君と歩く季節の中を
 
後日談
 
 今年もまた桜の季節がやって来た。
 この時期になると、必ずあの時のことを思い出す。高校二年のあの時のことを。
 
 今年は桜の開花が少し遅れたために、上手くいくと関東でも入学式まで花があるかもしれない。例年通りなら、たいてい入学式前に散ってしまう。
 開花宣言が出されてから、公園や桜の名所では花見が行われている。特に金曜日から日曜日にかけてはそれが多い。テレビでは上野公園の花見の様子が放映されるが、さすがにあの中で花見をしたいとは思わない。
 花見自体は好きだけど、やっぱりゆっくりのんびり過ごしたい。
 そう、今みたいに。
「こうじゃないと」
 見上げると、桜色の可憐な花。
 花を愛でてる人はいるけど、花見と称した宴会をやっている人はいない。
 まあ、公道であるこの並木道で花見をやれる場所はないのだが。
 そういう場所のおかげか、本当に花を楽しみたい人がここへ来る。
 緩やかに風が吹き、桜のかすかな香りが鼻孔をくすぐる。
 と、そんな趣のある雰囲気をぶち壊す音が鳴り響いた。
「……誰だよ」
 俺はポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイを見た。
『由紀子』
 相手は由紀子だった。
「はい、もしもし」
『あっ、お兄ちゃん? 今、電話平気?』
「まあ、ダメではないな」
『んもう、相変わらずいぢわるなんだから』
 電話口でため息をつく由紀子。
「で、なんの用なんだ?」
『あっ、そうそう。あのね、お母さんが久しぶりにみんなで花見をしようって』
「花見?」
『うん。最近してなかったでしょ? お母さんのストレスもそろそろ限界みたいだから。ね、お兄ちゃん。協力してよ?』
 確かに、母さんがストレスを溜めてるのはよくない。なにせそのとばっちりは、家族全員に降りかかるのだから。
「協力するのはいいけど、いつやるつもりなんだ?」
『お父さんと叔父さんが仕事だから、土曜日か日曜日だって。お母さんも叔母さんもこの日って決めれば無理矢理でも仕事を休ませるって息巻いてたけどね』
「な、なるほどな」
 そうか。今回は叔母さんも一枚噛んでるのか。これはますますなんとかしないといけないな。
「じゃあ、早い方がいいな。今週は土曜も日曜もなにもないから、いつ、どこでやるか決まったらまた連絡してくれ」
『わかったよ。じゃあ、そういう……っと、そうだ』
「ん、まだなにかあるのか?」
『お兄ちゃん。ちゃんと『みんな』っていう意味を考えてね』
「は? それがいったい──」
『じゃあね、お兄ちゃん。また連絡するから』
「あ、おい」
 電話は、一方的に切れてしまった。
 ディスプレイには通話時間と通話料金が表示されていた。
「……まったく」
 携帯をしまい、俺はため息をついた。
「由紀子も結局母さんの娘だからな」
 最近、由紀子が母さんに似てきたと思う。具体的にどこが、というわけでもないけど、なんとなくその言動が似てきた。
「ま、いいけどな」
 グーッと伸びをする。
 もう一度見上げる。
 桜の花が、かすかに風に揺れた。
「さてと、そろそろ行くかな」
 本当はもう少し花を見ていたいけど、そこまで時間があるわけじゃない。もしこれからあることを無視したら、俺に明日はない。
 だから、名残惜しくはあるけど行くことにした。
 
