君と歩く季節の中を
第四話「大胆な季節」
一
夏の甲子園予選がはじまった。
うちの高校は何日間か余裕があるので、とりあえずは順番待ちの雰囲気が強い。
それと平行して夏休み前の校長講話があった。
二期制の高校は九月に前期の終業式があるため、夏休み前は全校集会のような校長講話で閉める。
うちの高校は都内でも有数の宿題の多い学校で、普通にやっていたらとてもじゃないが終わる量ではない。
だから、夏休みといっても手放しで喜べないのが実状。
それでも授業よりはましということで、まあ、みんなそれなりに顔は明るい。
運動部にとってはインターハイがあったり、合宿があったりとそれなりに忙しい。
別に文化部が忙しくないとは言わない。秋には文化祭があるからその準備もだいたい夏休みに進められる。
まあ、とりあえずみんなそれなりに忙しいということだ。
そして、俺にとってはいつもとは違う夏休み。
「裕一くん」
「やあ、舞ちゃん」
その違うことは、やはり彼女がいること。
「今日も暑いけど、練習がんばってね」
「うん、ありがとう」
まだなんとなく気恥ずかしさがあるけど、恋人初心者のふたりにしてはいい方なのかもしれない。
実は、俺たちがつきあうということがどこからか広まったらしく、数日間はまわりが騒がしかった。
別に隠すつもりはなかったけど、あまりにも唐突に広がりすぎてふたりとも驚いた。
俺はクラスの男子や学年の男子、果ては先輩にまで痛い視線を浴びせられた。
彼女が学校一の美人だっていう噂は、あながちウソではなかったらしい。そうでなければそんなに大騒ぎにはならない。
それでも、豊和や部活の井上先輩、功二はある程度は予想していたらしく、みんなほど露骨な態度は取らなかった。
俺としては別に誹謗中傷を受けるようなことをしたわけじゃないから、真剣に取り合ってはいない。
一方、彼女の方もまわりはそれなりに騒がしかった。
これは未確認情報だけど、どうやら俺のことを想ってくれていた女子がそれなりにいたらしく、そのあたりから少し言われたらしい。
まあ、それでも俺の方よりは数段ましだった。
「じゃあ、行くから」
「うん、また帰りにね」
あの日から俺たちは必ず一緒に登下校していた。
それでも下校時はどうしても俺の方が遅くなるから、彼女には悪いと思う。でも、今はそういう気持ちよりもほんのわずかな時間でも一緒にいたいという気持ちの方が、俺も彼女も強く、結局一緒に帰っている。
舞とつきあいはじめてまだわずかしか経っていないが、自分でも今までどうして気付かなかったのかというくらい、俺は彼女のことが好きだった。
この気持ちに気付いていて、ほんの少し勇気があったならもっと早く今のような関係になれたのではと思うこともある。
ただ、そんなことを今更言っても詮無きことで、できるだけそういうことは考えないように努力している。
それとあまり大きな変化ではないけど、部活の方でも変化があった。
それは、部活自体に対する自分の気持ちが落ち着いたということ。知らず知らずのうちに俺は彼女のことを意識していて、本来の自分の力を出せないでいたらしい。
だから、つきあって彼女が側にいてくれるという安心感を得てから、ようやく本来の力を、いや、実際はそれ以上のものが出せるようになった。
つい先日、野球部のOBと軽い試合をやった。イニングは五回までだけど、俺は現役大学野球部の先輩たちを零封した。
はっきり言ってそこまでできるとは思っていなかったから、自分でも正直驚いた。
監督は体の成長より心の成長の方が、プレーにそのまま跳ね返ると言った。
俺はまさにその通りだと思った。
そして、今の俺は野球をやっていることが純粋に楽しかった。
「裕一、いい感じいい感じ」
俺の球を受ける功二も、俺の微妙な変化に自分も気力充実していた。
「この調子ならそうそう打たれないさ」
功二の意見は希望的観測というよりも、自信に裏付けられた意見だった。
よく角界で力士が結婚するとより強くなるとか、野球界でも同じようなことがあると言うが、俺はそのことの一端に自分でも触れたような気がした。
「よし、今日はこれで終わりだ。しっかり休んで体調を整えろ。この期に及んでケガをしたなんて許さんからな」
監督の言葉は偽らざる本音だろう。
先輩たちを中心に、俺たちは今非常に調子がよかった。ひょっとしたら甲子園出場も夢ではないのでは、と思うほど。
だからこそ監督の言葉は余計に重みを増した。
俺がいつものようにランニングのあと、軽くピッチングを調整して部室に戻り、着替えを済ませた。
「お先します」
まだ部室に残っている先輩に声をかけ、これまたいつものように校舎に入った。
俺は、ひとつの教室を目指す。
そこからはいつも音楽が流れてくる。
俺がドアを開けると、ピアノ越しに彼女は微笑む。
いつものようにピアノのすぐ脇の椅子に腰掛け、黙って聴く。
そして、曲が終わる。
「今日はね、ドビュッシーの組曲『子供の領分』ていうの」
俺がなにも言わなくても、曲名を説明してくれる。
「おつかれさま、裕一くん」
「うん」
自分だって疲れていないはずはないけど、それでも笑顔で労ってくれる。
「帰ろっか?」
「うん」
俺たちはまるで何年もつきあっているかのような感じで、あまり多くを語らなくても相手の言いたいことがわかった。
このことは中田が言った、俺と彼女は似た者同士、ということがまさに当てはまる感じだった。
「陽が落ちるとやっぱり涼しくなるね」
「そうだね。昼間の暑さを忘れさせてくれるよ」
「でも、夏は夏らしく暑い方がいいよね」
「部活以外はね。ははは」
「そうかもね」
他愛ない会話も本当に楽しい。
改めて彼女を見ると、本当に綺麗でカワイイ。
時々これは夢じゃないかと疑うこともある。
でも、その度に俺の視線に気付いて少し恥ずかしげに俯く姿を見ると、本当だということを改めて確認できる。
「もうすぐ試合だね」
「うん」
「私、必ず応援に行くから」
「舞ちゃんが来てくれれば、百人力だよ」
「うん、そう言ってもらえると嬉しい」
この約束ももう何度交わしただろう。
「今日は、家まで送るよ」
「うん。少しでも一緒にいたいから」
俺はほとんどいつも、彼女の家まで送っている。
時間はかかるが、そんなことに構ってはいられない。
俺も少しずつそういうことがわかってきた。
でも、まだ手も繋げない初心者だけど。
二
『七番、ショート、竹内くん』
甲子園予選、友林高校の初戦。
回は九回。アウトカウントはふたつ。点数は五対〇。
初球、内角低めのストレートでストライク。
二球目、内角高めのストレートでストライク。
三球目、外へ流れるスライダーで様子を見る。
四球目、あわよくば振ってくれればと思ったカーブがすっぽ抜ける。
五球目、内角へシュートがわずかに外れる。
カウントはツースリー。
俺は功二のサインを待つ。
サインは、外角ギリギリへのスローカーブ。
俺はワインドアップから、投げた。
「ストライーク、バッターアウトっ!」
ゲームセット。
『ご覧のように、第二試合は友林高校が勝ちました』
球場にアナウンスが入る。
三塁側のスタンドからは歓喜の声が上がる。
「よくやった」
「ナイスピッチ」
先輩たちから祝福を受ける。
「綾本。いい感じだったぞ」
「はい」
投球内容は、球数百五球、被安打三、与四死球二、三振五。
上出来だった。
「裕一、おつかれさん」
「おつかれ」
「今日は立ち上がりも悪くなかった。次もこの調子でいこうぜ」
今日、俺は功二のサインに一度も首を振らなかった。
まあ、いつも振らないけどそれ以上に功二の組み立ては俺の考えと同じ、もしくはそれ以上だった。
俺たちはベンチを出ると、すぐに球場を出た。
出口にはうちの高校の生徒がいた。
俺は無意識のうちに舞を探していた。
「裕一くん」
彼女はちょうど一番端のところにいた。
「おめでとう」
「ありがとう」
なんでもない言葉だが、一番素直に端的にお互いの心を映した言葉だろう。
「これから学校に戻るから」
「うん」
「裕一、行くぞ」
「あっ、はい。じゃあ、またあとで」
「うん」
俺は急いでマイクロバスに乗り込んだ。
「裕一。彼女にお祝いのキスでもしてもらったのか?」
「そ、そんなんじゃないですよ。ただ少し話しただけです」
キャプテンの井上先輩はからかうように笑った。
「まあ、最近の裕一の調子の良さは、彼女も関わってるから、あまりとやかく言えないな」
「そうですね」
「バーカ。おまえが言うな、おまえが」
先輩も試合に勝ってだいぶ気持ちが楽になったみたいだ。
先輩たちにとっては、ひとつでも負ければその場で終わり。その気持ちは、特に初戦に大きかった。
試合前、先輩たちはだいぶ緊張していた。
試合前の緊張は決して悪いわけではないが、極度の緊張はよくない。
先輩たちはその一歩手前だった。
そして、試合ははじまり、勝った。
これで次の試合からは少しは楽に臨めるだろう。
「ごめん、舞ちゃん」
俺は駅前で舞と合流した。
「ううん、わざわざ来てくれただけで嬉しいの」
そう言って彼女は微笑んだ。
「裕一くん、疲れてるのに」
「大丈夫だよ。疲れていても、舞ちゃんといるとそんなことも忘れちゃうよ」
「そう言ってもらえると、嬉しい」
俺たちは電車に乗った。
「今日の裕一くん、すごくかっこよかった」
「ありがとう」
「やっぱり、やっぱり私は裕一くんが好きなんだって思ったの」
彼女はちょっと照れて言った。
「俺も、舞ちゃんが見ててくれると思ったら、自然と肩の力が抜けて楽に投げられたよ」
自分でも言っていて少し恥ずかしいが、それでもこれは俺の本心だ。
「でも、本当にいいの? 疲れてるのに裕一くんの家に行っても」
「別に構わないよ。疲れていたって、生活のリズムを崩して休むようなことはしないから。それに、今日は一緒にいたいんだ」
「うん」
舞が家に来るのは二回目。
「少し、待っててくれるかな?」
「うん」
俺は部屋に舞を残して、シャワーを浴びた。
本来なら学校で浴びてくるのだが、今日は待たせていたこともあって浴びていない。
軽く汗を流して、ティシャツを着てジーンズを穿いた。
「裕一」
「ん?」
「お茶、出しておいたから」
「サンキュ」
リビングから顔を出した母さんに礼を言って、部屋に戻った。
「ごめんね。さすがに汗くさいままだとね」
「ううん」
彼女はなんでもないよ、というように微笑んだが、さすがに男の部屋にひとり取り残されてなんでもないわけはない。
「CDでもかけるね」
それでも、あえてそれには触れず、俺はCDラックからCDを取り出してデッキにかけた。
曲はベルリオーズの『幻想交響曲』。
「暑くない?」
「ううん」
俺は窓を開け、扇風機をまわした。
梅雨明け宣言はまだだが、空はすっかり夏の空。
高い太陽に入道雲。夕方になれば蝉の声が聞こえてくる。
俺は彼女の斜め前に座った。
「今日はレモングラスだね」
レモングラスはハーブの一種。お茶にするとレモンのように黄色くなる。
「裕一くん」
「ん?」
「隣に座っても、いい?」
「えっ、うん」
俺はベッドを背にするところまで動き、彼女は俺の隣に座った。
「舞ちゃん?」
彼女は隣に座るなり、俺の方に寄りかかってきた。
「しばらく、このままでいてもいい?」
「うん、いいよ」
俺は静かに目を閉じた。
彼女のシャンプーの香りがかすかに鼻孔をくすぐる。
そして、静かな音楽にも誘われて、いつの間にか眠っていた。
「……ん……」
「ふふっ」
「……あれ、舞ちゃん?」
目を開けると、すぐそこに舞の顔があった。
「俺、眠ったの?」
「うん」
そして、もうひとつ気付いたことは、彼女の後ろには天井があること。さらに、頭はなにか柔らかいものに乗っている。
ひょっとして──
「あわわっ、ご、ごめん」
俺は慌てて体を起こした。
案の定、俺は彼女の膝枕で眠っていたらしい。
「あの、どのくらい眠ってた?」
「三十分くらいかな」
確かにかけていたCDは終わっていた。
「ふふっ」
「どうしたの?」
「裕一くんの寝顔、とっても可愛かった」
俺は、自分の顔が熱く赤くなるのがわかった。
「でも、やっぱり疲れてたんだね。すごく気持ちよさそうに眠っていたから」
「ごめんね、わざわざ来てもらっておきながら、こっちが眠っちゃうなんて」
「ううん、そんなことないよ。少し、恋人ってこんな感じなのかなって思えたから」
「舞ちゃん……」
舞は、少しだけせつなそうな表情を浮かべた。
「私、なんにも知らないから。それに、男の人とつきあったこともないし」
「それは俺だって同じだよ。今まで女の子とつきあったことないし、それに、こうして女の子とふたりきになるなんて、考えもしなかった」
そう。この前はたまたま家でふたりきりになったけど、今とは関係が違う。
「裕一くん。女の子はね、好きな人と一緒にいると大胆になれるの」
「ま、舞ちゃん」
彼女は俺に抱きついた。
「それに、言葉だけじゃなくて、態度で示してほしいこともあるの」
そして、彼女はゆっくりと目を閉じた。
俺は正直迷った。
この場の雰囲気に流されていいのか?
