君と僕の形
 
 
 三月の授業はあっという間に終わってしまう。卒業式が終わったあと、授業自体は二週間ほどしかない。あとは、終業式を行って今年度は終了となる。
 去年の三月は、本当にあっという間だった。気付いたら春休みになっていて、気付いたら二年生になっていた。
 今年はそこまでにはならないと思うけど、それでも近いものはあるだろう。それはたぶん、テストなどの余計なしがらみから解放されて、思考や気分が楽になっているからそう感じるのだろう。
 そんな三月のある日。
 授業が終わり、帰ろうと思って奈々に声をかけた。
「あ、ごめん。今日はちょっと用があるの。だから、一緒に帰れないんだ」
 そういうことはある。僕だってそういうことはあるから、特にどうということもなかった。
 空いた時間は、図書館で過ごすことにした。
 以前はよく図書館に入り浸っていたけど、奈々とつきあいはじめてからはほとんどそれもしていなかった。だから、今日は久しぶりに思う存分本を読んだ。
 三冊ほど本を借りて、図書館を出た。
 図書館は教室のある校舎とは別棟にあり、渡り廊下を通って行き来する。
 直前まで読んでいた本のせいで少し気分が高揚していた。
 だから、僕はそれに気付くのが少しだけ遅れた。
 廊下に面した窓の外に目を向けた時、外を歩く生徒の姿があった。特別遅い時間ではないから、別に珍しいことでもない。
 最初はそう思った。
 だけど、僕はその後ろ姿に見覚えがあった。
「奈々……」
 そう、その後ろ姿は奈々だった。以前はよく後ろをついていたから、間違えるはずがない。
 奈々は、ひとりではなかった。隣にいたのは、名前は覚えてないけど、同じ学年の男子。
 確か、バスケ部だったはず。背が高くて二枚目だから、女子に人気がある。
 おまけに勉強もそれなりにできるので、学年の男子の中でもかなりの人気者だった。
 奈々は、そんな彼と歩いていた。
 ただ歩いているなら、一年生の時に同じクラスだったから、などの理由で特に気にはならなかっただろう。だけど、僕は見てしまった。
 奈々は、笑顔だった。とてもいい笑顔だった。
「…………」
 果たして、奈々は僕と一緒に歩いている時に、あんな笑顔を見せてくれたことがあっただろうか。
 ……思い出せない。
 やがて、ふたりの姿は廊下から見えないところまで行ってしまった。
「…………」
 僕は、あり得ないとは思いながらも、拭いきれない不安と焦燥とで、今はただ、一刻も早くその場を去りたかった。
 
 冷静になって考えてみれば、それは偶然だったのかもしれない。
 本当にたまたま一緒になり、その時の話が特に面白かったから。
 そう考えれば、僕自身を納得させられた。
 だけど、僕の気持ちは次の日にはさらに揺らぐことになった。
 いや、正確に言えば、次の日から、だ。
 休み時間や昼休みには今まで通りだった僕と奈々だったけど、放課後は違った。
 奈々は、連日用事があるといってひとりで帰り、ひとりで帰ったはずなのに、あの彼と一緒に歩いていた。
 あとをつけたわけじゃない。偶然が重なって、その姿を見かけただけだ。
 もう、僕にはなにをどうすれば自分を納得させられるのか、わからなかった。
 いろいろ考えた。だけど、どう考えても悪い結論しか出なかった。
 奈々本人に確認しようかとも思った。でも、適当にはぐらかされ、ウソをつかれたらと思うと、それもできなかった。
 僕は、日一日と思考が後ろ向きに、気分はどん底まで墜ちていった。
 そして──
 
 最初から、期待などしてはいけなかったんだ。
 それはわかっていたはずだ。それを学んでいたはずだ。
 だから僕は、自分を守るために、それを切り捨てていたんだ。
 なのに、僕はそのことを忘れてしまった。
 それだけが僕が僕を守れる唯一の方法だと理解していたはずなのに。
 期待が大きければ大きいほど、裏切られた時、期待が外れた時の反動は大きい。
 それがイヤだったから、僕は期待するのをやめていた。関わりにならなければ、期待することもないし、得るものは減るのかもしれないけど、その代わり傷つく可能性も減る。
 僕は、それを選んでいたはずなのに。
 だから僕は、ひとつの決心をした。
 また多くの人に迷惑をかけるかもとは思ったけど、これ以上僕にはどうすることもできそうになかったから。
 僕は、結局変われていなかったから──
 
奈々恵視点
 
 私は自分でも不思議だった。
 誰かを好きになることが、ここまで思考を、行動を変えてしまうのかと。
 私は、本当に修平のことが好き。
 好きだから、デートもしたし、キスもした。手を繋いで歩いたし、セックスもした。
 そのひとつひとつを思い出す度に、どんどん修平を好きになっていく私に気付く。
 恋は盲目だなんて言うけど、本当にそうだ。まわりのことなどどうでもよくなるくらい、修平のことだけを考えていたかった。
 もちろん、それが無理なこともわかっていた。心情的にそうありたいということだ。
 もうすぐ春休みに入る。
 そうしたら、今まで以上に一緒にいられる時間が増える。私はそれが楽しみだった。
 そうそう。春休みの途中には、大事な日もある。それは、修平の誕生日だ。
 修平の誕生日は、四月三日。
 少し先だけど、いろいろしてあげたいから、準備も早めにしようと決めていた。そのために、いろいろな人に知恵も借りた。
 まあ、そのせいでこのところ一緒に帰れないのがすごく残念だけど。でも、それもあと少しの我慢。
 当日にそれを見てくれれば、きっとわかってくれるはずだから。
「そうだ」
 私は携帯を取り出し、修平にメールを打った。
 ところが、メールは少しして違う意味で返ってきた。そう、メールが送れなかったのだ。
 私はその時、たまたま電源が入っていないかなにかで、たまたまメールが送れなかったのだと思っていた。
 だけど、それがまったく違ったことに、その時は気付けなかった。
 
 次の日。
 修平が学校を休んだ。
 以前にも休むことがあったから、風邪かなにかだと思ったけど、私になにも連絡がなかったことに、少しだけ腹が立っていた。
 休み時間、メールで確認しようと思ったけど、相変わらずメールはすぐに返ってきた。
 この時になってさすがにおかしいと思い、私は直接電話することにした。
 だけど──
『おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためかかりません』
 そんなアナウンスが流れるだけだった。
 かなり具合が悪いのかもしれない。
 私はそう判断して、学校からの連絡をあきらめた。
 放課後、私はホームルームが終わると同時に教室を出た。
 昇降口で靴を履き替え、少し早足で学校をあとにした。
 向かった先は、修平の家。
 彼女としては、そんな状態の彼氏を放っておくわけにはいかない。
 だけど、その時の私は、とても言い表しにくいなにかイヤな予感があった。
 それがなんなのか、考えようとは思わなかった。考えても意味がないと思っていた。
 ただひたすらに有村家へ歩を進めていた。
 やがて、もうだいぶ見慣れた有村家が目に飛び込んできた。
 少し息が上がっていた。
 インターフォンの前で、軽く息を整えた。
 インターフォンを押すと、少しの間があって、反応があった。
『はい、どちらさまですか?』
「こんにちは、奈々恵です」
『……ああ、奈々ちゃんね。ちょっと待ってて』
「はい」
 声は、おそらく穂香さん。穂香さんは休みが不定だから、平日でもいることがある。
 少しして、穂香さんが出てきた。
 でも、私は一瞬、それが穂香さんだとわからなかった。
 それくらい穂香さんの表情から、いつもの笑みが消えていたのだ。
「あの、こんにちは。今日、修平が休んだので様子を見に来たんですけど」
 しかし、穂香さんからすぐに言葉は返ってこなかった。
 穂香さんの顔には、恐いほど表情がなかった。
「えっと……穂香さん?」
「奈々ちゃん……いえ、桂見さん」
「えっ……?」
「悪いんだけど、もう二度とここへは来ないでほしいの」
 私は、なにを言われたのかわからなかった。
 頭がそれを理解すると、同時に──
「ど、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。もうあなたにここへ来てほしくないの」
「そ、そんな……いきなりどうしてですか?」
「どうして? そうね……理由はあるけど、それをあなたに説明しても意味はないわ」
 いつもの穂香さんではなかった。
 なにかがおかしかった。
「そ、それは修平が言ったんですか? というか、修平はどうしたんですか?」
「これは修ちゃんが言ったことではないわ。でも、これは修ちゃんの姉として言ってることなの。家族としての、言葉」
「…………」
「それと、修ちゃんがどうしたのかは、あなたには教えられない。だから、帰って」
 穂香さんは、それだけ言うと家の中に入ろうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください。いきなりそんなことを言われても、とても納得できません」
「あなたが納得できようができまいが、そんなの私には関係ないわ」
「そんな……」
 どうしてこんなことになっているんだろう。
 私はただ、修平の様子を見に来ただけなのに。
「理由を聞かせてもらえなければ、帰れません」
「……いいわ。話してあげる。でも、その前に少しだけ待って」
 そう言って穂香さんは家の中へ。
「…………」
 穂香さんは、すぐに出てきた。手に、なにか持っている。
「修ちゃんは、いないわ」
「いない?」
「どこへ行ったのかは、話せない。そして、どうしていないのかは、あなたのせいよ」
「私の、せい?」
「前もって言っておくけど、事実かそうでないかは関係ない。それを理解した上で聞いて」
 なんのことを言いたいのかはわからなかったけど、頷くしかなかった。
「ここ最近、修ちゃんとはどうだったの?」
「どうって、いつも通りでしたけど」
「本当に? 本当にいつも通りだった?」
「……あ、放課後は、一緒に帰ってませんでしたけど」
「その時に、なにをしてたの?」
「なにって……それは……」
「心当たりがあるようね。ようはね、その様子を修ちゃんは見てしまった、ということ」
「えっ……?」
「それがどういう理由だったかなんて、関係ないわ。修ちゃんがそれを見て、どう考え、どう思ったか。それがすべて」
「…………」
 ここまで言われれば、わかる。
 つまり、修平は私と彼が一緒にいるところを目撃してしまった。私は用事があるといってそこにはいないはずなのに。
 だけど──
「でも、それくらいでなんで──」
「それくらい? 今、それくらいって言った?」
「は、はい……」
「……やっぱり、私の目は間違ってたみたいね。これじゃあ、姉として失格だわ」
 穂香さんは、自嘲し、頭を振った。
「ねえ、あなたとつきあう前の修ちゃんは、どんな性格だった?」
「それは……」
 女性が苦手で、コンプレックスを持っていて、とても前向きとは言えない性格だった。
「あ……」
「そう。あなたにとっては『それくらい』で済むことでも、修ちゃんにとっては『それくらい』ではとても済まない問題なのよ。私は、あなたなら修ちゃんのそういうところも含めて理解してくれると思ってたわ。でも、間違ってた。もちろん、あなただけを責めるのは本当はおかしいのかもしれないわね。修ちゃんをそういう風にしてしまった原因のひとつは、私たちのせいでもあるんだから。それでも私は修ちゃんの姉として、修ちゃんになにかあったらその一生を支えていく覚悟をもうずいぶん前に決めてるの。それが私の責任であり、償いでもあるから」
「…………」
「修ちゃんはかなり思い詰めていたわ。できる限りあなたを信じようとしていたみたいだけど。でも、修ちゃんの性格では自分から確認することはできず、だから余計に悪いことばかり考えてしまい、結果、思考の悪循環に陥った」
「そんな……」
 私の行動が、修平にそんな影響を与えていたなんて。
「それと、私自身あなたとはもう関わり合いになりたくないんだけど、修ちゃんが少しでもあなたのことを考えていたなら、橋渡しくらいしてもいいと思ってた。でも、修ちゃんはあなたのことを忘れたいみたい」
「……どうしてそれを?」
「これを見て」
 そう言って渡されたのは、修平の携帯だった。
 電源は入っていなかった。
「電源を入れてみて。そして、電話帳を見て」
 言われるままに電源を入れた。そして、電話帳を見た。
「わかった?」
「…………」
 わかってしまった。
「そこに、あるはずのあなたの名前はないの。消してしまったのよ」
 そう、あるはずの私の名前は、どこにもなかった。
「だからね、もう二度とここへは来ないで。もっとも、ここへ来ても修ちゃんはいないけど」
 穂香さんは、私の手から修平の携帯を奪い取るように取り返し、そのまま振り返ることなく家の中へ消えた。
「ああ……」
 私は、その場に崩れ落ちた。
 
修平視点
 
 春休みになった。
 といっても、今の僕にはどうでもいいこと。今日が何日だろうが、何曜日だろうが、春休みだろうがそうでなかろうが、関係ない。
 僕は──逃げ出したのだから。
 
 僕は、耐えられなかった。
 信じ続けることが、あんなに苦しいことだなんて、知らなかった。
 疑って、適当に相づちを打って、誤魔化して。その生活がどれだけ楽だったか、思い知った。
 自問した。
 どうして苦しい思いをするの?
 すぐに答えは出なかった。いや、出せなかった。
 苦しんでいる理由は明白でも、それ以外の理由がないか、探してしまった。
 でも、そんなものあるはずなかった。それはそうだ。僕は、昔からそういうのをずっと回避してきたのだから。だから、自ら進んで苦しんだことはない。そうすると、そうなる理由もそう簡単には思い浮かばない。
 理由がわかっているなら、その解決方法もわかっている。だけど、僕の前にはふたつの選択肢が用意されていた。
 ひとつは、その問題を自ら進んで解決する。
 ひとつは、なにもかも忘れて逃げ出す。
 前者は痛みを伴い、後者は楽になれる。
「そう、思っていたのに……」
 僕は、見慣れない天井をぼんやりと見つめながら、呟いた。
 ここは、父さんの実家。場所は、東北は秋田県の真ん中にある横手。
 僕は、春休みということを口実に、ここへ逃げてきていた。
 父さんの両親、つまり僕の祖父母はとてもおおらかな人たちで、突然の訪問にもイヤな顔ひとつ見せず、泊めてくれた。
 これが母さんの実家なら、瞬く間に話が広まって、大きくなっていただろう。
 田舎の家なので、部屋はたくさんある。今はこの家に僕を含めて三人だけなので、異様に広く感じる。
 普通ここへ来る時は、家族揃ってなので、とても賑やかなのだ。
 それが、僕ひとりだけという慣れない状況も手伝って、余計に異様な感じだった。
 僕がここへ来てすでに三日経つ。一応ここへ来ていることは連絡してある。さすがになにも連絡せずに家を飛び出していたら、警察に捜索願を出されかねないからだ。
 母さんへの言い訳は、穂香姉さんに協力してもらって、なんとかなった。
 今回のことで一番僕のことを心配してくれたのは、やっぱり穂香姉さんだった。
 僕の異変に最初に気付いたのもそうだし、相談に乗ってくれたのも姉さんだった。
 姉さんは、最初から無理しなくていいと言ってくれた。それを拒んで無理したのは、僕の意志。だけど、今にして思えば、最初から姉さんの言うことを聞いておけばよかった。
 そうすれば、深く傷つかずに済んだのかもしれない。
「それも、ウソ、か……」
 傷つかない方法なんてなかった。なにをどうやっても傷ついた。
 そして、今こうしていることこそが、僕の傷をさらにえぐっていることも、気付いていた。
 きっと、ひと言で済むことだったはず。
 奈々に聞けばものの三十秒ほどで解決できたはず。
 それが、僕にはできなかった。
 逃げてもなんの解決にもならないことくらい、十二分に承知している。僕も、そこまで愚かではない。
 でも、万が一という事態が脳裏をよぎる限り、僕はあと一歩が踏み出せなかった。
 僕は確かに傷ついた。この傷が癒えるまでには、相当の時間が必要だろう。
 だけど、僕は彼女を──奈々をもっと傷つけた。
 逃げ出した直後は、冷静に物事を考えることができなかった。ただ、あの場所から逃げ出したかった。
 逃げ出したあとは、少しだけ冷静になれた。
 そうすると、それまでわかってはいても考えずにいたことが、次々出てきた。
 僕は、奈々を信じ続けられなかった。考えたくもないことを考えるのがイヤで、その考えから逃げるために、信じ続けられなかった。
 本当は、僕が誰よりも奈々のことを信じてあげなければいけないのに。
 僕は、目先のことにばかり気を取られて、大事なことを忘れていた。
 だから、僕にはもう、奈々の前に立つ資格はない。
 それに、今回のことでさすがの奈々も、愛想を尽かしただろう。
 それも当然だ。
 僕はこんなにも愚かで、卑怯で、矮小で、醜くて、誰かに好きになってもらえるような人間ではないのだから。
 
奈々恵視点
 
 私はいったい、彼の──修平のなにを見ていたんだろう。
 最初からわかっていたはずなのに。修平が、ほかの男子とは違うことを。
 だから私はそこに惹かれ、好きになったのに。
 わかったつもりになっていただけだった。彼女になって、さらに理解が深まったつもりになっていた。
 だけど、私はなにもわかっていなかった。
 それどころか、私は私の物差しで修平を見るようになっていた。それが最もしてはいけないことだとわかっていたのに。
 軽い気持ちだった。
『普通なら』と考えて、本当に軽い気持ちだった。
 でも、その『普通』はあくまでもそれを『普通』と捉えられる人にとってのもの。修平は、そうではなかった。
 私はそれをわかっていたはずだったのに。
 だから、穂香さんに責められて当然なのだ。むしろ、責められていなかったら、私は理不尽な怒りだけを修平にぶつけていたかもしれない。
 私はきっと、驕っていたんだ。
 セックスまでする仲になって、私が修平のことを理解したのだから、修平も私のことを理解しただろうと、勝手に思っていた。
 そんなはずないのに。
 修平はいったい何年間、そういう『普通』とは違う考えを持って生活してきたのか、私は忘れていた。
 つきあうようになってまだ二ヶ月余り。
 たった二ヶ月では人は変われない。それが、心の奥底にあるものならなおさらだ。
 たとえあの行動が修平のためのものだったとしても、もはやそれは言い訳にもならない。
 穂香さんじゃないけど、事実かそうでないかなど、関係ない。
 起きたことが、すべてなんだ。
 私の行動が、修平を傷つけた。
 そして修平は、私の前から姿を消した。
「どうしたいんだろ……」
 あの日から、もう三日が経った。
 学校は春休みに入り、用がなければ家から出る必要はない。
 自然、私はあれこれ考え続けていた。
 いろいろ考えるけど、一番の問題は今、私はなにをどうしたいのか、なのだ。
 今一番しなくちゃいけないことは、やはりまずは修平に会って、謝ること。
 誤解させたこと、説明しなかったこと、理解してあげられなかったこと。
 とにかく諸々含めて謝らなくちゃいけない。
 でも、そのためにしなくちゃいけないことがある。それは、穂香さんを含めて誰かを説得して、修平が今どこにいるのか聞き出さなければならない。それができなければ、私は謝るどころか話すことすらできないのだから。
 自分でも不思議なんだけど、いろいろ考えても修平のことをあきらめるという選択肢だけは出てこない。それだけ私は修平のことが好きということ。
 たぶん、このままなし崩し的に修平と別れてしまったら、私はもう二度と誰かを好きになるなんてできない。だから、私は修平を離しちゃいけない。
 以前、修平に私を離さないでと言ったけど、本当は逆だ。私が修平を離したくないんだ。
「さて、どこから突き崩すべきなんだろ」
 有村家の女性陣は、揃いも揃って修平を溺愛している。ただ、今回のことはおそらく三姉妹の間だけで止まっているはずだ。いくらなんでも今回みたいな理由を、親には話せない。
 そうすると一番楽に情報を引き出せそうなのは、母親である彩香さんだ。
 でも、それは穂香さんも想定済みだろう。なにか予防策があると考えるのが妥当だ。
 次に可能性があるのは、柚香さんだと思う。一見すると瑞香さんの方が落としやすそうに見えるけど、修平のことに関してはある意味では穂香さん以上だから。そうすると、瑞香さんから聞き出せる可能性は、限りなく少ない。
 柚香さんの場合の問題点は、私との相性がよくないこと。だけど、今はそんなことを言っていられる状況ではない。
 論外なのは、穂香さんだ。穂香さんから聞き出せる可能性は、ゼロ。
 でも、こうも考えている。穂香さんをどうにかできない限り、最終的な解決にはならない、と。そのためには絶対に修平本人からの口添えが必要となる。いくら穂香さんでも、修平から言われれば認めるだろう。
「とにかく、明日から行動あるべし」
 方針を決めたら、少しだけ気分が軽くなった。
 と思っていたら、携帯が鳴った。メールだ。
「あ……」
 
「時間には正確なのね」
「それは人として当然だと思うんですけど」
 私は目の前の人──柚香さんにそう言った。
 ここは幹線道路沿いにあるファミレス。
 その禁煙席の一席に、私と柚香さんはいた。
「でも、驚きました。まさか柚香さんからメールが来るなんて」
 そう、昨夜のメールは、柚香さんからだった。内容は実に簡潔。会って話したいことがあるから、十一時にファミレスに来るように。それだけ。
 私はいろいろ追求したいこともあったけど、とりあえず行く旨だけ伝えて、今日に至った。
「なにか頼む?」
 柚香さんの前には、すでに紅茶が置かれている。
 私はメニューを見て、ココアを頼んだ。
 飲み物だけだったから、すぐに来た。
 ひと口飲む。じんわりとお腹の中に温かなココアが広がる。
「正直、もっとへこんでると思ってたわ。でも、案外普通だったから、ちょっと残念」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
「皮肉に皮肉で返すとは、やるわね」
 そう言って柚香さんは笑った。
「で、実際どうなの? お姉ちゃんにこっぴどく言われたみたいだけど、その程度であきらめるの?」
「とんでもない。あのくらいのことで、あきらめるはずないじゃないですか」
「そう」
 私は、柚香さんがなにを考えて私を呼んだのか測りかねていた。
 可能性はいろいろある。でも、どれも決め手に欠ける。
「ところで、柚香さん。どうしてわざわざ私に声をかけて、話をしようと思ったんですか?」
「そうね……優先順位の問題、かしら」
「優先順位?」
 私は首を傾げた。
「私も含めて私たち姉妹の間で、なによりも優先されるのが、修ちゃんのこと。修ちゃんのためなら、穂香お姉ちゃんは平気で仕事を休むし、瑞香お姉ちゃんは論文発表もボイコットする。私だってそう」
「……前からずっと疑問に思っていたんですけど、どうしてそこまで修平のことを可愛がるんですか? 弟、というだけの理由では片づけられないと思うんです」
「そうね……じゃあ、少しだけ昔話につきあってもらおうかしら」
 そう言って柚香さんは、残っていた紅茶を飲み干した。
「修ちゃんはね、小さい頃、ものすごく体が弱かったの。今はなんの心配もいらないくらいになったんだけど、昔は外で遊ぶなんて考えられなかった。詳しい病名はどうでもいいから言わないけど、ようするに人より抵抗力が弱くて、風邪を引いただけで一週間も寝込んでしまうほどだったの。だから、修ちゃんはいつも家にいたわ。修ちゃんね、幼稚園、保育園には通ってないのよ。まあ、とても通わせられる状態じゃなかったからなんだけど。一日中家にいて、ひとりで遊んでた。修ちゃん、一度も言わなかったのよ、淋しいって。本当は友達と一緒に楽しく遊びたい盛りなのに。小学校に入学しても、すぐには状況は好転しなかった。一応学校に通っていたけど、しょっちゅう休んで、休んだせいでなかなか友達もできなくて。まあ、それからすぐにいい薬が開発されて、修ちゃんの抵抗力も人並みくらいになったんだけどね」
「…………」
「でも、体がよくなっても、すぐにいろいろなことが変わるわけじゃないわ。修ちゃんは、クラスで浮いた存在であることに変わりなく、友達もなかなかできなかった。挙げ句の果て、心ない一部の生徒から言葉による暴力を受けてね」
「そんなことが……」
「その時はお父さんもお母さんも大激怒しちゃって、学校に乗り込んだのよ。学校側がそのことを正確には把握してなくて、対応が後手にまわってしまった。一応謝罪は受けたけど、ふたりともそれを拒否して、結局私たちはその街から引っ越すことになった。で、修ちゃんのことを誰も知らないこの街で、一からはじめることになったの」
 まさか、そこまでのことがあったなんて。
「ま、ようするにそういうことがあったから、私たちは修ちゃんに対して異常なまでに過保護になってるわけ。もう二度と、あんな想いをさせたくないから」
「……なるほど」
「特に穂香お姉ちゃんは、自分がなにもできなかったって後悔してるから、姉妹の中でも特に修ちゃんを溺愛してるわ」
 修平が小学生の頃なら、穂香さんは中学生。その頃になにかできることなんて、そうあるわけない。でも、穂香さんにはそんなこと関係なかったんだろう。
「そこでさっきの優先順位の問題に戻ってくるのよ。今回のことは、正直言えば誰が悪いとか、そういうのはないと私個人としては思ってるのよ。ただ、結果的に修ちゃんは現実から目をそらし、お姉ちゃんはその修ちゃんを守るために全力で手助けした。言っておくけど、ああなってしまったお姉ちゃんを諭せるのは、修ちゃん以外にいないから。私や瑞香お姉ちゃんの言うことなんて、耳にすら届かないから」
「じゃあ、どうしようもないじゃないですか」
「違うわ。だからこそどうにかなるのよ。ようするに、修ちゃんさえなんとかできれば、お姉ちゃんを説得するなんて東大入試より簡単なのよ」
「だから、私に声をかけたんですね」
「まあね」
 現時点で修平を説得できるのは、穂香さんしかいない。だけど、その穂香さんは修平のことしか頭にないから、話にならない。
 では、どうするか。そこで白羽の矢が立てられたのが、私というわけだ。そもそもの原因が私の行動にあるのだから、それを根本的に解決するには、やはり私がなんとかするしかない。
「ところで、今更かもしれないんだけど、そもそもなにが理由なの?」
「それは……」
 私は、事情を簡単に説明した。このことは、穂香さんにもまだ説明していない。
「……なるほど。そういうことか。まあ、それはふたりともに問題があったわね。修ちゃんはひとりで勝手に勘違いして、奈々ちゃんは少しでも修ちゃんに話をしておけばよかった。そうすれば最悪の事態だけは避けられたのに」
「……今は、本当にそう思っています。修平のためと言いながら、勝手に秘密にして、そうされた時の修平の気持ちを全然考えてなかったわけですから。それまで毎日のように一緒に帰っていたのに、いきなり帰らなくなれば、不安になるのは当然です。なのに、私はそれに気付けなかった。その報いが今の状況です」
「ま、そこまで反省してるなら、十分でしょ」
 柚香さんはウェイトレスを呼んで、今度はカフェオレを頼んだ。
「で、これが一番重要なんだけど、修ちゃんを説得できる自信、ある? ないなら、今修ちゃんがどこにいるのか、教えられない」
「……正直言えば、わかりません。そもそも、修平が私の話に耳を傾けてくれるのかすらわかりませんから。でも、ここであきらめたら取り返しのつかないことになると思うんです。だから、結果はどうなるかわかりませんけど、私にできることはなんでもやります」
「まあ、かろうじて合格かな」
「じゃあ……」
「修ちゃんは今、お父さんの実家にいるの。秋田県の横手ってところなんだけどね。今は春休みだから、帰省ってことにしてる」
「秋田、ですか……」
 遠いなぁ……
「でも、実際はどこにいるかが問題じゃなくて、どうやって会って、話をするかが問題でしょ?」
「そう、ですね」
「今のままなら、奈々ちゃんが秋田へ行っても修ちゃんは会ってくれない。それじゃあ意味がない。だから、会って話ができるようになにか対策を練らなくちゃいけない」
「対策って、具体的にはどうするんですか?」
「とりあえず、秋田までは私も一緒に行くわ。じゃないと、家にたどり着けないだろうし。田舎は甘く見てると痛い目に遭うから」
「……お願いします」
「で、どこかへ適当に誘い出して、そこで話をしてもらう。というのがオーソドックスな方法だと思うわ」
「そうですね」
「でも、この方法にはいくつか問題があるのよ」
「問題ですか?」
「そう。まず、私が秋田へ行く口実。修ちゃんが心配というだけで行くなんて言い出したら、当然お姉ちゃんたちに怪しまれる」
「確かに」
「次に、秋田へ行けても果たして修ちゃんがそこまで素直に私の言うことを聞いてくれるか、という問題。修ちゃんは今、とにかくいろいろなことに対して疑心暗鬼になってると思うのよ。だから、私の言葉も素直に受け取ってくれるかどうか」
 それもそうだ。そのあたりもちゃんと考えないと、とても話なんてできない。
「まあ、口実の方はなんとかするわ。お姉ちゃんたちも、怪しんだとしても無理に止めはしないだろうから。問題なのは、やっぱり修ちゃんね。本当は穂香お姉ちゃんの力を借りられるとずいぶんと楽になるんだけど、今回ばかりはそれも厳しいし」
「だとしたら、どうしますか?」
「とりあえず、向こうに行くだけ行ってみる。そして、修ちゃんと話してみる。そこで決める。もうそれしかないわね」
「わかりました」
 ここであれこれ悩んでいても、前には進めない。
 それに、一度失ってしまった私に、もう失うものなんてないんだから。ただひたすらに全力で前に進めばいいだけ。
「それじゃあ、あとはいつ向こうに行くかなんだけど、いつがいい?」
「私はいつでも大丈夫です。今日これからでも」
「気合い十分なのはいいけど、入りすぎると空回りするわよ。焦って行動しても、いい結果なんて絶対に得られないんだから」
「はい」
「じゃあ、いつ行くかは私の方で決めるわね。私もいつでもいいんだけど、向こうの都合もあるし。決めたら、連絡するわ」
「お願いします」
「ま、気負わずやりましょ」
「はい」
 今度こそ、修平を離さないように。
 