 いつもの時間、いつもの場所。
 俺は、ここへは時間の十五分前に着くようにしている。そうしなければならないわけじゃないけど、なんとなくそうすることが当たり前になっていた。
 ただ、今日は少しだけ早めに着いてしまった。
「いらっしゃい。今日は少し早いね」
「今日は家から来たわけじゃないから、時間の感覚がずれたんだと思う」
「なるほど」
 ここは駅前にある喫茶店。チェーン店ではなく、個人経営のこぢんまりとした店だ。
 店員はマスターとアルバイト店員がふたりの計三人。そして、そのアルバイトのひとりが、中田雪乃だった。
「注文は、いつものでいい?」
「それ以外を頼むと、あとが面倒だから」
「了解」
 中田は、笑顔でカウンターの中へ消えた。
 店の中には、俺以外に三人ほどのお客がいた。コーヒー片手に文庫本を読んでいる初老の男性。買い物帰りに立ち寄ったのか、主婦がふたりでお茶をしている。
 座席数も多くないから、たった四人でもそれなりにいるように見える。
 少しすると、中田が戻ってきた。
「はい、お待たせ」
 テーブルの上にブレンドコーヒーが置かれた。ついでにミルクも。
「さっき家から来たわけじゃないって言ってたけど、どこから来たの?」
「ん、桜並木からだよ。天気もいいし、桜でも見ながら散歩しようと思って」
「裕一くんらしいね、そういうの」
 中田がこうして俺と話していても、マスターはなにも言わない。もちろん、お客が来れば応対はする。だけど、基本的にはとやかく言わない。
「中田さんは、花見の予定は?」
「今度の休みに功二と一緒に」
「ふたりだけで?」
「うん。去年は雨のせいで流れちゃったから、今年は是が非でもやろうって言ってね」
 こういうところは相変わらずだ。
「そう言う裕一くんはどうなの?」
「ついさっき、花見の予定が入ったよ」
「へえ、そうなんだ。誰と?」
「家族と。と言っても、うちだけじゃなくて叔父さん一家も一緒だけど」
「なんだ、普通のお花見なんだ」
「まあね」
 俺は頷きながらスプーンでコーヒーをかき混ぜた。
「だけど、それだけじゃないんでしょ? もちろん、本命とも予定、あるんでしょ?」
「ないよ」
「へ?」
「だから、ないって。今のところは、家族とだけ」
「……たまにわからなくなるのよね。裕一くんのこと」
「そう?」
 中田は小さくため息をついた。
「っと、そろそろかしら?」
 時計を見て入り口を見た。
 俺もそれに倣う。
 それとほぼ同時にドアが開き、ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 中田がマニュアル通りに声をかけた。
「やっぱり時間通りね、舞」
「これだけはなにがあっても遅れられないから」
 入ってきたのは、舞だ。
 ベージュのロングスカートにクリーム色のカーディガンを羽織り、とても春らしい格好をしている。
「で、舞のダーリンはもう来てるわよ」
「うん」
 俺がいることに疑いもしていない。
 ふたり掛けのテーブルの反対側に座る。
「今日もいつも通りだね」
「実は、いつもと同じ時間になるように時間を調整してたりして」
 そう言ってペロッと舌を出した。
「じゃあ、早く来ようと思えば来られるってこと?」
「そうなるね。今度からそうしよっか?」
「そのあたりは、舞に任せる」
「うん」
 
 あの時からもう五年の月日が流れた。
 高校三年の一年間は、本当にあっという間に、でも、とても充実した一年間だった。
 野球部の方は、結局甲子園出場の夢は成し遂げられなかった。夏の大会は順調に勝ち進んだのだが、準決勝で敗れてしまった。結果的にその相手が優勝し、甲子園に出場した。一概に比べることはできないが、試合展開だけを考えるなら、俺たちとの準決勝の方がよほど決勝らしかった。実際、後日の新聞にもそういう記事が載っていた。
 とはいえ、どんなにいい試合をしても勝てなければ意味がない。
 俺たちの夏は終わり、野球部も引退した。
 それからは適当にトレーニングをしつつ、受験勉強を行っていた。
 私生活の方は、とにかく舞との時間を大切にした。
 お互いに時間があったわけじゃないけど、やり繰りして少しでも長く一緒にいた。部活がある間はデートなんかはなかなかできなかったけど、部活が終わってからの時間を有効活用した。
 俺が部活を引退すると、時間ができてデートなんかもたくさんできるようになった。
 ただ、俺も舞も結局は共通の想い出を作りたかったのだ。だから、デートができなくてもそれはそれで満足だった。
 俺たちの関係はますます強くなり、三年の冬を迎えた。
 俺は本格的に受験勉強をし、舞は留学に向けての準備をはじめた。
 俺の志望大学は一応六大学だったので、勉強は結構大変だった。それでも野球を続け、なおかつ夢のために勉強をするためには、それくらいのレベルが欲しかったのだ。
 舞の方は、留学審査も特に問題なく、話はどんどん進められた。留学期間は二年間。その後については、舞と向こうとの話し合いで決めるということだった。
 お互いに進む方向は違ったけど、最終的な目標が同じだったから問題はなかった。
 そして春が来た。
 俺はなんとか大学に合格し、春から大学生として生活をスタートさせることになった。
 一方、舞は三月中に向こうへ行くために準備に追われていた。
 二年という長い時間、すぐ側にいられないことは、お互いにつらいことではあった。だけど、今できることを今やらなければ絶対に後悔すると思い、そのことには目をつぶった。
 舞がフランスへ出発する日。俺は舞にひとつのプレゼントを渡した。
 それは、一年前の約束を形にしたものだった。
 それからの二年間は、今にして思えばあっという間だった。
 舞のいない生活は確かに淋しかったけど、同時にそれでもやらなければならないという思いも持っていた。
 俺は野球を続けながら、語学の勉強をしていた。英語はもちろんのこと、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語を簡単に学んだ。将来、どれが役に立つかわからなかったから、なんとなく手当たり次第という感じだった。
 舞とは週に一回、電話で話した。あとはインターネットでメールのやり取りをし、それからお互いの長期の休みに会いに行ったりもした。
 俺が向こうに行ったのは、二回ほど。
 舞は、その倍の四回、日本に帰ってきた。
 一緒にいられた時は、本当に片時も離れなかった。話すことはたくさんあったし、やりたいこともたくさんあった。それこそ時間はいくらあっても足りないくらいだった。
 二年が過ぎ、舞は留学期間を延長せずに日本へ帰ってきた。
 望めばもう少し向こうにいられたらしいが、そこから先のことは日本でもできると判断したらしい。日本へ帰ってきた舞は、日本の音大に編入し、ピアノを続けた。
 その春からももう二年が経とうとしていた。
 