それとも、もっとお互いの気持ちを確かめてからか?
でも、女の子にここまでさせておいて、今更、ということはできない。
俺は、彼女の肩に手を置いた。
わずかに体が震えた。
そして──
「ん……」
生まれてはじめてキスをした。
彼女の唇は少し薄く、だけどとても柔らかかった。
「裕一くん……」
俺は彼女を抱きしめた。
「どうしてこうしてると安心できるんだろう。やっぱり好きな人に抱きしめられてるからかな?」
「舞ちゃんと一緒にいるととっても心が休まるんだ。こうして舞ちゃんを自分の腕の中に抱きしめているだけで、本当に」
俺は時々舞が自分の彼女であることがウソなのではないかと思うことがある。
その度、次の日に彼女に会うと安心した。
「まだ、知らないことは多いけど、いつか必ず裕一くんに相応しい女に──」
俺は、人差し指で彼女の口を塞いだ。
「そんなこと言わないで、舞ちゃん。俺はそのままの舞ちゃんが好きなんだ。綺麗で可愛くて、明るくて優しくて。誰とでも仲良くなれる。そんな舞ちゃんが大好きなんだ」
「ごめんね、裕一くん」
「どうして謝るの? 俺は別に気にしてないから」
「ありがとう。優しいね、裕一くん」
そして、もう一度キスをした。
「大好き」
三
甲子園予選、三回戦、七対二。
四回戦、七対〇。八回コールド。
準々決勝、五対二。
準決勝。
九回裏、ワンアウト一塁三塁。二対二。
バッターは五番の功二。
準決勝ともなると一筋縄ではいかない。
監督はサインを出す。初球は、待て。
相手バッテリーも警戒して一球外してきた。
ファーストとサードが猛然と突っ込んでくる。
二球目。またも待て。
小さく曲がるカーブでストライク。
三球目。
サインは、スクイズ。
投球とともにサードランナーがスタート。
球種はストレート。
外すには遅かった。
功二は腰を落とし、球の勢いを殺す。
絶妙のバント。
ピッチャーがボールを取り、キャッチャーにグラブトス。
ホームでクロスプレー。
ランナーもキャッチャーも主審を見る。
「セーフっ!」
主審の手は、大きく横に広げられた。
一塁側から歓声が上がる。
ゲームセット。
三対二。九回サヨナラ。
俺たち友林高校は、ついに決勝へ。
監督と功二は新聞のインタビューを受けている。
俺は自分の荷物を持ち、ベンチを出ようとした。
が──
目の前が揺らいだ。
慌ててバランスを取る。
「裕一。どうかしたか?」
「い、いえ、なんでもありません」
俺は逃げるようにベンチを出た。
家に帰ると、いよいよヤバかった。
頭はボーッとして体がだるい。熱っぽかったから体温を計る。
三十八度二分。
完全に熱風邪だった。
俺はそのことを誰にも話さずに、解熱剤を飲んで早めに寝た。
しかし、熱のためになかなか寝付けず、回復もままならない。
朝、目が覚めるとまだ顔が火照っていた。頭もボーッとしていた。
熱を計ると三十六度八分。微熱。
解熱剤を飲む。
今日は決勝。
投げないわけにはいかない。
俺は無理を承知で学校へ向かった。
グラウンドで軽い練習をしてから球場へ。
「綾本。今日は最初から全力でいけ。あとのことは気にするな」
「はい」
試合前の監督の言葉はそれだけだった。
西東京大会決勝。
午後一時プレーボール。
うちの高校は表攻撃。
俺はブルペンでピッチング練習。
体調は悪いが、ピッチング自体は悪くはない。
それでも、細かなコントロールに影響が出そうな感じ。
一回表、三者凡退。
俺はマウンドへ。
「裕一。気合い入れていこうな」
マウンドで功二に気合いを入れられた。
五球の投球練習。
ここまで来たら、体のことなんか構ってられない。
そして、主審の手が挙がった。
回は中盤の六回。
点数は一対一。完全に投手戦になった。
俺の球数は八十五球。相手は八十球。
ここまでお互いにヒットは三本ずつ。
ここから先はミスをした方が負ける。
「ストライーク、バッターアウトっ!」
スライダーで三振を取った。
六回が終わった。
残り三回。
俺の体が奇跡に近かった。
頭は相変わらずボーッとしているが、体が勝手に反応して投げている。
それでも、いつも以上に体力の消耗が激しい。
俺はインターバルの間、ずっと座っている。立っているとそれだけで体力を奪われそうだった。
しかし、七回も無得点。
完全に膠着状態。
俺も精神力だけでボールを投げる。
久々にヒットを打たれたが、なんとか抑える。
そして、八回。
先頭バッターがヒットで出た。
続くバッターがバントで送って、ワンアウトランナー二塁。
ここで一点取れば、だいぶ試合展開が変わるはず。
バッターは四番、キャプテンの井上先輩。
初球は外角低めへのストレートでボール。
二球目。内角のストレートを引っ張ってファール。
三球目。カーブがすっぽ抜けてボール。
四球目。スライダーが際どく外れてボール。
五球目。内角高めのストレートに振り遅れてファール。
そして、六球目。
球は、フォーク。
先輩のバットは空を切り、セカンドランナーもスタートを切っており、サードでタッチアウト。
最悪のダブルプレー。
三塁側のスタンドからは、思わずため息が漏れる。
俺は気を取り直してマウンドへ。
足が重い。
八回裏。
下位打線にまわったおかげで三者凡退に。
九回。
ここで点が入らなければ、延長。
しかし、俺には延長を投げられるような体力は残っていない。
せめてあと一回。
九回表。
五番、六番と簡単にアウト。
七番。
打ち気を逸らすかのように、緩いボールを投げてくる。
それを注文通り引っかけて、ショートゴロ。
いよいよ九回裏。
俺は、今日九回目のマウンドに立つ。
二球ほど投げてバッターに対する。
バッターは代打。
俺はストレートを見せて、スローカーブでセカンドゴロに打ち取った。
ついで一番。
足を警戒しつつ投げる。
ストレートとカーブでストライクを取り、ツーストライク。
三球目。内角低めのストレート。
コースギリギリに決まり、三振。
「ふう……」
俺はため息をついた。
功二からボールが帰ってくる。
ショートの先輩から声がかかる。
だが、握力が限界。
一球目。カーブがすっぽ抜けて大暴投。
二球目。ストレートが高めに入ったが見逃してくれてストライク。
そして、三球目。
功二のサインはスライダー。
ワインドアップから投げた。
「しまったっ!」
思わず声が出た。
白球は快音を残してスタンドへ。
負けた。
サヨナラ負け。
失投。
俺の失投。
これで、ひとつの夏が終わった。
ホーム上では相手チームが抱き合って喜んでいる。
俺には涙は出なかった。
だが──
「裕一っ!」
「綾本っ!」
不意に目の前が暗くなり、そして意識がなくなった。
四
白い……
どこまでも白い……
俺は、どこにいるんだ?
体が軽い。
ふわふわと、これが無重力なのか?
でも、どうして?
確か、俺は決勝で負けたはず。
それから、校歌斉唱の時……
そう、目の前が暗くなり、意識がなくなったはず。
それが、今は暗くなく、白い。
ひょっとして、死んだのか?
まさか?
だけど、以前に聞いたことがある。
試合の途中に倒れ、そのまま死んでしまった球児のことを。
無理をしたから、その見返りとして死んだのか?
でも、そこまでつらくはなかったはず。
九回はつらかったけど、それでも……
あれ?
景色が変わった。
ここは?
病院?
大きな病院だ。
ロビーも大きい。
あっ、そこにいるのは、監督?
それに、先輩、功二、部活のみんな?
また、変わった。
今度は、病室?
ベッドに寝ているのは、俺?
まわりにいるのは、母さん、由紀子、良二、奈津子?
……舞。
泣いているのか?
俺のせい?
でも、俺は──
不意に意識が戻った。
白い天井。
クレゾールの匂い。
ここは、病室。
「……ん……」
「……裕一くん?」
最初に視界に飛び込んできたのは、舞だった。
「裕一くんっ!」
「ま、舞ちゃん」
彼女は泣きながら俺に抱きついてきた。
驚いたけど、嬉しかった。
「母さん」
「いいのよ」
母さんは小さく頷いた。
それから、詳しい経緯を聞いた。
試合後、俺が倒れてからすぐに救急車で病院に運ばれ、そのまま検査。症状は極度の疲労と風邪。大事には至らないということだけど、念のために検査入院ということになったらしい。
俺は、結局みんなに迷惑をかけてしまった。
「綾本。もう無理はするな」
監督も怒りはしなかったが、それでも口調は厳しかった。
部活のみんなは誰ひとり俺のことに気付かなかったらしい。
「もっと早く気付いてればな」
功二は少し悔しそうだった。
母さんは薄々気付いていたらしい。
それでも、俺が言っても聞かないことを重々承知しているから、あえて言わなかったらしい。
でも、一番心配してくれたのは、舞だった。
すぐに病院へ駆けつけて、母さんに頼んでずっと俺の側にいたらしい。
「ごめん、舞ちゃん」
今はみんなに無理を言って、彼女とふたりきりにさせてもらっている。
「余計な心配をかけさせちゃって」
「ううん。裕一くんの気持ち、なんとなくわかるから。みんなのために投げなくちゃいけないって。そういう気持ち、なんとなくわかるから」
「ありがとう」
「でも」
また涙が落ちる。
「でも、もうこんなのはイヤ。心配するだけで、なにもできないなんて」
「舞ちゃん……」
「裕一くんのことは、信じてる。私の好きな人だから、どんなことでも信じられるけど、もうこんなのはイヤ」
「……どんなに謝っても、きっとそれは単なる言い訳にしかならないと思うけど。でも、ごめん」
今回のことは、どんな理由をつけても結局は俺が引き起こしたこと。
それにみんなを巻き込んだだけのこと。
それなのに、みんなは俺を責めなかった。
「お願い。約束して。もう心配かけないって」
「うん。約束するよ」
俺はそっと彼女を抱きしめ、キスをした。
ふと外を見ると、すでに陽が暮れていた。
「今度、今日のお詫びにどこかへ行こう」
「えっ?」
「俺たちつきあってからまだふたりだけでどこかへ行ったことなかったでしょ? だから、一緒に行こう」
彼女は一瞬驚いたが、すぐに──
「うんっ」
いつもの笑みで頷いてくれた。
今の俺にとって、彼女のこの微笑みがなによりも嬉しかった。
五
八月中旬。
新チームになったうちの部活もお盆で一休み。
お盆明けからはまた秋の大会に向けて練習がはじまる。
だけど、その前にこの休みを大いに満喫しないと。
というわけで、今俺は沖縄に来ている。
沖縄も暑いけど、本土のような湿気の多い暑さと違ってだいぶ過ごしやすい。
万座ビーチに降り注ぐ陽の光は、まさに南国を思い起こさせた。
「裕一くん」
と、いきなり首筋に冷たい感触が──
「うわっ、冷たっ!」
「あはは」
「もう、ひどいな」
「ごめんなさい。はい」
まあ、ひとりで来たわけではない。
舞とふたりで来た。
俺は夏の北海道がいいと言ったんだけど、彼女がどうしても海で泳ぎたいと言うものだから、来月ハワイに行くにも関わらず沖縄へやって来た。
「どうしたの?」
彼女は不思議そうに首を傾げ、それからサッと頬を赤らめた。
「あっ、あんまり、見ないでね。恥ずかしいから……」
別に彼女を見ていたわけじゃないけど、彼女は頬を染めて羽織っているパーカーで体を隠した。
俺としては極力彼女の方を見ないように努力はしているが、なかなか上手くいかない。
彼女の水着は薄いグリーンのワンピース。胸元にワンポイントが入っていて、それを見ていると誤解されてしまう。
おとなしいデザインながら、カットは意外に大胆で、背中も大きく割れている。
しかし、そんなことを言ってもやはりそのボディラインがはっきりわかるのが水着。
今までも彼女はスリムでいい体型をしていると思っていたが、まあ、その、胸とか出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる、いわゆる完璧な体型だった。
彼女に対してそういう目で見まいとしているが、つい見てしまうところが男の悲しい性。
そんな彼女だから、こんなところでひとりでいたら、下心丸出しの男連中に声をかけられるに違いない。ひょっとしたら、万座ビーチの記録を塗り替えるかも。
それは大げさにしても、俺としてはそれは嬉しくもあり、腹立たしくもある。
だから、俺は極力彼女と一緒にいる。
「こういう青い空に青い海、白い砂浜を見ていると、南の海って感じがする」
「そうだね」
海からの風が潮の香りを運んでくる。
「ねっ、泳ご」
「うん」
俺たちはまるで子供のようにはしゃいだ。
俺にとってもこんなにのんびりした休みは久しぶりだった。
去年は由紀子の受験があって、夏休みは家にいた。
一昨年は俺の受験。
三年前は冷夏のせいで海には行けなかった。
だから、そういうものを全部埋め合わせられるくらい楽しみたかった。
ふたりで。
陽もすっかり落ちて、あたりには波の音以外聞こえない。
ホテルの開け放たれた窓からは昼間とはうってかわって、涼やかな風が流れ込んでくる。
「星が綺麗だね」
「東京じゃこんなには見えないね」
「うん……」
そういう光景を目の当たりにすると、自然と口数も少なくなる。
「今、こうして裕一くんといられるなんて、つい何ヶ月か前までは思いも寄らなかった」
「俺だってそうだよ。舞ちゃんとは今年もただのクラスメイトで終わるって思ってた」
「でも──」
彼女は俺の腕に自分の腕をまわしてきた。
「夢でも幻でもなく、本当にこうしていられる」
