君と歩く季節の中を
 
第六話「動かぬ季節」
 
 一
「お兄ちゃん」
 声とともに、衝撃が──
「ぐっ……」
 俺はいきなりの背後からの衝撃に、思わず苦悶の表情を浮かべた。
「大丈夫?」
「…………」
 俺は自分の顔を覗き込んでいる顔を確かめた。
 そう、それは、俺の従妹、紀子だった。
「……ふう」
 俺はひとつ息を吐いて、体勢を整えた。
 そして──
「いきなり後ろからタックルしてくる奴が、あるかぁっ!」
「きゃっ!」
 俺は紀子の頭を問答無用でくしゃくしゃにした。
「ったく、本気で驚いたんだからな」
「ごめんなさい」
 紀子はなんとか髪を整えながら、多少トーンを落として謝った。
 それでも、髪を整え終わるといつものように笑顔に戻った。
「ねえねえ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
 俺は多少トーンを落として聞いた。
「もうすぐ文化祭でしょ?」
「ん、そうだな」
「で、音楽部も当然参加するんだけど」
「ああ、そうだろうな。文化祭は文化部の発表会みたいなものだから。確か、去年は吹奏楽部とジョイントしてたっけ」
「うん。で、今年もそれはやるんだけど」
「ということは、それ以外にもやるってことか?」
「そうなの。今年は完全オリジナルコンサートをやることにしたの」
「なんなんだ、その、完全オリジナルコンサートって?」
 紀子は待ってましたとばかりに言った。
「演奏する曲はすべて音楽部員が作曲するの。今までもオリジナルはやってたけど、全部じゃなかったから」
「で、完全、というわけか」
 紀子は大きく頷いた。
「それなら、紀子も作曲したのか?」
「うん。一曲だけだけどね。軽い感じの曲。曲名は『ティータイム』だよ」
「そっか。一応、見に行くよ」
「一応?」
 明らかに不満げな声。
「実はな、今年の文化祭はまったく出られないかもしれないんだ」
「えーっ、どうして?」
「試合だよ。野球部の試合があるかもしれないんだ」
「そうなんだ……」
 今度は明らかに落胆した様子。
「あっ、先輩は知ってるの?」
 先輩とはもちろん、舞のこと。
「まあ、それとなく話してはあるけど、こっちも確定したわけじゃないから」
「そうなんだ。でも、先輩、そんな様子全然なかったけどな」
「そりゃそうだろ。文化祭は文化部のためにあるようなものだから、それを無為にするわけにはいかない。それはわかるだろ?」
「うん」
「それに、私的な理由でみんなに迷惑をかけるわけにもいかない。結局は、わずかな可能性に賭けてるってことだけど」
「そうだね。先輩もそう思ってるから、そういうことを表に出さないんだね」
 紀子も納得したようだ。
「あ〜あ」
「ん?」
「やっぱり、お兄ちゃんと先輩は最高のカップルだね」
「なんでだ?」
「だって、つきあいはじめてそれほど経ってないのに、お互いのことちゃんと理解してるもの」
「そうか?」
 いまいち当事者としては自覚がない。
「私だって、少しくらいはお兄ちゃんのことわかるんだけどなぁ」
 俺は紀子の頭をポンと叩いた。
「紀子が気にすることはないさ。それに、紀子にしかわからないこともあるかもしれないだろ?」
「うん、そうだね」
 紀子はにっこり微笑んだ。
「じゃあ、もう行くね」
「ちょっと待て」
「ん?」
「もういきなり後ろからタックルなんかするなよ」
「はーい」
 わかっているのかわかっていないのか。
 俺は廊下を駆けていく紀子を見送って、なにをしようとしていたのか思い出そうとした。
「はて?」
 よく思い出せない。
「教室から廊下へ出て、廊下を歩いていたらいきなり紀子がやって来て──」
 その時、ひらめいた。
「しまったっ!」
 俺は慌てて廊下を駆け出した。
 行き先は職員室。朝のホームルームで先生に昼休みに来るように言われた。
 職員室前で軽く息を整える。
「失礼します」
 一礼して入室した。
 森岡先生は机に向かってなにやら仕事をしていたが、俺の声に気付いて振り向いた。
 俺は机と椅子の間を抜けて、先生のすぐ隣に立った。
「いいタイミングね」
 先生はそう言うとちょうど仕事が終わったらしいなにかの紙を、机の引き出しにしまった。
 先生の机は一見すると非常に片づいている。
 が、しかし、それは外見だけ。
 実は常に使うものはきちんとしているが、滅多に使わないものは置いた本人である先生ですらわからないこともあるらしい。
「実はね、ある先生から言われたことがあるの」
 普段は丁寧語で話す先生だが、こういう場では砕けた話し方になる。しかも、結構相手を選んで。
「なにをですか?」
「最近、うちのクラスはいい雰囲気らしいのよ」
「いい雰囲気?」
「具体的には言ってくれなかったけど、そうらしいのよ。まあ、ようするに何事に関しても集中できているとか、成績がよくなったとかそういう感じかもしれないけど。それで、話を元に戻すと、その先生が提案してきたの」
「提案ですか?」
 俺は、一瞬イヤな予感を覚えた。
「今度、うちの高校に交換留学生が来るのは知っているわね?」
「はい」
「それで、まだ決定じゃないけど、その子がうちのクラスに来ることになりそうなの」
「えっ、でも、確か交換留学生はうちの高校から向こうへ行った生徒のクラスに来るんじゃないんですか?」
「そこで提案なのよ。つまり、うちのクラスにその子を来させたいわけ」
「それはわかりました。けど、それと呼び出されたことは──」
「関係あるのよ。その子は当然ホームステイ先は決まってるけど、学校での生徒側の協力者がいないのよ」
 ……俺はすぐに職員室を出たい衝動をなんとか抑えた。
「綾本くん。お願いできないかしら?」
 先生は軽くそう言った。
 しかし、俺の中では深刻な問題だった。
「受ける受けないは別として、その留学生はどんな人なんですか?」
「えっとね」
 先生は机の引き出しから、書類を取り出した。
「ルーシー=ウェントン。ハイスクールの三年生。年齢は十七。性別は女。成績は優秀。将来は日米文化関係の研究を希望」
 そう言って書類を俺に見せた。
 そこにはブラウンの少し癖のある、しかし綺麗な髪の、碧眼の、間違いなく美少女の写真が貼り付けられていた。
 ざっと記載されていることに目を通す。
 まあ、ご丁寧に身長、体重、スリーサイズまで記してあった。
 すべての情報を記してあったのだろう。家族構成も記してあった。
 しかし、十七歳でバスト八八とはこれいかに?
「すぐに返事はいらないわ。少し考えてからでいいから」
「わかりました」
 書類を先生に返しながら、結局引き受けることになることを予想しながら、ため息をついた。
「じゃあ、お願いね」
 先生は笑顔でそう言った。
 だけど俺は泣きそうだった。
 どうしてこうもわけのわからないことが起きるのか。
 答えはどこからも返ってこなかった。
 
 二
「交換留学生?」
「うん」
「そういえば、そんなことあったような気もするね」
 放課後。部活に出るちょっと前の時間を使って、俺は舞に相談を持ちかけた。
「森岡先生も裕一くんなら大丈夫だって思って頼んだんだよ」
「まあ、らしいけど。でも、本当はうちのクラスじゃないんだよ」
「そうだよね、今年は確か、一組の子が行ったんだよね?」
「うん」
「裕一くんはどうしたいの?」
「俺は、できればやりたくないんだ。いくら学校だけだって言っても、俺にはまともに相手できる自信がなくて」
 これは俺の偽らざる本音。
「それにさ、これから野球部も秋の大会とか新人戦とかあって、結構公欠を使うと思うんだ。俺がいる時はいいけど、いない日はどうするのかなって」
「そっか。それはそうだよね」
「だから、断ろうかなって思って」
「しょうがないね。せっかくアメリカから来るのに、まともに相手できないと失礼になっちゃうから」
 彼女は俺の意見に賛同してくれた。
 とはいえ、俺自身まだ完全に断るという方向に傾いているわけではない。多少なりとも俺を推薦してくれた先生たちに報いたいという思いもある。
「まあ、とりあえずもう一度先生に相談してみるよ」
「うん、それがいいかも」
 
「よーし、今日の練習は終わり」
 次第に短くなってきた陽も暮れ、ようやく練習が終わった。
「いいか。もうすぐ秋の都大会がはじまる。新チームとなってからまだどのチームも日は浅いが、やることをやってきてるところは強い。おまえらもそういう連中に、せめて気合いだけは負けるなよ」
「はいっ!」
「よーし、グラウンド五周のあと片づけして終わりだ」
「気をつけっ! ありがとうございましたっ!」
「ありがとうございましたっ!」
 新キャプテンの功二のかけ声でようやく終わり。
 グラウンド五周のあと、一年はグラウンドの整備と用具の片づけ。俺たち二年はたいていさっさと帰り支度をする。
「功二」
「ん?」
「ちょっとつきあってくれないか?」
 俺はそう言って功二にボールを渡した。
「よし」
 俺たちはブルペンに向かった。
「で、今日はなにをするんだ?」
「チェンジアップに挑戦してみる」
「チェンジアップか。確かにチェンジアップは有効だからな」
「まあ、使えるかどうかはわからないけどな」
「よし、来いっ!」
 俺は秋の大会の前から、新しいボールを覚えようと思っていた。
 夏の大会はまだ俺が無名選手だということもあってそれほど打たれなかったけど、これからは違う。
 たとえ俺がどう思っていようと、相手にしてみれば俺は夏の大会の準優勝ピッチャーなのだ。当然マークも厳しくなる。
 それでも俺は、そのマークをかいくぐって勝たなければならない。夢を現実のものにするために。
 その一環として俺はチェンジアップを選んだ。
 本当はフォークでもよかったんだけど、肩や肘への影響を考えてそうした。
「どうだ?」
 とりあえず二十球ほど投げたところで功二に意見を求めた。
「そうだな。まだまだ荒削りだけど、使えそうな感じはある。それにはもう少しストレートに伸びが出てくるといいんだけどな」
「伸びか」
「まあ、秋の大会が終わって、冬場に走り込みをすればなんとかなるだろう。裕一の場合はこれ以上スピードは上がらないだろうからな」
 確かに俺のストレートは、最速で百四十五くらいで止まっている。
 まあ、スピードはこれくらいあればとりあえずは問題ない。
「結局、落ちる球はどれだけストレートが有効かにかかってるからな」
「カーブにスローカーブ、そしてチェンジアップか。あと、フォークとナックルがあったら完璧だな」
「ははは、欲張るなよ。たとえ球種が少なくたってコントロール、球のキレ、伸び、そしてコンビネーションでいくらでも勝てるんだから」
「ああ、わかってる。別に俺はそんなのは望んでないさ。所詮は急造エースだからな」
「なに言ってやがる。急造エースが準優勝できるか?」
「まあな」
「ははは」
「よし、今日は上がろうぜ」
「そうだな。また明日もみっちりしごかれるんだろうからな」
 俺たちは軽いキャッチボールをしてウォームダウンした。
 それから部室に戻りシャワーを浴び、制服に着替える。
「じゃ、おつかれ」
「おつかれ」
 部室を出ると俺はいつものように二音に向かった。
 今日はいつもより少し遅い。
 それでも二音からはいつものように音楽が流れてくる。
 俺はそれを確かめると、少しだけ歩を速める。
 ドアを開けると、いつものように微笑みかけてくれる。
 俺は曲が終わるまでピアノのすぐ脇の椅子で待つ。
「今日はね、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番なの」
 舞はそう言ってにっこり微笑んだ。
「おつかれさま、裕一くん」
「舞ちゃんこそ、最近は忙しいんじゃないの?」
「う〜ん、ちょっとだけ。それでも裕一くんに比べたら全然たいしたことないよ」
 そうは言うけど、多少は疲れの色が浮かんでいる。
 だから俺は──
「ん……」
 彼女にキスをする。
「帰ろっか?」
「うん」
 音楽室の戸締まりをして、校舎をあとにした。
 外はすでに暗闇が支配する夜。
「そういえば、紀子から聞いたよ。今年の音楽部は完全オリジナルコンサートをやるんだってね」
「うん。本当は例年通りでもよかったんだけど、せっかくだからって」
「舞ちゃんも作曲したの?」
「えっとね、一応」
「一応?」
 俺は首を傾げた。
「五曲作ったんだけど、どれをやるか決めかねてて」
「そうなんだ。あっ、全部じゃダメなの?」
「さすがにね。私だけそんなにやるわけにはいかないから。それに、先輩にとっては最後の文化祭だし」
「それもそうか。やっぱり最後は花を持たせないとね」
「うん」
 と、舞は視線を落とした。
「やっぱり、無理かな?」
「……どちらか一日だけだったら大丈夫かもしれないけど、天候とかにもよるからね」
「そっか……」
 こればかりはいくら俺でもどうしようもない。
 仮にもチームのエースが試合を投げ出すわけにはいかないからだ。
「でも、しょうがないよね。裕一くんもがんばってるんだから。私も負けないようにがんばらないと」
「舞ちゃん……」
 強がりを言っているのは十分わかる。
 だからといって下手な気休めの言葉も見つからない。
「ねえ、裕一くん」
「なに?」
「試合、がんばってね」
 そう言って彼女はとびきりの笑顔を見せてくれた。
「がんばるよ、舞ちゃんのためにもね」
 だから俺も、素直にそう答えた。
 今は悩んでいてもしょうがない。なるようにしかならないんだから。
 
