君と僕の形
 
 
修平視点
 
 充実した時間というものは、あっという間に過ぎる。
 それまでの僕にはわからなかったことだけど、今はそれが正しいと胸を張って言える。
 つまり、なにが言いたいのかというと、それだけ時間が経ったということだ。
「修ちゃ〜ん」
 部屋で本を読んでいたら、ドアの外から声がかかった。
「ちょっと開けてくれる?」
「待って」
 僕は本にしおりを挟み、ドアを開けるために立った。
「はいよ」
「ありがと」
 入ってきたのは、穂香姉さん。手にはお茶とお菓子の載ったお盆がある。
「瑞香〜、柚香〜、お茶にするわよ〜」
『は〜い』
 すぐに瑞香姉さんと柚香姉さんがやって来た。
「おっ、今日は修ちゃんの隣が空いて──」
「ないわよ」
 と、柚香姉さんが僕の隣に座ろうとすると、すぐに穂香姉さんが割って入った。
「私に勝とうだなんて、十年早いわよ、柚香」
「お姉ちゃんはいつもずるいのよ。たまには私にも譲ってくれてもいいじゃない」
「甘いわね。譲ってもらったことになんの意味があるっていうのよ。勝ち取ってこそ、意味があるんじゃないの」
「……なんか、いかにもみたいな言い方してるけど、ものすごく自己中で屁理屈」
「今日のお菓子は、新作なのよ」
「……さらっと無視してるし」
「はい、修ちゃん。コーヒーにはもうお砂糖とミルクが入ってるから」
「ありがとう」
 僕はカップを受け取り、一口飲んだ。
 いつの頃からか、姉弟全員が揃っている時には、こうしてお茶を飲むのが習慣になっていた。
 もともと喧嘩などとは無縁の姉弟だけど、さらに絆を深めるために穂香姉さんが提案して現在に至っている。
「はあ……美味しい……」
「ちょっとちょっと、お姉ちゃん。いちいち修ちゃんにくっつかない」
「いいじゃない、別に。修ちゃんだって嫌がってないんだから。ね?」
 僕はそれには答えずに、新作だという洋菓子に手を伸ばした。
「それに、この世の中で私のことを癒してくれるのは、修ちゃんだけなんだから、たまにこうやって充電しないとやっていけないわ」
「お姉ちゃんなんか充電しっぱなしで、逆に放電してるじゃない」
「うるさいわね。そういう細かいところをごちゃごちゃ言ってるから、修ちゃんに相手されないのよ」
「それは私のせいじゃなくて、お姉ちゃんが邪魔してるからでしょうが。お姉ちゃんがいない時は、ちゃんと修ちゃんも相手してくれてるもの」
「やれやれ、狭量な妹だことで」
「お姉ちゃんにだけは言われたくない」
 最近はこういうやり取りも少なくなってきているから、僕としては多少ハラハラしつつも、とても安心できる。
「はい、修ちゃん」
「ありがとう、瑞香姉さん」
「こら、瑞香。抜け駆けしない」
「抜け駆けなんてしてないわ。ただお菓子を渡しただけよ」
「むぅ……」
 本当に、姉さんたちは変わらない。
 
 あれからもう三年が経っていた。
 この三年間は、これまでの三年間とは明らかに違っていた。どう違っていたかというと、内容の濃さが違った。それまではただなんとなく淡々と過ごしていただけだったのに、この三年間はあらゆる意味で濃かった。
 そうなった一番の要因は、やはり彼女、いや、婚約者である奈々がいたからだ。
 振り返ってみれば振り回されっぱなしだった気もするけど、僕も楽しかったからそれでいい。
 なんてことを考えられるようになったのも、やはり奈々のおかげ。
 奈々がいなければ、それまでと同じ三年間だっただろう。
 僕と奈々は、無事に高校を卒業した。まあ、これが無事じゃなかったらいろいろ困ったけど。
 受験の方は、それこそ血のにじむような努力のおかげで、かろうじて奈々と同じ大学に合格できた。その一年間の成績の伸びは、先生や家族以上に僕が一番驚いた。
 それもこれも、最高の家庭教師がいてくれたから、なんだけど。
 大学では、僕は理工学部に入り、電子工学を専攻している。奈々は文学部に入り、国文学を専攻している。
 文系理系の違いがあって、講義も全然違うけど、それでも僕たちが一緒にいる時間を大切にした。
 よほど時間がズレない限りは、大学へも一緒に行ったし、帰りも一緒だった。
 サークルに入るとふたりきりの時間が減るからということで、サークルには入らなかった。
 だけど、ただ漫然と大学に通っているのももったいないということで、僕たちは揃ってアルバイトをはじめた。
 バイト先は、駅前にある個人経営の喫茶店。奈々の両親の友人が経営している店で、そこでいわば雑用として働いている。
 ふたり揃ってのシフトにしてもらい、でも、仕事中は仕事に集中してがんばっている。
 僕は元々不器用だったから慣れるまで時間がかかったけど、奈々はすぐに慣れて、僕にあれこれ教えられるほどだった。
 とにかく僕たちは一緒にいる時間を増やした。
 それはどちらかが言い出したことではない。僕も奈々も、そうすることが当然だと思っていたから、なんの問題もなかった。
 そんな僕らを見て、両方の家の家族は、様々な反応を見せてくれた。
 まずうちは、母さんがとにかく僕たちを応援してくれて、あらゆる便宜を図ってくれた。
 どんな理由があるのかは未だにわからないけど、素直に感謝している。
 父さんは相変わらず留守がちだから、特になにも言わない。ただ、奈々のことはもうひとりの娘のように可愛がってくれているから、特に問題はなかった。
 問題は三人の姉さんたちだった。
 姉さんたちは公然と奈々に僕を獲られたと言ってはばからない。半分以上本気で言っているから、余計にタチが悪い。
 それでも直接的な妨害をしてこなかっただけ、割り切れてるのかもしれない。
 もっとも、毎週三人の誰かしらがバイト先に来ては、無駄に時間を費やしているのは、どうかと思う。
 一方、奈々の方はといえば、百合恵さんと香奈恵さんは奈々のやることに関しては、ノータッチを貫いていた。どうやら、母娘の間でそういう話し合いが行われたようだ。
 高校の理事長でもあるお祖父さんたちは、カワイイ孫の様子を目を細めて見ている、という感じだった。奈々は末っ子だから、余計だったのかもしれない。
 奈々の方の問題は、やはりお父さんとお兄さんだ。
 溺愛していた奈々が、僕にばかり構うようになって、当初は結構我慢していたのだけど、そのうちにあれこれ策を弄すようになった。もっとも、父親や兄のやることなど母親や姉にはお見通しで、大事に至る前に退治されていた。
 どちらもそれなりにいろいろあるけど、おおむね僕たちのことは温かい目で見てくれていた。
 そういえば、僕と奈々が婚約した当初は、それはもういろいろあった。あ、いや、局所的に。
 具体的に言えば、穂香姉さんが卒倒して、瑞香姉さんが新興宗教に走りそうになって、柚香姉さんが桂見家へ乗り込もうとした。
 それはある程度予想していたから、あとは僕と奈々次第だった。なにをどう考えて婚約したか、ちゃんと説明して、最後には渋々ながら祝福してくれた。
 そうそう。この三年間で姉さんたちはどうなったかといえば、穂香姉さんは変わらずに仕事を続けている。今はチーフという立場で、後輩の指導やある程度の裁量も任されている。
 瑞香姉さんは、未だに大学院にいる。といっても、今は博士課程で以前より数段高度なことをやっている。どうも、そのままゼミに残って教授の手伝いを続けるようだ。まあ、その方が瑞香姉さんにはあってるから、いいと思う。
 柚香姉さんは大学を卒業し、今は地元の放送局に勤めている。といっても、アナウンサーなどの顔を見せたり声を聞かせたりする仕事ではない。ごく普通に受付嬢に収まっているから、不思議だ。
 以前ほど確実に時間は取れなくなっているから、たまに姉弟が揃った時は、できる限り一緒にいようとする。
 ただ、そのせいで奈々の機嫌がすこぶる悪くなるのだけど、それだけは勘弁してほしい。機嫌が悪くなる理由は、そういう日には奈々を呼ばないから、なのだけど。
 奈々と姉さんたちの関係は、実はそれほど問題はない。たまに過激になるけど、普段は和気藹々としている。もっとも、奈々と柚香姉さんはあの頃からまったく変わらず、すぐに一触即発の状態に陥るけど。
 今では奈々もすっかり家族の一員としてうちに迎えられている。
 本当の家族になるまでにはもう少し時間がかかるけど、それでも僕は、今がとても幸せだ。
 
「抜け駆けといえば、最近は誰ともしてない?」
 と、穂香姉さんが矛先を瑞香姉さんから僕へと向けた。
「してないって、なにを?」
「エッチ、セックス、性交渉。まあ、呼び方はどうでもいいけど」
「し、してないよ」
「本当に?」
「本当だよ」
 実の姉弟間で交わされる会話ではないのだけど、三年前に穂香姉さんと一線を越えてしまったあと、たまたま、本当に偶然にそれが瑞香姉さんと柚香姉さんの知るところとなってしまった。
 その結果、僕は家での安息の日々がなくなり、かなり強引にふたりの姉さんともしてしまうことになった。
 ふたりともはじめてを僕にあげられたって無邪気に喜んでいたけど、僕はとてもじゃないけどそんな心境にはなれなかった。
 奈々にはとても話せることではないし、さらに言えば、それはある意味では奈々を裏切ってるわけだ。だから、僕はとても心苦しかった。
 だけど、姉さんたちはそんなことお構いなく、それまで以上に僕に迫るようになり、そのほとんどはなんとか拒んでいるんだけど、どうしても無理な時もあって、結果的にその関係は未だに続いていた。
「じゃあ、今日は久しぶりにお姉ちゃんとしよっか?」
「ちょっと、穂香お姉ちゃん。それこそ抜け駆けって言うんじゃないの?」
「あら、ここで堂々と宣言してるんだから、抜け駆けにはならないでしょ?」
 とまあ、こういうやり取りもそれなりにある。
 奈々とつきあう前は、姉さんたちの僕に対する言動を曲解していたけど、今は愛情からなんだと理解している。まあ、しょっちゅう過激になりすぎるところが、玉に瑕だけど。
「あ、携帯が」
 と、そこで僕の携帯が鳴った。相手は──
「奈々からだ」
 奈々からだった。
 一斉に姉さんたちの視線が集まったけど、無視。
「もしもし」
『あ、修ちゃん。今、電話平気?』
「平気なような、平気じゃないような」
『ん? どういう意味……って、ああ、穂香さんたちが側にいるんだ』
 さすがは奈々。たったそれだけの情報でよく状況を正確に把握できてる。
『じゃあ、ついでだから、今から出てこられない? ちょっと用事が早めに終わっちゃってね、暇なの。ね、修ちゃん?』
 猫なで声で言われると、なかなか断りにくい。
 それに、どちらかといえば、今は姉さんたちよりも奈々と一緒にいた方がいいような気がする。今日の姉さんたちは、なにかしでかしそうな雰囲気があるから。
「とりあえず、交渉だけはしてみるよ。もし問題なければ、連絡するから」
『わかったわ。連絡、待ってるから』
 携帯を切ると、すぐに姉さんたちから質問が飛んできた。
「奈々ちゃん、なんの用だったの?」
 さて、どうするべきか。まともに話しても、絶対に認めてはくれないだろうし。
 かといって、下手な策を弄したところで、これまた意味はない。
 となると方法は限られてくる。
「用事が早く終わったから、会えないかって」
 まず、これは素直に答える。ここでウソをついても意味がないからだ。
「ふ〜ん……それで、修ちゃんはどうするつもりなの?」
 問題はここだ。ここでただ単に奈々に会いに行くなんて言えば、交渉決裂で、僕はこの部屋に軟禁されてしまう。
「どうしようかなって思ってるんだけど」
「そんなの無視無視。今日は、私たちを優先よ」
 柚香姉さんは、案の定聴く耳を持っていない。
「修ちゃんがどうしても、というならいいけど」
 瑞香姉さんは、許容してくれた。
「今日は、こうしてみんなでいるわけだから、僕だけというのはどうかと思うんだけど」
「奈々ちゃんも放ってはおけない、と」
「うん、だからね、今日は奈々もこの場に呼ぼうと思うんだけど、どうかな?」
 僕が出て行くのがダメなら、奈々に来てもらえばいい。
 もちろん、双方ともに不満はあるだろうけど、それが一番無難で安全だ。
 姉さんたちも、そういう妥協案を出せば、あからさまに反対はしないだろう。あ、柚香姉さんは除いて。
「まあ、それもしょうがないか。いいわよ、今日は特別」
 というわけで、僕は奈々に事の次第を説明し、家に来てもらうことにした。
 で、三十分後──
「修ちゃ〜ん」
 奈々は、意気揚々とやって来た。
「いらっしゃい、奈々」
「おじゃまします」
 靴を脱ぎ、上がりに上がるとすぐに僕に抱きついてきた。
「ん、修ちゃんの匂い……」
 奈々は、この三年間でますますその美貌に磨きがかかった。街を歩いていると、たいていの男性は振り返る。
 最近は年相応に落ち着いた雰囲気も出てきて、大人の女性の色っぽさ、艶っぽさも出てきた。
「やっぱり修ちゃんの側にいる時が、一番落ち着ける」
「こらこらこら、そこの小娘。さっさと離れる」
 と、いつの間にか姉さんたちが階段からこっちを見ていた。
「イヤですよ。せっかく時間ができて修ちゃんと一緒にいられるんですから、目一杯楽しまないと」
 奈々は、ますますしっかりと抱きついてくる。
「修ちゃんも、イヤならイヤって言わないとダメよ」
「イヤ、なの?」
「ううぅ……」
 以前よりは確実に女性に対する免疫はついたけど、こういうやり取りは未だに苦手だ。
 特に相手が奈々と姉さんたちなら。
「もう、そこは婚約者である私の味方をするところでしょうが」
「違うわよ。姉である私の言うことを聞くのが当然なの」
 どっちもどっちだな。
 そんなやり取りをしつつ、部屋に移動。
 部屋での奈々の指定席は、僕の隣と決まっている。なにをする時でもそれは同じで、普通にしている時に奈々を正面から見ることは少ない。
「こら、そこ、教育的指導よ」
 そんな奈々のやることにいちいち反応してしまうのが、うちの姉さんたちだ。
 かれこれ三年もそういうことを続けてきているから、双方ともにある意味では慣れているところがあった。
 でも、たまに本気モードになることがあり、その時は僕は被害が及ばないように避難する。
 奈々も、ずっと姉さんたちの相手をしてきたから、ちょっとやそっとのことではへこたれなくなった。このあたりは喜ぶべきなのかどうか、判断が難しい。
「今日はなにしてたの?」
「なにって、いつも通りだよ」
「そっか。また可哀想な一日を送ってたのね」
「可哀想ってなによ、可哀想って」
「率直な感想ですよ」
「この小娘はまったく……」
 こういう小競り合いを時折交えながら、それでもひどいことにはならない。
 このあたりは、三年間でいろいろ学んできた成果かもしれない。
「そういえば、修ちゃん。今年の夏は、どうするの?」
「ああ、そういえば、もうそんな時期だね」
 奈々とつきあうようになって、最初の夏は受験勉強の毎日で、ろくに楽しめなかった。
 大学に入ってからの二年間は、バイトをしつつも、あちこち行くようになった。
 去年はバイト代を使って、短期間ながらふたりきりで旅行にも出かけた。
「来年は私も修ちゃんもそこまで時間は取れないだろうから、今年はその分もしっかり楽しまないとね」
 来年は、運が悪ければ夏まで就職活動があるだろうし、内定が出ていても僕は卒業研究、奈々は卒業論文がある。夏休み中にしっかり準備しておかないと、期日までに終わらなくなる。それを考えると、来年は今年ほどは時間は取れない。
「で、楽しむためにはそれなりの準備が必要だから。今すぐに決める必要はないけど、こうしたい、あれしたい、とかいうのはある?」
「僕は特には。奈々は?」
「私は、去年みたいに旅行に行ければいいなって思ってたんだ。ふたりきりで」
 妙にふたりきりというところを強調して言う。
 まあ、ようするに姉さんたちに対する当てつけなんだろうけど。
 その姉さんたちは、とりあえず様子を伺ってる。
「じゃあ、今年もどこかへ旅行ということを第一目標として、計画を立ててみようか」
「そうね」
 僕たちの財力と時間では、それほど遠いところへは行けない。
 去年は、海に行きたいという奈々の希望を聞いて、房総半島まで行った。ホテルなんて立派なところには泊まらず、民宿に泊まった。別に長期間逗留するわけじゃないから、それで十分だった。
 今年もそういう風に考えれば、すんなり決まるかもしれない。
「むぅ、修ちゃん。お姉ちゃんとはどこも行ってくれないの?」
 と、それまで様子を伺っていた穂香姉さんが、そんなことを口走った。
「どこもって、姉さんは毎年夏は忙しいじゃないか。夏休みだって、時期を外さないと取れないし」
「それはそれよ。いざとなったら、有休という奥の手だってあるんだから」
 弟との旅行のために、そんなものを使わないでほしい。
「修ちゃんとなら、どこへでも行くわよ」
 穂香姉さんの場合は、それが冗談じゃないところがやっかいだ。
 だけど、ここでただ拒否しても、絶対に納得しない。こっちもある程度の妥協が必要だ。
「姉さんとは、そのうちに、ということで」
「約束よ? 約束破ったらひどいんだから」
 これくらいはしょうがないだろう。ただ、問題は瑞香姉さんと柚香姉さんだけど。
「修ちゃん。まさか、お姉ちゃんだけ特別扱いしないわよね?」
「そうだよ、修ちゃん。穂香お姉ちゃんだけ特別なんて、ずるい」
 ほら、こうなる。
 本当にうちの姉さんたちは、こういう時だけ子供っぽくなるんだから。
 普段は三人とも年相応に大人の女性をやってるのに。今の姿を見たら、百年の恋も冷めるよな、確実に。
 だけど、これがいつもの光景とも言える。
 以前に比べればこういうやり取りの回数も減ったし、たまにこういうのを見ないと、なんとなく調子が狂う。
「じゃあ、こうしましょう。私たち三人はローテーションということで」
「ローテーションかぁ。まあ、しょうがないか」
「修ちゃんと一緒なら、なんでもいい」
 本当に、この姉さんたちの極度のブラコンは、もう死ぬまで直らないだろうな。
「というわけで、奈々ちゃん。そういう風に決まったから」
「なにがというわけなんですか。私はそんなの認めませんよ。そんな、穂香さんたちと行く余裕があるなら、それを全部私とにしてもらいます」
「独り占めはよくないわ」
「いいんです。独り占めできるのは、彼女であり婚約者の特権なんですから」
「それこそそれは認められないわ。それに、彼女だからってなんでも許されるという考えはおかしい。それに、その理論は自分の彼氏にどれだけ近いかで考えてるんだろうけど、それなら私だって姉という立場なんだから、とても近いわ。だから、私も独り占めできるということよ」
「屁理屈じゃないですか、それは」
 たまに穂香姉さんともこうして衝突する。
 ふたりとも自己主張が激しいから、ある意味ではしょうがないんだけど。もう少しなんとかならないものかと、ずっと思っている。
 と──
「お姉ちゃんも奈々ちゃんも、勝手だよね。修ちゃんの意志を無視して」
 いつの間にか瑞香姉さんがすぐ側まで来ていた。本当にいつの間に移動してきたんだろう。
「ね、修ちゃん」
「ちょ、ね、姉さん」
 で、有無を言わさず姉さんの胸に抱きしめられた。
 そんな意図はまったくなかったんだけど、結果的にはそれぞれの実物をこの目で見ているから、この四人の中で瑞香姉さんの胸が一番大きい。
 だから、抱きしめられるととても気持ちいいんだけど、そんな悠長なことは言ってられない。
「ちょっと、瑞香。抜け駆けはよくないわ」
「そうですよ。修ちゃんを抱きしめていいのは私だけなんですから」
「それは違うけど」
 いつものことながら、こういうやり取りがコントみたいに思えてくる。
 それだけ平和だってことだ。
 嫌味じゃなくて、本当にずっとこういう日が続けばいいのに。
 
