君と歩く季節の中を
 
第一話「はじまりの季節」
 
 一
「よーし、次、ショートいくぞっ!」
「さあ、こーいっ!」
 監督の檄がグラウンドに響く。
 金属バットに弾かれた白球をただがむしゃらに、でも考えて追う。
「ラスト、いくぞっ!」
 外野、内野の順番で最後はキャッチャー。
「よーし、今日は終わりだ」
 監督のその声に、みんな安堵の表情を浮かべる。
「いいか。もうすぐ春の大会がはじまる。春の大会には特別な思い入れはないかもしれないが、夏の予選の前哨戦だと思って気合い入れてがんばれ。わかったか?」
「はいっ!」
「よーし、グラウンド五周のあと片づけて終わりだ」
「気をつけっ! ありがとうございましたっ!」
「ありがとうございましたっ!」
 キャプテンのかけ声に、寸分の狂いもなく終わりの挨拶をする。
 監督がまだグラウンドの端にいる頃、俺たちはウォームダウンをする。
 陽もすっかり落ち、グラウンドの照明が妙に明るい。
「よーし、一年はグラウンド整備と用具の片づけをして帰れ」
「はいっ!」
 昨今、部活内の先輩後輩関係はだいぶ薄れつつあるが、うちの野球部にはしっかり残っている。
 今年の春、つまりつい先日入ってきた一年は二十三人。全員が野球経験者。
 ほんの何ヶ月か前までは最上級生だったのが、高校に入った途端下級生。これは誰しもが経験することだが、なんとなく勝手が違い、戸惑う。
「裕一」
「よお、功二。おつかれ」
「おつかれ。今日はやっていくのか?」
「いや、今日はやらないよ。あんまりやりすぎると肩や肘を壊すからな」
「そうだな。なんたって、裕一はうちのエースだからな」
「急造だけどな」
「急造だろうがなんだろうが、エースには違いない。おまえが投げなきゃ試合ははじまらない。それがエースだろ?」
「まあな」
 俺の名前は綾本裕一。私立友林高校の二年。部活は見ての通り野球部。しかもピッチャー。中学時代はショートを守っていたけど、高校に入り監督に肩の強さを見込まれてピッチャーに転向。去年の秋から公式戦でも投げている。
 そして、俺に声をかけてきたのが木村功二。俺と同じ二年。ポジションはキャッチャー。つまり俺とはバッテリーを組んでいる。俺が一番信頼している相手だ。
「しかし、おまえの球は日に日に速くなってるって感じがするよ」
「そうか?」
「投げはじめた頃は百三十キロ前半くらいだったのが、今じゃ百四十一、二は出てるよ。これはすごいことだぜ」
「確かに自分でも速くなったとは思う。それに速くなってもらわないと困るよ。冬場にあれだけ走り込みと筋力トレーニングをしたんだから」
「まあ、ようするに結果が出てきたわけだ」
 俺はピッチャーとして出遅れた分、それを補おうとかなり努力した。
 早朝と部活内の走り込み。筋力トレーニングにピッチングフォームの研究。
 秋から春にかけて、首まわり、腕、胸囲、足とだいぶ鍛え上げてきた。
「なんにしても、この春の大会でおまえの球がどれだけ通用するかわかるよ」
「そうだな」
 秋にも公式戦に何度か登板したが、いい結果は残せなかった。そうなると、今度の大会で結果を残さないと夏はない。お情けで出してもらえるほど甘い世界ではないからだ。
 そんなことを話しながら、俺たちは部室で制服に着替え、それぞれ家路に就いた。
 俺の家は学校から少し離れている。そのため、電車通学をしている。
 学校から駅まで十分。学校のある駅から家のある駅まで四駅、二十分。駅から家までは自転車で十五分。
 学校から駅までの通りには商店街があり、夕方になると買い物をする主婦で賑わう。
 それでも、陽が落ちると帰宅するサラリーマンに客層は一変する。
 俺はいつものように駅からの流れに逆行して歩いていく。
 駅前には喫茶店やファーストフード店がいくつかあり、うちの生徒もよく利用している。
 そんないつもの光景を横目に、俺は定期を取り出し自動改札をくぐる。
 階段を上がり、ホームへ出る。
 いつものように前から二両目の三番目の扉のところで電車を待つ。ここだと降りる時に都合がいいのだ。
 俺が乗る電車はラッシュとは逆の電車で、それほど混まない。
 何気なく横を見た。
 うちの生徒がひとり、電車を待っていた。少し俯き加減に、とはいえ暗いという表情でもない。
 俺は、その生徒を知っていた。
 彼女──結城舞のことを知らない男子は、おそらくうちの学年にはいないだろう。
 成績はほとんどトップ。おまけに学校一の美人だという噂もちらほら。性格は明るく、誰とでもすぐに仲良くなれる、得な性格をしている。
 音楽部に所属していて、ピアノの腕前は都下随一。噂では高校卒業後、パリ留学の話があるらしい。
 俺と彼女は同じクラスなのだが、ほとんど話したことはない。いつも挨拶程度。
 ふと、彼女がこっちを向いた。
 長い髪を細いリボンで軽くまとめ、大きな愛らしい瞳が特徴の彼女。
 彼女もこっちに気付いたらしいが、ちょうどその時、電車が入ってきた。
 彼女はふたつ後ろの車両だったから、本当に気付いたのかはわからない。
「ふう……」
 俺は学校のカバンと野球部用のカバンを持ち直し、電車に乗った。
 いつものように車内は空いている。
 俺は適当なところに座り、しばしの休息を取った。
 あっという間に二十分が過ぎ、俺はホームに降りた。
 ホームを抜けていく電車を目で追う。
 彼女は、乗った車両のドアのところに立っていた。
 俺はそれを確かめると再び定期を取り出し、自動改札を出た。
 外はすっかり暗く、春とはいえ少し肌寒くもあった。
 改札を出て駐輪場で自転車に乗り、いつもの道を家へと急ぐ。
 学校のある駅とは違い、ここの駅はまわりに店が少ない。そのため、街灯も少なく自転車のライトを頼りに夜道を進む。
 家への途中に国道を横断するのだが、あまり遅い時間だとさすがの国道も車の量は少なく非常に通りやすい。
 俺はいつものようにほぼ十五分で家に着いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 返ってくる声は母さんの声。
 俺は練習着などを洗濯機のところへ置いて、二階へ。
 二階の一番奥が俺の部屋。
 ドアを開けて電気を点ける。
 教科書の入ったカバンを机の上に置き、野球の道具の入ったカバンをベッド脇へ。
 すぐにグローブを取り出し、手を入れるところに新聞紙を詰め込む。こうしないと汗で湿ったグローブがすぐにダメになるからだ。
 制服を脱いでハーフパンツとティシャツに着替える。
 そのまま電気を消して再び下へ。
 洗面所で顔と手を洗い、リビングへ。
「おかえりなさい、裕一」
「ただいま」
 もう一度母さんに挨拶する。
「お兄ちゃん、おかえり」
 ソファに寝そべってこっちも見ずに声をかけたのが、弟の良二。中学二年。部活は科学部らしい。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
 そしてもうひとり。こっちはソファに座ってテレビを見ていたけど、ちゃんとこっちを向いて声をかけたのが、妹の奈津子。中学一年。まだ入学したばかりで部活は決めていないが、どうやらバスケに興味があるらしい。
「由紀子は?」
「部屋にいるわよ」
 ここにはいないがもうひとりの妹、由紀子。今年友林高校に入ってきた。部活はテニス部。
 由紀子は俺とひとつ違いだが、一番懐いている。
 俺はひとりダイニングの椅子に座り、夕食を取る。
 父さんは肩書き上は取締役専務なんてものを持ってる、東証一部上場企業の社員。今年で四十だが、異例の大抜擢だ。
 ただ、その分仕事も忙しくなり、帰ってくるのも遅くなった。
 母さんは口では「しょうがない」と言っているが、実のところはだいぶ淋しいらしい。
 それでもそんなことを表に出さないのは、俺たち四人の母親としての自覚からだろう。
 俺は手早く食事を済ませ、氷と洗面器にお湯を入れたものを持って自分の部屋へ。
 部屋に戻ると肩と肘のアイシング。これを怠るとすぐに投げられなくなってしまう。
 冷やしたあと、お湯で温める。
 ピッチャーに転向してからピッチングをした日は必ずやっている。
 と、ドアがノックされた。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
 ちょうどアイシングが終わった頃、由紀子がやって来た。
「どうした?」
「あのね、少しわからないところがあって」
 由紀子には年が近いこともあって、よく勉強を見ていた。まあ、俺自身もそれほど勉強が得意というわけではないけど。
「また英語か?」
「うん。どうも英語は苦手で」
 由紀子は中学に入った時から英語が苦手だった。それでも俺がだいぶしぼったおかげで人並みには英語ができるようにはなった。
 それでも時々こうやって俺に訊きに来る。
「ああ、これは動詞と形容詞の位置に気をつけて訳さないとダメだ。いいか?」
 俺は答えを教えるのではなく、由紀子が自分で理解する手助けをする。
「あっ、そっか。そうなるんだ」
 由紀子も今までずっとそうやってきたから、自分で理解しようと努力する。そのおかげで今でも由紀子の英語力は確実にアップしている。
「ありがと、お兄ちゃん」
「またわからなくなったら来いよ」
「うん」
 三人の中で由紀子は一番素直だ。別に良二や奈津子と比べるわけじゃないけど。
 由紀子が部屋を出たあと、いつものようにグローブとスパイクの手入れ。
 軽く予習を済ませて早めに就寝。
 そうしないと次の日、授業中に爆睡ということになる。
 これが俺の基本的な一日である。
 