 次の日の昼休み。
 俺は職員室に森岡先生を訪ねていた。
「先生」
「あら、綾本くん。どうしたの?」
「昨日のことについて、少し相談したいと思いまして」
「そう。じゃあ、向こうへ行きましょう」
 そう言って俺たちは、職員室の一角に設けられている来客者用兼休憩用スペースに移動した。
「それで、少しは考えはまとまったかしら?」
「ええ。ですが、その前に聞いておきたいことがあるんです」
「なにかしら?」
「選考基準についてです。なぜそうなったのか、知っておきたくて」
 先生は少し考え、こう言った。
「そうね。そういうことはきちんとしておいた方がいいわね」
 俺としてもこれに関してはあまり期待していなかったけど、すんなり聞けそうでよかった。
「まず、なぜうちのクラスかということ。それは昨日も言った通り、最近のクラスの雰囲気が第一ね。せっかくアメリカから来るんだから、少しでもいい印象を持ってもらいたいから。まあ、それは建前なんだけどね」
「どういうことですか?」
「ようするに、学校としても穏便に済ませたいのよ。そしたら学年で一番信頼性の高いクラスを選ぶのは当然でしょ? それがたまたまうちのクラスだということ」
「そうなんですか」
 日本お得意の事なかれ主義か。
 まったく、なにを考えてるんだか。
「次に、なぜ綾本くんなのかということね?」
「はい」
「それはもっと単純明快ね。つまり、今のうちのクラスで最もそういうことに適しているのが、綾本くんだと私は判断したの」
「どうしてですか? 俺はクラス委員でもないですし」
「綾本くん」
「はい」
「綾本くんは気付いているかしら?」
「なににですか?」
「最近、クラスがあなたと結城さんを中心に動いていることを」
「えっ、そんなまさか」
「冗談で言っているわけじゃないのよ。授業中は別として、普段の生活では間違いなくそうね。綾本くんも結城さんも、もともとそういう面があったから。それがふたりがいつも一緒にいることによって倍加されたっていうところかしら」
「確かに舞ちゃ、じゃなかった、結城さんはそういうところはあるとは思いますけど、俺にはそんなところないですよ。今までだってそういうことはなかったですし」
「それはあなたが気付いていないだけよ。確かにそういうことって本人が一番疎いから」
 そんなものかな?
 俺にはいまいちよくわからない。
 だいいち、俺は中心というよりは今までも取り巻きとか、傍観者の立場が圧倒的に多かった。
「だいたいの理由はわかりました。ですが、一番わからないのは、留学生は女子ですよね。それだったらこっちも女子の方がいいんじゃないですか? 同性じゃないとなにかと不便なこともあると思いますけど」
「ああ、そのことね」
 そう言って先生は微笑んだ。
「それは、彼女の希望なのよ」
「彼女って、その留学生のですか?」
「ええ、そうよ。なんでもね、将来は日本人の男性と結婚して、日本に住むのが夢なんですって。それで、これを機に日本人の男性を少しでも知りたいんですって」
「は、はあ、そうなんですか……」
 なんか、とんでもない理由だな。そのとばっちりを俺が受けてるような気がする。
「どう? これで少しは受けてくれる方向に傾きそう?」
「あの、でも、俺は野球部でいろいろありますし、まともに相手できないですよ」
「そうね。そこが一番の問題なのよ」
「野球部はもうすぐある文化祭ですら参加が危ういんですから」
 先生はなにやら思案しているようだ。
「じゃあ、こうしましょう。とりあえず形的には綾本くんが彼女の世話係として、それでもうひとり、綾本くんの補佐をする人をつけましょう」
「補佐、ですか?」
 俺はまたイヤな予感を覚えた。
「補佐として、結城さんはどうかしら?」
 イヤな予感的中。
 どうしてこういうことだけ当たるんだ?
「綾本くんと結城さんなら、私も安心して任せられるわ」
「あの、先生」
「なに?」
「ひょっとして、最初からそのつもりだったんじゃないですか? 俺が野球部だということもわかっていたわけですし」
「ふふっ、さあ、それはどうかしらね」
 先生はにこやかな笑みを浮かべてるけど、間違いない。俺は先生の策略にはまったんだ。
 見事にしてやられた。
「じゃあ、この件に関しては結城さんにも話しておくわね」
「……はい」
 たぶん、このままなし崩し的に受けてしまうんだろうな。
 
「はあ……」
「ふう……」
 その放課後、帰り道。
 俺と舞はもう何度目かのため息をついた。
 まあ、なぜため息なんかついてるのかは、わかると思うけど。
「どうしよっか?」
「うん、どうしようね」
 授業が終わったあと、舞は森岡先生に呼び出された。
 話の中身はもちろん留学生のこと。
 結論はまだ出していないけど、ここまで来てやめるのは非常に厳しいと思う。
 しかし、先生も卑怯だ。俺と彼女がつきあっていることを知らないはずはない。で、彼女がそういうことを断れない性格であるということも知っていて、その上でまずは俺に話を持ってくるなんて。
 俺は当然彼女に相談する。その段階で先生の策略は八割方成功したようなものだ。知ってしまったのだから。
 あとはそれとなく彼女を籠絡すれば完成。俺が今度は断れるはずがない。
「なんか、舞ちゃんも巻き込んじゃったね」
「ううん、それはいいの。私は少しでも裕一くんの役に立ちたいから」
「舞ちゃん……」
「それに」
「それに?」
「少し心配だから」
「心配? なにが?」
「留学生の子、とっても綺麗な子だったから」
 なるほど。俺がその子に惹かれるとでも思ったんだ。
 まあ、確かに惹かれる要素はありそうだけど、それはないと断言できる。
「心配ないよ。俺が舞ちゃん以外の子を好きになるなんてこと、ないから」
「うん、それは信じてるけど。それだけじゃないの」
「えっ、どういうこと?」
「私が一番心配してるのは、その子が裕一くんに惹かれてしまうこと。裕一くんのいいところ、みんな知ってるから、余計に心配なの。それに、裕一くんは優しいからその子のこと、絶対にむげにはできないだろうし」
 痛いところを突かれた。
 まさかそっちのことを心配してるとは。
 しかし、そればかりは俺はどうすることもできない。
「ねえ、裕一くん」
「なに?」
「裕一くんにとって、私ってどんな存在?」
「えっ、どうしたの、急に?」
「お願い。答えて」
 真剣だった。
「……俺にとって舞ちゃんは、もうすでに空気のような存在だよ」
「空気?」
「うん。動物にとっては空気がなければ生きていけない。でも、普段はそのことを意識することはない。そこにあるのが当たり前だから。それと同じだよ。今の俺にとって舞ちゃんのいない生活なんて考えられない。でも、だからって特別にそれを意識してるわけじゃない。舞ちゃんが俺の傍らにいること、それがもう当たり前になってるから。ちょっとうぬぼれかもしれないけど」
「じゃあ、私はいつまでも裕一くんの側にいていいんだよね?」
「ああ、もちろんだよ。いてくれないと、俺が困る」
 そう言って俺は笑った。
「そっか、よかった」
 彼女はそう言ってそっと俺の腕を取った。
「私ね、裕一くんとつきあうようになって、今まで知らなかった私がどんどんわかるようになったの。特にイヤな部分。私も自分がこんなにイヤな女だとは思ってなかった。でも、そうだった。それでも裕一くんはそれを含めた私を好きでいてくれる。だから……」
 そこで言葉を切った。
「私は、その裕一くんの想いに報いたいの」
「……それは違うよ」
「えっ……?」
「確かに俺は舞ちゃんのことを誰はばかることなく好きだって言える。それはもちろん俺が舞ちゃんのことを本気で好きだからだ。そして、舞ちゃんが俺を好きでいてくれるからだ。俺たちはつきあってから日は浅いけど、お互いがお互いをちゃんと理解できてると思ってる。それは俺のうぬぼれかもしれないけどね」
「そんなことないよ」
「でも、俺だってやっぱり人間だからね。たとえ相手が舞ちゃんでも、イヤなところはイヤなこととして認識してるかもしれない。少なくとも今はそういうことはないけどね」
 舞は、少し驚いた顔で俺を見つめている。
「でも、それはそれでいいと思うんだ」
「どうして?」
「完璧な人間は面白くないよ。人間はどこかしらに欠点があるから面白いんだ。そして、その欠点を補い合うのが、恋人、でしょ?」
「裕一くん……」
「そして、それはやって当然のことなんだから。それに対して必要以上のことを考えることはないよ」
「……やっぱり、裕一くんは優しい。それに、すごいよ。私の悩みにも簡単に答えを出してくれるし」
「たとえそうだとしても、舞ちゃんの中に答えはあったんでしょ?」
「うん。それに自信が持てなかった。でも、裕一くんのおかげで自信が持てた」
 そう言って彼女は微笑んだ。
「もし、どうしても報いたいって考えるなら、いつまでも俺にその笑顔を見せていてほしいな。俺はそれだけで満足だから」
 自分で言っていて少し恥ずかしくなるようなセリフだったけど、それが俺の本音だから仕方がない。
「うん、わかった」
 そして、舞も笑顔で頷いてくれた。
 今日も星が綺麗だった。
 
 三
「ストライーク、バッターアウトっ!」
「よっしゃっ!」
 最後の一球が決まり、俺は思わずガッツポーズをしていた。
「やったな、裕一」
「ああ」
 ホームプレートを挟んで両チームが並ぶ。
 主審のコールで試合終了。
『ただいまの試合、七対二で友林高校が勝ちました』
 場内にアナウンスが流れる中、俺たちは意気揚々と三塁側スタンドに向かった。
「気をつけっ! ありがとうございましたっ!」
「ありがとうございましたっ!」
 功二の号令で俺たちは応援してくれた生徒や父母に挨拶をした。
 それと同時に拍手が沸き起こる。
 勝った時のこの感じが俺は一番好きだ。
「しかし、立ち上がりの調子だともう少し取られるかと思ったぞ」
「それは俺だって同じだよ。今日はちょっと立ち上がりが不安定だったから」
「まあ、それでも三回からはちゃんと立ち直ってくれたからな。攻撃にもリズムが出たし」
「殊勲打だからな、功二は」
「ははは、たまたまだよ」
 やはり試合に勝つと饒舌になる。
 秋の都大会がはじまった。
 俺たちは最初はシードされたため、二回戦からだった。
 秋の大会は優勝、もしくは準優勝なら春の選抜に出られる可能性が高くなる。だからどの高校も気合いが入っている。
 ただ、秋の大会の厳しいところは、夏の予選が東と西に分かれるのとは違い、東京都全体で行われるところにある。
 そのため試合はその厳しさを増す。
 まあ、そのために一生懸命練習もしてるんだけど。
 で、俺たちは初戦をほぼ問題なく勝った。
 今年は一年が優秀なため、チーム全体のレベルも高い。従っていやが上にも大きな目標が見えてくる。
 まあ、まだまだ先のことだけど。
 今日は平日なので球場外にも待っている生徒はほとんどいない。応援団員が何人かとさぼりの生徒くらい。
 マイクロバスに乗り込み、一路学校へ。
 俺はバスの中でアイシングしながら、車窓を眺めていた。
 いくら最近の東京は季節感がなくなってきたとはいっても、やはり秋だった。
 街路樹も赤や黄色に色づきはじめ、常葉樹以外はみな秋の装いになってきていた。
 程なくして学校に到着。
 まだ授業中なので、学校は静かだった。
 監督から試合の反省点を指摘され、解散。
 さすがに今日はこれ以上の練習はない。まあ、自主練なら別だけど。
 俺は部室でシャワーを浴び、少しのんびりしていた。
 これから授業に出ようと思えば最後くらい出られたけど、さすがにみんなそれはしない。どうせ出たところで眠ってしまうからだ。
「なあ、裕一」
「ん?」
「今度の試合、少しコンビネーションを変えてみないか?」
「コンビネーションを?」
「ああ。この前の練習試合も今日の試合もそうだったけど、相手もだいぶ研究してるみたいだからさ。こっちが意識して変えにいかないと、そのうち痛い目に遭うかもしれない」
「確かにそうだな」
「まあ、調子さえよければそれほど神経質にならなくてもいいんだろうけどさ。いつもいつも九十パーセント以上とは限らないだろ?」
「今日の立ち上がりみたいにな」
 俺は苦笑した。
「まあ、そんなに大幅な変更はしないつもりだけど、やってみようぜ」
「俺はもとから異論なんかないさ。俺は功二のサインには首を振らないから」
「そう言ってもらえるとありがたいよ。俺もできる限りのことをするからさ」
「ああ、頼りにしてる」
 