奈々恵視点
 
「ん……」
 目を開けると、カーテンの隙間から陽が漏れていた。
「もう朝か……」
 軽く目を擦り、伸びをする。
 枕元にある時計に目をやると、起きる時間にはまだ少しばかり早かった。
 隣を見ると、修ちゃんがまだ気持ちよさそうに眠っている。
「ふふっ」
 いつも思うんだけど、寝顔は男性でもカワイイ。
 こう胸がキュンとなるくらい、カワイイ。
「修ちゃん、朝よ。そろそろ起きて」
 ちょっと早いけど、起こしちゃおう。そんなに時間があるわけでもないし、少し早い方がゆっくりできるから。
「修ちゃん」
「ん……ん……」
「朝よ、修ちゃん」
「……おはよう、奈々」
「おはよ、修ちゃん」
 私は修ちゃんにキスをした。
「今日もいい天気みたいよ」
「雨じゃなければいいよ」
「んもう、ひねくれたこと言わないの」
 ホント、素直じゃないんだから。
「あれ、今日はいつもより早いんじゃない?」
「早くに目が覚めちゃったから。それに、早く起きれば、ゆっくりできるでしょ?」
「ゆっくり、ね」
 修ちゃんは苦笑した。
「むぅ、そんな顔しないの。別に他意はないんだから」
「わかってるよ」
 以前はこんな風にあしらわれることはなかったのに、今ではあしらい方を覚えてしまって、やりにくいこともある。
 でも、それだけ私と修ちゃんの距離が縮まり、それだけ一緒にいた時間が多かったということだから、文句も言えない。
「まあでも、他意はないけど、少しくらい下心はあるかも」
 そう言って私は修ちゃんに抱きついた。
「昨夜あれだけしたのに、まだ足りないの?」
「修ちゃんとだからでしょ。じゃなかったら、そんなこと思わないもの」
「それは嬉しいけど」
「だったら、文句言わないの」
「でも、さすがに朝からはやめない? そこまで時間があるわけじゃないし」
「ん〜、その分今日の夜に可愛がってくれるなら、やめるけど」
「……それでいいよ」
「あはっ、ありがと、修ちゃん」
 そこまでのつもりはなかったけど、結果的によかったかも。
 それに、そういうことを言えたりやれたりできるのは、夫婦の特権なんだから。
 
 私と修ちゃんが結婚したのは、大学を卒業してすぐのこと。
 今だから言うんだけど、私は本当はもっと早くに結婚したかった。だけど、ふたりとも学生だったことと、結婚してもふたりだけで生活するのは難しいということで、卒業するまで待つことになった。
 だから、結婚式を挙げた時は、本当に嬉しかった。
 なんといっても、婚約から五年も経っていたわけだから、その感慨もひとしお。
 大学卒業後は、修ちゃんは大手電機メーカーにエンジニアとして就職、私は学習塾で講師をしていた。
 最初の子供は、結婚したその年に生まれた。
 これがまた大変だった。なぜかといえば、その子供が双子だったからだ。
 はじめての子供だから育てるのも大変なのに、それがふたりになったわけ。その大変さも倍増してしまった。
 でも、その大変さはとても充実したものだった。
 修ちゃんも仕事が忙しい中、できる限りのことをしてくれた。
 そのおかげか、ふたりともすくすく成長してくれた。
 そうそう、そのふたりの子供だけど、ふたりとも女の子。長女の陽菜、次女の秋菜。
 今年で九歳になる。そろそろいろいろなことを覚えてきて、日に日に生意気になってきてるけど、カワイイ娘たちには違わない。
 陽菜と秋菜が生まれた三年後、三人目の子供が生まれた。この子は男の子で、宗平と名付けた。ちょっと古い感じの名前だけど、修ちゃんが修平だから、そこから一文字とってそうなった。
 宗平はとてもおとなしい子で、手のかからない子だった。
 まあ、それはたぶん、姉ふたりの影響も大きいのかもしれない。
 陽菜と秋菜はとても活発な子で、女の子なのに家で遊ぶよりも外で遊ぶ方が好きな子。そんな様子をいつも見ていて、しかもかなりの確率で巻き込まれていた宗平は、自然とおとなしい子になってしまった。
 今年から小学校に入り、少しは社交的になってくれればと思うけど、どうなることか。
 で、実は子供は三人だけじゃない。宗平が生まれた三年後にもうひとり生まれた。
 それが三女の雪菜。雪の降る日に生まれたから雪菜になった。
 今のところは上の三人から変な影響は受けていないけど、これからどうなるかはわからない。まだ三歳だからこれからだ。
 そんなわけで、うちは私たち夫婦と四人の子供という六人家族である。
 六人もいると賑やかではあるんだけど、生活する上では大変なことも多い。
 家もあまり狭いと問題だし、子供にはたくさんお金もかかる。そのあたりで常にがんばってくれているのが、修ちゃんだ。
 修ちゃんは仕事がとてもあっていたらしく、会社でもメキメキ頭角を現し、今では同年代の稼ぎ頭になっている。
 たぶん、うちはほかの家より少しだけ裕福だと思う。それもこれも、全部修ちゃんのおかげ。
 ただ、そんな状況をあまり快く思っていないのが、修ちゃんの三人のお姉さんたち。ま、私の義理のお姉さんでもあるんだけど。
 どうして快く思ってないかというと、ようするに修ちゃんに頼りにされたいから。それまでずっとそういう風に生活してきたから、そうであるのが当然だと思っていた。
 ところが、修ちゃんが思いの外頼れる存在になってしまったがために、出番がほとんどなくなってしまったのだ。それがブラコンの三人にとっては面白くなかった。
 もちろん、そのことをあからさまに言ったりはしていない。そこまで大人げないことをしては、自分たちが虚しくなるから。
 その三人だけど、予想通り、三人とも結婚していない。
 穂香さんは百ーパーセントあり得ないと思っていたけど、瑞香さんも柚香さんもそうなっている。それだけ修ちゃんに対する想いが強いということなんだけど、ちょっと度が過ぎてる気も、しないでもない。
 三人は今でもしょっちゅううちに来る。たいていは修ちゃんがいる時なんだけど、そうじゃない時もある。その時は四人の子供にあることないことを吹き込んでいく。
 それだけはやめてほしいんだけど、言っても聞く人たちじゃないから、あきらめてる。
 そんな三人、特に穂香さんに憧れてるのが、陽菜と秋菜だ。どうも、すっかり感化されてしまったようで、母親である私の言うことよりも、穂香さんの言うことをよく聞く。
 ただ、穂香さんの影響が強いせいで、修ちゃんの言うこともちゃんと聞く。私はそれを利用してふたりになんとか言うことを聞かせている。
 なにはともあれ、私は今、とても幸せだ。世界で一番大切な旦那さまと、カワイイ子供たちに囲まれているんだから。
 
「ねえ、ママぁ。今日はパパ、何時に帰ってくるの?」
「ん、今日は少し遅くなるって言ってたわよ」
「そっかぁ」
「なにか用があったの?」
「ん、今日のテストで百点とったの。だから、パパに褒めてもらおうと思って」
 陽菜はそう言って笑った。
「秋菜はテストはなかったの?」
「うちのクラスはなかったよ」
 陽菜と秋菜は、双子ということでクラスは別々にされている。だから、小学校のようにいつテストをやるか決まっていないところでは、こういうことがある。
 とはいえ、今のところはふたりとも勉強はできているので、百点じゃない方が少ない。その度に修ちゃんに褒めてもらい、逆に言えば褒めてもらいたいから百点をとってるんじゃないかって思えるほどだ。
「でも、はるちゃんのクラスであったなら、うちもすぐにあると思うけど」
「じゃあ、その時は陽菜に負けないようにがんばらないといけないわね」
「うん」
 陽菜と秋菜は、双子ではあるけどその行動パターンには違うところも多い。
 一卵性だから基本的にはよく似ているけど、ふたりが意識的に変えようとしてるらしい。
「だけど、ふたりともどうしてそこまでパパに褒めてもらいたいの?」
「どうしてって言われても困るけど」
「怒られるより褒められる方が嬉しいから」
「それはわかるけど、でも、かなりこだわりが強いから不思議に思ってるのよ」
「ん〜、それはやっぱりパパだからかな。パパはいつも優しいけど、褒めてくれる時はいつも以上に優しいから」
「うんうん、それはある。パパに褒められると、またがんばろうって思えるの」
「そんなにパパがいい?」
「うん。パパ大好き」
 私の娘だからなのか、陽菜も秋菜も修ちゃんのことが大好きだ。
 それを助長してるのが穂香さんたちなんだけど、それがなかったとしても、それほど変わってなかったと思ってる。
 これから先、成長するに従ってどうなるかはわからないけど、少なくとも小学生の間はそれが続くと思う。それくらい筋金入りだ。
「ママぁ」
「ん、どうしたの、雪菜?」
 と、雪菜がやって来た。
「おなかすいたぁ」
「そう? じゃあ、夕飯の準備をしちゃうわね」
 今のところ雪菜は私にも修ちゃんにも同じように接してる。だけど、それもいつまで続くか。
 きっと陽菜や秋菜、それに穂香さんたちが余計なことを吹き込んでしまうに違いない。
 できるだけそれを軽減したいけど、さて、どうなることやら。
 世の中の母親って、こういうことも心配してるのかな?
 
