君と僕の形
 
 
 僕が最初に彼女を見たのは、高校の入学式でのことだった。
 クラスは違ったけど、彼女は大勢いる女子の中で、とても目立っていた。
 平均より少し高めの身長、サラサラの長い髪、スラッと伸びた手足、高校一年生とは思えないほどのスタイル。
 だけど、なによりも僕の目を惹いたのは、その意志の強そうな瞳だった。
 もし、あの瞳に真正面から見つめられたら、なにも言えなくなるだろうし、なにもできなくなるだろう。
 女子、というか、女性全般にコンプレックスを持っている僕にとっては、それは最終秘密兵器にも等しいくらいの、だけど同時にとても魅力的なものだった。
 高校生活がはじまると、世情に疎い僕の耳にも、彼女の様々なことが届いてきた。
 まず、彼女はとても頭が良い。入試こそ一位ではなかったようだけど、それに匹敵するくらいの学力を持っていた。
 話によれば、それだけの学力を持っていても、勉強しているところを誰も見たことがないらしい。授業こそ真面目に受けているが、休み時間に予習や復習していることはないという。
 勉強しなくても問題ないくらいの天才なのか、人に努力している姿を見せたくない性格なのかは、さすがに話だけではわからなかった。
 次に、彼女は運動神経がとても良い。部活には入らなかったようだけど、体育の時間にはすべてのことを無難以上にこなしてみせていた。
 その運動神経の良さには、体育科の先生たちも一目置いているようで、たまにそれぞれが顧問をしている部活へ勧誘していた。
 文武ともに超優秀という彼女は、それだけでなく、料理なども問題なくこなせるようだった。調理実習でも先頭に立って次から次へとこなしていたらしい。
 それだけのスーパーウーマンの彼女ではあるが、だからこそなのか、性格がとてもきつかった。
 歯に衣着せぬ物言いは当然ことで、それはクラスメイトだけでなく、情けない授業をする先生にも及んでいた。最初の頃こそ事なかれ主義のクラスメイトがなんとか穏便に済まそうとしていたのだが、そうするとそのクラスメイトにも火の粉が降りかかるようになり、次第に誰もなにも言わなくなった。
 普通ならそこで孤立したりするのだろうが、彼女の場合はそれがなかった。そこがとても不思議なところである。
 そのあたりも話によれば、確かになんでもズケズケと言うが、それはすべて正しいことで、彼女は必要のないことは決して言わなかったという。多少耳に痛いということを除けば、普通に話し、つきあう分には問題はなかった。
 だから、彼女のまわりにはいつも人が集まり、いつしかクラスの中心的な存在となった。
 ただ、学校での彼女のことはよく耳に入ってくるのだが、学校を一歩出てしまうとまったくと言っていいほど話は聞こえてこなかった。
 親しい友人にも家のことはほとんど話したことはなく、ましてや休日に誰かとどこかへ行くということはなかった。
 その中から出てきたのが、彼女はどこかのお嬢様なのでは、という話だった。
 どこにもそのような証拠はないのだが、まことしやかにその話が漏れ聞こえてきて、間違いなく彼女の耳にも入ったはずなのに、それ自体を否定も肯定もしなかった。
 やがて出てきたのは、彼女はただのお嬢様ではなく、暴力団というか極道というか、そういう家のお嬢様なのでは、という話だった。
 誰も家を知らず、先生に訊いても勝手には教えられないと拒否され、結果的に、その話は中途半端なまま校内に残ることになった。
 もっとも、僕にとってはそれはまったく関係のない話だった。
 それはそうである。まずクラスが違う。彼女のクラスは僕のクラスの三つ隣。合同授業でも一緒になることはない。
 そしてこれが決定的な理由。僕は女性が苦手で、さらに女子の目を惹くようなものをなにひとつ持っていないということ。だから、廊下で擦れ違っても目を合わせることもなく、僕は俯き、彼女の目には僕はその隅にも入っていないはずである。
 それを悲しいとも虚しいとも思わない。
 彼女のいろいろな話を聞くのは楽しいとは思わないけど、興味がある。だけど、無理してお近づきになりたいとは思わない。
 同じ高校という近くではあるけど、僕にとってはとても遠い遠い存在。それが彼女だった。
 しかし、二年生に進級した時に、すべてが一変してしまった。
 
 僕は自分の見た目と同じように、成績も目立たなかった。
 テストではいつも真ん中くらいを浮遊し、先生の目にはその他大勢の中のひとりにしか見えていないだろう。僕はそれが悪いとは思っていない。
 人には分相応というものがある。僕には、目立たない日陰でひっそりと日々を暮らすのが性に合っていた。
 当初、それは二年生になっても変わることはないと思っていた。日々をなんとなく過ごし、気付いたら三年生、さらに気付いたら卒業。それでいいと思っていた。
 でも、それはクラス発表のその日に打ち破られた。
 そう、同じクラスになってしまったのだ。彼女と。
 最初は同じクラスになったからどうだ、と思っていたのだけど、それは甘かった。
 同じクラスになるということは、一週間のかなりの部分を彼女とともに過ごすということである。見るつもりがなくても、聞くつもりがなくても、彼女の言動が目に入り、耳に届いた。
 去年は違うクラスだったクラスメイトは、比較的積極的に彼女と接触していた。
 彼女はあまり歓迎している様子ではなかったけど、邪険にも扱ってはいなかった。
 次第に一年生の時と同じように、彼女はクラスの中心的な存在となっていった。
 それでも僕は、彼女とクラスメイトということ以外の接点を持とうとは思わなかった。煩わしいとは言わないけど、ただでさえ目立つ彼女の側にいると、自分の目立たなさがよりいっそう目立つような気がしていたからだ。
 同じクラスになっても、僕は彼女と言葉どころか目すら合わせたことはなかった。
 彼女は有名人だから名前は知ってるけど、彼女が僕の名前を知ってるかどうかもあやしいくらいだった。でも、僕はそれでよかった。
 自ら進んで傷つくことはない。
 自傷など、僕には似合わない。
 自傷するほどの価値もない人間なんだから。
 
 僕にとってはとても大きな変化があったけど、一学期はまだ平和だった。
 確かにまわりは騒がしくなったけど、それが僕に直接の影響を与えなかったからだ。僕は、言ってみれば道端に転がっている石と同じ。基本的には誰も気に留めない。
 一学期が終わり、夏休みになり、慌ただしかった生活が落ち着いた。
 夏休み中は、宿題を早めに済ませ、好きな本をたくさん読んだ。のんびりと本を読んでいる時間が、僕にとっては至福の時間だった。
 夏休みが終わり、二学期になると、僕たち二年生にはたくさんの行事が待っていた。
 まずは修学旅行。九月の終わりか十月のはじめに毎年行われ、今年は九月の末ということになっていた。
 修学旅行のあとは、体育祭。ほぼ直後と言ってもいい時期に行われ、授業を受けたくない生徒にとっては、ありがたい行事となっていた。
 体育祭のあとは、文化祭。これが十一月に行われ、大きな行事三連戦も終わりとなる。
 一年生だった去年も思ったのだが、うちの高校は行事にとても積極的だ。
 それは生徒はもちろんのこと、先生やPTA、近隣の住民も巻き込んでのこととなる。
 そうなってしまうとひとりだけ無視するというのは無理で、僕も渋々ながら僕の中ではかなり積極的に参加した。
 正直言えば、それでも僕の中の考えは変わらなかった。
 冷めてるといえばそれまでなのだけど、冷めてるというよりは、どうでもいいという方が正しかった。
 だから、今年も去年と同じように過ごそうとその時までは思っていた。
 
「は……?」
 僕は、今なにを言われたのかわからなかった。
「だから、修学旅行でふたりでまわる時に、おまえと一緒なのが──」
「彼女──桂見奈々恵だって」
 同じクラスで去年から仲の良かった友人ふたりが、僕に向かってそんなことを言い出した。
「な、なんでそんなことになってるの?」
「いや……」
「だってなぁ」
 ふたりは、顔を見合わせた。
「おまえが休んでる間にそう決まったんだよ」
「……そんな……」
 僕は、体調が悪くて一日だけ休んでしまった。どうやらその一日の間に、そのあり得ないことがあったらしい。
「だ、だけど、なんで僕が彼女と?」
 そうだ。休んでる間にイヤなことを押しつけられるのはまだいい。だけど、今回は違う。彼女は性格はきついが、同時に人気もある。だから、押しつけられた、と考えるのは違う気がする。
「まあ、正直言えば、俺たちも驚いてるんだ」
「なんたって、彼女自身がおまえを指名したんだから」
「えっ……?」
「みんな、彼女の言葉が信じられないって顔してた。だけど、彼女に意見を言える奴なんてこのクラスにいないからな。そのまま決まった」
「というわけだから、まあ、せいぜい彼女のファンに刺されないように気をつけろよ」
 ふたりは、そう無責任に言い放って教室を出て行った。
 誰かの嫌がらせで彼女と一緒にさせられたのなら、まだ話は簡単だ。恨まれたり妬まれたりされるようなことはしていないけど、知らず知らずのうちに、ということはある。だから、それなら僕もすぐに理解できる。
 だけど、そうではなくて彼女自身が僕を指名したというのは、にわかには信じられない。僕と彼女には、クラスメイトということしか接点はない。なんといっても、同じクラスになってから一度も声を交わしたことがないのだから。
 混乱した頭でいくら考えても、答えなど出てこない。というより、僕にはなにがなんだかさっぱりわからない。
「……帰ろう」
 これ以上ここにいても事態が好転するわけじゃない。今はとりあえずそのことは忘れて、帰ろう。
 それが現実逃避であることは十分理解しているけど、今はどうすることもできない。それに、正直言えばどうにかしたいとも思っていない。僕が彼女になにか言うことはあり得ないことだから。
 自分でもとても後ろ向きな考えだとは思うけど、これはもはや直らない。それに、今までそれで苦労したことも困ったこともない。だから、なんとかなる。
 カバンを持ち、教室を出ようとしたら──
「おわっ!」
 いきなり目の前でドアが開いた。
「あら、ちょうどよかったわ」
 開いたドアの向こうにいたのは、件の彼女──桂見奈々恵だった。
 背筋を真っ直ぐ伸ばし、誰に対しても臆することなく真っ直ぐ目を見て話す。
「ん、帰るの?」
「あ、えっと……はい……」
「そう。じゃあ、私も帰るわ。少し待って」
 僕の返事を待たずに、彼女は自分の席へ。机の脇にかけてあったカバンを手に取り、すぐに戻ってきた。
「行きましょう」
 またも返事を待たずに、彼女は教室を出て、廊下を歩いていった。
 僕は、一瞬考え、少しあとをついていった。
 彼女の歩く姿は、本当に絵になる。これは、彼女に特別な感情を持っていない僕ですらそう思うのだから、彼女のファンにとってはなおさらだろう。
 スッと背筋を伸ばし、ばたつくことなく歩いていく。
 手足が長いから、それだけで絵になる。さらに、歩く度に長い髪がサラサラと流れるので、余計だ。
 と、廊下から階段への曲がり角で彼女は足を止めた。
「どうしてそんな後ろを歩くの?」
「えっ……?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「別にあなたは私の家来でも下僕でもないんだから、隣を歩けばいいのに」
 切れ長の瞳が、一瞬細められた。僕は、それだけで射すくめられ、動くこともしゃべることもできなかった。
「……まあ、いいわ」
 なおも言いたいことはあったようだけど、小さなため息だけでなにも言わなかった。
 三階から一階の下駄箱に下り、靴を履き替える。
 彼女は、そこでも淀みのない洗練された動きで、靴を履き替えた。
 一方の僕は、ただでさえ慣れない状況で、いつも以上にもたついてしまった。
 なんとか履き替えると、彼女はすぐに校舎を出た。
 うちの高校は昇降口を出ると、そのまま真っ直ぐのところに正門がある。
 よく間に校庭がある高校も見かけるけど、うちの場合は校庭は校舎の裏にある。
 特別遅い時間ではないので、まだまだ生徒の姿がある。
 吹奏楽部の練習の音や、運動部のランニングの掛け声もよく聞こえる。
 だけど、僕の耳にはそんなものはほとんど届いていなかった。
 この居心地の悪さから解放してほしい。ただひたすらにそれだけを願っていた。
 正門をくぐり、学校の敷地を出ると、彼女は再び立ち止まった。
「もう学校を出たのだから、いい加減そんな後ろを歩くのはやめたらどうなの?」
 さっきと同じことを言われた。だけど、僕はなにも言い返せない。
「いい? そんなに後ろを歩かれたのでは、話もできないの。それをあなたはわかっているの?」
 かなりきつい口調。それだけで僕の肝は萎縮してしまう。
 俯き、ただひたすらに黙り込む。さっさと嵐が過ぎ去ればいいと思いながら。
「ああっ、もうっ、イライラするわね。あなたも男なら、はっきり言ったらどうなの?」
「ひっ……」
 険しい顔でにらまれ、僕は思わず後ずさりした。
 だから……だから女性は苦手なんだ。
 でも、その時の彼女の反応は僕の予想外のものだった。
 険しい顔が一変、今にも泣き出しそうな、別の意味で険しい表情になった。
 そう、それはあたかも僕のリアクションが彼女にとって、とてもショックだったかのような表情だった。
「……もう、いいわ。別に隣を歩かなくてもいいから、せめて話ができるくらいの距離にいてちょうだい」
 彼女は、一瞬目を伏せ、あきらめ口調でそう言った。
 再び歩き出した彼女。僕は、多少の躊躇いはあったものの、少しだけ彼女に近い位置で歩き出した。
「もう誰かから聞いてると思うけど、昨日のホームルームで修学旅行の話があったわ。そこで、ふたりひと組での行動についても説明があり、そのまま誰とともに行動するのかも決めたの。そして私は、あなた──有村修平を指名したわ」
 彼女は、前を向いたまま、とても落ち着いた口調で話す。
 往来にいるせいなのか、いつもより若干声のトーンが低くて、でも、それがかえっていつも以上にすんなりと僕の耳に届いた。
「この話、聞いてるわよね?」
「は、はい……」
 僕は、蚊の泣くような声で返事をした。
「そう、それならよかった」
 彼女は、言葉通り本当に安心したようだ。
「本当は朝にでも説明しようと思っていたのだけど、用事を頼まれてしまってできなかったの。で、そのまま放課後になって。まあ、結果的に誰かから聞いてくれて、多少話が省けて助かったわ」
 多少、というのは、僕が彼女に指名された、という事実だけだろう。それ以外のことは、僕にはなにひとつわからない。
「それで、あなたにどうして私があなたを指名したのか、説明しようと思ったの。だって、普通一度も言葉を交わしたことのないクラスメイトにいきなり指名されて、はいそうですかって納得できる人などいないもの」
 それは、そうだろう。
 クラスメイトではあるけど、一度も話をしていないということを考えれば、道端で名前すら知らない相手に、いきなりどこかへ出かけましょう、と言われたのと同じようなことである。
 納得できるかどうかは別問題として、説明があって然るべきだ。
「ただ、その前にひとつだけ聞いておきたいことがあるの」
 彼女は少しだけ僕の方を振り返り──
「あなた、修学旅行は楽しみ?」
 そう言った。
 それはなんの変哲もない、普通の質問だった。ごくありふれた、当たり前の質問だった。
 だけど、僕にはそれが普通の質問には思えなかった。理由は、わからない。ただなんとなく、漠然とそう思った。
 だから僕は──
「その……少しは、楽しみです……」
 思わず本音を漏らしていた。
 正直言えば修学旅行もどうでもいいんだけど、それでも少しだけ楽しみにしている部分もあった。その理由を問われると返答に困る。だって、僕自身その理由がわかってないんだから。
 高校二年生の修学旅行。これがおそらく、大勢で行く最後の旅行。これから先の人生においても、これに代わるものはない旅行。
 だから、柄にもなく少しだけ楽しみだった。
 それを、彼女に話した。
「そう、それはよかった」
 彼女はまたも安心したように言い、すぐに前を向いた。
「私は、とても楽しみにしているわ。おそらく、同年代のみんなとこれだけ大勢でどこかへ行く、ましてや泊まりがけでなんて、もうないだろうから。最初で最後の、高校の修学旅行だから」
 そう言って彼女は、薄く微笑んだ。
 僕は、その微笑みを、斜め後ろから見ていた。
「その修学旅行で、ほかの高校にはないうちの高校独特の伝統があると知ったのは、去年のことだった。今は三年生になった先輩が、私に教えてくれて。その時はまだ一年後のことだと真剣に考えてしなかったけど、修学旅行が近づくにつれて、じゃあ私はいったい誰とともに行動するのがいいんだろう、と考えるようになったわ」
 ゆっくりと歩きながら、ゆっくりと話す。
「二年生に進級して、新しいクラスになり、そこで本格的に私は誰と一緒がいいのだろうかと考えるようになったわ。親しい女友達、気さくに話せる男友達。それこそクラス全員とで考えた。だけど、これが意外なほどにしっくりこなかったの。誰と一緒にまわっても、それはずっとの想い出にはならないかもしれない。そう思った。ただ、二年生になってはじめて同じクラスになった人もいるから、早急に答えを出す必要はないとも思っていたわ。だってそうでしょ? よく知りもしない人のことで、あれこれ想像などできないのだから」
 僕は、彼女の言葉に耳を傾けながらも、そもそもなんでそんなことを僕に話しているのかを考えていた。それは果たして、僕を指名したことに繋がるのか。
「そして、一学期をともに過ごして、ある程度理解を深めることができたわ。そこで改めて考えてみた。クラス全員のことを」
「…………」
「だけど、その時に気付いたの。理解していたと思っていたみんなのことを、理解しきれていなかったことをね。いえ、違うわね。正確に言うなら、理解以前の問題。だって、私はあなたと言葉を交わしたことすらなかったのだから。そんな人のことを、どうやって知れというの?」
 それを僕に言われても、困る。少なくとも僕にとっては問題がなかったのだから、そのまま放っておいてほしかった。
「そこに思い至り、でも、同時にもう時間がないこともわかっていたわ。ではどうすればいいか。それならいっそのこと、その修学旅行を利用すればいい。その考えに至ったのよ。だから、あなたを指名したの」
 正直言えば、そんなことのために僕を指名してほしくなかった。僕は、彼女を含めた女子と関係を深めるつもりはさらさらないのだから。
 三年間目立たない存在のまま、いつの間にか卒業したかったのだ。
「もちろん、あなたのいないところで勝手に決めてしまったことは、悪かったと思ってるわ。でも、逆に言えばあなたがいなかったおかげですんなり決まったとも言える。だから、これは私にとってはとてもよかった」
 自分勝手なことを。どうあっても、僕の意見は無視する、ということじゃないか。
 そりゃ、文句を言うつもりもなしにしてくれと言うつもりもないけど。それでも、その場にいなかったことが事実とはいえ、僕の存在を完全に無視して物事を進めてしまっていることには、いくらなんでも腹が立つ。……もちろん、言わないけど。
「これが、あなたを指名した理由。わかってもらえたかしら?」
 ほんの少しだけ言い返してやりたくなったけど、僕はそれを飲み込み、小さく頷いた。
「そう、よかった」
 また、彼女は微笑んだ。
 そういえば、教室にいる時に、こんな風に笑っていたことがあっただろうか。
 誰かと話している時に笑っていても、どこか今の笑みとは質が違った気がする。具体的にどうこうは言えないし、どっちがどうとも言えないけど。
「それで、一応念のために聞きたいのだけど、私と一緒で、よかった?」
 それは、とても意外な問いかけだった。
 今までの話の流れから考えれば、改めて僕の意見を聞くという行為は、無為に等しいというのに。なのに彼女は、僕に改めて聞いている。
「もし、特別な理由があって私と一緒がイヤなら、本当は不本意ではあるのだけど、誰かに替わってもらっても、いいわ」
 そう言った彼女の顔には、明らかに替わってほしくないという表情が浮かんでいた。
 なんでそこまで僕にこだわるんだろう。彼女の側にいたら、その輝きですべて消し飛んでしまいそうなくらいの存在である、この僕を。
 わからない。わからないけど……だけど、僕はここで断ってはいけないような気がする。
 理由はわからない。
「どうなの?」
「……イヤ、ではないです……」
「本当に?」
 頷く僕。
「そう……よかった」
 彼女は、心の底から安心したようで、厳しい表情が少しだけ緩んだ。
 だけど、決まってしまったことにもう今更あれこれ言うつもりはないけど、どうして彼女はここまでこだわるんだろう、本当に。なんとなく、この説明だってもう少し適当に済ませられたと思う。
 勝手に決められてしまったことには言いたいことはあるけど、でも、そういう日に休んでしまった僕にも非がないわけではない。もともと学校というものは、休まずに来るということを念頭に様々なことが行われているのだから。
 そういうことを考えれば、それらしい理由を言われただけで、僕はそれを受け入れるしかなかった。
 それなのに彼女は、あたかも僕には誤解してほしくないかのごとく、必死に理由を説明した。
 それが僕にはわからない。
「では、そういうことで、修学旅行当日はお願いするわね」
 彼女は満足げに大きく頷き、心持ち足取りも軽く歩き出した。
 しかし、僕の気持ちは逆に深く深く落ち込んでいった。
 
 それからの僕は、如何にして修学旅行を無事に乗り越えるか、そのことだけを必死に考えていた。普通に過ごし、なんの対策も練らずに当日を迎えたら、それはそれは悲惨な目に遭うのは明らかだった。
 この僕にだって、ほんのわずかだけど、プライドというものがある。さすがにそこまでズタズタに切り裂かれるわけにはいかない。自分の身は自分で守らなければ。
「はあ……」
 とはいえ、考えても考えても妙案は思い浮かばなかった。
 よくよく考えてみれば、それは当然だった。
 僕は昔から女性にコンプレックスを持ち、接するのがとにかく苦手だった。小学校も中学校も、できる限り関わり合いにならないよう、努力してきた。
 それはつい先日まで続き、だからこそ、ほんの数日くらいそれまでまったくやってこなかったことをやろうとしても、できないのは当然だった。
 考えるためには、材料が必要となる。だけど、僕にはその材料がほとんどなかった。
 まず、僕は彼女をよく知らない。これは致命的で、対策など練りようがない。
 その次に大きいのは、もし彼女のこと知っていたとしても、女性に対する接し方のスキルがないので、なにが有効なのかわからない。
 それを考えただけで、僕の気持ちはますます浮揚できないとこまで沈んでいく。
 それでも、対策を練らないわけにはいかない。だからあれこれ悩んでいるんだけど、それも限界だった。
 最悪、助けを求められる相手がいるにはいるけど、それは本当に最悪だ。それだけはできる限りしたくない。
「そうも言ってられない、かも……」
 それが、本音だった。
 
