死ぬだなんて言うんだ?」
 気がつくと、僕は真歩に語りかけていた。
「人はひとりでは生きていけない。だけど、その誰もが自分のためにいるわけでもない。中には、理解してくれない人もいる。それでも、悩んだ時、困った時には助けてくれる人がいる。嬉しい時、楽しい時にそれを共有してくれる人がいる。必ず、いる」
「…………」
「だけど、君はどうだ? そういう人をろくに探そうともせず、自分を悲劇のヒロインだと決めつけて。どうしてわからないことがあったら訊ねないんだ? 悩んだ時に訊かないんだ? 困った時に助けを求めないんだ? 怖がっていたら、なにもできない。一歩も前には進めない。たった一言言えればいいんだ。私に教えて。私を助けて」
 今度は、真歩が息を呑んだ。
「……もし、そういう人がいなくて、今から新しいそういう人を探すのが怖いなら、僕がそうなってやる。僕が、一緒に考え、一緒に悩み、そして助けてやる。だから、死ぬだなんて悲しいこと、言うな。死んだってなんにもならないんだから。生きていれば、絶対になんとかなるんだから」
 気がつけば、僕は泣きながら叫ぶ寸前だった。
 だけど、そのおかげか、真歩の瞳に色が戻ってきた。
「……ほ、本当に私を助けてくれるの?」
「もちろん」
 真歩は、顔をくしゃっとさせ、僕の胸に飛び込んできた。
「お願い、私を、私を助けてっ!」
 そして、泣いた。
 肩をふるわせ、声の限りに、涙の限りに泣いた。
 そんな真歩を、僕はしっかりと、そして優しく抱きしめた。
 
 しばらくして、落ち着いた頃を見計らい、僕たちは民宿へと戻った。
 その途中、僕は真歩を支えるように、一緒にゆっくりと歩いた。
「自分をわかってもらうのは大変なことだけど、それをやろうとしなければ、誰にも伝わらないよ。最初は怖いかもしれないけど、勇気を出して。些細なことからはじめて、そして、最後には自分をわかってもらえばいいんだ」
 僕は、真歩にそう言い聞かせた。
 真歩は、ただ黙ってそれを訊いていた。
 部屋に戻ると、真歩はすぐに眠りに落ちた。
 いろいろなことがありすぎたのだから、無理もなかったけど。
 僕もかなり精神的にも体力的にも疲れていた。
 それでも、寝る間際に真歩に呟いた。
「今まではひとりぼっちだったかもしれない。でも、これからは大丈夫。今は僕がいるし、これから先、みんな真歩さんのことをわかってくれるから……」
 
 
第六章
 
「いや、まあ、なんていうのか……」
「ずいぶんと、いろいろあったんだね」
 僕の話を聞き、姉夫婦は複雑な表情を浮かべた。
 僕も、あそこであったことをすべて話したわけじゃない。それでも、節目節目のことは一応話した。
「でも、だからこそ、ふたりはこれだけ仲が良いのかもしれないわね」
 その意見には、僕も異論はなかった。
 事実、お互いの胸の内をすべてさらしたからこそ、お互いをよく理解できたと思っている。
「それにしても、浩樹くんは不思議な子だね」
「そうですか?」
「いや、正確には、不思議というよりは、今時珍しい子、と言うべきかな」
 充昭さんは、にこやかにそう言った。
「頭ではわかっていても、相手にそれを言えるかどうかは、別問題だからね。それができた浩樹くんは、素晴らしいと思うよ」
「これでも私の弟だからね。それくらいできて当然よ」
 姉さんは嬉しそうに言う。
「それで、話はそこまでなの?」
「だいたいはね」
「だいたいってことは、まだ続きがあるってことね。それは楽しみだわ」
「だけど、由樹。そろそろいい時間じゃないか?」
 時計を見る。確かに、夜もいい時間になっていた。
 僕も、結構話していたみたいだ。
「そうね。じゃあ、その続きは、また今度」
 姉夫婦に解放された僕たちは、客間に戻った。
「ひろくん」
 部屋に入るなり、真歩が抱きついてきた。
 僕としても、どうして真歩がそうしてきたか痛いほどわかった。
 僕も真歩を抱きしめる。
 見た目以上に華奢な体を抱きしめ、その髪を撫でる。
「やっぱり、あの話はしない方がよかったかな?」
「ううん、それは別にいいの。ただ、改めて言われると、あの時のことを思い出しちゃって」
「真歩……」
「本当に、ひろくんがいてくれてよかった……」
 そう言って真歩は、穏やかに微笑んだ。
 
 次の日。僕たちは朝から出かけていた。
 向かった先は、想い出の場所。
 まずは、あの海水浴場へ。
 バスを乗り継ぎやって来た海水浴場は、去年と変わらぬ姿で僕たちを迎えてくれた。
 午前中から海水浴客で賑わい、夏ならではの光景がそこにはあった。
「水着、持ってくればよかったかな?」
 真歩は、楽しそうに泳いでいる人たちを見て、そんなことを言った。
「まだここにいるんだから、泳ぐ機会はあるよ」
「うん、そうだね」
 僕たちは、海水浴客を横目に、砂浜を歩いた。
「あの時の真歩は、本当に綺麗だったなぁ」
「あの時って、ここで会った時?」
「うん。夕陽に照らされ、キラキラと輝く水面をバックに、女神が舞い降りたのかと思ったくらいだから」
「それは大げさだよ」
「それだけでも驚いたけど、それが真歩だったことに二重の驚きを覚えたよ。まさかこんなところで会うとは思わなかったからね」
 学校でも話したことのない相手に、沖縄で会ったんだ。本当に驚いた。
「正直言うとね、あの時のことはあまりよく覚えていないの。誰かに声をかけられた程度しか思ってなかったから」
「そうだろうね。僕は人に覚えてもらえるほど特徴はないし」
「そういう意味じゃなくて、私は全然別のことばかり考えてたから。ほら、沖縄には死ぬために来てたから」
 そう言って真歩は苦笑した。
「今思えば、あの時、ここでひろくんと出会っていなければ、あのあとのこともなかったのかもしれないね」
「そうかもしれないね」
「偶然、という言葉だけで片づかないことが次から次へと起きたからね」
 僕たちは、砂浜から少し離れた小高い丘にやって来た。
 潮風が少しだけ強く吹き抜ける。
 真歩は、かぶっている帽子を押さえながら目を細めた。
「ねえ、ひろくん」
「うん?」
「私ね、今回こうやって沖縄へやって来て、改めていろいろ考えてるの」
「いろいろって?」
 僕は首を傾げた。
「私自身のこと。ひろくんとのこと。家のこと。今のこと。ホントにいろいろ」
「そっか……」
 僕はそれにはあえて意見を挟まなかった。
 しばしの間、僕たちは風になぶられながら、海を眺めていた。
 なにも言わなくても、そこに真歩がいてくれれば、僕はそれだけよかった。
 今は、手を伸ばせば触れられる場所にいるのだから。
 