修平視点
 
 ずっと家にこもってるわけにもいかないので、たまに散歩に出るようにした。
 こっちは田舎なので、歩く場所には事欠かない。
 季節はもう春だけど、さすがは東北。まだまだ寒い日が多い。
 散歩している今も、コートなどの上着がなければ寒くてどうしようもない。
 家を出て向かう先は、どこと決まっているわけじゃない。適当に歩き、適当な時間を過ごして帰ってくる。その繰り返しだった。
 今日もいつもと同じくらいの時間を散歩に費やし、家に帰ってきた。
 と、奥で電話が鳴った。少ししてばあちゃんが電話に出た。
 靴を脱いで部屋に戻ろうとすると──
「修ちゃん。東京から電話だ」
「僕に?」
 ばあちゃんが居間から顔を出し、そう言った。
「はい、代わりました」
『あ、修ちゃん』
 電話は、穂香姉さんからだった。
『ごめんね。休んでたの?』
「ううん。散歩に行ってただけ。ちょうど帰ってきたところ」
『そっか』
 姉さんは心から安心したような声でそう言った。
 今回のことで一番心配してるのは、間違いなく穂香姉さんだ。穂香姉さんがいてくれなかったら、僕はきっと冷静になるまでもっと時間がかかっていた。
「今日は仕事、休みなの?」
『ううん、休みじゃないよ。今、仕事場から』
「そうなんだ」
 仕事場からかけてくるなんて、よほど早く僕に知らせることがあったってことだ。
 僕は携帯を向こうに置いてきたから、いつでも連絡が取れるわけではない。だから、思い立った時に早めに連絡しないといけない。だから、仕事場からかけてきたんだろう。
「それで、どうしたの?」
『ん、本当はね、修ちゃんの耳に入れるかどうか迷ったの。でも、知らないでいきなりよりも、知っていてなんらかの対策を取ってからの方がいいと思って』
 姉さんがここまで慎重になるということは──
『昨夜、柚香がね、そっちへ行きたいって言い出したの。修ちゃんが心配だからってもっともらしい理由をつけてね』
「柚香姉さんが……」
『で、これは私の予想なんだけど、柚香はひとりで行くとは思えないのよね。そりゃ、修ちゃんが心配という理由がウソだとは言わないわよ。あの子だって心配してるからね。でも、時期がおかしいのよね。行くならもっと早くに行けたはずでしょ。大学はもうとっくに春休みに入ってるんだから。なのに、この時期に言い出した。ということは、なんらかのほかの理由があると考えるのが妥当だと思うの』
「うん」
『で、その理由はなにかと考えた場合、一番可能性が高いのは、柚香が誰かのためにそっちへ行きたいと言い出したってこと』
「…………」
『ここまで言ったら、誰のためか、わかるよね?』
「……うん」
 わかるに決まってる。
『どうする? 柚香を止めようか? 今ならまだ間に合うよ』
「…………」
『それとも、入れ替わりにこっちへ戻ってくる? そうしたら会わなくて済むし』
「……正直言えば、会いたくないよ。というか、合わせる顔がないから」
『うん』
 でも、ここで逃げるのは簡単だけど、ここで逃げてしまったら、もう二度と顔を合わせる機会がなくなってしまうかもしれない。
 僕は、それを受け入れることができるだろうか。
「ねえ、姉さん。僕はどうしたらいいと思う?」
『……お姉ちゃんを頼ってくれるのは嬉しいけど、でもね、修ちゃん。そういうことは修ちゃん自身が決めないとダメよ。どちらにしてもつらい決断になるかもしれないけど、それでも自分が決めたことなら、って思えるはずだから。もちろん、お姉ちゃんが決めて、それが修ちゃんにとって受け入れがたいものになってしまったら、遠慮なくお姉ちゃんを恨んでいいよ』
 姉さんならそう言うだろう。
 姉さんは、自分のことよりもまず僕のことだから。
『でも、修ちゃんなら自分でどちらが自分のためになるか、決められるはずだから。お姉ちゃんはその修ちゃんの決めたことに従うだけ。会ってもいいと思うなら、手出しはしない。会いたくないなら、なんらかの手を打ってあげる』
 姉さんは、僕の前に道を示してくれた。
 前に進むか、後退するか。
 あとは、僕が決めるだけ。
『ねえ、修ちゃん。修ちゃんはまだ、好きなの?』
「……うん、そうだね。まだ好きだよ。好きだから、逃げちゃったんだ」
『そっか。だったら、もう答えは出てるんじゃないかな?』
「そう、かな?」
『そうだよ。答えが出てるからこそ、迷ってる。答えが出てなかったら、迷えない』
「……そうかもしれないね」
『よし、修ちゃん。パッと決めちゃおう』
「わかったよ」
 そうだ。今ここで決めなければ意味がない。
 結果のことなんて今から考える必要はないんだから。
 
奈々恵視点
 
「なんか不思議よねぇ」
「なにがですか?」
「だってさ、どう考えても一番反目してた私たちがこうして一緒に同じ目的のために電車に乗ってるんだから」
「……別に、反目はしてなかったと思いますよ。あれは、柚香さんが必要以上に修平にくっついてたのがいけないんです。それがなかったら、別にあれこれ言うことないですからね」
 ファミレスに呼び出された二日後、秋田行きが正式に決まった。
 ただ、やはりすぐに向こうに行くのは問題があったらしく、結局それからさらに三日かかった。
 つまり、あの日からもう一週間以上経ってしまったわけだ。あまり時間が経つと余計に言いたいことが言えなくなるから、早い方がよかったんだけど、こればかりはどうしようもない。
 私と柚香さんは、東京から新幹線に乗り、一路秋田を目指した。
 横手は東京からだと少々交通の不便なところにある。比較的楽に行くなら、秋田新幹線で大曲まで行って、そこから奥羽本線で横手まで行くのがいい。
 まあ、東京と違って一時間に一本くらいしか電車はないらしく、ちゃんと乗り継げないと悲惨な目に遭うらしい。
 車があると便利なんだけど、あいにくとそんなものはない。柚香さんも一応免許は持ってるみたいだけど、家の車を勝手に使うわけにはいかないのと、それだけの長距離をひとりで走るのはつらいので、順当に電車に決まった。
「でも、よく考えたら奈々ちゃんのうちも結構寛容なのね。簡単に娘を旅行に行かせるんだから」
「簡単ではなかったですよ。それなりに代償は払わされましたから」
「そうなんだ。まあでも、こうして無事に行けるわけだから、結果オーライでしょ?」
「そうですね」
 今回のことは、誰になにを言われても行くつもりだったから、本当に結果オーライだ。
 ちょっとお母さんには借りを作っちゃったけど、しょうがない。ここであきらめるよりはずっとまし。
「とりあえず、のんりびいきましょ。電車の中で焦っても、電車は速く走ってはくれないんだから」
 そう言って柚香さんは、持ってきた文庫本に視線を落とした。
 焦りがないと言えばウソになるけど、その反面、修平に会えるのかという気持ちもある。
 もし、目の前で逃げ出されたら、私はどうするだろう。
 その場に立ち尽くす?
 追いかけて捕まえる?
 私も逃げ出す?
 わからないけど、でも、とにかく修平に会わなくちゃ話ははじまらない。あとのことは、その時に考えればいいんだ。
 
「……長かった……」
「ね、田舎を甘く見てると、大変な目に遭うでしょ?」
 横手駅に到着した時は、本当に心の底から長かったと思った。
 半日も電車に揺られていたわけじゃないけど、なんかとても長く感じた。これが田舎マジックかもしれない。
「ここからはバスに乗って、そこから歩き」
 バスも、やっぱりあまり走っていなかった。ただ、電車の到着時刻にあわせているので、待ち時間は少なくて済んだ。
 バスに揺られること二十分。
 間違いなく田舎と呼べる風景が目に前には広がっていた。
 高い建物はなく、田んぼと畑が多い。
 信号が少なく、交通量も少ない。
「さ、こっちよ」
「あ、はい」
 ここで柚香さんとはぐれたら、ひとりで帰れる自信がない。
 比較的大きな県道を少し歩き、そこから田んぼの真ん中を通っているあぜ道を歩く。
「こっちも少しは変わってきたけど、それも駅前だけ。このあたりなんて、全然昔から変わってないわ。ま、のんびり暮らすにはもってこいの場所だとは思うけど」
 あぜ道を抜けると、小学校が見えてきた。
 春休みなので、生徒の姿はない。
 そういえば、雪がない。こっちの方だと、この時期でもあってもおかしくないのに。
「あの、ここら辺て、雪はどうなんですか?」
「ん、積もるよ。ものすごく。でも、今年は少ないって言ってたからね。日向にはもうないわね。あったとしても、徹底的に陽当たりの悪いところくらいかしら」
「なるほど」
 バス停から歩くことさらに二十分。
「おお、ようやく見えてきた。あれがお父さんの実家よ」
 それは、田舎によくある家の造りだった。
 道路から玄関までそれなりに距離があり、その両脇に車庫と作業小屋のようなものがある。
 東京だとこれだけあったら豪邸とか言われそうだけど、こっちだとこれが普通。
「たぶん、おばあちゃんはいると思うんだけど、おじいちゃんはいないかな。趣味で囲碁をやってるのよ。で、しょっちゅう碁会所に行ってて、よくおばあちゃんが愚痴ってる」
 玄関は、ドアがふたつあった。
「ああ、これ。これはね、雪が多いからこうしてあるの。こっちじゃ当たり前の造りなのよ」
「へえ」
 ふたつ目のドアを開けると──
「おばあちゃ〜ん、来たよ〜」
 柚香さんは家の中に向かって声をかけた。
 と、奥から小柄な女性が出てきた。
「まあまあ、よう来た、よう来た」
「おばあちゃん、元気だった?」
「とりあえずまだ呼ばれはしないみたいだけどね」
 呼ばれるって、もしかしてあの世?
「あ、そうそう、彼女が電話で話した桂見奈々恵ちゃん」
「あ、桂見奈々恵です。急なお願いを聞いていただき、ありがとうございました」
「いやいや、修ちゃんの彼女さんなら、家族も同然。気にすることないない」
 そう言っておばあちゃんは笑った。
 部屋はたくさんあるとのことだったけど、さすがにひとりでひとつ使うのは気が引けたので、柚香さんと同じ部屋にしてもらった。
「さて、どうする? 修ちゃんは今いないみたいだけど」
「すぐ戻ってきますかね?」
「さあ、おばあちゃんの話だと、いつも適当にぶらっと出て、適当にぶらっと帰ってくるって言ってたから。だとすると、ここにいても出てもあまり変わらないかも」
「……それじゃあ、出ましょう。じっとしててもいいことなんてないと思いますから」
「そ。じゃあ、そうしましょ」
 私たちは、荷物の整理もそこそこに、外に出かけた。
「散歩のコースといったら、どこになるんですか?」
「さあ? それはさすがにわからないわ。だって、ここを右に行っても左に行っても散歩はできるもの」
「……わかりました」
 つまり、勘で行くしかないということだ。
 でも、これは考えようによっては、私と修平の絆の深さを測るにはちょうどいいのかもしれない。
 ここでなにもしないで会えれば、それだけ絆が深く、会えなければそこまでではない。
 私たちは、家を出て右へ向かった。どこになにがあるのかは私はわからない。
 まあ、柚香さんにしても、どこに修平がいるかわからなければ、どこになにがあるかわかっても意味はないけど。
「あ、そうだ。奈々ちゃん」
「なんですか?」
「前から訊こうと思ってたんだけど、もう修ちゃんとやっちゃったの?」
「やっちゃったって、なにをですか?」
「ん、セックス」
「…………」
 こ、この人はなにをさらっと聞いてるの?
「どうなの?」
「な、なんでそんなこと気にするんですか?」
「なんでって、気になるでしょ、普通。そりゃ、彼女がいない時なら気にならないけど、いるなら当然そこまでするだろうし。それに、カワイイ弟のことなら、なんでも知っておきたいのよ」
 多少理解できるところはあるけど、でも、今は私が当事者だ。
「あ、ちなみに私は処女よ。ま、今まで誰ともつきあったことないから当然ではあるけどね」
「は、はあ……」
「あと、お姉ちゃんたちもたぶん、そう。穂香お姉ちゃんは間違いなくね。お姉ちゃんには修ちゃん以外、眼中にないからね」
 ここまでブラコンだったとは。ここまで徹底してると、いっそ清々しい。
「お姉ちゃん、よく言ってるのよね。すべてを捨てる覚悟ができたら、修ちゃんと駆け落ちするって」
「か、駆け落ち……」
「ふたりのことを誰も知らない土地で、ふたりきりで過ごすんだって。もちろん、姉弟としてじゃなくて、夫婦としてね」
「す、すごいですね……」
「で、どうなの?」
 もはや、回避不能ね。はあ……
「……えっと、しました」
「ふ〜ん、やっぱりね。たぶんそうじゃないかとは思ってたのよね。修ちゃんの態度がちょっとおかしい時期があって、たぶん、その頃にしたんだと思う」
 本当に、有村家では修平のプライバシーはないも同然なのね。
 もっとも、修平もそれを話したわけじゃないから、なにも言えないけど。
「だったら、なおのこと修ちゃんをちゃんと説得しないとね」
「はい」
 しばらく歩くと、中学校が見えてきた。
 ここも春休みなので、生徒の姿は見えない。
「このあたりの学校は学区が広くてね。学校まで片道一時間なんて子もいるんだって」
「一時間ですか。高校でもないのにそれはつらいですね」
「まあね。でも、それがこのあたりでは普通だから」
 同じ日本にいても、これだけの差があるんだ。本当にすごい。
「ん……?」
 と、柚香さんが立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「いや、あそこにいるのって、修ちゃんかなって思って」
「えっ……?」
 柚香さんが指さした先、校舎脇の池の前に、確かに修平らしき人影があった。
「行ってみましょう」
「はい」
 私たちは、駆け足で近づいた。
「修ちゃん」
「柚香姉さん」
 果たして、それは修平だった。
「修平……」
「奈々……」
 一瞬、修平は私から目をそらした。
 逃げられる、と思った。
 でも、修平は逃げなかった。
「驚いてないのね」
「まあね」
「ああ、そっか。お姉ちゃんから連絡が行ってるのね」
「うん」
「それでもこうしてここにいるってことは、奈々ちゃんと向き合おうって決めたってこと?」
「……そうかもしれない」
「そっか」
 柚香さんは、小さく息を吐き、頷いた。
「奈々ちゃん。私、校門のところで待ってるから」
「えっ……?」
「後悔だけはしないように」
「……はい」
 私にそう言い置き、柚香さんは校庭を横切って行った。
「まさか、ここまで来るとは思わなかったよ」
「日本なんて、所詮島国だからね。海を越えない限り、いつかは見つけられるわ」
「そうかもしれないね」
 私たちは、いつもと違う距離を置きながら、いつもと同じように話している。
「でも、今回のことは柚香さんのおかげよ。柚香さんがいなければ、これだけ早くここまで辿り着けなかった」
「そっか。あとで姉さんに言っておかないと」
 冗談なのか本気なのかわからない。
「もし、この春休み中に僕を見つけられなかったら、どうするつもりだったの?」
「別にどうもしないわよ。ただ、探し続けただけ」
「僕が学校に行かなかったとしても?」
「……そこまで考えてたの?」
「選択肢のひとつとしてね」
 まさかそこまで考えていたなんて。さすがにそれは予想外だ。
 私なんて、新学期になればまた学校で会えるだろうと、勝手に思っていたけど。それは甘かったみたい。
「ただね、心のどこかでは、奈々は来るんじゃないかって思ってた。確率はかなり低いとは思ってたけどね」
「私としては、百パーセントだと思っていてほしかったんだけど」
「それは無理だよ。だって僕は……」
 修平は、言葉を詰まらせた。
「……あのね、修平。もう今更かもしれないんだけど、ちゃんと説明させてもらえるかな?」
「奈々の好きなように」
「うん、ありがと」
 私は、あの日までのことをちゃんと説明した。
 当日まで内緒にして、驚かせようと思っていたことが、結果的に私たちの仲を引き裂きかねないことになってしまった。
 そのことを、私は事実だけ説明した。
 もちろん、本当は言いたいことがたくさんあった。でも、それをここで言っても意味がない。
「本当に、ごめんね、修平」
 修平は私の説明を聞き、ふっと顔を逸らした。
「……僕はね、奈々を信じ切れなかったんだ。奈々のことをもう少しだけ信じていれば、ここまで事態がこじれることにはならなかったのに」
「それは……」
「うん、それは結果論だからね。今更だよ。でもね、僕は奈々のことを信じてあげられなかった自分がイヤになったんだ。イヤな想いはしたかもしれないけど、ちゃんと確認していればなにごともなく過ごせていたかもしれないのに、それをしなかった、できなかった。後悔ばかりして、本当に自分がイヤになった。そしたら、もう自然と奈々の前から逃げ出すことしか考えられなかった。僕にはもう、奈々の前に立つ資格がないって思ってね」
 修平がそういう性格だってことは、私もわかっていたはずなのに。
 それなのに、そんな修平の変化に気付いてあげられなかった。きっと、修平は私にシグナルを送っていたはずなんだ。なんの前触れもなく、いきなりなるはずがないんだから。
「それを言ったら、私だって同じよ。修平のことを理解してるつもりになって、本当はなにも理解できていなかった。自分だけの考え方で勝手にそうだと思い込んで、修平を傷つけて。こんな私だから、修平が私を嫌いになっても、軽蔑しても仕方がないって思った」
「本当に、簡単なことができなかったんだね、僕たちは」
「うん、本当にそう思う」
 私も修平も、少し冷静になって考えればわかることが、全然できなかった。
 なんでできなかったのかを考えても、正直言えば理由はわからない。私の場合は修平のことをちゃんと理解できていなかったからということになるけど、それでもよく考えればできたはず。
 物事は往々にしてそういうものなのかもしれないけど、後悔ばかりしてしまう。
「ねえ、修平。ひとつだけ、聞いてもいい?」
「……なに?」
「今でも私のこと、好き?」
 私は、この秋田へ行くと決めた時に、いくつか目的を決めた。最も重要だったのは、修平に謝ること。これをしなければ先には進めないから当然だけど。
 そして、私の中ではそれに匹敵するくらい重要だったのが、修平が今、私のことをどう思っているかだった。今回のことで私のことが嫌いになったというのなら、百パーセントの納得はできないけど、引くしかないと思っていた。
 でも、もし今でも好きと言ってくれるなら、もう一度だけチャンスがほしい。
 どれだけ考えても、修平のいない生活なんて、抜け殻のような生活になる。それくらい私は、修平のことが好き。
 修平よりカッコイイ人も、勉強のできる人も、運動のできる人もいるだろう。
 だけど、私はそんな人よりも修平がいい。修平じゃなきゃイヤ。
「……質問に質問で返してしまうけど、奈々は、僕のことをどう思ってるの?」
「私は、決まってるわ。じゃなかったら、わざわざ秋田まで追いかけてこない。私は、今でも修平が好き。大好きなの」
 笑顔で、言えたと思う。だって、こういうことは笑顔で言わないと。
「……修平は?」
「僕は……わからない」
 修平の答えは、好きでもなく、嫌いでもなかった。
「僕は、自分の本当の気持ちがわからなくなってしまったんだ。あれから、本当にいろいろなことを考えた。たぶん、生まれてからと同じくらいのことを、この短期間で考えたと思う。でも、考えれば考えるほどにわからなくなっていくこともあった。それが、僕の奈々に対する想い」
「…………」
「奈々に会って、真実を知りたいと思った。反面、奈々にはもう二度と会いたくないと思った。そんなことを繰り返し考えていたら、果たして僕の本当の気持ち、想いはどこにあって、それはいったいなにを表していたのか、わからなくなったんだ」
 修平の苦しみは、よくわかる。私だって、まったくそういうことを考えなかったわけではない。でも、最終的にはさっきの結論に行き着いた。
 というか、最初の想いだ。
「だから、ごめん」
「……修平は、難しく考えすぎ。人の想いを簡単に知ることができないように、自分の想いだって、そう簡単にはわからないのは当然のことよ。もちろん、考えるな、という意味ではないわ。考えることを放棄してしまったら、そこから一歩も進めなくなってしまうんだから。でもね、もう少し単純に、いろいろ余計なものを全部消して、考えてみると自ずと答えは見えてくるはずよ。だって、本当の意味で答えの出ていない問題なんて、あるはずないんだから。答えが出ていないように思っているのは、自分で勝手にそう思い込んでいるから。余計なことを考えて、がんじがらめになっているから」
「……奈々には、それができたわけ?」
「さあ、それはわからないわ。でも、できるだけそうしようとは思ってる」
「…………」
「たぶんだけどね、修平はもう、答えを出してる。でも、その答えでいいかどうか不安で不安でしょうがないから、必死に言い訳を考えてる。言い訳すれば、とりあえずその場を誤魔化すことができるからね。だけど、それは結局根本的な解決にはならない」
「…………」
「だからね、修平。もう一度だけ、考えてみて。もう余計なことは考えずに、今の自分の本当の気持ちを。そのことについて、誰もなにも言わないから。褒めもしないけど、責めもしない。安心して、探してみて」
 修平は、小さく頷いた。
 それから修平は、池の水面を見つめながら、しばらく黙ったままだった。
 私も声はかけなかった。ここでどんな言葉をかけても、それは修平のためにはならないから。
 本当は、今すぐにでも修平に駆け寄り、抱きしめてほしい。
 きつく、痛いくらいに抱きしめてほしい。
 キスだってしてほしい。
 でも、それはできない。まだ、決着がついてないんだから。
「……奈々」
「ん、どうしたの?」
 答え、出たのかな?
「改めて聞くのもなんだけど、どうして僕なの?」
「じゃあ、私も聞くけど、どうして修平じゃダメなの?」
「…………」
「そういうことなの」
 これで、大丈夫かな。
「……正直に言えばね、奈々が来てくれて、嬉しかったんだ。こんな僕でも、追いかけてきてくれるって。本当は、もうそう思った段階で僕の答えは出ていたんだね」
 そう言って修平は、私に向き直った。
「奈々、大好きだよ」
「修平っ!」
 同時に、私は修平に駆け寄り──
「ん……ん……」
 もう二度と離れないように──
「ん……修平……」
「奈々……」
 きつく、きつく、抱きしめ合った。
 