 修学旅行が近づいてくると、二年生の間には浮ついた空気が流れはじめた。授業中こそ比較的いつも通りだけど、休み時間になると途端にその話で盛り上がっていた。
 ちなみに、うちの高校の修学旅行、行き先は沖縄。毎年沖縄か北海道かで生徒にアンケートを採るのだが、ほぼ毎年沖縄になっている。
 旅行期間は四泊五日。それなりに長いのには、理由がある。それは、学年揃って行動する日と、そうでない日を明確に分けているからである。僕個人としてはそこまで必要ないと思っているけど、学校の方針だから仕方がない。
 僕のまわりでも日に日に近づく修学旅行に、気分が高揚している連中が増えている。
 でも、僕は正直言えば、逃げ出したいくらいだった。修学旅行自体に未練はあるけど、それでも彼女と一緒に行動しなくていいのなら、そっちを選びたいくらいだ。
 そういえば、彼女とはあの日に話して以来、一度も話をしていない。僕の方は特に話すこともないけど、彼女もそうだとは限らない。なんといっても、ふたりひと組での行動時のことを、本来ならあれこれ考えなければならないのだから。それをしていないのは、このクラスで僕と彼女だけだ。
 ここまで来たら、彼女がすべて決めて、僕はそれについていくだけにしたい。そうすれば余計なことは考えずに済む。
 そんなことを考えていたからだろうか。その日の放課後に、彼女に呼び止められた。
「少し、話したいことがあるの」
 話すのには教室よりもほかの場所の方がいいだろうということで、比較的人がいない、来ないであろう場所へ移動した。
「んっ」
 ドアを開けた途端、眩しい光が目に飛び込んできた。
 選んだのは、屋上だった。一応普段から開放されてはいるけど、特になにがあるわけでもないし、ましてや三年生でも二階分階段を上がらなければならないので、滅多に人が来ない。僕も、図書館以外で静かに本を読みたい時に、ここへ来たことがある。
「いい風……」
 彼女は、屋上の真ん中まで進み、そこで立ち止まった。
 屋上には、彼女の言う通り、とても気持ちのいい風が吹いていた。
 九月とはいえ、まだまだ日中は暑い。だから、風がこれだけ吹いていると、その暑さも忘れられる。
 目を閉じ、髪もスカートも押さえることなく、彼女は風に身を任せている。
「さて」
 時間にして一分くらいだっただろうか、彼女がそうしていたのは。
「話というのは、修学旅行のことよ。そろそろどうするか決めないと、当日困ることになるから」
 彼女はまずそう言って話し出した。
「正直言えば、あまり綿密に決める必要はないと思ってるんだけど、慣れない土地ではさすがに事前の準備が必要でしょうから」
 なるほど。それ自体は頷ける。本来の修学旅行の意義を考えれば、多少行き当たりばったりでも問題はないのかもしれない。
「私はそう考えていたのだけど、あなたはどう思う?」
 穏やかな表情で僕に問いかける。
「えっと……それでいいと、思います……」
 少なくともそのことに異論はない。おそらく、彼女もそれについて僕がなにか言うとは思ってなかっただろう。
「そう。じゃあ、どこへ行きたいとか、なにをしたいとか、そういうのはある? それをすべて受け入れられるかどうかはわからないけど、検討するには必要だから」
 まずは僕の意見を聞いてきたけど、僕に意見なんかない。この数日間、修学旅行そのものよりも、彼女との行動をどうするかを考えてきたんだから。
「……すみません、特にないです……」
「本当に? 本当になにもないの?」
 形の良い眉をピクリと動かす。
 返事の代わりに頷く。
「……しょうがないわね」
 本当はなにか別のことを言いたかったようだけど、それを飲み込み、そう言った。
「そうなると、基本的に私の行きたいところということになるわよ。それでいいの?」
「……はい」
「そう……わかったわ」
 彼女はそう言ってから、今度は屋上の端──フェンス際まで歩いた。
 僕は、その場を動かなかった。
「ねえ、訊きたいことがあるの」
 訊きたいこと? この期に及んでなにを訊きたいというのだろう。
「私のこと、嫌い?」
「えっ……?」
「いえ、この場合は違うわね。私が、恐い?」
 ゆっくり振り返った。その顔には、特別な感情は浮かんでいなかった。
「どうなの?」
「それは……」
 そんなこと、言えるわけがない。それに、どう答えたところで僕の彼女に対する姿勢が変わるわけじゃない。これはもう、直らないのだから。
 確かに、僕の彼女に対する感情を言葉にするなら、それは恐いということになるだろう。ただ、それも純粋な恐怖ではない。純粋な恐怖なら別のなにかで置き換えられるけど、彼女に対するものは違う。そんな簡単に置き換えられるものではない。
「正直、あなたを見ているととてもイライラするわ。はっきりしないし、ウジウジ悩むし。ただ、それにも当然理由があるのだと思う。理由もなしに、そんな風になることは普通の人間にはあり得ないから」
「…………」
「で、その理由の中には、当然私に対するものも含まれているはずなのよ。だから訊いてみたの」
 彼女の意見は、なるほどと思う。冷静に考えれば、それは当然の帰結だ。
「私には、話せないこと?」
 彼女は強制していない。だけど、拒否は許さないような雰囲気がある。
 だけど、もし彼女に僕の『事情』を説明するとなると、話さなければならないことが多い。それに、それはできるだけ触れたくないことでもある。
 人間、誰しも知られたくないこと、触れられたくないことがあるはず。僕にとっては、それがそうだ。
 僕に答える気がないのを察した彼女は、小さくため息をついた。
「あのね、これはもはや常識の問題だと思うんだけど、話せないなら話せないで、黙ってないでそういう風に言えばいいのよ。確かに私はそのことを知りたいけど、それを強制、強要できるわけじゃないんだから、話せない理由があるなら無理には聞かない。私だってそれで怒りはしないわ。でも、そういう風に黙られるとかなりイライラするわ」
「す、すみません……」
「それと、そうやってすぐに卑屈になるのもどうかと思う。すぐには直せないのかもしれないけど、少なくとも自ら意識して努力すれば、多少は改善されるはずよ」
 彼女は、とても穏やかな声で僕を諭す。
 今まで、僕のことをここまで言ってくれた人はいただろうか。すぐには思い浮かばない。それはつまり、いたのかもしれないけど、僕にとってはほとんど意味がなかったという証拠でもある。
 なのに今僕は、彼女の言葉を素直に聞いている。
「もし、話してもいいと思ったら話して。私はいつでも聞いてあげるわ」
 そう言って彼女は、僕に微笑みかけてくれた。
 目の前にいるのは、紛れもなく僕の苦手な女子なのに、その中でもトップクラスに苦手なはずの彼女なのに、僕は今、コンプレックスだとか苦手だとか、そんなことをすっかり忘れていた。
 それはもはや遠い過去に置き去りにしてきた、ごくごく普通の女子に対する気持ちだった。
 
 そして、あっという間に修学旅行当日を迎えた。
 週間天気予報だと、僕たちが沖縄にいる五日間のうち、雨を予想しているのは三日目と四日目だった。ちなみに、三日目の夕方頃から降り出し、四日目の夜までには上がるという感じだった。
 学校に集合してバスで空港へ向かい、そこから飛行機で沖縄へ。
 うちのクラスだけでなく、どのクラスの面々もテンションが異様に高い。やはり、この修学旅行を楽しみにしているからなのだろう。
 ただ、その中で僕はその様子を冷めた目で見ていた。それはやはり、この修学旅行にどうしても前向きに参加できないからだ。
 あの屋上での話のあと、彼女の考えてきた案を検討する機会を一度だけ持った。もっとも、その時も僕はただ頷くだけで、特になにか言ったわけではない。それに、僕がなにも言わなくても彼女がそれまでにほとんど完璧に下調べをしていたからでもある。
 彼女が選んできたのは、有名な場所と無名の場所とが半々くらいだった。そのどちらにも言えたのが、比較的静かな場所を選んでいた、ということだ。理由はわからない。僕も聞かなかったし。
 まあ、都会の喧噪を忘れてのんびりしたい、とでも考えれば辻褄があう。
 僕は、自分のことをあれこれ詮索されたくないから、他人のことを詮索しないことにしている。家族に言わせると、それは間違いだと言うのだけど、今更だ。僕をそんな風にした張本人たちがなにを言っているんだ、という感じでしかない。
 だから、彼女がなにを思い、なにを考えそうしたのか、気にならないと言えばウソになるけど、それを知りたいとは思わない。知れば、それだけ面倒なことが増えるから。
 那覇空港に着くと、九月にも関わらず、まだまだ夏の太陽が僕たちを出迎えてくれた。
 初日の予定は、午後だけということもあって首里城周辺を全員でまわる、というものだった。
 僕としては、そういうどうでもいい内容の方が安心できる。なによりも、余計なことを考えなくて済むからだ。
 初日はそんなわけで、あっという間に過ぎ去った。
 二日目は、初日と同じく全員でまわる。まわる箇所は、ひめゆりの塔や城跡、美ら海水族館など。まあ、ようするにバスなどの交通手段がなければまわれない場所、ということだ。
 それぞれそれなりに楽しんでいるようだったけど、やはり気持ちは三日目、四日目に行っているような気がした。
 ふたりひと組、というのはあくまでも建前で、実際は何人でまわっても問題はない。ただ、あくまでもふたりというのが基本なので、奇数人で動くというのはあり得なかった。
 気の合う者同士であちこちまわれるのだから、普通は確かに楽しみだろう。
 中には、ふたりであることを利用して、好きな者同士で、というのも結構ある。こうなると修学旅行というよりは沖縄デートという感じだ。
 もちろん、先生たちもそれは理解している。それでもあえてなにも言わないのは、言っても無駄だという考えと、なにか言って余計なことが起きないように、という考えからだろう。よくわからないけど。
 二日目も無事に終わり、折り返しの三日目。
 三日目も朝からとても天気がよかった。ただ、先日の週間天気予報通り、夕方頃から雨が降り出すという予報だった。
 ホテルのロビーでクラスごとに注意事項が言い渡され、解散。
 ここから、地獄の時間がはじまる。
「有村」
 振り返ると、彼女がいた。
 いつもの制服姿ではなく、七分丈のジーンズに白のキャミソール、その上にブラウスを羽織っている。
「準備は?」
「大丈夫です」
「そう。じゃあ、行きましょう」
 彼女はクルッときびすを返し、歩き出した。僕は、そのあとをついていく。
 と、ホテルを出たところで立ち止まった。
「そうだ。ひとつ、いや、ふたつ忘れてた」
 彼女は僕を振り返った。
「まずひとつ。なにかあった時のために、私の携帯の番号を教えておくわ」
 そう言って彼女は、小さなメモ用紙を渡してきた。薄いピンクのメモ用紙に、携帯の番号とメールアドレスが書いてあった。
「あなたのは、それを登録してからでいいわ」
 そう言われてしまうと、さすがに登録しないわけにはいかない。とりあえず番号だけ登録し、すぐに彼女の携帯にワンコールだけかけた。
「……これで、よし、と」
 彼女は僕の番号を登録すると、満足そうに頷いた。
「もうひとつ。これは強制ではないけど、できればこの修学旅行中は私のことを名前で呼んでほしいの」
「えっ……?」
「正直に言えば、名字はあまり好きじゃないから。もしあなたが望むなら、私もあなたのことを名前で呼ぶけど、どうする?」
「あ、いえ、僕は別にどっちでも……」
「……そう。じゃあ、名前で呼ぶわ」
 少しだけ反発して、彼女はそう言い放った。
 それにしても、携帯の番号はまだしも、名前なんてどうでもいいはずなのに、なんでここまでするんだろう。本当にわからない。
「さ、行くわよ、修平」
 
 不思議な感覚だった。
 生まれてこの方、女子とふたりきりで長時間過ごしたことはない僕。僕自身がそうしたくなかったというのも理由だし、相手も僕を選ばなかったからでもある。
 みんなが彼氏や彼女を作ってデートを重ねていても、僕はそれを羨ましいとは思わなかった。なんでそんな面倒なことをしてるんだろう、とさえ思っていた。
 そして、僕は自分の考えが変わらない限り、そんなことは経験しないと思っていた。
 ところが今、とてもデートとは呼べないけど、状況だけはそれと似たような状況になっている。
「いい風……」
 彼女は柵の側に立ち、風を受けている。
 高台なので、風が通り抜けていく。
「あなたもここへ来たら?」
 その様子を後ろから見ていたら、そう声をかけられた。でも、それは遠慮したい。隣になどいたら、息苦しくてどうにもならないからだ。
「……ねえ、どうしても話す気にはならない?」
 一瞬、なんのことを言われたのかわからなかった。だけど、彼女が気にしていることは、ひとつしかない。
「なにがあなたをそこまで頑なにさせるの?」
 頑なな理由。そのひとつは、彼女にもある。どうして僕なんかのことを、そこまで気にするのか。まだしつこいというところまでは至ってないけど、これ以上続けば、しつこいと感じるようになる。そうなると、僕はますます口を開かない。
「今、そうさせてるのは私かもしれないけど、でも、根本的な理由があるはずよね」
 彼女は、とても鋭い。やっぱり、頭のできが違うようだ。
「私、というよりは女子すべてを拒否してるような気がする。違う?」
「…………」
「女子が、嫌い?」
 あとになって考えてみると、その時こそが、話すタイミングだった。
 自分でも意固地になっているのはわかっていた。それでも、はっきり言えば自分のみっともない部分を他人に知られるのがイヤで、ますます意固地になっていた。
 それに、彼女のようにここまでしつこく聞いてきた人はいなかった。だから、ほんの少しだけ、話してもいいと思った。
「……嫌い、というよりは、苦手、なんです」
 僕が話しはじめたことに、彼女はほんの少しだけ驚いた。だけど、それ以上特別な反応は見せない。
「どうして苦手なの?」
「理由は……いろいろあります。でも、その中で一番大きいのは……家族の影響です」
「家族?」
「うちは……男女の力関係が圧倒的に違うんです。父さんは仕事の関係で留守がちで、そのためどうしても母さんが家のことを任されてきました。その母さんを手伝っているのが、三人の姉たちです。普段から母さんと姉さんたちによって家は守られてきましたから、年下でもある僕には発言権さえありません。いつも四人の顔色を窺って、機嫌を損ねないように生活してきました」
「…………」
「でも、姉さんたちにとって僕は、弟でありながらオモチャでもあったんです。僕をからかい、困らせてはその反応を楽しみ、何度それをやめてくれと言っても、絶対にやめませんでした。そんな中で生活してきたせいで、僕は女性に対してコンプレックスを持つようになり……接すること自体も苦手になってしまったんです……」
 今まで、誰かにこのことを話したことはなかった。恥ずかしいという気持ちもあったし、なによりもそれを話したところでどうにもならない、と思っていたからだ。
 高校生で未成年の僕は、まだまだあの家から出ることはできない。そうすると、どんなにイヤでも母さんや姉さんたちの世話になるしかない。それに、家族であるということは死ぬまで変わらないわけだから、それを他人がどうこうできるはずがない。
 そう考えて、誰にもなにも言ってこなかった。
 それなのに今、僕は彼女に話している。
「じゃあ、別に私のことがどうこう、というわけじゃないのね?」
「あ、はい……」
「よかった……」
 どうして彼女が『よかった』と言ったのかは、僕にはわからない。僕なんかにどう思われてても、関係ないはずなのに。
「あなたが話してくれたから、私も話すわね」
 彼女は、再び前を向き、静かに話しはじめた。
「私が学校でいろいろ言われているのは、あなたも知ってるわよね? 正直言えば、本人の意志を無視して好き放題言うのは、やめてほしいのよ。もちろん、私にも非があるわ。それを肯定するなり、否定するなりしていないのだから。ただ、それにいちいちつきあっていたら、それこそ人間不信に陥りそうで」
 優秀な人にも、それなりに苦労はあるということか。
「私が誰にも家のことを話さないのは、学校に関係者がいるからなの。というより、理事長が私の祖父なの」
「えっ……?」
「まあ、お飾りみたいな理事長ではあるんだけど、学校で一番の権力者には変わらないから。だから、私が入学する時に、そのことは口外しないように決めたの。だけど、そうするとどうしても家のことまで話せなくなって。結果として、あらぬ想像や誤解を与えることになってしまった」
 理事長の孫娘、だったんだ。
 確かに昔ほどではないにしろ、そういうVIPだと知られれば、あれこれ言い寄ってくる連中や、非難する連中が出てくるだろう。
 理事長や彼女の両親にしてみれば、彼女がそんな目に遭うのを黙って見てはいられないはず。だから、口外しないと決めたわけだ。
「なんで……それを僕に話してくれたんですか?」
 でも、それを僕に話す理由がわからない。僕は、見返りを求めて自分のことを話したわけじゃないんだから。
「そうね……ただの気紛れとも言えるし、そうじゃないとも言える。つまり、私自身よくわかってないのよ。だから、答えられないわ」
 適当なことを言われるよりは、はっきりそう言われる方がいい。誰にだって、そういうことはある。僕にだってそうだ。
「ただ、ひとつだけわかってることがあるの。それはね、私にとってあなたが特別な存在である、ということ」
 まったく予想もしていなかった言葉だった。
 僕が、彼女の特別な存在?
「あなただけなのよ。私に声をかけてこなかったのは。自慢するわけじゃないけど、私は基本的に誰からも認められる存在だと思ってる。それは、それ相応の努力もしてきたし、今もしてるから当然なの。だから、下心があってもなくても、声をかけられるのが当たり前だった。なのに、声をかけるどころか、私に近寄ってこない人がいる。これが私の好奇心に火を点けたの。ただ、だからといってそんな理由であなたに声をかけるのもおかしいじゃない。結局ずっとそう思っていながら、この修学旅行までなにもなかったの」
 そういう理由か。でも、それでも僕は納得していない。
 それはつまり、自らの好奇心を満たすためだけに、僕に声をかけ、こうして修学旅行で一緒に行動している、ということになる。しかも、僕の意志を無視して。
 いくら僕でも、そんな理不尽な理由で僕を振り回さないでほしい。僕はただ、なにごともなく平和に学校生活を送り、卒業したいだけなんだから。
「納得、できるわけないか。それはそうよね。少なくとも私がそんな理由であれこれ言われ、やられたら、怒るもの。それでも、今はそうするしか方法がないのよ。だってそうでしょ? あなたから私になにか言ってくることはない。でも、私はあなたのことが知りたい。だったら、ある程度無茶だとわかっていながら、そうするしかない。それが私の出した答え」
 そう言って彼女は、穏やかに微笑んだ。
「それで嫌われてしまっても、しょうがないわ。だって、私はそれだけのことをしているんだから。でも、できれば嫌ってほしくない。誰だってそうだと思うけど、嫌われるよりも好かれたいんだから」
「…………」
 僕は、彼女のことをどう思っているんだろうか。
 だんだんわからなくなってきた。
 
 三日目は、公園での一件を除けば、特になにもなかった。
 公園のあとも、静かな場所をいくつかまわり、その度にぽつぽつと話をした。どうやら彼女にとっては、あちこちまわることよりも静かなところで僕と話をすることに重きを置いているようだ。
 少なくともここまでは自分の好奇心を満たす、という以外に打算がないので、僕としてもどう相対すればいいのかわからない。ほかになにかあるというのなら、もっとしっかりと拒否することもできる。だけど、現在まで僕に特別なにか被害があるわけじゃない。そうすると、それ以上なにもできないというのが現状だった。
 ホテルに戻ってきて夕飯という頃に、雨が降り出した。雨、風ともに強くはないが、しとしとという感じで降っていた。
 夕食のあとは、消灯時間まで自由時間となる。部屋でのんびりするもよし。ラウンジでみんなと話をするもよし。ホテルはうちの高校の生徒しかいないので、そのあたりの心配はいらなかった。
 ホテルには別棟があり、その別棟への通路が、今のところ一番静かな場所だった。
 僕がそこを見つけたのは、二日目の夜のこと。部屋で悶々としてるのもイヤだったので気分転換にホテル内を歩いていたら、そこを見つけた。
 別棟は僕たちは利用していないので、基本的にそちらへ誰かが行くことはない。だからなのだろうけど、とても静かだった。
「はあ……」
 窓の外を見つめていたら、自然とため息が漏れた。
 考えることは、多くない。今の僕が一番気にしているのは、やはり彼女のことだ。あれだけいろいろ言われて、気にならない方がおかしい。
 これではまるで、彼女と同じだ。気にしすぎて、特別な存在になっている。
 そう。僕にとって彼女は、間違いなく特別な存在だ。
 ただそれは、彼女に対して特別な感情を抱いているということとは違う。女性が苦手な僕が、あれこれ考えてしまうという意味において、特別なのである。
 好きだの嫌いだの、そんなレベルの問題ではない。それに、僕は自覚している。家での根本的な問題を解決しない限り、本当の意味で女性を好きになれないことを。
 そう考えると、だからこそ彼女は僕にあれこれ言うのかもしれない。僕から彼女に対して、あれこれ言うことはないのだから。そういう煩わしいことを抜きにして話せる異性は、きっと多くないはず。
「そこでなにしてるの?」
 声がして振り返ると、彼女がいた。
「って、それは私にも言えることか」
 笑いながら僕の隣までやって来た。
「ここ、静かね。だからここにいたの?」
「はい」
「そっか。なるほどね」
 頷き、窓の外を見る。
 雨は、まだ降り続いている。
「明日も雨って言ってたわね。せっかくの修学旅行なのに」
 言葉ほど残念とは思っていないのは、その表情を見ればすぐにわかった。
 もともと明日まわるところは、晴れでも雨でもあまり関係ない場所が多い。それに、晴れても雨でもどちらでも問題ないように、三日目と四日目の予定は天候にあわせて動かせるようにした。だから、今日は晴れの予定で、明日は雨の予定。
「ね、ひとつ提案があるの」
「提案、ですか?」
「明日の予定を変更しようと思うのよ」
「えっ、でも、それは……」
「もちろん、提出済みの場所にしか基本的には行ってはいけないのはわかってるわ。でも、それを監視してる先生はいない。なら、少しくらい予定を変更しても、どうってことないのよ」
 屁理屈ではあるけど、ある意味では正しい。
 そもそもこのふたりひと組での行動は、ふたりだけで予定を決めて、それをこなすことそれ自体が目的となっている。だから、一応先生に予定は提出するけど、実際にそれをこなせたかどうかは、あまり追求されない。
 ただ、無茶さえしなければいいのである。
「……あの、どういう風に変更するつもりなんですか?」
「とりあえず、それは明日までのヒミツ、ということで。その方がより楽しめるでしょ?」
 楽しめるでしょ、と言われても、僕は楽しめないのだが。このあたりの温度差は、かなり決定的だ。
「よし、これで明日の予定も決まったし、万事問題なしね」
 なにをもって問題なしとしているのかはわからないけど、それをいちいち追求する気にもならない。
 最初の多少尊大な態度も煩わしかったけど、今の少しなれなれしい態度も、僕にとっては煩わしい。
 彼女が僕になにを求めているのかはわからないけど、きっと僕は、彼女の期待を裏切ることしかできないから。
 だから僕は、自覚しつつ、冷めた目で彼女を見ていた。
 