 海水浴場をあとにした僕たちは、その足で首里城へと向かった。
 そこは、真歩と再会した場所だ。
 首里城は、相変わらずの壮麗さで僕たちを迎えてくれた。
 観光シーズンではあるが、真夏のこの時期は、春秋に比べれば人は少ない。たいていの人は、海水浴に行ってしまうからだ。
 僕たちは、少しだけ早足で中を見て回った。
 それから守礼の門を見上げた。
「最初はね、新手のナンパかと思ったの」
 あのあと、真歩はそんなことを言っていた。
 確かに、いきなり声をかけて、しかも名前まで知っていて。普通はナンパだと思う。
 でも、僕にはそんな気はさらさらなかった。強いて言えば、放っておけない感じがしたから声をかけた、というところ。
「改めて見ると、すごい建物なんだね」
 真歩は、さっきからずっと感心しきりである。
「去年はほとんど上の空だったから、全然覚えてなくて」
「でも、こうやって見られたんだから、いいんじゃないかな」
「うん、そうだね」
 それから、少し遅めの昼食をとり、今度は国際通りへ。
 去年は、僕もちゃんと見るどころじゃなかったから、今年はちゃんと見たかった。
 日本とアメリカ、それに琉球の文化が融合した場所。それが国際通りの印象だった。
 もちろん、見た目的には日本の街と大差はないし、アメリカが入りこんでいると言っても、看板やなんかにそれを見る程度。
 でも、その場に立つことによって感じられる、独特の雰囲気があった。
「うわ〜、綺麗だね」
 真歩は、琉球絣を見て感嘆の声を上げた。
 琉球絣は、沖縄の伝統的な織物で、結構有名である。ただ、絹織物なので、そう簡単に手が出ないということもある。
「琉球絣なら、確か姉さんが持ってるよ」
「ホント?」
「うん。結婚する時に、結納品としてもらったんだ。だから、言えば見せてくれると思うけど」
「そっか」
 いくつかの土産物屋を見てまわり、いろんな品を見た。
 真歩は、去年のこともあってどれも見るだけで終わらせていたけど。
「真歩。よかったら、なにか買ってあげようか?」
「えっ……?」
「せっかくだしね」
 そう言って僕は笑った。
 できれば、真歩には去年のイヤな想い出をすべて払拭してほしかったから。僕にできることなら、なんでもしてあげたかった。
「もちろん、今すぐじゃなくてもいいよ。帰るまでに決めればいいから」
「うん、そうだね。そうするよ」
 真歩は、小さく、だけどしっかりと頷いた。
 
 与那覇家に戻った僕たちを待っていたのは、愛ちゃんだった。
 珍しく起きていた愛ちゃんは、すこぶるご機嫌で、そのやんちゃぶりを遺憾なく発揮していた。
 一歳ではまだ言葉は話せないけど、それでも行動や表情でなんとなくなにが言いたいかはわかった。
「ホントに愛も浩樹にはずいぶんとなついてるわ」
 姉さんは、そう言って笑った。
 どうやら、僕は愛ちゃんに認められたらしい。
 愛ちゃんは、僕が抱いてもぐずりもしない。むしろ、きゃっきゃと喜んでいる。
「でも、それにもましてなつかれてる真歩ちゃんは、すごいわね」
 そう。この姪っ子は叔父の僕よりも真歩の方がお気に召したようだった。
「愛、結構人見知りするんだけどね」
 一歳で人見知りはないだろうとは思ったけど、それは言わないでおいた。
 今愛ちゃんは、真歩の腕の中ですやすやと寝息を立てていた。
 愛ちゃんを見つめる真歩の顔は、とても穏やかで、慈愛に満ちていた。こういう姿を見ると、女の子は誰でも『母親』なんだと思う。
「真歩ちゃんは、子供、好き?」
「はい、好きです」
「そっか」
 姉さんは頷きながら僕に意味深な笑みを見せた。
 なんとなく予想はできたけど、それを追求すると墓穴を掘りそうだからやめた。
「明日は石垣へ行くのよね?」
「うん。あさってには戻ってくるけど」
「じゃあ、今日は目一杯愛の相手をしてもらおうかしらね。その方が私もなにかと楽だしね」
 結局、その日は愛ちゃんが寝るまで相手をさせられた。
 まあ、カワイイ姪っ子の相手だからよかったけど。
 
 
第七章
 
 沖縄三日目。
 僕たちは朝から那覇空港へとやって来た。理由は、石垣島へ渡るためである。
 石垣島までは当然船でも行けるのだが、いかんせん時間がかかった。もちろん、時間がないわけではなかったけど、できるだけ有意義に使いたかった。だから、少々元手はかかっても飛行機で行くことにした。
 僕は前日に愛ちゃんの相手をしていたせいで、少々疲れ気味だった。やっぱり、底なしのやんちゃパワーには勝てなかった。
 だけど、真歩はまったくそんな様子もなく、今日も朝から元気だった。
 石垣島までは飛行機で約一時間。
 景色を眺めていたら、本当にあっという間に着いてしまった。
 飛行機を降りると、どこか沖縄本島よりも陽差しが強く感じた。それは錯覚だと思うけど、そう感じさせるくらい天気がよかった。
 この時期は台風なんかも多いから、ずっと晴れというのは珍しい。だけど、こっちに来てからはずっと晴れてるし、向こう二、三日は雨も降らないと言っていた。
 いろいろ見て回るにはちょうどいいけど、あまり順調だとついつい勘繰ってしまう。
 空港から今度は港へ向かった。そこから目的地である西表島を目指す。
 この旅程も去年とまったく同じだった。
 船の上で、真歩は波頭を眺めていた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと感慨に浸ってただけだから」
 そう言って真歩は微笑んだ。
「それに、ひろくんが一緒にいてくれるんだもん。大丈夫に決まってるよ」
 真歩は、僕の腕をキュッとつかんだ。
 僕は、そんな真歩の手に自分の手を重ねた。
 
 港に着くと、僕たちはさっそく周回道路を歩き出した。
 去年、僕は野原崎まではちゃんと見てまわったけど、真歩はそうじゃなかった。だから、僕としてもこの豊かな自然をちゃんと見てほしかった。
 海に近い場所にはマングローブの森が広がり、奥の方へ行くとまた違う樹が自生している。
 あまり人の手が入っていないから、古代から連綿と続く生き物の流れがそこには残っていた。
 僕は、それに触れる度に鳥肌の立つ思いだった。
 人間は長く生きても百二十年くらい。だけど、島に生きている樹は、古代から生き続けているのかもしれない。
 それを思うと、ますます僕は自然に興味を抱き、知りたいと思ってしまう。
 真歩には僕の夢は話してあるから、僕が突然陶酔しても特に変に思うことはなかった。
 ただ、真歩と一緒の時はできるだけそうならないようにしたかった。
 しばらく歩くと、あの野原崎までやってきた。確か、この先には温泉もあると聞いていたけど、それはまたの機会。
 展望台にやって来た僕たちは、なにも言わず、海を眺めた。
 そこにある海は、去年となんら変わらないように見えた。だけど、永遠不変のものなど存在しないように、その海も去年と同じではない。
 去年、ここで僕は真歩と三度出会った。結果的にそれが今に繋がっている。
 僕が石垣島、西表島に来なければ、真歩と再会することもなかっただろうし、再びここへ来たかどうかもわからない。
 もちろん、そんなわかりもしないことをあれこれ考えても仕方がない。大切なのは、今なのだから。
「あの時、どうしてひろくんは私のところに来たんだろうね。私、今でもわからないの。それが運命だって納得しちゃうのは簡単だけど、それだけじゃないような気がして」
 真歩は、静かにそう呟いた。
「私ね、心のどこかで誰かが私を止めてくれないかなって、そう思ってたんだ。そしたら、そこにひろくんが来てくれた。漠然とだけど、これで私は助かるのかもしれない、そう思った」
 その独白に、僕は言葉を挟まなかった。
「ああ、でも、そうするとやっぱり私たちは運命に従って出会ったのかもね」
「そうかもしれないけど、でも、運命って言葉だけに身を委ねてしまうのって、なんだか癪じゃない? 僕は、できればそう思いたくない。僕たちが会うべくして会ったんだとしてもね」
「……うん、私もそう思う」
 僕は、真歩の肩に腕を回した。
「どんな理由があったとしても、それがたとえ運命だったとしても、今、こうして真歩といられる。それがすべて。それだけで僕はいいと思う」
「うん……」
 真歩は、そっと僕に体を預けてきた。
 もうしばらく、ふたりで海を見ていたかった。
 