「今日はなにしてたの?」
 舞はカップを傾けながら訊ねてきた。
「ここへ来る前は、散歩してたよ」
「散歩?」
「桜並木の下を散歩。この時期だけだからね、それができるのは」
「そっか」
「舞は?」
「私は、いつも通り。家の用事を済ませて、それでも時間が余ればどこかで時間をつぶして」
「そういう時は、連絡してくれればいいのに」
「ん〜、たまにそう思うんだけど、でもね、ここでこうして会うのもやっぱり捨てがたいなって思って」
 この喫茶店で待ち合わせしようと言い出したのは、俺でも舞でもない。ただなんとなくこの喫茶店を気に入り、いつの間にか利用するようになっていた。もちろん、中田がバイトしていたこともひとつの理由ではある。知り合いがいれば、多少の融通が利く。
「あ、そうそう。忘れないうちに言っておかなくちゃ」
「うん?」
「舞、今週の土日、空いてる?」
「土日? うん、空いてるけど、それが?」
「実は、そのどちらかにうちで花見をやることになったんだ」
「お花見かぁ。いいね」
「で、うちの家族連中は俺が舞を連れてくるのは当然だと思ってるから。どうかな、来てくれる?」
「迷惑じゃなければ喜んで」
「迷惑なんてこと絶対にないから」
「じゃあ、楽しみにしてるね」
「了解」
 由紀子が言っていた『みんな』という言葉の意味は、こういうことだ。
 舞はすでにうちの家族みたいなものだが、それでもまだ家族にはなりきれていない。それでも、少しずつ家族としての時間を共有していけば、必ず家族になる。
 今回のこともその一環と考えればわかりやすい。
「はい、これ」
 と、俺たちの前に頼んでいないケーキが置かれた。
「どうしたの、これ?」
「マスターが、常連さんへのお礼だって」
 中田がそう言ってカウンター奥を指さすが、肝心のマスターの姿は見えなかった。
「いいの?」
「いいっていいって。それに、ふたりがここを利用してくれるおかげで、多少の宣伝になってるし。そのお礼も兼ねてるってわけ」
「まあ、そういうことなら」
 意固地になっても仕方がないので、厚意を素直に受けることにした。
 ケーキはチーズケーキだった。
「ところでさ、前から結構気になってたんだけど」
「ん?」
「ふたりって、いつ一緒になるの?」
 中田の言葉に、俺たちは思わず顔を見合わせた。
「だってさ、ふたりはすでに婚約してて、この春に大学も卒業したわけでしょ? 就職だって決まってるし、じゃあ次は、ってことにならない?」
 中田の言葉を補足する。
 四年前。舞が留学先であるフランスへ出発する日。俺は舞にひとつのプレゼントをしたことは前に話した。その時にプレゼントしたものが、指輪だった。高校卒業したての俺に高価な指輪など買えなかったけど、できる限りのものを買い、贈った。
 それが意味するところは中田の言う通りで、婚約である。
 親にも話していないふたりだけの約束ではあったけど、それのおかげで二年間も安心して過ごせた。
 それから四年。俺も舞も無事大学を卒業した。
 お互いに就職も決まっている。俺は母校である友林高校の野球部コーチをしながら、夜は学習塾で講師をすることになっている。舞は、大学の教授のツテでピアノを続けられる仕事が決まっている。具体的になにをするかといえば、たとえば音楽のレコーディングなんかでピアノが必要な時に代わって弾いたり、まあ、いわゆるピアノのなんでも屋みたいなものだ。
 というか、俺も完璧に理解しているわけじゃないから、上手く説明できない。
「どうなの?」
「えっと……」
 舞は、目で俺に訴える。
 やっぱりこういうことは俺が言うべきなのか。
「俺も舞も、そういう気はあるんだけど、とりあえずはお互いの生活を確立してからになると思うよ」
「じゃあ、半年くらいはないの?」
「たぶんね。いろいろ考えると、早くても冬かな。来年の今頃なら仕事にも慣れ、生活のパターンもできてるだろうけど」
「なんだ、しっかり考えてるんだ」
 中田は少しだけ拍子抜けしたような表情でそう言った。
「てっきり卒業したらそのまま、って思ってたのに」
「それは、雪乃自身のことじゃないの?」
「私? さあ、どうかな? 私は少なくともあと一年、大学に通わなくちゃならないし」
 舞たち三人の中で、中田だけ浪人した。そのため、この春から大学四年ということになる。
「功二くんはなんて言ってるの?」
「別になにも。というか、今までそういう話、ほとんどしてこなかったから」