 四日目の朝は、前日からの雨のせいで幾分肌寒く感じられた。
 雨は、夜よりも少し強めに降っており、窓の外を見ていたクラスメイトからは、ため息ばかりが盛れていた。
 朝食のあと、簡単なミーティングを行い、解散。
 僕は、出発する準備だけして待っていた。
 最初こそあれこれ言っていたクラスメイトも、もはやなにも言わなくなった。どうやら、僕も彼女も特別な反応を示さないから、つまらなくなったのだろう。
「お待たせ」
 そこへ、彼女がやって来た。
 昨日とは違い、今日は薄いブルーのワンピース姿だ。
「さ、行きましょう」
 どこへ行くのかも告げずに、彼女はホテルのロビーをあとにした。
 ホテルを出ると、彼女はすぐにタクシーを止めた。
「美ら海水族館まで」
 それを聞いた時、僕はなんでと思った。
 美ら海水族館は、二日目にすでに行っている。なのに、もう一度行くなんて。
 僕たちの泊まっているホテルは、那覇市と名護市の間くらいにあって、どこに行くにしても足がなければ行けない。那覇市や名護市まではバスもそれなりに走っているのだが、それ以外に行こうとすると、なかなか大変だ。
 そこで活躍するのが、タクシーである。東京などの大都市に比べて料金が安いので、修学旅行でも利用が推奨されていた。
 実際、昨日も二度ほど使った。
 タクシーは道路を北へ向かい、そこから今度は西へ向かう。
 海洋博記念公園内にある美ら海水族館は、日本でも有数の水族館である。
 那覇市内から遠いにも関わらず、毎年多くの観光客で賑わう。
 確かに、ここをちゃんと見ようと思ったら、とても一日では見られない。実際、二日目もザッと流す感じで、細かなところは覚えていない。
 それをもう一度ちゃんと見たいというのなら、その気持ちもわかる。
 タクシーの中では、特にこれといった話はしなかった。
 車窓を見るとはなしに見ていると、時間の流れがいつもと違うような感覚に襲われる。
 雨は、やむ気配はなかった。
 タクシーに揺られること約二時間。
「ん〜、やっと着いた」
 本当にやっと着いたという感じだ。
 一昨日はバスでの移動で、バスの中も賑やかだったからそこまでとは思わなかったけど、やはり遠い。
 入り口は、雨のせいか微妙に人が少なく感じた。
 チケットを買い、中に入った。
 館内は一昨日来た時も思ったけど、とても神秘的な雰囲気だ。人もいるし音もないわけじゃないけど、それでも水槽の向こうに広がる神秘的な光景を目の当たりにすると、その場所自体も神秘的に思えてくる。
「どうしてここへ来たか、わかる?」
 館内に足を踏み入れ、最初の水槽の前で彼女はそう言った。
「いえ」
「理由はいくつかあるの。まずは、今日も雨だから。わざわざこんな日に外で雨に当たるのもバカらしいし。次に、一昨日はちゃんと見られなかったから。せっかく来たのにちゃんと見られないなんて、それこそバカらしくて。次に、雨ならいつもより静かにのんびり見てまわれると思って。時間に制約はあるけど、少なくとも一昨日よりはのんびり自分たちのいいように見られるでしょ? だから、ここを選んだの」
 ある程度は予想通りだった。
「あなたは、ここでよかった?」
「僕はどこでも」
「そう」
 彼女は短くそう言い、再び目の前の水槽に目を向けた。
 なんとなくだけど、修学旅行前からの短い間に、ほんの少しだけ、彼女がなにを考えているのかわかるようになった。もちろん、核心に迫るほどではないけど、今の感情はどんなものなのか、くらいはわかる。
 もっとも、それを彼女に確かめるわけでもないから、正しいかどうかもわからない。
 少なくとも今は、特にどうとも思っていない。彼女も、少し僕とのつきあい方に慣れてきたのかもしれない。
 順路通りに館内を進む。
 ゆっくり、ちゃんと見てまわると、確かに面白い。
 南洋の海を再現しているせいもあるけど、泳いでいる魚もカラフルな魚が多い。
 時間がゆっくりになるわけではないけど、それでもいつもよりのんびりしている気がする。
 やがて、この水族館で一番の目玉、黒潮の海と呼ばれる水槽の前に来た。
 ここは世界最大級のアクリルガラスを使った超巨大な水槽があり、その中にはジンベイザメやマンタが複数飼育されている。これは世界初の試みで、これだけでも人を惹きつけるのに十分である。
「こういうのを見てると、日々の様々なことがどうでもよく見えてこない?」
 彼女は静かにそう言った。
「私たちはまだ高校生だから、いろいろ学ばなければいけないけど、でも、それって学校で机にかじりついてるだけで学べることだけじゃないはずなのよね。誰も教えてはくれないけど、こういう大自然の一端を目にすることで感じられる率直な気持ち、想いからも、学べることはあるはずだから」
 なぜそんなことを言い出したのかはわからないけど、その意見には賛成できた。
 確かに、学校で学べることなど、社会に出てから役に立つことの何分の一かでしかない。それ以外のことは、自ら知ることで身に付けていく。
 そして、普段はなかなか接することのできないもの、事柄に接することで、人間はその幅を広げていく。
「私ね、この修学旅行でいろいろ考えてみたの。たぶん、いつも以上に真剣に考えたわ。もちろん、そう簡単に答えの出ない問題もあったわ。でも、それはそれでいいとも思った。だって、それならそれでこれから先も考えていけばいいだけなんだから。考えることを放棄してしまったら、その時は人であることをやめなくちゃいけないし」
「…………」
「まあ、なにが言いたいのかといえば、つまりね、私はどうしてここまであなたにこだわってるのか、ってことなのよ。最初は確かに好奇心からだったわ。きっかけなんてそんなものだろうし。でも、それからのことはそれだけでは説明のつかないことがほとんどだから」
「…………」
「考えられる理由は、そう多くなかったのよ。一番簡単な理由は、好奇心。最初の頃の好奇心とは違うものよ、それは。簡単に言えば、ひとつのことを知ったから、また次のことを知りたくなった、という感じ」
 なるほど。それはそれでわかる。
「あなたみたいな人はまわりにいなかったから、余計なのよね」
 僕みたいなのがたくさんいたら、とてもイヤな世の中になってるだろうな。自分でもそれくらいわかる。
「あとは、これはまだ私自身もちゃんとは自覚してないんだけど、たぶんね、私、あなたのことが好きになりかけてるのよ」
「えっ……?」
「ああまあ、驚くのも無理はないし、私自身も結構驚いてるんだけどね、これでも。ただ、その好きという感情がどういう好きなのかは、わからないわ。それこそ、Likeの好きなのか、Loveの好きなのかね」
「…………」
「でも、それが理由だと考えると、あなたに対してのこだわりも実に簡単に説明できてしまうのよ」
 それはそうかもしれないけど、でも、それだけは絶対にあり得ないはずだったのに。
 そもそも、僕はそういうところからは一番遠いにところにいたはずだ。僕自身、異性にそれほど興味があるわけじゃないし、誰かとそうなりたいと思ったこともない。
 逆に、女性から見れば僕などそういう対象にはしたくないはずだ。男らしくもないし、勉強も運動もできるわけじゃない。面白い話ができるわけでもないし、人に自慢できるような特技や趣味があるわけでもない。
 三人の姉たちは僕のことを『カワイイ』と言うが、それはペットに対するものと同じだ。姉たちの好奇心を適度に満たしてくれて、しかもあまり反抗しないから『カワイイ』と言うのだ。
 だけど、それは姉と弟という関係だからで、それ以外の女性には当てはまらない。
 ましてや、僕とはそれこそ一番遠い場所にいるはずの彼女が、好奇心以外の感情を僕に抱くなんて、絶対にあり得ないはずだった。
 それが今、彼女の口からあり得ない言葉が出てきた。
「混乱してる?」
「あ、ええ、はい……」
「そうよね。私があなたと同じ立場でも、きっと混乱するわ。ただ、あなたに伝える機会は、今日しかないと思ったの。修学旅行は明日で終わってしまうし、学校に戻ったらあなたはきっと、私との接触を拒むだろうと思ったから」
 読まれてる。
「ねえ、無理を承知であなたにお願いがあるの」
「……なんですか?」
「つきあってほしいとは言わないけど、せめて学校でも普通に接してほしいのよ。そうすることで、私もあなたも、それぞれのことをどう思っているのか、もっとよくわかるはずだから」
 その理由は、僕以外にだったらごく普通に受け入れられる理由だろう。それに、彼女にそのようなことを言われて断れる男子は、そういないだろうから。
 でも、僕は違う。はっきり言えば、僕は彼女とのこれ以上の接触を避けたい。
 彼女にはメリットがあるのかもしれないけど、僕には間違いなくメリットはない。むしろ、まわりからいろいろ言われ、それがまかり間違ってあの姉たちの耳にでも入れば、今度こそ家を出るしかない。
 そんな危険なことを僕はしたくない。
「それすらも、ダメ?」
「……僕は、自分の身を守ることしか考えていません……だから、すみません……」
「……そう」
 はじめて彼女が悲しそうな顔を見せた。
「じゃあ、私を納得させて」
「えっ?」
「その理由で私に納得しろなんて、虫が良いとは思わない? だから、私を納得させて。脅してもいいし、泣き落としてもいいから、とにかく納得させて。そしたら、私もあきらめるから」
「そんな……」
 だけど、彼女はとても前向きだった。
「ここで話すのもなんだから、場所を移動しましょう」
 そう言って彼女は、その水槽のすぐ側にあるカフェに向かった。
 そのカフェは、黒潮の海を見ながらお茶を楽しめる、水族館ならではのカフェだった。
 彼女はマンゴージュースを頼み、僕は紅茶を頼んだ。
「さ、いつでもいいわよ」
 いつの間にか、いつも雰囲気に戻っている。こういうところがあるから、男女を問わず人気があるのだろう。
「……あの、ひとつ、いいですか?」
「ん、なに?」
「もし納得させられなかったら、どうなるんですか?」
「そんなの決まってるわ。勝ち負けではないけど、形的にはあなたの負けということになるのだから、私の申し出を受け入れてもらうわ。それが対等のやり取りでしょ?」
 理屈はそうかもしれないけど、これは僕に圧倒的に不利だ。
「もしそれすらも不服だというなら、私の申し出を受け入れるしかないわよ」
 彼女は、不敵な笑みを浮かべ、そう言う。
「どうするの?」
 どうしようもない。
 それが僕の本音だ。僕の僕だけの理由で、彼女を納得させられるとは思わない。
 少なくとも言い分だけ聞けば、彼女の言い分の方が人を納得させられる。
 とはいえ、彼女の申し出を受け入れるのには、やはりかなりの抵抗がある。
「……そんなにイヤなの?」
「イヤというか……」
「なにがそもそもあなたをそこまで頑なにさせるの? 昨日、お姉さんたちのことは聞いたけど、それだけでは説明できないと思うのよね、この場合。だとしたら、ほかになにか理由があるはず。それを知りたいわ」
 彼女は、昨日と同じ言葉を繰り返した。だけど、昨日よりも僕のことを考えているのかもしれない。強制するような、強要するような意味合いは込められていない。
「ああ、もし私に迷惑がかかるかもしれないとか、そんなことを考えているのなら、余計なお世話よ。自分の身くらい、自分で守れるわ」
「…………」
 それも考えなかったわけではない。僕のせいで、とまでは言わないけど、なにを理由になにが起きるかわからないから。
「持久戦でもいいわよ。まだホテルに戻る時間までずいぶんあるから」
 そう言って彼女はジュースを飲んだ。
 こうなると、テコでも動かないだろう。彼女は、意外に頑固だということを、この短期間で学んだから。
「さっき、自分の身を守ることしか考えてない、って言ったわよね。それって、私とあなたが仲良くすると、あなたになんらかの害が及ぶってこと?」
 頷く。
「ん〜、それは、ないとは言えないわね。私、これでもモテるから」
 特別な感慨もなく、さらっと言う。
 でも、実際彼女はモテる。告白されたかどうかわからないけど、下心を持って言い寄ってきた男子は数多かったはずだ。
「だけど、それって私とあなたが特別な関係にならなければ、そこまで問題視することじゃないと思うんだけど。あと、もしそうなったとして、それを知られなければやはり問題はないと思うし」
 本当に知られないと、本気で思っているのだろうか。そんな、映画やドラマ、小説じゃあるまいし、普通に生活していたら、どこかに必ず齟齬が生じる。
 僕は、そこまで楽観的にはなれない。
「あとは、なにが問題なの?」
 根本的な問題が残っている。
 それは、僕は彼女の側にいたくない、ということだ。
 彼女の側にいると、僕がいかに矮小な存在かを思い知らされるから。彼女の側にいるだけで僕は傷つくことになる。側にさえいなければ、傷つくことはないのに。
 彼女の存在そのものが、僕にとっては迷惑でしかないのだ。
 ただ、それはさすがに言ってはいけないことだ。どんな理由があろうとも、それを言ってしまえば、僕はもう戻れなくなる。
「私を拒む理由。女性が苦手、というだけでは説明できない理由。それはなに?」
「……それは……言えません」
「言えない、ということは、あなたもそれは自覚してるということよね。無意識とか、そういうことではないのよね」
「はい……」
「ん〜……」
 彼女は腕を組み、唸った。
「ひょっとして、私の存在自体、邪魔とか思ってる?」
 やはり、彼女は鋭い。
 だけど、消去法でいけば、その理由にたどり着くのは時間の問題だろう。僕と彼女の関係を考えれば、結局は根本的な問題にたどり着くのだから。
「それだったら、ん、まあ、そこまで頑なになる理由もわからないでもないけど」
 僕の沈黙を肯定と捉えたようだ。
「そっか……やっぱり、無神経過ぎたのかな。両親にもたまに言われるのよ。奈々恵はたまに無神経なところがあるから気をつけなさい、って」
「…………」
「相手を知るには、相手の中に踏み込むしかないんだけど、私はあなたに踏み込みすぎてしまったわけね」
 そう言って彼女は、自嘲した。
「ごめんなさい。私も調子に乗ってたわ。ただでさえあなたのことを振り回していたのに、さらに傷つけるようなことまでしてしまって。本当に、ごめんなさい」
 頭を下げる彼女に、僕はなにも言えなかった。
 ここでどんなことを言っても、彼女は納得できないだろうし、下手すれば余計に傷つく。それに、そもそもの問題として、僕は彼女にかける言葉を持っていない。
「じゃあ、もうこの話は終わりにしましょう。続けても、お互いにイヤな気持ちにしかならないだろうし」
 僕は、無言で頷いた。
「でも、せめて今日が終わるまでは、パートナーとして一緒に過ごしてほしいの。それくらいならいいでしょ?」
「はい」
「ありがとう」
 お礼を言われるようなことでもないのに、彼女は素直にお礼を口にした。
 そこに、彼女の真っ直ぐな想いが込められていたのには、さすがの僕でも理解できた。
 カフェを出た僕たちは、残りの水槽を見てまわり、最後に館内のショップでおみやげを買った。
 彼女たっての願いで、まったく同じストラップを買った。一緒に過ごしたという証拠がほしかったという。
 彼女はそれをすぐに携帯につけたけど、僕はカバンにしまいこんだ。さすがにまったく同じものをつけるわけにはいかない。
 そして、公園からまたタクシーを拾い、ホテルに戻った。
 タクシーの中では、ひと言も話をしなかった。
 それはきっと、彼女なりの僕への気遣いと、けじめだったのかもしれない。
 
 修学旅行が終わると、学校では体育祭に向けての準備がはじまる。
 僕たち二年生にとってはふたつめの大きなイベントだけど、一、三年生にとっては最初の大きなイベントとなる。特に、三年生にとっては最後の体育祭になるので、自然と気合いの入る形となっていた。
 僕個人としては、運動は苦手なので、体育祭は無難にこなして、いつの間にか終わってるという形が最善だった。
 まあ、クラスの誰もが僕に期待していないので、自然とそうなるはずである。
 修学旅行以降、僕の生活はなにも変わらなかった。
 彼女とも、四日目が終わった時に、パートナーとしての役目も終わり、関係も元に戻った。
 僕の方から彼女に声をかけることはないし、彼女も僕に声をかけることはない。
 それがこれまでの関係だったのだから、特別な感慨はない。
 ただ、たまに教室で目が合うことがある。その時には、以前にはないなにか言いたげな眼差しを見ることになった。
 それでも僕は目をそらすことしかできず、彼女もなにか行動を起こすことはなかった。
 クラスでも、僕と彼女のことをあれこれ言う者はいなかった。これが彼女ではなくほかの女子だったらあったのかもしれないけど、彼女だったからなにも言わなかったのだろう。下手に言えば、彼女に言い負かされるのは火を見るよりも明らかなのだから。
 
 あっという間に時は過ぎ、体育祭も終わり、中間テストも終わった。
 体育祭は宣言通り無難にこなし、クラスに貢献もできなかったけど、迷惑もかけなかった。
 テストは、相変わらず徹夜漬けに近い状態で、点数はそれに見合ったものとなった。
 別にそれについて特別な感慨はない。それが今の僕なのだから。
 テストが終わると、今度は文化祭がやって来る。
 これはクラスや部活ごとに様々な出し物を計画し、実行する場で、さすがにこれから逃れることはできない。
 僕は部活には所属していないので、必然的にクラスの手伝いをすることになった。
 うちのクラスの出し物は、最近流行りのコスプレ喫茶ということになった。
 男子がそれを提案し、最初女子が強硬に反対していたのだけど、中からカワイイ服を着られるなら面白そうだからやってもいいという女子が出てきて、そのまま決まった。
 こうなると男子の役目はそれほど多くない。当日までの教室の飾り付けと、食器や食料品の調達くらいである。あとは、呼び込み。
 僕に与えられたのは、当日までの教室の飾り付けだった。ということは、当日は暇ということになる。
「修ちゃん」
 部屋で本を読んでいたら、三番目の姉さん──柚香姉さんが声をかけてきた。
「……どうしたの、姉さん?」
「その前に……んしょ、っと……」
「…………」
「これでよし、と」
 姉さんは、有無を言わさず、僕の後ろに陣取り、そのまま後ろから抱きしめた。
「ん〜、やっぱり修ちゃんは抱き心地がいいわ」
 柚香姉さんは、抱きつき魔だ。人前だろうがなんだろうが、とにかく僕に抱きついてくる。これでもう二十歳なのだから、そろそろいろいろ考えるべきである。
「……それで、なんの用なの?」
「んもう、そんな恐い顔しないの」
「わかったから……」
「あのね、そろそろ文化祭でしょ? 今年は修ちゃんのクラス、なにをやるのかなって思ってね」
「うちのクラスは、コスプレ喫茶だよ」
「コスプレ喫茶? それって、女の子がいろいろなカワイイ服を着てウェイトレスをするあれ?」
「うん、そう」
「へえ、そうなんだ」
 姉さんはそう言いながら、僕の髪をいじる。
「今年も来るの?」
「当たり前じゃない。私もお姉ちゃんたちも、あの高校のOGなんだから」
 OGじゃなくても、僕がいるというだけで来そうな気もするけど。
「あれ、でも姉さん」
「うん?」
「穂香姉さんは、大丈夫なの?」
 穂香姉さんとは、一番目の姉さんで、二十五歳ですでに社会人として働いている。
 仕事は旅行代理店での仕事なので、日曜日だから休めるというわけではない。
「あれ、修ちゃん聞いてないの? お姉ちゃん、わざわざ修ちゃんの文化祭にあわせて休みを取れるようにしてたんだよ」
「……ああ、なるほど」
 穂香姉さんは、柚香姉さんとはまた違った意味で僕を溺愛する、ブラコンな姉さんだ。
 昔からそうなんだけど、自分のことよりも僕のことを優先することが多々あって、それが僕にはプレッシャーになっている。
「ちなみに、瑞香お姉ちゃんは、半年も前から予定を空けてたよ」
「…………」
 瑞香姉さんは、二番目の姉さんで、二十三歳で今は大学院で勉強している。
 ふたりの姉さんに比べると普段からおとなしいし、無口なんだけど、時々とても行動が過激になる。僕から見ると、普段のおとなしさはパワーを溜めるためのフリなんじゃないかと思えるほどだ。
「ねえ、修ちゃん。修ちゃんのクラスにカワイイ女の子、いる?」
「ん、どうして?」
「だって、せっかくコスプレするんだから、カワイイ子が着た方がみんな喜ぶでしょ? そうすると、クラスにコスプレしてもバッチリな子がいるかどうかが重要かなって」
 なんとなくその理由はわかるけど、僕にはなんとも言えない。
 ひとりだけどんなものを着ても似合うだろう女子はいるけど、そのことは口が裂けても言えないし。
「どうなの?」
「さあ、僕の口からはなんとも言えないよ。それに、カワイイとかそうじゃないとかって、その人の主観だから、それが姉さんにも当てはまるかどうかはわからないしね」
「んもう、そうやって屁理屈言うの、禁止。もっと素直に言えばいいのに」
 誰のせいでこんなひねくれた性格になったと思ってるんだ。
 本当にうちの姉たちはその自覚がゼロだ。
「まあ、いいや。そういうのは当日のお楽しみ、ということでね」
 姉さんの頭の中には、すでに当日のことがシミュレートされていることだろう。
「あ、そういえば、修ちゃんはなにをするの?」
「僕は当日までの教室の飾り付けだよ。男子は完全に裏方だから」
「そっか、残念。修ちゃんもウェイターとしてコスプレすればいいのに」
 ヤダよ、そんなの。
「じゃあ、当日はお姉ちゃんたちとこぞって行くから、もし予定があえば、文化祭を案内してね」
「……わかったよ」
 これで、当日逃げ回ることが確定。
 本当に、どうなることやら。
 