 駆け足で西表島を見て、僕たちは石垣島へと戻ってきた。
 ちょっと強行軍だったけど、それもしょうがない。
 僕たちが泊まるのは、去年と同じ民宿。
「こんにちは」
 声をかけると、すぐにぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
 出てきたのは、女将さんの稲嶺純子さん。去年と変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
「一泊で予約していた一条ですけど」
「はい、承っております」
 稲嶺さんは、どうやら僕たちのことを覚えていたようだ。
 こういう仕事をしていれば、いろんな人と出会うだろうに、僕たちのことを覚えていたとは。なんとも頭の下がる想いだ。
 通された部屋も、去年と同じ部屋だった。
「また、ここに戻ってきたね」
「うん、そうだね」
 荷物を置くと、さっそく窓を開け放った。
 海が近いから、潮風が入ってくる。
「ねえ、ひろくん。ここに着いたばかりで言うのもなんだけど、たまにでもまたここに来ない? やっぱり、はじまりの場所だから」
「そうだね。なにかあったら、その都度ここへ来るのもいいかもしれないね。そのうち、去年のことはいい思い出話にもなると思うし」
 真歩が物事を前向きに考えているのは、とてもいいことだと思った。
 去年までは常に後ろ向きだったことを考えれば、格段の差だ。
「そういえば、ひろくん」
「ん?」
「由樹さんたちには、去年のこと、まだ全部話してなかったよね」
「うん。ここに戻ってきたところまでかな。沖縄で別れて、東京で再会したことは話してない」
「そのことって、話すとちょっと恥ずかしいね」
「ん、まあ、そうかもしれないね」
 確かに、あのあとのことはかなり恥ずかしいかも。
「まあ、全部をありのままに話しはしないよ。ただ、姉さんたちには知っておいてほしいから。特に、姉さんにはね」
「そうだね。ひろくんにとって由樹さんは、お母さんみたいなものだからね」
「まあね。父さんがほとんどいないから、なおさらだよ」
 そういえば、父さん、夏の終わりに帰ってくるって言ってたっけ。去年の冬に会って以来だから、ずいぶんと久しぶりだ。
 というか、真歩を紹介しなくちゃいけないわけか。う〜ん、どうやって紹介しよう。
「いずれにしても、姉さんから続きを聞きたいって言われなければ、こっちから話すつもりはないよ。進んで話さなくてもいいことだから」
「ふふっ、ひろくんらしいね」
 言って、真歩は僕に寄りかかってきた。
「それって、褒めてる?」
「さあ、どうかな?」
 笑う真歩。
 僕もつられて笑った。
 
 石垣島の夜は、実に楽しく過ぎた。
 美味しい食事を満喫し、満点の星空を眺め、本当にゆったりとした時間を過ごした。
 なにもせず、空を見上げる。
 本当に至福のひと時だった。
 次の日には本島に戻らなくてはならないのが、実に惜しかった。
 飛行機で沖縄本島に戻ると、真っ直ぐ与那覇家へと戻った。
「おかえりなさい。向こうはどうだった?」
「とってもよかったよ。天気もよかったから、ゆっくりまわれたし」
「そう、それはよかったわ。真歩ちゃんは?」
「はい、とてもよかったです」
「浩樹の趣味につきあわされて、退屈じゃなかった?」
「そんなことなかったです。それに、ひろくんのそういうところは、よく知ってますから」
「あら、そうなんだ。それは初耳」
 姉さんは、意味深な笑みを浮かべた。
「そうそう、浩樹」
「なに?」
「夕飯が終わってからでいいから、また話の続き、聞かせてね」
「……了解」
 姉さんは、しっかり覚えていた。
 僕の隣では、真歩がくすくすと笑っていた。
 
 その夜も、僕たちは楽しいひと時を過ごせた。
 与那覇家の人たちは、皆いい人ばかりだから、本当の家族のような暖かさを感じることもできた。いや、僕がこんなことを考えること自体おかしいのかもしれない。
 少なくとも姉さんをはじめ与那覇家の人たちは、僕だけでなく、真歩のことも『家族』だと思っているのだから。
「さて、浩樹。話の続きを聞かせてくれる?」
 今日は、目の前に飲み物も並んでいた。ま、仕切ってたのは姉さんだから。
「ちゃんと話が完結しないと、どうも気になっちゃってね」
「昨日も由樹は、浩樹くんたちが帰ってきたらそれを聞くんだって息巻いてたんだよ」
「ちょっと、それは言わない約束でしょ?」
「そうだっけ?」
「まったく……」
 僕は、そんな姉夫婦を見ながら、続きを話した。
 
 
第八章
 
 真歩を助けた次の朝。
 真歩は、僕が起きるよりも早くに起きていた。
「お、おはようございます……」
 真歩は、消え入りそうな声で挨拶してきた。
「お、おはよう」
 僕も、どこか気恥ずかしくて、まともに言えなかった。
 だけど、その表情を見て、すべての憂いが消えたことはわかった。まるで別人のような表情で、それだけで僕は安心できた。
「体は大丈夫?」
「はい、もう大丈夫です」
「そっか。よかった」
「あの」
 と、真歩が真剣な表情で僕を見つめた。
「本当にありがとうございました」
 そう言って、満面の笑みを浮かべた。
 その笑顔を見て、僕は本当に大丈夫なんだと、心から安心した。
 
 朝食を済ませてから、いろいろ融通してくれた稲嶺さんによくお礼を言って、僕たちは石垣島をあとにした。
 那覇空港に着くまで、真歩はずっと僕の手を握っていた。少しだけ恥ずかしかったけど、それで真歩が安心できるのなら安いものだと思った。
 那覇空港に着くと、僕はすぐに東京までのチケットを取った。そのまま真歩を東京に帰そうと思ったからだ。
 たぶん、なにも言わずに家を出てきたはずだから、なるべく早めにそうしたかった。
 搭乗時間が近づき、僕たちはいったん別れなくてはならなかった。
「あ、あの」
「うん?」
「あの、その……ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
「お願い?」
「はい。あの……き、キス、してください……」
「えっ……?」
 思いも寄らない言葉に、僕は耳を疑った。
 だけど、真歩の真剣な表情、目を見たら、それが本心からの言葉だとわかった。
 真っ赤になりながら、バッグの持ち手をギュッと握り締めて。
 だから僕は、そんな真歩の一途で真摯な想いに応えなくてはならなかった。
 僕は、真歩の肩に手を乗せ──キスをした。
 はじめてのキス。
 真歩の唇は柔らかく、とても暖かだった。
 