 二
 朝五時半
 俺の起床時間。この時間に起きて早朝トレーニングをする。
 いつものように眠たい目を擦りながらパジャマからジャージに着替える。
 下に下りても誰も起きていない。
 静かに玄関を開けて外へ出る。
 外はまだ暗く、東の空がうっすらと明るいくらいだ。
 軽くストレッチをしてから頬を二回叩き、走りはじめる。
 いつものメニューは、およそ三キロ走ったところにある公園で柔軟などをする。公園は夏ならば朝早くても人はいるが、それ以外の季節はほとんどいない。
 公園には池があるのだがそのまわりにおあつらえ向きに柵があって、ひとりでトレーニングするにはちょうどいい。
 およそ三十分ほど体をほぐし、今度はピッチングフォームのチェック。
 タオルを持ち、足場を確かめ、肩の開き、足の上げ方、腕の下ろし方、ひとつひとつを確かめる。
 ピッチングフォームは試合でスタミナがなくなってくると崩れがちになる。それを直すには普段の基礎トレーニングも大切だが、自分が自分のフォームをきちんと理解していることが必要だ。
 およそ十五分ほどピッチングフォームをチェックして、ようやく家に帰る。
 家に帰るととりあえずシャワーを浴びる。それから朝ご飯を食べ、学校へ行く準備をする。
 全部終えて家を出るのが、だいたい七時半。
「由紀子、行くぞ」
「あっ、待ってよ、お兄ちゃん」
 俺と由紀子はいつも一緒に学校へ行っている。
 別に友達がいないとかいうわけではないが、家の近くにはうちの高校に通っている生徒がいないのだ。
 七時五十分の電車に乗る。これもいつもと同じ。
「部活の方はどうなんだ?」
「うん、厳しいけど楽しいよ」
「まあ、うちの高校の運動部はどれも厳しいからな。でも、おまえくらいの実力があればそんなに苦労はしないんじゃないか?」
「そんなことないよ。先輩はみんな上手いし、それに私より上手な子もいるから」
「ま、なんにしても一生懸命やることだな。一生懸命やらないとあとで後悔する」
「うん、そうだね」
 電車の中のわずかな時間は、俺たち兄妹にとって貴重な時間だった。学校でも会うことはあるが、それほど長くは話せない。
 電車がホームに滑り込む。
 ドアが開いて、降りるのはほとんどうちの高校の生徒。
 俺たちが一緒に行くのはだいたい改札まで。たいていはそのあたりで知り合いに会う。
 案の定、今日も由紀子の友達がいた。
 由紀子は俺に軽く手を振って友達と学校へ向かった。
「よっ、裕一」
「豊和か」
「豊和か、はないだろ」
「まあまあそう怒るなって」
 水科豊和。俺の親友。サッカー部に所属していて、ポジションはMF。現在はレギュラー候補。
「そういえば、もうすぐ大会だってな」
「ああ、春の大会だ」
「まあ、どうせ結果は関係ないんだろ?」
「いや。ベスト8に入れば夏の大会はシードされるからな。結構重要なんだ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 豊和はきめた前髪をいじりながら、なんとなく話を聞いている。
「おっ、見ろよ」
 突然豊和が俺の手を引っ張った。
「なんだよ?」
「ほら、あそこにいるの、舞ちゃんだろ?」
「えっ?」
 豊和の指し示す方に三人の女子がいた。その真ん中にいるのは、確かに結城舞だった。
「やっぱり舞ちゃんはほかの女子とは違うよな。頭はいいし、綺麗だし、誰にでも優しいし。あ〜あ、舞ちゃんみたいな子を彼女にできたらどんなに幸せか」
「なに言ってんだよ」
「おまえはそう思わないのか?」
 豊和はバカにしたような表情で訊いてきた。まともに相手するのはこっちもバカみたいだが、答えないとそれはそれでうるさい。
「……少しは、な」
「ほほぉ、おまえでもそんなことを思うんだ」
 訊いておいてその言い草はないだろうと思った。
「うるさいっ!」
 俺は豊和を置いて、歩を速めた。
「待てよ、裕一」
「おまえはいつもひと言多いんだよ」
「そう言うなって。俺はただ、裕一にも女の子を見る目があったということに感心しただけなんだからさ」
「それが余計なんだよ」
「でもさ、舞ちゃんて好きな奴がいるらしいからな。まわりの連中で舞ちゃんにアタックした奴はことごとく撃沈したぜ」
「俺には関係ないさ」
 そんなことを話していたら、いつの間にか学校に着いていた。
 ちょうど昇降口のところで彼女たちと鉢合わせた。
「あっ、裕一くん、豊和くん、おはよう」
「おはよう」
 最初に俺たちに気付いたのは、中田雪乃だった。
 三人のうちのもうひとりは、堀弥生。ふたりとも結城舞の親友だ。
「おはよう、綾本くん」
「お、おはよう」
 俺と結城は、いつものようになんとなく挨拶を交わした。
 三人は先に上履きに履き替えていたから、そのまま教室へ上がっていった。
「おい、なんでおまえにだけ挨拶するんだ?」
「なにがだよ?」
「舞ちゃんだよ、舞ちゃん。おまえには挨拶したのに俺にはなしだよ。世の中間違ってるよな。実に理不尽だ」
 俺はひとりで勝手に文句を言ってる豊和を置いてさっさと教室へ。
 教室に入ると窓際の一番後ろの席に着く。背の高い俺にとって、一番後ろは指定席みたいなものだ。
 教室に入ってからチャイムが鳴るまでは、ただなにもせずにボーッとしている。これをやらないとなぜか落ち着かない。
 そしてチャイム。
 すぐに先生が入ってくる。
 うちのクラスの担任は森岡真美子先生。古文担当の二十八歳。
「ええ、というわけでこれから九月までの間、うちのクラスで修学旅行実行委員とクラスの橋渡しの役をやってもらう人を決めます。放課後、ホームルームをするので帰らないように」
 森岡先生のホームルームはいつも簡単明瞭でわかりやすい。いつも、というのは俺は去年も先生のクラスだったからだ。
 先生が教室を出ると、みんな修学旅行の話になった。
 別に今すぐに行くわけではないが、そういう話が出ると話したくなる。
 そして、一日がはじまった。
 
 三
「──というわけで、うちのクラス代表は綾本くんと結城さんにやってもらいます。ふたりともいいですか?」
「先生」
「なんですか、綾本くん?」
「辞退させてください」
 教室がざわめいた。
「どうして?」
「これから野球部の試合も多くなります。確かにクラスの代表として修学旅行を支えるのは大切なことだと思います。だからこそ辞退します」
「なるほど。確かに野球部はこれから忙しくなるから」
 俺はふと、結城が気になった。
 彼女は少し複雑な表情をして、俺が見ているのに気付くと目をそらした。
「わかりました。ただ、今日はもう時間もないですから明日にしましょう。それと、綾本くん」
「はい」
「もしほかの人を決めるにしても、結城さんと話し合ってから決めるように」
「わかりました」
「じゃあ、これで終わります」
 先生が教室を出て行くと喧噪が戻った。
 家路を急ぐ者。教室を掃除する者。部活に出る者。友達と話をする者。
 そして──
「結城さん」
 俺は結城に声をかけた。
「綾本くん」
 カバンに教科書なんかをしまっていた結城は、振り返ってわずかに微笑んだ。
「さっきのことだけど、結城さんも部活があるだろうから、終わってからでも構わないかな?」
「それは全然」
「じゃあ、こっちが終わったら迎えに行くから。二音だよね」
「うん」
 二音とは『第二音楽室』のこと。二音が音楽部の練習場所なのだ。
 俺はそれを確認すると、とりあえず部活に出た。
 