「俺には時々これは夢なんじゃないかって思うことがある。本当に舞ちゃんが俺の彼女なのかって」
「大丈夫。私は、裕一くんの彼女。その証拠に──」
俺たちはキスを交わす。
「ね? 大丈夫でしょ?」
そう言って彼女は微笑んだ。
「ねえ、ひとつ聞いてもいいかな?」
「うん」
「舞ちゃんは、どうして俺のことを好きになったの?」
「それはね、最初は一目惚れだったんだ。入学式の時、カッコイイなって思って。そしたら、ほかのこと考えられないくらい好きになっていくの。自分でもどうしたらいいかわからなくて」
彼女はゆっくりと話を続けた。
「裕一くんは、カッコイイし、優しいし、真面目だし。それに、私たち女子の間では結構人気もあったし。だから、ほかの子が裕一くんと話してると羨ましいって気持ちが強かった。私も裕一くんとお話ししてみたい。そう思ってた。でも、いざって時にはドキドキしちゃって、結局は挨拶程度。正直言ってその頃は自分で自分がイヤだった」
彼女は俺の腕を少し強くつかんだ。
「そして、今年もまた裕一くんと同じクラスになれて、少しでも話そうとしたけど、なかなか上手くいかなくて。だけど、それからあとは本当に神様が私にチャンスを与えてくれたかのように次々と話す機会が出てきた。そして、いろいろ話していくうちにどんどん裕一くんに惹かれていった。裕一くんは、私の思っていたような人だったから」
「そんなことはないと思うけど」
「ううん。でも、たとえ裕一くんが私の思っていた人と違っていても、私は運命を信じたかった」
「運命?」
「今まで男の人を好きになったことがなかった私が、たった一度見ただけで好きになったんだから、運命を信じてみたくなったの」
心に強く思うことは時にはあらぬ方向へ人を導くこともあるが、正しい方向へ進むならば、それも悪くない。
「ふふっ、なんか変な話になっちゃったね」
「そんなことないよ」
「じゃあ、今度は裕一くん」
「俺?」
「うん」
「俺は、最初は綺麗だな、カワイイな、くらいにしか思ってなかった。確かに、心のどこかであんな子とつきあえたらいいなって思ってたかもしれない。だけど、同じクラスでいつも見ているうちに明るくて、誰とでも楽しそうに話しているのを見て、だんだん惹かれていったのかも。舞ちゃんは男子の間では憧れの的だったから。いろんなことを聞いたよ。どれが本当でどれがウソなのかわからないくらい。でも、そういう話に自然と耳を傾けていたから、やっぱり俺は舞ちゃんが好きだったんだ」
今にして思えば、まわりにはそんなそぶりを見せないで、密かに好きだった自分がそこにはいた。なんとなく不思議な感じがする。
「舞ちゃんはね、男子の間では学校一の美人だって噂になってたんだ」
「私が?」
「そう。眉目秀麗、才色兼備、容姿端麗、明朗快活。ありとあらゆる美辞麗句が使われて、しまいには良妻賢母なんてことまで。だけどね、俺も確かに舞ちゃんが綺麗だとかカワイイというところから好きになったけど、結局はそういうことは後回し。俺は『結城舞』その人が好きになったんだ。だから、別に学校一の美人じゃなくてもいいんだ。まあ、それならそれで嬉しいけど」
俺は一呼吸置いて言った。
「好き、ってことは理屈じゃないってドラマみたいなセリフ、今ならわかる気がする」
「うん、そうだね」
お互いに微笑んだ。
「裕一くん」
「ん?」
「今でも裕一くんから見て、私、綺麗?」
「もちろん。俺にはもったいないくらいだよ」
「よかった。これからは裕一くんのためだけに綺麗になりたいな」
「舞ちゃんは今のままでも十分綺麗だよ。でも、そう言ってくれるのは嬉しい」
「うん」
もう一度キスをした。
「もう寝ようか?」
「うん」
沖縄の夜は、とても静かだった。
次の日、俺たちは沖縄観光に出た。
まず那覇市内で首里城と守礼の門。かつて沖縄が琉球として独立していた頃の建物。現在は復元された城が建っているが、その朱色は当時を彷彿とさせる。
首里城の近くには尚氏の墓があり、本土のものとはまったく違う。
ついで、那覇からバスに乗ってひめゆりの塔を目指した。
そこは、太平洋戦争時に沖縄に上陸した米軍に女性だけで編成された部隊が抗戦し、敗れた場所。
塔はその部隊の名前『姫百合部隊』からきている。
部隊の女性はみな若く、これからがある者ばかりだった。
今でこそ観光地となっているが、わずか半世紀前にそこは悲劇の舞台だった。
塔は海を見下ろせるがけの上に立っている。
それから俺たちは那覇市内に戻り、沖縄料理を食べた。
ゴーヤーチャンプルー、ミミガーなど沖縄ならではの料理に舌鼓を打つ。
沖縄の料理の特徴は黒砂糖と豚肉。
とにかくいろんなものに黒砂糖を使う。だからといって甘いわけではない。
それに、豚は耳からしっぽまで余さず使う。
しかし、どれもこれもしつこくなく非常に美味しい。
食欲を満たした俺たちは、市内で買い物をすることにした。
沖縄の街は日本でありながら日本でない、そんな不思議な街だった。
アメリカに占領されていたこともあって、至るところにアメリカのものが目を引く、
俺たちは一軒のショッピングセンターに入った。
俺は家のみんなにおみやげを買うことにした。
父さんには泡盛、といきたいところだが健康のことを考えてパス。
由紀子と奈津子には貝製品と沖縄の民族衣装。
良二にはシーサーの置物。
母さんにはハイビスカスの紅茶。
結局、父さんには黒砂糖。砂糖は取りすぎなければ体にはいい。
それと、いくつかのおみやげを買った。
「舞ちゃん。決まった?」
「うん」
彼女も家族におみやげを買った。
「このままだとどこにも行けないから、いったんホテルに戻ろうか?」
「その方がいいみたい」
いっぱいの荷物を見て、彼女は苦笑した。
で、俺たちはいったんホテルに戻った。
が、その頃には陽はだいぶ西に傾いていた。
「どうしよっか?」
「少し歩こ」
ビーチにはまだそれなりに海水浴客が残っていたが、昼間ほどではなかった。
照明のまったくないビーチでは、夜に泳ぐのは非常に危ない。
そのため、夕方になると人はみな戻っていく。
「海に陽が沈むのって、見ていてすごいよね」
「空も海も真っ赤に染まって、あたりは赤の世界に支配される。そして、すぐに夜の闇。不思議だよ」
「うん」
白い砂浜は今は赤く染まっている。
「こうしていると、私たちってどう見えるのかな?」
「えっ?」
「ほかの人たちから見ても私たち、恋人同士に見えるかな?」
「心配?」
「うん」
「大丈夫だよ。少なくとも俺たちのことを見て兄妹だなんて思う奴はいないから。そうすれば必然的に、ね」
「こうすればいいかな」
彼女は俺の手を握ってきた。
「こうすれば、見えるよね」
「そうだね」
俺は嬉しかった。
この旅行の目的はこの前のお詫びが第一だけど、それ以外に普段あまりできないデートの代わりというのもある。
これからは彼女も部活やピアノの方で忙しくなるから、今以上にゆっくりとふたりきりでいることはできない。
だからこそ余計に嬉しかった。
しばらく歩いていると、時々カップルに出くわした。
その中には砂浜に座って、ちょっとあやしいことをしているカップルもいた。
ふたりともなんとなく声もかけづらくなって、無言のまま通り過ぎた。
三十分ほど歩いて、ホテルに戻った。
「裕一くん」
「ん?」
その夜、ベッドに入ってから彼女が話しかけてきた。
「裕一くんも、その、してみたい?」
「えっ、なにを?」
「う、ううん。やっぱりいいや。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
その時にはよくわからなかったが、それは次の日にわかることになる。
沖縄に来て三日目。
今日は朝から泳ぐことにした。
明日にはもう帰らなければならないから、今日は目一杯楽しもうということ。
俺たちは朝から、泳いで休んで泳いで休んでを繰り返していた。
まあ、昼間はそんな感じで過ぎていった。
そして、最後の夜。
夕食後、俺たちは部屋に戻っていた。
彼女はベランダから外を見ている。
俺はテレビを見ていた。
だいたい九時くらいまでそうしていた。
そして、テレビを消してベランダに出た。
「どうしたの? ずっと外を見ていたみたいだけど」
「東京に帰ったら、こんなにゆっくりと会えないかもしれないね」
「ん、そうだね。部活もあるし、舞ちゃんはピアノもあるし。でも、来月には修学旅行があるから」
「でも、夏は終わりだね」
ふと振り返る彼女の表情は、どこか淋しそうだった。
「シャワー、浴びてくるね」
「う、うん」
彼女はそのまま浴室に消えた。
俺はしばらくベランダから外を眺めていた。
暗闇と静寂があたりを支配し、時に流れまでゆっくりに感じられた。
空にはたくさんの星が瞬き、月明かりがなくても明るいのではと思うほどだった。
俺は頃合いを見て部屋に戻った。
ちょうど彼女がシャワーを浴び終わったところだった。
浴室のドアが開いた。
なんとなく気が引けてそちらは見ない。
「裕一くん」
呼ばれて振り返ると──
「ま、舞ちゃん……」
彼女はバスタオルを体に巻いただけの格好で立っていた。
「あ、あの、俺、外に出てようか?」
俺がベッドから立ち上がり、部屋を出ようとすると──
「待って。お願い」
彼女が引き留めた。
「で、でも……」
俺が躊躇していると、彼女は後ろから俺に抱きついた。
「裕一くん。昨日、私が聞いたでしょ」
「な、なにを?」
「してみたい、って」
「そ、そうだっけ?」
俺は完全に舞い上がっていた。
それでも、感情に流されないように必死だった。
「こっちを見て」
俺は強引に彼女の方を向けさせられた。
目の前にはバスタオル姿の彼女が、目を潤ませてこっちを見ている。
「裕一くんにふたりだけでどこかへ行こうって誘われた時から、ずっと考えていたの。裕一くんはホントに私に満足してるのかなって。聞けば必ず、そんなことはない、って答えてくれるはず。でも、心配なの。私、なにも知らないから。一緒にいてホントに楽しいのかなって。だから……」
彼女は俺の手を取って自分の方へ引き寄せた。
「触って」
彼女は、そのまま俺の手を胸に当てた。
柔らかな感触とともに、心臓の音が聞こえてきそうなほど、ドキドキしていた。
「裕一くんに私のすべてを見てほしいの」
そのままバスタオルを下へ落とす。
そこには、生まれたままの姿の彼女がいた。
恥ずかしくて耳まで真っ赤なのに、どこも隠そうとしない。
「裕一くん。私を、抱いて……」
今の彼女からは一番聞きたくない言葉だった。
「裕一くんになら、すべてをさらけ出せそうな気がする。だから、私を抱いて」
「舞ちゃん……」
俺は思わず顔を背けた。
そして──
「舞ちゃんっ!」
彼女を強く抱きしめた。
「舞ちゃんの気持ちは嬉しい。俺のためにここまでしてくれるなんて。だけど、今の舞ちゃんを抱くことはできない」
一瞬、彼女の体が強ばった。
「いや、本当は怖いんだ。ここで舞ちゃんを抱いてしまったら、もう二度と今のような関係には戻れないんじゃないかって。俺だって、少なからず舞ちゃんを抱きたいっていう邪な感情は持ってる。でも、だからこそダメなんだ」
「ごめん、なさい……」
「謝ることなんかないよ。今はまだ、自分に自信がないんだ。だから、もう少しだけ待っていてほしい。迷わなくなるまで」
「裕一くん……」
俺は静かに体を離し、落ちているバスタオルを彼女にかけた。
「今日はもう寝よう」
肩を抱いて俺は彼女をベッドに寝かせた。
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「ん?」
「一緒に、寝てほしいの」
「うん」
俺は彼女のベッドに入った。
「私の夢、教えてあげるね」
彼女は唐突に話し出した。
「私の夢はずっと変わってないの。幼稚園の頃から」
「どんな夢?」
「好きな人の、お嫁さんになること」
「舞ちゃん……」
「もう、裕一くんしか見えないから」
「じゃあ、俺も相応しくならないと」
薄く微笑む彼女におやすみのキスをした。
「今日はいい夢が見られそう」
「きっとね」
こうして、波乱の沖縄旅行は幕を閉じた。
お盆を過ぎると夏も色褪せていく。
大胆な季節も終わる。
第五話「色づく季節」
一
もうすぐ夏休みも終わるという八月下旬の昼下がり。
今日は監督の都合と学校の方の都合で、練習が半ドンだった。
溜まっている宿題を片づけるのに絶好のチャンスではあるが、どうにもこうにも暑い。
とりあえず机の上に宿題を並べてみた。
終わっているのは数学の問題集と英語の問題集。それと現代文の問題集。古文があと少し、物理はほとんど終わり、化学が半分ほど。世界史と日本史はたいした量ではない。
しかし、それでも上手くやらないと終わらない。
部屋の中はクーラーが効いていて涼しいが、なんとなくやる気が起きない。
俺は景気づけに冷たいものでも飲もうと台所へ降りた。
冷蔵庫には作り置きの麦茶が入っている。
コップに一杯注いで、一気に飲み干す。
これで少しはやれるだろう。
俺は暑い廊下を重い足取りで部屋に向かった。
と、運の悪いことに来客だ。
今日は誰もいないから俺が出るしかない。
「はい、どなたですか?」
暑いのを我慢してドアを開けると──
「あはっ、お兄ちゃんだ」
いきなりタックルされて俺がしりもちをついた。
「いてて、いったい誰だ……って、紀子じゃないか」