 真歩を見送ったあとも僕は沖縄に残っていた。さすがになにも言わずに東京に戻ることはできなかった。
 その後、三日ほど与那覇家で過ごし、ほぼ予定通りに東京へ戻ってきた。
 東京に戻ってきても、考えることは真歩のことばかりだった。
 那覇空港での出来事は、僕の中でとてつもなく大きくなっていた。
 そんな僕のところへ、一本の電話がかかってきた。
「もしもし、一条です」
『あっ、よかった……帰っていたんですね』
 相手は、名乗りもしないでいきなりそう言った。
「あの、どちら様ですか?」
『あっ、す、すみません。私です、真歩です。桜真歩です』
「ま、真歩さん?」
『はい』
 それは、思いも寄らない、だけど、とても嬉しい相手からの電話だった。
『いろいろお話したいことはあるんですけど、とりあえず用件だけを言いますね。あの、今、お時間はありますか?』
「えっと、まあ、あるけど」
『よかったぁ……あの、もしよかったらなんですけど、その、一条くんの家に行ってもいいですか?』
「僕の家に?」
『はい。直接会って、伝えたいことがあるんです。お願いします』
 受話器越しでも、その真剣な想いは十分伝わってきた。
「僕に断る理由はないよ」
『本当ですか? よかった……』
「あっ、でも、真歩さん、僕の家を知らないんじゃ」
『そういえば、そうですね』
「じゃあ、学校で待っててくれるかな? 僕が迎えに行くから」
『わかりました。学校で待ってます』
「それじゃあ、またあとで」
 僕は、受話器を置くや否や、財布と家の鍵、自転車の鍵をつかんで部屋を飛び出した。
 とにかく一分一秒でも早く真歩に会いたかった。
 僕は大急ぎで自転車にまたがり、学校を目指した。
 最初からギアを最速に入れ、全速力で向かった。それでも真歩の方が学校には早く着く。それは、真歩の家が学校から近いところにあったからだ。
 アパートから学校までは歩いて三十分くらい。自転車だと十分から十五分くらいで着く。
 だけど、その日は十分を切る速さで街を駆け抜けた。
 正徳学園の壁が見え、正門も見えてきた。
 そして、遠目からでも真歩がいるのがわかった。
 桜色のワンピースに、白い大きな帽子をかぶっていた。
 少し俯き加減に、僕の到着を待っていた。
 と、僕がやって来たのを確認すると、パッと顔を輝かせた。
 僕は、ちょうど真歩の前に自転車を止めた。
「こ、こんにちは」
 真歩は、少しだけ恥ずかしそうにそう言った。
 僕も同じ気持ちだったけど、できるだけそれを悟られないようにしていた。
「お待たせ。やっぱり真歩さんの方が早かったね」
「そうですね。うちは、すぐそこですから」
 そう言って少し先にある豪邸を指さした。そこが、桜家である。
「それじゃあ、行こうか。自転車、乗れる?」
 僕は、後ろを指さしてそう言った。
「乗れるとは思いますけど、いいんですか?」
「うん」
「それじゃあ……」
 真歩は、遠慮がちに自転車の後ろに座った。スカートなので、横座りである。
「ちょっと座り心地が悪いかもしれないけど、少しだけ我慢してて」
「大丈夫です」
「じゃあ、行くよ。しっかりつかまって」
「はい」
 真歩は、僕の腰に腕をまわした。
 僕たちは、真夏の太陽の下を、自転車で走り出した。
 さすがにふたり乗りではスピードは出せなかった。相手が相手なだけに、僕はバランスを崩さないよう、慎重にペダルをこいだ。
「でも、よかった。すっかり元気になって」
「はい、一条くんのおかげです」
「ん〜、あのさ、できれば『一条くん』ていうの、やめてほしいな」
「あ、ごめんなさい」
「別に謝ることはないけど、名字で呼ばれるのはあまり好きじゃなくて」
「そ、そうですか。じゃ、じゃあ、浩樹くん、て呼びますね」
「う、うん」
 自分で言っておきながら、僕は恥ずかしくなった。
「私が元気になれたのは、その、浩樹くんのおかげです。本当にありがとうございました」
「僕は別になにもしてないよ」
 僕は、照れ隠しにそんな強がりを言った。
「それで、僕に直接伝えたいことって?」
「あ、えっと、それは、浩樹くんの家に着いてからにします」
「そう?」
 なんとなくすぐに聞きたかったけど、とりあえず自転車をこぐことに集中した。
 
「さ、着いたよ」
「ここが浩樹くんの……」
 二階建てのアパートを見上げ、真歩は溜息をついた。
 自転車をしまい、真歩を部屋に案内する。
「さ、どうぞ。ちょっと散らかってるけど」
「おじゃまします」
 真歩を先に上げ、僕はドアを閉めた。
 中に入るなり、真歩は声を上げた。
「あの、すごくいい香りがしますけど、これは?」
「ああ、これはね」
 僕は、奥の部屋に案内した。
「うわ〜……」
 そこにあったのは、たくさんの花だった。
「この花の匂いだよ」
「お花、好きなんですか?」
「うん。花だけじゃなくて、草や木、自然みんなが好きなんだけどね」
「自然、ですか。いいですね、そういうの」
 真歩は、花を見つめながら呟いた。
 それから居間兼食堂に通し、座ってもらった。
「えっと、紅茶かなんかでいいかな?」
「あっ、お構いなく」
 僕は、戸棚から缶を取り出した。そこに紅茶が入っている。
 お湯を沸かし、紅茶を淹れる。
「お待たせ」
「あっ、すごくいい香りですね」
「それ、僕のオリジナルブレンドだから、口に合うかどうかわからないけど」
「オリジナルなんですか?」
「うん。これだけいろいろな花や草があるからね。いろいろ試してみてるんだ」
「そうなんですか」
 真歩は、香りを確かめてから一口飲んだ。
「あっ、美味しいです」
「よかった」
 僕の紅茶作りは、母さんの影響だった。母さんはよく自分で茶葉をブレンドしていた。時には茶葉自体を作ったりもしていた。
 僕や姉さんにもそれを教えてくれて、僕はそれをそのまま活用していた。
 紅茶を飲んで少し落ち着いた頃を見計らい、僕は真歩に訊ねた。
「それで、伝えたいことって?」
「あ、はい」
 真歩は、カップを置いた。
「……あの、浩樹くんは、私のこと、どう思いますか?」
 俯き加減にそう訊ねてきた。
「ど、どうって……?」
「迷惑なことかもしれないですけど、私、浩樹くんのことが……」
「…………」
「浩樹くんのことが、好きになってしまったんです」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「沖縄で浩樹くんに助けられて、その本当の想いに触れて、どうしようもないくらい好きになってしまいました。東京に帰ってきてからも、ずっと浩樹くんのことだけを考えていました。次の日から電話をして……帰ってきたらちゃんと私の想いを伝えようって。でも、やっぱり迷惑ですよね……」
「そんなことはないよ」
「いえ、いいんです。想いを伝えられただけで、十分です」
 そう言って真歩は微笑んだ。
「僕は……イヤだ」
「えっ……?」
「僕は、それだけじゃイヤだ。僕だって、真歩さんのこと、好きだから」
 僕は、沖縄で真歩に言ったことを、実践した。
「最初は確かに憧れだったかもしれないけど。でも、今は、真歩さんのことが好きだって言える」
「ほ、本当ですか?」
「こんなことでウソは言えないよ」
「う、嬉しいです……」
 真歩は、大粒の涙をぽろぽろと流していた。
「あ、あれ、嬉しいはずなのに、涙が……」
「真歩さん……」
 僕は、真歩の側に寄り、抱きしめた。
「キス、してくれますか?」
「うん」
 そして僕たちは、二度目のキスを交わした。
 それは、お互いの想いを確かめる、そんなキスだった。
 