「ひえぇ、今日もしごかれたな」
「しょうがないさ。大会も近いし」
「にしても、今日は球にキレがなかったぞ」
「えっ?」
「まあ、ここんところ練習漬けだからな、少し疲れも溜まってるんだろ」
「そうだな……」
 功二には改めて驚かされた。自分では悪くないと思っていたのに、功二にはすべてわかっていた。
 ただ、今日は疲れているわけではない。理由は、なんとなくはわかっているけど。
「じゃあ、先に上がるわ」
「ああ、おつかれ」
 俺は功二を部室前で見送ると、ほとんど真っ暗な校舎へ向かった。
 窓から見える明かりは廊下のものと、いくつかの教室のものだけで、ほとんどは真っ暗だった。
 そんな中を俺は二音を目指して、少し早足で歩いていた。
 すると、廊下にかすかに音楽が漏れていた。
 ピアノの音だ。
 曲は、よくわからないけど、とにかくピアノの音だ。
 そして、その音はやはり二音からだった。
 俺がドアを開けると、音楽はピタリと止んだ。
「ごめん、だいぶ待たせたみたいだね」
「ううん、そんなことないよ」
 結城はそう言って微笑んだ。
 二音には、彼女ひとりだけだった。
「今の──」
「えっ?」
「今の曲、なんていうの?」
「今のはブラームスのピアノ協奏曲第一番ニ短調っていう曲なの」
「へえ、そうなんだ。俺、音楽ってそこまでわからないから。でも、結城さんの演奏は純粋に上手いと思うよ」
「えっ? う、うん、ありがとう」
 褒めた俺も少し恥ずかしかったが、彼女も同じだったらしく、しばし沈黙がふたりを支配した。
「あっ、そ、そうだ。話をしなくちゃ」
 結城はそれまでの沈黙を一気に破って、ピアノ椅子から立ち上がった。
 赤い布地を鍵盤にかけ、蓋を閉める。
「綾本くんは修学旅行、楽しみ?」
「えっ?」
 俺は彼女の突然の質問に虚を突かれた。
「私はね、すごく楽しみなんだ。大勢でどこかに行くなんて滅多にないから。それに、こういうことは高校を卒業しちゃうともうないだろうから」
 結城はおそらく自分自身のことを言っているのだろう。卒業後、ピアノ留学するかもしれない結城にとって、たぶん本当に最後だろうから。
「あっ、ごめんね。私ばっかり話しちゃって。本当は綾本くんのことで話し合うはずだったのに」
「いいよ、気にしなくても」
「ありがとう。でも、話を進めないと」
「じゃあ、早速だけど、結城さんは誰なら適任だと思う? 一応ふたりでやるわけだから、結城さんの意見を極力入れようと思って」
 だが、彼女は黙ったままで、返事は返ってこなかった。
「結城さん?」
「ひとつ、無理なことを頼んでもいいかな?」
「無理なこと?」
 俺は首を傾げた。
「このまま綾本くんがクラス代表をやってほしいの」
「えっ、でもそれは……」
「うん、わかってる。だから、綾本くんの代わりに私が極力やろうと思って。それならほかのみんなにも迷惑はかからないし、綾本くんはできる時だけやってくれればいいから。ダメ、かな?」
 結城の提案は驚くべきものだった。
 通常ふたりでやる仕事を、ほとんどひとりでやろうというのだ。
「どうしてもダメなら仕方がないけど」
「でも、しばらくはそれでも構わないだろうけど、本当に忙しくなったら委員連中とほとんど同じことをやらされるんだよ。負担が大きすぎるよ」
 修学旅行実行委員とクラスの橋渡し役という一見楽そうな仕事だが、その実は実行委員の補佐役とでもいうべき仕事なのだ。
 うちの高校は生徒の自主性を重んじているため、修学旅行でも生徒が主体となって動いている。そうすると当然修学旅行が迫れば迫るほど忙しさは増してくる。
 その時にそのクラス代表が役に立つ。
 実行委員でカバーしきれないことを代わってやったり、同じことをやったり。実質、修学旅行実行委員となんら変わりはしない。
「でも、またほかの人に頼むのも悪い気もするし」
「それはそうだけど……」
 そこまで言われるとさすがになにも言えなかった。実際、自分から進んでやりたいと思う奴はいないだろう。
 時計の針の音だけが響いている。
「わかったよ。そこまで言わせといてやらないわけにはいかないからね」
「ホント? 綾本くん、ありがとう」
「でも、俺は本当にまともに仕事はできないんだよ?」
「うん」
「それならもうなにも言わないよ」
 結局、結城の意見を聞き入れた形になった。
「明日の朝にでも先生に報告するよ」
「私も一緒の方がいいよね?」
「それは構わないけど」
「よかった」
 俺はなにがよかったのかよくわからないけど、とりあえず話がまとまったことにはホッとした。
「もう八時になるのか」
 ふと時計を見ると、針は七時五十七分を指していた。
「俺のせいでこんなに遅くまで残らせちゃって、ごめん」
「ううん、気にしないで。私もいつもそんなに早くには帰らないから。いつも、部活が終わってからピアノを弾いて帰るから」
「そうなんだ。でも、今日ほどは遅くはないでしょ?」
「うん、まあね」
「だから、今日は俺が送るよ」
「えっ? でも、そんなの悪いよ」
「大丈夫だって。夜道のひとり歩きは危ないからね」
「うん、ありがとう」
 彼女は少し嬉しそうに笑った。
 それから俺たちは音楽室を閉めて、学校をあとにした。
 考えてみると、今日ほど結城と話をしたことはない。いつもは挨拶程度だから。
「考えてみると、綾本くんとこうしてお話しするの、はじめてかもね」
「えっ?」
 俺は今考えていたことと同じことを結城に言われて、ドキッとした。
「不思議だよね。二年間も同じクラスなのに、一度もないなんて」
「そうだね」
 確かに不思議は不思議だった。別にお互いがお互いを避けていたわけではないが、なんとなく話す機会がなかった。
「朝とか、帰りの電車でも時々見かけるのに、ホント、不思議だよね」
 彼女も俺の存在に気付いてはいたんだ。
「いつも、前から二両目の三番目の扉から乗るんだよね」
「えっ、うん」
 まさか、そこまで覚えているとは。ちょっと驚いた。
 俺たちはだいぶ人通りの少なくなった商店街を抜けて駅に着いた。
「途中までは同じだよね」
 彼女は自動改札機に定期を通しながら言った。
「そうだけど、今日は結城さんを送るから」
「えっ、でもそんなの悪いよ。駅まで送ってくれただけでも悪いなって思ってるのに」
「女の子は、そういうことを言わない方がいいよ」
「えっ?」
 俺の言葉に、結城は一瞬きょとんとした。
「いつも妹たちにも言うだけど、弱い立場の人が強い人に守ってもらうことは、決して悪いことじゃない。むしろ当然と受け止めてもいいんだ。強い人は弱い人を守る義務があると思う。そして、女の子は基本的には弱い立場だからね」
「綾本くん……」
「それに、今日は俺が悪いんだから、せめてもの罪滅ぼしだよ」
「うん、ありがとう」
 結城は少し戸惑い気味ながら、それでも嬉しそうに頷いた。
 俺は昔からそういう風に育てられてきた。妹がふたりいるせいもあるけど、父さんからは特にそう言われてきた。だから、自然とそういう行動を取るようになっていた。
 俺たちはだいぶガラガラの電車に乗り込んだ。
 結城の降りる駅は、俺の降りる駅よりさらに三つ先。
 俺たちは適当に座った。なんとなく微妙な距離を取る。
「結城さんの家って、駅から近いの?」
「だいたい十分くらいかな」
「そうなんだ」
「綾本くんは?」
「うちは自転車で十五分くらいだから、歩いたら三十分はかかるんじゃないかな」
「だから妹さんたちにもいろいろ言うんだね」
「それもあるけどね」
「あっ、でも、妹さんたちって、綾本くんて何人兄妹なの?」
「うちは四人兄妹だよ。妹がふたりの弟がひとり」
「わあ、賑やかそうだね。私は弟がひとりいるだけだから」
「賑やかは賑やかだけど、弟の良二は言うこと聞かないから。その点、妹の由紀子は素直に言うことを聞いてくれて助かるよ」
「由紀子ちゃんて、朝一緒に来てる子だよね?」
「そうだよ。今年入学したんだ」
「いいなぁ、そういうの。私は弟と三つ離れてるから、中学、高校は一緒になれないの」
 俺たちは今まで話せなかったことを全部話すかのように、いろいろなことを話した。
「あっ、次の駅だよ」
 学校のある駅から七つ目。ここまでおよそ四十分。
 俺はひとつ思った。
 四十分もひとりで電車に乗っていて、退屈したりしないのかと。今はこうやって話しているからいいだろうが、やはりひとりでは退屈だろう。
 そんなことを考えなら、俺たちは電車を降りた。
「結城さんは電車の中ではどうしてるの?」
「だいたいは本を読んでるかな」
「このあたりにうちの高校の生徒はいないの?」
「うん。いても私の知らない人だから」
「そうなんだ。俺と同じだね。俺も由紀子が入学してくるまではひとりだったから」
「ふふっ、私たち案外似てるのかも」
 彼女の何気ないひと言。俺はその言葉があながち冗談には思えなかった。
「うわっ、駅から街灯はほとんどないんだ」
「うん。途中に少しと自動販売機の明かりだけかな。新月の日はだいぶ暗いよ」
「これはホントに危ないな」
 俺は人ごとながら、こういうところを女の子ひとりで平然と歩けるのはすごいと感心してしまった。
 俺なら由紀子たちには絶対にひとりでは歩かせない。
「このあたりはね、比較的新しい住宅街だから。まだまだ開発途中でお店も少ないし、こういう風に街灯なんかも完全には整備されてないんだ」
「こういう環境でも慣れると平気なの?」
「前よりはだいぶ慣れたけど、それでも怖いよ」
 まあ、それは当然だろう。年齢に関係なく、女の人なら夜道は怖いはず。
「でも、今日は平気。綾本くんが一緒だから……」
 こういう場合はどういう風に答えればいいのだろうか?
 少しゆっくり目に歩いて、だいたい十分ちょっとで着いた。
「ここが私の家よ」
「へえ、大きな家だね」
「そんなことはないけど。あっ、そうだ。綾本くん、なにか温かいものでもどうかな?」
「えっ、でもだいぶ遅いから」
 時刻は九時十分を回っていた。
「私のことなら気にしないで。それに、両親もそういうことには寛大だから」
「そうだな……」
 俺は少し考えた。さすがにその申し出をむげに断るのもいろいろあるし。
「じゃあ、少しだけ。それと電話を貸してもらえるかな?」
「うん」
 どこをどうなったらこういう展開になったのか、自分でもよくわからないが結城の家におじゃますることになった。
 彼女のお父さんとお母さんはそれぞれちょっと変わり者かな、と思えるほどいい人だった。こんな時間に突然やって来た俺にもイヤな顔ひとつ見せず、にこやかに迎えてくれた。
 俺はとりあえず家の方に連絡した。うちの両親もそういうことに関してはとやかく言うことはないから、比較的わかりやすい。
 それから、温かいミルクティーをごちそうになった。
 夕食もと勧められたが、さすがに送りに来ただけでそれは調子がよすぎるから、丁重に断った。
「今日は本当にありがとう」
「いや、別にいいんだよ。そもそも俺が言い出したことに結城さんをつきあわせた形なんだから」
「うん」
「それじゃ、また明日」
「おやすみなさい、綾本くん」
「おやすみ」
 俺は来た道を引き返しながら思った。
 春から夏に季節が移り変わるように、人と人の関係も移り変わるのだろう。
 そして、おそらく俺も……
 季節は、確実に動いていた。
 