修平視点
 
「姉さん」
「ん、どうしたの?」
 僕は、後ろから僕を抱きしめている柚香姉さんに声をかけた。
「今回の僕の決断は、正しいのかな?」
「さあ、それはさすがにわからないわ。だってそうでしょ? まだ、結果は出ていないんだから。結果が出るのは、ふたりが別れてしまう時、なんだから」
「……そうだね」
 今、奈々は風呂に入っている。だから、この部屋には僕と姉さんだけだ。
「修ちゃんがあれこれ心配になるのはわかるけど、でも、二度も奈々ちゃんを受け入れたんだから、もっと自分の決断に自信を持たないと。そうじゃないと、修ちゃんの決断が報われないし、奈々ちゃんだって悲しむ」
「……ダメだね、僕は。こういう考え方が、全然抜けない」
「……ううん、修ちゃんはダメじゃないよ。むしろ、そんな風にしてしまった、私たちがダメなの」
 姉さんは、いつもみたいにとにかく抱きしめてくるようなことはない。どことなく、腫れ物に触れるような感じがある。
 おそらく、多少なりとも今回のことに責任を感じているのかもしれない。
「でも、よかったよ、本当に。修ちゃんと奈々ちゃんの仲が元に戻って。あのままなんてことになってたら、どうなってたかわからなかったからね」
 それは誰のなんのことを言ってるのかはわからないけど、でも間違いではない。
 もし僕がどうにかなっていたら、間違いなく穂香姉さんはそんな僕をなんとかしようと、ありとあらゆる手段を講じるに決まってる。ついでに瑞香姉さんも手を貸すかもしれない。
「あのさ、姉さん。姉さんはどうして奈々に手を貸そうと思ったの?」
「あれ、説明しなかった?」
「一応聞いたけど、本当にそれだけ?」
「それだけって、それ以外の理由があるの?」
「ん、まあ、ないならそれでいいんだけどね」
 なんとなく、裏がありそうな気がして。
 柚香姉さんもやっぱり穂香姉さんの妹だから、似てるところあるし。
「あ、そうだ。修ちゃん」
「どうしたの?」
「修ちゃんと奈々ちゃんて、もうエッチしちゃったんだってね」
「えっ……?」
「ちょっと、ううん、かなり気になってたから奈々ちゃんに聞いたんだけど。やっぱり、エッチって気持ちよかった?」
「し、知らないよ、そんなこと……」
「むぅ、修ちゃん、可愛くないぃ。そんなことだと、襲っちゃうぞ」
「ふわあ」
 と、いきなり首筋に息を吹きかけられた。
「本当に、私としてみる?」
「な、なに言ってるの? そ、そんなことできるわけないよ。きょ、姉弟なんだから」
「姉弟だって、好きあってれば問題ないと思うけどね、私は」
 言いながら、僕の体に触れてくる。当然、いつもみたいな触り方ではない。
「ね、修ちゃん?」
「う、うわあ……」
「──柚香さんっ」
 と、そこへ風呂上がりの奈々が。
「奈々っ」
「ちっ……」
 僕はすぐさま姉さんから逃れ、距離を取った。
「人の彼氏を勝手に誘惑しないでください」
「私の弟だもん。他人よりもずっと近いんだから、別に問題ないわ」
「問題大ありです。近親相姦じゃないですか、それじゃ」
「ケチねぇ」
 姉さんは、そう言ってふっと笑った。
「大丈夫、修平? なにもされてない?」
「大丈夫だよ」
「よかった」
「ホント、ふたりはそんなに仲が良いのに、どうして今回みたいなことが起きてしまったのかしらね。今でも不思議だわ。まあ、あれか。仲が良すぎて余計なことを考えすぎたからかしらね」
 余計なこと、かもしれない。だけど、それが余計なことかどうかわからなくさせているのも、奈々に対する想いがあるからだ。
「さてと、私もお風呂、入ってこよっと」
 わざとらしくそう言い、タオルを手に取った。
「あ、そうそう。ちょっと長風呂になるかもしれないから」
「…………」
「…………」
 姉さんが部屋を出て行くと、僕たちはどちらからともなく近づき、抱き合った。
「……ね、修平。しよ?」
「うん」
 
 僕たちは部屋を僕の部屋へ移った。
 そのまま姉さんと奈々の部屋でもよかったんだけど、なんとなく移った方がいいと思った。
「ん……」
 キスをするだけで、奈々に対する愛おしさが増してくる。
「ずっとね、抱きしめてほしかった、キスしてほしかった」
 奈々はそう言いながら、まわしていた腕にさらに力を込めた。
「修平。今日は、私にやらせて」
「えっ……?」
「本当はね、誕生日のためにいろいろ見たり、聞いたりしてたんだけどね。でも、今は修平のためになんでもしてあげたいの」
 必死、というわけじゃないけど、それでも奈々の想いはひしひしと伝わってくる。
「ね、修平?」
「わかったよ」
 奈々の気持ちも理解できるから、ここで拒むのはよくない。
 僕だって奈々にいろいろしてあげたくなるのと同じだ。
「じゃあ、どうしようか?」
「修平は横になって。あとは私がするから」
 僕は言われるまま横になった。
「脱がせるね」
 奈々は、僕のズボンを脱がせた。
「……んと、あとは……」
 ただされるがままというのも、とても居心地が悪い。
「……よし」
 トランクスを下ろされた。
「…………」
 奈々は僕の股間を見つめ、小さく頷いた。
 そのまま僕のモノに触れ、軽く握った。
 そうされただけで、僕のモノは反応してしまった。
「わ、大きくなった……」
「ご、ごめん……」
「ううん、謝る必要なんてないよ。私、嬉しいんだから」
 そう言って奈々は微笑んだ。
「修平、気持ちよくなってね」
 奈々はそのまま僕のモノに顔を近づけ──
「んっ……」
 舐めた。
 奈々は僕の彼女なわけだから本当はそんな風に思ってはいけないのかもしれないけど、今でもこうしているのがとても不思議だ。
 前にも言ったけど、奈々は学年でも特に目立つ。それだけ綺麗だということだ。
 そんな奈々が彼女であるということだけでもウソみたいな事実なのに、その奈々が僕のモノを舐めている。これを不思議と言わずしてなにを不思議と言うのか。
「は……ん……」
 ざらっとした舌がとても気持ちいい。
 奈々は、一心不乱に舐めている。
「気持ち、いい?」
「うん、気持ちいいよ」
「よかった。たぶん大丈夫だとは思ったんだけど、実際にやってみるまではわからないからね」
 いったいどういうものを見て、誰になにを聞いたのか、とても気になる。
 でも、それはさすがに教えてくれないだろうな。
「もっともっと気持ちよくなってね。あと、我慢できなくなったら、遠慮しないでいいからね」
 ここまで献身的になってくれるのはとても嬉しいけど、少し複雑な心境だ。
 奈々は、舌で舐めながら、今度はモノを口にくわえた。
 温かな口の中は、ねっとりとした唾液のおかげで、本当に気持ちよかった。
「んっ、んっ」
 頭を上下させながら、口の中では舌を使い、僕のモノを執拗に攻めてくる。
 このところ全然なにもしてなかったから、僕の方はすぐに高まってきてしまった。
「くっ、奈々、そろそろ」
「ん、いいよ、出して」
 とどめとばかりに、奈々はよりいっそう動きを速くした。
「くっ、奈々っ」
「んんっ」
 そして、僕の奈々の口の中に、勢いよく放った。
 すごく気持ちよくて、一瞬呆けてしまったくらいだ。
「はあ、奈々、大丈夫?」
 が、奈々は口の中の精液をどうしていいかわからず、少し戸惑っている。
「あ、ごめん。ほら、ティッシュ」
 慌ててティッシュを渡すけど、奈々はそれを拒み──
「ん……」
 精液を飲み込んでしまった。
「けほっ……けほっ……」
「だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。慣れてないから、ちょっと戸惑っただけ」
 奈々は、なんでもないと笑顔で言う。
「でも、あんなにいっぱい出るとは思わなかったわ」
「……それは、ずっとなにもしてなかったから……」
「そっか。じゃあ、今日はそのできなかった分も含めて、一緒に気持ちよくなろうね」
 笑顔の奈々を見ているだけで、僕は幸せな気持ちになる。
 同時に、どうしてそんな奈々を僕は信じてあげられなかったのかと、あの時の自分を殴ってやりたくなった。
「今度は、僕が奈々を気持ちよくしてあげるから」
「うん」
 今度は奈々が横になり、僕が起き上がった。
 風呂上がりではあるけど、そんなに換えの服を持ってきていない奈々は、来た時と同じセーターにジーンズという格好だ。
 セーターをたくし上げる。
 ピンク色のブラジャーに包まれた豊かな胸は、横になっていてもその存在感を失っていない。
「奈々の胸って、大きいよね」
「そ、そう?」
「みんなに羨ましがられたりしない?」
「ん、少しだけ。でも、大きいのは大きいので、それなりに苦労もあるのよ」
「へえ、どんな苦労?」
「大きいということは、それだけ重いということだから、肩が凝ったり走りにくかったり。あと、男の人の視線をよく感じるわ」
「大変なんだね」
「そうよ。でもね、今はこれくらいでよかったと思ってる」
「どうして?」
「だって、その方が修平も嬉しいでしょ?」
 なんとなく、心の奥を見透かされた気がした。
「触るよ」
 僕はそれには応えず、ひと言断ってから胸に触れた。
 はじめて触れた時からずっとそうなんだけど、奈々の胸は本当に触れていて気持ちいい。適度な弾力と柔らかさで、なおかつ肌がスベスベだから、いつまで触れていても飽きない。
 まだこうして数回しかセックスしていないけど、それでもなんとなくどこをどうすれば奈々は感じてくれるのかというのが、わかるようになってきた。
 奈々はかなり敏感だから、特に感じやすいところを集中的に攻めると、感じてくれる。
 だから、胸ならば乳首を攻めると、感じる。
 ある程度胸に触れたら、今度は下半身。
 ジーンズを脱がし、ショーツの上から秘所を触る。
「や、んん……」
 奈々は、それだけで体を浮かして反応する。
 少し触れただけで、ショーツがしっとりと湿ってくる。
「あ、ん、ダメ……」
 ここであまり焦らすと可哀想なので、今度はショーツを脱がす。
 奈々の秘所は、少し離れたところから見ても、濡れているのがすぐにわかった。
「奈々、もうこんなになってるよ」
「ううぅ……だって、私だって久しぶりですごく感じてるんだから。修平だけじゃないんだからね」
「うん、そうだね」
 直接秘所に触れると、途端に中から蜜があふれてくる。
 指で少しほぐすようにまわりに触れ、おもむろに中に指を入れた。
「んあっ」
 奈々の中は、とても熱く、僕の指に絡みついてくる。
「ん、あ、んんっ、は……ん……」
 僕が指を動かす度に、奈々は甘い吐息を漏らしながら、感じてくれる。
 と、僕はある衝動に駆られた。
 指を抜き、その代わりに秘所に顔を近づけた。
 そして──
「ひゃんっ」
 僕は奈々の秘所を舐めた。
「だ、ダメ。そんなとこ舐めないで」
「大丈夫だよ」
 自分で言っていてなにが大丈夫なのかわからないけど、そう言った。
 入り口あたりを舌先で舐める。
「んんっ、あ、ん、気持ちいい」
 少し位置をずらし、今度は奈々が一番感じる突起を軽く舐めた。
「ああっ!」
 すると、奈々は今まで以上に敏感に反応した。
「だ、大丈夫?」
「ううぅ、修平のいぢわるぅ……」
「ご、ごめん……」
「許さないんだから」
「ええっ」
「たくさん抱いてくれないと、許してあげない」
「わかったよ」
 そういうことなら、望むところだ。
「あ……」
「どうしたの?」
「僕、持ってきてないや」
「持ってきてないって、アレのこと?」
「うん」
「……ん〜、いいよ。そのまましよ」
「えっ、でも……」
「私ね、今回のことで思ったの。いつ、どういう時になにが起きるかわからないなら、絶対に後悔しないような行動を常に取らなくちゃいけないって。もちろん、無責任なことをしちゃいけないというのは当然なんだけど、もしそうなったとしても私は後悔しない。だって、大好きな修平との子供だもん」
「奈々……」
「だから、ね?」
 そこまで考えているなら、僕も決めないと。
「わかったよ」
「ありがと、修平」
 僕はモノを奈々の秘所にあてがった。
「いくよ」
「うん」
 そのまま挿れる。
「んっ」
 はじめてなにもつけないで中に入れたけど、中は本当に気持ちよかった。
 そこはまるで別の生き物であるかのように、僕のモノに絡みついてくる。
 さっき一度出していなかったら、入れただけでイってしまったかもしれない。
「んっ、修平っ」
 もう止められなかった。
 僕も奈々も、ただひたすらにお互いを求めた。
 ふたりとも気分が高まっていたせいか、すぐに果ててしまったけど。
 でも、そんなことは些細なこと。
 だって僕たちは、なにが大切なことなのか、わかっているから。
 
奈々恵視点
 
「こんなに早く、こうして一緒に寝られるとは思わなかったなぁ」
 私は、思っていたことをそのまま口に出した。
「そうだね」
 修平も頷いた。
 私たちはあのあと、さすがにそのままではいられなかったので、一緒にお風呂に入った。
 最初修平は乗り気ではなかったんだけど、最後はちゃんと一緒に入ってくれた。
 お風呂場では当然ふたりとも裸だけど、セックスの時とは違って妙に気恥ずかしかった。いったいどういう意識が作用しているのか、興味深かった。
 お風呂の中でも私たちはべったりだった。というか、私が修平から離れたくなかった。
 そのせいでかなり時間を費やしてしまったけど、なんとかお風呂から上がり、のぼせた体を夜風に当て、冷ました。
 それから寝る準備ということになったんだけど、ここでまたも問題発生。
 当初は修平がひとり、私と柚香さんが一緒に寝るということだったんだけど、柚香さんが修平と一緒がいいと言い出し、だったら私もそうしたいと言ったことから、事態は急変。
 激しい議論が交わされ、結局、修平の意見を採用して決着した。
 そして今、私は修平と一緒にいる。
「ねえ、修平」
「ん?」
「本当はいろいろ聞きたいことがあるんだけど、どうしても聞きたいことがひとつあるの」
「うん」
「どうして携帯の電話帳から、私のを消したの?」
 実は、それはかなり気になっていた。私に会いたくないから、という理由はわかるけど、本当にそれだけなのか。
「……ひとつには、僕は奈々に合わせる顔がなかったから」
「うん、それはわかる」
「もうひとつは、携帯を持っていて、その時に奈々から電話なりメールなり来ると、その名前が表示されるでしょ? その時に僕は、そのことに耐えられるかどうかわからなかったから。だったら、それ自体を消してしまえば、その心配はなくなると思ったんだ」
「そっか……」
 確かに、もう会いたくない相手から電話なんかがかかってきて、その名前がディスプレイに表示されたら、とても穏やかではいられない。
「ただ、結局はそれだけでも安心できなくて、向こうに置いてきちゃったんだけどね」
「……本当にごめんね。私、修平のこと、たくさん傷つけちゃった」
「ううん、それは違うよ。確かに、僕も傷ついたのかもしれない。でも、奈々だって傷ついてるはずだよ。本当は、傷つく必要なんてなかったのに」
「私のは、自業自得だからいいの」
 そう、私のは本当に自業自得なのだ。
 自分に対する驕り、修平に対する過信、そんなことが重なって、私の身に降りかかってきただけ。その火の粉を振り払う術など、私にはない。
「私ね、今回のことでよくわかったの。たとえ恋人同士になっても、お互いのことを完全に理解するなんて無理なことだから、常に理解しようと思い続けてないとダメなんだって。そして、絶対に自分勝手な解釈をしたらダメってこともわかったの」
「……奈々が僕のことを考えてくれるのは嬉しいよ。でもね、奈々ばかりが僕に気を遣ってたら、僕はいつまで経っても今のままだから。それはやっぱり情けない。だから、僕も少しずつでもちゃんと前進しないといけない。そのためには、やっぱり奈々の力が必要なんだ」
「修平……」
 なんか修平、すごくかっこよくなってる。
 最初の頃はうじうじして正直目を惹く存在ではなかったけど、今は違う。私が修平のことを好きだというフィルタがかかってるのかもしれないけど、それを差し引いたとしても、十分かっこよくなった。
 たぶん修平は、自分に自信が持てなかったから、それが雰囲気にも出ていたんだ。自分に自信さえ持てれば、かっこよくなれる。
 ただ、私としては少しだけ残念かも。修平があまり頼れるようになっちゃうと、私の出番が少なくなるから。
 今ならわかるけど、私は修平のそういうちょっと頼りない感じが余計に気になったんだと思う。女の私が言うのもおかしいのかもしれないけど、私が修平を守りたいという感じ。
「でも、焦ってもダメだと私は思うわ。焦っても、結局元に戻るだけ。絶対に上手く行かない」
「うん、それはわかってる。だから、できることから少しずつやるつもり」
「それならいいよ。私も私のできることで、修平のことを応援するから」
「ありがとう、奈々」
 いろいろ思うところはあるけど、自分の彼氏がかっこよく、頼れるようになるのは悪いことじゃない。むしろ、最初からある程度のところにいる人よりも伸び幅が大きいわけだから、見ている方としては達成感があるかもしれない。
 そう考えると、とても楽しみになってきた。
「奈々」
「ん、どうしたの?」
「ひとつ、お願いがあるんだけど、いいかな?」
「お願い? なに?」
 修平が改まってお願いしてくるなんて珍しい。
「僕が寝るまで、抱きしめてもらってもいい?」
「え、うん、いいわよ、それくらい」
「ありがとう」
 なんで修平がそんなことを言い出したのかはわからない。
 でも、嬉しかった。私のことを頼ってくれて。
「……もうずっと、離れないから……」
「うん……」
「……本当に僕は、奈々のことが、好きだから……」
「うん……」
 私も同じだということを示すために、私は修平をギュッと抱きしめた。
 今日は、久しぶりにゆっくり眠れそうだ。
「おやすみ、修平……」
 
 次の日の朝。
 私はいつもの起床時間よりもだいぶ早くに目が覚めた。やはり、枕が変わると長時間は眠れないみたい。
 だけど、疲れは取れたし、ボーッともしてない。それはやっぱり──
「修平のおかげ、かな」
 すぐ隣では、修平がまだ眠っている。
 そういえば、こうしてちゃんと寝顔を見るのははじめてかも。前にも少しだけなら見たけど、ここまでちゃんとではなかった。
 寝顔って、本当にカワイイと思う。男の人はカワイイと言われても嬉しくないだろうけど、そう思えるんだから仕方がない。
 それにしても、冷静に考えるとここまであっという間だった気がする。
 私たちがつきあいはじめたのが、年明け早々のこと。それからおよそ一ヶ月後のバレンタインに初エッチして、それからさらに一ヶ月ちょっとでこうして一緒に泊まってる。まあ、今回のことはかなりイレギュラーではあるけど。
 もちろん、それが早いか遅いかは人それぞれの考え方だと思う。人によっては、つきあって数日とか、もしかしたら当日にエッチしてしまう人もいるだろう。
 でも、とりあえず一般的な考え方からすれば、私たちもそれほど遅くはないと思う。
 セックスしなければ絆を確かめられないというわけではないけど、本当に相手のことが好きなら、相手のすべてを知りたいと思い、自分のすべてを知ってほしいと思うはず。そうすると、自然と流れはその方向へ行くはずだ。
 私は、不安だった。半ば脅迫するような形で恋人になった私たちだったけど、修平の性格を考えると、必ずしも安泰というわけではなかったからだ。
 日々、その不安を押し隠しながら修平と接しているうちに、次第にその想いがあふれ出てきそうになり、結局それを止めることはできなかった。
 正直言えば、あの時のことだって執拗に拒まれたらどうしようとずっと考えていた。修平にとっては、相手が誰であろうとあまり関係ない。私でなくても、誰もが綺麗だと褒めそやすモデルやミスの人であっても、たぶん、拒む時は拒む。
 もしあの時、考えもせずに拒まれていたら、私はどうしただろう。女としての自信を失っただろうか。ううん、それよりもなによりも、修平の彼女としての自信を失っただろう。
 だから、あの時ちゃんと考えてくれて、そのあと私の想いに応えてくれて、本当によかったと思ってる。
「でも……」
 修平は本当のところ、私のことをどう思っているんだろう。
 私のことを好きだというのは、間違いないと思う。これは自惚れでもなんでもなく、修平はそこまで器用ではないから、ウソはつけない。だから、それは本当だろう。
 では、桂見奈々恵という個人については、どう思っているんだろう。
 たまに綺麗だとかカワイイだとか、まあ、お決まりのことは言ってくれるようになったけど、それも本当にたまにだ。特にセックスの時は言ってくれる。それ自体は私も嬉しいからいいんだけど。
 普段の私のことは、本当にどう思っているんだろう。
 すごく気になる。
「……むぅ、聞いてみようかな」
 一度気にし出すと、そればかり考えてしまう。これは私の悪い癖だ。
 そういうことだから、私は修平のことが気になって、好きになったのだ。その過程を女友達に話したら、いったいどれくらいの賛同を得られるだろうか。なんとなくだけど、それほど得られないような気がする。ま、いいけど。
 修平は修平でいろいろ悩んでるとは思うけど、私だっていろいろ悩んでるんだ。そのあたりをもう少しだけお互いに共有したい。
 そうすれば相互理解に繋がるし、なによりも今回のようなことは起きないはず。
 よし、そうと決まったら早速行動あるのみ。
「修平。朝よ」
 私はとりあえず、修平を起こすことにした。
「ほら、修平。朝だって」
 軽く肩を揺すりながら声をかける。
「……ん……ん〜……」
 穂香さんたちの話だと、修平は寝起きは悪くないということだから、すんなり起きてくれると思うんだけど。
「修平」
「……ん……もう朝……?」
「うん、もう朝よ」
 修平は目を擦り、枕元に置いてあった時計を見た。
「……ずいぶんと早い気がするんだけど」
「いいのいいの。ほら、早起きは三文の得って言うでしょ?」
「……まあ、いいけど」
 とりあえず修平は文句を言いながらもちゃんと起きてくれた。
「おはよ、修平」
「おはよう、奈々」
「はい、目覚めのキス」
 私は修平にキスをした。というか、一度やってみたかったんだ、この目覚めのキスを。
「それで、僕はどうしてこんなに早くに起こされたの?」
「んとね、ちょっと聞きたいことがあったの」
「聞きたいこと?」
「うん。別にあとでもいいんだけど、ちょっと気になっちゃって、どうしてもすぐに知りたくなってね」
「……そのとばっちりを受けてる、というわけか」
 修平は、小さくため息をついた。
「それで、なにを聞きたいの?」
「あのね、修平は私のことをどう思ってる? 好きとか嫌いとか、そういう感情的なものじゃなくて、私個人のことをどう思ってる?」
「奈々個人のこと? う〜ん……」
「そんなに考えること? あるでしょ、私に対する印象とか、普段どう考えてるとか」
 わざわざ考えるようなことなどないはずなのに。
「じゃあ、はっきり言うけど、僕は奈々にものすごいコンプレックスを持ってるよ」
「コンプレックス?」
「まず、見た目とかそういうことだけど、奈々は学年でも一、二を争うくらい目立つ存在でしょ。誰が見ても綺麗だって言うし、同い年とは思えないくらい大人っぽいし。性格のことはあとで言うけど、それが影響して直接奈々にあれこれ言う人はあまりいないけど、特に男子の間では奈々の人気は高いから。そんな奈々の側にいれば、なんの特徴もない僕にとっては、それがコンプレックスになるのは当然だよ」
 それは違うと思うけど、今は反論しない。反論すると、話が進まなくなるから。
「次に、内面というかいろいろな能力というか、まあ、そういうもの。それについても、奈々は常に前向きで、なんでも一生懸命でしょ。常に後ろ向きでなんでも一生懸命ではない僕にとっては、本当に別次元の存在だったよ。それに、自分の考えていること、思っていることを素直に言葉にできるところもすごいと思う。ちょっとそれが行きすぎて歯に衣着せぬ物言いになってるところもあるけどね」
 物言いについては、私も自覚してる。
「あと、奈々は勉強もできるし、運動だってできる。なんでも真ん中より下くらいの僕にとっては、本当に遠い存在だよ。それと、なんだかんだ言いながらも人望があるから、みんなが集まってくる。クラスの中でも奈々のことを頼りにしてる人は、かなりいると思う。頼りにしたいとも思われない僕とは、雲泥の差だよ」
 そこまで自分を落とす必要はないと思うけど、それは修平の本音だから、それになにを言ってもはじまらない。
「そういう諸々のことがあって、僕は奈々にコンプレックスを持ってるんだ」
「なるほどね。でもさ、それってまったく変わってないの? そりゃ、私のことを全然知らない頃ならそう思われて、コンプレックスになっててもしょうがない面はあったと思うけど、今は違うんだから」
「多少は変わってきてるのは事実だよ。だけど、それでも埋めきれないものはあるわけだから、根本的な解決にはならないよ」
 そういう風に言われてしまうと、私もなにも言えなくなる。
 私としても、これまでの人生を否定するようなことはできないし。
 だけど、改めて言われると、ちょっとショック。修平にだけはそんな風に見てほしくなかったんだけど。
「僕もね、理屈ではわかってるんだ。そんなこと考えるだけ無駄なことだって。でも、考えてしまうんだよ。今までずっとそんなことばかり考えていたから。それをすぐに改めることはできない。僕も努力はするつもりだけど、確実に時間はかかるだろうから、奈々にはその間、辛抱強く待ってもらわないといけない」
「それはいいけど……」
「ありがとう」
 確かに修平が私のことをどう思っているのかはわかったけど、正直言えば、ちょっとだけ後悔してる。これは今聞かなくてもよかったことだからだ。
 私はただ、見た目とか性格とか、そういう簡単なことを聞きたかっただけなんだ。
 もちろんそれも聞けたけど、それ以上のことも聞いてしまったから。
「難しい顔してるね」
「それはそうよ。修平にあんなこと言われたら、私だってあれこれ考えちゃう」
「ごめん……」
「別に謝る必要はないけど」
 もう、そんなこと言いたいわけじゃないのに。
「あのね、修平。今すぐにそう思うようになるのは無理かもしれないけど、修平がコンプレックスだと思ってる私のいろいろなことについて、逆にそれをみんなに自慢するくらいで本当はいいと思うわ」
「自慢?」
「そう。僕の彼女はこれだけすごいんだ、くらいにね。そうすれば、自然とコンプレックスに思っていたことも受け入れられると思うし」
「……自慢、か」
「だって、修平の目から見ても、私は綺麗なんでしょ? 大人っぽいんでしょ? だったら、それを自慢してもいいんだよ。私は、修平の彼女なんだから」
 あからさまに自慢ばかりされても困るけど、修平なら少しくらい大げさにするくらいがちょうどいいかもしれない。
「本当はね、私は修平にさえ綺麗だとか、大人っぽいだとか、そういう風に思っていてもらえればいいの。ほかのことだってそう。今の私の考え方の中心には、常に修平がいるんだから。私はできるだけ修平と同じような目線でいろいろ見たいと思ってる。でも、それもすぐにはできないだろうし、さっき修平が言ったように埋めきれないものもあると思う。だからこそ、修平からも私の方にアプローチしてほしい。そうすれば、コンプレックスなんて確実になくなるはずだから」
 一朝一夕ではできない難しいことだとは思うけど、それでもこれから先も一緒にいたいから、少しずつでもそうなるように努力を続けるしかない。
「まあ、とにかく、ひとつのことを考える時も、同じ方向からばかり考えないで、たまにはまったく違う方向から考えてみる必要はあると思うわ。そうすることで、そのことに対する自分の違った意見を発見できるかもしれないし。それくらいなら、できるでしょ?」
「うん、まあね」
 今は、それを自覚させただけで十分かな。あれもこれもと欲張っても、いいことはなにもないだろうし。
「さてと、そろそろちゃんと起きよっか」
「そうだね」
 私たちは布団を畳み、着替えを済ませる。
「あ、そうだ。ひとつ肝心なことを聞くのを忘れてた」
「ん、なに?」
「修平、いつまでここにいるつもりなの?」
 そう、それはとても重要なこと。
 私はここへ来る際、最長で三日間ということで来ている。だから、もう一日はここにいても問題はない。それを越えても、ちゃんと説得さえできれば問題はないけど、できれば一度向こうに戻りたい。
「……ん、そうだね。少し、悩んでるんだ、それについては」
「どうして?」
「確かに問題は解決したけど、僕個人としては、まだまだ考えなくちゃいけないことがたくさんあるから。落ち着いて考えるなら、こっちの方がいいと思って」
 その答えは、予想してなかった。
 でも、修平の性格を考えれば、あり得ることだ。
「奈々は、いつまでここにいられるの?」
「とりあえず明日までは問題ないけど、延ばすならまた説得しないとダメ」
「そっか……」
 本当は、残りの春休みはずっと一緒にいたい。今回のことの罪滅ぼしというわけじゃないけど、とにかく一緒にいて、修平のためになんでもしてあげたい。
 だけど、それがかえって修平の重荷になってしまっては意味がない。
 だから、修平の望む通りにするつもり。
「……うん、わかったよ。僕も明日、帰るよ」
「いいの?」
「いいよ。それに、帰って穂香姉さんと瑞香姉さんにもちゃんと説明して、謝らないといけないから」
 それもあった。というか、私は修平に穂香さんとの仲を取り持ってもらわないといけない。
「だから、明日帰ろう」
「修平がそう決めたなら、私はそれに従うわ。もともとそのつもりだったし」
「うん」
 一歩ずつ前へ。
 焦らずに。
「修平」
「ん?」
「ありがとう」
 私はそう言って、修平にキスをした。
 