 
第九章
 
「とまあ、そういうことがあって、だいたい今に至るって感じだよ」
 僕は、だいぶ詳細を端折って話した。さすがに、全部は話せない。
「なるほどねぇ」
 姉さんは、妙に納得していた。
「そういうことがあれば、真歩ちゃんじゃなくても好きになっちゃうわよ」
「そうだね」
 充昭さんも嬉しそうだ。
「で、浩樹」
「うん?」
「真歩ちゃんと一緒に暮らすことになった経緯は?」
「それも話すの?」
「当然でしょ?」
 姉さんは、大きく頷いた。
「別に経緯もなにもないよ。なんとなく、一緒にいたいって思うようになって」
「ふんふん」
「一緒に住みたいって言ったのは、私なんです」
 と、真歩が口を挟んだ。
「あれ、そうなの?」
「はい。ひろくん、ひとり暮らしみたいな生活をしてたじゃないですか。だから、私にもなにかできないかなって思って」
「その気持ちはよくわかるけど、でも、いきなり同棲なの?」
「思いつかなかったんです、ほかの方法を」
 確かに、あの時の真歩はそんな感じだった。
「でも、確か真歩ちゃんの家って、すごく厳しい家だって聞いてるけど」
「そうですね。だから、最初は反対されました。というか、意見さえ言えませんでした。でも、何度も何度も説得して、それで半ば強引に認めてもらいました」
「なるほど。真歩ちゃん、意外に行動力あるんだね」
「えっと、そうでしょうか?」
「だって、それって去年のことでしょ? だとしたら、高校二年生。普通高二でそこまでのことを考えないだろうし。ねえ?」
「まあ、一般的にはそうだろうね」
 充昭さんも姉さんに同意する。
「ああ、別に悪いってことじゃないから。ようは、恋する乙女は強い、ってことだから」
 なんとなくよくわからない結論だった。
「私としては、しっかりしてるようでどこか抜けてる浩樹を常に見ていてくれる子がいてくれて嬉しいの。さすがに、東京と沖縄じゃ、遠いから」
 そう言って姉さんは微笑んだ。
「うん、よし。これでふたりのなれそめも聞いたし」
「聞いたし?」
「あとは、これからのことね」
「これからのこと?」
 僕は、姉さんの持って回った物言いに、首を傾げた。というか、あからさまに不審を抱いた。
「ほら、これでも私はお父さんからも浩樹のことを頼まれてるし。なによりも、お母さん亡き後、その役目を背負ってきたわけだから」
「……それはそうかもしれないけど」
「だから、私はこれからのことも聞いておきたいの」
 なんとなく言いたいことはわかった。
 でも、これからのことなんて、まだわからない。
「これからのことって言っても、今年は受験があるから、とりあえずそれに向けてがんばらなくちゃいけないくらい、かな?」
「そんな当たり前のこれからのことじゃなくて」
 姉さんは、盛大に溜息をついた。
 隣で充昭さんが苦笑している。
「私が聞きたいのは、真歩ちゃんとのこれからのこと」
「えっ、真歩との?」
「そう。同棲までしていて、まさかなにも考えてないだなんてこと、ないわよね?」
 僕と真歩は、顔を見合わせた。
 
 客間に戻った僕は、姉さんの言ったことを思い出していた。というか、それしか考えられなかった。
「ひろくん」
「…………」
「ねえ、ひろくんてば」
「……ん、あ、ごめん」
「んもう、しっかりしてよね」
 そう言って真歩は、ぷうと頬をふくらませた。
「そりゃ、由樹さんの言ったことが気になるのは仕方がないと思うけど。でも、それって今考えて解決できることなのかな?」
「わからないけど。それでも、考えてみなくちゃわからないと思うし」
「……ホント、ひろくんは真面目だね」
 あきれているわけじゃないだろうけど、そんな感じで溜息をついた。
「真面目なところがひろくんのいいところだとは思うけど。そうやってすぐに考えすぎちゃうところは、直すべきだと思う」
「う〜ん……」
「それにね、ひろくん。私とのことでしょ? それって、ひろくんひとりが考えなくちゃいけないこと? 私と一緒じゃダメ?」
 真歩は、少しだけ真剣にそう言った。
「そうだね、僕と真歩のことだからね」
「うん、そうだよ。だから、一緒に考えればいいんだよ」
 真歩の言うことはもっともだった。
 真歩がいるからこそ、僕は真歩とのこれからを考えてる。そこに真歩の意志や意見が反映されないのは、明らかにおかしい。
 だけど──
「ほら、またそんな難しい顔して」
「うわっ」
 気づくと、真歩の顔が目の前にあった。
 大きな瞳に、僕の顔が映っていた。
「スマイル、スマイル」
 そう言って、真歩は僕にキスをした。
「ね、ひろくん?」
 本当に、僕は真歩にはかなわない。
 
 気づくと、深夜だった。
 隣の布団では、真歩が気持ちよさそうに眠っている。
「…………」
 僕は、その真歩を起こさないように部屋を出た。
 家の中は、深夜ということで静まりかえっていた。
 台所で水を一杯飲み、それから玄関へと向かった。
 眠れない時にすることはひとつだけである。
 サンダルを借り、僕は外へ出た。
 外は、当然ながら真っ暗だった。
 住宅街の街灯がついているけど、それでも東京に比べれば十分暗かった。
 ただ、そのおかげで空がよく見えた。
 見上げると、そこには満天の星。もちろん、石垣島で見た空に比べれば、多少星の数も少ないだろうけど。
 それでも、僕は空を見上げた。
 月は、ちょうど三日月頃で、星明かりを消すほどではなかった。
 なにも考えずに空を見上げていると、気持ちが落ち着く。
 僕は、眠れない時は季節に関係なく星を見る。東京じゃあまり見えないけど、それでも明るい星は見られる。
 たまにこうして眠れないことがあるけど、今回のことは今までとは少し違った。
 原因が明らかで、結果が見えていない。
 僕は、どうありたいのか、わからない。
 去年の秋、真歩の両親にあんなことまで言ったのに。
 
 
第十章
 
 夏休みが終わり、学校がはじまった。
 僕と真歩は、すっかり恋人という関係になっていた。
 別に隠すつもりはなかったけど、学校ではできるだけそういうそぶりを見せないようにしていた。まあ、それも主に、真歩のためだったけど。
 真歩は、学園のアイドルだったから、当然憧れてる男子生徒も多かった。そんな真歩にいきなり僕という彼氏ができたと知れたら、なにがあるかわからない。
 僕が男子から誹謗中傷を受けるのは構わないけど、真歩が女子から嫌がらせを受けるのは勘弁してほしかった。
 別にその女子は僕がどうこうというわけではなく、学園のアイドルという立場にあった真歩に変な誤解をしている子がいたからだ。それは、その女子が好きな男子が真歩に告白して振られた、ということ。
 本当はそれ自体が誤解なんだけど、世の中には物事を真っ直ぐ見られない人もいるから。
 それで変に恨みを買うのもイヤだったから、結果的に隠すことにした。
 ただ、それでも見る人が見れば僕と真歩の関係が変わったことくらいすぐにわかった。
 というか、それまで挨拶すらしなかった僕たちだ。急に親しげに話していれば、勘繰りたくもなるだろう。
 とまあ、学校ではそんな感じだったけど、それ以外の場所では僕たちはどんどんお互いを好きになっていった。
 お互いの呼び方も、僕は『真歩さん』から『真歩』に変わり、真歩は『浩樹くん』から『ひろくん』に変わった。もちろん、真歩の話し言葉もずっと砕けたものになった。
 休みの日にはデートもした。もちろん、あまりうちの生徒がいない場所で。
 そんなある時のことだった。
「ねえ、ひろくん」
「うん?」
 それは、真歩が僕の家に遊びに来ていた時のことだった。
「今度、私の両親に会ってくれないかな?」
 真歩は、いきなりそんなことを言い出した。
「り、両親に?」
「私がひろくんとつきあってることは、もう知ってるの。それで、一度でいいから家に連れてこいって言うから。どうかな?」
 僕は、そのあとのことをあまりはっきりとは覚えていない。
 あまりのことにショックが大きかったのだ。まさか、真歩の両親と会うことになるとは思わなかったからだ。
 で、結局なんだかんだ言いながら、僕は真歩の両親と会うことになった。
 