出会い頭にタックルをかましてきたのは、従妹の紀子だった。
「どうしたんだ?」
俺は立ち上がりながら聞いた。
「今度こっちに引っ越してくるのは知ってるよね? それで、家に引っ越す前に私だけ先に来ちゃったの」
「ひとりでか?」
「うん」
確かに玄関には紀子以外誰もいない。
叔父さんも叔母さんも来ていないらしい。
「まあ、いいや。とりあえず上がりな」
「うん。おじゃましまーす」
俺はとりあえず紀子をリビングに上げようと思ったが、あまりにも暑くてすぐにクーラーも効きそうになかったので、俺の部屋に上げた。
「うわぁ、お兄ちゃんの部屋、久しぶりだなぁ」
紀子はなにが嬉しいのかよくわからないが、とにかく嬉しそうに部屋を見回している。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「ゆきちゃんたちは?」
「由紀子たちはみんな部活だよ。父さんは仕事だし、母さんは用事があって出かけてる。ホントは俺だっていないはずだったんだけど、まあいろいろあってここにいるんだ」
「じゃあ、運がよかったんだ。ひょっとしたら誰もいない時に来てたかもしれないし」
「まあ、そういうことかな」
紀子は人懐っこい笑みを見せる。
紀子は長目の髪に大きな瞳で、人懐っこい性格でとてもカワイイ。
「そうだ。なにか飲むか?」
「うん」
「じゃあ、ちょっと待ってな」
「あっ、私も行く」
俺たちは台所へ降りた。
「好きなもの飲んでいいぞ」
「うわぁ、相変わらずいろんなお茶があるね」
「そりゃそうさ。母さんの趣味だからな」
「あっ、ハイビスカスの紅茶だ」
「ああ、それはこの前沖縄に行った時に俺が買ってきたんだ」
「えっ、お兄ちゃん沖縄行ったの?」
「そうだよ」
「でも、この前電話した時にはそんな話してなかったけどな」
「ああ、みんなは行ってないんだ」
「ひとりで行ったの?」
「ひとりじゃないけど」
「じゃあ、誰と?」
「まあ、それはあとにして、とりあえず飲み物」
俺はお湯を沸かしてハイビスカスの紅茶を淹れた。
コップに氷を入れて、ゆっくりとお茶を注ぐ。
これでアイスティの完成。
適当にお菓子を持って部屋に戻った。
「あっ、お兄ちゃん」
部屋に入るなり、紀子は机の前に立ち止まった。
「この写真」
「ん、ああ、それが沖縄の写真だよ」
「隣に写ってる人、綺麗」
その写真は守礼の門で撮ってもらったものだ。
「ひょっとして、この人お兄ちゃんの彼女?」
「まあね」
「ふ〜ん」
紀子は興味深そうに写真を見ている。
「ねえ、名前は?」
「結城舞だよ。同じクラスなんだ」
「そうなんだ」
「まあ、紀子もうちの高校に入れば会うこともあるさ」
紀子は写真を元に戻して座った。
「って、そういえば、転入試験は?」
「うん、明日だよ」
「そっか。だから今日来たのか。まあ、紀子なら大丈夫だろう」
「たぶんね」
紀子は紅茶を一口飲んだ。
「でも、お兄ちゃんに彼女がいたなんて驚いちゃった」
「つきあいはじめてまだ一ヶ月ちょっとだけどね」
「あ〜あ、将来はお兄ちゃんのお嫁さんになろうかな、って思ってたのに」
「また、冗談ばっかり」
「冗談じゃないよ。それに、いとこ同士は結婚できるんだから」
「ま、まあ、それはそうだけど」
「でも、あんなに綺麗な人じゃ、かなわないかな」
紀子は本当にがっかりしている。
「紀子だって十分カワイイよ。それに、人と比べるのはやめた方がいい。比べたってその人自体、なにも変わらないんだから」
「うん、わかってる。ちょっと言ってみただけ」
そう言って紀子は微笑んだ。
「やっぱりお兄ちゃんは優しいね。だから大好きなんだ」
「優しいかどうかはわからないけど、好きになってくれるのは嬉しいよ」
「そういえば、お兄ちゃんたち、野球で準優勝したんでしょ?」
「ん、まあね。でも、夏の予選は優勝しなければ一回戦で負けても決勝で負けても同じことなんだ。結局、甲子園には出られないから」
「お兄ちゃん……」
紀子はいけないことを聞いたというような表情をしている。
「そんな顔するなよ。もう過ぎたことなんだから。また、来年があるし」
「うん」
俺は紀子の頭を撫でた。
「そういえば、こっちに来ることはちゃんと言ってあるのか?」
「うん。伯母さんには話しておいたけど」
「そっか。母さんも俺が帰ってくるとは思わなかったから、特に言わなかったんだ」
まあ、それはそれで問題だと思うけど。本当に誰もいなかったらどうするつもりだったんだか。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「宿題してたの?」
「ああ、そうだよ。まだ終わってないからね。うちの高校は宿題が多いから」
「じゃあ、邪魔しないようにどこか行ってようか?」
「いや、別にここにいてもいいよ。それに、ほかの部屋はどこも暑いから」
「うん」
俺は机に向かって宿題をはじめた。
紀子は本を読んでいる。
窓を通して蝉の声が聞こえてくる。
今年は九月の中頃まで残暑が厳しいらしく、こういう日はまだまだ続きそう。
一時間ほどで物理の問題集を終えた。
静かになった部屋を見ると、紀子は眠っていた。
「しょうがないな」
俺は紀子をベッドに寝かせた。
昔から紀子は由紀子たちと同じように俺を慕ってくれた。
だから俺にとって紀子は従妹というよりも『妹』だった。
それを紀子に言うと悲しまれるかもしれないが、それが本音だ。
『お兄ちゃんのお嫁さんになろうかな』
紀子の言葉は意外だったけど、嬉しくもあった。
「……ん……」
「お目覚めですか、お姫様?」
「あれ、お兄ちゃん?」
紀子は眠たい目を擦りながら体を起こした。
「私、眠っちゃったんだ」
「そうだよ」
「お兄ちゃんが運んでくれたの?」
「まあね。軽かったよ」
「うん、ありがとう」
そう言って紀子は俺の方に近づいて──
「大好き」
キスをした。
頬にだけど、なんか少し照れくさい感じがした。
「今日は、お兄ちゃんの部屋に泊まろうかな」
「ははは、いいんじゃないか」
「ホント?」
「ああ。ただし、由紀子が許してくれたらな」
「ゆきちゃんか」
由紀子は意外にそういうところはしっかりしてるから、たぶん許してはくれないだろう。
「じゃあ、ゆきちゃんも一緒っていうのは?」
「それは無理だな。三人も寝るところがない」
「そっか、残念だな」
「まあ、そのうちな」
「うん」
また、楽しく、大変になりそうな気がする。
二
「おはよう、裕一くん」
「おはよう」
九月一日。今日から学校。
九月は期末テストに秋休み、修学旅行となかなか忙しい。
「うわぁ、ずいぶん焼けたね、由紀子ちゃん」
「ずっと部活だったんで。硬式はコートが土じゃないから暑くって」
「そうだよね」
受験の間はあまり外に出なかったから、夏休みなんかにずっと部活をしていると妙に焼けたように見える。
それでも由紀子なんかは日焼けにはずいぶん気を遣って、日焼け止めを持ち歩いていた。
「あっ、そうだ。今日、うちの学校に転校生が来るんですよ」
「転校生?」
由紀子の言葉に舞は首を傾げている。
「実はね、俺たちの従妹が引っ越してきたんだ。それでうちの高校に転校してきたんだ。学年は由紀子と同じだよ」
「そうなんだ」
「家はうちの近くだから、朝一緒になると思うよ」
「楽しみだな」
舞は素直にそう思っているけど、紀子が俺のことをどう思ってるか知ったら素直になれるかどうか。
「ねえ、裕一くん」
「ん?」
「今日は授業がないから、部活も早く終わるよね」
「たぶんね。まあ、それでも夕方にはなるけどね」
「うん」
彼女はそれを確かめると、嬉しそうに微笑んだ。
午前中、校長講話があり、それから少し長目のホームルームがあった。
ホームルームの時、森岡先生から修学旅行を十分楽しむためにテストに向けて勉強するようにという訓辞があった。
確かに、うちの高校の修学旅行は期末テストが終わったあとの秋休みを利用して行われる。従って、テストが悪いと十分には楽しめない。
なぜなら、修学旅行先であろうと赤点を取った者は追試なり補習があるからだ。
ホテルで夜に先生たちが特別に行う。
これはうちの高校の伝統になっているらしく、行き先がハワイに変わってからも続いている。
とは言っても、今回のテストだけで赤点を取っても中間と合わせて赤点じゃなければかろうじて免れる。
「裕一」
「どうした、豊和」
「どうしたじゃないよ。おまえ、夏休み中に舞ちゃんとなんかあったのか?」
「なんかってなんだよ?」
「そりゃ、あ〜んなことやこ〜んなこと……ま、まあ、そんな顔するなよ」
「からかいに来ただけなら俺は行くぞ」
「まあ、話は最後まで聞けよ」
「おまえが勝手に話の方向を変えてるんだろ?」
「まあ、それは置いといて。話は修学旅行のことだ」
「修学旅行?」
俺は立ちかけていた席にもう一度座った。
「おまえ、自由行動は誰と行くんだ?」
「いや、まだ決めてないけど。たぶん、彼女とは一緒だろうな」
そう言って舞の方を指さした。
「まあ、それはそうだろうな。舞ちゃんがおまえ以外と行くとしたら例のふたりぐらいだろうからな」
「なあ、豊和。なにが言いたいんだ?」
「つまり、こういうことだ。自由行動の時おまえたちふたりだけにするとどうなるかわからないから、俺も一緒に行こうというんだ」
「断る」
「あ、あのなぁ、あまりにも簡潔過ぎないか?」
「そうか?」
俺はしれっと言った。
「それに、俺たちがふたりきりだとなにがあるって言うんだ?」
「だから、あ〜んなことやこ〜んなこと……だ、だから、落ち着け」
「……おまえ、それしか言えんのか?」
「……すまん」
「そろそろ本当のことを言ったらどうだ? 英語ができないから、英語のできる彼女とまわりたいって」
「ははは、その通りだ。だってそうだろ? いくらハワイが日本人だらけだって言ったって、やっぱり英語がわかることに越したことはない。その方がより楽しめそうだし」
「まあな」
「だからそれとなく頼んでみてくれないか?」
「一応はな」
「なんか頼りないな」
「そうは言うけど、決めるのは俺じゃなくて彼女だ」
「わかってる。とにかく頼んだ」
そう言って豊和は教室を出て行った。
「一番人気になるのかな」
俺はちらっと舞を見て呟いた。
英語は授業でできても話せるとは限らない。いわゆる文法英語と会話英語は違う。
彼女はその両方ともできるのだ。
俺も英語にはそこそこの自信はあるが、やはり会話は苦手だ。
「あっ、いたいた。お兄ちゃん」
俺がそんなことを考えていると、紀子がやって来た。
「どうしたんだ、紀子?」
「うん、ちょっとね」
紀子は俺のところに来る間、教室を見回していた。
「ははあ、さては見に来たな」
「あはは、うん」
「しょうがないな」
なんとなく予想はついたが、あまりにもその通りなのでちょっと気が抜けてしまった。
「舞ちゃん。ちょっといいかな?」
「うん」
俺は彼女と紀子を会わせた。
「紹介するよ。今朝話していた、従妹の紀子」
「綾本紀子です」
「結城舞よ、よろしくね」
紀子はまじまじと舞の姿を見ている。
「やっぱり綺麗。写真より格段に」
「えっ?」
「いや、紀子はうちに来た時にあの沖縄の写真を見たんだよ」
「そうなんだ」
彼女は納得したように微笑んだ。
「すぐに帰るのか?」
「ううん。部活のこととかあるからすぐには帰らないよ。それに、帰ったら荷物の整理を手伝わされるから」
「ひょっとして、叔母さんひとりでやってるのか?」
「うん。お父さんは忙しいから。あっ、でも伯母さんが手伝いに来てくれるって言ってたような」
「そうか。まあ、それならいいけど」
紀子は三人家族だから、そういうところはきちんとけじめをつけないと、叔父さんや叔母さんが苦労する。
「ねえ、紀子ちゃんは前の学校でなにをやっていたの?」
「合唱部です」
「合唱か。うちの高校にもあるけど」
「あれはやめといた方がいい。あんまり真面目な部活じゃないから」
「そうなんだ」
「そうだ。音楽部はどうだ?」
「音楽部?」
「吹奏楽とか管弦楽とは違うけど、ピアノやそのほかの楽器を使う部活だよ」
「私が入っているのよ」
「彼女はピアノをやってるんだ。紀子と同じね」
「えっ、紀子ちゃんもピアノやってるの?」
「うん。幼稚園の頃からずっと」
「そうなんだ」
彼女はちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、うちの部、見学する?」
「そうしな、紀子」
「うん」
「次、ストレート」
フォームを確かめるようにボールを投げ込む。
「ナイスボール」
「あっ、先輩」
「相変わらずいい球投げてるな」
「そんなことないですよ」
やって来たのは、前キャプテンの井上先輩。
「受験の方はどうですか?」
「まあ、これからだよ」
「先輩なら推薦いけるんじゃないですか?」
「ちょっと厳しいかもな。俺はおまえみたいに活躍できなかったから」
苦笑いの先輩。
「でも、大学でも野球はやる。野球しか取り柄もないし」
「六大学ですか?」
「まあ、早稲田や慶応に入れる頭があればな」
「なに言ってるんですか。先輩の噂は聞いてますよ。あれだけ野球部の練習をしてるのに、学年で常に二十位以内に入ってるって」
「人のことは言えんだろ。おまえだっていつも『今回はダメです』とか言っておきながらちゃんと上位に名を連ねてる」