 午前中は、泊めてもらったお礼も兼ねて、家の手伝いを申し出た。
 広い家だから、普段は使っているところしか掃除をしないという。だから、私たちはその普段はあまり掃除していない部屋を中心に手伝いをした。
 修平のお祖父さんとお祖母さんは、ふたりともとてもいい人で、明らかに部外者である私にも気軽に声をかけてくれた。
 修平の今の性格の一部は、この家系の流れを汲んでるのだろう。ふたりの姿を見ていると、それを改めて実感する。
 まだ会ったことはないけど、修平のお父さんはこのふたりに似ているはずだ。
 お昼を食べたあと、お祖父さんは日課となっている碁会所へ出かけた。本当は午前中から出かけたかったみたいだけど、孫が来ているということもあって、我慢していたみたい。
 私は、修平と一緒に散歩に出かけた。ちなみに、柚香さんも一緒だ。
「奈々ちゃんのうちは、田舎ってどこなの?」
「うちは、父方はずっと東京なんです。まあ、だからこそ地元に妙に根付いてるとも言えますけど」
「なるほどね。お母さんの方は?」
「母方は、北海道です。函館なんですけど」
「へえ、北海道か。あ、じゃあ、ふたりは東京で知り合ったの?」
「いえ、違います。お父さんが旅行で北海道に行った時に、たまたま函館で知り合ったのがお母さんだったんです。なんか、妙に意気投合しちゃって、そのままつきあうことになって、気がついたら結婚していた、というわけです」
「なかなかアクティブなご両親ね」
 ふたりのなれそめについては、何度も聞かされてるから、私個人としては面白くもなんともない。だけど、知らない人からしてみれば、結構珍しい話だと思う。
 ただ、結婚するに至った経緯については、実はできちゃった結婚だったんだけど、それはふたりの名誉のために家族以外には話していない。
「とすると、奈々ちゃんの性格は、そのご両親のアクティブな部分を受け継いでるわけか。なるほどなるほど」
 そういう風に言われたのははじめてかも。
「だけど、奈々ちゃんがそういう性格だからこそ、修ちゃんの彼女になれたのかもしれないわね。ほら、人間て自然と足りない部分を補おうとするから。修ちゃんに足りない部分は、奈々ちゃんのようなとっても前向きでアクティブなところ。もちろん、最初はかなりかけ離れた存在だったから、逆に遠ざけようとしてたと思うけど」
 確かにその通りかも。自分にはないものを持っている人を最初から受け入れられる人など、そうそういないはず。ましてや修平みたいな性格の持ち主なら、なおさらだ。
「修ちゃんと奈々ちゃんは、そういうことから考えても相性はかなりいいと思う。もっとも、ある意味正反対のものを持ってるからこそ、ひとつ歯車が狂っちゃうと今回みたいなことになっちゃうんだろうけど」
 そのあたりを少しずつ理解し、自分にないものを持てるように努力すれば、回避できることでもある。
 私と修平に足りないのは、そのあたりの経験。
 だからって今回みたいなことを何度も経験したくないけど。精神的によくない。
「あ、そうそう。奈々ちゃん」
「なんですか?」
「改めて言うまでもないと思うけど、二度目はないわよ。私もそう思ってるし、なにより穂香お姉ちゃんがそう思ってるはずだから。もし今回と同じようなことが起きたら、お姉ちゃんがさらに過激な手段に打って出るはずだから」
「……肝に銘じておきます」
 穂香さんが本気になったら、とんでもないことになりそうだ。
 この前だってすごい迫力だったし。
 そうならないように気をつけないと。
「そういえば、修ちゃん。もうお姉ちゃんたちには連絡したの?」
「ん、まだ。姉さんは?」
「一応、メールでどうなったかだけは伝えておいたけど。瑞香お姉ちゃんからはすぐに返事があったけど、穂香お姉ちゃんからは音沙汰なし」
「……音沙汰なしって、恐いな……」
「だったら、帰ったらお姉ちゃんに電話すれば? ちゃんとした報告は向こうに帰ってからになると思うけど、それでも心配してくれたお姉ちゃんにちゃんと報告しないと」
「うん、わかってる」
 こうして修平と柚香さんたちのやり取りを見ていると、基本的にはとても仲の良い姉弟だということがわかる。逆に言えば、仲が良すぎたからこそ修平にとってコンプレックスになってしまったんだろう。
「修平って、柚香さんたち三人の中で、誰と一番仲が良いの?」
 私は、少し気になったことを聞いてみた。
「ん〜、特別誰ってことはないと思うよ。姉さんたちに差なんてつけられないし」
「さすが、修ちゃん。でも、そこで私って言ってくれたら、もっとよかったのに」
「……それがまかり間違って穂香姉さんの耳に入ったら、あの家にいられなくなるから」
「うっ……ま、まあ、それはね……」
「やっぱり、穂香さんて恐いんですか?」
「恐いというわけではないんだけど、ただなんていうのかしら。年上だから当然なんだけど、私たちよりもなんでもよく知ってるし、なんでもできるわけ。だから、ありとあらゆることに関して先回りされて、最後には進むことも戻ることもできない状況に追い込まれてしまうこともしばしば」
「穂香姉さんは、普段は虫も殺さないような感じだけど、なにかあれば笑いながらなんでもやるよ」
 そういうのを聞くと、かなりの強敵だとわかる。
「だから、基本的に私たちはお姉ちゃんには逆らわないようにしてるの。逆らってもいいことなんてなにもないから」
 ある意味、恐怖政治と同じだ。
「瑞香さんはどうなんですか?」
「瑞香お姉ちゃんは、見たまんまよ。裏表のない、とってもわかりやすい性格。小さい頃から三人の中で一番静かで、いつも後ろにいるような感じだったわ」
 それって、穂香さんと柚香さんの性格が強烈だからなんじゃ……
「修平は?」
「まあ、そうだね。基本的には柚香姉さんの言った通りだと思うよ。ただ、瑞香姉さんはすごく頑固なところがあって、そのあたりはちょっと大変かも」
「それに、やっぱり修ちゃんのことになると、人が変わるから」
「ただ、瑞香姉さんはあまり余計なことを言ったりやったりしないから、接しやすいというのはあるよ」
「修ちゃん。それって、私や穂香お姉ちゃんは余計なことを言ったりやったりするって、暗に言ってるの?」
「ち、違うよ。別にそんなことは……」
 思ってるんだ。ま、それも見てればわかるけど。
「ま、いずれにしても──」
 柚香さんは、修平の頭をくしゃくしゃにしながら──
「奈々ちゃんはこれからかなり大変になると思うわ。自分で言うのもなんだけどね」
 そう言ってニヤッと笑った。
「うちは間違いなく、両親よりも私たち三人が壁になるからね。それを乗り越えられない限り、その先はないわ」
「姉さん。そうやって奈々を煽らないでよ」
「別に煽ってないわよ」
「煽ってるよ。奈々の性格を考えれば、そんなことを言われたら今以上にやる気になるに決まってるんだから」
 ……なんか、読まれてるし。
「ま、それはそれとして──」
 うわ、さらっと流してるし。
「もし真剣にこれから先のことを考えるなら、本当に私たちのことをそれぞれ納得させる必要があるのは事実よ。確かに私たちは修ちゃんと奈々ちゃんがつきあうこと自体は認めてるし、これ以上なにか言うつもりはない。でもね、その先のこととなるとやっぱり話は変わってくるわ。奈々ちゃんには話したと思うけど、私たち三人にとって、修ちゃんは生き甲斐とも言えるほど、とても大事な存在だから」
「姉さん……」
「……大丈夫ですよ。それにはとても簡単に答えが出せます」
「へえ、それってどんなの?」
「修平が、柚香さんたちと一緒にいる時と同じ、もしくはそれ以上に幸せだったら、なんの問題もないはずです。柚香さんたちが望んでいるのは、修平の幸せですよね?」
「そうね」
 根本的な望みというものは、とても単純でわかりやすいものだ。
 柚香さんたちの場合は、修平の幸せ。それに勝るものはない。
「これから先、確かにどうなるかわからないこともあります。でも、私は節目節目に振り返った時に、それまでが幸せで、今が幸せだと実感できるように努力もしますし、そうなってるだろうと確信しています」
「……なるほどね」
 柚香さんは小さく頷き、薄く微笑んだ。
「修ちゃん」
「ん?」
「修ちゃんも、奈々ちゃんのことを幸せにしてあげないとダメなのよ。どちらかだけ、なんていうのは意味がないんだから」
「うん、わかってる」
「それならいいの」
 そう言ったきり、柚香さんは黙ってしまった。
 たぶん、言いたいことを全部言ってしまったからだろう。
「ね、修平」
「ん、どうしたの?」
「私を幸せにするっていうことに、必要以上に意識することはないのよ」
「どういうこと?」
「修平、すぐ悩むから。私はね、修平と一緒にいられることそれ自体が幸せなの。まあ、ほかになにかしてくれるというのなら、拒みはしないけどね。ただ、そのために無理をしたり、無茶をしたりするのは本末転倒だから。そこだけは、ちゃんと理解していてほしくてね」
 修平みたいな性格の人は、無茶をすると手がつけられないくらいの無茶をするから恐い。
 私はそんなこと望んでないし、無茶をして得られるものなどそうあるわけない。だから、普段通りの生活の中で、ほんの少しのスパイスみたいな感じでなにかがあった方がよっぽどいい。
 人によっては相手がどれだけ自分のためにしてくれたかで愛情のバロメータを測る人もいるだろうけど、それは違うと思う。お互いのためにならなければ、ふたりでいる意味がないのだから。
「わかってるよ。僕だって自分にできることとできないことの区別くらいはできるからね。それに、たとえ無理や無茶をしてもできることなんてたかが知れてるだろうから」
「んもう、そこまで卑屈になる必要ないでしょ? それに、誰かのためになにかしようという時には、その人の能力なんて関係ないの。どれだけその人のことを想って、どれだけ一生懸命できるか。それが重要なの」
 修平のこの性格は、そう簡単には直らない。できれば直してほしいけど、無理して直してほかに影響が出ても意味がないから。
 ま、私と一緒にいれば、少しずつでも矯正されていくと思うけど。
「そのあたりのこと、忘れちゃダメよ」
「わかったよ」
 あまりしつこく言っても逆効果になりかねないから、このあたりでおしまい。
「ところで、姉さん。僕たちはどこへ向かってるの?」
「別にどこでもないわよ。足の向くまま、気の向くままにね」
「…………」
「…………」
 私たちは思わず顔を見合わせた。
「修ちゃんだって、散歩の時はそうしてたんでしょ?」
「それはまあ、そうだけど。でも、姉さんの歩き方を見てると、なにか目的があって歩いてるように見えたから」
「そんなことはないんだけど。でも、せっかくだからどこか行く? まだ時間は大丈夫そうだけど」
 私はここのことを知らないから、なんとも言えない。
「姉さんはどこか行きたいところ、ないの?」
「特にないなぁ。こっちは、観光目的でもない限り、見るべきところが少ないから。それに、たとえどこか行ったとしても、、楽しいかどうかは保証されてないから」
「……それを言ったら、身も蓋もないと思うんだけど」
「で、どうする? このまま適当にぶらついて、帰る?」
「僕はそれで構わないけど。奈々は?」
「私はこのあたりのこと全然知らないから、意見も言えないわよ」
「じゃあ、適当にぶらついて帰りましょ」
 結局、その言葉通り、本当に適当にぶらついて帰ることになった。
 もっとも、このあたりには特に見るべきものもないらしいから、悪い選択ではなかったらしいけど。
 
修平視点
 
 次の日。僕たちは秋田をあとにした。
 帰るのにも時間がかかるので、朝食を食べて、午前中のうちには出た。
 春休みではあるけど平日なので、電車は特に混んでいるということもなかった。
 思えば、秋田へ来る時にはこんな風に三人で東京に帰ることになるとは予想もしていなかった。それもこれも、奈々や姉さんたちのおかげだ。
 そういえば、昨日の夜に電話したら、穂香姉さんも瑞香姉さんもとても喜んでいた。穂香姉さんは柚香姉さんにメールを返信してなかったからどうかとも思ったんだけど、心配することはなかった。
 ちなみに、その電話の中で瑞香姉さんが僕たちを迎えに来ることが決まった。
「あ、そうだ。修ちゃん」
「どうしたの?」
 隣で眠っている奈々に肩を貸しながら本を読んでいると、正面の席に座って眠っていたのかと思っていた柚香姉さんが声を上げた。
「この春休み中に、一日だけ私に時間ちょうだい」
「一日だけって、なにするの?」
「デート」
 姉さんは、至極真面目な表情でそう言った。
「……この際デートという言葉はいいとして、なんのために僕が姉さんとデートしなくちゃいけないの?」
「なんのためって、そんなの決まってるでしょ? 今回のことで恩を感じている修ちゃんが、私のためにあれこれがんばって恩返ししてくれるデートよ」
「……なんか、ものすごく一方的に搾取されるデートみたいなんだけど」
「そんなことないない。それだけでイヤなら、私も目一杯修ちゃんに尽くしてあげるよ。それこそ、奈々ちゃんとのデートよりも濃厚なのをね」
 なんか、ものすごく不穏当なことを言ってる気がする。というか、濃厚っていったいなにをするつもりなんだろう.
「どう?」
「……まあ、百歩譲ってデート自体はいいけど、姉弟らしいまともで普通のデートにしてよ」
「ん〜……無理」
 そ、即答。
「な、なんでさ?」
「だって、やっぱり大好きな男の子と一緒にいたら、特別なデートにしたいと思うのは当然でしょ?」
「……僕は弟だよ?」
「そんなの関係ないの。それに、私は修ちゃんだから大好きなのよ。その大前提がなくなっちゃったら、意味がないの」
 そんな無意味なもの、なくしてもらってもいいのに。
「デートは、駅前かどこかで待ち合わせして──」
「同じ家に住んでるのに?」
「映画館かテーマパークかどこかへ行って──」
「定番すぎない?」
「だんだん陽が暮れてきて一緒にいられる時間も少なくなって──」
「……だから、一緒に住んでるのに?」
「お互いに別れが淋しくなって、その想いを忘れるために一夜を共に過ごすことになる」
「……姉さん。その、安っぽい三流大衆劇っぽい流れはなんとかならないの?」
「じゃあ、修ちゃんはどんなのならいいの?」
「どんなのって、適当に買い物かなにかして終わりでいいんじゃないの?」
「ダメ、絶対ダメ。そんなのつまらない。というか、その中にはとても大事なものがいくつも欠けているわ」
 なんか、だんだん突っ込むのも面倒になってきた。
「まず、デートという甘い状況なのに、そういう感じがない。次に、デートに必要なちょっとドキドキ感がない。そして重要なのが、実の姉弟なのに、という背徳感がない」
「……あのさ、姉さん。その考え方は、いろんな意味で危ないと思うんだけど」
「どうして?」
「どうしてって……」
 ダメだ。こういうやり取りで僕が勝てたことなんて一度もない。
 いつも言い負かされて、押し切られてしまう。
「いいじゃない、別に。私は修ちゃんのことが大好き。弟としても、男の子としてもね。それだけだよ」
 そう言って姉さんは笑った。
「ね、修ちゃん」
「ん?」
「修ちゃんは、私も含めてお姉ちゃんたちのこと、どう思ってる?」
「どうって……それは……」
 それは、とてもひと言では言い表せない。
 僕にとって姉さんたちはコンプレックスの原因ではあるけど、決して嫌いなわけではない。いや、姉さんたちが好きだ。
 好きだからこそ、あれこれ考えてしまうのだ。
 それに、姉さんたちがいなければ今の僕はない。
「……好きだよ。それに、かけがえのない存在だと思ってる」
「ありがと」
 姉さんはとても嬉しそうだ。
「ただ、ちょっと愛情表現が過激だと思うけど」
「それはしょうがないの。だって、修ちゃんがあまりにもカワイイから。本当は今だって修ちゃんを抱きしめたくてしょうがないんだから」
 電車の中でそれはやめてほしい。
「でも、そういうのを少しずつ我慢して、日々過ごしてるの。だからね、修ちゃん。たまにはそういうストレスを発散させる機会を作ってほしいの」
 言いたいことはよくわかるけど、それだとなし崩し的にあれもこれもとなりそうな気がする。姉さんたち三人にあれこれ言われたら、当然時間もそれだけとられることになる。そうなると今度は奈々がなんと言うか。
「それもダメ?」
「……少しくらいなら」
「うん、少しでいいんだよ。だって、これから修ちゃんの一番になるのは、奈々ちゃんなんだから」
 本当は姉さんもわかってるんだ。それをあえて今みたいに言っただけ。
 そのことだけ言っても僕に反発されて終わることを理解してるから。
「で、修ちゃん。そのデートの最後にはやっぱりふたりきりで誰にも邪魔されず、イチャイチャしたいんだけど」
「……それは、その時になったら考えようよ」
 とりあえず、今はそれだけを言っておこう。
 電車を乗り継ぎ、ようやく東京に帰ってきた。
 僕は瑞香姉さんは地元の駅まで迎えに来ると思っていたんだけど、どうやら違っていたようだ。
 瑞香姉さんは新幹線の時間から東京駅への到着時間を調べ、それにあわせて東京駅まで迎えに来ていた。
「修ちゃん」
「ね、姉さん」
 改札を出たところで、いきなり瑞香姉さんに抱きしめられた。
「修ちゃん、もう大丈夫? つらいことない?」
「だ、大丈夫だよ」
「本当に? 本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫だから」
 姉さんは三人の姉の中で一番心配性だ。だから、こういう風になってしまうのはわかってはいたんだけど。
「ほら、お姉ちゃん。こんなところで立ち止まってたら、ほかの人に迷惑になるから」
「そうだね」
 と頷いた姉さんだったけど、僕を離す気はないらしい。
 そんなことをしていれば奈々も柚香姉さんも面白くないはずだ。
 東京駅からまた電車に乗り込む。
「本当は私も行きたかったんだけどね。柚ちゃんが行くって言うから、我慢したんだよ」
「我慢て、お姉ちゃん、大学でどうしても抜けられない用事があるって言ってたじゃないの」
「ん〜……なんのことかな」
「修ちゃんの前だからって、いい格好しようとして」
 こういう普通のやり取りをしてくれると、僕も安心する。
 今回のことは、みんなに迷惑をかける結果となってしまったから。
「あの、瑞香さん」
「ん、どうしたの、奈々ちゃん?」
「今回はいろいろとすみませんでした」
「もういいよ。修ちゃんも奈々ちゃんも、どこが悪くて、なにを直さなくちゃいけないかわかったと思うから。それに、今回のことで今までよりもさらにお互いのことが理解できたでしょ?」
「はい」
「つらいこと、大変なこと、苦しいこと、悲しいことがあると、それを乗り越えた時には必ずなにかを得られるから。今回のことはそのためのものだったって割り切らないとね」
 姉さんは、とても優しい口調でそう言った。
「でもね、奈々ちゃん。わかってるとは思うんだけど、二度目はないよ」
「はい、わかってます」
 そのことは奈々にだけ言っても意味がないんだけど、それを姉さんたちに言っても意味がない。姉さんたちの考えの中心には、常に僕があるから。
「そういえば、姉さん。穂香姉さんはいつも通り?」
「うん。ただ、今日は少し早めに帰れればって言ってたよ」
「そっか」
 昨日の電話では口調なんかはいつもと変わらなかったけど、実際はわからない。
 特になにもなければいいんだけど。
 