 
第二話「不思議な季節」
 
 一
 春の大会が終わった。結果はかろうじてベスト8。なんとか夏の大会のシード権を手に入れた。
 俺は二回先発して、一回リリーフした。
 ピッチング自体は悪くはなかった。初戦は完封こそ逃したが完投勝利。
 去年の秋のことを考えれば格段の進歩だ。
 それでもベスト8の準々決勝は見事にやられた。
 相手チームは結果的に準優勝した。まあ、そのおかげで第六シードを手に入れたが。
 先発して五回までは一失点と上々の内容だったが、六回に球威が落ちたところを狙われ四失点。
 俺たちも三点を返したが、七回で降板したあとさらに二点を取られ、六対三で敗れた。
 監督は夏の大会前に自分たちの弱点がわかっただけでも収穫だと俺たちに言った。
 それは確かだった。
 俺の場合は、やはり経験不足から来るペース配分の問題だった。それは調子のいい日の方がそうだった。調子がいいとつい飛ばしてしまい、中盤から終盤にかけてスタミナがなくなってしまう。
 それともうひとつ。コントロールの問題。
 俺の球種はストレート、スライダー、カーブ、決め球に使えるシュート。
 ただ、準々決勝はそのシュートのコントロールが甘くなり痛打された。
 夏ならばある程度後悔しただろうが、春なので修正が効く。
 そこはやはり運がいいと言うべきだろう。
 俺は大会が終わったあとからその二点に注意しながら練習を続けていた。
 さて、野球のことはこれくらいにして、話を戻そう。
「綾本くん」
「やあ、結城さん」
「これ、この間の資料」
「ありがとう」
 俺と結城はあの一件以来、普通に話をするようになった。
 まあ、世間話なんかはあまりしないが、それでも修学旅行に関することなどいろいろ話をしている。
「いつもごめんね」
「ううん。私が言い出したことだから。それに、綾本くんの野球部はこれからが一番大事な時期だから。音楽部は秋から冬にかけてコンクールなんかがあるから。今は比較的楽なんだよ」
「相変わらず仲が良いわね」
「雪乃」
 俺たちが話をしていると、結城の親友、中田がやって来た。
「最近の舞はずいぶんと楽しそうだもん。どうしてかしらね?」
「ゆ、雪乃」
 中田はちょっと意味深な笑みを結城に向けた。
「でも、裕一くんも大変よね。野球部もがんばって、勉強もやって、少なからず公の仕事もして」
「そんなことはないけど」
「真面目なのよね、裕一くんて」
「雪乃。からかいに来たの?」
「あら、怒った? 別にそんなつもりはなかったんだけど、ふたりが楽しそうに話してるからつい宛てられちゃって」
「もう、雪乃ったら」
 結城は頬を膨らませてちょっと怒った。
「あはは、ごめんごめん。もう行くから。またね、裕一くん」
 中田は笑いながらどこかへ行った。
「ごめんね、綾本くん」
「どうして結城さんが謝るの?」
「だって、雪乃のことはやっぱり私絡みだから」
「そんなこと全然気にしてないよ。それに、彼女の言動には裏表がないから」
「うん、そうだね」
 俺と彼女は笑い合った。
「おい、裕一」
 と、今度は別のところから声がかかった。
「ん?」
「妹さんが来てるぜ」
「由紀子が?」
 俺は結城を待たせて廊下へ出た。
「あっ、お兄ちゃん」
「どうしたんだ?」
「ちょっと、英語の辞書を忘れちゃって」
「なんだ、しょうがないな。少し待ってろよ」
 俺は教室に戻って机から辞書を取り出した。
「ほら、辞書」
「ありがとう、お兄ちゃん。あとで返しに来るね」
「ああ」
 由紀子は駆け足で階段を下りていった。
「ごめんごめん」
「由紀子ちゃん、辞書忘れたんだ」
「由紀子にしては珍しくね」
「兄妹がいるとそういうことができていいね」
「まあね」
 とはいえ、兄である俺が妹から借りるというのは、少々格好悪い。
 と、チャイムが鳴った。
「あっ、チャイムだ」
「またあとでね」
 結城は、にっこり笑って自分の席に戻っていった。
 
「次、ストレート」
 俺は指の先まで神経を集中させ、ボールを投げる。
「よし、良い球」
 功二からは小気味のいいかけ声が返ってくる。
「綾本、調子はどうだ?」
「あ、監督。ええ、だいぶ順調です。コントロールの方も定まってきましたから」
「そうか。ということはあとは実戦での経験だけだな」
「はい」
「少しきついかもしれないが、これからしばらくの練習試合は、ダブルじゃない限りは先発でいこう」
「監督。それは少し無理ではないですか?」
 功二はこちらに近寄ってきて、そう言った。
「木村。おまえの言いたいことはよくわかる。だが、これから七月までに経験を積むにはそれしか方法はない。それはおまえも綾本もわかっているはずだ」
「功二。俺は構わないから。肩も肘も酷使はしないさ」
「当然だ。おまえはうちのエースなんだからな」
「綾本。今は何球だ?」
「二百から三百です」
「五十増やせ。それと、守備練の時間を割いて走り込みもしておけ」
「はい、わかりました」
 監督は俺に指示を与えると、バッティング練習の方へ向かった。
「裕一。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。それに、それくらい耐えられなければ夏の大会は勝ち抜けない」
「まあ、おまえがそこまで言うなら俺もなにも言わない。ただ、調子の悪い時は絶対に無理するなよ」
「わかってるよ」
 五月も半ばを過ぎ、夏の大会まで二ヶ月となった。ここからは練習は当然だが、ケガにも注意しなくてはならない。甲子園に出るような高校でも、直前の練習でケガをしたために涙を呑むということも少なからずある。
 たとえ甲子園に出られなくとも、自分のミスでチームのみんなに迷惑をかけることだけは避けなければならない。
 俺たちはまだ二年だからいいものの、先輩にとっては最後の大会になる。そのためにも今の自分にできることを、精一杯やらなければ先輩に申し訳ない。
「ラスト」
 俺は最後にストレートを投げた。
「よーし、上がりだ」
 少し息が上がっている。
「裕一。カーブを投げる時はもう少し腕の振りを大きくした方がいい。そうすればもう少し落差が出るはずだ」
「ああ、わかった」
 俺たちはピッチングのことを話しながら部室へ戻った。
「おっ、またいるぜ、彼女」
 功二は部室に入る直前、俺に向かって言ってきた。
「まあ、どうせ裕一のところに来たんだろうけど」
「からかうなよ」
「からかってなんかないさ。最近は学年の噂だぜ。おまえと結城舞がつきあってるんじゃないかって」
「そんなバカな。彼女とは仕事が一緒だから最近は話す機会が多くなっただけで、それまでは挨拶くらいしかしなかったんだからさ」
「まあ、俺にはよくわからないけどさ」
 功二は意味深な笑みを浮かべてシャワーを浴びに行った。
 ただ、功二の言うことを心の底から否定できないのも事実だった。
 俺はさっさと着替えて部室を出た。
 部室棟から校舎への通路に結城はいた。いつものように。
「おつかれさま、綾本くん」
「わざわざ来てくれなくても、こっちから行ったのに」
「ううん。いいの」
 何回目だろうか? ほぼ同じことを繰り返している。
「今日は現地のことについていろいろなことを注意されたの」
「そうだろうね。いくらハワイに日本人が多いといっても、やっぱりアメリカだから。風土も文化も違うから」
 うちの高校の修学旅行はハワイ。昨今は国内の修学旅行より海外の方がかえって安上がりなのだ。
「それで行動する時には必ず英語の得意な人と一緒に行動しないと、なにかあった時大変なんだって」
「英語か。俺は苦手じゃないけど、得意でもないから。その点、結城さんは得意だから」
「そんなことはないけど」
「結城さんと一緒にまわれれば苦労しないかも」
「えっ……?」
「でも、英語の得意な人はそんなにいないから、引っ張りだこになるかも。そしたら俺は無理かな、ははは」
「綾本くんなら……」
「えっ、なにか言った?」
「う、ううん」
 彼女は少し慌てたそぶりを見せたが、すぐにいつものように戻った。
 俺たちはそれから今日のことを少し話して家路に就いた。
「あっ、お兄ちゃん」
 駅に着いた時、ちょうど由紀子に会った。
「今帰りなの?」
「ああ」
「こんにちは、結城先輩」
「こんにちは、由紀子ちゃん」
「一緒に帰るか?」
「うん」
 結局今日は三人で帰ることになった。
 結城と由紀子は結構仲が良く、時々しか一緒に帰れないけど楽しそうに話をしている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ちゃんと先輩を送っていかなきゃダメだよ」
「いいのよ、由紀子ちゃん。どうせうちは駅から近いから」
「ダメですよ。夜道のひとり歩きなんて危ないです」
「由紀子はいいのか?」
「うん。どうせ自転車だから」
「というわけだけど、どうしようか?」
「どうしようか、じゃなくて送っていくの」
「わかったよ」
 由紀子も意外に頑固なところがあるから、時々俺ですら困ることがある。
 それからすぐに本来俺が降りる駅に着いた。
「じゃあね、お兄ちゃん。お母さんにはちゃんと言っておくから」
 で、結局何度目かの結城の家へ、結城を送ることになった。
「ごめんね、綾本くん」
「別に気にしなくていいよ。由紀子の言う通りなんだから」
「うん」
 彼女は窓の外を流れる夜の景色を、静かに見つめていた。
「綾本くんみたいな男の人って、あんまりいないよね」
「えっ?」
「自分のことよりも人のことを気にして、少しくらい大変なことでもイヤな顔ひとつ見せないでこなして」
「……それは買いかぶりすぎだよ。俺だって自分のことを優先するし、大変なことにはイヤな顔も見せるし」
「たとえそうだとしても、そう見えないところが、あんまりないんだと思うよ」
 どうして彼女がそんなことを言ったのかは、俺にはまったくわからない。
 生まれてから十七年間、女の子とつきあったことは一度もない。
 だから、女心というものもわからない。
「綾本くん」
「ん?」
「ひとつ聞いてもいいかな?」
「なに?」
「もし、今ここにいるのが私じゃなくても、送っていくの?」
「えっ? たぶん、そうだと思うけど。これは俺の中に染みついたことだから、そうそう変えられないよ」
「ふふっ」
「どうしたの?」
「私の思ってた答えと同じだったから、つい」
 彼女はくすくすと笑っている。
「じゃあ、俺もひとつ質問をしてもいいかな?」
「えっ、うん」
「正直に答えてほしいんだ。どうして俺が代表を辞退するのを止めたの?」
「えっ、それは……」
「不思議だったんだ。確かに結城さんの言っていたことは一理ある。みんなに迷惑をかけるのは本意ではない。でも、あのままならある程度は結城さんの意見が通って、やりたい人とできたと思うけど」
「……綾本くんは、迷惑だった?」
「いや、そういうことじゃないけど。ただ、そう思っただけで。あっ、変なことを聞いてごめんね」
「ううん」
 それから俺たちはなんとなく言葉も交わさないで電車を降り、彼女の家へと向かった。
 およそ十分で彼女の家に着いた。
「今日はありがとう」
「うん」
 俺はなんとなく気まずくなり、それ以上言葉が続かなかった。
「綾本くん」
「ん?」
「綾本くんて、好きな人は、いるの?」
「えっ……?」
「あっ、ううん、やっぱりいいや。おやすみなさい」
 彼女はそう言って慌てて家に入った。
「好きな人、か……」
 思わずそんなことを呟く。
 あのまま続けていたら、俺はなんと答えていたのだろうか。
「はあ……」
 今日はわからないことが多かったな。
 