「たまたまですよ。それに、未だに十位以内のひと桁には入ったことありませんから」
「欲張りすぎだ」
「でも、一度くらいは取ってみたいですよ」
「じゃあ、勉強しろ」
「ははは、機会があれば」
「バカ野郎」
先輩も部活が終わってから勉強漬けでストレスが溜まっているのだろう。
俺たちには受験を代わることはできないから、せめてストレスの発散に一役買えればいいのだが。
「まあ、とにかくがんばってください。二月か三月には『サクラサク』を待ってますから」
「ははは、そうだな。じゃあな」
先輩を見送って、再び練習に戻った。
「ふう、今日もきつかったな」
「まだまだ暑いからな」
「九月って言ってもこれじゃあな」
俺はそう言って帽子を軽く絞った。
すると汗が落ちてくる。
「ま、もう少しの辛抱だな」
俺たちはいつものように部室に戻った。そしていつものようにシャワーを浴びて制服に着替える。
部室にはまだ何人か残っている。
「功二。お先に」
「ああ、じゃあな」
残っていた一年が挨拶してくる。
俺が部室を出ると校舎に戻った。
行くところは決まっている。
「おや?」
しかし、今日はいつもと様子が違った。
いつもなら二音からはピアノの音が聞こえるだけなのだが、今日は複数人の声が聞こえる。
ドアを開けると、そこにはうちの高校の音楽部のほとんどが残っていた。
「あっ、裕一くん」
真っ先に気付いたのは舞だった。
「どうしたの、今日は?」
「うん、原因は紀子ちゃんなの」
「紀子?」
そう言われてピアノのところを見ると、紀子が座っている。
「みんなに紀子ちゃんを紹介して試しにピアノを弾いてもらったの。そしたら、みんな紀子ちゃんの腕前にびっくりしちゃって。それでずっとあんな感じなの」
「なるほど」
俺は紀子のピアノはあまり聴いたことないが、叔母さんや母さんが上手いと言っているのは聞いたことがある。
だけど、いつも舞のピアノを聴いている音楽部の連中が紀子のピアノを聴いて上手いと思うんだから、その実力は舞に近いということになる。
「舞ちゃんはどう思った?」
「うん、上手だと思うよ。テクニックだと私以上かも」
「それはすごいな」
「裕一くんは聴いたことないの?」
「いや、ないわけじゃないんだけど。聴いたのはだいぶ前のことだから。でも、舞ちゃんがそこまで言うんだから、上手いんだね」
「あっ、お兄ちゃん」
ようやく俺の存在に気付いた紀子は、すぐに俺のところへやって来た。
音楽部の大多数も俺の存在には気付いていなかったらしい。
「どうだ、音楽部は?」
「うん、楽しいよ」
「そう、それはよかった」
「まあ、それはいいけど。どうする? 帰るか?」
そう言って時計を指さした。
「あっ、もうこんな時間なんだ」
「なんだ、時間も見ないでやってたのか?」
「あはは、そうみたい」
紀子はちょっと照れ笑いを見せた。
「今日はもう遅いから、みんなも帰る帰る」
舞は部員にそう呼びかけた。
三年が少ない音楽部では、実質二年が部を取り仕切っている。そして、舞は次期部長候補。
ぞろぞろとみんな帰っていき、あとは俺たちだけになった。
「さて、帰ろうか」
「うん」
音楽室の戸締まりをして、俺たちは学校を出た。
「なあ、紀子」
「ん?」
「おまえ、ピアノのコンクールなんかは出てたのか?」
「うん、一応はね。でも、あんまりああいうのって好きじゃないから、たくさんは出てないけど」
「成績はどれくらいなんだ?」
「う〜ん、だいたい一位だったけど」
「そんな話聞かなかったけどな」
「だって、お兄ちゃん聞かないからだよ。聞けば答えたよ」
「まあ、それはそうだけど」
確かに、紀子がうちに来た時もピアノのことはほとんど話さない。それに俺も聞かない。
「ふふっ」
「ん? どうしたの?」
「ううん。裕一くんと紀子ちゃんて仲が良いんだなって思って」
「そう?」
「うん。裕一くんは由紀子ちゃんとも仲が良いけど、やっぱり人柄なのかな」
「由紀子は妹だから。それに、紀子も妹みたいなものだからね。うちに来ると由紀子と紀子はいつも一緒に俺のあとにくっついてたから」
「お兄ちゃん、そんな昔のこと……」
「別にいいだろ。本当のことなんだから」
「でもぉ……」
「まあ、そんなにむくれるなよ」
俺は紀子の頭を撫でた。
「私にもお兄ちゃんがいたら、裕一くんたちみたいになれるかな?」
「えっ?」
「お兄ちゃんが先輩の『お兄ちゃん』なら大丈夫ですよ」
「ふふっ、そうかもね」
「でも、それだと今みたいな関係にはなれませんけどね」
「あっ、こら、紀子。余計なことは言うな」
「あはは、ごめんなさい」
「まったく……」
「でも、お兄ちゃんと先輩って、羨ましいくらいにお似合いだよね」
俺たちは思わず顔を見合わせた。
「あ〜あ、私も彼氏、ほしいな」
三
「ぬ、ぬおぉ……」
「どうしたんだ、豊和?」
「テストが……修学旅行が……赤点が……ビーチでラブラブエンジョイが……」
「……大丈夫か?」
今日は前期末テスト最終日。そして、今ちょうど全教科終わったところ。
うちの高校ではこれから十日間の秋休みに入る。後期は十月二日から。ちなみに一日は都民の日で休み。
そして、二年にとっては高校生活最大のイベントと言っても過言ではない修学旅行がある。
さらに、前期末テストが終わった二年には豊和のように半狂乱になる者も毎年いるらしい。
まあ、今回のテストはそれほど難しくなかったから赤点はまずない。
生徒たち大半は、もうすでに頭の中は修学旅行のことでいっぱいだ。
だが、先生たちには地獄が待っている。
まず、答案の採点。前期の成績評価。追試もしくは補習の準備。さらには修学旅行の準備。これを修学旅行に行くまでにほとんど仕上げなければならない。
先輩の話では、先生の大半は修学旅行の当日、目の下にクマを作っているらしい。
「裕一くん」
「やあ、舞ちゃん」
「やっと終わったね」
「うん。これで心おきなく修学旅行に行けるよ」
「修学旅行、楽しみだね」
修学旅行の自由行動では、まあ、なるべくして舞と一緒にまわることになった。
とは言ってもふたりだけではなく、中田と堀、功二となぜか豊和。結局身内でまわることになった。
三泊五日の修学旅行中、自由行動は二日間。
「そうだ。今日は部活あるの?」
「うん。明日からしばらくないからその分もね」
「じゃあ、待ってるね」
「舞ちゃんは部活ないの?」
「うん。うちの部活、二年生が多いから」
「そうなんだ」
「裕一くんを待つのも久しぶり」
「そうだね。最近は部活がしっかりあるから、案外同じ時間になったからね」
「うん。じゃあ、いつものように二音で待ってるから」
そう言って彼女はにっこり笑った。
「よーし、今日の練習は終わりだ」
陽もとっぷりと暮れ、ようやく今日の練習が終わった。
「二年はあさってから修学旅行だが、一年はきっちり練習だからな。それと、二年も自分でできる最低限のことはやっておけ。じゃないと帰ってきてからつらいからな」
監督の言葉も二年にはまともに届いているかわからない。
それほどみんなは修学旅行を楽しみにしている。
「裕一」
「ん?」
「おまえ、修学旅行ではどうするんだ?」
「まあ、簡単な柔軟とシャドウピッチングくらいじゃないか。バットは持っていけないだろ」
「持ってったら、飛行機に乗れないな」
「まあな」
そう言って俺たちは笑った。
「時間があれば、ジョギングくらいはやりたいけど」
「それくらいはできるんじゃないか。朝か夕方にでも」
「起きられればな」
「起きるんだよ」
「簡単に言うけど、そうそうできないぜ」
「俺はできる」
「おまえはいつもやってるからだろ」
「ははは、そうだけどな」
そんなことを話ながら、部室に戻ってきた。
「まあ、なんにしろせっかくの修学旅行なんだから、楽しまなきゃな」
「そうだな」
俺が二音に入ると、彼女はいつものようにピアノを弾いていた。
それでも今日はすぐに終わった。
「ごめんね、ずいぶん待たせたみたいで」
「ううん。ピアノのレッスンにはちょうどよかったから」
「それならいいけど」
「ふふっ」
彼女は微笑んだ。
「舞ちゃん」
「裕一くん」
俺たちは自然に抱き合って、キスを交わした。
「……ん、優しいキス」
最近の彼女は積極的にキスを求めてくる。
どうやらキスの虜になったらしい。
俺としても、キスをしたあとのわずかに頬を染める彼女の表情が好きだから、願ったりかなったりだけど。
俺は黒く艶やかな彼女の髪をゆっくり撫でる。
「裕一くん」
「ん?」
「修学旅行でもふたりきりになれるといいね」
「うん、そうだね」
まあ、実際はなかなか難しいだろうけど。なんと言っても豊和が一緒だから。
「帰ろっか?」
「うん」
彼女の笑みは本当に見ていて安心できる。
いつもは綺麗な彼女も、笑う時は純真無垢な少女のようにカワイイ。
だから余計に彼女のことが好きになった。
「早く来ないかな、修学旅行」
四
日本から飛行機でおよそ七時間。
日本の沖縄よりもさらに南に位置している島々、ハワイ諸島。
オアフ島を中心に一番大きな島、ハワイ島。もともとハワイ王国の首都があったマウイ島。大小様々な島からなる諸島。
そして、ここが修学旅行の目的地。
「うわぁ、太陽が違う」
「ホント。なんかいかにも南の島に来たって感じがするね」
定時にホノルル国際空港に着いた俺の素直な感想。
これからオアフ島の中心部へ向かう。
有名なワイキキビーチも近い。
本当ならすぐにでも水着に着替えて泳ぎたいが、如何せん時差ボケがある。
日本とは五時間の時差がある。しかも日付変更線を越えているために一日前。
機内である程度寝ていたから極端な時差ボケはないが、そのうち症状が出てくるだろう。
ホテルは比較的治安のいいところにあり、日本人も多い。
部屋は基本的にはツイン。それでも人数が多いからシングルも使っている。
そして、俺は運がいいのか悪いのかシングルになった。
ドアをカードキーを使って開ける。
部屋は南向きでちょうど前にはホテルがないから海がよく見える。
ホノルルはホテルが多く、高級ホテルではそういうことはないが、窓からはホテルしか見えないこともある。
十八階の部屋は、外の音があまり入ってこないので静かだった。
俺は荷物を適当に出してひと息ついた。
今日は特に予定はない。
先生といえども人間であるから、当然時差ボケもある。だから、今日は休息日。
俺は部屋でボーッとしていた。
ハワイは十八世紀、キャプテンクックによって発見され、世に知られた。
一八一〇年、カメハメハ一世によって全島が統一されハワイ王国が建国される。
その後、一八四五年、マウイ島のラハイナからオアフ島のホノルルへ遷都。
一八九八年にアメリカに合併され、一九五九年、五十番目の州となった。
二次大戦ではアメリカ軍の前線基地として使われ、現在も基地がある。
有名な真珠湾には今も海軍の基地がある、艦隊が係留されている。
ハワイはその温暖な気候と抜群の環境からすぐにリゾート地になった。
日本人も多く訪れるようになり、定住している人も多い。
とまあ、そういうことを考えていたかどうかは深く追求しない方がいい。
とにかく、俺の思考を中断させたのはドアのノックだった。
俺はマニュアル通りにドアののぞき穴から外を見た。
そこにいたのは舞だった。
すぐにドアを開ける。
「やあ、舞ちゃん」
「ごめんね。すぐに来ちゃって」
「ううん、別にいいよ。どうせすることもなくてボーッとしてたから」
「ふふっ、よかった」
俺は彼女を部屋に招き入れた。
「うわぁ、海がよく見えるね」
「舞ちゃんの部屋からは見えないの?」
「ううん、見えるけど、少し前のホテルが邪魔しててちゃんとは見えないの」
「そうなんだ」
彼女の部屋はツイン。一緒にいるのは中田。まあ、退屈はしない相手だろう。
「これからしばらくひとりなんだね」
「まあね。でも、案外その方が気が楽でいいかも」
「そうかもね」
そう言って笑った。おそらく、中田がルームメイトだからなにかと気を遣うことを想像したのだろう。
「裕一くんがシングルだから、こうやってふたりきりになれるね」
「そうだね。舞ちゃんならいつでも大歓迎だよ」
「うん」
俺たちはベッドに座った。
「実はね、家から紅茶を持ってきたんだ」
「あっ、ホントだ」
「お湯さえ沸かせれば飲めるんだけどね」
部屋には備え付けの冷蔵庫にミネラルウォーターがあるだけで、お湯は沸かせない。
「まあ、なんとかしてお湯を分けてもらえればいいけど。分けてもらえたら、飲みにおいでよ」
「うん、そうするね」
俺は紅茶をカバンに戻して、そのままベッドに仰向けになった。
ついでに補足だが、俺たちは制服ではない。それぞれ私服で来ている。
俺はティシャツにジーパン。機内で上に羽織っていたジージャンは脱いだ。
彼女は薄いピンク色のワンピース。スカートはフレアに近く、歩くとふわふわ揺れる。
「でもさ、夏休みに沖縄に行った時、暑いけどイヤな暑さじゃなかったけど、ハワイに比べると湿気が多かったね」
「うん。これだけ陽差しがあるのに全然イヤな暑さじゃなくて、むしろ気持ちいいくらい」
「みんながハワイに行きたがるのもわかるような気がするよ」
「そうだね」
ハワイといえば、年末年始の芸能人のたまり場。
最近は分散傾向だが、それでもハワイは根強い人気を誇っている。
「舞ちゃん」
「えっ? きゃっ!」
俺はちょっと脅かした。