 地元の駅で奈々と別れ、僕たちは家に帰った。
 本当は奈々も一緒に来たがったんだけど、さすがにいったんは家に帰らなければ、これから先のことに影響すると説得し、なんとか納得してもらった。
 その代わり、明日うちに来ることになった。その主目的は穂香姉さんとの仲直りというか、関係修復のため。そのために僕は今日、根回ししなければならない。
 家に帰ると、まずは母さんに事情を説明。その理由に母さんもさすがに呆れていたけど、余計なことは言わないでくれた。そのあたりはたぶん、穂香姉さんのおかげなのだろう。
 夕方を過ぎると、いつもより少し早い時間に穂香姉さんが帰ってきた。
「修ちゃん」
 姉さんは自分の部屋に戻るよりもまず、僕の部屋にやって来た。
 僕の名前を呼んだきり、そのまま僕を抱きしめた。
「姉さん……本当にごめん」
「ううん、いいの」
 ゆるゆると頭を振り、姉さんは微笑んだ。
「修ちゃんは今回のことで、またいっそう『いい男』に近づいたね。人はね、積んできた経験が多ければ多いほど、ちゃんと血肉になるの。それはもちろん、楽しいこともつらいことも、分け隔てなくね」
「……そうだね。少しくらい成長してなかったら、奈々にも姉さんたちにも申し訳ないよ」
 本当にそう思う。今回のことを糧にできなかったら、僕はなんのために悩み、傷つき、また傷つけたのかわからない。
「まあ、なんにしても、修ちゃんが元気になってよかった。修ちゃんが元気ないと、お姉ちゃんも元気なくなっちゃうから」
 穂香姉さんは昔からそうだ。
 僕が風邪を引くと、誰よりも一生懸命看病してくれたけど、同時に僕に感情移入しすぎて、自分も風邪を引くことが多かった。
 最近はそういう傾向も薄れてきてるけど、根本的な部分は変わってないから、そういう風に言われても不思議だとは思わない。
「あのさ、姉さん。奈々のことなんだけど、今日は一度帰ってもらったんだけど、明日、うちに来てもらうことにしたから。その時に奈々の口から直接、姉さんに話がしたいって」
「話をするのはいいけど、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。それに、僕と奈々は、今回のことでどちらが悪い、という結論には達しなかったんだから。お互いにダメなところがあって、そのせいで擦れ違いが生じ、結局今回のことが起きた。でも、今はもうどこがダメで、どうすれば直せるかもお互いにわかってるから。だから、姉さんも奈々のことを許してあげてほしいんだ」
「……どうするかは、明日、会った時に決めるわ」
「わかったよ」
 今は、会わないと断れなかっただけでもよしとしよう。
「それよりも修ちゃん。今日はお姉ちゃんが修ちゃんのためになんでもやってあげる」
「えっ、そんなこと別にいいよ。姉さんだって仕事で疲れてるのに」
「いいの。お姉ちゃんが修ちゃんのために、なんでもやってあげたいんだから。遠慮なんかしたら、逆にお姉ちゃん悲しくなっちゃう」
 一度言い出したら聞かない姉さんだから、ここも僕が引き下がるしかないんだろうな。
 それにこれは、姉さんなりの僕への気遣いだと思うから。
 夕食のあと、姉さんは宣言通り、僕のことをなんでもやってくれた。
 といっても、普通に生活のできる僕のためにできることなど、そうたくさんあるわけではない。
 結果、この前と同じように一緒に風呂に入ることになった。
 今回のことは瑞香姉さんと柚香姉さんにも知られてしまい、ふたりとも僕と一緒がいいと言い出したのが、穂香姉さんがそれを制した。
「ほら、修ちゃん。ちゃんと暖まらないと」
「わ、わかってるよ」
 姉さんはそう言いながら僕の肩を押さえた。
「そ、そんなにぴったりくっつかなくても大丈夫だよ」
「ダメ。そんなに大きなお風呂じゃないんだから、離れてたらちゃんと暖まれないもの」
 とにかく姉さんは僕にくっついてくる。
 穂香姉さんは瑞香姉さんほどではないけど、スタイルがいい。実の姉であることを差し引いても、意識してしまうのは仕方がない。
「……姉さんも、そろそろ僕にだけ構うのやめた方がいいんじゃないの?」
「どうして?」
「だって、姉さんだっていい年だし、そろそろ彼氏のひとりでも見つけて、自分だけの幸せを求めてもいいと思うんだ。それに、僕はもう奈々という彼女もいるわけだし」
「それはね、修ちゃん。余計なお世話よ。私の幸せはね、修ちゃんが幸せになってくれることなの。だからね、修ちゃんがちゃんと幸せになれたかどうか、見守る義務があるの。それなのに、自分の幸せを求めるなんて、そんなことできないわ」
「……姉さんは、結婚しないつもりなの?」
「そうね。今のところはそのつもりはさらさらないわ。修ちゃん以上の男の人なんていないもの」
 公言してはいなかったけど、うちの姉さんたちは揃いも揃ってこういう考えを持っている。もし父さんや母さんが姉さんたちを無理矢理にでも結婚させようとしたら、自殺しかねない。
 それくらいこだわりを持っている。
「あ、でも、修ちゃんがお姉ちゃんをお嫁さんにしてくれるなら、考えてもいいかな」
「……それは無理だって」
「だったら、なおのこと結婚はできないわ」
 たぶん、このことで僕が姉さんを説得するのは無理だ。それは、姉さんにとっては僕がその対象なのだから、当然といえば当然だ。
「修ちゃんがお姉ちゃんのことを考えてくれるのは嬉しいわ。でもね、自分の幸せは自分でつかまないとダメなの。修ちゃんだってそうでしょ?」
「うん」
「だからね、修ちゃん。修ちゃんはまず、自分が幸せになることを考えて。そして、幸せになってもう大丈夫という時になってはじめて、お姉ちゃんのことを考えてくれればいいの」
「それだと、遅くない?」
「幸せになるのに、早いも遅いもないと思うわ。それにね、修ちゃん。お姉ちゃんが今、幸せじゃないように見える?」
「ううん」
「うん、お姉ちゃんはね、幸せだよ。こうして大好きな修ちゃんと一緒にいられるんだから。そして、これから修ちゃんが幸せになっていく姿を見守ることができるんだから」
 どう言っても、姉さんを説得するのは無理だ。でも、今はそれでいいのかもしれない。
 僕はまだ高校生だし、姉さんだってまだ二十五だ。先は長い。
「修ちゃんも、お姉ちゃんのことを心配できるくらいに成長したんだよね。お姉ちゃんとしては、嬉しくもあり、淋しくもあるなぁ」
 そう言いながら、姉さんは僕を後ろから抱きしめた。
 裸でそんなことされると、いくら実の姉でもいろいろヤバイことになる。
「ね、姉さん……」
「ね、修ちゃん。修ちゃんはお姉ちゃんのこと、どう思ってる?」
「どうって……姉さんは姉さんだよ」
「そういうことじゃなくて、好きとか嫌いとか、そういうこと」
「そりゃ、嫌いになる理由はないよ。これはいつも言ってるけど。それに、姉さんは実の姉ということを除いても、その、綺麗だと思う。だから、彼氏がいないのが不思議なくらいだよ」
「ありがとう、修ちゃん。修ちゃんに綺麗だって言われて、お姉ちゃんとっても嬉しい」
 姉さんは、僕の前ではいつも自分の感情を素直に表す。それは時に煩わしいこともあるけど、たいていの場合は羨ましく映る。
「じゃあね、修ちゃん。修ちゃんは、今だけ私の彼氏になって」
「えっ……?」
「ほら、少しでもそういうことを知っておけば、本番でも困らないと思って」
「いや、確かにそうかもしれないけど……」
 なんとなくものすごくイヤな予感がする。
「だって、修ちゃんだって、ほら」
「ね、姉さんっ」
 姉さんはそう言いながら、僕のモノに触れてきた。
「私に反応してくれてるわけだから」
「こ、これはしょうがないんだよ。だから別に、そういう意味ではないし」
「大丈夫。全部私に任せて」
「ね、姉さん……」
 本気だ。今回ばかりは本気だ。
 今まで、冗談交じりにあれこれ言われたりやられたりしたことはあったけど、ここまでのことは一度もなかった。
 だから僕もどこかで安心していたんだけど、本当はここまでの想いを秘めていたなんて。
「ね、修ちゃん。一緒に、気持ちよくなろう」
 そのまま姉さんは、僕にキスをしてきた。
 そして──
「修ちゃん、大好きよ……」
 
「……はあ」
 どうして僕はこうも意志が弱いんだろう。
 いや、意志が弱いとかそういう問題ではない気がする。
「どうしたの、修ちゃん?」
「……姉さんはさ、どう思ってるの?」
「どうって、なんのこと?」
「だから、姉弟ですることについて」
 結局、僕は姉さんに流されるまま、してしまった。
 途中で何度もやめようと思ったんだけど、その度に姉さんが見せる悲しそうな顔に意志が鈍り、最後までしてしまった。
「修ちゃんもお姉ちゃんも、お互いがお互いに好きなんだから、いいと思うよ。もちろん、あまりおおっぴらにはできないことではあるけどね」
 僕も姉さんがそれでいいならとも思うけど、それは今までならだ。今は、奈々という彼女がいる。ある意味ではその奈々を裏切ることにもなる。
「それにね、決めていたの」
「なにを?」
「はじめては修ちゃんにって」
 そう、予想通り姉さんははじめてだった。まあ、今まで誰ともつきあったことなかったわけだから、当然なんだろうけど。
「そして、修ちゃんが最初で最後の人だって」
「…………」
 そんな風に言われてしまうと、なにも言えなくなってしまう。
「あと、ここでなんとかできないと、もう本当に修ちゃんは私の手の届かないところに行ってしまいそうな気がして。もちろん、それは嬉しいことでもあるんだよ。それだけ修ちゃんも成長したってことだから。でも、やっぱり淋しくもあるの。私だけじゃないけど、修ちゃんはみんなで手塩にかけて育ててきたからね」
「……もう、わかったよ」
 起きてしまったことをあれこれ言っても仕方がない。
 それに、拒みきれなかった僕にも問題があるんだから。姉さんのことだけ言ってもしょうがない。
「でも、修ちゃんも本当に男の子というより、男性になっちゃったよね。抱かれてる時もすごく力強かったし。修ちゃんにならすべてを任せられるって、本気で思ったよ」
 そう言われて本当は嬉しいんだけど、状況が状況だけに、複雑な心境だ。
「修ちゃんは、後悔してる?」
「……今はまだわからないよ。正直、なんとも言えない。ただ、最後の最後まで姉さんを拒まなかったのは、僕のどこかに姉さんの想いに応えてあげたいという想いがあったからだと思う」
「そうだね。今はそれだけで十分よ」
 姉さんは、僕を抱きしめた。
 とても優しく、包み込むように。
「修ちゃん。これだけは覚えておいてね。私は、どんなことがあっても修ちゃんの味方だから。そして、私と修ちゃんの関係が死ぬまで変わらないのと同じで、ずっと修ちゃんのお姉ちゃんとして修ちゃんを見守っていくから」
「うん……」
「それと、今までも、今も、これからもずっと、私は修ちゃんのことが大好きだからね。修ちゃんは、私の一番だから」
「うん……」
 今はまだ無理だけど、いつの日にかきっと、僕が姉さんを守れるようにならないといけない。弟だからって、いつまでも姉さんに守ってもらっていては、いつになってもそれまでの恩返しができないから。
 姉さんにとっては当たり前のことかもしれないけど、端から見れば姉さんは人並みの幸せをすべて放棄して僕の面倒を見ているように見えるはずだ。
 なにもできない、なにもわからない頃ならそれも仕方がないけど、これから先はそれではいけない。消極的な自分を直し、少しずつ積極的になって、姉さんのためにもありとあらゆることをがんばらないと。
「ありがとう、姉さん」
「うん」
 
奈々恵視点
 
 秋田から帰ってきた次の日。
 私はお昼を過ぎてから家を出た。
 向かう先は、有村家。今日は、穂香さんと話をするために行く。
 午前中のうちに、修平に昨日の穂香さんの様子を確認したけど、問題はないだろうということだった。もちろん、すべてが簡単に丸く収まるとは思ってない。
 私はそれだけのことをしてしまったんだから。それでも、少しずつでもいいから誠意を見せて、穂香さんにもちゃんと認めてほしい。
 久しぶり、というわけでもないけど、なんとなく心情的にそんな感じで到着した有村家を見た。
 インターフォンを鳴らすと、すぐに修平が出てきた。
「来たよ、修平」
「いらっしゃい。時間通りだね」
「まあね」
 中に入ると、とても静かだった。
「誰もいないの?」
「今はね。穂香姉さんは仕事、瑞香姉さんは大学で教授の手伝い、柚香姉さんは母さんと一緒に買い物。夕方前には帰ってくるって言ってたけど」
「そっか」
 言い方は悪いかもしれないけど、今日は穂香さん以外はいてもいなくても同じなので、正直言えばどっちでもよかった。
 修平の部屋に通されると、すでにお茶の用意がされていた。どうやら誰もいないということで、先にやっていたようだ。
 こういうマメなところがあるのは、やっぱり女所帯で成長してきたからかな。
「とりあえず座って」
 言われるまま、私は座った。
「……あのさ、奈々」
「どうしたの?」
「いや、どうしてあえて僕の超至近距離に座ってるのかな、と思って」
「いいじゃない、別に。誰も見てないし、なにか言われるわけでもないんだから。それに、私は少しでも修平の近くにいたいの」
 今回の一連の騒動でわかったことだけど、私は実は、とても淋しがり屋というか、常に大好きな人、大事な人に触れていたい、というのがわかった。
 それはきっと、心のどこかにある、決して消えない不安感の裏返しなのだろう。離れていると不安になるけど、触れていればそれはない。もちろんそれは誤魔化しでしかないのだけど、それはある意味当然なのだ。
 絶対に消えないものを消すことはもちろん不可能。ならばどうやって意識しないようにするか。その答えは簡単。そちらに意識が行かないよう、誤魔化せばいい。誤魔化し続けていれば、いつかそれが『普通』になる。
「わかったよ」
 修平は言っても無駄だと判断し、そのまま私の隣に座った。
「えい」
 私はすぐに修平に寄りかかった。
 触れていると、それだけで安心できる。
「……なんとなくだけど、奈々ってやっぱり、甘えたがりなの?」
「ん〜、どうかしら。自分ではよくわからないけど、末っ子だし、多少そういうところはあるかもしれないわね。でも、今こうして修平にしてるのは、そういうのとは関係ないわよ」
「そうなの?」
「修平だって思わない? 好きな人となら、いつまでも触れあっていたいとか、常に側にいたいとか」
「ああ、うん、そういうことか。そうだね、そういう気持ちならわかるよ」
「だから、私は修平に触れたくて、こうやってるの」
 修平も納得してくれたらしく、嫌がる素振りもない。
「修平って、甘えられたいタイプ? 甘えたいタイプ?」
「どうだろう。今までは僕も末っ子だから、基本的には姉さんたちに甘える立場だったからね。それに、誰かに甘えられたことなんてなかったし」
「じゃあ、私には? 私には甘えたい? 甘えてほしい?」
「奈々には……正直に言っていい?」
「もちろん」
「甘えたいし、甘えてほしい」
「両方なの?」
 両方とは思わなかったなぁ。でも、普通はそうかもしれない。
 甘えたいと思うこともあるし、甘えてほしいと思うこともある。
「じゃあ、今は?」
「今は……甘えてほしい、かな」
「ふふっ、じゃあ、目一杯甘えようっと」
 修平の許可は得たわけだから、遠慮なく甘えよう。
 私は、修平の腰のあたりにしがみつくような格好ですり寄った。
 なんとなく、猫みたいだ。
 にゃ〜、とか鳴いたらさすがに引かれるわね。
「ん……」
 修平は、私の頭と髪を優しく撫でてくれる。
「奈々の髪って、すごく綺麗だよね。手入れも大変なんじゃない?」
「まあね。さすがにこれだけ長くなると、手入れだけで相当の労力を必要とするわ。でも、好きで伸ばしてるわけだから、納得してやってるわ」
「僕は、奈々の髪、好きだよ」
「ありがと」
 これで、当分髪は切れなくなっちゃったな。いいけど。
「そういえば、修平。修平が女性に対してコンプレックスを持ってるのはそれはそれとしていいんだけど、それでもさ、理想の女性像みたいなものはないの?」
「理想、かぁ……」
 まったくないということは、さすがにないはず。見た目とか性格とか、人間誰しもこうあってほしいというものを持っている。
 私だっていろいろ持ってたけど、今はどうでもいい。だって、今は目の前にいる修平が私にとってはすべてだから。
「明確なものは、なかった気がする。ただ、まだ僕がコンプレックスを持つ前は、穂香姉さんみたいな人がいいと思ってたこともあったかな」
 むぅ、穂香さんか。それはそれでわかる気がする。
 昔の穂香さんはどうだったかはわからないけど、少なくとも今の姿を見る限り、理想像と呼べるような存在だ。
 まず見た目。これは同性の私から見ても洗練された美しさを持っている。整った容姿に抜群のスタイル。これだけで世の中の男性は心奪われてしまうかもしれない。
 次に性格。修平絡みの過激な部分を除けば、適度にユーモアもあるし、飾ったところもなく、とても親しみを持てる。それに、とても面倒見がいいから、憧れのお姉さんという感じで、まさに理想像だ。
 基本的な部分は昔から変わっていないはずだから、そうすると修平が穂香さんにある種の理想像を垣間見ても、しょうがない。
「まあ、穂香姉さんはいつも僕のことを気にかけてくれてたし、姉さんたちの中で一番一緒にいる時間が長かったから、余計にそう思うのかもしれないけどね」
 たぶん、修平の中での女性像は、穂香さんであり瑞香さんであり柚香さんなのだ。身近にそれだけの優秀な『サンプル』があるんだから、ほかに理想像を見出さないのもわかる。
「だけど、それも今になって考えてみると、結局僕は自分にないものを持ってる人が、理想だったんだって思うよ。穂香姉さんもそうだし、なにより奈々がそうだから。絶対に手に入らないわけじゃないけど、それでも入手困難なものを持ってる人が側にいれば、自分もそれを持ってるような錯覚を味わえるから」
「なるほどね」
 それもよくわかる。私にもそういうところはあるから。
「いずれにしても、僕としては今こうしてること自体、奇跡に近いと思ってるよ。去年の今頃、今こうしてるなんて思いも寄らなかったから」
「それは私も同じよ」
 彼氏というものにまったく興味がなかったわけでもないけど、それでも積極的にほしいとも思っていなかった。修平みたいに異性にコンプレックスを持っていたわけではないから、それこそいざとなればなんとでもなると思っていた。
 それが、たった数ヶ月でその考えは変わり、いつしか修平のことばかり考えるようになった。
「じゃあさ、修平。ここまで私とつきあってきて、ここはこうしてほしいとか、そういうのはある?」
「ん〜、僕は人にあれこれ言えるようなものはなにも持ってないから。それに、奈々はかなり偏った目しか持ってない僕から見ても、欠点というわけでもないけど、そういう直してほしいところはないよ」
 それは、額面通りには受け取れない。
 確かにちょっと考えての答えなら、そうなる可能性は高い。でも、たとえばこれから四六時中一緒にいることを考えれば、また変わるはずだ。もちろん、今と答えが同じ可能性もゼロではないけど。
「奈々は、僕のことを考えてくれてるから、だからこうしていられるんだと思う」
「どういう意味?」
「言い方が正しいかどうかはわからないけど、上辺だけ見て、適当な考えで一緒にいたらお互いのことをちゃんと理解できずに、結局は別れることになると思うんだ。深入りしたくないならそれで構わないのかもしれないけど、少なくとも僕にはそれは無理だから。だから、奈々が僕のことを考えてくれて、その上で接してくれてるから、誰も好きになれなかったかもしれない僕が、これだけ奈々のことを好きになって、一緒にいたいと思うようになったんだと思う」
「そういうことか」
 今の私はそれこそ四六時中修平のことを考えてるから、これから先も一緒にいられるということになるのかな。でも、修平がそういう風に考えてるということはわかった。
 やっぱりわからないことはちゃんと聞いてみないと、後悔することになるから。
「奈々は、僕にこうしてほしいとか、直してほしいと思ってること、多いだろうね」
「ん、ウソを言ってもしょうがないから言うけど、たくさんあるわ。最初の頃はそれをできるだけ直してもらおうと思ってたんだけど、最近は無理に直さなくてもいいんじゃないかって思ってるのよ」
「どうして?」
「気付くきっかけとしては、誰かに言われるというのはいいと思うんだけど、直すとなると違うと思うの。誰かに言われて、無理矢理直してもそれってきっと、いつかどこかでボロが出る気がしてね。だったら、少しずつでもいいから確実に直せるものから直していけばいいと思うの」
「なるほど」
 私がそういう風に考えるようになったのは、やっぱり修平がある意味では『欠点』とも呼べるものを持ってるから。目立つものもあれば、深く理解しないとわからないものもある。もちろん、できるだけ早めに直した方がいいものもある。だけど、それでも焦って直そうと思っても、絶対に失敗する。
 だから、少しずつ直せるものから直していけばいい。そうすることで、付け焼き刃ではない、ちゃんと自分のものとして欠点は直っていくだろうから。
 ただ、それもなにもせずにいても直らない。そこで重要になってくるのが、側にいる人の協力だ。修平に少しずつそれを直してもらえるよう、助言する必要がある。
 それからどうなるかはわからないけど、どのみちすぐに結果が現れる問題ではない。長い目で見る必要がある。
「あ、でも、さしあたってひとつ、直してほしいことがあるの」
「それってなに?」
「えっとね、もう少し私に対して積極的になってほしい。これは性格の問題だから簡単には直らないとは思うけど、いつもいつも私から行動するんじゃなくて、修平もやってほしいの」
「……それは、なかなかハードルが高いね」
「高いけど、逆にいつもしなくちゃいけないことじゃないから、まだましだと思うわ」
 私も自分の性格を理解してるから、基本的には私から行動することになる。でも、たまにでもいいから、修平からあれこれしてほしい。
「じゃあ、こういうのはどう? 四月に学校がはじまったら、一緒に帰れる日は、修平から手を繋ぐこと。それと、キスも修平からすること」
「……そうやって無理矢理には直さない方がいいんじゃなかったの?」
「これだけは譲れないわ。だって、今のままだと修平は本当によほどのことがない限り、自分から私にどうこうしようとは思わないもの。手を繋いだり、キスをしたり。せめてそれくらいはしてくれないと」
 本当は、こういうふたりきりの時は押し倒すくらいの気構えがあってもいいんだけど。そっちは無理だろうから。
「それに、最初のうちそうやって半強制的にやってれば、そのうちそれが普通になるはずだから」
「それが狙いか」
「まあね」
 もちろん、それだけが狙いじゃない。でも今は、そう思っていてくれた方が話が簡単だ。
「だけど、修平。修平は本当に私をどうこうしたいと思わないの? そりゃ、いきなり無理矢理されるのはイヤだけど、そういう雰囲気の時になら、どんなことされても文句言わないわよ」
「……ないこともないよ。でも、どうしてもあと一歩が踏み出せないんだ。確かに奈々はそう言ってくれるけど、実際そうしてしまって取り返しのつかない事態になったらどうしようって思ってしまうんだ」
「それはそれでわかるけど……」
 わかるんだけど、もう少しなんとかならないかな。
「あのね、修平。いろいろ不安になるのはわかるわ。でもね、本当に取り返しのつかないことなんてそうないの。今回のことだって、ちゃんとわかりあえたでしょ?」
「うん……」
「それに、私の言ってることはすべて私の本音なの。ウソはないの。だから、それを信じてほしいの。修平に信じてもらえなかったら、誰に信じてもらえばいいの?」
 こういう言い方はよくないのかもしれないけど、修平にわかってほしいから。
「少しずつでいいから、自分に素直になってみてよ。ね?」
「わかったよ」
 これで本当にもう少しだけ積極的になってくれると、嬉しいんだけどな。とりあえず、結果についてはこれからということで。
「あ、そうそう。穂香さんて、いつもだと何時くらいに帰ってくるの?」
「仕事の状況によってまちまちだけど、基本的には七時くらいには帰ってくるようにしてるみたいだね」
「そっか」
「あ、でも、今日は早めに帰ってくると思うよ。奈々が来ることは伝えてあるから」
 早めだとしても、六時は軽くまわってるはず。
 今はまだ二時をまわったばかりだから、四時間近くある。
 となると──
「ね、修平。早速実践してみない?」
「実践? なんの?」
「修平が、もっと積極的になるための、実践」
「それってもしかして……」
「うん、そういうこと。ね、しよ?」
 やっぱり、それしかないよね、うんうん。
 