 ある日の昼下がり。
 一年生で授業が早く終わる宗平が家に帰ってきたすぐあとに、穂香さんがやって来た。
「はい。宗ちゃんと雪ちゃんにおみやげ」
「ありがとうございます」
 穂香さんは今でも旅行代理店に勤めている。
 今は役職も与えられ、立派な管理職だ。以前ほど表に出てはいないようだけど、それでも本人はとても社交的なので、できる限り続けていたいようだ。
 年齢的にはそろそろ難しいあたりに突入してくるのだけど、努力の成果か、実年齢よりもずっと若く見られることが多いらしい。
「それで、今日はどうしたんですか? 修ちゃんなら、夜まで帰ってきませんよ」
「別にいつもいつも修ちゃんに会うためだけに来てるわけじゃないわ。カワイイ甥っ子や姪っ子に会うのも楽しみで来てるんだから」
 それは事実だろうけど、どうもすんなりとは受け入れにくい。
「陽ちゃんと秋ちゃんはまだ学校か」
「ええ。宗平は一年なんで、早いんです」
「朝は三人揃って学校に行ってるのに、帰りはバラバラで、淋しがったりしてない?」
「さあ、どうですかね。三人とも特になにも言ってませんけど」
 四人の子供たちはそれぞれに仲が良いけど、誰かが誰かに特別依存してるようなことはない。
 雪菜は末っ子だから上の三人には甘えているけど、それは末っ子だからだろう。
 宗平は姉ふたりのパワフルさに多少気後れしてるところはあるけど、だからといってそれが歪んだ感情を生み出すようなことはない。
 陽菜と秋菜は、下のふたりを可愛がってはいるけど、今はまだ修ちゃんにご執心だから、特に問題はない。
「私は、修ちゃんと一緒に学校に行きたくて、仕方がなかったわ。でも、年が離れていたせいでそれもかなわなくて。だから、陽ちゃんたちが羨ましい」
 穂香さんならそうかもしれないけど、普通はそこまで思わないはず。
 私だってふたりの兄と姉とそこまで一緒にいたいとは思ってなかった。
「それにしても、奈々ちゃんもすっかりお母さんになっちゃったわね」
「どういう意味ですか、それ?」
「別に悪い意味で言ってるわけじゃないわ。なんとなく、奈々ちゃんからお母さんて遠いイメージがあったから」
「そんなにそういうイメージなかったですか?」
「うん、なかったわね。奈々ちゃんて年齢不相応に綺麗だったから、そういうのが全然想像できなかった」
 それはちょっとだけショックだ。
 私の夢は、大好きな人のお嫁さんだった。それはつまり、ひいては母親になるということだ。その私に母親のイメージがないというのは、やっぱりショックだ。
「でも、今はちゃんとお母さんやれてるから、ついそう思っただけ」
「それはどうも」
 私から見れば、穂香さんだってそういうイメージがない。それを言えば水掛け論になりそうだから言わないけど。
「そういえば、もうこれ以上は予定はないの?」
「予定って、なんのですか?」
「子供よ、子供。雪ちゃんが生まれて三年でしょ? だから、もしもうひとりとか考えてるなら、そろそろかなって」
「そうですね。まだ修ちゃんとちゃんとは話してませんけど、私はもうひとりくらいいてもいいかな、とは思ってます」
「そうなんだ」
「ただ、増えれば増えた分だけ苦労も増えますから。その分の喜びもありますけど、それを上手く相殺できるかどうか」
「難しい問題ね」
 修ちゃんとは今でも週に何度もしてるけど、それは子作りのためではない。さすがに無計画にはできないから、私たちの間で最初に決めごとを作った。
 まず、私がとにかく子供がほしかったから、結婚が決まっていた年にあわせて最初の子供を。それからあとは、基本的には三年の間を開けると。
 私たちはそれを忠実に守り、子供たちはそれぞれ三つ年が離れている。
 ただ、何人ほしいというのは決めていないので、これは改めて決めなくてはいけない。
「穂香さんはどうなんですか」
「ん、なにが?」
「結婚ですよ、結婚。このまま報われない想いを抱き続けるよりも、別の幸せを探した方がいいんじゃないですか?」
「余計なお世話よ。それに、私は報われてないとは思ってないもの。私の想いは、ちゃんと修ちゃんに届いてるから」
 それは、ある意味間違ってない。
 私たちは結婚する時に、隠し事はいっさいしないようにしようと、それまでお互いに話していなかったことをすべて話した。
 そして、修ちゃんは私に穂香さんたちと関係があったことを話してくれた。
 正直、かなりのショックだった。修ちゃんをそれだけ信じていたということだけど、それ以上に穂香さんたちの想いが強かったことを見抜けなかった自分にもだ。
 ただ、唯一の救いがそのすべてが修ちゃんからではなかったということ。もしひとりでも修ちゃんから求めていたら、冗談ではなくその場で修ちゃんを刺して、私も後を追っていたかもしれない。
 結婚後は私がさらに目を光らせていたから、そういうことはなかったはず。
 いずれにしても、穂香さんの想いは、確実に修ちゃんに届いている。
「あと、今更かもしれないけど、私にとっては修ちゃん以外の男なんてどうでもいいの。この世界に修ちゃんとふたりだけでも後悔しないわ」
「そんなこと、わかってますよ」
「だったらいいの」
 結婚する前からそうだったけど、結婚してからはますますこういうやり取りが多くなった。お互いに引けないところがあるから、どうしてもこういう感じになってしまう。
「ママぁ」
 と、そこへ雪菜がやって来た。
「どうしたの?」
「おそとであそぶの」
 雪菜は私の足をペチペチ叩きながら言う。
「わかったわ。じゃあ、お外で遊ぶ準備をしてきなさい」
「うん」
 遊びたい盛りの雪菜は、陽菜や秋菜と同様に、今のところは外で遊ぶ方が好きなようだ。
「穂香さんはどうします?」
「迷惑じゃなければ、一緒に行こうかしら」
「ええ、いいですよ」
 それから、宗平ひとりを家に残しておくわけにはいかなかったので、宗平も連れて外へ出た。
 雪菜は、お気に入りのおもちゃのバケツとシャベルを振り回して、上機嫌で歩いている。
 一方宗平は、あまり乗り気ではない顔で、なんとなくついてきている。
「雪ちゃんは、陽ちゃんや秋ちゃんみたいに、活発な女の子になるかしら」
「さあ、どうですかね。今のところはどちらとも言えません」
「陽ちゃんたちと遊ぶ時は外で、宗ちゃんと遊ぶ時は家の中だからね。普通は逆だと思うけど、本当に不思議な姉弟よね」
 それは私もそう思うけど、実際そうなのだから仕方がない。
「でも、姉弟仲はとてもいいのよね」
「今のところは、ですけどね。このまま特に問題なく、姉弟仲もいいままに成長してくれればいいんですけど」
 でも、実際のところ、それは難しいと思ってる。
 なぜかといえば、それは性格の問題だ。陽菜と秋菜は活発的で、うじうじしない性格。宗平はまだはっきりとは言えないけど、とても内向的な性格。この三人の関係だけでも、将来微妙になるのは目に見えている。
 言うなれば、かつての修ちゃんと穂香さんたちみたいなものだ。もちろん、修ちゃんたちとは状況が全然違うから、陽菜たちが極端なブラコンになるとは思えないけど。
 それに、今のふたりにとっては、宗平よりも修ちゃんにご執心だから。
「まあ、四人の中で問題なのは、やっぱり宗ちゃんかしら」
「ええ。個性の強い上ふたりに負けなければいいんですけど」
 個性が強い上に、双子だからなにをするにしても二倍になる。それがどう影響するか。
 母親としては、見守るしかない。
 しばらくして、いつも雪菜を遊ばせている近所の公園へとやって来た。
 この公園はそこそこの広さがあり、遊具も充実している。だから、近所の子供持つ親にとっては、メッカのような場所だった。
 私もここで知り合った主婦仲間が何人もいる。
 今日も何人か顔見知りがいる。
「ほら、雪菜。気をつけて遊ぶのよ」
「うんっ」
 雪菜は、そのまま砂場へ駆け込んだ。
「宗平はいいの?」
「うん、いい」
 本当にこういうのが苦手な子なんだから。
「宗ちゃんを見てると、小さい頃の修ちゃんを見てるみたい。修ちゃんは体が弱かったから余計だったけど、状況的にはそう変わらないわ」
「宗平は、どうも修ちゃんに似てるみたいですからね。そういうところも似てるのかもしれません」
「そうね。でも、そうすると陽ちゃんと秋ちゃんは黙ってないと思うわよ。これは経験者が言うんだから、間違いないわ。今はそこまでじゃないと思うけど、少しずつ宗ちゃんのことを守らなくちゃ、なんとかしなくちゃって思うようになるの。それがブラコンのはじまり」
 陽菜と秋菜がそうなるかどうかはわからないけど、そうなる可能性は否定できない。
 穂香さんの言うように、宗平はとても危なっかしいから、守ってあげたくなるというのはよくわかる。私は母親だから当然だけど、宗平の姉であるあのふたりも、次第にそういう想いが芽生えてくるかもしれない。
「ね、宗ちゃん。宗ちゃんは、お姉ちゃんたちのこと、好き?」
「ん〜、うん、すき」
 宗平は、持ってきていたおもちゃをいじりながら、そう答えた。
「そっか、好きなんだ」
 穂香さんはそれが嬉しかったのか、宗平の頭をしきりに撫でている。
「ね、奈々ちゃん」
「なんですか?」
「宗ちゃん、私にちょうだい」
「ダメです」
「ええーっ、なんでぇ? いいじゃない。けちけちしないでさぁ」
「どうして息子を好奇心を満たすためだけに、差し出さなくちゃいけないんですか。そんなのあり得ません」
 なにを言うかと思えば、世迷い言を。
「宗ちゃんカワイイから、今から私好みに染めようかと思って」
「なおのこと悪いです。そんなことされたら、お天道様の下を歩けなくなるじゃないですか」
「……あのね、私のことなんだと思ってるの?」
「ん〜、幼児に対して欲求を満たそうとする変質者?」
「そんなわけあるかっ」
「でも、さっきの言い草はそんな感じでしたよ?」
「まあ、それはそれよ。だけど、私は変質者じゃないわ」
「そうですね。変質者じゃないけど、変わり者ではありますね」
「……あのね、奈々ちゃん。私に恨みでもあるの?」
「恨みですか? ええ、ありますよ。少なくとも、片手では数え切れないくらいはありますね」
「…………」
「一番の恨みはやっぱり、修ちゃんに手を出したことです。実の姉弟なんですから、どんなにそうなりたいと思っていても、我慢しなくちゃいけなかったんです」
「あれは、確かに私が修ちゃんを焚きつけて迫った関係だけど、それを拒まなかったのは、修ちゃんなのよ。だから、私だけに言われても困るわ」
 それはわかってる。それにもう割り切ってる問題。
 それを今更どうこう言うつもりはない。ただ、なんとなくその場の勢いで言ってしまっただけ。
「まあ、それはそれとして、とにかく、宗平のことは冗談でも言わないでください。あまり余計なことを言ってると、修ちゃんの耳に届きますからね」
「はいはい。わかったわよ」
 穂香さんも、普通にしててくれたら、とてもいい『お義姉さん』なのに。
「それよりさ──」
「あ、すみません」
 と、そこで私の携帯が鳴った。相手は、修ちゃんだった。
「あ、もしもし、修ちゃん?」
『奈々。今、大丈夫?』
「うん、平気。どうしたの、こんな時間に?」
 今はまだ、普通に就業時間だ。
『いや、実は前々から申請していた長期休暇が、やっと取れそうなんだ』
「ホント?」
『まだ具体的にいつ頃になるかはわからないけど、極力こっちの意見を聞いてもらえそうだから、奈々にも伝えておこうと思って』
「そっか」
 修ちゃんはとっても真面目だから、人より何倍も仕事をこなしてても、文句ひとつ言わない。それどころか、本来は取ってもいいはずの有休も、子供たちの特別な時くらいにしか使わない。
 長期休暇もそう。会社で決められた休み以上は基本的に休まなかった。
 だからというわけでもないけど、私は以前、そこまで仕事をしている見返りに長期休暇を申請したら、と提案した。修ちゃんもそれには同意してくれて、申請だけは済ませていた。
 でも、修ちゃんは今や会社にいるエンジニアの要の存在になっているので、そう簡単には長期休暇はもらえなかった。
 その間も真面目に仕事をこなし、そして今回、ようやく認められたようだ。
『陽菜たちのこともあるから、よく考えて決めないといけないからね』
「うん、そうだね。じゃあ、私の方でも少し考えてみるわ」
『そうしてくれると助かるよ。僕も、できる限り協力するから』
 忙しい修ちゃんに代わって、たいていこういうことは私が決めている。だから、今回も同じだ。
「修ちゃん、いつもがんばってるから、上の人たちも認めてくれたんだね」
『そうだといいけど。僕がうるさく言うのがイヤだから、その口封じかも』
「それならそれでいいのよ。こっちは正当な主張をしてるわけなんだから」
『そうだね』
「あ、そうだ。修ちゃん」
『ん?』
「今日は、早く帰れそう?」
『そうだなぁ……今の状況なら、特にトラブルが起きなければ少し早めに帰れると思うけど』
「うん、わかった。今日は、修ちゃんの好きなものを作って待ってるね」
『ありがとう』
 携帯を切ると、自然と笑みがこぼれた。
「修ちゃん、なんだって?」
「休みが取れそうということで、先に連絡してくれたんです」
「そうなんだ。修ちゃん真面目だから、本当はもっともっと休んでもいいはずなのに、コツコツ仕事して。ようやく本人も休もうという気になったのね」
「ええ」
 今からなら、夏休みに長期休暇、という可能性もあるかもしれない。そうなれば、陽菜たちを無理に休ませる必要もなく、どこへでも行ける。
「具体的には、どれくらい休めそうなの?」
「そこまでは聞いてませんけど、以前の話だと二週間くらいは大丈夫じゃないかって。もし通常の夏休みとあわせて取れれば、三週間から一ヶ月弱くらい取れるかもしれません」
「それだけあれば、本当にどこにでも行けるし、なんでもできるわね」
 もちろん、まだ夏に取れると決まったわけじゃないけど、どうしてもいい方へ物事を考えてしまう。
「海外旅行なんてのもいいんじゃない? ふたりが海外行ったのって、新婚旅行の時だけでしょ?」
「ええ、そうです」
 新婚旅行は、ふたりの意見が合致して、シンガポールとバリ島へ行った。
 あの旅行は今でも昨日のように思い出せる。ふたりどこへ行っても一緒で、なにをしても楽しかった。もちろん、より親密度も増したし。
 ただ、新婚旅行以降は、海外へは一度も行っていない。機会がなかったわけじゃないけど、その都度子供たちが小さかったから、いろいろことを考慮して旅行は国内に限定していた。
「ま、どこへ行くにしても、私が最高の旅行になるように手配してあげるわ」
 うちの旅行は、すべて穂香さんに手配を任せている。それが本業だから本人も特に異論はなく、むしろ普段の仕事よりも気合いが入っているかもしれない。
「ママぁ。おだんごぉ」
 と、砂場から手や膝を砂だらけにした雪菜が駆けてきた。手に砂団子を持っている。
「上手にできたわね。ありがとう」
「んふふ」
 雪菜は嬉しそうに笑い、また砂場に戻った。
「雪ちゃんて、末っ子で甘えん坊ではあるけど、特別人見知りしたりはしないのよね。はじめての子でも物怖じしないで話しかけるし」
「そうですね。同じ三歳の頃で考えると、雪菜が一番度胸があると思います」
 陽菜と秋菜は、今でこそある意味『ガキ大将』のような感じだけど、三歳の頃はお互いに対する意識が強すぎて、他人とはなかなかうち解けられなかった。
「意外と、雪ちゃんが一番の大物になったりしてね」
 そうなるかどうかはわからないけど、そうなってくれたならそれはそれで嬉しい。
 どんな状況、どんな理由であろうとも、自分の子供が結果を残してくれるのだから。
「宗ちゃんも、雪ちゃんに負けないように、がんばらないとね」
 穂香さんは、そう言って宗平の頭を撫でた。
 