 二
「裕一、ちょっといい?」
「なに、母さん?」
「ひとつ裕一の意見を聞きたくてね」
「意見?」
 俺は母さんの言葉に首を傾げた。
「実はね、これはまだ正式に決まったわけじゃないんだけど、紀子ちゃんたちがこっちの方へ引っ越してくるかもしれないのよ」
「紀子が? でも、叔父さんの仕事は転勤なんてないはずじゃ」
「それがね、今度新しくこっちの方に施設を移転することになったらしいのよ。それで先発要員として隆明さんたちが選ばれたらしいの」
「そうなんだ。それはわかったけど、俺に訊きたいことって?」
「それで、紀子ちゃんの学校をどうするかってことなの」
「紀子は確か由紀子と同い年だよね」
「そうよ。だからなのよ。高校の転入はなかなか難しいから。普通なら今までの高校のレベルより少し落として転入するんだけど、向こうとこっちではそのあたりがなかなか比べられないから」
「そっか。でも、紀子の学力がどのくらいかは俺も知らないし。うちの高校は五教科の平均が八割から八割五分くらいがだいたいだけど」
「隆明さんの話だと紀子ちゃんは裕一たちと同じ高校へ通いたいって言ってるらしいの。それで私に意見を求められたんだけど、裕一の方がいいと思ってね」
「構わないんじゃないかな。どうせ入試からそんなに時間も経ってないし、転入試験だって入試と同じようなものだろうから」
「そうね。じゃあ、そのあたりのことも考えて一応勧めてはみるわ」
 綾本紀子は俺の従妹。父さんの弟の隆明叔父さんの子供だ。由紀子と同い年で仲も良い。
 今は千葉の方に住んでいる。
 叔父さんの仕事は国の研究機関の研究員。主にバイオテクノロジーの研究をしている。
 東京と千葉は隣同士だが、こっちから向こうへ行くことはあまりなく、向こうがこっちへ来るというのがだいたいだった。
 実を言うと、俺は紀子が少しだけ苦手だ。
 紀子はひとりっ子ということもあってとても甘えん坊で、うちに来ると絶対に俺から離れなかった。
 そのなごりか、今でも紀子は俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ。
 紀子はカワイイから別にイヤなことはないが、あまりベタベタされると少しうざったくなることはある。
 なにはともあれ、引っ越してくるとなると、またなにかが起こりそうな予感がする。
 
「ふう……」
「なんだなんだ、なにため息なんかついてんだ?」
「豊和か」
 教室で窓の外を眺めていたら、豊和が声をかけてきた。
「なにしけた面してんだよ」
「最近部活の練習がきつくてさ、少しバテ気味なんだよ」
「おまえ、人よりだいぶ余計やってるだろ。だからだよ。夏の大会や高総体が近くなればどの部活だって練習はきつくなる。うちだってそうさ。最近は基礎プラスほぼ毎日の紅白戦だからきつくてきつくて。だけど、そういう時はどこかで少しだけ手を抜かないと大事な時に力が出せないなんてことになりかねないからな」
「わかってはいるんだけど、俺の場合はもともとピッチャーじゃなかったから、人の倍は練習しなくちゃ追いつけないんだ」
「裕一は真面目すぎるんだよ。それに、春の大会ではそれなりの結果を残したじゃないか。自分が人より劣ってるとか、そういう悲観的な考えはやめた方がいい。自分は自分のやり方でやればいいんだよ」
「それができれば苦労はしないよ」
 豊和の言うことは至極もっとも。でも、それだけでは片づけられないこともある。
『生徒の呼び出しをします。野球部二年、綾本くん。至急地歴準備室の渡瀬先生のところへ』
「呼び出し?」
「おまえなにかしたのか?」
「いや、わからないけど」
 俺はすぐに監督のところへ向かった。
「失礼します」
「おお、綾本」
 監督の渡瀬先生は世界史の先生。部活の時は厳しいが、普段は優しい先生だ。
「どうしたんですか?」
「いや、本当は部活の時でもよかったんだが、早い方がいいと思ってな」
 監督はいつもとは違う穏やかな表情で続けた。
「木村から私の方へ提案というか、お願いがあった」
「功二から、お願い、ですか?」
 思いも寄らないことに、俺は首を傾げた。
「ああ。木村はおまえを少し休ませてやってほしいと言ってきた」
「休むって、どういうことですか?」
「最近のおまえは、ただひたすらに練習に打ち込んで十分な休養も取ってないらしい。それで一日か二日、完全に休ませてほしい。そういうことだ」
「功二がそんなことを……」
「綾本。今のおまえの一日の練習内容を、自主練も含めて言ってみろ」
「はい。早朝のロード、柔軟、シャドウピッチング。部活時のロード、守備練、バッティング、走塁、ピッチング。それから部活後のピッチングと軽いランニングです」
「球数は?」
「日によって差はありますが、一日置きにだいたい四百球くらいです」
「なるほど」
 監督は腕組みをして唸った。
「綾本。今日と明日は部活を休め。これは監督命令だ。ただ、早朝のトレーニングだけは認める」
「ですが、監督。ピッチングは毎日少しでもやらないと──」
「ダメだ。それに、腕も肩も肘もガチガチだろ」
 俺は痛いところをつかれた。確かに最近はすぐに疲労が取れなくなっている。
「とにかく、練習にはあさってから参加しろ。その代わり、あさってからはしごくからな、覚悟しておけ」
「はい」
 俺は複雑な心境で部屋を出た。
 まさか休養命令が出るとは思わなかった。
「よお、裕一」
「功二」
 部屋を出ると、功二がいた。
「監督に言われただろ」
「ああ。今日と明日は休めってさ」
「俺もそうした方がいいと思う。来月は定期試験があるからある程度部活に余裕がでるけど、今月はそういうのはまったくないから、ちょうどいいはずだ」
「なあ、功二。そんなに疲れてるように見えるか?」
「ああ。このまま続けたら間違いなく大会前に倒れる」
「そっか、おまえが言うんだから間違いないな」
 俺は野球に関してはある意味、監督以上に功二を信頼してる。
「とにかく、ゆっくり休んで体調を整えてからまたはじめようぜ」
「ああ、そうだな」
 決まったことにグダグダ言っても仕方がない。今は、きちんと休むことだけを考えよう。
 そして、またあさってからしっかり練習して、大会を万全の状態で迎えないと。
 
 放課後。
 俺はかなり久しぶりのなにもない放課後を過ごしていた。
 図書館なんて一年に一度か二度くらいしか来ないところへやって来た。
「あれ、裕一くん」
「中田さん。それに、堀さんも」
 図書館で中田と堀のふたりに会った。
「どうしたの今日は? 部活は?」
「今日は休養日なんだ」
「休養日?」
「監督に休めって言われたんだよ」
「そうなんだ。でも、裕一くんならありそうだよね。練習熱心だから、ついついオーバーワークになって」
 中田は部活に所属してない割にはよく知っている。
「でも、そういうのも大切だと思うよ。ね、弥生」
「そうだね。舞ちゃんもそんなこと言ってたし」
「結城さんが?」
「そうよ。最近、よく話の中に裕一くんのことが出てくるのよ。それで練習のこととかよく話してくれるの」
 なんでそんなことを話すんだろう?
「ところで、図書館へはなにしに来たの?」
「別にこれといって用はないんだけど。あまり早く帰るのもどうかと思って」
「ふ〜ん。だったらさ、これから私たちとカラオケ行かない?」
「カラオケ?」
「そ。裕一くんて結構歌上手そうだから。ね、行こうよ」
 中田は得意の丸め込みであっという間に話を進めていく。
「どうしようかな?」
「たまには息抜きしないと。ね」
 それから三十分後。
 俺たちは駅前のカラオケルームにいた。
 俺はカラオケなんて野球部の祝勝会や追いコンの時くらいしか来ない。
 場違いな感じもしたが、とりあえず楽しむことにした。
 とはいえ、予想通りマイクは中田の手からなかなか離れなかった。
「あっ、この曲入ったんだ」
 とまあ、次から次へと歌っていく。
 どこにそんなエネルギーがあるのかと思うほどだ。
 堀は、たぶんいつもと同じように聴き役に徹していた。
「あ〜、のど乾いちゃった」
「いや、驚いたよ。中田さんて歌上手いんだね」
「へっへー、そんなことあるけどね」
 中田は嬉しそうに笑った。
「今度は裕一くん、歌ってみてよ」
「俺?」
「そ」
「でも、あんまり歌知らないから」
「大丈夫よ。最近のだけじゃないから」
 そう言ってマイクを渡してきた。
「じゃあ……」
 結局それから一時間ほど歌って帰った。
 中田は俺と同じく電車通学で、堀は自転車通学。
 駅で堀と別れ、中田と電車に乗った。
「裕一くん」
「ん?」
「裕一くんは舞のこと、どう思ってるの?」
「結城さんのこと?」
「ひとつ確かめたいことがあってね」
 中田はドア脇の手すりに背を預け、そう言ってきた。
「どうって聞かれるとなかなか難しいけど」
「じゃあ、私の質問にイエスかノーで答えてね」
「うん」
「まずは、舞はカワイイと思う?」
「イエス」
「綺麗だと思う?」
「イエス」
「舞のことを特別に意識してる?」
「う〜ん、それはどうかな? してると言えばしてるし、してないと言えばしてないし。ちょっとわからないな」
「じゃあね、少し質問を変えるね。積極的にアプローチをかけてくる子と、消極的でいつもは陰から見ているような子。そんなふたりに同時に告白されたら、受ける?」
「イエス、かな」
「両方とも?」
「たぶん、イエス」
「なるほどね。じゃあ、最後。舞のこと、好き?」
「そ、それは、ちょっと難しいな。単純に好きか嫌いかと聞かれれば、好きだけど」
「そうだよね。普通、舞みたいな子を嫌いな人はいないもんね。ごめんね、突然変なこと聞いちゃって」
「別に構わないけど。そんなこと聞いてなにを確かめるわけ?」
「ちょっとね」
 中田は不敵な笑みを浮かべた。
「あっ、もう着いちゃった。じゃあね、裕一くん」
「ああ、また明日」
 中田は俺の降りるひとつ前の駅で降りた。
 しかし、中田の意図はどこにあったのか、全然わからなかった。
 