 放課後。
 俺は学校のまわりを走っていた。
 別にトレーニングとかいうわけじゃないけど、ただなんとなく走りたかったからだ。
 ジョギング程度の速さでおよそ十五分ほどでまわった。
 学校に戻ると早速部室の前に何人かの生徒が来ていた。おおかたどこかで試合のことでも聞いたのだろう。
 俺はそれをかき分けるように部室に入った。
 タオルで汗を拭くと、スポーツドリンクでひと息ついた。
 それからしばらくはなにもせず、ボーッと過ごしていた。
 そして、陽が完全に西に傾いた頃、俺は荷物を持って部室をあとにした。
 校舎内はそれほど騒がしくなかった。
 時折廊下でよく知った先生に会うと、試合のことについていろいろと言われたりもした。
 そして、俺はいったん自分の教室に入った。
 教室には誰もいなかった。
 それでも机の脇にカバンがいくつか残っているところを見ると、まだ何人かは部活以外のことで残っているらしい。
「ふう……」
 自分の椅子に座ると、思わずため息が漏れた。
 別に疲れてないとは言わないけど、それほどきついわけでもなかった。
 なにをするでもなく、ただなんとなく教室を見渡した。
 西日もだいぶ細くなり、電気を点けないとだいぶ暗くなってきた。
 俺はもうしばらくそのままでいることにした。
 それからしばらくして、クラスに数人が入ってきた。
「あれ、綾本くん」
 おそらく残っていたカバンの持ち主たちだろう。
「どうしたの、こんな真っ暗な教室で?」
 そう言ってそのうちのひとりが電気を点けた。
「いや、なんとなくね」
「ふ〜ん。あっ、そうだ。試合勝ったんだってね」
「まあね」
「これでまた一歩、甲子園に近づいたわけだよね」
「まあ、その通りだけど、道のりはかなり険しいよ」
「でも、夏の大会だってよかったんだから、きっと大丈夫だよ」
「ありがとう」
 それから少し話をして、そいつらは帰って行った。
 俺は時計を見た。
「六時半か……」
 おもむろに立ち上がると、電気を消して教室をあとにした。
 向かう場所はもちろん決まっている。
 薄暗い廊下を進んでいくと、案の定時間が多少早いせいもあって、二音からは何人もの声が聞こえてきた。
 俺は一瞬入るのを躊躇い、そのままもう少し待つことにした。
 なにをしているのかはわからないけど、文化祭に向けてのことだったら邪魔をすると悪い。だから自重した。
 それから十分ほどして、二音のドアが開いた。
 中からはぞろぞろと音楽部員が出てくる。さすがにこの時期には部員全員が揃っているみたいだ。
 しかし、その中には舞も紀子もいなかった。
 俺はだいぶいなくなったところで二音に入った。
「あっ、お兄ちゃん」
 最初に俺に気付いたのは、紀子だった。
「裕一くん」
「やあ」
 続いて舞も声をかけてきた。
「ねねね、試合どうだったの?」
「勝ったよ」
「おめでとう、裕一くん」
「ありがとう、舞ちゃん」
 俺としてもまさか初戦負けは考えていなかったから、素直にそれを受け入れた。
「あ〜あ、ホントは応援行きたかったのに」
 紀子は昨日からずっとそればかりだった。
「しょうがないさ。俺たちは公欠をもらえるけど、紀子たち一般生徒はよほどのことがない限り、この時期に公欠はもらえないよ」
「それはわかるんだけどね」
 それでもやはり煮え切らない様子。
「裕一くん」
「なに?」
「試合終わって、戻ってきてからずっと待ってたの?」
「ん、まあね。途中やることもあったけど」
「退屈だったんじゃない?」
「少しね」
 俺は正直に答えた。
「無理して私のこと待ってくれなくてもよかったのに」
「いいんだよ。待ちたかったんだから」
「裕一くん……」
「こほん」
「の、紀子……」
「お兄ちゃんと先輩がラブラブなのはわかってるから」
 いつの間にか、残っていた音楽部員の注目の的になっていたみたいだ。
 俺と舞はちょっと顔を赤らめ、俯いた。
「じゃ、じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「そ、そうだね」
 妙な取り繕い方をしてる俺たち。
「あはは、なに意識してるの、ふたりとも」
 紀子は人ごとで笑ってる。
 まったく……
 そして、その日は久しぶりに三人で帰った。
 
 十月の終わり。
 俺と舞は校長室に呼び出されていた。
「こちらが今日からうちの高校に交換留学生としてやってきたルーシー=ウェントンくんだ」
 校長に紹介されたのは、例の交換留学生の子。
 まず俺の第一印象は、掛け値なしの美人であるということ。
 ブロンドではなくブラウンの髪に碧眼の、写真よりも綺麗な子だった。
 髪は写真のようにそのままではなく、ポニーテールのように後ろでひとつに束ねていた。
「それでこのふたりが今日からしばらくの間、ルーシーくんにいろいろと教えてくれる、綾本裕一くんに結城舞くんだ」
「ハロー、ユウイチ、マイ」
「は、ハロー、ルーシー」
 俺は慣れないことに多少緊張気味だった。
「ハロー、ルーシー」
 舞は慣れたもので、堂々としている。
「彼女はハイスクールの方で日本語を勉強しているそうだから、それほどコミュニケーションには不安はないと思うが、どうしても不都合がある場合は、英語科の先生の協力を仰ぐように」
「わかりました」
「では、森岡先生。あとのことは任せます」
「はい」
 俺たちはいったん校長室を出た。
「じゃあ、とりあえず教室に行きましょう。みんなに紹介します」
「オーケーです」
 校長先生の言う通り、日本語の方は大丈夫のようだ。
 まず先生が入ると、ざわついていた教室がピタリと静まった。
 俺と舞は後ろから教室に入った。
「ええ、今日からうちのクラスに来ることになった、留学生の子を紹介します」
 先生に呼ばれてルーシーが教室に入ってくる。
「おおーっ」
 なんとも形容しがたい声が上がる。
 まあ、それも無理もないのかもしれないが。
「ルーシー=ウェントンさん、アメリカのロサンゼルスからの留学生です」
「ルーシー=ウェントンです。大好きなニッポンに来ることができて、とってもシアワセです。これからしばらくの間、よろしくお願いします」
 あまりにも流暢な日本語で話すものだから、みんなあっけにとられている。
「一応彼女のことは綾本くんと結城さんに頼んであるけど、みんなも協力してください。それと席は綾本くんの隣にします」
 確かに俺の隣の席がひとつ分空いているから問題はない。
「では、終わりにします。綾本くんと結城さんはちょっと」
 ホームルームが終わり、俺たちはまた別室に連れて行かれた。
「綾本くん、結城さん。ふたりにはこれから一時間目を使って、うちの学校のことなど、いろいろと彼女に教えてもらいます。そのために公欠も取りましたから」
 確かにいくら日本語がわかるといっても、いきなりその場に放り出されては戸惑ってしまう。
「じゃあ、先生は必要なものを取りに職員室に行ってくるので、少し待っててください」
 そう言って先生は職員室に戻った。
「……ふう……」
「…………」
 どうもさっきからルーシーに見られてるような気がする。
「あの、どうかした?」
 俺は痺れを切らして訊ねた。
 するとルーシーはにっこり微笑んだ。
「ユウイチって、かっこいいね」
「はっ……?」
「ユウイチみたいな男の人、ワタシ、好きだよ」
「なっ……」
 いきなりなにを言い出すかと思ったら、とんでもないことを。
「だ、ダメだからね」
 それにいち早く反応したのが舞。
「?」
 しかし、なにを言われたのかよくわかっていないルーシーは首を傾げている。
「裕一くんは私の、大事な人なんだから」
 舞はそれだけ言うと、真っ赤になって俯いた。
「だいじな人? それって、ステディな関係のこと?」
「えっ、あっ、そ、そうなるのかな」
「そうなの、ユウイチ?」
「えっ、う、うん」
「なーんだ、ザンネン。ユウイチとだったら、ステディな関係になれると思ったのに」
「る、ルーシー……」
「なんて、ジョークだよ、ジョーク」
「へ……?」
「ユウイチとマイがステディな関係だってことは、教えてもらってたから。ちょっとからかってみただけ。あはは」
 そう言って笑うルーシー。
 俺は思わず唖然としてしまった。
 初対面なのにいきなりジョークを飛ばすとは、やはりアメリカ人。しかも、心臓に悪いジョーク。
 俺も舞もなにも言えなかった。
 それからすぐに森岡先生が戻ってきた。
 先生を交え、ルーシーに簡単にではあったけど友林高校について説明した。
 洋の東西の違いはあるけど、所詮は高校。根本的な違いはない。だからルーシーもそれほど違和感なく覚えられたのではないかと思う。
 その一時間でわかったことは、ルーシーは本当に頭がいいということ。成績優秀というのはお世辞でもなんでもなかった。
 そして二時間目からは、ルーシーもうちのクラスで授業を受けた。
 授業を見てると、ルーシーよりも先生の方が緊張していたような気がする。
 ルーシーはちょっとわからないことがあると、なんでも俺に訊いてきた。それでもなおわからない時は先生に質問した。
 日本の高校生はあまり積極的には質問しないから、先生の方が対応に苦慮していた。
 休み時間にあるとクラスの連中がルーシーを取り囲み、質問攻めにしていた。
 これは本人もある程度は覚悟していたみたいで、それほど大変そうな様子もなかった。
 そして昼休み。
「オー、ワンダフル」
 俺とルーシーは屋上にいた。
 舞は音楽部のことでなにやらあるらしく、いない。
「そんなにすごい?」
「もちろん。眺めはいいし、わずかに色づきはじめた木々もキレイだし。やっぱりニッポンはサイコウだね」
 そう言ってルーシーは屈託なく笑った。
 確かに眺めは悪いとは思わないけど、どうしてもそこまで感慨深くはなれない。見慣れているせいもあるんだろうけど、根本的になにかが違うような気がする。
「ユウイチ」
「ん?」
「ユウイチはニッポンが好き?」
「そうだな、ほかの国のことはよくわからないけど、少なくとも今は好きだよ。世界でも屈指の四季があって、国土自体はそれほどじゃないけど、北と南ではまったく違った表情を持っていて」
「そうだね。LAもそういうのに近いけど、やっぱりニッポンにはかなわない。だからニッポンが好きってわけじゃないんだけどね」
「そういえば、ルーシーは将来は日米の文化のことを研究したいんだよね」
「そうだよ。ニッポンのいいところをもっともっとステイツに知ってもらいたいから」
「確かにそうだよね。時々見るアメリカのテレビなんかの日本は、未だに江戸時代だからね。正しい認識がなされてないのはちょっと残念かな。あっ、でもそれは日本でのアメリカのこともそうかな」
 アメリカ人の中には、未だに日本人は髷を結っていて、刀を差していると思っている人もいる。そして、日本人は寿司や天ぷらばかり食べていると思われている。
 まあ、その逆もある。日本人の中には、アメリカ人は映画に出てくるような拳銃を持っていて、ハンバーガーやホットドッグ、ステーキばかり食べていると思っている人がいるのも事実である。
「だからワタシはニッポンのことを正しくステイツに広めたい」
「ルーシーみたいなアメリカ人が増えれば、自然とお互いの国に関する考え方も変わってくるだろうね」
「ホントにそう思ってくれる?」
「ああ、もちろんだよ」
「あはっ、アリガト、ユウイチ」
「ちょ、る、ルーシー……」
 俺はルーシーにキスされてしまった。頬にだけど。
 こういうことを簡単にやれてしまうのは、やっぱりアメリカ人だからかな。
「そうだ、ユウイチ」
「な、なに?」
「ユウイチはベースボールをやってるんだよね?」
「うん、そうだよ。でもそれが?」
「ゲームはないの?」
「ゲーム? ああ、試合のことか。今ね、ちょうど秋の大会の最中なんだ」
「じゃあ、見に行ってもいい?」
「それは別に構わないけど。でも、試合は土曜日や日曜日だけやってるわけじゃないからね。平日だと授業があるし」
「う〜ん、ザンネン。せっかくユウイチのかっこいい姿が見られると思ったのに」
 そのセリフ、どこかで聞いたような気がする。
「でも順調に勝って、試合が雨で流れなければ、次の次の試合は日曜日だよ」
 その日は、ちなみに文化祭の日。
 負ければなにもなくなるけど、そんなところで負けるつもりはない。
「ユウイチはなにをやってるの?」
「ピッチャーだよ」
「オー、ワンダフル。じゃあ、エースなの?」
「一応ね」
「ベリーナイス。う〜ん、それを聞いたらますますユウイチのこと、好きになったよ」
「えっ?」
 俺はルーシーの言葉に耳を疑った。
「あっ、でも、さっきのは冗談だって──」
「それは半分だけ。最初のユウイチみたいな男の人、好きだって言ったのはホントだよ」
「あ、あはは……」
「それに、ユウイチとだったらホントにステディな関係になってもいいよ」
 俺は想わずドキッとした。
 それはルーシーが潤んだ瞳で俺のことを見つめていたからだ。
「ユウイチは、ワタシのこと、好き?」
「す、好きとか嫌いとか、そんなのまだわからないよ。ルーシーとは今日会ったばかりなんだから」
「じゃあ、今日のワタシは好き?」
「そ、そんな質問あり?」
 俺はその場から逃げ出したかった。
「ねえ?」
 ルーシーはジリジリと俺に迫ってくる。
 ああ、こういう時になんであの書類のことを思い出すんだろう。あのスリーサイズまで書かれていた書類のことを。
「ユウイチ?」
「あ、あのさ、ルーシー」
「ん?」
「それって今答えなくちゃダメなの?」
「どうして?」
「俺としては、もう少しルーシーのことを知ってからそういうことを考えたいんだ」
「う〜ん……」
「ダメ、かな?」
「じゃあ、ひとつ約束してくれる?」
「約束?」
「もしその頃になってワタシのことが好きだったら、ワタシをどこかに連れて行ってくれるって」
「ルーシーを?」
「うん」
「……いいよ、それくらいだったら」
「ホント?」
「まあね」
 それくらい認めないと、この場が収まらない。
 それを聞くとルーシーはパッと笑顔になり──
「あはっ、やっぱりユウイチ、大好き」
 そしてまたキスされてしまった。
 こんなところ、舞には見せられないな。
 