 その日の夜。
「パパ、パパ」
「パパ、お休み取れるの?」
 修ちゃんが帰ってくるなり、陽菜と秋菜は修ちゃんに取りついて離れない。
「ん、そうだね。なんとか取れそうだよ」
「それって、夏休み?」
「それとも、全然違う時?」
「詳しいことはまだちゃんとは決まってないんだ。でも、できるだけみんなと一緒に休めるようにはするから」
「ホント?」
「約束だよ?」
「ああ、約束だ」
「やった」
「パパ、大好き」
 ふたりに抱きつかれ、修ちゃんは目を細めている。
「ふたりは、どこか行きたいところはあるのかい?」
「ん〜、海で泳ぎたい」
「あ、わたしもわたしも」
「海か」
 どうも、陽菜と秋菜の中では夏休みを前提にあれこれ考えているようだ。
「海だと、やっぱり夏休みがいいか」
「うん。だから、ちゃんと夏休みにお休み取ってね」
「わかったよ」
 修ちゃんは、私が子供たちにあれこれ言うからか、あまり強く言ったりしない。甘やかすところまでは行かないけど、多少そういう感じもある。
 特になにか頼まれると、よほどのことがない限りはそれをかなえようと奔走する。たぶん、普段あまり構ってあげられない代わりなのだと思う。
「奈々は、どこかこれというのはあるかい?」
「そうねぇ、今はまだここ、という風には言えないわ。ただ、私は家族水入らずでゆっくりできて、なおかつ修ちゃんとのんびりできればいいの」
 だから、別に海外へ行かなくとも、国内の近場でも構わない。結局は、どこへ行くかというよりも、そこでなにをしたかが重要なのである。
「やっぱり、雪菜も楽しめるところの方がいいんだろうなぁ」
「それはそうね」
 雪菜が楽しめる場所というのは、案外限られてくる。
 美術館や博物館なんかは、正直走り回って終わる。動物園や水族館なら楽しめるだろうけど、それだけだと当然飽きる。
 ちゃんと、大人の目線じゃなく、三歳である雪菜の目線で考えないといけない。
「まあ、どこへ行きたいかは、おいおい考えていけばいいか」
 まだいつ休めるかも決まっていないんだから、そうかもしれない。
「ね、パパ」
「ん、どうした?」
「今度の日曜日に、行きたいところがあるの」
「行きたいところ? どこだい?」
「あのね、映画を見に行きたいの」
「映画か」
「あ、はるちゃん、ずるい。わたしも見に行きたい」
「なんだ、ふたりとも見たい映画なのか」
「うん」
 そういえば、少し前にふたりが話していた気がする。今、小学生の女の子の間で人気のテレビアニメが、映画になって上映してると。ふたりともそのアニメを欠かさず見てるから、映画も見に行きたいと。
「ね、パパ。いいでしょ?」
「映画、見に行こうよ」
「そうだな。じゃあ、日曜は映画を見に行こうか」
「やった」
「ありがと、パパ」
 このところ、平日の仕事が忙しくて日曜もなかなか子供たちの相手ができなかったから、その代わりでもあるのかもしれない。
「ただし、ふたりとも。日曜までは、勉強もしっかりやって、家ではママのお手伝いもしなくちゃダメだぞ」
「うん」
「わかったよ」
 そういうことをさらっと言えたりできたりするのが、父親としての修ちゃんのいいところ。
「あ、パパ。もうひとついい?」
「今度はなんだい?」
「あのね、今日ね、一緒にお風呂入って、一緒に寝たい」
「一緒にか。そうだなぁ……」
「秋菜。お風呂はいいけど、寝るのはダメよ」
「ええーっ、どうして?」
「どうしてもよ」
 今日は、修ちゃんも久しぶりに早く帰ってきたし、私を可愛がってもらおうと思ってるんだから。
「むぅ、ママのケチぃ」
「ケチでいいわよ」
 修ちゃんとの時間を削られるくらいなら、ケチと思われてた方がましだ。
「ほら、お風呂に入るなら入ってきなさい」
「むぅ……パパ、行こ」
 秋菜は、むくれながらも言うことを聞いて修ちゃんを引っ張ってリビングを出て行った。
「陽菜はいいの?」
「あきちゃんと一緒だと、パパを独り占めできないもん」
 本当に、我が娘ながらすぐにそういう考えになるとは。
「でも、ママもパパのことを独り占めしたいから、あきちゃんにあんなこと言ったんだよね?」
「そうよ。だから、陽菜も今日は余計なことをするんじゃないわよ」
「わかってるよ」
 本当にわかってるならいいけど。
 そして──
「ん〜、幸せ……」
 夜もだいぶ遅い時間。
 私は修ちゃんの胸に抱かれながら、心地良い倦怠感を堪能していた。
「やっぱり、修ちゃんに抱かれてる時が、一番安心できる」
「それは光栄だね。もうそろそろ、そんなこと思われなくなってくると思ったよ」
「ふふっ、大丈夫よ。修ちゃんが私だけを愛し続けてくれるなら、私も修ちゃんだけを愛し続けるから。そして、その時の私の幸せは、修ちゃんの側にいること」
 そう。私の幸せは、修ちゃんのことを本気で好きになったあの時からずっと変わっていない。まあ、今は修ちゃんのことだけじゃなく、子供たちのことでも幸せを感じられるけど。
「それにしても、今日の秋菜はいつになくしつこかったわね。いつもならもう少しすんなり引くのに。なにかあったのかしら?」
「さあ、それを僕に聞かれても困るよ。秋菜のことは僕よりも奈々の方がより長い時間見てるんだから」
「それはそうなんだけどね」
 ただ単に修ちゃんのことを独り占めしたかっただけなのか、それとも別の理由があったのかは、わからない。
 秋菜だけじゃなく、陽菜も最近は少しずつ女の子になってきてるから。
 もう小学四年生だし、いろいろなことを聞いたりして、それを自分たちに当てはめて、現実を知っていく。
 特に女の子は耳年増なところがあるから、ひょっとしたら学校でなにかあったのかもしれない。それが理由なら、クラスが違う陽菜がわかるわけもない。
「修ちゃんはさ、陽菜と秋菜が無邪気に慕ってくれてることに対して、どう思ってるの?」
「どうって、嬉しいよ。カワイイ娘たちが今だけかもしれないけど、慕ってくれてるわけだから」
「もし、ふたりが中学生、高校生になっても今とそういうところが変わらなかったら、どう?」
「それは、その時になってみないとわからないよ。ただ、娘が純粋に父親を慕ってくれてるなら、今と変わらず嬉しいはずだよ」
「純粋じゃなかったら?」
「さあ、どうかな。でも、奈々はどうしてそこまで気にするの?」
「それは気になるに決まってるわ。たとえ娘であっても、そういう状況になったらライバルになるんだもの」
「ライバル、ね」
 修ちゃんはわかってない。女という生き物は、そういうことを気にする生き物だということを。
 それに、これは私の今現在の考えでしかないけど、陽菜と秋菜の修ちゃんに対する想いは、冗談ではないと思う。
 もしこのまま純粋に想い続けていくなら、きっと、中学生や高校生になっても修ちゃんのことは好きなままだと思う。
「いい、修ちゃん。絶対にあのふたりの誘惑に負けたらダメよ」
「誘惑って……そんな……」
「もちろん、私だっていつまでも私を見ていてほしいから、そのための努力は続けるけどね」
 私も、出産を経験してからは、体型の維持にものすごく神経を傾けている。
 油断するとすぐに太るようになってきて、雪菜を生んだあとは結構大変だった。
 でも、自分の一番大切な人に、自分の一番見てほしい姿を見せるためには、努力が欠かせない。
 その甲斐あってか、私の体型は大学時代とそう変わっていない。
「とにかく、修ちゃんはあの子たちの父親である前に、私の旦那さまなんだから。それを忘れないでね」
「わかってるよ」
 それさえ忘れないでいてくれれば、間違いが起きる可能性は限りなく低くなる。
「あ、そうだ。修ちゃん。今日ね、昼に穂香さん来たの」
「姉さんが?」
「まあ、単なる暇つぶしで来たんだけど、その時にね、ちょっと話題になったことがあって」
「どんなこと?」
「んとね、子供のこと」
「子供?」
 修ちゃんは首を傾げた。
「ほら、雪菜が生まれてもう三年でしょ。穂香さんに、さらにということで考えてないのかって聞かれて」
「ああ、そういうことか」
「結婚する時に決めたことはあるけど、その時には子供は何人とまでは決めてなかったから。どうするにしても、一度ちゃんと話さないといけないと思ってね」
「そうだね。じゃあ、奈々はどうしたい?」
「私はね、できればもうひとりくらいほしい。子育ての大変さは現在進行形で身に染みてるけど、でも、それ以上に嬉しいこと、楽しいことが多いから」
「なるほど」
「修ちゃんは?」
「僕は、特にそういうのはないよ。いたらいたでいいだろうし、今のままでも十分満足だし。だから、奈々がもうひとりほしいというなら、その方向で考えてもいい」
 修ちゃんは、宗平の時も雪菜の時もそうだった。いつも私の意見を尊重してくれる。
「じゃあ、修ちゃん。もうひとり、作ろうか?」
「いいよ」
 実際に妊娠するかどうかは、それこそ運任せ。どれだけしたって妊娠しない時はしないし、少ない回数でも妊娠する時はする。
 私としては、できるだけたくさんして、その上で結果がついてくれば言うことなしなんだけど。
 とにかく、修ちゃんが私の旦那さまで本当によかった。
 もし修ちゃん以外の誰かだったら、ここまで満ち足りた生活を送れていたかどうか。
 本当に私は、幸せ者だ。
 
修平視点
 
「パパ、もう朝だよ」
 耳元でささやく声とともに、体が軽く揺すられる。
「休みの日だからって、いつまでも寝てるとあとが大変なんだから」
 少しだけ声のボリュームが上がり、それに比例して体を揺する力も上がっている。
「ほら、パパ」
「……ん、わかったよ。起きるから」
 眠い目を擦りながら体を起こす。
「おはよ、パパ」
「おはよう、陽菜」
 ベッドの端に座り、にっこり微笑んでいるのは、陽菜だ。
「今日もいい天気だよ」
 カーテンの隙間からは、陽の光が漏れている。
「ふわぁ……」
「眠いの?」
「昨夜は、寝る前にいいアイデアが浮かんでしまって、それをまとめてたら寝るのが遅くなったんだ」
「仕事熱心なのはいいけど、休む時は休まないと体壊しちゃうよ?」
「わかってるよ」
 心配してくれる愛娘の頭を軽く撫でる。
「ん、パパ……」
 と、陽菜はそのまま僕の腰のあたりに抱きついてきた。
「こらこら」
 こういうところは、本当に変わらない。あの頃のままだ。
「パパってさ、私と秋菜のこと、間違わないよね。まだ寝ぼけてる状態でも、間違えたことないし」
「そりゃ、愛娘のことだからな。いくらふたりが似ていても、きっと親にしかわからない違いがある。そこで見極めてるだけだよ」
「ママだってたまに言い間違うことあるのに。パパだけだよ。私たちのこと、そこまで見分けてくれるの」
 双子で、しかも一卵性だから、陽菜と秋菜はとても似ている。
 あまり面識のない人が見たら、どっちがどっちかわからないだろう。
「だからね、私はパパのことが大好きなの」
 そう言って陽菜は、とっびきりの笑顔を見せてくれた。
 
 来年の春には、陽菜と秋菜は高校を卒業して、大学生になる。
 それだけ時間が流れたということだ。
 その間、僕の仕事自体は変わっていないけど、その役割は大きく変わった。今では、現場にいるエンジニアのトップの立場になり、かなり忙しくなっている。
 以前ならエンジニアとしての仕事に没頭できたけど、今はそれ以外に考えなくてはいけないことが多かった。
 それでも、会社からは正当な評価を得られていると思ってる。だからこそ、人より多少裕福な生活を送れている。
 奈々は、ずっと僕のことを支えてくれている。
 家のことを守りながら、子供たちを見守り、導きながら、僕のことも気にかけてくれている。
 奈々がいなければ、今の僕はいなかっただろう。
 それくらい奈々の存在は大きい。いや、今もまだ大きくなり続けている。
 陽菜と秋菜は、地元の進学校として名の知れた公立高校に通っている。
 ふたりとも奈々に似て頭が良く、定期試験でも常に上位に食い込んでいる。
 勉強だけじゃなく、運動神経も抜群で、運動部からの勧誘も引く手あまただったらしい。
 小学生の頃はガキ大将みたいな感じだったけど、年齢とともに女の子らしくなり、ふたりが奈々の娘であることを改めて実感している。
 宗平は、中学三年になり、多少は男らしくなったと思う。まあ、基本的に僕に似てるから、どうしても自分から前に出て行くような性格にはなってないけど。
 ただ、僕と違うところは、とにかく頭が良いということ。これは姉ふたりの影響だと思うけど、中学に入ってからの試験では、一度も一位の座を明け渡していない。これは陽菜や秋菜にもできなかったことで、それだけ宗平の頭の良さを示している。
 とはいえ、勉強はできても、運動の方はからっきし。完全なインドア派で、休日も家にいることが多い。
 雪菜は、小学六年生になり、ようやく女の子としての自覚が芽生えはじめてきた。
 雪菜の目標は当然のことながら、母親である奈々であり、姉である陽菜と秋菜だった。
 小学生ではまだまだわからないところが多いけど、将来が楽しみな感じがある。
 そして、もうひとり。
 小学二年生になった四女の涼菜。
 涼菜は末っ子の典型で、とにかく心を許してる者にはとことんまで甘えたがる。今現在のターゲットは、主に僕。朝や夜には、僕の側を離れようとしない。
 僕もそんな涼菜が可愛くてついつい構ってしまうので、もはや泥沼化している。
 子供たちの仲は、とてもいい。
 まず、陽菜と秋菜は下の三人の面倒をちゃんと見てくれる。まあ、宗平に対してはある意味おもちゃ感覚なのかもしれないけど。このあたりは、昔の自分のことを見ている感じだ。
 宗平は、基本的には陽菜と秋菜には絶対服従。逆らうことの愚かさを知っているからこその行動だ。妹ふたりに対しては、自分からあれこれ構うことはほとんどないけど、それなりにいい兄にはなれてると思う。
 雪菜は、上の三人に対しては少し甘えているところがあるけど、涼菜に対しては過剰なほどいい姉であろうとしている。それはきっと、陽菜と秋菜がいい姉をやれているから、余計なのかもしれない。
 涼菜は、上の四人にはそれなりに甘えている、という感じ。今はまだ僕に対する依存度が高いから。ただ、それもこれから先どうなるかはわからない。
 五人も子供がいると大変なことも多いけど、それ以上にたくさんの喜びをくれるから、その大変さを忘れさせてくれる。
 僕は、その家族の笑顔を守るために、ありとあらゆる努力を惜しまない。
 それが結局は、幸せに繋がるから。
 