「おはよう、綾本くん」
「あっ、おはよう」
「あれ、由紀子ちゃんは?」
「朝練だって。高総体も近いから」
「そうなんだ」
 朝。俺と結城はほとんど同じ電車に乗っている。前からそうだったらしいが、最近は同じ車両になった。
「そういえば、昨日部活休んだんだね」
「あ、うん。監督に休めって言われたんだ」
「どうして?」
「休養を取れってさ」
「そうだったんだ。てっきりなにかあったんじゃないかって心配しちゃった。でも、そういうことじゃなくてよかった」
「ごめんね。ひと言言っておけばよかったね」
「あっ、ううん。気にしないで。私が勝手に見に行ってるだけだから」
 彼女は小さく頭を振った。
「でも、今日は?」
 探るように訊ねてくる。
「実はね、今日も出ないんだ」
「そうなんだ」
「あっ、今日は仕事あったっけ?」
「ううん、今日はないよ」
「そっか」
 八時十分。定刻通り電車到着。
 今日も一日がはじまる。
 
「いいか。今日やったギリシアと、これからやるローマは世界史の古代においてその重要度は非常に高い。わかりにくいところもあると思うが、しっかり復習して記憶ではなく知識として覚えておくように」
 渡瀬先生の世界史が終わった。
 先生の授業はわかりやすいと学校でも有名。そういうこともあって、うちの高校の大学受験者はほとんどが世界史を選択している。
 かく言う俺も世界史にしようと思っている。
 授業が終わり、ホームルームも終わった。
「綾本くん」
「ん?」
 教科書をカバンに入れていると、横から声をかけられた。
「どうしたの、結城さん?」
「今日ね、この前言ってたCDを持ってきたの」
 そう言って彼女はCDを見せた。
「ありがとう。これ聴きたかったんだ」
 そのCDはストラヴィンスキーの『火の鳥』。実は俺は結構クラシックが好きなのだ。まあ、音楽自体はあまり得意じゃないけど。
「ダビングしたら返すから」
「うん。でも、急がなくてもいいから」
「あっ、そうだ。今日これからダビングすればいいんだ。そうすれば明日には返せる」
 俺はCDを丁寧にカバンに入れた。
「結城さんは、今日も部活あるんだよね?」
「え、うん。一応は」
「一応?」
「最近は自主練習なの。週に一度合同でやる日だけは必ず出なくちゃいけないけど、それ以外は学校でも家でも、どこでも練習できれば構わないの」
「へえ、そうなんだ。じゃあさ、ひとつお願いしてもいいかな?」
「うん、なに?」
「これからうちに来てこの曲のこと、簡単に解説してほしいんだ」
「えっ、私が?」
「これってもともとバレエでしょ。だから少しわからないこともありそうだから」
「でも、私だってそんなにはわからないよ?」
「別に構わないよ。どうかな?」
「それじゃ、少しだけ」
 こうして偶然に偶然が重なって、結城がうちに来ることになった。
 俺たちはとりあえず家のある駅までやって来た。
 だが、ここでひとつ問題が発生した。
 それは、どうやってうちに行くか、ということだった。
 自転車なら十五分で行くが、歩くとなれば最低でも倍以上かかる。
 うちの近くはバスも通ってないから、交通機関といえばタクシーくらい。でも、高校生がタクシーというわけにもいかない。だいいち、お金がない。
「ちょっと不安定だけど、ふたり乗りするしかないね」
 とまあ、結局ふたり乗りということでなんとかすることになった。
「しっかりつかまって」
「うん」
 ふたり乗りは昔は結構やっていたけど、最近は全然やっていない。そのためバランスが取れるか少し不安だった。
 でも、走り出したら意外になんとかなるもので、順調に走れた。
「大丈夫?」
「うん」
 彼女は俺に寄りかかるようにつかまっている。
「……重くない?」
「全然。むしろ軽いくらいだよ」
 これは別に強がりでもお世辞でもない。本当に彼女が軽いのだ。
 さすがにふたり乗りでは十五分は無理で、二十分ちょっとかかった。
「ここだよ」
「うわあ、素敵なおうち」
「そんなことないけど。外装は完全に母さんの趣味だから。父さんの意見は少しも入ってないんだ」
 俺は自転車を車庫に置いた。
「さ、入って」
 俺はドアを開けて彼女を先に入れた。
「おじゃまします」
「ただいま」
「おかえりなさい」
 相変わらず返ってくるのは母さんの声。
「はい、スリッパ」
「ありがとう」
「あら、お客さま?」
 今日は珍しく母さんが玄関の方へ顔を出した。
「うん、同じクラスの結城舞さん」
「はじめまして。結城舞です」
「こんにちは。裕一の母です。ゆっくりしていってね」
「はい」
「とりあえず部屋に行こうか」
 俺は礼儀として先に立って彼女を部屋に案内した。
「奥が俺の部屋なんだ。ほかの三つは弟と妹の部屋」
 俺は当然誰もいないと思って話していた。
 が──
「あれ、もう帰ってきたんだ」
「なんだ、いたのか良二」
 良二がいた。
「うん。もうすぐテストだからね。部活も休みなんだ」
「その割には奈津子はいないみたいだけど」
「奈津子はバスケ部だからね」
「そうだよな、どこぞの科学部とは違うよな」
「ふん、どうせどこぞの科学部だよ」
 と、良二は結城に気付いた。
「お兄ちゃんがお客を連れてくるなんて珍しいね。しかも女の人」
「別にいいだろ」
「ねえねえ」
 良二は俺の耳元でささやいた。
「お兄ちゃんの彼女?」
「っ! ば、バカ野郎っ! くだらないこと言ってないで勉強でもしてろ」
「ははは、怒った怒った」
「でめぇ、いい加減にしろよ」
「あっ、マジだ」
 良二はそそくさとドアを閉めて、部屋に閉じこもった。
「まったく、なにを考えてるんだか。ごめんね」
「ううん。私も弟がいるからなんとなくわかるよ」
 俺は多少の予想外の出来事をなんとかかわして、部屋のドアを開けた。
「汚いけど」
「ううん、十分綺麗だよ」
 俺の部屋はベッドに机、本棚と小さなテーブル、テレビデオにステレオ。ごく普通の部屋だと思う。
 それでも、野球関係のものがいろいろあるのはしょうがない。
「男の人の部屋ってはじめて入ったの」
「あっ、そうなんだ」
「弟の部屋なら入ったことあるけど、ほかの人のはホントにはじめて」
「はじめてが俺の部屋でがっかりしたかな?」
「ううん、そんなことないよ」
「あっ、適当に座って」
「うん」
 俺はとりあえずカバンを机の上に置いて、制服の上着を脱いだ。
 結城はテーブルのクッションの置いてあるところに座った。
 と、ドアがノックされた。
「裕一。ちょっと開けて」
 ドアを開けると、母さんがお茶とお菓子を持ってきていた。
「なんにもないけど、遠慮しないでね」
「あっ、はい」
 母さんは絶対に余計なことは言わないから、俺としては安心できる。実際、それを置いたらすぐに戻っていったし。
「すごくいい香り」
「あ、それはね、薔薇の紅茶だよ」
「薔薇?」
「どうやって作るかは知らないけど、母さんは珍しい紅茶が好きなんだ。それに、そういうのって意外に美味しいし」
「そうなんだ」
 彼女は一口紅茶を飲んだ。
「あっ、ホントだ。すごく美味しい。香りが口の中いっぱいに広がって。それにすっきりした後味でいくらでも飲めちゃいそう」
「おかわりならいくらでもして」
「うん」
 俺はカバンからCDを取り出してデッキにかけた。
 CDのプレイボタンを押す。
 スピーカーからは静かな低温が響いてくる。
「火の鳥はね、ストラヴィンスキーの一九一〇年の作品なの。バレエの登場人物は魔王カスチェイ、ロシア皇帝の王子イワン、十三人の王女たち、そして火の鳥。簡単なあらすじは、王子がカスチェイの魔法の園で、黄金のリンゴを食べようとしていた火の鳥を捕まえようとするの。火の鳥はいったん王子に捕まえられるけど、放してほしいと懇願して放してもらい、そのお礼に自分の羽を王子に渡すの」
 俺はかすかに音楽に耳を傾けながら、意識のほとんどは彼女の話に向いていた。
「それから王子は月明かりで城を見つけるの。そこからは十三人の王女たちが出てきて、黄金のリンゴを落として遊ぶの。王子はそれを陰から見ていて一番綺麗な王子に魅入られてしまう。そして、彼女に名乗り出る。王女は戸惑いながらも王子に応えるの。でも、陽が昇ると王女たちはまた城で囚われの身となる。それを聞いた王子は王女たちを助け出すと約束するの。王子が王女たちを助け出そうと城に駆け寄るけど、魔王の手下の妖怪に捕まえられ、魔王のもとへ連れて行かれてしまう。そして、魔王は王女たちの懇願も聞き入れないままに王子を石にしようとするの。そこで王子は火の鳥の羽のことを思い出し、それを取り出し振ったの。そうするとどこからともなく火の鳥がやって来て、カスチェイや手下の妖怪たちをなぎ倒したわ。そして、火の鳥に翻弄され疲れきってしまったところを子守歌によって眠らされてしまう。だけど、それでもカスチェイを倒したことにはならなくて、王子は火の鳥からカスチェイの魂のありかを聞き、それが巨大な怪鳥の卵だと知り壊そうとするの。だけど、カスチェイがそれを奪い返そうと挑みかかり、王子はそれをかわし間一髪で卵を割ったの。カスチェイは死に、魔法は解けて王女たちは自由になり、妖怪にされていた人たちは元に戻り、石になった人たちも元に戻ったの。そして、最後に王子は王女と結婚。これがだいたいの内容よ」
 俺はすっかり聞き入っていた。
 彼女の言葉にすっかり引き込まれていた。
「綾本くん。どうしたの?」
「あっ、いや、なんでもないよ。つい聞き入っちゃって」
 俺は照れ隠しに紅茶を一口すすった。
「でも、よくそれだけ覚えてるね?」
「火の鳥の話は好きだから。最後はハッピーエンドだし。バレエ音楽って意外に暗いのが多いから」
「そうだよね。ロミオとジュリエットとかもそうだし」
「うん。だから余計思い入れがあるのかも」
 彼女は微笑んだ。
「王子が王女に一目惚れしたように、王女もまた王子に一目惚れしたのかもしれないって思うと、すごくいい話だなって思って」
「一目惚れ、か」
 俺はその言葉を自分に当てはめることができるかも、と思った。
「結城さんは一目惚れみたいな出会いを信じる? それともじっくりつきあって相手のいいところ、悪いところをわかった上でのその出会いを信じる?」
「えっ、私は……」
 彼女は頬を少し赤く染め、俯いた。
「あっ、ごめん。余計なことだったね」
「ううん。そんなことないよ」
 俺は自分がマズイ質問をしたから謝ったのだが、彼女はどうやら自分のせいで俺が気まずい思いをしたと思っているらしい。
「私はね、一目惚れも信じるよ。運命の出会い。そういうこともあると思うし」
「そっか」
 ということは、彼女自身そういうことがあったのかもしれない、というわけか。
「学校でね、というかうちの学年だけど、ある噂があるんだ」
「噂?」
「そう、噂。しかも男子の間で。それは、結城さんに告白しても絶対にダメだって。それはもう好きな人がいるからだって」
「……それは」
「俺はただの噂だと思ってるよ。どうせ些細なことが人から人へ伝わるにしたがって根も葉もないことがくっついたに決まってるから」
 俺は噂を完全に否定して彼女を励ましたつもりだったが──
「でも、火のない所に煙は立たないから……」
 彼女の言葉は暗に噂を肯定していた。
「好きな人、いるよ……」
 小さいけど、彼女ははっきり言い切った。
「そ、そうなんだ」
 俺は少なからず動揺した。
 スピーカーから流れてくる音楽はあたかも俺の心を映し出すかのような、暗く、低い曲だった。
「綾本くん」
「な、なに?」
 俺たちはしばし見つめ合った。
 彼女の大きな瞳に俺の顔が映っている。
「今度、時間がほしいの」
「時間?」
「大事な、とっても大事な話があるから」
「う、うん」
「今度、綾本くんの時間のある時に、それを話すから」
「わかったよ。覚えておくよ」
「うん」
 俺たちはそれだけ確かめると、あとは音楽に耳を傾けた。
 火の鳥のフィナーレは明るく、盛大で、厳かで、すべてを物語っていた。
 ふと、外を見た。
 空は晴れているが、西の空から雲が湧いてきていた。
 これから次第にはっきりしない季節になる。
 それは人の心も同じかもしれない。
 俺も、そして、彼女も……
 