 文化祭当日。
 秋晴れの絶好の文化祭日和で、他校の生徒以外にも大勢のお客を呼び込めそうな感じだった。
 朝九時から文化祭ははじまり、夕方四時まで続く。
 一応点呼は取るけど、それさえこなしてしまえばあとは自由。まあ、それもやることがない生徒だけ、ではあるけど。
 僕はそのやることがない生徒なので、朝から自由の身だった。
 とはいえ、のんびりもしていられない。まもなく、姉さんたちがやって来る。その前にはなんとか雲隠れしなければならない。
 まず、携帯の電源を切り、次に、いくら姉さんたちでも足を踏み入れないであろう場所を探す。この場合、関係者以外立ち入り禁止区域というのは、あまり役に立たない。なぜなら、姉さんたちはOGであることを理由に関係者を名乗るからだ。
 その傍若無人な振る舞いにはほとほと困り果ててしまう。
 それでも嘆いてばかりもいられないので、やるべきことをやる。
 校舎内は、屋上を含めて隠れる場所はないに等しい。ほかのクラスなら可能かもしれないけど、それは迷惑がかかるので却下。屋上もなかなかの場所なのだが、校庭で行われている出し物を屋上から撮影するために人の出入りがある。そのため、隠れるには不向きである。
 校舎のほかには、体育館もあるけど、こちらも文化祭に使われるので、却下。
 残るは唯一使われない講堂だけ。講堂はなにかあった時のために空けてある。ただ、ここも関係者以外立ち入り禁止区域ではあるけど、生徒の出入りは比較的容易にできる。だから、姉さんたちも来る可能性を否定できない。
 だけど、まさか学校を出てどこかに避難するというわけにもいかず、最善とは言えないまでも、最良の選択肢が講堂ということになる。
 ただ、結局は姉さんたちに遭遇しなければいいわけで、警戒しながらならば出し物を見てまわれるはずだ。
 その時に最も気をつけなければならないのが、穂香姉さんだ。
 穂香姉さんは、僕のことになると人間離れした能力を発揮する。以前、ショッピングモールに行った時に、僕はなにも言わずに別行動を取ったことがあった。ひと言でも言えば本当はよかったんだろうけど、姉さんたちは姉さんたちで楽しそうに話していたから、なにも言わずに離れてしまった。
 少しして僕がいないことに気付いた姉さんたちは、手分けして僕を探しはじめた。
 かなり大きなモールだったので、すぐに見つかるはずもない。
 ところが、穂香姉さんはほぼ一直線に僕のところへとやって来たのだ。これはもはや犬の嗅覚並の能力である。
 今回は元から一緒にまわると約束してたわけじゃないから、そこまでのことはないと思う。思うけど、もしあの能力が発動されると、おそらく学校中のどこにいても姉さんたちに見つかってしまうだろう。
 その時はおとなしく投降するつもりだ。さもなければ、姉三人による世にも恐ろしいお仕置きが待ってるから。
 もしここで見つからなければ、今日は一日読書の時間に充てられるので、最良の日となる。
 僕は、一応身を隠しながらも入り口が見える位置に陣取った。
「さて……」
 カバンから本を取り出し、読みはじめた。
 
 しばらくして時計を見ると、すでにお昼をまわっていた。
 今のところは誰も来ていないので、読書するにはとてもよかった。
 お昼を過ぎて食べ物関係の出し物は少し落ち着く頃。
 僕は、少しだけクラスの様子が気になったので、危険を承知で教室へ向かうことにした。
 いくら姉さんたちでも、僕がいない教室で長居はしないだろう。
 しかし、やはり僕は甘かった。
「あ、修ちゃん」
「げっ……」
 教室前の廊下で、いきなり遭遇してしまった。
 二、三歩後ずさったが、姉さんたちの連携はそれ以上に素早かった。
 瑞香姉さんと柚香姉さんが後ろへまわり、穂香姉さんが前に立ちはだかる。
「んもう、修ちゃん。どこ行ってたの? お姉ちゃん、探しちゃったんだからね」
 穂香姉さんは、いきなり拗ねた表情でそんなことを言い出した。
「……お姉ちゃん、修ちゃんに嫌われちゃったのかと思っちゃったんだから……」
「そ、そんなことあるわけないよ」
 泣き落としも毎度のことだけど、穂香姉さんの泣き落としにだけは勝てる気がしない。
 絶対に先に折れてしまう。
「じゃあ、残りの時間は、お姉ちゃんたちにつきあってくれるよね?」
「う、うん……」
「よかった」
 で、結局いつもの通りになってしまう。
 姉さんたちは、僕を逃がさないような陣形を組み、僕を促す。
「ああ、そうそう。まだ修ちゃんのクラスには行ってないの。だから、これから一緒に行きましょうね」
 どうやら、僕を探すために教室付近にはいたようだけど、中には入らなかったようである。それはおそらく、僕が裏方の仕事で、しかも前日までに終わるということを柚香姉さんから聞いていたからだろう。
「……ところで、穂香姉さん」
「ん?」
「仕事の方は、本当に大丈夫だったの?」
「大丈夫よ。ちゃんと前もって言ってあったんだから。それに、私にとっては仕事よりも修ちゃんの方が大事なんだから、もしなにかあったとしても、絶対に修ちゃんを優先するよ」
 穂香姉さんは、さも当然のように言う。
 我が姉ながら、ここまで徹底してるといっそ清々しい。
 教室まで来ると、早速コスプレした女子が出迎えてくれた。
「あれ、有村くんじゃない。どうしたの?」
「いや、その……」
「あ、有村くんのお姉さんたちじゃないですか」
 去年同じクラスだった女子が姉さんたちのことを覚えていたようだ。
「席、空いてる?」
「ちょうど空いたところです。さ、どうぞどうぞ」
 いわゆるメイド服を着た女子が、僕たちを席へと案内してくれた。
「こちらがメニューになってます。ご注文が決まりましたら、呼んでください」
 教室に用意したテーブル席は、すべて埋まっていた。
 やはり、コスプレという特殊なことをしたおかげで、多くの人が興味を持ったようである。まあ、男性比率が高いのはしょうがない。
「ふ〜ん、結構本格的にやってるんだね」
 穂香姉さんは教室を見回し、そう言った。
「ホント。もう少しちゃちなものかと思ってた」
 柚香姉さんも、感心している。
 瑞香姉さんは一見するとなにを考えているかわからないけど、とりあえずふたりと同様に感心してるようだ。
「とりあえず、頼んでしまいしょ」
 あまり待たせるのも悪いということで、それぞれ注文することにした。
 穂香姉さんはアップルティーとクッキーのセット、瑞香姉さんはアイスココアとシュークリームのセット、柚香姉さんはミルクティーとアップルパイのセット、僕はコーヒーを頼んだ。
「衣装もカワイイわよね」
「あの衣装って、どうしたの?」
「借りてきたんだよ。なんか、そういうのを多く扱ってる店があるんだって。僕は詳しいことは知らないけど」
「へえ、そうなんだ。今度、探してみようかな」
 穂香姉さんは、本気とも冗談ともつかない言い方をする。
 というか、本気だったら困る。
「お待たせしました」
 と、そこへ注文の品を持ってきたのは──
「あら」
「まあ」
「…………」
 やはりメイド服に身を包んだ彼女──桂見奈々恵だった。
 三人の視線が、彼女に集まる。
「あ、えっと……なにか気になることでもありますか?」
 さすがに居心地が悪いのか、彼女はそう訊ねた。
「ああ、うん、ごめんなさい。あなたのその姿があまりにもよく似合ってたから」
「別にガン見するつもりはなかったのよ。ごめんなさいね」
「いえ……」
 彼女は、少し恥ずかしそうに、それぞれの前に品物を並べていく。
 ただ、その時に僕にも視線を向け、目だけでこの三人は誰なのか訊ねてきた。
「あの……つかぬことを伺いますけど、有村、くんとはどのような……?」
「ん、私たち?」
 頷く彼女。
「私たちは、修ちゃんの姉よ。カワイイ弟の姿を見ようと足を運んだのが大半の理由で、あと一応三人ともここの卒業生だから、その理由もあるわね」
「お姉さん、ですか……」
「なになに? 三人もいてびっくりした?」
「あ、いえ……」
 すっかり姉さんのペースにはまってる。
 まあ、穂香姉さんは僕の前だと単なるブラコンの姉でしかないけど、それ以外の場所ではとても優秀な女性だから。いくら彼女でもそう簡単には太刀打ちできないはずだ。
「あ、すみません。長々と。では、ごゆっくりどうぞ」
 お辞儀をして、彼女は戻っていった。
「ね、修ちゃん。あの子の名前は?」
「えっ……?」
「だから、あの女の子の名前」
「……桂見奈々恵」
「奈々恵ちゃんね」
 穂香姉さんは、にこりともせず、彼女の方を見ている。
 なんか、とてつもなくイヤな予感がする。
「どうしたの、お姉ちゃん? なにか気になることでも?」
「ん、まあ、まだわからないけどね」
 穂香姉さんは適当に誤魔化し、紅茶を飲んだ。
 
 適当な時間をそこで過ごし、僕たちは教室を出た。
「ねえ、修ちゃん。抱き抱きしてもいい?」
 教室を出た途端、柚香姉さんがそんなことを言い出した。
「……ダメだよ。ここは学校なんだから」
「どうしても?」
 手をわきわき動かしながら、僕に迫ってくる。
「こらこら、柚香。そのくらいにしておきなさい。抱きつくのは、家に帰ってから好きなだけしていいから」
「むぅ、しょうがないなぁ」
 そのことを穂香姉さんに許可されるいわれはないと思うんだけど……
「ね、瑞香。あなた、どう思った?」
「……少し、気になるかな」
「だよね」
 と、穂香姉さんと瑞香姉さんは、なにやらふたりで話をして、納得している。
「柚香はどう?」
「私はどうでもいい。それよりも、修ちゃんに抱きつきたい」
「……ホントにあんたは……」
 どうやら、気付いてないのは僕だけみたいだ。
「ん〜……ねえ、修ちゃん。お姉ちゃんたち、ちょっと用があるから、修ちゃんだけでまわっててくれるかな?」
「それは構わないけど、用って?」
「ナイショ」
 それから穂香姉さんたちは、揃ってどこかへ行ってしまった。
 僕としては姉さんたちから解放されて嬉しいんだけど、どこでなにをしてるのかは気になった。
 姉さんたちはひとりだけでもやっかいなのに、三人揃うとそれが十倍、二十倍になる。
 特に今日は、瑞香姉さんの機嫌がすこぶるいいから、余計だ。
 ……帰ったら、対策練らないと。
 まあ、今の僕にできることはなにもないから、また静かなところで本を読んでいよう。
 
 文化祭が終わると、学校内は途端に静かになる。一気に気合いが抜けてしまい、抜け殻になったような感じだ。
 だけど、それはすぐに別の緊張感に取って代わられる。それは、三年生が受験本番を迎えるからだ。
 早いところでは推薦入試が秋口から行われ、結果も出ている。
 センター試験は年明け早々に行われるし、私立大学の入試は一月末からはじまる。
 本当にあっという間に過ぎてしまう。だから、否応なく緊張感が高まってくる。
 その緊張感は、僕たち二年生や一年生にはあまり関係ないけど、学校内がどことなくピリピリした雰囲気になっていくのは、肌で感じられる。
 文化祭のあとは、またテストである。今度は期末テストで、ちゃんと成績を残さないと通知表に響く。
 そのテストが終わると、ようやく冬休みである。ここは雪国ではないので、冬休みはそれほど長くない。それでも長期休暇ということで、気分も軽くなる。
 僕としては、宿題をさっさと終わらせて、また夏休みみたいに読書三昧の日々を送れればそれで十分だ。
 ところが、そのささやかな願いは、思いもかけないところから打ち砕かれた。
「ちょっと、いい?」
 僕を呼び止めたのは、桂見奈々恵だった。
 あの修学旅行の一件以来、僕たちは本当に必要最低限の接触しかしていなかった。
 彼女はそれを不満に思っていたかもしれないけど、僕は満足だった。
 ところが、もう二学期も終わろうという今になって、また声をかけてきた。
「……なんですか?」
「そんなに身構えないでよ。話がしたいだけ、なんだから」
 彼女の顔には、いつもの笑みはなかった。
 悲壮感、とまでは言わないまでも、なにかを決意したような、そういう厳しさがあった。
 ただ話をするだけなら断る理由がないので、僕はそれを受け入れた。
 教室で話すのはいろいろ問題があったので、また前と同じように屋上へと場所を移した。
 だけど、十二月も半ばを過ぎてからの屋上は、ものすごく寒かった。
 晴れてるおかげで陽差しはあったけど、とにかく風が冷たくて寒い。まるで、ナイフで斬りつけられてるような、そんな風だった。
「もう二学期も終わりね。本当、あっという間」
 彼女は、風で流される髪を押さえながら、そう言った。
「ねえ、修平。私に、もう一度だけチャンスを与えてほしいの」
「チャンス……? なんの、チャンスですか?」
「あなたの頑なな心を解かすチャンスよ」
 そう言って彼女は、とても真っ直ぐな瞳で僕を見た。
 あまりにも真っ直ぐな瞳で、僕はまったく直視できない。
「あなたには内緒で、あの文化祭の日に、あなたのお姉さんたちにいろいろ話を聞いたわ」
「えっ……?」
「あなたは気付いてなかったみたいだけど。最初、私が声をかけた時に、やっぱり来たわね、みたいな顔をしてて。だから余計にいろいろ聞いてみたくなったのよ」
 あの時の用って、彼女と話をすることだったのか。
 それは、内緒のことだ。
「ただ、お姉さんたちもタダでは話してくれなくてね。私にもいろいろ聞かれたわ。そのことは、お姉さんたちに聞けばわかると思うけど」
 あの日、帰ってきてから穂香姉さんの機嫌が微妙だったのは、そのせいか。
 穂香姉さんは、僕に関するあらゆることを独り占めしたい人だから。どんなことを彼女に聞いたのかはわからないけど、彼女のことだ、姉さんたちを挑発するようなことも言っただろう。
「それで、私は私が思っていたこと、考えていたことを話して、その上で疑問に思っていたことを聞いてみたわ。そのすべてに答えてもらえたわけじゃないけど、それでも私の知りたかったこと、確認したかったことはわかったから」
「…………」
「お姉さんたちも、自分たちのせいであなたが女性に対してコンプレックスを持ってることはわかっていたわ。でも、こうも言ってた。逆に姉に言われたりやられたりしたくらいでコンプレックスになり、苦手になってるようじゃ、他人である姉以外の女性とつきあうことなんて無理、ってね」
 ……ひどい言い分だ。
「だけど、お姉さんたちはそのことではあなたに絶対に手を貸さないって。まあ、一番上のお姉さん、穂香さんだっけ? 穂香さんはずっとあなたを手元に置いておきたいみたいだったけどね」
 よく見てる。というか、穂香姉さんは結構わかりやすいからな。
「あの日にお姉さんたちに話を聞いて、それからもう一度考えてみたの。どうしてここまであなたにこだわってるのかをね」
 答えが出たのかどうかはわからないけど、それでも僕に声をかけてきたということは、まだ関わるつもりということだ。
「正直言えば、まだ私にもわからないの。ただね、考えれば考えるほど、あなたのことをもっと知りたくなる。これだけは変わらない」
 それはつまり──
「それを恋だって言われたら、そうなのかもしれない。私もそんなに恋愛経験があるわけじゃないから、詳しいことはわからないけど。でも、私はあなたのことが知りたくて、できればもっともっと一緒に同じ時間を過ごしたいと思ってる」
 恋。
 僕が一番遠い感情だと思っていたもの。
 それを彼女はすんなり口にした。
「ただ、ここで前みたいに私の想いや考えばかりを押しつけても変わらないから、今回はあなたにもよく考えてほしいの。本当に、このままでいいのかをね」
「…………」
「確かに、今は女性なんかとつきあわなくてもいいと思ってるだろうけど、でも、それは本当にこれから先も変わらない考えなのかってね。人の心や想いが時とともに移ろうのと同じように、考え方だって変わる可能性はあるわ。もちろん、それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。それでも、自分で考えて決めた答えなら、後悔はしないはずよ。もしそれをしないで後悔したら、あなたはきっと、そのような考え方をしてしまった自分を責め、そんな考え方になった原因を作り出したお姉さんたちを恨む」
 それは、ないとは言えない。
 世の中に、絶対ということはないのだから。
 今はイヤイヤでも姉さんたちのことを受け入れているけど、それもいつまで続くかはわからない。死ぬまで続くかもしれないし、ひょっとしたら明日には変わるかもしれない。
 そう考えると、僕の女性に対する考え方も変わる可能性は否定できない。
 それでも、今すぐには無理だ。これは間違いない。
「もし考えることに行き詰まった時は、遠慮なく私に聞いてみて。有効なアドバイスができるかどうかはわからないけど、その悩みを共有できるから」
 彼女は、とても柔らかい笑みを浮かべていた。
 正直、まだまだ踏ん切りはつかないけど、ここで前と同じように断っても、また彼女は別の方法で僕の前に立つだろう。
 それなら、ここは彼女の言う通りにしてみるのがいいのかもしれない。
 ただ、その前に確認しておきたいことがある。
「……あの、いいですか?」
「ん、なに?」
「僕にそこまでこだわる理由は、きっとその答えがちゃんと出ても、僕には理解できないと思います」
「うん」
「修学旅行の時も少し思っていたんですけど、こだわりと恋愛感情って、イコールなんでしょうか?」
「ん、そうね……それは私にもわからないわ。ただね、あなたには理解できないかもしれないけど、私の中であなたの存在がほかの誰よりも大きくなっているのは、紛れもない事実なの」
「……でも、僕は目立つわけでもないですし、カッコイイわけでもないです。勉強だってダメだし、運動も得意じゃない。なのに……」
「ひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「それって、人を好きになるのに、絶対条件になるわけ?」
「えっ……?」
「確かにカッコイイ方がいいかもしれない。勉強だってできた方がいいかもしれない。運動だって得意な方がいいかもしれない。だけど、それって絶対条件にはなり得ないのよ。だってそうでしょ? 名前も知らない人を好きになった時、名前すら知らないわけだからその人がどんな人かなんて、当然わからない。その時に勉強ができるか、運動が得意か、なんて考える? 考えないでしょ?」
「…………」
「それに、あなたはひとつ誤解してるわ。別に私は面食いでもないし、完璧な人を求めてるわけでもないの。自分の直感で好きだと思った人が、好きな人なの。そして、今、私がそう思ってるのは、あなたなの」
 そこには、確固たる信念があった。
 この信念を揺らがすこと、ましてや壊すことは、僕には無理だ。
「……わかりました。どうなるかはわかりませんけど、よく考えてみます」
「ええ、お願いね」
 彼女は満足そうに、大きく頷いた。
「はあ、よかった。もし今日もこの前みたいにすげなく断られたら、さすがの私でも立ち直るのに時間がかかったわ。それが、最善とはいかないまでも、かなりの譲歩を引き出せたんだから、上々の結果よね」
 彼女はとても楽しそうに、嬉しそうにそう言い、クルッとまわった。
「あ、そうそう。これは余計なお世話かもしれないけど、こうは考えられないかしら。私がモテるって話は、前にもしたわよね。その、ある意味憧れの的である私と恋人になれるチャンスを得たわけなんだから、ものすごい幸運なことだってね」
 ……そこまでのことは、さすがに思えない。元々僕は彼女に興味があったわけじゃないんだから。
「まあ、いずれにしても、よく考えてみて。答えは、いつでもいいわ。あ、でも、あまり遅いのも勘弁してよ。私だって、いつまでも待てないんだから」
 結局、最後は自分勝手な言い分だったけど、それでも今日は少しだけ彼女の『本音』を垣間見られた気がする。それが僕のこれからの考えにどこまで影響するかはわからないけど、これまで姉さんたちを中心にまわっていた女性に関するあらゆる事柄が、少しずつ彼女もそこへ入ってくるのは間違いなかった。
 