 季節はすっかり秋になったある日。
 僕は、桜家に招かれていた。豪邸と呼ぶにふさわしい家で、僕も盛装した方がいいかなと思ったくらいだ。
 その日はうちまで車が迎えに来た。それに乗って桜家へ。
 外からは何度も見ていた桜家だったけど、中は想像以上に豪華だった。
 洋風の建物と和風の建物が少し離れて建っていた。
 僕が案内されたのは、その和風の建物の方だった。
 玄関を上がると、長い廊下が僕を待っていた。
 その廊下を歩くことしばし。
 その部屋に、真歩の両親と真歩が待っていた。
 僕は、緊張したままその部屋に入り、三人の前に座った。
 真歩のお父さんが、僕のことをじっと見ていた。
「ふむ、君が……」
 それがどういう意味かはわからなかったけど、僕は声を発した。
「は、はい、一条浩樹と言います」
「なかなかいい目をしている」
「浩樹さん、今日はよくおいでくださいました。いつも真歩がお世話になっています」
「い、いえ、こちらこそ」
 丁寧に挨拶され、僕は頭を下げた。
 真歩のお母さんは、まさに『マダム』とか『夫人』とか呼ぶのにふさわしい人だった。
「真歩」
「なんですか、お父様?」
「お茶を淹れてきなさい」
「まあ、お茶ならわたくしが──」
「いや、おまえはここに。真歩」
「はい」
 真歩は、言われるままにお茶を淹れるために席を立った。
 真歩が出て行くと、部屋の中には僕と真歩の両親の三人だけ。
「浩樹くん」
 と、真歩のお父さんが口火を切った。
「私は、君に本当に感謝している。まさか、あの子があそこまで思い悩み、思い詰めていたとは思わなかった。父親でありながら、娘のことをなにひとつわかってやれなかった。君がいなければ、今頃どうなっていたかわからない。だから、本当に感謝している」
「い、いいえ、僕はなにもしていません。ただ、思ったままのことを行動に移しただけです」
「謙遜することはない。今時、そのようなことができる者は、そうはいない」
 真歩のお父さんは、しきりに僕を持ち上げた。
「今でもそうなのだが、真歩が君の話をしている時の顔。あれは忘れんよ。キラキラと目を輝かせ、いかにも幸せそうに、嬉しそうに話をする。同時に私は思った。父親である私ですらほとんど見たことのなかった笑顔を作らせる君は、どんな少年なのかと」
「ええ、それはわたくしも思いました」
 今度は、真歩のお母さん。
「あの子だけでなく、誰かにあれほどの笑顔を作らせる人は、そうはいません。だから、直接会って話をしてみたくなったのです」
「そうですか。でも、僕はそんなたいそうな人間ではありません。実際、今でもまだ手探りのことが多いですから」
「それはいくつになっても変わらんよ。私だって、未だに手探り状態だ」
 そう言って真歩のお父さんは笑った。
「あの子は、こういう家に生まれてきたせいか、とても強い心を持っている。が、それはとてももろいものだった。ほんのわずかな亀裂で、すべてが逆転してしまうほどのな。本当は、私たちがそれを支えてやらなければならないのだが、あいにくと役不足のようだ」
「浩樹さん。あなたには、真歩の、あの子のそんな弱い部分を補って支えていってほしいんです。今日はじめて会って、いきなりこんなことを言われて困惑なさっているかもしれませんが、これも、子を持つ親のワガママだと思ってください」
「輝きを失わせたくない。そして、もっと輝いていてほしい。あの子がそうしていられるのは、君の側でしかあり得ない。だから、頼むのだよ」
 確かに困惑していた。
 だけど、次の言葉はすんなり出てきた。
「はい、それはもちろんです。僕も、彼女にはずっと輝いていてほしいです。それに約束もしましたから。僕が、助けると」
「そうか」
「あまり無責任なことは言えませんが、僕にできる範囲内でなら、僕は一生でも彼女を支えていきます。もう二度と、この夏のようなことが起きないように」
 僕の言葉を聞き、真歩の両親は満足そうに頷いた。
 と、その時──
「あ、あの……お、お茶を淹れてきました……」
 真歩が戻ってきた。
 どうやら、廊下で僕の言葉を聞いていたらしかった。
 声も震えていたし、お盆を持つ手も震えていた。
 しかも、その顔には喜びと希望とわずかな戸惑いが浮かんでいた。耳まで真っ赤になり、その瞳は潤んでいた。
 その時僕は、やられたと思った。
 真歩の両親は、とりわけお父さんはこれが目当てで真歩に席を外させたのだ。
 僕は、結果的に思いも寄らぬ形で、事実上のプロポーズをしてしまったのだ。
「真歩」
「は、はい」
「よかったな」
「ええ、本当によかったわ」
 両親の嬉しそうな笑い声が部屋に響く中、僕と真歩は、ただただ真っ赤になって俯くだけだった。
 
 あのあと、真歩はこんなことを言っていた。
「お父様もお母様も、ひろくんの前ではしゃぎすぎて」
 どうも、真歩の両親は普通の厳しい親とは一線を画していたようである。
「それに、いきなりひろくんにあんなこと言わせるなんて」
「そ、それは、まあ……」
「……でもね、すごく嬉しかった」
 真歩は、そう言って微笑んだ。
 その笑顔は、心からの笑顔で、未だに僕は覚えている。
「すごく、すごく嬉しかった……」
 その時僕は──
 