 
第三話「変わる季節」
 
 一
 季節は梅雨。一年で一番鬱陶しい季節。
 野球部のように外で活動する部活にとっては、あまり歓迎されない季節だ。
 六月の上旬に高総体も終わり、運動部の三年はその大半が引退した。
 インターハイに出場する部活はまだまだ練習の日々。
 そして、俺たち野球部はこれからが本番である。
 七月の中旬からいよいよ夏の甲子園予選がはじまる。
 それまでの一年間練習してきたことが試される、審判の時。
 が、高校にはその前にやらなければならないことがある。
 そう、定期テストだ。
 六月の末に行われるテスト。二期制のうちの高校にとっては年に四回しかないテストだけに気を抜くと進級が危うい。
 そして、今は前期中間テストの直前。
「明日からテストがはじまりますが、不正行為のないようしっかり勉強して、赤点など取らないように」
 森岡先生の冗談には聞こえない注意が終わり、放課後。
 野球部もさすがにテスト中は練習はない。
 それでも個人での練習は、たいていの連中は怠らない。
「裕一。お先に」
「ああ、じゃあな」
 豊和はそそくさと教室を出て行った。まあ、テスト前だから勉強をするつもりでもなければ学校には残らないだろう。
 かく言う俺もここのところは真っ直ぐ家に帰っている。
 テストは十教科、四日間で行われる。
 参考までに今回の日程は、初日が現代文、日本史、数B。二日目が英語、物理。三日目が数U、古文、化学。そして四日目がOC、世界史。
 日程的には三日目が少しつらいかもしれない。
 それでも歴史、数学、英語は得意だからなんとかなるだろう。
 物理も数学の延長。現代文も知識はそれほど必要としない。
 理科系と古文をなんとかすれば赤点は取らないだろう。
 俺はカバンに机の中身を入れると、教室をあとにした。
 校舎内は帰る生徒でいつもより賑やかだった。
 それでもその顔は憂鬱そのもの。まあ、テストの好きな奴はいないと思うけど。
 昇降口を出ると、手に手にノートやらプリントやらカードやら持っているうちの生徒が、異様な集団となって駅の方へ向かっていく。
 俺は基本的には勉強はひとりでする。
 ほかの人とやると自分のペースで勉強できなくて、なかなかはかどらないからだ。
「お兄ちゃん」
「ん、由紀子か」
 呼ばれて振り返ると、由紀子だった。
「今日もひとりなの?」
「ん、まあな」
「ふ〜ん」
 由紀子はちょっと首を傾げたが、すぐに俺の横に並んで歩きはじめた。
 由紀子は兄の俺から見ても頭がいい。入学時もおそらくひと桁だっただろう。だから、テストをすること自体に特別な感情を持っていない。ただ、やるのがイヤなだけだ。
「今日はおまえもひとりだな」
「うん。みんな勉強が忙しいんだって」
「人ごとだな」
「だって、定期テストなら授業でやったことの繰り返しみたいなものでしょ。それほど慌てることはないと思って」
 ここが頭のいい奴とそうでない奴との差だろう。
「お兄ちゃんだってそうでしょ?」
「おまえほど余裕はないよ。理科系や古文があるからな」
「でも、なんだかんだ言っても、結局お兄ちゃんいい成績残すんだもん」
「そんなことないさ」
「けど、そのおかげでお兄ちゃんに勉強を教えてもらえるから、結果的にはいいのかも」
 由紀子は無邪気に笑った。
 俺は一時期由紀子の家庭教師のようなことをしていた。由紀子は英語のほかに数学が苦手で、ほかの教科に比べると少々点数が低い。そこで俺が勉強を教えるというよりは、コツを教えた。
 そのかいあってか、今では五教科ともに成績は抜群。
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
 電車に乗ってから由紀子が話しかけてきた。
「先輩となにかあったの?」
「いや、別に……」
「だって、最近よそよそしいよ。あんなに楽しそうに話してたのに、急にそんな風になるなんて、なにかあったとしか思えないもの」
「なんでもないよ。ただ、テストも近いしお互いに時間が取れないだけ。それに、俺たちはそんなに深い関係じゃないし」
「お兄ちゃん……」
 由紀子の言う『先輩』とは結城のこと。
 俺と結城は『例』の一件以来まともに話もしてない。
 元に戻ったと言えばその通りだが、それとも少し違う。
 どちらからともなくお互いを意識して、わざと避けていた。それは当然まわりにも明らかにわかり、由紀子はそれに一番最初に気付いた。
「由紀子。人のことより自分のことを優先しろよ。おまえは昔からそうだからな。誰かが気付いてやらないと人のことばかり気にかけて」
「でも、必ずお兄ちゃんが気付いてくれたよ」
「当たり前だ。俺はおまえの兄だ。兄として妹をフォローするのは当然だ。それに、由紀子を放っておけると思うか、この俺が?」
「そうだね」
 前にも言ったが、由紀子、良二、奈津子の三人の中で一番俺に懐いているのは由紀子だ。頼られればそれに応えるように父さんから徹底的に教え込まれた俺は、当然のように由紀子を一番可愛がった。時々、奈津子が嫉妬して喧嘩になることもあったが、それでも由紀子は俺に懐いている。
「でもね、私から見るとお兄ちゃんも人のことばかり気にしてるよ」
「俺はいいんだよ。それに、父さんにそういう風に教え込まれ、育てられたから」
「それは違うと思うよ」
 珍しく由紀子が異を唱えた。
「お父さんが言いたいことはそうなんだけど、自分のことを全部犠牲にすることはないはずだよ。だって、自分のことを自分で追い求めることは悪いことじゃないもん」
「由紀子。理屈ではそうだと思う。だけど、実際にはその両立は難しい。だから、自分のことをとりあえず後回しにしてほかの人のことを気にかけるんだ」
「でも、お兄ちゃんはそれでいいの?」
 今日の由紀子はいつもより積極的だった。
「だって、お兄ちゃん、先輩のこと──」
「それ以上言うな」
「お兄ちゃん……」
「今はいいんだよ。心配するな」
「うん……」
 電車が駅に着く頃、空から雨が降ってきた。
 