「修ちゃん。ちょっといい?」
 冬休みに入ったある日の夜。仕事を終えて帰ってきたばかりの穂香姉さんが、部屋にやって来た。
「どうしたの?」
「ちょっとね、気になることがあって」
 姉さんはスーツの上着を脱ぎ、ベッドに座った。
「宿題の進み具合はどう?」
「順調だよ。上手くいけば、今年中に終わるかも。そうしたら、残りの冬休みは心おきなく本が読める」
「本当に修ちゃんは本が好きよね。やっぱり、お父さんの影響かしら」
 僕の父さんは、無類の本好きだ。普段はあまり家にいないけど、家に帰ってくる度に相当数の本が増える。僕は、その父さんの蔵書を主に読んでいる。もちろん、僕の好みにはあわないものもあるので、自分で買ってるものもある。
「まあ、それはいいわ。それより、修ちゃん。修ちゃん、なにか悩んでるでしょ?」
「えっ……どうして?」
「だって、お姉ちゃんたちが話しかけても、たまに返事してくれないことがあるもの」
「…………」
「……奈々恵ちゃん、のこと?」
 姉さんは、静かにそう言った。
 すでに彼女のことは知ってるし、なにより話までしてるのだから、この期に及んで誤魔化す必要はない。
「うん……」
「そっか」
 そう言ったきり、姉さんは黙ってしまった。
 姉さんは、どう思っているんだろう。
 姉さんにとって僕は、ただひとりの弟だから、昔からとても可愛がられた。それこそ過剰な愛情を注がれ、そのせいで僕の性格が歪んでしまったくらいだ。
 僕に彼女ができる。
 実際は当然あるべきことだろうけど、姉さんはそれを望んでいたのだろうか。それとも、本当にずっと側にいてほしいと思っているのだろうか。
「ねえ、修ちゃん。修ちゃんは、彼女がほしいと思ったこと、ある?」
「……ううん、ないよ」
「それって、お姉ちゃんたちのせい?」
「……それだけが原因だとは言わないけど……」
「そっか。そこまでになっちゃってたか」
 改めてそれを確認して、姉さんは小さくため息をついた。
「文化祭の時にね、奈々恵ちゃんに言われたの。私たちのせいで修ちゃんはしなくてもいい苦労をしてる、って。それを言われた時ね、余計なお世話だって想いと、修ちゃんのことをちゃんと見てるんだっていう感心した想いと、いろいろ複雑な心境だったわ」
「…………」
「同時に、奈々恵ちゃんは修ちゃんのこと、本気なんだってわかっちゃった。本気じゃなかったら、わざわざクラスメイトの姉を捕まえて話をしようなんて思わないものね」
 確かにそうだ。以前になにか親交があったなら別だけど、はじめて会ったクラスメイトの姉に声をかけるなど、普通はしない。
「修ちゃんは、奈々恵ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「どうって……クラスメイトだよ」
「それだけ? 本当に?」
 姉さんの鋭い視線にさらされると、すべてを見透かされてるみたいで、居心地が悪い。
「……好きとか嫌いとか、そういう感情は今はないけど、でも、特別な存在だと思う」
「特別な存在、か。それだけでも今までの修ちゃんからすると、ものすごい進歩だよね」
「うん、それは僕もそう思う」
「お姉ちゃんね、奈々恵ちゃんはとても良い子だと思うよ。とても真っ直ぐだし」
 姉さんが手放しで同性を褒めることは少ない。それはいろいろ理由があるんだけど、今は関係ない。
「正直言えばね、修ちゃんはずっとお姉ちゃんの側にいてほしいの。修ちゃんさえいてくれれば、お姉ちゃんはどんな大変なことだってできるから。でも、それはイコール修ちゃんの望んでることではないんだよね」
「それは……」
「ううん、わかってるの。違うね。わかってたの、ずっと。修ちゃんがお姉ちゃんたちのことを邪魔とまでは思ってなくても、あまり快く思ってないって。それはそうだよね。ずっと修ちゃんの意志を無視して、あれこれやってきたから。これで心酔されてたら、それはそれでおかしいもの。それでもね、修ちゃんが可愛くて、結局やめられなかった」
 姉さんは、膝の上に置いている手を、ギュッと握った。
「奈々恵ちゃんにいろいろ言われて、お姉ちゃん、やっと目が覚めた。修ちゃんにとっての本当の幸せのために尽くすことこそが、修ちゃんのお姉ちゃんとしての役目だって」
「姉さん……」
「だからね、修ちゃん。もうお姉ちゃんたちの影に怯える必要はないんだよ。もし奈々恵ちゃんのことを少しでも好きになれそうなら、その想いに正直に行動して」
 今まで僕は、なにをするにしても姉さんたちの反応が気になっていた。もちろん、僕のすべての行動に姉さんたちが反応するわけじゃない。だけど、小さい頃からずっとそうやって育ってきたから、もうそれが普通になっていた。
 姉さんたちが自分たちの行動のことを理解していたのは、わかっていた。姉さんたちは、僕と違ってとても頭が良い。しかも、ただ頭が良いだけでなく、それの使い方も理解している。
 そんな姉さんたちが、自分たちのしていることがどんなことか、理解していないはずがない。
「奈々恵ちゃんとは、今はどういう状況なの?」
「どういうって……特になにも」
「冬休み前に、話はしたの?」
「うん」
「だからあれこれ悩んでたんだね。そっか」
 姉さんまで悩む必要はないのに、まるで自分のことのように思い悩んでくれる。それが穂香姉さんだ。
「奈々恵ちゃんに、好きだとは言われたの?」
「それは、うん、言われた。修学旅行の時にね」
「そんなに前だったんだ、言われたのは」
「でも、その時は僕が拒んだから。だから、それからは特になにもなかったんだよ」
「奈々恵ちゃんにしてみれば、とても複雑な心境だっただろうね、その間は」
「どうして? だって、僕は彼女を拒んだんだよ?」
「ふふっ、そのあたりは乙女心がわかってないわね」
 乙女心なんて、わかるはずない。そもそも、乙女心だなんて言って、そんなものは人それぞれなんだから、ひとくくりにしないでほしい。
「修ちゃんは、奈々恵ちゃんはどんな性格の女の子だと思ってる?」
「どんなって、しっかりしてると思うよ。とても同い年とは思えないくらいにね」
「それは、全体的なイメージでしょ。具体的には、どんな感じ?」
「……なんにでも積極的で、負けず嫌いで、少し気が強くて」
「ふ〜ん、よく見てるんだね、修ちゃん」
「だ、だってそれは……」
「ううん、いいのよ、それで。それってつまり、修ちゃんも奈々恵ちゃんのことが気になってるって証拠なんだから。じゃなかったら、簡単には言えないもの」
 僕は彼女のことを知りたいと思っていた。それは間違いない。
 だから、自然と彼女を目で追うようになり、どんな性格なのかも知ることができた。
 でもそれは、好きとか嫌いとか、そういう感情からのものではなかった。対策を練るにしても、相手のことを知らないとどうにもならないから、という理由で知ろうと思ったんだ。
「でもね、修ちゃんのその意見は、半分くらいかな、当たってるのは」
「そうなの?」
「もちろん、私も奈々恵ちゃんとは一度会って話をしただけだから、確実とは言えないけど、それでも修ちゃんよりは奈々恵ちゃんの本質を見抜けたと思ってるよ」
「そりゃ、姉さんはそういうの得意だし……」
「まあ、今はどっちがどうとか、そういうのはなし。で、奈々恵ちゃんは確かに修ちゃんの言う通りな部分もあるわ。というか、普段はそっちの方ばかり目立つかも。でもね、もう少しだけちゃんと見ていると、それだけじゃないことがわかるはずよ」
 それが僕にはわからないんだけど。
「奈々恵ちゃんは、ある意味で淋しがり屋なの」
「えっ……? まさか?」
「本当よ。だけど、普段はそう見せないように努力してるし、淋しくないようがんばってる。だから、修ちゃんは気付かなかったのかもね」
「姉さんは、どうしてそれがわかったの?」
「奈々恵ちゃんが必死だったから。修ちゃんとの繋がりをなくしたくないという想いが、こっちまで伝わってきたからね。それはつまり、奈々恵ちゃんは常に誰かと接していたいということの裏返しなのよ。そして、誰かと接していたいということは、つまり、淋しくないようにってこと」
 なんとなくわかる気がする。
 僕は淋しがり屋ではないけど、それでも淋しくなった時は、いつも以上に誰かが側にいてほしくて、できれば接していたくなる。
「さっき修ちゃんが言ったことも、結局は淋しくならないように奈々恵ちゃんが張った防御壁みたいなものね。積極的に行動して人と接し、負けず嫌いで気が強いところを見せて、人の中心になっていく」
「……なるほど」
「もちろん、淋しがり屋というのも、程度によって様々だとは思うけど。奈々恵ちゃんがどの程度なのかは、さすがにわからないわ」
「うん」
「あと、奈々恵ちゃんは、とっても女の子らしい女の子ね。純情で、純粋で。今時、珍しいと思うわ」
「…………」
 女の子らしい女の子、か。確かに、そうなのかもしれない。
 修学旅行の時や、この前の時にも、ふとした時にそんな表情が覗いていた。
 普段の彼女とのギャップが大きいから、印象に残っている。
「ね、修ちゃん。お姉ちゃんは、最終的にはふたりのことになにも言えないし言わないけど、悩んで煮詰まってしまったら、遠慮なく意見を聞きにきていいんだからね」
「うん、ありがとう、姉さん」
 今はただ、姉さんの気遣いが嬉しかった。
 
 年が明けた。
 普段は仕事ばかりの父さんも年末年始はさすがに家にいるので、いつも以上に家が賑やかだ。
 大晦日は、三人の姉さんたちにとことんもてあそばれた。
 元旦は、家族揃っての初詣。といっても、暗いうちから行くわけではない。陽が昇って、家族内での挨拶を終えてからだ。
 ここでも姉さんたちは好き放題やっていた。うちでは母さんがなにか言わない限り、姉さんたちは誰の言うことも聞かない。母さんも面白がっているところがあるから、よほどのことでもない限り、あれこれ言わない。
 だけど、今年はいつもより少しだけおとなしかった気がする。気のせいかもしれないけど、なんとなくそう思った。
 二日は、特になにをするでもなく、朝からテレビを見て過ごすのが恒例。
 僕は相変わらず柚香姉さんの抱き枕代わりをさせられ、穂香姉さんのおもちゃにされる。こういう時、瑞香姉さんがなにもしてこないのが唯一の救いだった。
 テレビも終わって、部屋に戻ると、携帯にメールが届いていた。
 誰からか確認すると──
「……うわ」
 それは、思いもかけない、でも、あり得る相手からだった。
 
「遅い」
 それが、今年の第一声だった。
「まあでも、約束の時間にはまだあるから、許してあげるわ」
 そう言って彼女──桂見奈々恵は笑った。
「あ、そうそう。あけましておめでとう」
「あ、あけましておめでとうございます」
「よし、挨拶もしたし、早速初詣に行きましょう」
 昨日のメールは、彼女からだった。
 内容はとても簡潔で、明日──つまり今日、初詣に行こう、というものだった。
 正直すぐに断りのメールをしようと思ったんだけど、年の頭からいきなり逃げるのもなんかイヤな気がして、結局OKのメールを返した。
 で、待ち合わせ時間、場所を決めて、現在に至る。
「でも、正直来てくれないんじゃないかって思ってたのよ。メールしたのはいいけど、すぐに返事は来ないし」
 それは携帯を手元に置いてなかったから。
「ま、それでもこうして一緒に初詣に行けるわけだから、結果オーライよね」
 初詣に選んだのは、このあたりでは一番大きな神社だった。
 うちも毎年初詣に行く、このあたりではかなりメジャーな神社だ。
 そこに行く方法は、駅前からバスで行く方法と、時間はかかるけど歩いていく方法がある。
 うちからだと歩くと遠いのでたいていバスで行くけど、駅からなら歩ける距離だ。
 で、待ち合わせ場所を駅にしたから、神社までは歩いていくことにした。
「ね、少しは考えてくれてる?」
「あ、はい。いろいろ考えてます」
「答えはまだ出てないの?」
「すみません」
「ああ、別に謝る必要はないけどさ」
 彼女は、少し困った顔を見せた。
「今までの状況が状況だっただけに、あれこれ悩んでしまうのはしょうがないと思うけど、もう少し単純に、楽観的に考えてもいいと思うのよね、私は」
「単純に、ですか」
「そう。だってさ、私は結果的に一度振られてるわけでしょ? それでもなお、あなたを振り向かせようとしてる。ということはよ、よほどのことでもない限り、ふたりの関係は続くってことよ」
 なるほど、そういう意味か。一瞬、なにが言いたいのかわからなかった。
 でも、それはあくまでも彼女側から見た場合であって、僕側から見たら話は当然変わってくる。
 僕が彼女との積極的な接触を拒みたい大きな理由のひとつに、彼女の側にいると僕の矮小さが目立ってしまう、というのがある。
 なにをしても目立つし、優秀な彼女。そんな彼女の側に僕みたいな凡人以下の人間がいたら、ことあるごとにいたたまれない気持ちになる。僕はとてもそんな状況に耐えられない。
「とにかく、なるべく早めに納得できる答えを出してほしいわね」
 神社までは、歩いて三十分ほどかかった。
 その間、しゃべっていたのはほとんど彼女。僕は、適当に相づちを打ち、答えただけ。
 それでも彼女は、とても楽しそうだった。
 神社は、さすがに元旦ほどには人はいなかった。
「初詣には行ったのよね?」
「はい。元旦に」
「その時は、どんなお願いをしたの?」
「どんなって、普通ですよ」
「その普通ってのは?」
「健康でありますように、とか、無事進級できますように、とかです」
「……つまらないわね」
 人の願い事にケチをつけないでほしい。
「じゃあ、奈々恵さんはどうなんですか?」
「私? 私は……とりあえずヒミツ」
 拝殿の前にはさすがに人がいた。多少並んではいるけど、すぐに順番がまわってきた。
 お賽銭を入れ、鈴を鳴らす。
 さて、今度はなにをお願いしようか。
 そうだ。ひとついいものがあった。
 僕はそれを願い事にした。
 お参りを済ませると、彼女はおみくじを引きたいと言い出した。
「さてと、どうかな」
 特に断る理由もなかったので、僕もおみくじを引いた。
「わ、大吉。元旦も大吉だったし、今年は絶対にいいことあるわね」
 そういうこともあるんだ。
 僕なんか、元旦は小吉、今は──
「へえ、吉か」
 彼女の言う通り、吉だ。
 中途半端な僕にはちょうどいいけど。
「大吉は大吉でいいけど、吉とか小吉、末吉でも落ち込む必要はないわ。だって、元旦に運を使わなくてよかった、と考えることもできるんだから」
 屁理屈な気もするけど、前向きに考えるなら、そういう考え方もできる。
 というか、本当に彼女は前向きだ。このあたりは僕も見習いたい。
「今日はなにをお願いしたの?」
 おみくじを木に結びつけ、境内を出たところで彼女はそう聞いてきた。
「今日は、今僕の抱えている問題が早く解決するように、です」
「抱えてる問題って、私とのこと?」
「はい」
「ん〜、そのことをお願いしてくれたこと自体は嬉しいけど、でも、その中身がちょっと微妙。どっちつかずはよくないわよ」
 そう言われても、答えも出せてない現状では、そうとしか言いようがない。
「それに比べて私は、実にわかりやすいお願いをしたわ。聞きたい?」
 ここで頷かなくても、彼女は話すだろう。そういうところは、だいぶわかるようになった。
「私のお願いはね、あなたが一日でも早く、私に振り向いてくれますように」
 予想できたことだったけど、実際に言われると、照れるし困る。
「もう二回もお願いしたんだから、さすがに神様だってかなえてくれるでしょ」
 すごいプレッシャーだ。
「ところで、これからどうする? このあと、なにか用事ある?」
「いえ、特には」
「そう? じゃあ、もう少し私につきあって」
 
 途中のコンビニで温かい飲み物とお菓子を買い込み、そのまた途中にある公園に立ち寄った。
 正月三日から公園に来るような人はほとんどおらず、僕たちの貸し切り状態だった。
 少し奥に入ったところにベンチがあり、そこに陣取った。
「はあ、それなりに歩いたから、ちょっと疲れたわ」
 確かに、駅前から神社までと、神社からこの公園までで、それなりに歩いている。僕も少し足が痛い。
「ちょっと、肩借りるね」
「えっ、あ……」
 僕がなにか言う前に、彼女は僕の肩に寄りかかった。
 彼女の長い髪がさらりと流れ、同時にシャンプーだろうか、とても良い香りが鼻をくすぐった。
「やっぱり、あなたも男よね。見た目はそんなに男らしくはないんだけど、こうして触れると骨張ってるし、意外にしっかりしてるし」
 そんなことを言われたのははじめてだ。
 姉さんたちはそんなこと言わないし、ましてやほかの誰かが言うこともない。
「こうしてふたりでいると、ほかの人たちの目にはどんな風に見えるのかしら?」
「さあ、どうでしょうか」
「んもう、そういう時は、ウソでも恋人とか言えばいいのに」
 ウソでいいのか。
 でも、さすがに僕はそういうことは言えない。
「ね、私のこと、いろいろ考えてくれてるって言ってたわよね?」
「はい」
「たとえば、どんなことを考えてるの? ちょっと興味があるんだけど」
「どんなって……」
 彼女は、興味津々という表情で僕の顔を覗き見ている。
「えっと……よく考えるのは、なんで僕なのか、です」
「ふ〜ん……」
「あ、えっと……あとは……奈々恵さんはどうしてそこまで僕にこだわるのか、とか……」
「あのさ、それって全然私のこと、考えてないじゃない」
「で、でも……」
「なにか理由でもあるの?」
「理由……」
 理由、か。
 そういえば──
「あの、根本的な問題なんですけど」
「うん」
「僕、奈々恵さんのこと、そこまで知ってるわけじゃないんです。だから……」
「ああ、なるほど。それは盲点だったわ」
 知らないのに知ろうとするのは、どだい無理なことだ。僕もそれを意識していたわけじゃないけど、気付いたらそれを避けて別のことばかり考えていた。
「じゃあ、こうしましょう。あなたの知りたいことになんでも答えてあげるわ。そうすればあなたが考えるのにも役に立つでしょ?」
「なんでも、ですか」
「そう、なんでも。この私がここまで言うなんて、あり得ないわよ。だから、この機会になんでも聞いて」
 なんでもと言われても、正直なにを聞いたらいいか。
 彼女のことを知らなければ考えるためのピースが足りないけど、でも、だからってそれこそなんでもかんでもズケズケと訊ねるのも問題だ。
「ほら、遠慮しない」
「そ、それじゃあ……」
 僕は、とりあえず当たり障りのないことから彼女に訊ねはじめた。
 彼女はその都度丁寧に答えてくれた。時々、自分のエピソードも交えてである。
 改めて見ると、彼女は本当に表情が豊かだ。これだけ表情が豊かな人は、そうはいないのではと思うくらいだ。
 だけど、僕はほんの少しだけ思ってしまった。
 この表情は、僕の前だからしてくれてるのかも、って。
「ほかには? 本当になんでもいいのよ」
 知ってたことも、改めて彼女に聞き直し、知らなかったこともいろいろ知った。
 それに、これ以上のことを聞くとなると、それはかなり彼女のプライベートなことになる。そこまでする必要があるのだろうか。
「それとも、私が勝手に話そうか? あなたの性格を考えると、突っ込んだことは絶対に聞いてこないだろうし」
 読まれてる。
「どうする?」
「……奈々恵さんの好きなようにしてください」
「そ? じゃあ、適当に話すわね」
 そう言って彼女は、自分のことを話しはじめた。
 だけど、それはとても人には聴かせられない内容だった。
 だって、そんなこと知らなくても彼女のことを考えるのに支障のないことまで、それはもう事細かに話してくれた。
 それを話している時の彼女は、少しだけ照れくさそうに、だけど、とても楽しそうだった。
「どう? これで私を主人公にした小説を書けそうなくらい、話したでしょ」
 彼女は、冗談めかしてそう言う。
「あなたにはね、本当の私を知ってほしいの。誰かの話を聞いて、それを鵜呑みにした偽物の私を見てほしくないの」
「…………」
「本当の私を知って、その上で改めて考えてみて」
 とても真剣な表情で、真っ直ぐな瞳で僕を見つめる。
「それでも私を受け入れられないっていうなら、うん、しょうがない。その時は私もあきらめる。そこまで女々しくなりたくないから。でも、できればそうならないでほしい。これは、私の今の素直な気持ち」
「奈々恵さん……」
「……えいっ」
「うわっ」
 と、僕はいきなり彼女に押し倒された。
 彼女の綺麗な顔が、僕の目の前にある。
 思わず視線を逸らした。
「あなたはいつもそう。肝心な時に目をそらして、自分の本当の気持ちを隠してしまう」
「…………」
「ねえ、あなたはどう思ってるの? 私に教えてほしい。あなたの、本当の気持ちを」
 そう言って彼女は──
 