「おつかれ」
「おつかれした」
 部活が終わり、俺は部室をあとにした。
 あたりはもうすっかり暗くなっている。
 薄暗い廊下を二音に向かう。
 二音からは相変わらずピアノの音が聞こえてくる。
 ドアを開けると、ピアノの陰から舞が微笑みかけてくれる。
 この笑顔を見ると、部活の疲れも忘れてしまう。
 そして曲が終わる。
「今日の曲はね、私の曲なの」
「舞ちゃんの曲? じゃあ、文化祭でやるっていうやつ?」
「うん」
 彼女はちょっと照れくさそうに笑った。
「おつかれさま、裕一くん」
「うん」
 俺は彼女を抱きしめ、キスをする。
「裕一くん」
「ん?」
「少し、このままでいてもいい?」
「いいよ」
 俺の言葉を聞いて、舞は小さく頷いた。
 俺はただ、舞の髪を撫でているだけ。
「……こうしていると、とっても落ち着いてくる。私の腕の中に裕一くんを感じることができる。だからかな」
 それは以前、俺が彼女に言ったこととほとんど同じことだった。
 と、舞は急にまわしていた腕に力を込めた。
「どうしたの?」
「怖いの……」
「怖い? なにが?」
「ふっと、裕一くんがどこかへ行ってしまうんじゃないかって。この幸せな時が一瞬にして終わってしまうんじゃないかって」
「……大丈夫だよ。俺はどこにも行かない。それに、行けるわけないじゃないか。舞ちゃんを置いてどこへ行くっていうんだ」
「それは、わかってるんだけど……」
 いまいち釈然としない。
「裕一くんは今の私に満足してる?」
「もちろんだよ。俺にとって舞ちゃんは、過ぎた彼女だからね」
「本当に?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって……」
 なんとなく舞の言いたいことはわかる。
 俺たちがつきあいはじめて三ヶ月ちょっと。
 俺たちは間違いなく相思相愛だ。
 でも、彼氏と彼女という関係になってから、俺たちはほとんど変わっていない。
 仲が良くなったのは当然だけど、よく考えてみるとそれだけのような気もする。
 舞は安心感を手に入れるために俺に抱いてほしいと、二度言ってきた。
 確かに心の安心感を手に入れるために体を求めることは、ある意味では正しいことなのかもしれない。
 でも、だからといってそれだけですべてが解決できるとは思っていない。
 以前も言ったけど、俺にだって舞を自分のものにしたいという邪な気持ちはある。欲望の赴くままに舞を自分のものにしたいと思うこともある。
 しかし、俺の中にそれは絶対にしてはいけないという部分がある。
 だから、俺は舞を抱くことを躊躇い、先延ばしにしてきた。
 ほかの連中はどうかはわからないけど、俺は舞を人一倍大事にしたい。
 でも、その大事にしたいという俺の想いのせいで、舞が傷ついているのだとしたら……
「……舞ちゃんは、俺にどうしてほしいの?」
 こんなこと、本当は聞くべきではない。聞くべきではないけど、想いを口にすることによって、少しでも、ほんのわずかでも発散できるなら……
「私は……」
「なんでもいいよ。俺にできることなら」
 なんでも、というのは間違いだ。でも、ウソも方便。
「……やっぱり、裕一くんは優しい。ううん、優しすぎる。私にはもったいないくらい。私だけが裕一くんの優しさを独り占めするなんて、できない」
「……俺が優しいかどうかはわからないけど、少なくとも舞ちゃんとふたりだけの時は、俺のすべては舞ちゃんのものだよ。それに対して後ろめたい気持ちになる必要なんかないんだ。だってそうだろ? 俺は舞ちゃんのためになにかしたい。舞ちゃんが望むことをなんでもしてあげたい。お互いがお互いを求めてるんだから、議論を挟む余地なんてないんだ」
「裕一くん……」
 そして、ようやく舞の顔に笑顔が戻った。
「たとえ今は変わらなくても、いつか必ず変わる時が来る。時間が流れ続けるみたいに、季節が移ろいゆくように。だから、焦ることなんかないんだ。俺が舞ちゃんを好きな気持ちはいつまでも変わらないから。その好きな気持ちの上に、いろいろな気持ちを重ねてさらに好きになっていけばいいんだ」
「そうだね。私も同じ。私が裕一くんを好きな気持ちは、いつまでも変わらない。でも、その上にいろんな気持ちを重ねて、さらに裕一くんを好きになる。今はその途中、ううん、まだはじまったばかり。だから、なにも焦ることはないんだね」
「もし心配なら、俺がいつでも舞ちゃんの側にいてあげるから。側にいるだけで心配なら抱きしめてあげる。それでも心配なら、キスをしてあげる」
「ありがとう、裕一くん」
「いいんだよ、そんなこと」
 俺は、彼女をいつまでも感じていたい。だから、彼女のためにできる限りのことをしたい。
 たとえ、それは変わらないことでも。
 
 
第七話「彩りの季節」
 
 一
「ふわ〜あ……」
「なんだ、寝不足か?」
「あ、ううん、そうじゃないよ」
 由紀子は、慌てて頭を振った。
「最近練習がきつくて、ちょっと疲れ気味だから」
「ゆきちゃん、真面目だからねぇ」
「真面目って、練習を真面目にやらないでいつ真面目にやるの?」
「まあ、それはそうなんだけど」
 朝。俺と由紀子、紀子の三人で電車を待つ光景も日常になってきた。
「のりちゃんだって、部活は真面目にやってるでしょ?」
「う〜ん、私の場合は真面目って感じじゃないかも」
「そうなの?」
「うん。あ、だからって、不真面目ってことでもないよ。なんて言うのかな、うちの音楽部って肩の力を抜いて、すごくリラックスしてできるんだよね。好きなことを好きなようにやってる。そんな感じ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 確かに、音楽部はそんな感じの部活だ。だからこそ毎年結構な数の部員が入るんだろう。
「だけど、由紀子」
「うん?」
「無理だけはするなよ。練習するのは構わないけど、それで体を壊したらなんの意味もないんだから」
「わかってるよ。でもね、お兄ちゃん」
「ん?」
「それは、お兄ちゃんだけには言われたくないなぁ」
「どうしてだ?」
「だって、お兄ちゃんはすぐに自分の限界を超えてなんでもやろうとするから。だから、私に言う前にまず、お兄ちゃん自身のことをちゃんと考えてやらないと」
 そう言って由紀子は笑った。
 言われたこと自体は、まさにその通りだからなにも言い返せない。
「それに、お兄ちゃん。今はこれまで以上にそういうことに気をつけなくちゃいけないでしょ?」
「なんでだ?」
「んもう、これだから……」
 呆れ顔で頭を振る。
「夏の大会のこと、忘れたの?」
「……ああ、彼女のことか」
「だから、余計に気をつけなくちゃいけないの。わかった?」
「わかったよ」
 まったく、それを言われるとは。確かにあの時は舞に余計な心配をかけさせた。もう二度とそんな想いさせないようにしようと思った。
「それにしても、由紀子にそこまで言われるとは思わなかったよ」
「私だって、だてにお兄ちゃんの妹をやってるわけじゃないから。それにね、私は仲の良いお兄ちゃんと先輩の姿を見てるのが好きなの。見てる私まで幸せな気持ちになれるからね」
「それはわかる気がする」
 紀子も由紀子の意見に賛同する。
「ちょっとだけ残念だけど、やっぱりお兄ちゃんと先輩は最高のカップルだと思う」
「……そんなに持ち上げても、なんにも出ないぞ」
「そんなこと期待してないよ。ね、のりちゃん?」
「うん。そこまでの甲斐性があったら、お兄ちゃん、もっと早くに彼女がいたと思う」
 本当にこいつらは、褒めてるんだかけなしてるんだかわからない。
 そうこうしているうちに、電車が到着した。
 扉が開くと、すぐに乗り込む。この時間はあまり降りる人はいないからだ。
 乗り込むとほぼいつもと同じところに彼女はいた。
「おはよう、舞ちゃん」
「おはよ、裕一くん」
 いつもと同じ微笑みで俺を迎えてくれる。
「おはようございます、先輩」
「おはようございます」
「おはよ、由紀子ちゃん、紀子ちゃん」
 電車が動き出すと、舞はそっと俺の制服をつかむ。
 ここでさっと肩とか抱けると、格好もつくのかもしれないけど、あいにくと俺にはそこまでの甲斐性はない。情けないけど。
 電車の中では、特にこれといった話をするわけではない。あまり騒ぐとほかの人に迷惑がかかるからだ。時々思い出したようになにかを話す程度。
 四人で行く時は、由紀子や紀子が話題を振ることが多い。
 と、その時──
「きゃっ!」
「おっと」
 電車がいきなりブレーキをかけた。
 そのせいで立っていた乗客はバランスを崩す。
『お客さまにお知らせします。ただいま線路内に人が立ち入ったという情報が入り、電車は急停止しました。現在確認作業を行っております。お急ぎのところ大変申し訳ありませんが、しばらくお待ちください』
 車内アナウンスが入った。
 どうやら人身事故ではないみたいだから、すぐに動き出すだろうけど。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「ん?」
「いつまでそうしてるつもりなの?」
「えっ……?」
 紀子に言われて視線を落とすと──
「…………」
 俺の腕の中に、舞がいた。
 うっすらと頬を染め、少し俯いている。
「あ、えっと、ごめん……」
「う、ううん、大丈夫だから」
 彼女は少しだけ名残惜しそうに体を離した。
「ホント、お兄ちゃんて肝心な時にダメだよね」
「うんうん」
 そんな俺たちを見て、由紀子と紀子は揃ってため息をついた。
 
 ルーシーがやって来て数日が経ったけど、未だに『ルーシーフィーバー』は続いていた。
 休み時間の度にルーシーを見に誰かしらがやって来る。
 ルーシー本人はさほど気にしていないようだが、俺としてはあまりいい気分ではなかった。なんとなく、ルーシーが見せ物になっているような気がするからだ。
「ユウイチ」
「ん?」
「ユウイチは、フジヤマに登ったことはある?」
「ルーシー。フジヤマじゃなくて、富士山だよ」
「フジサン? どう違うの?」
「いや、同じものなんだけど。日本ではそう言うんだよ」
「ナルホド」
 ルーシーは、時々そんな風にいろいろ訊いてくる。好奇心旺盛、という言葉だけでは片づけられないほど、知的欲求にあふれている。
「それで、どうなの?」
「登ったことはあるよ。小学生の時にね」
「ふ〜ん」
 とはいえ、それも答えを聞くとたいていはすぐにしぼんでしまう。どうやら、答えさえわかればあとはいいらしい。
「……ん〜……」
 と、ルーシーはなにも言わず、じっと俺を見ている。
「どうかした?」
「やっぱり、ユウイチってカッコイイね」
「は……?」
 突然のことに、思わず間抜けな声を上げてしまった。
「マイが、ユウイチを選んだのもわかる気がする」
「ちょ、ちょっと、ルーシー……」
 微妙にこちらへにじり寄ってくる。
「ユウイチ」
「な、なに?」
「どうしたらユウイチはワタシを好きになってくれる?」
「えっ……?」
「ユウイチ」
 真剣な表情で言うルーシー。
「そ、それに答える前に、とりあえず、少し離れてくれないかな」
「オー、ソーリー」
 ようやく微妙な圧迫から解放された。
「それと、ルーシー」
「うん?」
「ちょっと教室から出よう」
 さすがにこの場でその話を続けるのは、いろいろな意味で問題があった。
 舞に聞かれるのも問題だが、ほかの連中が誇張して言いふらさないとも限らないから。
 とりあえずあまり話を聞かれそうにない廊下の隅までルーシーを連れて行く。
「答える前にひとついいかな?」
「うんうん」
「ルーシーは、俺がたまたま世話係になったから興味を持ったの?」
「う〜ん、最初はそうだったよ。ユウイチとマイの写真を見せてもらって、単純に興味を持ったから。でも、今は違う。ユウイチのこと、いろいろ見て、話を聞いて、それで純粋に興味を持ったの」
 そう言ったルーシーの表情は、とても穏やかで、本当にそう思ってるんだとすぐにわかった。
「そっか。それならいいんだ。興味本位でからかわれてるのかとも思えたから」
「ワタシ、そんなことしないよ。それに、ユウイチはどう思ってるかわからないけど、ワタシはオトコの人、そんなに知らないから」
「ルーシー……」
 ちょっと失敗したかもしれない。俺としても、そんなことまで言わせるつもりはなかったんだけど。
「それで、どうなの?」
「あ、うん。とりあえずだけど、少なくとも今はルーシーのことを嫌いになる要素はないよ。ああ、まあ、言ってみれば、好きってことだと思うけど」
「レアリー?」
「まあね」
「……んーっ、ユウイチっ!」
「ちょ、ちょっと──」
 すると、いきなりルーシーに抱きつかれた。
 豊かな胸が押しつけられる。
「じゃあ、これで少しはワタシのこと、見てくれる?」
「そ、そうだね。だから、ちょっと離れて──」
「もう、ユウイチ、大好きだよっ」
 そして、またもキスされてしまった。
 慌ててまわりを見るけど、とりあえずそれは見られてなかったようだ。
 だけど、それは甘かったことを、あとで知ることになる。
 