 二
「終わったー」
 チャイムと同時に教室中に安堵の色が広がった。
 前期中間テスト四日目。二時間目。今回の最後のテストだ。
 今回のテストはいつもより少し調子が悪かったが、そこそこ採れている自信はあった。
 学校によってはテストが終わるとすぐに夏休みというところもあるが、うちの高校はそういうことはない。ちゃんと七月も授業がある。
 それでも今日だけはテスト明けということで、午後の授業はない。
 まあ、その代わり部活の練習が長くなるけど。
 俺がカバンを持って教室を出ようとした時、声をかけられた。
「裕一くん、少し時間ある?」
「中田さん? それに堀さんまで」
 中田と堀は心持ち真剣な表情で俺の返答を待った。
「時間ならあるよ。部活は昼からだから」
「じゃあ、ちょっとつきあってほしいの。いい?」
「うん」
 俺はカバンを持ったまま、ふたりについていった。
 俺たちは屋上へ向かった。
 うちの高校の屋上はちょっとした、まあ空中庭園とまでは言わないけど、単なるコンクリートの屋上ではなかった。大きめのプランターに季節ごとの花が咲き、ベンチがいくつか並べられている。
 俺はベンチの傍らにカバンを置き、そのまま腰掛けた。
 中田はフェンスに寄りかかり、堀は俺の隣に腰掛けた。
「それで、いったいなんの用なの?」
「裕一くん。舞となにかあったの?」
「えっ……?」
 中田の質問は唐突だった。
「舞、最近おかしいのよ。別に落ち込んでるわけじゃないけど、それでも少なくともいつもの舞じゃない」
 中田は目で堀を促した。
「舞ちゃんは私たちが聞いても、なんでもないの、の一点張りで。それでもしなにかあるとしたら、綾本くんとなにかあったのかなって」
「で、どうなの?」
 俺は返答に迷った。
 だが、どうして迷っているのだろうか?
 ふたりは純粋に結城を心配して聞いているだけ。それなら素直に話してもいいはずだ。
「これは私の考えだから、間違ってるかもしれないけど。裕一くん、舞になにか言われたんでしょ? しかも気まずいというか恥ずかしいようなことを。それでふたりとも意識して今のような状況になってる。どうかな?」
「ははは、そうだよ」
 俺の笑いは乾いていただろう。
「ねえ、裕一くん。ひとつ聞いてもいい?」
「うん」
「裕一くんて、人を好きになったことある?」
「……どうかな。今までそういうことを意識したことがなかったから」
「これは舞から聞いたことなんだけど──」
「雪乃ちゃん」
 中田の言おうとすることを堀が止めようとした。
「いいのよ。裕一くんになら言っても」
「それはそうだけど……」
 堀はいまいち納得していないようだ。
「舞ね、高校に入ってはじめて『男性』を意識したんだって。別にまわりに男の人がいなかったわけじゃなくて、男性、女性ともに同じ『人』という感じでしか見ていなかったということなの。でも、高校に入学して今までにない感情が生まれたらしいの。つまり、『恋』の感情」
 中田は淡々と話す。俺はそれを黙って聞いた。
「人を好きになるって難しいのよね。はじめてだと余計に。告白して断られたらどうしよう、なんて行動する前から後ろ向きな考えを持ったりして。一度臆病になるとなかなかそこから抜け出せなくて。舞もそんな中にいるのよ」
 中田はフェンスから体を離した。
「裕一くん。正直に答えてほしいの。舞のこと、どう思ってるの?」
「……それは、同級生として? それとも……」
 それとも、のあとは自分では言えなかった。
「じゃあ、ひとつずつ。同級生としては?」
「すごいと思うよ」
「すごい?」
「頭はいいし明るいし。端から見ると完璧に見えるから」
「それは外見から見た第一印象ね。私もそう思うわ。じゃあ、次。ひとりの『女性』としては?」
「……好き、だよ」
「それは『ライク』の好き? それとも『ラブ』の好き?」
「正直言って、半々」
 これはウソだ。俺は今の自分の正直な気持ちを吐露することを恐れていた。別にふたりが信用できないわけではない。話したからなにかあるとも思えない。
 それでも、ダメだ。
「似た者同士なのね、裕一くんと舞は」
 俺は中田に心の内を見透かされたような気がした。
「雪乃ちゃん。もういいんじゃないかな」
「そうだね」
 ふたりはお互いに頷きあった。
「今日はごめんね。わざわざつきあわせちゃって」
「ううん、別に気にしてないよ」
「最後にひとつだけ」
「ん?」
「舞を、泣かせないでね」
 中田も堀も微笑んでいたが、そこには明らかに俺への無言の圧力があった。
「大丈夫。きっと、大丈夫」
 俺の答えにふたりはよりいっそうの笑みを浮かべた。
 ふたりはそのまま屋上をあとにした。
 ひとり屋上に残った俺は、深呼吸をして空を仰ぎ見た。
 梅雨の中休みとでも言うのだろう。もうすぐ夏を思わせる陽差しと、まだまだ湿気を含んだ風が吹き抜けていく。
 暑いわけではない。
 それでも手のひらには汗をかいていた。
 頭の中にはただひとつのことだけが浮かんでいた。
 恋。
 恋愛。
 恋する心。
 愛する心。
 人を想うこと。
 愛しいと想うこと。
 でも、俺にはそのどれも漠然としたものとしか、わからない。
 父さんや母さん、由紀子に良二、奈津子は好きだ。でも、それは家族として。
 従妹の紀子も好きだ。
 でも、それとは違う。
 それだけはわかる。
「わからないな……」
 ぼそっと呟いた。
 俺はカバンを持ち、部活に向かった。
 
 七月に入り、雨の日が続いている。
 梅雨だから仕方がないのだが、野球部にとってはどうにも悩ましい。
 毎日の練習は校舎内や体育館を使って行っている。
 うちの高校は私立ではあるが、室内練習場は持っていない。
 監督のふたりのお子さんにてるてる坊主を作ってもらって家と職員室に吊しているが、効き目はなかった。
 バッティング練習はどうにかなるが、守備練習はやはりグラウンドでないと無理だった。
 そんな中、俺はブルペンでピッチング練習をしていた。
 ブルペンはピッチャーズマウンドとホーム上には屋根がかけてあるので、雨でも支障はなかった。
「綾本。試しにスローカーブを投げてみろ」
「スローカーブですか?」
「そうだ」
 ブルペンには俺と功二、監督、先輩ピッチャーと一年のキャッチャー、それと一年のピッチャーがいた。
「まずは投げてみろ」
「はい」
 俺は監督に言われるままにスローカーブを投げた。
 スローカーブはストレートの速いピッチャーにとっては非常に武器になる。
「今度は普通のカーブ」
 カーブを投げる。
「木村」
「はい」
「どちらが有効だ?」
「そうですね、ストレートが走っていればどちらでもいけますし、スローカーブの威力は増します。ですが、ストレートの走りが悪い時はスローカーブは危険です」
「そうだな」
 功二の意見は至極もっとも。カーブのような球は、ストレートのような速い球と組み合わせることによって威力を増す。
「綾本。少しスローカーブの練習をしておけ。できるだけストレートと腕の振りを変えないようにしてな」
「はい」
 その日から俺のピッチングメニューに、スローカーブが加わった。
 俺の場合試合中の球種はたいていストレートにスライダー、カーブを混ぜて、決め球であるシュート。当然ストレートが一番多く、スライダー、カーブは少なめになる。
 それでも、最近の高校野球は速球に強いバッターが多くなり、落ちる球の需要が高くなっている。
 監督もそのことを考えて俺にスローカーブを投げさせようとしているのだろう。
 俺としてはもともとピッチャーではないから、監督の助言は素直に聞き入れている。
 雨が上がるとバッティングピッチャーとしてスローカーブの具合を見ながら投げた。
 それからの時間は本当にあっという間に過ぎていった。
 大会まであと一週間。
 抽選会があったが、うちの高校はシードのため初戦の相手は決まっていない。監督はどこが来てもいいように準備を怠らないようにと言った。
 そして、監督は練習メニューを今までのものから軽いものへと変えた。
 ここまで来たら実力云々というよりも、体調を整え、気力体力を充実させて試合に臨む方が結果もついてくるのだ。
 試合前にケガでもしたらシャレにもならない。
 結果、練習が軽くなり時間的に余裕が生まれた。
 だから、俺は約束を果たすことにした。
 結城との約束を。
 
 三
「結城さん」
「綾本くん……」
 なんとなく会話が続かない。
「今日、時間があるんだ」
「えっ、うん……」
 彼女は一瞬迷いの色を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「一緒に来て」
 彼女は、俺を連れて教室を出た。
 彼女はできるだけ人気のないところを探して校舎内を彷徨っていた。
 そして、辿り着いたのはやはり屋上だった。
 俺たちはベンチには座らず、フェンスに寄りかかっていた。
「今日は晴れたね」
「うん」
「もうすぐ梅雨も明けるのかな。だいぶ暑くなったし」
 他愛のない会話が、妙に違和感を感じさせた。
 今の雰囲気にそれはそぐわなかった。
「綾本くん」
 彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「あの時の質問、覚えてる?」
「質問?」
「私に、好きは人はいるのって聞いたこと。そして、いるって答えたこと」
「うん、覚えてるよ」
「それで、私の好きは人は──」
「待って」
「えっ?」
「それを言う前に、ひとつ聞いてほしいことがあるんだ」
 俺は彼女の言葉を遮った。
「質問は平等にしなくちゃね。だから、俺も言うよ。好きな人、いるんだ」
 一瞬、彼女の顔が強ばった。
「ありがとう。それを聞いて決心がついたわ」
 彼女はひとつ息を吐いた。
「私は、綾本くんが好き。高校に入学してはじめて見た時から、ずっと好き。大好きなの」
「結城さん……」
 彼女の瞳は、俺の姿を捉えていた。
「最初は見ているだけで幸せだったの。でも、次第に自分の中で綾本くんの存在が大きくなっていくのがわかった。不思議な感覚だった。今までに感じたことのない感覚。そして、一年が過ぎ今年も同じクラスになれたわ。今年こそ見ているだけはやめようと思ったけど……」
 彼女は少し淋しそうに微笑んだ。
「でも、結果は知っての通り。今までと変わらなかった。そんな時、修学旅行のクラス代表の話が出てきて、しかも私と綾本くんが選ばれた。でも、自分でも意外に冷静なのに驚いたの。あんなに好きな綾本くんと一緒に仕事ができるというのに。だけど、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、綾本くんは辞退するって言ったわ。その時は本当に焦った。だから一生懸命引き留めたの。この機会を逃したらあとはずっと今までと同じ、ただ見ているだけになるって思って。私ってひどいよね。自分のことだけを考えて」
「そんなことはないよ」
「ううん。今もそう。こう言えば綾本くんならそう言ってくれると思ったわ。でも、それは違うの。本当の私、ううん、どれが本当かどれがウソかはわからない。だから思ったの。それなら余計に自分の想いを伝えなくちゃって。受け入れてもらえるかはわからないけど」
 ひと呼吸置いて──
「綾本くん。私とつきあってください」
 そう言って彼女は頭を下げた。
「結城さん。頭を上げて」
 俺は極力優しく言った。
 そして、次の言葉は自分でも驚くほど自然に出てきた。
「俺は、結城舞が好きだ」
「……綾本くん」
「いつから好きになったのかはわからないけど、気が付いたら好きになってた。だから、今度は俺が言うよ」
 俺はさらに一呼吸置いて──
「俺とつきあってほしい」
 そうはっきりと言った。
 彼女の目には涙が溜まり──
「はい」
 返事と同時に頬を伝った。
「綾本くん……」
 俺は自然に彼女を抱き留めた。
 俺は女の子の涙が苦手だが、悲しいのに比べれば嬉しい時の涙はいいものだと再認識した。
 華奢な体を抱きしめ、綺麗な髪を撫でる。
 少し落ち着いた頃、俺はひとつの提案をした。
「これからは名字じゃなくて、名前で呼ぼうか?」
「うん」
 俺は確かめるように──
「舞ちゃん」
 彼女も──
「裕一くん」
 改めて言うと、思わず笑いがこみ上げてくる。
 まだまだ恋人初心者のふたり。
 季節も梅雨が明け、夏が来る。
 俺たちも季節のようにいい意味で変われるのだろうか?
 今はとりあえず変われたけど。
 そう、あくまでもとりあえず。
 本当の意味では、これからなのだ。
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