 どうやって家に帰り着いたのか、覚えてない。
 いつの間にか家にいて、自分の部屋にいた。
 部屋でもコートも脱がずにただボーッとベッドに座っていた。
 混乱している。とても混乱している。
「修ちゃん、帰ってきたんだね」
 そこへ、瑞香姉さんがやって来た。
「どうしたの? なにかあったの?」
 僕の顔を見るなり、姉さんは心配そうに顔を寄せてきた。
「ね、修ちゃん。大丈夫?」
「……大丈夫だよ」
「本当に?」
 瑞香姉さんは、三人の姉の中で一番動物的勘とでも言えばいいのだろうか、そういうのが鋭い。穂香姉さんにも隠し事はできないけど、瑞香姉さんにはもっとできない。
「……なにがあったの?」
「…………」
「今なら、穂香お姉ちゃんもいないから。ね?」
 僕は、仕方なく話すことにした。
「今日、あの彼女と初詣に行って、公園でいろいろ話をしていたら、最後に……キス、された」
「…………」
 あ、固まった。
「ど、どどどど、どこに?」
「どこって、その、唇、だけど……」
「……ああ、修ちゃんも、大人の階段を上っちゃったんだ」
 そういう言い方しないでほしい。というか、そういう反応は三姉妹本当にそっくりだ。
 でも、意外にすんなり言えた。あれだけショッキングな出来事だったのに。
 あの時、彼女は僕の不意を突き、キスしてきた。
 当然、僕はなにをされたのかわからず、ただただ困惑していた。
 今にして思えば、彼女自身も自分の大胆な行動に驚いていたのかもしれない。
 最後は、捨て台詞のような言葉を残して帰ってしまった。
「はじめての責任は、重いんだからね」
 それはつまり、彼女もはじめてのキスだった、ということだろう。おそらくは。
 ひとり残された僕は、そこから家へどうやって帰ってきたのか、覚えていない。
「……修ちゃんは、奈々恵ちゃんのこと、嫌いなの?」
「嫌い、ということはないよ。うん、それはない」
「そっか……じゃあ、あとは修ちゃんがどれだけ奈々恵ちゃんのことをわかってあげられるか、だね」
 姉さんは落ち着きを取り戻し、いつも通りの口調でそう言った。
「いくら一方的だとしても、女の子にそこまでさせちゃったんだから、絶対に修ちゃんは答えてあげなくちゃダメ。どうするにしてもね」
「うん、それはわかってる」
「そっか。それならいいよ」
 姉さんはそれ以上なにも言わず、ただ黙って僕の隣にいた。
 でも、そのおかげで僕は落ち着きを取り戻せたし、あのことも冷静に考えられるようになった。
 たまに壊れてしまう時を除けば、三人の姉の中で瑞香姉さんが一番相手しやすい。
 僕のことになるとなんでも積極的になるけど、それでも穂香姉さんや柚香姉さんほどではない。
「……ねえ、姉さん。僕は、彼女にひどいことをしてるのかな?」
「ん、どうかな。私は奈々恵ちゃんじゃないからわからないけど。でも、修ちゃんは一度はその態度を明確に示したわけだから、ひどいということはないんじゃないかな」
 そういう考え方かもあるのか。
「それに、奈々恵ちゃんにとっては修ちゃんに一度振られた時が、一番最低だったわけだから、それより下はそうそうないよ。たぶん、奈々恵ちゃんくらい前向きに物事を考えられる子なら、ちゃんと割り切れてるはず」
「うん、そうだといいな」
 本当にそう思う。
 結果がどうなるにしろ、これ以上彼女の負担になるようなことはしたくないから。
 って、もうすでにしてるか。
「でも、奈々恵ちゃんが修ちゃんの彼女になったら、いろいろ大変そう」
「大変て?」
「ん、だって、奈々恵ちゃんも結構独占欲強そうだし。そうすると、穂香お姉ちゃんと衝突するのは火を見るよりも明らかかなって。それに、柚ちゃんだってね」
「…………」
 そうか。もし僕の答えがそっちになった場合は、そのことも考えなくちゃいけないのか。うわあ、なんかますます考えるのがイヤになってきた。
「もちろん、私もだよ」
 そう言って姉さんは、僕をふんわりという感じで抱きしめた。
「それでもね、それで修ちゃんが幸せになれるなら、私たちはなにも言わない。だって、修ちゃんの幸せはそのまま私たちの幸せでもあるんだから」
「姉さん……」
 たまに僕は、自分の平凡さ加減に腹を立てることがある。
 三人の姉たちはそれぞれとても優秀で有能で、四人の姉弟の中で僕だけがなんの取り柄もない。だから、姉さんたちほどじゃなくても、なにかひとつでも人より秀でたものを持っていたなら、僕はきっともう少し前向きに、しっかり歩けたはず。
 僕は、いつも姉さんたちに助けられてきた。今の高校に入る時だって、姉さんたちが勉強を見てくれたおかげで合格できた。母さんが忙しい時は、姉さんたちが僕の世話をしてくれた。
 でも、僕は姉さんたちになにをしてあげられているのだろうか。
 その後ろめたさも、僕の姉さんたちに対するコンプレックスに繋がっている。
「本当はそうなってほしくないけど、もし逃げ出したくなったら、いつでも逃げてきていいよ。修ちゃんは、私たちが守っていくから」
「うん、そうならないようにちゃんと答えを出すよ」
「がんばってね、修ちゃん」
 姉さんのふかふかな胸に抱かれながら、僕はもう一度ちゃんと彼女のことを、もっともっとしっかり考えようと、決意を新たにした。
 
 冬休みが開けた。
 まだ僕の中では答えは出ていなかったけど、だからといって学校を休むわけにもいかない。
 本当は彼女ともどんな顔をして会えばいいのかわからなかったから、余計に休みたかった。でも、そんなことをすれば、下手をすると彼女は『強硬手段』に打って出るかもしれない。だから、無理に学校へ行った。
 学校へ着いて、重い足取りで教室へ向かっていると──
「おはよう、修平」
 廊下で彼女に遭遇した。いや、待ち伏せしていたのかもしれない。
「お、おはよう、ございます」
「うん、おはよう」
 彼女は、とりあえず見た目はいつも通りだった。
「早速で悪いんだけど、ちょっとつきあって」
 そう言って彼女は、廊下を戻り、そのまま階段を上がっていった。
 僕は仕方なくそのあとをついていった。
 いつも人のいない屋上だけど、こうして朝早くに来たことはなかった。
 なんとなくいつもと雰囲気が違うような気がして、複雑な心境だった。
「修平。ちょっとそこに立ってて」
 言われるまま立っていると──
「な、奈々恵さん……?」
 彼女は僕の後ろにまわり、そのまま体を寄せてきた。
「後ろ向いたら、ぶん殴るわよ」
「は、はい……」
 どうしてそんなことをしたのかは、僕にはわからない。彼女のやることは、いつも唐突だから。
「……まだ、答えは出てないの?」
「すみません……」
「別に謝らなくてもいいけど……」
 彼女にしてみれば、僕にそう訊ねる時には、相当の勇気が必要のはず。少なくとも僕だったらそうだ。
 なのに僕は、そんな彼女に答えを示せていない。
「ねえ……私、いつまで待てばいいのかな?」
「…………」
 それは、彼女の心の声だった。
「そりゃね、今までのあなたのことを考えれば、いろいろ考えないと先へ進めないのはわかるわ。でも、それって時間をかけて考えたからってどうにかなる問題?」
「それは……」
「もちろん、焦って答えを出して、後悔しても意味ないとは思うけど」
「…………」
「それでも私は、もう少し早くあなたに決めてほしいの。じゃないと私、自分の想いが揺らいでしまいそうだから」
 いつもの気丈さは、そこにはなかった。
 わかってはいたことだけど、彼女もまた、ひとりの女の子なのだ。
 僕は、自分だけがいろいろなことを強いられてきたと思っていた。でも、それは違った。彼女だって同じなのだ。
「たとえばなんだけど、こうは考えられない? この前あなたには私のことをいろいろ話したけど、それでもまだまだ足りないと思うの。でも、これ以上私のことを知ってもらうためには、それこそ常に一緒にいて、間近で私を見てもらうしかないと思うのよ」
「それは、そうですね」
「だからね、仮にということで、私とつきあわない?」
「仮、ですか」
「本当は仮なんかじゃなくて、正式にがいいんだけど、そこまでも言えないし」
 仮に、か。
 確かに彼女のことをもっと知るためには、それもひとつの方法かもしれない。
 だけど、それは本当にいいのだろうか。仮ということでつきあって、もし僕がやっぱり彼女を受け入れられないということになった時、すんなり別れられるのだろうか。
「これはあくまでもひとつの案でしかないから、別にそれにこだわる必要はないわ。ただ、そういう方法もあるってこと」
「……はい」
 もう時間はそれほどないのかもしれない。
 僕も、彼女も。
 
 それから一週間ほど時間が過ぎた。
 その間も僕はあれこれ悩んでいた。とはいえ、さすがにここまで時間をかけてくれば、ある程度の考えはまとまってきていた。それは、家での姉さんたちの僕に対する態度を見てもわかった。当初はかなり心配していた姉さんたちも、少しずつそれがなくなってきている。
 考えがまとまりはじめると、また違う疑問なり問題なりが出てくるのだけど、それはそれほど深刻なものではなかった。
 その一週間の彼女の様子は、見た目はいつもと変わらなかった。そのあたりはさすがとしか言いようがない。僕ならとても平然とはしていられない。
 だけど、彼女と会話する度に、僕に対するプレッシャーが強まっているのを感じていた。ただ、それを口にすることはなく、彼女も最後は黙って待とうという感じだった。
 いや、もちろん最後だと思っているのは僕だけなのかもしれない。
 彼女はそんなことひと言も言っていないのだから。
 それでも、僕も彼女もそろそろ決着をつけるべきだと思っていた。
「修ちゃん、修ちゃん」
 そんなある日。
 部屋で久しぶりに出た宿題をやっていたら、穂香姉さんがやって来た。
「どうしたの、姉さん?」
「修ちゃん。一緒にお風呂に入りましょ」
「は……?」
「ほら、たまには姉弟水入らずでね。ここ最近、お姉ちゃんも仕事が忙しくてなかなか修ちゃんと一緒にいられなかったから」
 確かに、年が明けてから姉さんはずっと忙しかった。極端な残業はないみたいだけど、毎日の仕事内容は結構ハードなようだ。
 帰ってきてからの脱力加減でそれがすぐにわかった。
「ね、修ちゃん」
「いや、でも……」
 昔は姉さんたちとよく風呂に入っていた。特に穂香姉さんとは年も離れてることもあって、僕にとってはもうひとりの母さんみたいな存在だったから。
 でも、さすがに今は違う。僕は十七になったし、姉さんだってもう二十五だ。なにも知らなかったあの頃とは、いろいろ違う。
「ほらほら」
 ──で、結局姉さんに押し切られる格好で、僕は風呂に入っていた。もちろん、姉さんも一緒だ。
「修ちゃんも、男の子から男性に変わってきてるよね。背中もこんなに広くなったし」
 姉さんは、僕の背中を流しながら、そんなことを言う。
「ちっちゃな頃は、よくこうしてお風呂に入ったよね。修ちゃん、お湯に浸かるのが恐くて、結構大変だったんだから」
「そ、そんな昔のこと、もう忘れたよ」
「ふふっ。でも、私が抱いてお風呂に入ると、恐いのは変わらなかったのかもしれないけど、とりあえず文句は言わなかったわ」
「…………」
「私ね、修ちゃんが生まれてすごく嬉しかったの。瑞香も柚香もカワイイけど、修ちゃんとは年も離れてたから余計にね。だから、私だってまだまだ手がかかってたのに、修ちゃんのことをなんでもやりたいって駄々こねて」
「…………」
「修ちゃんが成長していくのが、本当に嬉しかった。自分のこと以上に嬉しかった」
「姉さん……」
「そんな修ちゃんがいつか私の手を離れていくのは、うん、わかってたことなんだ。当然だよね。修ちゃんだって、いつまでも子供じゃないんだから。でも、私はそれが一日でも遅くなればいいと、本気で思ってた。遅くなればなるほど、私は修ちゃんの側にいられるわけだから」
 姉さんは、シャワーで僕の背中を洗い流した。
「いつだったかな。私が修ちゃんの面倒を見てるんじゃなくて、ただ私が修ちゃんの側にいたいだけなんだって気付いたのは」
「ね、姉さん……?」
 と、姉さんが裸のまま、僕の背中に抱きついてきた。
「ねえ、修ちゃん。修ちゃんは、私のこと、好き?」
「そ、それは、好きだよ。嫌いになる理由がないよ」
 それはウソじゃない。いろいろ過激なところはあるけど、姉さんほどの姉を探そうと思ってもそうはいないだろう。
「じゃあ、これからもずっと、好きでいてくれる?」
「うん」
「ありがとう、修ちゃん」
 姉さんはそう言って僕から離れた。
「姉さん、今日はいったいどうしたの?」
「ん、なんとなくね、もうすぐ修ちゃんが遠くへ行ってしまうような気がしたの。そう思ったらもういてもたってもいられなくなって、こうしてお風呂に誘ったの」
「そっか」
「そろそろ決めるつもりなんでしょ、奈々恵ちゃんとのこと」
「……うん」
「大丈夫だよ。修ちゃんはいつも自分に自信がないって言ってるけど、修ちゃんには良いところがたくさんあるんだから。修ちゃんはそれに気付いてないだけ。でも、見る人が見ればわかることだから。奈々恵ちゃんがそのことに気付いてるかどうかはわからないけど、たとえ今は気付いていなくても、ずっと一緒にいればそれに気付くから。そしたら、もう本当に心配することはないよ。それだけで修ちゃんに夢中になっちゃうから」
 言い方はとても大げさだけど、姉さんの気持ちは十分伝わってきた。
「だからね、修ちゃん。もっと単純に考えてみていいんだよ。今までの修ちゃんなら、私たち以外の女の子に、ここまで長く関わったこと、あった?」
「ううん」
「でしょ? それだけ奈々恵ちゃんは特別な存在だってこと。そして、自然と修ちゃんの中で奈々恵ちゃんを受け入れてる部分があるってこと。もしここで奈々恵ちゃんを拒んでしまったら、もう修ちゃんは女の子を受け入れられなくなってしまうかも」
「…………」
「だからというわけじゃないけど、奈々恵ちゃんの想いに、応えてあげたら?」
 そう言って姉さんは、穏やかに微笑んだ。
「もしつきあってからなにかあったら、その時は修ちゃんから振っちゃえばいいんだから。もし修ちゃんひとりでそれができないなら、私がなんとかしてあげるから。退路を断って決断するというのも大事だとは思うけど、逃げ場があるからこそ決断できることもあると思うの。そして、修ちゃんにとっての逃げ場は、私。それでいいと思う」
「……ありがとう、姉さん」
 姉さんにまでここまで言わせて、これでちゃんと決められなかったら僕は人間としてダメだ。
「奈々恵ちゃんとつきあうことになったら、一度、家に連れてきてね。みんなで歓迎するから」
 姉さんのためではないけど、でも、結果的に姉さんのためにも僕は──
 
 その場所を選んだことに、深い意味はなかった。なんとなく最初に思い浮かんだのが、そこだっただけ。
 でも、あとから考えると、節目節目にはそこにいた気がするから、僕の選択は間違っていなかったはずだ。
「はじめてよね。あなたからこうして声をかけてくれたの」
 彼女は、少し強い風の中、髪を押さえながらそう言った。
「それで、わざわざ私に声をかけたということは、なんらかの答えが出たと思っていいのよね?」
「はい」
 僕は、自分で思っていたよりもずっとはっきりそう言った。
「いいわ。聞かせて」
 彼女は僕の前に立ち、真っ直ぐ僕を見つめた。
 僕は、なんとか視線を逸らさないよう注意しながら、話しはじめた。
「僕がはじめて奈々恵さんを見たのは、入学式の時でした。クラスが違ったので当然席も遠かったわけですけど、遠目からでもとても目立ち、今でも印象に残っています。ただ、その時の僕の正直な感想は、ああいう子もいるんだ、くらいのものでした。特別綺麗だとは思いましたけど、じゃあなんだと言われると、なにも言えなくなる程度です」
「それは普通だと思うわ」
「はい。僕もそう思います。それに、僕の場合はクラスが違うということと、女性が苦手だということもあって、余計にそれだけで終わっていました。一年生の時は、時折聞こえてくる噂くらいしか、僕が奈々恵さんを意識することはありませんでした。でも、二年生に進級して、同じクラスになりました。それでも僕は、奈々恵さんとクラスメイトになった、ということくらいしか、気にしていませんでした。この僕の反応は、男友達に言わせると『異常』だそうです」
「それは、それぞれの主観の問題よ」
 当事者である彼女にとっては、まさにそうだろう。
「僕は、奈々恵さんとは単なるクラスメイトという事実だけで、特にそれ以上の接点もなく三年生になると、夏休みまでは思っていました。ところが、修学旅行を機に、それは一変しました。僕からは一番遠いところにいたはずの奈々恵さんが、気がつけば家族を除けば最も近いところにいる女性になっていました。当然のように僕は困惑し、どうしたらいいのかわからなくなりました。そんな時でした、奈々恵さんから告白されたのは」
 あの時は、本当にどうしたらいいのかわからなかった。
 そんな経験したことなかったし、するとも思っていなかったから。
「僕はさらに混乱し、困惑し、本当にどうしたらいいのかわからなくなりました。そして、僕は自分のことだけを考えて、奈々恵さんを拒みました」
「あれは、かなりへこんだわね」
「すみません」
「ううん、いいの」
「……それでも奈々恵さんは、あきらめていませんでした。今でも不思議なんですけど、どうしてあの時にあきらめなかったのですか?」
「そんなの決まってるわ。私はね、そんなに器用な人間ではないの。確かにあの時には拒まれてしまったけど、でも、私はそこであきらめてしまったら、それまでのことがすべてなしになると思ってね。せっかく積み上げてきたものが、一瞬で崩れてしまう。それがイヤだった。だから、あの時はとりあえず引こうと思ったの。それに、もっと単純な問題として、好きになった人を、そんなにポンポン変えられるような、鈍感な神経を持ってないの、私は」
「……なるほど」
 実にわかりやすい。
 だからこそ僕は、あのあとも彼女のことを気にしていたのかもしれない。
「奈々恵さんがあきらめていないことを明確な形で知ったのは、文化祭の時です。今にして思えば、奈々恵さんと姉さんたちを会わせてしまったのは、失敗だったのかもしれません」
「そうかしら? 私はそうは思わないわ。だって、もしあの時あなたのお姉さんたちに会わなくても、私は近いうちになんらかの行動を起こそうと思っていたんだから。もちろん、お姉さんたちと会ったことで思いがけなくチャンスが訪れたとは思ったけどね」
「まあ、奈々恵さんならそう言うかもとは思っていました」
「あら、ずいぶんと私のことがわかるみたいな口ぶりね」
 さすがにこれだけの期間、たったひとりのことで悩んでくれば、わからなかったこともわかるようになる。
「文化祭が終わっても、すぐにはどうにもなりませんでした。次の行動があったのは、もうクリスマス間近です。奈々恵さんは、僕の中でなにかが変わっていることに気付いていたんですか?」
「そこまではさすがにね。でも、きっとあなたの中でここまでひとりのことを考えたことはなかっただろうというのは、容易に想像できたから、改めて話すにはちょうど良いとは思ってた」
「改めて奈々恵さんに告白され、今度はもう同じ手は通用しないこともわかっていました。だから、奈々恵さんのことをあれこれ考えるようになりました。ただ、それでも根本的な部分が変わらず、結局はどうやって奈々恵さんを納得させるか。そこに重点を置いていたような気がします」
「なるほどね」
「でも、僕のまわりには僕のことをひょっとしたら僕以上に気にかけている人たちがいました」
「お姉さんたちね」
「はい。姉さんたちは、僕が奈々恵さんとのことで悩んでいるのに気付いていました。そして、話を聞いた上で、どんな結果になってもいいから、がんばるようにと背中を押されました。奈々恵さんだけでなく、姉さんたちにまでそこまで言わせて、それでもなにもできないようでは、僕は人間としてダメだと思いました。そして、答えを出しました」
「…………」
「奈々恵さん。もう今更かもしれませんけど、僕とつきあってください」
 もう僕は、あれこれ悩むのはやめようと思った。
 これから先も僕の基本的な考え方は、そう簡単には変わらないだろう。もうここまででかなり擦り込まれてきてるから、ある意味ではしょうがない。
 そうすると、僕から誰かを好きになるなんてことは、もうないかもしれない。
 儲けもの、だとは言わないけど、僕のことをここまで想ってくれてる彼女を袖にしたら、きっと、僕はひとりのままだろう。
 それに、彼女以上の彼女など、そうそう見つけられない。これは本心だ。
「つきあうのはいいんだけど、ひとつだけ条件があるわ」
「条件、ですか?」
「ここまで私を待たせたんだから、もう絶対に離さないこと。これが守れるなら、つきあってあげる」
「わかりました。約束します」
 そのくらいのことなら、いくらでも約束できる。
 そもそも僕は、彼女以外とつきあうつもりなどないのだから。
「それにしても、ホント、ずいぶんと待たされちゃったわ」
「すみません」
「まあでも、これもいい経験だと思ってるわ。もう二度と経験したくないけど、望んでも同じ経験はできないだろうしね」
 そうかもしれない。
 実際、僕がほかの人とは違うだけで、僕以外だったらもっと早くに結論を出して、つきあうなり断るなりしていただろう。
「あ、そうそう。これはお願いなんだけど、その堅苦しい言葉遣い、やめない? 今まではあなたの性格上、言ってもそう簡単に直してくれないと思って言わなかったけど、これからは言わせてもらうわ。というか、堅苦しいの禁止」
「あ、えっと……」
「それと、私のこともさん付けじゃなくて、呼び捨てにして。まあ、無理だと思うけど、なんか別の愛称ならそれでもいいけど」
 次から次へと要求を突きつけられる。
 なんか、結論を早まった気がする。
「ちなみに、昔から仲の良い友達は『なな』とか『ななちゃん』とか呼んでるわね」
 なんか、ものすごく期待に満ちた目で僕を見てるし。
「もし望むなら、私もそんな風に呼んであげるわよ。お姉さんたちと同じように『修ちゃん』とかね」
「そ、それは勘弁してほしい、かな……」
「そう? 私はいいと思うんだけどなぁ」
 そう言って彼女はにっこり笑う。
「あ、そうそう。ひとつ、大事なことを忘れてたわ」
「大事なこと?」
「あの時のお返し、まだもらってなかったから」
「お返し?」
 僕にはなんのこと言っているのかさっぱりわからなかった。
「わからない?」
 頷く僕。
「初詣」
「初詣……あ」
「わかった?」
 初詣の時にあったことといえば、あのキスだ。
 ということは、つまり、僕にあの時のお返しをしろと。
 ……無理、絶対無理。
「ほら、あなたも男ならこれ以上女の私に言わせないの」
「だ、だけど……」
 少しだけ前向きになろうとは思ったけど、いきなりそこまでは無理だ。
「むぅ……修平には甲斐性ってものがないの?」
「い、いきなり言われても、困るとしか……」
「んもう、しょうがないなぁ」
 彼女はそう言って僕の目の前まで近づき──
「今度からは、ちゃんと修平からするように」
 僕の首に腕をまわし──
「ん……」
 そのままキスしてきた。
「わ、私だって、恥ずかしいんだからね……」
 彼女は真っ赤になって僕の胸に顔を埋めた。
 ああ、なんとなくわかってきた。これがカワイイと思うことなんだ。
 だとすると僕は、今の彼女をものすごくカワイイと思ってる。
「すごくカワイイ……」
「こ、こら、どさくさに紛れてなに言ってるのよ」
「本当にそう思ったので」
「ううぅ、そういうのいきなり言うの、反則……」
 耳まで真っ赤にして、彼女はさらに恥ずかしそうに俯いてしまった。
「なんか、修平って女性に対して免疫がないから、そういう恥ずかしいことも逆に平然と言ったりしそう」
「それは心外……」
「そう思われたくなかったら、そう思われないような行動をとってよね」
「努力します……」
「うん」
 わかってはいたことだけど、僕は彼女にはかなわない。それはそれでいいと思うんだけど、僕も少しくらい主張できるようにならないと、もっと困ったことになりそうだ。
「修平。これからよろしくね」
 