「パパぁ、パパぁ」
 朝食後、リビングで新聞を読んでいたら、涼菜が駆けてきた。
「どうした、涼菜?」
「パパの、おひざにすわるの」
 そう言って、僕の膝の上に座る。
「こらこら。それじゃ、パパが新聞読めないよ」
「いいの」
「しょうがないな」
 新聞を読むのをあきらめ、涼菜の相手をすることにした。
「涼菜も、ずいぶんと髪が伸びてきたな。お姉ちゃんたちみたいに、まだまだ伸ばすのかい?」
「ん〜、わかんない」
 まあ、意識的に伸ばしてるわけじゃないから、まだわからないか。
 陽菜と秋菜は、自分の意志で未だに髪を伸ばしている。髪を伸ばしていた方が髪型を変えやすいから、というのが理由らしい。確かに、しょっちゅう髪型を変えている。
「パパは、長いほうがいい?」
「そうだなぁ、涼菜が可愛く見えれば、長くても短くてもいいよ」
「涼菜、カワイイ?」
「ああ、カワイイよ」
「んふっ」
 親バカと言われるかもしれないけど、涼菜はとてもカワイイ。
 うちの娘たちはみんな奈々に似てるから、容姿に関しては文句のつけようもない。
「あっ、また涼菜」
 と、リビングの入り口から声が。
「パパ。涼菜ばっかりひいきしてずるいよ」
 あっという間に隣へ来たのは、雪菜だ。
「わたしだってもっともっとパパに甘えたいのに」
 頬を膨らませ、むくれる雪菜。
「雪菜は涼菜のお姉ちゃんなんだから、我慢しなくちゃダメだろ」
「むぅ、いつも我慢してるもん」
 確かに、最近の雪菜は涼菜に遠慮してるところがある。そのあたりは涼菜の姉としての自覚なのだろう。
「しょうがないな。ほら、涼菜。ちょっとこっちに」
 涼菜を左足に座らせ、右足を空ける。
「ほら、雪菜」
「いいの?」
「いいよ」
「やった」
 雪菜は嬉しそうに右足に座った。
 とはいえ、雪菜ももう小学六年生。女の子とはいえ、それなりに重くなってきてる。涼しい顔をしてるのが正直つらくなってきた。
「ふたりとも、今日は特に予定はないのかい?」
「わたしはないよ」
「涼菜は?」
「涼菜もない」
「そうか」
 必ずしもなにかあるわけじゃないから、こういうこともあるだろう。
 ちなみに、ふたりとも友達は多く、学校がある平日にはよく遊びに行っている。
「だからね、パパ。どこか行こうよ」
「そうだなぁ」
 ここのところあまり構ってやれてなかったから、それもいいか。
「じゃあ、雪菜。陽菜たちに予定を聞いてきてくれ」
「ええーっ、お姉ちゃんたちも一緒なの?」
「当たり前だろ。ほら、行った行った」
「はぁい」
 本当はふたりだけでもいいんだけど、ここで少なくとも陽菜と秋菜をないがしろにすると、あとで面倒になるから。
「涼菜は、どこか行きたいところはあるかい?」
「んとね、えとね……涼菜ね、お馬さんがみたいの」
「お馬さんか」
 馬が見られるところといえば、簡単なのは動物園か競馬場。でも、どっちもそれだけだと面白くないな。
 いっそのこと、どこかの牧場にでも行こうか。幸いにして、今日は土曜日だから泊まりになっても問題ないし。
「よし。じゃあ、お馬さんを見に行こう」
「うんっ」
 というわけで、結局家族揃って出かけることになった。
 うちは家族七人なので、電車移動よりも車での移動が多い。ちなみに、運転は僕と奈々が交代で行う。
 向かった先は、うちのある場所から一番楽に行ける牧場。それでもそれなりの距離があるので、まあ、小旅行みたいなものだ。
 娘四人はこの旅行を喜んでいたけど、宗平は微妙そうだった。できれば家でのんびりしていたかったというのが、顔を見ただけでわかった。
 ただ、いつもいつも家にいられて、そのうち本当に用がない限り外へ出ないなんてことにならないように、たまには無理矢理にでも連れ出す必要はあるだろう。
 それに、今は受験勉強もしているから、余計に息抜きが必要だ。
 車を走らせること三時間。ようやく目的の牧場へとやって来た。
 季節は初秋。
 牧場は少し高いところにあるので、より秋を感じられる。
 この牧場では、牛、馬、羊の三種類を放牧しており、それぞれ自由に見てまわれる。
 まずは涼菜の希望通り、馬のいる場所へ。
「ほら、涼菜。お馬さんだぞ」
「わあ、わあ、お馬さん」
 涼菜は、大きな目をさらに大きく見開き、本当に嬉しそうに馬に近づいた。
 馬も人に慣れているのか、特に怯えたり興奮している様子はない。
 涼菜に比べて馬はだいぶ大きいので、さすがに不用意に近づきはしない。ただ、触りたいのに触れないという感じは伝わってくる。
 ここへ来る時に、むやみやたらに触らないでくれと注意されていたので、涼菜には我慢してもらおう。
 それに、別の場所でポニーに乗れるところもある。触るのはそこでにしてもらおう。
「それにしても、今日は急だったわね。いきなり牧場へ行くなんて言い出して、びっくりしたわ」
 隣で奈々は、別に不満顔というわけではないけど、なんとなく微妙な表情でそう言った。
「あらかじめ言っておいてくれれば、もう少しいろいろ準備できたのに」
「それはしょうがないよ。涼菜に聞くまで、別に牧場へ行こうだなんて思ってなかったんだから」
「それはわかるけどね」
 本当はどこか近場に出かけて、適当に遊んで帰ってくるつもりだった。それが思わぬ遠出になったのだから、奈々が言うのもわかる。
「でも、たまにはこういうのもいいわね」
 基本的に奈々は昔から変わらずとてもアクティブだ。だから、突然なにかあっても、それがよほどイヤなことでもない限りは、それに異を唱えることはない。
「ここのところ、あまり構ってやれなかったから、ちょうどいいと思ったんだ」
「そうね。涼菜もよく言ってたわ。パパと遊びたいって」
 仕事には波があるので、忙しい時期は本当に忙しい。
 今はその波の終わり頃ではあるけど、まだ忙しいことに変わりない。これがもう少しすれば多少ましな時期になるので、子供たちと遊べる時間も増えるだろう。
「それに、陽菜と秋菜、宗平は受験勉強があるから、強制的にでも息抜きさせた方がいいと思って」
「宗平はそうかもしれないけど、陽菜と秋菜はいつも息抜きしてるわ。というか、息抜きの方が多いんじゃないかしら」
 それは多少誇張だとしても、実際陽菜と秋菜は、ここまでそれほど根を詰めて勉強していない。それはそこまでしなくても成績がいいからというのもある。あとは、とても効率的に勉強をしているからだ。無駄なことはいっさいせずに、集中するべき時は集中して、そうじゃない時との差をつけている。
「パパ。今日はどこかへ泊まるの?」
 と、雪菜を見ていたはずの秋菜が、いつの間にか側にいた。
「時間によってだな。帰る頃の状況次第で、どこかへ泊まるかもしれない」
「だったら、最初から泊まる予定にすればいいのに。明日も特になにかあるわけじゃないんでしょ?」
「ん、ああ」
「じゃあ、やっぱり泊まろうよ。ね、パパ?」
「どうする?」
 最終決定権は、僕よりも財布を握っている奈々にある。奈々が首を縦に振らなければ泊まることもできない。
「ここまで来たら、泊まらないで帰るのももったいないでしょ?」
「やった。ありがと、ママ」
「でも、秋菜。帰ったらその分ちゃんと勉強するのよ」
「わかってまぁす」
 ま、それもいいか。
 馬を見ることはできても触れないという状況は、涼菜には相当のストレスになったようで、しばらくするとどうにかして触ろうとするようになった。さすがになにかあってからでは遅いので、涼菜を馬から引き離し、ついでに場所も移動した。
 牧場の入り口付近には、ポニーに乗るための広場があったり、新鮮な牛乳を使ったソフトクリームやチーズなどを食べられ、売っている売店がある。
 まずは涼菜をポニーに乗せてやった。
 これには涼菜も大はしゃぎで、手綱を危うく放しそうになるくらいだった。
 年齢的に今更ポニーという陽菜と秋菜には、甘いソフトクリームを買い与えてとりあえずおとなしくさせた。
 涼菜の次は雪菜をポニーに乗せた。雪菜は口では涼菜ほど興味がなさそうな感じだったけど、実際に乗ってみると結構嬉しそうだった。
「なあ、宗平。今日のことは、迷惑だったか?」
 ひとり蚊帳の外の感じだった宗平に、声をかけた。
「そんなことはないけど。ただ、姉さんたちみたいに無条件には喜べないかな」
「そうか」
 常に一線を画している宗平だから、実は意外に楽しめていることはその言い回しでわかった。
「それでも、かなり突然だったとは思うけど、今度こんなことができるのは、おそらく僕と姉さんたちの受験が終わってからだろうから、いいことだとは思うよ」
「そう言ってくれて、助かるよ」
「あ、でも、父さん。泊まる時は姉さんたちの相手は父さんがしてよ。のんびりしたい時に姉さんたちの相手をしたら、とてもじゃないけどのんびりできないから」
「それくらいのことはちゃんとやってやるよ。ただ、どうしても防ぎきれないことはあるだろうから、その時はちゃんと相手してやるんだぞ」
「わかってるよ」
 僕は、強烈な個性の姉たちを持った弟の大変さを身をもって経験しているから、宗平の気持ちもよく理解できる。だからこそ、すべてではないにしても、なんとかしてやれることはこっちでなんとかしようと思っている。
「じゃん、ここで問題です」
 いきなりそう言って僕と宗平の前に出てきたのは、陽菜と秋菜だった。
「これから私たちは髪型を同じにするから、宗ちゃん、どっちがどっちか当ててね」
 しかも、かなりの無理難題を突きつけてる。
 宗平も弟だけあってある程度の見分けはできるのだが、それでも時々間違う。
 普段は意識して少しずつ違うところを作っているふたりが、意識して同じにするのだから、宗平でも見分けがつくかどうか。
「あ、パパは教えちゃダメだよ。パパは、私たちがどんなに同じ格好してても見分けちゃうから」
 釘を刺された。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 そう言ってふたりは、僕たちの視界の届かない場所へ移動した。
「可愛がられてる証拠だから、あまり腐るなよ」
「わかってるよ」
 そうは言いながらも、どこかあきらめにも似た哀愁が漂っているのは、気のせいではないだろう。
 そうそう、ちなみに今日は陽菜はポニーテール、秋菜は髪をアップにしていた。それを入れ替えただけでも見分けはつきにくいだろうけど、同じにするわけだから、さて、どうなることやら。
「父さんも、昔はこんな感じだったの?」
「父さんはもっとすごかったというか、ひどかったぞ。宗平は上は陽菜と秋菜のふたりだけだけど、父さんには三人もいたからな。このひとりの差は、とても大きい」
「……わかる気がする」
「だから、宗平はまだましな方だ。もちろん、大変なことに変わりはないけど」
 宗平の場合は、まだ逃げ道がある分だけましだ。僕の場合は、全然なかった。だからこそ、コンプレックスを抱くようになった。
 とはいえ、今考えると、そういう状況になっていなかったら、奈々とつきあうようになり、こうして結婚して子供までいる状況にはなってなかっただろう。そう考えると、いろいろ微妙だ。
「お待たせ」
 そこへ、確かに髪型を同じにした陽菜と秋菜が戻ってきた。
「さ、宗ちゃん」
「当ててみて」
 今日のふたりは、示し合わせたように同じ服、同じ靴だ。だから、髪型さえ同じにしてしまえば、見分けがつきにくい。
 ちなみに、僕と宗平から見て右が秋菜、左が陽菜だ。
「……陽姉、秋姉」
 宗平の答えは、逆だった。
「残念。ハズレだよ」
「惜しかったね、宗ちゃん」
 まあ、二者択一だから確かに惜しかったんだけど。
「パパはわかってたよね?」
「ん、ああ、わかってたよ」
「どうして父さんはわかるわけ?」
「どうしてと言われてもな。わかるものはわかるとしか言いようがない」
「それだけパパの私たちに対する愛情が深いってことだよ」
「そうそう」
 愛情の問題とは違う気もするが、本当のところがわからない限り、なんとも言えない。
「あ、ちなみに宗ちゃん。ハズレた罰ゲームは、家に帰ってからだからね」
 宗平が露骨にイヤな顔を見せたのは、言うまでもないだろう。
「パパには、なにしてあげようか?」
「ん、なんでだ?」
「だって、正解だったから」
「別にいいよ。それに、正解なのは当たり前なんだから」
「それじゃあ、私たちの気が済まないの」
「そうだよ。じゃあ、せっかくの旅行だから、その間になにかしてあげるね」
 やれやれ、あまり無茶なことじゃなければいいけど。
 本当に困ったものだ。
 
 飛び込みだったけど、特に混んでいる時期でもなかったので、宿自体はすぐに決まった。
 家族旅行に出かける時は、どんなところへ泊まるかによって部屋割りを変えている。
 ホテルなら同じ部屋に大人数は無理なので、たいていは僕と奈々に涼菜の三人、陽菜と秋菜、宗平と雪菜という風に分けている。
 旅館や民宿で、大きめの部屋がある場合は、家族全員でひとつの部屋ということもある。
 旅行に来た時くらい、普段はできないことをやろうということからはじめたことだけど、これ自体は結構楽しい。まあ、うちは男女比が偏ってるから、変に静かになったりしないというのも、そのひとつの要因かもしれない。
 で、今回はどうしたかというと、陽菜と秋菜のたっての希望で、大部屋のある旅館にした。
「うわあ、いい眺め」
 案内された部屋に入るなり、陽菜と秋菜は窓際に駆け寄り、その窓を大きく開け放った。
「ほら、パパ。すごくいい眺めだよ」
「ん、ああ」
 確かにとてもいい眺めだった。
 この旅館は高原にあり、各部屋からは遠くまで見渡すことができた。
「ふたりとも、そんなにはしゃがないの。みっともないでしょ?」
「だってぇ、いてもたってもいられないんだもん」
「その気持ちはわかるけど、もう少し年相応の行動を取りなさい」
『はぁい』
 奈々にたしなめられ、ふたりは少しだけ肩を落とした。
 荷物を整理し、お茶を淹れてひと休み。
 当然のごとく、涼菜が僕の膝の上にいた。
「パパぁ、涼菜とおふろはいろ」
「ん、そうだな。あとで入ろうか」
「うんっ」
「ああーっ、涼菜だけずるい」
「涼菜だけえこひいきだ」
 と、陽菜と秋菜が不満の声を上げた。
「ずるいって、さすがにおまえたちと一緒に入るわけにはいかないだろ。混浴ってわけでもないんだから」
「私は全然気にしないのに」
「うん、そうそう」
「おまえたちが気にしなくても、ほかの人が気にするんだよ」
 混浴や家族風呂みたいなのがあれば話は別だけど、そうじゃなければ年頃の娘と一緒に入るのはいろいろ問題がある。
「ねえ、パパ。わたしは?」
「雪菜も入りたいのか?」
「うん。パパの背中、洗ってあげる」
「そうかそうか」
 小学生であるふたりは、まあ、雪菜のことを多少目をつぶれば問題はないだろう。
「むぅ、雪菜までぇ」
「ずるいよぉ」
 すっかりむくれてしまったふたり。
 奈々に助けを求めるように視線を送るが、無視された。相変わらず厳しい。
「あ、じゃあ、こうしようよ」
「どうするんだ?」
「もうみんなが寝静まった頃に入るの。そうすればほかの人だっていないし、パパが心配してるようなことも問題ないでしょ?」
「そうかもしれないけど」
 そこまでする必要があるのだろうか。
「ね、パパ。そうしようよ」
「お願い、パパ」
 しょうがないか。たまにちゃんと言うことを聞いてやらないと、それを溜め込んで爆発してしまうかもしれないから。そうなった方が恐い。
「わかったよ。でも、そんな時間まで起きてられるのか?」
「大丈夫。夕飯が終わったらいったん寝るから」
「それなら問題なし」
 どうしてそういうことを考える時は、いつも以上に頭の回転が速くなるんだろうか。
 それからしばらくして、僕は下の三人を連れて温泉に入りに行った。
 今日は泊まり客の数もそう多くないらしく、男風呂にはふたりしかいなかった。
「雪菜、涼菜。まずはお湯をかけてから入るんだぞ」
 そのまま飛び込もうとするふたりをなんとか止めて、マナーを守らせる。
 宗平はそういう無茶なことはしないから、安心してられるんだけど。
 温泉は、若干温めだったけど、とても気持ちよかった。
 浴槽はそれなりに深いので、涼菜は僕の側を離れようとしなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、お姉ちゃんたちと同じ学校に行くんだよね?」
「そのつもりで勉強はしてるけど」
「そっかぁ。わたしも同じ学校に行けるかなぁ?」
「さあ、どうかな」
「やっぱり、いっぱいお勉強しないとダメ?」
「一概にそうとは言えないけど、まあ、がんばらないとダメだとは思う」
「難しいねぇ」
 雪菜は、本当に難しそうな顔で唸った。
「心配するな、雪菜。いざとなったら、陽菜たちも宗平も勉強を見てくれるよ。そうだよな、宗平?」
「期待に応えられるかどうかはわからないけど、少しくらいなら」
「な?」
「うん、その時はよろしくね、お兄ちゃん」
「ああ」
 宗平は、少し照れくさいのか、雪菜から視線を逸らして頷いた。
「それにしても、来年の春には陽菜と秋菜は大学生、宗平は高校生、雪菜は中学生か。早いもんだ」
「そんなに早いの?」
「親にとっては、そういうものなんだよ。それぞれが生まれた時のことを昨日のように思い出せるんだから。それを考えると、月日の流れがいかに速いか」
 本当にそう思う。
 陽菜と秋菜は、気がつけば僕と奈々がつきあいはじめた年を越していたし。
 きっと、これから先もあっという間に過ぎて行くんだろうな。
 気がついたら、涼菜も大学卒業、なんてことになってるかも。
「子供の成長は嬉しいけど、それだけ自分は年を取ったということだから、複雑な心境ではあるけど」
 涼菜が大人になる頃までは、僕も現役でがんばっていたいけど。それはどうなるかわからない。
「パパは、わたしたちにどうなってほしいの?」
「別にこれというのはないよ。自分たちのやりたいことをやって、その上で幸せであってくれれば言うことない」
「そっかぁ」
 本音を言えば、それぞれにこうあってほしいというのはあるけど、それは所詮親の勝手な意見でしかない。だから、それを子供たちに言うつもりはないし、よほどおかしな道に進まない限りは、口を出すつもりもない。
「雪菜は、将来なにになりたいんだい?」
「ん〜、わたしね、きれいなお洋服を作りたいの」
「洋服か。ファッションデザイナーだな、そうすると」
 結構現実的なことを考えてるんだな。感心感心。
「じゃあ、そうすると今からママの手伝いなんかをして、やれることはやっておいた方がいいかもしれないな」
「うん、お手伝いする」
 どうしてデザイナーになりたいと思ったのかはわからないけど、ある意味では女の子らしい夢だ。今の夢を、進路を決める時まで持ち続けていてほしいものだ。
 風呂から戻ると、部屋では奈々と陽菜、秋菜がなにやら話をしていた。
 ただ、それでも僕たちが戻ってきたらピタッと止めてしまったので、なにを話していたのかはわからなかった。
 夕食は部屋に運んでもらった。うちは家族が多いし、食べる速度もバラバラなので、あまりほかの人に迷惑をかけたくなかったからだ。
 夕食後は、宣言通り陽菜と秋菜は寝てしまった。ということはつまり、約束を守らされるということだ。
「少し、羽目を外しすぎかしらね」
「ん?」
 窓際によくある椅子に座り、奈々はそんなことを言った。
「陽菜と秋菜のことよ。どうもいつも以上にはしゃいでる気がして」
「まあ、しょうがないんじゃないかな。思いもかけないタイミングで旅行に来られたわけだし」
「それはわかるけど、でも、高三にもなってと思うのよ」
「奈々の言いたいことはわかるけど、自分たちのことを思い返してみると、あまり言えないかもね」
「…………」
 僕たちが高三の時、その大半は受験勉強に費やされたけど、たまの息抜きの時は、今の陽菜たち以上にはしゃいでいた気がする。
 特に元々そういうのが好きな奈々は、かなりはしゃいでいた。
「だから、ふたりのことは大目に見ないと」
「ホント、修ちゃんはふたりに甘いんだから」
「それは、百も承知だよ」
 そう、それは自覚してる。
「ふたりは僕たちのはじめての子供だし、なによりふたりとも奈々に似てるから。どうしても邪険には扱えないよ」
「喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからない理由だわ」
「でも、僕ももう少し厳しく接した方がいいのかな?」
「さあ、それはどうかしら。それこそ今更という気もするし。逆に、今から厳しくしたら、変な意味でへそ曲げてしまうわ、あのふたりなら」
「……それはそれでイヤだな」
 なまじ頭が良いだけに、策を弄されると対処に困る。
「まあ、変に意識せずに、でもこれまでよりは多少厳しく接すればいいんじゃない?」
「それが一番難しい気もするけど」
「それは修ちゃんの今までの行いのせいなんだから、しょうがないわ」
「まあ、そうだけど」
 それを言ったら、身も蓋もない。
「ところで、修ちゃん」
「ん、なに?」
「あのふたりと温泉に入るのはいいけど、なんでもかんでも言うことを聞く必要はないのよ。ひとつ言うことを聞くと、次から次へと言ってくるんだから」
「わかってるつもりだけど」
「つもりじゃダメなの。ふたりはもう高三なんだから、いくら親相手でもそろそろそういうのはやめる時期だと自覚してもらわないと」
「そこまで目くじら立てる必要はないんじゃないか?」
「甘いわ、修ちゃん。女の子、いえ、女はね、そういう些細なことでも最大限に利用しようとするものなのよ。それは、父娘でも同じよ」
「……なんとなく、奈々が言うと説得力あるね」
「あら、それはどういう意味?」
「い、いや、深い意味はないんだけど……」
 危うく地雷を踏むところだった。
 このところ奈々とは喧嘩らしい喧嘩もしてないから、どうも気が抜けてるようだ。もっとも、喧嘩しても僕が一方的にやられて終わるんだけど。
「それと、もうひとつ。間違っても実の娘に手を出すようなことだけはしないでよ」
「ないない、それは絶対ない」
「普通ならそれも信用できるんだけど、修ちゃんには前科があるから」
「うっ……」
「だから、それだけは絶対にしないでよ。いい?」
「わ、わかったよ」
 いつまで経っても、僕は奈々にはかなわないんだろうな。いや別に、かなわなくてもいいんだけど。
「さてと、私も温泉に入ってこようかしら。修ちゃんも、一緒に入る?」
「いや、この時間にそれは無理だから」
「この時間じゃなければ、入ってくれる?」
「ん、まあ、考えなくもないけど」
 奈々となら、たまに家でも一緒に入ることがあるから、抵抗は全然ない。
 というか、それこそこの年になって一緒に入ってるというのは、普通はなかなかないと思うけど。
「ん〜、それじゃあ、陽菜たちと入る時に、私も一緒に入ろうかしら」
 それはそれで陽菜たちが大ブーイングを上げそうだけど。
「ま、どうするかは温泉に浸かりながらゆっくり考えるわ」
 そう言って奈々は、タオルなどを持って颯爽と部屋を出て行った。
 さてさて、どうなることやら。
 