 修平とエッチして、なんとなくまったり過ごしているうちに、夕方になった。
 五時前に彩香さんと柚香さんが買い物から帰ってきた。
 彩香さんは私を諸手を挙げて歓迎してくれるけど、柚香さんは最初から喧嘩腰。まあ、それも今にはじまったことじゃないけど。
 そうそう。今日は遅くなりそうだからって、夕飯に招待されてしまった。
 そういう些細なことが、とっても嬉しい。
 六時前に、瑞香さんも帰ってきた。かなり疲れた様子で、こき使われたみたいだ。
 そして、六時半をまわり、そろそろ夕飯の仕上げをという頃に、穂香さんが帰ってきた。
 私は、いつも以上に緊張していた。あの時のことが頭の中から消えないから。
「奈々」
 と、穂香さんを呼びに行ったはずの修平が、ひとりで部屋に戻ってきた。
「姉さんが、部屋に来てくれって」
「あ、うん」
 そういうことか。
 私は、修平の部屋のはす向かいにある穂香さんの部屋へ。
「姉さん。奈々を連れてきたよ」
 穂香さんは、仕事に行く時に着ている服ではなく、とてもゆったりとした部屋着のワンピースに着替えていた。
「修ちゃん、ありがとう」
 穂香さんは、修平にはいつも以上の笑顔を見せる。
「じゃあ、奈々。しっかり」
 修平は、そのまま部屋を出て行った。
「あの、穂香さん。今回は本当にすみませんでした」
 私はまず、なにはともあれ謝った。
「今回のことで、私はどれだけ自分勝手な考え、行動を取っていたか、思い知りました。わかっていたつもり、理解していたつもり、そんなつもりになっていただけなんです。これは修平だけじゃないと思うんですけど、相手のことを百パーセント理解するなんてこと、できないはずなんです。だからこそ常に相手を理解しようと努力し続けて、常に相手のことを考えて行動しないといけないんです。それを今回のことで思い知りました」
「……そのことは、思い知っただけじゃダメなんだってこともわかってる?」
「はい、もちろんです。もう二度と繰り返しません」
「そう」
 穂香さんはそう言って目を閉じた。
 どうするか考えているのかもしれない。
「修ちゃんが許したんだから、私も許さないわけにはいかないわね」
「それじゃあ……?」
「今回だけは許してあげるわ。ただし、今回だけよ。本当に二度目はないんだからね」
「はい、ありがとうございます」
 よかった。穂香さんにも許してもらえた。
「そんなに私に許してもらえたのが嬉しい?」
「嬉しいですよ。誰だって、嫌われるよりも好きでいてもらった方がいいじゃないですか。それに、穂香さんは修平のお姉さんですから」
「なるほどね」
 ようやく、穂香さんは私に微笑んでくれた。
「それにしても、ここまで早く解決するとは思ってなかったわ」
「そうなんですか?」
「もう少し時間がかかると思ってたの。まあ、その時間は奈々ちゃんが修ちゃんのところへたどり着くまでの時間だったんだけどね。ところが、柚香が思ったよりも早く行動を起こしちゃったから」
「柚香さんがなにかするとは思ってたんですか?」
「まあね。瑞香はああ見えて結構しっかりした考えを持ってるからね。それに、私がきつく言っておいたから。だから、あの子がなにかするということはなかったわけ。でも、柚香は違うわ。ああ、別に考え方が適当ってわけじゃないの。ただ、自分で納得できないことは自分でなんとかしたいと思う子でね。だから、私に言われたくらいでなにもしないなんてことはないの」
「じゃあ、私は柚香さんのそういう性格のおかげで、修平と早くに仲直りできたってことですね」
「そういうことになるわね」
 そう考えると、私はつくづく運が良かったということになる。
 もし柚香さんが私に声をかけてくれなければ、果たして春休み中に解決できていたかどうか。それに、もし春休み中に解決できていなければ、修平は学校を休み、最悪、転校なんてこともあったかもしれない。
 そんなことになっていたら、修平も私も、もう二度と立ち直れなかったかもしれない。
「もし柚香が奈々ちゃんに声をかけなかったら、どうするつもりだったの?」
「いえ、実は私も柚香さんに相談しようと思っていたんです。その時にちょうど柚香さんから声がかかって」
「なるほどねぇ」
「穂香さんたちの中で、私が説得というか、話ができるのは柚香さんだけだと思ったので」
「そのあたりは、いい選択だわ。でも、そこでどうしてうちのお父さんやお母さんという選択肢がなかったの?」
「えっと、一応は考えました。でも、そのあたりは穂香さんも当然わかってると思って」
「なるほどね。だけど、それは考えすぎよ。確かに奈々ちゃんがうちの両親に聞くかもしれないとは思ったわ。その考え自体は当然だからね。でも、だからってそれをどうこうしようとは思ってなかったし、実際なにもしなかった。だから、お母さんにでも素直に聞いていれば、すぐに教えてくれたはずよ」
「そ、そうですか……」
 ううぅ、考えすぎか。まあ、結果オーライだったからよかったものの、裏ばかり見てちゃダメってことよね、きっと。
「ま、それも今更だけどね。とりあえず、修ちゃんも元気になったし、また奈々ちゃんとこうして普通に話もできるようになったから、それでよしとしましょう」
「はい」
 なにはともあれ、無事解決してよかった。
 
 夕食の席は、とても楽しかった。
 肩の荷が下りたからかもしれないけど、いつも以上に楽しかった。
 相変わらず私と柚香さんはつまらないことで言い合いをし、それを修平と瑞香さんがおろおろと心配そうに見て、穂香さんと彩香さんは楽しそうに笑っていた。
 つい先日までは、もう二度とこの光景が見られないのではという状況だった。だからこそ、この時間がとても貴重で、これからも大切にしていかなければならないと改めて思った。
 夕食後、泊まっていってはどうかという彩香さんの誘いを断り、私は帰宅することにした。本当は泊まっていきたかったんだけど、今日の目的はあくまでも穂香さんとの関係修復だったから、さすがに泊まるのは違うと思った。
 修平の部屋に泊まるのは、また今度ということで。
「本当によかったよ。奈々と姉さんが仲直りしてくれて」
「私もそう思うわ」
 今、私は修平に途中まで送ってもらっている。
 季節は春とはいえ、三月の下旬ではまだまだ夜は寒い。しっかり着込んではいるものの、寒さがじんわりと伝わってくる。
 そんな私の手を、修平はしっかりと握ってくれていた。
「姉さんはすっぱり割り切っちゃうタイプだから、今回のことが尾を引くことはないよ。だから、奈々は心配しないで」
「心配はしてないけどね。それに、もし今日がダメだったとしても、何度でも許してくれるまでがんばるつもりだったから。そういう覚悟をしていたんだから、少しくらい尾を引かれたところで、特に問題はないわ」
「それならいいけど」
「でも、心配してくれて、ありがと」
 修平とつきあうようになってからわかったことだけど、修平はとても気配り上手だ。これはたぶん、女性ばかりに囲まれて生活してきたからなのだと思う。
 気配りというか、気遣いを忘れてしまっては、あの家ではまともに生活できなかったんんだろう。
「ね、修平。残りの春休み、どうやって過ごすつもり?」
「どうやってって、特にこれといったことはないよ。宿題がないから、あくせくする必要はないし。ただ、四月から三年生になるということを考えるなら、勉強した方がいいんだろうけど」
「あのね、ひとつ、提案があるの」
「提案?」
「もう春休みの残りもそれほどないから、逆に割り切って、ずっと一緒にいない?」
「ずっと? ずっとって……えっ、ずっと?」
 さすがに驚くか。まあ、私もなんの構えもなく言われたら、驚くだろうけど。
「私、今回のことがあってから、ますます修平と離れたくなくなったの。それは、精神的な意味合いもあるんだけど、実際の距離でもそう。携帯があるからいつでも声は聞けるけど、触れあうためには、直接会うしかない。だから、ずっと一緒にいたいって思ったの」
「そっか」
「ダメ?」
「ダメとは言わないけど、実際はどうするつもり?」
「方法はいくつかあるわ。一番楽なのは、お互いの家に泊まるの。どっちも長すぎると迷惑がかかるから、適度に切ってね」
「まあ、そうだね」
「あとは、どこかに泊まりがけで出かけるとか。これはいろいろ手間やお金がかかるから大変だけど」
「そうだね」
 誰にも邪魔されずに、ということを考えれば後者なんだけど、やっぱり難しそう。
 私は秋田へ行くのにそれなりの代償を支払ってるから。
「どうかな?」
「泊まるというのは、奈々のうちは問題ないの?」
「まったくないわけじゃないけど、大丈夫よ。だって、私と修平の関係はもう知ってるわけだし。それに、私が一度言い出したらそう簡単に引き下がらないことも知ってるし」
「……なるほど」
 そこで納得されるのもなんだけど。
「わかったよ。僕の方もなんとかしてみる」
「ありがと、修平」
 私は、自分で思っていたよりもずっとずっと弱い。なにかにすがっていたいこともある。
 今まではそういうことがなかっただけ。それが修平とつきあうようになって、新たな発見というわけじゃないけど、そういう自分もいるということがわかった。
「奈々」
「ん、どうしたの?」
「僕もいろいろ考えたんだけど、これから先も奈々と一緒にいるためには、どうしたらいいかってね」
「うん」
「高校の間は特に問題はないはず。まあ、クラスは別々になっちゃうけど。問題はその先だと思うんだ。今のままだと、僕と奈々は大学は別々になりそうだからね」
 ああ、そっか。それはそうかもしれない。
 現状では、私と修平では成績に開きがある。もし同じ大学に行こうと思ったら、私が志望大学を下げるか、修平が猛勉強して志望大学を上げるしかない。
「奈々に志望校を下げさせるわけにはいかないから、僕ががんばるしかない。でも、今までと同じことをしていたら、とても奈々には追いつけないから。じゃあ、どうしたらいいかと考えたら、僕にやれることはそうあるわけじゃないことに気付いたんだ。それはとにかくがんばって勉強するしかないってこと」
「がんばるって言っても、そう簡単にできること?」
「できるできないじゃなくて、やるんだよ。奈々と一緒にいるためにね」
 そこまで考えていたんだ。私なんて、目の前のことだけで先のことなんて考えてなかったのに。
「ただ、それには僕だけの努力じゃダメな部分もあると思う。だから、奈々に教えてほしいんだ。まあ、文系理系の違いがあるから、主に文系科目になると思うけど」
「それくらいなら、いくらでも教えてあげるわ。それこそ、一日中つきっきりでね」
 修平がそこまで考えているなら、私もしっかり考えないといけない。
 それに、修平のその決意に応えられるよう、私自身もがんばらないと。教える立場の私が情けない状況では、話にならないから。
「それにしても、修平もずいぶんと積極的にいろいろ考えてるわね」
「考えだけはね。なかなか行動が伴わないから」
「でも、それはすごい進歩だと思うわ。修平もわかってると思うけど、すぐに変わることなんてできないんだから。そうやって少しずつ変わっていくことが大事なの」
「そうすれば、奈々に相応しくなれるかな?」
「相応しくって、そこまで考えてたの?」
「そうだよ。僕は、自分が劣ってることを自覚してるからね。今のままだと、いつまで経っても奈々に相応しくはなれないから」
「そんなことないのに……」
 本当にそんなことない。
 でも、相応しいか相応しくないかは、本人たちよりもまわりの意見の方が大きい。今の私たちを見ると、もちろん納得はできないけど、相応しくは見えないと思う。
「どこまでできるかはわからないけど、少しずつでも奈々に相応しくなりたいから」
「……考えるのも実践するのもいいけど、絶対に無理だけはしないで。それだけは約束して」
「わかったよ」
 私が修平にどこまで影響を与えているのかはわからないけど、修平は確実に変わってきている。嬉しくもあるけど、あまり焦らないでほしい。
 それに、私は今の修平が大好きだから。無理に変わらなくても、嫌いになるなんてことはない。
「なんか、こうしていろいろ話をしていたら、帰りたくなくなってきちゃった。やっぱり、修平のところに泊まればよかったかな?」
「それを決めるのは僕じゃないよ」
「うん、そうだね」
 それはそうだ。彩香さんの誘いを断ったのだって私。あそこでそのまま誘われてても、それを決めるのは私。
「だけど、今日はいいんじゃないかな。もともとそういうつもりじゃなかったわけだし。それに、さっきの話だと明日からずっと一緒にいることになるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、今日は我慢しよう」
「うん」
 あとからあれこれ言うのは、やっぱりみっともない。自分で決めたことならなおさらだ。
 だから、今日はこのまま帰ろう。
「あ、でも、修平。明日からは、覚悟しといてね」
「覚悟?」
「明日から、みっちり勉強を見てあげるから。ノルマが終わるまで、絶対に許さないから」
「お、お手柔らかに」
「それと、もうひとつ。勉強を見てあげる代わりに、夜はたっぷり可愛がってもらうからね」
「えっと、それはもう決定事項?」
「そ、決定事項」
 別にセックス自体が目的じゃないけど、それもしたいのは事実。
 セックスすると、気持ちよくなれるし、なによりも修平と深く触れあえるから、心から安心できる。
「明日から楽しみだなぁ」
 本当に、楽しみ。
 
修平視点
 
 奈々と姉さんが仲直りした次の日から、僕は奈々と一緒にいた。
 それはもう、本当に一日中一緒にいた。もちろん、ただ一緒にいたわけではない。
 奈々には、僕の勉強を見てもらった。僕は理系だから、主に文系科目を。
 だけど、奈々の指導は容赦なかった。それはたぶん、奈々が僕よりもとても優秀だからだと思う。自分にはできることでも、僕にはできないことが多いから、どうしても厳しくなるんだろう。
 僕としては適当にやられるよりはそっちの方がいいので、素直に指導を受けていた。
 それでも、ほぼ一日中勉強漬けというのは経験したことがなかったので、それはもう精神的にも体力的にもきつかった。
 そして夜。
 夜は夜で、奈々の性格が一変した。言うなれば、昼間はスパルタ教師、夜は甘えん坊の女の子、という感じ。
 甘えられること自体は嬉しいんだけど、ちょっと過激かもと思うことも。
 言ってもやめることはないだろうから、僕の中だけで留めてるけど。
 そういえば、お互いの家に泊まることに関しては、意外にも特になにも言われなかった。
 うちが言われないのは予想通りだったけど、奈々の家の方は予想外だった。
 男の僕と違って、奈々は女の子で、しかもとても可愛がられている。だからもう少し難色を示されると思った。
 だけど、実際は特になにも言われず、また僕が桂見家へ行っても特になにも言われなかった。
 そのあたりを奈々に聞いてみたけど、奈々もわからないとしか言わなかった。
 ひょっとしたら奈々がなにか言ったのかもしれないけど、今のところ実害がないので気にしないことにした。
 そんな春休みの一日。
 すでに暦は変わり、四月になっている。
 僕は、連日の勉強と夜のことで、かなりへばっていた。
 というわけで、今日は休みにしていた。
「♪〜♪〜」
 で、僕は今、奈々に膝枕してもらってのんびりしていた。
 奈々は、とても機嫌がよく、鼻歌まで出てる。
「そういえば、修平。今日がなんの日か、わかってる?」
「今日?」
 今日は、四月三日。ん? 三日?
「ああ、今日は僕の誕生日だ」
「そうよ。だから、今日は一日勉強もなしにしたんだから」
 そういうことか。まあ、理由はどうあれ、休めるのはいいことだ。
「本当はね、いろいろやろうと思ってたんだけど、でも、あれこれやるよりも、私が心を込めて修平のためにお祝いする方がいいかなって思って」
「そっか。奈々がそう思ってくれてるということだけで、僕は嬉しいよ」
「思ってるだけじゃなくて、今日は本当になんでも私がやってあげるから」
「別にそこまでしてくれなくてもいいよ。こうして膝枕してくれてるだけでも、十分なんだから」
「ダメよ、そんなの。それじゃ、私の気が済まないもの」
 気が済まないって……そういう問題じゃないような。
「というわけで、まずはお昼ね。お昼は、私が修平のために腕によりをかけて作るから」
 ──というわけで、奈々は今、台所で料理中。
 僕は、居間で料理ができあがるのを待っていた。
 ああ、ちなみに今日は桂見家にいる。だから──
「それにしても、奈々もずいぶんと大胆なことを考えたわよね、本当に」
「恋をすると、それだけ大胆になるということよ。香奈恵は……もうダメかしら」
「ちょっとちょっと、なにその微妙な言い回しは?」
 百合恵さんと香奈恵さんが僕の相手をしてくれていた。
「でも、なんとなく修平くんは奈々に振り回されてる気がするんだけど、どう?」
「別に振り回されてるとは思ってません」
「そう? それでも、たまにあの妙にアクティブなところがイヤになったりしない?」
「いえ、そんなことは……」
「ふ〜ん、なるほどね。じゃあ、奈々にとって修平くんはかなり理想に近い彼氏ってことか。あの子、言ってたことあるのよ。自分の性格を考えると、相手も同じような性格だったら間違いなく喧嘩ばかりして、どうにもならないって。正反対までとは言わなくても、それに近い性格で、しかもある程度自分の行動に寛容な人じゃなければ、長くは続かないだろうってね」
 そんなことを言ってたんだ。
「確かに、そういう風に考えていたんだとすれば、修平さんは奈々恵にとっては理想の彼氏になるわね。自分の理想の人に巡り会える可能性なんて、かなり低いと思うから、そういうことから考えても、奈々恵はとてもいい出逢いをしたと思うわ」
「修平くんにとっては、どうなの? 彼女が奈々で、よかった?」
「はい、それはもちろんよかったです」
「即答か。あ、だけど、聞いた話だと、奈々が修平くんに告白したのよね? その時にはもう、奈々でよかったと思ってたの?」
「そうですね……正直に言えば、最初はそこまでのことはなかったです。奈々でよかったかどうかというよりも、奈々以外の選択肢がなかったので」
「なんか、いろいろありそうね、そのあたりは」
「香奈恵。そのあたりにしておきなさい。あなただって、根掘り葉掘り聞かれたらイヤことだってあるでしょう?」
「はぁい、わかりました」
 聞かれて困るわけではないけど、ただ、僕が奈々に対してしてたことを知ったら、あまりいい気分ではないだろう。だから、今日は引いてくれて助かった。
「ところでさ、修平くん。修平くんは、奈々のどこが好きなの?」
「好きなところ、ですか?」
「うん。奈々からの告白を受けたってことは、どこかしら好きなところがあったわけでしょ? まったく好きでもない相手の告白を受けるようなことはないだろうし」
 改めてそう言われると、少し考えてしまう。
 今なら好きなところはいろいろ言えるけど、あの時はどうだっただろうか。
 前向きな性格は、僕にはとても眩しかった。
 学年でも一、二を争う容姿は、好きとか嫌いという次元のものではなかった。
 ああ、でも、ひとつだけ言えることがあった。
「僕のことを、認めてくれたところ、ですかね」
「認めてくれた? なんか、ずいぶんと深いんだね」
「ちょっと説明はしにくいですけど。あとは、月並みですけど綺麗なところも好きです」
「ふ〜ん、そっちは後付けの理由なんだ。修平くんて、やっぱり変わってる」
 それは僕も自覚してる。僕は、普通の男子高校生が好きになるような理由で奈々を好きになったわけじゃないから。
 でも、それはそれでいいと思ってる。なにもそういうことまで右へ倣えじゃなくてもいいはずだから。それに、同じ理由で好きになっていたら、逆に言えば奈々は僕のことを好きになってはいなかったはずだ。
「あ、でも、それは奈々にも言えることか。奈々も修平くんのこと、普通とは違う理由で好きになったみたいだし」
「どういう理由で好きになってもいいじゃないの。それは香奈恵にはまったく関係のないことなんだから」
「ま、そうなんだけど」
「それに、最初はどういう理由であったにしろ、今現在、ふたりはなんの問題もなく交際を続けているんだから、それでいいのよ」
「それもそうなんだけどね。ほら、気になるじゃない」
「気になるからって、デリカシーのない質問だけはしないのよ」
「はぁい」
 以前にも思ったことだけど、百合恵さんも香奈恵さんも、とても奈々のことを可愛がっている。その想いは微妙に違うんだろうけど、暖かみを感じる。
 からかってるように見えても、それが接し方であることも少し見ているとわかるし、されている奈々も本気で嫌がっているわけでもない。
 こういう大きな家ではそういうことはないと思っていた僕にとっては、それはとても新鮮な驚きだった。
「ふう、あと少しで完成」
 そこへ、奈々が戻ってきた。
「もうできたの?」
「あとは、煮込んで終わり。だから、ちょっとこっちへ来たの」
 はじめてではないけど、奈々のエプロン姿は、妙な感慨がある。僕、こういうのに弱いのかな?
「で、ふたりとなにを話してたの?」
「別にこれといったことは」
「ホント? お母さんはまだしも、お姉ちゃんはデリカシーの欠片も持ち合わせてないから、なんかいろいろ言われたんじゃないかって思ってね」
「ちょっと、あんたはなに言ってるのよ。修平くんにあらぬ誤解を生むようなことを言わない」
「あらぬ誤解って、事実なんだからしょうがないじゃない」
 奈々と香奈恵さんは、仲は悪くないみたいなんだけど、しょっちゅうこういう言い合いをする。それがコミュニケーションの方法なんだろうけど、姉妹といったらうちの姉さんたちのことしか知らない僕にとっては、かなり新鮮に映る。
 もっとも、それを奈々や香奈恵さんに言っても理解してもらえないだろうけど。
「ホントにこの妹は、口だけは一人前を通り越して、墓場寸前まで行ってるくらい、生意気なんだから」
「別にお姉ちゃんにそう思われてても、全然気にしないわ。それに、もし私が生意気だって言うなら、お姉ちゃんも同じだってこと、忘れないように」
「…………」
 2ラウンドTKO勝ち。
「それで、本当のところはどうなの?」
「いや、本当もなにも、特別なことは話してないよ」
「そうなの、お母さん?」
 どうやら、今度は百合恵さんに確認するようだ。
「そうね。これといって特別な会話ではなかったと思うわ。ごく普通の、娘と妹の彼氏に気になることを確認してた程度だから」
「まあ、それくらいならいいか」
 どこにその線引きがあったのかは、奈々しかわからない。
「私も、お姉ちゃんの彼氏がはじめてうちに来た時は、あれこれ聞いたしね」
 なるほど、そういう線引きか。
「でも、どうしてお姉ちゃんは長く続かないの?」
「うるさいわね。人のことどうだっていいでしょ。それに、中途半端なままダラダラつきあってるより、すっぱり別れて新しい出逢いを探した方がずっと前向きなのよ」
「それって、続かないことの言い訳に過ぎないと思うけど。それに、話を聞いてる限りでは、お姉ちゃんが振られるのと振るのと半々くらいなわけよね。だとしたら、お姉ちゃんの人を見る目もないってことだし、相手のお姉ちゃんを見る目もないってことじゃないの?」
「…………」
 なんか、かなり痛いところを突いたらしい。
「奈々恵。そのあたりにしておきなさい。香奈恵だって、いつまでも同じことを繰り返さないはずよ。そのうち、将来の結婚相手を連れてくるわよ」
 うわ、すごいプレッシャーだ。香奈恵さん、なにも言えなくなってる。
「結婚相手といえば、奈々恵がそういう格好していると、新妻みたいね」
「ちょ、ちょっと、お母さん、な、なに言ってるのよ」
「あら、そんなに慌てること? あなただって、このまま修平さんとの交際が順調にいけば、将来そうなってもいいと思ってるんでしょ?」
「うっ……そ、それは、そうなんだけど……」
 奈々は、真っ赤な顔で、僕の方を覗き見る。
 というか、僕を見られても困るんだけど。僕だって、いきなりそんな話をされて、一瞬でいろいろ考えてしまったし。
「奈々恵は香奈恵と違って、そういうところはしっかりしてるから、まず変なことにはならないと思うけど。まあ、言い換えれば不器用なだけなのかもしれないけど」
 なかなかはっきりとした意見だ。
 奈々が恋愛に不器用なのは、ここまでつきあってきてよくわかってる。
 一見するとなんでも知っていそうな感じなんだけど、実際はなにをするにも手探り状態。ただ、僕の前ではそういう姿をできるだけ見せないように努力している。
 もっとも、僕は不器用以前の状況だから、奈々のことは言えないんだけど。
「それに、五月に公一郎が結婚したら、ますますそういう願望が強くなると思うわ。なんといっても、目の前に本物の花嫁がいるのだから」
 公一郎とは、奈々のお兄さんのこと。
 とても気さくな人で、好青年という感じだ。ただ、ちょっと奈々のことを可愛がりすぎてるところがあって、少々奈々に邪険に扱われてる。
「あ、そうそう。ついでだから今のうちに言っておこうかしら」
「ん、どうしたの?」
「ああ、別に深刻な話でも重要な話でもないわ。公一郎の結婚式に、修平さんを招待しようと思って」
「修平を?」
「ええ。せっかくこうして一緒の時間を過ごせているのだから、ある意味では家族の一員のようなものでしょ。それに、修平さんはあの人にも公一郎にも受けがいいから。ここで招待しなかったら、あとあともめそうだからね」
「ふ〜ん、なるほどね。私は構わないと思うけど、修平はどう?」
 どう、と聞かれても、いきなりで返答に困る。
 そういう心遣いはありがたいけど、僕は奈々とつきあってまだ三ヶ月くらいしか経ってないのに、いきなり家族扱いというのはどうだろうか。
 これがもし、奈々の彼氏ではなくて『婚約者』とかなら、もう少し話は簡単なんだろうけど。でも、そんなのどうなるかわからない先の話だから。
「とてもありがたい話だと思うけど、さすがにそこまでは……」
 五月の時点でもまだ五ヶ月しか経たないわけだ。ここは、固辞するのが当然だろう。
「じゃあ、いっそのこと、本当の家族になるようにすればいいのよ」
「えっ……?」
「もちろん、今すぐに家族になるのは無理だから、結婚式は『準家族』みたいな感じにはなると思うけど」
「ほ、本当の家族って、どうするの?」
「そんなの決まってるわ。あなたと修平さんが、婚約すればいいのよ。そうすれば、修平さんは奈々恵の婚約者として、正々堂々と出られるでしょ」
「こ、婚約者って……」
 えっと、いきなり話があらぬ方向へ進みはじめた。
「そ、それはいくらなんでも早すぎるわよ」
「早すぎる、ということは、そうなってもいいということよね、然るべき時に」
「そ、それは……そうだけど……」
「それなら、公一郎の結婚式をその然るべき時にすればいいのよ。それに、婚約したからってすぐに結婚するわけでもないんだから、それほど問題があるとは思えないわ」
 言い分としては百合恵さんの言い分は間違ってはいない。
 だけど、僕も奈々も、まだまだそんなことを考える段階でもなかった。それなのに、いきなり婚約して、さらにその先のことまで考えなければならない状況になってしまうのは、さすがにどうかと思う。
「修平さんは、奈々恵とそういう関係になることを、どう考えてるの?」
 どう考えてる、か。
 正直に言えば、僕にはまだまだ先のことを考える余裕はない。今のようにつきあうことすら想像できなかった僕だ。その先のことなど、余計に想像できない。
 ただ、奈々とつきあうようになって、しかもセックスまでするようになって、少しずつではあるけど、先のことを考えるようにはなっていた。それでも、それはせいぜい高校を卒業したらどうするか、程度のことだ。
 そもそも僕には、結婚願望というものが皆無だった。だから、そのことを聞かれても困るとしか言いようがない。
 でも、ここでその答えは問題だろう。かといって、あまりウソをつくのもあとでのことを考えると、やはり問題だ。
「……正直に言えば、それはそれでいいと思います。僕の中にも、少なからずそういうことを考えている部分はありますから」
「でも、その言い方だと、そうじゃない部分が多いように聞こえるけど」
「……そうですね。たぶん、いえ、間違いなく僕の中ではまだそういうことはちゃんと考えられていません。常に手探り状態で、まだまだ先のことを考える余裕がないんです」
「なるほど」
 百合恵さんは頷き、少し考える。いや、それは素振りだけかもしれない。
「じゃあ、質問の仕方を変えましょう。修平さんは、奈々恵とずっと一緒にいたいと思ってる?」
「はい」
「だったら、特に問題はないと思うわ。男と女がずっと一緒にいる方法など、そう多くはないんだから。違う?」
「いえ」
 なんとなく丸め込まれた感じもするけど、でも、百合恵さんの意見ももっともだ。
 僕も奈々も、ずっと一緒にいたいと思っている。
 そのためにどうしたらいいのかは、まだ考えていなかった。
 百合恵さんは、そんな僕たちに道を示してくれたわけだ。
「今すぐに答えを出さなくてもいいから、少し奈々恵と一緒に考えてみるといいわ」
「わかりました」
 すぐに答えを出さなくてもいい、か。
 だけど、ここまであれこれ言われ、諭されたら、近いうちに答えを出さなければならないだろう。
 奈々は、どう考えているんだろう。
 