 その日の放課後。
 いつものように部活を終え、薄暗い校舎を二音へ急ぐ。
 練習が少し長引いたから、いつも以上に誰もいない。
 それでも二音からはピアノの音が聞こえてきた。
 ドアを開けると、彼女は静かにこちらを見て微笑んだ。
 本当にそれだけで練習の疲れが吹っ飛ぶ。
 だけど、それはそこまでだった。
 突然、不協和音が音楽室に響いた。
 一瞬なにが起きたのかわからなかった。
「……舞ちゃん……?」
「私、裕一くんのことは信じてるよ。信じてるけど……」
 そう言って彼女は俺に近寄り──
「ん、む……」
 強引にキスをしてきた。
「ま、舞ちゃん。どうしたの?」
 彼女は、今にも泣き出しそうな顔だった。
「……昼休み、私見ちゃったの」
「えっ……?」
「そんなつもりなかったんだけど、本当に偶然で……」
「それって……」
 まず間違いなく、ルーシーとのことだろう。
「謝らないでね。謝られたら、余計なこと考えちゃうから。あれは、ルーシーがやったことだから」
「それでも──」
「だって、そう思わないと、私、ますますイヤな女になっちゃうもの」
「舞ちゃん……」
「裕一くんとルーシーはそういう関係じゃないってわかってる。ルーシーは結構本気みたいだけど、少なくとも裕一くんはそんなことないから。でも、それでも、いろいろ考えちゃうの」
 幸せだと、余計に不安にさいなまれることがある。
 ほんの些細なことで幸せが消えてしまうかもしれないからだ。
 それは、誰でもそうだと思う。俺だってそうだ。
 それが、ずっと不安を訴えてきた舞なら、余計かもしれない。
 そう思わせてしまったのは、俺のミスだ。いや、ミスとかそういう問題じゃない。
 もっと根本的な問題だ。
「裕一くん……」
 すがるような眼差しで俺を見つめる。
 俺は、どうすればいいんだ?
 この目の前にいる誰よりも俺のことを好きでいてくれる大事な人のために、なにをすればいいんだ?
「舞ちゃん。ひとつ、無理なことを言ってもいいかな?」
「無理な、こと?」
「理由はどうあれ、俺が舞ちゃんを悲しませたのは間違いない。それでも、俺は舞ちゃんに信じてほしい。俺は本当に舞ちゃんが好きだってことを。だから、それをどうやって証明できるかって考えた」
 それが最善だとは思わない。
「今日、ずっと一緒にいてほしい」
「えっ……?」
「どんなことを言っても、所詮は言い訳にしかならないから。だったら行動で示すしかないと思って」
 本当はもっといい解決方法があるのかもしれない。でも、俺にはそれしか思いつかなかったから。
「どうかな?」
「でも、それって……」
 わずかな逡巡。
「まだ自信はないけど、本当に心から望むなら、抱いてもいい」
「裕一くん……」
「そうすることで、また笑ってくれるなら」
 それは卑怯な言い方だと思う。
 そんな言い方されたら、なにも言えなくなる。少なくとも俺はそうだ。
 それでも、やっぱりそれしか俺には思いつかなかった。
「……ホント、裕一くんてずるい」
 そう言って舞は、薄く微笑んだ。
「私が望めば裕一くんは抱いてくれるかもしれないけど、でも、きっと私も裕一くんも後悔する。だって、こんなあやふやな状態で抱かれても、嬉しくないから。それなのに、裕一くんだってそれがわかってるはずなのに、あえてそう言うんだから」
「俺は、バカだからそれしか思いつかなかったんだ」
「かもしれないね」
 ほんの少しだけ勢いをつけ、俺から離れた。
「でもね、バカなのは私も同じだよ。だから、おあいこ」
「舞ちゃん……」
「本当はね、わかってたの。うぬぼれかもしれないけど、私、裕一くんに一番好きでいてもらってるって自信あるから。ルーシーとだって、なにもないってこともわかってた。それでも、この胸のもやもやを抑えきれなくて……」
「もういいよ……」
 今度は、俺から彼女を抱きしめた。
「……裕一くん」
「ん?」
「本当に、一緒にいてくれる?」
「あ、うん、舞ちゃんがいいなら」
「……うん。今日は、もうひとりになりたくないから」
 そう言って今度は一方的ではない、ちゃんとしたキスを交わした。
 
 それからは少し大変だった。
 まず、うちに連絡して事情を説明し、さらにその上で了解を得て。
 うちは父さんも母さんもあまり口うるさく言わないからいいけど、それでもいくつか言われた。
 それから今度は、彼女の家の方に連絡して、外泊許可を求めた。
 ここではさすがに普段は寛大な彼女の両親も難色を示した。それでも、彼女の必死さが伝わったのか、最後には認めてくれた。
 彼女がうちに来るのははじめてじゃないけど、気持ち的にははじめての時よりも緊張していた。
 夕食は突然増えてしまった彼女の分もちゃんと用意してくれていた。由紀子は複雑な表情で、良二は意味ありげな表情で、奈津子は興味津々な表情で俺たちを見ていた。
 夕食後は、適当に話をして早めに部屋に引き上げた。
 そして──
「ねえ、裕一くん」
「ん?」
「私、外泊してるんだよね?」
「ああ、うん、そうだね」
「なんかね、にわかには信じられない感じ」
 そう言いながらも、舞は嬉しそうに俺の胸に頬を寄せてくる。
「おかしな話だけどね、こういうことはもう少しあとになると思ってたの」
「おかしなって、別におかしくないと思うけど」
「だって、私はもう二度も裕一くんに抱いてほしいって言ってるんだよ? もしそういう関係になってたら、外泊だって、その、多くなると思うし」
「あ〜……かもね」
 確かにそうだろう。俺も彼女も健康な男女だ。その行為が一度だけで満足できるはずもない。となると、外泊して、ということはあるはずだ。
「あ、そうだ。裕一くん」
「どうしたの?」
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「お願い?」
「うん。あのね、私のこと、呼び捨てにしてほしいの」
「呼び捨てに? それはいいけど、ちゃん付けはイヤ?」
「ううん、そんなことないよ。でも、ほんの少しだけ距離があるかなって思えて。実際はそんなことないんだけどね。すごく仲の良い夫婦だって、愛称で呼んだりするし」
 彼女の考えてること、言いたいことはよくわかった。
 確かに、呼び捨ての方がなんとなくより親密な感じがする。特に、最初は名字で呼び合ってた俺たちにとっては。最初から名前で呼んでる幼なじみとかならそういうことはないんだろうけど、少なくとも俺たちは違う。
「いいかな?」
「いいに決まってるよ。舞のお願いなんだから」
「あ……」
 自然に出てきた言葉に、舞は一瞬驚き、でも次の瞬間には満面の笑みを浮かべていた。
「あ、でも、たまに今までみたいにちゃん付けで呼んじゃうかもしれないから、その時は許して」
「う〜ん、どうしようかなぁ」
 わざとらしくそう言う。
「じゃあ、こうしようよ。裕一くんが私のことを五回ちゃん付けで呼んだら、その度に一回私のお願いを聞いてくれるっていうの」
「五回かぁ。うん、いいよ」
「ちゃんと数えるからね」
「大丈夫だよ」
 そういう会話ができるようになり、ようやくふたりの間のわだかまりも完全に消えた。
 俺も舞も、もう必要以上に思い詰めても焦ってもいない。
「それじゃあ、そろそろ寝ようか」
「うん」
「おやすみ、舞」
「おやすみ、裕一くん」
 そっとキスを交わし、俺たちは眠りについた。
 
 二
 秋の都大会は順調に日程を消化していた。途中に雨もあったけど、試合には特に影響はなかった。
 俺たちもなんとか勝ち進んでいた。
 だけど、そうすると自然と例の問題が浮上してきた。
 そう、文化祭のことだ。
 学校内は間近に迫った文化祭に向けて、あちこちで準備が行われている。文化祭は基本的には文化部を中心にした行事だけど、運動部やクラス単位、有志でもやっていいことになっている。だから、受験勉強の鬱憤を晴らしたい三年は結構張り切ってたりする。
 そういう姿を見ていると、参加できるか微妙な俺にとっては、妙な疎外感を感じてしまう。それもしょうがないとは思うけど。
 とはいえ、しょうがないだけで済ませてしまうのも問題かも。
「裕一くん♪」
「ん?」
「ううん、なんでもないよ。呼んでみただけ」
 そう言って舞は、にこ〜っと笑った。
 その笑みは本当に嬉しそうで、幸せそうだった。
「でも、舞」
「うん?」
「いいの? 学校でここまでして?」
「……裕一くんは、イヤ?」
「イヤじゃないけど……」
 俺と舞は、昼休みの屋上でほとんどぴったりくっついていた。ちらほらと生徒の姿を見るけど、向こうは見て見ぬふりしてる。
 舞は、あの日からそれこそそれまでの鬱憤を晴らすように、俺にべったりになった。今まで人目を気にしてしなかったことも、平気、とは言わないけど、結構積極的にやるようになった。
 それはそれで嬉しいんだけど、俺としてはもう少しだけ節度を持ってほしいと思う。少なくとも学校でそれをやられると、彼女のことを好きだった連中に闇討ちされるかもしれないから。
「だったら、私はいいよ。それにね、こうしてるとすごく幸せな気持ちになれるから。裕一くんを好きでよかったって思えるから」
 そんな風に言われたら、なにも言えない。
「あ、そういえば、裕一くん」
「ん?」
「天気予報見た?」
「天気予報? 一応毎日見てるけど、なんで?」
「文化祭当日、ひょっとしたら雨になるかもしれないなぁって。本当はそんな風に思っちゃいけないんだと思うけど、雨で試合が中止になってくれれば、裕一くん、文化祭に出られるから」
 彼女の言っていることは間違いではない。試合当日に朝から試合が無理なくらい雨が降っていれば、当然中止になる。文化祭をやってる関係で練習はできないだろうから、そうすると文化祭に参加できるようになる。
「……どんなに強がってもね、やっぱり裕一くんに見てほしいから」
 文化祭と試合が重なるかもしれないと話してから、はじめてかもしれない。彼女がはっきりそう言ったのは。
 俺だってできれば舞の姿を見たい。
 でも、少なくとも俺の口からはそれは言えない。言えば、野球部のみんなに申し訳ないから。
「どうなるかは当日までわからないけど、きっと、なるようになるよ」
「……うん、そうだね」
 本当に、なるようにしかならないんだから。
 
 文化祭は、二日間で行われる。とはいえ、初日は半日しかやらないので、実質的には二日目のみと考えてもいい。だから、やる側としても初日は最終準備に費やし、二日目にがんばろうというところも結構ある。
 そして、音楽部もそんなところのひとつだった。
 音楽部はクラスや有志での活動に支障が出ないよう、当初から二日目のみだった。吹奏楽部とのジョイントのみだったのも、そういうためである。
 今年、音楽部のみのコンサートをやるとしても、それは一度きり。伝統は今年も引き継がれた。
 とはいえ、逆に言えばそのせいで俺の問題が発生した。初日にもあればここまで問題にはならなかったのだが、それを言ってもしょうがない。
『週末は全国的に荒れ模様になるでしょう』
 文化祭前日の夜。天気予報ではそんなことを言っていた。
「あら、雨なのね」
 テーブルを片づけながら、母さんはそう言った。
「じゃあ、裕一。文化祭に出られそうね」
「まだわからないよ。日曜日にならないと」
「それはそうだけど。でも、あれでしょ?」
「ん?」
「本音としては、雨が降ってほしいんでしょ? なんといっても、彼女の晴れ舞台があるんだから」
 いつもより意地の悪い笑みを浮かべる母さん。
「野球も大切だと思うし夢はその先にあるのもわかるけど、自分の彼女のこともちゃんと見て、考えてあげないと、愛想尽かされるわよ」
「わかってるよ」
「それならいいけど」
 そう。それは十分わかってる。
 そして、舞を手放したら二度と舞のような彼女とは巡り会えないことも、わかってる。
 だからこそ俺は──
 