 陽菜と秋菜との約束はあったけど、結局眠くなったので横になっていたら、体が大きく揺さぶられた。
「パパ、起きてよ」
「一緒にお風呂入る約束したでしょ?」
「ん……ん〜……」
「パパってば」
「……わかったよ。起きるから」
 正直だいぶ眠いのだが、約束を反故にするとあとが大変なので、起きることにした。
「起きた?」
「起きたよ」
 ふたりはそれなりの時間寝ていたから、元気そうだ。
「じゃあ、早速入りに行こ」
「あ、ああ」
 起きがけに温泉はあまり体によくないのだが、まあしょうがない。
 時間は深夜。
 旅館の従業員ですら働いていない時間だ。
 昼間とは打って変わって静かな廊下を、スリッパの音を響かせながら歩いていく。
「ところで、どっちに入るつもりなんだ?」
「ん〜、それも一応考えたんだけど──」
「こういう夜中にさらに人が来ないのは、女湯だと思うの」
「だから、女湯」
 なるほど。確かにそれはあるかもしれない。
 とはいえ、女湯に入るというのはかなり抵抗があるけど。
 広い脱衣所の一画で浴衣を脱ぎ、浴場へ。
「あれ?」
 と、先に入った陽菜が声を上げた。
「どうしたの?」
「うん。人の気配が」
 どうやら、先客がいるようだ。となると、さすがにマズイ。
「ちょっと見てくるね」
 陽菜は、様子を見に中へ。
 すると──
「ああーっ、ママ」
 中から大きな声が聞こえた。
「えっ、ママ?」
 秋菜も続けて中へ。
 ああ、そういえば奈々も一緒に入るって言ってたな。
 起きがけで頭が働いてなかったから、すっかり忘れてた。
 ふたりのあとを追いかけ、中へ入った。
「どうしてママが入ってるの?」
「どうしてって、温泉に浸かるのにあなたたちの許可は必要ないでしょ?」
「それはそうだけど……」
 ふたりは、あからさまに不満そうな顔を見せた。
「まあまあ、たまにはいいだろ、こういうのも」
 ここは、僕が仲介するしかない。
 ふたりの背中を押し、湯船に入るよう促す。
「むぅ……」
「しょうがないなぁ……」
 ここで駄々をこねてもどうしようもないことをふたりは理解しているので、渋々状況を受け入れた。
 で、下の三人はいないけど、親子水入らずの入浴タイムとなった。
「ママは家でもパパと一緒に入ってるんだから、こういう時は遠慮してくれてもいいのに」
「そうそう」
「どうしてあなたたちに遠慮しなくちゃいけないのよ」
「だってぇ……」
 どちらもそれぞれに言い分はある。ただ、この場合は奈々に軍配が上がる。
 どう考えても、陽菜たちの言い分は無理があるから。
「それに、こうして一緒に入れてるわけだから、目的は達成されたでしょ?」
「むぅ……」
 なにやらよからぬことを考えていたのかもしれない。それには答えなかった。
「陽菜も秋菜も、せっかく温泉に浸かってるんだから、そういうことは水に流して堪能しないとな」
『はぁい』
 やれやれ、基本的には物わかりのいい娘たちでよかった。
 それにしても、陽菜も秋菜もずいぶんと女の子というか、女らしく成長したものだ。
 スタイルも奈々に引けを取らない。
 ふたりとも学校ではかなりモテるらしいのだが、如何せん同年代の男子に興味がないので、玉砕者が多数出てるようだ。
「ねえ、ママ。ママは、どうしてパパとつきあおうと思ったの?」
「あ、それ、私も気になる」
「どうしてって、それはパパのことを好きになったからに決まってるじゃない」
「そういう当たり前の理由じゃなくて、もっとこう、いろいろあるでしょ?」
「そうだよ。パパとママは幼なじみとか、ずっとクラスが一緒だったとか、そういうこともなかったんだし」
 まあ、言われてみれば、気になることかもしれない。
「パパはさ、優しいし頼りにはなるけど、決して目立つってわけじゃないから。どうしてなのかなぁ、って」
 うむ、我が娘ながらよく見ている。
「そうねぇ、それをちゃんと話すと結構長くなるんだけど、それでも聞く?」
「聞く聞く」
「しょうがないわね」
 さて、奈々はどの程度のことまで話すつもりなんだろうか。
「パパとママが同じ高校だったってことは知ってるわよね?」
「うん」
「知ってる」
「その二年生の時に、はじめて同じクラスになったの。そして、その時にはじめてパパのことを認識したの。最初は、単なるクラスメイトのひとりにしか過ぎなかったわ。私も特に意識することなく、学校生活を送っていた。そのまま一学期が終わり、夏休みになった時にふと思ったの。一年生の時に同じクラスだった人を除いて、ほとんどの人とは話をしたのに、たったひとり、パパとだけ一度も話どころか声も交わしていないことに気付いたの」
「そんなことってあるの?」
「実際あったのよ。それでね、いろいろ考えたのよ。どうしてそんなことになったんだろうって。私はね、こう見えて高校の時、かなりモテたのよ。だから、男子からそっち方面でも声をかけられることは多かった。私もそのこと自体はある意味当然のように捉えていたんだけどね」
「ふ〜ん」
「ところが、パパはそういうこともなく、いっさい私に話かけてこなかったの。そして二学期になり、ちょうどその二学期に修学旅行があってね。うちの高校は修学旅行の自由行動中に、ふたりでまわるのが伝統というか、決まりになっていたの。私はその機会を最大限に活かそうと思って、パパをパートナーに指名したの」
「じゃあ、その時に一気に進展したんだ」
「ううん。現実は小説やドラマほど簡単じゃないわ」
 奈々は、そう言って僕の方を見た。
「修学旅行という行事をきっかけにパパとの接点が生まれ、私はそこではじめてパパと話をしたの。ところが、パパはね、本当は私と話もしたくなかったし、一緒にもいたくなかったのよ」
「どうして?」
「言ってもいい?」
 これは僕に確認してる。
「いいよ」
「うん。あのね、あの頃のパパは、簡単に言ってしまえば女性が嫌いというか、苦手だったのよ」
「そうなの?」
「そうだったんだよ」
「全然想像つかない」
 今の姿しか知らなければ、確かにそうかもしれない。今は、奈々という妻がいて、しかも子供が五人もいるんだから。
「ほら、パパには穂香叔母さんと瑞香叔母さん、柚香叔母さんという三人のお姉さんがいるでしょ。今でこそだいぶおとなしくなったけど、あの頃はパパのことをかなり溺愛してて、それが変な方向に過激になってたの。元々パパはそういう免疫が少なくて、それが原因で女性が苦手に──コンプレックスになっちゃったの」
「そっかぁ」
「それに、そういうのがあったせいで、ちょっと性格も後ろ向きで、簡単に言うとうじうじしたどうしようもない感じだったの」
 うん、久しぶりに奈々のそういう言葉を聞いた。
「私はそういうのが嫌いだったから、結構ガツンと言っちゃってね。その時にパパに怯えられた時は、かなりショックだったわ。私もね、自分の性格がきついって自覚があって、直さなくちゃいけないって思ってたから」
「…………」
「まあ、そういう諸々の理由が根底にあって、私も半ば意地になってたの。修学旅行中にパパがどうしてそうなったのかだけは、かろうじて聞き出せたんだけど、結局それ以上にはなれなくて」
「好きになったのって、そうやって過剰なまでにパパのことを意識してたから?」
「ええ、そうよ。気付いたら、いつもパパのことを考えたの。まあ、主にどうやったらそのコンプレックスをなくせるかを考えたんだけどね。修学旅行の時にいったんパパとの関係はなしになって、でも、私はそれくらいであきらめなかった。どうにかしてパパを振り向かせたくてね。ちょうどなにか行動を起こそうと思ってた時に、穂香叔母さんたちと話をする機会があって」
「そんな機会があったの?」
「文化祭よ。文化祭にちょうど来ていて、その時に話をする機会があったの。それをきっかけに、私ももう一度だけチャレンジしてみようと思ったの」
 あの時からだからな、奈々のことをそれまで以上に意識するようになったのは。
「そのチャレンジという時に、改めて私の気持ちを伝えて、改めて私のことを考えてみてほしいって頼んだの。そう言えば、イヤでも私のことを意識すると思ったからね。でも、パパはすぐには答えを出してくれなくて、結局、さらに強引に私のことを考えるように私のことをあれこれ吹き込んで、その上初詣の時にキスまでしちゃったわ」
「うわぁ……」
「で、その結果、私たちは晴れてつきあうことになった、と」
「そうだったんだ」
「いろいろあったんだね」
「まあね。でもね、実際はそのあとの方がいろいろあったのよ」
「なにがあったの?」
「年明け早々につきあいはじめて、バレンタインの時に初エッチしたの」
 なにもそこまで言わなくても。
「でね、私はすっかり傲慢になってたの。パパのことをなんでも理解してるつもりになってね。だってそうでしょ? 彼氏彼女の関係になって、デートもして、手も繋いで、キスもして、さらにエッチまでして。家族以外で一番パパのことを理解してると思ってた。でもね、それは大きな間違いだったの」
「どんな間違いだったの?」
「確かにパパは私とつきあうようになっていろいろ変わったけど、でも、人間てそう簡単には性格なんか、変わらないでしょ。私はそのことがすっかり頭の中から抜け落ちてたの。それで、パパの誕生日を聞いて、はじめての彼氏の誕生日だからってことで、私もかなり張り切ってね。結構前から準備をはじめたの。だけど、私もそれまで誰ともつきあったことなかったから、どんなことをすれば喜んでもらえるとか、なにをあげたら喜んでもらえるとか、わからなくて。それで、結構仲の良かった男子に相談したの。そういうことを教えてほしいって」
「あ、ひょっとして、それをパパが見て……」
「そういうこと。私ね、その時にパパのことをないがしろにしてたの。それまでいつも一緒に帰ってたのに、急に一緒に帰らなくなって。用事があるって言って帰ったはずの私が、ほかの男子と一緒にいるところをパパが目撃して。あとはもう、泥沼状態。パパの元々の性格から、そういう時には悪い方へ悪い方へと物事を考えてしまって。信じられなくなってしまったの。私のことも、自分のことも。そして、パパは私の前からいなくなってしまった」
「…………」
「様子がおかしいことに気付いた私はすぐにパパに会いに行ったんだけど、その時にはパパはいなくて。その代わり穂香叔母さんがいて、私になにがあったのか教えてくれたわ。そして、大変なことをしてしまったと自分を責めた」
「だけど、ママはパパのことをあきらめなかったんだよね?」
「ええ、そうよ。もうダメかもしれないと思いつつも、パパのことをあきらめきれなくて。まあ、結局なんとかちゃんと話ができて、改めてお互いの気持ち、想いを確認できて、関係は修復されたけど」
「そんなことがあったんだぁ」
 ふたりは、感慨深そうに頷いた。
「パパとママがいつも仲が良いのは、そういうことを経験してきたからなんだね」
「そういうこと。人はね、失敗から多くのことを学ぶの。もちろん、その失敗は取り返しのつくものよ。本当の意味で取り返しのつかないことなんて、そうそうないんだから」
「パパもママも、そういうことを経験できて、よかったと思ってる?」
「思ってるわよ」
 奈々は即答した。
「だって、そのおかげで今、こうしていられるんだから」
「パパは?」
「そうだね。パパもそう思ってるよ。あの時のことがなければ、きっと、パパは未だに独身で、経験できたはずの楽しいこと、嬉しいことをまったく経験できなかったと思うから」
 それは本当にそう思う。
 奈々がいなければ、奈々とつきあっていなければ、きっと僕の人生はつまらなかっただろう。
「じゃあ、パパはどうしてママとつきあおうと思ったの? 今の話を聞く限り、そうならなかった可能性の方が高かったわけでしょ?」
「ん、まあ、いろいろあったんだよ」
「そのいろいろが知りたいの」
「そうだよ」
 やれやれ。言い出したら聞かないふたりだからな。
「正直に言えば、言い方は悪いかもしれないけど、何度も何度もあきらめず、それこそしつこいくらいにパパの気持ちを動かそうとしたからだよ。最初はイヤだったのに、次第に強制的に意識するようになり、気付いたら好きかもしれないって思ったんだ。それに、当時のパパにそんなことを言ってくれる人は誰もいなかったからね。もう最初から選択肢はふたつしかなかったんだ。つきあうか、つきあわないか」
「私も、恋愛のいろいろなことをそんなに知ってたわけじゃないの。でも、パパみたいな人には、多少強引にでも自分の気持ちを伝えて、その上で次を目指さなくちゃいけないって思ったのよ」
「今にして思えば、パパもママも、そういうことに疎かったからこそ、上手く行ったのかもしれない」
「そうね」
 恋愛経験豊富な状態だったら、きっと余計な策を弄して、結局失敗していただろう。
 僕も奈々も、そういうことに対してとてもバカだったから、一途になれた。
「じゃあ、実際つきあうようになってからはどうだったの?」
「それは、改めて聞かなくてもわかるでしょ?」
「なんで?」
「だって、その結果、あなたたちが生まれたわけなんだから」
「ああ、そっか」
「そういえばそうだね」
 本当にただ単につきあっただけなら、途中で別れていただろう。
 つきあってから、よりお互いのことを好きになり、いつまでも一緒にいたいと思うようになれたからこそ、婚約して、結婚したわけだ。
「でも、そうするとつきあうようになってから結婚するまで、結構時間があったってことだよね。ママ、よく我慢できたね」
「それはどういう意味かしら?」
「だって、普段のママを見てたら、そういうことだってもっと早くに結果を求めそうな気がしたから」
「それなのに、五年目にようやく結婚だもん。長かったはずだよ」
 なんとなく見透かされてる気がする。
 確かに、奈々からは学生の間に結婚しようという話も出たことあった。
 でも、学生結婚しても、自分たちだけで生活していけないと判断し、結局は卒業後まで待った。
「長かったけど、その分いろいろ経験できたから、無駄な時間だとは思ってないわ。おそらく、早くに結婚していたら経験できなかったこともあっただろうし」
「そういうものなんだ」
「そっか」
 ふたりとも大きく頷いた。
「あなたたちは、そういう相手、いないの?」
「いないよ」
「というか、今は同年代の男子には興味がないから」
「今はまだ、パパの方がいいもん」
「こ、こら」
 そう言ってふたりは、僕にくっついてきた。
 裸なので、いつも以上に扱いに困る。
「今はそれでもいいけど、でも、将来に渡ってもそのままでいるつもりなの?」
「う〜ん、どうなんだろ? 私もよくわからない」
「ひょっとしたら、誰かを好きになって、結婚するかもしれないけど。今はそのことを想像もできないから」
 娘に慕われるのは嬉しいけど、どこかで親離れもしてもらいたい。
 もちろん、ろくでもない奴に大切な愛娘をやるつもりは毛頭ないけど。
「本当にあなたたちはパパのことが好きなのね」
「そうだよ」
「パパは、世界で一番私たちのことを愛してくれてるから。だから、側にいてとっても安心できるの」
「その気持ちはよくわかるけどね」
 でも、そろそろ先のことを考えなければいけない。ふたりとも、来春には高校を卒業するわけだし。大学の四年間なんて、あっという間だろうから。
「ね、パパ、ママ。もしさ、私も秋菜も結婚しないって言ったら、どうする?」
「どうするって、どうもしないわよ」
「そうなの?」
「だって、結婚は誰かのためにするものではないんだから。自分が幸せになるためにするものでしょ? 結婚しても幸せになれないで、結婚しない方が幸せなら、私もパパもそれを否定しないわ」
「そっか」
 結婚してしまったせいで、不幸になることも、この世の中にはあるのだから。
 親としては、できれば結婚して幸せになってもらいたいけど、そのせいで不幸になるなら、結婚しなくてもいい。
「ただ、最初から様々な選択肢を消すような真似だけはしないのよ。様々な選択肢を検討した結果、そうなったならいいけど。最初から選択肢すらなかった状態だったら、さすがに認められないから」
「うん、それはわかってる」
「高校卒業したら、ちゃんと考えてみるよ」
 本当にふたりは結婚しないのかどうかわからないけど、とにかく幸せであってくれればそれでいい。
 それが僕の、このふたりだけじゃなくて、子供たち全員に対する素直な想いだ。
「ところで、ふたりとも。いつまでパパにくっついてるつもりなの?」
「いつまでって──」
「いつまでだろ?」
 ああ、一番やってはいけないことを。
「ふ〜ん、そういうことを言うのね。なるほど、よぉくわかったわ」
 奈々は、基本的には冗談も受け流せるのだが、僕絡みのことになると、途端に気が短くなる。
「あ、えっと……」
「ママ……?」
「そういうふざけたことを言うなら、こっちにも考えがあるわ」
 今回はどんな考えだろうか。
 以前は、家事すべてをふたりにやらせたこともあったし、小遣い三ヶ月なしというのもあった。奈々は、一度言い出したことはよほどのことがない限りは撤回しないから、怒らせるというか、バカにしてはいけない。
 僕は、それをこれまでにイヤというほど学んできた。
 大学の頃にそういうことをしてしまったがために、一週間ほど夜ほとんど眠れなかったこともあった。なにをされたかといえば、まあ、そういうことなんだけど。
「わ、わかったよ」
「離れるから」
 ふたりもさすがにマズイと思ったらしく、慌てて離れた。
「まったくもう、やっていいことと悪いことがあるのよ」
 そう言いつつ、なぜか今度は奈々が僕にくっついてきた。
「ね、修ちゃん?」
 いや、そこでそう言われても……
「ホント、パパとママは仲良いよね」
「未だにラヴラヴだもんね」
 それ自体を否定するつもりはさらさらないけど、娘に言われると複雑な心境だ。
「よく、結婚生活が長くなると、いいところより悪いところが目につくようになって、だんだん疎遠とまでは言わなくても、結婚当初の気持ちは薄れるっていうけど」
「パパとママには無縁のことだよね、それって。どうしてなのかな?」
「どうしてもこうしてもないわ。私たちは、そんな時間に負けないくらいお互いのことを愛してるってことよ」
「まあ、簡単に言えばそうなのかもしれないけど、なにか理由があると思うの」
「それが知りたい」
「理由ねぇ……」
 奈々は、僕を見て首を傾げた。
「修ちゃんは、なにかある?」
「ん、そうだなぁ……たぶんだけど、僕たちはお互いにずっと好きでいたくて、嫌われたくなくて、一緒にいたいから、そうあるように無意識のうちに努力してるんじゃないかな。そうすれば、仲が悪くなるなんてことないし」
「好きでいたくて、か」
「あとは、僕は奈々を、奈々は僕を、ただひとりだけ好きでいようと思ってるからかもね。そうすれば、そう思い続けてるうちはずっと仲が良いままなはずだよ」
 ようするに、僕も奈々も未だに不器用なままということだ。
 恋愛を経験してると言っても、僕は奈々としかないし、奈々も同じだ。
 だから、もし万が一取り返しのつかない状況になって、改めて誰かを好きになるということができそうにないから、今を必死に守ろうとしてる。
 少なくとも僕はそうだ。
「あ、そっか」
「ん、なにがそっかなの、秋菜?」
「ママがパパのことをずっと好きなままなのは、パパの不器用だけど真面目なところと、自分だけを好きでいてくれるという安心感があるからなんだよ」
「なるほど。そう考えると、ママの理由はしっくりくるね」
 後ろの理由は、当然ではあるんだけど。ま、恋愛経験のないこのふたりには、それはわからないか。
「あ〜あ、私もパパとママみたいな恋愛してみたいなぁ」
「うん、そうだねぇ」
「そう思ってるだけじゃ、それは無理よ。もっと積極的にまわりを見ないと」
「少しずつ努力するよ」
 それが自覚できてるなら、近い将来、ふたりにも彼氏ができるかもしれないな。
「でも、それまではやっぱりパパのことが一番大好きだからね」
「うんうん」
 あとどのくらいこうしていられるかはわからないけど、もう少しだけ、今みたいな状況が続いてもいいと思う。
 それはきっと、僕だけの想いじゃないはずだから。
 