 奈々の作ってくれた昼食はとても美味しかった。
 春の山菜のまぜご飯に豆腐とわかめの味噌汁、鳥の治部煮というメニュー。ほかにもいくつか出してくれたけど、それは奈々が作ったものではないそうだ。
 確かに、腕によりをかけて、と言っただけのことはあった。
 なんでもできるのは知っていたけど、ここまでなんでもできるとは思わなかった。
 料理は美味しかったんだけど、それだけを堪能はできなかった。やはり、百合恵さんに言われたことが気になっていたからだ。
 それは奈々も同じだったようで、どこか心ここにあらずのような感じだった。
 百合恵さんは百合恵さんで、そんな僕たちの様子を楽しんでいるようだった。
 昼食後、僕たちは揃って散歩に出た。
 僕も奈々も、部屋の中で悶々と考えていたくなかったからだ。
「ね、修平。修平はさ、正直、どう思ってるの? さっきは、お母さんの前だったから多少言葉を選んだと思うけど」
「いや、基本的にはさっきの通りだよ。まさかウソはつけないから」
「そっか」
「あ、ただ、奈々にはわかっていてほしいんだけど」
「うん」
「僕はさ、ずっとそういうのとは無縁な生活を送ってきて、自分がそういう状況に置かれるなんてこと、想像すらしたことなかったんだ。だから、奈々とつきあうようになっても、いきなりそれが変わることはないし、実際なかった。そこであの問いかけだったから、ああいう感じで答えたんだよ」
「なるほどね」
 奈々は、わかってくれただろうか。
「私はね、これでも一応女の子やってるから、人並みにはそういうこと考えてるの。こんな風な結婚式をしたいとか、こんな家族を持ちたいとか、ね。でも、それはあくまでも私の勝手な想像でしかない。それを修平に押しつけるつもりはさらさらないし。それに、理想ばかり追い続けてると、絶対どこかで歯車が噛み合わなくなるから。それだったら、多少の背伸びは許容しつつ、自分の身の丈にあったものを見つけて、追いかけていく方がよっぽど幸せになれるはずなのよ」
「そうかもしれないね」
「そして、今私があれこれ考える相手は、当然修平しかいない。何年後かはわからないけど、私と修平はどうなっているんだろうって、いろいろ想像するの。だからね、さっきのお母さんじゃないけど、すぐに答えを出す必要はないから、考えてほしいの。私とどうなりたいか」
 奈々は、真っ直ぐ前を向いたまま、そう言った。
「私は、修平と一緒になりたい。修平の、お嫁さんになりたい」
「奈々……」
 それはきっと、奈々の本心だろう。
 いくら奈々でも、そういうことで冗談は言わないだろうし、なによりそういうことだからこそ、真剣に言ったはずだ。
「たぶん、僕の中ではすでに答えは出てるんだと思う。でも、それを再確認する時間がほしいんだ」
「それくらい、待つわ」
「ありがとう」
 そう。僕の中ではすでに答えは出てる。
 あとは、本当にそれでいいかの検証のみ。
「でも、いきなり婚約なんて話になるとは、さすがに思わなかったわ」
「そうだね」
「お母さんもたまに突拍子もないことを言うから」
 そのたまにが今日になったというわけか。
「結婚式の話だけで終わってればよかったのにね」
「まあね。でも、それは修平が素直に受けていればあそこまでの話にはならなかったはずよ」
「僕のせい?」
「そういうわけじゃないけど」
 奈々の言いたいことはよくわかるけど、僕のせいと言われるのは心外だ。
「お母さんとしては、どっちが目的だったのかしらね」
「どっちって?」
「結婚式への招待と婚約と」
「ああ、そういうことか。確かに、どっちだったんだろうね」
「なんとなく、仕組まれた気がするのよね、私は。もちろん、最初から婚約話に持っていくつもりはなかったと思うけど。ただ、修平が断ったりしたら、その話を持ち出そうとは考えていたと思うの」
 本当にそうなのだとすると、百合恵さんはかなりの策士だ。しかも、僕も奈々も百合恵さんの手のひらの上で踊らされている状況だし。
「まあでも、修平はそれだけうちの家族に認められて、受け入れられてるってことよ。おじいちゃんも言ってたわよ。もし本気で学校の経営をしてみたいなら、いくらでも教えてやるって」
「そ、そこまで……」
 なんで僕なんかがそこまでもてはやされるんだろう。
 もし僕が客観的に僕のことを見たら、絶対にそんなことはないのに。
「だけど、どうして僕はそこまで認められているんだろう。僕にはどうしてもわからないんだけど」
「ん〜、それはたぶん、私の彼氏だというのが大きいと思うわ」
「どういう意味?」
「自分で言うのもなんだけど、私はこれでも人を見る目はある方だと思ってる。そのことを家族も知ってるから、私が選んだ人なら問題はないって判断しちゃうんだと思う」
 それはそれでどうなんだろうか。それだけ奈々が信用されてるってことだと思うけど。
「あとは、修平本人を見て、直接話して判断してるはずよ。だから、そのあたりのそれぞれの理由については、私にもわからないわ」
「そっか」
「それでも、ある程度の推測はできるわ」
「それってどんなこと?」
「まず、修平は見るからに不器用そうでしょ。だから、浮気とか不誠実なことはしないだろうって思われてる。家族にとって、そういうのって大事でしょ?」
「まあ、確かに」
 もし、姉さんたちに彼氏ができても、僕も同じようにその彼氏のことを見るだろう。明らかに適当で、裏切りそうな人が彼氏なら、とても認められない。
「それと、不器用だからなんでも一生懸命やるだろうって思われてるはず。なんでもできるのもいいんだけど、不器用でも一生懸命真面目にがんばってるのも、見ている方としては好感が持てるのよ」
 そう言われて悪い気はしないけど、少し複雑な気分だ。
「あとは……そうね、ちゃんと私の相手をできている、というのも重要かも」
「奈々の相手って、それは別に僕じゃなくてもできると思うんだけど」
「これも自分で言うのもなんだけど、私、相手をとても選り好みするのよ。クラスではある程度割り切ってるからそういう風には見えないだろうけど、普通にプライベートで接するなら、確実に選ぶわ。ただね、選り好みといっても重要なことはひとつだけなのよ。ちゃんと私の相手をできるかどうか。それだけ」
 ますますわからない。
「修平も知っての通り、私ってちょっと変わってるでしょ? それを他人から言われたら腹も立つけど、自覚もしているのよ。だから、ちゃんと相手できる人を探すの。そうしないと、私も相手もイヤな想いをするから。そして、修平は私の相手ができる、まさに理想のタイプなのよ」
「理想のタイプ……」
「修平はさ、女性に対してコンプレックスを持ってることもあって、逆にそれ以外のところに無頓着というか、気にしないところがあるのよ。だから、私も修平と接し、話しているととても楽なの。言い方は悪いけど、変な気を遣う必要がないから。そのあたりも家族は当然知ってるから、私と修平のやり取りを見て、修平なら大丈夫だって判断したと思うわ」
 そういう風に列挙されると、なるほどと思うけど、今すぐにすべてを理解できるわけではない。
「ほかにも理由はあるだろうけど、あまり深く考えてもしょうがないわ。それに、特になんの心配も問題もなく認めてくれてるんだから、素直に受け取って喜べばいいのよ」
 それがなかなかできないから言ってるんだけど。
「ま、どんな理由にしても、複数が修平に当てはまることだから。だから、修平ももう少し自分自身に自信を持った方がいいわ」
「……努力はしてみるよ」
 今は、そう答えるのが精一杯だった。
 ただ、少しだけ僕が桂見家で認められている理由がわかった。もちろん、それが正しいかどうかはわからない。それでも、今までよりは多少どう対処すればいいかわかった。
「あ、そうだ。修平」
「どうしたの?」
「すっかり忘れてたんだけど、お花見しない?」
「お花見? そういえば、そうだね」
 確かに、季節は春で、今は桜の花が見頃を迎えている。
 金曜日の夜から日曜日にかけては、桜の名所では大勢の花見客が宴会を行っている。
 テレビでも連日どこかしらから中継をやっている。
「よし、お花見しよ」
 というわけで、僕たちは急遽お花見することにした。
 とはいえ、大勢でわいわいやるわけではない。本当の意味でのお花見である。
「うわあ、ここまで見頃だとは思わなかったなぁ」
 僕たちがやって来たのは、奈々の家からは少し歩いたところにある並木道。当然、植えられているのは桜の木。その桜の木は、今がちょうど見頃だった。
 この並木道は車は通れないが、人や自転車がひっきりなしに行き交う生活道路だった。
 だから、道路にシートを敷いてのお花見は認められていない。
「こうして桜の花を見ていると、日本人でよかったってしみじみ思うわね」
「そうだね」
 桜の花を美しい、綺麗だと思えるのは、なにも日本人だからではない。だけど、昔から桜の花に強い想いを抱いてきた日本人にとっては、まさに魂の花という感じだ。
 こうして春の陽差しを浴び、春風に揺れている小さく可憐な花を見ているだけで、心が穏やかになる。
「もうすぐ、春休みも終わるわね。休みが終わったら、私たちは三年生として、受験戦争の真っ直中へ放り出される。これだけ穏やかに過ごせる時間は、当分来ないかもしれないわ。でも、それはこれからのため。自分のやりたいことを実現させるため」
「…………」
「それは私もわかってるの。でもね、そのためにすべてを犠牲にする必要は、まったくないはずなのよ。受験生だからという理由で、やりたいこともやれないなんて、そんなバカな話ないから。ようは、結果に表れるような努力を怠らなければいいだけ。それだけなのよ」
 奈々は、いったいなにが言いたいんだろう。
「だからね、修平。クラスが別々になってしまうのはしょうがないから、それ以外の時間を上手く活用することにしたわ。できるだけふたりの時間を増やして、お互いが望むことを極力やって。その上で受験勉強もがんばって、大学に合格する」
 言うのは簡単だけど、それを実際に実行するとなると、かなり大変なはずだ。
 奈々は、成績優秀だから受験勉強は問題ないと思うけど、僕は全然だから。
「で、これはついさっき思いついたんだけど、学校のある日は別として、休みの日はこの春休みみたいに、お互いの家に泊まって勉強したり、エッチしたりしたらどうかなって。もちろん、そうできない時もあるだろうけど、極力そうしてね。そうすれば、ふたりの時間も増やせるし、同時に目標でもある大学合格にも近づけるはずだから」
 奈々にはかなわないな。
「……本当に、奈々にはかなわないよ」
「えっ……?」
「僕なんて、悲観的なことしか思い浮かばないのに、それだけ前向きなことを考えられるんだから」
「それは、物事を単純に考えているからよ。自分の望む形になるためにはどうしたらいいか。それを考えて、じゃあ、あとはそれを効率よく実現する方法を考えて実行する。もちろん、それでダメな場合もあると思う。でも、やる前からダメな時のことを考えててもしょうがないから」
「そうだね。今はそう思うよ」
「修平だって、そういう考え方、絶対にできるはずだから。すぐには無理だと思うけど、私の側にいれば、必然的にそうなっていくはずよ。ほら、よく言うじゃない。夫婦は似てくるって」
 そう言って奈々は笑った。
 やっぱり、僕には奈々が必要だ。もう奈々のいない生活なんて、考えられない。
「奈々」
「ん?」
「僕、百合恵さんの申し出を受けようと思う」
「えっ、それって……」
「ずっと、奈々と一緒にいたいから」
「修平……」
 奈々は大きく目を見開き、そしてそのまま──
「ありがとう、修平」
 僕に抱きついてきた。
「ありがとうというのは少しおかしいよ。だって、僕はそうしたいから百合恵さんの申し出を受けるんだから。言い方は正しくないかもしれないけど、決して奈々のためじゃないから」
「それでもいいの。だって、すごく嬉しかったから。修平にとってその選択はまだ完全に納得できるものじゃないのはわかってる。そこまで簡単に割り切れないものね。それはたぶん、修平じゃなくてもそうだと思う。それでも修平はちゃんと考えてくれた。自分のための選択でもいい。だって、それは結果的に私のための選択にもなるんだから」
 たぶん、ここでもう一度否定しても奈々は同じことを繰り返すだけだろう。
 もちろん、僕にも奈々の想いに応えてあげたい、という考えはある。だけど、それはいわば後付けの理由。決断するに至った理由は、やっぱり僕自身のため。奈々と一緒にいたいから。
「でも、修平。本当に後悔しない? 今更言うのもおかしいのかもしれないけど、私たちはまだ高校生だから。それなのに、そんな重要なことを決めちゃっていいの?」
「後悔しないよ。それに、僕はもう奈々じゃないとダメなんだ。もし奈々と別れても、もう誰ともつきあえない。そんな奈々とだから、これからの人生を決めるようなことでも、決められた」
「……バカ。本当に後悔しても知らないんだからね」
 後悔なんかしない。
 むしろ、ここでこの結論に至れなかったら、その方が後悔したはずだ。
 ほかの人はどうかはわからないけど、僕の人生の中でこんな選択を迫られる機会はそうあるとは思えない。というか、最初で最後かもしれない。
 ここで後悔しない選択をしなければ、本当に死ぬまで後悔する。
 僕にとっては考える時間はあまりにも短かったけど、でも、大事なことは考える時間に比例してるわけじゃない。一瞬の考えでも、後悔しない選択はできる。
 そして僕は、それを今、この時に実際にした。
「あ、でも、修平。お母さんにそれを言うのは、もう少しあとにして」
「どうして?」
「だって、今日言われていきなりなんて、それこそお母さんの思い通りになっちゃう。それってすごく悔しいじゃない」
 僕は別に悔しくはないんだけど。
「だから、少し間を開けて、然るべき時にね」
「わかったよ」
 なんとなくだけど、その前に百合恵さんに見破られそうな気がする。
 なんとなくだけど。
 
 桂見家に戻ると、香奈恵さんは出かけていていなかった。
 百合恵さんは僕たちのためにお茶を淹れてくれた。
「ずいぶんとすっきりとした表情してるわね、奈々恵」
「そう?」
「なにか、いいことでもあった?」
 一瞬、百合恵さんがにやりと笑ったような気がした。
「……別になにもないわよ。なんでそんなこと聞くの?」
「なんとなくよ。ただ、奈々恵はどう思ってるかわからないけど、あなたはとても顔に出るタイプだから。楽しいこと、嬉しいことがあればそれが顔に出て、悲しいこと、つらいことがあってもそう。今もそんな感じだったから、聞いてみたの」
 ああ、これはバレるのも時間の問題だな。
「なにもないならそれでいいの。私の気のせい、ということだから」
 いつもなら女性の考えていることはわからない僕だけど、こういう場合はよくわかる。それは、うちの家族がみんなそういう性格の持ち主だからだ。
 特に母さんと穂香姉さんはそういう傾向が強い。だから、自然とわかるようになった。
 そういうことから言うと、まず間違いなく百合恵さんは僕たちになにかあったことを確信している。
 それを自分から言うことはないだろう。こういう人は、とにかく少しでも長く楽しみたいと考えているからだ。
「そういえば、少しは話したの?」
「話したって、なにを?」
「さっきの話。ふたりきりだったんだから、少しくらいは話したのかと思って」
 じわじわと攻めるつもりだ。
「そりゃ、少しは話したけど」
「少しは進んだの?」
「まあ、ね」
「じゃあ、修平さんに、判断材料のひとつを提供してあげようかしら」
「判断材料?」
「奈々恵が昔、どんな子だったか教えてあげるわ」
「ちょっとちょっと、それ関係ないじゃない」
「関係あるかないかを決めるのは、奈々恵じゃなくて、修平さんでしょ?」
「うっ……そ、それはそうだけど……」
 これは、奈々からの援護射撃は無理そうだ。
 さすがは百合恵さん。奈々の弱点も心得てる。
「奈々恵はね、今の性格から見てもわかるように、とてもお転婆な子だったの。私たちの言うことなんて全然聞かなくて、もうやりたい放題。しかも、女の子なのに男の子みたいに一日中外で遊んで、帰ってくる時には泥だらけでね。腕や足には生傷が絶えなくて、うちの人なんか、あまりにも傷が多いから外で遊ばせるな、なんて言ってね。でも、奈々恵もそんなこと聞く子じゃなかったから、結局いつもの繰り返し」
 ちょっと、今の奈々からは想像できない姿だ。
 でも、気の強さとか、男子とのやり取りでも一歩も退かないところとかは、その頃の影響が残ってるのかもしれない。
「だけど、そんな奈々恵もやっぱり女の子だったのよ。ほら、幼稚園や小学校の頃って、ことあるごとに将来なにになりたいとか、そういうことを聞くでしょ?」
「ええ、そうですね」
「奈々恵はね、その時に決まってこう書いてたの」
「お、お母さんっ」
「お嫁さん、てね」
「ううぅ……」
「一度、どうしてお嫁さんになりたいのか、聞いたことがあるの。そしたら、真っ白なウェディングドレスを着たいから、お嫁さんになりたいんだって言うのよ。それを聞いた時は、奈々恵も女の子らしい夢を持ってると思ったわ」
 子供の頃は、そういう夢を持ってる子も結構いる。男子だって、ヒーローになりたいとか、怪獣になりたいとか、あり得ないものになりたいと願う子もいた。
 それはもちろん、まだまだ現実を知らないから言えることであって、少しずつ現実を見ていくうちに、変わってくる。
「奈々恵はね、こう見えて今はとても家庭的な女の子になったの。料理は小学校を卒業する間際の頃からやってるし、掃除や洗濯も兄妹で当番制にしていたから、当然できるし。でも、子供ってそういうのを普通は嫌がるでしょ? それが奈々恵はあまり嫌がらなくてね。その理由を聞いたことはないんだけど、どうしてなのかは想像できるの」
「それは、どうしてですか?」
「それはね、やっぱりお嫁さんになりたいから。いつか好きな人ができて、結婚するという時になって、なんにもできないじゃやっぱり情けないじゃない。だから、そういういつかのために、言うなれば花嫁修業のつもりでいろいろやっていたのよ」
 それはなんというか、ある意味では奈々らしい。
「だからね、修平さん。これから先、なにがあるかはわからないとは思うけど、できることならその奈々恵の夢をかなえてあげてほしいの。せっかく、婚約を決めてくれたんだからね」
 やっぱり、百合恵さんはわかっていた。
「決めたんでしょ?」
「はい」
「まあ、それは奈々恵の顔を見てすぐにわかったわ。奈々恵は本当にそういう隠し事ができない子だから」
「…………」
 読まれてるよ、奈々。
「奈々恵は私が唐突に婚約話を持ち出したと思ってるだろうけど、実際は違うのよ」
「どう違うの?」
「私はね、思っていたの。あなたが修平さんと知り合って、家での会話でもその名前が出てくるようになって。今までそんな浮いた話のひとつも出なかった奈々恵が、それだけ夢中になるということは、本当に好きになった人なんだと思ってね。恋人同士になって、じゃあそれから先はどうするのか、ということになるでしょ。でも、あなたもとても不器用だから、普通にやっていたらなかなか前に進まないだろうと思って」
「だから、お兄ちゃんの結婚式にかこつけて、婚約させようと?」
「ええ。もちろん、そうしたのも相手が修平さんだったからよ。あなたが本気で好きになり、また修平さんも奈々恵のことを好きでいてくれる。だからこそ、お節介だと思いつつも言うことにしたのよ」
 そういう風に言われてしまうと、なにも言えなくなる。
「それにね、私は今回無理に婚約しなくてもいいと思っていたの」
「なんで?」
「婚約話を持ち出すことで、ふたりともイヤでも意識するでしょ? そうすれば、たとえ今回がダメでも、そう遠くないうちに実現するだろうと思って」
 なるほど。それはそうかもしれない。
 奈々がそれだけ結婚というか花嫁に憧れていたんだとすれば、婚約などと言われれば必要以上に意識するだろう。
 僕だってそうだ。僕だって婚約だなんて言われたら、意識してしまう。
「でも、よかったわね、奈々恵」
「う、うん」
「修平さんも、奈々恵を選んでくれてありがとうね」
「いえ……」
 百合恵さんに言われると、やはり照れる。やっぱり、奈々の母親だからかな。
 ようするに僕は、百合恵さんに向かって奈々をください、と言ったようなものだから。
「あとは、いつふたりが結婚するかよね。早くても高校を卒業してからとして、やっぱり大学卒業まで待つ?」
「そ、そんなのわからないって」
「ふふっ、わからないじゃなくて、答えたくないじゃないの?」
 どこまで行っても百合恵さんにはかなわない。
 奈々でさえかなわないんだから、僕なんてなおのことだ。
「本当にこれからが楽しみだわ」
 そう言って百合恵さんは心底楽しそうに笑った。
 