「そうなの?」
「意味がないとは言わないけど、学生の間はあまりそういうこと考えずに自由に過ごしたかったから」
「ふ〜ん、なるほどね」
 実に中田らしい考えだ。それに、そういう方が功二にとってもいいのかもしれない。あいつは真面目だから、考え出すとキリがなくなる。
 ちなみに、功二はストレートで大学に入り、一年留年して来年卒業する。留年した理由は絶対に言おうとしないが、まあ、中田のことが理由だろう。
「ま、弥生たちに比べれば、私たちなんてずいぶん慎重よね」
「それはね」
「まさかいきなり結婚しちゃうなんて、誰が予想できたかって感じよ」
 豊和と堀は、去年、それこそいきなり結婚した。式は行ったらしいけど、身内だけの簡素なものだったらしく、終わったあとに『結婚しました』というはがきが来るまでわからなかった。
 豊和が俺にそういうことを言うことはなかっただろうけど、あの堀が舞や中田にまでなにも言わなかったのは驚いた。
 ま、結婚した理由ができちゃった結婚というのは、なんというからしい感じだった。
 それでも、あの豊和がそこまでの覚悟を持っていたのは、別の意味で驚きだった。
 で、今はふたりに生まれた子供の三人で暮らし、この春からはふたりとも社会人となる。
「でもさ、舞」
「なに?」
「私たちって、結構珍しい存在かもね」
「どういう意味?」
「ほら、私たち三人とも、それぞれの彼と高校からのつきあいでしょ? 五年が長いとは言わないけど、高校くらいからのつきあいだと、長く続かないことが多いみたいだし」
「そういう話は聞くけどね。でも、それは結局は人のことだし。それこそ中にはもっと小さい頃からのつきあいの人だっているから」
「まあね」
「結局、私たちはそれだけの相手を見つけられたってことでいいんじゃないかな」
「確かにね」
 ふたりの話はよくわかった。
 大学の知り合いにもつきあってる奴は結構いた。だけど、高校からなんて奴はほとんどいなかった。そういうことを考えると、俺たちは珍しい部類に入るだろう。
 だけど、それが特別なわけでもない。それ以上の連中だっている。
 そして、ずっと一緒にいられる存在を見つけたというのもそうだろう。
「でも、その想いの深さ、絆の強さは舞たちにはかなわないわよ」
「そうかな?」
「だって、二年も離れ離れだったわけでしょ? なのにふたりの関係はびくともしなかった。それってかなり大変なことよ」
「離れ離れというのはそうだけど、お互いのことがまったくわからない状況だったわけでもないし。それに、二年間まったく会えなかったわけでもないから」
「だとしても、私はちょっと遠慮したいわね。いくら功二のこと信じてても、さすがにそれだけの期間離れてたら、さすがに自信がなくなるから」
 それが普通だろう。それに俺たちだってそういう気持ちがなかったわけじゃない。
 それでも俺にも舞にも、お互いを絶対に信じていられるだけの想いがあった。
「ま、舞の場合は恋愛に不器用だから、万が一にも裕一くんを手放したらもう二度と誰かとつきあうなんてできないかもしれない、っていう想いも多少はあるかもね」
「そこまでのことは考えてないけど。ただ、私は裕一くんと一緒にいることしか考えてないから」
 すでに選択肢はない、ということだ。
「っと、お客さんが来たわ」
 中田はそう言って離れていった。
「ね、裕一くん」
「ん?」
「雪乃には本当のことを言ってもよかったんじゃないかな?」
「俺は別に構わないけど。でも、中田さんに言うとあっという間に広まる可能性があるから」
「う〜ん、否定できない」
 舞は苦笑した。
「本当のことを知ったら、なんて言うかな?」
「それほど驚かないんじゃないかな。豊和たちのことがあったから」
「それもそうだね」
 その『本当のこと』というのは、またあとで。
「さてと、そろそろ行こうか。時間ももったいないし」
「うん、そうだね」
 俺たちも別にここで話をするためだけに会ってるわけじゃない。
「雪乃」
「あ、今日はもう行くの?」
「うん」
 勘定済ませる。
「また来るから」
「ふたりが来てくれないと、うちは商売あがったりだから」
「ふふっ、そういうことにしておくわね」
 中田に見送られ、店を出る。
「何時からだったっけ?」
「ん、三時十分だよ」
「じゃあ、まだ少し余裕があるね」
「どこか寄っていく?」
「う〜ん、そうだね。そうしよっか」
 そして、俺たちはデートを開始する。
 