 次の日。
 夜中に起きていたせいか、だいぶ眠かった。だけど、チェックアウトの時間は決まっているし、なにより早めに帰らないとさらに次の日の仕事に支障が出る。だから、少し遅めにはなってしまったけど、旅館を出た。
 とはいえ、すぐに帰るのももったいなかったので、もう一カ所くらいどこかへ行こうということになった。
 で、やって来たのは山の上。
 旅館からそう遠くないところに、標高千メートルほどの山がある。車でほとんど頂上まで行けるので、登山ということではないけど、気分だけは登頂気分を味わおうということになった。
「いい風……」
 山頂を吹き抜ける風は、確かに気持ちよかった。
 天気がいいので、遠くまで綺麗に見渡せた。
「今回の旅行で、家族揃っての旅行はしばらくお預けね」
「まあ、それはしょうがないさ。陽菜たちの受験が終わらなくちゃ、みんな安心できないから」
「修ちゃんは、どう思ってる?」
「ん、なにが?」
「あの子たちの結果」
「このまま順調にいけば、三人とも合格できると思うけど。特に宗平には、落ちる要素が見つからない」
「確かにね」
 宗平が落ちるとしたら、それこそ解答欄を間違えてるとか、名前を書き忘れるとか、そういうことくらいだろう。
「三人とも、国立と公立で親孝行してくれるし、言うことないわね」
「ははは、確かに」
 お金のことは心配してないけど、それでも三人とも私立に行く気はないので、だいぶ助かるのは確かだ。
 本当に、もったいないくらいしっかりと育ってくれてる。
「本当に、ここまであっという間だったわね」
 僕と奈々が出逢って、つきあうようになって、婚約者になって、結婚して、子供ができて、本当にあっという間だった。
「高校生の時は将来どうなるか想像もつかなかったけど、今はこれだけ幸せなんだから、結果オーライよね」
「なんか、言葉の使い方、間違えてる気がするけど」
「いいのいいの。今、幸せということは間違いないんだから。あ、でも、あの頃から幸せではあったのよ。私の幸せは、修ちゃんの側にいて同じ時間を共有することなんだから。あの頃からずっと一緒にいるわけだから、その間の私はずっと幸せで、これからもずっと幸せなの」
 そう言って奈々は微笑んだ。
「修ちゃんはどう?」
「僕だって同じだよ。奈々と一緒だったからこそ、大変なことも乗り越えられたし、楽しいことも何倍にもなったし」
 奈々がいなければ、それはなかったことだ。そして、これまでの人生は、ここまで張りのあるものにはならなかっただろう。
「パパっ」
「おっと」
 と、そこへ、雪菜がやって来た。
 さっきまで陽菜たちと山頂探険してたはずだけど。
「どうしたんだ?」
「だってぇ、パパ、ずっとママと一緒なんだもん。少しはわたしの相手もしてよぉ」
 なるほど。そういうことか。
「ね、パパ、いいでしょ?」
「はいはい、わかったから」
 こうなってしまっては、多少なりとも相手しないと収まらない。
 うちの娘たちは、本当によくも悪くも奈々に似ている。それは見た目だけじゃなくて、性格もそうだ。もちろん、そっくりそのままということはない。そこは僕と奈々の娘だから、多少僕の性格も影響してる。ただ、基本的な部分は奈々にそっくりだ。
 それに、当然のことながら娘たちは奈々のことをよく見て育ってきてる。普段はあまりしないけど、たまに娘たちの前でも僕に甘えてくることがあるから、どうしたら僕に言うことを聞かせられるか、自然と学んでいる。
 強敵は陽菜と秋菜だけど、雪菜も最近は強敵になりつつある。
「こぉら、雪菜」
「抜け駆けはダメよ」
 と思ったら、件の陽菜と秋菜も戻ってきた。
「抜け駆けなんてしてないもん」
 そう言いながらも、僕の側を離れようとしない。
 奈々は、そんな娘たちのやり取りを呆れ顔で見てる。
「あれ、そういえば、宗平と涼菜はどうしたんだ?」
「涼菜が虫取りに夢中になっちゃって、それで宗ちゃんが一緒についてる」
「ああ、そうなんだ」
 涼菜くらいの年なら、いろいろなものに興味を持つ年だからな。しょうがないか。
「というか、陽菜、秋菜。そこで涼菜を見るのは、本来ならおまえたちの役目だろうが」
「だってぇ、せっかく旅行に来てるんだから、少しでも長くパパと一緒にいたかったんだもん」
 そういう気持ちがわからないわけではないけど、だからって妹をないがしろにするのは問題だ。
「パぁパ」
 と、今度は涼菜が戻ってきた。
「パパ、涼菜ね、トンボさんつかまえたの」
 見ると、確かにトンボを捕まえている。
「よく捕まえられたな」
「うん。お兄ちゃんがね、つかまえてくれたの」
「宗平が?」
「うん」
 宗平も、ちゃんと妹孝行してるわけか。
 だけど、その宗平はまだ戻ってきていない。いったいなにをしてるのやら。
「でも、涼菜。そのトンボは、ここで放していくんだぞ」
「そうなの?」
「家に持っていっても、すぐに死んじゃうからな」
「うん……」
「ま、もう少しだけそうしていてもいいから。そのあとは、ちゃんと放すんだぞ」
「うん」
 涼菜は末っ子で甘えん坊だけど、人の言うことにはちゃんと耳を傾けるし、それを正しいと判断すれば言うことも聞いてくれる。そのあたりは、親としてとても助かっている。
「パパ」
「ん、どうした?」
「なんでもないよ」
 陽菜はそう言いながら腕を絡めてきた。
「あ、陽菜だけずるい」
 すぐに秋菜が反対側にまわり、腕を絡めてきた。
「お姉ちゃんたちだけずるぅい」
 今度は雪菜が声を上げる。だけど、僕の腕は二本しかないわけで。
「雪菜はいつもパパに甘えてるんだから、今日は我慢よ」
「そうそう。たまにはお姉ちゃんたちにパパを譲ってね」
 甘えてるのは、このふたりも一緒なのだが。それを言ったところで猛然と反論されるだけだしな。
「あ、そうだ。パパ」
「なんだ?」
「誕生日にね、ほしいものがあるんだ」
「なんだなんだ、その年にもなってプレゼントの催促か?」
「ん〜、プレゼントといえばそうかもしれないけど。別にものじゃないの」
「ものじゃない?」
 いったい陽菜はなにが言いたいんだ?
「約束がね、ほしいの」
「約束? なんの?」
「んふふっ、それは、誕生日にね」
 そう言って陽菜は意味深な笑みを浮かべた。
 陽菜と秋菜の誕生日は、十月だ。
 名前も秋に生まれたことから、それにちなんだものをつけた。まあ、双子だとわかる前に『秋菜』と決めていたから、双子だとわかった時にもうひとつをどうするか悩んだ。
 で、その時に出たのが、音では『はる』だけど、漢字で書けば『陽菜』という、今の名前だ。
 生まれた日は天気もよくて、太陽がいっぱいに降り注いでいたから、あながちずれた名前ではないけど。
 ちなみに、雪菜は前に説明した通り冬の雪の降る日に、涼菜は初夏のとても涼しい時期に生まれたから、そういう名前になっている。
「パパ。まさか、陽菜だけにプレゼントをあげないよね?」
「なんだ、秋菜もなのか?」
「むぅ、当たり前よぉ。私だって、ほしいんだから」
 いったい、なんの約束がほしいというのだろうか。
 どうもそのあたりはよくわからない。
「その約束自体は今はいいけど、それをすることでふたりにはいったいなんのメリットがあるんだ?」
「そうだなぁ、それから先も、ずっとがんばれる、ってところかな」
「うん、そうだね。それがあるおかげで、どんな困難にも立ち向かえる」
 なんか、えらくたいそうなことを言われそうな気がする。
 とはいえ、受験も控えているし、それに伴って将来というものを真剣に考えはじめる時期でもあるから、不安に思っているのかもしれない。僕だってそうだった。僕には奈々がいてくれたから、その困難にも打ち勝つことができたけど。
 その代わりを約束がしてくれるなら、それもいい。
「というか、ふたりとも同じなのか?」
「最初は違ったんだけど、いろいろ話してるうちに同じにしようってことになったの」
「同じでよかったのか? それぞれ違う方がいいんじゃないか?」
「それでもよかったんだけど、お互いのを聞いてると、それもいいなって思えて。だったら同じのにした方が平等だしいいかなって」
 陽菜と秋菜は双子だからなのか、そういうところがある。
 抜け駆けというわけでもないんだろうけど、どっちかだけというのを極力してこなかった。それに気付いたのはふたりが小学校に入った頃だった。最初、そのことはどうなんだろうかと奈々と相談したけど、結局ふたりがそれでいいならということで、今でもふたりのやりたいようにやらせている。
「だからね、パパ。約束を守ってくれる時も、ふたり平等にね」
「なにをさせられるのかはわからんが、努力はするよ」
 この期に及んであまり変なことは約束させられないと思うけど、少しだけ警戒しておくか。
「ところで、ふたりともいつまでそうしてるつもりなんだ?」
「いつまでって、ずっとじゃダメ?」
「ダメだ」
「むぅ、ケチだなぁ」
「ケチとか、そういう問題か?」
「あ、ひょっとして、胸が当たって気になるとか?」
「アホ」
 気にならないわけじゃないけど、娘の胸にいちいち反応していたら、それは親として問題だろう。
「アホじゃないもん」
 むくれる陽菜。
「パパは、陽菜より私の胸が気になってるんだよ」
 と、今度は秋菜がなにやらずれたことを言ってる。
「どういう意味だ?」
「だって、陽菜より私の方が胸、大きいもん」
「大きいって、ほんのわずかでしょ? そんなの測ったその日の体調で変わる程度よ」
「でも、私、陽菜に一度でも負けたことないもん」
「そ、それはたまたまよ」
「そんなに何度もたまたまは続かないと思うけどねぇ」
 ふたりは、身長、体重とほぼ同じだ。双子でも必ずしもそうなるとは限らないらしいけど、うちのふたりは今までほとんど同じように成長してきてる。もちろん、わずかな差はある。
 その差が、どうやら胸の大きさらしい。
「ママにはちょっとかなわないけど、それでも負けてないと思うよ。だから、もしママに飽きたらいくらでも私に乗り換えていいからね」
 そういうことをさらっと言わないでほしい。
「秋菜。あなたは私が黙ってると思ってなにを言ってるの?」
 そこでようやく奈々が割って入ってきた。
「いくら娘でも、言っていいことと悪いことがあるのよ?」
「それはそうかもしれないけど、だからってすべて抑え込むのも問題あると思うよ?」
「それは程度の問題ね。冗談で済むことならいいのよ。でも、それで済まないことを好き勝手に言うのは、そっちの方が問題じゃない?」
「それこそ程度の問題よ。冗談で済むか済まないかは、人それぞれ判断基準が違うんだから」
「ええ、そうね。それ自体は間違ってないわ。でも、今それを判断するのは、私なの。なんといっても、私のことを言われてるんだから」
 勝負あり。やはりまだまだ奈々にはかなわない。
「秋菜。その辺にしておけ。それに、さっきのは少し冗談が過ぎた。だから、ちゃんとママに謝る」
「……ごめんなさい」
「わかればいいのよ」
 こういう時、性格が似てるとすぐに衝突してしまう。普段はとても仲の良い母娘なのだが、一度はじまってしまうと僕ですら仲裁に入るのを躊躇ってしまう。
 陽菜も秋菜も性格は似てるのだが、沸点が低いのは秋菜の方だ。陽菜は、まだ自分が長女であるという意識があるからか、多少我慢強い。
 ただ、その娘たちにも増して沸点が低いのが、母親である奈々というのは、少々問題がある気がするのだが。
「よし、そろそろ下りよう。な?」
「そうね」
「ほら、陽菜、秋菜。宗平を呼んできてくれ」
 このままここにいさせても気まずいだけだろうから、いったん頭を冷やす意味でも離れてもらおう。
「秋菜、行こ」
 陽菜はそのあたりをよく理解してる。秋菜を連れて向こうへ行った。
「奈々もさ、もう少し言いようがあると思うんだけど」
「……わかってるわよ。私も少し大人げなかった」
 奈々は、少しだけ恥ずかしそうにそう言った。
「でも、やっぱり修ちゃんのことを言われると、たとえあの子たちが相手でも言いたくなっちゃうの」
「そこでグッと我慢するのが親であり、大人だと思うけど」
「うっ……」
 そういうところは昔から本当に変わってない。
 本音を言えば、奈々のそういうところは無理に直さなくてもいいと思ってる。なぜかといえば、そういうことをしたあとに奈々はたいてい後悔して反省する。その時の表情や仕草がカワイイ。
「……修ちゃんのいぢわる」
「はいはい。いぢわるでいいよ」
「むぅ……」
 たぶん、僕にもいろいろ原因はあるんだろう。でも、なんとなく今のままでいいと思ってる時点で、僕も奈々も娘たちも変わらない。
 それが、僕たちの、僕たちだけの形、だから。
 