奈々恵視点
 
「はあ……」
 私はついため息をついてしまった。
 別に悲しいわけじゃない。むしろ今日は嬉しいことが多かった。
 それでもなんとなく納得できない部分があって、ついため息をついてしまったのだ。
「はあ……」
「そんなにため息ばかりついてると、余計に気が滅入っちゃうよ?」
「それはわかってるんだけどね」
「しょうがないなぁ……」
 修平はそう言って──
「あ……」
 私をその胸に抱きしめてくれた。
「奈々が納得できないのはわかるけど、百合恵さんだってよかれと思ってやったことなんだから、割り切って認めてあげないと」
「それはそうなんだけどぉ……なんか全部お母さんの思い通りになって、釈然としないのよね。そりゃ、ある意味ではお母さんの言う通りだと思うわよ。私と修平だけだったら、先のことは考えたとしても、そのためになにかするという可能性は低かっただろうし」
 修平がそういうことに積極的じゃないことは十二分に理解している。だから私がどうにかしないといけないんだけど、さすがにそういうことは慎重になってしまう。
「それでもさ、そういうことは自分たちでなんとかしたいと思うのが普通でしょ?」
「ん、そうかな」
「それをお母さんに一気に進められてしまって、肩すかしというか、私の計画も台無しになっちゃったし」
「計画?」
「あ……」
 しまった。余計なことまで言っちゃった。
「計画ってなに?」
「いや、その、たいしたことじゃないの。ほ、ほら、このくらいまでにはこうなってたいなっていう、願望みたいなものよ。け、計画っていうのは、一応順序立てて考えてるからそう呼んでるだけで」
「ふ〜ん、そっか……」
「う、疑ってるでしょ?」
「そんなことないよ。ただ、奈々はそういうことしっかり考えてるんだって、感心してたんだよ」
 感心、か。修平から見たらそんな風に映るのかもしれないけど、普通の考えだったら、ひとりで勝手に妄想してる、ちょっと危ない奴、という感じかもしれない。
「修平は、イヤじゃないの?」
「なにが?」
「修平の意志を無視して、勝手にあれこれ考えてしまうことが」
「考えること自体は自由なんだから、僕がどうこう言う問題じゃないよ。それに、実際に問題になるのは、その考えを押しつけた時だからね。その時にはじめて、僕の意志が絡んでくる」
 それはそうかもしれないけど、もし私がそんなことをされたら、修平みたいには考えられない。
「……ね、修平。修平は今日のお母さんの話を聞いて、どう思った?」
「なにを?」
「ん、私の子供の頃の話と、結婚願望というかお嫁さん願望のこと」
「そうだなぁ……子供の頃の話は、特にこれということはないけど。ただ、奈々が男の子みたいだったっていうのは、ちょっと驚いたけど」
「まあ、今の私しか知らなければ、それはしょうがないと思うわ」
 私もあれこれ努力してきたわけだから、昔のことを見た目だけで看破されてしまっては苦労も水の泡だ。そういうことから考えると、話さえ聞かなければバレないということだ。
「お嫁さんについては、女の子ならある意味では当然のことだと思うよ。もちろん、結婚する気のまったくない人もいるとは思うけど。でも、想いの強さに多少の差はあっても、やっぱり憧れると思うんだ」
「だけど、それを高校生まで引きずってるっていうのは、そうないと思うけど」
「引きずってるって言っても、別に悪いことじゃないんだから。奈々だってそれを公にしてるわけじゃないし、それにそもそもそういう相手がいなければどうにもならない話なんだから」
「それはそうだけど」
 今はその相手がいるから問題にしてるんだけど。そういうところ、修平は鈍いから。
「とにかく、僕はそういうことは気にしないよ。あ、気にしないという言い方はおかしいか。奈々も女の子なんだから、そういう夢を持ってることは、いいことだと思う。下手に冷めてるよりは、よっぽどいいし」
 なんとなく、なだめすかされてる気がするけど、まあいいか。
「ところで、奈々。さっき言ってた計画だと、いつ頃までにどうなることになってたの?」
「ちょっとちょっと、そこでその話を蒸し返さないでよ」
「いや、やっぱり気になって」
「気にしないで」
 気にされると、なんでも話さなくちゃいけなくなる。それはやっぱり恥ずかしすぎるから。
「どうしてもダメ?」
「ダメ」
「本当に?」
「本当に」
「そっか……」
 うっ、そんな悲しそうな顔して……
「しょうがないね」
 なんか、すごい罪悪感。元はと言えば私の失言からはじまったわけだし。
 むぅ、しょうがないなぁ。
「んもう、そこまで言うなら教えてあげるわ」
「いいの?」
「だって、あとでまた蒸し返されるくらいなら、今ちゃんと教えておいた方がいいと思って」
「どうしてもイヤなら、無理しなくていいんだよ? 僕のは完全に興味本位なんだから」
「いいの。それに、修平がそれを聞いたら聞いたで、それこそ後には引けなくなるんだから」
 こうなったら、修平も巻き込んでしまった方がいい。
 私がどんな風に考え、どうなりたいのか。それをちゃんと理解していてもらった方が、私もあれこれ言いやすくなるから。
「……なんか、それは僕にとっていいことはなにもないんじゃないの?」
「そんなことないわよ。自分の彼女がどう考えてるのか、それこそあれこれ想像しなくてもわかるんだから」
「そんなものかな?」
「そんなものよ」
 とはいえ、洗いざらい話してしまっていいものかは、悩みどころ。
 まあでも、全部話してしまった方が、私も隠し事がなくなっていいのかも。
「それで、どうなの?」
「まずね、私が考えたのは、結婚のこと。ま、それも当然のことなんだけどね。だって、私はお嫁さんになりたいんだから」
「うん、そうだね」
「で、それはやっぱり大学を卒業した頃がいいかな、って考えてた。学生結婚も捨てがたいんだけど、結婚したあとのことを考えると、卒業後がベストかなって」
「なるほどね」
「結婚をその頃に設定したら、じゃあその前にやること、つまり婚約はいつ頃かなって考えた。婚約は結婚ほどあれこれ考える必要はないから、だったら高校卒業後がいいかなってね。まあ、婚約は結局お母さんの思惑で今日になっちゃったけど」
 そこが大きな誤算だった。
 お母さんの性格を考えれば、あれこれ口を出してくることくらい簡単に予想できたのに。
「婚約、結婚ときたら、次は結婚後よね。これはそれこそ、本当にいろいろ考えられるわ。どういう家に住みたいとか、子供は何人ほしいとか。それを考えているだけでとても幸せな気分にもなれるの。現金なんだけどね」
「幸せになれるというのは、なんとなくわかるよ。僕だって奈々とのことを考えると、自然と頬が緩んでくることがあるし」
「そっか、修平もなんだ」
 偏見というわけじゃないけど、修平はそういうことないと思ってた。でも、私と同じとわかって、ちょっと嬉しい。
「それでね、家はちょっと大きめの一軒家で、庭は大きい方がいいの。子供は、三人はほしいかな。女の子と男の子がひとりずつで、もうひとりはどっちでも」
 こうして改めて口に出すと、やっぱり少し恥ずかしい。
 なんか、夢見がちな変な奴って感じだ。
「な、なんか、真面目に話すことじゃないわね。自分で言っててそう思うわ」
「そんなことないよ。なにも考えずに適当にやってるよりはずっとましだよ」
「でも、普通ここまでは考えないと思うけど」
「それはそうかもしれないけど、だからって奈々のやってることが悪いわけじゃないんだから」
 修平はそう言ってくれるけど、私は複雑な心境だ。
 もちろん、自分で勝手にやっていたことだから、本当はそう思うこと自体おかしいんだけど。
「奈々がそういう風に考えてるっていうのはよくわかったよ。僕ももっともっと真剣にいろいろ考えてみないとね」
 結果的にはよかったのかもしれないけど、やっぱり複雑。
「今日はもうこの話はやめましょ。これ以上話したところでどうにもならないんだから。それに今日は修平の誕生日なんだから、そっちのことをもっとやらないと」
 そうだ。今日は修平の誕生日だからこそ、私はあれこれ考えたんだ。
 このまま婚約話に終始してると、あっという間に今日が終わっちゃう。
「別に僕はもう十分だよ」
「ダメ。私はまだまだ満足してないの」
「満足って……」
「とりあえず、夕食の時に、ケーキを用意してあるから。あと、プレゼントもね」
 本当は今日の誕生日はお祝いしようかどうか迷った。
 それは、この誕生日のせいで私たちの仲が一時こじれてしまったからだ。
 でも、それだけでやめてしまっては絶対に後悔すると思い、やることにした。
「なにか私にしてほしいことある?」
「特にないよ。僕はもう十分してもらってるから」
「本当になにもない? なんでもいいのよ? 普段はできないことでも、今日はなんでもしてあげる」
「そんなこと言われても……」
 本当に修平は自分からなにかしてほしいと言わない。
 前にも言ってるけど、もう少し積極的になってくれても私は全然構わないのに。
「じゃあ、私が決めるけど、それでいい? そのことに文句言わない?」
「無茶なことじゃなければ文句は言わないよ」
「無茶なことって、たとえば?」
「それは……」
「ないの?」
 まあ、いきなり言われてもすぐには出てこないか。
「ないなら、やっぱり私が決めるしかないわね。とりあえず、夕飯は私が食べさせてあげるから」
「ちょ、ちょっと待った。それはやめない?」
「どうして? 別にいいじゃない」
「や、やっぱりそういうのは恥ずかしいし、しかも、ふたりきりというわけじゃないんだから」
「ふたりきりならいいの?」
「いや、その……」
「よし、じゃあ、それはふたりきりの時に取っておくわね。ということは、それに代わるなにかをしなくちゃいけないから……ん〜、そうだなぁ……」
「む、無理はしなくていいから……」
「夕食の時にできそうなことはなさそうだから、となると、お風呂か。そうね、お風呂で頭も体も隅々まで綺麗に洗ってあげる」
「い、いいよ、それは……」
「で、そのまま部屋に戻って、ベッドでマッサージをして、最後は、ね?」
 うむ、我ながら完璧な計画だ。
「これからの予定も完璧に決まったし、あとは夕飯までのんびりしてましょ」
 夕飯も私が作ろうと思っていたんだけど、お母さんがどうしても作りたいと言うものだから、仕方なく代わった。
 お母さんの心境としては、実質はじめてに近い娘の彼氏に対して、いいところを見せたいというのが、いつもあるらしい。
 お姉ちゃんも彼氏を連れてきたことはあったけど、長時間うちにはいなかったし、なおかつそれほどしないで別れちゃったから、お母さんも欲求不満だった。
 お兄ちゃんの場合は彼女だったから、あまりやりすぎると嫌味になるということで自粛していた。
 だから、私に彼氏ができてからは、あれこれ張り切っているのだ。
「そういえば、修平。家の方は大丈夫なの?」
「大丈夫って、なにが?」
「ほら、穂香さんたちのこと。今日、修平の誕生日だから、穂香さんたちも当然お祝いしようと思ってたはずでしょ。なのに今日はうちに泊まることになってるから、それで大丈夫なのかなって」
「うん、まあ、なんとかなると思うよ。奈々に被害が及ぶことはないと思う」
「あ〜、ダメなんだ」
「昨日、姉さんたちに思い切り愚痴られたよ。特に穂香姉さんなんて、この世の終わりとばかりにまくし立てて、聞いてるだけで寿命が縮んだよ」
「そっか。じゃあ、来年はもう少し考えないといけないかな。今年もね、一瞬一緒にやろうかって考えたんだけど、そうすると修平を独占できなくなるから、やめたの」
 特になにもない時でも、こっちが隙を見せるとすぐ修平を取ろうとするから。誕生日なんていう一大イベントならなおさらだ。
 私たちはつきあいはじめてまだ三ヶ月しか経っていないんだから、とにかくイチャイチャしたい。たとえ修平のお姉さんたちでもそれを邪魔されるのは、やっぱりイヤだ。
「改めて言うまでもないと思うけど、私、ものすごく独占欲強いからね。それは穂香さんたちが相手でも変わらない」
「わかってるよ。そのあたりは僕がなんとかするから、奈々は心配しなくていいよ」
「うん、ありがと」
 穂香さんたち──特に穂香さん──をなんとかできるのは、修平しかいないから。私にはまだまだ無理。
 もう少しつきあいが深くなればまた変わってくるだろうけど、それにはもう少し時間がかかる。
 少なくとも瑞香さんと柚香さんとは、対等以上に渡り合えるようにならないと。
「修平。もう少しだけ、強く抱きしめて」
「いいよ」
 こうして抱きしめられていると、修平もやっぱり男の人なんだって思う。
 がっちりしてるわけじゃないけど、女の私に比べれば遙かにしっかりしてるから。
 だから、抱きしめられているだけで、本当に安心できる。
「ずっと、このままでいられたらいいのに……」
「そうだね……」
 
「うにゃ〜……」
 私は思わず間抜けな声を上げた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 私は修平の胸に頬を寄せた。
 私も修平も裸のままだから、少しくすぐったい。
「今日は修平のためになんでもやってあげようと思ってたのに、結局私がされる側になっちゃった」
「気にしなくていいよ」
「こう、気持ちよくなってくるともうなにもできなくなっちゃって」
 修平とエッチすると、いつもそうだ。最初は今日は私が、と思ってるんだけど、終わってみればいつもと同じで修平にされてばかり。もちろん、それはそれでいいんだけど。
 最近は修平も積極的になってきてるから、余計だ。
「奈々」
「ん?」
「今日はありがとう。本当に嬉しかったよ」
「喜んでもらえたら、いろいろ考えた甲斐があったわ」
「僕も奈々の誕生日には奈々に喜んでもらえるよう、がんばってみるよ」
「ふふっ、楽しみにしてるわ」
 私の誕生日は十月。まだまだ先だ。
「春休みも、もうすぐ終わるね」
「そうね。残念で仕方ないわ」
「しょうがないよ」
「残りも後悔のないように過ごさないとね」
「そのあたりは奈々に任せるよ。僕が考えるよりよっぽどいいアイデアが出るだろうからね」
「任されました」
 学校がはじまってしまったら、ここまでのことはそうそうできなくなる。だから、休みの間に目一杯やっておかないと。
 まあ、できるだけ学校でも一緒にいる時間を作るつもりではいるけど。
「学校がはじまって、受験生として慌ただしく生活して、あっという間に受験シーズンがやって来るんだろうなぁ。気付いたらまた春が巡ってきた、なんてね」
「そうかもしれないね」
「来年の今頃は、どうしてるかな?」
「奈々は間違いなく大学に合格してるだろうけど、問題は僕だね。僕だけ浪人、なんて可能性も大いにあり得る」
「そんなの私が許さないわ。修平にはどんな手を使ってでも合格してもらうんだから」
 そのために勉強だって見てるんだから。
「万が一にも落ちたりしたら、多方面に多大な迷惑がかかることを覚えておいた方がいいわよ」
「……参考までに聞きたいんだけど、どの方面にどんな迷惑がかかるの?」
「まず、うちの家族ね。大学合格なんて当然と思ってるところがあるから、落ちたりしたらなにをしでかすかわからない」
「…………」
「次に、穂香さんたち。あの三人はうちの家族とはまた違った意味でなにをするかわからないから」
「…………」
「そして、私。修平が落ち、私だけ受かってたら、私、入学辞退するから」
「…………」
「ね、多方面に多大な迷惑がかかるでしょ?」
「うん……」
 私も脅すつもりはないんだけど、やる前から敗北宣言するような真似だけはしてほしくないから。
 全力でやってそれでもなおダメだったなら、それはしょうがない。だけど、それは本当に最悪の事態。そうならないために、努力しなくちゃいけない。
 もちろん、修平だけじゃなくて、私もがんばらないと意味がない。それこそ、逆の場合もあり得るわけだから。
「ほら、そんな顔しないの。まだ時間はたっぷりあるんだから、その間に修平にできることはすべてやればいいのよ。そうすれば結果は自ずとついてくるんだから」
「そうだね」
「それに、そうならないために私が勉強見てるんだから。もっとしっかりしてよ」
「わかったよ」
 最近、つくづく思うんだけど、やっぱり私は修平はある程度頼りないというか、手間をかけさせるくらいがいいということを再確認した。
 もちろん、頼りになるのもいいんだけど、自分の性格を考えるとやっぱり私が修平を引っ張っていきたい。
「そうだ。すっかり忘れてた」
「ん、どうしたの?」
「あのさ、奈々。僕たちが婚約したのはいいんだけど、でも、実際どうするわけ? 高校生のうちは特になにかできるわけでもないんだし」
「別になにもしなくてもいいと思うわよ。婚約って、読んで字のごとく結婚の約束でしかないんだから。婚約したからって、いきなりなんでも変わるわけでもないし」
「まあ、そっか」
「あと、念のために言っておくけど、私たち、もう結婚できるんだからね」
「へ……?」
 やっぱり気付いてない。
「では問題。日本で結婚できる年齢は何歳ですか?」
「えっと……男性が十八歳で、女性が十六歳」
「で、私は今何歳? 修平は今何歳?」
「奈々は十七歳で、僕は……あ、そっか」
「わかった?」
「そうだね。僕は今日で十八になったんだ」
「そういうこと。だから、婚約どころか結婚だって親の了承を得られれば問題ないの」
 正直言えば、うちの両親なら結婚も許してくれそうな気がする。
 放任主義といえばいいのか、どうもそういうところは適当なことが多いから。
 お兄ちゃんの結婚だって、特に話し合いもせずに即決だったし。
 まあそれはたぶん、自分たちができちゃった婚だったからなんだろうけど。
「ま、結婚の話は今は関係ないけど、本当に婚約したからって特別なことはなにもないわ。強いて言えば、私たちの心境の変化かしら。単なる恋人じゃないというのは、微妙に違う感覚を与えそうな気がするわ」
 それに関しては、確証はない。ただ、そんな気がするというだけ。
「あとは、安心感かしら。単なる恋人という関係よりも、確実に結びつきは強くなるわけだから、少しはいろいろな心配事が減ると思うの」
「それは、主に僕にとってかな」
「どうして?」
「だってさ、僕なんか普通にしてたら姉さんたち以外には見向きもされないんだから。奈々が心配しようにも、その心配の種すらないんだよ」
 一瞬反論しようかと思ったけど、やめた。
 自分の彼氏のことではあるけど、それはかなりの部分、真実だから。
 修平は目立つ存在ではないから、女子の間では好き嫌い以前の問題として、あまり認識されていない。
 人はたいてい、なにか秀でたものを持った人に惹かれる。
 容姿、成績、運動能力。
 最初はそこにたどり着き、次第に自分の本当の『好み』を知る。
 私だってそうだった。でも、幸か不幸か私はその中で自分の好みが人とは明らかに違うことを認識した。
 カッコイイ人が嫌いなわけじゃない。成績のいい人がイヤなわけじゃない。運動神経抜群の人がダメなわけじゃない。
 それでも、その理由の優先順位は、かなりあとの方なのだ。
 じゃあ、いったい私の好みはなんなのだ、と聞かれると、正直返答に困る。
 強いて言うなら、自分の持っていないものを持っている人、かもしれない。
「それに比べて奈々は、男子の憧れの的だから。奈々とつきあいはじめた頃は、よく思ってたよ。すぐに僕なんかよりも奈々に相応しい人が現れるって」
「でも、実際はそんな人は現れず、私たちの関係はよりいっそう強固なものとなり、そして今日、婚約者になった」
 過去に起こり得たことなんて、今には関係ない。そんなもう絶対にあり得ないことを話しても、建設的ではない。
 私は現状に満足しているわけではないけど、明らかな不満を持っているわけでもない。
 足りない部分は、これからふたりで改善し、補っていけばいいだけの話。
「もしなにか変化がほしいなら、私がなにかしてあげようか?」
「なにかって?」
「ん〜、そうね、たとえば、呼び方を変えるとか。私も穂香さんたちみたいに『修ちゃん』て呼んであげようか?」
「……だから、それはできれば勘弁してほしい」
「どうして? 普段からそう呼ばれてるんだから、別にいいと思うんだけど」
「奈々にまでそう呼ばれると、ますます僕の家での立場がなくなるよ。僕のことをそう呼ぶ人たちは、ひとり残らず僕のことをもてあそぶから」
「それはつまり、私もそのひとりだと?」
「い、いや、奈々は違うけど……」
 むぅ、なんか微妙に私の位置が穂香さんたちに近づいてる気がする。好意的に受け取れば、それだけ家族に近くなったということなんだろうけど、なんとなく複雑な心境。
「よし、決めた。明日から修平のこと、修ちゃんて呼ぶ」
「ええーっ、どうしても?」
「うん、どうしても」
 今更だけど、私も穂香さんたちがそう呼んでるのが、少しだけ羨ましかった。
 呼び捨てがイヤなわけじゃないけど、愛称になるとより近い存在な気がするから。
「あ、それとも今からそう呼ぼうか?」
「……もう好きにしていいよ」
「じゃあ、修ちゃん」
 うわぁ、なんかこそばゆい。
 でも、それ以上に心がポッと暖かくなった。これが近づいた、ということなのかも。
「あのさ、奈々。ひとつだけ約束してほしいことがあるんだ」
「約束?」
「学校でのことなんだけど、学校では基本的に今まで同じように接してほしいんだ。そうしないと、僕の学校での平穏な生活がなくなるからさ」
「別に気にしなければいいのに」
「そんなわけにはいかないよ。せめて、三学期くらいの感じでいてほしいんだ。それくらいならまだなんとかなりそうだし」
「むぅ、しょうがないなぁ」
 私も私のせいで修平があれこれ言われるのはイヤだから。
「今でも不思議なんだけど、どうして奈々は僕のことが気になったんだろう。確かに目立たないところが逆に目立ったのかもしれないけど、それって普通は見過ごしてしまうと思うんだ。僕だったら絶対にそうだし。でも、奈々は違った。どうして?」
「どうしてって改めて聞かれると、うん、ものすごく困る。理由はないの、本当に。ただ、クラスの中で修ちゃんのことだけ知らなくて、それがなんかすごく悔しくて、間抜けで。だからなにかの機会には絶対に知ってやろうと思ってて」
 自分で言うのもなんだけど、私の修平に対する執念は、かなりのものだったと思う。
 私は自分の容姿が人より少しいいことを自覚していたから、それ目当てに声をかけてくる男子は多かった。もっとも、そんな見た目でだけで寄ってくる奴にろくな奴はいないから、これっぽちも心は揺れなかったけど。
 程度の差はあっても、長期間に渡って一度も言葉を交わさないないなんてことはそれまで一度もなかった。
 だから、私は意地になった。どうしても彼の──修平のことを知りたい、と。
 結局、それが転じて修平のことが好きになっちゃったんだけど。それはそれで全然後悔していない。だって、言い方は悪いけど、修平は女性が苦手だから一度好きになった相手以外はそう簡単に好きにはならないであろうことが、すぐにわかったから。
 私が修平のことを好きで居続ける限り、修平も好きでいてくれる。それがとても心地良いし、安心できる。
 本気で人を好きになったのははじめてだけど、たぶん、そういうのは望んでもなかなか得られないことだと思う、だから、私は今がとても幸せだ。いや、これからもか。
「僕にとって奈々は、あまりにも遠い存在だったから。住む世界が違うとさえ思ってた。だから、もう何度も言ってるけど、今でもこうしてるのが不思議でしょうがないよ」
「私だって、みんなに言われるほど特別な存在じゃないからね。好きな人とは、なんでもしたいのよ。だから、こうしてるのも全然不思議なことじゃない。当然のこと」
 正直に言えば、修平とつきあうようになってからは、急速にエッチなことに興味を持つようになった。それこそ当然といえば当然なのかもしれないけど、私の場合はかなり急だった。
 それまでも人並みにはそういうことに興味はあったし、女子の間での話にも加わっていた。誰がキスしたとか、誰がエッチしたとか。そういう話も面白かった。
 だけど、自分がそういうことをしているところがなかなか想像できなかった。
 それはまあ、結局相手がいないから想像できなかっただけなんだけど。
 その反動なのか、修平という彼氏ができてからは、急にそういうことに興味を持つようになった。というか、かなり異常だったかもしれない。
 お兄ちゃんが未だに隠し持っているAVなんかを引っ張り出しては、あれこれ見ていたし。インターネットでそういうサイトを見ては、あれこれ想像していたし。
 そのせいでちょっとどころじゃなく、そのまあ、ひとりでしちゃってたんだけど。
 だって、そういうのばかり見てたら、普通はしたくなるって。そういうのを見ててしたくならないのは、それこそ不感症の人くらいだ。
 そういえば、そういうのは修平はどうなんだろう。あの家にいたら、そういうこともそう簡単にはできないのかもしれないけど、ちょっと興味がある。
「ねえ、修ちゃん。修ちゃんはさ、ひとりでしたりする?」
「ひとりでって、なにを?」
「ん、ひとりエッチ、オナニー」
「お、おなって……」
「そんなに驚くこと? 興味を持つことも、することも悪いことじゃないんだから」
「そ、それはそうだけど……」
 ん〜、やっぱりそういうのに抵抗ってあるのかも。
「ひょっとして、したことない?」
「うっ、そ、それは……ないことも、ないけど……」
「やっぱり、穂香さんたちがいると、しにくい?」
 頷く修平。
「そっか。でも、してたんだ。修ちゃんも、やっぱり男の子だね」
「うっ……」
 私は、よしよしという感じで修平の髪を撫でた。
「私はね、修ちゃんとつきあうようになってからは、それこそ毎日のようにしてた。もうね、自分でもおかしいと思うくらい。でも、修ちゃんのことを想うと、自然としたくなってくるの。そのうちそれだけじゃ抑えられなくなって、私から修ちゃんを誘うようなまねをしちゃったんだ」
「そっか」
「あ、でもね、ひとつだけよかったことがあるの」
「ん、それって?」
「はじめての時、あまり痛くなかったこと。もっと痛いかと思ってたんだけど、想像してたよりもずっと楽だったから。あ、別に修ちゃんのが小さいとか、そういうのはないよ。修ちゃんのは、たぶん、大きい方だと思うから」
 って、私はなにを言ってるんだろ。
 これじゃ、私は単なるエロい女じゃない。
「つまり、なにが言いたいのかというと、なにごともそう簡単には無駄にはならないってことよ」
「そうなの? なんか、話がズレてる気がするんだけど」
「いいの。細かいことは気にしない」
 気にされると、こっちが恥ずかしいんだから。
「奈々ってさ、たまにそういう風になるよね」
「そ、そう?」
「うん。でも、そういう時の奈々は、すごくカワイイ」
「な、なに言ってるのよ。こ、こんな時に言われても、嬉しくなんて……」
 ……少しは嬉しいけど。
 修平って、たまにこういうことを言うから。
「そうだ。奈々。まだずいぶんと先だけど、奈々の誕生日にしてほしいこと、ある?」
「してほしいこと?」
「僕にできることなら、なんでもいいよ。今日、奈々は僕のために一生懸命がんばってくれたから」
「……本当になんでもいいの?」
「いいよ」
「じゃあね、別に誕生日じゃなくてもいいから、ふたりきりでどこかへ行きたい」
「デートってこと?」
「ううん。デートじゃなくて、旅行。誰にも邪魔されず、誰に気兼ねすることなく、ふたりきりで過ごしたいから」
「旅行か……そうだね。じゃあ、僕の方で少し考えてみるよ。ある程度まとまったら、奈々にも聞くから」
「うん」
 修平もそういうことを自分から言ってくれるようになった。
 もちろんまだまだなところはあるけど、以前に比べれば雲泥の差だ。
「ん、ふわぁ……」
「眠い?」
「ちょっとだけ。でも、その前に」
「どうしたの?」
「ね、もう一回だけ、しよ?」
「えっ……?」
「ね、いいでしょ?」
 ここでもう一回したら、きっと心地良く眠れるはず。
「それとも、私が全部してあげようか?」
「……わかったよ。しよう」
「あはっ、ありがと」
 なんだかんだ言いながら、修平は私の言うことを聞いてくれるから好き。
 もちろん、私もそんな修平につけ込むようなことは、ほとんどしない。そんなことばかりしていたら、修平に嫌われるし、なにより自己嫌悪に陥るから。
「修ちゃん、大好きよ」
inserted by FC2 system