 舞がパリから帰ってきてからは、一緒にいられる時はずっと一緒にいた。
 二年間の鬱憤を晴らすかのように、本当に一緒にいた。
 彼女はますます俺にべったりになったし、外泊の回数もグンと増えた。
 あの春からの五年間で、舞は変わった。
 性格などの内面もだが、外見も変わった。その綺麗さは相変わらずだが、流行発信地であるパリに行っていたからなのか、以前にも増して洗練された美しさを身に付けてきた。
 だから、そんな彼女と一緒に歩くと、とにかく注目の的になった。だけど、彼女自身はそんなことまったく気にしていない。というか、彼女曰く、「裕一くんしか見えてないから」ということだ。
 俺がどうこう言える問題でもないから、それは構わないと思う。ただ、今より少しだけまわりに気を遣ってもいいのではと思う。
 俺と彼女は大学は別々だったから、さすがに本当の意味で四六時中一緒にいることはなかった。
 そんな時に彼女が目をつけたのが、携帯電話だった。
 俺たちはお互いに持ってなかったから、それを機に買うことにした。
 今の携帯はその時のではないけど、今のも彼女の意見を聞いて買ったものだ。
 携帯を持ったことでいつでも連絡が取れるようになり、俺たちの距離は限りなくゼロに近くなった。
 大学生活自体は、それまでとあまり変わらなかった。とはいえ、俺が二年の時に由紀子と紀子が同じ大学に入ってきた。ふたりとも、俺がいるからそこを受けたと言ってはばからない。
 どういう理由ででもちゃんと生活できれば問題はないだろう。
 ただ、ふたりには本当に早く兄離れしてもらいたいものだ。この春から四年になるわけだし、そろそろ自立の頃だろう。
 舞は、そんな俺たちの様子を、少しだけ羨ましそうに見ていた。
 もっとも、舞は講義がない日はこっちの大学へ遊びに来ていた。だから、うちの大学にも舞の知り合いがいるという奇妙なことが起きた。
 そして、去年の今頃、俺たちはとても大事なことを決めた。
 