 そして春──
「パパ」
「着替え終わったか?」
「うん、ほら」
 雪菜は、クルッとまわってみせた。
 真新しい制服。それは、今日からお世話になる中学校の制服だ。
「よし、じゃあ、記念に一枚写真を撮っておこう」
 すでに準備しておいたデジカメを持ち、雪菜をリビングの端に立たせる。
 思えば、この家を建ててから、なにか記念があると必ずここで写真を撮っている。
 雪菜の写真も、つい先日小学校の卒業式の日に撮っている。
「撮るぞ」
「いいよ」
 二枚ほど写真を撮って、記念撮影は終了。
「あとは、ママの準備が終わるまで待ってような」
「はぁい」
 今日は、雪菜の中学校の入学式。
 子供たちのそういう重要な行事には必ず有休を取って休んでいる。
 ただ、今年は卒業式や入学式が立て続けにあり、正直厳しいところもあった。それでも仕事以上に子供たちの方が大事なので、迷うことはなかった。
「それにしても、雪菜ももう中学生なんだよな。本当にあっという間だ」
「それだけ成長したってことだよ」
「このままだと、あっという間に卒業して、あっという間に高校生、大学生になって、あっという間に大人になって巣立っていくんだろうな」
 それは、本当にそう思う。
 つい二日前に陽菜と秋菜の大学の入学式もあった。
 はじめての子供であるふたりが、もう大学生である。あと四年もしたら卒業。親の手を離れてしまう。嬉しいような、淋しいような、複雑な心境だ。
「パパ、淋しい?」
「ん、そうだな、淋しくもあるけど、嬉しくもあるよ。大切な娘が、それだけ立派に育ってくれたってことなんだから」
「そっか。でもね、パパ。安心していいよ」
「なにがだ?」
「わたしはずっとパパの側にいるから」
「そうか。それは嬉しいな」
 それがたとえ今だけの気持ちだとしても、そう言ってもらえるのは嬉しい。
「でもな、雪菜。それはなにをおいてでもしなくちゃいけないことではないんだから、自分のやりたいことが見つかったら、そっちを優先しなくちゃダメだぞ」
「ん〜、それはその時になったら考えるよ。今考えても意味ないもん」
「それもそうか」
 少なくとも高校に入るまでは、今のままでいい。今からあれこれ進路のことを考えるのは、もう明確な目標がある場合のみだ。見たところ、雪菜にはまだそれがない。
「お待たせ」
 そこへ着替え終えた奈々がやって来た。
 つい先日新調させられたスーツを着て、いつも以上に化粧にも気合いが入っている。まあ、僕も奈々ももういい年だから、今までみたいにはいかない。奈々もいろいろ努力はしてるようだけど、寄る年波には勝てない部分はあるようだ。
「それじゃあ、行くか」
「うん」
 
 この春、陽菜と秋菜は高校を卒業し、無事第一希望の大学へ進学した。
 受験も特に問題なく、センター試験、二次試験ともに想定内の成績だった。
 ふたりは学部は別で、陽菜が文学部英米文学科、秋菜が法学部法律学科。陽菜は通訳に、秋菜は弁護士になるという夢を持っている。
 一方、宗平も中学を卒業し、無事に高校へ進学した。
 宗平の場合は成績になんの心配もなかったので、正直言えば誰も心配していなかった。
 試験も本人いわく、九割以上正解してるはずとのことだったので、かなり余裕があったようだ。
 これで高校も陽菜たちの後輩となった。
 そして、雪菜も小学校を卒業し、中学校へ入った。
 これだけいろいろあると、親としてはかなり大変なのだが、それも子供たちの成長の証だと思えばこそ、乗り越えられる。
 次第に親の手を離れていく子供たちだから、できることはできるうちになんでもやっておきたい。そうしないと、絶対に後悔する。
 それに、僕も奈々も、子供たちの晴れ姿を見るのが嬉しいのだ。まだ結果は出ていないけど、少なくともここまでは自分たちの育て方は間違っていなかったんだと、確認できるから。
 
 入学式が終わり、保護者向けの集まりも終わり、僕と奈々は家路に就いていた。
 雪菜はまだクラスの方でやることがあるので、一緒には帰れない。
「雪菜ももう中学生なのよね。早いわ」
「自分が年取ったって感じるよ」
「認めたくはないけど、そうね」
 奈々は、見た目に関してはまだ三十代前半でもいけると思う。それくらいいろいろ努力してる。
「ねえ、修ちゃん。私たちもそろそろ、先のことを考えはじめるべきなのかしら」
「先のことって?」
「子供たちが、みんな巣立ったあとのこと。涼菜だって、あっという間に大きくなるんだから」
「確かにそうかもしれないね」
 家族だからっていつまでも一緒にいられるわけではない。
 ひょっとしたら誰かが僕たちと一緒にいてくれるかもしれないけど、そうならないかもしれない。そうすると、僕たちだけでどうするか考えなければならない。
「ただ、実際は子供たちがどうしたいのかちゃんと見極めないといけないけど」
「修ちゃんは、一緒にいた方がいい? それとも離れてしまってもいい?」
「一概には言えないよ。一緒にいてもそれでやりたいことがやれるならそれでいいし、一緒にいたらそれができなくなるというなら、遠慮せずに離れてほしい」
「もし、みんな一緒にいたいって言ったら?」
「それはそれでいいよ。僕が改めて言うことでもないし。それこそ、その頃にはそれぞれひとりの大人として自分の考えでそう決めるわけなんだし」
 どうなるにしても、それを決めるのはそれぞれ子供たちだ。それに対して僕や奈々が口を出す必要はない。
「奈々はどうなんだい?」
「私は、特にこれという希望はないわ。それぞれが自分で決めてくれればそれでいい」
 結局、親とはそういうものだ。どんなに子供が可愛くても、親のエゴで子供をずっと手元に置いておくことはできないのだから。
「それにね、私はこうも考えているの。今は子育てが大変で毎日それに追われてるけど、子供たちが成長して、巣立っていったあとは、ようやく再び夫婦だけの時間が持てるようになるって。私は、それをとても楽しみにしてるの。もちろん、新婚の頃みたいにはならないとは思うけど、それでも気持ちだけはあの頃と同じでいたいから」
 奈々はそう言って微笑んだ。
 結婚して今年で十九年。結婚してからのふたりだけの時間はとても短かった。だから、奈々がそういう風に言うのもよくわかる。
「私はね、子供たちも大切だけど、修ちゃんのことは今でもずっと、一番大切なの」
 奈々は、ことあるごとによく言っていた。
 母親である前に、妻であり女であるんだから、と。
 それは奈々が、いつまでもひとりの女性として、僕の側にいたいという想いの表れでもあった。
 僕はそこまで深くは考えてはいないけど、それでも奈々みたいな考えはとてもいいと思う。父親、母親になったからって、それぞれ男であり女であることをやめてしまったわけではないんだから。
「だからね、修ちゃん。修ちゃんも私のことをずっと一番大切に想っていてほしい」
「それは大丈夫だよ。僕は今でも奈々のことが一番好きなんだから」
「ふふっ、そっか」
 奈々は嬉しそうに笑い、ついでに腕を絡めてきた。
「ね、修ちゃん。今度、久しぶりにふたりきりでどこかに行かない?」
「ふたりきりで?」
「ええ。涼菜も少しずつ手がかからなくなってきてるし、なにかあっても陽菜たちがいるから大丈夫だろうし」
「まあ、確かに」
「それに、修ちゃん。私にバレてないと思ってるかもしれないけど、去年の陽菜たちの誕生日に約束したでしょ。無事大学に合格したら、ふたりとどこかへ行くって」
「…………」
「まあ、うちで私に隠し事なんて無理なのよ」
 確かに去年の誕生日に、ふたりとそういう約束をした。でも、それは奈々のいない場所での約束だったから、奈々には知られていないと思っていた。
 なのに当然のごとく奈々は知っていた。
 いったいどこでどうやって知ったのか。
「だから、あのふたりになにか言われても大丈夫よ。切り札があるんだから」
 やっぱり奈々にはかなわない。
「いいよ。どこか行こう」
 こうなったら言うことを聞くしかない。まあ、僕も奈々とふたりきりというのには惹かれるものがあったからいいんだけど。
「どこか行きたいところはある?」
「どこでもいい?」
「どこでもって、どのくらい行くかにもよるけど」
「一週間」
「一週間?」
「できれば十日くらいがいいけど、最低一週間」
 それはまたいきなり無茶なことを。
 そりゃ、有休なんかを上手く使えば可能ではあるけど、有休はなにかあった時のために残しておきたいものだから。
「それで、夏に休みが取れるなら、北海道、それ以外ならシンガポール」
「シンガポールって……」
「新婚旅行の時にとてもよかったから、もう一度行ってみたかったの」
 そういう風に言われてしまうと、なにも言えなくなる。
「ね、修ちゃん。少し、考えてみて。お願い」
「わかったよ」
「ありがと、修ちゃん」
 これが惚れた弱味とでも言うのだろうか。
 最初は確かに奈々が僕のことを気になり、好きになった。でも、僕もそんな奈々のことが気になり、好きになった。多少の早い遅いはあるけど、その想いは変わらないと思ってる。
 だから、僕は奈々が喜ぶならなんでもしたいとずっと思ってきた。
 僕にできることは限られてる。その中でなにができるか。それをちゃんと考えて、さらによりよく見せる努力や工夫も欠かさない。
 義務感などないけど、それでも僕は、奈々が僕のことをあきらめないでくれたことに、常に感謝している。もしあの時、すぐにあきらめてしまっていたら、僕は今頃、これだけの充足感と幸福感を味わえなかっただろうから。
「その旅行で、六人目ができちゃったりしてね」
「へ……?」
 ちょっと振り回され気味だけど、これが僕と奈々の関係だから。
 ずっと、ずっと変わらない。
 僕と奈々の、一番心地良い関係。
 
                                    FIN
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