 
第十一章
 
 今日は日曜日ということで、重昭さんも充昭さんも家にいた。
 日曜日の家族の光景というものは、もう何年来見ていなかっただろうか。
 母さんが生きていた頃も、すでに父さんは海外で活躍していたし。はっきりとした記憶の中では、たぶん覚えていない。
 それは、僕だけでなく真歩も同じかもしれない。家が家だけに、日曜だから家族が揃うなんてことは珍しいかもしれない。
 そんな中、僕は充昭さんと一緒に買い出しに出かけていた。
「すまないね、わざわざ買い物につきあわせて」
「いえ、別に僕はお客じゃありませんから、気にしないでください」
「ははっ、それもそうだね」
 充昭さんは、ハンドルを握りながら笑った。
 買い出しは、少し離れたところにある郊外型の大型ショッピングセンターですることになっていた。
「そういえば、今度お義父さんが帰ってくるみたいだね」
「ええ、夏の終わり頃に帰ってくるって言ってました。もっとも、父さんにとっていつが夏の終わりなのかはわかりませんけど」
「お義父さんも忙しい人だからね。それはもしょうがないんじゃないかな」
「そうですね」
「だけど、お義父さんは本当に大切な時には帰ってきてくれるから、まだいいと思うよ」
 それは充昭さんの言う通りだった。
 去年、姉さんが出産という時も、本当にとんぼ返りだったけど日本に帰ってきた。その前は、姉さんの結婚式。これは母さんがいないということもあって、死んでも出るって言ってたけど。
 そういう節目を大事にしていたからこそ、母さんに愛想尽かされなかったんだと思う。
 しばらくして、ショッピングセンターに到着した。
 日曜日ということで、駐車場に入るだけで結構時間がかかった。
 買うものは、全部リストにして持ってきたから、迷うことはない。
 カートを押しながら広い店内をまわる。
「う〜ん、これとこれは同じようなものだけど、どっちを買うべきなんだろうね」
「安い方でいいんじゃないですか? 見た目、そんなに変わりませんし」
「そうだね」
 男ふたりの買い物は、なんとなく楽しかった。
 充昭さんは、姉さんと結婚する前から気の良い『お兄さん』みたいな感じだったから、余計にそう思う。
「浩樹くんは、彼女と一緒に買い物とかするのかい?」
「たまにですけど。基本的に、あまりさせてくれないんですよ。なんか、妙な使命感に燃えていて」
「あはは、なるほど。たまにそういう話は聞くよ。女の子の中には、そういうことにすべてをかけるみたいところがあるみたいだから。もちろん、人によってだけど」
「姉さんはどうですか?」
「由樹かい? そうだなぁ、由樹もたまにそういう一面を見せていたよ。ただ、由樹にとって家事は、できて当たり前のことだったから、過剰な反応はなかったけど」
「そうですか」
 確かに、姉夫婦は亭主関白でもかかあ天下でもないから。
 ひと通り買い物を済ませ、支払いを済ませる。
 それほど量があったわけじゃないけど、店内が広かったせいか、それなりに時間がかかった。
 車の後部座席に積み込み、出発。
「浩樹くん」
「なんですか?」
「昨日の夜、由樹が言ったことを気にしてるのかな?」
「えっ……?」
「いや、なんとなくそんな感じがしたんだよ。確証までは持ててないけど」
 充昭さんは、前を見たままそう言った。
「……気にしてないと言えばウソになります」
「普通はそうだろうね。ただ、僕としてはそんなにすぐに結論を出す必要はないと思うよ。由樹はああ言ってたけどね」
 それはそうかもしれない。それに、姉さんだって本当にすぐに結論を出せるとは思ってないだろう。
 でも、だからといってそのままにしておいていい問題ではない。
 姉さんじゃないけど、同棲までしてるんだから。
「義兄さんは、どう思いますか?」
「そうだね……」
 ちょうど赤信号で止まった。
「逆に聞くけど、浩樹くんはどうしたいんだい? とりあえず、彼女のことは置いといて、浩樹くん自身の考えを聞きたい」
「僕の考え、ですか……僕は、ただずっと彼女と一緒にいたいだけです。たぶん、それだけなんです」
「なら、そのためにどうしたらいいか考えればいいと思うよ。目標があるなら、そこに至るまでの経路を見つければいいんだ。勉強だってなんだって同じだろ?」
「そう、ですね」
 そう言われると、それほどたいしたことじゃなく聞こえる。
「ま、僕はなんの心配もしてないよ。浩樹くんは、今時じゃ珍しい高校生だからね」
 それがどういう意味なのかは、あえて聞かなかった。たぶん、聞いてもわからないと思うから。
 でも、充昭さんに話を聞いてもらって、少しだけ先が見えたような気がした。
 
 買い出しから戻ると、家の中がずいぶんと賑やかだった。
「賑やかだね」
「賑やかですね」
 買ったものを台所に持っていく。
 台所では、女性陣がかしましく料理をしていた。
「行ってきたよ」
「あ、ごくろうさま」
「ここに置いておけばいい?」
「ええ、置いといて」
 僕と充昭さんは荷物を置くと、台所を出た。なんとなく、場違いな感じがしたからだ。
 居間では、重昭さんがひとりでテレビを見ていた。
「おお、帰ってきたか」
「あれは?」
「由樹ちゃんがずいぶんと張り切っていてな、おまえたちが出てからすぐにあの調子だ」
「由樹がねぇ」
 充昭さんはなるほどと頷いた。
「で、父さんはひとりのけ者になっていた、と」
「ま、そういうことだ」
 苦笑する重昭さん。
「のけ者と言えば、愛は? 部屋に放っておかれてるわけ?」
「たまに由樹ちゃんが見てるみたいだが、基本的にはそうだな」
「しょうがない。ちょっと連れてくる」
 そう言って充昭さんは居間を出て行った。
「浩樹くんたちは、泳ぎには行かないのかい?」
「明日とか考えてます。さすがに今日は日曜日ですから」
「そうだな。東京にいては、こんなに気軽には泳ぎに行けないだろうし、しっかり楽しんでくるといい」
「はい」
 少しして、充昭さんが愛ちゃんを連れて戻ってきた。
 手足をバタバタさせ、元気いっぱいだ。
「なんだ、愛? 浩樹くんの方がいいのか?」
 充昭さんが愛ちゃんを畳に置くと、愛ちゃんはハイハイで僕の方へやって来た。
『だあ』とか『あー』とか『うー』とかそんな言葉しか発しないけど、やっぱり、僕は愛ちゃんにずいぶんとなつかれてるみたいだ。
 というより、たまに来て優しくしてくれるから、体の良いおもちゃだとでも思ってるのかもしれない。
「ほら」
 指を出すと、一生懸命にそれをつかもうとする。
「浩樹くんにとっては、姪っ子というよりは、妹みたいなものだろうな」
「そうですね。なんとなくそんな感じです」
「愛にも、浩樹くんみたいな好青年が現れればいいんだが」
「父さん。それはいくらなんでも早いと思うよ。愛はまだ一歳なんだから」
「そうは言ってもだな、子供の成長なんてあっという間なんだ。あれよあれよと大きくなって、おまえの前に彼氏を連れてくるぞ」
「むぅ……」
 充昭さんは、愛ちゃんを見て唸った。
 そういうところは、男親なのかもしれない。
「それっ」
 僕は愛ちゃんを抱きかかえ、『たかいたかい』をした。
 愛ちゃんは、すこぶるご機嫌だった。
 
 昼食は、姉さんが張り切っていたということで、かなり豪勢だった。とはいえ、本番は夕食らしい。
 姉さんも与那覇家に嫁いでから沖縄料理を勉強したらしい。出てきた沖縄料理のいくつかは姉さんお手製だった。もちろん、さわ子さんのとは比べるべくもないけど。
 そんな中、真歩もいろいろ手伝っていたらしい。人生の先輩、女性としての先輩にいろいろなアドバイスをもらい、それだけで喜んでいた。
 午後は、まったりのんびりと過ごしていた。
 女性陣は相変わらず台所でかしましく料理をし、男性陣プラス愛ちゃんは、手持ちぶさた気味に時間をつぶしていた。
 三時をまわった頃、ようやくひと段落ついたのか、女性陣も居間に戻ってきた。
 と、そこで僕は姉さんに呼び出され、ひとり別室にいた。
 ちなみに、真歩は愛ちゃんと遊ぶのに忙しくて、僕のことはどうでもいいって感じだった。
「お待たせ」
 姉さんがやって来た。
「で、なに?」
「ん、なんか昨日の話をずいぶんと引きずってるみたいだから、ちょっと話しておこうかと思ってね」
 姉さんは、いきなり懐に入り込み、斬りつけてきた。
「私としても、そこまで思い詰めるとは思ってなかったのよ」
「…………」
「あの言葉自体は本当だけど、私としては、これから先もこんな感じでいたい、くらいのことが聞ければよかったの。それが、どうもあんたはバカ真面目に捉えすぎてドツボにはまってるみたいだから」
 言ってることはひどいけど、言いたいことはわかった。
「真歩ちゃんも心配してたわよ」
「真歩が?」
「昨夜から元気がないって」
「僕としては普通にしてたつもりなんだけど」
「つもりじゃダメよ。好きな人のことなんだから、すぐに見破るわ」
 そうかもしれない。でも、僕としても、なかなか上手くできないというのが本音だ。
「で、悩んでどんなことが見えてきたわけ? 少しは見えてきたんでしょ?」
「うん、まあ。義兄さんにも話を聞いてもらったし」
「あら、そうなの? ふ〜ん、そうなんだ」
「それで、僕はただ真歩とずっと一緒にいたいだけだって、それはわかった」
「それがわかれば十分じゃないの?」
「どうして?」
「だって、一緒にいる方法なんて、限られてるわけなんだから」
 そう言って姉さんは、左手薬指に光る指輪を見せた。
「そういうことじゃない?」
「かもしれないけど、僕にそれができると思う?」
「できるかできないかじゃなくて、やるしかないんじゃないの? だって、そうしなければ浩樹が望む形にはならないかもしれないんだから」
「…………」
「ま、今は悩めばいいんじゃないかしら。あまり簡単に答えを出しても意味ないだろうし。それに、真歩ちゃんは浩樹のことを盲目的に好きでいるから。当分、大丈夫よ」
 確かにそうかもしれない。
 でも、僕としてはやっぱり、なにかしないといけないような気がする。
 真歩のために、なにかを。
 そう、あの時見た笑顔をずっと見ているために。
「姉さん」
「ん?」
「姉さんは確か、母さんの形見を持ってたよね」
「ええ、持ってるわよ。それが?」
「それ、僕に譲ってくれないかな」
 僕は、真歩の想いに応えてあげたかった。
 