 特になにか見たいものがあったわけでも、ほしいものがあったわけでもない。
 所詮は時間つぶしなので、俺も舞も深くは考えていない。
 それでも、時々面白いものを見つけては、コロコロと変わる彼女の表情を見ていると、それだけでとても楽しい気分になってくる。
 と、商店街のある店の前で、彼女は足を止めた。
「裕一くん」
 俺の方を振り返り、目で、表情で訴える。
 俺も、その店がどんな店かで、彼女がなにを言いたいかはわかっていた。
 そこは、不動産屋である。店の前には、様々な物件の情報が張り出されていた。
 分譲もあれば賃貸もある。
「こういうのも、考えていいんだよね?」
「そうだね。俺たちももう社会人だし、そういうことを自分たちで考えてもいいかもしれないね」
「うん」
 それから少しの間、俺たちはあ〜でもないこ〜でもないと、間取りを見ながら話した。
 俺はそれほど部屋とかにこだわりはないけど、彼女はいろいろ持ってるようだ。特に台所まわりは間取り図だけではわからないからと、実際は見てから決めると息巻いていた。
「私ね、どうしても自分で選びたいものがあるの」
 そう言い出したのは、不動産屋を離れてからだった。
「選びたいものって?」
「えっとね、ベッド」
「ベッド?」
「うん。部屋が狭くてベッドが置けないなら別だけど、置ける部屋ならベッドにはこだわりたいなって」
「ふ〜ん、なるほど。で、実際はどんなのがいいと思ってるの?」
「ん〜、とりあえずはダブルベッドで、高くなくてもいいけど、見た目はちょっと豪華っぽいのがいいかな」
 とりあえずはダブルベッド、というところは、まあ、なんというからしい。
「裕一くんは、そういうのはないの?」
「別にないよ。舞も知ってると思うけど、俺にとって部屋は寝るためだけの場所だから」
 今でも俺の部屋は、必要最低限のものしかない。もともとそういうものにこだわりは持ってないけど、中学の頃からずっとそういう生活をしてきて、それにますます拍車がかかった形だ。
「じゃあ、やっぱり私がこだわらないとダメだね。うん」
 それを聞くと、少しだけ真剣な表情で頷いた。また妙な使命感に燃えてるし。
 それが悪い方向にさえ向かなければ、俺も特になにも言わないし、心配もしていない。だけど、彼女はたまにまわりが見えなくなるくらい変な方向に進んでしまうことがある。俺としては、それだけが心配なのだ。
「っと、そろそろ時間かな」
「あ、うん。じゃあ、行こ」
 俺たちの今日の目的は、映画である。先日封切られた映画で、公開前から話題に上っていた。
 舞もそれにいち早く目をつけ、今日の約束を取り付けた。
 映画館は、それなりに混んでいた。こうならないためにわざわざ平日を選んだのだが、この時期はどこも学校が休みのため、意外に人が多い。
 パンフレットを買い、飲み物を買ってホール内へ。
 一応指定席になっているから、席がないということはない。
 席は少し後ろ目だが、真ん中寄りのいい場所だった。
「評判通りの面白さだといいね」
「そうだね。せっかく観るんだから、面白い方がいいね」
 正直言えば、俺は今回の映画にはそれほど興味はなかった。
 今回の映画は、いわゆる恋愛モノで、三十代の主人公と十代のヒロインの話である。
 大人と子供、という関係にありながら、次第に年齢差も消え、お互いを必要な存在と認める。簡単に言えばそんな話である。もちろん、詳しいことは知らない。というか、観る前から知っているのはおかしいだろう。
 恋愛モノが嫌いなわけじゃないけど、進んで観ようとは思わない。
 ただ、今回はデートなので観る、という感じだ。
 もちろん、そんなこと口が裂けても言えない。言えば、俺に明日はないだろう。
 ホール内が暗くなり、予告編がはじまった。
 とりあえず、寝ないように気をつけよう。
 