 僕の告白から、もう一ヶ月ほど過ぎた。
 ほかの人たちのことはよくわからないけど、僕たちはまあまあ順調だと思う。
 喧嘩は……まあ、一方的に僕がやられまくってるだけで、喧嘩として成立してないけど、たまにしてる。
 朝は無理だけど、放課後は特に用がない限りは一緒に帰っている。とはいえ、家の方向が全然違うから、学校から少しの間だけなんだけど。
 デートもした。正直言えば、デートというよりは僕が荷物持ちとしてつきあっただけ、という感じだったけど。彼女が楽しそうだったから、まあいいやと思った。
 学校でも一緒にいる時間が長くなった。特に誰かに言ったわけでもないんだけど、いつの間にか僕たちがつきあっていることが知れ渡り、冷やかされつつも思ったよりも好意的に受け止められている。
 どうやら、女子の間では彼女の僕に対する言動は結構知られていたらしく、なるようになったか、という感じみたいだ。
 そうそう。穂香姉さんとの約束を守るため、彼女を家に連れて行った。
 そこでの彼女と姉さんたちとのやり取りは、正直思い出したくもない。基本的に彼女も姉さんたちも、僕をいじって楽しむ人たちなので、僕に対抗する術はない。
 でも、特にわだかまりもなく、意気投合してくれたのは嬉しかった。
「なに考えてるの?」
「ん、なんでもないよ」
「ウソ。ボーッとしてた。そういう時の修平は、たいていなにか考えてる」
「……奈々にはかなわないな」
「そうよ。私に勝とうだなんて、百年早いんだから」
 彼女──奈々は、そう言って勝ち誇った顔を見せる。
 結局、僕は彼女のことを『奈々』と呼んでいる。普通に呼び捨てにするのに抵抗があったので、愛称というわけでもないけど、略して呼べるそっちを選んだ。
「で、なにを考えてたの?」
「もう一ヶ月も経つんだな、って思って」
「そういえばそうね。なんか、そんな感じ全然しないから、忘れてたわ」
 そう言われると、僕もそう思う。あれだけ頑なに奈々のことを拒んでいたのに、いざつきあうようになると、これが意外なほどにしっくりしていた。
「でも、一ヶ月も経つのに、未だに修平からキスしてくれないわよね」
「それは……」
「手だって繋いでくれないし」
「…………」
「そういうのって、ほんの少しの勇気があればできると思うんだけどなぁ。私だって、最初はそうだったんだから」
「……努力するよ」
「努力して、なるべく早めにできるようになってね」
 奈々は、いろいろ僕に言ってくるけど、それを強要することはない。それは、僕の性格がそう簡単に変わらないことを理解しているからだ。
 そういうところは、素直に感謝してる。同時に、奈々が彼女で本当によかったと思っている。
「そういえば、どうして今日はわざわざ姉さんたちがいることを確認したの?」
「ん〜、ちょっとお願いしたいことと聞きたいことがあってね」
「ふ〜ん……」
 奈々と姉さんたちは、さっきも言ったけどすぐに意気投合したくらいに仲が良い。
 特に穂香姉さんは奈々のことをとても気に入っており、僕の知らないところで連絡を取り合ったりしている。
 瑞香姉さんは表面上はあまり変わったようには見えないけど、奈々のことはそれなりに気に入ってるらしい。まあ、まだ奈々は瑞香姉さんの表情を読み取れるところまで至っていないので、本格的にうち解けるまでにはもう少しかかるかもしれない。
 柚香姉さんと奈々は、よくつまらないことで言い合いになったりしてる。とはいえ、それも本気ではなく、遊びの延長みたいなものである。
 ただ、このふたりは絶対に相容れないところがあって、それが、柚香姉さんの僕に対する抱きつき癖だ。姉さんは誰の前でもそれをやめることはなく、当然奈々の前でもそれをした。最初はこめかみをひくつかせながらも耐えていた奈々だったけど、何度もそれをされ、ついにはキレてしまった。
 それ以後、ふたりが一緒の場にいるとつばぜり合いがある。
 だからというわけでもないけど、姉さんたち三人が揃っている時に家に奈々を連れて行くのはできるだけ避けていた。
 今日は穂香姉さんも仕事が休みで家にいる。瑞香姉さんも柚香姉さんも特になにもないらしく、三人が揃っている。
 今日はそれを確認してからこうして家に向かっている。
 家に着くと、早速穂香姉さんが僕たちを出迎えた。
「おかえり、修ちゃん。いらっしゃい、奈々ちゃん」
「ただいま、姉さん」
「おじゃまします」
 奈々が家に来ると、姉さんたちではなく、母さんが妙に張り切る。息子の彼女だからと張り切ってるのだろうけど、僕にはその姿が少しだけ滑稽に見える。もちろん、そんなこと言わないけど。
 今日も母さんは張り切ってお菓子を作っていた。
 リビングに通すと、リビングには瑞香姉さんと柚香姉さんもいた。
「いらっしゃい、奈々ちゃん」
「おじゃましてます」
 柚香姉さんは奈々に一瞥をくれると、早速僕に近づいてきた。
「修ちゃん」
 そのまま僕に抱きついてくる。で、当然のように奈々に向かって勝ち誇った顔を見せる。
「……やれやれ、またはじまるわよ」
 穂香姉さんは傍観の構え。
「あの、柚香さん。もう何度も言ってると思うんですけど、いくら姉弟でもそういうのはどうかと思うんですよ」
「別に誰にも迷惑かけてないんだから、いいじゃない。ね、修ちゃん?」
 ここで頷くのも頷かないのも問題が起きる。
「迷惑かかってます。修平が困ってますし、なにより私がイヤです」
「困ってるの、修ちゃん?」
 本当にこのふたりのことはどうしたらいいんだろう。僕としては、そっちの方が困る。
「ほらほら、柚香も奈々ちゃんもそこら辺にして」
 最後に間に入ってくれるのは、やっぱり穂香姉さん。柚香姉さんも穂香姉さんに言われるとさすがに引いてくれる。
 で、ようやくソファに座って話せるようになった。
 奈々は僕の隣に座って、僕を挟んで反対側に座っている柚香姉さんを威嚇する。
 柚香姉さんも一歩も退かず、奈々を挑発する。
「それで、奈々ちゃん。今日は私たちに聞きたいことがあるんでしょ?」
「あ、はい」
 奈々は、少し居住まいを正した。
「えっと、まずお願いがあるんですけど──」
「却下」
「柚香」
「はぁい……」
「あの、私にもっと修平のことを教えてほしいんです」
「ん、それはどういうこと?」
 奈々以外、みんな?顔になっている。
「私、もっともっと修平のことが知りたいんです。でも、修平の口から聞けることって、限られてるじゃないですか。特に小さい頃なんて、本人は覚えてないでしょうし」
「なるほど。だから、姉としてずっと修ちゃんを見ていた私たちに教えてほしいと言ったのね」
「はい、その通りです」
 そういうことか。
 でも、どうしてそこまで僕のことを知りたがるんだろう。そりゃ、僕も今は奈々のことをあれこれ知りたいとは思うけど、こうしてわざわざ家族に頼んでまで知ろうとは思っていない。
「私は構わないけど、ふたりはどう?」
「私も、いい」
 穂香姉さんと瑞香姉さんはすんなりOKした。
「柚香は?」
「ねえ、なんでそこまでして知りたがるの? 別に修ちゃん本人から聞ける範囲内で十分だと思うけど」
「それはきっと、人を本気で好きになってみないとわからないと思います。柚香さんは、そういう経験、ないんですか?」
「…………」
 すぐに認めなかった柚香姉さんは、奈々を問い詰めた。
 しかし、奈々の反論の方が威力があった。
 柚香姉さんは、少なくとも僕の知る限り、今まで誰ともつきあったことはない。ひょっとしたら知らないうちに誰かとつきあっていたのかもしれないけど、本人にそういう素振りはなかったから、それはきっと奈々が言うような『本気』のものとは違ったのかもしれない。
「人って不思議なもので、あることを知ると、また別のことを知りたくなるんです。そうやって少しずつ相手のことを補っていくんです。もちろん、それだって所詮は伝聞でしかないですから、それを現実にあったように想像することはできないかもしれません。それでも、自分の知らないことを知ることができた、その結果またその人に近づけた。そう思えるようになるんです」
「ふふっ、この問題は奈々ちゃんの勝ちね。柚香にとても勝ち目はないもの」
「……ふん、好きにすれば」
 姉さん自身も敗色濃厚と悟り、早々と白旗を揚げた。
「……修ちゃん。彼女はもっと選ばなくちゃダメだよ」
「はは……」
「それで、具体的にはなにを聞きたいの?」
「えっと、なんでもいいんですけど。知ってることも、改めて聞くとなにか発見があるかもしれませんし」
「なんでもいいと言われちゃうと、困るかな。修ちゃんのことなら、それだけで丸一日は話せる自身があるし」
 まあ、穂香姉さんならそうかもしれない。穂香姉さんは、僕が持っているアルバムよりもさらに分厚いアルバムを持ってるから。
 きっと、履歴書の趣味の欄に、弟の観察、と書けるくらいに様々なことを知っている。
「そうだ。奈々ちゃん」
「はい、なんですか?」
「今度、私の休みの時に、うちに泊まったら?」
「えっ?」
「そしたら、一晩中でも修ちゃんのこと話してあげられるから」
 なにを言い出すかと思えば、とんでもないことを。
「どうかな? ああ、うちのことなら気にしなくても大丈夫よ。誰も反対する人なんていないんだから」
 柚香姉さんがものすごくなにか言いたそうにしてるけど、とりあえずなにも言わなかった。
「修ちゃんもいいよね?」
「まあ、いいけど……」
 いいけど、本当にいいのかな?
「……すみません。すぐには決められないので、また後日に返事でもいいですか?」
「それは全然」
 それはそうだろうな。いくら姉さんからの誘いとはいえ、世間一般的には彼氏の家に外泊するということになるんだから。
 奈々は軽い女の子じゃないから、やっぱりそういうのには多少抵抗があるのかもしれない。
「じゃあ、とりあえず面白そうなエピソードから教えてあげようかな」
 奈々が内心どう考えているのかは、僕にはわからなかった。
 
 夕方になり、僕と奈々は、僕の部屋にいた。
「ねえ、修平」
「どうしたの?」
「私って、穂香さんたちに本当に歓迎されてるのかな?」
「どうして?」
「確かにね、穂香さんも瑞香さんも、まあ、柚香さんは少し微妙だけど、それでも三人とも私のことを快く迎えてくれてる。でも、それって本心なのかなって思って」
 奈々の不安は、ある意味では当然なのかもしれない。
 僕だって今の奈々と同じ立場にあったなら、同じような不安を感じたかもしれない。
 でも、こういうところでその不安を消せなくとも、薄れさせてあげるのが、僕の役目だと思う。
「大丈夫だよ。姉さんたちは裏表のない人たちだから、奈々が歓迎されてるって感じたなら、それは本当に歓迎されてるってこと」
「本当に?」
「本当だよ。それに、もし歓迎されてなければ、今日だって三人とも揃ってなかったかもしれない。穂香姉さんは仕事が休みだったけど、瑞香姉さんと柚香姉さんはどこかへ出かけててもおかしくなかったんだから。それを奈々が来るからって家にいてくれた。それって姉さんたちも奈々と会って話をしたいってことの表れだと思うから」
「そっか……」
「だから、大丈夫」
 僕は、自然な流れで奈々を抱きしめた。
 僕が自分から奈々を抱きしめた回数など、片手で数えられるくらいしかない。
 でも、今はそうしてあげたかった。
「……ね、修平。修平もさ、その、エッチなこと、してみたい?」
「えっ……?」
「わ、私たちもつきあいはじめて一ヶ月経つし、その、そういうことしてもいいかな、って思って……」
 確かに、そういうことをまったく考えなかったわけじゃないけど、でも、僕はまだそういうのに抵抗があった。
 今でも姉さんたちに強引に誘われて一緒に風呂に入ることもある。そういうことをこの年でもしていると、いろいろ鈍感になってくる。もちろん、それが姉さんたちだからというのはあるけど、たぶん、僕は人よりもずっと鈍感だと思う。
「どう、かな?」
「……してみたいとは思うけど、焦ってすることでもないと思うよ」
「して、みたいんだよね?」
「それは、うん、してみたい」
「じゃあ、今度のバレンタインにうちに来て。そこで、改めてどうするか決めよ。ね?」
「それはいいけど、でも、どうしてなの?」
 奈々のことだ。僕にとっては突然のことでも、彼女の中では突然のことではないんだと思う。
 だけど、どうしてそういうことを言い出したのかがわからない。
 そりゃ僕たちは高校生で、そういうことにとても興味のある年代だと思う。だから、そう考えてしまうのは頷ける。
 でも、それを今ここで言う理由がわからない。
「……私ね、もっともっと修平に求められたいの。修平の性格を考えるとそれが難しいのは十分わかるんだけど、でも、もう少しいろいろ求めてほしいの。別にエッチなことじゃなくてもいいのもわかってる。もっともっとふたりの時間を増やしたり、その時にこうして抱きしめてくれるだけでもいいと思う。でもね、修平。私だってそういうことに興味あるし、してみたいと思ってる。もちろん、相手が修平だから思ってるんだからね。修平とじゃなきゃ、そんなこと思わない」
「奈々……」
「修平が戸惑うのも無理はないけど、それでも私は……」
 そこまで考えていたのか。
「……わかったよ。奈々がそこまで考えてるってことはわかったから、僕ももう一度考えてみる。もちろん、バレンタインまでに答えを出すよ」
「うん」
 バレンタインまであと三日しかないけど、今回はそこまで悩むことはないだろう。
 問題なのは、僕の気持ちの整理だけなんだから。
「ごめんね、修平。私だけ先走っちゃって」
「ううん、奈々は悪くないよ。それに、これはどっちがどうという問題でもないと思う。遅かれ早かれ、直面した問題だと思うから」
「そっか。うん、修平にそう言ってもらえて、私も少し気持ちが軽くなったよ」
 奈々は、にっこり微笑んだ。
「修平が私の彼氏で、本当によかった」
 それは、僕も同じだよ、奈々。
 
 そしてバレンタインを迎えた。
 世の中も学校内も、どこか浮かれている日、それがバレンタインデー。
 去年までは母さんと姉さんたちからもらうだけの一日だったけど、今年からは違う。なんといっても奈々という彼女がいるんだから。
 別にチョコがほしいわけじゃないけど、奈々と彼氏彼女の関係になった今は、素直にほしいと思う。チョコそのものが目当てではなくて、もらえることイコール僕への想いということだからだ。そういうことからすれば、当然ホワイトデーにお返しもしなくちゃいけないんだけど、それはまたあとで考えよう。
 さて、今年のバレンタインはただ単に彼女がいるというだけのバレンタインではない。それは先日のうちでのやり取りに原因がある。あの時に、バレンタインにつきあい方というわけでもないけど、重要なことを決めるということになった。
 僕もこの三日間、いろいろ考えたけど、今回は比較的すんなり答えが出た。奈々のことを考えれば、当然の答えと言えるだろう。
 ただ、それから先のことを考えると、ちょっとだけ照れくさくなる。
 その日の放課後。
 僕は、奈々と一緒に奈々の家に向かっていた。
 奈々の家には一度だけ行ったことがある。とはいえ、その時は家の中には入らず、表で奈々を見送っただけ。デートの帰りに家まで送っただけなので、当然ではあるんだけど。
 その時にも思ったんだけど、奈々の家はとても大きかった。やはり、奈々のお祖父さんが学校の理事長をやっているだけのことはある。きっと、家の中もすごく立派なんだろう。
 奈々は自分は決してお嬢様ではないと言うけど、そういうのを見てしまうとやっぱりお嬢様なんだと思ってしまう。
 そうそう。桂見家の家族構成は、学校の理事長である奈々のお祖父さんとその奥さん、つまり奈々のお祖母さん、奈々のご両親、さらにお兄さんとお姉さんという七人家族だ。
 お兄さんはうちの穂香姉さんと同い年で二十五歳。すでに社会人として働いており、証券会社に勤めている。
 お姉さんは、二十一歳の大学三年生。ちょうど就職活動が忙しくなってきて、なかなか大変な生活を送っているらしい。
 ご両親、お兄さん、お姉さんとの仲も良好で、特に家族間で問題は起きていない。
 奈々の話によると、平日に家にいるのは女性陣ばかりで、今日もそうらしい。まあ、男性陣は皆仕事をしているから、当然といえば当然かもしれない。
 ああ、そうそう。ひとつ忘れてたけど、お兄さんには婚約者がいて、今年の春に結婚するそうだ。
 うちの穂香姉さんなんて、男の『お』の字も出てこないから、同い年でも雲泥の差だ。
「そういえば、奈々」
「ん、どうしたの?」
「僕って、どんな風に認識されてるの?」
「うちでってこと?」
「うん」
「ん〜、特別なことはなにも言ってないわ。クラスメイトで、彼氏になって、現在に至る。ほかに説明のしようがないから」
「それもそうか」
「ああ、でも、お母さんとお姉ちゃんは修平にかなり興味津々だったからなぁ。今日もあれこれ聞かれるかも」
「……だ、大丈夫かな?」
「大丈夫よ。初対面の修平に根掘り葉掘り聞くほど不作法な人たちじゃないから。……たぶんね」
 な、なんかすごく不安だ。
 僕は基本的に女運がよくないから、本当になにごともなければいいけど。
 そうこうしているうちに、桂見家へ到着した。
 うん、相変わらずの豪邸だ。
 門を抜け、母屋の前にやって来た。造りは和風だから、靴を履いたままとかいうのはないと思うけど。
「さ、入って」
「お、おじゃまします」
「ただいま」
 玄関もとても広い。靴なんて何十足あってもまだ余りあるくらいだろう。
 上がったところに衝立があり、その奥に廊下が続いていた。
 と、その奥の廊下から軽い足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、奈々恵」
 現れたのは、奈々をぐっと大人っぽくした感じの女性。
「ただいま、お母さん」
 なるほど、この人がお母さんか。
「で、彼が有村修平。私の彼氏よ」
「あ、えっと、はじめまして。有村修平です」
「はじめまして。私は奈々恵の母の百合恵です」
 そう言って奈々のお母さん──百合恵さんはたおやかに微笑んだ。
 視線が、頭のてっぺんから爪先まで移動してる。どうやら、品定めされてるらしい。
「さ、遠慮しないで上がって」
「あ、はい、おじゃまします」
 出されたスリッパに履き替え、奈々と百合恵さんについて廊下を歩いていく。
 うん、歩いていくというのが正しい表現だ。歩かなければ部屋に辿り着けないくらいの長い廊下なのだから。
 廊下を進むと、中庭が見えてきた。どうやら、本当に母屋の真ん中に中庭があるようだ。四方を廊下に囲まれている。
 その廊下の一画に、居間だろうか。広い部屋があった。
 とても立派な塗り物のテーブルが置いてあり、部屋の床の間には、高そうな掛け軸がかかっている。
「じゃあ、お茶を淹れてくるわね」
 僕を居間に案内すると、百合恵さんは一度席を立った。
 ふすまが閉まると──
「はあ……」
 思わず止めていた息を吐いた。
「どうしたの?」
「いや、ここまで立派な家だとは思わなかったから。圧倒されちゃって」
「ん〜、私にとってはただ古いだけなんだけどね。今の時期は結構すきま風とかで寒いし。寸法がなんでも昔のままだから、不便なところも結構あるのよ」
 こういうところに望んでも住めない僕からすれば羨ましい限りだけど、実際に住んでいる奈々にとっては、いいことばかりではないということか。
「奈々の部屋も広いの?」
「どうかな。世間一般的に見たら、多少広いかも。十二畳あるから」
「……十分広いよ、それ」
「そう?」
 僕の部屋が八畳あるかないかだから、その五割り増し。荷物の量にもよるけど、見た目もかなり広いと感じるだろう。
「奈々、彼氏来たの?」
 と、いきなりふすまが開き、若い女性が入ってきた。
「……お姉ちゃん。いきなり入ってくるのはどうかと思うわ」
「別にいいじゃない。堅いこと言わない言わない」
 どうやら、この人がお姉さんみたいだ。
「ほおほお、ふむふむ……なるほどなるほど」
「お姉ちゃん。そういう不躾なことはやめて。恥ずかしいでしょ」
「ああ、ごめんごめん」
 言葉ほど悪いと思ってないのは、すぐにわかった。
「修平。私のお姉ちゃんよ。名前は……どうでもいいか」
「ちょっと、どうでもいいってことはないでしょうが。んもう、すぐ根に持つんだから。私は奈々の姉の香奈恵よ。よろしくね」
「有村修平です」
「修平くんね。覚えたわ」
 香奈恵さんは、奈々の姉ということもあるけど、とても綺麗だった。香奈恵さんの方が年上なのだから、本来は奈々が香奈恵さんに似ているということになるんだけど、奈々の方を先に知り、理解している僕にとっては逆になる。
「どう、修平くん。奈々は修平くんに尽くしてくれてる?」
「だから、お姉ちゃんはどうして勝手に話を進めようとするの?」
「別にいいじゃない、これくらい。それに、ここでちゃんと聞いておかないと、私があとで言われるのよ」
「誰に?」
「妹ばかり可愛がるどっかの父親と兄にね」
「……あのふたり、お姉ちゃんにそんなこと頼んでたの……」
「そりゃあ、奈々のはじめての彼氏だからね。気になって当然でしょ。お父さんなんか言ってたわよ。どうしてわざわざ平日に連れてくるんだって」
「別に平日とか、そういうことで決めたわけじゃないわ。たまたま平日だっただけ」
「たまたまって……ああ、そういうことか」
 香奈恵さんは、すぐにどういうことかわかったらしい。
「今日がバレンタインだからね」
「そういうこと」
「そういや、昨夜、結構がんばって作ってたものね、チョコ」
「当たり前のこと言わないでよ。今日のためにがんばらなかったら、いつのためにがんばるって言うの?」
 奈々は、当たり前のことを当たり前に言う。こういうところが奈々らしい。
「で、その肝心のチョコはもう渡したの?」
「ううん、まだ。あとで渡そうと思って」
「ふ〜ん……なんか企んでるのね」
「お姉ちゃんじゃないんだから、なにも企んでないわよ」
「失礼ね。私だってそういう企みはしないわよ。いつだって真っ向勝負なんだから」
 なんとなく空々しく聞こえるのは、気のせいかな?
「お待たせ」
 そこへ、百合恵さんがお茶を淹れて戻ってきた。
「あら、香奈恵もいたの?」
 当然のことながら、香奈恵さんの分はない。僕と奈々と百合恵さんのを並べて終わり。
「お母さん、私の分は?」
「飲みたければ自分で淹れてきなさい」
 なかなか厳しいお母さんだ。
 とりあえず僕もお茶に口をつける。
 香奈恵さんは少しへそを曲げたみたいだけど、自分からお茶を淹れには行かない。どうやら、唯々諾々と従うのはイヤなようだ。
「それにしても、奈々恵が彼氏を連れてくるというからとても楽しみにしていたのだけど、いい意味で期待を裏切ってくれて、嬉しいわ」
「どういう意味?」
「なにも考えずに相手を選んでいないということは、修平さんを見てすぐにわかったわ。もし、適当になんとなくで決めた相手なら、すぐにわかるもの」
 それは、百合恵さんだからわかることなのでは、と思ったけど、言わない。
「それに、奈々恵の相手は普通の人ではとても無理だというのも、わかっていたから」
「ちょっと、それはひどい言い草」
「あら、あなた、自分がごく普通の女子高生だと思っていたの?」
「うっ……それは……」
 ……自覚はあったんだ。
「妙なところでプライドが高くて、変なところにこだわりを持って。そういう偏屈な人を相手にできる人は、そうたくさんいるとは思えないものね」
 自分の娘に向かってここまで言うなんて、すごいことだ。
 うちもたまに母さんと姉さんたちとの間でいろいろあるけど、少し違う感じだから。
「でも、修平さん。奈々恵のせいで苦労してない?」
「いえ、別にそんなことは……」
「そう? もしなにか無理難題でも言われたら、遠慮なく振っていいから。たとえ自分の彼氏であっても、所有物ではないんだから、相手の意志を尊重した行動を取るのが当然。それに反した場合は、それ相応の報いを受けないといけないわ」
「……お母さん、私に恨みでもあるの?」
「ないわよ。これでもとても喜んでいるのよ」
 とてもそんな風には見えないけど、まあ、そうなのかもしれない。
 それから、百合恵さんと香奈恵さんにあれこれ聞かれた。
 たまに返答に困るようなことも聞かれたけど、基本的には常識の範囲内で収めてくれた。このあたりは、奈々の言う通りだった。
 平日ということであまり時間もないので、僕たちは適当なところで切り上げさせてもらい、奈々の部屋に移動した。
 奈々の部屋は、畳敷きの部屋だった。
 十二畳という広さで、入った瞬間に広いと思った。
 荷物はそれほど多くなく、机にベッド、本棚に洋服ダンスと大きなものはあまりなかった。
 部屋の真ん中には小さめのテーブルが置かれている。
 僕はそこに座るように言われた。
「じゃあ、早速」
 奈々は、机の上に置いてあった小さな包みを僕にくれた。
「バレンタインのチョコよ。本命チョコを作ったのははじめてだったの」
「そうなんだ」
「去年までは、家族と特に親しい友達に感謝の意を込めて渡してただけだから」
「じゃあ、すごいものだね」
「あまり期待されちゃうと、実際に見て落胆するかも」
 綺麗にラッピングされた包みを丁寧に開けていく。
 入っていたのは、トリュフチョコレートだった。
「見た目はいいんだけどね。問題は味よね」
「味だって問題ないでしょ? まさか奈々が食べられないものを人にあげるとはとても思えないから」
「それはそうなんだけどぉ」
 とりあえず、ひとつ食べてみた。
「……どう?」
「ん……うん、美味しいよ。あまり甘すぎないのがいい」
「よかったぁ。甘いのにするか甘さ控えめにするか迷ったんだけどね。女性は甘い方が断然いいけど、男性は違うものね。だから、思い切って甘さ控えめにしてみたの」
 そういう細やかな気配りもできるところが、奈々のすごいところだと思う。
 僕が同じような立場だったら、きっとそのこと自体にいっぱいいっぱいになって、そんなこと考えられない。
「私ね、去年まではチョコを作って用意することに、それほどの感慨はなかったのよ。特別料理が得意ってわけでもないから、いつもいつも作ってるわけじゃない。でも、たまに作ったからといって、特別な気持ちにもならなかった。ところが、今年はバレンタインが近づいてきただけで、すごく楽しみになったの。どんなチョコを作ろうかな。形は? 大きさは? 味は? ラッピングは? とにかくあれこれ考えるのが楽しくて。ああ、これが本当のバレンタインなんだな、って実感できたわ」
「そっか」
「そして、作ったチョコを手渡して、なおかつ喜んでもらえて、今私は最高に幸せ」
 そう言って奈々は、満面の笑みを浮かべた。
 奈々の笑顔にはいつも見とれてしまうけど、今日はいつも以上だった。
「……ね、修平」
「どうしたの?」
「この前、修平の部屋で話したこと、どうしようか?」
「この前って……あ……」
 それって……
「少しは、考えてくれた?」
「う、うん……考えてみた」
「それで、どうする? 私は、この前と同じ。修平とだから、したい」
 奈々は、潤んだ瞳で僕を見つめる。
 僕の答えは、もう出ている。
「……僕も、したい。奈々と、したい」
「嬉しい……」
 奈々は、そのまま僕に抱きついてきた。
「しよ、修平……」
 