 文化祭初日。
 天気予報はほぼ当たっていた。空には朝から黒い雲が覆い、時折雨粒が落ちてきた。
 ただ、このくらいの天気では試合は行われる。実際、今日予定の試合は行われているはずだ。もし明日もこれなら、文化祭参加は無理だけど。
 そんなことを考えながら、俺たち野球部は学校とは別の場所で練習を行っていた。学校はグラウンド、体育館、校舎ともに使えないからだ。さすがに試合前日に練習をしないわけにはいかないから、しょうがない。
 午前中から軽い練習をして、ミーティングを行い部活は終わった。
「裕一」
「ん?」
「これから学校行くのか?」
「ああ、行くよ。せっかくだし。功二はどうするんだ?」
「俺も行くよ。やっぱり、せっかくだし。それに、ちょっと約束もあるしな」
「約束?」
 俺は首を傾げた。
「あ、いや、なんでもない。気にしないでくれ」
 功二は慌てて頭を振った。
 それから俺たちは、ほとんど全員の野球部員とともに学校に向かった。
 学校の正門にはさらに即席の門が作られ、お客を迎え入れていた。
 あいにくの天気なので外はほとんど使われていないけど、校舎内はそれなりに賑わっているみたいだった。
 校舎内に入ったところで、それぞれ目的の場所へ向かう。
「功二はどうするんだ?」
「あ〜、俺はちょっと用があって──」
「やっ、野球少年たち」
 と、横から声がかかった。
 見ると、中田と堀だった。
「もう練習終わったの?」
「まあね。この天気だし、監督も早めに切り上げてくれたよ」
「そっか。あ、じゃあ、少なくとも今日はもう大丈夫なのよね?」
「そうだね」
 中田はそれを確かめるとニコッと笑った。
「それじゃあ、功二くん。行こ」
「え、あ、うん」
 中田は功二を連れて階段を上がっていった。
 突然のことに事態が上手く飲み込めていない俺に、堀が教えてくれた。
「あのね、雪乃ちゃん、木村くんとつきあってるの」
「えっ、そうなの?」
「うん。修学旅行の時かな。いろいろ話したら意気投合しちゃったから、つきあうことにしたって」
「……な、中田さんらしい理由だね」
 確かに、俺の知ってる中田ならそんな風に言いそうだ。
「それでね、今日練習が早く終わるかもってことだったから、それなら一緒に見てまわろうって約束して」
「なるほど。その約束だったのか」
「綾本くんは、舞ちゃんと約束してないの?」
「特にはしてないよ。約束しても守れるかどうかわからなかったし。それに、早く終わったら終わったで、彼女がどこにいるかもわかってるから」
「ふふっ、そういうところ、綾本くんらしい」
 そう言って堀は笑った。
「じゃあ、綾本くんはこれから舞ちゃんを迎えに行くんだね」
「そうだけど。堀さんは? 誰かと約束とかないの?」
「あ、えっと、約束はしてないけど……」
「けどってことは、なにかしたいことはあるってことだね。あれ? でも美術部の方はいいの? 確か美術部もなにかやってたと思うけど」
 堀は、帰宅部の中田と違い、美術部に所属している。
「うちは、作品の展示が主だから」
「そうなんだ。じゃあ、そのなにかしたいことって、なに? よかったら手を貸してあげるけど」
「えっと、それは……」
 それまでちゃんと話していたのに、急に黙り込んでしまう。まあ、もともと堀はこんな性格だけど。最近は俺が舞に近いからか、普通に話してくれるようにはなった。
「……その、水科くんに……」
「豊和? あいつになにか用でもあるの……って、ひょっとして?」
 真っ赤になって俯く堀。
 一連の流れを考えれば、誰でも結論に辿り着ける。
「わかったよ。とりあえずあいつのいそうなところに行ってみよう」
「う、うん」
 成り行き上、俺は堀と豊和を探すことになった。
 広い校舎内ではあるけど、あいつの行きそうな場所なんてたかが知れてる。面白いところか、カワイイ子がいるところ。その二点だ。
 そして、いくつ目かの教室で発見した。
「豊和」
「ん? おお、裕一か。どうしたんだ?」
 そこは、女子テニス部が運営している喫茶だった。ウェア姿で注文を取りに来てくれるということで、一部の男子にすこぶる好評なようだった。
 というか、ここには由紀子がいるはずなんだが。兄としては複雑な気分だ。
「ん、俺はおまえになんか用はないんだが──」
 そう言って俺は、俺に隠れるように後ろにいた堀の背中を押した。
「堀さんが、おまえに用があるって」
「弥生ちゃんが?」
「あ、えと、あの、その……」
 緊張でなにを言ったらいいかわからない様子の堀。
「まあ、俺は堀さんをおまえのところへ連れて行くのが役目だったから、あとはよろしくな」
「お、おい、裕一」
 後ろでなにか言ってる豊和を無視し、俺は本来の目的地へ向かった。
 豊和と堀のことは、どうせふたりにしかどうすることもできないし。
「それにしても……」
 まさかこんなことになってるとは思わなかった。
 結局、俺と舞のことがきっかけとなって、功二と中田もつきあい、少なくとも堀は豊和のことを好きになった。まあ、最初からそうだったかはわからないけど。
 いずれにしても、それはそれでよかったのかもしれない。
 そんなことを考えていると、いつの間にか二音前に着いていた。
 中からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
 この中へノックもせずに入るわけにはいかないので、一応ノックする。
 と、ピタッと声が止んだ。
 すぐにドアが開く。
 ドアを開けたのは、たまたま近くにいた部員だった。だけど、そのすぐあとに歓声が上がった。
 なにが起きたのか俺にはさっぱりわからなかった。
 と、すぐさま舞が出てきて、そのまま俺を二音から遠ざけた。
「ど、どうしたの?」
 突然のことに、さすがに聞かないわけにはいかない。
「ごめんね、裕一くん」
 舞は、いきなり謝った。
「実はね、今度二音に来るのは誰かって予想してて、それで裕一くんだろうってみんなが予想して、その通りになっちゃったから……」
 少し要領を得ない説明だったけど、理解はできた。
「別に舞が悪いわけじゃないんだから、気にしなくていいよ」
「……うん、ありがとう、裕一くん」
 女子ばかりの音楽部だと、そういうどうでもいいようなことでも楽しもうとするんだろう。俺としては少し理解できないけど。
「あ、それで、裕一くんはもういいの?」
「うん。舞は?」
「私は最初から大丈夫。今日は練習もないし」
「そっか。じゃあ、一緒に見てまわろうか」
「うんっ」
 俺たちは端から校舎内を見てまわった。
 初日は二日目に比べて地味とは言いながらも、それでもそれなりに賑やかだった。
 去年は適当にしか見てなかったから、ここまでとは正直思わなかった。
 それは彼女も同じだったらしく、短い時間だったけどかなり楽しめた。
 最後にやって来たのは、有志による喫茶すペースだった。
「イラッシャイマセー」
 妙なイントネーションで迎えられるとそこには──
「ハーイ、ユウイチ、マイ」
 フリフリの服を着てウェイトレスをしているルーシーの姿があった。
「る、ルーシー? その格好は?」
「カワイイでしょー? ワタシ、とっても気に入ってるの」
 そう言ってルーシーはクルッとまわった。
 短めのスカートがふわりと翻り、その場にいた男子から思わず声が上がった。
「……むぅ……」
 が、隣の舞は、少しつまらなそうだ。というか、嫉妬してる。
 このままここに長居すると問題がありそうだけど──
「ユウイチとマイにはいつもお世話になってるから、今日はワタシのオゴリね」
 そう言って強引に座らせ、ジュースとお菓子をテーブルに並べた。
「え、えっと、ルーシー?」
「遠慮しないで。ホントに感謝の気持ちなんだから」
 屈託のない笑顔でそう言われては、俺も舞もそれを受けるしかなかった。
「そういえば、ユウイチとマイは一緒に見てきたの?」
「あ、うん。途中からだけど。ルーシーはずっとここに?」
「イエス。ここがワタシのいるべき場所だから」
 なるほど。ルーシーも嫌々やってるわけじゃないんだ。
 確かにいつも以上に生き生きしてるように見える。
「でも、せっかくの日本での文化祭なんだから、見てまわろうとは思わないの?」
「う〜ん、見てまわりたいけど、ひとりでまわっても面白くないし。あ、そうだ。ユウイチ──」
「ダメだからね、ルーシー」
 ルーシーが皆まで言う前に、舞が口を挟む。
「ルーシーの気持ちがわからないわけじゃないけど、少なくともふたりきりはダメ」
「じゃあ、マイも一緒ならOK?」
「えっ、それは、まあ……」
「グッド。じゃあ、明日、三人で見てまわろ」
「あ、ごめん。ルーシー。明日のことはまだ確約できない。試合があるかもしれないから」
「オー、そうだったね。でも、明日は雨だって言ってたよ」
「うん。だから、雨で試合が中止になったら、という条件付きでならいいよ」
「それで全然問題ないよ」
 そう言ってルーシーは笑った。
 自分で言い出したことだからしょうがないけど、なんだか大変なことになってきた。
「……むぅ……」
 やっぱり隣で舞は、嫉妬してるし。
 ホント、どうなるのやら。
 
 三
「……なんとなく、こうなるんじゃないかとは思った」
 次の日の朝。この季節だからカーテンを開けてもまだ夜は明けてないけど、それにも増して暗かった。というか、カーテンを開けなくても外の様子はわかった。
「土砂降りだ……」
 激しい雨が窓を打ち、このせいで目が覚めたと言ってもおかしくなかった。
 さすがにこの天気では、試合は中止だな。基本的に試合の決行、中止はその日の朝に決まる。何試合やるかで多少前後するけど、遅くとも七時には決まる。
 少なくとも連絡が入るまでは家にいなければならない。
「まあ、悩むまでもないだろうけど」
 嘆息混じりに呟き、とりあえず着替えることにした。
 あまりにも雨が激しいから、さすがに朝のトレーニングもできない。こうなると、いつものように朝早く目覚めてしまったことを恨めしく思ってしまう。
 ビニール袋に包まれた新聞を取り、リビングでそれを読む。
 適当に流し読みしていると、まずは母さんが起きてきた。
「おはよう、裕一」
「おはよう」
「やっぱり雨ね。試合は中止かしら?」
「たぶんね」
 母さんの次に起きてきたのは、由紀子だった。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おはよう」
「すごい雨だね。今日、試合中止だよね?」
「たぶん」
 由紀子が起きてきて少しした頃、パジャマ姿のままの奈津子が起きてきた。
「おはよ〜、お兄ちゃぁん」
「おはよう、って、いきなり寝るな」
 奈津子は起きてきたかと思ったら、いきなりソファに座り込み目を閉じた。
「だってぇ、まだ眠いんだもん……」
「だったらもう少し寝てればいいじゃないか」
「ダメなのぉ。今日は部活が早いから」
「だったら、ちゃんと起きろ」
「はぁい」
 ふらふらと立ち上がり、洗面所へ向かった。顔でも洗えば目も覚めるだろう。
 それからしばらくした頃、電話がかかってきた。電話の相手は、功二だった。
『改めて言わなくてもわかってるとは思うけど、今日は中止だ』
「だろうな」
『今日の試合は、代替日に行われることになったから、とりあえず日程に変更はなしだ』
「了解」
 中止の知らせを聞き、俺もようやく落ち着いた。
 朝食の時。
「じゃあ、お兄ちゃんもしっかり参加するんだね」
「ん、そうだけど」
「だったら、うちの部にも来てよ」
「女子テニス部か? だったら昨日少しだけ顔出したぞ」
「えっ、そうなの?」
 由紀子は挟んでいた卵焼きをポロッと落とした。
「私、全然気付かなかったよぉ」
「すぐに出たから、休憩とか裏方とかやってたら気付かなかっただろうな」
「そっか。でも、どうして来たの? ひょっとして、私の様子を見に?」
 少しだけ期待に満ちた目で見つめる由紀子。
「いや。ちょっと知り合いの用事で顔を出しただけだから」
「知り合いの用事? 先輩じゃなくて?」
「そのあたりの詳しいことは、俺も結果を知らないからなんとも言えないけど」
「じゃあ、今日はちゃんと私のいる時に来てね」
「わかったよ」
「うん」
 嬉しそうに頷く由紀子だけど、ウェア姿でウェイトレスの真似事をすることに抵抗はないんだろうか。もしないんだとすると、兄としてはやっぱり心配だ。
「ん、どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや、なんでもない」
 まあ、由紀子の場合は単に俺に見てほしいだけなんだろうけど。俺がこういうことを言うと誤解されそうだけど、由紀子はブラコンだから。それ自体は悪いとは思わないけど、まさかこういう弊害が出るとは予想できなかった。
 とはいえ、それも俺だけのせいではない、と思う。だから、由紀子にはなるべく早く、兄離れしてもらいたい。
 食べ終わった頃、ようやく父さんと良二が起きてきた。
 で、これだけの雨の日には、父さんに活躍してもらう。
 学校まで送ってもらうのは大変だから、駅まで車で送ってもらうのである。父さんがいない時はレインコートを着て自転車で行くんだけど、いる時は遠慮なく使う。
 いつもより少しだけ遅い時間に車で家を出る。
「裕一」
「ん、なに?」
「試合がなくなってよかったか?」
 父さんは運転しながらそう訊ねてきた。
「よかったとか悪かったとか、そういうのはないけど。なんで?」
「いや、ないならいい」
 父さんの言いたいことはよくわかった。だけど、それをすんなり認めるのはなんかイヤだった。
 初冬の雨に煙る車窓を眺めながら、俺は小さくため息をついた。
 