「むぅ、ひどいんだから」
「いや、ごめん……」
 俺はとにかく謝るしかなかった。
 なにを謝っているのかといえば、映画のことだ。結局俺は、後半のほとんどを寝てしまったのだ。。多少の居眠りは舞も許容してくれたけど、クライマックスで寝ていたのが一番痛かった。
 それはもちろん隣で観ていた舞もわかっている。だからこそ映画が終わってからはとにかく不機嫌だった。
 ここ最近、これだけ不機嫌だったことはない。
「舞、悪かったから」
「……本当に悪いと思ってる?」
「思ってる」
 じっと俺の顔を覗き込み、小さくため息をついた。
「んもう、今度だけだからね、許してあげるの」
「わかってる。もうこんなことないから」
 今回のことは全面的に俺が悪い。なにを言われても頷くしかない。
「裕一くんはそんなことないと思ってたんだけどなぁ」
「……ホント、ごめん」
「じゃあ、裕一くん。ひとつだけお願いがあるんだけど」
「……なに?」
「あのね──」
 
 一年前のある日。
 俺と舞は、とても大事なことを決めた。
 それは本当に些細な話からはじまった。
「ねえ、裕一くん」
「ん?」
「裕一くんがこの指輪を贈ってくれてから、もう三年経つよね」
「そうだね」
 彼女は、左手薬指にはまっている指輪を見ながら言った。
「今の私たちの関係って、婚約者ってことだよね?」
「まあ、そうなるよね」
「いつまで婚約者なのかな?」
 彼女としても、それにはそれほど深い意味はなかったのだろう。本当に些細な疑問だったのだろう。
 だけど、俺としてはそこまで軽い気持ちでは聞けなかった。
「今すぐどうこうってわけじゃないけど、たまに考えちゃうから」
「やっぱり、夢だから?」
「そうなのかも。ここまで来たら今更だと思うけど、最後の最後で、ってこともあるかもしれないから」
 それは本音だろう。
 たとえ婚約していても、まだその先の関係になったわけじゃない。そうすれば自然と不安感も湧いてくる。むしろ、そういうのを感じない方がおかしいだろう。
 指輪を贈った俺ですらその考えはあるんだから。
 だからかもしれない。
「じゃあ、一緒になろうか?」
 実に軽い言い方だった。
 とても将来を決めるような、そんな大事な言い方ではなかった。
「えっ、でも……?」
「別に、結婚式をしようっていうわけじゃないよ。そんな余裕ないし。ただ、形だけでも一緒になることはできると思って。やっぱりそれじゃイヤかな?」
「そ、そんなことないよっ」
 彼女は慌てて否定した。
「すごく嬉しい。どんな形でも、大好きな人のお嫁さんになれるんだから」
 そう言って満面の笑みを浮かべた。
「あ、でも、そういうこと私たちだけで決めちゃっていいのかな?」
「別にいいんじゃないかな。うちも舞のところもそれ自体に反対はしてないんだから」
「うん、そうだね」
 俺たちの婚約については、どちらの親もなにも言わなかった。というか、そうなるものだと信じて疑っていなかった。
 だから、俺たちが一緒になると言っても、反対はしないだろう。
 そして俺たちは、一枚の書類を提出した。
 その日から、俺と舞は夫婦となった。
 だけど、それはあえて公にはしなかった。
 その理由はいろいろあるが、一番大きかったのはやはりお互いに学生だったということだ。自立もできていない状況で結婚したと言っても、それは結局親に依存している状況に変わりはない。
 形の上では確かに夫婦だけど、一緒に暮らしているわけでもないし、普段は今まで通りの生活をしている。舞の方は名前も変えていない。
 ようするに、俺たちの中だけでその事実があればよかったのだ。
 だから、俺たちのことを知っているのは、お互いの家族だけだった。もっとも、俺の方は由紀子たちにはだいぶあとになって説明したのだが。
 その時の顔は今でも覚えている。最初はなにを言われたわからないという表情。それを理解すると、困惑の表情に変わり、最後には笑顔で祝福してくれた。
 たまに思うのだが、本当にそんな簡単に決めてよかったのかと思っている。後悔はしてないけど、舞は結婚ということに対してものすごいこだわりを持っている。
 だからこそ、もう少しきちんとやった方がいいと思った。
 でも、それを彼女に言うことはない。言っても意味はないだろうし、なによりどんな形であれ、彼女の夢がかなったのは間違いないのだ。
 彼女にとってはそれがなによりも大事で、重要なのだ。
 
 デートの日から数日後。
 今日は例の花見の日だ。
 母さんと晶子叔母さんは前日からかなり張り切っており、父さんと隆明叔父さんを場所取りに行かせて、準備を進めていた。
 ただ、その花見は当初の予定とはだいぶ違うものとなった。
 当初はうちと叔父さん家族、それに舞を含めたメンツでやる予定だったのだが、俺がそれに異を唱えた。
 新たに舞の家族を呼ぶことを提案し、母さんの了承を得て認められた。
 だから、今日の花見は結構な人数での花見となる。
 そして、その中で俺と舞はあることをしようと画策していた。
 
 花見は実に賑やかだった。
 うちの両親と舞の両親は以前にも会っていたから、特に問題なく楽しそうにしていた。叔母さんも社交的な人だから特に問題はなかった。
 舞は、由紀子たちと一緒に楽しそうに話している。
 俺は、この春から大学生になる良二と孝くんとなんとなく静かに花見を楽しんでいた。
 俺たちが花見をしているのは、この近辺では最も人出が多い公園だった。
 本当なら場所取りだけで大変なのだが、そのあたりは父さんと叔父さんの苦労の甲斐あって、なかなかいい場所が確保できた。
 ただ、そのせいかまわりにも大勢の花見客がいて、移動するのも大変なほどだった。
 アルコールが入ると、とにかく賑やかさが騒ぎへと変わる。
 あまり騒がしいのは好きじゃないけど、たまのことだからなんとなく許せてしまう。
 俺は、適当なところで舞をその場から連れ出した。
「お父さんたちも楽しそうでよかった」
「この雰囲気も手伝ってるかもね。こういう時に楽しめないと、なんか損した気分になるし」
「ふふっ、そうかも」
 公園の駐車場はすでに満車で、外周道路には駐車待ちの車が並んでいる。
 その駐車場に、うちの家の車も止まっている。
 帰りは俺が運転することになってるから、鍵も預かっている。
 車の鍵を開け、乗り込む。と言っても、後部座席にである。
 うちの車は家族の人数が多いから、ワンボックスカーである。後部座席はかなりの広さがある。
「裕一くん」
 俺が後ろから荷物を取り出していると、舞が抱きついてきた。
「どうかした?」
「ギュッと抱きしめてほしい」
 俺は言われるまま彼女を抱きしめた。
「今、こうしてることは夢じゃないよね?」
「夢じゃないよ。ちゃんと腕の中に舞を感じられるんだから」
「うん」
 人は幸せすぎると不安になる。考えなくてもいいようなことまで考えてしまう。
「まだ不安?」
「ううん。もう大丈夫」
「でも、念のために」
 俺は、彼女にキスをした。
「さ、行こうか」
「うん」
 