 
最終章
 
 夕食は、かなり豪勢だった。さすがに午前中から仕込んでいただけのことはあった。
 お酒も入り、賑やかで楽しいひと時となった。
 僕はもちろん、完全にお客の真歩も、十二分に楽しめたと思う。
 ここまでしてくれた与那覇家の面々には、感謝の言葉もなかった。
 夕食後、庭で花火をした。
 夕方に軽くひと雨あったおかげで、だいぶ過ごしやすくなっていた。
 色とりどりの花火が、ついては消え、ついては消え。本当に綺麗だった。
 愛ちゃんは、花火にずいぶんとご執心のようで、キラキラと目を輝かせていた。
 花火が終わると、真歩は姉さんに呼ばれて部屋に行った。
 なんの話があるのかは、僕にもわからなかった。
 とても充実した日曜日は、本当にあっという間に過ぎていった。
 
 夜。興奮していたせいか、僕はなかなか寝付けなかった。
 二日連続というのは珍しかった。
 僕は、昨日と同じように、こっそり部屋を抜け出した。
 時間は、真夜中という頃。
 空は、快晴だった。月も星も綺麗に見えた。
 僕は空を見上げ、心の中を空っぽにする。
 すーっと気持ちが落ち着いていった。
 それから、なんとなくで持ち出してしまったそれを見た。
 それは、姉さんから譲り受けた母さんの形見。
 僕も母さんの形見を持っているけど、それは今度、姉さんに渡さないと。
 それを譲ってもらったことで、僕の気持ちもほとんど固まった。あとは、いつそれをするかだけなんだけど。
 まあ、それはまたあとで考えればいい。まだ、時間はあるんだから。
 そろそろ戻ろうと思って振り返ると──
 
「ひろくん」
 真歩がいた。
「空、見てたんだね」
 そう言って、僕の隣に並んだ。
「ひろくん、昨日もこうしてたでしょ?」
「気づいてたんだ」
「うん。あえてなにも言わなかったんだけどね。ただ、今日は一緒に見上げたいなって」
「そっか」
 僕は予定を変更し、真歩と一緒に空を見上げた。
「昨日、こうしてる時に、去年、真歩の両親に会いに行った時のことを思い出したよ」
「あの時のこと?」
「うん」
「あれは、お父様もお母様もやりすぎだったから」
「そうかもしれないけど、でも、それを思い出したおかげで、僕も少しだけ前に進む決心がついたよ」
「前に進む決心?」
「まあ、それをさらに後押ししてくれたのは、姉さんと義兄さんだったけど」
 たぶん、今ここで真歩が出てきたのは、僕にここでそれをしろということなんだと思う。
「真歩は、昨日の姉さんの話、どんな風に聞いてた?」
「私は、ひろくんのことを好きになって、一緒に暮らすようになって、ずっとひとつのことしか考えてないから」
「それは……?」
「ずっと、一緒にいたい、って」
 そう言って真歩は微笑んだ。
「私の想い、願いはそれだけ。ほかにはなにもないの。だって、ひろくんさえいてくれれば、私は幸せなんだから。ひろくんと一緒にいられないことの方が、不幸なんだから」
 それは、改めて聞かなくてもわかっていた。
 毎日の仕草、言葉、表情。それを見ていれば、自ずとわかった。
 真歩は、僕にだけ、本当の姿を見せてくれる。それは、心から僕のことを信頼してくれているからにほかならない。
「ひろくんは? ひろくんはどう?」
 僕は、軽く息を吐き、答えた。
「僕も、真歩とずっと一緒にいたい」
「ひろくん……」
「いろいろ考えたけど、やっぱりそれが一番だと思った。去年、真歩とつきあうことになってから、僕は最初にそれを考えたんだ。なのに、いつの間にかそれをどこかに置き忘れていた。昨日姉さんに聞かれた時も、本当ならすぐにそう言えればよかったのに」
「でも、今はそう思ってくれてるんでしょ? だったらいいよ」
「それで、どうしたらずっと一緒にいられるかって考えてみた」
「えっ……?」
 僕は、姉さんから譲り受けた母さんの形見を取り出した。
「これは、もともと姉さんが譲り受けたものなんだけど」
「それは……」
 真歩も、それがなんであるかわかったみたいだ。
「これは、父さんと母さんが婚約した時に、父さんが母さんに贈った指輪だよ」
 小さな箱の中には、小さな指輪が入っていた。
 それは、まだ売れない音楽家だった父さんが、精一杯の想いを込めて母さんに贈った大事な指輪だった。
 結婚した時にこれ自体の役割は終わったけど、母さんはずっと大切に持っていた。
 それで、母さんは亡くなる直前にこれを姉さんに託した。
「それで、今度は僕がこれを姉さんから譲り受けた」
 指輪を取り出す。
「今度は、僕が真歩に贈るためにね」
 そう言って僕は、真歩の左手薬指に、指輪をはめた。
 さすがに母さんのだったから、完璧にサイズがあっているわけではなかった。それでも、真歩は驚きと嬉しさの入り交じった表情で指輪を見つめている。
「ずっと、僕と一緒にいてほしい」
「うん……はい……」
 真歩は、心からの笑顔で頷いた。
 僕は真歩を抱きしめた。
 離したくない。
 ずっと、僕の側で微笑んでいてほしい。
 ずっと、僕を見つめていてほしい。
 それが、僕の願いであり、夢、だから。
 
 僕は、夢を持っている。
 それは、まるで真夏の夜に見たうたかたの夢のようでもあった。
 その夢が、現実になればいいと思っていた。
 でも、心のどこかでは、夢のままでいいとも思っていた。
 だけど、それは違った。
 僕は、夢を現実にしなくてはならなかった。
 だから──
 僕はその夢を現実のものとするために、一歩、踏み出した。
 その夢が現実となることが、僕にとっても、真歩にとっても幸せであると信じて。
 
 真夏の夜の夢は、いつかきっと──
 
 現実になるから。
 
                                    FIN
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