 朝方は土砂降りだった雨も、文化祭がはじまる頃にはだいぶ弱くなった。それでもあいにくの天気には変わりなく、実行委員会としてはお客の入りを気にしているところだろう。
 本来なら、俺のように特になにもすることのない生徒は、早くから来る必要はない。出席は二日目が終わったところで取るからである。
 俺としてもそれは思ったが、父さんに二度手間させるのも悪いし、なによりも家でじっとしてるのがイヤだった。
 とはいえ、学校で俺のすることなどなにもない。本当なら参加すらできなかったわけである。役割があるはずもない。
 結局、俺ははじまって少しするくらいまでは、ひとりで時間をつぶすことになった。
 はじまって少しすると、少しずつ一般のお客も見られるようになってきた。雨はまだ降っているが、文化祭は今日を残すのみ。うちの文化祭は地元の人にも結構評判で、毎年多くの人が訪れる。だから、雨でも足を運んでくれている。
 あとは、他校の生徒である。この時期はあちこちで文化祭が行われているが、俺の知る限りでは今日はうちだけのはずだった。だから、行脚してる連中はまず間違いなくやって来る。
 昼前くらいになると、校舎内はだいぶ賑わうようになった。
 ちょうどその頃、俺は体育館にいた。
 体育館は、主にイベント会場として使われている。特に今年はグラウンドが使えない状況なので、その重要度は高かった。
 で、俺が体育館にいる理由は、音楽部の吹奏楽部とのジョイントコンサートを見るためである。
 ここでは舞や紀子はそれほど活躍しないが、それでも出ていることに変わりない。
 演奏する曲は、ほとんどが誰でも知っているようなメジャーな曲で、聴いていて楽しいものが選ばれていた。せっかくやるのだから、やはり聴いてもらえなければ意味がない。そうすると、どうしてもそういう中身になるのだろう。
 コンサートは三十分ほどで終わった。
 吹奏楽部も音楽部も、あとは単独でそれぞれの企画を行う。
 と、そんなことはどうでもいい。
 俺は体育館を出て、二音へ急いだ。
 二音は、このあと午後から行うオリジナルコンサートの準備が完璧に為されていた。
 それでもコンサートまでは休憩を含めた自由時間だと聞いている。
 二音に顔を出すと、すぐに舞がやって来た。
「裕一くん」
「おつかれ、舞」
「ううん。まだまだこれからだよ」
 そう言って彼女は微笑んだ。
「あ、お兄ちゃん」
 と、紀子までやって来た。
「これから先輩と見てまわるの?」
「ん、そのつもりだけど、もしかして、紀子も一緒にまわりたいのか?」
「そうしてくれるなら嬉しいけど、いいの?」
 紀子は、俺と舞の顔色を窺いながら訊ねた。
「まあ、俺たちもふたりだけでまわるわけじゃなかったから、構わないよ」
「そうなの? でも、ほかに誰とまわるの?」
「うちのクラスの留学生だよ」
 
 有志による喫茶スペースは、昨日とは比べものにならないくらい賑わっていた。
 その中で最も忙しく、最も楽しそうにしているのは、やはりルーシーだった。
「ハーイ、ユウイチ」
 と、ルーシーがこっちに気付いた。
「今日も大入りだね」
「うん。とっても忙しい。でも、その方がみんなに喜んでもらえるから」
 確かに、そういう考えでも持ってないと、この場は乗り切れないかもしれない。少なくとも俺には無理だ。
「ところで、本当に抜けてもいいの? この状況で抜けると、暴動が起きそうな気がするけど」
 その教室にいるのは、ほとんどが男子だった。そのお目当てはまず間違いなく、ルーシーだ。ほかにも女子はいるけど、見た感じでもルーシーより注目を集めてることはない。
「全然問題ないよ。それに、ワタシだって休まないと」
「そっか」
 それからルーシーは、この喫茶の責任者である三年生に断りを入れ、俺と一緒に教室を出た。
 廊下では、舞と紀子が待っていた。
「ハーイ、マイ」
「おつかれさま、ルーシー」
「ん? ユウイチ。このプリティガールは?」
「綾本紀子。俺の従妹だよ」
「イトコ? ん〜……カズンのことだね」
「そうだよ」
「ハーイ、ノリコ。ワタシは、ルーシー=ウェントン。LAから来た留学生よ。よろしくね」
「綾本紀子です。こちらこそよろしくお願いします」
 紀子とルーシーはお互いに挨拶を交わし、これでひとまずは問題ないだろう。
「ということは、四人で見てまわるということ?」
「紀子も舞と同じ音楽部だから、時間がほかだとあわないんだよ」
「ナルホド」
 かなりのオーバーアクションで頷く。
「やっぱり同じ楽しむなら、大勢の方がいいからね。ワタシは大歓迎だよ」
「そっか。じゃあ、ルーシーも納得してくれたし、時間ももったいないから、行こうか」
 
 しかし、こうなるであろうことは容易に想像できた。
 ルーシーは留学生ということと、その容姿でとにかく人目を惹く。うちの生徒はもとより、他校の生徒や一般客からもである。加えて、彼女はサービス精神を投げ売りできるほど持ってるから、とにかくどこへ行っても愛想を振りまき、大変である。
 さらに、自分の従妹のことをあまり持ち上げてもしょうがないが、紀子も並以上なので、それなりに目を惹いた。紀子自身は、少なくとも俺といる時はそういうことに無頓着なので、特に気にしている様子はなかった。
 そして、舞に関しては今更言わなくてもわかるだろう。
 そんな三人と一緒にいると、こっちはとにかく大変だ。それだけで人を殺せそうなほどの嫉妬の視線を浴び、さらし者状態である。
「占いの部屋?」
 それを最初に見つけたのは、紀子だった。
 確かに入り口には『占いの部屋』という看板が出ていた。
 中は暗幕で覆われ、暗くなっていた。
 昨日見た時はなかったから、今日だけの展示だろう。
「勉強、人生、金運、恋愛……なんでも占います、だって」
 そう言った紀子の表情は、見なくてもわかった。嬉々とした表情で、これやりたい、そんな顔だ。
「そう言ってるんだけど、どうする?」
 一応、ふたりにも訊ねる。
 だが、答えはわかっていた。
「とっても面白そうだから、ワタシ、やりたい」
「うん、楽しそう」
 なぜかは知らないが、女の子はこういう類のものが好きだった。
 で、俺たちはそこへ入った。
 中に入ると、黒いローブを身にまとった女の先輩がいた。なぜ先輩かというと、そこの教室が三年生の教室だからである。
「ようこそ、占いの部屋へ」
 深々と頭を下げる。
「ここでの占いは、おひとりずつとなっています。順番に入りください」
 そう言われて、俺たちは顔を見合わせた。
「それじゃあ、まずは言い出しっぺの紀子からだな」
「うん」
 紀子は、先輩に連れられ、奥へと消えた。
 奥からは人の声は聞こえない。というより、微妙なボリュームで音楽が流されているからだ。そのあたりは、一応個人のプライベートに配慮してるんだろう。
 でも、占いの資格を持たない高校生が占いをやってる時点で、すでに問題だと思うが。
 二番目は、ルーシー。
 嬉々とした表情で奥へ消えた。
 どうもこの順番で行くと、俺が最後らしい。
 ふと舞の様子を見ると、なにやら真剣な表情で一点を見つめている。なにを考えてるのやら。
 程なくして舞の番になった。
 ひとり取り残された俺は、なんとなく居心地が悪かった。
 俺はもともと占いなんて信じていない。それに、占星術や手相なんて、見る人によってかなり違ってくる。そうなると、信じろという方が無理である。
 そんなくだらないことを考えていたら、俺の番がまわってきた。
 細く暗い通路を進むと、一台の机と二脚の椅子が置いてある空間に出た。その椅子のひとつには、やはりローブ姿の先輩がいた。
 目の前には、水晶球やタロットカード、ダウジング用の針金など、様々な『グッズ』が並んでいた。
「あなたは、なにを占ってほしいの?」
「別になにも……と言ったら困るだろうから、ひとつだけ」
 俺は考えていたことを口にした。
「占い、というよりは道を示してほしい。どうやったら、俺は俺を見つけ、認め、前に進めるか」
「…………」
 先輩は一瞬あっけにとられた表情を見せたが、すぐに前の表情に戻った。
 そして、水晶球に手をかざし、なにやら呟く。
「……それはたぶん、もうすでに貴方の中には答えがあるはず。あとは、それをいかにして認めるか。そうすれば、自ずと前に進めるはず」
 意外だった。
 こんなインチキ占いで、こんなまともな答えが返ってくるとは。
「あとひとつ。どこかで妥協点を見出さない限り、いつまで経っても自分を認めることはできない。人は、完璧ではないから」
 その先輩は、穏やかな表情でそう言ってくれた。
「……ありがとうございます」
 俺は、軽く頭を下げ、その場をあとにした。
 廊下に出ると、三人が俺を待っていた。
 それぞれに微妙な表情をしているところを見ると、案外この占いは『本物』なのかもしれない。
 少なくとも、俺にとってはそうだったから。
 
 それから俺たちはいくつかの展示をまわり、とある場所へとやって来た。
「うわぁ、すごい人気だね」
 と、思わず紀子がそう言うくらい、そこは賑わっていた。ルーシーもやってる有志の喫茶スペースと同じか、ひょっとしたら多いかもしれない。
「ゆきちゃん、大丈夫かな?」
 そう、そこは女子テニス部の喫茶だった。
 ウェイトレス、裏方関係なく、全員ウェア姿。
 そこはある種、異様な空間となっていた。
「いらっしゃいませ、女子テニス部喫茶へようこそ」
 人は多かったが、回転率は早かった。
 どうやら、男の客は問答無用で短時間で追い出すみたいだ。まあ、それくらいしないと問題が起こるかもしれないな。
「ご注文の品は、こちらからお選びください」
 席に案内され、手作りのメニューを渡された。
 メニューは、飲み物とお菓子が中心だった。
 それぞれ好きなものを頼む。
「あ、それとひとついいかな」
「はい」
「綾本由紀子がいたら、呼んでくれるかな?」
「ゆっこですか? それはいいですけど、失礼ですけど、あなたは?」
「由紀子の兄貴」
 それを確かめると、ウェイトレスのその部員はすぐに裏へ消えた。一応、厨房らしきものは、仕切りで見えないようになっている。
 本当はそこまでするつもりはなかったんだけど、少なくとも見える範囲に由紀子はいないから、今の時間帯は裏なんだろうと判断した。
「ん〜、ワタシもこれはカワイイから好きだけど、こっちもカワイイから好き」
 ルーシーは、さっきからずっとウェイトレスの部員を目で追っている。
「私はちょっと無理かなぁ。やっぱり恥ずかしいし」
 紀子は、一番多そうな意見だった。
 舞は、パッと見た目ではなにを考えているのかわからなかった。
「お待たせしました」
 と、そこへ聞き慣れた声がした。
「ご注文の品になります」
 ウェア姿の由紀子は、少し澄まし顔で俺たち前に品を並べた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「あはは、ゆきちゃん、すごく様になってる」
「だって、これも一応練習したんだから」
「わざわざ練習したんだ。すごいねぇ」
 由紀子は、少しだけ照れた表情を浮かべながらも、意外に堂々としていた。
「お兄ちゃん。ちゃんと約束守ってくれたね」
「まあな。行かなかったらあとでなに言われるかわからないし」
「むぅ、素直じゃないの」
 口ではそう言うが、俺も由紀子もお互いがどんなことを考えているかはわかっていた。これでもこれまでずっと兄妹として過ごしてきた。その言葉が本気かそうじゃないかくらい、だいたいはわかる。
「ユウイチ、ユウイチ」
「ん?」
「カノジョは、ユウイチのリトルシスター?」
「ああ、うん。そうだよ。俺の妹の由紀子」
「あ、綾本由紀子です」
「で、こっちがうちのクラスに来てる留学生、ルーシー=ウェントン」
「ハーイ、ワタシはルーシー=ウェントン。よろしくね、ユキコ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 紀子の時もそうだったけど、由紀子もすんなりルーシーを受け入れた。それはやっぱり、ルーシーの人柄なのかもしれない。
 少なくとも少し人見知りする由紀子がそうだったのだから。
「ところで、由紀子は休憩とかはまだなのか?」
「えっと、あと三十分くらいかな。でも、どうして?」
「いや、もし時間があうなら一緒にまわろうかと思ったんだけど」
「そっか」
 さすがに三十分も開くとなると、今度は舞たちの時間がない。今回は見送るか。
「あ、じゃあ、私はそろそろ持ち場に戻るね」
「ああ。そうしないと、この戦場は乗り切れないだろうからな」
「あ、あはは」
 由紀子は、ウェアの短いスカートを翻し、裏へ消えた。
「ふふっ、由紀子ちゃんも裕一くんの前だと、ついつい張り切っちゃうみたいだね」
「張り切るのは構わないけど、張り切りすぎてみんなに迷惑かけないようにしてもらいたいよ。兄としては」
「大丈夫だよ。ゆきちゃん、そういうところはしっかりしてるから」
「そうだな。紀子よりはしっかりしてるな」
「ぶう、なんでそこで私を引き合いに出すの? お兄ちゃんのいぢわる」
 そう言ってむくれる紀子。
 俺たちはそんな紀子を見て、笑った。
 