 たぶん、それはその場だからこそ特に変な目で見られなかったのだろう。
 花見の場は、本当になんでもありなのだ。
 実際、なにかのコスプレでもしてるのかと思えるほど派手な一団もいた。
 アルコールが入ると、なんでも許せてしまうし、楽しければなんでもよくなってしまうのだ。
 人の間を抜けて、ようやく戻ってきた。
 と、同時になんとも言えない声が上がった。
 俺と舞は、その中でみんなの前に立った。
「ええ、宴もたけなわところですけど、少しだけおつきあいください」
 なにごとかとまわりも俺たちの方を見る。
「去年、俺たちは式を挙げないまま結婚しました。ただ、それはあくまでも書類上のもので、今も一緒に暮らしているわけではありません。でも、この春からはお互いに社会人となり、新たな生活がはじまります」
 俺は、そこで一度言葉を切った。
「新たな生活がはじまることを機に、俺たちは改めて一緒になったことをみなさんに知ってもらいたいと思いました」
「今日、ここで、本当に簡単にですけど、結婚式の真似事をしたいと思います」
 そう。あのデートの日、舞は結婚式をしたいと言った。
 もちろん、俺たちにそんな余裕はない。それは中田に話した通りだ。それは彼女もわかっている。その上で言ったということは、それなりの意味があった。
 だから、俺はこの花見の席を利用させてもらった。
 祝ってくれる人は、とりあえず家族だけでいい。
 正式に式を挙げる時に、ほかの人に祝ってもらえば問題ない。
 そう考えた。
 俺の考えに彼女も賛同してくれた。
 ウェディングドレスは用意できなかったけど、白いヴェールとブーケは用意できた。あとは、ドレスに着替えてもらい、準備完了。
「まあ、結婚式といってもなにも特別なことはしません。ただ、俺たちの新たなスタートの証人になっていただければいいだけです。それだけで十分です」
 俺は、舞の左手を取った。
 そして、宣誓する。
『私たちは、これからどんなことがあってもお互いを信じ、支え、いつまでも共に過ごすことをここに宣誓します』
 同時に、まわりから拍手と歓声が沸き上がった。
 いつの間にか、俺たちのまわりにはかなりの数の花見客が集まっていた。
 俺たちもまさかここまでになるとは思っていなかったから多少の戸惑いはあった。それでも、その誰もが俺たちのことを祝福してくれてるのを見ると、自然と戸惑いの気持ちは消えた。
「舞」
「裕一くん」
 俺たちは小さく頷き、誓いのキスを交わした。
 最後に、ブーケを投げる。
 その時にもいつの間にか、まわりの女性陣が投げられる方向に集まっていた。
「それっ!」
 桜の花の下、ブーケが空を舞った。
 俺と舞は、その様子をしっかりと手を繋いで見つめた。
 
「舞」
「ん?」
「俺たち、本当に幸せだよな」
「うん、幸せ」
「この大勢の人の祝福に応えるよう、これからも幸せで居続けないと」
「裕一くんとなら、大丈夫」
「俺も、舞となら大丈夫だ」
 
 俺たちは再び歩き出す。
 大勢の人たちに祝福され、見守られ。
 時には喧嘩することもあるだろう。
 疲れてしまうこともあるだろう。
 だけど、これだけは言える。
 どんな時でも、ふたりなら乗り越えていける。
 俺も、舞も、そう信じている。
 だから、大丈夫だ。
 いつまでも、どこまでも、歩いていける。
 
 君となら、どこまでも──
 
                                    FIN
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