後ろから目隠しをしたのだ。
「も、もう、裕一くん」
「あはは、ごめんごめん」
俺は目隠ししていたものを外して彼女に渡した。
「はい、舞ちゃん」
「これは、リボン?」
「ハワイは暑いからね。髪をまとめてた方がいいかなって思って。それに、本音を言うと舞ちゃんのそういう姿を見てみたいって思って」
「う、うん」
彼女は白いリボンを受け取ると、髪をまとめ上げた。
「……どうかな?」
長い髪をポニーテール風にひとつにまとめ上げた彼女の姿は、とても新鮮だった。髪型ひとつでこうも印象が変わるものかと思った。
それでも、彼女の綺麗さ、可愛さは変わらなかった。
よく、『綺麗な人はなにを着ても綺麗』ということを聞くが、彼女はまさにそうだろう。
「うん、すごく似合ってる。カワイイよ」
「……ありがとう」
彼女は頬を染めてちょっと俯いた。
俺は彼女のこの表情が好きだ。
「リボン、大事にするね」
「リボンならいくつでもプレゼントするよ。どうせなら似合う人にあげたいしね」
「ふふっ、上手いんだから」
そう言って舞は俺の方に寄り添ってきた。
「裕一くん」
「ん?」
「夜、泊まりに来てもいいかな?」
「えっ、それはいくらなんでもマズイんじゃないかな。一応先生たちが見回るらしいから」
「そっか。でも、なんとかならないかな」
「どうだろう?」
「雪乃に頼んでみようかな」
「中田さんに?」
「うん」
確かに彼女なら『面白そう』とか言って手を貸してくれるような気はするけど。
「少しでも長く一緒にいたいから」
「舞ちゃん……」
俺は彼女を抱き寄せ、キスをした。
さて、これからなにが起こるのやら。
次の日。
俺たちは朝から真珠湾へ来ていた。
ここには太平洋戦争の関する様々なものが展示してある資料館がある。
ハワイへは一応修学旅行で来ているから、そういうものも見学する。
ハワイは歴史が浅い割には見るところが結構ある。
まず真珠湾。ここは言わずもがな、太平洋戦争の口火となる日本軍による奇襲が行われたところだ。
歴史的にはハワイ王国の宮殿、イオラニ宮殿も見所。
さらに、カメハメハ大王の銅像やキャプテンクックの記念碑もある。
そのほかではハワイ島のキラウエア、マウナロア、マウナケアの三つの活火山。
オアフ島ならダイヤモンドヘッド。
そして、忘れてならないのは綺麗な海。
珊瑚礁や色とりどりの魚。
またハワイには珍しい植物もある。
ハワイは島ができてから一度も大陸と繋がったことがなく、そのためにいわゆる固有種というものが確認されている。
固有種の代表はオーストラリアの有袋類がそうである。
とまあ、狭い島ながらなかなか人を飽きさせないところがハワイである。
そして午後。
午後は自由行動。
俺たちは計画通り六人でホノルルをまわった。
「でも、本当に日本人が多いね」
「うん。話には聞いていたけど、こんなにしょっちゅう会うとは思わなかった」
グアムやハワイでは英語が話せなくても大丈夫だとはよく言ったものだと改めて思った。
「おい、裕一」
「ん?」
「ワイキキの方へ行ってみないか?」
「ワイキキへか?」
「ああ。まだこの目で確かめてないからさ」
「なあ、豊和」
「なんだ?」
「本当のことを言ったらどうだ?」
「はて、なんのことやら?」
「そうか。じゃあ、俺が説明してやろうか? みんなに」
俺はわざとらしく視線を舞たちの方へ向けた。
「ぐっ……わかったよ」
さすがに自分の考えていたやましいことを話す勇気はないらしい。
「まあ、そんなに泣きそうな顔するなよ。ワイキキには行くからさ」
「ホントか?」
なんと変わり身の早いことか。
「泳ぐ前にどんなところか見てみたいからな」
「なんだ、おまえもそうか」
「バーカ。おまえとは違うよ」
俺たちはハワイで最も有名な場所、ワイキキビーチへ向かった。
ワイキキビーチはママラ湾という海に面しており、西向きの海岸なので夕方はとても綺麗だ。
ビーチにはたくさんの海水浴客がおり、さながら土日の繁華街のような感じすらした。
「これがワイキキか」
前は海。後ろはホテル群。
なんか、一種異様な雰囲気の場所だった。
「いやあ、ははは」
豊和は念願かなって鼻の下を伸ばして喜んでいる。
「裕一くん」
「どうしたの、舞ちゃん?」
「みんなすごいね」
彼女の言いたいことはおおよそ見当がつく。
まあ、アメリカの女性のことだろう。
豊和が見たかったことと同じことだとは思う。
それは、女の人が水着をトップレスで着ていること。
まあ、最初からそう言う人は少ないとは思うが、ビーチに来てからは開放的になってそういう人も増えるのだろう。
「でも、舞ちゃんなら対抗できるんじゃない?」
「んもう、裕一くん」
彼女はちょっと頬を膨らませた。
「でもさ、ああいうのはアメリカ人だから絵になるけど、日本人だとなんか興ざめしちゃうかも」
「それはそうかもね」
「ふたりでなにを話してるの?」
そこへ、中田と堀が割り込んできた。
「別に、特に話してないわよ。雪乃はすぐにそっちの方向へ持っていこうとするんだから」
「そんなことないわよ。ね、弥生」
「えっ、どうかな?」
「ちょっと、弥生、それはないでしょ?」
「あはは」
三人とも楽しそうだ。
「なにしてるんだ、功二?」
「ん? 砂を見てるんだよ」
「砂?」
「ワイキキの砂は日本の砂と違うのかと思ってさ」
「なるほど。で、どうなんだ?」
「全然わからん」
「それじゃ意味がないな」
「まあ、持って帰って日本のと比べてみるよ」
「それはいいよ」
泳がないワイキキも意外に楽しいかもしれない。
その夜。
夕食のあと、次の日のことが簡単に説明された。
午前中はハワイ大学で講演を聴くことになっている。
午後は今日と同じように自由行動。
まあ、だいたいの生徒は海で泳ぐと思うが。
ノックの音に俺はすぐにドアを開けた。
「やあ、舞ちゃん」
「来ちゃった」
彼女はペロッと舌を出して肩をすくめた。
「大丈夫?」
「うん。雪乃に頼んできたから」
「そっか」
俺は嬉しいような困ったような複雑な気持ちだった。
「そうだ。お茶飲む?」
「うん」
俺は持ってきた紅茶と備え付けのコップを用意した。
「さっきね、頼んでお湯を沸かしてもらったんだ。意外にすんなりやってくれたよ」
お茶の葉をコップに入れてお湯を注ぐ。
持ってきたのはごく普通のダージリンティー。
しばらく置いてからもうひとつのコップに入れ直す。
「はい」
「ありがとう」
ティポットがないから少し不便だが、まあなんとかなった。
「うん、美味しい。やっぱり裕一くんの家の紅茶は美味しいね」
「お褒めに与り光栄です」
俺はちょっと大げさに言った。
「裕一くん」
「ん?」
「不思議だよね。修学旅行のクラス代表のことで話していた時はこんな風になるなんて思いも寄らなかったのに。今こうしてるなんて」
「そうだね。舞ちゃんは高嶺の花だったからね。俺にとってもみんなにとっても。でも、今は俺のすぐ側で咲いてる」
「うん」
俺はコップをサイドボードに置いた。
「俺ね、最近思うんだ」
「なにを?」
「舞ちゃんと会ってから変わったなって。具体的にどこが変わったのかはわからないけど、とにかく変わった気がする」
「私もそうだよ。以前より積極的に男の人と話せるようになったし、性格も前向きになったと思う」
「それに、舞ちゃんは綺麗になった。ううん、今も綺麗になってる」
「ありがとう、裕一くん。私が綺麗になったとしたら、それは裕一くんのおかげだね」
「でも、心配なんだよね」
「えっ、なにが?」
「舞ちゃんがあんまり綺麗になっちゃうと、みんな舞ちゃんを見るから。誰かに取られちゃうんじゃないかって」
「大丈夫だよ。私には裕一くんしか見えないから」
「舞ちゃん」
俺たちは自然にキスを交わした。
それからしばらく話をして寝ることにした。
「そのままで大丈夫?」
彼女の格好は昨日と同じ薄いピンクのワンピース。ホテルでの部屋着だ。
「スカートがシワにならないかな?」
「う〜ん、そうだね」
「よかったら着替え、貸そうか?」
俺は自分のティシャツを渡した。だいぶ大きめだから彼女ならだぶだぶだろう。
「じゃあ、借りるね」
俺は着替えている間、ベランダから外を見ていた。
ハワイの夜はとても静かだった。
「あはは、おっきいな」
彼女は裾をちょっとつまんでくるっとまわった。
ティシャツの裾は、ちょうど彼女の膝の部分まできていた。
「だけど、裕一くんの匂いがする」
そう言って微笑む。
「さて、寝ようか」
「うん」
俺たちはベッドに横になった。
アメリカのベッドはシングルといっても日本のより大きい。だから、それほどきつくはなかった。
俺は彼女がベッドから落ちないようにできるだけ端に寄った。
「裕一くん」
彼女は俺の手を取った。
そして、自分の胸に当てた。
「ずっとドキドキしてる」
「ま、舞ちゃん。その、してないの?」
「えっ?」
彼女は一瞬なにを言われたのかわからなかったようだが、すぐに頷いた。
「寝る時はね。ずっとしてると苦しくなっちゃうから」
さらっと言ってのけたが、俺には結構刺激が強かった。
「……私、ずっと待ってるから。私のすべては裕一くんだけのものだから……」
「それは、もう少し待ってて。自分に自信を持ちたいんだ。それまでは」
「うん」
舞は、小さく頷いた。
俺はそっと前髪を掻き上げ、その額にキスをした。
「いい夢が見られるといいね。おやすみ」
「おやすみなさい」
さて、次の日もいい天気だった。
陽差しは強いものの、空気が乾燥しているために風が吹いたり日陰に入ると結構過ごしやすい。
俺たちはハワイ大学に来ていた。
ハワイ大学はアメリカの国立大学で、レベルもそれなりに高い。
ハワイは火山諸島だからそのあたりの研究も盛んに行われている。
それと最近では医学の面でもかなり成果を上げてきている。
そんなハワイ大学へ俺たちが来た理由は、簡単。
大学の教授にうちの高校の校長の知り合いがいる。その人は大変な親日家として有名で、その日の講演を聴くこと。また、専攻は政治学ながら経済、文化、科学、医学、環境学とあらゆる面に興味を持っていて、その内容もちょっとした学者レベルのものだった。
ハワイ大学で一番大きな教室で講演は行われた。
俺たちはその教授の日本語の上手さにただ唖然としていた。
しかも、日本語で冗談が言える外人はそうそういない。
講演の内容は今のアメリカと日本の関係から、俺たちのような高校生について、これからの政治、文化、科学、はたまた流行りの音楽や映画、日本の伝統芸能までとかなり幅広かった。
聞いている俺たちもなかなか楽しめる内容だった。
たいていこういう講演は面白くなくて、途中から寝てしまったりするのだが、今回はそういうこともなかった。
そして、一番驚いたことが、日本の生徒や学生は先生に対してあまり質問をしないことをよく理解していて、教授自らが演壇を降りて生徒から意見を聞いていた。
これは何年もやっていてさすがだと思った。
こうしてあっという間に午前中が過ぎた。
そして、午後は自由時間。
俺たちはワイキキビーチで海水浴。
とはいえ、ほとんどの生徒はそうする。なんと言っても明日には日本に戻らなければならないからだ。
今の時期の日本ではとても海水浴なんてできやしない。
ワイキキビーチにはいつもたくさんの海水浴客がいた。
アメリカ人、日本人、ヨーロッパの人たち。肌の白い人、黒い人、黄色い人。人種のるつぼらしい風景だった。
ビーチで適当な場所を見つけて、そこにシートを敷く。
ここは日本とは違うから貴重品の管理は完璧にやらなければならない。ホテルのフロントに預けるのもひとつの手だが、やはり自分で肌身離さず持っているのが一番。
とは言っても、泳ぐ時までは無理。
ということで、当然見張りを立てる必要がある。
俺たちは公平にジャンケンで順番を決めた。
その結果、最初に功二と中田、次に豊和と堀、最後に俺と舞という風になった。一応、男がひとりいないといけないということでこうなった。
「じゃあ、功二、頼んだ」
「ああ」
ふたりに荷物を頼んで俺たちは海へ出た。
俺は一応防水の時計を持っていたからそれをして、あとシュノーケリングのゴーグルとシュノーケルを持っていた。
やはり綺麗な海では潜ってみないとそのよさはわからない。
「う〜ん、底まで見える綺麗な海」
「沖縄も綺麗だったけど、ハワイも綺麗だね」
「うん」
「ははは、裕一」
「どうした?」
「海だ」
「それがどうした?」
「ふふふ、海だ海だ海だ、海だーっ!」
そう言って豊和は泳いでいった。
「な、なんなんだ、あいつ?」
「さ、さあ?」
俺の問いに舞も堀も首を傾げている。
それから俺たちは砂浜からあまり距離を置かないところではしゃぎまわった。
途中、ふたりの女の子に水をかけられ、大人げなく本気でやり返すなんてこともあった。
一時間ほどで見張り交代。
功二と中田は待ちくたびれた様子もなく、すぐに楽しみはじめた。
「少し潜ってみようかな」
「よし、俺もつきあおう」
俺と功二は少し沖合まで出て、潜った。
海の中は陽の光に気泡が照らされ、さらに光の屈折によって刻一刻と状況が変化する、まさに幻想的な空間だった。
色とりどりの珊瑚には、そこを住処にしている魚もたくさんいた。
透明度の高いその水は、光の届き方で色が変わっていることを如実に示していた。
海面付近はほとんど透明。そこから深くなるにつれて青さが増していき、やがて深い青から光の届かない闇へと変わる。