「ん……」
「ん……ぁふ……」
 僕たちは、ベッドの上で何度もキスを交わした。
 キスは何度もしたけど、こんなに気持ちのいいキスははじめてだった。
「ん、口のまわりがベタベタ……」
 顔を少し離し、そう言って奈々は笑った。
「でも、すごく気持ちいい。ずっとキスしていたいくらい」
「うん、そうだね」
 僕たちは、もう一度キスをした。
「……制服、脱ごうか? それとも、脱がしたい?」
「ど、どっちでもいいけど……」
「……ん、じゃあ、修平に脱がしてもらおう、っと」
 そう言って奈々は、少し意地悪く笑った。
 だけど、そうやって少しでも緊張感を解いてくれるようなことをしてくれると、多少は僕も楽になる。
 キスだけで僕はもう、いっぱいいっぱいだから。
「ほら、修平」
「あ……」
 奈々は僕の手をつかみ、自分の胸に押し当てた。
 大きな胸が、とても柔らかかった。
「ど、どう?」
「う、うん、すごく柔らかい」
 僕も奈々も、ただひたすらに真っ赤になっている。
「そのまま、揉んでもいいよ」
 僕は、言われるままに奈々の胸を揉んだ。
「ん……」
 服の上からなのに、本当に柔らかい。
「修平の手、気持ちいい……」
 僕は、感覚が次第に麻痺していくのを、まるでもうひとりの自分から見ているかのように、自覚した。
 リボンはそのままに、胸のところのボタンを外していく。
 ブラウスをはだけさせると、薄い黄色のブラジャーが見えた。
 このブラジャーを脱がしてしまえば──
「いいよ。修平の好きなようにして」
 と、奈々の言葉が、僕の理性をさらに壊した。
 ブラジャーをたくし上げ、奈々の胸に直接触れた。
「ん……」
 当たり前のことだけど、とても暖かくて、とても柔らかい。
 スベスベの肌は、男の僕とは全然違う。
 僕は、両手で奈々の胸を揉んだ。
「あ……ん……」
 両側から包み込むように揉み、円を描くように揉む。
 僕の手の動きにあわせて、胸が形を変える。
 と、僕の手のひらに硬い感触が。
 奈々の乳首が硬くなっていた。
 僕は、その乳首を軽く指でこねた。
「ひゃんっ」
 すると、奈々の体が敏感に反応した。
「な、なんか、修平慣れてない?」
「そ、そんなことないよ。いっぱいいっぱいだよ」
「むぅ、そうかなぁ……」
 奈々は納得していないようだけど、慣れてるはずがない。というか、奈々は忘れている。僕は今でも女性が苦手だということを。奈々だけは大丈夫になったけど、ほかの人はダメだ。
「あ、ひょっとして、お姉さんたちと──」
「するわけないって」
 そんなことしてたら、僕はますますあの家にいられなくなる。特に穂香姉さんなんて、諸手を挙げて喜びそうだし。
「……奈々は、どっちがいいの?」
「どっちって……慣れてた方が安心できるけど、でも、それって修平が誰かとしちゃってるってことになるから、それはイヤ」
 なんとなく、どこまでいっても話は進まない気がする。
 だから僕は、再び奈々の胸を揉んだ。
「あ、う……や……ん……」
 奈々は、口元に手を当て、声を抑えようとする。
 まあ、広い家とはいえ、僕たち以外にもいるわけだから、当然か。
 でも、なんとなくもっともっと奈々の声を聞きたい。
 僕は、そんな衝動に駆られ、無意識のうちに奈々の下半身に手を伸ばしていた。
「え、や、ダメ……んんっ」
 奈々が僕の手を押さえるより早く、僕は奈々の秘所をショーツ越しに触れていた。
 同時に、僕はわかってしまった。
「奈々……」
「い、言わないで……自分でもわかってるんだから……」
 ショーツは、しっとりと湿り気を帯びていた。
 つまりそれは、奈々が感じていたという証拠だ。
「……は、はしたないって思わないでよ」
「思わないよ。逆に嬉しいよ。だって、僕でもちゃんと奈々を感じさせられてるんだから」
「……修平だから、感じてるの……」
「だったら、もっともっと感じてよ」
 いつもならここで引き下がってしまう僕だけど、今日だけはそれはダメだ。
 僕もここに至るまで相当の勇気を振り絞ってるけど、奈々だってそれは同じはず。むしろ、奈々の方がもっとかもしれない。
 僕はとても男らしいとは言えないけど、こういう時くらいは、せめてちゃんとしたい。
 僕は、スカートをめくり、ブラジャーとお揃いのショーツを露わにした。
「や、やっぱり恥ずかしい……」
 奈々は、必死に恥ずかしさに耐えようとしている。
 そんな健気な姿が、とてもカワイイ。
「触るよ?」
「う、うん」
 さっきは勢いで触っちゃって驚かせたから、今度はちゃんと了承を得た。
「あん」
 奈々の秘所は、とても柔らかかった。
 感触はショーツの感触だけど、なんというか、ぷにぷにという感じで、感動的だった。
「ん、ん……」
 奈々は、僕が触れる度に体をピクピク反応させる。
 次第に奈々の吐息が荒くなってきた。
「ね、ねえ……修平」
「ん?」
「えっと……あのね、その、そのままだとせつないの……」
「そのままって……」
 その言葉の意図するところがわかり、僕もなにも言えなかった。
「じゃ、じゃあ、脱がせるけど、いい?」
「い、いいわよ」
 僕は、おそるおそるショーツに手をかけ、ゆっくりと脱がせていった。
 ショーツを脱がすと、当然のことながら奈々の秘所を守るものはなにもない。
 丁寧に処理された恥毛に、まだ誰も触れたことのない秘唇がはっきりとわかる。
「だ、黙っちゃうの、なし」
「ご、ごめん。奈々が、すごく綺麗で見とれてた」
「綺麗って……も、もう……」
 真っ赤だった奈々の頬が、さらに赤みを増した。
「……本当に、綺麗……?」
「うん、綺麗だよ」
 綺麗という言葉しか出てこない。本当はほかに言いようがあるんだろうけど、僕にはそこまで言えない。
「そ、それじゃあ……直接触れるね」
 僕は、おそるおそる奈々の秘所に直接触れた。
「ん……」
 少し触れただけで、奈々は敏感に反応した。
 今度は秘唇に沿ってなぞってみる。
「んん、あん……」
 奈々は、さらに敏感に反応した。
 少し秘唇を開くと、ピンク色の秘所が露わになった。
 秘所は、すでに濡れていた。
 僕は、少し躊躇いつつも、秘所を執拗に攻めた。
「やっ、んん、いいっ」
 中からは蜜が止めどなくあふれ、僕の指を濡らしていく。
「ん……あっ、んんっ!」
 と、奈々はひときわ高い声を上げた。
「ひょっとして、イっちゃった?」
「はあ、はあ……う、うん……」
 たぶんだけど、奈々はとても感じやすい。じゃなかったら、ここまでにはならないはずだ。
「修平……そろそろ、ね?」
「う、うん」
 僕は、ズボンを脱ぎ、トランクスも脱いだ。
「あ、修平。ちょっと待って」
 と、奈々は体を起こし、ベッドから出て、机の引き出しを開けた。
「私は別に構わないんだけど、でも、無責任なことはできないから」
 そう言って僕に渡したのは、コンドームだった。
「はじめてだからそのままでもいいと思ったんだけど、そのせいで大変なことになったら絶対に後悔するから」
「……そうだね」
 奈々は、そこまで考えていたんだ。
 僕なんか僕のことだけ考えていたのに。
「だけど、それは今のうちだけだから。そのうち、後悔しないようになったら、その時にはそのまましようね」
「うん」
 僕は、奈々にキスをした。
 当然のことながらコンドームなんか使ったことないから、つけるのに少し手間取った。
「いいかな?」
「うん、いいよ。きて」
 僕はモノを奈々の秘所にあてがった。
 そのまま腰に力を込め、モノを押し込む。
「んっ」
 にゅるんという感じでモノが入っていく。
「ん……んんっ」
 でも、最初は比較的すんなり入ったけど、奥の方は狭く、きつかった。
 その途中、わずかに抵抗を感じた。
 それが、奈々を守っていた処女膜だった。
「は、んっ……」
 奈々は、目を閉じ、必死に堪えている。
 そして、ようやく一番奥まで到達した。
「奈々、入ったよ」
「う、うん、わかるよ。修平のが、私の中にある」
 奈々の中は、とても気持ちよかった。こんなに気持ちいいものがあるなんて、今まで知らなかった。
 だけど、そのせいで僕はすぐにでも終わってしまいそうだった。
「奈々は、大丈夫?」
「うん、思ってたよりも痛くなかったし。だから、気にしないで動いていいよ」
「わかったよ」
 気にしないでと言われても、僕もそんなに保たない。
「動くよ」
「うん」
 ゆっくりと腰を動かす。
「んっ、あっ」
 そんなに速く、大きくは動けないけど、それでも僕には十分すぎた。
 少しでも長く保たせたいけど、本当にダメそうだ。
「な、奈々。僕、もう……」
「いいよ、イっちゃって」
 そのまま僕は堪えきれず、奈々の中で果ててしまった。
「はあ、ん……ごめん、奈々」
「どうして謝るの?」
「だって、その、早かったし……」
「ふふっ、気にしてないよ。それに、はじめてはそんなものでしょ」
 そう言って奈々は、優しく僕の髪を撫でてくれた。
「でも、僕は奈々にももっと気持ちよくなってほしい」
「ん〜、じゃあ、もっとしよ。まだ大丈夫だよね?」
「それは、うん」
「よし、決まり」
 本当に奈々の前向きで明るい性格は、僕をいつも助けてくれる。
 だから僕も、そんな奈々に少しでも応えられるように、がんばらなくちゃいけない。
 
「ね、修平」
「ん?」
「私ね、ますます修平のこと、好きになっちゃった」
 奈々は、僕の腕の中で、満面の笑みを浮かべ、そう言った。
 結局、僕たちはあのあと、何度もしてしまった。
 僕の方は回数を重ねるうちに少し保つようになった。まあ、出るものも出なくなったからなんだけど。
 奈々も、少しは感じてくれるようになって、僕としてはそれが嬉しかった。
「自分でも不思議なくらい、本当にどんどん好きになっていくの。修平のことを知れば知るほど、好きになっていく。そして、さらにいろいろなことを知りたくなる」
「そっか」
「本当はね、今日のエッチのこともそうだったの」
「どういう意味?」
「修平のことをいろいろ知りたくてって言ったでしょ? その時にね、修平ってエッチなことは好きなのかなって気になって。そしたら、もうそのことしか考えられなくなっちゃって。私もエッチしてみたかったから、余計にね」
「そういうことだったんだ」
 なんというか、奈々らしいな。
「あ、そうだ。修平。気付いてる?」
「なにを?」
「あ、やっぱり気付いてない。ま、修平のことだから、気付かないとは思ってたけど」
 なんか、ひどい言われようだ。
「今日は、バレンタインでしょ?」
「うん」
「バレンタインは、どんな日?」
「どんなって、女性が男性にチョコと一緒に想いを伝える日、でしょ?」
「そう。でも、別にチョコだけじゃなくてもいいのよ。チョコはきっかけに過ぎないんだから。実際、最近はチョコだけじゃなくて実用的なものを渡したり、まったく違うものを渡す人も増えてるらしいからね」
「へえ……」
「そこで、私もいろいろ考えたの。チョコはチョコで渡すとして、それ以外になにを渡したら修平は喜んでくれるかなって。でも、なかなか思い浮かばなくてね。だけど、ふと思いついたの。なにも買ったり作ったりしたものにこだわる必要はないんだって」
 ……なんとなく、奈々の言いたいことがわかってきた。
「そして、最終的に思いついたのが、だったら私自身を渡せばいいんだって」
 やっぱり……
「正直言えばね、私もわからなかったの。今まで誰ともつきあったことなかったから、なにをどうすれば喜んでもらえるかわからなくて。だから、ちょっと短絡的だけど、いっそのこと私自身を渡そう、あげちゃおうと思って」
「そこまでしてくれなくてもよかったのに」
「ううん、いいの。私がそうしたいと思ったんだから。それに、エッチすると今まで以上に結びつきが強くなると思ったから。だって、心だけじゃなくて体もひとつに繋がれるんだからね」
 本当に、奈々のこういうところは見習いたい。
「というわけで、今年のバレンタインはどうだった?」
「どうって、今までのバレンタインとは比べようもないよ。すごく嬉しかった。ありがとう、奈々」
「うんっ」
 
 バレンタインのあと、学校では期末テストが行われる。このテストが一年間で最後のテストになる。ここでちゃんと成績を残せないと、楽しくない現実がやって来る。
 学校内では同時に三年生が受験の本番を迎えている。一月末から試験自体ははじまっているけど、私立大学の大半は二月頭から徐々に増えていき、中旬過ぎに最盛期を迎える。
 下旬には国公立大学の試験があるから、本当に正念場だ。
 僕たち二年生はまだ直接受験は関係ないけど、ことあるごとに先生たちに言われる。もちろん、直前になって焦ってもしょうがないから悪いことではないけど。
 とまあ、そういうことはどうでもよくて、問題は僕と奈々の関係だ。
 バレンタインに結ばれた僕たちは、自分で言うのもおかしいけど、以前とは比べものにならないくらい仲が良くなった。
 一緒にいる時間も格段に増えた。
 以前の僕なら考えられないことだけど、今は少しでも長く奈々と一緒にいたいと思っている。
「修平」
「ん、どうしたの?」
「進んでる?」
「多少は」
 今、僕たちは一緒に試験勉強をしていた。
 奈々は僕よりもずっと頭がいいから、僕にとってはこの勉強会はとても有意義なものだった。だけど、奈々にとってはそんなことはないはずだ。僕に教わるようなことなんてなにもないんだから。
 それでも奈々は、こうして一緒に勉強してくれる。
「そういえば、今日はみんないないんだね」
「ああ、うん。穂香姉さんは仕事で、瑞香姉さんは研究室の教授の手伝い、柚香姉さんは大学の友人と出かけてる」
「そっか」
 今日は、僕の部屋で勉強をしている。別にどっちの部屋でやってもいいんだけど、なんとなく交代で、ということになっている。
「もうすぐテストで、それが終わると二年生も終わり。四月からは三年生。ね、三年生になっても同じくらいになれると思う?」
「……どうかな、それはちょっとわからないよ」
「どうして?」
「三年生は選択した科目でクラスが変わるから」
「あ……」
 そう。三年生では志望校によって受験科目が変わることから、クラス分けもそれに準じて行われる。
 そして、その希望調査を行ったのは、僕と奈々がつきあう前のこと。
「修平は、なにを選んだの?」
「僕は理系志望だから」
「……そっか」
 奈々が文系志望なのは、漏れ聞こえてきていた話で知っていた。
 文系と理系の生徒が一緒のクラスになることは絶対にない。
「あ〜あ、どうしてこうなっちゃうのかなぁ。なんか、上手くいかないなぁ」
 奈々はそう言ってペンを投げ出した。
「かといって、志望校を変えるわけにもいかないし」
「しょうがないよ、こればかりは。それに、同じクラスにはなれなくても、別に会えなくなるわけじゃないんだから」
「それはそうだけど……」
 奈々の言いたいことはよくわかる。僕だって同じだ。
 でも、それはもう今更なんだ。
「修平」
「わ……」
 奈々は僕の隣にやって来て、そのまま押し倒した。
「私もね、わかってるの。わかってるんだけど……上手く整理できてないの」
「奈々……」
「三年生になったら、お昼と帰りは絶対に一緒だからね」
「うん、わかったよ」
「都合のあった休日には、デートもするんだよ」
「うん」
「デートのあとには、エッチもするんだよ」
「う、うん」
「あとは……」
「奈々。今からそこまですることはないよ。まだ先の話なんだから」
「ダメよ。こういうことはね、言うべき時、やるべき時にやっておかないと絶対に後悔するんだから」
 まあ、しょうがないか。
「奈々。少し落ち着いて」
「あ……」
 僕は、奈々を抱きしめた。
「ね、今から焦ってもどうにもならないよ」
「うん……」
「それに、僕には奈々しかいないんだから、どうにかなることは絶対にないよ」
「修平……」
「だからね?」
「うん、わかったわ」
 ようやく、奈々に笑顔が戻った。
「ね、修平」
「うん?」
「今日はここまでにして、しよ?」
「えっ……?」
「せっかくみんないないんだから。ね?」
 笑顔でそう言われてしまうと、断りようがない。
「いいよ」
「あはっ、ありがと、修平」
 まあ、いいか。こういうのもありだろうし。
 たぶん、こういうのを幸せっていうんだろう。
 だって僕は今、すごく幸せだから。
 
 
 たぶん、僕は忘れていたんだ。
 本当に信じられるものなど、そうあるものじゃないことを。
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