「ユウイチ」
「うん?」
「今日は、ユウイチの違う一面が見られて嬉しかったよ」
 クルッと振り向いたルーシーは、そう言って微笑んだ。
「違う一面?」
「うん。ユウイチは、ノリコやユキコの『良き兄』だったってこと」
 改めてそう言われると、照れてしまう。
「ノリコやユキコがユウイチになんでも言えるのは、その証拠だと思って。だって、信頼してない人にあれこれ言わないから」
「ルーシー。褒めてくれるのは嬉しいけど、結局はなにが言いたいんだ?」
 さすがにそれ以上聞いているとなにも言えなくなると思い、口を挟んだ。
「ん〜、それは──」
 イヤな予感がした。
 隣の舞も同じことを感じたらしい。
 三人が同時に動いた。
「…………」
「…………」
「…………」
 俺とルーシーの間に舞がいた。
「んもう、ルーシー。裕一くんは、私の大事な人なの」
「ザンネン。キスし損ねたよ」
 言葉ほど残念とは思ってないんだろうな。実際、笑みが浮かんでるし。
「でも、ユウイチ」
「ん?」
「今日のことで、ワタシ、ますますユウイチのこと、好きになったよ」
 最初からそうだった。
 ルーシーは、一番大事なことをなんの躊躇いもなく言えた。
 だからこそ、その想いをむげにはできないと思った。
「じゃあ、ワタシは戻るね」
 ブンブンと手を振り、喫茶スペースへと戻っていった。
「……たまにね、思うの」
「なにを?」
「ルーシーみたいに、自分の想いを素直に言い表されたら、いいのにって」
 思っていたことは、同じだった。
「でもね、ルーシーを羨むだけじゃダメだってこともわかってるから」
「そうだね。それがわかってれば、そのうちなんとかなるよ」
「うん」
「……んもう、お兄ちゃんと先輩は、放っておくとすぐふたりだけの世界に入っちゃうんだから」
 そんな紀子のぼやきが聞こえたけど、無視した。
「それじゃあ、裕一くん。私たちも行くね」
「うん。あとで聞きに行くから」
「待ってるから」
「ついでに、私も見てね、お兄ちゃん」
「わかってるよ」
 舞と紀子は、コンサートの準備のために二音へ向かった。
「で、俺はどうするかな」
 コンサートまではまだ時間がある。
「そうだ」
 その時、なかなか面白いことが思い浮かんだ。
 たまにはそういうのもいいだろう。
 
 さて、まずは奴を見つけられるかだけど。
「やっほ〜、裕一くん」
 と、後ろから声がかかった。
 振り返ると、満面の笑みを浮かべた中田と多少困った顔の功二がいた。
「やあ、ふたりとも。揃って仲良く見てたの?」
 少しだけ意地悪く言ってみた。
「そうよ」
 だけど、中田は全然動じない。ま、こっちは予想通りだけど。
「そういえば、聞いたよ。ふたりって修学旅行がきっかけでつきあうようになったんだってね」
「弥生から聞いたの?」
「うん。誰かさんが教えてくれなかったから」
「うっ……」
「なに? ひょっとして功二くん、裕一くんに言ってなかったの?」
 少し咎めるような目で功二を見る。
「い、いや、言おうとは思ってたんだけど、なかなかタイミングが……」
「タイミング、ねぇ」
「ま、まあ、なんだ。そういうわけで、雪乃ちゃんとつきあってるから」
「あ〜、またちゃん付けで言った。あれほど呼び捨てでって言ったのに」
 と、中田がダメ出しした。
 というか、このふたりは俺のイメージ通りのつきあい方をしてるんだろうな。中田が引っ張って、功二がそれについていく。
「あ、そ、それは……」
「ははは、功二。完全に尻に敷かれてるな」
「う、うるさい……」
 とはいえ、このふたりは長続きすると思う。功二はバカがつくくらいの真面目だし、中田も軽いところはあるけど人の機微には敏感だし。
「ところで、中田さん」
「うん、なに?」
「堀さんてこの時間、美術室にいるのかな?」
「弥生? う〜ん、どうかな? 私もそこまでは聞いてないから。でも、美術部員て結構いるから、あまり留守番してなくてもいいとは聞いてるよ」
「そっか」
「でも、なんで弥生を?」
「ちょっと確認したいことがあってね。本当はもうひとりの当事者に聞くのが面白いんだけど、はぐらかされる可能性があって。だからその前に堀さんに、と思って」
「なんだかよくわからないけど、裕一くんがそこまで首を突っ込むなんて珍しいね」
「自分でもそう思うよ。でも、たまにはいいと思って」
「そだね。たまにはいいよ。功二くんも、たまには違うこと言ってくれてもやってくれてもいいんだからね」
「ぜ、善処します」
「よろしい」
 笑う中田は、本当に嬉しそうだった。
 それからふたりと別れ、俺は美術室へ向かった。
 美術室では、美術部員が制作した絵やなんかが展示されている。
 比較的地味な展示だが、人の入りはそれなりだった。
 で、目当ての堀はというと、運の良いことに入り口で当番中だった。
「堀さん」
「あ、綾本くん」
 声をかけると堀は、わずかに微笑んだ。
「結構人入ってるね」
「うん。おかげさまで」
「堀さんのはどこにあるの?」
「私のは、向こうにあるけど」
「じゃあ、ちょっと見せてもらうね」
「あ、うん」
 さすがに話するのも悪いから、作品も見ることにした。
 堀の作品は、風景画だった。
 場所はわからないけど、どこかの河川敷の絵だった。
 画才のない俺には絵の良し悪しはわからないけど、純粋に上手いと思う。
「すごいね。俺にはとても描けない絵だよ」
「私くらいの絵なら、描ける人たくさんいるから」
 入り口に戻って再び堀と話す。
「あの、綾本くん」
「ん?」
「ここへは、絵を見に来たの?」
「そうだ、って言いたいところだけど、違うよ。たぶん、堀さんが思ってる通り」
「……そっか」
 堀は少し俯き、それから席を立って別の美術部員に声をかけた。
「綾本くん。少しだけ、つきあってくれるかな?」
 俺は堀とともに美術室を出た。
 廊下を特になにも言わずに歩く。
「ここならいいかな」
 やって来たのは、職員室や校長室のある廊下だった。さすがにここは文化祭でもなにもない。
 ここだけ切り取られたような静けさがあった。
「綾本くんが聞きたいのは、昨日のことだよね?」
「まあね。あいつは一応、俺の親友だし。それに、堀さんは舞の親友だし。そうすると確認だけはしておかないと」
 個人的に興味もあるけど、やっぱりそういう部分が強い。
「それで、どうだったの?」
「……今日まで返事は待ってほしいって」
「そうなの?」
 意外、ということでもないか。あいつも相手が真剣ならそれなりに考える奴だから。
「気休めにもならないかもしれないけど、堀さん、たぶん大丈夫だから。あいつが堀さんのことを嫌ってないのは見てればわかるし。それに、そうやって考える時間をくれって言ったのがなによりの証拠だよ。もし、そういう気がなければきっぱり断るから」
「そう、かな?」
「普段の言動が言動だけに信じられないかもしれないけど──」
「そ、そんなことないよ」
 堀は、慌てて否定する。
「まあ、そういうわけだから、あまり深く考えない方がいいよ」
「うん、そうだね」
「でも、なんで豊和だったの?」
「えっ、それは……」
「ああ、別に無理して言わなくてもいいけど。なんとなく気になったから」
 一応、俺なりの理由はある。堀の性格は、豊和の反対と言ってもいい。だから、自分に持っていないものを持っている豊和に惹かれてしまった、そういうことだろう。
 まあ、恋愛経験が舞とだけの俺が言っても説得力は皆無だけど。
「……最初はね、なんとなくいいなって思ってただけなの。私とは違って誰とでもすぐに話せるし、話題も豊富だし。ただ、あまりよくない噂、というほどでもないけど、そういう話も聞いてたから。確信、というところまではいってなくて」
 あまりよくない噂、というのは、あの異常に軽い性格の弊害だ。親友の俺から言わせてもらえれば、それは噂に過ぎない。
「でもね、修学旅行の時に一緒に見張りをして。その時にね、いろいろ話したの。そしたら、水科くんの本来の姿っていうのかな。そういうのが見えた気がして」
「なるほどね」
「それとね、私がなけなしの勇気を振り絞ったのには、舞ちゃんや雪乃ちゃんのことも大きいの」
「舞や中田さん?」
「うん。舞ちゃんが綾本くんと、雪乃ちゃんが木村くんとつきあうようになって。雪乃ちゃんは自分の気持ちを素直に言えるから、思い立ったらすぐだとは思ってたけど。でも、舞ちゃんは違うから。一年生の時からずっと綾本くんのことが好きで。それでもその気持ちを言えなくて。だけど、今では誰からも羨ましがられるくらいの関係になってる。その過程は違っても、ふたりとも自分の気持ちに素直になれたから、今があるって。そしたら、私はどうなんだろうって思って。私たちはいつも三人でいるけど、私だけ違うのかなって。そう思ったら、自然と前向きになれて」
「堀さんは、強いんだね」
「強い? 私が?」
「うん。普通そういう状況になると、卑屈になったりすると思うんだけど、ちゃんと前を向いてるから」
 それは俺の本音だ。一番儚げに見えた堀が、ひょっとした一番芯がしっかりしてるのかもしれない。
「あとは、単純に舞ちゃんや雪乃ちゃんが羨ましかったから」
 そう言って照れくさそうに笑った。
「綾本くん」
「ん?」
「もし、水科くんが私の想いに応えてくれたら、その時にもう一度お礼を言うね」
「俺はなにもしてないしなにも言ってないよ」
「ううん。そんなことない」
 たぶん、ここで俺が否定し続けても結局は水掛け論に終始するだけだろう。
「まあ、それはそれでいいよ。あ、ところで、返事って今日のいつにもらうことになってるの?」
「時間までは決めてないけど。水科くんが時間を見て私のところへ来てくれるって」
「じゃあ、そろそろ美術室に戻った方がいいかな。入れ違いになると、今度はいつになるかわからないし」
「うん、そうだね」
 堀は、大きく頷いた。
「それじゃあ、綾本くん」
「きっと大丈夫だから。自分と、あいつを信じて」
 俺の言葉に堀は今まで見た中で一番の笑顔で応えた。
「さてと、そろそろ行くかな」
 堀を見送り、俺は二音へ向かった。
 
 コンサート会場となった二音には、結構人が集まっていた。割合的には、やはり男子が多い。
 俺は、少し前目のピアノに近い場所に座った。
 黒板にはコンサートで演奏する曲名が色とりどりのチョークで書いてあった。その中に紀子が作曲したという『ティータイム』も入っていた。
 舞のも入ってるとは思うが、あいにくと曲名がわからなかった。
 それから少しして、コンサートははじまった。
 まず、三年生の部長が挨拶する。
「みなさん。今日は友林高校音楽部のコンサートにお越しいただき、ありがとうございます。音楽部単独でのコンサートははじめてですが、部員一同、精一杯がんばってきました。もしほんの少しでもよかったと思っていただけたなら、拍手に変えて応えていただけますようお願い致します。それでは、最後までごゆっくりお楽しみください」
 それから演奏する部員が出てきた。その中に舞もいた。
 演奏は、とてもよかった。
 批評家ではないから偉そうなことは言えないけど、少なくとも聴いていて眠くなることもなかったし、つまらなかったこともない。
 音楽部員は結構いるのでずっと舞や紀子が演奏していたわけではないが、それでもピアノの腕前ではこのふたりは群を抜いているから、結構演奏していた。
 紀子の『ティータイム』は、確かに軽い感じの曲で、紀子らしい曲だった。
 舞の曲は、結局最後までわからなかったが、一曲だけ、それらしきものはあった。
 それは『DEAR』という曲だった。確信はないけど、その曲の時に彼女が俺の方を見た。だからたぶん、その曲は彼女が作った曲だろう。
 コンサートは大成功だった。
 少なくとも俺はそう思った。
 コンサートが終わり、ざっと後片づけも終えた頃、舞が俺のところへやって来た。
「おつかれ、舞」
「うん」
「演奏、よかったよ」
「裕一くんにそう言ってもらえると、一番嬉しい」
 彼女はそう言ってニコッと笑った。
「ところで、舞の作曲した曲って、なんだったの?」
「わからなかった?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「たぶん、いや、間違いなく『DEAR』だ」
「うん、正解。裕一くんならわかってくれると思ってた」
 ……これでもしわからなかったら、どうなってたんだろ。考えるだけで恐ろしい。
「あれはね、曲名通り、裕一くんの向けて作ったの」
「俺に?」
「うん。五曲作ったって言ってたでしょ? ほかの曲もそうなんだけど、基本的に裕一くんのことを考えながら作ったの。それで結局私のは一曲だけとなって、だったらその中で一番私の想いがこもってるのがいいかなって思って」
「そっか」
「ねえ、裕一くん。私の想い、届いた?」
「届いたよ」
 届いたに決まってる。彼女は──舞はいつでも真剣なんだから。その想いが届かないなんてことない。
「よかった」
「舞は心配しすぎだよ。俺がどれだけ舞のことを想ってるか、わかってるくせに」
「ふふっ、そうだね。じゃあ、相思相愛の私たちがこれからすることはなんでしょう?」
「文化祭デートの続き?」
「それもだけど……これもだよ」
 そう言って舞は、俺にキスをした。
 いろいろあったけど、本当に楽しい文化祭だった。
 今日だけは、雨に感謝。
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