まさに人間には想像もつかないことだった。
「ぷはーっ!」
「すごいな」
「ああ、テレビなんかで見るけど、やっぱり本物は違うよ」
「昔の人が浦島太郎みたいな話を作ったのも、これを目の当たりにすると納得できるよ」
「絵にも描けない美しさ、か」
本当にその通りだった。
泳ぎはじめて二時間ほどで、俺たちに見張りがまわってきた。
「いやあ、さすがに泳ぎ疲れたよ」
「裕一くん、ずっと泳いでたから」
「まあね。今泳いでおかないと、来年はきっと泳げないから」
「そうかもね。来年の今頃は受験戦争のまっただ中だもんね」
「そうそう」
俺は傍らにあるジュースのボトルを開け、一口飲んだ。
「そういえば、舞ちゃんは卒業後は留学するかもしれないんだよね?」
「えっ? うん……」
「どうしたの?」
急に表情が暗くなった彼女に慌てて声をかけた。
「本当はね、よくわからないの。確かにピアノは上手くなりたい。だから留学もいいと思ってる。でも、そうしたら……」
「あ……」
そこまで言われてようやくわかった。
彼女は留学することによって、俺と離れ離れになるのがイヤなんだ。
俺だってそうだけど、そのために彼女の未来までつみ取ってしまうようなことはもっとイヤだ。
「裕一くんは、どう思う?」
「俺は、それは舞ちゃんのことだから偉そうなことは言えないけど」
「うん」
「後悔だけはしてほしくない。失った時間は決して取り戻すことはできないから」
これは俺自身にも言えることだろう。
「もし、俺とのことで悩んだら、俺よりもピアノの方を選んでほしい」
「裕一くん……」
「だって、俺はここにいるから。ずっとここにいるから。舞ちゃんの側に。だけど、ピアノはその時にしかできない。やれる時にしかやれないから」
「……ありがとう」
「まだ時間はあるんだし、いろいろ考えてみればいいよ」
「うん」
「俺だって、舞ちゃんとは一緒にいたい。だけど、後悔だけはしたくないのも事実」
「うん、わかってる。私も同じだから」
彼女はいつものように微笑んだ。
「まあ、この話は終わりにして、残り少ない修学旅行を楽しまなくちゃ」
「うん」
その夜はハワイ最後の夜ということで、ホテルでハワイアンダンスなんかを見たり、実際踊ったりして楽しんだ。
ノリのいい連中は上半身裸になって、フラダンス用の腰巻きをちゃっかり借りて踊っていた。
アホな男子が女子に踊れと言って、けちょんけちょんにされていた。
男性教師の視線は、最初から最後までダンサーの胸や腰に釘付けだった。
ホテルのオーナーは日本語が上手で、俺たち相手に淀みなく説明してくれた。
「今宵、このひとときがあなた方にとって忘れがたいものになれば、幸いです」
そんな言葉でお開きになった。
ミーティングはすでに済んでおり、あとは寝るだけ。
とはいかないのは、やはり修学旅行の最終日。
どうせ明日は帰るだけだし。
飛行機で八時間かかるから、その間に寝れば大丈夫。
修学旅行に来てまでしっかり寝てたらもったいない。
まあ、そんなことを考えているだろう。
少なくとも帰りの飛行機は気流の関係から、来る時よりも一時間余計にかかる。ということは、寝る時間が一時間増えたということでもある。
そのことは『しおり』に全部書いてあるから知らない者はいない。
だから余計に、なのである。
俺は部屋に戻るなりベッドに突っ伏した。
特に疲れていたわけではないが、なんとなくそうしたかったのだ。
ベッドは一日ごとにきちんとメイキングされ、糊の利いたシーツが心地良かった。
時間は九時を少しまわっていた。
先生たちも今日は酒が入るだろう。
明日は午前中に免税店に行って買い物をしてから帰るだけ。
つまり、先生たちもそれほど気を遣わなくてもいいのだ。
俺はベッドから体を起こしてベランダに出た。
昼間の暖かな空気がわずかに残っているが、涼やかな風は肌寒い。
ハワイには世界一の天体観測望遠鏡がある。
ハワイは太平洋のど真ん中にあるため、余計な光がほとんど入らない。超高性能の望遠鏡はほんのわずかな光も、その性質上映し出してしまう。そのため、極力光の影響のないところを選んで観測所は建てられる。
ハワイのほかには南米のアンデス山中にある。
その世界でも有数の星の綺麗な空を見上げる。
幾千幾億の瞬き。
それは今、この瞬間の瞬きではない。何千年、何万年、いや、光の速さで何百万光年昔の瞬き。
今の瞬きを見られるのは、月くらいなもの。
だが、そんな無粋な考えはまさに人知を越えた光景には必要はない。
ただひたすらに、見つめていると吸い込まれそうに、自分を忘れてしまうように。
時間という概念がこの時には適用されないのでは?
そんなことすら、ふと思い浮かぶ。
俺は詩人じゃないからそれ以上のことは思い浮かべたくない。思い浮かべると興ざめしてしまうような気がする。
そんな俺の思考を中断するのは、初日と同じだった。
俺はすぐにドアのところへ走り、確かめもせずにドアを開けた。
「おじゃまします」
やって来たのはもちろん舞だ。
昨日までのピンクのワンピースではなく、キャミソールだった。
念のために外を確認してドアを閉める。
「ちょっとすーすーしちゃって」
そんなことを言いながら彼女はベッドに腰を下ろした。
「雪乃がこれがいいって言うから」
「似合ってるよ」
「ありがと」
そう言ってクスッと笑った。
ここが日本だったら、まず人前では着ては来ないだろう。
「三日連続で大丈夫?」
「うん。どうせ雪乃もひとりじゃないし」
「えっ?」
「弥生とか連れてきてるみたい」
「そうなんだ」
まあ、当然と言えば当然だろう。
「もう終わりだね、修学旅行」
「そうだね。準備期間が長かったから、ずいぶん短く感じたよ」
「でも、その準備期間のおかげで裕一くんとこうしていられるんだよ」
彼女は自然と俺に寄りかかってきた。
ふわりと彼女のシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。
髪は初日にあげたリボンでまとめられている。
「リボンのことはいろいろ聞かれちゃった。みんな雰囲気が変わったって言ってたけど、そんなに変わったかな?」
俺の視線に気付いて、ちょっと小首を傾げて聞いてきた。
「そうかもね。ずっとおろした髪しか見ていなければ、上げた髪はなかなか想像できないから。それに、舞ちゃんの場合はいつもの髪型が舞ちゃんを象徴してたから、余計かな」
「いつもの私?」
「容姿端麗、才色兼備。綺麗で可愛くて明るいけどうるさいわけではなく、頭もいいし。そして、そういういわゆる『優等生タイプ』の象徴かな」
「優等生じゃないけどね」
悪戯っぽく笑う。おそらくこの状況のことを言っているのだろう。
「それが、髪を上げたことによっていつもと違って見えたんだよ。だから、みんないろいろ言ったんだ」
たぶん俺の考えは間違っていないだろう。
「でも、どちらも私だけどね」
「そりゃそうだよ。二重人格というわけではないんだから」
今度は俺が悪戯っぽく笑った。
俺は、スッとリボンを解いた。
ファサッと髪が広がる。
「でも、俺はこっちの方が好きだな」
「うん」
今度は嬉しそうに微笑んだ。
「ただ単に髪が長い方がいいっていうことは、内緒だけどね」
「んもう、裕一くん」
実際、俺はショートよりロングの方が好きだ。
それを知ってか知らずか、由紀子も紀子も髪を伸ばしている。奈津子は部活の関係で短くしているが、もともとは長い。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、結局は。
「舞ちゃん」
「ん?」
「沖縄旅行の夜のこと、覚えてる?」
「えっ、うん」
「あの時、舞ちゃんが俺に夢のことを話してくれたでしょ」
「うん」
「今度は、俺の夢を話すよ」
俺はゆっくりと彼女から離れ、ベランダに出た。
彼女もすぐに隣に並んだ。
「俺の夢はね、野球を教えることなんだ」
「教える?」
「そう。それも、日本じゃなくてどこかまだ野球なんかほとんど知らないところで。俺にはプロを目指せるような実力はない。でも、野球は続けたい。それなら、いっそのこと人に教える方がいいんだ。長くできるしね」
俺は視線を虚空に漂わせた。
「アフリカかな。広い、なんにもない平原で子供たちに野球の面白さを知ってほしい。そしていつかオリンピックなんかに出てもらいたい」
「どうしてそう思ったの?」
「きっかけはね、俺が野球をはじめたことだよ。俺はね、昔はどうしようもないくらいの悪ガキだったんだ。友達をいじめては怒られた。不思議と由紀子たちにはそういうことをした覚えはないけど。それで、父さんが俺に集団でやることを習わせようとしたんだ。それが野球。最初は嫌々だったけど、そのうちすっかりのめり込んでいた。もう抜け出せなかった。虜だね。みんなでひとつの目標、勝つことに向かっていくことがこんなに楽しいなんて思わなかった。そして、気付いたら友達に野球を勧めてた。誰にでも」
風がすっと止む。
「それからモンゴルのことを知ったんだ。野球、ということは知っていてもどうやってやるのかも知らないモンゴルの人たち。その人たちに野球を教えたのが日本人。誰が援助してくれるわけでもないのに、自分から向こうへ行って教えはじめた。そして、みんな楽しそうにやっていた。下手くそだけど。それは教えている方もやっている方も気持ちが同じだから。俺もそうなりたいと思ったんだ」
「素敵な夢だね」
「どうかな? 最初ははいつくばってやらなきゃならない。認められるために。前途多難どころの騒ぎじゃない。見返りは、ないかもしれない」
「でも、やりたいんでしょ?」
「そうだね」
それきり俺は押し黙った。
彼女もなにも言ってこない。
そして──
「はじめてだな。誰かに自分の夢を正直に話したのは」
「私も」
「舞ちゃんに話したらどうなるって思ってたわけじゃないけど、信念が揺らがなくなったかな、ほんの少し」
ゆっくりと彼女の方を見る。
「きっと、舞ちゃんが舞ちゃんだからだね」
そう言って彼女を抱きしめた。
時間は程なくすると十二時になる。
俺たちは何気ない話を交わしていた。
どれだけ話しても話題は尽きなかった。どちらからともなく新しい話題を振って、いろんな方向へ発展していく。
「ねえ、裕一くん」
「ん?」
今日何度目だろうか。こういう風にして話がはじまるのは。
「今、もしもひとつだけ願いがかなうとしたら、なにをお願いしたい?」
「そうだな」
俺はしばし考えた。
その間、彼女は興味津々といっや様子でこちらを見ている。
「ひとつだけだったら、舞ちゃんといつまでも一緒にいられるようにかな」
「うん、私も」
おそらく俺の答えは予測していたのだろう。
「でも、裕一くんが私と同じお願いをするんなら、私は違うことをお願いしよ」
「なにを?」
「ふたりの夢が現実のものになりますように」
俺の夢はさっき話したことだが、彼女の夢は──
「私、思うの」
「えっ?」
「どうして人は人を好きになるのかなって。人はひとりでは生きていけないから? 人というアイデンティティーを守るため? それとも、遙か昔の記憶から?」
「それは、たぶんわからないんだよ。人が人である限り、人を越える存在にならない限りはずっとわからないんだよ。それに、わからなくてもいいと思うんだ。俺は、結城舞が好き。これだけはどんなことを言われたって変わらないから」
「そうかもしれないね。理屈じゃないんだね」
「人を好きになるって、簡単なことかもしれないけど、難しいのかも。俺は舞ちゃんが好きだ。でも、だからってほかの人が嫌いなんじゃない。親友として豊和だって好きだし、信頼できる功二も好きだ。中田さんや堀さんだって、先生だって。もちろん、由紀子や紀子も好きだ。好きになるってことは、人と人がつきあっていくために必要最低限のことかもしれない。嫌いな人とは話したくもないし顔も見たくない。だけど、好きと嫌いは表裏一体じゃないかな。嫌いじゃなければ好きなんだから」
「なにがきっかけでその人のことを好きになるかわからないからね」
「そういうこと。俺だってそうだったかもしれないし」
「私のこと?」
「そう。本当はどうしようもないくらい性悪で、ひと言言えば十倍返ってくるとか。まさに臭いものには蓋をして、みたいな感じだったら嫌いだったかも。まあ、そんな舞ちゃんは全然想像できないけど」
「自分でもできないもの」
「俺は舞ちゃんのことを嫌いになる可能性は、万にひとつもないから」
これにはかなりの自信があった。
彼女みたいな女性を嫌いになれという方がかえって難しい。
「私だって、裕一くんのこと、もう絶対に嫌いになんかなれないし、なりたくない。前にも言ったけど、私には裕一くんしか見えないから」
「ありがとう、舞ちゃん」
俺は軽くキスをした。
「……裕一くん。ひとつ、お願いがあるの」
「ん?」
彼女は少し伏し目がちにこちらを見た。
「私を、抱いて……」
「舞ちゃん……」
「この前はあまりにも唐突だったけど、やっぱり、言葉だけじゃなくて実感として安心したいの……」
「でも……」
「ワガママなのはわかってる。裕一くんなら絶対に困っちゃうこともわかってる。だけど、もうこのまま私の気持ちを抑えつけておくことはできないの」
決心は固いようだ。
だけど、果たして今の俺に彼女を抱くことはできるのだろうか?
一時の感情に流されて一線を越えるのは、いいことなのだろうか?
「お願い、裕一くん」
潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめ返してくる。
俺は心の中で葛藤していた。
彼女は俺が今までに会った女性の中で、誰よりも綺麗で誰よりも魅力的だ。
そして、スタイルも抜群だから邪なことも考えない方が普通じゃないだろう。
この手の中に彼女を抱きたい。すべてを自分のものにしてしまいたい。なにもかも奪い取ってしまいたい。
「このままだと、裕一くんは私のことを心配して絶対に抱いてくれないから」
「そんなことは、ないけど……」
はっきりと否定はできなかった。
心の片隅ではそう思っていたのかもしれない。
「だから、私が……」
そう言って彼女はスッと立ち上がった。
キャミソールの肩紐から腕を抜いて下に落とす。
そこには下着姿の彼女がわずかに頬を染めて立っていた。
そのままブラジャーに手を伸ばして、外す。
前に一度だけ見た形のいい乳房が、圧迫から解放されて静かに揺れた。
そして、ショーツに手をかける。
少し躊躇いがあったようだが、意を決して脱いだ。
あえてどこも隠そうとはしない。
「裕一くんっ!」
そのまま俺の胸に飛び込んできた。
そして、俺の中でなにかが弾け飛んだ。
「……ん」
部屋の電気を落とし、俺は彼女をベッドに横たえ、唇を吸った。
長い、長いキスだった。
顔を離す時、スーッと唾液が糸を引いた。
俺はかすかに震える手のひらで彼女の乳房を覆った。
「あっ……」
触れる瞬間、わずかに声が漏れた。
俺はその弾力を確かめるように動かしはじめた。
形のいい乳房は、どんなに乱暴に動かしても決して崩れることはなかった。
「あ……ん……」
彼女はわずかに身をよじった。
次第に乳首が硬く凝ってくる。
俺はそれをおそるおそる舌で転がした。
「あん……」
一瞬、電気にでも打たれたかのように体を弾けさせた。
舌の動きにあわせて彼女の口から甘い吐息が漏れてくる。
それは、俺の思考を痺れさせるのには十分すぎた。
「か、体が……熱くなる……」
息も絶え絶えに彼女は応える。
「舞ちゃん……」
俺の言葉に彼女は一瞬びくりとなった。
だが、すぐに小さく頷き返した。
俺はまだ見ぬ彼女自身へ手を伸ばした。
ゆっくりと、確実に近づいていく。
そして、もうほんの数センチのところで──
「……裕一くん?」
俺の手は止まっていた。
ほんのわずかに残った理性が俺の手を止めていた。
彼女の体は震えていた。
言葉では、心では本当に俺に抱いてほしいのかもしれない。
しかし、彼女の知らない彼女がほんのわずかに彼女を支配していた。
それは、頑なに閉じられた足とわずかに震える体とに現れていた。
「……ごめん。やっぱりできない。俺にはそんな甲斐性はない」
そう言って俺はベッドの端を思いっきり殴りつけた。
鈍い音が部屋中に響く。
拳は、自然と痛くなかった。
「ごめん、本当にごめん……」
「裕一くん……」
彼女はゆっくりと体を起こした。
その顔には少なからず驚きの色が伺えた。
そう。俺を見て驚いたのだ。
俺は、何年ぶりかで泣いていた。
声もなく、ただ頬をふた筋の涙が流れていた。
力なく項垂れる俺を、彼女は優しく、まるで母さんに子供の頃にしてもらったように、優しく包み込んでくれた。
すると、ウソのように心の乱れが消えた。
「俺は、怖いんだ。舞ちゃんを壊してしまいそうで。一度壊してしまったものは、二度とは戻らないような気がして」
まるで子供のような呟きだった。
人知れず、俺は彼女の中に安心できる『場所』を見出していたのかもしれない。
「裕一くんは、優しいから。人のことをなによりも考えるから」
優しく俺の頭を撫でる。
「でも、今日だけは、その優しさを、ほんの少しだけ忘れてほしかった……」
彼女の言葉も、小さな呟きだった。
「おかしいよね。私は裕一くんのその優しさに惹かれたのに、今はそれをまるで邪魔者のように思ってる。イヤな性格……」
「そんなことはないっ!」
俺は思わず叫んでいた。
「そんなことはないよ。お願いだから、自分を責めないでほしい」
だが、彼女は頭を振った。
「それはダメ。裕一くんを苦しめたのは、私だから。これは純然たる事実だから」
「舞ちゃん……」
彼女は薄く微笑んだ。
「だけど、そんな自分をどこかで傍観してるもうひとりの自分がいるの。なんでそんなことで悩むのかって。そんな顔してる。そして、自分で手に入れてしまえばいいのに。そんなことまで──」
「もう、いいよ……」
俺は絞り出すように言った。
「それは──」
さらに言葉を続けようとする彼女を遮って、俺は自分でも信じられないことを言っていた。
「俺は、今年のクリスマスに、結城舞を、自分のものにする」
言ってから焦った。
だが、撤回はしない。
「その時までに、もう一度、自分を、綾本裕一を見つめ直してみたいんだ」
そして、一呼吸置いた。
「もし、自分にその『資格』があるなら、その時にすべてを……」
「うん、すべて裕一くんに捧げる」
俺は静かに彼女の唇を吸った。
「失望は、させない」
「いつまでも、待ってるから」
そして、お互い抱き合ったまま、眠りに落ちた。
ハワイの最後の夜は、こうして過ぎていった。
次の日。
午前中はホテル近くの免税店で買い物をした。
俺は特に買うものもなかったから、外で待っていた。
まあ、一応家族へのおみやげは買ったけど。
空は幾分雲が多かったが、そのくらいの方が過ごしやすかった。
俺はひとり、考えていた。
今朝、俺はだいぶ早くに目が覚めた。
寝たのが遅かったのに、である。
舞は、俺の腕を枕代わりにスースーと眠っていた。
多少腕が痺れていたが、どけて彼女を起こすといけないから、そのままにしていた。
額にかかった髪を軽く脇へよけてやる。
彼女は『あの』あとのままで、なにも身に付けてはいない。
部屋の中は空調がしっかりしているから、多少なりとも寒さを感じているかもしれない。
肩までしっかりと布団をかける。
こうして見ていると本当に綺麗、というかカワイイ。まるで天使のようだ。
こういう時、俺は自問自答する。
俺は本当に彼女の『彼氏』なのか?
だが、それに応えてくれる人はいない。
確かに、高校に入学した時よりは遙かに彼女は身近になった。
彼女は俺どころか学校中の『マドンナ』だった。
綺麗、カワイイ、スタイル抜群、頭脳明晰、性格もいい。
普通の連中にはとても釣り合わない。
そんな中、同じ学年の男は何人も爆死した。
一時期、彼女は実は高飛車なのではという噂もあったが、それもすぐに立ち消えた。
今にして思えば、それは俺への想いからだった。
しかし、そんな彼女は俺のすぐ側にいる。
俺は彼女が好きだ。
臭い言葉だけど、愛している。
誰にも渡したくない。
俺の前だけで笑ってほしい。
だけど──
「……ん……」
彼女が目を覚ました。
「おはよう、舞ちゃん」
俺は努めて普通に言った。
「おはよう、裕一くん」
彼女は自分の格好を、まだ完全には起きていない頭で理解しようとした。
「ずっと、こうしてくれてたの?」
俺は頷いた。
「嬉しい……」
そう言って彼女は俺の胸に額を当てた。
「でも、いつも目が覚めると裕一くんが起きてて、なんか損した気分」
「どうして?」
「だって、裕一くんの寝顔が見られないから」
そう言ってクスッと笑った。
確かに、俺が彼女に寝顔を見られたのは、家でCDを聴いていた時くらいだ。
「……ん」
俺は優しくキスをした。
「私ね、夢を見たの」
「夢?」
「うん。私がたったひとりでなんにもない空間に、どちらが天井か床かわからない空間に浮いているの。まるで水の中にいるような、ふわふわした感じ。でも、どこからか声がするの。心に思い浮かべたことがそこに現れるって。それでね、最初に思い浮かべたのが、裕一くん。いつもと同じように優しく微笑んで、ただ私を見つめてくれる。そうしたら、不思議とほかのことはどうでもよくなっちゃった。私は、裕一くんだけいればいいんだって、わかったの。そんなの現実には無理だけど」
彼女は体を起こした。
胸元をシーツで押さえる。
「その時、ひとつだけ思い浮かんだの。もしも、裕一くんがいなかったらって。そしたら、その空間は真っ暗になっちゃった。なにもかも見えなくて感じられなくて。喪失感だけが残ってた。だから、すぐにその考えは消したの。そしたら、また裕一くんが現れたの。そして、わかったの。もう私は裕一くんなしでは生きていくことすらできないんだって」
「それは……」
「うん、大げさだけどね。でも、それくらい裕一くんは私の中で大きい存在、ううん、すべての存在なの」
彼女はスッと真剣な表情で言った。
「お願い。私を絶対に離さないで」
「離すもんか。俺の傍らにいる女性は、もう舞ちゃん以外に考えられないから」
「ホント?」
「ああ、ホントだよ。俺のすべてを賭けても」
「うん、大好き」
彼女は、本当に嬉しそうに、そして安心感に満ち溢れた笑みを浮かべた。
「裕一くん。どうしたの?」
「ん? あっ、ちょっと考え事をしてたんだ」
今度の彼女はすぐ目の前にいる。
免税店の袋をいくつか持って、いつものようにこっちを見ている。
「なに考えてたの?」
「舞ちゃんのこと、かな」
「ホント?」
「ウソ、って言ったら、怒る?」
「うん」
「じゃあ、ホント」
「んもう、ホントはどうなの?」
「ホントだよ。舞ちゃんのことを考えてたんだ」
彼女は俺の目を覗き込んでくる。
「うん、ウソはついてないみたい」
そう言ってうんうん頷いている。
「もう買い物はいいの?」
「うん。だいたい買っちゃったから」
「じゃあ、本当に修学旅行も終わりだね」
「あっという間だったね。いろんなこともあったし」
「また、来られるといいね。今度はふたりだけで」
「うん」
「う〜ん。ラヴラヴなふたり」
「あっ、雪乃」
「ひょっとして、越えちゃったの?」
中田は意味深なことを言ってくる。
「な、なに言ってるのよ」
いきなり動揺する舞。
「あやしいわね。でも、それもいいんじゃない。ふたりは恋人同士なんだし。ね、裕一くん」
「えっ?」
いきなり振られてちょっと動揺した。
「さ、さあ、よくわからないけど……」
言葉尻が小さくなる。
「なんかホントにふたりともあやしいよ」
「い、いいじゃない。雪乃だって──」
「あっ、ま、舞、それはダメよ」
「あっ、ごめん」
なにやら秘密があるらしい。
まあ、それもありかな。
日本に帰ると、もうすぐそこまで秋が来ていることだし。